コンターサークル-s

2024年6月 2日 (日)

コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

2024年5月12日、春のコンター旅の最終日は、朝から高速バスに乗り、山形から鶴岡に移動した。参加者は大出、山本、私の3名。バスが通る山形自動車道は、月山(がっさん)南麓の五十里越街道をなぞる山越えルートだ。峠をはさむ区間では高速道路が未開通のため、国道112号いわゆる月山道路を走るが、こちらも画期的に改良されていて長いトンネルと高い橋梁が連続する。

9時すぎに鶴岡のバスターミナル、エスモールに到着。レンタカーを扱っているスタンドまで出向いて、トヨタアクアを借りた。きょうはこのクルマで、鳥海山麓の名勝象潟(きさかた)と、山岳展望台や水にまつわる名所を巡る予定だ。

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庄内平野、遊佐鳥海IC付近から望む鳥海山
東鳥海(右)、西鳥海(左)の二つのピークをもつ
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図1 鳥海山周辺の1:200,000地勢図
1992(平成4)年修正

いつものように大出さんの運転で、酒田ICから日本海東北自動車道(日東道)を北上する。暫定二車線に見合う程度の通行量なので、一定速度で気分よく走れる。遊佐(ゆざ)からは国道7号で山形・秋田の県境を越えて、象潟までおよそ60km、1時間ほどで到達できた。

国道沿いにある道の駅象潟にクルマを停めて、真っ先に6階の展望室へ上がる。ここは、東に鳥海山と象潟「九十九島、八十八潟」(下注)、西には日本海の水平線と、360度の眺望でつとに知られるスポットだ。しかし、残念なことにガラスがけっこう埃で汚れていて、視界良好とは言いがたい。

*注 象潟の景観を称賛する古来の言い回し。なお、小島の実数は103あまりとされる。

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道の駅象潟の展望室から東望
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
象潟
 

象潟を含むこの一帯の地形は、紀元前466年の冬(下注)に起きた鳥海山の噴火による山体崩壊で生じたものだ。北流している白雪川に沿って大量の岩屑なだれが日本海まで流れ込み、にかほ市中心部の平沢から金浦(このうら)にかけて海岸線を大きく後退(=陸地を前進)させた。

*注 この正確な年代は、岩なだれで地中に保存された埋れ木の年輪年代測定により求められたもの。

その一部は西側の海岸にも広がり、今の象潟周辺におびただしい土砂の小山、いわゆる流れ山を積もらせた。後に砂州が発達してこの水域を取り囲んだので、流れ山は風波による浸食から護られるとともに、潟湖(せきこ)に浮かぶ小島となった。

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象潟の水面に映る鳥海山
 

展望室の壁面に、象潟郷土資料館が所蔵する江戸期の屏風絵「象潟図」の写真が掲げてある。松尾芭蕉が「おくのほそ道」の長旅で訪れた1689(元禄2)年には、このようにまだ水で満たされていて、「東の松島、西の象潟」(下注)と並び称される、みちのく指折りの景勝地だったのだ。

*注 両者、多島海の景観は似ているが、地形の成因は異なる。松島は火山性のものではなく、地盤の隆起・沈降と海水の浸食により形成されたとされる。

しかしこうした浅い湖は、河川からの土砂の流入や、繁茂する植物に由来する有機物の堆積で、しだいに陸化していく宿命だ。象潟もすでにその過程にあったが、1804 (文化元)年に発生した巨大地震で地盤が2mあまりも隆起したことで、一気に干上がってしまった。

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「象潟図」の一部
道の駅象潟のパネルを撮影、原本は象潟郷土資料館蔵
 

現在、もとの湖面はほぼ水田化されている。今は田植えの季節だが、作り手が不足しているのか、葦が生え放題の休耕田も少なくない。芭蕉の頃と変わらないのは、後ろにそびえる鳥海山ぐらいではないだろうか。しかも展望台からの眺めでは、手前を国道が横切り、住宅やロードサイド店舗も並んでいる(下注)。よほど想像を膨らませない限り、古人が書に遺した感動を追体験することは難しい。

*注 上掲写真のとおり、ドラッグストアの看板は景観への配慮で、赤ではなく地味な茶色になっている。

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一面の葦に覆われる象潟の休耕田
 

道の駅のレストランで早めの昼食を取った後、徒歩で蚶満寺(かんまんじ)を訪ねた。芭蕉も参拝したことで知られる象潟の古刹だ。羽越本線の踏切を渡り、松林の小道を進んでいくと、古びた山門が迎えてくれた。阿吽の仁王像に会釈をして、続きの石畳を行く。拝観受付の横に座っていた方が言うに、「今は来る人が少ないので、受付は閉めてるんです。庭に行かれるなら、寺で拝観料を納めてください」。

せっかく来たのでお庭を拝見する。ツツジやハナモモが花をつける傍らに、宝暦13年(1763年)の銘があるという芭蕉の句碑が立つ。「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」、おくのほそ道に記された有名な句だ。裏手には舟をつないだという石柱も残っていた。寺の建つ場所ももとは流れ山の一つで、庭を一歩出ると水辺が広がっていたのだ。

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(左)羽越本線の踏切を渡って蚶満寺へ
(右)山門前の蓮池
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蚶満寺
(左)山門(右)本堂
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(左)宝暦13年の芭蕉句碑
(右)庭のツツジ
 

寺を辞して、山門前の蓮池のほとりを巡る。旅装束の芭蕉像のそばにも、同じ句を刻んだ碑が立っている。例えに借り出された中国春秋時代の伝説の美女、西施の像がそれと向かい合う。

それから、景観保全されている区域の西縁に沿って、遊歩道を北へ歩いた。九十九島にはそれぞれ太い幹、見事な枝ぶりの松が育っていて、土台を何倍もの大きさに見せている。ところどころ水が張られた田んぼには、鳥海山や松林が逆さに映り、潟湖が一面に広がっていた昔はさぞかしと思わせた。

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(左)蓮池近くの芭蕉像と句碑
(右)水田越しに山門が見える
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流れ山の一つ、駒留島
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鳥海山の頂きに雲がまとわる
 

クルマに戻って、今度は内陸に向かう。きょうは西から低気圧が近づいていて、時間が遅くなるほど雲が増えてくると予想した。実際、鳥海山の頂きに雲がまとわりつき始めたので、先に山岳展望台へ回ることにした。

国道から左に折れて、鳥海グリーンラインを進む。北麓を東西に横断するこの道路は、白雪川を渡ると、ヘアピンカーブで仁賀保高原と呼ばれる台地へ上っていく。仁賀保高原は、西側を南北に走る衝上断層群によって生じた、南北約13km、東西約2kmの細長い高まりだ。鳥海山に向き合うとともに、北麓を広く見渡すことのできる天然の展望地になっている。

坂の途中で、早くもパノラマライン展望台という、クルマが数台停まれる小さなパーキングが用意されていた。高度はすでに320mほどあり、日本海の見晴らしが良好だが、目的地はまだ先だ。

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(左)パノラマライン展望台
(右)日本海に浮かぶのは飛島
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図3 1:25,000地形図に訪れた場所(赤)等を加筆
仁賀保高原
 

サミットまで上り詰めたところで、尾根道に入った。巨大な発電用風車が建ち並ぶ足もとをしばらく南へ走ると、突き当りに仁賀保高原南展望台(標高約450m)がある。クルマを降りて、4年前(2020年)に造られたばかりの新しい展望デッキに立った。

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仁賀保高原南展望台
 

左手に、残雪を戴く鳥海山が圧倒的な存在感で鎮座している。標高は2236m、東北地方第2の高山だ(下注)。出羽富士の別称のとおり、円錐形に成長していく成層火山に分類されるが、こちらから見える北西側斜面は、先述した2500年前の山体崩壊により大きくえぐれている。いわゆる馬蹄形カルデラだ。

*注 第1位は尾瀬のシンボル、燧ヶ岳(2356m)。ちなみに山形・秋田県境は鳥海山で北側に膨らんでいて、山頂周辺は、山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)に属している。

山体から右手前に向かって一段へこんで見える広い函状の谷が、岩屑なだれが駆け降りた跡を示している。今は全体が森林に覆われているが、そのスケールを一瞥するだけで、どれほどすさまじい崩壊が起きたのかがわかる。岩屑なだれはその勢いで東側、すなわち現在の冬師(とうし)湿原のほうにも流れ山を飛び散らせた。この展望台は、その暴風波に直面した船の舳先(へさき)のような場所に位置しているのだ(下の説明板写真参照)。

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鳥海北麓に広がる函状谷は岩屑なだれの跡
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展望台の説明板
図の中央やや下が展望台の位置
 

さて、もう1か所行ってみたかったのが、北へ5kmの丘の上にある「ひばり荘」だ。標高は約530mで、仁賀保高原ではおそらく最も高い場所になる。

ここは公営の休憩施設らしいのだが、2階の展望室に上るまでもなく、駐車場のへりから遮るもののないパノラマが得られた。周辺には大小の溜池が点在していて、その一つ、長谷地(ながやち)溜池の水面がアングルに収まる。南展望台で見たような壮大な山岳風景とはまた趣きが異なり、絵葉書のようなコンパクトな構図にもできるのがおもしろい。ひばり荘はバイクのツーリングの休憩地になっているようで、私たちが滞在する間にも何台か上がってきた。

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ひばり荘展望台からの眺め
手前の水面は長谷地溜池
 

鳥海の女神はいたずら好きなのか、後になるほど雲が増えてくるという私の予想ははずれた。高原を降りる頃になって、山頂に掛かっていた雲が取れてきたのだ。

次は、山麓の水にまつわる名所をいくつか巡りたい。一つは、上郷(かみごう)温水路群と呼ばれる独特の水路施設だ。鳥海山の斜面を流れ下る雪解け水は流速が早く、水温が低いままで、稲の生育には適していない。そこで、階段状の幅広い水路に通すことで、水温を上げる仕組み(下注)が考案された。1927(昭和2)年以降、計5本、長さ6.28kmが造られ、多くは今も使われている。

*注 流速が下がるので陽光に接する時間が長くなり、段差(落差工)を落ちる際に水に空気が溶け込むことも水温上昇につながるという。

このうち、土木学会選奨土木遺産やジオパークの標識がある小滝温水路の一角に行ってみた。緩く傾斜した田園地帯を貫いて、無数の段差のある水路が山手から降りてきている。水量はたっぷりで、段差を落ちる水の躍るようなきらめきが、初夏の到来を感じさせた。

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上郷温水路群の一つ、小滝温水路
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緩傾斜の田園地帯を流れ下る水路
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小滝周辺
 

続いては、奈曽の白滝(なそのしらたき、下注)へ。鳥海山から流れ下ってきた奈曽川(なそがわ)が溶岩台地を抜け出す場所に掛かる落差26m、幅11mの大滝だ。修験道に関わるという金峰(きんぽう)神社の境内から階段だらけの遊歩道が延びていて、観瀑台と呼ばれる展望デッキや滝壺近くの川べりまで行くことができる。

*注 地形図の注記は「奈曽の白瀑谷」だが、白瀑谷の読みは、現地の案内板でも「はくばくこく」「しらたきだに」の二通りがあった。

雪解けの季節とあってこちらも水量が多く、迫力のこもった水音がほの暗い谷間にこだましていた。遊歩道を先へ進むと、ねがい橋という吊り橋で谷を跨いで、対岸に渡る周遊ルートになっている。しかし、木々の青葉に隠されて、橋上からは滝がほとんど見えなかった。

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金峰神社
(左)参道(右)本殿
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奈曽の白滝
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(左)ねがい橋
(右)橋上からの奈曽川渓谷、滝はほとんど見えない
 

最後に訪れたのは、元滝(もとたき)伏流水という湧水地だ。奈曽の白滝から南へ1.5km、駐車場にクルマを置いて、さらに水路に沿う山道を上流へ10分ほど歩いた山中にある。ここでは、溶岩層の下を浸透してきた地下水が、幅約30mにわたって谷壁(末端崖)から滔々と湧き出している。しぶきに濡れた岩はすっかり苔むしていて、木の間に漂う冷気が神秘感をいっそう高めていた。なお、地形図には、名称の由来である「元滝」という滝も描かれているが、現在は崖崩れのため、立ち入れないらしい。

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(左)水路に沿う遊歩道
(右)元滝川の渓流
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溶岩の下から湧き出る元滝伏流水

予定を終えて、もと来た道を鶴岡へ戻る。今回の企画はもともと象潟の景観が主目的だったのだが、それにとどまらず、名峰鳥海山がはぐくんできた大自然の奥深さを実感する一日になった。興味をそそる周辺のスポットは他にもあるが、またの機会に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図酒田、新庄(いずれも平成4年編集)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

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左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-s春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

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桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

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羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
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(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

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(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
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バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
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図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

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(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
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観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

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(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

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(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
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(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

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(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

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(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

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修復中のモハ103
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屋根の復元が進行中
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月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
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在りし日の三山線写真
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(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

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(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
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石田駅跡に残る桜の大木、西望
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
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図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

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石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
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(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

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羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

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(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

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白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
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図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

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寒河江川にかかるみやま橋
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(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

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三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

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三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

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楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
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図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

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展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
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楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
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同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

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旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
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夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-s春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

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第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

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朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

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明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
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図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

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西条駅
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(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

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鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

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道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

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大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
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(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

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(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
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旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

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旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

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(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
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新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

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(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

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廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
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図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

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(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

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潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
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(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

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漆久保トンネル東口
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小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

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(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

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けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

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谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
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(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

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三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
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(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
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道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すると、駅舎の前に出る。

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(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
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明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

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2024年5月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-三方五湖

「五万分一地図の『西津』は、私の地図のコレクションに、最も早く加わったものの一つである」。この一文から『地図を歩く』(河出書房新社、1974年)の「冬の三方五湖」の章が始まる。西津(にしづ)の図のちょうど中央に描かれているのが福井県南部にある三方五湖(みかたごこ)で、堀さんはその特異な風貌に惹かれたのだという。

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梅丈岳山頂から東を望む
手前から奥へ日向湖、久々子湖、美浜湾
 

「久々子(くぐし)、水月、菅、三方、日向(ひるが)の五つの水面が、あるいは狭い水路によって連なり、あるいは細く痩せた地峡によってわずかに隔てられて作る複雑な湖岸線は、岬と湾が錯綜する若狭の海岸にあってなお、ひときわ目立つ存在である。湖をめぐる村々の、久々子、日向、苧(お)、遊子、塩坂越(しゃくし)などという何とはなくゆかしげな名もまた、あらがい難く人の心を誘うのだった」。(同書p.160、下注)

*注 堀淳一氏の『地図を歩く』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.157、2012年新装新版ではp.156にある。また、『地図の風景 中部編III 富山・石川・福井』(そしえて、1981年、p.191)でも取り上げられている。

敦賀を拠点にした2024年のコンター旅2日目、3月24日は、堀さん曾遊の地であるこの三方五湖を訪ねる。初めに五湖の展望台がある梅丈岳(ばいじょうだけ)に上って「複雑な湖岸線」を高みから観察し、下山後は湖岸を歩きながら、湖ごとの風情の違いを感じてみたい。

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山頂公園に上るケーブルカーとチェアリフト
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図1 三方五湖周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

雨の柳ヶ瀬だった昨日ほどではないにしろ、けさも時おり小雨が舞う空模様だ。敦賀駅前のバス乗り場に集合したのは、昨日と同じく大出、山本、私。後で美浜駅から木下親子が合流して、計5名になった。

8時40分発のゴコイチバス(下注)に乗り込む。これは、敦賀まで来た観光客を、三方五湖や熊川宿(くまがわじゅく)といった周辺の見どころへ送り込むための特設バス路線だ。旅行シーズンの週末に走っていて、今年は新幹線の延伸開業に合わせ、春まだ浅い3月16日から運行を開始している。敦賀からの直行便であり、定期バス路線がない梅丈岳の山頂を経由してくれるので、利用価値は高い。

*注 ゴコイチは五湖一周の意。琵琶湖を一周することをビワイチというので、それにあやかったものか。

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山頂公園駐車場のゴコイチバス
 

とはいっても、天気が天気なので、乗客は私たちを含めて数名のみ。バスは、市街地を抜けて国道27号バイパスを西へ進む。JR小浜線の美浜駅に立ち寄った後、久々子湖北岸を通過して、三方五湖の展望道路であるレインボーラインに入った。もとは有料道路だが、2022年から県道273号になり無料化されている。ただし、自転車や歩行者は通行できない。

道は日向湖と水月湖を隔てる尾根筋に取りつき、ぐんぐん高度を上げていく。しかし、予想どおり中腹あたりから霧が濃さを増し、山頂公園下の駐車場に着いたときには下界はもうほとんど見えなかった。梅丈岳は山頂一帯が有料区域になっていて、入場料1000円が必要だ。視界ゼロでも料金は変わらないが、木下さんが宿でもらってきてくれた割引券で800円になったのが、せめてもの慰め…。

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白くかすむ下界
山頂公園のチェアリフトから
 

駐車場から展望台のあるピークへは、ケーブルカーとチェアリフトが連れていってくれる(下注)。並走していてどちらに乗ろうと自由なので、往路はケーブルカーにした。長さ約140m、所要2分強、途中から傾斜が急になる。

*注 かつては山頂の反対側(西側)にチェアリフトがあった。設備は今も残っているが、もはや使われていない。

山頂は東西200m、南北50mほどの広さがあり、主な展望テラスが5か所設置されている。しかし今日は、手すりに掲げてある見本写真で想像するしかない。救いだったのは風が弱くて寒くないことと、客が少ないので展望足湯も混んでいなかったことだ。

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濃霧に巻かれる展望テラス
 

五里霧中の写真では参考にもならないので、別の晴れた日に撮影したものを掲げておこう。

梅丈岳は、若狭湾に突き出した常神(つねがみ)半島の根元にあるピークの名だ。山頂の標高は400.2m(下注)で、周辺5kmの範囲では最も高い。そのおかげで360度のパノラマが楽しめるが、どの方向とも水面を配した構図になるのが特色だ。

*注 山頂に三角点がないので、数値は、中江訓・小松原琢・内藤一樹「西津地域の地質」産業技術総合研究所 地質調査総合センター, 2002 p.3 に拠った。

まず北と西には、若狭湾(日本海)の海原がすっきりと広がる。東は五湖のうち日向湖(ひるがこ)と、わずかだが久々子湖(くぐしこ)が顔を覗かせ、南は三方湖(みかたこ)、菅湖(すがこ)、水月湖(すいげつこ)が一望になる。各展望テラスは、それらが最もよく見える場所に設けられている。

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晴れた日の山頂からの展望、西側
世久見(せくみ)湾に烏辺島(うべじま)が浮かぶ
中央奥は久須夜ヶ岳(くすやがだけ)
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同 北側
左は常神(つねかみ)半島の一部、正面は日本海の水平線
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同 東側
手前に日向湖と日向集落、
中景が久々子湖(逆三角形の水面が小さく覗く)と早瀬集落、
奥は美浜湾と久々子浜
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同 南側
手前に水月湖、左の入江が菅湖、中景に三方湖
 

さて、当日の話に戻ると、私たちは霧の中で1時間ほど滞在した後、チェアリフトに乗って駐車場まで戻った。次のゴコイチバスは11時05分に発車し、カーブを繰り返しながら、下界へ降りていく。山本さんはそのまま三方駅へ向かい、あとの4人は、海山(うみやま)という集落にある若狭町レイククルーズ(遊覧船)停留所で下車した。海山は、水月湖の西岸にある集落で、五湖の最奥部に位置する。後ろの尾根筋を越えればもう若狭湾という場所だ。

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海山のレイククルーズ停留所前
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低い空、モノトーンの水月湖
 

堀さんが五湖の旅の最後に訪れたのがここだった。三方駅から路線バスで着いて、梅丈岳の登山道を途中まで登っている。私たちは山から下りてきたので、逆に湖畔を歩いて小浜線の駅に戻ろうと思う。

県道から右に入る舗装道を歩き出した。民家が並ぶ中を行くが、それも水月花という温泉旅館の前までだ。北岸一帯は、梅丈岳の急斜面が湖面まで落ち込んでいて、集落がない。通じている道も農道というのがふさわしく、湖岸で栽培されている梅林の世話に行く農家の軽トラックがたまに通るくらいだ。

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湖畔の沿道に梅林が続く
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
梅丈岳と海山~苧間
 

空はまだどんよりとして、雲が低く垂れこめたままだ。光が弱く景色はモノトーンに近いのだが、たゆたう水面に映りこむ濃灰の山並みも悪くない。最初の岬の突端まで行くと、小さな展望デッキが現れた。タイミングよく湖にカヤックが何艘かやってきたので、デッキの上から挨拶を交わす。

水月湖は五湖で最大の湖だ。東の菅湖、南の三方湖とは狭い水道でつながっている(下注)。深度は34m、直接流入する河川がほとんどなく、湖底が無酸素状態で生物による撹拌もないため、夏と冬で色の異なる堆積物が年輪のようにきれいな縞模様、いわゆる年縞(ねんこう)を形成していることで知られる。

*注 ちなみに菅湖と三方湖は長尾と呼ばれる細尾根の半島で隔てられているが、堀切という人工水路でつながっている。

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湖面を行くカヤックの集団、この後何艘か続いた
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湖底のボーリングで採取された年縞(一部)
福井県年縞博物館の展示を撮影
 

道は、ひたひたと波が寄せる護岸に沿ったり、暗い植林地の中を縫ったりしながら、最も奥まった入江を通過した。次の小さな岬を回りこむと、何やら人工物が見えてきた。山向こうにある日向湖との間が最も狭まる地点に、嵯峨隧道(さがずいどう)という水路トンネルがあるのだ。

トンネルは江戸時代中期に初めて貫通したが、崩落して掘り直されるなど、たびたび改修を受けてきた。手前にある1980年完成の水門は、高潮時に海水が逆流するのを防ぐためのものだが、通常は閉鎖されていて、水は行き来しない。水路を渡る橋から姿勢を低くして覗くと、トンネルは出口の明かりが見えるほど短かった。

襲ってきた小雨をしのぎがてら、水門横のあずまやで昼食休憩にする。

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嵯峨隧道の水門
 

再び歩き出すと、やがて道は急な上り坂になり、高い位置で次の水路を渡った。下を流れているのは、久々子湖と菅湖を連絡している浦見川(うらみがわ)だ。江戸時代前期、1664年に完成した人工河川で、図上計測によれば、長さ約630m(下注)。

*注 全長324mとしているサイトもあるが、これは古文書の記述に依拠したもの(180間の換算値?)と思われる。現状は、護岸固定により南北に延長されている。

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浦見川
(左)高い位置で川を渡る歩道橋
(右)橋上から見える素掘りの岩壁
 

かつて久々子湖と菅湖は、三方断層西側の低地を経由する水路でつながっていた(気山古川などと呼ばれる。上の地図にルートを補記)。しかし、土砂の堆積で流れにくくなり、ひとたび大雨が降ると、上流3湖の水位が上昇して、湖畔の集落や田畑に浸水被害が生じていた。

この状況を決定的にしたのが、1662年に発生した寛文大地震だ。地盤の隆起で、水路が完全に干上がってしまったため、新たな排水路の開削が計画された。これが浦見川で、それまで恨坂(うらみざか)と呼ばれていた地形の鞍部を、人力で水位まで切り下げる土木工事だった。延べ22万5千人を動員し、2年がかりの大事業だったとされ、素掘りされた垂直の岩壁は、水路橋の上からもかいま見ることができる。

橋を渡って左へ。浦見川に沿う細道は、思いのほか急勾配で上下している。これがもとの地形をなぞっているとすれば、開削しようというのはあまりに大胆な企てだ。高さ20mほどの崖下を川が通っているが、ガードレールがないので、のぞき込む勇気はない。

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(左)川沿いの浦見坂
(右)遡行するボート、浦見橋にて
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浦見川の久々子湖への出口
 

この地峡を抜けると、珍しい一音地名の苧(お)集落に出る。右へ折れれば1.6kmほどで小浜線の気山駅だが、私たちは左に折れて、日向湖へ向かった。日向湖は、他の4湖とは違って独立した水域(下注)だ。おおむね楕円形で、周囲を山に囲まれているし、深度も39mと五湖最深なので、地形的にはカルデラ湖に似た雰囲気がある。

*注 人工の嵯峨隧道で水月湖と接続されているが、先述のとおり、水門は通常閉鎖されている。

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家並みで埋まる日向湖北岸
正面奥の山が切れたところに運河がある
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図3 同 苧~美浜駅間
 

ところが、湖畔の風景はまた別で、生活感が色濃く漂っている。北半分が漁師町で、漁船を陸揚げする岸壁が長く延び、その後ろに民家がびっしりと建ち並んでいるのだ。湖は、1635年開削の日向運河と呼ばれる水路で海とつながっている。漁船はここから海へ出ていき、収獲物を海側の漁港におろした後、また湖に帰ってくる。運河をまたぐ日向橋の上に立つと、船を格納する湖岸と、漁港のある海岸の位置関係がよくわかる。

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(左)船を揚げる岸壁
(右)運河と日向橋
 

ここからは笹田集落の鞍部を細い旧道で抜けて、東隣の久々子湖畔に出た。南北2.5km、東西500~700mの細長い形をした久々子湖は、砂州によって海と隔てられてできた潟湖だ。水深は最大2.3mとごく浅いため、日向湖に比べると湖面が明るく見える。また、小雨が降ってきたので、湖巡りの遊覧船が出ている美浜町レイクセンターの待合室で、雨宿りした。

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久々子湖と砂州に載る早瀬の家並み
レイクセンターから東望
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久々子湖南望、正面は矢筈山と雲谷山
 

一休みした後は、美浜駅まで最後の区間を歩く。湖と海をつないでいるのは早瀬川という、砂州を貫く長さ200mほどの水路だ。日向湖を除く4湖の水がここから海に流れ出ている。水路をまたぐ早瀬橋の橋桁には、出入りする船舶のための信号機が設置されていた。橋の東のたもとに、神社が鎮座しているのも興味深い。

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(左)船舶用信号機のある早瀬橋
(右)早瀬橋のたもとの水無月神社
 

飯切山の切通しから、久々子の集落に入った。湖の名はここに由来しているが、集落の主要部は湖畔ではなく、若狭湾に面した砂州の上にある。少し遠回りして、久々子浜の堤防の上に出てみた。オフシーズンで人影はなく、砂浜に打ち寄せられた色とりどりのごみばかりが目につく。海の向こうからも流れ着くので防ぎようがないのだろうが、海水浴のシーズンに向けて清掃作業の大変さは想像に余りある。

久々子の家並みを抜ければ、ゴールの美浜駅まであと1.5kmだ。敦賀行きの電車に間に合うよう、急ぎ足で向かった。

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(左)ごみが漂着する久々子浜
(右)美浜駅に対向列車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宮津、岐阜(いずれも昭和58年編集)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-s 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や徒歩では通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

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周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げされた。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

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柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ入った。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられているが、階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだろうが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だが、カーテンが引かれ、閉まっていた。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

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(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

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(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

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中ノ郷駅のホーム跡
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本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
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(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
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図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

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柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
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旧道沿いの本陣跡民家
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図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

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柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

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(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
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長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

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柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

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頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
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オリジナルのポータルが残る
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由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
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同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

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(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
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図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

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小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
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東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

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東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
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県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

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愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
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図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

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笙の川に残る橋台と橋脚の土台
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(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
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(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年(2023年)春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

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杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
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図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2023年12月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

侵食力の差によって、ある川が隣接する川の流れに介入し、そこから上の流域をまるごと奪い取ってしまう。分水界の移動を引き起こすこうした河川争奪地形の読み解きは、あたかもオセロゲームを観るような興味を呼び起こす。

2023年コンター旅の最終日に訪ねたのは、そのような地形の変化が実際に生じた場所だ。中国山地、山口・島根の県境付近にあり、当事者である川の名から「宇佐川・高津川の河川争奪」、あるいは地名から「宇佐郷(うさごう)の河川争奪」などと呼ばれている。

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河川争奪で生じた向峠(こうたお)の風隙(北東望)
 

後述するように、ここでは日本海に流れる高津川(たかつがわ)の流域に、瀬戸内海に注ぐ錦川の支流、宇佐川(うさがわ)が進出して次々と陣地を奪っていった。そのたびに奪った方の水量が増して侵食力が高まるため、奪われた川床との高低差は今や100m以上にもなる。

さらに、上流を失った旧 高津川の空谷を切り裂くようにして、支流のV字谷が横断しているのも珍しい。成立過程の複雑さと規模の大きさにおいて、ここは国内最大級の類例と言っても過言ではない。

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図1 宇佐川周辺の1:200,000地勢図
(左)1986(昭和61)年編集(右)1987(昭和62)年編集
 

中国地方では上根峠(かみねとうげ、下注)と並んで有名な典型地形だが、山中につき公共交通機関で行くのは難しいと思い込んでいた。ところがグーグルマップを見ていて、付近を通過する中国自動車道のパーキングエリア(PA)に、広島~益田(ますだ)間を走る高速バスの停留所があることに気づいた。

*注 上根峠については「コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪」参照。

他方、宇佐川の谷底には、本数は少ないものの岩国市のコミュニティバスが運行されていて、以前、岩日北線(未成線)の「とことこトレイン」に乗った帰りに実際に乗車している。

そこで、この二者を徒歩でつなごうというのが、今回の企画だ。歩く距離は約10km。ルート上には壮大な河川争奪跡だけでなく、繞谷(じょうこく)丘陵、水源池、さらには未成線跡とコンター流の見どころがてんこ盛りで、どんな景色が見られるのか期待に胸が躍る。

10月28日朝8時05分、広島駅新幹線口の高速バス乗り場に集合したのは、大出さんと私の2名。石見(いわみ)交通が運行する清流ライン「高津川号」益田行きは、駅前を発車すると、広島バスセンターでさらに客を拾った。それから長大な西風(せいふう)トンネルを抜け、広島道から中国道へと進む。

バスは太田川流域の山間部における交通機関の役割も果たしているようで、加計(かけ)、筒賀、吉和とSA・PAごとにこまめに停車していく。冠山トンネルを抜けて山口県に入った後の深谷(ふかたに)PAもその一つだ。

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(左)益田行高速バス、広島駅新幹線口にて
(右)深谷PAに到着
 

9時50分に到着。私たちは下車するが、バスもここで10分間休憩する。リュック姿で降りる客は珍しいのだろうか。運転手さんに「どこかへお出かけですか」と聞かれたので、慌てて「河川争奪の地形を見に来ました」と答えたものの、伝わったかどうかは自信がない。

このあたりは向峠(こうたお)という地名(下注)で、北側の山裾にその集落があり、前面に水田が広がっている。標高は390m前後。穏やかな山里に見えるが、東は宇佐川、西ではその名も深谷川(ふかたにがわ)の深い谷で切り取られているため、周囲から隔絶された天空の村だ(冒頭写真も参照)。

*注 行政的には、岩国市錦町宇佐郷の一部。

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山裾に広がる向峠の集落
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
深谷PA~水源公園
 

せっかく河川争奪地形を訪れるのだから、まずはそれが発生した地点、いわゆる争奪の肘(ひじ)を観察したいところだ。高津川と宇佐川の場合、それは向峠東(こうたおひがし)を横切る中国道の東側に、差し渡し1kmにわたって露出している。

しかし空中写真で見る限り、崖縁は森で覆われ、谷底を俯瞰するのは難しそうだ。何より歩く距離が2km追加になると、帰りのバスの時刻が迫ってくる。それで今回は、高速バスの車窓からざっと眺めることしかできなかった。

PAを出て北側に回ると、道の下に細い水路が走っていた。周りの谷が深く水が乏しいため、ここの水田を潤す水は、深谷川を4~5km遡った金山谷にある取水堰から用水路で引かれている。それがここに排水されているようだ。

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PAの北側を走る細い水路
(左)東(上流)方向(右)西方向
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集落から前面の水田を望む
中景の森の後ろに深谷川のV字谷がある
 

暖かい朝の日ざしが降り注ぐ中、集落を貫く県道16号六日市錦線を歩いた。道はいったん深谷川の上流方向に進むが、やがて左に回り込み、深谷大橋で谷を跨いでいく。橋の長さは99.5mだが、高さが約80mもあり、谷底をのぞき込むと思わず足がすくんだ。欄干に重ねるように高いネットが張られているのは、飛び降りを防ぐためらしい。橋のたもとには、いのちの電話の看板もあった。

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(左)深谷大橋
(右)案内板に河川争奪の説明が
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橋上から深谷川を見下ろす
 

深谷川は県境になっていて、橋を渡り終えれば島根県吉賀町(よしかちょう)だ。まもなく平地にとりつき、初見(はつみ)の集落に入る。左手遠方に、さっき通った向峠の家の屋根が、深谷の木立越しに望める。V字谷が形成される前は平面で地続きだったことがわかる。

道端に、年季の入ったバス停標識が立っていた。「六日市交通 上初見」(下注)とあるが、その下にうっすらと「国鉄バス 新田(しんた)」の文字が読み取れる。かつて国道187号経由で岩国と津和野・益田を結ぶ岩益線というバス路線があったから、その支線のようだ。

*注 吉賀町が六日市交通に委託しているコミュニティバス。

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深谷川は県境
(左)大橋東詰(右)西詰
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(左)上初見バス停標識には「国鉄バス 新田」の文字がうっすらと
(右)左手には深谷川の森が続く
 

しばらくのどかな村里を歩いていくうちに、左から中国道が近づいてきた。それをくぐった先にある水源公園のあずまやで、昼食休憩にする。手入れされていないうらぶれた園地だが、現在、高津川の水源とされているのが、ここにある大蛇ヶ池だ(下注)。湧水の池は大蛇が棲むには窮屈そうだったが、ほとりに生えている一本杉が樹高20m、根回り5mの巨木で、複雑な枝ぶりが神秘のオーラを放っている。

*注 地形図にあるとおり、池の上手にある星坂集落からも小川が流れており、池は水源の一つに過ぎない。

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高津川の水源、大蛇ヶ池
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風格のある一本杉、根元に大蛇ヶ池
 

公園を見下ろしている水源会館(郷土資料館)の前庭で、「河川争奪の復元図」を描いた説明板を見つけた。太古の高津川(以下、古高津川)がはるかに上流から流れてきていたことを明解に説明している。旧流路を示す砂礫の層があることも記されているが、欲を言えば、争奪を促した要因についても触れてほしいところだ。

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水源公園にある河川争奪の復元図
 

下記研究論文(下注)によると、それにはこの地域で北東~南西方向に走っている複数の断層が関係している。断層の継続的な活動によって、山地の北西側が隆起した。これにより、古高津川の中流部が持ち上げられるとともに、上流部では河川勾配が緩くなり、砂礫が堆積して河床が上昇した。

*注 山内一彦・白石健一郎「中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪」立命館地理学第22号, 2010, pp.39-5

このことはまた、断層の反対側(南東側)にある宇佐川~錦川流域との高度差がより開くことを意味する。さらに、一帯の地層は風化した花崗岩であり、後に宇佐川の谷となるラインには、断層に伴う破砕帯が走っていた。

こうした要因に促された河川争奪は、時代的にもエリア的にも復元図の絵解きよりはるかに広範囲に及ぶものだったようだ。その鍵となるのは同 公園の上手、星坂集落の南に見られる風隙だ。これも争奪の肘の一つだが、なぜか南に開いている。これはもとの川(被争奪河川)が、現在の宇佐川とは反対に南から北に向けて流れていたことを示唆する。

争奪過程の全体像は、以下の通り。なお下図は、同論文の添付図(p.53 第11図)をもとに描いたものだ。

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宇佐川の河川争奪過程 1~3
矢印は流路の方向を表す
 

かつて現 宇佐川の流域のほとんどは、古高津川の上流域だった。そして今とは逆方向に、深川南方から須川や星坂を通り、現 水源公園付近で古高津川に合流する川(以下、古南宇佐川)があった【上図1】。

8~4万年前に、錦川支流(=現 宇佐川)が南から浸食して、まずこの古南宇佐川の上流を奪った【上図2】。

新たな水流を得て侵食力を高めた宇佐川は、断層破砕帯に沿って谷頭浸食を進めていく。そして古南宇佐川の全流域を手中に収め、星坂南方に達した。星坂に風隙が生じたのは、この時点だ【上図3】。

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宇佐川の河川争奪過程 4~6
 

一方、現在、東から宇佐川に注いでいる道立野川(みちだちのがわ)、後川(うしろがわ)、相波川(あいなみがわ)などの支流は、かつて宇佐郷で一本の川(以下、古宇佐郷川)となり、現 深谷川が流下しているルートを逆流して古高津川に合流していた。4万5千~3万5千年前ごろ、宇佐川は宇佐郷でこれを奪った【上図4】。

約3万年前、宇佐川は向峠東方に達し、ついに古高津川本流を奪う【上図5】。

これにより古高津川は向峠で水流を失い(無能河川)、深谷川が運んできた砂礫が堆積して扇状地を形成した。1万~3千年前、古高津川の谷が大雨で湛水した際、深谷川から古宇佐郷川の旧流路を通って宇佐川へ溢流が発生した。これが繰り返され、深谷川から宇佐川への流れが定着した。

両者には相当な落差がある。初期は滝で宇佐川の谷に落ちていただろうが、下刻作用により次第にV字谷が発達していく【上図6】。こうして現在の水系が完成した。

午後は、水源公園から星坂を経由して宇佐川の谷へ降りるが、その前に、近くにある繞谷丘陵を見に行った。東西150m×南北120m、高さ30mほどの小山だが、コンパクトなだけにかえって谷をめぐらした形状がよくわかる。地質図によると、山体は東側の山と同じタイプの花崗岩なので、地形的にそちらから切り離されたものだろう。

山上に祀られている妙見神社まで、鳥居の立つ南麓から急な石段がついていた。蜘蛛の巣を払いながらなんとか上りきったが、終盤の参道が地すべりで崩壊していて、残念ながら社にはたどり着けなかった。

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妙見神社の繞谷丘陵
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図3 同 水源公園~上須川
 

星坂の集落へ通じている道は、県道120号須川吉賀線だ。しかし普通車がやっとの狭い道幅で、舗装されてはいるものの、雰囲気は林道に近い。左の谷間は水田だったのだろうが、もはや背の高い雑草が生い茂っている。

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(左)林道のような県道120号
(右)星坂の集落を抜ける
 

集落を抜けると道はいっとき上り坂になり、まもなく島根・山口県境の峠に達した。大蛇ヶ池のほとりで見た「従是西(これよりにし)津和野領」の境界石は、もともとここに立っていたものだ。

この星坂峠を境に、風景は一変する。それまで山に囲まれた穏やかな平地だったのが、突然宇佐川の深い谷間を見下ろす山腹に躍り出るのだ。谷底との高度差は180mにもなる。先述の通りこの風隙は争奪の肘で、勢いを得た川の途方もない浸食力に圧倒される。

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(左)星坂峠への上り坂
(右)峠から再び山口県に
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もと星坂峠にあった境界石
現在は大蛇ヶ池のほとりに立つ
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景色は一変、宇佐川の深い谷間に
 

急斜面を覆う木々の間から、下の谷を走る国道434号がちらちら覗いている。県道はくねくね曲がりながら約2.5kmかけてそこまで降りていくのだが、下り坂なので、二人でよもやま話をしているうちに、早や国道が近づいてきた。

国道に出て宇佐川を渡ると、上須川(かみすがわ)の集落がある。立派なコンクリートの高架橋が集落のある谷間を斜めに横切っているのが見える。未成線、岩日北(がんにちきた)線の第4宇佐川橋梁だ。

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谷壁を降りていくか細い県道
(左)星坂峠を振り返る(右)下流方向
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上須川集落
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谷を横切る第4宇佐川橋梁
 

岩日というのは、山陽本線の岩国と山口線の日原(にちはら)のことで、岩日線はこの間を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたものだ。このうち、錦町(にしきちょう)までの南部区間が旧 国鉄岩日線(下注)で、1960~63年に開業し、その後、第三セクターの錦川鉄道になっている。一方、北部区間は岩日北線と呼ばれ、島根県吉賀町の六日市(むいかいち)まで建設が進められていた。路盤はほぼ完成していたが、国鉄再建法の施行により工事は凍結され、惜しくも未成線となってしまった。

*注 旧国鉄岩日線は、正式には岩徳線川西~錦町間32.7kmだが、列車は岩国から直通していた。錦川鉄道の列車も同じ運行形態をとっている。

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現在の錦町駅
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未成線跡を走る「とことこトレイン」
雙津峡温泉駅にて(別の日に撮影)
 

錦町駅と雙津峡(そうづきょう)温泉の間では、2002年からこの路盤を活用して遊覧車両「とことこトレイン」が運行されているが、区間外のこのあたりは遊休施設の状態だ。集落の南で敷地に上ってみると、とことこトレインの走行路と同じように、路盤はきちんと舗装されていた。

高根口駅予定地から宇佐川を跨ぐ第4橋梁までは歩いていけたが、対岸で濃い藪に行く手を遮られてしまう。岩日北線はここから長さ4679mの六日市トンネルで針路を西に変え、高津川流域の六日市に出ていくはすだった。空中写真を見る限り、向こう側の出口でも立派な未成線跡が1kmほど残されているようだ(下注)。

*注 六日市駅予定地は、むいかいち温泉ゆ・ら・らの敷地に転用されている。

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(左)上須川の岩日北線跡
(右)国道を越える第4宇佐川橋梁
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(左)橋梁から上須川方向を振り返る
(右)対岸は濃い藪で六日市トンネルは見えず
 

上須川バス停で、13時58分発の路線バスを待つ。時刻通りにやってきたのはマイクロバスで、他に客はいないから、タクシーのようなものだ。とことこトレインに乗るために途中の停留所で降りた大出さんを見送って、私はそのまま錦町駅まで乗り通した。

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(左)錦町駅へ行くコミュニティバス
(右)上須川バス停の待合所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、山口(昭和61年編集)および地理院地図(2023年12月1日取得)を使用したものである。

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2023年11月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡

四国のコンター旅2日目は高知に移って、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の旧跡を巡る。

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立岡二号桟道
 

魚梁瀬森林鉄道は、県東部の中芸地区で特産の杉などの木材を山から運び出していた762mm軌間の産業鉄道だ。1911(明治44)年から1942(昭和17)年にかけて奈半利川(なはりがわ)と安田川(やすだがわ)の流域に張り巡らされ、当地の林業経営を支えた。最盛期には、総延長が300kmを超え、国内屈指の広範な路線網だった。しかし、魚梁瀬ダムの建設で上流部の線路が水没することになり、1963(昭和38)年までに主要区間が廃止され、トラック輸送に置き換えられた。

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魚梁瀬丸山公園の復元列車
 

その後、水没を免れた廃線跡は道路に転用されるなどしたが、旧態のまま遺されていたトンネルや橋梁などの構造物が、2009年に「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されて現在に至る。森林鉄道の痕跡は全国にあるが、重文指定を受けているのはここだけだ(下注)。

*注 ちなみに、一般鉄道施設では「旧手宮鉄道施設」「碓氷峠鉄道施設」のほか、単体で「東京駅丸ノ内本屋」「旧揖斐川橋梁(東海道本線)」「末広橋梁(四日市港)」「第一大戸川橋梁(信楽高原鐵道)」「梅小路機関車庫」「旧大社駅本屋」「旧筑後川橋梁(昇開橋、旧佐賀線)」「門司港駅本屋」「旧綱ノ瀬橋梁及び第三五ヶ瀬川橋梁(旧高千穂線)」などが重文指定されている。

遺構は往復70kmほどの沿線に散在している。路線バスもほとんどない地域なので、今回は高知市内でレンタカーを調達する予定だ。それでもルートをくまなく見て回るのは時間的に難しく、主な見どころをピックアップするにとどまるだろう。

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図1 魚梁瀬森林鉄道沿線の1:200,000地勢図に
  重文施設の位置と路線網の概略を加筆
1978(昭和53)年編集図

2023年10月8日朝8時、小雨模様の高知駅前に集合したのは、昨日と同じ大出さんと私の2名。そもそも降水量の多い地域だが、今日の天気予報も終日傘マークで、午後ほど雨脚が強まるらしい。借りたトヨタアクアで高知東部自動車道、国道55号を東へ進む。右手に太平洋が見えてくるが、どんよりとした空のもと、白っぽくくすんだ色をしている。

1時間と少しで、安田町まで来た。安田川大橋の東詰で国道をそれ、クルマを停めた。段丘崖の下を通っていた廃線跡が小道で残っている。木材を満載して安田川の谷を下ってきた列車は、ここから田野の貯木場へ向かっていたのだ。

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(左)崖下を行く廃線跡の小道(田野方向を撮影)
(右)安田川左岸を遡る廃線跡
 

森林鉄道(以下、林鉄)で最初に建設されたのがこの路線で、1911(明治44)年に馬路(うまじ)まで開通し、のちに安田川線と呼ばれた。目的地の魚梁瀬は隣の奈半利川の上流だが、流域の山林の所有権が国と地元との間で係争中だったため、やむを得ずルートを迂回させたのだという。

県道12号が川の対岸(右岸)を走るのに対して、林鉄はこちら側(左岸)だったので、その跡と思しき道を北上した。途中からは、車一台がやっとの道幅になる。昭和の映画館の雰囲気を残すという大心劇場の前を通過し、上代(かみだい)集落を上手に進むと、山かげの道の脇に一つ目の遺構、エヤ隧道が口を開けていた。

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道路脇に残るエヤ隧道
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(左)内部はカーブしている
(右)ポータルに刻まれた I の文字
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図2 1:25,000地形図に主な見どころの位置を加筆
エヤ隧道~明神口橋
 

砂岩切石積みのポータルに、川下側から最初のトンネルを意味する I の文字が刻まれている。長さは33.2mと短く、徒歩で通り抜けが可能だ。入ってみると、アーチの天井部がレンガの長手積み、側面の垂直壁は切石で美しく仕上げられていた。車道に転用されなかったことで、改修の手が加わらず、原状が保たれているようだ。

この先、左岸に沿う廃線跡の林道は、じりじりと道幅を狭めていく。乗用車は後述する明神口橋を渡れないと聞いていたので、与床(よどこ)集落から右岸の県道に迂回した。そのため、途中にある長さ37.5mのバンダ島隧道は、対岸から眺めるにとどめた。

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バンダ島隧道を対岸から遠望
 

次の遺構は、明神口集落の上手に連続している。県道のバイパストンネルの手前で右折して旧道を行くと、川を斜めに渡っている赤いトラス橋が見えてきた。長さ43.2mの明神口(みょうじんぐち)橋だ。1912(大正元)年の建設で、最初は木橋だったが、機関車の導入に伴い、1929(昭和4)年に架け替えられたものだという。今は線路の代わりに、路面に金網が張られている。

これを渡るとすぐ下手に、長さ36.7mのオオムカエ隧道がある。東口(上流側)はコンクリートポータルに改修されているが、西口はオリジナルの切石積みで、III の刻字があった。堀淳一氏も1997年にNHKの番組ロケでここに来ている(下注)が、映像で見る限り、東口は本来素掘りのままだったようだ。

*注 1997年放送の「消えた鉄道を歩く-巨木の森の小さな鉄路」。

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明神口橋、金網が張られた路面
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オオムカエ隧道
(左)もとは素掘りだった東口
(右)原状をとどめる西口
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隧道西口のスギ林
 

次のスポットでも、釜ヶ谷(かまがや)桟道釜ヶ谷橋が連続している。島石ピクニック広場の駐車場から対岸に渡る吊り橋の上に出ると、前者の側面が遠望できた。桟道といっても木製ではなく石積みで、あたかも崖に半分埋まったアーチ橋といった趣きだ。一方、長さ12.3mの釜ヶ谷橋は県道に転用されたため、路面は拡張されている。しかし側面から覗くと、林鉄時代の橋桁と橋台を転用したことが見て取れる。

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釜ヶ谷桟道
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釜ヶ谷橋
(左)県道に転用
(右)林鉄時代の橋桁と橋台
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図3 同 釜ヶ谷桟道~馬路~河口隧道
 

長さ70.6m、平瀬(ひらせ)隧道の西口では、なんとキャンパーがクルマを付けて、テントを張っていた。雨の日だし、誰も通らないトンネルなので、こんな利用法もあるのだと感心する。通り抜けが可能なようだが、お邪魔するのも気が引けるので、反対側の、こちらも県道に面した東口に回った。ポータルの刻字はV、すなわち5番目だから、先ほどのオオムカエ隧道との間にかつてはもう1本トンネルが存在したのだろう。

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平瀬隧道
(左)臨時のキャンプサイトにされた西口
(右)県道脇の東口
 

引き続き一本道の県道を遡り、いよいよ馬路村の中心部にさしかかる。馬路大橋の手前を左折してすぐの川べりにあるのが、遺構群の中でもよく知られた長さ36.5mの五味(ごみ)隧道だ。旧道の馬路橋のたもとに北口が開いていて、線路を載せた短い桟道が続いている。道路から見下ろす構図が定番だが、勢いよく育った笹薮に視界を遮られてしまう。

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五味隧道、笹薮に視界を遮られる
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線路が復元された桟道
(左)五味隧道の真上から
(右)馬路橋から
 

ところで、「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重文指定を受けた施設は14か所あるが、意外にも、五味隧道をはじめ、後述する立岡二号桟道、法恩寺跨線橋、八幡山跨線橋という写真映えする4つの遺構は含まれていない。これらは重文本体ではなく、附(つけたり)指定になっているのだ。

附というのは、たとえば重文建造物の設計図や、来歴、用途を記した文書といった関連資料を、本体とあわせて指定するものだが、同じ類いの構造物でも附指定にすることがあるようだ。産業遺産としては一体的に考えるべきものながら、相対的な重要度の点で及ばないということか。

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五味隧道案内板
 

対岸に、観光案内所「まかいちょって家」がある。後で立ち寄って、2階にある森林鉄道の写真展示を見学した。売店では土産物のほか、林鉄関連の既刊書籍も扱っていて、ちょっとしたミュージアムショップだ。私も新刊の林鉄写真集を購入した。

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(左)まかいちょって家
(右)2階の林鉄展示
 

県道をはずれて、右岸(西岸)の町道を行く。馬路村は特産のゆずを使った商品開発で知られるが、製品加工施設の敷地はもと林鉄の運行拠点で、機関庫や修理工場を伴っていたヤードの跡だ。その北側はかつて商店街で、林鉄が路面軌道の形で貫いていた。いったん集落が途切れるが、その先は現在、村の観光拠点になっている。

右手の大きな建物は、日帰り温泉施設のうまじ温泉だ。左には1994年に開業した「馬路森林鉄道」という観光鉄道があり、支流の西谷川に沿って508mm軌間(下注)、1周300mのささやかな周回軌道が設けられている。その乗車も楽しみにしていたのだが、駅の窓口へ行くと、係員さんが申し訳なさそうに「機関車の故障で当面運休なんです」という。アメリカ・ポーター社製の旧機を2/3サイズで再現したという機関車がホームに停まっているが、「エンジントラブルの為、運休中!!」と張り紙がしてある。

*注 オリジナルは762mm(2フィート6インチ)軌間で、508mmはその2/3になる。

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馬路森林鉄道
(左)機関車は故障中
(右)谷沿いを走る軌道
 

では、隣のインクラインに乗ろう、と思って聞くと、「雨でシートが濡れて使えないので、きょうは中止にしました」。インクラインというのは、林鉄で使われていた傾斜鉄道(貨物用ケーブルカー)を再現した斜長92mの施設で、車両に積んだ水の重りで動くという珍しいものだ(下注)。山際の乗り場では、雨に濡れそぼった走行線に、オープンタイプの小型車両が所在なげに停まっていた。シートベルトを締めて乗るので、雨が吹き込む状況では運行できない。

*注 ウォーターバラスト方式といい、日本で唯一。海外の実例については「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

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馬路インクライン
(左)車両と急勾配の軌道
(右)水抜き用の管路
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インクライン軌道全景
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インクライン案内板
 

雨に降られたばかりか、お目当ての乗り物にも振られてしまったので、うまじ温泉のレストランで早めの昼食にした。ゆず果汁入りの「ごっくん馬路村」も試して元気を取り戻したところで、林鉄遺跡の探索を再開する。

馬路から魚梁瀬までの区間は、少し遅れて1915(大正4)年の開通だ。温泉のすぐ上手に、町道を通している落合橋がある。長さ37.0mで、釜ヶ谷橋と同じく、プレートガーダーと橋台が林鉄の遺物だ。

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落合橋
 

次は河口(こうぐち)隧道。県道から少し引っ込んだ位置にあり、長さは89.9m、ポータルに8番目を示す VIII の刻字がある。徒歩で入ろうとしたら、エンジン音がこだまし、中から軽トラックが飛び出してきた。内部は小さな明かりも灯っていて、椀田(わんだ)集落から中ノ川方面へ行くのに、近道として使われているようだ。カーブしたトンネルを出ると切通しで、上を旧道(?)が通過している。

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河口隧道東口
切通しを旧道がオーバークロス
 

山はさらに深まり、サミットとなる2車線の新久木(くき)トンネルが現れた。林鉄時代の久木隧道は、長さが333mと魚梁瀬林鉄では最長で、1977(昭和52)年の新トンネル完成までの間は、道路としても使われた。上記堀氏の著書『地図で歩く古代から現代まで』(JTB、2002年)によると、西口のポータルはまだ残っているようだが、この天気では探す気力が湧いてこない。

奈半利川斜面を降りていく途中に、支谷をまたぐ犬吠(いぬぼう)橋が架かっている。長さ41mの立派な上路トラス橋で、廃線後も県道の橋として使われていた。しかし、鋼材の一部が破断して通行できなくなり、現在、県道は上流側の迂回路を通っている。下流側で建設中の新しい橋が完成すれば、県道はそちらに移される予定だ。

林鉄の鉄橋は今や形が崩れ、仮設の支持台でかろうじて支えられていて、なんとも痛々しい。修復して自転車・歩行者専用にする計画だそうだが、いったん解体して組み立て直す必要があるから大工事だ。重要文化財とはいえ、そんな予算がぽんとつくのだろうか。

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痛々しい姿の犬吠橋
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図4 同 犬吠橋~魚梁瀬
 

久木ダムの少し上流にも、同じような構造の井ノ谷(いのや)橋が残っているので、県道をそれて寄り道した。道路に転用されていて、長さは54.5m。両端がカーブしているので、たもとからトラス構造を覗くことができる。

林鉄安田川線は、この先の釈迦ヶ生(しゃかがうえ)集落で奈半利川線と合流するが、魚梁瀬ダムの完成によって、上流の線路は湖底に沈んでしまった。クルマ道も行き止まりなので、引き返すしかない。

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井ノ谷橋
 

県道に戻って、くねくねと山腹を上っていくと、ダムを見下ろす展望台があった。見るからにどっしりとした大堰堤が眼下の谷を埋めている。魚梁瀬ダムは1970(昭和45)年に完成したロックフィルダムで、高さが115mで四国一、貯水量も「四国の水がめ」早明浦(さめうら)ダムに次ぐ規模だ。展望台の側壁パネルには、ダムの写真とともに林鉄の現役当時の写真も収められていた。

県道を少し上手に進んだところには別の展望台があり、貯水池(ダム湖)が奥まで見通せる。ここばかりは「雨には雨の風情あり」で、入り組んだ湖の周りの山並みに低い雲がたなびいて、一幅の絵のようだった。

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ロックフィルの魚梁瀬ダム
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ダム湖のパノラマ
正面奥に魚梁瀬大橋と、魚梁瀬(丸山台地)の一部が見える
 

林業で栄えた魚梁瀬地区は水没するのに伴い、湖畔の造成地(丸山台地)に集団移転した。旧版地形図と照合すると、旧集落の山手にあった昔の川の蛇行跡を嵩上げして造ったようだ。その一角が丸山公園と呼ばれる広い園地になっていて、762mm軌間、一周406mの周回軌道が敷かれている。

魚梁瀬大橋でダム湖を横断して、その乗り場である森の駅やなせの前にクルマを停めた。馬路での失意の記憶がよみがえり、窓口でおそるおそる「乗れますか」と聞くと、「ええ、何名さんですか」と返ってきてほっとする。一応、10時から15時30分まで15分間隔の時刻表が掲げてあるが、客が来しだい、随時運行しているようだ。

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森の駅やなせ
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スギ材製の乗車券、裏面に日付が入る
 

高床のホームに、谷村式と記された小型ディーゼル機関車が客車を従え、待機していた。谷村というのは戦前、地元高知で林鉄向けの装置を製造していた谷村鉄工所のことで、そのロッド駆動車をモデルに新造されたのがこの機関車だ。客車(連絡車)の車体にも地元産の木材が使われている。無蓋のトロッコと密閉型のボギー車の組み合わせなので、雨でも問題なく乗れるのがうれしい。

運賃は大人400円。杉板に印刷した乗車券をもらって乗車する。走り出すと最初、湖に近づき、次いで車庫前を通過して、警報機が鳴る踏切を横断した。この軌道を2周して、約7分のミニ列車旅だった。その後、大出さんが機関車の運転体験を申し込んだ。正規の運転士に横で指導してもらいながら、これも2周する。

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谷村式機関車が牽く復元列車
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(左)機関車の運転台
(右)ボギー客車
  朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の人形が同乗
 

北隅にある車庫も開いていて、自主見学が許された。野村式と書かれた茶色の機関車は、1948年野村組工作所製のL-69で、魚梁瀬林鉄のオリジナル機だ。廃線後、静態保存されていたものを1991年に動態復元したのだという(下注)。急曲線に対応する運材台車を引き連れたさまも絵になる。

*注 重量があり軌道が傷むため、「本線」を走行するのは特別行事のときだけのようだ。ちなみに先述のNHKの番組ではこれが走るシーンが出てくる。

隣にいる黄と緑と白帯の機関車は、静岡の水窪(みさくぼ)森林鉄道から来た酒井工作所製C16形、また岩手富士と書かれた箱型機は、鳥取から来た岩手富士産業製の特殊軽量機関車で、唯一の残存例だそうだ。

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車庫に保存車両を留置
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運材台車を引き連れた野村式L-69
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(左)酒井工作所製C16形
(右)岩手富士産業製特殊軽量機関車
 

林鉄ワールドを堪能して、帰路に就く。往路は安田川経由だったが、復路は奈半利川に沿って下る。旧来の安田川線には、釈迦ヶ生~久木隧道間に逆勾配、すなわち荷を積んだ列車にとって不利な上り坂が存在し、運行のボトルネックになっていた。これを解消するために計画されたのが奈半利川線で、1931(昭和6)年から1942(昭和17)年にかけて建設された。

クルマはしばらく県道12号を南下するが、安田川沿いより道幅が広めだ。ダム建設に際して、工事車両を通すために拡幅されたのだろう。林鉄由来と思われるトンネルもあるが、改修を受けているためか、重文のリストには含まれていない。

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図5 同 堀ヶ生橋~小島橋
 

そのため、奈半利川線の重文物件はすべて橋梁で占められる。最も上流の堀ヶ生橋(下注)は長さ46.9m、シングルスパンの鉄筋コンクリートアーチ橋だ。この材質で43mものスパンは国内最大級だそうで、県道に転用されていることもあって、もと鉄道橋には見えない。河原に降りて真下から仰ぐアーチはいっそう迫力があった。

*注 国指定文化財等データベースでは、堀ヶ生橋に「ほりがをばし」という異例の読みが付けられている(通常「を」は用いない)。なお、地理院地図では、堀ヶ生の地名の読みを「ほりがうえ」としている。

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長大スパンの堀ヶ生橋
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(左)堀ヶ生橋、中央部に退避場所がある
(右)橋に続く堀ヶ生隧道、側壁は石積み
 

県道12号が徳島県から来た国道493号と出会う位置に、二股(ふたまた)橋が架かっている。奈半利川と支流の小川川(おがわがわ)の合流地点だ。橋は長さ46.5mで同じくコンクリート製だが、こちらは無筋のため2スパンで、めがね橋の別称がある。釜石線や旧彦山線(現 日田彦山線BRT区間)、旧宮原線などに見られる高架橋を彷彿とさせるが、二股橋も、鋼材の使用制限が始まっていた1941(昭和16)年の建設だ。

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川の合流地点に架かる二股橋、通称めがね橋
奥に見えるのは二又発電所
 

奈半利川鉄橋なき今、長さ143.0mの小島(こじま)橋は、魚梁瀬林鉄で最大の遺構だ。2連のプラットトラスで、ゆったりと流れる奈半利川の中流部を渡っている。本体の威容もさることながら、対岸(左岸)にあるカーブしたガーダー橋と築堤の取り付け部が、廃線跡の雰囲気をよく残している。奈半利川線のうち二股以南は、後に支線となった竹屋敷線などとともに1932(昭和7)年までに完成していた。上述の2橋と違って鋼製なのはそれが理由だ。

*注 国指定文化財等データベースでは「こじまばし」だが、地理院地図では小島の地名の読みを「こしま」としている。

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2連プラットトラスの小島橋
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(左)右岸のたもとから
(右)ガーダー橋と築堤が左岸に続く
 

この後は、国道493号と北川奈半利道路で一気に奈半利を目指した(下注)。

*注 重文指定ではないため訪れなかったが、奈半利川右岸に加茂隧道(長さ28.1m)が原形のまま残っている。

右岸の田野町側には立岡(たちおか)二号桟道という印象的な遺構がある。3連プラットトラスで長さ167.49mと最長だった旧奈半利鉄橋の、西側の取り付け部に相当する構造物だ。避溢橋の役割を果たすコンクリートの高架と長い築堤が、カーブしながら川べりまで続いている。大出さんは以前来たことがあるというし、私も土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線に乗った際、見に行ったので、今回は対岸から遠望するにとどめた。

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立岡二号桟道と築堤(別の日に撮影)
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(左)カーブする桟道
(右)丸石が積まれた築堤の法面
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図6 同 安田、田野、奈半利
 

廃線跡の町道をたどって、法恩寺跨線橋(下注)へ。段丘上の三光寺へ行く参道が林鉄を跨いでいた橋で、石造アーチの構造をしている。立体交差にしたのは安全でいいことだが、参道の石段はけっこう段差があり、何度も上り下りするのは大変そうだ。

*注 法恩寺の地名の読みについて、現地の案内板には「ほうおんじ」とあるが、地理院地図では「ほおじ」としている。

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法恩寺跨線橋(別の日に撮影)
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多くの重文施設に同様の案内板がある
 

国道55号を戻り、最後に、田野の町はずれにある八幡山(はちまんやま)跨線橋を見に行った。ここでも神社に通じる参道が、林鉄の廃線跡を跨いでいる。コンクリートの桁橋なので、法恩寺のようなデザイン性には欠けるが、参道の階段が上に行くほどラッパ状にすぼまっていて、遠近感が強調されるのが面白い。

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八幡山跨線橋
(左)コンクリートの桁橋
(右)ラッパ状にすぼまる階段
 

時刻は早や17時、駆け足の旅だったとはいえ、貴重な遺構群や展示資料を実見し、再現鉄道の乗車も叶った。運行廃止から60年が経過した魚梁瀬森林鉄道だが、思ったより身近なものに感じられたのは、郷土史を飾る重要なページとして地域の人々に大切に扱われてきたからだろう。産業振興の推進力であり、交通の動脈でもあった鉄道の遺産が、これからも末永く維持されることを願いたいものだ。私も、雨にたたられた馬路の軽便鉄道とインクラインにいつか再挑戦しなければ…。

最後に、魚梁瀬森林鉄道の路線網が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図7 索引図
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図8 安田、田野、奈半利周辺
1953(昭和28)年応急修正、以下同
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図9 馬路周辺
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図10 魚梁瀬周辺
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図11 北川村北部
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図剣山、高知(いずれも昭和53年編集)、5万分の1地形図馬路、奈半利、安藝(いずれも昭和28年応急修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム https://rintetu.com/
Facebook-中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会 https://www.facebook.com/yanaserintetu

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2023年11月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ

JR土讃線の普通列車が、香川と徳島の県境をなす讃岐山脈を長いトンネル(下注)で通り抜けた後、最初に停車するのが坪尻(つぼじり)駅だ。吉野川の谷に降りていく25‰の連続勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの構造になっている。

*注 猪鼻(いのはな)トンネル、長さ3845m。

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土讃線坪尻駅に接近する下り普通列車
 

駅のある場所は比高500mの昼なお暗いV字谷の底で、周りに民家などは見当たらない(下注)。それどころか、クルマ道が駅まで達しておらず、人一人通れるだけの山道のほかにたどり着く方法がない。列車にしても停車するのは上り4本、下り3本で、計画的に行動しないと、駅に長時間取り残される可能性がある。それでここは、土讃線の同じようなスイッチバックの新改(しんがい)駅などとともに、いわゆる秘境駅として鉄道ファンには有名だ。

*注 坪尻駅の標高は約212m(地理院地図による)。地図上で最も近い木屋床(こやとこ)集落との間は、水平距離こそ300~400mだが、高度差が約200mある。

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箸蔵寺護摩殿
 

2023年コンターサークル-s の旅四国編1日目は、この坪尻駅をゴールと目している。もちろん列車で往復するだけでは歩き旅にならないので、「こんぴら奥の院」と称される箸蔵寺(はしくらじ)や、坪尻駅を見下ろす展望台を経由していく次のようなプランを考えた。

10:21 阿波池田駅前から路線バスで、箸蔵山ロープウェイの登山口駅へ
11:00 ロープウェイで山上へ。箸蔵寺参拝
12:40ごろ 箸蔵寺から歩き始める
13:40ごろ 坪尻駅展望台到着。上り列車の発着(13:52)を撮影後、歩き再開
14:10ごろ 坪尻駅到着
14:54 坪尻駅から下り列車に乗り、阿波池田駅に戻る

箸蔵寺と坪尻駅との間は道なりに進んで5kmほどだが、高度差は340mとかなりある。いったいどんな道なのだろうか。まずは旅の集散場所である阿波池田駅前から話を始めよう。

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箸蔵寺~坪尻駅周辺の1:200,000地勢図
(上)1986(昭和61)年編集、(下)1995(平成7)年要部修正
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆

土讃線の全列車が停車し、徳島方面との接続駅になっている阿波池田駅は、徳島県西部における鉄道の拠点だ。乗ろうと思っている四国交通の路線バス(下注)は、その300m東にあるバスターミナルから出発する。駅前も経由するが、停留所は駅舎正面ではなく、広場の右(東)のはずれで、道路沿いの見えにくい位置にあるので要注意だ。

*注 野呂内線32および33系統。箸蔵山ロープウェイ(登山口駅前)までは往路7便、復路5便。時刻表と路線図は四国交通公式サイト(下記参考サイト)にある。

2023年10月7日、駅前に集合したのは大出さんと私の2名。連休初日だが、10時21分定刻に来たバスに乗り込んだのも私たちだけだった。駅前アーケードを抜けた後、バスはいったん西へ走る。段丘上のウエノでようやく針路を変え、川沿いの坂道を降下して、吉野川を堰き止めている池田ダムの天端道路で対岸に渡った。ローカルバスの旅は、ときに思いもよらないルートを通ることがあるから目が離せない。

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(左)阿波池田駅
(右)四国交通の路線バス
 

15分ほどで、箸蔵山ロープウェイの登山口駅前に到着した。時間に余裕があるので、乗るのを1本遅らせて、搬器の動く様子を地上から観察する。

ロープウェイの中でもこれは、並行する2本のロープに搬器がぶら下がる、いわゆるフニテルだ。箱根ロープウェイと同じ方式だが、箸蔵山は1999年の導入で日本初だという。駅の表示板によると、線路長(傾斜亘長)は947.48m、高低差は341.73m。15分間隔で運行されていて、料金は片道900円、往復1700円。

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箸蔵山ロープウェイ登山口駅
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(左)きっぷ売り場
(右)2本のロープにぶら下がるフニテル方式
 

山上行き11時00分発の客は3人きりだった。すいているのはありがたいが、立派な設備だけに採算がとれているのか心配にもなってくる。動き始めると、後方にさっそく吉野川とその谷が眼下に広がった。急斜面を滑らかに上っていき、仁王門と高灯篭の立つ尾根を通過、最後に深い谷を一跨ぎして箸蔵寺駅に着いた。所要約4分。

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吉野川の谷が眼下に
 

駅は箸蔵寺の境内に直結していて、右へ行くと本坊(方丈)の前に出る。庫裏、宿坊、納経所、書院など、寺の機能を集約した桁行きの長い建物で、玄関の軒や引き戸を飾る透かし木彫が目を引く。納経所の前を通ったら、受付の方が、重要文化財に指定されている主な伽藍の概略を説明してくれた。

右手は護摩殿で、この先の長い石段が上がれない人でもお参りできるよう、本殿の縮小版になっているという。ここでも手の込んだ木彫の意匠が軒を埋め尽くしている。

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箸蔵寺本坊
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(左)護摩殿
(右)軒に配された見事な木彫
 

奥へ進む石段には、蹴上げ部分に般若心経が一文字ずつ書かれた石札が取り付けられていた。これを唱えながら上れば、楽に上まで行けるのだろう。正面に鐘楼堂がある。受付で、自由に撞いてくださいと言われていたので、ありがたく従う。梵鐘は天井裏にあって見えず、綱だけが垂れ下がっている。撞くには少しコツがあり、綱を前後にではなく、下に引くようにしないと鳴らない。

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(左)本殿に上る石段
(右)般若心経の石札が続く
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(左)鐘楼堂
(右)薬師堂
 

心臓破りの長い石段を伝って薬師堂、それから本殿のある上段の境内へ。途中で息が上がり、気がついたら般若心経を唱えるのをすっかり忘れていた。本殿は他にもまして壮麗な建物で、立ち入れないが奥まで長く続いているのが見て取れる。絢爛たる木彫装飾についてはもはや言うまでもない。巡礼者が行き交う四国八十八ヶ所の霊場とは違い、もの静かな境内だが、見どころも多くて訪れた甲斐があった。

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重厚な趣きの本殿
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正面を飾る透かし木彫
 

ロープウェイ駅の前にある休憩所で昼食の後、次の目的地に向けて歩き始めた。休憩所の横から、寺に用務がある車が使う舗装道が出ている。杉林に覆われた山腹を緩やかに下っていくこの道を、まずはたどった。きょうは薄曇りで、ときおり日差しがこぼれる。吹く風は涼しく、歩き日和だ。

やがて森が開け、舟原(ふなばら)集落にさしかかった。すすきに埋め尽くされた棚田の間に何軒かの民家が見える。その屋根ごしに、吉野川が流れる下界の谷が俯瞰できた。正面に徳島自動車道の高架橋が架かり、土讃線佃~阿波池田間の築堤を2両編成の列車が走っていく。断片的に見える赤いトラス橋は旧国道32号の三好大橋だ。

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舟原集落と休耕棚田
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吉野川の谷を俯瞰
 

舟原から落(おち)の集落へ向かう。この間はセンターラインこそないが、小型車がすれ違える幅の舗装道がついている。しかし、クルマはほとんど通らないから、快適なハイキングルートといっていい。

坪尻駅展望台というのは、落集落の端の道路脇に、地元の自治会が設置した小さなお立ち台のことだ。大出さんが、手前に1台の観光バスが停まっているのを見つけた。何かと思えば、カメラを手にした中高年男女が約20人、かしましく騒ぎながら展望台とその周りを占拠している。よりよいアングルを狙って、馬の背になった不安定な場所に三脚を立てている人もいる。一つ間違えば崖下に転落しかねないので、通りかかった地元の人から「気い付けてくださいよ」と声をかけられる始末だ。

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猪ノ鼻峠方向を望む
手前が落、谷を隔てて木屋床の集落が見える
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(左)落集落
(右)過密状態の坪尻駅展望台
 

この状況は想定外だが、私たちもその勢いにひるんでいるわけにはいかない。最前列の人の肩越しになんとか視界を確保する。北側、約100m下の谷底にスイッチバックの構内配線と、その奥にたたずむ小さな駅が見通せた。一部で電線とかぶるものの、駅の前後を移動する列車をつぶさに観察できるいい場所だ。

13時31分、最初にやってきたのは上り特急「南風」14号、2700系の「赤いアンパンマン列車」だ。通過列車のためシャッターチャンスはほんの数秒だが、前もって重いエンジン音が響いてくるから、カメラを構える余裕があった。

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坪尻駅を上り「南風」が通過
 

しばらくすると、次の13時52分発、上り普通列車が現れ、本線からホームに接する折返し線に入った。3分近く停車した後、折返し駅を出て、今度は反対側の引上げ線に進入する。再び折り返して本線に戻り、山かげに走り去った。

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普通列車のスイッチバック運転
(左)阿波池田方から列車が接近
(中)折返し線に入線
(右)駅に停車
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(左)駅を出ていったん引上げ線へ
(中)引上げ線で折り返し
(右)本線を多度津方へ走り去る
 

スイッチバック運転の一部始終を見届けたところで、展望台を辞して坪尻駅へ向かう。旧国道に降りて少し行くと、道端に坪尻のバス停標識が立っていた。朝利用したバス路線がここまで延びているのだが、通るのは1日3往復だけだ。

バス停の少し手前に、旧国道からそれて谷を急降下している踏み分け道がある。入口がガードレールで遮断されているようにも見え、事情を知らなければ、駅に通じるとは信じられないだろう。散り敷く枯葉で滑りやすくなった山道は、途中で何度も折れ曲がりながら、谷底に達するまで続いていた。

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旧国道の坪尻バス停
「坪尻駅600m」の標識があるが、車では行けない
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(左)旧国道から駅への入口
  遮断するようなガードレールは車の誤進入防止の目的か
(右)落ち葉敷く坂道
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(左)道はますます細くなる
(右)駅手前の踏切
 

踏破に要した時間は正味13分。行く手に線路と踏切標識が見えたときには、正直ほっとした。踏切に警報機はなく、バーを手で開けて通行するようになっている。掲げてあった時刻表によると、通過列車は上下合わせて37本だ。これに加えて駅に停車する普通列車(下注)もあるので、一日を通してみればけっこうな数が行き来している。

*注 スイッチバックのため、1列車につき踏切を三度通過する。

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踏切に掲げられた通過列車の時刻表
左の印はアンパンマン列車を示す
 

構内には、片面ホームに接する折返し線と切妻の木造駅舎があり、25‰勾配で上る本線がそれに並行する。駅の先端では、2本の線路の間に早や数mの高低差がついている。反対側では、折返し線が本線に合流し、その先で引上げ線が分岐して、本線とともに山かげに消えていく。

駅舎はもちろん無人だが、待合室には記念スタンプや旅ノートが置いてあった。列車で来るにせよ、旧国道から歩いてくるにせよ、皆それなりの時間をかけているので、到達のあかしを残せる心遣いはうれしい。

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坪尻駅、上り勾配の本線が並行する
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(左)木造駅舎
(右)引き戸で入る待合室
 

こうしてしばらく静かな山峡の駅の風情に浸っていたのだが、森の奥からまたあの賑やかな話し声が聞こえてきた。私たちの後を追うようにして、団体の人たちも降りてきたようだ。ひとしきり展望台のカオスが再現されたが、観光バスの予定が押しているらしく、彼らは14時33分に通過する上り特急だけ撮ると、山道を帰っていった。

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上り特急列車の通過を団体さんと横一線で撮影
 

再び静寂が戻ったところで、14時54分発の下り普通列車が上手のトンネルから現れた。展望台で観察したとおり、引上げ線で折り返してホームに入線してくる。停車位置は駅舎より奥の、ホームの床を少しかさ上げした場所だ。2~3分停車する間に、運転士が反対側の運転台に移動する。私たちも阿波池田駅に戻るため、この列車の客となった。

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(左)下り普通列車が接近
(右)引上げ線で折返して駅へ
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ホームに入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
四国交通-路線バス https://yonkoh.co.jp/routebus
箸蔵山ロープウェイ http://wwwd.pikara.ne.jp/hashikurasan/
こんぴら奥の院 箸蔵寺 http://www.hashikura.or.jp/

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2023年11月 8日 (水)

コンターサークル地図の旅-高麗巾着田

昨日とは打って変わってよく晴れた2023年9月24日、コンター旅の2日目は埼玉県に場所を移して、高麗巾着田(こまきんちゃくだ)とその周辺を歩いた。秋の空気が入って、風がことさら涼しく感じられる。

巾着田というのは、蛇行して流れる高麗川の滑走斜面(下注)に広がる田んぼのことだ。平面形は確かに巾着袋の形をしている。しかし、有名なのはその地形よりも、川沿いを埋め尽くすヒガンバナの大群落のほうだ。「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の里」として、花が見ごろとなる秋の初めには、多くの行楽客で賑わう。

*注 川の湾曲の内側に生じた緩い傾斜面のこと。ちなみに、和歌山県有田川町の通称「あらぎ島」も、小規模だが同様の景観で知られる。

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高麗巾着田のヒガンバナ群落
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図1 巾着田周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

朝、所沢から西武池袋線で、集合場所の高麗(こま)駅へ向かった。二つ手前の飯能(はんのう)駅で乗り継いだ西武秩父行きの電車には、リュックを背負った元気な中高年がたくさん乗り込み、その大半が高麗で下車した。私も含めて目的とするところはみな同じらしい。

天気が冴えなかった昨日の反動もあってか、駅前からしてすでに、何かのイベント会場かと疑うほどの混みようだ。今日も、参加者は大出さんと私の2名。いつもどおり歩くルートの地形図を用意してきたが、駅前から人波がぞろぞろと続いているので、あえて地図を開く必要もなかった。

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高麗駅で降りる行楽客
 

国道299号を横断し、集落の中の小道を降りていくと、ほどなく県道15号川越日高線の鹿台橋のたもとに出る。下を流れる高麗川の穏やかな川面に心を和ませながらこれを渡り、また右の小道へ。集落を抜けたところに、巾着田の案内板が立っていた。正面に見える田んぼはもう稲刈りを終え、伸び放題の稲孫(ひつじ)が風にそよいでいる。

戦後間もないころの地形図を見ると、巾着田は文字通り一面が水田だ(下図参照)。しかし、現在の案内板の地図では、花畑や牧場、さらには臨時駐車場になるグラウンドなどが幅を利かせていて、水田の面積は比べようもなく縮小している。

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(左)鹿台橋から見る高麗川
(右)稲孫が伸び放題の田んぼ
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巾着田の案内板
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図3 巾着田周辺の旧版地形図
1949(昭和24)年修正測量
 

人の流れは、河原の遊歩道へと向かっていた。木陰に早くもヒガンバナがちらほら見られる。群落のあるのはさらに先の、川筋が南に膨らんだ区域だが、見物客が押し寄せるこの時期は有料ゾーンになっている。ゲートで500円を払って、中へ進んだ。

巾着田を縁取る河畔林の緑が帯状に広がり、その足もとが真っ赤な絨毯で覆われている。田んぼのあぜ道などで見かけても、気にも止めないありふれた花だが、これだけまとまると圧巻だ(冒頭写真も参照)。記念写真を撮るために立ち止まる人も多く、遊歩道はところどころで渋滞している。

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河畔林の緑の風景に補色の赤が映える
 

途中で、川を横断している小橋が見えた。水位が上がると沈んでしまう沈下橋で、ドレミファ橋と呼ばれている。有料ゾーンで唯一川べりに出られるスポットだが、対岸に上がる道が閉鎖されているので、欄干もない狭い橋の上は、行く人戻る人が入り乱れる。

遊歩道に戻ってまた道なりに進むうち、あることに気づいた。赤の絨毯があるのはほとんど林の日陰で、日当たりのいい場所には咲いていないのだ。ヒガンバナは日陰を好む花かと早合点したが、そうではなく、日なたの株はまだ蕾の状態らしい。

ヒガンバナの花が開く9月下旬というのは、例年なら太平洋高気圧が後退し、大陸からの移動性高気圧に覆われ始める時期だ。空気が乾燥し、朝晩はめっきり涼しくなる。ところが今年は季節の歩みが遅く、残暑が長引いた。県道沿いの告知板に「三分咲き」と記されているとおり、見ごろが後ろ倒しになっているようだ。

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(左)川を横断するドレミファ橋
(右)日なたはまだ蕾で、全体でも三分咲き
 

ともあれ、予定していたメインタスクは無事完了した。ただ、巾着田の地形は直径500mほどの広さがあり、片道歩いただけではあまり実感が湧かなかったのも確かだ。そこでこの後は、近くの日和田山(ひわださん)に上ろうと思う。北西に位置する標高305mの山で、事前に入手したハイキングマップによれば、金刀比羅(ことひら)神社から高麗の里と巾着田が箱庭のように一望できるという。

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高麗川の河原から望む日和田山(左側のピーク)
 

県道の高麗本郷交差点から北に入り、日和田山登山口の道標に従って山手へ上る。奥武蔵自然歩道のルートにもなっているので、道はしっかりついているし、何よりハイカーと思しき人たちが次々と上がっていく。

最初は緩めの坂が続く一本道だ。金刀比羅神社の一の鳥居をくぐると、男坂、女坂の分岐点がある。前者は険しい直登ルート、後者は山腹を迂回する分、より歩きやすい山道だ。男坂方面には、見晴らしの丘という名の寄り道スポットがあるので、まずはそれを目指した。そこはベンチが置かれ、休憩をとるにはよかったが、木々が育って視界が狭く、残念ながら見晴らしは看板倒れだった。

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(左)一の鳥居
(右)男坂、女坂の分岐点
 

昼食だけとってさらに進むと、急な岩場を上ってきた男坂の本道と合流する。まもなく見上げる大岩の上に、華奢な二の鳥居が現れた。すでに多くのハイカーが集まってきている。ここで後ろを振り返ると180度のパノラマが開けるのだ。

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(左)二の鳥居
(右)180度のパノラマが開ける
 

正面に、河原と河畔林に取り巻かれた巾着田がある。北からの眺めなので、手前が巾着の絞った口の部分だ。あれだけいた来訪者は林の蔭で目立たないが、露天の駐車場はすっかり満車になっている。

右側に目を移すと、西武線の線路が見える。奥には秩父山地の青い山並みが連なり、背後にうっすらと浮かぶシルエットは富士山のようだ。一方、左側は関東平野で、遠くに都内の高層ビル群やスカイツリーも見える。期待以上にいい眺めだ。満足したので山頂までは行かず、神社の小さな社殿にお詣りしてから、女坂経由で山を下りた。

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二の鳥居から巾着田を望む
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秩父山地を望む
右のピークは大岳山、左に富士山のシルエットも
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都心方面を望む
 

きょうのゴールは、八高線と川越線が接続するJR高麗川駅なので、高麗川左岸の段丘沿いに東へ向かった。カワセミ街道と呼ばれる日高市道幹線2号が通っているが、歩道がなく、集落を結ぶ旧道をたどるのが安全だ。日差しが降り注いで、午後は晩夏の暑気が戻ってきた。

この周辺は、7世紀の高句麗(下注)滅亡に際し、難を避けて渡来していた人々を、716(霊亀2)年に関東各地から移住させたという土地だ。明治中期までは高麗郡と称し、渡来人ゆかりの寺社が今もある。

*注 10~14世紀に存在した高麗(こうらい)国とは別。日本に残る高麗、狛などの地名は高句麗からの渡来人に由来する。

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カワセミ街道沿いの旧道を歩く
 

20分弱歩くと、その一つ、聖天院(しょうでんいん)の前に出た。案内板によれば、高麗郡を治めた高麗王若光(じゃっこう)らの菩提寺として創建されたものだ。堂々とした二層の山門がまず目を引くが、浅草寺と同じような雷門の大提灯が下がっている。両脇の立像も風神と雷神だ。

山門の風格に引き寄せられて、拝観料を払い、入ってみた。石段で本堂前の広場に上ると、のどかな高麗川の谷が見晴らせる。丘の地形を巧みに利用した広い境内だが、伽藍は案外新しいものだった。

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聖天院の山門
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同 全景
 

続いて近くにある高麗神社へ。ここも祭神は高麗王若光で、社殿の奥には代々その神職を務めてきた高麗家の住宅も保存されている。休日とはいえ、参拝客が多いのに感心したが、巾着田行きの臨時シャトルバスの案内看板を見つけて納得した。神社の駐車場も、渋滞緩和のためのパークアンドライドに使われているのだ。高麗家住宅でも何やら音楽イベントが開かれていたから、巾着田人気は、周辺地域の観光活性化にも寄与しているようだ。

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高麗神社
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(左)同 本殿
(右)重文指定の高麗家住宅
 

神社を後にして、出世橋で高麗川の右岸へ渡る。JR駅へ直行する大出さんと別れ、私はかつて高麗川駅から出ていた太平洋セメント工場の貨物線跡へ寄り道した。

八高線と川越線にはさまれた地点から市役所通り(日高市道幹線6号)と交わるまでの700m弱が、アスファルト舗装のうえ、「ポッポ道」の名で遊歩道化されている。短距離ながら、踏切の警報機が2か所、現役さながらに立っているほか、電柱や、舗装に埋め込まれたレールなど鉄道時代の小道具が点々と残る。終点近くでは、武甲鉱業の石灰石を運ぶベルトコンベアーが地中に埋まっている直線道も交差していて、たどってみたいところだが、時間がなかった。

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ポッポ道の遺構
(左)八高線近くの踏切
(右)カーブする廃線跡と通信線電柱
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(左)高麗川中学校前の踏切
(右)舗装に埋め込まれた線路
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市役所通りに立つ案内板
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)、2万5千分の1地形図飯能(昭和24年修正測量)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高麗巾着田 http://www.kinchakuda.com/

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2023年10月31日 (火)

コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域

2023年コンターサークル-s 秋の旅1日目は、昨秋企画しながら台風の接近で実施できなかった宮ヶ瀬ダムとその下流域の見どころ巡りにリトライした。

9月23日土曜日の朝、小田原から、小田急の新宿行急行で集合場所の本厚木駅へ向かう。今回も雲が低く垂れこめ、今にも降りそうな空模様だ。雨具は用意してきたが、9kmほど歩くので、できれば使わずにおきたいが…。

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宮ヶ瀬ダムとインクライン

本厚木駅改札前に集合したのは、大出さんと私の2名。駅前で9時17分発の神奈中バス、野外センター経由半原(はんばら)行を待つ。沿線に大学があるらしく、若者たちが長い列を作っている。

ダムは約20km上流にあり、最寄りの停留所まで40分ほどバスに揺られる必要がある。駅を出発したときには立ち客も多かったが、さすがに終点間際の愛川大橋まで乗ったのは私たちだけだった。この天気ではハイキング客の出足も鈍いだろう。

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愛川大橋バス停
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図1 宮ヶ瀬ダム周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
 

愛川大橋は、国道412号が中津川を渡る橋だ。ここからは、川沿いの狭い一本道を歩いていく。深い谷間に入っていくと、まず石小屋ダムという副ダムが見えてくる。堤高34.5m、堤頂長87m、小ぶりの重力式ダムだ。宮ヶ瀬ダムのすぐ下流で、流量調節とともに小規模の発電をしている。欄干の上を数匹のサルが渡っていくので、その先に目をやると、対岸の岩がサル山よろしく、群れの休憩場所になっていた。

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石小屋ダム
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石小屋ダムのサルたち
 

本命の宮ヶ瀬ダムは谷の奥ですでに半身を覗かせているが、少し歩いて下路アーチの新石小屋橋まで来ると、いよいよ圧倒的な全貌があらわになる。2001年に完成したこのダムも重力式だが、堤高が156m、堤頂長が375m、総貯水量は1億9300万立方mと、はるかに巨大だ。堤高では国内第6位(下注)、総貯水量でも同20位台前半の規模だという。

*注 秩父の浦山ダム、広島・加計の温井ダムも156mで、6位タイ。なお、重力式コンクリートダムでは奥只見ダムに次いで、浦山ダムとともに第2位。

道は橋を渡って、ダム直下まで続いている。以前、名物の観光放流(下注)を見に来たときは、上天気でけっこうな人出だったが、きょうは幼稚園児の遠足集団が来ているだけで、一般客は数えるほどだ。橋の方から、蒸気機関車を模したロードトレインが入ってきた。クルマで来た人を、駐車場のあるあいかわ公園から運んでくるイタリア製の遊覧車両だが、こちらも閑散としている。

*注 4~11月の特定日に行われる人気イベント。1日2回、ダムの水が6分間放流される。

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新石小屋橋から仰ぎ見る宮ヶ瀬ダム
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観光放流を見に集まる人々(別の日に撮影)
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(左)あいかわ公園から来るロードトレイン
(右)イタリアのメーカー銘板
 

ダムのもう一つの名物は、堰堤横の斜面を上下しているインクラインだ。もともとダムの建設工事で、コンクリートなどの資材を積んだダンプトラックを基地から作業現場まで下ろすために設けられた装置だが、ダム完成後、客室を取り付けて観光用に開放された。もちろん鉄道事業法に基づく索道ではなく、ダムの付属施設という位置づけだ。

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インクラインの車両
 

ダムの頂部、いわゆる天端(てんぱ)に上る目的なら、堰堤内部にある垂直エレベーターも利用でき、しかも無料だ。しかしこれは外が見えず、おもしろくない。乗り鉄の私としては、片道300円を払ってもインクラインに乗りたいと思う。

ウェブサイト(下注)によると、この施設は、山麓駅~山頂駅間全長216m、高低差121m、傾斜角度30~35度、片道所要約4分。インクライン(incline)とは傾斜鉄道の意味だが、ケーブルで結ばれた2台の車両が釣瓶のように上下するので、実態はケーブルカーと変わりない。車両はゴムタイヤを履いていて、H鋼を横置きした形状の走路を上下している。全線複線のため、中間部の行き違い設備はない。

*注 公益財団法人宮ヶ瀬ダム周辺振興財団「ぐるり宮ヶ瀬湖」https://www.miyagase.or.jp/

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(左)ダム下の山麓駅
(右)天端に面した山頂駅
 

6~10分間隔で頻繁に運行されているから、ほとんど待つ必要はなかった(下注)。山麓駅舎の2階に上がって乗り込むと、車内に階段状の2人掛け簡易シートが並んでいる。妻面の窓隅に「東京索道株式会社、平成10年製造」の銘板があった。

*注 運行時間帯は10:00~16:45。ただし平日は12:10~13:15の間、運行が中断される。また冬季12~3月は運行時間帯が短縮される。

走行する軌道は、ダムの着岩部のすぐ横に設置されている。そのため、動き始めるとまるで堰堤の法面を引き上げられていくような感覚だ。下り車両とすれ違った後、いったん勾配が緩む踊り場を通過した。山麓駅から仰いだとき、山頂駅を出た車両がなかなか近づいてこないように見えたのは、この勾配の変化のせいだ。

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堰堤の法面に沿って上る
 

到着した山頂駅は、天端と同じレベルにある。幅広い天端道路からダム湖を眺めたが、周囲の山々に雲が降りてきていて、幽玄な雰囲気だ。一方、下流側はインクラインの動くようすが上から下まで見渡せるので、つい長居をしてしまう。ちなみに、天端の中央付近にある展望塔にも上ってみたが、ガラス越しの眺めで期待外れだった。

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天端道路から発着のようすを観察
 

向かいにある広報施設、水とエネルギー館でダム関連の展示資料を見学した後、1階奥の「レイクサイドカフェ」で、少し早い昼食にする。ダムサイトに来たからには、ダムカレーを試さなくてはいけない。メインメニューの宮ヶ瀬ダム放流カレーは、ちょっとしたアイデアものだ。ライスでカレーソースを堰き止めてあるだけでなく、ライスの底に埋めてある栓代わりのウインナーソーセージを引き抜くと、ソースの放流が始まる。そのソースもスパイスがよく効いておいしかった。

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宮ヶ瀬ダム放流カレー
野菜をカレーソース側に移してから、底にあるウインナーの栓を抜く
 

名物をいろいろと堪能したので、12時頃から再び歩き始めた。天端道路を伝って対岸へ。丘を造成したあいかわ公園の中を管理センター前へ下り、さらに階段道で段丘下まで降りた。それから県道54号を中津川の下流へ向かう。

立派なワーレントラスの日向橋(ひなたばし)を渡ると、朝乗ってきたバスの終点、半原バスターミナルの横に出る。半原の集落を通り抜け、脇道を直進した突き当りの山ぎわに、次の見どころ、横須賀水道の旧トンネルがあった。

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(左)日向橋
(右)半原バスターミナル
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(左)県道から直進する脇道
  第一トンネル前から後方を撮影
(右)煉瓦積みの第一トンネル上流側ポータル
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ここでいう横須賀水道とは、軍港として発展した横須賀の水不足を解消するために造られた軍港水道半原系統のことだ。中津川から取水して1918(大正7)年に通水、1921年に全線が完成している。約90年使われ続けたが、2007年に取水が停止され、廃止となった。台地の上を直進していくルートは多くが道路として残り、「横須賀水道みち」の名で呼ばれている。

その最上流部に当たる半原から馬渡橋(まわたりばし)までの間に、蛇行する谷をショートカットするためのトンネルが計3本掘られた。一つ目が今見ているものだ。

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(左)第一トンネル内部
(右)同 下流側ポータル
 

レンガ積みのポータルは健在だったが、フェンスで塞がれて、通り抜けはもはや不可能だ。大出さんが、県道から分かれた脇道が逆勾配になっていることを指摘する。水道は自然流下だったはずだから、県道のところはサイホンか、そうでなければ築堤になっていたはずだ。

県道を迂回して反対側に回った。この第一トンネルと次の第二トンネルの間は、カーブした築堤が残っていて、小道として使われている。暗渠の中を覗くと、さびついた管路が横断しているのが見えた。第二トンネルも上流側が同じく閉鎖され、下流側のポータルは草ぼうぼうで近づくことすらできない。

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(左)第一、第二トンネル間の築堤道
(右)暗渠の中に管路が覗く
 

県道との再合流地点に、横須賀市水道局と書かれた基準点標識が埋まっていた。水道ゆかりのもので、しっかり探せばほかにも見つかるかもしれない。第三のトンネルは、残念ながら県道の愛川トンネル(長さ146m、1993年完成)に改築されてしまった。2車線幅のため、水道時代の面影は消失している。

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(左)横須賀市水道局の基準点標識
(右)県道愛川トンネルの下流側
 

このあと水道は、プラットトラスの道路橋だった旧 馬渡橋で、中津川を横断していた。そのたもとに、橋材と送水管の断片を組み合わせたモニュメントが設置されている。真新しいもので、銘板には令和5年8月とある。ただ、仮止めテープがついたままだったので、まだ正式に除幕されていないのかもしれない。

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馬渡橋たもとの旧橋モニュメント
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モニュメントの説明板
 

橋の南側でいったん県道をはずれ、坂を上って愛川中学校のある高台へ移動した。というのも、田代の繞谷(じょうこく)丘陵を俯瞰したかったからだ。

堀淳一さんが『地図の風景 関東編 I 東京・神奈川』(そしえて、1980年)の一節で、「川のつくった半円劇場」と紹介していた地形で、地形図で「残草(ざるそう)」の文字がかかっている小山がそれだ。その北から東にかけて見られる半円状の平地は、中津川のかつての曲流跡で、後に川の流路が西側で短絡してしまったため、空谷となって残された。

高台の斜面に沿う道を歩いていくと、家並みが途切れて曲流跡が見晴らせる場所があった。『地図の風景』に掲載された写真とほぼ同じアングルで、堀さんもここから眺めたのだろう。曲流跡にもすっかり家が建て込んでいるが、背後にあるこんもりした森が繞谷丘陵の形をなぞっているのが見て取れる。

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田代の繞谷丘陵(写真中景の森)
 

坂を下りてその麓を通り、田代小学校から再び県道に出ると、「水道みち」と刻まれた碑が立っていた。横須賀までなお40~50kmの距離があるが、私たちの水道みち追跡はここが終点だ。

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田代の水道みち碑
 

最後に、中津川に架かる平山橋を訪れた。1926年に完成した長さ112.7mの3連プラットトラス橋で、登録有形文化財になっている。下流側に平山大橋が開通してからはクルマの通行が遮断され、現在は自転車・歩行者専用だ。さっき渡った日向橋も1930年の完成なので、造られた時代はさほど変わらない。しかし、がっしりした構造の日向橋とは対照的に、この橋には華奢で優美な雰囲気がある。

さて、時刻は14時になろうとしている。ダムから延々歩いてきたが、幸いにも雨に遭わずに済んだ。平山大橋のたもとにある田代バス停を、1時間に1本しかないバスが間もなく通る。これをつかまえて本厚木駅に戻ることにしよう。

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平山橋
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平山橋と中津川
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
宮ヶ瀬ダム https://www.ktr.mlit.go.jp/sagami/
神奈川県立あいかわ公園 http://www.aikawa-park.jp/

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