コンターサークルS

2021年5月30日 (日)

コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠

中津川周辺の2日目は、中山道の馬籠(まごめ)~妻籠(つまご)間を歩く。標高790mの馬籠峠を越えていくこのルートは、拠点となる両宿場町の風情とあいまって、中山道で最も人気の高いものの一つだ。静かな歩き旅を楽しむなら、コロナ禍で旅行者が少ない今がいいだろうと、企画に取り上げた。

Blog_contour5001
一石栃立場茶屋前の枝垂れ桜

中津川駅に予定の時刻に集合したのは、昨日と同じく大出さんと私の2名。駅前の乗り場で9時55分発のバスを待つ。馬籠方面も、鉄道会社から転じた北恵那交通が運行している。旅行需要が冷え込む中でも、さすがにここは20人ほど乗車した。バスは国道19号の旧道を通り抜けた後、落合宿から湯舟沢川の狭い渓谷に入り込む。中切集落まで来るとやおら反転し、馬籠に向けて最後の斜面を上っていった。

Blog_contour50_map1
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
馬籠宿~妻籠宿間
 

馬籠宿は、木曽十一宿の最後に位置する宿場町だ。高土幾山(たかときやま)南麓の尾根状になった傾斜地に立地している。路線バスは、走ってきた県道が旧街道を横切ったところで停まった。

標高570mのこの地点が宿場の下入口になる。しかし、街道の進行方向には壁のような斜面があり、枝を広げた大木が、まるで訪問者を威嚇するようにそびえている。地形的に見るとこの壁は、直交する阿寺(あてら)断層によって生じた断層崖の一部だ。旧街道はクランク状の急坂「車屋坂」でこの段差を乗り越えるのだが、同時にそれが見通しを遮る桝形にうまく利用されている。

*注 阿寺断層は下呂市萩原町付近から中津川市神坂(みさか)まで北西~南東方向に走る全長約70kmの断層帯。

Blog_contour5002
馬籠宿下入口、車屋坂と断層崖
 

桝形の先も石畳の坂が続く。茶屋、宿屋、土産物屋などさまざまな商いの看板を出した切妻、瓦屋根の家々が両側に連なる。こうした伝統的な町並みを修復した旧 宿場町は全国各地にあるとはいえ、馬籠宿は一味違う。

最大のポイントは、傾斜地が作り出す独特の景観だ。坂は一定勾配ではなく緩急があり、かつ道幅も広すぎず狭すぎず、ゆらゆらと曲がっている。建物やそれを支える石垣が階段状に重なって見え、透視法的な奥行きに加えて、縦方向の動きを感じさせる。

それに、整然とした町屋造りが軒を連ねるのとは違い、建物の構造に一つ一つ個性があって、見る者を飽きさせない。さらに、緑の木々や色とりどりの花々が道端を飾り、山里らしい自然との一体感があるのもいい。

Blog_contour5004
階段状に重なる建物群
Blog_contour5005
庭の緑や石垣が宿場風景の一部に
 

馬籠の場合、鉄道も明治の国道(下注)も峠越えを嫌って木曽川沿いに通されたことで、往来は途絶え、一介の農村集落に還った。宿場時代の建物も明治、大正2度の火災ですべて焼失しており、今ある景観は1970年代前半に始まった観光ブームを通じて新たに形成されたものだ。純農村がベースにあることで、自由で新鮮な印象が生み出されるのではないだろうか。

*注 1892(明治25)年に開通したいわゆる賤母(しずも)新道。

観光案内所の奥に、つるし雛が美しく飾られていた。文豪島崎藤村の生誕地なので、記念館も開いている。だが歩き始めたばかりで先は長いから、寄り道は最小限にしておこう。

Blog_contour5006
(左)つるし雛の展示
(右)藤村記念館玄関
 

再び県道と交差する地点が、陣馬と呼ばれる馬籠宿の上入口だ。標高640m、気づかないうちに下入口から70mも上がってきた。高札場の上手の見晴台に立つと、さきほどバスで来た湯舟沢川の谷を隔てて、雄大な恵那山の眺めが目の前に広がる。

Blog_contour5007
陣馬上見晴台からのパノラマ
左奥のピークが恵那山、右端が馬籠宿上入口
 

一角に興味深い碑が建っていた。越県合併記念碑とある。馬籠宿のある旧 山口村は以前、長野県木曽郡に属していたのだが、2005年に、経済的に結びつきが強い岐阜県中津川市に、県を越えて編入された(下注)。自治体合併で県境が移動するのはめったにないことだ。ちなみにもとの県境、すなわち信濃と美濃の国界は、馬籠宿と落合宿の中間で中山道と交差していて、今も「是より北 木曽路」の碑が建っている。

*注 時代を遡ると馬籠地区は、湯舟沢地区とともに明治初期から御坂村を形成していた。1950年代に中津川市との合併問題が紛糾したとき、自治庁の裁定で、藤村の出身地であり反対派が多かった馬籠は長野県に残り(そのため隣の山口村に編入)、湯舟沢は1958(昭和33)年に中津川市に編入された。2005年の合併でようやく旧 御坂村全域が中津川市に入ることになった。

Blog_contour5008
越県合併記念碑
 

目的地の妻籠までは、峠を越えて8kmの道のりだ。旧街道はこの後、県道7号中津川南木曽線と絡み合いながら峠に向けて上っていく。ところどころ石畳が敷かれているが、フラットな舗装に慣れた現代人にとっては少々歩きにくい。

水車小屋(下注)を過ぎ、急勾配の梨子ノ木坂(なしのきざか)を上りきると、峠集落に入る。街道に沿って十数軒が並ぶ静かな山里だが、総じて軒先が長く取られた大柄の家構えだ。18世紀から大火に遭っていないため、古い姿をとどめているそうで、どことなくスイスのアルペン集落の雰囲気が漂う。

*注 1904(明治37)年の水害で犠牲になった一家にたむけた島崎藤村の追悼文が刻まれた「水車塚の碑」にちなむ。

Blog_contour5009
(左)石畳の旧道
(右)水車小屋
Blog_contour5010
古い姿をとどめる峠集落
 

あとはほんのひと上りだ。右手を走る県道と合流してまもなく、馬籠の見晴台から40分ほどで、標高790mの馬籠峠に到達した。先述した越県合併により、長野・岐阜県境は今、この峠を通っている。新領地への意欲を象徴するかのように、道路脇に立つ県境標は、岐阜県のほうが長野県のものより背が高くて立派だ。

往来の減少が影響しているのか、峠の茶屋は閉まっており、周りに腰を下ろすところもなかった。峠の北側は断層谷で、ほぼ直線状に通っているのだが、木が茂って眺望がきかない。ときどき上ってくるハイカーたちも諦め顔で素通りしていく。私たちも10分ほどで滞在を切り上げて、林の中を下りにかかった。

Blog_contour5011
馬籠峠、茶屋は閉店中
 

しばらく行くと森が開けた。番所の置かれていた一石栃(いっこくとち)と呼ばれる場所で、山道の休憩所である立場茶屋(たてばじゃや)が一軒だけ残っている。時代劇に出てきそうな古風なたたずまいだが、今はそれを引き立てるように、庭の枝垂れ桜が満開だ。隣の白木改(しらきあらため)番所跡でも、ヤマザクラやハナモモが妍を競っている。

今年の春は異常に暖かく、平地では早々と散ってしまったが、標高700mのこの土地では、ちょうど見ごろだったのだ。花見ができるとは思ってもいなかったので、少し得した気分になった。

Blog_contour5012
一石栃立場茶屋
Blog_contour5013
(左)枝垂れ桜が満開
(右)白木改番所跡より
 

樹齢300年という木曽五木の一つ、サワラの大樹の前を過ぎ、さらに降りていくと、まもなく雄滝雌滝へ降りていく林道に出る。これも古来名所に数えられているので、見物に行く。男埵川(おだるがわ)本流に掛かる雄滝(おたき)は、水量が豊かで音にも迫力がこもる。一方、馬籠峠の谷に属する雌滝(めだき)は、集水域が浅い分、控えめな水量で、シャワーのように滑り落ちてくる。

Blog_contour5014
(左)雄滝(右)雌滝
 

下り谷(くだりたに)の小さな集落から、ジグザグの急な石畳を下りていく。大妻籠(おおつまご)は間の宿で、今も民宿が営まれている。立ち並ぶ旅籠造りの建物は、2階をせり出した出梁(だしばり)造りに、うだつも上がって壮観だ。

妻籠宿の入口には、蘭川(あららぎがわ)の上流から導水して、水力発電所が稼働している。木曽川水系のほとんどの発電所が中部電力ではなく関西電力の運営で、ここもその一つだ。戦後、電力事業を再編成する際に、発電所の帰属先を主消費地によって決定したためで、今も電気は関西に送られ、消費されている。

Blog_contour5015
(左)牛頭観音付近の石畳道
(右)男埵川べりのハナモモ
Blog_contour5016
大妻籠
(左)旅籠造りの民宿が並ぶ
(右)フジの花も見ごろに
Blog_contour5017
(左)橋場追分の道標は1881(明治14)年の建造
(左)アールデコ調の妻籠発電所本屋
 

妻籠宿に着いたのは午後の時間帯で、そこそこ訪問客の行きかう姿が見られた。馬籠とは対照的に、道は平坦で、再現された町屋が奥まで整然と軒を連ねている。知られるとおり、妻籠は宿場町修復保存の先駆者で、1976年に角館や白川郷、京都祇園・東山、萩とともに最初の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。しっとりと落ち着いた町の風情は今も維持されている。

Blog_contour5018
妻籠宿、寺下地区の町並み
Blog_contour5019
(左)復元された本陣
(右)脇本陣奥谷家

Blog_contour50_map2
同 妻籠宿~南木曽駅間
 

バスで南木曽駅へ向かう大出さんを見送って、さらに中山道を北へ歩く。水車のある坂道を上り、大岩の一つ鯉岩を通過すると、宿場は終わりだ。次の峠まで来ると、妻籠城跡の案内板が誘っていた。「北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる」。300m、徒歩10分とはいうものの、急な山道は足にこたえた。頂きの広場は木々に囲まれていたが、北と南は視界が開けて、看板どおりの眺めが得られた。

Blog_contour5020
(左)妻籠宿北口、水車のある坂道
(右)鯉岩の前を通過
 
Blog_contour5021
妻籠城址から南望
手前に妻籠宿、中央奥の鞍部が馬籠峠
Blog_contour5022
同 北望
左奥の市街地は三留野宿、右背後に木曽駒ケ岳
 

中山道は蘭(あららぎ)森林鉄道跡の林道としばらく絡み合った後、再び急坂で山を降りていく。沢を渡り、上久保(うわくぼ)一里塚の前を通過する。最後の下り坂の麓に、中央本線の旧線跡を利用したSL公園があった。中央西線で活躍したD51 351号機と腕木式信号機は1974(昭和49)年からここで雨ざらしだが、保存状態は悪くない。

Blog_contour5023
上久保一里塚(右写真)と周辺の旧道
Blog_contour5024
中央線旧線跡に造られたSL公園
 

中山道は中央本線の山側に移って、三留野宿へと続いていくが、追うのはここまでとした。南木曽でぜひ訪れたいと思っていたのは、駅の北にある桃介(ももすけ)橋だ。読書(よみかき)発電所の建設資材を運搬するために、木曽川に架けられた長さ248mの大吊橋で、橋面にナローゲージのレールや埋め跡が残されている。橋で対岸に渡った後は、近くにある山の歴史館で、庭に置かれた森林鉄道の小型ディーゼル機関車を見学して、旅を締めくくった。

Blog_contour5025
木曽川右岸から望む桃介橋
Blog_contour5026
(左)橋面のレール跡
(右)資材運搬用の橋とは思えないスケール
Blog_contour5027
山の歴史館の庭に置かれた旧林鉄ロコ
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図三留野(平成28年調製)、妻籠(平成27年調製)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校
 コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡
 コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址

 コンターサークル地図の旅-中山道醒井宿
 コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

2021年5月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址

2020年コンターサークルS春の旅の後半は、西に移動して岐阜県中津川市周辺を歩く。1日目のテーマは、北恵那鉄道の廃線跡だ。

Blog_contour4901
恵那電最大の遺構、木曽川橋梁
 

北恵那(きたえな)鉄道、いわゆる恵那電は、当時の国鉄中津川駅の裏にあった中津町(なかつまち、下注)駅を起点に北へ、下付知(しもつけち)駅まで行く22.1kmの電化私鉄だった。木曽川をせき止める大井ダム建設で、筏流しなど川を利用した木材輸送ができなくなるため、その補償として1924(大正13)年に開業している。

*注 中津川市は市制以前、恵那郡中津町(なかつちょう)だったが、駅名は「なかつまち」と読んだ。

終点には後に森林鉄道も接続されて、いっとき好況を呈したのだが、戦後は、輸入材に押された林業の低迷によって、収支は悪化の一途をたどった。並行する国道の整備も進んだことから、1971(昭和46)年に旅客列車の運行が朝夕のみに削減、1978(昭和53)年、最終的に廃止となった。

しかし40年以上経った今もなお、沿線各所に、列車が渡った鉄橋や草生した路床が手つかずのまま残されている。廃線跡を足でたどることで、乗れずじまいだったローカル電車の残影をわずかでも見出すことができればうれしい。

Blog_contour49_map1
北恵那鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1975(昭和50)年修正図)

その日、新幹線と中央本線の特急しなのを乗り継いで、中津川駅へ向かった。朝の空はまだ雲に覆われていたが、午後は晴れる予報が出ている。参加者は大出さんと私の2名。駅前のバス乗り場から、付知・加子母(かしも)方面行きに乗り込んだ。

運行しているのは北恵那交通だ。かつての鉄道会社がバス転換で社名を変え、今も地域の公共交通を担っている。「まずは鉄道の終点まで行って、廃線跡を訪ねながら戻ってこようと思います」と私。もとより全線を歩き通すのは時間的に難しいので、見どころをチョイスし、その間をバスでつなぐつもりだ。自治体の支援を受けて、約1時間間隔というローカル路線にしては破格の高頻度で運行されているから、ありがたく利用させていただこう。

Blog_contour4903
(左)駅前に停まっていた恵那電色のバス
  残念ながら付知行きではなかった
(右)段丘地形を縦断するルート
 

バスは玉蔵(ぎょくぞう)橋を通る旧国道を経由し、苗木で、城山大橋から来る国道257号(裏木曽街道)に乗った。起伏の大きな段丘地形を縦断し、付知川(つけちがわ)の深い渓谷に沿っていく。やがて谷が開け、所要40分あまりで下付知の停留所に着いた。電車の時代は1時間以上かかっていたから、ずいぶん速い。

ここがかつての駅前だ。道路の左手に草に覆われた空地が広がっている。駅舎は撤去されて久しいが、よく見るとホームの残骸が埋まりきらずに残っている。その奥にもフェンスで囲われた広大な土地があり、こちらは営林署が管理する貯木場だ。盛時には谷の奥から森林鉄道で運ばれてきた木材が山と積まれていたのだろうが、今や廃墟と化している。

Blog_contour4904
(左)下付知駅跡、ホームの縁石が露出
(右)廃墟と化した貯木場
 

一方、集落の側では一軒の製材所が稼働していて、木を挽く鋭い音が聞こえてくる。「ネットに出ていたのはこれですね」と大出さんが注目したのは、戸外から小屋に引き込まれている1本のナローゲージだ。木材の運搬に使われているらしく、小さな台車も載っている。ちっぽけな装置とはいえ、線路の痕跡すら消えた駅跡を前にすると、写真の被写体にもしたくなる。

Blog_contour4905
(左)駅前で稼働中の製材所
(右)簡易軌道に載る台車
 

駅から南へ延びる線路跡をたどった。しばらくの間、2車線道路に上書きされているが、稲荷集落の裏で、草の道が復活する。稲荷橋(いなりばし)駅跡はもうすぐだ。小さな稲荷社の鳥居のそばに石積みのホーム跡があったが、線路のバラストがはがされているからか、かなり高く見える。

Blog_contour4906
(左)稲荷橋駅北方の廃線跡
(右)鳥居の後ろに稲荷橋駅のホーム跡
 
Blog_contour49_map2
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下野~下付知間
Blog_contour49_map3
同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

稲荷橋の停留所で、折り返してきたバスをつかまえた。車窓から山側に線路跡が断続しているのをチェックしながら、谷を下る。降りたのは、下野(しもの)のバス停だ。このあたり、国道は高い段丘上に通されているが、勾配に弱い鉄道は付知川の谷底を這っている。それで、美濃下野(みのしもの)駅へ向かう道は急な下り坂になる。

川向こうの駅跡はすっかり整地されて、跡をとどめていない。一方、南側には支流の柏原川を斜めに横断しているプレートガーダー橋があった。静まり返った山里にぽつんと残された遺構だ。朽ちた枕木も載ったままで、見る者の哀愁を誘う。

Blog_contour4907
美濃下野駅の南に残る柏原川橋梁
Blog_contour4908
(左)たもとから南望
(右)北望、朽ちた枕木が載る
 

川沿いの一本道となった廃線跡を下流へ歩いていく。左手で早瀬と淵を繰り返す付知川は、底まで透き通った清流だ。両側から急崖が迫るこの谷筋を、ローマン渓谷と呼ぶらしい。自然地名というには作り物っぽいが、官製図に堂々と記されているのだから、公式名称のはずだ。

Blog_contour49_map5
同 並松~下野間
Blog_contour49_map6
同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

「地形図の道路記号が途中で切れているので、通り抜けられないかもしれませんね」「だめなら引き返して、対岸を迂回しましょう」。対岸に国道整備前の旧道が通っているのだが、渡る橋は1駅3.5kmの間ない。それで、少々の藪漕ぎ、ぬかるみは覚悟の上だったが、結果的には杞憂だった。

路面を覆う草もくるぶしにかかる程度で何の問題もなく、むしろ瑞々しい新緑が作るトンネルに心が洗われた。誰も通らなければすぐに藪化するはずだから、きっとハイキングか何かの催しがあって、草刈りが行われたに違いない。

Blog_contour4909
ローマン渓谷の廃線跡
(左)ところどころ枕木も埋まる
(右)新緑のトンネルが続く
 

いい頃合いの踏み分け道は、ホーム跡がある栗本(くりもと)駅の南側で、舗装された「ローマン渓谷遊歩道」に接続した。格段に歩きやすくなる反面、整い過ぎて廃線跡の情趣がそがれる。

しかしそれは、福岡ふれあい文化センターの前までの約500mであっけなく終わった。その延長上に、歩行者専用の斜張橋、福岡ローマン橋が架かっている。鉄道のレガシーとは無縁のデザインだが、妙に高い位置にある橋面だけは旧 橋梁の高さに合わせているようだ。その後、線路は谷底を離れ、段丘崖をよじ上っていく。

Blog_contour4910
ローマン渓谷遊歩道の整備区間
Blog_contour4911
(左)福岡ローマン橋
(右)段丘を上る区間は、栗本方の一部のみ残る
 

福岡の町が載る段丘は、谷底との高低差が約30mにも及ぶ。「想像していた以上にダイナミックな地形ですね」と私。残念ながら、この間の線路跡は栗本方に一部残るだけで、美濃福岡方にあった深い切通しは埋め戻されている。国道の陸橋も撤去され、前後に存在した急カーブが緩和されたようだ。

美濃福岡(みのふくおか)駅は恵那電の主要駅の一つだった。しかし、跡地は公共用地などに転用されてしまい、記憶を伝えるのは大きな石碑だけになっている。大出さんは一度来たことがあるそうだが、「その頃からでも、すいぶん印象が変わってます」。福岡には、恵那電のOBが開設した「北恵那鉄道歴史保存会館」という資料館があったのだが、これも閉鎖されてしまった。

Blog_contour4912
福岡の段丘上から見た付知川の谷の眺め
赤の矢印が廃線跡だが、画面中央から左は切り崩されて消失
Blog_contour4913
美濃福岡駅跡
(左)記念碑
(右)駅跡を東南望、画面中央の住宅の右手前に記念碑がある
 

バスの時刻にはまだ早いので、もうひと駅歩くことにした。小さな支谷を渡り、国道の東側の山手を伝っていた線路は、草生した空地などの形で断続的に残っている。20分ほど歩くと、関戸(せきど)集落まで来た。関戸駅の痕跡はないものの、目の前に深い谷を横断していた築堤が延びている。異様に幅広に見えるのは、隣に国道の築堤が付け足されたためだ。

Blog_contour4914
美濃福岡~関戸間の廃線跡
(左)画面左が廃線跡、一部で道路拡幅工事が始まっていた
(右)関戸地内で農道になった区間
Blog_contour4915
関戸駅跡から南方の築堤を望む
左の地道が廃線跡
 

築堤脇の停留所から再びバスに乗り、次は苗木(なえぎ)へ。ちなみに、その間にある並松(なみまつ)駅跡には、長らく相対式のホームが残っていたのだが、グーグルマップの空中写真で見る限り、最近、宅地造成で撤去されたようだ。

■参考サイト
Wikimedia - 撤去前の並松駅跡の写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Namimatsu_Station

旧国道上の苗木バス停から交差点を南へ入ると、まもなく苗木駅跡がある。残念なことに、ここは並松に先駆けて宅地転用が完了しており、用地の輪郭がわかるだけで、面影はとうになくなっている。

線路はさらに東進し、山之田川(やまのたがわ)駅を経て、木曽川べりまで降下していた。しかし、後半区間は藪化して、もはや踏破不能だ。そこで私たちはそれを追わずに、木曽川の谷にショートカットすることにしている。ちょうど途中に、お城ファンに人気の苗木城址があるから、その見学も兼ねて。

Blog_contour4916
(左)苗木駅跡は宅地に転用
(右)苗木城への登り坂
 
Blog_contour49_map7
同 中津町~並松間
Blog_contour49_map8
同区間の現役時代
(1973~77(昭和48~52)年測量または修正図)
 

苗木城は、木曽川に臨む比高170mの岩山の上に築かれた遠山氏の居城だ。さきほどの駅跡から南へ延びる街村がその城下町で、桝形の街路や古風な居宅が残っている。道なりに上っていくと、永壽寺というお寺の先で山がにわかに深まる。城や領地の資料を展示している苗木遠山資料館で予備知識を仕入れてから、城内へ進んだ。

急坂を上りきった足軽長屋跡から、谷の向こうに天守跡を初めて望むことができた。建物は明治初めに破却されてしまったので、今あるのは天然の岩山と、天守の下部構造を復元したという木組みの展望台だけだ。しかし、それがかえって孤高のオーラを放っているように見える。巷間に伝わる「空に浮かぶ岩の要塞」という形容も、あながち誇張とは言えない。

Blog_contour4917
空に浮かぶ岩の要塞、苗木城天守跡
Blog_contour4918
(左)天守の下部構造を再現した展望台
(右)城内屈指の巨塊、馬洗岩
Blog_contour4919
三の丸広場と大矢倉の石垣
 

岩山の麓の鞍部にある広場は三の丸で、背後に大矢倉の立派な石垣も残っていた。天守跡へは、そこからまたつづら折りの坂道を上る必要がある。その甲斐あって頂上は、期待通りの絶景ポイントだった。木曽川が流れる深い谷を隔てて中津川市街、その背景に恵那山を主峰とする山並みと、胸のすくような大パノラマが目の前に展開する。

Blog_contour4920
台地を刻み流れ下る木曽川
馬洗岩のテラスから西望
Blog_contour4921
展望台からのパノラマ
木曽川、中津川市街地、恵那山(中央奥の雲がたなびくピーク)が一望に
 

中でも私たちが狙っていたのは、東側にある恵那電の木曽川橋梁とそれに続く廃線跡の眺望だ。背後に並ぶ旧国道の玉蔵橋(下注)と比較すると、鉄橋はいかにも華奢に見える。洪水対策で1963(昭和38)年にかさ上げ改修が行われているとはいえ、全体は今から100年前の建造物だから無理もない。廃線でメンテナンスもされていないだろうに、よくぞ今日まで残ったものだ。

*注 地形図にも玉蔵橋と記されているが、親柱の銘板には玉蔵大橋とあり、こちらが正式名。

Blog_contour4922
恵那電廃線跡を遠望
 

目的を十分果たしたところで、城址を後にした。ここからは、城坂四十八曲りと呼ばれる山道を一気に降りる。地形図にも描かれている通り、森の中に果てしなく続く険しいジグザグ道だった。逆コースにしなくてよかったとつくづく思う。

Blog_contour4923
四十八曲り
どこまでも続くジグザグの山道
 

降りきった地点は、旧国道の開通以前に中津川から苗木に通じていた旧県道だ。上空を鉄道のプレートガーダー橋、上地(かみち)橋梁が横切っている。これは、谷を下ってきた線路による最後の沢渡りなのだが、33‰の急勾配でも降りきれず、このような高い橋脚が必要とされた。3本の橋脚のうち中央の1本だけ円筒形なのは、水流の抵抗を和らげるためらしい。

支谷へ分け入る山道(下注)で、森に還りつつある上手の廃線跡を見届けた。それから対岸の斜面につけられた急な踏み分け道を登って、下手の橋台際へ出た。続く草生した道を歩いていくと、すぐに森が開け、さきほど城址の展望台から見えた集落の中の舗装道になった。

*注 旧県道以前に使われていた飛騨街道で、今は四十八曲りを通らずに苗木城へ行くハイキングルート。

Blog_contour4924
上地橋梁全景
中央の橋脚だけ円筒形
Blog_contour4925
(左)上部
(右)四十八曲りの山道から俯瞰
Blog_contour4926
山の田川の谷を渡る
 

神社の参道を渡していた橋台や、二代目恵那峡口駅(下注)の痕跡を観察しながら、緩い坂を降りていく。ほどなく木曽川橋梁のたもとまで来た。旧道に面して、遊覧船の出札・待合所が残っている。初代恵那峡口駅の駅舎を転用したという建物だ。「遊覧船は、ダムの水位が下がったために廃業したらしいです」と大出さん。

*注 木曾川橋梁かさ上げ工事の完成に伴い、1963年に移転。

Blog_contour4927
(左)神社参道の陸橋跡
(右)二代目恵那峡口駅の痕跡
Blog_contour4928
木曾川橋梁に接続する築堤(画面左)と遊覧船の出札・待合所
写真は大出氏提供
 

右脇の小道を河畔の元 船着き場へ降りると、鉄橋を仰角で観察することができる(冒頭写真参照)。主径間に下路式ダブルワーレントラスを渡し、前後にプレートガーダーを連ねた鉄橋は、134mの長さがある。「山の上からは小さく見えたのに、そばまで来ると堂々としてますね」と私。待合所の脇の踏み段で築堤に上がれば、列車の前面展望のような光景もほしいままになる。

中津川駅への帰り道、玉蔵橋を歩いて渡る間にもう一度、鉄橋のある風景を楽しんだ。城山を背にして、柔らかな夕陽をはね返す水面と、幾何学的なトラス橋のシルエットが絶妙なコントラストを見せている。同じ角度でも、朝のバスから眺めた順光の風景とは別物のようだ。

Blog_contour4929
木曾川橋梁、右岸築堤からの眺め
Blog_contour4930
夕陽の川面に映る鉄橋のシルエット
画面右奥が苗木城の城山
 

駅へ戻る大出さんを見送った後、私は木曽川支流の中津川に架かる橋梁のようすを見に行った。木曽川を渡った後も、線路は支流の狭い谷を縫うように抜けていたのだ。2本ともプレートガーダー橋だが、下付知方の第二中津川橋梁は、茂る木立に阻まれて道路からうまく見通せない。一方、第一橋梁のほうは、道路橋の妙見大橋が上空を交差しているものの、河原に降りると側面がよくわかった。橋桁に蔓が無数に絡まり、かつての鉄橋も今や藤棚同然だ。

Blog_contour4931
第二中津川橋梁
視界は木立に阻まれる
Blog_contour4932
第二~第一橋梁間で中津川左岸を通る廃線跡
(赤の矢印)
Blog_contour4933
道路橋が上空を交差する第一中津川橋梁
 

列車はこの後、中津川の谷を脱し、製紙工場の横を中津町駅へと向かっていた。しかし起点駅跡は、名鉄系の駐車場と倉庫用地に転用されて、面影は全くなくなっている。せめて美濃福岡のように記念碑か案内板が立つといいのだが、回顧の機運はまだそこまで及んでいないようだ。

Blog_contour4934
(左)製紙工場裏の廃線跡(第一橋梁~中津町駅間)
(右)正面の駐車場と倉庫が中津町駅跡
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図妻籠(昭和52年測量)、中津川(昭和52年測量)、付知(昭和48年測量)、美濃福岡(昭和48年測量)、恵那(昭和48年測量)、20万分の1地勢図飯田(昭和50年修正)および地理院地図(2021年5月20日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校
 コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡
 コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠

 城下町岩村に鉄路の縁

2021年4月28日 (水)

コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡

長野県内でも上田周辺は、私鉄路線網の密度が特に高かった地域といっていいだろう。後掲の地図は1959(昭和34)年修正の20万分の1地勢図「長野」の一部だが、中央にある上田市街地から、四方八方に一条線の鉄道記号が延びているのが見て取れる(下注)。

*注 これに加えて、戦前には松本街道の上を青木村(図左端)まで行く青木線もあった。

Blog_contour4801
城下駅から上り列車が出発
Blog_contour48_map1
上田周辺の私鉄網が描かれた1:200,000地勢図
(1959(昭和34)年修正図)
 

この中に、経由地は異なるものの、終点は同じ町という2本の路線がある。国鉄信越本線(現 しなの鉄道)に沿って大屋駅から南下する上田丸子電鉄丸子線(旧 丸子鉄道)と、別所線の下之郷から峠を越えていく同 西丸子線(旧 上田温泉電軌依田窪線、下注)だ。前者は1918~25(大正7~14)年に、後者は1926(大正15)年に開通している。

*注 依田窪(よだくぼ)は、丸子をはじめ依田川(よだがわ)の流域を指す広域地名。

丸子(まるこ)は輸出用生糸の生産で栄えた町で、ちょうど明治末から昭和初期にかけて全盛期を迎えていた。競合関係になるのが明らかな路線が建設されたのも、それだけの需要が見込めたからに相違ない。両線は戦時中の陸運統制令により、1943(昭和18)年、上田丸子電鉄の名のもとに統合された(下注)。

*注 その後1969年の丸子線廃止に伴い、上田交通に改称。2005年に鉄道部門が分社化され、現在は上田電鉄を名乗る。

Blog_contour4802
下之郷駅にある西丸子線の説明板
地図は南を上にして描かれている
 

しかし戦後、道路交通が発達する過程では、地方の町に2本の鉄道はいかにも過剰だ。廃止されたのは、遅れてきた西丸子線のほうが早かった。貨物扱いがなく、旅客輸送も不振だったため、設備投資が行われず老朽化が進行していたことが一因だろう。1961(昭和36)年の豪雨で鉄橋やトンネルが被災したのを機に休止、バス代行となり、1963年に正式に廃止された。丸子線の廃止はその6年後、1969年のことだ。

2021年4月4日、コンターサークルS春の旅2日目は、不遇の存在だった上田丸子電鉄西丸子線の廃線跡をたどる。半世紀の時を経て消失した区間が多いものの、車窓の眺めが評判だった二ツ木峠西側では、奇跡的に線路敷が残り、在りし日をしのぶことができるという。

集合場所は、かつて西丸子線の起点だった上田電鉄別所線の下之郷(しものごう)駅。上田電鉄は2019年10月の台風災害で千曲川を渡る鉄橋が損壊し、つい1週間前に復旧再開されたばかりだ。

Blog_contour4803
復旧なった千曲川橋梁
Blog_contour4804
復旧を喜ぶ吊り広告
 

せっかくの機会なので、私は先に終点の別所温泉まで行き、風情のあるレトロ駅舎や静かな朝の温泉街を駆け足で巡ってから、上り電車で下之郷に戻ってきた。同じ電車に乗っていた大出さんと、交換する下り電車でやってきた中西さんの計3名が本日の参加メンバーだ。

Blog_contour4805
レトロな風情の別所温泉駅
Blog_contour4806
下之郷駅
(左)朱塗りのホーム駅舎
(右)上下列車が交換
 

下之郷駅の島式ホームにある駅舎は、最寄りの生島足島(いくしまたるしま)神社にちなんだ朱塗りで、やけに目立つ。そのホームの斜め向かいに、西丸子線の発着ホームが残っていた。上に載る建物はもともと、ホームの上屋を利用した倉庫だったそうだが、保存改修されて今は鉄道資料館だ。壁面に「上田丸子電鉄」という旧社名と、右横書きの駅名標が架かり、床に転轍てこや標識が並んでいる。しかし残念ながら、内部はふだん公開されていない。

この駅は別所線の運行拠点で、車庫や整備場が併設され、なかでも検査ピットのある側線は西丸子線の跡だ。ちょうどそこに、オリジナル色をまとい、疑似丸窓つきの1004編成が入っていた。「西丸子からの電車が入線してくるように見えますね」と、廃線跡歩きの気分が盛り上がる。

Blog_contour4807
旧西丸子線ホームと鉄道資料館
Blog_contour4808
検査ピットの電車は西丸子線を彷彿とさせる
 
Blog_contour48_map2
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下之郷~二ツ木隧道間
Blog_contour48_map3
西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
(1937(昭和12)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

さっそく駅を後に、歩き始めた。側線の先は直接たどれないので、生島足島神社の参道から迂回する。きれいに整地された水田の中を、駅付近から延びてくる細道があった。これが線路跡で、いったん途切れた後、南へ一直線に進む農道に合流する。神社の脇には、その名も宮前(みやまえ)という停留所があったはずだが、痕跡すらない。

Blog_contour4809
(左)駅から延びてくる廃線跡
(右)廃線跡をなぞる一直線の農道
 

緩い上り坂の農道を約1km歩いて古安曽(こあそ)の集落に入ると、旧 石神(いしがみ)駅の位置に東の県道から入ってくる駅前道路が残っている。道の傍らに、古びたコンクリートの残骸を見つけたが、柱か何かの基礎だろうか?

旧版図を見ると、南下してきた線路は、集落の中で東に向きを変えている。並行していた県道上田丸子線を横断したところが、東塩田駅の跡地だ。交換設備を持つ駅だったので、それなりの幅と奥行きがあり、今は建設会社の敷地として使われている。

Blog_contour4810
(左)石神駅跡
(右)東塩田駅跡
 

その先は畑地に取り込まれてしまうが、少し東の、尾根川(おねがわ)の対岸(右岸)に、やや傾いた形で橋台が残っていた。下之郷を出て初めての本格的遺構だ。下流側は護岸工事が施工済みなだけに、ついでに解体されなかったのは幸運だった。橋台に続く廃線跡も、草むしてはいるものの、バラストが埋もれているのがわかる。畑の中なので、線路の撤去後、手が加えられずに、いわば静態保存されてきたようだ。

Blog_contour4811
(左)尾根川右岸の橋台
(右)橋台に続く草むした線路跡
 

廃線跡はいったん集落の道と合流するが、富士山(ふじやま)駅跡で2軒の宅地に取り込まれる。ここで過去の探索レポートには、民家の物置に転用された旧駅舎が必ず登場する。ところが今回訪ねると、それは影も形もなかった。隣の母屋が改築拡張されており、どうやらその尊い犠牲となったようだ。「数少ない痕跡がまた一つ消えてしまいました。重要文化財級だったんですが…」と私。

次の馬場(ばっぱ)駅までは、わずか400mだ。こちらはレポートどおり、駅の待合室だった小屋とホーム跡が残っていた。シートで塞がれ、みずぼらしい状態だが、3人とも熱心にカメラを向ける。通りがかりの人が見たら、何事かといぶかしんだことだろう。

Blog_contour4812
(左)富士山駅跡、旧駅舎は消失
(右)馬場駅跡のホームと旧待合室
 

道は右にカーブしていく。駒瀬川を渡る前後は、雑木林と丈の高い枯草に覆われた築堤が残っていた。中西さんが果敢にも偵察に向かったが、戻ってきて「何も残ってないですね」。今は冬枯れで視界がきくが、夏になれば、藪で堤は覆い尽くされてしまうだろう。

Blog_contour4813
山に向かう廃線跡の道
 

圃場整備でいったん途切れた跡地は、山際でまた農道となって現れる。二ツ木(ふたつぎ)峠にとりつくために、このあたりは結構な上り勾配がついている。振り返ると、線路跡の道が降りていく方向に、今歩いてきた田園地帯と遠くの山並み(下注)が一望できた。かつて、西丸子からの上り電車が山を抜けると塩田平(しおだだいら)のパノラマが目の前に広がり、車窓の名物になっていたという。私たちもしばし足を止め、当時の情景を想像した。

*注 この角度からは、塩田平の西から北を限る夫神岳(おかみだけ)、大沢山、子檀嶺岳(こまゆみだけ))、大林山、城山(じょうやま)などが見える。

Blog_contour4814
廃線跡から見る塩田平のパノラマ
 

しかしこの快適な散歩道は、谷が迫ると林に埋もれてしまう。やむをえず、並行する県道別所丸子線に迂回した。峠周辺は大規模な工業団地が造成され、道路も拡幅改修されており、廃線跡は完全に消失している。

下図は、二ツ木峠前後の区間を新旧の1:25,000地形図で比較したものだ。この地域の1:25,000は1972~73(昭和47~48)年図が最初のため、西丸子線の姿はすでにない。しかし、峠の手前(西側)で県道が陸橋で乗り越していた地点や周辺の原地形など、土地開発で改変される以前の状況がよくわかる。さすがに二ツ木トンネルの坑口は描かれていないが、この頃はまだ埋められずに残っていたはずだ。

Blog_contour48_map6
二ツ木峠周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(上)1973~78(昭和48~53)年図
(下)2014~16(平成26~28)年図
 

峠に向かう車道はそれなりに勾配があり、運ぶ足が重く感じられた。サミットまで上りきると、行く手に電車が1両置かれているのが見えてくる。かつて別所線を走ったモハ5250形、通称丸窓電車の5253号で、精密機器メーカーの長野計器が、自社工場の前に資料館として保存公開しているのだ。

架線まで再現されているので、写真に切り取れば現役さながらの雰囲気になる。日曜は開館しているはずだが、行ってみると、ステップに鎖が渡されていた。「コロナ禍で臨時休館してるんでしょうか」「これを楽しみに歩いてきたのに残念です」と私。せめて訪ねた記念にと、外観をしっかりカメラに収めた。

Blog_contour4815
現役の雰囲気を漂わせる丸窓電車資料館
Blog_contour4816
(左)チャームポイントの丸窓
(右)電車は長野計器工場の門前に
 

峠の東側の県道脇には、事績を伝える「二ツ木隧道開鑿記念碑」が建っている。裏側に回ると、碑文の末尾に東部塩田平耕地整理組合とあった。圃場整備の際、すなわち廃線跡を更地化するに当たって建てられたもののようだ。

Blog_contour4817
(左)二ツ木隧道開鑿記念碑
(右)記念碑から二ツ木峠を西望
   正面のアパートの裏付近にトンネル東口があった
 
Blog_contour48_map4
1:25,000 二ツ木隧道~西丸子間
Blog_contour48_map5
西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
下部は1929(昭和4)年図のため鉄道記号が異なる
 

旧 依田(よだ)駅の周囲では、小道や宅地の連なりが廃線跡を示唆している。ここから西丸子線は、目的地に向かって南へ直進していくのだが、途中にあった交換設備をもつ御岳堂(みたけどう)駅、棒線の上組(かみぐみ)駅、ともに正確な位置さえ判然としない。

新旧地形図の比較で明らかなように、南北に走る県道の微妙なS字カーブは鉄道のルートをなぞったものだ。ここで線路は、段丘面から約10m低い依田川の氾濫原に躍り出る。高低差をカバーするため、鉄道は高い築堤の上を通っていた。跡を利用した県道にもこれは踏襲されているが、依田川に接近したところで県道はそれていき、鉄道オリジナルの築堤が現れる。今は建設会社の土地のようで、ダンプカーの陰に川端駅の記念碑がひっそりと建っている。

Blog_contour4818
(左)線路をなぞるカーブ上組駅南側
(右)段丘崖と県道の高い築堤
 
Blog_contour48_map7
御岳堂周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(左)1972~78(昭和47~53)年図
(右)2014~15(平成26~27)年図
 

依田川を渡れば、いよいよ丸子の市街地だ。さすがに橋梁自体は跡形もないが、左岸では上記の築堤の先に橋台が、右岸でも川岸から少し引っ込んだ畑の中にコンクリートの橋脚が一本だけ残り、渡河していた位置を教えてくれる。

Blog_contour4819
依田川渡河地点
左に築堤と橋台が見える
Blog_contour4820
(左)左岸の築堤と橋台
(右)右岸の畑に残る橋脚
 

しかし右岸でカーブしながら続く築堤は崩されて、新しい宅地の並びに変わっていた。また、県道横断地点の南側でバス停に再利用されていた寿町(ことぶきちょう)駅の待合所も、すでに造り直されている。

その先300m足らずの間、住宅街に線路跡の小道が延びている。だが、まもなく家並の敷地に取り込まれてしまい、廃線跡歩きは事実上終了する。空中写真では、敷地の裏手のつらが揃っているのが見て取れるが、現地確認は難しく、途中にあった河原町(かわらちょう)駅の跡もよくわからない。

終点の西丸子駅は、現 丸子消防署南側の駐車場付近にあったそうだ。だが、案内板一つ建ってはおらず、すっかり忘れ去られている。町の商工業者の肝煎りで誕生したライバルの丸子線と違い、上田から進出した路線にとって、この町は最後までアウェーの地だったのかもしれない。

Blog_contour4821
(左)改築された寿町待合室
(右)駐車場になった西丸子駅跡

依田川の岸辺に出ると、桜並木がちょうど見ごろを迎えていた。小雨の予報が出ているからか、人通りもほとんどなく、のんびりと花見を楽しみながら上流へ歩く。400mほど先の公園の一角に電気機関車ED25形の1号機が置かれている。かつて丸子線で貨物列車を率いていた機関車だ。ひな壇の上に据えられ、満開の桜を背にして、堂々たるモニュメントに見えた。やはり丸子線は肩入れのされ方が違う。

Blog_contour4822
依田川沿いの桜並木
Blog_contour4823
丸子線ゆかりの電気機関車ED25形
 

しばらく休憩してから、その終点だった丸子駅へ向かった。もちろん鉄道は廃止され、バス停に置き換わっているのだが、名称が「丸子駅」なのだ。それどころか、街の通りや郵便局も「駅前」を名乗る。「鉄道がなくなってもバーンホーフシュトラーセ(Bahnhofstraße、ドイツ語で駅前通りの意)というのはよくありますね」と中西さん。町から列車の姿が消えて50年以上経つが、地元市民の記憶の中にまだ丸子線は生き続けているのだろう。

Blog_contour4824
通りや郵便局も「駅前」を名乗る
 

何本もの標識が静かに整列するバス停で、15時15分発の上田行きを待つ。千曲(ちくま)バスの運行だが、自治体の補助が出ているらしく、終点まで300円と格安だ。しかし待っていたのは私たちのみで、標識の数にも足りない。後でようやく一人増えたものの、結局乗客はそれですべてだった。

Blog_contour4825
校長先生の指示どおり、
整列して静かにバスを待つ標識たち
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上田(昭和53年修正測量および平成26年調製)、丸子(昭和47年測量および平成27年調製)、別所温泉(昭和48年測量および平成28年調製)、5万分の1地形図上田(昭和12年修正測図)、小諸(昭和4年修正測図)、坂城(昭和12年修正測図)および20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校
 コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址
 コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠

2021年4月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校

2021年4月3日、コンターサークルS春の旅の初日は、長野県佐久地方が舞台だ。明治維新前後に造られ、当時の人々の西洋文化に対する強い好奇心が窺える建築物を二つ訪問することにしている。

一つ目は、信州の五稜郭である龍岡城(たつおかじょう)。誰もが知る函館の五稜郭と同じ星形の稜堡(りょうほ、下注)を巡らし、特徴的な輪郭は地形図にもはっきりと描かれている。もう一つは旧中込(なかごみ)学校。松本の旧開智学校とともに、信州に残る代表的な擬洋風の学校建築だ。

*注 稜堡とは、城郭や要塞の外側に突き出した角の部分のこと。これを備えた城郭(堡塁)の形式を稜堡式城郭という。

Blog_contour4701
龍岡城(画面左)とその周辺を展望台から俯瞰
遠方の山並みは八ヶ岳連峰
Blog_contour4702
青空に白壁が映える旧中込学校
 
Blog_contour47_map1
今回の訪問地周辺の1:200,000地勢図
(昭和56年編集図に新幹線、高速道路を加筆)
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
 

今年は春の訪れがいつになく早い。信州も例外ではなく、朝早起きして見に行った上田城では、桜がもう満開で、深いお濠の上にしなだれかかる薄紅の花霞を心行くまで愛でることができた。その後、しなの鉄道とJR小海線を乗り継いで、集合場所へと向かう。

Blog_contour4703
上田城址の桜
 

10時48分、気動車キハ110形から最寄りの龍岡城駅に降りたったのは、中西、大出、森さんと私の4名。風が強いものの、柔らかな日差しが降り注ぎ、まずまずの歩き日和だ。

Blog_contour4704
JR龍岡城駅
待合所はなまこ壁の屋敷風
 

最初は城を高みから見下ろして、日本に2か所しかない珍しい形を確かめたい。函館には展望タワーがあるが、こちらも、近くの山にその代わりになる展望台がある。地形図に注記はないものの、グーグルマップも参照すると、北側の山にある881.5m三角点付近のようだ。「村から直登する徒歩道はいかにもきつそうなので、行きは北斜面をZ字状に上っていく林道にしましょう」と皆を誘った。

Blog_contour47_map2
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

住宅街を抜けて山にとりつき、草生した道を行く。小さな尾根を越えると、いったん舗装道に出るが、まもなく右に分岐する林道が現れた。親切にも「五稜郭展望台」と矢印のついた道標が立てられているので、迷う心配はない。

まだ冬の装いの林が足元に影を落とす中を、しばらく上っていく。主尾根にとりついた辺りで、また分かれ道を示す道標があった。この後は、人ひとり通れるだけの小道で、木立の間を少し降りると展望台に行き着いた。

Blog_contour4705
展望台への道
(左)整備された道標
(右)最後の一区間は登山道
Blog_contour4706
五稜郭展望台
 

眼下に、雨川(あまかわ)の流れる平たい谷が横たわる。村の家並に囲まれて、五角形をした城址が見える。その奥の平地は千曲川本流の谷筋で、背景には霞がかっているが、蓼科山から八ヶ岳にかけての山並みが延びる。想像していた以上の眺めだ(冒頭写真参照)。「写真では小さく写ってましたが、実物の城はけっこう大きいですね」と森さん。確かに周囲の民家と比べることで、そのスケールが実感できる。

Blog_contour4707
展望台から望む龍岡城
特徴的な稜堡が見える
 

五つある稜堡のうち、ここから確認できるのは四つまでだ。南側の一つは、前後二列に並んだ長い建物の陰に隠れている。城内は佐久市立田口小学校の校地になっていて、建物はその校舎だ。校庭の周りに濠が巡っているとは、なんと豪勢な学校だろう。お濠端には桜の木が植わっているが、見渡しても咲いているのは1、2本しかない。標高450m前後の上田城に対して、龍岡城は720mほどあるから、春はまだこれからだ。

Blog_contour4708
城内から展望台方向の眺め
山稜中央の針葉樹林の隙間に展望台がある
 

パノラマを満喫したところで、下界へ降りる。標識に従って、さっきの林道から左に折れた。地形図上の等高線の込み具合から覚悟はしていたが、ほんとうに転げ落ちそうな急斜面だった。しかも落ち葉が厚く散り敷いて、滑りやすい。慎重に足を運びながら、村里に到達した。

Blog_contour4709
急斜面を下りて村里へ
 

城跡の手前にある資料館「五稜郭であいの館」に立ち寄り、城の予備知識を仕入れる。

城主は、松平乗謨(まつだいら のりかた)という人物だ。三河国額田(ぬかた)郡奥殿(現 愛知県岡崎市)に本領を構えていたが、山あいで手狭なため、より広い領地のあった信濃国佐久郡の当地に移転を願い出て許された。幼少のころから聡明で、洋学を志し、蘭学やフランス語を学んでいた彼は、攘夷の機運高まる中、洋式の築城技術に基づく居城の造営に踏み出す。城と言っても、家格からして実際には陣屋で、天守閣のような防備施設は持っていない。1867(慶応3)年に竣工祝いを執り行ったが、建物の多くはまだ瓦が載らず板葺きのままだったらしい。そして、早くも1873(明治6)年には取り壊しに遭っている。

展示を見ていた中西さんがつぶやく。「竣工が明治維新の前年では、城の役割を果たす時間はなかったことになりますね」「防御用というよりむしろ、洋風の邸宅を造りたかったんじゃないかな」と私。

Blog_contour4710
空から見た龍岡城
(五稜郭であいの館の展示パネルを撮影)
 

ヨーロッパでヴォーバン式と呼ばれるこうした多角形の要塞は、防御の際の死角をなくす巧妙な構造だが、それは広い平地にあってこそ効果を発揮するものだ。さっき展望台で気づいたが、山上からは城内がまる見えで、射程距離の長い大砲で攻撃されたら、ひとたまりもなかっただろう。

Blog_contour47_map3
龍岡城(左)と函館・五稜郭を1:25,000地形図で比較
前者は後者に比べ差し渡しで1/2、面積では1/5ほどのサイズ
また、山に挟まれ、防御には向いていない
 

であいの館を出て、濠に架かる木橋を渡る。ここは、かつて大手門があった場所だ。現役の小学校なのでふだんは立ち入れないらしいが、今日は春休みの土曜日、校庭には風が吹き通るばかりで人影もない。正面に、グラウンドを隔てて本校舎が建つ。その右にある大きな切妻造の建物は、資料館でもらった資料によると御殿の一部で、御台所の遺構だそうだ。校舎に再利用されたことで、唯一城内に残ったという(ただし場所は移されている)。

Blog_contour4711
大手門への木橋
Blog_contour4712
城内の小学校
右は御台所の遺構
 

昼食をとった後は、城の周囲を歩いた。土塁を載せる石垣は、場所によって積み方に粗密の差がある。緻密に組まれた部分は見た目にも美しく、従事した職人の技術力を感じさせる。一方、7.3~9.1mの幅があるという周濠は、西側と南側を欠いている。工期や資金面の問題もあっただろうが、地形的に見れば、西側は下流で高低差が生じるし、南側は雨川の氾濫原に接している。それらを天然の要害と見なすなら、整備の優先度はおのずと低かったはずだ。

Blog_contour4713
複雑に屈曲する濠
石積みには粗密の差がある
Blog_contour4714
濠のない部分
(左)西側は自然の高低差
(右)南側は氾濫原に接する
 

訪問を終えて駅へ戻る間、城のお膝元だった痕跡をいくつか見かけた。山際に立派な伽藍を構えたお寺(大梁山蕃松院)があり、街道筋には入口を固める桝形が保存されていた。鄙びた中にもどこかしらゆかしさが漂う山里だった。

Blog_contour4715
展望台の山裾に伽藍を構える大梁山蕃松院
Blog_contour4716
桝形跡
 

再び小海線の列車に乗り、3駅目の滑津(なめづ)駅で降りる。次の目的地の旧中込学校へは、住宅街を歩いてものの5分ほどだ。建物は県道小諸中込線に面した公園の一角にあり、管理事務所で観覧料(260円)を払って、自由に見学できる。

建物は2階建て、寄棟造りの擬洋風木造建築で、1969(昭和44)年に重要文化財に指定されている。正面に車寄せ風のポーチ、2階にバルコニーを備えた瀟洒な外観が印象的だ。

Blog_contour4717
旧中込学校正面
 

観音開きの扉を押して中に入ると玄関土間で、ざら板、げた箱と、子どものころに見覚えのある小道具が揃っている。ところが、中央廊下の突き当りに、扉の欄間に嵌る虹色のステンドグラスが見えて、くすんだ校舎の印象は一変するのだ。ガラス窓を通して入ってくる原色の外光に、当時の村人たちもさぞ驚いたことだろう。

間取りは珍しく縦長だ。1階は講堂と大教室(教場)を広く取り、2階は壁で小教室や校長室、教員室に区切られている。2階廊下の奥にも、意表を突くステンドグラスの丸窓がある。塔内部の太鼓楼やバルコニーも見どころだが、残念ながら扉が閉ざされ、立ち入れない。

Blog_contour4718
1階
(左)中央廊下から見る玄関
(右)講堂と足踏みオルガン
Blog_contour4719
2階は壁で小部屋に区切る
突き当りにはステンドグラスの丸窓
 
Blog_contour47_map4
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

旧中込学校が竣工したのは1875(明治8)年、旧体制の徒花(あだばな)のような龍岡城からわずか8年後のことだ。封建時代の記憶がまだ残る一寒村に、このような「ハイカラ」な学校が突如出現したのには、特別な理由があったに違いない。

その解説が、管理棟に隣接する資料館の展示パネルに記されていた。それによると、一つには、新時代の方向性を理解する地元の有力者が発議して、村民を啓蒙したこと。二つには、洋行帰りの設計者を迎えたこと。三つには、当地は内山峠で官営製糸場のあった群馬県富岡に通じており、派遣された女工などから最新事情が伝わっていたことが挙げられるという。さらに、佐久平は米作地帯で、経済的な余裕から向学心が強く、国や県も洋風学校の設立を奨励するなど、構想を後押しする土壌があったようだ。

館を辞した後、公園に静態保存されている小海線ゆかりの旧車2両を見学した。戦前戦後にわたり活躍し、「高原のポニー」と呼ばれたC56形の101号機と、佐久鉄道時代の1930(昭和5)年に投入され、その後三岐鉄道、別府(べふ)鉄道に転籍したガソリンカー キホハニ56だ。

Blog_contour4720
小海線ゆかりの旧車両
(左)高原のポニー C56 101
(右)佐久鉄道時代のガソリンカー
 

展示場所はフェンスが廻らされ、施錠されているが、管理事務所に申し出ると開けてくれる。とりわけガソリンカーは貴重だ。外観は塗装の褪色が目立つが、内部は座席や運転台を含めて美しく保たれていて、そのままローカル線の旅に出かけられそうだった。

Blog_contour4721
ガソリンカーの車内
(左)簡素な運転台
(右)美しく保たれたロングシート
 

勢いを駆って駅北方の鉄橋へ行き、現代の小海線のプチ撮り鉄も敢行した。青空のもと、浅間山と桜を背にして、2両編成のキハ110形がさっそうと川を渡っていく。しかし省みれば、歴史旅行で完結させるつもりが、結局鉄道趣味が勝ってしまったような…。

Blog_contour4722
滑津川を渡るキハ110形
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和56年編集)および地理院地図を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線
 コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡
 コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址
 コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠

2020年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線

琵琶湖疏水(びわこそすい、下注)は、琵琶湖畔の大津から京都の市街地に通じる水路だ。2本が並行しており、そのうち第一疏水は1890(明治23)年に完成した。琵琶湖と大阪を結ぶ水運に利用されるとともに、落差を利用した水力発電で、京都の産業や交通の近代化を推進する原動力となった。

*注 「疎」水と書かれることもあるが、これは当用漢字表にない「疏」を代用字で書き換えたもの。

Blog_contour4601
南禅寺水路閣 *
キャプション末尾に*印があるものは2020年4月、
**印は2020年9月、***印は2020年12月撮影、
それ以外は2020年11月撮影。以下同じ

 

年々増大する需要を賄うために、1912(明治45)年に第二疏水が全線トンネル仕様で造られた。水運はやがて鉄道や道路に取って代わられたが、上水道の水源は今なお多くを依存しており、京都にとって琵琶湖疏水は必要不可欠のインフラであり続けている。

東海道本線の電車が大津~京都間で2本の長いトンネルをくぐり抜けるように、疏水も間を隔てる二つの山を貫いた後、東山山腹の蹴上(けあげ)に顔を出す。ここで市内に分配されるのだが、本線は、複数の経路(下注)を通って山麓の南禅寺船溜(ふなだまり)に集まる。そして岡崎公園の縁をなぞった後、鴨川の左岸(東岸)を伏見へ向かって流れ下る。

*注 蹴上水力発電所の導水管、インクライン沿いの放水路(一部暗渠)、扇ダム放水路など。

Blog_contour4602
蹴上船溜、インクラインの起点
Blog_contour4603
琵琶湖疏水および分線の位置図
(琵琶湖疏水記念館の展示パネルを撮影)
 

第一疏水の一部を成すこのルートに対して、蹴上から北に分岐する水路もある。第一疏水と同時に完成した疏水分線だ。京都盆地は北が高く、南が低い。分線はそれに逆行するように北流した後、徐々に西へ向きを変え、最後は堀川の源流である小川(下注)に注いでいた。

*注 現在は「おがわ」と読ませているが、かつては「こかわ」と読んだ。

Blog_contour4604
桜の名所「哲学の道」 *
 

明治のころ、一帯はまだ田園で、分線建設は農地の灌漑や、伸銅、精米、紡績など産業利用を主な目的としていた。昭和に入ると沿線に松ヶ崎浄水場が造られ、水道水への活用が始まった。しかしその後、市街地化による農地の消滅や、交差する河川の改修などの影響を受けて、本来の機能は失われてしまう。

現在、この疏水分線はどのような姿で残されているのだろうか。コンターサークルSの旅関西編2日目は、それを歩いて確かめようと思う。蹴上から鴨川との交差地点まで、水路伝いに約9kmのコースだ。

Blog_contour46_map1
1:25,000地形図と陰影起伏図に
歩いたルート(赤)と水路跡の位置(青の破線)等を加筆
Blog_contour46_map2
5m間隔の等高線が記載された図に疏水分線を加筆
ルートが等高線に沿っていることがわかる
(基図は1:25,000土地条件図 京都、1975(昭和50)年調査・編集)

2020年11月3日、朝10時の集合時刻までの間、私は近くの琵琶湖疏水記念館に立ち寄って、最近リニューアルされた展示物をチェックした。構想時の地図図面など貴重な資料のほか、鉄道ファンには大正4年ごろの岡崎周辺を再現したレイアウトが必見だ。船を上下させるインクライン(斜行鉄道)とともに、京電蹴上線や京津電気鉄道(後の京阪電鉄大津線)の旧線ルートも手に取るようにわかる。

Blog_contour4605
(左)琵琶湖疏水記念館
(右)内部展示
Blog_contour4606
岡崎周辺を再現したレイアウト
中央左の直線路がインクライン、
右側を並行する複線の線路は京電(後の市電)蹴上線、
左奥の山から降りてくる複線は京津電気軌道(後の京阪電鉄大津線)
 

資料館で森さんと落ち合って、集合場所の地下鉄東西線蹴上駅に向かう。本日の参加者はメンバーの今尾、大出、森さん、私、そして初参加の小森さんの5名。疏水関連の研究をしている小森さんには、案内役としていろいろ教えてもらおうと思っている。

最初に、インクラインの途中にある粟田口隧道、俗称「ねじりまんぽ」に寄り道した。築堤の横腹に開けられたまんぽ(トンネル)で、やや斜めに横断するため、内部の煉瓦巻きがねじれているのが名の由来だ。ポータルは付け柱を立てた立派な造りで、頂部には、当時の京都府知事が揮毫した陶製の扁額まで嵌っている。通しているのは南禅寺境内に向かう小道に過ぎないのだが、天下の大道、東海道に面していたから、設計者も特に力を込めたのだろう。

Blog_contour4607
ねじりまんぽ西口
上をインクラインが走る
Blog_contour4608
内壁の煉瓦がねじるように巻かれている
 

それからインクラインを上って、蹴上船溜へ。船を乗せた車台が復元されている。すぐ上流に架かる橋から、第一疏水が出てくる第三トンネルのポータル(洞門)が見渡せる。トンネル手前右側の立派な洋館は旧 御所水道ポンプ室で、ちょうど大津から下ってきた疏水船が前の護岸に到着したところだった。

Blog_contour4609
インクラインの坂道を上って蹴上船溜へ
Blog_contour4610
蹴上船溜
(左)復元台車、左後ろはケーブルの滑車
(右)第三トンネル洞門
Blog_contour4611
旧 御所水道ポンプ室、手前に疏水船が待機
 

船溜の周辺は小さな公園になっている。市街を見下ろして立つ銅像は、疏水を設計し工事も指揮した田邉朔郎(たなべさくろう)だ。設計図は工部大学校の卒業論文として作成され、卒業後すぐに京都府から主任技師に任じられたというから驚く。「はたちそこそこでいきなり大工事を任された超エリートです」と小森さんが解説する。

Blog_contour4612
公園に建つ田邉朔郎像
 

疏水の分配方法は様々だ。船溜の北隣にあるのは放水路に水を落とす洗堰で、その形状からついたあだ名が「京都のナイアガラ」。大きな水音が絶えず辺りにこだましている。

Blog_contour4613
洗堰「京都のナイアガラ」
Blog_contour4614
洗堰を落ちた水は中央に集まる ***
 

続いては錆止めを塗った鉄のやぐら。関西電力蹴上発電所の取水口で、谷側に目をやると極太の導水管が2本、急斜面を這い降りている。付随するベルトコンベアのようなものは、取水口に溜まった落ち葉やごみを排出する装置だそうだ。

さらに北側でも枡状の小水路が分岐しているが、聞くと、こうした水路で庭園などに分配しているのだという。明治から昭和初期にかけて、岡崎一帯では政財界の大物たちが競うように別荘を構えた。それらの庭園を潤す水も、疏水から供給されているのだ。「それから、ゾウさんやカバさんも飲んでます。疏水のおかげで、京都市動物園は自然水には困りません」。

Blog_contour4615
(左)蹴上発電所取水口
(右)ごみの排出装置 ***
Blog_contour4616
(左)発電所への導水管 ***
(右)庭園等に分水する小水路 ***
 

この10月に利用が再開されたばかりの、南禅寺に通じる疏水側道を行く。山際の狭い通路で、石川五右衛門が「絶景かな」の名せりふを放った三門が木の間越しに見える。突き当りが南禅寺水路閣で、長さ93m、豪壮な煉瓦のアーチが疏水を載せて境内を横切っている。界隈を歩く観光客が必ず立ち寄る人気のスポットだ。

Blog_contour4617
疏水分線
(左)南禅寺裏の水路に側道が沿う
(右)水路閣の上部水路に続く
 

小道を下って、その足元に出た。今でこそ古色を帯びて周囲の景観に溶け込んでいるが、できた当時は、古い町並みに高速道路を割り込ませるような違和感に満ちた眺めだったに違いない。明治新政府は仏教寺院を改革に抵抗する旧来勢力とみなし、廃仏毀釈や上地令で弱体化を図った。大寺といえども、府の方針を拒否できるような政治力はなかっただろうと思う。

とはいえ、橋を架けることの必然性にはいささか疑問が残る。地形図で見る限り、横断しているのは奥行きのない谷だ。背後をトンネルないし開削工法で通すことができそうだし、そうしたとしても距離はさほど延びない。実際、寺の方丈や北隣の永観堂の裏では、トンネルで通過している。敢えて橋にしたのは、地質、水源あるいは予算の問題、はたまた近代化を象徴する構造物が必要だったのか…。

Blog_contour4618
南禅寺水路閣
Blog_contour4619
(左)寺の境内を横断
(右)支柱が整列する構図は人気の撮影スポット **
Blog_contour4620
洋風と和風が共存する空間 ***
 

水路閣の続きにある第五トンネルの洞門を見てから、境内を引き返す。トンネル区間では、疏水に並行する道がないのだ。迂回路となる鹿ヶ谷通(ししがたにどおり)の途中で、東山高校の校地を横切って勢いよく流下する水路があった。「これも疏水から落ちてきてます」。斜面の上の取水口は扇ダムと呼ばれるが、残念ながら立入禁止になっている。

Blog_contour4621
扇ダム放水路
(左)斜面を駆け降りる水路 ***
(右)庭園街の境界を貫く
 

次に水路が現れるのは、熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社の参道と交差する若王子橋だ。そこから銀閣寺橋まで、緩やかに蛇行する水路に沿って、緑濃い小道が約1.5kmの間続く。西田幾多郎(にしだきたろう)ら京大の哲学者が好んで散策したという「哲学の道」だ。水路を縁取るのは桜並木で、花の季節はことさら美しい。この春は新型コロナの第1波でひっそりとしていたが、最近は客足がいくらか戻ってきているようだ。

小森さんが「遊歩道に市電の敷石が使われてますよ」とメンバーの好奇心をくすぐる。「ついでにレールも敷いてほしかったなあ」と私。しばらくの間、京都市電が廃止されたころの思い出話で盛り上がった。

Blog_contour4622
若王子橋
(左)若王子神社への参道 ***
(右)哲学の道が始まる ***
Blog_contour4623
(左)西田幾多郎の歌碑
(右)大豊橋では水路も立体交差 *
Blog_contour4624
苔むした桜の並木が続く ***
Blog_contour4625
桜満開のころ *
 

銀閣寺橋までやってきた。銀閣寺(慈照寺)への参道はぞろぞろと人が行きかっていて、さすが有名観光地だ。大文字山(だいもんじやま)の山麓を北上してきた疏水は、この橋の前後で西に向きを変える。そして白川(しらかわ)が造った扇状地を横断していく。両者が交差する地点では、疏水がサイフォン(下注)で白川の下をくぐっている。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来の意味のサイフォンではなく、連通管の原理で川の下を横断するもの。以下も同じ。

白川の名は、上流の山から運ばれ川底にたまった花崗岩の砂礫、いわゆる「まさ(真砂土)」が白っぽい色をしていることに由来すると言われる。白河上皇のおくり名や「白河夜船」の故事にも引かれた歴史ある川だが、市街地を貫くこのあたりでは、今やコンクリートの擁壁に囲まれた味気ない排水路でしかない。

Blog_contour4626
銀閣寺橋
左は銀閣寺(慈照寺)への参道 ***
Blog_contour4627
白川との交差
(左)殺風景な白川の水路
(右)直交する疏水は白川(手前)の下をくぐる
 

白川通を横断したところで12時になった。食事処を求めて、今出川通に面したタイ料理店「カトーコバーン食堂」へ。生ビールで喉も潤してから、再び歩き出す。

疏水は再び北へ旋回し、志賀越道(しがごえみち)を横切っていく。この道は山中越(やまなかごえ)、白川街道ともいい、京都七口の一つ、荒神口(こうじんぐち)と琵琶湖西岸を結んでいた古い交易路だ。「ここで水路の所管が、市の上下水道局から建設局に変わります」と小森さん。「正式な疏水分線はここが終点で、後は都市河川の扱いなんです」。

Blog_contour4628
志賀越道との交差
(左)交差手前の堰
(右)交差の前後で水路に段差がある
  クスノキの後ろの塔は浄水場送水管の点検口
 

この先に松ヶ崎浄水場があるが、そこに入る原水は蹴上から別ルートで送られており(下注)、目の前の開渠の水は利用されていないのだそうだ。しかし流路の水量はまだたっぷりあって、疏水としての面目は保たれている。水面をのぞき込んでいた森さんが「けっこう大きい魚がいますよ」と教えてくれた。

*注 正確には、南禅寺トンネルでまず若王子取水池へ。ここでごみや砂を除去した後、導水管で浄水場まで送られる。後述のとおり、疏水の流路は現在、高野川で断たれている。

小森さんいわく「京大農学部のキャンパスに広い農園があるんですが、そこにもこの水が引き込まれてます」。疏水は、沿線の田園を潤す灌漑用水の役割も果たしていた。すっかり市街地化した今では、農学部のそれが唯一の名残なのかもしれない。

Blog_contour4629
北白川、疏水沿いの散歩道 ***
 

「河川」に名目を変えた後も、疏水分線は変わることなく木陰の散歩道を伴って流れる。右側には北白川の閑静な住宅街が続いている。左は京大農学部のグラウンドだが、疏水道からは見下ろす形になる。この高低差は、花折(はなおれ)断層の活動により生じたものだ(下注)。いわゆる断層崖で、それをしのぐために、疏水のルートはここで緩いS字を描いている。

*注 花折断層は、滋賀県高島市の水坂(みさか)峠付近から朽木(くつき)谷、高野川の谷を通り、京都市左京区の吉田山に至る北北東~南南西方向の断層。花折峠より南は、東側が乗り掛かる逆断層になっている。

Blog_contour4630
花折断層
(左)グラウンドは疏水道から見下ろす位置に ***
(右)御蔭通への下り坂で断層崖を通過 ***
 

御蔭通(みかげどおり)を横断すると再び直線で、右側の樹木が生い茂る敷地に、登録有形文化財の駒井家住宅が建っている。明治末から昭和にかけて数々の洋館を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品の一つだが、私もまだ入ったことがない。

Blog_contour4631
(左)駒井邸
(右)穏やかな光注ぐ水路 *
 

北大路通(きたおおじどおり)に出ると、叡山電鉄(叡電)の線路が間近だ。短い鉄橋が疏水に架かっている。ちょうど警報器が鳴り始めたので、一同慌てて線路際に走り寄る。駅と駅の中間とあって、電車はかなりのスピードで通過した。「速すぎましたね」「間に合わなかった…」などとぼやいていると、小森さんが「撮り鉄さんが群がる絵が撮れました」とほやほやの特ダネを見せてくれた。

Blog_contour4632
叡山線疏水橋梁、右はその銘板 *
Blog_contour4633
撮り鉄、被写体になる
(小森さん提供)
 

住宅街の中の直線路をなおも進んでいけば、やがて鴨川の支流、高野川にぶつかる。もともと疏水はこの川を伏樋(ふせひ)で通していたのだが、治水工事で河道の拡張・掘削が行われた際に撤去されてしまった。それ以来、疏水の水は対岸に届かず、ここで高野川に放流されているそうだ。

道路橋もないので、少し下手に架かる北大路通の高野橋まで迂回した。対岸に渡ると、疏水道に面して松ヶ崎浄水場の門がある。傍らに建つ現代建築風の塔が目を引くが、濾過池にたまった砂などを洗い流すために水を貯めておく洗浄水槽だ。「ウルトラ警備隊の基地みたいですねえ」と森さんが感心したように言う。

Blog_contour4634
高野川北望、左奥の山は比叡山
Blog_contour4635
(左)松ヶ崎浄水場、左の塔は洗浄水槽
(右)浄水場前の水路はわずかな水量しかない
 

この先は、水路が緩やかに左カーブしながら、下鴨の住宅街を貫いている。両岸に植えられた桜や楓の木がその上に枝を伸ばし、青草の堤に濃淡の影を落とす。のどかな田園風景の名残が感じられる場所だ。「観光地じゃないので、サクラの時期でもしずかです。夏の初めにはゲンジボタルも舞いますよ」。しかし、上流が断ち切られているため、水量はわずかしかない。これでも干上がらないように、浄水場からおこぼれが落とされているそうだ。

Blog_contour4636
下鴨の疏水分線 *
 

北から流れてくる泉川とは平面で交差している。泉川は、高野川で取水され、街中を通って糺の森(ただすのもり、下鴨神社境内)に入る小さな川だが、交差地点を見ると、川幅の4割ほどが疏水の下流側に導かれている。一方、疏水は泉川と完全に混じり合い、平水時はほぼ全量が泉川の下流側へ向かう。つまり疏水分線は、ここで琵琶湖水系から高野川水系に入れ替わってしまうのだ。

西へ進むうちに、何か所かで旧 農業用水の水が加わり、水量が徐々に増えていく。だが残念ながら、開渠区間は下鴨本通(しもがもほんどおり)の手前で終わりとなる。水は暗渠に潜り込んでいき(下注)、後は、水路跡をなぞる緑道が続いているばかりだ。

*注 暗渠の水は全量が鴨川に放流されていたが、付記で述べるように、近年の整備事業で、一部が堀川に導水されるようになった。

Blog_contour4637
(左)泉川との交差
  手前→奥が疏水分線、右→左が泉川の水路
  泉川の約4割が疏水側に誘導されている
(右)開渠区間の終点
 

かつての電車通りである北大路通を斜めに横断する。少し進めばもう主要河川の鴨川(賀茂川とも書く、下注)だ。かつての疏水分線はここも伏樋で横断し、対岸に続いていた。しかし右岸(西)側は戦後暗渠化されて、紫明通(しめいどおり)の一部となり、地上に痕跡をとどめない。それで分線をたどってきた私たちの歩きもここが終点だ。

*注 河川法上は鴨川の本流だが、地元では、高野川との合流点より上流を「賀茂川」と表記する。

Blog_contour4638
(左)疏水跡の緑地帯、後方は比叡山
  鴨川堤から東望
(右)鴨川を隔てて疏水跡(紫明通)の並木が見える
 

建設から120年、長い歳月の間に疏水分線は託された役割を果たし終えた。水流は細り、寸断され、もはや厳密には1本の水路と言えなくなっている。しかし、その存在価値まで摩滅したわけではないようだ。沿線に立地する寺社や庭園や閑静な住宅街に今もさまざまな形で潤いをもたらし、趣のある散策路として市民や観光客に愛され続けているからだ。

川の堤に上ると、広々とした河原に薄日が差し、心地よい風が吹き抜けていた。「お疲れさまでした」「ガイドしてもらったおかげで、疏水のことがよくわかりましたよ」。ねぎらいの言葉を交わしながら、私たちは北大路橋を渡り、地下鉄の駅に向かった。

Blog_contour4639
出雲路橋から鴨川(賀茂川)を北望
奥に架かる橋は北大路橋
 

【付記】
疏水分線の残り区間(鴨川~小川頭)の状況についても記しておこう。

Blog_contour46_map4
1:10,000地形図で見る鴨川右岸の疏水分線
(上)1951(昭和26)年修正測量図
  疏水の南側に疎開空地が残る
(下)2003(平成15)年修正図
  跡地は紫明通に
 

この区間は旧市街の外縁に当たり、かつては田園地帯だったが、1923(大正12)年の市電烏丸線開通に伴い、市街地化が進行した。第二次大戦末期、防火帯を設けるべく疏水南側で建物疎開が実施され、戦後、その空地が紫明通として整備された。紫明通が京都の大通りとしては珍しく蛇行ルートで、かつ広い中央分離帯を有するのは、これが理由だ。分離帯の一部は街路樹の苗圃として利用された時期があり、その名残で大木が多く育っている。

Blog_contour4641
紫明通、左は中央分離帯の林
疏水は通りの右寄りを走っていた
 

紫明通の北縁を通っていた疏水は1956(昭和31)年に暗渠化され、下水道に転用されてしまったが、最近まで、鴨川堤から西80mの紫明通北側では、植え込みに半ば埋まる形で水門跡が残っていた(2014年2月に撤去)。また、烏丸紫明交差点の西300mの紫明通北側歩道脇(京都教育大学付属中学校南側)には、「疏」の字を刻んだ境界標が今も数本残されている。

Blog_contour4642
紫明通にあった水門跡
(2012年4月撮影、小森さん提供)
Blog_contour4643
紫明通に残る境界標
 

分線終点の小川頭は、現在の堀川紫明交差点(バス停名は堀川鞍馬口)付近だが、疏水跡はおろか合流先の小川自体もすでに地上から消失してしまった。

なお現在、紫明通の中央分離帯(せせらぎ公園)に小さな水路が通っているが、これは疏水跡ではなく、堀川水辺環境整備事業により2009(平成21)年3月に完成した新しい水路だ。しかし水源は鴨川左岸の疏水分線で、鴨川の下をサイフォンで通し、右岸側で地表面までポンプアップしている。

Blog_contour4644
小川頭、現在の堀川紫明交差点
Blog_contour4645
堀川水辺整備事業
(左)疏水分線からポンプアップした人工滝
(右)中央分離帯に造られた小水路
 

掲載の地図は、地理院地図および国土地理院発行の2万5千分の1土地条件図京都(昭和50年調査・編集)、地理調査所発行の1万分の1地形図上賀茂(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図京都御所(平成15年修正)を使用したものである。

■参考サイト
琵琶湖疏水記念館 https://biwakososui-museum.city.kyoto.lg.jp/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡
 コンターサークル地図の旅-石の里 大谷
 コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡
 コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校

 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

2020年11月15日 (日)

コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡

2020年秋コンターサークルSの旅関西編1日目は、福知山線(JR宝塚線)生瀬(なまぜ)~武田尾(たけだお)間の旧線跡(下注)を歩く。武庫川(むこがわ)の渓谷に沿ってトンネルと鉄橋が連続していた区間で、大半はハイキングルートとして開放されているが、その前後に残された廃トンネルの現状も観察したいと思っている。

*注 地元兵庫県や西宮市の公式観光サイトでは「福知山線廃線敷」の名称が使われている。

Blog_contour4501
トンネル、鉄橋、またトンネル
第二武庫川橋梁にて
 

福知山線は、東海道本線の尼崎駅と山陰本線の福知山駅を結ぶJR西日本の電化路線だ。大阪市内から直通の快速電車(下注)が走り、都市近郊線網の一部を成している。しかし、市街地が続くのは宝塚までで、その先は北摂(ほくせつ)山地を横断しなければならない。にわかに谷が深まり、列車は2本の名塩(なじお)トンネルをはじめとする長いトンネルをいくつもくぐり抜けていく。

*注 ただし、三田(さんだ)以北は実質各駅停車。

Blog_contour4502
新線は長大トンネルで渓谷を串刺しに
武田尾駅付近
 

1898(明治31)年から翌99年にかけて開通したこの区間が現在のトンネル主体の新線(下注)に切り替えられたのは、1986(昭和61)年8月だ。それまで90年近くも使われた旧線のルートは、渓谷の底を流れ下る武庫川の流路に忠実に従っていた。

*注 新線への切り替えは、生瀬駅付近から武田尾を経て、道場(どうじょう)駅付近まで。これに伴い、武田尾駅は約350m西へ移設された。

Blog_contour4503
渓谷沿いの旧線を行く特急列車
奥のトンネルは長尾山第一隧道
写真はT氏提供
 

廃線後の跡地は立入禁止となったが、生瀬と武田尾の間はとりわけみごとな渓谷美で知られており、無断で歩く人が絶えなかった。対策として入口の柵が撤去される代わりに、事故等が発生しても責任は負わない旨の看板が立てられた。

現在のようなハイキングルートとして全線が正式に開放されたのは、2016(平成28)年のことだ。それに先立ち、西宮市域では2016年5月から半年間、ルートを閉鎖して整備工事が行われた。入口に案内板やトイレが設置され、橋梁には板張りの通路が造られ、最寄り駅(下注1)ではルートを案内する「廃線敷マップ」も配布されるようになった(下注2)。

*注1 生瀬駅の駅前広場が狭く、また国道の狭い歩道を通らなければならないため、多人数での利用では西宮名塩駅からのスタートが推奨されている。
*注2 「廃線敷マップ」のPDFファイルが下記参考サイトでダウンロードできる。

Blog_contour45_map1
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
Blog_contour45_map2
旧線時代の1:25,000地形図
(1972(昭和47)年修正および1977(昭和52)年改測)

11月1日10時、生瀬駅に集まったのは中西、大出、木下さん親子、下津井の回にも来てくれた海外鉄道研究会のTさん、それに私の6名。朝方は少し冷えたが、暖かい日差しが降り注ぎ、歩きには申し分ない日だ。

ハイキングルートの起点は、駅から歩いて15分ほどの場所にある。しかし、旧線跡は駅の東方(宝塚方)からすでに始まっており、この駅自体、新線上に移転している。すぐ北側(川側)にあった旧駅跡をさっき上りホームから観察したのだが、空地で残されているものの、金網で周囲が覆われ、立ち入れそうになかった。

駅前の道路を西へ進み、新線をアンダーパスして、クルマが激しく行きかう国道176号線(名塩道路)に合流した。南側(山側)には、沢をまたいでいた旧線の小さな橋が顔をのぞかせている。

Blog_contour4504
生瀬駅
(左)新駅舎
(右)下り普通列車が入線
Blog_contour4505
(左)現 生瀬駅の北側にある旧駅跡
(右)沢をまたぐ旧線(手前)と新線(奥)の溝橋 *
キャプション末尾に*印があるものは2018年4月撮影。以下同じ
 

有馬温泉へ向かう街道が分かれる太多田川(おおただがわ)橋付近は目下、国道の改良工事中で、雑然としていた。旧線には、太多田川橋梁をはさんで2本のトンネル(下注)があったが、東側の城山隧道西口とその真下の太多田川橋梁東側橋台は、樹木の陰になってよくわからない。「道路工事の影響を受けていないので、残っているとは思うんですが…」と私。

*注 城山隧道(第2号隧道)は長さ63m、当田隧道(同 3号)は同 209m。

一方、西側橋台は、旧 有馬街道の脇に無傷で残っていた。それに接続していた当田隧道東口も、森の踏み分け道を上った先にあった。しかし、国道の新トンネル工事に支障するためか、坑口が完全に塞がれている。廃線跡はここから中国道の高架下まで、この改良国道によって「上書き」される予定で、西口付近は工事現場になり、すでに原形をとどめていない。

Blog_contour4506
太多田川橋梁跡
(左)左岸の橋台
(右)右岸を望むも、橋台とトンネルは樹木の陰
 

車道の脇の、人一人通れるだけの狭い歩道を進んで、木之元(このもと)集落へ。本来、国道は旧線を跨線橋で乗り越えていたのだが、今は高い盛り土に替えられ、廃線跡はその下に埋まっている。

横断歩道を渡り、川のほうへ降りていくと、国道の土留めの下から廃線敷が湧き出すように現れた。ハイキングルートの始まりだ。休日とあって、中高年のグループ、家族連れ、若いカップルとさまざまなハイカーが歩いている。「こんなに人の多い廃線跡は珍しいですね」と中西さん。

このルートのいいところは、渓谷内に並行する道路が造られていないことだ。そのため聞こえるのは、歩く人の話し声を除くと、渓流の絶え間ない水音と頭上でこだまする鳥のさえずりのみ。自動車の騒音とは無縁の、落ち着いた自然環境が保たれている。

Blog_contour4507
武庫川渓谷(右奥)に入っていく廃線敷ルートを遠望
 

すぐに一つ目の橋、名塩川橋梁を渡る。板張りの歩道が整備されているが、橋桁はオリジナルのガーダーだ。また少し行くと、二つめの橋梁。こちらは石積みの橋脚がいい味を出している。歩を進めるにつれ、枕木が埋まったままの路面、路側に立つ通信線の電柱や保線作業の見張り台、そして塗装の間から錆が浮き出た鉄柵と、鉄道時代の小道具が次々と現れ、目を楽しませてくれる。

Blog_contour4508
名塩川橋梁
(左)整備された板張りの歩道
(右)橋桁はオリジナル
Blog_contour4509
二つめの橋梁(姥ヶ懐川橋梁)と石積みの橋脚
Blog_contour4510
鉄道時代の小道具が次々と
(左)枕木とレンガの擁壁
(右)通信線の電柱
Blog_contour4511
(左)速度制限標識 *
(右)距離標 *
Blog_contour4512
(左)錆が浮き出た鉄柵
(右)保線作業の見張り台 *
 

対岸は、岩がむき出しの崖だ。河原にも大小さまざまな岩が無数に転がり、水流はその間を縫うようにして早瀬と淵を繰り返す。岩はみな白っぽい色をしている。これは流紋岩溶結凝灰岩(凝灰岩等を主体とする流紋岩)で、白亜期に火山からの噴出物が堆積し、自らの熱と重量で溶融して圧縮されたものだ。

中でも目を引く巨岩が高座岩(たかくらいわ、下注)で、差し渡し7~8間(13~14m)、高さが4~5間(7~9m)。竜宮につながっているとされ、昔は平たい上面で雨乞いの儀式が行われていたそうだ(下注)。なお、地形図では対岸の張り出し尾根に高座岩の注記が見えるが、実際は右岸の河原にある。

*注 この段は「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」p.17による。原典は有馬郡誌(1929年)。現地の案内板には「こうざいわ」とルビが振ってあったが、意味からして「たかくらいわ」が正しいと思われる。

Blog_contour4513
河原でひときわ目を引く高座岩 *
 

目の前にハイキングルート一つ目のトンネル、長さ318mの北山第一隧道が口を開けている。ポータルは美しい石積みだが、他のトンネルと異なり、これだけアーチがレンガ巻きではなくコンクリート製だ。というのもこのトンネルは、落石事故を防ぐために1922(大正11)年に追加で造られたもので、もとは川沿いをトンネルなしで通過していたのだ。ポータルの右側にある金網の先がその跡で、以前は歩いて通ることもできたらしい。

トンネルはどれも内部に照明設備がなく、ちょっとした探検気分が味わえる。しかし、漏水によるぬかるみを防ぐためか、路面にはバラストが敷かれており、場所によっては枕木も残る。足を取られやすく、ライトが必携だ。

Blog_contour4514
北山第一隧道南口
右の金網の先が旧線跡
Blog_contour4515
(左)内部はコンクリート巻き *
(右)北口、左が旧線跡
 

緩やかな左カーブを追っていくと、二つ目の北山第二隧道(第4号隧道、下注)が見えてくる。長さ413mとルート最長で、かつ出入口付近がカーブしているため、内部に外光が全く届かない。漆黒の闇の中、手持ちのライトを頼りに黙々と歩く。最後のカーブでほのかに明かりが見えてくると、思わずほっとした。ところがふと気がつくと、木下さんちのキリ君の姿が見えない。トンネルの中で迷子になったのか、と一瞬心配したが、「先のほうで待ってますよ」と誰かが言う。単に私たちの足が遅いだけだった。

*注 隧道の号数は開通当時のもののため、後に造られた北山第一隧道は数えない。

Blog_contour4516
北山第二隧道
(左)南口はコンクリート製だが…
(右)内部に延長された跡がある
  奥が初期のレンガ巻きのトンネル
Blog_contour4517
(左)北山第二隧道。北口はもとのレンガ巻き
(右)上部に沢を通す構築物 *
 

明かり区間では、武庫川の渓谷美が相変わらず冴えている。次の溝滝尾隧道の手前には、岩のはざまを水流が滝のように滑り落ちている場所がある。その名も溝滝(みぞたき)で、2段に分かれているので雄滝と雌滝と呼ばれているらしい。

Blog_contour4518
溝滝の眺め *
手前の早瀬は雄滝、雌滝は左奥
Blog_contour4519
(左)溝滝尾隧道南口
(右)トンネルの手前に枕木の山 *
 

溝滝尾隧道は長さ150mと比較的短いにもかかわらず、全線のハイライトと言っていい。渓谷を跨ぐ橋梁に接続しており、出口が近づくと、坑口のアーチの先に日差しを受けた朱いトラスの骨組みが重なって見えてくる(冒頭写真参照)。この印象的な構図には、誰しもカメラを向けずにいられない。

その第二武庫川橋梁を渡って左岸に移る。以前、ハイカーは保線用の側道を渡っていたのだが、線路があった中央部に板張りの通路が通され、より安全に通過できるようになった。通路の白木の欄干(柵)がまだ新しく、廃線跡にしてはちょっと違和感があるが…。

橋梁に続いて、長さ307mの長尾山第一隧道に入る。さすがに暗闇の行軍にも慣れてきた。路面に枕木がないのは、武庫川の増水の折に流されたからだそうだ。それを回収したのが、さっきの溝滝尾隧道の手前に積み重ねてあった枕木の山だろう。

Blog_contour4520
堂々たるトラスの第二武庫川橋梁
Blog_contour4521
(左)溝滝尾隧道北口に直結
(右)渓谷を斜めに横断 *
 

このトンネルを抜けると、川床は平たく、流れも目に見えて穏やかになる。廃線跡は、なおも緩い左カーブを描いて延びている。前方遠くの河原で、ハイカーたちが散開しているのが見える。親水広場と名付けられた休憩地で、線路脇にも小さな広場がある。ずっと歩いてきたので、足を休めたいと思うのはみな同じだ。席を譲ってくれたグループに礼を言って、私たちもここで昼食にした。元気が有り余っているキリ君は、食べ終わるやいなや、水切りをしに河原に降りていった。

Blog_contour4522
長尾山第一隧道北口を南望 *
右奥に見えるのは神戸水道の水道橋
(旧線を走る特急列車の写真はこの付近)
Blog_contour4523
親水広場で休憩
 

1時間ほど休憩した後、腰を上げる。残り2本の短いトンネルをくぐれば、まもなくハイキングルートの終点だ。僧川(そうかわ)に架けられた小さなガーダー橋を渡るが、このあたりは土地が再造成され、ひなびた渓谷の風情は一変している。2014年の洪水で被災し、土地のかさ上げや堤防の強化工事が実施されたからだ(下注)。

*注 ガーダー橋も土地造成に伴い掛け直されている。僧川の流路自体、やや東に移設された。

上流部で進められた大規模な住宅開発の影響で、洪水調節機能が失われ、近年は大雨が降るたびに渓谷の水位が急上昇するのだという。旧 武田尾駅の跡を探してみたが、かろうじて道路脇にコンクリートの低い擁壁(?)が見つかる程度で、面影はほとんどなくなってしまった。

Blog_contour4524
ハイキングルートも終わりが近づく
Blog_contour4525
ハイキングルート終点
(左)架け直された僧川橋梁
(右)土地造成で景観は一変
 

武田尾温泉に向かう温泉橋を通り過ぎ、神戸水道のクランク状の管路をくぐったところに、武庫川渓谷を横断する福知山線の鉄橋と、現在の武田尾駅がある。平地がないので、ホームが半分、鉄橋上にはみ出した形だ。あとの半分はトンネル内で、複線に対面式ホームの幅を加えた、ローカル駅とは思えない大空間が広がる。「モンテカルロ駅みたいでしょう」と、地元在住のTさんが笑う。

Blog_contour4526
神戸水道の水道橋
(左)武庫川をトラスで渡る
(右)線路跡をオーバークロス
Blog_contour4527
橋梁とトンネルにまたがる現 武田尾駅 *
 

ゆっくり歩いてきたつもりだが、まだ14時になっていない。私たちはさらに足を延ばして、次の草山隧道を見に行った。これは道路として使われているのだが、東口から数十m入ったところに通行止めの柵があり、左に開けられた出口へ迂回させられる。なぜなら、柵に「観光バス専用道」の表示板がぶら下がっているとおり、残りは川沿いの旅館「別庭あざれ」の専用道になっているのだ。

それで、川岸の迂回路を歩いて西口のある河原へ。こちらにも同じように専用道の表示板とともに、バーが1本渡してあった。「川岸の道が狭いから、バスの抜け道に利用しているのでしょうね」と私。とはいえ、封鎖されずに残っているだけでもよしとすべきか。

Blog_contour4528
道路に転用された草山隧道 *
Blog_contour4529
(左)南口 *
(右)「草山T(9)(第9号隧道の意)」のプレート *

Blog_contour4530
(左)草山隧道内部 *
  撮影時は工事用車両を通すために柵が開かれ、
  警備員が交通整理していた
(右)北口にもバーが
 

草山隧道を抜けた列車は、すぐに第三武庫川橋梁を渡り、対岸でまた次のトンネルに入っていたはずだ。しかし、両岸に残された橋台が場所を示しているだけで、橋そのものは跡形もない。対岸も森にすっかり覆われ、トンネルのありかを見分けることさえ難しかった。

Blog_contour4531
第三武庫川橋梁の橋台 *
次のトンネルはよく見えない
 

【付記】
新線に切り替えられた武田尾~道場間のうち、残り区間の新旧地形図を掲げておこう。橋梁が撤去され、道路転用もされていないため、旧線跡探索のハードルはかなり高そうだ。

Blog_contour45_map3
武田尾~道場間の現行1:25,000地形図
(2019(令和元)年修正)
Blog_contour45_map4
同 旧線時代の1:25,000地形図
(1972(昭和47)年修正)
 

本稿は、21世紀の武庫川を考える会 編「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」日本機関紙出版センター、2017年 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図武田尾(昭和47年修正および令和元年調製)、宝塚(昭和52年改測および平成29年調製)を使用したものである。

■参考サイト
にしのみや観光協会 https://nishinomiya-kanko.jp/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡
 コンターサークル地図の旅-石の里 大谷
 コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線

 コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡
 コンターサークル地図の旅-淡河疏水

2020年10月27日 (火)

コンターサークル地図の旅-石の里 大谷

朝10時、JR宇都宮駅西口のペデストリアンデッキからバスターミナルの乗り場へ降りると、すでに20人以上が列を作っていた。それも若者が多い。まさかそれほどの人気スポットとは知らなかったから、日曜なのに学校で授業か試験でもあるのか、と勘繰ったほどだ。聞くと、最近またメディアで取り上げられたらしい。私たちが行こうとしている場所は、PVその他の映像作品のロケ地としてもしばしば使われている。

Blog_contour4401
大谷資料館の地下採掘場跡
 

2020年10月4日、コンターサークルSの旅2日目は、その宇都宮市大谷町(おおやまち)を訪ねた。宇都宮駅の北西約8kmにある、建築用石材として名高い大谷石の産地だ。

大谷石とは、今から約1500万年前に火山灰や軽石などの火山噴出物が海底に堆積して凝固した角礫凝灰岩のことだ。気泡が多く含まれるため、比較的軽くて加工しやすく、建材として重宝されてきた。とりわけ大正期、関東大震災に見舞われた東京で、これを使った帝国ホテル本館(下注)が無事だったことから耐火性が評価され、復興需要で一躍その名が広まった。

*注 そのエントランス部分は、愛知県の博物館明治村で移築公開されている。

Blog_contour4402
大谷寺と大谷公園をつなぐ切通し
 

大谷石はこの地域の東西約5km、南北約10kmにわたって分布しており、露天掘りだけでなく、坑内掘りも盛んに行われてきた。現地には、こうした地下の広大な採掘場跡を公開している資料館があり、切り出した石材を運搬していた軌道跡なども残っている。きょうは一日、このユニークな石の里を巡るつもりだ。

Blog_contour44_map1
大谷資料館の位置
(1:200,000 平成22年修正図)
Blog_contour44_map2
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と東武大谷線の位置(緑の破線)等を加筆

集合したのは中西、大出、森さんと私の4名。並んでいた若者たちとともに、10時05分発の大谷・立岩行きに乗り込んだ。バスは中心街を東西に貫く大通りから、大谷街道へと進んでいく。車内はほぼ満席で、ほぼ全員が大谷まで乗り通した。

資料館入口というバス停で下車。姿川が流れる谷間で、両側を屏風のように切り立つ灰色の崖に挟まれている。これも大谷石の露頭だ。バスは空っぽになるし、屋台も出ていて、すっかり著名観光地の様相だが、関東圏に住むメンバーでも、「何かきっかけがないと、ここまで足を延ばすことはないですね」という。ともかく案内標識に従って、山手へ歩いていく。

広い駐車場を通り抜け、急な坂道を上り、谷の奥まったところに、大谷資料館と付属のカフェ・売店があった。ここも昔は露天掘りされていたのだろう。周囲の岩山は直線的かつ複雑な形状に切り出されていて、眺めるだけでも面白い。鉱山の跡というよりもはやアートだ。

Blog_contour4403
(左)資料館入口バス停
  バスは宇都宮LRTのラッピング車だった
(右)大谷資料館正面(2017年撮影)
Blog_contour4404
資料館の周りのアートな岩山
 

資料館1階には、大谷石に関する資料が展示されている。メンバーがめざとく見つけたのが、石材を運搬していた手押しトロッコの復元模型。レールに載せた木枠の車台に、直方体に切り揃えられた本物の大谷石がぎっしりと積まれている。このようなトロッコで採掘場から荷捌きの駅まで移送していたのだ。ふと岐阜県岩村の酒屋で見た横丁鉄道(下注)を思い出した。

*注 酒屋の横丁鉄道については、本ブログ「城下町岩村に鉄路の縁」の末尾で記述。

トロッコ展示の上には、この一帯に張り巡らされていた石材軌道の路線図が掲げてある。実現はしなかったが、滞貨を解消するために、宇都宮駅を起点とする大谷石材鉄道という新線計画もあったという。旺盛な石材需要に乗って、この地域が栄えていたようすが想像できる。

Blog_contour4405
大谷石を運んだ手押しトロッコ
(大谷資料館の展示)
Blog_contour4406
石材軌道の路線図(大谷資料館の展示パネル)
左は開通年、中は廃線年を記載、
右は未成に終わった大谷石材鉄道を解説
 

資料はそれぞれに興味深いのだが、この施設の神髄はまだ別のところにある。右手の入口から降りていく石の階段の先に、にわかに開ける巨大な地下空間だ。それは四角い断面の筒を横倒しにした形で、奥に向かって沈み込むように傾斜している。さらに左右にも同じような筒状空間が延びている。歩き回るにつれ、全体が大谷石の地層の中に掘られたホール状の空洞で、一部を柱として残してあるのだということがわかってくる。

Blog_contour4407
石の階段を下りていくと…
Blog_contour4408
地下採掘場の巨大な空間が開ける
Blog_contour4409
(左)底部から見た入口の階段
(右)成形作業の展示
 

天井はるか高いところに開いている穴は、深さを測った跡だという。一面鑿や鶴嘴の跡が残された壁は、カメラで切り取るとまるで現代美術のようだ。坑内には七色のライトアップが施され、目を引くために野外彫刻のような造形物が配置されている。しかしそれらは味付けに過ぎず、この大空間が放つ荘厳さそのものが、訪れた者に驚きと感動を呼び起こす。

Blog_contour4410
ライトアップされた地下採掘場跡
Blog_contour4411
訪問者がカメラを向けているのは
天井に開いた深度測定用の穴
Blog_contour4412
鑿や鶴嘴の跡は現代美術のよう
Blog_contour4413
開口部から地上の光が差し込む
 

説明板によると、ここは大正時代から60年以上にわたって大谷石を採掘した跡で、間口150m、奥行き140m、深さは平均地下約30m、野球場一つ入る大きさがあるそうだ。そして、見て回れるエリアは実は全体の半分にも満たず、未公開の坑道がまだ奥の暗闇に眠っているのだという。

外の気温は22度あったが、坑内の気温計は13度とかなり涼しい。ジャケットの裾をたぐり寄せながら、この途方もない体積を掘り、搬出した時間と労力に思いを馳せた。朝のバスの混みぐあいや駐車場に櫛比する車の数も、この非凡な体験を得るためだとしたら納得がいく。

Blog_contour4414
(左)坑内気温13度
(右)坑内図
  公開部は薄灰色、
  背後に広大な非公開部(白色、立ち入り禁止と注記)がある

資料館を後にして、さっきのバス停の前にある大谷景観公園で昼食にした。芝生の中に設置された広い木製テーブルが、使ってくださいと言わんばかりに私たちを誘っている。

Blog_contour4415
大谷景観公園
中央のテーブルで昼食タイム
 

昼食後は、大谷寺の前から、平和観音が立つ大谷公園へ抜けた。ここも露天掘りの跡だが、そこに石の山から彫り出したという観音像がある。高さは約27m、尺貫法では88尺8寸8分で、足元から仰ぐとかなりの迫力だ。頭部はていねいに彫られ、裳裾も優美なフォルムを描いているが、「手はどうなってるんでしょうね」と誰かがつぶやく。あまり注目されない部分なので、ラフに仕上げてあるのだろうか。

Blog_contour4416
石の山から彫り出した大谷観音
 

資料館で見たとおり、かつて大谷石は鉄道で運び出されていたので、一帯の鉄道密度はかなり高かった。嚆矢となったのは、1897(明治30)年開業の宇都宮軌道運輸による人車軌道で、1903(明治36)年に日光線の鶴田駅に接続されている。この後、点在する産地に向けて2社が争うように路線を延ばしたが、1907(明治40)年に宇都宮石材軌道に一本化され、さらに1931(昭和6)年に、宇都宮に進出した東武鉄道によって買収された(下注)。

*注 それに伴い、鶴田駅西方の分岐点から東武宇都宮線の西川田駅に接続する新線が建設されている。

東武大谷線の路線網には、軌間610mmの「軌道線」と、同 1067mmの「軽便線」の二つのグループがあった。第二次大戦後、トラック輸送の普及により、前者は1952(昭和27)年に全廃されてしまったが、後者は1964(昭和39)年まで運行されていた。そこで採掘場跡を巡った後は、この大谷線の跡を訪ねる。

Blog_contour44_map3
石材軌道現役時代の1:25,000地形図
(1929(昭和4)年修正図)
 

森さんが、廃線跡の現状について解説した資料を配ってくれた。それに従って、大谷街道を宇都宮の方向へ少し戻る。この街道上にも併用軌道が敷かれていたはずだが、大谷寺西方の三叉路付近に、軌道線大谷駅跡が空地として残されているだけだ。

県道70号(宇都宮今市線)の大谷交差点からさらに東へ進むと、道路の南側に、軽便線の荒針(あらはり)駅跡である広大な敷地が見えてきた。ロードサイドの商業地区に再生され、奥はパチンコ店の駐車場に使われている。

線路はまもなく大谷街道から離れ、一路南へ向かっていた。だが、鹿沼街道との交差点までは、明保(めいほ)通りとして拡張整備されており、痕跡は消失している。それで、荒針分岐点から北上していた立岩(たていわ)支線跡に足を向けた。

Blog_contour4417
東武大谷線跡
(左)荒針分岐点から南は明保通りに転換
(右)北は小道になって続く
 

こちらは車1台通れる程度の小道のままで、まだしも鉄道の雰囲気を残している。右手から近づいてくる2車線道と接する地点に、「東武鉄道株式会社社有地」と記された杭が2本立っていた。簡易舗装された歩道に見えるので、社有地とは意外だった。処分しない理由があるのか、あるいはどこも引き取ってくれなかったのか。いずれにしても廃線跡を示す決定的証拠には違いない。

すぐに瓦作(かわらさく)駅の跡がある。片側が森に接したやや幅広の敷地に、大谷石のベンチらしきものが置かれている。その先は通学路に使われていたようで、車道との交差点に「止まれ」の標識やロードサインが見られた。しかしかなり古びていて、もう利用されていないのかもしれない。

Blog_contour4418
(左)道端に立つ東武社有地標
(右)瓦作駅跡
Blog_contour4419
(左)瓦作駅北方の、枕木を再利用した柵
(右)田んぼの中を延びる廃線跡
 

車道と分かれ、線路跡の道は田んぼの中を心細げに延びる。終点の立岩駅跡は児童公園に変貌していたが、ここでも同じ社有地標を発見した。

立岩支線は、先ほどの荒針分岐点からここまで2.1kmの短い貨物専用線だった。レールこそ取り払われてしまったが、それを除けば、ここにゴトゴトと無蓋貨車を牽いて列車がやってきてもおかしくない。そう思わせる、時が止まったような廃線跡だ。

Blog_contour4420
(左)終点立岩駅跡は児童公園に
(右)ここにも社有地標が
 

立岩には、朝乗ってきた路線バスの終点がある。帰りのバスも混むだろうから、始発から乗るにこしたことはない。運転手は「折り返しまでまだ時間があるので、乗って待っていてください」と私たちに言って、休憩に出ていった。村はずれの、ベンチもない停留所だったので、疲れた足にはありがたかった。

Blog_contour4421
帰りは立岩バス停から
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図大谷(昭和4年修正測図)、宇都宮西部(昭和4年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大谷(平成29年調製)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
Oya, Stone City https://oya-official.jp/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡
 コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡
 コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線

 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年あまり、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことと、「三密」になりにくい外歩きであることも考慮して、企画の再開に踏み切った。

Blog_contour4301
花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身の下野(しもつけ)電気鉄道によって、1924(大正13)年にまず高徳(のちの新高徳)~天頂間が、762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸され、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

Blog_contour43_map1
矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
「下野電鐵」の注記がある
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

Blog_contour4302
矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

Blog_contour4303
矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
Blog_contour43_map2
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
Blog_contour43_map7
矢板線現役時代の地形図(1929(昭和4)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

Blog_contour4304
水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

Blog_contour4305

実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

Blog_contour4306
(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左の画面外にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
Blog_contour43_map3
1:25,000 合会集落~玉生間
Blog_contour43_map8
矢板線現役時代
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

Blog_contour4307
(左)タクシーを降りた場所
  左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
Blog_contour4308
(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡をなぞる林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

Blog_contour4309
(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

Blog_contour4310
(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

Blog_contour4311
林道の左の深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
Blog_contour43_map12
(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年修正図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

Blog_contour4312
(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

Blog_contour4313
立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りる。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

Blog_contour4314
(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
Blog_contour4315
荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし今やそのバス路線も、自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずまずの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

Blog_contour4316
高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。とは言え、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

Blog_contour4317
玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

Blog_contour4318
(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

Blog_contour4319
地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
Blog_contour4320
地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
Blog_contour43_map4
1:25,000 玉生~船生間
Blog_contour43_map9
矢板線現役時代
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

Blog_contour4321
芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

Blog_contour4322
芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

Blog_contour4323
芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

Blog_contour4324
(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

Blog_contour4325
船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
Blog_contour43_map5
1:25,000 船生~西船生間
Blog_contour43_map10
矢板線現役時代
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

Blog_contour4325
船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
Blog_contour4326
道の駅に併設の交流館
Blog_contour4327
交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう(下注)。

*注 読者の方から、矢板線の高徳~天頂間開業時には「船生新田」駅が存在しており、当時の資料から1929年10月22日の矢板延伸開業および1067mm改軌の際に廃止されたと考えられる、というご指摘をいただいた(下のコメント欄参照)。使用した1:50,000地形図は矢板延伸開業と同じ1929年の修正図だが、同時に存在しないはずの矢板延伸線と船生新田駅がともに描かれており、時間関係があいまいだ。
また、西船生駅が表示されていないのは、開設が修正年より後の1930年6月10日だからだと思われる(地形図の発行日は1932年6月30日なので追加修正は可能だっただろうが…)。

Blog_contour4328
船生~西船生間は一本道の農道が続く
Blog_contour4329
(左)西船生駅跡
(右)園バスと間違えそうな新高徳行き路線バス
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

Blog_contour43_map6
1:25,000 西船生~新高徳駅間
Blog_contour43_map11
矢板線現役時代
(1933(昭和8)鉄道補入図、右側は1929(昭和4)年修正図)
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-三田用水跡
 コンターサークル地図の旅-石の里 大谷
 コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡
 コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線

 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

2019年12月16日 (月)

コンターサークル地図の旅-三田用水跡

東京はその日一日、雨模様だった。ひどくはないものの、上着のフードだけでは濡れ鼠になるような降り方だ。加えて時おり強い風が街路を吹き抜けて、広げた傘を大きくゆさぶった。

2019年11月23日、コンターサークル秋の旅の3回目は、京王線の笹塚(ささづか)駅改札前に集合する。参加したのは、今尾、中西、大出、木下さん親子、木下さんの友人のKさん、そして私の大6、小1、計7名。こんな日でも厭わず集まるのは、雨なら雨のおもむきがある(下注)というサークルの創始者、堀淳一さんの考え方、いわば「堀イズム」がメンバーに浸透している証しだろう。

*注 「私の「地図歩き」は全天候型の旅で、雨が降っても風が吹いても濃霧がかかっていても、かまわずに歩きます(中略)。雨なら雨の、風なら風の、霧なら霧の、晴れた日には味わえないそれぞれの味わい--晴れた日よりもむしろ深い、陰翳に富んだおもむき--があるからです。」(堀淳一「消えた街道・鉄道を歩く地図の旅」講談社+α新書、2003年、p.21)

Blog_contour4201
(左)雨をついて笹塚駅に入る京王線の電車
(右)笹塚駅10時集合
 

本日のテーマは、江戸の六上水、すなわち6本の上水道の一つであった三田(みた)用水だ。下北沢村(現在の世田谷区北沢五丁目)で玉川上水から分水され、およそ南東方向に三田方面まで延びていたので、その名がある。

1664(寛文4)年に飲用水を取るために開かれたが、1722(享保7)年にいったん廃止、2年後に灌漑用水として再開されている。明治に入ると、火薬やビール製造など工業用水としても利用され始め、次第にその比重が増していった。しかし、都市化の進行で農地が縮小し、工場も上水道に切り替えたことから、1974(昭和49)年に取水が中止され、300年の幕を閉じた。

用水が通っていたのは武蔵野台地の末端、目黒川の谷と渋谷川(および支流の宇田川)の谷を隔てる台地(淀橋台南部)の上だ。分水口から南下した水路は、駒場東大の北側を通り、山手通り、旧山手通り、防衛省用地を経て、目黒駅前に至る。ここで東へ転じて、目黒通りから桜田通りのほうへ進み、後は暗渠となって、旧道(二本榎通り)の下を三田へ流れ下っていた。

Blog_contour42_map1a
1:25,000地形図と陰影起伏図に歩いたルート(赤)と水路の位置(青の破線)等を加筆
笹塚~代官山間
Blog_contour42_map1b
代官山~高輪台間
図中の水路の位置は、旧版1万分1地形図中野、世田谷、三田、品川の各図幅を参照した
 

機能停止の後、跡地は宅地や道路に転用されてしまったので、もはや水路の形では残っていない。しかし、ルートに沿って街路をたどれば、住宅や空地が線状に並んでいる個所がある。用水の記念碑や、かろうじて撤去を免れた道端の遺構も見つかる。そうした痕跡を訪ね歩くうちに、なみなみと水を運んでいた水路のさまが見えるような気がするから不思議だ。

私たちは、用水が桜田通りと出会う都営浅草線高輪台駅をゴールに見据えて、笹塚駅を出発した。今尾さんの案内で進む。玉川上水に沿って南へ200m、笹塚橋のすぐ下手に、三田用水の分水口があった。もちろん水路の分岐は現存せず、上水の西側の用地が三角形に膨らんでいるので、それとわかるだけだ。

Blog_contour4202
三田用水分水口
(左)右奥の三角形の敷地がその跡
(右)分水口から上流を望む
 

「ここからしばらく玉川上水と並走していたんですが、宅地に取り込まれてしまってます」と今尾さん。早くも目標喪失だが、玉川上水の緑道をそのまま歩いて、都道420号(中野通り)と井の頭通りが交わる大山交差点に出た。

そこから南は道路の拡幅工事中で、とぎれとぎれの歩道を伝っていかねばならない。進行方向右側に細長い宅地の列が沿っているから、おそらくこれが用水跡なのだろう。小田急の地下化された東北沢駅を左に見て、少し行くと三角橋交差点だ。川のない台地上にも橋のつく地名があるのは、用水が通っていたからに他ならない。

航研通りに入り、しばらく東へ進む。東大生産技術研究所のいかめしい門の前から200mほどで、用水跡は一つ北の小道に引っ込む。そして再び大通りと合流するところに、二ツ橋と記されたバス停標識が立っていた。これも橋の名だ。東大教養学部(駒場地区キャンパス)の裏手で、地震が来たら危なそうな高いブロック塀が続いている。

Blog_contour4203
(左)三角橋交差点(別の日に撮影)
(右)二ツ橋バス停
 

ほどなく山手通りの広い空間に出た。道路の中央に、巨大な塔が3本突っ立っているのが目につく。首都高速の山手トンネルの換気塔だ。歩道と東大の敷地との間に細長い敷地が延びていて、商業ビルや駐車場に使われている。これも用水跡だなと思って歩いていくうち、歩道より一段高いコンクリートの構造物が露出しているのに気づいた。用水跡歩きのウェブサイトで見た覚えがある。「これって痕跡ですよね」。取っ手付きの点検蓋もあるが、周辺に謂れを記したものとてなく、果たしていつまで残るだろうか。

Blog_contour4204
山手通り
(左)歩道脇に露出する構造物
(右)点検蓋や分水口も残る
 

間もなく、用水跡はビル裏の路地に入ってしまう。そちらに回ると、同じような帯状の敷地に、建物が窮屈そうに整列していた。山手通りのそれといい、土地がもつ記憶は容易に消えるものではない。京王井の頭線をまたいでまもなく、曲がってきた山手通りにぶつかる。ところが、渡れる横断歩道がなく、松濤二丁目の交差点までかなり迂回を強いられた。

神泉町から代官山にかけては台地の開析が進んでおり、用水跡は稜線、すなわち馬の背のような場所を通っている。そのため、交差する道は左右どちらも下り坂だ。とりわけ西の目黒川の谷壁は急斜面で、坂道は険しく、階段道さえ見られる。また、稜線は、河川と並んでしばしば行政界として用いられるので、用水跡が渋谷区と世田谷区、目黒区との境界に沿っているのも偶然ではない。

Blog_contour4205
(左)帯状の敷地に建つ建物の列
(右)目黒川の谷に降りていく階段道
 

「ルートから少しそれますが、記念碑がありますよ」と誘われたので、そちらに向かう。山手通りに面したマンションの植え込みの中に、細身の石碑が立っていた。傍らの説明板によれば、渋谷道玄坂から調布へ向かう古道「滝坂道」が用水を渡る場所に、かつて石橋が架かっていた。碑も本来そこにあったもので、近隣十三か村の住民が堅牢な石橋に感謝して建立したものと推測されるという。

Blog_contour4206
青葉台四丁目の石橋供養塔碑
 

そのうちに正午を回ったので、神泉町交差点の中華料理店に入った。テーブルではいつもの鉄道話で盛り上がる。初参加のKさんが、「みなさん鉄道にお詳しいんですね」と驚く。「地図のサークルなんですが、なぜか鉄道ファンが多いんです」と私が言うと、「地図と鉄道はいろいろと関係してますからね」と今尾さんがフォローしてくれた。

食事後は、再び用水跡の細い裏通りを歩いていく。裏通りといっても場所が場所だから、両側には目を見張るような豪邸の長い塀が続いている。まもなく西郷山公園の緑が見えてきた。西郷隆盛の弟従道(つぐみち)の別邸だったところだ。晴れていれば目黒川の谷を一望できるのだが、今日は雨に煙っている。だが、このしっとりした情景も悪くない。

Blog_contour4207
西郷山公園、紅葉の広場も雨に煙る
 

西郷橋からは旧山手通りに出た。ご存じの蔦屋書店をはじめ、おしゃれな店が軒を連ねる地区で、お上りさんの私は目を丸くしながら歩くのみだ。考えてみれば、この代官山といい、これから行く白金台といい、三田用水はセレブなエリアを貫いている。工業用水の比率が高まると、汚染を嫌って、水路は昭和の初めにほとんど暗渠化されてしまった(下注)が、そうでなければ、玉川上水のような木陰の散歩道に転換できていたかもしれないと思う。

*注 昭和10年代の1万分1地形図では、恵比寿のビール工場より上流で開渠のまま残されているのは、鎗ヶ崎交差点~火薬製造所間のみ。

Blog_contour4208
旧山手通り
(左)西郷橋を渡る
(右)用水があればこの歩道も水辺の散歩道になったかも
 

残念なことに、用水の追跡は、駒沢通りと交わる鎗ヶ崎(やりがさき)交差点で中断される。この先は水路に沿う道がなく、さらに防衛装備庁艦艇装備研究所の用地に入っていくためだ。「跡をたどれないので迂回します」と今尾さん。

私も、歩く区間の地理院地図を印刷してきているのだが、インクジェットのため、雨でにじんで、もはや細部が消えつつある。その点、今尾さんはスマホで、何と東京時層地図のアプリを仕込んでいた。にじむ心配がないどころか、旧版地形図を時代ごとに比較できるから、遺跡探索には強力なツールだ。

途中、研究所内の長大水槽を覆う建屋をフェンス外から眺めることで、この区間の探索に代えて、新茶屋坂に出た。道路が、長さ約10mのトンネルで用水の下を抜けていたという場所だ。しかし、道路の拡幅に伴い、トンネルは2003年に撤去され、今は南側の歩道脇に、銘板と記念碑だけが残されている。

Blog_contour4209
隧道があった新茶屋坂通りの掘割
右端に記念碑がある(別の日に撮影)
Blog_contour4210
茶屋坂隧道記念碑、右はその拡大
 

新茶屋坂の南側から、再び用水跡の小道が始まった。目黒三田通りとは薄い角度で交差するが、その交差点前にある日の丸自動車教習所の前を通り過ぎようとしたとき、大出さんが次の記念碑を目ざとく見つけた。丸石が2個埋められ、後ろにずばり「三田用水跡」と題した説明板がある。それによれば、この石は用水の木樋を支えていた礎石だそうだ。

「ビール工場の原料水にも用いられたと書いてありますよ」。今はガーデンプレイスになっているサッポロビール(旧 日本麦酒)恵比寿工場のことだ。「それだけ用水の水質が良かったということですね」と感心する。

Blog_contour4211
日の丸自動車教習所前の記念碑
 

山手貨物線で3か所しかない踏切の一つという長者丸踏切や、切通しに優雅なアーチを架ける白金参道橋で、マニアックな関心を満たした後、目黒駅前の陸橋で山手線を渡った。用水跡は目黒通りの南を走っているのだが、それに沿う道が寸断されているため、私たちは目黒通りを直進した。

Blog_contour4212
長者丸踏切
(左)山手線と貨物線の交差地点
(右)目黒駅方に白金参道橋のアーチが見える
 

白金台三丁目には、遺構がいくつかある。一つ目は今里橋の跡だ。白金台幼稚園の手前で小道が用水を渡っていた場所で、橋の欄干が片側だけ、道端に半ば埋もれた形で残っている。側面に回ると、水道管もいっしょに水路をまたいでいた。なるほどこれがあるために、欄干は撤去されずに済んだのだ。

Blog_contour4213
今里橋の欄干
(左)後ろの建物は用水跡に建つ
(右)用水をまたいでいた水道管
 

そこから南へ向かうと、公園沿いの小道で水路跡が歩道代わりとされ、小橋の跡もしっかり残っている。おもしろいのはその先で、鞍部を横断するため、用水は築堤上に通されていた。マンション建設で築堤は取り崩されたものの、付け根部分の水路断面が保存されているのだ。傍らに「三田用水路跡」の案内板も立っている。流路の末端に近いので、断面は側溝ほどのサイズしかないが、水路の現物が見られるのはここが唯一だろう。そしてこれより下流に、もはや遺構はないらしい。

Blog_contour4214
白金台三丁目に保存された水路断面
 

私たちは今里地蔵のお堂を経て、地下鉄の高輪台駅まで最後の区間を歩き通した。笹塚駅からここまでおよそ8.5km、いつしか雨も小止みになっている。

小学生のキリ君もまた、雨合羽姿でこの長い距離をついてきた。持っているゲーム機には歩数計の機能が搭載されているらしく、「さっき1万歩だったから、次はもう2万歩になるよ」と大人たちに盛んにアピールしながら。

Blog_contour4215
キリくん、沿道の手押しポンプに挑戦
 

掲載の地図は、地理院地図を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡
 コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸
 コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

 コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

2019年12月10日 (火)

コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸

2019年11月4日、コンターサークルS秋の旅2日目は、広島県呉市の、音戸の瀬戸(おんどのせと)を訪れた。

音戸の瀬戸(下注)というのは、本土と倉橋島の間にある長さ約1kmの海峡のことだ。ここは瀬戸内東部から呉や広島の港へ向かう最短ルートに当たっており、船の往来が多い。ところが幅が約80mと狭いため潮流が速く、潮の干満に従って方向も周期的に変わる。さらに航路自体も南側で大きく湾曲しており、航行する船にとっては難所になっている。

*注 地形図では「音戸ノ瀬戸」と表記。

今回は、この特徴的な海峡を、まず高台から展望し、その後、今なお残る渡船や、瀬戸を一跨ぎしている橋を使って、立体的に体感してみたいと思っている。

Blog_contour4101
高烏台から音戸の瀬戸を遠望

曇り空に終始した前日とは一転して、この日は穏やかな秋晴れになった。降り注ぐ朝の日差しが目に眩しい。山陽本線糸崎駅始発の普通列車に乗って、現地へ向かう。列車は三原から呉線に入り、瀬戸内ののどかな海岸線をなぞっていく。車両は、真新しい227系レッドウィングの3両編成。日曜日は通学生がいないから、車内はガラガラだ。

窓に広がる海景は申し分ないのだが、山が海に迫る崖際を通過するたびに、時速25kmの速度制限がかかる。そのためか糸崎~呉間に2時間を要し、中国山地のローカル線と変わらない鈍速ダイヤだ。山陽本線の電車なら、同じ時間で広島どころか宮島口も通過してしまう。これではせっかく投入された新鋭車両も泣いていることだろう。

Blog_contour4102
(左)227系レッドウィング、呉駅にて撮影
(右)呉線、朝の車窓
 

それはさておき、広(ひろ)駅で同じレッドウィングに乗り換えて、呉駅には10時14分に着いた。改札を出て見回してみたが、案の定メンバーの姿はない。事前に出欠を確かめることはせず、当日指定の場所・時刻に来た人だけで出かけるのが、このサークルの流儀だ。昨日の参加者の反応から、単独行になるだろうと予想していたが、そのとおりだった。

駅前から、一人で鍋桟橋(なべさんばし)行きの広電バスに乗る。長崎や神戸と同様、呉の市街地は狭い平地に収まりきらず、山手に拡大してきた。呉湾の東側、休山(やすみやま)の麓もそうで、住宅地が急斜面を這い上がっている。バスが行くのは、その宮原地内を貫く片側1車線の市道だ。見通しの悪いカーブとアップダウンが連続し、車酔いしそうになる。

Blog_contour41_map1
音戸の瀬戸周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

警固屋(けごや)4丁目の停留所でバスを降りた。ここから歩いて、高烏台(たかがらすだい)という展望台へ行くつもりだ。高烏台へは音戸大橋のたもとから車道をたどるのが一般的な道順だが、地図に、的場五丁目の森添神社から上る小道が描かれている。復路は車道にするとして、往路はこの未知のルートに挑戦したい。

Blog_contour4103
(左)呉駅前から広電バスに乗る
(右)警固屋4丁目下車
 

実際に行ってみると、かなり急な坂道だったが、家並みが続く間は問題なく歩けた。しかし神社を過ぎたとたん、落ち葉散り敷く山道に変わり、まもなく丈の高い雑草や枯れ枝に埋もれて、道の体をなさなくなった。5年前の広島豪雨の爪痕だろうか、路面が完全に崩落し、崖っぷちを恐る恐る渡らなければならない個所さえある。

路面はコンクリート舗装で整備されていたことがわかるのだが、誰も通らなくなり、時間の経過とともにすっかり荒廃してしまったようだ。まとわりつく蜘蛛の巣を払い、藪漕ぎでひっつき虫だらけになりながら、なんとか車道までたどり着いた。

Blog_contour4104
(左)集落を縫う坂道
(右)路面崩落個所
 

しかし苦闘の甲斐あって、標高216mの高烏台からの景色は文句なしにすばらしかった。西側では音戸の瀬戸をまたぐ2本の赤いアーチ橋を点景に、倉橋島から江田島にかけての島並みが一望になる。方や東には安芸灘が広がり、海原のかなたに四国の山々が浮かんでいる。

Blog_contour4106
瀬戸をまたぐ2本のアーチ橋
Blog_contour4107
高烏台から安芸灘方面の眺望
 

音戸の瀬戸には、平清盛が開削したという伝説がある。完成を前にして日暮れてきたため、沈む夕日を金の扇で招き返して、工事を続行させたのだそうだ。高烏台には音戸の瀬戸のほうを向き、右手で扇を差す清盛の立像、いわゆる日招き像が据えられている。その足跡と杖の跡が残るという日招き岩も近くにあるのだが、道が通行止めになっていた。豪雨災害の影響かもしれない。

Blog_contour4108
(左)清盛の日招き像
(右)展望台は砲台跡にある
 

昼食休憩の後、今度は車道を降りていった。歩道はないが、車はたまにしか通らないから、安心して歩ける。途中から見晴集落の中の細道を経由した。中腹の急な斜面に張りつく集落で、海の眺めは地名どおりだ。その入口に見晴町というバス停もあった(下注)。

*注 バス停の下段にも展望公園があるが、高烏台と同方向、かつ低位置の展望になるので今回は立ち寄っていない。

Blog_contour4109
(左)見晴町バス停
(右)音戸の瀬戸公園、吉川英治文学碑
 

さらに下り、音戸の瀬戸公園の展望ポイントへ向かう。正式な「音戸の瀬戸公園」の範囲は広く、高烏台も含むようだが、目指したのは、つつじの名所として知られる、音戸大橋近くの「公園」だ。突端にある吉川英治文学碑が立つ地点から、際立つ朱色の2本の橋が左右に望める。距離が近いので、そのスケールが、家並みや瀬戸を通る船などとの比較でよくわかる。

Blog_contour4105
音戸の瀬戸公園全体図
 

ここで、改めて橋の諸元を記しておこう。左側の音戸大橋(以下、第一大橋という)は、1961(昭和36)年に供用されたアーチ橋(構造的にはランガー橋)だ。全長172m、主径間長115m、桁下高23.5m。本土と瀬戸内の島を結んだ最初の橋で、開通当時は夢のかけ橋と呼ばれ、観光名所になった。アプローチに必要な土地が狭いため、本土側は山を削り複雑な形のループで、また倉橋島側は2回転半の高架ループで、それぞれ高度を稼いでいるのが特徴だ。

Blog_contour4110
音戸大橋と高架ループ
 

これに対して、右側の第二音戸大橋は、国道487号警固屋音戸バイパスの一部として、2013(平成25)年に開通したアーチ橋(同 ニールセン・ローゼ橋)だ。瀬戸の幅が広いところに架橋されているため、全長492m、主径間長280m、桁下高39mの規模をもつ。設計4車線のところ、暫定2車線。第一大橋にはない歩道が設置されているので、自転車や徒歩でも安全に渡ることができる。

Blog_contour4111
一回り大きい第二音戸大橋
 

さて、2本の橋の下を船が通過するのどかな景色を眺めた後は、楽しみにしていた音戸の瀬戸の横断に出かけた。まずは船で対岸の倉橋島に渡ろう。橋を経由すると極端な迂回になるため、市の補助により昔ながらの渡し船が残されているのだ。公園のある高台から急な階段道を降りていくと、道路の向こうに「音戸渡船」と妻面に記した渡し場の小屋が見つかる。

Blog_contour4112
音戸渡船の本土側渡し場
 

この渡船がユニークなのは、オンデマンド運航であることだ。乗り場の立札にこう書いてある。「時刻表はありません。桟橋に出て渡船に乗ってください。一人でも運航します。渡船が向こう側にいるときは桟橋に出ていれば、すぐに迎えに来てくれます」。

距離約90m(立札では120m)、所要3分の日本一短いと言われる定期航路で、運賃は大人100円、小人50円、自転車込みで150円だ。ほかに客はおらず、小屋にも人影がないので、遠慮なく桟橋を渡っていく。すると、停船していた小型船の操舵室から船頭さんが出てきて、運賃を回収し、すぐに艫綱を解き始めた。

Blog_contour4113
渡し場前の立札
 

船はまず第二大橋のほうへ出ていく。そこで半回転し、次に第一大橋を前方左に見ながら瀬戸を横断し、再び半回転した。こうしてS字形に進んで、対岸に到達する。その間にも旅客船や漁船が通過するので、それらを避けながらの操船なのだが、手慣れたものだ。航路は2本の橋の中間にあるので、高台からの俯瞰とは異なり、橋のアーチを下から仰ぎ見る形になる。高さや広がりが強調されて、たとえてみれば空に架かる虹のイメージだ。船上ならではの体験だろう。

Blog_contour4114
待合小屋を抜けて桟橋へ
Blog_contour4115
艫綱を解いて出航
Blog_contour4116
(左)音戸大橋を仰ぎ見る
(右)対岸の桟橋に到着(下船後撮影)
Blog_contour4117
倉橋島(音戸町)側渡し場
 

船頭さんにお礼を言って、陸に上がった。護岸に沿って音戸町(現在は呉市音戸町)の集落が延びている。まずは第一大橋のたもとにある清盛塚を見に行く。海中の岩礁に築かれているので中には入れないが、南側に見学用の突堤が造られていた。若い松が潮風に耐えて勢いよく枝を伸ばしている。ここから見える、第一大橋の下に第二大橋が覗く構図もおもしろい。

Blog_contour4118
(左)音戸大橋入口には、2回転半の注意標識が
(右)清盛塚
Blog_contour4119
第一大橋の下に第二大橋が覗く
 

渡し場から家並みを縫う旧道沿いに入ると、虫籠窓をもつ豪壮な商家が3軒連なっていた。普通車がやっとの狭い道に不釣り合いな大きさなので、余計に目を引く。カフェを開いている呉服屋のほかは廃業して久しいようだが、本土との往来を渡船に頼っていた時代、この細道はどんなにか賑わったことだろう。

Blog_contour4120
(左)旧道沿いに商家が連なる
 

家並みが途切れる第二大橋の直下から、急坂の小道を上る。黒権現という小さな祠を経て、なおも行くと、第二大橋のたもとに造られた展望台に出た。日招き広場という名のとおり、ここは北から西にかけての展望が開ける。右手前にかつての海軍工廠、今は日新製鋼製鉄所の赤茶けた建物や煙突群、その後ろは呉市街だ。左の江田島との間、湾の最奥部には、山並みを背にして広島の市街地も遠望できる。

Blog_contour4121
(左)日招き広場
(右)国道をまたぐ「第三音戸大橋」
Blog_contour4122
日招き広場からの眺望
湾の最奥部に広島市街が見える
 

第一大橋がある南側も見ようと、国道を横断する歩道橋を渡った。アーチの飾りがついた歩道橋は、「第三音戸大橋」のあだ名があるそうだ。第二大橋の下り車線(倉橋島方面行き)に併設された歩道の途中からは、第一大橋の側面形を、あたかもカタログ写真のように鑑賞できる。午前中から音戸大橋をさんざん見てきたが、その締めくくりにふさわしい眺めだ。

ちなみに、第二大橋は片側2車線が未完成で、そのためか下り車線の歩道は橋の真ん中で行き止まりになっている。本土へ渡るには、上り車線(本土方面行き)の歩道に迂回しなければならず、少々面倒だ。しかし、足もとに潜り込んでいく船を見下ろしながら、潮風に吹かれての空中散歩は特別な感覚だった。

Blog_contour4123
(左)暫定2車線供用の第二音戸大橋
(右)海峡の上を空中散歩
Blog_contour4124
第二音戸大橋から音戸大橋を眺望
 

秋の陽は早や傾きかけている。小道を降りたところにある警固屋中学校前が、本日のゴールだ。心地よい疲労感に包まれて呉駅に戻るべく、ちょうどやってきた鍋桟橋行きのバスに乗り込んだ(下注)。

*注 2019年10月1日からこのエリアでは、広電バスから呉市のコミュニティバス(呉市生活バス)へ路線移管が行われた。広電バスの時刻表では鍋桟橋以遠の運行本数が極端に少なく見えるが、代わりに上記の生活バスが走っており、例えば呉駅前~音戸渡船口間は、鍋桟橋乗継ぎにより1時間に1~2本程度が確保されている。
時刻表は、呉市-公共交通機関 https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/28/koutu.html にある。音戸渡船口のバス停を通るのは、広島電鉄「呉倉橋島線」および 生活バス「阿賀音戸の瀬戸線」。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図呉(平成28年5月調製)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪
 コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡
 コンターサークル地図の旅-三田用水跡

より以前の記事一覧

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

BLOG PARTS

無料ブログはココログ