ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編
大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。
吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。
モファット・ロードの絵葉書 ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め Image from The New York Public Library https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99 |
ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図 USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆 |
目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の "10711(フィート)" と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。
*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。
■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja
ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。
ロリンズ峠越え旧線全体図 USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆 |
旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。
旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間 USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆 |
ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。
デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で © Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617 |
間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。
しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。
*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。
ライフルサイト・ノッチのスパイラル © Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634 |
旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間 USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆 |
この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。
モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。
モファット・ロードの絵葉書、アロー駅 Image from wikimedia. |
旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間 USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆 |
旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。
ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。
モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。
ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車 Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg. |
さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。
*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。
それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグ Craig までが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。
*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。
実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。
モファット線とドットセロ短絡線 |
その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。
その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。
*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。
モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。
*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。
◆
ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。
ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。
(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)
本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。
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