廃線跡

2026年6月10日 (水)

ナウムブルク市電-保存トラムが担う都市交通

ナウムブルク路面軌道 Straßenbahn Naumburg

ハウプトバーンホーフ(中央駅)Hauptbahnhof~ザルツトーア Salztor 間 2.9km
軌間1000mm、直流600V電化
1892年蒸気運転で開業、1907年電化、1991年運行休止
1994年保存運行開始

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中央駅停留所で客扱い中のレコワーゲン

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フランクフルト発のICEがお約束のごとく遅延したため、エアフルト Erfurt で乗継げるはずの RE(快速列車)に間に合わなかった。ナウムブルク Naumburg の中央駅に着いたのは予定より1時間後で、時計の針はもう正午をとうに回っている。

ナウムブルク(下注1)はエアフルトとライプツィヒ Leipzig の中間に位置する人口3万人強の地方都市だ。この町にも路面電車が走っている。ナウムブルク路面軌道 Straßenbahn Naumburg が運行する1本きりの路線で、延長2.9km。運営事業体単位では、ドイツ最小の路面軌道とされる(下注2)。

*注1 同名の町と区別するために、ナウムブルク・アン・デア・ザーレ Naumburg an der Saale と呼ばれる。ドイツ語の正式表記は Naumburg (Saale)。
*注2 路面蒸気機関車で運行されるキームゼー鉄道 Chiemseebahn が1.9kmとさらに短いが、分類は地方鉄道で、併用軌道区間もない。「キームゼー鉄道-現存最古の蒸気トラム」参照。

特色はそれだけではない。業界主流の連節低床車両が1台もなく、最も新しいもので1970年代生まれという古典単車だけで日常運行を賄っているのだ。ほかの都市なら週末の特別運転でにぎにぎしく登場するような旧車が、毎日入れ替わりで市内を行き来している。ライプツィヒに向かう途中、この町に寄り道したのは、この保存鉄道のような「市電」のようすを直接確かめたかったからだ。

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DBナウムブルク中央駅
(左)ローマ建築風の正面入口
(右)ボンバルディア製タレント Talent 2 のREで到着
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ナウムブルク市街と軌道路線図
赤の実線は現行路線、黒の破線は廃止線
© 2026 basemap.de / BKG

ナウムブルクに幹線鉄道が通ったのは1846年という早い時期だ。ハレ Halle (Saale) からエアフルト、アイゼナハ Eisenach、ベブラ Bebra に至るテューリンゲン鉄道 Thüringer Bahn の経由地の一つとされ、現在の中央駅も同時に開業した。しかし、駅はザーレ川 Saale が流れる低地に設置されたため、河岸段丘上に位置する市街地とは約1.5km離れ、高低差も30m近くあった。

両者の連絡で最初に構想されたのは馬車軌道だったが、段丘を上る坂道がネックとなり実現しなかった。ようやく1892年に蒸気運転による路面軌道が開業して、町は駅と結ばれた。当初は民間資本で運営されたが、赤字続きで1900年に倒産したため、市が買収に踏み切る。市営になったことで、1907年には念願の電化を果たした。

中心街のマルクト Markt を通って南のザルツトーア Salztor を終点としていた軌道は、まもなく市街の西側へ延伸される。1914年にはさらにその先端が中央駅まで届いて、全長5.4kmの環状線が完成した。単線ながらも、電車は時計回りと反時計回りでそれぞれ環状運転されるようになった。

東ドイツ時代も国有企業のもとで運行は続けられたが、1990年のドイツ再統一後は、自動車の増加と地域経済の不振により、利用者が激減してしまう。改修工事を理由に1991年8月に運行が中断されたまま、市は復活を断念した。

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環状線時代の路面電車(1990年)
(左)中央駅停留所
(右)マルクグラーフェンヴェーク Markgrafenweg 付近
Photo by Gustav Stehno, @ Tramwayforum.at
 

再建のきっかけは、1994年、残された軌道で保存トラムによる観光事業を企てた有志が「ナウムブルク路面軌道」を設立したことだった。最初は、車庫を起点に一部区間で散発的な運行が実施された。

会社は環状線の完全復興を目指していたが、市と意見が折り合わず、結局、東側の中央駅~フォーゲルヴィーゼ Vogelwiese 間で、2006年のイースターから毎週末の運行が始まった。事業は好評で、翌2007年から毎日運行となり、駅と旧市街の外縁を結ぶ交通手段として定着していく。

2010年にはついに、市バスのように州の補助対象となる ÖPNV(近距離公共交通機関 Öffentlicher Personennahverkehr)に認定され、事実上「市電」と呼べる存在になった。また2017年には、フォーゲルヴィーゼからザルツトーアまでの軌道延伸が実現し、現在のルートが完成している。

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停留所に掲げられた運賃表と路線図
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マリーエントーア Marientor 付近を行く電車

ナウムブルク中央駅 Naumburg Hbf は、列柱が支えるポルティコを正面に据えた古典的なデザインが印象的だ。そのファサードを出ると、目の前のささやかな駅前広場に、路面電車の乗り場「ハウプトバーンホーフ(中央駅の意)Hauptbahnhof」がある。

以前は、駅前通り Bahnhofstraße の東の角が起点だったのだが、2018年に、より駅に近い現位置まで50mほど延伸・移設された。時を遡れば、環状線時代の停留所はここにあったので、30年の歳月を経て旧に復したことになる。シンプルな棒線駅だが、すぐ先の駅前通りに行き違いループが残されている。

時刻表によれば、路面電車の運行は30分間隔だ。終点まで所要11分なので、通常1編成がシャトル運行している。土曜の日中のみ毎時1往復が増便され、途中で列車交換がある。運賃は片道2.40ユーロ(2025年現在、下注1)だが、ÖPNVなので、ドイチュラント・チケット  Deutschland-Ticket(下注2)も有効だ。

*注1 中部ドイツ運輸連合 Mitteldeutscher Verkehrsverbund GmbH (MDV) の1区運賃。
*注2 略称 D-Ticket。ドイツ全土のSPNV(地方公共交通機関)やÖPNVが月単位で乗り放題の格安切符。

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(左)中央駅手前の行き違いループ
(右)トラムのイラストが描かれた停留所標識
 

次の発車は13時ちょうど。しばらく目を離しているうちに、もう10人ほどがホームに集まってきている。5分前に電車が通りの角から姿を現し、定位置に停車した。

公式サイトによれば、本日の車両は、1973年にベルリンのシェーネヴァイデ鉄道修理工場 Raw Berlin-Schöneweide で製造された2軸、両運転台のTZ 70/1形51号車で、いわゆる「レコワーゲン Rekowagen」の仲間(下注)だ。長年、近隣イェーナ(イエナ)Jena の市内を走っていたが、2001年5月からナウムブルクで第二の人生を送っている。

*注 「レコ」は改造 Rekonstruktion の略だが、ほぼ新造車も含まれる。

系統幕に4とあるとおり、路面電車は4系統 Linie 4 を名乗る。これは、定期運行再開時に市内バスの1~3系統に準じて付番されたからだが、後にバスが101~103系統に改番されたため、1~3は現在、欠番になっている。

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(左)TZ 70/1形51号車
(右)車内はボックスシートが並ぶ
 

降車が終了すると、逆側の扉が開いて、待っていた客が乗込み始めた。その間に別の客も次々とやってきて、結局20人前後が乗車した。けっこう盛況だ。車内は、2人掛けと1人掛けの広めのボックスシートが並んでいる。バリアフリーに適合しない高床車とはいえ、乗ってしまえば快適だ。

客が多かったので、定刻より少し遅れて発車。最初は静かな駅前通りを行く。線路は右端に寄せられ、車道とも歩道とも明確に区切られているので、実態は道端軌道だ。段丘崖を覆う森の前で左に曲がると、道は上りになる。昔はもっと急坂だったのだろうが、今は切通しで勾配が緩和されていて、これなら馬が牽くトラムでも上がれそうだ。

児童公園の角で右折してすぐ、イェーガープラッツ Jägerplatz 停留所がある。ここは保存運行の初期に折返し点だったところで、道路の中央を通っていた当時の旧線の一部が、待避線とともに残っている。

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イェーガープラッツ停留所付近
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道路中央に残る旧軌道
(左)南望、待避線の一部も残る (右)北望、左は現在線
 

ポスト通り Poststraße に入り、市立公園 Stadtpark の豊かな木立を右に見ながら進んでいくと、左側にネオルネッサンス様式の煉瓦建築、マリーエンシューレ(聖マリア女子学校)Marienschule が目に入る。その隣がこの路面軌道の車庫 Depot だ。

きょうは水曜で公開日ではなかった(下注)が、扉が開いていたので、収容されている先頭の車両は外からも観察できた。右にいるのは1959年製のゴータカー Gothawagen T57形37号車だ。シュトラールズント Stralsund を皮切りに数都市を渡り歩いて、最後にイェーナからここへ引き取られた。その左は、今乗っているTZ 70/1とペアを組む付随車 BZ 70/1形19号車だが、朝夕の多客時に向けて出動待ちだろうか。

*注 3月から10月の毎週土曜午後に一般公開されている。

露天の留置線には、37号とともに定期運行に供されている38号や、1955年製でナウムブルクのゴータカーでは最古参の ET54形29号の姿もあった。塗色をそれぞれ出身都市のオリジナルカラーのままにしているところは、保存鉄道として創業した会社の矜持だろう。

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路面軌道車庫
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(左)左はナウムブルク色のゴータカー38号、
   その後ろに29号、右はゴータ色の202号
(右)イェーナ色のゴータカーT57形37号
 

車庫前を通過すると、ラウンドアバウトのハインリッヒ・フォン・シュテファン広場 Heinrich-von-Stephan-Platz を見ながら、電車の針路は南に向く。通っていくのは、旧市街を囲んでいた市壁の撤去跡に造られたリング Ring と呼ばれる環状道路だ。軌道は道路の右側のゆったりとした緑地帯に、歩道を伴って敷かれている。並木の蔭でレールは芝生に埋もれ、まるで緑のじゅうたんの上を行くようだ。

旧市街の最寄りとなるクルト・ベッカー・プラッツ(広場)Curt-Becker-Platz 停留所には、二つ目の行き違いループがあった。しばらく行くと、リングはまた右に90度曲がって、西に向かう。暫定終点だったフォーゲルヴィーゼ停留所を過ぎればもう最後の区間で、緩い右カーブの先に終点ザルツトーアのホームが見えてきた。車内の客は途中の停留所で少しずつ降りていったので、最後まで乗り通したのは数人だった。

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(左)タインブルク橋 Thainburgbrücke 付近
(右)終点ザルツトーア Salztor に到着
 

時刻表では折返しまでに3分の余裕があるが、遅れて到着した電車は、すぐに中央駅へと戻っていった。リング沿いのルートは緑が豊かで、車窓から眺めていても心が和んだが、旧市街の風景を拝まずに帰るのは口惜しい。次の電車を待つ間に、歩いて5分ほどのところにあるマルクト広場 Marktplatz へ向かおう。

マルクトは市の立つ広場で、町の中心を成し、美しい装いの建物が建ち並んでいる。路面軌道も1976年まではこの広場を経由していた。ところが、広場と周辺の街路からクルマを締め出して歩行者天国にすることになり、その際、電車の線路も道連れにされて、今のルートに付け替えられたのだ。

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旧市街のヤーコプス通り Jakobsstraße は軌道旧ルートの一部
 

旧軌道の一部は撤去を免れ、廃止から50年経ってもまだ残っている。広場の北側で、石畳に埋まる二股に分かれた線路がそれだ。ここにはマルクト停留所があった。広場の北東端まで行くと、軌道は右に急カーブして南を向く。そこでいったん途切れるが、続きはカフェのテラス席の下を通って、広場の南東端まで延びている。

もう一か所、痕跡があるのは旧市街北縁の、市立公園に沿うポストリング Postring と呼ばれる静かな通りだ。路面軌道の車庫の方から歩いていくと、木陰の石畳道に突如として線路が現れ、南へおよそ100m続いている。リングの中でも交通量の少ない区間なので、道路が再舗装されなかったのが幸いしたようだ。

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マルクトに残る旧軌道の停留所跡
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旧軌道の一部はカフェのテラス席の下に
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(左)ポストリングに残る旧軌道
(右)旧軌道は約100mで終わる
  次の交差点から先は自転車・歩行者道に転換された
 

このポストリングに続くリンデンリング Lindenring は、マルクトを中心とする市民の町と、市壁の外側にある大聖堂(下注)の門前町との境で、名前のとおり、うるわしい菩提樹の並木道だ。その中央にピンコロ石で区切られた自転車・歩行者道が走っている。これがおそらく軌道跡だ。

このあと電車は先刻歩いたマルクト広場へ向けて、商店がひしめくヘレン通り Herrenstraße をすり抜けていくのだが、かつての光景を伝えるものはもはやどこにも残っていない。

*注 ナウムブルク大聖堂 Naumburger Dom は13世紀に創建された由緒ある聖堂で、世界遺産に登録されている。

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世界遺産のナウムブルク大聖堂(2018年)
Photo by Krzysztof Golik at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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ヘレン通り、かつてここにも電車が走っていた
 

■参考サイト
ナウムブルク路面軌道 https://naumburger-strassenbahn.de/
ナウムブルク=イェーナ近距離交通友の会(保存団体)Nahverkehrsfreunde Naumburg-Jena e.V.  https://ringbahn-naumburg.de/
ブルゲンラント郡旅客交通 PVG Burgenlandkreis https://www.pvg-burgenlandkreis.de/

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2026年5月18日 (月)

コンターサークル地図の旅-神岡鉄道レールバイクと神岡軌道跡

2026年春のコンター旅、最終回の舞台は岐阜県飛騨市(下注)だ。レールマウンテンバイク「ガッタンゴー」で、神岡鉄道の廃線路を走った。

*注 正式には飛「驒」市だが、飛「騨」市の表記も許容されている。本稿では旧駅名を含め、飛騨と記す。

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「渓谷コース」第一高原川橋梁
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図1 神岡鉄道時代の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

特定地方交通線として廃止対象に挙げられた国鉄神岡線が第3セクターの神岡鉄道に引き継がれたのは、1984年10月のことだ。旅客輸送もさることながら、神岡鉱山の精錬で排出される硫酸の輸送手段として維持する必要があった。そのため、荷主がこれをトラック輸送に切り替えると、とたんに経営が成り立たなくなり、2006年12月に神岡鉄道の運行は終了した。

その廃線跡を町おこしに生かすべく、翌2007年から試験的に始まったのが「ガッタンゴー」だ。神岡鉄道は、JR高山本線に接続する猪谷(いのたに)から奥飛騨温泉口に至る19.9kmの路線だったが、そのうち、終点側の奥飛騨温泉口から神岡鉱山前までの2.9kmを、客がレールバイク(軌道自転車)を漕いで往復走行する。

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「まちなかコース」の発着点、奥飛騨温泉口駅
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(左)旧神岡鉄道の駅舎が残る
(右)駅舎の壁に保存された国鉄時代の駅名標
 

これが好評を博し、観光イベントとして定着したことから、2018年には、旧 漆山(うるしやま)駅を拠点とする3.3kmの渓谷区間が追加設定された。以来、奥飛騨温泉口を発着する「まちなかコース」と、漆山発着の「渓谷コース」の2本立てで募集されている。

私たちはこれを、午前と午後ではしごする計画を立てた。人気は相変わらず高く、予約がすぐ埋まるので、2月中旬にネットで手続きを済ませてある。

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ガッタンゴーのリーフレット

2026年5月11日、8時に高山駅改札前に集合したのは、大出、中西、私の3名。近くのレンタカー店でスズキ ソリオを借りて出発した。国道41号から県道75号飛騨朝霧街道、農免農道の神岡カントリーロードを経由して、「まちなかコース」の集合場所、旧 奥飛騨温泉口(国鉄時代は神岡)駅へ向かう。受付時刻より早く着いたので、先に軽便線の神岡軌道跡を見に行ったが、それについてはまた後ほど…。

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「まちなかコース」の発着デッキ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と「まちなかコース」のルート等を加筆
 

「ガッタンゴー」は、冬期を除いて週6日営業している(繁忙期は無休)。「まちなかコース」の場合、おおむね1時間ごとの出発で、平日6便、休日や夏の繁忙期は8便という頻繁運行だ。きょうは月曜なので、私たちが乗る10時発が初便になる。料金は1台4000円(下注)。

*注 これは標準的な2~3人乗りの場合。「まちなかコース」では、他に4人で漕ぐタンデム車や1人で漕ぐサイドカー付きなど数種類の車両があり、料金も異なる。

発時刻の20分前までに受付を済ませて、駅舎内の説明会場に集合した。「(途中で)降りない」「止まらない」「ぶつからない(=適度な車間距離)」の注意事項を聞いたあと、ヘルメットを着用して、乗り場へ移動する。

レールバイクは昨年、吾妻峡(下注)で乗ったのと同じ構造だった。2軸の簡易台車に電動アシストつきマウンテンバイク2台を並列固定してあり、中央に設置された補助席を加えて、都合3人が乗れる。私は補助席へ。シートベルトの装着は必須だが、両手が自由なので取材にはありがたい。

*注 吾妻峡レールバイクについては、「コンターサークル地図の旅-吾妻峡レールバイクと太子支線跡」参照。

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(左)3人乗りレールバイク
(右)スタッフが乗るスーパーカブ固定の台車
 

スーパーカブ固定の台車に乗ったスタッフが先導し、客が乗る4台がそれに続いた。私たちのは1号車で、行きは先頭を走る。駅構内を出て、新緑が映える高原川(たかはらがわ)の渓谷を右手に見ながら、ゆっくり下っていった。天気も上々で、アウトドアには格好のコンディションだ。

ホームがもとのまま残る神岡大橋駅跡を通過する。ここは3セク化の際、新規に開設された駅だった。20‰の下り勾配標の後、すぐに一つ目のトンネル、長さ352mの第二神岡トンネルに入る。内部に照明はないが、自転車のヘッドライトが自動点灯するのでほんのり明るい。

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(左)スタッフの先導でいざ出発
(右)高原川の渓谷を渡る神岡大橋が右手に
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(左)神岡大橋駅跡を通過
(右)20‰の勾配標を見て第二神岡トンネルへ
 

直線でこれを抜けると、山田川の谷を横断する長さ120mの神岡橋梁の上に出た。足もとの谷筋を旧 神岡町の中心、船津の市街地が埋めている。橋梁の下手には、市街地の最寄りだった飛騨神岡(国鉄時代は飛騨船津)駅の朽ちかけたホームが残っていた。

続いて第一神岡トンネルに突入する。長さが524mあり、渓谷コースも含めてレールバイク区間で最長だ。トンネルは中で右カーブしている。

闇を抜けて今度は左に緩く曲がると、折返し点となる旧 神岡鉱山前駅(国鉄時代は神岡口)の広いヤードが見えてきた。並走する線路をポイント(分岐点)で次々に渡っていくので、列車の運転士になった気分だ。最も右寄りの側線に乗降場があり、先回りしていたスタッフがこちらに止まれのサインを送っている。

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山田川の谷をまたぐ神岡橋梁
奥のホームは飛騨神岡駅跡
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(左)第一神岡トンネルを抜ける
(右)折返し点、旧 神岡鉱山前駅の広いヤード
 

到着した後は自由休憩の指示があり、いったん車両から離れた。その間に、スタッフが1両ずつ車両を方向転換させる。車体の中央に寝かせてある牽引棒を起こし、それを軸にして半回転させる手順で、吾妻線と同じ方式だ。

駅は川岸から一段高い場所に位置する。右手の低地には市街地が広がり、その奥の段丘上に神岡城が望める。手前に目を移すと、対岸の建物群は神岡鉱業の精錬所だ。採掘は2001年に終了したが、リサイクル事業で今も稼働しているのだそうだ。

一方、山側にある駅のホームと待合室は開放されていて、鉄道現役時代の案内板や資料が壁を埋めている。隣接する車庫にKM-100形おくひだ号が格納されているのだが、窓ガラスが朝の光を反射して写真には撮れなかった。

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レールバイクの方向転換作業
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市街地と神岡城(中央右寄り)の眺め
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神岡鉱業の精錬所施設
 

10分ほど経ったところで招集がかかった。復路では1号車が最後尾だ。第一神岡トンネルに入ると、往路にはなかった二筋のイルミネーションが進路を浮かび上がらせている。私は漕ぎ手に回ったが、電動アシストつきとはいえ、20‰の上り勾配がふだん使わない太腿にこたえた。

終点駅の手前で一旦停止。信号に従い、1台ずつデッキ上の乗降場に駆け上がる。正味の走行時間は往路12分、復路14分ほどで、折返し休憩を含めて出発から帰着まで約40分だった(下注)。

*注 公式サイトでは説明・折返し休憩込みで50~60分と案内されている。

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(左)復路は上り勾配
(右)第一神岡トンネルのイルミネーション
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奥飛騨温泉口駅に帰着

午後は「渓谷コース」を体験した。乗り場は、奥飛騨温泉口駅から北へ10.5km、高原川の深い谷の中にある旧 漆山(国鉄時代は西漆山)駅だ。案内の看板に従い、国道41号から左にそれて高原川を渡る。

神岡鉄道のターミナルだった奥飛騨温泉口とは違い、漆山駅はもともと無人の停留所だ。それで、受付窓口のある小さな事務所棟はともかく、プレハブ小屋の説明会場、移動式トイレ、農業用ビニールハウスを利用した屋根付き乗降場と、いずれも仮設仕様だ。休業する冬季にはすべて撤収してしまうらしい。

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「渓谷コース」漆山駅
(左)受付窓口 (右)ビニールハウスの乗降場
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図3 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と「渓谷コース」のルート等を加筆
 

このコースでは、平日1日4便、休日・繁忙期は6便が設定されている。私たちは13時15分発の便を予約してある。便数が少ないことを加味しても「まちなかコース」より人気があるのは確かで、乗り場に用意されたレールバイクは運行上限の13台。予約サイトを覗くと連日完売で、飛び込み参加ではとうてい乗れそうにない。ちなみに料金は1台6000円だが、「まちなか」の窓口でもらった割引券で少し安くなった。

まずは説明会場へ。「降りない」「止まらない」「ぶつからない」の三大心得はさっきも聞いたが、さらに、人里を離れた山中を走行するため、ヘルメットだけでなく腰縄をつけて自転車に固定し(逸脱防止用?)、クマ対策として、車間距離を大きく空けずに、集団で行動するよう注意を受けた。

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「渓谷コース」の安全ルール
 

私たちが乗るのは中ほどの7号車だ。往路はずっと上り坂だが、勾配は15‰と「まちなか」に比べてやや緩い。それに最近の開設で電動アシストの性能もいいのか、太腿の抵抗感はほとんどなかった。序盤は森に包まれた渓谷をひたすら遡るルートだが、やがて左にカーブして最初の大きな橋、第一高原川橋梁を渡り始める。大小の石が散らばる河原を斜めに横断する長さ246mのPC桁橋だ(冒頭写真も参照)。

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(左)旧 漆山駅を出発
(右)序盤は森の渓谷を遡る
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(左)第一高原川橋梁を渡る
(右)深い淵を見下ろしながら
 

足もとにターコイズブルーの水を湛える淵を見下ろしながら、スノーシェッドに続いて長さ430mの第一漆山トンネルへ。これを抜けると現れるのが、コース一番の見どころである第二高原川橋梁の赤いトラスだ。渡り終えた線路は、間髪を入れず次の第二漆山トンネル(長さ285m)に吸い込まれていく。

最後に、第一と同じように左カーブしたPC桁の第三高原川橋梁(112m)を渡って、二ツ屋の折返し点に到達した。「まちなみ」と同様、場内信号機(?)で一旦停止し、1台ずつデッキへのスロープを駆け上がる。往路の所要時間は22分だった。

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(左)スノーシェッドから第一漆山トンネルへ
(右)ヘッドライトが進路を照らす
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トラスの第二高原川橋梁から第二漆山トンネルへ
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第三高原川橋梁を渡るとまもなく二ツ屋の折返し点
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折返し点のデッキでしばし休憩
 

ここでも約10分間の休憩が取られる。二ツ屋は鉄道の旧駅ではないが、この先トンネルと鉄橋の連続で適当な空地がないから、折返し場所に選ばれたのだろう。

復路は漕ぎ役を交代して、私は補助席へ。スタッフの「ゴー、レッツゴー」という元気な掛け声に送られて、再び1台ずつ出発した。下り坂につき、先行車のスピードが落ちるとすぐに追いついてしまう。風に乗って快調に走ったので、わずか15分ほどでもう起点のビニールハウスが見えてきた。折返し休憩を含めて、出発から帰着までの所要時間は約50分だった(下注)。

*注 公式サイトでは説明・折返し休憩込みで60~75分と案内されている。

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スタッフの掛け声を受けて復路出発
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快調に走って漆山駅に帰着
 

なつかしい人里を眺めながら走る「まちなかコース」と、クマが出そうな深山幽谷を行く「渓谷コース」。風景は対照的だが、どちらもカーブ、坂道、トンネル、橋梁と変化があって、おもしろさは甲乙つけがたい。廃線になると人々の関心は遠のきがちだが、線路さえ剥がしてしまわなければ、何なりと活用法はあるものだ。

■参考サイト
「ガッタンゴー」 https://rail-mtb.com/

「ガッタンゴー」の空き時間を利用して、私たちは周辺に残る神岡軌道の遺構もいくつか見学した。

神岡軌道というのは、国鉄神岡線が1966年に開業する以前に、この鉱山町に通じていた610mm(2フィート)軌間の軽便線だ(下注)。1910(明治43)年から1920(大正9)年にかけて、神岡町まで順次開業している。当時まだ現在の高山本線(当時は飛越線)はなく、起点は、富山鉄道(当時は富山軽便鉄道、後の富山地方鉄道笹津線)に連絡する笹津に置かれていた。

*注 当初は762mm(2フィート6インチ)軌間だったが、全通までに610mmに改軌。

富山からの飛越線が1930(昭和5)年に猪谷まで開通すると、軌道は対岸から神通川に架橋して、翌1931年から猪谷を起点とするようになる。また、1937年から1958年までは、森林鉄道からの連絡運輸のために、さらに上流の浅井田(あさいだ)に至る延伸線もあった。町にとって軌道は外界とつながる生命線だったが、国鉄の新線建設が始まると存在理由を失い、1963年から1967年にかけて順次廃止されていった。

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奥飛騨温泉口駅の保存車両
(左)神岡鉱山の電気機関車
(右)神岡軌道とほぼ同型の立山砂防軌道ディーゼル機関車(2020年に此地に到来)
 

遺構の一つ目は神岡に着く前、飛騨朝霧街道の神原トンネルを出て間もなく右手に見えるオブジェ群だ。草原の中に短い線路が敷かれ、有蓋貨車やレールバイクが置かれている。貨車は実物のようで、神岡軌道の歴史を記したプレートが貼り付けてあった。軌道のルートからは遠く離れているが、神岡への旅の前説というべきスポットだ。

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神原峠の神岡軌道オブジェ群
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(左)軌道に載る有蓋貨車
(右)神岡軌道の歴史を記すプレート
 

冒頭でも触れたように、「まちなかコース」に参加する前に、川向うにある坂巻橋梁跡を訪ねた。高原川の支流、和佐保谷川(わさぼたにがわ)を渡る浅井田延伸線の橋だ。流路を跨いでいた橋桁は撤去済みだが、両側に続くコンクリート高架が残されている。建設からかれこれ90年が経つはずだが、今も変わらず谷間に仁王立ちしているのが印象的だ。

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谷間に仁王立ちする坂巻橋梁
 

「まちなか」と「渓谷」の空き時間は、昼食休憩を兼ねて、神岡城のある城ヶ丘公園へ移動した。この周辺では、段丘崖に沿う形で、浅井田延伸線の跡が自転車・歩行者用の小道になっている。歩いてみると、市街地が眼下に広がって、なかなかいい眺めだ。

神岡軌道敷跡の立札から南は民家が張り付き、狭いながらクルマも通行できる。崖を上ってくる旧道をまたぐガーダー橋があった。きれいに塗装されているが、おそらくオリジナルだ。この廃線跡の公道は、奥飛騨温泉口駅に通じる県道484号との交点まで続く。

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神岡軌道敷跡の立札
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神岡軌道跡の道路
(左)市街地が眼下に広がる (右)旧道をまたぐガーダー橋
 

「渓谷」を乗り終えた後は、近くにある土(ど)駅跡を見に行った。JRの津のような一音地名の駅で、ローマ字表記ではそれより短いことで知られていた。駅は谷あいの発電所の前にあったそうだが、もちろん痕跡は残っていない。そればかりか下流側へ続く廃線跡が、国道のバイパス工事で封鎖されていた。やむなく集落まで戻り、山腹の神社への急な階段を上る。神社の前には明瞭な軌道跡があり、見たかったオーバーハング気味の岩壁へたどり着くことができた。

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(左)土集落の神社脇を通る廃線跡
(右)古レールも散見
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土駅近くにあるオーバーハング気味の岩壁

以下の写真3点は、大出さんが撮影した1984年3月、3セク化を前にした国鉄神岡線のようすだ。

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国鉄神岡口駅、現「まちなかコース」折返し点
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国鉄神岡駅、現「まちなかコース」発着点
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神岡駅当時の駅舎
(今もホーム横に残るが改装されている)
 

廃止直前の2006年9月に撮影した神岡鉄道の写真も提供してもらった(4点とも大出さん撮影)。

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漆山駅北方
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飛騨神岡駅のある神岡橋梁
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神岡大橋駅
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奥飛騨温泉口駅

参考までに、国鉄神岡線が記載されている1:200,000地勢図と1:25,000地形図を掲げる。

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図4 国鉄神岡線時代の1:200,000地勢図
(1972(昭和47)年修正)
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図5 国鉄神岡線時代の1:25,000地形図
猪谷~茂住間(1972(昭和47)年測量)
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図6 同 茂住~西漆山間(1972(昭和47)年測量)
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図7 同 西漆山~二ツ屋間(1972(昭和47)年測量)
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図8 同 二ツ屋~神岡口間(1972(昭和47)年測量)
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図9 同 神岡口~神岡間(1972(昭和47)年測量)
 

神岡軌道が描かれた1:200,000地勢図と1:50,000地形図は以下のとおりだ。なお、この地域の1:25,000地形図は、上掲の1972(昭和47)年測量図が初版のため、神岡軌道はもはや描かれていない。

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図10 神岡軌道時代の1:200,000地勢図
(1955(昭和30)年編集)
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図11 神岡軌道時代の1:50,000地形図
猪谷~茂住間(1966(昭和41)年補測調査、1959(昭和34)年修正測量)
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図12 同 茂住~土間(1959(昭和34)年修正測量)
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図13 同 土~二ツ屋間(1959(昭和34)年修正測量)
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図14 同 二ツ屋~神岡町間(1959(昭和34)年修正測量)
 

1958(昭和33)年に廃止された浅井田延伸線は、1色刷の旧版図に姿をとどめている。

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図15 同 神岡町~浅井田間(1953(昭和28)年応急修正)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和30年編集)、同(昭和47年修正)、同(昭和63年編集)、5万分の1地形図白木峰(昭和41年補測調査)、東茂住(昭和34年修正)、舩津(昭和28年応急修正)、船津(昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図猪谷、東茂住、鹿間、船津(いずれも昭和47年測量)および地理院地図(2026年5月10日取得)を使用したものである。

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2026年4月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-西鉄北九州線跡、大蔵線跡

2026年3月9日のコンター旅は、北九州市内にある二つの廃線跡を訪ねる。一つは、西鉄北九州線のうち枝光線の専用軌道区間、もう一つは、現 JR鹿児島本線小倉~黒崎間の「山線」だった大蔵線だ。

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八幡・中央町交差点を折れる戸畑行き電車
(1984年9月撮影)
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図1 西鉄北九州線現役時代の1:200,000地勢図
(1985(昭和60)年編集)

7時30分、鹿児島本線の枝光(えだみつ)駅に集合したのは大出、山本、私とゲストの田村さんの4名。ここから戸畑まで歩くつもりだが、その前に、日本製鉄の専用線「くろがね線」を走る貨物列車を撮影しようと、近くの跨線橋に張り込んだ。

しかし、運行ダイヤがわからないので、ひたすら待つしかない。大出さんは集合場所へ歩いてくる途中、西向きに走る列車を目撃したそうだ。その時間に西へ行ったのなら、当分戻ってこないのではないか。山の上の学校まで長い坂道を上っていく高校生たちを見送りながら9時まで粘ったが、案の定、もくろみは空振りに終わった。

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くろがね線の新旧鉄橋を西望
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くろがね線の機関車
(左)先頭の電気機関車E8502 (右)後尾のディーゼル機関車
(いずれも大出さん提供)
 

諦めて、本題の廃線跡へ。西鉄北九州線というのは、かつて市内の主要地区をカバーしていた路面電車網だ。門司から小倉、黒崎を経て折尾に至る本線29.4kmのほかに、戸畑線5.5km、枝光線4.8km、北方(きたがた)線4.6kmと3本の支線があった。

*注 軌間は北方線のみ1067mm、他は標準軌1435mm。

このうち八幡東区の中心部、中央町(ちゅうおうまち)から北上して、戸畑線と出会う幸町(さいわいまち)までのルートが枝光線だ。戸畑線や本線の砂津以東とともに1985年10月に廃止されたが、私はその1年前、1984年9月に乗って写真も少し撮っているのでなつかしい。

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図2 1:25,000地形図にルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  枝光~戸畑間
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図3 上図と同一範囲の旧版1:25,000地形図
(1960(昭和35)年資料修正)
 

専用軌道は、現 枝光駅の1.2km南にあった山王(さんのう)停留場付近から始まる。枝光本町で一度路面に戻るものの、くろがね線の鉄橋手前で再び専用軌道になり、市街地を抜けていた。鉄橋下からしばらくの間、跡地は駐車場、民家、コンビニの敷地などに姿を変えているが、比較的たやすくその跡をたどることができる。

旧 枝光駅前を過ぎると、JRの電車線が頭上を斜めに横切るが、その直下に踏切跡の石畳があるのを田村さんが見つけた。複線のレールがあった部分だけ、敷石の間隔が開いている。すぐ先には橋台の対も残されていた。現在は階段道に使われているが、昔は小川をまたいでいたのだろうか。

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(左)くろがね線鉄橋下の軌道跡
(右)現 枝光駅直近の軌道跡
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(左)JR線高架橋下の軌道跡(道路の左側)
(右)踏切跡の石畳
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(左)階段道に残る橋台の対
(右)石垣の上が軌道跡
 

この辺りから牧山の鞍部に向けては、上り坂だ。右手から山が迫ってきて住宅の列が途切れ、左に並走する県道50号八幡戸畑線が見えるようになる。坂の途中に100mほど空地のままの跡地が残されているが、またすぐ民家の敷地に戻り、市道が載る牧山高架橋の下をくぐる。

サミットは、この150m北にある牧山南歩道橋付近だ。この歩道橋はかつて枝光線の牧山停留場に通じていたもので、私は当時、ここで途中下車して、市道の高架橋と歩道橋の上から写真を撮った。しかし今は、崖上から覆いかぶさるように住宅敷地が張り出して、風景が一変してしまっている。

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(左)牧山高架橋から軌道跡を南望
(右)42年前の同じ場所(1984年9月撮影)
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(左)牧山南歩道橋から南望
(右)左に見えるホームは牧山停留場(1984年9月撮影)
 

サミットを越えた下り坂でも宅地や街路が続くが、鹿児島本線の牧山トンネル北口付近には、道を跨いでいた橋の橋台と、JR線にかぶさるコンクリートの薄い橋桁が残っていた。

鹿児島本線のこの区間は、1966年の小倉~折尾間複々線化に際して、牧山の岬を回っていた既存線(現 貨物線)をショートカットする形で造られた新線だ。枝光線の下をくぐったすぐ先で県道をまたぐという離れ業(?)を見せていて、枝光線の橋桁の薄さはクリアランスを確保するための苦心の設計に違いない。

この交差から200m足らずの間は、線路跡の土道が延びている。その終端は築堤で、街路を跨いでいた橋台の片方が残る。反対側は宅地の列が続き、天籟寺川(てんらいじがわ)に架かる昭和橋でようやく市道との合流を果たす。あとは戸畑線と出会うまで、市道の中央を行く路面軌道だ。

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(左)JR線牧山トンネル北口
   街路脇に橋台が残存、JR線は左の壁の裏を通る
(右)JR線を跨ぐ薄い橋桁
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(左)200m続く軌道跡の土道
(右)土道の終端に橋台が残る
 

枝光線を走る電車は、幸町で戸畑線に入り、若戸渡船の渡場前にある戸畑停留場が終点だった。JR戸畑駅を通り抜けてそちらへ行ってみると、停留場跡は空地で残されていた。若戸大橋の巨大なアンカーが目の前にそびえ立ち、渡し場には今も渡船が発着しているが、電車のターミナルだったことを示すものは見当たらない。せめて空地の前に立つ観光案内板に、一言添えてあるといいのだが。

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(左)現在の若戸渡船戸畑渡場
(右)戸畑を発つ折尾行き電車、戸畑渡場は電車の後方(1984年9月撮影)
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(左)戸畑停留場跡は更地に
(右)当時の戸畑停留場(1984年9月撮影)
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若戸大橋の下の渡場風景は昔と変わらない

戸畑駅から八幡駅までJR線の電車で戻り、次は大蔵(おおくら)線跡を訪ねた。

小倉~黒崎間を最短距離で結んだこの路線は、1891(明治24)年に開通した門司(現 門司港)から博多方面に至る九州鉄道のオリジナルルートだ。しかし、長崎街道に沿って内陸を通過するため、途中の大蔵越えと呼ばれる勾配区間が運行上の難所になっていた。

1902年に、戸畑経由で海岸を迂回する新線(戸畑線)が完成すると、主要列車は通らなくなる。国有化後の1908年に大蔵線と改称のうえ、支線に格下げされたのもつかのま、1911年に並行する九州電気軌道(後の西鉄北九州線)が開業したのを機に、あえなく廃止されてしまった。

廃止から115年が経過し、その間に沿線はすっかり市街地化した。もはや当時の情景を想像するのも難しいが、線路跡をなぞる道路をたどりながら、わずかに残る痕跡を追ってみた。

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駅跡を示す大蔵公園の案内板
 

スタート地点は、八幡駅前から国際通りを南下した旧 八幡市民会館の裏手だ。東へ延びる街路が大蔵線跡に沿っている(下注)。しばらく進むと、一つ目の遺構である尾倉(おぐら)橋梁がある。橋梁といっても実態は、谷をまたぐ築堤の下の煉瓦造カルバートで、街路が通り抜けている。

*注 ちなみに西側は、区画整理によって痕跡は消失した。

アーチは幅広だが、制限高はわずか2.0mだ。もとは小川をまたぐためのもので、その上を道路にしたのかもしれない。築堤もとことん利用されていて、北側では法面に勝手擁壁を築いて民家が建ち並んでいる。一方、南側は養生された法面だが、以前は同じように民家の敷地になっていたようだ。

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尾倉橋梁
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(左)橋梁上の旧線跡をなぞる市道(西望)
(右)階段道で下の街路に降りられる
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図4 1:25,000地形図にルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  八幡~大蔵間
 

廃線跡をなぞる市道は、製鉄記念八幡病院の構内を前にして行き止まる。頭上を横切る北九州高速5号線の東側では、山手通りのカーブに名残りをとどめるが、ここは谷地形で、線路は高度を維持するために高い築堤で渡っていたはずだ。現在の山手通りは中央町交差点に向けてむしろ下っていくので、当時の面影は消失している。

八幡東区役所の東側からは、一車線の街路が本来の高度で東へ続く。空中写真を参照すると、廃線跡はこの街路ではなく、その北側に並ぶ民家の列のようだ。

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(左)製鉄記念八幡病院前で行き止まる旧線跡市道
(右)旧線跡と山手通りの重複区間
 

かつて西鉄北九州線が通っていた片側3車線の旧電車通り(県道62号北九州小竹線)が接近してくると、大蔵公園だ。ここには、路線唯一の中間駅である大蔵駅があった。駅は、洞海湾沿いに官営八幡製鉄所が建設されることに伴い、1898年に開業した。いっとき八幡の表玄関として賑わったが、それもつかのま、1902年に戸畑線の八幡駅(下注)が開業すると、あっけなくその役割を終えた。公園の東端には説明板が立ち、足もとに「九銕(鉄)用地」と刻まれた当時の境界標が移設されている。

*注 当時の八幡駅は、現駅の約1km東の旧線上にあった。現位置に移転したのは1955年。

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大蔵駅跡の大蔵公園
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(左)公園石碑
(右)案内板の足もとに移設された「九銕用地」境界標
 

その200m先、両国橋のたもとには、二つ目の遺構、大蔵橋梁の橋脚断片を据え付けたモニュメントがある。これは、目の前の板櫃川(いたびつがわ)を渡っていた橋の煉瓦橋脚の付け根部分で、河川改修が行われる以前は、河原に顔を出していたのだという。ちなみに両国橋は、北の山際を通るもとの長崎街道に対して、電車通りの建設に伴い新たに架けられた橋だ。豊前国と筑前国の境界をまたいでいるので、その名がある。

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大蔵橋梁の橋脚断片のモニュメント
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(左)右端には石積みも残る
(右)かつて橋が架かっていた板櫃川
 

板櫃川を渡った後は、旧電車通り(県道296号大蔵到津線)の1本南を走る市道が、廃線跡をなぞっていく。地元ではこの道のことを「旧線路」と呼んでいると聞いた。センターラインのない街路だが、信号機が少ないからか、けっこう車が行き交う。

旧電車通り沿いのラーメン店で昼食休憩した後、三つ目の遺構、茶屋町橋梁へ向かった。槻田川(つきだがわ)をまたぐ煉瓦アーチの目立つ構造物で、旧線跡の市道からやや南にずれた位置に架かっている(下注)。案内板によると、一時期歩道橋として使われていたため、撤去されずに残ったそうだ。

興味深いのは側壁面で、南側がイギリス積みで滑らかに仕上げられている一方、北側は複線化での拡幅を見越して、煉瓦を交互にせり出したままにしてある。よく似た造りを、平成筑豊鉄道の赤~内田間にある内田三連橋で見たのを思い出した。

*注 旧図と照合する限り、市道と実際の旧線跡がずれるのは、石坪町のカーブ以東のようだ。

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槻田川をまたぐ茶屋町橋梁
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(左)南側壁面は滑らかな仕上げ
(右)北側は煉瓦を交互にせり出し
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図5 同 大蔵~金田跨線橋間
 

大蔵線の見どころは、以上だ。私たちはここで解散したのだが、大出さんによると、この1km東にある九州歯科大附属病院の東側に、大蔵線の築堤の一部がある。現状は、北側の法面が残るものの、南側は盛り土のうえ駐車場化され、もはや築堤とは言えなくなっていたそうだ。

次の痕跡は、国道3号を横断した小倉西高校の南側で、周囲とは異なるマンションの向きが旧線跡を示唆している。清水三丁目交差点からは北東に向かう直線の街路が旧線跡をなぞっていて、旧電車通りの金田跨線橋の下で、現 日豊本線にスムーズに合流する。そのあとは日豊本線が大蔵線跡を引き継いで、小倉に至る。当時の小倉駅は、現在の西小倉駅付近にあった(下図参照)。

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(左)病院東側に残る築堤跡
(右)反対側は盛土して駐車場化
   (いずれも大出さん提供)

参考までに、大蔵線が記載されている1:200,000帝国図と1:20,000地形図(1:25,000相当に縮小)を掲げておこう。

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図6 大蔵線現役時代の1:200,000帝国図(1912(明治45)年製版)
Blog_contour95_map7図7 大蔵線現役時代の1:20,000地形図
 (1898~1900(明治31~33)年測図、80%に縮小)
 黒崎周辺
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図8 同 大蔵周辺(図4と同一範囲)
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図9 同 茶屋町橋梁周辺(図5と同一範囲)
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図10 同 小倉周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1帝国図小倉(明治45年製版)、20万分の1地勢図福岡(昭和60年編集)、2万5千分の1地形図八幡市(昭和35年資料修正)、2万分の1地形図小倉(明治31年測図)、北方、二嶋、黒崎(いずれも明治33年測図)および地理院地図(2026年3月20日取得)を使用したものである。

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2026年3月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-今福線跡

中国山地を横断して広島市と島根県浜田市の間を結ぶ「広浜(こうひん)鉄道」計画は、前回の可部線だけでなく、島根県側にも少なくない痕跡を残している。いわゆる「今福(いまふく)線」だ。

*注 正式な路線名ではなく、通称として用いられる。

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下府川の渓谷に立ち並ぶ今福線旧線の橋脚群
 

これは、山陰本線で浜田から一駅東の下府(しもこう)駅を起点として、内陸の石見今福(いわみいまふく)駅に至る15kmの線区で、1933(昭和8)年に着工された。鉄橋を除いて路盤は完成したものの、太平洋戦争の開戦により線路の敷設に至らず、戦後も工事は再開されなかった。

ところが1960年代に入り、山陽新幹線の建設計画が具体化すると、新幹線駅で接続して山陰地方へ向かう在来新線の整備が議論の俎上に上るようになる。岡山から米子・松江へは既存の伯備線を改良することとし、広島から浜田へは新たな高規格路線を建設することとされた。路線は延長約89kmで、ノンストップの特急列車がこの間を約55分で走破するというものだった。

1969年に石見今福~浜田間の新ルートが、続いて1974年には残る三段峡~石見今福間も着工されたが、1980年の国鉄再建法成立で工事はまたも中断してしまう。

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新旧線の合流地点
手前は新線第一下府川橋梁、右奥は旧線の4連アーチ橋
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図1 今福線周辺の1:200,000地勢図に旧線・新線の位置を加筆
(1986(昭和61)年編集)
 

結局、石見今福の周辺には戦前の「旧線」と戦後の「新線」、二つの未成線跡が残されることになった。未成線跡は全国各地にあるとはいえ、時代の異なる2本のルートが近接して存在するのは珍しい。

地元ではこれを地域おこしに生かそうと、2016年から日を限って線路跡の一般開放を始めた。「幻の広浜鉄道今福線ウォーキング大会」と題するこの行事は、コロナ禍の年を除いて毎年2月に実施されてきた。今年(2026年)は9回目で、2月22日日曜日が開催日だ。

行事では、地元ガイドの先導で、ふだん閉鎖されている旧線の渓谷区間と新線の下長屋トンネル(延長1633m)の通行が可能となる。貴重な機会なので私たちもこれに参加し、その後、イベントのルートから外れる下流区間をクルマで巡ろうと思っている。

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ウォーキング大会案内チラシ

朝7時50分に、浜田市内の宿をレンタカーで出発した。参加者は昨日と同じく、大出、山本、私の3名。起伏の大きな地道を通って、ウォーキング大会の集合場所、金城町今福(かなぎちょういまふく)の今福まちづくりセンターへ向かう。指定された川向うの駐車場は、すでに来場者のクルマで埋まっていた。

センター玄関の受付で参加料300円を払うと、資料とともにキャンディと「カレー券」の入った小袋を渡された。後者は、ウォーキング帰着後にふるまわれる昼食の引換券だ。8時30分、玄関前で行われた開会式には、前の道路にはみ出すほどの人数が集合した。元気なシニア層だけでなく、子ども連れや若者も揃って賑やかだ。参加者総数は264名だったそうで(下注)、リピーターもかなりいるらしい。

*注 テレビ新広島のニュース映像による。

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(左)センター前で開会式
(右)参加者は老若男女を問わない
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図2 1:25,000地形図に今福線のルート・遺構等を加筆
  石見今福~(石見)佐野間
 

注意事項を聞いた後、全員で記念撮影、それから参加者は4つの班に分けられた。混雑防止のために、時間差をつけて行動するのだ。私たちのような市外居住かつ初めての参加者は先頭の第1班に集められたが、それでも数十人規模の集団になった。

まちづくりセンターや隣のJA支店が建っている土地は石見今福駅予定地の一部で、その意味ではすでに遺跡探索は始まっている。しかし、用地が確保されただけで駅の工事は着手されなかったため、境界杭などしか残っていないらしい。

9時過ぎにセンター前を出発して、いざ西へ進む。県道5号浜田八重可部線を横断して最初に現れる見学ポイントが、PC造の今福橋梁だ。下府川(しもこうがわ)を渡るこの地点では、旧線と新線が並走している。旧線跡が今歩いている小道なのに対して、新線はその南側で、橋梁のいかつい躯体をさらしている。前後の築堤が消失しているため、のどかな田園風景の中では異様に目立つ遺構だ。

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田園地帯に残された今福橋梁
 

これを後にすると間もなく、直進する新線跡から左へ、舗装された旧線跡の小道が分かれていく。道端に円筒状の遺構があった。路盤の下をくぐる管路に水を通す「サイフォン(下注)」で、もともとあった水路を線路用地で寸断しないように設けられたものだ。この先にも何か所かあったが、大部分でもう水は流れていないそうだ。

*注 サイフォンの呼称が通用しているが、実際はサイフォン(水を起点より高い位置で越えさせる装置)ではなく連通管の原理を応用している。

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(左)直進する新線に対し、旧線は左へ
(右)円筒状のサイフォン遺構
 

県道41号桜江金城線を横断してなおも進むと、目の前に森が広がってくる。舗装が途切れ、まもなく道の脇に錆びたフェンスが現れた。今日はウォーキングのために開けてあるが、ふだんこの先は閉鎖区間だ。

落ち葉の敷いた土道には、ところどころぬかるむ個所がある。それで、この大会の参加者は長靴持参とされている。しかし、ガイドさんいわく、今年は雪が少なく、先週もいい天気が続いたそうだ。それに、排水用の溝を掘るなど事前の整備も行われているので、スニーカーで歩けないほどひどい路面ではない。長靴代わりに雨天用のシューズカバーをリュックに入れてきたが、幸いにも使わずに済んだ。

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(左)緩いカーブに鉄道の面影をしのぶ
(右)閉鎖区間を示す錆びたフェンス
 

奥へ進むと、山が深まり渓谷の風情が濃くなってくる。下府川に小さな橋が架かり、今福第六トンネルが口を開けていた。トンネルは右にカーブしているが、45.7mの短いものなので、外光がじゅうぶん中まで届く。

トンネルを抜けると、頭上を管路がまたいでいる。これは、上流で取水された農業水路を通すもので、トンネル東口の手前にあったサイフォンからの続きだ。線路跡は川の蛇行部をショートカットしていて、その右岸に沿う水路も二度横切る形になっている。東口では高度差が小さいためサイフォン化が必要だったが、西口では水路の下をくぐれる(下注)。つまり、線路がそれだけ下り勾配になっているということだ。

*注 水路管の高さや道脇の円筒遺構から見て、もとは西口もサイフォンで通しており、旧線放棄後、管路に切り換えたものと推測する。

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今福第六トンネル
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(左)旧線跡をまたぐ水路管
(右)3連アーチの低い橋
 

再び下府川を3連アーチの低い橋で渡り、渓谷の中をさらに降りていく。ウォーキング行事が始まるまでは一面の雑木林に埋もれていたそうだが、樹木の伐採と除草で、林道かと思うほど道筋は明瞭だ。

いよいよ旧線のハイライトの一つ、曲流する下府川をまたぐ3連と4連の連続アーチ橋にさしかかった。上流側の3連アーチは36.8m、下流側の4連は47.8mの長さがある。鋼材の使用が制限されていた時代で、宮原線跡(下注)でも見たような、鉄筋を入れずに造られたとされる構造物だ。

*注 九州の宮原線跡については「コンターサークル地図の旅-宮原線跡」参照。

前者では、橋面から生えている1本のマツが見ものだ。根を張る場所もなさそうなのに、たくましい枝ぶりで、通路整備の際、伐るに忍びなかったのだろうと推察される。

後者は、新線の第一下府川橋梁と近接していて、互いに橋梁を側面から眺めることができる絶景スポットだ。プレートガーダーに代わり、やむを得ず採用されたアーチ橋だが、長い歳月の末に到達した枯淡の風情が好ましい。

橋を渡りきると新旧線の交差地点で、ウォーキングはここで折返す。旧線が北にはみ出す分、広い空地があり、飲み物とポテトを供する屋台が出ていた。簡易トイレも設置してある。

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(左)もう一つの3連アーチ橋
(右)橋面から生えるマツの木
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(左)4連アーチ橋から見える新線の橋梁
(右)新線側から見た旧線4連アーチ
 

約20分の休憩の後、後を追ってきた第2班に場所を明け渡して、再び出発した。復路は第一下府川橋梁に続いて、新線の下長屋トンネルで一気に今福へ抜ける。ここも出入口にフェンスが講じてあり、許可なしではふだん通過できない区間だ。延長が1633mもあるが、完全に一直線で、出口の明かりが小さく見えているから、勾配も均一のようだ。もちろん照明は設置されていないので、懐中電灯で足もとを照らさないと歩けない。

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谷を斜めに横切る新線第一下府川橋梁
右奥は下長屋トンネル
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たもとに立つ案内板
 

ガイドさんが、トンネル断面の形状に注目してくださいという。前半は垂辺が直立した蒲鉾形だが、後半は底辺をやや絞った馬蹄形になるそうだ。もともと2本のトンネルとして設計されたためで、中間の短い明かり区間をつないで1本にしてある。後半が馬蹄形なのは地質が悪く、強度を高めるためだという。地質図を見ると、前半は花崗岩、土被りが浅くなる後半は海成の堆積岩(礫岩、砂岩、泥岩など)のエリアに含まれる。

内部は一部で地下水の浸み出しがあるだけで、路面はおおむね乾いていた。長靴を要すると聞いた時には、てっきり坑内が水浸しだと思ったのだが、そうではなかった。それにしても1.6kmは長い(下注)。出口の明かりがかなり大きくなっても、「まだ半分来てません」と言われたくらいだ。中間部の壁面にはここを棲みかにしているコウモリの黒い塊があった。

*注 コンター旅で徒歩通過したトンネルでは最長。昨年訪れた旧 中央本線大日影トンネルは1367.8mだった。「コンターサークル地図の旅-京戸川扇状地と大日影トンネル遊歩道」参照。

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(左)下長屋トンネル西口
(右)1.6km先の明かりが小さく見える
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下長屋トンネル東口、青空が眩しい
 

トンネルの中では感じなかったが、出口で陽を浴びるともう暑い。それもそのはず、今日は季節外れの暖かさで、まだ2月下旬というのに浜田の最高気温は23.8度に達したそうだ。

この後も新線はなお直線で続き、往路で観察した今福鉄橋に至る。第1班は11時30分ごろ、センターに帰着。ホールで、ボランティアの方の手作りカレーライスをおいしくいただいて解散となった。

このあと私たちは、今福線旧線の残り区間をクルマで巡った。スタート地点は、ウォーキングの折返し点だった新線第一下府川橋梁のたもとだ。

ここから西へ350mの間、旧線跡と重なるようにして新線の路盤がまっすぐ延びている。「鉄楽(てつがく)の道」と名付けられたこの区間は、林道のような状態だが、クルマの通行も可能だ。旧線跡は地形に合わせて緩くカーブしていたため、新線用地の片側が膨らんだように見える個所がある。

新線路盤の終点には、第二下府川橋梁(下注)が架かっている。旧線時代はこの場所に3連アーチ橋があったが、新線建設の際に撤去されてしまった。

*注 名称にもかかわらず、またいでいるのは下府川ではなく、その支流。

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(左)新線路盤「鉄楽の道」
(右)第二下府川橋梁へ続く旧線跡の道(いずれも今福方を望む)
 

新線の路盤はここで終わるが、旧線跡はクルマ1台が通れる舗装道になり、山裾を降りていく。この区間では、下府川が山裾に迫る地点に架かる橋梁、かつて「めがね橋」と呼ばれ、今は「おろち泣き橋」の名がつく4連アーチ橋が見どころだ。命名の理由を知りたければ、獣除け柵のドアを開け、小道をたどって脚元まで降りる必要がある。特定のアーチの前でだけ、反響により音が変化するのだ。川のせせらぎの音が強調されたり、手をたたくとかすかに響いたりして、おもしろい。

佐野町のラウンドアバウトから北へ300m弱、県道301号わきの保育園が、佐野駅(下注)の予定地だそうだ。それから旧線跡は、県道をはずれ、田んぼの間をまっすぐ進んでいく。この区間は農道として使われている。

*注 参考資料では佐野駅とされているが、同名駅がほかにあるので、開業していたら「石見佐野」と称していたと思われる。

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おろち泣き橋(今福方を望む)
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小道をたどってアーチ下へ
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佐野町内、農道に転じた旧線跡
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図3 同 (石見)佐野~今福第一トンネル間
 

山あいののどかな田園風景を後に、やがて下府川は再び渓谷へと流れ込む。狭い谷は宇野町まで約4km続き、その間に旧線のトンネルと橋梁の遺構が点在している。一つ目は今福第五トンネルの前後の橋梁跡だ。上流側、下流側とも、県道から橋台と橋脚各1基が見える。トンネルはごく短いが、JR西日本が横穴に地震計を設置しているそうで(下注)、入口は閉鎖されている。

*注 参考資料によると、山陽新幹線の安全対策として、山陰側の地震を感知する目的とのこと。

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今福第五トンネル前後の橋梁跡
(左)南(上流)側 (右)北側
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今福第五トンネルの現状
(左)南側 (右)北側
 

次は、今福第四および第三トンネルの前後だ。県道脇で、ウォーキング区間でも見たような立派な4連アーチ橋が川を跨いでいる(下注)。この橋を渡り、長さ82mの第四トンネルを通り抜け、支流の谷川をまたぐシングルアーチの小橋までは開放されていて、自由に歩くことができる。一方の下流側、長さ190mの第三トンネルも内部はきれいだが、入口にコンクリート塊のバリケードが置かれていた。

*注 欄干部に「土木学会選奨土木遺産 今福線のコンクリートアーチ橋群」のプレートが嵌っている。

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下府川の渓流に架かる4連アーチ橋
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(左)今福第四トンネル
(右)その先の支流をまたぐ小橋
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(左)土木学会選奨土木遺産のプレート
(右)今福第三トンネルにはバリケードが
 

その第三トンネルの北口の先にも、5連アーチ橋がある。おろち泣き橋と同じく「川を渡らない橋」で、今は県道を縁の下で支える存在だ。そのため、全貌を観察したければ川べりの道まで降りる必要がある。橋は単線幅だが、県道が山側に拡幅されたときに擁壁と一体化された結果、橋とも壁ともつかない構造物になった。

この橋を含め、宇津井(うつい)町内の600m区間では、県道が旧線跡に載っている。かつてこの間にあった今福第二トンネルは、県道拡幅で撤去され、切通しに変えられた。

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県道を支える5連アーチ橋
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擁壁と一体化された構造物
 

次々に現れる橋梁遺跡のなかでもハイライトと目されるのが、今福第一トンネルの手前(南側)で、谷間に高い橋脚が4本立ち並ぶ景観だ。橋台に近い2本は角型だが、川中に立つ2本は水の抵抗を和らげる円筒形と、形が異なる。橋は、完成すれば長さ90m、高さ15mのプレートガーダー橋になるはずだった。しかし、鉄材の使用制限により橋桁が架からず、「渡れない橋」のままになった。

県道脇に造られた階段道をたどると、橋台前の展望台まで上れる。階段を降りてきた先客が、「いい景色ですよ」と私たちに声を掛けてくれた。上に立つと、橋脚の並びは直線ではなく、緩やかに右カーブしているのがわかる。この絶妙な配置が見学者の心を捉えるのかもしれない。

橋の反対側では今福第一トンネルが口を開けている。長さ288mと旧線で2番めに長いが、残念ながら立入禁止の立て札があった。

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谷間に立ち並ぶ4本橋脚群と橋台
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(左)今福第一トンネル南口
(右)展望台に上る階段道
 

渓谷はなおも続き、橋梁がまだ4か所、トンネルも2本(有福第四、第三トンネル)ある。県道を走っていると橋脚が見えてくるので、そのつどクルマを停めて写真を撮った。とりわけ第三トンネルの西口と橋脚2本が連なる景観は印象的で、先の4本橋脚群のミニ版だ。

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点々と残る橋脚
(左)有福第四トンネル手前 (右)有福第三トンネル手前
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有福第三トンネル西口前に並ぶ2本の橋脚
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図4 同 今福第一トンネル~上府第二トンネル間
 

渓谷の出口でまた県道が旧線跡に載り、川沿いのサクラ並木の横を進む。宇野町内では、森原地区に有福駅が予定されていた。現在、消防ポンプ小屋のあるあたりだという。

再び山が迫ると、旧線跡は対岸に渡り、有福第二トンネルに入る。この西口は藪化しておらず、運よく内部を観察することができた。一方、次の有福第一トンネルの状況は不明だ。また、両トンネルの前後の橋梁は河川改修などですべて撤去されてしまった。

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有福第二トンネル西口
 

上府(かみこう)第二トンネルは長さ365mで、今福線内で最長だ。地形図にも明瞭に描かれているとおり、川沿いの県道に比べて近道のため、短い第一トンネルとともに、以前は市道として一般通行に供されていた。今も入口までは到達できるが、内部は老朽化のため閉鎖されている。

上府町内には、上府駅が設置される予定だった。県道50号田所国府線から北に入った市道沿いで、かつては製材所、現在は自治公民館が建っている場所だ。前の直線的な道が旧線跡で、途中にある恩地橋も、小川を渡るだけにしては長いので、鉄道用に造られたものかもしれない。

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旧線最長の上府第二トンネル
(左)東口 (右)西口に通じる旧線跡の道
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短い上府第一トンネル
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(左)上府駅予定地、左の道が旧線跡
(右)恩地橋、橋脚は鉄道用か?
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図5 同 上府第二トンネル~下府間
 

鞍部を一つ越えると、いよいよ下府駅へのアプローチにかかる。左カーブした突き当りに、「幻の広浜鉄道 今福線マップ」の案内板が立っていた。集落道路とのT字交差は、旧線の跨道橋(実態はカルバート)があった跡だという。その先は寺の敷地になり、奥に切通しが残っている。

山陰本線の下府駅は、相対式ホームを備えた無人駅だ。その下りホームの反対側に、今福線の列車が発着する3番線を設ける予定だったという。しかし今や背丈を越える深い藪に埋もれ、そこに列車の姿を想像することは難しい。

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上府町内を直進する旧線跡
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(左)下府の跨道橋があった場所
(右)傍らに立つ案内板
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(左)山陰本線下府駅
(右)右の藪が3番線用地
 

参考文献:今福線ガイドの会 石本恒夫「幻の広浜鉄道今福線を巡る」2019(平成31)年4月

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図浜田(昭和61年編集)および地理院地図(2026年3月10日取得)を使用したものである。

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2026年3月21日 (土)

コンターサークル地図の旅-可部線(あき亀山~三段峡)跡

空気はまだ冷たいものの、よく晴れて日差しがまぶしく、春を予感させる日和になった。2026年コンターサークル-S 春の旅の第1弾は、未成となった広浜(こうひん)鉄道の跡を2日間かけて巡る。

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旧線の雰囲気が保存された旧 安野駅
 

広浜鉄道というのは、広島市から島根県浜田市に至る陰陽連絡の鉄道計画のことだ。古くは1892(明治25)年の旧 鉄道敷設法に、山陰及山陽連絡線の一つとして名が挙がり、1922(大正11)年の改正法でも別表の第94号に、「広島県広島附近ヨリ加計ヲ経テ島根県浜田附近ニ至ル鉄道」と記されている。

このうち広島側では、1909~11年に開業していた横川~可部(かべ)間の軽便線(下注)が1936年に国に買収されて、国鉄可部線になった。路線はその後、太田川の谷沿いに順次延伸され、1954年には加計(かけ)まで、1969年には三段峡まで開通している。

*注 運行事業者は当初、大日本軌道だったが、広島電気(現 中国電力)が買収したあと分社化して、その名も「広浜鉄道」と称していた。

しかし、可部以遠は山間部で、国鉄時代から「赤字83線」に挙げられており、民営化後の2003年に廃止されてしまった。その後2017年に、可部から新駅のあき亀山に至る1.6kmが再開され(下注)、廃止されたJR路線が復活したのは初と話題になったのは記憶に新しい。

*注 可部~あき亀山間については、「新線試乗記-可部線あき亀山延伸」でレポートしている。

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図1 可部線現役時代の1:200,000地勢図
(1987(昭和62)年編集)

一部復活したとはいえ、廃止済みの区間はなお44.6km、駅数も20に上り、一日でひととおり見て回るにはクルマが必須だ。2月21日朝9時45分、広島駅新幹線口に集合したのは、大出、山本、私の3名。近くのレンタカー店で日産ノートを借り、大出さんの運転で出発した。

まずは国道54号を可部まで走り、あき亀山駅の山手にある旧 河戸(こうど)駅の遺構保存地へ向かう。民家の裏庭のような場所に、トタン屋根が架かった待合室がベンチ付きでそっくり移設されている。隣にオリジナルの駅名標も立ち、そこだけ切り取れば旧線時代そのものだ。河戸駅は、現在の河戸帆待川(こうどほまちがわ)とあき亀山間に位置する棒線駅だったが、もはや現地に痕跡は見当たらない。

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(左)移設保存された旧 河戸駅駅名標と待合室
(右)亀山南地区の踏切跡に残る距離標(16kmポストか)
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図2 可部付近の現行1:25,000地形図(2026年3月現在)
  旧線位置を緑の破線で加筆
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図3 可部線現役時代の1:25,000地形図
可部~安芸亀山間(1977~78(昭和52~53)年修正測量)
 

川べりの斜面に張り付く狭い県道267号で、太田川を遡る。川の蛇行部を短絡していた茶臼山トンネルの西口は、フェンスで封鎖されているものの、原状を保っていた。今井田(いまいだ)が廃線区間の最初の駅だが、草むした中に片面ホームと待合室が手つかずで残り、廃線独特の風情を感じさせる。河戸駅も、新線工事が始まる前はこうした状態だったはずだ。

今井田地内では、廃線跡を転用した県道のバイパスが一部完成していた。目下、工事中の個所もあり、旧観が消失するのは時間の問題だ。

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(左)茶臼山トンネル西口
(右)今井田へ向かう廃線跡
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ホームと待合室が残る今井田駅跡
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(左)道路転用工事中の廃線跡(今井田~安芸亀山間)
(右)フリーマーケットの会場になる旧 安芸亀山駅跡
 

次はもとの安芸亀山(あきかめやま)駅だが、新線に駅名を譲ったばかりか、敷地も県道の路肩に提供されてしまい、路傍に立つ「旧安芸亀山駅」と書かれた黄色ののぼり旗だけが目印だ。広い路肩は、毎月1回フリーマーケットの会場になるらしい。

毛木(けぎ)駅周辺は、谷を高い位置でまたいでいる広島自動車道から俯瞰できるので見覚えがある。駅跡にはコンクリート造りの片面ホームが残り、その前後に、厚いバラストを敷いた線路跡の空地が長く続いていた。

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毛木駅跡
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広島自動車道から見る毛木駅西方の廃線跡
(中央の土道、2018年3月撮影)
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図4 同 安芸亀山~小河内間(1978(昭和53)年修正測量)
 

安芸飯室(あきいむろ)では、国道脇に趣きのある木造駅舎が保存されている。空き家で置いているのではなく、駅務室はカフェとして、待合室は直売所として、立派に活用中だ。地元で採れた野菜や持ち寄り(?)の雑貨が所狭しと並べられ、客と店番の会話も飛び交って、なんだか楽しそうだ。駅舎を抜けると、島式ホームと断片ながら線路も残され、移設された信号機に灯が入っている。現役時代の日常風景を凝縮したような不思議な空間だった。

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保存された安芸飯室駅舎
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(左)時刻表が残る待合室は直売所に
(右)ホームや線路もそのまま
 

布(ぬの)駅は、かつての相対式ホームが残置されている。とはいえ、片方は雑草がはびこり荒れ放題、もう一方は廃材置き場だ。可部方では新設の道路が迫っていて、早々に駅跡も道路に転換されそうな気配だった。

対照的に、小河内(おがうち)駅跡はどこに線路があったのか戸惑うくらいの、がらんとした空地が広がる。きれいに草が刈られているので、地元できちんと管理されているのだろう。残された島式ホームから少し離れた盛り土の上に、主のように一本桜が枝を広げていた。駅舎が建っていた場所だと思われるが、手がかりになるものは消失している。

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(左)布駅跡
(右)小河内駅跡
 

ここまで旧 可部線は太田川の左岸(北岸)にずっと張り付いて進んできた。しかし、川の蛇行が顕著な中流域では、右岸と左岸を行ったり来たりするようになり、鉄橋とトンネルが連続する。川を渡るプレートガーダーの鉄橋は、どれもレールが剥がされた以外、旧観を保っていて、側面から眺める限り、いつ列車が通ってもおかしくない。写真に収めるために追崎(おっさき)橋で右岸に移り、崖ぎわを行く対向不能の細道を慎重にたどった。

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第一太田川橋梁
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第二太田川橋梁
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図5 同 小河内~水内間(1978(昭和53)年修正測量)
 

第二太田川橋梁を渡った先にある安野(やすの)駅跡は、「安野花の駅公園」として整備されている。先述の安芸飯室と並んで、旧線の雰囲気がよく保存されているスポットだ。駅舎は一見、無粋なコンクリート造だが、待合室の窓際にしつらえられた木製ベンチや整形の改札柵が昭和の時代感を漂わせている。

その改札口を通して、昔のままの片面ホームと、残された線路に載るキハ58形気動車が見える。広島色と呼ばれた黄色と白のツートンにグレーのラインを添えた外装がいかにも懐かしい。構内には椿、紅梅や桜など花の木が多数植えられ、その間を縫うように線路が200mほど延びる。キハもできるならもう一度走りたいと思っているだろう。

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公園化された安野駅
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(左)駅舎玄関
(右)時代感を漂わせる木製ベンチ
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(左)現役さながらのキハ58形
(右)花の木の間を縫う線路
 

第三、第四の太田川橋梁を渡ると、次は水内(みのち)駅だ。ここはもとの駅前広場が公園になり、正面に片面ホームと両屋根の架かったベンチが、モニュメントのように残されていた。背後の山裾にある村の社の景観との対比がおもしろい。駅から三段峡方の廃線跡は舗装され、集落の裏道に転用済みだ。

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(左)第三太田川橋梁
(右)第四太田川橋梁
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水内駅跡は屋根付きベンチがモニュメントに
 

坪野(つぼの)駅跡は、同じように道路化された廃線跡の途中にある。だが、ホームなどはすべて撤去されてしまったので、部分的に広がった路肩でそれとわかるだけだ。

ここでの注目点は、廃線跡道路の西端、旧道に合流する地点に据えられた「国鉄2万キロ記念碑」だ(下注)。碑文によれば「国鉄の線路延長が2万キロに達した地点であることを記念して、昭和29年(1954)3月、可部線新線開業の日に国鉄下関工事事務所の手で建てられた」。ささやかな石碑なので、意図して探さなければ見逃がしてしまう。

*注 廃線跡の道路転用にあたって移設され、向きも変わっている。

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手がかりのない坪野駅跡
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国鉄2万キロ記念碑
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(左)碑文
(右)裏面はレール断面と「20000」のレリーフ
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図6 同 水内~津浪間(1978(昭和53)年修正測量)
 

この後、線路は第五太田川橋梁で対岸(右岸)に移る。崖ぎわをR160を含む急カーブで通過する線形のきわめて悪い区間だ。田之尻(たのしり、下注)は、可部~加計間で唯一、その右岸に設置されていた。川を見下ろす駅跡では、今井田駅のようにホームと待合室が残されている。清掃用具のロッカーがあり、ホームも路盤もきれいに除草されているので、地元で保全活動が続いているようだ。

*注 開業当時、所在地が旧 山県郡筒賀村だったため、加計~三段峡間開業直前まで筒賀(つつが)駅を名乗っていた。

その北側で支流を渡っていた橋桁は撤去されたが、山の出っ張りを抜ける短いトンネルは、バリケードで封鎖されているものの旧観を維持していた。

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第五太田川橋梁
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坪野~田之尻間の難所を通過
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(左)田之尻駅跡
(右)駅北方で、鉄道と道路のトンネルが並ぶ
 

中国自動車道と交差する第六太田川橋梁で再び左岸に戻れば、津浪(つなみ)駅跡だ。跡地には、道の駅のような商業施設「ぷらっとホームつなみ」が建っている。アユの塩焼きや地元産品を売る傍らで軽食堂が開いていたので、ここでカレーライスの遅い昼食を取った。地形ファンとしては東側にある大きな繞谷(じょうこく)丘陵にも心を惹かれるが、今回は見に行く時間がない。

香草(かぐさ)駅跡は、舗装された空地のへりに寄せて、オリジナルの駅名標と踏切名標を並べてある。駅の前後の廃線跡は、バラストを敷いた農道として使われているようだった。

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中国自動車道と交差する第六太田川橋梁
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(左)津浪駅跡は道の駅風に
(右)津浪~香草間の杣道
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(左)香草駅跡に残る駅名標
(右)香草駅北方の廃線跡
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図7 同 津浪~殿賀間(1978(昭和53)年修正測量)
 

ようやく、廃止区間のなかでも主要駅だった加計(かけ)まで来た。廃線前の列車本数は加計を境に、下流区間が8往復、上流区間が5往復と差があった。運行の拠点とあって、構内には、島式ホームをはさむ本線2線のほかに、側線や車庫も配置されていた。

かつての駅前広場と構内はだだっ広い駐車場に姿を変え、中央に、水内駅で見たようなトタンの両屋根が架かったホームの断片がぽつんと残されている。右手には、「かけはし」という名の観光案内施設がある。室内の一角に可部線ありし日の写真コーナーが設けてあるのはいいが、拠点駅なら、資料や遺品を集めた展示室の一つは望みたいところだ。

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加計駅跡に残されたホーム断片
後ろは観光案内施設「かけはし」
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「かけはし」内部の可部線写真コーナーと加計市街の模型
 

広場の西に、側線と車庫が残されているというので見に行った。波板壁を張った車庫は1両収容できるだけの小さなもので、冬枯れの蔦で屋根の上までびっしり覆われている。裏に回ると、急行の種別幕を出したキハ28形が顔だけ外に出して休んでいた。だが、このうらぶれたようすでは、しばらく放置状態のようだ。廃止から20年以上が経過して、保存に熱意を傾ける人も減っているのだろうか。

ところで、ここは三方から川が集まる地形のため、駅の前後に2本の鉄橋が架かっていた。このうち東側の丁川(よろがわ)橋梁は今も歩道橋として利用されている。一方、西側で長さが285mあった滝山川(たきやまがわ)橋梁は、惜しくも昨年(2025年)撤去されてしまったそうだ。

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(左)車庫で休むキハ28形
(右)車庫へ延びる側線
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図8 加計付近の現行1:25,000地形図(2026年3月現在)
 

戦前に着工され、一部は開業もしていた可部~加計間(下注)に対して、加計から先は戦後の着工になる「新線」区間だ。緩いカーブで築堤が高くそびえ、トンネルは長く、橋梁の多くがPC桁になっている。

*注 可部~安芸飯室間は1936(昭和11)年の開業。安芸飯室~布間は1946年、布~加計間は1954年の開業だが、開戦で工事が中断した時点で路盤はほとんど完成していたという。

「新線」最初の駅、木坂(きさか)も見上げるような築堤の上で、国道から長い階段を上らないとホームにたどり着けない。路盤にレールがないだけでホームと待合室が残され、見た目は整った廃線跡の景色なのだが。

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木坂駅
(左)築堤に上る階段(右)路盤も旧観を残す
 

殿賀(とのが)駅の300m手前に、地元の人が建てた「鉄路可部線(殿賀)変遷記」と題する記念碑があるので見に行った。碑文には、廃線後、跡地のうち掘割り部分は埋めて巡回遊歩道にし、もと殿賀駅付近は公園とする工事が2011(平成23)年に完成した、との旨が刻まれている。

碑が立つ位置の前後は道路化されているが、鉄道にしては大きなアップダウンがあり、碑文のとおり周囲の地形に合うように埋め戻しや築堤の剥ぎ取りが行われたようだ。一方、殿賀駅跡では、ホームと待合室に加えて線路もそのまま残されている。ただ、公園というには殺風景で、遺構の保存地あるいはモニュメントというのがより正確だ。

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鉄路可部線(殿賀)変遷記
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線路も残る殿賀駅跡
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図9 可部線現役時代の1:25,000地形図
殿賀~土居間
 

上殿(かみとの)駅の前後は路盤がおおむね残るが、ホームが撤去されたため駅の位置はわからなくなってしまった。旧道から神社の横を通って駅前に至る道路から推測するしかない。

この後、旧 可部線はいったん太田川から離れて、支流筒賀川(つつががわ)の谷に寄り道していた。筒賀駅は、駅前広場とホームに上る階段が昔のままだ。しかし、ここもホームはもうなく、前後の廃線跡も道路化されてしまった。この道路は右にカーブしながらトンネルへと消えていくが、途中からクルマは入れなくなる。

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(左)上殿駅跡
(右)上殿~筒賀間、太田川を渡る轟橋梁
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(左)筒賀駅の駅前広場とホームに上がる階段
(右)筒賀駅西方、筒賀トンネルに向かう廃線跡
 

線路は、全線最長1018mの筒賀トンネルを抜けて、再び太田川の谷に戻っていた。長々と続く築堤の上に、土居(どい)駅のホームと、鉄骨フレームがむき出しの待合室が原形をとどめている。しかし、珍しく入口に立入禁止の柵が講じてあり、ホームに上がることはできなかった。

戸河内(とごうち)駅跡は、安芸太田町(旧 戸河内町)の行政の中心地で、かつて本郷と称した戸河内の町裏にある。町裏と言っても国道191号が前を通っているので、今では正面かもしれない。跡地は広い駐車場に変わり、奥に駅名標を取り付けた説明板が残るだけだ。一方、駐車場横には、鉄道なき後のアクセス手段となった路線バスの立派な待合所が建てられている。

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(左)土居駅跡
(右)ホームは立入禁止
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(左)戸河内駅跡
(右)路線バスの待合所
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図10 同 土居~三段峡間(1978(昭和53)年修正測量)
 

放置された鉄道橋や築堤がまっすぐ貫いていくのを見ながら、谷間の国道を進む。終点 三段峡駅跡に到着したのは16時15分。ここもほとんどが駐車場を含む空地で、三段峡交流館と称するがらんとした休憩所と公衆トイレがあるだけだ。

裏手の一角に、車止めを施した線路終端が記念碑として残してあった。浜田方面へのさらなる延伸を待つ間の、暫定的なものだったはずだ、と思うとむなしさが胸をよぎる。駅前からものの100mも歩けば、土産物屋に囲まれた三段峡の入口だ。しかし、立て看板によると3月まではオフシーズンだそうで、早くも陽が陰り始めた山峡は寒々として、歩く人の姿はなかった。

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(左)三段峡駅跡の線路終端
(右)傍らに立つ案内板
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ひっそりとした三段峡入口

最後に、大出さんに提供してもらった1999年1月の加計駅と三段峡駅の写真を掲げておこう。

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加計駅ホームのキハ40形(以下は1999年1月撮影)
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三段峡方面は乗換え
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三段峡駅に到着
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三段峡駅前
静態展示のC11 189が見える(現在はイオンモール広島府中の敷地に移設)
 

島根県側の痕跡については、次回に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、2万5千分の1地形図可部(昭和52年修正測量)、飯室、坪野、加計、戸河内、三段峡(いずれも昭和53年修正測量)および地理院地図(2026年3月10日取得)を使用したものである。

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2026年1月25日 (日)

フェン鉄道を歩く

昨年(2025年)6月、ドイツのアーヘン Aachen に宿を取って、風格ある市街とその周辺を訪ねる機会があった。その際、ぜひ行ってみたいと思っていたのがフェン鉄道 Vennbahn の跡だ。

フェン鉄道というのは、アーヘンの南に広がるホーエス・フェン(フェン高地)Hohes Venn を越えてルクセンブルク方面へ延びていた鉄道路線だ。プロイセン国鉄が建設したが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦に伴い、ベルギー国鉄に移管された。しかし、過疎地帯につき貨客ともに需要が乏しく、おおむね1980年代には全線で列車が走らなくなってしまった。1990年代に観光列車による活性化が試みられたが、これも10年ほどで終了し、線路はその後大半の区間で撤去されて、自転車道に姿を変えている。

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フェン鉄道跡の自転車道
 
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フェン鉄道の特異な点は、ドイツ領内を通過している区間を含めて、敷地がベルギー領だったことだ。これは大戦の戦後処理によるものだが、この結果、鉄道用地にブロックされる形でドイツの国土に数か所の飛び地が生じた。後に帰属変更された区域も若干あるとはいえ、鉄道がなくなった今でも、多くが飛び地のままで残されている(下図参照、詳細は「フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I」「同 II」に記述している)。

国境が絡んだ廃線跡はたいへん興味深いが、本線だけでも100kmを越える長さがあり、短期旅行者の身で全貌を追うわけにはいかない。気温の高い季節でもあり、今回は鉄道沿いに運行されている路線バスを乗り降りしながら、ほんの一部を徒歩でたどるにとどめたことをご了解願いたい。

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フェン鉄道のルート北半(赤の実線・破線)
すでに大部分が休止または廃止済
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飛び地付近の拡大図
図中の1~5がドイツ領の飛び地

まず目指したのは、フェン鉄道の経由地の一つで、アーヘンの南30kmにあるモンシャウ Monschau という田舎町だ。フェン高地を水源とするルーア川 Rur が刻む深い谷間に、灰色のスレート屋根がひしめく美しい市街地がある。第二次世界大戦ではいち早く米軍に占領されたため、ドイツの他都市のように戦禍をこうむることなく、近世からの景観が保たれた。今ではアイフェル地方の真珠 Perle der Eifel と呼ばれて、けっこう人気の観光地になっている。

あいにくアーヘン中央駅 Aachen Hbf から直接モンシャウへ向かうバスはない。DB(ドイツ鉄道)アプリの指示によれば、SB63系統ジンメラート Simmerath 行きに乗り、途中のレートヘン(レーチェン)郵便局前 Roetgen Post(下注)で SB66系統モンシャウ行きに乗り換えよとのこと。後でよく調べたら、両系統ともアーヘン中心部のバスターミナル Bushof から出ているのだが、途中の経路が異なるため、SB66は中央駅を通らないのだ。

*注 ウィキペディア独語版によると、Roetgen の発音は [ʁøːtçən] で、音写するとレートヘン、レートヒェンあるいはレーチェンになる。なお、現地のバスの車内アナウンスでは、ロイチンのように聞こえた。

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アーヘン中央駅
 

バスは郊外に出ると、森の中の2車線道を軽快に飛ばしていく。フェン高地を横切る連邦道258号に合流した後は、けっこうな上り坂になった。アーヘンの高度は200m前後だが、レートヘンでは400mを越え、サミットは550mほどになる。フェン鉄道の軌跡が大きく蛇行しているのも、距離を引き延ばすことでこの高度差を克服しようとしたからだ。

レートヘンで乗換えたバスは、森を抜け、のどかな集落や牧草地をしばらく走り、最後に細かいカーブを切りながら谷を降りていった。アーヘンからちょうど1時間、終点モンシャウ・アルトシュタット(旧市街)Monschau Altstadt のバス停は、旧市街の北口の前だ。

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(左)路線バスでモンシャウへ
(右)終点モンシャウ・アルトシュタットに到着
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1:20000地形図に歩いたルート等(赤)を加筆
+記号の列が国境線、カラーのエリアがベルギー領
モンシャウ付近
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
© 2026 Institut Géographique National - Bruxelles

 

バスを降りてもなお下り坂で、緩く曲がる石畳道の両側に、石壁やハーフティンバーの家屋が軒を連ねている。歩を進めるとその奥に、高台から町を見下ろしている城塞や、玉ねぎ形のドームを載せた教会の尖塔がちらちらと覗く。地図を頼りに小高い展望台に寄り道して、狭い谷の底から斜面にかけて広がる町のパノラマを堪能した。

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(左)石畳道の奥にモンシャウ城が覗く
(右)福音派教会の尖塔も目印に
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展望台からの城と旧市街のパノラマ
 

モンシャウは歴史的にはフランス語圏で、1918年までフランス語名のモンジョワ Montjoie と呼ばれていた。今のドイツ語名に改称されたのは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、大戦終結の講和条約でベルギー編入の対象にされることを危惧したためだとされる。確かにグレー基調のシックな都市景観は、ベルギーのフランス語圏、ワロン地域 Région wallonne のどこかにあってもおかしくない。

鮮やかな花々に彩られたマルクト広場から、ルーア川に面して建つローテス・ハウス Rotes Haus と福音派教会の前を通り、路地の石段を、丘の上のモンシャウ城址 Burg Monschau まで直登した。しかし800年の歴史をもつという城郭は案外狭く、しかもイベント用のやぐらが組んであるのがいささか興ざめだった。

■参考サイト
モンシャウ旧市街のGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/LHk34NxfqGUEBa8K9

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ルーア川沿いに続くマルクト周辺の町並み
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18世紀の貴族の館ローテス・ハウス(正面左)と
福音派教会に渡る鉄橋
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モンシャウ城址
(左)円塔 (右)イベント用のやぐらが組まれた城内
 

街巡りの後は、いよいよ本題のフェン鉄道跡を見に行く。かつてのモンシャウ駅は、町からはずれた高原の上に設置されていた。

小道をさらにたどって高原の上位面へ。のどかな住宅地の中を北へ15分ほど歩いたところで、旧駅の入口が見えてきた。駅はベルギー領だったので、ここで国境線をまたぐはずだが、目印になるようなものは見当たらない。ベルギー側と思われる個人宅の前の砂利道を奥へ進むと、森を切り開いたような空間に一条の舗装道が延びていた。北側(アーヘン方)に、バスの待合所のような休憩施設も見える。

傍らに立つ案内板には、独蘭仏英の4か国語でこう記されていた。「フェン高地のユニークな景観を抜けてアーヘンからトロワヴィエルジュ Troisvierges に至る旧フェン鉄道は長さ125kmで、ヨーロッパ最長の自転車道の一つです。勾配はわずか平均2%で、どんなサイクリストにとっても最も魅力的なコースの一つになっています。」

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モンシャウ駅跡の自転車道
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(左)モンシャウ駅の表札がある休憩所
(右)自転車道案内板
 

現在、旧フェン鉄道はドイツ、ベルギー、ルクセンブルクの3か国にまたがる国際自転車道として開放されている。同時に、ベルギー・ワロン地域の廃線跡自転車道ネットワーク「RAVeL(Réseau autonome de voies lentes、公設低速道路網の意)」の一部でもあって、沿道の距離標識にはその道路番号 L48(下注)が添えてある。きょうはこれを4.2km北のコンツェン駅跡まで歩くつもりだ。

*注 L48はアーヘン~ザンクト・フィート Sankt Vith 間。

朝から快晴で日差しは強いが、高原は風がよく通り、案外涼しい。モンシャウ前後のルートは目立った勾配もないから、サイクリングには最適だろう。さっそく北へ向かって歩き出すと、自転車を駆るペアやグループとたびたび行き違った。

ベルギーの官製地形図には、沿道に小さな赤丸の記号と Gr で始まる英数字が点々と打たれている(下図参照)。Gr はオランダ語で境界標を意味する Grenspalen の略で、国境標の位置と番号を示すものだ。しかし、実際の標石は路傍に生い茂る草むらに埋もれてしまったのか、一向に目に入らない。

フェン鉄道のこの区間は1934年まで複線だったし、用地には駅や築堤・切通しの法面なども含むので、ある程度の横幅があるはずだ。とはいえ、異国の地で丈の高い草をかき分けて探し回るのは、さすがにためらわれる。そのうち一つぐらい見つかるだろうと放念して、先へ進んだ。

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(左)一般道との交差点
(右)残された鉄道信号機
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サイクリストと行き違う
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同 コンツェン付近
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
© 2026 Institut Géographique National - Bruxelles

 

しばらくすると左手に農地が広がり、ぽつんぽつんと農家も見えてくる。ここまでは左右ともドイツ領で、ベルギー領の自転車道はその海に浮かぶ紐のような通路だった。しかし、46.0kmの距離標の手前で進行方向左側がベルギー領に変わる。つまりこの先は、線路用地の右端が両国の国境になるのだ(下注)。もちろん周りの風景には何の変化もないので、単なる脳内認識に過ぎないのだが。

*注 上掲の地形図では北へ約350mの間、左側を並走する道路がドイツ領として描かれているが、これはすでにベルギーに帰属替えされている。

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ベルギー領に変わる地点(国境の概略位置を加筆)
 

右手の森の蔭にコンツェン Konzen の集落の一部が現れた。コンツェン駅が間近だが、その前に注目すべきポイントがある。それはリュックシュラーク Rückschlag と呼ばれる最小のドイツ領飛び地だ。

これは1軒の住宅敷地で、線路の左側にもかかわらず旧モンジョワ郡に属していたためドイツ領で残された(下注)。東西150m×南北110mの少しひしゃげた矩形で、面積は0.016平方km、東京ドームの約1/3だ。個人宅としては十分広いが、国土として見ればいかにも小さい。

*注 三方の隣接地は旧オイペン郡だったので、鉄道用地とともにベルギーに割譲された。

自転車道からそれて確かめに行くと、それは屋敷森に包まれた農家だった。周りは耕作地のようだが、隣のベルギー領の手入れされた牧草地とは違って、夏草がぼうぼうと茂っている。だが、うれしいことに敷地の南東角に、国境を示す石標が見つかった。地形図によれば Gr 756 で、日なたの南面にベルギーを表す B の文字が読み取れる。

気をよくして敷地の北東角にも行ってみると、小さな溝の脇にまた B の文字が刻まれた石標があった。こちらは白いペンキで759と、標番つきだ。

■参考サイト
リュックシュラークのGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/jYWfRJ7NCsuLpkMM7

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最小の飛び地リュックシュラーク(国境の概略位置を加筆)
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リュックシュラークの国境標
(左)南東角のGr 756 (右)北東角のGr 759
 

まもなく右手から、朝バスで通った連邦道258号が接近してくる。コンツェン駅跡には、モンシャウにあったのと同様の休憩所が置かれ、地図を載せた案内板が立っていた。さらに400mほど北の旧構内北端では、プラットホーム状の土留めがしてあり、復元駅名標や信号機がオブジェのように立ち並んで、駅の記憶を伝えていた。

自転車道は、ここで連邦道と交差してランマースドルフ Lammersdorf の方へ迂回していくが、追い続けるには時間が足りない。探索を中断し、コンツェン駅 Konzen Bahnhof の名を残す近くの停留所からアーヘン行きのバスに乗った。

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コンツェン駅跡
(左)休憩所 (右)構内北端に集められたオブジェ群
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復元された駅名標
写真では見えないが、後ろの草むらに線路(移設されたもの)が埋まる
 

もう1か所訪ねたい区間がある。鉄道はランマースドルフを経由した後、アーヘンに向けておおむね1:60(16.6‰)の下り勾配で高原の北斜面を降りていく。その坂道を実感してみたかったのだ。往路と同じレートヘン・ポストの停留所でバスを降りた。少し手前で自転車道が連邦道を横切っているので、そこから再び自転車道に足を踏み入れる。

地図では、廃線跡が南西側に膨らみながら、集落のへりをかすめていると読める。しかし、実際には両側に木が生い茂って、自転車道を行く限り、モンシャウあたりの野の道と大して変わらなかった。明らかに違うのは道につけられた勾配で、自ずと歩く足取りが軽くなる。

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レートヘン・ポスト停留所で途中下車
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同 レートヘン付近
ベルギー官製1:20,000 43 3-4 Petergensfeld-Lammersdorf 2000年版
© 2026 Institut Géographique National - Bruxelles

 
 

木々に遮られて気づくのが遅れたが、いつのまにか周囲より高い築堤の上にいた。ヴェーザー川 Weser の浅い谷に張り出した区間で、街路とは立体交差している。

ミューレン通り Mühlenstraße の踏切跡では、左側にきょう3個目の境界標 Gr 884 を見つけた。刻まれたB、D(ドイツ Deutschland の頭字)と884の英数字が白ペンキで強調されている。ここと連邦道踏切跡との間約100mは、鉄道跡とベルギー「本土」とがつながっているため、ドイツの飛び地が二分される。

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(左)レートヘンの自転車道
(右)築堤下の街路と立体交差
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道路脇の目立つ場所にあった国境標 Gr 884
 

再び連邦道を横断すれば、レートヘンの駅跡だ。連邦道のすぐ脇にカフェが開いていて、サイクリストのグループが休憩中だった。その奥の駐車場のあたりが駅舎のあった場所で、コンツェンと同じように信号機や復元駅名標が並んでいる。少し離れてデザインの違う駅名標もあったが、実はこちらが廃止前からホームに立っていた本物だ。

そのレートヘン駅を後にすると、フェン鉄道は再びドイツの中の紐状の通路となり、地形の起伏をなぞりながら大きく東に迂回していく。そして、ベルギーのオイペン Eupen 方面との分岐駅だったラーレン Raeren 駅に着くまで、高原斜面の深い森をひたすら縫う孤独の旅に出るのだ。

■参考サイト
レートヘン駅跡付近のGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/uz4yGyy6SvmgfS5K8

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連邦道から見たレートヘン駅跡
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レートヘンの駅名標
(左)復元された旧デザイン
(右)新しいデザインだがもとからホームにあったもの
 

■参考サイト
フェン鉄道跡自転車道 https://www.vennbahn.eu/

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 ベルギー・ルクセンブルクの保存鉄道・観光鉄道リスト

 フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I
 フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II
 ドイツ・ベルギー・オランダ三国国境会合点

2025年11月19日 (水)

コンターサークル地図の旅-京戸川扇状地と大日影トンネル遊歩道

2025年秋のコンター旅、最終日の舞台は山梨県の甲府盆地だ。西麓にある典型地形、京戸川(きょうどがわ)扇状地と、中央本線の旧線跡を活用した大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道を、徒歩で訪ねる。

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大日影トンネル西口
遊歩道になった旧線と現行線を行くE353系電車

バスタ新宿8時35分発の甲府行き高速バスに乗り、中央道笹子トンネルを抜けて最初のパーキングエリア(PA)、釈迦堂のバス停で下車した。本日の参加者は大出さんと私。地図に見られるとおり、このPAは京戸川扇状地の扇央部に位置している。

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(左)高速バスで中央道を西へ
(右)京戸川扇状地から東望
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図1 京戸川扇状地と大日影トンネル周辺の1:200,000地勢図
1980(昭和55)年編集
 

細かな雨が降るなか、まず訪ねたのは山手に建てられた釈迦堂遺跡博物館だ。中央道建設の際に出土した遺物を保管展示している施設で、下りPAから階段を上がってすぐのところにある。2階の常設展示室に入ると、みごとな流線形の縄文土器やおびただしい数の土偶片が、展示ケースの中でスポットライトを浴びていた。

もらったリーフレットによれば、重要文化財の指定を受けた所蔵品が5599点もあるそうだ。どうしてこの場所に集落が、と疑問もわくが、縄文時代は狩猟や採集で生活していたので、平地より山に近い場所にあったのだ。乾燥地で高木が育ちにくく、見通しがきくのがよかったのかもしれない。

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(左)釈迦堂遺跡博物館
(右)おびただしい出土品が並ぶ常設展示室
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(左)縄文中期の水煙文土器
(右)すずちゃんの名がある土偶
 

博物館を出た後は、ブドウ棚やモモの畑が広がる斜面の小道を上っていった。京戸川扇状地は、御坂(みさか)山地の一角、達沢山(たつざわやま)を源流とする京戸川がつくった地形だ。地理の教科書で典型地形として紹介されてきたので、なじみがある。

扇状地は、河川によって山から運ばれてきた土砂が、平地に扇の形に堆積した地形だ。ここに限らず山麓にはよく見られるものだが、あえて京戸川が選ばれる理由は、いくつかあるだろう。

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ブドウやモモの畑が広がる京戸川扇状地
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
  釈迦堂PA~勝沼堰堤間
 

一つは、扇の差し渡しが2.5km程度とコンパクトなことだ。1:50,000地形図では5cmで表せるから、挿図で使うのに好都合だ。さらに勾配が10%前後と急なため、等高線が比較的密で読み取りやすいし、果樹園に利用されているから、水はけがいいという土地の特性もつかめる。緩曲線で横断していく中央道ですら、扇状地の輪郭を強調する仕掛けに見えなくもない。

扇央部の2車線道まで上ると、視点が高くなり、はるか麓まで果樹園が広がる様子がよくわかった。桃の花が咲く季節には、あたかも桃源郷のようになるらしい。甲府盆地の眺めもいいはずだが、あいにく雨模様で遠方はかすんでしまっている。

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色づくブドウ畑、甲府盆地は小雨に煙る
 

それから畑の中の2車線道を東へ向かった。しばらく行くと道は下りになり、中央道をまたいでなおも降りていく。県道白井甲州線から、近道になる国道20号(勝沼バイパス)の側道を伝い、田舎道の太郎橋で日川(ひかわ/にっかわ)を渡った。

山手を仰ぐと、大善寺の立派な楼門がある。鎌倉時代後期、1306年の竣工という国宝の薬師堂を拝もうと、ほんのり色づき始めたモミジを眺めながら、長い石段を上った。高台にある境内の正面にどっしり据わるお堂がそれだ。檜皮葺の大屋根が雨に濡れて、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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大善寺
(左)楼門 (右)長い石段を上る
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国宝の薬師堂
 

続いて、近くにある勝沼堰堤へ足を向けた。1917(大正6)年に完成した砂防ダムで、日川の蛇行部を積石で閉じ、流路を直線化したものだ。水は岩盤を均して造られた越流部から落下していく。水量が少ないのか、写真で見るのと違って流れが左側に偏っているが、響き渡る音は祇園の滝という別名に恥じない迫力だ。周囲に歩道や階段が整備されているので、さまざまな方向から観察することができた。

公園のあずまやで、山を彩る紅葉をめでながら昼食休憩をとる。いっとき雨脚が強まったので、雨宿りもできて助かった。

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堰堤の越流部「祇園の滝」
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勝沼堰堤全景
左が蛇行部を閉じた堰堤、右の木の後ろに越流部がある

午後は国道20号からそれて、日川の支流、深沢川の谷を遡る車道をまた上る。しばらく行くと分かれ道があり、まもなく目的地が見えてきた。そこは中央本線の深沢トンネルと大日影トンネルに挟まれた谷間で、線路がつかの間、地上に顔を出していた区間だ。

2本のトンネルを含む初鹿野(はじかの、現 甲斐大和)~塩山(えんざん)間は、1903(明治36)年に開業した(下注)。長い間、単線で運用されていて、複線化されたのは実に65年後の1968年のことだ。このとき新トンネルが上り線とされ、明治のトンネルは下り線になった。

*注 この間にある勝沼(現 勝沼ぶどう郷)駅は、遅れて1913(大正2)年の開業。

その後1997年に、新深沢第二、新大日影第二の両トンネルを含む新しい下り線が建設されたことで、明治のトンネルは運用廃止となった。

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深沢川の谷間を横断する旧線跡
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図3 同 勝沼堰堤~勝沼ぶどう郷駅間
 

地元自治体に譲渡された廃線跡のうち、東側の深沢トンネルは、特産品であるワインの貯蔵施設「勝沼トンネルワインカーヴ」に転用された。案内板によると、年間を通じて内部の気温は12~13度、湿度は45~65%に保たれていて、ワインの熟成には最適な条件なのだそうだ。

入口は常時鉄扉で閉鎖されているが、日中の時間帯なら一般客も扉を開けて入ることができる。今日は外も肌寒いからそれほど気温差を感じないが、夏なら格段に涼しいだろう。立入禁止のロープを張った位置まで進むと、ワインが眠る棚が奥までずらりと並んでいた。

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勝沼トンネルワインカーヴ
(左)閉鎖された入口 (右)ワイン棚が並ぶ内部
 

一方、西側の大日影トンネルは、2007年に「大日影トンネル遊歩道」として公開された。トンネルの全長は1367.80m、この長さで歩行者専用というのは、全国でも最長級に違いない。その後、躯体の老朽化に伴い、改修工事による二度の中断があり、昨年(2024年)3月にようやく通行が再開されたばかりだ。

遊歩道はワインカーヴの管理事務所前から始まり、深沢川をトラスの鉄橋で渡った後、大日影トンネルの中へと続いている。内部は一直線で、甲府方へ25‰の下り勾配だ。内壁は煉瓦のイギリス積みで、補強のためか、一部で腰部に切石を使った個所があった。

線路は、現役当時のまま残されている。まくらぎがPC製なのは少し意外だったが、特急も通る幹線で、廃止されたのが比較的最近だから、ありうることだ。歩きやすいように、線路の両サイドにコンクリートの通路が設けられている。

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大日影トンネル遊歩道東口
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トンネル内部、天井のネットは漏水対策
 

内部には、距離標や勾配標も保存されていた。側壁の退避所に路線やトンネルに関する説明板が設置され、大きな待避所にはオブジェのようにベンチも用意されているから、何度も足が止まる。

奥に見えている出口の明かりはそれほど遠く感じないのだが、実際にはなかなか近づいてこない。保線作業用に設置されたという、出口までの距離を記した表示板に励まされながら歩いていく。距離からすると、普通の歩速でも通り抜けるのに16~17分はかかる。入口の柵には、平均歩行時間30分と書いてあった。

大出さんはこれまでに二度訪れたことがあるそうだが、東出口へ来たのは初めてとのこと。こんな天気でもあるし、傘の要らないトンネル探索は案外いい選択だったかもしれない。

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(左)起点から110kmの距離標
(右)25‰の勾配標、左側の羽根は欠損
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(左)待避所に置かれたオブジェのようなベンチ
(右)中間点の表示板
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トンネル西口
明かり部のレールは深沢トンネルからの移設
 

西口で、新線トンネルを飛び出してくる電車とともに新旧線の対比を撮ってから(冒頭写真参照)、勝沼ぶどう郷(かつぬまぶどうきょう)駅のほうへ向かった。この駅のホームが現在のような勾配途中の本線上に移ったのは、1968年の複線化のときだ。単線時代は、本線から分かれた水平の引上げ線に沿ってホームがある通過式スイッチバックの駅だった。その跡は現駅舎の南北で公園として整備され、花見の名所になっている。

南側の園地では、サクラの木の下にEF64の静態保存機が鎮座している。1966年製で、単線時代の中央本線で貨物列車を牽引していた電気機関車だ。一方、北側では旧ホームの一部が残され、小ぶりながら駅名標も復元されていた。すぐ隣りの現行ホームが急な坂(25‰)になっているのが、両者を見比べるとよくわかる。

帰りは、そのホームから15時18分発高尾行きの電車に乗り込んだ。雨に降られた一日だったが、けっこう見どころが多くて楽しめた。

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静態保存のEF64 18号機
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(左)サクラが植わる公園に残された勝沼駅旧ホーム
(右)旧ホームに立つ復元駅名標
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勝沼ぶどう郷駅
(左)ぶどう棚のある駅舎正面
(右)勾配ホームに高尾行き電車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図甲府(昭和55年編集)および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地

2025年11月15日 (土)

コンターサークル地図の旅-京阪京津線と東海道逢坂越

2025年10月19日、秋のコンター旅3日目は、京都と滋賀県の大津を結んでいる京阪電鉄京津(けいしん)線と、その沿線の旧 東海道に点在する見どころを訪ねる。

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大津市内の路面軌道区間を行く京津線800系
(旧塗装、2020年9月撮影)

東海道本線(琵琶湖線)の山科(やましな)駅前に集合したのは、山本さんと私。まずは駅前広場の向かいにある京阪山科駅から800系電車に乗り、京津線の終点、びわ湖浜大津駅へ移動した。

京都市営地下鉄東西線から直通運転しているこのルートは、地上に出ると舞台があたかも登山鉄道、次いで路面軌道と目まぐるしく移り変わるので、「劇場路線」の異名をもっている。それで、初めて乗るならかぶりつき、すなわち最前部の窓際に立つのがおすすめだ。さらに言えば、峠のトンネルでは運転席後ろのロールカーテンが降ろされるので、影響しない右側の小窓に陣取るのがいい。

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(左)京阪山科駅
(右)びわ湖浜大津行きに乗る
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図1 京津線周辺の1:200,000地勢図
2003(平成15)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)、旧東海道線跡(緑)等を加筆
 

電車は山科の市街地を直線的に通り抜けた後、国道1号と並走しながら逢坂越(おうさかごえ)へと向かう。逢坂越は、東海道五十三次の最後の宿場である大津宿と京の間にあった2か所の峠道の一つだ。標高324.6mの逢坂山(おうさかやま)の南麓にあるので、山と同一視されて、「逢坂山を越える」という表現がよく使われる。

ちなみにもう1か所は、山科盆地と京都盆地の間にある日岡峠(ひのおかとうげ)あるいは九条山(くじょうやま、下注)で、かつて京津線はここも通っていたのだが、1997年に地下鉄に道を譲って廃止されてしまった。

*注 旧 東海道の日岡峠は山科盆地のへりを上る急坂で知られたが、後にこれを避けて北側に勾配を平均化した新道が開かれ、1912(大正元)年開通の京津電気軌道(後の京津線)もそれに沿って敷かれた。以来この峠道は、山の所有者だった九条家にちなむ九条山の名で呼ばれている。

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京津線の逢坂越
(左)大谷駅を通過 (右)逢坂山トンネル西口
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ありし日の九条山越え(1988年8月撮影)
海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

電車はサミットの大谷(おおたに)駅に達すると、短い逢坂山トンネルを抜け、半径40mの急カーブで左に旋回した。頭上に名神高速の高架橋を仰ぎながら、国道とともに急勾配を降りていく。道端から離れた後は、町裏をくねくねと進んでいくが、ここにも急カーブが続出し、摩耗と騒音を軽減するためにレールの散水装置が作動している。

上栄町(かみさかえまち)駅を発車すると、電車はいよいよ旧 国道161号(現 県道高島大津線)の路上に出る。浜大津駅前の交差点まで約600m続く路面軌道区間だ。800系は4両編成で全長が66mもあるため、事実上、日本一長い路面電車ということになる。山科から13分、駅前交差点をよく響く警笛とともにゆっくり右折して、終点のびわ湖浜大津駅に着いた。

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(左)上栄町駅、散水装置が作動中(2022年4月撮影)
(右)路面軌道区間を行く

この後は今来たルートを徒歩で戻るつもりだが、その前に、駅前交差点の歩道橋の上から、出入りする電車を俯瞰しよう。上空を横断する太い電線が目障りだが、この駅で接続する石山坂本線(下注)の電車も通るので、展望台としては理想的だ。

*注 通称 石坂(いしざか)線。この路線にも、びわ湖浜大津駅の西側に約400mの路面軌道区間がある。

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歩道橋から駅前交差点を望む
手前の複線線路は石山坂本線
 

山科方面行きを1本見送った後、電車通りを南へ歩き始めた。京津線は約20分間隔で運行されているから、歩いている間にも撮影のチャンスが来る。道路上空には、専用軌道と同じトラスで架線を支えるビームが渡されている。そこを標準軌の4両編成が通過すると、どう見ても電車のほうが主役だ。自動車は、むしろ線路敷の余地を借りて走っているように錯覚する。

見どころかどうかは別として、高札場があったことから札ノ辻(ふだのつじ)と呼ばれる京町一丁目交差点の南西角に、大津市の道路元標が立っている。道路元標は、大正時代に各市町村の中心部に設置された、道路の起点を示す標識だ。大津の場合、この角にかつて市役所があり、東から来た旧 東海道(現 京町通り)が南に針路を変えていた。

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路面軌道区間で浜大津行きを見送る
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(左)札ノ辻の大津市道路元標
(右)旧 東海道(現 京町通り)を東望(2022年4月撮影)
 

次の交差点を過ぎると、京津線は道路を離れて右手の家並みの中へ消えていく。道路の左側の小区画に、まだ新しい大津宿本陣跡の碑とともに、車石の断片が置いてある。

水路や鉄道ができるまで、大津の港で船から荷揚げされた米などの荷物は、牛が牽く荷車で京都へ運ばれていた。このため、荷車がぬかるみで難渋しないよう、人や馬が通る土道の横に、車輪を載せる二列の石畳が花崗岩の切石で整備された。車石とは、荷車の重みで削られて溝ができたその石のことだ。言うならば近世の道端軌道(下注)で、京津線もその伝統を引き継いでいるのかもしれない。同じように保存された車石がこの後、沿道の数か所で見られる。

*注 ただし「単線」なので、午前が京都行き、午後が大津行きの一方通行だったという。

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道路を離れて専用軌道へ
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(左)大津宿本陣跡を示す碑
(右)車石
 

緩い坂を300mほど上ると、東海道本線をまたぐ跨線橋を渡る。すぐ手前で右へ入る小道は、妙光寺というお寺の参道だが、寺の前を京津線が横切っているため、いわゆる参道踏切がある。S字カーブを走る電車にお寺の鐘楼を入れた構図が得られる撮影ポイントだ。

京津線も同じように東海道本線をまたいでいくが、この蝉丸跨線橋は、線路を載せるだけとは思えない煉瓦積みの重厚な造りだ(下注)。上関寺トンネルとも呼ばれるように、後ろにある逢坂山の本トンネル(新逢坂山トンネル)のポータルと見間違う。

*注 跨線橋工事が遅れたため、京津線はこの区間を徒歩連絡にして1912年8月に暫定開業している。跨線橋完成で全線開業したのは同年12月。

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妙光寺参道踏切にて(2022年4月撮影)
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蝉丸跨線橋、下は東海道本線
 

勾配が強まった旧161号をさらに300m進むと、京津線と交差する上関寺国道踏切がある。左側で線路に並行する煉瓦の壁は、旧 東海道線が旧 東海道をまたいでいた橋台だ。1880(明治13)年に開通した東海道線の京都~大津間は、今とは異なる南回りの経路で建設された。唯一のトンネルが逢坂山に掘られ、出てきた列車がすぐに渡ったのがこの橋になる(下注)。

*注 橋台の東側の廃線跡は国道1号に転用され、膳所(ぜぜ、旧 馬場)駅で現路線につながる。

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旧 東海道線橋台、もとは旧 東海道を跨いでいた
(2022年4月撮影)
 

その旧線、逢坂山隧道の東口も、少し先で右手の小道を入ったところに、鉄道記念物として保存されている。

廃止時には複線化されていたので、単線トンネルが2本、位置がややずれた形で並んでいるが、左側が1880年に完成した最初のものだ。石積みのポータルは長い歳月を経て苔むしているものの、上部の扁額には「楽成頼功」の文字がはっきり読み取れる。内部の10mほどが公開されていて、煤で黒ずんだ140年前の煉瓦壁を間近に観察できた。一方、右のトンネルは1898年に完成した上り線用だが、閉鎖されているため内部の様子は窺えない。

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旧逢坂山隧道東口、左が最初のトンネル(のち下り線用)
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(左)トンネル内部も一部公開
(右)「楽成頼功」の扁額がはまる
 

旧161号は、ここで東から来た国道1号に合流する。しばらくの間、右側の側歩道がないので、横断歩道で左側に移らなければならない。左隣を走る京津線の線路脇に61.0‰の勾配標が見つかる。ごく短い間だが、京津線の最急勾配だ(下注)。

*注 廃止された九条山越えでは、同じような道端軌道区間にこれを上回る66.7‰の勾配があった。

狭隘な谷を頭上で跨いでいる2本のアーチ橋は、名神高速道路だ。その下で京津線は国道から左にそれる。そして、行きの車内で見た急カーブを介して、道路下にある自前の逢坂山トンネルに入る。カーブの半径は40m。歩道から見下ろすと、車両どうしが120度ぐらいの急角度で折れ曲がるのに驚かされる。

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(左)61.0‰の勾配標
(右)名神高速のアーチ橋をくぐる
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半径40mを曲がる電車
 

擁壁に挟まれて右カーブする国道に沿って歩くと、いよいよサミットが見えてきた。道の右側に、逢坂山関址の碑が立っている。百人一首の蝉丸の歌「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」が頭に浮かぶが、古代の話なので、関が置かれた正確な位置は不明なのだという。

逢坂越前後の旧道はほとんど国道に上書きされたが、サミットから300m足らずの間は例外的に旧道が残っている。繁盛しているうなぎ屋の前を過ぎると、右手に歌人を祀る蝉丸神社の石段が見える。

しかし私たちの注目は、傍らの木陰に車石とともにひっそりと埋められている一等水準点だ。高さの基準となる水準点は、土地の改変が行われにくい神社や寺の境内に設置されることがよくあった。これもその一つだが、伝統的な花崗岩の柱石で、点の記にも設置時期が記されていないから、かなり古いものに違いない。

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(左)逢坂越サミット
(右)逢坂山関址碑と常夜灯
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(左)蝉丸神社に上る石段(2022年4月撮影)
(右)一等水準点の石柱
 

ここで北へ行く横道に寄り道した。先述した旧線の逢坂山隧道西口はもうないが、名神 蝉丸トンネルの上を通る道の脇に、記念碑が建っている(下注)。碑文によれば、「…トンネルの西口は名神高速道路建設に当りこの地下十八米の位置に埋没した」。ここから西側の名神高速は、伏見区との境まで約7.5kmにわたって、おおむね旧 東海道線の跡地を利用している。

*注 隧道西口にあった石額は、京都鉄道博物館で保存展示されている。

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(左)トンネル西口記念碑
(右)旧 東海道線跡を利用した名神高速道路(西望)
 

ともかく峠を越えたので、京津線大谷駅のベンチを借りて休憩した。このベンチ、見かけは普通だが、線路とホームに40‰の勾配がついているので、座面を水平にすべく、左右の足の長さを変えてある。移動されないように、座面裏に固定用のチェーンもついていた。

京津線と国道をまとめてまたぐ歩道橋で、再び左の側歩道に移る。直線路を下る途中にある月心寺は、もと走井(はしりい)餅を商う茶店があった場所だ。広重の連作浮世絵「東海道五十三次」の大津の図(下図参照)にも描かれたとおり、街道名物の一つだった。現在はクルマが行き交う国道に面していて、目印になるような山門もないので、うっかりすると見過ごしてしまう。

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(左)大谷駅
(右)左右の足の長さが違うベンチ
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(左)走井茶店跡の月心寺
(右)庭園門
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歌川広重「東海道五十三次 大津」
Image from wikimedia. License: public domain
 

名神高速の高架が再び頭上を横切れば、ようやく国道1号から離れて、静かな旧道が復活する。地形的にはすでに山科盆地だが、おもしろいことに住所は京都市ではなく、まだ滋賀県大津市だ。

旧東海道周辺では、府県境が山科盆地に大きく張り出している。地図で塗り分けてみるとよくわかるが、自然の境界である峠から約3km下った地点まで滋賀県域だ(下注)。これは、かつて大津にある三井寺(みいでら)の所領だったことに由来するという。

*注 比叡山地の分水界から西側にあるこの地区は、藤尾学区と呼ばれる。

そのため、旧道が復活して200mの位置に立つ「滋賀県大津市」の境界標識はフェイントに近い。実際にはここから髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)までの間、道路に府県境が通っていて、北側が滋賀県、南側が京都府になる。

境界標などはないが、住宅の軒先に停めてあるクルマのナンバーの地名を見れば一目瞭然だ。さらに、滋賀県警のパトカーが巡回するのを目撃したし、郵便ポストの収集局も大津中央郵便局と記されている。

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(左)「滋賀県大津市」の境界標(東望、2022年4月撮影)
(右)道路が府県境をなす区間、右が滋賀県、左が京都府(西望)
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図3 滋賀県大津市域をベージュで着色
「大津市」標識前後の200mは旧東海道が府県境
 

NHK「ブラタモリ」でも紹介された髭茶屋追分は、東海道と伏見(ふしみ)街道の分岐点だ。道標に「みきは京みち、ひたりはふしみみち」と刻まれている。伏見は淀川の支流、宇治川に面した京都の外港で、大坂(大阪)との間を川船が往来していた。それで、伏見みちは大坂への最短ルートでもあった。

旧東海道はこの後、いったん国道1号(五条バイパス)によって分断される。旧道を行くクルマは手前にある迂回路を通るのだが、歩行者はバイパスをまたぐ歩道橋で直接向こう側に渡れるようになっている。さらに西へ300m進むと、「京都市」とだけ記されたそっけない境界標が見つかった。足元を横断する水路に府県境が通っていて、ここでようやく住所が滋賀県大津市から京都府京都市山科区に変わるのだ。

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(左)髭茶屋追分、左は伏見街道(2022年4月撮影)
(右)道標の隣に府県境を示す標識も
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(左)三井寺観音道(小関越)の分岐道標
(右)「京都市」の境界標(西望)
 

天下の大道だけあって見どころを挙げればきりがないが、時刻はお昼を回って、そろそろお腹がすいてきた。沿道のコンビニで軽食を買い、山手にある琵琶湖疏水跡の公園まで行って、昼食休憩にした。旧東海道からは離れてしまったが、京津線の主要ポイントは見尽くしたことだし、このまま山科駅へ降りていって、今回の旅を終えることにしよう。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、2500分の1京都市都市計画基本図71 四ノ宮および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月 3日 (月)

コンターサークル地図の旅-上田交通真田傍陽線跡

上田交通真田傍陽線(下注)は1927~28(昭和2~3)年の開業で、長野県の上田市内から北東の中山間部へ通じていた計15.9kmの電化路線だ。途中の本原(もとはら)で分岐して、一方は真田(さなだ)へ、もう一方は傍陽(そえひ)へ向かう。

*注 開業時の社名は上田温泉電軌、略称 温電。その後、上田電鉄(1939年~)、上田丸子電鉄(1943年~)、1969年から上田交通。路線名も開業時の北東線から、菅平鹿沢線(1939年~)、真田傍陽線(1960年~)と変遷している。

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上田城二の丸堀の廃線跡と保存された公園前駅
(2021年4月撮影)
 

真田では菅平高原や群馬県方面へのバス連絡があり、利用者も多かった。そのため、上田~本原~真田間(以下、真田線)が本線格として直通運転され、本原~傍陽間(同 傍陽線)は支線扱いだった。戦後は、菅平行きのバスの多くが上田から直行になり、貨物輸送もトラックに移行したため、業績が悪化し、1972年に全線廃止された。

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図1 真田傍陽線現役時代の1:200,000地勢図
  1959(昭和34)年修正

2025年秋のコンター旅、初回となる10月3日はこの廃線跡をたどる。参加者は大出さん、木下さん親子、私の4名だ。真田傍陽線は、国鉄駅に接していた電鉄上田駅(下注1)から西に出て、上田城の濠の中を北上していたが、国道18号北側の上田花園駅跡までは2021年4月、西丸子線跡探索(下注2)のついでに大出さんと歩いている。

*注1 1955年の改築で独立駅の構造になるまでの名称は上田駅。
*注2 西丸子線跡については「コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡」参照。

上田駅から長野方へ4~500m進んだ地点で、廃線跡は新幹線の高架下から離れて、北へ向かう。カーブの後、祝町大通りを横切って城跡まで続く駐車場用地がそのルートをよく示している。

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新幹線高架下を離れ、城跡に向かう廃線跡
(左)祝町大通り南側(右)同 北側
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
上田~神科間
 

上田城の二の丸堀を北上する区間は、昔から有名だ。廃線跡は整備されて、ケヤキとサクラの並木に囲まれた憩いのプロムナードになっている。訪れたときはちょうどサクラの季節で、散策する人も多かった。城内に通じる二の丸橋の下には、公園前駅の単式ホームが保存されている。廃線跡をまたぐ橋のアーチには電線を支えていた碍子も残され、往時をしのばせる(冒頭写真も参照)。

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公園前駅跡と二の丸橋
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駅跡に建つ案内板
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廃線跡のケヤキ並木道、二の丸橋から北望
 

城跡公園を離れると北大手駅があったが、廃線跡は住宅や商業施設にすっかり紛れてしまう。城の外堀の役を果たしていた矢出沢川(やでさわがわ)を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

国道を横断して上田郵便局の北側に上田花園駅跡があり、ここで鉄道は針路を東に変える。駐車場に使われている砂利の空地が、大きなカーブを描きながら住宅街に消えていた。

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(左)矢出沢川に残る橋台
(右)上田花園駅跡

さて本日の探索は、次の北上田駅跡からスタートする。上田駅前から下秋和車庫行きのバスに乗り、中央北交差点の手前で降りた。駅は上田大神宮の北側にあったというので行ってみたが、民家が建ち並ぶばかりで面影は何ら残っていない。

廃線跡には、一括して自治体に譲渡され、自転車道のように元のルートがわかる形で活用されるものもあれば、切り売りされて民地になり、ほとんど跡をとどめなくなったものもある。真田傍陽線の場合は後者だ。開業当時、このあたりは旧市街の北のはずれで、まだ水田や桑畑が広がっていたが、今や全面住宅街で、元のルートは民地の地割や街路の向きから推測するしかない。

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(左)上田大神宮
(右)北上田駅跡は住宅地に
 

さらに東へ進むと、再び矢出沢川を渡る。ここも両岸に低い橋台が残っている。まもなく2面2線で列車交換ができたという川原柳(かわらやぎ)駅跡だが、三葉製作所の工場敷地に取り込まれて、輪郭もなくなってしまった。

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川原柳駅西側の矢出沢川に残る低い橋台
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川原柳駅跡
(左)駅前にあるバス停(右)駅跡は工場敷地の中に
 

ここから線路は、矢出沢川の開析谷に沿って北東へ向かう。工場に隣接する変電所の先は、農道として残っている。草刈り作業中のところ、断りを入れて通らせてもらった。国道18号バイパスと交差の前後は車道だが、すぐに草ぼうぼうの荒地に戻るため、またもや迂回を強いられる。

扇状地に上りきると、神科(かみしな)駅跡がある。道幅がそこだけ広くなり、駐車スペースに利用されている。ここで目の前に、上信越道上田菅平ICのランプウェーの擁壁が立ち塞がる。後ろでは国道144号の立派な4車線道が交差していて、歩行者には疎外感のある一帯だ。

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(左)変電所裏の廃線跡(西望)
(右)農道になった廃線跡
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(左)神科駅跡
(右)国道144号歩道橋から南望
  線路は横断歩道と後方の高架道との間を横断していた
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図3 同 神科~本原間
 

この後、線路は勾配緩和のために、扇状地を覆う方形の条里地割に逆らって大きく迂回していた。前半は圃場整備で農地に還ったが、残りはいまだに定率の曲線を描く跡を追うことができる。多くが私有地なので、公道から接近できる地点を選びながら順にたどった。

一連の迂回区間の北端にあった樋之沢(ひのさわ)駅では、珍しくコンクリートの相対式ホームが残っている。線路部分には残土が盛られているが、ホームの形状は損なわれていない。隣接する民家で放し飼いされている鶏が2羽、せわしげに歩き回っていた。

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(左)迂回区間のカーブを踏襲する街路
(右)相対式ホームが残る樋之沢駅跡
 

上信越道の下をくぐると、国道144号のバイパス新道が近づいてきて、廃線跡を呑み込んでしまう。現道との取付け部が工事中のため、バイパスはまだ開通していないが、谷の中を走っていた小道はすでに消失してしまった。

しかし、鞍部を貫く伊勢山トンネルの手前でバイパスは左に離れていき、廃線跡が掘割となって現れる。伊勢山駅がこのあたりにあったはずだ。古い跨線橋の上から、鉄扉で封鎖されたトンネルのポータルが確認できる。廃線後はキノコ栽培に利用されていたそうだが、そこへ通じる掘割が雑木や雑草で埋もれているので、近年は放置されているようだ。

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廃線跡を呑み込んだ国道バイパス(未開通)
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伊勢山トンネル
(左)掘割の奥にポータルが見える(右)封鎖された西口
 

国道を経由して山の反対側に回ると、森の斜面にトンネル東口が同じように封鎖状態で残されていた。続く川久保橋梁の橋台も、谷を降りていく農道ぎわにすっくと立つ。線路は、ここから神川(かんがわ)の広い谷を向かいの段丘上まで、上路トラスの長い橋で一気にまたいでいた。沿線で一番の撮影名所だったに違いないが、今は幻だ。

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(左)森の中に残る東口
(右)神川の谷に面する高い橋台
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神川の谷
赤の矢印が示す橋台間に鉄橋が架かっていた
 

再び国道に戻って神川を渡り、対岸に移動する。もう片方の橋台を探すと、民家の離れか何かの土台として、藪に埋もれながら残っていた。この後は舗装道で、殿城口(とのしろぐち)、下原下(しもはらした)と小さな駅が数百m間隔で設置されていたが、いずれも痕跡はない。

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(左)殿城口駅跡付近の左カーブ
(右)下原下駅跡、左裏に真田氏発祥の里碑がある
 

12時になったので、国道沿いで見かけた食堂で昼食休憩にする。この先、真田線の跡は国道144号に上書きされてしまい、追跡の甲斐がない。分岐駅だった本原も、道路脇のバス停がその概略位置を示すだけだ。それで私たちは、比較的痕跡が残る傍陽線に足を向けた。

国道から分かれた草道が、美しい弧を描きながら、段丘を降りていく。これが廃線跡だ。再び渡る神川の橋台は残っているらしいが、雑木に覆われて確認できなかった。

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(左)本原駅跡にあるバス停
(右)両線分岐点
  右の国道が真田線跡、左の小道は傍陽線跡
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傍陽線跡の草道が弧を描く
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図4 同 本原~真田・傍陽間
 

それから廃線跡は、2車線道とつかず離れず、上流へ向かう。横尾駅も痕跡はないが、地形図に描かれた近くの千古滝(せんこだき)に興味を惹かれて寄り道した。谷底への小道をたどると、河原を塞ぐ大岩の間で渓流が二手に分かれ、滝壺へ流れ落ちている(下注)。落差が小さいのが意外だったが、水量の多い時期を選べば見栄えがするのではないか。

*注 かつては左端に第3の水路があり、千古三筋の滝と呼ばれた、と案内板にあった。

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千古滝
 

曲尾(まがりお)駅跡では、道端に駅名標の体裁を模した小さな木柱が立っている。沿線ではここにしか見られないので、地元の方のお手製だろう。県道35号に出会う地点で、廃線跡は西を向く。

曲尾の集落を抜けると、洗馬川(せばがわ)にさしかかった。左岸(東岸)は護岸改修されているが、右岸では橋台が、後ろの築堤を剥がされた状態で孤高を保っている。撤去された橋脚も、基礎だけは残っているように見えた。

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(左)横尾~曲尾間で農道になった廃線跡
(右)曲尾駅跡のお手製駅名標
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洗馬川右岸に残る橋台、後ろの築堤はもうない
 

終点の傍陽駅跡には新しい住宅が建ったが、正面に大きな蒲鉾屋根の農協倉庫あるいは選果場が残り、駅前の雰囲気を漂わせているのが印象的だ。

傍陽に着いたのは13時ごろ。朝からずっと曇り空で、昼前から小雨がぱらつき始めていたが、帰りのバスを待つ間にとうとう本降りになった。さいわい待合所は小屋仕様で、中に4人掛けのベンチもあったので、雨宿りができる。地元の人はふだんクルマを使うから、バスに乗り込んだのは私たちだけだった。

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(左)傍陽駅跡は宅地に転用、奥は農協倉庫
(右)雨宿りした傍陽バス停
 

途中、四日市橋を渡って国道144号に沿う真田自治センター入口という停留所でバスを降りた。ここは真田線の北本原(きたもとはら)駅跡で、そばに今もあるという「駅前食堂」を見たかったのだ。老夫婦で切り盛りしているような大衆食堂をイメージしていたが、実際は宴会場を備えた大きな2階家だった。

自家製の駅名標があるはすだが、と周りを探すと、分解状態で裏の軒下に置いてある。壊れたのだろうか、写真を撮りたかったのに残念だ。ともかくもタスクを完了した私たちは、近くのコンビニで買ったコーヒーで疲れを癒しながら、次に来る上田行きのバスを待った。

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国道沿いにあるバス停は真田線北本原駅跡
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(左)時代の記憶をとどめる駅前食堂
(右)上田行きのバスが到着

参考までに、真田傍陽線が描かれた1:50,000地形図を掲げておこう。なお、この地域の1:25,000地形図初版は1972(昭和47)年測量だが、同線はもう描かれていない。

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図5 真田傍陽線現役時代の1:50,000地形図
(左)1962(昭和37)年修正(右)1969(昭和44)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)、5万分の1地形図坂城(昭和37年修正)、上田(昭和44年資料修正)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年10月29日 (水)

コンターサークル地図の旅-吾妻峡レールバイクと太子支線跡

JR上越線の渋川駅から西へ分岐する吾妻(あがつま)線の歴史は意外に新しい。もとは第二次世界大戦中に、草津鉱山(群馬鉄山)で採れる鉄鉱石を搬出するために計画された産業路線だ。

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太子駅跡のホッパー棟と無蓋貨車
 

戦争末期の1945(昭和20)年1月に渋川~長野原(現 長野原草津口)間42.4kmが国鉄長野原線として、また、長野原~太子(おおし)間5.7kmが日本鋼管鉱業の貨物専用線として、それぞれ開通した。旅客営業を始めたのは渋川~長野原間が翌1946年で、長野原~太子間、通称 太子支線は1952年の国鉄移管を経て1954年からになる。

しかし、太子駅周辺は農山村で、旅客需要はもともと小さい。それで長野原線の普通列車10往復のうち、半数は長野原止まりだった。そのため、1965年の鉱山閉鎖で頼みの貨物輸送がなくなると、存在意義をなかば失ってしまい、1970年に旅客列車も休止となる。翌1971年、長野原から大前(おおまえ)に至る路線延伸およびそれに伴う吾妻線への改称と前後して、太子支線に廃止の措置が取られた。

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図1 吾妻線周辺の1:200,000地勢図
  1966(昭和41)年修正
 

もう一つ、吾妻線に大きな変化をもたらしたのが、吾妻川をせき止める八ッ場(やんば)ダムの建設だ。現地の反対運動で計画は長期にわたり遅滞していたが、2015年に着工され、2020年に完成した。これにより吾妻線も一部区間で水没するため、岩島~長野原草津口間でルート移設が必要となる。工事はダム建設に先行して実施され、2014年10月1日に、旧線より0.3km短い11.5kmの新線に切り換えられたのだ。

ダムの下流で水没を免れた旧線では2020年から、吾妻に掛けて「アガッタン」と称するレールバイク(軌道自転車)の運行が始まった。沿線には八ッ場ダムとともに、鉄道用では日本一短いといわれた樽沢トンネルや、紅葉の名所で知られる吾妻渓谷がある。アガッタンは当地の新しい観光アトラクションとして手堅い人気を獲得している。

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レールバイクで行く旧線の樽沢トンネル
 

今回は、吾妻線の廃線跡巡りをテーマに、このレールバイクに試乗した後、長野原草津口に移動して、太子支線跡を歩いて訪ねる予定だ。

2025年5月11日日曜日、初夏の日差しは強いものの、風はまだ涼しく、行楽には絶好の日和になった。

上越線の車内で大出さん、森さんと合流し、参加者3名が揃った。電車は渋川から吾妻線に入り、吾妻川が造った谷を延々と遡る。下車した岩島(いわしま)駅は、小さな待合室があるだけの無人駅だった。レールバイクの受付場所へは、国道145号の旧道を歩いて2.5km、約30分かかる。

進んでいくと、やがてやぐらのような橋脚に支えられた巨大なコンクリート橋が見えてきた。吾妻線の新線を右岸に渡す第二吾妻川橋梁だ。渓谷をたどる旧線と違って、新ルートは、この橋を渡るとすぐ、長さ4489mの八ッ場トンネルに入ってしまう。その後も長いトンネルが連続するので、車窓の楽しみはほとんど失われてしまった。

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(左)吾妻線岩島駅
(右)新線の第二吾妻川橋梁が頭上をまたぐ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
岩島駅~八ッ場ダム間
 

ふれあい大橋のたもとにある受付場所、吾妻峡周辺地域振興センターに着いたのは集合時刻ぎりぎりの9時10分。すでに多くの人が事務所前の広場に集まっていた。さっそく受付で料金を払って、注意事項を書いたチラシを受け取った。色とりどりのヘルメットをおのおの装着して、案内の列に並ぶ。

車両は、3人乗り(1台3000円)と4人乗り(同 3500円)の2種類がある。だが、どちらも実際に漕ぐのは2人だけで、両者の違いは補助席の数だ。運行回数は今年(2025年)の場合、上り5便、下り5便の計10便あり、各便とも最大7台が走る。私たちも第1便の3人乗りをネットで予約してあるが、今日はすでに全便完売のようだ。

この「渓谷コース」は長さが2.4kmあり、所要時間は、上りとなる往路が30分、復路は25分とされている。以前は下流へ向かう「田園コース」1.6km(下注)もあったようだが、終始平地を行くのであまり人気が出なかったのか、現在は運行されていない。

*注 実距離は0.8kmだが、片道と往復が選択できる「渓谷コース」とは異なり、終点の転回場で折り返して起点に戻るまでが1コースなので、1.6kmになる。

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(左)地域振興センターで受付
(右)スタッフの先導で乗り場へ移動
 

時間になると、先導のスタッフが、少し離れた乗り場の「雁ヶ沢(がんがさわ)駅」まで案内してくれる。雁ヶ沢川の渓流を渡り、築堤の階段道を上る。仮設屋根の下、コンクリート床の軌道上に、これから乗るレールバイクが用意されていた。

2軸台車に自転車2台を並列固定した、岩泉線のそれ(下注)と同形の簡易車両で、自転車は電動アシストタイプだ。漕ぐのは二人に任せて、年長の私は補助席で取材に徹する。全員スタンバイし終えると、追突防止のために車両間隔を20m空けて、順に出発していった。

*注 岩泉線のレールバイクについては「コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車」参照。

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(左)3人乗りレールバイク
(右)同行スタッフの車両はスーパーカブ!
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(左)スタンバイ完了
(右)一定間隔を空けてスタート
 

まず見えてくる灰色の建物は、松谷(まつや)水力発電所だ。送電線の下をくぐり、松上(まつうえ)集落の赤屋根を横に見ながら進む。しだいに谷が狭まり、ルートの最大勾配16‰の勾配標を見送ると、長さ104mの松谷トンネルを抜ける。続いて目の前に現れるのが、長さ7.2mで日本最短の鉄道トンネルとうたわれた樽沢トンネルだ。と言っても実体は短すぎて、道路をくぐるカルバートと変わらない。

それに対して三つ目の、ルート最後となる道陸神(どうろくじん)トンネルは432.4mとけっこう長い。内部でカーブしているので本来は真っ暗なはずだが、青白いイルミネーションを線路に敷いて、進行方向を明示していた。

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(左)松谷水力発電所の横を通過
(右)軌道は緩い上り坂
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(左)松谷トンネルに突入
(右)樽沢トンネルは長さ7.2m
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(左)道陸神トンネル東口
(右)青白いイルミネーションで進路を誘導
 

この闇を抜けると左カーブの向こうに、谷を塞ぐ巨大なダム壁と、その下に、終点である「吾妻峡八ッ場(あがつまきょうやんば)駅」のテントが見えてくる。到着予定は9時55分だが、順調に進んだので5分ほど早着した。

客が降りた後、復路に備えて、スタッフがレールバイクの方向転換作業をする。車体の中央に寝かせてある牽引棒のようなものを起こすと、車体が少し浮き、これを軸にして手動で車体を回転させることができるのだ。バルーンループを自走で回る美幸線や、簡易転車台に載せて回す岩泉線とも違うユニークな方法でおもしろい。

■参考サイト
吾妻峡レールバイク「アガッタン」 https://agattan.com/

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ゴールのテントと、背後にそびえ立つ八ッ場ダム
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(左)レールバイクの方向転換
(右)駅名標
 

せっかくここまで来たので、吾妻渓谷も探勝しておこう。国道145号旧道を800mほど下り、新緑うるわしい遊歩道へ足を向けた。谷のこのあたりは八丁暗がりと呼ばれ、地形としては最も険しい。谷が深く切り裂かれて2~3m幅まで狭まる地点は、鹿が飛んで渡ると言われ、鹿飛の名がある。遊歩道の橋から下を覗くと、谷底の深さと水量の迫力に思わず足がすくんだ。

この後は対岸の小道を上流へ進む。アップダウンがけっこう激しく、遊歩道よりむしろ登山道と言った方が正確だ。紅葉谷橋で再び渓谷をまたいで、旧国道に戻った。

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(左)鹿飛橋から見下す渓流
(右)小蓬莱と呼ばれる断崖
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図3 同 八ッ場ダム周辺
 

八ッ場ダムは、堤高116m、堤長291mの規模を誇る大きなダムだ。堰堤内部のエレベーターが一般開放されているので、ダム下から天端まで一気に移動することができる。峡谷の急流は緑がかったターコイズブルーに見えたが、ダム湖は目の覚めるようなコバルトブルーで、降り注ぐ陽光をきらきらとはね返している。雪解け水で満水状態でもあり、眺めは文句なしに素晴らしい。

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八ッ場ダム
右下が天端へ上るエレベーターの入口
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コバルトブルーに染まるダム湖
 

やんば資料館に立ち寄った後、昼食場所として目を付けていたうどん専門店へ。大出さん曰く、群馬はうどんがおいしいそうで、ここでも、こしのあるうどんと天ぷらが食べられる。

ダムは完成からまだ5年しか経っていないので、湖面に枯れ木が残っている。八ッ場大橋を渡って川原湯温泉(かわらゆおんせん)駅まで歩いていく途中、美瑛の「青い池」を思わせる風景に遭遇した。若いダム湖ならではの佳景だ。

13時過ぎ、この日前半のゴールとなる川原湯温泉駅に到着。ここには線路付け替え後、一度電車で見に来たことがあるが、移転した温泉集落から離れていることもあって、駅前の閑散としたようすは変わっていない。

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(左)八ッ場大橋を渡って駅へ向かう
(右)八ッ場の「青い池」
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湛水前の吾妻渓谷、不動大橋から東望(2015年2月撮影)
右端が現 川原湯温泉駅、中央に八ッ場大橋、
左端で旧線がトンネルから顔を出す

後半は太子(おおし)支線跡を探索する。13時13分発の電車に乗り、次の駅、長野原草津口駅で降りた。まず太子駅跡まで町のコミュニティバスで行き、歩いてここに戻ってくるつもりだったが、バスは1日4往復、次の便は50分後だ。待機時間が惜しいので、手早くタクシーで向かうことにした。

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長野原草津口駅
 

白砂川(しらすながわ)の谷間にある太子駅跡は、遺跡公園風に整備されていた。復元された平屋の駅舎が受付棟で、内部に写真や遺物などが展示されている。入場料200円を払って公園域に入ると、1面2線のホーム跡があり、全国各地から取得したという貨車が10両以上留置されていた。なんでもここは全国一の無蓋車公園だそうな。

山側には、索道で輸送されてきた鉄鉱石を貨車に積み込むホッパー棟の遺跡が広がっている。林立するコンクリートの柱が風化して、遠景の無蓋貨車をアクセントに、廃墟特有の雰囲気を醸し出す。メディアでよく紹介される写真は、これを上流側から透視した構図だ(冒頭写真参照)。私たちがいる間にも訪問者が3組あり、ちょっとした観光地になっているようだった。

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(左)太子駅復元駅舎
(右)内部は資料展示室に
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ありし日の太子駅
太子駅展示資料を撮影
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残されたホームとホッパー棟
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図4 同 太子駅跡~下沢集落間
 

太子駅を後にして、廃線跡の舗装道を南へ歩いていった。山側を国道292号が並走しているので、クルマがほとんど通らない田舎道だ。途中、対岸の段丘上に立地する赤岩集落に寄り道した。一見どこにでもあるような山間集落だが、切妻屋根に換気用の小屋根を載せる養蚕家屋が多く残され、重伝建地区に指定されている。

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(左)赤岩集落の湯本家住宅
(右)小屋根を載せる養蚕家屋(貝瀬集落で撮影)
 

廃線跡はこの後も一本道で、山が川べりまでせり出している場所では、2本の短いトンネル(第二愛宕、第一愛宕トンネル)で抜けていく。中沢集落でいったん国道292号に呑み込まれるが、国道が川を渡るために左へそれた後は、また田舎道に還って下沢集落のへりを伝う。

しかし、のどかな散策路は、次のトンネル(名称不明)の前で突然断ち切られる。内部が土砂で閉塞していて通行できないのだ。向こう側に抜ける道がないかと、少し山に分け入ってみたが、倒木で行く手を塞がれた。片側は川に落ち込む斜面なので、かなり気合を入れない限り、通過は難しそうだ。

やむを得ず国道まで戻って対岸に渡り、そのまま長野原地内まで延々と歩いた。川の蛇行部をトンネルでショートカットしていた太子線に比べて、国道経由は遠回りになるし、第一、車道の端をとぼとぼ歩くのは気疲れがする。

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(左)廃線跡の一本道
(右)第二愛宕トンネル北口
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(左)連続する第二および第一愛宕トンネル
(右)南口に残るプレート
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下沢集落を通る廃線跡
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(左)下沢南方のトンネル北口
(右)土砂で閉塞した坑内
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図5 同 下沢集落~長野原草津口駅間
 

貝瀬(かいぜ)集落の南で新道の嶋木(しまぎ)橋を渡って、再び右岸へ。橋のたもとを横断している小道が廃線跡なので、上流側で口を開けているトンネル(名称不明)の前まで行ってみた。通行止めらしく、細いチェーンが渡してある。

一方、小道を下流側へ追うと、やがて廃線跡は道から外れて、白砂川を渡っていく。フェンスで塞がれているため、右岸からは確認しにくいが、左岸に回ると径間の広いガーダーで川をまたいでいるのが見える。続く築堤は崩されてしまったが、コンクリートの擁壁の一部が墓地の境界に残っていた。

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(左)嶋木橋北方のトンネル南口
(右)切石積みの側壁
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(左)白砂川をまたぐガーダー橋
(右)左岸に残る築堤の擁壁跡
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冬枯れ期のガーダー橋
(2015年2月、吾妻線列車から撮影)
 

16時20分ごろ、長野原草津口駅に帰着。盛りだくさんの歩き旅だった。終点の大前まで往復してから帰るという大出さんと別れて、森さんと私は16時39分発の高崎行き上り電車に乗った。

参考までに、吾妻線旧線が記載されている1:25,000地形図を、岩島側から順に掲げる。

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図6 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図
岩島駅~吾妻渓谷間(1972(昭和47)年測量)
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図7 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図
吾妻渓谷~川原湯駅間(1972(昭和47)年測量)
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図8 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図
川原湯駅~長野原駅間(1972(昭和47)年測量)
 

太子支線は1:25,000地形図の刊行以前に廃止されたので、代わりに1:50,000地形図を掲げておこう。

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図9 太子支線現役時代の1:50,000地形図(1966(昭和41)年測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和41年修正)、5万分の1地形図草津(昭和41年資料修正)、2万5千分の1地形図群馬原町、長野原(いずれも昭和47年測量)および地理院地図(2025年10月20日取得)を使用したものである。

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