コンターサークル-S

2025年11月19日 (水)

コンターサークル地図の旅-京戸川扇状地と大日影トンネル遊歩道

2025年秋のコンター旅、最終日の舞台は山梨県の甲府盆地だ。西麓にある典型地形、京戸川(きょうどがわ)扇状地と、中央本線の旧線跡を活用した大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道を、徒歩で訪ねる。

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大日影トンネル西口
遊歩道になった旧線と現行線を行くE353系電車

バスタ新宿8時35分発の甲府行き高速バスに乗り、中央道笹子トンネルを抜けて最初のパーキングエリア(PA)、釈迦堂のバス停で下車した。本日の参加者は大出さんと私。地図に見られるとおり、このPAは京戸川扇状地の扇央部に位置している。

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(左)高速バスで中央道を西へ
(右)京戸川扇状地から東望
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図1 京戸川扇状地と大日影トンネル周辺の1:200,000地勢図
1980(昭和55)年編集
 

細かな雨が降るなか、まず訪ねたのは山手に建てられた釈迦堂遺跡博物館だ。中央道建設の際に出土した遺物を保管展示している施設で、下りPAから階段を上がってすぐのところにある。2階の常設展示室に入ると、みごとな流線形の縄文土器やおびただしい数の土偶片が、展示ケースの中でスポットライトを浴びていた。

もらったリーフレットによれば、重要文化財の指定を受けた所蔵品が5599点もあるそうだ。どうしてこの場所に集落が、と疑問もわくが、縄文時代は狩猟や採集で生活していたので、平地より山に近い場所にあったのだ。乾燥地で高木が育ちにくく、見通しがきくのがよかったのかもしれない。

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(左)釈迦堂遺跡博物館
(右)おびただしい出土品が並ぶ常設展示室
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(左)縄文中期の水煙文土器
(右)すずちゃんの名がある土偶
 

博物館を出た後は、ブドウ棚やモモの畑が広がる斜面の小道を上っていった。京戸川扇状地は、御坂(みさか)山地の一角、達沢山(たつざわやま)を源流とする京戸川がつくった地形だ。地理の教科書で典型地形として紹介されてきたので、なじみがある。

扇状地は、河川によって山から運ばれてきた土砂が、平地に扇の形に堆積した地形だ。ここに限らず山麓にはよく見られるものだが、あえて京戸川が選ばれる理由は、いくつかあるだろう。

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ブドウやモモの畑が広がる京戸川扇状地
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
  釈迦堂PA~勝沼堰堤間
 

一つは、扇の差し渡しが2.5km程度とコンパクトなことだ。1:50,000地形図では5cmで表せるから、挿図で使うのに好都合だ。さらに勾配が10%前後と急なため、等高線が比較的密で読み取りやすいし、果樹園に利用されているから、水はけがいいという土地の特性もつかめる。緩曲線で横断していく中央道ですら、扇状地の輪郭を強調する仕掛けに見えなくもない。

扇央部の2車線道まで上ると、視点が高くなり、はるか麓まで果樹園が広がる様子がよくわかった。桃の花が咲く季節には、あたかも桃源郷のようになるらしい。甲府盆地の眺めもいいはずだが、あいにく雨模様で遠方はかすんでしまっている。

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色づくブドウ畑、甲府盆地は小雨に煙る
 

それから畑の中の2車線道を東へ向かった。しばらく行くと道は下りになり、中央道をまたいでなおも降りていく。県道白井甲州線から、近道になる国道20号(勝沼バイパス)の側道を伝い、田舎道の太郎橋で日川(ひかわ/にっかわ)を渡った。

山手を仰ぐと、大善寺の立派な楼門がある。鎌倉時代後期、1306年の竣工という国宝の薬師堂を拝もうと、ほんのり色づき始めたモミジを眺めながら、長い石段を上った。高台にある境内の正面にどっしり据わるお堂がそれだ。檜皮葺の大屋根が雨に濡れて、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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大善寺
(左)楼門 (右)長い石段を上る
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国宝の薬師堂
 

続いて、近くにある勝沼堰堤へ足を向けた。1917(大正6)年に完成した砂防ダムで、日川の蛇行部を積石で閉じ、流路を直線化したものだ。水は岩盤を均して造られた越流部から落下していく。水量が少ないのか、写真で見るのと違って流れが左側に偏っているが、響き渡る音は祇園の滝という別名に恥じない迫力だ。周囲に歩道や階段が整備されているので、さまざまな方向から観察することができた。

公園のあずまやで、山を彩る紅葉をめでながら昼食休憩をとる。いっとき雨脚が強まったので、雨宿りもできて助かった。

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堰堤の越流部「祇園の滝」
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勝沼堰堤全景
左が蛇行部を閉じた堰堤、右の木の後ろに越流部がある

午後は国道20号からそれて、日川の支流、深沢川の谷を遡る車道をまた上る。しばらく行くと分かれ道があり、まもなく目的地が見えてきた。そこは中央本線の深沢トンネルと大日影トンネルに挟まれた谷間で、線路がつかの間、地上に顔を出していた区間だ。

2本のトンネルを含む初鹿野(はじかの、現 甲斐大和)~塩山(えんざん)間は、1903(明治36)年に開業した(下注)。長い間、単線で運用されていて、複線化されたのは実に65年後の1968年のことだ。このとき新トンネルが上り線とされ、明治のトンネルは下り線になった。

*注 この間にある勝沼(現 勝沼ぶどう郷)駅は、遅れて1913(大正2)年の開業。

その後1997年に、新深沢第二、新大日影第二の両トンネルを含む新しい下り線が建設されたことで、明治のトンネルは運用廃止となった。

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深沢川の谷間を横断する旧線跡
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図3 同 勝沼堰堤~勝沼ぶどう郷駅間
 

地元自治体に譲渡された廃線跡のうち、東側の深沢トンネルは、特産品であるワインの貯蔵施設「勝沼トンネルワインカーヴ」に転用された。案内板によると、年間を通じて内部の気温は12~13度、湿度は45~65%に保たれていて、ワインの熟成には最適な条件なのだそうだ。

入口は常時鉄扉で閉鎖されているが、日中の時間帯なら一般客も扉を開けて入ることができる。今日は外も肌寒いからそれほど気温差を感じないが、夏なら格段に涼しいだろう。立入禁止のロープを張った位置まで進むと、ワインが眠る棚が奥までずらりと並んでいた。

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勝沼トンネルワインカーヴ
(左)閉鎖された入口 (右)ワイン棚が並ぶ内部
 

一方、西側の大日影トンネルは、2007年に「大日影トンネル遊歩道」として公開された。トンネルの全長は1367.80m、この長さで歩行者専用というのは、全国でも最長級に違いない。その後、躯体の老朽化に伴い、改修工事による二度の中断があり、昨年(2024年)3月にようやく通行が再開されたばかりだ。

遊歩道はワインカーヴの管理事務所前から始まり、深沢川をトラスの鉄橋で渡った後、大日影トンネルの中へと続いている。内部は一直線で、甲府方へ25‰の下り勾配だ。内壁は煉瓦のイギリス積みで、補強のためか、一部で腰部に切石を使った個所があった。

線路は、現役当時のまま残されている。まくらぎがPC製なのは少し意外だったが、特急も通る幹線で、廃止されたのが比較的最近だから、ありうることだ。歩きやすいように、線路の両サイドにコンクリートの通路が設けられている。

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大日影トンネル遊歩道東口
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トンネル内部、天井のネットは漏水対策
 

内部には、距離標や勾配標も保存されていた。側壁の退避所に路線やトンネルに関する説明板が設置され、大きな待避所にはオブジェのようにベンチも用意されているから、何度も足が止まる。

奥に見えている出口の明かりはそれほど遠く感じないのだが、実際にはなかなか近づいてこない。保線作業用に設置されたという、出口までの距離を記した表示板に励まされながら歩いていく。距離からすると、普通の歩速でも通り抜けるのに16~17分はかかる。入口の柵には、平均歩行時間30分と書いてあった。

大出さんはこれまでに二度訪れたことがあるそうだが、東出口へ来たのは初めてとのこと。こんな天気でもあるし、傘の要らないトンネル探索は案外いい選択だったかもしれない。

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(左)起点から110kmの距離標
(右)25‰の勾配標、左側の羽根は欠損
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(左)待避所に置かれたオブジェのようなベンチ
(右)中間点の表示板
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トンネル西口
明かり部のレールは深沢トンネルからの移設
 

西口で、新線トンネルを飛び出してくる電車とともに新旧線の対比を撮ってから(冒頭写真参照)、勝沼ぶどう郷(かつぬまぶどうきょう)駅のほうへ向かった。この駅のホームが現在のような勾配途中の本線上に移ったのは、1968年の複線化のときだ。単線時代は、本線から分かれた水平の引上げ線に沿ってホームがある通過式スイッチバックの駅だった。その跡は現駅舎の南北で公園として整備され、花見の名所になっている。

南側の園地では、サクラの木の下にEF64の静態保存機が鎮座している。1966年製で、単線時代の中央本線で貨物列車を牽引していた電気機関車だ。一方、北側では旧ホームの一部が残され、小ぶりながら駅名標も復元されていた。すぐ隣りの現行ホームが急な坂(25‰)になっているのが、両者を見比べるとよくわかる。

帰りは、そのホームから15時18分発高尾行きの電車に乗り込んだ。雨に降られた一日だったが、けっこう見どころが多くて楽しめた。

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静態保存のEF64 18号機
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(左)サクラが植わる公園に残された勝沼駅旧ホーム
(右)旧ホームに立つ復元駅名標
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勝沼ぶどう郷駅
(左)ぶどう棚のある駅舎正面
(右)勾配ホームに高尾行き電車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図甲府(昭和55年編集)および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月15日 (土)

コンターサークル地図の旅-京阪京津線と東海道逢坂越

2025年10月19日、秋のコンター旅3日目は、京都と滋賀県の大津を結んでいる京阪電鉄京津(けいしん)線と、その沿線の旧 東海道に点在する見どころを訪ねる。

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大津市内の路面軌道区間を行く京津線800系
(旧塗装、2020年9月撮影)

東海道本線(琵琶湖線)の山科(やましな)駅前に集合したのは、山本さんと私。まずは駅前広場の向かいにある京阪山科駅から800系電車に乗り、京津線の終点、びわ湖浜大津駅へ移動した。

京都市営地下鉄東西線から直通運転しているこのルートは、地上に出ると舞台があたかも登山鉄道、次いで路面軌道と目まぐるしく移り変わるので、「劇場路線」の異名をもっている。それで、初めて乗るならかぶりつき、すなわち最前部の窓際に立つのがおすすめだ。さらに言えば、峠のトンネルでは運転席後ろのロールカーテンが降ろされるので、影響しない右側の小窓に陣取るのがいい。

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(左)京阪山科駅
(右)びわ湖浜大津行きに乗る
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図1 京津線周辺の1:200,000地勢図
2003(平成15)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)、旧東海道線跡(緑)等を加筆
 

電車は山科の市街地を直線的に通り抜けた後、国道1号と並走しながら逢坂越(おうさかごえ)へと向かう。逢坂越は、東海道五十三次の最後の宿場である大津宿と京の間にあった2か所の峠道の一つだ。標高324.6mの逢坂山(おうさかやま)の南麓にあるので、山と同一視されて、「逢坂山を越える」という表現がよく使われる。

ちなみにもう1か所は、山科盆地と京都盆地の間にある日岡峠(ひのおかとうげ)あるいは九条山(くじょうやま、下注)で、かつて京津線はここも通っていたのだが、1997年に地下鉄に道を譲って廃止されてしまった。

*注 旧 東海道の日岡峠は山科盆地のへりを上る急坂で知られたが、後にこれを避けて北側に勾配を平均化した新道が開かれ、1912(大正元)年開通の京津電気軌道(後の京津線)もそれに沿って敷かれた。以来この峠道は、山の所有者だった九条家にちなむ九条山の名で呼ばれている。

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京津線の逢坂越
(左)大谷駅を通過 (右)逢坂山トンネル西口
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ありし日の九条山越え(1988年8月撮影)
海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

電車はサミットの大谷(おおたに)駅に達すると、短い逢坂山トンネルを抜け、半径40mの急カーブで左に旋回した。頭上に名神高速の高架橋を仰ぎながら、国道とともに急勾配を降りていく。道端から離れた後は、町裏をくねくねと進んでいくが、ここにも急カーブが続出し、摩耗と騒音を軽減するためにレールの散水装置が作動している。

上栄町(かみさかえまち)駅を発車すると、電車はいよいよ旧 国道161号(現 県道高島大津線)の路上に出る。浜大津駅前の交差点まで約600m続く路面軌道区間だ。800系は4両編成で全長が66mもあるため、事実上、日本一長い路面電車ということになる。山科から13分、駅前交差点をよく響く警笛とともにゆっくり右折して、終点のびわ湖浜大津駅に着いた。

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(左)上栄町駅、散水装置が作動中(2022年4月撮影)
(右)路面軌道区間を行く

この後は今来たルートを徒歩で戻るつもりだが、その前に、駅前交差点の歩道橋の上から、出入りする電車を俯瞰しよう。上空を横断する太い電線が目障りだが、この駅で接続する石山坂本線(下注)の電車も通るので、展望台としては理想的だ。

*注 通称 石坂(いしざか)線。この路線にも、びわ湖浜大津駅の西側に約400mの路面軌道区間がある。

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歩道橋から駅前交差点を望む
手前の複線線路は石山坂本線
 

山科方面行きを1本見送った後、電車通りを南へ歩き始めた。京津線は約20分間隔で運行されているから、歩いている間にも撮影のチャンスが来る。道路上空には、専用軌道と同じトラスで架線を支えるビームが渡されている。そこを標準軌の4両編成が通過すると、どう見ても電車のほうが主役だ。自動車は、むしろ線路敷の余地を借りて走っているように錯覚する。

見どころかどうかは別として、高札場があったことから札ノ辻(ふだのつじ)と呼ばれる京町一丁目交差点の南西角に、大津市の道路元標が立っている。道路元標は、大正時代に各市町村の中心部に設置された、道路の起点を示す標識だ。大津の場合、この角にかつて市役所があり、東から来た旧 東海道(現 京町通り)が南に針路を変えていた。

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路面軌道区間で浜大津行きを見送る
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(左)札ノ辻の大津市道路元標
(右)旧 東海道(現 京町通り)を東望(2022年4月撮影)
 

次の交差点を過ぎると、京津線は道路を離れて右手の家並みの中へ消えていく。道路の左側の小区画に、まだ新しい大津宿本陣跡の碑とともに、車石の断片が置いてある。

水路や鉄道ができるまで、大津の港で船から荷揚げされた米などの荷物は、牛が牽く荷車で京都へ運ばれていた。このため、荷車がぬかるみで難渋しないよう、人や馬が通る土道の横に、車輪を載せる二列の石畳が花崗岩の切石で整備された。車石とは、荷車の重みで削られて溝ができたその石のことだ。言うならば近世の道端軌道(下注)で、京津線もその伝統を引き継いでいるのかもしれない。同じように保存された車石がこの後、沿道の数か所で見られる。

*注 ただし「単線」なので、午前が京都行き、午後が大津行きの一方通行だったという。

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道路を離れて専用軌道へ
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(左)大津宿本陣跡を示す碑
(右)車石
 

緩い坂を300mほど上ると、東海道本線をまたぐ跨線橋を渡る。すぐ手前で右へ入る小道は、妙光寺というお寺の参道だが、寺の前を京津線が横切っているため、いわゆる参道踏切がある。S字カーブを走る電車にお寺の鐘楼を入れた構図が得られる撮影ポイントだ。

京津線も同じように東海道本線をまたいでいくが、この蝉丸跨線橋は、線路を載せるだけとは思えない煉瓦積みの重厚な造りだ(下注)。上関寺トンネルとも呼ばれるように、後ろにある逢坂山の本トンネル(新逢坂山トンネル)のポータルと見間違う。

*注 跨線橋工事が遅れたため、京津線はこの区間を徒歩連絡にして1912年8月に暫定開業している。跨線橋完成で全線開業したのは同年12月。

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妙光寺参道踏切にて(2022年4月撮影)
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蝉丸跨線橋、下は東海道本線
 

勾配が強まった旧161号をさらに300m進むと、京津線と交差する上関寺国道踏切がある。左側で線路に並行する煉瓦の壁は、旧 東海道線が旧 東海道をまたいでいた橋台だ。1880(明治13)年に開通した東海道線の京都~大津間は、今とは異なる南回りの経路で建設された。唯一のトンネルが逢坂山に掘られ、出てきた列車がすぐに渡ったのがこの橋になる(下注)。

*注 橋台の東側の廃線跡は国道1号に転用され、膳所(ぜぜ、旧 馬場)駅で現路線につながる。

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旧 東海道線橋台、もとは旧 東海道を跨いでいた
(2022年4月撮影)
 

その旧線、逢坂山隧道の東口も、少し先で右手の小道を入ったところに、鉄道記念物として保存されている。

廃止時には複線化されていたので、単線トンネルが2本、位置がややずれた形で並んでいるが、左側が1880年に完成した最初のものだ。石積みのポータルは長い歳月を経て苔むしているものの、上部の扁額には「楽成頼功」の文字がはっきり読み取れる。内部の10mほどが公開されていて、煤で黒ずんだ140年前の煉瓦壁を間近に観察できた。一方、右のトンネルは1898年に完成した上り線用だが、閉鎖されているため内部の様子は窺えない。

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旧逢坂山隧道東口、左が最初のトンネル(のち下り線用)
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(左)トンネル内部も一部公開
(右)「楽成頼功」の扁額がはまる
 

旧161号は、ここで東から来た国道1号に合流する。しばらくの間、右側の側歩道がないので、横断歩道で左側に移らなければならない。左隣を走る京津線の線路脇に61.0‰の勾配標が見つかる。ごく短い間だが、京津線の最急勾配だ(下注)。

*注 廃止された九条山越えでは、同じような道端軌道区間にこれを上回る66.7‰の勾配があった。

狭隘な谷を頭上で跨いでいる2本のアーチ橋は、名神高速道路だ。その下で京津線は国道から左にそれる。そして、行きの車内で見た急カーブを介して、道路下にある自前の逢坂山トンネルに入る。カーブの半径は40m。歩道から見下ろすと、車両どうしが120度ぐらいの急角度で折れ曲がるのに驚かされる。

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(左)61.0‰の勾配標
(右)名神高速のアーチ橋をくぐる
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半径40mを曲がる電車
 

擁壁に挟まれて右カーブする国道に沿って歩くと、いよいよサミットが見えてきた。道の右側に、逢坂山関址の碑が立っている。百人一首の蝉丸の歌「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」が頭に浮かぶが、古代の話なので、関が置かれた正確な位置は不明なのだという。

逢坂越前後の旧道はほとんど国道に上書きされたが、サミットから300m足らずの間は例外的に旧道が残っている。繁盛しているうなぎ屋の前を過ぎると、右手に歌人を祀る蝉丸神社の石段が見える。

しかし私たちの注目は、傍らの木陰に車石とともにひっそりと埋められている一等水準点だ。高さの基準となる水準点は、土地の改変が行われにくい神社や寺の境内に設置されることがよくあった。これもその一つだが、伝統的な花崗岩の柱石で、点の記にも設置時期が記されていないから、かなり古いものに違いない。

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(左)逢坂越サミット
(右)逢坂山関址碑と常夜灯
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(左)蝉丸神社に上る石段(2022年4月撮影)
(右)一等水準点の石柱
 

ここで北へ行く横道に寄り道した。先述した旧線の逢坂山隧道西口はもうないが、名神 蝉丸トンネルの上を通る道の脇に、記念碑が建っている(下注)。碑文によれば、「…トンネルの西口は名神高速道路建設に当りこの地下十八米の位置に埋没した」。ここから西側の名神高速は、伏見区との境まで約7.5kmにわたって、おおむね旧 東海道線の跡地を利用している。

*注 隧道西口にあった石額は、京都鉄道博物館で保存展示されている。

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(左)トンネル西口記念碑
(右)旧 東海道線跡を利用した名神高速道路(西望)
 

ともかく峠を越えたので、京津線大谷駅のベンチを借りて休憩した。このベンチ、見かけは普通だが、線路とホームに40‰の勾配がついているので、座面を水平にすべく、左右の足の長さを変えてある。移動されないように、座面裏に固定用のチェーンもついていた。

京津線と国道をまとめてまたぐ歩道橋で、再び左の側歩道に移る。直線路を下る途中にある月心寺は、もと走井(はしりい)餅を商う茶店があった場所だ。広重の連作浮世絵「東海道五十三次」の大津の図(下図参照)にも描かれたとおり、街道名物の一つだった。現在はクルマが行き交う国道に面していて、目印になるような山門もないので、うっかりすると見過ごしてしまう。

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(左)大谷駅
(右)左右の足の長さが違うベンチ
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(左)走井茶店跡の月心寺
(右)庭園門
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歌川広重「東海道五十三次 大津」
Image from wikimedia. License: public domain
 

名神高速の高架が再び頭上を横切れば、ようやく国道1号から離れて、静かな旧道が復活する。地形的にはすでに山科盆地だが、おもしろいことに住所は京都市ではなく、まだ滋賀県大津市だ。

旧東海道周辺では、府県境が山科盆地に大きく張り出している。地図で塗り分けてみるとよくわかるが、自然の境界である峠から約3km下った地点まで滋賀県域だ(下注)。これは、かつて大津にある三井寺(みいでら)の所領だったことに由来するという。

*注 比叡山地の分水界から西側にあるこの地区は、藤尾学区と呼ばれる。

そのため、旧道が復活して200mの位置に立つ「滋賀県大津市」の境界標識はフェイントに近い。実際にはここから髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)までの間、道路に府県境が通っていて、北側が滋賀県、南側が京都府になる。

境界標などはないが、住宅の軒先に停めてあるクルマのナンバーの地名を見れば一目瞭然だ。さらに、滋賀県警のパトカーが巡回するのを目撃したし、郵便ポストの収集局も大津中央郵便局と記されている。

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(左)「滋賀県大津市」の境界標(東望、2022年4月撮影)
(右)道路が府県境をなす区間、右が滋賀県、左が京都府(西望)
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図3 滋賀県大津市域をベージュで着色
「大津市」標識前後の200mは旧東海道が府県境
 

NHK「ブラタモリ」でも紹介された髭茶屋追分は、東海道と伏見(ふしみ)街道の分岐点だ。道標に「みきは京みち、ひたりはふしみみち」と刻まれている。伏見は淀川の支流、宇治川に面した京都の外港で、大坂(大阪)との間を川船が往来していた。それで、伏見みちは大坂への最短ルートでもあった。

旧東海道はこの後、いったん国道1号(五条バイパス)によって分断される。旧道を行くクルマは手前にある迂回路を通るのだが、歩行者はバイパスをまたぐ歩道橋で直接向こう側に渡れるようになっている。さらに西へ300m進むと、「京都市」とだけ記されたそっけない境界標が見つかった。足元を横断する水路に府県境が通っていて、ここでようやく住所が滋賀県大津市から京都府京都市山科区に変わるのだ。

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(左)髭茶屋追分、左は伏見街道(2022年4月撮影)
(右)道標の隣に府県境を示す標識も
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(左)三井寺観音道(小関越)の分岐道標
(右)「京都市」の境界標(西望)
 

天下の大道だけあって見どころを挙げればきりがないが、時刻はお昼を回って、そろそろお腹がすいてきた。沿道のコンビニで軽食を買い、山手にある琵琶湖疏水跡の公園まで行って、昼食休憩にした。旧東海道からは離れてしまったが、京津線の主要ポイントは見尽くしたことだし、このまま山科駅へ降りていって、今回の旅を終えることにしよう。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、2500分の1京都市都市計画基本図71 四ノ宮および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月 7日 (金)

コンターサークル地図の旅-北国街道小諸~海野宿

北国街道と呼ばれるルートはいくつかあるようだが、信州では、中山道の追分(軽井沢町)から、長野を通り、高田(新潟県上越市)に至る街道筋のことを指す。越後と江戸を結ぶ交易の経路であり、善光寺参りの旅人たちが往来した道だ。

2025年10月4日、秋のコンター旅2日目は、この北国街道旧道を小諸(こもろ)宿から海野(うんの)宿にかけて訪ねる。浅間連峰の裾野を行くこの区間は、宿場以外に取り立てて見どころがあるわけでもないが、クルマが行き交う国道から離れていて、旧道の風情を感じながらのんびり歩けるのではないかと思っている。

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にわか雨の海野宿
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図1 小諸~上田周辺の1:200,000地勢図
  1981(昭和56)年編集

8時30分、小諸駅前に集合したのは昨日と同じメンバーだ。朝早く来て小諸城址の懐古園を巡っていたという大出さんと、上山田温泉からクルマを駆ってきた木下さん親子に対して、早起きが苦手な私はしなの鉄道の電車でぎりぎりに到着した。

朝はいい天気だ。駅から北へ進み、1612年建造の重要文化財、小諸城大手門を通り抜ける。線路の向こうにある城址からずいぶん離れているが、かつて城郭がここまで広がっていたのだ。

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(左)小諸駅前
(右)駅舎の窓に掲げられた古い駅名標
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小諸城大手門
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小諸~滋野間
 

本町交差点は、北国街道とその跡を継いだ旧 国道18号(現 141号)が交差する場所だ。まずは東へ向かい、宿場の中心部、本町の家並みを巡った。重伝建地区のように集中してはいないが、白壁に切子格子の窓をもつ建物が残っている。視界の奥、街道が右に折れる角に、小諸城の足柄門を移築したという光覚寺の立派な山門が据わる。

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光覚寺に移築された小諸城の足柄門
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小諸宿の家並み
 

しかしまだ序盤なので、ここだけで時間を取るわけにはいかない。折り返して西へ。本町交差点と鉄道ガードの間には脇本陣、次いで本陣の建物があった。前者は宿屋として盛業中、後者は解体修理のために覆いがかかっている。東海道の宿場町のそれに比べれば、規模は小ぶりだ。

ガードをくぐると道は急な下り坂になり、神社の手前で直角に曲がる。裾野を深く切り裂いて流れる中沢川を横断するためだが、本来の旧道はさらに100mほど直進し、より低い位置で渡っていたという。

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(左)脇本陣跡の宿屋
(右)本陣建物は解体修理中
 

新町の家並みを通過し、栃木川を渡った三つ角には、布引山観世音の文字が彫られた大きな碑が立っていた。ここで左折すれば、千曲川(ちくまがわ)を渡って懸崖造りのお堂がある当地の名刹、布引観音へ行ける。次の638m標高点で出会う2車線道も、参詣客を運んだ旧 布引電気鉄道の廃線跡に由来する。

北国街道は一時的にこの車道と合流するが、200m先で左にそれる。田舎道に戻った旧道の左脇に、青木一里塚跡が現れた。ボタンザクラが植えられた小公園だが、塚自体はもうない。公園よりむしろ、向かいの邸宅の組まれた庭石が立派過ぎて目を奪われる。

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(左)布引観音への分岐点
(右)青木一里塚跡
 

周囲の田んぼはもう刈り取りを終えたようだ。はさ掛けされた稲束から立ち上る藁のにおいが懐かしい。しなの鉄道の踏切を渡り、国道18号を横断すると、道は西原の集落に入った。直線主体の道だが、地形に応じた緩いアップダウンがある。

深沢川の手前で、街道は国道18号に合流した。おとなしく側歩道をたどらざるを得ないが、300mほどの辛抱だ。ホームセンターのカインズ前で、国道は右へ離れていき、旧道が再び姿を現す。

芝生田(しぼうだ)集落の中を行くと、道を挟んで旧家が向かい合う一角が目を引いた。立派な門構えに大きな白壁土蔵、手入れされた庭木も美しい。暦は10月だが、浴びる日差しはまだじりじりと熱く、家並みの日陰を選んで歩く。

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(左)刈り田のはさ掛け
(右)西原集落
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芝生田集落、沿道の旧家
 

裾野を下る渓流の一つ、大石沢川にさしかかった。グーグルマップにピンが立つ大石沢眼鏡橋を確かめるべく、竹藪の暗がりに目を凝らす。しかしどうやら橋というより、築堤の底部にある溝橋のようだ。石積みの小さなアーチを眼鏡橋に例えたらしい。

滋野(しげの)郵便局のすぐ西で、牧家(ぼくや)一里塚跡の石碑を見つけた。傍らの碑文によれば、現在、滋野駅道の交差点に立っている力士雷電の碑はもと、塚の茶店前にあったのだそうだ。

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大石沢眼鏡橋は竹藪の陰に
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(左)牧家一里塚跡
(右)力士雷電の碑
 

同じような道が続くので、足の負担も考慮して、滋野~田中の一駅間を電車でワープする案を考えていた。ところが調べていくうちに、その間の街道沿いに人気の蕎麦屋があることを知った。足をいたわって電車に乗るか、食欲を優先して歩き続けるかの二択だが、メンバーに諮ると即決後者に…。

昼どきは混むと聞いて、歩くペースが速まるという副次的効果まであって、開店間もない11時過ぎに、難なく目的地に到着した。十割そばと更科そばという黒白の逢わせ(合わせ)盛りに天ぷら、付け出し、デザートまでつく充実の昼食をいただく。

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(左)目標設定でペース速まる
(右)街道沿いの蕎麦屋
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図3 同 滋野~田中間
 

空がしだいに曇ってきたが、元気を取り戻してさらに西を目指した。常田南(ときだみなみ)交差点から田中宿に入ると、ここまでたどってきた旧道とは様子が違う。車道2車線の両側に幅広の歩道がついた、道幅18mの目を見張るような大通りが奥へと延びている。しかも無電柱化されているので、空が広く感じられる。宿場というより、どこか北海道の町のようだ。

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田中宿を貫く大通り
 

話は飛ぶが、この田中という地名のアクセントは第1音節にある。電車の車内アナウンスで気づいたのだが、標準アクセントの田辺、田口のように「た」なかと読むのだ。

駅前交差点までの約600mが大通りで、その後は1車線道に戻った。通過する地形も、浅間連峰の裾野から一段降りて、千曲川の氾濫原に接した微高地に移る。求女川(くめがわ)の橋を渡ると、「海野宿はこちら」と矢印看板が出ていた。地図で確かめたところ、旧 信越本線の廃線跡を転用した歩道だ。曲線緩和のため、複線化を機に付け替えられたようだ。

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(左)駅前を過ぎるともとの道幅に
(右)緩くカーブした信越線跡の歩道(東望)
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図4 同 田中~大屋間
 

この歩道は500m足らずで終わる。街道に復帰して高架道の下をくぐり、鉄道の踏切を渡ると、いよいよ海野宿だ。万貫石と呼ばれる大石と宿の入口を示す碑に迎えられて、道は宿場に入っていく。

右手に、みごとな枝ぶりのケヤキのご神木に見守られた白鳥(しらとり)神社の境内があった。これまでの道中では見かけなかった観光客が、次々と鳥居をくぐって訪れている。私たちも中に混じって、本殿に拝礼した。

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(左)海野宿入口
(右)万貫石
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白鳥神社境内
 

神社の鳥居前から、重伝建地区に指定された宿場町が始まる。「表の川」と呼ばれる中央水路をはさんで両側に道があるが、北側(進行方向右側)が舗装され車も通れる広い道、南側は庭木が植わる未舗装の軒先道だ。

それらを取り囲むように、うだつの上がった民家が軒を連ねる。明治以降、養蚕が盛んになったので、小屋根を載せた造りの養蚕家屋も混じっている。まさしく時代劇に出てきそうな風景だが、しぐれがにわかに強まってきたので、傘を差しながらの通り抜けになった(冒頭写真参照)。

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「表の川」と街道、うだつの立派な民家
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庭木が植わる軒先道、半鐘と丸ポスト
 

海野宿の裏手にはしなの鉄道(もとJR信越本線)が通っているが、最寄り駅まで東西とも1.5kmほど離れている。信越線の開業時に海野駅の設置計画があったのだが、養蚕に欠かせない桑の生育に排煙が影響を及ぼすとして、反対運動が起きたという。そのため、駅は隣の田中宿に設けられ(下注)、海野の発展を相対的に遅らせる要因にもなった。しかし、結果的に宿場町の景観が保たれ、観光地として再発見されたのだから、先のことはわからないものだ。

*注 1888(明治21)年の信越線開業時、小諸駅と上田駅の間には田中駅しかなかった。大屋駅は1896年、滋野駅は1923年の開設。

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海野宿案内板
 

500mほど進むと、未修景の民家もちらほら現れる。西の枡形跡の案内板が立つ地点で、中央水路も消えて、ふつうの街道筋になった。この後小川を渡った西海野地区でも、東側と同じような中央水路が復活して、千曲川の川岸に突き当たるまで続くが、家並みの風景はもう現代に戻っている。

千曲川のほとりに出れば、ゴールに定めた大屋駅はもうすぐだ。13.5kmの歩きを終えて駅に到着したのは15時ごろ。電車を待つ間に雨も上がって、空が明るくなってきた。

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(左)西の枡形跡
(右)西海野、中央水路の周りは現代の町並み
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(左)千曲川のほとりに出る
(右)大屋駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和56年編集)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年11月 3日 (月)

コンターサークル地図の旅-上田交通真田傍陽線跡

上田交通真田傍陽線(下注)は1927~28(昭和2~3)年の開業で、長野県の上田市内から北東の中山間部へ通じていた計15.9kmの電化路線だ。途中の本原(もとはら)で分岐して、一方は真田(さなだ)へ、もう一方は傍陽(そえひ)へ向かう。

*注 開業時の社名は上田温泉電軌、略称 温電。その後、上田電鉄(1939年~)、上田丸子電鉄(1943年~)、1969年から上田交通。路線名も開業時の北東線から、菅平鹿沢線(1939年~)、真田傍陽線(1960年~)と変遷している。

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上田城二の丸堀の廃線跡と保存された公園前駅
(2021年4月撮影)
 

真田では菅平高原や群馬県方面へのバス連絡があり、利用者も多かった。そのため、上田~本原~真田間(以下、真田線)が本線格として直通運転され、本原~傍陽間(同 傍陽線)は支線扱いだった。戦後は、菅平行きのバスの多くが上田から直行になり、貨物輸送もトラックに移行したため、業績が悪化し、1972年に全線廃止された。

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図1 真田傍陽線現役時代の1:200,000地勢図
  1959(昭和34)年修正

2025年秋のコンター旅、初回となる10月3日はこの廃線跡をたどる。参加者は大出さん、木下さん親子、私の4名だ。真田傍陽線は、国鉄駅に接していた電鉄上田駅(下注1)から西に出て、上田城の濠の中を北上していたが、国道18号北側の上田花園駅跡までは2021年4月、西丸子線跡探索(下注2)のついでに大出さんと歩いている。

*注1 1955年の改築で独立駅の構造になるまでの名称は上田駅。
*注2 西丸子線跡については「コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡」参照。

上田駅から長野方へ4~500m進んだ地点で、廃線跡は新幹線の高架下から離れて、北へ向かう。カーブの後、祝町大通りを横切って城跡まで続く駐車場用地がそのルートをよく示している。

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新幹線高架下を離れ、城跡に向かう廃線跡
(左)祝町大通り南側(右)同 北側
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
上田~神科間
 

上田城の二の丸堀を北上する区間は、昔から有名だ。廃線跡は整備されて、ケヤキとサクラの並木に囲まれた憩いのプロムナードになっている。訪れたときはちょうどサクラの季節で、散策する人も多かった。城内に通じる二の丸橋の下には、公園前駅の単式ホームが保存されている。廃線跡をまたぐ橋のアーチには電線を支えていた碍子も残され、往時をしのばせる(冒頭写真も参照)。

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公園前駅跡と二の丸橋
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駅跡に建つ案内板
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廃線跡のケヤキ並木道、二の丸橋から北望
 

城跡公園を離れると北大手駅があったが、廃線跡は住宅や商業施設にすっかり紛れてしまう。城の外堀の役を果たしていた矢出沢川(やでさわがわ)を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

国道を横断して上田郵便局の北側に上田花園駅跡があり、ここで鉄道は針路を東に変える。駐車場に使われている砂利の空地が、大きなカーブを描きながら住宅街に消えていた。

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(左)矢出沢川に残る橋台
(右)上田花園駅跡

さて本日の探索は、次の北上田駅跡からスタートする。上田駅前から下秋和車庫行きのバスに乗り、中央北交差点の手前で降りた。駅は上田大神宮の北側にあったというので行ってみたが、民家が建ち並ぶばかりで面影は何ら残っていない。

廃線跡には、一括して自治体に譲渡され、自転車道のように元のルートがわかる形で活用されるものもあれば、切り売りされて民地になり、ほとんど跡をとどめなくなったものもある。真田傍陽線の場合は後者だ。開業当時、このあたりは旧市街の北のはずれで、まだ水田や桑畑が広がっていたが、今や全面住宅街で、元のルートは民地の地割や街路の向きから推測するしかない。

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(左)上田大神宮
(右)北上田駅跡は住宅地に
 

さらに東へ進むと、再び矢出沢川を渡る。ここも両岸に低い橋台が残っている。まもなく2面2線で列車交換ができたという川原柳(かわらやぎ)駅跡だが、三葉製作所の工場敷地に取り込まれて、輪郭もなくなってしまった。

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川原柳駅西側の矢出沢川に残る低い橋台
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川原柳駅跡
(左)駅前にあるバス停(右)駅跡は工場敷地の中に
 

ここから線路は、矢出沢川の開析谷に沿って北東へ向かう。工場に隣接する変電所の先は、農道として残っている。草刈り作業中のところ、断りを入れて通らせてもらった。国道18号バイパスと交差の前後は車道だが、すぐに草ぼうぼうの荒地に戻るため、またもや迂回を強いられる。

扇状地に上りきると、神科(かみしな)駅跡がある。道幅がそこだけ広くなり、駐車スペースに利用されている。ここで目の前に、上信越道上田菅平ICのランプウェーの擁壁が立ち塞がる。後ろでは国道144号の立派な4車線道が交差していて、歩行者には疎外感のある一帯だ。

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(左)変電所裏の廃線跡(西望)
(右)農道になった廃線跡
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(左)神科駅跡
(右)国道144号歩道橋から南望
  線路は横断歩道と後方の高架道との間を横断していた
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図3 同 神科~本原間
 

この後、線路は勾配緩和のために、扇状地を覆う方形の条里地割に逆らって大きく迂回していた。前半は圃場整備で農地に還ったが、残りはいまだに定率の曲線を描く跡を追うことができる。多くが私有地なので、公道から接近できる地点を選びながら順にたどった。

一連の迂回区間の北端にあった樋之沢(ひのさわ)駅では、珍しくコンクリートの相対式ホームが残っている。線路部分には残土が盛られているが、ホームの形状は損なわれていない。隣接する民家で放し飼いされている鶏が2羽、せわしげに歩き回っていた。

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(左)迂回区間のカーブを踏襲する街路
(右)相対式ホームが残る樋之沢駅跡
 

上信越道の下をくぐると、国道144号のバイパス新道が近づいてきて、廃線跡を呑み込んでしまう。現道との取付け部が工事中のため、バイパスはまだ開通していないが、谷の中を走っていた小道はすでに消失してしまった。

しかし、鞍部を貫く伊勢山トンネルの手前でバイパスは左に離れていき、廃線跡が掘割となって現れる。伊勢山駅がこのあたりにあったはずだ。古い跨線橋の上から、鉄扉で封鎖されたトンネルのポータルが確認できる。廃線後はキノコ栽培に利用されていたそうだが、そこへ通じる掘割が雑木や雑草で埋もれているので、近年は放置されているようだ。

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廃線跡を呑み込んだ国道バイパス(未開通)
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伊勢山トンネル
(左)掘割の奥にポータルが見える(右)封鎖された西口
 

国道を経由して山の反対側に回ると、森の斜面にトンネル東口が同じように封鎖状態で残されていた。続く川久保橋梁の橋台も、谷を降りていく農道ぎわにすっくと立つ。線路は、ここから神川(かんがわ)の広い谷を向かいの段丘上まで、上路トラスの長い橋で一気にまたいでいた。沿線で一番の撮影名所だったに違いないが、今は幻だ。

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(左)森の中に残る東口
(右)神川の谷に面する高い橋台
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神川の谷
赤の矢印が示す橋台間に鉄橋が架かっていた
 

再び国道に戻って神川を渡り、対岸に移動する。もう片方の橋台を探すと、民家の離れか何かの土台として、藪に埋もれながら残っていた。この後は舗装道で、殿城口(とのしろぐち)、下原下(しもはらした)と小さな駅が数百m間隔で設置されていたが、いずれも痕跡はない。

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(左)殿城口駅跡付近の左カーブ
(右)下原下駅跡、左裏に真田氏発祥の里碑がある
 

12時になったので、国道沿いで見かけた食堂で昼食休憩にする。この先、真田線の跡は国道144号に上書きされてしまい、追跡の甲斐がない。分岐駅だった本原も、道路脇のバス停がその概略位置を示すだけだ。それで私たちは、比較的痕跡が残る傍陽線に足を向けた。

国道から分かれた草道が、美しい弧を描きながら、段丘を降りていく。これが廃線跡だ。再び渡る神川の橋台は残っているらしいが、雑木に覆われて確認できなかった。

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(左)本原駅跡にあるバス停
(右)両線分岐点
  右の国道が真田線跡、左の小道は傍陽線跡
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傍陽線跡の草道が弧を描く
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図4 同 本原~真田・傍陽間
 

それから廃線跡は、2車線道とつかず離れず、上流へ向かう。横尾駅も痕跡はないが、地形図に描かれた近くの千古滝(せんこだき)に興味を惹かれて寄り道した。谷底への小道をたどると、河原を塞ぐ大岩の間で渓流が二手に分かれ、滝壺へ流れ落ちている(下注)。落差が小さいのが意外だったが、水量の多い時期を選べば見栄えがするのではないか。

*注 かつては左端に第3の水路があり、千古三筋の滝と呼ばれた、と案内板にあった。

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千古滝
 

曲尾(まがりお)駅跡では、道端に駅名標の体裁を模した小さな木柱が立っている。沿線ではここにしか見られないので、地元の方のお手製だろう。県道35号に出会う地点で、廃線跡は西を向く。

曲尾の集落を抜けると、洗馬川(せばがわ)にさしかかった。左岸(東岸)は護岸改修されているが、右岸では橋台が、後ろの築堤を剥がされた状態で孤高を保っている。撤去された橋脚も、基礎だけは残っているように見えた。

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(左)横尾~曲尾間で農道になった廃線跡
(右)曲尾駅跡のお手製駅名標
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洗馬川右岸に残る橋台、後ろの築堤はもうない
 

終点の傍陽駅跡には新しい住宅が建ったが、正面に大きな蒲鉾屋根の農協倉庫あるいは選果場が残り、駅前の雰囲気を漂わせているのが印象的だ。

傍陽に着いたのは13時ごろ。朝からずっと曇り空で、昼前から小雨がぱらつき始めていたが、帰りのバスを待つ間にとうとう本降りになった。さいわい待合所は小屋仕様で、中に4人掛けのベンチもあったので、雨宿りができる。地元の人はふだんクルマを使うから、バスに乗り込んだのは私たちだけだった。

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(左)傍陽駅跡は宅地に転用、奥は農協倉庫
(右)雨宿りした傍陽バス停
 

途中、四日市橋を渡って国道144号に沿う真田自治センター入口という停留所でバスを降りた。ここは真田線の北本原(きたもとはら)駅跡で、そばに今もあるという「駅前食堂」を見たかったのだ。老夫婦で切り盛りしているような大衆食堂をイメージしていたが、実際は宴会場を備えた大きな2階家だった。

自家製の駅名標があるはすだが、と周りを探すと、分解状態で裏の軒下に置いてある。壊れたのだろうか、写真を撮りたかったのに残念だ。ともかくもタスクを完了した私たちは、近くのコンビニで買ったコーヒーで疲れを癒しながら、次に来る上田行きのバスを待った。

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国道沿いにあるバス停は真田線北本原駅跡
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(左)時代の記憶をとどめる駅前食堂
(右)上田行きのバスが到着

参考までに、真田傍陽線が描かれた1:50,000地形図を掲げておこう。なお、この地域の1:25,000地形図初版は1972(昭和47)年測量だが、同線はもう描かれていない。

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図5 真田傍陽線現役時代の1:50,000地形図
(左)1962(昭和37)年修正(右)1969(昭和44)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)、5万分の1地形図坂城(昭和37年修正)、上田(昭和44年資料修正)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年10月29日 (水)

コンターサークル地図の旅-吾妻峡レールバイクと太子支線跡

JR上越線の渋川駅から西へ分岐する吾妻(あがつま)線の歴史は意外に新しい。もとは第二次世界大戦中に、草津鉱山(群馬鉄山)で採れる鉄鉱石を搬出するために計画された産業路線だ。

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太子駅跡のホッパー棟と無蓋貨車
 

戦争末期の1945(昭和20)年1月に渋川~長野原(現 長野原草津口)間42.4kmが国鉄長野原線として、長野原~太子(おおし)間5.7kmが日本鋼管鉱業の貨物専用線として、それぞれ開通した。旅客営業を始めたのは渋川~長野原間が翌1946年で、長野原~太子間、通称 太子支線は1952年の国鉄移管を経て1954年からになる。

しかし、太子駅周辺は農山村で、旅客需要はもともと小さい。それで長野原線の普通列車10往復のうち、半数は長野原止まりだった。そのため、1965年の鉱山閉鎖で頼みの貨物輸送がなくなると、存在意義をなかば失ってしまい、1970年に旅客列車も休止となる。翌1971年、長野原から大前(おおまえ)に至る路線延伸およびそれに伴う吾妻線への改称と前後して、太子支線に廃止の措置が取られた。

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図1 吾妻線周辺の1:200,000地勢図
  1966(昭和41)年修正
 

もう一つ、吾妻線に大きな変化をもたらしたのが、吾妻川をせき止める八ッ場(やんば)ダムの建設だ。現地の反対運動で計画は長期にわたり遅滞していたが、2015年に着工され、2020年に完成した。これにより吾妻線も一部区間で水没するため、岩島~長野原草津口間でルート移設が必要となる。工事はダム建設に先行して実施され、2014年10月1日に、旧線より0.3km短い11.5kmの新線に切り換えられたのだ。

ダムの下流で水没を免れた旧線では2020年から、吾妻に掛けて「アガッタン」と称するレールバイク(軌道自転車)の運行が始まった。沿線には八ッ場ダムとともに、鉄道用では日本一短いといわれた樽沢トンネルや、紅葉の名所で知られる吾妻渓谷がある。アガッタンは当地の新しい観光アトラクションとして人気を得ている。

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レールバイクで行く旧線の樽沢トンネル
 

今回は、吾妻線の廃線跡巡りをテーマに、このレールバイクに試乗した後、長野原草津口に移動して、太子支線跡を歩いて訪ねる予定だ。

2025年5月11日日曜日、初夏の日差しは強いものの、風はまだ涼しく、行楽には絶好の日和になった。

上越線の車内で大出さん、森さんと合流し、参加者3名が揃った。電車は渋川から吾妻線に入り、吾妻川が造った谷を延々と遡る。下車した岩島(いわしま)駅は、小さな待合室があるだけの無人駅だった。レールバイクの受付場所へは、国道145号の旧道を歩いて2.5km、約30分かかる。

進んでいくと、やがてやぐらのような橋脚に支えられた巨大なコンクリート橋が見えてきた。吾妻線の新線を右岸に渡す第二吾妻川橋梁だ。渓谷をたどる旧線と違って、新ルートは、この橋を渡るとすぐ、長さ4489mの八ッ場トンネルに入ってしまう。その後も長いトンネルが連続するので、車窓の楽しみはほとんど失われてしまった。

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(左)吾妻線岩島駅
(右)新線の第二吾妻川橋梁が頭上をまたぐ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
岩島駅~八ッ場ダム間
 

ふれあい大橋のたもとにある受付場所、吾妻峡周辺地域振興センターに着いたのは集合時刻ぎりぎりの9時10分。すでに多くの人が事務所前の広場に集まっていた。さっそく受付で料金を払って、注意事項を書いたチラシを受け取った。色とりどりのヘルメットをおのおの装着して、案内の列に並ぶ。

車両は、3人乗り(1台3000円)と4人乗り(同 3500円)の2種類がある。だが、どちらも実際に漕ぐのは2人だけで、両者の違いは補助席の数だ。運行回数は今年(2025年)の場合、上り5便、下り5便の計10便あり、各便とも最大7台が走る。私たちも第1便の3人乗りをネットで予約してあるが、今日はすでに全便完売のようだ。

この「渓谷コース」は長さが2.4kmあり、所要時間は、上りとなる往路が30分、復路は25分とされている。以前は下流へ向かう「田園コース」1.6km(下注)もあったようだが、終始平地を行くのであまり人気が出なかったのか、現在は運行されていない。

*注 実距離は0.8kmだが、片道と往復が選択できる「渓谷コース」とは異なり、終点の転回場で折り返して起点に戻るまでが1コースなので、1.6kmになる。

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(左)地域振興センターで受付
(右)スタッフの先導で乗り場へ移動
 

時間になると、先導のスタッフが、少し離れた乗り場の「雁ヶ沢(がんがさわ)駅」まで案内してくれる。雁ヶ沢川の渓流を渡り、築堤の階段道を上る。仮設屋根の下、コンクリート床の軌道上に、これから乗るレールバイクが用意されていた。

2軸台車に自転車2台を並列固定した、岩泉線のそれ(下注)と同形の簡易車両で、自転車は電動アシストタイプだ。漕ぐのは二人に任せて、年長の私は補助席で取材に徹する。全員スタンバイし終えると、追突防止のために車両間隔を20m空けて、順に出発していった。

*注 岩泉線のレールバイクについては「コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車」参照。

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(左)3人乗りレールバイク
(右)同行スタッフの車両はスーパーカブ!
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(左)スタンバイ完了
(右)一定間隔を空けてスタート
 

まず見えてくる灰色の建物は、松谷(まつや)水力発電所だ。送電線の下をくぐり、松上(まつうえ)集落の赤屋根を横に見ながら進む。しだいに谷が狭まり、ルートの最大勾配16‰の勾配標を見送ると、長さ104mの松谷トンネルを抜ける。続いて目の前に現れるのが、長さ7.2mで日本最短の鉄道トンネルとうたわれた樽沢トンネルだ。と言っても実体は短すぎて、道路をくぐるカルバートと変わらない。

それに対して三つ目の、ルート最後となる道陸神(どうろくじん)トンネルは432.4mとけっこう長い。内部でカーブしているので本来は真っ暗なはずだが、青白いイルミネーションを線路に敷いて、進行方向を明示していた。

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(左)松谷水力発電所の横を通過
(右)軌道は緩い上り坂
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(左)松谷トンネルに突入
(右)樽沢トンネルは長さ7.2m
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(左)道陸神トンネル東口
(右)青白いイルミネーションで進路を誘導
 

この闇を抜けると左カーブの向こうに、谷を塞ぐ巨大なダム壁と、その下に、終点である「吾妻峡八ッ場(あがつまきょうやんば)駅」のテントが見えてくる。到着予定は9時55分だが、順調に進んだので5分ほど早着した。

客が降りた後、復路に備えて、スタッフがレールバイクの方向転換作業をする。車体の中央に寝かせてある牽引棒のようなものを垂直に立てると、車体が少し浮き、この棒を軸にして手動で車体を回転させることができるのだ。バルーンループを自走で回る美幸線や、簡易転車台に載せて回す岩泉線とも違うユニークな方法でおもしろい。

■参考サイト
吾妻峡レールバイク「アガッタン」 https://agattan.com/

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ゴールのテントと、背後にそびえ立つ八ッ場ダム
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(左)レールバイクの方向転換
(右)駅名標
 

せっかくここまで来たので、吾妻渓谷も探勝しておこう。国道145号旧道を800mほど下り、新緑うるわしい遊歩道へ足を向けた。谷のこのあたりは八丁暗がりと呼ばれ、地形としては最も険しい。谷が深く切り裂かれて2~3m幅まで狭まる地点は、鹿が飛んで渡ると言われ、鹿飛の名がある。遊歩道の橋から下を覗くと、谷底の深さと水量の迫力に思わず足がすくんだ。

この後は対岸の小道を上流へ進む。アップダウンがけっこう激しく、遊歩道よりむしろ登山道と言った方が正確だ。紅葉谷橋で再び渓谷をまたいで、旧国道に戻った。

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(左)鹿飛橋から見下す渓流
(右)小蓬莱と呼ばれる断崖
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図3 同 八ッ場ダム周辺
 

八ッ場ダムは、堤高116m、堤長291mの規模を誇る大きなダムだ。堰堤内部のエレベーターが一般開放されているので、ダム下から天端まで一気に移動することができる。峡谷の急流は緑がかったターコイズブルーに見えたが、ダム湖は目の覚めるようなコバルトブルーで、降り注ぐ陽光をきらきらとはね返している。雪解け水で満水状態でもあり、眺めは文句なしに素晴らしい。

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八ッ場ダム
右下が天端へ上るエレベーターの入口
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コバルトブルーに染まるダム湖
 

やんば資料館に立ち寄った後、昼食場所として目を付けていたうどん専門店へ。大出さん曰く、群馬はうどんがおいしいそうで、ここでも、こしのあるうどんと天ぷらが食べられる。

ダムは完成からまだ5年しか経っていないので、湖面に枯れ木が残っている。八ッ場大橋を渡って川原湯温泉(かわらゆおんせん)駅まで歩いていく途中、美瑛の「青い池」を思わせる風景に遭遇した。若いダム湖ならではの佳景だ。

13時過ぎ、この日前半のゴールとなる川原湯温泉駅に到着。ここには線路付け替え後、一度電車で見に来たことがあるが、移転した温泉集落から離れていることもあって、駅前の閑散としたようすは変わっていない。

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(左)八ッ場大橋を渡って駅へ向かう
(右)八ッ場の「青い池」
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湛水前の吾妻渓谷、不動大橋から東望(2015年2月撮影)
右端が現 川原湯温泉駅、中央に八ッ場大橋、
左端で旧線がトンネルから顔を出す

後半は太子(おおし)支線跡を探索する。13時13分発の電車に乗り、次の駅、長野原草津口駅で降りた。まず太子駅跡まで町のコミュニティバスで行き、歩いてここに戻ってくるつもりだったが、バスは1日4往復、次の便は50分後だ。待機時間が惜しいので、手早くタクシーで向かうことにした。

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長野原草津口駅
 

白砂川(しらすながわ)の谷間にある太子駅跡は、遺跡公園風に整備されていた。復元された平屋の駅舎が受付棟で、内部に写真や遺物などが展示されている。入場料200円を払って公園域に入ると、1面2線のホーム跡があり、全国各地から取得したという貨車が10両以上留置されていた。なんでもここは全国一の無蓋車公園だそうな。

山側には、索道で輸送されてきた鉄鉱石を貨車に積み込むホッパー棟の遺跡が広がっている。林立するコンクリートの柱が風化して、遠景の無蓋貨車をアクセントに、廃墟特有の雰囲気を醸し出す。メディアでよく紹介される写真は、これを上流側から透視した構図だ。私たちがいる間にも訪問者が3組あり、ちょっとした観光地になっているようだった。

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(左)太子駅復元駅舎
(右)内部は資料展示室に
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ありし日の太子駅
太子駅展示資料を撮影
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残されたホームとホッパー棟
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図4 同 太子駅跡~下沢集落間
 

太子駅を後にして、廃線跡の舗装道を南へ歩いていった。山側を国道292号が並走しているので、クルマがほとんど通らない田舎道だ。途中、対岸の段丘上に立地する赤岩集落に寄り道した。一見どこにでもあるような山間集落だが、切妻屋根に換気用の小屋根を載せる養蚕家屋が多く残され、重伝建地区に指定されている。

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(左)赤岩集落の湯本家住宅
(右)小屋根を載せる養蚕家屋(貝瀬集落で撮影)
 

廃線跡はこの後も一本道で、山が川べりまでせり出している場所では、2本の短いトンネル(第二愛宕、第一愛宕トンネル)で抜けていく。中沢集落でいったん国道292号に呑み込まれるが、国道が川を渡るために左へそれた後は、また田舎道に還って下沢集落のへりを伝う。

しかし、のどかな散策路は、次のトンネル(名称不明)の前で突然断ち切られる。内部が土砂で閉塞していて通行できないのだ。向こう側に抜ける道がないかと、少し山に分け入ってみたが、倒木で行く手を塞がれた。片側は川に落ち込む斜面なので、かなり気合を入れない限り、通過は難しそうだ。

やむを得ず国道まで戻って対岸に渡り、そのまま長野原地内まで延々と歩いた。川の蛇行部をトンネルでショートカットしていた太子線に比べて、国道経由は遠回りになるし、第一、車道の端をとぼとぼ歩くのは気疲れがする。

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(左)廃線跡の一本道
(右)第二愛宕トンネル北口
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(左)連続する第二および第一愛宕トンネル
(右)南口に残るプレート
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下沢集落を通る廃線跡
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(左)下沢南方のトンネル北口
(右)土砂で閉塞した坑内
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図5 同 下沢集落~長野原草津口駅間
 

貝瀬(かいぜ)集落の南で新道の嶋木(しまぎ)橋を渡って、再び右岸へ。橋のたもとを横断している小道が廃線跡なので、上流側で口を開けているトンネル(名称不明)の前まで行ってみた。通行止めらしく、細いチェーンが渡してある。

一方、小道を下流側へ追うと、やがて廃線跡は道から外れて、白砂川を渡っていく。フェンスで塞がれているため、右岸からは確認しにくいが、左岸に回ると径間の広いガーダーで川をまたいでいるのが見える。続く築堤は崩されてしまったが、コンクリートの擁壁の一部が墓地の境界に残っていた。

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(左)嶋木橋北方のトンネル南口
(右)切石積みの側壁
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(左)白砂川をまたぐガーダー橋
(右)左岸に残る築堤の擁壁跡
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冬枯れ期のガーダー橋
(2015年2月、吾妻線列車から撮影)
 

16時20分ごろ、長野原草津口駅に帰着。盛りだくさんの歩き旅だった。終点の大前まで往復してから帰るという大出さんと別れて、森さんと私は16時39分発の高崎行き上り電車に乗った。

参考までに、吾妻線旧線が記載されている1:25,000地形図を、岩島側から順に掲げる。

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図6 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図
岩島駅~吾妻渓谷間(1972(昭和47)年測量)
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図7 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図
吾妻渓谷~川原湯駅間(1972(昭和47)年測量)
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図8 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図
川原湯駅~長野原駅間(1972(昭和47)年測量)
 

太子支線は1:25,000地形図の刊行以前に廃止されたので、代わりに1:50,000地形図を掲げておこう。

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図9 太子支線現役時代の1:50,000地形図(1966(昭和41)年測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和41年修正)、5万分の1地形図草津(昭和41年資料修正)、2万5千分の1地形図群馬原町、長野原(いずれも昭和47年測量)および地理院地図(2025年10月20日取得)を使用したものである。

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2025年4月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸道倶利伽羅峠

朝8時、通学の高校生たちと一緒にIRいしかわ鉄道 津幡(つばた)駅の改札を出ると、大出さんと山本さんが待っていてくれた。2025年4月14日のコンター旅は、北陸道の竹橋(たけのはし)宿から倶利伽羅(くりから)峠の旧街道を歩いて、富山県側の石動(いするぎ、下注)まで行く。参加者3名、歩行距離は約11km。雨の昨日とは一転して青空が広がり、ハイキング日和になりそうだ。

*注 宿場町は今石動(いまいするぎ)と称した。この地名は、現在も小矢部市石動地区の町名として残る。

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道の駅でにらみをきかす火牛の像
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図1 倶利伽羅峠周辺の1:200,000地勢図
1987(昭和62)年編集

駅前のバス停で、8時17分発の津幡町営バス九折(つづらおり)行きに乗り込んだ。この小型バスで竹橋へ移動する。珍しく月曜日に出かけるのは、朝のこの便が平日のみの運行だからだ。バスはIRいしかわ鉄道の線路に沿うように走り、15分ほどで目的地に到着した(下注)。

*注 バス停名は竹橋西。宿場町を見たいがためにここまで乗ったが、後述する道の駅に直接行くなら、一つ手前の「倶利伽羅塾」バス停が近い。

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(左)集合場所は津幡駅
(右)竹橋宿でバスを降りる
 

竹橋は今でこそ静かな集落だが、かつては倶利伽羅村の村役場が置かれるなど主邑の位置づけだった。集落を貫くまっすぐな道が、かつての街道筋の面影を残している。峠道に踏み出す前に、集落の西のはずれまで戻って、道の駅「倶利伽羅 源平の郷」の歴史資料館を訪ねた。

倶利伽羅峠といえば、平安時代末期に繰り広げられた源平合戦の主戦場の一つだ。平家打倒の命を受けた木曽義仲が、北陸道を進んできた平維盛(これもり)率いる平家の大軍を、夜半に奇襲をかけて打ち破る。その策は、四、五百頭の牛の角にたいまつを括りつけて突進させるというもので、寝静まっていた敵軍は驚いて大混乱に陥った。源平盛衰記が伝える有名な「火牛の計」の逸話(下注)だが、今や火牛はご当地キャラになっていて、道の駅のフロアでも来場者に向けてアピールを怠りない(冒頭写真参照)。

*注 中国の戦国時代に同じような故事があり、それにならった創作と考えられている。

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(左)道の駅の歴史資料館
(右)火牛の計を描く源平合戦図(複製、原本は竹橋・倶利伽羅神社蔵)
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倶利伽羅峠の絵図(資料館の展示パネルを撮影)
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図2 竹橋~城ヶ峰間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

宿場町の裏を流れる津幡川にはサクラ並木があり、ちょうど見ごろを迎えていた。おととい出かけたのと鉄道の能登鹿島駅、通称 能登さくら駅はまるでお祭りのような賑わいだったが、ここではほかに誰もおらず、静かな花見が楽しめる。

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津幡川沿いのサクラ並木
 

街道に復帰して先へ進むと、そのうち車道から別れて山中に入っていく。前坂と呼ばれる急な坂には階段が作ってあった。ところどころ草むし、枝や落ち葉が厚く散り敷いているが、路面は舗装されている。分岐点には道標が立っているので、迷うこともない。

上りきるとすぐに、切り通した車道に降りるものの、改めて杉林の中を上り直す。地形図を見ると、東西に長く延びる標高100~150mの尾根筋を伝っていくルートだ。一つ目のピーク、城ヶ峰は名のとおり、龍ヶ峰城という山城が築かれていた。案内板によると、城郭は公園化されているようだが、入口にバリケードが置かれて入れなかった。

また少し行くと、北麓の越中坂(えっちゅうざか)から上ってきた車道と合流する。しばらくはこの道路を歩かなくてはならない。再び坂がきつくなると倶利伽羅の集落で、道の両側にぽつんぽつんと民家がある。道は一車線に狭まり、なおも上っていく。

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(左)山中に入る北陸道
(右)前坂を上る
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倶利伽羅集落をなおも上る
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図3 城ヶ峰~矢立山間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

やがて左手に、石の鳥居と石段が現れた。それを挟んで、倶利伽羅不動寺と手向(たむけ)神社の標柱が立っている。倶利伽羅(くりから)という珍しい地名は、もと長楽寺と称したこの寺の本尊、倶利伽羅不動に由来するという。寺の公式サイトによると、倶利伽羅とはサンスクリット語クリカ kulikah の音写で「具黒(黒いもの)」を意味し、八大龍王のうちのひとりの名になった。

長楽寺は8世紀の創建と伝えられ、源頼朝や加賀藩の加護を得て、江戸時代後期まで存続していた。しかし堂宇の焼失により廃絶し、明治の神仏分離で手向神社となった。倶利伽羅不動寺として再興されたのは第二次世界大戦後と、歴史的にはまだ新しい。

石段を上って境内に入ると、正面がもとからある手向神社の本殿で、後ろに不動寺の本堂が建っている。今日はその前の広場にテントが張られ、桜まつりの準備中だった。本堂脇のテラスに立つと、西の方角のパノラマが開け、春霞を通して遠くに横たわる千里浜(ちりはま)や日本海が眺望できた。

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(左)倶利伽羅不動寺・手向神社の参道
(右)寺の本堂前でまつりの準備が進む
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本堂脇のテラスから千里浜と日本海の展望
 

この一帯は砺波山(となみやま)と呼ばれていて、その山頂がすぐ近くにある。聖地なので、煩悩を解き放つために108段の急な石段を上っていく。頂きは狭い平地で、中央に四体の石堂が並んでいた。手向神社にあるものと併せて、五社権現というそうだ。そばに276.7mの二等三角点が埋設してあったので、いそいそと写真に収めた。周囲にはサクラの林が広がっているが、標高が高いからか、まだ五分咲きぐらいだ。

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(左)108段の石段が待つ五社権現の参道
(右)山頂の四体の石堂
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(左)石堂脇の二等三角点
(右)山頂のサクラはまだ五分咲き
 

少し降りた車道沿いに木組みの展望台があり、今度は南から東にかけての眺望が得られた。備え付けの展望図を参照すると、かすかに見えている雪の山並みは、砺波平野の南を限る高清水(たかしょうず)山地のようだ。まだ少し時間が早いが、展望台下のあずまやで持参した昼食を広げた。

道路脇でまた出会った2頭の勇ましい火牛像に見送られて、砺波山の東尾根に載る道を進む。この両側にもソメイヨシノが植わり、お祭り気分を盛り上げるぼんぼりが取り付けられているが、花の見ごろはもう数日先のようだ。

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展望台から高清水山地の眺め
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(左)ここにも火牛像が
(右)砺波山のサクラ並木
 

左手の広場の端の見晴らしが良さそうなので行ってみると、なんと北陸新幹線のビュースポットだった。県境の新倶利伽羅トンネルを出て、左カーブで新高岡駅に向かう区間が見える。空気が澄んでいる日なら、白馬岳をはじめ北アルプスの山並みも見通せるらしい。

時刻表で確かめたら、ちょうど金沢行の下り列車がやってくるタイミングだ。三人、しばらく目を凝らして待つものの、防音壁に遮られたか、気がついた時には列車はもう山陰に隠れる寸前だった。写真は誰も間に合わず、証拠のない目撃談に終わってしまった。

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ビュースポットからの眺め
新幹線の高架が弧を描く
 

少し先で北陸道は、舗装道から離れて、初めのような山道に戻る。軽い上りを終えた道端に、「砺波山 標高265m」の小さな道標が埋めてあった。地形図でも263mの標高点を記したこのピークに、砺波山の注記がかぶせてある。おそらく平野から仰ぐとここが手前に見えて、より高い倶利伽羅峠(といってもわずか十数m)が後ろに重なってしまうからだろう。

この後は砂坂と呼ばれる急な下り坂だ。昔はずるずると滑る足場の悪い坂道だったのかもしれないが、今は段差の小さい階段道で、心置きなく歩ける。

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(左)砺波山の小さな道標
(右)階段道になった砂坂を降りる
 

坂を降りきると再び車道に出た。砺波山より標高は一段低いが、同じような雰囲気の尾根道だ。一里塚の標柱が立っていて、よく見ると一里塚の下に「と言われるところ」と素直な告白が付け足してあった。

再び車道と離れる地点には、「矢立」の標柱がある。矢合わせ(小競り合い)で平家軍の放った矢が立った場所だそうだ。矢立山は、東西方向に延びる尾根の最も東のピークで、205.6mの四等三角点がある。沿道には句碑が点々と置かれていて、案内板の説明を読むと、昔からこの道を多くの旅人が行き交っていたことが知れる。

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(左)矢立山の入口
(右)峠茶屋跡
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図4 矢立山~石動間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

峠茶屋の跡を通過してもしばらく杉林を抜ける尾根道が続くが、やがて道は長い下りにさしかかった。竹橋側の前坂のような尾根への取付きルートで、長坂の名がある。坂の途中で、峠の展望台から見たのと同じ高清水山地の眺めが広がった。

文字通りの長い坂を降りきると、紅色も鮮やかなシダレザクラの歓迎を受けた。駐車場とトイレが設置され、クルマで来る人もこの歴史街道に容易にアクセスできるようにしてある。ここからは人里を縫ってふつうの車道を歩いていくことになる。集落の名は石坂だが、山麓の丘の上に過ぎず、名前ほどの坂道はない。さきほどの砂坂との対比からすると、もとは長坂こそが石坂だったのかもしれない。

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(左)長坂からの眺望
(右)長坂は文字通り長い坂道
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(左)シダレザクラが咲く麓に到着
(右)石坂集落
 

間の宿場だった埴生(はにゅう)には、木曽義仲が戦勝を祈願したと伝わる護国八幡宮が鎮座する。私たちはその入口のあずまやで休憩したあと、北陸道からそれて、加越能鉄道加越線の跡へと転戦した。こちらも昨日の金名線と同じように、県が管理する自転車・歩行者道になっている。郊外地にまっすぐ延びるその道をたどっていけば、ゴールと定めた石動駅はもうすぐだ。

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(左)埴生護国八幡宮の参道
(右)埴生宿、医王院山門
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(左)加越線跡の自転車道、南望
(右)同 北望、奥に見える高架は北陸新幹線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図七尾、金沢(いずれも昭和62年編集)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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2025年4月25日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸鉄道金名線跡

加賀平野に残る私鉄線は、今や北陸鉄道石川線と同 浅野川線の2本だけだが、1960~70年代まではさらに多くの路線があった。現在、石川線の終点になっている鶴来(つるぎ)駅にも当時、能美(のみ)線と金名(きんめい)線という2本の支線の列車が発着していた。

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鶴来駅正面
 

金名線は加賀一の宮~白山下間16.8km、もと金名鉄道と称した地方鉄道だ。その名は、金沢と名古屋を結ぶという気宇壮大な構想に由来する。発起人は地元鶴来の実業家で、1926(大正15)年から翌1927(昭和2)年にかけて鶴来~白山下間を開通させている。鶴来では、金沢電気軌道線(現 石川線)に接続した。

会社は白山下から両白山地を越えていく延伸線の免許も申請していたが、当局から却下され、実現することはなかった。また、鶴来~加賀一の宮(当時は神社前と称した)間は、開通間もない1929年、資金不足の穴埋めに金沢電気軌道に譲渡され、石川線に編入されている。1943年の陸運統制令により、石川県下のほとんどの私鉄が統合されたとき、金名鉄道も北陸鉄道金名線になった。

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図1 石川線・金名線周辺の1:200,000地勢図
1968(昭和43)年修正
 

沿線に町らしい町がないにもかかわらず、しぶとく存続していた金名線が危機にさらされたのは1983年10月のことだ。路線には2本の大きな橋梁があるが、大雨の後、大日川を渡る鉄橋の通行が危険になり、区間運休を強いられた。これは半年後に復旧したものの、その年(1984年)の12月に今度は手取川橋梁の橋台が不安定化していることがわかり、列車は全面運休となった。そしてこれがとどめとなって、1987年、ついに廃止の手続きが取られたのだ。

廃止後、跡地は県が管理する自転車道「手取キャニオンロード」に転換された。それで、40年近く経った今でも忠実にルートを追うことができる。2025年4月13日のコンター旅は、2009年11月に廃止された石川線鶴来~加賀一の宮間を含め、手取川に沿って走っていたこのローカル線の跡を下流から順にたどる。

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金名線跡を転用した手取キャニオンロード

その日は終日、雨の予報だった。鶴来で自転車を借りて、終点まで往復するつもりだったが、この調子ではずぶ濡れになりそうだ。それで急遽予定を変更し、金沢駅西口でレンタカーを調達して、集合場所の鶴来駅に向かった。乗り慣れたトヨタ車と違い、今回の車種はスズキスイフト。運転する大出さんもちょっと勝手が違うようだ。

9時少し前に鶴来駅前に到着した。まもなく木下さん親子がマイカーで現れて、参加者は4名になった。

鶴来駅舎は、この地方によく見られる釉薬瓦葺き、下見板張りの建物だが、車寄せのついた玄関が擬洋風で、どことなく金沢の有名な尾山神社山門を連想させる(冒頭写真参照)。内部もレトロな雰囲気が漂っていて、改札の鴨居の上に掛かるデジタルの発着案内が場違いな感じだ。壁際のショーケースに、古い鉄道用品が無造作に陳列してあるし、待合室には懐かしい改札柵が残されていた。

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鶴来駅
(左)改札口の上にデジタルの発着案内
(右)隣室に残る改札柵
 

ホームは2線を挟む対面式だ。ただし、向かいのホームは本来、島式で、能美線があったころは3番線も使われていたらしい。しばらく観察しているうちに、野町方からもと京王車が1番線に到着し、2番線で発車を待っていたもと東急車と並んだ。9時02分定刻にこれが出ていくと、ほぼ同時に京王車も動き出し、白山下方に残された引上げ線の急カーブに消えた。再び現れたのは2番線で、9時38分の発車までホームで待機となる。

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(左)元京王の下り電車が入線、左隣は除雪車仕様のED201
(右)入れ違いに2番線から元東急車が発車
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図2 鶴来~広瀬間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

クルマを置いて、引上げ線の終端を見に行った。車止めは、ホーム端から約250m先、県道45号金沢鶴来線の旧 踏切の手前にある。しかし線路はまだ続いていて、直接吊りの架線もそのままだ。

石川線の北側にも空地があるが、これは能美線跡で、旧 踏切の西側に本鶴来(ほんつるぎ)駅の棒線ホームがあったはずだ。能美線の線路は撤去済みだが、七ヶ(しちか)用水を渡る下路式ガーダーだけはしっかり残っていた。そのすぐ上流で石川線の上路式ガーダーも斜めに水路をまたいでいて、この一角だけは鉄道が生きていた頃の情景を彷彿とさせる。

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(左)踏切手前に引上げ線の車止めがある(鶴来方を望む)
(右)草道の線路はまだ先へ続く
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七ヶ用水を渡る石川線跡
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(左)能美線本鶴来駅跡
(右)能美線の下路式ガーダー
 

公立つるぎ病院の横でも、撤去を免れた一部の線路が草に埋もれていた。その南側の駐車場には、中鶴来(なかつるぎ)駅の棒線ホームがぽつんと残る。それに対して、市道の南側では線路と架線、信号機まで元のままで、つい最近廃止されたのかと錯覚するほどだ。七ヶ用水に並行するこの貴重な風景は約500mの間続くが、やがて右手から接近してきた国道157号の接続道路に呑み込まれてしまう。

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(左)公立つるぎ病院横に眠る線路
(右)駐車場の中に取り残された中鶴来駅のホーム
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市道南側、現役時代そのままの区間
 

舟岡山の森の近くでは、もと吊橋で現 ポニートラスの歩道橋、和佐谷(わさだに)橋が手取川を渡っているのが見える。そのたもとが、廃線跡を活用した手取キャニオンロードの起点だ。左の川沿いは古宮公園で、満開のサクラがそぼ降る雨に濡れている。右奥には、金名線の起点だった加賀一の宮駅がある。

駅は現役時代、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、下注)の最寄りとして、とりわけ初詣客で賑わった。それで駅舎は、小ぶりながらも社殿を模した入母屋造りで、保存され、国の登録有形文化財になっている。中に入ると、当時の時刻表や運賃表、路線の写真展示が周りの壁を埋めていた。事務室側から待合室を眺める景色も新鮮だ。

*注 東側の河岸段丘面に鎮座する白山比咩神社だが、もとは古宮公園の位置にあったとされる。

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保存された加賀一の宮駅舎
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(左)待合室は展示室に
(右)事務室側から見た待合室
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(左)手取キャニオンロードの起点
(右)加賀一の宮駅舎裏を通過
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白山比咩神社
(左)緩い坂の表参道(右)荘厳な本殿
 

キャニオンロードはこの後、白山発電所の横を通過し、手取川右岸に沿って一路南下する。廃線跡が開発されてしまった南白山町の住宅地を迂回するのを除けば、直線主体のルートだ。

大きく右にカーブし、旧道を横断すると、手取中島(てどりなかじま)駅跡がある。といっても道幅が広く取られているので、そうと知れるだけだ。約17kmの金名線には、起終点を含めて14もの駅があった。だが残念なことに、自転車道整備の際に撤去されたのか、ホームなどの遺構はことごとく消失している。

続いて手取川を渡る。鉄道廃止を決定づけたいわくつきの場所だ。現在は、金名橋という長さ70m、ワーレントラス構造のレトロな橋梁が架かっているが、これは鉄道のオリジナルではなく、金沢市内で犀川(さいがわ)を渡っていた御影大橋の部材を転用したものだ。トラスの上横構に、自転車の車輪や蒸気機関車を象ったオブジェが取り付けられているのが目を引く。

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(左)手取中島駅跡
(右)手取川に架かる金名橋
 

左岸に移ってまもなく、広瀬(ひろせ)駅跡にさしかかる。手取川橋梁が完成するまでの間、暫定的に上部区間の終点とされた駅で、名残のバス停がその位置を示している。この後、長い直線区間に瀬木野(せぎの)、服部(はっとり)、加賀河合(かがかわい)と駅が続くが、どれも同様の状況だろうと、隣接する車道から目視するにとどめた。

やがて右手に山が迫ってくると、大日川(だいにちがわ)駅跡がある。ここでは、鳥居形の復元駅名標が迎えてくれた。隣に路線の歴史などを記した説明板も立っている。背後で威容を見せているのは、陶石を採掘している鉱山施設で、昔はここから貨車で積出していたのだろう。

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(左)広瀬駅跡の前にあるバス停
(右)レンガ造の福岡第一発電所が対岸に見える
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大日川駅跡
(左)背後に覆いかぶさる鉱山施設
(右)復元駅名標が立つ
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図3 広瀬~手取温泉間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

駅を出ると線路は左にカーブして、大日川を渡っていく。ここから3km弱の間、廃線跡は片側1車線の車道に上書きされていて、自転車道はその側道になって進む。サクラの並木に縁取られた直線道路で、遠くに雪山も望める。下野(しもの)と手取温泉(てどりおんせん)の2駅がこの間にあり、後者の位置には、大日川と同じ仕様の復元駅名標が立っていた。

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(左)道路橋として架け直された大日川橋梁
(右)手取温泉駅跡の復元標識
 

次の釜清水(かましみず)駅跡の前後には、自転車道に転換されなかった区間が草道のままで残る(下注)。鳥越中学校の前から釜清水の交差点の西側までの300m弱だ。釜清水駅は1面2線の配置で、側線もあったので、跡地もそれなりの横幅を持つ。ちなみに釜清水という地名は、村の中にある弘法池(こうぼういけ)から来ている。甌穴(ポットホール)から地下水が湧き出しているという珍しいもので、弘法大師が錫杖で突くと水が湧いたという言い伝えがあるそうだ。

*注 廃線跡は小松へ通じる国道360号を横断していたため、自転車道化にあたってその区間を避けたものと思われる。

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(左)草道で残る廃線跡
(右)釜清水駅跡(いずれも鶴来方を望む)
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湧水のある甌穴、弘法池
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図4 手取温泉~下吉谷間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

旧駅前の蕎麦屋で昼食の後、近くの黄門橋に寄り道した。手取渓谷の深い淵を見下ろし、白山主峰、大汝峰の雄々しい姿を仰ぎ、さらに上流へと進む。次の下吉谷(しもよしたに)駅跡までは2.9kmあり、駅間距離としては最長だった。当然、間に集落はなく、自転車道は渓谷の左岸を覆う河岸林に沿って淡々と延びている。

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黄門橋から見下ろす手取渓谷(上流側)
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谷の奥に顔を覗かせる白山大汝峰
 

下吉谷駅の600m上流には、綿ヶ滝(わたがたき)という名所がある。支流の駿馬川(しゅんまがわ)が手取渓谷に落ちる落差32mの豪快な滝だ。段丘上の、少し離れた展望台からも遠望できるが、約120段の急な階段を伝って谷底まで降りると、落下する水のすさまじい迫力をより体感できる。上流の用水路のような穏やかな流れとの対比も見ものだ。

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展望台から望む綿ヶ滝
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(左)谷底に降りる急な階段
(右)滝が間近に
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図5 下吉谷~白山下間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

ルート終盤では、段丘の縦勾配がやや強まる。西佐良(にしさら)、三ツ屋野(みつやの)と集落ごとに置かれた小駅の跡を経て、自転車道は路線の終点、白山下駅の構内に入っていく。現在は、白山下サイクリングパークと称する休憩地で、もとの駅舎に代わって「サイクルステーション白山下」のプレートが掛かる新しい木造建物が建っている。

建物の半分を占める休憩室には入れるが、資料やパネルが展示してある事務室側には鍵がかかっていた。まだシーズンオフなのだろうか。駅前には民家が散在するものの、商店などは見当たらず、人もクルマも通らない。手取キャニオンロードの終点はここではなく、3km上流にある道の駅瀬女(せな)だ。確かにここで終わられても、飲み物一つ手に入らない。

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白山下駅跡
(左)駅舎跡に建つサイクルステーション
(右)復元駅名標
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線路跡にキャニオンロードが続く
 

そのうち、エンジン音が近づいてきたと思ったら、瀬女行きの路線バスだった。鶴来駅方面から金名線のルートに沿って1日7便(河原山線、うち1便は学休期間運休)が今も運行されているのだ。鶴来駅から瀬女へは、手取川対岸の国道157号経由でもバスが走っている(白山線)。それほど需要がありそうにも見えないが、やはり鉄道が通っていた名残だろうか。しかし、停留所に誰もいないと見るや、バスは速度を落とすことなく通過してしまった。

下の写真は、休止直前1984年11月の白山下駅だ。すでに廃止の意向が示されていた小松線(小松~鵜川遊泉寺間、1986年6月廃止)に乗るついでに訪れたのだが、まさかこちらのほうが早く終了するとは思いもしなかった。当時のメモには「駅前の駄菓子屋で乗継ぎのバスの切符を売っていたが、駅舎は無人で、乗務員の休憩所の役しか果たしていない」と書いている。

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ありし日の白山下駅舎
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白山下で折返しを待つ電車
(いずれも1984年11月撮影)
 

鶴来~加賀一の宮間は、廃止を控えた2009年2月に最後の乗車を果たした。金沢市内では見られなかった雪がまだ消え残っているのが印象的だった。

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鶴来~中鶴来間を行く
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加賀一の宮駅に到着
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発車を待つ野町行上り電車
(いずれも2009年2月撮影)

参考までに、金名線が記載されている1:25,000地形図を、鶴来側から順に掲げる。

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図6 金名線現役時代の1:25,000地形図
鶴来~広瀬間(1973(昭和48)年修正測量)
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図7 同 広瀬~手取温泉間(1973(昭和48)年修正測量)
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図8 同 手取温泉~下吉谷間(1973(昭和48)年修正測量)
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図9 同 下吉谷~白山下間(1973(昭和48)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図金沢(昭和43年修正)、2万5千分の1地形図鶴来、粟生、口直海、別宮、市原、尾小屋(いずれも昭和48年修正測量)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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2025年4月 9日 (水)

コンターサークル地図の旅-宮原線跡

宮原(みやのはる)線は、久大本線の恵良(えら)駅で分岐して、肥後小国(ひごおぐに)駅まで26.6kmを結んでいた国鉄路線だ。線名の宮原というのは、終点のある熊本県小国町(おぐにまち)の中心地区の名から来ている。

根元の恵良~宝泉寺(ほうせんじ)間が部分開業したのは1937(昭和12)年。戦時中、不要不急路線としてレールが供出されたものの、戦後は復旧し、1954(昭和29)年に県境を越える宝泉寺~肥後小国間が完成して、全通した。

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肥後小国駅を出発する宮原線列車
(1983年3月、大出さん提供)
 

しかし、沿線は山間部で、輸送密度がわずか165人/日(1981年)と全く振るわなかった。そのため、国鉄再建法で第一次特定地方交通線に挙げられ、1984(昭和59)年にいち早く廃止されてしまった。ルートは鉄道敷設法に定める隈府(わいふ、熊本県菊池(きくち)市))から森(大分県玖珠町(くすまち))に至る鉄道に相当するが、菊池方面への延伸工事は一部着手されただけに終わった。

2025年3月16日のコンター旅は、この国鉄宮原線跡をレンタカーでたどる。参加者は昨日に引き続き、大出、山本、私の3名だ。阿蘇駅前で白のトヨタヤリスを調達し、肥後小国から恵良に向けて主なポイントを見て回ったのだが、ここでは下り列車の目線で恵良から順にレポートしていこう。

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図1 宮原線周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

恵良駅は、普通列車しか停まらない久大本線、愛称 ゆふ高原線の小駅だ。宮原線の列車はすべて一つ先の豊後森(ぶんごもり)駅が起終点かつ基地だったので、分岐点とはいっても実質は中間駅と変わらなかった。

当時の駅舎は2014年に火災で焼失したため、建て直されている。虫籠窓になまこ壁、軒下に杉玉を吊るしてあるから、造り酒屋をイメージしたのだろう。内部にはその酒造業で財を成し、地元に尽くした実業家の資料室があった。

現在、構内は2面2線だが、駅舎の対面は島式ホームで、外側(3番線)に宮原線の列車が発着していた。線路は外され草むしているが、ホームは原形をとどめている。後述するとおり他の駅は少なからず改変を受けているので、運行当時の情景が残されているという点で貴重だ。

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(左)造り酒屋風の恵良駅舎
(右)島式ホームの左側が宮原線用の旧3番線
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図2 恵良~町田間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

宮原線はここを出て約1.4kmの間、田んぼの中を久大本線と並走する。それから、右に緩くカーブして、国道210号と玖珠川を一気に横断していた。この橋桁と橋脚は撤去済みだが、両岸のコンクリート橋台とそれに続く築堤は手つかずで残存している。想像をたくましくすれば、ガーダー橋に響く列車の走行音が聞こえてきそうだ。

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玖珠川橋梁の橋台が残る
左岸の橋台から右岸を望む
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(左)左岸の玖珠川橋梁橋台
(右)それに続く築堤(北望)
 

玖珠川右岸を少したどった後、線路は、支流町田川の谷に入り、しばらくその左岸を遡っていく。しかし、宝泉寺の上手まで国道387号の新道にそっくり転用されたため、トンネルや橋梁も新しくなり、鉄道の痕跡は消えてしまった。

ただし、駅があった場所には記念碑的な遺物が見られる。まず町田駅は、築堤上のホームに上るコンクリートの階段があり、国道に面しているホーム跡に、色褪せたオリジナルの駅名標が立っている。

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町田駅跡
(左)ホーム跡に残る駅名標(右)ホームに上る階段
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現役時代の町田駅
(1983年3月、大出さん提供)
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図3 町田~宝泉寺間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

宝泉寺駅では、駅前広場の傍らに建つ2階建の民芸風建物が目を引く。内部の展示資料に拠れば、宮原線の転換交付金を活用して1986(昭和61)年に完成したもので、もとは1階が宝泉寺交通センター、2階が宮原線の資料や遺品を展示する鉄道資料館になっていた。

現在は1階でベーカリーカフェが営業しているが、2階の資料館は残っていて、見学が可能だ。また屋外でも、復元駅名標が立つ(下注)ほか、腕木式信号機や転轍装置類が一隅に集められて、現役時代をしのばせる。地下道からホームに通じる階段も上れるが、町田とは違って、ホーム跡は小公園に変えられ、植込みで満たされていた。

*注 本物の駅名標は鉄道資料館の中に保存されている。

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宝泉寺駅跡
(左)駅跡に建つもと交通センターの建物
(右)屋外のモニュメント
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2階の鉄道資料館
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(左)オリジナルの駅名標
(右)琺瑯引きの駅名板も懐かしい
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展示資料の一部
 

宝泉寺を出ると、線路は左にカーブを切り、国道や町田川の谷と別れて南へ向かう。次の麻生釣(あそづる)駅までは7.5km。標高差が約170mあるため、25‰の急勾配が続いていた。

このうち、初めの1.1kmは県道680号田野宝泉寺停車場線の新道に上書きされてしまった。串野で県道から離れた後は、線路の面影をとどめた1車線の舗装道に変わる。現行地形図には断片的にしか描かれていないが、「ここのえ万葉の杜」という別荘地への通路に利用されているのだ。これは、上手にある菅原地区の手前まで続いていて、クルマで通り抜けることができた。

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(左)串野トンネル西口、信号機がある
(右)内部
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図4 宝泉寺~麻生釣間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

この間に、尾根脚を貫く4本のトンネルがある。一つ目で長さ288mと最も長い串野トンネルは、手前に二灯式の交通信号機が設置されていた。県道に抜ける区間なので、通行量が多いのだろう。それに対して、二つ目の第一銅尻トンネルから先はあまり利用されていないようで、雑草が路面に進出し、林道の趣きになる。

菅原地区では、廃線跡の一部にサクラや低木が植樹されて、グリーンベルトのようだった。その後は未利用地で、草が生い茂る。グーグルマップの空中写真では農道や林道のように見える個所もあるが、クルマではたどれないので、追跡を諦めた。

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(左)落葉敷く第二銅尻トンネル西口
(右)菅原地区の廃線跡グリーンベルト
 

菅原から麻生釣(あそづる)までの3km弱は、東西方向の断層谷に沿って上っていく。現行地形図には廃線跡らしき一条線記号、すなわち幅員3.0m未満の道路が描かれている。それで麻生釣側からアプローチしてみたが、未舗装のでこぼこ道が1kmほど続くものの、その先は深い草むらに没していた。

私は1984年1月に一度だけ宮原線を訪れたことがある。当時、全線通して走る列車は1日わずか3本(下注)、キハ40系気動車が1両で往復していた。豊後森から乗った客はほとんど宝泉寺で下車してしまい、車内はがらがらになった。時刻表では、下り列車の宝泉寺~麻生釣の所要時間が20分と読める。しかし実際にはそれほどかからず、麻生釣で時間調整と称して4分停車した。それで、木立の中にたたずむ無人駅の写真を撮りに、ホームに降りた記憶がある。

*注 このほか土曜運転が1本、豊後森~宝泉寺の区間便が2本(1本は休日運休)あった。

思い出の麻生釣駅跡も、長い歳月を経て荒地に還ってしまい、今は場所さえ定かでない。グーグルマップのスポット写真によると、植林地の中に見覚えのある駅の階段がまだ明瞭な形で残っているようだが。

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(左)荒地に還った麻生釣駅跡
(右)未舗装道の先は深い草むらに
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現役時代の麻生釣駅(1984年1月)
 

麻生釣駅の後は、サミットにうがたれた麻生釣トンネルを抜け(下注)、下り坂にさしかかる。県境付近では並走する国道387号に一部呑み込まれてしまったようだが、谷の急な勾配についていけないため、徐々に国道との高度差が開いていく。

*注 麻生釣トンネル南口は、国道の東側の掘割の底に残る。

麻生釣~肥後小国間は、アーチの高架橋とトンネルが連続することで知られていた。このエリアは小国富士とも呼ばれる涌蓋山(わいたざん)の西麓に当たり、地勢は東から西へ傾斜している。川もそれに従うため、谷が東西方向に走っている。ところが鉄道は北から南へ進むので、直交する谷と尾根をそうした構築物で横断していく必要があるのだ。

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図5 麻生釣~北里間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

7本の高架橋が登録有形文化財になっている。着工は第二次世界大戦直前で、鋼材の使用が制限されていたため、鉄筋を入れずに無筋ないし竹筋で代用して造られたとされる。

一つ目の広平(ひろだいら)橋梁は、長さ80m、アーチ9連で谷を跨ぐ大きな高架橋だ。見てみたいがクルマでは直接行けず、廃線跡を400mほど歩かなければならない。今回は時間に限りがあるため、やむなく割愛した。

谷奥を迂回してきた廃線跡は、戸井口集落の南で旧道をまたぐが、この橋台は道の両脇に残っていた。そのすぐ西にあった、菅迫へ行く軽車道の跨線橋は、埋め戻されて存在しない。

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(左)戸井口集落の南に残る橋台
(右)登録有形文化財のプレート(北里橋梁で撮影)
 

その後は西へ張り出し、菅迫(すげさこ)の尾根をトンネルで横断していく。二つ目の菅迫橋梁(下注)は長さ136m、高さ23m、アーチ11連と、最大規模になる。しかし、深い森の中に埋もれていて、近づくことができるのかどうかは不明だ。

*注 文化庁の文化遺産オンラインサイトでは、「すげのさこ」の読みがなが振られている。

私たちは旧道をクルマで進んだので、見たのは三つ目の堀田(ほりた)橋梁からだ。長さ46mの小ぶりな構造物で、谷を跨ぐ4連のコンクリートアーチが残っているが、旧道を跨いでいたガーダー(鈑桁)はもうない。以前は杉林に接していたらしく、アーチの側壁は一面に花粉が付着して、オレンジ色に染まっていた。

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堀田橋梁、北面は花粉でオレンジに
 

汐井川(しおいがわ)橋梁と堂山(どうやま)橋梁は近接していて、塩井川(下注)の集落の後ろにダブルで眺められる。神社の横の山道を少し上ると、この二つをつなぐ廃線跡に出ることができた。橋はどちらも長さ36m、3連アーチで、橋脚の高さも同じくらいとまるで双子のようだ。側面に安全柵が追加されているので、かつては遊歩道がここまで延びていたのだろうか。しかし、汐井川橋梁のほうはフェンスで塞がれ、通れなくなっていた。

*注 橋梁名の表記は「汐井川」だが、地名は「塩井川」と書く。

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汐井川橋梁(左)と堂山橋梁
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(左)高い築堤を伴う汐井川橋梁
(右)両橋梁を結ぶ廃線跡
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堂山橋梁
(左)高い橋脚で谷川を跨ぐ(右)側面には安全柵が
 

山中を抜けて、廃線跡は北里(きたざと)の桑鶴(くわづる)地区に出てくる。南側に高い築堤が続き、その上はサクラ並木の草道になっている。ただし、堂山橋梁からここまでの間に2本のトンネルを抜けなければならず、通して歩けるかどうかはわからない。

いったん国道に上書きされた廃線跡は、北里駅跡付近で国道から離れて復活する。北里駅は無人の棒線駅だったが、ホームとそれに通じる地下道が残っている。ホームには新たに上屋つきのベンチが設置され、駅名標も復元されていた。

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北里駅跡
(左)ホーム跡に建つ新設のベンチと駅名標(右)ホームに上る地下道入口
 

最終区間の北里~肥後小国間4.1kmは、大半が旧国鉄宮原線遊歩道として整備されている。私たちは道の駅小国にクルマを置いて、往路タクシー、復路は徒歩でこの間を往復した。

北里駅跡を出るとすぐ、北里橋梁がある。これも登録有形文化財で、長さ60m、5個のアーチを連ねて小さな谷を渡っている。北里はその名が示すように、細菌学者 北里柴三郎(下注)の生まれ故郷だ。遊歩道の築堤からその記念館が見下せる。新1000円札の肖像に採用されたことで、地元ではたいそう盛り上がっているようだ。

*注 地名とは異なり、北里柴三郎の姓は「きたさと」で、「さ」を濁らない。本来は地名と同じ読み方だったのだが、ドイツ留学の際、現地でキタザトと読めるように Kitasato と綴ったことに由来するという。

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(左)北里橋梁
(右)北里柴三郎記念館を望む
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図6 北里~肥後小国間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

遊歩道は、記念館へ行く新設道路でいったん断たれるが、すぐに復活して森の中へ入っていく。未舗装で落ち葉が散り敷いているものの、雨の後でもぬかるみがほとんどなく、歩きやすい道だ。左へ大きくカーブしていくと、県道の跨線橋の向こうに、北里トンネルのポータルが姿を現した。長さは298m、内部もカーブしているので、出口は見えず真っ暗だ。そのため照明設備がついていて、入口側壁にON/OFFスイッチがあった。

トンネルを出て、県道を高架でまたぐとまもなく、切通しの壁沿いにキロポストを発見した。苔むし、彫った数字も消えかけているが、かろうじて24の数字が読み取れる。

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(左)遊歩道区間
(右)跨線橋の向こうに北里トンネルが覗く
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(左)ポータル側壁に照明スイッチ
(右)明かりのついたトンネル内部
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(左)切通しに残る24キロポスト
(右)数字がかすかに読み取れる
 

右に左にカーブを繰り返すうちに、遊歩道は高架橋の上に出た。樅木川(もみのきがわ)の谷をまたぐ幸野川(こうのがわ)橋梁だ。長さは116m、高さもかなりある。小道を伝って下に降りると、堂々とした6連のアーチ群に圧倒された。橋脚の付け根の部分、いわゆるスパンドレル(下注)に、アーチ状の小さな開口部を設けているのもなかなかおしゃれだ。

*注 正確には、(アーチの)曲線と(上路の)直線との間の三角形になった部分を指す。

向かいの山で左カーブを回っていくと、また苔で覆われた標柱が切通しの壁に寄りかかっていた。文字は読み取れないが、25キロポストかもしれない。

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スパンドレルに開口部をもつ幸野川橋梁
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(左)中央部の径間は20mと広い
(右)上路を通過する遊歩道
 

しだいに山が深まり、最後の宮原トンネルが現れる。長さ240m、北口付近がカーブしているため、これも出口は見えない。同じように照明設備に期待したが、スイッチを何度押しても反応がなかった。懐中電灯は用意してこなかったので、スマホのライト機能でしのぐ。

トンネルを抜ければ、後は一直線の下り坂だ。しかし、国道212号旧道と交差(鉄道時代はオーバークロス)する手前で、遊歩道は終わる。その先、線路が通っていた高い築堤は跡形もなくなり、左手から合流してくる国道387号の用地に転用された。

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(左)宮原トンネル北口
(右)遊歩道終点、この先の築堤は崩されて国道に
 

道の駅小国は、終点肥後小国駅の跡地に造られた施設だ。屋外に腕木式信号機や転轍装置、線路などのモニュメントが置かれ、駅名標も復元されている。円形のユニークな本館には、オリジナルの駅名標が保存されているほか、2階には年表や写真の展示もあって、ここに列車が来ていた時代を思い起こさせる。

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(左)ユニークな形状の道の駅本館
(右)内部に保存された駅名標
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(左)屋外の線路モニュメント
(右)腕木式信号機や転轍装置も
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ありし日の肥後小国駅
(1983年3月、大出さん提供)

冒頭で触れたように、宮原線には菊池方面への延伸構想があり、その一部として、駅から約1km間の路盤は完成していた。私たちは最後にこの未成線跡を歩いた。

国道の続きの車道は200mほど行くと終わり、後は、国道212号と交差するまで遊歩道になっている。その先、志賀瀬川(しがせがわ)の橋梁とトンネルを含む路盤が残っていた。トンネル内部はぬかるんでいるが、中央の溝蓋(用水路か?)の上を歩いて、西口に抜けることができる。

しかし、たどれるのはそこまでだった。杉林の上空の隙間は、用地がまだ少し続くことを示唆するが、目の前に立ちはだかる藪の深さが、探求心を一気に萎えさせた。

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未成線跡
(左)遊歩道区間(右)志賀瀬川を渡る橋梁
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志賀瀬川を渡る橋梁を国道橋から望む
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(左)トンネルは通過可能
(右)藪に阻まれるトンネル西口

参考までに、宮原線が記載されている1:25,000地形図を、恵良側から順に掲げる。

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図7 宮原線現役時代の1:25,000地形図
恵良~町田間(1974(昭和49)年改測または測量)
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図8 同 町田~宝泉寺間(1974(昭和49)年測量)
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図9 同 宝泉寺~麻生釣間(1974~75(昭和49~50)年測量)
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図10 同 麻生釣~北里間(1974~75(昭和49~50)年測量)
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図11 同 北里~肥後小国間(1975(昭和50)年測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分(昭和52年編集)、2万5千分の1地形図豊後森(昭和49年改測)、豊後中村(昭和49年修正)、湯坪(昭和50年測量)、杖立(昭和49年測量)、宮原(昭和50年測量)および地理院地図(2025年4月5日取得)を使用したものである。

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2025年4月 1日 (火)

コンターサークル地図の旅-豊後竹田とその周辺

2025年コンターサークル-Sの旅、3月は中九州が舞台だ。1日目は、阿蘇外輪山の東麓にある豊後竹田(ぶんごたけた)周辺に焦点を絞った。行政区分では大分県竹田市と同 豊後大野市になる。

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岩戸の景観を走り抜ける九州横断特急
 

このエリアには、阿蘇山の火砕流に覆われた緩斜面が広く分布している。これらは主に約13万年前の阿蘇3(Aso-3)、約9万年前の阿蘇4(Aso-4)と呼ばれる2回の大規模な火山活動で形成されたものだ。噴出物は自らの熱で溶けるとともに、重みで圧縮されて溶結凝灰岩(下注)の層ができた。

*注 当地では灰石(はいいし、はいし)と呼ばれる。

斜面の上流部ではその上に火山灰が積もり、なだらかな台地として残されているが、中流部では河川によって激しく浸食され、岩肌が山腹や川床に露出している。これらが断崖や滝といった特色ある自然景観をはぐくむ一方、人はその石材を、難攻不落の城や谷を渡る橋などに巧みに利用してきた。今日は、そうした見どころのいくつかをレンタカーで巡ることにしている。

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難攻不落の山城、岡城跡
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図1 竹田周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

3月15日は、あいにく朝から本降りの雨になった。小やみになる時間帯もあったものの、終日降り続いた。大分駅から、黄色のキハ125形を2両連ねたJR豊肥本線の上り普通列車に乗り込むと、ボックス席に大出さんの姿があった。列車は途中の三重町(みえまち)駅で乗換えになる。ホームで山本さんと合流して、参加者3名が揃った。

朝の豊肥本線は大分行きの対向列車が多く、ネットダイヤといっていいくらいだ。沿線はようやく梅が見ごろを迎えている。この冬は寒い日が多かったので、開花が1か月近く遅れたという。豊後竹田駅に10時31分到着。駅舎は武家屋敷風に改築されていて、正面の堂々とした千鳥破風となまこの腰壁が印象的だ。

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豊後竹田駅
(左)駅舎は武家屋敷風(右)当駅止まりのキハ125形
 

シルバーのトヨタヴィッツを借りて、まずは中九州道を東へ進む。2年前に行った延岡~高千穂間もそうだったが、ここも立派な自動車専用道が通じていて、クルマがあれば移動には苦労しない。犬飼ICで地道に降りて南下し、最初の目的地、虹澗橋(こうかんきょう)を目指した。

大野川支流、三重川の渓谷に架かるこの橋は、江戸後期の1824年に完成したシングルスパンのアーチ橋だ。溶結凝灰岩の切石で組まれ、長さは31.0m、径間25.1m、幅員6.1m。臼杵(うすき)の町とその藩領だった三重郷(三重町周辺)を結ぶ街道を通す、当時としては最大規模の石橋で、国の重要文化財に指定されている。

今はたもとにポールが立ててあるが、比較的最近まで一般道だったと見え、路面にセンターラインが残る。付け根の部分は嵩上げされていて、もとは路面がもっと反っていたようだ。眺める限りアーチを構成する輪石に狂いも隙もなく、200年前の匠の技を完璧に伝えている。

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渓谷にアーチを架ける虹澗橋
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(左)路面にセンターラインが残る
(右)由来を記す碑文「虹澗橋記」
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図2 虹澗橋周辺の1:25,000地形図に加筆
 

三重町のコンビニで昼食を仕入れて、次に向かったのは沈堕(ちんだ)の滝。大野川とその支流、平井川にかかる大小二つの滝で、水墨画の巨匠、雪舟も描いたという伝説の名瀑だ。本流の雄滝は幅100m、高さ20m、支流の雌滝は幅10m、高さ18m(下注)。大きな落差は、柱状節理の入った岩盤が水流で崩れて生じた。

*注 数値は、おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会のリーフレットに拠る。下述する原尻の滝も同じ。

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工事で水涸れした沈堕の滝
上流の水は右手の吐口から川に戻されている
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支流平井川の雌滝は健在
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図3 岩戸~沈堕の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

降りしきる雨を押して近くまで行ってみたが、残念なことに雄滝のほうは水涸れしていた。上流側にある取水堰の工事のため、5月末まで落水を停止していると掲示がある。滝の落差を利用して1909年に完成した水力発電所(下注)の廃墟も残っていて、クロード・ロランの古典画のような情景が見られるかとひそかに期待していたのだが。

*注 沈堕発電所。大分~別府間の路面軌道(後の大分交通別大線)を運営していた豊後電気鉄道が建設した。

歴史的には、発電所建設以来、今と同様の状態が長く続いていた。導水路に水を回すようになったことと、堰の基盤を保護する目的で、本流の水量を絞ったからだ。滝の水流が復活したのは1996年だが、滝面が崩れないようコンクリートで固定しているのが遠目にも見て取れ、もはや自然の滝とは言えなくなっている。

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手前に水力発電所の遺構が
 

もと来た道を戻って、大野川に支流の奥岳川(おくだけがわ)が合流する地点へ。右岸に火砕流由来の切り立ったグレーの断崖が続き(下注)、付近の集落名から、岩戸(いわど)の景観と呼ばれるスポットだ。断崖には豊肥本線の百枝(ももえだ)トンネルがうがたれ、そのまま奥岳川を渡る高い鉄橋に接続している。

*注 下部は阿蘇3、上部は阿蘇4の火砕流による。

言わずと知れた撮影名所で、河原に訪問者のクルマを停める場所まで指定してあった。ちょうど雨が小やみになったので、各自思い思いの場所に陣取り、トンネルに吸い込まれる下り普通列車の赤いキハ200系と、逆に飛び出してくる上り九州横断特急をカメラに収める(冒頭写真参照)。

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岩戸の景観、トンネルに吸い込まれる下り普通列車
 

最重要イベント(?)を終えた後は、原尻(はらじり)の滝へと駒を進めた。大野川の支流、緒方川(おがたがわ)に掛かるこの滝は、幅120m、高さ20m。沈堕の滝と同様の成因で、ともに「豊後のナイアガラ」と称される大規模なものだ。

手前にある道の駅にクルマを停めて歩いて行く。周囲は谷底平野で、田園が広がり、中央を緒方川がゆったりと流れている。それが広い川幅のままで、いきなり滝壺に落ちていくから、ナイアガラに例えられるのももっともだ。滝の上流側には沈下橋が渡され、下流側の深い谷では吊橋が揺れる。その間を周遊路がつないでいて、壮大な弧を描く滝をさまざまな角度から鑑賞できるのがいい。

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豊後のナイアガラ、原尻の滝
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(左)上流側の沈下橋
(右)下流側の吊橋
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図4 原尻の滝~蝙蝠の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

近くにもう一つ、大野川に掛かる蝙蝠(こうもり)の滝がある。これも溶結凝灰岩の柱状節理の間から、噴き出すように水が落ちているが、そばまで近づくことはできない。それで、普通車がぎりぎりの狭い山道を伝って、400mほど離れた山上にある展望所へ。滝の高さは約10mで、大きく四つの筋に分かれている。本流なので豊かな水量があり、遠目にも勢いと迫力が伝わってきた。

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蝙蝠の滝を展望所から遠望
 

竹田市街を経由して、次は竹田湧水群へ。周辺では、阿蘇の豊かな伏流水があちこちで湧き出している。その一つで、水量が最大という河宇田(かうだ)湧水を訪ねた。駐車場の前に上屋つきの水汲み場があり、10個ほどの口から水が流れ落ちている。水栓はなく流しっ放し、無料で汲み放題だ。ひと口含むと、柔らかなのど越しが快い。

山手には、エノハ(下注)の養魚池が所せましと並んでいる。水流をたどって湧出場所まで行ってみたが、底が苔や藻に覆われたせいぜい数m幅の、意外に小さな池だった。同心円の波紋も立たない静かな水面にもかかわらず、出口から驚くほどの水が流れ出ていく。

*注 エノハは魚名として各地で使われているが、九州ではヤマメやアマゴを指すという。

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河宇田湧水
(左)水汲み場(右)豊かな水量で流れ下る
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(左)エノハの養魚池
(右)静かな湧出場所
 

石橋ではもう1か所、竹田西郊の山王橋(さんのうばし)を見に行った。大野川支流の稲葉川に架かる3連のアーチ橋だ。全長56m。こうした石橋は昭和初期まで造り続けられていて、これは1912(明治45)年に完成した。江戸期の重厚な石橋に比べ、深いアーチや段状になった橋脚基礎が軽やかで美しい。

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山王橋全景
 

最後に訪れたのは竹田随一の観光スポット、岡城(おかじょう)跡だ。市街地の東、大野川と支流稲葉川の二つの谷に挟まれながら、かろうじて浸食を免れた細長い火砕流台地の平坦面に築かれている。周囲の谷壁は比高100mと高く険しく、そのうえ堅固な石垣で護られていて、見るからに難攻不落の山城だ。

駐車場にクルマを停め、入場料を納めて城内へ向かった。雨模様とあってほとんど誰も歩いていない。崖の上にそびえ立つ凝灰岩の高石垣を仰ぎながら、大手門へ通じる坂道をたどる。上りきると、城郭は思った以上に広かった。左手の西の丸周辺が特にそうで、天空の広場という印象だ。ここからは竹田市街と周りの丘陵地が一望になる。晴れていれば、阿蘇の外輪山やくじゅう連山のパノラマが展開するのだろうが、きょうは近景さえ霧にかすみがちだ。

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岡城跡
(左)大手門への上り坂(右)坂下方向、苔むす高石垣
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(左)西の丸への小道
(右)西の丸周辺は天空の広場
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霧に煙る西の丸からのパノラマ
左手前は物見櫓跡
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図5 竹田市街周辺の1:25,000地形図に加筆
 

大手門前まで戻って今度は東に進むと、一段高い中心部の石垣が見えてきた。その手前、敷地が最もくびれたところが西中仕切、いわば最終ゲートで、通路が鍵形に曲がっている。三の丸のひときわ高い石垣を眺めた後、石段を上がればいよいよ本丸だ。しかし、城の建物は明治維新でことごとく取り壊されていて、あるのは何本かの大きなクスノキとその下の小さな神社だけだった。

城郭はまだ東へ続き、東ゲートである東中仕切、歴代藩主が眠る御廟所を経て、東口の下原門(しもばるもん)に至る。東西の全長は1km近くもあり、見応え十分だった。城内にはサクラの木も多数植わっていて、花の季節にはさぞ映えることだろう。

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城郭中心部、右のひときわ高い曲輪が本丸
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(左)城内のサクラ並木
(右)雨に煙る三の丸の高石垣
 

ところで、二の丸の一角に作曲家、滝廉太郎の像がある。彼は少年時代に、父親の任地だったこの町で過ごしたことがあり、城跡で遊んだ記憶から唱歌「荒城の月」の曲想を得たのだそうだ。竹田ではこれがもはやイメージソングになっていて、駅では列車到着の際に流れていたし、岡城でも霧の中からかすかに聞こえてきた。

何かと思えば、正体は谷底を通る国道で、制限速度で走るとタイヤの摩擦音が音楽に聞こえるメロディーロードになっているのだ。これを騒音と思うか風流と感じるかはともかく、諸行無常のむなしさを託した短調の旋律(下注)は、この後もしばらく耳に残って離れなかった。

*注 「荒城の月」には、滝の原曲とは別に、山田耕作がそれに手を入れた版があり、調(キー)やテンポ、一部のメロディーが異なる。一般に知られるのは後者だが、竹田では前者が流れる。

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滝廉太郎像
 

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2025年3月25日 (火)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡(茶屋町~児島間)

岡山のナローゲージ、下津井電鉄の廃線跡は、全線が自転車・歩行者道として残されている。2019年に来たときは、児島(こじま)から下津井(しもつい)までの後半区間、「風の道」と呼ばれる6.3kmを歩いた(下注)。今回は、前半区間の茶屋町(ちゃやまち)~児島間14.5kmをレンタサイクルでたどろうと思う。

*注 「コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡(児島~下津井間)」参照

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石積みのホームが残る藤戸駅跡
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図1 下津井電鉄周辺の1:200,000地勢図
1973(昭和48)年修正図に加筆

2025年2月16日、夜半の雨は上がり、まだ曇り空だが天気は回復に向かっている。JR瀬戸大橋線快速マリンライナーの車中で、大出さんと落ち合った。集合場所の児島駅改札前では、浅倉さんが待っていてくれた。

バスと徒歩で福田以南の峠越え区間を探索する浅倉さんと再会を約して、大出さんと私は、近くにある倉敷市児島産業振興センターへ。予約していたレンタサイクルは3段変速の電動アシストタイプだ。料金が1日550円と格安なのもうれしい。

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JR児島駅
 

まずは起点の茶屋町駅まで直行する。自転車道は復路の楽しみとして、主に県道21号岡山児島線の側歩道を走ったが、福南山(ふくなんざん)山麓を北へ抜けるサミット両側の勾配は、短いながらもけっこうきつい。苦もなく越えられたのは、電動車の威力に他ならない。

近鉄の北勢線や内部・八王子線などとともに、最後のナローゲージ(762mm軌間)と言われた下津井電鉄の児島~下津井間が廃止されたのは1991(平成3)年のことだ(下注)。しかし、道路が整備されていてバス代替が容易だった茶屋町~児島間では、それよりずっと早く1972(昭和47)年に運行が終了している。

*注 北勢線は現 三岐鉄道の一路線、また内部・八王子線は現 四日市あすなろう鉄道として、ともに存続。なお、下津井電鉄児島~下津井間は、廃止日付が1991年1月1日であり、運行終了は1990年末。また、茶屋町~児島間は1972年4月1日廃止。

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図2 茶屋町~林間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

下津井電鉄の茶屋町駅は、国鉄の駅前広場南側にあった。しかし、瀬戸大橋線建設に伴う高架化に伴い、広場が一新され、跡地に郵便局も建ったため、痕跡は残っていない。それで、廃線跡を転用した茶屋児島自転車道は、少し南に離れた自転車置場の脇から始まる。起点には、2019年に各駅跡に立てられた復元駅名標の一つがある(下注)。

*注 児島商工会議所の「吉備の児島陸続き400年・瀬戸大橋開通30周年記念事業」実行委員会による事業の一環。https://www.kojima-cci.or.jp/event/400-30houkoku.html

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南に離れた場所に立つ茶屋町駅の復元駅名標
 

南へまっすぐ延びる自転車道は、サクラの並木で縁取られる。近所の人たちが散歩やジョギングに利用しているようで、走る間に何人もすれ違った。クルマを気にせず歩ける道があるのはうらやましい。周囲は、宅地と田んぼが混在するありふれた郊外風景だ。水路を横切る小橋はどれもコンクリート板に置き換えられたが、橋台だけは鉄道時代の石積みが使われている。

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(左)サクラ並木の自転車道
(右)水路に残る鉄道時代の橋台
 

やがて道は右にカーブしていき、最初の大きな川、六間川(ろっけんがわ)に差し掛かる。手前の公園に自転車を停めて、茶屋町駅前のスーパーで調達した昼食を広げた。川を渡った対岸では、自転車道が廃線跡をなぞりつつも、位置はやや移動しているようだ。切り通していた小さな鞍部は、埋め戻されて隣接の県道と一体化されたため、やや急な勾配がついている。

左に曲がっていくと、天城(あまき)駅跡がある。天城は西側にある古くからの町で、旧 藤戸町(ふじとちょう、下注)の中心集落だったから、ルートを多少曲げてでも近づける必要があったのだろう。駅跡が宅地に変えられたので、復元駅名標は少し先に立つ。

*注 1954年、倉敷市に編入。

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(左)六間川に架かる橋
(右)天城駅の復元駅名標
 

直線の築堤を介して、倉敷川を渡った。もとの鉄橋は跡形もなく、橋台、橋脚を含めて新たに造り変えられている。欄干のプレートによると、塩干(ひぼし)橋というらしい。塩干は対岸の集落の名で、藤戸(ふじと)駅跡はその中にある。ここは単式のホーム跡がそっくり保存され、その上に復元駅名標が立つ。線路が舗装道になっただけで、現役時代の雰囲気が確かにまだ残っている(冒頭写真参照)。

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(左)倉敷川に向かう築堤
(右)塩干橋(ひぼしばし)
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(左)藤戸駅の復元駅名標
(右)小山の間を縫う自転車道
 

この後は小山の間を連続カーブで縫っていくが、鞍部にある円筒状の構築物は、線路を横断していた水路のサイホンのようだ。県道165号藤戸早島線と斜めに交差して、自転車道は郷内川(ごうないがわ)の平野へ入る。

比較的長い直線の先に、林(はやし)駅跡があった。林は、駅の南側にある旧 郷内村(ごうないそん、下注)の中心集落だ。駅跡は駐車場と宅地に転用され、その傍らに復元駅名標が立っている。近くにある味わい深い手描きの標柱は、地元の郷内歴史保存会によるもので、正面に「下津井電鉄旧林駅跡」、側面には「大正2年11月~昭和47年3月」と駅の存続期間が記されている。同様の標柱は、駅跡に限らず、旧 村内の歴史スポットでも見かけた。

*注 1959年、一部地区を除き児島市(現 倉敷市)に編入。

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(左)道端に露出する水路のサイホン
(右)郷内川に架かる串田西橋
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(左)林駅の復元駅名標
(右)歴史スポットを示す手描きの標柱
 
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図3 林~稗田間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆

まもなく廃線跡は、片側2車線の県道21号岡山児島線に吸い込まれてしまう。自転車道は約1.3kmの間、その側道となる。次に独自ルートで復活するのは、瀬戸中央道の水島ICの中だ。県道の側歩道もまだ続くので紛らわしいが、浅い角度で右に分離、次いで山際を緩く曲がって、カルバートで県道を斜めにくぐっていく。後に控える峠越えに備えて、このあたりからすでに上り勾配がついている。

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(左)県道から浅い角度で分離
(右)カルバートで県道を斜めにくぐる
 

集落の中で左に大きくカーブを切っていくと、左手に福田駅跡の復元駅名標が見つかる。集落の名は福江だが、駅名は鞍部の西側にある旧 福田村(下注)から取られた。2面2線の構造で、蒸気機関車の時代には給水停車があったという。しかし今では民家が建て込み、面影はすっかり失われている。

*注 1947年町制施行、1953年倉敷市に編入。

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(左)福田駅の復元駅名標
(右)民家が建て込む駅跡地
 

左カーブでほぼ反転しながら、自転車道は福江集落の裏手をさらに上っていく。立ちはだかる張り出し尾根では、右へ大きく回り込む。ここで勾配はいったん収まり、やがて瀬戸中央道の下をくぐるために下り坂になるが、この部分は道路建設に伴う付け替えだ。廃線跡の自転車道は、付け替え区間の擁壁の上にあり、ガードレールや舗装が残るものの、すでに廃道と化している。

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(左)集落の裏手を上る
(右)張り出し尾根を巻いて進む
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擁壁の上で廃道化した旧線跡
(左)児島方向(右)茶屋町方向
 

瀬戸中央道の東側に出た自転車道には、県道21号が坂を上って寄り添ってくる。溜池の福林湖(ふくりんこ)畔がサミットで、一等水準点に拠れば標高は56.9m。ここでは廃線跡が右に膨らんで、県道との隙間があずまやを中心にした小公園になっている。付近に福南山(ふくなんざん)駅があったらしいが(下注)、跡は残っていない。

*注 1950年に設置認可を受けた若い駅だが、ほとんどの列車が通過扱いだった。

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福林湖北望
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福林湖畔の小公園
福南山駅があったとされるが…
 

湖の南端で再び県道と別れて、独自ルートに戻る。クルマも十分通れる道だが、自転車歩行者専用道路の標識が立っている。大池湖畔を通過すると、急な下り坂に変わり、森の裏手を迂回していく。小田川という小さな谷川を渡る個所では、築堤の続きに鉄道時代の高い石造橋台が使われているのが見えた。

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(左)大池湖畔の直線路
(右)急な下り坂が始まる
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小田川をまたぐ
(左)架線柱の基礎?
(右)高さのある石造橋台
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図4 稗田~児島間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

県道276号宇野津下之町線と交差した後(下注)、稗田南交差点の手前で右へ入る。ここも専用道だが、丁寧にセンターラインまで引かれている。まもなく稗田(ひえだ)駅跡だ。稗田さくら公園として整備され、自転車道のいわばオアシスになっている。ベンチに腰を下ろして、私たちもしばし休憩を取った。

西側には石積みのホームが見られるが、オリジナルではないそうだ。復元駅名標も公園整備時のものか、字体が他と異なり、下津井電鉄の小史を読むことができる。

*注 交差直後の、山側にふくらんだ短区間は荒地化している。

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稗田駅の復元駅名標と電鉄の小史
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駅跡は稗田さくら公園に
 

ここから300mほどの下り坂は、大きく育ったサクラ並木にすっぽり覆われている。花の季節はさぞ見事だろう。周囲に民家が増えてきた。道はほぼ平坦になり、緩やかにくねっている。

児島小学校の横を通過するとまもなく、柳田(やないだ)駅跡があった。左側の、ホームの撤去跡とおぼしき空地に、復元駅名標が立っている。切妻屋根のついたユニークなスタイルで、ゴシック体の文字が使われているので、これも設置時期が違うのだろう。

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(左)大きく育ったサクラ並木
(右)沿線に民家が増えてくる
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(左)スタイルと書体が違う柳田駅の駅名標
(右)細長い空地はホーム跡か
 

しばらくすると、道は大きく左にカーブした。県道と斜めに交差する地点には、信号機ではなく大きな歩道橋が架かっている。通路の中央に自転車を転がすスロープがつけられているのはありがたい。歩道橋を降りると児島小川(こじまおがわ)駅跡だが、舟形の敷地には住宅が建ち並び、自転車道はそれを避けて膨らんでいる。

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(左)県道を斜めにまたぐ歩道橋
(右)児島小川駅跡
 

この後は、家並みで埋め尽くされた町裏を貫いていくルートになる。一般道とは分離され、センターラインが引けるほどの道幅もあるので、町中の安全地帯として機能しているようだ。すれ違う自転車のこどもたちが、のびのびと走っている。

1kmほど行くと、道は右に急カーブする。そして、小田川のたもとで一般道に突き当たって終わる。川を渡っていた橋梁は、両岸で斜めに突き出た橋台が残るだけで、並行する自転車・歩行者専用の大正橋がその代替だ。

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(左)町裏を貫く自転車道
(右)最後は小田川に突き当たる
 

対岸に渡るとすぐ市民交流センターの広い駐車場があるが、その南側部分が初代の児島駅跡になる。一角に立つ復元駅名標には「味野(あじの)」と記され、隣駅名が「こじま」と「こじまおがわ」になっている。駅は開業当初、味野町(あじのまち)と称し、1941年に味野と改称、1956年に新市名にもとづき児島と再改称された。それで、味野でも問題はないのだが、児島と併存することはなかったはずだ。

1972年に茶屋町~児島間が廃止された後、駅敷地のバスセンター転用に伴い、1976年に、発着駅は一つ南の区画に移された。これが二代目児島駅だ。さらに、瀬戸大橋の開通を前にした1987年、観光需要の取込みを期待されて、200m南に三代目駅舎が造られた。しかし、案に反して
実績は振るわず、わずか4年で路線は廃止に追い込まれた。

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(左)大正橋のたもとに残る鉄道の橋台(正面右)
(右)味野の旧称が記された復元駅名標

レンタサイクルを返却したのは15時前。「風の道」と同じように前半区間も、廃止から半世紀という歳月を忘れるほどよく保存され、「しもでん」ののどかな車窓を追体験することができた。一方、徒歩で先行していた浅倉さんには最後まで追いつけなかった。こちらは自転車だというのに、戻るのに5時間近くもかかってしまったのだから、仕方がない。

私たちは締めくくりに、三代目児島駅の立派な、しかし宴の後のさびしさも漂わせる遺構に立ち寄って、ナローゲージが走った町を後にした。

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三代目児島駅の遺構
 

参考までに、下津井電鉄線が記載されている1:25,000地形図を、茶屋町側から順に掲げる。

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図5 下津井電鉄現役時代の1:25,000地形図
茶屋町~林間(1970(昭和45)年改測)
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図6 同 林~稗田間(1970(昭和45)年改測)
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図7 同 稗田~児島間(1970(昭和45)年改測)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岡山及丸亀(昭和48年修正)、2万5千分の1地形図茶屋町、下津井(いずれも昭和45年改測)および地理院地図(2025年3月15日取得)を使用したものである。

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