南ヨーロッパの鉄道

2021年7月29日 (木)

ギリシャの鉄道地図-シュヴェーアス+ヴァル社

ヨーロッパの鉄道について調べものをするとき、シュヴェーアス・ウント・ヴァル Schweers + Wall (S+W) 社の鉄道地図帳は必ず手もとに開いておく。稼働中の全線全駅のみならず、廃止された旧線さえ、いわゆる正縮尺図(一つの図の中で縮尺が一定)の上に克明に描かれていて、地域の鉄道網のありさまを一目で把握することができるからだ。

ドイツのケルン Köln に拠点を置く同社は、1994年以来、ヨーロッパの国別鉄道地図帳を次々と刊行してきた(これまでの刊行履歴は本稿末尾参照)。2015年にフランス北部編が出された後、新たに対象となったのは、はるか東に飛んで、エーゲ海に臨むギリシャだった。

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ギリシャ鉄道地図帳
(左)表紙 (右)裏表紙
 

ギリシャ鉄道地図帳 Eisenbahnatlas Griechenland」は2018年12月に刊行された。横23.5cm×27.5cmといつもの判型で、オールカラー64ページの冊子だ。裏表紙に記された文章を翻訳引用する(下注)。

*注 原文がドイツ語のため、引用文中の固有名詞はドイツ語表記のままとした。

「ギリシャの鉄道は、長年きわだった対照を特徴としてきた。方や放置されたペロポネソス半島のメーターゲージ網であり、方や幹線網、なかでもPATHEと呼ばれるパトラス~アテネ~テッサロニキ幹線 Achse Patras - Athen - Thessaloniki の遅々とした電化と近代化である。しかし、2018年2月初めから、新路線(テッサロニキ~ラリッサ Larissa ~)ドモコス Domokos ~ティトレア Tithorea(~アテネ)間の長期にわたる野心的な建設現場が、徐々に鉄道運行に引き渡されている。

古代ペリクレス Perikles の治下で建設されたピレウス Piräus ~アテネ間の「長壁 Lange Mauern」に沿って走る蒸気路面軌道(下注1)によって、ギリシャの鉄道時代は始まった。21世紀の今、新しい路線網が、EUのTEN-T鉄道網への統合を目標に、何年もかけて造られている。また、ローマ時代の歴史あるエグナティア街道 Via Egnatia が、効率的な鉄道幹線、エグナティア東西線 Egnatia Rail West-Ost (下注2)として南北鉄道網を補完することになっている。しかし、ギリシャの鉄道にまだ顧客はいるのだろうか? 貨物も旅客もここしばらく高速道路とKTELバスに流出している。

本書はその地図によって、2017~18年現在の状況を表している。実現されたこととサイエンスフィクション(科学的構想)とが、さらなる展開を指し示す。他のヨーロッパ諸国の動向が示すように、鉄道の自由化と民営化に向けて路線網を慎重に開放していくことが、おそらくそれを後押しするだろう。」

*注1 「長壁」は、アテネと外港ピレウスを結ぶ街道の両側に築かれた長さ約6kmの城壁。この蒸気路面軌道は、1904年に電化されて「エレクトリコス Elektrikos」と呼ばれ、現在のメトロ1号線の一部になった。
*注2 エグナティア街道は、アドリア海岸からバルカン半島を横断してビザンティウム(現 イスタンブール)に通じていた古代街道。エグナティア東西線はまだ一部(クサンシ Xanthi ~カヴァラ Kavala 間)で着工されたに過ぎず、全線完成の見通しは立っていない。

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アテネメトロ1号線ピレウス駅(2008年)
Photo by Mispahn at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ヨーロッパ文明の発祥の地であり、伝統国のイメージが強いギリシャだが、1453年の東ローマ帝国滅亡から約370年の間は、主としてオスマントルコの支配下に置かれていた。実効的な独立を果たしたのは1829年(下注)で、近代ギリシャの歴史はまだ200年に満たない。初期の領土は主として南部で、面積は現在の4割程度だったが、列強の支援で段階的に拡張されていく。現在の姿になったのは第二次世界大戦後のことだ。

*注 露土戦争の講和条約、アドリアノープル条約 Treaty of Adrianople による。

それでというべきか、「ギリシャ鉄道地図帳」のページ構成は、従来のものと少し異なる。前半の23ページが、近代ギリシャの成立過程と鉄道建設の歴史を重ね合わせた解説に充てられているのだ。

それはオスマン帝国時代の鉄道構想に始まり、1880年代のアッティカおよびペロポネソス地方のメーターゲージ線開業、1881年のテッサリア併合に伴う新線建設、1902年の国策鉄道会社(後のギリシャ国鉄 SEK)の設立、1971年の公営企業 OSE(ギリシャ鉄道)への転換、そして近年の目覚ましい幹線改良へと続く。時代を追った記述により、同国の鉄道発達史を概観することができる。すべてドイツ語表記だが、多数挿入されている地図や写真が理解の助けになるだろう。

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アテネ・ラリッサ駅に空港方面の近郊列車が入線
(2019年)
Photo by Stolbovsky at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

本編というべき区分路線図は、その後に23ページ配置されている。縮尺は1:300,000で、使われている地図記号を含めて、他国編と同様の仕様だ。地図のページ数が少ないと思われるかもしれないが、ギリシャの国土面積はドイツの1/3ほどだ。しかも山がちな地勢で、鉄道路線長は約5200km(2015年現在)とドイツの1/8。鉄道空白地域が相当ある。路線図もふつうに描くと白紙が目立ってしまうので、古い鉄道写真や構内配線図などで埋める工夫をしているほどだ。

地図の内容はどうか。資料的に最も充実しているのは、アテネ大都市圏だ。前半の歴史編に掲載されているものを含めて、年代別に6枚の図(1925年、1930~38年、1990年以前、2000年、2004年、2018年(下注)の各時点)が用意されている。

*注 2018年は路線(インフラ)図のほかに、運行系統図もある。

1990年代までギリシャの鉄道は、首都アテネ近郊でさえ、すべて非電化の貧弱な状況だった(エレクトリコス(メトロ1号線)を除く)。ところが2004年の夏季オリンピック開催が決定した後、それに向けて交通網の整備が集中的に実行される。この時期に、近郊鉄道網は大きな変貌を遂げている。

たとえば、ピレウスから北上する南北幹線は交流電化され、西のペロポネソス半島へ向かう路線も、古いメーターゲージの非電化単線から標準軌の電化複線に切り替えられた。東郊スパタ Spata に開港した新アテネ空港には、近郊列車「プロアスティアコス Proastiakos」とメトロ3号線の乗入れが始まる。これらの路線が十字に交差する地点にはアハルネス中央駅 Acharnes Railway Center(通称SKA)と称するジャンクションも出現した。

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アッティカ、ペロポネソス地方の路線図
(Wikimedia Commons 収載の路線図で代用、2019年現在)
Image by Chumwa at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
路線図のフル画像は下記参考サイトにある
 

■参考サイト
Wikimedia Commons - ギリシャ鉄道路線図
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Railway_map_of_Greece.png

他の地方に目を向けると、中部では、国内最長のカリドロモトンネル Kallidromo Tunnel(長さ9210m)を経由する南北幹線の新線が完成している。同線で複線・高速化が未完なのは、中間部の山越えリアノクラディ Lianokladi ~ドモコス Domokos 間のみとなった(2018年現在)。

西でも、ペロポネソスの主要都市パトラス Patras に通じる予定の高速新線が、途中のキアト Kiato に達している(下注1)。その陰で、半島を巡っていた旧メーターゲージ線の運行は、2009年に表面化した国家財政危機の影響をもろにこうむった。パトラスとピルゴス Pirgos 近郊のごく一部(下注2)を除いて、2011年までに全廃されてしまい、路線図でも、休止線の記号がむなしく広がるばかりだ。

*注1 2020年6月にさらにエギオ Aigio まで延伸開業(キアト~エギオ間は暫定非電化)。
*注2 2021年7月現在、ピルゴス近郊区間(カタコロ~オリンピア間)も運行中止になっている。

一方、北部では、テッサロニキを起点に東西へ延びるルートが昔のままに残されている。いずれ上記のエグナティア東西線に置き換えられる予定だが、それはまだずっと先の話だ。

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コリントス運河を渡るメーターゲージ旧線の列車
(1992年)
Photo by Phil Richards at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

さて、本書のページ構成に戻ると、区分路線図の次は、イタリア半島およびバルカン諸国の全体図(縮尺1:4,000,000(400万分の1))だ。既刊の「EU鉄道地図帳」の該当図版を転載したものだが、ギリシャの鉄道網が隣国のそれとどのように接続されているのかがよくわかる。

続いて、主要路線の縦断面図があり、その後、アテネメトロとプロアスティアコスの現在の路線図、メトロ4号線等の計画路線図、さらにはアテネの旧路面軌道の紹介、テッサロニキメトロの計画図など、都市鉄道の来し方行く末に多くのページが割かれている。

従来、ギリシャに関する詳しい鉄道地図は、クエールマップ社 Quail Map Company 社製の1枚もの(最新は2001年第3版)しかなかった。実は上述した主要路線の縦断面図やアテネメトロの配線図などは、このクエール版のコンテンツをそっくり踏襲したものだ。編集にあたって、絶版になっている先行図に敬意を表し、跡を継ごうと意識したことが見て取れる。

それに気づけば、64ページというボリュームも決して軽量とは言えない。ギリシャの鉄道をより深く知ろうと思うとき、本書が参考書の筆頭に置かれるのはまず間違いないことだ。

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クエールマップ版 ギリシャ鉄道地図第3版
(折図の表紙部分)

シュヴェーアス・ウント・ヴァル社の鉄道地図帳の刊行履歴は以下の通り
(タイトルから本ブログの該当項目にリンクしている)。

ドイツ編
 1993年初版、2000年第2版、2002年第3版、2005年第4版、2006年第5版、
 2007年第6版、2009年第7版、2011年第8版、2014年第9版、2017年第10版、
 2020年第11版
スイス編 2004年初版、2012年第2版
オーストリア編 2005年初版、2010年第2版
イタリア・スロベニア編 2010年初版
EU編 2013年5月初版、2013年11月第2版(クロアチア全面改訂)、2017年第3版
フランス北部編 2015年初版
ギリシャ編 2018年初版

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2020年8月17日 (月)

リッテン鉄道 II-ルートを追って

FS(旧国鉄)ボルツァーノ/ボーツェン Bolzano/Bozen 駅前(下注)から右手へ、線路に沿って歩き始めた。前にリュックを背負ったグループがいたので、ついていく。まだ真新しいバスターミナルを通り抜け、10分もしないうちに、ぶどう畑に覆われた山を背にして、銅色のターバンを巻いたような建物が見えてきた。リッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn/Funivia del Renon の乗り場に違いない。

*注 FSの駅名表記はイタリア語/ドイツ語の順だが、自治県レベルの表記は基本的にドイツ語/イタリア語の順のため、以下ではそれに従う。

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ロープウェー駅(左奥)に向かう道は
かつてリッテン鉄道が走っていたルート
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 

今歩いてきた道路は、かつてリッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon の市内区間が通っていたルートだ。古い市街図によれば、現在のバスターミナル北端までが路面軌道(併用軌道)で、後は道路を離れ、専用軌道としてリッテン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon へ延びていた。その駅跡に今、ロープウェーの山麓駅が建っている。

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ロープウェー山麓駅
 

1階の窓口で乗車券を買った。鉄道の終点クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo まで通しの切符で、片道9ユーロ(下注)。乗車前にヴァリデート(有効化)するように言われたので、通路の刻印機に挿入する。乗り場は上階だ。

*注 リッテン鉄道のみの場合、片道3.50ユーロ。

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南チロル運輸連合のチケット
(左)表面は共通
(右)裏面に区間や日付を印字
 

ロープウェーは全長4560m、高度差950mの大規模な路線だ。高原上のオーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano まで所要12分。1966年に、リッテン鉄道ラック区間の廃止と引き換えに交走式で開業したが、2007年9月に運行をいったん中止し、更新工事が行われた。そして2009年5月に、3S循環式で運行が再開された。

交走式というのは、支索にキャビン(搬器)を2台ぶら下げ、これらを曳索でつなげて釣瓶のように行き来させる古典的な方式だ。運行間隔は、片道の走行と乗降にかかる時間に依存するため、リッテンのような距離のある路線では、待ち時間が長くなってしまう。

対する 3S というのは、3本のザイル Seil(支索2本、曳索1本)を意味している。支索を2本にすることで安定性を高め、キャビンの大型化を可能にした方式だ。かつ自動循環式といって、キャビンを一定間隔で多数循環させる。台数は需要に応じて増減できるので、運行間隔の調整が可能だ。リッテンの場合、1台の定員35名(座席24、立席11)で、同時に10台まで稼働できるという。

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(左)3S循環式のキャビン
(右)左右2本が支索、中央1本が曳索
 

ホームではそのキャビンがちょうど乗車扱い中だったので、待つこともなかった。ドアが閉まり、発車すると、街並みを横断してすぐに上りにかかる。ぶどう畑が広がる南斜面をぐんぐん上昇していくさまは、エレベーターの感覚に近い。

後方の窓からは、線路が敷き詰められたFS駅の構内と、その右側にボーツェンの市街地が一望できる。やがて進行方向右側遠くに、奇怪な風貌で知られるドロミティの岩峰群が現れた。展望の良さはさすがで、山腹を這い上るラック鉄道ではこうはいかなかっただろう。

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ぶどう畑の斜面を上昇
遠方にドロミティの岩峰も見える
 

ロープウェーは、前半だけで標高1000m付近まで一気に上りきる。後は、支尾根を飛び石にしながら、谷をまたいでいく形だ。進行方向左手に主尾根が延びており、マリーア・ヒンメルファールト駅とそれに続く線路が見える。それに気を取られている間に、山上駅に到着した。

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リッテン鉄道の末端区間に並行
 
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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

リッテン鉄道のオーバーボーツェン駅はロープウェーの駅舎に隣接しており、乗継ぎはいたって便利だ。クリーム色のクラシックな駅舎が建っているが、旅客用には使われていない。片面ホームに接して屋根のかかった待合所があり、乗客はそこで待つようになっている。

オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間は所要16~18分で、朝晩を除き30分間隔のパターンダイヤが組まれている。ホームには、11時40分発の電車が停車中だ。前面がカーマインレッド、側面がグレー主体のスタイリッシュな塗装をまとうBDe 4/8形の2両編成で、新造のように艶光りしている。しかし実際は1975~77年製で、スイス、ザンクト・ガレン St. Gallen のトローゲン鉄道 Trogenerbahn(下注)で走っていた中古車だ。

*注 ザンクト・ガレン~トローゲン Trogen 間の電気鉄道。2006年にアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen に合併、現在は同鉄道の一路線。

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オーバーボーツェン駅に停車中の連接車BDe 4/8形
 

2009年にまず2編成が購入され、古巣のときと同じ車番をつけて2010年(24号)と2011年(21号)にそれぞれ就役した。その後3編成目として23号、4編成目として22号が投入され、今やこれら「トローゲナー Trogener」たちが、日常運行を担う主力車両群だ。

駅のクローベンシュタイン方には、2014年に改築された3線収容の車庫がある。ホームから遠望した限りでは、上記連接車23号、開業以来の古参4軸電車2号、それに旧 エスリンゲン=ネリンゲン=デンケンドルフ路面軌道 Straßenbahn Esslingen–Nellingen–Denkendorf の1957年製TW12号電車(下注)が並んでいた。

*注 1978年に廃止されたドイツ、シュトゥットガルト Stuttgart 南東郊の都市間路面軌道。TW12号車は1982年に中古で購入、1992年から定期運行。現在は予備車で、特別運行に登場する。

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(左)オーバーボーツェン駅の車庫に旧型車の姿が
(右)4軸電車2号
 

このほか、ラック電気機関車L2号(下注1)、2軸電車11号と12号、廃止されたノンスベルク鉄道 Nonsbergbahn から移籍した1910年製電車「アリオート Alioth」(下注2)など、鉄道の歴史を物語る古典車両も保存されているという。

*注1 インスブルックのチロル保存鉄道 Tiroler Museumsbahnen に同僚のL4号が動態保存されている。
*注2 ボーツェン南西にあったデルムーロ=フォンド=メンデル(メンドーラ)地方鉄道 Lokalbahn Dermulo-Fondo-Mendel。最急80‰の勾配路線だったが、1934年廃止。電車は、スイスのアリオート電力会社 Elektrizitätsgesellschaft Alioth の機器を積んでいたことからその名がある。

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(左)チロル保存鉄道のラック電気機関車L4号(2007年)
(右)定期運行していた頃の旧エスリンゲン電車TW12号(2006年)
Photos by DerAdmiral at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年)
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1列2+1席のやや手狭な車内に、後で着いたロープウェー客が次々と乗り込んできて、発車までにはほぼ満席になった。扉が閉まり、短いベルの音とともに出発。車庫の横をすり抜けると、右の車窓には、早くも青々とした斜面の牧草地が広がり、谷を隔てて遠くの山々まで見通しがきく。半分降ろした窓からは、心地よい高原の風が入ってくる。

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(左)車内はほぼ満席に
(右)路線図と、製造元 FFA Altenrhein(アルテンライン車両製造所)の銘板
 

車道の踏切に続いて、一つ目の停留所を通過した。この区間には時刻表に掲載された旧来の3駅とは別に、新設の停留所が4か所ある。いずれもリクエストストップで、乗降客がないと停車しないから、感覚的には路線バスだ。今通過したのはリンツバッハ Linzbach だが、新設停留所はドイツ語名のみを名乗っている。

次のリンナー Rinner 停留所(これも新設)の後、小さな沢を渡るために林に入る。再び開放的な斜面に出て、左に大きく回っていくと、ヴォルフスグルーベン/コスタロヴァーラ Wolfsgruben/Costalovara だ。ここは駅なので必ず停車するが、待合小屋がぽつんと置かれているだけで、見た目は停留所と何ら変わらない。

この後は地形的な鞍部を越えるため、周りは次第に林に包まれていく。行く手に、同じカーマインレッドの電車が停車しているのが見えてきた。標高1251mで、全線のサミットとなるリヒテンシュテルン/ステッラ Lichtenstern/Stella 駅だ。オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間の中間点でもあり、30分間隔ダイヤの場合、両側から同時に発車した列車がここで行違う。運転士も車両を交換し、それぞれ発駅に戻っていくのがおもしろい。

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(左)リヒテンシュテルンで列車交換
(右)運転士も入れ替わる
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再び車窓が開けてドロミティアルプスが一望に
 

次のラッパースビヒル/コッレ・レノン Rappersbichl/Colle Renon 停留所を過ぎると、左側の車窓が再び開けてくる。エーベンホーフ Ebenhof とヴァイトアッハー Weidacher の両停留所は、気づかないうちに通過したようだ。カーブが和らぎ、右手前方に町が見えてきた。大きなスポーツ施設があり、工事用の大型クレーンも動いていて、オーバーボーツェンより活気が感じられる。緩く右に曲がり、跨線橋をくぐったところが、終点のクローベンシュタインだった。

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(左)クローベンシュタイン到着
(右)折り返しの客が乗り込む
 

ここは高原の中心集落で、リッテン自治体の役場所在地でもある。駅舎は優しいサーモンピンクの色壁で、オーバーボーツェンに比べて大きな建物だ。入口で、ジャコメッティの作風を思わせるユーモラスなヤギの彫像が客を迎えている。しかし、旅客機能としては券売機と刻印機が置いてあるだけで、窓口は見当たらない。電車はこの駅で、折り返しの時刻まで12分停車する。

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(左)駅入口でヤギの彫像が出迎え
(右)駅舎(左奥)とアールヌーボー様式のあずまや(?)
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クローベンシュタイン駅に次の電車が到着
 

戻りは、13時10分発に乗った。駅前にある中等学校から子どもたちがぞろぞろと出てきて、電車に乗り込んでくる。ちょうど下校時間に遭遇したようだ。車内は、通路も荷物室もいっぱいになったが、彼らは慣れていると見え、おしゃべりしたり、教科書やノートに目を落としたり、思い思いに過ごしている。イタリア語らしい言葉で話しながらも、開けている教科書はドイツ語だ。電車は途中の停留所にもこまめに停車し、少しずつ子どもたちを降ろしていった。

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(左)運転台
(右)学校帰りの子どもたちで満員
 

この便は、オーバーボーツェンからさらに一駅先のマリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta まで足を延ばす。この1.1kmは昔、ラック線を機関車で押し上げてもらった電車が再び自力で走り始める最初の区間だった。しかしロープウェーがオーバーボーツェンで接続するようになったため、メインルートから外れ、支線化してしまった。

列車は1日6往復のみ。時刻表も別建てだが、クローベンシュタイン方面と通しで運行されている。利用するのは、駅付近にある小集落の関係者か、鉄道ファンぐらいのものだから、いまだに動いているのが奇跡のようなローカル線だ。

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オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間の
時刻表(2019年)
ab は発時刻、an は着時刻
 

子どもたちの乗降で、少し遅れていたせいもあるだろう。オーバーボーツェンに到着すると、運転士は降車客を見届け、すぐに扉を閉めて発車の合図をした。あれだけ混雑していた車内に、もう4~5人しか残っていない。走り始めると、結構な下り坂だ。確かに、高原区間の最急勾配45‰はこの区間にある。しかも急曲線が多いので、電車は慎重に降りていく。左手は牧草地の斜面が広がり、相変わらず見晴らしはいい。

時刻表では4分から、便によっては6分もかかっているが、実際の乗車時間は2分そこそこだ。最後のカーブを曲がりきるとほぼ直線で、2線が敷かれたマリーア・ヒンメルファールトの駅に滑り込んだ。

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オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間は
下り勾配と急カーブが連続
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(左)最後の急カーブ
(右)マリーア・ヒンメルファールト駅が見えてきた
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マリーア・ヒンメルファールト駅
待合小屋は開業時のそれを復元
 

扉が開き、降車客と入れ替えにホームで待っていた3人が乗り込む。そしてほとんど休む間もなく、電車はオーバーボーツェンへ引き返していった。

主役が去ってしまうと、駅は静けさに包まれた。片面ホームに、開業時の造りを復元した待合小屋、それに木造の車庫があるだけの簡素な構内だ。ここで毎日、機関車の連解結や、電動車の機回しが行われていたとは信じがたい。その線路の終端に行ってみたが、ラック線が延びていたはずの場所には木々が生い茂り、その先は牧草地に溶け込んでしまっていた。

13時34分発を見送ったので、次は18時台まで電車が来ない。牧草地の向こうを行き交っている山麓行きのロープウェーに乗るために、のどかな村の中を抜けて、オーバーボーツェンまで歩いて戻ることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/

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 リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

2020年8月11日 (火)

リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

リッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

ボーツェン・ヴァルタープラッツ Bozen Waltherplatz/Bolzano Piazza Walther ~クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo 間 11.7km
軌間1000mm、直流750V電化、最急勾配255‰、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)
1907年開通
1966年 ヴァルタープラッツ~マリーア・ヒンメルファールト間廃止

【現在の運行区間】
マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta ~クローベンシュタイン/コッラルボ間 6.6km
軌間1000mm、直流800V電化(1966年~)、最急勾配45‰

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ヴァイトアッハー Weidacher 付近を行く
現在の主力車両BDw 4/8形

アルプス越えの交易路が通過するブレンナー峠 Brennerpass の南側は、イタリアだ。しかし、第一次世界大戦まではオーストリア領で、チロル Tirol の一部を構成していた。それで今もドイツ語では、南チロル Südtirol と呼ばれる(下注)。峠から街道を約80km下ったところに、地域の中心都市ボーツェン Bozen があり、愛すべき小鉄道「リッテン鉄道/レノン鉄道」が、その郊外を走っている。

*注 行政上はボーツェン/ボルツァーノ自治県 Autonome Provinz Bozen/Provincia autonoma di Bolzano。

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鉄道の名は周辺の広域地名に基づいているのだが、二通りの呼び名があることについては少し注釈が必要だ。南チロルではドイツ語話者が6割強を占めており、ドイツ語とイタリア語が公用語になっている。そのため、公共表示は2言語併記が原則で、例えば既出の固有名詞を両言語(ドイツ語/イタリア語)で記すと、以下の通りだ。

 南チロル(ジュートティロール)Südtirol/アルト・アディジェ Alto Adige
 ボーツェン Bozen/ボルツァーノ Bolzano
 リッテン Ritten/レノン Renon

他の地名も初出の際に両言語を併記することにするが、これにより鉄道名も、ドイツ語ではリッテン鉄道(リットナー・バーン)Rittner Bahn、イタリア語ではレノン鉄道(フェッロヴィーア・デル・レノン)Ferrovia del Renon になるのだ。

ちなみに、ドイツ語のリットナー Rittner は、地名リッテン Ritten の形容詞形で、「リッテンの」という意味だ。ところが、地名自体があまり知られていないためか、そのまま読んで「リットナー鉄道」と訳している文献も見られる。

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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道は、標高1200m前後の高原内を行き来している延長わずか6.6kmのローカル線に過ぎない。しかもイタリアの標準軌鉄道網とは接続しない孤立路線だ。なぜこのような場所に鉄道が存在するのだろうか。

短距離にもかかわらず電化線であることからも察せられるように、かつては下界のボーツェン市街と線路がつながっており、小型電車が直通していた。旧市街の広場で乗れば、高原の村まで乗り換えなしで到達できるという、きわめて便利な路線だったのだ。

リッテン鉄道は地方鉄道として認可を得たが、実態は市街地の路面軌道(併用軌道)、山腹を上るラック鉄道、高原上の普通鉄道(専用軌道)という、異なる性格をもつ三つの区間に分けられる。後になって前二者が廃止されたため、最後者だけがぽつんと残された。これが現在の姿だ。

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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年)
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

リッテンは地理的に見ると、ザルンタール/ヴァル・サレンティーナ Sarntal/Val Sarentina とアイザックタール/ヴァル・ディザルコ Eisacktal/Val d'Isarco という二つの谷の間に横たわる広い高原地帯だ。標高の違いから、夏場はしばしば猛暑に見舞われる盆地のボーツェンに比べて、はるかに快適な気温が保たれている。

すでに17世紀からボーツェンの名門貴族や上流階級の避暑地として好まれていたが、19世紀になると一般の観光需要も高まっていった。1880年代には鉄道の建設計画が唱えられ始め、一方で静かな環境を維持したいと考える人々によって反対運動も起きた。

20世紀に入って、計画は具体化した。山を上る手段にはラック・アンド・ピニオン方式が採用され、1906年7月に認可、着工。翌1907年8月には、早くもリッテン駅とクローベンシュタインの間で一般輸送が開始されていた。残る市内区間を含めた全線での直通運行は1908年2月末に始まった。

鉄道の起点は、ボーツェン旧市街、ヴァルター広場 Waltherplatz/Piazza Walther の南東隅にあった。電車はそこから国鉄駅前を通って北上し、山麓に設けられたリッテン駅/レノン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon の手前まで、街路上に敷かれた軌道を走った。

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リッテン鉄道のかつての起点 ヴァルター広場
(1907年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
 

リッテン駅と呼ぶのは、規模は違うがパリのリヨン駅のように、市内のターミナルに目的地の名(鉄道名とも解釈できる)を冠したものだ。駅名が示すとおりここは拠点駅で、車庫と整備工場があったほか、標準軌の国鉄ブレンナー線 Brennerbahn から引込み線が来ており、貨物の受け渡しも行っていた。

直通運行の開始から間もない1909年7月には、ボーツェンの市内電車としてボーツェン路面軌道 Straßenbahn Bozen が開業する。西郊(1系統)と南郊(2系統)から市内へ入り、ヴァルター広場からリッテン鉄道の軌道に乗り入れて、一部区間を共用した(下注)。しかし残念なことに、リッテン鉄道よりも早く1948年に廃止・バス転換されてしまい、今はない。

*注 1系統(シュテファニーシュトラーセ Stephaniestraße ~ブレンナーシュトラーセ Brennerstraße)は、バーンシュトラーセ(鉄道通り)Bahnstraße 電停までが共用区間。2系統(ライファース Leifers ~ボーツェン駅前)は共用区間内のバーンホーフプラッツ(駅前広場) Bahnhofplatz が終点だが、駅正面南側に単独のターミナルを持っていた。

■参考サイト
Wikimedia - 路面軌道が記載されたボーツェン市街図(1914年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geuter's_city_plan_of_Bozen-Bolzano_in_1914.JPG

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ドロミティの山を背景にタルファー橋を渡る
ボーツェン路面軌道の電車(1910年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
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旧 ラック区間が記載された1:25,000地形図
10 I SE Bolzano Nord 1963年
10 II NE Bolzano 1960年
© 2020 Istituto Geografico Militare
 

さて、リッテン駅を出発すると、いよいよラック区間が始まる。ラックレールはシュトループ Strub 式で、4.1kmの間に911mの高度差を克服した。最大勾配は255‰と、ピラトゥスやワシントン山には及ばないにしても、オーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn などと並び、世界で最も急勾配のグループに入るものだった。

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ザンクト・マグダレーナ上方を行く旧型車
背景はボーツェン駅と市街地(当時の絵葉書)
Image from styria-mobile.at
 

ラック区間では、電車は自らの駆動装置は使わず、後部すなわち坂下側に配置されたラック専用の電気機関車で押し上げてもらう。また、電車(=電動車)が動力を持たない客車(=付随車)を牽いて2両で来た場合は、まず電動車が付随車の後ろに回り、その後ろに機関車を付ける。こうして、坂下側から機関車、電動車、付随車の順になり、坂を上っていった。

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ラック区間の車両編成
坂下側(=左)から機関車、電動車、付随車
マリーア・ヒンメルファールト駅の案内板を撮影
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ラック専用の電気機関車(左)と電動車
リッテン駅構内にて(1965年)
Photo by Jean-Henri Manara at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

山裾へのとりつきでは、斜面を覆うぶどう畑の上を長さ160mの高架橋で渡る。赤ワインの銘柄で知られるザンクト・マグダレーナ/サンタ・マッダレーナ St. Magdalena/S. Maddalena の村の前には、ラック区間で唯一乗降を扱う停留所があった。

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リッテン駅上手の廃線跡現況(2019年)
(左)高架橋の橋面はぶどう畑に、アーチ下は倉庫に再活用
(右)リッテン駅出口(ラック区間始点付近)に残る橋台
 

さらに上ると、変電所を併設した信号所にさしかかる。ここはラック区間の中間地点に当たり、山上と山麓から同時に発車した列車が行違いを行った。機関車は回生ブレーキを備えているので、このダイヤにより、坂を下る機関車で発生した電力を、上りの機関車に効率良く供給することができた。

やがて車窓は森に包まれ、長さ60mのトンネルを通過する。再び視界が開けて、緑の牧草地に出れば、まもなくラック区間の終点マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta(下注)だった。この駅でラック機関車から解放された電車は、残りの、現在も運行中の区間を再び自力で走り抜けた。

*注 以前のイタリア語駅名はラッスンタ L'Assunta。いずれも聖母被昇天教会にちなむ地名。

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マリーア・ヒンメルファールト駅の現況(2019年)
(左)駅舎は1985年に開通当時の状態に復元
(右)終端の先は牧草地に
 

20世紀前半、高原上にまだまともな自動車道路はなく、鉄道が文字通り「リッテンの生命線 Lebensnerv des Ritten」だった。しかし、第二次世界大戦後は、車両や施設設備の老朽化が顕著になる。鉄道の更新に投資するより、到達時間が短縮できるロープウェーの建設を求める声が大勢を占めた。また、山麓から高原に通じる新しい自動車道路の計画も進行していた。

ロープウェーの起工式は1964年8月に行われた。その矢先の同年12月3日、恐れていた事故が起きる。ザンクト・マグダレーナの上方で、山麓に向かっていた列車が脱線し、ラック機関車とともに落下したのだ。運転士と乗客3名が死亡し、30名が負傷した。

事故区間はいったん復旧されたものの、市内線は1966年7月9日、ラック線は同年7月13日が最後の運行となった。翌14日に山麓との間を結ぶロープウェーが開業し、オーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano で鉄道に連絡する現在の方式がスタートした。ただし、これはあくまで暫定形で、自動車道路が全通した暁には、高原区間も廃止してバスに転換することになっていた。

ところが道路の完成が遅れ、その間に、観光資源として鉄道を再評価する機運が高まった。このいわば偶然のおかげで、リッテン鉄道は全廃の危機から救われたのだった。

1980年代には、施設設備の全面改修が実施された。また、車齢のより新しい中古車が導入され、名物だった古典電車の運行は今や、年数日の特定便に限定されている。

ラック区間を代替したリッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn もすでに2代目だ。初代は50名収容のキャビン(搬器)を使った交走式だったが、2009年に3Sと呼ばれる循環式に交換され、輸送能力が倍増した。これにより、リッテン鉄道も30分間隔での運行が可能になり、利用者の増加につながった。

鉄道は現在、南チロル運輸機構 Südtiroler Transportstrukturen/Strutture Trasporto Alto Adige (STA) が所有し、SAD近郊輸送会社 SAD Nahverkehr AG/SAD Trasporto locale が運行している。SADは南チロル一帯の路線バス、地方鉄道、索道の運行事業者で、リッテン鉄道もその路線網に組み込まれている。

*注 SADの名称は、旧社名 南チロル自動車サービス Südtiroler Automobildienst/ドロミティ・バスサービス Servizio Autobus Dolomiti の頭文字に基づく。

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急斜面を行くリッテン・ロープウェー
背景はボーツェン駅と市街地
 

ボーツェン市内から、鉄道の終点でリッテンの中心地区であるクローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo へは、山道を上るSADのバス路線(165系統)もある。所要時間は30分ほどで鉄道経由と大差はないが、運行は平日日中60分間隔、休日は120分間隔とかなり開いている。輸送力や利便性の点で、やはりリッテン鉄道の交通軸としての位置づけは揺るぎないものになっているようだ。

次回は、ロープウェーと鉄道を使って、そのリッテン高原に出かけることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/
Tiroler MuseumsBahnen http://www.tmb.at/
schweizer-schmalspurbahn.de - Die Rittnerbahn
http://www.alpenbahnen.net/html/rittnerbahn.html

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 リッテン鉄道 II-ルートを追って

 ミューレン鉄道(ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道)

2020年8月 3日 (月)

モンセラット登山鉄道 II-新線開通

前回は、旧 登山鉄道の開通から廃止までをたどった。鉄道が消えたことで、モンセラット修道院に到達するルートは、既存のロープウェーに乗るか、つづら折りの山岳道路を車で上るかの二択になった。とはいえ、ロープウェーの輸送能力は1時間当たり350人にとどまり、方や車道も、修道院前で行き止まりとなる片側1車線の一本道だ。

案の定、山上の沿道に設けられた駐車場は満車になりがちで、出入りと空き探しの車により、しばしば渋滞した。登山鉄道を代行する路線バスもそれに否応なく巻き込まれて、運行に支障をきたすことになる。さらに、道路や駐車場は自然公園区域内にあるため、環境保護の観点からも問題視された。

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モンセラットの山腹を上るラック電車
 

カタルーニャ州政府は、公共交通機関を再建する必要性を認識していた。2本目のロープウェーやケーブルカーの新設案もあったが、それと比較してラック式鉄道は、輸送能力の高さや旧線跡を利用できるという点で有利だ。整備計画が1989年に公表され、細部を見直しのうえ、1999年10月に最終決定を見た。

そして2001年7月に着工、2年弱の工期を経て、2003年6月11日に新しいモンセラット登山鉄道はめでたく開業したのだ。実に46年ぶりの復活だった。では、21世紀生まれの新路線は、旧路線と何が同じで、何が違うのだろうか。

旧線は非電化で、小型の蒸気機関車が客車2両を押していたが、新線は電車で運行される。この点は大きく異なる。しかし、軌間1000mm、アプト式ラックという線路の仕様は共通だ。

ちなみに新線はカタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya(略称 FGC)により運行され、接続する同じFGCの狭軌線(下注)と軌間、電圧を合わせてある。このため登山鉄道の電車をFGC線のマルトレイ・エンリャス Martorell Enllaç にある車庫・整備工場へ回送したり、FGC線の電車を登山鉄道の粘着式区間に(モニストロル・ビラ Monistrol-Vila 駅まで)乗り入れることが可能になっている。

*注 リョブレガト=アノイア線 Línia Llobregat-Anoia。

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(左)新線を走るシュタッドラー GTW 2/6形
(右)部分低床の車内
 

次に路線の起終点はどうか。起点は変更されたが、終点は同じ位置だ(下図参照)。前回紹介したように旧線は、この地域で初めて開通した広軌線の駅と修道院を結ぶのが目的だったので、起点はそこに置かれた。現在モンセラットへの主なアクセス路線となっているFGCの狭軌線は、後になってできた路線だ。

新線は広軌線とは接続せず、対FGC線でも、かつての接続駅(後に廃止)ではなく、一駅バルセロナ寄りのモニストロル・デ・モンセラット Monistrol de Montserrat(旧駅名 モニストロル・セントラル Monistrol Central)に起点を定めた。このため、当駅からモニストロル・ビラ駅までの区間はまったくの新設になった。

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旧線と新線のルート
 

その先はほぼ旧線跡をたどるが、一か所だけ、モンセラットへ上る車道と交わる地点の前後は移設された。旧線は踏切だったが、新線では立体交差させる必要があったためだ。また、終点モンセラット駅は、旧線廃止後、駅用地が契約に基づき修道院に返還されていたので、再使用に当たってホームを地下式とし、広場の直下に建設した。

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モンセラット駅地下ホームへの入線
 

開業新線の主な目的は、モンセラット訪問者の経路を分散させて、道路の混雑を緩和することだ。これを実現するには、ふだん車で旅行する人にも電車を使ってもらわなければならない。そこで、モニストロル・ビラ駅の周りに、幹線道からすぐに入れて、乗用車1000台、大型バス70台を収容できる無料の大駐車場が造成された。

修道院一帯が自動車通行禁止になったわけではないが、山上の駐車場は有料で、収容台数も限られている。麓を通る幹線道には、各駐車場の空き状況を示す電光掲示板が設置され、山上まで車で行くか、麓でパーク・アンド・ライドするかをドライバーが判断できるようにしている。

では、モンセラットに向けて列車で旅に出るとしよう。出発地は、バルセロナ市内、プラサ・エスパーニャ(スペイン広場)Plaça Espanya の地下にあるFGCの狭軌線ターミナルだ。登山鉄道の乗換駅まで、R5 または R50系統マンレザ Manresa 行きの電車で65分。朱色のアクセントカラーをまとう213系が、平日は1時間に1~2本、休日は毎時1本(朝は2本)走っている。

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(左)プラサ・エスパーニャ駅の213系
(右)券売機でモンセラット連絡切符を買う
 

乗車券は個別に買ってもいいが、狭軌線+登山鉄道のモンセラット連絡切符 combined ticket(片道または往復)が便利だ。同じように、狭軌線+ロープウェー(英語では cable car)の連絡切符、さらに山上のケーブルカー(英語では funicular)や博物館でも使えるオールインワンの切符も売られている。

いずれも券売機やホーム前の窓口で入手できるが、注意すべきは、購入後のルート変更(登山鉄道をロープウェーに、またはその逆)ができないことだ。これは、ロープウェーがFGCの運営でないためだ。登山鉄道とロープウェーは狭軌線の降車駅も違うので、よく確かめてから購入したい。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

電車は地上に出ると、リョブレガト川 el Llobregat の谷筋を遡っていく。といっても、渓谷らしくなるのは最後の10分ほどに過ぎない。左の車窓、進行方向に観光写真で見覚えのある突兀とした岩山が現れると、まもなくアエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat の急カーブしたホームに停車する。駅名が示すとおり、モンセラット修道院に上るロープウェー「アエリ・デ・モンセラット」の乗換駅だ。このほうが速く着けるので(ロープウェーの待ち行列の長さにもよるが)、降車客が多い。

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リョブレガト川の渓谷を行く
左奥にモンセラットが姿を現す
 

再び走り出し、トンネルを一つくぐると、目的のモニストロル・デ・モンセラットに到着だ。狭軌線は2面3線で、ホームは駅舎側から2、1、3番と付番されている。一方、登山鉄道の駅名はモニストロル・エンリャス(ジャンクションの意)Monistrol Enllaç で、電車は、2番ホームの駅舎寄りにある切り欠きの4番ホームに入る。

駅舎は、切妻白壁2階建ての小ぶりな建物だが、タイルの帯模様の間に「MONISTROL CENTRAL(モニストロル中央)」と旧称が残されているのが目を引く。駅名が二つあるだけでも紛らわしいのに、そのどちらでもない昔の名前が出ているわけで、土地不案内な者にはとまどいのもとだ。

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モニストロル・デ・モンセラット駅
(左)FGC線発着ホーム
(右)旧駅名が残る駅舎
 

モンセラット行きは8時台が始発だ。山から下りてきた列車が35分に入線し、40分ごろ(上下とも)到着のFGC線列車との間で乗客を交換し、48分に山へ向けて出発する。このパターンが1時間毎に繰り返される。山上までの所要時間は20分だ。

使用車両は、スイス シュタッドラー・レール Stadler Rail 社のGTW 2/6形。部分低床の客車2両の間に短い駆動ユニット車が挟まった関節式と呼ばれるタイプで、新規開業時に5編成(AM1~5)が投入された。このときヌリア(下注)にも同形式の2編成(AM10~11)が入ったが、モンセラットの乗客増に対応するため、移籍されることになった。すでに1編成が塗色を緑に改めて、車列に加わったという。

*注 ピレネー山中を走るラック式登山鉄道。本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」参照。

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モニストロル・ビラ駅に入る登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山電車はマンレザ方向に発車する。最初の1.1kmはごく緩い勾配で、ラックは使わない(=粘着式 adhesion)。すぐにトンネルを2本くぐる。1本目のモニストロルトンネル Túnel de Monistrol は狭軌線と共用で、もともと複線仕様で造られていたものを、片側だけ登山線に転用した。2本目との間の短い明かり区間で、狭軌線は右へ去っていく。

2本目のラ・フォルダダトンネル Túnel de la Fordada(164m)は新たに掘られたものだ。その直後、列車はリョブレガト川のはるか上空に躍り出る。渡っていくセンテナリ(百年)橋梁 Pont del Centenari は長さ480m、高さも37mあり、新線最大の構造物だ。橋は対岸に渡りきってからも続き、旧線跡と幹線道路を一気にまたいで、モニストロル・ビラ Monistrol Vila 駅の高架ホームに接続している。

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センテナリ橋梁とラ・フォルダダトンネル
(モニストロル・ビラ側から撮影)
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センテナリ橋梁からの眺め
モニストロルの町とモンセラットの山並み
 

モニストロル・ビラでは4分ほど停車する。ここは路線で唯一の中間駅であるとともに、拠点駅の性格も併せ持っている。というのも、パーク・アンド・ライドの利用客のために、当駅始発の列車が1時間当たり閑散期に1本、繁忙期は2本挿入されるからだ。結果、繁忙期には山上駅との間が20分間隔の運行になる。通常は中央の島式ホームで乗降をさばくが、混雑時は、進行方向左にある片側ホームが降車専用に使われる。

なお、駅前の緑地には、旧線時代の駅舎と線路の断片が残されており、駅舎は鉄道の展示館として内部公開されている。また、駅前広場には、旧線を走ったラック蒸機4号機(1892年製)が、復元客車とともに置かれている。

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モニストロル・ビラ駅前広場の4号機と復元客車
 

これ以降、車窓はずっと進行方向左側に開ける。駅構内を出るとさっそく、最急勾配156‰のラック区間の始まりだ。右カーブしながら、切通しに続くごく短いトンネルを抜け、モンセラットに上る車道を、下路トラスの鉄橋でオーバークロスする。この辺りでは左前方の山上に、モンセラットの奇岩カヴァイ・ベルナト Cavall Bernat(1111m)が天空を刺す姿を捉えることができる。

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天空を刺すカヴァイ・ベルナト(中央の細長い岩山)
 

石造アーチのギリェウメス橋梁 Pont de les Guilleumes の手前から、延長420mの複線区間が始まる。下りてくる列車とは走りながら交換する。振り返れば、今通ってきた山腹の上に、聖ベネト修道院 Monestir de Sant Benet の塔が覗くだろう。

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複線区間で走りながらの列車交換
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山上に建つ聖ベネト修道院
 

左手には、リョブレガト川が流れる谷の壮大なパノラマが展開している。朱屋根に埋め尽くされたモニストロルの町が見え、ラック線のルートも起点駅からの一部始終を追うことができる。わずか数分でずいぶん高くまで上ってきたものだ。一方、右の山側は落石除けのネットが張り巡らされ、ものものしい雰囲気がある。礫岩の地層が風雨による侵食に抵抗して、急峻な崖を成しているからだ。

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車窓からのパノラマ
右が起点駅と駅前集落、
中央がモニストロルの町、その奥にセンテナリ橋梁
 

剥き出しの岩肌をうがったアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols が、路線最長かつ最後のトンネルになる。これを抜けると、あと少しの上りだ。ロープウェーの山上駅の前を通って、列車はモンセラット駅の地下ホームに滑り込む。

駅は、線路を両側からホームが挟む2面3線の構造だ。天井が低くやや圧迫感を覚えるが、ホームは70mの長さがあり、2編成を縦列に収容できる。奥のエスカレーターまたは階段を伝って表の広場に出れば、修道院の荘厳な建物群が目の前だ。

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モンセラット駅
(左)駅上の広場から山麓方向を見る
  奥の建物はロープウェーの山上駅
(右)列車が駅に到着
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モンセラット駅の地上入口
後ろの建物はケーブルカー乗り場
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モンセラット修道院
 

写真は別途クレジットを付したものを除き、2019年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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 モンセラット登山鉄道 I-旧線時代
 ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

2020年7月29日 (水)

モンセラット登山鉄道 I-旧線時代

モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat

【旧線】
モニストロル・ノルド Monistrol-Nord ~モンセラット・モネスティル Montserrat-Monestir 間 8.6km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
1892年開通、1957年廃止

【新線】
モニストロル・エンリャス Monistrol-Enllaç ~モンセラット Montserrat 間 5.2km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
2003年開通

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R5系統の車窓から仰ぐモンセラットの山塊と修道院
海外鉄道研究会 田村公一氏 提供

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モニュメンタルな岩の柱が林立し、異形の山容が目を引くモンセラット Montserrat(下注)。スペイン、カタルーニャ州の州都バルセロナの北西50kmにあるこの山は、全体が自然公園に指定されている。その一角を占めるベネディクト派の修道院は古来、人々の崇敬を集めてきたカトリックの聖地だ。

*注 カタルーニャ語の発音は「ムンサラト」に近いが、慣用に従い、モンセラットと表記する。

山の中腹、狭い谷壁に張り付くように建てられた修道院付属大聖堂 Monasterio には、モンセラットの聖母 Mare de Déu de Montserrat(下注)と呼ばれる黒い聖母子像が祀られている。山麓を走る近郊線の駅から標高700m台のその大聖堂の前まで、現代の巡礼者を連れて行くのが登山鉄道「クレマリェラ・デ・モンセラット(モンセラット登山鉄道)Cremallera de Montserrat」(下注)だ。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

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緑をまとうモンセラットの登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山鉄道は、カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が運行している。メーターゲージ(1000mm軌間)で、アプト式のラックレールを使う。同じFGCで、州内にもう一つある同種の路線、ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria(下注)と共通の仕様だが、車両の塗色はヌリアの青に対して、こちらは緑色になっている。

*注 スペイン全体でも、ラック式鉄道はこの2本しかない。ヌリア登山鉄道については、本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」で詳述。

現代風の車両や地上設備を一見すればわかるように、運行開始は2003年で、まだ20年も経っていない若い路線だ。ただし、まったくの新設ではない。1950年代に廃止された旧線跡を多くの区間で利用しており、事実上の復活と言うべきものだ。新線の紹介に入る前にまず、前身となるこの旧 モンセラット登山鉄道の歴史から繙いてみたい。話は19世紀に遡る。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

バルセロナ方面からモンセラットへ向かう本来の巡礼路は、南麓に位置するコイバト Collbató の村から続く山道だ。その伝統を一変させたのが、1859年に当時の北部鉄道会社 Ferrocarrils del Nord が開通させた鉄道だった。これは、マンレザ Manresa 経由でバルセロナとリェイダ Lleida 以遠を結んだ広軌路線(下注)で、現在、カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya のR4系統が通っている。

*注 当時は1672mm。19世紀以来、軌間はスペインで1672mm、ポルトガルで1664mmと微妙な差があったが、1955年に基準が統一され、現在の1668mm(イベリア軌間 Iberian gauge)になった。

モンセラットの最寄り駅として、北東約5kmの地点にモニストロル・ノルド Monistrol-Nord(現 カステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット Castellbell i el Vilar - Monistrol de Montserrat)が開設された。そこから山へは、つづら折りの坂道を駅馬車がつないだ(下図左上)。

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旧 ラック鉄道と関連路線の変遷
 

しかし訪問者の増加につれ、馬車の輸送力に限界が見えてくる。当時、スイスのリギ鉄道 Rigibahn 開業(1871年)をきっかけに、ヨーロッパ各地でラック式登山鉄道に対する関心が高まっていた。機運に乗じてモンセラットでも、1878年に、スイスの事情に明るい鉄道技師と地元の実業家が組んで建設計画を発表した。リギで標準化されたリッゲンバッハ式、1435mm軌間の蒸気鉄道で、広軌線の駅と修道院とを結ぶというものだった。

認可が下り、建設と運行に当たる会社ムンターニャ・デ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarriles de Montaña a Grandes Pendientes(スペイン語表記)が設立されたが、期待に反して事業は一向に進まなかった。10年近い時間を浪費した後、仕様が見直され、1891年に改めて認可を得た。新しい計画では、同じラック蒸機ながら、新開発でより安価なアプト式を採用している。軌間もコンパクトな1000mm(メーターゲージ)だ。線形を厳しくできるので、橋梁の短縮やトンネルの回避が可能になり、建設費はかなり圧縮された。

今回は順調だった。その年の9月に工事が始まり、13か月後の1892年10月6日、モンセラット登山鉄道は開業の日を迎えた(上図右上)。所要時間は片道1時間5分で、3時間半もかかっていた馬車に比べて格段に速く、バルセロナから日帰りが可能になったのは画期的だった。物珍しさも手伝って、のこぎり山(=モンセラット)へ鋸歯(=ラック)を使って上る登山鉄道は、たちまちカタルーニャで最も人気のある乗り物になった。

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旧線が記載された1:50,000地形図
(スペイン陸軍地理局 Servicio Geográfico del Ejército 刊行)
391 Iguarada 1950年
392 Sabadell 1952年
 

次の節目は1922年10月だ。リョブレガト川 el Llobregat の谷を通って、メーターゲージ(1000mm軌間、以下、狭軌線という)の新線が開通したのだ。カタルーニャ鉄道 Ferrocarrils Catalans(下注)が建設したマルトレイ Martorell ~マンレザ間の路線で、マルトレイではバルセロナ方面に接続し、実質的にバルセロナとマンレザを結ぶ第2の鉄道になった。現在のFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)R5系統が通るルートだ。

*注 正式名 Companyia General dels Ferrocarrils Catalans (CGFC)。

新線と登山鉄道が交差する地点に乗換駅が設けられることになり、狭軌線に近づけるため、登山鉄道のルートは長さ973mにわたり移設された。

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狭軌線を行く現在の213系電車
モニストロル北方のリョブレガト川鉄橋にて
Photo by The Luis Zamora at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ここで、旧線のルートをモンセラット方向にたどってみよう。

起点駅は、初め広軌線の駅から長い階段を下りたところに置かれ、モニストロル・パルティダ(出発の意)Monistrol Partida と称していた。しかし、1905年にスイッチバックを介した737mの延長線が造られ、列車は広軌線と同じレベルで発着できるようになった。それに伴い、パルティダ駅は閉鎖された。

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広軌線のカステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット駅
右側の空地が登山鉄道の起点駅跡
(2009年撮影)
Photo by eldelinux at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そこから路線は、いったんリョブレガト川の左岸を下る。支流をまたいだところに、バウマ停留所 baixador de la Bauma があった。またしばらく下流へ進むと、狭軌線に接続する(旧)モニストロル・エンリャス(ジャンクション)Monistrol-Enllaç 駅がある。その後、リョブレガト川を長さ118m、3連上路トラスの鉄橋で横断して、山へ向かう。54‰勾配の切通しを抜けると、中間駅のモニストロル・ビラ Monistrol Vila だ。鉄道の運行拠点とされ、車庫と整備工場もここに置かれていた。

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リョブレガト川を渡る登山列車
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
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今もレンガの橋脚・橋台が残存
from street view on Google map, © 2020 Google
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モニストロル・ビラ旧駅舎は鉄道の展示館に
Photo by Enric at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

駅の出口で、いよいよラック区間が始まる。現在の新線も、ここから旧線跡を利用している。短いトンネルを抜けた先に、モンセラットに上る車道と交差する踏切がある(下注)。そこは後に、踏切番の服を着て列車を見送る「踏切小屋の犬 Gos de la Casilla」で有名になり、乗客はそれにコインを投げるのが習わしだった。

*注 復活した新線では、この区間が谷寄りに移設され、立体交差化された。

ラック区間の中間部に設けられた複線は1.3kmあり(下注)、繁忙期に3列車が続行運転しても、走行しながら列車交換が可能な長さだった。路線最長のアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols を抜け、ほどなく終点のモンセラット・モネスティル(修道院)Montserrat-Monestir 駅に到着する。構内は今と違って屋外にあり、3線が敷かれたターミナルだった。

*注 新線では複線が420mに短縮。

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終点モンセラット・モネスティル駅
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
 

1920年代には、この終点駅でホームが拡張され、最大4編成の列車の留置が可能になった。並行して電化も検討されたが、財務上の理由とともに、修道院との合意が整わず、実現しなかった。

ここまでの約30年間は、登山鉄道にとって華やかなりし時代だ。かつての馬車道が自動車道に整備されたとはいえ、まだ大多数の訪問客は鉄道を利用して山に上っていたからだ。ところが、1930年代に入ると、風向きが変わっていく。

まず、別のライバルが登場した。1930年に開業した「アエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat」、すなわちモンセラットに上るロープウェーだ。起点はリョブレガト川沿いの狭軌線のすぐそばで、狭軌線に乗換用の駅が新設された。それは、登山鉄道の接続駅より二駅バルセロナ寄りになる。しかもロープウェーはそこからわずか5分で、修道院の直下まで上りきる。輸送能力は登山鉄道に及ばないものの、時間の短縮効果は圧倒的だった。

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モンセラット・ロープウェーのゴンドラから
起点駅を見下ろす
Photo by The Bernard Gagnon at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1936~39年の内戦(スペイン市民戦争)中も登山鉄道は走ったが、一般輸送は中止され、機関車はもっぱら、戦争の負傷者をモンセラットに置かれた陸軍病院に運び込む仕事に携わった。内戦が終結しても数年間は財政難で、設備更新に対する投資が滞った。その後は修道院の祝賀行事に伴い、旅客数が回復したものの、長年の酷使により設備の劣化が進行していたのは間違いない。

1953年7月25日、予想外の惨事が起きる。山上行きの列車がラック区間で突然下降し始め、後続の列車を巻き添えにして、その数百m下を走っていた第3の列車に衝突したのだ。この事故で8名が死亡、16名が重傷、116名が軽傷を負った。蒸機も3号機と5号機が大破して、廃車処分となった。

これを境に、会社の運命は暗転した。老朽化した鉄道に対する市民の不信が高まり、モンセラットの訪問客は、ロープウェーや自動車道を上るバス、自家用車に移っていった。もと8両あった蒸機は事故で6両に減り、1956年になると、部品不足で2号機と7号機が離脱、4号機は客車1両に制限された。悪循環の中で万策尽き、1957年5月12日、旧 モンセラット登山鉄道は65年間の運行の幕を閉じた。

登山鉄道の運行会社ムンターニャ・デ・グランス・ペンデンツは、モンセラット山中に造られた2本のケーブルカーやヌリア登山鉄道の事業者でもあったため、その後も存続している。しかし、1982年にカタルーニャ州により買収され、1984年、残された鉄道の公営化の手続きが完了した。

復活した登山鉄道については、次回

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット(訪問者向け公式) https://www.montserratvisita.com/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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2020年7月20日 (月)

ポルトの古典トラム II-ルートを追って

前回概要を記したポルトのトラム(路面電車)について、車窓風景や沿線の見どころを追っていこう。

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カイス・ダス・ペドラス Cais das Pedras の
旧道を行く1系統トラム
(写真はすべて2009年7月撮影)
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青・赤・緑のラインがトラム、なお18・22系統の電停名は下図参照
灰色はポルト・メトロ(LRT)
旗竿記号はCP(ポルトガル鉄道)
"Funicular" はギンダイス・ケーブルカー
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市街地を拡大
© OpenStreetMap contributors

1系統 パッセイオ・アレグレ Passeio Alegre ~インファンテ Infante

起点は河口側のパッセイオ・アレグレとされているが、観光客の視点に従って、中心街に近いインファンテから話を進める。

インファンテという地名は、15世紀に西アフリカを「発見」し、大航海時代の幕を開いたエンリケ航海王子 Infante Dom Henrique にちなむものだ。電停の近所、リベイラ Ribeira 地区に生家とされる「王子の家 Casa do Infante」がある。ポルト大聖堂 Sé do Porto の丘を仰ぐこの辺りはポルトの旧市街で、石畳の街路を多くの人が行き来している。

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(左)丘の上に大聖堂付属司教館が見える
(右)リベイラ、ドウロ河岸のプロムナード
 

電停の北側はゴシック建築の聖フランシスコ教会 Igreja de São Francisco、南側は道路を隔ててドウロ川の川岸が迫る。この川は箱型の谷の中を流れていて、すぐ上手にドン・ルイス1世橋 Ponte de Dom Luís I が架かっている。ギュスターヴ・エッフェルの弟子が設計した長さ395m、高さ85mの壮大な2層アーチ橋だ。見上げる高さの上部デッキを、ポルト・メトロ Metro do Porto の黄帯の電車が渡っていく(下注)のを眺めるのも楽しい。

*注 2003年まで上層も通常の道路だったが、2005年のメトロD線開通により、上層はLRVと歩行者の専用路になっている。

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ドン・ルイス1世橋を渡るポルト・メトロ
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対岸セラ・ド・ピラール Serra do Pilar から見た
ドン・ルイス1世橋と旧市街リベイラ
 

さて、インファンテ電停の引上げ線の端にもレモンイエローのトラムがいるが、これは臨時の案内所、兼切符売り場だ。パッセイオ・アレグレ方から接近してきた1系統トラムがその手前に停車して、乗客を降ろした。それから運転士が外に出てきて、トロリーポールを反対側へ回す。

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1系統の起点インファンテ
(左)トラム車両が案内所兼切符売り場に
(右)運行用トラムが到着
 

時刻になると停留所の位置まで移動し、新しい客を迎える。ワンマン運転につき、運賃収受も運転士の仕事だ。名物の川景色は、往路でもっぱら左車窓に展開するのだが、座席は両側ともけっこう埋まった。

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(左)レトロ感あふれるダブルルーフの車内
(右)出発
 

出発すると、一路西へ向かう。軌道は本来複線で、車道上に敷設(=併用軌道)されていたが、観光鉄道化に際し、単線で山側に寄せられ、歩道と一体化された。これで車の通行が円滑になるとともに、電車も渋滞に巻き込まれることがなくなった。軌道と歩道をセットにするのは一見大胆な発想だが、トランジットモールの変形と思えば違和感はない。

並行する道路の左側に大きな建物が見える。現在は博物館と会議場に改装されているが、ここはかつてドウロ川からの荷上場に使われ、税関と貨物駅(下注)があった。川べりの駐車場が貨物駅のヤード跡で、本線のカンパニャン Campanhã 駅から貨物線が来ていたのだ(1888年開通)。木陰のアルファンデガ Alfândega(税関の意)電停では、逆方向のトラムと交換する。

*注 地図に Antigo Terminal Ferroviário da Alfândega(旧アルファンデガ鉄道ターミナル)と注記がある。

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(左)軌道は歩道と一体化
  左は貨物駅跡、奥の建物は旧税関
(右)木陰のアルファンデガ電停
 

次のモンシーケ Monchique とカイス・ダス・ペドラス Cais das Pedras の電停間には、川岸を走っていた昔の風景を彷彿とさせる区間がある。車道を川の上に張り出させ、それによって軌道を旧道や護岸とともに残しているのだ。元の複線が単線化されてはいるものの、トラムの走る姿は、道の絶妙な曲がり具合とあいまって、絵になる光景だ。

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カイス・ダス・ペドラス旧道区間
(左)単線化されたものの昔の風情を残す
(右)反対側から撮影
 

そこを過ぎると、右手から18系統の複線が合流して、トラム博物館前の電停に着く。以前はマッサレーロス Massarelos と称し、位置ももう少し手前(インファンテ寄り)だったが、博物館の正面に移設された。

トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico は、STCP(ポルト公共輸送公社 Sociedade de Transportes Colectivos do Porto)が運営している鉄道博物館だ。かつてこの鉄道に電気を供給していた火力発電所跡の建物を利用して、1992年に開設された。館内には、馬車鉄道から電気鉄道、トロリーバスに至る多彩な歴史的車両が展示され、19~20世紀のポルトの公共交通史が概観できる。

■参考サイト
トラム博物館 https://www.museudocarroelectrico.pt/

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トラム博物館
(左)正面
(右)内部に保存(一部復元)車両を展示
 

博物館前を出発すると、前方にドウロ川をまたぐ巨大アーチの道路橋、アラービダ橋が見えてくる。橋の真下のポンテ・ダ・アラービダ(アラービダ橋の意)Ponte da Arrábida 電停で、また逆方向のトラムと交換した。

オウロ Ouro あたりまで来ると、対岸がみるみる遠のいて、河口の川幅の広がりを実感する。フルヴィアル Fluvial からカンタレイラ Cantareira 電停にかけては、川岸との間が散策可能な公園にされ、野鳥の観察場所も作られている。

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(左)アーチ橋の真下にあるポンテ・ダ・アラービダ電停
(右)カンタレイラ電停付近
 

小さな灯台施設のある岬を回りきったところが、終点のパッセイオ・アレグレ Passeio Alegreだ。ここはもう河口の町フォス Foz の一部で、緑濃い公園の中を7~8分も歩けば、大西洋の波が洗う広い砂浜に出られる。

本来の路線は、フォスから海岸線を北上して、カステロ・ド・ケイジョ Castelo do Queijo、ポルトの外港マトジーニョス Mattosinhos まで達していた。しかし、今では路上の軌道はすっかり撤去され、500番の路線バスが代走している(下注)。

*注 終点パッセイオ・アレグレ~マトジーニョス間、および起点のインファンテ~サン・ベント駅前間の延長計画があるものの、具体的な実現の見通しは立っていない。

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終点パッセイオ・アレグレ
ポールを回して折り返しの準備
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(左)電停案内板、当時は30分間隔の運行だった
(右)終点から先、街路に残されていた複線の軌道
  現在は撤去済
 

前回にも記したが、パッセイオ・アレグレからの帰路で、トラムが混雑している、あるいは乗車時間を節約したいという場合、この500番バスに乗ると、ポルトの中心部、サン・ベント駅 Estação de São Bento やリベルダーデ広場 Praça da Liberdade まで直接戻れる。

18系統 マッサレーロス Massarelos(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)~カルモ Carmo

18系統は、1系統のトラム博物館電停が起点だ。そこからカルモまで、ルートは観光客に人気の1系統と22系統を橋渡しする形に設定されている。ポルトの主要市街地が展開するのは、起伏の多い台地上だ。起終点間の標高差は約80mあり、トラムの行く手にはきつい上り坂が待ち構えている。

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(左)マッサレーロス(現 トラム博物館)電停の18系統トラム
(右)左折して上り坂の併用区間に入る
 

出発すると、すぐに左折して1系統の軌道と別れる。そして複線のまま、道路上の併用区間に進入すし、その状態がエントレ・キンタス Entre Quintas 電停前まで続く。察するにこの区間は道幅が狭く、両側に建物も迫っており、1系統のように歩道側に寄せて単線化することができなかったようだ。言い換えれば、一般運行していた頃の姿が残された貴重な区間ということになる。

エントレ・キンタスでようやく軌道は単線になり、右側の歩道に移る。プラタナスのうるわしい木陰道で、右車窓にドウロ川が望める。距離は短いものの、写真映えのする区間だ。次のパラーシオ Palácio 電停には交換用の待避線があり、ついでに線路の位置は道路の左側に変わる。

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(左)プラタナスの木陰道
(右)パラーシオ電停で道路の反対側に移る
  (後方を撮影)
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右車窓からドウロ川が望める
 

飾り気のないレスタウラソン(復興)通り Rua da Restauração をさらに上ると、ヴィリアート Viriato 電停。上り勾配はここで収まる。線路の分岐が見えるが、行きは直進して、そのままコルドアリア庭園 Jardim da Cordoaria に入る。そして左折し、ポルト大学本部棟の横に設けられたカルモ電停に至る。

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カルモに到着
 

一方、帰りは北回りの軌道を通る。カルモ教会前から聖アントニオ総合病院 Hospital Geral de Santo António の敷地を迂回し、先述の分岐でヴィリアート電停に戻っていく。

22系統 カルモ Carmo ~バターリャ Batalha(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)循環

カルモ電停は、中心市街地の西の入口で、ポルト大学本部棟に接する広場に置かれている。軌道が2本並び、あたかも複線のように見える。片方(西側)には南から18系統のトラムが到着し、もう一方には北から22系統バターリャ行きが入線してくる。

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カルモ電停
(左)透かし文字の行先表示板を交換
(右)両系統のトラムが連絡
 

22系統は2007年9月に観光路線としての運行を開始している。中心市街の軌道は1970年代後半に撤去されたので、30年ぶりの復活だった。ルートはバイシャ・ド・ポルト Baixa do Porto(ポルト中心街)を循環しており、どの電停から乗っても同じ場所に戻ってこられる。一周にかかる時間は標準30分だ。

カルモを南向きに発車すると、すぐに左折して、コルドアリア庭園の中を通過する。そしてクレーリゴスの塔 Torre dos Clérigos を正面に見ながら、通りを斜めに横断する。市街地で最も高い展望台として知られるこの鐘塔は、クレーリゴス教会の付属施設だ。

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クレーリゴスの塔の裾を狭いアスンサン通りへ
 

トラムはクレーリゴス電停を通過し、教会横の狭い小路、アスンサン通り Rua da assunção をすり抜ける。再び大通りのクレーリゴス通り Rua dos Clérigos に顔を出し、急な坂を下り続ける。周りは商店街で、そぞろ歩く人も多いから、運転には気を遣うことだろう。

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(左)坂の上のクレーリゴス教会(後方から撮影)
(右)クレーリゴス通りを下りきる
 

坂の下の、リベルダーデ広場 Praça da Liberdade 電停で停車。左手がその広場で、ドン・ペドロ4世の騎馬像と、その後方に白亜の市庁舎が見える。なお、CP(ポルトガル鉄道)とポルト・メトロのサン・ベント駅 Estação de São Bento へ行く場合は、ここが最寄り電停になる。

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リベルダーデ広場を北望
奥に見えるのが市庁舎
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CP サン・ベント駅正面
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アズレージョの壁画に囲まれたサン・ベント駅のホール
 

地形的に見れば、市庁舎~リベルダーデ広場~モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ通り Rua de Mouzinho da Silveira のラインに深い谷筋が走っている。22系統のルートは行きも帰りもそれを横断する形だ。そのため、サン・ベント駅横で、今度は急な上り坂が始まる。1月31日通り Rua 31 de Janeiro と呼ばれるこの街路は直線かつ一定勾配で、坂上の突き当りに、ファサードを飾る美しいアズレージョ(装飾タイル)で知られる聖イルデフォンソ教会 Igreja de Santo Ildefonso が建つ。

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1月31日通りの急坂を上る
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(左)聖イルデフォンソ教会の角を右折
(右)聖イルデフォンソ教会のファサード
 

その教会前で右折すると、北回りの軌道と合流する。もう一度左に曲がったところが、バターリャ広場 Praça da Batalha だ。従来、電停名もバターリャ広場だったが、STCPの最新資料ではバターリャ Batalha に改称され、そのため終点バターリャが、バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais になっている。ちなみに、広場の南側に、カンパニャン駅方面へ分岐していた軌道を利用した三角線がある。運行中のトラムはすべて両運転台車なので、通常使われることはないのだろうが。

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バターリャ(旧 バターリャ広場)電停のT系統
 

広場から南下すると、まもなく終点バターリャ・ギンダイスだ。軌道はここが行き止まりで、トラムはポール回しをして、元来た道を引き返す。2本敷かれた軌道の間にある地下階段を降りていくと、川岸へ降りるギンダイス・ケーブルカー Funicular dos Guindais の乗り場に通じる。

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バターリャ・ギンダイス電停
(左)トラムの右がケーブルカーへの地下道入口
(右)折り返し出発を待つ
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ギンダイス・ケーブルカー
 

さて、カルモへの復路は、先述の聖イルデフォンソ教会前までは同じだが、そこで往路の軌道と別れて北へ直進する。ポルトきってのショッピング街、聖カタリーナ通り Rua de Santa Catarina では、舗道のモザイク模様にも注目したい。軌道が狭い車道上に敷設されているため、トラムはしばしば渋滞に巻き込まれる。サンタ・カタリーナ Santa Catarina 電停通過後、次の角で左折し、長い下り坂に入る。

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買い物客で賑わう聖カタリーナ通り
 

降りきったあたりに、ドン・ジョアン1世広場 Praça D. João I の電停がある。その後すぐ、リベルダーデ広場の北に延びる広場、アリアードス Aliados を横断する。往路で遠望した市庁舎が近くに見える。広場の地下には、メトロD線のアリアードス駅があり、乗り換えが可能だ。先述の通り、ルートは谷を横切っているので、後は上り坂だ。セウタ通り Rua de Ceuta とそれに続く街路を道なりに進んでいくと、見覚えのあるカルモの教会が見えてくる。

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アリアードスからセウタ通りを上る
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(左)ギレールメ・ゴーメス・フェルナンデス(広場)電停
   Guilherme Gomes Fernandes
(右)カルモ教会前に戻ってきた
 

写真はすべて、2009年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
STCP https://www.stcp.pt/
Porto-north-portugal.com https://porto-north-portugal.com/
The Trams of Porto(愛好家サイト)http://tram-porto.ernstkers.nl/

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 ポルトの古典トラム I-概要

2020年7月15日 (水)

ポルトの古典トラム I-概要

1系統 パッセイオ・アレグレ Passeio Alegre ~インファンテ Infante
18系統 マッサレーロス Massarelos(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)~カルモ Carmo
22系統 カルモ Carmo ~バターリャ Batalha(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)循環

全長8.9km、軌間1435mm、直流600V電化
1872年馬車軌道として開通
1895年から電化

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1月31日通り Rua 31 de Janeiro の急坂を上る古典トラム
(写真はすべて2009年7月撮影)
 
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ポルトガル北部の中心都市、ポルト Porto の市街地を、ノスタルジックな風貌のトラム(路面電車)が走っている。トラムはポルトガル語でカーロ・エレークトリコ carro eléctrico、つまり電気馬車という。もはや日常的な市内交通の担い手ではなくなったが、この世界遺産都市を訪ねてくる旅行者のために今も運行され続ける観光アトラクションだ。

ポルトのトラムは約150年の歴史がある。1872年にポルト馬車鉄道会社 Companhia Carril Americano do Porto が、市内のインファンテ Infante およびカルモ Carmo と大西洋岸のフォス Foz の間で開業した馬車鉄道が最初だ。翌年、路線は海岸をさらに北上して、マトジーニョス Matosinhos まで延長された。

アメリカから輸入されたシステムだったので、馬車鉄道(正確にはレール上の馬車車両)のことを「カーロ・アメリカーノ carro americano(アメリカの馬車の意)」と呼んだが、実際に牽いていたのはラバだった。雄のロバと雌馬の交雑種であるラバは、馬より忍耐強く丈夫で長寿命とされ、好んで使役されていたのだ。

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馬車鉄道8号車
トラム博物館の展示を撮影、以下同じ
 

それに遅れること2年、ポルト路面鉄道会社 Companhia Carris de Ferro do Porto という別の会社が、1874年にカルモからボアヴィスタ Boavista 経由でフォスに至る馬車鉄道線を開業した。さらに1878年からは郊外で路面蒸気機関車による運行も始めている。こうして波に乗った同社は、1893年にポルト馬車鉄道を買収し、ポルト周辺の路面軌道網を一元化した。

ポルトの市街地は急な坂道が多く、1両を牽くのにラバが6頭も必要だった。そこで会社は、勾配に強い電車の導入を計画する。ドウロ川沿いのアラービダ Arrábida に設けた火力発電所から供給された電力を使って、1895年にまずカルモ~アラービダ間が電化された。これはスペインを含むイベリア半島で初めての電気鉄道となった。

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(左)22号電車は馬車鉄道の車体を用いた改造車両
(左)オープンタイプの100号電車
 

電化区間はその後も徐々に延伸され、1904年には牽き手のラバたちを、1914年には蒸気機関車をそれぞれ完全に駆逐している。電力の増強が必要になり、1915年に少しポルト寄りのマッサレーロス Massarelos に、新しい火力発電所が造られた。現在、トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico に利用されている建物だ(下注1)。また、主要な車庫と整備工場は、1874年の開業当初からボアヴィスタに置かれていた(下注2)。

*注1 1957年の発電所廃止後は車庫に転用され、1992年5月に博物館が開館。
*注2 車庫は1999年に解体され、跡地は音楽ホール「カーザ・ダ・ムージカ Casa da Música(音楽の家の意)」に転用。

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(左)火力発電所跡地はトラム博物館と車庫に
(右)ボアヴィスタの車庫跡地は音楽ホールに転用
 

トラム路線網は、第二次世界大戦後の1946年にポルト市が買収(公有化)した。運営に当たるために、ポルト公共輸送局 Serviço de Transportes Colectivos do Porto (STCP) が設立された。1950年が路線網のピークで、38路線(系統)150kmの線路に、電車193両、付随車24両が稼働していたという。空圧式の自動ドアを備えたモダンな500形が試作されたのもこのころだ(1951年製)。しかしこれは1両きりで、量産されることはなかった。

STCPはすでに1948年からコストの安い路線バスの導入を始めており、1959年にはトラムの段階的廃止と、トロリーバスへの転換に舵を切っている(下注)。1967年にはトラムから路線バスへの切り替えも始まった。

*注 トロリーバスは市街地から北東、東および南の郊外へ向かう路線に導入されたが、1997年に全廃され、バスに転換。

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(左)自動ドアを備えた500形
(右)トラム路線を代替したトロリーバス
 

こうして1960~70年代は運行の撤退が続き、1984年にトラムはわずか3路線(1、18、19系統)まで縮小されていた。奇しくもこれらは初期に開通した路線だった。その後しばらく運行が続けられたが、1990年代に入ると、古くなったトラムを一般輸送から解放して、観光資源に特化させる計画が議論されるようになる。

再び路線の整理が加速された。最後に残された18系統(当時はカルモ~フォス~カステロ・ド・ケイジョ Castelo do Queijo ~ボアヴィスタ間)も1996年に運行時間帯が短縮され、本数も削減されてしまった。

それから数年間は、観光化に向けての改修工事が行われたため、区間運休が相次いだ。運行形態が今の形に固まったのは、1系統が2002年(下注)、18系統が2005年だ。そして2007年9月に市内中心部を循環する22系統が30年ぶりに復活して、観光トラムの路線網が完成した。

*注 路線バスの1系統(現 500系統)と区別するため、しばらくの間1E系統と呼ばれていた。

なおこの間1994年に、運営主体のSTCPは有限責任会社 sociedade anónima に改組されている。略称のSTCPは変わらないものの、正式名称はポルト公共輸送公社 Sociedade de Transportes Colectivos do Porto になった。

現在のトラム路線図は、下図の通りだ。

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青・赤・緑のラインがトラム、なお18・22系統の電停名は下図参照
灰色はポルト・メトロ(LRT)
旗竿記号はCP(ポルトガル鉄道)
"Funicular" はギンダイス・ケーブルカー
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市街地部分を拡大
© OpenStreetMap contributors
 

路線にはそれぞれ特色がある。

1系統 Linha 1 は、ドウロ川 Rio Douro の川べりを終始走る路線だ。運行区間は、河口のフォス地区にあるパッセイオ・アレグレ Passeio Alegre から、旧市街の入口に当たるインファンテまで。朝9時から20分間隔で、夜20時台(冬季は19時台)まで運行される。所要時間は23分。車窓から川景色をたっぷり楽しめるので、観光客に人気があり、乗車率も高い。

ちなみに500番の路線バスが同じルートを並走しており、こちらは10分間隔、同区間(イグレージャ・ダ・フォス Igreja da Foz ~リベイラ Ribeira が該当)を14分で走破してしまう。トラムが混雑しているときは、片道をバスにするのも一つの方法だ。

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1系統は終始ドウロ川右岸に沿う
 

18系統は、1系統マッサレーロス(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)電停が起点で、坂を上って、ポルト大学本部前のカルモに至る。カルモ付近はループ線(環状)になっていて、行きと帰りでルートが異なる。運行は30分間隔で、所要時間12~13分。沿線に取り立てて有名な観光スポットがないため、車内は比較的すいている。

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18系統はカルモで22系統と接続
左の建物はポルト大学本部
 

22系統は、そのカルモからポルトの中心市街地を貫いて、バターリャ(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)まで行く。戻りは北側の街路を通るので、全体として反時計回りの循環ルートになっている。居ながらにして市街地見物ができ、バターリャでは川岸へ降りるギンダイス・ケーブルカー Guindais Funicular の乗り場にも直結しているので、利用価値のある路線だ。

所要時間は1周30分とされているが、狭い街路を行くため、交通渋滞や路上駐車の影響で遅れることもままある。運行間隔も30分と開いているので、観光目的ならともかく、実用的な手段とは言いがたい。ちなみに、カルモとバターリャの間は約1km、アップダウンはきついが、歩いても15分程度だ。

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アスンサン通り Rua da Assunção へ入る22系統
左はクレーリゴスの塔 Torre dos Clérigos
 

これらとは別に、かつてはT系統「ポルト・トラム・シティ・ツアー Porto Tram City Tour」も運行されていた。系統名のTが turista(観光)を意味するとおり、上記3つの路線を直通する周遊観光路線だった。ルートは、1系統のインファンテを起点に、マッサレーロスでスイッチバックして18系統の線路に入る。カルモでは渡り線を経由して22系統の線路に移り、バターリャまで行く。復路は北回りでカルモ、マッサレーロスとたどってインファンテに戻るというものだった。しかし、通しの利用者は少なく、運営コストの削減を理由に廃止されてしまった。

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T系統
カルモ教会 Igreja do Carmo 前で暫時休憩
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(左)T系統に使われていた222号車
(右)車内

トラムの運賃は2020年7月現在、1回券が3.50ユーロ、2回券(ただし当日限り有効)は6ユーロだ。車内で運転士から購入する。これとは別に、乗車回数に制限のない2日券(大人10ユーロ)もあり、これは車内のほか、トラム博物館やホテルなどでも扱っている。

注意すべきは、乗車券がトラム専用だということだ。ポルトでは、路線バスやポルト・メトロ(下注)などの公共交通機関でICカード「アンダンテ Andante」が普及しているが、シーズン券(定期券)を除いてトラムには有効でない。このことからも、トラムが市民のふだん使いを想定していないことがわかる。

*注 ポルト・メトロ Metro do Porto は、ポルト市内と近郊を結ぶLRTの名称。

では、トラムが走るルートを具体的に追ってみよう。続きは次回に。

写真はすべて、2009年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
STCP https://www.stcp.pt/
The Trams of Porto(愛好家サイト)http://tram-porto.ernstkers.nl/

★本ブログ内の関連記事
 ポルトの古典トラム II-ルートを追って
 マン島の鉄道を訪ねて-マンクス電気鉄道

2020年7月 8日 (水)

ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria

リベス・エンリャス Ribes-Enllaç ~バイ・デ・ヌリア(バル・デ・ヌリア)Vall de Núria 間 12.5km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配150‰
1931年開通

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バイ・デ・ヌリア駅に到着した登山電車

イベリア半島の北を限るピレネー山脈の懐深く、その登山電車は上っていく。行先は、標高2800mの峰々にいだかれたカタルーニャ(カタロニア)の聖地ヌリア Núria だ。

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鉄道の名は「クレマリェラ・デ・ヌリア(ヌリア登山鉄道)Cremallera de Núria」(下注)という。スペイン北東部、カタルーニャの州都バルセロナ Barcelona から列車で2時間半ほどの、リベス・デ・フレゼル Ribes de Freser が起点だ。ヌリアには車道がいっさい通じていない。そのため、昔ながらの険しい山道を歩く人は別として、登山電車が聖地へ到達する唯一の手段になっている。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

ヌリアに建つ教会には、12~13世紀ごろの作とされる木彫りの聖母像が伝わり、人々の篤い信仰を集めてきた。加えて夏は避暑やトレッキング、冬は周囲のゲレンデでのスキーと、ヌリアへ向かう車内はそのつど賑わいを見せる。

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バイ・デ・ヌリアの風景
正面は教会棟(バシリカ)、鉄道駅はその右横に隠れている

リベス・デ・フレゼルへは、バルセロナの中央駅、バルセロナ・サンツ Barcelona-Sants から、R3系統(下注)の列車が連絡している。ロダリエス・デ・カタルーニャ(カタルーニャ近郊線)Rodalies de Catalunya の路線網に組み込まれているとはいえ、そこは近郊どころか、フランス国境にほど近い山中だ。

*注 R3系統の終点はバルセロナから約150km、フランス側のラトゥール・ド・カロル=アンヴェチ Latour de Carol-Enveigt。

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(左)サンツ地下駅の列車案内、3行目の6:22発に乗る
(右)車両はRENFE 447系
 

サンツ発、早朝6時22分の列車に乗った。オレンジのアクセントカラーをまとう連接式電車は、地下から出ると北に進路をとる。いったん山が迫ってくるが、また平原に出た。ビック Vic を通過し、2時間近く乗ったころ、いよいよ車窓は山峡の景色に変わる。リベス・デ・フレゼルの5番線、8時47分着。多くの降車客があった。

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リベス・デ・フレゼル駅に到着
 

レンガ建ての旧国鉄駅舎から広場を隔てて北側に、石造りの駅舎が見える。妻壁に「リベス・エンリャス Ribes-Enllaç(リベス・ジャンクションの意)」と切り文字で記された登山鉄道の駅だ。中に入り、さっそく窓口でヌリアまでの乗車券を買い求めた。大人往復25.50ユーロ。

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登山鉄道の起点リベス・エンリャス駅
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(左)インフォメーション兼出札窓口
(右)ヌリア往復の乗車券
 

ヌリア登山鉄道は、リベス・エンリャスからバイ・デ・ヌリア Vall de Núria(ヌリア谷の意)に至る長さ12.5km、メーターゲージ(1000mm軌間)の登山鉄道だ。起点の標高905mに対し、終点は1964mで、高度差が1059mある。そのため、フレゼル川に沿う最初の5.5kmこそ粘着式だが、残りの区間はアプト式ラックレールが敷かれ、最大150‰の急勾配で上っていく。

2019年の夏ダイヤは、平日が5~6往復、土休日とハイシーズン(7月下旬~9月上旬)が11往復だ。このほか、毎金曜日と8月中に夜間の増便がある。全線の所要時間は上下方向とも40分。

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リベス・エンリャス~ケラルブス間のルート
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

駅舎の奥に、トラス屋根を架けた乗り場がある。相対式ホーム2面2線(下注)の配置だが、2線とも列車が並列に入り、満杯の状態だ。きょうは客が多いから、朝9時10分発の一番列車は続行運転になるようだ。後続の電車に席を得て、先発する列車を窓から見送った。

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(左)屋根に覆われた発着ホーム
(右)右奥が先発、左正面は続行便
 

まもなくこちらも発車。構内を出ると、右カーブしてフレゼル川 Freser を横断する。そしてリベス・デ・フレゼルのやや鄙びた町裏を見ながら、山際をくねくねと走る。

最初の停車駅は、起点から1.2kmのリベス・ビラ Ribes-Vila だ。ビラ(下注)とは町のことで、リベス市街地の最寄り駅になる。エンリャスと同じような石造りの駅舎が、乗降客を迎える。駅前左手にはヌリア・ラック鉄道展示館 Exposicio cremallera de Núria があり、ここで活躍した各世代の車両が保存されている。また、線路をはさんで反対側には車庫も建つ。

*注 カタルーニャ語はスペイン語と同じくVとBの発音を区別しないので、音訳ではヴァ行を用いず、バ行で記す。

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フレゼル川の高架橋を渡って対岸へ
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リベス・ビラ駅
町の玄関口のため立派な造り
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ラック鉄道展示館は入場無料
(左)駅舎側の入口 (右)内部
 

列車は、町の通りを横断し、やがてフレゼ川の緑の谷間に入っていく。素掘りの短いトンネルをくぐり、小さな水力発電所の横を鉄橋で渡る。旧 リアルブ Rialb 駅は跡形もない。少し進んだところ(5.5km地点)で減速した。ラックレールにピニオンが噛み合う音が聞こえて、いよいよ急坂の始まりだ。長さ110mの大きく弧を描く高架橋が、支谷をまたいでいる。

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(左)町の通りを横断(帰路撮影、以下同)
(右)水力発電所の横の鉄橋
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(左)ラック区間の始点
(右)弧を描く高架橋
 

坂の途中に、ケラルブス Queralbs 駅がある。起点6.3kmの交換駅で、本線側2線のほかに、行き止まりの側線2本を有する。ここ始発の列車は、側線側から出発するのだ。この日は「Sport Wagen(スポーツカー)」のロゴがついた中古の客車2両が留置してあった。スイスのマッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB) から購入したもので、特別運行で使用される。

意外に乗降客が多いのは、村の玄関口であることの他にも理由がある。一つは、ヌリアとの間の登山道(ケラルブス=ヌリア旧道 Camí Vell de Queralbs a Núria、下注)を歩くハイカーが利用することだ。もう一つ、ここまでは車で到達できるので、マイカーを駅横の駐車場に停めて、列車に乗り込む人が一定数いる。

*注 鉄道がなかった時代の旧道。ケラルブスから距離7.2km、高度差780m、上り3時間15分。

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ケラルブス駅
(左)乗降が結構ある
(右)スイスMGBから来た客車が留置
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ケラルブス~バイ・デ・ヌリア間のルート
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

再び動き出すと、右の車窓にフレゼル川の谷の眺望が開けてくる。山脚を回り、沢を一つ渡った後は、谷底との高度差が200mを超える。線路脇に「ビスタ・アレグレ Vista alegre(爽快な眺望の意)」と書かれた立て札が見えるが、なるほどそのとおりだ。

しかし車窓のパノラマは、次の山脚を回り、右前の谷向うに、荒々しい露岩の山ロケ・デ・トトロモン Roque de Totlomón の姿を認めたところで突然終了する。列車は、長さ1320mあるロック・デル・ドゥイトンネル Túnel Roc del Dui の闇に吸い込まれていく。

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ビスタ・アレグレ(爽快な眺望)
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ロック・デル・ドゥイトンネルの山麓側ポータル
旧線跡(右写真)が右奥へ延びる
 

路線最長のトンネルは2008年、フォンタルバ Fontalba 駅(旅客扱いなし)との間に完成した新線だ。以前は、断崖絶壁の中腹を穿って確保したスリリングな桟道を通過しており、運行は落石の危険と常に隣り合わせだった。トンネル開通により車窓の眺望は失われたが、引き換えに安全性は確実に向上した。廃止された旧線跡は作業用道路として残されている。

9.6km地点のフォンタルバは、両側をトンネルに挟まれた狭隘な場所にある。交換設備は、新トンネルの内部まで拡張されている。フォンタルバの後、再び突入する素掘りのトンネルは(大)フォンタルバトンネル Túnel (gran) de Fontalba(下注)といい、かつてはこれが路線最長だった。

*注 以前はフォンタルバ駅の下手にあった小フォンタルバトンネル Túnel petit de Fontalba に対して、大フォンタルバトンネルと呼ばれた。

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山上側ポータルの前後は長い複線で、
フォンタルバ駅(右写真)まで続く
 

気がつくと、谷は見違えるほど浅くなっている。フレゼル川支流、ヌリア川の谷(バイ・デ・ヌリア)に入ってきたのだ。この付近は、古代の堆積岩がマグマの熱と圧力で変成した、非常に硬い片麻岩の地層で、侵食が進んでいない。そのため、フレゼル川の本谷とは数百mの高度差が生じている。

ここまで来れば、登山鉄道は必要な高度を概ね稼いだことになる。実際、終盤の約3kmは、川の流れに導かれるように谷間を上っていく。登山道として使われる旧道が並行しており、素朴なアーチの石橋が渓流をまたいでいる。帰りの車内からは、歩いて降りるハイカーの姿も見かけた。

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(左)ヌリア川の渓流
(右)浅くなったヌリア川の谷を渡る
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ヌリアトンネル
(左)山麓側 (右)山上側
 

終幕の場面展開は、なかなか劇的だ。最後のトンネルをくぐり抜けると、突然視界が開け、今まで目にしてきた荒々しい風景とはまるで違う、一面瑞々しい青草に覆われた小盆地が現れるからだ。左手はなみなみと水をたたえた湖(貯水池)で、上流側に、時計塔を正面に抱く豪壮な教会棟(バシリカ)が建っている。列車はその傍らにあるバイ・デ・ヌリア駅の石張りのホームに静かに滑り込む。

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貯水池の岸を行く列車
右端にヌリアトンネルが見える
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線路脇の遊歩道から教会を望む
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(左)バイ・デ・ヌリア駅到着
(右)駅舎

歩いて上るより方法のなかったヌリアに、車道あるいは鉄道の建設が提起されたのは、第一次世界大戦中の1917年のことだ。それに先立つ1911年に、ヌリアでは古い教会が取り壊され、現在の教会が献堂されていた。引き続き、宿舎その他巡礼のための施設の整備も進められており、訪問者が急増していたことがその背景にある。

民間会社のムンターニャ・デ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarrils de Muntanya de Grans Pendents (FMGP) が、事業を引き受けた。同社は、バルセロナ近郊のモンセラット修道院に上る別の登山鉄道(下注)の運行事業者で、ヌリアの仕様もそれに準じたものになった。すなわち軌間1000mm、アプト式のラックレールで、当初予定の蒸気運転は、後に電化に変更された。計画は認可を受け、1928年5月に建設工事が始まった。

*注 モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat。本ブログ「モンセラット登山鉄道 I-旧線時代」で詳述。

谷に橋を架け、断崖を削り、8本のトンネルを貫く難工事だったが、1930年の年末には、モンセラットから運んだ蒸気機関車で、試運転が行われている。そして1931年3月22日、鉄道は開業を迎えた。

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鉄道展示館のラック蒸機
1892年SLMヴィンタートゥール製
説明パネルによれば、フランス、エクス・レ・バン近郊のモン・ルヴァール鉄道 Chemin de fer du Mont-Revard に納入された後、1897年にスイスのゴルナーグラート鉄道建設に従事。1920年に大勾配登山鉄道(FMGP)が購入し、モンセラット鉄道の勾配に適合させるため、ボイラーの傾斜を強めたことで「ねこ背 La Geperuda」のあだ名をもらう。1930年夏にヌリア登山鉄道の工事用機関車として、当地に到来。
 

しかし当時、国内の政治状況は悪化の一途をたどっており、それは路線の運営に直接の影響を及ぼした。とりわけ内戦(スペイン市民戦争)が続いた1936~39年には、断続的に運休を余儀なくされている。また、洪水による深刻な被害に見舞われたことも何度かあった。

1960年代になると、カタルーニャに観光ブームが到来する。それにつれて路線の経営状態も改善したが、長年、費用のかかる改修を先送りしてきたつけで、施設設備の劣化は着実に進行していた。1982年にまた水害に見舞われたのをきっかけに州政府が介入し、1984年2月に鉄道は州に買収された。

以来、路線の運営はカタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が行っている。この間に、線路と架線が全面的に改修され、新型電車も導入されて、鉄道はみごとに蘇った。

こうした経緯を反映して、営業車両も3世代に分かれる。第1世代は開業時の古典編成で、1930~31年SLM及びBBC製の6軸電気機関車E1~E4と、ボギー客車の組み合わせだ。リベス・エンリャスの2番線に留置されていた機関車E1と客車21号がそれで、特別列車に運用される。E2とE3は、リベス・ビラの鉄道展示館で見られる。E4は同駅の車庫にいて、線路の保守作業に今でも出動するという。

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機関車E1と旧型客車21号
リベス・エンリャスの2番線に留置
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旧型客車のサロンカー Coche salon
右写真は内部
 

第2世代は、州有化後の1985年に、第1世代を置き換える目的で導入された連接式電車だ。SLM及びBBC製のBeh 4/8形で、A5~A8の車番をもち、日常的に運用されている。2007~08年に改修を受けているので、内装は第3世代と遜色がない。

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第二世代のBeh 4/8形電車
 

その第3世代は2003年、モンセラットで登山鉄道が復活する際に同時調達されたスイス シュタッドラー・レール Stadler Rail のGTW 2/6形だ。部分低床の客車2両の間に短い駆動ユニット車が挟まった関節式と呼ばれるタイプで、車番A10とA11がそれに当たる(下注)。

*注 GTW 2/6形はモンセラット登山鉄道の輸送力増強のために移籍が予定されており、2020年6月にまずA10がモンセラットに移された。

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第三世代のGTW 2/6形電車
内部は部分低床

ヌリアはカトリックの聖地であるだけでなく、カタルーニャ人にとって自治獲得の歴史の故地としても重要だ。鉄道開通の1931年、教会棟にあるホテルの一室でカタルーニャ自治憲章の案が起草された。それは翌年、厳しい修正を受けながらも、スペイン国会で可決成立した。自治憲章はその後も何度か制定されるが、その最初のもので、起草地の名をとって「ヌリア憲章 Estatut de Núria」と呼ばれる。

ヨーロッパでも、有名な教会の周りには門前町があり、土産物屋やレストランが軒を並べているのが通例だ。ところがヌリアでは驚くことに、教会棟と若干の建物があるばかりで、拍子抜けするほど静かだ(下注)。これほど禁欲的な場所に、なぜ登山電車の経営が成り立つほどの客が次々と訪れるのか。その答えは、地域の歴史との深いかかわりを差し置いては考えられない。

*注 教会棟にはホテルやセルフサービスのレストランなどが入っている。周辺にも若干の宿泊施設やレストランがある。

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(左)教会棟(バシリカ)正面
(右)聖母像の発見地に建てられた聖ジルの庵 Ermita de Sant Gil
 

写真はすべて、2019年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
Vall de Núria https://www.valldenuria.cat/
 トップページ > Cremallera(ラック鉄道)
カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya http://rodalies.gencat.cat/
Youtube - Cremallera de Núria(旧線時代の全区間前面展望)
https://www.youtube.com/watch?v=kaOvg5FBZ7g

★本ブログ内の関連記事
 モンセラット登山鉄道 I-旧線時代
 オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 I

2016年8月25日 (木)

イタリアの鉄道地図 III-ウェブ版

EUの基本政策に従って、イタリアでも旧 国鉄 Ferrovie dello Stato, FS の鉄道事業の上下分離が実行された。移行段階を経て最終的に、インフラ管理は RFI(イタリア鉄道網 Rete Ferroviaria Italiana、2001年設立)が、列車運行はトレニタリア Trenitalia(2000年設立)が担う形に落ち着いた(下注1)。さらに旅客輸送についてはオープンアクセス化に伴い、2012年に NTV(新旅客輸送社 Nuovo Trasporto Viaggiatori)が深紅の高速列車イタロ italo を投入し、トレニタリアのフレッチャ(Freccia、矢の意)シリーズとサービスを競い合っている。

また、アルプスの北側諸国に比べて、地方路線に私鉄(下注2)が多いのも特徴だ。この稿では、こうしたイタリアの鉄道網を、ウェブサイトで提供されている鉄道地図(路線図)で見ていくことにしたい。

*注1 RFIもトレニタリアも、国が出資するFS(国有鉄道会社 Ferrovie dello Stato S.p.A.)の子会社。
*注2 私鉄といっても、FSや州、地方自治体が多く出資しており、公営鉄道の性格が強い。

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ミラノ中央駅に勢ぞろいした高速列車
手前からE414機関車(フレッチャビアンカ)、
AGV575(イタロ)、
ETR1000、ETR500(いずれもフレッチャロッサ)
海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供、2016年5月撮影

まず、RFIとその線路を使う鉄道会社のサイトから。

RFI
http://www.rfi.it/

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営業路線網 Rete in esercizio を示す全国図と州別図があり、それぞれインタラクティブマップ(対話式地図)とPDF版が用意されている。

・全国図

伊語版トップページ > Linee stazioni territorio > Istantanea sulla rete
または、英語版トップページ > The Italian rail network in figuresのバナー

路線は、幹線 Linee Fondamentali が青色、地方線 Linee Complementari(直訳は補完線)が水色、都市近郊線 Linee di Nodo が橙色で表される。全国の路線網を一覧できるのはいいが、駅の記載が少なすぎて実用的とはいえない。また、自社管理外の私鉄線は描かれていない。

・州別図

伊語版トップページ > Naviga nella rete RFI(RFI路線網へ移動)のクリッカブルマップで州を選択
または、伊語版トップページ > Linee stazioni territorio > 左メニューの Nelle regioni > クリッカブルマップかドロップダウンリストで州を選択

州(レジョーネ Regione)ごとに作成された路線図だ。さすがに全国図より詳しく、ベースマップでおよその地勢もわかる。路線は上記全国図の3分類に加えて、電化/非電化と複線/単線の組合せで区分している。記載する駅の数も決して十分ではないが、全国図よりは多い。

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RFI営業路線網図 トスカーナ州の一部
 

トレニタリア Trenitalia
http://www.viaggiatreno.it/

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上記URLは、トレニタリアの列車時刻表や発着状況を調べることができる「ヴィアッジャトレーノ Viaggiatreno(列車の旅の意)」というサイトだ。初期画面では、全国旅客路線網が現れる。残念ながら地図を拡大しても、多少駅名表記が増える程度で、情報量はさほど変わらない。なお、右上の言語選択では日本語を含む9か国語に対応している。左から伊(イタリア)、英、独、仏、西(スペイン)と来て、次の青・黄・赤の見慣れない三色旗はルーマニア語を意味している。イタリア語と同じラテン語系の言語なので、イタリアへの旅行者が多いのだろうか。

NTV(イタロ Italo)
http://www.italotreno.it/

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トップページ > Destinazioni e orari(英語版はDestinations & Timetable)
高速列車イタロのサイトには、簡単な系統図しかなかった。走行ルートが限られており、主要都市にしか停まらないから、これで用が足りるのだろう。

 

地方私鉄はどうだろうか。

フェッロヴィーエノルド(北部鉄道)Ferrovienord
http://www.ferrovienord.it/

トップページ > La rete(路線網)
または直接リンク http://www.ferrovienord.it/orari_e_news/mappa_interattiva.php

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ミラノMilanoとブレッシャ(ブレシア)Brescia から北へ路線を広げる主要私鉄で、ミラノ北駅 Milano Nord ~サロンノ Saronno 間21kmは堂々たる複々線が敷かれ、北イタリアの空の玄関口ミラノ・マルペンサ空港 Aeroporto di Milano-Malpensa へも乗り入れている。路線図はコーポレートカラーの黄緑を使って、運行系統を示すものだ。

 

チルクムヴェズヴィアーナ(ヴェズヴィオ環状鉄道)Circumvesuviana
http://www.eavsrl.it/

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ナポリからヘルクラネウム Herculaneum(伊語:エルコラーノ Ercolano)やポンペイ Pompei、ソレント Sorrentoなど著名観光地へのアクセスにもなっている歴史ある鉄道だが、現在はナポリ地下鉄などとともにヴォルトゥルノ公社 Ente Autonomo Volturno, EAV の一部門だ。残念ながらEAVのサイトには系統ごとの図しか見当たらないので、ウィキメディア収載の図を紹介しておこう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Circumvesuviana_maps.png

 

スド・エスト鉄道(南東鉄道)Ferrovie del Sud Est
https://www.fseonline.it/

トップページ > Orari e tariffe(時刻表と運賃)> / Download linee e orari
または直接リンク https://www.fseonline.it/downloadorari.aspx

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南部プッリャ(プーリア)Puglia 州の幹線網を補完する役割の鉄道で、長靴形をしたイタリア半島のかかとに当たるサレント半島に路線網を築いている。上記ページの Le nostre linee(自社線)に系統図(png画像)と路線網のPDFがある。系統図のほうが色分けされてわかりやすいが、拡大はできない。

 

都市交通では、代表的な3都市を見てみよう。いずれも地方鉄道に比べればしっかりしたデザインで、好感が持てる。

ミラノ Azienda Trasporti Milanesi, ATM
http://www.atm.it/

トップページ > Viaggia con noi > Schema Rete
または直接リンク http://www.atm.it/it/ViaggiaConNoi/Pagine/SchemaRete.aspx

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ページの最下段の、マウスオンすると "Scarica lo schema di rete(路線網図をダウンロード)" と出る画像からリンクしている。地図は、メトロ(地下鉄)の色を目立たせ、連絡するトレニタリアの列車系統は控えめに描くという、オーソドックスなデザインだ。

 

ローマ ATAC
http://www.atac.roma.it/

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トップページ > per te
またはトップページ > Linee e Mappe(路線と地図)

市街地や郊外のバス路線図、メトロ路線図など、充実したラインナップを提供していて見ごたえがある。

 

ナポリ Azienda Napoletana Mobilità, ANM
http://www.anm.it/

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トップページ > Metro(Mのマーク) > Linee metro e funicolari > 本文中の "rete metropolitana" のリンク

自社運営する2本のメトロと4本のケーブルカーだけでなく、トレニタリアやEAVなど他社線も分け隔てなく描いた総合路線図にしているところを特に評価したい。

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ANM市内路線図の一部
 

個人サイトでは、「ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版」で紹介したウェブ版鉄道地図帳である「Railways through Europe」のサイトに、イタリア編もある。
http://www.bueker.net/trainspotting/maps_italy.php

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非常に有益な旧版鉄道地図のコレクションも見つかる。

http://www.stagniweb.it/
トップページ > 左メニューの MAPPE STORICHE(歴史地図)> Carte ferroviarie(鉄道地図)

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ここには最も古いもので1876年、新しいもので1989年の、イタリアの鉄道網を描いたさまざまな図面が収集されている。各図の Apri la mappa ad alta risoluzione / Open full size map のリンクから拡大画像をダウンロードすれば、より詳細に路線網の構成や変遷を追うことができる。眺めているうちに、時の経つのを忘れてしまうだろう。

★本ブログ内の関連記事
 イタリアの鉄道地図 I-バイルシュタイン社
 イタリアの鉄道地図 II-シュヴェーアス+ヴァル社

 近隣諸国のウェブ版鉄道地図については、以下を参照。
 フランスの鉄道地図 III-ウェブ版
 フランスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 スイスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 オーストリアの鉄道地図 II-ウェブ版
 ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版

2016年8月13日 (土)

イタリアの鉄道地図 II-シュヴェーアス+ヴァル社

専門家やコアな鉄道愛好家向けに、魅力的な鉄道地図帳を刊行し続けてきたドイツのシュヴェーアス・ウント・ヴァル社 Schweers+Wall (S+W) が、ヨーロッパアルプスの南の路線網に初めて取り組んだのが、この「イタリア・スロベニア鉄道地図帳 Atlante ferroviario d'Italia e Slovenia / Eisenbahnatlas Italien und Slowenien」だ。192ページ、横23.5×縦27.5cmの上製本で、2010年1月に初版が刊行された。

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イタリア・スロベニア鉄道地図帳 表紙
 

鉄道地図には大別して、列車や路線のネットワークを表現するものと、路線のインフラ設備を詳述するものの2種類がある。S+W社の鉄道地図帳シリーズは後者に相当し、対象国内の全鉄道路線、全駅を含む主要鉄道施設が、正縮尺の美しいベースマップの上に表現されている。徹底的に調査され、細部まで描き込まれた鉄道インフラの最も詳しい地図帳として定評を得ている。

本書はタイトルのとおり、イタリアと東の隣国スロベニアの鉄道がテーマだ。イタリア半島にあるサンマリノとバチカン市国はもとより、歴史的に関連が深いイストラ半島(イタリア語ではイストリア Istria、大部分がクロアチア領)や地中海のマルタ島 Malta も範囲に入っている(下注1)。イタリアの鉄道地図は、長い間ボール M.G.Ball 氏の地図帳(下注2)以外に満足できるものがなかったので、S+W版の参入で一気に書棚が充実した印象がある。

*注1 現在、マルタ島には鉄道はないが、1931年まで1000mm軌間の鉄道がバレッタ Valetta から内陸に延びていた。
*注2 ボール鉄道地図帳については、「ヨーロッパの鉄道地図 I-ボール鉄道地図帳」参照。

さらに、旧ユーゴスラビア連邦の一部だったスロベニアまで範囲が広げられているのも嬉しい。もちろんこの国もボール地図帳のほかに詳しい鉄道地図はなかった。電化方式がイタリア在来線と同じ直流3000Vなので、今回一体的に取り扱ったものと推測するが、そもそもスロベニアの地はハプスブルク帝国領の時代が長い。最初に開通した鉄道は、帝国の首都ウィーンとアドリア海の港町トリエステ(現 イタリア領)を結んだ南部鉄道 Südbahn だ。その史実からすれば、オーストリア編のときに出ていてもよかったくらいだ。

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ローマ~ナポリ間カッシーノ Cassino 付近
(表紙の一部を拡大)
 

イタリア・スロベニア編のページ構成だが、地図のセクションは全部で157ページある。縮尺1:300,000で描いた全国区分図のほかに、路線網が錯綜する主要都市とその周辺について1:100,000、一部は1:50,000の拡大図がかなりの数挿入されている。余白にはそのページの図に記載された私鉄の社名、軌間、電化方式、開業年/廃止年のメモがつく。地図ページに続いては、駅その他の鉄道施設の名称索引が24ページある。

内容については、まず本書ドイツ語序文の該当箇所を引用させてもらおう。

「路線は、各図でインフラの所有権と関係づけて描かれている。その際、記号や配色はドイツ、スイス、オーストリアの地図帳からおおむね引き継がれている。

RFI(下注)の非電化線は黒で、私鉄はオレンジで描かれる。電化線は、適用される架線電圧方式に応じて、異なる色で記される。直流3000VのRFI国鉄路線網の路線は青、私鉄は明るい青で描かれ、交流25kVの路線(高速線)は緑で描かれる。それ以外の電圧、例えば1500Vまたは1650Vは紫で示される。引込線は茶色の破線、狭軌鉄道や路面軌道は独自の記号をもっている。イタリアに多数ある私鉄は、地図の縁にあるテキスト欄で簡潔に説明している。略号は地図で使用される略号を示している。」

*注 RFI(イタリア鉄道網 Rete Ferroviaria Italiana)は、旧 国鉄の線路等インフラ管理を担う企業。

イタリアの在来線の電化方式は直流3000Vなので、図を支配するのは青色(印刷色はウルトラマリン=紫味の強い青)だ。交流15kV 16.7Hzの赤色が目立つドイツ語圏の国々とは違って、落ち着いた雰囲気を醸し出す。イタリアと言えば、鮮やかな赤をまとう高速列車が目に浮かぶが、高速線の交流25kV 50Hz(下注)も緑色で、クールなイメージは崩れない。

*注 最初に完成したフィレンツェ~ローマ間の高速線(直流3000V)を除く。

その高速線は、本書の時点(2009年秋)ですでにトリノからミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマを経てナポリまで延び、さらにミラノから東へ、ヴェネツィアの手前までが予定線(下注)として描かれている。在来線でも、山が地中海に迫るジェノヴァ Genova~ヴェンティミーリア Ventimiglia 間やアドリア海岸のペスカーラ Pescara~フォッジャ Foggia 間、アルプスの谷間のウディーネ Udine~タルヴィジオ Tarvisio 間やブレンネロ/ブレンナー Brennero/Brenner~ボルツァーノ/ボーツェン Bolzano/Bozen 間などで、長大トンネルを含む大規模な別線建設が行われていることがわかる。

*注 2016年現在、すでに一部区間が供用中。

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ミラノ拡大図
(裏表紙の一部を拡大)
 

序文はさらに続く。

「廃止線は灰色で描かれる。インフラはまだ一部残っているがもはや運行できない路線(例えばポイントの欠如)も廃止線として扱っている。廃止線では、すべての旧 鉄道施設が図面に表されているわけではなく、キロ程も同様である。さらに言えば灰色の路線記号は、かつて線路がどこを通っていて、鉄道網とどのように接していたかだけを示そうとするものである。鉄道地図帳の重点は、現在運行中の路線網に置かれている。したがって視認性を優先するため、主要都市におけるかつての接続カーブまたは線路位置の再現は断念した。」

表示は完璧なものではないとは言うものの、今は無き廃線のルートや廃駅の位置がわかるのも、この地図帳の大きな特色だ。灰色で示される廃止線は、ほぼどのページにも見つかる。中には極端な蛇行を繰り返し、ときにはささやかなスパイラルまで構えて高みをめざすものがある(下注)。筆者にとって、その軌跡をさらに縮尺の大きい官製地形図や空中写真で確かめるのは、大いなる楽しみの一つだ。

*注 その一例を本ブログ「サンマリノへ行く鉄道」で紹介している。

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凡例の一部
 

このように実際に列車が走れる線路だけでなく、建設中や計画中の路線を拾い上げ、廃止線が自転車道に転換されればその記号まで付して、鉄道網の過去・現在・未来を一つの図面に示そうとする。この実直で緻密で徹底した編集方針は、類書の遠く及ばないところだ。なにぶんドイツの刊行物のため、序文と解説はドイツ語とイタリア語のみだが、凡例(記号一覧)には独・伊・仏語とともに英語表記があり、読図に大きな支障はない。イタリアの鉄道路線について調べるつもりなら、まず座右に置くべき書物の一つだろう。

なお、刊行から時間が経ち、初版の入手はやや難しくなっているようだ。古書店に当たるか、改訂版の刊行を待つ必要があるかもしれない。

■参考サイト
シュヴェーアス・ウント・ヴァル社 http://www.schweers-wall.de/

★本ブログ内の関連記事
 イタリアの鉄道地図 I-バイルシュタイン社

シュヴェーアス・ウント・ヴァル社の鉄道地図帳については、以下も参照。
 ヨーロッパの鉄道地図 VI-シュヴェーアス+ヴァル社
 ドイツの鉄道地図 III-シュヴェーアス+ヴァル社
 スイスの鉄道地図 III-シュヴェーアス+ヴァル社
 オーストリアの鉄道地図 I
 フランスの鉄道地図 VI-シュヴェーアス+ヴァル社
 ギリシャの鉄道地図-シュヴェーアス+ヴァル社

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