アジアの鉄道

2016年4月19日 (火)

インドの鉄道地図 VI-ロイチャウドリー地図帳第3版

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「インド鉄道大地図帳」第3版
 

サミット・ロイチャウドリー Samit Roychoudhury 氏の「インド鉄道大地図帳 The Great Indian Railway Atlas」については、初版(2005年)第2版(2010年)と感想を連ねてきたが、さきごろ第3版(2015年11月)の刊行が報じられた。きっかり5年の改訂周期を守っているようだ。

言うまでもなくここには、インド国内に張り巡らされた総延長65,000kmを超える鉄道路線網とその付属施設が、正確で合理的なグラフィックにより、余すところなく表現されている。ヨーロッパの類書にも匹敵する完成度の高さから、今やインドの鉄道を語る際の必需品といってよい。期待の新版は、過去2版とはまた装いを一新しており、本ブログとしては、常に進化し続ける鉄道地図帳のようすを追わないわけにはいかない。

第3版に旧版刊行以降に生じた動向が反映されているのは当然だが、変化はそれにとどまらない。まず目に付くのは、判型が拡大したことだ。旧版(初版と第2版)の横18cm×縦24cmに対して、第3版は一回り大きな横21.5cm×縦28cmで、アメリカのレターサイズ(8インチ半×11インチ)に相当する。旧版はコンパクトで携帯に便利だったので、この変更はユーザーの間で賛否両論がありそうだ。

むろん大判化の断行には理由がある。地図の縮尺が、従来の1:1,500,000(150万分の1)から1:1,000,000(100万分の1)に改められたのだ。前者では図上1cmが実長15kmのところ、後者は10kmで、それだけ大きく、また詳しく描くことが可能になる。旧版の場合、詳細を補うために拡大図が多用されていたが、新版ではある程度、本図の中に収まっている。それでも描ききれない大都市の路線網については、別図が用意されている。本図にその旨の注釈がなく、索引図に戻らないと掲載ページがわからないのが玉に瑕だが。

縮尺が変わると、図郭を切る位置も旧版とずれる。やむを得ないことだが、同じ路線や駅でも各版で掲載ページが違ってくるので、経年変化を追跡するのは少々面倒だ。一方で改良された点もある。たとえば首都デリー Delhi の位置だ。第2版ではちょうど図郭の境界に当たっていた(ただし別途、拡大図あり)が、第3版では図郭の中央に移動した。そのおかげで、首都圏 National Capital Region から放射状に広がる路線網が明瞭になった。

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サンプル図(裏表紙より)
 

地図の表現はどうだろうか。第2版では多色化したメリットを生かして、路線の色を管理区 Division(下注)ごとに変えるという方式を試みた。管理区の及ぶ範囲が明確になるだけでなく、見た目にも美しい地図に仕上がっていた。一転して第3版では、色分け方式をあっさり放棄して、日本の時刻表地図の会社界のように、管理区の境界を示すにとどめている。作者は記載する情報の選別に苦心したようだ。管理区のほかにも、第2版で白抜き表示されていた道路、記号表示の空港、さらに集落名や行政名など鉄道とは直接関係のない地名も第3版では省かれた。読取りやすさを優先させるために、描写対象は鉄道の属性に絞るという方針だ。

*注 インド鉄道の管理体制は、16の地域鉄道(ゾーン zone)に分かれ、地域鉄道はさらに管理区(ディヴィジョン division)に分かれる。

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凡例(地図記号)の一部
 

初版の紹介でも記したが、単線・複線を実線の数で表すというような直感的な記号デザインが、類書に比べた時にこの地図帳の特色になっている。急勾配区間などで上り側の線路が単独の迂回ルートをとることがあるが、こうしたケースもそれらしく描かれている。第2版では小さくて目立たなかった工夫だが、第3版では容易に読み取れる。

電化区間については、旧版とデザインが変わり、橙色の太いアミを掛けて、マーカーを引いたように見せる。電化工事が進行中の場合は、同じく黄緑色のアミだ。電化路線が強調されて効果的であることに異論はないが、他方、従来同じようなマーキングが施されていたガート区間 Ghat section(山上り区間)と区別がつきにくくなってしまったのは残念だ。

記載内容を第2版と照合してみよう。やはり地方に残る1m軌(メーターゲージ)や狭軌線が数を減らしている。インド広軌(1676mm)への改軌計画 Project Unigauge が着々と進行中なのだ。

さらに注目すべきは、貨物専用回廊 Dedicated Freight Corridor (DFC) の整備計画だ。インドでも貨物輸送に占める鉄道の割合が減少しており、飽和状態にある道路交通の緩和と温室効果ガスの削減を図るために、在来線に沿う貨物専用ルートの建設が進められている。新ルートは、旅客と貨物の分離を図るだけでなく、建築限界や牽引定数を拡大し、曲線や勾配の緩和で列車速度を向上させて、輸送効率を高めているのが特徴だ。

第3版では、認可済の2本のDFCルート、すなわちデリー近郊ダドリ Dadri ~ムンバイのジャワハルラール・ネルー港 Jawaharlal Nehru Port 間1,468 kmの西部回廊 Western Corridor と、パンジャーブ州ルディヤーナー Judhiana ~コルカタ近郊ダンクニ Dankuni 間1,760 kmの東部回廊 Eastern Corridor を確認できる。多くは在来線の線増だが、都市域では、武蔵野線のようなバイパス線を造っているようだ。

イギリスやドイツには定番の鉄道地図帳が存在し、定期的に更新されて愛好家の信頼を勝ち得ている。第3版を数えるわがインド鉄道大地図帳も、いよいよその領域に入ってきたようだ。しかも現状に満足することなく毎回新たなスタイルを試み、理想の鉄道地図を追求すること怠りない。今から5年後に告知されるであろう第4版の刊行が、早や楽しみになってきた。

■参考サイト
The Great Indian Railway Atlas Third Edition http://indianrailstuff.com/gira3/

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2011年6月 3日 (金)

インドの登山鉄道-カールカー=シムラー鉄道

カールカー=シムラー鉄道 Kalka-Shimla Railway

カールカー Kalka ~シムラー Shimla 間 96.54km
軌間762mm(2フィート6インチ)、非電化
1903年開通

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インド北西部の山中を走るカールカー=シムラー鉄道 Kalka-Shimla Railway(以下KSRと記す、下注)は、軌間762mm(2フィート6インチ)、延長96.54kmの狭軌路線だ。イギリス領時代に夏の都として栄えたシムラーへ、下界から人と物資を100年以上にわたって運び続けてきた。鉄道は、同じ狭軌のダージリン、ニルギリに続いて、2008年に世界遺産「インドの山岳鉄道群」の一員に加えられたが、先の2線とは異なる特色をもつ。列車の進路に、平地を突き進む直線区間が一切ないこと、そして重厚な石造りの橋や長いトンネルが次々と現れることだ。どちらも、KSRの前に立ちはだかっているのが尋常ならぬ険路であることを証するものだろう。徹頭徹尾、山岳鉄道というKSRの素顔を、地図の上から追ってみたい。

*注 日本語では、「カルカ=シムラ鉄道」、「カルカ・シムラ鉄道」、「カルカ・シムラー鉄道」など複数の表記がある。本稿では、ヒンディー語由来の地名について、わかる範囲で長母音と短母音を区別して表記した(ヒマラヤのように定着した語を除く。もし誤りがあればご指摘願いたい)。

鉄道の目的地シムラー Shimla は、標高2200m前後の稜線とその周辺に延びる町だ。ヒマラヤ山脈の前山を構成するシヴァーリク山脈 Sivalik Hills に位置し、夏の平均気温が19~28度、真冬には氷点下にもなり、雪が降る。ここは19世紀前半、イギリス人によって、低地の酷暑を避けるためのヒルステーション(高原避暑地)として開発された。1864年からは英領インド帝国 British Raj の夏の首都とされ、軍司令部や政府部局も置かれた。稜線の一角に、いにしえの副王公邸 Viceregal Lodge が堂々たる姿を今にとどめているが、支配階級は、帝国の首都カルカッタ Calcutta(現在のコルカタ Kolkata)からはるばる1500kmもの長旅をして、ここにやってきたのだ。

シムラーへの鉄道路線の構想は19世紀半ばからあったが、1889年に、デリー Delhi からアンバーラー Ambala 経由で、山際のカールカー Kalka まで広軌鉄道が延びたことで、建設の気運が高まった。1895年には、途中のソーラン Solan までの区間について、詳細な路線調査が行われた。ラック式鉄道か粘着式鉄道のどちらを選ぶかを巡って長い議論が続いたが、最終的に後者が選ばれた。

1898年に政府とデリー=アンバーラー=カールカー鉄道会社 Delhi-Ambala-Kalka Railway Co. との間で契約が交わされ、建設事業がスタートした。当初の計画では、軌間をダージリンなどと同じ2フィート(610mm)としていた。しかし、路線に戦略的役割を期待した軍の要請で、2フィート6インチに変更され、一部の完成区間については手直しが実施された。トンネル107か所(現在使用しているのは102か所)、橋梁864か所、制限勾配1:33(30.3‰)、総距離の7割がカーブで最小曲線半径37mという途方もない山岳路線は、1903年11月にシムラーまで全通した。

鉄道は、麓から荷馬車で4日かかると言われた道のりを一気に短縮した。しかし、土地は無償提供するが財政援助はしないという政府との契約で進められた建設事業は、会社の経営を圧迫した。他の路線より高く設定した賃率も効果はなく、1906年、ついに路線は国に買収された。

KSRのルートを描いた地図をいくつか用意した。全体を把握できるのは、いつものとおり、AMS(旧米国陸軍地図局)1:250,000図【図2】と旧ソ連1:200,000図【図4】だ。

注意すべきは、AMS図が、平野部と山岳部で等高線の間隔を変えていることだ。掲載した図では、シムラーの載る上半分がなだらかな地形のように見えるが、実はそうではない。等高線の刻みが、上半分(SIMLA図葉)は500フィート間隔、下半分(AMBĀLA図葉)は200フィート間隔と異なっているのだ。これでは読図しにくいので、同じ1:250,000の縮尺で公開されているJOG図(米軍の軍用地形図【図3】)も挙げておいた。AMS図に比べて地名などの情報量は圧倒的に少ないが、等高線が100m単位に統一され、ぼかし(陰影)もついているので、地勢の概略を知るのに好都合だ。ただし、使用した下半分の図は、ぼかし版のずれがひどい。

図1 AMS 1:250,000
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路線と駅、駅名を加筆
オレンジの枠は下図4~7の範囲
図2 JOG 1:250,000
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図3 旧ソ連1:200,000
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*注 ちなみにJOG図とソ連図では、図の左下隅にチャンディーガル Chandigarh 市街が描かれているが、AMS図になく、鉄道も市街に寄らずにまっすぐ南下している。これはチャンディーガルが1950年代に造成された計画都市で、AMS図の編集(1954~55年)に反映されていないため。

KSRのルートは、一言で表現するのが難しい。単純に、山麓から山上をめざして一気に上りきっているわけではないからだ。起点カールカーの標高は656m、終点シムラーは2076m、この差1420mを96kmの距離で稼ぐとすれば、平均15‰程度の勾配で済むはずだが、複雑な地形がそれを阻んでいる。線路は、山塊の間の鞍部や尾根を伝いながら、階段状に高度を上げていく。その詳細は、グーグル衛星画像と同 地形図をもとにして自家製の地図4面【図4~7】に描き入れたので、以下の説明の参考にしていただければ幸いだ。

沿線のエピソードを交えながら、列車に乗ったつもりでルートを追ってみよう。

【図4】カールカー Kalka でKSRは、全国の広軌鉄道網から乗客を引き継ぐ。赤いディーセル機関車に牽かれた狭軌列車は、ゆっくりと駅を後にする。左手に機関庫を見送って右に曲がった線路には、もう勾配がついている。この先、直線距離でせいぜい6~7kmの間に450mほどの高度を稼ぐため、線路は急勾配で、すさまじいループ(つづら折り)を斜面に描きながら進んでいくのだ【図5】。途中、タクサール Taksal、グンマン Gumman の駅をはさむが、これらに限らずどの駅も8両分、長さ82mの立派な対向線を備えている。黄の地色に駅名を太書きしたインドでおなじみの駅名標には、山岳鉄道ならでは、底部に小さく標高データが添えてある。

図4 路線図(カールカー~ソーラン)
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図5 カールカー周辺拡大図
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(c) 2011 Google
注:基図に使用したGoogle Mapの等高線は(おそらく)メッシュ標高データから生成されているため、等高線の間隔が狭い(=急傾斜の)場所では、空中写真からトレースした線路の位置と一部整合していない。

 

深い谷の遥か上方をしばし走り、コーティー Koti 駅の先端で、列車は路線で2番目に長い694mのコーティートンネル Koti Tunnel に突入する。峠でもない場所に長いトンネルを設けたのは、斜面を割いて谷底まで達していた大規模な崩壊地を避けるためだ。
今は停車する列車がなくなったジャーブリー Jabli 駅を過ぎ、ソンワーラー Sonwara 駅の先に、またも3段のループがある。下段の折返しの手前にある直線の第226号橋梁は、路線最長の97mあって、折返した後、左の車窓から木の間越しに観察できる。ローマの水道橋を思わせる石灰岩の多層アーチ橋は乗客にとって格好の被写体になっているが、4層に積み上げられたのは、ここともう1か所(後述)のみという。上段の折返しはトンネル内で半回転している。

ループをやり過ごすと、列車は約800mの高度を上りきって、風通う鞍部に出る。ダランプル・ヒマーチャル Dharampur Himachal の駅名は、同じダランプルを名乗る他の駅と区別するため、ヒマーチャル(下注)の地域名が添えられた。ここは、小さく静かな避暑地カサウリー Kasauli への下車駅でもある。続くクマールハッティー・ダグシャーイー Kumarhatti Dagshai の駅名も長いが、これは近隣の2つの集落名をつなげたものだ。標高1579m、地理的にはルート前半のサミットに当たる。駅のすぐ先の小さなトンネルを抜けた後、線路は下り坂になる。

*注 ヒマーチャル Himachal はヒマーラヤ(ヒマラヤ)Himalaya から派生した言葉で、シムラーを州都とするヒマーチャル・プラデーシュ州 Himachal Pradesh の範囲を指す。ちなみに他の州名にも用いられるプラデーシュは「地方」の意の普通名詞。
参考 http://www.himachalpradesh.us/geography/himalayas_in_himachal.php

【図6】北への進路を阻むように、山塊が東西方向に横たわっている。並行する国道22号線はこれを大きく回り込んでいくが、鉄道は、山の中腹を穿つ路線最長1144mのバローグトンネル Barog Tunnel で、一気に向こう側へ抜ける。トンネルを出たところにバローグ Barog 駅がある。駅名は、最初にトンネル工事を担当したイギリス人技師を追憶するものだ。彼は重要なこの工事で測量を誤り、その結果、両側から掘り進められたトンネルは、位置がずれて貫通できなかった。罰金を科せられた彼は屈辱に耐えきれず、愛犬と散歩中に銃で自殺を図った。村に駆け戻った飼い犬の知らせで人々が現場に駆けつけたが、すでに彼は息絶えていた。現在のトンネルは後に1km離れた場所に掘られたものだが、いわくつきの旧トンネルも坑口を閉鎖した状態で残っているという。バローグではほとんどの列車が10分前後停車するので、ホームに降りて記念写真を撮る人も多い。

図6 路線図 (ソーラン~カトリーガート)
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次のソーラン Solan は、きのこが特産品の、沿線でシムラーに次いで大きな町だ。KSRの旅もこの駅でちょうど半ばになる。チャンバーガート Chambaghat 駅の次に、列車が停まらなくなったソーランブルワリー Solan Brewery という駅がある。すぐ左の山際にあるのがそのビール工場、モーハン・ミーキン醸造所 Mohan Meakin Brewery だ。工場のルーツは1820年代、カサウリーに設立されたアジアで最初のビール醸造所で、まもなく豊かな湧水を求めて現在地に移ってきた。1840年から1世紀以上、ここで造られる「ライオン Lion」ビールは国内のトップブランドだったそうだ。

サローグラー Salogra 駅を過ぎ、カンダーガート Kandaghat 駅は標高1432m、今年(2011年)5月に、歴史ある駅舎内部を漏電による火災で惜しくも焼失した。地形的には鞍部を成していて、ルート断面図で見れば、ダランプルからここまでが緩い勾配の、いわば踊り場だ。ガート Ghat という語は、聖なる川へ降りる階段を指すとともに、険しい山道の意味もある。名が示すとおり、ここで再び上り坂が始まる。山腹を激しく巻いていく坂道の途中にカノー Kanoh 駅があるが、その直前で、列車は、沿線名物となっている第493号橋梁「アーチギャラリー Arch Gallery」を渡る。橋は第226号と同じ4層アーチだが、路線中最も高い23mを誇る。線路は右にカーブしているので、角度は浅いが右の車窓から眺めることも可能だ。

【図7】カトリーガート Kathleeghat 駅以降は、シムラーの載る山塊から南に延びる尾根筋を伝うコースだ。高度が1800m台に上がって、眺望も一段と広く深くなっていく。ガートの地名にそむかず、ここにも山腹を右巻きする上り坂があるが、長くは続かない。

図7 路線図(カトリーガート~シムラー)
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ショーギー Shoghi 駅を出ると、正面に山が近づいてくる。線路はその東斜面に回っていき、最後に路線で3番目に長い492mのトンネルを抜けて、ターラーデーヴィー Taradevi 駅に着く。ターラーデーヴィーとは星の女神のことで、山頂に彼女を祀る寺がある。星が自ら燃えるように、この女神は抑制できない欲望を象徴するといわれ、鋏を持ち、血塗られた口をした恐ろしい姿で描かれる。この山にトンネルを建設すると知った現地の人々は、女神の崇りを怖れた。あるとき、掘削現場で大蛇が出現したという噂が立ち、動員されていた労働者たちが怯えて、工事が止まってしまったことがあった。後でそれは、新鮮な空気を送り込んでいた鉄管を見間違えたことがわかったのだが、山間での建設工事は、地形の険しさだけでなく、こうした迷信とも闘っていたのだ。

ターラーデーヴィー駅を過ぎると、列車はシムラーに向けて高度差240mの最後の上り坂に挑む。山を左から巻きながら高度を稼ぐ途中に、ジュート Jutogh、サマーヒル Summerhill の各駅がある。

終着駅シムラー Shimla は、最後の長めのトンネルで尾根の南側に抜けて間もなくだ。標高2076m、斜面に張りつく狭い敷地に、ホームに面した本線と機回しが可能な側線、その奥に機関庫、カールカー方には転車台や数本の留置線を備えている。ホームは1本きりだが、前後に分けて2本の着番線を確保している。

線路のほうはこの先まだ1kmほど延びて、長距離バスターミナルの先まで達しているものの、しばらく使用されていないようだ。線路上に人工地盤が築かれ、バスの駐車場にされてしまった終点に、1930年代の地図は貨物駅 Goods station の注記を付している。現在の駅より中心街にずっと近く、地形も緩やかなこの地は、駅を構える場所にふさわしい。もしかすると、ここが当初のシムラー駅予定地だったのかもしれない。

旅行案内によると、カールカー駅からシムラーへはタクシー、バス、列車の選択肢があるが、列車はその中で最も時間がかかる手段だ。タクシーで2時間半、バス3時間半のところ、KSRの列車は「りんごを満載した40トン積みトラックより遅い」ので、4時間半~5時間20分を要する。もとより効率を重視するなら、トイトレインに乗る意味はないし、乗客は車窓の絶景をゆっくり味わいたいがこそ列車を選んでいるはずだ。

時刻表に載っている定期列車は1日5往復で、シムラー行きは早朝に、カールカー行きは午後に集中する。カールカーには、早朝着の夜行列車カールカー・メール Kalka Mail で来る人が多いだろう。これはコルカタ Kolkata 対岸のハウラー Howrah 駅が始発で、帝国時代からの伝統的な長距離列車だ。この便を受けてシムラーに向け、レールモーター Rail Motor、シヴァーリク・デラックス急行 Shivalik Delux Express、カールカー=シムラー急行 Kalka Shimla Express が次々に出ていく。ちなみにレールモーターというのは、ボンネットバスに似た形の14~18人乗り単行気動車で、身軽なため速く、外見に似合わず高級列車の位置づけだ。

昼前には、ニューデリー New Delhi を朝出た列車(ヒマラヤン・クイーン Himalayan Queen とシャターブディー急行 Shatabdi Express)がカールカーに到着する。これを受けるKSRの列車は同名のヒマラヤン・クイーンだけだ。シムラーに着くのは夕方になる。ただし、旅行シーズンには、定期の間を縫って特別列車も設定されるようだ。

せっかく乗るなら、左右どちらの車窓の眺めがいいのかも気になるところだ。カールカー始発の場合、右側が谷になる区間が多いのは確かだが、左の席に座っても後悔することはない。ダランプル~クマールハッティー・ダグシャーイー間、カトリーガートを出たすぐ後、それにショーギー前後では、谷が左手に移る。さらに、高度も上がったターラーデーヴィー以後の最終区間は、重畳たる山並みの見事なパノラマが展開して、左側席の乗客を大いに納得させてくれるに違いない。

本稿は、M.S. Kohli "Mountains of India: Tourism, Adventure & Pilgrimage" pp.101-104, Indus Publishing, 2002、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipedia英語版の記事(Kalka-Shimla Railway, Solan, Shimla)、Wikitravel英語版の記事(Shimla)を参照して記述した。
地形図は、AMS 1:250,000地形図NH43-4 SIMLA(1954年編集)、NH43-8 AMBĀLA(1955年編集)、JOG 1:250,000地形図NH43-4 SIMLA(1982年編集)、NH43-8 AMBĀLA(1982年編集)Map images above all are courtesy of University of Texas Libraries、旧ソ連1:200,000地形図H-43-XI, H-43-XII(1985年編集)を用いた。

■参考サイト
北部鉄道アンバーラー管理区「カールカー=シムラー鉄道関連情報1903~2003」(ヒンディー語版、英語版)Northern Railway, Ambala Division
http://www.ambalarail.com/klksmlhome.php

写真集
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Kalka-Shimla_Railway
http://www.irfca.org/gallery/Steam/KSRailway/
http://www.irfca.org/gallery/Steam/heritageruns/KSR/
http://www.irfca.org/gallery/Trips/north/KalkaShimla/
http://www.irfca.org/gallery/Trips/north/kalka_shimla_nishant/
http://www.irfca.org/gallery/Trips/north/ksr09/
http://www.irfca.org/gallery/Events/KSR-Centenary/

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 インドの登山鉄道-ニルギリ山岳鉄道
 インドの登山鉄道-マーテーラーン登山鉄道

2011年5月 7日 (土)

インドの登山鉄道-ニルギリ山岳鉄道

ニルギリ山岳鉄道 Nilgiri Mountain Railway

メットゥパラヤム(メートゥパラーヤム)Mettupalayam ~ウダガマンダラム(ウーティ)Udagamandalam (Ooty) 間 45.88km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配1/12(83.3‰)
1897~1908年開通

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線内最長の第25橋梁を渡る
(カラル~アダリー間)
 

世界遺産「インドの山岳鉄道群」に含まれる3本の路線の中で、唯一ラックレールを使っているのがニルギリ山岳鉄道 Nilgiri Mountain Railway だ。山の麓から山上の町まで、高度差1900mを実にゆっくりと、しかし線路と機関車に仕掛けられた登坂装置のおかげで着実に上っていく。

こんな路線だから、ダージリンと同じように万年雪を仰ぐヒマラヤ山脈の周辺を走っているのだろうと想像してしまうが、さにあらず。意外にも、インド亜大陸では最も南に位置するタミル・ナードゥ州 Tamil Nadu の一角が舞台だ。どうしてこの場所に、ラック式鉄道が必要だったのだろうか。

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デカン高原の西縁を限る西ガーツ山脈 Western Ghats は、長さ1500kmの大山脈だ。紅茶の産地として名高いニルギリ山地 Nilgiri Mountains は、その南端近くに位置している。ニルギリとは、現地の言葉で青い山という意味だそうだ。山地に自生するユーカリの揮発成分による青い靄、あるいは12年に一度咲くクリンジの花が斜面を薄青色に染めるようすから名付けられたと言われる。ニルギリ紅茶の別称ブルーマウンテンは、地名を英訳したものだ。

山地の高度は2000m前後あり、最も高いところでは2600mを超える。イギリス人支配層は、ヒルステーション(高原避暑地)に適した場所として、早くからこの地に注目した。19世紀半ばまでにはクーヌール Coonoor、コタギリ Kotagiri、そしてウーティ Ooty(ウータカマンド Ootacamund)といった現在の中心地の礎が築かれ、後者はまた、マドラス管区 Madras Presidency の夏の首都とされたことで発展した。

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蒸機からディーゼルにバトンが渡るクーヌール駅
駅名看板の表記は上から、
現地語であるタミル語、ヒンディー語、英語の順
 

山地は、カーヴィリ川 Kaveri (Cauvery) の大平野から屏風のように立ち上がり、卓状の高原になっている。山上からのみごとな眺望が「ヒルステーションの女王」と称賛される一方で、アプローチの険しさは麓との往来の拡大を阻んでいた。

鉄道の計画は1854年から存在したが、70年代になると、検討が本格化する。1876年には、スイスの技師ニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach から、ラック鉄道建設の提案があった。彼の考案したシステムは、すでに5年前にスイス中部のリギ山で採用され(下注)、実用性は証明済みだった。しかし、彼は建設の条件に土地の提供その他の優遇措置を要求したため、政府の受容れるところとはならなかった。これとは別に1877年、山の斜面に長さ2マイルのケーブルカーを敷設し、山上からクーヌールへは普通鉄道(粘着式)を接続させるという案も検討されたが、工費が同程度かかり、安全性にも疑念があった。

*注 リギ山のラック式鉄道については、本ブログ「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」で詳述。

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ニルギリ山岳鉄道100周年記念の
パンフレット表紙
 

リッゲンバッハは諦めなかった。1880年(1882年とする文献も)に現地入りした彼は、県高官の支援を得て再提案を行った。その結果、政府の保証がつく形で、路線建設のための「ニルギリ・リギ鉄道株式会社 Nilgiri Rigi Railway Co., Ltd.」の設立が晴れて承認されることになった。

だが、その後の鉄道建設の道のりも、決して平坦ではなかった。リッゲンバッハの会社は、資金集めの見通しが立てられずに解散した。経営者を代えて設立された新会社は、1891年に着工を果たしたものの、工事途中で資金不足に陥った。結局、メットゥパラヤム(メートゥパラーヤム)Mettupalayam~クーヌール(クヌール)Coonoor 間28kmの第一次区間を完成させたのは、植民地政府の支援を受けた第3の会社で、1897年のことだった。リッゲンバッハの撤退により、一時期、1:30勾配(33.3‰)の粘着式も検討されたが、最終的にはアプト式のラックレールが採用されている。

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(左)アプト式ラックレール
(右)それと噛み合うピニオン(歯車)
  ヒルグローヴ駅にて
 

鉄道は1898年8月に公式開通を果たし、列車の運行は、一帯の路線に合わせてマドラス鉄道 Madras Railway に委ねられることになった。しかし、鉄道の不運はまだ続いた。開通式後まもなく見舞われた豪雨で、斜面に築いた線路が大きな被害を受け、実際の運行は翌年6月までずれ込んだ。所有会社はこうした不安定な線路を維持する費用に苦しみ続けて、経営不振に陥り、1903年、ついに政府は鉄道の買収に踏み切らざるをえなくなった。

政府の公共事業局によって、現在の終点であるウダガマンダラム Udagamandalam まで18kmが延長されたのは、その後1908年9~10月のことだ(下注)。運行は同年1月から南インド鉄道会社 South Indian Railway Co., Ltd.に移管され、同社は1951年に、国鉄の地域別組織の一つ、南部鉄道 Southern Railway に再編されて、現在に至る。ちなみに駅名に使われているウダガマンダラムは町の正式名称だが、実際の町の名はウータカマンド Ootacamund、さらに略してウーティ Ooty と呼ばれることが多い。

*注 1908年9月にファーンヒル Fernhill まで、10月にウダガマンダラムまで全通。

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ウーティ駅前
(左)100周年の記念ゲート
(右)駅前広場とそれに続く通り

では、全線45.88km(46.61kmとする文献も)のルートを地図で確かめよう。AMS(旧米国陸軍地図局)と旧ソ連が作成した1950年代編集の地形図、それにグーグル衛星画像と同 地形図をもとに描いた自家製の地図2面を参考にしていただきたい。

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AMS 1:250,000に
ニルギリ山岳鉄道のルートと駅、駅名等を加筆
図中の枠は下の詳細図の範囲
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同範囲の旧ソ連1:200,000
 

路線は大きく、メットゥパラヤム~クーヌールの下部区間と、クーヌール~ウダガマンダラム(ウーティ)の上部区間に分けることができる。下部区間は先述のとおり、先行開通した部分で、ラックレールを使ってニルギリ山地の側壁をよじ登る。上部区間は、後年の延長区間で、起伏の多い高原を走っている。

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下部区間(メットゥパラヤム~クーヌール)の概略図
 

起点メットゥパラヤム駅は標高326m、広軌線と接続するニルギリ山地の南の玄関口だ。メーターゲージ(1000mm軌間)線のホームは、駅舎を間に挟んで広軌線と並行している。線路は北に延びているが、その左側に小さな機関庫、右側には客車工場と留置側線が見える。ホームにはすでに7時10分発ウーティ行きの列車が停車中だ。客車は4両、貫通路のないスラムドアキャリッジで、1等車は4人掛け、2等車は5人掛けのロングシートが向かい合う。ウーティまで5時間近い長旅だが、山岳列車の人気は高く、どのボックスも満席だ。

急勾配線のセオリーどおり、回送されてきた蒸気機関車は最後尾に連結される。列車の前方確認は、各客車の前側のデッキに添乗している信号手の仕事だ。先頭車両にいる信号手が進路を確かめ、順に後方へ、緑と赤の手旗信号を伝えていく。といっても手旗はほとんど間髪を置かずに振られるから、機関士の反応が遅れることはないに等しい。

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メットゥパラヤム駅
(左)広軌幹線のホーム
(右)山岳鉄道ホームは駅舎の反対側にある
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(左)山岳鉄道の機関庫
(右)左奥は客車の整備工場
 

ホームを後にすると、車庫の間を抜け、町のはずれのバーヴァニ川 Bhavani River を鉄橋で渡って、赤土の畑の中をまっすぐ山の方に向かっていく。起点から8km進んだカラル Kallar(標高381m)で、さっそく10分ほど停車する。乗降は扱わないのだが、機関車に給水する間、乗客はみなホームに降りて、立ち話に耽ったり、記念写真を撮ったりとくつろいだ様子だ。一人、車掌長の女性だけが、座席表を繰りながら難しい顔をしている。

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(左)メットゥパラヤム駅を出発
(右)バーヴァニ川を渡る

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カラル駅
(左)給水停車
(右)座席表をチェックする車掌長 

駅を出ると、いよいよラック区間に進入する。速度を落とし、ラック(歯竿)とピニオン(歯車)と慎重に噛み合わせてから、おもむろに機関車は出力を上げる。列車は、山裾を大きく巻きながらじわじわと上り始める。これからクーヌールまで、最急勾配1:12(83.3‰)、曲線半径100mの急カーブもあるという難路が延々20kmほども続く。列車の最高時速は15kmだそうだ。

うっそうとした森に覆われた山腹に、素掘りのトンネルと、沢を渡る鉄橋が次々に現れる。全線でトンネルが16か所、橋梁は250か所もある。中でもカラル川を渡る第25橋梁が最も長く、18.29m×3連、3.66m×12連のガーダー(橋桁)を連ねている。高度が上がるにつれて谷は深まり、対岸には一筋の滝がかかる断崖も見渡せる。

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線内最長の第25橋梁
(冒頭写真の反対側から復路撮影)
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アダリー駅でも給水停車
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素掘りのままの第7トンネル
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(左)谷を隔てた大絶壁に滝がかかる
(右)きれいなオーバーハングも(復路撮影)
 

坂の途中にも、アダリー Adderly、ヒルグローヴ Hillgrove、ラニーミード Runneymede と、途中駅が設けられている(下注)。列車は律儀に停まっていくが、その目的はカラルと同様、機関車への給水だ。唯一乗降を取り扱うのが、ラック区間のちょうど中間に当たるヒルグローヴで、他より長く20分ほど停車する。駅ではこの列車のために軽食の売店も開いていて、おこぼれを見逃すまいと、山猿の集団が周りを賑やかに走り回る。

*注 ラニーミード~クーヌール間にも、カテリロード Kateri Road という駅があったが1982年に廃止され、現在は給水停車もない。

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ヒルグローヴはラック区間で唯一旅客を扱う駅だが、
周辺に民家はない
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軽食売店の周りで、おこぼれを狙う山猿が走り回る
 

ヒルグローヴの標高はすでに1091m。進むうちにクーヌール坂 Coonoor Ghat(下注)と呼ばれる激しいつづら折りの道路が下方から追いついてきて、頭上を越していく。ラニーミードまで来れば、もはやクーヌールの山上住宅地が見上げる高みに姿を現す。谷川となったクーヌール川がそばに寄り添い、名産の茶畑が斜面を覆っている。やがて、列車は川を横断して向きを変え、車が行き交う道路とともに、クーヌールの町が載る台地へと、ラックの最終区間を這い上る。

*注 ガート Ghat は、聖なる水辺に降りる階段を意味するとともに、険しい山道にも使う。

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ヒルグローヴ駅を後に山上へ向かう
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つづら折りのクーヌール坂が上ってくる
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ラニーミード駅
背後の山上の建物群はクーヌール郊外の住宅地
列車はその山裾を右手へ進む
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(左)クーヌール川が追いついてきた
(右)斜面に広がる茶畑
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(左)クーヌール駅に接近
(右)踏切を通過し、構内へ
 

クーヌールは沿線でウーティに次ぐ町で、避暑地であるとともに紅茶生産の中心地だ。鉄道にとっても拠点駅であり、構内に機関車の整備工場を持っている。車とバイクと人がひしめく街路の踏切の手前でラックレールが終わると、まもなく列車の行く手にプラットホームが見えてくる。クーヌール駅の標高は1712mで、蒸機は3時間かけて、実に1300m以上の高度差を克服したことになる。

駅舎は、スカイブルーに塗られた石積みとレンガ色の屋根のコントラストが映える二層の建物だ。エントランスのアーチの上に、ニルギリ鉄道会社(NR)のモノグラムと竣工年を刻む小さなプレートが埋め込まれている。ホームは元来、駅舎側にしかなかったが、近年、反対側に増設されて2面2線になった。

到着早々、主役の蒸気機関車が列車から切り離され、留置線へ回送されていった。それと交替で、緑地にアイボリーの帯を巻いたディーゼル機関車が客車1両を連れて入線し、連結される。上部区間はこのYDM4形の出番だ。ラック区間は去ったが、終点との高度差はまだ500mもあり、引き続き厳しい坂道が連続する。ディーゼル機関車も、蒸機と同じように最後尾に連結される。

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クーヌール駅
蒸機に代わってディーゼル機関車が増結客車を連れて登場
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クーヌール駅舎正面
鉄道会社のモノグラムと竣工年を刻むプレート
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クーヌール駅構内
(左)正面は信号扱所、
  その右がウーティ方面へ上る線路
(右)留置線。奥に機関車の整備工場がある
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反対側を見る
右端がメットゥパラヤム方面へ下る線路
中央はスイッチバック用側線
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上部区間(クーヌール~ウダガマンダラム)の概略図
 
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クーヌール駅配線図
 

クーヌール駅の構内配線は一種のスイッチバック式だ(右図参照)。列車はホームからいったん後退して、南側の側線に入った後、改めてウーティに向け前進を始める。上部区間の勾配も最大1:25(40‰)と普通鉄道としてはかなり険しく、最高速度は30kmに制限されている。

ウーティまでに5つの中間駅があるが、乗降客数は知れている。日常の往来には、ほとんどバスか自家用車を使うのだろう。ウェリントン Wellington はまだクーヌールの郊外で、斜面に立つ家並みが途切れない。アラヴァンカドゥ Aravankadu からケーティ Ketti にかけては、防風林のような背の高い林に囲まれて走る。ケーティを出た後は車窓左側に、緩く波打つ高原の明るくのびやかな風景が見晴らせる。

標高2193mのラヴデール Lovedale が地形的な鞍部になっていて、長く苦しい上り坂もこれでほぼ終了だ。次のファーンヒル Fernhill は通過し、沿線最後のトンネルを抜けると、リゾート客が憩うウーティ湖の岸辺をかすめて、列車は標高2203mのウーティ駅に滑り込む。

*注 駅の標高、路線長の数値は文献によって少しずつ異なる。標高はダージリン・ヒマラヤ鉄道協会から入手した路線図(出典は陸地測量部インド1インチ地図)のフィート値をメートルに換算、路線長は南部鉄道の資料(下記参考サイト)から引用した。

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上部区間を行く
(左)ウェリントン駅を出た先のオメガカーブ
(右)珍しく途中駅で乗降客があった
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ケーティ駅の前後は線路の周囲に林が残る
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見晴らしのいいケーティ~ラヴデール間
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(左)ラヴデールは愛の谷?
(右)小さな鞍部を越えていく
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(左)ボートが浮かぶウーティ湖をかすめる
(右)ウダガマンダラム駅構内へ
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ウダガマンダラム(ウーティ)駅
復路に備えるYDM4形

ニルギリ山岳鉄道の実用ガイドを、手持ちの資料でまとめておこう。鉄道へのアプローチは、タミル・ナードゥの州都で南インドきっての大都市、チェンナイ Chennai(旧称マドラス Madras)から始めるのが順当だ。チェンナイ中央駅21時発の「ニルギリ急行 Nilgiri Express」がある。列車は夜通しかけて西へ532km走りきり、朝6時15分、メットゥパラヤム Mettupalayam に到達する。

ここからウーティまで山岳鉄道全線を通して走る列車は、ニルギリ急行を受ける7時10分発(復路はウーティ15時発)の1往復しかない。他の3往復は、山上のクーヌール~ウーティを結ぶ区間列車だ。しかも、蒸機運転は現在のところ、ラック区間をはさむメットゥパラヤム~クーヌール間でのみ行われているため、山岳鉄道の真髄を味わいたい乗客は、どうしてもこの列車に集中する。

インド鉄道の他の定期列車と同様、IRCTCのウェブサイトで予約が可能というものの、2等約100席と1等10数席しかないこの小列車は、早々に売切れるらしい。もし座席を選ぶ余裕に恵まれたなら、車窓風景が、ウーティに向いて主に左側に開けることも覚えておきたい。

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客車のサボ(行先標)
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(左)1等車は4人掛け
(右)2等車は5人掛けだが、どちらも貫通路はない
 

各便には自由席車も設定されている(上部区間では全席自由の便も)。始発駅メットゥパラヤムでは、指定を取り損ねた客がそれを目指して、朝まだきのホームに長い列をなす。時間が来ると、並んだ順に客車に誘導され、席番号を記した紙切れを渡される。それを持って線路の向こうにある切符売場へ乗車券を買いに行くというシステムだ。立ち席などはないので、満席になれば本日の乗車を諦めざるをえない。

クーヌールやウーティではこうした手順はなく、直接、出札口で自由席の乗車券を買うことができるが、やはり満席になった時点で発売終了だ。着席保証とはいえ、乗車時の混乱を避けるためか、同じようにホームに並ばされる。そして並び順に詰め込まれるので、座席がどこになるかは運次第だ。

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(左)ウーティ駅のホームに自由席客の長い列
(右)駅の出札窓口
 

ウーティまでの所要時間は実に4時間50分(復路は3時間35分)、途中のクーヌールまででも3時間半(同 2時間20分)かかる。窮屈な車内での長旅では、給水のための停車が貴重な気分転換のひとときになるに違いない。片や並行する路線バスなら、この間を2時間足らずで走破してしまう。このような事情で、往復とも列車移動を選択する人は稀だということだ。

山岳鉄道の主役を務めるX形蒸気機関車は、動輪4軸、従輪1軸のタンク機関車(軸配置0-8-2T)だ。動輪用の高圧シリンダとともに、ラックレールと噛合うピニオン(歯車)のための低圧シリンダを一対ずつ備えている。長い間、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)製の車両が活躍してきたが、近年は老朽化が進行して故障が頻発し、稼働できる車両は限られていた。

世界遺産の登録基準である完全性と真正性を維持するために、蒸機運行を廃止するわけにはいかないが、問題は耐用年数だけではなかった。蒸機は煙に混じる燃えかすで、乾期には常に山火事の危険がつきまとい、乗員も、機関士のほかに石炭をくべる機関助手が2名必要だ。

そこで南部鉄道では、石炭の代わりにファーネス油を焚く新型蒸機の導入を計画した。ヨーロッパの保存蒸気鉄道で主流になっている方式だ。しかし、車両の供給先が限定され、輸入コストが予想以上に高くつくことから、タミル・ナードゥ州ティルチラーパッリ Tiruchirapalli(ティルチ Tiruchi)にあるゴールデンロック工場が、同型機の製造を引き受けることになった。

国産のX形機関車は、1号機が2011年2月に現地に納入されたのを皮切りに、2013年3月までに計3両が揃った(車両番号37396~37398)。さらに2014年に1両(同 37399)が追加されて、旧型機の置き換え計画はひとまず完了した。退役したSLM製旧機の一部は、長年の功労を讃えられ、クーヌールやウーティの駅構内で静態展示されている。また、チェンナイ鉄道博物館にも1両が、一緒に走った客車とともに保存されている。

*注 クーヌール駅にあるのは1925年製37390号機、ウーティ駅には1920年製37386号機、チェンナイは1952年製37393号機。

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2011年から導入された油焚きの新製X形機関車
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(左)世界遺産登録の記念プレート(クーヌール駅)
(右)鉄道の歴史と諸元を記した看板(メットゥパラヤム駅)
 

(2018年2月13日改稿)

地形図は、AMS 1:250,000地形図NC43-4 ERODE(1953年編集、Map image courtesy of University of Texas Libraries)、旧ソ連1:200,000地形図C-43-V, C-43-XI, X(1954年編集)を用いた。
クーヌール駅配線図は、ダージリン・ヒマラヤ鉄道協会The Darjeeling Himalayan Railway Societyから入手した路線図 "THE NILGIRI MOUNTAIN RAILWAY" by J.C.Gillham および現地写真を参照した。

写真はすべて、2018年1月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
インド鉄道ファンクラブIRFCAのニルギリ山岳鉄道関連記事
http://irfca.org/docs//history/nilgiri-railway.html
http://www.irfca.org/articles/isrs/fnrm1-nmr.html
http://www.irfca.org/faq/faq-seltrain.html#rack
写真集
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Nilgiri_Mountain_Railway
http://www.irfca.org/gallery/Steam/nmr/

★本ブログ内の関連記事
 インドの登山鉄道-カールカー=シムラー鉄道
 インドの登山鉄道-マーテーラーン登山鉄道
 インドの鉄道地図 V-ウェブ版
 ベトナム ダラットのラック式鉄道

2011年4月 6日 (水)

インドの鉄道地図 V-ウェブ版

現地から詳しい地図帳を取寄せるほどでもないという方に、ウェブサイトで見られるインドの鉄道地図をいくつか紹介しておこう。

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まずは、鉄道の公式サイトから。インド国内に広く張り巡らされた鉄道網の大部分を運営するのが、国有鉄道会社であるインド鉄道 Indian Railways(ヒンディー語でバーラティーヤ・レール)だ。お堅い組織らしく、サイトの構成は基本的に部局別で、旅客列車などに関する情報は旅客局 Coaching Directorateのページに集められている。トップページの "Passenger Info" のリンクからも下記の要領でたどっていける。

■参考サイト
インド鉄道 Indian Railways  http://www.indianrailways.gov.in/
Passenger Info > Time Table Information > Trains at a Glance
または直接リンク
http://www.indianrailways.gov.in/uploads/directorate/coaching/

このページでは、公式時刻表「トレーンズ・アット・ア・グランス Trains at a Glance(略称TAAG)」のPDF版を公開している。画像の直下にある "Table Index" のドロップダウンリストから時刻表の各ページを選択でき、その下の "Content" のくくりで、時刻表の使い方をはじめ、索引や地図を参照できる。「インドの鉄道地図 I」で紹介した添付地図は "Content" の中の "Indian Railways Map" にある。ファイルサイズが大きいのでダウンロードの際は注意されたい。また、同じページに時刻表番号を検索する地図 "Route Map with Table Numbers" もある。路線網の上に記された数字が時刻表番号、赤い線は幹線ルートを示している。

■参考サイト
Indian Railways Map (11.2MB) 直接リンク
http://www.indianrailways.gov.in/uploads/directorate/coaching/pdf/IR_Map.pdf
Route Map with Table Numbers (1.25MB) 直接リンク
http://www.indianrailways.gov.in/uploads/directorate/coaching/pdf/Route map.pdf
ちなみに、発着駅を入力して列車を検索するタイプの電子時刻表は、下記にある。
http://erail.in/

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インド鉄道のサイトでは、電化路線図 Railway Electrification Map も見つかった。鉄道電化局 Railway Electrification Directorate のページにあり、全国の路線網を、2010年3月31日までに電化済みは赤、工事中が緑、2010~11年度の予定線が青、非電化は灰色に区分している。駅名は一部略称化されている。上記の時刻表地図では電化の有無はわからないので、補完資料になるだろう。おそらく定期的に更新されるから、リンク切れになった場合は下記、鉄道電化局のページで捜していただきたい。

■参考サイト
Railway Electrification Map (620KB) リンク切れご容赦
http://www.indianrailways.gov.in/railwayboard/uploads/directorate/rail_elec/RE Map-2.pdf
鉄道電化局
http://www.indianrailways.gov.in/railwayboard/uploads/directorate/rail_elec/

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日本の国土地理院に当たるインド測量局 Survey of India のサイトでは、子供用地図 Geographical  Maps for Children と称するダウンロード専用の各種主題図が提供されている。この中に、「インド鉄道および海上ルート India-Railways and Sea Routes」と「インド鉄道地図 Railway Map of India」という2種類の鉄道関連地図が見つかる。

前者は、右肩にページ数が打ってあるので、何かの地図帳に収載された図なのだろう。タイトルのとおり、国内の鉄道路線と国内外の航路を表示した地図だ。縮尺は1:15,000,000(1500万分の1)。鉄道網は、以前の地域鉄道9ゾーンおよびコンカン鉄道で色分けされ、軌間、電化の区別もある。海上ルートには、距離が海里で併記されている。

後者は、国内鉄道網を描いた縮尺1:10,000,000(1000万分の1)の地図だ。「インドの鉄道地図 I」で紹介した測量局刊行の1枚もの鉄道地図の簡略版に相当する。軌間、電化、単線・複線、工事線、改軌(予定?)線などが細かく記号で区分され、地域鉄道は再分割後の16ゾーンおよびコンカン鉄道で色分けされている。

どちらも製作時期はそれほど古くないのだが、原稿となった測量局の地図はそもそも印刷品質が劣り、加えて画像の解像度も高くないので、次に述べる民製図のレベルにはとても対抗できない。

■参考サイト
インド測量局 http://www.surveyofindia.gov.in/
 トップページ > Downloads
India-Railways and Sea Routes (2.08MB) 直接リンク
http://www.surveyofindia.gov.in/soi_maps/atlas/p_23_200.pdf
Railway Map of India (1.57MB) 直接リンク
http://www.surveyofindia.gov.in/soi_maps/atlas/rail_100.pdf

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インドの鉄道愛好家団体であるインド鉄道ファンクラブ Indian Railways Fan Club (IRFCA) が運営するサイトは、この国の鉄道に関する情報の宝庫だ。「鉄道地図および地理資料 Railway Maps and Geographic Resources」のページに、鉄道地図も豊富に収載されている。

■参考サイト
IRFCA-鉄道地図および地理資料 Railway Maps and Geographic Resources
http://irfca.org/docs/maps.html

最初に掲げられている「一目でわかるインド鉄道網 Indian Railways Network At-A-Glance」は、本ブログ「インドの鉄道地図 III」「インドの鉄道地図 IV」で紹介したサミット・ロイチャウドリー Samit Roychoudhury 氏が2003年に作成したものだ。地域鉄道16ゾーン+コンカン鉄道を色分けし、軌間と単線・複線、電化線を表示する。解像度が低いため、駅名などの詳細は読み取れないが、この地図は、地勢の背景をつけて、ロイチャウドリー著「インド鉄道大地図帳」の表紙見返しにあるインド全図に再利用されているので、必要ならそちらを参照されたい。

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次の「インド鉄道網スキマティックマップ IR Network Schematic Map」は、地図デザイナー、アラン・ガネッシュ Arun Ganesh 氏が2006年に発表した鉄道地図だ。路線網を水平、垂直および斜め45度の直線に単純化した、いわゆるスキマティックマップ(位相図)を試みたところが目新しい。国内路線は電化幹線、(非電化)幹線、その他の線区、改軌中、狭軌の区別があり、地域鉄道のゾーンは線の色ではなく、ベースマップの塗りで表現する。主要区間の所要時間がこまめに表示されているのもユニークだ。

複雑なインドの路線網をスマートに図化した点は大いに評価したいが、幹線に白抜き、地方線に赤い太線を充てた記号デザインには違和感がぬぐえない。地方線が妙に強調されて見える結果、路線網の骨格がすっきり浮かび上がってこないように感じる。視覚上の効果を今少し整理する必要があるだろう。なお、この地図はウィキメディアにも収録されている。

■参考サイト
Wikimedia - Railway Network Map of India - Schematic
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Railway_network_schematic_map.png

3番目の「インド鉄道ルートマップ IR Route Maps」は、1番目と同じくロイチャウドリー氏の作品だ。「長い間、私は地図や地図作成と同じように列車にも関心を抱いてきた。民間の機関と同様、鉄道当局によって製作された一般向けの地図は、詳細を欠いていたり、期待を下回っていると感じる。変革への強い思いから、私は(現存する地図や時刻表、進行中の計画の詳細といった)情報の収集に着手し、2001年前半に最初の鉄道地図を製作した。」(「インド鉄道大地図帳」巻頭言より) それがこの地図で、いわば処女作に当たる。

リンク先のページにある地図画像はクリッカブルマップになっていて、各地域の拡大図に飛べる。また、親ページで1段下げて並んでいる "New Delhi and points north" ほか12の項目も、拡大図への直接リンクだ。

地域鉄道を色分けし、軌間、単線・複線、電化線を区別していくのは、氏の作品に共通する仕様だが、この構成は、実はインド測量局の鉄道地図(上記および「インドの鉄道地図 I」で紹介した大判図)を踏襲したものだ。40年間進歩のない官製図に失望していた氏が、現代の技法を用いて一から描き直したと考えればいい。データは2001年8月現在のため、旧区分9ゾーン+コンカン鉄道で、縮尺の制限から駅数も1200駅に絞られているが、いまだに、ウェブ上で公開されているものとしては最も詳しい。これを原点に、2003年の「一目でわかるインド鉄道網」、2005年の地図帳初版、そして2010年の地図帳第2版と、地図表現の改良の足跡をたどるのも一興だ。

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■参考サイト
ロイチャウドリー氏の個人サイトは現在工事中だが、同じ鉄道地図は残っている。
http://samit.org/irmap/

IRFCAの「鉄道地図および地理資料」のページは、さらに大都市周辺を中心にした各地域の鉄道地図、そして歴史地図の紹介へと続いている。ロイチャウドリー氏やガネッシュ氏のシリーズを始め、さまざまな路線図が並ぶ。別のページ「配線図と地図 Layouts and Maps」では、各種の配線図もサムネールつきで紹介されている。

■参考サイト
IRFCA 配線図と地図  http://www.irfca.org/gallery/Layouts/

★本ブログ内の関連記事
 インドの鉄道地図 I-1枚もの
 インドの鉄道地図 II-IMS地図帳
 インドの鉄道地図 III-ロイチャウドリー地図帳
 インドの鉄道地図 IV-ロイチャウドリー地図帳第2版

2011年4月 5日 (火)

インドの鉄道地図 IV-ロイチャウドリー地図帳第2版

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「インド鉄道大地図帳」第2版
 

2010年10月24日、サミット・ロイチャウドリー Samit Roychoudhury 氏の名で一通のメールが届いた。「前回、インド鉄道大地図帳 The Great Indian Railway Atlas の初版のご購入ありがとうございました。地図帳第2版の発刊をお知らせできることを嬉しく思っています。」 さっそく案内されていたサイトのサンプル画像をチェックする。いくら地図ファンでも新版が出るたびに購入するつもりはないのだが、今回はすぐに決心がついた。

かの国の地図一般の状況からして、初版に出会ったときも相当のインパクトがあったから、そのことは前回記事「インドの鉄道地図 III」に書き留めた。しかし、第2版の内容は旧刊の水準をはるかに超え、さらに磨きがかかっている。何より、ヨーロッパの鉄道地図にも引けを取らないカラフルで精度の高い図面、洗練され行き届いたデザインに目を見張る。サイズは横18cm×縦24cm、全104ページ、相変わらずのコンパクトな冊子だが、この中にインド鉄道網に関する有用な情報がぎっしり詰まっている。

では、第2版はどう変わったのか。巻頭言によれば、「第2版は、初版の更新と同時に新たな情報の提供も目的としている。地図はより正確になった。水部の描写はさらに詳細になった。主要道路、空港、町が表示対象に追加された。フルカラー版への移行によって、色による管区(下注)の描き分けができるようになった。」

*注 インド鉄道の管理体系は、17のゾーン zones(地域鉄道)に区分され、各ゾーンがさらにディヴィジョン divisions(管理区)に細分化されている。

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サンプル図(裏表紙より)
 

まず、地図の正確さというのは、縮尺が大きくなったのではなく、路線や河川などの地理的位置が精密になったことを指している。初版でも路線の軌跡は決して不正確とは思わなかったが、改めて新版と比較すると確かに甘めだ。たとえば、初版を含め従来の路線図で極端な蛇行ルートのように描かれてきたコンカン鉄道 Konkan Railway が、実はすっきりと合理的な線形をしていることなど、第2版が出なければまだ気づかずにいただろう。

*注 コンカン鉄道はインド西海岸、ムンバイ Mumbai とマンガロール Mangalore を直結する新線。難工事の末、1998年に全通した。
従来の路線図の例 http://mappery.com/map-of/Konkan-Railway-Map

新旧とも同じ1:1,500,000(150万分の1)という小縮尺図なので、いくら精密な表現といっても限界がある。しかし、路線相互の位置や接続関係がわかれば十分だという考え方を、著者は決して採らない。それどころか新版では、川や湖などのいわゆる水部、そして海岸線、国境といった、鉄道地図ではあくまで脇役の要素まで、地形図並みの密度・精度で描き切ってしまう勢いだ。一般利用できない官製地形図に代わって、参照資料のリストに加えられたAMS(旧米国陸軍地図局)製の地形図が、徹底主義の拠りどころを明らかにしている。

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凡例(地図記号)の一部
 

次に主要道路や空港の表示だが、これは特別目立つものではない。空港は一応、国際空港、国内空港、その他の3段階表示になっているが、道路のほうは、等級などによる区別が一切見られない。どちらかというと、水部とともにベースマップの構成要素を成すもので、主題図にとっては背景の役割だ。ベージュの陸地に白抜きの道路、ライトブルーの水部というごく控えめな色の組合せは、上に載る鉄道網の表示を程よく引き立てている。

3番目の全頁フルカラー化は、新版最大の特色だ。これによって、管理区ごとに路線の塗り色を変えられるようになった。見た目の効果は大きく、表紙を除いて青と黒の2色刷りだった初版と見比べれば、別の書物かと思うほどの華やかさだ。隣接する管理区に類似色を充てないようにしながらも、トーン(色調)は全体で揃えているので、視覚的な統一感が適度に保たれているのもいい。色分けは鉄道施設の記号にも及び、機関庫(電気、ディーゼル、蒸気)、工場、操車場、コンテナターミナルなどを、頭字語と色で区別する。

メインの鉄道地図は74ページ(コルカタ拡大図を含む)と、縮尺は同じでも初版の55ページに比べてかなり増えた。図郭の変更で生じた余白は、都市近郊の拡大図を充実させるために使っている。対象となった都市は初版では8か所だったが、第2版は30か所以上にもなり、路線が錯綜する地域の読図がずいぶんと楽になった。拡大図では、貨物用の引込線でも2km以上あれば表示の対象になる。線路数も正確に数えてあるので、もはや配線図の域に踏み込みつつある。

このように、「インド鉄道大地図帳」第2版からは、初版の成果と反響を生かしながら、もう数段の高みを目指した著者の執念がひしひしと伝わってくる。精緻化された情報が、著者自身の巧みなデザインで効果的に表現されたことによって、地図帳はかけがえのない価値を獲得した。彼が筋金入りの鉄道ファンであると同時に優れたデザイナーであったことは、インドの鉄道に関心をもつすべての人々にとって大変幸運だったと思わないわけにはいかない。

本書については下記サイトにサンプル画像を含めて紹介があり、オンラインショップから国外へも送ってくれる。各国の鉄道・地図商でも扱うところ(スタンフォーズ Stanfords、ダージリンヒマラヤ鉄道協会 Darjeeling Himalayan Railway Society 等)があるので、容易に入手できる。

【追記 2016.4.19】
2015年11月に待望の第3版が刊行された。「インドの鉄道地図 VI-ロイチャウドリー地図帳第3版」で詳述している。

■参考サイト
The Great Indian Railway Atlas  http://indianrailstuff.com/

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2011年4月 4日 (月)

インドの鉄道地図 III-ロイチャウドリー地図帳

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「インド鉄道大地図帳」初版
 

今回紹介するのは、サミット・ロイチャウドリー Samit Roychoudhury 氏が自ら企画・製作・出版する「インド鉄道大地図帳 The Great Indian Railway Atlas」だ。2005年6月に出版された(下注)。"Great" というタイトルに似合わず、サイズは横18cm×縦24cm、ページ数は84ページと、前回紹介したIMSの鉄道地図帳とほとんど変わらない("Great" の形容詞は、あるいは Railway に係るのかもしれない)。

*注 この記事は「インド鉄道大地図帳」初版を扱う。2010年10月に刊行された第2版については「インドの鉄道地図 IV」で詳述している。

しかしそれ以外の点では、両者はまさに好対照を成している。IMSが赤い表紙なら、こちらは青表紙で、ブルーアトラスとも称される。政府監修に対してプライベート出版、文章主体に対して図版に専心、さらに誤解を恐れずに言うなら、IMSが古いインド映画を思わせる時代がかった編集スタイルなのに対して、こちらはコンピュータ世代が創り出したスマートなデザインと明快なコンセプトの刊行物だ。

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サンプル図(裏表紙より)
 

メインは1:1,500,000(150万分の1)の区分図で、鉄道のない地域を除いて全土が61ページに分割されている。また、デリー、コルカタ、ムンバイなどの大都市近郊は、別に拡大図がある。この中に、インドの鉄道路線に関する情報が満載なのだが、まず画期的なのは、廃駅を含めて合計1万もあるという駅が、残らず掲載されていることだろう。線路の状況も、軌間、単線・複線、電化・非電化の別、新線、線増、電化の工事中・計画中、休止線に至るまで、実に詳しく表示されている。

さらに、記号デザインが直感的で迷いがないのがいい(下写真は凡例の一部)。単線の線路は1本線、複線は2本線で描くといったように、線の数で線路数が分かる。建設中の路線は破線で表すので、この破線が1本線に添えてあれば、複線化工事中ということだ。軌間も広軌は太線、狭軌は細線と、まさに見たままだ。インドの鉄道は、幹線こそ1676mm(5フィート6インチ)の広軌だが、地方の支線には1000mm(メーターゲージ)をはじめ、762mm、610mmの軌間が残っている。改軌の計画がある狭軌線は、細線に、計画中の広軌線を表す薄い破線が添えてあるので、すぐ判断がつく。

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鉄道を表す地図記号
 

この種の地図では、区分が詳細になればなるほど、凡例(記号一覧)と首っ引きを強いられる。2色刷りという制約がある中で、こうした素直で明快なデザインは稀と言ってよく、特に評価されるべきだろう。

図示されているのは線路にとどまらない。鉄道施設では、車庫にEL、DL、SLの別があり、工場、貨物ヤード、コンテナターミナルが記号化されている。かつての日本の時刻表添付地図のように、管理局の境界が、管理局 Division 名の略称とともに書き込まれている。さらにつぶさに見ていくと、主なトンネルや鉄橋が注記されていたり、山岳路線が網掛けで示されていたりと、地図ファンの興味までそそるのが小憎らしい。この国はほとんどの官製地形図を国外に公開していない。そのため、詳細な地形を知るすべがなく、かえって焦燥感を掻き立てられるのだ。

付録や検索機能も充実している。表紙の裏には、ここだけフルカラーの全国図がある。地勢のシェーディング(陰影)を施したベースマップに、現在の全国鉄道網を地域鉄道 Zones 別の色分けで示したものだ。また、巻末には、1893年の全国鉄道網(略図)、南ベンガルの狭軌鉄道網の地図、そして最後に20ページに及ぶ駅名索引(これも休止駅を含む)がついている。

地図帳の裏表紙に記された著者紹介によると、「サミット・ロイチャウドリー氏は1990年代、アーメダバードの国立デザイン研究所に学び、その後数年間カルカッタのコンピュータ会社に勤務した。彼は少年時代から列車に熱中していたが、この地図帳から彼の長年の研究と詳細な情報収集の成果が読み取れる。」 個人でこつこつ集めたデータから鉄道地図帳を作った例はイギリスにもあるが、彼が相手に定めたのは巨人のごとき鉄道大国だ。並みの決意ではできなかっただろう。

紹介文は続く。「これはきっとあなたの役に立つはずだ。なぜなら他の地図帳と違い、鉄道を深く理解し愛する人々のために編まれているのだから...。」 1冊24.99USドルと多少値が張るとはいえ、推薦の言葉どおり、インド鉄道の情報源として第一級の図化資料が現れたのは間違いない。

(2007年7月12日付「インドの鉄道地図 II」に加筆)

■参考サイト
The Great Indian Railway Atlas  http://indianrailstuff.com/
 ただし、現在は第2版の紹介になっている。

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2011年4月 3日 (日)

インドの鉄道地図 II-IMS地図帳

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インドはアジア随一の鉄道王国だ。世界で見ても2番目の規模をもつ。総延長63,140km、駅の数6,856。機関車7,739両、客車39,236両を保有し、1日1,100万人の旅客、110万トンの貨物を運ぶ。さらにインド鉄道は、国内最大の従業員を抱える事業所でもある...。

インド地図サービス社 Indian Map Service (IMS) が発行する「インド鉄道地図帳 India Railway Atlas」(写真は2005年版)は、書名から想像する内容よりも、鉄道旅行のための資料集といったほうが近い。上のデータはここから引用したものだ(下注)。地図帳の奥付にはインド政府 Government of India の著作権表示が見られ、鉄道省監修の公式ガイドといった位置付けなのだろう。

*注 現在は中国に抜かれてアジア第2位、世界ではアメリカ合衆国、ロシア、中国に次いで第4位。公式ページ(2011年現在)によると、ルート総延長は63,028km、駅の数6,853、機関車7,566両、客車37,840両、貨車222,147両。

今回はこの旅行者用地図帳を紹介したい。英語版とヒンディー語版があるが、英語版全96ページの構成は以下のとおりだ...

・全国観光図(インド全図の上に主要都市、記念物・巡礼地、自然保護区、ビーチ、避暑地の位置を表示)
・全国ハイウェイおよび航空路図
・全国鉄道管理区域図(インド全図の上に主要鉄道路線と駅、地域鉄道(管理局)界を表示)
・豪華列車 The Royal Trains、軽便列車 The Toy Trains(概説とルート図)
・現代インド鉄道の驚異(コンカン鉄道 Konkan Railway、コルカタ市メトロ、チェンナイ市高架鉄道の概説)
・州別鉄道地図とデータ集
・州別主要列車時刻表(列車名、停車駅、時刻ほか)
・デリー、ムンバイ等主要都市のメトロ・郊外線路線図
・興味深いインドの鉄道データ(90項目)
・興味深い世界の鉄道データ(14項目)
・駅名索引

メインテーマであるはずの州別鉄道地図は、色刷りページを充てているとはいえ、白地図に路線と主要駅をプロットしただけの、いたって簡素なものだ。路線網はほぼ完全で、地理的位置も正しく示されているが、幹線・支線、軌間の別といった鉄道地図らしい表示は一切見られない。むしろ関心は、各州の特徴を描き分けて、鉄道旅行を慫慂することにあるようだ。

例えば、北部のウッタル・プラデーシュ州 Uttar Pradesh の概説を引用すると、「インドで最も人口の多い州で、面積では4番目にランクされる。州はたいへん多彩で興味深い文化と歴史を有する。偉大な賢人、神聖な書物と叙事詩、そして大河をもつ土地で、そこには永久の歴史と無限の伝説がある。中世、州はムスリムの支配下に入り、ヒンドゥー、イスラム両文化の融合を導いた。イギリスの統治下でも文化的な主導権を保ち、立派にインドの独立戦争を主導した。州は北部山岳地域、南部丘陵地域、ガンジス平野の3つに分けられる。それはまた、高原避暑地、巡礼地、自然保護区、国立公園、史跡その他を含む100以上の旅行先を擁していて、休暇を求める人たちには天国だ。」

概説のかたわらには、州の面積、人口などのプロフィールや交通手段、主な観光地の特徴、最寄り駅からの距離表が添えられている。筆者のようにインドの地理に不案内な者でも、読めばそれなりに地域的特色が理解できた。

一方、中央に綴じ込まれた列車時刻表 Railway Time Table は、縦軸に駅名、横軸に列車名という目に馴染んだマトリクスではなく、主な発駅ごとに、列車単位で列車番号、列車名、停車駅、発着時刻、運行曜日、ルート距離を順に記述したものだ。出発・到着地別に並んでいる航空時刻表を想像するといい。むろん旅行者向けということなので、時刻表と同様、優等列車の「一目でわかる At a glance」抜粋版になっている。ラージダーニー・エクスプレス(首都急行)Rajdhani Express、シャターブディー・エクスプレス(新世紀急行)Shatabdi Express のような特急列車群に始まって、一般的な急行列車 Express まで、48ページにわたってぎっしり書き込まれて見事だ。しかしこれでも全国で1日7,000本という旅客列車の本数から見れば、ほんの一握りということになる。

IMSの地図帳は、駅や鉄道施設といったコアなファン向けの情報源ではないとはいえ、鉄道を通じたインドの旅の参考書と位置付けるなら、一読するに足る内容だ。筆者はこの地図帳をたまたまドイツで見つけたが、現地インドの地図ショッピングサイト(下記参考サイト)でも、国外へ発送してくれるようだ。

(2007年7月5日付「インドの鉄道地図 I」に加筆)

■参考サイト
出版社の地図帳紹介ページ
http://indianmapservice.co.in/railway_atlases.php
インディアマップストア(ショッピングサイト)
http://www.indiamapstore.com/
 鉄道地図帳は、"Map of India"のジャンルにある

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2011年4月 2日 (土)

インドの鉄道地図 I-1枚もの

我が国の9倍近い面積をもつインドには、64,000kmもの鉄道網がある。全路線の8割強がインディアンゲージと呼ばれる1676mmの広軌線だが、地方にはメーターゲージ(1000mm軌間、以下、M軌と表記)や、トイトレイン Toy Train(軽便列車)の舞台である1000mm未満の狭軌線も残っている。これから数回にわたって、手元にあるものを中心に、インドの鉄道地図を紹介したい。まずは、大判用紙に印刷された1枚ものから。

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インド国鉄時刻表
「トレーンズ・アット・ア・グランス」
 

国有のインド鉄道 Indian Railways が発行する「トレーンズ・アット・ア・グランス Trains at a Glance(略称TAAG)」という時刻表がある。毎年1回刊行されるもので、"at a glance"(一目見て、一見して)の名が示すとおり、長距離列車や急行列車の時刻を掲載した時刻表だ(下注)。

*注 より詳細な時刻表が必要なら、「インディアン・ブラッドショー Indian Bradshaw」(W. Newman's & Co. Ltd. 発行)がある。

その巻末に、別刷りの鉄道地図が添付されている。サイズは横42cm×54cm、フルカラー印刷。ベースマップはインド測量局 Survey of India(日本の国土地理院に該当する)の製作で、段彩と陰影を使っておおまかな地勢が描かれている。縮尺は明示されていないが、簡易計測したところ、約1:7,500,000(750万分の1)、すなわち図上1cmが実距離75kmに相当する。

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時刻表添付の鉄道地図
 

テーマである鉄道路線は、軌間と幹線・支線を描き分けている。すなわち、広軌幹線は濃いオレンジで太く、その他の広軌線は薄いオレンジで細く、M軌は青紫の細線、それ以下の狭軌線は緑の細線だ。一方、駅の表示は主要駅のみだが、州都や主要都市の駅は記号の形で他と区別できる。

多色刷りのベースマップ上に、色分けした路線網を加刷するというのは結構難しい条件だが、地図はいわゆる弁別性を失わず、時刻表の付録としては立派な部類に入る。地図の底部に有名観光地の索引があって、地図に付された番号と対照できるようにしているのも、親切な工夫だ。不案内な土地の場合、まずは一覧性のある小縮尺図で全体を把握したい。そういう利用者の要望を満たしてくれる、まさにアット・ア・グランスな地図といえるだろう。

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同 一部を拡大
 

ちなみに、筆者が参照した時刻表は2005年版だが、その後、2009年11月版をダウンロードした。ここにも上記の鉄道地図がついている。著作権表示は「インド政府2001年 (c) Government of India, 2001」で、2005年版と何ら変化がないように見えたが、細部を比べると、北部のデリー近郊や、南部のタミル・ナードゥ州など、かなりのM軌線が広軌の記号に修正されている。1990年代から推進されている軌間統一プロジェクト Project Unigauge によって、鉄道地図は着実に塗り変えられているようだ。

■参考サイト
インド鉄道-旅客列車(のページ)
http://www.indianrailways.gov.in/uploads/directorate/coaching/
"Indian Railways Map" のリンクで、上記鉄道地図のPDF版が見られる。
直接リンク(リンク切れご容赦)
http://www.indianrailways.gov.in/uploads/directorate/coaching/pdf/IR_Map.pdf

インド測量局 Survey of India 自身も長年、独自の鉄道地図を刊行し続けてきた。同局の公式サイトにある「壁掛け一般図 GENERAL WALL MAPS」のページに、地勢図、行政区分図、道路地図などとともに内容が掲載されている。それによれば、名称は「インド鉄道地図 Railway Map of India」、縮尺1:3,500,000(350万分の1)、サイズは横90cm×縦120cm、価格40ルピー(1ルピー1.8円として72円!)、言語はヒンディー語と英語(併記ではなく言語別版)だ。右写真がその実物で、これは1999年の刊行、1962年の初版から数えて第18版と記載されている(下注)。

*注 1961年以前は67マイル1インチの縮尺で毎年刊行していたと、欄外記事にある。

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インド測量局の鉄道地図
 

壁掛け地図 Wall maps とは、大判用紙に印刷されたポスター状の地図のことだ。紙の面積が上記インド鉄道の図の4倍以上ある分、縮尺は大きくなり、情報量も増える。全駅ではないものの、駅の表示はかなり詳しく、駅名の文字の大きさで駅の格がわかるようにもなっている。

鉄道記号は、軌間を線の太さで、単線・複線を実線と二重線で、電化を直交する短線で表す。新設の工事線とともに、広軌への改軌中の記号があるのがこの国らしい。凡例では、緑色が広軌、赤色がM軌のように誤解しそうだが、色は地域別の管理主体を示す目的で使われている。凡例の色はあくまでサンプルだ。

Blog_india_railmap2_detail
同 一部を拡大
 

インド鉄道の組織は、従来9つの地域鉄道 Railway Zones に分割され、それぞれ北部鉄道 Northern Railway、中部鉄道 Central Railway のように称されてきた(分社化しているのではなく管理局のようなものらしい)。地図では、州域をハッチで塗り分けた上に、地域鉄道ごとに路線の色を変えて重ね描きする。州界と鉄道界は一致しないので、なんでもないように見えて、結構高度な配色技巧が駆使されていることになる。とはいえ、2003年に地域鉄道の再編が行われ、現在はコルカタメトロ Kolkata Metro を含めて17に細分化されている。苦心の塗分けも限界に近づいているのではないだろうか。

インド測量局の刊行物は概してそうなのだが、多色刷なのに全体がくすんだトーンで、用紙も印刷も決して上質とはいえない。残念ながら、キレのいい最近の地図に慣れた目には、いささか古びて見えるだろう。情報量だけが取り柄だったのだが、ロイチャウドリー氏の優れた地図帳(「インドの鉄道地図 III」「インドの鉄道地図 IV」で詳述している)が登場してからは、この点でも文字通り色あせてしまった。

■参考サイト
インド測量局「壁掛け一般図」のページ
http://www.surveyofindia.gov.in/general_wall_maps.htm

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「インド-鉄道」図
 

もう一種、いくつかの地図商で扱っているインドの鉄道地図「インド-鉄道 India, Railways」を紹介しておこう。実物は持っていないが、アメリカの地図商ザ・マップショップ The Map Shop のサイトで比較的大きな画像が見つかる(下記参考サイト、右画像はそのサイトから)。横70cm×縦100cmのサイズで、フルカラー印刷。民間出版社の製作らしいが、サンプル図を見る限り、印刷品質は測量局版よりだいぶ良さそうだ。地図表現では、州域を色とりどりに塗り分けたベースマップにまず目が行く。路線網の描き方は単純で、駅の記載密度こそ測量局版と同程度あるが、軌間や線路数といった専門的情報は付加されていない。学校の教材にでも使うのだろうか。この地図はインディアマップストア India Map Store のショッピングサイトでも扱っているので、興味のある方はアクセスされるといい。

■参考サイト
ザ・マップショップのサイトにある上記地図の画像
http://www.wall-maps.com/Countries/IndiaRailMap.htm
部分拡大画像
http://www.wall-maps.com/Countries/india_rail_map_close.htm
インディアマップストアの該当ページ
http://www.indiamapstore.com/wall-maps/IMS0099.html

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2009年11月 5日 (木)

樺太 豊真線を地図で追う

サハリン、日本名 樺太(からふと)は、南北約950kmもある大きな島だ。1905年のポーツマス条約、いわゆる日露講和条約によって南半分に当たる北緯50度線以南が割譲されてから1945年のロシアによる占領まで、日本の鉄道が走った舞台でもある。

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徳田耕一氏の「サハリン-鉄路1000キロを歩く」(JTBキャンブックス、1995)によると、最初の路線は1906年に、南岸の大泊(おおどまり、後の楠渓町駅、開通当時は和名改称前でコルサコフと称した)から豊原(同 ウラジミロフカ)間に敷かれた軍用の軽便鉄道だそうだ。1910年に内地と同じ1067mmに改軌、その後着々と延伸が進められて、1943年の国有鉄道化のときには路線延長が694.8kmに達していた。

路線網の骨格をなすのが、大泊から鈴谷平野を経て島の東側を北上する東海岸線(国有化後は樺太東線)と、西岸に沿う西海岸線(同 樺太西線)、そして東西連絡の目的で建設された豊真(ほうしん)線だ。豊真という名称は、列車の起終点である豊原と真岡の地名を取ったもので、1925~28年にかけて開通し、延長は83.9kmあった(豊原~手井間)。

豊原は現在、ユジノサハリンスク Южно-сахалинск としてサハリン州の州都だが、当時も樺太随一の町で(1937年に市制施行)、豊富な森林資源を背景に製紙工場などが立地していた。一方、西海岸の真岡は、対馬海流と寒風を遮る山脈のおかげで、冬の間流氷に閉ざされる大泊港に代わる不凍港の一つとして利用価値が高かった。両者を結ぶ鉄道の建設は、産業のさらなる発展に貢献するものと大いに期待された。

しかし、この間には西樺太山脈とその支脈が横たわっているため、それをどのように克服するかが計画の焦点だった。その結果、豊真線は、長い連続勾配やスパイラル(ループ線)を備えた樺太きっての山岳路線として知られることとなる。そのようすを当時の地形図で追ってみたい。

全体図
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上の全体図は1935(昭和10)年発行の1:200,000帝国図だ(以下の説明は地名を新字体で表記)。図の右端に豊原町がある。豊真線は南北に延びる「本線」、すなわち東海岸線から分岐して、しばらく北進した後、最初の山越えにかかる。滝の沢駅のすぐ西で峠のトンネルを抜けて、留多加(るたか)川の上流域を下っていくが、二股(ふたまた)で進路を転じて二番目の峠道に挑む。宝台(たからだい)信号所の先で峠を越えたあと、スパイラルを経て海岸の手井(てい)に降りていき、西海岸線に合流して真岡に到達する。真岡駅の手前から港への支線が確認できる。

山越えの区間を詳しく見るために、1:50,000地形図を参照しよう。

最初の山越えは、豊原から2つ目の鈴谷(すずや)駅と次の奥鈴谷駅のほぼ中間、線路が北西に向きを変えるあたりから始まる【図1、図2】。20~25‰の急勾配が16kmほども続き、貨物列車を牽引する蒸機にとっては胸突き八丁の難所だったに違いない。並行する道路(豊真山道)から大きく北にはずれていることからもわかるように、これでも勾配を抑えるために直登を避けて、いわゆる高巻きのルートを採っている。張り出す尾根を切通しや計8個のトンネルでさばきながら、山襞をくねくねと縫っていくのはそのためだ。そして上り坂の終盤は、大きなS字カーブを描いて高度を稼ぐ。接続道路のない奥鈴谷はもとより、峠の手前の滝の沢も周囲に人家はなく、列車交換や補給のために設けられた駅だった。

なお、終戦直前の1945年7月、小沼~奥鈴谷間が開通したことにより、豊原~奥鈴谷間が廃止されたという(ウィキペディア日本語版「豊真線」による)。地形図には表されていないので、空中写真をもとにして図1にルートを加筆したが、これでわかるように、近くを走っていた既存の川上線とつなぐことで豊真線の短絡化を図ったのだ。未完に終わった西海岸線と同様、戦況が緊迫するなかで、調達困難なレールなどの資材を国境付近の軍事路線に転用するのが目的だったと思われる。その後、ソ連時代になってもとのルートに戻されたため、この区間は廃線となった。

また、引用した地形図には短絡線分岐地点の線路の北側に、築堤と切通が描かれている。一見旧線跡のようだが、この区間の開通が1928年、地形図の測図はわずかその1年後だ。単純に線路改良とみなすには無理があるものの、真相は不明だ。

【図1】
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【図2】
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本論に戻ろう。滝の沢駅は標高407mと、この路線のみならず樺太全体で最も高い地点にある駅だった。道路は南にそれて標高523mの春日峠を乗り越えていくが、鉄道は長さ1km弱のトンネルで西に抜け、混合樹林に埋め尽くされた中野川の脇を、小刻みなカーブを繰り返しながらひたすら下っていく【図3】。

左から大曲川と道路が合流する頃には、谷も少し開けて中野駅に着く。峠の前後は駅間距離が長く、1930(昭和5)年5月の「汽車時間表」(日本旅行協会)によると、奥鈴谷~滝の沢間は13.4km、滝の沢~中野間は12.9kmもあって、いずれの区間も列車は30~40分を要している。

【図3】
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まもなく中野川の蛇行が始まって、流域の勾配が緩くなったことを知らせる。清水駅を経て、一帯の行政区である清水村の中心、逢坂(おうさか)に立ち寄るために、榊原峠の南側を短いトンネルで抜ける【図4】。逢坂駅は集落の中心から7~800m離れているが、すでに駅前集落が形成されつつある。

道路はそのまま西へ進んで熊笹峠を越えるのだが、線路は南へ向きを変えて、逢坂川に沿って下る。清水川が合流して留多加川と名を改めた二股駅付近は、谷幅が1km以上にもなって、山中ながら車窓に広々とした眺めが展開したはずだ。標高も128m(駅北の標高点による)まで下がってきた。しかし、のどかな風景もここまでで、西海岸に出るためには、二つ目の山越えを準備しなければならない。

【図4】
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留多加川を渡るところで、ルートは大きく東側にたわんでいる【図5】。不自然な迂回に見えるが、等高線を読むと、二股の集落が載っている河岸段丘から一段下に降りようとしているようだ。横断する際の土工量を減らすためだろう。話はそれるが、地形図ファンなら、すぐ南の沼倉沢の谷が河川争奪を受けて、留多加川に短絡していることに気づくはずだ。谷頭に池があり、断ち切られた断面がぽっかり空いた、いわゆる風隙(ふうげき)になっていることで判断がつく。線路はかつて沼倉沢の上流だったはずの谷に沿って上っていく。

この沢登りは前者ほど深くはなく、峠の手前にある宝台駅(地形図では信号所、1933年に駅に昇格)まで二股から9.1km、峠の下を抜けるトンネル入口の標高も約240mに過ぎない。しかし、峠の向こう側には、当線の名物となったスパイラル、いわゆる宝台ループ線が控えている【図6】。

線路は直線状に尾根を2本串刺しにしてから、反時計回りに降りていく。上下の線路が立体交差する地点では、上部側を上路トラスの鉄橋にして、トンネルから出てきたばかりの下の線路を斜めにまたいでいた。このような凝った線形にしたのは、1.5kmほどの直線距離で100m以上ある高低差を一気にかせぐためだ。ループ線そのものの延長は1643m、高低差約36mという(「サハリン-鉄路1000キロを歩く」による)。

これで急勾配は去り、あとは手井川に沿ってゆっくり下っていく。池ノ端駅は地名の由来である貯水池より1km以上も川上で、集落も見当たらない。これも列車交換用に設けられたのだろう。地図に樺工貯水池とあるのは、真岡にある樺太工業(のち合併して王子製紙)の製紙工場のための用水池だ。線路はその北側を抱き込むように通過し、まもなく海岸線に出て、西海岸線との乗換え駅手井に到着する。真岡へは海岸沿いにもう1駅だ。

【図5】
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【図6】
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先述の汽車時間表では、豊原~真岡間86.9kmに4往復の旅客列車が設定されていて、途中、中野と手井にだけ停まる最速列車で所要2時間58分、各駅停車は4時間以上を費やしている。ソ連時代になっても運行は続けられたが、1970年に最狭部のアルセンチェフカ Арсентьевка(真縫)~イリインスク Ильинск(久春内)間に北部横断線が開通すると、東西交通の主流はそちらに移行した。急勾配の連続もさることながら、トンネルの断面が狭軌限界のため、大陸の広軌用車両を台車だけ狭軌に交換しても通行できないことが、貨物列車の運行には致命的だったからだ。

ペレストロイカが進んだ1989年以降は外国人観光客のツアー列車にも開放されていくが、1994年、トンネル内で落盤が発生して通行不能に陥る。時すでに地域の旅客輸送は機動性のあるバスに置き換えられつつあったため、結局復旧の手が入ることなく中間部は放棄されてしまったという。

■参考サイト
ウィキペディア 豊真線 http://ja.wikipedia.org/wiki/豊真線
ウィキペディア 宝台ループ線 http://ja.wikipedia.org/wiki/宝台ループ線

ソ連時代の地形図に描かれた豊真線は、下記で紹介している。

本ブログ「ロシアの鉄道を地図で追う」 サハリン島のループ線
https://homipage.cocolog-nifty.com/map/2008/05/post_b431.html

使用図葉:
陸地測量部1:200,000帝国図 豊原 1935(昭10)年製版
陸地測量部1:50,000地形図
 豊原、小沼、以上1929(昭4)測図
 逢坂、瑞穂、樺太眞岡、廣地、以上1930(昭5)測図

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2009年4月 2日 (木)

朝鮮半島 金剛山電気鉄道を地図で追う

朝鮮半島中央部、日本海に面した金剛山(韓国語ではクムガンサンと読む)は、そそり立つ奇岩と清冽な瀑布渓流の織り成す景観が四季を通じて見事で、半島有数の観光地として知られている。金剛山は最高峰、毘盧峰(標高1638m)のことをいうと同時に、周辺の山地と海岸あわせて530平方kmを指す広域地名でもある。地区別に、山地の西側を内金剛、東側を外金剛、海岸一帯を海金剛と呼び習わしている。

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全体図
 

古来より経典にも読まれて誉れ高いこの山も、20世紀初めまで訪問者はわずかなものだった。観光地として脚光を浴びるのは、1930年代になってからだ。それを導いたのが1本の私鉄、金剛山電気鉄道だ。鉄道は軌間1435mm、直流1500Vの電化路線で、半島横断線の一つである京元線から東へ分岐する。1924年に金化まで部分開通したのを皮切りに順次延伸して、1931(昭和6)年、鐵原~内金剛間116.6kmが全通した。1934年11月改正の時刻表によれば、全線通しの列車は1日3往復、片道4時間20分前後で結んでいる。他に2往復の区間便が設定され、さらにシーズン中は、ソウル(当時は京城)から直通寝台列車が運転されたという。

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中臺里発電所
 

鉄道局の幹線がすべて蒸機運転だった時代に、このような田舎でなぜ、100kmを越える電化路線が実現したのだろうか。それは、会社のもう一つの柱が電力事業だったからだ。金剛山の北西30km、北漢江の上流に貯水池を建設し、黄海に向かって流れていた水を高低差の大きい日本海側に落下させて、発電機を回した。貯水池と導水路はいまも存在し、衛星画像で確認できる。電力は鉄道で自家消費するとともに、沿線やソウルにも供給していた。

会社は当初、世界恐慌後の経済情勢の影響を受けて、補助金頼みの苦しい経営を強いられた。全通を境に、観光地への足として注目が集まり、沿線の鉱山開発も成功して、旅客、貨物とも取扱高が大きく伸びていく。そして創立20年目の1939年には、単年度黒字を出すまでに成長した。

しかし、時代はまもなく暗転する。戦時体制下で企業統合が進む中、1942年に京城電気に合併、1944年には先端の昌道~内金剛間が不要不急として運行休止になった。1945年の日本撤退後、半島は北緯38度線で分割され、沿線は北に属することになるが、続く朝鮮戦争で施設の破壊を受けて、鉄道の機能は完全に停止した。確定した軍事境界線によって起点から1/3は韓国側、残り2/3は北朝鮮側に分断され、非武装地帯(DMZ)が無残にも廃線跡を横断している。

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下掲地形図の索引図

悲運の鉄道は、日本統治期に作成された地形図に在りし日の姿をとどめている。社史「金剛山電気鐵道株式會社廿年史」(1939年)とともに、起点の鐵原駅から順に追ってみよう。

電鉄が接続していた京元線は、ソウルから北上して日本海側の元山へ向かう朝鮮総督府鉄道局の路線(局鉄線)だ。鐵原(てつげん、韓国語でチョロン(チョルウォン))はその中間部、山中に開けた標高200m前後の盆地にある。1927(昭和2)年修正のこの地形図【図1左、駅と市街の拡大図は右2点】では、電鉄線の始端は京元線と約100mの距離を置いて並行しており、京元線との間の連絡線も描かれている。2年後の1929年、局鉄の駅舎が新築されたのに合わせて、電鉄の乗降場は局鉄構内に移設された(社史p.58)。駅は鐵原市街から3kmも離れた場所に設けられたため、駅前通りが直線で市街と結んでいた。

電鉄線はこの道路を斜めに横切った後、市街の東に最寄駅を置いている。その「げつかり(月下里)」駅は後に、鐵原方に0.4km移設され、四要駅と名乗った。次の大位里(たいいり)も同様に鐵原方に0.5km移され、東鐵原駅となった。なお、戦争後、京元線は鐵原の9.2km手前に新設された新炭里駅止まりとなり、以北は廃止されて施設は撤去された。鐵原市街自体もまた南に移転している。

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【図1】鐵原~(旧)大位里間の地形図
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鐵原駅構内
 

東鐵原を後に、金剛山電気鉄道は針路を東北東に変えて、漢灘川(現在は漢灘江)が流れる谷中平野をほぼ一直線に進んでいく。貨物列車のために「上り勾配最急1/40なるを1/60に緩和」(社史p.71)した個所の一つであるささやかな鞍部を越えると、起点から28.8kmの金化だ【図2】。1924年8月、最初に開通した区間の終点になる。地形図では駅の西にまとまった市街が描かれているが、DMZに近接していたため、鐵原のように5km南西に移っている。線路跡はこのあと、漢灘川の支流、南大川の穏やかな谷を北上していき、この間にDMZを通過して北朝鮮側に入る。

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【図2】金谷~金化間
 

また一つ小さな峠(地形図では中峙嶺)を越えた起点から51.0kmの金城までが、1925年12月、第2期の開業区間だ。ここまでは比較的平坦な行路だったが、北上を再開した先に、最初の山越え、屈坡嶺が待ち構えている。炭甘駅(地形図では、たんかんり)を出てすぐ、鉄道は東の谷へ大きく膨らむオメガカーブで高度をかせぎ、峠の直下を延長1880フィート(573m)のトンネルで抜けていく【図3】。

駅は起点から65.6kmの南昌道(1935年以降に開設されたため、この地形図には描かれていない)、ついで67.6kmの昌道と続く。付近で採掘した鉱産物の積出し駅となったことで、ここまでは戦時中も休止を免れた。

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【図3】金城~屈坡嶺間
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南昌道駅での硫化鉄鉱の積込作業
 

ところで、鉄道の敷設許可申請書の段階では、鐵原から新安中里を通り化川里まで63マイル(101.4km)をまず敷設するとされていた。昌道からまっすぐ北に向かうルートだ(全体図参照)。しかし、この間には「北漢江の広流と扶老只嶺の難嶮」が存在するため、金剛山を最終目標とする限り工費、工期の点で最良の選択肢とはいえない。そこで、途中に同じような峻険があっても、化川経由より約14マイル(23km)の短縮となる現ルートに変更したのだという(社史p.56)。

化川は、昌道から北北東へ30km離れた小集落で、そのとおり建設されていれば、内金剛行きの列車はかなりの迂回を強いられたはずだ。なぜ、僻村の化川が目的地とされたのか。あえて詮索するなら、化川から東海岸と内金剛方面へ連絡道路が通じていたことや、会社が建設をもくろんでいた発電施設との関係が挙げられよう。建設補助金の獲得に関する裏事情があったのかもしれない。

かくして鉄道は昌道から東にそれて、北漢江の本流に出会い、縣里からはまた支流を遡っていく【図4、5】。だが今日、この区間を空から追った人は誰しも、想定外の現況を発見して当惑するに違いない。なぜなら、昌道の村から桃坡付近まで路線延長にして20km以上が、広大な湖の底に沈んでしまっているからだ。この湖は、北漢江に金剛川が合流する狭隘部を堰き止めたダムによるものだ。地図に湖面の推定位置(標高300m付近)を加筆してみた。社史にはこの間で北漢江を渡るガーダー橋の写真があるが、橋どころか周りの風景さえも、もう見ることができない。

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【図4】昌道~縣里間、水没区域を加筆
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北漢江を渡る鉄橋
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【図5】縣里~花溪間、水没区域を加筆
 

支谷は次第に深まり、起点から94.7kmの花溪を過ぎると、上り勾配がきつくなる。内金剛への近道として選ばれた斷髮嶺越えには、延長4554フィート(1388m)のトンネルが必要だった。地質はきわめて硬く、強力な削岩機を用いることで工事は能率よく進み、1年3ヶ月で貫通している(社史p.57)。地形図では、両端にスイッチバックが設けられているのが目を引くが、これで高度を上げなければトンネルの長さは2倍に延びていただろう【図6】。トンネル西側に設けられた五兩駅スイッチバックの、土工の跡も鮮やかな全景写真が社史に残されている。付近の勾配は1/20(50‰)もあったという。

*注 社史のスイッチバック写真のキャプションに海抜824mとあるが、これは誤りで、地形図ではせいぜい500数十m。全線で最も高所となるトンネル東口でも700mに届かない。

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【図6】花溪~斷髮嶺~末輝里間
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五兩駅スイッチバック全景
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斷髮嶺隧道東口
 

難所を越えれば、右手に金剛川の谷の眺望が開ける。勾配をすべるように下りて、起点から108.0kmの末輝里に到着する。1930年にここまで開通したときは金剛口という駅名だったが、全通時に改称された。さらに内金剛への時間短縮を図るべく、金剛川を渡り、小さな峠を越えて東金剛川の谷に出る路線延長が実施された【図7】。鐵原から起算して116.6km、終点内金剛は、「瀟洒たる朝鮮風丹碧の色彩鮮麗なる」(社史p.164)駅舎を持ち、シーズンの人出に備えて広い島式ホームが用意されていた。内金剛の山並みを背景にした当時の写真がある。ソウルから到着した夜行から山男や参拝客がホームに降り立つ情景を、この絵に重ねてみたい。

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【図7】末輝里~内金剛間
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内金剛駅

半島全域を巻き込んだ戦争によって、鉄道は歴史のかなたに消え、金剛山中に点在していた古刹の伽藍も荒廃し尽くした。1998年、現代財閥の手で韓国からの観光事業が開始されたが、東海岸からのアクセスのため、訪問できるのは外金剛と海金剛の一部に限られている(2008年7月以来中断)。山並みの向こう、70年前に列車が遊山客を盛んに送り届けていた内金剛は、今も多くの人々にとって遥かな幻のままだ。

■参考サイト
ウィキペディア韓国語版 終点内金剛駅の写真
http://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8C%8C%EC%9D%BC:Uchi-Kongo_Station.JPG

のりまき・ふとまきのホームページ 金剛山の昔話
http://www.norihuto.com/kumgang-old.htm
 金剛山観光開発の歴史を綴った詳細資料。この中に金剛山電気鉄道についてのページがある。
百年の鉄道旅行 金剛山電気鉄道
http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_053.htm

現代峨山金剛山観光 http://www.mtkumgang.com/ 日本語版あり
 金剛山観光の紹介ページ。風景写真、絵図もある。

使用図葉:
陸地測量部1:50,000地形図
 鐵原、金化、金城、以上1927(昭2)修正測図
 昌道里、末輝里、以上1933(昭8)修正測図
 内金剛 1935(昭10)修正測図
陸地測量部1:10,000地形図
 鐵原 1927(昭2)第2回修正測図

写真:「金剛山電気鐵道株式會社廿年史」金剛山電気鐵道, 1939(昭14)

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