保存鉄道

2025年10月 9日 (木)

イタリアの保存鉄道・観光鉄道リスト II

前回に引き続き、イタリアの保存鉄道・観光鉄道から注目路線をピックアップしたい。

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ミラノ市内線19系統を走る1500形(2022年)
Photo by Oleksandr Dede at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」
https://map.on.coocan.jp/rail/rail_italy.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」画面

路面軌道では、低床の連節車両に主役の座を譲りつつも、旧型トラムの姿がいまだ見られる町が北部にいくつかある。

項番1 トリエステ=オピチーナ路面軌道 Tranvia Trieste-Opicina

トリエステ Trieste は北イタリアの東端、アドリア海の湾入に面した港町だ。かつてはトラムが市街地を縦横に走っていたが、1970年までに廃止されてしまい、唯一残っているのがトリエステ=オピチーナ路面軌道 Tranvia Trieste-Opicina だ。メーターゲージの路線で、1935~42年製の古参トラムが改修を受けながら今も主役を務めている。

トラムは市内のピアッツァ・オベルダン(オベルダン広場)Piazza Oberdan から、町の背後に迫る斜面を上って、カルスト台地の上にあるヴィッラ・オピチーナ(オピチーナ町)Villa Opicina まで行く。全線5.2kmの中で名物になっているのが、長さ約800m、勾配260‰の鋼索線(ケーブルカー)区間だ。

もとよりトラムがケーブルカーに変身するわけではなく、ケーブルに接続された台車(スピントーレ spintore、すなわち押し車)で後ろから押してもらって坂を上る仕組みだ。トラムと台車は連結されておらず、重力で接触しているだけなので、坂上の終点まで来ると、トラムは再始動して自力で離れていく。

補助を要する急坂はここまでだが、その後も上り勾配はしばらく続き、最後に傍らにオベリスクが立つ地形上のサミットを通過する。標高343mの台地のへりで、トリエステの町と港が一望になる車窓きってのビューポイントだ。

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オベルダン広場の起点駅(2008年)
Photo by Orlovic at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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鋼索線でトラムを押す台車(2009年)
Photo by Smiley.toerist at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番9 ミラノ市電1500形 Tranvia di Milano, Serie 1500

イタリアの都市で19世紀以来、市内の路面軌道が存続してきたのは、開業順にトリノ、ナポリ、ローマ、そしてミラノの4都市だ(下注)。導入こそ最も遅かったが、ATM(ミラノ交通公社 Azienda Trasporti Milanesi)が運行するミラノの軌道網は今や17路線、延長160km近くあり、世界的にも最大級とされる。

*注 トリノが1871年、ナポリが1876年、ローマが1877年、ミラノが1881年で、いずれも馬車軌道から始まった。

ミラノの市内電車で興味深いのは、これだけではない。モダンな連節低床トラムに混じって、昔懐かしいヴィンテージ車両が多数現役で運用されているのだ。1927~30年製の1500形で、初めて供用された1928年にちなんで、イタリア語で28を意味するヴェントット Ventotto の愛称で呼ばれる。

502両製造されたうち、150両ほどが今も稼働可能で、ヨーロッパ最古の定期運行トラムだそうだ(下注)。1970年代からオレンジ1色に塗られていたのでそのイメージが強いが、最近はオリジナル色であるベージュと黄色のツートンに塗り替えが進んでいる。

*注 リスボン市電のレモデラードス(改修車)Remodelados も有名だが、オリジナルは1932年以降の製造。

観光用の特別系統なら後述するトリノなどにもあるが、一般路線、かつ通常の運賃制度の範囲内で乗れるというのは珍しいのではないか。もちろんこれは、財政事情で新旧交代が進まないからではなく、街の景観に溶け込んだシンボル的存在として、積極的に動態保存されてきたのだ。ただし、近年の車両に比べて収容力が小さいので、比較的混んでいない系統(1、5、10、19、33系統)で運用されているという。

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スカラ座前の1500形(2022年)
Photo by dconvertini at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番12 トリノ市電7系統 Tranvia di Torino, Linea 7

北イタリア西部、ピエモンテ州の州都トリノ Torino の路線網は現在88.5kmに達する。運行系統は全部で10あるが、その中に、観光用の7系統 Linea 7 が含まれる。非営利団体のトリノ歴史路面電車協会 Associazione Torinese Tram Storici (ATTS) の協力により、1930~50年代の旧型車両だけで維持されている特別系統だ。週末と祝日に1時間間隔で運行され、市内中心部(チェントロ Centro)を時計回りに一周する6.9kmのルートを走る。

カステッロ広場 Piazza Castello の電停を出発したトラムは、ポー川沿いや並木道のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通り Corso Vittorio Emanuele II、中央駅ポルタ・ヌオーヴァ Porta Nuova の前などを経由して、41分で起点に戻ってくる。通常運賃で乗車でき、居ながらにして街を巡れる手軽な観光ツールだ。

時間に余裕があるなら、一般運行の15系統に乗換えて、ポー川の対岸サッシ Sassi へ足を延ばすのもいいだろう。サッシ=スペルガ軌道  Tranvia Sassi-Superga(項番13)のラック電車が、スペルガ宮殿 Basilica di Superga がそびえる見晴らしのいい丘の上まで連れて行ってくれる。

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カステッロ広場の7系統(2006年)
Photo by Aleanz at wikimedia. License: public domain
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サッシ=スペルガ軌道の起点サッシ駅(2014年)
Photo by Incola at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

このほか、ローマ市内でも、古典車両で運行される観光系統「7系統 アルケオトラム Archeotram」の開業が予定されている。走行ルートは既存の軌道で、ピラミデ Piramide 駅前からコロッセオ Colosseo、ポルタ・マッジョーレ Porta Maggiore などの名所を経てテルミニ Termini 駅前で折り返すというものだ。

廃止済みの路線も興味深いものが目白押しなので、リストに含めておいた。もはや乗車することは叶わないが、存続していたら観光鉄道として人気を博していたかもしれない。

項番3 ドロミーティ鉄道 Dolomitenbahn/Ferrovia delle Dolomiti

ドロミーティ鉄道は、来年(2026年)冬期オリンピックが開催される北東部のリゾート地区、コルティーナ・ダンペッツォ Cortina d'Ampezzo を通っていた950mm軌間の電気鉄道だ。FS線に接続するカラルツォ・ディ・カドーレ Calalzo di Cadore から同じくトーブラッハ/ドッビアーコ Toblach/Dobbiaco まで南北64.9kmを走っていた。

ドロミーティはまた、天にそそり立つ奇峰群の景観でも有名だ。鉄道は谷間から峠に向けてしだいに高度を上げていき、車窓には樹林の間から雄大な山岳パノラマの絶景が広がった。観光路線と目されていたのはもちろん、前回1956年の五輪開催時にはまだ現役だったので、客車が増備され、選手・関係者や観衆の輸送にも奔走したそうだ。

しかし、老朽化に伴い1964年に廃止となり、役割を路線バスに譲った。今は全線が「ドロミーティの長い道 Lunga via delle Dolomiti」と呼ばれる長距離自転車道になっている。

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サン・ヴィート・ディ・カドーレ San Vito di Cadore 付近の
廃線跡自転車道(2023年)
Photo by Giorgio Galeotti at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番19 リミニ=サンマリノ線 Ferrovia Rimini-San Marino

同じく950mm軌間の電化路線で、アドリア海岸の町リミニ Rimini と、イタリアの中の独立国(包領 Enclave)サンマリノ San Marino の間31.5kmを結んでいたのが、国鉄リミニ=サンマリノ線だ。終点サンマリノ・チッタ(市駅)San Marino Città は聳え立つ丘の上に位置し、標高は643m。それでもラックレールには頼らず、スパイラル2回とS字ループの繰り返しで最後まで上りきるという、タフな登山路線だった。

1932年に開通したものの、第二次世界大戦で施設が破壊されて運休となり、結局そのまま廃止されてしまう。運行期間わずか12年という薄命の路線だった。その後2012年に保存団体の尽力で、オリジナルの電動車AB03と、終点近くで半回転しているモンターレトンネル Galleria Montale 前後の800m区間が復旧された。現在も年に数日、保存走行が実施されている。

*注 鉄道の詳細は「サンマリノへ行く鉄道」参照。

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復元区間に配置された電車AB03(2015年)
Photo by Aisano at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

項番20 スポレート=ノルチャ鉄道 Ferrovia Spoleto-Norcia

スポレート=ノルチャ鉄道は、中央アペニン山脈にあった950mm軌間、51.2kmの電気鉄道だ。ウンブリア州スポレート Spoleto の町から東へ進み、山奥の盆地にあるノルチャ Norcia という町まで走っていた。

とりわけ東隣の谷筋へ抜けるための前半区間が、スペクタクルなルートで有名だった。長さ2kmのサミットトンネルの両側に、計3回のスパイラルと、いろは坂のようなS字ルートが続く。さらに全線にわたって橋梁などの土木構造物も数多く、スイスアルプスの南北幹線になぞらえて「ウンブリアのミニ・ゴッタルド Piccolo Gottardo Umbro」の異名を取った(下注)。

*注 実際は狭軌鉄道なので、ゴッタルドよりもレーティッシュ鉄道のベルニナ線 Berninabahn に似ている。

1968年に廃止されたが、幸い、峠越えを含む前半31km区間がほぼ完全に自転車道に転用整備されたので、自力でなら今でもたどることが可能だ。また、起点のスポレート駅舎は、この狭軌鉄道を記念する博物館になっている。

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狭軌鉄道のノルチャ駅は鉄道博物館に(2022年)
Photo by Simone Pranzetti at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番25 ヴェスヴィオ登山電車 Ferrovia Pugliano-Vesuvio, Funicolare Vesuviana

ヴェスヴィオ山は、ナポリ湾に臨む標高1281mの火山だ(下注)。知られるとおり、西暦79年の噴火では麓の古代都市ポンペイとヘルクラネウムを壊滅させ、その後も大小の噴火を繰り返してきた。

*注 イタリア語ではヴェズーヴィオ Vesuvio。活動中のため、標高値には変動がある。

一般にヴェスヴィオの登山電車というと、1880年に開業したフニコラーレ・ヴェズヴィアーナ(ヴェスヴィオ ケーブルカー) Funicolare Vesuviana のことを指す。火口縁まで上る0.8kmの鋼索線(下注)で、当時作られた軽快な歌曲「フニクリ・フニクラ Funiculì funiculà」のおかげで世界的に有名になった。

*注 最初はモノレール式の小型車両で運行された(下の写真参照)が、1904年に単線交走式ケーブルカーに改築。

しかし、下部駅は山の中腹、標高753m地点に設けられていたため、そこまでは馬車で行くしかなかった。この駅と、裾野を走っている既設の路面軌道の停留所との間をつないだのが、メーターゲージ、7.7kmの電気鉄道、プリャーノ=ヴェスヴィオ鉄道 Ferrovia Pugliano-Vesuvio だ。1903年に開業したこの路線によってはじめて、ナポリ市内から火口までの鉄道網が完成した(下注)。

*注 1913年にプリャーノ Pugliano 駅まで延伸され、チルクムヴェズヴィアーナ(ヴェスヴィオ環状)鉄道 Ferrovia Circumvesuviana との接続を果たした。下のルート図はその状況を示している。

山麓から中腹まで680mある高度差を克服するため、電気鉄道の中間部には最急勾配250‰のシュトループ式ラックレールが敷かれていた。実態としてヴェスヴィオ登山電車は、この二者一体で完結する山岳観光ルートだったのだ。

しかし、1944年に起きた激しい噴火活動により、ケーブルカーの施設は破壊され、運行不能となる(下注)。電気鉄道も一部区間で被害を受け、代替道路建設による下部区間の部分運休を経て、1955年に全線廃止となった。

*注 代替として1953年にチェアリフトが設置され、1984年まで稼働していた。

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モノレール式の初代ケーブルカー(1880~1904年)
Photo from Amsterdam Rijksmuseum collection at wikimedia. License: CC0 1.0
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ヴェスヴィオ登山電車ルート図
Image from wikimedia. License: public domain
 

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2025年10月 8日 (水)

イタリアの保存鉄道・観光鉄道リスト I

イタリアでは、2017年に観光鉄道 Ferrovia turistica の制度が法制化された(2017年8月9日付第128号)。その目的は、文化・景観・観光的に特に価値のある休廃止または閉鎖された鉄道路線の保護と活用で、対象には路線や駅、関連する土木構造物、付属施設が含まれる。

現在、27の路線(標準軌20、狭軌7)が選定されているが、標準軌路線は大半が国鉄線(下注)だ。一部の路線で、国鉄系のイタリアFS財団 Fondazione FS Italiane が「時を超える線路 Binari senza Tempo」の統一ブランドを掲げて観光列車を運行している。一方、狭軌線には、半島先端のカラブリア州とシチリア島、サルデーニャ島の路線が含まれる。まずはこれらの中から主なものを挙げていこう。

*注 国鉄(FS)線は上下分離政策により、FS の子会社 RFI(イタリア鉄道網公社 Rete Ferroviaria Italiana)がインフラの保有・管理を、グループ会社トレニタリア Trenitalia が列車運行をそれぞれ担っている。

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ピエトラルサ国立鉄道博物館 Museo nazionale ferroviario di Pietrarsa の
展示棟に整列する機関車群(2018年)
Photo by John Smatlak at flickr. License: CC BY-NC-ND 2.0
 

「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」
https://map.on.coocan.jp/rail/rail_italy.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-イタリア」画面

項番18 トスカーナの自然列車(ヴァル・ドルチャ線)Trenonatura in Toscana (Ferrovia della Val d'Orcia)

ヴァル・ドルチャ線(オルチャ渓谷線)は、トスカーナ南部に広がる美しい丘陵地帯の一角、オルチャ渓谷 Val d'Orcia を経由するアシャーノ=モンテ・アンティーコ線 Ferrovia Asciano-Monte Antico の別称だ。

沿線人口が少ないため、1994年に旅客列車が廃止されてしまったが、地元の声を受けて1996年に創設されたのが、観光列車「トレノナトゥーラ(自然列車)Trenonatura」だ。これには、近隣の人気都市シエナ Siena に集まる観光客を、まだ注目されずにいた周辺の地域へ誘い出すねらいがあった。

企画は二種類あり、一つは定期列車や別途3便設定された古典気動車をローバーチケット(一日乗車券)で自由に乗り降りするフリータイプ、もう一つは予約を要する蒸気機関車牽引の特別列車だった。これはマスコミでも報じられて評判を呼び、2000年代に一大ブームを迎えたが、2011年以降は状況が落ち着いて、後者のタイプのみの運行になっている。

今でも週末には、ピストイナ機関庫からやってきた蒸機やディーゼル機関車の先導でツアーが催行される。シエナを朝発って、モンテ・アンティーコ Monte Antico~アシャーノ Asciano 間のいずれかの駅からバスで周辺の見どころを巡り、夕方、シエナに戻るというコースだ(下注)。

*注 シエナまでの復路は、ツアーによって列車ではなくバスになる場合がある。

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トッレニエ-リ Torrenieri 南方にて(2010年)
Photo by maurizio messa at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番23 トランシベリアーナ・ディターリア(イタリアのシベリア横断鉄道)Transiberiana d'Italia

スルモーナ=イゼルニア線 Ferrovia Sulmona-Isernia は、イタリアの背骨アペニン山脈中央部の山中を走る118kmのローカル線だ。同国の標準軌鉄道網では、ブレンナー(ブレンネロ)峠 Brennerpass/Passo del Brennero に次ぐ標高1268mを通過する。冬の間、沿線は雪に覆われ、寒さが厳しいことから、路線は「イタリアのシベリア横断鉄道」の異名をもつ。

ここに観光列車が走り始めたのは2014年のことだ。マイエッラ国立公園 Parco nazionale della Maiella(下注)の区域を通っていくので「公園鉄道 Ferrovia dei Parchi」(下注)の名称がつけられた。現在はシーズンの週末に、ディーゼル機関車と古典客車の編成で運行されている。

*注 スルモナの東にあるマイエッラ山地 Montagna della Maiella を中心とする国立公園。マイエッラ山地の主峰はアペニン山脈第2の高峰、標高2793mのアマーロ山 Monte Amaro。

発地は、ローマとペスカーラ Pescara を結ぶアペニン横断幹線の中間にあるスルモーナ Sulmona だ。列車は一路南へ進み、行く手に立ちはだかるマイエッラ山地の険しい峠を越えていく。路線の終点はイゼルニアだが、そこまでは行かず、途中のいずれかの駅で周辺の観光に出かけ、夕刻にスルモーナへ戻るのが通例だ。

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カロヴィッリ Carovilli 駅付近(2012年)
Photo by Dgandrea05 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

項番28 シーラ列車 Treno della Sila

イタリア半島の平面形をブーツに例えると、つま先がカラブリア Calabria 州だ。その足の甲のあたり、南に膨らんでいる一帯はシーラ Sila と呼ばれ、標高1000mを越える山地と高原が広がっている。シーラ列車は、その高原地帯を走る狭軌(950mm軌間)の保存観光列車だ。

多聞に漏れずこの路線も、もとはコゼンツァ=サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレ線 Ferrovia Cosenza-San Giovanni in Fiore、通称シーラ鉄道 Ferrovia Silana という延長67.1kmの狭軌鉄道だった。しかし、人口希薄な地域のため輸送需要が低迷し、1997年以降、定期列車の運行が順次休止されて、観光専用になった。

シーラ列車は2016年から走り始めた。民間の協会組織が運営に携わる貴重な一例だ。シーズン中の毎土曜または日曜に、通常は蒸気機関車が古典客車を牽いている。列車はカミリャテッロ・シラーノ Camigliatello Silano ~サン・ニコーラ=シルヴァーナ・マンショ San Nicola-Silvana Mansio 間、アップダウンの多い10.8kmのルート(下注)を行く。終点は標高1404m、イタリアの鉄道が到達する最高地点になる。

*注 このほかの区間では列車運行がなく、軌道や施設は放置されている。

全線でもゆっくり走って40分ほどだ。それで、途中で山賊の列車襲撃ショーがあったり、バスに乗り換えてシーラ国立公園のスポットを巡るなど、チケットは複数のイベントを組み合わせたツアーとして販売されている。

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1919年ボルジッヒ製タンク蒸機が牽くシーラ列車(2017年)
Photo by kitmasterbloke at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項目32~35 トレニーノ・ヴェルデ Trenino Verde

サルデーニャ島 Sardegna にも950mm軌間の路線群があり、国鉄線から離れた港や内陸の町を結んでいる。しかし、一般運行を取りやめてしまった区間も多く、そうした休止線を観光用に蘇生させる取り組みが、トレニーノ・ヴェルデ(緑の小列車)のツアー企画だ。

運行している ARST(サルデーニャ地方交通 Azienda Regionale Sarda Trasporti)のサイトによれば、2025年現在、小列車が走っているのは5路線、うち以下の4路線が休止線を活用したものだ。

・サッサリ=テンピオ=パラウ線 Ferrovia Sassari–Tempio–Palau、149.9km
・マコメル=ボーザ線 Ferrovia Macomer–Bosa、45.9km
・イジーリ=ソルゴーノ線 Ferrovia Isili–Sorgono、83.1km
・マンダス=アルバタクス線 Ferrovia Mandas–Arbatax、159.4km

総延長は400kmを優に超えるが、たとえ週に1日でも客を乗せた列車を通すには、保線作業が必要になる。そのため、実際に列車が走るのは一部区間に過ぎず、走行距離は各線とも片道40km前後だ。しかも時間的制約あるいは車両運用の関係か、復路は列車の代わりにバスを使うものさえある。

それでも、一般運行が途絶えた路線を列車で旅行できるというのは貴重だ。たとえばマンダス=アルバタクス線のツアーは、東岸アルバタクス Arbatax の港から標高550mの山上の町ラヌゼーイ Lanusei まで、列車で山腹を延々と上っていく。走行距離34.3kmは全線の2割ほどだが、その先に続く、今は通行できない山岳区間の旅がどれほどハードだったのかを想像するのに十分な体験だ。

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マンダス=アルバタクス線ラヌゼーイ駅(2015年)
Photo by Manfred Kopka at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

イタリアでは、西ヨーロッパ諸国のように非営利団体が運行に携わる保存鉄道は多くない。しかし、日常輸送にいそしむ一般路線にも観光要素は多分にあり、なかでも狭軌鉄道は個性派ぞろいだ。

項番4 リッテン鉄道(レノン鉄道)Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

アルプスの分水界ブレンナー峠から谷間を南下していくと、最初に現れる大きな町がボーツェン/ボルツァーノ Bozen/Bolzano(下注)だ。背後に横たわる標高1200m前後の高原を、メーターゲージ(1000mm軌間)のリッテン鉄道/レノン鉄道の電車が走っている。標準軌の鉄道網から離れた孤立路線で、長さも6.6kmしかない。

*注 もとオーストリア領で、今でもドイツ語話者が多いので、公共表示は両言語併記になっている。

しかし1908年の全通時はそうではなく、距離も2倍ほどあった。というもの、ボーツェン町の中心部から、ボーツェン駅前経由で直通していたからだ。山麓と高原との間の900mを超える高低差は、シュトループ式のラックレールで克服していた。ラック専用の電気機関車が坂下側について、電車を山上まで押し上げていたのだ。

市内で乗り込めば乗換えなしで高原まで行けるのだから、傍目には便利そうだが、地元では時間がかかると不評だった。老朽化が進んで改修が必要になったとき、住民はより高速なロープウェーへの切換えを望んだ。こうして市内軌道と登山区間は1966年に廃止となった。

そのロープウェーが着くオーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano 駅のホームには、シックな赤と銀を装うリッテン鉄道の小型電車が待っている。高原上は夏でも涼しい。風に揺れる牧草地と林を縫って、終点のクローベンシュタイン/コッラルボ  Klobenstein/Collalbo までは20分かからない(下注1)。

*注1 このほかボーツェン方にあるマリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta~オーバーボーツェン間も存続しているが、運行本数は1日5往復。
*注2 鉄道の詳細は「リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史」「同 II-ルートを追って」参照。

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オーヴァーボーツェン駅の古典電車2号(2005年)
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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現在の主役24号電車、ヴォルフスグルーベン Wolfsgruben 駅付近(2021年)
Photo by Falk2 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番15 ジェノヴァ=カゼッラ鉄道 Ferrovia Genova-Casella

リグリア海に臨む港町ジェノヴァ Genova からも背後に連なる山地に向けて、メーターゲージの電化路線、ジェノヴァ=カゼッラ鉄道が延びている。長さ24.3km、電車の目的地は、アペニン山脈の山中にあるカゼッラ Casella という田舎町だ。

起点ピアッツァ・マニン(マニン広場)Piazza Manin 駅は意外にも、市街地を見下ろす標高93mの丘の上にある。もちろん1929年に開業したときは、すぐ下の同名の広場に路面電車が来ていた。軌間をメーターゲージに決めた理由(下注)も、それと接続する計画があったからだ(下注)。だが夢は叶わず、そのうえ路面電車も消えた今では、客は代わりの路線バスで上ってくるしかない。

*注 イタリアの狭軌鉄道の主流は1000mmではなく、950mm軌間。

この鉄道の面白い点は、ルートが四つの谷(下注)にまたがり、そのため峠越えが3回あることだ。上っていく列車の車窓からは、林や果樹畑ごしにたなびく山並みのパノラマが見え隠れし、あたかも登山鉄道に乗車している気分になる。

*注 水系としては、リグリア海に出るビザーニョ Bisagno とポルチェヴェーラ Polcevera、アドリア海に出るスクリーヴィア Scrivia(ポー川支流)の三つ。

最後の峠が山脈の分水嶺で、その後は坂を下って、開業時の終点カゼッラ・デポジート(カゼッラ車庫)Casella Deposito 駅に達する。駅名のとおりここに車庫があるが、列車はさらにスイッチバックしてスクリーヴィア川を渡る。町の前に置かれたカゼッラ・パエーゼ(カゼッラ村)Casella Paese 駅が現在の終点だ(下注)。

*注 1953年の延伸当初、この区間は路面軌道だったが、1980年に専用線(道端軌道)化された。

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ピアッツァ・マニン駅遠望(2023年)
Photo by Al*from*Lig at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番21 ATAC ローマ=ジャルディネッティ線 Ferrovia Roma-Giardinetti

首都ローマの中央駅テルミニ Termini はイタリア最大の駅で、32番線まである。その壮大な正面口から遠く離れた右先端、郊外線(ラツィオ線 Ferrovie laziali、略称 FL)の出入口に寄り添うのが、ローマ=ジャルディネッティ線の電車が発着するささやかなターミナル、ローマ・ラツィアーリ Roma Laziali(下注)だ。

*注 ラツィアーリ Laziali は、ラツィオ(州)Lazio の、を意味する形容詞。ローマ市はラツィオ州 Regione Lazio の州都でもある。

ローマ市交通局 ATAC が運行するジャルディネッティ線は950mm軌間の電気鉄道で、ローマ近郊に残された唯一の狭軌線だ。もとは州東部で延長137kmにもなる路線網を有していたが、老朽化と利用者減少で末端側から撤退していった。

近年ではメトロC線の延伸工事に伴い、2008年に9.0km地点のジャルディネッティ Giardinetti が終点になったのだが、縮小傾向はこれで収まらない。メトロC線と重複する区間が2015年に廃止となり、鉄道はとうとう根元のローマ・ラツィアーリ~チェントチェッレ Centocelle 間 6.0kmだけになってしまった。

とはいえこの区間には、古代ローマの遺跡マッジョーレ門 Porta Maggiore を通り抜けたり、狭い敷地で上下線がガントレットになるなど、見どころが点在する。路面電車のような小型の外見とあいまって、今なお愛好家の好奇心をくすぐり続けている。

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マッジョーレ門をくぐり抜ける(2023年)
Photo by Robot8A at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番30 エトナ環状鉄道 Ferrovia Circumetnea

シチリア島東部にあるエトナ山 Etna は、ヨーロッパ最大級の活火山だ。標高3403m(下注)、裾野は半径20~40kmに及ぶ。火口から20km圏には集落が点在していて、エトナ環状鉄道(チルクメトナ)は、それらをつなぐように建設された。

*注 噴火等によって標高値には変動がある。

950mm軌間の非電化鉄道は、1895~98年に開通している。カターニャ・ポルト(港)Catania Porto を起点に、エトナ山を時計回りに半周して、再び沿岸のリポスト Riposto まで113.5kmの長大路線だった。裾野と一口に言っても、西側の鞍部では標高976mまで上らなくてはならず、延々と坂が続く区間が少なからずある(下注)。

*注 貨物輸送のために、最急勾配は36‰に抑えられている。

列車は、エトナ山を絶えず仰角に捉えながら、灌木林とオリーブ畑の間を進んでいく。開通以来、噴火に伴う溶岩流で四度も長期運休に見舞われたが、その都度たくましく復活してきた。ところが、根元のカターニャ市内で新たにメトロが開業すると、ルートが重複する区間で撤収が始まる。

メトロは現在、内陸のパテルノ Paternò に向けて延伸工事中だ。郊外では環状鉄道の線路敷を転用することになっていて、工事に先立ち該当区間が廃止された。そのため、列車は現在、パテルノから先の90.9kmで運行されている。とはいえ、人口の多いエリアをメトロに明け渡してしまったので、途中ランダッツォ Randazzo まで6往復、その先リポストへは3往復しかない閑散線だ。

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ジャッレ Giarre 駅を後にする気動車(2021年)
Photo by Trainspictures at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

標準軌の幹線からも、一つ。

項番16 チンクエ・テッレ急行 Cinque Terre Express

リグリア海に臨むぶどう畑の急斜面と、色彩豊かな集落の印象的な風景で知られる観光地チンクエ・テッレ Cinque Terre(下注)。名のとおり海岸に並ぶ五つの村々を巡る列車がチンクエ・テッレ急行だ。FS線の主たる列車運行事業者であるトレニタリア Trenitalia が運行している。

*注 チンクエ・テッレは五つの土地を意味する。

エクスプレスと名乗っているものの、実態は普通列車で、レヴァント Levanto~ラ・スペツィア中央駅 La Spezia Centrale 間20kmにある各駅、モンテロッソ Monterosso、ヴェルナッツァ Vernazza、コルニーリャ Corniglia、マナローラ Manarola、リオマッジョーレ Riomaggiore に順に停車していく。

これらの村々が立地するのは、もし鉄道が通らなかったら陸の孤島になっていたような場所だ。そのため旅客需要が大きく、列車はこの間を30分間隔でシャトル運行している。駅はトンネルに挟まれた狭隘な敷地でホーム長が短いため、ダブルデッカー(2階建)客車が使用される。5駅のいずれかで乗降すると加算運賃が適用されるのも特殊な扱いだ。

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コルニーリャ Corniglia 駅に入るダブルデッカー(2008年)
Photo by Diesirae at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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狭い敷地のヴェルナッツァ Vernazza 駅(2021年)
Photo by Lewin Bormann at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

 続きは次回に。

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2025年9月11日 (木)

ラトビア最後の狭軌鉄道

グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis/Gulbene–Aluksune Railway

グルベネ Gulbene ~アルークスネ Alūksne 間 33km
軌間750mm、非電化
1903年開通(ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka 間 212km の一部として)

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バーニーティスの蒸気列車
グルベネ駅にて
 

1520mmの広軌、いわゆるロシアンゲージが支配するラトビアで、唯一750mmのナローゲージを残しているのが、グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis だ。定期運行している狭軌鉄道は、バルト三国でもここしかない。原語の「バーニーティス bānītis」はドイツ語の Bahn(鉄道)にラトビア語の縮小辞をつけたもので、広軌用に比べてめっぽう小柄な車両や施設に対する土地の人々の親近感がよく表れている。

場所はラトビア北東部、森の中に湖が点在する道のりを、毎日2往復(下注)の列車がのんびりと走っている。鉄道の公式サイトは英語版も充実しているので、それを参考に、波乱に満ちた鉄道の歴史をたどってみよう。

*注 以前は毎日3往復あったが、2010年2月から減便。

地元の有力者が興した会社によって鉄道が公式開業したのは、ロシア帝国領時代の1903年だ。当時の路線は、ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka(現エストニアのヴァルガ Valga)駅間 212kmで、今とは比べものにならない長大な路線だった(下図)。

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バーニーティスの旧路線網
 

ストゥクマニは、ダウガヴァ川 Daugava 沿いにある現在のプリャヴィニャス Pļaviņas で、リーガへ通じる幹線との接続駅だ。列車はそこから北東方向にマドナ Madona、ヴェツグルベネ Vecgulbene(1928年に旧名グルベネに改称。Vec は英語の old )、アルークスネ Alūksne まで進んだ後、北西に向きを変えてアペ Ape、ヴァルカへ至る。

ヴァルカにはリーガと現ロシアのプスコフ Pskov を結ぶ広軌線が通っていたが、それとは別に開通済みの狭軌線に接続して、現エストニア領パルヌ Pärnu の港への短絡路を確保した。鉄道が内陸輸送の主役であった時代、積み替えせず港まで物資を直送できるのは大きな利点だった。木材をはじめ、とうもろこしや酒その他の農産物が、このルートを通って運ばれた。

しかし、帝国末期の世情は不安定で、会社はまもなく、血の日曜日事件に始まるロシア第一革命の渦に巻き込まれる。農村の騒乱に呼応して、鉄道員たちも活動の先鋒に立った。施設が破壊され、会社は蒙った損失を回復できないまま、第一次世界大戦直前、ついに破産してしまう。

1916年、ロシア軍は、ヴェツグルベネでこの線と交差する広軌新線(イエリチ Ieriķi ~アブレネ Abrene)を建設するのに合わせて、ストゥクマニ~ヴェツグルベネ間を広軌に変換した。このため、狭軌区間は北半分に短縮された。

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上空から見たグルベネ駅
駅舎寄りに狭軌線がある(2018年)
Photo by Edgars Šulcs at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1918年にバルト三国は相次いでロシアからの独立を宣言するが、これが狭軌線の運命をまたも翻弄することになる。アルークスネの先で、ラトビアとエストニアの国境線が鉄路を二度も横切ることになったからだ。

両国間の協議で、エストニア側に越境した区間の運行管理をラトビアに委ねることが決まり、戦争で荒廃した鉄道は1921年にようやく全線再開に漕ぎつける。ラトビア国内の輸送は順調に推移したものの、パルヌ港が他国領となったため物流の方向が変わり、アペから西側の利用は極端に少なくなった。

第二次世界大戦、特にその終盤はドイツ占領軍の撤退とソ連軍の空襲で、鉄道の施設は甚大な被害を受けた。しかし、重点的な復旧作業の結果、1945年12月には運行を開始している。1960年代にはヴァルガ Valga 駅に引き込むルートが設けられが、同時にこの頃から、自動車交通の発達が鉄道の顧客を徐々に奪い始めた。1970年、長らく閑散区間だったヴァルガ~アペ間が休止、1973年にはアペ~アルークスネ間も運行を取りやめた。

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グルベネ駅で広軌と狭軌の特別列車が接続
Photo by Jānis Vilniņš at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

こうして、アルークスネ~グルベネ間だけが残ったが、その理由は、アルークスネに駐留していたソ連軍に物資を供給するためだったといわれる。しかしここにも存続の危機が迫っていた。1987年に、老朽化した車両の整備不良がたたり、運行が止まってしまったのだ。すでに鉄道は工学遺産に指定されていたため、知識人らの熱心な支援活動が当時の共産党中央委員会を動かした。客車が新調され、続いて2両のディーセル機関車が新たに導入された。

ソ連から再独立した後も、貨物輸送の廃止、旅客列車の削減と、鉄道の規模縮小は進行したが、1998年の国鉄から地方政府への売却、2001年の運営会社設立によって命脈を保ち、2003年には100周年を祝うことができた。地元では観光資源としての期待も膨らんでいるようだ。

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アルークスネ駅構内(2011年)
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

バーニーティスの起点があるグルベネ Gulbene の町は、狭軌線の単なる中間駅が広軌線開通により鉄道の結節点となったことで、にわかに活気づいた。町の北端に、1926年当時の壮麗な駅舎が今も建っている。

下掲の地形図を見ると、北東隅から狭軌線(日本で言う私鉄記号)が延びてきて、グルベネ駅に入っていく。実際は駅構内でラトビア国鉄の広軌線(太い実線、下注)と平面交差し、駅舎寄りにホームがある。つまり、接続駅の一般的な線路配置とは反対に、駅舎側から支線、本線の順に並んでいるのだ。

*注 グルベネからロシア国境に向かう路線だったが2001年に廃止された。

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グルベネ駅舎正面
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グルベネで発車を待つ蒸気列車
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グルベネ駅北東構内にある広軌・狭軌の平面交差
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バーニーティス周辺 グルベネ~パパルデ間
旧ソ連製1:100,000 O-35-102(1981年), O-35-103(1990年)
 

しかも、グルベネ駅の線路配置図(下図)でわかるように、狭軌線は広軌線を隔てて駅舎とは反対側にも延びている。実はこれが広軌線開通以前の狭軌線のルートだ。1940年の扇形機関庫(図では Roundhouse の注記)建設で迂回させられているが、もとは一直線で、南西に向かう広軌線(下注)につながっていた。ちなみに扇形庫の南西では、煉瓦で造られた狭軌時代のグルベネ(ヴェツグルベネ Vecgulbene)駅舎が個人宅に転用されて、今も残っている(Old station building の注記)。

*注 プラヴィニャス=グルベネ線 līnija Pļaviņas—Gulbene。先述のとおり1916年に改軌されるまでは、バーニーティスと同じく狭軌線の一部区間だった。

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グルベネ駅構内配線図
from OpenRailwayMap
 

扇形庫はその前にある転車台とともに、戦争で破壊された後、1945~51年に拡張改築されたものだ。9線収容で、一部は狭軌線車両も収容できるように4線軌条化されている。見た目は廃屋に近いが、まだまだ車庫として現役だ。バーニーティスの運営会社が管理し、車両の整備も行っていて、年間行事の際には一般公開される。

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(左)4線軌条の転車台
(右)現役の扇形機関庫
 

狭軌という希少性から観光鉄道の側面をもつバーニーティスだが、公共交通機関でもあり、そのために平日休日を問わず運行されている。ただし、ダイヤは午後に2往復のみの閑散ダイヤで、グルベネを13時と18時(土曜は18時30分)に出発して終点アルークスネで折り返す。

列車の前に立つのは通常、ディーゼル機関車だが、特定の土曜日には、13時発の第1便を蒸気機関車が牽引する。列車は片道32.8kmを80~85分、蒸機の場合は110~115分かけて走る(下注)。途中8駅あるうち4駅は、乗降客があるときのみ停車するリクエストストップだ。

*注 途中のパパルデ Paparde 駅で給水停車がある。

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(左)蒸機ГР (GR) 形319号
(右)テンダーに薪が山積み
 

2025年現在、運用中の蒸機は1951年旧東ドイツ、カール・マルクス機関車工場 Lokomotivbau Karl Marx Babelsberg (LKM) 製、動輪4軸のГР (GR) 形319号で、「フェルディナンツ Ferdinands」と命名されている。森林鉄道でも運用されるため、燃料に薪を用いることが可能な機関車で、実際にバーニーティスでも薪を焚いて走っている。

なにぶん沿線は過疎地につき、団体客などの予約がなければ、客車はたいてい1両きりだ。モケットシート24席の旧ソ連製車両が用いられることが多く、増結するときはベンチシート40席のポーランド製車両が動員される。乗車券は車掌が手売りしている。自由席だが、複数両つないでいるときは、乗車車両を指示されるかもしれない。

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(左)旧ソ連製客車
(右)車内はモケットシート、この日は団体予約専用だった
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(左)ポーランド製客車
(右)車内はベンチシート
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往復乗車券
(左)表面、Vilciena Nr.は列車番号(右)裏面
 

汽笛一声、走り出すと車窓には、針葉樹林と牧草地や湿原が織りなすパッチワークの風景がどこまでも続く。か細い軌道上を静かにたどる時速25kmの孤独な旅だ。走路の心もとなさとは対照的に、駅舎や待合室は近年、整備が進んだ。スターメリエネ Stāmeriene では煉瓦造の平屋駅舎が、待避線をもつ次のカルニエナ Kalniena では木造の平屋駅舎が、瑞々しさを取り戻している。

パパルデ Paparde にも静かな森の間に木造駅舎が残るが、蒸機は、少し離れた煉瓦の給水塔の前でしばらく停車して水の補給を受けた。

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車窓は森と牧草地のパッチワーク
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(左)煉瓦造のスターメリエネ駅舎(2013年)
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)木造のパパルデ駅舎(2010年)
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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パパルデで給水を終えた蒸機
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パパルデ~アルークスネ間
旧ソ連製1:100,000 O-35-90(1978年版), O-35-91(1991年版),
O-35-102(1981年), O-35-103(1990年)

 

倉庫や民家がばらばらと窓に映るようになると、まもなく終点アルークスネ Alūksne だ。構内は、余裕のある敷地に3本の線路が並んでいる。煉瓦造の駅舎はカフェに転用され、その北側に建つ倉庫は展示室に改装された。第1便の列車は折返しの出発まで、機回し作業を含めて約1時間の休憩を取る。

アルークスネの町は駅の北側で、湖(アルークスネ湖 Alūksnes ezers)との間に広がっている。マーリエンブルク Marienburg というドイツ語名は、中世、ドイツ騎士団が通商路を護るため、湖に浮かぶ小島に聖母の名を冠した城を築いたことに由来する。

一方のラトビア語のアルークスネも森の泉を意味するそうで、名まえを聞くだけでも旅情を誘われる。しかし、湖畔までは町を抜けておよそ2km、列車の休憩時間がもう少し長ければいいのだが。

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アルークスネ駅での機回し作業
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アルークスネ湖、右奥に新城 Jaunā pils が覗く(2013年)
Photo by Ivo Kruusamägi at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

写真は別途クレジットを付したものを除き、2025年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会の戸城英勝氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

(2008年7月24日付「ラトビア最後の狭軌鉄道」を全面改稿)

■参考サイト
バーニーティス  http://www.banitis.lv/
アルークスネ付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=57.4156,27.0464&z=14

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 バルト三国の地図-ラトビアの地方図・市街図

2025年7月15日 (火)

ブロネー=シャンビー保存鉄道-1m軌のミュージアム

ブロネー=シャンビー保存鉄道 Chemin de fer-musée Bloney-Chamby (BC)

ブロネー Blonay BC~シャンビー Chamby 間2.95km
1000mm軌間、直流900V電化、最急勾配50‰
1902年開通、1966年休止、1968年保存鉄道開業

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シャンビーへの坂道を行くマレー式機関車105号機

スイス西部、レマン湖 Lac Léman を望む高台を走るブロネー=シャンビー保存鉄道 Chemin de fer-musée Bloney-Chamby は、同国の保存鉄道の中でも傑出した存在だ。開業から半世紀を超える歴史の長さもさることながら、国内や近隣諸国で引退したメーターゲージの鉄道車両を積極的に収集し、その数は80両にも達する(下注)。

*注 2025年現在、公式HPに掲載されている車両の数は、蒸気機関車11両、電気機関車5両、電動車15両、客車25両、貨車14両、その他10両。

これらは、終点近くのショーラン・シャンビー Chaulin-Chamby にある車両基地に収容され、動態機はシーズンの主として週末に、保存鉄道の専用線となっているブロネー Blonay ~シャンビー Chamby 間、約3kmのルートで公開運行される。シャンビーで折り返した後、列車が向かうショーラン車両基地での楽しみは、鉄道が誇る広範な車両コレクションの自由見学だ。

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MOBの旧車BCFe 4/4 11号

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保存鉄道の起点ブロネー駅は、レマン湖畔のヴヴェー Vevey から電車で16分、終点シャンビーは同じく湖畔のモントルー Montreux から15分だ。こうした両端でのアクセスの良さも、保存鉄道の人気を高めている要因の一つだろう。

このうちブロネーでの接続路線は、もとヴヴェー電気鉄道 Chemin de fer électriques Veveysans (CEV) と称し、2001年以降は、地方公共交通事業の再編により設立されたモントルー=ヴヴェー=リヴィエラ交通 Transports Montreux-Vevey-Riviera (MVR) の一路線になっている。

今では、背後にそびえるレ・プレイアード Les Pléiades の山上へ行く登山鉄道として知られているが、実は1902年に開業したときの終点はシャンビーで、50‰の急勾配ながら全線粘着運転の路線だった。シャンビーでは、1年前に開業したばかりのモントルー=オーベルラン・ベルノワ鉄道 Chemin de fer Montreux Oberland Bernois(MOB、下注)に接続した。ちなみに、ブロネー~レ・プレイアード間は、後の1911年にラック式で開業した支線だ。

*注 ドイツ語読みでは、モントルー=ベルナー・オーバーラント鉄道 Montreux-Berner Oberland-Bahn。近年は観光ルート、ゴールデンパス・ライン GoldenPass Line の西半区間として知られる。

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ヴヴェー電気鉄道を走る粘着・ラック式併用電車ABeh 2/6
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ブロネー=シャンビー保存鉄道周辺の路線網
 

しかし、残念ながらブロネー~シャンビー間は旅客需要が乏しく、1966年に運行が休止されてしまう。そこで、短距離だが景観の魅力に富むこのルートを保存活用しようと、その年のうちに観光鉄道創設のための協会組織が立ち上げられた。

車両の取得と線路の改修、会社設立、運行認可申請と作業は順調に進み、2年後の1968年7月20日に待望の開業式を迎える。スイスで初めての本格的な保存鉄道だった。こうした経緯から、ブロネー~シャンビー間の線路施設は今なお、ヴヴェー電気鉄道を引き継いだモントルー=ヴヴェー=リヴィエラ交通の所有で、保存鉄道会社は路線上の旅客輸送事業者という位置づけだ。

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シャンビー駅のジュネーヴ市電151号(1976年)
Photo by Alain GAVILLET at wikimedia. License: CC BY 2.0
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ブロネー=シャンビー保存鉄道周辺の地形図に鉄道のルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

2024年6月のスイス滞在中にこの保存鉄道を訪れる機会があった。先にヴヴェー電気鉄道の本線をレ・プレイアードの山上まで全線乗ってから、復路のブロネーで下車する。駅には3本の簡素な発着番線と平屋の駅舎があるが、保存鉄道はその南側に、1番線から派生した独自の乗り場と切妻屋根の小さな木造駅舎を構えている。まずは出札口へ行き、往復と言って切符を買った。渡されたのは博物館入館込みの一日乗車券 carte journalière で、24スイスフラン。

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(左)一日乗車券
(右)ブロネー駅構内、左手前が保存鉄道の乗り場
 

運行日は5月から10月の間、主として週末の2日間だが、1日あたり8往復の設定があり(下注)、旅程は組みやすい。ただし、蒸気機関車が登場するのは、土曜3往復、日曜4往復のみで、他の便は電車か電気機関車が牽引する列車だ(2024年現在)。

*注 月の最終日曜は10往復走るが、蒸気機関車はそのうち3往復。

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(左)本線駅舎
(右)1955年までブロネーに来ていた路面軌道の記念壁画
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保存鉄道の小さな駅舎
 

ホームには、次の11時10分発が停車中だった。前に立つ電動車は、MOB(モントルー=オーベルラン・ベルノワ鉄道)の初期の旧車で、1914年製のBCFe 4/4 11号。後ろに、ルガーノ Lugano 近郊を走っていたというオープン客車「ジャルディニエラ Giardiniera」を従えている。

先刻レ・プレイアードに上る途中でこの駅を通ったとき、1本前の10時10分発を目撃したのだが、列車はこれとは違い、旧ベルン市電 Stadtische Strassenbahnen Bern の1914年製トラムCe 2/2 52号だった。おおむね1時間間隔の運行で、午後は蒸機も出るので、運用上、電車は1編成あれば十分なはずだが、豊富に擁する控え投手を次々に登板させているようだ。

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(左)MOBの旧車11号
(右)後ろにつく「ジャルディニエラ」(ショーラン博物館で撮影)
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(左)MOB旧車11号の車内
(右)同型車の絵葉書が額装されていた
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鮮やかな緑をまとう旧ベルン市電52号
 

急ぐ旅でもないのでこの便は撮影用に見送り、次の12時10分発でブロネーへ向かうことにした。ホームで待ち構えていると、やってきたのはオフホワイトとブルーのツートン電車で28のナンバーをつけている。旧 ローザンヌ市電 Tramways Lausannois の1913年製Ce 2/3 28号だ。車内には、1人掛けと2人掛けの背もたれ転換式シートが7列並ぶ。客は10人足らずなので、余裕で座れた。

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旧 ローザンヌ市電28号
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(左)ブロネー駅で折り返しを待つ
(右)座席は背もたれ転換シート
 

発車するとすぐに50‰の急な坂道で、レ・プレイアードの登山道路と交差し、斜面に広がる住宅街をくねくねと抜けていく。右手下方にはレマン湖の湖面がちらちらと覗くが、朝から空は曇り、湿度も高めで、遠景にはもやがかかっている。シャントメルル Chantemerle の旧停留所を過ぎると住宅街はまもなく尽きて、線路は深い谷間に入っていく。

右へ左へいくつかカーブをこなした後、行く手に、車窓のハイライトとして有名なベー・ド・クラランス高架橋 Viaduc de la Baye de Clarens が見えてきた。同名の谷川に架かる長さ80mの石造アーチ橋だが、対岸へ大きく右カーブしていて、蒸気列車なら先頭の機関車を視界に捉えることができる絶好の撮影ポイントだ(下注)。

*注 高架橋のたもとへアクセスできる登山道などはないため、地上での撮影は難しい。

しかし、訪れたときは、地盤の不安定化で危険になった一部の橋脚をPC造に置き換えるという大規模工事のさなかだった。高架橋全体が足場ですっぽり覆われていて、電車は仮設の橋桁の上を最徐行で通過した。

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ベー・ド・クラランス高架橋は工事中
対岸の橋脚はPC造に置換えられる
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工事前のベー・ド・クラランス高架橋(2016年)
Photo by Allmendstrasse at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

橋を後にし、反転カーブで長さ45mの短いコルノートンネル Tunnel de Cornaux をくぐり抜けると、列車は湖面を見下ろす広い牧草地の斜面に顔を出す。少しの間だが、スイスのリヴィエラ(下注)と称えられる美しい湖岸を眺めながら行く絶景区間だ。コルノー Cornaux の旧停留所を通過。車窓が再び森に覆われると、左車窓に車両基地への引込線が降りてきた。しかし往路はここで停車せず、引き続きシャンビー駅のホームまで上っていく。

*注 スイス国内では、州名を冠してリヴィエラ・ヴォードワーズ Riviera vaudoise(ヴォーのリヴィエラの意)と呼ばれる。

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レマン湖を眺める絶景区間
 

シャンビーは、見晴らしのいい急斜面にへばりつくように設けられたMOB(モントルー=オーベルラン・ベルノワ鉄道)の中間駅だ。ブロネー駅と同様、MOBの駅舎の横に、物置小屋と間違えそうな保存鉄道の小さな駅舎がある。

高架橋の徐行で時間が押していたのか、到着したのは12時23分ごろで、すぐに運転士が反対側の運転席に移動してきた。ホームに降りて写真の1枚でも撮ろうと様子を窺っていたのだが、結局、腰を上げるタイミングがなかった。

定刻の12時26分になり、再び発車。今来た道を戻り、先ほどの分岐点で車両基地側へ進路を変える。給炭作業中の蒸機を横に見ながらヤードに進入し、12時30分、車庫の前のささやかなホームがある位置で停車した。ここまでが往路だ。

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シャンビー駅
(左)地方様式のMOB駅舎(右)保存鉄道駅舎
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本線と車両基地との分岐点
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(左)車両基地にゆっくり進入
(右)ささやかなホームの前で停車
 

森に囲まれた保存鉄道の拠点は、自社の時刻表上でショーラン・ミュゼー(ショーラン博物館)Chaulin-Musée と案内されている(下注)。正面に見える5線収容の堂々たる車庫は1973年の建築だが、増え続ける車両で満杯になり、向かい側に1993年、3線収容でより奥行きのある第2車庫が完成した。それでも入りきらない貨車などがヤードの側線を埋めている。

*注 ただし、SBB公式時刻表(時刻表番号115、116)には、シャンビー・ミュゼー Chamby-Musée と記載されているので注意。

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(左)ビュッフェ併設の旅客駅舎
(右)野外テラスも盛況
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5線収容の第1車庫
 

両車庫とも見学は自由で、最終列車の発車まで時間制限もない。第1車庫に入ると、かつてフルカ峠を越えた旧 ブリーク=フルカ=ディゼンティス鉄道 Brig-Furka-Disentis Bahn (BFD) の3号機がまず目に入る。他にも、スイス最初の狭軌線だったローザンヌ=エシャラン=ベルシェ鉄道 Chemin de fer Lausanne-Échallens-Bercher (LEB) の1890年製5号機や、イタリア、フェラーラ Ferrara の近郊を走っていた路面蒸機2号機など、貴重な蒸気機関車が集結している。ブロネーで10時台に目撃したベルン市電と、11時台のMOB電車もここで休んでいた。

機関室や客車の内部にも入れるので、外見だけでなく、美しく整備された機器や内装をじっくり観察できるのがうれしい。

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(左)美しく磨かれたBFDの3号機
(右)銘板
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(左)ローザンヌ=エシャラン=ベルシェ鉄道5号機
(右)フェラーラの路面蒸機2号機
 

一方の第2車庫には、電車の旧車が多く格納されている。ラック線だったロイク=ロイカーバート鉄道 Leuk-Leukerbad-Bahn (LLB) が1967年に廃止になったとき、いち早く車両の取得に動いたのがブロネー=シャンビーで、その電動車10号と付随車22号がここにいた。レーティッシュ鉄道 Rhätische Bahn (RhB) のベルニナ線を走ったサロン・バーカー2号車も、豪華な内装がみごとに復元されている。

敷地内には、駅舎内のビュッフェや野外テラスが設置されていて、疲れたらそこで休めばいいと思っていたが、車庫2棟を一巡し、本線に出ていく列車を撮ったりしていたら、いつのまにか帰りのブロネー行き蒸気列車の発車時刻が迫っていた。

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3線収容の第2車庫
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ロイク=ロイカーバート鉄道の遺品
(左)ロイク駅ホームの案内板 (右)電動車10号
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(左)ベルニナ線のサロン・バーカー2号車
(右)気品漂う車内
 

列車を率いるのは、旧 南ドイツ鉄道会社 Süddeutsche Eisenbahn Gesellschaft のマレー式G 2×2/2 105号機だ。1967年に廃止されたシュヴァルツヴァルトのツェル=トットナウ線 Bahnstrecke Zell-Todtnau で走っていたもので、ブロネー=シャンビーに到来した最初の蒸気機関車になる。ブロネー方面へは下り坂なので、逆機(バック)運転だ。

後ろには、ベルナー・オーバーラント鉄道 Berner-Oberland-Bahn (BOB) のオープン客車と、この路線のオリジナル車である赤色塗装の1902年製ヴヴェー電気鉄道21号客車がついている。

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南ドイツ鉄道105号機、動輪2軸2対のマレー式蒸機
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ブロネーへ向かう蒸気列車
(ショーラン博物館13時40分発を撮影)
 

15時00分に発車。復路はシャンビーには立ち寄らない。分岐点のポイントまで引込線をゆっくり後退した後、進行方向を変えて本線を滑るように下っていく。トンネルを抜け、高架橋を渡り、約15分で起点のブロネーに到着した。

列車は手早く機回しを終えて、10分後の15時25分には再びシャンビーに向けて戻る。近くの踏切から、坂道を力行していく頼もしい後ろ姿を見送って、今回の保存鉄道訪問は無事終了した。

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シャンビーへ向け力行する105号機
 

■参考サイト
ブロネー=シャンビー保存鉄道(公式サイト) https://blonay-chamby.ch/

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 リトライユ(ヌーシャテル路面軌道)

2025年6月 6日 (金)

リトライユ(ヌーシャテル路面軌道)

リトライユ(ヌーシャテル路面軌道)Littorail (Tramway de Neuchâtel)

プラース・ピュリー(ピュリー広場)Place Pury ~ブードリー Boudry 間 8.82km
軌間1000mm、直流600V電化
1892年開通、1902年電化

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リトライユの旧型編成「ル・ブリション」
テュイリエール Tuilière 付近にて

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スイス第3の広さをもつヌーシャテル湖 Lac de Neuchâtel(下注)のほとりに、その名を与えた町がある。丘の上に築かれた中世の城を仰ぐ旧市街が湖岸まで広がっている。リトライユ Littorail ことヌーシャテル路面軌道 Tramway de Neuchâtel は、湖岸にほど近いピュリー広場 Place Pury が起点だ。

電車はそこから湖に沿って西へ進み、ワインの里として人気があるブードリー Boudry の町まで行く。延長8.9km、全線専用軌道で、たゆたう湖面と緑の沃野を眺めながら19分、ささやかな郊外旅行だ。

*注 ヌーシャテル湖は面積218平方km(琵琶湖の1/3、霞ヶ浦の1.3倍)で、スイスではレマン湖 Lac Léman、ボーデン湖 Bodensee に次ぐが、湖面がすべてスイス領内にある湖としては最大。

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湖畔公園エスプラナード・デュ・モンブラン
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ヌーシャテル近郊の地形図にリトライユのルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

路面軌道は、ヌーシャテル州の公共交通網を運営するヌーシャテル公共交通 Transports Publics Neuchâtelois SA (transN) の一路線になっている。1892年に蒸気路面軌道として開業し、当時は坂の上にあるSBB(スイス連邦鉄道、下注)のヌーシャテル駅まで、リッゲンバッハ式ラックレールで軌道が続いていた。

*注 正確にはジュラ=シンプロン鉄道 Chemins de fer Jura-Simplon (JS)。1903年からSBB。

1897年以降電化が進められ、ラックレールも姿を消す。最盛期、市内外には延長27km、6つの系統を擁する路面電車ネットワークが存在したが、1976年までに次々とトロリーバスに置き換えられてしまい、唯一残ったのが旧 5系統の現行区間だ。

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路面電車を転換したトロリーバス
ピュリー広場停留所にて
 

2023年からR15系統を名乗るが、それよりも「リトライユ Littorail」の愛称のほうが浸透しているだろう。これは1981年に新車投入で路線が刷新された際のネーミングで、フランス語の Littoral(リトラル、沿岸地帯の意)と Rail(ライユ、鉄道の意)を組み合わせた造語だ。

現在、リトライユの通常運行を担う車両は、2019年に就役したシュタッドラー製のBe 4/8形だ。もとザンクト・ガレン St. Gallen 近郊で使われていた部分低床、3車体連節車で、バリアフリー化を達成するために、アッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen から5編成を譲り受けた(下注)。中古といっても2004年と2008年製なので、経年感はほとんどない。

*注 譲渡の経緯については「アッペンツェルの鉄道群-トローゲン鉄道」参照。

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(左)現行車両Be 4/8形
(右)部分低床、3車体連接車
 

前回記したチューリッヒの蒸気列車体験を端折ってまでヌーシャテルに駆け付けたのは、この日、リトライユで旧型編成による特別運行があるからだ。130年を超える歴史をもつ軌道では、時代に応じてさまざまな形式車が現れては退いた。その一部が、1976年に設立されたヌーシャテル路面軌道友の会 Association Neuchâteloise des Amis du Tramway (ANAT) の手で保存されている。

友の会は、2014年に沿線に建てられた路面電車博物館 Musée du tram を管理していて、年に数日、その内部を公開するとともに、所有車両をリトライユ全線で走らせるイベントを実施している。

まずは現行のリトライユ車両に乗って、終点のブードリーへ行くことにしよう。起点駅ピュリー広場(下注)は、同名の広場から大通りを隔てて筋向いの湖畔公園、エスプラナード・デュ・モンブラン Esplanade du Mont Blanc の一角にある。よく晴れた日なら湖面越しに、130km離れたアルプスの高峰モン・ブランが遠望できるという場所だが、今日はあいにく雲が多めだ。

*注 正式駅名はヌーシャテル・プラース・ピュリー・リトライユ Neuchâtel Place Pury Littorail。他の駅・停留所も、所在する自治体名が冠され、SBB線の同名駅と区別するために末尾に「リトライユ」が付くものがあるが、本稿では省略する。

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頭端式のピュリー広場駅(2009年)
Photo by Roehrensee at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

遊歩道に直結した開放的な乗り場は、1988年に終端ループが撤去され、2面2線の頭端式に改修された。公園側には屋根付きの大きな待合室が用意されていて、20分間隔で走る電車を待つ時間も苦にならない。

リトライユの軌道はしばらく湖岸に沿って続き、左手にはさざ波立つ水辺が広がる。しかし、のびやかな湖の眺めは1.2km先のシャン・ブージャン Champ-Bougin 停留所までで、その後は線路と湖の間に公園や商業地がはさまるようになる。1970年代までは中間駅のオーヴェルニエ Auvernier まで4km以上にわたって波打ち際を走る景勝路線だったのだが、湖岸の開発が進んで往時の景観はかなり失われた。

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(左)車窓に広がる湖面
(右)後半は麦畑も
 

オーヴェルニエから線路は内陸に入る。高速道A5号線と絡みながら進み、森と野のゆったりした郊外風景が広がる。最後はジュラ山地から流れ出るアルーズ川 L'Areuse を少し遡って、終点ブードリーに着く。

この駅も2面2線の頭端式で、駅舎は滞泊用の車庫との併設だ。旧型車両はここが出発地で、午後に全線を3往復するダイヤになっている。すでに第1便が走行中で、今頃ピュリー広場で折り返してこちらに向かっているはずだ。

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終盤はアルーズ川に沿う
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車庫兼駅舎のあるブードリー駅
 

第2便までにはまだ少し時間があるので、ブードリーの旧市街へ足を延ばした。段丘に上る坂道の途中に開けた町で、折り重なる家並みが描く緩やかな曲線が美しい。蜂蜜色の石材で積まれた町役場(オテル・ド・ヴィル Hôtel de ville)や教会も、その中にしっくり溶け込んでいる。地味な趣きながら、どこかに地中海的な明るさが感じられるのはフランス語圏ならではだ。

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坂道に開けたブードリー旧市街
右手前は町役場、隣は改革派教会
 

旧型車両が来る頃合いを見計らって、駅に戻った。15時ごろ、駅の手前を跨いでいる国道の高架下にそれが姿を現した。色合いから地元産チーズの銘柄にちなんで「ル・ブリション Le Britchon」と称される電動車と付随車(トレーラー)の2両編成だ。

しかしすぐに駅には入ってこず、1・2番線の分岐ポイントで停車した。そこで電動車が切り離されて、単独で1番線に入線する。付随車は、と見ると、何とスタッフが2番線に手で押し込んでいる。それが片付くと、電動車が先刻のポイントまでバックして、2番線に転線。前後を逆転させた形で、再び付随車に連結された。

機回し線がないので、折返し運転にはこうした手順が必要となる。乗客にとっては興味深い儀式だが、一般運行の電車が不在の間に行うので、作業の許容時間は9分しかない。

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(左)分岐ポイントで停車
(右)電動車が単独で1番線に入線
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スタッフが付随車を押して2番線へ
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(左)電動車も2番線に転線して連結
(右)出発準備完了
 

前に立つ電動車はBe 2/2 73号だ。1922年に自社工場で製造されたダブルルーフ、両運転台の2軸車で、トロリーバスに置き換えられる1970年代まで、市内線の主力機だった。客室は大窓で明るく、ロングシートのベンチが向かい合う。

一方、付随車の車歴はより古く、1897~98年製という。第二次世界大戦後に車体の改造を受けているため、客室は天井以外、Be 2/2とほぼ同じ仕様になっている。

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(左)電動車の車内
(右)付随車の車内も天井以外はほぼ同じ仕様
 

15時11分発の「ル・ブリション」第2便で、まずはレジル Les Isles へ行く。ブードリーの東1kmにある元 停留所で、旧型編成だけが臨時停車する(下注)。というのも、ここが路面電車博物館の最寄りだからだ。博物館と称しているが、実態は3線収容の保存車庫と作業室をもつ友の会の拠点で、保存運行日の14時から17時の間、内部が無料公開されている。

*注 一般運行の停留所だったが、2018年に廃止。

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(左)旧停留所レジルに臨時停車
(右)路面電車博物館
 

本線につながる屋外の線路に引き出されているのは、右が先代の編成で、電動車Be 4/4形504号と制御車だ。チューリッヒ市電2000系の亜種で、1981年に登場し、リトライユのシンボルとして路面軌道のイメージ刷新に貢献した。その隣は、先々代に当たる1902年製電動車Be 2/4形45号。大型のボギー車で、今乗ってきたBe 2/2が市内線用だったのに対して、こちらはBe 4/4の登場まで60年以上にわたってブードリー線の主役を務めていた。

庫内にはさらに同僚のBe 2/4形44号、1947年製市内線用ボギー車のBe 4/4 83号、クラシカルな装いの付随車、あるいは散水車601号など、貴重な車両が格納されている。側壁にも、銘板や行先指示標その他の貴重なコレクションが並ぶ。ガイドが付かない自由見学だが、車両に関する説明のパネルスタンドが置かれ、順路まで指示してあるので、それに従えば館内をくまなく回ることができる。

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右が先代の電動車Be 4/4形、左が先々代のBe 2/4形
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博物館内の車庫に格納された旧型車両群
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(左)路面軌道の資料展示
(右)市内線の行先表示板
 

博物館を辞した後は、川沿いの小道を歩いて、ブードリー駅に戻った。最後は「ル・ブリション」第3便に乗って、ヌーシャテル市内へ帰ろうと思う。

先ほどと同じ力仕事を伴う機回しを見学した後、付随車に乗り込んだ。16時31分に発車。この旧型編成、運賃は無料だが、その代わり、保存活動を継続するために自由意志での寄付を募っている。走行中にスタッフが何やら趣旨を唱えながら、募金箱を持って車内を回り始めた。乗客はみな快く2フランか5フランの硬貨を入れているので、私もそれに倣う。

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(左)スタッフが寄付を集めて回る
(右)ヌーシャテル湖と再会
 

特別便のため、途中の駅・停留所はすべてリクエストストップ(乗降のある時だけ停車)扱いだ。木立に包まれたコロンビエ駅では下り電車と交換し、ポール・ド・セリエール Port-de-Serrières でも隣の線路に対向電車が入った。プロムナードの並木越しに再びヌーシャテル湖が見えてきて、もうすぐ終点というところで、手前のエヴォル Évole 車庫前に停車。一般運行の停留所とはいえ旧型は通過のはずだが、といぶかしんでいると、電動車が前方へ離れ、隣の線路をバックしていく。

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エヴォルでの機回し
(左)電動車が前進して転線(前方を撮影)
(右)バックの後、後部に付け直し(後方を撮影)
 

それで気がついた。起点のピュリー広場もブードリーと同じ頭端線のため、機回しができない。それで待避線のあるエヴォルで、あらかじめ電動車を後部につけ直しておくのだ。電動車は付随車の後ろに再連結され、ゆっくりと推進運転を始めた。終点までほんの300mなので、まもなくホームに到着。乗客が満足げな面持ちで降りていく。

少し間を置いて、一般運行のBe 4/8形が隣の番線に入ってきた。復路ではこちらが先行し、旧型編成がそれを追う形になる。ブードリーでは見られなかった新旧揃う構図を写真に収めて、私も夕凪のピュリー広場駅を後にした。

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ピュリー広場に到着
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新旧車両がホームに揃う
 

■参考サイト
ヌーシャテル公共交通(公式サイト) https://www.transn.ch/
ヌーシャテル路面電車友の会 https://museedutram.ch/

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 チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道
 チューリッヒ保存鉄道-ジールタール線の懐古列車

2025年6月 1日 (日)

チューリッヒ保存鉄道-ジールタール線の懐古列車

チューリッヒ保存鉄道 Zürcher Museums-Bahn (ZMB)

チューリッヒ・ヴィーディコン Zürich Wiedikon ~ジールブルック Sihlbrugg 間 17.3km
軌間1435mm、交流15kV 16.7Hz電化
1892年ジールタール線 Sihltalbahn 開通、1996年保存運行開業

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チューリッヒ・ヴィーディコン駅で出発を待つ蒸気列車

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前回記したチュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道と並んで、チューリッヒ Zürich 近郊で蒸気機関車の走る姿を捉えられる路線がもう一つある。旧市街の西側を流れるジール川の谷(ジールタール Sihltal)を遡っていくジールタール線 Sihltalbahn だ。4月から10月の最終日曜日に、Sバーン(近郊列車)の合間を縫ってチューリッヒ保存鉄道 Zürcher Museums-Bahn (ZMB) の列車が定期運行される。一般旅客輸送が行われている標準軌の路線網でこうした光景が見られるのは、スイスではここだけだ。

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ジールタール鉄道125周年(2017年)のテーブルパネル
(Sバーン車内で撮影)
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チューリッヒ中央駅、ヴィーディコン駅周辺の路線図
赤が保存鉄道のルート、駅名のZHはチューリッヒ Zürich の略
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

チューリッヒ中央駅 Zürich HB の地下深い21番ホームが、ジールタール線S4系統の乗り場になる。島式ホームの反対側には、チューリッヒの西を限る山、ユトリベルク Uetliberg へ上るS10系統の電車が並ぶ。どちらもジールタール=チューリッヒ=ユトリベルク鉄道 Sihltal-Zürich-Uetliberg-Bahn(SZU、下注)の運行で、この21・22番ホームは、他のSバーン系統とは分離されたSZUの専用になっている。

*注 もとはそれぞれジールタール鉄道 Sihltalbahn (SiTB)、チューリッヒ=ユトリベルク鉄道 Bahngesellschaft Zürich–Uetliberg (BZUe) という別会社だったが、1973年に合併。

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チューリッヒ中央駅のSZU発着ホーム
 

SZUのターミナルは長い間、中央駅から1km南のジール川沿いにあったゼルナウ Selnau という地上駅だった。しかし、1990年に中央駅の地下まで延伸され、同時にSバーンのネットワークに組み込まれた。

ちなみに、ジールタール線の電化方式は、最初からスイス連邦鉄道(SBB)と同じ交流15kV 16.7Hzだ。SBBとの間で貨物列車の乗入れがあるためだが、一方のユトリベルク線はごく最近まで直流1200Vだった。1922年に電化された際、直流600Vのチューリッヒ市電と直通させる計画があったからだと言われる。

両線が線路を共有する中央駅~ギースヒューベル Giesshübel 間では、架線が並行して2本張られていた。正位置の交流架線に対して、直流架線は横に130cmずらしてあり、車両のパンタグラフもそれに合わせた仕様になっていた。2022年のユトリベルク線交流化により変則方式が解消されたため、今はもうこの珍しい光景を見ることはできない。

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ユトリベルク線の片寄せされた架線とパンタグラフ
終点ユトリベルク駅にて(2015年)
Photo by Patrick Nouhailler at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

さて、S4系統は日曜日でも20分間隔で走っている。乗り込んだ電車は9時38分に、地下ホームを後にした。保存鉄道の拠点は、S4の終点であるジールヴァルト Sihlwald 駅だ。しかし現在、S4電車の多くが一つ手前のラングナウ・ガティコン Langnau-Gattikon で折り返すため、最後の一駅間は1時間に1本しか走らない閑散区間だ(下注)。しかも私が訪れた期間は、ジール川の排水路工事のため、この区間の旅客列車が全面運休で、バス代行になっていた。

*注 ラングナウ・ガティコン以南にはほとんど集落がないため、そもそも利用者が少ない。

10時ちょうどにラングナウ・ガティコンに着いた。駅前に出て、停車しているバスの行先表示を確認して乗り込む。他に一人乗ってきただけで、まもなく発車。谷の中の一本道を5分ほど走ると、もうジールヴァルト駅前だった。

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ラングナウ・ガティコン駅で代行バスに乗換えて
ジールヴァルト駅へ
 

小ぢんまりした駅舎の前のホームには、早くも列車が据え付けられていた。保存列車は1日2往復で、第1便は11時10分発だ。まだ1時間近くあるが、とりあえず切符を買っておこうと、駅舎の事務室に入る。まず聞かれたのは「スペシャルトレインですが、いいですか?」。Sバーンと間違えて買おうとする客がいるのかもしれない。「OKです。ヴィーディコンまで片道」と答える。スタッフ氏は大きくうなずいて、箱から片道切符を出してくれた。14スイスフラン。

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(左)ジールヴァルト駅舎
(右)列車はすでにホームに
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(左)片道乗車券
(右)保存鉄道のロゴマーク
 

列車は往路、今乗ってきたS4系統のルートを逆にたどるが、チューリッヒ中央駅には行かず、市内のギースヒューベルで貨物線に分岐して、SBBチューリッヒ湖左岸線 linksufrige Seebahn のヴィーディコン Wiedikon 駅に着く。復路では、ジールヴァルトを通過して、さらに南のSBBタールヴィール=ツーク線 Bahnstrecke Thalwil–Zug、ジールブルック Sihlbrugg 旧駅(下注)まで進む。そこで折り返してジールヴァルトに帰着する。

*注 ジールタール線のもとの終点で、SBB線との接続駅だが、2012年に廃駅となった。

Sバーンが走らない貨物線(ギースヒューベル~ヴィーディコン間)や運行廃止区間(ジールヴァルト~ジールブルック間、2006年廃止)も通るから、乗り鉄にとっては貴重なコースだ。所要時間は往路35分、復路はジールブルック折返しを含め75分かかる。後述するとおり復路のほうがメインなのだが、午後、私はヌーシャテル Neuchâtel まで行って保存トラムに乗る予定を立てているので、時間が足りない。

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チューリッヒ近郊の地形図に保存鉄道ルートを加筆
赤字の駅名が保存列車の停車駅
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

切符を手にしてホームに出ると、左手にある機関庫から小型の蒸気機関車が出てくるところだった。車輪配置0-6-0のタンク機関車E 3/3 5号機「シュナーギ・シャーギ Schnaaggi-Schaaggi」だ。不思議な響きの名前は、スイスドイツ語で「膝行する(膝をついて進む)ヤコブ」を意味するという(下注)。

*注「膝行する(シュナーゲン Schnaaggen)」は、走る蒸機の形容。「シャーギ Schaaggi」は一般的な人名で、フランス語のジャック Jacques が転訛したもの。

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車庫から出てきたタンク機関車「シュナーギ・シャーギ」
 

125周年のヘッドマークを飾ったこの機関車は、1899年のヴィンタートゥールSLM社製だ(下注)。最初からジールタール線が本拠で、路線電化後もヤードで入換作業に従事していた。1962年に引退してからはしばらく、鉄道会社が企画する特別列車を牽いていたが、ボイラー改修が必要となり、車庫の隅に放置される日々が続いた。

*注 同型機は7両在籍していたが、5号機以外はすべて廃車となった。

チューリッヒ保存鉄道設立のきっかけは、改修の資金がなく廃車の危機に瀕していたこの蒸機の救出だった。そこから、ジールタール線生え抜きの車両を収集・保存するという組織の目的が設定された。当の蒸機は1997年に無事改修を終え、再び列車を牽くようになった。

さて、車庫を出た「シュナーギ・シャーギ」はバックで2番線に入り、さらに上流で転線して、1番線にいる列車の後ろに連結された。往路の進行方向とは反対側だが、そうなるのには理由がある。実は、終点ヴィーディコン駅には機回し線がない。そのため列車はプッシュプル方式で運行され、往路では電動車が前に立つのだ。蒸機はもっぱら復路を率い、行きは付随車同然だ。

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125歳を祝うヘッドマークをつける
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(左)動輪3軸の小型機
(右)側面にSLM社の銘板
 

懐古列車の編成は前から電動車、古典客車3両、食堂車、荷物車、最後に蒸機の順だ。往路の主役となる電動車FCe 2/4 84号も1924年製の古典機で、ジールタール線電化の際に、蒸気機関車を置き換えるために導入された歴史的車両だという。

代行バスで着いたときにはまだ駅は閑散としていたが、発車時刻が近づくにつれ、どこからともなく客が集まってきた。車内もそこそこの乗車率だ。車掌が呼子笛を鳴らし、列車は定時に出発した。

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往路を牽く電動車FCe 2/4 84号
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(左)下げ込み窓の古典客車
(右)ベンチシートの車内
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(左)食堂車
(右)車内、営業はこれから
 

先頭が電車で、粉塵が飛び込んでくる気遣いがないので、遠慮なく窓を全開にした。線路はいったん主要道に沿うが、まもなくジール川を横断して右岸を進む。かつては川を渡らず、左岸に沿っていたが、主要道の拡幅用地を捻出するために1959年に移設された区間だ。長さ340mのガティコントンネル Gattikontunnel を抜けると再び川を渡って、もとの左岸に落ち着く。

5分ほど走って、先ほど代行バスに乗り継いだラングナウ・ガティコンに停車した。車掌がホームに降りるが、当然ながら乗降客はいない。ここからは郊外の住宅地で、およそ1km間隔で駅か停留所があるのだが、保存列車はそのほとんどを通過していく。単線区間なので、停車駅の一つライムバッハ Leimbach では、Sバーン列車と行違った。

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ジールヴァルト駅を発車(後方を撮影)
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(左)ラングナウ・ガティコン駅に入る
(右)ライムバッハ駅でSバーン列車と交換
 

通過駅でもホームで電車待ちしている人が、この列車を見てスマホを向けたり、手を振ってくれたりする。古めかしい車両が目を引くのだろうが、乗っている者としてはいささか晴れがましい。

ギースヒューベルでポイントをがたがたと渡って、いよいよ貨物線へ進入した。高架道路の橋脚に挟まれるようにして地下へ潜り、長さ520mのマネッセトンネル Manessetunnel をゆっくり通り抜けると、目の前がチューリッヒ・ヴィーディコン駅のホームだった。

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(左)側線が並ぶギースヒューベル駅構内
(右)マネッセトンネルで左岸線と並走(後方を撮影)
 

駅はドイツ語でいうライターバーンホーフ Reiterbahnhof(下注)で、掘割の底に片面ホームの1番線と島式ホームの2・3番線が並んでいる。1番と2番はチューリッヒ湖左岸線のSバーン列車が発着し、3番線がジールタール線につながる貨物線だ。この付近の線路はもともと地上を走っていたが、都市化が進んだため、1927年に現在見るような形に移設された。

*注 Reiter は騎士、Bahnhof は駅。掘割の底にあるホームと線路を地上駅舎が跨ぐさまを、馬にまたがる騎士に見立てたもの。

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ヴィーディコン駅に到着
 

ホームでは、何組もの家族連れがこの列車を待っていた。月に一度のイベントなので、けっこう人気があるようだ。停車時間は15分。機回し作業がないとはいえ、蒸機では、スタッフが機器の調整や石炭の追加投入に忙しい。2番線にSバーンのダブルデッカー車が入ってきた。同じ標準軌の車両とはいえ、大きさの差は歴然としている。

そうこうしているうちに、定刻の12時になった。車掌の笛に、機関士が汽笛で応じる。それを合図に「シュナーギ・シャーギ」率いる懐古列車は、再びホームを離れ、もと来たトンネルへと姿を消した。

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Sバーンのダブルデッカーと並ぶ
 

■参考サイト
チューリッヒ保存鉄道(公式サイト) https://www.museumsbahn.ch/

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2025年5月27日 (火)

チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道

チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道協会
Dampfbahn-Verein Zürcher Oberland (DVZO)

ヒンヴィール Hinwil ~バウマ Bauma 間 11.3km
軌間1435mm、交流15kV 16.7Hz電化
1901年開通、1968年一般運行廃止、1978年保存運行開業

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中間駅ベーレツヴィールに到着した蒸気列車

鉄道の電化率がほぼ100%という電車王国のスイスにも、蒸気機関車の走行シーンを見ることのできる路線がいくつかある。たとえば、アルプスの山懐にあるブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz-Rothorn-Bahn やフルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke は、非電化のままで運行されている狭軌の観光路線で、ラックレールを使いながら険しい坂に挑む蒸機の奮闘ぶりを目の当たりにできる。

一方、アルプスの北側に広がる丘陵地帯には、標準軌の電化路線でありながら、蒸気運転を特色にしているものもある。その一つが、チューリッヒの南東で活動している長さ11.3kmのチュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道(下注)だ。

*注 正式名は「チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道協会 Dampfbahn-Verein Zürcher Oberland」、略称DVZOで、運営組織の名がそのまま使われている。

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客車の側面につけられた蒸気鉄道協会の銘板
 

旅客の流動方向と合致せず SBB(スイス連邦鉄道)が一般運行を断念した路線を、愛好家たちがていねいに保存鉄道としてよみがえらせた。大都市中心部から電車で約30分という立地の良さも幸いして、再開から半世紀近く経つ今でも、近郊のお出かけスポットとして人気を維持し続けている。今回はこの歴史ある蒸気鉄道を訪ねてみたい。

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チュルヒャー・オーバーラント Zürcher Oberland というのは、チューリッヒ州の高地地方を意味する。具体的にはチューリッヒの南東30km圏で、点在する市街地を囲んでのびやかな丘陵と田園地帯が連なり、その後ろに起伏のやや大きな山地が横たわる。路線は、その田園地帯の一角にあるヒンヴィール Hinwil から、山向こうの谷に位置するバウマ Bauma に向けて、鞍部を越えていく。

協会の拠点はバウマにあるが、路線としてはヒンヴィールが起点だ。というのもこれは、チューリッヒ湖畔の町ユーリコン Uerikon を起点にして、1901年に開業したユーリコン=バウマ鉄道 Uerikon-Bauma-Bahn (UeBB) の一部だったからだ。

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チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道と周辺路線図
ピンクの破線がユーリコン=バウマ鉄道の廃止区間
 

沿線のノイタール Neuthal で紡績工場を経営していた実業家アドルフ・グイヤー=ツェラー Adolf Guyer-Zeller が、その輸送手段として企てた路線で、ゆくゆくはボーデン湖畔とゴットハルト鉄道を連絡するという壮大な構想だった。しかし現実はローカル線の域を出ず、1948年に前半のユーリコン~ヒンヴィール間が廃止されてしまい、後半のヒンヴィール~バウマ間だけが残された。

終端駅はどちらも他の路線と接続があり、現在はチューリッヒSバーン(近郊列車)のネットワークに組み込まれている。しかし残されたルート自体は終始山間部で、往来需要といってもたかが知れていた。結局この間の旅客列車も1969年に廃止となり、バス転換された。

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Sバーンと接続する保存鉄道の起点ヒンヴィール駅
 

それに対し、地元の鉄道愛好家たちが設立した非営利の運営組織が、1978年5月からこの区間で蒸気機関車を使った保存運行を始めた(下注)。これがチュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道になる。また、路線は1949年から交流電化されているので、電気運転も可能だ。ヒンヴィールから中間駅のベーレツヴィール Bäretswil までは、付近で採掘された山砂利を運ぶために貨物列車が入ってくるし、保存鉄道としても、蒸機に代わって旧型電気機関車が牽く日がある。

*注 1978年のシーズンはバウマ~ベーレツヴィール Bäretswil 間で運行され、ヒンヴィールまで延長されたのは翌79年から。

2025年の場合、保存鉄道の運行日は5月から8月の第1、第3日曜と、9月、10月の毎日曜だ。バウマを起点に1日6往復の設定がある。全線走りきるのに40分前後かかるので、多くの場合、ベーレツヴィール駅で列車交換が行われる。

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バウマ駅の大屋根に収まる蒸気機関車と電気機関車

滞在していたザンクト・ガレンからチューリッヒに戻る途中、ヴィンタートゥール Winterthur 駅のロッカーに荷物を預けて、保存鉄道に乗りに出かけた。ヴィンタートゥールからバウマへは、S26系統リューティ Rüti 行きの電車で35分だ。単線電化の路線はテスタール線 Tösstalbahn と呼ばれ、ライン川の支流の一つ、テス Töss 川の谷(テスタール Tösstal)に沿って、くねくねと絶えずカーブを切りながら上流へと向かう。

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(左)テス川の谷(テスタール)を遡る
(右)Sバーン列車がバウマ駅に到着
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チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

バウマ駅には9時48分に到着した。ふつうの田舎駅だが、SBBの2階建て駅舎に隣接して保存鉄道の発着ホームがある。切妻の大きな屋根が架かっていて、妻面に付けられた和風建築の欄間のような優美な木彫装飾がひときわ目を引く。

案内板によれば、このシャレー様式の大屋根はもともと、1860年に当時のスイス中央鉄道 Schweizerische Centralbahn (SCB) が開業したバーゼル Basel 駅で、ホームを覆っていたものだった。駅の拡張に従い、1905年に撤去され、長らくオルテン Olten 駅で作業スペースの屋根として使われた。その後、歴史的価値に注目した協会の手で2015年にここバウマに移設され、再びホームの上で列車と乗客を保護する役に就いたのだ。妻面の木彫装飾はすでに失われていたため、当時の図面を参考に復元されたそうだ。

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大屋根が架かる保存鉄道の発着ホーム
 

あいにく今朝は雨もようで肌寒く、行楽向きとは言えないが、それなりに客が集ってきている。保存鉄道には自前の駅舎がなく、切符を売っているのは大屋根の下に立てたテントの中だ。私も列に並んで、ヒンヴィールまで片道の乗車券(20スイスフラン)を買った。車両や座席の指定はない。

3本ある線路のうち、最も本線寄りに据え付けられているのが、これから乗る列車になる。機関車はまだ来ておらず、先頭がPOSTのプレートを付けた郵便車、その後ろにベンチシートの古典客車2両が連なり、最後尾がビュッフェ車で、意外に編成は短い。

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(左)片道乗車券
(右)ホーム内部、本線寄り(写真の左側)に客車が停車中
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ベンチシートが並ぶ客室
 

車両を観察しているうちに、本線のほうからリズミカルなブラスト音が聞こえてきた。主役のお出ましのようだ。小柄なタンク機関車がヒンヴィールの方向へ走っていったと思うと、転線して列車の前へバックしてきた。

車輪配置2-6-2のこの機関車は、1910年ミュンヘン・マッファイ Maffei 社製のBT Eb 3/5 9号機だ。特徴的な大型の石炭箱にちなんで「麦袋 Habersack (Hafersack)」のあだ名をもつ。

もとボーデンゼー=トッゲンブルク鉄道 Bodensee-Toggenburg-Bahn(略称BT、現 スイス南東鉄道 Schweizerische Südostbahn (SOB))の所属だが、後にSBBに移籍して、まだ非電化だった区間で使われた。今はBTゆかりのヘーリザウ Herisau にある愛好家団体が所有し、協会に貸し出されている。協会自体も蒸機を5両所有しているが、いずれも同じように逆機(バック)運転が容易なタンク機関車だ。

*注 そのうち、現在稼働状態にあるのは2両。

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蒸機BT Eb 3/5 9が登場
左の電車はゼンゼタール鉄道 Sensetalbahn 由来の保存車
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(左)大屋根前で給水
(右)客車に連結され、準備完了
 

連結作業を興味深く眺めていた客が車内に引上げ、スタッフも所定位置についた。10時25分定刻に列車はゆるゆると動き出し、まだ霧雨の舞う構内に出ていった。

走行中は車端のオープンデッキに立ちたいところだ。しかし、この客車はデッキの横幅が狭く、昇降口に開閉柵がついていない。それでおとなしく空いている席についたが、周りのボックスにならって窓を全開にした。

テスタール線と並走しながら駅構内を抜けると、列車はいきなり見どころにさしかかる。村を巻きながら右回りのオメガカーブで上っていく区間で、勾配値は29.2‰、進行方向も180度変わる。その後、左へカーブを切り直す築堤の上から、アンバーの屋根がひしめくバウマの家並みが見渡せた。

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(左)村を巻いてオメガカーブを上る
(右)築堤から望むバウマの家並み
 

出力を上げた蒸機は、ヴィッセンバッハ川 Wissenbach の谷間の高みをなおも上っていく。5~6分でこの坂が尽きると、線路は直線になり、高い鉄橋を渡り始めた。上路ダブルワーレントラス橋に石造アーチ橋が接続されている。前者は長さ79mのヴァイセンバッハ橋梁 Weissenbach-Brücke、後者はノイタール高架橋 Neuthal-Viadukt と呼ばれる。

車窓右の谷底に見える大きな建物群は、鉄道の発起人A・グイヤー=ツェラーが経営していた紡績工場だ。1965年に閉鎖されたが、内部の設備が保存され、1993年から博物館として公開されている(下注)。橋を渡り終えると、その最寄りとなるノイタール Neuthal 停留所に停車した。

*注 工場に動力を供給していた水力発電施設なども含んでおり、現名称は、ノイタール繊維産業文化博物館 Museum Neuthal Textil- und Industriekultur。

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ヴァイセンバッハ橋梁を渡る(2006年)
Photo by Ikiwaner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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(左)眼下にグイヤー=ツェラーの紡績工場
(右)ノイタール停留所に停車
 

ここからは谷中分水地形で、穏やかな谷間の牧草地の中に、線路が緩い蛇行曲線を描いている。バウマ街道 Baumastrasse と交差したあたりが標高714mで、全線のサミットだ(下注)。心もち下り勾配になり、山脚に沿って右にカーブを切っていく。留置された貨車や作業用車両の横を通過した先に、中間駅のベーレツヴィール Bäretswil が見えてきた。開業時からあるという2階建て駅舎の前で、駅員とともに数人の客が待っている。

*注 ちなみにバウマの標高は639m、ヒンヴィールは565mで、サミットとの標高差がそれぞれ75m、149mある。

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(左)牧草地の中にカーブを描く
(右)ベーレツヴィール駅に入線
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(左)旧態に復元改修された駅舎
(右)手動の転轍装置
 

ここでは下り列車との行き違いを待って、11分の停車時間がある。ホームに降りて駅前に出ると、シルバーとイエローの郵便色に塗り分けたボンネットバスが停まっていた。スイス・ザウラー社 Saurer 製で、その形状から「豚鼻ポストバス Schnauzen-Postauto」のあだ名をもらった旧型車種だ。

実はこれも保存運行の一環で、バウマ駅前で客待ちしているのをさきほど目撃したばかりだ。駅でもらったリーフレットには、バウマからテスタールを遡ってシュテーク Steg に向かうバスルートが案内されているが、経由地でもないベーレツヴィールに顔を見せたのは合間運用なのだろうか。

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駅前に旧型ポストバスの姿も
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ザウラー製ボンネットバス、バウマ駅前にて
 

そうこうするうちに、遠くから別のブラスト音が響いてきた。踏切のそばで注視していると、やがてカーブの向こうから、雨をついて蒸気列車が現れた。逆機になった先頭の機関車は、Ed 3/3 401号「バウマ Bauma」、1901年開業時にこの路線に就役したという生粋のタンク蒸機だ。電化で用済みとなり民間工場に引き取られていたが、1979年に協会が取得し全面改修を経て、現役に復帰した。

対向列車が隣の番線に滑り込むと、駅はにわかに賑やかになった。ざっと見たところ、こちらより乗客が多そうだ。チューリッヒ都市圏からだと、ヒンヴィール駅へアクセスするのが順当だからかもしれない。その客とスタッフに見送られて、わが列車は10時53分に駅を出発した。

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対向列車が到着
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賑やかな列車交換
 

線路はすぐ森に入り、25‰の下り坂が長く続く。長さ64m、石造アーチのアーバッハトーベル高架橋 Aabachtobel-Viadukt を渡った後、左に分岐していく水平の側線は、貨物列車が入る砂利採取場への引込線だ。

森がいったん途切れると、チュルヒャー・オーバーラントの、草地と森と宅地が混ざり合うなだらかな丘陵地帯がパノラマとなって広がる。乗降客がなかったらしく、エッテンハウゼン・エメッチュロー Ettenhausen-Emmetschloo 停留所は静かに通過した。見晴らしはしかし長く続かず、再び森に閉ざされる。

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雨に煙る丘陵地帯のパノラマ
 

さらに下っていくと、列車は住宅街に入り、大きく右に旋回し始めた。曲がり終えたところが終点ヒンヴィール駅の構内だった。島式ホームの3番線に11時10分到着。バウマと違ってこの駅には、保存鉄道専用の施設や線路がない。近代的な郊外線のホームにちょこんと停まった蒸機は、どこか過去からタイムスリップしてきたような風情だ。

しかし休む間もなく連結が解かれて、機回し作業が始まった。前方のポイントまで移動した後、外側の、ホームがない側線を経由して後方へ。こうして手早く列車の反対側につけられる。復路の発車は11時30分だ。

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(左)住宅街の中のオメガカーブ
(右)ヒンヴィール駅が見えてきた
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(左)機回しされていく蒸機
(右)再連結作業
 

ところで、協会はバウマのほかにもう1か所、拠点を持っている。ヒンヴィールからS14系統でチューリッヒ方面へ三つ目のウスター Uster 駅だ。線路を挟んでSBB駅舎と反対側にその敷地があり、ホームからもよく見える。向かって左手の、2線を収容する第1機関庫は1856年、扇形で5線収容の第2機関庫は翌57年の建設で、現存する扇形機関庫としてはスイス最古だそうだ。

しかし、ウスターが中間駅になると、機関庫はたちまち無用の長物と化した。そのため鋳造所に転用されてしまったのだが、鉄道施設でなくなった結果、近代化に即した改築や拡張が行われず、原状をとどめることができた。州の文化財に登録後、1997年にもとの用途に戻され、協会が機関車の修理工場として利用している。

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ウスター駅第1機関庫と転車台
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扇形の第2機関庫
 

■参考サイト
チュルヒャー・オーバーラント蒸気鉄道協会(公式サイト) https://dvzo.ch/
ウスター機関庫協同組合 https://www.lokremise-uster.ch/
モーザー・ライゼン社(ボンネットバス運行事業者)https://www.moser-reisen.ch/

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 フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり
 フルカ山岳蒸気鉄道 III-ルートを追って

2025年5月 6日 (火)

オーストリアの狭軌鉄道-ブレゲンツァーヴァルト鉄道

ブレゲンツァーヴァルト鉄道(ヴェルダーベーンレ)
Bregenzerwaldbahn (Wälderbähnle)

ブレゲンツ Bregenz ~ベーツァウ Bezau 間35.3km
軌間760mm、非電化
1902年開通、1983年一般運行休止(1985年正式廃止)、1987年保存運行開業

【現在の運行区間】
保存鉄道:ベーツァウ~シュヴァルツェンベルク Schwarzenberg 間 5.0km

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ベーツァウ駅の蒸気列車
 

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オーストリア西部、フォアアールベルク州のブレゲンツ Bregenz(下注)は、ドイツやスイスとの国境をなすボーデン湖畔の文化観光都市だ。ÖBB(オーストリア連邦鉄道)ブレゲンツ駅の裏手に、湖に面した緑豊かな公園があるが、その一角に小型の蒸気機関車がぽつんと据え付けられている。

*注 日本語ではブレゲンツと書かれるが、第一音節は長母音なので、忠実に音写するなら「ブレーゲンツ」になる。

498.03(旧Uh 03)の車番をもつこの車両は、Uh形と呼ばれる軌間760mm、いわゆるボスニア軌間のタンク機関車だ。他の同僚機への部品供給の役目を終えて、児童公園になっているこの区画に移されてきた。黒の塗装はあせて剥げ落ち、あちこち落書きだらけだが、遊具として子どもたちの相手をしながら余生を送っているのだ。

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湖畔の公園に据え付けられたUh形ナロー蒸機

ナローの機関車がここにある理由は他でもない。1983年までブレゲンツ駅構内に、その軌間の列車が実際に入ってきていたからだ。路線はブレゲンツァーヴァルト鉄道 Bregenzerwaldbahn といい、ブレゲンツの町から、その後背地ブレゲンツァーヴァルト Bregenzerwald(ブレゲンツの森の意)の山間部に分け入る延長35.3kmのÖBB線だった。

オーストリア各地に造られた760mm軌間の軽便鉄道のなかで最西端に位置し、地元ではヴェルダーバーン Wälderbahn(森の鉄道)またはヴェルダーベーンレ Wälderbähnle(ベーンレは軽便(狭軌)鉄道を意味する方言)と呼ばれ親しまれていた。

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ブレゲンツ旧駅(西望)
ブレンゲンツァーヴァルト鉄道の列車が停車中(1964年)
Photo by Dr. E. Scherer at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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現在のブレゲンツ駅構内(東望)
駅舎、線路とも移設され、昔の面影は消失している
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ブレンゲンツァーヴァルト鉄道と周辺路線図
破線は廃止済を表す
 

路線の開業は1902年にさかのぼる。私鉄の運営だったが、運行業務は初めから国鉄に委託されていた(1932年に国有化)。ブレゲンツ駅から、貨物積替え施設のあったフォアクロスター Vorkloster 駅構内まで1.6kmの間は、国鉄の標準軌貨車が入れるように4線軌条になっていた(下注)。

*注 当時のブレゲンツ駅は現駅の東300mにあった。現在地に移転したのは1989年。また、4線軌条は1955年の電化の際に、3線軌条に改築されている。

旅客列車は当初、混合列車を含め1日3往復設定された。鉄道の開通で、山地へのアクセスが格段に改善され、ハイカーや登山客という新たな需要を生み出した。貨物輸送では、沿線で伐採された木材とその加工品、牛乳などの農産品が消費地に向けて運び出された。他に目ぼしい輸送手段のなかった時代、狭軌鉄道は地域経済を支える重要な存在だったが、1950年代に入ると道路の改良とモータリゼーションの進展により、トラックやバスに顧客を奪われていく。

とりわけ鉄道にとって泣きどころだったのは、全線の約半分がブレゲンツァー・アッハ川 Bregenzer Ach(下注)の狭隘な谷底を走っていたことだ。古くからの街道は、何かと障害の多い峡谷を避けてアルバーシュヴェンデ Alberschwende の広々とした鞍部を越えていくのだが、麓との標高差が約300mあり、蒸気鉄道のルートには適していなかった。

*注 他地域の同名の川と区別するため、「ブレゲンツァー(ブレゲンツの、の意)」をつけるのが正式だが、地元では単にアッハ川 Die Ach と呼ぶ。

鉄道は、建設中からすでに不安定な地質や川の増水に悩まされていたが、開業後もその状況は変わらず、たびたび運行が阻害された。

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ブレゲンツァー・アッハ川の峡谷を行く(1979年)
Photo byHelmut Klapper, Vorarlberger Landesbibliothek at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

後に廃止となるきっかけも、そうした自然災害に起因していた。1980年4月に、峡谷区間の支流を横断する鉄橋の橋台が増水で侵食され、全線で運休となった。これは2か月を要して復旧したものの、同年7月の豪雨で今度は崖崩れが発生し、再度運休を余儀なくされる。線路を押しつぶした巨岩の撤去に手間取るうちに、さらなる崩落が起きたため、ついにÖBBは、峡谷を通過するケネルバッハ Kennelbach~エック Egg 間の復旧中止を決断した。

その後の地質調査で、上流のエック~ベーツァウ Bezau 間でも斜面崩壊の可能性が指摘され、10月に運休措置が取られる。残るは根元のブレゲンツ~ケネルバッハ間4.7kmしかなく、存在意義を失った鉄道は3年後の1983年に全面休止となった(正式廃止は1985年1月)。

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一般運行時代のベーツァウ駅(1971年)
Photo by Dr. E. Scherer at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

これに対して、地元では観光鉄道としての復活を計画した。ÖBB時代でも、気動車による一般列車と併せて、蒸気機関車が牽引する観光列車が全線で走っていたので、運行に必要な施設設備は整っていた。終点のベーツァウに運営組織が設立され、崩落などの危険がない最奥部のシュヴァルツェンベルク Schwarzenberg(下注)~ベーツァウ間で1987年9月から運行が開始された。

*注 当時は駅の手前にある連邦道(2002年から州道)の踏切が撤去済みだったため、その前で折り返していた。

1989年には次の駅ベルスブーフ Bersbuch まで延長されたが、道路用地への転用が決まり、この措置は2004年のシーズン限りで終了した。以来、保存運行はベーツァウ駅を出発してシュヴァルツェンベルク駅で折り返す5.0kmの区間で行われている(下注)。週末だけでなく、平日にも運行日が設定されていて、鉄道はこの地域で人気ある観光スポットの地位を確立している。

*注 そのため保存鉄道は、起点がベーツァウ、終点がシュヴァルツェンベルクとされており、この点は一般運行時代とは逆になる。

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アッハ川の谷を行く蒸気列車
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保存鉄道区間の地形図、ルートを薄赤で示す
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

昨年(2024年)スイスのザンクト・ガレン St. Gallen に滞在中、この鉄道を訪問する機会があった。フォアアールベルク州 Vorarlberg は、オーストリアの首都ウィーンから見ると西の最果てだが、スイスからはごく近い。ザンクト・ガレンからブレゲンツまで列車でわずか30分だ。

しかし、保存鉄道の拠点ベーツァウへは、駅前からラントブス・ブレゲンツァーヴァルト Landbus Bregenzerwald の路線バス830系統でさらに1時間かかる。ハイウェー経由で少し早く着く840系統もあるのだが、あいにく土日は走っていない(下注)。

*注 路線バスの時刻表は、フォアアールベルク運輸連合 Verkehrsverbund Vorarlberg の運営サイト VMOBIL https://www.vmobil.at/ 参照。

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(左)ブレゲンツ駅で下車
(右)路線バスでベーツァウへ
 

9時20分、バスターミナルで賑やかな中高年男女の団体さんと一緒に、そのベーツァウ行きに乗り込んだ。ふつう、路線バスの運賃は乗車するときに支払うのだが、珍しくこのバスには女性の車掌(というより検札員?)が乗っていて、車内で運賃を収受している。2+2の座席配置にもかかわらず、団体さんで車内はほぼ満席になった。途中の停留所からも乗ってくるが、みな立ちん坊を強いられている。

バスはÖBBのシュヴァルツバッハ Schwarzbach 駅前に寄り道した後、谷間を上り、州道200号線に合流した。列車のルートにならなかったアルバーシュヴェンデの鞍部を軽々と越えて、ブレゲンツァーヴァルトの核心部に入っていく。けさはいい天気で、斜面を覆う森と草地の牧歌的な風景に心が和む。

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バスの車窓に牧歌的風景が広がる
 

途中、エック Egg の手前では、川べりに旧線で一番長かったエック高架橋 Egger Viadukt(長さ110m)が見えた。廃線跡の一部は自転車・歩行者道に転換されていて、この高架橋の上も通れるはずだ。エックから先では、旧線が州道に寄り添う区間もある。アンデルスブーフ Andelsbuch では道端に旧駅舎が残っているのだが、うっかり写真を取り損ねた。

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(左)川の対岸にエック高架橋
(右)アンデルスブーフ旧駅舎(2007年)
Photo by böhringer friedrich at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
 

ベーツァウの町中を通過して、バスバーンホーフ Busbahnhof(バス駅、バスターミナルの意)には10時19分に到着した。保存鉄道の駅はこの奥にある。

さっそく駅舎に入り、出札口に行くと、予約は?と聞かれた。していないと答えると、あちらへ、と部屋の隅を指さす。そこには座席表を手にした女性が座っていて、遠来の飛び込み客に空席をあてがってくれた。往復14.60ユーロ。

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(左)ベーツァウ駅舎
(右)予約者のための出札口
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(左)大人往復乗車券
(中)座席指定券表面
(右)同 裏面、107号車8番席
 

ホームに出ると、列車はもうスタンバイして、客がぞろぞろと乗り込んでいるところだった。機関車はUh形の102号機(下注)。動輪3軸、従輪1軸の小型タンク機関車だ。1931年フローリッツドルフ機関車工場 Floridsdorfer Lokfabrik 製で、オーストリアで造られた最後のナロー蒸機だという。この鉄道の開業100周年を記念して動態に復帰させるに当たり、ブレゲンツの公園にいたあの同僚機も部品を提供したそうだ。

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(左)本日の牽引機Uh 102
(右)車体側面のプレート
 

駅舎の隣にある車庫の中を覗くと、別の蒸気機関車、U 25「ベーツァウ Bezau」が休んでいた。現在、Uh 102と交替で保存列車を牽いている1902年製の古典機だ(ÖBBの車番は298.25)。

このU形はオーストリア帝国時代の代表的な狭軌機関車だったが、第一次世界大戦で多くが徴用され、ボスニアの戦場に送られてそのままになった。そのため、戦後の機関車不足を解消するために、改良形として製造されたのがUh形だ。hは過熱式 Heißdampf を意味する。

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(左)車庫で休むU 25(ÖBB 298.25)
(右)列車の前に立つU 25(2018年)
Photo by Uoaei1 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

さて、ホーム上の列車に戻ると、Uh 102の後ろに、有蓋貨車1両とオープンデッキつきの古典客車が7両続いている。その中で側面に「ヴェルダーシェンケ Wälderschenke(森の居酒屋の意)」と書かれているのはビュッフェ車だ。山中の孤立路線にもかかわらず、けっこうな盛況ぶりで、最前部の1両を除けばすでに満席に近い。後で知ったが、まるまる空いているその1両は、復路で乗ってくる団体用だった。

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本日の列車構成
Uh 102の後ろに貨車1両、客車7両(ビュッフェ車含む)
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(左)まるまる空いていた101号車
(右)その車内
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(左)盛況のビュッフェ車
(右)有蓋貨車はパントリー代わり
 

10時45分、鋭い汽笛とともにベーツァウを発車した。行きはおおむね下り坂で、蒸機も逆機(バック運転)で走る。村の主産業である木材工場の間をすり抜け、下路トラスでブレゲンツァー・アッハ川を渡り、山のふもとの緑の谷間を淡々と下っていく。小屋が一つあるだけのロイテ Reute 駅は通過した。

森の中から川べりに飛び出し、流れを追いながら少し走ると、右手に上路ダブルワーレントラスのシュポーレンエック橋梁 Sporeneggbrücke が見えてきた。右に急カーブを切り、この橋で同じ川を再び渡る。それから高低差のついた谷間を回り込む。

速度が落ち、州道200号線の踏切をごろごろと横断すると、終点のシュヴァルツェンベルクだった。保存された駅舎の前に11時05分に到着。すぐに機関車が切り離され、機回しの作業が始まる。

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(左)ブレゲンツァー・アッハ川を渡る
(右)小屋一つあるだけのロイテ駅を通過
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(左)シュポーレンエック橋梁で再び川を横断
(右)州道の踏切を横断すれば終点
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(左)美しく保たれたシュヴァルツェンベルク駅舎
(右)機回し作業中のUh 102
 

折返しまで20分停車するので、駅舎に隣接する小屋に入ってみると、写真や模型のちょっとした展示室になっていた。一般運行時代の走行写真や時刻表など、興味深い資料が壁一面に貼られている。今となっては過去の記憶だが、当時と同じように蒸気列車に揺られてきたので、どこか実感に近いものを覚える。

11時25分、列車は時刻どおりにシュヴァルツェンベルク駅を後にした。結局、往復ともほとんどデッキに出ずっぱりだったが、競合することなく、心行くまで外の風に吹かれることができた。

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(左)駅舎に隣接する展示室
(右)この鉄道のミニチュアもあった
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正面を向いた蒸機が復路便を牽く
 

ベーツァウ駅に戻ってきたのは11時45分。構内はかつて駅前の通りまで広がっていたが、スーパーマーケットに土地を提供するために縮小された。その影響で機回し用の引上げ線の尺が足りなくなり、代わりに遷車台が設置されている。その操作が観察できるものと期待していたのだが、どうやらこれは後で行うらしい。

今日のダイヤは3往復で、次の発車は2時間後の13時45分だ。車内の客が出終わると、スタッフは駅舎前のテーブルを囲んで昼食を広げ始めた。乗客たちもいつのまにか町へ散っていき、駅は何もなかったかのように静かになった。

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ベーツァウ帰着
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(左)機回し用の遷車台
(右)撤去されてきたキロポストが墓石のように並ぶ

最後に、ブレゲンツァーヴァルト鉄道の廃線跡の現状について触れておこう。

ベーツァウ側から行くと、先述の道路転用区間を除き、中間の拠点駅だったエックを経て峡谷区間のロータッハ川 Rotach 合流点までは、自転車・歩行者道になっている。しかし、ロータッハ川を渡る下路ガーダーの橋梁は、橋台が沈下して通行止めとなった。

峡谷の後半部(下流部)はアッハタールヴェーク Achtalweg と呼ばれる踏み分け道がついているものの、崖崩れや洗掘で通過困難な個所があり、「自己責任で auf eigene Gefahr」アクセスしなければならない。峡谷を抜け出したケネルバッハからは、宅地転用された一部区間以外、車道または自転車・歩行者道だ。

■参考サイト
Die Bregenzerwaldbahn - früher - heute(ブレゲンツァーヴァルト鉄道 昔と今)
https://www.bregenzerwaldbahn-frueher-heute.at/
峡谷区間、アッハタールヴェークの現状写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Achtalweg

路線バスでブレゲンツに戻る途中、そのようすを見ようと旧リーデン Rieden 駅近くのバス停で下車した。ブレゲンツ近郊のこのエリアは、広い敷地に集合住宅や戸建てが並び、その中を自転車道が貫いている。4つ星のホテル・シュヴェルツァー Hotel Schwärzler 南側の駐車場が、リーデン駅跡だ。小さな駅舎(待合室)が倉庫に転用されていた。

ブレゲンツの方向に歩いていくと、道は定率のカーブで草地を縫って延びる。自転車がよく通り、地元の人が便利に使っていることがわかる。直線路の向こう、木立の奥に目当てのトンネルが見えてきた。長さ212mで路線最長だったリーデントンネル Riedentunnel だ。峡谷でもないのに長いトンネルがあるのは、ここで台地の出っ張りを横断しているからだ。

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(左)廃線跡自転車道
(右)リーデン駅舎は倉庫に(2024年)
Photo by w:de:User:Firobuz at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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(左)リーデントンネル東口
(右)「1994年再開」のプレートがはまる
 

がっしりした石積みのポータルはオリジナルのようだが、笠石の中央には「Wiederöffnung 1994(1994年再開)」の扁額がはまっていた。自転車道のための改修年次を示すものだろうか。内部は直線の下り坂で、照明が天井を覆うカバー(漏水除け?)に反射して、十分に明るい。

出口の先に続いていた廃線跡の大築堤は完全に撤去され、集合住宅の敷地に転用されてしまった。そのため、自転車道はトンネルを出ると、ヘアピンカーブを切って崖下へ急降下する。中間駅としてはあと一つ、車両基地だったフォアクロスター Vorkloster があるが、跡地は再開発され、何も残っていないようだ。にわかに灰色の雲がわいてきたことだし、探索はここで切り上げて駅へ急ぐことにした。

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(左)トンネル内部
(右)西口の自転車道はヘアピンで急降下
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ブレンゲンツ近郊の地形図、薄赤のルートが廃線跡
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

■参考サイト
Wälderbähnle(公式サイト) https://waelderbaehnle.at/

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2025年3月13日 (木)

ヴィヴァレ鉄道(トラン・ド・ラルデーシュ)

ヴィヴァレ鉄道(トラン・ド・ラルデーシュ)
Chemin de Fer du Vivarais (Train de l'Ardèche)

トゥルノン=サン・ジャン Tournon–St-Jean~ラマストル Lamastre 間28km
1891年開通、1968年一般運行廃止
1969年保存運行開業、2008年休止、2013年再開

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マレー式蒸機が率いる列車の出発
トゥルノン=サン・ジャン駅にて

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前回紹介したヴレー急行 Velay Express とヴィヴァレ鉄道 Chemin de Fer du Vivarais は、姉妹路線と言っていい。どちらもヴィヴァレ路線網 Réseau du Vivarais と呼ばれたメーターゲージ(1000mm軌間)のローカル線群がルーツで、保存鉄道としても同時期にスタートした。

高原列車のヴレー急行に対して、ヴィヴァレ鉄道は、ローヌ川の支流ドゥー川 Le Doux がアルデーシュ高原 Plateau ardéchois に刻んだ谷をさかのぼる。列車がたどる自然景観は潤いと変化に富み、終点の町には名物料理も待っている。さらにドゥー川が注ぐローヌ川 Le Rhône の谷は、リヨン Lyon と地中海岸を結ぶ鉄道と道路が通る国土の交通軸だ。

このように景色、グルメ、アクセスの良さと期待要件が三拍子揃っていることが、人気の源なのだろう。その結果、ヴィヴァレ鉄道ではシーズン中、ほぼ毎日何らかの形で列車が動いている。列車に乗るだけでは物足りない向きには、軌道自転車のようなアクティビティさえ用意されている。北部のソンム湾鉄道 Chemin de fer de la baie de Somme と並び、フランスの代表的な蒸気保存鉄道と評価されるのももっともなことだ。

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ドゥー川を渡って峡谷へ
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ヴィヴァレ路線網(赤色)と周辺の標準軌路線網(灰色)
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ヴィヴァレ鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

ヴィヴァレ鉄道の列車が出発するのは、ローヌ右岸の歴史都市トゥルノン Tournon から、ドゥー川の谷を4kmほど入ったところにあるトゥルノン=サン・ジャン Tournon–St-Jean 駅(下注)だ。トゥルノンの北隣の小さな自治体サン・ジャン・ド・ミュゾル St-Jean-de-Muzols に作られたのでこの名がある。

*注 駅舎の壁面には、正式の地名を連ねたトゥルノン・シュル・ローヌ=サン・ジャン・ド・ミュゾル Tournon-sur-Rhône–St-Jean-de-Muzols の駅名標が掲げられている。

利用者はクルマで来る前提なので、近くにSNCF(フランス国鉄)線の駅はない。公共交通機関に頼るなら、ローヌ川の対岸を走るパリ=リヨン=マルセイユ線(PLM線)のタン・レルミタージュ Tain-l'Hermitage 駅で降りて、数少ない路線バス(下注)を捕まえるより方法がない。

*注 11系統ラルヴェスク Lalouvesc 行き。7~8月のハイシーズンのみ定期運行。他の期間はオンデマンド(事前予約)運行になる。https://www.archeagglo.fr

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新しい出発駅トゥルノン=サン・ジャン
 

もちろん昔、一般運行していた時代は、ローヌ右岸線(ジヴォール・カナル=グルザン線 Ligne de Givors-Canal à Grezan)のトゥルノン駅で標準軌列車(下注)に連絡していた。トゥルノンでは、標準軌駅の横に狭軌の駅と機関区があり、そこから北へ2.2kmの間、狭軌列車は標準軌線の片側(西側)の線路を借りて走った。そのため、ドゥー川の鉄橋の北側にあった狭軌線の分岐点までは、3線軌条になっていた(下写真参照)。

*注 運営は1937年末までPLM(パリ=リヨン=地中海鉄道 Chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée)、1938 年の国有化でSNCFに。

一般運行は1968年10月末に全廃されたが、翌1969年6月にはサン・ジャン・ド・ミュゾル Saint-Jean-de-Muzols(下注)~ラマストル Lamastre 間で保存鉄道としての運行が開始されている。SNCFとの協議が整い、もとのトゥルノン駅から列車が出発できるようになったのは、その翌年(1970年)のことだ。

*注 現在の始発駅ではなく、標準軌線との分岐点から約300mの地点にあった旧駅。

ローヌ右岸線では、1973年に(標準軌の)旅客輸送が廃止され、以来、貨物列車だけが走る路線になってしまった。しかし、保存鉄道の列車は影響を受けずに運行され、トゥルノンは事実上、狭軌線の駅になった。

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(左)かつてのトゥルノン駅
  左が標準軌、右がヴィヴァレ鉄道のホーム(1998年)
Photo by Roehrensee at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)3線軌条区間を走る蒸気列車
Photo by Mouliric at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

そのヴィヴァレ鉄道も2008年から2012年まで、財政難で運行が中断していた期間がある。復活のために、国や地方自治体の資金拠出による新体制が組まれたが、その際、路線の短縮が検討された。というのも、共用区間走行のためにインフラ管理会社(下注)に支払う高額の使用料が負担になっていたからだ。

*注 フランス鉄道線路事業公社 Réseau Ferré de France (RFF)。旧SNCFの鉄道インフラを管理する国有企業。

最終的に、旧駅と共用区間を放棄し、専用線上に新たなターミナルを整備することになった。これがトゥルノン=サン・ジャン駅で、運行が再開された2013年のシーズンから供用されている。ヴィヴァレ鉄道の名は新しい運営会社名(下注)にも残されたが、マーケティングの場ではもっぱら「トラン・ド・ラルデーシュ(アルデーシュの列車)Train de l'Ardèche」の名が使われるようになった。

*注 SNCヴィヴァレ鉄道 SNC Chemin de Fer du Vivarais が正式社名。保存団体である古典車両保存管理協会 Association Sauvegarde et gestion de véhicules anciens (SGVA) が実際の運営を支援している。

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トラン・ド・ラルデーシュの案内板
トゥルノン=サン・ジャン駅にて
 

人気路線だけに、ヴィヴァレ鉄道ではさまざまな列車プログラムが用意されている(以下は2024年シーズンの場合)。

全線を往復する列車は「(ル・)マストルー (Le) Mastrou」と呼ばれる。地名ラマストルの地元読みだ。トゥルノン=サン・ジャンを10時15分に出発し、終点ラマストルに12時に到着。復路は15時15分出発で、サン・ジャンに17時に帰着する。ヴレー急行の蒸気列車と同じような一日がかりの旅で、終点駅では食事休憩の時間がたっぷり確保されている。

短い旅程を希望する人には、「トラン・デ・ゴルジュ(峡谷列車)Train des Gorges」がある。一番の見どころ区間に絞って往復するもので、トゥルノン=サン・ジャンを一足早い10時に出発して、ドゥー峡谷 Gorges du Doux を走り抜ける。8km先のコロンビエ・ル・ヴュー Colombier le Vieux が折返し駅で、起点には11時30分に戻ってくる。日によっては、15時発16時30分帰着の午後便が追加または単独で出る。

終点側からも半日ツアーが出ている。「ラマストル急行 Lamastre Express」と呼ばれ、ラマストルを気動車で10時20分に出発、14km先のブシュー・ル・ロワ Boucieu-le-Roi まで行く。復路は上記マストルー号に乗って、12時にラマストルに帰着するというものだ。

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旧トゥルノン駅に入線する「マストルー」号
牽くのは414号機関車(2012年)
Photo by trams aux fils at flickr. License: CC BY 2.0
 

これらの列車が午前中または15時以降に集中して走るのには、理由がある。空いた時間帯が、ヴェロライユ(軌道自転車)Vélorail の走行に使われているのだ。中間のブシュー・ル・ロワ駅がその基地になっていて、上流はモンテイユ Monteil 停留所まで約8km(往復1時間45分)、下流はトロワ Troye 停留所まで約12km(往復2時間)を走ることができる。ヴェロライユは2人で漕ぐが、それ以外に最大3人まで同乗が可能だ。

いずれのコースも下流方向のみ自分で漕ぎ、上流方向へは気動車が代わりに、連結したヴェロライユを牽いて走ってくれる。客は気動車かオープン客車に乗り移って涼んでいればいい(下注)。

*注 自走は下流方向のみなので、終点に方向転換設備はない。

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(左)ヴェロライユ(軌道自転車)、前部座席の足もとのペダルを漕ぐ
(右)移送時は車両を連結
 

また、マストルーとヴェロライユを組み合わせたプログラムもある。まずトゥルノン=サン・ジャンからマストルー号でブシュー・ル・ロワまで行く。昼食休憩の後、気動車+ヴェロライユで上流ルートを往復し、戻ってきたマストルー号でサン・ジャンに戻るという一日コースだ。

シーズン中、看板列車のマストルー号は土曜を除いて毎日のように運行されている(シーズン初めと終わりは月・木曜も休み)。その土曜日には半日コースのトラン・デ・ゴルジュが必ず走るので、ハイシーズンの7~8月ともなれば、鉄道会社は無休、フル操業の状態が続く。

9月初旬のその日は本降りの雨になった。雲が低く垂れ込めて少し肌寒い。朝9時過ぎにトゥルノン=サン・ジャン駅の駐車場にクルマを停めた。あいにくの天気だが、すでにけっこう客が集まっている。さっそく駅舎に入って、ラマストル往復の乗車券を買い求めた。大人27ユーロ、券面に Voit 35, accès libre(35号車自由席)と手書きがある。

駅舎の並びで開いている休憩所を兼ねた鉄道博物館を訪ねた。かつて路線で使われていたサロンカーやドライジーネの復元・保存車両が据え付けられ、路線網の歴史を伝えるパネル展示が壁面を埋めている。

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休憩所を兼ねた鉄道博物館
 

駅舎寄りのA番線では、マストルー号より先行するトラン・デ・ゴルジュ(峡谷列車)が出発を待っていた。先頭に立つのは、アルザスのグラッフェンスターデン Graffenstaden 社で1932年に製造された414号機だ。急カーブに対応するため走り装置を前後2基備えたマレー式蒸気機関車で、「アルザシエンヌ(アルザスの女)Alsacienne」(下注)の愛称がある。小柄ながら艶光りする車体は貴婦人と呼ぶのがふさわしい。

*注 フランス語では機関車 locomotive は女性名詞なので、通常、女性名がつけられる。

後ろには自転車を積込む有蓋貨車、それから8両の客車が連なる。そのほとんどに予約済 réservé の札が掛かっていて、席も埋まっているのに驚いた。団体旅行なら日程は決まっているから、悪天候もおかまいなしだ。

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(左)トラン・デ・ゴルジュを牽くマレー式414号機
(右)客車は予約客で満席
 

アルザシエンヌが定刻の10時に出て行くと、隣のB番線で待機していたマストルー号への乗込みが始まった。こちらの牽引機は色あせたディーゼルだ。マレー式を含め、他にも蒸機がいるはずだが、スタッフに聞くと現在修理中なのだという。車両は有蓋貨車と客車7両で、前の方には予約済の札が見える。

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(左)マストルー号はディーゼル牽引
(右)雨の中、列車に乗り込む
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(左)1等車は1+2席のクッションシート
(右)2等車は板張り
 

後ろから2両目、指定された35号車の空席に落ち着く。10時15分、汽笛一声、まだ雨が降り続くトゥルノン=サン・ジャンを出発した。駅が設置されたのは人里離れたドゥー峡谷の入口なので、左車窓には早くもドゥー川の深い淵が迫ってくる。雄大なアーチで川を一跨ぎしている中世の石橋グラン・ポン(大橋)Grand Pont の橋台部を潜り抜け、列車は蛇行する川の谷壁に沿って進む。

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ドゥー川を一息にまたぐグラン・ポン(大橋)
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線路は橋台部を潜り抜ける(復路で撮影)
 

少し走ると、左手に側線が現れた。トロワ Troye という停留所で、先述したヴェロライユ下流区間の終点だ。直後に左へ急カーブし、石造のアーチ橋で右岸に移った。このあたりの勾配は1:50(20‰)で、保存区間では最も急だという。眼下の河原との高低差がじわじわと開いていく。

早や色づいて秋の気配の山肌に、保存区間で唯一のモルダーヌトンネル Tunnel de Mordane のポータルが見えてきた。長さ265mで、ドゥー川の蛇行の首をショートカットしている。隣に同じ名の発電所施設も見える。

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モルダーヌトンネルと発電所
 

トンネルの闇を抜けると、川を跨ぐ高い橋脚のアーチ橋が目を引くが、これは先ほどの発電所に水を送っている水路橋だ。少し先に行くともう1本、同じ導水路の、より低い水路橋が現れる。ここで左に大きく回って、クローゼル Clauzel 停留所を通過。近くにドゥー川を堰き止めて発電用の水を取水しているダムがある。

しばらく行くとまたアーチ橋をくぐる。D234号線の道路を渡しているエトロワ(狭間)橋 Pont des Étroits だ。そしてこれを境に、あれほど険しかった谷もいくらか表情を和らげる。まもなく列車は、森に包まれたコロンビエ・ル・ヴュー駅(下注)に入っていく。

*注 正式駅名はコロンビエ・ル・ヴュー=サン・バルテルミー・ル・プラン Colombier-le-Vieux–Saint-Barthélemy-le-Plain。最寄りの二つの集落名をつなぎ合わせたもの。

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(左)トンネルを抜けると見える水路橋
(右)上流の、より低い水路橋、右端は導水路
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(左)早や秋の気配のドゥー峡谷
(右)エトロワ橋のたもとを通過
 

15分前に先行したトラン・デ・ゴルジュはここが折返し駅だ。現在10時45分。復路発車は11時のはずだが、すでに機関車はトゥルノン=サン・ジャン側につけ直されていて、出発の準備は完了したようだ。駅には転車台が設置され、機関車の方向転換がプログラムの見せ場の一つに挙げられている。駅舎の周りにいるのは、それを楽しんでこれから帰る人たちだ。

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コロンビエ・ル・ヴュー駅で復路の出発を待つ414号機
 

コロンビエ駅を後に、列車は牧草地や畑も混じるようになった谷の中をさらに進んでいく。11時ごろ、次のブシュー・ル・ロワ Boucieu-le-Roi 駅に到着。ここでは15分間停車する。蒸気機関車なら給水作業が見学できるのだろうが、残念ながらディーゼルにはそのチャンスがない。

ホームの反対側では、角ばった気動車が、正面にCFCのロゴをつけて停車している。2016年にコルシカ鉄道から到来したX5000形だ。後ろには、クラシックカーに似せた5人乗りヴェロライユがずらりと連なる。そぼ降る雨をものともせず、合羽を着込んで乗り込む人たちがいた。下流コースのスタートはこの後すぐだ。

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(左)ブシュー・ル・ロワ駅のX5000形
(右)ヴェロライユに乗り込む人たち
 

11時15分にブシュー・ル・ロワを発車。しばらくはまた森と畑のゆったりした景色だが、そのうち谷幅が狭まってきた。蛇行する渓谷に、撮影地として知られた6連アーチのバンシェ高架橋 Viaduc du Banchet が架かる。対岸に移ってすぐ、石橋の跨線橋下でアルルボスク Arlebosc 停留所を通過した。

左車窓の川景色はいくらも続かず、また橋(ガルニエ高架橋 Viaduc du Garnier)で川を渡る。序盤のような息をのむ峡谷ではないが、自然のまま流れるドゥー川に沿う列車旅は、景色が刻々と変化して飽きることがない。

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アルルボスクの村を背にするバンシェ高架橋(別の日に撮影)
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(左)アルルボスク停留所(別の日に撮影)
(右)アルデーシュ高原の風景
 

ル・プラ Le Plat 停留所を見送り、川に付き合ってまた大きく北へ迂回していく。朽ちかけたモンテイユ停留所の小屋の上手には、ヴェロライユ上流コースの終点になっている待避線がある。その傍らに、45ème parallèle(北緯45度)と書かれた看板が立っていた。北緯45度は、北極と赤道の中間を意味する。日本での通過域は北海道の北端近く(下注)なので感覚が狂うが、フランスでは、45度以南はミディ(南部)Le Midi という意識だ。

*注 幌延町の日本海岸と、枝幸町のオホーツク海岸にモニュメントがある。

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(左)北緯45度の看板
(右)ヴェロライユ終点の待避線
 

間もなく左車窓に並木道が沿うようになり、周りの建物もちらほら増えてきた。列車は速度を落とし、側線にさまざまな車両が留置されたラマストル駅の構内に入っていく。どこか懐かしい風情が漂う駅舎の前に、定刻12時少し前に到着。客が降りて空いた列車の横を、ディーゼル機関車が機回しされていった。

復路の出発は15時15分だ。ラマストルは田舎町でさほど見るものもないが、評判のいいレストランがいくつかあるという。雨も上がったことだし、アルデーシュ地方の名物料理クリーク Crique でも食べて、午後のひと時をゆっくり過ごすことにしよう。

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(左)ラマストル駅(別の日に撮影)
(右)終点に到着した列車
 

写真は特記したものを除き、2024年9月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
Train de l'Ardèche https://www.trainardeche.fr/
Sauvegarde et Gestion de Véhicules Anciens (SVGA) https://train-du-vivarais.com/

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2025年3月 8日 (土)

ヴレー急行-ヴィヴァレの高原列車

ヴレー急行 Velay Express

ロクール・ブロセット Raucoules Brossettes~サンタグレーヴ Saint-Agrève 間27km
軌間1000mm、非電化
1902年開通、1968年一般運行廃止
1970年保存運行開始、1982年休止、1993年再開

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ヴレー急行の蒸気列車
ル・シャンボン・シュル・リニョン駅にて

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フランス南部に横たわる中央高地 Massif central の東端、ローヌ川の谷との間を限るのがヴィヴァレ山地 Monts du Vivalais だ。その周りに、蒸気機関車で運行される2本の保存鉄道がある。一方は山稜の西側に広がるのびやかな高原を縫うもので「ヴレー急行 Velay Express」、他方は東側に刻まれた険しい峡谷に沿うもので「ヴィヴァレ鉄道 Chemin de fer du Vivarais」という。

今でこそ互いに離れた場所にあるが、かつてこの地域には延長200kmを超える広範なメーターゲージ(1000mm軌間)の路線網が存在した。2本の小鉄道はその最後の断片だ。それぞれの列車の窓に映る沿線風景はまったく対照的で、乗客にヴィヴァレ周辺の地勢が秘める奥深さを印象付けてやまない。今回はまず、高原の風を受けて走るヴレー急行を訪ねてみよう。

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放牧地と森の風景が続く
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ヴレー急行線周辺の地形図にルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

蒸気列車の始発駅ロクール・ブロセット Raucoules Brossettes は、ヴレー高原 Plateau du Velay と呼ばれる牧草地と森林に覆われた台地の中央部、標高864mに位置する。もともと集落とは関係なく路線の分岐点として設けられた駅なので、駅前でレストランが1軒営業しているほかは、ぽつりぽつりと住宅が建つだけの寂しい場所だ。最も近い都市は北へ30km強のサンテティエンヌ Saint-Étienne だが、接続する公共交通機関があるはずもなく、クルマでしかたどり着けない。

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蒸機の給炭と客車の入換作業
ロクール・ブロセット駅にて
 

訪れたのは9月初旬、朝9時の気温は16度で、心地よい涼しさだ。もと分岐駅だけあって、駅の構内はそれなりに広い。北端にある給水塔の前では、小型蒸機が水と石炭の補給を受けているところだった。鮮やかな青色をまとうこのタンク機関車は、1923年コルペ・ルーヴェ Corpet-Louvet 社製の22号機だ。現役引退後30年間リヨンで静態保存されていたが、2004年にここに引き取られて修復を受け、2010年に稼働可能になった。

南側から、深緑の凸型ディーゼル機関車が本日の車両群を引き出してきた。先頭は有蓋貨車で、その後に色も形もさまざまな古典客車が8両連なっている。まもなく給水を終えた蒸機がその横を転線していき、最前部につけられた。

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(左)本日の牽引機コルペ・ルーヴェ22号
(右)側壁の銘板
 

9時20分ごろ、出札窓口が開いたらしく、周りに集まっていた客がぞろぞろと駅舎に入っていく。列に並んで、全線往復の乗車券(大人21.50ユーロ)を購入した。2両目に乗るように指示があり、乗車券に加えて「旅行者の小案内 Petit Guide du Voyageur」と題した折り畳みのリーフレットを渡された。沿線案内とともにルートの詳しい縦断面図が載っていて、マニアックだが役に立ちそうだ。

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(左)出札窓口が開いた
(右)乗車券を購入
 

2024年の場合、ヴレー急行は5~10月のシーズン中、毎日曜に運行されている。蒸気列車は1日1便で、ロクール・ブロセットを10時に出発し、終点サンタグレーヴ Saint-Agrève に12時15分到着。復路は15時出発で、ロクール・ブロセットに17時10分に戻ってくる。一方、サンタグレーヴ側からは気動車1便の運行もあり、朝10時30分に出発、ロクール・ブロセット12時25分着。折返し15時に出発して、サンタグレーヴへは16時35分に帰着する。

両者は中間のル・シャンボン・シュル・リニョン Le Chambon-sur-Lignon 駅で交換する。そのため、この駅では蒸機と気動車の間で乗換えが可能になっている。蒸気列車で往復するとまる一日かかってしまうが、乗換オプションなら半日で出発駅まで戻れる。旅を急ぐ客や幼児を連れた客などにはちょうどいいのだろう。このほか繁忙期の夏場は、水曜と木曜に蒸気列車1便が追加運行され、同じく特定の土曜日には気動車によるサンタグレーヴ~ル・シャンボン間の往復便もある。

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ロクール・ブロセット駅の出発時刻表
 

準備の整った機関車や他の客車を物色しながら、発車時刻を待つ。車内はよくあるボックス型のベンチシートが並ぶが、1両目の前半分は売店で、制帽をかぶったスタッフがいた。先頭車から順に乗る車両を案内しているらしく、前の方はすでに満席だが、後ろはまだ空いたままだ。途中駅で乗ってくる客があるのだろう。

やがて外にいた客も全員席に収まり、甲高い汽笛の合図とともに、列車は10時定刻に駅を後にした。

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先頭客車は半室が売店
Blog_vivalais_ve8ボックス型のベンチシートが並ぶ

冒頭でも触れたが、この線路はかつてヴィヴァレ路線網 Réseau du Vivarais と呼ばれたローカル線群の一部だ。1879年、国土開発のための大規模公共事業、いわゆるフレシネ計画 Plan Freycinet に挙げられた今後整備すべき189の地方路線(下注)に含まれ、1886年から建設が始まった。

*注 日本の鉄道敷設法と同様の趣旨。ヴィヴァレ路線網に相当する路線は、第150号:ラ・ヴルト・シュル・ローヌ La Voulte-sur-Rhône からル・シェラール Le Cheylard 経由または近傍を通りイサンジョー Yssingeaux に至る101km、第151号:トゥルノン Tournon から上記路線に至る40km、第152号:イサンジョーからル・ピュイ=サンテティエンヌ線 La ligne du Puy à St-Étienne に至る20kmの3本。

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ヴィヴァレ路線網(赤色)と周辺の標準軌路線網(灰色)
 

上図に示したとおり、これは既存の標準軌線駅に接続して、ヴィヴァレの鉄道空白地帯を埋めるものだった。険しく複雑な地形を通過するため、工事量は多かったが、1890年以降、順次開通していき、1903年に総延長201kmの路線網として完成を見た。建設・運営にあたったのはCFD社で、貨物を含めて初期の輸送需要は順調だった。だが、1920年代にそのピークに達した後は、徐々に縮小していく。

*注 正式名称は県鉄道会社 Compagnie de chemins de fer départementaux。「県営」ではなく、各地の地方鉄道網を運営した民間会社。

第二次世界大戦中、一時的に活況を呈したものの、戦後は自動車交通が浸透してさらなる不振にあえぐようになった。気動車の導入による所要時間の短縮も功を奏さず、1952年に西側のラヴート・シュル・ロワール Lavoûte sur Loire~ロクール・ブロセット間で、1968年10月には残る全線で、運行が終了した。

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デュニエール駅のメーターゲージ列車(1953年)
Photo by Trainiac at wikimedia. License: Public domain
 

それに対して地元では、残された車両や施設を観光振興に活用しようと、保存鉄道化の準備を始めた。峡谷区間では1969年6月に、高原区間でも1970年8月に列車運行が再開されている。後者が現在のヴレー急行だ。運行区間はSNCF(国鉄)と接続するデュニエール Dunières とサンタグレーヴの間36kmで、当時ヨーロッパ最長の観光鉄道だった。

しかし、峡谷区間に比べるとアクセスが不便なことから、利用実績は芳しくなかった。運行は通常、北半のデュニエール~タンス Tence 間17kmで、サンタグレーヴまで足を延ばすのは夏の数日間にとどまった。それも1985年に施設のリース期間が満了したことに伴い、中断を余儀なくされた。

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ヴレー急行の壁絵
ロクール・ブロセット駅にて
 

事態打開のために新たな運営組織、ヴレー鉄道 Voies ferrées du Velay (VFV) が設立された。1993年にまずデュニエール~モンフォーコン Montfaucon 間で運行が復活し、翌年からタンス、2002年に念願のサンタグレーヴまで延長された。しかし、北側のデュニエール~ロクール・ブロセット間がローヌ川とロワール川を結ぶ長距離自転車道(下注)の「ヴィア・フルーヴィア Via Fluvia」に転用されることになり、2015年からは起点がロクール・ブロセットに変更されて現在に至る。

*注 こうした長距離自転車道は、フランス語でヴォワ・ヴェルト(緑の道)voie verte と呼ばれる。ヴィア・フルーヴィア(フランス語読みはフリュヴィア)はラテン語で川の道の意。

ロクール・ブロセット駅構内の南端で、自転車道になったイサンジョー Yssingeaux 方面の旧線跡を右に見送った後、列車は牧草地と針葉樹の森が交錯する中に出ていく。周辺は標高850m前後の高原だが、500mほど西をロワール川 La Loire の支流リニョン川 Le Lignon が並走していて、そこに注ぐいくつかの小川がルートを横切っている。そのため、線路は少し下って浅い谷をまたいでは丘を上るというアップダウンを繰り返す。

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(左)右に分かれるイサンジョー方面の旧線跡
(右)ルートは谷と丘を横断していく
 

列車の速度は平坦地でせいぜい30km前後、坂が続くときは駆け足でも追いつけそうなペースだ。開け放された窓から高原の乾いた風が車内に吹き通る。工費節約のため地形に逆らわずに設計された線路はカーブだらけで、前に立つ機関車がよく見える。

国道の踏切を越えてまた浅い谷を降りていくと、灰色屋根の街並みが見えてきた。列車は側線のある構内に進入していく。保存運行の終点だったこともあるタンス Tence 駅だ。煤で黒ずんだ壁もそのままの駅舎の前に、リュックやショルダーバッグを提げた人たちが群がっている。20人以上はいたが、ほぼ全員が列車の客になった。

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タンス駅、列車を待つ人多数
 

タンスからの線路は上り基調だ。町が立地する谷を回り込んでいくと、森の隙間からリニョン川が刻む深い谷がちらちらと覗くようになる。眺望が開けるのは、ラ・セル La Celle の旧停留所の手前だ。窓口でもらった小案内にベルヴェデール Belvédère(展望台の意)とある地点だが、木が大きく育ったせいでほんのいっときだった。

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ベルヴェデール付近、リニョン川の谷の眺め
 

右に左に絶え間なくカーブを切りながら深い森を抜けると、また町に出た。ル・シャンボン・シュル・リニョン Le Chambon-sur-Lignon、リニョン川の谷の斜面に開けた沿線の主要な町の一つだ。標高はすでに967m。駅舎はアプリコット色の明るい壁面で、その前にやはり10人ほどの客が待っていた。

この駅では15分ほど停車した。最後の坂道に備えて、蒸機への給水作業があるためだ。客は列車から降りてその様子を眺めたり、駅前のパティスリーでスイーツを調達したりと、思い思いに過ごしている。

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(左)ル・シャンボン・シュル・リニョン駅に到着
(右)パティスリーでスイーツを調達する人も
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最後の上りに備えて給水
 

ふと気がつくと蒸気列車の陰に、流線形の気動車が停車していた。独特の風貌に加えてグレーと赤のツートンカラーが、どこかウルトラマンを連想させる。後ろに従える貨車の塗分けもお揃いなのがおもしろい。気動車は1937年ビヤール Billard 社製のA 80 D形だ。車体側面に一般運行時代の社名「CFD」と313号の文字が見えるが、CFD社から保存鉄道に引き継がれた後も、蒸機とともに主力を担ってきた。

これは、蒸気列車と同じ時間帯にサンタグレーブから逆向きに走ってきた便で、ここで行き違いがある。時刻表によれば11時に先着し、11時10分の蒸機到着を待っていたようだ。先述のとおり、当駅で両者を乗換えれば、早く発地に戻れる。

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ビヤール製気動車A 80 D形と交換
 

ル・シャンボンを出ても相変わらず急カーブの連続だが、緩勾配なので、蒸機のドラフト音も一定のリズムを保っている。リニョン川の谷と別れてラドレー Ladreyt の旧停留所を過ぎ、ショレ川 Le Cholet の小さな流れをまたぐと、区間最長のタヴァ坂 Rampe des Tavas にさしかかる。1:33(30.3‰)の急勾配が長く続き、列車の速度はぐっと落ちた。

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(左)区間最長の坂に挑む
(右)マール=ドヴェッセ停留所付近が最高地点かつ分水界
 

上りきったところにあるマール=ドヴェッセ Mars-Devesset 停留所付近がサミットだ。標高1062m(下注)で、保存区間はもとよりヴィヴァレ路線網全体の最高地点になる。同時にここにはロワール川とローヌ川 Le Rhône、すなわち大西洋斜面と地中海斜面の分水界が通っている。といっても、現地は平らな牧草地にしか見えないので、言われない限り気づかず通り過ぎてしまうだろう。

*注 「旅行者の小案内 Petit Guide du Voyageur」の記載による。地形図には1060mの標高点がある。

次の小さな谷を回り込み、やや深い森を抜けると、終点のサンタグレーヴだ。駅の標高は少し下がって1048m。町の西はずれに位置しているので、市街も見ないうちにあっけなく到着してしまう。

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(左)サンタグレーヴ駅に入線
(右)構内の端で線路は途切れる
 

到着すると、蒸機はすぐに列車から切り離され、機回し側線を通って後方へ移動した。それから今度は車庫への引込線に入って、途中にある転車台に載る。復路に備えてここで方向転換されるのだ。一連の作業を興味深げに見物していた乗客たちも、蒸機が車庫の前で動きを止めると、食事場所を求めてばらばらと町の方へ出て行った。復路の出発まで、まだ2時間以上ある。

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転車台で方向転換
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復路の出発まで蒸機も休憩
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サンタグレーヴ市街
(左)中心街のドクトル・トゥラス通り Rue du Dr Tourasse
(右)ヴェルダン広場 Place de Verdun

ちなみにサンタグレーヴ以遠の、山を下っていた廃線跡は「ドルチェ・ヴィア Dolce Via」と称する自転車道に転換された。ル・シェラール Le Cheylard で分岐して、一方はヴィヴァレ鉄道の終点ラマストル Lamastre、もう一方はローヌ河岸のラ・ヴルト・シュル・ローヌ La Voulte-sur-Rhône まで、計90kmほどをほぼ忠実にたどることができる。

次回は、そのヴィヴァレ鉄道を訪ねる。

写真は特記したものを除き、2024年9月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
Velay Express https://velay-express.fr/

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