保存鉄道

2020年7月20日 (月)

ポルトの古典トラム II-ルートを追って

前回概要を記したポルトのトラム(路面電車)について、車窓風景や沿線の見どころを追っていこう。

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カイス・ダス・ペドラス Cais das Pedras の
旧道を行く1系統トラム
(写真はすべて2009年7月撮影)
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青・赤・緑のラインがトラム、なお18・22系統の電停名は下図参照
灰色はポルト・メトロ(LRT)
旗竿記号はCP(ポルトガル鉄道)
"Funicular" はギンダイス・ケーブルカー
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市街地を拡大
© OpenStreetMap contributors

1系統 パッセイオ・アレグレ Passeio Alegre ~インファンテ Infante

起点は河口側のパッセイオ・アレグレとされているが、観光客の視点に従って、中心街に近いインファンテから話を進める。

インファンテという地名は、15世紀に西アフリカを「発見」し、大航海時代の幕を開いたエンリケ航海王子 Infante Dom Henrique にちなむものだ。電停の近所、リベイラ Ribeira 地区に生家とされる「王子の家 Casa do Infante」がある。ポルト大聖堂 Sé do Porto の丘を仰ぐこの辺りはポルトの旧市街で、石畳の街路を多くの人が行き来している。

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(左)丘の上に大聖堂付属司教館が見える
(右)リベイラ、ドウロ河岸のプロムナード
 

電停の北側はゴシック建築の聖フランシスコ教会 Igreja de São Francisco、南側は道路を隔ててドウロ川の川岸が迫る。この川は箱型の谷の中を流れていて、すぐ上手にドン・ルイス1世橋 Ponte de Dom Luís I が架かっている。ギュスターヴ・エッフェルの弟子が設計した長さ395m、高さ85mの壮大な2層アーチ橋だ。見上げる高さの上部デッキを、ポルト・メトロ Metro do Porto の黄帯の電車が渡っていく(下注)のを眺めるのも楽しい。

*注 2003年まで上層も通常の道路だったが、2005年のメトロD線開通により、上層はLRVと歩行者の専用路になっている。

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ドン・ルイス1世橋を渡るポルト・メトロ
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対岸セラ・ド・ピラール Serra do Pilar から見た
ドン・ルイス1世橋と旧市街リベイラ
 

さて、インファンテ電停の引上げ線の端にもレモンイエローのトラムがいるが、これは臨時の案内所、兼切符売り場だ。パッセイオ・アレグレ方から接近してきた1系統トラムがその手前に停車して、乗客を降ろした。それから運転士が外に出てきて、トロリーポールを反対側へ回す。

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1系統の起点インファンテ
(左)トラム車両が案内所兼切符売り場に
(右)運行用トラムが到着
 

時刻になると停留所の位置まで移動し、新しい客を迎えた。ワンマン運転につき、運賃収受も運転士が行う。名物の川景色は、往路でもっぱら左車窓に展開するのだが、座席は両側ともけっこう埋まった。

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(左)レトロ感あふれるダブルルーフの車内
(右)出発
 

出発すると、一路西へ向かう。軌道は本来複線で、車道上に敷設(=併用軌道)されていたが、観光鉄道化に際し、単線で山側に寄せられ、歩道と一体化された。これで車の通行が円滑になるとともに、電車も渋滞に巻き込まれることがなくなった。軌道と歩道をセットにするのは一見大胆な発想だが、トランジットモールの変形と思えば違和感はない。

並行する道路の左側に大きな建物が見える。現在は博物館と会議場に改装されているが、ここはかつてドウロ川からの荷上場に使われ、税関と貨物駅(下注)があった。川べりの駐車場が貨物駅のヤード跡で、本線のカンパニャン Campanhã 駅から貨物線が来ていたのだ(1888年開通)。木陰のアルファンデガ Alfândega(税関の意)電停では、逆方向のトラムと交換する。

*注 地図に Antigo Terminal Ferroviário da Alfândega(旧アルファンデガ鉄道ターミナル)と注記がある。

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(左)軌道は歩道と一体化
  左は貨物駅跡、奥の建物は旧税関
(右)木陰のアルファンデガ電停
 

次のモンシーケ Monchique とカイス・ダス・ペドラス Cais das Pedras の電停間には、川岸を走っていた昔の風景を彷彿とさせる区間がある。車道を川の上に張り出させ、それによって軌道を旧道や護岸とともに残しているのだ。元の複線が単線化されてはいるものの、トラムの走る姿は、道の絶妙な曲がり具合とあいまって、絵になる光景だ。

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カイス・ダス・ペドラス旧道区間
(左)単線化されたものの昔の風情を残す
(右)反対側から撮影
 

そこを過ぎると、右手から18系統の複線が合流して、トラム博物館前の電停に着く。以前はマッサレーロス Massarelos と称し、位置ももう少し手前(インファンテ寄り)だったが、博物館の正面に移設された。

トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico は、STCP(ポルト公共輸送公社 Sociedade de Transportes Colectivos do Porto)が運営している鉄道博物館だ。かつてこの鉄道に電気を供給していた火力発電所跡の建物を利用して、1992年に開設された。館内には、馬車鉄道から電気鉄道、トロリーバスに至る多彩な歴史的車両が展示され、19~20世紀のポルトの公共交通史が概観できる。

■参考サイト
トラム博物館 https://www.museudocarroelectrico.pt/

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トラム博物館
(左)正面
(右)内部に保存(一部復元)車両を展示
 

博物館前を出発すると、前方にドウロ川をまたぐ巨大アーチの道路橋、アラービダ橋が見えてくる。橋の真下のポンテ・ダ・アラービダ(アラービダ橋の意)Ponte da Arrábida 電停で、また逆方向のトラムと交換した。

オウロ Ouro あたりまで来ると、対岸がみるみる遠のいて、河口の川幅の広がりを実感する。フルヴィアル Fluvial からカンタレイラ Cantareira 電停にかけては、川岸との間が散策可能な公園にされ、野鳥の観察場所も作られている。

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(左)アーチ橋の真下にあるポンテ・ダ・アラービダ電停
(右)カンタレイラ電停付近
 

小さな灯台施設のある岬を回りきったところが、終点のパッセイオ・アレグレ Passeio Alegreだ。ここはもう河口の町フォス Foz の一部で、緑濃い公園の中を7~8分も歩けば、大西洋の波が洗う広い砂浜に出られる。

本来の路線は、フォスから海岸線を北上して、カステロ・ド・ケイジョ Castelo do Queijo、ポルトの外港マトジーニョス Mattosinhos まで達していた。しかし、今では路上の軌道はすっかり撤去され、500番の路線バスが代走している(下注)。

*注 終点パッセイオ・アレグレ~マトジーニョス間、および起点のインファンテ~サン・ベント駅前間の延長計画があるものの、具体的な実現の見通しは立っていない。

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終点パッセイオ・アレグレ
ポールを回して折り返しの準備
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(左)電停案内板、当時は30分間隔の運行だった
(右)終点から先、街路に残されていた複線の軌道
  現在は撤去済
 

前回にも記したが、パッセイオ・アレグレからの帰路で、トラムが混雑している、あるいは乗車時間を節約したいという場合、この500番バスに乗ると、ポルトの中心部、サン・ベント駅 Estação de São Bento やリベルダーデ広場 Praça da Liberdade まで直通で戻れる。

18系統 マッサレーロス Massarelos(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)~カルモ Carmo

18系統は、1系統のトラム博物館電停が起点だ。そこからカルモまで、ルートは観光客に人気の1系統と22系統を橋渡しする形に設定されている。ポルトの主要市街地が展開するのは、起伏の多い台地上だ。起終点間の標高差は約80mあり、トラムの行く手にはきつい上り坂が待ち構えている。

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(左)マッサレーロス(現 トラム博物館)電停の18系統トラム
(右)左折して上り坂の併用区間に入る
 

出発すると、すぐに左折して1系統の軌道と別れる。そして複線のまま、道路上の併用区間に進入すし、その状態がエントレ・キンタス Entre Quintas 電停前まで続く。察するにこの区間は道幅が狭く、両側に建物も迫っており、1系統のように歩道側に寄せて単線化することができなかったようだ。言い換えれば、一般運行していた頃の姿が残された貴重な区間ということになる。

エントレ・キンタスでようやく軌道は単線になり、右側の歩道に移る。プラタナスのうるわしい木陰道で、右車窓にドウロ川が望める。距離は短いものの、写真映えのする区間だ。次のパラーシオ Palácio 電停には交換用の待避線があり、ついでに線路の位置は道路の左側に変わる。

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(左)プラタナスの木陰道
(右)パラーシオ電停で道路の反対側に移る
  (後方を撮影)
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右車窓からドウロ川が望める
 

飾り気のないレスタウラソン(復興)通り Rua da Restauração をさらに上ると、ヴィリアート Viriato 電停。上り勾配はここで収まる。線路の分岐が見えるが、行きは直進して、そのままコルドアリア庭園 Jardim da Cordoaria に入る。そして左折し、ポルト大学本部棟の横に設けられたカルモ電停に至る。

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カルモに到着
 

一方、帰りは北回りの軌道を通る。カルモ教会前から聖アントニオ総合病院 Hospital Geral de Santo António の敷地を迂回し、先述の分岐でヴィリアート電停に戻っていく。

22系統 カルモ Carmo ~バターリャ Batalha(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)循環

カルモ電停は、中心市街地の西の入口で、ポルト大学本部棟に接する広場に置かれている。軌道が2本並び、あたかも複線のように見える。片方(西側)には南から18系統のトラムが到着し、もう一方には北から22系統バターリャ行きが入線してくる。

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カルモ電停
(左)透かし文字の行先表示板を交換
(右)両系統のトラムが連絡
 

22系統は2007年9月に観光路線としての運行を開始している。中心市街の軌道は1970年代後半に撤去されたので、30年ぶりの復活だった。ルートはバイシャ・ド・ポルト Baixa do Porto(ポルト中心街)を循環しており、どの電停から乗っても同じ場所に戻ってこられる。一周にかかる時間は標準30分だ。

カルモを南向きに発車すると、すぐに左折して、コルドアリア庭園の中を通過する。そしてクレーリゴスの塔 Torre dos Clérigos を正面に見ながら、通りを斜めに横断する。市街地で最も高い展望台として知られるこの鐘塔は、クレーリゴス教会の付属施設だ。

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クレーリゴスの塔の裾を狭いアスンサン通りへ
 

トラムはクレーリゴス電停を通過し、教会横の狭い小路、アスンサン通り Rua da assunção をすり抜ける。再び大通りのクレーリゴス通り Rua dos Clérigos に顔を出し、急な坂を下り続ける。周りは商店街で、そぞろ歩く人も多いから、運転には気を遣うことだろう。

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(左)坂の上のクレーリゴス教会(後方から撮影)
(右)クレーリゴス通りを下りきる
 

坂の下の、リベルダーデ広場 Praça da Liberdade 電停で停車。左手がその広場で、ドン・ペドロ4世の騎馬像と、その後方に白亜の市庁舎が見える。なお、CP(ポルトガル鉄道)とポルト・メトロのサン・ベント駅 Estação de São Bento へ行く場合は、ここが最寄り電停になる。

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リベルダーデ広場を北望
奥に見えるのが市庁舎
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CP サン・ベント駅正面
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アズレージョの壁画に囲まれたサン・ベント駅のホール
 

地形的に見れば、市庁舎~リベルダーデ広場~モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ通り Rua de Mouzinho da Silveira のラインに深い谷筋が走っている。22系統のルートは行きも帰りもそれを横断する形だ。そのため、サン・ベント駅横で、今度は急な上り坂が始まる。1月31日通り Rua 31 de Janeiro と呼ばれるこの街路は直線かつ一定勾配で、坂上の突き当りに、ファサードを飾る美しいアズレージョ(装飾タイル)で知られる聖イルデフォンソ教会 Igreja de Santo Ildefonso が建つ。

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1月31日通りの急坂を上る
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(左)聖イルデフォンソ教会の角を右折
(右)聖イルデフォンソ教会のファサード
 

その教会前で右折すると、北回りの軌道と合流する。もう一度左に曲がったところが、バターリャ広場 Praça da Batalha だ。従来、電停名もバターリャ広場だったが、STCPの最新資料ではバターリャ Batalha に改称され、そのため終点バターリャが、バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais になっている。ちなみに、広場の南側に、カンパニャン駅方面へ分岐していた軌道を利用した三角線がある。運行中のトラムはすべて両運転台車なので、通常使われることはないのだろうが。

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バターリャ(旧 バターリャ広場)電停のT系統
 

広場から南下すると、まもなく終点バターリャ・ギンダイスだ。軌道はここが行き止まりで、トラムはポール回しをして、元来た道を引き返す。2本敷かれた軌道の間にある地下階段を降りていくと、川岸へ降りるギンダイス・ケーブルカー Funicular dos Guindais の乗り場に通じる。

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バターリャ・ギンダイス電停
(左)トラムの右がケーブルカーへの地下道入口
(右)折り返し出発を待つ
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ギンダイス・ケーブルカー
 

さて、カルモへの復路は、先述の聖イルデフォンソ教会前までは同じだが、そこで往路の軌道と別れて北へ直進する。ポルトきってのショッピング街、聖カタリーナ通り Rua de Santa Catarina では、舗道のモザイク模様にも注目したい。軌道が狭い車道上に敷設されているため、トラムはしばしば渋滞に巻き込まれる。サンタ・カタリーナ Santa Catarina 電停通過後、次の角で左折し、長い下り坂に入る。

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買い物客で賑わう聖カタリーナ通り
 

降りきったあたりに、ドン・ジョアン1世広場 Praça D. João I の電停がある。その後すぐ、リベルダーデ広場の北に延びる広場、アリアードス Aliados を横断する。往路で遠望した市庁舎が近くに見える。広場の地下には、メトロD線のアリアードス駅があり、乗り換えが可能だ。先述の通り、ルートは谷を横切っているので、後は上り坂だ。セウタ通り Rua de Ceuta とそれに続く街路を道なりに進んでいくと、見覚えのあるカルモの教会が見えてくる。

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アリアードスからセウタ通りを上る
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(左)ギレールメ・ゴーメス・フェルナンデス(広場)電停
   Guilherme Gomes Fernandes
(右)カルモ教会前に戻ってきた
 

写真はすべて、2009年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
STCP https://www.stcp.pt/
Porto-north-portugal.com https://porto-north-portugal.com/
The Trams of Porto(愛好家サイト)http://tram-porto.ernstkers.nl/

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 ポルトの古典トラム I-概要

2020年7月15日 (水)

ポルトの古典トラム I-概要

1系統 パッセイオ・アレグレ Passeio Alegre ~インファンテ Infante
18系統 マッサレーロス Massarelos(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)~カルモ Carmo
22系統 カルモ Carmo ~バターリャ Batalha(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)循環

全長8.9km、軌間1435mm、直流600V電化
1872年馬車軌道として開通
1895年から電化

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1月31日通り Rua 31 de Janeiro の急坂を上る古典トラム
(写真はすべて2009年7月撮影)
 
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ポルトガル北部の中心都市、ポルト Porto の市街地を、ノスタルジックな風貌のトラム(路面電車)が走っている。トラムはポルトガル語でカーロ・エレークトリコ carro eléctrico、つまり電気馬車という。もはや日常的な市内交通の担い手ではなくなったが、この世界遺産都市を訪ねてくる旅行者のために、観光アトラクションとして運行され続けている。

ポルトのトラムは約150年の歴史がある。1872年にポルト馬車鉄道会社 Companhia Carril Americano do Porto が、市内のインファンテ Infante およびカルモ Carmo と大西洋岸のフォス Foz の間で開業した馬車鉄道が最初だ。翌年、路線は海岸をさらに北上して、マトジーニョス Matosinhos まで延長された。

アメリカから輸入されたシステムだったので、馬車鉄道(正確にはレール上の馬車車両)のことを「カーロ・アメリカーノ carro americano(アメリカの馬車の意)」と呼んだが、実際に牽いていたのはラバだった。雄のロバと雌馬の交雑種であるラバは、馬より忍耐強く丈夫で長寿命とされ、好んで使役されていたのだ。

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馬車鉄道8号車
トラム博物館の展示を撮影、以下同じ
 

それに遅れること2年、ポルト路面鉄道会社 Companhia Carris de Ferro do Porto という別の会社が、1874年にカルモからボアヴィスタ Boavista 経由でフォスに至る馬車鉄道線を開業した。さらに1878年からは郊外で路面蒸気機関車による運行も始めている。こうして波に乗った同社は、1893年にポルト馬車鉄道を買収し、ポルト周辺の路面軌道網を一元化した。

ポルトの市街地は急な坂道が多く、1両を牽くのにラバが6頭も必要だった。そこで会社は、勾配に強い電車の導入を計画する。ドウロ川沿いのアラービダ Arrábida に設けた火力発電所から供給された電力を使って、1895年にまずカルモ~アラービダ間が電化された。これはスペインを含むイベリア半島で初めての電気鉄道となった。

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(左)22号電車は馬車鉄道の車体を用いた改造車両
(左)オープンタイプの100号電車
 

電化区間はその後も徐々に延伸され、1904年には牽き手のラバたちを、1914年には蒸気機関車をそれぞれ完全に駆逐している。電力の増強が必要になり、1915年に少しポルト寄りのマッサレーロス Massarelos に、新しい火力発電所が造られた。現在、トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico に利用されている建物だ(下注1)。また、主要な車庫と整備工場は、1874年の開業当初からボアヴィスタに置かれていた(下注2)。

*注1 1957年の発電所廃止後は車庫に転用され、1992年5月に博物館が開館。
*注2 車庫は1999年に解体され、跡地は音楽ホール「カーザ・ダ・ムージカ Casa da Música(音楽の家の意)」に転用。

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(左)火力発電所跡地はトラム博物館と車庫に
(右)ボアヴィスタの車庫跡地は音楽ホールに転用
 

トラム路線網は、第二次世界大戦後の1946年にポルト市が買収(公有化)した。運営に当たるために、ポルト公共輸送局 Serviço de Transportes Colectivos do Porto (STCP) が設立された。1950年が路線網のピークで、38路線(系統)150kmの線路に、電車193両、付随車24両が稼働していたという。空圧式の自動ドアを備えたモダンな500形が試作されたのもこのころだ(1951年製)。しかしこれは1両きりで、量産されることはなかった。

STCPはすでに1948年からコストの安い路線バスの導入を始めており、1959年にはトラムの段階的廃止と、トロリーバスへの転換に舵を切っている(下注)。1967年にはトラムから路線バスへの切り替えも始まった。

*注 トロリーバスは市街地から北東、東および南の郊外へ向かう路線に導入されたが、1997年に全廃され、バスに転換。

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(左)自動ドアを備えた500形
(右)トラム路線を代替したトロリーバス
 

こうして1960~70年代は運行の撤退が続き、1984年にトラムはわずか3路線(1、18、19系統)まで縮小されていた。奇しくもこれらは初期に開通した路線だった。その後しばらく運行が続けられたが、1990年代に入ると、古くなったトラムを一般輸送から解放して、観光資源に特化させる計画が議論されるようになる。

再び路線の整理が加速された。最後に残された18系統(当時はカルモ~フォス~カステロ・ド・ケイジョ Castelo do Queijo ~ボアヴィスタ間)も1996年に運行時間帯が短縮され、本数も削減されてしまった。

それから数年間は、観光化に向けての改修工事が行われたため、区間運休が相次いだ。運行形態が今の形に固まったのは、1系統が2002年(下注)、18系統が2005年だ。そして2007年9月に市内中心部を循環する22系統が30年ぶりに復活して、観光トラムの路線網が完成した。

*注 路線バスの1系統(現 500系統)と区別するため、しばらくの間1E系統と呼ばれていた。

なおこの間1994年に、運営主体のSTCPは有限責任会社 sociedade anónima に改組されている。略称のSTCPは変わらないものの、正式名称はポルト公共輸送公社 Sociedade de Transportes Colectivos do Porto になった。

現在のトラム路線図は、下図の通りだ。

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青・赤・緑のラインがトラム、なお18・22系統の電停名は下図参照
灰色はポルト・メトロ(LRT)
旗竿記号はCP(ポルトガル鉄道)
"Funicular" はギンダイス・ケーブルカー
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市街地を拡大
© OpenStreetMap contributors
 

路線にはそれぞれ特色がある。

1系統 Linha 1 は、ドウロ川 Rio Douro の川べりを終始走る路線だ。運行区間は、河口のフォス地区にあるパッセイオ・アレグレ Passeio Alegre から、旧市街の入口に当たるインファンテまで。朝9時から20分間隔で、夜20時台(冬季は19時台)まで運行される。所要時間は23分。車窓から川景色をたっぷり楽しめるので、観光客に人気があり、乗車率も高い。

ちなみに500番の路線バスが同じルートを並走しており、こちらは10分間隔、同区間(イグレージャ・ダ・フォス Igreja da Foz ~リベイラ Ribeira が該当)を14分で走破してしまう。トラムが混雑しているときは、片道をバスにするのも一つの方法だ。

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1系統は終始ドウロ川右岸に沿う
 

18系統は、1系統マッサレーロス(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)電停が起点で、坂を上って、ポルト大学本部前のカルモに至る。カルモ付近はループ線(環状)になっていて、行きと帰りでルートが異なる。運行は30分間隔で、所要時間12~13分。沿線に取り立てて有名な観光スポットがないため、車内は比較的すいている。

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18系統はカルモで22系統と接続
左の建物はポルト大学本部
 

22系統は、そのカルモからポルトの中心市街地を貫いて、バターリャ(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)まで行く。戻りは北側の街路を通るので、全体として反時計回りの循環ルートになっている。居ながらにして市街地見物ができ、バターリャでは川岸へ降りるギンダイス・ケーブルカー Guindais Funicular の乗り場にも直結しているので、利用価値のある路線だ。

所要時間は1周30分とされているが、狭い街路を行くため、交通渋滞や路上駐車の影響で遅れることもままある。運行間隔も30分と開いているので、観光目的ならともかく、実用的な手段とは言いがたい。ちなみに、カルモとバターリャの間は約1km、アップダウンはきついが、歩いても15分程度だ。

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アスンサン通り Rua da Assunção へ入る22系統
左はクレーリゴスの塔 Torre dos Clérigos
 

これらとは別に、かつてはT系統「ポルト・トラム・シティ・ツアー Porto Tram City Tour」も運行されていた。系統名のTが turista(観光)を意味するとおり、上記3つの路線を直通する周遊観光路線だった。ルートは、1系統のインファンテを起点に、マッサレーロスでスイッチバックして18系統の線路に入る。カルモでは渡り線を経由して22系統の線路に移り、バターリャまで行く。復路は北回りでカルモ、マッサレーロスとたどってインファンテに戻るというものだった。しかし、通しの利用者は少なく、運営コストの削減を理由に廃止されてしまった。

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T系統
カルモ教会 Igreja do Carmo 前で暫時休憩
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(左)T系統に使われていた222号車
(右)車内

トラムの運賃は2020年7月現在、1回券が3.50ユーロ、2回券(ただし当日限り有効)は6ユーロだ。車内で運転士から購入する。これとは別に、乗車回数に制限のない2日券(大人10ユーロ)もあり、これは車内のほか、トラム博物館やホテルなどでも扱っている。

注意すべきは、乗車券がトラム専用だということだ。ポルトでは、路線バスやポルト・メトロ(下注)などの公共交通機関でICカード「アンダンテ Andante」が普及しているが、シーズン券(定期券)を除いてトラムには有効でない。このことからも、トラムが市民のふだん使いを想定していないことがわかる。

*注 ポルト・メトロ Metro do Porto は、ポルト市内と近郊を結ぶLRTの名称。

では、トラムが走るルートを具体的に追ってみよう。続きは次回に。

写真はすべて、2009年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
STCP https://www.stcp.pt/
The Trams of Porto(愛好家サイト)http://tram-porto.ernstkers.nl/

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 ポルトの古典トラム II-ルートを追って
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2019年10月17日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ヘレンタール鉄道

ヘレンタール鉄道 Höllentalbahn

パイエルバッハ・ライヘナウ Payerbach-Reichenau ~ヴィントブリュッケ・ラックスバーン Windbrücke-Raxbahn 間 6.1km
軌間760mm、直流500V電化
1918年開通(貨物鉄道として)、1926年定期旅客輸送開始
1963年 旅客輸送廃止、1979年 保存列車運行開始、1982年 一般運行(貨物)休止

【現在の運行区間】
保存鉄道:パイエルバッハ・ロカールバーン(地方鉄道)Payerbach Lokalbahn ~ヒルシュヴァング Hirschwang 間 4.8km

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ライヘナウ駅に停車中の1号電動車
 

世界遺産ゼメリング鉄道の麓の駅に接続して、小さくも美しい古典電車が行き来する保存鉄道がある。駅の名はパイエルバッハ・ライヘナウ Payerbach-Reichenau、接続する760mm狭軌の路線はヘレンタール鉄道 Höllentalbahn という。ただし、同名の鉄道がドイツにも存在し(下注)、そちらのほうが有名なので、区別のために「ニーダーエースタライヒ(下オーストリア)の niederösterreichische」という修飾語をつけて呼ばれることがある。

*注 ドイツのヘレンタール線は、南西部シュヴァルツヴァルト Schwarzwald(黒森)を横断するフライブルク・イム・ブライスガウ Freiburg im Breisgau ~ドナウエッシンゲン Donaueschingen 間。

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運営に携わるのはオーストリア地方鉄道協会 Österreichische Gesellschaft für Lokalbahnen(ÖGLB、下注1)、以前紹介したイプスタール鉄道山線 Bergstrecke Ybbsthalbahn(下注2)を運行している団体だ。保存鉄道としての歴史はイプスタール山線のほうが新しいのだが、イプスタールの蒸気運転に対して、ヘレンタールは電気運転で、協会の活動の両輪をなしている。

*注1 実際の路線維持と列車運行は、ヘレンタール鉄道プロジェクト有限会社 Höllentalbahn Projekt Ges.m.b.H. (HPG) が行う。
*注2 イプスタール鉄道山線については「オーストリアの狭軌鉄道-イプスタール鉄道 II」参照。

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ヘレンタール鉄道と周辺路線図

全線でも4.8kmしかないミニ鉄道は、そもそも何のために造られたのだろうか。

鉄道が向かうのは、アルプスの東端を流れ下るシュヴァルツァ川 Schwarza の峡谷の出口だ。この峡谷が、鉄道の名になっているヘレンタール Höllental(地獄谷の意)で、シュネーベルク Schneeberg とラックス Rax の山塊の間に、石灰岩の岩肌剥き出しの狭くて荒々しい谷間が続いている。谷の出口のヒルシュヴァング Hirschwang 村には、森林と豊かな水を背景に、シェラー社 Schoeller & Co のパルプ工場が進出した。狭軌鉄道は本来、この工場と国鉄幹線との間で貨物を運ぶために造られたものだ。

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水の透明なシュヴァルツァ川
遠景はラックス山塊
 

時は第一次世界大戦さなかの1916年、戦争需要が高まり、工場は増産体制を敷いていた。幹線と貨車をやり取りするのであれば、貨物鉄道も標準軌にするのが普通だ。しかし工期がかかるため、とりあえず狭軌の線路で当座をしのぐことになった。というのも、ケルンテン Kärnten のカラヴァンケントンネル Karawankentunnel 建設で使用され、竣工に伴い余剰となっていた簡易軌道をそっくり利用することができたからだ。トンネル工事では坑内爆発の危険を避けるために小型の電気機関車が投入されていた。それで、ヘレンタールの路線も初めから直流500Vで電化され、その機関車が貨車を牽いた。

*注 カラヴァンケントンネルは、オーストリアのローゼンバッハ Rosenbach と現在のスロベニアのイェセニツェ Jesenice の間にある長さ7977mの鉄道トンネル、1906年開通。

並行して標準軌線の工事も進められており、パイエルバッハとライヘナウを隔てるアルツベルク Artzberg の山には、長さ428mのトンネルを掘っていた。底部坑が1918年に完成し、頂部坑に取り掛かっていたものの、敗戦により標準軌化計画は頓挫し、坑口は使われることなく封鎖されてしまった。

戦後は、ラックス山系へのスキー客の利用を見込んで、貨物鉄道を、旅客を扱う地方鉄道 Lokalbahn に転換する計画が立てられた。採算面から、標準軌ではなく760mm軌間を維持したままで、終点をラックスロープウェー Raxseilbahn の乗り場近くまで延伸することになった。

1922年に、運営主体となる「パイエルバッハ=ヒルシュヴァング地方鉄道株式会社 Lokalbahn Payerbach Hirschwang AG」が設立された。1926年にグラーツ車両製造所 Grazer Waggonfabrik から電動車2両(1~2号)と付随車4両(11~14号)が納入され、ヒルシュヴァング~ヴィントブリュッケ・ラックスバーン Windbrücke-Raxbahn 間の延伸も完成する。こうして、同年9月から旅客輸送が始まった。

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パイエルバッハ・ライヘナウ駅
(左)駅舎
(右)芝生広場の静態保存展示
  左がヘレンタール鉄道最初の小型電気機関車
  右はラックス ロープウェーの旧車
 

しかし第二次大戦後は、施設設備の劣化が進行する。ついに1963年、運輸当局から安全性に問題があるとして改善命令を受けた。線路の改修には300万シリングの費用が見込まれ、小さな鉄道会社に調達できるものではなかった。結局、旅客輸送は1963年7月1日に中止され、代行のポストバスに置き換えられた。不要となった旅客車両は、チロルのツィラータール鉄道 Zillertalbahn に売却されてしまった。

このとき、貨物輸送はまだ存続していた。その運用改善を支援した縁で、オーストリア地方鉄道協会が1979年6月から、この路線で蒸機による観光列車を運行するようになる。当時ÖBB(オーストリア連邦鉄道)線ではディーゼルに転換する無煙化が最終段階に来ており、協会は除籍された狭軌の蒸機の取得を進めていた(下注)。

*注 イプスタール山線の保存開業により、1990年に狭軌の蒸機はイプスタールに移された。

1982年には貨物輸送も終了し、その機会に路線の維持は、全面的に協会に委ねられることになった。ただ、1990年代はヘレンタール鉄道にとって困難な時期だった。資金不足で線路補修がままならず、数年間は、一部区間(ライヘナウ~ヒルシュヴァング間)でしか運行できなかった。しかしその後、ニーダーエースタライヒ州とEUとの間で協定が結ばれ、「ヘレンタール鉄道の再興 Belebung der Höllentalbahn」計画がスタートする。これにより更新のための資金が確保され、1999年から再び全線で運行が可能になった。

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1号電動車
(左)車体はまだ新車のよう
(右)木製ベンチが並ぶ車内

現在のヘレンタール鉄道の乗り場は、ÖBBゼメリング鉄道(下注)のパイエルバッハ・ライヘナウ駅から300mほど離れた場所にある。かつてはÖBB線に並ぶホームから出発していたのだが、保存鉄道化された後、旧パイエルバッハ・オルト Payerbach-Ort 停留所(オルトは村の意)に起点が移された。正式駅名は、パイエルバッハ・ロカールバーン(地方鉄道)Payerbach Lokalbahnで、時刻表では Payerbach LB と略記されている。

*注 「ゼメリング鉄道 Semmeringbahn」は独立した路線ではなく、ÖBB南部本線 Südbahn のうち、ゼメリング峠をはさんだグログニッツ Gloggnitz ~ミュルツツーシュラーク Mürzzuschlag 間を指す。そのため「ゼメリング線」と書く文献もある。

ヘレンタール鉄道の運行日に、ウィーン方面から来てパイエルバッハ・ライヘナウ駅のホームに降り立つと、進行方向遠方に小さな電車がいるのが見えるはずだ。駅の地下道を通る必要はない。2・3番ホームの先端からヘレンタール鉄道の乗り場まで、小道がつながっている。

狭軌鉄道の乗り場にも小さな駅舎が建っているが、中はちょっとした売店と資料展示があるだけで、切符は車掌から買う方式だ。通貨がシリングだった時代の骨董品のような乗車券が使われている。もちろん、支払いはユーロでするのだが。

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(左)パイエルバッハ・ライヘナウ駅はSバーンの終点
  ハイカーが大勢下車
(右)ホーム先端からヘレンタール鉄道の駅へ行く小道がある
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シリング時代の旧券、今なお使用中!
 

訪れたときも、駅舎の前に2両が停車していた。シャトルーズグリーン(黄緑)とピーコックグリーン(青緑)のツートンをまとった古典車で、前(ヒルシュヴァング方)にいるのがパンタグラフを載せた1号電動車、後ろは動力をもたない付随車の21号車だ。どちらもまるで新車のように艶やかだ。

40年の歴史を紡ぐヘレンタールの保存鉄道だが、最初は蒸機、その後ディーゼル機関車で運行されていた。一般旅客輸送時代のような電車による運行体制が復活したのは意外に新しく、2005年以降のことだ。

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パイエルバッハ地方鉄道駅
手前は21号付随車、奥が1号電動車
 

電車再建は、先述の「ヘレンタール鉄道の再興」計画に、線路や車庫の改修とともに、目標として盛り込まれていた。しかし、そのとき利用可能な車両があったわけではない。売却先のツィラータール鉄道は非電化路線のため、電動車は機器を取り外され、貨車に改造されてしまっていたからだ。

そこで、現地に残っていた電動車の台車と、一足先に復帰していた付随車の車体をベースにして、復元が1999年から始められた。6年の期間を経て2005年に完成したのが、目の前の1号車だ。一方21号車は、ウィーン地方鉄道(バーデン線)の付随車を、台車の交換により改軌したもので、2003年から使用されている。

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出発時刻近し
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ヘレンタール鉄道沿線の詳細地形図
(赤の破線は廃線区間)
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

車掌氏から、1号車に乗るように言われた。実際、21号は扉が閉まっていて、よく見ると連結もされていない。多客時に使う予備車らしい。

10時25分、吊掛駆動の独特のうなりとともに、駅を後にした。まずはゼメリング鉄道に並行しつつ、坂を上っていく。しかしまもなく二手に分かれ、立派なシュヴァルツァ高架橋を眺めながら、シュタインホーフグラーベン Steinhofgraben の谷間へ回り込む。なおも上り続けて、次の切通しがアルツベルクのサミットだ。後は下りで、クーアハウス Kurhaus 停留所を通過し、タールホーフ Thalhof の浅い谷にオメガループを描きながら、一気に山を降りてしまう。

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(左)ゼメリング鉄道に並行しつつ上る
(右)シュヴァルツァ高架橋の眺め
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(左)右回りに谷間へ
(右)アルツベルクのサミット付近
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(左)下る途中のクーアハウス停留所
(右)オメガカーブを横断する道路
  上の踏切から下の踏切が見える
 

待避線があるライヘナウ Reichenau で停車した。ここは線路脇に駅舎と変電所の建物が建ち、ささやかながら駅らしい雰囲気がある。ライヘナウ(正式名ライヘナウ・アン・デア・ラックス Reichenau an der Rax)はラックス山麓の保養地で、ゼメリング鉄道の開通後、ウィーンの上流階級が夏の別荘を好んで建てた。だが、町の中心部は川の向こう側なので、車窓からはあまり見えない。

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ライヘナウ駅に停車(帰路撮影)
 

後半区間は、シュヴァルツァ川 Schwarza の左岸に沿う穏やかな行路だ。散歩道を隔てて見える流れはみごとに透き通っていて、アルプスの白濁した川とはまるで違う。上流は石灰岩の山地で、その湧水はウィーン水道の水源にも使われている。清流なのも当然だ。

河畔の森の中で、駅名標が1本立つだけのハーベルク Haaberg 停留所を通過した。終点のヒルシュヴァングは、それからまもなくだった。終点といってもヤードの隅っこで、縁に枕木の余りを並べたみすぼらしいホームしかない。線路はまだ先へ続いていて、本来のヒルシュヴァング駅舎は200mほど上手だ。しかし、2006年から列車は、この新しい停留所で折り返すようになった。車庫見学には、ここが至近だからだ。

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(左)後半はシュヴァルツァ川に沿う
(右)ハーベルク停留所を通過
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(左)ヒルシュヴァング到着
(右)車掌がツアーガイドを務める
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旧 ヒルシュヴァング駅方面を望む
 

斜め後ろに複線の線路が分岐していて、車庫兼整備工場につながっている。乗って来た朝一番の便は「体験列車 Erlebniszug」といい、車庫見学45分と、復路にライヘナウ駅の変電所見学20分がオプションになっている。往復運賃のみで参加できるから、加わらない手はない。

車掌氏が、業務を終えたその足でツアーガイドを務める。駅でまず路線や保存活動の歴史を、車庫の中では珍しい古典車両の来歴や特徴を、メモも見ずに滔々と語り続けるのには感心する。しかしドイツ語なので、断片しか聞き取れないのが悔しい。

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車庫見学に出発
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庫内には多数の保存車両が
 

車庫は、1900年に建てられた元 蓄電池工場で、1926年の旅客輸送開始に際して、車庫に改装された。本線から引っ込んだ位置にあるのはそのためだ。3線収容の広い庫内には、貨車やディーゼル機関車などさまざま車両が留置されている。中でもユニークな容貌をしているのが、「走る菜園小屋 fahrende Gartenhaus」の愛称をもつ1903年製の電気機関車E1だ。カラヴァンケントンネルの工事現場から来た車両で、動態保存されている世界最古の電気機関車の1台と言われている。パイエルバッハ・ライヘナウの駅前にモニュメントとして置かれていたのは、同僚機だ。

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(左)手前のユニークな車両が「走る菜園小屋」E1
(右)貨物を牽いていたディーゼル機関車V2
 

車庫の奥は修理工場で、工作機械や鍛造のための設備が所狭しと置かれていた。ひととおり説明をし終えた後に、別室でモーターを動かし、それぞれの機械にベルトで回転を伝える実演がある。復路、ライヘナウの変電所でも、交直変換設備や「Lebensgefahr(生命の危険)」と注意書きのある高電圧開閉装置など、ふだん見ることのない内部のようすを見せてもらった。

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(左)奥は修理工場
(右)修理工場の裏口
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ライヘナウ駅の変電所見学
(左)外観(右)内部
 

保存鉄道の活動というと、歴史的に貴重な車両を維持し、往時のように走らせることがすべてと思いがちだ。しかし、その舞台裏には、運行を支えているさまざまな施設や設備があり、その保守や整備が不可欠であることがよくわかる。乗るだけなら片道25分の小さなヘレンタール鉄道だが、ツアーに参加したことで一層印象深いものになった。

ヘレンタール鉄道の運行日は、2019年の場合、6月9日から10月27日の間の日・祝日で、それぞれ4往復(最終の1本は6~8月のみ運行)が設定されている。見学ツアーは実施便が限られているので、協会のサイトの時刻表欄で事前に確認しておくとよい。

次回はムールタール鉄道を訪れる。

■参考サイト
ヘレンタール鉄道 https://www.lokalbahnen.at/hoellentalbahn/

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2019年10月10日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-シュタイアタール鉄道

シュタイアタール鉄道 Steyrtalbahn

本線:ガルステン Garsten ~クラウス Klaus 間 39.8km
支線:ペルゲルン Pergern ~バート・ハル Bad Hall 間 15.4km
軌間760mm、非電化
1889~1909年開通
1982年 最後の一般運行区間(ガルステン~グリュンブルク)休止
1985年 保存鉄道運行開始

【現在の運行区間】
保存鉄道:シュタイア・ロカールバーンホーフ(地方鉄道駅)Steyr Lokalbahnhof ~グリュンブルク Grünburg 間 16.5km

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シュタイアタール鉄道の保存列車
 

リンツの南30km、シュタイア Steyr の町を起点とするシュタイアタール鉄道 Steyrtalbahn は、現 オーストリア領内で最初に造られた760mm軌間(ボスニア軌間)の路線だ。1889年に、東側でガルステン Garsten ~グリュンブルク Grünburg 間が開通したのを皮切りに、周辺へ路線を延ばしていき、最盛期には55kmの路線網を有したが、1982年に全線廃止となった。

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現在は、シュタイア地方鉄道駅からグリュンブルクの間16.5kmで保存鉄道として運行されているに過ぎない。しかし、鉄道の価値は、一般運行の時代より高まっている。なぜなら、列車はすべて昔懐かしい蒸気機関車による牽引で、しかも、この鉄道向けに設計されたオリジナル機関車が、他の形式とともに、今なお使われているからだ。

現在、蒸機は3両が稼働可能な状態に維持され、ほかにも改修中か改修計画中のものが6両ある。運行日は2019年の場合、5月1日、6月の日曜、7~9月の土・日曜と10月26日だ。ノスタルジーを誘う古典客車を連ねた列車が、それぞれ1~3往復設定されている。

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シュタイアタール鉄道と周辺路線図
(破線は廃線を表す)

保存鉄道の始発駅は、シュタイア市街の西の町はずれにあるシュタイア地方鉄道駅 Steyr Lokalbahnhof(下注)だ。一般運行の時代は南3kmにあるガルステンでÖBB(オーストリア連邦鉄道)線と接続していたのだが、この区間は復活しなかった。方やÖBBのシュタイア駅は市街地をはさんで反対側、エンス川の川向うに位置しているため、両駅間には1.5kmの隔たりがある。

*注 開通当時はシュタイアドルフ Steyrdorf と称したが、1928年に現駅名に改称。

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シュタイア地方鉄道駅
 

二つの駅を連絡するバス路線などはなく、保存鉄道のサイトでも、歩いていくように案内されている。だが、それはかえって幸いというべきだろう。シュタイアの気品漂う町並みがすこぶる魅力的で、バスであっさり通過してしまうには惜しいからだ。

参考までに、シュタイア駅から地方鉄道駅までの、最短かつ最良の道順を記しておこう(下注)。

*注 グーグルマップのルート検索では、歩行者専用橋がない時代の迂回ルートが表示されるので注意(2019年10月現在)。

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シュタイア市街図に両駅間の最短経路(破線)を加筆
Data source: www.basemap.at, License: CC-BY 4.0
 

駅の1番ホームを南端まで進み、右(西)を向くと、歩行者用道路の標識が見えるはずだ。これが旧市街への近道になる。横断歩道を渡ると、エンス川を隔てて旧市街のすばらしい展望が開ける。階段を降りて(エレベータもある)、2017年11月に完成したばかりの歩行者専用橋で川を渡る。観光案内所もある建物の中の通路を道なりに抜ければ、そこはもうシュタイアの中心、シュタットプラッツ Stadtplatz(都市広場)だ。

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ÖBBシュタイア駅
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旧市街への近道
(左)エンス川に面した階段を下りて…
(右)歩行者専用橋(エンスシュテーク Ennssteg、エンス川の小橋の意)を渡る
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シュタットプラッツ
右の塔のある建物は市役所 Rathaus
 

中世の都市に迷い込んだかのような歴史的建築群に圧倒されながら、広場を少し南へ下る。そして、聖母教会 Marienkirche の向かいから、斜め右(南西)へ上っていく坂道(プファルガッセ Pfarrgasse)をたどる。後は、ロータリーを越えて車道を直進し、突き当りを左に折れると、もう蒸機のブラスト音が聞こえてくるだろう。ガルステンへの廃線跡をまたぐ旧跨線橋(ただしほとんど気がつかない)の先で右折し、坂を下りれば、地方鉄道駅だ。徒歩約20分の道のりになる。

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聖ミカエル・バロック教会とシュタイア川
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(左)エンゲ・ガッセ Enge Gasse から広場を南望
(右)シュロスパルク Schloss Park(城公園)に駐車していたクラシックカー
 

この日の1番列車は10時ちょうどの発車だった。30分前に駅に着くと、すでに壮年の団体や家族連れなど、多くの人たちが列車の周りに群がっている。機関車は、6号機「クラウス Klaus」だ。同鉄道オリジナルの形式で、動輪3軸ながら、急曲線の通過を可能にするクラウス・ヘルムホルツ式台車が使われている。

この形式は、1888年の開業時にリンツのクラウス社 Klauss Linz から3両が納入され、後年、さらに3両が増備された。6号機(ÖBB 298.106)は1914年製の末っ子で、クラウス駅への延伸開業後に車列に加わったことから、その名がある。そのクラウスの後ろには、2軸客車3両、ボギー客車2両、そして最後に有蓋貨車(緩急車?)がつき、全7両の編成だ。

駅舎の中に入ると、昔風の小さな出札窓口があり、乗車券を扱っていた。材質は嬉しいことに硬券で、車掌が車内検札の際に孔を開けてくれる。

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シュタイア地方鉄道駅で発車を待つ列車
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6号機関車クラウス Klaus
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駅舎内の出札窓口、
待合スペースは鉄道博物館
左は硬券の往復乗車券
 

響き渡る鋭い汽笛を合図にして、列車は定刻に発車した。石炭を焚いているので、白煙が青空に勢いよく吹き上げられる。暗い崖下を少し降りた後は、段丘崖の上にそびえるクリストキンドル巡礼教会 Wallfahrtskirche Christkindl に見送られて、シュタイアタール Steyrtal(シュタイア川の谷)を遡っていく。

ルートは終始、ゆったりと流れるこの川の氾濫原を忠実にたどるのだが、生い茂る河畔林のせいで、川面はたまにしか見えない。集落も線路沿いにはほとんどなく、列車はただ林と、それを切り開いた狭い農地の間を淡々と進んでいくばかりだ。

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(左)2軸客車の車内
(右)皮ベルトで調節する落とし窓
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(左)段丘崖の上にそびえるクリストキンドル巡礼教会
(右)河畔林と農地の間を進む
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シュタイア川のほとりを行く
 

中間の小さな停留所はまだ使われている。しかし、すべてリクエストストップで、実際に停まることはなかった。起点から4.2km、バート・ハル方面の支線が分岐していたペルゲルン Pergern も気づかないうちに通過してしまった。

唯一停車したのは、起点9.6kmのアシャッハ・アン・デア・シュタイア Aschach an der Steyr だ。ここには車庫があり、側線にも客車や貨車が留置されている。復路では、後ろに数両増結する作業が行われた。シュタイアで予約客が多いときは、あらかじめここから持っていくようだ。

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アシャッハ・アン・デア・シュタイア駅で
U形機関車298.05を目撃
 

ずっと同じような景色が繰り返され、デッキに立つ人もめっきり減ったころに、シュタイア川の横断というイベントが待っている。長さ80mの下路トラス橋が流れに対してやや斜めに架かっていて、列車はゴトゴトと鈍い音を響かせながら渡りきる。

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シュタイア川鉄橋を渡る
 

左岸に移れば、まもなく終点のグリュンブルクだ。時刻表では所要60分のところ、数分オーバーして到着した。まもなく機関車が切り離され、単独で前方へ走っていく。車庫の裏手に、給炭と給水のための設備がある。後ろの貨車では、運んできた自転車を下ろす作業が続いているが、セグウェイまで出てきたのには驚いた。この先、クラウスまでの廃線跡は自転車道に転用されており、愛車にまたがったグループはそれをたどるのだろう。

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グリュンブルク駅到着
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花と緑で飾られた駅舎の前で記念撮影
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(左)ベルトコンベヤーで給炭
(右)続いて給水
 

ハンギングバスケットや蔓植物で飾られた駅舎には、地方鉄道駅と同じような出札窓口があった。いつものように、絵葉書と鉄道資料を買い求める。帰りの列車は1時間後だ。まだ時間があるので、廃線跡を見がてら、近くのシュタインバッハ・アン・デア・シュタイア Steinbach an der Steyr の村まで散歩に出かけることにしよう。高台にある教会のテラスからシュタイアタールの景色が望めるはずだ。

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グリュンブルク以南の廃線跡
(左)車両置き場と化した線路
(右)築堤の終端、この先は道路に転用
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シュタイア川に架かる橋からシュタインバッハ村の眺め
右側の岸を廃線跡が通っている
 

シュタイアタール鉄道は、林業や鉄工業を生業とするシュタイア川流域の振興のために計画された軽便鉄道だ。当初認可された区間は、起点シュタイア(ガルステン)、終点がウンター・グリュンブルク Unter-Grünburg(現 グリュンブルク駅)で、可能ならクレムスタール鉄道 Kremsthalbahn(現 ÖBBピュールン線 Pyhrnbahn)のクラウスまで延伸するとされていた。

起点側では、ルードルフ鉄道(現 ÖBB線)のシュタイア駅からガルステンまで、標準軌に狭軌のレールを加えた3線または4線軌条にする予定だったが、費用負担や運行権の問題で実現せず(下注)、1889年にガルステン~グリュンブルク間が開通した。続いて1890年にグリュンブルクからアーゴニッツ Agonitz まで路線が延伸された。

*注 同じ方式が、ザルツカンマーグート地方鉄道 Salzkammergut-Lokalbahn(すでに廃線)のバート・イシュル駅~同 貨物駅間では実現した。本ブログ「ザルツカンマーグート地方鉄道 II-ルートを追って」参照。地方鉄道駅の位置など、この二つの狭軌鉄道には共通点がある。

しかし、アーゴニッツ以遠は容易に着手できなかった。なぜなら、クレムスタール鉄道会社が、自社線の顧客の逸走を恐れて、接続を拒否したからだ。クレムスタール鉄道は大都市リンツ Linz に直結する標準軌線であり、低規格の地方鉄道を警戒する必要もないように思われる。しかし、クレムスタール鉄道の上流部はシュタイアの文化圏に属しており、当時としては、会社の懸念もあながち過剰反応ではなかった。

そこでシュタイアタール鉄道は当面、ペルゲルンからバート・ハル Bad Hall に至る支線の建設に集中し、1891年にこれを開通させた。クラウスへの延伸計画は、1902年にクレムスタール鉄道が国有化された後に再開され、1909年にようやく開通したのだ。

何度かシュタイア川の洪水で被害を受けたものの、鉄道経営は順調だった。地方鉄道駅とレッテン駅の近傍には兵器工場が立地しており、第一次世界大戦中は、輸送量が急増した。しかし戦後は、国を覆う深刻な不況と道路交通の発達により、鉄道会社は大きな打撃をこうむった。1931年に運行が国に引き継がれたものの、最も不採算のバート・ハル支線ジールニング Sierning ~バート・ハル間は、1933年に休止となった。

第二次世界大戦で、シュタイア周辺の軍需工場は連合軍の空爆に晒されたが、シュタイアタール鉄道はほぼ無傷で残った。しかし、戦時中に酷使された線路施設の状態は悪く、しかも戦後は幹線の復興が優先されたため、地方路線の保守や改修は後回しにされた。1958年に登場した狭軌用の新型ディーゼル機関車2095形もここでは使うことができず(下注)、蒸機による運行が続けられた。

*注 総重量は、蒸機の 22t に対して 2095形は 31t ある。

赤字を理由にした第2次の見直しは1960年代後半から始まる。1967年、バート・ハル支線の残区間(ペルゲルン~ジールニング)が休止となり、続いて1968年には本線の南端区間であるモルン Molln ~クラウスもバス代行とされた。1980年3月、モルンの手前で落石が発生して運行が中断され、これをきっかけにグリュンブルク~モルン間が休止となる。そして2年後の1982年、残るガルステン~グリュンブルク間が廃止され、シュタイアタール鉄道(当時は ÖBBシュタイアタール線)は全廃となったのだった。

保存鉄道を運行するオーストリア鉄道史協会 Österreichische Gesellschaft für Eisenbahngeschichte (ÖGEG) は、1974年にリンツで創設された団体だ。まずリンツ近郊で休止されたばかりのフローリアン鉄道 Florianerbahn(電気軌道)の保存運行を手掛け、続いて、標準軌の機関車保存に着手した。

シュタイアタール鉄道の保存運行は、1985年に開始されたもので、今年で34年になる。さきほど見たように、ここでは石炭焚きの蒸機を稼働させ、古い施設設備も活用して、可能な限り軽便鉄道の全盛期を再現しようとしている。ボランティアの手で守り続けられてきた保存鉄道は、今や生きた鉄道史博物館であるとともに、古都シュタイアの観光資源としても欠かせない存在だ。

次回は、ゼメリング峠の麓を走るヘレンタール鉄道を訪れる。

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Steyrtalbahn", The Austrian Railway Group, 2012 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ÖGEG シュタイアタール鉄道  http://www.steyrtalbahn.at/

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2019年10月 3日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-イプスタール鉄道 II

イプスタール鉄道山線 Bergstrecke Ybbsthalbahn

キーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming ~ゲストリング・アン・デア・イプス Göstling an der Ybbs 間 26.8km
軌間760mm、非電化
1898年開通、1988年一般輸送休止、1990年保存鉄道運行開始

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ヒューナーネスト高架橋 Hühnernest-Viadukt
 

ヴァイトホーフェンからイプス川 Ybbs の谷(イプスタール Ybbstal)を延々遡ってきたイプスタール鉄道 Ybbstalbahn は、行路の最後に分水嶺を越えて、エアラウフ川 Erlauf の谷(エアラウフタール Erlauftal)に移る。最急勾配31.6‰、最小曲線半径60mと、蒸気機関車泣かせの険しい峠道は、昔から「山線 Bergstrecke」と呼ばれ、区別されてきた。駅でいうと、ルンツ・アム・ゼー Lunz am See とキーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming の間で、マリアツェル鉄道の山線やヴァルトフィアテル鉄道の南線と並び称される760mm狭軌の名物ルートだった。

*注 マリアツェル鉄道の山線については「オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 II」、ヴァルトフィアテル鉄道南線は「オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 III」で詳述。

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イプスタール鉄道と周辺路線図
(破線は廃線、灰色は貨物線を表す) 

ÖBB(オーストリア連邦鉄道)の一般旅客輸送がまだ行われていた頃、17.3kmあるこの区間の通過には、ディーゼルカーで40分近くかかった。それに対してクルマなら、最短コースのグループベルク Grubberg 山麓を通って、わずか15分で到達できる。そのため山線は閑散区間で、他に先駆けて1988年5月に運行が休止されてしまった。

廃止となれば、遠からず線路は撤去の運命にある。事態を回避しようと、地元ニーダーエースタライヒ州の「オーストリア地方鉄道協会 Verein "Österreichische Gesellschaft für Lokalbahnen" (ÖGLB)」が、保存鉄道化する準備を始めた。ÖGLBは1977年の設立で、ゼメリング山麓を走る同じ760mm軌間のヘレンタール鉄道 Höllentalbahn で、こうした活動を続けてきた実績がある。

*注 ヘレンタール鉄道については「オーストリアの狭軌鉄道-ヘレンタール鉄道」で詳述。

協会は、運行管理を行う「ニーダーエースタライヒ地方鉄道運行会社 Niederösterreichische Lokalbahnen Betriebsges.m.b.H. (NÖLB)」を設立し、ÖBBから線路を借りて、1990年から山線で再び列車を走らせ始めた。

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駅名標と運営主体の掲示
 

後の2010年12月に、山線を含むイプスタール鉄道全線が、ÖBBからニーダーエースタライヒ州に移管された。その際、谷線のグシュタット Gstadt ~ルンツ・アム・ゼー Lunz am See 間は廃止とされたが、このうち、東側のゲストリング・アン・デア・イプス Göstling an der Ybbs ~ルンツ・アム・ゼー間については、州との協議でNÖLBによる管理が認められた。その結果、2013年7月から山線の運行をゲストリングまで延長することが可能になった(下注)。

*注 なお、2018年と2019年は、全便がルンツ・アム・ゼーで折り返す運用になっている。

運行拠点であるキーンベルク・ガーミングにも、大きな変化があった。ここは長年、ÖBBエアラウフタール線 Erlauftalbahn の終点だったのだが、イプスタール鉄道移管と同じタイミング(2010年12月)で、シャイプス Scheibbs ~キーンベルク・ガーミング間10.6kmが廃止されてしまったのだ。それ以来、山線は標準軌路線との接続を失い、孤立線となった。ただ幸いなことに、この廃線跡はÖGLBが取得しており、将来的に山線の線路がそちらへ延伸される可能性も残されている。

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保有蒸機の一つ U1
キーンベルクの修理工場前で

2019年6月に、このイプスタール鉄道山線 Bergstrecke Ybbsthalbahn(下注1)を訪れる機会があった。その時の様子を書き留めておこう。

「エッチャーラント・エクスプレス Ötscherland-Express」の名で行われている山線の運行日は、2019年の場合、6~9月の土・日・祝日だ。キーンベルク・ガーミング(以下、キーンベルクと記す。下注2)~ルンツ・アム・ゼー間に1日2往復の列車が設定されている。

*注1 イプスタールの綴りは、hの入った「Ybbsthal」が使われている。これは1898年開業当初の綴りに倣ったもの。
*注2 保存鉄道としての駅名はキーンベルク・イプスタールバーン Kienberg Ybbsthalbahn(時刻表では Kienberg YB と略記)。

上述の通り、エアラウフタール線がシャイプス止まりになったため、保存鉄道へのアクセスは路線バスが肩代わりしている。ペヒラルン Pöchlarn 駅から、パープッとユーモラスな警笛を鳴らしながら走る旧型気動車に50分ほど揺られ、さらにシャイプス駅前でMO2系統ゲストリング行きのバスに乗り換えて17分、キーンベルク・ノスタルギーバーンホーフ Kienberg Nostalgiebahnhof 停留所が、保存鉄道の駅前だ。

*注 バス時刻表は、VOR(東部運輸連合)のサイト https://www.vor.at/ > LinienfahrplanでMO2を検索。

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ÖBBシャイプス駅
(左)鉄道連絡はここまで
(右)駅前で路線バスに乗換
 

休日はバスの本数が少ない。そのため、ノスタルギーバーンホーフ停留所に9時48分着、山線列車は9時50分発と、わずか2分のきわどい接続になっている。間に合ったとしても、駅で列車の切符を買う時間があるだろうか。バスの窓から、道路脇に続くエアラウフタール線の廃線跡を目で追いながらも、内心焦っていたのだが、すべて杞憂だった。バスは時刻どおりに走り、切符(下注)は列車内で車掌から買う方式だったからだ。

*注 残念ながら、乗車券は発行機によるレシートで、保存には向かない。

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(左)州道の脇をエアラウフタール線の跡(バラストが残る)が並行
(右)キーンベルク・ガーミング駅舎
 

本日の列車を牽くのは、濃緑色のディーゼル機関車2093 01だった。1927~28年製で、運行可能な電気式ディーゼル機関車としてはオーストリア最古のものだそうだ。最初イプスタール鉄道で使われた後、グレステン線(マリアツェル鉄道の支線)に移籍したが、1991年にNÖLBが購入して、1994年から再び古巣で保存列車を牽くようになった。古典機関車の後ろには、形式もさまざまな2軸客車が3両連なり、しんがりを緩急車が務めている。

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ディーゼル機関車2093 01
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形式もさまざまな2軸客車
 

客車はどれも満席状態だ。窓枠に予約席を示す紙が貼ってあるから、団体客が乗車しているのだろう。走り出せばデッキも混むに違いないので、早めに立ち位置を確保した。視界は、サミットであるプファッフェンシュラーク Pfaffenschlag 駅まで左側、その後は右側に開ける。

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キーンベルク駅にて
満席状態で発車を待つ
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東斜面
キーンベルク~プファッフェンシュラーク間の地形図
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

列車は定刻より10分遅れて、10時ちょうどに発車した。列車の終点ルンツ・アム・ゼーまでの所要時間は1時間15分だ。駅を後にすると州道を横断し、さっそく上り勾配が始まる。狭い谷間を流れる川や道路との間に、見る見る高低差がつく。木々の間を縫ううちに左側の谷が開けて、まとまった集落が見えてきた。これがガーミング Gaming の町で、それを見下ろす高台の駅に列車は停車する。

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(左)キーンベルク駅を後に
(右)さっそく始まる上り勾配
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ガーミング駅
(左)駅から見下ろすガーミング市街
(右)小ぢんまりした駅舎
 

山線の起点駅の名も「キーンベルク・ガーミング」なので紛らわしいが、そちらの所在地はキーンベルク村だ。エアラウフタール線の開業時、すなわちイプスタール鉄道がまだない時代に、ガーミングの入口という意味で地名を併記した駅名が付けられた。ガーミングに14世紀創設のカルトジオ会(シャルトル会)修道院 Kartause Gaming があり、名が知られていたからだ。

*注 奇しくも、ÖGLBが関わるヘレンタール鉄道の起点駅名「パイエルバッハ・ライヘナウ Payerbach-Reichenau」も、同じ構成の併記駅名。

「本」ガーミング駅のほうは町の最寄りの場所に設けられたが、今は乗降する人もなくひっそりとしている。再び動き出すと、草地の下方にその修道院の、朱屋根に覆われた伽藍が俯瞰できた。もちろん修道院の機能はすでになく、ホテルや大学の研究所として活用されているそうだ。

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カルトジオ会修道院の裏手を上る
 

再び森の中に入ると、右に左にカーブが休みなく現れる。山襞を忠実にトレースしているからだが、中でも大きな沢を渡る個所では、立派なトレッスル橋が架かり、美しい弧を描いている。一つ目が長さ94m、高さ28mのヒューナーネスト高架橋 Hühnernest-Viadukt だ。続けて2006年に設けられた同名の停留所(リクエストストップ)を通過した。5分ほど走ると、二つ目のヴェッターバッハ高架橋 Wetterbach-Viadukt(長さ79m、高さ35 m)を渡っていく。どちらも森に囲まれて見通しが利きにくいが、山線の名所なので見逃すわけにはいかない(下注)。

*注 鉄道のトレッスル橋は、オーストリアではこことシュトゥーバイタール鉄道 Stubaitalbahn にしかない。

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(左)ヒューナーネスト高架橋にさしかかる
(右)橋の南詰にある停留所
 (冒頭写真も参照)
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ヴェッターバッハ高架橋
景観はヒューナーネストと瓜二つ
 

起点の標高388mに対してサミットは699mで、差が311mもある。それで、ミッタラウバッハ川 Mitteraubach の谷を遡る約11kmの間、線路はガーミング駅構内など一部を除いて、ほとんど上りっぱなしだ。勾配は最大31.6‰(下注)とかなりきつい。ずっとデッキに立っていたので、牽いているのが蒸機だったら、今ごろは排煙で煤だらけになっていただろう。

*注 鉄道公式サイト(URLは本稿末尾に記載)の Streckenbeschreibung(ルート紹介)記事による。

起点から約40分、ようやく谷が浅くなり、森が開けて牧草地が現れた。ボーディングザッテル Bodingsattel(ボーディング谷の鞍部の意)と呼ばれる分水界だ。列車は、峠の駅プファッフェンシュラークに滑り込み、15分ほど停車した(下注)。給水の必要な蒸機と違って、ディーゼル機関車も、線路際に立つ給水塔も手持無沙汰だ。

*注 時刻表上は12分停車だが、それより少し長かった。

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(左)分水界ボーディングザッテル
(右)峠の駅プファッフェンシュラークに到着
 

乗客もみな車外に降りて、しばらくの間、山の空気を吸いながら談笑に耽る。機関車の運転台も公開され、客が次々と乗り込んでは乗務員に記念写真を撮ってもらっている。後方へ行くと、緩急車が売店に早変わりし、車掌自ら売り子をしていた。ヴァルトフィアテル鉄道でもそうだったが、人手が少ない保存鉄道では、車掌が一人何役もこなさなくてはならない。

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休憩15分、給水塔に仕事はない
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(左)運転台公開中
(右)緩急車は臨時売店、車掌は売り子に
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西斜面
プファッフェンシュラーク~ルンツ・アム・ゼー間の地形図
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ルンツ・アム・ゼーへの下り坂も、同じように山襞に沿って細かいカーブを繰り返すが、勾配は20‰にとどまる。山麓にあるルンツ駅の標高は591mで、サミットとの標高差が100mに過ぎないからだ。通り抜ける森も東斜面に比べて明るく、ところどころで農家や牧草地が見られる。

のどかな風情のホルツアプフェル Holzapfel 停留所を通過し、谷底まで降りきったところで、ボーディングバッハ川 Bodingbach を渡った。町裏を少し進めばルンツ・アム・ゼー駅、保存鉄道の終点だ。定刻11時05分のところ、列車は11時20分に到着した。

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(左)野の花咲く下り坂
(右)ホルツアプフェル停留所を通過
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山線の旅も終わりが近い
 

ここでも運転台の見学者をひととおり受け付けた後、機関車は構内の一番端まで行って転線した。団体の人たちは、この近くにあるルンツ湖 Lunzer See へ行って、次の列車(16時30分発)で帰ると言っていた。湖畔まで歩いても30分足らずだから行ってみたいが、そうするとウィーン帰着がかなり遅くなってしまう。

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(左)ルンツ・アム・ゼー駅に到着
(右)団体客は湖へハイキング
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機回し作業が始まる
 

到着が遅れた分、帰りの発時刻もずらされ、11時45分にルンツ・アム・ゼーを出発した。団体客が消えたせいで、車内はみごとに閑古鳥が鳴いている。往路では機関車のお尻を拝んでいた車端デッキが開放されたので、これ幸いと陣取った。際限なくうねるレール、朽ちて草に埋もれそうな枕木など、最後尾ならではの展望を楽しむ。列車は峠の駅すら停車することなく(下注)、事実上の急行運転でキーンベルク駅に戻った。

*注 時刻表でも復路のプファッフェンシュラークは1分停車で、給水時間は想定されていない。

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(左)復路の車内はガラガラ
(右)最後尾のデッキを開放
 

ところでキーンベルクでは、各便の発車40分前から、駅構内にある機関庫のガイドツアー Heizhausführung が催されている。次は14時10分開始なのだが、まだ1時間半も先だ。車掌氏に相談すると、快く整備担当の人を紹介してくれた。「シェッド(車庫)の前に蒸機がいるから、自由に見てくれ」と言われて、いっしょに駅舎と反対側に並ぶ建物群へ向かう。そこには、1898年製のU1とおぼしき機関車がいた。前面の煙室扉が開いていて、プレートもすべて外されている。残念がる私に、「修理が終わったら、また走るよ」とその人は言った。

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キーンベルク駅の修理工場前
入換用機関車が転車台に載る
後ろは蒸機U1
 

公式サイトによれば、山線では蒸機が3両保存されているが、もとシュタイアタール鉄道のモルン Molln は長期休業中、もとヴァルトフィアテル鉄道の複式機関車 Uv.1 も2017年に不具合が発生して運用から離脱している。時刻表には、ディーゼル機関車で運行する日だけが明記(下注)されているが、それ以外の日も当面、ディーゼルが代走に出ざるを得ないようだ。

*注 「#印の日はディーゼル機関車による運行」という注記がある。

次回は、シュタイアタール鉄道を訪れる。

■参考サイト
イプスタール鉄道山線 https://www.lokalbahnen.at/bergstrecke/

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2019年9月24日 (火)

オーストリアの狭軌鉄道-イプスタール鉄道 I

イプスタール鉄道 Ybbstalbahn

本線:ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス Waidhofen an der Ybbs ~キーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming 間 70.9km
支線:グシュタット Gstadt ~イプジッツ Ybbsitz 間 5.7km
軌間760mm、非電化

1896~99年開通
1988年 山線(ルンツ・アム・ゼー~キーンベルク・ガーミング間)の公共輸送休止
1990年 山線で保存鉄道運行開始
2010年 本線グシュタット~ゲストリング・アン・デア・イプス間および支線グシュタット~イプジッツ間廃止

【現在の運行区間】
シティーバーン・ヴァイトホーフェン Citybahn Waidhofen(一般旅客輸送)
 ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス Waidhofen an der Ybbs ~グシュタット Gstadt 間 5.5km

イプスタール鉄道山線 Bergstrecke Ybbsthalbahn(保存鉄道)
 キーンベルク・ガーミング~ゲストリング・アン・デア・イプス Göstling an der Ybbs 間 26.8km

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イプスタール鉄道最大の構築物
シュヴァルツバッハ高架橋
 

イプスタール鉄道 Ybbstalbahn の名は、ドナウ川の支流イプス川 Ybbs の谷(イプスタール Ybbstal)を主に走ることに由来している。場所はオーストリア中部、石灰岩アルプス Kalkalpen 北側のアイゼンヴルツェンと呼ばれる中山域だ。アイゼンヴルツェン Eisenwurzen は直訳すると「鉄の根」だが、昔の人は、鉄鉱脈が根のように延びて、周辺に広がっていくと信じていたのだという。

製鉄業が今のような重工業に発展する以前の15世紀から19世紀前半まで、鉄鉱山で知られるアイゼンエルツ Eisenerz に近いこの地方では、主要な町に鉄工場があり、地域経済を支えていた。鉄の生産には、原料の鉱石のほかに、燃料となる木炭、動力としての水資源、さらには鉱山労働者に支給する食糧も必要となる。それで、鉄工場の経営者(ハンマーヘレン Hammerherren)は、同時に山林と農地の大地主であり、川の水利権も握る土地の有力者だった(下注)。

*注 ヴァイトホーフェン、イプジッツ、ルンツ・アム・ゼーなど鉄道沿線各地にはハンマーヘレンの当時の豪邸(ハンマーヘレンハウス Hammerherrenhaus)が残り、観光資源になっている。

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イプスタール鉄道山線の車窓から眺める
ガーミングの村と修道院
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ハンマーヘレンハウスの例
ズグラッフィートの装飾壁が美しいルンツ・アム・ゼーのアモーンハウス Amonhaus
Photo by Bwag at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし、鋼鉄の安価な製法が普及するにつれ、地場産業は衰退し始める。イプスタール鉄道の構想は、鉄道網やドナウの水運との接続により、地域を再興しようとするハンマーヘレンたちの強い願望から生まれた。

すでに1870年に西部鉄道 Westbahn のペヒラルン Pöchlarn からイプスタールのルンツ・アム・ゼー Lunz am See に入り、さらにアイゼンエルツの入口に位置するヒーフラウ Hieflau まで行く標準軌線の計画があった。しかし1877年に完成したのは、キーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming が終点のエアラウフタール線 Erlauftalbahn で、イプス川の谷には届かなかった。

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ペヒラルン駅に停車中の
エアラウフタール線列車
 

結局、イプスタールへの列車の旅が実現するのは、それから20年も後のことになる。ニーダーエースタライヒ州の鉄道法に基づいて認可された多くの狭軌地方鉄道と、ほぼ同じ時期だ。

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建設工事は、西側から着手された。イプス川中流域の中心地ヴァイトホーフェン Waidhofen には、1872年に勅許皇太子ルードルフ鉄道 k.k. privilegierte Kronprinz Rudolf-Bahn の支線(クラインライフリング Kleinreifling ~アムシュテッテン Amstetten 間、現 ÖBBルードルフ線)が開通していた。ここを起点に、まず1896年7月にグロースホレンシュタイン Großhollenstein まで、次いで1898年5月にルンツ・アム・ゼー Lunz am See まで、いわゆる谷線 Talstrecke が開通した。

残るルンツ・アム・ゼー~キーンベルク・ガーミング間の山線 Bergstrecke は、少し遅れて同年11月に運行が始まった。また、途中のグシュタット Gstadt で分岐してイプジッツ Ybbsitz に至る支線も翌1899年3月に開かれ、ここにイプスタール鉄道が全通した。

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イプスタール鉄道と周辺路線図
(破線は廃線、灰色は貨物線を表す)
 

地方鉄道は、幹線から離れた地方を潤すという敷設目的から、終端が行き止まりになっていることが多い。その点、イプスタール鉄道は両端で標準軌線に接続しており、交通網の形成という意味で一見理想的だ。

しかし実態は、河谷という自然地形の制約を受けて、ルートの迂回を強いられている。また山線では急勾配と急曲線が続くため、牽引定数が小さく、輸送力に限界があった。第二次世界大戦後、峠を越える道路が整備されると、利用者はバスや自家用車に流出していく。貨物輸送も次第にトラックに移行して、鉄道の劣勢は明白になっていった。実績が振るわない山線については、すでに1970年代から存廃が議論されており、1988年5月にとうとう運行休止となった。

谷線でも、2006、07両年のイプス川の氾濫で、線路が数か所で被害を受けた。これは数か月後に復旧したものの、徐行区間の増加で運行本数が削減され、主要顧客の通学輸送がバスに切り替えられてしまう。

追い打ちをかけるように、2009年にも豪雨による土砂崩れが発生し、再びバスによる代行輸送が始まった。そして今度こそ、列車運行が再開されることはなかった。2010年1月にニーダーエースタライヒ州は、イプスタール鉄道をÖBB(オーストリア連邦鉄道)から州に移管すると発表した。同年12月12日にこれが実行され、同時に、谷線のグシュタット~ルンツ・アム・ゼー間とイプジッツ支線は正式の廃止手続きが取られたのだ(下注)。

*注 廃止区間のうち、グシュタット~ゲストリング Göstling 間は、2017年に自転車道への転換が完了し、イプジッツ支線の線路敷もすでに更地化されている。

一方の山線は、谷線とは対照的な道をたどった。特徴あるルートの消失を惜しんだ愛好家団体により、休止後間もない1990年から、保存鉄道への活用が進められたからだ。企ては成功し、今なお夏のシーズンには、古典機関車が二軸客車を牽いて山坂に挑むシーンが見られる。

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イプスタール鉄道山線の保存列車

東西に分断されてしまったイプスタール鉄道だが、現況はどうなっているのだろうか。まず、谷線のヴァイトホーフェン~グシュタット間をリポートしよう。この区間は水害の影響を受けることなく、2006年からの断続的な谷線の運休期間にも列車が走っていた。また、ヴァイトホーフェンの市街地周辺で、比較的利用者の多い根元区間であることから、当分の間存続されることになったのだ。

上述のとおり2010年12月から、ヴァルトフィアテル鉄道やマリアツェル鉄道と同じく、ニーダーエースタライヒ州の公営企業であるニーダーエースタライヒ運輸機構 Niederösterreichische Verkehrsorganisations-Ges.m.b.H (NÖVOG) が運行を担っている。

ヴァイトホーフェン、正式名ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス Waidhofen an der Ybbs は、イプス川にシュヴァルツバッハ川 Schwarzbach が合流する地点に築かれた歴史ある町だ。段丘の突端、渓谷に面してロートシルト城 Schloss Rothschild の塔と城壁がそびえ、その背後に風格のある旧市街が延びている。

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ヴァイトホーフェン旧市街
(左)ロートシルト城の遺構に建つ教区教会
(右)通りを見下ろす市塔 Stadtturm
 

それに対してÖBBのヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス駅は、1km下ったイプス川沿いにある。まとまった平地が確保できる場所を求めた結果とはいえ、町はずれであることは否定できない。イプスタール鉄道はこの駅前にささやかな乗り場を持っていた。

NÖVOGによる運行引継ぎに際し、路線には「シティーバーン・ヴァイトホーフェン Citybahn Waidhofen」という新たな愛称が与えられた。車両は、ÖBB 時代に760mm狭軌線に標準配備された5090形気動車(現 NÖVOG VT形)のままだが、人物写真と波形パターンに CITYBAHN の大きなロゴという、派手なラッピングを全身にまとって、印象が一変した。

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シティーバーン・ヴァイトホーフェンの
ラッピング気動車
 

ダイヤは1時間間隔だ。ヴァイトホーフェン駅ではÖBBルードルフ線の列車に4~7分の待ち時間で接続しており、小私鉄ならではの行き届いたサービスが図られている。延長5.5kmと短いので、全線の所要時間はわずか12分だ。

さて、アムシュテッテンからの列車を降り、駅前に出ると、シティーバーンのホームに2両連結の気動車が待機している。列車はÖBB駅舎の玄関から見て右方向へ進むのだが、左側にも線路は延びて、留置側線が並ぶ長いヤードに続いている。かつてここでは、標準軌線との間で貨物の積替えが行われていたはずだ。ヤードの終端には、気動車のための車庫兼整備工場も見える。

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(左)ヴァイトホーフェン駅で発車を待つ2両編成の列車
(右)簡易シートが並ぶ車内
 

接続時間が短いので、観察もそこそこに列車に乗り込んだ。車内は、向かい合わせ4人掛けの簡易シートが並ぶ質素な造りだ。昼下がりの時間帯なので、隣の車両まで見渡しても、全部で3~4人しか乗っていない。上の窓が全て開けてあり、走り出すと風の中を進んでいくようだ。これなら、窓外の写真も心置きなく撮れる。

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(左)シティーバーンのヴァイトホーフェン駅
(右)留置側線の奥に車庫・整備工場
 

最初の約1kmは、ÖBB線の左側を並走する。最初のカーブを曲がったところから、小さな谷を隔てて、ヴァイトホーフェン旧市街の家並みが望める。まもなく左にカーブを切って、おもむろに市街地の上空を横断し始めた。この長さ200mのシュヴァルツバッハ高架橋 Schwarzbachviadukt は、イプスタール鉄道で最大の構築物だ。

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(左)ヴァイトホーフェン駅を後にして
  正面は標準軌駅(列車後方を撮影)
(右)標準軌との並走区間
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シュヴァルツバッハ高架橋で市街地上空をまたぐ
 

車窓からでは橋の足元が見えないので、帰りに最寄りの停留所で降りて、見に行った。橋は、シュヴァルツバッハ川とその谷間に沿う市街地の上空を、一気にまたぐ形で架けられている。両端から石造アーチの高架を延ばすとともに、中央の広い径間は上路プラットトラスと魚腹トラスでクリアした。この威容からして当然、撮影名所でもあるのだが、街中のため、周囲の建物が邪魔になり、すっきりと一望できないのが惜しい。

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シュヴァルツバッハ高架橋
主要道をまたぐ径間は魚腹トラス
(冒頭写真も参照)
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(左)西側に続く上路プラットトラス
(右)端部は石造アーチ
 

橋を渡り終えたところに、シラーパルク Schillerpark 停留所がある。公園の大きな並木の下に設けられたホームには、屋根付き橋のような小屋掛けの長いベンチが置かれている。ここで二人が降りたので、一駅目にして早くも空気を運ぶ状況になった。

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シラーパルク停留所
(左)並木の下のホーム
(右)小屋掛けの長いベンチ
 

次は地方鉄道駅 Lokalbahnhof という停留所だ。地方鉄道時代の、ヴァイトホーフェン市街に近接したターミナルだったので、駅舎の前に、側線を撤去した広い跡地が残されている。市街地は三駅目のフォーゲルザング Vogelsang 付近までで、後は郊外風景になる。列車は、しばらくのどかな山里を走ってクライルホーフ Kreilhof は通過し、終点グシュタットのホームに滑り込んだ。

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(左)地方鉄道駅の駅舎と側線跡地
(右)郊外風景の中を走る
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終点グシュタット駅
 

駅前にオフィス機器メーカーの大きな工場があるものの、駅前集落らしきものは見当たらない。というのも、ここは最初から、イプジッツ支線との乗換え用に設けられた駅だからだ。現在も、鉄道が撤退した町や村へ向けて、駅前からバスが出ている。しかし、どのバスもヴァイトホーフェン駅発で、市街地も経由してきているから、乗換え需要はあまりなさそうだ。

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以遠の町へは駅前からバスが連絡
 

駅構内から先へ、草むしながら線路が続いていたので、少したどってみた。残念ながらそれは、右にカーブして、州道B31号線との交差の直前で途切れていた。線路(跡)はここで二手に分かれるのだが、本線ルンツ・アム・ゼー方面は線路が剥がされ、もはや更地状態だ。一方、イプジッツ支線では、イプス川を横断する魚腹トラスの立派な鉄橋がまだ架かっている。川越しに眺めれば、あのシュヴァルツバッハ高架橋のように、シティーバーンの気動車が今にも渡ってきそうな気がする。

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イプジッツ支線イプス川橋梁
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(左)イプス川橋梁遠望
(右)橋上だけは線路が残る
 

しかし、現実はその逆で、今でも短い路線がさらに短縮される予定だ。地元のニュースサイトによれば、市とNÖVOG の共同会見で、シティーバーンの運行を2020年秋または年末に、ヴァイトホーフェン駅から2.8kmのフォーゲルザングまでに短縮し、代わりに、平日と土曜朝は現在の1時間間隔を30分間隔に増発するという発表があった。この間に乗客の90%がいる(換言すれば、以遠区間は利用されていない)のが理由だという。

もちろん、これは単なる赤字の圧縮案ではない。フォーゲルザング停留所の周辺にはスポーツ施設や病院が立地しており、経営資源を集中させることで需要を喚起する作戦らしい。また、行事開催時の駐車場対策、あるいは市街地を通過している州道の混雑緩和効果も視野に入れているだろう。

運行本数の増加に備えて、この夏、一部区間でPC枕木に置き換える軌道強化工事が実施された。全盛期に比べれば長さが1/20になってしまうイプスタール鉄道谷線だが、まだ活用の余地は残されているようだ。

次回は、保存鉄道として運行が続けられている山線区間を紹介する。

■参考サイト
シティーバーン・ヴァイトホーフェン https://www.citybahn.at/
プロ・イプスタールバーン(イプスタール鉄道支援者協会) http://www.ybbstalbahn.at/
NÖN(ニュースサイト) https://www.noen.at/

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2019年9月14日 (土)

マリアツェルの「標準軌」保存路面軌道

マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道 Museumstramway Mariazell–Erlaufsee

エアラウフゼー Erlaufsee ~マリアツェル・プロメナーデンヴェーク Mariazell-Promenadenweg 間 3.3km
軌間1435mm(標準軌 Normalspur)、直流650V電化(一部区間)
1981~85年 マリアツェル駅~エアラウフゼー間開通
2015年 マリアツェル・プロメナーデンヴェークへ延伸

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マリアツェル駅構内
背景の山は標高1626mのゲマインデアルペ Gemeindealpe
 

マリアツェル駅構内の、駅舎とは反対側に幅広の側線が数本敷かれている。マリアツェル鉄道が760mm狭軌のためにことさら広く感じるが、1435mm、紛れもなく標準軌の線路だ。ザンクト・ペルテン中央駅 St. Pölten Hbf のように、本線格の路線が標準軌で、接続する支線が狭軌という駅はよくあるが、逆のケースは珍しい。

線路の所有者は、「ムゼーウムストラムウェー(保存路面軌道)利益共同体 I.G. Museumstramway」という、保存鉄道を運営する団体だ。毎年5月~10月の週末、「マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道 Museumstramway Mariazell–Erlaufsee(下注)」の名で、ここに古典列車を走らせている。

*注 Erlaufsee の訳について、鉄道名や停留所名は「エアラウフゼー」、湖の名(自然地名)は「エアラウフ湖」としている。

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この日の保存列車が行く
 

公式サイトに掲げられた紹介文を引用すると、「マリアツェルとエアラウフゼーの間の路線は、保存運行のために再建された廃線ではない。1976年から2015年にかけて一から新設され、線路でさえも保存路面軌道の活動家がボランティア作業で造ったものである。使用されている施設設備は、オーストリアの路面軌道および地方鉄道会社の技術の歴史を映し出している。」(原文はドイツ語)

路線は現在3.3kmの長さがあり、部分的に架空線も張られている(下注)が、上記のとおり保存鉄道のために新たに造られた線路だ。走る車両こそ古いが、建設後30年ほどしか経っていない。

*注 マリアツェル・プロメナーデンヴェーク Mariazell-Promenadenweg ~フライツァイトツェントルム Freizeitzentrum 間。ただし、電気トラム運行時のみ通電。

同じサイトに、これまでの経緯が記されている。それによれば、保存鉄道の活動は1968年春、後に団体を主宰することになるアルフレート・フライスナー Alfred Fleissner(下注)が、廃車予定だったバーデン路面軌道の100号電車を救い出したことに始まる。次いで、ウィーン市電その他の引退車両を収集し、ウィーンのオッタクリング Ottakring 駅構内の車庫を借りて保存するとともに、事業に当たる協会組織を設立した。

*注 現在は同名の息子と二人で協会を主宰している。

その後、彼がザンクト・ペルテン路面軌道会社に職を得たことから、協会の活動拠点もザンクト・ペルテンの工場跡地に移された。ところが、会社が経営危機に陥ったため、さらなる移転先を求めた結果が、観光地として知られたマリアツェルだった。自治体との交渉が成立し、市街地と郊外のエアラウフ湖を結んでルートを整備することになった。

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マリアツェル駅舎の反対側に延びる標準軌の軌道
 

1976年2月にザンクト・ペルテン路面軌道会社が倒産したとき、協会は、その車両、軌道、架線設備を一括で購入した。マリアツェルでは車庫と軌道の建設が始まり、1981年に、駅から北側のシュポルトプラッツ(スポーツ広場)Sportplatz までの最初の区間が運行可能になった。その後、1983年にヴァルトシェンケ(森の酒場)Waldschenke まで(下注)、1985年にはエアラウフゼーまで軌道が延伸されて、北区間が全通している。

*注 シュポルトプラッツ、ヴァルトシェンケとも臨時の折り返し場所で、現在は使われていない。

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一方、南区間は、ずっと遅れて2012年に着手された。マリアツェル鉄道の廃線跡(下注)を一部利用するとともに、途中で分岐して谷を横断し、駅と町を結ぶ遊歩道のそばに達するルートだ。大掛かりな築堤造成を含む建設工事も2014年には完成し、2015年8月から定期ダイヤで列車が走り始めた。現在、運行は北区間と通しで行われている。

*注 1988年に廃止されたマリアツェル~グスヴェルク Gußwerk 間のうち、マリアツェル側の約600m。狭軌の線路は2003年に撤去済みだったので、保存鉄道用の標準軌線路が新たに敷設された。

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マリアツェル駅周辺の地形図に保存路面軌道のルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

2018年9月下旬、マリアツェル駅に着いたその足で、「マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道」を一往復してみた。保存鉄道は季節運行で、この年は5月20日~10月28日の土日祝日に、1日6往復+出入庫便1往復が設定されていた。全線往復の所要時間は58分だ。

列車ダイヤは、マリアツェル鉄道と接続するように組まれている(下注1)。駅の構内で、本線列車から降りた客に、女性車掌が案内をしていた。その指さす方向、駅舎の反対側の側線に、客待ちしている列車がある。入換用の小型ディーゼル機関車が、デッキつきボギー客車1両(下注2)を牽くミニマム編成だ。

*注1 なお、時刻表の注意書きによれば、悪天候や客の数によって運休することがある。
*注2 もとプレスブルク線 Preßburger Bahn(ウィーン~プレスブルク(現 ブラチスラヴァ)間)で使用された1913年製客車。

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(左)車掌が本線列車から降りた客を案内
(右)本日の運行車両、入換用機関車が古典客車を牽く
 

保存鉄道には、走行可能な世界最古の路面蒸気機関車といわれる、もとウィーン=メードリング蒸気路面軌道 Dampftramway Wien-Mödling  の8号機がいる。それに加えて、ウィーン、バーデン、ザンクト・ペルテン、ザルツブルクなどから来た希少価値の高い路面電車コレクションも相当数所有している。しかし、それが常に稼働しているわけではないらしい。ともかく構内を横切って、そちらに向かった。

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ウィーン=メードリング蒸気路面軌道の8号機関車
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

客車には先客が3~4組いた。まだ席はあるが、いつものように線路観察のためにオープンデッキへ移動する。まもなく機関車のエンジンがかかって、さっきの車掌ともう一人乗務員が乗り込んできた。切符を求めたら、車内補充券の束から1枚繰って、パンチを入れてくれた。発行機から出てくる味気ないレシートでないのはうれしい。全線往復12ユーロ(片道8ユーロ)というのは、走行距離の割に高めだが、保存鉄道への寄付と思っておこう。

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乗車券(車内補充券)
 

10時58分発の列車は、まず南へ向かう。駅の出口で、狭軌の本線線路といったん並行するが、踏切を渡るとすぐ、狭軌は車止めで途切れた。標準軌がその位置に移って、先へ続く。マリアツェル鉄道の廃線跡であるこの短い区間は、27‰の急な下り勾配がついているから、慎重に進む。

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(左)マリアツェル駅を出発
(右)狭軌と並行する区間
 

線路脇に建つ駅の乗務員宿舎を過ぎると、三角線にさしかかった。列車はここで左に折れ、浅い谷をまたぐ築堤を渡っていく。その谷の東斜面に沿っていくと、早くも終点プロメナーデンヴェークだった。名称どおりマリアツェルの町につながる遊歩道(プロメナーデンヴェーク)に並行して、砂利敷きのささやかなホームが造られている。停留所を示すものは、架線柱に取り付けられた古風な標識と小さな時刻表だけだ。

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(左)マリアツェル鉄道廃線跡区間、場内信号機も残存
(右)三角線
  右の軌道が廃線跡区間の続き、
  左がプロメナーデンヴェークへ行く新設区間
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プロメナーデンヴェーク停留所
レトロな停留所標識がかかる
 

乗降客はなく、数分停車した後、11時05分に列車はバックし始めた。最後尾のデッキに乗務員が立ち、赤い旗を振って誘導する。もう一人はデッキの床に座って、誘導役の人と世間話を交わしていたが、三角線の分岐まで来ると地面に降りて、重い転轍てこを反対側に倒した。列車は分岐を左へ進み、廃線跡地の線路に達する(下注)。こうして方向転換を終えた列車は、再び駅のほうへ走り出した。

*注 ここはスプリングポイントのため、自動で進路が変わる。

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三角線での方向転換
(左)車掌が赤い旗を振って誘導
(右)重い転轍てこを起こす
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(左)後退運転で三角線に進入
(右)列車通過後、転轍機を戻す
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(左)転轍手は機関車に添乗
(右)方向転換を終えた列車が駅へ戻る
 

駅でまた数分停まり、今度は北区間の目的地エアラウフゼーに向かう。構内の建物の間を縫うように進み、車庫から出てくる線路と合流する。修理工場を兼ねる車庫は6線を収容する立派なもので、扉の窓ガラスに、保存されている路面電車が透けて見えた。

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6線収容の車庫
ガラス越しに路面電車の姿が
 

ちなみに、保存鉄道の軌道や架線設備は、廃止された路面軌道からのお下がりが再利用されている。まるでアールヌーボーの意匠のような溝つきレールの分岐や、760mm軌間との交差跡などは、特に貴重なものだ。架線を支えるブラケットもよく見ると、さまざまなデザインが揃い、どれも古風で優雅な曲線を描いている。

駅構内を後にして左に折れると、路面軌道らしい造りの停留所(フライツァイトツェントルム Freizeitzentrum、休暇センターの意)を通過した。街灯、待合室、給水設備など、鉄道風景を醸し出す小道具が、あたかも野外博物館のオブジェのようにさりげなく置かれている。

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(左)芸術的な溝つきレールの分岐
(右)760mm軌間の交差跡が残る
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(左)架線を支えるブラケットのデザインにも注目
(右)鉄道風景を醸し出す小道具が揃う
 

それから列車は、ひと気のない野原に出ていった。道路の下を土管状のトンネルでくぐった後は、州道に沿って走っていく。おおむね下り坂で、路盤はコンクリートで固めてあったり、草生していたりとさまざまだ。やがて、終端ループの合流点を通り、森のきわに設けられたエアラウフゼー停留所に到着した。

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(左)路線唯一の「トンネル」
(右)ひと気のない野原を行く
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(左)エアラウフゼー停留所に到着
(右)終端ループから分岐する側線
 

停車時間が10分ほどあるので、エアラウフ湖畔まで出てみた。周囲を山に囲まれた静かな湖だが、鴨の群れが泳いでいるだけで、ボート乗り場には人影がなかった。きょうは曇り空で、半袖では少し肌寒い。標高828mの高地では、レジャー客で賑わう夏のシーズンはもう終わってしまったようだ。

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シーズンオフのエアラウフ湖畔
 

保存鉄道の次なる目標は、軌道を、マリアツェル市街地の入口にあるバスターミナルまで延長することだ。これにより駅と市街地の間を直接結ぶことができ、マリアツェルに車で訪れている観光客へのアピールにも効果がある。遊歩道に沿って通せば400mほどの距離だが、傾斜地のため、路盤を載せる擁壁を築かなければならない。まとまった工事資金の調達にはまだ時間がかかるだろう。

参考までに、保存鉄道の資料に基づいて、全体の配線図を下に示す。愛好家が基礎から造り上げた施設は、実物大の鉄道模型といっても過言でない。

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保存路面軌道の配線図
(マリアツェル保存路面軌道資料集 V3.0 2018年 に基づき作成)
 

次回は、西隣のイプスタール鉄道を訪ねる。

■参考サイト
マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道  http://www.museumstramway.at/

★本ブログ内の関連記事
 オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 I
 オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 II
 ウィーン地方鉄道(バーデン線)I-概要

2019年8月17日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 III

ヴァルトフィアテル鉄道 南線 Waldviertelbahn Südast

ヴァルトフィアテルの山中には、大陸ヨーロッパを南北に分ける中央分水界が通っている。南線はこれを越えていくので、寄り添う谷は見るからに深く、線路にも急勾配と急曲線が連続する。景色の穏やかな北線に比べて、全般的にダイナミックで乗りごたえのあるルートと言えるだろう。

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ブルーデルンドルフの給水作業
(帰路撮影)
 

南線の蒸機列車は、北線の前日に当たる第1、第3土曜が運行日だ。距離が43.3kmと長いことから、1日1往復しかない。グミュント Gmünd を昼下がりの13時15分に出発し、終点グロース・ゲールングス Groß Gerungs に15時10分に到着する。復路は17時発で、グミュント帰着が18時45分になる。ニブロク蒸機の奮闘ぶりをたっぷりと楽しめる往復約4時間の長旅だ。

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南線路線図

発車の1時間前にグミュントのターミナル駅に戻ってきたら、ちょうど客車がホーム兼車庫の屋内から引き出され、隣の屋外ホームに据え付けられるところだった。蒸気機関車 Mh.4 にとっては、2週間ぶりの出番になる。6両ある客車(下注)は、窓のそこかしこに予約の貼り紙がしてあるものの、まだまるごと空席の車両も見られる。

*注 列車編成は北線と同じで、2軸古典客車6両、中間部にビュッフェ改造車、最後尾に緩急車がついた。

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グミュント駅
(左)客車の引き出し作業
(右)屋外ホームに据え付け完了
 

定刻を少し過ぎて発車した。北線を右に分けてすぐ、チェコ国境の手前に遺された三角線(前々回の記述参照)を通過する。それから ÖBB線をアンダーパスし、グミュント新市街をかすめ、後はしばらくのどかな耕作地の中を進む。車掌が巡回してきたので、乗車券を買うついでに空席のことを聞くと、次の駅で満席になります、とのこと。

川沿いの林の中を通り抜け、アルト・ヴァイトラ Alt Weitra(旧ヴァイトラの意)の停留所を見送ると、風景は緩やかな起伏を伴った丘陵のそれになる。左手には池があり、岸に点々と植わる木々が、水辺にほのかな影を落としている。

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(左)アルト・ヴァイトラは通過
(右)岸辺の木々が水面に影を落とす
 

ここから線路は、蛇行しながらその丘陵をじりじりと上り始める。60~70mの高低差がある、通称ヴァイトラ坂 Weitraer Berg だ。途中にある右回りのオメガループでは、最もくびれた部分で今通ってきた線路が間近になる。グミュントを出て初めての連続勾配だが、マリアツェル鉄道向けに造られた強力な蒸機にとっては、小手調べのたぐいかもしれない。

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ヴァイトラ坂を上る
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オメガループでは上ってきた線路が見える
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ヴァイトラ周辺の地形図
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

坂を上り切ると、ヴァイトラ Weitra に停車した。13世紀初めに築かれた城下町で、駅の西500m、ラインジッツ川の渓谷に臨む要害の地に城と市街地がある。コーラルレッドのあでやかな塗り壁の保存駅舎も、グミュントを別とすれば、沿線のどの駅よりも堂々としている。車掌の言葉どおり、ここでざっと40~50人の団体客が乗車して、予約席は一気に埋まった。

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ヴァイトラ駅
(左)駅舎はコーラルレッドの塗り壁
(右)大口団体客が乗車
 

駅を出ると、車窓から丘の上にすっくと建つ白壁の城がよく見える。それとともに、このあと渡る2本の石造アーチ橋にも注目したい。一つ目はファイツグラーベン高架橋 Veitsgraben-Viadukt(長さ70m、高さ15m)、二つ目がヴォルフスグラーベン高架橋 Wolfsgraben-Viadukt(長さ72m、高さ14m)という。サイズだけでなく、どちらも7径間で線路がカーブしていて、まるで双子のようだ。列車のデッキからでは全貌を捉えるのは無理だが、アーチの一部を見届けることはできる。

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ファイツグラーベン高架橋を渡る
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(左)丘の上に建つヴァイトラ城
(右)ザンクト・マルティンの教会
 

ヴァイトラから上流で、川は丘陵地を30~40mの深さに刻んで流れているが、ザンクト・マルティン・バイ・ヴァイトラ St. Martin bei Weitra でようやく平たい谷に戻る。少し進むと、シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ Steinbach-Bad Großpertholz だ。ここは周りに小さな集落しかないようなところだが、鉄道の運行にとっては昔から重要な中継地だった。駅に設置されたパネルの説明文を引用させてもらおう(ドイツ語原文を和訳)。

シュタインバッハとラングシュラーク Langschlag の間(下注)にあるヴァルトフィアテル鉄道の山線は、ユネスコ世界遺産ゼメリング鉄道になぞらえ、愛情を込めて「ヴァルトフィアテルのゼメリング Waldviertler Semmering」あるいは「小ゼメリング Kleiner Semmering」と呼ばれている。

*注 両駅間の距離は11.9km。

最急勾配28‰の狭軌鉄道は、本物のゼメリング鉄道に匹敵する。最小半径86mの数あるカーブで、線路は曲がりくねりながら標高806mまで上る(下注)。その際、大小のブルーデルンドルフトンネルを通り抜け、ヨーロッパの分水界を乗り越える。

*注 当駅の標高は626mで、最高地点との標高差は180mある。

この急勾配線では、重量列車が山を越えるのに、今日でも機関車と機関士に特別な力が要求される。特に重い列車は、昔も今も同じように、いわゆる補機と呼ばれる補助機関車の連結を必要とした。しかし、2000年まで維持されていた貨物輸送で2台目の機関車がないときは、列車はシュタインバッハ駅で分割され、2本の列車でヴァルトフィアテルのゼメリングを越えたのである。

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シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ駅
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「ヴァルトフィアテルのゼメリング」の説明パネル
(上記和訳の原文)
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「ヴァルトフィアテルのゼメリング」周辺の地形図
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

乗ってきた列車もここで20分ほど停車し、頼みの機関車に対して給水と点検が行われた。その間、乗客はみな車外に出て、思い思いに休憩する。作業の撮影にいそしむ人もいれば、駅舎の横の倉庫で展示しているユニークな木彫りの作品を鑑賞する人もいる。狭い車内ですでに1時間揺られてきたので、手足を伸ばすいい機会だ。

乗車を促す車掌の声が響いて、出発の時刻になった。上り勾配は駅構内の出口からすでに始まっているので、機関車は早くも出力全開だ。その様子を撮影するために線路脇で待ち構える人たちを見送って、列車は深い森に突入していく。

谷間に力強いドラフト音がこだまする中、二つめの支谷を渡るところで、アプシュラーク Abschlag 停留所に停車。森のハイキングに出かけるのだろうか、子ども連れで降りた人がいた。

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急坂での発車は出力全開
アプシュラーク停留所にて
 

短いトンネル(小ブルーデルンドルフトンネル Kleiner Bruderndorfer Tunnel、長さ44m)を抜け、谷の奥へ回り込んだ地点に、ブルーデルンドルフ Bruderndorf の給水所がある。ここはかつて停留所だったが、1986年にそれが2.4km先の集落により近い場所に移転した後、乗降を扱わない給水所になった。谷筋で水源には事欠かないとみえ、給水クレーンの先から、機関車のタンクに入るのと同じくらいの水量が漏れ落ち、大きな水音を立てている。

右側の横取りしたレールの上に大きな木のやぐらが置かれているのは、すぐ先にあるトンネルの検査用足場だという。再び走り出すと、急な右カーブの先に、その大ブルーデルンドルフトンネル Großer Bruderndorfer Tunnel が現れた。長さ262mあり、中は真っ暗で一寸先も見えなくなった。

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ブルーデルンドルフ給水所
(左)給水と同じくらいの量が漏れ落ちる(帰路撮影)
(右)木のやぐらはトンネルの検査用足場
 

最後の山脚を曲がり切れば、機関車の力闘も終わりが近い。切通しを抜けるとにわかに空が開け、列車の行く手に牧草地が広がった。このあたりが最高地点で、同時にヨーロッパ中央分水界でもある。北側斜面はエルベ川 Elbe 水系で、チェコとドイツを通って北海に注ぎ、南側はドナウ川 Donau 水系で、東へ流れて黒海に出る。想像すれば壮大な話で、この鉄道が世界遺産の向こうを張るのもわからないではない。

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最高地点付近を通過
(帰路撮影)
 

列車の歩みは重しが取れたように軽やかになり、ツヴェットル川 Zwettl の谷に沿って降りていく。小ぎれいな集落のあるラングシュラーク Langschlag で、また10分ほど停車した。

駅の側線に、1902年製の複式機関車 Uv.2(ÖBB 298.206)が静態保存されている。案内板によれば、最初この路線で走った後、イプスタール鉄道 Ybbstalbahn へ移籍し、1963年の引退後、ラングシュラークの自治体が保存のために買い戻したのだという。Uv.2は貨車を1両連れていて、その中は備品や歴史資料を集めたささやかな鉄道博物館になっている。給水も乗降もない駅に停車するのは、これらを見学するための時間をとっているのだ。

ヴァルトフィアテル鉄道の施設設備が2010年に州に移管された後、主要な駅建物や敷地などの固定資産は順次、沿線自治体が取得して保存と同時に活用し始めた。南線ではここラングシュラークをはじめ、ヴァイトラ、ザンクト・マルティン、グロース・ゲールングスなど、駅は公共施設として管理され、列車運行時のほか、地元のイベントやコミュニティ活動などにも利用されている。

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ラングシュラーク駅
(左)静態保存の Uv.2、後ろの貨車は鉄道博物館
(右)鉄道博物館内部
 

長い蒸気列車の旅も、いよいよ最後の一区間を残すのみだ。列車はヴァイトラ坂を思わせるようなオメガループを通り、なおも浅い谷を降りていく。そして、集落のへりを回り込むようにして、終点グロース・ゲールングスの構内に滑り込んだ。定刻15時30分のところ、着いたのは20分遅れの15時50分だった。

到着早々、機回し作業が始まる。駅は無人で、鉄道の要員は機関士と助士と車掌の3人しかいない。それで、ポイントの切替えも、機関車の誘導も、客車との連結も、みな車掌の仕事だ。一連の作業が終わると、構内の動きが止まった。乗客は、貨物倉庫を利用した小さな博物館に立ち寄ったり、駅舎で営業している軽食堂の客になる。

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グロース・ゲールングスに到着
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機回しを待つ Mh.4
背景の建物はシアターに改造された旧 車庫
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(左)グロース・ゲールングス駅舎は軽食堂に
(右)貨物倉庫の中は博物館に
 

空いた時間に、町の中央広場 Hauptplatz まで出かけてみた。グロース・ゲールングスは、高原の街道筋に成立した宿場町だ。広場を囲んで端正な建物が建ち並んでいるが、車が頻繁に通過することもあって、リッチャウのような心潤う情景には乏しい。

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グロース・ゲールングスの中央広場
 

ヴァイトラからの大勢の団体客は、さっき駅前に迎えに来たバスで去っていった。観光列車でよく見かける、ハイライト区間だけを体験するツアーだったようだ。それで復路の車内は空席だらけになる。機関車はバック運転だ。途中、ブルーデルンドルフの給水所でたっぷり水を補給した以外、乗客が車外に出られる休憩停車はなく、グミュントまで列車は淡々と走り抜けた。

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帰り道、列車の長い影が畑に落ちる
 

次回は、アルプスの巡礼地へ向かうマリアツェル鉄道に舞台を移す。

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト) https://www.waldviertelbahn.at/

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2019年8月10日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 II

ヴァルトフィアテル鉄道 北線 Waldviertelbahn Nordast

北線(下注)の舞台は、チェコとの国境に横たわる緩やかな起伏の高原地帯だ。深緑の針葉樹林とそれを切り開いた耕作地が交互に現れ、線路は浅い谷間の小川や池に沿って敷かれている。今回は、毎月第1・第3日曜に運行されている蒸機列車で、グミュント Gmünd から北上しようと思う。

*注 北線、南線は両者を区別するために用いる便宜的呼称であり、正式な路線名ではない。

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気品漂うニブロク蒸機 Mh.4
リッチャウ駅にて
 

列車はグミュント発が10時と14時30分の2本あり、終点リッチャウ Litschau で折り返し13時と16時発になる単純なダイヤだ。1本目の列車に乗るべく、市街地の宿を出てÖBB駅前のターミナルへ向かった。開放的な雰囲気の待合ホールには、すでに多くの客が集まっている。

やがて外側ホームに通じる扉が開いたらしく、ぞろぞろと移動が始まった。オープンデッキつき2軸客車6両、中間部にビュッフェ改造車、最後尾に自転車が積載できる貨車(緩急車?)という編成だが、よく見ると、たいていの客車の窓には予約済みを示す紙がペタペタと貼られている。これなら待合ホールが賑わうはずだ。もちろん、予約していなくても乗車は可能なので、慌てる必要はない。

ニブロク蒸機(下注)を撮ろうと前へ行くと、正面に "Western Express" と書かれた円いプレートを付けていた。観光鉄道らしく、さまざまな催し列車が年に十数回運行されていて、今日はたまたまその日だった。「ウェスタン・エクスプレス」というのが何を意味するのかは、後で知ることになる。

*注 ニブロクは2フィート6インチ(762mm)軌間の日本での俗称。オーストリア=ハンガリー帝国では、この軌間を760mmと再定義して用いた。

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Western Express のプレートをつけて走る
アルト・ナーゲルベルク駅にて
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(左)2軸客車内部
(右)ビュッフェ車
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北線路線図
 

定刻10時、短い汽笛とともに列車はホームを後にした。ディーゼル機関車も憩う構内を通り抜ければ、まもなく南線を見送って北へ大きくカーブする。1950年に開通したチェコ領を通らない新線区間だが、もう70年近く経つから、風景に完全に溶け込んでいる。市街裏手の草原に沿って進んだ後は、森の中に入り、いつのまにかラインジッツ川 Lainsitz を渡った。

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新線区間を行く蒸機列車
(動画からのキャプチャー)
 

チェコとの国境にある旧 オーストリア税関前を通るも、一瞬のことだ。シェンゲン協定により国境検査が廃止された今は、車も無停車で行き交っている。住宅街の中にあったはずのグミュント・ベームツァイル Gmünd Böhmzeil 停留所もしかり。ここは、旧市街の最寄り駅として設けられ、国境が確定した1920年から2年間は北線の臨時ターミナルを受け持ったほどだが(前回の記述参照)、現在、列車がここで徐行し汽笛を鳴らすのは、単に踏切の手前だからだ。

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国境の旧税関前を通る線路
 

ベームツァイルの住宅街をくねくねと抜けると、もう人家の密集地はない。再びラインジッツ川を渡り、畑地の中をゆっくり上がっていき、まもなく線路は針葉樹の森に埋もれてしまう。車掌が巡回してきたので、さっそく往復の乗車券を求めた。昨日もそうだったが、くれるのはポータブルプリンタから出てくる薄紙のレシートだ。

観光鉄道化されたときに中間の停留所が廃止されたため、最初の停車駅は 8.4km先のノイ・ナーゲルベルク Neu Nagelberg になる。ここもチェコ国境が間近で、何人かのグループが乗り込んで発車した。

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(左)ラインジッツ川のほとりから山手へ
(右)森を切り開いた畑地を上る
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(左)ノイ・ナーゲルベルクに停車
(右)ガムスバッハ川を堰き止めた池が連なる
 

ガムスバッハ川 Gamsbach を堰き止めた池が、谷間に長く連なる。それを見ているうちに、アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg に到着した。17世紀から、地元産の石英を原料にしたガラス製造の伝統をもつ町で、駅の向かいに、グミュントのターミナルの前庭で見たのと同じ色ガラスのオブジェが並んでいる。北線にとってガラス製品は、かつて木材と並ぶ貨物輸送の主要産品だった。

機関車への給水が始まる。乗客もみな車外に出て、作業を見学しながら思い思いにくつろいでいる。時刻表上の停車時間は7分なのだが、機関車の点検作業も含めて倍の15分は停車しただろう。ようやく「Alle Fahrgäste, aufsteigen!(乗客のみなさん、ご乗車ください!)」と車掌の大声が響いた。全員客車に戻ったのを見計らって、車掌がオープンデッキの閂を下ろしに回る。それから円い標識を掲げて、発車合図の笛を吹く。列車は再びゆっくりと動き出した。

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アルト・ナーゲルベルクで長い給水停車
0kmポストはハイデンライヒシュタイン支線の起点を示す
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(左)停車中もメンテナンスを欠かさない
(右)円い標識を掲げて発車の合図(ブラントにて撮影)
 

駅を出て2km弱の間、右側にもう1本の線路が複線のように並行する。これはハイデンライヒシュタインに至る支線で、非営利団体のヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会 Waldviertler Schmalspurbahnverein (WSV) が、夏のハイシーズンに、旧型ディーゼル機関車による「ヴァッケルシュタイン急行 Wackelstein-Express」を走らせている。

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ハイデンライヒシュタイン支線
(左)本線との並走区間(復路撮影)
(右)分岐地点には支線のみ停留所(アルト・ナーゲルベルク・エルゴ Alt Nagelberg Ergo)がある
 

支線の運行日は、この並行区間を利用した両線列車のレースが呼び物になっている。駅を同時に発車して、途中抜きつ抜かれつした後、分岐地点で汽笛の挨拶を交わしながら分かれていく(下記参考サイトの動画参照)。定期運行時代から行われていた余興で、観光列車でも再現されているのだが、残念ながら今は6月初旬、支線はまだ休眠中だ。

■参考サイト
YouTube - アルト・ナーゲルベルクでの同時発車 Doppelausfahrten in Alt Nagelberg
https://www.youtube.com/watch?v=KdpER-j0D_M

その支線が右手に去ると、すぐにまた森が開けて、ブラント Brand 駅に停車した。ドイツ語でブラントは火事、火災のことだが、この地名は山火事によって開けた土地(入植地)という意味だ。

何やら列車の前方が騒がしい。デッキから覗くと、カウボーイハットに覆面の、西部劇に出て来るような格好の男女が乗り込もうとしている。どうやら列車強盗団の襲撃らしい。彼らはおもちゃのピストルをかざしながら各車内を回り、乗客を巻き込んで緊迫の(?)寸劇を繰り広げた。ところが仕事を終えたとたん、客車の前に全員整列し、車掌が構えるカメラにおとなしく収まったのには笑える。

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ブラント駅の西部劇
(左)列車の前方が騒がしい
(右)列車強盗団の襲撃
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(左)ピストルをかざして車内を回る
(右)最後はキャスト一同で記念写真
 

ウェスタン・エクスプレスのこのメインイベントのために、また15分ほど停車した。所定ダイヤからかなり遅れたが、誰一人気に留める乗客はいないだろう。列車は、ライスバッハ川 Reißbach が自然のままに流れる小さな谷を遡っていく。リクエストストップ扱いのシェーナウ・ドルフヴィルト Schönau Dorfwirt と、製材所への引込線跡が残る旧 シェーナウ・バイ・リッチャウ Schönau bei Litschau 停留所(廃止)は、続けて通過した。最後に短い坂道を上り、右に大きくカーブすると、終点リッチャウの駅舎が見えてくる。10時55分定刻のところ、到着は11時20分だった。

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ライスバッハ川の谷を遡る
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(左)シェーナウ・ドルフヴィルトを通過
(右)シェーナウ・バイ・リッチャウには製材所への引込線の痕跡が
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(左)リッチャウ城の望楼が顔を覗かせる
(右)終点リッチャウ到着
 

青空に綿菓子のような雲がいくつも浮かんでいる。きょうは絶好の行楽日和だ。駅舎では、町の人たちが食卓をこしらえて待っていた。シチューとヴュルステル(小ソーセージ)が大鍋で煮えている。列車から降りてきた客で、たちまち受付に行列ができた。豆やサラミをたっぷり煮込んだ酸味のあるシチュー(ボーネンアイントプフ Bohneneintopf)は、素朴ながら食欲を満たすには十分だ。その後、留置してある客車の中の小さな博物館をのぞいて、路線の諸元や歴史のデータを仕入れる。

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(左)帰路に備えて給水作業
(右)給水元は消防署のタンク車
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豆のシチューとヴュルステルが乗客たちを待つ
 

時間にまだ余裕があるので、駅前の坂を下ってリッチャウの小さな市街地へ出かけることにした。それは、地形図で想像していたとおりの、いい町だった。中心にある広場(シュタットプラッツ Stadtplatz)はそれ自体が急な坂道で、高い側に教会の白い塔がそびえ、谷向うにある城の望楼と対峙している。

町の裏手(北側)にはヘレンタイヒ Herrenteich という大きな溜池があり、波静かな水面に雲を映していた。堤の上は木漏れ日揺れる散歩道で、そのまま池の奥のほうまで延びている。木陰のベンチに腰を降ろして、堰から落ちる涼しげな水音を聞いていると、旅の途中であることを忘れてしまいそうになった。

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坂道に築かれたリッチャウ旧市街
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ヘレンタイヒ Herrenteich
(左)雲を映す水面
(右)堤は木陰の散歩道
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堰を落ちる小川
 

帰りの列車は13時発車だ。間に合うように駅に戻ると、列車の予約席は2両きりになっていた。団体で来た人の多くはまだ町でくつろいでいたから、次の便(16時発)に乗るのかもしれない。復路はおおむね下り坂なので、機関車のドラフト音も心なしか軽やかに聞こえる。途中、アルト・ナーゲルベルクの給水時間も短めで、13時55分、列車はほぼ定刻にグミュントのターミナルに戻ってきた。

次回は、南線を訪ねる。

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グミュントに帰着
 

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト) https://www.waldviertelbahn.at/
ヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会(ヴァッケルシュタイン急行) http://www.wsv.or.at/cms/

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2019年8月 3日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 I

ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn

北線 Nordast:
グミュント Gmünd NÖ(下注)~リッチャウ Litschau 間 25.5km、1900年開通
アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg ~ハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein 間 13.2km、1900年開通

南線 Südast:
グミュント Gmünd NÖ ~グロース・ゲールングス Groß Gerungs 間 43.3km、1902~03年開通

軌間760mm、非電化

*注 NÖ はニーダーエースタライヒ Niederösterreich(州)の略。

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蒸機列車がヴァルトフィアテルの森を行く
 

これからしばらく、オーストリア各地で今なお稼働している760mm軌間、いわゆるボスニア軌間(下注)の軽便鉄道をいくつか訪ねていこう。最初に紹介するのは、ドナウ川の北側を走る唯一の路線、ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn だ。

*注 ボスニア・ヘルツェゴビナには、1880~90年代に760mm軌間による大規模な路線網が築かれており、そのため、ドイツ語圏ではこの軌間を「ボスニア軌間 Bosnische Spur / Bosnaspur」と呼ぶ。

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起点はグミュント Gmünd という田舎町で、首都ウィーンから西北西へ直線で120km(下注)、チェコとの国境がもう目前に迫っている。ÖBB(オーストリア連邦鉄道)の最速列車で行っても約2時間かかるその町から、狭軌のか細い線路が北と南へ分かれていく。

*注 鉄道の路線距離は、ウィーン(フランツ・ヨーゼフ駅)~グミュントNÖ 間で162km。

一般輸送はすでに旅客・貨物とも廃止され、今は観光鉄道としての機能しか持っていない。だが、数年前に完成した明るく立派なターミナルからは、嬉しいことに夏のシーズン中、毎日欠かさず列車が運行されている。総延長82kmに及ぶ路線網は、まさしく辺境に残された孤高のナロー王国だ。

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グミュント周辺の鉄道路線の位置関係

6月最初の土曜日、グミュントを訪ねるために、ウィーンの静かなターミナル、フランツ・ヨーゼフ駅 Franz-Josefs-Bahnhof からチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 行のREX(レギオナルエクスプレス、快速列車)に乗り込んだ。Uバーン(地下鉄)に接続する次のシュピッテラウ Spitterau で多数の客を拾うと、列車はものの数分でウィーン市内を抜け出し、ドナウ右岸の河畔林に沿って走っていく。

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ウィーン・フランツ・ヨーゼフ駅
 

トゥルン Tulln で北を向き、ドナウ川を渡った後は、ヴァインフィアテル Weinviertel の緩やかにうねる丘陵地をじわじわと上る。中でもリンベルク・マイサウ Limberg-Maissau 駅の前後は大きなU字ループで、ちょうど谷向こうの鉄橋を降りてくる対向列車の姿を捉えることができた。

この路線はフランツ・ヨーゼフ線 Franz-Josefs-Bahn といい、プラハとウィーンを最短距離で結んでいる。しかし、ドナウの北側に横たわる山地を横断しなければならず、カーブの多いルートになった。それで国際特急はすべて、距離は長くなるものの高速走行が可能な北部本線 Nordbahn、ブルノ Brno 経由で走っており、こちらは実態としてローカル線だ。

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谷向こうを降りてくる対向列車
リンベルク・マイサウ駅付近
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目を和ませる菜の花の絨毯
 

遠望が利くのは、ジクムンツヘルベルク Sigmundsherberg あたりまでだろう。後は、畑や林の交錯する中を延々と走る。今は菜の花の咲く季節で、大地を覆うレモンイエローの絨毯が目を和ませるが、沿線に町らしい町は現れないまま、いつしか車窓は平原の風景に変わっていた。

グミュントNÖ 駅で、乗客のほとんどが降りた。駅舎を出ると、道路を隔てて、大屋根をアーチで支えた正面ガラス張りの建物がひときわ目を引く。「ヴァルトフィアテル鉄道」と書かれたパネルも下がっている。2014年に構内を整理縮小し、新たに造ったターミナルの駅舎兼車庫だ。

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(左)グミュントNÖ 駅到着
(右)ポップに改装された駅正面
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ヴァルトフィアテル鉄道のターミナル
 

建物の中に入ると、案内カウンターもある開放的な待合ホールの奥に、島式ホームを挟んでナローゲージが2線並んでいる。車庫を兼ねているので、線路の出口はシャッターつきだ。これとは別に、建物の外側にも、片側にホームをもつ1本の線路が延びている。後で知ったが、蒸機が牽引する列車はここで乗降するのだった。確かに屋内では、煙がこもってしまうに違いない。

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建物内部
(左)待合ホール
(右)プラットホーム 兼 車庫
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建物の外にある蒸機列車用のホーム
 

乗車券を買おうとカウンターで尋ねると、車内で売ります(下注)と言われた。客の大半は団体かグループで、席を確保するために予約を入れていて、飛び込み客は少ないらしい。満席になっては困るからと、ウィーンを早めに出てきたが、拍子抜けした。空いた時間に市街へ行って、宿に荷物を預けてくることにしよう。

*注 車掌が手売りするので、現金払いのみ可。

列車に乗る前に、ヴァルトフィアテル鉄道の基礎的知識を仕入れておきたい。

まず、鉄道名になっているヴァルトフィアテルだが、これはこの地方の名称だ。ニーダーエースタライヒ Niederösterreich(下オーストリア)は、歴史的に4つのフィアテル(地方)Viertel に区分され、それぞれ主要産業の名で呼ばれてきた。すなわち、

北西部:ヴァルトフィアテル Waldviertel(森林地方の意=林業、鉱業を指す)
北東部:ヴァインフィアテル Weinviertel(葡萄酒地方の意)
南西部:モストフィアテル Mostviertel(果汁地方の意=リンゴ、ナシなどの果実酒醸造を指す)
南東部:インドゥストリーフィアテル Industrieviertel(工業地方の意)

■参考サイト
Wikimedia - ニーダーエースタライヒのフィアテル(エリア図)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vierteleinteilung_in_Niederösterreich.png

ヴァルトフィアテルは、ドナウ川 Donau の北側、マンハルツベルク山 Manhartsberg の西側の、文字どおり山がちな一帯を指す。その地方を鉄道が東西に貫いたのは1869年だった。ボヘミアとウィーンを結んで建設された勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道 k.k. priv. Kaiser Franz-Josephs-Bahn (KFLB、下注)、いうまでもなく現在のフランツ・ヨーゼフ線だ。

*注 勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道は、ヘプ Cheb(ドイツ語名:エーガー Eger)~プルゼニ Plzeň(同 ピルゼン Pilsen)~グミュント~ウィーン間およびプラハ Praha ~グミュント間が主要路線で、1884年に国有化された。

鉄道は、グミュントの町の南西でラインジッツ川 Lainsitz を横断し、左岸に駅が設けられたが、それは静かな田舎町を一変させる出来事だった。なぜなら、ただの中間駅ではなく、プルゼニ方面とプラハ方面からの幹線どうしが合流する駅だったからだ。鉄道の運行拠点として機関庫や修理工場が配置され、グミュントはにわかに鉄道の町の様相を呈した(地理的位置は下図1段目参照)。

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ヴァルトフィアテル鉄道のルート変遷
 

経済効果が明らかになるにつれ、周辺の地域でも鉄道建設を求める声が高まるのは、当然の成り行きだった。1895年に公布されたニーダーエースタライヒの鉄道法 Landeseisenbahngesetz で、建設費に対する公的補助制度が確立すると、実際、次々と地方路線が誕生していく。

グミュント周辺では、地元のガラス産業界の要請を受けて、まずグミュントからリッチャウ Litschau とハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein に至る北線の計画が具体化された。これは1900年7月に実現した。次いで1902年に南線のグミュント~シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ Steinbach-Bad Großpertholz 間、1903年にはグロース・ゲールングス Groß Gerungs までの全線が開通した(上図2段目参照)。さらに北と南へ延伸する構想も立てられていた(下注)のだが、第一次世界大戦の勃発で実現せずに終わった。

*注 北線では、ボヘミアのノイビストリッツ Neubistritz(現 ノヴァー・ビストジツェ Nová Bystřice)で既存の狭軌路線への接続、南線では、ドナウ河畔のクレムス Krems やグライン Grein への延伸が構想された。

その戦争中、オーストリア一円の760mm軌間鉄道から機関車や車両が徴発され、バルカン半島の主戦場へ送達された。しかし、それよりも大きな問題をヴァルトフィアテル鉄道にもたらしたのは、戦後処理だった。

1919年に結ばれたサン・ジェルマン条約で、ラインジッツ川左岸のグミュント中央駅 Gmünd Hbf(および狭軌線のグミュント地方鉄道駅 Gmünd Lokalbahnhof)とその周辺が、ニーダーエースタライヒから分離され、新生チェコスロバキア共和国(以下、チェコという)に属することが確定したのだ。それに伴い、駅はチェコ語の地名に基づきチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 駅(下注)に改称された。

*注 もとのドイツ語地名であるヴィーランツ Wielands をチェコ語に言い換えたもので、「チェコのヴィーランツ」を意味する。

グミュントが運行拠点のヴァルトフィアテル鉄道にとって、これは頭を抱える裁定だった。1920年7月の条約発効後しばらくの間、チェコ側では列車を空のまま発車させ、国境を越えたオーストリア側の最初の停留所で客を乗せる措置がとられた。その後1922年に国鉄が、オーストリア側に以前からあったグミュント・シュタット Gmünd Stadt 停留所を駅に改修するのに合わせ、狭軌の線路も延伸して、ここを列車の起点とした(上図3段目参照)。

ただしこの時点では、機関庫と修理工場はチェコに残されたままで、北線も一部でまだチェコ領を通っていた。そのため、機関車は相変わらず旧駅の機関庫をねぐらにしており、新駅との間を回送で走った。また、北線の列車は、チェコ領を無停車(下注)で通過するコリドーアツーク Korridorzug(回廊列車)の形で、リッチャウ方面へ向かったのだ。

*注 短絡線ができる1947年までは旧駅で折り返していたので、停車はしたが乗降はできなかった。

なお、この間1921年にオーストリア連邦鉄道 Österreichische Bundesbahnen(BBÖ、後にÖBB) 、いわゆる国鉄が成立し、狭軌鉄道も国鉄に引き継がれている。

第二次世界大戦もまた、ヴァルトフィアテル鉄道に多大な影響を及ぼした。第一に、チェスケー・ヴェレニツェの鉄道施設が、空爆に曝されて使用できなくなった。そのため、グミュント・シュタット(1946年に「グミュントNÖ」に改称)に、新たに狭軌用の機関庫と修理工場が整備された。

第二に、回廊列車の運行を嫌ったチェコスロバキアが、オーストリア側における短絡ルートの建設を促した。チェコが費用を負担して新線が造られ、こうして1950年12月から、北線はチェコ領を通らない現行ルートで走るようになったのだ(上図4段目参照)。

なお、新線開通によりグミュントNÖ 駅西方の三角線は不要となったが、車両の方向転換用にまだ残されている。しかし、蒸機は復路でも向きを変えず、バック運転、いわゆる逆機で戻ってくるため、日常運用でこれが使用されることはない。数奇の歴史を秘めた三角線だが、レールはもはや錆びついてしまっている。

三角線とそれに続くチェスケー・ヴェレニツェ駅前までの廃線跡の現状は、下の写真を参照されたい。

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グミュントNÖ 駅西方の三角線(下図①)
気動車が通っているのが三角形の他の一辺
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(左)立体交差するÖBB線の列車から三角線を北望
(右)三角線の西端は国境手前で途切れている
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(左)国境のラインジッツ川を渡る廃線跡遊歩道(②)
右手前にÖと刻まれたオーストリアの国境標が見える。この付近ではラインジッツ川の中心線に国境があるが、鉄橋とその敷地はチェコ領のため、国境線がこうして川の右岸(東側)に張り出している(南にある標準軌線の橋梁も同様)。
(右)チェコ側も遊歩道に(③)
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チェスケー・ヴェレニツェ
(左)街角の路地が遊歩道入口(④)
(右)駅までの廃線跡は公園化され、マロニエの並木が続く(⑤)
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現 チェスケー・ヴェレニツェ駅舎は戦後の再建(⑥)
駅前にあった狭軌線施設も戦災に遭い、解体撤去された
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グミュント周辺の地形図に廃線跡等を加筆
図中の①~⑥は上掲の写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ようやく運行体制を整えたヴァルトフィアテル鉄道だったが、戦後は自動車交通の進展に伴い、緩やかな衰退に向かい始める。蒸気機関車が定期運行を担うオーストリア最後の鉄道(登山鉄道を除く)として、ファンの人気を集めたのもつかの間、1986年にハイデンライヒシュタイン支線を含む北線の一般旅客輸送が、1992年にはハイデンライヒシュタイン支線の貨物輸送が休止となった。2000年には南線の貨物輸送、2001年1月に北線で残っていた貨物輸送の休止と段階的な縮小が実施され、ついに2001年6月9日、南線における一般旅客輸送の終了をもって全線休止となったのだ。

一方、観光列車の運行が1979年に開始されており、一般輸送廃止後は、もっぱら観光による地域開発のために鉄道が維持されている。運行事業者は、州の公営企業であるニーダーエースタライヒ運輸機構有限会社 Niederösterreichische Verkehrsorganisations-Ges.m.b.H (NÖVOG) だが、2010年にはインフラもÖBBから移管されて、鉄道運営の一元化が図られた。

なお、北線のハイデンライヒシュタイン支線(アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg~ハイデンライヒシュタイン間)については、非営利法人のヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会 Waldviertler Schmalspurbahnverein (WSV) が「ヴァッケルシュタイン急行 Wackelstein-Express」の名で走らせている。

狭軌鉄道の車両群は、基本的にグミュントが拠点だ。日常的に使われるのは、1986年ノッツ Knotz 社製5090形気動車3両(VT08、VT11、VT13)で、その塗色から「金色のディーゼルカー Goldener Dieseltriebwagen」と呼ばれる。オーストリアの多くの760mm軌間で運行の主力を担っているものと同形式の車両だ。

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5090形気動車
 

北線で日祝日、南線で水・土曜に走る古典列車編成は、蒸気機関車またはディーゼル機関車が牽引する。前者はクラウス社 Krauss & Co による1906年製のテンダー蒸機で、Mh.1 および Mh.4(下注)の2両が在籍している。もともと山岳路線のマリアツェル鉄道 Mariazellerbahn 向けに造られており、連続勾配・急曲線に適応した性能をもつ。南線の「ヴァルトフィアテルのゼメリング Waldviertler Semmering」と呼ばれる山登り区間が、一番の見せ場だ。後者は1950~60年代製の機械式ディーゼル機関車で、V5とV12の2両が就役している。

*注 形式名の M はマリアツェルの頭文字、h は過熱式 Heißdampf を表す。マリアツェル鉄道については「オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 I」参照。

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蒸機 Mh.4 が2軸客車を牽く
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ディーゼル機関車 V5 と V12
 

観光輸送に特化されたヴァルトフィアテル鉄道は、シーズン限定の運行だ。2019年の場合、北線は5月1日~9月29日、ハイデンライヒシュタイン支線は7月13日~9月1日、南線は4月27日~10月27日で、しかも7月~9月第1週のハイシーズン以外は平日(水曜を除く)運休になる。また、1日の運行本数も1本から多くて3本までなので、訪問する際は、運行日と時刻表をよく確かめておく必要がある。

では次回、まず北線から、路線の特色や車窓風景について紹介しよう。

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト)  https://www.waldviertelbahn.at/
ヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会(ヴァッケルシュタイン急行) http://www.wsv.or.at/cms/

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