コンターサークル-S

2024年11月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-花巻電鉄花巻温泉線跡

2024年秋のコンター旅、最終日の10月7日は岩手県中部の花巻で、花巻電鉄花巻温泉線の廃線跡(下注)を訪ねた。

花巻温泉線は、ニブロク(2フィート6インチ=762mm)軌間のささやかな電車線だった。1972(昭和47)年の廃止時点では、国鉄駅裏にあった駅(以下、電鉄花巻駅)から北西へ花巻温泉まで7.4kmを走っていた。廃線跡は自転車道に転換されたので、宅地開発で消滅した一部区間を除き、今も全線を徒歩や自転車でたどることができる。

*注 ただし、廃止前年(1971年)に岩手中央バスに合併されており、すでに花巻電鉄の社名はなかった。

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花巻温泉線跡の自転車道
瀬川橋梁手前の県道跨線橋から南望
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図1 花巻温泉線周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年修正

私たちはレンタサイクルで出かける予定にしていたが、天気予報によると、朝は小雨、昼ごろから雨足が強まるらしい。さいわい花巻到着時点ではまだ空が明るかったので、意を決して駅前の店へ行き、電動アシスト自転車を3時間借りた。参加者は、大出さん、山本さんと私の3名だ。

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JR花巻駅
 

冒頭でささやかな電車線と紹介したが、歴史を振り返れば、花巻電鉄はもう一本、鉛(なまり)線という軌道線を擁して、花巻とその西郊の山あいに湧く温泉郷とを結ぶ路線網を形成していた。花巻の廃線跡の話をするには、この鉛線と、もう一つ、同じニブロク軌間の岩手軽便鉄道にも触れておく必要があるだろう。

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図2 花巻の鉄道網の変遷
 

まず鉛線だが、これは鉛温泉をはじめ豊沢川沿いに古くからある温泉群へ行く17.6kmの路線(下注)だ。道端を走るため車両の横幅が極端に狭く、馬づら電車として有名だった。登場したのは1915(大正4)年で、市街の西端、西公園から途中の松原まで開通している(上図1915年の欄参照)。

*注 ただし、この数値は中央花巻(後述する移転後のターミナル)~西鉛温泉間の距離。

1918年には東北本線を陸橋でまたいで、岩手軽便鉄道の花巻駅(以下、軽鉄花巻駅)に乗入れた。遅れて1925(大正14)年に開通した花巻温泉線も、当初は鉛線の西花巻駅を起点にしていたのだ。

一方、岩手軽便鉄道は、一足早く1913(大正2)年に花巻~土沢間12.7kmで開業している。1936(昭和11)年に国有化されて国鉄釜石線となり、1943年には1067mmに改軌されるが、軽便時代、花巻市街では今とは違う南寄りのルートを通り、国鉄花巻駅前に独自のターミナルを有していた。鉛線が乗り入れたのはこの旧駅だ。

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鉛線最終営業日の情景
材木町公園の案内板を撮影
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鳥谷ヶ崎駅跡にある岩手軽便鉄道線跡の説明板
 

そこで廃線跡探索の手始めは、その軽鉄花巻駅跡を見に行く。JR駅前ロータリーの南側、ホテルグランシェールの裏に案内板が立っている。左肩に載ったシャッポとマントは、この町で生まれた宮沢賢治のゆかりの場所を示すものだ。南西角には小さな石碑も見られ、それぞれ軽鉄駅がここにあったことと、賢治の短編童話「シグナルとシグナレス」が、東北本線と岩手軽便の信号機どうしの恋の物語であることに言及している。

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駅ロータリーの南側、花巻駅前広場が軽鉄花巻駅跡
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(左)宮沢賢治ゆかりの地を示す案内板
(右)駅跡の碑
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図3 花巻市街の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図4 同範囲の花巻温泉線現役時代
(左)1968(昭和43)年測量(右)1973(昭和48)年修正測量
 

さて、岩手軽便改め釜石線がルート変更で国鉄駅に吸収されたことで、旧 軽鉄花巻駅は鉛線専用になったかに見える。だが、すでに1938年から軽鉄花巻~西花巻間、通称 岩花線(下注)に旅客列車は走っておらず、鉛方面へは、国鉄駅裏にある電鉄花巻駅から出発するようになっていた。西花巻駅では、配線の関係でスイッチバックしていたことになる。

*注 岩花線の名は、岩手軽便鉄道と花巻電鉄を結んだことに由来する。なお、岩花線運休の動向は、『はなまき通検定「往来物」』花観堂、令和2年10月改定版による。

1945(昭和20)年8月10日の空襲で、花巻駅とその周辺は甚大な被害をこうむった。その復興過程で1948年に岩花線の運行も復活するが、ターミナルは、旧軽鉄花巻駅から300m以上後退した大堰川(おおぜきがわ)の南側に移された。中央花巻という気負った駅名にもかかわらず、実態は簡素な造りの棒線駅だった。

現在、旧 軽鉄花巻~中央花巻間の廃線跡は完全に消失していて、大堰川の上に造られた市道の高架と民家とに挟まれてぽつんと立つ1本の橋脚だけがその形見だ。また、中央花巻駅跡も住宅地の中に埋もれてしまった。

岩花線はここから東北本線を乗越すために右カーブしていくが、この区間は住宅地の中の道路として残る。乗り越した先に、花巻温泉線と接続する西花巻駅があった。駅跡は年金事務所の敷地に転用され(下注)、西隣の税務署もその一部だ。

*注 うっかり見落としたが、旧駅前通りに面した理髪店の庭に、駅跡に関する案内板が立っている。

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(左)高架下に残る岩花線の橋脚
(右)東北本線を乗越す手前の右カーブ
 

復活はしたものの、ターミナルが国鉄駅からも中心街からも離れた中途半端な立地で、利用者が少なかったのだろう。1964(昭和39)年10月の時刻表によると、岩花線の列車は1日わずか5往復、すべて花巻温泉相互間で、鉛線のほうへは走っていない。

東北本線の電化に際し、高架橋の嵩上げを迫られたことを契機に、1965年、岩花線は廃止となる。鉛線のスイッチバック運転を解消するために短絡線が造られ、西花巻駅はその線上に移転した。しかしせっかくの新駅も、使われたのはわずか4年で、1969年には鉛線の運行(花巻~西鉛温泉間)が止まり、1972年に残る花巻温泉線も後を追った。

現在、二代目西花巻駅の跡は花巻中央消防署の敷地の一部になっている。この南側から300mの間、鉛線跡が自転車道に利用されている。短距離ながら、S字カーブと、2か所で小道と立体交差する趣深いルートだ。県道103号花巻和賀線に合流したところが西公園駅(下注)の位置で、鉛線の電車はそこから終点の西鉛温泉まで道端軌道を走っていた。

*注 この西公園駅は1918年の軽鉄花巻延伸の際に移設されたもの。地形図によると、1915年開業時の初代 西公園は、県道103号を100m前後東に行った位置にあったようだ。

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西花巻~西公園間の廃線跡自転車道
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県道合流地点
1915年部分開通時は右写真の県道を少し進んだあたりに西公園の終点があった

花巻温泉線の跡もまた、消防署の北側から自転車道として始まる(下注1)。現在は県の管理で、県道501号北上花巻温泉自転車道線(下注2)の一部だ。

*注1 次の市道との交差までは道路の左側(西側)の住宅地の列が実際の廃線跡。
*注2 この県道(自転車道)は、桜の名所の北上展勝地が起点で、北上川左岸(東岸)の堤防道路を花巻まで北上した後、西公園~花巻温泉間の廃線跡をたどる延長26.2km。

市道と斜めに交差してすぐ左側には、材木町公園と呼ばれる緑地があり、旧花巻町役場の木造建物の横に、鉛線ゆかりの電車デハ3が静態保存されている。上屋がつき、側面も金網で厳重に囲われているので、保存状態は良好だ。反面、写真は撮りにくく、網目までレンズを近づけると、車両全体が入りきらない…。

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材木町公園のデハ3
 

傍らに、近代化産業遺産の案内板も立つ。花巻電鉄の沿革、路線図、裏面にもわたる豊富な古写真と、資料館顔負けの情報量だ。なかに馬づら電車の車内を写したものがあったが、ロングシートの両側に人が座ると、膝が当たるほど狭い。終点まで1時間以上、窮屈な車両に揺られ続けるのはけっこう苦行だっただろう。

電鉄花巻駅はまもなくだ。駅跡は駐輪場などになってしまったが、駅前広場の一角に、花巻電鉄「花巻駅」跡地と記された小さな案内板が立っている。

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電鉄花巻駅跡
 

電鉄花巻駅を後にすると、後川(うしろがわ)の小さな谷を横断する地点で、さきほど交差した市道の下をくぐる。その後は、JR線西側の比較的新しい住宅街を直進していく。星が丘一丁目では、宅地造成のために大きな迂回ルートが造られていた。

花巻東高校の学生寮の前を通過した自転車道は、枇杷沢川(びわさわがわ)を越える。ここに架かる桁橋は架け換えられているが、橋台に鉄道時代の旧橋台が埋め込まれているように見えた。

松林の中を進むと、まもなく花巻東高校の正門が見えてくる。言わずと知れたメジャーリーガー大谷、菊池両選手の母校なので、門標や校舎をバックに記念写真を撮る人たちが順番待ちしていた。グラウンドのバックネット裏にある手形とサインの記念パネルも同様だ。廃線跡が目的の私たちも、ここでは俄かファンにならざるを得ない。

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(左)枇杷沢川に架かる橋、旧橋台が埋まっている?
(右)日居城野運動公園の松林を行く
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(左)花巻東高校正門
(右)バックネット裏の記念パネル、両選手の手形が特に人気
 

隣接する日居城野(ひいじょうの)運動公園は、松林に包まれた広大な敷地に、野球場、陸上競技場、芝生広場、テニスコート、総合体育館と充実した施設群が並ぶ。廃線跡自転車道はその中央を堂々と貫いていくが、それというのも、もともとここは、花巻温泉と花巻電鉄が土地を提供して造られた施設だからだ。1934(昭和9)年のオープンと同時に、花巻グランドという名の駅も設置され、来場者の便が図られた。自転車道が広くなっているあたりが駅跡だという。

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(左)花巻グランド駅跡
(右)陸上競技場の横を行く廃線跡
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図5 花巻グランド~瀬川間の1:25,000地形図
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図6 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

東北自動車道と交差した後は、見通しのきく田園地帯に出る。右カーブで段丘を降りると、県道297号花巻停車場花巻温泉郷線が乗り越していく(冒頭写真参照)。瀬川を直角に渡って少し行ったところに、次の瀬川駅があった。畑を隔てて数mの位置に農業倉庫の土台と言われるものが残る。

この後は、先ほどの県道に近づいていき、鉛線と同じような道端区間になる。ただし、こちらは道路と完全に分離されていて、自転車道はあたかも側道のように見える。

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(左)瀬川を横断するために段丘を降下
(右)瀬川橋梁
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(左)瀬川駅跡、左手に農業倉庫の土台跡が
(右)県道に沿う側道区間が続く
 

北金矢(きたかなや)駅跡は、同名のバス停が目印だ。サルビアやマリーゴールドの華やかな花壇が作ってあった。黄金色の稲穂が揺れる傍らをさらに進むと、松山寺前(しょうざんじまえ)駅。立派な山門を構えた同名のお寺の近くで、ここにもバス停がある。

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(左)北金矢駅跡
(右)中間部は田園地帯
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(左)松山寺前駅跡(南望)
(右)松山寺山門
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図7 瀬川~花巻温泉間の1:25,000地形図
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図8 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

正面の山が近づき、民家が増え、少し坂がきつくなったと感じたら、もうゴールだった。自転車道は手前で終点となり、旧駅構内には南から駐在所、郵便局、そしてバスの転回場が順に並んでいる。北端に見える、一段上の道路へのコンクリート階段が唯一の痕跡らしい。正面には花巻温泉の横断看板が上がり、旅館群に通じるプロムナードが奥へ延びていて、駅が温泉の玄関口だったことがよくわかる。

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(左)終盤、坂がややきつくなる
(右)自転車道の終点(花巻方を望む)
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花巻温泉駅跡
一段上の道路への階段が残る
 

近くの台(だい)温泉や、豊沢川に沿う志戸平(しとだいら)、大沢、鉛の各温泉などは数百年の伝統を持つが、花巻温泉はそれらと違って、歴史は新しい。大正末期から昭和初期にかけて、関西の宝塚をモデルに開発された新興のリゾートだからだ。温泉も最初は台温泉から引いていた。鉄道もこの開発事業の一環で建設されたもので、宝塚に当てはめるなら、箕面有馬電気鉄道(現 阪急宝塚線)の位置づけだ。駅と温泉街が一体化して見えるのも偶然ではない。

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駅正面に花巻温泉の横断看板

自転車の返却時刻が近づいてきたので、来た道を戻った。7.4kmの距離に電車は18~20分かけていたが、自転車でも30分もあれば走りきれる。雨に襲われないうちに帰らなければ…。

昼食は、花巻屈指の人気スポット、上町のマルカンビル大食堂にて。閉店した地元デパートの最上階に残る、昭和の雰囲気を色濃く漂わせた展望レストランだ。平日というのに、一体どこから湧いてくるのかと思うほどの客で賑わっている。食事の後、デザートに名物の10段巻きソフトも試したので、もう花巻で思い残すことはない。

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(左)マルカンビル大食堂
(右)名物10段巻きソフトクリーム
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(昭和46年修正)、2万5千分の1地形図土沢(昭和48年修正測量)、花巻、花巻温泉(いずれも昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車

2024年11月 3日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車

朝8時56分、盛岡駅から上り電車で移動した。南へ二つ目の岩手飯岡(いわていいおか)駅が、本日の集合場所になっている。2024年10月6日、秋のコンター旅の後半2日目は、ここからクルマでJR岩泉線の廃線跡を見に行く予定だ。

JR山田線の茂市(もいち)を起点に、岩泉まで38.4kmを走っていたこのローカル線のことは、まだ記憶に新しい。押角(おしかど)~岩手大川間で発生した土砂崩れによる脱線事故で運行不能になったのは14年前、2010年7月31日のことだ。1日わずか3往復、極めつきの閑散路線だったため、復旧が叶うことはなく、2014年4月1日、正式に廃止となった。

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レールバイクの拠点、旧 岩手和井内駅

駅の東口広場で、自宅からマイカーを飛ばしてきた丹羽さんと落ち合う。参加者は、昨日もいっしょだった大出さん、山本さんとの計4名だ。さっそく丹羽号に乗り込み、国道106号バイパスを東へ進んだ。あえて郊外の岩手飯岡駅を発地にしたのは、東北道の盛岡南ICから続くこのバイパス道路の最寄り駅だからだ。三陸海岸の宮古方面へは、長さ4998mの新区界トンネルを含め、長大トンネルを連ねた高速道路のような立派な道路が完成していて、もはやサミットの区界(くざかい)駅前を通ることもない。

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図1 岩泉線周辺の1:200,000地勢図
1993(平成5)年編集
 

約1時間のドライブの後、茂市駅に立ち寄った。昔ながらの木造駅舎と跨線橋はすっかり撤去され(旧駅舎の写真は本稿末尾参照)、小さな待合室が新設されている。しかし、ここを通る山田線はこの夏の大雨被害により全面運休中で、再開の見通しが示されていない。ホームに出ると、出発信号機は灯っていたが、全赤だ。岩泉線のホームは駅舎方の1番線だったはずだが、そこにはもう線路すらなかった。

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茂市駅
(左)新しい待合室(右)列車の来ない山田線ホーム
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図2 茂市~岩手刈屋間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

駅を後にして、刈屋川の谷を旧道で遡る。岩泉線跡がつかず離れず、左手に続いている。下野付近には、塗装の剥がれかけたガーダー橋があった。廃線敷は沿線自治体が所有しているそうで、一部の橋梁やトンネルを除き、おおむね手つかずで残されている。

岩手刈屋(いわてかりや)駅跡は線路もホームもなくなり、がらんとした空地になっていた。岩泉方にある踏切跡の脇に立つ4 1/2キロポストが唯一の遺物かもしれない。対照的に、次の中里駅は、ホームと待合室がそっくり保存されている。というのも、現在、ここと岩手和井内の一駅間2.8kmが、レールバイクの走行ルートになっているからだ。

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(左)下野に残るガーダー(鈑桁)橋
(右)岩手刈屋駅跡近くの4 1/2キロポスト
 

廃線跡の観光利用法として、線路上を自走式の簡易車両で移動するアトラクションが、各地で導入されている。私も過去のコンター旅で、北海道の美幸線跡ではエンジン付きのカートに、また、九州の高千穂鉄道跡では動力車に牽引された大型カートに乗ったことがある。

*注 詳細は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」「コンターサークル地図の旅-高千穂鉄道跡とトロッコ乗車」参照。

岩泉線のそれは、2台の自転車を並列にして2軸台車に固定したレールバイク(軌道自転車)だ。自転車のタイヤがレールに接して駆動力となる一方、台車のフランジつき車輪がレールからの逸脱を防いでいる。これに2人が乗ってそれぞれ漕ぐのだが、希望すれば、後部にもう2人分の補助シートを設置した4人乗り車両も利用できる。

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レールバイク車両
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(左)スタッフが乗るエンジンカート
(右)4人乗りレールバイクと背後の車庫
 

今年(2024年)の場合、レールバイクは4月中旬から11月の土日祝日の運行だ。10~15時の間、毎時00分発の予約制で、私たちは11時発の便を申し込んでいた。岩手和井内の旧駅前にクルマを付けると、駅舎を活用した事務所の前でスタッフの方が2名、待っていてくれた。なにぶん遠隔地とあって、この時間帯の客は私たちだけだ。

料金は1台あたり2000円。受付を済ませ、レールバイク2台に分乗した。「帰りは上り坂ですので、電動アシストつきも用意できますよ」と優しい声が掛かったが、全員やせ我慢をして、アシストなしを選択する。

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旧駅舎の事務所で受付を済ませる
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2024年版レールバイクのポスター
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図3 同 中里~岩手和井内間
 

エンジンつきのカートで先導するスタッフの後を、少し間を開けてついていった。駅を出てまもなく、下り20‰の勾配標が見えた。岩泉線の急勾配区間は峠越えをはさむ和井内~大川間だと思い込んでいたので、その外側にもけっこうな坂道があることに初めて気づく。勾配値はざっと前1/3が20‰、中間1/3で12‰と少し和らぎ、後1/3が再び20‰だ。

とはいえ往路は下り坂だから、大して漕がなくても気持ちよく走ってくれる。先導車との車間を保つために、少しブレーキ操作が必要なくらいだ。のどかな村里の風景の中、山ぎわに緩いカーブを描く線路は営業線時代と変わらない。里道と交差する踏切や、小川をまたぐ鉄橋もある。ハンドルが固定されているので、スポーツジムのエアロバイクに乗っているようなものだが、室内と違い、風を切ってレール上を滑っていくのは、なかなか爽快だ。

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先導車の後をついて走る
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(左)20‰の勾配標
(右)落ちた栗のイガで埋まる線路
 

12分ほどで中里駅に到着した。ここで車両の方向転換作業が行われる。線路上に、軸回転式の簡易な転車台が設置されている。レールバイクをスロープ伝いにそこへ載せて、手動でくるりと回せば完了だ。

覚悟はしていたが、復路の上り坂はやはりきつかった。変速ギアを最軽にしても、ふだん使っていない太腿の筋肉が悲鳴を上げる。機関車の苦労が知れるというものだ。なんとかバテる前に和井内に戻ることができたが、所要時間を確認するのをすっかり忘れてしまった。往路とは走行速度が違うので、20分ほどかかっただろうか。乗車記念にと出発時に撮ってもらった写真のプリントができあがっていた。

■参考サイト
岩泉線レールバイク https://iwaizumisen-railbike.org/

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中里駅に到着
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転車台で方向転換
 

昼食の後、次の押角駅へ向かった。家並みが途切れてまもなく国道の改良区間は終わり、幅狭のくねくね曲がる谷道になる。見通しが悪く、対向不能個所も多い難路だ。10分ほど走ったところで、押角駅への指示標識が撤去されずに残っていた。「一般国道340号和井内~押角工区」の計画図を描いた大きな看板も立っている。

駅は刈屋川の対岸に位置していた。私たちの記憶にあるのは勾配途中の棒線駅だが、1972年まではZ字形スイッチバックの構造だった。その時代の駅舎と広場は養魚場に転用されてしまったが、本線築堤とホームのあった折返し線の跡らしきものが一部残っている。一方、茂市方はすでに広い更地になっていた。先ほどの計画図のとおり、早晩、道路にされてしまうようだ。

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国道改良の案内図
計画区間の左半分は旧線跡を通る
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押角駅跡
(左)岩泉方の本線跡(右)スイッチバック時代の折返し線跡か?
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図4 同 押角トンネル周辺
 

2987mの長さがあった押角トンネルは近年、国道用に拡幅改修(下注)された。だが、ポータルの位置がややずれているため、南口には鉄道時代の断片らしきものが見える。また、手前で刈屋川を渡るコンクリートの桁橋もまだ残っている。

*注 国道340号の押角トンネルは2018年開通、長さは3094m。

うっかり通過してしまったが、北口のずれはさらに大きく、鉄道トンネルのポータルが壊されていないらしい。また国道トンネルを出て300mほど北には、道路と川を一息に跨いでいた鉄道の高架橋が、川の上空部分だけ残されている。

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押角トンネル南口
(左)手前にある橋梁遺構
(右)国道トンネルの左側に鉄道時代の擁壁とポータルの一部(?)が残る
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トンネル北口近くに残る高架橋の断片
 

この先、線路は谷の傾斜についていけなくなり、山腹をトンネルで縫いながら、大きく西側へ迂回していく。それで、次の岩手大川駅は、国道からそれて県道171号大川松草線を西へ入った伏屋(ふしや)集落の中にあった。駅跡は県道から一段高い位置だが、広場もホームもすっかり夏草に呑み込まれている。

茂市方には、カーブしながら川を渡る第一大川橋梁が残存する。草をかき分けて行ってみると、橋上の線路は取り払われているものの、6連のガーダーはきれいなままで、今にも列車が渡ってきそうだ。長さ92m、川面からの位置が高いこともあり、岩泉線で最も印象的な遺構だろう。

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カーブしながら川を渡る第一大川橋梁
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(左)駅跡から第一大川橋梁へ続く築堤
(右)橋上の線路は撤去されていた
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図5 同 岩手大川周辺
 

国道340号に戻って少し下流に進むと、道端にこの路線では珍しいコンクリートアーチの長い橋梁が架かっていた。次の第二大川橋梁も、谷間を真一文字に横断していて壮観だ。川代集落では、廃線跡がもう国道レベルまで降りてきている。残された線路は錆びついているが、朽ちた枕木を交換すればまだ使えそうだった。

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直線で渡る第二大川橋梁
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(左)道端のコンクリートアーチ橋、写真の左側にも続いている
(右)まだ使えそうな川代集落の廃線跡
 

岩泉線の歴史は意外に新しく、茂市~岩手和井内間が1942(昭和17)年に小本(おもと)線として開業したのが始まりだ。その後、戦中戦後を通じて順次延伸され、1957年に浅内(あさない)に達した。浅内駅は今も平屋の駅舎とホーム、線路が現役さながらに保存され、足りないのは列車だけという状況だ。駅舎の前に、「浅内駅(痕跡)」と題された沿革の説明板が立てられ、待合室にも当時の写真が飾ってある。

当時の計画ではここが最終目的地だったので、ターミナルにふさわしい設備が見つかる。岩泉方には折り返す蒸気機関車のための給水塔が建っているし、駅舎の向かいの建物に、貨物を扱っていた日本通運の文字と社章が残る。

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浅内駅跡
(左)ホーム側から見た駅舎(右)ホームと線路も残る
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(左)蒸機のための給水塔
(右)日本通運の文字と社章が残る民家
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駅舎前に立つ説明板
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図6 同 浅内周辺
 

浅内から先は、時代が下がって1972(昭和47)年の開通だ。小本川を何度か渡り返す橋梁も、見た目が地味なPC桁に変わる。

次の二升石(にしょういし)駅は、国道左手の築堤上に高架式のホームと線路が残っている。築堤下には、三角屋根の小さな待合室も建っていた。桜並木が寄り添う旧ホームは、今でも春には花見ができそうだ。

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二升石駅跡
(左)桜並木が沿う旧ホーム(右)三角屋根の待合室
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図7 同 二升石~岩泉間
 

終点の岩泉駅は市街地の手前で、国道の川向うに位置していた。総2階建の大きな駅舎が、延伸開通時の地元の意気込みを物語る。現在は町の観光センターになり、1階ホールに出札口や時刻表、近隣駅の駅名標なども保存されているようだ。しかし残念なことに、観光センターと名乗る割に、土日は休業だ。入口が施錠されているので、ガラス越しに見るしかない。

構内に回ると、上屋の架かった棒線ホームはあるものの、線路はすでに失われていた。小本線の旧称のとおり、もとの計画ではここからさらに東へ進んで、現 三陸鉄道の岩泉小本駅がある小本まで線路が延びるはずだった。しかし、工事は着手されず、ミッシングリンクが埋まることはついになかったのだ。

全線の探索を終えたのが15時30分。明るいうちにと国道455号早坂トンネル経由で、私たちは盛岡への帰途に就いた。

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2階建の旧岩泉駅舎
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ホームは残るが、線路は撤去済み

以下の写真は、大出さんに提供してもらった現役時代の岩泉線各駅のようすだ。撮影時期は1983年8月と2003年3月。土砂崩れで不通にならなければ、この日常風景が今も続いていたのだろうか。

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茂市駅1番線、岩泉方を望む
(以下、特記のない写真は1983年8月撮影)
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茂市駅1番線、宮古方を望む(2003年3月撮影)
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中里駅
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岩手和井内駅
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浅内駅
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岩泉駅
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岩泉駅(2003年3月撮影)

参考までに、岩泉線が記載されている1:25,000地形図を、茂市側から順に掲げておこう。なお、一部の図には旧称である「小本線」の注記がある。

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図8 岩泉線現役時代の1:25,000地形図
茂市~岩手刈屋間(1972(昭和47)年修正測量)
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図9 同 岩手刈屋~岩手和井内間(1968(昭和43)年~1976(昭和51)年測量または修正測量)
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図10 同 岩手和井内~押角間(1976(昭和51)年修正測量)
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図11 同 押角~押角トンネル間(1976(昭和51)年修正測量)
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図12 同 岩手大川~浅内間(1976(昭和51)年修正測量)
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図13 同 浅内~岩泉間(1973(昭和48)年~1976(昭和51)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(平成5年編集)、2万5千分の1地形図岩泉、有芸、峠ノ神山(いずれも昭和48年修正測量)、茂市(昭和47年修正測量)、門、陸中大川、和井内(いずれも昭和51年修正測量)、陸中川井(昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年10月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-小岩井農場、橋場線跡、松尾鉱業鉄道跡

2024年コンターサークル-S 秋の旅、後半は岩手県に舞台を移す。1日目は、盛岡駅前でクルマを借りて、岩手山麓を半周する形で、雄大な風景と大地に埋もれた廃線跡を巡る。

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小岩井農場上丸四号牛舎
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図1 岩手山周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年編集
 

駅の改札前に集合したのは大出さん、山本さんと私の3名。白のトヨタヤリスで御所湖(ごしょこ)のほとりを走り、湖面に臨む繋(つなぎ)温泉の駐車場にクルマを停めた。御所湖は、雫石川(しずくいしがわ)を堰き止めて1981年に完成した比較的新しい人造湖だ。広い湖面の向こうにそびえる岩手山(いわてさん)の眺望を期待して来たのだが、空はおおむね晴れているのに、山頂付近に厚い雲がまとわりついている。

それから繋大橋を渡って北岸の、七ツ森がよく見える御所野の一角に移動した。のどかな田園地帯を限るように、優しい稜線をもつ小山がポコポコと並んでいる。宮沢賢治の文学作品にちなむイーハトーブの風景地の一つだ。本来ならその間に岩手山も顔を見せるはずだが…。

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御所湖西望
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七ツ森の展望

続いて国道46号で西へ向かう。目的地は橋場(はしば)駅跡。JR田沢湖線が仙岩トンネルの完成で全通する以前の盛岡方の終点で、路線も橋場線と呼ばれていた。1922(大正11)年に開業したが、戦時中、閑散区間だった雫石(しずくいし)と橋場の間が不要不急路線とされ、線路が撤去された。戦後の田沢湖線建設の際も、ルートから外れる赤渕(あかぶち、下注)~橋場間は復活することがなかった。

*注 赤渕駅は1964(昭和39)年の再開業時に開設された駅で、戦前の橋場線時代にはなかった。

橋場駅があったのは、赤渕から1.7kmの安栖(あずまい)地区だ。廃業した商店の向かいに並ぶ民家の間の小道を入っていくと、山裾にコンクリートの階段が見えてくる。踏面が草むしているものの、躯体はそれほど劣化していない。上ると、森の中に対面式のホーム跡がくっきりと浮かび上がった。しかし、端の方では丈の高い下草に覆われて、周りと区別がつかなくなる。構内の盛岡方に転車台があったようだが、冬枯れの時期ならともかく、とてもそこまで到達できそうになかった。

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橋場駅跡
(左)ホームへの階段(右)森の中のホーム跡
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図2 橋場駅跡周辺の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図3 橋場駅跡周辺の旧版1:50,000地形図(2倍拡大)
1939(昭和14)年修正測図

来た道を戻って雫石で左折し、次は小岩井農場へ。明治時代に岩手山南麓の広大な原野を拓いて造られた著名な農場だが、その一部がまきば園という有料公開の園地になっている。広々とした芝生広場の周りに乗馬体験や遊具のコーナー、レストランなどが配置され、大人から子どもまでゆったりと楽しめる場所だ。

だが残念なことに、鉄道系の楽しみはなくなってしまった。SLホテルだった蒸機D51 68号と20形客車は、今やただの置物になっている。雨ざらしのため、傷みが進んでいるようだ。D51は最近再塗装されて面目を取り戻したが、勢い余ってか、動輪まで黒のペンキで塗られていた。

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小岩井農場まきば園
(左)エントランス(右)広々とした園内
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旧SLホテルのD51 68号機
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図4 小岩井農場周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

園地の奥で走っていたトロ馬車も長期運休中だ。幌屋根のトロッコは乗り場に置かれたままで、周回軌道のレールももはや草に埋もれかけている。岩手山をバックに、草をはむ羊たちの横をトロ馬車が通り過ぎるさまはきっと絵になると思うので、復活を期待したい。

ちなみにこのトロ馬車は、昔ここにあった馬車軌道を再現したものだ。1904(明治37)年に農場本部から上丸牛舎に至る3.6kmの道沿いに敷設されたのが最初で、1921(大正10)年に国鉄橋場線の小岩井駅が開業すると、本部から南下して駅まで2.5kmが延伸された。当時のルートは旧版地形図(下図参照)にも描かれている。自動車の普及と道路整備に伴って1958(昭和33)年に廃止されるまで、半世紀にわたりトロ馬車は外界とを結ぶ重要な交通輸送手段だった。

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トロ馬車乗り場
(左)静態展示中(?)のトロッコ(右)遷車台
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牧場の中の周回軌道は草に埋もれつつある
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図5 小岩井農場の馬車軌道(薄赤で着色)が描かれた旧版地形図
図上端の「育牛部」が現在の上丸牛舎
1948(昭和23)年資料修正
 

レストランでスープカレーの昼食をとった後は、実際の農場の営みを見学できる上丸牛舎を訪ねた。門を入ったとたん、牧場独特の藁と糞の入り混じった匂いが漂ってきた。木造の大きな牛舎やレンガ張りのサイロは重要文化財の指定を受けつつも、現業で今なお使われているのだ。一号牛舎では内部も見学できる。ずらりと並んだ乳牛たちはもう慣れているのだろう。横から見学者がじろじろ眺めても、我関せずといった風で口をもぐもぐさせていた。

構内には事務所建物を利用した展示資料館もあり、本物のトロ馬車の走行写真やルート図など興味深い資料を見ることができた。最後に駐車場脇の売店で、限定販売の均質化していないビン牛乳を飲み干して、農場訪問を締めくくる。

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上丸牛舎の施設
(左)一号牛舎(右)一号、二号サイロ
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(左)小岩井農場資料館
(右)展示資料のトロ馬車写真

岩手山麓を北東へ走ると、東の方角に姫神山(ひめかみさん)が見えてくる。標高1124m、左右対称の整ったシルエットをもつ名山で、堀さんが著書『地図のたのしみ』に書いている。「頂上がキュッと尖り、両側になだらかな弧を描いて、ちょうど斜めに見たときの五重塔の軒先の曲線を思わせるその優姿をいつでも見せて、人の心をひきつける」と(同書p.232、下注)。

*注 堀淳一氏の『地図のたのしみ』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.245、2012年新装新版ではp.233にある。

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姫神山、柴沢からの眺望
 

堀さんは渋民駅で列車を降りて、線路沿いに北へ歩きながら北上川越しに山を眺めたが、私たちは、そこからさほど遠くない玉山地域重要眺望地点(柴沢)でクルマを停めた。「この優れた風景を大切にし、次世代に継承していきましょう」と書かれた盛岡市の案内板が立っている。水田地帯で、岩手山と姫神山がどちらも見通せるビューポイントだ。

ところが、無造作に張り巡らされた電柱と電線で、せっかくの景観にノイズが入る。そのうえ、東側に造られて間もなさそうな携帯の電波塔があって、姫神山にかぶってしまう。市の奨励にもかかわらず、眺望があまり重視されていないようだ。それでもう1か所目を付けていた渋民~好摩間の松川橋まで行った。ここは川面を前景にして山を望める。背後にはIGR線(旧 東北本線)の鉄橋も架かっているが、ほんの2~3分前に列車が通過したばかりで、さすがに一石二鳥とまではいかない。

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玉山地域重要眺望地点(柴沢)
(左)案内板と標柱(右)岩手山は雲の中
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姫神山、松川橋からの眺望

最後に松尾鉱業鉄道跡を訪ねた。これは、八幡平(はちまんたい)中腹で硫黄を採掘していた松尾鉱山のための支線鉄道で、国鉄花輪線の大更(おおぶけ)駅から東八幡平(旧称 屋敷台)まで12.2kmの路線だった。1934(昭和9年)に開業し、1951年からは電気運転になっている。接続する花輪線はもとより、東北本線でもまだ蒸気機関車が主役だった時代だ(下注)。八幡平へ行く登山客もよく利用した路線だったが、鉱山の閉鎖に伴い1972年に廃止となった。

*注 東北本線の盛岡~青森間の電化開業は1968年。

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大更駅
(左)新築の駅舎(右)ホーム、大館方面を望む
 

起点のJR大更駅へ。花輪線は言わずと知れた閑散線で、日中は片方向3時間に1本しか列車が来ない。ところが駅舎は、まるで近郊区間のような立派な2階建に建て替えられていて驚く。整備された駅前広場にタクシーが2、3台停まっていたから、それなりの需要があるのだろう。

クルマをときどき停めながら、終点まで廃線跡を追っていった。駅から北に出た鉱業鉄道は、約500m先で花輪線から離れていき、針路を徐々に西へ変える。草の生えた未利用地もあれば、砂利道だったり、プレハブ小屋が建っていたりと、現況はさまざまだ。しかし、用地区画は概して明瞭で、容易に跡をたどることができる。

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前半の廃線跡
(左)大更駅の北500m(右)上沖バス停前を横切る
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図6 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
大更駅周辺
 

現役時代、中間駅は二つあった。上沖(かみおき)バス停から廃線跡の農道を300mほど西へ行くと、一つ目の田頭(でんどう)駅跡を示す標柱が立っている。田んぼの真ん中に待合室がぽつんと残っているものと想像していたが、現実は違う。たくましく枝葉を広げた栗の木と野積みの廃タイヤにブロックされて、近づくことすら難しかった。

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(左)田頭駅跡の標柱、待合室は中央の木の陰に
(右)近づくのも困難な待合室
 

高森集落から西では、クルマでもたどれる農道になるが、鹿野(ししの)集落の手前でそれは消える。二つ目の鹿野駅は、地区の集落センター(集会所)の敷地などに転用されている。田頭駅のような標柱か説明板の一つでもあるといいが…。

集落を抜けると、2車線の舗装道が廃線跡だ。行く手に八幡平を仰ぐ一直線のルートだが、午後は雲が目立って増えてきた。東北自動車道をくぐり、県道23号大更八幡平線と交差すると、まもなく舗装道は終点となる。見過ごしてしまったが、この先に鹿野変電所が廃屋となって残っているそうだ。

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(左)鹿野駅跡に建つ集落センター
(右)八幡平に向かう廃線跡の2車線道
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図7 同 鹿野駅周辺
 

明治百年記念公園の駐車場にクルマを停めた。目の前で小水力発電用の水車が回っている。水を供給しているのは、松川上流で取水された用水路だ。松川温水路と呼ばれ、灌漑に適した水温にするために、幅広の水路に階段状に堰が切ってある。同様の施設が鳥海山麓にもあったのを思い出す(下注)。

*注 秋田県にかほ市象潟町の小滝温水路、「コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓」参照。

廃線跡はこの温水路に沿ってまっすぐ上流へ続いていて、現在は遊歩道になっている。落葉樹の林に包まれ、傍らで堰を落ちる水音を聞きながら、散策が楽しめるいい道だ。

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(左)松川温水路
(右)小水力発電用の水車
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温水路に沿う遊歩道区間
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図8 同 東八幡平駅周辺
 

一貫して西へ進んできた鉄道は、終点に近づくと北へ針路を変える。松尾鉱山資料館の駐車場が、かつて鉄道が斜めに横切っていた場所だ。線路の痕跡はない代わり、電化開業に合わせて導入された入換用電気機関車ED25 1号機が、上屋の下で静態保存されている。館内にも、鉄道に関する説明パネルや若干の資料展示があって、参考になる。この資料館、無料なのはうれしいが、鉱山のジオラマを除いて展示物を写真に撮れないのが惜しい。

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ED25 1号機
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松尾鉱山資料館
 

鉄道の終点である東八幡平駅は、索道で運ばれてきた鉱石の積替え施設が広がる一角にあった。現在は、松尾八幡平ビジターセンターという観光案内施設のほか、工場、広場、駐車場などに分割転用されている。どれも余裕たっぷりの敷地で、かつての施設がいかに大規模だったかが想像できる。

この後、私たちは、標高900m台にある松尾鉱山の採掘場付近まで、八幡平アスピーテラインを上っていった。急坂、ヘアピンの長い防雪シェルターを通り抜けると、風景はもう秋色を帯び始めている。かつて繁栄を極め、雲上の楽園とさえ称された鉱山町だが、今は廃墟と化した集合住宅群がむなしく立つばかりだ。坑道の崩落による陥没の恐れがあるとして、中心部に通じる道路は進入禁止になっていた。

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東八幡平駅跡
(左)松尾八幡平ビジターセンター
(右)広い駐車場も旧ヤードの一部
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松尾鉱山跡
(左)高層湿原の島沼
(右)廃墟になった集合住宅群
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図9 松尾鉱業鉄道が描かれた1:50,000地形図(東半)
1970(昭和45)年編集
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図10 同(西半)
(左)1973(昭和48)年編集(右)1970(昭和45)年編集
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図秋田、盛岡(いずれも昭和46年編集)、5万分の1地形図雫石(昭和14年修正測量)、小岩井農場(昭和23年資料修正)、八幡平(昭和48年編集)、沼宮内(昭和45年編集)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年10月22日 (火)

コンターサークル地図の旅-串本・潮岬とその周辺

2024年9月8日、秋のコンター旅2日目は、紀伊半島南端の串本(くしもと)に移動して、潮岬(しおのみさき)を筆頭に、周辺の地学的な見どころを巡る。

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潮岬灯台
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図1 串本周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

昨日に続いてよく晴れた朝、串本へ向かう2両編成の普通電車は、ロングシートがそこそこ埋まっていた。「休日の朝でもけっこう利用者がありますね」と言うと、「青春18きっぷの有効期間最後の日曜日だからじゃないかな」と大出さん。列車で紀伊半島一周に出かける人たちだろうか。串本駅前で、クルマで先回りしていた木下さん親子と合流した。本日も参加者はこの4名だ。

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串本駅に到着
 

トヨタヤリスのレンタカーと自家用車の2台で出発した。市街地を南へ抜け、潮岬への坂道を上る。途中の馬坂園地という休憩所が、串本トンボロを西側から見渡せそうに思えたので、寄り道した。

トンボロ、または陸繋砂州(りくけいさす)というのは、沿岸流によって運ばれた砂が堆積して、本土と島を陸続きにしている砂州のことだ(下注)。串本の場合は、潮岬のある海蝕台地がこれによって本土とつながり、市街地もこの砂州の上に載っている。

*注 ちなみに日本三大トンボロと呼ばれるのは、函館、串本、上甑島(かみこしきじま)の薗。

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図2 潮岬周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ところが、休憩所の海側は背の高い雑草ですっかり覆われてしまって、ほとんど視界がきかなかった。夏場なのでしかたがない。クルマに戻って、岬の突端にある南紀熊野ジオパークセンターまで行く。ここは、一帯の地学的な見どころをパネルや資料で紹介している施設だ。スタッフさんに5分間で解説を、と無理なお願いをして、これから訪ねるスポットについて予習した。それによれば…

海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込む際、海中で、プレートに載ってきた海底堆積物が剥がされて、いわゆる付加体が生成される。付加体の窪みの部分(海盆)には、陸上から運ばれた砂や泥が堆積した。これがこの地域の基盤層である熊野層群だ。後に、それらを突き破ってマグマが上昇し、地表や地中で冷えて固まった。潮岬や東隣の大島(下注)はこうしてできた花崗岩や安山岩(火成岩)から成っている。また、本土の熊野層群の間にも火成岩帯が分布して、奇岩や瀑布など特異な景観を提供している。

*注 同名の他の島と区別するときは、紀伊大島または串本大島と呼ぶ。

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南紀熊野ジオパークセンター
 

センターを辞して、前に広がる緑地を柵際まで歩くと、変則五角形をした本州最南端碑があった。いうまでもなくここは北緯33度26分、本州の南の端だが、陸地は「クレ崎」と呼ばれる崖下の岩礁へとまだ続いている。目を凝らすと、先端の岩棚に人が立っているのが見えた。海釣りをしているようだが、よくもそこまで、と感心する。岩伝いに歩いていくのは難しく、船で行ったとしか考えられない。

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(左)本州最南端碑
(右)最南端の岩礁、クレ崎
 

遊歩道を西へ移動する。旭之森展望所から、その岩礁の並びを側面から眺めることができた。野良ネコが二匹、ベンチの下の日陰から私たちのようすを窺っている。県道に合流した後、もう一つ展望所があり、これから行く岬の灯台が姿を見せた(冒頭写真参照)。

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(左)旭之森展望所
(右)ベンチの下の野良ネコ
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無名の展望所から見る潮岬灯台
 

潮岬灯台は高さ23m、石造の灯台だ。1870年に日本初の洋式木造灯台として完成し、8年後の1878年に現在の構造に改築されている。太い石柱の門を入ると受付があり、傍らで目の覚めるようなハイビスカスの真っ赤な花が迎えてくれた。

灯台は、敷地の中央に立っている。68段あるという内部の螺旋階段でバルコニーまで上れるのだが、最後の一層は狭くて急な鉄梯子だった。狭いバルコニーに出ると強い海風が吹きつけ、思わず帽子のひさしを押さえた。しかし、見晴らしのよさは言うまでもない。岬を覆う照葉樹林と青い海原が目の前に広がり、釣り船や貨物船が波間をゆっくりと動いている。

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潮岬灯台正門
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(左)構内のハイビスカス
(右)灯台と付属建物
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(左)灯台入口
(右)入口の銘板
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(左)バルコニーへの出口
(右)最終層を上る鉄梯子
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灯台バルコニーから南西方向のパノラマ
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(左)付属建物にある資料展示室
(右)展示室の第2等フレネルレンズ
 

クルマに戻って、紀伊大島へ向かった。潮岬台地の東端でスパイラルの取付け道路を回り、くしもと大橋を渡る。1999年に完成したこの橋のおかげで、大島は実質、本土と陸続きになり、民謡に謡われた巡航船も廃止されてしまった。

道の途中にある、口コミで人気のパン屋で昼食を仕入れて、金山展望所へ。標高117mのピークで、串本湾を見渡せるビューポイントとして目を付けていた場所だ。

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図3 串本・大島周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

消防団の人たちが作業中の駐車場にクルマを置かせてもらって、山道の階段を登っていく。地図上では徒歩8分ほどの距離なのだが、容赦ない日差しとアップダウンを繰り返す尾根道で、けっこう疲れた。展望地は3か所ばかりあったが、先端の小広場で視界が最も開ける。

右手に、巨岩が一直線に並ぶ橋杭岩(はしぐいいわ)がある。中央は串本市街地で、トンボロの上まで続き、潮岬台地に接続している。左手前には、多数の漁船がもやる大島港も見えて、想像以上の大パノラマだ。ベンチも用意されているから、ピクニックの環境として申し分ないが、今日はさすがに日陰がほしい。それで、クーラーの効いたクルマで大島港まで降り、港ネコに見つめられながら、さっきのパンを食した。

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金山展望所からのパノラマ
右から橋杭岩、串本市街地が載るトンボロ、潮岬台地、左手前に大島港
 

大島では東部にある海金剛にも行きたかったが、時間が押してきたため、やむなくカット。島を出て、内陸部へとクルマを進めた。国道371号で一山越えて、古座川(こざがわ)が流れる谷を遡る。トンネルを2本抜けると、天然記念物になっている古座川の一枚岩が見えてきた。道沿いの小さな道の駅にクルマを停めた。

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図4 古座川周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

対岸に、川面から直接立ち上がるように、一かたまりの巨大な岩壁が露出している。高さは約100m、下流側にも少し背は低いが岩塊が続いていて、全長は約500mあるという(下注)。写真ではあまりスケール感が湧かないが、実際に目にすると、縦横とも圧倒的な迫力だ。河原にいる人たちが豆粒のように見える。

*注 国指定文化財等データベースで「高さ約150m、幅約300m」とあるが、少なくとも露出部は、地理院地図の標高データで高さが100~110m、図上測定で幅500m程度。

岩質は、流紋岩質の凝灰岩だそうだ。火山灰が凝固したものだから、一般的に硬質の岩石ではないが、均質でよく固結していた部分が、風化や浸食に耐えたのだろうか。それでも表面には大小のくぼみがあり、植物の進出を許している。

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古座川の一枚岩の下流側
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同 上流側、河原にいる人が豆粒に見える
 

少し上流にある天柱岩(てんちゅうがん)も見に行った。川の右岸の斜面上部で、ドーム状の巨岩が露出している。谷底からの高さが220mほどもあり、けっこうモニュメンタルな景観だ。

ここでUターンして、今度は古座川沿いの県道38号すさみ古座線を下る。流路が沿っているのは、古座川弧状岩脈と呼ばれる地層で、約1400万年前の巨大噴火により生じた熊野カルデラの痕跡の一つだ。花崗岩など比較的柔らかい岩石で構成されているため、浸食されやすく、川筋や低地になっている。下流に点在する髑髏岩(どくろいわ)、牡丹岩(ぼたんいわ)、虫喰岩(むしくいいわ)といったややグロテスクな奇岩も、こうした岩質の風化によるものだ。

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そそり立つ天柱岩
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(左)髑髏岩
(右)牡丹岩
 

古座川河口で国道42号に出た。最後は橋杭岩を訪れるつもりだが、その前に、大出さんが見つけた紀伊姫(きいひめ)駅近くの山上にある無名の展望所に立ち寄る。麓にクルマを停めて、徒歩で線路際から続く山道を歩いていった。最近整備の手が入れられたようで、手作りの案内板がまだ新しい。

細木で土留めした簡易な階段道を上った先に、少し平らに均した場所があった。振り返ると、橋杭岩が縦に並んで見えた。遠景は潮岬台地に紀伊大島、仲を取り持つ白いアーチのくしもと大橋と、役者がしっかり揃っている。さらに紀勢本線の線路が手前に回り込んでくるので、列車の姿が入れば鉄道写真にも使えそうだった。

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無名の展望所からの眺望
正面左が橋杭岩、後方にくしもと大橋
 

クルマに戻り、改めて橋杭岩へ向かう。名所の前に設けられた道の駅の駐車場は、満車に近かった。国道沿いで人目を引く景色だから、誰しもちょっと寄っていこうと考えるのだろう。

橋杭すなわち橋脚に見立てられた流紋岩の巨岩の列は、およそ南北方向に長さ約900mにわたって延びている。これも火山活動の痕跡だ。泥岩の地層の割れ目に入り込んだマグマが固結し、地上での差別侵蝕により火成岩だけが残った。いうなれば、溶けた鉄を鋳型に流し込み、後で鋳型を壊して鉄器を取り出したようなものだ。

西側は波蝕棚で、大波で砕かれ運ばれた岩がごろごろと転がっている。その間を縫って岩塔の列まで行ってみた。遠目とは違って目近にすると、背も高く相当の厚みがある。列の反対側は白波が絶えず打ち付けていて、午前中、灯台のバルコニーから眺めたような外海そのものだった。

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橋杭岩
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(左)高さと厚みのある岩塔列
(右)東側は外海
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図田辺(昭和58年編集)および地理院地図(2024年10月16日取得)を使用したものである。

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2024年10月17日 (木)

コンターサークル地図の旅-有田川あらぎ島

9月に入っても猛暑が収まる気配がない。今日もよく晴れて、当地の気温は33度まで上がった。2024年コンターサークル-S 秋の旅の前半は、紀伊半島が舞台だ。1日目の9月7日は、有田川(ありだがわ)中流の知る人ぞ知る名所「あらぎ島(蘭島)」を見に行く。

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あらぎ島全景
 

有田川は和歌山県北部、真言密教の霊場である高野山(こうやさん)を源流域として西へ流れ下り、紀伊水道に注ぐ川だ。中流部では激しい穿入蛇行(せんにゅうだこう)を繰り返している。

そうした蛇行地形の内側に生じた緩やかな斜面、いわゆる滑走斜面が段丘状になったところを水田化したのが、あらぎ島だ。これを対岸の崖の上から眺めると、みごとな袋状の棚田に見える。昨年訪れた埼玉の巾着田と同じような景観だが、あらぎ島ははるかにコンパクトで、広角でなくてもカメラのレンズに収まってくれる。

*注 埼玉の巾着田については「コンターサークル地図の旅-高麗巾着田」参照。

田んぼは刻々と装いを変えていく。刈田に白い霜が降りる冬、一面に水が張られる初夏、稲が育ち緑に埋まる盛夏と、どの季節も趣きがあるが、やはり黄金色に染まる今時分が最も見栄えがするように思う。まだ歩き旅に適した時期ではないが、今日を決行日にしたのは、9月中旬には稲刈りが終わってしまうと聞いたからだ。

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季節ごとに装いを変える
(現地案内板を撮影)
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図1 有田川周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年編集

あらぎ島へは、JR紀勢本線の藤並(ふじなみ)駅から清水(しみず)行きの路線バスで向かう。しかし、休日は本数が少ないこともあって、遠方から来ると朝の便に間に合わない。それで、藤並駅での集合時刻は13時の設定だ。

ここは以前、有田川鉄道公園に行くために来たことがある。鉄道公園は、有田鉄道の終点だった金屋口(かなやぐち)駅の構内に設けられた鉄道博物館で、2002年に廃止されたローカル私鉄の記憶を保存している。清水行きバスは、バス専業になった有田鉄道の運行なので、旧 駅前も経由地の一つだ。久しぶりに鉄道公園を訪ねてみたいが、降りてしまうと次のバスがないのが辛い。

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(左)JR藤並駅
(右)駅前から路線バスに乗り込む
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(左)旧 金屋口駅舎
(右)有田川鉄道公園
  旧 金屋口駅ホームと保存車両キハ58 003(2018年撮影)
 

藤並駅東口のバス停で大出さんと会い、13時06分発のマイクロバスに乗り込んだ。乗客は私たちを含めて5人。金屋口までは開けた土地だが、曲弦ワーレントラスの金屋大橋で有田川を渡ると、いよいよ山中に入っていく。蛇行する谷に点在する集落を追いながら、国道480号で34km、延々1時間の長旅だ。

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(左)金屋大橋(復路で撮影)
(右)二川ダム湖
 

川を堰き止める二川(ふたがわ)ダムの湖面が途切れてまもなく、バスは国道から離れ、狭い旧道に入っていった。集落の中の三田(みた)という停留所で下車すると、はるばるマイカーでやってきた木下さん親子が待っていてくれた。

田舎道というのに、ぞろぞろ歩いてくる人たちとすれ違う。主要道からの遠さをものともせず、見物客がけっこう訪れているようだ。緩い上り坂になった旧道をもう少し先へ進むと、急に右側の足もとが開け、お目当ての地形が見えてきた。柵つきの側歩道が造られ、その端に猫の額ほどの広場も設けられている。

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あらぎ島展望所
柵つきの側歩道と小広場がある
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図2 あらぎ島周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

展望所からは南望する形になる。有田川が左手奥の谷から現れ、手前に大きく膨らんで、右手奥の山陰に消えていく。この流路に囲まれて正面に、同心円状の緑のあぜ道で縁取られたあらぎ島の棚田群が広がる。一部刈取りが済んだ区画があるものの、まだ大半が、強い日差しのもとで黄金色に輝き、収穫の日を待つ状態だ。

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収穫を待つあらぎ島の棚田群
 

私たちが立っているのは、川面から40m以上高い攻撃斜面の崖の上で、有田川が長い時間をかけて造り上げた円形劇場を一目で見渡せる位置にある。別の角度からも眺められないかと、地形図やグーグルマップで探してみたが、全体が視野に入るのはここが唯一のようだ。

帰りのバスの時刻までまだ1時間以上あるので、あらぎ島本体に行ってみることにした。旧道を上流に向かう。道はいったん下りになり、宮川谷川(みやがわたにがわ)を渡って小峠(ことうげ)集落に続いている。集落の端で国道へ右折して、小峠橋を渡った。この橋と次の蘭島橋の間に、南に入る1車線道があり、そこから農道が分岐している。

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国道の小峠橋にて
 

道端に、あらぎ島とそこに水を運んでいる上湯(うわゆ)用水路の案内板が立っていた。「有田川の支流 湯子川(下注)から取水する総延長約3.2kmの水路で、現在は約13.5haの水田を用水しています。笠松佐太夫が開削した用水路の一つであり、史料から明暦元年(1655)という開発年代が特定できる」とある。水路が尾根を横切る地点で、グレーチングで覆った分水路が延びていた。

*注 ただし、地形図には湯川川(ゆかわがわ)とある。

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上湯用水路と蘭(あらぎ)島の案内板
 

農道わきに人家が1軒あるのは現地で初めて知った。河畔林の陰で、展望所からは見えないからだ。農作業に使う用具類も、眺望の邪魔にならないよう木陰に置かれていた。農道はあらぎ島の縁を巡っている。この位置から見れば、観光名所もよく実ったふつうの稲田だ。一枚当たりの面積は小さいが、特異な景観を守るために、耕作を絶やさぬ努力が続けられているのだろう。

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(左)あらぎ島の縁を巡る農道
(右)近くで見ればふつうの稲田
 

国道の蘭島橋からは、有田川の流れとともに、さっきいた展望所と周りの辻堂(つじどう)、中谷の集落が望める。地形図を見ていて気づいたが、旧道が通っているのはいわゆる風隙(ふうげき)だ。おそらく、もとは宮川谷川が流れていたのだが、有田川による側面浸食の結果、川が短絡してしまい、辻堂から西の流路が空谷となって取り残されたと推測される。すなわち、展望所が置かれた場所は、河川争奪地形における争奪の肘(ひじ)の一部ということだ。

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蘭島橋から展望所と周りの集落を望む
 

蘭島橋は、延長544mの三田トンネルに直結している。車道トンネルを歩くのはできれば避けたいが、ここは十分な幅の側歩道があり、時折やってくるクルマの走行音を別とすれば不快ではなかった。それに、じりじり焼かれるような日なたに比べ、トンネルの中は涼しくてほっとする。

トンネルを抜けてすぐ右側にある道の駅「あらぎの里」で、しばし休憩。木下さん親子と別れ、三田発電所前のバス停から15時46分発の、往路と同じマイクロバスに乗った。

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(左)道の駅「あらぎの里」
(右)三田発電所前停留所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年要部修正)および地理院地図(2024年10月16日取得)を使用したものである。

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2024年6月 2日 (日)

コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

2024年5月12日、春のコンター旅の最終日は、朝から高速バスに乗り、山形から鶴岡に移動した。参加者は大出、山本、私の3名。バスが通る山形自動車道は、月山(がっさん)南麓の五十里越街道をなぞる山越えルートだ。峠をはさむ区間では高速道路が未開通のため、国道112号いわゆる月山道路を走るが、こちらも画期的に改良されていて長いトンネルと高い橋梁が連続する。

9時すぎに鶴岡のバスターミナル、エスモールに到着。レンタカーを扱っているスタンドまで出向いて、トヨタアクアを借りた。きょうはこのクルマで、鳥海山麓の名勝象潟(きさかた)と、山岳展望台や水にまつわる名所を巡る予定だ。

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庄内平野、遊佐鳥海IC付近から望む鳥海山
東鳥海(右)、西鳥海(左)の二つのピークをもつ
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図1 鳥海山周辺の1:200,000地勢図
1992(平成4)年修正

いつものように大出さんの運転で、酒田ICから日本海東北自動車道(日東道)を北上する。暫定二車線に見合う程度の通行量なので、一定速度で気分よく走れる。遊佐(ゆざ)からは国道7号で山形・秋田の県境を越えて、象潟までおよそ60km、1時間ほどで到達できた。

国道沿いにある道の駅象潟にクルマを停めて、真っ先に6階の展望室へ上がる。ここは、東に鳥海山と象潟「九十九島、八十八潟」(下注)、西には日本海の水平線と、360度の眺望でつとに知られるスポットだ。しかし、残念なことにガラスがけっこう埃で汚れていて、視界良好とは言いがたい。

*注 象潟の景観を称賛する古来の言い回し。なお、小島の実数は103あまりとされる。

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道の駅象潟の展望室から東望
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
象潟
 

象潟を含むこの一帯の地形は、紀元前466年の冬(下注)に起きた鳥海山の噴火による山体崩壊で生じたものだ。北流している白雪川に沿って大量の岩屑なだれが日本海まで流れ込み、にかほ市中心部の平沢から金浦(このうら)にかけて海岸線を大きく後退(=陸地を前進)させた。

*注 この正確な年代は、岩なだれで地中に保存された埋れ木の年輪年代測定により求められたもの。

その一部は西側の海岸にも広がり、今の象潟周辺におびただしい土砂の小山、いわゆる流れ山を積もらせた。後に砂州が発達してこの水域を取り囲んだので、流れ山は風波による浸食から護られるとともに、潟湖(せきこ)に浮かぶ小島となった。

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象潟の水面に映る鳥海山
 

展望室の壁面に、象潟郷土資料館が所蔵する江戸期の屏風絵「象潟図」の写真が掲げてある。松尾芭蕉が「おくのほそ道」の長旅で訪れた1689(元禄2)年には、このようにまだ水で満たされていて、「東の松島、西の象潟」(下注)と並び称される、みちのく指折りの景勝地だったのだ。

*注 両者、多島海の景観は似ているが、地形の成因は異なる。松島は火山性のものではなく、地盤の隆起・沈降と海水の浸食により形成されたとされる。

しかしこうした浅い湖は、河川からの土砂の流入や、繁茂する植物に由来する有機物の堆積で、しだいに陸化していく宿命だ。象潟もすでにその過程にあったが、1804 (文化元)年に発生した巨大地震で地盤が2mあまりも隆起したことで、一気に干上がってしまった。

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「象潟図」の一部
道の駅象潟のパネルを撮影、原本は象潟郷土資料館蔵
 

現在、もとの湖面はほぼ水田化されている。今は田植えの季節だが、作り手が不足しているのか、葦が生え放題の休耕田も少なくない。芭蕉の頃と変わらないのは、後ろにそびえる鳥海山ぐらいではないだろうか。しかも展望台からの眺めでは、手前を国道が横切り、住宅やロードサイド店舗も並んでいる(下注)。よほど想像を膨らませない限り、古人が書に遺した感動を追体験することは難しい。

*注 上掲写真のとおり、ドラッグストアの看板は景観への配慮で、赤ではなく地味な茶色になっている。

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一面の葦に覆われる象潟の休耕田
 

道の駅のレストランで早めの昼食を取った後、徒歩で蚶満寺(かんまんじ)を訪ねた。芭蕉も参拝したことで知られる象潟の古刹だ。羽越本線の踏切を渡り、松林の小道を進んでいくと、古びた山門が迎えてくれた。阿吽の仁王像に会釈をして、続きの石畳を行く。拝観受付の横に座っていた方が言うに、「今は来る人が少ないので、受付は閉めてるんです。庭に行かれるなら、寺で拝観料を納めてください」。

せっかく来たのでお庭を拝見する。ツツジやハナモモが花をつける傍らに、宝暦13年(1763年)の銘があるという芭蕉の句碑が立つ。「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」、おくのほそ道に記された有名な句だ。裏手には舟をつないだという石柱も残っていた。寺の建つ場所ももとは流れ山の一つで、庭を一歩出ると水辺が広がっていたのだ。

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(左)羽越本線の踏切を渡って蚶満寺へ
(右)山門前の蓮池
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蚶満寺
(左)山門(右)本堂
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(左)宝暦13年の芭蕉句碑
(右)境内のツツジが満開
 

寺を辞して、山門前の蓮池のほとりを巡る。旅装束の芭蕉像のそばにも、同じ句を刻んだ碑が立っている。例えに借り出された中国春秋時代の伝説の美女、西施の像がそれと向かい合う。

それから、景観保全されている区域の西縁に沿って、遊歩道を北へ歩いた。九十九島にはそれぞれ太い幹、見事な枝ぶりの松が育っていて、土台を何倍もの大きさに見せている。ところどころ水が張られた田んぼには、鳥海山や松林が逆さに映り、潟湖が一面に広がっていた昔はさぞかしと思わせた。

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(左)蓮池近くの芭蕉像と句碑
(右)水田越しに山門が見える
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流れ山の一つ、駒留島
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鳥海山の頂きに雲がまとわる
 

クルマに戻って、今度は内陸に向かう。きょうは西から低気圧が近づいていて、時間が遅くなるほど雲が増えてくると予想した。実際、鳥海山の頂きに雲がまとわりつき始めたので、先に山岳展望台へ回ることにした。

国道から左に折れて、鳥海グリーンラインを進む。北麓を東西に横断するこの道路は、白雪川を渡ると、ヘアピンカーブで仁賀保高原と呼ばれる台地へ上っていく。仁賀保高原は、西側を南北に走る衝上断層群によって生じた、南北約13km、東西約2kmの細長い高まりだ。鳥海山に向き合うとともに、北麓を広く見渡すことのできる天然の展望地になっている。

坂の途中で、早くもパノラマライン展望台という、クルマが数台停まれる小さなパーキングが用意されていた。高度はすでに320mほどあり、日本海の見晴らしが良好だが、目的地はまだ先だ。

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(左)パノラマライン展望台
(右)日本海に浮かぶのは飛島
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図3 1:25,000地形図に訪れた場所(赤)等を加筆
仁賀保高原
 

サミットまで上り詰めたところで、尾根道に入った。巨大な発電用風車が建ち並ぶ足もとをしばらく南へ走ると、突き当りに仁賀保高原南展望台(標高約450m)がある。クルマを降りて、4年前(2020年)に造られたばかりの新しい展望デッキに立った。

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仁賀保高原南展望台
 

左手に、残雪を戴く鳥海山が圧倒的な存在感で鎮座している。標高は2236m、東北地方第2の高山だ(下注)。出羽富士の別称のとおり、円錐形に成長していく成層火山に分類されるが、こちらから見える北西側斜面は、先述した2500年前の山体崩壊により大きくえぐれている。いわゆる馬蹄形カルデラだ。

*注 第1位は尾瀬のシンボル、燧ヶ岳(2356m)。ちなみに山形・秋田県境は鳥海山で北側に膨らんでいて、山頂周辺は、山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)に属している。

山体から右手前に向かって一段へこんで見える広い函状の谷が、岩屑なだれが駆け降りた跡を示している。今は全体が森林に覆われているが、そのスケールを一瞥するだけで、どれほどすさまじい崩壊が起きたのかがわかる。岩屑なだれはその勢いで東側、すなわち現在の冬師(とうし)湿原のほうにも流れ山を飛び散らせた。この展望台は、その暴風波に直面した船の舳先(へさき)のような場所に位置しているのだ(下の説明板写真参照)。

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鳥海北麓に広がる函状谷は岩屑なだれの跡
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展望台の説明板
図の中央やや下が展望台の位置
 

さて、もう1か所行ってみたかったのが、北へ5kmの丘の上にある「ひばり荘」だ。標高は約530mで、仁賀保高原ではおそらく最も高い場所になる。

ここは公営の休憩施設らしいのだが、2階の展望室に上るまでもなく、駐車場のへりから遮るもののないパノラマが得られた。周辺には大小の溜池が点在していて、その一つ、長谷地(ながやち)溜池の水面がアングルに収まる。南展望台で見たような壮大な山岳風景とはまた趣きが異なり、絵葉書のようなコンパクトな構図にもできるのがおもしろい。ひばり荘はバイクのツーリングの休憩地になっているようで、私たちが滞在する間にも何台か上がってきた。

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ひばり荘展望台からの眺め
手前の水面は長谷地溜池
 

鳥海の女神はいたずら好きなのか、後になるほど雲が増えてくるという私の予想ははずれた。高原を降りる頃になって、山頂に掛かっていた雲が取れてきたのだ。

次は、山麓の水にまつわる名所をいくつか巡りたい。一つは、上郷(かみごう)温水路群と呼ばれる独特の水路施設だ。鳥海山の斜面を流れ下る雪解け水は流速が早く、水温が低いままで、稲の生育には適していない。そこで、階段状の幅広い水路に通すことで、水温を上げる仕組み(下注)が考案された。1927(昭和2)年以降、計5本、長さ6.28kmが造られ、多くは今も使われている。

*注 流速が下がるので陽光に接する時間が長くなり、段差(落差工)を落ちる際に水に空気が溶け込むことも水温上昇につながるという。

このうち、土木学会選奨土木遺産やジオパークの標識がある小滝温水路の一角に行ってみた。緩く傾斜した田園地帯を貫いて、無数の段差のある水路が山手から降りてきている。水量はたっぷりで、段差を落ちる水の躍るようなきらめきが、初夏の到来を感じさせた。

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上郷温水路群の一つ、小滝温水路
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緩傾斜の田園地帯を流れ下る水路
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小滝周辺
 

続いては、奈曽の白滝(なそのしらたき、下注)へ。鳥海山から流れ下ってきた奈曽川(なそがわ)が溶岩台地を抜け出す場所に掛かる落差26m、幅11mの大滝だ。修験道に関わるという金峰(きんぽう)神社の境内から階段だらけの遊歩道が延びていて、観瀑台と呼ばれる展望デッキや滝壺近くの川べりまで行くことができる。

*注 地形図の注記は「奈曽の白瀑谷」だが、白瀑谷の読みは、現地の案内板でも「はくばくこく」「しらたきだに」の二通りがあった。

雪解けの季節とあってこちらも水量が多く、迫力のこもった水音がほの暗い谷間にこだましていた。遊歩道を先へ進むと、ねがい橋という吊り橋で谷を跨いで、対岸に渡る周遊ルートになっている。しかし、木々の青葉に隠されて、橋上からは滝がほとんど見えなかった。

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金峰神社
(左)参道(右)本殿
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奈曽の白滝
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(左)ねがい橋
(右)橋上からの奈曽川渓谷、滝はほとんど見えない
 

最後に訪れたのは、元滝(もとたき)伏流水という湧水地だ。奈曽の白滝から南へ1.5km、駐車場にクルマを置いて、さらに水路に沿う山道を上流へ10分ほど歩いた山中にある。ここでは、溶岩層の下を浸透してきた地下水が、幅約30mにわたって谷壁(末端崖)から滔々と湧き出している。しぶきに濡れた岩はすっかり苔むしていて、木の間に漂う冷気が神秘感をいっそう高めていた。なお、地形図には、名称の由来である「元滝」という滝も描かれているが、現在は崖崩れのため、立ち入れないらしい。

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(左)水路に沿う遊歩道
(右)元滝川の渓流
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溶岩の下から湧き出る元滝伏流水

予定を終えて、もと来た道を鶴岡へ戻る。今回の企画はもともと象潟の景観が主目的だったのだが、それにとどまらず、名峰鳥海山がはぐくんできた大自然の奥深さを実感する一日になった。興味をそそる周辺のスポットは他にもあるが、またの機会に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図酒田、新庄(いずれも平成4年編集)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

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左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-S 春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

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桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

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羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
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(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

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(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
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バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
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図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

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(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
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観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

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(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

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(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
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(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

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(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

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(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

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修復中のモハ103
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屋根の復元が進行中
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月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
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在りし日の三山線写真
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(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

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(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
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石田駅跡に残る桜の大木、西望
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
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図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

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石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
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(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

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羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

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(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

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白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
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図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

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寒河江川にかかるみやま橋
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(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

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三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

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三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

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楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
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図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

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展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
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楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
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同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

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旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
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夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-S 春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

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第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

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朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

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明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
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図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

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西条駅
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(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

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鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

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道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

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大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
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(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

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(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
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旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

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旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

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(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
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新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

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(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

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廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
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図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

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(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

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潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
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(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

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漆久保トンネル東口
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小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

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(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

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けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

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谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
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(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

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三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
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(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
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道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すれば、駅舎の前に出られる。

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(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
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明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

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2024年5月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-三方五湖

「五万分一地図の『西津』は、私の地図のコレクションに、最も早く加わったものの一つである」。この一文から『地図を歩く』(河出書房新社、1974年)の「冬の三方五湖」の章が始まる。西津(にしづ)の図のちょうど中央に描かれているのが福井県南部にある三方五湖(みかたごこ)で、堀さんはその特異な風貌に惹かれたのだという。

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梅丈岳山頂から東を望む
手前から奥へ日向湖、久々子湖、美浜湾
 

「久々子(くぐし)、水月、菅、三方、日向(ひるが)の五つの水面が、あるいは狭い水路によって連なり、あるいは細く痩せた地峡によってわずかに隔てられて作る複雑な湖岸線は、岬と湾が錯綜する若狭の海岸にあってなお、ひときわ目立つ存在である。湖をめぐる村々の、久々子、日向、苧(お)、遊子、塩坂越(しゃくし)などという何とはなくゆかしげな名もまた、あらがい難く人の心を誘うのだった」。(同書p.160、下注)

*注 堀淳一氏の『地図を歩く』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.157、2012年新装新版ではp.156にある。また、『地図の風景 中部編III 富山・石川・福井』(そしえて、1981年、p.191)でも取り上げられている。

敦賀を拠点にした2024年のコンター旅2日目、3月24日は、堀さん曾遊の地であるこの三方五湖を訪ねる。初めに五湖の展望台がある梅丈岳(ばいじょうだけ)に上って「複雑な湖岸線」を高みから観察し、下山後は湖岸を歩きながら、湖ごとの風情の違いを感じてみたい。

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山頂公園に上るケーブルカーとチェアリフト
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図1 三方五湖周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

雨の柳ヶ瀬だった昨日ほどではないにしろ、けさも時おり小雨が舞う空模様だ。敦賀駅前のバス乗り場に集合したのは、昨日と同じく大出、山本、私。後で美浜駅から木下親子が合流して、計5名になった。

8時40分発のゴコイチバス(下注)に乗り込む。これは、敦賀まで来た観光客を、三方五湖や熊川宿(くまがわじゅく)といった周辺の見どころへ送り込むための特設バス路線だ。旅行シーズンの週末に走っていて、今年は新幹線の延伸開業に合わせ、春まだ浅い3月16日から運行を開始している。敦賀からの直行便であり、定期バス路線がない梅丈岳の山頂を経由してくれるので、利用価値は高い。

*注 ゴコイチは五湖一周の意。琵琶湖を一周することをビワイチというので、それにあやかったものか。

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山頂公園駐車場のゴコイチバス
 

とはいっても、天気が天気なので、乗客は私たちを含めて数名のみ。バスは、市街地を抜けて国道27号バイパスを西へ進む。JR小浜線の美浜駅に立ち寄った後、久々子湖北岸を通過して、三方五湖の展望道路であるレインボーラインに入った。もとは有料道路だが、2022年から県道273号になり無料化されている。ただし、自転車や歩行者は通行できない。

道は日向湖と水月湖を隔てる尾根筋に取りつき、ぐんぐん高度を上げていく。しかし、予想どおり中腹あたりから霧が濃さを増し、山頂公園下の駐車場に着いたときには下界はもうほとんど見えなかった。梅丈岳は山頂一帯が有料区域になっていて、入場料1000円が必要だ。視界ゼロでも料金は変わらないが、木下さんが宿でもらってきてくれた割引券で800円になったのが、せめてもの慰め…。

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白くかすむ下界
山頂公園のチェアリフトから
 

駐車場から展望台のあるピークへは、ケーブルカーとチェアリフトが連れていってくれる(下注)。並走していてどちらに乗ろうと自由なので、往路はケーブルカーにした。長さ約140m、所要2分強、途中から傾斜が急になる。

*注 かつては山頂の反対側(西側)にチェアリフトがあった。設備は今も残っているが、もはや使われていない。

山頂は東西200m、南北50mほどの広さがあり、主な展望テラスが5か所設置されている。しかし今日は、手すりに掲げてある見本写真で想像するしかない。救いだったのは風が弱くて寒くないことと、客が少ないので展望足湯も混んでいなかったことだ。

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濃霧に巻かれる展望テラス
 

五里霧中の写真では参考にもならないので、別の晴れた日に撮影したものを掲げておこう。

梅丈岳は、若狭湾に突き出した常神(つねがみ)半島の根元にあるピークの名だ。山頂の標高は400.2m(下注)で、周辺5kmの範囲では最も高い。そのおかげで360度のパノラマが楽しめるが、どの方向とも水面を配した構図になるのが特色だ。

*注 山頂に三角点がないので、数値は、中江訓・小松原琢・内藤一樹「西津地域の地質」産業技術総合研究所 地質調査総合センター, 2002 p.3 に拠った。

まず北と西には、若狭湾(日本海)の海原がすっきりと広がる。東は五湖のうち日向湖(ひるがこ)と、わずかだが久々子湖(くぐしこ)が顔を覗かせ、南は三方湖(みかたこ)、菅湖(すがこ)、水月湖(すいげつこ)が一望になる。各展望テラスは、それらが最もよく見える場所に設けられている。

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晴れた日の山頂からの展望、西側
世久見(せくみ)湾に烏辺島(うべじま)が浮かぶ
中央奥は久須夜ヶ岳(くすやがだけ)
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同 北側
左は常神(つねかみ)半島の一部、正面は日本海の水平線
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同 東側
手前に日向湖と日向集落、
中景が久々子湖(逆三角形の水面が小さく覗く)と早瀬集落、
奥は美浜湾と久々子浜
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同 南側
手前に水月湖、左の入江が菅湖、中景に三方湖
 

さて、当日の話に戻ると、私たちは霧の中で1時間ほど滞在した後、チェアリフトに乗って駐車場まで戻った。次のゴコイチバスは11時05分に発車し、カーブを繰り返しながら、下界へ降りていく。山本さんはそのまま三方駅へ向かい、あとの4人は、海山(うみやま)という集落にある若狭町レイククルーズ(遊覧船)停留所で下車した。海山は、水月湖の西岸にある集落で、五湖の最奥部に位置する。後ろの尾根筋を越えればもう若狭湾という場所だ。

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海山のレイククルーズ停留所前
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低い空、モノトーンの水月湖
 

堀さんが五湖の旅の最後に訪れたのがここだった。三方駅から路線バスで着いて、梅丈岳の登山道を途中まで登っている。私たちは山から下りてきたので、逆に湖畔を歩いて小浜線の駅に戻ろうと思う。

県道から右に入る舗装道を歩き出した。民家が並ぶ中を行くが、それも水月花という温泉旅館の前までだ。北岸一帯は、梅丈岳の急斜面が湖面まで落ち込んでいて、集落がない。通じている道も農道というのがふさわしく、湖岸で栽培されている梅林の世話に行く農家の軽トラックがたまに通るくらいだ。

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湖畔の沿道に梅林が続く
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
梅丈岳と海山~苧間
 

空はまだどんよりとして、雲が低く垂れこめたままだ。光が弱く景色はモノトーンに近いのだが、たゆたう水面に映りこむ濃灰の山並みも悪くない。最初の岬の突端まで行くと、小さな展望デッキが現れた。タイミングよく湖にカヤックが何艘かやってきたので、デッキの上から挨拶を交わす。

水月湖は五湖で最大の湖だ。東の菅湖、南の三方湖とは狭い水道でつながっている(下注)。深度は34m、直接流入する河川がほとんどなく、湖底が無酸素状態で生物による撹拌もないため、夏と冬で色の異なる堆積物が年輪のようにきれいな縞模様、いわゆる年縞(ねんこう)を形成していることで知られる。

*注 ちなみに菅湖と三方湖は長尾と呼ばれる細尾根の半島で隔てられているが、堀切という人工水路でつながっている。

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湖面を行くカヤックの集団、この後何艘か続いた
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湖底のボーリングで採取された年縞(一部)
福井県年縞博物館の展示を撮影
 

道は、ひたひたと波が寄せる護岸に沿ったり、暗い植林地の中を縫ったりしながら、最も奥まった入江を通過した。次の小さな岬を回りこむと、何やら人工物が見えてきた。山向こうにある日向湖との間が最も狭まる地点に、嵯峨隧道(さがずいどう)という水路トンネルがあるのだ。

トンネルは江戸時代中期に初めて貫通したが、崩落して掘り直されるなど、たびたび改修を受けてきた。手前にある1980年完成の水門は、高潮時に海水が逆流するのを防ぐためのものだが、通常は閉鎖されていて、水は行き来しない。水路を渡る橋から姿勢を低くして覗くと、トンネルは出口の明かりが見えるほど短かった。

襲ってきた小雨をしのぎがてら、水門横のあずまやで昼食休憩にする。

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嵯峨隧道の水門
 

再び歩き出すと、やがて道は急な上り坂になり、高い位置で次の水路を渡った。下を流れているのは、久々子湖と菅湖を連絡している浦見川(うらみがわ)だ。江戸時代前期、1664年に完成した人工河川で、図上計測によれば、長さ約630m(下注)。

*注 全長324mとしているサイトもあるが、これは古文書の記述に依拠したもの(180間の換算値?)と思われる。現状は、護岸固定により南北に延長されている。

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浦見川
(左)高い位置で川を渡る歩道橋
(右)橋上から見える素掘りの岩壁
 

かつて久々子湖と菅湖は、三方断層西側の低地を経由する水路でつながっていた(気山古川などと呼ばれる。上の地図にルートを補記)。しかし、土砂の堆積で流れにくくなり、ひとたび大雨が降ると、上流3湖の水位が上昇して、湖畔の集落や田畑に浸水被害が生じていた。

この状況を決定的にしたのが、1662年に発生した寛文大地震だ。地盤の隆起で、水路が完全に干上がってしまったため、新たな排水路の開削が計画された。これが浦見川で、それまで恨坂(うらみざか)と呼ばれていた地形の鞍部を、人力で水位まで切り下げる土木工事だった。延べ22万5千人を動員し、2年がかりの大事業だったとされ、素掘りされた垂直の岩壁は、水路橋の上からもかいま見ることができる。

橋を渡って左へ。浦見川に沿う細道は、思いのほか急勾配で上下している。これがもとの地形をなぞっているとすれば、開削しようというのはあまりに大胆な企てだ。高さ20mほどの崖下を川が通っているが、ガードレールがないので、のぞき込む勇気はない。

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(左)川沿いの浦見坂
(右)遡行するボート、浦見橋にて
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浦見川の久々子湖への出口
 

この地峡を抜けると、珍しい一音地名の苧(お)集落に出る。右へ折れれば1.6kmほどで小浜線の気山駅だが、私たちは左に折れて、日向湖へ向かった。日向湖は、他の4湖とは違って独立した水域(下注)だ。おおむね楕円形で、周囲を山に囲まれているし、深度も39mと五湖最深なので、地形的にはカルデラ湖に似た雰囲気がある。

*注 人工の嵯峨隧道で水月湖と接続されているが、先述のとおり、水門は通常閉鎖されている。

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家並みで埋まる日向湖北岸
正面奥の山が切れたところに運河がある
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図3 同 苧~美浜駅間
 

ところが、湖畔の風景はまた別で、生活感が色濃く漂っている。北半分が漁師町で、漁船を陸揚げする岸壁が長く延び、その後ろに民家がびっしりと建ち並んでいるのだ。湖は、1635年開削の日向運河と呼ばれる水路で海とつながっている。漁船はここから海へ出ていき、収獲物を海側の漁港におろした後、また湖に帰ってくる。運河をまたぐ日向橋の上に立つと、船を格納する湖岸と、漁港のある海岸の位置関係がよくわかる。

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(左)船を揚げる岸壁
(右)運河と日向橋
 

ここからは笹田集落の鞍部を細い旧道で抜けて、東隣の久々子湖畔に出た。南北2.5km、東西500~700mの細長い形をした久々子湖は、砂州によって海と隔てられてできた潟湖だ。水深は最大2.3mとごく浅いため、日向湖に比べると湖面が明るく見える。また、小雨が降ってきたので、湖巡りの遊覧船が出ている美浜町レイクセンターの待合室で、雨宿りした。

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久々子湖と砂州に載る早瀬の家並み
レイクセンターから東望
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久々子湖南望、正面は矢筈山と雲谷山
 

一休みした後は、美浜駅まで最後の区間を歩く。湖と海をつないでいるのは早瀬川という、砂州を貫く長さ200mほどの水路だ。日向湖を除く4湖の水がここから海に流れ出ている。水路をまたぐ早瀬橋の橋桁には、出入りする船舶のための信号機が設置されていた。橋の東のたもとに、神社が鎮座しているのも興味深い。

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(左)船舶用信号機のある早瀬橋
(右)早瀬橋のたもとの水無月神社
 

飯切山の切通しから、久々子の集落に入った。湖の名はここに由来しているが、集落の主要部は湖畔ではなく、若狭湾に面した砂州の上にある。少し遠回りして、久々子浜の堤防の上に出てみた。オフシーズンで人影はなく、砂浜に打ち寄せられた色とりどりのごみばかりが目につく。海の向こうからも流れ着くので防ぎようがないのだろうが、海水浴のシーズンに向けて清掃作業の大変さは想像に余りある。

久々子の家並みを抜ければ、ゴールの美浜駅まであと1.5kmだ。敦賀行きの電車に間に合うよう、急ぎ足で向かった。

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(左)ごみが漂着する久々子浜
(右)美浜駅に対向列車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宮津、岐阜(いずれも昭和58年編集)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-S 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や徒歩では通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

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周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げとなった。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

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柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、まず旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられている。階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だ。しかし、こちらもカーテンが引かれ、ひと気がなかった。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

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(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

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(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

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中ノ郷駅のホーム跡
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本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
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(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
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図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

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柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
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旧道沿いの本陣跡民家
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図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

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柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

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(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
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長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

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柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

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頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
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オリジナルのポータルが残る
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由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
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同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

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(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
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図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

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小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
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東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

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東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
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県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

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愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
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図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

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笙の川に残る橋台と橋脚の土台
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(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
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(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年(2023年)春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

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杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
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図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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