東ヨーロッパの鉄道

2020年9月 6日 (日)

ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内

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ヴィラーグヴェルジ駅での列車交換
 

登山鉄道(下注)の終点から左のほうへ3~4分も歩くと、いささか無骨な石張りの建物が現れる。壁に箱文字で、GYERMEKVASÚT(ジェルメクヴァシュート、子供鉄道)とハンガリー語で大書してあるものの、他に駅であることを示す手がかりは皆無だ。一人のときは一抹の不安を覚えるが、くたびれたガラス扉から覗けば、出札窓口があるのが見えるだろう。

*注 登山鉄道については「ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ」参照。

子供鉄道の起点駅セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)は、標高465mの高みにある。ただし、地形的にはほぼ平坦で、山上らしさはあまり感じられない。駅前は公園なのだが、レストランとイベント施設が1棟ずつあるだけで、他に商店も住宅もないもの寂しい場所だ。

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セーチェニ・ヘジ駅舎
(左)正面 (右)ホーム側
 

駅舎に入ると、二つの出札口のうち一つが開いていた。子供鉄道では市内交通のチケットが一切使えないから、ここで切符を買っておかなければならない。運賃は全区間同額で、乗車券には1回券、2回券(2回乗車可、但し当日限り有効)、家族向けの1日券などの種類がある。

2020年8月現在の価格は、1回券が800フォリント(1フォリント0.35円として280円)、2回券が1400フォリント(同490円)、家族1日券が4000フォリント(同1400円)だ。支払い方法はフォリントの現金のみで、クレジットカードなどは扱っていない。現金の収受と集計もまた子どもたちの仕事であり、社会教育の一環だからだ。

ホール壁面には、おそらく卒団記念に撮ったのだろう子供鉄道員の集合写真が、年代順にずらりと掲げてある。写真はグループ単位で、まだあどけなさを残す十数人のメンバーの後ろに、中等学校生(高校生)か大学生とおぼしき3人のリーダーたちも写っている。

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駅ホール、がらんとした空間に出札口が二つ
 

駅舎を抜けると青空の下に、ブロックで線路と区切っただけの砂利敷ホームが広がっていた。一応2面2線の格好だが、どちらに降りようと問題なさそうだ。駅舎との間には腰丈の鉄柵があり、列車が到着したときだけ扉が開放される。ホームの端には背の高い腕木信号機が2本立っていて、信号扱所に詰めた子供鉄道員の転轍操作に連動している。

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2本並んだ腕木信号機
 

そのうち駅務室から赤い制帽を被った少女たちが出てきたと思ったら、ヒューヴェシュヴェルジの方向から列車が現れた。Mk45形ディーゼル機関車を先頭に客車3両の編成で、中央の1両は側壁のないオープン客車だ。

右手をかざす少女鉄道員の敬礼に迎えられ、列車は駅舎から遠い側のホームに入線した。停車するや、青帽、青ネクタイの車掌とおぼしき少年(下注)が真っ先に降りてきて、鉄柵の扉を開ける。子犬を連れた乗客の集団がそれに続く。

*注 そのときは車掌だと思ったのだが、正確には彼は検札係だった。子供鉄道員の仕事については前回「ブダペスト子供鉄道 I-概要」で触れている。

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列車の到着
 

まもなく、折返し運転に備えて機関車を逆側に付け替える機回し作業が始まった。もちろんこれは大人の仕事だ。反射チョッキを着た車掌が添乗し、機関車を誘導する。手前の線路を通り、腕木信号機のさらに先まで行き、客車の前に戻ってきた。連結作業も車掌が行う。

ホームでは、次の乗客たちが客車に乗り込んでいく。今日はよく晴れて、まだ6月中旬というのに気温は34度に達している。こんな日は風通しのいいオープン車両の人気が高い。

赤帽の少女が勢いよく笛を吹き、柄の先に円のついた標識を前に差し出した。列車に乗り組んだ少年鉄道員たちが、腕を外に伸ばして異常なしを告げる。それを確認した少女は標識を運転士に向け直し、上げ下げした。これが発車の合図らしく、列車はゆっくりと動き出した。

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(左)機回し作業
(右)出発の合図
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オープン客車
ヒューヴェシュヴェルジにて
 
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子供鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

構内を出てしばらくは直線路だ。ベンチシートで風に吹かれていると、さっそく車掌(検札係)の少年が一人で検札に回ってきた。揺れる車内で切符を受け取り、鋏を入れて返してくれる。切符を所持していない乗客に対しては運賃回収に伴う現金の授受があるし、乗客の中には何やら質問をする人がいて、それにも的確な返事をしなければならない。まさに接客の最前線で、しっかりした子供でないと務まらないだろうなと思う。

最初の停車はノルマファ Normafa mh. だ。駅名の後についている「mh.」は megállóhely(メガーローヘイ、停留所)の略で、棒線かつ無人の簡易な乗降場をいう。ノルマファは山上の公園で、冬はスキーが楽しめる市民の憩いの場所だが、麓から直行のバス路線があるので、子供鉄道の乗降はほとんどない。

このあと、線路は左へカーブしていく。車窓が森に閉ざされたところで、チレベールツ Csillebérc 駅に着く。社会主義時代、ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市の意)と称していた駅だ。隣接地にある休暇・青少年センター Szabadidõ- és Ifjúsági Központ が、当時のピオネールキャンプで、駅舎もそれを意識してか、屋根に時計塔を載せ、妻面にはピオネールの活動が浮き彫りされている。列車は左の線路に入り、ハンガリーでは珍しく左側通行であることに気づいた。

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(左)ノルマファ停留所
(右)チレベールツ駅
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(左)屋根に時計塔、妻面にピオネールの絵
(右)「ピオネールは木を植える」?
 

線路はここから一方的な下り坂になる。花の谷を意味するヴィラーグヴェルジ Virágvölgy は、最初に開通した区間(1948年)の終点だ。ここで、列車交換があった。子供鉄道の駅(アーロマーシュ állomás)には必ず待避線が設けられ、列車交換が可能だ。そして大人の駅長(?)と、何人かの子ども駅員の姿がある。

例の円形標識を持っているのが赤帽をかぶった年長者で、列車を受取り、送り出す役(記録主任)だ。その横には見習いだろうか、青帽の年少者がついている。さらに構内終端には、転轍てこを操作する別の少年がいる。

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ヴィラーグヴェルジ駅で列車交換
(帰路写す)
 

ヴィラーグヴェルジを出て少し行くと、張り出し尾根を横断する急カーブにさしかかった。下り勾配の途中で、列車はレールをきしませながら、ゆっくりと回っていく。

次のヤーノシュ・ヘジ János-hegy(ヤーノシュ山の意)は、深い森に埋もれた小さな駅だ。セーチェニ・ヘジ方に鉄道員詰所の建物はあるが、旅客施設としては、線路際に並ぶ数脚のベンチがすべてだ。駅名が示すようにヤーノシュ山頂への最寄り駅で、ハイキング客が利用する。

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(左)ヤーノシュ・ヘジ駅、奥に詰所がある
(右)駅からの登山道
 

標高527mのヤーノシュ山は、ブダペスト市域で最も高い地点になる。山頂には、王国時代の1911年に建てられた石造のエルジェーベト展望台 Erzsébet-kilátó(下注)がそびえていて、上層のテラスからは、ドナウ川とともに、ブダペスト市街地の王宮の丘や国会議事堂が遠望できる。

*注 展望台の名は、1882年にこの地を訪れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 Franz Joseph I の妻エリーザベト Elisabeth にちなむ。

後で山頂まで歩いてみたのだが、さほど険しくもなく、森の中を行く気持ちのいい山道だった。所要時間は、駅(標高408m)からチェアリフト Libegő の山上駅前(同 約480m)までが15~20分、そこから山頂まで階段道で5~6分というところだ。帰路は、子供鉄道に戻らなくても、チェアリフトで山麓のズグリゲト Zugliget へ降り、路線バス(下注)に乗継ぐ短絡ルートがある。

*注 バスは291番西駅 Nyugati pályaudvar 行き。セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér 方面へは、途中のブダジェンジェ Budagyöngye でトラムに乗り換え。

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山頂に建つエルジェーベト展望台
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展望台からブダペスト中心部を遠望
左にドナウ川に面した国会議事堂
中央~右に王宮の丘が続く
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山上からズグリゲトへ降りるチェアリフト
(左)山上駅
(右)市街を俯瞰しながら降りる
 

話を鉄道に戻そう。ヤーノシュ・ヘジ駅から下っていくと、ヴァダシュパルク停留所 Vadaspark mh. を通過する。2004年に開設され、2017年までは夏季と週末に停車していたが、現在は事前申請があった場合にのみ停車するリクエストストップだ。

この後、ブダケシ通りをオーバークロスして、線路は山の東側斜面に移る。セープユハースネー Szépjuhászné は、第2区間の終点だったところだ。駅舎はそれらしく規模の大きな造りで、軽食のテイクアウトがある。

セープユハースネーを出ると、線路は大ハールシュ山 Nagy-Hárs-hegy、小ハールシュ山 Kis-Hárs-hegy の山腹を大きく迂回していくが、その間に、ブダペスト市街が見える貴重な場所を通過する。子供鉄道の沿線で、展望が開けるのはほぼここだけだ。時間にすれば何十秒という短さなので、右側の車窓に注目していたい。

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(左)行路は森林鉄道さながら
(右)セープユハースネー駅(帰路写す)
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車窓からブダペスト市街の展望
 

ハールシュとはセイヨウシナノキ、ドイツ語でリンデンバウム Lindenbaum(菩提樹)のことだ。山の名を戴くハールシュ・ヘジ Hárs-hegy が、最後の中間駅となる。地図を見ると、この後、高度を下げるための極端な折り返しがある。右側にこれから通る線路が俯瞰できそうに思うが、実際は森に隠され、いっさい見ることができなかった。列車は、長さ198m、路線唯一のトンネルで、進む方向を180度変える。

道路をまたぐ高架橋を渡ると、まもなく終点のヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy(下注)だ。ここでも子ども駅員たちが列車を迎えてくれる。

*注 ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy(冷えた谷、涼しい谷の意)という地名は、ドイツ語のキューレンタール Kühlental に由来し、おそらく日陰になる谷地形(したがって耕地には不適)を表している。

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(左)ハールシュ・ヘジ駅
(右)路線唯一のトンネルへ(帰路写す)
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ヒューヴェシュヴェルジ駅で発車を待つ列車
 

ヒューヴェシュヴェルジ駅は、起点セーチェニ・ヘジと比較すると、施設配置がかなり異なる。平面構造は1面2線で、2本の線路が島式ホームをはさむ形だが、そのホーム上に信号扱所があるのだ。駅は山裾の緩斜面に位置しており、線路の片側は盛り土になっている。それで他の駅のように、線路の側面に信号扱所を設置できないのが理由だろう。

さらにその続きに出札窓口、トイレ、そして子供鉄道博物館 Gyermekvasút Múzeum と、旅客関係の機能がホーム上に集約されている。かつての駅舎は、一段低い駅前広場に面して残っているが、もはや単なる通路でしかなく、建物の3/4は「キシュヴァシュート Kisvasút(軽便鉄道)」という名のピザレストランの営業エリアになっていた。

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(左)元の駅舎にはピザレストランが入居
(右)駅舎内は通路化され、奥にホームへ上がる階段がある
 

子供鉄道博物館というのは、ピオネール時代からの写真や備品などさまざまな資料を保存展示する資料館だ。何分ハンガリー語なので内容を読み取ることは難しいが、乗車券を手作りしていた古い印刷機や、閉塞器、転轍てこ、それに子供鉄道員の制服などの実物も置かれている。鉄道のOB、OGたちには懐かしいものばかりだろう。博物館は週末と5~8月の毎日開館している。入場料100フォリント。

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子供鉄道博物館
(左)入口 (右)内部
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(左)手前は乗車券印刷機
(右)鉄道運行の資料も
 

路線建設の順序から言えば終点に違いないのだが、子供鉄道の運行拠点はこのヒューヴェシュヴェルジだ。なぜなら、ホームの数百m先に車両基地が置かれ、整備はそこで行われる。また、駅前広場の北側に鉄道の本部施設があり、子どもたちはそこで最初のコースを学ぶ。さらに、市街地からトラム1本でアクセスできるため、鉄道の利用者もこの駅が最も多い。それは、駅でレストランが営業しているという事実からもわかるだろう。

さて、駅前広場を左に取ると、とんがり屋根を連ねた階段があり、トラム(路面電車)のターミナルに降りられる。ヒューヴェシュヴェルジは市街地から上ってくるトラム路線の終点で、郊外バスとの乗り継ぎ地にもなっている。同じような古風なスタイルの木造駅舎や休憩所が残り、おとぎの国に迷い込んだような雰囲気だ。

トラムは数系統来ているが、どれに乗ってもブダの交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér)と南駅 Déli pályaudvar を経由する。子供鉄道がこれからも子供たちの憧れの訓練施設であり続けることを願いながら、市街へ戻るとしよう。

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ヒューヴェシュヴェルジのトラムターミナル
(左)子供鉄道駅へ上がる屋根付き階段
(右)古風な待合所
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バスとトラムを平面で乗り継ぎ
 

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

★本ブログ内の関連記事
 ブダペスト子供鉄道 I-概要
 ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

2020年8月31日 (月)

ブダペスト子供鉄道 I-概要

ブダペスト子供鉄道 Budapesti Gyermekvasút (Budapest Children's Railway)
(正式名:ハンガリー国有鉄道セーチェニ・ヘジ子供鉄道 MÁV Zrt. Széchenyi-hegyi Gyermekvasút)

セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy ~ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 間 11.2km
軌間760mm、非電化
1948~1950年開通

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到着する列車を迎える子供鉄道員
セーチェニ・ヘジ駅にて

「世界最長の子供鉄道線」。ヒューヴェシュヴェルジ駅のホームにある駅舎の壁に、2015年にギネス世界記録に認定されたことを示すプレートが掲げてある。いわく、「最長の子供鉄道線は、ハンガリー、ブダペストのヒューヴェシュヴェルジ駅とセーチェニ・ヘジ駅の間を走っている長さ11.7018km(7.27マイル)の狭軌子供鉄道である。鉄道は、最初の3.2km(2マイル)区間が1948年7月31日に開通して以来、運行を続けてきた。」

*注 11.7018kmは車両基地終端までの路線長で、営業区間は11.2km。

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ギネス世界記録認定のプレート
 

子供鉄道と聞くと、遊園地で子どもたちを楽しませている遊具のミニ列車を想像してしまう。確かに狭軌線で公園などに敷かれていることが多いため、どちらも見た目は似ている。しかし、ここでいう子供鉄道は、ソ連を中心とした旧社会主義諸国で社会教育組織として運営されていた鉄道のことだ。ピオネール(少年団)活動の一翼を担っており、ピオネール鉄道とも呼ばれていた(下注)。

*注 ロシア語のピオネール пионе́р は英語の Pioneer に相当する。ソ連圏の子供鉄道については、ウィキペディア日本語版「子供鉄道」が詳しい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/子供鉄道

社会主義政権の終焉後、こうした小鉄道は廃止されたり、遊園地の乗り物に転換されたりしたが、子どもを構成員とする組織体により運行されている鉄道路線も、いまだに存在する。その中でおそらく最大のものが、ブダペスト西郊の山中を走るこの子供鉄道だ。

ここでは、線路が公園内を周回するのではなく、公共路線(登山鉄道とトラム)の2つの終点を連絡する形で延びている。使用されている車両も一般の狭軌鉄道と何ら変わらない。ところが駅や車内では、大人に代わって制服制帽姿の子どもたちの、きびきびと鉄道員の作業をこなす姿がある。微笑ましくも、物見遊山気分で乗った者としては襟を正したくなる光景だ。

興味深いブダペストの子供鉄道はどのような過程を経て形成され、実際どのように運営されているのだろうか。

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発車準備完了

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この種の鉄道は、旧 ソ連で1932年または1933年に登場したという。第二次世界大戦後、東欧諸国でも、それに倣ったものが各地に設立されていった。鉄道としてはいずれも狭軌で、普通鉄道網とは切り離され、環状線であることが多い。ブダペストでは、1947年に建設計画がスタートしている。当時、政治体制はまだ議員内閣制だったが、第一党となった共産党の主導で政策が遂行されていた(下注)。

*注 ハンガリーは1946年に王政廃止、議院内閣制に移行。1949年に一党独裁の社会主義体制が始まる。

ソ連の軽便軌間は750mmが標準だが、ブダペストでは760mmのいわゆるボスニア軌間とされた。これは旧 ハプスブルク帝国の領内で普及した軌間で、ハンガリーでも当時はまだ地方の軽便線や森林鉄道に多数残っており、車両の融通が可能だった。

建設地についてはいくつかの案があった。帝国時代の離宮がある東郊のゲデレー Gödöllő や、ドナウの中州マルギット島 Margit-sziget なども候補に挙がる中で、最終的に西郊のブダ山地 Buda-hegység が選ばれた。既存の登山鉄道でアクセスできることと、沿線にピオネールのキャンプ地を設ける計画があったからだ。

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子供鉄道(緑)と隣接する路線の位置関係
 

建設工事は1948年4月に、セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy のゴルフ場跡地で始まった。資材や車両が登山鉄道で運び上げられ、専門の建設業者とともに、市民や学生もボランティアで作業に加わった。また、ハンガリー国鉄 MÁV の鉄道員が、運行に備えて技術指導に当たった。

こうして同年7月には早くも最初の3km区間が完成している。終点は現在のヴィラーグヴェルジ Virágvölgy 駅だが、当初はエレーレ Előre と命名された。これは「前進」を意味し、ピオネールたちが交わす挨拶言葉だった。

駅名どおりに線路の前進は続き、1949年6月にセープユハースネー Szépjuhászné(当初の名はシャーグヴァーリリゲト Ságváriliget)までの第2区間、そして1950年8月20日にヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy までの最終区間が完成して、全通の記念式典が盛大に催された。

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ヒューベシュヴェルジ駅での全線開通(引渡し)式
(1950年)
Photo by FORTEPAN / UVATERV at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

初期に使用された車両の一つが、ミシュコルツ Miskolc 近郊のリラフュレド森林鉄道 Lillafüredi Állami Erdei Vasút (LÁEV) から運ばれてきたアバモト ABamot と呼ばれる1929年製の気動車2編成(1号、2号)だ。後にリラフュレドに戻され、1号は廃車になったが、残る2号は1991年に改修を受けて子供鉄道に復帰し、今もノスタルジック・トレイン(懐古列車)として登場する。

1949年の第2区間開通に際しては、狭軌用の蒸気機関車490形が3両導入された。森林地帯を走るため、うち2両は火の粉を出さない油焚きに改修されていたが、しばしば技術的な不具合が発生し、運用はごく短期間で終了した。

残る1両、1942年製の490.039は、長い静態保存を経て全面改修を受け、2007年6月から特別列車として復活している。もとバラトンフェニヴェシュ軽便線 Balatonfenyvesi Gazdasági Vasút の490.056(下写真右)も2000年から子供鉄道に在籍しているが、現在は運用から外れている。

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(左)連接式気動車アバモト(2014年)
Photo by Petranyigergo88 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)490形蒸気機関車(2008年)
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この鉄道の線路条件は、案外過酷だ。起終点間の標高差が235mあり、平均勾配25~30‰、最大勾配は32‰にもなる(下注)。そのため不調をきたす動力車も少なくなかったが、1973年にルーマニア製のディーゼル機関車Mk45形6両(2001~2006号)が導入されて、ようやく運用体制が安定した。この機関車群は2010年代に改修を受けて、今も主力車両として稼働している。

*注 起点から3.0kmのヴィラーグヴェルジまではほぼ平坦で、勾配は後の区間(8.1km)に集中している。

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現在の主力機関車 Mk45形
 

鉄道で働くのは、10歳(4年生)から14歳(8年生、下注)の子どもたちだ。学業優秀かつ健康な子どもだけが応募できたが、それでも入団は狭き門で、例えば1970年代には採用数の10倍の応募者があったという。

*注 ハンガリーの一般的な教育制度では、初等教育8年、中等教育4年。

彼らは交通や沿線地域や会計の知識を学び、実技指導を受け、試験に合格して現場に出る。年齢の違う子どもや大人たちに混じって鉄道員の業務を実践し、その中で責任感やコミュニケーション能力や、日々起きるさまざまな課題を解決する力を身につける。こうして精神的にも成長を遂げ、卒団後はエリートへの階段を上っていった。

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セーチェニ・ヘジ駅のホールに残る
ピオネール活動のモザイク画
 

しかし、40年間続いたハンガリーの社会主義体制は、1989年に終焉を迎える。これにより、ピオネール活動の実践の場であった鉄道は存立基盤を失った。所管はピオネール協会 Úttörőszövetség から、運行を担っていた国鉄 MÁV に移されることになり、それに伴い、「ピオネール鉄道 Úttörővasút(ウーテレーヴァシュート)」の呼称も、「子供鉄道 Gyermekvasút(ジェルメクヴァシュート)」に変更された。

鉄道名だけにとどまらない。子どもたちが首に巻いていたピオネールの象徴の赤いタイは青色に代わり、機関車の正面に掲げられていた赤い星は撤去された。駅名も、ピオネールに関連するものは改められた(下注)。さらに抜本的な改革として、民営化や商業路線化も検討されたが、これは実現しなかった。

*注 改称された駅名は次のとおり。
 エレーレ Előre(前進)→ヴィラーグヴェルジ Virágvölgy(花の谷)、
 ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市)→チレベールツ Csillebérc(地名)、
 シャーグヴァーリリゲト Ságváriliget(戦前の共産主義活動家エンドレ・シャーグヴァーリ Endre Ságvári を記念する公園)→セープユハースネー Szépjuhászné(美しき羊飼い、近傍の旧 修道院の名)

設立背景はともかく、子供鉄道の教育的意義は市民に広く共有されており、廃止という選択肢はなかった。とはいえ、MÁVは今や一鉄道会社であり、こうした社会教育活動に資金を投じ続けることは難しい。そこで活動の財政的安定を図るために、1995年にMÁVとブダペスト市により、子供鉄道員財団 Gyermekvasutasokért Alapítvány が設立された。

その後数年間は、MÁVが鉄道を所有・運行し、財団が社会教育活動の部分を運営するという分担体制がとられた。しかし2002年からはMÁVの一元体制に戻り、財団の役割は資金面の支援に特化されている。ブダペスト子供鉄道は、正式名を「(国鉄)セーチェニ・ヘジ子供鉄道 Széchenyi-hegyi Gyermekvasút」というが、これは子供鉄道を運営するMÁVの部門名でもある。

思想的な拠りどころをなくした今、子どもたちはどのようにしてここに集められ、どんな活動をしているのだろうか。

子供鉄道のサイトには、団員の応募資格や業務内容についての詳しい案内が記されている(下注)。それによると、500人近くの子どもたちが加入し、15のグループに分かれて活動している。グループのメンバーは常に同じスケジュールで行動し、共通の任務を引き受け、さまざまな余暇プログラムにも一緒に参加する。

*注 現行サイトでは鉄道の歴史や履修課程などの詳細が省かれているため、以下は旧サイトの記述に拠った。

グループを率いるのは、子供鉄道のOB、OGである中等学校生(高校生)や大学生の指導員たちだ。さらに現場では、大人の鉄道従業員が子どもたちの仕事を監督している。彼らもまたOB、OGであることが多く、活動のよき理解者、支援者になっていることだろう。

団員の応募資格があるのは4年生から6年生までで、評定平均が4.0以上なければならない。応募書類には、保護者とともに、通学している学校の校長と担任の同意書、さらにかかりつけの医師による検査結果を添付する必要がある。

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セーチェニ・ヘジ駅の壁面には
子供鉄道員コース Gyermekvasutas Tanfolyam の記念写真が並ぶ
 

コースは2月と10月の第1土曜から始まる。まず彼らは、鉄道業務に関する基礎知識を学ぶ。運行と安全にかかわるもののほか、乗客に案内する沿線の知識、運賃出納のために商業的な知識も必要だ。授業は、金曜午後と土曜午前に理論、土曜の午後に実技がある。そして4か月のコースの最後に試験を受ける。

現場では、リーダーシップ訓練を受けた年長者がトレーナーとなって新入団員を指導する。業務は細分化されていて、駅では、
・ポイント(転轍機)を扱う信号係 váltókezelő
・出札で乗車券を売り日計を行う出納係 pénztáros
・ホームの案内放送を担う放送係 Hangosbemondó など。
列車内では、
・検札、乗車券の発行、乗客への案内を行う検札係 Jegyvizsgáló、
・最後尾の車両でハンドブレーキを扱い、後進時の安全走行を監視する制動係 zárfékező 
などがある。

さらに上級職として、駅で列車の受け取りと送り出しを行い、運行日誌を管理する助役相当の記録主任 Naplózó forgalmi szolgálattevő(赤い帽子が目印)、その上に業務を統括する駅長相当の運行主任 Rendelkező forgalmi szolgálattevő が置かれている(下注)。

*注 日本語の職名は意訳であり、正確さを欠く可能性がある。

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子供鉄道員の仕事ぶり
(左)接客の最前線、検札係は各車両に一人
(右)列車を送り出す記録主任
 

もちろん大人の鉄道職員もいる。駅長、助役(乗車券検査役 vezető jegyvizsgálók)、それから列車の車掌、機関士、機関助士(蒸機の場合)などで、彼らはMÁVの運行規則に則り、路線の安全運行を担っている。

子どもたちには鉄道の実務だけでなく、遠足、運動会、そして2週間のヒューヴェシュヴェルジ・キャンプなどさまざまな行事が用意されており、その中で学年を超えた相互交流を深めていく。

8年生が終わると同時に、子供鉄道の活動も修了となる。8月の卒団式当日、彼らはいつものように制服を着て、すべての着任場所を回る。送別行事を共にし、最後に、世話になった鉄道職員や指導員たちに別れを告げる。

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ヒューヴェシュヴェルジ駅の通路に描かれた壁画

同種の鉄道は夏だけ運行するものが多い中、ブダペスト子供鉄道は9月~4月の月曜を除き、年間を通して運行されており、活動規模の大きさがわかる。ダイヤは季節や平日/休日によって変わるが、日中おおむね1時間に1~2本の設定だ。許容速度が20km/hとスローペースのため、全線を乗り通すには40~45分程度かかる。

起点のセーチェニ・ヘジ駅へは、登山鉄道(コグ鉄道)の駅から歩いて数分、終点のヒューヴェシュヴェルジ駅も、トラム(路面電車)のターミナルが至近距離にある。そのため、登山鉄道→子供鉄道→トラム、またはその逆の三角コースで、ブダ山地の半日遠足を楽しむ旅行者も多い。子供鉄道は、子どもたちの社会教育の場であるとともに、こうした形でブダペストの観光振興にも貢献している。

次回は、その子どもたちが運行する列車に乗って、ルートをたどってみよう。

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

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2020年8月23日 (日)

ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

ブダペスト登山鉄道(ブダペスト・コグ鉄道)
Budapesti Fogaskerekű Vasút (Budapest Cog-wheel Railway)

ヴァーロシュマヨル Városmajor ~セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(下注)間 3.7km
軌間1435mm、直流1500V電化、シュトループ式ラック鉄道、最急勾配110‰

1874年 ヴァーロシュマヨル~シュヴァーブへジ Svábhegy 間、リッゲンバッハ式蒸気鉄道として開通
1890年 シュヴァーブへジ~セーチェニ・へジ間延伸
1929年 直流550V電化
1973年 直流1500Vに昇圧、シュトループ式に置換

*注 正式駅名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút。

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シュヴァーブへジ駅に到着する登山鉄道の電車
 

ハンガリーの首都ブダペストにあるラック登山鉄道は、ヨーロッパで3番目の開業という古い歴史を誇る。まずはその成立過程から見ていきたい。

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ブダペストは、ドナウ川をはさんで西側のブダ Buda、オーブダ Óbuda と、東側のペスト(ぺシュト)Pest が1873年11月に合併して誕生した都市だ。その旧体制最後の年に、ブダ市と、ニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が代表を務めるスイスの国際山岳鉄道会社 Internationale Gesellschaft für Bergbahnen (BGfB) との間で、鉄道建設と運行に関する契約が結ばれた。

それはラックレールにピニオン(コグ、歯車)を噛ませて急勾配を上下する鉄道で、ヨーロッパでは、2年前の1871年5月にスイスのリギ山 Rigi で実用化されたばかりだった。敷設の目的は、ブダ市街からシュヴァーブへジ Svábhegy への新たな交通手段の確立だ。町の西に横たわるこの丘陵地は、当時、富裕層の別荘地や行楽地として人気が高まっていた。

シュヴァーブへジは、ドイツ語でシュヴァーベンベルク Schwabenberg(シュヴァーベン山)と呼ばれる。1686年のオスマントルコからブダを奪還した戦いで、神聖同盟の一員としてドイツのシュヴァーベン Schwaben 地方から遠征してきた軍隊が、ここに砲台を築いた(下注)ことに由来するという。

*注 実際に砲台が築かれたのは、山腹の、現在キシュ・シュヴァーブ・ヘジ Kis-Sváb-hegy(小シュヴァーベン山)と呼ばれている小山。

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セーチェニ・へジに向かう急坂
 

すでに1868年以来、ドナウ河畔のラーンヒード Lánchíd(鎖橋)からヤーノシュ山麓ズグリゲト Zugliget まで、ブダ路面鉄道会社 Budai Közúti Vaspálya Társaság が馬車軌道を運行していた。新しい鉄道はそのルート上の、当時エッケ・ホモ広場 Ecce homo tér と呼ばれていた現 ヴァーロシュマヨル Városmajor を起点に選んだ。列車はそこから、浅い谷に沿って斜面を2.9km上り、張り出し尾根の肩になった標高394mの地点まで行く。契約では、夏の間1日2回、旅客輸送を提供するという条件が付されていた。

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登山鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

1873年7月に認可が下り、すぐに工事が始まった。線路は単線で、中間点(現 エルデイ・イシュコラ Erdei iskola 停留所)に列車交換のための待避線が設けられた。線路の分岐部には遷車台(トラバーサー)が設置された。

ターミナル駅には、スイス風の装飾を施した2階建、ハーフティンバーの駅舎が建てられて、登山鉄道の雰囲気を醸し出した。運行車両として当初、スイスSLM社から120馬力の2軸蒸気機関車3両と、オーストリアのヘルナルス車両製造所 Hernalser Waggonfabrik からスラムドアのオープン客車10両、無蓋貨車3両が納入された(下注)。

*注 翌年、機関車1両と客車2両を増備。

「ブダペスト登山鉄道 Budapesti Fogaskerekű Vasút」は、こうして統合ブダペスト市誕生後の1874年6月24日に無事、開通式を迎えることができた。ちなみにリッゲンバッハは、ウィーン北郊のカーレンベルク Kahlenberg(下注)でも同じ方式の鉄道を手掛けており、こちらは同年3月7日の開業だ。そのため、タッチの差でブダペストは、旅客用としてヨーロッパで3番目のラック鉄道になった。

*注 リッゲンバッハとリギ鉄道については「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」、カーレンベルク鉄道は「ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要」で詳述。

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開業初期のヴァーロシュマヨル駅
正面奥が駅舎
手前に入換用のトラバーサーが見える(1880年代)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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開業初期の登山列車
ミューヴェース・ウート Művész út 付近(1900年ごろ)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

シュヴァーブへジ一帯には、低山地によく見られる適度な傾斜地が広がっている。かつては森に覆われていたが、18世紀になると開墾され、ワインの原料となるブドウの栽培が盛んになった。ところが1870年ごろからヨーロッパに蔓延した害虫フィロキセラによって、ブドウ畑は壊滅的な打撃を受ける。

耕作が放棄された土地を別荘などに転用する動きは、鉄道の開通によって拍車がかかったに違いない。居住地の拡大を受けて、鉄道をさらに上方へ延ばす計画が立てられた。そして1890年5月に、現在の終点である標高457mのセーチェニ・へジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)山上まで0.85kmが延伸開業した。

登山鉄道は、開通後長らく4月15日から10月15日のいわゆる夏のシーズンにのみ運行されていた。そのため客車も、側壁のないオープンタイプだった。しかし、定住者が増加したため、1910年から通年運行が始まった。冬の寒さに備えて客車も改造され、側面はガラス張りになり、乗降扉は端部に集約された。そり滑りやスキーなど、山でのウィンタースポーツを楽しむ人も多く利用したという。

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再現されたオープン客車
制動手が屋根上で、前方監視とともに客車のブレーキ操作を行った
Photo by Albert Lugosi at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

認可期間の満了に伴い、鉄道は1926年に市の所有となり、ブダペスト首都交通公社 Budapest Székesfővárosi Közlekedési Részvénytársaság (BSzKRt) が運行を引き継いだ。それまで路線は赤字続きで、更新費用が工面できず、設備の老朽化が進行していた。公営化を機に、市は、鉄道の抜本的な近代化に取り組んだ。その最大の方策が、蒸気から電気運転への転換だ。

電化方式は市内トラムと同じ直流550Vとされ、SLM社とブダペストのガンツ社による8編成の新車が納入された。これはローワン列車 Rowan Zug と呼ばれるもので、坂下側から電気機関車、客車(付随車)の2両セットだが、客車は自前の車軸を1本しか持たず、坂下側は機関車の車台に載りかかる形になっている。

さらに、運行間隔を短縮できるよう待避線が2か所増設され、山麓駅の末端には電車を収容する車庫と修理工場が新設された。一連の対応工事を終えた鉄道は、1929年7月に運行を再開した。

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ローワン列車
手前が電気機関車、後方が付随車の客車
Photo from www.bkv.hu
 

第二次世界大戦からしばらく、登山鉄道には不遇の時期があった。戦災で開業時の駅舎が破壊されたのに続き、戦後は、南駅 Déli pályaudvar 経由でシュヴァーブヘジ方面へ直行するバス路線(21番)が開通して、鉄道不要の議論を煽った。

市内交通の運営主体が現在のブダペスト交通公社 BKV になったのは、1968年のことだ。ブダペスト統合100周年が近づくにつれ、廃止論は終息していき、代わって存続のための再改修が検討された。

それは結局、1929年の電化に匹敵する大規模な内容になった。すなわち、陳腐化したローワン列車が新しい2両連節の車両(1M1T)7編成に置き換えられる。ブラウン・ボヴェリ社 Brown, Boveri & Cie (BBC) の電気機器を積んだウィーンのジンメリング・グラーツ・パウカー Simmering-Graz-Pauker (SGP) 製の車両だ。それに伴い、電圧が直流1500Vに、ラックレールは保守の容易なシュトループ式に変更される。旧方式での運行は1973年3月15日をもって終わり、工事期間をはさんで、8月20日に新方式による運行が始まった。

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今も運行を担う1973年製の連節車両
 

それから早や50年近くが経つ。その色と形から「赤い牝牛 piros tehén」の異名を与えられた電車は、機器や内装の改修を受けながら、今なお日常運行を担う存在だ。朝5時台から夜23時台までフル運行され、平日日中は20分間隔、休日日中は12分間隔で走る。全線の所要時間は14~15分だ。登山鉄道は、2008年からブダペストの都市交通網にトラム系列の「60番」として組み込まれ、ブダの山手地区に延びる生活路線の一つになっている。

では、具体的にルートを見ていこう。データと写真は2019年6月に訪問したときのものだ。

登山鉄道が出発するヴァーロシュマヨル Városmajor は、ブダの主要な交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér を2011年に改称)から西へ900mほどの場所にある。広場でトラム(路面電車)の56番、61番ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 行きか、59番セント・ヤーノシュ・コールハーズ Szent János Kórház 行きに乗って、二つ目の停留所だ。

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ブダの交通結節点セール・カールマーン広場
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(左)ヴァーロシュマヨル方面へ行くトラム
(右)その車内
 

ヴァーロシュマヨル、略してマヨル Major は、市民には都市公園の名と認識されている。トラムはそのへりに沿う濃緑の並木の下の専用軌道を走っていく。ヴァーロシュマヨル停留所で下車すると、左側に鉄格子の扉がついた門が見える。登山鉄道のターミナルは、この中だ。

門の脇に、リッゲンバッハ式のラックレールとピニオンホイールのセットが置かれていた。線路の向こうには、シュトループ式のセットもある。傍らの石碑に「登山鉄道はペスト、ブダ、オーブダ統合100年を記念して再建された。ブダペスト交通公社」と刻まれていて、1973年に行われた全面改修の記念碑のようだ。

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トラムのヴァーロシュマヨル停留所
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登山鉄道のヴァーロシュマヨル駅
(左)駅の門扉
(右)現在使われているシュトループ式の車軸とレール
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(左)1973年の鉄道再建記念碑(右奥)
(右)リッゲンバッハ式の車軸とレール
 

平屋の駅舎があるものの開いてはおらず、ましてや案内窓口や売店などはない。乗車券は市内交通と共通なので、24時間券などを持っているならそのまま使える。車庫へ通じている線路を渡ってホームへ上がり、停車中の山上方面行きに乗り込んだ。

牝牛に見えるかどうかは別として、幅広でずんぐりした形の車両は、リギ鉄道の旧型車を思い出させる。車内は、丸みを帯びた天井と扉ごとに立てられた風防が特徴的だ。座席はクロスシートで、端部はスラムドア車を彷彿とさせる5人掛け、反対側の端部は持込み自転車のためのスペースになっている。前面は塞がれて展望がきかないので、おとなしく席につこう。やがて定刻になり、電車は10数人の客を乗せて、駅を後にした。

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(左)乗降ホーム
(右)反対側の線路は車庫へ続く
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車内
(左)クロスシートが並ぶ
(右)持込み自転車用スペース、持込みには自転車券の購入が必要
 

左からの線路を合わせて、電車も左へカーブしていく。地図では一面の市街地のように描かれているが、実態は緑濃い山の手のお屋敷街だ。周りはほとんど森といってよく、点在しているはずのお屋敷を巧妙に隠している。

途中8か所の駅(停留所)がある。待避線はおよそ2駅ごとに設けられているが、平日日中のダイヤで列車が行違うのは、5駅目のアドニス・ウツァ Adonis utca での1回きりだ。帰りは山上からここまで歩いて降りたが、対面式ホームがあるだけの寂しげな駅だった。

片側に道路が沿っているものの、反対側は森に覆われた谷間で、野鳥の盛んに鳴き交わす声が聞こえる。列車交換では、山麓行きが先着して、山上行きの入線を静かに待つ。こんな駅でも下車客はあって、線路際の小道をたどり、森の中へ消えていった。

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アドニス・ウツァ駅の列車交換
山麓方面行きが先着
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少しして山上行きが入線
 

シュヴァーブへジ駅には、ローワン列車が似合いそうな田舎家風の木造駅舎と、木組みのホーム屋根が残る。開業時のものではなく、使われてもいないのだが、終点だった時代をしのばせる空気が漂う。都市機能としても、駅前に路線バスが来るし、すぐ近くにスーパーマーケットもある。中間駅になってはいるが、実質的にはターミナルなのだろう。

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シュヴァーブへジ駅
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(左)田舎家風の駅舎とホーム屋根
(右)かさ上げ前のホームを保存
 

現在の終点までは、あと二駅だ。森の谷間を這いあがる線路の坂道はそれまでよりきつそうで、最急勾配110‰は、おそらくこの区間にある。右にカーブしながら跨線橋をくぐると、終点セーチェニ・へジに到着する。

駅は2面2線の頭端ホームがあり、しっかりした駅舎も建っている。しかし、起点駅と同じようにひと気はない。左側は森の中の公園で、訪れた時は子どもたちの歓声がこだましていたが、そうでもなければ寂寥感に囚われてしまいそうだ。山上とはいえ地形的には突出していないため、木立に遮られて眺望がきかないのだ。イメージとしては住宅街の末端で、その意味ではふだん使いの生活路線にふさわしい終着駅だった。

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終点セーチェニ・へジ駅
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(左)入線する列車
(右)ひと気のないホームで折り返しを待つ
 

ところで駅の正式名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút という。ジェルメクヴァシュートというのは、子どもたちが列車運行に携わる「子供鉄道 Children's Railway」のことだ。左方向200m先にその駅があり、登山鉄道はせめてその最寄りであることをアピールしようとしているようだ。次回はこのユニークな鉄道について紹介しよう。

付記:鉄道名について

ハンガリー語(マジャル語)では、ラック・アンド・ピニオン鉄道のことを、fogaskerekű vasút(フォガシュケレキュー・ヴァシュート)という。fogaskerekű は歯車、vasút は鉄道(vas(ヴァシュ)=鉄、út(ウート)=道)を意味し、英語にすると cog-wheel railway(コグ(歯車)鉄道)だ。本稿では「ブダペスト登山鉄道」と訳しているが、原語には登山や山地を意味する言葉は含まれておらず、あくまで意訳であることをお断りしておきたい。

■参考サイト
BKV https://www.bkv.hu/

★本ブログ内の関連記事
 ブダペスト子供鉄道 I-概要
 ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内

 リギ山を巡る鉄道 I-開通以前
 リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道
 ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要
 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

2017年9月 3日 (日)

ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

中欧スロベニアの南西部からアドリア海の間には、石灰岩やドロマイトなど水溶性の岩石が造り出す複雑怪奇な地形が横たわる。カルスト地形というよく知られた用語は、スロベニア語でクラス Kras と呼ばれるこの地方のドイツ語名称を借りたものだ(下注)。

*注 クラスはドイツ語でカルスト Karst、イタリア語ではカルソ Carso になる。

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トロッコ列車が地中の「コンサートホール」を駆け抜ける
image from www.slovenia.info
 

首都リュブリャーナ Ljubljana から西へ向かう列車は、このカルストの波打つ高原を越えていかなければならない。たどるルートは、ローマ時代からあるパンノニア平原(現 ハンガリーとその周辺)と北イタリアを結ぶ交易路だ。標高610mの峠道はポストイナ門 Postojnska vrata と呼ばれ、回廊状になっている。近現代に至るまで戦略的に重要な場所で、今も幹線鉄道と高速道路が並走している。

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ポストイナというのは、峠道から下りたところにある小さな町の名だ。しかしその名は門よりも、鍾乳洞(下注)の存在によって世界に知られている。カルスト地形では珍しくない鍾乳洞だが、ポストイナの裏山の地下に横たわるそれは総延長が約24kmあり、同国でも一二を争う規模を誇る。その一部、往復5kmが観光用に公開されており、1日数回行われるガイド付きツアーで見学することができる。

*注 公式名称はスロベニア語で Postojnska jama(ポストイナの洞穴)、英語でも Postojna Cave だが、日本ではこの種の洞穴を鍾乳洞と呼ぶので、本稿では「ポストイナ鍾乳洞」とした。

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ポストイナ鍾乳洞の管理棟(鍾乳洞宮殿 Jamski Dvorec)
左奥が洞口
image from www.slovenia.info
 

ポストイナ鍾乳洞のユニークさは、規模の大きさにとどまらない。ここにはおそらく世界でも類のない、鍾乳洞の中を走るトロッコ列車があるのだ。ツアー参加者は、洞内に入るとまず、このミニ列車に乗って、地中の奥深くへ運ばれていく。約10分乗車した後、ガイドに従って、徒歩で鍾乳洞の最も見ごたえのある区間を巡る。そして、コンサートホール Koncertna dvorana と呼ばれる大空間から、再び列車で入口まで戻ってくる。全行程の所要時間は約1時間半だ。

洞内軌道は620mm軌間で、上下別線になっている。見かけは複線だが、終端はループ化されており、周回線路の総延長は3.7kmに及ぶ。また、降車ホームと乗車ホームは分離され、両者の間は回送運転になる(下図参照。図中、departure platform が乗車ホーム、arrival platform が降車ホームの位置)。列車は、蓄電池式機関車が牽引し、2人掛け×4列の簡素な2軸客車を多数連結している。それでも押し寄せる訪問客をさばくために、繁忙期は60分ごとに続行で運行されるのだ。

■参考サイト
YouTube ポストイナ洞内軌道の乗車映像(4K解像度)
 往路と復路が逆に編集されているので注意。全20分のうち、前半は「復路」の後方、後半は「往路」の前方の映像になっている
https://www.youtube.com/watch?v=u3CE6hzDE0A

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線路は上下別線
photo by fish tsoi at flickr.com, CC BY 2.0
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洞内の終点(降車ホーム)
ここから徒歩ツアーが出発する
image from www.slovenia.info
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地形図で見るポストイナ鍾乳洞
赤の鉄道記号が洞内軌道のルート
青線が徒歩ツアーのルート
公式サイトから取得した洞内平面図を、1:25,000地形図に重ねた。
位置照合は、Geodetski zavod Slovenije 発行の観光地図 "Karst of Notranjska" を参考にした
(c) Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

 

観光用の軽鉄道とはいえ、鍾乳洞の公式サイトによれば140年もの歴史があるという。ポストイナ鍾乳洞は、未知の通路が発見された1818年以降、人々に知られるようになった。ウィーン~トリエステ間のオーストリア南部鉄道 Österreichische Südbahn がポストイナを経由した19世紀中期には、すでに洞内に鉄道を敷く構想があったが、実現はしなかった。

初めて洞内にレールが敷かれるのは1872年だ。入口から洞内のカルバリ Kalvarija(下注1)と名付けられた地点まで、1,534mの長さの人車軌道だった。ルートにほとんど坂道がない(下注2)ので、案内人一人で、二人乗りの小さな客車を押して走らせていたという。しかし、訪問者が増加すると、人力に頼る運行形態には限界が来る。

*注1 カルバリはいうまでもなくキリスト受難の丘のことだが、現在は「大きな山」 Velike gore / Great Mountain と呼ばれる。
*注2 実際、軌道が走る周囲の床面は平坦化されており、人工的に整備したのは間違いない。

1914年に、モンタニア Montania と呼ばれるガソリンエンジンで走る機関車と4人乗り客車が、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社に発注された。モンタニアは鉱山や林業で使われていた小型機関車だ。しかし、第一次世界大戦が勃発したため、納入は延び延びになり、予定の運行が可能になったのは、線路の改修が完了した1924年だった。

当初、1日4便が運行され、初年度は15,588人がそれを利用して鍾乳洞を巡った。翌25年には3軸の、より強力な新型モンタニアが6人乗りの新しい客車とともに導入された。1928年には、鍾乳洞の入口に、レストランや待合室がある今の管理棟がオープンし、プラットホームも整備された。ただし、今と違って、列車を利用せずに徒歩だけで巡ることもまだ可能だった。徒歩ツアーは1963年まで維持されていた。

第二次世界大戦後、鍾乳洞の訪問者数はますます増加したが、引き続きガソリン車が使われたため、洞内の空気汚染が深刻化していった。1957年にようやく、蓄電池で動くエマム Emam 機関車2両が配備されてモンタニアを置き換え、完全無煙化を達成した。エマムは1959年と1964年にも各1両が増備された。

一方、線路も改良の必要に迫られていた。単線で、中間の信号所が2か所しかなく、同時に3本運行するのが限度だったからだ。1959年から複線化の検討が始まり、第一段階として、鍾乳洞入口のループと2本目の線路が1964年6月20日に開通した。このとき、洞内の終点はまだ頭端構造だったが、1967年に第二段階の、人工トンネルを介したループが最奥部で開通し、現在の周回線が完成した。

1978年には蓄電池式機関車は12両を数えるまでになったが、1988年に新型6両が調達されて、8両の旧型車を置き換えている。来年(2018年)は鍾乳洞発見200周年に当たり、これを機に管理会社では、輸送システムのさらなる更新を計画しているそうだ。

本稿の最後に、1999年8月に私が訪れたときの簡単なレポートを記しておこう。

リュブリャーナ8時10分発のプーラ Pula 行き列車で、霧の中をゆるゆると走って、ポストイナ着9時02分、ホームに降り立ったのは数人だった。貨物駅かと思うほど駅前にも何もなく、地図帳を紛失して土地不案内の私たちは、道なりに進んでなんとか町の中心部に出た。案内所があったので地図を所望するも、窓口氏は「not exist」とにべもない。

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(左)ポストイナ駅に到着。構内は広いが貨物駅のよう
(右)鍾乳洞の平面図
 

道路標識を頼りに歩くこと10分ほどで、鍾乳洞の施設が見えてきた。訪問者はみなマイカー利用のようで、なるほどこれでは公共交通が成立しないはずだ(下注)。毎時00分にツアーが出るとパンフレットにあったので、急いで入場券の窓口に並んだ。平日でもかなりの人出だ。

*注 2017年現在、リュブリャーナからポストイナ鍾乳洞行きのバスが平日3本、休日1本設定されている。なお、鍾乳洞には立ち寄らないものの、ポストイナ市街を通る路線バスは多数走っている。

エントランスを入っていくと、トロッコ列車が待機している。遊園地のジェットコースターのような短いオープン客車が10両ほども連なっている。ドアもシートベルトもないのだが、走り出したらやたらと飛ばす。それも本物の鍾乳洞の中なので、鍾乳石の垂れ下がる大広間があるかと思えば、頭をこすりそうな素掘りのトンネルをくぐる。通路幅が狭くなると上り線と下り線が離れていき、また近づいてくる。スリリングな場面展開は、造り物のアトラクションの比ではなかった。

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(左)乗降客で混雑する入口駅
(右)鍾乳石の垂れ下がる洞内を行く
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第2次大戦中、ナチスドイツが洞内を火薬庫に使用していた
パルチザンが火をつけたため、洞内に煙が充満した
黒い鍾乳石はその名残
 

これだけでも十分楽しめたのだが、列車を降りた後、ガイドによる洞内ツアーがある。私たちは「English」の立札のもとに集合したが、ガイド氏の話は率直なところよくわからない。一応ついていきながらも、半分勝手に行動したので、いつのまにか後ろの「イタリアーノ」組に追いつかれてしまった。

鍾乳石は見事に保存されていて、スパゲティと呼ばれる細い糸のような石や、削り節をくねらせたような石のように、繊細な造形がそのまま見られる。かなり奥深いところなので、荒らされる前に保護の網をかぶせることができたのだろう。洞穴はピウカ川 Pivka River が造ったはずだが、水流が全く見られないのは、別の場所を通っているからだという(下注)。

*注 ピウカ川は、上の地図でライトブルーに塗った洞穴を流れている。なお、入口の降車ホーム付近だけは、川が流れる洞穴に設けられているため、水音がする。

ツアーが終わる直前、類人魚なる生き物が入れられた水槽の前を通過した。ライトを当てられっ放しだが、闇の中で生きてきた類人魚は大丈夫なのだろうか。徒歩による鍾乳洞見学は1時間ほどで終わる。予想に反して、ガイド氏はチップを要求することもなく、帰りの列車の時刻だけ告げて、どこかへ消えてしまった。

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徒歩ツアーで巡る鍾乳洞
「スパゲティ」が天井を覆う
 

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/

★本ブログ内の関連記事
 スロベニア 消える湖、消える川
 ベルギー アン鍾乳洞トラム I

2008年7月24日 (木)

ラトビア最後の狭軌鉄道

グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis / Gulbene–Aluksune Railway

グルベネ Gulbene ~アルークスネ Alūksne 間 33km
軌間750㎜、非電化
1903年開通(ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka 間 212km の一部として)

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アルークスネ駅にて
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1520mmの広軌、いわゆるロシアンゲージが支配するラトビアで、唯一750mmのナローゲージを残しているのが、グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis だ。定期運行している狭軌鉄道は、バルト三国でもここしかない。原語のバーニーティス bānītis はドイツ語の Bahn(鉄道)に縮小辞をつけたもので、広軌用に比べてめっぽう小柄な車両や施設に対する土地の人々の親近感がよく表れている。

場所はラトビア北東部、森の中に湖が点在する道のりを、毎日3往復の列車がのんびりと走っている。鉄道の公式サイトは英語版も充実しているので、それを参考に、波乱に満ちた鉄道の歴史をたどってみよう。

地元の有力者が興した会社によって鉄道が公式開業したのは、ロシア帝国領時代の1903年だ。当時の路線は、ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka 間 212kmで、今とは比べ物にならない長大な路線だった(下図)。

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バーニーティスの旧路線網
 

ストゥクマニは、ダウガヴァ川 Daugava 沿いにある現在のプリャヴィニャス Pļaviņas で、リーガへ通じる幹線との接続駅だ。列車はそこから北東方向にマドナ Madona、ヴェツグルベネ Vecgulbene(1928年、旧名グルベネに戻る。Vecはoldの意)、アルークスネ Alūksne まで進んだ後、北西に向きを変えてアペ Ape、ヴァルカへ至る。

ヴァルカにはリーガと現ロシアのプスコフ Pskov を結ぶ広軌線が通っていたが、それとは別に開通済みの狭軌線に接続して、現エストニア領パルヌ Pärnu の港への短絡路を確保した。鉄道が内陸輸送の主役であった時代、積み替えせず港まで物資を直送できるのは大きな利点だった。木材をはじめ、とうもろこしや酒その他の農産物が、このルートを通って運ばれた。

しかし、帝国末期の世情は不安定で、会社はまもなく、血の日曜日事件に始まるロシア第一革命の渦に巻き込まれる。農村の騒乱に呼応して、鉄道員たちも活動の先鋒に立った。施設が破壊され、会社は蒙った損失を回復できないまま、第一次世界大戦直前、ついに破産してしまう。1916年、ロシア軍は、ヴェツグルベネでこの線と交差する広軌新線(Ieriki ~ Abrene)を建設するのに合わせて、ストゥクマニ~ヴェツグルベネ間を広軌に変換した。このため、狭軌区間は北半分に短縮された。

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上空から見たグルベネ駅
駅舎寄りに狭軌線がある
Photo by Edgars Šulcs at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1918年にバルト三国は相次いでロシアからの独立を宣言するが、これが狭軌線の運命をまたも翻弄することになる。アルークスネの先で、ラトビアとエストニアの国境線が鉄路を二度も横切ることになったからだ。両国間の協議で、エストニア側に越境した区間の運行管理をラトビアに委ねることが決まり、戦争で荒廃した鉄道は1921年にようやく全線再開に漕ぎつける。ラトビア国内の輸送は順調に推移したものの、パルヌ港が他国領となったため物流の方向が変わり、アペから西側の利用は極端に少なくなった。

第二次大戦、特にその終盤はドイツ占領軍の撤退とソ連軍の空襲で、鉄道の施設は甚大な被害を受けた。しかし、重点的な復旧作業の結果、1945年12月には運行を開始している。1960年代には、ヴァルガ Valga 駅(現エストニア)に引き込むルートが設けられが、同時にこの頃から、自動車交通の発達が鉄道の顧客を徐々に奪い始めた。1970年、長らく閑散区間だったヴァルガ~アペ間が休止、1973年にはアペ~アルークスネ間も運行を取りやめた。

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グルベネ駅で広軌/狭軌の特別列車が接続
Photo by Jānis Vilniņš at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

こうして、アルークスネ~グルベネ間だけが残ったが、その理由は、アルークスネに駐留していたソ連軍に物資を供給するためだったといわれる。しかしここにも存続の危機が迫っていた。1987年に、老朽化した車両の整備不良がたたって運行が止まってしまったのだ。すでに鉄道は、工学遺産に指定されていたため、知識人らの熱心な支援活動が当時の共産党中央委員会を動かした。客車が新調され、続いてDL 2両が新たに導入された。

ソ連から再独立した後も、貨物輸送の廃止、旅客列車の削減と、鉄道の規模縮小は進行したが、1998年の国鉄から地方政府への売却、2001年の運営会社設立によって命脈を保ち、2003年には100周年を祝うことができた。地元では観光資源としての期待も膨らんでいるようだ。

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アルークスネ駅構内
Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

手元にあるソ連製の1:100,000地形図で路線とその周辺を見てみよう。グルベネ Gulbene はドイツ名をシュヴァーネンブルク Schwanenburg といい、狭軌線の単なる中間駅が、第一次大戦中に鉄道の結節点となったことでにわかに活気づいた。1926年当時の壮麗な駅舎が今も建っている。地図の北東隅から狭軌線(日本で言う私鉄記号)が延びてきて、グルベネ駅に入ってくる。実際は駅構内で広軌線(太い実線)と交差し、駅舎寄りにホームがある。南西に向かう広軌線もかつてはその続きで、狭軌線のルートを延長するとスムーズにつながる。

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バーニーティスグルベネ~パパルデ間
 

アルークスネ Alūksne は、ドイツ名マリエンブルク Marienburg といい、ドイツ騎士団が通商路を護るため、湖に浮かぶ小島に聖母の名を冠した城を築いたことに由来する。地図で、町の北側の小さな入江にある丸い島がそれで、Pilssala(城島)あるいは Marijas sala(マリア島)と呼ばれている。また、現在のラトビア語の地名は、森の泉という意味だそうで、いずれ劣らぬ優美な名にふさわしいリクリエーションスポットであることは、地図を一瞥しただけでも想像できる。

Blog_banitis_map3
パパルデ~アルークスネ間
旧ソ連製1:100,000 O-35-90, O-35-91, O-35-102, O-35-103 を使用
 

バーニーティスの運行ダイヤは、車庫のあるグルベネが拠点だ。アルークスネまで片道33.4kmを、途中8駅に停まりながら90分かけて走る。公式サイトのフォトギャラリーに、空中から撮った写真を集めたページがあった。緑の森と開墾地、そして青い湖面のパッチワークを縫うようにして、まっすぐ伸びるかぼそい鉄路が見える。その上を、小さなエンジンが2両の客車を牽いて(推して?)走るけなげな姿が捉えられている。

旅情あふれる小列車に揺られてアルークスネを訪ねたいと思う。しかし、時刻表を見る限り、観光客が利用できそうなのは日中の1往復だけで、アルークスネでの滞在時間はわずか25~30分しかない。駅からの距離を考えると、湖岸の散策どころか、湖を目にしただけで戻るのが精一杯だ。ならばいっそアルークスネの湖畔で1泊すべきだろう。時を忘れてゆったり過ごす旅が、バーニーティスに最もふさわしい。

■参考サイト
バーニーティス  http://www.banitis.lv/
アルークスネ付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=57.4156,27.0464&z=14

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 バルト三国の鉄道地図
 バルト三国の地図-ラトビアの地方図・市街図

2008年7月17日 (木)

バルト三国の鉄道地図

バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の鉄道は、ソ連時代、カリーニングラード州とともにバルチック鉄道 Балтийская железная дорога / Baltic Railway の管轄下にあったが、1991年の再独立によって、各国に移管された。三国を合わせた面積は175,000平方キロで、そこに約700万人が住む。1平方キロ当たりの人口密度は40.4人と、北海道(66.8人。面積には北方四島を含む)の6割ほどにしかならず、旅客鉄道が生き残る環境としてはかなり厳しいと想像される。ガイドブックなどには、各都市間の移動はバスが中心で、鉄道は本数が少なく使いにくいと書かれていることが多い。

いったいどの路線が、どれぐらいの頻度で運行されているのだろうか。各鉄道会社の2008年夏ダイヤを参考に、地図上に落とし込んでみたのが、右の図だ。すべての系統を網羅できたか心許ないが、およその傾向は読み取れるだろう。

Blog_balticstates_railmap

どの国の路線網も太字で記した首都を中心にしており、タリン Tallinn とリーガ Rīga の近郊では比較的頻度の高いダイヤ(通勤電車)が組まれていることがわかる。しかし、距離が100kmを越える区間になると、1日数本の中・長距離列車が運行されているだけだ。早朝に地方を出て首都へ、夜に首都から地方へ戻るというような設定では、首都を足場にする旅行者のニーズに合わない。

図では国際列車を省略しているが、三国の首都間を行き交う「首都特急」などは夢の話で、列車の目的地はロシア方面に限られているのが実態だ。モスクワとサンクトペテルブルク行きはどの首都からも出ているし、ロシア本土とカリーニングラード州を連絡する列車はリトアニア国内に停車していく。

首都間は無理でも、せめて三国間の国境を越える列車がないかと探したが、見つかったのは、ヴィリニュスからラトビア東部の都市に停車してサンクトペテルブルクへ行く1往復と、リーガからエストニア国境にある双子町ヴァルカ Valka へ足を伸ばす3往復だけだった。ヴァルカから先、タルトゥ、タリン方面へ行く定期列車は設定されていないので、今のところ鉄路でラトビアからエストニアへ回遊することは不可能のようだ。

このように、バルト三国相互間の旅客往来に鉄道が関与する割合は極めて小さい。それが影響しているのか、鉄道地図も、三国の全体像が見えるものは刊行されておらず、トーマス・クックのヨーロッパ鉄道地図 The Thomas Cook Rail Map of Europe のレベルか、そうでなければ、鉄道会社が作成したものを個別に当たるほかないようだ。

エストニア

国有のエストニア鉄道 Eesti Raudtee / Estonian Railways の輸送部門は貨物に特化されており、旅客輸送には別途数社が関わっている。南西鉄道 Edelaraudtee / South-West Railway は、タリン Tallinn ~パルヌ Pärnu およびヴィリヤンディ Viljandi 間を経営(施設保有、旅客・貨物輸送)しているほか、エストニア鉄道の管理下にある東のナルヴァ Narva、東南のタルトゥ Tartu へも旅客列車を走らせている。

また、首都タリン近郊では、電気鉄道 Elektriraudtee / Electric Railway による通勤電車があり、首都とサンクトペテルブルク、モスクワを結ぶ各1往復の夜行列車は、ゴーレール社 GoRail が運行している。

エストニア鉄道の公式サイトには、古い鉄道地図があたかも現行のものであるかのように掲載されていて、誤解を招きそうだ。南西鉄道と電気鉄道のサイトにも、自社運行区間の簡単な路線図がある。なお、イギリスのクエールマップ社 Quail Map のシリーズに、エストニア鉄道地図(1枚ものの印刷図、1997年版)がある。

■参考サイト
エストニア鉄道 http://www.evr.ee/
 トップページ > EVR Kaartで、旧路線図が見られる。かつての路線網を知るのには役立つが、現況との乖離が大きい。
南西鉄道 http://www.edel.ee/
 路線図: トップページ > Raudteekaart(鉄道地図)  非運行区間を含んでいる。
 路線別時刻表PDF: トップページ > Sõidugraafikud または Sõiduplaanid ja hinnad(時刻表と運賃)
電気鉄道 http://www.elektriraudtee.ee/
 路線図: トップページ > REISIJALE(旅客)> Piletihinnad(運賃)のページ末尾にある。
 時刻表:トップページ > REISIJALE(旅客)> Sõiduplaan(時刻表)
  時刻表検索とは別に、エクセル形式の全駅時刻表 Sõiduplaan がダウンロードできる。
  ダイレクトリンク http://www.elektriraudtee.ee/file.php?2694
クエールマップ社 http://www.quailmapcompany.free-online.co.uk/

ラトビア

国有のラトビア鉄道 Latvijas dzelzceļš = LDz / Latvian Railways の子会社、旅客列車会社 Pasažieru Vilciens / Passenger Train が運行する。リーガから4方向に40~80km圏内までは近郊路線として、通勤電車が走るが、以遠はディーゼル機関車が牽引する中長距離列車で、一部を除いて本数が少ない。特に西の沿岸都市が不便で、リェパーヤ Liepāja へは辛うじて1本が残るが、ヴェンツピルス Ventspils へは全く走っていない。

バルト三国の鉄道の軌間はロシアと共通の1520mm(エストニアは1524mm)だが、かつては狭軌鉄道網も発達していた。東部のグルベネ Gulbene には、定期運行する最後の750mm狭軌鉄道がある(「ラトビア最後の狭軌鉄道」参照)。

■参考サイト
ラトビア鉄道 http://www.ldz.lv/
 英語版でも路線図、時刻表が見られる。
 路線図: トップページ> Passenger traffic > Route Scheme  
 本来は区分ごとの拡大図が表示されるところ、現在は全体図(425KB)が現れる。
 時刻表は検索方式のみ。
旅客列車  http://www.pv.lv/
 このサイトでも同じ路線図が見られるが、上記に比べて解像度が低い。

リトアニア

国有のリトアニア鉄道 Lietuvos geležinkeliai = LG / Lithuanian Railways が国内の旅客列車を運行しているが、他の二国に比べると上下分離や子会社化が進んでいない。近郊電車区間も存在しないが、これは人口分布が首都への一極集中型でないことが一因としてあげられよう。

旅客列車の本数では、ヴィリニュスと第二の都市カウナス Kaunas の間の17往復が最も多く、次がヴィリニュス近郊の観光地トラカイ Trakai 行きの10往復、他は毎日1桁台の列車しか走っていない。貨物輸送は盛んだが、旅客輸送全体に占める鉄道の割合は、ラトビア5.1%、エストニア1.7%に対してリトアニアは1.0%しかなく、EU諸国で最低だ(EU energy and transport in figures - Statistical pocketbook 2007/2008 p.121による2006年のデータ)。

リトアニアにも狭軌鉄道が存在したが、現在は保存鉄道として、アウクシュタイティヤ狭軌鉄道 Aukštaitijos Siaurasis Geležinkelis = ASG / Aukštaitija Narrow Gauge Railway、68.4kmが残るのみとなっている。

■参考サイト
リトアニア鉄道  http://www.litrail.lt/ 英語版あり
 路線図:Passenger transportation > Train stations > Train stations map
 時刻表は検索方式のみ。
アウクシュタイティヤ狭軌鉄道 http://www.siaurukas.eu/

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 ロシアの鉄道地図 I
 ロシアの鉄道地図 II-ウェブ版
 ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版
 ラトビア最後の狭軌鉄道

2008年5月 8日 (木)

ロシアの鉄道を地図で追う

以前、旧ソ連軍参謀本部が作成した地形図でユーラシア大陸を西から東へと旅した(「旧ソ連軍作成の地形図 III」参照)が、今回はロシアの大地を疾駆する鉄道の軌跡に的を絞ってレポートしてみよう。(Map images courtesy of maps.vlasenko.net)

世界最北端の鉄道
ムルマンスク
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/r-36-103_104.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/r-36-115_116.jpg

旅客列車で行ける北端の駅として有名なのが、ロシア北西部のムルマンスク Мурманск / Murmansk だ。駅の位置は北緯68度58分。サンクトペテルブルクのラドジスキー駅からここまで1438km、約28時間かかる。レールはさらに北に延びて、北緯69度5分のセヴェロモルスク Североморск / Severomorsk の港に達する。

Blog_genshtab_map31
1:100,000(原画像を80%に縮小)
Blog_genshtab_map32
ムルマンスク 1:50,000(×80%)
この1:50,000は現在ダウンロードできない
 

ペチェンガ
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/r-36-087_088.jpg

ムルマンスクはまだ最北端ではない。それは、ムルマンスク・ニケリ鉄道で西へ150km進んだペチェンガ Печенга / Pechenga 付近にある。地形図で見る限り、その北6kmにある湖のほとりが鉄路の最果てで、69度37分の緯度を示す。D. Zinoviev 氏の鉄道地図ではペチェンガ湾に面する漁港リイナハマリ Лиинахамари / Liinakhamari の名が付されている。

ムルマンスク・ニケリ鉄道はニッケル鉱山のための貨物鉄道で、旅客輸送もしているようだが、ペチェンガへの支線(線形から判断するとこちらが先に開通したと思われる)は貨物専用だ。

コラ半島はノルウェーと国境を接し、不凍港のため軍事施設が点在する地域だが、1:50,000地形図が堂々と閲覧に供されている(本稿では1:100,000を使用)。

Blog_genshtab_map33
100,000(×80%)
 

■参考サイト
Кольские карты / Kol'skiy maps http://kolamap.ru/
 コラ半島に関する地図サイト(ロシア語表記)。地形図(vlasenko.net とは別ソース)や古地図の画像がある。トップページの中央のコラム ТОПОГРАФИЯ / Topography に縮尺1:200,000~1:50,000の地形図が多数収録されている。

タルナフ

最北から2番目は、エニセイ川河口に最も近い港町ドゥディンカ Дудинка / Dudinka から、ノリリスク Норильск / Norilsk を経て、タルナフ Талнах / Talnakh に通じる産業鉄道で、延長約120km、他の鉄道と接続のない孤立線だ。終点タルナフはニッケルなどを生産する鉱業の町で、北緯69度30分。これらの町は現在、外国人が立入れない、いわゆる閉鎖都市に指定されているので、図上旅行以外に方法はない。

Blog_genshtab_map34
1:100,000(×60%)
この1:100,000は現在ダウンロードできない
 

「皇帝の指」カーブ
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/o-36.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/o-36-042.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/o-36-054.jpg

モスクワとサンクトペテルブルク間649.7kmの幹線は、1851年にロシアで2番目に開通した古い鉄道だ。ロシア革命以前は、建設を命じた皇帝ニコライ1世にちなんで、ニコライ鉄道 Николаевская железная дорога と呼ばれていた。鉄道は両都市間をほぼ最短距離で結んでいるが、ただ1個所、サンクトペテルブルクから200kmの地点に妙な曲線が設けてあった。

言い伝えによると、皇帝は最初に設計者の描いたルートが気に入らず、自ら地図の上に定規で直線を引いた。そのとき、置いた指の周りをなぞったために、そこだけ線が歪んでしまった。怯えた設計者は指摘もできず、線路はそのまま曲げて建設されたのだという。

しかし、伝説が作り話であることは、1:100,000地形図を見れば明白だ。盛り土と切り通しの直線的な連なりが当初のルートを示している。事実、この迂回線は、4連の機関車を必要とした急勾配を解消する目的で、開通から26年後の1877年に完成したものだ。しかし2001年に、列車の高速化を進めるために再び直線に戻されて、距離が5km短縮したそうだ。

Blog_genshtab_map35
1:1,000,000(×25%)
矢印が「皇帝の指」カーブ
Blog_genshtab_map36
拡大図 1:100,000(×80%)
 

ウラル山脈の欧亜境界
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/o-40.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/o-41.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm50/o-41-109-1.jpg

シベリア鉄道がウラル山脈を乗り越える地点に、ヨーロッパとアジアの境界を示すオベリスクが建っている。車窓から見える一瞬のシャッターチャンスを狙う旅行者も多い。

幸運にもこの辺りは1:50,000地形図が使えるので探してみると、ペルヴォウラルスク Первоуральск / Pervouralsk とスヴェルドロフスク Свердловск / Sverdlovsk(現名称はエカテリンブルク Екатеринбург / Yekaterinburg)の間、370mの等高線を線路が横切るところ(図に矢印)に、"Вершина" すなわちサミットの注記がある停留所(?)と記念碑の記号が見つかった。広域図と照合すると、変哲のないなだらかな鞍部の西側はカスピ海に注ぐボルガ川水系、東側は北極海に流れ下るオビ川水系で、実に雄大な分水界なのだった。

Blog_genshtab_map37
1:1,000,000(×80%)
Blog_genshtab_map38
拡大図 1:50,000(×80%)
矢印が欧亜境界のサミット
 

バイカル湖を廻る鉄道
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/n-48.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/m-48.jpg

東をめざすシベリア鉄道は途中、バイカル湖によって行く手を阻まれる。現在のルートはイルクーツクから南下して湖の西端に達するが、1905年に完成した初期のルートはアンガラ川を遡り、湖岸にぴったり張り付いて、湖を半周していた(詳細は本ブログ「バイカル環状鉄道」参照)。

Blog_circumbaikal_map1
青マーカー:1898~1900年開通の、湖上を船で連絡する初期ルート
赤:それに代わる1901~1904年開通のバイカル環状鉄道
緑:現在のシベリア鉄道である1949年開通の山越え新線
基図は旧ソ連1:1,000,000 M-48, N-48(原画像を60%に縮小)
 

バム鉄道、ロシア最長のトンネル
http://download.maps.vlasenko.net/smtm200/o-49-36.jpg

第2シベリア鉄道ともいわれるバム鉄道 БАМ / BAM(正式名はバイカル=アムール幹線 Байкало-Амурская Магистраль)で、バイカル湖畔から東へ約300km。セヴェロムイスキー山脈を貫く同名のトンネル Северомуйский туннель / Severomuysky Tunnel は、1977年に着手され、永久凍土を掘り進む難工事の末、2003年にようやく開通した。15343mあり、ロシアで最も長い。

トンネルの完成までは標高1100mを越える峠の上を越えていたが、旧線は40‰の急勾配があり、補助機関車を必要とする難所だった。貨物優先のため、乗客は峠の手前で降ろされ、20kmの未舗装道を車で運ばれたという。1989年、勾配を18‰以下に抑えた迂回路が完成して、旅客列車も走るようになった。しかし、悪魔の橋 Чёртов мост と呼ばれる橋梁をはじめとして急カーブが連続し、依然としてツンドラ地帯の峠道が運行上の隘路であることに変わりはなかった。新トンネルの開通により、2時間半かかったこの区間の所要時間が、わずか15分に短縮された。

この付近は1:100,000が閲覧できるのだが、1978年編集のため、新トンネルが予定線として描かれているばかりで、旧線の姿はなかった。1:200 000は1986年に編集されており、改良前の旧線と工事中のトンネルとの関係がわかる。改良後の旧線ルートは資料がないため、衛星画像を参考に筆者が書き込んでみた(図の improved old line)。

■参考サイト
改良後の旧線の現場写真 http://bam.railways.ru/eng/egalery.html

Blog_genshtab_map39
1:200,000(×100%)
 

大河アムールを渡る
http://download.maps.vlasenko.net/smtm200/m-53-33.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm200/m-53-34.jpg

東方をめざすシベリア鉄道の列車はアムール川 Амур / Amur を長大鉄橋で渡って、ロシア極東で2番目の都市、ハバロフスク Хабаровск / Khabarovsk に到着する。1916年に完成した18連のトラス橋は、長さ2590mで当時としてはユーラシア大陸最長だったが、1999年に、長さ2612mの新しい道路併用橋に架け替えられた。地図に描かれているのはもちろん旧橋で、川幅が最も狭まる地点に架橋されていることがわかる。前後の奔放な流路は、広範囲を収める1:200,000の図郭さえもはみ出す勢いだ。

ちなみに、戦略上の理由で、橋に並行する河底トンネル(長さ7km以上)が1942年に完成し、上り線として使用されてきた。地形図には記載がないが、ハバロフスク側の入口は、橋の東のたもとにある短いトンネルの南側と思われる。川岸に背を向けた行き止まりの側線が描かれているが、衛星画像によると、この先にトンネルのポータルが推定される。

Blog_genshtab_map40
1:200,000(×100%)
 

サハリン島のループ線

サハリン島南部、ユジノサハリンスク Южно-Сахалинск / Yuzhno-Sakhalinsk とホルムスク Холмск / Kholmsk を結ぶ南部横断線は、日本領樺太であった1928年に豊真線として全通した。途中、分水嶺を横断する個所が2個所あり、西側の山越えでは宝台(たからだい)ループ線と通称されるスパイラルを構えている。残念ながら1994年に一部を除き、運行が中止された。

サハリン島の地形図で閲覧できる最大縮尺は1:100,000だ。地図ではスパイラルが平面交差のように描かれているが、実際は上部の線路が鉄橋でまたいでいる(豊真線の詳細は、「樺太 豊真線を地図で追う」参照)。

Blog_genshtab_map41
1:100,000(×80%)
引用したのは1:100,000のI-54-033、I-54-045だが、vlasenko.netには該当図葉の画像がないため、maps.poehali.orgの画像を使用した。
 

★本ブログ内の関連記事
 ロシアの鉄道地図 I
 ロシアの鉄道地図 II-ウェブ版
 旧ソ連軍作成の地形図 III

2008年5月 1日 (木)

ロシアの鉄道地図 II-ウェブ版

今回はウェブ上で公開されているロシアの鉄道地図を見よう。

Blog_russia_railmap_hp1

一つ目は、ロシア鉄道 Российские железные дороги / Russian Railways の公式サイトに掲載されているものだ。サイトはロシア語版と英語版が設けられているが、鉄道地図はキリル文字を用いたロシア語版しかなく、ロシア鉄道を構成する17の地域支社ごとに1面ずつ作成されている。英語版サイトでは以下のURLがメインページになる。

■参考サイト
Structure (of Russian Railways)
http://eng.rzd.ru/wps/portal/rzdeng?STRUCTURE_ID=174

まず、鉄道網を表現したクリッカブルマップからして、地域支社の名称と相互の位置関係が一目でわかる優れものだ。この地図または下欄のリンクから各地域支社の詳細ページに飛ぶと、地域支社の簡潔なプロフィールとともに鉄道地図が見つかる。

Blog_russia_railmap_hp2

ちなみに、同サイトのロシア語版では、写真集 Фотогалерея / Photo Gallery の中に、鉄道地図だけを集めたページもある。また、この写真集には車両、列車、子供鉄道、施設、鉄道風景など豊富な画像が収められ、ロシア鉄道の素顔を知るのに格好の材料を提供している。

■参考サイト
鉄道地図一覧(ロシア語版)Схемы железных дорог
http://press.rzd.ru/wps/portal/press?STRUCTURE_ID=820
写真集メインページ(ロシア語版)
http://press.rzd.ru/wps/portal/press?STRUCTURE_ID=119

さて、その鉄道地図だが、行政区分別に塗り分けたベースマップの上に、路線が目立つ赤のラインで引かれ、駅を球状の記号で並べるというものだ。駅名には起点からのkm単位の距離が併記されている。前回紹介した鉄道地図帳と比較すると、同じ地図作成機関ロスカルトグラフィアのコピーライトが表示されているにもかかわらず、表現にはかなりの相違がある。

ウェブ版は、今も述べたように起点からの距離が書かれているが、地図帳は、道路地図によくあるように主要駅間の距離表示になっている。それにウェブ版では小駅(機能していない駅?)が省略されているようだ。路線の描き方で見ると、ウェブ版は地図帳に比べてかなり単純化されていて、時刻表の鉄道路線図という印象だ。ルートは直線的だし、幹線と支線の区別もない。

その点、地図帳は極力実際の経路に近づけた表現になっていて、幹線かどうかも線の太さでわかる。ウェブ版はJPEG画像で、細かい文字が一部読み取りにくいが、印刷物ではその心配はない。このように概して地図帳のほうに一日の長があるのだが、ウェブ版に記載されている亘り線や短絡線が、地図帳では無視されていたりするので、やはり複数の情報源で補うべきだろう。

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二つ目の鉄道地図は、距離や方角をデフォルメしたいわゆるスキマティックマップ(位相図)で、旧ソビエト連邦全域をカバーする個人の労作だ。うれしいことに英語版も用意されている。全体では相当大きなサイズになるため、横7×縦8=56枚に分割した画像で詳細を見るようにしてある。

■参考サイト
Russian, CIS and Baltic Railway Map(英語版)
http://parovoz.com/maps/supermap/index-e.html

左上隅に凡例があるが、それによると、まず彩色による区分で、予定線・工事線、廃止線・休止線、旅客輸送をしない単線とする単線、産業用の単線、旅客輸送をする複線としない複線、単線複線が入り混じる線区の別を示す。そして、線の種類による区分で、鉄道フェリー、電化線、狭軌線、3線軌道、ヨーロッパ標準軌道を表す。この組み合わせで路線の性格を詳しく読み取ることができる。例えば、モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ幹線は緑の二重線で描かれているので、全線が旅客輸送をする複線で、かつ1.5~3KV(実際は交流3KV)で電化されていることがわかる。

図上のルートは直交および斜め45度に単純化され、およその方向を示すに過ぎない。中間駅も大胆に省略されているが、その代わり、公式版鉄道地図には見当たらない貨物専用の枝線などがずいぶん発見できる。そのほか、地下鉄のある都市名は太字、路面電車のある都市は斜体で表されていて、都市交通を調べる手がかりになる。

このように、ロシアの鉄道ネットワークの全貌を一望することができる画期的な資料地図なのだが、広大な地域だけに、調べる側としては位置を特定する材料がほしい。だが、路線網以外に書かれているのは、単純化された海岸線と地域支社の境界線のみだ。地域支社の略称が付されているが、ロシア語をラテン文字に転写したもので、例えば、北部鉄道は英訳の Northern Railways ではなくロシア語で「北の」を表すセヴェルナヤ Северная の頭3文字の転写 SEV が使われている。ロシア以外の諸国も同様で、ウクライナに至っては地域鉄道別になっている。筆者は最初、どのあたりの路線網なのか皆目見当がつかなかった。

2種のウェブ版鉄道地図を一言で評すると、前者は旅行者用、後者は調査用だ。用途に応じてお使いになるといい。

★本ブログ内の関連記事
 ロシアの鉄道地図 I
 ロシアの鉄道を地図で追う

 近隣諸国のウェブ版鉄道地図については、以下を参照。
 フィンランドの鉄道地図
 バルト三国の鉄道地図
 ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版

2008年4月24日 (木)

ロシアの鉄道地図 I

Blog_russia_railatlas

中・東欧の地図を扱うオンラインショップを物色していたときに見つけたのが、この地図帳。地図178ページ、索引72ページ、その他含めて256ページのハードカバー本だ。多少古ぼけた印象の表紙の上部に書かれているのは、すばり「鉄道地図 Атлас железные дороги / Railway Atlas」で、その下に「ロシア、CIS諸国、バルト諸国」とあり、この1冊で旧ソビエト連邦全域の鉄道路線を概観することができる。

製作したのは「2002年、オムスク地図製作所 Омская картграфическая фабрика / Omsk Cartographic Factory」で、ロシアの地図作成機関ロスカルトグラフィア Роскартография / Roskartographia 関連の政府出資会社だ。

ページ構成は以下の通り。

・1:25,000,000行政区分図(CIS、バルト諸国含む)、地勢図
 いずれも見開き2ページに全域を収めた小縮尺図だが、ロシア地理の入門に役立つ。
・索引図、主要鉄道路線図
 前者は行政区域、後者は路線を地域鉄道支社別に色分けする。同じ色をメイン地図でも使っているので、直感的に関連がわかる。なお、CIS、バルト諸国は別の索引図がある。
・主要都市間距離、標準時間帯
 後者は挿図だが、11もの標準時をもつ大国らしい主題図だ。
・凡例集
 地図帳の表記はすべてロシア語だが、凡例だけは英語版も用意されている。

・行政区分別鉄道地図
これが本編で、見開き2ページにロシア連邦各行政区の全図と、州都の拡大図を挿図で載せるスタイルで統一している。ロシアの行政区は、州(オーブラスチ область)、共和国(レスプブリカ республика)、地方(クライ край)、連邦直轄市(федеральный город、 モスクワ市とサンクトペテルブルク市)ほかがあり、区分図の数も83にのぼる。

巻頭に概要が書かれているので、主だったところを紹介すると、
「この地図帳は鉄道で旅する乗客の参考になるように編集されている。掲載は地域鉄道支社の順で、バルト諸国、CIS諸国は最後にまとめてある。鉄道のない地域は省略されている。幹線道路、連絡航路、主要な町も掲載している。駅や停留所は名称とともにすべて書き込み、都市名が駅名と異なる場合は括弧書きで併記している。主要な駅間距離をルート上に書き添えている。州都拡大図は、鉄道路線のほかに市街地、道路、空港、水部などを示している...」。

最後に、駅名索引と、都市名と駅名が異なるケースの対照表がついている。

ちなみに、ロシアでも鉄道はすでに国の直轄から政府出資の株式会社に移行した。新生ロシア鉄道 Российские железные дороги / Russian Railways には17の地域支社がある。地図帳では、北西部を受け持つ最も歴史の古い10月鉄道 Октябрьская железная дорога / October Railways に始まって、バルト海に面した飛び地にあるカリーニングラード鉄道、首都とその周辺のモスクワ鉄道、ヤロスラヴリを拠点とする北部鉄道 Северная железная дорога / Northern Railways という順で、最後は、極東のサハリン鉄道が締めくくる。

地域支社の管轄区域が、おおむね行政区のかたまりごとに分割されているのも、地図帳から読み取れる。ただし、モスクワ市のページを見ると、モスクワ鉄道のローズ色が支配する中心部へ、バイオレット色の10月鉄道が北西から直線的に入ってきて目立つ。サンクトペテルブルクとを結ぶこの路線は、10月鉄道が一括管理しているらしい。

鉄道地図はすべて縮尺が明示されている。州別図の場合、最も面積の狭い州で1:750,000、広いものでは1:3,000,000(300万分の1)だ。州都の拡大図も1:200,000~1:500,000と、分類的には小縮尺に入る。そこに路線が、多くても数本引かれているだけだから、現実のスケールは想像をはるかに超えている。ロシアの大地は、長らく鉄のカーテンの向こう側にあったせいで、いまだに筆者にはほとんど馴染みがない。しかし、ここに描かれた鉄道路線と自然景などの手がかりと地形図を照合すれば、未知の領域に足を踏み入れる糸口がつかめるに違いない。

筆者は本書を以下のサイトで購入したが、ロシア書専門のナウカ・ジャパンのカタログにも載っている(Book No. R60847)。

■参考サイト
中・東欧の地図販売サイト Mittelosteuropa-Landkarten 
http://www.mittelosteuropa-landkarten.com/
ロシア鉄道公式サイト(英語版) http://eng.rzd.ru/

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2008年4月17日 (木)

バイカル環状鉄道

バイカル湖畔は、シベリア(横断)鉄道 Транссибирская магистраль / Trans-Siberian Railway(略称 Транссиб / Transsib)の車窓最大のハイライトだ。モスクワのヤロスラヴリ駅から東へ5153km、イルクーツク Иркутск / Irkutsk を発車すると、列車は山間を抜けてゆるゆると高台へ上って行く。ふと気がつくと、左手下方に「シベリアの青い瞳」が視界のかなたまで広がっていて、乗客たちの目はしばらく釘付けになる。

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晩秋のバイカル湖畔
シベリア鉄道スリュジャンカ Slyudyanka 付近
Photo by Алексей Задонский at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

シベリア南東部にあるバイカル湖 Озеро Байкал / Lake Baikal は、周囲2100kmもあるアジア最大の淡水湖だ。地学的にも生態系の点でもユニークな特徴をもち、世界遺産に登録されている。世界一深い湖で、最深地点はなんと水面下1637m、そのため貯水量はアメリカ五大湖の合計より多く、地球上の淡水量の1/5にも及ぶという。この湖岸に鉄道が到達したのは1900年のことだった。

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青マーカー:1898~1900年開通の、湖上を船で連絡する初期ルート
赤:それに代わる1901~1904年開通のバイカル環状鉄道
緑:現在のシベリア鉄道である1949年開通の山越え新線
灰色の枠は下記拡大図の範囲
基図は旧ソ連1:1,000,000 M-48, N-48(原画像を60%に縮小)

最初のルートは、湖水の唯一の流出口であるアンガラ川の左岸をイルクーツクから遡るもので、延長72km。湖に臨む岬の突端に「バイカル駅」と船着場が設けられた。同年には、対岸のムィソーヴァヤ Мысовая / Mysovaya の港(後に町はバブシュキン Бабушкин / Babushkin に改名)からさらに東進する路線が開通した。この間の往来に充てるため、イギリスから砕氷能力をもつフェリーを購入して、湖上連絡が実施された。しかし、1903~04年はことのほか厳冬で、砕氷が叶わず、凍結した湖面にレールを敷いて役畜に客車を曳かせたと記されている。

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冬のバイカル港(バイカル駅)
カメン・チェルスキー山から
Photo by LxAndrew at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

その一方で、バイカル環状鉄道 Кругобайкальская железная дорога / Circum-Baikal Railway と呼ばれる陸上の連絡路を建設するために、調査が進められていた。ムィソーヴァヤから湖の西端クルトゥク Култук / Kultuk までは湖岸に沿うのが順当だが、そこから先は4つの案が比較検討された。最終的に、山越えしてイルクーツクと短絡する3つのバリエーションは斥けられ、湖岸を東に進んでバイカル駅につなぐ計画が採用された。経済効率の点で優位だったとはいうものの、このルートも平地には恵まれず、湖に落ち込む断崖がほとんど切れ目なく続いている。

建設事業は、1899年にムィソーヴァヤ側から始まった。問題の北岸区間では、岩をうがち、33本のトンネルと248個所の橋梁を築く難工事となった。陸上の運搬路がないため、現場で調達できる石材以外の資材は、夏は船、冬はそりに載せて運んだ。1904年2月の日露戦争勃発後は、兵力の安定的な輸送が喫緊の問題となり、完成が急がれた。その年9月、ついに「鉄のベルトを留める金色のバックル」が開通を果たし、翌10月からは定期運行が開始された。

シベリアを横断する大動脈の成立は、東部の開発を促進し、まもなく輸送力の増強を求められるようになる。単線では1日14往復が限度のため、複線化して最大48往復とする工事が進められ、1914年に終了した。

1940年代には軌道のさらなる改良が計画された。しかし、険しい地形を縫う路線では落石や土砂崩れなどが頻発し、安全性を抜本的に高めようとすると費用は莫大なものとなる。調査報告書は、湖岸ルートの更新を断念し、クルトゥクの手前のスリュジャンカ Слюдянка / Slyudyanka からイルクーツクへ通じる短絡線に付け替えることを提案した。こうして初期の構想から50年を経て、1949年に山越えの新線が日の目を見たのだった。

その後も旧線は使われたが、1950年に、アンガラ川を堰き止める水力発電用のダム建設が始まる。イルクーツクからバイカル駅までの区間の大部分が水没する運命となり、1956年に廃止された。残されたスリュジャンカとバイカル駅の間は行き止まりの閑散線と化し、幹線であればトンネルや橋梁に配置される監視員もすべて撤退してしまった。1962年には崖崩れの被害で、複線の片方が使用不能となり、撤去された。

ここで、旧ソ連軍参謀本部の1:100,000地形図を用いてルートを見ておこう。

拡大図1では、右端のアンガラ川左岸に廃止線が4kmばかり水没を免れている。線路が湖岸に回りこむ位置にバイカル駅があり、かつて連絡船が発着した突堤がある。左へ続く湖岸は、比高300~400mの見るからに険しい斜面で、線路は波打ち際にへばりつくように敷かれている。随所に記された分数表示はトンネルの数値で、分子は高さ×幅、分母は長さを示す。

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【拡大図 1】バイカル駅付近
旧ソ連1:100,000 m-48-006(原画像を80%に縮小)
 

拡大図2は新旧路線の分岐点周辺だ。現在の幹線であるイルクーツク短絡線が、反転を繰り返しながらゆっくり上っていく。複線のはずだが、スイッチバック形式の待避線が何箇所も見える。一方、図の右からやってきた旧線はここクルトゥクでようやく、わずかばかりの平地と集落を見出すことになる。

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【拡大図 2】新旧路線の分岐点付近
旧ソ連1:100,000 m-48-004(原画像を80%に縮小)
Map images courtesy of maps.vlasenko.net
 

地図に描かれている通り、旧線、延長89kmはその後も不遇時代を生き永らえた。やがて「バイカル環状鉄道」の名称は、もっぱらこの路線を指すようになった。鉄道の周辺にはダーチャ(自給自足のための別荘)や旅行者の宿泊所があって、買出しに出る人のために1日1本の普通列車「マターニャ」が運行されている。相当にくたびれた車両だが、リクエスト次第で駅でないところでも停ってくれるのだという。

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ポロヴィニー Polovinnyi 駅に停車する
バイカル環状鉄道の普通列車「マターニャ」
Photo by Artem Svetlov at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

さらに、単なる地元民の生活路線からの脱皮も始まっている。すでに1982年に工学遺産および自然保護区域として、州議会により指定の対象に挙げられたが、1996年の世界遺産登録以降、湖の眺望をほしいままにできる鉄道には、観光資源としての見直しがかけられた。

2003年から定期観光列車の運行が始まり、イルクーツク直通で夏季は週に2往復、それ以外は1往復している。これを利用するツアーの旅程によれば、イルクーツクからダム湖西側の道路をバスで走って、湖岸のリストビヤンカ村に滞在、翌日フェリーで湖上を移動してバイカル駅に上陸、そしてこの観光列車に1日たっぷり乗車して、発地に戻る(またはこの逆コース)。

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蒸機が牽く観光列車
ポロヴィニー第2トンネルにて
Photo by Andrei Marhotin at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

鉄道の沿線人口は極小で、災害のリスクも高く、立地条件は非常に厳しい。それだけに、地域にとって近代史の語り部でもあるバイカル環状鉄道のルネサンスに注目したいものだ。

■参考サイト
Circum-Baikal railway http://kbzd.irk.ru/Eng/
バイカル環状鉄道に関するデータ集(英、露語)

The Trans-Siberian Railway (Web Encyclopedia) http://www.transsib.ru/Eng/
シベリア横断鉄道に関するデータ、写真、歴史など非常に充実した資料集(英、露、独語)

バイカル環状鉄道ツアーの一例 Tours to Baikal - Circumbaikal Railway Tour
http://www.baikalex.com/travel/circumbaikal.html

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