コンターサークル-s

2023年6月 9日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

新幹線の延伸に伴って、ほとんど第三セクター路線になってしまいそうな北陸本線だが、今ある複線電化の立派な施設設備は、主に国鉄時代の1950~60年代に整備されたものだ。

このとき、各所で曲線や勾配の多い旧線が放棄され、新設ルートへの切り替えが実施された。中でも大規模なものが、ループ線や北陸トンネルが建設された木ノ本~敦賀~今庄間と、地下駅のある頸城(くびき)トンネルで知られる糸魚川~直江津間だ。

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旧線跡の自転車道からの眺め
有間川駅西方から東望
 

後者では、旧線は背後に迫る山地や段丘を避けて、海岸を走っていた。そのため、線形の悪さや単線の制約はもとより、有数の地すべり地帯だったことから、運行の安全性にも懸念があった。そこで1969(昭和44)年10月のダイヤ改正に合わせて、抜本的な線路改良が行われた。糸魚川の2駅(当時)先の浦本から直江津の間では、線路は山地を貫くように通され、長さ11,353mの頸城トンネルを筆頭に、大小のトンネルが連続している。

一方、列車が走らなくなった旧線跡は、その大半が全長32kmに及ぶ長距離自転車道の建設に利用された。「久比岐(くびき)自転車道」と呼ばれるこのルート(下注)は、直江津の西4kmにある虫生岩戸(むしゅういわと)地内から糸魚川市の早川橋の手前に至るもので、終始日本海に沿うサイクリングルートとして人気が高い。

*注 正式名は、新潟県道542号上越糸魚川自転車道線。

2023年5月21日、糸魚川を拠点にしたコンター旅の2日目は、この自転車道をレンタサイクルでたどりながら、鉄道の痕跡を探すとともに、列車の車窓から失われてしまった海辺の風景を楽しみたいと思う。

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旧線跡の自転車道が鳥ヶ首岬へ向かう
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北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1936(昭和11)年修正 (右)1968(昭和43)年編集

参加したのは、昨日と同じく大出、中西、山本、私の4名。9時30分に糸魚川駅日本海口(北口)の自転車店に集合して、7段変速のクロスバイクを借りた。今朝は晴れて、さわやかな西風が吹いている。いいサイクリング日和になりそうだ。

本日の行程はまず、糸魚川駅から直江津の一つ手前の谷浜(たにはま)駅まで、列車に自転車を載せて移動する。そこからペダルを漕いで、糸魚川に戻ってくるつもりだ。

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久比岐自転車道を走ったレンタサイクル
 

新潟県内の旧 北陸本線は、三セク転換で「えちごトキめき鉄道」(以下、トキ鉄)の路線になっている。ふつう、列車で自転車を運ぶには、あらかじめ分解するか折り畳んで、輪行袋と呼ばれる専用の袋に入れなくてはならない。ところが、この鉄道では「サイクルトレイン」といって、乗客の少ない日中の時間帯に限り、そのまま列車に積み込めるサービスを実施しているのだ。これが普通運賃と290円の手回り品料金で済むというのもうれしい。

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谷浜までの乗車券と手回り品切符
 

駅の窓口で、谷浜までの乗車券と手回り品切符(区間等は手書き)を発行してもらい、自転車を押して改札を入った。9時59分発の列車は単行(1両)だ(下注)。一般車両なので、自転車を置くスペースは特に確保されていない。1台ならともかく、4台だと見た目もかさばる。たまたま降りる一つ手前の駅までホームはずっと左側なので、「自転車は右の乗降扉に寄せて置いてください」と、運転士さんから適切な指示があった。

*注 直江津方面の列車でサイクルトレインとして利用できるのは、これが始発になる。

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(左)糸魚川駅に入ってきた単行気動車
(右)列車に載せた自転車(もう1台は後ろの扉に)
 

長いトンネルをいくつも抜けて、10時35分に谷浜駅に到着した。直江津方面の列車は海側の島式ホームに着くが、駅舎は山側だ。無人駅で、リフトのような気の利いた設備はないので、自転車をかついで跨線橋を渡った。

直江津まで行かず、ここをスタート地点にしたのは、谷浜以東の旧線跡が郷津(ごうつ)トンネルを含めて国道に上書きされてしまい、痕跡が残っていないからだ(下注)。また、自転車道も虫生岩戸から谷浜までは専用道ではなく、国道の海側の歩道を利用している。

*注 旧線には郷津駅があったが、新線上に移されることなく廃止された。現在線はこの間を長さ3105mの湯殿トンネルで通過している。

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谷浜駅到着
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図2 1:25,000地形図に自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
直江津~郷津間
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図3 同 谷浜~有間川間
自転車道は県道のため、黄色で着色されている
 

ひっそりとした駅前を10時50分ごろ出発した。初めは線路の山側の一般道を走り、途中で線路下のカルバートを通って自転車道に出る。ほどなく行く手に旧 長浜トンネルが見えてきた。谷浜駅の前後は旧線のまま(腹付け線増)なので、このあたりから単独の廃線跡になるはずだ。

自転車道区間にはこうしたかつての鉄道トンネルが8本あるが、どれもポータルの前に、名称、長さ、通過時間を記した標識が立てられている(下注)。それによれば、長浜トンネルは区間最長の467m、通過時間は2分だ。内部がカーブしていて出口が見えないが、照明設備は完備している。この自転車のヘッドライトも自動点灯式ではあるが、トンネルが明るければより安全に走れるというものだ。

*注 標識はトンネルの両側に立っているが、旧 長浜トンネルだけは直江津側がなかった。

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長浜トンネル
(左)長さと通過時間を記した標識が立つ(糸魚川方)
(右)内部は照明つき
 

有間川を渡る地点で、自転車道は廃線跡から横にそれる。それで、傍らに旧線のレンガ橋台が残っていた。ここに限らず、鉄道時代の橋桁はほとんど転用されなかったようで、このように自転車道の架橋位置をずらすか、またはコンクリート桁で置き換えられている。

有間川駅に寄り道した。この駅も旧線時代のままだ。防波堤に沿う国道より一段高いので、駅前に立つと海がすっきりと見晴らせる。1日3往復しかない貨物列車を待ってみたが、いっこうに現れなかった。まだ一駅しか進んでいないので、諦めて先を急ぐ。

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(左)有間川に残る橋台
(右)海を見晴らす有間川駅
 

駅のすぐ先で、「トキ鉄」の線路は長さ3,601mの名立トンネルに吸い込まれていき、自転車道が再び廃線跡に載るようになる。こちらも青木坂トンネル(長さ321m)、乳母岳トンネル(同 463m)と立て続けにトンネルを抜ける。

段丘崖の裾に沿って進んでいくと、小さな滝がいくつも掛かっていた。海側には国道が並行しているが、自転車道はそれより高い位置を行く。東の方角、海の向こうにかすむ整ったシルエットは米山(よねやま)だろうか。波穏やかな大海原と弓なりに広がる海岸線、この開放的なパノラマを遮るものは何もない。

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(左)青木坂トンネル
(右)乳母岳トンネル(いずれも糸魚川方)
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段丘崖に小さな滝が掛かる
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海の向こうに米山のシルエット
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
有間川~名立間
 

自転車道の最北地点、鳥ヶ首岬の短いトンネルを通過した。針路は南西に変わり、まもなく名立(なだち)の町に入っていく。山側にそびえる長い崖線が目を引くが、これは1751年に発生した地震に伴う地すべりの跡だ。400人以上が巻き込まれて亡くなる大災害だったことから、「名立崩れ」として後世に伝えられている。

地形図にも、並行する2列の崖記号と、その海側に崩土で埋まった緩斜面が描かれている。こうした崖と緩斜面の組み合わせは、内陸部にも多数見出せ、有史以前から一帯で地すべりがしばしば発生していたことが知れる。

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(左)鳥ヶ首岬東側の覆道、奥に見えるのは岬のトンネル(直江津方)
(右)短いトンネルで鳥ヶ首岬を回る(糸魚川方)
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名立崩れの地すべり跡
 

「トキ鉄」の現 名立駅は、海岸から800m内陸の、名立トンネルと頸城トンネルに挟まれた浅い谷間に設置されている。それに対して、旧 名立駅は海沿いの町の北端にあったが、町工場などに転用されて痕跡は残っていないようだ。

出発が遅かったから、早くもお昼だ。近くにある道の駅「うみてらす名立」まで自転車を走らせて、フードコートで海の幸の昼食をとった。旧線跡の下流側に架けられた専用橋で名立川を渡ると、自転車道は再び線路跡につく。海岸に沿って大抜(おおぬき)トンネル(同 391m)を通過し、市界を越えて上越市から糸魚川市に入った。

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(左)大抜トンネル(糸魚川方)
(右)浜徳合の徳合川に残る橋台(糸魚川方)
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市界を越える
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
名立~筒石間
 

レンガの橋台と続きの築堤が残る浜徳合(はまとくあい)を過ぎ、筒石の町裏では、崖ぎわの15mほどある高みを走る。右側の擁壁の縁に、345 1/2kmのキロポストが残っていた。距離標としては、おそらく沿線で唯一のものだろう。段丘を切り込んで海に注ぐ筒石川を、市道との併用橋で渡る。廃線跡は海側にあり、レンガの高い橋台と、築堤を支えている鎧のような擁壁が印象的だ(下注)。

*注 築堤は均されて、保育所の敷地に転用されている。

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(左)筒石の町裏にあった345 1/2キロポスト
(右)筒石川の高い橋台と築堤の擁壁(糸魚川方)
 

現在の筒石駅は頸城トンネル内の地下駅として有名だが、旧駅はもっと糸魚川方の、海を望む段丘の上にあった。しかし、跡地は住宅などに転用されてしまい、道端に国鉄OB有志が立てた小さな碑があるだけだ(下注)。久比岐自転車道のガイドマップでも駅跡の言及はないので、知らなければ見落としてしまうだろう。

*注 表面には「日本国有鉄道 北陸本線旧筒石駅跡地 記念之碑」、裏面には駅の略史と建立日(平成3(1991)年3月31日)、建立者名が刻まれている。

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筒石駅跡から筒石漁港を遠望
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(左)旧 筒石駅記念碑
(右)藤崎(とうざき)のレンガ橋台
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
筒石西方~能生間
 

百川(ももがわ)トンネル(同 161m)とその前後は、単線幅の用地をわざわざ自転車道と一般道に分けている。そのため、中央分離帯(!)が狭いトンネルの中まで続いているのがユニークだ。これはいささか極端な例としても、筒石以西では廃線跡を一般道に転用して、側道として自転車道を併設している区間が多い。道幅もそれなりに拡げられているので、細く長く延びるという廃線跡のイメージは消えてしまっている。

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中央分離帯のある百川トンネル
 

やがて、形が鶏に似ているというトットコ岩が見えてきた。その向こうは一瞬、陸に乗り上げたのかと見間違う「海の資料館 越山丸」、そして、カニ尽くしで人気の高い道の駅「マリンドリーム能生(のう)」だ。しかし、さきほど食事をしたばかりなので、ここは通過。能生漁港の町裏を小泊トンネル(同 326m)と白山トンネル(同 336m)で抜けた後、名勝の弁天岩に寄り道した。

弁天岩は、海底で噴出した溶岩丘が隆起によって海上に姿を現した小島だ。海岸から赤い欄干の橋が延びて、小さな灯台と祠の建つ島に渡れる。恋人たちの聖地という宣伝文句に惹かれたと見え、若いカップルやグループが多数来ている。

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(左)トットコ岩
(右)海の資料館 越山丸
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(左)小泊トンネル(直江津方)
(右)白山トンネル(糸魚川方)
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鯉のぼりが空を泳ぐ弁天岩
 

旧 能生駅は、糸魚川市役所能生事務所(旧 能生町役場)の場所にあった。建物前の狭い植え込みの中に、土地境界標、筒石と同じような記念碑、それに338キロポストが置かれている。残念なことに、建物入口に通じるスロープの建設に際して壁際に移設されたため、裏の碑文を読むのには苦労する。なお、現在の能生駅は頸城トンネルの西口にあり、海岸から800mほど内陸だ。

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境界標とキロポストを伴う旧 能生駅記念碑
 

木浦(このうら)から鬼舞(きぶ)にかけては旧線に高度があり、木浦川の谷を横断する築堤も高い。鬼伏(おにぶし)の手前にある尾根の張り出しでは、自転車道がいったん海岸を走る国道のレベルまで降りて、また上り返す。廃線跡は、植生に覆われながらも国道の擁壁の上に残っているようだった。

鬼伏のコンビニに寄り道して、飲み物で一息ついた。高見崎と呼ばれる山の張り出しが、海を見晴らす旧線跡の最後の区間だ。行く手に、いよいよ糸魚川の町と青海黒姫山が見えてきた。

海岸平野が始まる浦本駅のすぐ手前で、旧線は浦本トンネルから出てきた現在の線路に合流する。廃線跡探索はここまでだ。合流地点の手前には盛り土の草生した空地が残り、新旧の対照を鮮やかに示していた。

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高見崎を回る
遠景は糸魚川の町と青海黒姫山
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旧線(左の空地)と現在線の合流地点
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図7 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
能生~浦本間

さて、所期の目的は果たしたが、私たちにはまだ、糸魚川に自転車を返却するという仕事が残っている。廃線跡を外れた自転車道は、国道の早川橋の手前まで約3kmの間、防波堤の内側に沿って延びている。右手は漁港と日本海の砂浜、左手は漁村の裏手だ。国道とも少し距離があるので、クルマの騒音はあまり届かず、集中して走れるいいルートだった。

自転車道の終点、早川橋からは旧道や国道の側道を通り、16時20分ごろ自転車店に無事帰着した。旧北陸本線のキロ程によると、糸魚川~谷浜間は34.3kmだ。昼食休憩を含めて走破に5時間30分かかったので、表定速度は6km/hにしかならない。私たちの旅は途中停車が多すぎて、いつもこんなのんびりペースだ。

最後は北陸本線旧線時代の地形図だが、1:25,000図が手元にないので、1:50,000図を直江津側から順に掲げる。なお、図中に複線の鉄道記号が使われているが、該当区間はまだ単線だったはずだ。

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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
直江津~有間川間(1968(昭和43)年編集)
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同 有間川~筒石間(1968(昭和43)年編集)
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同 筒石~浦本間(1968(昭和43)年編集)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高田(昭和43年編集)、富山(昭和11年修正)、5万分の1地形図高田西部、糸魚川(いずれも昭和43年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年5月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル

日本列島を西南と東北に分けるフォッサマグナ(大地溝帯)、その西縁が糸魚川-静岡構造線、略して糸静線と呼ばれる断層群だ。糸静線が日本海に接する糸魚川周辺には地学上の見どころが点在していて、洞爺・有珠、雲仙とともに2009年に日本で初めて「世界ジオパーク(現 ユネスコ世界ジオパーク)」に認定されている。2023年5月20日のコンター旅は、そのいくつかをレンタカーで巡ろうと思う。

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ヒスイ峡にそびえる石灰岩の絶壁、明星山
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図1 糸魚川周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

富山から乗り継いできた普通列車で、糸魚川駅に8時45分ごろ着いた。集合時刻までまだ少し時間があるので、改札の前で会った山本さんと、駅舎1階のジオパルを見に行く。名称からするとジオパークのインフォメーションセンターのはずだが、展示内容は鉄道ものに重点が置かれていて、私たちもそれが目当てだ。

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糸魚川駅ジオパル
(左)大糸線を走ったキハ52は休憩室に
(右)大糸線をイメージした大型レイアウト
 

10時11分着の新幹線はくたかで、大出さんと中西さんが到着して、本日の参加者4名が揃った。レンタカーの営業所で、予約してあった日産ノートに乗り込む。まずは国道148号で、姫川(ひめかわ)の谷を遡ろう。

掲げたテーマとはのっけから乖離するが、最初の訪問地は大糸線の根知(ねち)駅だ。ここで10時48分に行われるキハ120形同士の列車交換シーンに立ち会う。存廃が議論されているローカル線で、列車本数が少ないので、この駅での行き違いは午前中、一度だけだ。

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キハ120形の列車交換、根知駅にて
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
根小屋周辺
 

続いて、根知川右岸(北岸)にあるフォッサマグナパークへ。道路脇の駐車場から森の中の小道を歩き始めると、すぐ山側に、「大切にしましょう 水準点」の標識が立っていた。地形図に93.2mの記載がある一等水準点だ。標石は健全そのもので、刻字が明瞭に読み取れ、四隅に保護石も従えている。近年は金属標や蓋された地下式も多い中、これは見本にしたくなるような外観だ。点の記では1986(昭和61)年の設置とされているが、標石自体はもっと古いものだろう(下注)。

*注 側面に、国土地理院の前身で1945~60(昭和20~35)年の間存在した地理調査所の名が刻まれている。

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根知川右岸の一等水準点
 

小道は大糸線のトンネルの上を越えていく。目の前が根知川を渡る鉄橋で、さっきの列車交換がなければ、ここで一枚撮りたいところだ。そう考えるのは私だけではないらしく、フェンスに親切にも列車通過時刻表が掲げてあった。今日は地学系の旅のつもりだが、核心にたどり着かないうちに、道中の誘惑が多くて困る。

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トンネルの上から望む大糸線の線路
奥が根知駅
 

道なりに5~600mほど進んだ先で、いよいよ「Fossa Magna Park」の壁文字が見えてきた。地層の露頭は、階段を降りていくと明らかになる。斜面が漏斗状に開削され、その上部に、境界と記された標柱と、その両脇に「東」「西」と大書された看板が立っている。

看板の意味するところは、糸静構造線のどちらの側かということだ。東はフォッサマグナで、プレート理論でいう北アメリカプレートに、西ははるかに古い地層でユーラシアプレートに属する。その境界は強い力が作用するため破砕帯になっていて、模式図のようなスパッと切れた断面ではない。

ちなみに、糸魚川寄りには、よく似た名のフォッサマグナミュージアムという観光施設がある。鉱物の好きな人なら一日でも居られると言われる展示館だが、今日は予定が目白押しで、訪問は難しい。

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フォッサマグナパーク
根知川の対岸に、糸静線上に建つ酒造会社の大屋根が見える
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「東」と「西」の看板の間に
構造線の位置を示す「境界」の標柱が立つ
 

フォッサマグナパークから、さらに上流へクルマを走らせた。次の行先は小滝川ヒスイ峡だ。小滝(こたき)で横道にそれて、1車線の坂道を延々と上っていく。小滝川に沿う林道入山線が最短経路だが、落石の影響で通行止めになっており、2倍以上の遠回りを強いられる。とはいえ、一帯を見下ろす展望台や、高浪(たかなみ)の池といった名所を経由するから、迂回もまた楽しからずや、だ。

道のサミット付近にあるその展望台からは、森の中にたたずむ高浪の池が眼下に望めた。後ろに控えるのは、石灰岩の切り立つ岩壁で知られる明星山(みょうじょうさん、標高1189m)だが、あいにく中腹まで雲に覆われている。視界を占有している斜面は、実は大規模な地すべりの跡で、池も、押し出された土砂の高まりの内側に、地下水が染み出してできたものだ。しかし、荒々しい地形の成因など忘れさせるほど、しっとりとしてもの静かな光景だ。

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展望台から望む高浪の池
後ろの明星山は雲の中
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図3 同 小滝川ヒスイ峡周辺
 

高浪の池までクルマで降りて、池の周囲をしばし散策した。薄霧が漂うなか、畔の木々が水面に映る姿はなかなかに幻想的で、東山魁夷の絵を思わせる。なんでもこの池には、「浪太郎」の名で呼ばれる巨大魚が棲んでいるそうな。

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森を映す高浪の池
 

池のほとりの食堂で昼食をとった後、ヘアピンが連続する山道をクルマでさらに下っていった。渓谷を見下ろす展望台まで来ると、さすがに明星山も霧のヴェールから姿を現した。川床から約450mもの高さがあるという剥き出しの岩肌が、威圧するようにそそり立っている。この景観を作り上げたのは、眼下を流れる小滝川で、南隣の清水山にかけて続く石灰岩の地層を侵食した結果だ。ロッククライミングの名所でもあるそうだが、どうすればこの絶壁を上れるのか、素人には想像もつかない。

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小滝川の渓谷をはさんで向かい合う石灰岩の山塊
左が明星山、右が清水山
 

遊歩道を歩いて上流へ向かう。まが玉池という人工池の前からは、ヒスイ峡の河原まで降りていくことができた。渓流の間に直径数mもあるような巨石が多数転がっていて、案内板によると、あの中にもヒスイの原石が含まれているらしい。漢字で翡翠と書くので緑色という印象が強いが、実際は白っぽいものが多く、緑色の部分は貴重なのだそうだ。

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小滝川ヒスイ峡
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(左)青みを帯びた渓流
(右)矢印がヒスイの原石(現地案内板を参考にして表示)
 

縄文時代から古墳時代にかけてヒスイは、装身具や勾玉に加工されて珍重された。驚くことに、それらはすべて糸魚川産だったという。ところが奈良時代以降、その文化が途絶えたことで、原産地がどこかもすっかり忘れられ、渡来品とさえ考えられていた。この峡谷でヒスイが再発見されたのは、それほど古い話ではなく、1935(昭和10)年のことだ。

もと来た道を戻り、北陸自動車道経由で今度は親不知(おやしらず)へ向かった。東隣にある子不知(こしらず)とともに、北アルプス(飛騨山脈)が日本海に直接没する景勝地として有名だ。海岸線に断崖絶壁が連なっているため、江戸時代まで、通行には波間を縫って狭い岩場を走り抜けるよりほかに方法がなかった(下注)。漢文風の珍しい地名は、親子といえども互いを気遣う余裕がないほどの難所という意味だ。

*注 南の坂田峠を越える山道もあったが、距離が長く、標高600mまで上らなければならない悪路だった。

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断崖が連続する親不知海岸
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図4 同 親不知周辺
 

その断崖の中腹に道路が開削されたのは、1883(明治16)年のことだ。越中越後を結ぶ主要街道として、その後何度か改修整備が行われたが、1966(昭和41)年に、山側に長さ734mの天険トンネルが完成したことにより、旧道となった。

方や、鉄道の開通は1912(大正元)年で、道路の直下に単線で長さ668mの親不知トンネルが通された。日本海縦貫線としての重要性から、こちらも1966年に、現在の親不知トンネル(長さ4536m)を含む複線の新線が完成して、廃線となった。

旧道と廃線トンネル(下注)は遊歩道として開放されていて、階段道を介して周遊することができる。私たちは親不知観光ホテル前の駐車場にクルマを停めて、旧道を西へ歩き始めた。張り出し尾根を回ったところに、さっそく展望台があった。そこに立つと、正面は真一文字の青い水平線、左右には険しい断崖が幾重にも折り重なって見える。

*注 旧道は「親不知コミュニティロード」の名がある。廃線トンネルは、案内板で「親不知煉瓦トンネル」と紹介されていた。

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(左)コミュニティロード展望台から望む日本海
(右)日本アルプスの父、ウォスター・ウェストンの銅像
 

旧道を少し進むと、「如砥如矢(とのごとく、やのごとし)」の文字が刻まれた岩壁の前に出た。明治の開削時に彫られたもので、砥石のように平らで、矢のように真直ぐだと、完成したての道路を称える記念碑だ(下注)。140年風雨にさらされてもなおくっきりと残り、当時の人々の喜びが伝わってくる。だが残念なことに、旧道はここで通行止めになっていて、廃線トンネルの西口へ回ることができない。

*注 左隣の岩壁にも「天下之嶮」、「波激す 足下千丈 親不知」などの刻字がある。

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岩壁に刻まれた「如砥如矢」の文字
 

一方、先ほどの駐車場から谷間の階段道を降りていくと、トンネルの東口に達する。ポータルはいたって普通で、記念の扁額などは嵌っていなかった。親不知子不知に穿たれた旧線トンネルは数本あり(下注)、その中でこれが最長というわけでもないからだろう。

*注 前後のトンネルも残っていることが肉眼で確認できるが、接近は困難。

内部も通行可能だ。直線なので出口の明かりは見えるものの、湿度が高いせいか、ぼんやりしている。枕木の撤去跡には凹凸が残り、ごつごつしたバラストも散らばっていて、足を取られやすい。それで、線路跡の海側に土盛りして歩道のようにしてある。照明の間隔が開いていて足元が暗いから、これはありがたい。

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旧 親不知鉄道トンネルの東口
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(左)西口から東望、内壁の黒ずみは蒸機の煤
(右)東口、次のトンネルが見えるが近づけない
 

東口ではまた、階段を伝って波打ち際まで降りることができる。そこは猫の額ほどの浜で、打ち上げられた大小の丸石で埋め尽くされていた。東も西も岩場に断崖が迫り、打ち寄せる波が激しく砕け散っている。確かに、ここを越えていくのは命懸けだ。

クルマに戻って、風波川東側の国道脇に設けられた親不知記念広場にも立ち寄った。ここも展望台になっているが、目を引いたのは、隅にあった一等水準点だ。金属標をコンクリートで固めてあり、経緯度や標高を刻んだ記念碑を伴っている。やはり親不知は特別の場所らしい。

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(左)波打ち際へ降りる階段
(右)丸石で埋まった浜に断崖が迫る
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親不知記念広場の一等水準点と記念碑
 

糸魚川への帰り道、青海(おうみ)にあるデンカ(旧 電気化学工業)の専用貨物線を訪れた。この工場では、青海黒姫山の石灰石を利用してカーバイドやセメント製品を生産している。かつてはその製品や原料を積んだ貨物列車が、旧 北陸本線青海駅との間を行き来していたのだが、運行は2008年をもって終了した。

先に上流へ向かうと、道路の御幸橋(みゆきばし)に並行して青海川を斜めに横断している鉄橋と、前後の線路がまだ残っていた。これは採掘地と工場を結ぶ通称「原石線」だが、レールや枕木は粉まみれで、しばらく使われていないように見える。一方、工場から青海駅へ出ていく貨物線はすでに撤去され、草ぼうぼうの廃線跡と化していた。地形図にはまだ現役のように描かれているものの、実態は遠い過去の記憶となりつつある。

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デンカ専用貨物線
(左)青海川を渡る鉄橋
(右)草生した青海駅手前の線路敷
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図5 同 青海周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図富山(昭和63年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年4月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-筑波鉄道跡

2023年3月28日のコンター旅は、関東地方に移って筑波(つくば)鉄道跡を巡る。

筑波鉄道筑波線は、JR常磐線の土浦(つちうら)から水戸線の岩瀬(いわせ)まで、筑波山地西麓の田園地帯に延びていた非電化、延長40.1kmの私鉄路線だ。1918(大正7)年に開業し、筑波山への観光需要を支えていたが、戦後は道路交通との競合にさらされて業績が悪化し、1987(昭和62)年に全線廃止となった。

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筑波鉄道岩瀬駅のキハ762
(1987年3月、大出さん提供)
 

用地はその後、大半が自転車道に転用・整備され、現在「つくば霞ヶ浦りんりんロード」と呼ばれる広域自転車道の一部になっている。そもそも歩いていては日が暮れるので、廃線跡探索には乗り物の利用が必須だが、このエリアには充実したレンタサイクルのサービスがある。ありがたいことに3日前までに予約すれば、拠点施設での乗り捨て(片道レンタル)も可能だ。

そこで今回は、川上側の岩瀬で自転車を借り、旧線沿いに南へ下って土浦で返却するプランを立てた。ついでに、沿線に咲いている桜を楽しもう、という欲張ったたくらみも抱いている。しかし考えることはみな同じらしく、休日の自転車はすでに予約がいっぱいで、やむなく平日の催行となった。

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図1 筑波鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(左)1980(昭和55)年編集 (右)1981(昭和56)年編集

小山発の水戸線下り電車で、8時59分岩瀬駅に到着した。参加者は、大出さんとゲスト参加の田中さん、私の3名。筑波線との乗換駅だったとはいえ、常総線や真岡鉄道が入る下館に比べると、駅前はいたって閑散としている。

さっそく貸出場所の高砂旅館へ。受付を済ませると、ご当主が予約していた自転車とヘルメットを出してくださった。まだ新しそうな9段変速のクロスバイクだ。40kmものサイクリングは私にとって学生時代以来なので、気休めになればと持参したクッション性のサドルカバーを装着した。

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(左)現在の水戸線岩瀬駅
(右)駅裏の筑波鉄道駅跡は空地に
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りんりんロードを走ったレンタサイクル
 

9時15分、ご当主と奥様に見送られて、駅前を出発。まずは、駅裏にあった旧筑波鉄道のホーム跡へ向かう。ソメイヨシノが数本大きく育っているほかは駐車場と空地が広がるばかりで、鉄道の遺構らしきものは何もなかった。ここを起点に、自転車道は西へ出ていき、緩いカーブで南に方向を変える。

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(左)岩瀬駅裏の自転車道起点
(右)桜の壁画がある北関東自動車道のカルバート
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆、岩瀬~雨引間
りんりんロードは県道のため、黄色で着色されている
 

桜の壁画が描かれた北関東自動車道のカルバートをくぐり、県道41号つくば益子線を平面横断すると、左手から丸山、右手から羽田山のたおやかな稜線が近づいてきた。降り出した霧雨に煙る山肌を、ヤマザクラの薄紅色と若葉のもえぎ色が埋め尽くしている。この時期ならではの優雅なパステル画だ。

ルートは、二つの山に挟まれた分水界を通過している。その前後は10‰の拝み勾配のはずだが、自転車の性能がいいのか、坂を上る感覚はほとんどなかった。最初のトピックは、分水界の手前で進行方向右側の道端に残る「8」00mポストだ。小さいものなので、注意していないと見逃してしまう。

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(左)丸山と羽田山の稜線が近づく
(右)分水界の手前に残る「8」00mポスト
 

最初の駅、雨引(あまびき)へは岩瀬から4.7kmと、駅間が最も長い。しかし分水界を越えれば緩やかな下り坂で、漕ぎ始めでもあり、難なく到達した。旱魃時の雨乞いにその名をちなむ雨引観音が近くにあるが、霊験あらたか過ぎて、空はずっと低いままだ。駅跡の苔むした相対式ホームも、その上で見ごろを迎えた大きな桜の木も、そぼ降る雨に濡れている。一角にある自転車道の雨引休憩所でしばし足を休めた。

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雨引駅跡
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(左)相対式ホームが残存
(右)自転車道の休憩所を併設
 

東飯田(ひがしいいだ)駅跡では、北側のみごとなシダレザクラの下で、石材店の灯篭たちも世間話に花を咲かせているようだった。残された短い単式(片面)ホームには、ソメイヨシノの太い幹が立ち並ぶ。

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東飯田駅手前のシダレザクラと石灯籠
 

筑波連山第二の高峰、標高709mの加波山(かばさん)を左に眺めながら、春の野を走っていく。樺穂(かばほ)駅の相対式ホームが見えてきた。頭上は枝を大きく広げた桜並木だが、足元に作られたささやかなスイセン畑もまた気持ちを和ませる。

1km先の右側に、風化が進んでいるものの「31」の数字が読み取れるキロポストが立っていた。自転車道の公式サイトでも取り上げられているが、おそらく沿線に残る唯一のものだ。

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加波山の山腹をヤマザクラが彩る
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(左)樺穂駅跡
(右)沿線に唯一残るキロポスト「31」
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
樺穂~常陸桃山間
 

10時30分ごろ、真壁(まかべ)に到達。現役時代は2面3線を擁した主要駅の一つで、今も進行方向右側に単式ホーム、中央にゆったりとした島式ホームが残存する。その上のソメイヨシノは、通過してきた駅跡の中では最も巨木で、枝ぶりも貫禄十分だ。

大出さんは、時代の雰囲気が感じられるという駅前を見に行った。私は私で、ホーム端のサイクルスタンドに描かれたキハ461(下注)のイラストに目を留めた。雨がやや強まってきたので、休憩所のあずまやで小止みになるのを待つ。

*注 現物は国鉄時代のキハ04形に復元され、さいたま市の鉄道博物館で展示されている。

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真壁駅の貫禄あるソメイヨシノ
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キハ461が描かれたサイクルスタンド
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真鍋車庫に留置されていたキハ461、後ろはキハ541
(1987年3月、大出さん提供)
 

再び出発すると、左手の小山の奥に、雨に煙りながらも特徴的なこぶをもつ筑波山が姿を現し始めた。ルートは早や中盤にさしかかっている。

旧県道の踏切跡を横断すると、左カーブの途中に次の常陸桃山(ひたちももやま)駅跡があった。単式ホームは他とは違ってのっぺらぼうで、無粋な防草シートで隙間なく覆われている。住民から苦情でもあったのだろうか。代わりに土浦方では、自転車道に並行して、桜並木の砂利道が学校校地との境をなしていた。

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雲間から姿を見せた筑波山
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常陸桃山駅跡
(左)防草シートで覆われたホーム跡
(右)土浦方、自転車道に並行する桜並木
 

紫尾(しいお)駅跡では、相対式ホームの間を自転車道が通り抜けていく。右側のホームがやや荒れ気味なので、晩年は使われていなかったのかもしれない。ここのサクラは遅咲きの品種なのか、多くがまだつぼみの状態だった。紫尾と書いて、しいおと言うのは難読だが、付近の地名表記は「椎尾」だ。

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(左)紫尾駅跡のサクラは遅咲き?
(右)田園地帯を貫く自転車道
 

細かい雨をものともせず、田園地帯を飛ばしていった。筑波山の山塊が西に張り出しているので、ルートも西に膨らみ、桜川(さくらがわ)の河原に接近する。山脚を回って少し行くと、今度は左から県道つくば益子線が合流してきた。この先約1.8kmの間、県道が廃線跡を上書きしているため、自転車道はその側道に納まらざるを得ない。酒寄(さかより)駅跡はすぐだが、車道工事で撤去されてしまったか、痕跡はなさそうだった。

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(左)県道との合流地点(北望)
(右)酒寄駅跡と思われる地点(北望)
 

県道の右側を走っていたので、上大島(かみおおしま)駅の跡はあいにく見逃してしまった。車道が少し広がった地点の左側の民地にホームの一部が残っているらしいが…。ちなみに、上大島はつくば市(旧 筑波町)の地名だが、駅付近に市界が通っていて、駅舎は桜川市(旧 真壁町)側にあった。時刻は11時半、少し早いが休憩を兼ねて、近所の中華料理店で昼食にする。

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(左)駅跡から400m南にある上大島バス停
(右)上大島の南で廃線跡は再び自転車道に
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
上大島~筑波間
 

腰を上げたのは12時10分、さいわい雨も上がったようだ。上大島の集落を抜けると、廃線跡から県道が離れていき、再び専用の自転車道になる。道の両側にサクラやハナモモの花回廊が延々と続いていて、さっと通過してしまうのはもったいないほどだ。

自転車道の横に、巨大なハンドマイクのような見慣れない標柱が立っていた。説明板によると、測量機器の性能を点検するために国土地理院が設置した比較基線場という施設の一部だ。つくばは国土地理院のホームグラウンドだから、見慣れない測距標があっても不思議ではない。

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(左)サクラやハナモモの花回廊が続く
(右)比較基線場の巨大な標柱
 

2.7km走って、筑波(つくば)駅跡に到達。鉄道の現役時代は筑波山の玄関口だったところで、今回のルートのほぼ中間地点でもある。真壁と同じく2面3線の構造をもつが、大半が駐車場などに転用済みで、今も見られるのは島式ホームの土浦方だけだ。しかも両側に広い階段がつき、上屋も更新されるなど、かなり改造されている。

だが特筆すべきことに、他の駅でとうに失われた駅舎がここには残っている。路線バスを運行している関東鉄道が営業所として使ってきたからだ。バス乗り場の看板は「筑波駅」から「筑波山口」に書き換えられているものの、構内より駅前のほうが当時の面影をとどめているようだ。筑波山の方向に大鳥居が見通せる風景も、昔と変わらない。

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筑波駅跡
(左)標柱のある南端から北望
(右)改造甚だしい島式ホーム
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(左)旧 筑波駅舎は健在、駅の看板は「筑波山口」に
(右)駅前風景、正面に大鳥居、筑波山は雲の中
 

筑波駅を出て土浦方に、りんりん道路さくらの会による「りんりんロード桜並木発祥の地碑」が建っていた。碑文によれば、植栽を始めたのは平成10(1998)年だそうだ。25年の時を経て、沿道の木々は立派に育った。全線にわたって花見が楽しめるような廃線跡は他にないだろう。

次の常陸北条(ひたちほうじょう)へは4.4kmと、岩瀬~雨引間に次いで駅間距離が長い。ただし、戦前はこの間に常陸大貫(ひたちおおぬき)という駅が存在した。跡地には現在、バス停の待合室のような休憩所が設けられている。右手に再び県道が寄り添ってくるが、今度は合流しないまま、またいつしか離れていった。

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(左)りんりんロード桜並木発祥の地碑
(右)常陸大貫駅跡の待合室風休憩所(北望)
 

広い島式ホームが残る常陸北条(ひたちほうじょう)は、北条の町並みの南縁にある。町は、筑波山神社に向かう「つくば道」の分岐点で、鉄道が開通するまで参詣客で栄えていた。

せっかくなので、花見どころで有名な北条大池に寄り道した。駅の東1kmにある溜池を縁取る形で、約250本のサクラが植えられている。あいにくまだ曇り空だが、薄紅色の花綱になって、背後の山々とともに静かな水面に映る姿はみごとだった。

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(左)自転車道は県道505号線
(右)常陸北条駅跡
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北条大池の桜堤
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
常陸北条~常陸小田間
 

自転車道に戻って、南下を続ける。開放的な田園風景を直線で突っ切った後、自転車道は小田の町に取り込まれていく。常陸小田(ひたちおだ)駅跡は、戦国時代までに築かれた小田城の広大な曲輪の中に位置している。残された相対式ホームで出迎えてくれたのは、紅色もあでやかなシダレザクラだった。

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常陸小田駅跡
(左)シダレザクラが出迎える
(右)ホーム跡、背後の建物は小田城址の案内所
 

駅の南には内堀に囲まれた本丸跡があるが、鉄道はそれを対角線で貫いていた。廃線後、この区間は埋め戻され、歴史ひろばとして周辺と一体的に復元された。そのため自転車道は、土塁の外側を内堀に沿って迂回している。北側の旧線が通っていた位置に設けられた出入口から入って、公園化された本丸跡をしばしの間見て回った。雲間から薄日がこぼれて、まだ枯草色の園地を鮮やかに浮かび上がらせる。

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迂回する自転車道
(左)北側正面が本丸跡の出入口
(右)南側を土塁上から望む
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小田城址本丸跡
鉄道は左手前から中央奥の木立の方向へ延びていた
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内堀に沿う自転車道
 

自転車道は、本丸跡の南で再び廃線跡に復帰する。しばらく行くと、県道53号つくば千代田線の高架橋があり、内壁にキハ460形とTX電車が虹の橋を渡る壁画が描かれていた。TX(つくばエクスプレス)の開業は2005年なので、両者が同時に稼働することはなかったはずだが、もしかするとTXに追われて気動車が退場していくシーンなのだろうか。

その先では、つくば市と土浦市の境界を示す白看が立っている。周辺では両市の境界が複雑に入り組んでいるが、廃線跡を横断するのはここだけだ。

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(左)県道の橋台に描かれたキハ460形とTX電車
(右)つくば市と土浦市の境界を通過
 

田土部(たどべ)駅跡には、コンクリートで固めた単式ホームがぽつんと残っていた。この後、自転車道は桜川の沖積低地を貫いて、小気味よいほど一直線に進んでいく。桜並木も相変わらず続いているが、樹齢はまだ若く見える。

2.2km走って、常陸藤沢(ひたちふじさわ)駅。相対式ホームの上のサクラの南には、背の高いケヤキの並木があった。構内は広く、雨引などと同じように自転車道の休憩所が設置されている。土浦方に、筑波駅と同じ意匠で「藤沢駅」と刻まれた碑があるが、地元でそう呼ばれていたとしても、ここは正式名で記してほしいものだ。

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(左)田土部駅跡
(右)樹齢の若い桜並木
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常陸藤沢駅跡
(左)南端の「藤沢駅」標柱とケヤキ並木(北望)
(右)ホームにはサクラが植わる
 

東側の台地が桜川のほうに張り出す地点が坂田駅の位置だが、ホームは撤去されてしまったようだ(下注)。常磐自動車道の下をくぐると、虫掛(むしかけ)駅跡。観察した限りでは相対式ホームのうち、上り線側しか残っていない。また、その一部は、線路部分にまで掛かる藤棚が設置されていた。ルート案内図の傍らに立つ「つくばりんりんロード旧虫掛駅跡地」の標柱も、他では見られないものだ。

*注 自転車道の東側を通る県道小野土浦線沿いに、坂田駅の駅名標が移設されているという。

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(左)坂田駅跡付近(北望)
(右)虫掛駅跡のホームは上り線側のみ残存
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(左)他駅にはない虫掛駅跡の標柱
(右)藤棚が掛かるホーム
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
虫掛~土浦間
 

国道6号土浦バイパスと立体交差するころには、右手が工業団地になるが、桜並木はまだ続いている。市街地に入り、6号旧道(現国道125号)を横断したところで、忘れられたように残る新土浦駅の低い単式ホームを見つけた。

その土浦駅方(東側)は真鍋(まなべ)信号所跡で、関東鉄道の本社やバス車庫に転用されている。大出さんが、沿道に低い縁石が並んでいるのを目ざとく見つけた。1959年に新土浦駅が開業するまで、信号所の位置には真鍋駅があったというから、そのホーム跡かもしれない。

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(左)市街地に残る新土浦駅跡のホーム(西望)
(右)真鍋駅のホーム跡か?(西望)
 

市街地を貫く新川に臨んで、自転車道はいったん途切れる。川を渡っていた橋梁は撤去されており、橋台などの痕跡も見当たらなかった。市道の神天橋を通って対岸に移ると、自転車道は復活する。市街地を右にカーブしていき、常磐線との短い並行区間を経て、土浦ニューウェイの高架下で、筑波鉄道跡の自転車道は終了した。

返却場所であるりんりんポート土浦に、15時40分に到着。16時の返却予定だったので、なんとか間に合った。

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(左)新川の手前で途切れる自転車道(西望)
(右)常磐線との並走区間(北望)
 

走り終えて思うに、りんりんロードは、舗装が滑らかで、休憩所や交差点のバリアなど付属施設も整備された、高水準の自転車道だ。勾配が険しくないので、脚力に多少自信がなくても走れる。沿線の桜も堪能したから、もはや文句のつけようがない。

しかし、廃線跡として見たときの評価はまた別だ。遺構が、プラットホーム以外ほとんどないのはやむをえないとしても、道端の案内板で路線や駅の歴史に言及していない。それどころか、駅名すらわからないことも多かった。城跡や伝統的町並みに比べて観光要素に欠けるとはいえ、廃線跡も地域の発展に貢献した歴史遺産という点では同じだ。せっかく鉄道用地に通しているのだから、訪れる人にもっとアピールする工夫があってもいいと思う。

最後は、大出さんに提供してもらった1987年3月、廃線直前の筑波鉄道の写真だ。同じ関東鉄道系列の鹿島鉄道(鉾田線)などとともに、非電化ローカル線の鄙びた風情を色濃く持ち続けていたことがよくわかる。

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樺穂駅のキハ301
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筑波~常陸北条間
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常陸藤沢駅
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新土浦駅
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まだ残存していた旧真鍋駅舎
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土浦駅手前、常磐線との並走区間

参考までに、筑波鉄道が記載されている1:25,000地形図を、岩瀬側から順に掲げておこう。なお、一部の図の注記にある「関東鉄道筑波線」は、1979(昭和54)年に行われた分社化以前の名称だ。

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筑波鉄道(関東鉄道筑波線)現役時代の1:25,000地形図
岩瀬~雨引間(1973(昭和48)年修正測量および1977(昭和52)年修正測量)
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同 雨引~真壁間
(1977(昭和52)年修正測量)
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同 真壁~上大島間
(1977(昭和52)年修正測量および1972(昭和47)年修正測量)
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同 上大島~常陸北条間
(1972(昭和47)年修正測量)
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同 常陸北条~田土部間
(1972(昭和47)年修正測量および1981(昭和56)年修正測量)
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同 田土部~虫掛間
(1981(昭和56)年修正測量)
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同 虫掛~土浦間
(1981(昭和56)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宇都宮(昭和55年編集)、水戸(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図岩瀬(昭和48年修正測量)、真壁(昭和52年修正測量)、筑波(昭和47年修正測量)、柿岡、常陸藤沢、土浦、上郷(いずれも昭和56年修正測量)および地理院地図(2023年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
つくば霞ヶ浦りんりんロード https://www.ringringroad.com/

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2023年4月 5日 (水)

コンターサークル地図の旅-臼杵石仏と臼杵旧市街

朝早く延岡のホテルを出て、7時06分発の上り特急「にちりん」2号に乗った。4両編成だが、半車しかない指定席やグリーン席はもちろん、3両を占める自由席車にも空席が目立つ。それでなのか、特急ともあろうにワンマン運転(!)だ。「ご用のある方は停車中に運転士にお申し出ください」と自動アナウンスが流れるが、ほとんど停まらない列車の中では半分冗談のように聞こえる。

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臼杵石仏の代表作、古園石仏
 

宮崎・大分の県境をまたぐ日豊本線延岡~佐伯(さいき)間は、乗り鉄にとってある意味、難所だ。2018年3月のダイヤ改正以来、完走する上り普通列車はわずか2本しかない(下りはさらに厳しく、朝の1本のみ)。延岡を早朝6時10分に発つ列車を逃すと、次の列車は夜の20時台だ。

それで特急利用にせざるをえなかったのだが、優等列車なのに窓が埃まみれで、外の景色はもやがかかったようにかすんでいる。おそらくこの先何度も見ることはないだろう宗太郎(そうたろう)と重岡(しげおか)の峠駅だけ、何とか写真に収めた。

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サミットの駅、重岡を通過
 

臼杵(うすき)駅で昨日のメンバー、大出さん、山本さんと合流する。2023年3月6日、コンター旅2日目は、大分県臼杵市が舞台だ。郊外にある国宝臼杵石仏をバスで訪ねた後、市街地に戻って城下町の見どころを巡る予定にしている。

駅前に出ると、特に有名な古園石仏の原寸大レプリカが設置されていた。ここで見てしまうと気勢をそがれそうだが、周辺の環境も含めた全体像をつかみたければ、現地へ赴くに如くはない。9時07分発の大分行路線バスに乗る。市街地を通り抜け、臼杵川が流れるおだやかな谷を上流へ走って、目的地まで20分ほどだ。

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(左)臼杵駅1番線に到着
(右)駅前にある古園石仏のレプリカ
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臼杵周辺の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年修正)
 

観光地特有の雰囲気をもつ、みやげ物屋や観光案内所が並ぶ広場の一角に、バスは停まった。さっそく窓口で観覧券を買って、通路を奥へ進む。臼杵石仏というのは単体ではなく、山際の露出した崖に彫られた複数の摩崖仏のことだ。平安時代後期から鎌倉時代の作と推定されていて、北に開けた支谷に面して、全部で4か所の群がある。

地質図によれば、この臼杵川一帯には、約9万年前の阿蘇の噴火活動(Aso-4)で生じた火砕流の堆積による溶結凝灰岩の地層が分布している。この岩石は比較的柔らかく、切り出しや細工が容易だ。それで彫像にも適していたのだが、その分、風化しやすいため、現在は保護の目的で中尊寺のような立派な覆堂が架けられている。

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臼杵石仏の覆堂全景
右手前がホキ石仏第二群、奥が第一群、左が古園石仏
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杉林の緩い坂道を上る参拝路
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1:25,000地形図(2倍拡大)に歩いたルート(赤)等を加筆
臼杵石仏周辺
 

順路は支谷のへりを左回りしていた。杉林の緩い坂道を上って、まずはホキ石仏第二群(下注)へ。大小の仏像群が横一列にずらっと並ぶさまは圧巻だ。中央のひときわ大きな阿弥陀様は、丸顔に柔和な表情を浮かべていて、おのずと親しみがわく。その奥に位置するホキ石仏第一群でも、中央に座すのは同じく阿弥陀如来だが、第二群を見た後では共感まで行かない。谷を隔てて向かいには、山王山石仏が彫られている。こちらは見るからに童顔で、幼児の安らかな寝顔を連想させる。

*注 ホキは、ホケ、ハケなどと同じく古い地形語で、崖を意味する。よく知られる四国の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)もこれに漢字をあてたもの。

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ホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像
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(左)ホキ石仏第一群の如来三尊像
(右)山王山石仏
 

尾根の張り出しを回ると、深田の集落を見下ろす高みにもう一つ、お堂がある。駅前で見たあの古園石仏、大日如来像の実物がここに鎮座していた。体躯は恰幅がよく、顔もほのぼのとした横丸形で、安定感とともに気品が漂う(冒頭写真も参照)。かつては頭が落ちて、仏体の前に置かれていたそうだが、修復の際に完全な姿に戻された。

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古園石仏
 

それから、谷の平地に造られた公園を横切って、石仏の作者と伝えられる蓮城法師を祀る満月寺へ。ここには、凝灰岩を彫り出した阿吽2対の木原石仏が置かれている。ホキの石仏とは対照的に、躍動感のある世俗的な作風がおもしろい。

きょうもよく晴れて、朝から日差しのぬくもりが感じられる。帰りのバスの時刻まで、菜の花が見ごろを迎えた園内をのんびりと散策した。

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満月寺境内にある木原石仏

11時05分発のバスで市街地に戻る。中心部まで行かず平清水(ひらそうず)の停留所で降りたのは、龍源寺の三重塔を見たかったからだが、残念なことに修復工事で周りに足場が組まれていた。帰りの電車の時間が3人ともばらばらなので、ここで自由解散として、各自見たい所へ向かった。

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1:25,000地形図(2倍拡大)に歩いたルート(赤)等を加筆
臼杵市街
 

時間のある私は上手に戻り、コンビニで昼食を確保したあと、まず日豊本線上臼杵(かみうすき)駅を見に行った。静かな駅前広場に面して、年季の入った切妻、瓦屋根の木造駅舎が建っている。前に並ぶカイヅカイブキの老木たちは、まるで駅を警護する近衛兵のようだ。

駅はすでに無人だが、なつかしい障子ガラスの嵌った待合室は整然と保たれていた。カラフルな折り鶴の束が、天井から満開の藤棚のように吊り下がる。プラットホームは、正面の階段か横のスロープを上った少し高い位置にある。曲線の途中できついカントがついているため、やってきた電車は大きく傾いた状態で停車した。

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上臼杵駅、古木に護られる木造駅舎
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待合室にカラフルな折り鶴の束が吊り下がる
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電車は傾いた状態で停車する
 

列車を見送った後は少し歩いて、臼杵川の中州にある松島神社へ。境内のある小山は昔、湾奧に浮かぶ臼杵七島と呼ばれた小島の一つだったそうだ。今は市街地と地続きだが、城が築かれている丹生島(にうじま)や、右岸の大橋寺が載る森島もそうだ。神社前を横断する松島橋から上流に目をやると、手前に松島の森と陽光を跳ね返す川面、背後には大橋寺の伽藍の大屋根や蒼い山並みが重なって、しっとりとしたいい景色だった。

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松島橋からの眺め
左の大屋根は大橋寺
 

この後は、旧市街を歩く。まずは八町大路(はっちょうおおじ)の枡形にある石敢當だ。沖縄ではおなじみの、三叉路の突き当りなどに置かれた魔除けの石標だが、本土にもけっこうあるらしい。ちなみに臼杵では、「いしがんとう」ではなく「せっかんとう」と読むそうだ。

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(左)商店街の八町大路
(右)枡形に立つ石敢當
 

南下して、観光ガイドで必ず取り上げられる臼杵の名所、二王座(におうざ)の石畳道をたどる。二王座は、南から張り出す尾根筋に造られた寺町であり、武家屋敷町でもある。お寺の伽藍と白壁の家並みの間を縫うようにして、狭く曲がりくねった坂道と凝灰岩の石垣が続いている。どのアングルを切り取っても絵になるので、カメラをリュックに片付ける間がなかった。

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二王座歴史の道
(左)甚吉坂
(右)坂道に沿って寺院が建ち並ぶ
 

甚吉坂を上ると、切通しと称するサミットに達し、道はそこから下りに転じる。旧真光寺の建物を利用したお休み処を覗いたら、玄関の正面に飾られた華やかな紙製の雛人形が目を引いた。3月初めのこの時期、市内各所で「うすき雛めぐり」という催しが行われている。江戸時代の終わりに臼杵城下で、質素倹約を旨として雛人形は紙製のほか一切が禁じられた。この史実をもとに、近年立ち上げられた観光行事だそうだ。

そういえば、上臼杵駅でも折り鶴とともに、このうすき雛が飾られていた。紙製なので量産できるのが取り柄だが、一体一体、和紙の意匠を変えてあるから、見始めると結構はまってしまう。

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旧真光寺のうすき雛
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和紙の意匠は一体ずつ違う
(久家の大蔵にて撮影)
 

稲葉家の屋敷から移築されたという土蔵の2階で、市街の古写真の展示を見た後は、再び山手へ向かった。見事な石垣と石塀の景観に見入りながら坂を上りきると、二王座の丘の中でも臼杵川の谷が見下ろせる展望地に出る。近くに小さな休憩所も設けられていたが、展望の得られる場所でないのが惜しい。

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二王座の丘からの展望
 

多福寺と月桂寺が載ったお城と見まがう高石垣から引き返して、今度は、造り酒屋の酒蔵をギャラリーに改修したという「久家の大蔵」へ。長い外壁を飾っているアズレージョタイルもユニークだが、中に入ると広い空間がまたカラフルなうすき雛であふれていた。

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(左)多福寺の高石垣
(右)多福寺山門に通じる石段
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(左)アズレージョタイルが貼られた久家の大蔵
(右)内部の展示室にもうすき雛
 

大蔵を突き抜けた街角には野上弥栄子文学記念館が開いていたが、さすがに時間が押してきたので通過する。地元名産、フンドーキン醤油の工場に掲げられた巨大なロゴを川越しに眺めた後、稲葉家下屋敷へ。廃藩置県で東京へ移った旧藩主稲葉家が、里帰り用に1902(明治35)年に建てた屋敷だ。別荘とはいえ、表座敷や奥座敷はゆったりとした造りで、格式の高さもそこここに窺える。下駄をはいて屋敷の庭石伝いに、隣接する江戸期の武士の居宅、旧平井家住宅も覗いてみた。

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(左)野上弥栄子文学記念館
(右)フンドーキン醤油工場
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稲葉家下屋敷の御門
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(左)稲葉家下屋敷玄関の間
(右)旧平井家床刺の間
 

残るは臼杵城址だ。大手口は、多層の石垣の構えと最上部に大門櫓がそびえる姿が美しく、町から仰ぎ見ると存在感がある。しかし、城内は公園と市民広場になっていて、古い建物はほとんど残っていない。上述のとおり、城山は、もと丹生島と呼ばれた標高約20mの島を利用している。西側にある大手口が唯一、堀を隔てて外に通じる出入口で、北、東、南の三方はすべて海に囲まれた要害の地だった。そのことを想像しながら、城址の高みからすっかり市街地化した周囲を俯瞰するのは興味深い。

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臼杵城大手口、最上部に大門櫓
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臼杵城址から市街地の眺め
正面左に多福寺・月桂寺の高石垣、同右奥に二王座の丘
 

駆け足の旅を終えて臼杵駅に戻ってきたのは15時ごろ。臼杵石仏の見学がメインのつもりだったが、変化に富む地形にはぐくまれた市街地も思った以上に魅力的だった。各所で季節の彩りを添えていたあでやかな紙の雛人形とともに、その印象は記憶に残ることだろう。満ち足りた思いを反芻しながら、大分へ向かう15時11分発の「にちりん」に乗り込んだ。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分(昭和52年編集)および地理院地図(2023年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
臼杵石仏 https://sekibutsu.com/
臼杵市観光協会 https://www.usuki-kanko.com/

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2023年3月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-高千穂鉄道跡とトロッコ乗車

2023年コンターサークル-s 春の旅は、いつもとは趣向を変えて、レンタカーやレンタサイクルも活用しながら比較的広範囲を回る。1日目となる3月5日の行先は、宮崎県北部にある高千穂(たかちほ)鉄道高千穂線の廃線跡だ。

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高千穂橋梁を渡る観光列車
 

高千穂鉄道は、1989(平成元)年にJR九州の高千穂線を転換した第三セクターの鉄道だった。日豊本線の延岡駅から神話のふるさと高千穂駅まで延長50.0km、ルートは五ヶ瀬川(ごかせがわ)の渓谷に沿って上流へ延びていた。

このうち延岡~日之影温泉(旧称 日ノ影)間は戦前の1939(昭和14)年までに開通しており、川岸の切り立つ谷壁に張り付くようにして進む。急カーブが頻出するため、列車の速度も一向に上がらなかった。対照的に、1972年に延伸された末端の日之影温泉~高千穂間は、長大トンネルの連続で、線形はいたって良好だ。トンネルを抜けると、峡谷のはるか上空を、日本で最も高い鉄道橋、高千穂橋梁で横断するという一大ハイライトもあった。

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国鉄高千穂線時代の高千穂駅
(1983年3月撮影、大出さん提供)
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国鉄高千穂線時代の高千穂橋梁
(1983年3月撮影、大出さん提供)
 

鉄道はこの風光明媚な車窓が好評で、旅行列車「トロッコ神楽号」が運行されて、地域の重要な観光資源になっていた。その日常風景を突然暗転させたのは、2005年9月に襲来した台風だった。大水で五ヶ瀬川に架かる複数の鉄橋が流出するなど、施設に大きな被害を受け、鉄道は全面運休を余儀なくされた。そして復旧費用を調達する見通しが立たないまま、最終的に2008年末に全線廃止の措置が取られたのだ。

その後、高千穂駅を拠点に一部区間が鉄道公園化された。新たに設立された高千穂あまてらす鉄道(当初は神話高千穂トロッコ鉄道)が、2010年からここで観光列車を走らせている。標題では「トロッコ乗車」としたが、現在の車両はグランド・スーパーカートが正式名だ。あくまで公園遊具の扱いながら、なかなかの人気らしく、1日あたり10便、繁忙期には12便もの設定がある。

事前予約はできない(下注)ので、私たちの旅程も座席の確保が優先だ。延岡からクルマで高千穂に直行してこれに乗車し、その後、廃線跡をたどりながら延岡に戻ろうと思っている。

*注 当日、駅窓口で、空席のある後続便を指定することは可能。

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供用中のグランド・スーパーカート
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図1 国鉄高千穂線時代の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年修正)

朝10時、延岡駅に集合したのは大出さんと初参加の山本さん、それに私の3名。赤いマツダ・デミオのレンタカーで市内を後に、国道218号を西へ向かう。一部供用済みの九州中央自動車道(通行無料)を含め、深い谷間を何度もまたぐ立派な道路が、高千穂の町まで続いている。かつてディーゼルカーが1時間20分かけていた距離を、クルマはその半分の40~45分で走破してしまう。残念だが、これではローカル鉄道の存在意義はないに等しい。

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(左)高千穂駅舎
(右)出札窓口、掲示の時刻表は営業運転時代のもの
 

高千穂駅には11時前に到着した。ちょうど先行列車が発車するところだったので、線路をまたぐ道路橋の上から見送る。それから駅の窓口へ行き、次の11時40分発の乗車券(1500円)を購入した。休日とあって、その間にも次々と客が入ってくる。

乗り込むまでにしばらく時間があるが、構内を自由に見学できるから退屈することはなかった。高森方にある2線収容の車庫は鉄道博物館のようなもので、かつて営業運転で使用されていた2両の気動車(TR-101、TR-202)が残されている。私はその前に置いてある保線用のカートに目を止めた。

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高千穂駅構内
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(左)車庫のTR-202
(右)見覚えのある保線用カートも…
 

これには見覚えがあった。2011年に家族旅行で訪れたときに乗ったものだったからだ。今の盛況ぶりからは想像しがたいが、当時は保存鉄道開業からまだ間もなく、注目度も高くなかったように記憶する。高千穂峡のボートを楽しんだ後、立ち寄った道の駅で偶然、運行案内を見かけなければ、存在を知らないまま町を後にしていただろう。駅へ行くと、夏休みの土曜日というのに、客は私たちだけだった。

車両は当時からスーパーカートと呼ばれていたが、実態は、汎用小型エンジンを搭載した台車の前に、リヤカーの荷台のような付随車をつけただけの軽量編成(!)だ。走り始めると、車輪の振動がお尻にじかに伝わるワイルドな乗り心地で、トンネルの中ではエンジンの轟音が反響して話し声はまったく聞こえない。大鉄橋はまだ通行できず、手前の天岩戸(あまのいわと)駅で休憩して折り返す、片道2.2km、往復30分のコースだった。

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2011年に見た案内掲示
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天岩戸駅に到着、中央は運転士さん
(2011年7月撮影)
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機回しはなく、復路は台車が前に
(2011年7月撮影)
 

現在運行中のグランド・スーパーカートは全長25mある。空港で見かけるようなトーイングトラクターを改造したという動力車に続いて、30人乗りロングシートのオープン客車が2両、最後尾に復路用の動力車というプッシュプル編成だ。名称の豪華な響きに釣り合うかどうかはともかく、10数年前に比べればずいぶん進化している。実際、乗り心地も悪くなく、エンジンの音も特に気にならない。

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グランド・スーパーカートで高千穂駅を出発
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と観光列車の走行ルート等を加筆
  高千穂駅周辺
 

列車は定刻に発車し、片道約2.5kmのルート(下注)を時速15km以内でゆっくり走っていった。往路は25‰の下り坂だ。2本の短いトンネルでは、動くイルミネーションが天井に投影されて、乗客の目を引いた。天岩戸駅は通過し、大鉄橋のたもとでいったん停止。風速計で安全を確認したのち、おもむろに橋上に出ていく。「携帯電話や貴重品などは仮に落とされても取りに行けませんので、ご了承ください」とアナウンスがある。

*注 2.5kmは図上実測値。公式サイトに記載されている「距離5.1km」は往復の長さだろう。

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(左)トンネルが迫る(帰路写す)
(右)天井には動くイルミネーション
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(左)天岩戸駅を通過
(右)風速確認の後、橋上へ
 

高千穂鉄橋は、岩戸川の峡谷をまたぐ長さ354m、高さ105mの壮大な上路ワーレントラス橋だ。足もとには、起こしたばかりの田んぼが載るテラス(緩斜面)が見え、その先に底の見えない千尋の谷が口を開けている。線路の両側に並行する保線用通路が緩衝帯になっているとはいえ、スマホをかざす指先におのずと力が入る。

中央部まで来ると、列車は5分ほど停まり、またとない絶景を鑑賞する時間を乗客に提供してくれた。停車中は座席から立ち上がることが許される。運転士が手に持つシャボン玉発生器から、虹の水玉が勢いよく空中に飛び出していく。きょうはよく晴れて暖かく、絶好の行楽日和だ。再び動き出すと、列車は橋を渡り終え、大平山(おおひらやま)トンネルの閉鎖されたポータルの手前ですぐに折り返した。

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高千穂橋梁の上から北望
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(左)シャボン玉が放たれる
(右)大平山トンネルの手前で折り返し
 

高千穂駅に戻った後は、クルマで高森方向へ3km地点にある「トンネルの駅」と隣接する「夢見路公園」に寄り道した。かつて高千穂線はさらに西へ進み、分水嶺を越えて熊本県側の高森線(現 南阿蘇鉄道)と接続することをめざしていた。だが、1980年の国鉄再建法成立により工事は凍結され、この区間はそのまま未成線となった。

トンネルの駅、夢見路公園はその一部を利用した施設で、前者は神楽酒造という酒造会社が運営している。ひときわ目を引くのが、国道から見上げる高さの高架橋上に鎮座する8620形蒸気機関車48647号だ。お召列車を牽いた経歴をもつそうで、日の丸の小旗を脇に差している。もちろん静態保存だが、今にも走り出しそうな雰囲気が頼もしい。「駅」の入口には、ブルーに再塗装された高千穂鉄道の観光用気動車TR-300形(TR-301、TR-302)もいた。

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未成線の高架橋に載る蒸機48647号
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ハチロクと向かい合うTR-300形
 

ハチロクが載る高架橋の高森方では、公園化された築堤に続いて、閉鎖された第一坂の下トンネルのポータルが見える。一方、高千穂方は整地されて駐車場や売店になっているが、山際に開けられた葛原(かずはら)トンネルが、酒造会社により焼酎の貯蔵庫に利用されている。内部も見学可能で、坑内にはスピリッツのかぐわしい香りが充満していた。

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葛原トンネルは焼酎の貯蔵庫に
 

昼食は、あらかじめ目をつけていた雲海橋のたもとのレストランにて。橋の上の歩道は、さきほど列車で渡った高千穂橋梁が遠望できる絶景スポットだ。13時発の列車が来るのを待ち、鉄橋をゆっくり往復するのを最後まで見届けた(冒頭写真も参照)。

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(左)国道218号の雲海橋
(右)雲海橋から高千穂橋梁を遠望

この後は延岡まで、主な旧駅の痕跡を訪ねる。雲海橋の東のたもとで右に折れて、国道218号を東へ。一つ目は、スーパーカートが折り返したあの大平山トンネルを抜けた先にある深角(ふかすみ)駅だ。

国道を離れ、急坂の狭い林道を降りていくと、やがて駅跡に突き当った。見ると、プラットホームの駅名標、単線の線路、山小屋風の待合室と、すべてが現役当時のままだ。待合室には、平成16年3月13日改正の注記をもつ時刻表・運賃表さえ掲げられている(下注)。峡谷の崖の上の、周囲に人家もないさびれた秘境駅を想像していたから、意外だった。

*注 平成16年=2004年は運休の前年。駅の発車時刻表はここに限らず、待合室や駅舎が残る駅跡の多くに掲げられていた。

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現役当時のままの深角駅
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当時の列車時刻表
 

大平山トンネルのほうへ歩くと、手前にある短いトンネル(深角トンネル)の中に木造の手押しトロッコが留め置かれていた。これも2011年の訪問時に高千穂駅で見たものだ。構内には桜の木が植わっていて、満開になる季節には地元有志の手で試乗会が開かれているらしい。

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(左)トンネルに留置された手押しトロッコ
(右)2011年夏は高千穂駅にあった
 

次の影待(かげまち)駅は本物の秘境駅で、アプローチは山道しかなく、駅跡も藪化しているようなので、迷うことなくパスした。日之影川の谷を渡る青雲橋の手前で国道から離れ、谷底へ向かう道を降りていく。目の前をオレンジ色のガーダー橋、日之影川橋梁が横断している。振り返ると、青雲橋の空にかかる虹のような優美なアーチが重なって壮観だ。

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日之影川橋梁の後ろに青雲橋のアーチが重なる
 

日ノ影線時代の終点だった日之影温泉(ひのかげおんせん)駅(下注)は、町の中心部から少し下流に位置する。もとの構内は整理済みで、TR-100形気動車2両(TR-104 せいうん号とTR-105 かりぼし号)が列車ホテルに改造されて、仲良く並んでいる。温泉施設を兼ねていた駅舎は日之影温泉として今も営業中で、土産物売り場の横には、うれしいことに高千穂線に関する鉄道資料室があった。

*注 国鉄時代は日ノ影駅と称していた。三セク移管後の1995年に改称。

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日之影温泉駅
(左)列車ホテルになったTR-100形
(右)温泉施設を兼ねた旧駅舎
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駅舎内にある鉄道資料室
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  日之影温泉駅周辺
 

日之影温泉を出た鉄道は、まもなく五ヶ瀬川を斜めに横断して、対岸に渡っていた。この第四五ヶ瀬川橋梁は台風で被災しなかったが、後に撤去されて、橋台しか残っていない。その先、河道の屈曲に従ってクランク状に通過する個所では、連続アーチの高架橋(第一及び第二小崎橋梁)が対岸の道路から望見できる。

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連続アーチの小崎橋梁
 

吾味(ごみ)から日向八戸(ひゅうがやと)、槇峰(まきみね)までの3駅間は、廃線跡がハイキングルート「森林セラピー TR鉄道跡地散策コース」として整備されている(下注)。高千穂線跡で唯一、ふつうに歩ける区間なので、吾味駅前にクルマを置いて訪ねてみることにした。全長約4kmあり、往復すると2時間近くかかるから、1.4km地点の日向八戸駅で折り返すショートコースにする。

*注 現地の看板は吾味駅~槇峰駅間になっていたが、2023年現在の公式サイトでは吾味駅~八戸観音滝とされている。

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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  吾味~槙峰間
 

出発点の吾味駅は、線路跡が舗装道になっているものの、ホーム上の三角屋根をつけた待合室が在りし日を偲ばせる(下注)。それに続くのが、コース最大の遺構で、重要文化財にも指定された第三五ヶ瀬川橋梁だ。長さは268m、中央部が上路ワーレントラス、両端の橋脚にはコンクリート製の方杖(ほうづえ)を使用したユニークな構造で、平面形は半径200mの急曲線を描いている。下流にある星山ダムの湛水域に含まれるため、川岸までたっぷりと蒼い水が満ちているのも趣を添える。

*注 下流側にあるよく似たデザインの建物は、ハイキングコースのために新設された休憩所。

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吾味駅跡
壁面は改装されているものの待合室も健在
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第三五ヶ瀬川橋梁はハイキングコースに
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橋梁側面
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現地の案内板
 

橋梁を渡りきると、短いトンネルを介して日向八戸駅の手前までレールが残されていた。線路の片側に土を盛ってあるので、歩くのに支障はない。日向八戸駅も同じく、線路跡は舗装道になっているが、ホームや駅名標とともに、駅舎を兼ねていた立派な公民館が健在で、廃線跡にはとても見えない。

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(左)レールも残る吾味~日向八戸間
(右)トンネルの反対側(西望)
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(左)日向八戸駅の手前レールは途切れる
(右)廃線跡とは思えない日向八戸駅
 

クルマに戻り、ハイキングコースの残り区間にある八戸観音滝の高架橋と樺木トンネル(長さ247m、下注)のポータルを見て、槙峰駅跡へ。ここもレールが剥がされ草地になっているものの、切妻屋根の駅舎とホームはしっかり残っている。

*注 樺木トンネルはカーブしているうえ、照明がないので、通行には懐中電灯が必須。

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(左)八戸観音滝入口の高架橋
(右)樺木トンネル西口
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槙峰駅舎とホーム
 

それ以上に注目すべきは、駅の下手で支流の綱の瀬川(つなのせがわ)を渡っているコンクリートアーチの綱ノ瀬橋梁だ。川岸に張り出した長い高架区間を前後に従えているため、全長418m、43連アーチという、旧日ノ影線区間では最大規模の構造物になっている。背後の谷には国道槙峰大橋ののびやかな大アーチが架かっていて、新旧共鳴する絶景に思わず息をのむ。

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綱ノ瀬橋梁と槙峰大橋
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綱ノ瀬橋梁の下流部
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現地の案内板
 

廃線跡の見どころはおおむねここまでだ。すでに陽が傾きつつあり、後はよりテンポよく進めていきたい。列車を再び対岸に渡していた第二五ヶ瀬川橋梁は台風で損壊し、残骸もすでに撤去済だ。次の亀ヶ崎(かめがさき)駅はクルマでは容易に近づけないので、さっそくパスした。

早日渡(はやひと)駅も対岸だが、道路橋を渡れば駅前までクルマがつけられる。駅跡は桜の名所になっているが、旅客用ホームはすでに撤去され、貨物用と思われる古い石積みホームが残るばかりだ(下注)。構内に建つプレハブは公民館だそうだが、内部に駅名標と駅の発車時刻表が掲げてあるのが、窓ガラス越しに見えた。

*注 撤去計画(高千穂線鉄道施設整理事業)は高千穂鉄道の施設が対象のため、同 鉄道が使用していなかった国鉄時代の遺物は撤去を免れたもよう。

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早日渡駅跡
(左)公民館の中に駅名標が
(右)残るは旧貨物ホームのみ
 

上崎(かみざき)駅も対岸にあるが、同じように橋を渡ってのアプローチが可能だ。菜の花咲く廃線跡と、簡素なホームと待合室に、ローカル線ののどかな面影を求めることができる。

川水流(かわずる)駅の手前で、鉄道はまた川を渡ってこちら側に移っていた。第一五ヶ瀬川橋梁は水害に遭い、前後の築堤を残して撤去された。川水流駅跡もすでに更地化されてしまったようだ。

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上崎駅跡
(左)ローカル線の面影を残す
(右)駅の下流側、線路跡の農道が続く
 

トンネルを抜けた谷あいにあった曽木(そき)駅は、集落の中に木造の駅舎が残るものの、線路跡は畑などに還っている。

吐合(はきあい)駅は、曽木川が五ヶ瀬川に合流する地点の山手に設けられたが、すでに民地に戻されたようだ。駅へ上る細道は金網で封鎖され、近づくことができなかった。

日向岡元(ひゅうがおかもと)駅と細見(ほそみ)駅跡は、ともに道路に転用されてしまっており、クルマの窓から見るにとどめる。

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(左)駅舎のみ残る曽木駅跡
(右)吐合駅跡は民地に(金網越しに撮影)
 

この後、鉄道跡は国道とともに五ヶ瀬川の谷から離れる。行縢(むかばき)駅跡は、早日渡同様、撤去を免れた旧貨物ホームに桜の木が大きく育っていた。単式だった旅客ホームや線路はすでになく、緑の草地が広がるばかりだ。

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(左)行縢駅跡も古いホームのみ残存
(右)東九州自動車道と交差する廃線跡(行縢~西延岡間)
 

最後の西延岡(にしのべおか)駅跡にたどり着いたときには、もう18時を回っていた。今日の宮崎の日没時刻は18時15分だが、すでに陽は西の山かげに隠れ、あたりに夕闇が忍び寄る。

ここはもう延岡の郊外だが、うれしいことに駅は現役時代の姿を保っていた。駅舎はもともとなかったのだが、ホームには色褪せながらも駅名標が立ち、PCまくらぎを敷いた線路もまだ使えそうだ。駅前に建っている風格ある切石積みの倉庫も、鉄道貨物の関連施設に見える。駅が無傷なのは地元の要望によるものらしいが、そのおかげで、高千穂からたどってきた廃線跡の旅の、申し分ない終着地になった。

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現役時代の姿を保つ西延岡駅跡
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(左)西延岡駅前の石造倉庫
(右)倉庫は国鉄時代から存在(1983年3月撮影、大出さん提供)

西延岡と延岡の間で、高千穂線は市街地を避けるように北に迂回していた。この間には3本の短いトンネルもあった。今朝、集合時刻までに一部を徒歩で見に行ったので、本稿の続きに報告しておきたい。

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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  西延岡~延岡間
 

西延岡駅から東1km強の区間は、一部を除いて路盤が明瞭だ。レールが撤去された区間でもバラストは残っている。しかし、古川町地内では大規模な土地造成が進行中で、西延岡から数えて最初のトンネル(赤尾トンネル)は、地山ごと消失して平地になっていた。

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古川町地内
(左)バラストが残る廃線跡(西望)
(右)踏切の先のトンネルは地山ごと消失(東望)
 

延岡西環状線と交差した先にある第二のトンネル(山田トンネル)の前後はすでに藪化していて、近づけない。

旭中学校裏から第三のトンネルの間は路盤のバラストが残るが、住宅地に面しているので、そのうち舗装道に変わってしまいそうだ。第三のトンネルは無傷だが、入口にはフェンスが講じてある。

これを抜けると線路跡は、延岡駅へ向けて南へ大きくカーブしていく。駅の手前まで続いていた築堤は、今やトンネル東側と旭小学校裏に一部残るだけだ。あとは旧国道10号に架かっていたガーダー橋を含めてすっかり撤去されてしまい、駐車場などに姿を変えている。

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旭中学校裏に残る築堤と擁壁
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第三のトンネルは残存するものの通行不可
左写真は西側から、右写真は東側から撮影

最後に、国鉄高千穂線が記載されている1:25,000地形図を、高千穂側から順に掲げておこう。

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高千穂線現役時代の 1:50,000地形図
高千穂~大平山トンネル間(1974(昭和49)年修正測量)
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同 大平山トンネル~日ノ影間
(1974(昭和49)年修正測量および1978(昭和53)年改測)
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同 日ノ影~槙峰間
(1978(昭和53)年改測)
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同 槙峰~上崎間
(1978(昭和53)年改測)
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同 上崎~日向岡元間
(1978(昭和53)年改測)
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同 日向岡元~行縢間
(1978(昭和53)年改測)
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同 行縢~延岡間
(1978(昭和53)年改測)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分、延岡(いずれも昭和52年編集)、2万5千分の1地形図大菅、三田井(いずれも昭和49年修正測量)、同 延岡北部、延岡、行縢山、川水流、日之影、宇納間、諸塚山(いずれも昭和53年改測)および地理院地図(2023年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高千穂あまてらす鉄道 https://amaterasu-railway.jp/

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2023年1月12日 (木)

コンターサークル地図の旅-亀ノ瀬トンネル、斑鳩の古寺、天理軽便鉄道跡

2022年11月6日、秋のコンターサークル-s 関西の旅2日目は、いつになく多彩な旅程になった。

午前中は、国交省の近畿地方整備局大和川河川事務所が開催している「亀の瀬地すべり見学会」に参加して、地中に眠る旧 大阪鉄道(現 JR関西本線)の亀ノ瀬トンネルを見学する。地滑りでとうに崩壊したと思われていたが、排水トンネルの建設中に偶然発見されたという奇跡の遺構だ。

午後は奈良盆地に戻り、秋たけなわの斑鳩(いかるが)の里で、法隆寺をはじめ、近傍の古寺を巡る。その後、天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡まで足を延ばしたので、結果的には分野が鉄道系に傾いたことは否めないが…。

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地中に眠る旧大阪鉄道亀ノ瀬トンネル
大阪側から奈良側最奥部を望む
掲載写真は、2022年11月のコンター旅当日のほか、2020年9月~2022年11月の間に撮影
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秋たけなわの法起寺三重塔
 
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図1 今回訪問したエリアの1:200,000地勢図
2012(平成24)年修正

朝9時07分、関西本線(以下、関西線という)の三郷(さんごう)駅前に集合したのは、昨日のメンバー(大出、木下親子、私)に浅倉さんを加えて、計5名。さっそく大和川(やまとがわ)に沿う県道の側歩道を下流に向かって歩き始めた。住宅街を通り抜け、谷が狭まる手前で、龍田古道(たつたこどう)と標識に記された山道に入る。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
三郷駅~河内堅上駅
 

龍田古道というのは、飛鳥~奈良時代に大和(現 奈良県)に置かれた都と河内(現 大阪府)を結んでいた官道のことだ。しかし、1300年も前の話なので、「地すべり地である亀の瀬を越える箇所については大和川沿いの道のほか、(北側の)三室山・雁多尾畑を抜ける道など、幾つかのルートが考えられて」(下注)いるという。

*注 奈良県歴史文化資源データベース「いかすなら」 https://www3.pref.nara.jp/ikasu-nara/ による。

奈良から大阪へ府県境を越え、森に覆われた急な坂道を上っていく。峠八幡神社の前を過ぎ、下り坂が2車線道に合流するところで、「亀の瀬地すべり資料室」のプレハブ建物が見えてきた。

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(左)峠八幡神社と地蔵堂
(右)龍田古道の細道
 

10時の開館まで少し時間がある。その間、下流に見えている関西線の第四大和川橋梁を観察した。全長233mのこの鉄橋は川と浅い角度で交差していて、中央部の橋桁が、川の上に渡されたトラスで支えられているのが珍しい。竣工は1932(昭和7)年だが、これこそ亀の瀬を通過する交通路にとって宿命の、地滑りを避けるための緊急対策だった。

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第四大和川橋梁を亀の瀬から遠望
橋桁を直交トラスが支える
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下流(大阪)側から見た橋梁
浅い角度で川と交差
 

資料室に入り、受付を済ませた後、ビデオと展示パネルで、当地の地滑りの実態と対策について学んだ。それによると…、

この一帯は生駒(いこま)山地の南端で、大和川の谷が東西に貫通している。右岸(北岸)には数百万年前、北側にあった火山の新旧2回の噴火で流れ出た溶岩が堆積していて、新旧の境目には、風化などで粘土化した地層が挟まっている。これが地下水を含んで、厄介な「滑り面」になる(下図の赤い破線)。

上に載る新溶岩の層は厚くて重く、谷に向かって傾斜している。そこに、河岸浸食や南側の断層帯の活動などが重なって、たびたび地滑りを起こしてきた。大和川の流路が南に膨らんでいるのもその影響で、明治以降に限っても、大規模な地滑りが3回発生している(下注)。

*注 1903(明治36)年、1931~33(昭和6~8)年、1967(昭和42)年に発生。

滑った土砂は河道をふさぐ。大和川は、奈良盆地に降った雨水が集まる主要河川だ。閉塞によって上流側が浸水するのはもとより、満水になった土砂ダムが決壊すれば、下流の大阪平野にも甚大な被害をもたらすことになる。

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亀の瀬の地質と地形構造
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
 

そのため、1962(昭和37)年から大規模な対策工事が進められてきた。

一つは地滑りを食い止める杭打ちだ。直径最大6.5m、最深96mもある深礎工を滑り方向に直交する形で多数配置して、いわば地中に堰を造っている(下図の「深礎工」)。二つ目に、滑りやすい表土を除去する(同「排土工」)。三つ目には、井戸と排水路を地中に張り巡らせて、地下水位を低下させる(同「集水井」「排水トンネル」)。

数十年にわたる集中的な対策が効果を発揮して、今では土塊の移動がほとんど観測されなくなっているという。

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対策工事全体配置図(同上)
 

この後、ボランティアの方の案内で、排水トンネルを実際に見学した。まずは資料室の上手にある1号トンネルへ。床の中央に設けられた浅い水路から、絶えず地下水が流れ出ている。天井に巨大な穴がぽっかり開いているのは先述の深礎工で、地滑り地帯全体で170本並んでいるものの一つだ。

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1号排水トンネル坑口
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1号トンネル内部
(左)水路には絶えず水流が
(右)巨大な深礎工
 

地上に戻り、今度は道を下って、7号トンネルに移動した。こちらは1号よりも内径が小さい。内部を進んでいくと、まもなく斜めに交差している坑道が現れた。これが、長年の封印が解かれた亀ノ瀬トンネルだった。

左手(大阪側)はすぐに行き止まりになるが、右手(奈良側)は奥が深い。手前は全体が分厚いモルタルで覆われているものの、奥は長さ39mにわたって本来の煉瓦積みがそのまま残っている。スポットライトが床から照らしているので、細部もよくわかる。

内壁は、側面が一段おきに長手積みと小口積みを繰り返すイギリス積み、天井面は長手を千鳥式に積む長手積みだ。ところどころ黒ずんでいるのは、蒸気機関車の煤煙が付着しているらしい。そして最奥部からは、地山の土砂がなまなましく噴き出している。「この先立入禁止、酸欠恐れ有」の注意書きに足がすくむ。

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7号排水トンネルと鉄道トンネルの交差地点
鉄道の奈良側(写真の手前)から大阪側(同 奥)を撮影
排水路は入口(同 左手)から奥(同 右手)に向かって下り勾配に
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(左)鉄道トンネルの奈良側最奥部から大阪側を望む
(右)奈良側最奥部は土砂が噴き出している
 

関西線奈良~JR難波(旧 湊町(みなとまち))間の前身、大阪鉄道は1892(明治25)年に全通したが、亀の瀬では当初、右岸(北岸)を通っていた。最後まで工事が長引いたのがこのトンネルで、壁面に亀裂が入るなどしたため、改築のうえでようやく完成している(下注)。

*注 着工時は亀ノ瀬トンネル(長さ413m)と芝山トンネル(同216m)の2本に分かれていたが、改築に際し一本化されたという。

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図3 関西線旧線が描かれた1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

1924(大正13)年に複線化する際、トンネルは下り線用とされ、北側に並行して上り線のトンネルが掘られた。ところが1932(昭和7)年2月に、土圧で内部が変形して、いずれも使用不能となる。やむをえずトンネルの手前に、仮駅「亀ノ瀬東口」「亀ノ瀬西口」が設けられ、この間は徒歩連絡となった。

下の地形図はその状況を記録した貴重な版だが、これを見る限り、乗客たちはあの龍田古道の上り下りを強いられたようだ。

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図4 不通区間の徒歩連絡の状況が描かれた1:50,000地形図(2倍拡大)
左岸の国道も「荷車を通せざる部」の記号になっている
(1932(昭和7)年測図)
 

7月初めから、安全な対岸へ迂回する新線の工事が始まった。これが先ほど見た第四大和川橋梁を渡っていく現行ルートだが、よほどの突貫作業を行ったのだろう。早くもこの年の12月末に、新線経由で列車の運行が再開されている。

一方、放棄された旧トンネルは、坑口が埋まってしまったため、2008年に発見されるまで80年近くも地中に眠っていた。そのとき、公開対象となっている下り線用だけでなく、上り線のトンネルも見つかったのだが、排水トンネルより高い位置にあることなどから、惜しくも埋め戻されたそうだ。

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排水・鉄道トンネルの位置関係
公開されているのは図左側の下り線トンネル、右側の上り線は埋め戻された
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
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関西本線のルートの移り変わり(同上)
 

見学ツアーは、この後、亀の瀬の名のもとになった川中の亀岩や、大和川の舟運の安全を祈願した龍王社など、付近の名所旧跡を案内してもらって、解散となった。河内堅上駅まで線路沿いの道を歩いて、関西線の上り電車に乗る。

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大和川を泳ぐ(?)亀岩
見る角度によって頭が現れる
 

■参考サイト
大和川河川事務所-亀の瀬 https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guide/landslide/

法隆寺駅で下車し、駅前から奈良交通の小型バスで法隆寺へ向かった。法隆寺参道という停留所が終点だ。以前は南大門の近くに降車場があったのだが(下注)、今は、門前まで進みながら反対車線を引き返し、わざわざ遠く離れた国道のそばで降ろされる。

*注 バス停名も法隆寺門前だった。当時の降車場は、身障者用の停車スペースに転用されている。

午後1時を回っているので、参道に並ぶ食堂で昼食にした。町おこしで竜田揚げが名物になっているらしく、その定食を注文する。唐揚げとどう違うのかよくわからないが、ふつうにおいしかったことは確かだ。

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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
 

法隆寺には何度か来ているとはいえ、エンタシスの回廊が廻らされ、中央に金堂と五重塔が並び建つ美しくも厳かな境内のたたずまいは、いつ見てもすばらしい。宝物館である大宝蔵院で百済観音像を拝み、東院伽藍の夢殿も巡って、しばしいにしえの雰囲気に浸った。

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法隆寺、西院伽藍正面
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大講堂前から境内を南望
左から金堂、中門、五重塔
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(左)大講堂
(右)東院伽藍、夢殿
 

その後は小道を北上する。10分少し歩くと、行く手に法輪寺の三重塔が見えてくる。塔は戦時中に落雷で焼失したため、1975年に再建されたが、木立や背後の森に溶け込むようにして立つ姿は、そうした経緯すら忘れさせる。

寺に寄り添う形で、三井(みい)の集落がある。奈良の旧家らしい立派な門構えの家が並ぶ中、聖徳太子が掘った三つの古井戸の一つ「赤染井(あかぞめのい)」と伝えられる三井の旧跡(下注)にも立ち寄った。

*注 説明板によれば、深さ4.24m、直径約0.9m。明治時代には埋まっていたが、1932(昭和7)年の発掘調査で構造が明らかにされた。

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法輪寺を北望、森に溶け込む三重塔
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三井
(左)集落の中にひっそりと
(右)覗くと水面が見えた
 

山手の斑鳩溜池(いかるがためいけ)の堤を通って、次は法起寺(下注)へ。法輪寺にもまして鄙びた風情だが、侮るなかれ。シンボルの三重塔は8世紀初頭の建立で、国宝指定を受けている。それで1993年、法隆寺の名だたる伽藍とともに、日本で最初の世界遺産に登録されたという経歴を持つお寺だ。

この塔も、周りの田園から仰ぐのがいい。一部の田んぼにはコスモスが植えられていて、秋は白とピンクの花の海になる(冒頭写真参照)。

*注 一般に「ほっきじ」と読まれるが、正式には「ほうきじ」。

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法起寺
鄙びた風情の南門と三重塔
 

私たちが行ったときにはもう花の盛りを過ぎていたが、ボランティアのガイドさんが「中宮寺跡が今、満開ですよ」と教えてくれた。現在、法隆寺東院伽藍の隣にある中宮寺だが、聖徳太子により尼寺として創建された当時は、東に500mほど離れた場所にあった。跡地は発掘後に公園化され、広いコスモス畑が作られている。伽藍跡には基壇と復元礎石があるだけなので、訪れる人の大半は花が目当てだ。

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中宮寺跡史跡公園
復元礎石が並ぶ塔跡

秋の日は短い。そろそろ陽が傾いてきたので、急ぎ天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡に向かった。

天理軽便鉄道というのは、関西線の法隆寺駅に隣接する新法隆寺から東へ、天理まで走っていたニブロク(762mm)軌間の路線だ。1915(大正4)年の開業だが、早くも1921(大正10)年に近鉄の前身、大阪電気軌道(大軌)に買収されている。

大軌が建設した畝傍(うねび)線(現 近鉄橿原(かしはら)線)によって、軽便鉄道は平端(ひらはた)で分断される。東側の平端~天理間は標準軌に改軌、電化されて、現在の近鉄天理線になった。方や西側の新法隆寺~平端間は、大軌法隆寺線としてニブロク軌間のまま存続したが、戦時下の1945(昭和20)年に不要不急路線として休止、そのまま1952(昭和27)年に廃止されてしまった。

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図6 法隆寺~平端間の1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
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図7 大軌法隆寺線(天理機関鉄道と注記)が描かれた旧版1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

富雄川(とみおがわ)に沿って南下し、関西線の踏切を越えると、東側に木戸池と呼ばれる溜池が現れる。軽便鉄道の線路は、こともあろうに池の真ん中を東西に横切っていた。その築堤が今も手つかずで残っている。築堤の東寄りでは水を通わせるために桁橋が架かっていたらしく、橋台も観察できる。

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木戸池を貫く天理軽便鉄道跡
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築堤の東寄りに残る煉瓦の橋台
背後を関西線が並走
 

池の東側では、廃線跡はすぐに消失してしまうが、西側は、富雄川を隔てた田園地帯に、築堤が緩やかなカーブを描いている。畑などに利用されながら関西線に並行していて、法隆寺駅東の住宅地に突き当たるまでたどることができる。途中には、小さな用水路を渡るレンガの橋台もあった。

法隆寺駅に戻ってきたのは17時過ぎ、すでに陽は西の山に沈み、夕闇が迫っている。盛りだくさんの旅の思い出をかかえて、参加者はそれぞれのルートで家路についた。

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富雄川の西に延びる廃線跡の築堤
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(左)築堤の続きは小道に
(右)用水路をまたぐ橋台
 

【付記】

旧 安堵(あんど)駅に近い安堵町歴史民俗資料館に、天理軽便鉄道に関する遺品や鉄道模型、ルート周辺の地形図、空中写真など、興味深い資料展示がある(下の写真参照)。

■参考サイト
安堵町歴史民俗資料館 http://mus.ando-rekimin.jp/

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安堵町歴史民俗資料館
正面入口
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天理軽便鉄道の資料コーナー
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(左)木戸池東に建っていたという勾配標
(右)廃線後、近鉄郡山駅のホームの柱に転用されていた米国カーネギー社製のレール断片
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安堵駅にさしかかるレールカー(1/17復元模型)
 

一方、実際の線路の痕跡は、上述のとおり木戸池より西に集中している。東側で廃線跡を追える場所は少なく、以下の3か所ぐらいだ。

・安堵町の安堵駐在所から県道裏を東に延びる路地 約100m
・岡崎川右岸(西岸)の田園地帯にある細長い地割 約60m
・大和郡山市の昭和工業団地東縁から平端駅前までの直線道路 約700m(うち平端駅寄りの150mは、道路南側の宅地列が廃線跡)

中間部は西名阪自動車道と大規模な土地開発により、跡形もなくなってしまった。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年修正)、陸地測量部発行の5万分の1地形図大阪東南部(昭和7年要部修正)、2万5千分の1地形図郡山、信貴山、大和高田(いずれも大正11年測図)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2023年1月 4日 (水)

コンターサークル地図の旅-木津川渓谷と笠置山

ここ数日、明け方の気温が10度前後まで下がり、季節の深まりを肌で感じるようになった。2022年コンターサークル-s 秋の旅の後半は関西が舞台で、11月5日は木津川(きづがわ)の渓谷を歩く。

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関西本線木津川橋梁を渡る列車(南望)
 

木津川は、桂川や宇治川とともに、大阪湾に注ぐ淀川の主要支流の一つだ。主に三重県伊賀地方(上野盆地)の水を集めて京都盆地へ流れ下るが、その途中、標高400~600mの笠置(かさぎ)山地に深い谷を刻んでいる。名古屋と大阪を結ぶJR関西本線(以下、関西線という。下注)のルートはこの谷間を利用していて、車窓から、東海道本線や新幹線では出会えない本格的な渓谷風景を眺めることができる。

*注 路線の終点は大阪駅ではなく、JR難波(なんば、旧 湊町)駅。

関西線は両端こそ大都市近郊路線で電車が頻発しているが、中間部にあるこの亀山~加茂(かも)間は単線非電化のままで、日中はキハ120系気動車が1両か2両で1時間おきに走るだけの閑散区間だ。今日は秋たけなわの木津川渓谷に加えて、のどかなローカル線の風情も楽しみたいと思う。

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図1 木津川渓谷周辺の1:200,000地勢図
(左)2003(平成15)年修正、(右)1988(昭和63)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

集合場所は大河原(おおかわら)駅だ。私は、加茂から渓谷を遡る上り列車で9時56分に到着した。10両は停まれそうな長いホームや撤去された中線の跡に幹線の片鱗が窺えるが、駅は無人で、待合室もがらんとしている。10時18分の下り列車で大出さんと木下さん親子が到着して、4名で静かな駅を後にした。

目の前に、木津川の広い河原がある。対岸との間に沈水橋の恋路橋(こいじばし)が架かっていて、どこか高知の四万十川にも似た光景だ。橋を渡り、南大河原の集落を抜けて、川沿いの舗装道に出る。

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大河原駅
(左)長いホームと中線跡が幹線の名残
(右)がらんとした待合室
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木津川を横断する恋路橋
 

杉木立の間を1kmほど進むと、道端の岩肌に小ぶりの仏様が彫られていた。傍らに立つ案内板によれば、この摩崖仏は室町時代、天文3(1534)年の銘がある十一面観音で、なるほどよく見ると、頭部に小さな顔がいくつも並んでいる。

舗装道が上り坂にさしかかる地点で、地道が斜め右へ分かれていた。東海自然歩道の標識が立っているので迷うことはない。と、まもなく川を背にしてまた石仏があった。柔和な表情の地蔵様で、文亀2(1502)年の銘をもつと案内板は告げる。

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(左)十一面観音摩崖仏
(右)柔和な表情の地蔵尊
 

今は忘れ去られたような小道だが、500年も前にここを旅人が行き交っていたことが知れる。現代の国道や鉄道は、木津川断層で生じた右岸の支谷を直進しているが、昔、東海道の関宿から奈良に通じていた大和(やまと)街道(下注)は、対岸のこのルートを通っていた。古仏はいわばその歴史の証人だ。

*注 伊賀上野から奈良の間は笠置街道ともいう。

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(左)川べりを行く旧大和街道
(右)杉木立から木津川の流れが覗く
 

しばらくはクルマの轍も見えていた路面に、やがて落ち葉や枯れ枝が積もり始めた。だが、ひどく荒れてはおらず、歩くのに支障はなかった。急なアップダウンを一つ越えると、対岸に相楽発電所の建物が見えてきた。川を横断している取水堰の先で河原に降りていく小道があったので、行ってみる。

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相楽発電所と取水堰
 

期待にたがわず、そこは上手に発電所、下手に関西線の木津川橋梁を望む絶好の場所だった。鉄橋は1897(明治30)年の竣工で、長短のトラス3スパンと、左岸側にガーダー2連という構成だ。後に重量列車に対応するため、中央部は大型の曲弦ワーレントラスに交換されたが、両側は明治のトラスの上部に鋼材を補強したユニークな形状で残された。

関西線は、ここで右岸から古道の通る左岸に移る。次の列車が来るのを待つ間、河原で昼食休憩にした。下り列車の通過を見届けた後は、鉄橋の下をくぐって下流へ移動し、地元で潜没橋と呼ばれている同じような沈下橋のたもとで、今度は上り列車を撮り鉄した(冒頭写真参照)。

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木津川橋梁を北望
 

この後、旧街道はいったん木津川から離れる。踏切で関西線を渡って、山あいの隠れ里のような飛鳥路(あすかじ)集落へと谷を上っていく。

集落が載る谷の成因は興味深い。断面がU字状であること、地質図に礫や砂の堆積が示されていること、さらに、布目川の谷との境が風隙(下注)になっていて、谷の方向も布目川の上流から滑らかにつながるように見えること。どうやらこれは布目川の旧流路のようだ。川はもともと北流していたが、ある時点から東西方向の断層(脆くて侵蝕されやすい)に沿う形で、西に流路を変えたのではないだろうか。

*注 浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象により、谷(水隙)の断面が露出したもの。

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(左)飛鳥路に向かう小道
(右)飛鳥路集落の家屋
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(左)布目橋を渡る
(右)深い淵をつくる布目川
 

風隙から坂を下り、布目橋を渡ると次の案内板が立っていた。この先、布目川の河原に多数の甌穴(ポットホール、下注)があるらしい。小道から水辺に降りて探すと、露出した花崗岩に半径数十cmの丸い穴がいくつも穿たれているのが見つかった。川はかなりの急流で、谷間に水音を響かせながら岩肌を滑り落ちていく。上流で発電用の取水が始まる前は、流量ももっと多く、甌穴が生じやすい環境だったはずだ。

*注 流水の力で礫(小石)が回転して平滑な河底に窪みを掘るもの。流れが速く、礫の供給が多い場所で見られる。

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河原で見つけた甌穴群
 

関西線の鉄橋が見えてきて、道は再び木津川の谷に出る。布目川発電所の横を通過し、人一人歩く幅しかない布目踏切を渡った。ここから約1kmの間は、木津川渓谷が最も狭まるハイライト区間だ。急傾斜の山腹に張りつくカーブだらけの線路に、落石除けの覆道が次々と現れる。遊歩道は、ときに線路の側道、ときに橋や桟道になりながら、川べりの狭い空間を縫っていく。列車が通ったら風圧をまともに受けそうなスリリングなルートが続いている。

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(左)布目川発電所
(右)一人分の幅しかない布目踏切
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(左)覆道と連続カーブの線路
(右)線路際に付けられた遊歩道
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(左)迫る列車から退避
(右)巨石の転がる渓谷
 

巨石の転がる渓谷を抜け、木津川に架かるカンチレバートラスの笠置橋のたもとに出たのは、13時30分ごろだった。広い河原を利用したオートキャンプ場がよく賑わっている。まだ陽は高いので、町中を通って笠置山(かさぎやま)の登山口に足を向けた。

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カンチレバートラスの笠置橋が見えてきた
 

笠置山は、木津川の南にそびえる標高288mの山だ。山頂には飛鳥時代、7世紀の創建と伝えられる笠置寺(かさぎでら)がある。麓との高度差は200mほどなので、軽いハイキングと高をくくっていたら、参道は心臓破りの急坂と石段だった。途中で休憩しながら、40分ほどかけて上りきる。

拝観料300円を納めて境内へ。寺は奈良時代から鎌倉時代にかけて栄え、人々の厚い信仰を受けていた。しかし鎌倉末期、後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱で焼亡し、それ以来、寺勢が衰えてしまった。古い伽藍は残っておらず、注目すべきは、花崗岩の奇岩巨岩とそこに彫られた摩崖仏だ。

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(左)笠置山登山口
(右)急坂と石段の参道を上る
 

まず、参道の頭上でオーバーハングした一対の巨岩、笠置石(かさおきいし)に度肝を抜かれる。鹿狩りに来た天武天皇が目印に笠を置いたという言い伝えがあり、笠置の地名もこれに由来するという。その隣にあるのが、高さ15mの巨岩の側面に彫られた本尊の弥勒摩崖仏だ。しかし、数度の火災の影響で図像はほぼ消失し、光背の輪郭しかわからない。一方、その先に同じような伝 虚空蔵摩崖仏があって、こちらは線画で刻まれた菩薩像が明瞭に読み取れる。もう少し距離をとって見たいが、崖際のため足場がないのが残念だ。

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笠置石(かさおきいし)
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正月堂と、光背の輪郭が残る弥勒摩崖仏(画面左の大岩)
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線画が鮮やかな伝 虚空蔵摩崖仏
 

この後は、昔の行場をなぞる探索路を行く。石段の上り下りがかなりきついが、巨石の隙間を通過する胎内くぐり、叩くと鼓のような音がする太鼓石、押すとぐらぐら動くゆるぎ石など、体験型のアトラクションでおもしろい。ゆるぎ石のテラスからは、はるか下方にさきほど歩いてきた木津川渓谷を眺めることができた。

順路の最後に通るもみじ公園では、すでにカエデの葉がいい頃合いに染まっている。笠置駅方面の展望台で一休みしてから、境内を後にした。往路の参道は急過ぎて足を痛めそうなので、距離は長くなるが勾配の緩い車道を降りる。渓谷散策の残り時間で訪ねた笠置山だったが、思いのほか見どころが多くて楽しめた。

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(左)胎内くぐり
(右)急な石段が続く
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笠置山から木津川渓谷の眺め(北東望)
 

小さな町の中を歩いて、笠置駅へ向かう。切妻平屋の駅舎はきれいに整備されていた。待合室にストリートピアノが置いてあり、駅務室の区画にはカフェが入居している。たとえ簡易委託でも、出札口に人の姿があるのはほっとする。暮れなずむホームのベンチに並び腰を下ろして、17時20分に来る下り列車を待った。

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笠置駅
(左)整備された駅舎
(右)上り列車を見送る
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、名古屋(昭和63年修正)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

2022年12月29日 (木)

コンターサークル地図の旅-沼沢湖

2022年10月16日、会津でのコンターサークル-s 秋の旅2日目は、JR只見線の気動車に乗って沼沢湖(ぬまざわこ)を訪れた。沼沢湖というのは、会津西部に位置する広さ約3.0平方km、深さ96mのカルデラ湖だ。阿賀川(あががわ、下注)の支流、只見川(ただみがわ)の流域にあり、5400年前に噴火した沼沢火山の火口が湛水して生じた。

*注 大川ともいい、新潟県に入ると阿賀野川と呼ばれる。

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沼沢湖北岸から惣山を望む
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図1 沼沢湖周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和53)年編集)
 

もちろん初めて行く場所だが、名まえだけはずっと前から知っている。堀淳一さんの初期著作の一つ「地図から旅へ」(毎日新聞社、1975年)で紹介されていたからだ。当時は沼沢沼(ぬまざわぬま)と呼ばれていた。堀さんが歩いたのは12月初旬で、すでに一帯が雪に埋もれる中、若松駅前で急遽買った長靴をはいて、最寄りの早戸(はやと)駅から湖に通じる坂道を上っている。

「やがて、沼御前神社のある丘をおおう杉林のかなたから沼が姿を見せ、私は足の冷たさを忘れてそれに見入った。そこは神社の北の入江の奥だった。対岸に盛り上がる惣山(そうやま)と前山の山肌は、小降りになりながらもまだ降り続いている雪にかすんで鉛色をおび、沼の面もそれを映して浅葱鼠色にどんよりと沈んでいた。」(同書p.166、下注)

*注 「地図の風景 東北Ⅰ 福島・宮城・岩手」(そしえて、1981年)でも取り上げられている。

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地図図版のほかは一枚の写真すら載っていないにもかかわらず、読み進むうちに、人影もなく静まり返った山の湖のイメージがありありと目に浮かんだ。それを思い出し、11年ぶりに運行が再開された只見線の会津川口~只見間を乗るのとセットで訪れることにしたのだ。

只見線を終点の小出(こいで)まで通しで走る下り列車は、会津若松発6時08分を逃すと、なんと13時05分までない。それで7時41分発、途中の会津川口止まりの列車で湖を訪れてから、午後の貴重な小出行きを捕まえるというプランを作った。

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(左)会津若松駅にて
  左は会津鉄道、右が只見線の列車
(右)只見線全線再開のポスター
 

列車は、キハ110系の後ろにE120系をつないだ2両編成だった。休日の朝の下り便なので、各ボックスに1人程度しか乗っていない。その中に大出さんを見つけた。晴れ渡る空の下、列車は広々とした会津盆地をのんびり横断し、七折峠(ななおりとうげ)から只見川の渓谷に入っていく。はじめ右岸の段丘上を進んだ後、川を何度か横断するが、中でも第一只見川鉄橋が名所だ。列車も速度を落として、ダム湖の水面に映る色づき始めた山峡の景色を、車窓から堪能させてくれる。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

堀さんは早戸駅と湖の間を往復したが、私たちは湖を北岸からアプローチしようと、一つ先の会津水沼駅で下車した。片面ホームの駅はもちろん無人で、ほかに降り立つ人もなかった。列車はこの先で第四只見川鉄橋を渡っていく。遠望写真が撮れるかと国道252号の水沼橋へ急いだが間に合わず、のっけから汗だけかいてしまった。

対岸に渡って国道から分かれ、低位段丘面に載る水沼の沢西集落の中を上る。この先に、高度約130mの急斜面をヘアピンの連続で這い上がる長い坂道が待ち構えている。杉林に入った一車線の舗装道が最初の折返しにさしかかるころ、合法かどうかはともかく、軽トラックが荷台に若者を2人乗せて、後ろから追い抜いていった。

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(左)会津水沼駅に降りる
(右)国道の水沼橋
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列車のいない第四只見川橋梁
 

沼沢火山の噴火では、厚さ最大200mもの火砕流が周囲に堆積したと考えられている。その後、大半は河川によって運び去られてしまったが、今も一部が平坦面として残っている。水沼の背後の、これから上っていく大栗山と呼ばれるテラス地形もそうだ。標高は450m前後あり、只見川斜面からの浸食が進んでいるものの、まだ平坦面の連なりが断たれるまでには至っていない。

道はクルマがふつうに上れる勾配だったので、よもやま話をしながら歩いたら、いつのまにかテラスのへりまで来ていた。表面のなだらかな土地は耕されて、葉もの野菜が育つ畑と若干の田んぼになっている。向こうで話し声がすると思ったら、さっきの軽トラックに載っていた若者を含む集団が、農作業にいそしんでいた。

乾いた風が通り抜ける高原の道は、心地よいハイキングルートだった。クルマにもめったに会わず、この間に追い抜かれたのは、観光バスが一台と軽快なフットワークの女性ランナーぐらいだ。あのつづら折りを走って上ってきたのなら、かなりの強者に違いない。

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(左)急斜面を上る坂道
(右)大栗山の平坦面に作られた田んぼ
 

道は再び杉林に包まれるが、小さな赤い鳥居と「沼沢湖一周遊歩道・惣山」の標識の前を過ぎると、いよいよ沼沢湖が木の間隠れに見えてきた。地道を少し入ったところで、うろこ雲が浮かぶ空の下に青い水面の眺めが開ける。水面標高475m、足元の砂浜に手漕ぎボートが打ち上げられているのを除けば、視界に入るのは深い森陰とさざ波立つ湖水だけだ。

周囲を限る山並みでは、すでに紅葉が始まっている。右の高いピークが標高816mの惣山で、湖に落ち込む剥き出しの岩壁は、広重が描いた五十三次の箱根湖水図を思わせる(冒頭写真参照)。これが芦ノ湖なら観光客の喧騒が響いているだろうが、ここでは木の葉を揺らす風の音しか聞こえない。

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(左)鳥居と遊歩道の標識がほぼサミット
(右)地道の先に湖面が開ける
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沼沢湖西岸、左のピークが惣山
沼御前神社の岬から撮影
 
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沼沢湖南岸、正面は標高835mの前山
 

神秘的な風景に見とれていると、突然、私のスマホが鳴り出した。かけてきたのは丹羽さんで、クルマで湖岸まで来ているという。居場所を伝えて落ち合うことにした。フェアリーロードの名がある湖岸道路を、見事なアカマツの木や発電所の取水口跡を観察しながら東へ歩いていく。途中のパーキングから先は、地形図にない遊歩道がついていた。

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(左)藤ヶ崎のアカマツ
(右)沼沢沼発電所の取水口跡
 

堀さんが湖を眺めたキャンプ場のある浜まで行き、その一角に三人腰を下ろして、昼食をとる。それから、沼御前神社の岬を回っていく湖岸遊歩道に足を向けた。道幅いっぱいに大きなホウの葉が散り敷いていて、頭上のシイやカツラももう冬木の状態だ。

道なりに行けば「沼沢湖一周遊歩道」(下注1)に入るはずだと、さらに南側の浜まで進んだが、地図とは違い、舗装道は上村(かみむら)の方へ曲がっていくようだった。湖周辺の地形図は、建物の描写でも分かるとおり1:25,000の精度のままだ。現地調査も不十分で、道路網の描写がはなはだ頼りない。たとえば、この舗装道やキャンプ場近辺の遊歩道は記載がない一方、描かれている岬と神社を結ぶ階段は実際にはなかった(下注2)。諦めて、元来た道をキャンプ場まで戻る。

*注1 優雅な散歩道のように聞こえるが、実踏レポートによれば、かなりの難路らしい。
*注2 沼御前神社へは、北側と南側から山道で到達できるようだ。

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人影少ない沼沢湖畔キャンプ場
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(左)ホウの葉散り敷く湖岸遊歩道
(右)沼御前神社の岬を北望
 

それにしても休日というのに、離れた場所で数人がバーベキューを楽しんでいるぐらいで、ほとんど人の姿を見かけない。静かで美しい景色に去りがたい気持ちは強かったが、列車の都合もある。13時すぎ、クルマで戻る丹羽さんと別れて、早戸駅へ向け、急流の沼沢川に沿う県道を下っていった。

只見川に面する急斜面には、いろは坂のような何段ものつづら折りがある。それを通過し、左に折れると、狭い河岸段丘の谷壁に、一見要塞風のコンクリート擁壁が見えてきた。沼沢沼水力発電所の水路管が通っていた跡だ。水路管は段丘崖をさらに降りて、川べりにあった発電所の本体施設に続いていた。

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(左)只見川斜面を降りるつづら折り
(右)正面に発電所の水路管跡が
 

只見川を渡る早三橋(はやみばし)のたもとに、東北電力の案内板が立っている。発電所は、沼沢湖と只見川(宮下ダム湖)の200m以上にもなる高低差を利用して、1952(昭和27)年に造られた。湖から落とす水で発電機を回すだけでなく、オフピーク時に湖へ水を汲み上げて次の発電に備える揚水式の発電所だった。当時は東洋一の規模と謳われたが、下流に第二沼沢発電所が稼働したこともあり、2002(平成14)年に廃止となった。施設はすでに撤去済みで、草生した敷地が残されているばかりだ。

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川岸に残る沼沢沼水力発電所跡
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図3 沼沢沼発電所が描かれた旧版地形図
 

早三橋を渡って、国道に合流した。湯ノ平(ゆのたいら)と早戸駅の間にあった旧国道は閉鎖されており、大型車の轟音に肝を冷やしながら、長い新トンネルの側歩道を行くしか方法がない。

早戸駅では、臨時列車「只見線満喫号」の通過を目撃した。その影響で定期列車のダイヤも変更されているが、正確な発時刻が駅に掲示されていない。大出さんによると、ウェブサイトでさえ記載されている時刻がまちまちらしい。日本の鉄道とは思えないおおらかさだ。

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(左)只見線満喫号を目撃
(右)只見川(宮下ダム湖)に臨む早戸駅
 

小出行き2両編成の列車は結局、通常時刻より20分ほど遅れてやってきた。夕方までに小出に到達できる唯一の便なので、朝の会津川口行きとは打って変わって、立ち客も多数見られる。運行再開以来、奥只見を訪れる観光客が増えているのは本当らしい。沼沢湖の余韻は胸にしまって、私たちも混んだ列車の客となった。

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(左)混雑する車内、法被姿は地元のガイドさん
(右)只見駅では10分停車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、2万5千分の1地形図沼沢沼(昭和50年修正測量)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年12月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-会津・滝沢街道

5月に会津地方の大内宿や裏磐梯を歩いたが、その際眺めた近辺の地図で目に留まった場所がほかにもあった。それでコンターサークル-s 秋の旅も会津でスタートする。2022年10月15日の初日に訪れたのは、会津若松と猪苗代(いなわしろ)を結んでいた滝沢(たきざわ)街道(下注)だ。沿線には戊辰戦争の史跡や湖畔の風景だけでなく、明治の洋館、水門・水路、貴重な湿原など見どころが点在している。

*注 滝沢街道と呼ばれるのは、若松から奥州街道の二本松に通じていた二本松街道(上街道)の一部。若松から沓掛峠までは白河街道を兼ねている。地形図には、中通り側からの呼び名である越後街道の注記がある。

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十六橋水門
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図1 滝沢街道周辺の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集
 

朝は薄曇りだったが、天気予報によると、昼ごろには青空が戻るらしい。集合地はJR磐越西線の猪苗代駅なので、私は前泊した会津若松から、9時30分発の郡山行の電車で向かった。猪苗代駅のホームで、下り列車でやってきた大出さんと合流する。参加者はこの2名だ。

歩く距離を節約するために、駅前で磐梯東都バスの金の橋(きんのはし)行きに乗り継いだ。ほかに2グループ乗っていたが、みな途中の野口英世記念館前で降り、湖畔の長浜まで乗ったのは私たちだけだった。目の前が猪苗代湖で、遊覧船が出る翁島港がある。白鳥の形をしたボートも浮かんで、観光地らしい風景だ。

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遊覧船が発着する長浜の翁島港
 

本日はここを起点に西へ、会津若松市内の飯盛山下まで約12kmの道のりを歩く。後で知ったのだがこのルート、堀淳一さんも2003年に訪れている。私たちとは逆向きに、後述する金堀(かねほり)を出発し、長浜に至る行程だった。「歴史廃墟を歩く旅と地図-水路・古道・産業遺跡・廃線路」(講談社+α新書、2004年)に詳細が記されているが、堀さんが20年前に見た情景は、嬉しいことに今もほとんど変わっていない。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
長浜~強清水間
 

10時30分、長浜を後にした。現在の国道49号はそのまま湖岸に沿っていくが、旧道は背後から張り出す流れ山地形をショートカットしている。国道から右にそれて坂道を上り、さらに森の中の脇道をたどって、最初の見どころ、天鏡閣へ。

1908(明治41)年に有栖川宮別邸として竣工したこの建物は、木造スレート葺2階建ての洋館で、重要文化財にも指定されている。中に入ると、一部が畳敷きのほかは板張り床の洋風仕様で、装飾的なマントルピースやシャンデリアなど、優雅な調度品が目を引く。最上階の展望室も開放されているが、周りの木々が大きく育っていて、湖を眺めることはもうできなかった。

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天鏡閣外観
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優雅な調度品が配された客間
 

この後も、舗装道になっている旧道を進む。名も知らぬ沼を横に見て鞍部を越えると、道はつづら折りで戸ノ口集落へ下っていった。地形図には、集落の中に519.9mの水準点が描かれている。これを実際に探し当てるのも旧道歩きの楽しみなので(下注)、少し寄り道した。見当をつけたのは、山裾の小さな神社だ。参道脇におなじみの標識と、蓋つきで地下に埋設された標石があった。

*注 天鏡閣のそばにもあったのだが、探すのをすっかり失念していた。

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名も知らぬ沼の畔を通過
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戸ノ口集落
(左)集落へヘアピンで降りる
(右)神社参道脇の水準点、標石のあるマンホールは雑草の陰
 

村の前には、やわらかな日差しのもと、稲刈りの終わった田んぼが広がる。銚子ノ口から引き込まれた水面を縁取る森が早や色づき始めている。まもなく日橋川(にっぱしがわ)を渡る十六橋にさしかかった。猪苗代湖の水は、この川で会津盆地へと流れ下る。注目は、橋の右手に並行している大規模な水門(冒頭写真参照)で、もともと湖の反対側で取水する安積(あさか)疏水の付属施設として、水位調節の目的で造られた。

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稲刈りの終わった村の前の田んぼ
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十六橋前の水面
正面奥の水路で猪苗代湖に通じる
 

現地の案内板によれば、1880(明治13)年に完成した初代の十六橋水門は、16連アーチの石造橋と一体になった構造で、各アーチに開閉可能な杉板の扉が設置されていた。1914(大正3)年に今見る16連、電動式の水門に改修され、その際に道路橋が分離されたという。ただ、十六橋の謂れは明治どころかもっと古く、弘法大師が架けたという伝説にまで遡るそうだ。

その後、1942(昭和17)年に小石ヶ浜水門が完成し、湖の水位調節機能はそちらに移された。十六橋水門の現在の役割は、流域の大雨などで水位が上がるときに排水する、洪水調節機能だけらしい。つまり、ほとんど隠居の身なのだが、施設は近代化産業遺産として美しく維持されていて、水面に映る整然としたたたずまいは一幅の絵のようだ。たもとの広場には、疏水の設計に携わったオランダ人技師ファン・ドールンの像も建ち、水門とその一帯を優しく見下ろしている。

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(左)十六橋に並行する水門
(右)第一門、第二門は戸ノ口堰の取水用
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(左)昔の十六橋水門(現地案内板を撮影)
(右)ファン・ドールンの銅像が広場に建つ
 

広場のあずまやで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。しばらくは林道のような砂利道が続く。国道49号と斜めに交差してなおも進むと、戸ノ口原古戦場跡の案内板が立っていた。1868年、押し寄せる新政府軍を会津藩守備隊が迎え撃った場所だ。近くに次の528.4m水準点があるはずだが、丈の高いすすきに埋もれたのか見つけられなかった。

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戸ノ口原古戦場跡にある供養塔
 

林を縫う道の途中で、赤井谷地(あかいやち)湿原の案内板を見つけた。左手の丘へ上る道をたどり、湿原が見渡せる展望地に出る。尾瀬のように横断する木道がないので、ここが唯一の見学場所になっている。

南に広がるヨシに灌木が混じる湿原は、かつての湖底が水位の低下で沼地を経て変化したものだ。約1km四方の区域が天然記念物として保護されている。案内板を読んだ大出さんが、昭和天皇が二度来ていることを指摘する。新婚時代にさっきの天鏡閣に滞在したことがあるので、きっとお気に入りの土地だったのだろう。

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赤井谷地湿原の展望
 

この丘を含めて周辺は、磐梯山の古い大噴火で生じた流れ山で埋め尽くされている。街道に沿って会津藩軍が敷いた陣地も、もこもことした地形をうまく利用したものだ。森を抜けると右手後方に、雲が切れつつあるその磐梯山が望めた。

強清水(こわしみず)には、旧道沿いに何軒かの蕎麦屋があって、どれも繁盛していた。事前の調査不足で食べる算段をしておらず、通過してしまったのは残念だ。強清水の名が示すとおり、集落の山際に有名な湧水があり、周りにはアキアカネが乱舞するそば畑が広がっている。

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強清水
(左)旧道・新道分岐、正面の消防車庫の左の細道が旧道
(右)名物の蕎麦屋が並ぶ
 
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図3 同 強清水~会津若松市内
 

標高約520mの強清水は、猪苗代湖の旧湖盆の末端に位置している。この後、街道は、沓掛(くつかけ)峠と滝沢峠の二段構えで、標高200m台の会津盆地まで一気に高度を下げる。急坂が続く旧道を改良するため、明治に入って荷馬車が通れる新道が開削された。そちらは旧国道49号で(下注)、今もクルマで走れる舗装道だが、私たちはもちろん、徒歩でしか行けない旧道をめざすつもりだ。

*注 1966年の滝沢バイパス開通で、国道の指定を解除された。現在は会津若松市道。

沓掛峠旧道の入口はすでに森に還っているため、国道294号を少し南下し、北西方向に分かれる道を入る。国道脇に案内板が立っているので間違いないのだが、100mも行かないうちにバリケードで通行止めにされていた。代替路があるかと周囲を探してみたものの、やはりここを進むしかなさそうだ。

峠道は下り一方の片坂で、楽に歩けそうに思える。ところが誰も通らないので、日なたは下草ですっかり覆われ、切通しは山から染み出す水で、ひどいぬかるみだった。

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沓掛峠旧道
(左)草むした路面
(右)道いっぱいのぬかるみ
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白河、二本松両街道の追分付近に立つ案内板
 

ヘアピンの悪路をなんとか降りていくと、涼しげな水音が聞こえてくる。見ると、斜面の上のほうから、水流が岩を滑り落ちている。案内板によれば、これは金堀(かねほり)の滝で、自然の滝ではなく、戸ノ口堰(とのくちぜき)の水を落としているのだ。

戸ノ口堰というのは、十六橋の下流で日橋川から取水され、会津盆地を潤している灌漑用水で、1693年に若松まで通じている。旧街道の前に滝があるのは、おそらく行き交う旅人たちに見てもらう意図もあったのだろう。滝壺(というほどのものはないが)まで落ちた水は再び水路に集められ、この先でも何度か街道と交差する。

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金堀の滝
 

まもなく森が晴れて、金堀集落が見えてきた。旧道は一時的に、右から降りてきた新道と合流する。金堀は旧宿場らしく、トタンをかぶせた茅葺屋根の家が、道路に妻面を向けて並んでいる。大出さんによると、大内宿もかつてはこんな景観だったそうだ。道端で422.8m水準点を探したが、標識はあるものの、またしても標石は見つけられなかった。

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旧道沿いの金堀集落(東望)
 

次はいよいよ滝沢峠を越える。実は金堀と滝沢の間には、3本のルートが存在する。最も古いのは、1591年に開削、1634年に改修整備された滝沢峠の旧道だが、明治に入って、1882(明治15)年により低い鞍部を通る滝沢南新道、さらに1886(明治19)年に北を迂回する北新道が相次いで開通した(下図参照)。

北新道(旧国道49号)はさっきの沓掛峠新道の続きで、クルマが走れる舗装道だ。方や南新道は、最近まで地形図に記載されていたが、最新の地理院地図では上部区間が断絶している。むしろ近世の旧道のほうが明瞭で、一条道路(幅3.0m未満の道路)として跡を追える。

旧道がハイキングコースとして再評価される一方で、南新道は不運だった。荷車が通れるように勾配を緩和した分、旧道より距離が長くなり、歩きには向かない。かといってヘアピンが急過ぎて自動車時代にも対応できず、結果的に見捨てられてしまったようだ。

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図4 複数の峠越えルートが描かれた旧版地形図
(1910(明治43)年測図)
 

旧道は金堀の集落の中で再び上りになり、滝沢峠まで50~60mの高度を稼ぐ。ついでに電波塔のある山頂まで足を延ばしてみたが、周囲は森や藪で、山頂付近に描かれている三角点にはたどり着けなかった。

峠まではふつうの舗装道だったのに、下りに転じる地点でまたバリケードが渡してあった。やむなく入ってみると、草むした地道とはいえ、沓掛峠ほどには荒れていない。直線的に降下するのでかなりの急坂だが、ところどころ丸石の石畳が残り、会津藩の主要道として整備されたことを思い出させてくれる。途中、比較的新しい休憩用のあずまやが建ち、並木道のような区間もあった。趣の深いルートなので、通行禁止にしたままなのは惜しいと思う。

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滝沢峠旧道
(左)金堀方は舗装道
(右)若松方の急坂には石畳が残る
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(左)舟石付近のあずまや
(右)もとは並木道か
 

1.5km、高低差200mを40分ほどかけて下り、麓の滝沢へ出た。ここで再び戸ノ口堰が道を横切っているが、金堀の滝で見たより水量がはるかに多い。というのも、水力発電所で使い終えた水が加えられているのだ。戸ノ口堰には地形の落差を利用した発電所が3か所あり、水量の大半がこれに利用されている。発電用水路から外れた金堀の前後は、おこぼれの水が流されているに過ぎない。

堰はこの後、飯盛山の麓へ向かうので、後を追って不動川を渡る地点まで行ってみた。森の中にひっそりと石のアーチが架かっている。九州で見るものに比べれば小規模だが、天保年間、1838年の架橋というから、貴重な歴史遺産だ。この先は通行できないので、旧滝沢本陣の前から迂回する。

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滝沢峠旧道、若松側の上り口
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戸ノ口堰
(左)豊かな水量に驚く
(右)不動川を渡る戸ノ口堰橋
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旧滝沢本陣入口
 

戸ノ口堰洞穴は、飯盛山の山裾に掘られた水路トンネルだ。さざえ堂や白虎隊士の墓とともに、トンネルの出口が飯盛山界隈の観光名所になっているので、前にも来たことがある。狭い洞穴から滔々と流れ出す豊かな水流は、猪苗代湖の生気を運んでくるようで、何度見ても印象に残る光景だ。

ゴールと定めた飯盛山下バス停には、15時30分に到着した。文字通り野を越え山を越え、起伏と見どころに富んだ約5時間のハイキングだった。

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戸ノ口堰洞穴
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夕食は会津若松駅前のマルモ食堂
名物ソースかつ丼で空腹を満たした
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図廣田(明治43年測図)、若松(明治43年測図)、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年6月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-裏磐梯の火山地形

今から134年前の1888(明治21)年、磐梯山が水蒸気爆発を起こした。「黒煙柱は約1500mの高さまで立ち昇り、1分ほどの間に15回~20回も爆発が繰り返されました。(中略)その後も30分~40分間、小破裂は巨砲が連発するように続きました。噴煙はキノコ型に拡がり、高さ約5000mに達しました」(磐梯山噴火記念館の展示パネルより)

この噴火で、今の磐梯山の北側にあった小磐梯が崩壊し、総量約20億トンと言われる岩屑なだれが発生した。山体は大きくえぐれてカルデラをなすとともに、北と東で麓の谷が埋まり、周辺の風景を一変させた…。2022年春のコンター旅、会津での2日目は、このとき生じた湖沼や流れ山など、山体崩壊で生じた裏磐梯の特徴的な火山地形を見に行く。

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五色沼の一つ、弁天沼
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図1 磐梯山周辺の1:200,000地勢図
(左)1988(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集

5月22日、会津若松駅から朝早い磐越西線郡山行の電車に乗った。本日の参加者は大出さんと私。昨日に続いて空はどんよりとして、磐梯山も頂きは雲に隠れている。電車は次の広田駅を出ると、磐梯山の南麓に広がる高原地帯へ上っていく。

人影少ない猪苗代駅前で、裏磐梯高原駅行きの路線バスに乗り込んだ。磐梯山周辺は会津バスが撤退し、現在は磐梯東都バスが運行している。乗客は私たちを含めて5人。初夏の休日とはいえ、雨の予報が出ているから、わざわざ山へ出かける人は少ないだろう。

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(左)朝の猪苗代駅
(右)駅前から裏磐梯高原駅行きのバスに乗る
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

裏磐梯の一帯には、湖沼を巡る遊歩道がいくつかある。まずは、観光ルートとしておなじみの五色沼自然探勝路を歩くつもりだ。東の入口から西の桧原湖畔まで長さ3.6km。バスを降りると、ビジターセンターが目の前にあったのでルートマップでもと思ったが、まだ開館前だった。

五色沼というのは、磐梯山北麓に点在する大小30余の湖沼群の総称だ。噴火の際に斜面を流れ下った岩屑が扇状に広がり、大小の丘、いわゆる流れ山を生じた。上掲の陰影付き地形図では、一帯の土地に細かい凹凸が見て取れるが、これらはすべて流れ山だ。湖沼群は、その間の窪地に雨水や地下水が溜まってできた。

「これらの沼の多くは、磐梯山の火口付近にある銅沼(あかぬま)に端を発する地下水を水源としております。硫化水素が多量に溶け込んだ水により、水質が酸性の沼もいくつかあります。また、桧原湖からの水や磐梯山の深層地下水などが混入している湖沼もあり、沼ごとに異なる多様な水質となっています」(磐梯山ジオパーク協議会による現地案内板より)。

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五色沼の案内板
 

探勝路へ歩を進めると、まず見えてくるのが、五色沼の中で最も大きな毘沙門沼(びしゃもんぬま)だ。湖面の色は青緑、ターコイズブルーというところで、今日のような天気でも十分美しいが、見る角度によって鮮やかさには微妙な違いがある。高みから見下ろした方が明るく、ブルーの色合いが引き立つようだ。

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毘沙門沼
 

レストハウス前の広場でメインルートからいったんはずれ、周遊歩道「磐鏡園プロムナード」へ足を向けた。小川の木橋を渡り、ウッドチップを敷いた小道をたどっていくと、小高い丘の上に磐梯山と吾妻連峰、2か所の展望台がある。山並みは雲の中だが、東のほうに秋元湖が遠望できた。今回はそちらには行かないので、少し得した気分だ。

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(左)磐鏡園プロムナード
(右)威嚇?それとも歓迎?
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吾妻連峰展望台から秋元湖を遠望
 

もとに戻り、毘沙門沼の北岸に沿って歩く。沼は複雑な形状をしていて、角を回るたびにその表情を変える。探勝路には少なからずアップダウンがあるが、足元の悪いところにはしっかりした木道が組まれていた。眺望が開けるポイントには、沼の名を記した標柱と出口への距離標も立っている。

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毘沙門沼に沿う五色沼自然探勝路
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ビューポイントに立つ標柱と距離標
 

毘沙門沼を見送って山中を歩いていくと、右手に小さな沼が現れた。赤沼といい、水面は明るい緑だが、岸辺に赤茶色の縁取りがついている。鉄分を多く含む水質のため、水に浸かる植物が錆色に染まるのが原因だそうだ。

みどろ沼の水の色は一言では言い表せない。光線の加減にもよるのだろうが、手前はアップルグリーン(黄味を帯びた明るい緑)、しかし奥は青みが濃くて毘沙門沼のそれに近い。小さな沼なのに、まったく色が異なるのも不思議だ。勢いよく流れる小川をさかのぼると竜沼だが、これは枝葉や下草に遮られて、水面を見渡すのは難しかった。

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赤沼
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(左)みどろ沼
(右)竜沼
 

探勝路は上り坂になる。次の弁天沼は、地形的に一段高い位置にあるのだ。五色沼で2番目に大きい沼で、そのせいか、水の色はさらに明るい。ここでは道が岸辺に沿って延びていて、長い時間、眺めを楽しむことができる。沼の南西端には、新しい展望デッキも設けられている。時刻が10時を回って、西側(桧原湖側)から入ってきた人たちとすれ違うようになった。

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弁天沼
 

るり沼の展望デッキはメインルートから少し引っ込んだところにあるので、うっかりすると見過ごしてしまう。私たちも青沼で気づいて、引き返した。ここは磐梯山のビューポイントの一つでもあるのだが、あいにく見えるのは裾の方だけだ。しかし、周りの森が静かな水面にくっきりと映り込んで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。

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(左)メインルート(写真左奥)からるり沼展望デッキへの道
(右)展望デッキ
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るり沼、背景の磐梯山は雲の中
 

コースも後半になってくると、注意力が散漫になる。実のところ、青沼と柳沼はあまり印象が残っていない。撮った写真を見返すと、青沼はその名にたがわず空色の水面が美しいし、柳沼は劇場のような奥行きが感じられる空間だ。もっとしっかり見ておけばよかった。

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青沼
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柳沼
 

2時間あまりの歩きを終えて、柳沼を見渡す裏磐梯物産館のロビーでしばし休憩。それから、国道を北へ歩いた。長峯舟付というバス停の近くから、別の遊歩道、全長6kmの桧原湖畔探勝路が延びている。これは桧原湖(ひばらこ)の東岸に沿って北上するルートで、案内板によれば「吊り橋をわたって桧原湖畔を歩くみち」。

日本一長い駅名のような落ち着かない響きだが、吊り橋がキーなのは間違いない。というのも、いかり潟という入江への水路をまたぐこの橋は、11月20日から翌年4月20日まで閉鎖され、通行できなくなってしまうのだ。迂回路はないので、全線通しで歩けるのは雪のない半年あまりに限られる。

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桧原湖畔探勝路の案内板
 

ルートはおおむね湖の南東岸に沿うが、アップダウンがそれなりにある。桧原湖をせき止めているのも流れ山なので、平坦な土地がほとんどないからだ。しかし、階段や木道は使われず、落ち葉が積もっているものの、路面は簡易舗装されている。

道は最初、西へ進む。松原キャンプ場の先では、雲が少し上がって、裏磐梯の荒々しいカルデラを中腹まで眺めることができた。この後また天気が悪くなったので、これが山の見納めだった。北に進路を変えてしばらく行くと、右手にいかり潟の入江が現れた。

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(左)松原キャンプ場のボート桟橋
(右)簡易舗装の路面
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桧原湖畔から望む裏磐梯のカルデラ
 

吊り橋の橋面は板張りで、安全のため20人以上載らないように、と警告板が立ててある。しかし、ケーブルを渡す主塔は鉄製で、頑丈そうだ。奥まった入江には、ボートが何艘か浮かんでいる。魚釣りのようだが、前に立って水面を凝視している人もいる。ハンプと呼ばれ、釣り場にもなっている陰顕岩が多いそうだから、その見張りだろうか。

渡るころから雨足が強まってきた。少し先にあずまやがあったので、雨宿りを兼ねて昼食休憩にする。

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いかり潟の吊り橋
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(左)水路をまたぐ
(右)いかり潟に浮かぶボート
 

桧原湖は面積10.7平方kmで裏磐梯最大の湖だが、水深は意外に浅く、南部ではせいぜい10~20mだ。地形図の等深線に着目すると、湖底にも、地上と同じような無数の凹凸が描かれている。湛水する前は、流れ山に覆われた地形だったことが見て取れる。湖岸のハンプももちろん、流れてきた岩屑の一部だ。

一方、地形図には湖面の標高が822mと記されていて、同514mの猪苗代湖、220m前後の若松市街地に比べて、はるかに高地にある。湖の西側は既存の山地が連なっているが、喜多方に抜ける旧道細野峠の標高は約870mで、湖面からわずか50m高いだけだ。

噴火で谷を埋めた岩屑や泥流の層は、150~200mの厚みがあるとされる。堰止湖とはいうものの、岩屑で嵩上げされた表面の、少しくぼんだところに薄く広く水がたまったのが桧原湖の実態ということになる。

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桧原湖、流れ山が島になって点在
 

小止みになったのを見計らい、再び歩き出した。ルートの後半は湖岸から少し遠ざかり、森の中を縫う道になる。キャンプ場から先は、林道といった雰囲気の地道だ。このまま進むと、裏磐梯サイトステーションという休憩施設の前に出ていくが、中瀬沼探勝路と記された木標に従い、右へ折れる。

中瀬沼の前に、レンゲ沼探勝路に寄り道しようと思った。アプローチは湿地の上を行く趣のある木道だ。花の季節が終わったミズバショウが、あちこちで大きな葉を開いている。しかし、当のレンゲ沼は一周しても湖面があまり見えなさそうなので、途中で引き返した。

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(左)レンゲ沼探勝路の木道
(右)花の終わったミズバショウ
 

方や中瀬沼のほとりには、眺めのいいことで知られる展望台がある。沼の北岸にある小高い丘、すなわち流れ山の上から、磐梯山が正面になる。むろん今日は雲の中だが、手前の中瀬沼にも、水没を免れ、新緑を湛えた流れ山がたくさん浮かんでいる。展望台から見下ろすと、まるで森が浸水しているように見えた。

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中瀬沼展望台からの眺め
 

その後は、県道2号米沢猪苗代線の側歩道を黙々と南へ戻る。歩きの締めくくりに、磐梯山噴火記念館を訪れた。ここでは明治の噴火の状況や、湖沼群の成因・特徴を詳しく紹介している。1988年の開館だそうで、展示物はさすがにくたびれかけているが、子供たちの興味も引くようなジオラマや人形を使ったわかりやすい表現に好感が持てる。

2階の一コーナーではNHKの番組「ブラタモリ」の磐梯山編を流していたので、しばらく視聴した。一行は毘沙門沼や銅沼を訪れて、火山地形や沼の水質を観察している。コンター旅のテーマにも通じる番組だから、毎週ほぼ欠かさず見ているが、現地を巡った後なのでより実感がわく。大人向けには、これ1本で十分な説得力があると思う。

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(左)磐梯山噴火記念館
(右)流れ山の露頭
 

向かいの3Dワールドは行かなかったが、裏手に流れ山の露頭がある。駐車場を造成した際に、流れ山が半分削られ、断面がひょうたん島の形に見えているのだ。落ち葉が積もってはいるが、ごろりとした石も露出していて、岩屑流の片鱗が窺えた。一帯は森に覆われてしまったため、このように露頭を観察できる場所はほかにないらしい。

春の旅はここがゴールだ。現地解散の後、私は小野川湖の水門を見学し、最寄りのバス停から、喜多方へ抜ける1日2本しかないバスに乗った。

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小野川湖の水門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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