保存鉄道

2026年8月23日 (日)

保養地鉄道モリー

保養地鉄道モリー Bäderbahn Molli

バート・ドベラーン Bad Doberan~オストゼーバート・キュールングスボルン・ヴェスト Ostseebad Kühlungsborn West 間 15.43km
900mm軌間、非電化
1886年開業
1910年ハイリゲンダム Heiligendamm~アーレントゼー Arendsee(現 キュールングスボルン・ヴェスト)間延伸

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雨をついて街路を進むモリー

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バルト海沿岸の小都市、バート・ドベラーン Bad Doberan(下注)の狭い石畳の街路を、900mm狭軌の蒸気機関車に牽かれた列車がそろそろと通り抜けていく。路面電車ならいざ知らず、場違いの珍客に初めて見た人ならきっと驚く。ドイツの観光鉄道ではとりわけ有名なシーンの一つだ。

*注 Doberan は、Berlin や Schwerin のように最終音節にアクセントがあるので、日本語への音写ではドベラーンとした。

鉄道(会社)の正式名は「メクレンブルク保養地鉄道モリー Mecklenburgische Bäderbahn Molli」という。だがこの界隈では昔から、単に「モリー」あるいは「モリーバーン(モリー鉄道)Molli-Bahn」「モリーツーク(モリー列車)Molli-Zug」などと呼ばれて親しまれてきた。モリーは、英語圏ではメアリー Mary やマーガレット Margaret の愛称だが、なぜ、鉄道がモリーなのだろうか。

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雨上がり、街角に夕陽がさす
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客車の側壁に記されたモリーのロゴ
 

一説によると、その起源は、沿線の猟師が飼っていた狩猟犬の名前にあるそうだ。鉄道が開業したてのころ、狩りに出ていた猟師と猟犬モリーの近くを列車が通った。モリーは獲物と勘違いしたのか、列車のほうへ走っていく。猟師が「モリー、止まれ」と大声で叫んだところ、それを耳にした機関士が、列車を急停止させた。

当時は、駅でなくても乗降が可能だったので、機関士は乗車を求める客と勘違いしたらしいが、それ以来、蒸気列車もモリーと呼ばれるようになったという逸話だ(下注)。登場人物が猟師と猟犬ではなく、老婦人と愛玩犬というバリエーションもあったりするのだが、ともかく犬の名から転じたという点は共通している。

*注 ドイツ語で機関車を意味する "Lokomotive(ロコモティーヴェ)" は女性名詞なので、愛称には通常、女性名がつけられる。

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モリー通りを通過する列車
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地形図に保養地鉄道モリーのルート等を加筆
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA

鉄道のほうの「モリー」は、ロストック Rostock とヴィスマール Wismar を結ぶDBローカル線の中間駅、バート・ドベラーンを起点とする長さ15.43kmの路線だ。ドベラーンの街中を抜けた後は、海岸林に沿って走って、海浜保養地の終点オストゼーバート・キュールングスボルン・ヴェスト Ostseebad Kühlungsborn West に至る。

しかし当初の目的地は、もっと手前のハイリゲンダム Heiligendamm だった。ここは、1793年開設というドイツ最古の歴史を有するゼーバート(海浜保養地)Seebad で、内陸にあるドベラーン鉄道駅からは6km以上離れている。そこで、この間を結ぶ蒸気路面軌道として計画されたのだ(下注)。

*注 1892年のプロイセン軽便鉄道法施行後は、軽便鉄道に再分類された。

軌道は1886年7月に開業した。配備された2両の機関車は2軸の箱型で、町中を通過する際に鳴らすハンドベルが装備されていた。また、冬期はゼーバートが閉鎖されるため、列車の運行も5月から9月の夏のシーズン限定だった。

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海辺の白い街 Weiße Stadt am Meer、ハイリゲンダム(2008年)
Photo by EHRENBERG Kommunikation at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

1910年には、西側にある保養地で当時、アーレントゼー Arendsee と称した現在の終点に至る新規区間が開業する。その際、ハイリゲンダム駅は現位置まで約200m移設され、旧駅跡は現在、駐車場になっている。さらに西方への延伸も予定されていたのだが、第一次世界大戦の開戦で実現せずに終わった。

鉄道は1920年に国有化され、その後は東ドイツ時代を通して国鉄(ドイツ国営鉄道DR)の狭軌路線として運営され続けた。この間、貨物輸送が1969年に廃止されている。ロールワーゲンのような標準軌貨車を狭軌線に直通させる方式は、市内区間の建築限界に抵触するため、導入できなかった。

ドイツ再統一後の1994年にいったんDB(ドイツ連邦鉄道)の路線となるものの、翌95年に自治体資本の鉄道会社が設立されて、運営を引き継いだ。これが現在のメクレンブルク保養地鉄道モリー社 Mecklenburgische Bäderbahn Molli GmbH になる。

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市街地を抜けてDB駅に向かう
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煙を残して遠ざかるモリー

「モリー」は、定期列車の運行を蒸気機関車が担っているので、一般には保存鉄道、あるいは観光鉄道と思われている。確かにその性格が色濃いが、実は公共交通体系に組み込まれた、ドイツでいう ÖPNV(近距離公共旅客輸送機関)のカテゴリーに属する鉄道だ。ロストック周辺のÖPNVが加盟するヴァルノー運輸連合 Verkehrsverbund Warnow (VVW) の一員で、系統番号RB31を掲げている。

そのため、モリーは毎日走る。しかも旺盛な観光需要を反映して、夏ダイヤの場合、毎時1本の等時隔運行だ。平日は計11往復、休日も10往復ある。シーズンオフの冬期は平日5往復、休日4往復に減便されるが、年末年始には臨時列車が設定される。全線の所要時間は43~47分だ。

蒸機運行にはコストがかかるため、運賃は、運輸連合のゾーン運賃とは別で、独自に設定されている。全線片道12ユーロ、往復18ユーロ(2025年現在)で、どちらも途中下車が可能だ。

また、ドイチュラントチケット Deutschlandticket はそのままでは通用しないが、出札窓口で提示すると、一日乗車券 Tageskarte を11ユーロで購入できる。言い換えると、往復運賃から7ユーロ割引されるということだ。ちなみに、この一日乗車券はリューゲン保養地鉄道 Rügensche BäderBahn でも有効なのだが、一日で両鉄道を乗りつぶすのは時間的にタイトすぎるだろう。

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ドイチュラントチケットと併用する一日乗車券
氏名・生年月日・署名の記入欄がある

ロストック中央駅からRB(普通列車)で西へ19分、DBバート・ドベラーン駅は、本線上に300mもある長い片面ホームを持った駅だ。それを1番線、2番線と使い分けていて、東行き(ロストック方面)は西端、駅舎前の1番線に、西行き(ヴィスマール方面)は東端の2番線に停車する。というのも、2番線の外側に待避線があり、東行き列車はここを通ることで、2番線停車中の西行きと行き違うことができるのだ。

ところが、時間帯によって30分ごとに挿入される東行きの区間便は、2番線の反対側に隠れている櫛型ホームの3番線に発着するからややこしい。私はロストックへ戻る際、うっかり1番線で待っていたため、発車寸前に気づいてホームを100m以上、全力疾走する羽目になった。

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DBバート・ドベラーン駅
(左)駅舎前の1番線
(右)ホーム東端の2番線、外側に待避線がある
 

駅には4番線もある。DB線のホームから見ると、駅舎や通路屋根を隔てて反対側(北側)で、これがモリーの発着ホームだ。敷かれている線路の幅こそ狭いが、構内はDB線をしのぐほど広い。機回し線や留置線が並び、右手奥には大きな車庫も見える。

DB線もモリーも基本的に1時間間隔 Stundentakt で運行されているので、両者の接続は10分前後と良好だ。この日、ドベラーン駅に着くと、4番線には、すでに出発準備を整えたモリー列車が客待ちしていた。あいにくのくもり空で肌寒い。乗継ぎ客は早々と車内に入ってしまい、ホームは閑散としている。

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(左)4番線はモリーの発着ホーム
(右)構内の奥には立派な車庫が
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(左)モリーの駅舎
(右)出札窓口
 

蒸機は99.32形と呼ばれる動輪4軸のタンク機関車(車輪配置2-8-2T)だ。1932年にオーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社で製造され、今も3両が現役で走っている。この列車を率いるのは、そのうちの2号機(車番99-2322-8)だ。

99.32形にはもう1両、2008~09年にマイニンゲン蒸気機関車工場 Dampflokwerk Meiningen で新造された4号機(同 99-2324-4)がいる。ドイツで定期運行用に蒸機が製造されたのはほぼ50年ぶりと話題になった若い機関車だ。

モリーにはこのほか、戦後生まれの99.33形も3両在籍していた。1951年LKM(下注1)製で、1961年にSDAGヴィスムート産業鉄道 Werkbahnen der SDAG Wismut から到来した機関車(車輪配置2-8-0T)だ。しかし、99.32形に比べて最高速度が劣るため、夏の通常ダイヤには載せることができず、1両(同 99 2331-9)が予備機として残るのみだ。残りの1両はすでに廃棄され、もう1両(同 99 2332-7)は終点駅で静態保存されている(下注2)。

*注1 カール・マルクス機関車製造人民公社 VEB Lokomotivbau Karl Marx。ポツダムのバーベルスベルク地区 Babelsberg, Potsdam にあった。
*注2 後述のように2025年に訪問したときは見当たらなかった。

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99.32形、2009年生まれの4号機
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キュールングスボルン・ヴェスト駅に静態保存された99.33形(2016年)
Photo by Torsten Maue at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

転車台がないので、往路キュールングスボルン方面の機関車は逆機(バック運転)になる。その後ろにオフホワイトと赤のツートンをまとう古典客車が8両続き、最後尾は荷物車だ。発車時刻が迫っている。DB駅舎の隣にあるモリー駅舎の出札で、上述した一日乗車券を購入して、さっそく乗り込んだ。

オープンデッキから入ると、車内には、1人掛けと2人掛けのシンプルなボックスシートが並んでいた。改装されてはいるが車歴は古く、最長老が1911年、最も若いものでも1930年製という。雰囲気は以前に乗ったハルツ狭軌鉄道のそれに似ているが、一つ異なるのはトイレがないことだ。この手の客車は垂れ流し式なので、町中を通過する列車には適さない。

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(左)モリーの古典客車
(右)車内の座席は1+2配列
 

雨が降り出すなか、汽笛一声、列車は駅を離れた。最初は駅前通りに沿った専用軌道を進む。ロストック通り Rostocker Straße の踏切を通過すると、左に緩くカーブして、ドベラーンの中心街に入っていく。その入口でシュタットミッテ(中心街の意)Stadtmitte 停留所に停車。まずはここで降りて、街巡りをしながら正機で戻ってくる機関車を撮ろうと思う。

シュタットミッテを貫くこの約300mの街路にはモリー通り Mollistraße の名がつけられている。しかしこれは伝統的な地名ではなく、列車にちなんだ後世の命名だ。東ドイツ時代は戦前の共産主義指導者の名を冠したエルンスト・テールマン通り Ernst-Thälmann-Straße といい、1990年のドイツ再統一後、現 名称に改められた。

軌道と併用の狭い道なので、クルマは許可車以外、通行禁止だ。それをいいことに(?)、テラスを歩道にはみ出させている店もある。観光客もうろうろしているので、蒸機はベルを連続でカンカンと響かせながら、最徐行で通過していく。西行きは緩い下り勾配だから、ほとんど煙を出していない。

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(左)ドベラーンの中心街へ
(右)シュタットミッテ停留所に停車
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併用軌道のモリー通り
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バート・ドベラーン市街地の拡大図
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

市街の見学を済ませた後、モリー通りに戻って次の列車を待った。やってきたのは、今年(2025年)弱冠16歳の4号機だ。といっても、レプリカとして造られたので、外見は先輩たちと区別がつかない。試運転の際は、撮り鉄が殺到するのを避けるため、旧来の3号機のプレートをつけて走ったというエピソードをもっている。

モリー通りを抜けると、道幅が広がり、線路は直線道路の左側に張り付く。ゲーテ通り Goethestraße と呼ばれるこの600mほどの区間は、開業時は畑の中の専用軌道だった。今は住宅街だが、区画に余裕があり、大きな邸が建ち並ぶ。途中に同名の停留所もある。

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直線道路のゲーテ通りを行く
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ゲーテシュトラーセ停留所
 

ゲーテ通りの突き当りで、列車は左に急カーブして、いよいよ専用軌道に移る。ベルは鳴りやみ、速度も上がった。右側には林地とそれに沿う並木道が続き、左は見渡す限り、麦や菜種の畑地が広がっている。行事開催日にだけ停車するレンバーン(競馬場)Rennbahn 停留所は通過した。

10分近く続くこの風景は、ハイリゲンダム Heiligendamm 駅で中断される。ここは2007年にドイツで開催されたG8サミット(G7+ロシア)の会場に選ばれたような高級保養地なので、駅舎にもどこか品格が漂う。待避線があり、6分停車の間にドベラーン行きと列車交換した。

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ハイリゲンダム駅は白ずくめの駅舎
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戻ってきた2号機と列車交換
 

列車旅の後半も、海岸林を右手に見ながら、畑の中を行く構図は変わらない。途中にあるシュタイルキュステ停留所 Steilküste はリクエストストップだ。オートキャンプ場の最寄りで、林を抜けて白砂の海岸にも出られる。地図で見ると海はごく近いのだが、実際には林に視界が遮られてしまう。車窓から水平線が望めるのは、キュールングスボルン・オストの手前のほんの一瞬だけだ。

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車窓風景
(左)菜種畑に浮かぶ集落 (右)収穫間近の麦畑
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(左)シュタイルキュステ停留所
(右)水平線を望めるのは一瞬
 

やがて周囲に建物が現れ始め、列車は左に大きく曲がって、オストゼーバート・キュールングスボルン・オスト Ostseebad Kühlungsborn Ost、すなわち東駅に入っていく。この後、ミッテ Mitte(中駅)、ヴェスト West(西駅)と続く、キュールングスボルン市(下注)所在の3駅の一つだ。

*注 自治体の正式名はオストゼーバート・キュールングスボルン市 Stadt Ostseebad Kühlungsborn。オストゼーバートは、バルト海(ドイツ語でオストゼー Ostsee)沿岸の海浜保養地を意味する。

キュールングスボルンというのは、背後の丘陵地の名であるキュールング Kühlung と、泉を意味するボルン Born を組み合わせた新地名だ。東駅のあるブルンスハウプテン Brunshaupten 町と、西駅のあるアーレントゼー Arendsee 町が1937年に合併し、翌38年に市名に採用された。

合併するまで両町は保養地としてライバル同士だったそうで、駅舎の規模や構造も両者遜色がないし、通常ダイヤでは使われないものの、東駅にも待避線がある。ここで多数の客が降りて、車内は目に見えてすいた。

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(左)キュールングスボルン東駅
(右)下車客多数
 

このあと列車は、緑の多いキュールングスボルンの住宅地を縫っていく。ミッテ(中駅)は道路沿いで片面ホームの停留所だ。そこから3~4分も走れば、終点オストゼーバート・キュールングスボルン・ヴェスト(西駅)の建物が見えてくる。

定刻に到着した。駅舎側のホームは約200mの長さがある。その外側に複数の側線が並び、並木の陰には修理工場と車庫も建つ。バート・ドベラーン駅に匹敵する大きな構内だ。客が入れ替わった列車では、さっそく復路に向けて機回し作業が始まった。

降車した客は駅舎の中を抜けて通りに出ていく。駅舎の東半分はカフェ併設のモリー博物館だが、今日は月曜日のため閉まっている(下注)。ホームの横に鎮座しているはずの99.33形静態保存車も、どこへ行ったのか見当たらない。

*注 水~日曜の9時から17時30分に開館。なお、館外の展示物は常時見学可能。

列車を1本見送って、バルト海のビーチまで歩いてみようと考えていたが、この不安定な空模様では行く気が失せる。ちょっと早いがバート・ドベラーンまで戻ることにして、私も折返しの列車に乗り込んだ。

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終点キュールングスボルン西駅
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定刻に到着
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機回し作業が始まる
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出発準備完了
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駅舎正面
 

■参考サイト
保養地鉄道モリー(公式サイト) https://www.molli-bahn.de/

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 ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-東部編 I

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 ハルツ狭軌鉄道 III-ハルツ横断線
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 ザクセンの狭軌鉄道-ツィッタウ狭軌鉄道
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2026年8月14日 (金)

ベルリン東郊の小路線-ヴールハイデ公園鉄道

ヴールハイデ公園鉄道 Parkeisenbahn Wuhlheide
(別名:ベルリン公園鉄道 Berliner Parkeisenbahn (BPE))

周回軌道 延長7.5km
軌間600mm、非電化
1956年開業
1993年バーデゼー Badesee~ヴールハイデ公園鉄道駅 Parkeisenbahn Wuhlheide 間延伸

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ディーゼル機関車が牽く公園鉄道の列車

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ヴールハイデ Wuhlheide(下注)にある小鉄道のことは、昔、東ベルリンの市街図を初めて目にしたときから気づいていた。郊外の森林公園のなかに、複数のルートをもつ直径1km強の環状線が描かれている。だが、これがいわゆる子供鉄道であることを知ったのは最近で、ドイツの保存・観光鉄道のリストを編んでいたときだ。

*注 ヴールハイデはヴーレ川 Wuhle の原野 Heide を意味する。実態は主に樫(オーク)の森。

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ベルリン東郊の鉄道路線図(市内路面軌道、Uバーンを除く)
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日本でいう「私鉄記号」で描かれるヴールハイデ公園鉄道
1:25 000市街地形図 3547 Berlin-Köpenick 1998年版、青線が1kmグリッド
© 2026 Landesvermessung und Geobasisinformation Brandenburg

 

子供鉄道というのは、かつてソ連を中心とした旧社会主義諸国で社会教育組織として運営されていた鉄道のことだ。大人の鉄道員の指導のもとで、子どもや若者が運行業務に携わる。ピオネール(少年団)活動の一翼を担っていたことから、当時はピオネール鉄道 Pioniereisenbahn と呼ばれていた。

1989年の社会主義体制崩壊後は政治色が取り払われ、多くがボーイ/ガールスカウトのような青少年活動として存続した。鉄道の名称も子供鉄道 Kindereisenbahn や、公園内を走るものは公園鉄道 Parkeisenbahn などと改められた。

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(左)車掌役の少年
(右)機回し作業で所定位置につく
 

その最大のものはハンガリーの首都ブダペストにある子供鉄道 Budapesti Gyermekvasút(下注)で、全長11.2kmあり、ギネス世界記録に認定されている。ドイツでもドレスデン Dresden、コットブス Cottbus、ケムニッツ Chemnitz など東部諸州に十数か所残っているが、なかでもベルリン Berlin のそれは、路線延長7.5kmで国内最大だ。

*注 詳細は「ブダペスト子供鉄道 I-概要」「同 II-ルート案内」参照。

ヴールハイデ公園鉄道 Parkeisenbahn Wuhlheide は、市内東部のオーバーシェーネヴァイデ Oberschöneweide 地区にある同名の公園のなかを巡っている。600mm軌間の簡易軌道 Feldbahn が敷かれ、蒸気機関車またはディーゼル機関車がオープン型の小型客車を牽いて走るスタイルだ。

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本日の列車構成は機関車と客車4両

ヴールハイデの歴史は、1911年にベルリン市が飲料水の保全のために、525haといわれる未開発の広大な森林地帯を買収したことに始まる。このうち西側は第二次世界大戦以降、軍用地に転用されたが、再統一後は植生の回復が図られて、いくつかの公共施設があるほかは現在、森に戻っている。

一方、東側では東ドイツ時代に、戦前の共産主義指導者エルンスト・テールマン Ernst Thälmann を記念するピオネール公園が開園し、野外ステージや水浴池、子ども向けの自然環境体験館などとともに、1956年にピオネール鉄道が配置された。

東ドイツのピオネール鉄道は、1950年にドレスデンで開設されたのが最初で(下注)、ベルリンのそれは国内で6番目だった。スタートは遅かったが規模は大きく、他都市のそれが自治体の運営だったのに対し、1970年代以降はDR(東ドイツ国鉄)が直接運営に当たっていた。

*注 ドレスデン市内のグローサー・ガルテン(大庭園)Großer Garten に今もある381mm軌間の公園鉄道。

そしてドイツ再統一後は、ベルリン公園鉄道 Berliner Parkeisenbahn (BPE) と改称され、運営は非営利会社に移された。

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緑うるわしいヴールハイデの並木道
 

また、市内から公園へのアクセスを改善するため、1993年に路線の延伸も行われている。環状線の北端バーデゼー Badesee 駅から分岐してSバーンのヴールハイデ駅裏に至る支線がそれだ。以前の公園鉄道はエンドレスの環状線で、その南端にある「ハウプトバーンホーフ(中央駅)Hauptbahnhof」が文字どおりのエントランスだった(下注)。支線の開業で、北側を通っているSバーンからも容易に乗り継げるようになった。

*注 中央駅は、ベルリン市電27、60、67系統の休暇休養センター停留所 Haltestelle Freizeit- und Erholungszentrum の至近にある。

現在、公園鉄道が巡っているエリアは、休暇休養センター Freizeit und Erholungszentrum、通称フェーツ FEZ に含まれ、森の中に文化施設や子どもや家族向けのレジャー施設が点在する。鉄道はそれ自体がアトラクションであるとともに、各施設へのアクセス手段としても機能している。

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1993年に延伸開業したヴールハイデ駅

鉄道が運行されるのは、3月から10月の土日祝日と、夏休み、アドベント(待降節)といった子どもたちが動ける期間だ。また、園内のパルクビューネ(野外音楽堂)Parkbühne で催し物がある日は来場者向けのピストン運転がある。列車を率いるのは基本的にディーゼル機関車だが、特定の週末には蒸気機関車が登場して人気を博する。

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(左)公園鉄道の蒸機ルイーゼ・ラース Luise Las(2001年)
(右)同 メラピ Merapi(2002年)
Photos by Andreas Prang at German Wikipedia. License: public domain
 

ヴールハイデ駅に通じる支線はもとより、環状線自体も枝分かれしているので、ルート設定の自由度は高い。公式サイトには実に9通りもの経路が記載されているが、現在はそのうち「5系統 Linie 5」で運行されることが多い。

これは、中央駅を出発して環状線を東へ進み、バーデゼーBadesee駅まで半周した後、支線に入り、ヴールハイデ駅まで行く。そこで折り返し、復路は環状線の中線を通って、中央駅に帰着するというルートで、所要時間は31分だ。

また、ヴールハイデ駅支線の往復を省略する代わりに、自然環境体験館 Haus Natur und Umwelt 駅経由の環状ルートを走行する「2系統」の日もある。この場合、所要時間は20分になる。

なお、環状線の西半分は、実質的に車両基地 Betriebswerk 発着列車の回送線になっていて、客を乗せて走るのは車庫見学のような特別行事のときに限られている。

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ヴールハイデ公園鉄道路線図
緑:2系統、紫:5系統
ヴールハイデ駅は図上端、中央駅は下端
image from https://www.parkeisenbahn.de/

ヴールハイデ公園鉄道も、ヴォルタースドルフ路面軌道などと同じくSバーンS3系統の沿線に位置している。実は路面軌道に先立って、午前中に訪ねたのがこの鉄道だった。

Sバーンのヴールハイデは、人里離れた森の中でぽつんと取り残されたような駅だ。ホームの東端にある跨線橋が公園鉄道への連絡通路だが、私は駅舎のある西端の出入口へ回った。線路をまたぐ道路橋の上から、公園鉄道の折返し駅のようすを眺めようと思ったのだ。

まっすぐ延びる4本のDB線から植込みと通路を隔てて、公園鉄道ヴールハイデ Wuhlheide Parkeisenbahn 駅のささやかな片面ホームが見える。ホームの前には本線と機回し用、2本のか細い線路が並んでいる。

この日はディーゼル機関車の牽引で、5系統のルートを10時台から17時台まで35分間隔で運行していた。1行程の所要時間は31分。なお、12時30分からの1時間はスタッフの休憩時間で、列車は走らない。

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(左)Sバーン ヴールハイデ駅
(右)S3系統の電車が出発
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DB駅に並行して公園鉄道の片面ホームがある
 

道路橋から降りて、ホームで数人の客とともに待っていると、10時59分着の列車が入ってきた。先頭に立つのは、青い車体のV10C形ディーゼル機関車だ。1969年にポツダム Potsdam のLKM社(下注1)で製造された産業用機関車で、名前はゲルノート Gernot。この鉄道の生え抜きで、もう50年以上働いてきた。後ろにオープン客車(下注2)を4両引き連れている。いずれも枕木方向にベンチが並ぶコンパートメント式で、最前と最後の車両は屋根付きだ。

*注1 正式名称はカール・マルクス・バーベルスベルク機関車製造所 Lokomotivbau Karl Marx Babelsberg。旧 オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社が1948年に改称したもの。
*注2 雨天時や気温が低い時期は密閉式客車に置換えられる。

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(左)本日の機関車V10C形「ゲルノート」
(右)オープン客車
 

駅に到着すると、さっそく機回しが始まった。安全ベストを着用した若い鉄道員たちが側線の両端にあるポイントの前へ移動し、機関車の動きに合わせて進路を切り換えていく。機関車の運転や整備は大人の仕事だが、こうした転轍手をはじめ、車掌、踏切警手、運行指令など運行の現場を支えるさまざまな業務を、彼らがチームで担っている。

機関車の連結作業が終わり、乗客が客車内に収まると、車掌役の少年がホームを歩いて、切符を切ってくれる。一周乗車券 Rundfahrt が5ユーロ(下注)。これでヴールハイデ駅まで戻ってこられるが、途中下車はできず、前途無効だ。

*注 2026年現在、一周乗車券は6ユーロ。支払いは現金のみ。なお、蒸機列車は割増料金となる。

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ヴールハイデ駅の機回し作業
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列車の前に機関車を再連結
 

定刻の11時05分、少年車掌が柄の先に円のついた標識を高く上げる。機関士が鋭い警笛でそれに応えて、列車はおもむろに動き出した。油煙の臭いが鼻をつく。

ホームを後にすると、道路橋とDBベルリン外環状線 Berliner Außenring の下をくぐり、左に急カーブして公園の森に入っていった。遊歩道と合流して、もう一本の鉄道支線の下を通り抜ける。分岐駅バーデゼー(水浴池)Badesee は通過(下注)、次のパルクビューネ(野外音楽堂)Parkbühne では停車し、数人の客を乗せた。

*注 往路はリクエストストップの扱い。

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(左)急カーブして公園の森へ
(右)鉄道支線の下を通り抜ける
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(左)バーデゼー南方で環状線を分岐
(右)シュタディオーン駅は通過
 

リクエストストップのシュタディオーン(陸上競技場)Stadion 駅は通過。駅名になっている競技場をかすめた後、列車は再び左に大きくカーブして、ハウプトバーンホーフ(中央駅)Hauptbahnhof に滑り込んだ。

一方通行の環状線なので、ここもシンプルな棒線駅だが、鉄道にとっては運行の拠点だ。すぐ外側の街路をベルリン市電が走っていて、市内鉄道網との接続駅にもなっている。それで平屋の大きな駅舎があり、出札窓口も開いていた。

ダイヤ上は列車の起終点で、列車番号が変わり、乗務員の交替もある。しかし、実際は5分前後の停車の後、同じ編成で出発するから、通しで乗る客は着席したままだ。

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運行拠点のハウプトバーンホーフ(中央駅)
 

再び少年車掌の合図で、11時20分に中央駅を発車した。後半は、前半にもまして森に包まれた軌道を延々と行く。園内を東西に貫く小道の名を冠したアイヒゲシュテル(樫森の道)Eichgestell は、休暇休養センター(FEZ)本館の最寄り駅だ。公園利用者の駐車場も近接しているからか、乗り込む客がけっこう多く、ベンチシートがほぼ塞がった。この近くで、公園鉄道よりさらに小型の、500mm軌間のミニ列車が走っているのだが、実見する時間がないのが惜しい。

DBベルリン外環状線に沿って数分走ると、左から軌道が近づいてきて、バーデゼーに停車。あとは、先刻通ったルートを通って、ヴールハイデ駅に戻ってきた。11時34分到着。少年車掌に「ありがとう」とあいさつして、ホームに降りた。列車の先頭では、早くも折返しのための機回し作業が始まっている。側線を回ってきた機関車が再び連結されるのを見届けて、Sバーン駅への跨線橋を上った。

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ヴールハイデ駅に戻ってきた
 

■参考サイト
ヴールハイデ公園鉄道 https://www.parkeisenbahn.de/
ヴールハイデ公園鉄道協会 Parkeisenbahn Wuhlheide e.V.(支援団体)
https://www.vereinparkeisenbahn.de/

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2026年7月11日 (土)

ベルリン東郊の小路線-ブーコー軽便鉄道

ブーコー軽便鉄道 Buckower Kleinbahn

ミュンヘベルク(マルク)軽便鉄道駅 Müncheberg (Mark) Kleinbahnhof ~ブーコー(メルキッシェ・シュヴァイツ)Buckow (Märkische Schweiz) 間 4.9km
標準軌(1435mm)、直流600V電化
1897年開業(750mm軌間、蒸気鉄道)、1930年標準軌改軌および電化、1998年運行休止
2002年保存運行開業

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保存電車479/879形、ブーコー駅にて

ドイツの首都ベルリン Berlin の東郊には、森や野原と農地が混在する平原地帯が広がっている。そのなかに小規模ながら個性的な鉄道路線がいくつか見つかる。いずれも標準軌幹線の駅と、その幹線が経由しなかった町とを結ぶもので、運行にかかわる事業体もその町の公営企業や保存団体だ。ドイツ鉄道 Deutsche Bahn (DB) やベルリン市交通局 Berliner Verkehrsbetriebe (BVG) といった大手の路線では見ることのできない独特の雰囲気をもつこの小路線群を訪ねてみよう。

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ベルリン東郊の鉄道路線図(市内路面軌道、Uバーンを除く)

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ベルリン中心部から東へ50km、ブーコー Buckow(下注1)は、森と湖が織りなす景観でマルク・スイス(ドイツ語ではメルキッシェ・シュヴァイツ Märkische Schweiz、下注2)と称される自然公園の拠点になっている小さな町だ。

*注1 Buckow は(ブッコウではなく)ブーコー [ˈbuːkoː] と発音する。
*注2 マルク Mark は、正式にはブランデンブルク辺境伯領(マルク・ブランデンブルク Mark Brandenburg/Markgrafschaft Brandenburg)といい、かつてはベルリンを中心として東西約300km、南北約200kmの範囲に広がっていた。

ベルリンから東へ延びる鉄道が開通したのは1867年のことだ。プロイセン東部鉄道 Preußische Ostbahn と呼ばれ、当時プロイセン領だったケーニヒスベルク Königsberg(現 ロシア領カリーニングラード Калининград/Kaliningrad)を経てロシア国境に至る長距離の主要幹線の一部だった。先行開業していたオーデル川 Oder 以東への短絡線として造られたので、沿線の小さな町には目もくれず、遮るもののない平原地帯を一直線に進んでいく。

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ブーコー湖北岸の眺め(2012年)
Photo by Lienhard Schulz at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

ブーコーも、そして次回取り上げるシュトラウスベルク Strausberg も、当時はこの幹線鉄道に見放された町の一つだった。しかし、1892年に地域振興を図る目的で鉄道の建設要件を緩和するプロイセン軽便鉄道法 Kleinbahngesetz が成立すると、様相が一変する。

各地で雨後の筍のように鉄道の建設ブームが巻き起こり、ブーコーでも負けじと1893年に、東部鉄道のミュンヘベルク Müncheberg 駅と町を結ぶ鉄道計画が発議された。建設費を抑えるために軌間750mmの狭軌線とし、蒸気機関車で運行する。地元自治体や民間の資本拠出で鉄道会社が設立され、1897年7月に約5kmの路線が開業した。

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ミュンヘベルク駅舎(2012年)
Photo by Andre_de at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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地形図にブーコー軽便鉄道のルートを加筆
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道の出現はまた、別のブームを呼び覚ました。マルク・スイスの静かな湖畔にベルリン市民の関心が集まり、夏場の行楽客が増加したのだ。狭軌の蒸気列車では集中時の輸送をさばききれなくなったため、会社は、改軌と電化という抜本的な設備更新に踏み切った。1930年5月に鉄道は標準軌化され、同時に直流800Vの電気運転が始まった。東部鉄道は非電化のままだったので、孤立した電化路線だった。

第二次世界大戦後の東ドイツ体制下で鉄道は国有化されて、組織的にはベルリンSバーンの管轄となる。電化開業時から走り続けてきた車両の老朽化に伴い、1980年から82年にかけて製造された2両編成の新車3本が調達されて旧車を置き換えた。これはベルリン・シェーネヴァイデ Berlin-Schöneweide の国鉄修理工場の製造で、車体にはSバーン車両、動力系には直流600Vの路面電車ゴータカーの設備がそれぞれ転用されている。対応して、架線電圧も600Vに改められた。

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ミュンヘベルク軽便鉄道駅で発車を待つ保存電車
 

しかし、ドイツ再統一後は自動車交通の増加で、鉄道利用者が減少する。変電所の設備更新を回避するため、1993年からはディーゼル動力のレールバス運行に切り換えられた。翌1994年、ブーコー線はDR(東ドイツ国鉄)の他の路線網とともに新生DB(ドイツ鉄道)に継承されたが、すぐに不採算路線として整理対象に挙げられる。運行期間の短縮を経て、列車の運行は1998年9月の夏ダイヤ最終日をもって終了した。

その後、路線は保存団体のメルキッシェ・シュヴァイツ鉄道協会 Eisenbahnverein Märkische Schweiz e. V. に引き継がれた。協会の目的は、もとの電気運転の復活だった。変電所の改修は数年に及んだが、その完成により再び架線に電流が通され、車庫に眠っていた電車が自走できる環境が整った。こうして2002年9月から、ブーコー軽便鉄道全線で夏の間、オリジナル車両の走行シーンが見られるようになったのだ。

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フラクトゥール文字で記されたブーコーの駅名標
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ブーコー駅構内、ミュンヘベルク方を望む

昨年(2025年)6月、私は、北ドイツを巡るうちの半日をブーコー訪問にあてた。この年は4月19日から10月5日の間の土日祝日が運行日で、1日8往復が設定されていた。

軽便鉄道の起点であるミュンヘベルク(下注1)へは、ベルリン市内のオストクロイツ Ostkreuz 駅またはリヒテンベルク Lichtenberg 駅から、RB26系統の列車が30分間隔で出ている(下注2)。オストクロイツからの所要時間は42分、気軽に行ける郊外の行楽地だ。

*注1 正式名は地方名を添えた Müncheberg (Mark)。
*注2 ニーダーバルニム鉄道会社 Niederbarnimer Eisenbahn AG (NEB) が運行事業者で、「オーデルラント線 Oderlandbahn」の愛称が付されている。

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ボンバルディア製タレント Talent が運用されるRB26系統(2007年)
Photo by MPW57 at German Wikimedia. License: public domain
 

ところがこの時は、運悪く途中のシュトラウスベルク以遠が工事運休で、バス代行になっていた。ミュンヘベルクまであと18km、列車なら15分なのだが、並行する道路は約5km南を通るB1(連邦道1号線)しかない。鉄道がいかに沿線集落を無視して敷かれたかがわかるが、そのため代行バスは、距離およそ30kmの大迂回で、35分かけてようやくミュンヘベルク駅前に到達した。

さらにこの駅自体、ミュンヘベルクの村の中心部から3.5kmも離れたさびしい森の中にある。駅前には民家が散在するものの、商店などはまったく見当たらない。不案内な土地なので、きょろきょろとあたりを見回しながらホームに出た。2番線では、代行バスからバトンを受け継ぐ本線コストシン Kostrzyn(下注)行きの列車が客待ちしている。

*注 コストシン Kostrzyn はRB26系統の終点で、オーデル川 Oder を越えたポーランド側の国境の町。ドイツ語名はキュストリン Küstrin。

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(左)シュトラウスベルク駅前から代行バスに乗る
(右)ミュンヘベルク駅のコストシン行き列車
 

そのホームの中央部に地下道に降りる階段があり、大きな案内板が掛かっているのに気づいた。「マルク・スイスへはこちらから直接行けます。ブーコー軽便鉄道、トンネル(地下道)を通って7番線へ」。これなら迷うことはない。

親切な案内に従って長い地下道を抜け、階段を上がると、駅裏の森に囲まれた荒地の先に、クリームと赤茶のツートンをまとう2両編成の電車が見えた。ミュンヘベルク発の一番列車だ。バスの到着が10時11分で、軽便鉄道の発車が10時20分。バスがほぼ定時に走ってくれたおかげで、なんとか間に合った。

このコンクリート張りの短いホームは軽便鉄道専用(下注)だが、DB駅舎とはずいぶん距離がある。どう数えれば7番線になるのかわからないが、昔はこの間にも多数の側線が広がっていたのだろう。

*注 正式名はミュンヘベルク(マルク)軽便鉄道駅 Müncheberg (Mark) Kleinbahnhof。

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(左)軽便鉄道の案内板
(右)荒地の先に軽便鉄道の電車が
 

電車は、上述のとおり東ドイツ時代の1980~82年製で、電動車479.6形と制御車879.6形がペアを組む(下注1)。車体はベルリンSバーン276形からの転用だが、乗降扉は仕様が異なり、中央1か所のみだ。ブーコー軽便鉄道の駅はホームが低く、乗降ステップを要するため、ハルバーシュタット式 Halberstädter(下注2)と呼ばれるこの設計が採用された。

*注1 現存3編成の車番は479.601~603と879.601~603。これは1992年にDB体系に準じて改番されたもので、保存車両の車体にはDR時代の車番(電動車ET 279 001, 003, 005と制御車ES 279 002, 004, 006)が記載されている。
*注2 中央に乗降扉をもつDRの客車群 Mitteleinstiegwagen は、ハルバーシュタット鉄道修理工場 Raw Halberstadt で製造されていたのでこう呼ばれる。

車内に入ると中央室があり、その両側に、クロスシートを並べた客室が配置されている。当時ブーコーに納入された3編成はいずれも現存し、稼働可能な状態だという。ちなみに、テューリンゲン登山鉄道の山上区間を走っている479.2形(下注)も、これと同時期に製造された姉妹車両だ。

*注 本ブログ「テューリンゲン登山鉄道(旧称 オーバーヴァイスバッハ登山鉄道)」参照。

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電動車479.6形(手前)と制御車879.6形
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(左)出入口のある中央車室
(右)クロスシートを配置した客室
 

ホームでそそくさと写真を撮って、車内に入った。乗客はほかに、お母さんと子供2人の家族連れのみ。本線がバス代行で、アクセスしにくい時期だからだろうか、案外少ない。

そこへ鉄道のスタッフが肩からバッグを提げた別の少年を連れてやってきた。この少年が検札を担当しているようだ。「こんにちは、切符を」と声がかかったので「ブーコー往復お願いします」と返す。往復の運賃は7ユーロ。手際よく鋏を入れてくれたのはエドモントン式の硬券ではなく、カード型の乗車券だった。裏面に479.6形の写真が配してある。

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検札を担当する少年
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カード型の往復乗車券、下は裏面
 

そうこうする間に、列車はおもむろに動き出した。スタッフがまた客室に入ってきて「運転室へどうぞ」という。本来は子供向けのサービスだろうが、前方車窓にかぶりつけるのはありがたいので、私もお言葉に甘えた。

線路は駅から東向きに出た後、大きな左カーブで北を向く。初め畑地や牧草地も見えるが、やがて森に包まれていく。驚くことに、軌道にはPC枕木が敷かれていて、架空電化の設備とともに、保存鉄道が週に2日使うだけの走行線路とは思えない立派さだ。

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(左)運転室からの前面展望
(右)軌道にはPC枕木が敷かれている
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子供たちも興味津々
窓下部の旗はドイツ国旗とブランデンブルク州旗
 

時速40kmで進んでいくと、唯一の中間駅ヴァルトジーファースドルフ Waldsieversdorf が見えてきた。停留所 Haltepunkt には不釣り合いな大きさの駅舎が建っている。最寄りの村からの強い要望で、開業の9年後に設置されたそうだが、保存鉄道になった今でも利用されているのだろうか。時刻表どおりに停車したものの、乗降客はなかった。

30秒ほどで再び発車。線路はおおむね直線で、周囲は深い森が続く。しばらく座席に戻っていたが、時刻を見計らって前方を見ると、S字カーブの先に車庫らしき建物が覗いている。まもなく視界が開けて、枝分かれした側線群と、終点駅の頭端式ホームが現れた。10時32分ブーコー(下注)到着、所要12分のミニトリップだった。

*注 正式名はブーコー(メルキッシェ・シュヴァイツ)Buckow (Märkische Schweiz)。

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(左)ヴァルトジーファースドルフ停留所
(右)線路の周りは森が広がる
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ブーコー駅構内に進入
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ブーコー駅に到着
 

駅舎は線路と直行する形に建っていて、一部2層の、鉄道の拠点にふさわしいどっしりした建物だ。正面玄関とは入口が別だったため、気づくのが遅れて行けなかったが、ささやかな鉄道博物館(有料)も開設されている。

車寄せのついた玄関から駅前に出た。ヤナギの大木が陰を作る石畳の広場がある。しかし、日曜日のお昼前というのにクルマも人も通らず、ひっそりと静まりかえっていた。

おそらく、駅が位置するのが町の南はずれだからだろう。ブーコーの町の中心までは、ここから800mほどの距離がある。折返しの列車に乗るつもりの私には、出かける時間の余裕がなかったが、列車を1本見送ってでも、趣のありそうな田舎町とマルク・スイス自然公園の湖沼群を一目見ておくべきだったと、今になって後悔している。

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一部2層の大きな駅舎
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駅務室入口
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広場に面した駅舎正面
 

次回は、同じ東部鉄道沿線のシュトラウスベルク鉄道を訪ねる。

■参考サイト
ブーコー軽便鉄道 https://buckower-kleinbahn.de/

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 テューリンゲン登山鉄道(旧称 オーバーヴァイスバッハ登山鉄道)

2026年6月10日 (水)

ナウムブルク市電-保存トラムが担う都市交通

ナウムブルク路面軌道 Straßenbahn Naumburg

ハウプトバーンホーフ(中央駅)Hauptbahnhof~ザルツトーア Salztor 間 2.9km
軌間1000mm、直流600V電化
1892年蒸気運転で開業、1907年電化、1991年運行休止
1994年保存運行開始

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中央駅停留所で客扱い中のレコワーゲン

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フランクフルト発のICEがお約束のごとく遅延したため、エアフルト Erfurt で乗継げるはずの RE(快速列車)に間に合わなかった。ナウムブルク Naumburg の中央駅に着いたのは予定より1時間後で、時計の針はもう正午をとうに回っている。

ナウムブルク(下注1)はエアフルトとライプツィヒ Leipzig の中間に位置する人口3万人強の地方都市だ。この町にも路面電車が走っている。ナウムブルク路面軌道 Straßenbahn Naumburg が運行する1本きりの路線で、延長2.9km。運営事業体単位では、ドイツ最小の路面軌道とされる(下注2)。

*注1 同名の町と区別するために、ナウムブルク・アン・デア・ザーレ Naumburg an der Saale と呼ばれる。ドイツ語の正式表記は Naumburg (Saale)。
*注2 路面蒸気機関車で運行されるキームゼー鉄道 Chiemseebahn が1.9kmとさらに短いが、分類は地方鉄道で、併用軌道区間もない。「キームゼー鉄道-現存最古の蒸気トラム」参照。

特色はそれだけではない。業界主流の連節低床車両が1台もなく、最も新しいもので1970年代生まれという古典単車だけで日常運行を賄っているのだ。ほかの都市なら週末の特別運転でにぎにぎしく登場するような旧車が、毎日入れ替わりで市内を行き来している。ライプツィヒに向かう途中、この町に寄り道したのは、この保存鉄道のような「市電」のようすを直接確かめたかったからだ。

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DBナウムブルク中央駅
(左)ローマ建築風の正面入口
(右)ボンバルディア製タレント Talent 2 のREで到着
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ナウムブルク市街と軌道路線図
赤の実線は現行路線、黒の破線は廃止線
© 2026 basemap.de / BKG

ナウムブルクに幹線鉄道が通ったのは1846年という早い時期だ。ハレ Halle (Saale) からエアフルト、アイゼナハ Eisenach、ベブラ Bebra に至るテューリンゲン鉄道 Thüringer Bahn の経由地の一つとされ、現在の中央駅も同時に開業した。しかし、駅はザーレ川 Saale が流れる低地に設置されたため、河岸段丘上に位置する市街地とは約1.5km離れ、高低差も30m近くあった。

両者の連絡で最初に構想されたのは馬車軌道だったが、段丘を上る坂道がネックとなり実現しなかった。ようやく1892年に蒸気運転による路面軌道が開業して、町は駅と結ばれた。当初は民間資本で運営されたが、赤字続きで1900年に倒産したため、市が買収に踏み切る。市営になったことで、1907年には念願の電化を果たした。

中心街のマルクト Markt を通って南のザルツトーア Salztor を終点としていた軌道は、まもなく市街の西側へ延伸される。1914年にはさらにその先端が中央駅まで届いて、全長5.4kmの環状線が完成した。単線ながらも、電車は時計回りと反時計回りでそれぞれ環状運転されるようになった。

東ドイツ時代も国有企業のもとで運行は続けられたが、1990年のドイツ再統一後は、自動車の増加と地域経済の不振により、利用者が激減してしまう。改修工事を理由に1991年8月に運行が中断されたまま、市は復活を断念した。

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環状線時代の路面電車(1990年)
(左)中央駅停留所
(右)マルクグラーフェンヴェーク Markgrafenweg 付近
Photo by Gustav Stehno, @ Tramwayforum.at
 

再建のきっかけは、1994年、残された軌道で保存トラムによる観光事業を企てた有志が「ナウムブルク路面軌道」を設立したことだった。最初は、車庫を起点に一部区間で散発的な運行が実施された。

会社は環状線の完全復興を目指していたが、市と意見が折り合わず、結局、東側の中央駅~フォーゲルヴィーゼ Vogelwiese 間で、2006年のイースターから毎週末の運行が始まった。事業は好評で、翌2007年から毎日運行となり、駅と旧市街の外縁を結ぶ交通手段として定着していく。

2010年にはついに、市バスのように州の補助対象となる ÖPNV(近距離公共交通機関 Öffentlicher Personennahverkehr)に認定され、事実上「市電」と呼べる存在になった。また2017年には、フォーゲルヴィーゼからザルツトーアまでの軌道延伸が実現し、現在のルートが完成している。

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停留所に掲げられた運賃表と路線図
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マリーエントーア Marientor 付近を行く電車

ナウムブルク中央駅 Naumburg Hbf は、列柱が支えるポルティコを正面に据えた古典的なデザインが印象的だ。そのファサードを出ると、目の前のささやかな駅前広場に、路面電車の乗り場「ハウプトバーンホーフ(中央駅の意)Hauptbahnhof」がある。

以前は、駅前通り Bahnhofstraße の東の角が起点だったのだが、2018年に、より駅に近い現位置まで50mほど延伸・移設された。時を遡れば、環状線時代の停留所はここにあったので、30年の歳月を経て旧に復したことになる。シンプルな棒線駅だが、すぐ先の駅前通りに行き違いループが残されている。

時刻表によれば、路面電車の運行は30分間隔だ。終点まで所要11分なので、通常1編成がシャトル運行している。土曜の日中のみ毎時1往復が増便され、途中で列車交換がある。運賃は片道2.40ユーロ(2025年現在、下注1)だが、ÖPNVなので、ドイチュラント・チケット  Deutschland-Ticket(下注2)も有効だ。

*注1 中部ドイツ運輸連合 Mitteldeutscher Verkehrsverbund GmbH (MDV) の1区運賃。
*注2 略称 D-Ticket。ドイツ全土のSPNV(地方公共交通機関)やÖPNVが月単位で乗り放題の格安切符。

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(左)中央駅手前の行き違いループ
(右)トラムのイラストが描かれた停留所標識
 

次の発車は13時ちょうど。しばらく目を離しているうちに、もう10人ほどがホームに集まってきている。5分前に電車が通りの角から姿を現し、定位置に停車した。

公式サイトによれば、本日の車両は、1973年にベルリンのシェーネヴァイデ鉄道修理工場 Raw Berlin-Schöneweide で製造された2軸、両運転台のTZ 70/1形51号車で、いわゆる「レコワーゲン Rekowagen」の仲間(下注)だ。長年、近隣イェーナ(イエナ)Jena の市内を走っていたが、2001年5月からナウムブルクで第二の人生を送っている。

*注 「レコ」は改造 Rekonstruktion の略だが、ほぼ新造車も含まれる。

系統幕に4とあるとおり、路面電車は4系統 Linie 4 を名乗る。これは、定期運行再開時に市内バスの1~3系統に準じて付番されたからだが、後にバスが101~103系統に改番されたため、1~3は現在、欠番になっている。

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(左)TZ 70/1形51号車
(右)車内はボックスシートが並ぶ
 

降車が終了すると、逆側の扉が開いて、待っていた客が乗込み始めた。その間に別の客も次々とやってきて、結局20人前後が乗車した。けっこう盛況だ。車内は、2人掛けと1人掛けの広めのボックスシートが並んでいる。バリアフリーに適合しない高床車とはいえ、乗ってしまえば快適だ。

客が多かったので、定刻より少し遅れて発車。最初は静かな駅前通りを行く。線路は右端に寄せられ、車道とも歩道とも明確に区切られているので、実態は道端軌道だ。段丘崖を覆う森の前で左に曲がると、道は上りになる。昔はもっと急坂だったのだろうが、今は切通しで勾配が緩和されていて、これなら馬が牽くトラムでも上がれそうだ。

児童公園の角で右折してすぐ、イェーガープラッツ Jägerplatz 停留所がある。ここは保存運行の初期に折返し点だったところで、道路の中央を通っていた当時の旧線の一部が、待避線とともに残っている。

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イェーガープラッツ停留所付近
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道路中央に残る旧軌道
(左)南望、待避線の一部も残る (右)北望、左は現在線
 

ポスト通り Poststraße に入り、市立公園 Stadtpark の豊かな木立を右に見ながら進んでいくと、左側にネオルネッサンス様式の煉瓦建築、マリーエンシューレ(聖マリア女子学校)Marienschule が目に入る。その隣がこの路面軌道の車庫 Depot だ。

きょうは水曜で公開日ではなかった(下注)が、扉が開いていたので、収容されている先頭の車両は外からも観察できた。右にいるのは1959年製のゴータカー Gothawagen T57形37号車だ。シュトラールズント Stralsund を皮切りに数都市を渡り歩いて、最後にイェーナからここへ引き取られた。その左は、今乗っているTZ 70/1とペアを組む付随車 BZ 70/1形19号車だが、朝夕の多客時に向けて出動待ちだろうか。

*注 3月から10月の毎週土曜午後に一般公開されている。

露天の留置線には、37号とともに定期運行に供されている38号や、1955年製でナウムブルクのゴータカーでは最古参の ET54形29号の姿もあった。塗色をそれぞれ出身都市のオリジナルカラーのままにしているところは、保存鉄道として創業した会社の矜持だろう。

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路面軌道車庫
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(左)左はナウムブルク色のゴータカー38号、
   その後ろに29号、右はゴータ色の202号
(右)イェーナ色のゴータカーT57形37号
 

車庫前を通過すると、ラウンドアバウトのハインリッヒ・フォン・シュテファン広場 Heinrich-von-Stephan-Platz を見ながら、電車の針路は南に向く。通っていくのは、旧市街を囲んでいた市壁の撤去跡に造られたリング Ring と呼ばれる環状道路だ。軌道は道路の右側のゆったりとした緑地帯に、歩道を伴って敷かれている。並木の蔭でレールは芝生に埋もれ、まるで緑のじゅうたんの上を行くようだ。

旧市街の最寄りとなるクルト・ベッカー・プラッツ(広場)Curt-Becker-Platz 停留所には、二つ目の行き違いループがあった。しばらく行くと、リングはまた右に90度曲がって、西に向かう。暫定終点だったフォーゲルヴィーゼ停留所を過ぎればもう最後の区間で、緩い右カーブの先に終点ザルツトーアのホームが見えてきた。車内の客は途中の停留所で少しずつ降りていったので、最後まで乗り通したのは数人だった。

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(左)タインブルク橋 Thainburgbrücke 付近
(右)終点ザルツトーア Salztor に到着
 

時刻表では折返しまでに3分の余裕があるが、遅れて到着した電車は、すぐに中央駅へと戻っていった。リング沿いのルートは緑が豊かで、車窓から眺めていても心が和んだが、旧市街の風景を拝まずに帰るのは口惜しい。次の電車を待つ間に、歩いて5分ほどのところにあるマルクト広場 Marktplatz へ向かおう。

マルクトは市の立つ広場で、町の中心を成し、美しい装いの建物が建ち並んでいる。路面軌道も1976年まではこの広場を経由していた。ところが、広場と周辺の街路からクルマを締め出して歩行者天国にすることになり、その際、電車の線路も道連れにされて、今のルートに付け替えられたのだ。

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旧市街のヤーコプス通り Jakobsstraße は軌道旧ルートの一部
 

旧軌道の一部は撤去を免れ、廃止から50年経ってもまだ残っている。広場の北側で、石畳に埋まる二股に分かれた線路がそれだ。ここにはマルクト停留所があった。広場の北東端まで行くと、軌道は右に急カーブして南を向く。そこでいったん途切れるが、続きはカフェのテラス席の下を通って、広場の南東端まで延びている。

もう一か所、痕跡があるのは旧市街北縁の、市立公園に沿うポストリング Postring と呼ばれる静かな通りだ。路面軌道の車庫の方から歩いていくと、木陰の石畳道に突如として線路が現れ、南へおよそ100m続いている。リングの中でも交通量の少ない区間なので、道路が再舗装されなかったのが幸いしたようだ。

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マルクトに残る旧軌道の停留所跡
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旧軌道の一部はカフェのテラス席の下に
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(左)ポストリングに残る旧軌道
(右)旧軌道は約100mで終わる
  次の交差点から先は自転車・歩行者道に転換された
 

このポストリングに続くリンデンリング Lindenring は、マルクトを中心とする市民の町と、市壁の外側にある大聖堂(下注)の門前町との境で、名前のとおり、うるわしい菩提樹の並木道だ。その中央にピンコロ石で区切られた自転車・歩行者道が走っている。これがおそらく軌道跡だ。

このあと電車は先刻歩いたマルクト広場へ向けて、商店がひしめくヘレン通り Herrenstraße をすり抜けていくのだが、かつての光景を伝えるものはもはやどこにも残っていない。

*注 ナウムブルク大聖堂 Naumburger Dom は13世紀に創建された由緒ある聖堂で、世界遺産に登録されている。

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世界遺産のナウムブルク大聖堂(2018年)
Photo by Krzysztof Golik at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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ヘレン通り、かつてここにも電車が走っていた
 

■参考サイト
ナウムブルク路面軌道 https://naumburger-strassenbahn.de/
ナウムブルク=イェーナ近距離交通友の会(保存団体)Nahverkehrsfreunde Naumburg-Jena e.V.  https://ringbahn-naumburg.de/
ブルゲンラント郡旅客交通 PVG Burgenlandkreis https://www.pvg-burgenlandkreis.de/

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2026年2月 6日 (金)

ゼルフカント鉄道-ドイツ最西端の保存蒸機

ゼルフカント鉄道 Selfkantbahn
(旧 ガイレンキルヘン郡鉄道 Geilenkirchener Kreisbahn)

アルスドルフ軽便鉄道駅 Alsdorf Kleinbahnhof~ガイレンキルヘン郡鉄道駅 Geilenkirchener Kreisbahnhof~テュッデルン Tüddern 間 37.7km
軌間1000mm、非電化
1900年開通、1960年旅客輸送廃止、1971年路線廃止・保存運行開始

【現在の運行区間】
保存鉄道:シーアヴァルデンラート Schierwaldenrath~ギルラート Gillrath 間 5.5km

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ゼルフカント鉄道の20号蒸気機関車

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見渡す限りの平野に、豊かな田園地帯が広がるゼルフカント Selfkant は、オランダ国境に接するドイツ最西端の地域だ。ここに小規模ながら、かつて各地で見られたメーターゲージ軽便鉄道の雰囲気を色濃く残す蒸気保存鉄道がある。

ゼルフカント鉄道 Selfkantbahn は、旧 沿線のガンゲルト Gangelt に本部を置く保存団体、歴史鉄道運行協会 Verein Interessengemeinschaft Historischer Schienenverkehr e. V.(略称IHS)の保存鉄道だ。実際の運営は、協会が設立した鉄道会社、ラインラント観光鉄道 Touristenbahnen im Rheinland GmbH が行っている。

運行拠点は、区間の西端にあるシーアヴァルデンラート Schierwaldenrath 駅で、列車はここから東へ5.5kmのギルラート Gillrath 駅まで走って折り返す運用になっている。

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拠点駅シーアヴァルデンラート
 

ゼルフカント鉄道と名乗るのは、保存鉄道になってからだ。もとはガイレンキルヘン郡鉄道 Geilenkirchener Kreisbahn という、全長約38km、公営の軽便鉄道だった。国鉄アーヘン=メンヘングラートバッハ線 Bahnstrecke Aachen–Mönchengladbach のガイレンキルヘン Geilenkirchen 駅前にあった郡鉄道駅 Kreisbahnhof が本来の拠点で、東西2方向に出ていた路線のうちの、西線がルーツになる。

西線は、国境の村テュッデルン Tüddern まで長さ21.4kmの路線だった(下注)。実際、終点は国境のすぐ手前に置かれ、オランダ国鉄のシッタルト Sittard 駅まであと3km足らずだったのだが、認可が下りず接続が叶わなかった。

*注 ちなみに東線は、アルスドルフ軽便鉄道駅 Alsdorf Kleinbahnhof~ガイレンキルヘン郡鉄道駅 Geilenkirchen Kreisbf 間16.3km。1953年から1966年にかけて段階的に廃止された。

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ゼルフカント鉄道、旧ガイレンキルヘン郡鉄道と周辺路線図
 

第二次世界大戦後、ゼルフカント地方の西半分は、戦争賠償が完済されるまでの間、オランダの統治下に置かれた。そのため、この地域を走るガンゲルト~トゥッデルン間は運行できなくなってしまった。また、その対象外だったガイレンキルヘン~ガンゲルト間でも、需要が低下して1960年に旅客輸送が終了している(下注)。併合地域は1963年にドイツに返還されたが、旅客輸送が復活することはついになく、1971年7月に全線の廃止措置が取られた。

*注 輸送量は少ないものの、貨物輸送は続いていた。

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樹陰に包まれるシーアヴァルデンラートの構内
 

IHS協会による保存運行は、それより前の1969年に試行されている。協会のサイトによれば、路線廃止に伴い、1971年8月に保存鉄道としての開通記念列車を走らせた。その後、鉄道資産を取得して1973年から、現在につながる蒸気列車の運行を本格的に開始している。

なおその際、根元区間のガイレンキルヘン~ギルラート間は放棄された。軌道の劣化が進行していたことと、途中で州道をまたいでいた高架橋を、道路拡張のために架け替える必要に迫られたからだ。区間短縮に伴って、運行拠点はシーアヴァルデンラートに移された。そのため、起点終点とも一般運行時代とは逆になっている。

開業から半世紀を経たが、今も変わらずイースターの時期から9月にかけて、主として日曜祝日に貴重な保存列車が走っている。時刻表によると、一番列車は11時発で、午後にかけて1日4~5往復の設定がある。列車は蒸気牽引、ディーゼル牽引のほかに気動車の場合もあるので、時刻表に記載された種別をよく確かめて出かけたい。

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ギルラート行き列車が発車を待つ

鉄道どうしの接続が絶たれても、ゼルフカント鉄道に最も近いDB(ドイツ鉄道)の駅は、やはりガイレンキルヘン Geilenkirchen だ。アーヘン中央駅 Aachen Hbf から北へ向かうメンヘングラートバッハ Mönchengladbach 行きのレギオナル(普通列車)に乗って、24分で着く。

ガイレンキルヘン駅前からは、旧 郡鉄道のルートをなぞるSB3系統オランダ・シッタルト Sittard 行きのバスがある(下注)。平日は1時間ごとに出発しているが、あいにく保存鉄道が運行される日曜日は間引かれて2時間ごとの閑散ダイヤだ。バスの時刻に合わせて列車を選ぶしかない。ちなみに保存鉄道の駅のあるギルラートまでは4.6km、歩けば1時間かかる。

*注 時刻表は、運行会社のヴェストフェアケーア(西部交通)WestVerkehr https://www.west-verkehr.de/、またはアーヘン運輸連合 Aachener Verkehrsverbund https://avv.de/ 参照。

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(左)DBガイレンキルヘン駅
(右)駅前からSB3系統のバスに乗る
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地形図にゼルフカント鉄道のルートを加筆
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

バスは、オランダ側に抜ける街道筋を快調に飛ばしていく。「Nächster Halt(次の停留所)…」という自動アナウンスはあるものの、運転席後ろの表示パネルは故障中なのか暗いままだ。文字に頼れず、ひたすら耳を澄ませて聞き取るしかなかったが、何とか最寄りのバス停、ギルラート・キルヘ(教会)Gillrath Kirche で降りることができた。

地図に従い、民家の間の小道を町裏のほうへ歩くと、ものの2~3分で、タンク車が置かれた行き止まりの線路の前に出た。ギルラート駅は、片面ホームと機回し側線があるだけの小さな駅だ。それでも、再建したと思われる煉瓦造の小さな駅舎の中では、ちゃんと出札口が開いていた。さっそく往復乗車券(9ユーロ)を求める。

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ギルラート駅
(左)煉瓦造の小さな駅舎(右)出札口が開いていた
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往復乗車券
 

駅舎を出たら、シーアヴァルデンラート方から列車が入ってくるところだった。バスの到着が11時19分、列車の入線が5分後の11時24分で、実に無駄のない接続ダイヤ(?)になっている。列車がホームに到着すると、さっそく機関車が切り離され、機回し作業が始まった。

小柄な2軸のタンク蒸機は、1956年ユング Jung 社製で、20号「ハスペ Haspe」のプレートを付けている。鉄道には同型機があと2両、19号と21号がいるが、いずれも前職は、ルール地方のハーゲン=ハスペ Hagen-Haspe にあったクレックナー製鉄所 Klöcknerhütte の産業機関車だ。当時は900mm軌間だったが、ここで走れるようにメーターゲージに改造された。

19号機が、最初に到来してゼルフカント鉄道の創業期を支えた機関車だが、もう使われていない。1972年に製鉄所が閉鎖されたとき、IHS協会は、仕事場をなくした2両を追加で購入した。その1両が20号「ハスペ」で、1991年に全面改修を受けて以来、運行の主力を担っている。もう一つの「ハーゲン」と命名された21号は、現在長期修復中だそうだ。

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列車が到着
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(左)20号機関車「ハスペ Haspe」 (右)側壁の銘板
 

列車は、終点側から、自転車を載せる無蓋貨車1両、有蓋貨車1両、その後ろにオープンデッキのついた旧型客車3両の構成だ。そのうち中間の車両はビュッフェ車なので、普通の座席車は2両しかない。まだ6月だから、この程度でも客をさばけるのだろう。見ている間に、隣の線路を回送された機関車が、手際よく反対側に連結された。シーアヴァルデンラート行きは逆機(後ろ向き)運転になるようだ。

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(左)古典客車129号 (右)車内はベンチが並ぶ
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(左)ビュッフェ車118号 (右)車内
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ギルラート駅での機回し作業
 

11時45分、車掌のヒュルルルという笛の音に機関士が汽笛で応えて、列車はゆっくりと動き出した。まず裏通りの踏切を斜めに渡るが、次のバス通りの踏切では、手前で一時停止した。スタッフが機関車から降り立ち、車道の中央に出ていく。遮断機も警報機もないので、手旗でクルマを停止させる必要があるのだ。

バス通りを横切った後も徐行のまま、また林の陰で停止した。今度は何かと窓から覗くと、スタッフが傍らにあるウォータークレーンを操作しているのが見える。ここはシュターエ Stahe という停留所で、時刻表では、往路に比べて所要時間が5分長い。機関車の給水停車を前提にしたダイヤのようだ。

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バス通りを斜めに横断
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シュターエ停留所で給水停車
 

作業を終えて、12時ちょうどに再び発車した。列車は林を抜けて、広大な耕作地の中へ出ていく。ナタネやトウモロコシが一面に植わり、遠くには発電用の巨大な風車が立ち並んでいる。きょうもよく晴れてけっこう暑いのだが、窓を開け放した車内は乾いた風がよく通る。

次の停車駅ビルクデン Birgden は2面2線で、小ぶりの駅舎も建っていた。時刻表では5分停車だが、シュターエで長居して時間が押しているらしく、すぐに発車。集落の裏手のようなところを相変わらずゆったりしたペースで走っていく。

気持ちよく揺られていたら、いつのまにか側線に留め置かれた貨車の群れが車窓に現れて、速度が落ちた。終点のシーアヴァルデンラートに12時20分着。車掌が大声で駅名とともに「Alles aussteigen(皆さん降りてください)!」と叫ぶのを聞いて、乗客はゆっくり腰を上げた。

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沿線風景
(左)刈取りを終えた牧草地 (右)風通るトウモロコシ畑
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ビルクデン駅のホームと小駅舎
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(左)シーアヴァルデンラート駅に到着
(右)平屋根を掛けた駅舎
 

構内は、拠点にふさわしい広さを有している。木立の陰に側線が数本並び、傍らに平屋根を掛けた駅舎も建つ。駅の周囲に無料の駐車場があるので、ここから乗り込む客が圧倒的に多いのだろう。次の発車は40分後だというのに、早くもホームで待っている人がけっこういた。

一仕事を終えた機関車は切り離され、奥のほうへ引き上げた。客車から降りた客といっしょに後を追いかけると、転線して機関庫の前で石炭の補給を受けるのだった。

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列車到着でいっとき賑わうホーム
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次の便に備えて燃料と水を補給
 

隣で、別のタンク蒸機が陽を浴びている。案内板によれば1898年、当時ドイツ領だったエルザス Elsass(現 フランス領アルザス Alsace)の工場で製造された古典機 MEG 46 だ。最初はストラスブール路面軌道 Straßburger Straßenbahn で就役し、1923年から中央バーデン鉄道会社 Mittelbadische Eisenbahn-Gesellschaft に移籍した。MEGはその会社の略称だ。

見学用に開放された大きな併設車庫には、気動車や多数の客車がぎっしりと格納されていた。屋外の側線に並ぶ貨車を含めて、車両のコレクションはかなり充実している。

多数の見物人に見守られながら給炭作業を終えた蒸機「ハスペ」は、再び本線に戻り、今度はウォータークレーンから給水を受けた。そして軽やかなブラスト音を残して機回しされていき、さっきの列車の先頭につけ直された。次のギルラート行きの発車時刻は13時ちょうどだ。

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(左)陽を浴びる古典機MEG 46
(右)銘板に製造地と1897年の文字
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(左)客車庫も開放中
(右)気動車や客車を多数格納
 

■参考サイト
ゼルフカント鉄道 https://www.selfkantbahn.de/

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2025年12月25日 (木)

フリブールの重力式ケーブルカー

フリブール・ケーブルカー Funiculaire de Fribourg

鋼索鉄道(単線交走式)
延長121m、高度差56.4m、軌間1200mm、最大勾配550‰
ウォーターバラスト方式で運行、リッゲンバッハ式ラックレールをブレーキに使用
1899年開通

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坂を降りるフリブール・ケーブルカー

ケーブルでつながれた2台の車両が斜面の軌道を交互に昇り降りする交走式ケーブルカーは、英語で funicular(フュニキュラー)という。局地的な地形の高低差を克服する乗り物として、19世紀中ごろから各地で造られていった。当時その動力に用いられたのは、固定式の蒸気機関か、ウォーターバラスト(水の重り)だ。

蒸気機関がケーブルを掛けた滑車に動力を伝えるのに対し、ウォーターバラストは、山上にいる車両に水を積んで、重力で降下させる。山麓にいる車両は水を捨てて軽くなっているので、ケーブルにより引き上げられる。速度調節は、ラック鉄道の要領でラックレールに車両側のピニオン(歯車)を噛ませて行った。

石炭などの燃料を消費する前者に比べて、後者は水さえあればよく、簡便で安価な方式だ。そのため、山上での水の確保や、寒冷期の凍結など課題はあったものの、電動機が普及するまで運転方式の主流を占めていた。

しかし、今となっては古典的な駆動システムで、もはや世界的に見ても数か所にしか残っていない。ヨーロッパ大陸では、ポルトガルのブラガ  Braga、ドイツのヴィースバーデン Wiesbaden(下注)、そしてスイス西部、フリブール Fribourg の市街地で稼働している通称「フュニ Funi」だ。

*注 ヴィースバーデンのケーブルカーについては「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

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ポルトガル・ブラガのボン・ジェズス・ケーブルカー Elevador do Bom Jesus
1882年の開業でこの方式では現存最古(2017年撮影)
Photo by Palickap at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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ドイツ・ヴィースバーデンのネロベルク鉄道(2018年)
(左)車両 (右)青い鉄管が注水口
 
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フリブールは、首都ベルンの南西30kmにあるフリブール州の州都だ。12世紀の自由都市に遡る気品漂う旧市街があることで知られる。地形はベルンと似ていて、高原を深く浸食しながら蛇行するサリーヌ川 La Sarine を天然の要害にしているのが特徴だ。ブール Bourg と呼ばれる旧市街はその高原が細くくびれた場所に立地し、谷底の河原との高低差は60~70mほどある。

1862年にベルンとローザンヌを結んで、鉄道が開通した。西の町はずれに駅が開設され、旧市街との間に新市街が形成されていった。一方、崖下のサリーヌ川沿いには古くからの下町ヌーヴヴィル Neuveville がある。1877年、ここで後に「カルディナル(枢機卿)Cardinal」のブランドで知られることになるビール工場が創業した(下注)。その経営者が、市街地と下町の間で労働者を運ぶために1899年に設置したのが、このケーブルカーだ。

*注 カルディナル・ビール工場はその後、1904年にフリブール駅の南に移転して、2010年まで操業していた。跡地に博物館がある。

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フリブール市街
大聖堂を中心とするブール(左上)と下町のヌーヴヴィル(右下)
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フリブール市街周辺の1:25000地形図
© 2025 swisstopo
 

上部駅サン・ピエール St. Pierre は、旧市街と駅地区との境、ジョルジュ・ピュトン広場 Place Georges Python のすぐ近くに位置する。ヌーヴヴィルの下部駅までルートは直線で、長さ121m、高度差は56.4m。当時すでに電動式も実用化されていたが(下注)、まだ数が少なく高価だったため、普及していたウォーターバラスト方式が採用された。

*注 最初の電動式ケーブルカーは、フィーアヴァルトシュテッテン湖畔で1888年に開通したビュルゲンシュトック鉄道 Bürgenstock-Bahn。

水源は、驚くことに町の下水道だ。ピュトン広場の地下に下水管に接続された貯水槽があり、そこでごみを除去した廃水を引いて、車両のタンクに注入しているという。確かにこれなら水源の枯渇や冬期凍結の心配はない。下部駅で車両から排出された水は下水管に戻しているので、いわばケーブルカー施設が下水道網の一部になっているわけだ。

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下水道網の一部を成すケーブルカー

訪れた日は、SBB/CFFフリブール駅を起点に、歴史ある旧市街や難攻不落の崖地形を見て歩いたのだが、ヌーヴヴィルから駅に戻る際に「フュニ」を利用した。

最初、駅のロッカーに荷物を預けて、旧市街へ足を向けた。緩やかに曲がる坂道に商店やレストランが軒を連ねるローザンヌ通り Rue de Lausanne を下り、町のシンボル、サン・ニコラ大聖堂 Cathédrale St-Nicolas の高塔を見上げる。それから、眺めのいいゼーリンゲン橋 Pont de Zaehringen でサリーヌ川の深い谷を一跨ぎして対岸に出た。

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ローザンヌ通りから見通す大聖堂
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大聖堂と市庁舎(手前の時計塔のある建物)
 

サリーヌ Sarine はフランス語名で、ドイツ語ではザーネ Saane という。フリブールもドイツ語ではフライブルク Freiburg になる。ドイツ語とフランス語はスイスの二大公用言語(下注1)だが、両言語圏の、目には見えない境界(下注2)が通っているのがこのサリーヌ/ザーネ川だ。川の右岸はドイツ語圏のシェーンベルク Schönberg 地区になるのだが、道路標識はまだフランス語だった。

*注1 このほか、アルプスの南側で使われるイタリア語とグランビュンデン州の一部で使われるロマンシュ語も公用語になっている。
*注2 スイス・ドイツ語圏ではこの言語境界のことを、じゃがいもの郷土料理にちなんでレーシュティグラーベン(レーシュティの溝)Röstigraben と呼ぶ。

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ゼーリンゲン橋から見下ろすサリーヌ渓谷
左の城壁は猫の塔、右は屋根付きのベルン橋
 

町の防御施設の一部だった猫の塔 Tour de chats を伝って谷底に降り、民家と同じスレート屋根に覆われたベルン橋 Pont de Berne を渡る。通るのは歩行者と二輪車程度かと思ったら、路線バスが来たのには驚いた。川の滑走斜面に身を寄せ合うオージュ Auge 地区の家並みを抜けると、今度は頑丈そうな石橋のミリュー橋 Pont du Milieu が見えてくる。ゆらめく川面と崖の上にひしめく旧市街を仰ぎながら、再び右岸へ。

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(左)猫の塔 (右)ベルン橋
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ミリュー橋の下を流れるサリーヌ川
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サン・ジャン橋を渡ってヌーヴヴィルへ
 

最後にサン・ジャン橋 Pont de Saint-Jean でもう一度サリーヌ川を渡って、下町ヌーヴヴィルにたどり着いた。緩く上る街路が大きく右に反転する場所に、FUNICULAIRE(フュニキュレール)の切り文字を掲げた下部駅のささやかな建物がある。

「フュニ」は公共交通機関の扱いなので、平日、休日を問わず毎日動いている。運行間隔は最短6分とされているが、このときは10分間隔だった。運賃は片道3スイスフラン(2024年現在)。鉄道、バスなど州の公共交通を一手に担うフリブール公共交通 Transports publics fribourgeois (TPF) が運営しているので、スイストラベルパスも通用する。

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ケーブルカーのヌーヴヴィル駅
(左)ささやかな駅舎 (右)構内
 

狭い構内にはすでに小型の客車が入っていた。階段状になったコンパートメントが2室あり、坂上側はオープンタイプの片側席、坂下側はクローズドタイプでベンチシートが向い合う。車端のデッキは運転台だ。数人の客が乗り込んだところで、運転士が扉を閉めてデッキに移り、L字のハンドルを回してブレーキを緩めた。ピニオンがラックに絡むゴロゴロという鈍い金属音とともに、客車はゆっくりと動き出した。

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「フュニ」の車両
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(左)運転台と坂上側のオープン客室
(右)坂下側客室は密閉型でベンチが向かい合う
 

ルートの下半分は鉄橋の上を行くが、まもなく中間の行き違いループにさしかかる。対向車両の運転士はブレーキハンドルをこまめに回しているが、こちらは触りもしない。速度調節はもっぱら下り車両の仕事のようだ。ループを抜けるころには、サリーヌ川の谷間を埋める茶色屋根の群れが眼下に広がってくる。線路と並行して屋根付きの階段道が続いているのに気づいた。文明の利器に頼らず自力で登っていく元気な若者もちらほら見かける。

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(左)上部駅行きが発車
(右)中間ループでの行き違い
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眼下に下町の景色が広がる
 

発車して2分、上部駅に到着すると、運転士はハンドブレーキを固く締めてから、出口の扉を開けた。駅舎は下と同じような小さな建物だ。入口の外壁に、改修完了と開業125周年の記念プレートが掲げてあった。

1996年、車両の車軸が破損して運行不能になったケーブルカーに対し、市当局は廃止とバスへの転換を検討した。しかし各界の強い抗議を受けて方針は撤回され、全面的な施設改修が実施されることになった。長年赤に塗られていた車両が、開業時の緑色に戻されたのもこのときだ。工事が完了して運行が再開されたのは1998年6月3日。こうして危機を脱した「フュニ」は昨年(2024年)、開業から125年の節目の年を迎えたのだ。

駅を後に、小公園の傍らを抜けると、トロリーバスが行き交うサン・ピエールのラウンドアバウトに出る。道路上空に張られた架線を目印にして、ものの5分も歩けば、街歩きのゴールであるフリブール駅が見えてくるはずだ。

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(左)サン・ピエール駅舎
(右)外壁の記念プレート
  上から着工・開業、改修後の運行再開、125周年
 

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2025年10月 9日 (木)

イタリアの保存鉄道・観光鉄道リスト II

前回に引き続き、イタリアの保存鉄道・観光鉄道から注目路線をピックアップしたい。

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ミラノ市内線19系統を走る1500形(2022年)
Photo by Oleksandr Dede at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」
https://map.on.coocan.jp/rail/rail_italy.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」画面

路面軌道では、低床の連節車両に主役の座を譲りつつも、旧型トラムの姿がいまだ見られる町が北部にいくつかある。

項番1 トリエステ=オピチーナ路面軌道 Tranvia Trieste-Opicina

トリエステ Trieste は北イタリアの東端、アドリア海の湾入に面した港町だ。かつてはトラムが市街地を縦横に走っていたが、1970年までに廃止されてしまい、唯一残っているのがトリエステ=オピチーナ路面軌道 Tranvia Trieste-Opicina だ。メーターゲージの路線で、1935~42年製の古参トラムが改修を受けながら今も主役を務めている。

トラムは市内のピアッツァ・オベルダン(オベルダン広場)Piazza Oberdan から、町の背後に迫る斜面を上って、カルスト台地の上にあるヴィッラ・オピチーナ(オピチーナ町)Villa Opicina まで行く。全線5.2kmの中で名物になっているのが、長さ約800m、勾配260‰の鋼索線(ケーブルカー)区間だ。

もとよりトラムがケーブルカーに変身するわけではなく、ケーブルに接続された台車(スピントーレ spintore、すなわち押し車)で後ろから押してもらって坂を上る仕組みだ。トラムと台車は連結されておらず、重力で接触しているだけなので、坂上の終点まで来ると、トラムは再始動して自力で離れていく。

補助を要する急坂はここまでだが、その後も上り勾配はしばらく続き、最後に傍らにオベリスクが立つ地形上のサミットを通過する。標高343mの台地のへりで、トリエステの町と港が一望になる車窓きってのビューポイントだ。

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オベルダン広場の起点駅(2008年)
Photo by Orlovic at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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鋼索線でトラムを押す台車(2009年)
Photo by Smiley.toerist at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番9 ミラノ市電1500形 Tranvia di Milano, Serie 1500

イタリアの都市で19世紀以来、市内の路面軌道が存続してきたのは、開業順にトリノ、ナポリ、ローマ、そしてミラノの4都市だ(下注)。導入こそ最も遅かったが、ATM(ミラノ交通公社 Azienda Trasporti Milanesi)が運行するミラノの軌道網は今や17路線、延長160km近くあり、世界的にも最大級とされる。

*注 トリノが1871年、ナポリが1876年、ローマが1877年、ミラノが1881年で、いずれも馬車軌道から始まった。

ミラノの市内電車で興味深いのは、これだけではない。モダンな連節低床トラムに混じって、昔懐かしいヴィンテージ車両が多数現役で運用されているのだ。1927~30年製の1500形で、初めて供用された1928年にちなんで、イタリア語で28を意味するヴェントット Ventotto の愛称で呼ばれる。

502両製造されたうち、150両ほどが今も稼働可能で、ヨーロッパ最古の定期運行トラムだそうだ(下注)。1970年代からオレンジ1色に塗られていたのでそのイメージが強いが、最近はオリジナル色であるベージュと黄色のツートンに塗り替えが進んでいる。

*注 リスボン市電のレモデラードス(改修車)Remodelados も有名だが、オリジナルは1932年以降の製造。

観光用の特別系統なら後述するトリノなどにもあるが、一般路線、かつ通常の運賃制度の範囲内で乗れるというのは珍しいのではないか。もちろんこれは、財政事情で新旧交代が進まないからではなく、街の景観に溶け込んだシンボル的存在として、積極的に動態保存されてきたのだ。ただし、近年の車両に比べて収容力が小さいので、比較的混んでいない系統(1、5、10、19、33系統)で運用されているという。

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スカラ座前の1500形(2022年)
Photo by dconvertini at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番12 トリノ市電7系統 Tranvia di Torino, Linea 7

北イタリア西部、ピエモンテ州の州都トリノ Torino の路線網は現在88.5kmに達する。運行系統は全部で10あるが、その中に、観光用の7系統 Linea 7 が含まれる。非営利団体のトリノ歴史路面電車協会 Associazione Torinese Tram Storici (ATTS) の協力により、1930~50年代の旧型車両だけで維持されている特別系統だ。週末と祝日に1時間間隔で運行され、市内中心部(チェントロ Centro)を時計回りに一周する6.9kmのルートを走る。

カステッロ広場 Piazza Castello の電停を出発したトラムは、ポー川沿いや並木道のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通り Corso Vittorio Emanuele II、中央駅ポルタ・ヌオーヴァ Porta Nuova の前などを経由して、41分で起点に戻ってくる。通常運賃で乗車でき、居ながらにして街を巡れる手軽な観光ツールだ。

時間に余裕があるなら、一般運行の15系統に乗換えて、ポー川の対岸サッシ Sassi へ足を延ばすのもいいだろう。サッシ=スペルガ軌道  Tranvia Sassi-Superga(項番13)のラック電車が、スペルガ宮殿 Basilica di Superga がそびえる見晴らしのいい丘の上まで連れて行ってくれる。

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カステッロ広場の7系統(2006年)
Photo by Aleanz at wikimedia. License: public domain
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サッシ=スペルガ軌道の起点サッシ駅(2014年)
Photo by Incola at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

このほか、ローマ市内でも、古典車両で運行される観光系統「7系統 アルケオトラム Archeotram」の開業が予定されている。走行ルートは既存の軌道で、ピラミデ Piramide 駅前からコロッセオ Colosseo、ポルタ・マッジョーレ Porta Maggiore などの名所を経てテルミニ Termini 駅前で折り返すというものだ。

廃止済みの路線も興味深いものが目白押しなので、リストに含めておいた。もはや乗車することは叶わないが、存続していたら観光鉄道として人気を博していたかもしれない。

項番3 ドロミーティ鉄道 Dolomitenbahn/Ferrovia delle Dolomiti

ドロミーティ鉄道は、来年(2026年)冬期オリンピックが開催される北東部のリゾート地区、コルティーナ・ダンペッツォ Cortina d'Ampezzo を通っていた950mm軌間の電気鉄道だ。FS線に接続するカラルツォ・ディ・カドーレ Calalzo di Cadore から同じくトーブラッハ/ドッビアーコ Toblach/Dobbiaco まで南北64.9kmを走っていた。

ドロミーティはまた、天にそそり立つ奇峰群の景観でも有名だ。鉄道は谷間から峠に向けてしだいに高度を上げていき、車窓には樹林の間から雄大な山岳パノラマの絶景が広がった。観光路線と目されていたのはもちろん、前回1956年の五輪開催時にはまだ現役だったので、客車が増備され、選手・関係者や観衆の輸送にも奔走したそうだ。

しかし、老朽化に伴い1964年に廃止となり、役割を路線バスに譲った。今は全線が「ドロミーティの長い道 Lunga via delle Dolomiti」と呼ばれる長距離自転車道になっている。

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サン・ヴィート・ディ・カドーレ San Vito di Cadore 付近の
廃線跡自転車道(2023年)
Photo by Giorgio Galeotti at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番19 リミニ=サンマリノ線 Ferrovia Rimini-San Marino

同じく950mm軌間の電化路線で、アドリア海岸の町リミニ Rimini と、イタリアの中の独立国(包領 Enclave)サンマリノ San Marino の間31.5kmを結んでいたのが、国鉄リミニ=サンマリノ線だ。終点サンマリノ・チッタ(市駅)San Marino Città は聳え立つ丘の上に位置し、標高は643m。それでもラックレールには頼らず、スパイラル2回とS字ループの繰り返しで最後まで上りきるという、タフな登山路線だった。

1932年に開通したものの、第二次世界大戦で施設が破壊されて運休となり、結局そのまま廃止されてしまう。運行期間わずか12年という薄命の路線だった。その後2012年に保存団体の尽力で、オリジナルの電動車AB03と、終点近くで半回転しているモンターレトンネル Galleria Montale 前後の800m区間が復旧された。現在も年に数日、保存走行が実施されている。

*注 鉄道の詳細は「サンマリノへ行く鉄道」参照。

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復元区間に配置された電車AB03(2015年)
Photo by Aisano at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

項番20 スポレート=ノルチャ鉄道 Ferrovia Spoleto-Norcia

スポレート=ノルチャ鉄道は、中央アペニン山脈にあった950mm軌間、51.2kmの電気鉄道だ。ウンブリア州スポレート Spoleto の町から東へ進み、山奥の盆地にあるノルチャ Norcia という町まで走っていた。

とりわけ東隣の谷筋へ抜けるための前半区間が、スペクタクルなルートで有名だった。長さ2kmのサミットトンネルの両側に、計3回のスパイラルと、いろは坂のようなS字ルートが続く。さらに全線にわたって橋梁などの土木構造物も数多く、スイスアルプスの南北幹線になぞらえて「ウンブリアのミニ・ゴッタルド Piccolo Gottardo Umbro」の異名を取った(下注)。

*注 実際は狭軌鉄道なので、ゴッタルドよりもレーティッシュ鉄道のベルニナ線 Berninabahn に似ている。

1968年に廃止されたが、幸い、峠越えを含む前半31km区間がほぼ完全に自転車道に転用整備されたので、自力でなら今でもたどることが可能だ。また、起点のスポレート駅舎は、この狭軌鉄道を記念する博物館になっている。

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狭軌鉄道のノルチャ駅は鉄道博物館に(2022年)
Photo by Simone Pranzetti at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番25 ヴェスヴィオ登山電車 Ferrovia Pugliano-Vesuvio, Funicolare Vesuviana

ヴェスヴィオ山は、ナポリ湾に臨む標高1281mの火山だ(下注)。知られるとおり、西暦79年の噴火では麓の古代都市ポンペイとヘルクラネウムを壊滅させ、その後も大小の噴火を繰り返してきた。

*注 イタリア語ではヴェズーヴィオ Vesuvio。活動中のため、標高値には変動がある。

一般にヴェスヴィオの登山電車というと、1880年に開業したフニコラーレ・ヴェズヴィアーナ(ヴェスヴィオ ケーブルカー)Funicolare Vesuviana のことを指す。火口縁まで上る0.8kmの鋼索線(下注)で、当時作られた軽快な歌曲「フニクリ・フニクラ Funiculì funiculà」のおかげで世界的に有名になった。

*注 最初はモノレール式の小型車両で運行された(下の写真参照)が、1904年に単線交走式ケーブルカーに改築。

しかし、下部駅は山の中腹、標高753m地点に設けられていたため、そこまでは馬車で行くしかなかった。この駅と、裾野を走っている既設の路面軌道の停留所との間をつないだのが、メーターゲージ、7.7kmの電気鉄道、プリャーノ=ヴェスヴィオ鉄道 Ferrovia Pugliano-Vesuvio だ。1903年に開業したこの路線によってはじめて、ナポリ市内から火口までの鉄道網が完成した(下注)。

*注 1913年にプリャーノ Pugliano 駅まで延伸され、チルクムヴェズヴィアーナ(ヴェスヴィオ環状)鉄道 Ferrovia Circumvesuviana との接続を果たした。下のルート図はその状況を示している。

山麓から中腹まで680mある高度差を克服するため、電気鉄道の中間部には最急勾配250‰のシュトループ式ラックレールが敷かれていた。実態としてヴェスヴィオ登山電車は、この二者一体で完結する山岳観光ルートだったのだ。

しかし、1944年に起きた激しい噴火活動により、ケーブルカーの施設は破壊され、運行不能となる(下注)。電気鉄道も一部区間で被害を受け、代替道路建設による下部区間の部分運休を経て、1955年に全線廃止となった。

*注 代替として1953年にチェアリフトが設置され、1984年まで稼働していた。

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モノレール式の初代ケーブルカー(1880~1904年)
Photo from Amsterdam Rijksmuseum collection at wikimedia. License: CC0 1.0
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ヴェスヴィオ登山電車ルート図
Image from wikimedia. License: public domain
 

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2025年10月 8日 (水)

イタリアの保存鉄道・観光鉄道リスト I

イタリアでは、2017年に観光鉄道 Ferrovia turistica の制度が法制化された(2017年8月9日付第128号)。その目的は、文化・景観・観光的に特に価値のある休廃止または閉鎖された鉄道路線の保護と活用で、対象には路線や駅、関連する土木構造物、付属施設が含まれる。

現在、27の路線(標準軌20、狭軌7)が選定されているが、標準軌路線は大半が国鉄線(下注)だ。一部の路線で、国鉄系のイタリアFS財団 Fondazione FS Italiane が「時を超える線路 Binari senza Tempo」の統一ブランドを掲げて観光列車を運行している。一方、狭軌線には、半島先端のカラブリア州とシチリア島、サルデーニャ島の路線が含まれる。まずはこれらの中から主なものを挙げていこう。

*注 国鉄(FS)線は上下分離政策により、FS の子会社 RFI(イタリア鉄道網公社 Rete Ferroviaria Italiana)がインフラの保有・管理を、グループ会社トレニタリア Trenitalia が列車運行をそれぞれ担っている。

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ピエトラルサ国立鉄道博物館 Museo nazionale ferroviario di Pietrarsa の
展示棟に整列する機関車群(2018年)
Photo by John Smatlak at flickr. License: CC BY-NC-ND 2.0
 

「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」
https://map.on.coocan.jp/rail/rail_italy.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」画面

項番18 トスカーナの自然列車(ヴァル・ドルチャ線)Trenonatura in Toscana (Ferrovia della Val d'Orcia)

ヴァル・ドルチャ線(オルチャ渓谷線)は、トスカーナ南部に広がる美しい丘陵地帯の一角、オルチャ渓谷 Val d'Orcia を経由するアシャーノ=モンテ・アンティーコ線 Ferrovia Asciano-Monte Antico の別称だ。

沿線人口が少ないため、1994年に旅客列車が廃止されてしまったが、地元の声を受けて1996年に観光列車「トレノナトゥーラ(自然列車)Trenonatura」が創設された。これには、近隣の人気都市シエナ Siena に集まる観光客を、まだ注目されずにいた周辺の地域へ誘い出すねらいがあった。

企画は二種類あり、一つは定期列車や別途3便設定された古典気動車をローバーチケット(一日乗車券)で自由に乗り降りするフリータイプ、もう一つは予約を要する蒸気機関車牽引の特別列車だった。これはマスコミでも報じられて評判を呼び、2000年代に一大ブームを迎えたが、2011年以降は状況が落ち着いて、後者のタイプのみの運行になっている。

今でも週末には、ピストイナ機関庫からやってきた蒸機やディーゼル機関車の先導でツアーが催行される。シエナを朝発って、モンテ・アンティーコ Monte Antico~アシャーノ Asciano 間のいずれかの駅からバスで周辺の見どころを巡り、夕方、シエナに戻るというコースだ(下注)。

*注 シエナまでの復路は、ツアーによって列車ではなくバスになる場合がある。

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トッレニエ-リ Torrenieri 南方にて(2010年)
Photo by maurizio messa at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番23 トランシベリアーナ・ディターリア(イタリアのシベリア横断鉄道)Transiberiana d'Italia

スルモーナ=イゼルニア線 Ferrovia Sulmona-Isernia は、イタリアの背骨アペニン山脈中央部の山中を走る118kmのローカル線だ。同国の標準軌鉄道網では、ブレンナー(ブレンネロ)峠 Brennerpass/Passo del Brennero に次ぐ標高1268mを通過する。冬の間、沿線は雪に覆われ、寒さが厳しいことから、路線は「イタリアのシベリア横断鉄道」の異名をもつ。

ここに観光列車が走り始めたのは2014年のことだ。マイエッラ国立公園 Parco nazionale della Maiella(下注)の区域を通っていくので「公園鉄道 Ferrovia dei Parchi」(下注)の名称がつけられた。現在はシーズンの週末に、ディーゼル機関車と古典客車の編成で運行されている。

*注 スルモナの東にあるマイエッラ山地 Montagna della Maiella を中心とする国立公園。マイエッラ山地の主峰はアペニン山脈第2の高峰、標高2793mのアマーロ山 Monte Amaro。

発地は、ローマとペスカーラ Pescara を結ぶアペニン横断幹線の中間にあるスルモーナ Sulmona だ。列車は一路南へ進み、行く手に立ちはだかるマイエッラ山地の険しい峠を越えていく。路線の終点はイゼルニアだが、そこまでは行かず、途中のいずれかの駅で周辺の観光に出かけ、夕刻にスルモーナへ戻るのが通例だ。

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カロヴィッリ Carovilli 駅付近(2012年)
Photo by Dgandrea05 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

項番28 シーラ列車 Treno della Sila

イタリア半島の平面形をブーツに例えると、つま先がカラブリア Calabria 州だ。その足の甲のあたり、南に膨らんでいる一帯はシーラ Sila と呼ばれ、標高1000mを越える山地と高原が広がっている。シーラ列車は、その高原地帯を走る狭軌(950mm軌間)の保存観光列車だ。

多聞に漏れずこの路線も、もとはコゼンツァ=サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線 Ferrovia Cosenza-San Giovanni in Fiore、通称シーラ鉄道 Ferrovia Silana という延長67.1kmの狭軌鉄道だった。しかし、人口希薄な地域のため輸送需要が低迷し、1997年以降、定期列車の運行が順次休止されて、観光専用になった。

シーラ列車は2016年から走り始めた。民間の協会組織が運営に携わる貴重な一例だ。シーズン中の毎土曜または日曜に、通常は蒸気機関車が古典客車を牽いている。列車はカミリャテッロ・シラーノ Camigliatello Silano ~サン・ニコーラ=シルヴァーナ・マンショ San Nicola-Silvana Mansio 間、アップダウンの多い10.8kmのルート(下注)を行く。終点は標高1404m、イタリアの鉄道が到達する最高地点になる。

*注 このほかの区間では列車運行がなく、軌道や施設は放置されている。

全線でもゆっくり走って40分ほどだ。それで、途中で山賊の列車襲撃ショーがあったり、バスに乗り換えてシーラ国立公園のスポットを巡るなど、チケットは複数のイベントを組み合わせたツアーとして販売されている。

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1919年ボルジッヒ製タンク蒸機が牽くシーラ列車(2017年)
Photo by kitmasterbloke at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項目32~35 トレニーノ・ヴェルデ Trenino Verde

サルデーニャ島 Sardegna にも950mm軌間の路線群があり、国鉄線から離れた港や内陸の町を結んでいる。しかし、一般運行を取りやめてしまった区間も多く、そうした休止線を観光用に蘇生させる取り組みが、トレニーノ・ヴェルデ(緑の小列車)のツアー企画だ。

運行している ARST(サルデーニャ地方交通 Azienda Regionale Sarda Trasporti)のサイトによれば、2025年現在、小列車が走っているのは5路線、うち以下の4路線が休止線を活用したものだ。

・サッサリ=テンピオ=パラウ線 Ferrovia Sassari–Tempio–Palau、149.9km
・マコメル=ボーザ線 Ferrovia Macomer–Bosa、45.9km
・イジーリ=ソルゴーノ線 Ferrovia Isili–Sorgono、83.1km
・マンダス=アルバタクス線 Ferrovia Mandas–Arbatax、159.4km

総延長は400kmを優に超えるが、たとえ週に1日でも客を乗せた列車を通すには、保線作業が必要になる。そのため、実際に列車が走るのは一部区間に過ぎず、走行距離は各線とも片道40km前後だ。しかも時間的制約あるいは車両運用の関係か、復路は列車の代わりにバスを使うものさえある。

それでも、一般運行が途絶えた路線を列車で旅行できるというのは貴重だ。たとえばマンダス=アルバタクス線のツアーは、東岸アルバタクス Arbatax の港から標高550mの山上の町ラヌゼーイ Lanusei まで、列車で山腹を延々と上っていく。走行距離34.3kmは全線の2割ほどだが、その先に続く、今は通行できない山岳区間の旅がどれほどハードだったのかを想像するのに十分な体験だ。

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マンダス=アルバタクス線ラヌゼーイ駅(2015年)
Photo by Manfred Kopka at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

イタリアでは、西ヨーロッパ諸国のように非営利団体が運行に携わる保存鉄道は多くない。しかし、日常輸送にいそしむ一般路線にも観光要素は多分にあり、なかでも狭軌鉄道は個性派ぞろいだ。

項番4 リッテン鉄道(レノン鉄道)Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

アルプスの分水界ブレンナー峠から谷間を南下していくと、最初に現れる大きな町がボーツェン/ボルツァーノ Bozen/Bolzano(下注)だ。背後に横たわる標高1200m前後の高原を、メーターゲージ(1000mm軌間)のリッテン鉄道/レノン鉄道の電車が走っている。標準軌の鉄道網から離れた孤立路線で、長さも6.6kmしかない。

*注 もとオーストリア領で、今でもドイツ語話者が多いので、公共表示は両言語併記になっている。

しかし1908年の全通時はそうではなく、距離も2倍ほどあった。というもの、ボーツェン町の中心部から、ボーツェン駅前経由で直通していたからだ。山麓と高原との間の900mを超える高低差は、シュトループ式のラックレールで克服していた。ラック専用の電気機関車が坂下側について、電車を山上まで押し上げていたのだ。

市内で乗り込めば乗換えなしで高原まで行けるのだから、傍目には便利そうだが、地元では時間がかかると不評だった。老朽化が進んで改修が必要になったとき、住民はより高速なロープウェーへの切換えを望んだ。こうして市内軌道と登山区間は1966年に廃止となった。

そのロープウェーが着くオーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano 駅のホームには、シックな赤と銀を装うリッテン鉄道の小型電車が待っている。高原上は夏でも涼しい。風に揺れる牧草地と林を縫って、終点のクローベンシュタイン/コッラルボ  Klobenstein/Collalbo までは20分かからない(下注1)。

*注1 このほかボーツェン方にあるマリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta~オーバーボーツェン間も存続しているが、運行本数は1日5往復。
*注2 鉄道の詳細は「リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史」「同 II-ルートを追って」参照。

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オーヴァーボーツェン駅の古典電車2号(2005年)
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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現在の主役24号電車、ヴォルフスグルーベン Wolfsgruben 駅付近(2021年)
Photo by Falk2 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番15 ジェノヴァ=カゼッラ鉄道 Ferrovia Genova-Casella

リグリア海に臨む港町ジェノヴァ Genova からも背後に連なる山地に向けて、メーターゲージの電化路線、ジェノヴァ=カゼッラ鉄道が延びている。長さ24.3km、電車の目的地は、アペニン山脈の山中にあるカゼッラ Casella という田舎町だ。

起点ピアッツァ・マニン(マニン広場)Piazza Manin 駅は意外にも、市街地を見下ろす標高93mの丘の上にある。もちろん1929年に開業したときは、すぐ下の同名の広場に路面電車が来ていた。軌間をメーターゲージに決めた理由(下注)も、それと接続する計画があったからだ(下注)。だが夢は叶わず、そのうえ路面電車も消えた今では、客は代わりの路線バスで上ってくるしかない。

*注 イタリアの狭軌鉄道の主流は1000mmではなく、950mm軌間。

この鉄道の面白い点は、ルートが四つの谷(下注)にまたがり、そのため峠越えが3回あることだ。上っていく列車の車窓からは、林や果樹畑ごしにたなびく山並みのパノラマが見え隠れし、あたかも登山鉄道に乗車している気分になる。

*注 水系としては、リグリア海に出るビザーニョ Bisagno とポルチェヴェーラ Polcevera、アドリア海に出るスクリーヴィア Scrivia(ポー川支流)の三つ。

最後の峠が山脈の分水嶺で、その後は坂を下って、開業時の終点カゼッラ・デポジート(カゼッラ車庫)Casella Deposito 駅に達する。駅名のとおりここに車庫があるが、列車はさらにスイッチバックしてスクリーヴィア川を渡る。町の前に置かれたカゼッラ・パエーゼ(カゼッラ村)Casella Paese 駅が現在の終点だ(下注)。

*注 1953年の延伸当初、この区間は路面軌道だったが、1980年に専用線(道端軌道)化された。

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ピアッツァ・マニン駅遠望(2023年)
Photo by Al*from*Lig at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番21 ATAC ローマ=ジャルディネッティ線 Ferrovia Roma-Giardinetti

首都ローマの中央駅テルミニ Termini はイタリア最大の駅で、32番線まである。その壮大な正面口から遠く離れた右先端、郊外線(ラツィオ線 Ferrovie laziali、略称 FL)の出入口に寄り添うのが、ローマ=ジャルディネッティ線の電車が発着するささやかなターミナル、ローマ・ラツィアーリ Roma Laziali(下注)だ。

*注 ラツィアーリ Laziali は、ラツィオ(州)Lazio の、を意味する形容詞。ローマ市はラツィオ州 Regione Lazio の州都でもある。

ローマ市交通局 ATAC が運行するジャルディネッティ線は950mm軌間の電気鉄道で、ローマ近郊に残された唯一の狭軌線だ。もとは州東部で延長137kmにもなる路線網を有していたが、老朽化と利用者減少で末端側から撤退していった。

近年ではメトロC線の延伸工事に伴い、2008年に9.0km地点のジャルディネッティ Giardinetti が終点になったのだが、縮小傾向はこれで収まらない。メトロC線と重複する区間が2015年に廃止となり、鉄道はとうとう根元のローマ・ラツィアーリ~チェントチェッレ Centocelle 間 6.0kmだけになってしまった。

とはいえこの区間には、古代ローマの遺跡マッジョーレ門 Porta Maggiore を通り抜けたり、狭い敷地で上下線がガントレットになるなど、見どころが点在する。路面電車のような小型の外見とあいまって、今なお愛好家の好奇心をくすぐり続けている。

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マッジョーレ門をくぐり抜ける(2023年)
Photo by Robot8A at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番30 エトナ環状鉄道 Ferrovia Circumetnea

シチリア島東部にあるエトナ山 Etna は、ヨーロッパ最大級の活火山だ。標高3403m(下注)、裾野は半径20~40kmに及ぶ。火口から20km圏には集落が点在していて、エトナ環状鉄道(チルクメトナ)は、それらをつなぐように建設された。

*注 噴火等によって標高値には変動がある。

950mm軌間の非電化鉄道は、1895~98年に開通している。カターニャ・ポルト(港)Catania Porto を起点に、エトナ山を時計回りに半周して、再び沿岸のリポスト Riposto まで113.5kmの長大路線だった。裾野と一口に言っても、西側の鞍部では標高976mまで上らなくてはならず、延々と坂が続く区間が少なからずある(下注)。

*注 貨物輸送のために、最急勾配は36‰に抑えられている。

列車は、エトナ山を絶えず仰角に捉えながら、灌木林とオリーブ畑の間を進んでいく。開通以来、噴火に伴う溶岩流で四度も長期運休に見舞われたが、その都度たくましく復活してきた。ところが、根元のカターニャ市内で新たにメトロが開業すると、ルートが重複する区間で撤収が始まる。

メトロは現在、内陸のパテルノ Paternò に向けて延伸工事中だ。郊外では環状鉄道の線路敷を転用することになっていて、工事に先立ち該当区間が廃止された。そのため、列車は現在、パテルノ以遠の90.9kmで運行されている。しかも、人口の多いエリアをメトロに明け渡してしまったので、途中ランダッツォ Randazzo まで6往復、その先リポストへは3往復しかない閑散線だ。

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ジャッレ Giarre 駅を後にする気動車(2021年)
Photo by Trainspictures at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

標準軌の幹線からも、一つ。

項番16 チンクエ・テッレ急行 Cinque Terre Express

リグリア海に臨むぶどう畑の急斜面と、色彩豊かな集落の印象的な風景で知られる観光地チンクエ・テッレ Cinque Terre(下注)。名のとおり海岸に並ぶ五つの村々を巡る列車がチンクエ・テッレ急行だ。FS線の主たる列車運行事業者であるトレニタリア Trenitalia が運行している。

*注 チンクエ・テッレは五つの土地を意味する。

エクスプレスと名乗ってはいるものの、実態は普通列車で、レヴァント Levanto~ラ・スペツィア中央駅 La Spezia Centrale 間20kmにある各駅、モンテロッソ Monterosso、ヴェルナッツァ Vernazza、コルニーリャ Corniglia、マナローラ Manarola、リオマッジョーレ Riomaggiore に順に停車していく。

これらの村々が立地するのは、もし鉄道が通らなかったら陸の孤島になっていたような場所だ。そのため旅客需要が大きく、列車はこの間を30分間隔でシャトル運行している。駅はトンネルに挟まれた狭隘な敷地でホームが短いため、ダブルデッカー(2階建)客車が使用される。5駅のいずれかで乗降すると加算運賃が適用されるのも特殊な扱いだ。

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コルニーリャ Corniglia 駅に入るダブルデッカー(2008年)
Photo by Diesirae at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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狭い敷地のヴェルナッツァ Vernazza 駅(2021年)
Photo by Lewin Bormann at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

 続きは次回に。

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2025年9月11日 (木)

ラトビア最後の狭軌鉄道

グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis/Gulbene–Aluksune Railway

グルベネ Gulbene ~アルークスネ Alūksne 間 33km
軌間750mm、非電化
1903年開通(ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka 間 212km の一部として)

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バーニーティスの蒸気列車
グルベネ駅にて
 

1520mmの広軌、いわゆるロシアンゲージが支配するラトビアで、唯一750mmのナローゲージを残しているのが、グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis だ。定期運行している狭軌鉄道は、バルト三国でもここしかない。原語の「バーニーティス bānītis」はドイツ語の Bahn(鉄道)にラトビア語の縮小辞をつけたもので、広軌用に比べてめっぽう小柄な車両や施設に対する土地の人々の親近感がよく表れている。

場所はラトビア北東部、森の中に湖が点在する道のりを、毎日2往復(下注)の列車がのんびりと走っている。鉄道の公式サイトは英語版も充実しているので、それを参考に、波乱に満ちた鉄道の歴史をたどってみよう。

*注 以前は毎日3往復あったが、2010年2月から減便。

地元の有力者が興した会社によって鉄道が公式開業したのは、ロシア帝国領時代の1903年だ。当時の路線は、ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka(現エストニアのヴァルガ Valga)駅間 212kmで、今とは比べものにならない長大な路線だった(下図)。

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バーニーティスの旧路線網
 

ストゥクマニは、ダウガヴァ川 Daugava 沿いにある現在のプリャヴィニャス Pļaviņas で、リーガへ通じる幹線との接続駅だ。列車はそこから北東方向にマドナ Madona、ヴェツグルベネ Vecgulbene(1928年に旧名グルベネに改称。Vec は英語の old )、アルークスネ Alūksne まで進んだ後、北西に向きを変えてアペ Ape、ヴァルカへ至る。

ヴァルカにはリーガと現ロシアのプスコフ Pskov を結ぶ広軌線が通っていたが、それとは別に開通済みの狭軌線に接続して、現エストニア領パルヌ Pärnu の港への短絡路を確保した。鉄道が内陸輸送の主役であった時代、積み替えせず港まで物資を直送できるのは大きな利点だった。木材をはじめ、とうもろこしや酒その他の農産物が、このルートを通って運ばれた。

しかし、帝国末期の世情は不安定で、会社はまもなく、血の日曜日事件に始まるロシア第一革命の渦に巻き込まれる。農村の騒乱に呼応して、鉄道員たちも活動の先鋒に立った。施設が破壊され、会社は蒙った損失を回復できないまま、第一次世界大戦直前、ついに破産してしまう。

1916年、ロシア軍は、ヴェツグルベネでこの線と交差する広軌新線(イエリチ Ieriķi ~アブレネ Abrene)を建設するのに合わせて、ストゥクマニ~ヴェツグルベネ間を広軌に変換した。このため、狭軌区間は北半分に短縮された。

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上空から見たグルベネ駅
駅舎寄りに狭軌線がある(2018年)
Photo by Edgars Šulcs at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1918年にバルト三国は相次いでロシアからの独立を宣言するが、これが狭軌線の運命をまたも翻弄することになる。アルークスネの先で、ラトビアとエストニアの国境線が鉄路を二度も横切ることになったからだ。

両国間の協議で、エストニア側に越境した区間の運行管理をラトビアに委ねることが決まり、戦争で荒廃した鉄道は1921年にようやく全線再開に漕ぎつける。ラトビア国内の輸送は順調に推移したものの、パルヌ港が他国領となったため物流の方向が変わり、アペから西側の利用は極端に少なくなった。

第二次世界大戦、特にその終盤はドイツ占領軍の撤退とソ連軍の空襲で、鉄道の施設は甚大な被害を受けた。しかし、重点的な復旧作業の結果、1945年12月には運行を開始している。1960年代にはヴァルガ Valga 駅に引き込むルートが設けられが、同時にこの頃から、自動車交通の発達が鉄道の顧客を徐々に奪い始めた。1970年、長らく閑散区間だったヴァルガ~アペ間が休止、1973年にはアペ~アルークスネ間も運行を取りやめた。

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グルベネ駅で広軌と狭軌の特別列車が接続
Photo by Jānis Vilniņš at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

こうして、アルークスネ~グルベネ間だけが残ったが、その理由は、アルークスネに駐留していたソ連軍に物資を供給するためだったといわれる。しかしここにも存続の危機が迫っていた。1987年に、老朽化した車両の整備不良がたたり、運行が止まってしまったのだ。すでに鉄道は工学遺産に指定されていたため、知識人らの熱心な支援活動が当時の共産党中央委員会を動かした。客車が新調され、続いて2両のディーセル機関車が新たに導入された。

ソ連から再独立した後も、貨物輸送の廃止、旅客列車の削減と、鉄道の規模縮小は進行したが、1998年の国鉄から地方政府への売却、2001年の運営会社設立によって命脈を保ち、2003年には100周年を祝うことができた。地元では観光資源としての期待も膨らんでいるようだ。

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アルークスネ駅構内(2011年)
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

バーニーティスの起点があるグルベネ Gulbene の町は、狭軌線の単なる中間駅が広軌線開通により鉄道の結節点となったことで、にわかに活気づいた。町の北端に、1926年当時の壮麗な駅舎が今も建っている。

下掲の地形図を見ると、北東隅から狭軌線(日本で言う私鉄記号)が延びてきて、グルベネ駅に入っていく。実際は駅構内でラトビア国鉄の広軌線(太い実線、下注)と平面交差し、駅舎寄りにホームがある。つまり、接続駅の一般的な線路配置とは反対に、駅舎側から支線、本線の順に並んでいるのだ。

*注 グルベネからロシア国境に向かう路線だったが2001年に廃止された。

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グルベネ駅舎正面
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グルベネで発車を待つ蒸気列車
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グルベネ駅北東構内にある広軌・狭軌の平面交差
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バーニーティス周辺 グルベネ~パパルデ間
旧ソ連製1:100,000 O-35-102(1981年), O-35-103(1990年)
 

しかも、グルベネ駅の線路配置図(下図)でわかるように、狭軌線は広軌線を隔てて駅舎とは反対側にも延びている。実はこれが広軌線開通以前の狭軌線のルートだ。1940年の扇形機関庫(図では Roundhouse の注記)建設で迂回させられているが、もとは一直線で、南西に向かう広軌線(下注)につながっていた。ちなみに扇形庫の南西では、煉瓦で造られた狭軌時代のグルベネ(ヴェツグルベネ Vecgulbene)駅舎が個人宅に転用されて、今も残っている(Old station building の注記)。

*注 プラヴィニャス=グルベネ線 līnija Pļaviņas—Gulbene。先述のとおり1916年に改軌されるまでは、バーニーティスと同じく狭軌線の一部区間だった。

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グルベネ駅構内配線図
from OpenRailwayMap
 

扇形庫はその前にある転車台とともに、戦争で破壊された後、1945~51年に拡張改築されたものだ。9線収容で、一部は狭軌線車両も収容できるように4線軌条化されている。見た目は廃屋に近いが、まだまだ車庫として現役だ。バーニーティスの運営会社が管理し、車両の整備も行っていて、年間行事の際には一般公開される。

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(左)4線軌条の転車台
(右)現役の扇形機関庫
 

狭軌という希少性から観光鉄道の側面をもつバーニーティスだが、公共交通機関でもあり、そのために平日休日を問わず運行されている。ただし、ダイヤは午後に2往復のみの閑散ダイヤで、グルベネを13時と18時(土曜は18時30分)に出発して終点アルークスネで折り返す。

列車の前に立つのは通常、ディーゼル機関車だが、特定の土曜日には、13時発の第1便を蒸気機関車が牽引する。列車は片道32.8kmを80~85分、蒸機の場合は110~115分かけて走る(下注)。途中8駅あるうち4駅は、乗降客があるときのみ停車するリクエストストップだ。

*注 途中のパパルデ Paparde 駅で給水停車がある。

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(左)蒸機ГР (GR) 形319号
(右)テンダーに薪が山積み
 

2025年現在、運用中の蒸機は1951年旧東ドイツ、カール・マルクス機関車工場 Lokomotivbau Karl Marx Babelsberg (LKM) 製、動輪4軸のГР (GR) 形319号で、「フェルディナンツ Ferdinands」と命名されている。森林鉄道でも運用されるため、燃料に薪を用いることが可能な機関車で、実際にバーニーティスでも薪を焚いて走っている。

なにぶん沿線は過疎地につき、団体客などの予約がなければ、客車はたいてい1両きりだ。モケットシート24席の旧ソ連製車両が用いられることが多く、増結するときはベンチシート40席のポーランド製車両が動員される。乗車券は車掌が手売りしている。自由席だが、複数両つないでいるときは、乗車車両を指示されるかもしれない。

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(左)旧ソ連製客車
(右)車内はモケットシート、この日は団体予約専用だった
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(左)ポーランド製客車
(右)車内はベンチシート
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往復乗車券
(左)表面、Vilciena Nr.は列車番号(右)裏面
 

汽笛一声、走り出すと車窓には、針葉樹林と牧草地や湿原が織りなすパッチワークの風景がどこまでも続く。か細い軌道上を静かにたどる時速25kmの孤独な旅だ。走路の心もとなさとは対照的に、駅舎や待合室は近年、整備が進んだ。スターメリエネ Stāmeriene では煉瓦造の平屋駅舎が、待避線をもつ次のカルニエナ Kalniena では木造の平屋駅舎が、瑞々しさを取り戻している。

パパルデ Paparde にも静かな森の間に木造駅舎が残るが、蒸機は、少し離れた煉瓦の給水塔の前でしばらく停車して水の補給を受けた。

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車窓は森と牧草地のパッチワーク
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(左)煉瓦造のスターメリエネ駅舎(2013年)
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)木造のパパルデ駅舎(2010年)
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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パパルデで給水を終えた蒸機
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パパルデ~アルークスネ間
旧ソ連製1:100,000 O-35-90(1978年版), O-35-91(1991年版),
O-35-102(1981年), O-35-103(1990年)

 

倉庫や民家がばらばらと窓に映るようになると、まもなく終点アルークスネ Alūksne だ。構内は、余裕のある敷地に3本の線路が並んでいる。煉瓦造の駅舎はカフェに転用され、その北側に建つ倉庫は展示室に改装された。第1便の列車は折返しの出発まで、機回し作業を含めて約1時間の休憩を取る。

アルークスネの町は駅の北側で、湖(アルークスネ湖 Alūksnes ezers)との間に広がっている。マーリエンブルク Marienburg というドイツ語名は、中世、ドイツ騎士団が通商路を護るため、湖に浮かぶ小島に聖母の名を冠した城を築いたことに由来する。

一方のラトビア語のアルークスネも森の泉を意味するそうで、名まえを聞くだけでも旅情を誘われる。しかし、湖畔までは町を抜けておよそ2km、列車の休憩時間がもう少し長ければいいのだが。

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アルークスネ駅での機回し作業
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アルークスネ湖、右奥に新城 Jaunā pils が覗く(2013年)
Photo by Ivo Kruusamägi at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

写真は別途クレジットを付したものを除き、2025年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会の戸城英勝氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

(2008年7月24日付「ラトビア最後の狭軌鉄道」を全面改稿)

■参考サイト
バーニーティス  http://www.banitis.lv/
アルークスネ付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=57.4156,27.0464&z=14

★本ブログ内の関連記事
 バルト三国の鉄道地図
 バルト三国の地図-ラトビアの地方図・市街図

2025年7月15日 (火)

ブロネー=シャンビー保存鉄道-1m軌のミュージアム

ブロネー=シャンビー保存鉄道 Chemin de fer-musée Bloney-Chamby (BC)

ブロネー Blonay BC~シャンビー Chamby 間 2.95km
1000mm軌間、直流900V電化、最急勾配50‰
1902年開通、1966年休止、1968年保存鉄道開業

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シャンビーへの坂道を行くマレー式機関車105号機

スイス西部、レマン湖 Lac Léman を望む高台を走るブロネー=シャンビー保存鉄道 Chemin de fer-musée Bloney-Chamby は、同国の保存鉄道の中でも傑出した存在だ。開業から半世紀を超える歴史の長さもさることながら、国内や近隣諸国で引退したメーターゲージの鉄道車両を積極的に収集し、その数は80両にも達する(下注)。

*注 2025年現在、公式HPに掲載されている車両の数は、蒸気機関車11両、電気機関車5両、電動車15両、客車25両、貨車14両、その他10両。

これらは、終点近くのショーラン・シャンビー Chaulin-Chamby にある車両基地に収容され、動態機はシーズンの主として週末に、保存鉄道の専用線となっているブロネー Blonay ~シャンビー Chamby 間、約3kmのルートで公開運行される。シャンビーで折り返した後、列車が向かうショーラン車両基地での楽しみは、鉄道が誇る広範な車両コレクションの自由見学だ。

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MOBの旧車BCFe 4/4 11号

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保存鉄道の起点ブロネー駅は、レマン湖畔のヴヴェー Vevey から電車で16分、終点シャンビーは同じく湖畔のモントルー Montreux から15分だ。こうした両端でのアクセスの良さも、保存鉄道の人気を高めている要因の一つだろう。

このうちブロネーでの接続路線は、もとヴヴェー電気鉄道 Chemin de fer électriques Veveysans (CEV) と称し、2001年以降は、地方公共交通事業の再編により設立されたモントルー=ヴヴェー=リヴィエラ交通 Transports Montreux-Vevey-Riviera (MVR) の一路線になっている。

今では、背後にそびえるレ・プレイアード Les Pléiades の山上へ行く登山鉄道として知られているが、実は1902年に開業したときの終点はシャンビーで、50‰の急勾配ながら全線粘着運転の路線だった。シャンビーでは、1年前に開業したばかりのモントルー=オーベルラン・ベルノワ鉄道 Chemin de fer Montreux Oberland Bernois(MOB、下注)に接続した。ちなみに、ブロネー~レ・プレイアード間は、後の1911年にラック式で開業した支線だ。

*注 ドイツ語読みでは、モントルー=ベルナー・オーバーラント鉄道 Montreux-Berner Oberland-Bahn。近年は観光ルート、ゴールデンパス・ライン GoldenPass Line の西半区間として知られる。

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ヴヴェー電気鉄道を走る粘着・ラック式併用電車ABeh 2/6
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ブロネー=シャンビー保存鉄道周辺の路線網
 

しかし、残念ながらブロネー~シャンビー間は旅客需要が乏しく、1966年に運行が休止されてしまう。そこで、短距離だが景観の魅力に富むこのルートを保存活用しようと、その年のうちに観光鉄道創設のための協会組織が立ち上げられた。

車両の取得と線路の改修、会社設立、運行認可申請と作業は順調に進み、2年後の1968年7月20日に待望の開業式を迎える。スイスで初めての本格的な保存鉄道だった。こうした経緯から、ブロネー~シャンビー間の線路施設は今なお、ヴヴェー電気鉄道を引き継いだモントルー=ヴヴェー=リヴィエラ交通の所有で、保存鉄道会社は路線上の旅客輸送事業者という位置づけだ。

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シャンビー駅のジュネーヴ市電151号(1976年)
Photo by Alain GAVILLET at wikimedia. License: CC BY 2.0
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ブロネー=シャンビー保存鉄道周辺の地形図に鉄道のルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

2024年6月のスイス滞在中にこの保存鉄道を訪れる機会があった。先にヴヴェー電気鉄道の本線をレ・プレイアードの山上まで全線乗ってから、復路のブロネーで下車した。

駅には3本の簡素な発着番線と平屋の駅舎があるが、保存鉄道はその南側に、1番線から派生した独自の乗り場と切妻屋根の小さな木造駅舎を構えている。まずは出札口へ行き、往復と言って切符を買った。渡されたのは博物館入館込みの一日乗車券 carte journalière で、24スイスフラン。

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(左)一日乗車券
(右)ブロネー駅構内、左手前が保存鉄道の乗り場
 

運行日は5月から10月の間、主として週末の2日間だが、1日あたり8往復の設定があり(下注)、旅程は組みやすい。ただし、蒸気機関車が登場するのは、土曜3往復、日曜4往復のみで、他の便は電車か電気機関車が牽引する列車だ(2024年現在)。

*注 月の最終日曜は10往復走るが、蒸気機関車はそのうち3往復。

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(左)本線駅舎
(右)1955年までブロネーに来ていた路面軌道の記念壁画
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保存鉄道の小さな駅舎
 

ホームには、次の11時10分発が停車中だった。前に立つ電動車は、MOB(モントルー=オーベルラン・ベルノワ鉄道)の初期の旧車で、1914年製のBCFe 4/4 11号。後ろに、ルガーノ Lugano 近郊を走っていたというオープン客車「ジャルディニエラ Giardiniera」を従えている。

先刻レ・プレイアードに上る途中でこの駅を通ったとき、1本前の10時10分発を目撃したのだが、列車はこれとは違い、旧ベルン市電 Stadtische Strassenbahnen Bern の1914年製トラムCe 2/2 52号だった。おおむね1時間間隔の運行で、午後は蒸機も出るので、運用上、電車は1編成あれば十分なはずだが、豊富に擁する控え投手を次々に登板させているようだ。

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(左)MOBの旧車11号
(右)後ろにつく「ジャルディニエラ」(ショーラン博物館で撮影)
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(左)MOB旧車11号の車内
(右)同型車の絵葉書が額装されていた
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鮮やかな緑をまとう旧ベルン市電52号
 

急ぐ旅でもないのでこの便は撮影用に見送り、次の12時10分発でブロネーへ向かうことにした。ホームで待ち構えていると、やってきたのはオフホワイトとブルーのツートン電車で28のナンバーをつけている。旧 ローザンヌ市電 Tramways Lausannois の1913年製Ce 2/3 28号だ。車内には、1人掛けと2人掛けの背もたれ転換式シートが7列並ぶ。客は10人足らずなので、余裕で座れた。

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旧 ローザンヌ市電28号
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(左)ブロネー駅で折り返しを待つ
(右)座席は背もたれ転換シート
 

発車するとすぐに50‰の急な坂道で、レ・プレイアードの登山道路と交差し、斜面に広がる住宅街をくねくねと抜けていく。右手下方にはレマン湖の湖面がちらちらと覗くが、朝から空は曇り、湿度も高めで、遠景にはもやがかかっている。シャントメルル Chantemerle の旧停留所を過ぎると住宅街はまもなく尽きて、線路は深い谷間に入っていく。

右へ左へいくつかカーブをこなした後、行く手に、車窓のハイライトとして有名なベー・ド・クラランス高架橋 Viaduc de la Baye de Clarens が見えてきた。同名の谷川に架かる長さ80mの石造アーチ橋だが、対岸へ大きく右カーブしていて、蒸気列車なら先頭の機関車を視界に捉えることができる絶好の撮影ポイントだ(下注)。

*注 高架橋のたもとへアクセスできる登山道などはないため、地上での撮影は難しい。

しかし、訪れたときは、地盤の不安定化で危険になった一部の橋脚をPC造に置き換えるという大規模工事のさなかだった。高架橋全体が足場ですっぽり覆われていて、電車は仮設の橋桁の上を最徐行で通過した。

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ベー・ド・クラランス高架橋は工事中
対岸の橋脚はPC造に置換えられる
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工事前のベー・ド・クラランス高架橋(2016年)
Photo by Allmendstrasse at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

橋を後にし、反転カーブで長さ45mの短いコルノートンネル Tunnel de Cornaux をくぐり抜けると、列車は湖面を見下ろす広い牧草地の斜面に顔を出す。少しの間だが、スイスのリヴィエラ(下注)と称えられる美しい湖岸を眺めながら行く絶景区間だ。コルノー Cornaux の旧停留所を通過。車窓が再び森に覆われると、左車窓に車両基地への引込線が降りてきた。しかし往路はここで停車せず、引き続きシャンビー駅のホームまで上っていく。

*注 スイス国内では、州名を冠してリヴィエラ・ヴォードワーズ Riviera vaudoise(ヴォーのリヴィエラの意)と呼ばれる。

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レマン湖を眺める絶景区間
 

シャンビーは、見晴らしのいい急斜面にへばりつくように設けられたMOB(モントルー=オーベルラン・ベルノワ鉄道)の中間駅だ。ブロネー駅と同様、MOBの駅舎の横に、物置小屋と間違えそうな保存鉄道の小さな駅舎がある。

高架橋の徐行で時間が押していたのか、到着したのは12時23分ごろで、すぐに運転士が反対側の運転席に移動してきた。ホームに降りて写真の1枚でも撮ろうと様子を窺っていたのだが、結局、腰を上げるタイミングがなかった。

定刻の12時26分になり、再び発車。今来た道を戻り、先ほどの分岐点で車両基地側へ進路を変える。給炭作業中の蒸機を横に見ながらヤードに進入し、12時30分、車庫の前のささやかなホームがある位置で停車した。ここまでが往路だ。

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シャンビー駅
(左)地方様式のMOB駅舎(右)保存鉄道駅舎
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本線と車両基地との分岐点
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(左)車両基地にゆっくり進入
(右)ささやかなホームの前で停車
 

森に囲まれた保存鉄道の拠点は、自社の時刻表上でショーラン・ミュゼー(ショーラン博物館)Chaulin-Musée と案内されている(下注)。正面に見える5線収容の堂々たる車庫は1973年の建築だが、増え続ける車両で満杯になり、向かい側に1993年、3線収容でより奥行きのある第2車庫が完成した。それでも入りきらない貨車などがヤードの側線を埋めている。

*注 ただし、SBB公式時刻表(時刻表番号115、116)には、シャンビー・ミュゼー Chamby-Musée と記載されているので注意。

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(左)ビュッフェ併設の旅客駅舎
(右)野外テラスも盛況
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5線収容の第1車庫
 

両車庫とも見学は自由で、最終列車の発車まで時間制限もない。第1車庫に入ると、かつてフルカ峠を越えた旧 ブリーク=フルカ=ディゼンティス鉄道 Brig-Furka-Disentis Bahn (BFD) の3号機がまず目に入る。他にも、スイス最初の狭軌線だったローザンヌ=エシャラン=ベルシェ鉄道 Chemin de fer Lausanne-Échallens-Bercher (LEB) の1890年製5号機や、イタリア、フェラーラ Ferrara の近郊を走っていた路面蒸機2号機など、貴重な蒸気機関車が集結している。ブロネーで10時台に目撃したベルン市電と、11時台のMOB電車もここで休んでいた。

機関室や客車の内部にも入れるので、外見だけでなく、美しく整備された機器や内装をじっくり観察できるのがうれしい。

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(左)美しく磨かれたBFDの3号機
(右)銘板
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(左)ローザンヌ=エシャラン=ベルシェ鉄道5号機
(右)フェラーラの路面蒸機2号機
 

一方の第2車庫には、電車の旧車が多く格納されている。ラック線だったロイク=ロイカーバート鉄道 Leuk-Leukerbad-Bahn (LLB) が1967年に廃止になったとき、いち早く車両の取得に動いたのがブロネー=シャンビーで、その電動車10号と付随車22号がここにいた。レーティッシュ鉄道 Rhätische Bahn (RhB) のベルニナ線を走ったサロン・バーカー2号車も、豪華な内装がみごとに復元されている。

敷地内には、駅舎内のビュッフェや野外テラスが設置されていて、疲れたらそこで休めばいいと思っていたが、車庫2棟を一巡し、本線に出ていく列車を撮ったりしていたら、いつのまにか帰りのブロネー行き蒸気列車の発車時刻が迫っていた。

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3線収容の第2車庫
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ロイク=ロイカーバート鉄道の遺品
(左)ロイク駅ホームの案内板 (右)電動車10号
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(左)ベルニナ線のサロン・バーカー2号車
(右)気品漂う車内
 

列車を率いるのは、旧 南ドイツ鉄道会社 Süddeutsche Eisenbahn Gesellschaft のマレー式G 2×2/2 105号機だ。1967年に廃止されたシュヴァルツヴァルトのツェル=トットナウ線 Bahnstrecke Zell-Todtnau で走っていたもので、ブロネー=シャンビーに到来した最初の蒸気機関車になる。ブロネー方面へは下り坂なので、逆機(バック)運転だ。

後ろには、ベルナー・オーバーラント鉄道 Berner-Oberland-Bahn (BOB) のオープン客車と、この路線のオリジナル車である赤色塗装の1902年製ヴヴェー電気鉄道21号客車がついている。

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南ドイツ鉄道105号機、動輪2軸2対のマレー式蒸機
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ブロネーへ向かう蒸気列車
(ショーラン博物館13時40分発を撮影)
 

15時00分に発車。復路はシャンビーには立ち寄らない。分岐点のポイントまで引込線をゆっくり後退した後、進行方向を変えて本線を滑るように下っていく。トンネルを抜け、高架橋を渡り、約15分で起点のブロネーに到着した。

列車は手早く機回しを終えて、10分後の15時25分には再びシャンビーに向けて戻る。近くの踏切から、坂道を力行していく頼もしい後ろ姿を見送って、今回の保存鉄道訪問は無事終了した。

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シャンビーへ向け力行する105号機
 

■参考サイト
ブロネー=シャンビー保存鉄道(公式サイト) https://blonay-chamby.ch/

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 スイスの保存鉄道・観光鉄道リスト-北部編

 フルカ山岳蒸気鉄道 I-前身の時代
 フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり
 フルカ山岳蒸気鉄道 III-ルートを追って
 チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道
 チューリッヒ保存鉄道-ジールタール線の懐古列車
 リトライユ(ヌーシャテル路面軌道)

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