廃線跡

2025年1月17日 (金)

ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線

アッペンツェル鉄道ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線 AB Bahnstrecke Gossau SG–Wasserauen

ゴーサウSG~ヴァッサーラウエン間32.10km
軌間1000mm、直流1500V電化
1875~1913年開業

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ゴーサウ駅に停車中の「ヴァルツァー Walzer」

ザンクト・ガレン St. Gallen から西行きSバーンで3駅目のゴーサウ Gossau SG(下注)。駅舎寄りの標準軌線ホームから側線を隔てて少し離れた場所に、1本の島式ホームがある。10数両分の余裕がある標準軌側に比べて格段にコンパクトで、ローカル私鉄の雰囲気が漂う。

*注 Gossau は(ゴッサウではなく)ゴーサウと発音する。SG はザンクト・ガレン州の略。他州の同名の町と区別するため。

アッペンツェル鉄道のゴーサウ=ヴァッサーラウエン線 Bahnstrecke Gossau SG–Wasserauen は、長さ32.1kmの電化メーターゲージ線だ。このホームから出発し、ヘリザウ Herisau、ウルネッシュ Urnäsch、アッペンツェル Appenzell といった町を経て、ヴァッサーラウエン  Wasserauen に至る。個性派ぞろいの同社の路線群を見てきた目には、取り立てて特色もなさそうに映るが、実は歴史が最も古く、ルーツと言うべき路線だ。

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ゴーサウ駅地下道入口
駅名標に両社のロゴが並ぶ
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ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線周辺の地形図にルートを加筆
ゴーサウ~アッペンツェル間
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
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同 ウルネッシュ~ヴァッサーラウエン間
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

開業したのは1875年4月(下注)、蒸気運転でスタートした。ただし、ルートは現在とは違い、ゴーサウのひと駅東のヴィンケルン Winkeln が起点で、ヘリザウ(初代)を終点とする約4kmの小路線だった(下図1875年の項参照)。

*注 同年9月に開業したロールシャッハ=ハイデン登山鉄道 Rorschach-Heiden-Bergbahn より5か月早い。

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ゴーサウ~ヘリザウ間のルート変遷
 

ヘリザウは、アッペンツェル・アウサーローデン準州 Appenzell Ausserrhoden の行政機関が集まる事実上の州都だ。当時、スイス東部ではザンクト・ガレンに次ぐ人口があった。しかし、高台に位置するため標準軌幹線(下注)が経由せず、町では連絡鉄道を求める声が高まっていた。

*注 1856年に開通したヴィンタートゥール=ザンクト・ガレン線 Strecke Winterthur - St. Gallen。1902年の国有化でSBB(スイス連邦鉄道)の一路線になった。

「スイス地方鉄道会社 Schweizerische Gesellschaft für Localbahnen (SLB)」が、鉄道建設に名乗りを上げる。バーゼル Basel に拠点を置き、同じように鉄道の恩恵を受けていない複数の地域で支線開設を目論む会社だった。その手始めがヘリザウだったが、収益性の理由で、ウルネッシュとアッペンツェルへの延伸も計画に盛り込まれた。

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東側から望む初代ヘリザウ駅と市街地(1910年以前)
Photo from wikimedia. License: public domain
 

1875年4月のヘリザウ開業に続いて、同年9月にはウルネッシュまで完成して、運行が始まった。初代のヘリザウ駅は、市街地の前に設けられた頭端駅だ。そのため、到着した列車は坂下の信号所までスイッチバックし、改めてウルネッシュへ向かった。

追加の資金調達が不調に終わり、会社が抱いていた他地域への拡張構想は頓挫する。結局、スイス地方鉄道会社は、1886年のアッペンツェル延伸開業を前に、アッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahn と改称し、地元の鉄道会社として存続するしかなかった。

ヘリザウの町にとって、次の鉄道はザンクト・ガレンから到来した。1910年に開業したボーデンゼー=トッゲンブルク鉄道 Bodensee-Toggenburg-Bahn(現 スイス南東鉄道 Schweizerische Südostbahn (SOB))だ。新駅の設置によりヘリザウは、標準軌線でザンクト・ガレンと直接結ばれることになった。

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SOB線ジッター川橋梁、高さ99m
 

アッペンツェル鉄道にとってこれは競合路線であり、かつ自社線は遠回りで乗換えを要するため、圧倒的に不利な状況だ。すでに1904年から、ガイス Gais 経由でアッペンツェルに到達したアッペンツェル路面軌道 Appenzeller Strassenbahn(下注)によって、終点駅でも客の争奪戦が発生していて、二重の打撃となることは避けられなかった。

*注 現 ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線 St. Gallen-Gais-Appenzell-Bahn。

これを見越してアッペンツェル鉄道は、起点をヴィンケルンからゴーサウに移す認可を申請していた。ゴーサウでの接続の利点は、ヴィンタートゥール Winterthur など西方から近いことはもとより、支線によってヴァインフェルデン Weinfelden など北側からの集客も見込める点だ。後述のようにアッペンツェル鉄道は、ゼンティス Säntis への登山ルートとしても注目されていたので、域外からの観光客の誘致は重要課題だった。

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現在のゴーサウ駅SBB線ホーム
 

町裏の浅い谷に設けられた標準軌ヘリザウ駅とともに、アッペンツェル鉄道の新駅も、谷間をならして造られた。両駅は、駅前通りを挟んで隣接していた。これにより、初代ヘリザウ駅は廃止された。列車がスイッチバックしていた信号場も新駅より10mほど高みにあったために使えず、前後区間のルートが付け替えられた(上図1910年の項参照)。

ゴーサウ~ヘリザウ新線は、それから3年遅れて1913年に開通した(下注、1913年の項参照)。これに伴い、ヴィンケルンからの旧線は廃止された。35‰の勾配で谷を大きく巻きながら上っていた旧線の一部は、現在小道となって残っている。

*注 その際、手狭だった標準軌ゴーサウ駅も300m南東へ移転し、前後区間が付け替えられた。

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新旧1:25,000地形図比較 ヴィンケルン付近
(左)1904年、谷を大きく巻いて上る旧線
(右)2024年、旧線の一部は小道に
© 2025 swisstopo
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同 ヘリザウ付近
(左)1904年、市街地の前の初代ヘリザウ駅
(右)2024年、新駅(二代目)はSOB線の駅に隣接
© 2025 swisstopo
 

この時期、根元区間の付け替えだけでなく、末端部でも重要な拡張が行われた。アッペンツェル~ヴァッサーラウエン間だ。この区間は観光鉄道として、1912年にゼンティス鉄道 Säntisbahn (SB) の名で開業している。

ゼンティス山はアルプシュタイン山地 Alpsteinmassiv の主峰で、標高2502m。ボーデン湖北岸のドイツ領からもよく見えるため、スイス東部で最も有名な山の一つだ。アルプス各地にラック登山鉄道が次々と建設されていた時代、ゼンティスでも同様の構想が繰り返し提起された。この鉄道も山頂を目指していたものの、山麓の平坦区間を造ったところで第一次世界大戦が勃発し、夢は実現しなかった。

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ヴァッサーラウエン駅の終端部
 

ゼンティス鉄道は最初から電化されていたが、アッペンツェル鉄道の電化は遅れて1933年のことだ。そして第二次世界大戦を経た1947年にはゼンティス鉄道を吸収、1988年には長年ライバルだったアッペンツェル路面軌道(下注)とも合併して、現社名のアッペンツェル鉄道(複数形)Appenzeller Bahnen となった。

*注 合併当時の名称は、前者がアッペンツェル=ヴァイスバート=ヴァッサーラウエン鉄道 Appenzell-Weissbad-Wasserauen-Bahn (AWW)、後者がザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル=アルトシュテッテン鉄道 St. Gallen-Gais-Appenzell-Altstätten-Bahn (SGA)。

SBB(スイス連邦鉄道)のゴーサウ駅舎は、移転改築された1913年という時期を象徴するように、曲線を多用したアールヌーボー風の外観が目を引く。ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線は、長い地下道を渡ったメーターゲージ線専用の11番線から出発する。30分間隔の運行で、終点までの所要時間は51分だ。

電車はすでにホームにいた。2018年に就役したシュタッドラー・レール Stadler Rail 製の ABe 4/12 だ。国内の他路線でもときどき見かける3車体連節の部分低床車で、ここでは「ヴァルツァー Walzer」と呼ばれている。全体に赤をまとい、窓枠上部に白帯を巻くが、電動車の先頭部だけが黄帯で、1等室があることを示している。

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アールヌーボー風の外観をもつゴーサウ駅舎
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現在の主力車両「ヴァルツァー」(2018年)
Photo by Plutowiki at wikimedia. License: CC0 1.0
 

すいた車内に入り、発車を待っていると、向こうのSBBホームに電車が到着した。チューリッヒから来たIR(インターレギオ)だ。すると少し間を置いて、リュックを背負った人たちが地下道の階段から大勢現れ、ヴァルツァーに乗り込んできた。今日は金曜日だが、レジャー需要は思った以上に大きいようだ。

10時21分に発車。SBB線と工場群を左に見ながら徐々に高度を上げていく。森を抜けると、SOB(スイス南東鉄道)線の上を跨いで、ヘリザウ駅に停車した。事実上の州都の玄関駅だが、乗降は多くなかった。

ここで列車交換し、この先はアッペンツェラーラントの山間地に入る。路上や道端こそ走らないが、19世紀の軽便規格で建設された線路なので、右に左に細かいカーブが連続する。最新の電車でも線形には勝てず、速度は一向に上がらない。

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ヘリザウ駅(2010年)
Photo by Markus Giger at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

ウルネッシュタール Urnäschtal(ウルネッシュ川の谷)に出て、ヴァルトシュタット Waldstatt に停車。一見広くなだらかな谷間だが、川が比高60m以上の深い渓谷を刻んでいる。線路は道路とともに、切れ込んだ支谷を避けて、大回りしながら南へ進む。集落どころか、ぽつんぽつんと農家があるばかりで、リクエストストップの小駅は通過してしまった。

ヴァルトシュタットから10分ほど走って、ウルネッシュに停車した。リュック姿の客が数組ホームに降りた。ゼンティス山頂へはロープウェイが通じているが、その乗り場シュヴェーガルプ(シュヴェークアルプ)Schwägalp へ行くポストバスがこの駅前から出ている。

反対側から、ゴーサウ行きの対向列車が入線してきた。それを待って出発。穏やかな流れになったウルネッシュ川を渡ると、列車は左に急旋回して、今来た谷を戻る形になる。川向うの線路を、今さっき行き違った列車が走り去るのが見えた。

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ウルネッシュで行違った列車が対岸を走り去る
 

丘をゆっくり上って、クローンバッハ川 Kronbach の谷へ。視界が開けてくると、ヤーコプスバート Jakobsbad をはじめとするウィンターリゾートのゴンテン Gonten 地区を貫いていく。地形的には、ウルネッシュとアッペンツェルの間にある谷中分水界だ。ゴンテン~ゴンテンバート Gontenbad 間にある州道の踏切付近が標高905mで、この路線の最高地点になる。

ゴンテンバートからは下り坂に転じて、美しい緑の牧野を愛でながら走る。まもなく左車窓、行く手にアッペンツェルの町が見えてきた。町は、標高約780mの高地に位置する。グラールス州とともに今なおランツゲマインデ(民会)による直接民主制を維持していることで知られるアッペンツェル・インナーローデン準州 Appenzell Innerrhoden の州都だ。その玄関駅に11時00分到着、ここで最後の列車交換がある。

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車窓に映るアッペンツェル郊外の牧野風景
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アッペンツェル市街ハウプトガッセ Hauptgasse
熊を象った州旗のある建物は市庁舎
 

駅舎は1886年開業時の建築だが、1930年代に正面の外観が改修されている。現在見られる寄棟屋根と独特の曲線破風はこのときに造られた。構内は2面4線で、駅舎側からザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線(1番線)、ホームのない通過線(2番線)、島式ホームのゴーサウ=ヴァッサーラウエン線(3・4番線)の順で並ぶ。

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アッペンツェル駅
(左)駅舎正面(右)ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線ホーム
 

拠点駅とはいえ、停車時間は長くない。乗降が終わるとすぐにまた動き出した。残り区間は、旧ゼンティス鉄道のルートだ。いっとき左車窓をザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線が並走するが、ジッター川を渡るためにまもなく左に離れていく。右手には2025年2月完成予定で、新しい車両基地アッペンツェル・サービスセンター Servicezentrum Appenzell が目下建設中だ。

河畔林を伴うジッター川を渡り、2車線の州道に沿って走る。勾配は緩やかだが、相変わらずカーブの多いルートだ。行く手に、屏風のようにそびえるアルプシュタインの岩壁が見えてきた。クーアハウスがホテルとして残る古い保養地ヴァイスバート Weissbad に停車。やがて家並みが消え、谷が狭まり、いよいよ両側を急峻な岩山が取り囲み始めた、と思ったら、もう終点だった。

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ヴァッサーラウエン駅
(左)レジャー客が多数降りる(右)岩山が取り囲む谷間の終点
 

ドアが開くと、車内に残っていたリュック姿の多くの客が一斉にホームに降り立った。ヴァッサーラウエン Wasserauen(下注)は緑の谷のどん詰まりで、もはや周りにまとまった集落はない。駅の利用者はほぼレジャー客だ。

*注 ヴァッサーラウエンは水のある Wasser +麗しい草地 Aue を意味する。語の成り立ちを尊重してヴァッサーアウエンとも書かれる。

ラック鉄道は実現しなかったが、すぐそばに、断崖を縫う展望トレールとガストハウスで有名なエーベナルプ(エーベンアルプ)Ebenalp へ上るロープウェーがある。また、徒歩で山奥にたたずむゼーアルプ湖 Seealpsee へ向かう人も多い。晴れた朝の山岳地帯に見られる荘厳な空気が、谷底のこのあたりにまで降りてきている。私のように6分で折り返す電車で帰ってしまったのでは、あまりにもったいない。

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(左)駅前を流れ下るシュヴェンデバッハ川 Schwendebach
(右)エーベナルプに上るロープウェー
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エーベナルプのベルクガストハウス・エッシャー Berggasthaus Aescher(2015年)
Photo by kuhnmi at wikimedia. License: CC BY 2.0
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ゼーアルプ湖、正面右奥の雲間にゼンティス山頂が覗く(2020年)
Photo by Giles Laurent at wikimedia/flickr. License: CC BY-SA 4.0
 

■参考サイト
アッペンツェル鉄道 https://appenzellerbahnen.ch/
アッペンツェル鉄道博物館 Museum Appenzeller Bahnen
https://www.museumsverein-appenzeller-bahnen.ch/

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アッペンツェル鉄道路線図(フラウエンフェルト=ヴィール線を除く)
 

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 ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線
 アルトシュテッテン=ガイス線

2025年1月12日 (日)

アルトシュテッテン=ガイス線

アッペンツェル鉄道アルトシュテッテン=ガイス線 AB Bahnstrecke Altstätten–Gais

アルトシュテッテン・ラートハウス Altstätten Rathaus ~ガイス Gais 間 8.05km
軌間1000mm、直流1500V電化、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配160‰
1911~12年開業
1975年 アルトシュテッテン・ラートハウス~アルトシュテッテン・シュタット Altstätten Stadt 間廃止

【現在の運行区間】
アルトシュテッテン・シュタット~ガイス間 7.65km

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ラインの谷へ急勾配を駆け降りる

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前回紹介したザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線 St. Gallen-Gais-Appenzell-Bahn(以下、アッペンツェル線)の中間駅ガイス Gais には、東からアルトシュテッテン=ガイス線 Bahnstrecke Altstätten–Gais の電車が入ってくる。

この路線の特徴は、最大160‰の急勾配を含めてラック区間が3.26kmと、全線7.65kmの半分近くを占める点だ。起点のアルトシュテッテン Altstätten はアルペンラインタール Alpenrheintal(下注)の平地の裾にある市場町だが、終点ガイスはアッペンツェラーラント Appenzellerland の高原地帯にあり、標高は900m台に載る。

*注 アルペンラインタールは、ボーデン湖 Bodensee より上流のライン川 Rhein(アルペンライン Alpenrhein と呼ばれる)が流れる谷。

主要都市ザンクト・ガレン St. Gallen からは遠く離れ、SBB(スイス連邦鉄道)線と接続していないこともあって、地味で目立たない路線だ。しかし、坂を上っていくにつれ車窓いっぱいに広がる眺めは、登山鉄道にも引けを取らない雄大さで、乗客を魅了する。今回はこの知られざるローカル線を旅してみよう。

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クロイツシュトラーセ停留所付近
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アルトシュテッテン=ガイス線周辺の地形図にルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

まず気になるのが、路線名における地名の並び順だ。アルトシュテッテンが起点、ガイスが終点という意味だが、アッペンツェル線の支線格にもかかわらず、なぜ接続駅のガイスが終点なのか。それは、もともとアッペンツェル線とは別会社(下注)で、かつアルトシュテッテン側の資本で設立されたという経緯があるからだ。

*注 アルトシュテッテン=ガイス鉄道 Altstätten-Gais-Bahn (AG) と称した。

アルトシュテッテンは中世以来、この地域の主要な市場町として栄えてきた。州は違えどガイスも、ザンクト・ガレンより距離的に近いアルトシュテッテンの商圏に含まれていた。ところが、1889年にアッペンツェル線の前身アッペンツェル路面軌道 Appenzeller Strassenbahn が開業すると、高原地帯とザンクト・ガレンとの結びつきが一気に強まった。これに対して、アルトシュテッテン市民の間で、町の地位低下を懸念する声が高まる。こうしてガイス方面とのアクセスを確立する電気鉄道の建設計画が具体化していった。

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アルトシュテッテン旧市街マルクトガッセ
かつて路面軌道が左端を通っていた
 

路線は1911年11月に、アルトシュテッテン・シュタット Altstätten Stadt とガイスの間で開業した。アルトシュテッテン・シュタットは今の起点駅だが、7か月後の1912年6月に、市街地を貫いて反対側にあるラートハウス(市庁舎)Rathaus までの延伸区間が併用軌道(下注)で開通する。

*注 道路上に敷かれた線路。路面軌道。

ラートハウスには、すでに1897年からアルトシュテッテン=ベルネック路面軌道 Strassenbahn Altstätten–Berneck(以下ベルネック路面軌道、下注)が通じていた。この軌道会社は、市街地から1km以上離れたアルトシュテッテンSBB駅への支線を持っていて、ガイスからの電車はこれに乗り入れることでSBB駅まで達することができた。運行業務も軌道会社に委託されたので、それ以降、SBB駅支線はアルトシュテッテン=ガイス線と一体化した。

*注 アルトシュテッテン・ラートハウス~ヘーアブルック Heerbrugg ~ベルネック Berneck 間、およびヘーアブルック~ディーポルツァウ Diepoldsau 間の路面軌道。
路線図 https://de.m.wikipedia.org/wiki/Datei:Lagekarte_Strassenbahn_Altstätten–Berneck.svg

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開業時のCFe 3/3電車
スイス交通博物館(ルツェルン)蔵
 

1940年にベルネック路面軌道の本線はトロリーバスに転換されてしまうが、SBB駅支線はそのまま併用軌道として残った。しかし、貨物輸送がないアルトシュテッテン=ガイス線の経営状況は常に苦しく、連邦当局の斡旋で1948年に現在のアッペンツェル線を運営していた会社(下注)と合併する。

*注 ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル鉄道 St. Gallen-Gais-Appenzell-Bahn (SGA)。

電車運行が現在のようなアルトシュテッテン・シュタット止まりになったのは、1975年のことだ。道路交通量が増加して路面軌道の運行に支障が生じるようになり、シュタット~SBB駅間はバス輸送に転換され、列車接続が絶たれてしまった。

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駅端で寸断された線路
かつては黄色のコンテナの後ろの旧市街へ続いていた
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新旧1:25,000地形図比較
アルトシュテッテン市街周辺
(上)1944年、路面軌道は梯子状の道路記号
(中)1971年、ベルネック路面軌道廃止後、SBB駅線だけ残る
(下)1989年、SBB駅線廃止後
© 2025 swisstopo

アルトシュテッテンの市庁舎(ラートハウス Radhaus)は、旧市街の東端に建つ7階建ての近代建築だ。容積率の制限がないのか、変則五角形の狭い敷地を目いっぱい使っていて、歴史ある町には似つかわしくない。その前の大通りに、かつてアルトシュテッテン=ガイス線の旧終点、ラートハウス駅があった。駅といっても路面軌道の簡易な乗り場だったので、停留所というほうがふさわしい。

そこはまた、北東10kmのベルネック Berneck の町へ行く旧 ベルネック路面軌道の起点でもあった。軌道は東へ200m進んだビルト Bild の交差点で、アルトシュテッテンSBB駅へ行く支線を右に分けていた。ガイスから来た電車はこの支線に乗入れて、SBBの駅前まで直通していたのだ。

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(左)ラートハウス(市庁舎)前
  線路が抜けていた小路、奥の大通りに駅(停留所)があった
(右)路面軌道があった駅前通り
 

一方、ラートハウスの西では、旧市街の目抜き通りであるマルクトガッセ Marktgasse を併用軌道で貫いていた。背の高い切妻屋根の商家が軒を並べる狭い街路は今も変わらないが、線路の痕跡は皆無で、ここに鉄道が通っていたとは信じられない。

マルクトガッセを西へ抜けると、交差点の向こうに現在の起点、アルトシュテッテン・シュタット駅が見えてくる。シュタット Stadt は町、都市という意味で、名前のとおり、ガイスから来れば町の入口だった。

3階建ての現駅舎は2002年に改築されたもので、レストランなどが入居している。通りを隔てた向かい側には、SBB駅方面に向かうバスの停留所がある。電車は1時間に1本きりだが、バスは300および335の2系統があり、合わせて毎時4本走っている(下注)。

*注 バスの時刻表、路線図は RTB Rheintal Bus https://www.rtb.ch/ 参照。

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(左)マルクトガッセ、線路の痕跡は皆無
(右)シュタット駅前のバス停
  SBB駅前を経由する300系統のバスが停車中
 

駅構内は最近整理され、片面ホームと線路1本だけになってしまった。もとは通過型の3線が並ぶ構造で、駅舎改築の際に、駅舎寄りの1本が削減されて2線になっていた。機回しの尺を確保するためか、引上げ線が駅前の道路を横断していたのだが、不要となった現在は短縮され、通りの手前に車止めがある。

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構内整理で棒線になったシュタット駅
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駅から出て大通りを横断していた引上げ線(2009年)
Photo by Roehrensee at German Wikipedia. License: CC BY-SA 3.0
 

ホームに、折返しガイス行の電車が入ってきた。2両編成でガイス方から制御車122号、電動車17号、最後尾に自転車を載せる台車(ヴェーロヴァーゲン Velowagen)が付随している。

制御車は部分低床の客車で2004年製だが、蝶の舞い姿をデザインした新たな外装をまとい、2024年にこの路線にお目見えしたばかりだ。電動車は第2世代のBDeh 4/4で、1993年製。アッペンツェル線のラック区間が解消されてからは、同型式のもう1両とともに、この路線専属になっている。

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(左)蝶が舞う制御車122号
(右)電動車BDeh 4/4 17号
 

自転車台車の中を覗くと、内壁に起点駅、終点駅とシュトス Stoss でのみ積み下ろし可能と書かれていた。後述のとおり、シュトスはラック区間の山側の終点だ。坂の上で列車から下ろし、見晴らしのいいダウンヒルコースを駆け降りるなら、さぞ爽快なことだろう。

ガイスまでの所要時間は上り(ガイス方面)が20分、下り(アルトシュテッテン方面)が23分だ。1時間間隔の運行なので1編成で足りる。そのため、中間駅での列車交換はない。

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(左)最後尾は自転車台車
(右)積み下ろしはセルフサービス

列車は15時ちょうどにアルトシュテッテン・シュタットを発車した。駅を後にすると、200m足らずの助走区間を経て、早くもガリガリと手ごたえのある音がする。ラック区間に入ったようだ。ラックレールはシュトループ Strub 式だ。アプト式のような歯竿を縦置きするのではなく、平底レールの上部にラックの歯が刻まれている。1898年にユングフラウ鉄道 Jungfraubahn で実用化されて以来、電気鉄道では当時主流の方式だった。

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(左)ラック装置がモチーフの駅改築記念碑
(右)シュトループ式ラックレール
 

電車は、農家や畑が点在する斜面をたくましく上り始める。初めは木立に遮られがちだが、右へ大きくカーブするあたりから、左の車窓が大きく開けてきた。最初のラック区間は1kmほどで終わり、待避線のあるアルター・ツォル Alter Zoll 停留所を通過する。中間停留所はすべてリクエストストップなので、乗降の合図がなければ停車しない。

停留所の後すぐにラックが復活し、急斜面をなぞるようにぐんぐん高度を上げていく。後ろを振り返ると、さっきまでいたアルトシュテッテンの市街と聖ニコラウス教会の尖塔が、もうかなり小さくなっている。

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アルトシュテッテンの市街地が遠ざかる
 

周辺は大きな農家があるほか一面の牧草地なので、見晴らしは抜群だ。左の眼下に平底のアルペンラインタールが広がる。谷を縦断しているひときわ目立つ直線は、オーストリアとの国境をなすライン川の川筋だろう。その向こうにフォアアールベルク Vorarlberg のどっしりとした山並みが連なり、稜線の切れ目から残雪を戴くアルプスも顔を覗かせている。

ヴァルメスベルク Warmesberg 停留所はラック区間の途中だ。ホームは右側なので、下界の眺望に気を取られていると見落としてしまう。次にラックが途切れるのは、クロイツシュトラーセ Kreuzstrasse 停留所の前後だ。斜面の踊り場に位置していて、終始線路と並走しているシュトス街道 Stossstrasse がここで初めて線路を横切る。

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アルペンラインタールの眺望
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クロイツシュトラーセ停留所とシュトス街道の踏切
 

さらに160‰の胸突き八丁を上っていくと、車窓の大パノラマが、右手に現れた前山の陰に入り始めた。ここでようやく急勾配が収まり、電車はシュトスAR 停留所(下注)に着く。アルトシュテッテン・シュタット駅の標高が467m、シュトスはすでに942mで、475mの高度差を一気に上ってきたことになる。まだ最高地点ではないが、急傾斜地はここまでで、あとはなだらかな高原地帯だ。

*注 駅名の AR はアッペンツェル・アウサーローデン(準州)Appenzell Ausserrhoden の略称。

ちなみにトローゲン鉄道沿線のフェーゲリンゼック(フェーゲルインゼック)Vögelinsegg と同様、シュトスも中世アッペンツェル戦争の古戦場だ。右手斜面の上方で、戦いから500年になるのを記念して1905年に立てられた戦争記念碑 Schlachtdenkmal がラインの谷を見下ろしている。

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(左)シュトス停留所とラック終点
(右)斜面に立つ戦争記念碑(2010年)
Photo by böhringer friedrich at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
 

次のリートリ Rietli 停留所には以前、待避線があったが、ガイス方のポイントが廃止され、行き止まりの側線になってしまった。ここを出るとしばらくの間、シュトス街道の脇を進む。左車窓にはラインタールに代わって、緩やかに起伏する高原地帯の風景が広がり、その背後にアルプシュタイン Alpstein の荒々しい岩峰群がそびえている。シャッヘン Schachen 停留所付近が分水界だが、線路はまだわずかに上り坂だ。小さな張り出し尾根を乗り越えるヘブリッヒ Hebrig 停留所が標高972mで、最高地点となる。

この後は粘着式、最大52‰の急勾配で、ガイスに向けて坂を下っていく。右手の木立越しにガイスの町が見え始め、やがて左方からアッペンツェル線が半径40mの急曲線で回りながら接近してくる。最後はこれに付き合いながらガイス駅の構内に進入し、駅舎に接する1番線がアルトシュテッテン=ガイス線列車の定位置だ。

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高原の背後にアルプシュタインの岩峰群が覗く
 

15時20分に到着。定時運行ならその3分後、隣の島式2・3番線にアッペンツェル線の上下列車が相次いで入ってくる。1時間ごとに繰り返される、乗換客がホームを行き交う時間帯だ。しかしアルトシュテッテン行きは24分発なので、客が車内に収まるや、すぐに扉を閉めて出ていってしまう。3番線のアッペンツェル行きも同時刻発車だから、運が良ければ急カーブでつかの間の並走シーンが見られるかもしれない。

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ガイス駅手前の急曲線
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(左)ガイス駅舎
(右)1番線で乗換客を待つ

アッペンツェル鉄道に残るラック路線はいずれも、利用者数の減少を理由に、「より顧客に優しく、費用対効果の高い代替案 kundenfreundlichere und kostengünstigere Alternativen」の検討対象となっている。アルトシュテッテン=ガイス線も、現形態での運行は2035年が期限とされ、その後はバス代行や自動運転化を含めた何らかの転換が行われる予定だ。

次回は、アッペンツェル鉄道のルーツであるゴーサウ=ヴァッサーラウエン線を訪ねる。

■参考サイト
アッペンツェル鉄道 https://appenzellerbahnen.ch/

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アッペンツェル鉄道路線図(フラウエンフェルト=ヴィール線を除く)
 

★本ブログ内の関連記事
 スイスの保存鉄道・観光鉄道リスト-北部編

 ライネック=ヴァルツェンハウゼン登山鉄道
 ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道
 トローゲン鉄道
 ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線
 ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線

2025年1月 4日 (土)

ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線

アッペンツェル鉄道ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線 AB St. Gallen-Gais-Appenzell-Bahn

ザンクト・ガレン~アッペンツェル間19.92km(下注)
軌間1000mm、直流1500V電化
1889~1904年開業、1931年電化

*注 2018年のルックハルデ新線開通に伴う値。旧線時代は20.06km。

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新トンネルの出口にあるリートヒュスリ停留所

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「市内貫通線 Durchmesserlinie」として、前回のトローゲン鉄道と直通運転されている相手が、ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線 St. Gallen-Gais-Appenzell-Bahn だ。地元ではガイザーバーン(ガイス鉄道)Gaiserbahn とも呼ばれる。スイス北東部、ザンクト・ガレン St. Gallen からガイス Gais を経てアッペンツェル Appenzell に至る19.92kmの路線で、以前からアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen の路線網の主要部分を形成してきた。

メーターゲージ(1000mm軌間)の電化路線で、主として道路の脇を走る道端軌道だが、これは長年にわたる施設改良の成果だ。開業時は非電化で、かつ数か所のラックレール区間があるラック式・粘着式併用の路面軌道だった。

ラックレールが最後まで残っていたのが、ザンクト・ガレン市街南東の丘を上る約1kmの区間だ。半径30mの厳しいオメガカーブ、通称ルックハルデカーブ Ruckhaldekurve があることでも知られていた。詳細は後述するが、2018年にこの難所が解消されたことでラック式電車が不要となり、市内貫通線が実現したのだ。

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ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線周辺の地形図にルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

歴史をたどると、ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線は1889年、アッペンツェル路面軌道会社 Appenzeller-Strassenbahn-Gesellschaft (ASt) によって、ガイスまでの区間が先行開通している。建設を推進するアッペンツェラー・ミッテルラント Appenzeller Mittelland の沿線自治体に対して、起点となるザンクト・ガレン市民の反応は冷ややかで、市街地の道路上での軌道敷設が許可されなかった。ルックハルデの険しい専用軌道は、そのために必要となった迂回路だ。

市外に出ると、軌道は旧来の道路上で、終点に向かっておおむね左側に寄せて敷かれた。当時は粘着式で45‰を超える勾配を上ることができず、該当区間にはラックレールが追加された。ラック区間はルックハルデを含めて6か所あった(下注)。

*注 後述するアッペンツェル延伸でも1.7kmの長いラック区間が設けられたので、最終的には7か所となった。

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急勾配急曲線だったルックハルデカーブ(2014年)
Photo by Kecko at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

アッペンツェルへの延伸開業は、少し遅れて1904年になる。ここにはすでに1886年に、ヘリザウ Herisau 方面から同じメーターゲージのアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahn が到達していたので、その駅に乗入れた。また、ガイスには1911年、ライン川の谷壁を上ってきたアルトシュテッテン=ガイス鉄道 Altstätten-Gais-Bahn (AG) が接続した。

路線網が充実していく間に、社名も変遷を重ねている。1931年の電化開業で、ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル鉄道 St. Gallen-Gais-Appenzell-Bahn (SGA) になり、1948年のアルトシュテッテン=ガイス鉄道との合併では、ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル=アルトシュテッテン鉄道 St. Gallen-Gais-Appenzell-Altstätten-Bahn と、さらに長くなった。

一方、目的地を同じくするアッペンツェル鉄道とは長らくライバル関係にあったが、1988年に合併し、改めて「アッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen (AB)」と名乗るようになった。日本語では区別できないが、原語では旧社名が単数形、新社名は複数形だ。

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ザンクト・ガレン支線駅に入るアッペンツェル行き電車
 

かつてアッペンツェル線の主力車両は、ラック・粘着式併用のBDeh 4/4で、1981年に5編成が調達された後、1993年にも2編成の追加があった。ラック撤去により前者は引退し、チロルのアッヘンゼー鉄道 Achenseebahn に引き取られたが、結局使われることはなかった(下注)。後者は、160‰の急勾配ラック区間があるアルトシュテッテン=ガイス線用として、今なお現役だ。

*注 この事情については「アッヘンゼー鉄道の危機と今後」参照。

市内貫通以降、アッペンツェル線の運用車両は、シュタッドラー製のタンゴ Tango に統一されている。赤塗装、6車体連節の部分低床車で、跳ね上げシートを含め147席(うち1等12席)と、余裕の収容力を誇る。運行間隔は日中の平日が15分、休日が30分だ。

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(左)シュタッドラー・タンゴ
(右)シックな座席が並ぶ車内

では、ザンクト・ガレンから順に、沿線風景と路線改良の跡を追っていこう。

SBB(スイス連邦鉄道)駅と地続きの、通称「支線駅 Nebenbahnhof」がザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線(以下、アッペンツェル線)の起点になる。市内貫通以前は、支線駅舎をはさんで反対側の頭端式ホームで発着していた(下写真参照)が、現在は通過形の2面2線で、見た目は中間停留所と変わらない。

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ザンクト・ガレン支線駅
アッペンツェル方面から電車が到着
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市内貫通以前のアッペンツェル線発着ホーム
左端は現ホーム(当時はトローゲン線用)(2011年)
Photo by Martingarten at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

ザンクト・ガレン駅を後にした電車は、SBB線と並走しながら南西方へ進む。ザンクト・レオンハルト橋 St. Leonhardsbrücke と呼ばれる陸橋の下をくぐった後、かつては左に急カーブして、旧 SBB貨物駅の外側を通っていた。貨物駅の移転に伴う跡地再開発の一環で、線路はSBB線沿いに移設され、減速が必要だった急カーブも解消された。

その一角に2022年、ザンクト・ガレン・ギューターバーンホーフ St. Gallen Güterbahnhof という名の停留所が新設された。ギューターバーンホーフは貨物駅という意味だが、貨物を扱うわけではなく、ふつうの旅客用電停だ。

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新旧1:25,000地形図比較、ルックハルデカーブの前後
(左)2017年、旧線はSBB貨物駅を迂回し、オメガカーブで丘を上っていた
(右)2024年、新線は(旧)貨物駅北側を直進し、トンネルに入る
© 2025 swisstopo
 

ここを通過すると、線路は左に緩くカーブしていき、いよいよルックハルデトンネル Ruckhaldetunnel に突入する。2018年に完成したアッペンツェル線唯一の本格的なトンネルで、長さ725m。名が示すとおり、同線最後のラック区間だったルックハルデカーブの代替ルートだ。内部はS字形にカーブしていて、旧線より若干緩和されたとはいえ、80‰の勾配は粘着式として限界に近い。

暗闇を抜けるとすぐリートヒュスリ Riethüsli 停留所がある。トイフェン街道 Teufenerstrasse の裏手で、その昔、市電5系統の終点だったネスト Nest 電停のすぐそばだ。ちなみに、市電5系統は1950年7月にトロリーバスに転換されて姿を消した。電停の終端ループ跡は舗装されて、今もトロリーバス用として使われている。

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リートヒュスリ停留所
(左)ザンクト・ガレン方 (右)アッペンツェル方
 

ところでルックハルデの旧線跡は、今どうなっているのだろう。気になっていたので、途中下車して見に行った。旧線跡は停留所から南へ150mの、現路線がトイフェン街道脇に出る地点から始まる。もとはここにリートヒュスリ停留所があった(下写真参照)。

ザンクト・ガレン方向へ、上り坂のトイフェン街道を歩いていく。向かって右側の広い歩道が旧線跡だが、200m先にある三叉路で、道路の左側に移る。右手が上述の旧ネスト電停で、そこから出てくる市電の線路に道を譲っていたのだ。そこからサミットを越えるまでの約300mは、1950年の市電廃止まで、道路中央に市電、左側にアッペンツェル線という並走区間だった。その名残で道幅が広く、歩道にも余裕がある。


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停留所南150mの新旧線路分岐地点で北望
旧線は街道の右縁を直進し、
旧 リートヒュスリ停留所が正面の駐車場付近にあった
 

急な下りにかかるとトイフェン街道と市電線路が右にそれていき、アッペンツェル線は専用軌道になっていた。廃線跡はすっかり草に覆われているが、緩くカーブしていて、それとわかる広さがある。真ん中に踏み分け道がついていたので行ってみた。もとは100‰の勾配(下注)なので、おのずと足取りが軽くなる。市街地を見下ろす右手の斜面には市民向けの貸し農園が広がり、トタン屋根の簡素な小屋がいくつも建っている。この小道も実はそこへ通うためのものだ。

*注 開業時の当該ラック区間はリッゲンバッハ式、延長978 m、最大勾配92‰だったが、1980~81年に改修された際、リッゲンバッハ、シュトループ、ラメラ(フォン・ロール)混合方式で延長が946mに短縮された代わり、勾配は最大100‰になった。

農園の境界までは問題なく進めたのだが、そこで通せんぼするような低い柵が講じてあり、道も消えていた。先は一面の草地で、目を凝らすと、急旋回しながら降りていたルックハルデカーブの痕跡をなぞることができる。大昔、乗った電車の窓から見た記憶がよみがえってきた。

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(左)旧ネスト電停前、右から市電が出てきて画面奥へ並走していた
(右)街道と市電が右にそれる地点
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(左)アッペンツェル線の軌道跡(中央左の踏み分け道)が始まる
(右)貸し農園の上方を降りていく
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ルックハルデカーブの痕跡
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ルックハルデカーブの現役時代(1984年)
 

草地の旧線跡はこの後、ルックハルデトンネルの出口付近で新線と合流するのだが、私有地につき立入りは諦めて、本線の追跡に戻った。

トイフェン街道の進行方向左側で道端軌道になったアッペンツェル線は、リーベック信号所 Dienststation Liebegg を通過する。新線完成で所要時間が2分短縮され、列車交換は次のルストミューレ Lustmühle 停留所で行われるようになった。ルストミューレは、森を出て右に急カーブする地点にあるが、ダイヤが多少乱れても対向列車への影響を最小限にとどめられるよう、退避線は500m以上と異例の長さが取られている。

再び周りを人家が取り囲むようになれば、沿線の中心地の一つトイフェン Teufen だ。町中の延長400mほどは沿線で唯一、線路と車道が分離されておらず、くねくね曲がって見通しが悪い。さらに、シュパイヒャー街道 Speicherstrasse が分岐する駅手前の三叉路は、電車も横断するため、事故のリスクが高い。ルックハルデカーブが解消された今では、最後の難所と言えるだろう。

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トイフェン市街の併用軌道を行く(2007年)
Photo by Markus Giger at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

トイフェン駅 Teufen AR(下注)は、大柄な駅舎の前に2面3線の構内が広がっている。平日日中は2本に1本の電車がここで折り返すので、この先は30分間隔の運行になる。

*注 駅名の AR はアッペンツェル・アウサーローデン(準州)Appenzell Ausserrhoden の略称。

トイフェン駅を出ると短い下り勾配に変わり、この後たどるロートバッハ川 Rotbach の谷へ降りていく。ガイス開業時に6か所あったラック区間の一つがここだ。86‰の下り坂だったが、1976年に道路併設で勾配を62‰に緩和した新しいゴルディバッハ橋 Goldibachbrücke が完成して、ラック旧線は撤去された。

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(左)トイフェン駅舎
(右)2面3線の構内
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同 トイフェン南方ゴルディバッハ橋
(左)1971年、旧線時代
(右)1989年、旧道の東側に勾配を緩和した新道併設の新線が造られた
© 2025 swisstopo
 

ずっと道路の左側を並走してきた線路が右側に移ると、まもなく次の町ビューラー Bühler だ。ビューラー駅はかつて、本線が道路上の併用軌道、待避線が駅舎裏の専用軌道という珍しい配置だったが、1968年に本線も駅舎裏に移された。それで外側の2番線は急なカーブを切っている。

町を抜けると再び道路を斜め横断し、そのまま道路際から離れてシュトラールホルツ Strahlholz 停留所の手前まで独自ルートを上っていく。もとは87‰勾配でラックレールが敷かれていたが、1983年に60‰で曲線も緩やかな新線に切り替えられた。

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1984年のビューラー駅
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同 ビューラー南東方
(上)1971年、旧線は道端軌道
(下)1989年、新線は専用軌道化して勾配を緩和
© 2025 swisstopo
 

2~3分も走れば、一次開業時の終点だったガイス Gais 駅だ。町の中心ドルフプラッツ Dorfplatz は駅の東300mにあるので、線路はその方を向いて駅に進入する。ここも立派な駅舎がそびえ、構内は2面3線だ。駅舎方の1番線はアルトシュテッテン=ガイス線 Bahnstrecke Altstätten–Gais(次回参照)の列車用で、隣の島式2・3番線にアッペンツェル線の列車が入る。通常ダイヤでは上下列車の交換がある。

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(左)ガイス駅舎
(右)アッペンツェル行が2番線で待機中
 

目指すアッペンツェルは後方(西方)なので、常識的にはスイッチバック駅になるところだ。ところが電車はそのまま前進し、ルックハルデに次ぐ半径40mの急カーブで180度向きを変える。開業時の小型単車ならともかく、長さ50mを超える車両がこのカーブを、車輪をきしませながら慎重に曲がっていくようすはなかなか見ものだ。アッペンツェル線のガイス車庫・整備工場は、カーブを曲がり終えた地点にある。

牧草地を横切っていくうちに右手からガイス街道 Gaiserstrasse が接近してきて、線路は再びその道端に収まる。緩やかな鞍部に位置するザンメルプラッツ Sammelplatz 停留所は標高928mで、この路線の最高地点だ。

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半径40mの急カーブを回る
 

線路は、ここからアッペンツェルの町に向けて下り坂にかかる。もとは最大82‰勾配のラック区間が1.7kmの間続いていたが、1979年に、坂の下部にヒルシュベルクループ Hirschbergschleife(下注)と呼ばれる50‰勾配の迂回線が完成して、旧線を置き換えた。上部にはまだ最大63‰の勾配区間が残っていたが、同じタイミングで粘着式に切り替えられている。

*注 この場合のループ Schleife は、弧状のルートを意味する。

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同 ヒルシュベルク付近
(上)1971年、ジッター川へ直降していた旧線時代
(下)1989年、新線は迂回で勾配緩和
© 2025 swisstopo
 

見晴らしのいい迂回線でヒルシュベルクの斜面を降りきると、ジッター川とその氾濫原だ。電車は長さ296m、曲弦プラットトラスと多数のコンクリートアーチで構成されたジッター高架橋 Sitterviadukt を渡っていく。下流では比高100mの大峡谷を形づくる川だが、ここではまだ穏やかな表情で、盆地の平底をゆったりと流れている。

向こう岸で左後方から来るヴァッサーラウエン線と並走し始めれば、電車旅はまもなく終わる。ザンクト・ガレンから38分で、アッペンツェル・インナーローデン Appenzell Innerrhoden(準州)州都の玄関口アッペンツェル駅に到着だ。

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修復工事中のジッター高架橋を渡る
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終点アッペンツェル駅
 

次回は、ガイスで分岐しているアルトシュテッテン=ガイス線を訪ねる。

■参考サイト
アッペンツェル鉄道 https://appenzellerbahnen.ch/
アッペンツェル鉄道博物館 Museum Appenzeller Bahnen
https://www.museumsverein-appenzeller-bahnen.ch/

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アッペンツェル鉄道路線図(フラウエンフェルト=ヴィール線を除く)
 

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2024年11月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-花巻電鉄花巻温泉線跡

2024年秋のコンター旅、最終日の10月7日は岩手県中部の花巻で、花巻電鉄花巻温泉線の廃線跡(下注)を訪ねた。

花巻温泉線は、ニブロク(2フィート6インチ=762mm)軌間のささやかな電車線だった。1972(昭和47)年の廃止時点では、国鉄駅裏にあった駅(以下、電鉄花巻駅)から北西へ花巻温泉まで7.4kmを走っていた。廃線跡は自転車道に転換されたので、宅地開発で消滅した一部区間を除き、今も全線を徒歩や自転車でたどることができる。

*注 ただし、廃止前年(1971年)に岩手中央バスに合併されており、すでに花巻電鉄の社名はなかった。

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花巻温泉線跡の自転車道
瀬川橋梁手前の県道跨線橋から南望
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図1 花巻温泉線周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年修正

私たちはレンタサイクルで出かける予定にしていたが、天気予報によると、朝は小雨、昼ごろから雨足が強まるらしい。さいわい花巻到着時点ではまだ空が明るかったので、意を決して駅前の店へ行き、電動アシスト自転車を3時間借りた。参加者は、大出さん、山本さんと私の3名だ。

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JR花巻駅
 

冒頭でささやかな電車線と紹介したが、歴史を振り返れば、花巻電鉄はもう一本、鉛(なまり)線という軌道線を擁して、花巻とその西郊の山あいに湧く温泉郷とを結ぶ路線網を形成していた。花巻の廃線跡の話をするには、この鉛線と、もう一つ、同じニブロク軌間の岩手軽便鉄道にも触れておく必要があるだろう。

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図2 花巻の鉄道網の変遷
 

まず鉛線だが、これは鉛温泉をはじめ豊沢川沿いに古くからある温泉群へ行く17.6kmの路線(下注)だ。道端を走るため車両の横幅が極端に狭く、馬づら電車として有名だった。登場したのは1915(大正4)年で、市街の西端、西公園から途中の松原まで開通している(上図1915年の欄参照)。

*注 ただし、この数値は中央花巻(後述する移転後のターミナル)~西鉛温泉間の距離。

1918年には東北本線を陸橋でまたいで、岩手軽便鉄道の花巻駅(以下、軽鉄花巻駅)に乗入れた。遅れて1925(大正14)年に開通した花巻温泉線も、当初は鉛線の西花巻駅を起点にしていたのだ。

一方、岩手軽便鉄道は、一足早く1913(大正2)年に花巻~土沢間12.7kmで開業している。1936(昭和11)年に国有化されて国鉄釜石線となり、1943年には1067mmに改軌されるが、軽便時代、花巻市街では今とは違う南寄りのルートを通り、国鉄花巻駅前に独自のターミナルを有していた。鉛線が乗り入れたのはこの旧駅だ。

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鉛線最終営業日の情景
材木町公園の案内板を撮影
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鳥谷ヶ崎駅跡にある岩手軽便鉄道線跡の説明板
 

そこで廃線跡探索の手始めは、その軽鉄花巻駅跡を見に行く。JR駅前ロータリーの南側、ホテルグランシェールの裏に案内板が立っている。左肩に載ったシャッポとマントは、この町で生まれた宮沢賢治のゆかりの場所を示すものだ。南西角には小さな石碑も見られ、それぞれ軽鉄駅がここにあったことと、賢治の短編童話「シグナルとシグナレス」が、東北本線と岩手軽便の信号機どうしの恋の物語であることに言及している。

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駅ロータリーの南側、花巻駅前広場が軽鉄花巻駅跡
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(左)宮沢賢治ゆかりの地を示す案内板
(右)駅跡の碑
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図3 花巻市街の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図4 同範囲の花巻温泉線現役時代
(左)1968(昭和43)年測量(右)1973(昭和48)年修正測量
 

さて、岩手軽便改め釜石線がルート変更で国鉄駅に吸収されたことで、旧 軽鉄花巻駅は鉛線専用になったかに見える。だが、すでに1938年から軽鉄花巻~西花巻間、通称 岩花線(下注)に旅客列車は走っておらず、鉛方面へは、国鉄駅裏にある電鉄花巻駅から出発するようになっていた。西花巻駅では、配線の関係でスイッチバックしていたことになる。

*注 岩花線の名は、岩手軽便鉄道と花巻電鉄を結んだことに由来する。なお、岩花線運休の動向は、『はなまき通検定「往来物」』花観堂、令和2年10月改定版による。

1945(昭和20)年8月10日の空襲で、花巻駅とその周辺は甚大な被害をこうむった。その復興過程で1948年に岩花線の運行も復活するが、ターミナルは、旧軽鉄花巻駅から300m以上後退した大堰川(おおぜきがわ)の南側に移された。中央花巻という気負った駅名にもかかわらず、実態は簡素な造りの棒線駅だった。

現在、旧 軽鉄花巻~中央花巻間の廃線跡は完全に消失していて、大堰川の上に造られた市道の高架と民家とに挟まれてぽつんと立つ1本の橋脚だけがその形見だ。また、中央花巻駅跡も住宅地の中に埋もれてしまった。

岩花線はここから東北本線を乗越すために右カーブしていくが、この区間は住宅地の中の道路として残る。乗り越した先に、花巻温泉線と接続する西花巻駅があった。駅跡は年金事務所の敷地に転用され(下注)、西隣の税務署もその一部だ。

*注 うっかり見落としたが、旧駅前通りに面した理髪店の庭に、駅跡に関する案内板が立っている。

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(左)高架下に残る岩花線の橋脚
(右)東北本線を乗越す手前の右カーブ
 

復活はしたものの、ターミナルが国鉄駅からも中心街からも離れた中途半端な立地で、利用者が少なかったのだろう。1964(昭和39)年10月の時刻表によると、岩花線の列車は1日わずか5往復、すべて花巻温泉相互間で、鉛線のほうへは走っていない。

東北本線の電化に際し、高架橋の嵩上げを迫られたことを契機に、1965年、岩花線は廃止となる。鉛線のスイッチバック運転を解消するために短絡線が造られ、西花巻駅はその線上に移転した。しかしせっかくの新駅も、使われたのはわずか4年で、1969年には鉛線の運行(花巻~西鉛温泉間)が止まり、1972年に残る花巻温泉線も後を追った。

現在、二代目西花巻駅の跡は花巻中央消防署の敷地の一部になっている。この南側から300mの間、鉛線跡が自転車道に利用されている。短距離ながら、S字カーブと、2か所で小道と立体交差する趣深いルートだ。県道103号花巻和賀線に合流したところが西公園駅(下注)の位置で、鉛線の電車はそこから終点の西鉛温泉まで道端軌道を走っていた。

*注 この西公園駅は1918年の軽鉄花巻延伸の際に移設されたもの。地形図によると、1915年開業時の初代 西公園は、県道103号を100m前後東に行った位置にあったようだ。

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西花巻~西公園間の廃線跡自転車道
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県道合流地点
1915年部分開通時は右写真の県道を少し進んだあたりに西公園の終点があった

花巻温泉線の跡もまた、消防署の北側から自転車道として始まる(下注1)。現在は県の管理で、県道501号北上花巻温泉自転車道線(下注2)の一部だ。

*注1 次の市道との交差までは道路の左側(西側)の住宅地の列が実際の廃線跡。
*注2 この県道(自転車道)は、桜の名所の北上展勝地が起点で、北上川左岸(東岸)の堤防道路を花巻まで北上した後、西公園~花巻温泉間の廃線跡をたどる延長26.2km。

市道と斜めに交差してすぐ左側には、材木町公園と呼ばれる緑地があり、旧花巻町役場の木造建物の横に、鉛線ゆかりの電車デハ3が静態保存されている。上屋がつき、側面も金網で厳重に囲われているので、保存状態は良好だ。反面、写真は撮りにくく、網目までレンズを近づけると、車両全体が入りきらない…。

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材木町公園のデハ3
 

傍らに、近代化産業遺産の案内板も立つ。花巻電鉄の沿革、路線図、裏面にもわたる豊富な古写真と、資料館顔負けの情報量だ。なかに馬づら電車の車内を写したものがあったが、ロングシートの両側に人が座ると、膝が当たるほど狭い。終点まで1時間以上、窮屈な車両に揺られ続けるのはけっこう苦行だっただろう。

電鉄花巻駅はまもなくだ。駅跡は駐輪場などになってしまったが、駅前広場の一角に、花巻電鉄「花巻駅」跡地と記された小さな案内板が立っている。

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電鉄花巻駅跡
 

電鉄花巻駅を後にすると、後川(うしろがわ)の小さな谷を横断する地点で、さきほど交差した市道の下をくぐる。その後は、JR線西側の比較的新しい住宅街を直進していく。星が丘一丁目では、宅地造成のために大きな迂回ルートが造られていた。

花巻東高校の学生寮の前を通過した自転車道は、枇杷沢川(びわさわがわ)を越える。ここに架かる桁橋は架け換えられているが、橋台に鉄道時代の旧橋台が埋め込まれているように見えた。

松林の中を進むと、まもなく花巻東高校の正門が見えてくる。言わずと知れたメジャーリーガー大谷、菊池両選手の母校なので、門標や校舎をバックに記念写真を撮る人たちが順番待ちしていた。グラウンドのバックネット裏にある手形とサインの記念パネルも同様だ。廃線跡が目的の私たちも、ここでは俄かファンにならざるを得ない。

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(左)枇杷沢川に架かる橋、旧橋台が埋まっている?
(右)日居城野運動公園の松林を行く
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(左)花巻東高校正門
(右)バックネット裏の記念パネル、両選手の手形が特に人気
 

隣接する日居城野(ひいじょうの)運動公園は、松林に包まれた広大な敷地に、野球場、陸上競技場、芝生広場、テニスコート、総合体育館と充実した施設群が並ぶ。廃線跡自転車道はその中央を堂々と貫いていくが、それというのも、もともとここは、花巻温泉と花巻電鉄が土地を提供して造られた施設だからだ。1934(昭和9)年のオープンと同時に、花巻グランドという名の駅も設置され、来場者の便が図られた。自転車道が広くなっているあたりが駅跡だという。

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(左)花巻グランド駅跡
(右)陸上競技場の横を行く廃線跡
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図5 花巻グランド~瀬川間の1:25,000地形図
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図6 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

東北自動車道と交差した後は、見通しのきく田園地帯に出る。右カーブで段丘を降りると、県道297号花巻停車場花巻温泉郷線が乗り越していく(冒頭写真参照)。瀬川を直角に渡って少し行ったところに、次の瀬川駅があった。畑を隔てて数mの位置に農業倉庫の土台と言われるものが残る。

この後は、先ほどの県道に近づいていき、鉛線と同じような道端区間になる。ただし、こちらは道路と完全に分離されていて、自転車道はあたかも側道のように見える。

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(左)瀬川を横断するために段丘を降下
(右)瀬川橋梁
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(左)瀬川駅跡、左手に農業倉庫の土台跡が
(右)県道に沿う側道区間が続く
 

北金矢(きたかなや)駅跡は、同名のバス停が目印だ。サルビアやマリーゴールドの華やかな花壇が作ってあった。黄金色の稲穂が揺れる傍らをさらに進むと、松山寺前(しょうざんじまえ)駅。立派な山門を構えた同名のお寺の近くで、ここにもバス停がある。

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(左)北金矢駅跡
(右)中間部は田園地帯
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(左)松山寺前駅跡(南望)
(右)松山寺山門
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図7 瀬川~花巻温泉間の1:25,000地形図
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図8 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

正面の山が近づき、民家が増え、少し坂がきつくなったと感じたら、もうゴールだった。自転車道は手前で終点となり、旧駅構内には南から駐在所、郵便局、そしてバスの転回場が順に並んでいる。北端に見える、一段上の道路へのコンクリート階段が唯一の痕跡らしい。正面には花巻温泉の横断看板が上がり、旅館群に通じるプロムナードが奥へ延びていて、駅が温泉の玄関口だったことがよくわかる。

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(左)終盤、坂がややきつくなる
(右)自転車道の終点(花巻方を望む)
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花巻温泉駅跡
一段上の道路への階段が残る
 

近くの台(だい)温泉や、豊沢川に沿う志戸平(しとだいら)、大沢、鉛の各温泉などは数百年の伝統を持つが、花巻温泉はそれらと違って、歴史は新しい。大正末期から昭和初期にかけて、関西の宝塚をモデルに開発された新興のリゾートだからだ。温泉も最初は台温泉から引いていた。鉄道もこの開発事業の一環で建設されたもので、宝塚に当てはめるなら、箕面有馬電気鉄道(現 阪急宝塚線)の位置づけだ。駅と温泉街が一体化して見えるのも偶然ではない。

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駅正面に花巻温泉の横断看板

自転車の返却時刻が近づいてきたので、来た道を戻った。7.4kmの距離に電車は18~20分かけていたが、自転車でも30分もあれば走りきれる。雨に襲われないうちに帰らなければ…。

昼食は、花巻屈指の人気スポット、上町のマルカンビル大食堂にて。閉店した地元デパートの最上階に残る、昭和の雰囲気を色濃く漂わせた展望レストランだ。平日というのに、一体どこから湧いてくるのかと思うほどの客で賑わっている。食事の後、デザートに名物の10段巻きソフトも試したので、もう花巻で思い残すことはない。

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(左)マルカンビル大食堂
(右)名物10段巻きソフトクリーム
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(昭和46年修正)、2万5千分の1地形図土沢(昭和48年修正測量)、花巻、花巻温泉(いずれも昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年11月 3日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車

朝8時56分、盛岡駅から上り電車で移動した。南へ二つ目の岩手飯岡(いわていいおか)駅が、本日の集合場所になっている。2024年10月6日、秋のコンター旅の後半2日目は、ここからクルマでJR岩泉線の廃線跡を見に行く予定だ。

JR山田線の茂市(もいち)を起点に、岩泉まで38.4kmを走っていたこのローカル線のことは、まだ記憶に新しい。押角(おしかど)~岩手大川間で発生した土砂崩れによる脱線事故で運行不能になったのは14年前、2010年7月31日のことだ。1日わずか3往復、極めつきの閑散路線だったため、復旧が叶うことはなく、2014年4月1日、正式に廃止となった。

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レールバイクの拠点、旧 岩手和井内駅

駅の東口広場で、自宅からマイカーを飛ばしてきた丹羽さんと落ち合う。参加者は、昨日もいっしょだった大出さん、山本さんとの計4名だ。さっそく丹羽号に乗り込み、国道106号バイパスを東へ進んだ。あえて郊外の岩手飯岡駅を発地にしたのは、東北道の盛岡南ICから続くこのバイパス道路の最寄り駅だからだ。三陸海岸の宮古方面へは、長さ4998mの新区界トンネルを含め、長大トンネルを連ねた高速道路のような立派な道路が完成していて、もはやサミットの区界(くざかい)駅前を通ることもない。

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図1 岩泉線周辺の1:200,000地勢図
1993(平成5)年編集
 

約1時間のドライブの後、茂市駅に立ち寄った。昔ながらの木造駅舎と跨線橋はすっかり撤去され(旧駅舎の写真は本稿末尾参照)、小さな待合室が新設されている。しかし、ここを通る山田線はこの夏の大雨被害により全面運休中で、再開の見通しが示されていない。ホームに出ると、出発信号機は灯っていたが、全赤だ。岩泉線のホームは駅舎方の1番線だったはずだが、そこにはもう線路すらなかった。

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茂市駅
(左)新しい待合室(右)列車の来ない山田線ホーム
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図2 茂市~岩手刈屋間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

駅を後にして、刈屋川の谷を旧道で遡る。岩泉線跡がつかず離れず、左手に続いている。下野付近には、塗装の剥がれかけたガーダー橋があった。廃線敷は沿線自治体が所有しているそうで、一部の橋梁やトンネルを除き、おおむね手つかずで残されている。

岩手刈屋(いわてかりや)駅跡は線路もホームもなくなり、がらんとした空地になっていた。岩泉方にある踏切跡の脇に立つ4 1/2キロポストが唯一の遺物かもしれない。対照的に、次の中里駅は、ホームと待合室がそっくり保存されている。というのも、現在、ここと岩手和井内の一駅間2.8kmが、レールバイクの走行ルートになっているからだ。

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(左)下野に残るガーダー(鈑桁)橋
(右)岩手刈屋駅跡近くの4 1/2キロポスト
 

廃線跡の観光利用法として、線路上を自走式の簡易車両で移動するアトラクションが、各地で導入されている。私も過去のコンター旅で、北海道の美幸線跡ではエンジン付きのカートに、また、九州の高千穂鉄道跡では動力車に牽引された大型カートに乗ったことがある。

*注 詳細は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」「コンターサークル地図の旅-高千穂鉄道跡とトロッコ乗車」参照。

岩泉線のそれは、2台の自転車を並列にして2軸台車に固定したレールバイク(軌道自転車)だ。自転車のタイヤがレールに接して駆動力となる一方、台車のフランジつき車輪がレールからの逸脱を防いでいる。これに2人が乗ってそれぞれ漕ぐのだが、希望すれば、後部にもう2人分の補助シートを設置した4人乗り車両も利用できる。

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レールバイク車両
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(左)スタッフが乗るエンジンカート
(右)4人乗りレールバイクと背後の車庫
 

今年(2024年)の場合、レールバイクは4月中旬から11月の土日祝日の運行だ。10~15時の間、毎時00分発の予約制で、私たちは11時発の便を申し込んでいた。岩手和井内の旧駅前にクルマを付けると、駅舎を活用した事務所の前でスタッフの方が2名、待っていてくれた。なにぶん遠隔地とあって、この時間帯の客は私たちだけだ。

料金は1台あたり2000円。受付を済ませ、レールバイク2台に分乗した。「帰りは上り坂ですので、電動アシストつきも用意できますよ」と優しい声が掛かったが、全員やせ我慢をして、アシストなしを選択する。

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旧駅舎の事務所で受付を済ませる
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2024年版レールバイクのポスター
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図3 同 中里~岩手和井内間
 

エンジンつきのカートで先導するスタッフの後を、少し間を開けてついていった。駅を出てまもなく、下り20‰の勾配標が見えた。岩泉線の急勾配区間は峠越えをはさむ和井内~大川間だと思い込んでいたので、その外側にもけっこうな坂道があることに初めて気づく。勾配値はざっと前1/3が20‰、中間1/3で12‰と少し和らぎ、後1/3が再び20‰だ。

とはいえ往路は下り坂だから、大して漕がなくても気持ちよく走ってくれる。先導車との車間を保つために、少しブレーキ操作が必要なくらいだ。のどかな村里の風景の中、山ぎわに緩いカーブを描く線路は営業線時代と変わらない。里道と交差する踏切や、小川をまたぐ鉄橋もある。ハンドルが固定されているので、スポーツジムのエアロバイクに乗っているようなものだが、室内と違い、風を切ってレール上を滑っていくのは、なかなか爽快だ。

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先導車の後をついて走る
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(左)20‰の勾配標
(右)落ちた栗のイガで埋まる線路
 

12分ほどで中里駅に到着した。ここで車両の方向転換作業が行われる。線路上に、軸回転式の簡易な転車台が設置されている。レールバイクをスロープ伝いにそこへ載せて、手動でくるりと回せば完了だ。

覚悟はしていたが、復路の上り坂はやはりきつかった。変速ギアを最軽にしても、ふだん使っていない太腿の筋肉が悲鳴を上げる。機関車の苦労が知れるというものだ。なんとかバテる前に和井内に戻ることができたが、所要時間を確認するのをすっかり忘れてしまった。往路とは走行速度が違うので、20分ほどかかっただろうか。乗車記念にと出発時に撮ってもらった写真のプリントができあがっていた。

■参考サイト
岩泉線レールバイク https://iwaizumisen-railbike.org/

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中里駅に到着
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転車台で方向転換
 

昼食の後、次の押角駅へ向かった。家並みが途切れてまもなく国道の改良区間は終わり、幅狭のくねくね曲がる谷道になる。見通しが悪く、対向不能個所も多い難路だ。10分ほど走ったところで、押角駅への指示標識が撤去されずに残っていた。「一般国道340号和井内~押角工区」の計画図を描いた大きな看板も立っている。

駅は刈屋川の対岸に位置していた。私たちの記憶にあるのは勾配途中の棒線駅だが、1972年まではZ字形スイッチバックの構造だった。その時代の駅舎と広場は養魚場に転用されてしまったが、本線築堤とホームのあった折返し線の跡らしきものが一部残っている。一方、茂市方はすでに広い更地になっていた。先ほどの計画図のとおり、早晩、道路にされてしまうようだ。

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国道改良の案内図
計画区間の左半分は旧線跡を通る
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押角駅跡
(左)岩泉方の本線跡(右)スイッチバック時代の折返し線跡か?
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図4 同 押角トンネル周辺
 

2987mの長さがあった押角トンネルは近年、国道用に拡幅改修(下注)された。だが、ポータルの位置がややずれているため、南口には鉄道時代の断片らしきものが見える。また、手前で刈屋川を渡るコンクリートの桁橋もまだ残っている。

*注 国道340号の押角トンネルは2018年開通、長さは3094m。

うっかり通過してしまったが、北口のずれはさらに大きく、鉄道トンネルのポータルが壊されていないらしい。また国道トンネルを出て300mほど北には、道路と川を一息に跨いでいた鉄道の高架橋が、川の上空部分だけ残されている。

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押角トンネル南口
(左)手前にある橋梁遺構
(右)国道トンネルの左側に鉄道時代の擁壁とポータルの一部(?)が残る
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トンネル北口近くに残る高架橋の断片
 

この先、線路は谷の傾斜についていけなくなり、山腹をトンネルで縫いながら、大きく西側へ迂回していく。それで、次の岩手大川駅は、国道からそれて県道171号大川松草線を西へ入った伏屋(ふしや)集落の中にあった。駅跡は県道から一段高い位置だが、広場もホームもすっかり夏草に呑み込まれている。

茂市方には、カーブしながら川を渡る第一大川橋梁が残存する。草をかき分けて行ってみると、橋上の線路は取り払われているものの、6連のガーダーはきれいなままで、今にも列車が渡ってきそうだ。長さ92m、川面からの位置が高いこともあり、岩泉線で最も印象的な遺構だろう。

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カーブしながら川を渡る第一大川橋梁
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(左)駅跡から第一大川橋梁へ続く築堤
(右)橋上の線路は撤去されていた
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図5 同 岩手大川周辺
 

国道340号に戻って少し下流に進むと、道端にこの路線では珍しいコンクリートアーチの長い橋梁が架かっていた。次の第二大川橋梁も、谷間を真一文字に横断していて壮観だ。川代集落では、廃線跡がもう国道レベルまで降りてきている。残された線路は錆びついているが、朽ちた枕木を交換すればまだ使えそうだった。

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直線で渡る第二大川橋梁
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(左)道端のコンクリートアーチ橋、写真の左側にも続いている
(右)まだ使えそうな川代集落の廃線跡
 

岩泉線の歴史は意外に新しく、茂市~岩手和井内間が1942(昭和17)年に小本(おもと)線として開業したのが始まりだ。その後、戦中戦後を通じて順次延伸され、1957年に浅内(あさない)に達した。浅内駅は今も平屋の駅舎とホーム、線路が現役さながらに保存され、足りないのは列車だけという状況だ。駅舎の前に、「浅内駅(痕跡)」と題された沿革の説明板が立てられ、待合室にも当時の写真が飾ってある。

当時の計画ではここが最終目的地だったので、ターミナルにふさわしい設備が見つかる。岩泉方には折り返す蒸気機関車のための給水塔が建っているし、駅舎の向かいの建物に、貨物を扱っていた日本通運の文字と社章が残る。

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浅内駅跡
(左)ホーム側から見た駅舎(右)ホームと線路も残る
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(左)蒸機のための給水塔
(右)日本通運の文字と社章が残る民家
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駅舎前に立つ説明板
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図6 同 浅内周辺
 

浅内から先は、時代が下がって1972(昭和47)年の開通だ。小本川を何度か渡り返す橋梁も、見た目が地味なPC桁に変わる。

次の二升石(にしょういし)駅は、国道左手の築堤上に高架式のホームと線路が残っている。築堤下には、三角屋根の小さな待合室も建っていた。桜並木が寄り添う旧ホームは、今でも春には花見ができそうだ。

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二升石駅跡
(左)桜並木が沿う旧ホーム(右)三角屋根の待合室
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図7 同 二升石~岩泉間
 

終点の岩泉駅は市街地の手前で、国道の川向うに位置していた。総2階建の大きな駅舎が、延伸開通時の地元の意気込みを物語る。現在は町の観光センターになり、1階ホールに出札口や時刻表、近隣駅の駅名標なども保存されているようだ。しかし残念なことに、観光センターと名乗る割に、土日は休業だ。入口が施錠されているので、ガラス越しに見るしかない。

構内に回ると、上屋の架かった棒線ホームはあるものの、線路はすでに失われていた。小本線の旧称のとおり、もとの計画ではここからさらに東へ進んで、現 三陸鉄道の岩泉小本駅がある小本まで線路が延びるはずだった。しかし、工事は着手されず、ミッシングリンクが埋まることはついになかったのだ。

全線の探索を終えたのが15時30分。明るいうちにと国道455号早坂トンネル経由で、私たちは盛岡への帰途に就いた。

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2階建の旧岩泉駅舎
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ホームは残るが、線路は撤去済み

以下の写真は、大出さんに提供してもらった現役時代の岩泉線各駅のようすだ。撮影時期は1983年8月と2003年3月。土砂崩れで不通にならなければ、この日常風景が今も続いていたのだろうか。

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茂市駅1番線、岩泉方を望む
(以下、特記のない写真は1983年8月撮影)
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茂市駅1番線、宮古方を望む(2003年3月撮影)
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中里駅
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岩手和井内駅
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浅内駅
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岩泉駅
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岩泉駅(2003年3月撮影)

参考までに、岩泉線が記載されている1:25,000地形図を、茂市側から順に掲げておこう。なお、一部の図には旧称である「小本線」の注記がある。

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図8 岩泉線現役時代の1:25,000地形図
茂市~岩手刈屋間(1972(昭和47)年修正測量)
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図9 同 岩手刈屋~岩手和井内間(1968(昭和43)年~1976(昭和51)年測量または修正測量)
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図10 同 岩手和井内~押角間(1976(昭和51)年修正測量)
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図11 同 押角~押角トンネル間(1976(昭和51)年修正測量)
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図12 同 岩手大川~浅内間(1976(昭和51)年修正測量)
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図13 同 浅内~岩泉間(1973(昭和48)年~1976(昭和51)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(平成5年編集)、2万5千分の1地形図岩泉、有芸、峠ノ神山(いずれも昭和48年修正測量)、茂市(昭和47年修正測量)、門、陸中大川、和井内(いずれも昭和51年修正測量)、陸中川井(昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年10月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-小岩井農場、橋場線跡、松尾鉱業鉄道跡

2024年コンターサークル-S 秋の旅、後半は岩手県に舞台を移す。1日目は、盛岡駅前でクルマを借りて、岩手山麓を半周する形で、雄大な風景と大地に埋もれた廃線跡を巡る。

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小岩井農場上丸四号牛舎
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図1 岩手山周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年編集
 

駅の改札前に集合したのは大出さん、山本さんと私の3名。白のトヨタヤリスで御所湖(ごしょこ)のほとりを走り、湖面に臨む繋(つなぎ)温泉の駐車場にクルマを停めた。御所湖は、雫石川(しずくいしがわ)を堰き止めて1981年に完成した比較的新しい人造湖だ。広い湖面の向こうにそびえる岩手山(いわてさん)の眺望を期待して来たのだが、空はおおむね晴れているのに、山頂付近に厚い雲がまとわりついている。

それから繋大橋を渡って北岸の、七ツ森がよく見える御所野の一角に移動した。のどかな田園地帯を限るように、優しい稜線をもつ小山がポコポコと並んでいる。宮沢賢治の文学作品にちなむイーハトーブの風景地の一つだ。本来ならその間に岩手山も顔を見せるはずだが…。

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御所湖西望
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七ツ森の展望

続いて国道46号で西へ向かう。目的地は橋場(はしば)駅跡。JR田沢湖線が仙岩トンネルの完成で全通する以前の盛岡方の終点で、路線も橋場線と呼ばれていた。1922(大正11)年に開業したが、戦時中、閑散区間だった雫石(しずくいし)と橋場の間が不要不急路線とされ、線路が撤去された。戦後の田沢湖線建設の際も、ルートから外れる赤渕(あかぶち、下注)~橋場間は復活することがなかった。

*注 赤渕駅は1964(昭和39)年の再開業時に開設された駅で、戦前の橋場線時代にはなかった。

橋場駅があったのは、赤渕から1.7kmの安栖(あずまい)地区だ。廃業した商店の向かいに並ぶ民家の間の小道を入っていくと、山裾にコンクリートの階段が見えてくる。踏面が草むしているものの、躯体はそれほど劣化していない。上ると、森の中に対面式のホーム跡がくっきりと浮かび上がった。しかし、端の方では丈の高い下草に覆われて、周りと区別がつかなくなる。構内の盛岡方に転車台があったようだが、冬枯れの時期ならともかく、とてもそこまで到達できそうになかった。

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橋場駅跡
(左)ホームへの階段(右)森の中のホーム跡
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図2 橋場駅跡周辺の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図3 橋場駅跡周辺の旧版1:50,000地形図(2倍拡大)
1939(昭和14)年修正測図

来た道を戻って雫石で左折し、次は小岩井農場へ。明治時代に岩手山南麓の広大な原野を拓いて造られた著名な農場だが、その一部がまきば園という有料公開の園地になっている。広々とした芝生広場の周りに乗馬体験や遊具のコーナー、レストランなどが配置され、大人から子どもまでゆったりと楽しめる場所だ。

だが残念なことに、鉄道系の楽しみはなくなってしまった。SLホテルだった蒸機D51 68号と20形客車は、今やただの置物になっている。雨ざらしのため、傷みが進んでいるようだ。D51は最近再塗装されて面目を取り戻したが、勢い余ってか、動輪まで黒のペンキで塗られていた。

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小岩井農場まきば園
(左)エントランス(右)広々とした園内
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旧SLホテルのD51 68号機
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図4 小岩井農場周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

園地の奥で走っていたトロ馬車も長期運休中だ。幌屋根のトロッコは乗り場に置かれたままで、周回軌道のレールももはや草に埋もれかけている。岩手山をバックに、草をはむ羊たちの横をトロ馬車が通り過ぎるさまはきっと絵になると思うので、復活を期待したい。

ちなみにこのトロ馬車は、昔ここにあった馬車軌道を再現したものだ。1904(明治37)年に農場本部から上丸牛舎に至る3.6kmの道沿いに敷設されたのが最初で、1921(大正10)年に国鉄橋場線の小岩井駅が開業すると、本部から南下して駅まで2.5kmが延伸された。当時のルートは旧版地形図(下図参照)にも描かれている。自動車の普及と道路整備に伴って1958(昭和33)年に廃止されるまで、半世紀にわたりトロ馬車は外界とを結ぶ重要な交通輸送手段だった。

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トロ馬車乗り場
(左)静態展示中(?)のトロッコ(右)遷車台
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牧場の中の周回軌道は草に埋もれつつある
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図5 小岩井農場の馬車軌道(薄赤で着色)が描かれた旧版地形図
図上端の「育牛部」が現在の上丸牛舎
1948(昭和23)年資料修正
 

レストランでスープカレーの昼食をとった後は、実際の農場の営みを見学できる上丸牛舎を訪ねた。門を入ったとたん、牧場独特の藁と糞の入り混じった匂いが漂ってきた。木造の大きな牛舎やレンガ張りのサイロは重要文化財の指定を受けつつも、現業で今なお使われているのだ。一号牛舎では内部も見学できる。ずらりと並んだ乳牛たちはもう慣れているのだろう。横から見学者がじろじろ眺めても、我関せずといった風で口をもぐもぐさせていた。

構内には事務所建物を利用した展示資料館もあり、本物のトロ馬車の走行写真やルート図など興味深い資料を見ることができた。最後に駐車場脇の売店で、限定販売の均質化していないビン牛乳を飲み干して、農場訪問を締めくくる。

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上丸牛舎の施設
(左)一号牛舎(右)一号、二号サイロ
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(左)小岩井農場資料館
(右)展示資料のトロ馬車写真

岩手山麓を北東へ走ると、東の方角に姫神山(ひめかみさん)が見えてくる。標高1124m、左右対称の整ったシルエットをもつ名山で、堀さんが著書『地図のたのしみ』に書いている。「頂上がキュッと尖り、両側になだらかな弧を描いて、ちょうど斜めに見たときの五重塔の軒先の曲線を思わせるその優姿をいつでも見せて、人の心をひきつける」と(同書p.232、下注)。

*注 堀淳一氏の『地図のたのしみ』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.245、2012年新装新版ではp.233にある。

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姫神山、柴沢からの眺望
 

堀さんは渋民駅で列車を降りて、線路沿いに北へ歩きながら北上川越しに山を眺めたが、私たちは、そこからさほど遠くない玉山地域重要眺望地点(柴沢)でクルマを停めた。「この優れた風景を大切にし、次世代に継承していきましょう」と書かれた盛岡市の案内板が立っている。水田地帯で、岩手山と姫神山がどちらも見通せるビューポイントだ。

ところが、無造作に張り巡らされた電柱と電線で、せっかくの景観にノイズが入る。そのうえ、東側に造られて間もなさそうな携帯の電波塔があって、姫神山にかぶってしまう。市の奨励にもかかわらず、眺望があまり重視されていないようだ。それでもう1か所目を付けていた渋民~好摩間の松川橋まで行った。ここは川面を前景にして山を望める。背後にはIGR線(旧 東北本線)の鉄橋も架かっているが、ほんの2~3分前に列車が通過したばかりで、さすがに一石二鳥とまではいかない。

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玉山地域重要眺望地点(柴沢)
(左)案内板と標柱(右)岩手山は雲の中
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姫神山、松川橋からの眺望

最後に松尾鉱業鉄道跡を訪ねた。これは、八幡平(はちまんたい)中腹で硫黄を採掘していた松尾鉱山のための支線鉄道で、国鉄花輪線の大更(おおぶけ)駅から東八幡平(旧称 屋敷台)まで12.2kmの路線だった。1934(昭和9年)に開業し、1951年からは電気運転になっている。接続する花輪線はもとより、東北本線でもまだ蒸気機関車が主役だった時代だ(下注)。八幡平へ行く登山客もよく利用した路線だったが、鉱山の閉鎖に伴い1972年に廃止となった。

*注 東北本線の盛岡~青森間の電化開業は1968年。

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大更駅
(左)新築の駅舎(右)ホーム、大館方面を望む
 

起点のJR大更駅へ。花輪線は言わずと知れた閑散線で、日中は片方向3時間に1本しか列車が来ない。ところが駅舎は、まるで近郊区間のような立派な2階建に建て替えられていて驚く。整備された駅前広場にタクシーが2、3台停まっていたから、それなりの需要があるのだろう。

クルマをときどき停めながら、終点まで廃線跡を追っていった。駅から北に出た鉱業鉄道は、約500m先で花輪線から離れていき、針路を徐々に西へ変える。草の生えた未利用地もあれば、砂利道だったり、プレハブ小屋が建っていたりと、現況はさまざまだ。しかし、用地区画は概して明瞭で、容易に跡をたどることができる。

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前半の廃線跡
(左)大更駅の北500m(右)上沖バス停前を横切る
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図6 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
大更駅周辺
 

現役時代、中間駅は二つあった。上沖(かみおき)バス停から廃線跡の農道を300mほど西へ行くと、一つ目の田頭(でんどう)駅跡を示す標柱が立っている。田んぼの真ん中に待合室がぽつんと残っているものと想像していたが、現実は違う。たくましく枝葉を広げた栗の木と野積みの廃タイヤにブロックされて、近づくことすら難しかった。

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(左)田頭駅跡の標柱、待合室は中央の木の陰に
(右)近づくのも困難な待合室
 

高森集落から西では、クルマでもたどれる農道になるが、鹿野(ししの)集落の手前でそれは消える。二つ目の鹿野駅は、地区の集落センター(集会所)の敷地などに転用されている。田頭駅のような標柱か説明板の一つでもあるといいが…。

集落を抜けると、2車線の舗装道が廃線跡だ。行く手に八幡平を仰ぐ一直線のルートだが、午後は雲が目立って増えてきた。東北自動車道をくぐり、県道23号大更八幡平線と交差すると、まもなく舗装道は終点となる。見過ごしてしまったが、この先に鹿野変電所が廃屋となって残っているそうだ。

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(左)鹿野駅跡に建つ集落センター
(右)八幡平に向かう廃線跡の2車線道
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図7 同 鹿野駅周辺
 

明治百年記念公園の駐車場にクルマを停めた。目の前で小水力発電用の水車が回っている。水を供給しているのは、松川上流で取水された用水路だ。松川温水路と呼ばれ、灌漑に適した水温にするために、幅広の水路に階段状に堰が切ってある。同様の施設が鳥海山麓にもあったのを思い出す(下注)。

*注 秋田県にかほ市象潟町の小滝温水路、「コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓」参照。

廃線跡はこの温水路に沿ってまっすぐ上流へ続いていて、現在は遊歩道になっている。落葉樹の林に包まれ、傍らで堰を落ちる水音を聞きながら、散策が楽しめるいい道だ。

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(左)松川温水路
(右)小水力発電用の水車
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温水路に沿う遊歩道区間
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図8 同 東八幡平駅周辺
 

一貫して西へ進んできた鉄道は、終点に近づくと北へ針路を変える。松尾鉱山資料館の駐車場が、かつて鉄道が斜めに横切っていた場所だ。線路の痕跡はない代わり、電化開業に合わせて導入された入換用電気機関車ED25 1号機が、上屋の下で静態保存されている。館内にも、鉄道に関する説明パネルや若干の資料展示があって、参考になる。この資料館、無料なのはうれしいが、鉱山のジオラマを除いて展示物を写真に撮れないのが惜しい。

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ED25 1号機
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松尾鉱山資料館
 

鉄道の終点である東八幡平駅は、索道で運ばれてきた鉱石の積替え施設が広がる一角にあった。現在は、松尾八幡平ビジターセンターという観光案内施設のほか、工場、広場、駐車場などに分割転用されている。どれも余裕たっぷりの敷地で、かつての施設がいかに大規模だったかが想像できる。

この後、私たちは、標高900m台にある松尾鉱山の採掘場付近まで、八幡平アスピーテラインを上っていった。急坂、ヘアピンの長い防雪シェルターを通り抜けると、風景はもう秋色を帯び始めている。かつて繁栄を極め、雲上の楽園とさえ称された鉱山町だが、今は廃墟と化した集合住宅群がむなしく立つばかりだ。坑道の崩落による陥没の恐れがあるとして、中心部に通じる道路は進入禁止になっていた。

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東八幡平駅跡
(左)松尾八幡平ビジターセンター
(右)広い駐車場も旧ヤードの一部
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松尾鉱山跡
(左)高層湿原の島沼
(右)廃墟になった集合住宅群
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図9 松尾鉱業鉄道が描かれた1:50,000地形図(東半)
1970(昭和45)年編集
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図10 同(西半)
(左)1973(昭和48)年編集(右)1970(昭和45)年編集
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図秋田、盛岡(いずれも昭和46年編集)、5万分の1地形図雫石(昭和14年修正測量)、小岩井農場(昭和23年資料修正)、八幡平(昭和48年編集)、沼宮内(昭和45年編集)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

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左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-S 春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

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桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

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羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
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(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

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(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
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バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
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図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

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(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
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観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

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(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

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(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
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(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

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(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

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(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

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修復中のモハ103
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屋根の復元が進行中
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月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
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在りし日の三山線写真
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(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

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(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
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石田駅跡に残る桜の大木、西望
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
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図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

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石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
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(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

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羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

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(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

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白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
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図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

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寒河江川にかかるみやま橋
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(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

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三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

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三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

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楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
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図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

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展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
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楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
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同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

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旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
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夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-S 春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

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第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

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朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

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明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
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図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

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西条駅
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(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

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鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

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道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

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大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
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(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

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(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
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旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

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旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

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(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
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新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

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(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

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廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
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図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

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(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

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潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
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(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

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漆久保トンネル東口
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小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

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(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

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けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

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谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
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(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

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三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
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(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
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道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すれば、駅舎の前に出られる。

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(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
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明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

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2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-S 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や徒歩では通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

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周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げとなった。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

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柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、まず旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられている。階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だ。しかし、こちらもカーテンが引かれ、ひと気がなかった。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

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(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

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(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

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中ノ郷駅のホーム跡
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本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
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(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
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図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

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柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
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旧道沿いの本陣跡民家
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図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

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柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

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(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
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長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

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柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

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頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
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オリジナルのポータルが残る
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由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
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同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

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(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
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図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

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小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
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東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

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東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
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県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

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愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
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図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

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笙の川に残る橋台と橋脚の土台
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(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
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(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年(2023年)春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

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杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
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図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2024年2月 7日 (水)

ニュージーランドの保存鉄道・観光鉄道リスト I-北島

植民地と自治領以来の強い文化的影響を受けて、南半球のイギリス Britain of the South とさえ呼ばれるニュージーランドは、保存鉄道の分野でもその呼び名にふさわしい充実ぶりを見せている。リストに掲げた20数件の路線のうち、主なものを北島と南島に分けて紹介したい。今回は北島について。

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グレンブルック駅の国産蒸機Ja形(左)とWw形(2017年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

保存鉄道・観光鉄道リスト-ニュージーランド
http://map.on.coocan.jp/rail/rail_nz.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-ニュージーランド」画面

ニュージーランドの幹線鉄道網は、日本のJR在来線と同じ1067mm(3フィート6インチ)軌間だ。廃止された支線を復活させて、この軌間の保存蒸機やディーゼル機関車を走らせているところがいくつかある。

項番1 ベイ・オヴ・アイランズ・ヴィンテージ鉄道 Bay of Islands Vintage Railway

北島の北側に角のように延びるノースランド半島 Northland Peninsula の一角を、この保存鉄道は走っている。もとは国鉄ノース・オークランド線 North Auckland line の最北端で、オプア支線 Opua branch line とも呼ばれた、内陸から港町に向かうローカル線の一部だ。

*注 オプア支線はノース・オークランド線 North Auckland line で最初の開業区間で、1868年にカワカワの炭鉱からオプア Opua の港へ石炭を運ぶ馬車軌道として造られた。

ベイ・オヴ・アイランズ・ヴィンテージ鉄道は1985年に開業したが、その後、財政難で休止と再開を繰り返した。現在は、支線の中間駅だったカワカワ Kawakawa を拠点に、約7km下ったテ・アケアケ Te Akeake(停留所)までの区間を、蒸気またはディーゼル牽引で往復している。往復の所要時間は90分。

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カワカワ駅で発車を待つ蒸気列車(2009年)
Photo by W. Bulach at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

ルートの呼び物は、カワカワの市街地を貫いている長さ約300mの道路併用区間だ。両端の車道との交差部に信号機はなく、クルマや通行人は阿吽の呼吸で、進入する列車に道を譲る。町を出た後は農地のへりを下っていき、中間駅タウマレレ Taumarere の先に、カワカワ川(!)Kawakawa River に架かる長いトレッスル橋がある。

テ・アケアケは川べりにある暫定の折り返し点で、鉄道はこの先、オプア港までの復元を目標にしている。現行ルートでも車窓はけっこう変化に富んでいるが、将来区間にはトンネルや入江の眺めもあり、魅力はいっそう深まることだろう。

ところで、英語では保存鉄道を通常 "heritage railway" というが、ニュージーランドでは、この鉄道のように "vintage railway" と称することが多い。適切な訳が思いつかないので、リストではすべてヴィンテージ鉄道としている。

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カワカワ市街地の併用軌道(2012年)
Photo by Reinhard Dietrich at wikimedia. License: CC0 1.0
 

項番5 グレンブルック・ヴィンテージ鉄道 Glenbrook Vintage Railway

オークランドでグレンブルック Glenbrook と言えば、誰しも南郊にある同名の製鉄所を思い浮かべることだろう。この保存鉄道は、そこへの貨物線が分岐するワイウク支線 Waiuku branch の末端区間を舞台にしている(下注)。1967年に廃止された区間だが、その10年後に保存団体が、藪を切り開き、本線運行から引退した蒸気機関車や客車をここへ運んで走らせ始めた。今ではそれが、蒸機10両以上を保有する同国有数の保存鉄道に成長している。

*注 ワイウク支線のうち、根元区間のパトゥマホエ Patumahoe ~グレンブルック間は製鉄所への貨物支線として現在も使われている。

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ワイウク郊外を行くJa形重連(2013年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

鉄道の拠点は、分岐駅のグレンブルックにある。そこから港町ワイウクのヴィクトリア・アヴェニュー Victoria Avenue 駅に至る7.4kmで、シーズンの主として日曜祝日に、かつて本線で使われた蒸機による観光列車が運行されている。

グレンブルックは台地の上で、河口のワイウクへ向けては、牧草地の中に下り坂が続く。往路の蒸機は逆機運転で、終点まで20分間ノンストップだ。機回しの後の復路は上り坂になるため、前を向いた蒸機の力強い走りが期待できる。中間地点のプケオワレ Pukeoware にある鉄道の修理工場で、15分の見学休憩があり、小旅行は往復で70分になる。

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グレンブルック駅の信号所(2013年)
Photo by itravelNZ® at flickr. License: CC BY-NC 2.0

次は、険しい峠越えに挑戦した19世紀の鉄道技術の結晶ともいうべき区間について。

項番9 ラウリム・スパイラル Raurimu Spiral

朝、オークランド Auckland から北島本線の長距離列車ノーザン・エクスプローラー Northern Explorer(下注)に乗り込むと、ちょうどお昼ごろにその鉄道名所にさしかかる。ラウリム・スパイラルとは、北島の中心部、タウポ火山群 Taupo Volcanic Zone の広大な裾野のへりにある、スパイラル(日本でいうループ線)を含んだ複雑な山岳ルートのことだ。

*注 北島の二大都市オークランドとウェリントンを結ぶ観光列車。現在、週3往復で、ウェリントン行きが月、木、土曜日に、オークランド行きが水、金、日曜日に運行される。所要10時間40分~11時間5分。

名所区間は、麓にある標高592mのラウリム Raurimu 旧駅(下注)から始まる。線路は半径151m(7チェーン半)のオメガカーブで反転した後、北斜面に回り込んで、長さ385mのトンネルに入る。この内部にスパイラルの始点があり、もう1本のトンネルを介しながら時計回りに円を描いていく。途中で左車窓に、ラウリム旧駅や先ほど通過した線路が一瞬見えるはずだ。

*注 ラウリム駅は1977年に廃止されたが、待避線は動態で現存する。

地形を巧みに利用したルートによって、鉄道は、勾配を蒸機の牽引能力内の1:50(20‰)に抑えながら、トンガリロ国立公園 Tongariro National Park の玄関口、ナショナル・パーク National Park 駅まで215mの高低差を克服した。この間の直線距離は約6kmだが、路線長は11.6kmとほぼ2倍の長さがある。

オークランドに向かう北行きのノーザン・エクスプローラーも、ナショナル・パーク駅の発車は同じ時刻だ。昼過ぎの時間帯、この名所を通って麓に降りていく。

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空から見たラウリム・スパイラル(2012年)
Photo by Jenny Scott at flickr. License: CC BY-NC 2.0
 

項番11 リムタカ・インクライン Rimutaka Incline

ウェリントンからマスタートン Masterton 方面に通じるワイララパ線 Wairarapa Line には、ニュージーランドの鉄道で第2の長さを誇る8798mのリムタカトンネル Rimutaka Tunnel がある。トンネルとその前後区間は1955年の開通だ。

それ以前の旧線は、まったく別の峠越えルートを通っていた。特に東斜面には3マイル(4.8km)の間、平均66.7‰という極めて急な勾配区間があった。そこで使われていたのがフェル式 Fell system だ。これは、2本の走行レールの間に双頭レールを横置きし、それを車両側の水平駆動輪で左右から挟むことによって推進力を高める方式で、幹線で20世紀半ばまで使用していたのは、この区間が唯一だった。

麓の基地にはそのための蒸気機関車H形が配置され、戦後に導入された気動車も、センターレールは使わないものの、それに支障しないよう車高を上げた特別仕様車だった。

新線開通後、廃線跡は峠のトンネルを含めて、リムタカ・レール・トレール(自転車・徒歩道)Rimutaka Rail Trail に転用され、保存されている。役目を終えたH形蒸機は1両だけ残され、東麓のフェザーストン Featherston に設立されたフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum で静態展示されている。これとは別に、西麓のメイモーン Maymorn 駅構内では、リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust が、峠区間の復元を目標にして活動中だ。

*注 詳細は「リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶」「同 II-ルートを追って」参照。

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現役時代のサミット駅(1880年代)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library at wikimedia. License: public domain
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サミットトンネル東口、トンネル内部に続くフェル式レール(1908年)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library at wikimedia. License: public domain

軽便線や市内軌道、鋼索線にもそれぞれ見どころがある。

項番2 ドライヴィング・クリーク鉄道 Driving Creek Railway

3km走る間にトンネル3本、橋梁10本、オメガループが2か所、スイッチバックは5か所…。しかも7番目の橋梁は2層建てで、タイミングを合わせた続行列車と、上下両層で同時に渡っていく。最後に控えるスイッチバックは、尾根から空中に突き出たデッドエンドで、乗客は見晴らしに感嘆しつつも目の前のスリルに肝を冷やす。

ドライヴィング・クリーク鉄道は、北島コロマンデル半島のコロマンデル Coromandel 郊外にある381mm(15インチ)軌間の観光鉄道だ。技巧を凝らして手造りされたレイアウトは、テーマパークのアトラクションも顔負けのレベルに達している。

意外なことに、鉄道の創設者は陶芸家だった。彼は1975年に、陶芸工房で使う粘土と薪を山から運び下ろすために軌道を造り始めた。ところが、工房を訪れた客を乗せるサービスが評判を呼び、しだいに線路は、裏山一帯を巡るようにして上へ上へと延伸されていった。

麓に建つ工房前から、列車は出発する。線路は最大1:14(71‰)という急な上り坂だ。数々のマニアックなポイントを経て到着した終点には、2004年に完成したアイフル・タワー Eyefull Tower(アイフェル・タワー Eiffel Tower、すなわちパリのエッフェル塔のもじり、下注)という展望台がある。標高165mの高みからコロマンデル・ハーバー Coromandel Harbour や対岸の山並みの眺めを存分に楽しんだ客は、再び列車に乗り込み、麓に戻っていく。往復1時間15分。

*注 展望塔の構造は、オークランド港にある同国最古の灯台ビーン・ロック灯台 Bean Rock Lighthouse をモデルにしている。

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(左)2層建ての第7橋梁
(右)空中に突き出た第5スイッチバック(いずれも2012年)
Photo by Reinhard Dietrich at wikimedia. License: CC0 1.0
 

項番4 ウェスタン・スプリングズ路面軌道 Western Springs Tramway

オークランド市内のウェスタン・スプリングズ Western Springs にあるMOTAT(輸送技術博物館 Museum of Transport and Technology)が、館外に敷いた軌道線で、動態保存しているトラム車両を走らせている。

博物館には、グレート・ノース・ロード Great North Road とエーヴィエーション・ホール Aviation Hall という離れた2か所の構内があり、軌道線は、訪問者がこの間を移動するための交通手段という位置づけだ。そのため、クリスマスの日を除き年中無休、15分から30分間隔で運行され、運賃は取らない。

グレート・ノース・ロードの車庫から出てきたトラムは、同名の停留所で客を乗せた後、街路と公園に挟まれた専用線を走り出す。中間に停留所が4か所あるが、列車交換(下注)が行われるオークランド動物園 Auckland Zoo 以外はリクエストストップだ。約8分で、航空機の展示ホールがある終点に到着する。

*注 列車交換は、15分間隔運行のときに行われる。

MOTATの保存トラムには、地元オークランドやファンガヌイ Whanganui の1435mm標準軌車のほか、ウェリントン Wellington から来た1219mm(4フィート)軌間の車両も含まれている。どちらも走れるように、軌道は全線にわたって3線軌条だ。

なお、エーヴィエーション・ホールの敷地の奥には、1067mm軌の蒸気鉄道の機関庫と、長さ約700mの走行線がある。毎月1回のライブ・デーには機関庫が公開され、保存運行が行われる。これもまた楽しみだ。

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終点エーヴィエーション・ホールに集結した古典車両群(2015年)
Photo by GPS 56 at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番14 ウェリントン・ケーブルカー Wellington Cable Car

ケーブルカーで高台に上り、市街とその先に広がるウェリントン・ハーバー Wellington Harbour の絶景を眺めるというのが、ウェリントン観光の一つの定番だ。赤い車体のケーブルカーは、首都の目抜き通りラムトン・キー Lambton Quay の一角にある奥まったホームから出発する。前半はトンネルを出たり入ったりを繰り返すが、後半で一転空が開け、後方に町と海の美しいパノラマが見えてくる。

公式サイトによると、路線は長さ612m。17.86%(1:5.06)の一定勾配で、高度差120mを上りきる。山上駅はウェリントン植物園に隣接していて、テラスからの展望を楽しんだ後は、緑あふれる園地の散策に出かけるのが通例だ。

ケーブルカーは1902年の開通だが、当時のシステムは1067mm軌間の全線複線で、サンフランシスコに見られるような循環式と、釣瓶型の交走式とのハイブリッド仕様だった。すなわち、全線を循環するケーブルが通っていて、下る車両はそれを装置でつかむことにより降下する(=循環式)。もう一方の車両は、別のケーブルで山上駅の駆動力を持たない滑車を介してつながっているため、下る車両に連動して引き上げられた(=交走式)。また、緊急ブレーキ用に、フェル式レールも設置されていた。

しかし設備の老朽化が進み、1979年に軌間1000mm、単線交走式に置き換えられた。現在は、ケーブルでつながった2つの車両が、山上駅の駆動力を持つ滑車によって上下する。中間駅タラヴェラ Talavera に、行き違うための待避線がある。

英語では、循環式のケーブルカー(およびロープウェー)を "cable car" といい、交走式は "funicular" と呼んで区別する。この鉄道は今もケーブルカーを名乗っているが、これは旧方式を使っていた名残りに過ぎず、実際はフュニキュラーだ。

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上部駅のテラスから見るケーブルカーのパノラマ(2014年)
Photo by Sham's Personal Favourites at flickr. License: public domain

最後に、変わり種の鉄道ツアーを一つ。

項番8 フォゴットン・ワールド・アドベンチャーズ(ストラトフォード=オカフクラ線)Forgotten World Adventures (Stratford–Okahukura Line)

北島中部に、エグモント山麓のストラトフォード Stratford から山中を通って北島本線のオカフクラ Okahukura に至るストラトフォード=オカフクラ線 Stratford–Okahukura Line がある。全長143.5kmの間に、24本のトンネル、91本の橋梁、20‰の勾配が繰り返される山地横断路線だ。しかし、旅客列車は言うに及ばず、近年は貨物列車の運行もなく、路線自体が休止状態になって久しい。

この忘れられたようなルートで、2012年からエンジン付きレールカートによる走行ツアーを実施しているのが、フォゴットン・ワールド・アドベンチャーズ(忘れられた世界の冒険)Forgotten World Adventures という企画会社だ。ゴルフカートのような簡素な車両だが、ガイドを兼ねたドライバーがつくので、客は乗っているだけでいい。また、およそ15km走るごとに降りて、小休憩やティータイムがある。

ツアーは数種類用意されている。たとえば、最も手軽な半日コースでは、朝、タウマルヌイ Taumarunui の直営モーテル前に集合して、シャトル(乗合タクシー)でオカフクラの乗り場(下注)へ行く。レールカートで線路を40km走ってトキリマ Tokirima へ。ここでランチをとり、復路はまたシャトルに乗って、ラベンダー農場経由で起点に戻る。

*注 オカフクラの国道をまたぐ鉄道の高架橋が老朽化により撤去されたため、乗り場はオカフクラ駅から800m先の地点に変更されている。

1日コースなら、80km先のファンガモモナ Whangamomona まで行ける。さらに「究極 The Ultimate」コースでは、レールカートだけでストラトフォードまで全線を移動する。東海道線なら、東京駅から吉原か富士までの距離に等しい。途中、ファンガモモナで1泊して2日がかりの行程だが、鉄道趣味もここまで来ると体力勝負だ。

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(左)オカフクラのカート乗り場
(右)先行するカートを追って山中へ(いずれも2021年)
Photo by njcull at flickr. License: CC BY-NC-ND 2.0
 

次回は、南島の保存・観光鉄道について。

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 オーストラリアの保存鉄道・観光鉄道リスト I
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