アメリカの鉄道

2017年11月 4日 (土)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。

吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。

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モファット・ロードの絵葉書
ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め
Image from The New York Public Library
https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99

 
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ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図
USGS 1:24,000地形図 East Portal
1958年版に加筆
 

目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の "10711(フィート)" と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。

*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。

■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja

ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。

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ロリンズ峠越え旧線全体図
USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆
 

旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。

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旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間
USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆
 

ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。

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デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617
 

間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。

しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。

*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。

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ライフルサイト・ノッチのスパイラル
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634
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旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆
 

この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。

モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。

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モファット・ロードの絵葉書、アロー駅
Image from wikimedia.
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旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆
 

旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。

ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。

モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。

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ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車
Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg.
 

さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。

*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。

それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグ Craig までが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。

*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。

実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。

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モファット線とドットセロ短絡線
 

その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。

その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。

*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。

モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。

*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。

ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。

ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。

(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編

2017年10月29日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編

コロラドの鉄道を語る際に欠かすことのできない人物がいる。その名はデーヴィッド・モファット David Moffat。生まれは東部ニューヨーク州だが、20代半ばでデンヴァーに移住し、デンヴァー第一国立銀行 First National Bank of Denver の頭取にまでなった有力実業家だ。

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デーヴィッド・モファット
(1839~1911)
© Denver Public Library 2017,
Digital Collections H-123

 

彼は、デンヴァー最初の鉄道となったデンヴァー・パシフィック Denver Pacific(下注)をはじめいくつかの新興鉄道にも出資者として名を連ねている。そして、1887年にはリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)の代表取締役に就任し、ライバル他社との激しい競争を制して、自社の優位を保つことに貢献した。テネシー峠回りの本線改良を推進したのも彼の功績だ。しかし、債権者との意見の相違が原因で1891年に社長を辞任し、その後は、リオグランデに対して距離を置き、独自の道を貫くことになる。

*注 デンヴァー Denver ~シャイアン Cheyenne 間のデンヴァー・パシフィックについては「ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー」で言及している。

その後モファットが仕掛けた鉄道は、リオグランデにとって最後のライバルとなった。デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P) が正式名だが、地元では常にモファット線 Moffat Line またはモファットロード Moffat Road(下注)と呼ばれている。なぜなら新たな夢を叶えるために、彼が持てる私財を惜しみなく注ぎ込んだ鉄道だからだ。

路線は、デンヴァーから直接西へ進み、ソルトレークシティ Salt Lake City と直結する計画だった。リオグランデと目的地が重なり、かつ南のプエブロ Pueblo を回るリオグランデに比べて距離がはるかに短い。デンヴァーの商業界も、市街の背後に残された鉄道空白地を解消する「エアライン Air Line(空地の路線の意)」として、その実現に大いに期待を寄せた。

*注 次回詳述するロリンズ峠 Rollins Pass 越えの廃線跡も、モファットロードと呼ばれるので注意。

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デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道(モファット線)の路線概略図
赤線がモファット線、青線がリオグランデ
 

デンヴァーの西側には、ロッキー山脈の一部を成すフロントレンジ Front Range(前面山脈の意)が屏風のように立ちはだかる。そのため既存の鉄道は迂回路を選んだのだが、遅れてきたモファット線はこの天下の険に敢えて正面から挑戦した。工事は1902年の冬に始まったものの、山脈に分け入るルートは難工事の連続で、分水嶺を越えて西斜面に達するまでに3年の歳月を要した。その分、開通後は壮観な山岳風景が見どころとなり、長旅の客を魅了したのだ。

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デンヴァー西方の山岳地帯を行くモファット線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆
 

列車に乗ったつもりで、デンヴァーの中央駅であるユニオン駅 Denver Union Station(標高1,581m)からそのルートをたどってみよう。

駅を出てしばらく旧コロラド・セントラル線 Colorado Central Railroad と並行したあと、線路は西北西へ向かう。30km(18.5マイル)の地点に、早くも最初の注目ポイントがある。平原からフロントレンジへの取っ掛かりに設けられた大カーブ群だ(下の地形図も参照)。勾配を20‰に抑えるために、敢えて極端に切返すことで高度を稼ごうとした。

2か所の馬蹄形カーブには、デンヴァー側から順にリトルテン Little Ten、ビッグテン Big Ten の呼び名がある。アメリカの鉄道では通例、カーブの緩急を弦(=弧の両端を結ぶ線分)100フィートに対する中心角の度数で表す。度数が大きいほどカーブがきつい。ビッグテンの「テン」は10度を意味し、半径175mに相当する急カーブだ。マイルトレイン Mile train (下注)がこの区間を上る様子は、まるで山に帰ろうとする大蛇のようにも見え、早くから定番の撮影地になっている。

*注 マイルトレインは、1マイル(1.6km)もあるような長大編成の貨物列車を言う。

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ビッグテンを降りるマイルトレイン
Photo by Aaron Hockley at flickr.com. License: CC BY-NC-ND 2.0
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ビッグテン~プレーンビュー間
なお、等高線間隔は、
図の左半分が40フィート(約12m)、右半分が10フィート(約3m)
USGS 1:24,000地形図 Louisville 1965年版、Golden 1971年加刷修正版、Eldorado Springs 1965年版、Ralston 1965年版に加筆
 

この後、列車は山裾を北へ進む。トンネルにはデンヴァー方から番号が振られていて、第1トンネルを出てまもなくプレーンヴュー Plainview の信号場(標高2,071m)がある。大平原の眺望という名が示すとおり、沿線最大かつ最後の見晴らしが楽しめる。

その先はいよいよ山岳地帯だ。大小のトンネルが27本も連続する区間「トンネル・ディストリクト Tunnel District」が待ち受けている。線路は、断層崖に露出したフラットアイアン Flatiron(アイロンの意)の大岩を抜け、エルドラド山 Eldorado Mountain の下の第8トンネルで西に折れ、サウスボールダークリーク South Boulder Creek の南側の険しい山襞を文字どおり縫うように進んでいく。このあたり、谷底からの比高は300mを優に超え、かなりの高度感がある。

サウスドロー South Draw の深い支谷を馬蹄カーブでしのぎ、長めの第17トンネルで向かいの尾根を抜ける。クレセント Crescent 信号場(標高2,271m)を通過すると、右手にデンヴァーの水がめ、グロス貯水池 Gross Reservoir の巨大なダムが望める。その後も同じようなトンネルが断続的に現れるが、いつのまにかサウスボールダークリークの谷底がかなり上昇してきている。谷中の馬蹄カーブの途中でごく短い第27トンネルをくぐればトンネル・ディストリクトは終了し、パインクリフ Pinecliff 信号場(標高2,430m)が目前だ。

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クレセント信号場の西でグロス貯水池を望む
Photo by Jerry Huddleston at wikimedia. License: CC BY 2.0
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プレーンビュー~クレセント間
USGS 1:24,000地形図 Eldorado Springs 1965年版に加筆
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クレセント~パインクリフ間
USGS 1:24,000地形図 Eldorado Springs 1965年版、Tungsten 1972年版に加筆
 

この後しばらくは、高原上の浅い谷の中を通る旅になる。ロリンズヴィル Rollinsville、トランド Tolland の信号場を過ぎ、デンヴァーから81km(50.2マイル)で、いよいよ大陸分水嶺の本体というべき山塊にぶつかる。線路はイーストポータル East Portal 信号場(標高2,808m)の先で、単線のモファットトンネル Moffat Tunnel に突入する。長さが9,994m(6.21マイル)もあり、開通当時は北米最長を誇った(下注)。

*注 現在は、ワシントン州のカスケードトンネル Cascade Tunnel(12.55km(7.8マイル))、モンタナ州のフラットヘッドトンネル Flathead Tunnel(11.28km(7.01マイル))について鉄道トンネルとしては第3位。

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モファットトンネル西口
Photo by Jeffrey Beall at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

当時、このようなトンネル建設は、前例のない大プロジェクトだった。それだけに、必要とされた莫大な資金を民間の力だけで集めきるのは難しかった。そこで、公営水道の計画と抱き合わせにして、デンヴァー市が起債で一部を賄おうとしたのだが、私企業との合弁事業に対し、反対派から横槍が入って頓挫する。最終的には州政府の財政援助を得て、なんとか着工に漕ぎつけた。

トンネルの掘削も、資金調達に負けず困難な作業だった。特に西側で想定以上に地質が悪く、破砕帯に遭遇して大量の湧水にも悩まされた。工期の短縮を図るために、先に貫通させた導坑を使い、本坑を複数の工区に分けて掘り進めていった。この導坑はトンネル完成後、水路に転用され、先ほど見たグロス貯水池を経由して、西斜面の豊かな水資源を東の都市域に導く役割を果たしている(下注)。

*注 トンネルは東口より西口のほうが高度が高いが、中央を高くする拝み勾配のため、水路トンネルの西半分は逆サイホンの原理で流している。

長い闇を抜ければ、太平洋斜面で最初の駅ウィンターパーク Winter Park(標高2,762m)に到着する。スキーリゾートとして知られる町だ。線路はさらに、フレーザー川 Fraser River に沿って西へ下っていく。

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ウィンターパークの中心部
Photo by Darkshark0159 at English Wikipedia.
 

興味の尽きないルートながら、現在このルートを走る旅客列車はごく少ない。通年運行するものでは、シカゴ Chicago ~エメリーヴィル Emeryville 間の大陸横断列車カリフォルニア・ゼファー号 California Zephyr が唯一だ。西行き、東行きとも2日目の日中にこの山岳区間を通過するので、変化に富んだ車窓風景が楽しめる。

このほか、デンヴァーのシニア世代には懐かしいデンヴァー~ウィンターパーク間の「スキートレイン Ski Train」が、数年間の中断を経て、2017年のシーズンから復活している。

この列車は1940年に運行が始まり、1950~60年代にはウィンターパークのスキー教室に出かける子どもたちを運んでいた。1988年にリゾートトレインとして再出発したものの、利用者の減少が進み、2008~09年冬のシーズンをもって廃止されてしまった。ところが、2015年のウィンターパーク開設75周年に当たり記念列車を計画したところ、昔を懐かしむ人々に大きな反響を呼んだ。用意された450席は即日完売となり、急遽追加した翌日便もすぐに売り切れた。そこで運行の定期化が検討され、2017年1月からスキーシーズンの週末(土・日曜)に「ウィンターパーク急行 Winter Park Express」の名で再び走り始めたのだ。

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デンヴァー・ユニオン駅に停車中のスキートレイン(2003年)
Photo by Lexcie at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

こうして今や大陸横断鉄道の一部にもなったモファット線だが、実はデーヴィッド・モファットは、夢に描いた新路線の完全な姿を見届けることなく、1911年にこの世を去っている。分水嶺を越える区間は、確かに生前の1904~05年に開通しているのだが、トンネルが完成したのはずっと後の1928年なのだ。では、それまでの24年の間、旧線はどこを通っていたのだろうか。その驚くべきルートについて次回詳述しよう。

(2007年2月2日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-モファット線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
アムトラック-ウィンターパーク急行 https://www.amtrak.com/WinterParkExpress

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2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車
右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260
 

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)
 

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆
 

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望
中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia
 

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆
 

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む
(当時の絵葉書)
image from wikimedia
 

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車
2006年撮影
(左)278号機関車
(右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

 

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で有利と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆
 

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆
 

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections http://digital.denverlibrary.org/

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 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編
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2017年10月15日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド

1887年9月、リオグランデやサウスパークに7年遅れて、レッドヴィル Leadville に次の挑戦者が登場する。その名はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)。以下、「ミッドランド」と呼ぶことにしよう。

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ハガーマン峠西側ヘルゲート Hell Gate へのアプローチ
Courtesy, L. Tom Perry Special Collections, Harold B. Lee Library, Brigham Young University, Provo, UT 84602.
 

この鉄道はどこから来たのだろうか。デンヴァー Denver とプエブロ Pueblo の間にコロラドスプリングズ Colorado Springs という町がある。現在は州でデンヴァーに次ぐ大きな都市に成長しているが、もとはリオグランデが、付近の鉱泉を売りにして1871年から開発を始めた鉄道沿線のリゾートタウンだ。鉄道網ができ、1890年にクリップルクリーク Cripple Creek でコロラド最後のゴールドラッシュが起こると、鉱物資源の集積地として発展する。この町からミッドランドは、サウスパークと同じ峠を越えてレッドヴィルへ、そしてさらに西へと線路を延ばしていった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の路線概略図
赤線がミッドランド
青線がリオグランデ(主要線のみ)
 

ミッドランドには、前2社とは一線を画すセールスポイントがあった。2社が3フィート(914mm)の狭軌線だったのに対して、最初から4フィート8インチ半(1435mm)の標準軌で建設されたのだ。これは、大陸横断鉄道はもとより国内の主要鉄道網にそのまま車両を乗入れできることを意味する。リオグランデも対抗上、翌1888年にプエブロ~レッドヴィルの競合区間に急いで標準軌の線路を敷いたほど、そのインパクトは強かった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の
絵葉書、1900年ごろ
Photo from wikimedia
 

中でもブエナビスタ Buena Vista 北方からレッドヴィル西方までの約80kmは、ライバル同士が並走する区間になった。両者の線路は、時にアーカンザス川 Arkansas River をはさんで対岸に、時には全く隣接して敷かれていた。

リオグランデも標準軌にするのだが、完全に軌間を変更してしまうと狭軌車両が直通できなくなる。そこで一部区間では3線軌条方式を採用した。その後、支線の廃止に伴って、コロラド山中の路線は標準軌に統一されていくが、そのきっかけとなったのがミッドランドの参入だったのだ。

さらにミッドランドは1887年に、ブエナビスタまでの区間で定期運行を開始するにあたり、スケネクタディ機関車工場 Schenectady Locomotive Works 製115形3両を含む28両の機関車を投入した。115形は軸配置2-8-0(先輪1輪、動輪4輪)で、「コンソリデーション Consolidation(混載輸送の意)」と呼ばれた当時としては最大級の蒸気機関車だ。荷主たちに輸送力の優位性をアピールする意図があったことは言うまでもない。

では、鉄道がどんなルートを通っていたのか、地図で確かめておこう。幸いレッドヴィル周辺については、各社が競合していた時代の地形図が残っている(下図参照)。ご覧の通り、リオグランデ、ミッドランドとも、山麓の緩斜面に立地するレッドヴィルの町まで谷筋から寄り道する形で線路を設けている。ミッドランドにとってはこれが本線で、アーカンザス川に沿う線路は後から造ったアスペン短絡線 Aspen Short Line と呼ばれるショートカットルートだ(下注)。

*注 下図は1889年版だが刊行は少し後のようで、サウスパークのハイライン High Line(図の右上から降りてくる2本の線路のうちの右側)がすでに後継会社のコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad と注記されている。

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1880年代、レッドヴィルを目指した路線網
赤がミッドランド、青がリオグランデ
緑がコロラド・アンド・サザン(旧サウスパークのハイライン(高地線))
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆
 

さて、ミッドランドがさらに西へ進出するには、どこかで大陸分水嶺を越える必要がある。選ばれたのは、レッドヴィルの西に位置する峠だ。ミッドランドの社長の名からハガーマン峠 Hagerman Pass と呼ばれるようになるが、鉄道通過で注目されるまでは交易ルートからも外れた無名の土地だった。峠の南1.3kmにある鞍部の直下に掘られたトンネルは、長さが659m(2,161フィート)に過ぎない。しかし、線路の最高到達地点は標高3,514m(11,528フィート)で、アルパイントンネルに次ぐ高度になった。当然、そこに至るアプローチは生易しいものではない。

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ハガーマン峠東側の多重ループ
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1915
 

地形図(下図)に開通当時の状況が描かれているが、峠の東側では、約560mある高度差を稼ぐために4回も折り返しながら最大32.4‰の勾配で上っていく。山麓から3つ目の馬蹄カーブは、谷をまたぐ長さ330mの大規模なトレッスル(下の写真参照)が組まれていて、とりわけ壮観だった。一方、峠の西側は谷底まで900m(3000フィート)以上も下降するため、最大30‰の片勾配が延々32km(20マイル)も続く。西から鉱石などの重量貨物を牽いて上ってくる機関車にとっては、試練の道中だったに違いない。

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ハガーマン峠周辺
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版、Mount Jackson 1909年版に加筆
*注 ハガーマントンネル~アイヴァンホー湖間のルートは誤りで、実際は赤のマーカーで示したように湖の南側の尾根を巻いていた。
 

分水嶺を驚異のルート設定で克服したミッドランドは、1887年12月にコロラド川本流と出会うグレンウッドスプリングズ Glenwood Springs まで線路を完成させて、分水嶺をまたぐ列車運行を開始した。線路はアスペンジャンクション Aspen Junction(後のバソールト Basalt)で二岐に分かれ、片方は1888年2月に目標としていた鉱山町アスペン Aspen に達した。

もう片方は、コロラド川北岸のライフル Rifle まで自社路線を建設(一部は乗入れ)し、その先をリオグランデと協定を結んで線路を共有することで、1890年9月にユタ州境に近いグランドジャンクション Grand Junction まで開通させた。これによりミッドランドは、ユタ州側の鉄道(リオグランデ・ウェスタン鉄道 Rio Grande Western Railway)と接続を果たし、予定していたソルトレークシティ Salt Lake City へ列車を直通できるようになった(下注)。

*注 ミッドランドは、1890年にリオグランデのかつての敵サンタフェの子会社となり、名称はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railroad に改められた。日本語では区別できないが、旧社名の Railway が Railroad に変わっている。しかし1893年のサンタフェ倒産により、再度独立する。

しかし山越えの線路には、開通直後から問題が発生していた。標高の高い峠道はとりわけ冬の気候が厳しく、雪が6月まで融けきらないこともあった。そのため、湿度の高い状態が長く続き、影響で木製の枕木やトレッスルが早々と腐り始めたのだ。取り換えてもまた同じ繰り返しになることから、抜本的なルート変更が計画された。

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第3馬蹄カーブの大規模な木造トレッスル橋
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-729
 

より低い位置で峠の下を貫くバスク=アイヴァンホートンネル Busk-Ivanhoe Tunnel がそれだった。長さは旧トンネルの4倍以上の2,863m(9,394フィート)あり、標高は3,338m(10,953フィート)まで落ちる。地図(下図の破線ルート)に示したとおり、ハガーマン峠前後の多重ループを一掃し、距離も1/3以下に短縮する画期的なものだった。不安定な地質に苦しみながら工事は3年がかりで進められ、1893年に開通した。

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旧線ハガーマントンネルと
新線バスク=アイヴァンホートンネル(図では破線のルート)の位置関係
USGS 1:24,000地形図 Homestake Reservoir 1970年版、Nast 1970年版、Mount Massive 1967年版、Mount Champion 1960年版に加筆
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ハガーマン峠西側で32km続いていた下り坂
(地図はその一部、上図の西側に当たる)
USGS 1:24,000地形図 Nast 1970年版に加筆
 

ただし、新線での運行が定着するまでには一騒動があった。ミッドランドはすでに巨額の負債を抱えていたため、トンネルは同名の建設会社が完成後も所有し、当面ミッドランドが通行料を支払って運行する形をとった。しかしこれは問題を先送りしたに過ぎず、不況下でミッドランドの経営が行き詰ってくると、料率をめぐる交渉が決裂する。鉄道会社が再建されたとき、新経営陣は放置されていた旧線を急ぎ復旧して、1897年10月から新トンネルの運行契約を破棄するという強硬策に出た。列車の運行は旧線経由に戻された。

ところが運の悪いことに、次の冬(1898~99年)は例年以上に天候不順で、連日嵐が吹き荒れた。1月になると降り積もる雪で、旧線ではスノーシェッド(雪囲い)が倒壊し、線路も埋まってしまった。峠の線路に列車が閉じ込められたが、救援に向かおうとしたロータリーもあまりの豪雪に歯が立たなかった。荒天が収まり線路が開通したのは4月になってからで、不通期間は78日に及んだ。さすがに懲りたミッドランドは建設会社を買収することにより使用料問題を解消し、1899年5月から運行を新線に復帰させたのだった。

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アスペンに入る2本の鉄道
USGS 1:125,000地形図 Mount Jackson 1909年版に加筆
 

ミッドランドは、標準軌や最新車両という武器を引っ提げ、域内輸送のみならず、山地を通過する貨物もリオグランデから奪おうとした。その目論見はどこまで成功したのだろうか。

2社はレッドヴィルに次いで、発展が期待されたアスペンや西方との連絡輸送ルートの確立を競った。路線の開通はほとんど同時期だが、ミッドランドは速達性と輸送力で応分のシェアを獲得した。しかし、リオグランデも1890年には標準軌化を完了させるとともに、待避所の増設や複線化を進め、輸送体制を強化していく。ミッドランドの場合、稼いだ利益は社債の高利息の支払いに消えていき、運転資金は潤沢とは言えなかった。さらに1900年から1901年にかけての資本移動の結果(下注)、ミッドランドはライバルであるリオグランデに半分所有される形になり、もはや競合関係ではなくなってしまった。

*注 1900年にミッドランドの株式をリオグランデ・ウェスタンとコロラド・アンド・サザン Colorado and Southern が取得し、1901年にそのリオグランデ・ウェスタンの株式をリオグランデが取得して経営権を掌握した。

この頃のアメリカは好況期で、沿線では鉱業だけでなく畜産業も盛んになり、貨物輸送は順調に増加した。しかし1908年を境に、経済は不況に転じる。通過貨物はリオグランデだけでも担える量に縮小し、ミッドランドには流れにくくなった。鉱山の閉鎖や生産設備の移転により、域内輸送も減少した。

ところが、第一次世界大戦が始まると、連邦鉄道管理局は、戦時輸送の効率化を図るために、東西の短絡ルートであるミッドランドに列車を集中させるよう指令を出した。突然、膨大な貨物が集中したため、ミッドランドでは運行管理が追い付かず、列車の遅延や貨物の滞留が常態化した。当局はミッドランドが対応できないとみるや指令を撤回し、今度は列車をリオグランデ経由に振り替えた。この混乱で、ミッドランドから通過貨物がまったく消えてしまい、ついに息の根を絶たれることになった。1918年に運行休止の許可が下り、線路は1920年代初めに撤去された。

コロラドの中央山岳地帯における鉄道事業者の争いで、勝ち残ったのはリオグランデだった。もちろん経営権をめぐる複雑な動きも含めた結果ではあるものの、主要河川であるアーカンザス川とコロラド川の自然回廊をいち早く選択するという、先行者ならではの特権も大いに寄与しただろう。この基軸ルートを最大限に活用して、路線網を広範囲に張り巡らせ、それによって地域内と全米各地との移送貨物、さらには大陸を横断する通過貨物も受け入れることができた。

ほかの鉄道は、リオグランデより有利な経路を採ろうとしたものの、連絡運輸をうまく取り込むことができず、多くの場合、地域内輸送を担ったにとどまる。そのため、鉱物資源に多くを依存する地域が不況に陥ると、たちまち収益は悪化し、経営が立ちいかなくなってしまったのだ。

とはいえ、覇者たるリオグランデも、ライバルに対抗するために自社路線のさまざまな拡張や改良を行っている。とりわけ山脈の東西を結んだ2本の主要ルートは、アルパイントンネルやハガーマン峠にも匹敵する北米屈指の山岳鉄道だった。次回はその起源と盛衰に迫ろう。

(2007年1月18日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ハガーマン峠」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
Colorado Midland Railway - A Short History
http://www.willcallhandyman.com/ColoradoMidland/Short_History_Page.html
DRGW.net - The Colorado Midland Railway
http://www.drgw.net/info/ColoradoMidland
William Henry Jackson Collection - Brigham Young University Library
https://lib.byu.edu/collections/william-henry-jackson-collection/

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2017年10月10日 (火)

ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート

銀の都レッドヴィル Leadville に、サンタフェとの鉄道戦争を決着させたリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)が到達したのは1880年のことだ。ところが、リオグランデは狙い通りに町の輸送需要を独占することはできなかった。なぜなら、次のライバルが別の方向からすでに姿を現していたからだ。

ライバルの名は、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P、下注)。以下「サウスパーク」と呼ぶが、リオグランデがロイヤル峡谷の戦いでもたついている間に、着々とコロラドの山中へ駒を進めていた。パシフィック(太平洋)という名が示すとおり、これも西を目指そうとした鉄道だが、軌間は、リオグランデと同じ3フィート(914mm)の狭軌だった。

*注 1872年10月設立時点の社名は Denver, South Park and Pacific Railway。1873年に増資の上、Railway を Railroad に改名して新たに設立された。

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サウスパークを走った機関車
(コロラド州フェアプレー Fairplay, CO のサウスパーク市立博物館 South Park City Museum に展示)
Photo from www.loc.gov http://www.loc.gov/pictures/resource/highsm.33658/
 

リオグランデが、路線をデンヴァー Denver から南へ延ばすつもりだったことは前々回述べたとおりだ。それでレッドヴィルへ向かう路線も、開通済みのプエブロ Puebloで分岐してアーカンザス川 Arkansas River 沿いに北上するルートをとった。しかしこれをデンヴァー起点で見ると、かなりの遠回りになる。それに対してサウスパークは、デンヴァーから目的地に直行するという点を売りにした(下図参照)。サウスパーク South Park という名称は、途中で横断する高原地帯の名に由来する。

会社設立は1872年という早い時期だ。この時点ではまだシルヴァーブーム(1878年~)が起きてはおらず、したがってレッドヴィルの町も小さかった。例のパイクスピーク・ゴールドラッシュのさなか、1859~60年に礎が築かれたレッドヴィルは、一時はオロ・シティ Oro City(黄金都市の意)と持て囃されながら、砂金が枯渇するとたちまち人口が激減していた。標高3,100mの高地で気候が厳しいこともあって、有望な鉱物資源がない限り、鉄道資本家の興味を引く場所ではなかったのだ。

それでサウスパークの本線は、レッドヴィルに立ち寄ることなく、まっすぐ西へ向かい、まだ見ぬパシフィックをめざそうとした。しかし、1873~76年というのは金本位制のもとで、西部が不況に喘いでいた時代だ。鉄道会社も資金繰りが苦しく、延伸工事はいっこうに捗らなかった。

1878年にいよいよシルヴァーブームが到来すると、コロラド各地で銀の採掘地へ向けた鉄道の建設ラッシュも始まった。その年の初めにはまだデンヴァーから20マイル(32km)のプラット峡谷 Platte Canyon 入口で足踏みしていたサウスパークも、みるみる路線を延ばしていった。鉄道輸送は活気を呈しており、1日当り480ドルの費用で1,200ドルの収入があった。収支係数40の超優良線だったのだ。鉄道は1879年6月にサウスパークの一角にあるコモ Como に達した後、標高2,892mのトラウトクリーク峠 Trout Creek Pass を越え、リオグランデが縄張りとするアーカンザス川の谷へ降りていった。

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デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道の路線概略図
赤線がサウスパーク、青線がリオグランデ(主要線のみ)
 

こうなると、銀の都へのルートを巡って、両者の間で新たな鉄道戦争が勃発する、と先読みしたいところだが、実際はそうならなかった。なんと両者は手を携えて、レッドヴィルに入ったのだ。サウスパークのレッドヴィル開業は1880年7月2日、リオグランデは7月20日とされ、前者がタッチの差で早いらしいのだが、ターミナルは別でも、そこに至る線路は共同で使っていた。なぜそうなったのか。

実は裏で画策した男がいた。「泥棒男爵」ジェイ・グールド Jay Gould。ロイヤル峡谷戦争に介入し、リオグランデの側に立って、サンタフェの戦意を喪失させたあの男だ(前々回参照)。彼はすでにサウスパークの物言う株主でもあったため、二者が並行路線を持つのは無駄だと考えた。それで、両者がレッドヴィルに到達する1年前の1879年10月に、共同運行協定を結ばせていたのだ。そこにはこう記されている。「調和と相互利益を目的として、リオグランデは、ブエナビスタ Buena Vista からレッドヴィル鉱山地区へ線路を敷設し、サウスパークは同等の運行権を共有する。同様に、サウスパークは、チョーククリーク Chalk Creek 経由ガニソン Gunnison 地内への敷設権が与えられ、リオグランデには同等の運行権が与えられる。」

平たく言えば、両者がそれぞれ相手の路線に乗り入れる権利を有するということだ。サウスパークはこの協定に基づいて、リオグランデの敷いた線路でレッドヴィルに乗入れることができ、同時に、サウスパークが敷く予定の西側区間がガニソンまで共用となる。しかし、これはお互いに不満の残る協定だった。というのも、当該区間で上がる収入も、かかる維持費も両者が折半することになっていたからだ。取扱量の多いリオグランデとしてはドル箱路線の利益をみすみす他者に渡すことになる一方、サウスパークは列車数が少ない割に維持費の負担が重かった。

案の定、協定は開業から4年足らず、1884年2月に破棄されてしまう。それを見越してサウスパークは、レッドヴィルに通じる独自路線の建設を進めていた(下注)。コモで本線から分岐して北上するルートだ。

*注 ジェイ・グールドの支配下にあったサウスパークは、1881年からユニオン・パシフィック鉄道(UP)のサウスパーク線区 South Park Division として扱われるようになったが、本稿では混乱を避けるために前歴と区別せずに記述している。

線路はボレアズ峠 Boreas Pass を越え、ブレッケンリッジ Breckenridge からいったんブルー川 Blue River の谷を下る。その後反転南下して、テンマイルクリーク Tenmile Creek を遡り、フリーモント峠 Fremont Pass 経由でレッドヴィルに至る。「ハイライン High Line(高地線)」と呼ばれたように、標高3500m近い大陸分水嶺を二度も越える名うての山岳路線だった(下注)。この開通によって、レッドヴィルからデンヴァーまでの距離は、リオグランデの446km(277マイル)に対し、243km(151マイル)と著しく短縮された。

*注 ボレアズ峠は標高3,499m(11,481フィート)、フリーモント峠は標高3,450m(11,318フィート)。

ところで、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道を語るなら、本来の設立目的であった西部連絡線のことも外すわけにはいかない。ハイラインの大胆なルート選択にも驚くが、西方ではさらに挑戦的な土木工事が実行に移されていたからだ。

西をめざすサウスパークの当面の目標は、大陸分水嶺を越えた先にあるガニソンの谷だった。その周辺では石炭、石灰石、鉄や貴金属を産出する鉱山が開発を待っていた。峠道にはいくつかの選択肢がある。最も標高が低いのは一番南にあるマーシャル峠 Marshall Pass だが、すでにリオグランデの最初の本線が敷かれていた。次に低い峠はモナーク峠 Monarch Pass で、現在、連邦道50号線が通っている。サウスパークはそのいずれでもなく、ブエナビスタから距離は最短だが、標高はさらに高い峰筋を越えようとした。

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アルパイントンネルを中心とした鉄道路線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆
 

残念ながらその時代に分水嶺付近の地形図は作られなかったので、1980年代の地形図でルートを確認しておこう。右上のデンヴァー側からPACK TRAIL(登山道)の注記のある小道が左に延びている。これが廃線跡だ。線路は最急40‰の険しい勾配で、サミットをめざしていた。トンネル沢 Tunnel Gulch の南斜面に、標高11,600フィートの注記を伴ってトンネル北口がある。本来の峠道は一つ東にあるウィリアムズ峠 Williams Pass なのだが、鉄道はそれよりも尾根がくびれて、掘削距離が短くて済むこの場所を選んだ。

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アルパイントンネル周辺
USGS 1:24,000地形図 Saint Elmo 1982年版、
Cumberland Pass 1982年版、
Whitepine 1982年版、Garfield 1982年版に加筆
 

アルパイントンネル Alpine Tunnel(アルプストンネルの意)と命名されたこのトンネルは、コロラドの大陸分水嶺に穿たれた最初のものだ。標高3,539m(11,612フィート、下注)は、鉄道用としては北アメリカで最も高く、その記録は未だに破られていない。長さはたかだか540m(1,772フィート)と見積もられたので、建設会社は6か月で貫通させるつもりだった。ところが、掘削中に花崗岩の破砕帯に遭遇し、アカスギの支持枠で全長の8割を補強するなど、予期しない難工事となった。結局、完成までに2年近くを要し、1881年12月にようやく開通した。地形図にはトンネルの位置が明瞭に描かれているが、現在はポータルが崩壊して、内部に入ることはできなくなっている。

*注 アルパイントンネルに関するウィキペディア英語版の記事では、トンネルの標高が11,523フィート(3,512m)とされているが、1:24,000地形図記載の標高値から見て、Narrowgauge.org が示す11,612フィートに妥当性がある。 http://narrowgauge.org/alpine-tunnel/html/auto_tour.html

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アルパイントンネル西口、1880年代撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1425
 

南口からは、地図上の廃線跡が車道の記号になる。もちろん車高の高い四輪駆動車でしか行けないようなオフロードだが。この狭い平底の谷間には、列車運行の中継基地が設けられた。アルパイン駅 Alpine Station と呼ばれて、機関庫、給水タンク、転車台、鉄道員宿舎などが備わっていたが、1906年に火災に遭い、主要な建物は焼失してしまった。最近になって愛好家たちの手で、駅併設の電報局舎や37m(120フィート)の線路、転車台などが復元され、かつての雰囲気が蘇っている。

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現地に復元されたアルパインステーションの施設
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

やがて道は、はるかに広いU字谷の中腹に踊り出る。谷底からの高さは約300m(1,000フィート)ある。車窓には、登山鉄道も顔負けの雄大な山岳風景が開けて、列車の客を魅了したに違いない。降りていく途中にあるザ・パリセーズ The Palisades(絶壁の意)は、そそり立つ断崖の下に石組みで通路を確保した難所で、沿線の名所にもなっていた。谷底に達すると、線路は急曲線のシャーロッドループ Sherrod Loop で方向転換する。現在の車道はループを短絡しており、外側に膨らんだ小道が本来の線路跡だ。また、すぐ下方にあるウッドストック Woodstock 駅は、1884年早春の雪崩で宿舎が壊滅して、13人が命を失うという大きな被害に見舞われた現場になる。

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往時のザ・パリセーズ
1900~1920年撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1373
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現在のザ・パリセーズ(上写真の逆方向を見る)
2006年撮影
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

この後は、ミドルクウォーツクリーク Middle Quartz Creek の右岸の谷壁に沿って、淡々と下っていく。地形図で、山から滑り落ちる谷川を渡る地点にある "Water Tank" の注記は、機関車に補給する水を貯える水槽だ。張り出し尾根を大きく回り込むと、ようやく峠の西麓クォーツ Quartz(すでに廃村)に降り立つことができる。

このアルパイントンネルとアプローチ区間20.9km(13マイル)は、近年「アルパイントンネル歴史地区 Alpine Tunnel Historic District」として保存と復元が進められ、1996年に国の登録歴史地区 National Register of Historic Places に指定されている。

さて、最大の難所の完成で工事は山場を越え、1882年9月にサウスパークの最初の列車がガニソンに到着した。ガニソンからさらに北方のボールドウィン鉱山へ支線が敷かれ、鉱石輸送も始まった。しかし、アルパイントンネルを挟んだ険しい山岳区間は冬場、しばしば猛吹雪に曝され、列車の運行は困難を極めた。年表には、トンネルの一時閉鎖をはじめ、脱線、衝突など、心細げな狭軌鉄道の苦闘の歴史が連綿と綴られている。

サウスパークは、ガニソンを拠点に、オハイオ峠 Ohio Pass を越えて西進するルートの開拓や、西南部のサンファン San Juan 地方への進出を画策するが、新天地はすでにリオグランデに押さえられていて、手の出しようがなかった。全通6年後の1888年、不況のために会社は早くも資金繰りに窮し、ユニオン・パシフィックの管理下で別会社(下注)に引継がれた。さらに1899年には、コロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railway (C&S) に再編される。

*注 デンヴァー・レッドヴィル・アンド・ガニソン鉄道 Denver, Leadville and Gunnison Railway。社名からわかるように、破綻したサウスパークの受け皿会社だった。

1910年11月、トンネルの一部が崩壊してまたも運休となったが、運営会社はもはや復旧する意欲を失っていた。そのままアルパイントンネルを含むブエナビスタ~ガニソン間は、廃止されてしまう。自動車交通が発達すると残る東部区間でも輸送量も漸減していき、1937年ついにほぼ全線が廃止となった。例外的に残された、もとハイライン(高地線)のレッドヴィル~クライマクス Climax 間は1943年に標準軌に改軌され、なおも使われたが、現在は保存鉄道「レッドヴィル・コロラド・アンド・サザン鉄道 Leadville Colorado & Southern Railroad」の観光列車が走るだけになっている。

リオグランデが創始し、サウスパークなどが後を追って、確立されたコロラドの3フィート狭軌王国。次回は、そこに標準軌という新しい風を吹き込んだ挑戦者の話をしたい。

(2007年1月25日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-アルパイントンネル」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
The Narrow Gauge Circle http://www.narrowgauge.org/
Denver Public Library Digital Collections http://digital.denverlibrary.org/
Leadville Colorado & Southern Railroad http://www.leadville-train.com/

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2017年10月 5日 (木)

ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後

鉄道史に残るバトルの舞台となったロイヤル峡谷 Royal Gorge は、アーカンザス川 Arkansas River がロッキー山脈からグレートプレーンズ Great Plains(大平原)に流れ出る直前に通過する地形上の隘路だ。谷は西北西方向に約10km続き、まるで鋭利なナイフで切り裂いたかのように深くて狭い。谷の深さは最高380m、幅は最も狭まるところで底部15m、頂部90mしかないという。

これほどの険しい地形はどうしてできたのだろうか。およそ100万年前、氷河期の直前に、アーカンザス川の流れる方向と交差する軸に沿って、花崗岩の地盤の隆起が始まった。それは断続的かつかなり急速なものだったが、川が水の力で河床を削るペースより速くはない。結果的に流路はその位置に保たれ、周囲が上昇していく中で相対的に谷が刻まれていった(=先行谷)。これがロイヤル峡谷になる。谷の幅は通常、長年の風化作用によって両側へ拡大していくものだが、隆起の発生が比較的最近のために、まだその段階に達しておらず、切り立った断崖が残されているのだ。

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ロイヤル峡谷
Photo by Michael Murphy at flickr.com, License: CC BY-NC-ND 2.0
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ロイヤル峡谷橋周辺
USGS 1:24,000地形図 Royal Gorge 1994年版に加筆
 

1880年3月に宿敵サンタフェとの間で結んだボストン協定 Treaty of Boston によって、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)はこの峡谷で路線所有権を手に入れた。険しいとは言え川沿いの通路は、隆起した台地を昇り降りするより、はるかに勾配が緩やかで、機関車に多くの荷物を運ばせることができる。峡谷を押さえたことは、コロラドの山岳地帯に路線網を拡げる突破口を得たのも同然だった。

これを梃にリオグランデは、精力的に線路を延ばし続ける。銀の都レッドヴィルはもとより、サライダ Salida で分岐してマーシャル峠 Marshall Pass を経由するルート(南回り線)で、1883年にユタ州ソルトレークシティ Salt Lake City との接続も果たした。ユタ州との連絡路はまもなく北回りのテネシートンネル Tennessee Tunnel 経由に移るが、いずれにしてもロイヤル峡谷は通らねばならず、1930年代までここは常に重要幹線であり続けた。

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1901年のリオグランデ路線図
 

峡谷に衰退の影が差し始めたのは、1928~34年にモファットトンネル Moffat Tunnel 経由でデンヴァーに直結する新線が完成してからだ。この路線はもともとリオグランデのライバル会社(下注)が、自力でデンヴァーとソルトレークシティを結ぶために建設を進めていた。しかし全通を果たすことなく倒産してしまったため、リオグランデが買収し、自社線に接続替えする工事を実施したのだ。デンヴァーへの距離ではこのほうがかなりの短縮になるため、多くの列車がそちらに回るようになった。

*注 デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway、「ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編」で詳述している。

しかし、峡谷ルートの息の根を止めたものはそれではない。まず旅客輸送について言えば、あらゆる鉄道に共通の課題である自動車や航空機との競争だ。1967年7月26日、デンヴァー~サライダ間にわずかに残されていた1日2便の運行が終了して、旅客列車の姿が消えた。片や貨物列車はその後も運行が続いていたが、合併によって路線の所有者となったユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、1996年にコスト削減策の一つとして運行ルートの整理を発表したのだ。最後の営業列車が峡谷を抜けたのは、それから1年も経たない1997年8月23日だった。

かつて経営を支えていた多数の鉱山支線はとうに全廃されており、通過貨物が戻らないなら路線の将来はないと思われた。ところが、ここで新たな道が開ける。それは観光資源としての活用だった。休止の翌年(1998年)、ユニオン・パシフィックは、ロイヤル峡谷を通る約19km(12マイル)の線路の売却について要請を受けた。運営に携わる新会社が地元のキャニョンシティ Cañon City(下注)で設立され、早くも1999年5月に「ロイヤル峡谷ルート鉄道 Royal Gorge Route Railroad」の名称で観光列車の運行が始まった。

*注 旧名 キャノンシティ Canon City。1994年に正式に改称された。

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ロイヤル峡谷ルート鉄道
Photo from wikimedia
 

走行区間は、キャニョンシティ~パークデール Parkdale 間19km。キャニョンシティのサンタフェ駅 Santa Fe Station で乗り込み、峡谷を通り抜けたパークデールで折り返す、所要2時間(夕刻便は2時間半)のツアーだ。喜ばしいことにこのイベントは人気を呼び、18年経過した現在も継続されている。2017年のスケジュールでは、夏のシーズン(5月27日~10月31日)に毎日3~4本の列車が走り、冬場にもサンタ・エクスプレスなど特別列車の運行がある。

設立当時から在籍する機関車は、かつてリオグランデの長距離列車を牽引していたGM-EMD社製F7形などだが、2012年に同じEMD社のGP40-2形がお目見えし、それ以来これが運行の主力になっているようだ。

客車はヴィスタドーム Vista Dome(展望車)、クラブ Club (1等車)、コーチ Coach(普通車)の区別があり、乗車料金も異なる。中間にはオープンエアカー Open Air car (無蓋車)が1両連結されており、展望車に乗らなくても峡谷の空を仰ぐことが可能だ。これは予約不要で、クラスを問わず出入りできる。また、GP40-2形が先頭につくときは、より魅力的なキャブライド Cab Ride(運転室添乗)という選択肢も用意されている。1列車2名限定で150ドルのプレミアムチケットだが、いい思い出になるのは間違いない。

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オープンエアカーから見る峡谷の風景
Photo from coloradoscenicrails.com
 

線路はこの区間で終始アーカンザス川の左岸(北側)を通っているが、これほどの峡谷にもかかわらずトンネルが一つもなく、断崖を削って用地を確保しているのには驚かされる。だが、最も狭隘な地点ではそれも難しく、流路の上に張り出す形で長さ53m (175フィート)の橋梁を渡す必要があった。設計者は、川床に橋脚を立てる代わりに、両岸から梁を延ばしてA字形に組み、それでプレートガーダー(鈑桁)の片側を吊るという珍しい形式の橋梁を考案した。ここは開通時から有名なポイントなので、観光列車も必ず停車して、見学の時間を与えてくれる。

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A字梁の吊橋
Photo from coloradoscenicrails.com
 

もう一つ、大きな吊橋がはるか上空に架かっている。谷を一跨ぎして両岸を結ぶロイヤル峡谷橋 Royal Gorge Bridge だ(下写真。冒頭の俯瞰写真も参照)。長さ384m(1,260フィート)、中央径間268m(880フィート)、水面からの高さはなんと291m(956フィート)もあり、1929年完成以来、米国で最も高い橋のタイトルを保持し続けているという(下注)。

*注 長年、橋の公式の高さは321m(1,053フィート)とされてきたが、現在は上記の値になっている。また、2001年に中国の六広河大橋 Liuguanghe Bridge が完成するまで、72年の間世界一高い橋でもあった。

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谷を一跨ぎするロイヤル峡谷橋
Photo by Hustvedt at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

橋は、一般交通を目的とせず、最初から観光アトラクションを意図して建設されたものだ。地形図で読み取れるように、峡谷の両側には、谷底にいては想像もできないような、なだらかな起伏の高原が広がっている。ここにロイヤル峡谷橋公園 Royal Gorge Bridge and Park という名のテーマパークがあり、橋はその公園区域を連絡する通路、かつアトラクションの一つになっているのだ(下注)。

*注 普通車両までは通行できるが、南口は閉鎖されており、公園への出入りは北口に限定されている。

公園では吊橋の他にも、峡谷のスケールを立体的に体感できるさまざまなライド(乗り物)やアトラクションが開発されてきた。橋の完成後間もない1931年には、峡谷の底に達する3フィート(914mm)軌間のインクライン鉄道 Incline Railway(ケーブルカー)が造られた(下注)。地形図に、破線に添えて INCLINED RR とあるのがそれだ(RRは Railroad の略)。

*注 延長1550フィート、勾配45度(1000‰)、所要時間片道5分半とされる。
最近の写真は次のサイト参照。ページの後半でインクライン鉄道が登場する。
http://highestbridges.com/wiki/index.php?title=Royal_Gorge_Bridge/Page_2

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(左)インクライン鉄道全景(古い絵葉書)
Photo by Boston Public Library at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
(右)インクライン鉄道の谷底駅(1987年)
Photo by Larry D. Moore at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

さらに1950年代には、峡谷のへりにループ式のミニチュア鉄道が設置された(同じく Miniature Railroad と注記)。1969年には峡谷を渡る空中ケーブルが開通し(同 AERIAL TRAM と注記)、片道は空中ケーブル、片道は徒歩で橋を渡るという周遊コースが可能になった。2003年には峡谷上空へ空中ブランコで飛び出すスカイコースター Skycoaster も登場した。

ところが、観光地として人気を博していたさなかの2013年6月、橋の西側で山火事が発生し、まもなく峡谷両岸に燃え広がった。火は4日間燃え続け、公園の90%を焼き尽くした。客と従業員は全員避難して無事だったが、インクライン鉄道や空中ケーブルを含め公園施設の大半が被害に遭い、当面休園を余儀なくされてしまった。吊橋だけは不幸中の幸いで、踏板の一部を焦がしたにとどまり、躯体に損傷は及ばなかった。

復旧工事が進められた結果、公園は2014年8月に一部再開、2015年5月に峡谷を横断する新しいゴンドラとジップラインが完成して、大規模な再開が実現した。その陰で、インクライン鉄道は、定員が少なく非効率だったこともあり、修復の断念が伝えられている。会社としては、代わりに二人乗りチェアリフトのような、待ち時間を少なくする別のアトラクションの導入を検討しているという。橋とほぼ同じ時を刻んできたユニークな鉄道だったのに、残念なことだ。

では、話を開拓時代に戻すことにしよう。空前の景気に沸く銀の都レッドヴィル Leadville、その切符を手中にしたリオグランデに対し、サンタフェとはまた別のライバルが別の方向から出現する。それを次回に。

■参考サイト
DRGW.net http://www.drgw.net/
Royal Gorge Route Railroad https://royalgorgeroute.com/
Royal Gorge Bridge and Park http://royalgorgebridge.com/
Highest Bridges.com http://highestbridges.com/

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2017年9月24日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道

デンヴァー Denver に拠点を置く鉄道会社として、デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG) 、あるいはデンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW、下注) の名はいまだになじみがある。名称が長いので、以下単に「リオグランデ」と呼ぶことにするが、1870年の創設以来、1988年まで実に100年以上も山岳地帯の鉄道輸送で中心的な役割を果たしてきた。

*注 D&RGが経営悪化で政府の管理下に置かれた後、1920年に新たに受け皿会社としてD&RGWが設立され、1921年にD&RGを統合した。

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D&RGW 483号機
ニューメキシコ州アズテック Aztec, NM 駅にて、1967年
Photo by Drew Jacksich at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そのリオグランデが先駆者のデンヴァー・パシフィック Denver Pacific と異なるのは、3フィート(914mm)の狭軌で建設されたという点だ。1830年代から鉄道の建設が始まっていた東部では、当初さまざまな軌間が用いられた。しかし、路線が延長され相互に連絡する段階になると、イギリスと同じように、車両が直通できないという難点が強く認識されていった。大陸横断鉄道の軌間が4フィート8インチ半(1435mm)と法律で明示されたのも、これを教訓にしている(下注)。この軌間はすでに東部で多数派になっていたとはいえ、法制化されたことが事実上の標準軌として全米に普及する契機となった。

*注 いわゆる太平洋鉄道法 Pacific Railroad Acts で、1862年に大陸横断鉄道の建設を促進するために制定。軌間の規定は1863年に追加された条文にある。

大陸横断鉄道と直通することを主目的に挙げるデンヴァー・パシフィックは、当然同じ規格を採用したが、リオグランデはそれを選ばなかった。なぜだろうか。

リオグランデの共同経営者だったハワード・スカイラー Howard Schuyler は、鉱山経営を視察するためにイギリスのウェールズ地方へ行ったことがある。そこで見たのが、スレートを採掘場から港まで運んでいたフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway だ。約2フィート(正確には1フィート11インチ半、597mm)とたいへん狭い軌間ながら、何ら問題なく使われていた(下注)。

*注 フェスティニオグ鉄道については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I」で詳述している。

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フェスティニオグ鉄道タン・ア・ブルフ(タナブルフ)Tan-y-bwlch 駅
1890~1905年ごろ
Photo from wikimedia
 

狭軌鉄道は線路用地だけでなく曲線半径も小さくできるので、山間のような険しい地形に適している。また、車両や設備がコンパクトな分、比較的安価に導入できる。スカイラーはこうした利点を評価し、標準軌にこだわらず、むしろ最初にこれを採用することで地域の標準規格にすることができると考えた。

ただし、フェスティニオグ鉄道はたかだか20km程度の路線に過ぎない。コロラドでは100km単位の長距離となり、かつ取り扱う貨物量も多くなることが見込まれたため、3フィートに拡げて設計したと言われている。それでも、大陸の人々は狭軌鉄道を実見したことがなく、こんな鉄道では役に立つはずがないと反対したので、準備は見切り発車で進められた。

リオグランデは、その後、コロラドから西のユタ準州にかけての中央山岳地帯に自社路線を張り巡らせていく。しかし不思議なことに、鉄道の名称であるリオグランデは、デンヴァーから1,000kmも南のメキシコ国境へ流れていく川の名だ。路線網と流域が重なるのは、南部を走る一部の支線に限られる。そう、確かに最初の計画は、現 インターステート25号線に沿うルートでひたすら南下して、リオグランデ川に達するというものだった。最終的には国境を越えて、メキシコシティ Mexico City をめざしていた。だが、遠大な構想が実現することはついになかったのだ。

なぜ、リオグランデはリオグランデに行かなかったのか。その理由は、大きく二つ挙げられる。一つは行く手を阻むライバルが出現したからであり、もう一つは南へ行くよりもっと収益が上がる目標を見つけたからだ。

そのライバルというのは、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway (AT&SF、下注)。これも名称が長いので「サンタフェ」と略することにするが、カンザス州アッチソン Atchison を起点に、西へ向けて建設が進められてきた路線だ。同じように南部の開発利益を狙っていて、早晩利害の対立が表面化するのは明白だった。

*注 アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は1859年設立。サンタフェ Santa Fe はニューメキシコ州の州都だが、路線は最終的に西海岸のロサンゼルス Los Angeles やサンフランシスコ San Francisco に達し、南回りの大陸横断鉄道を実現した。1995年にバーリントン・ノーザン鉄道 Burlington Northern Railroad と合併し、現在はBNSF鉄道 BNSF Railway になっている。

アメリカ19世紀の交通史には、「鉄道戦争 Railroad Wars」という用語がしばしば登場する。連邦政府や州政府の援助を得てはいてもすべて私設鉄道として計画されるため、ときにルートが競合して争いになる。通常は訴訟が起こされ、法廷闘争のなかで決着を見るのだが、中にはこじれて本物の武力抗争に発展することがあった。というのも19世紀後半の西部は、映画のジャンルで一世を風靡したあの西部劇の舞台であり、たとえば「荒野の決闘」に出てくるような保安官やならず者が実際に生きていた時代なのだ。

リオグランデとサンタフェがぶつかったのは、コロラドとニューメキシコの州境に位置するラトン峠 Raton Pass(下注)だった。両者ともすでに峠の北麓のトリニダード Trinidad まで路線を延ばしてきており、さらに南へ進出するにはどうしてもこの峠を越える必要があった。

*注 ラトン峠は標高2,388m、西部開拓ルートのサンタフェ・トレール Santa Fe Trail が通る。ラトン Ratón はスペイン語で鼠を意味する。

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同じ南部の開発を狙うリオグランデ(図の赤線)とサンタフェ(黒線)のルートがラトン峠 Raton Passでぶつかる
image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)
 

1878年12月、双方が拳銃使いや保安官を雇って激しくにらみ合った。サンタフェの社長W・B・ストロング W. B. Strong は、リオグランデのW・J・パーマー W. J. Palmer 将軍に対し、峠の上でこう言い放ったとされる。「最初にここに着いたのはわれわれだ。この仕事の邪魔をする奴は誰でも、眉間に弾丸(たま)を受けるのを覚悟しろ!」

結局この争いは、資本規模で劣るリオグランデが引き下がったため、サンタフェがラトン峠を獲ることに成功した。しかし戦争はそれで終わらなかった。リオグランデが南へ行かなかったもう一つの理由、収益の期待できる目標が絡んできたからだ。

前年(1877年)、コロラド山中のレッドヴィル Leadville で有望な銀の鉱脈が発見されていた。さらに、1878年2月にブランド=アリソン法 Bland-Allison Act が施行され(下注)、金本位制に替えて金と銀の複本位制が復活した。これは、連邦政府が一定量の銀を買上げ、ドル銀貨に鋳造して流通させる制度で、政府による銀の買い支えだ。たちまち銀価格が吊り上がり、ゴールドラッシュならぬ銀の採掘ブーム、いわゆるシルヴァーブーム Silver boom が巻き起こる。一旗揚げようとする男たちが我先にレッドヴィルへ殺到し、膨れ上がる人口で小さな入植地は、数年のうちにデンヴァーに次ぐ大きな町になった。

*注 1873年から金本位制が採用されていたが、それに伴う銀価格の下落で打撃を受けた西部の採鉱関係者は議会での巻き返しを図っていた。ブランド=アリソン法の成立はその成果だった。

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1882年のレッドヴィル鳥瞰図
鉱脈発見から5年で大きな町に
Image from www.loc.gov https://www.loc.gov/resource/g4314l.pm000720/
 

当然、大きな需要が生じるのを見越して、鉄道を敷こうという動きが出てくる。レッドヴィルはアーカンザス川 Arkansas River(下注1)の最上流、標高10,152フィート(3,094m)の高地に位置している。当時、リオグランデの路線は180km下流のキャノンシティ Canon City(下注2)に、サンタフェはさらに下流50kmのプエブロ Pueblo に達していた。

*注1 アーカンザス川は、レッドヴィル近くの大陸分水嶺に源をもち、本流というべきミズーリ川 Missouri River を別とすると、ミシシッピ川 Mississippi River の最も長い支流。
*注2 市名は1994年に、スペイン語に由来するキャニョンシティ Cañon City に変更されたが、本稿ではそれ以前の旧称を使用する。

両者揃って並行路線を敷ければ何の問題もなかったのだが、キャノンシティの西には、ロイヤル峡谷 Royal Gorge という稀に見る難所が横たわっている。川が花崗岩の高原を切り刻み、最高380mもある断崖が長さ16kmにわたって続く大峡谷だ。谷底の最狭部は15mほどの幅しかないクレバスのような隘路で、到底、鉄道を2本も建設する余地はない。

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ロイヤル峡谷の最狭部を
通過するリオグランデの線路
© Denver Public Library 2017, Digital Collections P-448
 

サンタフェは1878年4月に、この難所で線路敷設のための測量調査を始めた。連絡もなしに自分の縄張りに杭を打たれたリオグランデが黙っているはずがない。すぐに現場へ駆けつけるものの、サンタフェ側の妨害に遭って撤退させられてしまう。ラトン峠でぶつかる以前に、もう一つの鉄道戦争、いわゆるロイヤル峡谷戦争 Royal Gorge War の種がすでに蒔かれていたのだ。

サンタフェは裁判所にリオグランデを訴えた。主張が通って、リオグランデに対して妨害行為の差止め命令が出されたが、それに耳を貸すようなリオグランデではない。現場に岩を落としたり、測量器具を川に捨てたりと、なおも作業を妨害し続けたため、サンタフェは警備のために強力な助っ人を雇う。

呼び寄せられたのは、フォード郡の保安官だったバット・マスターソン Bat Masterson 。彼は、ドク・ホリデイ Doc Holliday の力を借りて人を集め、リオグランデの駅施設を次々に襲って、占拠する。リオグランデも反撃に出た。ガンマンの一団を雇って駅に付属する電報局の裏窓から奇襲攻撃をかけ、州政府の兵器庫から借りた大砲で威嚇して、機関庫の奪回に成功する。

*注 蛇足ながら、ドク・ホリデイといえば、保安官ワイアット・アープ Wyatt Earp とともに「OK牧場の決闘」で闘った命知らずのガンマン。他にも、「汚れた」デーヴ・ラダボー "Dirty" Dave Rudabaugh、「謎の」デーヴ・マザー "Mysterious" Dave Matherといった派手な名を持つ拳銃使いがいた。

並行して進めていた法廷闘争では、1879年4月、リオグランデに峡谷に鉄道を建設する権利を認める決定が下された。こうしてリオグランデはとりあえず戦争に勝利したのだが、二者の抗争はその後泥沼化していく。サンタフェは豊富な資金力にものを言わせて、リオグランデの既存路線と競合する路線を造ると発表した。これに怖れをなしたのがリオグランデに出資していた資本家たちで、会社を潰されては元も子もないと、サンタフェに通行権を与えるよう圧力をかけた。

思惑通りに30年間の通行権を得たサンタフェは、すぐさま次の手を打った。カンザス州の荷主を優遇して、運賃のダンピングを始めたのだ。これはリオグランデと、その支持者であるデンヴァーの商人にとって、大きな打撃となった。そこでリオグランデが法廷に申し立てた通行権契約の破棄が認められると、堰を切ったように双方の抗争が再燃する。実弾が飛び交い、駅や機関庫が襲われ、ついに死者も出た。

不毛の闘いに終止符が打たれたのは、連邦裁判所の介入と、大資本家ジェイ・グールド Jay Gould(下注)がリオグランデに加担したことによる。彼はあくどい手口で鉄道を買収していくので「泥棒男爵 robber baron」の一人とされる人物だが、すでにリオグランデの大株主になっていて、手を引かなければサンタフェの競合路線を造ると脅しをかけた。サンタフェは、これで最終的に諦めた。

*注 ジェイ(ジェイソン)・グールドはアメリカ鉄道王の一人で、1880年に全米の鉄道路線の1/9に当たる1万マイル(16,000km)を支配下に収めていた。

1880年3月に、すべての訴訟に決着をつけるボストン協定 Treaty of Boston が結ばれた。それによれば、リオグランデは、ニューメキシコのエスパニョーラ Española(下注)から南に鉄道を建設せず、サンタフェは今後10年間、リオグランデの本拠地であるデンヴァー、レッドヴィルのいずれにも鉄道を延ばさない。また、サンタフェがすでにロイヤル峡谷に建設を進めていた線路は、リオグランデが180万ドルで買い取ることとされた。これが、リオグランデがリオグランデに行かず、西に路線網を張り巡らすことになった決定的な理由だ。

*注 エスパニョーラは、同州サンタフェ市の北40kmにある町。サンタフェ鉄道はラトン峠経由で、サンタフェ市以南にすでに路線を持っていた。

アメリカ鉄道史に残るロイヤル峡谷戦争は、こうして幕を閉じた。リオグランデは協定どおりロイヤル峡谷の線路を獲得し、1880年5月にサライダ Salida、同年7月に念願のレッドヴィルに到達した。

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ロイヤル峡谷を行く保存観光列車
(ロイヤル峡谷ルート鉄道)
Photo by Markgreksa at wikimedia.
 

さてその後、ロイヤル峡谷はどうなったのだろうか。まずはリオグランデが思い描いたとおりの華やかな幹線時代が始まるのだが、しかしそれは永遠に続くものではなかった。次回は少し寄り道して、峡谷ルートの盛衰とその後の展開を追ってみたい。

(2007年3月8日付「ロイヤル峡谷の鉄道 I」、同3月15日付「ロイヤル峡谷の鉄道 II」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net http://www.drgw.net/
New Mexico History Museum http://www.nmhistorymuseum.org/
Denver Public Library Digital Collections http://digital.denverlibrary.org/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I

2017年9月17日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー

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最初の大陸横断鉄道開通75周年
の記念切手
image from wikimedia
 

北アメリカで最初の大陸横断鉄道が開通した1869年5月10日は、全米が祝賀ムードに酔いしれたと言われる。しかし、所詮それは1本の道に過ぎない。鉄道が通った町が人と荷物の集散地になって繁栄を謳歌する一方で、ルートから外れてしまった多数の町は賑わいを奪われ、寂れていくのを座して待つしかなかった。現在、コロラド州の州都になっているデンヴァー Denver も、当時はそうした不運な町の一つだった。

ところがそのわずか20年後には、背後のロッキー山脈 Rocky Mountains を越えて密度の高い鉄道網が出現し、その中心に、急速な発展を成し遂げたデンヴァーの町があった。いったいこの間に何が起きたのだろうか。その原因に迫るために、19世紀後半から20世紀前半における代表的なコロラドの開拓鉄道を4つ(下注)選び、その歴史と特徴を、地形図とともに追ってみることにしよう。

*注 デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG)、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)、コロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)、デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P)。

1869年5月10日、最初の大陸横断鉄道の開通式のようすを描いた一枚の絵がある(下図)。開通の宣言は、今のようなテープカットではなく、犬釘を打ち込む儀式をもって行われた。特別誂えの月桂樹の枕木に、代表者が銀のハンマーで黄金製の犬釘(下注)を打ち込み、レールを固定するのだ。「最後の犬釘を打ち込む driving the last spike」という言い回しは、鉄道の開通と同義語になっている。もちろんこんな高価なものを無人の平原に放っておくわけにはいかないので、式の後、通常の犬釘と枕木に差し替えられた。本物は今もスタンフォード大学の博物館に保存されている。

*注 ゴールデンスパイク Golden spike と言うものの、実際は金73%、銅27%の合金製。

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トーマス・ヒル Thomas Hill 画「最後の犬釘 The Last Spike」
プロモントリー・サミットにおける大陸横断鉄道の開通式の様子を描いた油彩画
California State Railroad Museum Collection, image from wikimedia
 

大陸横断鉄道は、東側からネブラスカ州オマハ Omaha を起点にユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、西側からカリフォルニア州サクラメント Sacramento を起点にセントラル・パシフィック鉄道 Central Pacific Railroad が、それぞれ建設を進めていった。私鉄の形をとるとはいえこれは国を挙げての大事業であり、連邦政府から手厚い支援を受けていた。用地は線路だけでなく、付属地として線路1マイルにつき10平方マイル(1.6kmにつき26平方キロ)が無償供与され(下注)、建設費用も、国債の発行により調達された補助金が支給された。それで両社は、できるだけ自社の運行区間を長くしようとして大いに競い合った。

*注 ランド・グラント Land grant という。鉄道会社は獲得した広大な土地に入植者を募り、農産物や生活必需品など輸送需要の喚起を目論んだ。

開通式が挙行されたのは、両鉄道の接続点となったユタ州(下注1)のプロモントリー・サミット Promontory Summit という場所だ。グレートソルト湖 Great Salt Lake の北岸に位置するが、前後区間が1904年に湖上を横断する新線(下注2)に置換えられて廃止されたため、今は史跡として残されている。

*注1 開通当時はユタ準州 Utah Territory で、1896年に州 State に昇格した。
*注2 このルーシン短絡線 Lucin Cutoff は当初トレッスル橋で建設されたが、1950年代に築堤に移された。

路線延長競争の結果は、東側のユニオン・パシフィックが1,087マイル(1,749km)、西側のセントラル・パシフィックは690マイル(1,110km)と、かなりの差が生じた。前者は中央大平原を行く区間が長く、技術的に建設が容易だったのに対し、後者は険しいシエラネバダ山脈 Sierra Nevada を越えるのに難工事を強いられたためだ。

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青線が、デンヴァーを通らなかった最初の大陸横断鉄道のルート
赤線は、後に完成したデンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックのルート
map image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)
 

上図は、その大陸横断鉄道の路線図だ。ルートの宿命として、北米大陸の背骨を成すロッキー山脈をどこかで横断しなければならず、そのピークが太平洋斜面と大西洋斜面を分ける大陸分水界 Continental Divide になっている、とふつうは思う。ところが、意外にも分水界と交差する場所は、峨々たる山脈どころか、大分水嶺盆地 Great Divide Basin と呼ばれる広大な高原地帯の真っただ中にある(下注)。地形的に通しやすい場所を選んだ結果だが、このために鉄道は盆地の入口であるワイオミング州シャイアン Cheyenne を経由し、その約100マイル(160km)南にあるデンヴァーはルートから外れてしまった。

*注 ワイオミング州ローリンズ Rawlins とロックスプリングズ Rock Springs の中間、ロビンソン Robinson 信号所のすぐ東で大陸分水界と交差する。

シャイアンと違ってデンヴァーの背後には、鉄路の行く手を阻む大山脈がそびえている。この地域で標高14,000フィート(メートルに直すと4,267m)を超えるピークをコロラド・フォーティナーズ Colorado 14ers と呼ぶが、その数は全部で53峰。アラスカを除けば、合衆国の高山ベスト10のうち7つがこの一帯にあるというほどの山岳地帯だ。

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コロラド・フォーティナーズの最高峰エルバート山 Mt. Elbert
手前はツインレイク Twin Lakes
Photo by David Herrera at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

では、なぜこんな場所に町ができたのだろうか。きっかけは1858年、コロラド山中のパイクスピーク Pike's Peak で発見された砂金だ。瞬く間にゴールドラッシュが巻き起こり、「何が何でもパイクスピークを目指せ! Pike's Peak or Bust!(下注)」を合言葉に10万もの人が殺到した。このとき交易の中心となったのが、山麓に位置していたデンヴァーだった。

*注 原文の "or Bust" は是が非でもという慣用表現だが、同時にPeak(絶頂、頂点)とBust(破産)の対比を掛けている。

しかし、ゴールドラッシュの狂騒は3年しか持たなかった。さらに、1861年に成立したコロラド準州の州都の地位を近隣のゴールデン Golden に奪われ、鉄道も通らないと確定したことで、新興のデンヴァー市民は町の将来を危ぶんだ。実際に北方で鉄道が着工されると活気が消え失せ、ユニオン・パシフィックの幹部はそのさまを見て、「墓場よりも寂れている too dead to bury」とさえ形容したといわれる。

苦境を挽回するために準州知事ジョン・エヴァンズ John Evans が打ち出したのは、独自の鉄道会社を起こして町に線路を引込むという構想だった。彼は「鉄道のないコロラドなど大した価値はない」と宣言していた。彼や地元実業家の奔走により、1867年11月に「デンヴァー・パシフィック鉄道・電信会社 Denver Pacific Railway and Telegraph Company」が設立される。奇しくも、大陸横断鉄道のシャイアン到達とほぼ同時だった。

ところで、西部の鉄道は「パシフィック(太平洋)」という名を冠したものが多い。デンヴァー・パシフィックなどは高々100マイル程度の地方路線に過ぎず、僭称の域を出ないのだが、これは当時の鉄道事業者のいわば合言葉だ。自力で太平洋まで進出できなくとも、大陸横断鉄道と接続すれば、線路は太平洋までつながる。パシフィックが意味するものは黄金郷にも似て、その目的を前面に打ち出すことで投資家を誘うことができたのだ。

とはいっても、デンヴァーはまだ若い町で、資本の蓄積は十分でない。会社は立ち上がったものの、工事を始めるために必要な資金の調達は一向に捗らなかった。知事は町ぐるみの事業として、富裕層に投資を呼びかける一方、中産・下層階級には少額の寄付か、でなければ労働力の提供を求めた。それでも一時は、計画が頓挫の危機に立たされた。

ちょうどそのころ、東隣のカンザス州で、西へ路線を延ばそうとしている鉄道があった。カンザスシティ Kansas City を起点にするカンザス・パシフィック鉄道 Kansas Pacific Railway だ。これとの接続を図るとして連邦政府から土地の無償払下げを受けることに成功した会社は、その土地の売却と、一部は担保にして融資を受けることで、ようやく建設費用を捻出することができた(下注)。

*注 カンザス・パシフィックは、大陸横断鉄道の南の支線という位置付けで、太平洋鉄道法に基づき設立されており、ランド・グラントの対象になっていた。

デンヴァー・パシフィックは1868年5月に起工式を行い、2年後の1870年6月に予定のデンヴァー~シャイアン間が完成して、開通式が挙行された。初めて通じたこの鉄道により、ついに町は大陸横断鉄道と接続するという念願を叶えた。2か月後の8月にはカンザス・パシフィックも町に到達したので、この年、一気に北と東へ列車が走るようになり、苛酷な駅馬車の旅を過去のものにした(下注)。

*注 その後、デンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックは、1880年1月に大陸横断鉄道のユニオン・パシフィックに合併される。

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1870年代のデンヴァー駅
(c) Denver Public Library 2017, Digital Collections Z-169
 

以上が、デンヴァーにおける鉄道発達史の第1幕だ。続く第2幕は、残された南のフロンティアをめざした鉄道が主役になる。次回、そのデンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の動きと、それを牽制しようとするライバルとの確執について話を進めよう。

(2007年1月11日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-序章」を全面改稿)

本稿は、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
Denver Public Library Digital Collections http://digital.denverlibrary.org/
Colorado Narrow Gauge Circle http://www.narrowgauge.org/

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 カナディアンロッキーを越えた鉄道-序章
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-トゥーンバ付近

2016年12月17日 (土)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

午前5時過ぎのロス・モチス駅。真っ暗な中にここだけ蛍光灯が煌々と灯る待合室には、スーツケースを引いてきた旅行者が10数人、列車の搭乗を待っていた。隅の出札窓口は1等急行とエコノミー(普通列車)に分かれている。2016年3月1日から1等急行の切符は車内では発売しないので事前に購入のこと、と注意書きが見えた。駅で買って乗るように、ということだ。ところが目を疑うことに、窓口には昼間の取扱時間しか書かれていない(下注)。列車は早朝に1本だけなのだが。

*注 掲示によると取扱時間は、月・木 10:30~14:30、15:00~17:30、火・水・金 9:00~12:00。

がらんとしたホームに、チワワ Chihuahua 行き1等急行列車はすでに据えつけられている。フェロメックス Ferromex(メキシコ国鉄)のいかつい顔をしたディーゼル機関車の後ろに食堂車1両、客車3両という簡素な編成だ。発車時間が近づくと、ぞろぞろと客が集まってきて、係員氏が搭乗のチェックを始めた。客はみな旅行社かどこかで予約を入れてきているらしい。切符を持っていないと告げると、スペイン語で答えが返ってくる。だが通じないと見た係員氏は、とにかく乗れと身振りで示してくれた。

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夜明け前のロス・モチス駅で発車を待つチェペトレイン
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ロス・モチス駅
(左)待合室に人が集まり始める
(右)乗車開始
 

6時00分、定刻にチェペトレインはホームを後にした。チェペ Chepe というのは、チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)の愛称だ。駅や列車のあちこちでそのロゴを見かける。車内に入ると、通路を挟んで2人掛けのゆったりしたリクライニングシートが並んでいるが、始発駅ではまだ空席が多い。車掌が回ってきたので、手書きの乗車券を切ってもらう。

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(左)1等急行車内、始発駅からの乗客はまだ少数
(右)座席配置図(備え付けの安全のしおりに掲載)
 

出発したときは薄暗かったのに、東の空が見る見る明るんできた。きょうも快晴のようだ。食堂車へ行くと、テーブルにはすでにクロスが敷かれ、食器とナプキンがセットされている。ほかの乗客も朝食を求めて次々と客車から移ってきた。

夜が明けると、列車は遠くに小山を望む平原を走っている。ほかに見えるのは、林と空地と雑多な建物群ぐらいだ。本来、貨物鉄道なので、軌道はロングレールでバラストも厚く、速度が上がっても乗り心地は悪くない。南北幹線との分岐駅、多数の貨車が休むスフラヒオ Sufragio を通過。車内に朝日が差し始め、食事を終えたテーブルに濃い影をつくった。

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走るうちに東の空が白み始める
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朝食
(左)朝食メニュー、通貨単位はメキシコペソ
(右)ウエボス・チェペ Huevos Che Pe を注文
説明によれば、農場風ソースをかけたマチャカ(乾燥肉)入りウエボス・エストレジャードス(フライドポテトの目玉焼き載せ) Huevos estrellados con machaca bañados en salsa ranchera
 

8時20分、エル・フエルテ El Fuerte 着。フエルテ Fuerte とは砦(英語の fort)のことで、16世紀の探検時代に軍隊の駐屯地だった。駅からかなり離れているが、旧市街はプエブロ・マヒコ Pueblos Mágicos(下注)にも選定されている。それとセットのツアー客なのだろう。簡易屋根の待合所にたむろしていた人たちが大勢乗り込んできて、車内はにわかに活気づいた。

*注 プエブロ・マヒコ(スペイン語で魔法の村の意)は、魅力的な市街や村を選定するメキシコ政府観光局の観光振興プログラム。

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エル・フエルテ駅
(左)8時20分到着
(右)多数の乗車がありほぼ満席に
 

線路にカーブが目立ち始め、大サボテンがまるで記念碑か何かのように、周りの灌木を圧して突っ立つ。列車は信号場のような小駅をいくつか通過した後、9時半過ぎにフエルテ川 Río Fuerte に差し掛かった。部分上路トラスのリオ・フエルテ橋梁は、長さが499mと路線随一だが、それだけでなく水面から結構な高さもある。自然のまま流れる泥色の大河に影を落としながら、列車は飄々と通過した。

*注 本稿記載のトンネルと橋梁の長さは、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014, p.123 のリスト掲載のフィート数値をメートルに換算した。

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(左)灌木の生える丘陵地を行く
(右)記念碑のように立つ大サボテン
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路線最長のリオ・フエルテ橋梁を渡る

橋梁を境にして、西シエラネバダ山脈の西斜面を上る山岳線区間に入る。まずは東西に横たわる前山を越えなくてはならない。灰青色の油煙を勢いよく吐きながら、機関車は勾配のついた線路に挑み続ける。エル・デスカンソ El Descanso の無人駅を見送ると、まもなくトンネルに突っ込んだ。海側では初めてのトンネルとなるこの第86号(エル・デスカンソトンネル)は、前山を一気に抜けるもので、1,807m(現地標識は1,823m)と路線では最長だ。

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(左)山並みをめざして
(右)信号場の小駅にも簡易のベンチ
  ロス・ポソス Los Pozos にて
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(左)前山を抜ける第86号トンネル
(右)トンネルを出るとウィテスダム湖が広がる
  正面奥の谷がこれから上るセプテントリオン川の谷
 

闇が晴れると、やがて右手に湖面が現れる。フエルテ川を堰き止めて1995年に完成したウィテスダム Presa Huites(正式名 ルイス・ドナルド・コロシオダム Presa Luis Donaldo Colosio)の湖だ。対岸には重量感のある山塊が居座り、ところどころ剥き出しの岩肌を見せて威嚇している。峡谷の入口に到達したと実感させる光景だ。

10時過ぎ、列車は右に大きくカーブして、湖面の上を鉄橋で一跨ぎした。さざ波立つ青い湖水が緑の山並みに映えて、予想外のいい眺めだった。このチニパス橋梁 Puente Chinipas は、全長291mで路線第二の長さがある。湛水した現在はともかく、完成当時は谷底からの高さが105mもあったそうだ。

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(左)ダム湖を渡るチニパス橋梁
(右)橋上からは予想外のいい眺め
 

いよいよ列車は、セプテントリオン川 Río Septentrión の谷を上流へ遡っていく。湖はほどなく後ろへ去り、川は渓流となって谷底を這う。両岸の切り立った断崖が牙をむき、見上げると山上で尖った岩の塔が青空に列をなしている。このあたり、谷は非常に深く刻まれ、頂との高低差は1,500mにもなる。急傾斜の岩は脆くて落石が多いので、主要列車が通る前に、軌陸車(下注)が線路の点検に回るのだという。

*注 軌陸車は、トラックなどの道路車両に軌道用の車輪を装備した保線用車両。これにより道路と同様、線路でも走ることができる。英語ではハイレール hi-rail(ハイウェーとレールからの造語)などと呼ばれる。

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セプテントリオン川の谷に分け入る
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(左)線路を巡回する軌陸車に遭遇
(右)落石防止の工事施工中
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(左)谷が深まる中流部ではトンネルと橋梁が多数
(右)川床からかなりの高さがある
 

20を超えるトンネルと無人駅を3つ通過した後、線路は川を渡って左岸(谷の東側)に移った。すると、左の席の乗客が外を指差して何か言っている。見ると、高い岩山の中腹に、鉄橋の朱いガーダーと巨大な銘板が架かっている(下写真)。資料によると、古い鉄道レールで組んだ銘板には、こう記されているそうだ。「チワワ太平洋鉄道は、メキシコ革命50年を記念してアドルフォ・ロペス・マテオス共和国大統領により開業した。1958年までの投資額3億9千万ペソ、1959~1961年の投資額7億4,400万ペソ。公共事業大臣。」(下注)

*注 原文は次の通り。"F. C. Chihuahua al Pacífico fue puesto en servicio por Adolfo López Mateos, Presidente de la República, en conmemoración del cincuentenario de la Revolución Mexicana. Inversión hasta 1958 $ 390,000,000.00. Inversión en 1959-1961 $ 744,000,000.00. Secretaria de Obras Públicas."

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テモリスに接近
(左)セプテントリオン川を渡りながら反転
  上段に橋梁と巨大な銘板が見える
(右)古い鉄道レールで組んだ開通記念の銘板
 

ここが鉄道の名物景観の一つ、テモリス Témoris の3段ループだ。線路はまず大きく左に回りながら、長さ218mの鉄橋で川を渡り、向きを反転した形でテモリス駅へ滑り込む。エル・フエルテ以来の停車駅で、時刻はもう11時20分だ。駅を出ると、そのまま斜面を上っていく。そして、長さ932mの第49号トンネル(ラ・ペーラトンネル Túnel la Pera)の中で右に半回転してから、最上段のテラスに飛び出す。そこから見下ろす峡谷の風景は、あたかも良くできた鉄道模型だ。聳え立つ岩山が影を落とす緑の小盆地、その縁を廻るように敷かれた単線の線路。急カーブしたガーダー橋と、貨車が休む小さな駅。

■参考サイト
テモリス付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.2561,-108.2598,15z?hl=ja

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テモリス駅
(左)列車は南を向いている
(右)チェペ全通50周年(2011年)の記念碑
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テモリスの3段ループ全景
線路は右下から来て、奥の鉄橋を渡り、
左の駅を手前に進み、トンネルで半回転してこの写真の撮影地へ出てくる
さらに左の山腹を進み、奥の山塊をトンネルで抜ける
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ループ最上段を走る列車から下の鉄橋を望む
モニュメントのような岩山が印象的
 

この迂回で高度をかなり稼いだはずだが、傍らの川はかなりの急流で、長いトンネルを抜けたところで、もう線路の近くまで上ってきている。またしばらく、谷川とのおつきあいが続く。次のソレダー Soledad 駅の先にもオメガループの寄り道があるが、走るにつれて、周りの景色は溪谷から高原へと表情を和らげていった。

12時20分着のバウィチボ Bahuichivo では、久しぶりに大きな集落に出会うことができた。下車した人たちは、きっと南方にある峡谷観光の拠点チェロカウィ Cerocahui を訪れるのだろう。赤屋根の家と果樹園が点在するクィテコ Cuiteco の村を見送った後は、また溪谷の中だ。オメガループが計3回。最後のそれを回り終えると、3時間かけて遡ってきたセプテントリオン川は見納めになる。

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(左)車窓は高原の様相を帯びてくる
(右)チェロカウィへの最寄りとなるバウィチボ駅
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赤い屋根と果樹園が点在するクィテコの村

この後鉄道は、激しい浸食を辛うじて免れた形の、回廊状の高原の上を伝っていく。地勢としては尾根筋だが、鉄道を通すには手ごわい起伏も待っている。最初の試練は、峠のトンネルを出てすぐのラ・ラーヤ La Laja だ。だが、概して羊腸の山岳ルートでは例外的に、ここの線形は大胆だ。大きく口を開けた谷を長さ212mのPC橋梁でひとまたぎし、立ちはだかる山を長さ465mのトンネルで貫いていく。

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ラ・ラーヤ橋梁
(左)木の間越しにこれから渡る橋がのぞく
(右)線路は珍しく直線的
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1:1,000,000(100万分の1)地形図で見る
チワワ太平洋鉄道第二区間(山岳区間)のルート
図中の枠は下図2の範囲
米国国防地図局DMA発行ONC H-23(1988年改訂)
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection
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クリル~ラ・ラーヤ間の拡大図(縮尺1:250,000)
赤で加筆した鉄道ルートは "Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" に基づいているため、原図とは必ずしも一致しない
米国空軍航空図・情報センター発行JOG NG12-3 Ciudad Obregon(1968年編集)、JOG NG13-1 Creel (1969年編集)を使用
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

 

13時15分、サン・ラファエル San Rafael 駅に到着。機関車を転回する三角線が備わり、山岳区間の運行基地を任されている。乗務員も交替するので、列車は10分ほど停車する。鮮やかな原色の服をまとった地元タラウマラ族の売り子たちが、列車の周りに集まってきた。手編みの籠や袋詰めの果物を両手いっぱい持っているが、一様におとなしくて商魂には欠けるようだ。

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手編みの籠と果物を売るタラウマラ族の女性
サン・ラファエル駅にて
 

次は、珍しく棒線駅のポサダ・バランカス Posada Barrancas だ。峡谷の宿という意味の駅名どおり、宿泊施設が集中するアレポナプチ Areponápuchi 地内に設置されている。線路をはさんで両側にプラットホームがあった。人気の観光地で利用者が多いので、乗車ホームと降車ホームを分離しているのだ。秘境のはずが、これではまるで都会の駅ではないか。エル・フエルテから乗ってきた客も大方ここで降りた。

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ポサダ・バランカス駅
(左)1線2面の駅
(右)乗車と降車でホームを分離。写真は降車用
 

出発してまもなく、フランシスコ・M・トーニョ Francisco M. Togno 信号場で、対向待ちのロス・モチス行き列車と行違う。トーニョは、山岳区間の建設工事を指揮した主任技師だ。チワワ~トポロバンポの中間に近い場所に、功労者の名が残されているのも故ないことではない。

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フランシスコ・M・トーニョ信号場
(左)ロス・モチス行きと交換
(右)束の間の出会い
 

14時、列車はもう片方の観光拠点、ディビサデロ Divisadero に停車する。前回も記したように、厳密に言うと、鉄道はバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(コッパー・キャニオン)の中を通っていない。険しく複雑な断崖が続くため、とうてい線路を敷く土地がないからだ。それで、絶景を見渡せる唯一の場所が、崖っぷちに最接近する当駅ということになる。列車はここでも20分停車するから、展望台に出て、ウリケ川 Río Urique が刻んだ大峡谷の奇跡的な景色を堪能することができた。

■参考サイト
ディビサデロ付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.5345,-107.8245,17z?hl=ja

旅行書ロンリー・プラネットは書く。「駅には土産物屋や色鮮やかな屋台村もあるので、時間には気をつけたい。間に合わせのオイルドラムストーブで調理されたゴルディタス gorditas(マーサケーキ、ブルーコーンで作られたものもある)、ブリートー burritos(肉・チーズなどのトルティーヤ包み)、チレ・レジェーノ chiles rellenos(トウガラシのチーズ詰め)だけでも、足を止めるに値する」(下注)。

そればかりか、近所にはジップライン、ラペリング、ロッククライミングなど、冒険的アトラクションも揃っている。一日ここで過ごせればいいのだが、そうでない場合は、絶景を記憶にとどめて先へ進まなくてはいけない。

*注 残念ながら、飲食物を客車へ持込むことはできないそうだ。

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ディビサデロ駅では峡谷展望のために15~20分の停車がある
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バランカ・デル・コブレのパノラマ
コブレ(銅の意)の名は、
岩肌が地衣類に覆われて緑(青銅色)に見えることから
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ディビサデロ駅前に色鮮やかな土産物屋や屋台が並ぶ
 

14時20分、ディビサデロを発車。カーブだらけの線路をしばらくのろのろと走った後、15時ごろ、エル・ラーソ El Lazo(スパイラル、日本でいうループ線のこと)を通過した。上り勾配の途中で、下の線路は切通しと短いトンネル、上の線路はそれをアーチ橋でまたいでいる。アーチの直下は切り通しなので、オープンスパイラルと言って間違いない。

■参考サイト
エル・ラーソ(スパイラル)付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.6549,-107.7390,17z?hl=ja

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エル・ラーソ(スパイラル)通過中
 

次のオヒトス Ojitos 信号場が、路線の最高地点となる。標高はおよそ2,438m(約8,000フィートの換算値)に達している。後はおおむね下り坂だ。エル・バルコン El Balcón と呼ばれる長いオメガループを廻ると、右車窓に人里が見えてきて、まもなく一帯の中心地クリル Creel に到着した。時刻は15時40分、ほぼ定刻の運行だ。クリルも峡谷観光の拠点なので、残っていた乗客もここであらかた下車してしまった。

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クリル駅
(左)町は一帯の中心地で峡谷観光の拠点
(右)チワワ行きの入線
 

クリルから先は、西シエラマドレ山脈の東斜面になる。しかし実態は、今たどってきた高原地帯の続きと言ったほうが正確だろう。列車はまだしばらく、山中の気配が漂う中を行く。

クリルを出発してすぐ、路線で2番目、長さ1,260mの第4号トンネル(コンチネンタルトンネル)をくぐる。その名が示すように、カリブ海と太平洋を分かつ大陸分水嶺の下を抜けるトンネルだ。全通の際にルートが変更された区間で、以前は25‰の急勾配と数度のオメガループを駆使して峠を乗り越していた。その跡はダート道路になっているようで、空中写真でも追跡することができる。

また上り勾配に転じて、サン・ファニート San Juanito に16時20分着。峡谷圏はここまでで、以降、チェペトレインは沿線に点在する地方の町や村に目もくれない。支線と合流するラ・フンタ La Junta 駅も通過してしまうので、残る中間停車駅はクアウテモック Cuauhtémoc のみだ。

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潤いのある渓谷と乾燥した広大な盆地が交互に現れる
 

残っていた客もクリルであらかた降りてしまい、あれほど賑やかだった車内は嘘のようにがらんとしている。ツアー客はおそらくハイライト区間だけつまみ食いして、帰りは観光バスに身を任せるのだろう。人口の張り付く平野や盆地では閑散としているのに、人気のない山中に入ると賑やかになるというのも皮肉な現象だ。

少し早いが夕食を取ろうと思い、食堂車に足を向けた。ロス・モチスの出発直後のように、ここでも人影は数えるほどしかない。赤い夕日が差し込むテーブルに着き、キンキンに冷えた缶ビールを開けて、メキシコ唯一の長距離列車旅を締めくくろう。終点チワワの到着予定は20時54分だ。時間はまだたっぷりある。

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チワワ駅
(左)夜のとばりが降りた駅構内に接近
(右)20時54分全行程終了
 

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

2016年12月11日 (日)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

見る者を圧倒するような大峡谷といえば、アメリカのグランド・キャニオンがまず思い浮かぶだろう。ところが、お隣のメキシコには、それさえ凌ぐほど広大で深く刻まれた谷があるという。スペイン語でバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(下注)、英語でコッパー・キャニオン Copper Canyon と呼ばれるその地形は、同国北西部、西シエラマドレ山脈 Sierra Madre Occidental がカリフォルニア湾岸の低地に臨む一帯に広がっている。

*注 バランカ・デル・コブレは複数の峡谷(エル・コブレ El Cobre、ウリケ Urique、シンフォローザ Sinforosa、バトピラス Batopilas、オテロス Oteros など)の総称でもある。原語が複数形(バランカス Barrancas)なのはそのため。

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バランカ・デル・コブレの展望
ディビサデロにて
 

今回取り上げるチワワ太平洋鉄道(チワワ・パシフィック鉄道)は、その峡谷を一望できる展望台が第一のセールスポイントだ。しかしそれだけでない。鉄道自体が、中央高原と太平洋を直結する使命を背負い、険し過ぎてまともな道さえなかったコッパー・キャニオンの横断に挑んでいる。その結果、標準軌としては世界屈指の山岳鉄道が出現した。これから2回にわたって、驚異の路線の来歴と変化に富んだルートを紹介したい。

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奇岩が空を限るセプテントリオン谷
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路線最長のフエルテ川橋梁

チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)は、メキシコ高原北部のチワワ Chihuahua(下注)とカリフォルニア湾に臨む天然港トポロバンポ Topolobampo を連絡する673.0kmの路線だ。名前が長いので、現地では、チワワとパシフィコの頭文字(ChとP)を取って「エル・チェペ El Chepe」と呼ばれる。

*注 チワワは州名でもあるので、区別するときはチワワ市 Ciudad de Chihuahua(英訳 Chihuahua City)と書かれる。ちなみに犬種のチワワは当地方が原産。

今でこそ国内で完結しているが、本来の構想ははるかに壮大だった。1880年にメキシコ政府の承認を受けた計画は、アメリカ中央部から太平洋岸を目指す大陸横断鉄道だったのだ。それを引き継いだのが、鉄道経営者のアーサー・エドワード・スティルウェル Arthur Edward Stilwell で、1900年にカンザスシティを起点に、プレシディオ Presidio(オヒナガ Ojinaga)で米墨国境を越えてトポロバンポを終点とする総延長2,670kmの鉄道建設を開始した。

当時、スティルウェルは経営していた別の鉄道が破産して失意の底にあったのだが、励ましのために誘われたパーティーで、集まった人々を前にこの計画を打ち明けた。北米大陸の地図に紐を当てながら、彼は、このルートこそ太平洋への最短距離であることを人々に納得させたという(下図参照)。

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スティルウェルの大陸横断鉄道構想を赤のルートで示す
黒のルートは競合する大陸横断鉄道(の一部)
 

設立されたカンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道 Kansas City, Mexico and Orient Railway が、線路の建設を進めていった。メキシコ国内では、1907年に峡谷の東の入口クリル Creel に達した。しかし、その先は険しい地形に阻まれて着工の見通しが立たなかった。アメリカ国内でも、サザン・パシフィック Southern Pacific など他の大陸横断鉄道が、競合を懸念して陰で妨害していたと言われる。さらに1910年にメキシコで政変が起きると、沿線で破壊行為が頻発して、不通個所が拡大していく。運賃収入が急減した会社は、結局、計画未完のまま、1912年に倒産してしまった。

その後、経営体はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway を含めて何度か交替するものの、クリル以西の延伸については長らく手付かずのままだった(下注)。1940年に鉄道が国有化されたことで、ようやく翌年から国営事業として工事が再開されることになる。

*注 アメリカとメキシコ区間の接続も遅れ、最後の空隙だったアルパイン Alpine から国境のプレシディオ Presidio の間は1930年に完成している。

海側では、線路がすでにエル・フエルテ El Fuerte の先まで延びていたので、クリルとの間に残されていたのは約280kmに過ぎなかった。ただし、一方は海岸低地、一方は山脈の肩に位置しており、標高差は2,300m以上もある。そのため、後で見る通り、2点をつなぐルートは非常に複雑で、足掛け20年にわたる長期の工事となった。ルイス・コルティネス Ruíz Cortines 大統領臨席のもと、国民待望の開通式が挙行されたのは1961年11月24日で、最初の構想から実に80年の長い時を経て、峡谷を越える新たな交通路が日の目を見たのだ。

地下鉄とライトレールを除くと、今やメキシコで定期旅客列車を運行しているのは、この鉄道が唯一だそうだ。それで「チェペトレイン(スペイン語でトレン・チェペ Tren Chepe)」は、峡谷を訪れる観光客はもとより、地元住民にとっても大切な交通手段になっているらしい。2015年のダイヤによれば、旅客列車はチワワ~ロス・モチス Los Mochis 間653.1kmで、プリメラ・エクスプレス Primera Express(1等急行) が毎日1往復、クラセ・エコノミカ Clase Económica(普通列車)が週3往復設定されている。

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目立つロゴを配したチェペトレイン
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ロス・モチス駅の出札窓口は列車別
 

1等急行でも朝6時の出発で、終点に到着するのは夜の20時半から21時前という所要14~15時間の長旅だ。そのため、ハイライト区間のみを利用するツアー客が多い。一方、普通列車は、地元住民のために主要駅のほか50以上あるフラッグストップでも乗降を扱い、乗り通すなら1時間ほど余計にかかる。どちらも途中のディビサデロ Divisadero で、乗客が峡谷の眺望を楽しめるよう、15~20分の長い停車がある。

1等急行の編成は、定員64人の空調つき客車2~3両と食堂車1両だ。普通列車も同じ収容力の客車を使うが、食堂車は付随せず、代わりに売店がある。1等急行の運賃は普通の2倍近くするのだが、食事代は含まれておらず、普通に対する優位性はあまり高くない。それで普通列車のほうに人気が集まり、選択肢が1等しか残っていないこともしばしばある、と旅行書ロンリー・プラネットは注意を促している。

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1等急行車内
(左)リクライニングシートが並ぶ客車
(右)食堂車は木を使った暖かみのある内装

そのチワワ太平洋鉄道のルートだが、通過する地形を基準にすると、大きく3つに区分できるだろう。チワワ側から言えば、一つ目はチワワ~クリル間、メキシコ高原から西シエラマドレ山脈の東斜面をゆっくり上っていく約300kmだ。乾燥した盆地といくらか潤いのある溪谷が交互に現れ、その間に標高は1,400mから2,400mまで上昇する。

当区間は開通が1907年と早かったので、国営化後に路盤改良やレールの重軌条化が施工されており、線形を良くするために一部でルート変更も行われた。中でも規模の大きなものは、クリルの手前(東方)に造られた長さ1,260mのコンチネンタルトンネル Túnel Continental だ。旧線は、大陸分水嶺でもあるこの峠を25‰勾配と数か所のオメガループで乗り越えていたが、新トンネルの完成により勾配は20‰に緩和、距離も約3km短縮された。

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第一区間は高原に広がる盆地と渓谷が交互に現れる
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1:1,000,000(100万分の1)地形図で見る
チワワ太平洋鉄道のルート
第一区間のうち、チワワ~サン・ファニート
太字の駅名は1等急行停車駅
 

二つ目は、最終開通区間とも重なっている。クリルを出発して、山脈の西斜面を滑り降り、路線最長の橋梁でフエルテ川を渡るまでの約220kmだ。ここで鉄道は、スパイラル(日本でいうループ線)やテモリス Témoris にある3段ループ、さらには多数のトンネルと橋梁を連ねて、地形の障壁に立ち向かう。ディビサデロでの眺望チャンスを含めて、全線のハイライト区間であるのは疑いない。

下の地図でわかるとおり、ルート設定は非常に巧妙だ。鉄道を敷くには険しすぎるコッパー・キャニオンの本体には、実は一度も足を踏み入れていない。クリルからは、まず南西へ延びる尾根の上をたどる。それから、比較的浸食度が浅いセプテントリオン川 Río Septentrión の谷にとりつき、この中を終始下りていくのだ。貨物列車の走行を考えると、線路勾配は最大でも25‰に抑える必要がある。そのため、急流部では高度を稼ぐために何度も折り返しているのだが、それでもコッパー・キャニオンの懸崖と格闘することを思えば、はるかに通過は容易だっただろう。

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第二区間、テモリスの大規模ループを見下ろす
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第二区間、峡谷の入口にあるウィテスダムの湖面
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第一区間終端~第二区間:
サン・ファニート~フエルテ川橋梁
 

三つ目は、トポロバンポで最終的に海に出会うまで、太平洋岸低地を淡々と走る160kmの道のりだ。エル・フエルテまでは起伏のある灌木林を縫っていくが、その先は一面の平野が広がっている。なお、旅客列車はトポロバンポまでは達せず、20km手前の主要都市ロス・モチスが終点になる。

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第三区間は、丘陵そして平野をひた走る
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第三区間:
フエルテ川橋梁~トポロバンポ

以上3図は、米国国防地図局 DMA 発行 ONC H-23(1988年改訂)、H-22(1974年改訂)を使用
images from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

 

折しも海側ロス・モチスからチワワまで、山を上っていく列車の車窓写真を提供いただいた。それをもとに次回、チワワ太平洋鉄道の机上旅行を楽しんでみたい。

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

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