廃線跡

2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことも考え、「三密」になりにくい外歩きの企画を再開することにした。

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花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身、下野(しもつけ)電気鉄道によって1924(大正13)年に、まず高徳(のちの新高徳)~天頂間が762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸を遂げ、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

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矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

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矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

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矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
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矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
矢板~玉生間
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

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水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

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実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

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(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左(画面外)にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
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1:25,000 合会集落~玉生間
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

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(左)タクシーを降りた場所左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
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(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡を伝う林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

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(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

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(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

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林道の左に沿う深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
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(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

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(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

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立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りていく。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

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(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
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荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし、そのバス路線も、今は自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずますの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

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高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。しかし、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

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玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

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(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。だが、建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

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地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
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地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
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1:25,000 玉生~船生間
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矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
玉生~西船生間
*注 本文に記したとおり、図中の「ふにふしんでん(船生新田)」は駅の位置、駅名とともに誤り
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

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芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

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芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

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芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

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(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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1:25,000 船生~西船生間
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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道の駅に併設の交流館
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交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう。

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船生~西船生間は一本道の農道が続く
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(左)西船生駅跡
(右)マイクロバスで新高徳へ
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

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1:25,000 西船生~新高徳駅間
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矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
西船生~高徳間
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

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2020年8月11日 (火)

リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

リッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

ボーツェン・ヴァルタープラッツ Bozen Waltherplatz/Bolzano Piazza Walther ~クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo 間 11.7km
軌間1000mm、直流750V電化、最急勾配255‰、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)
1907年開通
1966年ヴァルタープラッツ~マリーア・ヒンメルファールト間廃止

【現在の運行区間】
マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta ~クローベンシュタイン/コッラルボ間 6.6km
軌間1000mm、直流800V電化(1966年~)、最急勾配45‰

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ヴァイトアッハー Weidacher 付近を行く
現在の主力車両BDw 4/8形
 

アルプス越えの交易路が通過するブレンナー峠 Brennerpass の南側は、イタリアだ。しかし、第一次世界大戦まではオーストリア領で、チロル Tirol の一部だった。今もドイツ語では、南チロル Südtirol と称される(下注)。峠から街道を約80km下ったところに、南チロルの中心都市ボーツェン Bozen があり、愛すべき小鉄道「リッテン鉄道/レノン鉄道」がその郊外を走っている。

*注 行政上はボーツェン/ボルツァーノ自治県 Autonome Provinz Bozen/Provincia autonoma di Bolzano。

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鉄道の名は周辺の広域地名に基づいているのだが、二通りの呼び名があることについては少し注釈が必要だ。南チロルではドイツ語話者が6割強を占めており、ドイツ語とイタリア語が公用語になっている。そのため、公共表示は2言語併記が原則で、例えば既出の固有名詞を両言語(ドイツ語/イタリア語)で記すと、以下の通りだ。

南チロル(ジュートティロール)Südtirol/アルト・アディジェ Alto Adige
ボーツェン Bozen/ボルツァーノ Bolzano
リッテン Ritten/レノン Renon

他の地名も、初出の際に両言語を併記することにするが、これにより鉄道名も、ドイツ語ではリッテン鉄道(リットナー・バーン)Rittner Bahn、イタリア語ではレノン鉄道(フェッロヴィーア・デル・レノン)Ferrovia del Renon になるのだ。

ちなみに、ドイツ語のリットナー Rittner は、地名リッテン Ritten の形容詞形で、「リッテンの」という意味だ。ところが、地名自体があまり知られていないためか、そのまま読んで「リットナー鉄道」と訳している文献も見られる(下注)。

*注 スイスの「レーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn」も同様。

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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道は、標高1200m前後の高原内を行き来している延長わずか6.6kmのローカル線に過ぎない。しかもイタリアの標準軌鉄道網とは接続しない孤立路線だ。なぜこのような場所に鉄道が存在するのだろうか。

短距離にもかかわらず電化されていることからも察せられるように、かつては下界のボーツェン市街と線路がつながっており、小型電車が直通していた。旧市街の広場で乗れば、高原の村まで乗り換えなしで到達できるという、きわめて便利な路線だったのだ。

リッテン鉄道は地方鉄道として認可を得たが、実態は市街地の路面軌道(併用軌道)、山腹を上るラック鉄道、高原上の普通鉄道(専用軌道)という、異なる性格をもつ三つの区間に分けられる。後になって前二者が廃止されたため、最後者だけがぽつんと残された。これが現在の姿だ。

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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

リッテンは地理的に、ザルンタール/ヴァル・サレンティーナ Sarntal/Val Sarentina とアイザックタール/ヴァル・ディザルコ Eisacktal/Val d'Isarco という二つの谷の間に横たわる広い高原地帯だ。標高の違いから、夏場はしばしば猛暑に見舞われる盆地のボーツェンに比べて、はるかに快適な気温が保たれている。

すでに17世紀からボーツェンの名門貴族や上流階級の避暑地として好まれていたが、19世紀になると一般の観光需要も高まっていった。1880年代には鉄道の建設計画が唱えられ始め、一方で静かな環境を維持したいと考える人々によって反対運動も起きた。

20世紀に入って、計画は具体化した。山を上る手段にはラック・アンド・ピニオン方式が採用され、1906年7月に認可、着工。翌1907年8月には、早くもリッテン駅とクローベンシュタインの間で一般輸送が開始されていた。残る市内区間を含めた全線での直通運行は1908年2月末に始まった。

鉄道の起点は、ボーツェン旧市街、ヴァルター広場 Waltherplatz/Piazza Walther の南東隅にあった。電車はそこから国鉄駅前を通って北上し、山麓に設けられたリッテン駅/レノン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon の手前まで、街路上に敷かれた軌道を走った。

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リッテン鉄道のかつての起点 ヴァルター広場
(1907年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
 

リッテン駅と呼ぶのは、規模は違うがパリのリヨン駅のように、市内のターミナルに目的地の名(鉄道名とも解釈できる)を冠したものだ。駅名が示すとおりここは拠点駅で、車庫と整備工場があったほか、標準軌の国鉄ブレンナー線 Brennerbahn から引込み線が来ており、貨物の受け渡しも行っていた。

直通運行の開始から間もない1909年7月には、ボーツェンの市内電車としてボーツェン路面軌道 Straßenbahn Bozen が開業する。西郊(1系統)と南郊(2系統)から市内へ入り、ヴァルター広場からリッテン鉄道の軌道に乗り入れて、一部区間を共用した(下注)。しかし残念なことに、リッテン鉄道よりも早く1948年に廃止され、バスに転換されてしまった。

*注 1系統(シュテファニーシュトラーセ Stephaniestraße ~ブレンナーシュトラーセ Brennerstraße)は、バーンシュトラーセ(鉄道通り)Bahnstraße 電停までが共用区間。2系統(ライファース Leifers ~ボーツェン駅前)は共用区間内のバーンホーフプラッツ(駅前広場) Bahnhofplatz が終点だが、駅正面南側に単独のターミナルを持っていた。

■参考サイト
Wikimedia - 路面軌道が記載されたボーツェン市街図(1914年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geuter's_city_plan_of_Bozen-Bolzano_in_1914.JPG

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ドロミティの山を背景にタルファー橋を渡る
ボーツェン路面軌道の電車(1910年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
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旧 ラック区間が記載された1:25,000地形図
10 I SE Bolzano Nord 1963年
10 II NE Bolzano 1960年
© 2020 Istituto Geografico Militare
 

さて、リッテン駅を出発すると、いよいよラック区間が始まる。ラックレールはシュトループ Strub 式で、4.1kmの間に911mの高度差を克服した。最大勾配は255‰で、ピラトゥスやワシントン山には及ばないにしても、オーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn などと並び、世界で最も急勾配のグループに入るものだった。

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ザンクト・マグダレーナ上方を行く旧型車
背景はボーツェン駅と市街地(当時の絵葉書)
Image from styria-mobile.at
 

ラック区間では、電車は自らの駆動装置は使わず、後部すなわち坂下側に配置されたラック専用の電気機関車で押し上げてもらう。また、電車(=電動車)が動力を持たない客車(=付随車)を牽いて2両で来た場合は、まず電動車が付随車の後ろに回り、その後ろに機関車を付ける。こうして、坂下側から機関車、電動車、付随車の順になり、坂を上っていった。

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ラック区間の車両編成
坂下側(=左)から機関車、電動車、付随車
マリーア・ヒンメルファールト駅の案内板を撮影
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ラック専用の電気機関車(左)と電動車
リッテン駅構内にて(1965年)
Photo by Jean-Henri Manara at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

山裾へのとりつきでは、斜面を覆うぶどう畑の上を長さ160mの高架橋で渡る。赤ワインの銘柄で知られるザンクト・マグダレーナ/サンタ・マッダレーナ St. Magdalena/S. Maddalena の村の前には、ラック区間で唯一乗降を扱う停留所があった。

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リッテン駅上手の廃線跡現況(2019年)
(左)高架橋の橋面はぶどう畑に、アーチ下は倉庫に再活用
(右)リッテン駅出口(ラック区間始点付近)に残る橋台
 

さらに上ると、変電所を併設した信号所にさしかかる。ここはラック区間の中間地点に当たり、山上と山麓から同時に発車した列車が行違いを行った。機関車は回生ブレーキを備えているので、このダイヤにより、坂を下る機関車で発生した電力を、上りの機関車に効率良く供給することができた。

やがて車窓は森に包まれ、長さ60mのトンネルを通過する。再び視界が開けて、緑の牧草地に出れば、まもなくラック区間の終点マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta(下注)だった。この駅でラック機関車から解放された電車は、残りの、現在も運行中の区間を再び自力で走り抜けた。

*注 以前のイタリア語駅名はラッスンタ L'Assunta。いずれも聖母被昇天教会にちなむ地名。

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マリーア・ヒンメルファールト駅の現況(2019年)
(左)駅舎は1985年に開通当時の状態に復元
(右)終端の先は牧草地に
 

20世紀前半、高原上にまだまともな自動車道路はなく、鉄道が文字通り「リッテンの生命線 Lebensnerv des Ritten」だった。しかし、第二次世界大戦後は、車両や施設設備の老朽化が顕著になる。鉄道の更新に投資するより、到達時間が短縮できるロープウェーの建設を求める声が大勢を占めた。また、山麓から高原に通じる新しい自動車道路の計画も進行していた。

ロープウェーの起工式は1964年8月に行われた。その矢先の同年12月3日、恐れていた事故が起きる。ザンクト・マグダレーナの上方で、山麓に向かっていた列車が脱線し、ラック機関車とともに落下したのだ。運転士と乗客3名が死亡し、30名が負傷した。

事故区間はいったん復旧されたものの、市内線は1966年7月9日、ラック線は同年7月13日が最後の運行となった。翌14日に山麓との間を結ぶロープウェーが開業し、オーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano で鉄道に連絡する現在の方式がスタートした。ただし、これはあくまで暫定形で、自動車道路が全通した暁には、高原区間も廃止してバスに転換することになっていた。

ところが道路の完成が遅れ、その間に、観光資源として鉄道を再評価する機運が高まった。このいわば偶然のおかげで、リッテン鉄道は全廃の危機から救われたのだった。

1980年代には、施設設備の全面改修が実施された。また、車齢のより新しい中古車が導入され、名物だった古典電車の運行は今や、年数日の特定便に限定されている。

ラック区間を代替したリッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn もすでに2代目だ。初代は50名収容のキャビン(搬器)を使った交走式だったが、2009年に3Sと呼ばれる循環式に交換され、輸送能力が倍増した。これにより、リッテン鉄道も30分間隔での運行が可能になり、利用者の増加につながった。

鉄道は現在、南チロル運輸機構 Südtiroler Transportstrukturen/Strutture Trasporto Alto Adige (STA) が所有し、SAD近郊輸送会社 SAD Nahverkehr AG/SAD Trasporto locale が運行している。SADは南チロル一帯の路線バス、地方鉄道、索道の運行事業者で、リッテン鉄道もその路線網に組み込まれている。

*注 SADの名称は、旧社名 南チロル自動車サービス Südtiroler Automobildienst/ドロミティ・バスサービス Servizio Autobus Dolomiti の頭文字に基づく。

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急斜面を行くリッテン・ロープウェー
背景はボーツェン駅と市街地
 

ボーツェン市内から、鉄道の終点でリッテンの中心地区であるクローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo へは、山道を上るSADのバス路線(165系統)もある。所要時間は30分ほどで鉄道経由と大差はないが、運行は平日日中60分間隔、休日は120分間隔とかなり開いている。輸送力や利便性の点で、やはりリッテン鉄道の交通軸としての位置づけは揺るぎないものになっているようだ。

次回は、ロープウェーと鉄道を使って、そのリッテン高原に出かけることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/
Tiroler MuseumsBahnen http://www.tmb.at/
schweizer-schmalspurbahn.de - Die Rittnerbahn
http://www.alpenbahnen.net/html/rittnerbahn.html

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 リッテン鉄道 II-ルートを追って

 スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

2020年7月29日 (水)

モンセラット登山鉄道 I-旧線時代

モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat

【旧線】
モニストロル・ノルド Monistrol-Nord ~モンセラット・モネスティル Montserrat-Monestir 間 8.6km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
1892年開通、1957年廃止

【新線】
モニストロル・エンリャス Monistrol-Enllaç ~モンセラット Montserrat 間 5.2km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
2003年開通

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R5系統の車窓から仰ぐモンセラットの山塊と修道院
海外鉄道研究会 田村公一氏 提供
 
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モニュメンタルな岩の柱が林立し、異形の山容が目を引くモンセラット Montserrat(下注)。スペイン、カタルーニャ州の州都バルセロナの北西50kmにあるこの山は、全体が自然公園に指定されている。その一角を占めるベネディクト派の修道院は古来、人々の崇敬を集めてきたカトリックの聖地だ。

*注 カタルーニャ語の発音は「ムンサラト」に近いが、慣用に従い、モンセラットと表記する。

山の中腹、狭い谷壁に張り付くように建てられた修道院付属大聖堂 Monasterio には、モンセラットの聖母 Mare de Déu de Montserrat(下注)と呼ばれる黒い聖母子像が祀られている。山麓を走る近郊線の駅から標高700m台のその大聖堂の前まで、現代の巡礼者を連れて行くのが登山鉄道「クレマリェラ・デ・モンセラット(モンセラット登山鉄道)Cremallera de Montserrat」(下注)だ。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

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緑をまとうモンセラットの登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山鉄道は、カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が運行している。メーターゲージ(1000mm軌間)で、アプト式のラックレールを使う。同じFGCで、州内にもう一つある同種の路線、ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria(下注)と共通の仕様だが、車両の塗色はヌリアの青に対して、こちらは緑色になっている。

*注 スペイン全体でも、ラック式鉄道はこの2本しかない。ヌリア登山鉄道については、本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」で詳述。

現代風の車両や地上設備を一見すればわかるように、運行開始は2003年で、まだ20年も経っていない若い路線だ。ただし、まったくの新設ではない。1950年代に廃止された旧線跡を多くの区間で利用しており、事実上の復活と言うべきものだ。新線の紹介に入る前にまず、前身となるこの旧 モンセラット登山鉄道の歴史から繙いてみたい。話は19世紀に遡る。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

バルセロナ方面からモンセラットへ向かう本来の巡礼路は、南麓に位置するコイバト Collbató の村から続く山道だ。その伝統を一変させたのが、1859年に当時の北部鉄道会社 Ferrocarrils del Nord が開通させた鉄道だった。これは、マンレザ Manresa 経由でバルセロナとリェイダ Lleida 以遠を結んだ広軌路線(下注)で、現在、カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya のR4系統が通っている。

*注 当時は1672mm。19世紀以来、軌間はスペインで1672mm、ポルトガルで1664mmと微妙な差があったが、1955年に基準が統一され、現在の1668mm(イベリア軌間 Iberian gauge)になった。

モンセラットの最寄り駅として、北東約5kmの地点にモニストロル・ノルド Monistrol-Nord(現 カステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット Castellbell i el Vilar - Monistrol de Montserrat)が開設された。そこから山へは、つづら折りの坂道を駅馬車がつないだ(下図左上)。

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旧 ラック鉄道と関連路線の変遷
 

しかし訪問者の増加につれ、馬車の輸送力に限界が見えてくる。当時、スイスのリギ鉄道 Rigibahn 開業(1871年)をきっかけに、ヨーロッパ各地でラック式登山鉄道に対する関心が高まっていた。機運に乗じてモンセラットでも、1878年に、スイスの事情に明るい鉄道技師と地元の実業家が組んで建設計画を発表した。リギで標準化されたリッゲンバッハ式、1435mm軌間の蒸気鉄道で、広軌線の駅と修道院とを結ぶというものだった。

認可が下り、建設と運行に当たる会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarriles de Montaña a Grandes Pendientes(スペイン語表記)が設立されたが、期待に反して事業は一向に進まなかった。10年近い時間を浪費した後、仕様が見直され、1891年に改めて認可を得た。新しい計画では、同じラック蒸機ながら、新開発でより安価なアプト式を採用している。軌間もコンパクトな1000mm(メーターゲージ)だ。線形を厳しくできるので、橋梁の短縮やトンネルの回避が可能になり、建設費はかなり圧縮された。

今回は順調だった。その年の9月に工事が始まり、13か月後の1892年10月6日、モンセラット登山鉄道は開業の日を迎えた(上図右上)。所要時間は片道1時間5分で、3時間半もかかっていた馬車に比べて格段に速く、バルセロナから日帰りが可能になったのは画期的だった。物珍しさも手伝って、のこぎり山(=モンセラット)へ鋸歯(=ラック)を使って上る登山鉄道は、たちまちカタルーニャで最も人気のある乗り物になった。

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旧線が記載された1:50,000地形図
(スペイン陸軍地理局 Servicio Geográfico del Ejército 刊行)
391 Iguarada 1950年
392 Sabadell 1952年
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

次の節目は1922年10月だ。リョブレガト川 el Llobregat の谷を通って、メーターゲージ(1000mm軌間、以下、狭軌線という)の新線が開通したのだ。カタルーニャ鉄道 Ferrocarrils Catalans(下注)が建設したマルトレイ Martorell ~マンレザ間の路線で、マルトレイではバルセロナ方面に接続し、実質的にバルセロナとマンレザを結ぶ第2の鉄道になった。現在のFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)R5系統が通るルートだ。

*注 正式名 Companyia General dels Ferrocarrils Catalans (CGFC)。

新線と登山鉄道が交差する地点に乗換駅が設けられることになり、狭軌線に近づけるため、登山鉄道のルートは長さ973mにわたり移設された。

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狭軌線を行く現在の213系電車
モニストロル北方のリョブレガト川鉄橋にて
Photo by The Luis Zamora at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ここで、旧線のルートをモンセラット方向にたどってみよう。

起点駅は、初め広軌線の駅から長い階段を下りたところに置かれ、モニストロル・パルティダ(出発の意)Monistrol Partida と称していた。しかし、1905年にスイッチバックを介した737mの延長線が造られ、列車は広軌線と同じレベルで発着できるようになった。それに伴い、パルティダ駅は閉鎖された。

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広軌線のカステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット駅
右側の空地が登山鉄道の起点駅跡
(2009年撮影)
Photo by eldelinux at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そこから路線は、いったんリョブレガト川の左岸を下る。支流をまたいだところに、バウマ停留所 baixador de la Bauma があった。またしばらく下流へ進むと、狭軌線に接続する(旧)モニストロル・エンリャス(ジャンクション)Monistrol-Enllaç 駅がある。その後、リョブレガト川を長さ118m、3連上路トラスの鉄橋で横断して、山へ向かう。54‰勾配の切通しを抜けると、中間駅のモニストロル・ビラ Monistrol Vila だ。鉄道の運行拠点とされ、車庫と整備工場もここに置かれていた。

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リョブレガト川を渡る登山列車
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
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今もレンガの橋脚・橋台が残存
from street view on Google map, © 2020 Google
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モニストロル・ビラ旧駅舎は鉄道の展示館に
Photo by Enric at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

駅の出口で、いよいよラック区間が始まる。現在の新線も、ここから旧線跡を利用している。短いトンネルを抜けた先に、モンセラットに上る車道と交差する踏切がある(下注)。そこは後に、踏切番の服を着て列車を見送る「踏切小屋の犬 Gos de la Casilla」で有名になり、乗客はそれにコインを投げるのが習わしだった。

*注 復活した新線では、この区間が谷寄りに移設され、立体交差化された。

ラック区間の中間部に設けられた複線は1.3kmあり(下注)、繁忙期に3列車が続行運転しても、走行しながら列車交換が可能な長さだった。路線最長のアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols を抜け、ほどなく終点のモンセラット・モネスティル(修道院)Montserrat-Monestir 駅に到着する。構内は今と違って屋外にあり、3線が敷かれたターミナルだった。

*注 新線では複線が420mに短縮。

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終点モンセラット・モネスティル駅
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
 

1920年代には、この終点駅でホームが拡張され、最大4編成の列車の留置が可能になった。並行して電化も検討されたが、財務上の理由とともに、修道院との合意が整わず、実現しなかった。

ここまでの約30年間は、登山鉄道にとって華やかなりし時代だ。かつての馬車道が自動車道に整備されたとはいえ、まだ大多数の訪問客は鉄道を利用して山に上っていたからだ。ところが、1930年代に入ると、風向きが変わっていく。

まず、別のライバルが登場した。1930年に開業した「アエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat」、すなわちモンセラットに上るロープウェーだ。起点はリョブレガト川沿いの狭軌線のすぐそばで、狭軌線に乗換用の駅が新設された。それは、登山鉄道の接続駅より二駅バルセロナ寄りになる。しかもロープウェーはそこからわずか5分で、修道院の直下まで上りきる。輸送能力は登山鉄道に及ばないものの、時間の短縮効果は圧倒的だった。

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モンセラット・ロープウェーのゴンドラから
起点駅を見下ろす
Photo by The Bernard Gagnon at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1936~39年の内戦(スペイン市民戦争)中も登山鉄道は走ったが、一般輸送は中止され、機関車はもっぱら、戦争の負傷者をモンセラットに置かれた陸軍病院に運び込む仕事に携わった。内戦が終結しても数年間は財政難で、設備更新に対する投資が滞った。その後は修道院の祝賀行事に伴い、旅客数が回復したものの、長年の酷使により設備の劣化が進行していたのは間違いない。

1953年7月25日、予想外の惨事が起きる。山上行きの列車がラック区間で突然下降し始め、後続の列車を巻き添えにして、その数百m下を走っていた第3の列車に衝突したのだ。この事故で8名が死亡、16名が重傷、116名が軽傷を負った。蒸機も3号機と5号機が大破して、廃車処分となった。

これを境に、会社の運命は暗転した。老朽化した鉄道に対する市民の不信が高まり、モンセラットの訪問客は、ロープウェーや自動車道を上るバス、自家用車に移っていった。もと8両あった蒸機は事故で6両に減り、1956年になると、部品不足で2号機と7号機が離脱、4号機は客車1両に制限された。悪循環の中で万策尽き、1957年5月12日、旧 モンセラット登山鉄道は65年間の運行の幕を閉じた。

登山鉄道の運行会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツは、モンセラット山中に造られた2本のケーブルカーやヌリア登山鉄道の事業者でもあったため、その後も存続している。しかし、1982年にカタルーニャ州により買収され、1984年、残された鉄道の公営化の手続きが完了した。

復活した登山鉄道については、次回

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット(訪問者向け公式) https://www.montserratvisita.com/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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 モンセラット登山鉄道 II-新線開通
 ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

 リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道
 リギ山を巡る鉄道 III-アルト・リギ鉄道

2019年11月14日 (木)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡

下津井電鉄は、国鉄宇野線の茶屋町(ちゃやまち)駅と下津井(しもつい)との間を連絡していた鉄道だ。762mm(2フィート6インチ)狭軌、いわゆるニブロク軌間の電気軽便鉄道だった。

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下津井駅跡
 

今も瀬戸内の主要漁港の一つである下津井には、かつて四国の丸亀との間に定期航路があり、こんぴらさん(金刀比羅宮)へ参る人々で大いに賑わった。しかし1910年に開設された宇高連絡船に客を奪われたため、地元の有力者によって計画されたのがこの鉄道だ。1913(大正2)年に茶屋町~味野町(後の児島)間、翌14年に下津井までの全線が開業している。

最初は蒸気鉄道だったが、戦争末期から直後にかけての石炭不足を受けて、1949(昭和24)年に直流600Vで電化された。だが道路事情が改善されると、岡山へ直通するバスに対して、茶屋町での乗換えが必要な鉄道は条件的に不利となる。利用者数が落ち込み、1972(昭和47)年、まず茶屋町~児島(こじま)間が廃止された。

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かつての下津井駅(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

このとき、末端の児島~下津井間は、並行道路の未整備を理由に存続した。以来、全国鉄道網から切り離され、孤立線のまま細々と運行されていたのだが、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通を機に今一度、観光路線への飛躍が目論まれた。

1987(昭和62)年に児島駅が移転改築され、新造車両も投入されて、再デビューが華々しく祝われた。しかし、客足は思うように伸びず、一方で新規投資による減価償却費の増加が、会社の収支を圧迫した。皮肉にも、瀬戸大橋の建設工事に伴い、周辺道路の整備が進んだことで、バス転換が可能になっていた。そのため鉄道は、再興からわずか4年足らずの1990年末をもって、あっけなく廃止されてしまったのだ。

2019年11月3日、コンターサークルS秋の旅の初日は、この下津井電鉄(下電(しもでん))の廃線跡を歩く。茶屋町から下津井まで21kmのルートは廃止後、大部分が自転車道・徒歩道となり、今でも容易にたどることができるが、今回は、最後まで運行され、景色にも優れた児島~下津井間6.3kmに焦点を絞った。ついでに沿線の鷲羽山や下津井の町にも寄り道して、瀬戸内ののびやかな風光に浸るつもりだ。

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児島~下津井間の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
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下津井電鉄現役時代の地形図(1974(昭和49)年修正測量)
初代児島駅が描かれている
 

岡山から、高松行きマリンライナー19号で児島駅へ向かう。指定の10時20分に集合したのは、相澤夫妻、浅倉さんと、相澤夫人の歩き仲間のKさん、海外鉄道研究会のTさん、それに私の計6人。あいにくの曇り空だが、日差しがない分、かえって歩くのは楽かもしれない。

「最初に、下電の駅の跡を見に行きましょう」と私が口火を切った。下電は、JR線より700mほど内陸を走っていた。というのもJR線が通る一帯はかつて遠浅の海で、戦前まで塩田が広がっていたからだ。メンバーは地元岡山の人が多いので、下手な案内人を待つまでもなく、自然と誰もが旧駅の方角へ足を向ける。

下電児島駅は二度移転している。「味野町(あじのまち)」と称した初代の駅は、小田川(おだがわ)に近い一角にあった。駅と駅前広場があった場所は現在、駐車場に転用されている。鉄道の記憶としては、北端近くにある大正橋バス停前に、駅名標のレプリカが立つのみだ。記されている「味野」という駅名は1941年に改称されたことを示すが、次の駅名が「こじま」になっているのを誰かが見咎めた。「味野と児島は同じ駅なんですがね」。再改称は1956年に行われている。

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(左)味野駅跡を示す駅名標
(右)小田川護岸に顔を出す下電の橋台
 

小田川に架かる大正橋北側の護岸で、下電の橋台が斜めに飛び出しているのを確かめてから、引き返した。茶屋町~児島間廃止後の1976年、児島駅はバスセンターの改築に合わせて少し南に移転している。私はこの二代目駅の時代(1984年)に一度だけ下電に乗ったことがあるが、今や芝生広場が広がるばかりで、鉄道の痕跡は何もない。

さらに南へ進むと、通りの向こうで、三代目の児島駅が原形をとどめていた(下注)。上述の観光開発の一環で1987年に建てられたもので、トレインシェッドというべきか、かまぼこ型の高屋根のかかった立派な建物だ。線路はもうなかったが、小ぢんまりとした頭端式のプラットホームや、構内を見下ろすウッドデッキなどがしっかり保存されている。ホームは建物の外まで続いていて、役目を終えた駅名標が所在なげに立っていた。「これもレプリカでしょうか」「字もかすれて年季が入ってるから、本物じゃないかな」。

*注 旧駅舎は、金・土・日・祝日(年末年始を除く)の8:30~17:00の間、開放されている。

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三代目児島駅正面
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トレインシェッドで覆われた内部
(左)ウッドデッキは当時のもの
(右)プラットホーム跡も残る
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(左)ホームの先に「風の道」が延びる
(右)オリジナルの駅名標
 

ここから廃線跡は、自転車・歩行者道「風の道」に姿を変えて、南へ延びていた。舗装は砂地に似せた自然色で好ましい。駅からの左カーブが終わると、直線路になった。家並みが絶えない町なかを行くので、徒歩や自転車で地元の人もときどき通る。

見た目はすっかり普段使いの風景だが、他の道と明らかに異なるのは、路側に現役当時さながら、茶色の架線柱が林立していることだ。断面が三角形のトラス鉄柱で、架線を吊るためのビーム(横梁)はもとより、ときには碍子までぶら下がっている。電化路線ならではの大道具で、ここまできれいに残されているのは見事だ。

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架線柱が残る廃線跡
 

旧街道との元踏切を越えて400mほど行くと、一つ目の中間駅、備前赤崎駅があった。石積みのホームは左右の間隔が広いから、線路が2本敷かれた交換駅だったのだろう。鳥居形の駅名標に、「びぜんあかさき(駅跡)」とかっこ書きされているのが正直で、微笑みを誘う。

その200m後で、国道430号線と交差した。ここは横断歩道がなく、迂回を余儀なくされる。ほぼ直線だった廃線跡はこの直後、左に急カーブし、次いで緩やかに右に反転していく。その途中で、阿津(あつ)駅の片面ホームを通過した。

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備前赤崎駅跡
(左)石積みのホーム
(右)「駅跡」と書かれた駅名標
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阿津駅は住宅街の中の片面ホーム
 

倉敷シティ病院の前で、舗装が自然色から黒いアスファルトに変わり、同時に25‰勾配が始まる。海岸沿いではあるものの、鷲羽山との間の鞍部を乗り越えるために、坂を上る必要があるのだ。桜並木の築堤はいい雰囲気だったが、すぐに道路と交差するレベルまで急降下していた。築堤が切り崩されてしまったようだ。そのため、瀬戸大橋線の下をくぐるまでの短区間は、線路跡らしくない急勾配になっている。

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(左)25‰勾配が始まる桜並木の築堤
(右)切り崩された築堤
 

さらに坂を上っていくと、いよいよ左手に海が見えてきた。手前にある競艇場の施設が少々目障りだが、下電名物の車窓風景がこれからしばらく続くのだ。JRの変電所の先で敷地が急に広がり、そこに琴海(きんかい)駅の島式ホームがあった。ベンチも置かれていて、家並み越しに海と島影を見晴らせる。「鷲羽山(わしゅうざん)駅まで行ってもいいんですが、12時を回ったので、ここで昼食にしましょう」と相澤さん。腰を下ろして、皆それぞれ持参した食事を広げた。

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坂を上っていくと左手に海が見えてくる
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琴海駅跡で昼食休憩
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琴海駅跡から見る海景
 

琴海駅の先もまだ25‰の坂道で、神道山(しんとうざん)からせり出した山脚を、築堤と切通しを連ねて縫っていく。大畠(おおばたけ)集落の上で右へ回り込み、瀬戸大橋線と瀬戸中央道の下のカルバートを斜めにくぐった。カーブして見通しの悪い切通しをもう一つ抜ければ、鷲羽山駅に到達だ。標高43m、「風の道」のサミットに当たり、休憩所として瀬戸大橋を望むテラスと公衆トイレが設置されている。

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築堤と切通しで山脚を縫う
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サミットの鷲羽山駅
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駅のテラスから見る下津井の家並と瀬戸大橋
 

下津井まであと2.5kmだ。「余裕で着けると思うので、その前に鷲羽山へ寄り道しませんか」と提案したら、異論はなかった。鷲羽山は南東に突き出した半島で、備讃瀬戸の海景をほしいままにする、古来知られた展望地だ。

駅から南へ遊歩道が延びていて、松林の中の急な階段を上がっていく。まもなく東屋(あずまや)展望台という最初の見晴らしスポットがあった。瀬戸中央道のトンネルの真上に位置しているので、下津井瀬戸大橋まで一直線、あたかも足下から車が飛び出すような迫力のある眺めだ。

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東屋展望台からの迫力ある眺め
 

さらにしばらく上ると、山頂に着いた。表土が剥ぎ取られ大岩が露出していて、石舞台のように見える。標高113mと大した高さでないにもかかわらず、岩の上に立てば、北の児島市街地から、島影浮かぶ内海、長い吊橋の列、そして西の下津井港まで、文句なしに360度の眺望が得られる。

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鷲羽山山頂
(左)石舞台のような頂上
(右)瀬戸大橋が間近に
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鷲羽山山頂からのパノラマ
 

今日は遠くがかすんでいたが、それでも一同満足して、もときた道を戻った。鷲羽山駅からしばらく廃線跡は、海岸沿いに続く下津井の町を避けて、山手を迂回している。500mで東下津井駅だった。1931(昭和6)年開設の鷲羽山駅に対して、東下津井は開通当時からあった駅だ(もとは下津井東と称した)。残されたホームが異様に低いので、歩道部分が嵩上げされているようだ。

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東下津井駅跡
 

城山の裏手からは最終コースで、25‰の下り勾配で谷間に突っ込んでいく。鞍部を切通しで通過しているのだが、長い年月のうちに草木が覆いかぶさり、まるでトンネルだ。切通しを抜けた後は、オメガカーブで南に向きを変え、浅い谷を降下する。Tさんが、列車が走っていた当時撮った写真を見せてくれた。「あの頃はこのカーブを見通すことができたんです。」今は谷いっぱいに住宅が立ち並んでしまい、撮影名所の面影は消失している。

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鞍部を切通しでやり過ごす
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オメガカーブを描いて降下
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現役時代のオメガカーブ(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

石積みが残る道路のアンダーパスをくぐると、もう下津井駅跡だった。老朽化が進み、駅舎や周りの建物はすべて撤去されてしまったが、カーブする相対式のプラットホームとその間に敷かれた線路が、在りし日の記憶を呼び覚ます。隣接する側線群には、「赤いクレパス号」だったモハ1001や、1988年新造の観光電車「メリーベル号」など、保存会が管理する旧車が何両も休んでいた。フェンスがあり、普段は立ち入れないが、毎月第2日曜と第4日曜に開放されているそうだ。

時刻は14時30分、終点まで無事歩き通して、ここで解散となった。Tさんと私は、狭い通りに古い民家や土蔵が並ぶ下津井の旧市街まで足を延ばし、郵便局前で下電バス「とこはい号」を捕まえて、児島駅に戻った。

*注 とこはい号は児島市街、下津井、鷲羽山第二展望台などを通る循環バス路線。反時計回りの一方通行で、1時間毎に運行。なお、下津井から児島駅に向かう場合、「児島駅南」バス停が最寄りとなる。

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ホームと線路が残る下津井駅跡
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(左)保存車両モハ1001
(右)奥に観光電車「メリーベル号」の姿も
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図下津井(昭和49年修正測量、平成30年10月調製)を使用したものである。

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2019年9月24日 (火)

オーストリアの狭軌鉄道-イプスタール鉄道 I

イプスタール鉄道 Ybbstalbahn

本線:ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス Waidhofen an der Ybbs ~キーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming 間 70.9km
支線:グシュタット Gstadt ~イプジッツ Ybbsitz 間 5.7km
軌間760mm、非電化

1896~99年開通
1988年 山線(ルンツ・アム・ゼー~キーンベルク・ガーミング間)の公共輸送休止
1990年 山線で保存鉄道運行開始
2010年 本線グシュタット~ゲストリング・アン・デア・イプス間および支線グシュタット~イプジッツ間廃止

【現在の運行区間】
シティーバーン・ヴァイトホーフェン Citybahn Waidhofen(一般旅客輸送)
 ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス Waidhofen an der Ybbs ~グシュタット Gstadt 間 5.5km

イプスタール鉄道山線 Bergstrecke Ybbsthalbahn(保存鉄道)
 キーンベルク・ガーミング~ゲストリング・アン・デア・イプス Göstling an der Ybbs 間 26.8km

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イプスタール鉄道最大の構築物
シュヴァルツバッハ高架橋
 

イプスタール鉄道 Ybbstalbahn の名は、ドナウ川の支流イプス川 Ybbs の谷(イプスタール Ybbstal)を主に走ることに由来している。場所はオーストリア中部、石灰岩アルプス Kalkalpen 北側のアイゼンヴルツェンと呼ばれる中山域だ。アイゼンヴルツェン Eisenwurzen は直訳すると「鉄の根」だが、昔の人は、鉄鉱脈が根のように延びて、周辺に広がっていくと信じていたのだという。

製鉄業が今のような重工業に発展する以前の15世紀から19世紀前半まで、鉄鉱山で知られるアイゼンエルツ Eisenerz に近いこの地方では、主要な町に鉄工場があり、地域経済を支えていた。鉄の生産には、原料の鉱石のほかに、燃料となる木炭、動力としての水資源、さらには鉱山労働者に支給する食糧も必要となる。それで、鉄工場の経営者(ハンマーヘレン Hammerherren)は、同時に山林と農地の大地主であり、川の水利権も握る土地の有力者だった(下注)。

*注 ヴァイトホーフェン、イプジッツ、ルンツ・アム・ゼーなど鉄道沿線各地にはハンマーヘレンの当時の豪邸(ハンマーヘレンハウス Hammerherrenhaus)が残り、観光資源になっている。

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イプスタール鉄道山線の車窓から眺める
ガーミングの村と修道院
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ハンマーヘレンハウスの例
ズグラッフィートの装飾壁が美しいルンツ・アム・ゼーのアモーンハウス Amonhaus
Photo by Bwag at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし、鋼鉄の安価な製法が普及するにつれ、地場産業は衰退し始める。イプスタール鉄道の構想は、鉄道網やドナウの水運との接続により、地域を再興しようとするハンマーヘレンたちの強い願望から生まれた。

すでに1870年に西部鉄道 Westbahn のペヒラルン Pöchlarn からイプスタールのルンツ・アム・ゼー Lunz am See に入り、さらにアイゼンエルツの入口に位置するヒーフラウ Hieflau まで行く標準軌線の計画があった。しかし1877年に完成したのは、キーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming が終点のエアラウフタール線 Erlauftalbahn で、イプス川の谷には届かなかった。

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ペヒラルン駅に停車中の
エアラウフタール線列車
 

結局、イプスタールへの列車の旅が実現するのは、それから20年も後のことになる。ニーダーエースタライヒ州の鉄道法に基づいて認可された多くの狭軌地方鉄道と、ほぼ同じ時期だ。

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建設工事は、西側から着手された。イプス川中流域の中心地ヴァイトホーフェン Waidhofen には、1872年に勅許皇太子ルードルフ鉄道 k.k. privilegierte Kronprinz Rudolf-Bahn の支線(クラインライフリング Kleinreifling ~アムシュテッテン Amstetten 間、現 ÖBBルードルフ線)が開通していた。ここを起点に、まず1896年7月にグロースホレンシュタイン Großhollenstein まで、次いで1898年5月にルンツ・アム・ゼー Lunz am See まで、いわゆる谷線 Talstrecke が開通した。

残るルンツ・アム・ゼー~キーンベルク・ガーミング間の山線 Bergstrecke は、少し遅れて同年11月に運行が始まった。また、途中のグシュタット Gstadt で分岐してイプジッツ Ybbsitz に至る支線も翌1899年3月に開かれ、ここにイプスタール鉄道が全通した。

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イプスタール鉄道と周辺路線図
(破線は廃線、灰色は貨物線を表す)
 

地方鉄道は、幹線から離れた地方を潤すという敷設目的から、終端が行き止まりになっていることが多い。その点、イプスタール鉄道は両端で標準軌線に接続しており、交通網の形成という意味で一見理想的だ。

しかし実態は、河谷という自然地形の制約を受けて、ルートの迂回を強いられている。また山線では急勾配と急曲線が続くため、牽引定数が小さく、輸送力に限界があった。第二次世界大戦後、峠を越える道路が整備されると、利用者はバスや自家用車に流出していく。貨物輸送も次第にトラックに移行して、鉄道の劣勢は明白になっていった。実績が振るわない山線については、すでに1970年代から存廃が議論されており、1988年5月にとうとう運行休止となった。

谷線でも、2006、07両年のイプス川の氾濫で、線路が数か所で被害を受けた。これは数か月後に復旧したものの、徐行区間の増加で運行本数が削減され、主要顧客の通学輸送がバスに切り替えられてしまう。

追い打ちをかけるように、2009年にも豪雨による土砂崩れが発生し、再びバスによる代行輸送が始まった。そして今度こそ、列車運行が再開されることはなかった。2010年1月にニーダーエースタライヒ州は、イプスタール鉄道をÖBB(オーストリア連邦鉄道)から州に移管すると発表した。同年12月12日にこれが実行され、同時に、谷線のグシュタット~ルンツ・アム・ゼー間とイプジッツ支線は正式の廃止手続きが取られたのだ(下注)。

*注 廃止区間のうち、グシュタット~ゲストリング Göstling 間は、2017年に自転車道への転換が完了し、イプジッツ支線の線路敷もすでに更地化されている。

一方の山線は、谷線とは対照的な道をたどった。特徴あるルートの消失を惜しんだ愛好家団体により、休止後間もない1990年から、保存鉄道への活用が進められたからだ。企ては成功し、今なお夏のシーズンには、古典機関車が二軸客車を牽いて山坂に挑むシーンが見られる。

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イプスタール鉄道山線の保存列車

東西に分断されてしまったイプスタール鉄道だが、現況はどうなっているのだろうか。まず、谷線のヴァイトホーフェン~グシュタット間をリポートしよう。この区間は水害の影響を受けることなく、2006年からの断続的な谷線の運休期間にも列車が走っていた。また、ヴァイトホーフェンの市街地周辺で、比較的利用者の多い根元区間であることから、当分の間存続されることになったのだ。

上述のとおり2010年12月から、ヴァルトフィアテル鉄道やマリアツェル鉄道と同じく、ニーダーエースタライヒ州の公営企業であるニーダーエースタライヒ運輸機構 Niederösterreichische Verkehrsorganisations-Ges.m.b.H (NÖVOG) が運行を担っている。

ヴァイトホーフェン、正式名ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス Waidhofen an der Ybbs は、イプス川にシュヴァルツバッハ川 Schwarzbach が合流する地点に築かれた歴史ある町だ。段丘の突端、渓谷に面してロートシルト城 Schloss Rothschild の塔と城壁がそびえ、その背後に風格のある旧市街が延びている。

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ヴァイトホーフェン旧市街
(左)ロートシルト城の遺構に建つ教区教会
(右)通りを見下ろす市塔 Stadtturm
 

それに対してÖBBのヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス駅は、1km下ったイプス川沿いにある。まとまった平地が確保できる場所を求めた結果とはいえ、町はずれであることは否定できない。イプスタール鉄道はこの駅前にささやかな乗り場を持っていた。

NÖVOGによる運行引継ぎに際し、路線には「シティーバーン・ヴァイトホーフェン Citybahn Waidhofen」という新たな愛称が与えられた。車両は、ÖBB 時代に760mm狭軌線に標準配備された5090形気動車(現 NÖVOG VT形)のままだが、人物写真と波形パターンに CITYBAHN の大きなロゴという、派手なラッピングを全身にまとって、印象が一変した。

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シティーバーン・ヴァイトホーフェンの
ラッピング気動車
 

ダイヤは1時間間隔だ。ヴァイトホーフェン駅ではÖBBルードルフ線の列車に4~7分の待ち時間で接続しており、小私鉄ならではの行き届いたサービスが図られている。延長5.5kmと短いので、全線の所要時間はわずか12分だ。

さて、アムシュテッテンからの列車を降り、駅前に出ると、シティーバーンのホームに2両連結の気動車が待機している。列車はÖBB駅舎の玄関から見て右方向へ進むのだが、左側にも線路は延びて、留置側線が並ぶ長いヤードに続いている。かつてここでは、標準軌線との間で貨物の積替えが行われていたはずだ。ヤードの終端には、気動車のための車庫兼整備工場も見える。

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(左)ヴァイトホーフェン駅で発車を待つ2両編成の列車
(右)簡易シートが並ぶ車内
 

接続時間が短いので、観察もそこそこに列車に乗り込んだ。車内は、向かい合わせ4人掛けの簡易シートが並ぶ質素な造りだ。昼下がりの時間帯なので、隣の車両まで見渡しても、全部で3~4人しか乗っていない。上の窓が全て開けてあり、走り出すと風の中を進んでいくようだ。これなら、窓外の写真も心置きなく撮れる。

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(左)シティーバーンのヴァイトホーフェン駅
(右)留置側線の奥に車庫・整備工場
 

最初の約1kmは、ÖBB線の左側を並走する。最初のカーブを曲がったところから、小さな谷を隔てて、ヴァイトホーフェン旧市街の家並みが望める。まもなく左にカーブを切って、おもむろに市街地の上空を横断し始めた。この長さ200mのシュヴァルツバッハ高架橋 Schwarzbachviadukt は、イプスタール鉄道で最大の構築物だ。

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(左)ヴァイトホーフェン駅を後にして
  正面は標準軌駅(列車後方を撮影)
(右)標準軌との並走区間
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シュヴァルツバッハ高架橋で市街地上空をまたぐ
 

車窓からでは橋の足元が見えないので、帰りに最寄りの停留所で降りて、見に行った。橋は、シュヴァルツバッハ川とその谷間に沿う市街地の上空を、一気にまたぐ形で架けられている。両端から石造アーチの高架を延ばすとともに、中央の広い径間は上路プラットトラスと魚腹トラスでクリアした。この威容からして当然、撮影名所でもあるのだが、街中のため、周囲の建物が邪魔になり、すっきりと一望できないのが惜しい。

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シュヴァルツバッハ高架橋
主要道をまたぐ径間は魚腹トラス
(冒頭写真も参照)
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(左)西側に続く上路プラットトラス
(右)端部は石造アーチ
 

橋を渡り終えたところに、シラーパルク Schillerpark 停留所がある。公園の大きな並木の下に設けられたホームには、屋根付き橋のような小屋掛けの長いベンチが置かれている。ここで二人が降りたので、一駅目にして早くも空気を運ぶ状況になった。

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シラーパルク停留所
(左)並木の下のホーム
(右)小屋掛けの長いベンチ
 

次は地方鉄道駅 Lokalbahnhof という停留所だ。地方鉄道時代の、ヴァイトホーフェン市街に近接したターミナルだったので、駅舎の前に、側線を撤去した広い跡地が残されている。市街地は三駅目のフォーゲルザング Vogelsang 付近までで、後は郊外風景になる。列車は、しばらくのどかな山里を走ってクライルホーフ Kreilhof は通過し、終点グシュタットのホームに滑り込んだ。

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(左)地方鉄道駅の駅舎と側線跡地
(右)郊外風景の中を走る
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終点グシュタット駅
 

駅前にオフィス機器メーカーの大きな工場があるものの、駅前集落らしきものは見当たらない。というのも、ここは最初から、イプジッツ支線との乗換え用に設けられた駅だからだ。現在も、鉄道が撤退した町や村へ向けて、駅前からバスが出ている。しかし、どのバスもヴァイトホーフェン駅発で、市街地も経由してきているから、乗換え需要はあまりなさそうだ。

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以遠の町へは駅前からバスが連絡
 

駅構内から先へ、草むしながら線路が続いていたので、少したどってみた。残念ながらそれは、右にカーブして、州道B31号線との交差の直前で途切れていた。線路(跡)はここで二手に分かれるのだが、本線ルンツ・アム・ゼー方面は線路が剥がされ、もはや更地状態だ。一方、イプジッツ支線では、イプス川を横断する魚腹トラスの立派な鉄橋がまだ架かっている。川越しに眺めれば、あのシュヴァルツバッハ高架橋のように、シティーバーンの気動車が今にも渡ってきそうな気がする。

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イプジッツ支線イプス川橋梁
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(左)イプス川橋梁遠望
(右)橋上だけは線路が残る
 

しかし、現実はその逆で、今でも短い路線がさらに短縮される予定だ。地元のニュースサイトによれば、市とNÖVOG の共同会見で、シティーバーンの運行を2020年秋または年末に、ヴァイトホーフェン駅から2.8kmのフォーゲルザングまでに短縮し、代わりに、平日と土曜朝は現在の1時間間隔を30分間隔に増発するという発表があった。この間に乗客の90%がいる(換言すれば、以遠区間は利用されていない)のが理由だという。

もちろん、これは単なる赤字の圧縮案ではない。フォーゲルザング停留所の周辺にはスポーツ施設や病院が立地しており、経営資源を集中させることで需要を喚起する作戦らしい。また、行事開催時の駐車場対策、あるいは市街地を通過している州道の混雑緩和効果も視野に入れているだろう。

運行本数の増加に備えて、この夏、一部区間でPC枕木に置き換える軌道強化工事が実施された。全盛期に比べれば長さが1/20になってしまうイプスタール鉄道谷線だが、まだ活用の余地は残されているようだ。

次回は、保存鉄道として運行が続けられている山線区間を紹介する。

■参考サイト
シティーバーン・ヴァイトホーフェン https://www.citybahn.at/
プロ・イプスタールバーン(イプスタール鉄道支援者協会) http://www.ybbstalbahn.at/
NÖN(ニュースサイト) https://www.noen.at/

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2019年9月14日 (土)

マリアツェルの「標準軌」保存路面軌道

マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道 Museumstramway Mariazell–Erlaufsee

エアラウフゼー Erlaufsee ~マリアツェル・プロメナーデンヴェーク Mariazell-Promenadenweg 間 3.3km
軌間1435mm(標準軌 Normalspur)、直流650V電化(一部区間)
1981~85年 マリアツェル駅~エアラウフゼー間開通
2015年 マリアツェル・プロメナーデンヴェークへ延伸

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マリアツェル駅構内
背景の山は標高1626mのゲマインデアルペ Gemeindealpe
 

マリアツェル駅構内の、駅舎とは反対側に幅広の側線が数本敷かれている。マリアツェル鉄道が760mm狭軌のためにことさら広く感じるが、1435mm、紛れもなく標準軌の線路だ。ザンクト・ペルテン中央駅 St. Pölten Hbf のように、本線格の路線が標準軌で、接続する支線が狭軌という駅はよくあるが、逆のケースは珍しい。

線路の所有者は、「ムゼーウムストラムウェー(保存路面軌道)利益共同体 I.G. Museumstramway」という、保存鉄道を運営する団体だ。毎年5月~10月の週末、「マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道 Museumstramway Mariazell–Erlaufsee(下注)」の名で、ここに古典列車を走らせている。

*注 Erlaufsee の訳について、鉄道名や停留所名は「エアラウフゼー」、湖の名(自然地名)は「エアラウフ湖」としている。

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この日の保存列車が行く
 

公式サイトに掲げられた紹介文を引用すると、「マリアツェルとエアラウフゼーの間の路線は、保存運行のために再建された廃線ではない。1976年から2015年にかけて一から新設され、線路でさえも保存路面軌道の活動家がボランティア作業で造ったものである。使用されている施設設備は、オーストリアの路面軌道および地方鉄道会社の技術の歴史を映し出している。」(原文はドイツ語)

路線は現在3.3kmの長さがあり、部分的に架空線も張られている(下注)が、上記のとおり保存鉄道のために新たに造られた線路だ。走る車両こそ古いが、建設後30年ほどしか経っていない。

*注 マリアツェル・プロメナーデンヴェーク Mariazell-Promenadenweg ~フライツァイトツェントルム Freizeitzentrum 間。ただし、電気トラム運行時のみ通電。

同じサイトに、これまでの経緯が記されている。それによれば、保存鉄道の活動は1968年春、後に団体を主宰することになるアルフレート・フライスナー Alfred Fleissner(下注)が、廃車予定だったバーデン路面軌道の100号電車を救い出したことに始まる。次いで、ウィーン市電その他の引退車両を収集し、ウィーンのオッタクリング Ottakring 駅構内の車庫を借りて保存するとともに、事業に当たる協会組織を設立した。

*注 現在は同名の息子と二人で協会を主宰している。

その後、彼がザンクト・ペルテン路面軌道会社に職を得たことから、協会の活動拠点もザンクト・ペルテンの工場跡地に移された。ところが、会社が経営危機に陥ったため、さらなる移転先を求めた結果が、観光地として知られたマリアツェルだった。自治体との交渉が成立し、市街地と郊外のエアラウフ湖を結んでルートを整備することになった。

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マリアツェル駅舎の反対側に延びる標準軌の軌道
 

1976年2月にザンクト・ペルテン路面軌道会社が倒産したとき、協会は、その車両、軌道、架線設備を一括で購入した。マリアツェルでは車庫と軌道の建設が始まり、1981年に、駅から北側のシュポルトプラッツ(スポーツ広場)Sportplatz までの最初の区間が運行可能になった。その後、1983年にヴァルトシェンケ(森の酒場)Waldschenke まで(下注)、1985年にはエアラウフゼーまで軌道が延伸されて、北区間が全通している。

*注 シュポルトプラッツ、ヴァルトシェンケとも臨時の折り返し場所で、現在は使われていない。

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一方、南区間は、ずっと遅れて2012年に着手された。マリアツェル鉄道の廃線跡(下注)を一部利用するとともに、途中で分岐して谷を横断し、駅と町を結ぶ遊歩道のそばに達するルートだ。大掛かりな築堤造成を含む建設工事も2014年には完成し、2015年8月から定期ダイヤで列車が走り始めた。現在、運行は北区間と通しで行われている。

*注 1988年に廃止されたマリアツェル~グスヴェルク Gußwerk 間のうち、マリアツェル側の約600m。狭軌の線路は2003年に撤去済みだったので、保存鉄道用の標準軌線路が新たに敷設された。

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マリアツェル駅周辺の地形図に保存路面軌道のルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

2018年9月下旬、マリアツェル駅に着いたその足で、「マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道」を一往復してみた。保存鉄道は季節運行で、この年は5月20日~10月28日の土日祝日に、1日6往復+出入庫便1往復が設定されていた。全線往復の所要時間は58分だ。

列車ダイヤは、マリアツェル鉄道と接続するように組まれている(下注1)。駅の構内で、本線列車から降りた客に、女性車掌が案内をしていた。その指さす方向、駅舎の反対側の側線に、客待ちしている列車がある。入換用の小型ディーゼル機関車が、デッキつきボギー客車1両(下注2)を牽くミニマム編成だ。

*注1 なお、時刻表の注意書きによれば、悪天候や客の数によって運休することがある。
*注2 もとプレスブルク線 Preßburger Bahn(ウィーン~プレスブルク(現 ブラチスラヴァ)間)で使用された1913年製客車。

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(左)車掌が本線列車から降りた客を案内
(右)本日の運行車両、入換用機関車が古典客車を牽く
 

保存鉄道には、走行可能な世界最古の路面蒸気機関車といわれる、もとウィーン=メードリング蒸気路面軌道 Dampftramway Wien-Mödling  の8号機がいる。それに加えて、ウィーン、バーデン、ザンクト・ペルテン、ザルツブルクなどから来た希少価値の高い路面電車コレクションも相当数所有している。しかし、それが常に稼働しているわけではないらしい。ともかく構内を横切って、そちらに向かった。

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ウィーン=メードリング蒸気路面軌道の8号機関車
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

客車には先客が3~4組いた。まだ席はあるが、いつものように線路観察のためにオープンデッキへ移動する。まもなく機関車のエンジンがかかって、さっきの車掌ともう一人乗務員が乗り込んできた。切符を求めたら、車内補充券の束から1枚繰って、パンチを入れてくれた。発行機から出てくる味気ないレシートでないのはうれしい。全線往復12ユーロ(片道8ユーロ)というのは、走行距離の割に高めだが、保存鉄道への寄付と思っておこう。

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乗車券(車内補充券)
 

10時58分発の列車は、まず南へ向かう。駅の出口で、狭軌の本線線路といったん並行するが、踏切を渡るとすぐ、狭軌は車止めで途切れた。標準軌がその位置に移って、先へ続く。マリアツェル鉄道の廃線跡であるこの短い区間は、27‰の急な下り勾配がついているから、慎重に進む。

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(左)マリアツェル駅を出発
(右)狭軌と並行する区間
 

線路脇に建つ駅の乗務員宿舎を過ぎると、三角線にさしかかった。列車はここで左に折れ、浅い谷をまたぐ築堤を渡っていく。その谷の東斜面に沿っていくと、早くも終点プロメナーデンヴェークだった。名称どおりマリアツェルの町につながる遊歩道(プロメナーデンヴェーク)に並行して、砂利敷きのささやかなホームが造られている。停留所を示すものは、架線柱に取り付けられた古風な標識と小さな時刻表だけだ。

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(左)マリアツェル鉄道廃線跡区間、場内信号機も残存
(右)三角線
  右の軌道が廃線跡区間の続き、
  左がプロメナーデンヴェークへ行く新設区間
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プロメナーデンヴェーク停留所
レトロな停留所標識がかかる
 

乗降客はなく、数分停車した後、11時05分に列車はバックし始めた。最後尾のデッキに乗務員が立ち、赤い旗を振って誘導する。もう一人はデッキの床に座って、誘導役の人と世間話を交わしていたが、三角線の分岐まで来ると地面に降りて、重い転轍てこを反対側に倒した。列車は分岐を左へ進み、廃線跡地の線路に達する(下注)。こうして方向転換を終えた列車は、再び駅のほうへ走り出した。

*注 ここはスプリングポイントのため、自動で進路が変わる。

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三角線での方向転換
(左)車掌が赤い旗を振って誘導
(右)重い転轍てこを起こす
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(左)後退運転で三角線に進入
(右)列車通過後、転轍機を戻す
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(左)転轍手は機関車に添乗
(右)方向転換を終えた列車が駅へ戻る
 

駅でまた数分停まり、今度は北区間の目的地エアラウフゼーに向かう。構内の建物の間を縫うように進み、車庫から出てくる線路と合流する。修理工場を兼ねる車庫は6線を収容する立派なもので、扉の窓ガラスに、保存されている路面電車が透けて見えた。

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6線収容の車庫
ガラス越しに路面電車の姿が
 

ちなみに、保存鉄道の軌道や架線設備は、廃止された路面軌道からのお下がりが再利用されている。まるでアールヌーボーの意匠のような溝つきレールの分岐や、760mm軌間との交差跡などは、特に貴重なものだ。架線を支えるブラケットもよく見ると、さまざまなデザインが揃い、どれも古風で優雅な曲線を描いている。

駅構内を後にして左に折れると、路面軌道らしい造りの停留所(フライツァイトツェントルム Freizeitzentrum、休暇センターの意)を通過した。街灯、待合室、給水設備など、鉄道風景を醸し出す小道具が、あたかも野外博物館のオブジェのようにさりげなく置かれている。

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(左)芸術的な溝つきレールの分岐
(右)760mm軌間の交差跡が残る
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(左)架線を支えるブラケットのデザインにも注目
(右)鉄道風景を醸し出す小道具が揃う
 

それから列車は、ひと気のない野原に出ていった。道路の下を土管状のトンネルでくぐった後は、州道に沿って走っていく。おおむね下り坂で、路盤はコンクリートで固めてあったり、草生していたりとさまざまだ。やがて、終端ループの合流点を通り、森のきわに設けられたエアラウフゼー停留所に到着した。

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(左)路線唯一の「トンネル」
(右)ひと気のない野原を行く
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(左)エアラウフゼー停留所に到着
(右)終端ループから分岐する側線
 

停車時間が10分ほどあるので、エアラウフ湖畔まで出てみた。周囲を山に囲まれた静かな湖だが、鴨の群れが泳いでいるだけで、ボート乗り場には人影がなかった。きょうは曇り空で、半袖では少し肌寒い。標高828mの高地では、レジャー客で賑わう夏のシーズンはもう終わってしまったようだ。

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シーズンオフのエアラウフ湖畔
 

保存鉄道の次なる目標は、軌道を、マリアツェル市街地の入口にあるバスターミナルまで延長することだ。これにより駅と市街地の間を直接結ぶことができ、マリアツェルに車で訪れている観光客へのアピールにも効果がある。遊歩道に沿って通せば400mほどの距離だが、傾斜地のため、路盤を載せる擁壁を築かなければならない。まとまった工事資金の調達にはまだ時間がかかるだろう。

参考までに、保存鉄道の資料に基づいて、全体の配線図を下に示す。愛好家が基礎から造り上げた施設は、実物大の鉄道模型といっても過言でない。

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保存路面軌道の配線図
(マリアツェル保存路面軌道資料集 V3.0 2018年 に基づき作成)
 

次回は、西隣のイプスタール鉄道を訪ねる。

■参考サイト
マリアツェル=エアラウフゼー保存路面軌道  http://www.museumstramway.at/

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2019年8月 3日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 I

ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn

北線 Nordast:
グミュント Gmünd NÖ(下注)~リッチャウ Litschau 間 25.5km、1900年開通
アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg ~ハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein 間 13.2km、1900年開通

南線 Südast:
グミュント Gmünd NÖ ~グロース・ゲールングス Groß Gerungs 間 43.3km、1902~03年開通

軌間760mm、非電化

*注 NÖ はニーダーエースタライヒ Niederösterreich(州)の略。

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蒸機列車がヴァルトフィアテルの森を行く
 

これからしばらく、オーストリア各地で今なお稼働している760mm軌間、いわゆるボスニア軌間(下注)の軽便鉄道をいくつか訪ねていこう。最初に紹介するのは、ドナウ川の北側を走る唯一の路線、ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn だ。

*注 ボスニア・ヘルツェゴビナには、1880~90年代に760mm軌間による大規模な路線網が築かれており、そのため、ドイツ語圏ではこの軌間を「ボスニア軌間 Bosnische Spur / Bosnaspur」と呼ぶ。

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起点はグミュント Gmünd という田舎町で、首都ウィーンから西北西へ直線で120km(下注)、チェコとの国境がもう目前に迫っている。ÖBB(オーストリア連邦鉄道)の最速列車で行っても約2時間かかるその町から、狭軌のか細い線路が北と南へ分かれていく。

*注 鉄道の路線距離は、ウィーン(フランツ・ヨーゼフ駅)~グミュントNÖ 間で162km。

一般輸送はすでに旅客・貨物とも廃止され、今は観光鉄道としての機能しか持っていない。だが、数年前に完成した明るく立派なターミナルからは、嬉しいことに夏のシーズン中、毎日欠かさず列車が運行されている。総延長82kmに及ぶ路線網は、まさしく辺境に残された孤高のナロー王国だ。

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グミュント周辺の鉄道路線の位置関係

6月最初の土曜日、グミュントを訪ねるために、ウィーンの静かなターミナル、フランツ・ヨーゼフ駅 Franz-Josefs-Bahnhof からチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 行のREX(レギオナルエクスプレス、快速列車)に乗り込んだ。Uバーン(地下鉄)に接続する次のシュピッテラウ Spitterau で多数の客を拾うと、列車はものの数分でウィーン市内を抜け出し、ドナウ右岸の河畔林に沿って走っていく。

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ウィーン・フランツ・ヨーゼフ駅
 

トゥルン Tulln で北を向き、ドナウ川を渡った後は、ヴァインフィアテル Weinviertel の緩やかにうねる丘陵地をじわじわと上る。中でもリンベルク・マイサウ Limberg-Maissau 駅の前後は大きなU字ループで、ちょうど谷向こうの鉄橋を降りてくる対向列車の姿を捉えることができた。

この路線はフランツ・ヨーゼフ線 Franz-Josefs-Bahn といい、プラハとウィーンを最短距離で結んでいる。しかし、ドナウの北側に横たわる山地を横断しなければならず、カーブの多いルートになった。それで国際特急はすべて、距離は長くなるものの高速走行が可能な北部本線 Nordbahn、ブルノ Brno 経由で走っており、こちらは実態としてローカル線だ。

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谷向こうを降りてくる対向列車
リンベルク・マイサウ駅付近
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目を和ませる菜の花の絨毯
 

遠望が利くのは、ジクムンツヘルベルク Sigmundsherberg あたりまでだろう。後は、畑や林の交錯する中を延々と走る。今は菜の花の咲く季節で、大地を覆うレモンイエローの絨毯が目を和ませるが、沿線に町らしい町は現れないまま、いつしか車窓は平原の風景に変わっていた。

グミュントNÖ 駅で、乗客のほとんどが降りた。駅舎を出ると、道路を隔てて、大屋根をアーチで支えた正面ガラス張りの建物がひときわ目を引く。「ヴァルトフィアテル鉄道」と書かれたパネルも下がっている。2014年に構内を整理縮小し、新たに造ったターミナルの駅舎兼車庫だ。

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(左)グミュントNÖ 駅到着
(右)ポップに改装された駅正面
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ヴァルトフィアテル鉄道のターミナル
 

建物の中に入ると、案内カウンターもある開放的な待合ホールの奥に、島式ホームを挟んでナローゲージが2線並んでいる。車庫を兼ねているので、線路の出口はシャッターつきだ。これとは別に、建物の外側にも、片側にホームをもつ1本の線路が延びている。後で知ったが、蒸機が牽引する列車はここで乗降するのだった。確かに屋内では、煙がこもってしまうに違いない。

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建物内部
(左)待合ホール
(右)プラットホーム 兼 車庫
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建物の外にある蒸機列車用のホーム
 

乗車券を買おうとカウンターで尋ねると、車内で売ります(下注)と言われた。客の大半は団体かグループで、席を確保するために予約を入れていて、飛び込み客は少ないらしい。満席になっては困るからと、ウィーンを早めに出てきたが、拍子抜けした。空いた時間に市街へ行って、宿に荷物を預けてくることにしよう。

*注 車掌が手売りするので、現金払いのみ可。

列車に乗る前に、ヴァルトフィアテル鉄道の基礎的知識を仕入れておきたい。

まず、鉄道名になっているヴァルトフィアテルだが、これはこの地方の名称だ。ニーダーエースタライヒ Niederösterreich(下オーストリア)は、歴史的に4つのフィアテル(地方)Viertel に区分され、それぞれ主要産業の名で呼ばれてきた。すなわち、

北西部:ヴァルトフィアテル Waldviertel(森林地方の意=林業、鉱業を指す)
北東部:ヴァインフィアテル Weinviertel(葡萄酒地方の意)
南西部:モストフィアテル Mostviertel(果汁地方の意=リンゴ、ナシなどの果実酒醸造を指す)
南東部:インドゥストリーフィアテル Industrieviertel(工業地方の意)

■参考サイト
Wikimedia - ニーダーエースタライヒのフィアテル(エリア図)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vierteleinteilung_in_Niederösterreich.png

ヴァルトフィアテルは、ドナウ川 Donau の北側、マンハルツベルク山 Manhartsberg の西側の、文字どおり山がちな一帯を指す。その地方を鉄道が東西に貫いたのは1869年だった。ボヘミアとウィーンを結んで建設された勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道 k.k. priv. Kaiser Franz-Josephs-Bahn (KFLB、下注)、いうまでもなく現在のフランツ・ヨーゼフ線だ。

*注 勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道は、ヘプ Cheb(ドイツ語名:エーガー Eger)~プルゼニ Plzeň(同 ピルゼン Pilsen)~グミュント~ウィーン間およびプラハ Praha ~グミュント間が主要路線で、1884年に国有化された。

鉄道は、グミュントの町の南西でラインジッツ川 Lainsitz を横断し、左岸に駅が設けられたが、それは静かな田舎町を一変させる出来事だった。なぜなら、ただの中間駅ではなく、プルゼニ方面とプラハ方面からの幹線どうしが合流する駅だったからだ。鉄道の運行拠点として機関庫や修理工場が配置され、グミュントはにわかに鉄道の町の様相を呈した(地理的位置は下図1段目参照)。

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ヴァルトフィアテル鉄道のルート変遷
 

経済効果が明らかになるにつれ、周辺の地域でも鉄道建設を求める声が高まるのは、当然の成り行きだった。1895年に公布されたニーダーエースタライヒの鉄道法 Landeseisenbahngesetz で、建設費に対する公的補助制度が確立すると、実際、次々と地方路線が誕生していく。

グミュント周辺では、地元のガラス産業界の要請を受けて、まずグミュントからリッチャウ Litschau とハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein に至る北線の計画が具体化された。これは1900年7月に実現した。次いで1902年に南線のグミュント~シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ Steinbach-Bad Großpertholz 間、1903年にはグロース・ゲールングス Groß Gerungs までの全線が開通した(上図2段目参照)。さらに北と南へ延伸する構想も立てられていた(下注)のだが、第一次世界大戦の勃発で実現せずに終わった。

*注 北線では、ボヘミアのノイビストリッツ Neubistritz(現 ノヴァー・ビストジツェ Nová Bystřice)で既存の狭軌路線への接続、南線では、ドナウ河畔のクレムス Krems やグライン Grein への延伸が構想された。

その戦争中、オーストリア一円の760mm軌間鉄道から機関車や車両が徴発され、バルカン半島の主戦場へ送達された。しかし、それよりも大きな問題をヴァルトフィアテル鉄道にもたらしたのは、戦後処理だった。

1919年に結ばれたサン・ジェルマン条約で、ラインジッツ川左岸のグミュント中央駅 Gmünd Hbf(および狭軌線のグミュント地方鉄道駅 Gmünd Lokalbahnhof)とその周辺が、ニーダーエースタライヒから分離され、新生チェコスロバキア共和国(以下、チェコという)に属することが確定したのだ。それに伴い、駅はチェコ語の地名に基づきチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 駅(下注)に改称された。

*注 もとのドイツ語地名であるヴィーランツ Wielands をチェコ語に言い換えたもので、「チェコのヴィーランツ」を意味する。

グミュントが運行拠点のヴァルトフィアテル鉄道にとって、これは頭を抱える裁定だった。1920年7月の条約発効後しばらくの間、チェコ側では列車を空のまま発車させ、国境を越えたオーストリア側の最初の停留所で客を乗せる措置がとられた。その後1922年に国鉄が、オーストリア側に以前からあったグミュント・シュタット Gmünd Stadt 停留所を駅に改修するのに合わせ、狭軌の線路も延伸して、ここを列車の起点とした(上図3段目参照)。

ただしこの時点では、機関庫と修理工場はチェコに残されたままで、北線も一部でまだチェコ領を通っていた。そのため、機関車は相変わらず旧駅の機関庫をねぐらにしており、新駅との間を回送で走った。また、北線の列車は、チェコ領を無停車(下注)で通過するコリドーアツーク Korridorzug(回廊列車)の形で、リッチャウ方面へ向かったのだ。

*注 短絡線ができる1947年までは旧駅で折り返していたので、停車はしたが乗降はできなかった。

なお、この間1921年にオーストリア連邦鉄道 Österreichische Bundesbahnen(BBÖ、後にÖBB) 、いわゆる国鉄が成立し、狭軌鉄道も国鉄に引き継がれている。

第二次世界大戦もまた、ヴァルトフィアテル鉄道に多大な影響を及ぼした。第一に、チェスケー・ヴェレニツェの鉄道施設が、空爆に曝されて使用できなくなった。そのため、グミュント・シュタット(1946年に「グミュントNÖ」に改称)に、新たに狭軌用の機関庫と修理工場が整備された。

第二に、回廊列車の運行を嫌ったチェコスロバキアが、オーストリア側における短絡ルートの建設を促した。チェコが費用を負担して新線が造られ、こうして1950年12月から、北線はチェコ領を通らない現行ルートで走るようになったのだ(上図4段目参照)。

なお、新線開通によりグミュントNÖ 駅西方の三角線は不要となったが、車両の方向転換用にまだ残されている。しかし、蒸機は復路でも向きを変えず、バック運転、いわゆる逆機で戻ってくるため、日常運用でこれが使用されることはない。数奇の歴史を秘めた三角線だが、レールはもはや錆びついてしまっている。

三角線とそれに続くチェスケー・ヴェレニツェ駅前までの廃線跡の現状は、下の写真を参照されたい。

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グミュントNÖ 駅西方の三角線(下図①)
気動車が通っているのが三角形の他の一辺
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(左)立体交差するÖBB線の列車から三角線を北望
(右)三角線の西端は国境手前で途切れている
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(左)国境のラインジッツ川を渡る廃線跡遊歩道(②)
右手前にÖと刻まれたオーストリアの国境標が見える。この付近ではラインジッツ川の中心線に国境があるが、鉄橋とその敷地はチェコ領のため、国境線がこうして川の右岸(東側)に張り出している(南にある標準軌線の橋梁も同様)。
(右)チェコ側も遊歩道に(③)
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チェスケー・ヴェレニツェ
(左)街角の路地が遊歩道入口(④)
(右)駅までの廃線跡は公園化され、マロニエの並木が続く(⑤)
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現 チェスケー・ヴェレニツェ駅舎は戦後の再建(⑥)
駅前にあった狭軌線施設も戦災に遭い、解体撤去された
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グミュント周辺の地形図に廃線跡等を加筆
図中の①~⑥は上掲の写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ようやく運行体制を整えたヴァルトフィアテル鉄道だったが、戦後は自動車交通の進展に伴い、緩やかな衰退に向かい始める。蒸気機関車が定期運行を担うオーストリア最後の鉄道(登山鉄道を除く)として、ファンの人気を集めたのもつかの間、1986年にハイデンライヒシュタイン支線を含む北線の一般旅客輸送が、1992年にはハイデンライヒシュタイン支線の貨物輸送が休止となった。2000年には南線の貨物輸送、2001年1月に北線で残っていた貨物輸送の休止と段階的な縮小が実施され、ついに2001年6月9日、南線における一般旅客輸送の終了をもって全線休止となったのだ。

一方、観光列車の運行が1979年に開始されており、一般輸送廃止後は、もっぱら観光による地域開発のために鉄道が維持されている。運行事業者は、州の公営企業であるニーダーエースタライヒ運輸機構有限会社 Niederösterreichische Verkehrsorganisations-Ges.m.b.H (NÖVOG) だが、2010年にはインフラもÖBBから移管されて、鉄道運営の一元化が図られた。

なお、北線のハイデンライヒシュタイン支線(アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg~ハイデンライヒシュタイン間)については、非営利法人のヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会 Waldviertler Schmalspurbahnverein (WSV) が「ヴァッケルシュタイン急行 Wackelstein-Express」の名で走らせている。

狭軌鉄道の車両群は、基本的にグミュントが拠点だ。日常的に使われるのは、1986年ノッツ Knotz 社製5090形気動車3両(VT08、VT11、VT13)で、その塗色から「金色のディーゼルカー Goldener Dieseltriebwagen」と呼ばれる。オーストリアの多くの760mm軌間で運行の主力を担っているものと同形式の車両だ。

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5090形気動車
 

北線で日祝日、南線で水・土曜に走る古典列車編成は、蒸気機関車またはディーゼル機関車が牽引する。前者はクラウス社 Krauss & Co による1906年製のテンダー蒸機で、Mh.1 および Mh.4(下注)の2両が在籍している。もともと山岳路線のマリアツェル鉄道 Mariazellerbahn 向けに造られており、連続勾配・急曲線に適応した性能をもつ。南線の「ヴァルトフィアテルのゼメリング Waldviertler Semmering」と呼ばれる山登り区間が、一番の見せ場だ。後者は1950~60年代製の機械式ディーゼル機関車で、V5とV12の2両が就役している。

*注 形式名の M はマリアツェルの頭文字、h は過熱式 Heißdampf を表す。マリアツェル鉄道については「オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 I」参照。

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蒸機 Mh.4 が2軸客車を牽く
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ディーゼル機関車 V5 と V12
 

観光輸送に特化されたヴァルトフィアテル鉄道は、シーズン限定の運行だ。2019年の場合、北線は5月1日~9月29日、ハイデンライヒシュタイン支線は7月13日~9月1日、南線は4月27日~10月27日で、しかも7月~9月第1週のハイシーズン以外は平日(水曜を除く)運休になる。また、1日の運行本数も1本から多くて3本までなので、訪問する際は、運行日と時刻表をよく確かめておく必要がある。

では次回、まず北線から、路線の特色や車窓風景について紹介しよう。

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト)  https://www.waldviertelbahn.at/
ヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会(ヴァッケルシュタイン急行) http://www.wsv.or.at/cms/

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2019年6月29日 (土)

列車で行くアッター湖 I-カンマー線

ÖBB フェクラブルック=カンマー・シェルフリング線(カンマー線)
Bahnstrecke Vöcklabruck–Kammer-Schörfling (Kammerer Bahn)

フェクラブルック分岐点 Abzw. Vöcklabruck ~カンマー・シェルフリング Kammer-Schörfling 間 8.1km
軌間1435mm(標準軌)、交流15kV 16.7Hz電化
1882年開通、2014年カンマー・シェルフリング駅移転(路線長0.5km短縮)

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アッター湖岸のヨットハーバー
カンマーにて

オーストリアの湖水地方、ザルツカンマーグート Salzkammergut で最大の湖が、アッター湖 Attersee だ(下注)。前回までのテーマだったトラウン湖 Traunsee の西15~20kmに横たわっている。南北約20km、東西4kmの広さをもち、面積は46.2平方km。氷河湖起源のため、最大水深は169mもある。

*注 オーストリア全体でも、ボーデン湖 Bodensee とノイジードル湖 Neusiedler See に次ぐ。この二つの湖は国境をまたいでいるので、水面がすべてオーストリア領の湖では最大。

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バート・イシュル Bad Ischl やグムンデン Gmunden といった著名なリゾートのあるトラウン川の谷(トラウンタール Trauntal)に比べると開発は遅れたが、かえってその静けさが好まれて、1860年代には避暑客が訪れるようになる。

1869年に、湖岸の村々に立ち寄る航路が整備され、翌年から外輪蒸気船が就航した。1882年には、ウィーン~ザルツブルク間の皇后エリーザベト鉄道 k.k. privilegierten Kaiserin Elisabeth-Bahn(現 西部本線 Westbahn)から湖に至る鉄道の支線が完成し、湖岸に設けられた終着駅で航路に接続した。交通の便が改善されたことで、多くの中産階級が湖を訪れるようになり、アッター湖は夏の別荘地としても人気が高まっていく。

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湖面に照り返す日差しが眩しい
カンマーの突堤から南望
 

この鉄道支線が、現在の ÖBB(オーストリア連邦鉄道)カンマー線 Kammerer Bahn(下注1)だ。正式名をフェクラブルック=カンマー・シェルフリング線 Bahnstrecke Vöcklabruck–Kammer-Schörfling といい、「カンマラー・ハンスル Kammerer Hansl(下注2)」というあだ名もあった。

*注1 ÖBBの路線については、線名にある Bahn の訳を「~鉄道」ではなく「~線」とした。
*注2 ハンスル Hansl は、人名ヨハネス Johannes の短縮形。ハンスルに特別な意味はなく、「カンマーの太郎」といったニュアンス。

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アッター湖周辺の鉄道路線の位置関係
緑がカンマー線
 

カンマー線の列車は、南部本線のフェクラブルック Vöcklabruck を出て、カンマー・シェルフリング Kammer-Schörfling まで10.4km(正確には10.408km)を走る。実際はフェクラブルックの西2.3km(同 2.267km)地点で本線から分岐するので、支線の実長は8.1km(同 8.141km)になる。

開通は1882年5月のことだ。その5年前(1877年)にトラウンタールを遡ってバート・イシュル方面へ、ザルツカンマーグート線 Salzkammergutbahn が通じており、アッターガウ Attergau、すなわちアッター湖沿岸でも鉄道の到来が待望されていた。

カンマー線(下注)は初め、私設の地方鉄道として造られたが、オーストリアがナチスドイツに併合されて間もない1939年に、他の地方鉄道とともに国有化され、ドイツ帝国鉄道 Deutsche Reichsbahn の路線となった。第二次世界大戦後は、ÖBBリンツ鉄道管理局に属し、1955年7月に、本線と同じ方式で電化されている。

*注 開通時の終点の駅名が、避暑地として名の通った「カンマー Kammer」だったのでこう呼ばれる。その後、自治体名のシェルフリング・アム・アッターゼー Schörfling am Attersee に合わせて、1909年に現 駅名に改称された。

1970年代までは、アッター湖の観光とともに、沿線にある製材工場などの産業が盛んで、旅客輸送にも活気があった。しかし、その後は道路交通への移行や、産業の不振に伴う雇用者数減少などが重なって、カンマー線はひどい不振に陥っていく。

2001年6月のダイヤ改正は、地元に衝撃を与えた。ÖBBが、旅客列車をそれまでの12往復から、一気に平日1往復までカットしたのだ。旅客輸送の存続は、もはや風前の灯火となった。地域交通を維持するためにオーバーエースタライヒ州は、ÖBBに業務委託する形で旅客輸送を続けることにした。その費用は州の予算と、部分的に地方自治体の補助金で賄われる。

この結果、旅客列車は2006年から2往復、2007年12月には5往復に復活した。現在(2019年6月)は9往復まで増便されている。そのうち3往復は昔のように、本線のアットナング・プフハイム Attnang-Puchheim まで足を延ばす。

ただし、運行は平日のみで、土日祝日は完全運休になる。カンマー線に並行して、アットナング・プフハイム駅と湖南部のウンターアッハ Unterach やシュタインバッハ Steinbach などとを結ぶバス路線(路線番号561、562など)があり、カンマー線の機能を補うことができるからだ。

フェクラブルック駅のカンマー線ホームは、1番線の反対側にある頭端式の短い21番線だ。訪れたときには、13時24分発の列車が停車していた。低床3車体連節のボンバルディア社製タレント Talent で、ザルツブルク交通 Salzburg Verkehr のロゴが入っている。ザルツブルクのSバーンとの共用のようだ。当地はオーバーエースタライヒ州で、州は違うのだが、運用上1編成あれば足りるから、近所から借りたのだろうか。

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(左)フェクラブルック駅のカンマー線ホーム
(右)ザルツブルク交通の連節車で運行
 

平日の昼過ぎなので、車内は閑散としていそうなものだ。ところが予想に反して、座席は学校帰りの子どもたちに占拠されて、とても賑やかだった。鉄道に並行するバス路線があっても、一度にこれだけの人数を運ぶことは難しい。そこに、カンマー線の旅客列車がすんでのところで廃止を免れた一つの理由があるようだ。レジャー客が対象でないなら、休日の運休も納得できる。彼らには、湖岸の町や村へ乗換なしで行けるバスのほうがずっと便利に違いない。

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のどかな沿線風景もある
 

発車すると本線に入り、しばらくその上を進む。それから軽く振られて、隣の線路へ移った。視線が本線より少し高くなったところで、左へカーブしていく。リゾート地へ向かう路線というイメージとは違って、沿線には畑や森がある一方、工場や商業施設も目につく。特にレンツィング Lenzing 駅の南には、木材から化学繊維を製造するレンツィング社の大規模な工場群があり、高い煙突から立ち上る白い煙が、遠くからも見える。多数並んだ側線には貨車の列が留置されていて、ここだけ切り取れば、工業地帯を走る路線と思われてもおかしくない。

子どもたちは途中の駅や停留所でぱらぱらと降りていき、最後まで乗っていたのは半数に満たなかった。全線の所要時間は17分、速度が落ち、アーガー川 Ager の鉄橋を渡ると、すぐに終点のカンマー・シェルフリングだった。

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カンマー・シェルフリング駅到着
学校帰りの子どもたちも下車
 

終点駅は、州が実施した地域交通政策の一環で、近年大きく様変わりしている。かつては航路との接続のために、ここからさらに約500m南に進んだ湖岸に駅があった。2014年6月にルートが短縮され、アーガー川の道路橋のたもとに、バスと乗継ぎができる駅施設がオープンした。列車ホームの反対側に、路線バスが発着する。

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(左)移転・新設された駅施設
(右)反対側にバスが発着
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カンマー・シェルフリング駅周辺の地形図に鉄道ルートを加筆
破線は旧線跡
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

では、旧駅やそこへ至る廃線跡はどうなっているのだろうか。新駅に接して、駐車場の敷地が弧を描いており、旧線跡が転用されたことがわかる。その先はアーガー通り Agerstraße の元踏切を越えて、家並みの裏に回るが、線路はすでになく、草の生えた空地が続いている。州道B152号線(湖岸通り Seeleiten Straße)を横断したところが旧駅跡で、施設はすべて撤去され、更地に還っていた。

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旧線跡
(左)駐車場の敷地が弧を描く
(右)アーガー通りの元踏切から家並みの裏側へ

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(左)B 152号線の元踏切から北望
(右)B152号線(手前の道)の先が、更地になった旧駅跡
 

ここまで来ると、アッター湖の波静かな湖面がもう目の前にある。今日は抜けるような青空で、照り返す日差しが眩しく、目に痛いほどだ。湖上連絡船の船着き場から、入江のヨットハーバーを隔てて、湖岸の並木越しに端正な建物が見える。記録が12世紀に遡るというカンマー城 Schloss Kammer で、この地を毎夏訪れていた世紀末の画家クリムト Klimt も描いている。

■参考サイト
ベルヴェデーレ・オーストリア絵画館(公式サイト)-グスタフ・クリムト「アッター湖畔のカンマー城 III」
https://digital.belvedere.at/objects/3112/schloss-kammer-am-attersee-iii
同 「カンマー城への並木道」
https://digital.belvedere.at/objects/8691/allee-zum-schloss-kammer

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湖に臨むカンマー城(右手前の建物)
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カンマー城への並木道
いずれもクリムトの絵のモチーフ
 

隣接する公園のベンチで少し休憩した後は、対岸に来ているもう1本の路線、アッターゼー鉄道を訪れよう。続きは次回に。

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2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

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消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

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鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
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旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
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拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた
 

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

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(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

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御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

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(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
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富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

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竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

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八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

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(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
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大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

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大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

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(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
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橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

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(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

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初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

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初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
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初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

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上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

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2019年2月 9日 (土)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 II-現況

ウィーン中央駅の東口からヌスドルフ Nussdorf まで、市電D系統のトラムが乗り換えなしで連れていってくれる。時間は45分ほどかかるが、どのみち降りるのは終点なので、リング通り Ringstraße に建ち並ぶ豪壮な建物群を眺めながら、観光気分でのんびり乗っていればいい。

ほとんど数字に置き換えられてしまったウィーン市電の系統名のなかで、D系統は頑なに昔の英字名を残している。まるで登山鉄道へのアクセスルートとして造られた由緒を誇るかのようだ。国鉄(オーストリア連邦鉄道 ÖBB)のヌスドルフ駅前で左折し、町なかの狭い坂道を少し上ると、終点のベートーヴェンガング Beethovengang(下注)が見えてくる。トラムは終端ループを一回りしてから、停留所の前に停まる。

*注 この地名を忠実に転写すれば「ベートホーフェンガング」になるが、後述のように作曲家ベートーヴェンにちなんだ名称なので慣用読みに従う。

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終点ベートーヴェンガングに停車中のD系統トラム
 
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ヌスドルフ~グリンツィング間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
数字は各写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

このループに囲まれたレモン色の塗り壁の建物こそ、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の起点だったヌスドルフ旧駅舎だ。他の駅舎がすべて取り壊されたなか、今はなき登山鉄道を記念する建造物として、唯一完全な形で遺されている。現在は、アインケーア・ツア・ツァーンラートバーン Einkehr zur Zahnradbahn というレストラン(下注)が入居している。午前中でまだ食事には早かったが、主人らしき人に中を見たいと言うと、快く応じてくれた。

*注 店の名は、御休み処「ラック鉄道館」といった意味。

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[1] ヌスドルフ旧駅舎の正面玄関
 

ホールにはテーブルが並んでいて駅の面影はないが、壁に、ラック鉄道のルート図や機関士の肖像写真などが掲げてある。突き当りの扉の外はホームだったはずだが、テラス席が占領していた。生垣の向こうは市電のループ線で、ラック列車が来なくなった後も、トラムが代役を務めてくれているようだ(下注)。

*注 登山鉄道が稼働していた当時は、路面軌道は駅前で行き止まりになっており、終端ループはなかった。

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(左)旧駅舎のホーム側、今はレストランのテラス席に
(右)レストランの看板は当時の写真をあしらう
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(左)旧駅舎内部
(右)最終列車に乗車した機関士の肖像写真、右の壁には制帽が掛かる
 

駅舎を辞して、周囲を観察する。東側の、かつて機関庫があった場所は、集合住宅が建っている。一方、市電線路を挟んで西側には、一見あずまや風の施設がある。男子小用の公衆トイレなのだが、これは当時からあるものだそうだ。個別便器のない掛け流し(?)方式で、確かに古そうに見える。ちょうどループを回ってきたトラムがその前で停まったと思ったら、乗務員氏が降りてきて中に駆け込んだ。

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(左)当時の公衆トイレが今も現役
(右)トラムも臨時停車!
 

駅前の道から山手に向かって、インターロッキングが施された廃線跡がまっすぐ延びている。その名もツァーンラートバーンシュトラーセ Zahnradbahnstraße(ラック鉄道通りの意)なので嬉しい。機関車になったつもりで、緩い坂を上っていく。もとは複線が敷かれていたから用地幅は広いのだが、すぐにシュトラーセとは名ばかりの遊歩道になり、周りは雑草が生い茂る。

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(左)[2] ラック鉄道通りが山手へ延びる
(右)[3] 遊歩道は将来、並木道になるのだろう
 

最初に横切る車道は、エロイカガッセ Eroicagasse(英雄小路の意)だ。道の西側は、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタット Heiligenstadt 地内なので、通りの名が交響曲第3番の標題から来ていることは容易に想像がつく。ちなみに、すぐ右手を流れる小川、シュライバーバッハ Schreiberbach に沿って、市電の停留所名にもなったベートーヴェンガング Beethovengang(ベートーヴェンの小径)が延びている。交響曲第6番「田園」の曲想が練られたという名所だ。行ってみると、ナイチンゲールもカッコウも鳴いていなかったが、木の枝に茶色のリスがいて、一心に木の実をかじっていた。

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(左)[4] 小川に沿うベートーヴェンの小径
(右)[4] 小川に接する築堤の擁壁は鉄道時代のものか?
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一心に木の実をかじるリスを目撃
 

この小径とエロイカガッセとの交差点の標識を写真に撮る人は多いのだが、すぐ近くにあるラック鉄道通りとエロイカガッセの交差点標識に気づく人はいるのだろうか。ともかく、英雄の冒頭主題を口ずさみながら、廃線跡をさらに上流へ歩いていく。右手の広場に、列車を象った木製遊具が置かれていた。ベートーヴェン公園 Beethovenpark の一角なのだが、子どもたちにとっては花より団子、楽聖より汽車ポッポだろう。

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(左)[5] ベートーヴェンの小径とエロイカガッセの交差点は観光名所
  (語頭の 19. はウィーン19区を意味する)
(右)[6] ラック鉄道通りとの交差点もすぐ近くに
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[7] ベートーヴェン公園の一角にある列車形の木製遊具
 

ここで線路は、カーレンベルガー通り Kahlenbergerstraße を乗り越していた。かつての跨道橋は、煉瓦積みの橋台だけが残っている。複線を支えていたので、幅広の構造物だ。橋桁は撤去されて渡れないため、いったん築堤から降りて、通りを平面横断する。見通しが悪いから、クルマには要注意だ。

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[8] カーレンベルガー通りの跨道橋橋台
(左)北側から (右)南側から
 

すぐに廃線跡に戻るも、周りの森がますます茂ってきて、上空を覆ってしまう。100年も経てば空地が自然に還ってしまうのも当然だが、一人で歩くのはいささか心細い。と思っていたら、いくらも行かないうちに突然森が開け、住宅地の中へ飛び出した。廃線跡は、それを貫く道路として完全に再生されてしまっている。道路名も変わって、ウンタラー・シュライバーヴェーク Unterer Schreiberweg(下シュライバー道の意)だ。勾配はすでにけっこうきつく、7~8%(70~80‰、下注)あったようだ。

*注 以下の文中で示す線路勾配は、ヌスドルフ旧駅舎内に掲げられている地図に記載の数値(%表示)による。

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(左)[9] 廃線跡は森の小道に
(右)[10] 突然開けて住宅街へ
 

起点で西へ向けて出発したルートは、いくつかの曲がり角を経て、今は北西、ウィーンの森の方向に針路を変えている。勾配はさらに険しくなり、10%に達する。アキレス腱に堪える坂道を、ジョギング姿の若者が軽々と追い抜いていった。右手の家並みがとぎれると、カーレンベルクの裾野を埋め尽くした葡萄畑が見え始める。グリンツィング Grinzing のホイリゲで出されるワインの葡萄も、ここで栽培されているのだ。

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(左)[11] グリンツィング駅跡を振り返る
(右)[12] 勾配路の周囲は敷地の広い高級住宅地
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[13] カーレンベルクの裾野を埋め尽くす葡萄畑
その先に山上の送信塔やホテルが見える
 
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グリンツィング~カーレンベルク間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

田舎道と斜めに交わる位置の手前に、グリンツィング駅があったはずだが、それらしき痕跡はなかった。急坂はこのあと6%まで緩む。次のクラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl 駅との間は短く、約700mしかない。全線の中間に位置するこの駅では、山を上る機関車に水が補給された。駅舎は第二次大戦後に取り壊され、現在は市民プール(クラプフェンヴァルドルバート Krapfenwaldlbad、略してクラーヴァ Krawa)の駐車場に利用されている。

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[14] クラプフェンヴァルドル駅跡は市民プールの駐車場に
 

さて、麓から廃線跡をたどってきた人は、おそらくここで道を間違える。というのも、駐車場の上手から、車道に並行して一見線路敷のようなインターロッキングの小道が延びているからだ。しかし、ほんとうの廃線跡は、車道から右45度の方向に離れていく。地図でなら一目瞭然だが、現地ではいくつもの分かれ道が見え、しかも真のルートは茂みに埋もれかけている。道が途中で行き止まりにならず、山手へまっすぐ続いていたら選択は正しい。

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(左上)[15] 駐車場上手の分かれ道、矢印が廃線跡
(左下)[16] さらにY字路あり
(右)[17] 踏み分け道になった廃線跡
 

山にとりつく区間のため、勾配は再び10%に高まる。茂みの合間から、緑の縞模様を描く葡萄畑越しに、目指すカーレンベルクの教会やホテルの建物が見えた。右後ろには、遠くドナウ本流とノイエ・ドナウ Neue Donau の2本の帯が光り、それをはさんで高層ビルが2棟、背比べをしている(下注)。いつのまにか、かなりの高さまで上ってきたことに気づく瞬間だ。

*注 川の右がミレニアムタワー Millennium Tower 、左がドナウシティのDCタワー DC Tower。

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[17] ドナウ川とウィーン新市街の高層ビル群を望む
 

踏み分け道の緩い左カーブはいかにも線路跡で、800mほど行けば、2車線道のヘーエンシュトラーセ Höhenstraße(高地通りの意)と合流する。今上がってきた小道は可動柵で通せんぼされているが、これはクルマの進入を防ぐためのもので、徒歩であれば問題ない。実際、犬の散歩をしている人に会ったし、山岳スポーツ情報のサイト「ベルクフェックス Bergfex」にも、廃線跡歩きのルートとして描かれている(下注)。

*注 https://www.bergfex.com/
"Auf den Spuren der Zahnradbahn auf den Kahlenberg" を検索。(検索語句は「ラック鉄道跡をカーレンベルクへ上る」の意)"

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[18] ヘーエンシュトラーセとの合流地点
(左)小道側には車止めの柵がある
(右)反対側から見たところ
 

この先の廃線跡は、勾配が3~4%と緩むこともあり、残念ながら2車線道に上書きされてしまった。歩道がないし、カーブも多いので、歩くのは危険だ。「ベルクフェックス」の地図に従い、車道の山側に別途設けられた小道に退避する。

小道は、広葉樹の森を縫う気持ちのいい散策路だった。車道とほぼ並行しており、かつ多くの区間でそれより高みを通っているので、廃線跡の観察も可能だ。さっきの踏み分け道から打って変わって、気持ちに余裕が出てきたのか、ウィンナワルツ「ウィーンの森の物語」でツィターが奏でる、あの鄙びた響きのメロディーが口をつく。

2車線道が、線路跡らしい緩いカーブで東へ方向転回し始めたところで、小川を渡った。他でもない、ベートーヴェンガングのリスの木の下を流れていたシュライバーバッハの源流だ。道路下は溝渠で、側面に上塗りしたモルタルが剥がされ、鉄道時代の煉瓦積みを露出させてあった。

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(左)[19] ウィーンの森の散策路
(右)[20] 溝渠に鉄道の煉瓦積みが露出
 

ズルツヴィーゼ Sulzwiese のバス停を通過し、散策路はなおも蛇行しながら上る廃線跡の車道についていく。やがて車道の反対側に、駐車場のような細長い空地が現れる。これが最初のカーレンベルク駅跡だ。前回記したとおり、登山鉄道が1874年に開業したとき、ライバル会社が山頂を押さえていたため、ここに仮の終点を置かざるを得なかった。この会社を買収するまで、たった2年の暫定措置だった(下注)ので、痕跡は何もなさそうだ。

*注 駅廃止後も、複線から単線になる信号所としての機能は残っていた。

車道が左へそれていく一方、直進している舗装道が廃線跡だ。旧駅から先は単線だったので、車1台が通れる程度の幅しかない。ちなみにこの道は、山頂に送信施設をもつオーストリア放送協会 ORF の私道で、入口に立つ標識には「当分の間任意通行を許可します。ただし事情を問わず利用は自己責任です(下注)」と記されている。

*注 原文は以下のとおり。 "Bis auf Widerruf freiwillig gestatteter Durchgang. Die Benützung erfolgt jedoch in allen Fallen auf eigene Gefahr."

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(左)[21] 蛇行しながら上る車道が廃線跡
(右)[22] 旧駅跡の空地から、直進する廃線跡を望む
 

森の中を緩いカーブで上っていくうち、赤白に塗り分けた送信塔が見えてきた。道を直進すると、金網で閉ざされた送信施設の専用区域だ。ここが終点カーレンベルク駅の跡なのだが、立ち入ることはできない。左手に進むと、送信塔と並んで、ラック鉄道会社が客寄せのために造ったシュテファニー展望塔 Stefaniewarte が建っている。今日は平日なので、塔の周りには人影もなかった(下注)。

*注 展望塔入口のプレートによれば、開館は5月から10月の、土曜12~18時と日・祝日10~18時(ただし好天時のみ、また10月は17時まで)。

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[23] ひと気のないカーレンベルク山頂
送信塔の後ろにシュテファニー展望塔が立つ
 

小道を下ると、カーレンベルク山上広場に出る。正面に聖ヨセフ教会、右手に私立ウィーン・モジュール大学 Modul University Vienna の施設、その奥はホテルで、大学との間に展望テラスが広がる。少し遠目ではあるが、ドナウの両岸に拡がるウィーン市街地が一望になる。目を凝らすと、フンデルトヴァッサーのデザインした有名なシュピッテラウの清掃工場の煙突の奥に、旧市街のシンボル、シュテファン大聖堂の尖塔も見えた。

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[24] テラスからのウィーン市街展望
 

ところで、山上まで来たからには、テラスの手前に置かれているラック鉄道の記念物を忘れてはならない。幅広のずんぐりした車体に華奢な車輪、妻面にカーレンベルク・ラック鉄道 Zahnradbahn Kahlenberg と書かれているとおり、かつて走っていた客車のレプリカだ。スイスのリギ山によく似た形の車両があるが、カーレンベルクも、同じニクラウス・リッゲンバッハの設計だから偶然ではない。

レプリカが据え付けられた当初は、車内が鉄道写真の展示室になっていたそうだが、今や荒れ放題で、天井がつっかえ棒に支えられているのも痛々しい。ともかく、山上でラック鉄道の面影を偲べるものは、これが唯一だ。

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[25] カーレンベルク山上広場に置かれた客車のレプリカ
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山上広場をテラスと反対側へ進むと、広い駐車場と、その片隅に下界へ降りるバスの乗り場がある。大学施設があるおかげで、38A 系統のバスがわりと頻繁に出ている。途中グリンツィングで降りれば38系統のトラムで、終点ハイリゲンシュタット駅前まで乗ればUバーン(地下鉄)で、それぞれ旧市街に戻ることができる。

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