ニルギリ山岳鉄道 Nilgiri Mountain Railway
メットゥパラヤム(メートゥパラーヤム)Mettupalayam ~ウダガマンダラム(ウーティ)Udagamandalam (Ooty) 間 45.88km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配1/12(83.3‰)
1897~1908年開通
線内最長の第25橋梁を渡る (カラル~アダリー間) |
世界遺産「インドの山岳鉄道群」に含まれる3本の路線の中で、唯一ラックレールを使っているのがニルギリ山岳鉄道 Nilgiri Mountain Railway だ。山の麓から山上の町まで、高度差1900mを実にゆっくりと、しかし線路と機関車に仕掛けられた登坂装置のおかげで着実に上っていく。
こんな路線だから、ダージリンと同じように万年雪を仰ぐヒマラヤ山脈の周辺を走っているのだろうと想像してしまうが、さにあらず。意外にも、インド亜大陸では最も南に位置するタミル・ナードゥ州 Tamil Nadu の一角が舞台だ。どうしてこの場所に、ラック式鉄道が必要だったのだろうか。
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デカン高原の西縁を限る西ガーツ山脈 Western Ghats は、長さ1500kmの大山脈だ。紅茶の産地として名高いニルギリ山地 Nilgiri Mountains は、その南端近くに位置している。ニルギリとは、現地の言葉で青い山という意味だそうだ。山地に自生するユーカリの揮発成分による青い靄、あるいは12年に一度咲くクリンジの花が斜面を薄青色に染めるようすから名付けられたと言われる。ニルギリ紅茶の別称ブルーマウンテンは、地名を英訳したものだ。
山地の高度は2000m前後あり、最も高いところでは2600mを超える。イギリス人支配層は、ヒルステーション(高原避暑地)に適した場所として、早くからこの地に注目した。19世紀半ばまでにはクーヌール Coonoor、コタギリ Kotagiri、そしてウーティ Ooty(ウータカマンド Ootacamund)といった現在の中心地の礎が築かれ、後者はまた、マドラス管区 Madras Presidency の夏の首都とされたことで発展した。
蒸機からディーゼルにバトンが渡るクーヌール駅 駅名看板の表記は上から、 現地語であるタミル語、ヒンディー語、英語の順 |
山地は、カーヴィリ川 Kaveri (Cauvery) の大平野から屏風のように立ち上がり、卓状の高原になっている。山上からのみごとな眺望が「ヒルステーションの女王」と称賛される一方で、アプローチの険しさは麓との往来の拡大を阻んでいた。
鉄道の計画は1854年から存在したが、70年代になると、検討が本格化する。1876年には、スイスの技師ニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach から、ラック鉄道建設の提案があった。彼の考案したシステムは、すでに5年前にスイス中部のリギ山で採用され(下注)、実用性は証明済みだった。しかし、彼は建設の条件に土地の提供その他の優遇措置を要求したため、政府の受容れるところとはならなかった。これとは別に1877年、山の斜面に長さ2マイルのケーブルカーを敷設し、山上からクーヌールへは普通鉄道(粘着式)を接続させるという案も検討されたが、工費が同程度かかり、安全性にも疑念があった。
*注 リギ山のラック式鉄道については、本ブログ「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」で詳述。
ニルギリ山岳鉄道100周年記念の パンフレット表紙 |
リッゲンバッハは諦めなかった。1880年(1882年とする文献も)に現地入りした彼は、県高官の支援を得て再提案を行った。その結果、政府の保証がつく形で、路線建設のための「ニルギリ・リギ鉄道株式会社 Nilgiri Rigi Railway Co., Ltd.」の設立が晴れて承認されることになった。
だが、その後の鉄道建設の道のりも、決して平坦ではなかった。リッゲンバッハの会社は、資金集めの見通しが立てられずに解散した。経営者を代えて設立された新会社は、1891年に着工を果たしたものの、工事途中で資金不足に陥った。結局、メットゥパラヤム(メートゥパラーヤム)Mettupalayam~クーヌール(クヌール)Coonoor 間28kmの第一次区間を完成させたのは、植民地政府の支援を受けた第3の会社で、1897年のことだった。リッゲンバッハの撤退により、一時期、1:30勾配(33.3‰)の粘着式も検討されたが、最終的にはアプト式のラックレールが採用されている。
(左)アプト式ラックレール (右)それと噛み合うピニオン(歯車) ヒルグローヴ駅にて |
鉄道は1898年8月に公式開通を果たし、列車の運行は、一帯の路線に合わせてマドラス鉄道 Madras Railway に委ねられることになった。しかし、鉄道の不運はまだ続いた。開通式後まもなく見舞われた豪雨で、斜面に築いた線路が大きな被害を受け、実際の運行は翌年6月までずれ込んだ。所有会社はこうした不安定な線路を維持する費用に苦しみ続けて、経営不振に陥り、1903年、ついに政府は鉄道の買収に踏み切らざるをえなくなった。
政府の公共事業局によって、現在の終点であるウダガマンダラム Udagamandalam まで18kmが延長されたのは、その後1908年9~10月のことだ(下注)。運行は同年1月から南インド鉄道会社 South Indian Railway Co., Ltd.に移管され、同社は1951年に、国鉄の地域別組織の一つ、南部鉄道 Southern Railway に再編されて、現在に至る。ちなみに駅名に使われているウダガマンダラムは町の正式名称だが、実際の町の名はウータカマンド Ootacamund、さらに略してウーティ Ooty と呼ばれることが多い。
*注 1908年9月にファーンヒル Fernhill まで、10月にウダガマンダラムまで全通。
ウーティ駅前 (左)100周年の記念ゲート (右)駅前広場とそれに続く通り |
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では、全線45.88km(46.61kmとする文献も)のルートを地図で確かめよう。AMS(旧米国陸軍地図局)と旧ソ連が作成した1950年代編集の地形図、それにグーグル衛星画像と同 地形図をもとに描いた自家製の地図2面を参考にしていただきたい。
AMS 1:250,000に ニルギリ山岳鉄道のルートと駅、駅名等を加筆 図中の枠は下の詳細図の範囲 |
同範囲の旧ソ連1:200,000 |
路線は大きく、メットゥパラヤム~クーヌールの下部区間と、クーヌール~ウダガマンダラム(ウーティ)の上部区間に分けることができる。下部区間は先述のとおり、先行開通した部分で、ラックレールを使ってニルギリ山地の側壁をよじ登る。上部区間は、後年の延長区間で、起伏の多い高原を走っている。
下部区間(メットゥパラヤム~クーヌール)の概略図 |
起点メットゥパラヤム駅は標高326m、広軌線と接続するニルギリ山地の南の玄関口だ。メーターゲージ(1000mm軌間)線のホームは、駅舎を間に挟んで広軌線と並行している。線路は北に延びているが、その左側に小さな機関庫、右側には客車工場と留置側線が見える。ホームにはすでに7時10分発ウーティ行きの列車が停車中だ。客車は4両、貫通路のないスラムドアキャリッジで、1等車は4人掛け、2等車は5人掛けのロングシートが向かい合う。ウーティまで5時間近い長旅だが、山岳列車の人気は高く、どのボックスも満席だ。
急勾配線のセオリーどおり、回送されてきた蒸気機関車は最後尾に連結される。列車の前方確認は、各客車の前側のデッキに添乗している信号手の仕事だ。先頭車両にいる信号手が進路を確かめ、順に後方へ、緑と赤の手旗信号を伝えていく。といっても手旗はほとんど間髪を置かずに振られるから、機関士の反応が遅れることはないに等しい。
メットゥパラヤム駅 (左)広軌幹線のホーム (右)山岳鉄道ホームは駅舎の反対側にある |
(左)山岳鉄道の機関庫 (右)左奥は客車の整備工場 |
ホームを後にすると、車庫の間を抜け、町のはずれのバーヴァニ川 Bhavani River を鉄橋で渡って、赤土の畑の中をまっすぐ山の方に向かっていく。起点から8km進んだカラル Kallar(標高381m)で、さっそく10分ほど停車する。乗降は扱わないのだが、機関車に給水する間、乗客はみなホームに降りて、立ち話に耽ったり、記念写真を撮ったりとくつろいだ様子だ。一人、車掌長の女性だけが、座席表を繰りながら難しい顔をしている。
(左)メットゥパラヤム駅を出発 (右)バーヴァニ川を渡る |
カラル駅 (左)給水停車 (右)座席表をチェックする車掌長
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駅を出ると、いよいよラック区間に進入する。速度を落とし、ラック(歯竿)とピニオン(歯車)と慎重に噛み合わせてから、おもむろに機関車は出力を上げる。列車は、山裾を大きく巻きながらじわじわと上り始める。これからクーヌールまで、最急勾配1:12(83.3‰)、曲線半径100mの急カーブもあるという難路が延々20kmほども続く。列車の最高時速は15kmだそうだ。
うっそうとした森に覆われた山腹に、素掘りのトンネルと、沢を渡る鉄橋が次々に現れる。全線でトンネルが16か所、橋梁は250か所もある。中でもカラル川を渡る第25橋梁が最も長く、18.29m×3連、3.66m×12連のガーダー(橋桁)を連ねている。高度が上がるにつれて谷は深まり、対岸には一筋の滝がかかる断崖も見渡せる。
線内最長の第25橋梁 (冒頭写真の反対側から復路撮影) |
アダリー駅でも給水停車 |
素掘りのままの第7トンネル |
(左)谷を隔てた大絶壁に滝がかかる (右)きれいなオーバーハングも(復路撮影) |
坂の途中にも、アダリー Adderly、ヒルグローヴ Hillgrove、ラニーミード Runneymede と、途中駅が設けられている(下注)。列車は律儀に停まっていくが、その目的はカラルと同様、機関車への給水だ。唯一乗降を取り扱うのが、ラック区間のちょうど中間に当たるヒルグローヴで、他より長く20分ほど停車する。駅ではこの列車のために軽食の売店も開いていて、おこぼれを見逃すまいと、山猿の集団が周りを賑やかに走り回る。
*注 ラニーミード~クーヌール間にも、カテリロード Kateri Road という駅があったが1982年に廃止され、現在は給水停車もない。
ヒルグローヴはラック区間で唯一旅客を扱う駅だが、 周辺に民家はない |
軽食売店の周りで、おこぼれを狙う山猿が走り回る |
ヒルグローヴの標高はすでに1091m。進むうちにクーヌール坂 Coonoor Ghat(下注)と呼ばれる激しいつづら折りの道路が下方から追いついてきて、頭上を越していく。ラニーミードまで来れば、もはやクーヌールの山上住宅地が見上げる高みに姿を現す。谷川となったクーヌール川がそばに寄り添い、名産の茶畑が斜面を覆っている。やがて、列車は川を横断して向きを変え、車が行き交う道路とともに、クーヌールの町が載る台地へと、ラックの最終区間を這い上る。
*注 ガート Ghat は、聖なる水辺に降りる階段を意味するとともに、険しい山道にも使う。
ヒルグローヴ駅を後に山上へ向かう |
つづら折りのクーヌール坂が上ってくる |
ラニーミード駅 背後の山上の建物群はクーヌール郊外の住宅地 列車はその山裾を右手へ進む |
(左)クーヌール川が追いついてきた (右)斜面に広がる茶畑 |
(左)クーヌール駅に接近 (右)踏切を通過し、構内へ |
クーヌールは沿線でウーティに次ぐ町で、避暑地であるとともに紅茶生産の中心地だ。鉄道にとっても拠点駅であり、構内に機関車の整備工場を持っている。車とバイクと人がひしめく街路の踏切の手前でラックレールが終わると、まもなく列車の行く手にプラットホームが見えてくる。クーヌール駅の標高は1712mで、蒸機は3時間かけて、実に1300m以上の高度差を克服したことになる。
駅舎は、スカイブルーに塗られた石積みとレンガ色の屋根のコントラストが映える二層の建物だ。エントランスのアーチの上に、ニルギリ鉄道会社(NR)のモノグラムと竣工年を刻む小さなプレートが埋め込まれている。ホームは元来、駅舎側にしかなかったが、近年、反対側に増設されて2面2線になった。
到着早々、主役の蒸気機関車が列車から切り離され、留置線へ回送されていった。それと交替で、緑地にアイボリーの帯を巻いたディーゼル機関車が客車1両を連れて入線し、連結される。上部区間はこのYDM4形の出番だ。ラック区間は去ったが、終点との高度差はまだ500mもあり、引き続き厳しい坂道が連続する。ディーゼル機関車も、蒸機と同じように最後尾に連結される。
クーヌール駅 蒸機に代わってディーゼル機関車が増結客車を連れて登場 |
クーヌール駅舎正面 鉄道会社のモノグラムと竣工年を刻むプレート |
クーヌール駅構内 (左)正面は信号扱所、 その右がウーティ方面へ上る線路 (右)留置線。奥に機関車の整備工場がある |
反対側を見る 右端がメットゥパラヤム方面へ下る線路 中央はスイッチバック用側線 |
上部区間(クーヌール~ウダガマンダラム)の概略図 |
クーヌール駅配線図 |
クーヌール駅の構内配線は一種のスイッチバック式だ(右図参照)。列車はホームからいったん後退して、南側の側線に入った後、改めてウーティに向け前進を始める。上部区間の勾配も最大1:25(40‰)と普通鉄道としてはかなり険しく、最高速度は30kmに制限されている。
ウーティまでに5つの中間駅があるが、乗降客数は知れている。日常の往来には、ほとんどバスか自家用車を使うのだろう。ウェリントン Wellington はまだクーヌールの郊外で、斜面に立つ家並みが途切れない。アラヴァンカドゥ Aravankadu からケーティ Ketti にかけては、防風林のような背の高い林に囲まれて走る。ケーティを出た後は車窓左側に、緩く波打つ高原の明るくのびやかな風景が見晴らせる。
標高2193mのラヴデール Lovedale が地形的な鞍部になっていて、長く苦しい上り坂もこれでほぼ終了だ。次のファーンヒル Fernhill は通過し、沿線最後のトンネルを抜けると、リゾート客が憩うウーティ湖の岸辺をかすめて、列車は標高2203mのウーティ駅に滑り込む。
*注 駅の標高、路線長の数値は文献によって少しずつ異なる。標高はダージリン・ヒマラヤ鉄道協会から入手した路線図(出典は陸地測量部インド1インチ地図)のフィート値をメートルに換算、路線長は南部鉄道の資料(下記参考サイト)から引用した。
上部区間を行く (左)ウェリントン駅を出た先のオメガカーブ (右)珍しく途中駅で乗降客があった |
ケーティ駅の前後は線路の周囲に林が残る |
見晴らしのいいケーティ~ラヴデール間 |
(左)ラヴデールは愛の谷? (右)小さな鞍部を越えていく |
(左)ボートが浮かぶウーティ湖をかすめる (右)ウダガマンダラム駅構内へ |
ウダガマンダラム(ウーティ)駅 復路に備えるYDM4形 |
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ニルギリ山岳鉄道の実用ガイドを、手持ちの資料でまとめておこう。鉄道へのアプローチは、タミル・ナードゥの州都で南インドきっての大都市、チェンナイ Chennai(旧称マドラス Madras)から始めるのが順当だ。チェンナイ中央駅21時発の「ニルギリ急行 Nilgiri Express」がある。列車は夜通しかけて西へ532km走りきり、朝6時15分、メットゥパラヤム Mettupalayam に到達する。
ここからウーティまで山岳鉄道全線を通して走る列車は、ニルギリ急行を受ける7時10分発(復路はウーティ15時発)の1往復しかない。他の3往復は、山上のクーヌール~ウーティを結ぶ区間列車だ。しかも、蒸機運転は現在のところ、ラック区間をはさむメットゥパラヤム~クーヌール間でのみ行われているため、山岳鉄道の真髄を味わいたい乗客は、どうしてもこの列車に集中する。
インド鉄道の他の定期列車と同様、IRCTCのウェブサイトで予約が可能というものの、2等約100席と1等10数席しかないこの小列車は、早々に売切れるらしい。もし座席を選ぶ余裕に恵まれたなら、車窓風景が、ウーティに向いて主に左側に開けることも覚えておきたい。
客車のサボ(行先標) |
(左)1等車は4人掛け (右)2等車は5人掛けだが、どちらも貫通路はない |
各便には自由席車も設定されている(上部区間では全席自由の便も)。始発駅メットゥパラヤムでは、指定を取り損ねた客がそれを目指して、朝まだきのホームに長い列をなす。時間が来ると、並んだ順に客車に誘導され、席番号を記した紙切れを渡される。それを持って線路の向こうにある切符売場へ乗車券を買いに行くというシステムだ。立ち席などはないので、満席になれば本日の乗車を諦めざるをえない。
クーヌールやウーティではこうした手順はなく、直接、出札口で自由席の乗車券を買うことができるが、やはり満席になった時点で発売終了だ。着席保証とはいえ、乗車時の混乱を避けるためか、同じようにホームに並ばされる。そして並び順に詰め込まれるので、座席がどこになるかは運次第だ。
(左)ウーティ駅のホームに自由席客の長い列 (右)駅の出札窓口 |
ウーティまでの所要時間は実に4時間50分(復路は3時間35分)、途中のクーヌールまででも3時間半(同 2時間20分)かかる。窮屈な車内での長旅では、給水のための停車が貴重な気分転換のひとときになるに違いない。片や並行する路線バスなら、この間を2時間足らずで走破してしまう。このような事情で、往復とも列車移動を選択する人は稀だということだ。
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山岳鉄道の主役を務めるX形蒸気機関車は、動輪4軸、従輪1軸のタンク機関車(軸配置0-8-2T)だ。動輪用の高圧シリンダとともに、ラックレールと噛合うピニオン(歯車)のための低圧シリンダを一対ずつ備えている。長い間、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)製の車両が活躍してきたが、近年は老朽化が進行して故障が頻発し、稼働できる車両は限られていた。
世界遺産の登録基準である完全性と真正性を維持するために、蒸機運行を廃止するわけにはいかないが、問題は耐用年数だけではなかった。蒸機は煙に混じる燃えかすで、乾期には常に山火事の危険がつきまとい、乗員も、機関士のほかに石炭をくべる機関助手が2名必要だ。
そこで南部鉄道では、石炭の代わりにファーネス油を焚く新型蒸機の導入を計画した。ヨーロッパの保存蒸気鉄道で主流になっている方式だ。しかし、車両の供給先が限定され、輸入コストが予想以上に高くつくことから、タミル・ナードゥ州ティルチラーパッリ Tiruchirapalli(ティルチ Tiruchi)にあるゴールデンロック工場が、同型機の製造を引き受けることになった。
国産のX形機関車は、1号機が2011年2月に現地に納入されたのを皮切りに、2013年3月までに計3両が揃った(車両番号37396~37398)。さらに2014年に1両(同 37399)が追加されて、旧型機の置き換え計画はひとまず完了した。退役したSLM製旧機の一部は、長年の功労を讃えられ、クーヌールやウーティの駅構内で静態展示されている。また、チェンナイ鉄道博物館にも1両が、一緒に走った客車とともに保存されている。
*注 クーヌール駅にあるのは1925年製37390号機、ウーティ駅には1920年製37386号機、チェンナイは1952年製37393号機。
2011年から導入された油焚きの新製X形機関車 |
(左)世界遺産登録の記念プレート(クーヌール駅) (右)鉄道の歴史と諸元を記した看板(メットゥパラヤム駅) |
(2018年2月13日改稿)
地形図は、AMS 1:250,000地形図NC43-4 ERODE(1953年編集、Map image courtesy of University of Texas Libraries)、旧ソ連1:200,000地形図C-43-V, C-43-XI, X(1954年編集)を用いた。
クーヌール駅配線図は、ダージリン・ヒマラヤ鉄道協会The Darjeeling Himalayan Railway Societyから入手した路線図 "THE NILGIRI MOUNTAIN RAILWAY" by J.C.Gillham および現地写真を参照した。
写真はすべて、2018年1月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。
■参考サイト
インド鉄道ファンクラブIRFCAのニルギリ山岳鉄道関連記事
http://irfca.org/docs//history/nilgiri-railway.html
http://www.irfca.org/articles/isrs/fnrm1-nmr.html
http://www.irfca.org/faq/faq-seltrain.html#rack
写真集
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Nilgiri_Mountain_Railway
http://www.irfca.org/gallery/Steam/nmr/
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