廃線跡

2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

Blog_contour7601
左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-s春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

Blog_contour7602
桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
Blog_contour76_map1
図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

Blog_contour7603
羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
Blog_contour7604
(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

Blog_contour7605
(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
Blog_contour7606
バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
Blog_contour76_map2
図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
Blog_contour76_map3
図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

Blog_contour7607
(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
Blog_contour7608
観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

Blog_contour7609
(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

Blog_contour7610
(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
Blog_contour7611
(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

Blog_contour7612
(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

Blog_contour7613
(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

Blog_contour7614
修復中のモハ103
Blog_contour7615
屋根の復元が進行中
Blog_contour7616
月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
Blog_contour7617
在りし日の三山線写真
Blog_contour7618
(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

Blog_contour7619
(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
Blog_contour7620
石田駅跡に残る桜の大木、西望
Blog_contour76_map4
図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
Blog_contour76_map5
図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

Blog_contour7621
石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
Blog_contour7622
(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

Blog_contour7623
羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

Blog_contour7624
(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

Blog_contour7625
白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
Blog_contour76_map6
図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
Blog_contour76_map7
図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

Blog_contour7626
寒河江川にかかるみやま橋
Blog_contour7627
(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

Blog_contour7628
三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

Blog_contour7629
三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

Blog_contour7630
楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
Blog_contour76_map8
図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

Blog_contour7631
展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
Blog_contour7632
楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
Blog_contour7633
同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

Blog_contour7634
旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
Blog_contour7635
夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡
 コンターサークル地図の旅-三方五湖
 コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡
 コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

 コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-s春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

Blog_contour7501
第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
Blog_contour75_map1
図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

Blog_contour7502
朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

Blog_contour7503
明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
Blog_contour75_map2
図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
Blog_contour75_map3
図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

Blog_contour7504
西条駅
Blog_contour7505
(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

Blog_contour7506
鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

Blog_contour7507
道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

Blog_contour7508
大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
Blog_contour7509
(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

Blog_contour7510
(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
Blog_contour7511
旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

Blog_contour7512
旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

Blog_contour7513
(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
Blog_contour7514
新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

Blog_contour7515
(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

Blog_contour7516
廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
Blog_contour75_map4
図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
Blog_contour75_map5
図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

Blog_contour7517
(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

Blog_contour7518
潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
Blog_contour7519
(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

Blog_contour7520
漆久保トンネル東口
Blog_contour7521
小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

Blog_contour7522
(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

Blog_contour7523
けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

Blog_contour7524
谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
Blog_contour7525
(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

Blog_contour7526
三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
Blog_contour7527
(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
Blog_contour7528
道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すると、駅舎の前に出る。

Blog_contour7529
(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
Blog_contour7530
明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡
 コンターサークル地図の旅-三方五湖
 コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園
 コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

 コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡

2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-s 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や歩きでは通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

Blog_contour7301
周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げされた。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

Blog_contour7302
柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

Blog_contour73_map1
図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ入った。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられているが、階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだろうが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だが、カーテンが引かれ、閉まっていた。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

Blog_contour7303
(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

Blog_contour7304
(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

Blog_contour7305
中ノ郷駅のホーム跡
Blog_contour7306
本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
Blog_contour7307
(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
Blog_contour73_map2
図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

Blog_contour7308
柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
Blog_contour7309
旧道沿いの本陣跡民家
Blog_contour73_map3
図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

Blog_contour7310
柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

Blog_contour7311
(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
Blog_contour7312
長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

Blog_contour7313
柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

Blog_contour7314
頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
Blog_contour7315
オリジナルのポータルが残る
Blog_contour7316
由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
Blog_contour7317
同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

Blog_contour7318
(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
Blog_contour73_map4
図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

Blog_contour7319
小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
Blog_contour7320
東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

Blog_contour7321
東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
Blog_contour7322
県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

Blog_contour7323
愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
Blog_contour73_map5
図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

Blog_contour7324
笙の川に残る橋台と橋脚の土台
Blog_contour7325
(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
Blog_contour7326
(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

Blog_contour7327
杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

Blog_contour73_map6
図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
Blog_contour73_map7
図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪
 コンターサークル地図の旅-三方五湖
 コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡
 コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園
 コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

 コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル
 コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

2024年2月 7日 (水)

ニュージーランドの保存鉄道・観光鉄道リスト I-北島

植民地と自治領以来の強い文化的影響を受けて、南半球のイギリス Britain of the South とさえ呼ばれるニュージーランドは、保存鉄道の分野でもその呼び名にふさわしい充実ぶりを見せている。リストに掲げた20数件の路線のうち、主なものを北島と南島に分けて紹介したい。今回は北島について。

Blog_nz_heritagerail1
グレンブルック駅の国産蒸機Ja形(左)とWw形(2017年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

保存鉄道・観光鉄道リスト-ニュージーランド
http://map.on.coocan.jp/rail/rail_nz.html

Blog_nz_heritagerail2
「保存鉄道・観光鉄道リスト-ニュージーランド」画面

ニュージーランドの幹線鉄道網は、日本のJR在来線と同じ1067mm(3フィート6インチ)軌間だ。廃止された支線を復活させて、この軌間の保存蒸機やディーゼル機関車を走らせているところがいくつかある。

項番1 ベイ・オヴ・アイランズ・ヴィンテージ鉄道 Bay of Islands Vintage Railway

北島の北側に角のように延びるノースランド半島 Northland Peninsula の一角を、この保存鉄道は走っている。もとは国鉄ノース・オークランド線 North Auckland line の最北端で、オプア支線 Opua branch line とも呼ばれた、内陸から港町に向かうローカル線の一部だ。

*注 オプア支線はノース・オークランド線 North Auckland line で最初の開業区間で、1868年にカワカワの炭鉱からオプア Opua の港へ石炭を運ぶ馬車軌道として造られた。

ベイ・オヴ・アイランズ・ヴィンテージ鉄道は1985年に開業したが、その後、財政難で休止と再開を繰り返した。現在は、支線の中間駅だったカワカワ Kawakawa を拠点に、約7km下ったテ・アケアケ Te Akeake(停留所)までの区間を、蒸気またはディーゼル牽引で往復している。往復の所要時間は90分。

Blog_nz_heritagerail3
カワカワ駅で発車を待つ蒸気列車(2009年)
Photo by W. Bulach at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

ルートの呼び物は、カワカワの市街地を貫いている長さ約300mの道路併用区間だ。両端の車道との交差部に信号機はなく、クルマや通行人は阿吽の呼吸で、進入する列車に道を譲る。町を出た後は農地のへりを下っていき、中間駅タウマレレ Taumarere の先に、カワカワ川(!)Kawakawa River に架かる長いトレッスル橋がある。

テ・アケアケは川べりにある暫定の折り返し点で、鉄道はこの先、オプア港までの復元を目標にしている。現行ルートでも車窓はけっこう変化に富んでいるが、将来区間にはトンネルや入江の眺めもあり、魅力はいっそう深まることだろう。

ところで、英語では保存鉄道を通常 "heritage railway" というが、ニュージーランドでは、この鉄道のように "vintage railway" と称することが多い。適切な訳が思いつかないので、リストではすべてヴィンテージ鉄道としている。

Blog_nz_heritagerail4
カワカワ市街地の併用軌道(2012年)
Photo by Reinhard Dietrich at wikimedia. License: CC0 1.0
 

項番5 グレンブルック・ヴィンテージ鉄道 Glenbrook Vintage Railway

オークランドでグレンブルック Glenbrook と言えば、誰しも南郊にある同名の製鉄所を思い浮かべることだろう。この保存鉄道は、そこへの貨物線が分岐するワイウク支線 Waiuku branch の末端区間を舞台にしている(下注)。1967年に廃止された区間だが、その10年後に保存団体が、藪を切り開き、本線運行から引退した蒸気機関車や客車をここへ運んで走らせ始めた。今ではそれが、蒸機10両以上を保有する同国有数の保存鉄道に成長している。

*注 ワイウク支線のうち、根元区間のパトゥマホエ Patumahoe ~グレンブルック間は製鉄所への貨物支線として現在も使われている。

Blog_nz_heritagerail5
ワイウク郊外を行くJa形重連(2013年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

鉄道の拠点は、分岐駅のグレンブルックにある。そこから港町ワイウクのヴィクトリア・アヴェニュー Victoria Avenue 駅に至る7.4kmで、シーズンの主として日曜祝日に、かつて本線で使われた蒸機による観光列車が運行されている。

グレンブルックは台地の上で、河口のワイウクへ向けては、牧草地の中に下り坂が続く。往路の蒸機は逆機運転で、終点まで20分間ノンストップだ。機回しの後の復路は上り坂になるため、前を向いた蒸機の力強い走りが期待できる。中間地点のプケオワレ Pukeoware にある鉄道の修理工場で、15分の見学休憩があり、小旅行は往復で70分になる。

Blog_nz_heritagerail6
グレンブルック駅の信号所(2013年)
Photo by itravelNZ® at flickr. License: CC BY-NC 2.0

次は、険しい峠越えに挑戦した19世紀の鉄道技術の結晶ともいうべき区間について。

項番9 ラウリム・スパイラル Raurimu Spiral

朝、オークランド Auckland から北島本線の長距離列車ノーザン・エクスプローラー Northern Explorer(下注)に乗り込むと、ちょうどお昼ごろにその鉄道名所にさしかかる。ラウリム・スパイラルとは、北島の中心部、タウポ火山群 Taupo Volcanic Zone の広大な裾野のへりにある、スパイラル(日本でいうループ線)を含んだ複雑な山岳ルートのことだ。

*注 北島の二大都市オークランドとウェリントンを結ぶ観光列車。現在、週3往復で、ウェリントン行きが月、木、土曜日に、オークランド行きが水、金、日曜日に運行される。所要10時間40分~11時間5分。

名所区間は、麓にある標高592mのラウリム Raurimu 旧駅(下注)から始まる。線路は半径151m(7チェーン半)のオメガカーブで反転した後、北斜面に回り込んで、長さ385mのトンネルに入る。この内部にスパイラルの始点があり、もう1本のトンネルを介しながら時計回りに円を描いていく。途中で左車窓に、ラウリム旧駅や先ほど通過した線路が一瞬見えるはずだ。

*注 ラウリム駅は1977年に廃止されたが、待避線は動態で現存する。

地形を巧みに利用したルートによって、鉄道は、勾配を蒸機の牽引能力内の1:50(20‰)に抑えながら、トンガリロ国立公園 Tongariro National Park の玄関口、ナショナル・パーク National Park 駅まで215mの高低差を克服した。この間の直線距離は約6kmだが、路線長は11.6kmとほぼ2倍の長さがある。

オークランドに向かう北行きのノーザン・エクスプローラーも、ナショナル・パーク駅の発車は同じ時刻だ。昼過ぎの時間帯、この名所を通って麓に降りていく。

Blog_nz_heritagerail7
空から見たラウリム・スパイラル(2012年)
Photo by Jenny Scott at flickr. License: CC BY-NC 2.0
 

項番11 リムタカ・インクライン Rimutaka Incline

ウェリントンからマスタートン Masterton 方面に通じるワイララパ線 Wairarapa Line には、ニュージーランドの鉄道で第2の長さを誇る8798mのリムタカトンネル Rimutaka Tunnel がある。トンネルとその前後区間は1955年の開通だ。

それ以前の旧線は、まったく別の峠越えルートを通っていた。特に東斜面には3マイル(4.8km)の間、平均66.7‰という極めて急な勾配区間があった。そこで使われていたのがフェル式 Fell system だ。これは、2本の走行レールの間に双頭レールを横置きし、それを車両側の水平駆動輪で左右から挟むことによって推進力を高める方式で、幹線で20世紀半ばまで使用していたのは、この区間が唯一だった。

麓の基地にはそのための蒸気機関車H形が配置され、戦後に導入された気動車も、センターレールは使わないものの、それに支障しないよう車高を上げた特別仕様車だった。

新線開通後、廃線跡は峠のトンネルを含めて、リムタカ・レール・トレール(自転車・徒歩道)Rimutaka Rail Trail に転用され、保存されている。役目を終えたH形蒸機は1両だけ残され、東麓のフェザーストン Featherston に設立されたフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum で静態展示されている。これとは別に、西麓のメイモーン Maymorn 駅構内では、リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust が、峠区間の復元を目標にして活動中だ。

*注 詳細は「リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶」「同 II-ルートを追って」参照。

Blog_nz_heritagerail8
現役時代のサミット駅(1880年代)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library at wikimedia. License: public domain
Blog_nz_heritagerail9
サミットトンネル東口、トンネル内部に続くフェル式レール(1908年)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library at wikimedia. License: public domain

軽便線や市内軌道、鋼索線にもそれぞれ見どころがある。

項番2 ドライヴィング・クリーク鉄道 Driving Creek Railway

3km走る間にトンネル3本、橋梁10本、オメガループが2か所、スイッチバックは5か所…。しかも7番目の橋梁は2層建てで、タイミングを合わせた続行列車と、上下両層で同時に渡っていく。最後に控えるスイッチバックは、尾根から空中に突き出たデッドエンドで、乗客は見晴らしに感嘆しつつも目の前のスリルに肝を冷やす。

ドライヴィング・クリーク鉄道は、北島コロマンデル半島のコロマンデル Coromandel 郊外にある381mm(15インチ)軌間の観光鉄道だ。技巧を凝らして手造りされたレイアウトは、テーマパークのアトラクションも顔負けのレベルに達している。

意外なことに、鉄道の創設者は陶芸家だった。彼は1975年に、陶芸工房で使う粘土と薪を山から運び下ろすために軌道を造り始めた。ところが、工房を訪れた客を乗せるサービスが評判を呼び、しだいに線路は、裏山一帯を巡るようにして上へ上へと延伸されていった。

麓に建つ工房前から、列車は出発する。線路は最大1:14(71‰)という急な上り坂だ。数々のマニアックなポイントを経て到着した終点には、2004年に完成したアイフル・タワー Eyefull Tower(アイフェル・タワー Eiffel Tower、すなわちパリのエッフェル塔のもじり、下注)という展望台がある。標高165mの高みからコロマンデル・ハーバー Coromandel Harbour や対岸の山並みの眺めを存分に楽しんだ客は、再び列車に乗り込み、麓に戻っていく。往復1時間15分。

*注 展望塔の構造は、オークランド港にある同国最古の灯台ビーン・ロック灯台 Bean Rock Lighthouse をモデルにしている。

Blog_nz_heritagerail10
(左)2層建ての第7橋梁
(右)空中に突き出た第5スイッチバック(いずれも2012年)
Photo by Reinhard Dietrich at wikimedia. License: CC0 1.0
 

項番4 ウェスタン・スプリングズ路面軌道 Western Springs Tramway

オークランド市内のウェスタン・スプリングズ Western Springs にあるMOTAT(輸送技術博物館 Museum of Transport and Technology)が、館外に敷いた軌道線で、動態保存しているトラム車両を走らせている。

博物館には、グレート・ノース・ロード Great North Road とエーヴィエーション・ホール Aviation Hall という離れた2か所の構内があり、軌道線は、訪問者がこの間を移動するための交通手段という位置づけだ。そのため、クリスマスの日を除き年中無休、15分から30分間隔で運行され、運賃は取らない。

グレート・ノース・ロードの車庫から出てきたトラムは、同名の停留所で客を乗せた後、街路と公園に挟まれた専用線を走り出す。中間に停留所が4か所あるが、列車交換(下注)が行われるオークランド動物園 Auckland Zoo 以外はリクエストストップだ。約8分で、航空機の展示ホールがある終点に到着する。

*注 列車交換は、15分間隔運行のときに行われる。

MOTATの保存トラムには、地元オークランドやファンガヌイ Whanganui の1435mm標準軌車のほか、ウェリントン Wellington から来た1219mm(4フィート)軌間の車両も含まれている。どちらも走れるように、軌道は全線にわたって3線軌条だ。

なお、エーヴィエーション・ホールの敷地の奥には、1067mm軌の蒸気鉄道の機関庫と、長さ約700mの走行線がある。毎月1回のライブ・デーには機関庫が公開され、保存運行が行われる。これもまた楽しみだ。

Blog_nz_heritagerail11
終点エーヴィエーション・ホールに集結した古典車両群(2015年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番14 ウェリントン・ケーブルカー Wellington Cable Car

ケーブルカーで高台に上り、市街とその先に広がるウェリントン・ハーバー Wellington Harbour の絶景を眺めるというのが、ウェリントン観光の一つの定番だ。赤い車体のケーブルカーは、首都の目抜き通りラムトン・キー Lambton Quay の一角にある奥まったホームから出発する。前半はトンネルを出たり入ったりを繰り返すが、後半で一転空が開け、後方に町と海の美しいパノラマが見えてくる。

公式サイトによると、路線は長さ612m。17.86%(1:5.06)の一定勾配で、高度差120mを上りきる。山上駅はウェリントン植物園に隣接していて、テラスからの展望を楽しんだ後は、緑あふれる園地の散策に出かけるのが通例だ。

ケーブルカーは1902年の開通だが、当時のシステムは1067mm軌間の全線複線で、サンフランシスコに見られるような循環式と、釣瓶型の交走式とのハイブリッド仕様だった。すなわち、全線を循環するケーブルが通っていて、下る車両はそれを装置でつかむことにより降下する(=循環式)。もう一方の車両は、別のケーブルで山上駅の駆動力を持たない滑車を介してつながっているため、下る車両に連動して引き上げられた(=交走式)。また、緊急ブレーキ用に、フェル式レールも設置されていた。

しかし設備の老朽化が進み、1979年に軌間1000mm、単線交走式に置き換えられた。現在は、ケーブルでつながった2つの車両が、山上駅の駆動力を持つ滑車によって上下する。中間駅タラヴェラ Talavera に、行き違うための待避線がある。

英語では、循環式のケーブルカー(およびロープウェー)を "cable car" といい、交走式は "funicular" と呼んで区別する。この鉄道は今もケーブルカーを名乗っているが、これは旧方式を使っていた名残りに過ぎず、実際はフュニキュラーだ。

Blog_nz_heritagerail12
上部駅のテラスから見るケーブルカーのパノラマ(2014年)
Photo by Sham's Personal Favourites at flickr. License: public domain

最後に、変わり種の鉄道ツアーを一つ。

項番8 フォゴットン・ワールド・アドベンチャーズ(ストラトフォード=オカフクラ線)Forgotten World Adventures (Stratford–Okahukura Line)

北島中部に、エグモント山麓のストラトフォード Stratford から山中を通って北島本線のオカフクラ Okahukura に至るストラトフォード=オカフクラ線 Stratford–Okahukura Line がある。全長143.5kmの間に、24本のトンネル、91本の橋梁、20‰の勾配が繰り返される山地横断路線だ。しかし、旅客列車は言うに及ばず、近年は貨物列車の運行もなく、路線自体が休止状態になって久しい。

この忘れられたようなルートで、2012年からエンジン付きレールカートによる走行ツアーを実施しているのが、フォゴットン・ワールド・アドベンチャーズ(忘れられた世界の冒険)Forgotten World Adventures という企画会社だ。ゴルフカートのような簡素な車両だが、ガイドを兼ねたドライバーがつくので、客は乗っているだけでいい。また、およそ15km走るごとに降りて、小休憩やティータイムがある。

ツアーは数種類用意されている。たとえば、最も手軽な半日コースでは、朝、タウマルヌイ Taumarunui の直営モーテル前に集合して、シャトル(乗合タクシー)でオカフクラの乗り場(下注)へ行く。レールカートで線路を40km走ってトキリマ Tokirima へ。ここでランチをとり、復路はまたシャトルに乗って、ラベンダー農場経由で起点に戻る。

*注 オカフクラの国道をまたぐ鉄道の高架橋が老朽化により撤去されたため、乗り場はオカフクラ駅から800m先の地点に変更されている。

1日コースなら、80km先のファンガモモナ Whangamomona まで行ける。さらに「究極 The Ultimate」コースでは、レールカートだけでストラトフォードまで全線を移動する。東海道線なら、東京駅から吉原か富士までの距離に等しい。途中、ファンガモモナで1泊して2日がかりの行程だが、鉄道趣味もここまで来ると体力勝負だ。

Blog_nz_heritagerail13
(左)オカフクラのカート乗り場
(右)先行するカートを追って山中へ(いずれも2021年)
Photo by njcull at flickr. License: CC BY-NC-ND 2.0
 

次回は、南島の保存・観光鉄道について。

★本ブログ内の関連記事
 ニュージーランドの保存鉄道・観光鉄道リスト II-南島
 オーストラリアの保存鉄道・観光鉄道リスト I
 オーストラリアの保存鉄道・観光鉄道リスト II

 ニュージーランドの鉄道史を地図で追う I
 ニュージーランドの鉄道史を地図で追う II

2023年12月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

侵食力の差によって、ある川が隣接する川の流れに介入し、そこから上の流域をまるごと奪い取ってしまう。分水界の移動を引き起こすこうした河川争奪地形の読み解きは、あたかもオセロゲームを観るような興味を呼び起こす。

2023年コンター旅の最終日に訪ねたのは、そのような地形の変化が実際に生じた場所だ。中国山地、山口・島根の県境付近にあり、当事者である川の名から「宇佐川・高津川の河川争奪」、あるいは地名から「宇佐郷(うさごう)の河川争奪」などと呼ばれている。

Blog_contour7201
河川争奪で生じた向峠(こうたお)の風隙(北東望)
 

後述するように、ここでは日本海に流れる高津川(たかつがわ)の流域に、瀬戸内海に注ぐ錦川の支流、宇佐川(うさがわ)が進出して次々と陣地を奪っていった。そのたびに奪った方の水量が増して侵食力が高まるため、奪われた川床との高低差は今や100m以上にもなる。

さらに、上流を失った旧 高津川の空谷を切り裂くようにして、支流のV字谷が横断しているのも珍しい。成立過程の複雑さと規模の大きさにおいて、ここは国内最大級の類例と言っても過言ではない。

Blog_contour72_map1
図1 宇佐川周辺の1:200,000地勢図
(左)1986(昭和61)年編集(右)1987(昭和62)年編集
 

中国地方では上根峠(かみねとうげ、下注)と並んで有名な典型地形だが、山中につき公共交通機関で行くのは難しいと思い込んでいた。ところがグーグルマップを見ていて、付近を通過する中国自動車道のパーキングエリア(PA)に、広島~益田(ますだ)間を走る高速バスの停留所があることに気づいた。

*注 上根峠については「コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪」参照。

他方、宇佐川の谷底には、本数は少ないものの岩国市のコミュニティバスが運行されていて、以前、岩日北線(未成線)の「とことこトレイン」に乗った帰りに実際に乗車している。

そこで、この二者を徒歩でつなごうというのが、今回の企画だ。歩く距離は約10km。ルート上には壮大な河川争奪跡だけでなく、繞谷(じょうこく)丘陵、水源池、さらには未成線跡とコンター流の見どころがてんこ盛りで、どんな景色が見られるのか期待に胸が躍る。

10月28日朝8時05分、広島駅新幹線口の高速バス乗り場に集合したのは、大出さんと私の2名。石見(いわみ)交通が運行する清流ライン「高津川号」益田行きは、駅前を発車すると、広島バスセンターでさらに客を拾った。それから長大な西風(せいふう)トンネルを抜け、広島道から中国道へと進む。

バスは太田川流域の山間部における交通機関の役割も果たしているようで、加計(かけ)、筒賀、吉和とSA・PAごとにこまめに停車していく。冠山トンネルを抜けて山口県に入った後の深谷(ふかたに)PAもその一つだ。

Blog_contour7202
(左)益田行高速バス、広島駅新幹線口にて
(右)深谷PAに到着
 

9時50分に到着。私たちは下車するが、バスもここで10分間休憩する。リュック姿で降りる客は珍しいのだろうか。運転手さんに「どこかへお出かけですか」と聞かれたので、慌てて「河川争奪の地形を見に来ました」と答えたものの、伝わったかどうかは自信がない。

このあたりは向峠(こうたお)という地名(下注)で、北側の山裾にその集落があり、前面に水田が広がっている。標高は390m前後。穏やかな山里に見えるが、東は宇佐川、西ではその名も深谷川(ふかたにがわ)の深い谷で切り取られているため、周囲から隔絶された天空の村だ(冒頭写真も参照)。

*注 行政的には、岩国市錦町宇佐郷の一部。

Blog_contour7203
山裾に広がる向峠の集落
Blog_contour72_map2
図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
深谷PA~水源公園
 

せっかく河川争奪地形を訪れるのだから、まずはそれが発生した地点、いわゆる争奪の肘(ひじ)を観察したいところだ。高津川と宇佐川の場合、それは向峠東(こうたおひがし)を横切る中国道の東側に、差し渡し1kmにわたって露出している。

しかし空中写真で見る限り、崖縁は森で覆われ、谷底を俯瞰するのは難しそうだ。何より歩く距離が2km追加になると、帰りのバスの時刻が迫ってくる。それで今回は、高速バスの車窓からざっと眺めることしかできなかった。

PAを出て北側に回ると、道の下に細い水路が走っていた。周りの谷が深く水が乏しいため、ここの水田を潤す水は、深谷川を4~5km遡った金山谷にある取水堰から用水路で引かれている。それがここに排水されているようだ。

Blog_contour7204
PAの北側を走る細い水路
(左)東(上流)方向(右)西方向
Blog_contour7205
集落から前面の水田を望む
中景の森の後ろに深谷川のV字谷がある
 

暖かい朝の日ざしが降り注ぐ中、集落を貫く県道16号六日市錦線を歩いた。道はいったん深谷川の上流方向に進むが、やがて左に回り込み、深谷大橋で谷を跨いでいく。橋の長さは99.5mだが、高さが約80mもあり、谷底をのぞき込むと思わず足がすくんだ。欄干に重ねるように高いネットが張られているのは、飛び降りを防ぐためらしい。橋のたもとには、いのちの電話の看板もあった。

Blog_contour7206
(左)深谷大橋
(右)案内板に河川争奪の説明が
Blog_contour7207
橋上から深谷川を見下ろす
 

深谷川は県境になっていて、橋を渡り終えれば島根県吉賀町(よしかちょう)だ。まもなく平地にとりつき、初見(はつみ)の集落に入る。左手遠方に、さっき通った向峠の家の屋根が、深谷の木立越しに望める。V字谷が形成される前は平面で地続きだったことがわかる。

道端に、年季の入ったバス停標識が立っていた。「六日市交通 上初見」(下注)とあるが、その下にうっすらと「国鉄バス 新田(しんた)」の文字が読み取れる。かつて国道187号経由で岩国と津和野・益田を結ぶ岩益線というバス路線があったから、その支線のようだ。

*注 吉賀町が六日市交通に委託しているコミュニティバス。

Blog_contour7208
深谷川は県境
(左)大橋東詰(右)西詰
Blog_contour7209
(左)上初見バス停標識には「国鉄バス 新田」の文字がうっすらと
(右)左手には深谷川の森が続く
 

しばらくのどかな村里を歩いていくうちに、左から中国道が近づいてきた。それをくぐった先にある水源公園のあずまやで、昼食休憩にする。手入れされていないうらぶれた園地だが、現在、高津川の水源とされているのが、ここにある大蛇ヶ池だ(下注)。湧水の池は大蛇が棲むには窮屈そうだったが、ほとりに生えている一本杉が樹高20m、根回り5mの巨木で、複雑な枝ぶりが神秘のオーラを放っている。

*注 地形図にあるとおり、池の上手にある星坂集落からも小川が流れており、池は水源の一つに過ぎない。

Blog_contour7210
高津川の水源、大蛇ヶ池
Blog_contour7211
風格のある一本杉、根元に大蛇ヶ池
 

公園を見下ろしている水源会館(郷土資料館)の前庭で、「河川争奪の復元図」を描いた説明板を見つけた。太古の高津川(以下、古高津川)がはるかに上流から流れてきていたことを明解に説明している。旧流路を示す砂礫の層があることも記されているが、欲を言えば、争奪を促した要因についても触れてほしいところだ。

Blog_contour7212
水源公園にある河川争奪の復元図
 

下記研究論文(下注)によると、それにはこの地域で北東~南西方向に走っている複数の断層が関係している。断層の継続的な活動によって、山地の北西側が隆起した。これにより、古高津川の中流部が持ち上げられるとともに、上流部では河川勾配が緩くなり、砂礫が堆積して河床が上昇した。

*注 山内一彦・白石健一郎「中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪」立命館地理学第22号, 2010, pp.39-5

このことはまた、断層の反対側(南東側)にある宇佐川~錦川流域との高度差がより開くことを意味する。さらに、一帯の地層は風化した花崗岩であり、後に宇佐川の谷となるラインには、断層に伴う破砕帯が走っていた。

こうした要因に促された河川争奪は、時代的にもエリア的にも復元図の絵解きよりはるかに広範囲に及ぶものだったようだ。その鍵となるのは同 公園の上手、星坂集落の南に見られる風隙だ。これも争奪の肘の一つだが、なぜか南に開いている。これはもとの川(被争奪河川)が、現在の宇佐川とは反対に南から北に向けて流れていたことを示唆する。

争奪過程の全体像は、以下の通り。なお下図は、同論文の添付図(p.53 第11図)をもとに描いたものだ。

Blog_contour72_map4
宇佐川の河川争奪過程 1~3
矢印は流路の方向を表す
 

かつて現 宇佐川の流域のほとんどは、古高津川の上流域だった。そして今とは逆方向に、深川南方から須川や星坂を通り、現 水源公園付近で古高津川に合流する川(以下、古南宇佐川)があった【上図1】。

8~4万年前に、錦川支流(=現 宇佐川)が南から浸食して、まずこの古南宇佐川の上流を奪った【上図2】。

新たな水流を得て侵食力を高めた宇佐川は、断層破砕帯に沿って谷頭浸食を進めていく。そして古南宇佐川の全流域を手中に収め、星坂南方に達した。星坂に風隙が生じたのは、この時点だ【上図3】。

Blog_contour72_map5
宇佐川の河川争奪過程 4~6
 

一方、現在、東から宇佐川に注いでいる道立野川(みちだちのがわ)、後川(うしろがわ)、相波川(あいなみがわ)などの支流は、かつて宇佐郷で一本の川(以下、古宇佐郷川)となり、現 深谷川が流下しているルートを逆流して古高津川に合流していた。4万5千~3万5千年前ごろ、宇佐川は宇佐郷でこれを奪った【上図4】。

約3万年前、宇佐川は向峠東方に達し、ついに古高津川本流を奪う【上図5】。

これにより古高津川は向峠で水流を失い(無能河川)、深谷川が運んできた砂礫が堆積して扇状地を形成した。1万~3千年前、古高津川の谷が大雨で湛水した際、深谷川から古宇佐郷川の旧流路を通って宇佐川へ溢流が発生した。これが繰り返され、深谷川から宇佐川への流れが定着した。

両者には相当な落差がある。初期は滝で宇佐川の谷に落ちていただろうが、下刻作用により次第にV字谷が発達していく【上図6】。こうして現在の水系が完成した。

午後は、水源公園から星坂を経由して宇佐川の谷へ降りるが、その前に、近くにある繞谷丘陵を見に行った。東西150m×南北120m、高さ30mほどの小山だが、コンパクトなだけにかえって谷をめぐらした形状がよくわかる。地質図によると、山体は東側の山と同じタイプの花崗岩なので、地形的にそちらから切り離されたものだろう。

山上に祀られている妙見神社まで、鳥居の立つ南麓から急な石段がついていた。蜘蛛の巣を払いながらなんとか上りきったが、終盤の参道が地すべりで崩壊していて、残念ながら社にはたどり着けなかった。

Blog_contour7213
妙見神社の繞谷丘陵
Blog_contour72_map3
図3 同 水源公園~上須川
 

星坂の集落へ通じている道は、県道120号須川吉賀線だ。しかし普通車がやっとの狭い道幅で、舗装されてはいるものの、雰囲気は林道に近い。左の谷間は水田だったのだろうが、もはや背の高い雑草が生い茂っている。

Blog_contour7214
(左)林道のような県道120号
(右)星坂の集落を抜ける
 

集落を抜けると道はいっとき上り坂になり、まもなく島根・山口県境の峠に達した。大蛇ヶ池のほとりで見た「従是西(これよりにし)津和野領」の境界石は、もともとここに立っていたものだ。

この星坂峠を境に、風景は一変する。それまで山に囲まれた穏やかな平地だったのが、突然宇佐川の深い谷間を見下ろす山腹に躍り出るのだ。谷底との高度差は180mにもなる。先述の通りこの風隙は争奪の肘で、勢いを得た川の途方もない浸食力に圧倒される。

Blog_contour7215
(左)星坂峠への上り坂
(右)峠から再び山口県に
Blog_contour7216
もと星坂峠にあった境界石
現在は大蛇ヶ池のほとりに立つ
Blog_contour7217
景色は一変、宇佐川の深い谷間に
 

急斜面を覆う木々の間から、下の谷を走る国道434号がちらちら覗いている。県道はくねくね曲がりながら約2.5kmかけてそこまで降りていくのだが、下り坂なので、二人でよもやま話をしているうちに、早や国道が近づいてきた。

国道に出て宇佐川を渡ると、上須川(かみすがわ)の集落がある。立派なコンクリートの高架橋が集落のある谷間を斜めに横切っているのが見える。未成線、岩日北(がんにちきた)線の第4宇佐川橋梁だ。

Blog_contour7218
谷壁を降りていくか細い県道
(左)星坂峠を振り返る(右)下流方向
Blog_contour7219
上須川集落
Blog_contour7220
谷を横切る第4宇佐川橋梁
 

岩日というのは、山陽本線の岩国と山口線の日原(にちはら)のことで、岩日線はこの間を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたものだ。このうち、錦町(にしきちょう)までの南部区間が旧 国鉄岩日線(下注)で、1960~63年に開業し、その後、第三セクターの錦川鉄道になっている。一方、北部区間は岩日北線と呼ばれ、島根県吉賀町の六日市(むいかいち)まで建設が進められていた。路盤はほぼ完成していたが、国鉄再建法の施行により工事は凍結され、惜しくも未成線となってしまった。

*注 旧国鉄岩日線は、正式には岩徳線川西~錦町間32.7kmだが、列車は岩国から直通していた。錦川鉄道の列車も同じ運行形態をとっている。

Blog_contour7221
現在の錦町駅
Blog_contour7222
未成線跡を走る「とことこトレイン」
雙津峡温泉駅にて(別の日に撮影)
 

錦町駅と雙津峡(そうづきょう)温泉の間では、2002年からこの路盤を活用して遊覧車両「とことこトレイン」が運行されているが、区間外のこのあたりは遊休施設の状態だ。集落の南で敷地に上ってみると、とことこトレインの走行路と同じように、路盤はきちんと舗装されていた。

高根口駅予定地から宇佐川を跨ぐ第4橋梁までは歩いていけたが、対岸で濃い藪に行く手を遮られてしまう。岩日北線はここから長さ4679mの六日市トンネルで針路を西に変え、高津川流域の六日市に出ていくはすだった。空中写真を見る限り、向こう側の出口でも立派な未成線跡が1kmほど残されているようだ(下注)。

*注 六日市駅予定地は、むいかいち温泉ゆ・ら・らの敷地に転用されている。

Blog_contour7223
(左)上須川の岩日北線跡
(右)国道を越える第4宇佐川橋梁
Blog_contour7224
(左)橋梁から上須川方向を振り返る
(右)対岸は濃い藪で六日市トンネルは見えず
 

上須川バス停で、13時58分発の路線バスを待つ。時刻通りにやってきたのはマイクロバスで、他に客はいないから、タクシーのようなものだ。とことこトレインに乗るために途中の停留所で降りた大出さんを見送って、私はそのまま錦町駅まで乗り通した。

Blog_contour7225
(左)錦町駅へ行くコミュニティバス
(右)上須川バス停の待合所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、山口(昭和61年編集)および地理院地図(2023年12月1日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域
 コンターサークル地図の旅-高麗巾着田
 コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ
 コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡
 コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
 コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)
 コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪
 コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道

2023年11月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡

四国のコンター旅2日目は高知に移って、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の旧跡を巡る。

Blog_contour7101
立岡二号桟道
 

魚梁瀬森林鉄道は、県東部の中芸地区で特産の杉などの木材を山から運び出していた762mm軌間の産業鉄道だ。1911(明治44)年から1942(昭和17)年にかけて奈半利川(なはりがわ)と安田川(やすだがわ)の流域に張り巡らされ、当地の林業経営を支えた。最盛期には、総延長が300kmを超え、国内屈指の広範な路線網だった。しかし、魚梁瀬ダムの建設で上流部の線路が水没することになり、1963(昭和38)年までに主要区間が廃止され、トラック輸送に置き換えられた。

Blog_contour7102
魚梁瀬丸山公園の復元列車
 

その後、水没を免れた廃線跡は道路に転用されるなどしたが、旧態のまま遺されていたトンネルや橋梁などの構造物が、2009年に「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されて現在に至る。森林鉄道の痕跡は全国にあるが、重文指定を受けているのはここだけだ(下注)。

*注 ちなみに、一般鉄道施設では「旧手宮鉄道施設」「碓氷峠鉄道施設」のほか、単体で「東京駅丸ノ内本屋」「旧揖斐川橋梁(東海道本線)」「末広橋梁(四日市港)」「第一大戸川橋梁(信楽高原鐵道)」「梅小路機関車庫」「旧大社駅本屋」「旧筑後川橋梁(昇開橋、旧佐賀線)」「門司港駅本屋」「旧綱ノ瀬橋梁及び第三五ヶ瀬川橋梁(旧高千穂線)」などが重文指定されている。

遺構は往復70kmほどの沿線に散在している。路線バスもほとんどない地域なので、今回は高知市内でレンタカーを調達する予定だ。それでもルートをくまなく見て回るのは時間的に難しく、主な見どころをピックアップするにとどまるだろう。

Blog_contour71_map1
図1 魚梁瀬森林鉄道沿線の1:200,000地勢図に
  重文施設の位置と路線網の概略を加筆
1978(昭和53)年編集図

2023年10月8日朝8時、小雨模様の高知駅前に集合したのは、昨日と同じ大出さんと私の2名。そもそも降水量の多い地域だが、今日の天気予報も終日傘マークで、午後ほど雨脚が強まるらしい。借りたトヨタアクアで高知東部自動車道、国道55号を東へ進む。右手に太平洋が見えてくるが、どんよりとした空のもと、白っぽくくすんだ色をしている。

1時間と少しで、安田町まで来た。安田川大橋の東詰で国道をそれ、クルマを停めた。段丘崖の下を通っていた廃線跡が小道で残っている。木材を満載して安田川の谷を下ってきた列車は、ここから田野の貯木場へ向かっていたのだ。

Blog_contour7103
(左)崖下を行く廃線跡の小道(田野方向を撮影)
(右)安田川左岸を遡る廃線跡
 

森林鉄道(以下、林鉄)で最初に建設されたのがこの路線で、1911(明治44)年に馬路(うまじ)まで開通し、のちに安田川線と呼ばれた。目的地の魚梁瀬は隣の奈半利川の上流だが、流域の山林の所有権が国と地元との間で係争中だったため、やむを得ずルートを迂回させたのだという。

県道12号が川の対岸(右岸)を走るのに対して、林鉄はこちら側(左岸)だったので、その跡と思しき道を北上した。途中からは、車一台がやっとの道幅になる。昭和の映画館の雰囲気を残すという大心劇場の前を通過し、上代(かみだい)集落を上手に進むと、山かげの道の脇に一つ目の遺構、エヤ隧道が口を開けていた。

Blog_contour7104
道路脇に残るエヤ隧道
Blog_contour7105
(左)内部はカーブしている
(右)ポータルに刻まれた I の文字
Blog_contour71_map2
図2 1:25,000地形図に主な見どころの位置を加筆
エヤ隧道~明神口橋
 

砂岩切石積みのポータルに、川下側から最初のトンネルを意味する I の文字が刻まれている。長さは33.2mと短く、徒歩で通り抜けが可能だ。入ってみると、アーチの天井部がレンガの長手積み、側面の垂直壁は切石で美しく仕上げられていた。車道に転用されなかったことで、改修の手が加わらず、原状が保たれているようだ。

この先、左岸に沿う廃線跡の林道は、じりじりと道幅を狭めていく。乗用車は後述する明神口橋を渡れないと聞いていたので、与床(よどこ)集落から右岸の県道に迂回した。そのため、途中にある長さ37.5mのバンダ島隧道は、対岸から眺めるにとどめた。

Blog_contour7106
バンダ島隧道を対岸から遠望
 

次の遺構は、明神口集落の上手に連続している。県道のバイパストンネルの手前で右折して旧道を行くと、川を斜めに渡っている赤いトラス橋が見えてきた。長さ43.2mの明神口(みょうじんぐち)橋だ。1912(大正元)年の建設で、最初は木橋だったが、機関車の導入に伴い、1929(昭和4)年に架け替えられたものだという。今は線路の代わりに、路面に金網が張られている。

これを渡るとすぐ下手に、長さ36.7mのオオムカエ隧道がある。東口(上流側)はコンクリートポータルに改修されているが、西口はオリジナルの切石積みで、III の刻字があった。堀淳一氏も1997年にNHKの番組ロケでここに来ている(下注)が、映像で見る限り、東口は本来素掘りのままだったようだ。

*注 1997年放送の「消えた鉄道を歩く-巨木の森の小さな鉄路」。

Blog_contour7107
明神口橋、金網が張られた路面
Blog_contour7108
オオムカエ隧道
(左)もとは素掘りだった東口
(右)原状をとどめる西口
Blog_contour7109
隧道西口のスギ林
 

次のスポットでも、釜ヶ谷(かまがや)桟道釜ヶ谷橋が連続している。島石ピクニック広場の駐車場から対岸に渡る吊り橋の上に出ると、前者の側面が遠望できた。桟道といっても木製ではなく石積みで、あたかも崖に半分埋まったアーチ橋といった趣きだ。一方、長さ12.3mの釜ヶ谷橋は県道に転用されたため、路面は拡張されている。しかし側面から覗くと、林鉄時代の橋桁と橋台を転用したことが見て取れる。

Blog_contour7110
釜ヶ谷桟道
Blog_contour7111
釜ヶ谷橋
(左)県道に転用
(右)林鉄時代の橋桁と橋台
Blog_contour71_map3
図3 同 釜ヶ谷桟道~馬路~河口隧道
 

長さ70.6m、平瀬(ひらせ)隧道の西口では、なんとキャンパーがクルマを付けて、テントを張っていた。雨の日だし、誰も通らないトンネルなので、こんな利用法もあるのだと感心する。通り抜けが可能なようだが、お邪魔するのも気が引けるので、反対側の、こちらも県道に面した東口に回った。ポータルの刻字はV、すなわち5番目だから、先ほどのオオムカエ隧道との間にかつてはもう1本トンネルが存在したのだろう。

Blog_contour7112
平瀬隧道
(左)臨時のキャンプサイトにされた西口
(右)県道脇の東口
 

引き続き一本道の県道を遡り、いよいよ馬路村の中心部にさしかかる。馬路大橋の手前を左折してすぐの川べりにあるのが、遺構群の中でもよく知られた長さ36.5mの五味(ごみ)隧道だ。旧道の馬路橋のたもとに北口が開いていて、線路を載せた短い桟道が続いている。道路から見下ろす構図が定番だが、勢いよく育った笹薮に視界を遮られてしまう。

Blog_contour7113
五味隧道、笹薮に視界を遮られる
Blog_contour7114
線路が復元された桟道
(左)五味隧道の真上から
(右)馬路橋から
 

ところで、「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重文指定を受けた施設は14か所あるが、意外にも、五味隧道をはじめ、後述する立岡二号桟道、法恩寺跨線橋、八幡山跨線橋という写真映えする4つの遺構は含まれていない。これらは重文本体ではなく、附(つけたり)指定になっているのだ。

附というのは、たとえば重文建造物の設計図や、来歴、用途を記した文書といった関連資料を、本体とあわせて指定するものだが、同じ類いの構造物でも附指定にすることがあるようだ。産業遺産としては一体的に考えるべきものながら、相対的な重要度の点で及ばないということか。

Blog_contour7115
五味隧道案内板
 

対岸に、観光案内所「まかいちょって家」がある。後で立ち寄って、2階にある森林鉄道の写真展示を見学した。売店では土産物のほか、林鉄関連の既刊書籍も扱っていて、ちょっとしたミュージアムショップだ。私も新刊の林鉄写真集を購入した。

Blog_contour7116
(左)まかいちょって家
(右)2階の林鉄展示
 

県道をはずれて、右岸(西岸)の町道を行く。馬路村は特産のゆずを使った商品開発で知られるが、製品加工施設の敷地はもと林鉄の運行拠点で、機関庫や修理工場を伴っていたヤードの跡だ。その北側はかつて商店街で、林鉄が路面軌道の形で貫いていた。いったん集落が途切れるが、その先は現在、村の観光拠点になっている。

右手の大きな建物は、日帰り温泉施設のうまじ温泉だ。左には1994年に開業した「馬路森林鉄道」という観光鉄道があり、支流の西谷川に沿って508mm軌間(下注)、1周300mのささやかな周回軌道が設けられている。その乗車も楽しみにしていたのだが、駅の窓口へ行くと、係員さんが申し訳なさそうに「機関車の故障で当面運休なんです」という。アメリカ・ポーター社製の旧機を2/3サイズで再現したという機関車がホームに停まっているが、「エンジントラブルの為、運休中!!」と張り紙がしてある。

*注 オリジナルは762mm(2フィート6インチ)軌間で、508mmはその2/3になる。

Blog_contour7117
馬路森林鉄道
(左)機関車は故障中
(右)谷沿いを走る軌道
 

では、隣のインクラインに乗ろう、と思って聞くと、「雨でシートが濡れて使えないので、きょうは中止にしました」。インクラインというのは、林鉄で使われていた傾斜鉄道(貨物用ケーブルカー)を再現した斜長92mの施設で、車両に積んだ水の重りで動くという珍しいものだ(下注)。山際の乗り場では、雨に濡れそぼった走行線に、オープンタイプの小型車両が所在なげに停まっていた。シートベルトを締めて乗るので、雨が吹き込む状況では運行できない。

*注 ウォーターバラスト方式といい、日本で唯一。海外の実例については「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

Blog_contour7118
馬路インクライン
(左)車両と急勾配の軌道
(右)水抜き用の管路
Blog_contour7119
インクライン軌道全景
Blog_contour7120
インクライン案内板
 

雨に降られたばかりか、お目当ての乗り物にも振られてしまったので、うまじ温泉のレストランで早めの昼食にした。ゆず果汁入りの「ごっくん馬路村」も試して元気を取り戻したところで、林鉄遺跡の探索を再開する。

馬路から魚梁瀬までの区間は、少し遅れて1915(大正4)年の開通だ。温泉のすぐ上手に、町道を通している落合橋がある。長さ37.0mで、釜ヶ谷橋と同じく、プレートガーダーと橋台が林鉄の遺物だ。

Blog_contour7121
落合橋
 

次は河口(こうぐち)隧道。県道から少し引っ込んだ位置にあり、長さは89.9m、ポータルに8番目を示す VIII の刻字がある。徒歩で入ろうとしたら、エンジン音がこだまし、中から軽トラックが飛び出してきた。内部は小さな明かりも灯っていて、椀田(わんだ)集落から中ノ川方面へ行くのに、近道として使われているようだ。カーブしたトンネルを出ると切通しで、上を旧道(?)が通過している。

Blog_contour7122
河口隧道東口
切通しを旧道がオーバークロス
 

山はさらに深まり、サミットとなる2車線の新久木(くき)トンネルが現れた。林鉄時代の久木隧道は、長さが333mと魚梁瀬林鉄では最長で、1977(昭和52)年の新トンネル完成までの間は、道路としても使われた。上記堀氏の著書『地図で歩く古代から現代まで』(JTB、2002年)によると、西口のポータルはまだ残っているようだが、この天気では探す気力が湧いてこない。

奈半利川斜面を降りていく途中に、支谷をまたぐ犬吠(いぬぼう)橋が架かっている。長さ41mの立派な上路トラス橋で、廃線後も県道の橋として使われていた。しかし、鋼材の一部が破断して通行できなくなり、現在、県道は上流側の迂回路を通っている。下流側で建設中の新しい橋が完成すれば、県道はそちらに移される予定だ。

林鉄の鉄橋は今や形が崩れ、仮設の支持台でかろうじて支えられていて、なんとも痛々しい。修復して自転車・歩行者専用にする計画だそうだが、いったん解体して組み立て直す必要があるから大工事だ。重要文化財とはいえ、そんな予算がぽんとつくのだろうか。

Blog_contour7123
痛々しい姿の犬吠橋
Blog_contour71_map4
図4 同 犬吠橋~魚梁瀬
 

久木ダムの少し上流にも、同じような構造の井ノ谷(いのや)橋が残っているので、県道をそれて寄り道した。道路に転用されていて、長さは54.5m。両端がカーブしているので、たもとからトラス構造を覗くことができる。

林鉄安田川線は、この先の釈迦ヶ生(しゃかがうえ)集落で奈半利川線と合流するが、魚梁瀬ダムの完成によって、上流の線路は湖底に沈んでしまった。クルマ道も行き止まりなので、引き返すしかない。

Blog_contour7124
井ノ谷橋
 

県道に戻って、くねくねと山腹を上っていくと、ダムを見下ろす展望台があった。見るからにどっしりとした大堰堤が眼下の谷を埋めている。魚梁瀬ダムは1970(昭和45)年に完成したロックフィルダムで、高さが115mで四国一、貯水量も「四国の水がめ」早明浦(さめうら)ダムに次ぐ規模だ。展望台の側壁パネルには、ダムの写真とともに林鉄の現役当時の写真も収められていた。

県道を少し上手に進んだところには別の展望台があり、貯水池(ダム湖)が奥まで見通せる。ここばかりは「雨には雨の風情あり」で、入り組んだ湖の周りの山並みに低い雲がたなびいて、一幅の絵のようだった。

Blog_contour7125
ロックフィルの魚梁瀬ダム
Blog_contour7126
ダム湖のパノラマ
正面奥に魚梁瀬大橋と、魚梁瀬(丸山台地)の一部が見える
 

林業で栄えた魚梁瀬地区は水没するのに伴い、湖畔の造成地(丸山台地)に集団移転した。旧版地形図と照合すると、旧集落の山手にあった昔の川の蛇行跡を嵩上げして造ったようだ。その一角が丸山公園と呼ばれる広い園地になっていて、762mm軌間、一周406mの周回軌道が敷かれている。

魚梁瀬大橋でダム湖を横断して、その乗り場である森の駅やなせの前にクルマを停めた。馬路での失意の記憶がよみがえり、窓口でおそるおそる「乗れますか」と聞くと、「ええ、何名さんですか」と返ってきてほっとする。一応、10時から15時30分まで15分間隔の時刻表が掲げてあるが、客が来しだい、随時運行しているようだ。

Blog_contour7127
森の駅やなせ
Blog_contour7128
スギ材製の乗車券、裏面に日付が入る
 

高床のホームに、谷村式と記された小型ディーゼル機関車が客車を従え、待機していた。谷村というのは戦前、地元高知で林鉄向けの装置を製造していた谷村鉄工所のことで、そのロッド駆動車をモデルに新造されたのがこの機関車だ。客車(連絡車)の車体にも地元産の木材が使われている。無蓋のトロッコと密閉型のボギー車の組み合わせなので、雨でも問題なく乗れるのがうれしい。

運賃は大人400円。杉板に印刷した乗車券をもらって乗車する。走り出すと最初、湖に近づき、次いで車庫前を通過して、警報機が鳴る踏切を横断した。この軌道を2周して、約7分のミニ列車旅だった。その後、大出さんが機関車の運転体験を申し込んだ。正規の運転士に横で指導してもらいながら、これも2周する。

Blog_contour7129
谷村式機関車が牽く復元列車
Blog_contour7130
(左)機関車の運転台
(右)ボギー客車
  朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の人形が同乗
 

北隅にある車庫も開いていて、自主見学が許された。野村式と書かれた茶色の機関車は、1948年野村組工作所製のL-69で、魚梁瀬林鉄のオリジナル機だ。廃線後、静態保存されていたものを1991年に動態復元したのだという(下注)。急曲線に対応する運材台車を引き連れたさまも絵になる。

*注 重量があり軌道が傷むため、「本線」を走行するのは特別行事のときだけのようだ。ちなみに先述のNHKの番組ではこれが走るシーンが出てくる。

隣にいる黄と緑と白帯の機関車は、静岡の水窪(みさくぼ)森林鉄道から来た酒井工作所製C16形、また岩手富士と書かれた箱型機は、鳥取から来た岩手富士産業製の特殊軽量機関車で、唯一の残存例だそうだ。

Blog_contour7131
車庫に保存車両を留置
Blog_contour7132
運材台車を引き連れた野村式L-69
Blog_contour7133
(左)酒井工作所製C16形
(右)岩手富士産業製特殊軽量機関車
 

林鉄ワールドを堪能して、帰路に就く。往路は安田川経由だったが、復路は奈半利川に沿って下る。旧来の安田川線には、釈迦ヶ生~久木隧道間に逆勾配、すなわち荷を積んだ列車にとって不利な上り坂が存在し、運行のボトルネックになっていた。これを解消するために計画されたのが奈半利川線で、1931(昭和6)年から1942(昭和17)年にかけて建設された。

クルマはしばらく県道12号を南下するが、安田川沿いより道幅が広めだ。ダム建設に際して、工事車両を通すために拡幅されたのだろう。林鉄由来と思われるトンネルもあるが、改修を受けているためか、重文のリストには含まれていない。

Blog_contour71_map5
図5 同 堀ヶ生橋~小島橋
 

そのため、奈半利川線の重文物件はすべて橋梁で占められる。最も上流の堀ヶ生橋(下注)は長さ46.9m、シングルスパンの鉄筋コンクリートアーチ橋だ。この材質で43mものスパンは国内最大級だそうで、県道に転用されていることもあって、もと鉄道橋には見えない。河原に降りて真下から仰ぐアーチはいっそう迫力があった。

*注 国指定文化財等データベースでは、堀ヶ生橋に「ほりがをばし」という異例の読みが付けられている(通常「を」は用いない)。なお、地理院地図では、堀ヶ生の地名の読みを「ほりがうえ」としている。

Blog_contour7134
長大スパンの堀ヶ生橋
Blog_contour7135
(左)堀ヶ生橋、中央部に退避場所がある
(右)橋に続く堀ヶ生隧道、側壁は石積み
 

県道12号が徳島県から来た国道493号と出会う位置に、二股(ふたまた)橋が架かっている。奈半利川と支流の小川川(おがわがわ)の合流地点だ。橋は長さ46.5mで同じくコンクリート製だが、こちらは無筋のため2スパンで、めがね橋の別称がある。釜石線や旧彦山線(現 日田彦山線BRT区間)、旧宮原線などに見られる高架橋を彷彿とさせるが、二股橋も、鋼材の使用制限が始まっていた1941(昭和16)年の建設だ。

Blog_contour7136
川の合流地点に架かる二股橋、通称めがね橋
奥に見えるのは二又発電所
 

奈半利川鉄橋なき今、長さ143.0mの小島(こじま)橋は、魚梁瀬林鉄で最大の遺構だ。2連のプラットトラスで、ゆったりと流れる奈半利川の中流部を渡っている。本体の威容もさることながら、対岸(左岸)にあるカーブしたガーダー橋と築堤の取り付け部が、廃線跡の雰囲気をよく残している。奈半利川線のうち二股以南は、後に支線となった竹屋敷線などとともに1932(昭和7)年までに完成していた。上述の2橋と違って鋼製なのはそれが理由だ。

*注 国指定文化財等データベースでは「こじまばし」だが、地理院地図では小島の地名の読みを「こしま」としている。

Blog_contour7137
2連プラットトラスの小島橋
Blog_contour7138
(左)右岸のたもとから
(右)ガーダー橋と築堤が左岸に続く
 

この後は、国道493号と北川奈半利道路で一気に奈半利を目指した(下注)。

*注 重文指定ではないため訪れなかったが、奈半利川右岸に加茂隧道(長さ28.1m)が原形のまま残っている。

右岸の田野町側には立岡(たちおか)二号桟道という印象的な遺構がある。3連プラットトラスで長さ167.49mと最長だった旧奈半利鉄橋の、西側の取り付け部に相当する構造物だ。避溢橋の役割を果たすコンクリートの高架と長い築堤が、カーブしながら川べりまで続いている。大出さんは以前来たことがあるというし、私も土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線に乗った際、見に行ったので、今回は対岸から遠望するにとどめた。

Blog_contour7139
立岡二号桟道と築堤(別の日に撮影)
Blog_contour7140
(左)カーブする桟道
(右)丸石が積まれた築堤の法面
Blog_contour71_map6
図6 同 安田、田野、奈半利
 

廃線跡の町道をたどって、法恩寺跨線橋(下注)へ。段丘上の三光寺へ行く参道が林鉄を跨いでいた橋で、石造アーチの構造をしている。立体交差にしたのは安全でいいことだが、参道の石段はけっこう段差があり、何度も上り下りするのは大変そうだ。

*注 法恩寺の地名の読みについて、現地の案内板には「ほうおんじ」とあるが、地理院地図では「ほおじ」としている。

Blog_contour7141
法恩寺跨線橋(別の日に撮影)
Blog_contour7142
多くの重文施設に同様の案内板がある
 

国道55号を戻り、最後に、田野の町はずれにある八幡山(はちまんやま)跨線橋を見に行った。ここでも神社に通じる参道が、林鉄の廃線跡を跨いでいる。コンクリートの桁橋なので、法恩寺のようなデザイン性には欠けるが、参道の階段が上に行くほどラッパ状にすぼまっていて、遠近感が強調されるのが面白い。

Blog_contour7143
八幡山跨線橋
(左)コンクリートの桁橋
(右)ラッパ状にすぼまる階段
 

時刻は早や17時、駆け足の旅だったとはいえ、貴重な遺構群や展示資料を実見し、再現鉄道の乗車も叶った。運行廃止から60年が経過した魚梁瀬森林鉄道だが、思ったより身近なものに感じられたのは、郷土史を飾る重要なページとして地域の人々に大切に扱われてきたからだろう。産業振興の推進力であり、交通の動脈でもあった鉄道の遺産が、これからも末永く維持されることを願いたいものだ。私も、雨にたたられた馬路の軽便鉄道とインクラインにいつか再挑戦しなければ…。

最後に、魚梁瀬森林鉄道の路線網が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

Blog_contour71_map7
図7 索引図
Blog_contour71_map8
図8 安田、田野、奈半利周辺
1953(昭和28)年応急修正、以下同
Blog_contour71_map9
図9 馬路周辺
Blog_contour71_map10
図10 魚梁瀬周辺
Blog_contour71_map11
図11 北川村北部
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図剣山、高知(いずれも昭和53年編集)、5万分の1地形図馬路、奈半利、安藝(いずれも昭和28年応急修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム https://rintetu.com/
Facebook-中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会 https://www.facebook.com/yanaserintetu

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域
 コンターサークル地図の旅-高麗巾着田
 コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ
 コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

2023年11月 8日 (水)

コンターサークル地図の旅-高麗巾着田

昨日とは打って変わってよく晴れた2023年9月24日、コンター旅の2日目は埼玉県に場所を移して、高麗巾着田(こまきんちゃくだ)とその周辺を歩いた。秋の空気が入って、風がことさら涼しく感じられる。

巾着田というのは、蛇行して流れる高麗川の滑走斜面(下注)に広がる田んぼのことだ。平面形は確かに巾着袋の形をしている。しかし、有名なのはその地形よりも、川沿いを埋め尽くすヒガンバナの大群落のほうだ。「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の里」として、花が見ごろとなる秋の初めには、多くの行楽客で賑わう。

*注 川の湾曲の内側に生じた緩い傾斜面のこと。ちなみに、和歌山県有田川町の通称「あらぎ島」も、小規模だが同様の景観で知られる。

Blog_contour6901
高麗巾着田のヒガンバナ群落
Blog_contour69_map1
図1 巾着田周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
Blog_contour69_map2
図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

朝、所沢から西武池袋線で、集合場所の高麗(こま)駅へ向かった。二つ手前の飯能(はんのう)駅で乗り継いだ西武秩父行きの電車には、リュックを背負った元気な中高年がたくさん乗り込み、その大半が高麗で下車した。私も含めて目的とするところはみな同じらしい。

天気が冴えなかった昨日の反動もあってか、駅前からしてすでに、何かのイベント会場かと疑うほどの混みようだ。今日も、参加者は大出さんと私の2名。いつもどおり歩くルートの地形図を用意してきたが、駅前から人波がぞろぞろと続いているので、あえて地図を開く必要もなかった。

Blog_contour6902
高麗駅で降りる行楽客
 

国道299号を横断し、集落の中の小道を降りていくと、ほどなく県道15号川越日高線の鹿台橋のたもとに出る。下を流れる高麗川の穏やかな川面に心を和ませながらこれを渡り、また右の小道へ。集落を抜けたところに、巾着田の案内板が立っていた。正面に見える田んぼはもう稲刈りを終え、伸び放題の稲孫(ひつじ)が風にそよいでいる。

戦後間もないころの地形図を見ると、巾着田は文字通り一面が水田だ(下図参照)。しかし、現在の案内板の地図では、花畑や牧場、さらには臨時駐車場になるグラウンドなどが幅を利かせていて、水田の面積は比べようもなく縮小している。

Blog_contour6903
(左)鹿台橋から見る高麗川
(右)稲孫が伸び放題の田んぼ
Blog_contour6904
巾着田の案内板
Blog_contour69_map3
図3 巾着田周辺の旧版地形図
1949(昭和24)年修正測量
 

人の流れは、河原の遊歩道へと向かっていた。木陰に早くもヒガンバナがちらほら見られる。群落のあるのはさらに先の、川筋が南に膨らんだ区域だが、見物客が押し寄せるこの時期は有料ゾーンになっている。ゲートで500円を払って、中へ進んだ。

巾着田を縁取る河畔林の緑が帯状に広がり、その足もとが真っ赤な絨毯で覆われている。田んぼのあぜ道などで見かけても、気にも止めないありふれた花だが、これだけまとまると圧巻だ(冒頭写真も参照)。記念写真を撮るために立ち止まる人も多く、遊歩道はところどころで渋滞している。

Blog_contour6905
河畔林の緑の風景に補色の赤が映える
 

途中で、川を横断している小橋が見えた。水位が上がると沈んでしまう沈下橋で、ドレミファ橋と呼ばれている。有料ゾーンで唯一川べりに出られるスポットだが、対岸に上がる道が閉鎖されているので、欄干もない狭い橋の上は、行く人戻る人が入り乱れる。

遊歩道に戻ってまた道なりに進むうち、あることに気づいた。赤の絨毯があるのはほとんど林の日陰で、日当たりのいい場所には咲いていないのだ。ヒガンバナは日陰を好む花かと早合点したが、そうではなく、日なたの株はまだ蕾の状態らしい。

ヒガンバナの花が開く9月下旬というのは、例年なら太平洋高気圧が後退し、大陸からの移動性高気圧に覆われ始める時期だ。空気が乾燥し、朝晩はめっきり涼しくなる。ところが今年は季節の歩みが遅く、残暑が長引いた。県道沿いの告知板に「三分咲き」と記されているとおり、見ごろが後ろ倒しになっているようだ。

Blog_contour6906
(左)川を横断するドレミファ橋
(右)日なたはまだ蕾で、全体でも三分咲き
 

ともあれ、予定していたメインタスクは無事完了した。ただ、巾着田の地形は直径500mほどの広さがあり、片道歩いただけではあまり実感が湧かなかったのも確かだ。そこでこの後は、近くの日和田山(ひわださん)に上ろうと思う。北西に位置する標高305mの山で、事前に入手したハイキングマップによれば、金刀比羅(ことひら)神社から高麗の里と巾着田が箱庭のように一望できるという。

Blog_contour6907
高麗川の河原から望む日和田山(左側のピーク)
 

県道の高麗本郷交差点から北に入り、日和田山登山口の道標に従って山手へ上る。奥武蔵自然歩道のルートにもなっているので、道はしっかりついているし、何よりハイカーと思しき人たちが次々と上がっていく。

最初は緩めの坂が続く一本道だ。金刀比羅神社の一の鳥居をくぐると、男坂、女坂の分岐点がある。前者は険しい直登ルート、後者は山腹を迂回する分、より歩きやすい山道だ。男坂方面には、見晴らしの丘という名の寄り道スポットがあるので、まずはそれを目指した。そこはベンチが置かれ、休憩をとるにはよかったが、木々が育って視界が狭く、残念ながら見晴らしは看板倒れだった。

Blog_contour6908
(左)一の鳥居
(右)男坂、女坂の分岐点
 

昼食だけとってさらに進むと、急な岩場を上ってきた男坂の本道と合流する。まもなく見上げる大岩の上に、華奢な二の鳥居が現れた。すでに多くのハイカーが集まってきている。ここで後ろを振り返ると180度のパノラマが開けるのだ。

Blog_contour6909
(左)二の鳥居
(右)180度のパノラマが開ける
 

正面に、河原と河畔林に取り巻かれた巾着田がある。北からの眺めなので、手前が巾着の絞った口の部分だ。あれだけいた来訪者は林の蔭で目立たないが、露天の駐車場はすっかり満車になっている。

右側に目を移すと、西武線の線路が見える。奥には秩父山地の青い山並みが連なり、背後にうっすらと浮かぶシルエットは富士山のようだ。一方、左側は関東平野で、遠くに都内の高層ビル群やスカイツリーも見える。期待以上にいい眺めだ。満足したので山頂までは行かず、神社の小さな社殿にお詣りしてから、女坂経由で山を下りた。

Blog_contour6910
二の鳥居から巾着田を望む
Blog_contour6911
秩父山地を望む
右のピークは大岳山、左に富士山のシルエットも
Blog_contour6912
都心方面を望む
 

きょうのゴールは、八高線と川越線が接続するJR高麗川駅なので、高麗川左岸の段丘沿いに東へ向かった。カワセミ街道と呼ばれる日高市道幹線2号が通っているが、歩道がなく、集落を結ぶ旧道をたどるのが安全だ。日差しが降り注いで、午後は晩夏の暑気が戻ってきた。

この周辺は、7世紀の高句麗(下注)滅亡に際し、難を避けて渡来していた人々を、716(霊亀2)年に関東各地から移住させたという土地だ。明治中期までは高麗郡と称し、渡来人ゆかりの寺社が今もある。

*注 10~14世紀に存在した高麗(こうらい)国とは別。日本に残る高麗、狛などの地名は高句麗からの渡来人に由来する。

Blog_contour6913
カワセミ街道沿いの旧道を歩く
 

20分弱歩くと、その一つ、聖天院(しょうでんいん)の前に出た。案内板によれば、高麗郡を治めた高麗王若光(じゃっこう)らの菩提寺として創建されたものだ。堂々とした二層の山門がまず目を引くが、浅草寺と同じような雷門の大提灯が下がっている。両脇の立像も風神と雷神だ。

山門の風格に引き寄せられて、拝観料を払い、入ってみた。石段で本堂前の広場に上ると、のどかな高麗川の谷が見晴らせる。丘の地形を巧みに利用した広い境内だが、伽藍は案外新しいものだった。

Blog_contour6914
聖天院の山門
Blog_contour6915
同 全景
 

続いて近くにある高麗神社へ。ここも祭神は高麗王若光で、社殿の奥には代々その神職を務めてきた高麗家の住宅も保存されている。休日とはいえ、参拝客が多いのに感心したが、巾着田行きの臨時シャトルバスの案内看板を見つけて納得した。神社の駐車場も、渋滞緩和のためのパークアンドライドに使われているのだ。高麗家住宅でも何やら音楽イベントが開かれていたから、巾着田人気は、周辺地域の観光活性化にも寄与しているようだ。

Blog_contour6916
高麗神社
Blog_contour6917
(左)同 本殿
(右)重文指定の高麗家住宅
 

神社を後にして、出世橋で高麗川の右岸へ渡る。JR駅へ直行する大出さんと別れ、私はかつて高麗川駅から出ていた太平洋セメント工場の貨物線跡へ寄り道した。

八高線と川越線にはさまれた地点から市役所通り(日高市道幹線6号)と交わるまでの700m弱が、アスファルト舗装のうえ、「ポッポ道」の名で遊歩道化されている。短距離ながら、踏切の警報機が2か所、現役さながらに立っているほか、電柱や、舗装に埋め込まれたレールなど鉄道時代の小道具が点々と残る。終点近くでは、武甲鉱業の石灰石を運ぶベルトコンベアーが地中に埋まっている直線道も交差していて、たどってみたいところだが、時間がなかった。

Blog_contour6918
ポッポ道の遺構
(左)八高線近くの踏切
(右)カーブする廃線跡と通信線電柱
Blog_contour6919
(左)高麗川中学校前の踏切
(右)舗装に埋め込まれた線路
Blog_contour6920
市役所通りに立つ案内板
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)、2万5千分の1地形図飯能(昭和24年修正測量)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高麗巾着田 http://www.kinchakuda.com/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域
 コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ
 コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡
 コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

2023年6月26日 (月)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く II

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間の北陸本線旧線跡を、前回は杉津(すいづ)までたどった。今回は残りのルートを敦賀に向かって歩く。

Blog_hokuriku51
杉津(すいづ)駅付近を走るD51の陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
Blog_hokuriku_map1
図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図2、3は前回掲載
 

杉津(すいづ)駅は今庄から13.5km、敦賀から12.9kmと、区間のほぼ中間に位置している。鉢伏山(はちぶせやま)の西側、標高179mの山腹で、眼下に敦賀湾と日本海を望めることから、かつては北陸本線の車窓随一の景勝地として知られていた。夏は、ここで下車して東浦海岸まで海水浴に行く客も多かったそうだ。

駅構内は2面4線の構造だったが、廃線後、北陸自動車道上り線のパーキングエリア(PA)に転用されて姿を消した。今庄から旧線跡を忠実にたどってきた県道今庄杉津線も右にそれ、国道8号に合流すべく杉津の集落へと降りていく。そのため、旧線跡を追おうとするなら、左折して北陸道の下をくぐり、山側に出る市道を行く必要がある。

Blog_hokuriku52
(左)県道今庄杉津線から敦賀方面への分岐
(右)「ぷらっとパーク」案内板
 

PAの脇を進んでいくと、「ぷらっとパーク」の案内板が出ていた。一般道からも利用可能なPA・SAのことで、裏口にささやかな駐車スペースも用意されている。さっそく入って、売店・食堂棟の傍らに杉津駅に関する案内板があるのを確かめた。

駐車場に面した壁面では、地元の小中学生が筆を揮ったという力作の陶板画が人目を引いていた。一つは高みから見下ろした構図で、海辺の村と湾の青い水面を背景に、蒸気列車が駅に入ろうとしている。あぜ道が交錯する山田では田植えの最中のようだ(前回冒頭写真参照)。もう一つは蒸機のD51が主役で、力強い走りっぷりを斜め正面から写実的に描いている(今回冒頭写真参照)。

Blog_hokuriku53
杉津駅案内板(杉津上り線PAに設置)
Blog_hokuriku54
PAの壁面を2点の陶板画が飾る
 

列車こそ来なくなったが、目の前の絶景は今も昔と変わらない、と書きたいところだが、意外にも駐車場と高速道の本線に前面を遮られてしまう。これでは来た甲斐がないので、下り線側に行くことにした。

この周辺では、高速道の上り線(米原方面)と下り線(新潟方面)の配置が逆転している。そのうえ西向きの急斜面に立地するので、東側を通る下り線のほうが50m以上高い場所にあるのだ。両方のPAを行き来できるのは一般道利用者にのみ与えられた特権だが、バックヤードの急な坂道を自力で上らなくてはならない。

下り線PAの売店・食堂棟の裏手には、「夕日のアトリエ」と称する展望台がある。北陸道を通行するドライバーによく知られたスポットで、そこから眺めるパノラマは折り紙付きだ。見えている海は敦賀湾口で、かなたに日本海の水平線が延びる。手前の海岸線は、かつて海水浴客で賑わった杉津の浜で、左手直下に先ほどいた上り線PA、右手には歩いてきた旧線跡の県道も見える。沈む夕陽を売りにしている展望台だが、日中の見晴らしも十分すばらしい。

Blog_hokuriku55
杉津下り線PAの展望台
Blog_hokuriku56
下り線PAからのパノラマ
海岸の集落が杉津、手前下方に杉津駅跡の上り線PA
Blog_hokuriku57
右手に旧線跡の県道(今庄方)が延びる
Blog_hokuriku58
杉津駅案内板(杉津下り線PAに設置)
 
Blog_hokuriku_map4
図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
杉津~葉原信号場間
Blog_hokuriku_map10
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

しばらく休憩した後、坂を下り、改めて敦賀のほうへ向かう。ちなみに杉津駅のすぐ南には、開業当時、河野谷(こうのだに)トンネルというごく短いトンネルがあったが、構内拡張に際して開削され、消失した。

道路は再び旧線跡に載る。北陸道上り線の杉津トンネルと並ぶようにして、曽路地谷(そろじだに)トンネルが口を開けている。401mと旧線のトンネル群では第4位につける長さだが、県道から外れたためか、内部に照明がなかった。奥へ進むにつれて足もとが闇に包まれ、手にした懐中電灯だけを頼りに歩く。おおむね直線なので(下注)、出口の明かりが小さくまたたいて見えるのがせめてもの救いだった。

*注 敦賀方の出口で左カーブしている。

Blog_hokuriku59
曽路地谷トンネル南口
Blog_hokuriku60
(左)北陸道のトンネルと並ぶ曽路地谷トンネル北口
(右)照明がなく、中央部は真っ暗闇
 

トンネルを抜けると、右手に敦賀湾の明るい眺めが戻ってきた。しかし、北陸道の上り線が海側のすぐ下を並走しているため、クルマの走行音が絶えず響いて耳障りだ。静寂に包まれていた杉津以北の道中を思えば、俗世間に連れ戻されたような気がする。

次の鮒ヶ谷(ふながや)トンネルは、長さ64mでごく短い。しかも高速道の擁壁建設の際に削られたのか、地山があらかた消失し、トマソン物件になりかかっていた。このあたりで勾配が反転し、25‰の上りが復活する。山中トンネルに向かう坂道ではまったく平気だったのに、疲れてきたのか足が重い。

Blog_hokuriku61
(左)敦賀湾の眺めが戻るが、右側すぐ下に北陸道が
(右)地山があらかた消失した鮒ヶ谷トンネル
Blog_hokuriku62
鮒ヶ谷トンネル南口
 

いつしか道は林に包まれ、そのうち葉原(はばら)トンネルのポータルが現れた。他のトンネルと同じように金文字の名称プレートがついているが、かつては当時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額がはまっていた。北口で「永世無窮(えいせいむきゅう)」、南口で「與國咸休(よこくかんきゅう)」と刻まれ、実物は長浜鉄道スクエアの前庭にある。

Blog_hokuriku63
葉原トンネル南口
Blog_hokuriku64
北口の扁額「永世無窮」
Blog_hokuriku65
南口の扁額「與國咸休」
いずれも長浜鉄道スクエアで撮影
 

葉原トンネルは、鉢伏山(はちぶせやま)の西尾根を貫いている。長さが979mで山中トンネルの次につけるだけでなく、縦断面でももう一つのサミットを形成していて、立派な扁額に見合う主要構築物だ。しかし今は市道なので、また真っ暗闇の大冒険を強いられるかと危惧したが、ちゃんと明かりが灯っていた。

北口付近にカーブがあり、直線部分も拝み勾配のため、内部の見通しは必ずしもよくない。それでポータル前に、待ち時間約5分と記された交互通行用の信号機が設置されている。徒歩で通過するのに10分以上を要したが、幸いにもその間に入ってくる車両は1台もなかった。

Blog_hokuriku66
(左)北口付近にカーブ、直線部は拝み勾配
(右)南口、右上に北陸道下り線が見える
 

トンネルの南口は、北陸道の下り線と上り線に挟まれている。この狭い場所に3本のトンネルが集中しているのだ。高速道建設の際に、潰されたり転用されたりしなかったのは僥倖というべきだろう。

旧線跡は25‰の急勾配で坂を下りていく。葉原信号場の痕跡を探しながら歩いたが、案内板すら立っておらず、右側に雑草の生えた空地が認められるだけだ。急坂の途中のため、信号場はスイッチバック式になっていた。

山中信号場でも実見したように、引上げ線の終端では本線との高度差がかなり開いていたはずだが、今庄方の掘割は埋められており、敦賀方の築堤も高速道路の用地にされたようだ。空中写真を参照すると、市道も若干西側に移設されたようで、一部で旧線跡をトレースしていない。

Blog_hokuriku67
(左)葉原信号場跡付近を北望
(右)同 南望
 
Blog_hokuriku_map5
図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
葉原信号場~新保間
Blog_hokuriku_map11
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

北陸道下り線の法面に沿って進むと、行く手に葉原集落が見えてきた。旧線跡は弧を描く長い築堤で、谷を横切りながら高度を下げていく。現役時代は葉原築堤、または葉原の大カーブと呼ばれ、山中越えに挑む蒸機の奮闘ぶりが見られる名所だった。

Blog_hokuriku68
弧を描きながら降りる葉原築堤
 

葉原で、旧線跡の市道は木の芽峠から降りてきた国道476号に吸収される。合流地点に村社の日吉神社がある。旧線はこの境内を突っ切っていたが、その後、神社の敷地に戻され、小さな鳥居が立った。

この先は、片側1車線の国道が廃線跡をほぼ踏襲している。しかし、歩道どころか車道の路肩もほとんどなく、歩きには適していない。ここは安全第一で、木の芽川の対岸を通っている旧道に回った。やがて左から北陸道下り線が接近してきて、ただでさえ狭い谷間に、国道、木の芽川、高速道路、旧道が並走し始めた。北陸道の上り線だけ別ルートなのも無理はないと思わせる過密ぶりだ。

Blog_hokuriku69
国道476号との合流地点
(左)旧線跡は神社の境内になり鳥居が立つ(北望)
(右)反対側では国道が旧線跡(南望)
 

その谷間に、寄り添うようにして獺河内(うそごうち)集落がある。旧線の新保(しんぼ)駅はその南にあった。新保というのは、駅から北へ4kmも離れた木の芽峠南麓にある集落の名で、国道脇に駅跡を示す大きな自然石の記念碑が立っている。土台部分に描かれた構内図は、道路や等高線が線路と同じ太さの線で描かれていて、今一つ要領を得ないが、ここも25‰勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの駅だった。

敦賀方の折返し線上に島式ホームが設置され、今庄方にも集落の裏手を通って引上げ線が延びていた。敦賀から坂を上ってきた列車は、いったん引上げ線に入った後、バックして折返し線のホームに着いたという。狭い谷間とあって、駅の跡地は北陸道や国道にまるごと利用され、ほとんど原形をとどめていない。なお、「かつての駅の壁面が自動車道の一部に残されて」いるという案内板の言及は、北陸道の山側に見られる擁壁のことだろう。

Blog_hokuriku70
新保駅跡の記念碑、台座に構内配線図
Blog_hokuriku71
駅構内は高速道と国道に転用(南望)
Blog_hokuriku72
新保駅案内板
 

獺河内から少し行くと旧道が国道に合流してしまい、約1kmの間、危険な国道を歩かざるを得なかった。上流に採石場があるからか、ダンプカーが道幅いっぱいになって通る。こんな道に歩行者がいるとは予想されていないだろうから、ガードレールぎわに立ち止まってやり過ごすしかない。

旧線には、谷の屈曲を短絡する2本の短いトンネルがあった。このうち、今庄方の獺河内トンネルは、国道の新トンネルとして拡幅改修され、面影は完全に消えてしまった。先ほどの無歩道区間とは対照的に、歩道もやたらと広く取られている。

Blog_hokuriku73
獺河内トンネルは国道として拡幅改修
 
Blog_hokuriku_map6
図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
新保~敦賀間
Blog_hokuriku_map12
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

一方、敦賀方にある樫曲(かしまがり)トンネル(長さ87m)は歩道扱いとなり(下注)、原状のまま保存されている。ガス灯風の照明設備が鉄道トンネルにふさわしいかどうかは別として、クルマを気にせずにゆっくり観察できるのはうれしい。西口には、土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレートが埋め込まれていた。2種のプレートが揃うのは、山中トンネル北口とここだけで、トンネル群のエントランスに位置付けられていることがわかる。

*注 以前は片方向の車道として使われていた。

Blog_hokuriku74
原状保存された樫曲トンネル(東口)
Blog_hokuriku75
西口内壁に埋め込まれた
土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレート
Blog_hokuriku76
樫曲トンネル(西口)と迂回する国道
Blog_hokuriku77
樫曲トンネル案内板
 

しかし、国道の迂回はトンネルの前後に限られる。すぐに国道が旧線跡に戻り、谷間に大きな曲線を描いていく。深山(みやま)信号場があったのは、ちょうど北陸道の上り線と下り線が立体交差で合流するあたりだが、国道の道幅が1車線分広くなっているのが目立つ程度だ。

国道はそれから右にカーブし、北陸トンネルから出てきた現在線の横にぴったりとつく。今庄駅の南端で始まった旧線跡をたどる旅はここで終わる。敦賀駅までは、あと2kmほどだ。

Blog_hokuriku78
(左)樫曲集落、背景に新幹線と北陸道上り線の高架橋
(右)深山信号場跡、国道の左側が広い
Blog_hokuriku79
(左)北陸トンネル南口
(右)敦賀駅正面
 

最後に、湯尾(ゆのお)トンネルについて記しておこう。「旧北陸本線トンネル群」に含まれる11本のトンネルのうち、これだけが他とは離れて、今庄~湯尾間にぽつんと存在する。というのもこのトンネルは、蛇行する日野川の谷をショートカットするために掘られたものだからだ。

長さは368mあり、入口から出口までずっとカーブし続けているのが特徴だ。ポータルは切石積み、内壁は煉瓦積みで、芦谷トンネルと同様の仕様になっている。現在は一般道として使われているが、内部が交互通行のため、待ち時間約3分の信号機に従わなければならない。

Blog_hokuriku80
湯尾トンネル北口
Blog_hokuriku81
(左)内部は終始カーブしている
(右)南口
Blog_hokuriku82
湯尾トンネル案内板
 

トンネルの前後の旧線跡は、北と南で対照的だ。北側は、現在線との合流地点まで道路化されている。途中の湯尾谷川を渡る橋の煉瓦橋台は、鉄道時代のものだろう。南側でも道路が川沿いにまっすぐ延びているが、これは旧線跡ではない。地形図で読み取ると、旧線はもっと山際を通っていた。しかし、民地に取り込まれたり、新線の下に埋もれたりして、ルートはほとんどわからなくなってしまったようだ。

Blog_hokuriku83
トンネル北側の旧線跡道路
(左)湯尾谷川の橋から南望
(右)橋には煉瓦の橋台が残る
Blog_hokuriku_map7
図7 1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
湯尾~今庄間
Blog_hokuriku_map13
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図今庄(昭和35年資料修正)、敦賀(昭和7年修正測量)および地理院地図(2023年6月9日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I
 コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡
 コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル
 コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

2023年6月23日 (金)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I

長さ13,870mの北陸トンネルが開通するまで、北陸本線が杉津(すいづ)回り、山中越えなどと呼ばれた険しい山間ルートを通っていたことは、もうすっかり忘れられているかもしれない。

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間のこの旧線は1896(明治29)年の開業で、長さ26.4km。旧街道が越える標高約630mの木の芽峠を避けて、敦賀湾沿いの山腹を大きく迂回していた。それでも標高265mまで上る必要があり、前後に急勾配とトンネルが連続する、蒸気機関車にとっては運行の難所だった。もとより単線でスイッチバックもあって、今なら16分で通過してしまう区間に35分から50分も要していたのだ(下注)。

*注 1961(昭和36)年10月改正ダイヤに基づく。

Blog_hokuriku01
杉津(すいづ)旧駅を描いた陶板画
北陸道上り線PAにて
 

1962(昭和37)年6月に北陸トンネル経由に切り替えられた後、66年間の長い務めを終えた旧線は、車が走れる道路に転換された(下注)。これはこれで敦賀と今庄の間の抜け道として重宝されていたが、1977年に北陸自動車道が通じ、さらに地道でも2004年に国道476号の木ノ芽峠トンネルが開通したことで、通行量はごく少なくなった。

*注 2023年現在、敦賀~葉原間は国道476号、葉原~杉津PA間は敦賀市道、杉津PA~今庄間は福井県道今庄杉津線のそれぞれ一部区間になっている。

Blog_hokuriku02
敦賀~今庄間の線路縦断面図
「今庄まちなみ情報館」の展示パネルより
Blog_hokuriku03
「3連トンネル」の景観
伊良谷トンネル出口から南望
 

ルート上には今も11本のトンネル(下注1)など、鉄道の現役時代を彷彿とさせる痕跡が点々と残されている。これらは歴史的価値が認められて、2014年に「旧北陸本線トンネル群」として土木学会選奨土木遺産に認定、2016年には国の登録有形文化財にも登録された(下注2)。

*注1 今庄~湯尾間の湯尾トンネルを含む。
*注2 登録有形文化財としての名称は個別で、それぞれ前に「旧北陸線」がつく(例:旧北陸線山中トンネル)。また、罠山谷(わなやまだに)暗渠と山中ロックシェッドも同時に登録されている。

以下は、2023年3月にその全区間を徒歩で訪ねたレポートだ(下注)。北陸本線は米原(まいばら)が起点なので、敦賀から今庄に向けて記すのが順当だが、実際に歩いた今庄側からの記述になることをお断わりしておきたい。

なお、1:25,000地形図上に、歩いたルートを赤線で、旧線の概略位置を緑の破線で、それぞれ記している。参考までに旧版地形図も添えたが、1:25,000図が手元にないため、1:50,000図を2倍拡大して用いた。

*注 湯尾トンネルの前後区間は2023年4月訪問。掲載写真は当日のほか、2022年10月~2023年6月の間に撮影したものを含む。

Blog_hokuriku_map1
図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図4以下は次回掲載

今庄駅は、山あいにたたずむ静かな中間駅に過ぎない。しかしかつては、山中越えの列車に連結する補助機関車のための鉄道基地で、本線線路を隔てて東側には機関庫や転車台など関連施設が集まっていた。新線開通でそれらはほとんど撤去されてしまい、今は給水塔と高床式の給炭台だけが敷地の奥でうらぶれた姿をさらしている。

一方、旅客用の駅舎は後に改築されて、装いを一新した。その中に設けられた「今庄まちなみ情報館」には精巧な再現ジオラマがあり、活気にあふれていた時代の駅構内をしのぶことができる。

Blog_hokuriku04
今庄駅
(左)観光案内所や情報館の入る駅舎
(右)521系の上り普通列車が入線
Blog_hokuriku05
(左)構内に残る給水塔と給炭台
(右)旧役場前広場に保存されたD51 481号機
Blog_hokuriku06
「今庄まちなみ情報館」にある旧駅構内のジオラマ
Blog_hokuriku_map2
図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
今庄~大桐間
Blog_hokuriku_map8
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

さて、今庄の町の南のはずれで、旧線跡は現在線から右に分かれていく。現在線が長さ855mの今庄トンネルに入る一方で、川沿いに延びていた旧線跡は、そっくり県道207号今庄杉津線に転用された。緩いカーブは鉄道由来のものだが、2車線幅に拡げられたため、昔の面影を見いだすことは難しい。

Blog_hokuriku07
今庄~南今庄間の旧線跡道路
(左)緩いカーブは鉄道由来(西望)
(右)現在線に再接近(東望)
 

その県道が、トンネルから出てきた現在線に再接近した地点に、南今庄(みなみいまじょう)駅がある。後述する大桐駅廃止の代償として開設されたが、対面式ホームにささやかな待合室が付属するだけのさびしい無人駅だ(下注)。それで、すぐそばの県道脇に木造の休憩所が建てられている。トイレもあるので、この駅を廃線跡探索のスタート/ゴール地点にするなら、身支度や電車待ちに重宝するだろう。

*注 出入口にICカードの簡易改札機がある。

Blog_hokuriku08
(左)南今庄駅
(右)県道脇の休憩所
 

駅を出たあと、まっすぐ北陸トンネルに向かう現在線に対して、廃線跡の県道は緩やかに右カーブする。そして谷をまっすぐ遡りながら、下新道(しもしんどう)と上新道(かみしんどう)の集落を通過していく。案内板によれば、この地名は木の芽峠に向かう新道(の入口)という意味らしい。新道といっても830年の開削で、それ以前の北陸道は、海岸から直登して旧線と同じく山中峠を経由していたそうだ。

Blog_hokuriku09
(左)下新道集落を直進
(右)北陸自動車道が見えてきた
 

行く手に、現代の北陸道である北陸自動車道が見えてきた。その高架下をくぐろうとするところに、交互通行の信号機が立っていた。

というのも、昨年(2022年)8月5日に集中豪雨があり、鹿蒜川(かひるがわ)が氾濫してこの地域に大きな被害をもたらしたのだ。家屋や田畑が冠水し、県道も被災して一時期、通行止めになった。先にある2か所の橋のうち、上手のほうが流失したため、川の右岸に応急の迂回路が造られている。信号機はそのためのものだ。流された橋桁は鉄道からの転用だったので、貴重な遺構が一つ消えたことになる。

Blog_hokuriku10
被災した県道
(左)下手の橋梁は無事
(右)上手の橋梁は流失
 

大桐(おおぎり)駅跡はその流失現場の続きだが、幸いにも被害を免れた。一部保存された上り線ホームには桜並木が植わり、案内板とともにD51の動輪や信号機など鉄道のモニュメントが置かれている。敦賀~今庄間の旧線にあった3つの中間駅のうち、他の2つは高速道路の建設で消失してしまったから、ここは往時を追想できる貴重な場所だ。

Blog_hokuriku11
上りホームが残る大桐駅跡(東望)
Blog_hokuriku12
ホーム上に並ぶ動輪や信号機のモニュメント
Blog_hokuriku13
大桐駅案内板
 

大桐駅を出ると、旧線跡は右へカーブしながら、いよいよ25‰(1:40)の勾配区間にさしかかる。山中トンネルの手前まで約6km続く長い坂道だ。800mほど先には、駅の名になった大桐集落がある。家並みの間を貫く築堤の途中でまた鹿蒜川を渡るが、ここでも鉄道時代の鋼桁が再利用されていた。

ここは今庄方の最後の集落で、これを境に道幅が狭まり、センターラインも消える。新幹線工区のある谷側の高い法面がブルーシートで覆われていた。ここも豪雨の爪痕のようだ。いつしか携帯の電波が届かなくなり、山の深まりを実感する。舗装道だが、クルマにもバイクにも出会わないし、もちろん歩いているのは私だけだ。

Blog_hokuriku14
(左)大桐集落
(右)鹿蒜川を渡る橋に鉄道の面影
Blog_hokuriku15
(左)大桐の築堤を下る特急「白鳥」、大桐の案内板を撮影
(右)同じ場所の現在
Blog_hokuriku16
(左)法面に復旧工事の跡が残る(東望)
(右)通るクルマもない深山の直線道(西望)
Blog_hokuriku_map3
図3 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
大桐~杉津間
Blog_hokuriku_map9
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

杉林の中をなおも上っていくと、覆道の山中ロックシェッド(下注)があった。一見新しく、線路を通していたにしては狭く見えるが、登録有形文化財のプレートがはまっているから間違いない。1953(昭和28)年の建築で、長さは65m、国内最初期のプレストコンクリート製という点に価値があるらしい。

*注 ロックシェッド rock shed は落石除けの意。

ロックシェッドに続いて、山側に頑丈そうなコンクリートの擁壁がそびえている。ここはもう山中信号場の構内で、スイッチバックの折返し線がこの上に延びていたのだ。進むにつれて、築堤との高低差は徐々に縮まってくる。折返し線は長さが500m以上ありそうだが、途中で一部が崩壊し、土嚢が積まれていた。支谷から溢れた水流で押し流されたようだ。

Blog_hokuriku17
山中ロックシェッドにも、登録有形文化財のプレートがはまる(左写真の矢印)
Blog_hokuriku18
(左)折返し線を載せる擁壁(西望)
(右)本線ロックシェッドの上に折返し線のロックシェッドが(東望)
 

折返し線が合流する場所まで来た。信号場の案内板がある。それによると、今見てきた今庄方の折返し線は複線になっていて、それとは別に敦賀方にも単線の引上げ線が延びていた。本線の坂を上ってきた列車は、いったん後者に入線した後、バックして前者に入り、列車交換を行ったという。

Blog_hokuriku19
スイッチバックの山中信号場(東望)
右の砂利道が折返し線跡
Blog_hokuriku20
山中信号場案内板
 

森陰の薄暗い谷を少し進むと、山中トンネル(下注)の苔むした煉瓦ポータルが迎えてくれた。左隣には、引上げ線の有効長を延ばすために設けられた行き止まりのトンネルも見える。

*注 地形図の注記のとおり、明治時代の建設のため、本来の呼称は「~隧道(ずいどう)」だが、本稿では「~トンネル」に統一した。

山中トンネルは長さ1170mで、このトンネル群では最長だ。今いる北口が山中越えのサミットに当たり、旧 北陸本線の最高地点でもあった。ポータル上部には、かつて時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額が据え付けられていたが、現在は、滋賀県長浜市にある長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎)の前庭に移設されている(下注1)。北口は「徳垂後裔(とくすいこうえい)」、南口は「功和于時(こうかうじ)」と刻まれていて(下注2)、建設に携わった人々の気概と自負が伝わってくる。

*注1 最近、トンネルの前にも扁額のレプリカが置かれた。
*注2 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照

Blog_hokuriku21
山中トンネル北口、左隣は引上げ線のトンネル
Blog_hokuriku22
長浜鉄道スクエアに保存されている扁額「徳垂後裔」
Blog_hokuriku23
引上げ線トンネル
内部はすぐに行き止まりに
 

本線トンネルに入っていこう。内部は直線かつ22.2‰(1:45)の一方的な下り勾配で、1km以上先にある出口の明かりが小さく見える。リュックに懐中電灯を入れてきたが、天井照明があるので、取出すまでもなかった。壁から染み出した水が側溝の蓋からあふれて、あちこちに流れや水たまりを作っている。注意深く歩かないと、靴が水浸しになりそうだ。

珍しく途中で乗用車が1台入ってきたが、ロケットの発射かと思うほどの轟音がこだまして肝を冷やした。トンネル内では離合が難しいから、速度を上げているのだろう。とりあえず退避用の窪みに身を寄せてやり過ごす。写真を撮りながら歩いたので、出口まで20分以上かかったが、すれ違ったのはこの1台だけで助かった。

Blog_hokuriku24
山中トンネル内部
一方的な下り勾配、水浸しの路面
Blog_hokuriku25
(左)資材置場(?)と電線碍子
(右)後補と思われる待避所
Blog_hokuriku26
(左)南口から南望
(右)山中トンネル南口、かつてはここにも扁額があった
Blog_hokuriku27
南口の扁額「功和于時」
長浜鉄道スクエアで撮影
 

山中トンネルの後も50~100mの明かり区間を置いて、トンネルが5本連続している。海に落ち込む山襞をあたかも串刺しにするように、線路が通されているからだ。

一つ目は伊良谷(いらだに)トンネル、長さは467m。ポータル上部には、建設時のものではないが、名称を金文字で記したプレートがはまっている(下注)。内部がカーブしていて見通しが悪いので、入口に交互通行用の信号機が設置されていた。看板には待ち時間約3分とあるが、私は徒歩なので、遠慮なく入らせてもらう。

*注 伊良谷トンネルから葉原トンネルまでこの仕様になっている。

Blog_hokuriku28
信号機が設置された伊良谷トンネル北口
Blog_hokuriku29
(左)トンネル名称のプレート
(右)内部はカーブで見通しが悪い
 

カーブの終わる出口に近づくと、これから通る2本のトンネルが一直線に並んで見える。案内板によると、この印象的な景観は「3連トンネル」と呼ばれているらしい(冒頭写真参照)。

一見同じようなトンネルだが、仕上げ材には違いが見える。山中、伊良谷はポータルも内部も煉瓦で積んでいるが、次の芦谷(あしたに)トンネルは内部が煉瓦積み、ポータルは切石積みだ。その後のトンネルは、ポータルだけでなく内部の腰部まで切石積みになる。

Blog_hokuriku30
(左)山中トンネルの内部は煉瓦積み
(右)曲谷トンネルは腰部が切石積み
 

芦谷トンネル(長さ 223m)を出ると、三つ目の曲谷(まがりたに)トンネル(同 260m)の間で谷を横断している築堤が、大規模に流失していた。これも豪雨による被害だ。築堤の下の暗渠が土砂で埋まったか何かで、谷からの出水が築堤を乗り越えてしまったようだ。山側に設けられた仮設道路を迂回する。今庄方から来ると、この築堤で初めて敦賀湾が見えるのだが、今は不気味な裂け目のほうに目が行ってしまう。

Blog_hokuriku31
芦谷、曲谷トンネル間で流失した築堤
Blog_hokuriku32
その築堤から見える敦賀湾
 

曲谷トンネルは内部で右に、四つ目の第二観音寺トンネル(同 310m)は同じく左にカーブしている。再び敦賀湾を遠望した後、短い第一観音寺トンネル(同 82m)に入った。

この後はしばらく山腹の明かり区間で、高い築堤の上を25‰で下っていく。この下に、トンネル群とともに登録有形文化財に加えられた罠山谷(わなやまだに)暗渠(長さ46m)があるはずだが、見学路がついているのかどうかはわからない。

Blog_hokuriku33
曲谷トンネル北口
Blog_hokuriku34
第二観音寺トンネル南口
Blog_hokuriku35
第一観音寺トンネル南口
Blog_hokuriku36
(左)罠山谷暗渠のある築堤(北望)
(右)正面奥に北陸道上り線(南望)
 

さらに歩いていくと、正面に北陸自動車道の上り線が見えてきた。あちらも分水嶺の下を敦賀トンネルで抜けてきたところで、クルマがひっきりなしに行き交っている。緑地に P の標識が見えるのは、杉津(すいづ)パーキングエリアの駐車場だ。知られているとおり、ここが旧線の展望名所だった杉津駅の跡になる。

続きは次回に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図今庄(昭和35年資料修正)および地理院地図(2023年6月9日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く II
 コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡
 コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル
 コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

2023年6月 9日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

新幹線の延伸に伴って、ほとんど第三セクター路線になってしまいそうな北陸本線だが、今ある複線電化の立派な施設設備は、主に国鉄時代の1950~60年代に整備されたものだ。

このとき、各所で曲線や勾配の多い旧線が放棄され、新設ルートへの切り替えが実施された。中でも大規模なものが、ループ線や北陸トンネルが建設された木ノ本~敦賀~今庄間と、地下駅のある頸城(くびき)トンネルで知られる糸魚川~直江津間だ。

Blog_contour6701
旧線跡の自転車道からの眺め
有間川駅西方から東望
 

後者では、旧線は背後に迫る山地や段丘を避けて、海岸を走っていた。そのため、線形の悪さや単線の制約はもとより、有数の地すべり地帯だったことから、運行の安全性にも懸念があった。そこで1969(昭和44)年10月のダイヤ改正に合わせて、抜本的な線路改良が行われた。糸魚川の2駅(当時)先の浦本から直江津の間では、線路は山地を貫くように通され、長さ11,353mの頸城トンネルを筆頭に、大小のトンネルが連続している。

一方、列車が走らなくなった旧線跡は、その大半が全長32kmに及ぶ長距離自転車道の建設に利用された。「久比岐(くびき)自転車道」と呼ばれるこのルート(下注)は、直江津の西4kmにある虫生岩戸(むしゅういわと)地内から糸魚川市の早川橋の手前に至るもので、終始日本海に沿うサイクリングルートとして人気が高い。

*注 正式名は、新潟県道542号上越糸魚川自転車道線。

2023年5月21日、糸魚川を拠点にしたコンター旅の2日目は、この自転車道をレンタサイクルでたどりながら、鉄道の痕跡を探すとともに、列車の車窓から失われてしまった海辺の風景を楽しみたいと思う。

Blog_contour6702
旧線跡の自転車道が鳥ヶ首岬へ向かう
Blog_contour67_map1
図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1936(昭和11)年修正 (右)1968(昭和43)年編集

参加したのは、昨日と同じく大出、中西、山本、私の4名。9時30分に糸魚川駅日本海口(北口)の自転車店に集合して、7段変速のクロスバイクを借りた。今朝は晴れて、さわやかな西風が吹いている。いいサイクリング日和になりそうだ。

本日の行程はまず、糸魚川駅から直江津の一つ手前の谷浜(たにはま)駅まで、列車に自転車を載せて移動する。そこからペダルを漕いで、糸魚川に戻ってくるつもりだ。

Blog_contour6703
久比岐自転車道を走ったレンタサイクル
 

新潟県内の旧 北陸本線は、三セク転換で「えちごトキめき鉄道」(以下、トキ鉄)の路線になっている。ふつう、列車で自転車を運ぶには、あらかじめ分解するか折り畳んで、輪行袋と呼ばれる専用の袋に入れなくてはならない。ところが、この鉄道では「サイクルトレイン」といって、乗客の少ない日中の時間帯に限り、そのまま列車に積み込めるサービスを実施しているのだ。これが普通運賃と290円の手回り品料金で済むというのもうれしい。

Blog_contour6704
谷浜までの乗車券と手回り品切符
 

駅の窓口で、谷浜までの乗車券と手回り品切符(区間等は手書き)を発行してもらい、自転車を押して改札を入った。9時59分発の列車は単行(1両)だ(下注)。一般車両なので、自転車を置くスペースは特に確保されていない。1台ならともかく、4台だと見た目もかさばる。たまたま降りる一つ手前の駅までホームはずっと左側なので、「自転車は右の乗降扉に寄せて置いてください」と、運転士さんから適切な指示があった。

*注 直江津方面の列車でサイクルトレインとして利用できるのは、これが始発になる。

Blog_contour6705
(左)糸魚川駅に入ってきた単行気動車
(右)列車に載せた自転車(もう1台は後ろの扉に)
 

長いトンネルをいくつも抜けて、10時35分に谷浜駅に到着した。直江津方面の列車は海側の島式ホームに着くが、駅舎は山側だ。無人駅で、リフトのような気の利いた設備はないので、自転車をかついで跨線橋を渡った。

直江津まで行かず、ここをスタート地点にしたのは、谷浜以東の旧線跡が郷津(ごうつ)トンネルを含めて国道に上書きされてしまい、痕跡が残っていないからだ(下注)。また、自転車道も虫生岩戸から谷浜までは専用道ではなく、国道の海側の歩道を利用している。

*注 旧線には郷津駅があったが、新線上に移されることなく廃止された。現在線はこの間を長さ3105mの湯殿トンネルで通過している。

Blog_contour6706
谷浜駅到着
Blog_contour67_map2
図2 1:25,000地形図に自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
直江津~郷津間
Blog_contour67_map3
図3 同 谷浜~有間川間
自転車道は県道のため、黄色で着色されている
 

ひっそりとした駅前を10時50分ごろ出発した。初めは線路の山側の一般道を走り、途中で線路下のカルバートを通って自転車道に出る。ほどなく行く手に旧 長浜トンネルが見えてきた。谷浜駅の前後は旧線のまま(腹付け線増)なので、このあたりから単独の廃線跡になるはずだ。

自転車道区間にはこうしたかつての鉄道トンネルが8本あるが、どれもポータルの前に、名称、長さ、通過時間を記した標識が立てられている(下注)。それによれば、長浜トンネルは区間最長の467m、通過時間は2分だ。内部がカーブしていて出口が見えないが、照明設備は完備している。この自転車のヘッドライトも自動点灯式ではあるが、トンネルが明るければより安全に走れるというものだ。

*注 標識はトンネルの両側に立っているが、旧 長浜トンネルだけは直江津側がなかった。

Blog_contour6707
長浜トンネル
(左)長さと通過時間を記した標識が立つ(糸魚川方)
(右)内部は照明つき
 

有間川を渡る地点で、自転車道は廃線跡から横にそれる。それで、傍らに旧線のレンガ橋台が残っていた。ここに限らず、鉄道時代の橋桁はほとんど転用されなかったようで、このように自転車道の架橋位置をずらすか、またはコンクリート桁で置き換えられている。

有間川駅に寄り道した。この駅も旧線時代のままだ。防波堤に沿う国道より一段高いので、駅前に立つと海がすっきりと見晴らせる。1日3往復しかない貨物列車を待ってみたが、いっこうに現れなかった。まだ一駅しか進んでいないので、諦めて先を急ぐ。

Blog_contour6708
(左)有間川に残る橋台
(右)海を見晴らす有間川駅
 

駅のすぐ先で、「トキ鉄」の線路は長さ3,601mの名立トンネルに吸い込まれていき、自転車道が再び廃線跡に載るようになる。こちらも青木坂トンネル(長さ321m)、乳母岳トンネル(同 463m)と立て続けにトンネルを抜ける。

段丘崖の裾に沿って進んでいくと、小さな滝がいくつも掛かっていた。海側には国道が並行しているが、自転車道はそれより高い位置を行く。東の方角、海の向こうにかすむ整ったシルエットは米山(よねやま)だろうか。波穏やかな大海原と弓なりに広がる海岸線、この開放的なパノラマを遮るものは何もない。

Blog_contour6709
(左)青木坂トンネル
(右)乳母岳トンネル(いずれも糸魚川方)
Blog_contour6710
段丘崖に小さな滝が掛かる
Blog_contour6711
海の向こうに米山のシルエット
Blog_contour67_map4
図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
有間川~名立間
 

自転車道の最北地点、鳥ヶ首岬の短いトンネルを通過した。針路は南西に変わり、まもなく名立(なだち)の町に入っていく。山側にそびえる長い崖線が目を引くが、これは1751年に発生した地震に伴う地すべりの跡だ。400人以上が巻き込まれて亡くなる大災害だったことから、「名立崩れ」として後世に伝えられている。

地形図にも、並行する2列の崖記号と、その海側に崩土で埋まった緩斜面が描かれている。こうした崖と緩斜面の組み合わせは、内陸部にも多数見出せ、有史以前から一帯で地すべりがしばしば発生していたことが知れる。

Blog_contour6712
(左)鳥ヶ首岬東側の覆道、奥に見えるのは岬のトンネル(直江津方)
(右)短いトンネルで鳥ヶ首岬を回る(糸魚川方)
Blog_contour6713
名立崩れの地すべり跡
 

「トキ鉄」の現 名立駅は、海岸から800m内陸の、名立トンネルと頸城トンネルに挟まれた浅い谷間に設置されている。それに対して、旧 名立駅は海沿いの町の北端にあったが、町工場などに転用されて痕跡は残っていないようだ。

出発が遅かったから、早くもお昼だ。近くにある道の駅「うみてらす名立」まで自転車を走らせて、フードコートで海の幸の昼食をとった。旧線跡の下流側に架けられた専用橋で名立川を渡ると、自転車道は再び線路跡につく。海岸に沿って大抜(おおぬき)トンネル(同 391m)を通過し、市界を越えて上越市から糸魚川市に入った。

Blog_contour6714
(左)大抜トンネル(糸魚川方)
(右)浜徳合の徳合川に残る橋台(糸魚川方)
Blog_contour6715
市界を越える
Blog_contour67_map5
図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
名立~筒石間
 

レンガの橋台と続きの築堤が残る浜徳合(はまとくあい)を過ぎ、筒石の町裏では、崖ぎわの15mほどある高みを走る。右側の擁壁の縁に、345 1/2kmのキロポストが残っていた。距離標としては、おそらく沿線で唯一のものだろう。段丘を切り込んで海に注ぐ筒石川を、市道との併用橋で渡る。廃線跡は海側にあり、レンガの高い橋台と、築堤を支えている鎧のような擁壁が印象的だ(下注)。

*注 築堤は均されて、保育所の敷地に転用されている。

Blog_contour6716
(左)筒石の町裏にあった345 1/2キロポスト
(右)筒石川の高い橋台と築堤の擁壁(糸魚川方)
 

現在の筒石駅は頸城トンネル内の地下駅として有名だが、旧駅はもっと糸魚川方の、海を望む段丘の上にあった。しかし、跡地は住宅などに転用されてしまい、道端に国鉄OB有志が立てた小さな碑があるだけだ(下注)。久比岐自転車道のガイドマップでも駅跡の言及はないので、知らなければ見落としてしまうだろう。

*注 表面には「日本国有鉄道 北陸本線旧筒石駅跡地 記念之碑」、裏面には駅の略史と建立日(平成3(1991)年3月31日)、建立者名が刻まれている。

Blog_contour6717
筒石駅跡から筒石漁港を遠望
Blog_contour6718
(左)旧 筒石駅記念碑
(右)藤崎(とうざき)のレンガ橋台
Blog_contour67_map6
図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
筒石西方~能生間
 

百川(ももがわ)トンネル(同 161m)とその前後は、単線幅の用地をわざわざ自転車道と一般道に分けている。そのため、中央分離帯(!)が狭いトンネルの中まで続いているのがユニークだ。これはいささか極端な例としても、筒石以西では廃線跡を一般道に転用して、側道として自転車道を併設している区間が多い。道幅もそれなりに拡げられているので、細く長く延びるという廃線跡のイメージは消えてしまっている。

Blog_contour6719
中央分離帯のある百川トンネル
 

やがて、形が鶏に似ているというトットコ岩が見えてきた。その向こうは一瞬、陸に乗り上げたのかと見間違う「海の資料館 越山丸」、そして、カニ尽くしで人気の高い道の駅「マリンドリーム能生(のう)」だ。しかし、さきほど食事をしたばかりなので、ここは通過。能生漁港の町裏を小泊トンネル(同 326m)と白山トンネル(同 336m)で抜けた後、名勝の弁天岩に寄り道した。

弁天岩は、海底で噴出した溶岩丘が隆起によって海上に姿を現した小島だ。海岸から赤い欄干の橋が延びて、小さな灯台と祠の建つ島に渡れる。恋人たちの聖地という宣伝文句に惹かれたと見え、若いカップルやグループが多数来ている。

Blog_contour6720
(左)トットコ岩
(右)海の資料館 越山丸
Blog_contour6721
(左)小泊トンネル(直江津方)
(右)白山トンネル(糸魚川方)
Blog_contour6722
鯉のぼりが空を泳ぐ弁天岩
 

旧 能生駅は、糸魚川市役所能生事務所(旧 能生町役場)の場所にあった。建物前の狭い植え込みの中に、土地境界標、筒石と同じような記念碑、それに338キロポストが置かれている。残念なことに、建物入口に通じるスロープの建設に際して壁際に移設されたため、裏の碑文を読むのには苦労する。なお、現在の能生駅は頸城トンネルの西口にあり、海岸から800mほど内陸だ。

Blog_contour6723
境界標とキロポストを伴う旧 能生駅記念碑
 

木浦(このうら)から鬼舞(きぶ)にかけては旧線に高度があり、木浦川の谷を横断する築堤も高い。鬼伏(おにぶし)の手前にある尾根の張り出しでは、自転車道がいったん海岸を走る国道のレベルまで降りて、また上り返す。廃線跡は、植生に覆われながらも国道の擁壁の上に残っているようだった。

鬼伏のコンビニに寄り道して、飲み物で一息ついた。高見崎と呼ばれる山の張り出しが、海を見晴らす旧線跡の最後の区間だ。行く手に、いよいよ糸魚川の町と青海黒姫山が見えてきた。

海岸平野が始まる浦本駅のすぐ手前で、旧線は浦本トンネルから出てきた現在の線路に合流する。廃線跡探索はここまでだ。合流地点の手前には盛り土の草生した空地が残り、新旧の対照を鮮やかに示していた。

Blog_contour6724
高見崎を回る
遠景は糸魚川の町と青海黒姫山
Blog_contour6725
旧線(左の空地)と現在線の合流地点
Blog_contour67_map7
図7 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
能生~浦本間

さて、所期の目的は果たしたが、私たちにはまだ、糸魚川に自転車を返却するという仕事が残っている。廃線跡を外れた自転車道は、国道の早川橋の手前まで約3kmの間、防波堤の内側に沿って延びている。右手は漁港と日本海の砂浜、左手は漁村の裏手だ。国道とも少し距離があるので、クルマの騒音はあまり届かず、集中して走れるいいルートだった。

自転車道の終点、早川橋からは旧道や国道の側道を通り、16時20分ごろ自転車店に無事帰着した。旧北陸本線のキロ程によると、糸魚川~谷浜間は34.3kmだ。昼食休憩を含めて走破に5時間30分かかったので、表定速度は6km/hにしかならない。私たちの旅は途中停車が多すぎて、いつもこんなのんびりペースだ。

最後は北陸本線旧線時代の地形図だが、1:25,000図が手元にないので、1:50,000図を直江津側から順に掲げる。なお、図中に複線の鉄道記号が使われているが、該当区間はまだ単線だったはずだ。

Blog_contour67_map8
北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
直江津~有間川間(1968(昭和43)年編集)
Blog_contour67_map9
同 有間川~筒石間(1968(昭和43)年編集)
Blog_contour67_map10
同 筒石~浦本間(1968(昭和43)年編集)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高田(昭和43年編集)、富山(昭和11年修正)、5万分の1地形図高田西部、糸魚川(いずれも昭和43年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-高千穂鉄道跡とトロッコ乗車
 コンターサークル地図の旅-臼杵石仏と臼杵旧市街
 コンターサークル地図の旅-筑波鉄道跡
 コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル
 コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域

 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 I

より以前の記事一覧

2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

ACCESS COUNTER

無料ブログはココログ