廃線跡

2024年2月 7日 (水)

ニュージーランドの保存鉄道・観光鉄道リスト I-北島

植民地、自治領以来の強い文化的影響を受けて、南半球のイギリス Britain of the South とさえ呼ばれるニュージーランドは、保存鉄道の分野でもその呼び名にふさわしい充実ぶりを見せている。リストに掲げた20数件の路線のうち、主なものを北島と南島に分けて紹介したい。今回は北島について。

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グレンブルック駅の国産蒸機Ja形(左)とWw形(2017年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

保存鉄道・観光鉄道リスト-ニュージーランド
http://map.on.coocan.jp/rail/rail_nz.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-ニュージーランド」画面

ニュージーランドの幹線鉄道網は、日本のJR在来線と同じ1067mm(3フィート6インチ)軌間だ。廃止された支線を復活させて、この軌間の保存蒸機やディーゼル機関車を走らせているところがいくつかある。

項番1 ベイ・オヴ・アイランズ・ヴィンテージ鉄道 Bay of Islands Vintage Railway

北島の北側に角のように延びるノースランド半島 Northland Peninsula の一角を、この保存鉄道は走っている。もとは国鉄ノース・オークランド線 North Auckland line の最北端で、オプア支線 Opua branch line とも呼ばれた、内陸から港町に向かうローカル線の一部だ。

*注 オプア支線はノース・オークランド線 North Auckland line で最初の開業区間で、1868年にカワカワの炭鉱からオプア Opua の港へ石炭を運ぶ馬車軌道として造られた。

ベイ・オヴ・アイランズ・ヴィンテージ鉄道は1985年に開業したが、その後、財政難で休止と再開を繰り返した。現在は、支線の中間駅だったカワカワ Kawakawa を拠点に、約7km下ったテ・アケアケ Te Akeake(停留所)までの区間を、蒸気またはディーゼル牽引で往復している。往復の所要時間は90分。

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カワカワ駅で発車を待つ蒸気列車(2009年)
Photo by W. Bulach at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

ルートの呼び物は、カワカワの市街地を貫いている長さ約300mの道路併用区間だ。両端の車道との交差部に信号機はなく、クルマや通行人は阿吽の呼吸で、進入する列車に道を譲る。町を出た後は農地のへりを下っていき、中間駅タウマレレ Taumarere の先に、カワカワ川(!)Kawakawa River に架かる長いトレッスル橋がある。

テ・アケアケは川べりにある暫定の折り返し点で、鉄道はこの先、オプア港までの復元を目標にしている。現行ルートでも車窓はけっこう変化に富んでいるが、将来区間にはトンネルや入江の眺めもあり、魅力はいっそう深まることだろう。

ところで、英語では保存鉄道を通常 "heritage railway" というが、ニュージーランドでは、この鉄道のように "vintage railway" と称することが多い。適切な訳が思いつかないので、リストではすべてヴィンテージ鉄道としている。

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カワカワ市街地の併用軌道(2012年)
Photo by Reinhard Dietrich at wikimedia. License: CC0 1.0
 

項番5 グレンブルック・ヴィンテージ鉄道 Glenbrook Vintage Railway

オークランドでグレンブルック Glenbrook と言えば、誰しも南郊にある同名の製鉄所を思い浮かべることだろう。この保存鉄道は、そこへの貨物線が分岐するワイウク支線 Waiuku branch の末端区間を舞台にしている(下注)。1967年に廃止された区間だが、その10年後に保存団体が、藪を切り開き、本線運行から引退した蒸気機関車や客車をここへ運んで走らせ始めた。今ではそれが、蒸機10両以上を保有する同国有数の保存鉄道に成長している。

*注 ワイウク支線のうち、根元区間のパトゥマホエ Patumahoe ~グレンブルック間は製鉄所への貨物支線として現在も使われている。

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ワイウク郊外を行くJa形重連(2013年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

鉄道の拠点は、分岐駅のグレンブルックにある。そこから港町ワイウクのヴィクトリア・アヴェニュー Victoria Avenue 駅に至る7.4kmで、シーズンの主として日曜祝日に、かつて本線で使われた蒸機による観光列車が運行されている。

グレンブルックは台地の上で、河口のワイウクへ向けては、牧草地の中に下り坂が続く。往路の蒸機は逆機運転で、終点まで20分間ノンストップだ。機回しの後の復路は上り坂になるため、前を向いた蒸機の力強い走りが期待できる。中間地点のプケオワレ Pukeoware にある鉄道の修理工場で、15分の見学休憩があり、小旅行は往復で70分になる。

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グレンブルック駅の信号所(2013年)
Photo by itravelNZ® at flickr. License: CC BY-NC 2.0

次は、険しい峠越えに挑戦した19世紀の鉄道技術の結晶ともいうべき区間について。

項番9 ラウリム・スパイラル Raurimu Spiral

朝、オークランド Auckland から北島本線の長距離列車ノーザン・エクスプローラー Northern Explorer(下注)に乗り込むと、ちょうどお昼ごろにその鉄道名所にさしかかる。ラウリム・スパイラルとは、北島の中心部、タウポ火山群 Taupo Volcanic Zone の広大な裾野のへりにある、スパイラル(日本でいうループ線)を含んだ複雑な山岳ルートのことだ。

*注 北島の二大都市オークランドとウェリントンを結ぶ観光列車。現在、週3往復で、ウェリントン行きが月、木、土曜日に、オークランド行きが水、金、日曜日に運行される。所要10時間40分~11時間5分。

名所区間は、麓にある標高592mのラウリム Raurimu 旧駅(下注)から始まる。線路は半径151m(7チェーン半)のオメガカーブで反転した後、北斜面に回り込んで、長さ385mのトンネルに入る。この内部にスパイラルの始点があり、もう1本のトンネルを介しながら時計回りに円を描いていく。途中で左車窓に、ラウリム旧駅や先ほど通過した線路が一瞬見えるはずだ。

*注 ラウリム駅は1977年に廃止されたが、待避線は動態で現存する。

地形を巧みに利用したルートによって、鉄道は、勾配を蒸機の牽引能力内の1:50(20‰)に抑えながら、トンガリロ国立公園 Tongariro National Park の玄関口、ナショナル・パーク National Park 駅まで215mの高低差を克服した。この間の直線距離は約6kmだが、路線長は11.6kmとほぼ2倍の長さがある。

オークランドに向かう北行きのノーザン・エクスプローラーも、ナショナル・パーク駅の発車は同じ時刻だ。昼過ぎの時間帯、この名所を通って麓に降りていく。

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空から見たラウリム・スパイラル(2012年)
Photo by Jenny Scott at flickr. License: CC BY-NC 2.0
 

項番11 リムタカ・インクライン Rimutaka Incline

ウェリントンからマスタートン Masterton 方面に通じるワイララパ線 Wairarapa Line には、ニュージーランドの鉄道で第2の長さを誇る8798mのリムタカトンネル Rimutaka Tunnel がある。トンネルとその前後区間は1955年の開通だ。

それ以前の旧線は、まったく別の峠越えルートを通っていた。特に東斜面には3マイル(4.8km)の間、平均66.7‰という極めて急な勾配区間があった。そこで使われていたのがフェル式 Fell system だ。これは、2本の走行レールの間に双頭レールを横置きし、それを車両側の水平駆動輪で左右から挟むことによって推進力を高める方式で、幹線で20世紀半ばまで使用していたのは、この区間が唯一だった。

麓の基地にはそのための蒸気機関車H形が配置され、戦後に導入された気動車も、センターレールは使わないものの、それに支障しないよう車高を上げた特別仕様車だった。

新線開通後、廃線跡は峠のトンネルを含めて、リムタカ・レール・トレール(自転車・徒歩道)Rimutaka Rail Trail に転用され、保存されている。役目を終えたH形蒸機は1両だけ残され、東麓のフェザーストン Featherston に設立されたフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum で静態展示されている。これとは別に、西麓のメイモーン Maymorn 駅構内では、リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust が、峠区間の復元を目標にして活動中だ。

*注 詳細は「リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶」「同 II-ルートを追って」参照。

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現役時代のサミット駅(1880年代)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library at wikimedia. License: public domain
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サミットトンネル東口、トンネル内部に続くフェル式レール(1908年)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library at wikimedia. License: public domain

軽便線や市内軌道、鋼索線にもそれぞれ見どころがある。

項番2 ドライヴィング・クリーク鉄道 Driving Creek Railway

3km走る間にトンネル3本、橋梁10本、オメガループが2か所、スイッチバックは5か所…。しかも7番目の橋梁は2層建てで、タイミングを合わせた続行列車と、上下両層で同時に渡っていく。最後に控えるスイッチバックは、尾根から空中に突き出たデッドエンドで、乗客は見晴らしに感嘆しつつも目の前のスリルに肝を冷やす。

ドライヴィング・クリーク鉄道は、北島コロマンデル半島のコロマンデル Coromandel 郊外にある381mm(15インチ)軌間の観光鉄道だ。技巧を凝らして手造りされたレイアウトは、テーマパークのアトラクションも顔負けのレベルに達している。

意外なことに、鉄道の創設者は陶芸家だった。彼は1975年に、陶芸工房で使う粘土と薪を山から運び下ろすために軌道を造り始めた。ところが、工房を訪れた客を乗せるサービスが評判を呼び、しだいに線路は、裏山一帯を巡るようにして上へ上へと延伸されていった。

麓に建つ工房前から、列車は出発する。線路は最大1:14(71‰)という急な上り坂だ。数々のマニアックなポイントを経て到着した終点には、2004年に完成したアイフル・タワー Eyefull Tower(アイフェル・タワー Eiffel Tower、すなわちパリのエッフェル塔のもじり、下注)という展望台がある。標高165mの高みからコロマンデル・ハーバー Coromandel Harbour や対岸の山並みの眺めを存分に楽しんだ客は、再び列車に乗り込み、麓に戻っていく。往復1時間15分。

*注 展望塔の構造は、オークランド港にある同国最古の灯台ビーン・ロック灯台 Bean Rock Lighthouse をモデルにしている。

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(左)2層建ての第7橋梁
(右)空中に突き出た第5スイッチバック(いずれも2012年)
Photo by Reinhard Dietrich at wikimedia. License: CC0 1.0
 

項番4 ウェスタン・スプリングズ路面軌道 Western Springs Tramway

オークランド市内のウェスタン・スプリングズ Western Springs にあるMOTAT(輸送技術博物館 Museum of Transport and Technology)が、館外に敷いた軌道線で、動態保存しているトラム車両を走らせている。

博物館には、グレート・ノース・ロード Great North Road とエーヴィエーション・ホール Aviation Hall という離れた2か所の構内があり、軌道線は、訪問者がこの間を移動するための交通手段という位置づけだ。そのため、クリスマスの日を除き年中無休、15分から30分間隔で運行され、運賃は取らない。

グレート・ノース・ロードの車庫から出てきたトラムは、同名の停留所で客を乗せた後、街路と公園に挟まれた専用線を走り出す。中間に停留所が4か所あるが、列車交換(下注)が行われるオークランド動物園 Auckland Zoo 以外はリクエストストップだ。約8分で、航空機の展示ホールがある終点に到着する。

*注 列車交換は、15分間隔運行のときに行われる。

MOTATの保存トラムには、地元オークランドやファンガヌイ Whanganui の1435mm標準軌車のほか、ウェリントン Wellington から来た1219mm(4フィート)軌間の車両も含まれている。どちらも走れるように、軌道は全線にわたって3線軌条だ。

なお、エーヴィエーション・ホールの敷地の奥には、1067mm軌の蒸気鉄道の機関庫と、長さ約700mの走行線がある。毎月1回のライブ・デーには機関庫が公開され、保存運行が行われる。これもまた楽しみだ。

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終点エーヴィエーション・ホールに集結した古典車両群(2015年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番14 ウェリントン・ケーブルカー Wellington Cable Car

ケーブルカーで高台に上り、市街とその先に広がるウェリントン・ハーバー Wellington Harbour の絶景を眺めるというのが、ウェリントン観光の一つの定番だ。赤い車体のケーブルカーは、首都の目抜き通りラムトン・キー Lambton Quay の一角にある奥まったホームから出発する。前半はトンネルを出たり入ったりを繰り返すが、後半で一転空が開け、後方に町と海の美しいパノラマが見えてくる。

公式サイトによると、路線は長さ612m。17.86%(1:5.06)の一定勾配で、高度差120mを上りきる。山上駅はウェリントン植物園に隣接していて、テラスからの展望を楽しんだ後は、緑あふれる園地の散策に出かけるのが通例だ。

ケーブルカーは1902年の開通だが、当時のシステムは1067mm軌間の全線複線で、サンフランシスコに見られるような循環式と、釣瓶型の交走式とのハイブリッド仕様だった。すなわち、全線を循環するケーブルが通っていて、下る車両はそれを装置でつかむことにより降下する(=循環式)。もう一方の車両は、別のケーブルで山上駅の駆動力を持たない滑車を介してつながっているため、下る車両に連動して引き上げられた(=交走式)。また、緊急ブレーキ用に、フェル式レールも設置されていた。

しかし設備の老朽化が進み、1979年に軌間1000mm、単線交走式に置き換えられた。現在は、ケーブルでつながった2つの車両が、山上駅の駆動力を持つ滑車によって上下する。中間駅タラヴェラ Talavera に、行き違うための待避線がある。

英語では、循環式のケーブルカー(およびロープウェー)を "cable car" といい、交走式は "funicular" と呼んで区別する。この鉄道は今もケーブルカーを名乗っているが、これは旧方式を使っていた名残りに過ぎず、実際はフュニキュラーだ。

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上部駅のテラスから見るケーブルカーのパノラマ(2014年)
Photo by Sham's Personal Favourites at flickr. License: public domain

最後に、変わり種の鉄道ツアーを一つ。

項番8 フォゴットン・ワールド・アドベンチャーズ(ストラトフォード=オカフクラ線)Forgotten World Adventures (Stratford–Okahukura Line)

北島中部に、エグモント山麓のストラトフォード Stratford から山中を通って北島本線のオカフクラ Okahukura に至るストラトフォード=オカフクラ線 Stratford–Okahukura Line がある。全長143.5kmの間に、24本のトンネル、91本の橋梁、20‰の勾配が繰り返される山地横断路線だ。しかし、旅客列車は言うに及ばず、近年は貨物列車の運行もなく、路線自体が休止状態になって久しい。

この忘れられたようなルートで、2012年からエンジン付きレールカートによる走行ツアーを実施しているのが、フォゴットン・ワールド・アドベンチャーズ(忘れられた世界の冒険)Forgotten World Adventures という企画会社だ。ゴルフカートのような簡素な車両だが、ガイドを兼ねたドライバーがつくので、客は乗っているだけでいい。また、およそ15km走るごとに降りて、小休憩やティータイムがある。

ツアーは数種類用意されている。たとえば、最も手軽な半日コースでは、朝、タウマルヌイ Taumarunui の直営モーテル前に集合して、シャトル(乗合タクシー)でオカフクラの乗り場(下注)へ行く。レールカートで線路を40km走ってトキリマ Tokirima へ。ここでランチをとり、復路はまたシャトルに乗って、ラベンダー農場経由で起点に戻る。

*注 オカフクラの国道をまたぐ鉄道の高架橋が老朽化により撤去されたため、乗り場はオカフクラ駅から800m先の地点に変更されている。

1日コースなら、80km先のファンガモモナ Whangamomona まで行ける。さらに「究極 The Ultimate」コースでは、レールカートだけでストラトフォードまで全線を移動する。東海道線なら、東京駅から吉原か富士までの距離に等しい。途中、ファンガモモナで1泊して2日がかりの行程だが、鉄道趣味もここまで来ると体力勝負だ。

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(左)オカフクラのカート乗り場
(右)先行するカートを追って山中へ(いずれも2021年)
Photo by njcull at flickr. License: CC BY-NC-ND 2.0
 

次回は、南島の保存・観光鉄道について。

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 オーストラリアの保存鉄道・観光鉄道リスト II

 ニュージーランドの鉄道史を地図で追う I
 ニュージーランドの鉄道史を地図で追う II

2023年12月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

侵食力の差によって、ある川が隣接する川の流れに介入し、そこから上の流域をまるごと奪い取ってしまう。分水界の移動を引き起こすこうした河川争奪地形の読み解きは、オセロゲームを観るような興味を呼び起こす。

2023年コンター旅の最終日に訪ねたのは、そのような地形の変化が実際に生じた場所だ。中国山地、山口・島根の県境付近にあり、当事者である川の名から「宇佐川・高津川の河川争奪」、あるいは地名から「宇佐郷(うさごう)の河川争奪」などと呼ばれている。

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河川争奪で生じた向峠(こうたお)の風隙(北東望)
 

後述するように、ここでは日本海に流れる高津川(たかつがわ)の流域に、瀬戸内海に注ぐ錦川の支流、宇佐川(うさがわ)が進出して次々と陣地を奪っていった。そのたびに奪った方の水量が増して侵食力が高まるため、奪われた川床との高低差は今や100m以上にもなる。

さらに、上流を失った旧 高津川の空谷を切り裂くようにして、支流のV字谷が横断しているのも珍しい。成立過程の複雑さと規模の大きさにおいて、ここは国内最大級の類例と言っても過言ではない。

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図1 宇佐川周辺の1:200,000地勢図
(左)1986(昭和61)年編集(右)1987(昭和62)年編集
 

中国地方では上根峠(かみねとうげ、下注)と並んで有名な典型地形だが、山中につき公共交通機関で行くのは難しいと思い込んでいた。ところがグーグルマップを見ていて、付近を通過する中国自動車道のパーキングエリア(PA)に、広島~益田(ますだ)間を走る高速バスの停留所があることに気づいた。

他方、宇佐川の谷底には、本数は少ないものの岩国市のコミュニティバスが運行されていて、以前、岩日北線(未成線)の「とことこトレイン」に乗った帰りに実際に乗車している。

*注 上根峠については「コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪」参照。

そこで、この二者を徒歩でつなごうというのが、今回の企画だ。歩く距離は約10km。ルート上には壮大な河川争奪跡だけでなく、繞谷(じょうこく)丘陵、水源池、さらには未成線跡とコンター流の見どころがてんこ盛りで、どんな景色が見られるのか期待に胸が躍る。

10月28日朝8時05分、広島駅新幹線口の高速バス乗り場に集合したのは、大出さんと私の2名。石見(いわみ)交通が運行する清流ライン「高津川号」益田行きは、駅前を発車すると、広島バスセンターでさらに客を拾った。それから長大な西風(せいふう)トンネルを抜け、広島道から中国道へと進む。

バスは太田川流域の山間部における交通機関の役割も果たしているようで、加計(かけ)、筒賀、吉和とSA・PAごとにこまめに停車していく。冠山トンネルを抜けて山口県に入った後の深谷(ふかたに)PAもその一つだ。

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(左)益田行高速バス、広島駅新幹線口にて
(右)深谷PAに到着
 

9時50分に到着。私たちは下車するが、バスもここで10分間休憩する。リュック姿で降りる客は珍しいのだろうか。運転手さんに「どこかへお出かけですか」と聞かれたので、慌てて「河川争奪の地形を見に来ました」と答えたものの、伝わったかどうかは自信がない。

このあたりは向峠(こうたお)という地名(下注)で、北側の山裾にその集落があり、前面に水田が広がっている。標高は390m前後。穏やかな山里に見えるが、東は宇佐川、西ではその名も深谷川(ふかたにがわ)の深い谷で切り取られているため、周囲から隔絶された天空の村だ(冒頭写真も参照)。

*注 行政的には、岩国市錦町宇佐郷の一部。

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山裾に広がる向峠の集落
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図2 1:25,000地形図にに歩いたルート(赤)等を加筆
深谷PA~水源公園
 

せっかく河川争奪地形を訪れるのだから、まずはそれが発生した地点、いわゆる争奪の肘(ひじ)を観察したいところだ。高津川と宇佐川の場合、それは向峠東(こうたおひがし)を横切る中国道の東側に、差し渡し1kmにわたって露出している。

しかし空中写真で見る限り、崖縁は森で覆われ、谷底を俯瞰するのは難しそうだ。何より歩く距離が2km追加になると、帰りのバスの時刻が迫ってくる。それで今回は、高速バスの車窓からざっと眺めることしかできなかった。

PAを出て北側に回ると、道の下に細い水路が走っていた。周りの谷が深く水が乏しいため、ここの水田を潤す水は、深谷川を4~5km遡った金山谷にある取水堰から用水路で引かれている。それがここに排水されているようだ。

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PAの北側を走る細い水路
(左)東(上流)方向(右)西方向
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集落から前面の水田を望む
中景の森の後ろに深谷川のV字谷がある
 

暖かい朝の日ざしが降り注ぐ中、集落を貫く県道16号六日市錦線を歩いた。道はいったん深谷川の上流方向に進むが、やがて左に回り込み、深谷大橋で谷を跨いでいく。橋の長さは99.5mだが、高さが約80mもあり、谷底をのぞき込むと思わず足がすくんだ。欄干に重ねるように高いネットが張られているのは、飛び降りを防ぐためらしい。橋のたもとには、いのちの電話の看板もあった。

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(左)深谷大橋
(右)案内板に河川争奪の説明が
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橋上から深谷川を見下ろす
 

深谷川は県境になっていて、橋を渡り終えれば島根県吉賀町(よしかちょう)だ。まもなく平地にとりつき、初見(はつみ)の集落に入る。左手遠方に、さっき通った向峠の家の屋根が、深谷の木立越しに望める。V字谷が形成される前は平面で地続きだったことがわかる。

道端に、年季の入ったバス停標識が立っていた。「六日市交通 上初見」(下注)とあるが、その下にうっすらと「国鉄バス 新田(しんた)」の文字が読み取れる。かつて国道187号経由で岩国と津和野・益田を結ぶ岩益線というバス路線があったから、その支線のようだ。

*注 吉賀町が六日市交通に委託しているコミュニティバス。

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深谷川は県境
(左)大橋東詰(右)西詰
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(左)上初見バス停標識には「国鉄バス 新田」の文字がうっすらと
(右)左手には深谷川の森が続く
 

しばらくのどかな村里を歩いていくうちに、左から中国道が近づいてきた。それをくぐった先にある水源公園のあずまやで、昼食休憩にする。手入れされていないうらぶれた園地だが、現在、高津川の水源とされているのが、ここにある大蛇ヶ池だ(下注)。湧水の池は大蛇が棲むには窮屈そうだったが、ほとりに生えている一本杉が樹高20m、根回り5mの巨木で、複雑な枝ぶりが神秘のオーラを放っている。

*注 地形図にあるとおり、池の上手にある星坂集落からも小川が流れており、池は水源の一つに過ぎない。

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高津川の水源、大蛇ヶ池
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風格のある一本杉、根元に大蛇ヶ池
 

公園を見下ろしている水源会館(郷土資料館)の前庭で、「河川争奪の復元図」を描いた説明板を見つけた。太古の高津川(以下、古高津川)がはるかに上流から流れてきていたことを明解に説明している。旧流路を示す砂礫の層があることも記されているが、欲を言えば、争奪を促した要因についても触れてほしいところだ。

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水源公園にある河川争奪の復元図
 

下記研究論文によると、それにはこの地域で北東~南西方向に走っている複数の断層が関係している。断層の継続的な活動によって、山地の北西側が隆起した。これにより、古高津川の中流部が持ち上げられるとともに、上流部では河川勾配が緩くなり、砂礫が堆積して河床が上昇した。

このことはまた、断層の反対側(南東側)にある宇佐川~錦川流域との高度差がより開くことを意味する。さらに、一帯の地層は風化した花崗岩であり、後に宇佐川の谷となるラインには、断層に伴う破砕帯が走っていた。

*注 山内一彦・白石健一郎「中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪」立命館地理学第22号, 2010, pp.39-5

こうした要因に促された河川争奪は、時代的にもエリア的にも復元図の絵解きよりはるかに広範囲に及ぶものだったようだ。その鍵となるのは同 公園の上手、星坂集落の南に見られる風隙だ。これも争奪の肘の一つだが、なぜか南に開いている。これはもとの川(被争奪河川)が、現在の宇佐川とは反対に南から北に向けて流れていたことを示唆する。

争奪過程の全体像は、以下の通り。なお下図は、同論文の添付図(p.53 第11図)をもとに描いたものだ。

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宇佐川の河川争奪過程 1~3
矢印は流路の方向を表す
 

かつて現 宇佐川の流域のほとんどは、古高津川の上流域だった。そして今とは逆方向に、深川南方から須川や星坂を通り、現 水源公園付近で古高津川に合流する川(以下、古南宇佐川)があった【上図1】。

8~4万年前に、錦川支流(=現 宇佐川)が南から浸食して、まずこの古南宇佐川の上流を奪った【上図2】。

新たな水流を得て侵食力を高めた宇佐川は、断層破砕帯に沿って谷頭浸食を進めていく。そして古南宇佐川の全流域を手中に収め、星坂南方に達した。星坂に風隙が生じたのは、この時点だ【上図3】。

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宇佐川の河川争奪過程 4~6
 

一方、現在、東から宇佐川に注いでいる道立野川(みちだちのがわ)、後川(うしろがわ)、相波川(あいなみがわ)などの支流は、かつて宇佐郷で一本の川(以下、古宇佐郷川)となり、現 深谷川が流下しているルートを逆流して古高津川に合流していた。4万5千~3万5千年前ごろ、宇佐川は宇佐郷でこれを奪った【上図4】。

約3万年前、宇佐川は向峠東方に達し、ついに古高津川本流を奪う【上図5】。

これにより古高津川は向峠で水流を失い(無能河川)、深谷川が運んできた砂礫が堆積して扇状地を形成した。1万~3千年前、古高津川の谷が大雨で湛水した際、深谷川から古宇佐郷川の旧流路を通って宇佐川へ溢流が発生した。これが繰り返され、深谷川から宇佐川への流れが定着した。

両者には相当な落差がある。初期は滝で宇佐川の谷に落ちていただろうが、下刻作用により次第にV字谷が発達していく【上図6】。こうして現在の水系が完成した。

午後は、水源公園から星坂を経由して宇佐川の谷へ降りるが、その前に、近くにある繞谷丘陵を見に行った。東西150m×南北120m、高さ30mほどの小山だが、コンパクトなだけにかえって谷をめぐらした形状がよくわかる。地質図によると、山体は東側の山と同じタイプの花崗岩なので、地形的にそちらから切り離されたものだろう。

山上に祀られている妙見神社まで、鳥居の立つ南麓から急な石段がついていた。蜘蛛の巣を払いながらなんとか上りきったが、終盤の参道が地すべりで崩壊していて、残念ながら社にはたどり着けなかった。

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妙見神社の繞谷丘陵
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図3 同 水源公園~上須川
 

星坂の集落へ通じている道は、県道120号須川吉賀線だ。しかし普通車がやっとの狭い道幅で、舗装されてはいるものの、雰囲気は林道に近い。左の谷間は水田だったのだろうが、もはや背の高い雑草が生い茂っている。

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(左)林道のような県道120号
(右)星坂の集落を抜ける
 

集落を抜けると道はいっとき上り坂になり、まもなく島根・山口県境の峠に達した。大蛇ヶ池のほとりで見た「従是西(これよりにし)津和野領」の境界石は、もともとここに立っていたものだ。

この星坂峠を境に、風景は一変する。それまで山に囲まれた穏やかな平地だったのが、突然宇佐川の深い谷間を見下ろす山腹に躍り出るのだ。谷底との高度差は180mにもなる。先述の通りこの風隙は争奪の肘で、勢いを得た川の途方もない浸食力に圧倒される。

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(左)星坂峠への上り坂
(右)峠から再び山口県に
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もと星坂峠にあった境界石
現在は大蛇ヶ池のほとりに立つ
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景色は一変、宇佐川の深い谷間に
 

急斜面を覆う木々の間から、下の谷を走る国道434号がちらちら覗いている。県道はくねくね曲がりながら約2.5kmかけてそこまで降りていくのだが、下り坂なので、二人でよもやま話をしているうちに、早や国道が近づいてきた。

国道に出て宇佐川を渡ると、上須川(かみすがわ)の集落がある。立派なコンクリートの高架橋が集落のある谷間を斜めに横切っているのが見える。未成線、岩日北(がんにちきた)線の第4宇佐川橋梁だ。

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谷壁を降りていくか細い県道
(左)星坂峠を振り返る(右)下流方向
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上須川集落
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谷を横切る第4宇佐川橋梁
 

岩日というのは、山陽本線の岩国と山口線の日原(にちはら)のことで、岩日線はこの間を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたものだ。このうち、錦町(にしきちょう)までの南部区間が旧 国鉄岩日線(下注)で、1960~63年に開業し、その後、第三セクターの錦川鉄道になっている。一方、北部区間は岩日北線と呼ばれ、島根県吉賀町の六日市(むいかいち)まで建設が進められていた。路盤はほぼ完成していたが、国鉄再建法の施行により工事は凍結され、惜しくも未成線となってしまった。

*注 旧国鉄岩日線は、正式には岩徳線川西~錦町間32.7kmだが、列車は岩国から直通していた。錦川鉄道の列車も同じ運行形態をとっている。

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現在の錦町駅
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未成線跡を走る「とことこトレイン」
雙津峡温泉駅にて(別の日に撮影)
 

錦町駅と雙津峡(そうづきょう)温泉の間では、2002年からこの路盤を活用して遊覧車両「とことこトレイン」が運行されているが、区間外のこのあたりは遊休施設の状態だ。集落の南で敷地に上ってみると、とことこトレインの走行路と同じように、路盤はきちんと舗装されていた。

高根口駅予定地から宇佐川を跨ぐ第4橋梁までは歩いていけたが、対岸で濃い藪に行く手を遮られてしまう。岩日北線はここから長さ4679mの六日市トンネルで針路を西に変え、高津川流域の六日市に出ていくはすだった。空中写真を見る限り、向こう側の出口でも立派な未成線跡が1kmほど残されているようだ(下注)。

*注 六日市駅予定地は、むいかいち温泉ゆ・ら・らの敷地に転用されている。

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(左)上須川の岩日北線跡
(右)国道を越える第4宇佐川橋梁
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(左)橋梁から上須川方向を振り返る
(右)対岸は濃い藪で六日市トンネルは見えず
 

上須川バス停で、13時58分発の路線バスを待つ。時刻通りにやってきたのはマイクロバスで、他に客はいないから、タクシーのようなものだ。とことこトレインに乗るために途中の停留所で降りた大出さんを見送って、私はそのまま錦町駅まで乗り通した。

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(左)錦町駅へ行くコミュニティバス
(右)上須川バス停の待合所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、山口(昭和61年編集)および地理院地図(2023年12月1日取得)を使用したものである。

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2023年11月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡

四国のコンター旅2日目は高知に移って、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の旧跡を巡る。

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立岡二号桟道
 

魚梁瀬森林鉄道は、県東部の中芸地区で特産の杉などの木材を山から運び出していた762mm軌間の産業鉄道だ。1911(明治44)年から1942(昭和17)年にかけて奈半利川(なはりがわ)と安田川(やすだがわ)の流域に張り巡らされ、当地の林業経営を支えた。最盛期には、総延長が300kmを超え、国内屈指の広範な路線網だった。しかし、魚梁瀬ダムの建設で上流部の線路が水没することになり、1963(昭和38)年までに主要区間が廃止され、トラック輸送に置き換えられた。

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魚梁瀬丸山公園の復元列車
 

その後、水没を免れた廃線跡は道路に転用されるなどしたが、旧態のまま遺されていたトンネルや橋梁などの構造物が、2009年に「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されて現在に至る。森林鉄道の痕跡は全国にあるが、重文指定を受けているのはここだけだ(下注)。

*注 ちなみに、一般鉄道施設では「旧手宮鉄道施設」「碓氷峠鉄道施設」のほか、単体で「東京駅丸ノ内本屋」「旧揖斐川橋梁(東海道本線)」「末広橋梁(四日市港)」「第一大戸川橋梁(信楽高原鐵道)」「梅小路機関車庫」「旧大社駅本屋」「旧筑後川橋梁(昇開橋、旧佐賀線)」「門司港駅本屋」「旧綱ノ瀬橋梁及び第三五ヶ瀬川橋梁(旧高千穂線)」などが重文指定されている。

遺構は往復70kmほどの沿線に散在している。路線バスもほとんどない地域なので、今回は高知市内でレンタカーを調達する予定だ。それでもルートをくまなく見て回るのは時間的に難しく、主な見どころをピックアップするにとどまるだろう。

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図1 魚梁瀬森林鉄道沿線の1:200,000地勢図に
  重文施設の位置と路線網の概略を加筆
1978(昭和53)年編集図

2023年10月8日朝8時、小雨模様の高知駅前に集合したのは、昨日と同じ大出さんと私の2名。そもそも降水量の多い地域だが、今日の天気予報も終日傘マークで、午後ほど雨脚が強まるらしい。借りたトヨタアクアで高知東部自動車道、国道55号を東へ進む。右手に太平洋が見えてくるが、どんよりとした空のもと、白っぽくくすんだ色をしている。

1時間と少しで、安田町まで来た。安田川大橋の東詰で国道をそれ、クルマを停めた。段丘崖の下を通っていた廃線跡が小道で残っている。木材を満載して安田川の谷を下ってきた列車は、ここから田野の貯木場へ向かっていたのだ。

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(左)崖下を行く廃線跡の小道(田野方向を撮影)
(右)安田川左岸を遡る廃線跡
 

森林鉄道(以下、林鉄)で最初に建設されたのがこの路線で、1911(明治44)年に馬路(うまじ)まで開通し、のちに安田川線と呼ばれた。目的地の魚梁瀬は隣の奈半利川の上流だが、流域の山林の所有権が国と地元との間で係争中だったため、やむを得ずルートを迂回させたのだという。

県道12号が川の対岸(右岸)を走るのに対して、林鉄はこちら側(左岸)だったので、その跡と思しき道を北上した。途中からは、車一台がやっとの道幅になる。昭和の映画館の雰囲気を残すという大心劇場の前を通過し、上代(かみだい)集落を上手に進むと、山かげの道の脇に一つ目の遺構、エヤ隧道が口を開けていた。

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道路脇に残るエヤ隧道
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(左)内部はカーブしている
(右)ポータルに刻まれた I の文字
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図2 1:25,000地形図に主な見どころの位置を加筆
エヤ隧道~明神口橋
 

砂岩切石積みのポータルに、川下側から最初のトンネルを意味する I の文字が刻まれている。長さは33.2mと短く、徒歩で通り抜けが可能だ。入ってみると、アーチの天井部がレンガの長手積み、側面の垂直壁は切石で美しく仕上げられていた。車道に転用されなかったことで、改修の手が加わらず、原状が保たれているようだ。

この先、左岸に沿う廃線跡の林道は、じりじりと道幅を狭めていく。乗用車は後述する明神口橋を渡れないと聞いていたので、与床(よどこ)集落から右岸の県道に迂回した。そのため、途中にある長さ37.5mのバンダ島隧道は、対岸から眺めるにとどめた。

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バンダ島隧道を対岸から遠望
 

次の遺構は、明神口集落の上手に連続している。県道のバイパストンネルの手前で右折して旧道を行くと、川を斜めに渡っている赤いトラス橋が見えてきた。長さ43.2mの明神口(みょうじんぐち)橋だ。1912(大正元)年の建設で、最初は木橋だったが、機関車の導入に伴い、1929(昭和4)年に架け替えられたものだという。今は線路の代わりに、路面に金網が張られている。

これを渡るとすぐ下手に、長さ36.7mのオオムカエ隧道がある。東口(上流側)はコンクリートポータルに改修されているが、西口はオリジナルの切石積みで、III の刻字があった。堀淳一氏も1997年にNHKの番組ロケでここに来ている(下注)が、映像で見る限り、東口は本来素掘りのままだったようだ。

*注 1997年放送の「消えた鉄道を歩く-巨木の森の小さな鉄路」。

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明神口橋、金網が張られた路面
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オオムカエ隧道
(左)もとは素掘りだった東口
(右)原状をとどめる西口
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隧道西口のスギ林
 

次のスポットでも、釜ヶ谷(かまがや)桟道釜ヶ谷橋が連続している。島石ピクニック広場の駐車場から対岸に渡る吊り橋の上に出ると、前者の側面が遠望できた。桟道といっても木製ではなく石積みで、あたかも崖に半分埋まったアーチ橋といった趣きだ。一方、長さ12.3mの釜ヶ谷橋は県道に転用されたため、路面は拡張されている。しかし側面から覗くと、林鉄時代の橋桁と橋台を転用したことが見て取れる。

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釜ヶ谷桟道
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釜ヶ谷橋
(左)県道に転用
(右)林鉄時代の橋桁と橋台
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図3 同 釜ヶ谷桟道~馬路~河口隧道
 

長さ70.6m、平瀬(ひらせ)隧道の西口では、なんとキャンパーがクルマを付けて、テントを張っていた。雨の日だし、誰も通らないトンネルなので、こんな利用法もあるのだと感心する。通り抜けが可能なようだが、お邪魔するのも気が引けるので、反対側の、こちらも県道に面した東口に回った。ポータルの刻字はV、すなわち5番目だから、先ほどのオオムカエ隧道との間にかつてはもう1本トンネルが存在したのだろう。

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平瀬隧道
(左)臨時のキャンプサイトにされた西口
(右)県道脇の東口
 

引き続き一本道の県道を遡り、いよいよ馬路村の中心部にさしかかる。馬路大橋の手前を左折してすぐの川べりにあるのが、遺構群の中でもよく知られた長さ36.5mの五味(ごみ)隧道だ。旧道の馬路橋のたもとに北口が開いていて、線路を載せた短い桟道が続いている。道路から見下ろす構図が定番だが、勢いよく育った笹薮に視界を遮られてしまう。

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五味隧道、笹薮に視界を遮られる
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線路が復元された桟道
(左)五味隧道の真上から
(右)馬路橋から
 

ところで、「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重文指定を受けた施設は14か所あるが、意外にも、五味隧道をはじめ、後述する立岡二号桟道、法恩寺跨線橋、八幡山跨線橋という写真映えする4つの遺構は含まれていない。これらは重文本体ではなく、附(つけたり)指定になっているのだ。

附というのは、たとえば重文建造物の設計図や、来歴、用途を記した文書といった関連資料を、本体とあわせて指定するものだが、同じ類いの構造物でも附指定にすることがあるようだ。産業遺産としては一体的に考えるべきものながら、相対的な重要度の点で及ばないということか。

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五味隧道案内板
 

対岸に、観光案内所「まかいちょって家」がある。後で立ち寄って、2階にある森林鉄道の写真展示を見学した。売店では土産物のほか、林鉄関連の既刊書籍も扱っていて、ちょっとしたミュージアムショップだ。私も新刊の林鉄写真集を購入した。

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(左)まかいちょって家
(右)2階の林鉄展示
 

県道をはずれて、右岸(西岸)の町道を行く。馬路村は特産のゆずを使った商品開発で知られるが、製品加工施設の敷地はもと林鉄の運行拠点で、機関庫や修理工場を伴っていたヤードの跡だ。その北側はかつて商店街で、林鉄が路面軌道の形で貫いていた。いったん集落が途切れるが、その先は現在、村の観光拠点になっている。

右手の大きな建物は、日帰り温泉施設のうまじ温泉だ。左には1994年に開業した「馬路森林鉄道」という観光鉄道があり、支流の西谷川に沿って508mm軌間(下注)、1周300mのささやかな周回軌道が設けられている。その乗車も楽しみにしていたのだが、駅の窓口へ行くと、係員さんが申し訳なさそうに「機関車の故障で当面運休なんです」という。アメリカ・ポーター社製の旧機を2/3サイズで再現したという機関車がホームに停まっているが、「エンジントラブルの為、運休中!!」と張り紙がしてある。

*注 オリジナルは762mm(2フィート6インチ)軌間で、508mmはその2/3になる。

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馬路森林鉄道
(左)機関車は故障中
(右)谷沿いを走る軌道
 

では、隣のインクラインに乗ろう、と思って聞くと、「雨でシートが濡れて使えないので、きょうは中止にしました」。インクラインというのは、林鉄で使われていた傾斜鉄道(貨物用ケーブルカー)を再現した斜長92mの施設で、車両に積んだ水の重りで動くという珍しいものだ(下注)。山際の乗り場では、雨に濡れそぼった走行線に、オープンタイプの小型車両が所在なげに停まっていた。シートベルトを締めて乗るので、雨が吹き込む状況では運行できない。

*注 ウォーターバラスト方式といい、日本で唯一。海外の実例については「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

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馬路インクライン
(左)車両と急勾配の軌道
(右)水抜き用の管路
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インクライン軌道全景
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インクライン案内板
 

雨に降られたばかりか、お目当ての乗り物にも振られてしまったので、うまじ温泉のレストランで早めの昼食にした。ゆず果汁入りの「ごっくん馬路村」も試して元気を取り戻したところで、林鉄遺跡の探索を再開する。

馬路から魚梁瀬までの区間は、少し遅れて1915(大正4)年の開通だ。温泉のすぐ上手に、町道を通している落合橋がある。長さ37.0mで、釜ヶ谷橋と同じく、プレートガーダーと橋台が林鉄の遺物だ。

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落合橋
 

次は河口(こうぐち)隧道。県道から少し引っ込んだ位置にあり、長さは89.9m、ポータルに8番目を示す VIII の刻字がある。徒歩で入ろうとしたら、エンジン音がこだまし、中から軽トラックが飛び出してきた。内部は小さな明かりも灯っていて、椀田(わんだ)集落から中ノ川方面へ行くのに、近道として使われているようだ。カーブしたトンネルを出ると切通しで、上を旧道(?)が通過している。

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河口隧道東口
切通しを旧道がオーバークロス
 

山はさらに深まり、サミットとなる2車線の新久木(くき)トンネルが現れた。林鉄時代の久木隧道は、長さが333mと魚梁瀬林鉄では最長で、1977(昭和52)年の新トンネル完成までの間は、道路としても使われた。上記堀氏の著書『地図で歩く古代から現代まで』(JTB、2002年)によると、西口のポータルはまだ残っているようだが、この天気では探す気力が湧いてこない。

奈半利川斜面を降りていく途中に、支谷をまたぐ犬吠(いぬぼう)橋が架かっている。長さ41mの立派な上路トラス橋で、廃線後も県道の橋として使われていた。しかし、鋼材の一部が破断して通行できなくなり、現在、県道は上流側の迂回路を通っている。下流側で建設中の新しい橋が完成すれば、県道はそちらに移される予定だ。

林鉄の鉄橋は今や形が崩れ、仮設の支持台でかろうじて支えられていて、なんとも痛々しい。修復して自転車・歩行者専用にする計画だそうだが、いったん解体して組み立て直す必要があるから大工事だ。重要文化財とはいえ、そんな予算がぽんとつくのだろうか。

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痛々しい姿の犬吠橋
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図4 同 犬吠橋~魚梁瀬
 

久木ダムの少し上流にも、同じような構造の井ノ谷(いのや)橋が残っているので、県道をそれて寄り道した。道路に転用されていて、長さは54.5m。両端がカーブしているので、たもとからトラス構造を覗くことができる。

林鉄安田川線は、この先の釈迦ヶ生(しゃかがうえ)集落で奈半利川線と合流するが、魚梁瀬ダムの完成によって、上流の線路は湖底に沈んでしまった。クルマ道も行き止まりなので、引き返すしかない。

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井ノ谷橋
 

県道に戻って、くねくねと山腹を上っていくと、ダムを見下ろす展望台があった。見るからにどっしりとした大堰堤が眼下の谷を埋めている。魚梁瀬ダムは1970(昭和45)年に完成したロックフィルダムで、高さが115mで四国一、貯水量も「四国の水がめ」早明浦(さめうら)ダムに次ぐ規模だ。展望台の側壁パネルには、ダムの写真とともに林鉄の現役当時の写真も収められていた。

県道を少し上手に進んだところには別の展望台があり、貯水池(ダム湖)が奥まで見通せる。ここばかりは「雨には雨の風情あり」で、入り組んだ湖の周りの山並みに低い雲がたなびいて、一幅の絵のようだった。

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ロックフィルの魚梁瀬ダム
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ダム湖のパノラマ
正面奥に魚梁瀬大橋と、魚梁瀬(丸山台地)の一部が見える
 

林業で栄えた魚梁瀬地区は水没するのに伴い、湖畔の造成地(丸山台地)に集団移転した。旧版地形図と照合すると、旧集落の山手にあった昔の川の蛇行跡を嵩上げして造ったようだ。その一角が丸山公園と呼ばれる広い園地になっていて、762mm軌間、一周406mの周回軌道が敷かれている。

魚梁瀬大橋でダム湖を横断して、その乗り場である森の駅やなせの前にクルマを停めた。馬路での失意の記憶がよみがえり、窓口でおそるおそる「乗れますか」と聞くと、「ええ、何名さんですか」と返ってきてほっとする。一応、10時から15時30分まで15分間隔の時刻表が掲げてあるが、客が来しだい、随時運行しているようだ。

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森の駅やなせ
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スギ材製の乗車券、裏面に日付が入る
 

高床のホームに、谷村式と記された小型ディーゼル機関車が客車を従え、待機していた。谷村というのは戦前、地元高知で林鉄向けの装置を製造していた谷村鉄工所のことで、そのロッド駆動車をモデルに新造されたのがこの機関車だ。客車(連絡車)の車体にも地元産の木材が使われている。無蓋のトロッコと密閉型のボギー車の組み合わせなので、雨でも問題なく乗れるのがうれしい。

運賃は大人400円。杉板に印刷した乗車券をもらって乗車する。走り出すと最初、湖に近づき、次いで車庫前を通過して、警報機が鳴る踏切を横断した。この軌道を2周して、約7分のミニ列車旅だった。その後、大出さんが機関車の運転体験を申し込んだ。正規の運転士に横で指導してもらいながら、これも2周する。

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谷村式機関車が牽く復元列車
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(左)機関車の運転台
(右)ボギー客車
  朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の人形が同乗
 

北隅にある車庫も開いていて、自主見学が許された。野村式と書かれた茶色の機関車は、1948年野村組工作所製のL-69で、魚梁瀬林鉄のオリジナル機だ。廃線後、静態保存されていたものを1991年に動態復元したのだという(下注)。急曲線に対応する運材台車を引き連れたさまも絵になる。

*注 重量があり軌道が傷むため、「本線」を走行するのは特別行事のときだけのようだ。ちなみに先述のNHKの番組ではこれが走るシーンが出てくる。

隣にいる黄と緑と白帯の機関車は、静岡の水窪(みさくぼ)森林鉄道から来た酒井工作所製C16形、また岩手富士と書かれた箱型機は、鳥取から来た岩手富士産業製の特殊軽量機関車で、唯一の残存例だそうだ。

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車庫に保存車両を留置
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運材台車を引き連れた野村式L-69
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(左)酒井工作所製C16形
(右)岩手富士産業製特殊軽量機関車
 

林鉄ワールドを堪能して、帰路に就く。往路は安田川経由だったが、復路は奈半利川に沿って下る。旧来の安田川線には、釈迦ヶ生~久木隧道間に逆勾配、すなわち荷を積んだ列車にとって不利な上り坂が存在し、運行のボトルネックになっていた。これを解消するために計画されたのが奈半利川線で、1931(昭和6)年から1942(昭和17)年にかけて建設された。

クルマはしばらく県道12号を南下するが、安田川沿いより道幅が広めだ。ダム建設に際して、工事車両を通すために拡幅されたのだろう。林鉄由来と思われるトンネルもあるが、改修を受けているためか、重文のリストには含まれていない。

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図5 同 堀ヶ生橋~小島橋
 

そのため、奈半利川線の重文物件はすべて橋梁で占められる。最も上流の堀ヶ生橋(下注)は長さ46.9m、シングルスパンの鉄筋コンクリートアーチ橋だ。この材質で43mものスパンは国内最大級だそうで、県道に転用されていることもあって、もと鉄道橋には見えない。河原に降りて真下から仰ぐアーチはいっそう迫力があった。

*注 国指定文化財等データベースでは、堀ヶ生橋に「ほりがをばし」という異例の読みが付けられている(通常「を」は用いない)。なお、地理院地図では、堀ヶ生の地名の読みを「ほりがうえ」としている。

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長大スパンの堀ヶ生橋
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(左)堀ヶ生橋、中央部に退避場所がある
(右)橋に続く堀ヶ生隧道、側壁は石積み
 

県道12号が徳島県から来た国道493号と出会う位置に、二股(ふたまた)橋が架かっている。奈半利川と支流の小川川(おがわがわ)の合流地点だ。橋は長さ46.5mで同じくコンクリート製だが、こちらは無筋のため2スパンで、めがね橋の別称がある。釜石線や旧彦山線(現 日田彦山線BRT区間)、旧宮原線などに見られる高架橋を彷彿とさせるが、二股橋も、鋼材の使用制限が始まっていた1941(昭和16)年の建設だ。

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川の合流地点に架かる二股橋、通称めがね橋
奥に見えるのは二又発電所
 

奈半利川鉄橋なき今、長さ143.0mの小島(こじま)橋は、魚梁瀬林鉄で最大の遺構だ。2連のプラットトラスで、ゆったりと流れる奈半利川の中流部を渡っている。本体の威容もさることながら、対岸(左岸)にあるカーブしたガーダー橋と築堤の取り付け部が、廃線跡の雰囲気をよく残している。奈半利川線のうち二股以南は、後に支線となった竹屋敷線などとともに1932(昭和7)年までに完成していた。上述の2橋と違って鋼製なのはそれが理由だ。

*注 国指定文化財等データベースでは「こじまばし」だが、地理院地図では小島の地名の読みを「こしま」としている。

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2連プラットトラスの小島橋
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(左)右岸のたもとから
(右)ガーダー橋と築堤が左岸に続く
 

この後は、国道493号と北川奈半利道路で一気に奈半利を目指した(下注)。

*注 重文指定ではないため訪れなかったが、奈半利川右岸に加茂隧道(長さ28.1m)が原形のまま残っている。

右岸の田野町側には立岡(たちおか)二号桟道という印象的な遺構がある。3連プラットトラスで長さ167.49mと最長だった旧奈半利鉄橋の、西側の取り付け部に相当する構造物だ。避溢橋の役割を果たすコンクリートの高架と長い築堤が、カーブしながら川べりまで続いている。大出さんは以前来たことがあるというし、私も土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線に乗った際、見に行ったので、今回は対岸から遠望するにとどめた。

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立岡二号桟道と築堤(別の日に撮影)
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(左)カーブする桟道
(右)丸石が積まれた築堤の法面
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図6 同 安田、田野、奈半利
 

廃線跡の町道をたどって、法恩寺跨線橋(下注)へ。段丘上の三光寺へ行く参道が林鉄を跨いでいた橋で、石造アーチの構造をしている。立体交差にしたのは安全でいいことだが、参道の石段はけっこう段差があり、何度も上り下りするのは大変そうだ。

*注 法恩寺の地名の読みについて、現地の案内板には「ほうおんじ」とあるが、地理院地図では「ほおじ」としている。

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法恩寺跨線橋(別の日に撮影)
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多くの重文施設に同様の案内板がある
 

国道55号を戻り、最後に、田野の町はずれにある八幡山(はちまんやま)跨線橋を見に行った。ここでも神社に通じる参道が、林鉄の廃線跡を跨いでいる。コンクリートの桁橋なので、法恩寺のようなデザイン性には欠けるが、参道の階段が上に行くほどラッパ状にすぼまっていて、遠近感が強調されるのが面白い。

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八幡山跨線橋
(左)コンクリートの桁橋
(右)ラッパ状にすぼまる階段
 

時刻は早や17時、駆け足の旅だったとはいえ、貴重な遺構群や展示資料を実見し、再現鉄道の乗車も叶った。運行廃止から60年が経過した魚梁瀬森林鉄道だが、思ったより身近なものに感じられたのは、郷土史を飾る重要なページとして地域の人々に大切に扱われてきたからだろう。産業振興の推進力であり、交通の動脈でもあった鉄道の遺産が、これからも末永く維持されることを願いたいものだ。私も、雨にたたられた馬路の軽便鉄道とインクラインにいつか再挑戦しなければ…。

最後に、魚梁瀬森林鉄道の路線網が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図7 索引図
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図8 安田、田野、奈半利周辺
1953(昭和28)年応急修正、以下同
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図9 馬路周辺
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図10 魚梁瀬周辺
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図11 北川村北部
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図剣山、高知(いずれも昭和53年編集)、5万分の1地形図馬路、奈半利、安藝(いずれも昭和28年応急修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム https://rintetu.com/
Facebook-中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会 https://www.facebook.com/yanaserintetu

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2023年11月 8日 (水)

コンターサークル地図の旅-高麗巾着田

昨日とは打って変わってよく晴れた2023年9月24日、コンター旅の2日目は埼玉県に場所を移して、高麗巾着田(こまきんちゃくだ)とその周辺を歩いた。秋の空気が入って、風がことさら涼しく感じられる。

巾着田というのは、蛇行して流れる高麗川の滑走斜面(下注)に広がる田んぼのことだ。平面形は確かに巾着袋の形をしている。しかし、有名なのはその地形よりも、川沿いを埋め尽くすヒガンバナの大群落のほうだ。「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の里」として、花が見ごろとなる秋の初めには、多くの行楽客で賑わう。

*注 川の湾曲の内側に生じた緩い傾斜面のこと。ちなみに、和歌山県有田川町の通称「あらぎ島」も、小規模だが同様の景観で知られる。

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高麗巾着田のヒガンバナ群落
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図1 巾着田周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

朝、所沢から西武池袋線で、集合場所の高麗(こま)駅へ向かった。二つ手前の飯能(はんのう)駅で乗り継いだ西武秩父行きの電車には、リュックを背負った元気な中高年がたくさん乗り込み、その大半が高麗で下車した。私も含めて目的とするところはみな同じらしい。

天気が冴えなかった昨日の反動もあってか、駅前からしてすでに、何かのイベント会場かと疑うほどの混みようだ。今日も、参加者は大出さんと私の2名。いつもどおり歩くルートの地形図を用意してきたが、駅前から人波がぞろぞろと続いているので、あえて地図を開く必要もなかった。

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高麗駅で降りる行楽客
 

国道299号を横断し、集落の中の小道を降りていくと、ほどなく県道15号川越日高線の鹿台橋のたもとに出る。下を流れる高麗川の穏やかな川面に心を和ませながらこれを渡り、また右の小道へ。集落を抜けたところに、巾着田の案内板が立っていた。正面に見える田んぼはもう稲刈りを終え、伸び放題の稲孫(ひつじ)が風にそよいでいる。

戦後間もないころの地形図を見ると、巾着田は文字通り一面が水田だ(下図参照)。しかし、現在の案内板の地図では、花畑や牧場、さらには臨時駐車場になるグラウンドなどが幅を利かせていて、水田の面積は比べようもなく縮小している。

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(左)鹿台橋から見る高麗川
(右)稲孫が伸び放題の田んぼ
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巾着田の案内板
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図3 巾着田周辺の旧版地形図
1949(昭和24)年修正測量
 

人の流れは、河原の遊歩道へと向かっていた。木陰に早くもヒガンバナがちらほら見られる。群落のあるのはさらに先の、川筋が南に膨らんだ区域だが、見物客が押し寄せるこの時期は有料ゾーンになっている。ゲートで500円を払って、中へ進んだ。

巾着田を縁取る河畔林の緑が帯状に広がり、その足もとが真っ赤な絨毯で覆われている。田んぼのあぜ道などで見かけても、気にも止めないありふれた花だが、これだけまとまると圧巻だ(冒頭写真も参照)。記念写真を撮るために立ち止まる人も多く、遊歩道はところどころで渋滞している。

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河畔林の緑の風景に補色の赤が映える
 

途中で、川を横断している小橋が見えた。水位が上がると沈んでしまう沈下橋で、ドレミファ橋と呼ばれている。有料ゾーンで唯一川べりに出られるスポットだが、対岸に上がる道が閉鎖されているので、欄干もない狭い橋の上は、行く人戻る人が入り乱れる。

遊歩道に戻ってまた道なりに進むうち、あることに気づいた。赤の絨毯があるのはほとんど林の日陰で、日当たりのいい場所には咲いていないのだ。ヒガンバナは日陰を好む花かと早合点したが、そうではなく、日なたの株はまだ蕾の状態らしい。

ヒガンバナの花が開く9月下旬というのは、例年なら太平洋高気圧が後退し、大陸からの移動性高気圧に覆われ始める時期だ。空気が乾燥し、朝晩はめっきり涼しくなる。ところが今年は季節の歩みが遅く、残暑が長引いた。県道沿いの告知板に「三分咲き」と記されているとおり、見ごろが後ろ倒しになっているようだ。

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(左)川を横断するドレミファ橋
(右)日なたはまだ蕾で、全体でも三分咲き
 

ともあれ、予定していたメインタスクは無事完了した。ただ、巾着田の地形は直径500mほどの広さがあり、片道歩いただけではあまり実感が湧かなかったのも確かだ。そこでこの後は、近くの日和田山(ひわださん)に上ろうと思う。北西に位置する標高305mの山で、事前に入手したハイキングマップによれば、金刀比羅(ことひら)神社から高麗の里と巾着田が箱庭のように一望できるという。

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高麗川の河原から望む日和田山(左側のピーク)
 

県道の高麗本郷交差点から北に入り、日和田山登山口の道標に従って山手へ上る。奥武蔵自然歩道のルートにもなっているので、道はしっかりついているし、何よりハイカーと思しき人たちが次々と上がっていく。

最初は緩めの坂が続く一本道だ。金刀比羅神社の一の鳥居をくぐると、男坂、女坂の分岐点がある。前者は険しい直登ルート、後者は山腹を迂回する分、より歩きやすい山道だ。男坂方面には、見晴らしの丘という名の寄り道スポットがあるので、まずはそれを目指した。そこはベンチが置かれ、休憩をとるにはよかったが、木々が育って視界が狭く、残念ながら見晴らしは看板倒れだった。

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(左)一の鳥居
(右)男坂、女坂の分岐点
 

昼食だけとってさらに進むと、急な岩場を上ってきた男坂の本道と合流する。まもなく見上げる大岩の上に、華奢な二の鳥居が現れた。すでに多くのハイカーが集まってきている。ここで後ろを振り返ると180度のパノラマが開けるのだ。

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(左)二の鳥居
(右)180度のパノラマが開ける
 

正面に、河原と河畔林に取り巻かれた巾着田がある。北からの眺めなので、手前が巾着の絞った口の部分だ。あれだけいた来訪者は林の蔭で目立たないが、露天の駐車場はすっかり満車になっている。

右側に目を移すと、西武線の線路が見える。奥には秩父山地の青い山並みが連なり、背後にうっすらと浮かぶシルエットは富士山のようだ。一方、左側は関東平野で、遠くに都内の高層ビル群やスカイツリーも見える。期待以上にいい眺めだ。満足したので山頂までは行かず、神社の小さな社殿にお詣りしてから、女坂経由で山を下りた。

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二の鳥居から巾着田を望む
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秩父山地を望む
右のピークは大岳山、左に富士山のシルエットも
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都心方面を望む
 

きょうのゴールは、八高線と川越線が接続するJR高麗川駅なので、高麗川左岸の段丘沿いに東へ向かった。カワセミ街道と呼ばれる日高市道幹線2号が通っているが、歩道がなく、集落を結ぶ旧道をたどるのが安全だ。日差しが降り注いで、午後は晩夏の暑気が戻ってきた。

この周辺は、7世紀の高句麗(下注)滅亡に際し、難を避けて渡来していた人々を、716(霊亀2)年に関東各地から移住させたという土地だ。明治中期までは高麗郡と称し、渡来人ゆかりの寺社が今もある。

*注 10~14世紀に存在した高麗(こうらい)国とは別。日本に残る高麗、狛などの地名は高句麗からの渡来人に由来する。

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カワセミ街道沿いの旧道を歩く
 

20分弱歩くと、その一つ、聖天院(しょうでんいん)の前に出た。案内板によれば、高麗郡を治めた高麗王若光(じゃっこう)らの菩提寺として創建されたものだ。堂々とした二層の山門がまず目を引くが、浅草寺と同じような雷門の大提灯が下がっている。両脇の立像も風神と雷神だ。

山門の風格に引き寄せられて、拝観料を払い、入ってみた。石段で本堂前の広場に上ると、のどかな高麗川の谷が見晴らせる。丘の地形を巧みに利用した広い境内だが、伽藍は案外新しいものだった。

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聖天院の山門
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同 全景
 

続いて近くにある高麗神社へ。ここも祭神は高麗王若光で、社殿の奥には代々その神職を務めてきた高麗家の住宅も保存されている。休日とはいえ、参拝客が多いのに感心したが、巾着田行きの臨時シャトルバスの案内看板を見つけて納得した。神社の駐車場も、渋滞緩和のためのパークアンドライドに使われているのだ。高麗家住宅でも何やら音楽イベントが開かれていたから、巾着田人気は、周辺地域の観光活性化にも寄与しているようだ。

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高麗神社
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(左)同 本殿
(右)重文指定の高麗家住宅
 

神社を後にして、出世橋で高麗川の右岸へ渡る。JR駅へ直行する大出さんと別れ、私はかつて高麗川駅から出ていた太平洋セメント工場の貨物線跡へ寄り道した。

八高線と川越線にはさまれた地点から市役所通り(日高市道幹線6号)と交わるまでの700m弱が、アスファルト舗装のうえ、「ポッポ道」の名で遊歩道化されている。短距離ながら、踏切の警報機が2か所、現役さながらに立っているほか、電柱や、舗装に埋め込まれたレールなど鉄道時代の小道具が点々と残る。終点近くでは、武甲鉱業の石灰石を運ぶベルトコンベアーが地中に埋まっている直線道も交差していて、たどってみたいところだが、時間がなかった。

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ポッポ道の遺構
(左)八高線近くの踏切
(右)カーブする廃線跡と通信線電柱
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(左)高麗川中学校前の踏切
(右)舗装に埋め込まれた線路
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市役所通りに立つ案内板
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)、2万5千分の1地形図飯能(昭和24年修正測量)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高麗巾着田 http://www.kinchakuda.com/

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2023年6月26日 (月)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く II

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間の北陸本線旧線跡を、前回は杉津(すいづ)までたどった。今回は残りのルートを敦賀に向かって歩く。

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杉津(すいづ)駅付近を走るD51の陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図2、3は前回掲載
 

杉津(すいづ)駅は今庄から13.5km、敦賀から12.9kmと、区間のほぼ中間に位置している。鉢伏山(はちぶせやま)の西側、標高179mの山腹で、眼下に敦賀湾と日本海を望めることから、かつては北陸本線の車窓随一の景勝地として知られていた。夏は、ここで下車して東浦海岸まで海水浴に行く客も多かったそうだ。

駅構内は2面4線の構造だったが、廃線後、北陸自動車道上り線のパーキングエリア(PA)に転用されて姿を消した。今庄から旧線跡を忠実にたどってきた県道今庄杉津線も右にそれ、国道8号に合流すべく杉津の集落へと降りていく。そのため、旧線跡を追おうとするなら、左折して北陸道の下をくぐり、山側に出る市道を行く必要がある。

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(左)県道今庄杉津線から敦賀方面への分岐
(右)「ぷらっとパーク」案内板
 

PAの脇を進んでいくと、「ぷらっとパーク」の案内板が出ていた。一般道からも利用可能なPA・SAのことで、裏口にささやかな駐車スペースも用意されている。さっそく入って、売店・食堂棟の傍らに杉津駅に関する案内板があるのを確かめた。

駐車場に面した壁面では、地元の小中学生が筆を揮ったという力作の陶板画が人目を引いていた。一つは高みから見下ろした構図で、海辺の村と湾の青い水面を背景に、蒸気列車が駅に入ろうとしている。あぜ道が交錯する山田では田植えの最中のようだ(前回冒頭写真参照)。もう一つは蒸機のD51が主役で、力強い走りっぷりを斜め正面から写実的に描いている(今回冒頭写真参照)。

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杉津駅案内板(杉津上り線PAに設置)
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PAの壁面を2点の陶板画が飾る
 

列車こそ来なくなったが、目の前の絶景は今も昔と変わらない、と書きたいところだが、意外にも駐車場と高速道の本線に前面を遮られてしまう。これでは来た甲斐がないので、下り線側に行くことにした。

この周辺では、高速道の上り線(米原方面)と下り線(新潟方面)の配置が逆転している。そのうえ西向きの急斜面に立地するので、東側を通る下り線のほうが50m以上高い場所にあるのだ。両方のPAを行き来できるのは一般道利用者にのみ与えられた特権だが、バックヤードの急な坂道を自力で上らなくてはならない。

下り線PAの売店・食堂棟の裏手には、「夕日のアトリエ」と称する展望台がある。北陸道を通行するドライバーによく知られたスポットで、そこから眺めるパノラマは折り紙付きだ。見えている海は敦賀湾口で、かなたに日本海の水平線が延びる。手前の海岸線は、かつて海水浴客で賑わった杉津の浜で、左手直下に先ほどいた上り線PA、右手には歩いてきた旧線跡の県道も見える。沈む夕陽を売りにしている展望台だが、日中の見晴らしも十分すばらしい。

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杉津下り線PAの展望台
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下り線PAからのパノラマ
海岸の集落が杉津、手前下方に杉津駅跡の上り線PA
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右手に旧線跡の県道(今庄方)が延びる
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杉津駅案内板(杉津下り線PAに設置)
 
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
杉津~葉原信号場間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

しばらく休憩した後、坂を下り、改めて敦賀のほうへ向かう。ちなみに杉津駅のすぐ南には、開業当時、河野谷(こうのだに)トンネルというごく短いトンネルがあったが、構内拡張に際して開削され、消失した。

道路は再び旧線跡に載る。北陸道上り線の杉津トンネルと並ぶようにして、曽路地谷(そろじだに)トンネルが口を開けている。401mと旧線のトンネル群では第4位につける長さだが、県道から外れたためか、内部に照明がなかった。奥へ進むにつれて足もとが闇に包まれ、手にした懐中電灯だけを頼りに歩く。おおむね直線なので(下注)、出口の明かりが小さくまたたいて見えるのがせめてもの救いだった。

*注 敦賀方の出口で左カーブしている。

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曽路地谷トンネル南口
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(左)北陸道のトンネルと並ぶ曽路地谷トンネル北口
(右)照明がなく、中央部は真っ暗闇
 

トンネルを抜けると、右手に敦賀湾の明るい眺めが戻ってきた。しかし、北陸道の上り線が海側のすぐ下を並走しているため、クルマの走行音が絶えず響いて耳障りだ。静寂に包まれていた杉津以北の道中を思えば、俗世間に連れ戻されたような気がする。

次の鮒ヶ谷(ふながや)トンネルは、長さ64mでごく短い。しかも高速道の擁壁建設の際に削られたのか、地山があらかた消失し、トマソン物件になりかかっていた。このあたりで勾配が反転し、25‰の上りが復活する。山中トンネルに向かう坂道ではまったく平気だったのに、疲れてきたのか足が重い。

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(左)敦賀湾の眺めが戻るが、右側すぐ下に北陸道が
(右)地山があらかた消失した鮒ヶ谷トンネル
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鮒ヶ谷トンネル南口
 

いつしか道は林に包まれ、そのうち葉原(はばら)トンネルのポータルが現れた。他のトンネルと同じように金文字の名称プレートがついているが、かつては当時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額がはまっていた。北口で「永世無窮(えいせいむきゅう)」、南口で「與國咸休(よこくかんきゅう)」と刻まれ、実物は長浜鉄道スクエアの前庭にある。

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葉原トンネル南口
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北口の扁額「永世無窮」
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南口の扁額「與國咸休」
いずれも長浜鉄道スクエアで撮影
 

葉原トンネルは、鉢伏山(はちぶせやま)の西尾根を貫いている。長さが979mで山中トンネルの次につけるだけでなく、縦断面でももう一つのサミットを形成していて、立派な扁額に見合う主要構築物だ。しかし今は市道なので、また真っ暗闇の大冒険を強いられるかと危惧したが、ちゃんと明かりが灯っていた。

北口付近にカーブがあり、直線部分も拝み勾配のため、内部の見通しは必ずしもよくない。それでポータル前に、待ち時間約5分と記された交互通行用の信号機が設置されている。徒歩で通過するのに10分以上を要したが、幸いにもその間に入ってくる車両は1台もなかった。

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(左)北口付近にカーブ、直線部は拝み勾配
(右)南口、右上に北陸道下り線が見える
 

トンネルの南口は、北陸道の下り線と上り線に挟まれている。この狭い場所に3本のトンネルが集中しているのだ。高速道建設の際に、潰されたり転用されたりしなかったのは僥倖というべきだろう。

旧線跡は25‰の急勾配で坂を下りていく。葉原信号場の痕跡を探しながら歩いたが、案内板すら立っておらず、右側に雑草の生えた空地が認められるだけだ。急坂の途中のため、信号場はスイッチバック式になっていた。

山中信号場でも実見したように、引上げ線の終端では本線との高度差がかなり開いていたはずだが、今庄方の掘割は埋められており、敦賀方の築堤も高速道路の用地にされたようだ。空中写真を参照すると、市道も若干西側に移設されたようで、一部で旧線跡をトレースしていない。

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(左)葉原信号場跡付近を北望
(右)同 南望
 
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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
葉原信号場~新保間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

北陸道下り線の法面に沿って進むと、行く手に葉原集落が見えてきた。旧線跡は弧を描く長い築堤で、谷を横切りながら高度を下げていく。現役時代は葉原築堤、または葉原の大カーブと呼ばれ、山中越えに挑む蒸機の奮闘ぶりが見られる名所だった。

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弧を描きながら降りる葉原築堤
 

葉原で、旧線跡の市道は木の芽峠から降りてきた国道476号に吸収される。合流地点に村社の日吉神社がある。旧線はこの境内を突っ切っていたが、その後、神社の敷地に戻され、小さな鳥居が立った。

この先は、片側1車線の国道が廃線跡をほぼ踏襲している。しかし、歩道どころか車道の路肩もほとんどなく、歩きには適していない。ここは安全第一で、木の芽川の対岸を通っている旧道に回った。やがて左から北陸道下り線が接近してきて、ただでさえ狭い谷間に、国道、木の芽川、高速道路、旧道が並走し始めた。北陸道の上り線だけ別ルートなのも無理はないと思わせる過密ぶりだ。

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国道476号との合流地点
(左)旧線跡は神社の境内になり鳥居が立つ(北望)
(右)反対側では国道が旧線跡(南望)
 

その谷間に、寄り添うようにして獺河内(うそごうち)集落がある。旧線の新保(しんぼ)駅はその南にあった。新保というのは、駅から北へ4kmも離れた木の芽峠南麓にある集落の名で、国道脇に駅跡を示す大きな自然石の記念碑が立っている。土台部分に描かれた構内図は、道路や等高線が線路と同じ太さの線で描かれていて、今一つ要領を得ないが、ここも25‰勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの駅だった。

敦賀方の折返し線上に島式ホームが設置され、今庄方にも集落の裏手を通って引上げ線が延びていた。敦賀から坂を上ってきた列車は、いったん引上げ線に入った後、バックして折返し線のホームに着いたという。狭い谷間とあって、駅の跡地は北陸道や国道にまるごと利用され、ほとんど原形をとどめていない。なお、「かつての駅の壁面が自動車道の一部に残されて」いるという案内板の言及は、北陸道の山側に見られる擁壁のことだろう。

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新保駅跡の記念碑、台座に構内配線図
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駅構内は高速道と国道に転用(南望)
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新保駅案内板
 

獺河内から少し行くと旧道が国道に合流してしまい、約1kmの間、危険な国道を歩かざるを得なかった。上流に採石場があるからか、ダンプカーが道幅いっぱいになって通る。こんな道に歩行者がいるとは予想されていないだろうから、ガードレールぎわに立ち止まってやり過ごすしかない。

旧線には、谷の屈曲を短絡する2本の短いトンネルがあった。このうち、今庄方の獺河内トンネルは、国道の新トンネルとして拡幅改修され、面影は完全に消えてしまった。先ほどの無歩道区間とは対照的に、歩道もやたらと広く取られている。

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獺河内トンネルは国道として拡幅改修
 
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
新保~敦賀間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

一方、敦賀方にある樫曲(かしまがり)トンネル(長さ87m)は歩道扱いとなり(下注)、原状のまま保存されている。ガス灯風の照明設備が鉄道トンネルにふさわしいかどうかは別として、クルマを気にせずにゆっくり観察できるのはうれしい。西口には、土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレートが埋め込まれていた。2種のプレートが揃うのは、山中トンネル北口とここだけで、トンネル群のエントランスに位置付けられていることがわかる。

*注 以前は片方向の車道として使われていた。

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原状保存された樫曲トンネル(東口)
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西口内壁に埋め込まれた
土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレート
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樫曲トンネル(西口)と迂回する国道
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樫曲トンネル案内板
 

しかし、国道の迂回はトンネルの前後に限られる。すぐに国道が旧線跡に戻り、谷間に大きな曲線を描いていく。深山(みやま)信号場があったのは、ちょうど北陸道の上り線と下り線が立体交差で合流するあたりだが、国道の道幅が1車線分広くなっているのが目立つ程度だ。

国道はそれから右にカーブし、北陸トンネルから出てきた現在線の横にぴったりとつく。今庄駅の南端で始まった旧線跡をたどる旅はここで終わる。敦賀駅までは、あと2kmほどだ。

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(左)樫曲集落、背景に新幹線と北陸道上り線の高架橋
(右)深山信号場跡、国道の左側が広い
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(左)北陸トンネル南口
(右)敦賀駅正面
 

最後に、湯尾(ゆのお)トンネルについて記しておこう。「旧北陸本線トンネル群」に含まれる11本のトンネルのうち、これだけが他とは離れて、今庄~湯尾間にぽつんと存在する。というのもこのトンネルは、蛇行する日野川の谷をショートカットするために掘られたものだからだ。

長さは368mあり、入口から出口までずっとカーブし続けているのが特徴だ。ポータルは切石積み、内壁は煉瓦積みで、芦谷トンネルと同様の仕様になっている。現在は一般道として使われているが、内部が交互通行のため、待ち時間約3分の信号機に従わなければならない。

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湯尾トンネル北口
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(左)内部は終始カーブしている
(右)南口
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湯尾トンネル案内板
 

トンネルの前後の旧線跡は、北と南で対照的だ。北側は、現在線との合流地点まで道路化されている。途中の湯尾谷川を渡る橋の煉瓦橋台は、鉄道時代のものだろう。南側でも道路が川沿いにまっすぐ延びているが、これは旧線跡ではない。地形図で読み取ると、旧線はもっと山際を通っていた。しかし、民地に取り込まれたり、新線の下に埋もれたりして、ルートはほとんどわからなくなってしまったようだ。

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トンネル北側の旧線跡道路
(左)湯尾谷川の橋から南望
(右)橋には煉瓦の橋台が残る
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図7 1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
湯尾~今庄間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

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2023年6月23日 (金)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I

長さ13,870mの北陸トンネルが開通するまで、北陸本線が杉津(すいづ)回り、山中越えなどと呼ばれた険しい山間ルートを通っていたことは、もうすっかり忘れられているかもしれない。

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間のこの旧線は1896(明治29)年の開業で、長さ26.4km。旧街道が越える標高約630mの木の芽峠を避けて、敦賀湾沿いの山腹を大きく迂回していた。それでも標高265mまで上る必要があり、前後に急勾配とトンネルが連続する、蒸気機関車にとっては運行の難所だった。もとより単線でスイッチバックもあって、今なら16分で通過してしまう区間に35分から50分も要していたのだ(下注)。

*注 1961(昭和36)年10月改正ダイヤに基づく。

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杉津(すいづ)旧駅を描いた陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
 

1962(昭和37)年6月に北陸トンネル経由に切り替えられた後、66年間の長い務めを終えた旧線は、車が走れる道路に転換された(下注)。これはこれで敦賀と今庄の間の抜け道として重宝されていたが、1977年に北陸自動車道が通じ、さらに地道でも2004年に国道476号の木ノ芽峠トンネルが開通したことで、通行量はごく少なくなった。

*注 2023年現在、敦賀~葉原間は国道476号、葉原~杉津PA間は敦賀市道、杉津PA~今庄間は福井県道今庄杉津線のそれぞれ一部区間になっている。

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敦賀~今庄間の線路縦断面図
「今庄まちなみ情報館」の展示パネルより
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「3連トンネル」の景観
伊良谷トンネル出口から南望
 

ルート上には今も11本のトンネル(下注1)など、鉄道の現役時代を彷彿とさせる痕跡が点々と残されている。これらは歴史的価値が認められて、2014年に「旧北陸本線トンネル群」として土木学会選奨土木遺産に認定、2016年には国の登録有形文化財にも登録された(下注2)。

*注1 今庄~湯尾間の湯尾トンネルを含む。
*注2 登録有形文化財としての名称は個別で、それぞれ前に「旧北陸線」がつく(例:旧北陸線山中トンネル)。また、罠山谷(わなやまだに)暗渠と山中ロックシェッドも同時に登録されている。

以下は、その全区間を徒歩で訪ねたレポートだ。北陸本線は米原(まいばら)が起点なので、敦賀から今庄に向けて記すのが順当だが、実際に歩いた今庄側からの記述になることをお断わりしておきたい。

なお、1:25,000地形図上に、歩いたルートを赤線で、旧線の概略位置を緑の破線で、それぞれ記している。参考までに旧版地形図も添えたが、1:25,000図が手元にないため、1:50,000図を2倍拡大して用いた。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図4以下は次回掲載

今庄駅は、山あいにたたずむ静かな中間駅に過ぎない。しかしかつては、山中越えの列車に連結する補助機関車のための鉄道基地で、本線線路を隔てて東側には機関庫や転車台など関連施設が集まっていた。新線開通でそれらはほとんど撤去されてしまい、今は給水塔と高床式の給炭台だけが敷地の奥でうらぶれた姿をさらしている。

一方、旅客用の駅舎は後に改築されて、装いを一新した。その中に設けられた「今庄まちなみ情報館」には精巧な再現ジオラマがあり、活気にあふれていた時代の駅構内をしのぶことができる。

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今庄駅
(左)観光案内所や情報館の入る駅舎
(右)521系の上り普通列車が入線
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(左)構内に残る給水塔と給炭台
(右)旧役場前広場に保存されたD51 481号機
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「今庄まちなみ情報館」にある旧駅構内のジオラマ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
今庄~大桐間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

さて、今庄の町の南のはずれで、旧線跡は現在線から右に分かれていく。現在線が長さ855mの今庄トンネルに入る一方で、川沿いに延びていた旧線跡は、そっくり県道207号今庄杉津線に転用された。緩いカーブは鉄道由来のものだが、2車線幅に拡げられたため、昔の面影を見いだすことは難しい。

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今庄~南今庄間の旧線跡道路
(左)緩いカーブは鉄道由来(西望)
(右)現在線に再接近(東望)
 

その県道が、トンネルから出てきた現在線に再接近した地点に、南今庄(みなみいまじょう)駅がある。後述する大桐駅廃止の代償として開設されたが、対面式ホームにささやかな待合室が付属するだけのさびしい無人駅だ(下注)。それで、すぐそばの県道脇に木造の休憩所が建てられている。トイレもあるので、この駅を廃線跡探索のスタート/ゴール地点にするなら、身支度や電車待ちに重宝するだろう。

*注 出入口にICカードの簡易改札機がある。

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(左)南今庄駅
(右)県道脇の休憩所
 

駅を出たあと、まっすぐ北陸トンネルに向かう現在線に対して、廃線跡の県道は緩やかに右カーブする。そして谷をまっすぐ遡りながら、下新道(しもしんどう)と上新道(かみしんどう)の集落を通過していく。案内板によれば、この地名は木の芽峠に向かう新道(の入口)という意味らしい。新道といっても830年の開削で、それ以前の北陸道は、海岸から直登して旧線と同じく山中峠を経由していたそうだ。

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(左)下新道集落を直進
(右)北陸自動車道が見えてきた
 

行く手に、現代の北陸道である北陸自動車道が見えてきた。その高架下をくぐろうとするところに、交互通行の信号機が立っていた。

というのも、昨年(2022年)8月5日に集中豪雨があり、鹿蒜川が氾濫してこの地域に大きな被害をもたらしたのだ。家屋や田畑が冠水し、県道も被災して一時期、通行止めになった。先にある2か所の橋のうち、上手のほうが流失したため、川の右岸に応急の迂回路が造られている。信号機はそのためのものだ。流された橋桁は鉄道からの転用だったので、貴重な遺構が一つ消えたことになる。

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被災した県道
(左)下手の橋梁は無事
(右)上手の橋梁は流失
 

大桐(おおぎり)駅跡はその流失現場の続きだが、幸いにも被害を免れた。一部保存された上り線ホームには桜並木が植わり、案内板とともにD51の動輪や信号機など鉄道のモニュメントが置かれている。敦賀~今庄間の旧線にあった3つの中間駅のうち、他の2つは高速道路の建設で消失してしまったから、ここは往時を追想できる貴重な場所だ。

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上りホームが残る大桐駅跡(東望)
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ホーム上に並ぶ動輪や信号機のモニュメント
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大桐駅案内板
 

大桐駅を出ると、旧線跡は右へカーブしながら、いよいよ25‰(1:40)の勾配区間にさしかかる。山中トンネルの手前まで約6km続く長い坂道だ。800mほど先には、駅の名になった大桐集落がある。家並みの間を貫く築堤の途中でまた鹿蒜川を渡るが、ここでも鉄道時代の鋼桁が再利用されていた。

ここは今庄方の最後の集落で、これを境に道幅が狭まり、センターラインも消える。新幹線工区のある谷側の高い法面がブルーシートで覆われていた。ここも豪雨の爪痕のようだ。いつしか携帯の電波が届かなくなり、山の深まりを実感する。舗装道だが、クルマにもバイクにも出会わないし、もちろん歩いているのは私だけだ。

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(左)大桐集落
(右)鹿蒜川を渡る橋に鉄道の面影
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(左)大桐の築堤を下る特急「白鳥」、大桐の案内板を撮影
(右)同じ場所の現在
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(左)法面に復旧工事の跡が残る(東望)
(右)通るクルマもない深山の直線道(西望)
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図3 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
大桐~杉津間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

杉林の中をなおも上っていくと、覆道の山中ロックシェッド(下注)があった。一見新しく、線路を通していたにしては狭く見えるが、登録有形文化財のプレートがはまっているから間違いない。1953(昭和28)年の建築で、長さは65m、国内最初期のプレストコンクリート製という点に価値があるらしい。

*注 ロックシェッド rock shed は落石除けの意。

ロックシェッドに続いて、山側に頑丈そうなコンクリートの擁壁がそびえている。ここはもう山中信号場の構内で、スイッチバックの折返し線がこの上に延びていたのだ。進むにつれて、築堤との高低差は徐々に縮まってくる。折返し線は長さが500m以上ありそうだが、途中で一部が崩壊し、土嚢が積まれていた。支谷から溢れた水流で押し流されたようだ。

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山中ロックシェッドにも、登録有形文化財のプレートがはまる(左写真の矢印)
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(左)折返し線を載せる擁壁(西望)
(右)本線ロックシェッドの上に折返し線のロックシェッドが(東望)
 

折返し線が合流する場所まで来た。信号場の案内板がある。それによると、今見てきた今庄方の折返し線は複線になっていて、それとは別に敦賀方にも単線の引上げ線が延びていた。本線の坂を上ってきた列車は、いったん後者に入線した後、バックして前者に入り、列車交換を行ったという。

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スイッチバックの山中信号場(東望)
右の砂利道が折返し線跡
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山中信号場案内板
 

森陰の薄暗い谷を少し進むと、山中トンネル(下注)の苔むした煉瓦ポータルが迎えてくれた。左隣には、引上げ線の有効長を延ばすために設けられた行き止まりのトンネルも見える。

*注 地形図の注記のとおり、明治時代の建設のため、本来の呼称は「~隧道(ずいどう)」だが、本稿では「~トンネル」に統一した。

山中トンネルは長さ1170mで、このトンネル群では最長だ。今いる北口が山中越えのサミットに当たり、旧 北陸本線の最高地点でもあった。ポータル上部には、かつて時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額が据え付けられていたが、現在は、滋賀県長浜市にある長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎)の前庭に移設されている(下注1)。北口は「徳垂後裔(とくすいこうえい)」、南口は「功和于時(こうかうじ)」と刻まれていて(下注2)、建設に携わった人々の気概と自負が伝わってくる。

*注1 最近、トンネルの前にも扁額のレプリカが置かれた。
*注2 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照

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山中トンネル北口、左隣は引上げ線のトンネル
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長浜鉄道スクエアに保存されている扁額「徳垂後裔」
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引上げ線トンネル
内部はすぐに行き止まりに
 

本線トンネルに入っていこう。内部は直線かつ22.2‰(1:45)の一方的な下り勾配で、1km以上先にある出口の明かりが小さく見える。リュックに懐中電灯を入れてきたが、天井照明があるので、取出すまでもなかった。壁から染み出した水が側溝の蓋からあふれて、あちこちに流れや水たまりを作っている。注意深く歩かないと、靴が水浸しになりそうだ。

珍しく途中で乗用車が1台入ってきたが、ロケットの発射かと思うほどの轟音がこだまして肝を冷やした。トンネル内では離合が難しいから、速度を上げているのだろう。とりあえず退避用の窪みに身を寄せてやり過ごす。写真を撮りながら歩いたので、出口まで20分以上かかったが、すれ違ったのはこの1台だけで助かった。

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山中トンネル内部
一方的な下り勾配、水浸しの路面
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(左)資材置場(?)と電線碍子
(右)後補と思われる待避所
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(左)南口から南望
(右)山中トンネル南口、かつてはここにも扁額があった
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南口の扁額「功和于時」
長浜鉄道スクエアで撮影
 

山中トンネルの後も50~100mの明かり区間を置いて、トンネルが5本連続している。海に落ち込む山襞をあたかも串刺しにするように、線路が通されているからだ。

一つ目は伊良谷(いらだに)トンネル、長さは467m。ポータル上部には、建設時のものではないが、名称を金文字で記したプレートがはまっている(下注)。内部がカーブしていて見通しが悪いので、入口に交互通行用の信号機が設置されていた。看板には待ち時間約3分とあるが、私は徒歩なので、遠慮なく入らせてもらう。

*注 伊良谷トンネルから葉原トンネルまでこの仕様になっている。

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信号機が設置された伊良谷トンネル北口
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(左)トンネル名称のプレート
(右)内部はカーブで見通しが悪い
 

カーブの終わる出口に近づくと、これから通る2本のトンネルが一直線に並んで見える。案内板によると、この印象的な景観は「3連トンネル」と呼ばれているらしい(冒頭写真参照)。

一見同じようなトンネルだが、仕上げ材には違いが見える。山中、伊良谷はポータルも内部も煉瓦で積んでいるが、次の芦谷(あしたに)トンネルは内部が煉瓦積み、ポータルは切石積みだ。その後のトンネルは、ポータルだけでなく内部の腰部まで切石積みになる。

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(左)山中トンネルの内部は煉瓦積み
(右)曲谷トンネルは腰部が切石積み
 

芦谷トンネル(長さ 223m)を出ると、三つ目の曲谷(まがりたに)トンネル(同 260m)の間で谷を横断している築堤が、大規模に流失していた。これも豪雨による被害だ。築堤の下の暗渠が土砂で埋まったか何かで、谷からの出水が築堤を乗り越えてしまったようだ。山側に設けられた仮設道路を迂回する。今庄方から来ると、この築堤で初めて敦賀湾が見えるのだが、今は不気味な裂け目のほうに目が行ってしまう。

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芦谷、曲谷トンネル間で流失した築堤
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その築堤から見える敦賀湾
 

曲谷トンネルは内部で右に、四つ目の第二観音寺トンネル(同 310m)は同じく左にカーブしている。再び敦賀湾を遠望した後、短い第一観音寺トンネル(同 82m)に入った。

この後はしばらく山腹の明かり区間で、高い築堤の上を25‰で下っていく。この下に、トンネル群とともに登録有形文化財に加えられた罠山谷(わなやまだに)暗渠(長さ46m)があるはずだが、見学路がついているのかどうかはわからない。

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曲谷トンネル北口
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第二観音寺トンネル南口
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第一観音寺トンネル南口
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(左)罠山谷暗渠のある築堤(北望)
(右)正面奥に北陸道上り線(南望)
 

さらに歩いていくと、正面に北陸自動車道の上り線が見えてきた。あちらも分水嶺の下を敦賀トンネルで抜けてきたところで、クルマがひっきりなしに行き交っている。緑地に P の標識が見えるのは、杉津(すいづ)パーキングエリアの駐車場だ。知られているとおり、ここが旧線の展望名所だった杉津駅の跡になる。

続きは次回に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図今庄(昭和35年資料修正)および地理院地図(2023年6月9日取得)を使用したものである。

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2023年6月 9日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

新幹線の延伸に伴って、ほとんど第三セクター路線になってしまいそうな北陸本線だが、今ある複線電化の立派な施設設備は、主に国鉄時代の1950~60年代に整備されたものだ。

このとき、各所で曲線や勾配の多い旧線が放棄され、新設ルートへの切り替えが実施された。中でも大規模なものが、ループ線や北陸トンネルが建設された木ノ本~敦賀~今庄間と、地下駅のある頸城(くびき)トンネルで知られる糸魚川~直江津間だ。

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旧線跡の自転車道からの眺め
有間川駅西方から東望
 

後者では、旧線は背後に迫る山地や段丘を避けて、海岸を走っていた。そのため、線形の悪さや単線の制約はもとより、有数の地すべり地帯だったことから、運行の安全性にも懸念があった。そこで1969(昭和44)年10月のダイヤ改正に合わせて、抜本的な線路改良が行われた。糸魚川の2駅(当時)先の浦本から直江津の間では、線路は山地を貫くように通され、長さ11,353mの頸城トンネルを筆頭に、大小のトンネルが連続している。

一方、列車が走らなくなった旧線跡は、その大半が全長32kmに及ぶ長距離自転車道の建設に利用された。「久比岐(くびき)自転車道」と呼ばれるこのルート(下注)は、直江津の西4kmにある虫生岩戸(むしゅういわと)地内から糸魚川市の早川橋の手前に至るもので、終始日本海に沿うサイクリングルートとして人気が高い。

*注 正式名は、新潟県道542号上越糸魚川自転車道線。

2023年5月21日、糸魚川を拠点にしたコンター旅の2日目は、この自転車道をレンタサイクルでたどりながら、鉄道の痕跡を探すとともに、列車の車窓から失われてしまった海辺の風景を楽しみたいと思う。

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旧線跡の自転車道が鳥ヶ首岬へ向かう
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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1936(昭和11)年修正 (右)1968(昭和43)年編集

参加したのは、昨日と同じく大出、中西、山本、私の4名。9時30分に糸魚川駅日本海口(北口)の自転車店に集合して、7段変速のクロスバイクを借りた。今朝は晴れて、さわやかな西風が吹いている。いいサイクリング日和になりそうだ。

本日の行程はまず、糸魚川駅から直江津の一つ手前の谷浜(たにはま)駅まで、列車に自転車を載せて移動する。そこからペダルを漕いで、糸魚川に戻ってくるつもりだ。

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久比岐自転車道を走ったレンタサイクル
 

新潟県内の旧 北陸本線は、三セク転換で「えちごトキめき鉄道」(以下、トキ鉄)の路線になっている。ふつう、列車で自転車を運ぶには、あらかじめ分解するか折り畳んで、輪行袋と呼ばれる専用の袋に入れなくてはならない。ところが、この鉄道では「サイクルトレイン」といって、乗客の少ない日中の時間帯に限り、そのまま列車に積み込めるサービスを実施しているのだ。これが普通運賃と290円の手回り品料金で済むというのもうれしい。

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谷浜までの乗車券と手回り品切符
 

駅の窓口で、谷浜までの乗車券と手回り品切符(区間等は手書き)を発行してもらい、自転車を押して改札を入った。9時59分発の列車は単行(1両)だ(下注)。一般車両なので、自転車を置くスペースは特に確保されていない。1台ならともかく、4台だと見た目もかさばる。たまたま降りる一つ手前の駅までホームはずっと左側なので、「自転車は右の乗降扉に寄せて置いてください」と、運転士さんから適切な指示があった。

*注 直江津方面の列車でサイクルトレインとして利用できるのは、これが始発になる。

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(左)糸魚川駅に入ってきた単行気動車
(右)列車に載せた自転車(もう1台は後ろの扉に)
 

長いトンネルをいくつも抜けて、10時35分に谷浜駅に到着した。直江津方面の列車は海側の島式ホームに着くが、駅舎は山側だ。無人駅で、リフトのような気の利いた設備はないので、自転車をかついで跨線橋を渡った。

直江津まで行かず、ここをスタート地点にしたのは、谷浜以東の旧線跡が郷津(ごうつ)トンネルを含めて国道に上書きされてしまい、痕跡が残っていないからだ(下注)。また、自転車道も虫生岩戸から谷浜までは専用道ではなく、国道の海側の歩道を利用している。

*注 旧線には郷津駅があったが、新線上に移されることなく廃止された。現在線はこの間を長さ3105mの湯殿トンネルで通過している。

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谷浜駅到着
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図2 1:25,000地形図に自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
直江津~郷津間
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図3 同 谷浜~有間川間
自転車道は県道のため、黄色で着色されている
 

ひっそりとした駅前を10時50分ごろ出発した。初めは線路の山側の一般道を走り、途中で線路下のカルバートを通って自転車道に出る。ほどなく行く手に旧 長浜トンネルが見えてきた。谷浜駅の前後は旧線のまま(腹付け線増)なので、このあたりから単独の廃線跡になるはずだ。

自転車道区間にはこうしたかつての鉄道トンネルが8本あるが、どれもポータルの前に、名称、長さ、通過時間を記した標識が立てられている(下注)。それによれば、長浜トンネルは区間最長の467m、通過時間は2分だ。内部がカーブしていて出口が見えないが、照明設備は完備している。この自転車のヘッドライトも自動点灯式ではあるが、トンネルが明るければより安全に走れるというものだ。

*注 標識はトンネルの両側に立っているが、旧 長浜トンネルだけは直江津側がなかった。

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長浜トンネル
(左)長さと通過時間を記した標識が立つ(糸魚川方)
(右)内部は照明つき
 

有間川を渡る地点で、自転車道は廃線跡から横にそれる。それで、傍らに旧線のレンガ橋台が残っていた。ここに限らず、鉄道時代の橋桁はほとんど転用されなかったようで、このように自転車道の架橋位置をずらすか、またはコンクリート桁で置き換えられている。

有間川駅に寄り道した。この駅も旧線時代のままだ。防波堤に沿う国道より一段高いので、駅前に立つと海がすっきりと見晴らせる。1日3往復しかない貨物列車を待ってみたが、いっこうに現れなかった。まだ一駅しか進んでいないので、諦めて先を急ぐ。

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(左)有間川に残る橋台
(右)海を見晴らす有間川駅
 

駅のすぐ先で、「トキ鉄」の線路は長さ3,601mの名立トンネルに吸い込まれていき、自転車道が再び廃線跡に載るようになる。こちらも青木坂トンネル(長さ321m)、乳母岳トンネル(同 463m)と立て続けにトンネルを抜ける。

段丘崖の裾に沿って進んでいくと、小さな滝がいくつも掛かっていた。海側には国道が並行しているが、自転車道はそれより高い位置を行く。東の方角、海の向こうにかすむ整ったシルエットは米山(よねやま)だろうか。波穏やかな大海原と弓なりに広がる海岸線、この開放的なパノラマを遮るものは何もない。

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(左)青木坂トンネル
(右)乳母岳トンネル(いずれも糸魚川方)
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段丘崖に小さな滝が掛かる
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海の向こうに米山のシルエット
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
有間川~名立間
 

自転車道の最北地点、鳥ヶ首岬の短いトンネルを通過した。針路は南西に変わり、まもなく名立(なだち)の町に入っていく。山側にそびえる長い崖線が目を引くが、これは1751年に発生した地震に伴う地すべりの跡だ。400人以上が巻き込まれて亡くなる大災害だったことから、「名立崩れ」として後世に伝えられている。

地形図にも、並行する2列の崖記号と、その海側に崩土で埋まった緩斜面が描かれている。こうした崖と緩斜面の組み合わせは、内陸部にも多数見出せ、有史以前から一帯で地すべりがしばしば発生していたことが知れる。

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(左)鳥ヶ首岬東側の覆道、奥に見えるのは岬のトンネル(直江津方)
(右)短いトンネルで鳥ヶ首岬を回る(糸魚川方)
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名立崩れの地すべり跡
 

「トキ鉄」の現 名立駅は、海岸から800m内陸の、名立トンネルと頸城トンネルに挟まれた浅い谷間に設置されている。それに対して、旧 名立駅は海沿いの町の北端にあったが、町工場などに転用されて痕跡は残っていないようだ。

出発が遅かったから、早くもお昼だ。近くにある道の駅「うみてらす名立」まで自転車を走らせて、フードコートで海の幸の昼食をとった。旧線跡の下流側に架けられた専用橋で名立川を渡ると、自転車道は再び線路跡につく。海岸に沿って大抜(おおぬき)トンネル(同 391m)を通過し、市界を越えて上越市から糸魚川市に入った。

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(左)大抜トンネル(糸魚川方)
(右)浜徳合の徳合川に残る橋台(糸魚川方)
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市界を越える
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
名立~筒石間
 

レンガの橋台と続きの築堤が残る浜徳合(はまとくあい)を過ぎ、筒石の町裏では、崖ぎわの15mほどある高みを走る。右側の擁壁の縁に、345 1/2kmのキロポストが残っていた。距離標としては、おそらく沿線で唯一のものだろう。段丘を切り込んで海に注ぐ筒石川を、市道との併用橋で渡る。廃線跡は海側にあり、レンガの高い橋台と、築堤を支えている鎧のような擁壁が印象的だ(下注)。

*注 築堤は均されて、保育所の敷地に転用されている。

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(左)筒石の町裏にあった345 1/2キロポスト
(右)筒石川の高い橋台と築堤の擁壁(糸魚川方)
 

現在の筒石駅は頸城トンネル内の地下駅として有名だが、旧駅はもっと糸魚川方の、海を望む段丘の上にあった。しかし、跡地は住宅などに転用されてしまい、道端に国鉄OB有志が立てた小さな碑があるだけだ(下注)。久比岐自転車道のガイドマップでも駅跡の言及はないので、知らなければ見落としてしまうだろう。

*注 表面には「日本国有鉄道 北陸本線旧筒石駅跡地 記念之碑」、裏面には駅の略史と建立日(平成3(1991)年3月31日)、建立者名が刻まれている。

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筒石駅跡から筒石漁港を遠望
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(左)旧 筒石駅記念碑
(右)藤崎(とうざき)のレンガ橋台
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
筒石西方~能生間
 

百川(ももがわ)トンネル(同 161m)とその前後は、単線幅の用地をわざわざ自転車道と一般道に分けている。そのため、中央分離帯(!)が狭いトンネルの中まで続いているのがユニークだ。これはいささか極端な例としても、筒石以西では廃線跡を一般道に転用して、側道として自転車道を併設している区間が多い。道幅もそれなりに拡げられているので、細く長く延びるという廃線跡のイメージは消えてしまっている。

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中央分離帯のある百川トンネル
 

やがて、形が鶏に似ているというトットコ岩が見えてきた。その向こうは一瞬、陸に乗り上げたのかと見間違う「海の資料館 越山丸」、そして、カニ尽くしで人気の高い道の駅「マリンドリーム能生(のう)」だ。しかし、さきほど食事をしたばかりなので、ここは通過。能生漁港の町裏を小泊トンネル(同 326m)と白山トンネル(同 336m)で抜けた後、名勝の弁天岩に寄り道した。

弁天岩は、海底で噴出した溶岩丘が隆起によって海上に姿を現した小島だ。海岸から赤い欄干の橋が延びて、小さな灯台と祠の建つ島に渡れる。恋人たちの聖地という宣伝文句に惹かれたと見え、若いカップルやグループが多数来ている。

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(左)トットコ岩
(右)海の資料館 越山丸
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(左)小泊トンネル(直江津方)
(右)白山トンネル(糸魚川方)
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鯉のぼりが空を泳ぐ弁天岩
 

旧 能生駅は、糸魚川市役所能生事務所(旧 能生町役場)の場所にあった。建物前の狭い植え込みの中に、土地境界標、筒石と同じような記念碑、それに338キロポストが置かれている。残念なことに、建物入口に通じるスロープの建設に際して壁際に移設されたため、裏の碑文を読むのには苦労する。なお、現在の能生駅は頸城トンネルの西口にあり、海岸から800mほど内陸だ。

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境界標とキロポストを伴う旧 能生駅記念碑
 

木浦(このうら)から鬼舞(きぶ)にかけては旧線に高度があり、木浦川の谷を横断する築堤も高い。鬼伏(おにぶし)の手前にある尾根の張り出しでは、自転車道がいったん海岸を走る国道のレベルまで降りて、また上り返す。廃線跡は、植生に覆われながらも国道の擁壁の上に残っているようだった。

鬼伏のコンビニに寄り道して、飲み物で一息ついた。高見崎と呼ばれる山の張り出しが、海を見晴らす旧線跡の最後の区間だ。行く手に、いよいよ糸魚川の町と青海黒姫山が見えてきた。

海岸平野が始まる浦本駅のすぐ手前で、旧線は浦本トンネルから出てきた現在の線路に合流する。廃線跡探索はここまでだ。合流地点の手前には盛り土の草生した空地が残り、新旧の対照を鮮やかに示していた。

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高見崎を回る
遠景は糸魚川の町と青海黒姫山
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旧線(左の空地)と現在線の合流地点
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図7 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
能生~浦本間

さて、所期の目的は果たしたが、私たちにはまだ、糸魚川に自転車を返却するという仕事が残っている。廃線跡を外れた自転車道は、国道の早川橋の手前まで約3kmの間、防波堤の内側に沿って延びている。右手は漁港と日本海の砂浜、左手は漁村の裏手だ。国道とも少し距離があるので、クルマの騒音はあまり届かず、集中して走れるいいルートだった。

自転車道の終点、早川橋からは旧道や国道の側道を通り、16時20分ごろ自転車店に無事帰着した。旧北陸本線のキロ程によると、糸魚川~谷浜間は34.3kmだ。昼食休憩を含めて走破に5時間30分かかったので、表定速度は6km/hにしかならない。私たちの旅は途中停車が多すぎて、いつもこんなのんびりペースだ。

最後は北陸本線旧線時代の地形図だが、1:25,000図が手元にないので、1:50,000図を直江津側から順に掲げる。なお、図中に複線の鉄道記号が使われているが、該当区間はまだ単線だったはずだ。

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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
直江津~有間川間(1968(昭和43)年編集)
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同 有間川~筒石間(1968(昭和43)年編集)
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同 筒石~浦本間(1968(昭和43)年編集)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高田(昭和43年編集)、富山(昭和11年修正)、5万分の1地形図高田西部、糸魚川(いずれも昭和43年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年5月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル

日本列島を西南と東北に分けるフォッサマグナ(大地溝帯)、その西縁が糸魚川-静岡構造線、略して糸静線と呼ばれる断層群だ。糸静線が日本海に接する糸魚川周辺には地学上の見どころが点在していて、洞爺・有珠、雲仙とともに2009年に日本で初めて「世界ジオパーク(現 ユネスコ世界ジオパーク)」に認定されている。2023年5月20日のコンター旅は、そのいくつかをレンタカーで巡ろうと思う。

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ヒスイ峡にそびえる石灰岩の絶壁、明星山
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図1 糸魚川周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

富山から乗り継いできた普通列車で、糸魚川駅に8時45分ごろ着いた。集合時刻までまだ少し時間があるので、改札の前で会った山本さんと、駅舎1階のジオパルを見に行く。名称からするとジオパークのインフォメーションセンターのはずだが、展示内容は鉄道ものに重点が置かれていて、私たちもそれが目当てだ。

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糸魚川駅ジオパル
(左)大糸線を走ったキハ52は休憩室に
(右)大糸線をイメージした大型レイアウト
 

10時11分着の新幹線はくたかで、大出さんと中西さんが到着して、本日の参加者4名が揃った。レンタカーの営業所で、予約してあった日産ノートに乗り込む。まずは国道148号で、姫川(ひめかわ)の谷を遡ろう。

掲げたテーマとはのっけから乖離するが、最初の訪問地は大糸線の根知(ねち)駅だ。ここで10時48分に行われるキハ120形同士の列車交換シーンに立ち会う。存廃が議論されているローカル線で、列車本数が少ないので、この駅での行き違いは午前中、一度だけだ。

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キハ120形の列車交換、根知駅にて
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
根小屋周辺
 

続いて、根知川右岸(北岸)にあるフォッサマグナパークへ。道路脇の駐車場から森の中の小道を歩き始めると、すぐ山側に、「大切にしましょう 水準点」の標識が立っていた。地形図に93.2mの記載がある一等水準点だ。標石は健全そのもので、刻字が明瞭に読み取れ、四隅に保護石も従えている。近年は金属標や蓋された地下式も多い中、これは見本にしたくなるような外観だ。点の記では1986(昭和61)年の設置とされているが、標石自体はもっと古いものだろう(下注)。

*注 側面に、国土地理院の前身で1945~60(昭和20~35)年の間存在した地理調査所の名が刻まれている。

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根知川右岸の一等水準点
 

小道は大糸線のトンネルの上を越えていく。目の前が根知川を渡る鉄橋で、さっきの列車交換がなければ、ここで一枚撮りたいところだ。そう考えるのは私だけではないらしく、フェンスに親切にも列車通過時刻表が掲げてあった。今日は地学系の旅のつもりだが、核心にたどり着かないうちに、道中の誘惑が多くて困る。

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トンネルの上から望む大糸線の線路
奥が根知駅
 

道なりに5~600mほど進んだ先で、いよいよ「Fossa Magna Park」の壁文字が見えてきた。地層の露頭は、階段を降りていくと明らかになる。斜面が漏斗状に開削され、その上部に、境界と記された標柱と、その両脇に「東」「西」と大書された看板が立っている。

看板の意味するところは、糸静構造線のどちらの側かということだ。東はフォッサマグナで、プレート理論でいう北アメリカプレートに、西ははるかに古い地層でユーラシアプレートに属する。その境界は強い力が作用するため破砕帯になっていて、模式図のようなスパッと切れた断面ではない。

ちなみに、糸魚川寄りには、よく似た名のフォッサマグナミュージアムという観光施設がある。鉱物の好きな人なら一日でも居られると言われる展示館だが、今日は予定が目白押しで、訪問は難しい。

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フォッサマグナパーク
根知川の対岸に、糸静線上に建つ酒造会社の大屋根が見える
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「東」と「西」の看板の間に
構造線の位置を示す「境界」の標柱が立つ
 

フォッサマグナパークから、さらに上流へクルマを走らせた。次の行先は小滝川ヒスイ峡だ。小滝(こたき)で横道にそれて、1車線の坂道を延々と上っていく。小滝川に沿う林道入山線が最短経路だが、落石の影響で通行止めになっており、2倍以上の遠回りを強いられる。とはいえ、一帯を見下ろす展望台や、高浪(たかなみ)の池といった名所を経由するから、迂回もまた楽しからずや、だ。

道のサミット付近にあるその展望台からは、森の中にたたずむ高浪の池が眼下に望めた。後ろに控えるのは、石灰岩の切り立つ岩壁で知られる明星山(みょうじょうさん、標高1189m)だが、あいにく中腹まで雲に覆われている。視界を占有している斜面は、実は大規模な地すべりの跡で、池も、押し出された土砂の高まりの内側に、地下水が染み出してできたものだ。しかし、荒々しい地形の成因など忘れさせるほど、しっとりとしてもの静かな光景だ。

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展望台から望む高浪の池
後ろの明星山は雲の中
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図3 同 小滝川ヒスイ峡周辺
 

高浪の池までクルマで降りて、池の周囲をしばし散策した。薄霧が漂うなか、畔の木々が水面に映る姿はなかなかに幻想的で、東山魁夷の絵を思わせる。なんでもこの池には、「浪太郎」の名で呼ばれる巨大魚が棲んでいるそうな。

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森を映す高浪の池
 

池のほとりの食堂で昼食をとった後、ヘアピンが連続する山道をクルマでさらに下っていった。渓谷を見下ろす展望台まで来ると、さすがに明星山も霧のヴェールから姿を現した。川床から約450mもの高さがあるという剥き出しの岩肌が、威圧するようにそそり立っている。この景観を作り上げたのは、眼下を流れる小滝川で、南隣の清水山にかけて続く石灰岩の地層を侵食した結果だ。ロッククライミングの名所でもあるそうだが、どうすればこの絶壁を上れるのか、素人には想像もつかない。

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小滝川の渓谷をはさんで向かい合う石灰岩の山塊
左が明星山、右が清水山
 

遊歩道を歩いて上流へ向かう。まが玉池という人工池の前からは、ヒスイ峡の河原まで降りていくことができた。渓流の間に直径数mもあるような巨石が多数転がっていて、案内板によると、あの中にもヒスイの原石が含まれているらしい。漢字で翡翠と書くので緑色という印象が強いが、実際は白っぽいものが多く、緑色の部分は貴重なのだそうだ。

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小滝川ヒスイ峡
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(左)青みを帯びた渓流
(右)矢印がヒスイの原石(現地案内板を参考にして表示)
 

縄文時代から古墳時代にかけてヒスイは、装身具や勾玉に加工されて珍重された。驚くことに、それらはすべて糸魚川産だったという。ところが奈良時代以降、その文化が途絶えたことで、原産地がどこかもすっかり忘れられ、渡来品とさえ考えられていた。この峡谷でヒスイが再発見されたのは、それほど古い話ではなく、1935(昭和10)年のことだ。

もと来た道を戻り、北陸自動車道経由で今度は親不知(おやしらず)へ向かった。東隣にある子不知(こしらず)とともに、北アルプス(飛騨山脈)が日本海に直接没する景勝地として有名だ。海岸線に断崖絶壁が連なっているため、江戸時代まで、通行には波間を縫って狭い岩場を走り抜けるよりほかに方法がなかった(下注)。漢文風の珍しい地名は、親子といえども互いを気遣う余裕がないほどの難所という意味だ。

*注 南の坂田峠を越える山道もあったが、距離が長く、標高600mまで上らなければならない悪路だった。

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断崖が連続する親不知海岸
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図4 同 親不知周辺
 

その断崖の中腹に道路が開削されたのは、1883(明治16)年のことだ。越中越後を結ぶ主要街道として、その後何度か改修整備が行われたが、1966(昭和41)年に、山側に長さ734mの天険トンネルが完成したことにより、旧道となった。

方や、鉄道の開通は1912(大正元)年で、道路の直下に単線で長さ668mの親不知トンネルが通された。日本海縦貫線としての重要性から、こちらも1966年に、現在の親不知トンネル(長さ4536m)を含む複線の新線が完成して、廃線となった。

旧道と廃線トンネル(下注)は遊歩道として開放されていて、階段道を介して周遊することができる。私たちは親不知観光ホテル前の駐車場にクルマを停めて、旧道を西へ歩き始めた。張り出し尾根を回ったところに、さっそく展望台があった。そこに立つと、正面は真一文字の青い水平線、左右には険しい断崖が幾重にも折り重なって見える。

*注 旧道は「親不知コミュニティロード」の名がある。廃線トンネルは、案内板で「親不知煉瓦トンネル」と紹介されていた。

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(左)コミュニティロード展望台から望む日本海
(右)日本アルプスの父、ウォスター・ウェストンの銅像
 

旧道を少し進むと、「如砥如矢(とのごとく、やのごとし)」の文字が刻まれた岩壁の前に出た。明治の開削時に彫られたもので、砥石のように平らで、矢のように真直ぐだと、完成したての道路を称える記念碑だ(下注)。140年風雨にさらされてもなおくっきりと残り、当時の人々の喜びが伝わってくる。だが残念なことに、旧道はここで通行止めになっていて、廃線トンネルの西口へ回ることができない。

*注 左隣の岩壁にも「天下之嶮」、「波激す 足下千丈 親不知」などの刻字がある。

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岩壁に刻まれた「如砥如矢」の文字
 

一方、先ほどの駐車場から谷間の階段道を降りていくと、トンネルの東口に達する。ポータルはいたって普通で、記念の扁額などは嵌っていなかった。親不知子不知に穿たれた旧線トンネルは数本あり(下注)、その中でこれが最長というわけでもないからだろう。

*注 前後のトンネルも残っていることが肉眼で確認できるが、接近は困難。

内部も通行可能だ。直線なので出口の明かりは見えるものの、湿度が高いせいか、ぼんやりしている。枕木の撤去跡には凹凸が残り、ごつごつしたバラストも散らばっていて、足を取られやすい。それで、線路跡の海側に土盛りして歩道のようにしてある。照明の間隔が開いていて足元が暗いから、これはありがたい。

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旧 親不知鉄道トンネルの東口
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(左)西口から東望、内壁の黒ずみは蒸機の煤
(右)東口、次のトンネルが見えるが近づけない
 

東口ではまた、階段を伝って波打ち際まで降りることができる。そこは猫の額ほどの浜で、打ち上げられた大小の丸石で埋め尽くされていた。東も西も岩場に断崖が迫り、打ち寄せる波が激しく砕け散っている。確かに、ここを越えていくのは命懸けだ。

クルマに戻って、風波川東側の国道脇に設けられた親不知記念広場にも立ち寄った。ここも展望台になっているが、目を引いたのは、隅にあった一等水準点だ。金属標をコンクリートで固めてあり、経緯度や標高を刻んだ記念碑を伴っている。やはり親不知は特別の場所らしい。

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(左)波打ち際へ降りる階段
(右)丸石で埋まった浜に断崖が迫る
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親不知記念広場の一等水準点と記念碑
 

糸魚川への帰り道、青海(おうみ)にあるデンカ(旧 電気化学工業)の専用貨物線を訪れた。この工場では、青海黒姫山の石灰石を利用してカーバイドやセメント製品を生産している。かつてはその製品や原料を積んだ貨物列車が、旧 北陸本線青海駅との間を行き来していたのだが、運行は2008年をもって終了した。

先に上流へ向かうと、道路の御幸橋(みゆきばし)に並行して青海川を斜めに横断している鉄橋と、前後の線路がまだ残っていた。これは採掘地と工場を結ぶ通称「原石線」だが、レールや枕木は粉まみれで、しばらく使われていないように見える。一方、工場から青海駅へ出ていく貨物線はすでに撤去され、草ぼうぼうの廃線跡と化していた。地形図にはまだ現役のように描かれているものの、実態は遠い過去の記憶となりつつある。

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デンカ専用貨物線
(左)青海川を渡る鉄橋
(右)草生した青海駅手前の線路敷
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図5 同 青海周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図富山(昭和63年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年4月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-筑波鉄道跡

2023年3月28日のコンター旅は、関東地方に移って筑波(つくば)鉄道跡を巡る。

筑波鉄道筑波線は、JR常磐線の土浦(つちうら)から水戸線の岩瀬(いわせ)まで、筑波山地西麓の田園地帯に延びていた非電化、延長40.1kmの私鉄路線だ。1918(大正7)年に開業し、筑波山への観光需要を支えていたが、戦後は道路交通との競合にさらされて業績が悪化し、1987(昭和62)年に全線廃止となった。

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筑波鉄道岩瀬駅のキハ762
(1987年3月、大出さん提供)
 

用地はその後、大半が自転車道に転用・整備され、現在「つくば霞ヶ浦りんりんロード」と呼ばれる広域自転車道の一部になっている。そもそも歩いていては日が暮れるので、廃線跡探索には乗り物の利用が必須だが、このエリアには充実したレンタサイクルのサービスがある。ありがたいことに3日前までに予約すれば、拠点施設での乗り捨て(片道レンタル)も可能だ。

そこで今回は、川上側の岩瀬で自転車を借り、旧線沿いに南へ下って土浦で返却するプランを立てた。ついでに、沿線に咲いている桜を楽しもう、という欲張ったたくらみも抱いている。しかし考えることはみな同じらしく、休日の自転車はすでに予約がいっぱいで、やむなく平日の催行となった。

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図1 筑波鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(左)1980(昭和55)年編集 (右)1981(昭和56)年編集

小山発の水戸線下り電車で、8時59分岩瀬駅に到着した。参加者は、大出さんとゲスト参加の田中さん、私の3名。筑波線との乗換駅だったとはいえ、常総線や真岡鉄道が入る下館に比べると、駅前はいたって閑散としている。

さっそく貸出場所の高砂旅館へ。受付を済ませると、ご当主が予約していた自転車とヘルメットを出してくださった。まだ新しそうな9段変速のクロスバイクだ。40kmものサイクリングは私にとって学生時代以来なので、気休めになればと持参したクッション性のサドルカバーを装着した。

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(左)現在の水戸線岩瀬駅
(右)駅裏の筑波鉄道駅跡は空地に
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りんりんロードを走ったレンタサイクル
 

9時15分、ご当主と奥様に見送られて、駅前を出発。まずは、駅裏にあった旧筑波鉄道のホーム跡へ向かう。ソメイヨシノが数本大きく育っているほかは駐車場と空地が広がるばかりで、鉄道の遺構らしきものは何もなかった。ここを起点に、自転車道は西へ出ていき、緩いカーブで南に方向を変える。

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(左)岩瀬駅裏の自転車道起点
(右)桜の壁画がある北関東自動車道のカルバート
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆、岩瀬~雨引間
りんりんロードは県道のため、黄色で着色されている
 

桜の壁画が描かれた北関東自動車道のカルバートをくぐり、県道41号つくば益子線を平面横断すると、左手から丸山、右手から羽田山のたおやかな稜線が近づいてきた。降り出した霧雨に煙る山肌を、ヤマザクラの薄紅色と若葉のもえぎ色が埋め尽くしている。この時期ならではの優雅なパステル画だ。

ルートは、二つの山に挟まれた分水界を通過している。その前後は10‰の拝み勾配のはずだが、自転車の性能がいいのか、坂を上る感覚はほとんどなかった。最初のトピックは、分水界の手前で進行方向右側の道端に残る「8」00mポストだ。小さいものなので、注意していないと見逃してしまう。

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(左)丸山と羽田山の稜線が近づく
(右)分水界の手前に残る「8」00mポスト
 

最初の駅、雨引(あまびき)へは岩瀬から4.7kmと、駅間が最も長い。しかし分水界を越えれば緩やかな下り坂で、漕ぎ始めでもあり、難なく到達した。旱魃時の雨乞いにその名をちなむ雨引観音が近くにあるが、霊験あらたか過ぎて、空はずっと低いままだ。駅跡の苔むした相対式ホームも、その上で見ごろを迎えた大きな桜の木も、そぼ降る雨に濡れている。一角にある自転車道の雨引休憩所でしばし足を休めた。

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雨引駅跡
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(左)相対式ホームが残存
(右)自転車道の休憩所を併設
 

東飯田(ひがしいいだ)駅跡では、北側のみごとなシダレザクラの下で、石材店の灯篭たちも世間話に花を咲かせているようだった。残された短い単式(片面)ホームには、ソメイヨシノの太い幹が立ち並ぶ。

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東飯田駅手前のシダレザクラと石灯籠
 

筑波連山第二の高峰、標高709mの加波山(かばさん)を左に眺めながら、春の野を走っていく。樺穂(かばほ)駅の相対式ホームが見えてきた。頭上は枝を大きく広げた桜並木だが、足元に作られたささやかなスイセン畑もまた気持ちを和ませる。

1km先の右側に、風化が進んでいるものの「31」の数字が読み取れるキロポストが立っていた。自転車道の公式サイトでも取り上げられているが、おそらく沿線に残る唯一のものだ。

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加波山の山腹をヤマザクラが彩る
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(左)樺穂駅跡
(右)沿線に唯一残るキロポスト「31」
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
樺穂~常陸桃山間
 

10時30分ごろ、真壁(まかべ)に到達。現役時代は2面3線を擁した主要駅の一つで、今も進行方向右側に単式ホーム、中央にゆったりとした島式ホームが残存する。その上のソメイヨシノは、通過してきた駅跡の中では最も巨木で、枝ぶりも貫禄十分だ。

大出さんは、時代の雰囲気が感じられるという駅前を見に行った。私は私で、ホーム端のサイクルスタンドに描かれたキハ461(下注)のイラストに目を留めた。雨がやや強まってきたので、休憩所のあずまやで小止みになるのを待つ。

*注 現物は国鉄時代のキハ04形に復元され、さいたま市の鉄道博物館で展示されている。

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真壁駅の貫禄あるソメイヨシノ
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キハ461が描かれたサイクルスタンド
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真鍋車庫に留置されていたキハ461、後ろはキハ541
(1987年3月、大出さん提供)
 

再び出発すると、左手の小山の奥に、雨に煙りながらも特徴的なこぶをもつ筑波山が姿を現し始めた。ルートは早や中盤にさしかかっている。

旧県道の踏切跡を横断すると、左カーブの途中に次の常陸桃山(ひたちももやま)駅跡があった。単式ホームは他とは違ってのっぺらぼうで、無粋な防草シートで隙間なく覆われている。住民から苦情でもあったのだろうか。代わりに土浦方では、自転車道に並行して、桜並木の砂利道が学校校地との境をなしていた。

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雲間から姿を見せた筑波山
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常陸桃山駅跡
(左)防草シートで覆われたホーム跡
(右)土浦方、自転車道に並行する桜並木
 

紫尾(しいお)駅跡では、相対式ホームの間を自転車道が通り抜けていく。右側のホームがやや荒れ気味なので、晩年は使われていなかったのかもしれない。ここのサクラは遅咲きの品種なのか、多くがまだつぼみの状態だった。紫尾と書いて、しいおと言うのは難読だが、付近の地名表記は「椎尾」だ。

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(左)紫尾駅跡のサクラは遅咲き?
(右)田園地帯を貫く自転車道
 

細かい雨をものともせず、田園地帯を飛ばしていった。筑波山の山塊が西に張り出しているので、ルートも西に膨らみ、桜川(さくらがわ)の河原に接近する。山脚を回って少し行くと、今度は左から県道つくば益子線が合流してきた。この先約1.8kmの間、県道が廃線跡を上書きしているため、自転車道はその側道に納まらざるを得ない。酒寄(さかより)駅跡はすぐだが、車道工事で撤去されてしまったか、痕跡はなさそうだった。

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(左)県道との合流地点(北望)
(右)酒寄駅跡と思われる地点(北望)
 

県道の右側を走っていたので、上大島(かみおおしま)駅の跡はあいにく見逃してしまった。車道が少し広がった地点の左側の民地にホームの一部が残っているらしいが…。ちなみに、上大島はつくば市(旧 筑波町)の地名だが、駅付近に市界が通っていて、駅舎は桜川市(旧 真壁町)側にあった。時刻は11時半、少し早いが休憩を兼ねて、近所の中華料理店で昼食にする。

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(左)駅跡から400m南にある上大島バス停
(右)上大島の南で廃線跡は再び自転車道に
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
上大島~筑波間
 

腰を上げたのは12時10分、さいわい雨も上がったようだ。上大島の集落を抜けると、廃線跡から県道が離れていき、再び専用の自転車道になる。道の両側にサクラやハナモモの花回廊が延々と続いていて、さっと通過してしまうのはもったいないほどだ。

自転車道の横に、巨大なハンドマイクのような見慣れない標柱が立っていた。説明板によると、測量機器の性能を点検するために国土地理院が設置した比較基線場という施設の一部だ。つくばは国土地理院のホームグラウンドだから、見慣れない測距標があっても不思議ではない。

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(左)サクラやハナモモの花回廊が続く
(右)比較基線場の巨大な標柱
 

2.7km走って、筑波(つくば)駅跡に到達。鉄道の現役時代は筑波山の玄関口だったところで、今回のルートのほぼ中間地点でもある。真壁と同じく2面3線の構造をもつが、大半が駐車場などに転用済みで、今も見られるのは島式ホームの土浦方だけだ。しかも両側に広い階段がつき、上屋も更新されるなど、かなり改造されている。

だが特筆すべきことに、他の駅でとうに失われた駅舎がここには残っている。路線バスを運行している関東鉄道が営業所として使ってきたからだ。バス乗り場の看板は「筑波駅」から「筑波山口」に書き換えられているものの、構内より駅前のほうが当時の面影をとどめているようだ。筑波山の方向に大鳥居が見通せる風景も、昔と変わらない。

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筑波駅跡
(左)標柱のある南端から北望
(右)改造甚だしい島式ホーム
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(左)旧 筑波駅舎は健在、駅の看板は「筑波山口」に
(右)駅前風景、正面に大鳥居、筑波山は雲の中
 

筑波駅を出て土浦方に、りんりん道路さくらの会による「りんりんロード桜並木発祥の地碑」が建っていた。碑文によれば、植栽を始めたのは平成10(1998)年だそうだ。25年の時を経て、沿道の木々は立派に育った。全線にわたって花見が楽しめるような廃線跡は他にないだろう。

次の常陸北条(ひたちほうじょう)へは4.4kmと、岩瀬~雨引間に次いで駅間距離が長い。ただし、戦前はこの間に常陸大貫(ひたちおおぬき)という駅が存在した。跡地には現在、バス停の待合室のような休憩所が設けられている。右手に再び県道が寄り添ってくるが、今度は合流しないまま、またいつしか離れていった。

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(左)りんりんロード桜並木発祥の地碑
(右)常陸大貫駅跡の待合室風休憩所(北望)
 

広い島式ホームが残る常陸北条(ひたちほうじょう)は、北条の町並みの南縁にある。町は、筑波山神社に向かう「つくば道」の分岐点で、鉄道が開通するまで参詣客で栄えていた。

せっかくなので、花見どころで有名な北条大池に寄り道した。駅の東1kmにある溜池を縁取る形で、約250本のサクラが植えられている。あいにくまだ曇り空だが、薄紅色の花綱になって、背後の山々とともに静かな水面に映る姿はみごとだった。

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(左)自転車道は県道505号線
(右)常陸北条駅跡
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北条大池の桜堤
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
常陸北条~常陸小田間
 

自転車道に戻って、南下を続ける。開放的な田園風景を直線で突っ切った後、自転車道は小田の町に取り込まれていく。常陸小田(ひたちおだ)駅跡は、戦国時代までに築かれた小田城の広大な曲輪の中に位置している。残された相対式ホームで出迎えてくれたのは、紅色もあでやかなシダレザクラだった。

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常陸小田駅跡
(左)シダレザクラが出迎える
(右)ホーム跡、背後の建物は小田城址の案内所
 

駅の南には内堀に囲まれた本丸跡があるが、鉄道はそれを対角線で貫いていた。廃線後、この区間は埋め戻され、歴史ひろばとして周辺と一体的に復元された。そのため自転車道は、土塁の外側を内堀に沿って迂回している。北側の旧線が通っていた位置に設けられた出入口から入って、公園化された本丸跡をしばしの間見て回った。雲間から薄日がこぼれて、まだ枯草色の園地を鮮やかに浮かび上がらせる。

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迂回する自転車道
(左)北側正面が本丸跡の出入口
(右)南側を土塁上から望む
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小田城址本丸跡
鉄道は左手前から中央奥の木立の方向へ延びていた
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内堀に沿う自転車道
 

自転車道は、本丸跡の南で再び廃線跡に復帰する。しばらく行くと、県道53号つくば千代田線の高架橋があり、内壁にキハ460形とTX電車が虹の橋を渡る壁画が描かれていた。TX(つくばエクスプレス)の開業は2005年なので、両者が同時に稼働することはなかったはずだが、もしかするとTXに追われて気動車が退場していくシーンなのだろうか。

その先では、つくば市と土浦市の境界を示す白看が立っている。周辺では両市の境界が複雑に入り組んでいるが、廃線跡を横断するのはここだけだ。

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(左)県道の橋台に描かれたキハ460形とTX電車
(右)つくば市と土浦市の境界を通過
 

田土部(たどべ)駅跡には、コンクリートで固めた単式ホームがぽつんと残っていた。この後、自転車道は桜川の沖積低地を貫いて、小気味よいほど一直線に進んでいく。桜並木も相変わらず続いているが、樹齢はまだ若く見える。

2.2km走って、常陸藤沢(ひたちふじさわ)駅。相対式ホームの上のサクラの南には、背の高いケヤキの並木があった。構内は広く、雨引などと同じように自転車道の休憩所が設置されている。土浦方に、筑波駅と同じ意匠で「藤沢駅」と刻まれた碑があるが、地元でそう呼ばれていたとしても、ここは正式名で記してほしいものだ。

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(左)田土部駅跡
(右)樹齢の若い桜並木
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常陸藤沢駅跡
(左)南端の「藤沢駅」標柱とケヤキ並木(北望)
(右)ホームにはサクラが植わる
 

東側の台地が桜川のほうに張り出す地点が坂田駅の位置だが、ホームは撤去されてしまったようだ(下注)。常磐自動車道の下をくぐると、虫掛(むしかけ)駅跡。観察した限りでは相対式ホームのうち、上り線側しか残っていない。また、その一部は、線路部分にまで掛かる藤棚が設置されていた。ルート案内図の傍らに立つ「つくばりんりんロード旧虫掛駅跡地」の標柱も、他では見られないものだ。

*注 自転車道の東側を通る県道小野土浦線沿いに、坂田駅の駅名標が移設されているという。

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(左)坂田駅跡付近(北望)
(右)虫掛駅跡のホームは上り線側のみ残存
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(左)他駅にはない虫掛駅跡の標柱
(右)藤棚が掛かるホーム
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
虫掛~土浦間
 

国道6号土浦バイパスと立体交差するころには、右手が工業団地になるが、桜並木はまだ続いている。市街地に入り、6号旧道(現国道125号)を横断したところで、忘れられたように残る新土浦駅の低い単式ホームを見つけた。

その土浦駅方(東側)は真鍋(まなべ)信号所跡で、関東鉄道の本社やバス車庫に転用されている。大出さんが、沿道に低い縁石が並んでいるのを目ざとく見つけた。1959年に新土浦駅が開業するまで、信号所の位置には真鍋駅があったというから、そのホーム跡かもしれない。

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(左)市街地に残る新土浦駅跡のホーム(西望)
(右)真鍋駅のホーム跡か?(西望)
 

市街地を貫く新川に臨んで、自転車道はいったん途切れる。川を渡っていた橋梁は撤去されており、橋台などの痕跡も見当たらなかった。市道の神天橋を通って対岸に移ると、自転車道は復活する。市街地を右にカーブしていき、常磐線との短い並行区間を経て、土浦ニューウェイの高架下で、筑波鉄道跡の自転車道は終了した。

返却場所であるりんりんポート土浦に、15時40分に到着。16時の返却予定だったので、なんとか間に合った。

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(左)新川の手前で途切れる自転車道(西望)
(右)常磐線との並走区間(北望)
 

走り終えて思うに、りんりんロードは、舗装が滑らかで、休憩所や交差点のバリアなど付属施設も整備された、高水準の自転車道だ。勾配が険しくないので、脚力に多少自信がなくても走れる。沿線の桜も堪能したから、もはや文句のつけようがない。

しかし、廃線跡として見たときの評価はまた別だ。遺構が、プラットホーム以外ほとんどないのはやむをえないとしても、道端の案内板で路線や駅の歴史に言及していない。それどころか、駅名すらわからないことも多かった。城跡や伝統的町並みに比べて観光要素に欠けるとはいえ、廃線跡も地域の発展に貢献した歴史遺産という点では同じだ。せっかく鉄道用地に通しているのだから、訪れる人にもっとアピールする工夫があってもいいと思う。

最後は、大出さんに提供してもらった1987年3月、廃線直前の筑波鉄道の写真だ。同じ関東鉄道系列の鹿島鉄道(鉾田線)などとともに、非電化ローカル線の鄙びた風情を色濃く持ち続けていたことがよくわかる。

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樺穂駅のキハ301
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筑波~常陸北条間
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常陸藤沢駅
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新土浦駅
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まだ残存していた旧真鍋駅舎
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土浦駅手前、常磐線との並走区間

参考までに、筑波鉄道が記載されている1:25,000地形図を、岩瀬側から順に掲げておこう。なお、一部の図の注記にある「関東鉄道筑波線」は、1979(昭和54)年に行われた分社化以前の名称だ。

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筑波鉄道(関東鉄道筑波線)現役時代の1:25,000地形図
岩瀬~雨引間(1973(昭和48)年修正測量および1977(昭和52)年修正測量)
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同 雨引~真壁間
(1977(昭和52)年修正測量)
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同 真壁~上大島間
(1977(昭和52)年修正測量および1972(昭和47)年修正測量)
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同 上大島~常陸北条間
(1972(昭和47)年修正測量)
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同 常陸北条~田土部間
(1972(昭和47)年修正測量および1981(昭和56)年修正測量)
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同 田土部~虫掛間
(1981(昭和56)年修正測量)
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同 虫掛~土浦間
(1981(昭和56)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宇都宮(昭和55年編集)、水戸(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図岩瀬(昭和48年修正測量)、真壁(昭和52年修正測量)、筑波(昭和47年修正測量)、柿岡、常陸藤沢、土浦、上郷(いずれも昭和56年修正測量)および地理院地図(2023年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
つくば霞ヶ浦りんりんロード https://www.ringringroad.com/

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2023年3月24日 (金)

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2023年コンターサークル-s 春の旅は、いつもとは趣向を変えて、レンタカーやレンタサイクルも活用しながら比較的広範囲を回る。1日目となる3月5日の行先は、宮崎県北部にある高千穂(たかちほ)鉄道高千穂線の廃線跡だ。

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高千穂橋梁を渡る観光列車
 

高千穂鉄道は、1989(平成元)年にJR九州の高千穂線を転換した第三セクターの鉄道だった。日豊本線の延岡駅から神話のふるさと高千穂駅まで延長50.0km、ルートは五ヶ瀬川(ごかせがわ)の渓谷に沿って上流へ延びていた。

このうち延岡~日之影温泉(旧称 日ノ影)間は戦前の1939(昭和14)年までに開通しており、川岸の切り立つ谷壁に張り付くようにして進む。急カーブが頻出するため、列車の速度も一向に上がらなかった。対照的に、1972年に延伸された末端の日之影温泉~高千穂間は、長大トンネルの連続で、線形はいたって良好だ。トンネルを抜けると、峡谷のはるか上空を、日本で最も高い鉄道橋、高千穂橋梁で横断するという一大ハイライトもあった。

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国鉄高千穂線時代の高千穂駅
(1983年3月撮影、大出さん提供)
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国鉄高千穂線時代の高千穂橋梁
(1983年3月撮影、大出さん提供)
 

鉄道はこの風光明媚な車窓が好評で、旅行列車「トロッコ神楽号」が運行されて、地域の重要な観光資源になっていた。その日常風景を突然暗転させたのは、2005年9月に襲来した台風だった。大水で五ヶ瀬川に架かる複数の鉄橋が流出するなど、施設に大きな被害を受け、鉄道は全面運休を余儀なくされた。そして復旧費用を調達する見通しが立たないまま、最終的に2008年末に全線廃止の措置が取られたのだ。

その後、高千穂駅を拠点に一部区間が鉄道公園化された。新たに設立された高千穂あまてらす鉄道(当初は神話高千穂トロッコ鉄道)が、2010年からここで観光列車を走らせている。標題では「トロッコ乗車」としたが、現在の車両はグランド・スーパーカートが正式名だ。あくまで公園遊具の扱いながら、なかなかの人気らしく、1日あたり10便、繁忙期には12便もの設定がある。

事前予約はできない(下注)ので、私たちの旅程も座席の確保が優先だ。延岡からクルマで高千穂に直行してこれに乗車し、その後、廃線跡をたどりながら延岡に戻ろうと思っている。

*注 当日、駅窓口で、空席のある後続便を指定することは可能。

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供用中のグランド・スーパーカート
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図1 国鉄高千穂線時代の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年修正)

朝10時、延岡駅に集合したのは大出さんと初参加の山本さん、それに私の3名。赤いマツダ・デミオのレンタカーで市内を後に、国道218号を西へ向かう。一部供用済みの九州中央自動車道(通行無料)を含め、深い谷間を何度もまたぐ立派な道路が、高千穂の町まで続いている。かつてディーゼルカーが1時間20分かけていた距離を、クルマはその半分の40~45分で走破してしまう。残念だが、これではローカル鉄道の存在意義はないに等しい。

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(左)高千穂駅舎
(右)出札窓口、掲示の時刻表は営業運転時代のもの
 

高千穂駅には11時前に到着した。ちょうど先行列車が発車するところだったので、線路をまたぐ道路橋の上から見送る。それから駅の窓口へ行き、次の11時40分発の乗車券(1500円)を購入した。休日とあって、その間にも次々と客が入ってくる。

乗り込むまでにしばらく時間があるが、構内を自由に見学できるから退屈することはなかった。高森方にある2線収容の車庫は鉄道博物館のようなもので、かつて営業運転で使用されていた2両の気動車(TR-101、TR-202)が残されている。私はその前に置いてある保線用のカートに目を止めた。

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高千穂駅構内
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(左)車庫のTR-202
(右)見覚えのある保線用カートも…
 

これには見覚えがあった。2011年に家族旅行で訪れたときに乗ったものだったからだ。今の盛況ぶりからは想像しがたいが、当時は保存鉄道開業からまだ間もなく、注目度も高くなかったように記憶する。高千穂峡のボートを楽しんだ後、立ち寄った道の駅で偶然、運行案内を見かけなければ、存在を知らないまま町を後にしていただろう。駅へ行くと、夏休みの土曜日というのに、客は私たちだけだった。

車両は当時からスーパーカートと呼ばれていたが、実態は、汎用小型エンジンを搭載した台車の前に、リヤカーの荷台のような付随車をつけただけの軽量編成(!)だ。走り始めると、車輪の振動がお尻にじかに伝わるワイルドな乗り心地で、トンネルの中ではエンジンの轟音が反響して話し声はまったく聞こえない。大鉄橋はまだ通行できず、手前の天岩戸(あまのいわと)駅で休憩して折り返す、片道2.2km、往復30分のコースだった。

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2011年に見た案内掲示
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天岩戸駅に到着、中央は運転士さん
(2011年7月撮影)
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機回しはなく、復路は台車が前に
(2011年7月撮影)
 

現在運行中のグランド・スーパーカートは全長25mある。空港で見かけるようなトーイングトラクターを改造したという動力車に続いて、30人乗りロングシートのオープン客車が2両、最後尾に復路用の動力車というプッシュプル編成だ。名称の豪華な響きに釣り合うかどうかはともかく、10数年前に比べればずいぶん進化している。実際、乗り心地も悪くなく、エンジンの音も特に気にならない。

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グランド・スーパーカートで高千穂駅を出発
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と観光列車の走行ルート等を加筆
  高千穂駅周辺
 

列車は定刻に発車し、片道約2.5kmのルート(下注)を時速15km以内でゆっくり走っていった。往路は25‰の下り坂だ。2本の短いトンネルでは、動くイルミネーションが天井に投影されて、乗客の目を引いた。天岩戸駅は通過し、大鉄橋のたもとでいったん停止。風速計で安全を確認したのち、おもむろに橋上に出ていく。「携帯電話や貴重品などは仮に落とされても取りに行けませんので、ご了承ください」とアナウンスがある。

*注 2.5kmは図上実測値。公式サイトに記載されている「距離5.1km」は往復の長さだろう。

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(左)トンネルが迫る(帰路写す)
(右)天井には動くイルミネーション
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(左)天岩戸駅を通過
(右)風速確認の後、橋上へ
 

高千穂鉄橋は、岩戸川の峡谷をまたぐ長さ354m、高さ105mの壮大な上路ワーレントラス橋だ。足もとには、起こしたばかりの田んぼが載るテラス(緩斜面)が見え、その先に底の見えない千尋の谷が口を開けている。線路の両側に並行する保線用通路が緩衝帯になっているとはいえ、スマホをかざす指先におのずと力が入る。

中央部まで来ると、列車は5分ほど停まり、またとない絶景を鑑賞する時間を乗客に提供してくれた。停車中は座席から立ち上がることが許される。運転士が手に持つシャボン玉発生器から、虹の水玉が勢いよく空中に飛び出していく。きょうはよく晴れて暖かく、絶好の行楽日和だ。再び動き出すと、列車は橋を渡り終え、大平山(おおひらやま)トンネルの閉鎖されたポータルの手前ですぐに折り返した。

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高千穂橋梁の上から北望
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(左)シャボン玉が放たれる
(右)大平山トンネルの手前で折り返し
 

高千穂駅に戻った後は、クルマで高森方向へ3km地点にある「トンネルの駅」と隣接する「夢見路公園」に寄り道した。かつて高千穂線はさらに西へ進み、分水嶺を越えて熊本県側の高森線(現 南阿蘇鉄道)と接続することをめざしていた。だが、1980年の国鉄再建法成立により工事は凍結され、この区間はそのまま未成線となった。

トンネルの駅、夢見路公園はその一部を利用した施設で、前者は神楽酒造という酒造会社が運営している。ひときわ目を引くのが、国道から見上げる高さの高架橋上に鎮座する8620形蒸気機関車48647号だ。お召列車を牽いた経歴をもつそうで、日の丸の小旗を脇に差している。もちろん静態保存だが、今にも走り出しそうな雰囲気が頼もしい。「駅」の入口には、ブルーに再塗装された高千穂鉄道の観光用気動車TR-300形(TR-301、TR-302)もいた。

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未成線の高架橋に載る蒸機48647号
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ハチロクと向かい合うTR-300形
 

ハチロクが載る高架橋の高森方では、公園化された築堤に続いて、閉鎖された第一坂の下トンネルのポータルが見える。一方、高千穂方は整地されて駐車場や売店になっているが、山際に開けられた葛原(かずはら)トンネルが、酒造会社により焼酎の貯蔵庫に利用されている。内部も見学可能で、坑内にはスピリッツのかぐわしい香りが充満していた。

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葛原トンネルは焼酎の貯蔵庫に
 

昼食は、あらかじめ目をつけていた雲海橋のたもとのレストランにて。橋の上の歩道は、さきほど列車で渡った高千穂橋梁が遠望できる絶景スポットだ。13時発の列車が来るのを待ち、鉄橋をゆっくり往復するのを最後まで見届けた(冒頭写真も参照)。

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(左)国道218号の雲海橋
(右)雲海橋から高千穂橋梁を遠望

この後は延岡まで、主な旧駅の痕跡を訪ねる。雲海橋の東のたもとで右に折れて、国道218号を東へ。一つ目は、スーパーカートが折り返したあの大平山トンネルを抜けた先にある深角(ふかすみ)駅だ。

国道を離れ、急坂の狭い林道を降りていくと、やがて駅跡に突き当った。見ると、プラットホームの駅名標、単線の線路、山小屋風の待合室と、すべてが現役当時のままだ。待合室には、平成16年3月13日改正の注記をもつ時刻表・運賃表さえ掲げられている(下注)。峡谷の崖の上の、周囲に人家もないさびれた秘境駅を想像していたから、意外だった。

*注 平成16年=2004年は運休の前年。駅の発車時刻表はここに限らず、待合室や駅舎が残る駅跡の多くに掲げられていた。

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現役当時のままの深角駅
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当時の列車時刻表
 

大平山トンネルのほうへ歩くと、手前にある短いトンネル(深角トンネル)の中に木造の手押しトロッコが留め置かれていた。これも2011年の訪問時に高千穂駅で見たものだ。構内には桜の木が植わっていて、満開になる季節には地元有志の手で試乗会が開かれているらしい。

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(左)トンネルに留置された手押しトロッコ
(右)2011年夏は高千穂駅にあった
 

次の影待(かげまち)駅は本物の秘境駅で、アプローチは山道しかなく、駅跡も藪化しているようなので、迷うことなくパスした。日之影川の谷を渡る青雲橋の手前で国道から離れ、谷底へ向かう道を降りていく。目の前をオレンジ色のガーダー橋、日之影川橋梁が横断している。振り返ると、青雲橋の空にかかる虹のような優美なアーチが重なって壮観だ。

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日之影川橋梁の後ろに青雲橋のアーチが重なる
 

日ノ影線時代の終点だった日之影温泉(ひのかげおんせん)駅(下注)は、町の中心部から少し下流に位置する。もとの構内は整理済みで、TR-100形気動車2両(TR-104 せいうん号とTR-105 かりぼし号)が列車ホテルに改造されて、仲良く並んでいる。温泉施設を兼ねていた駅舎は日之影温泉として今も営業中で、土産物売り場の横には、うれしいことに高千穂線に関する鉄道資料室があった。

*注 国鉄時代は日ノ影駅と称していた。三セク移管後の1995年に改称。

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日之影温泉駅
(左)列車ホテルになったTR-100形
(右)温泉施設を兼ねた旧駅舎
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駅舎内にある鉄道資料室
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  日之影温泉駅周辺
 

日之影温泉を出た鉄道は、まもなく五ヶ瀬川を斜めに横断して、対岸に渡っていた。この第四五ヶ瀬川橋梁は台風で被災しなかったが、後に撤去されて、橋台しか残っていない。その先、河道の屈曲に従ってクランク状に通過する個所では、連続アーチの高架橋(第一及び第二小崎橋梁)が対岸の道路から望見できる。

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連続アーチの小崎橋梁
 

吾味(ごみ)から日向八戸(ひゅうがやと)、槇峰(まきみね)までの3駅間は、廃線跡がハイキングルート「森林セラピー TR鉄道跡地散策コース」として整備されている(下注)。高千穂線跡で唯一、ふつうに歩ける区間なので、吾味駅前にクルマを置いて訪ねてみることにした。全長約4kmあり、往復すると2時間近くかかるから、1.4km地点の日向八戸駅で折り返すショートコースにする。

*注 現地の看板は吾味駅~槇峰駅間になっていたが、2023年現在の公式サイトでは吾味駅~八戸観音滝とされている。

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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  吾味~槙峰間
 

出発点の吾味駅は、線路跡が舗装道になっているものの、ホーム上の三角屋根をつけた待合室が在りし日を偲ばせる(下注)。それに続くのが、コース最大の遺構で、重要文化財にも指定された第三五ヶ瀬川橋梁だ。長さは268m、中央部が上路ワーレントラス、両端の橋脚にはコンクリート製の方杖(ほうづえ)を使用したユニークな構造で、平面形は半径200mの急曲線を描いている。下流にある星山ダムの湛水域に含まれるため、川岸までたっぷりと蒼い水が満ちているのも趣を添える。

*注 下流側にあるよく似たデザインの建物は、ハイキングコースのために新設された休憩所。

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吾味駅跡
壁面は改装されているものの待合室も健在
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第三五ヶ瀬川橋梁はハイキングコースに
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橋梁側面
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現地の案内板
 

橋梁を渡りきると、短いトンネルを介して日向八戸駅の手前までレールが残されていた。線路の片側に土を盛ってあるので、歩くのに支障はない。日向八戸駅も同じく、線路跡は舗装道になっているが、ホームや駅名標とともに、駅舎を兼ねていた立派な公民館が健在で、廃線跡にはとても見えない。

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(左)レールも残る吾味~日向八戸間
(右)トンネルの反対側(西望)
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(左)日向八戸駅の手前レールは途切れる
(右)廃線跡とは思えない日向八戸駅
 

クルマに戻り、ハイキングコースの残り区間にある八戸観音滝の高架橋と樺木トンネル(長さ247m、下注)のポータルを見て、槙峰駅跡へ。ここもレールが剥がされ草地になっているものの、切妻屋根の駅舎とホームはしっかり残っている。

*注 樺木トンネルはカーブしているうえ、照明がないので、通行には懐中電灯が必須。

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(左)八戸観音滝入口の高架橋
(右)樺木トンネル西口
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槙峰駅舎とホーム
 

それ以上に注目すべきは、駅の下手で支流の綱の瀬川(つなのせがわ)を渡っているコンクリートアーチの綱ノ瀬橋梁だ。川岸に張り出した長い高架区間を前後に従えているため、全長418m、43連アーチという、旧日ノ影線区間では最大規模の構造物になっている。背後の谷には国道槙峰大橋ののびやかな大アーチが架かっていて、新旧共鳴する絶景に思わず息をのむ。

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綱ノ瀬橋梁と槙峰大橋
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綱ノ瀬橋梁の下流部
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現地の案内板
 

廃線跡の見どころはおおむねここまでだ。すでに陽が傾きつつあり、後はよりテンポよく進めていきたい。列車を再び対岸に渡していた第二五ヶ瀬川橋梁は台風で損壊し、残骸もすでに撤去済だ。次の亀ヶ崎(かめがさき)駅はクルマでは容易に近づけないので、さっそくパスした。

早日渡(はやひと)駅も対岸だが、道路橋を渡れば駅前までクルマがつけられる。駅跡は桜の名所になっているが、旅客用ホームはすでに撤去され、貨物用と思われる古い石積みホームが残るばかりだ(下注)。構内に建つプレハブは公民館だそうだが、内部に駅名標と駅の発車時刻表が掲げてあるのが、窓ガラス越しに見えた。

*注 撤去計画(高千穂線鉄道施設整理事業)は高千穂鉄道の施設が対象のため、同 鉄道が使用していなかった国鉄時代の遺物は撤去を免れたもよう。

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早日渡駅跡
(左)公民館の中に駅名標が
(右)残るは旧貨物ホームのみ
 

上崎(かみざき)駅も対岸にあるが、同じように橋を渡ってのアプローチが可能だ。菜の花咲く廃線跡と、簡素なホームと待合室に、ローカル線ののどかな面影を求めることができる。

川水流(かわずる)駅の手前で、鉄道はまた川を渡ってこちら側に移っていた。第一五ヶ瀬川橋梁は水害に遭い、前後の築堤を残して撤去された。川水流駅跡もすでに更地化されてしまったようだ。

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上崎駅跡
(左)ローカル線の面影を残す
(右)駅の下流側、線路跡の農道が続く
 

トンネルを抜けた谷あいにあった曽木(そき)駅は、集落の中に木造の駅舎が残るものの、線路跡は畑などに還っている。

吐合(はきあい)駅は、曽木川が五ヶ瀬川に合流する地点の山手に設けられたが、すでに民地に戻されたようだ。駅へ上る細道は金網で封鎖され、近づくことができなかった。

日向岡元(ひゅうがおかもと)駅と細見(ほそみ)駅跡は、ともに道路に転用されてしまっており、クルマの窓から見るにとどめる。

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(左)駅舎のみ残る曽木駅跡
(右)吐合駅跡は民地に(金網越しに撮影)
 

この後、鉄道跡は国道とともに五ヶ瀬川の谷から離れる。行縢(むかばき)駅跡は、早日渡同様、撤去を免れた旧貨物ホームに桜の木が大きく育っていた。単式だった旅客ホームや線路はすでになく、緑の草地が広がるばかりだ。

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(左)行縢駅跡も古いホームのみ残存
(右)東九州自動車道と交差する廃線跡(行縢~西延岡間)
 

最後の西延岡(にしのべおか)駅跡にたどり着いたときには、もう18時を回っていた。今日の宮崎の日没時刻は18時15分だが、すでに陽は西の山かげに隠れ、あたりに夕闇が忍び寄る。

ここはもう延岡の郊外だが、うれしいことに駅は現役時代の姿を保っていた。駅舎はもともとなかったのだが、ホームには色褪せながらも駅名標が立ち、PCまくらぎを敷いた線路もまだ使えそうだ。駅前に建っている風格ある切石積みの倉庫も、鉄道貨物の関連施設に見える。駅が無傷なのは地元の要望によるものらしいが、そのおかげで、高千穂からたどってきた廃線跡の旅の、申し分ない終着地になった。

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現役時代の姿を保つ西延岡駅跡
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(左)西延岡駅前の石造倉庫
(右)倉庫は国鉄時代から存在(1983年3月撮影、大出さん提供)

西延岡と延岡の間で、高千穂線は市街地を避けるように北に迂回していた。この間には3本の短いトンネルもあった。今朝、集合時刻までに一部を徒歩で見に行ったので、本稿の続きに報告しておきたい。

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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  西延岡~延岡間
 

西延岡駅から東1km強の区間は、一部を除いて路盤が明瞭だ。レールが撤去された区間でもバラストは残っている。しかし、古川町地内では大規模な土地造成が進行中で、西延岡から数えて最初のトンネル(赤尾トンネル)は、地山ごと消失して平地になっていた。

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古川町地内
(左)バラストが残る廃線跡(西望)
(右)踏切の先のトンネルは地山ごと消失(東望)
 

延岡西環状線と交差した先にある第二のトンネル(山田トンネル)の前後はすでに藪化していて、近づけない。

旭中学校裏から第三のトンネルの間は路盤のバラストが残るが、住宅地に面しているので、そのうち舗装道に変わってしまいそうだ。第三のトンネルは無傷だが、入口にはフェンスが講じてある。

これを抜けると線路跡は、延岡駅へ向けて南へ大きくカーブしていく。駅の手前まで続いていた築堤は、今やトンネル東側と旭小学校裏に一部残るだけだ。あとは旧国道10号に架かっていたガーダー橋を含めてすっかり撤去されてしまい、駐車場などに姿を変えている。

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旭中学校裏に残る築堤と擁壁
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第三のトンネルは残存するものの通行不可
左写真は西側から、右写真は東側から撮影

最後に、国鉄高千穂線が記載されている1:25,000地形図を、高千穂側から順に掲げておこう。

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高千穂線現役時代の 1:50,000地形図
高千穂~大平山トンネル間(1974(昭和49)年修正測量)
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同 大平山トンネル~日ノ影間
(1974(昭和49)年修正測量および1978(昭和53)年改測)
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同 日ノ影~槙峰間
(1978(昭和53)年改測)
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同 槙峰~上崎間
(1978(昭和53)年改測)
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同 上崎~日向岡元間
(1978(昭和53)年改測)
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同 日向岡元~行縢間
(1978(昭和53)年改測)
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同 行縢~延岡間
(1978(昭和53)年改測)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分、延岡(いずれも昭和52年編集)、2万5千分の1地形図大菅、三田井(いずれも昭和49年修正測量)、同 延岡北部、延岡、行縢山、川水流、日之影、宇納間、諸塚山(いずれも昭和53年改測)および地理院地図(2023年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高千穂あまてらす鉄道 https://amaterasu-railway.jp/

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