日本の鉄道

2025年2月 5日 (水)

ライトレールの風景-とさでん交通駅前線・桟橋線

特急南風号で四国山地を縦断し、高架化されたJR高知駅のホームに降り立った。南面が開いていて、列車が出ていくと、駅前広場の眺めがさっと開ける。背の高い椰子の並木を伴ってまっすぐ延びるはりまや通りの中央に、複線の線路が見える。高知の路面電車、とさでん交通が走るルートだ。

きょう2024年11月30日は、海外鉄道研究会の設立50周年行事で、とさでん交通の外国製トラムを貸し切って乗車・撮影会がある。先に実施されたフォトラン(走行風景撮影)には都合で間に合わなかったが、続きで用意されている乗車体験を楽しみにやってきた。

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高知駅前電停、後ろはJR駅高架ホーム *
(キャプション末尾に*印があるものは2022年9月撮影、無印は2024年11月撮影)
 

まずは予備知識として、とさでん交通の軌道線の概要を記しておこう。

路線の延長は25.3kmで、意外にも、路面電車の町として認知度の高い広島に次いで全国2位の規模をもっている(下注)。このうち縦軸が駅前線(はりまや橋~高知駅前 0.8km)と桟橋線(はりまや橋~桟橋通五丁目 2.4km)、横軸が後免(ごめん)線(後免町~はりまや橋 10.9km)と伊野線(はりまや橋~伊野 11.2km)だ。

*注 広島電鉄の路線延長は、鉄道線である宮島線16.1kmを含めて35.1km。ちなみに3位は京阪電鉄の軌道線(京津線・石山坂本線)21.6kmだが、併用軌道区間は短い。4位は阪堺電気軌道の18.3km。

両者は、中心部のはりまや交差点(下注)で交差している。路線名が二分されているが電車は直通しているため、縦軸は南北線、横軸は東西線と呼ばれることもある。

*注 電停名は「はりまや橋」だが、交差点は「はりまや交差点」という。

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とさでん電車路線図
 

とさでんのルーツである土佐電気鉄道(下注1)の開業は、1904(明治37)年に遡る。当時、四国の他3県にはすでに鉄道が通っていたが、すべて蒸気鉄道であり、路面電車が走るのは最初だった(下注2)。ちなみに現JR四国の土讃線はそれより20年遅れて、1924(大正13)年にようやく高知~須崎(すさき)間、翌年に土佐山田~高知間が開通している。

*注1 地元では土佐電ではなく土電(とでん)と呼ばれてきた。
*注2 愛媛県の伊予鉄道の開業はより早い1888(明治21)年だが、これは松山~三津間の蒸気鉄道線であり、市内軌道線の開業は松山電気軌道による1911(明治44)年が最初。

土讃線の開通からほどない1928(昭和3)年に高知駅前への延伸線が開業して、現在の路線網が完成した(下注)。戦時下の陸運統制令による高知鉄道との合併では、後免~安芸(あき)間の安芸線が加わるものの、1974年に廃止となった。経営難により県が介入して、とさでん交通の名で再出発したのは2014年。県と沿線自治体が会社の全株式を保有しているので、実態は公営企業だ。

*注 当時は、後免線の若松町通(現 知寄町二丁目)で分岐する新地線0.5kmもあったが、戦時中の休止を経て1954年に廃止。

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維新号、開業時の7形のレプリカ

高知駅前電停は、文字どおりJR駅のすぐ前にあってとても便利だ。かつては駅前交差点東側の道路中央に置かれ、利用客は、今も残る歩道橋でアクセスしていた。駅へ直進する形に改修されたのは2001年のことだ(下の写真参照)。JR線の高架化に伴い旧駅舎が撤去された後、2009年にさらに少し北進して、現位置に収まった。

今回の乗車会の集合場所は、桟橋線の終点近くにある桟橋車庫になっている。とさでん交通の本社やバスの営業所もある同社の運行拠点だ。さっそく桟橋通五丁目行きの電車に乗り込んだ。

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駅前広場に移転後の先代電停(2004年撮影)
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現在の電停とJR高知駅
 

電車は、駅前の交差点を横断すると、片側2車線が確保されたはりまや通りのセンターリザベーション軌道をまっすぐ南へ向かう。電停名でいうと、高知橋(こうちばし)、蓮池町通(はすいけまちどおり)と来て、次がはりまや橋になる。はりまや橋そのものは北側の堀川(跡)に架かる小橋に過ぎないが、交差点は高知市街の中心だ。上述のとおり、とさでん交通の軌道線はすべて、ここを起点か終点にしている。その意味では江戸の日本橋のような存在かもしれない。

ビルに囲まれた広い交差点の中央で、軌道が十字に交わっている。ダイヤモンドクロッシングと呼ばれ、日本ではもう、名鉄築港線と伊予鉄道とここでしか見られない。他の2か所と異なるのは、十字のどの方向にも分岐できるように急カーブの渡り線が付随していることだ(下注)。

*注 渡り線は北西側のみ複線で、他は単線。そのため直接右折できるのは北(高知駅前方面)から来て西(伊野方面)へ行く場合に限られる。

それで、とさでん交通の公式サイトは、3両の電車が同時に渡り線を通過するトリプル・クロスに言及している。といっても、右左折する便が朝夕しか走らないため、平日の8時12分ごろ、運行状況によって「まれに」見られるのだそうだ。イベントとしては興味深いが、とても通りがかりの旅行者の手には負えない。

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はりまや交差点のダイヤモンドクロッシング
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現在のはりまや橋 *
 

交差点を横断し終えて、南詰にあるはりまや橋電停で停車。車内の客がごっそり入れ替わった。ここから潮江橋(しおえばし)までの約250mは、あとの桟橋通一丁目~土佐道路交差点間約400mとともに、緑化軌道になっている。冬枯れの軌道敷を左へゆるやかにカーブしていき、鏡川に架かるその橋を渡る。

次の梅ノ辻(うめのつじ)電停以南は、潮江線として1904年に最初に開業した区間の一つだ(下注)。現在は完全に市街化しているが、建設当時は一面の田園地帯だったため、気持ちのいい直線ルートが延びる。そこに桟橋通一丁目から五丁目まで、順番に電停が並んでいる。

*注 最初、この潮江線(梅ノ辻~桟橋(現 桟橋車庫前))と本町線(堀詰~乗出(現 グランド通))の2区間で開業し、2年後の1906年、潮江橋(当時は専用橋)の完成により堀詰~梅ノ辻間が結ばれた(ただし現ルートとは異なる)。

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(左)潮江橋へ向かう緑化軌道 *
(右)桟橋通一丁目付近
 

終点の桟橋通五丁目は、港前の交差点を渡った堤防沿いの狭い敷地にある。手前で上下線が合流し、単線で頭端ホームに入っていく。比較的新しい屋根が掛かっているが、これは2009年にホームや駐輪場とともに整備されたものだ。それ以前は南端の家屋の手前まで線路が延びていたので、今もその一部と車止めが残っている。

桟橋という地名は、土佐電気鉄道が開業に合わせて、ここに船をつける桟橋を築いたことに由来する。鉄道網が未整備の時代、ここと県内各地の港や関西方面との間に航路が開設され、船の大型化により港が移転した1935(昭和10)年ごろまで、土佐の玄関口として機能した(下注)。電車も、港と高知市街や沿線の町を結ぶ物流の動脈だったのだ。

*注 『土佐電鉄八十八年史』土佐電気鉄道、1991年 による。

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桟橋通五丁目、電停手前で単線に *
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堤防沿いの桟橋通五丁目電停 *
 

終点の160m手前、すなわち四丁目と五丁目の間に桟橋車庫前電停があり、北側で2本の引込線が車庫へ分岐している。私が着いたのは、フォトランに出ていた貸切電車が帰ってくる直前で、入庫シーンになんとか間に合った。

引込線は、下り線(桟橋通五丁目方面)には接続されていない。それで電車は桟橋車庫前の電停を通過してから停車。バックして南側の渡り線を通り、上り線(高知駅方面)に転線する。そのまま、また車庫前電停を通過して、引込線分岐の北側へ。それからもう一度前進して、ようやく引込線に入ってきた。

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桟橋車庫 *
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(左)フォトランから帰ってきた貸切電車
(右)桟橋車庫前電停を通過
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(左)上り線へ転線して、ようやく車庫引込線へ
(右)車庫に帰還
 

14時15分、フォトランで沿線に散開していた参加者が全員、車庫に集合する。ひととおり説明を受けた後、発車までの間、車庫内の保存車両区域で、留置車両の自由見学が許された。初代車両7形のレプリカとして造られた維新号も休んでいるが、参加者の関心の的はやはり外国製の旧型電車だ。

これらは、1989年に開業85周年を迎えた旧 土佐電気鉄道が、記念事業の一環で収集したものだ。第一号となったドイツ・シュトゥットガルト市電は、後の2013年に福井鉄道へ移籍した(下注)が、続いて到来したポルトガル・リスボン、ノルウェー・オスロ、オーストリア・グラーツからの計3両は今もこの車庫にいる。定期運用されていた時期もあったが、車齢の進行により近年はイベントや貸切でしか公開されない。それで今日は、貴重な古典車両を間近に観察できるまたとない機会だ。

*注 GT4形。レトラムの名で現在も運用されている。福井鉄道については「ライトレールの風景-福井鉄道福武線」参照。

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(左)1947年製リスボン市電910号
(右)1949年製グラーツ市電320号(グラーツ時代は204号)
 

このうち貸切運行に供されるのは、オスロから来たB形と呼ばれる電車だ。1939年の製造で、1992年5月から高知の街路を走っている。車長が15mを超える長いボギー単車で、後部の形状が魚のように見えることから、ノルウェー語で金魚を意味する「グルフィスク Gullfisk」のあだ名がある。

ユニークなのは、車端片側の乗降扉だけでなく、車両の中央にも両開きの折り戸がついていることだ。そのため中央部はデッキになり、客室が前後に分かれている。座席は向き固定の2+1人掛けで、集団離反型の配置だ。ここで走らせるために軌間や車幅の変更、車端扉の左右付替え、両運転台化など(下注)かなり手が加えられたため、もはやオリジナルとは言えないが、この形式では北欧以外で唯一の保存車になる。

*注 オスロ市電は標準軌(1435mm)で右側通行。進行方向を変えるループ線があるので「グルフィスク」は片運転台車として製造された。

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(左)オスロ市電198号、後部の形状が魚に似る
(右)客室は前後に分かれ、座席は向き固定の2+1人掛け
 

発車時刻が近づいてきたので、グルフィスクに乗り込んだ。14時42分に車庫を出発。直接北へ向かうから、先刻のようなスイッチバックは必要ない。本線軌道に入り、行き交う車と並走する。速度が増すにつれ、吊掛駆動特有のうなりが聞こえてきた。見慣れたいつもの電車とはスタイルが違うので、道行く人の目を引くようだ。視線がこちらに向けられ、中にはスマホをかざす姿も見られた。

走行ルートはトの字形だ。まず上り線で終点の高知駅前まで行き、折り返す。はりまや交差点では後免線に入り、東進して知寄町(ちよりちょう)で折り返し。同 交差点まで戻った後、改めて桟橋線を南進し、桟橋車庫前へ。最後に、例のスイッチバックで車庫に入る。配られた業務運行表によれば、走行距離9.959km、所要1時間のミニトリップだ。

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はりまや交差点にさしかかる「グルフィスク」
海外鉄道研究会 田村公一氏撮影
 

フォトランも同じルートだったので、遅れてきた私以外、走行風景はみな脳裏に焼き付いているらしい。車窓から町の眺めを楽しみながら、あれやこれやと会話が弾む。15時00分に高知駅前の2番線に入線。後ろをついてきた定期運行の電車が隣の1番線に入ってきた。

4分停車の後、また先行して発車する。はりまや交差点のダイヤモンドクロッシングで左折するが、このルートで走る定期便は設定されておらず、貸切運行の特典だそうだ。

知寄町では、電停を通過してから、東方の渡り線で西行線(伊野方面)に転線した。ここに昔、車庫があったと、誰かがつぶやく。跡地に建っているのはパチンコ店らしく、往時の面影は全くなかった。

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桟橋通一丁目付近を行く
海外鉄道研究会 針谷光宣氏撮影
 

15時21分に再び走り出した。ダイヤモンドクロッシングでまた左に曲がって、帰途に就く。桟橋車庫前では、面倒なスイッチバックの通過儀式を居ながらにして見学した。着脱式のブレーキハンドルを携えた運転士さんが、すっかりくつろいでいる私たちの間をすり抜けて、両端の運転台の間を一往復する。

行程を無事終了して、車庫の所定位置に到着したのは15時42分。晩秋の日は短い。電車のステップを降りると、軌道の間に敷かれた古い石畳に参加者たちの長い影が落ちた。

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桟橋車庫に帰着
 

■参考サイト
とさでん交通 https://www.tosaden.co.jp/

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 ライトレールの風景-阪堺電気軌道阪堺線
 ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

2025年1月29日 (水)

新線試乗記-大阪メトロ中央線、夢洲延伸

大阪メトロ(Osaka Metro)中央線は、大阪市街地の中心部を東西に貫く地下鉄線だ。従来の運行区間はコスモスクエア~長田(ながた)間17.9km。長田で近鉄けいはんな線と相互乗入れし、列車は生駒(いこま)山地を越えてその終点、学研奈良登美ヶ丘(がっけんならとみがおか)駅まで直通運転されている(下注)。

*注 本ブログ「新線試乗記-近鉄けいはんな線」参照。

2025年1月19日に、起点側のコスモスクエアから夢洲(ゆめしま)に至るひと駅間3.2kmが延伸開業して、全長は21.1kmになった。夢洲は大阪湾を埋め立てた人工島の一つで、今年4月から10月まで開催される大阪・関西万博の会場がある。会期中、メトロ中央線は鉄道系で唯一の交通手段になる予定だ。

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夢洲駅に入線する400系電車
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大阪メトロ路線図
緑のラインが中央線、夢洲は左端
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夢洲延伸を告げるポスター

新線ができると乗らずにはいられない性格につき、開業3日後にさっそく出かけた。新規区間だけではあまりに短いので、乗入れ先の近鉄生駒駅からけいはんな線と中央線を乗り通すことにする。

生駒駅は、近鉄の主要路線の一角である奈良線や、その支線の生駒線との接続駅だ。奈良線ホームの北側に並行して、けいはんな線の島式ホーム1・2番線がある。けいはんな線は地上に敷かれた給電レールから集電する第三軌条方式なので電柱や電線がなく、隣の奈良線に比べて、すっきりした景観だ。

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生駒駅東方
右隣の奈良線と比べ、すっきりした景観のけいはんな線
 

平日日中の電車は、オフホワイト地にオレンジと水色の帯を巻いた近鉄の7000・7020系と、ドア周りが緑の縦縞になった大阪メトロの新型400系がおよそ交互にやってくる(下注)。緑は中央線のシンボルカラーで、沿線にある大阪城公園の森をイメージしているという。ただし、大阪城のあたりでは地下を走っているので、乗客にとってはあくまで心に浮かぶイメージだ。

*注 このほか、御堂筋線・谷町線の30000系と同系統で、水玉模様をあしらった新製車両(30000A系)も、万博終了までの間、中央線で運用されている。

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(左)大阪メトロ400系
(右)近鉄7000系
 

この400系は、2023年にデビューしてしばらく経つが、正方形を隅切りしたユニークな顔立ちが今でも目を引く。6両編成のうち1両だけ、車内に1人掛けのいわゆるぼっち席が並んでいるのもおもしろい。居心地がいいので、うっかり乗り過ごしてしまいそうだ。座席定員がロングシート車より少ないから座れる確率は低くなるが、すいていたらぜひ試してみたい。

それに対して目になじんだ従来車20・24系はもう見かけない。仲間が多く走っている谷町線などに転出してしまったそうだ。きっと車体の塗色も変更されて、もといた路線の面影は跡形もなくなっていることだろう。

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400系車内
(左)5人掛けロングシート車
(右)1人掛けシート車、扉間に向き固定で3席配置
 

東から坂を上って、電車がホームに入ってきた。乗り込むと、当たり前のように車内アナウンスが夢洲行きと告げるが、どこかのレジャーランドのような響きで、まだ聞き慣れない。生駒駅を後にすると、間髪を置かず生駒トンネルに突入した。奈良・大阪府県境の生駒山地を貫くこのトンネルは4737mで、近鉄の路線網では、大阪線の新青山トンネル(5652m)に次ぐ長さがある。

4~5分かけて闇を抜け出し、新石切(しんいしきり)駅に停車。ここは高架駅で、後ろを振り返ると、屏風のように立ちはだかる生駒山を仰ぎ見ることができる。しかし、明かり区間は約3km強に過ぎない。荒本(あらもと)駅の手前で、電車はまた地下へ潜ってしまう(下注)。

*注 地形図では吉田(よした)駅の手間でトンネルに入るように描かれているが、実際は阪神高速の下(3階建ての2階部)になるだけでまだ高架上にある。

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新石切駅から生駒トンネル西口を望む
背後は生駒山
 

けいはんな線は、地下鉄と同じ運行パターンで、普通列車しかない。奈良線の快速急行なら、生駒から鶴橋までノンストップの16分だが、こちらは各駅停車だ。そして長田駅で大阪メトロにバトンが渡される。

長田駅の周辺は、道路交通の要衝だ。けいはんな線の上を通っている阪神高速13号東大阪線・国道308号(中央大通)と、南北の幹線道路である近畿道・中央環状線とが交わる大規模な東大阪ジャンクションがある。しかし、長田駅のたたずまいは近隣の中間駅と何ら変わらない。特異な点があるとすれば、会社境界なので乗務員交替があることと、地下コンコースに両社の券売機が仲良く並んでいることだ。

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長田駅地下コンコース
近鉄と大阪メトロの券売機が並ぶ
 

高井田(たかいだ)は、2008年のJRおおさか東線開業(下注)で乗換駅になった。車内の乗客が目に見えて増えてくるのもこのあたりからだ。次の深江橋(ふかえばし)駅との間に行政界があり、東大阪市から大阪市に移る。緑橋(みどりばし)から弁天町(べんてんちょう)までは8駅連続でさまざまな鉄道路線と交差しているので、客の入れ替わりも激しくなる。

*注 「新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間」参照。

森ノ宮(もりのみや)駅で、JR大阪環状線の内側、大阪の中心市街地に入る。まだしばらく外の景色は見えないので、時間があるなら下車して、シンボルカラーの由来になった大阪城公園へ足を向けるのもいいだろう。地下道から階段を上がれば、園路と森の向こうに大阪城の豪壮な天守閣が姿を現す。西へ歩けば、南側に難波宮(なにわのみや)史跡公園も広がっていて、周辺は散策にいいところだ。

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森ノ宮駅
(左)JRとメトロの出入口(右)中央線ホーム
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大阪城公園、正面に天守閣が見える
 

谷町(たにまち)線と交差する谷町四丁目から先、中央線は江戸期から続く旧市街地を貫いていく。平面的な地図ではよくわからないが、立体的に見ると鉄道と道路の3層構造で、地下に中央線、地上に中央大通、そして高架上に阪神高速が通っている。1960年代に都市計画路線として一体的に建設された東西の交通軸だ。

堺筋本町(さかいすじほんまち)駅から本町(ほんまち)駅にかけての船場(せんば)地区が最も大掛かりで、中央大通の上下線の間を巨大な再開発ビルである船場センタービルが陣取り、その上に阪神高速と中央大通の立体交差が載る。ビルには地下階もあるので、それを避けて中央線の上下線の間隔がかなり開いている。本町駅では御堂筋線と四つ橋線が交差するから、線内で乗換客が最も多く、広くなった構内が効果を発揮する。中央線西行の混んだ車内もここで一気にすく。

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本町駅構内図
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船場センタービル
御堂筋との交差点にて
 

次の阿波座(あわざ)駅を出ると、電車はようやく明かり区間に飛び出す。ビジネス街の中心部とはまた雰囲気が違い、九条駅の周りに延びるアーケード商店街には、下町の生活感が漂っている。従来の改札は東側だが、2009年に阪神なんば線(下注)が開通した際、乗換え用に西口もできた。

*注 「新線試乗記-阪神なんば線」参照。

弁天町駅では、再びJR大阪環状線と出会う。環状線も高架上なので、さらにその上を乗り越えなくてはならない。かつてここにJR西日本の鉄博である交通科学博物館があり、鉄道ファンの巡礼地だったのを思い出す。京都鉄博の開館に伴って2014年に閉鎖され、跡地は現在、駐車場だ。ホームからインバウンド客が多数乗り込んできた。この先はベイエリアで、1961年、中央線で最初に開通した区間になる(下注)。

*注 中央線は、1961年に大阪港~弁天町間が先行開業し、1964年から69年にかけて深江橋まで段階的に追加開業した。長田延伸は1985年。

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(左)九条商店街ナインモール
(右)弁天町駅ホーム
 

朝潮橋(あさしおばし)駅ではホームの西端から、カーブを曲がって接近してくる電車がきれいに捉えられる。中央線では一番の撮影地かもしれない。

天保山(てんぽうざん)界隈がベイエリアの人気スポットになったのは1990年、巨大水族館の海遊館(かいゆうかん)などハーバービレッジの観光施設が開業してからだろう。大阪港(おおさかこう)駅はその玄関口として、休日を中心に今も多数の客が利用する。弁天町で乗ったインバウンド客もほとんどここで下車した。彼らのお目当ては、海遊館ではなく天保山マーケットプレースの商業施設らしい。

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朝潮橋駅西端のカーブ
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コスモスクエア海浜緑地からの眺め
正面に湾岸線天保山大橋、右手前のカラフルな建物が海遊館
 

大阪港駅を出ると、電車はまた地下に潜っていく。海底トンネルを通って咲洲(さきしま)のコスモスクエア駅へ。この駅の中央線ホームは地下2階にあり、その上の地下1階は、接続する「ニュートラム」のホームになっている。ニュートラム、すなわち大阪メトロ南港ポートタウン線は、住宅街や倉庫群が広がる南港地区を巡って、四つ橋線の終点、住之江公園(すみのえこうえん)駅まで行く新交通システムだ。大阪港で車内に残った客もほとんどここで降り、多くは地下1階行きのエスカレーターで上がっていった。

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コスモスクエア駅
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(左)同 ニュートラム乗り場
(右)小柄なニュートラム車両
 

大阪港駅を終点にしていた中央線の電車がコスモスクエアに到達したのは1997年(下注)。西側のさらなる延伸はそれ以来だ。各車両とももう3~4人しか乗っていない。電車はすぐにコスモスクエアを出発し、「次は夢洲、終点です」と自動アナウンスが車内に響く。かぶりつきで見ていると、はじめ左へ、その後右へカーブを続けて直線ルートに入った。夢咲トンネルの海底横断区間だ。最後にもう一度右カーブして、夢洲駅1面2線の頭端ホームに進入していく。その間約4分だった。

*注 延伸当時は大阪市交通局の路線ではなく、第三セクターの大阪港トランスポートシステム(OTS)が運行していた。運行が市交通局に移管されたのは2005年。

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夢洲駅
(左)地下2階ホーム(右)地下1階コンコース
 

ホームに降り立つと、可動柵はもとより壁や柱まで黒づくめのなか、折り紙風の凝った天井パネルと、床面から立ち上がる白色光の枠が迎えてくれた。エスカレーターで上った改札階は広々として、長さ60mという大型のデジタルサイネージが万博関連の画像を映している。横一線に10数台並ぶ壮観な改札機の列は、北陸新幹線の敦賀駅を思わせる。

改札を抜けると左手に、地上に上がる大階段と上下2本のエスカレーターが現れた。動線はシンプルで、初めてでも迷うことはない。大空の下に出ると、何かと話題になる木造大屋根リングが右奥にちらりと見え、左手には入出場のための東ゲートがあった。しかし一帯は当然のことながら工事中で、関係者以外立入り禁止だ。

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(左)地上への大階段
(右)地上出入口
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(左)東ゲート
(右)右奥に大屋根リングの一部
 

開業したてなので、私のほかにもスマホやカメラを掲げた見物客が多数うろうろしている。同じ電車に乗っていた人たちもその目的だったに違いない。デジタルの列車案内には、400系の姿を借りて「EXPO 2025まであと81日」と表示されていた。開幕に向け急ピッチで準備が進められる中、観客の最大の輸送手段にめどが立ったことはまことに喜ばしい。ただ肝心の博覧会の内容までは十分理解できておらず、3か月後にここを再訪するかどうかは、まだ決めかねている。

■参考サイト
Osaka Metro https://subway.osakametro.co.jp/

★本ブログ内の関連記事
 関西圏の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間
 新線試乗記-北大阪急行、箕面萱野延伸

2024年7月13日 (土)

祖谷渓の特殊軌道 II-祖谷温泉ケーブルカー ほか

前回に引き続き、祖谷渓(いやだに)にある特殊軌道を訪ねる。

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図1 祖谷渓周辺の1:200,000地勢図
 橙色の枠は詳細図の範囲、図2は前回掲載
(右)1978(昭和53)年編集、(左上)1986(昭和61)年編集、(左下)1995(平成7)年要部修正

 

てんとう虫のモノライダー

レジャー向きということなら、より小規模なモノレールが、西祖谷の中心、一宇(いちう)の対岸にある「祖谷ふれあい公園」で稼働している。祖谷渓の入口に位置しているので、アクセスも比較的容易だ。

名づけて「てんとう虫のモノライダー」。低年齢層に的を絞った外観だが、奥祖谷のカブトムシで見慣れたのでもはや気にもならない。線路構造は奥祖谷と違い、平滑レールを欠いた簡易版で、みかん山の運搬用モノレールに近い。車体も小ぶりだ。一応、前後2人乗りというものの、またがり席で奥行きもなく、子どもと大人1人ずつがせいぜいだろう。全長430m、乗車時間は約8分。

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「てんとう虫」乗り場
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カップルなら狭さは問題なし
 

ルートは周回型で、山腹をひとしきり上った後、高台の公園で半回転し、反対側の谷斜面を降りていく。端的に言って遊園地の遊具だが、後半では祖谷渓一帯の眺望がきくし、下り急斜面にヘアピンカーブで乗り出すなど、ささやかながら見どころやスリルもあり、悪くなかった。

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(左)前半は山腹を上る
(右)後半はヘアピンカーブで急降下
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「てんとう虫」から見る祖谷渓、遠景は一宇の集落

祖谷温泉ケーブルカー

祖谷渓にはケーブルカーもある。谷筋に点在する温泉宿で、館外の露天風呂へ客を運んでいるのだ。

大歩危から行くと、祖谷大橋を渡った一宇(いちう)で左折する。集落を抜けた後、V字谷の中腹をくねくねと伝う危うい一本道をたどる。これは、祖谷トンネル開通以前(下注)の祖谷渓を貫くメインルートなのだが、5kmほど先の、いくつ目かの張り出し尾根を回るところに、目指す「ホテル祖谷温泉」が建っている。

*注 祖谷トンネルを含む大歩危~一宇間は、1974年に祖谷渓有料道路として開通したが、1998年に無料化され、現在は県道。

そこは前後数kmにわたって人家の途絶えた場所で、まさにポツンと秘境の一軒宿だ。そのうえ、名物の露天風呂ははるか崖下の祖谷川の河原で湧いているため、旅館の建物から谷底まで、転げ落ちるような急斜面を降りていかなければならず、その間を小型のケーブルカーが結んでいる。

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ホテル祖谷温泉
 

谷底の温泉へ行くケーブルカーといえば、箱根の対星館にあったものが有名だが、老朽化で2009年に嘉穂製作所のスロープカーに転換された後、旅館自体も休業してしまった。同種のものは王子の飛鳥山をはじめ全国各地で導入されているから、もはや珍しいものではない。対する祖谷渓のこれは1984年の開業で、今なおケーブルで車両を上下させている。現在のシステムは2004年に更新された3代目だという。

現地の案内板によれば、車両の諸元は全長9.15m、幅1.60m、高さ2.14mで、乗車定員は17名だ。線路は、上下駅間の距離が250m、標高差170m、レールの勾配はなんと約42度(900‰、下注)もある。鉄道事業法によるケーブルカーの最急勾配は、よく知られた高尾山の31度18分(608‰)だから、それをはるかに上回る。

*注 後述するように一定勾配のため、斜辺と高さの値が正確なら、計算上は42.84度、927.44‰になる。

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本館と谷底の露天風呂を結ぶケーブルカー
 

旅館内施設ではあるものの、宿泊客だけでなく日帰り客も利用できるというので、モノレールの帰りに立ち寄った。フロントで1700円の日帰り入浴料を払って、通路を奥へ進む。乗り場のドアを開けると屋根は架かっているものの屋外で、V字の谷が見晴らせる。下を覗くと、ちょうどナローゲージに似た馬面のキャビンが上ってくるところだった。

ケーブルカーのルートは直線で、勾配も一定、あたかもエレベーターを斜めに立てかけたようだ。線路が降下していく先に、祖谷川の白濁した流れもかいま見える。

降りる客と入れ替えに、キャビンに乗り込んだ。車内は通路左右に1人席が配置され、長手方向は、勾配に合わせて思い切り急な階段になっている。乗員はおらず、セルフサービスの運行方式だ。最後に乗り込む人が乗り場のドアを閉め、車両のドアも閉める。そして進行方向の窓下にある「上り」「下り」のボタンを押せば、動き出す。所要時間は片道約5分だ。

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(左)急階段の車内
(右)前面車窓は額縁に嵌った絵画のよう
 

下降し始めはちょっと怖い。かぶりつきから見る景色が文字どおり千尋の谷底で、傾斜の感覚は42度どころか、それをはるかに超えているからだ。しかし動きはゆっくりで、加速もしないからすぐに慣れる。行路が半ばを過ぎると、木々の間から河原の眺望が開けてきた。直下のデッキで休憩している先客たちの姿もだんだん大きくなる。涼しげな川の水音が耳に届いてきて、間もなく下の駅に到着した。

鉄道趣味はここまでにして、後は温泉巡りの喜びに浸りたい。河原に面した露天風呂は天然かけ流しのアルカリ泉で、ぬるめの湯なのでゆっくりつかれた。その後は川べりに設けられたテラスに出て、幽谷を抜けていく風に吹かれる。日帰りで慌ただしく訪ねたことを正直後悔した。

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谷底から仰ぐ急傾斜路
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露天風呂に隣接する祖谷川べりのテラス
 

再びケーブルカーで本館に戻ったときに、フロントの人と言葉を交わした。「いいお風呂でした。もとの目的はケーブルカーに乗ることだったんですが」と告白すると、相手も笑いながら「そうでしたか。では、かずら橋のホテルも行かれましたか? あちらは逆に山を上っています」。

下調べが粗くて見落としていたのだが、その「新祖谷温泉ホテルかずら橋」でも、同じように本館と露天風呂の間をケーブルカーが行き来しているらしい。ネットで検索すると、切妻屋根の下に障子、羽目板壁が施されたとてもユニークなキャビンだ。和室が坂を上り下りする珍景と評されている。

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ホテルかずら橋の和風ケーブルカー
Photo by ブルーノ・プラス at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

これは行っておかないと、とは思うが、この日もう1軒はしごするのは時間的に難しかった。残念だが、次来るときの楽しみにとっておこう。また日帰り入浴では勿体ないし… 自らにそう言い聞かせて、くつろぎの一軒宿を後にした。

というわけで、秘境祖谷渓の知られざる特殊鉄道を巡る旅は、私の中でまだ終わっていない。

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図3 祖谷温泉~かずら橋周辺の1:25,000地形図
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.17(2021年)に掲載した記事「祖谷渓の「鉄道」巡り」に加筆し、写真と地図を追加したものである。
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図徳島(昭和53年編集)、剣山(昭和53年編集)、岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2024年6月15日取得)を使用したものである。

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2024年7月10日 (水)

祖谷渓の特殊軌道 I-奥祖谷観光周遊モノレール

ここで取り上げる奥祖谷観光周遊モノレールは、2022年4月以来、休業が続いている。乗りごたえのあるユニークな乗り物だったので、たいへん残念だ。早期の復活を祈りつつ、2018年10月に訪れたときのようすを振り返りたい。

比高1000mにも達する険しいV字の谷、崖際を心細げにたどる一本道、見上げるほどの高みに点々と張りつく集落…。徳島県西部に位置する祖谷渓(いやだに)は、広域合併で住所が三好(みよし)市になった(下注)というものの、今なお秘境と呼ぶにふさわしいエリアだ。

*注 祖谷渓のかつての行政単位は、三好郡西祖谷山村(にしいややまそん)および東祖谷山村(ひがしいややまそん)。2006年に、池田町ほか3町と合併して三好市となる。

周辺で鉄道路線と言えるのは、山一つ隔てた吉野川本流に沿って走るJR土讃線が唯一だ。ところが、モノレールやケーブルカーといった特殊鉄道なら祖谷渓の中にも複数存在し、一般客を乗せているという。いったいどんな路線なのか、2回に分けてレポートする。

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秘境祖谷渓
(掲載の写真はすべて2018年10月撮影)
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図1 祖谷渓周辺の1:200,000地勢図
 橙色の枠は詳細図の範囲、図3は次回掲載
(右)1978(昭和53)年編集、(左上)1986(昭和61)年編集、(左下)1995(平成7)年要部修正

 

奥祖谷観光周遊モノレール

阿波池田からレンタカーで国道32号線を南下した。大歩危(おおぼけ)で左折して、ヘアピンカーブの県道を上り詰め、長さ967mの祖谷トンネルを抜ければ、そこはもう山深き祖谷渓だ。整備された2車線道路はかずら橋の入口で終わり、その先は対向不能の狭隘区間が断続的に現れる難路になる。大歩危から延々1時間以上も走った後、菅生(すげおい)地区で脇道に折れ、向かいの山腹をさらに上っていく。こうしてようやく今日の宿「いやしの温泉郷」に着いた。

ちなみに公共交通機関で行く場合は、阿波池田または大歩危駅前から久保行きのバス(四国交通祖谷線)に乗る。終点で三好市営バスに乗り換えて、菅生で下車、そこから徒歩で25~30分というところだ。

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祖谷渓の玄関口、大歩危駅
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祖谷渓の一大名所、かずら橋
 

はるばるここまでやってきたのは、奥祖谷観光周遊モノレールが目的だ。2006年に開業したこのモノレールは、鉄道事業法や軌道法には拠らない純粋な観光施設だが、公園やテーマパークではなく、ふつうの山林の中を巡るという点がユニークで、かねがね乗ってみたいと思っていた。

乗り場は、宿のすぐ裏手にある。泊まった翌朝、早めにチェックアウトを済ませて、そちらへ向かった。運行開始は8時30分(下注)だが、今は連休中で宿泊客も多い。当日の予定運行数が完売したら、時間内でも受付を中止するという、案内パンフの不穏な警告文が気になっていたのだ。

*注 2018年の運行時間は4~9月が8:30~17:00、10~11月が8:30~16:30だった。なお水曜は運休、また12~3月は全面運休。

8時前に係の人たちが出勤してきて、乗り場のシャッターが開いた。予想に反してその時刻にいた客は、わがグループのほかに家族連れが1組だけ。遅れて何組かやってきたが、皆ゆっくり朝食を楽しんでいたらしい。車両は2人乗りだが、4分間隔で出発するから、この人数なら1時間程度でさばけるだろう。

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観光モノレール駅舎
 

出札窓口で大人2000円の乗車券を買い求めた。悪天候に備えて雨具やカイロも売っている。駅舎は車庫を兼ねていて、走行線に並行する数列の留置線に、車両が数珠つなぎに停めてあった。走行線へはトラバーサー(遷車台)で移動させるのだそうだ。

まず朝の試運転機が、無人で1台出発していった。次が私たち3名で、始発機と2番機に分乗する。車両は1人席が直列に2個並んでいる。前面にカブトムシの目と角がついた遊園地仕様なのが、ちょっと気恥しい。

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乗車券窓口
雨具や使い捨てカイロも売っていた
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(左)車両は遊園地仕様
(右)留置線と本線に移動させるためのトラバーサー
 

出発に先立って、備え付けのトランシーバーの使い方について講習を受けた。人里離れた森の奥では携帯電話が通じないので、これが唯一の連絡手段になる。続けていくつかの注意事項を聞いた。

「シートベルトは常に締めておいてください。急な下り坂では転落する恐れがあるので、足を踏ん張り、前面のバーをしっかり握ってください。

運行状況により、自動で走行と停止を繰り返すことがあります。もし前方に停車中の車両を発見したら、停止ボタンを押してください。立ち往生した時は連絡をもらえば係員が向かいますが、山道を歩いていくので時間がかかります。最大3時間は待ってもらいますので、乗車前に必ずトイレに行っておいてください…。」

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乗り場
 

使われているシステムは、モノレール工業という会社(下注)が開発した産業用モノレールだ。みかん山などで見かける運搬装置(単軌条運搬機)を機能強化したものに他ならない。駆動方式は、主レールに取り付けられた下向きの歯棹に、車体側の歯車を噛み合わせる、いわゆるラック式だ。そのため急勾配に強く、性能上45度の登坂が可能だという。さらに右側に並行する平滑レールで車両を安定させ、左側の給電レールからはモーターの動力を得ている。

*注 モノレール工業株式会社(愛媛県東温市)は2010年7月に破産し、現存しない。

走るルートは延長4.6kmの周回線で、一周するのに65分かかる。しかも、観光周遊というのどかな名称にもかかわらず、実態は登山鉄道で、起点と最高地点との標高差が590mもある。上昇100mにつき気温は0.6度下がるので、3.5度の気温差が生じている計算だ。その間ずっと乗りっぱなしだから、トイレに関する指示も当然のことだろう。

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(左)車体を安定させるための補助輪
(右)駆動輪は上と下からレールを挟む
 

8時43分、出発の時間になった。係の人に見送られて駅舎を出ると、ループを回って杉の植林地に入っていく。

下り線が左側に揃い、複線になってまもなく、交差する林道を乗り越えるために最初の急坂が待ち受けていた。のけぞるような勾配をぐいぐい上るので、早くもラック式の威力を実感する。可動式の座席が、水平を保とうとして前傾するのもおもしろい。距離を所要時間で割った表定速度は毎分70m、時速にすると4.2kmだ。歩速並みのゆっくりしたペースだが、走りは着実で頼もしい。

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(左)交差する林道を急坂で乗り越える
(右)朝一番の試運転機が戻ってきた
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図2 奥祖谷観光モノレール周辺の1:25,000地形図
 

周囲はいつしか人工林から自然林に変わった。コナラ、イヌシデ、コシアブラなどと、樹種を教える名札がそこここに立ててある。ゆっくり観察する時間はないが、自然教室に来た気分だ。発車から約10分後、朝一番に出た試運転機とすれ違った。無事戻ってきたということは、この先の走行に障害がない証しだ。50mごとの標高値を記した札が、いつしか1000mを越えている。

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(左)沿線に樹種の名札
(右)50mごとの標高値を記した札も
 

往路の中盤では、小さな沢が右手に沿う。清水が勢いよく流れ落ち、水音が静寂の林にこだまする。何かの小屋を通り過ぎたところで、下り線が木々の間に消えていった。ここから頂上にかけて、大きなループ、すなわち環状線になっているのだ。

同じ線路でも単線になったとたん、心細さが募ってくるのは不思議だ。運行間隔からして280m四方には誰もいないはずだし、事実、先行している始発機も、最後まで姿を見かけることはなかった。それに乗っていた友人は、途中で鹿が走り去るのを目撃したそうだ。

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沢沿いに上る複線区間
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杉林の中で上下線が分かれる
 

地滑り跡にできたと思われる小さな沼地を通過。どこまで登るのだろう、とやや不安になった頃に、進行方向の視界が開けてきた。稜線に載り、少し上ったところが標高1380mの最高地点(下注)だ。地形的には、四国の屋根の一部をなす三嶺(さんれい)の、中腹に生じた肩の部分にあたる。時計を見ると9時15分、およそ30分かけて登りきったことになる。晴れた日にはこのあたりで東に剣山(つるぎさん)を望めると聞いたが、今日は霧が漂い、視界がきかなかった。

*注 モノレールのパンフレットに従い、1380mとしたが、地形図では、その付近に1385mの標高点が打たれている。

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(左)地滑り跡の沼地を通過
(右)最高地点付近は霧が漂う
 

復路は、下り一方かと思うとそうでもない。地形図の等高線でも読み取れるが、湿原のある小さな谷を巻いていく区間がある。勾配が落ち着き、少しほっとする数分間だ。しかしすぐに鵯(ひよどり)越えの逆落としのような急坂が復活し、上り線と合流する。

同じところをさっき上ってきたはずだが、下りのほうが傾斜感がはるかに強い。乗り場での注意を思い出して、手すりを握り、足を踏ん張った。ピニオンがラックレールとしっかり噛み合っているので、下りでもジェットコースターのような加速はしないから安心だ。

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復路で湿原のある谷を巻く
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(左)下りの急坂
(右)上りより傾斜感が強調される
 

この間に後発機と何度かすれ違う。手を降り返したりするうちに、孤独感はいつのまにか薄れていた。再び林道をまたいで右に曲がると、ゴールの駅舎が見えてくる。9時46分に無事帰着。

秘境奥祖谷の山中を行くこのモノレール、65分の乗車時間は子供連れには長すぎるという意見も目にする。確かに、長時間座席に固定される割には、気晴らしになる眺望も少ないから、レジャー向きとは言えないかもしれない。しかし、林野の植生や山岳地形に興味のある人なら、退屈している暇はないだろう。いわんや、学校で社会科の地図帳に架空の鉄道を落書きしていたような線路好きの私にとっては…。

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ゴールの駅舎が見えてきた
 

次回は、より小規模なモノレールと、温泉宿のケーブルカーを訪ねる。

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.17(2021年)に掲載した記事「祖谷渓の「鉄道」巡り」に加筆し、写真と地図を追加したものである。
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図徳島(昭和53年編集)、剣山(昭和53年編集)、岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2024年6月15日取得)を使用したものである。

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 祖谷渓の特殊軌道 II-祖谷温泉ケーブルカー ほか
 コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ
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2024年6月16日 (日)

鶴見線探訪記 II

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旭運河を渡る鶴見線205系
 

海芝浦支線

大川支線を往復した後、海芝浦(うみしばうら)行の待ち時間を利用して国道駅と鶴見駅を見に行った(全体の行程は本稿末尾に記載)のだが、それは後述するとして、先に海芝浦支線の話に進もう。

この支線の接続駅は、安善駅の一つ鶴見寄りの浅野だ。駅名は、臨港鉄道を設立した浅野財閥の浅野総一郎にちなんでいる。支線の分岐点は駅の東側(鶴見側)にあるので、鶴見発、海芝浦行きの下り列車は、駅到着前に右にそれ、急曲線上に設置された支線上の3番線に停車する。ここはまだ複線なので、向かい側に上りの4番線がある。

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(左)海芝浦支線が複線で右へ分岐
(右)浅野駅も上下別ホーム(復路で撮影)
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海芝浦支線周辺
 

浅野9時37分発。車内は早くもがらがらだった。長い直線路に入ると、左手にちらちらと海が見えてくる。海といっても運河だが、工場や操車場のような潤いの乏しい景色を通り抜けてきた後なので、印象は新鮮だ。

新芝浦駅に停車した後、渡り線があって単線になった。右隣の線路は工場への引込線だが、もはや草むらと化し、レールはほとんど見えなくなっている。埋め立て地の角で再び90度向きを変えると、もう目の前が終点の海芝浦駅だった。

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(左)新芝浦駅の後、単線に
(右)工場用地と海に挟まれた終点、海芝浦駅
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片面ホームは京浜運河に臨む
 

片面ホームに降り立てば、柵の後ろはさざ波揺れる京浜運河の水面だ。対岸は扇島で、向こうのほうに首都高速湾岸線の斜張橋、鶴見つばさ橋、さらに横浜ベイブリッジの高い主塔も望める。人工物ばかりとはいえ、海を隔てて見るとそれなりにいい眺めだ。

海芝浦駅の特色は、電車だけでなく、乗客にとっても行き止まりであることだろう。鉄道用地を含めて東芝の社有地で、駅舎のように見える建物は東芝関連会社の通用門だ。同社の従業員や事前に入構許可を得た人でなければ、駅の外に出ることはできない。

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ホームから南西望
横浜ベイブリッジの主塔も見える
 

ここまで来る人ならそれは先刻承知の上だと思うが、せめてゆっくり海を眺められるようにと、駅の続きにある短冊形の社有地に、海芝公園という休憩地が設けられている。狭いながらも庭木が植わり、ベンチも置かれて、親切な案内板が目の前の風景を説明してくれる。

都会のオアシスとして有名なスポットなので、この列車でもほかに2組、訪問客があった。9時41分に到着して、折り返しは9時56分発。わずか15分の慌ただしい滞在だったが、多少なりとも心のデトックスになった気がする。ちなみにこの支線も日中は列車が少なく、次は1時間20分後だ。

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駅の続きにある海芝公園
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公園の案内板
 

鶴見線本線

残るは本線だが、大川支線からの戻りで乗った鶴見~浅野間も含めて、起点から順に記すとしよう。

鶴見駅の鶴見線乗り場は、京浜東北線の階上コンコースから続く高架上にある。開設は1934(昭和9)年。鉄骨の大屋根に覆われた頭端式、2面2線の広いホームが、臨港鉄道時代の面影を伝えている。

コンコースとの間に中間改札があったはずだが、きれいさっぱりなくなっていた。なんとこの(2022年)2月末で廃止されたのだそうだ。鶴見線内の駅はすべて無人だが、そういえば乗車券の自販機も見当たらなかった(下注)。今や大多数がICカード利用なので、設置コストが見合わなくなったということか。

*注 ICカードを持たない客のために、乗車駅証明書発行機が各駅に設置されている。

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大屋根に覆われた鶴見駅の鶴見線高架ホーム
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(左)中間改札は撤去されていた
(右)朝の頻発時以外は手前の3番線を使用
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鶴見~国道駅周辺
 

朝の頻発時以外、列車の発着はコンコースに近い3番線が使われる。出発すると、直線路の先に黒ずんだ島式ホームの跡が見えてきた。鶴見総持寺の最寄りに設置されたかつての本山(ほんざん)駅だが、戦時中に廃止されたまま復活しなかった。

続いて背の高いトラス橋で、地上を走る線路の束を豪快に跨いでいく。なにしろここは運行系統でいうと、横須賀線・湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線(上野東京ライン)、東海道貨物線(相鉄・JR直通線)、さらに京急本線も並走するという名うての密集区間だ。線路の数でも10本に上る。鶴見線はこれらをひと息に乗り越して、海側に位置を移す。

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上下線の間に旧 本山駅のホームが残る
 

高架は続き、左に急カーブしながら最初の駅、国道(こくどう)に着く。珍しい駅名は、西側を横切っている京浜国道(第一京浜、下注)に由来している。地方私鉄らしい明快さだが、単に「国道」だと普通名詞だから、英語なら定冠詞をつけるところかもしれない。

*注 現在は国道15号だが、1952年以前の旧 道路法では国道1号。

名前もさることながら、駅の構造物も興味をそそる。一つは、ホーム屋根を支えている梁だ。架線ビームを兼ねさせるためか、浅いアーチで線路の上をまたいでいて、古い商店街のアーケードのようだ。

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国道駅、線路をまたぐアーチの梁
 

さらに興味深いのが地上部で、ホームから階段を降りきると、高架下に長さ約70mの薄暗い道が延びている。京浜国道と、一筋東を並行する旧東海道とをつないでいる通路だが、すすけたコンクリートアーチの列、鈍く光る天井灯、ベニヤ板が無造作に張られた側壁に、太い筆文字が踊る商店の看板と、あたかも時が止まったかのような稀有な空間だ。見た目はちょっと怖いが、海芝浦駅と並ぶ鶴見線の名所なので、一列車遅らせてでも行ってみる価値がある。

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高架下の通路に駅入口がある
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(左)時が止まったような通路
(右)旧東海道側の通路入口
 

国道駅の先で鶴見川を渡った後は、しばらく住宅地が車窓をよぎる。鶴見小野はその間にある駅だ。左に曲がると、旧 弁天橋電車区の留置側線群が左手に見え、いよいよ工業地帯に入っていく。島式ホームの弁天橋駅は、降車客が多かった。その次が、先ほど降りた浅野駅になる。

この前後は直線ルートで、ボートが繋がれた旭運河をはさんで、短い間隔で駅が連なっている。小ぢんまりした島式ホームに構内踏切で渡るのも小私鉄らしくていい。

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(左)浅野駅に隣接する旭運河
(右)安善駅の構内踏切から
 

安善を過ぎ、武蔵白石からは一転、左カーブで内陸へ入っていく。臨港鉄道開業当時、すでに川崎駅からの貨物線(現 東海道貨物線の一部区間)が存在していたので、それに接続するためのようだ。

右側から鶴見線を乗り越していく高架は、東海道貨物線の川崎貨物駅に至るルートだが、とうに廃墟化している(下注)。こうした連絡線路といい、沿線の広大なヤードといい、鉄道貨物輸送が盛んだったころに造られた施設が、なかば遺構になって静かに時を刻んでいるのも、この路線の典型的風景だ。

*注 このルートの武蔵白石寄りに、低位置で道路を横断している線路を引き上げるための昇開橋設備が残っている。

浜川崎駅を出ると、上り線と下り線が合わさり、あとは単線になって進んでいく。JR貨物の浜川崎駅になっているヤードの右端を通過して、右に大きくカーブする。南渡田(みなみわたりだ)運河を渡り終えたところに、片面ホームの昭和駅がある。再び右へ曲がり、がらんとしたヤードの、今度は左端を直進していくと、まもなく終点の扇町駅だ。

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(左)がらんとしたヤードの横を行く鶴見線(左の線路)
(右)直進するとまもなく終点
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扇町駅周辺
 

ホームには1両分の片流れ屋根が架かっている。だが、列車は、先頭車両の扉2枚がようやくその下に入る位置で停止した。車止めまで少し距離があるが、線路に生えた草丈が高すぎてこれ以上は進めないといった風だ。降りたのは私を含め5人だけ。そのうち2人は折返し組だった。突き当りに、平屋ブロック張りの簡易な駅舎が建っているが、もちろん無人で、窓口の形跡すらない。

扇町では、どの列車も折返し時間がわずかだ。この列車も10時47分に着いて、早くも10時50分に出ていってしまう。しかも次は、海芝浦と同じく1時間20分後だから、私も列車で帰るのははなから諦めている。

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扇町駅に到着
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(左)草むらに前進を阻まれる列車
(右)駅舎正面
 

調べてみて初めて知ったが、川崎市の南部一帯には、鶴見臨港鉄道のバス部門をルーツとする川崎鶴見臨港バスの路線網がある。鶴見線沿線と川崎駅との間には、日中でも10~15分間隔という高頻度でバスが走っているのだ。鉄道を補完するフィーダー輸送どころか、バスのほうが市民の主要な足で、鉄道は朝夕の大量輸送だけを引き受けているというのが実態らしい。

扇町も例外ではなく、川22系統のバス路線が延びてきている。JRには悪いが、10分待てば来るのだから利用しない手はない。扇町駅の最寄り停留所が「ENEOS株式会社川崎事業所前」のところ、終点の「三井埠頭」(これも会社名)まで少し歩いて、川崎駅行きのバスを捕まえた(下注)。

*注 三井埠頭~川崎駅間は所要24分。なお、川崎市バスの川13系統の終点も「扇町」だが、工場を挟み、駅とはかなり離れている(上図参照)。

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臨港バスの三井埠頭バス停
 

始発の時点では、乗客は私一人だ。しかし、別のバス停で乗ってきたビジネスマンの二人連れが、「すいてるけど、すぐに満員になるからね」と話しているのが聞こえてきた。その言葉どおり、町中に入るとバス停に着くたびにどんどん客が乗り込んでくる。平日の日中というのに、川崎駅に近づくころには座席はもちろん、通路も人でいっぱいになっていた。鉄道の周りに見えていたものとはまったく違う光景だった。

 

【参考】鶴見線全線乗車の行程(2022年9月、平日ダイヤ)

川崎 7:44発→尻手7:47着/7:53発→浜川崎8:00着/8:16発→安善8:20着/8:36発→大川8:40着/8:51発→国道9:02着→(徒歩、旧東海道経由)→鶴見9:30発→海芝浦9:41着/9:56発→浅野10:00着→(徒歩、旭運河で撮り鉄)→武蔵白石10:41発→扇町10:47着→(徒歩)→三井埠頭11:02発→(バス)→川崎駅前11:26着

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鶴見線と周辺の路線網
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.19(2023年)に掲載した同名の記事に、写真を追加したものである。
掲載の地図は、地理院地図(2023年1月25日取得)を使用したものである。

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 鶴見線探訪記 I

2024年6月13日 (木)

鶴見線探訪記 I

2022年9月の終わり、東京へ出かけたついでに、久しぶりに鶴見線に乗りに行った。最後の乗車が1984年なので、かれこれ40年ぶりの再訪になる。

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鶴見駅に入る鶴見線205系電車
 

鶴見線は、東海道本線(下注)の鶴見駅を起点とする全長9.7kmのJR線だ。浜川崎(はまかわさき)を経て扇町(おうぎまち)に至る本線7.0kmと、途中で海側へ分岐する海芝浦支線1.7km、大川支線1.0kmから成っている。

*注 所属路線は東海道本線だが、実際には京浜東北線の電車しか停車しない。

時刻表の路線図だけ眺めれば、ベイサイドラインとでも呼びたいところだが、実際の線路は終始、工場群を縫っていて、見栄えのする観光スポットもなければ、ショッピング街もない。主たる役割は、湾岸に広がる京浜工業地帯のこうした工場群への通勤客輸送で、一般客にはなじみの薄い路線だ。

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鶴見線と周辺の路線網
 

路線は1926(大正15)年に、私鉄の鶴見臨港鉄道として開業している。当時造成中だった鶴見・川崎の湾岸工業地帯に路線網を広げ、川崎からの貨物支線や南武鉄道(後の南武線)との接続で貨物輸送を実施する傍ら、鶴見で京浜線(後の京浜東北線)と連絡して旅客輸送も行った。1943(昭和18)年に国有化されてからは国鉄鶴見線として運行され、JR東日本に引き継がれている。

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80周年記念の壁面パネル
鶴見駅4番ホームで撮影
 

役割が特化されているだけに、利用者が集中する平日の朝夕は列車本数が多い。対照的に平日の日中や休日は、都会のローカル線と称されるとおり、閑散としたものだ。末端区間では列車の走らない時間帯が長いので、乗りつぶしには事前の「行動計画」策定を必要とする。

全線を乗るだけなら半日もかからないが、分岐駅と終点駅では駅や周辺を写真に撮るので、10分程度の時間を見ておきたい。しかし、これは言うほど簡単ではない。終点に到着すると、5分前後で折返してしまう列車が多いからだ。

1本見送って次の列車で戻ればいいのだろうが、その列車がなかなか来てくれない。最難関は大川支線で、日中、列車の運行がまったくなくなる。朝の最終便が大川8時40分着、8時51分発、これを逃すと次は17時台だ。そのため、計画はいやおうなしに、大川駅を軸にして組み立てることになる。

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運河に面した支線終点、海芝浦駅

南武線浜川崎支線

早起きが苦手なので、川崎駅近くに前泊していた。浜川崎支線経由で鶴見線にアプローチするため、朝、川崎7時44分発の南武線電車で尻手(しって)駅まで行く。

浜川崎支線というのは南武線の一部で、尻手から浜川崎に至る4.1kmのミニ路線だ。私などは、かつて福知山線からちょろんと出ていた通称 尼崎港線を連想してしまうが、浮世離れしていた同線 (下注)ほどではないにしろ、日中の運行は40分間隔と、都市域にしては頻度が高くない。それで、本数が多い朝のうちに乗っておきたかった。

*注 尼崎港線は現在の福知山線のルーツだが、晩年は旅客列車が1日2往復で、1981年に旅客輸送廃止、1984年には路線廃止になった。

尻手駅の3番線で待っているうち、南から第二京浜をまたぐ橋梁を渡って、2両編成の205系が入ってきた。側面の窓下に、波の上を舞う五線譜とともに「NAMBU LINE」の文字が入っているが、もちろんこの支線専用の編成だ。

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南武線尻手駅
(左)浜川崎方から列車が到着
(右)側面に五線譜のラッピング
 

尻手7時53分発。通勤通学の時間帯とあって、さすがに立ち客も見られる。かぶりつきで前方を観察していると、列車は東海道線の上をしずしずと渡って、京急線と交差する八丁畷(はっちょうなわて)へ。その後、右手から急カーブで近づいてきた東海道貨物線が、川崎新町の前後で合流する。車内は、駅に着くたびにすいていき、渡り線で右にそれて、木造屋根が架かる浜川崎駅のホームに到着したときには、もう1両に数えるほどの人しか乗っていなかった。

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南武線浜川崎駅に到着
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浜川崎駅周辺
北側が南武線(浜川崎支線)、南側が鶴見線の駅
 

浜川崎は鶴見線との接続駅だが、よく知られているように駅舎は別々だ。乗換えには駅前道路の横断を必要とする。両駅の出入口にあるICカードの簡易改札機の前に、乗継の場合は「出場」にタッチしないでください、と掲示が出ている。出場してしまうと、運賃が打ち切り計算されるからだ。

鶴見線のほうの駅は島式ホームなので、入口はそのまま跨線橋の階段につながっている。階上通路の突き当りに簡易改札機が設置してあった。ホームへはここから降りるしかないから、バリアフリーの実現は難しい。そのため、駅を東側のヤードに移して、南武線・鶴見線の合同駅にする計画があるそうだ。

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(左)木組みのホーム屋根
(右)駅入口
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道路を隔てて向かいにある鶴見線浜川崎駅
(左)入口に改札はなく、跨線橋に直結
(右)跨線橋通路の突き当りに簡易改札機
  右折すると階段でホームへ、左奥はJFEスチール社の専用通路
 

大川支線

ともかく鶴見線までたどり着いたので、さっそく目下の最重要課題である大川支線に駒を進めたい。

鶴見線開業150年のヘッドマークをつけた8時16分発の上り鶴見行に乗り、安善(あんぜん)駅で下車した。鶴見臨港鉄道の設立を支援した安田財閥の創始者、安田善次郎の名を冠したという駅名だ。大川支線は本来、一つ東の武蔵白石が分岐駅だが、20m車導入の障害になっていた急曲線上のホームが1996年に撤去され、以来ここが実質的な分岐駅になっている(下注)。

*注 運賃計算上は、今も武蔵白石が分岐点とのこと。

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安善駅
(左)駅舎
(右)駅名標が分岐駅を示す
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武蔵白石駅
(左)改築された駅舎
(右)中央は貨物線、右に曲がる大川支線のホームは廃止済み
 

8時台は鶴見線も列車が多い。島式ホームで待っていた16分の間に見送った列車は、上り2本に下り2本。それに降りてくる人の服装も、会社員風ばかりではなかった。確かにこの駅の周辺には住宅街や職業訓練校があるから、通学やお出かけにも利用されているのだろう。

大川行は8時36分発だ。クモハ12(下注)は遠い昔の話になり、鶴見線内共通の205系3両編成で運行されている。行先表示が大川になっているだけで、さっき見送った列車と何ら変わらないのは少し寂しい。車内はロングシートがだいたい埋まっていて、手堅い需要に支えられていることを実感した。ただ、朝寝坊してしまうと、あとの列車がないのが辛いが。

*注 大川支線で1996年まで運用されていた昭和初期に遡る旧型電車。車体長が17mと短く、武蔵白石駅の急曲線ホームに対応できる貴重な車両だった。

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安善駅に大川行列車が入線
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大川支線周辺
 

駅を出ると、列車はすぐに本線の上り線に移る。武蔵白石の手前で隣の貨物線と交差し、そのまま急な右カーブに入っていく。工場群の中を道路と並行しながら、小さな運河を一つ渡ると、まもなく大川駅だった。

折り返しの発車まで11分の余裕がある。それでだろうか。駅に到着しても、すぐに腰を上げない人が少なからずいるのには驚いた。2~3分は動くそぶりも見せなかったので、私のような冷やかし客なのだろうかと怪しんだほどだ。

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列車前面展望
(左)武蔵白石駅の手前で大川支線に進入
(右)運河を渡るとまもなく終点(復路で後方を撮影)
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朝の最終便が大川駅に到着
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大川駅
(左)物置小屋然とした駅舎
(右)妻面には小屋が接続されていた跡が
 

ホームは片面で、1両分だけ屋根が架かっている。駅舎は物置小屋のようで、おおかた剝がれた白いペンキがみすぼらしい。壁に発車時刻表が貼ってあった。昼間はみごとに空白だ。土曜休日はさらに減って、朝2本と夕方1本のみになる。

そこで気の利いたことに、最寄りバス停「日清製粉前」までの案内図も掲げてある。後で調べたら、川崎駅との間に日中でも毎時1本のバスが走っているようだ。代替手段がちゃんと用意されていると思えば、安心して寝坊できるだろう。

周辺の観察を終えて車内に戻ると、一人だけ先客がいた。この人と私の二人だけを乗せて、列車はもと来た道を引き返した。

続きは次回に。

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(左)駅掲出の時刻表、列車は朝夕のみ
(右)最寄りバス停の案内図
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(左)折返しを待つ205系
(右)折返し便の閑散とした車内
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.19(2023年)に掲載した同名の記事に、写真を追加したものである。
掲載の地図は、地理院地図(2023年1月25日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 鶴見線探訪記 II

2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

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左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-S 春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

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桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

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羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
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(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

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(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
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バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
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図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

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(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
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観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

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(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

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(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
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(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

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(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

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(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

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修復中のモハ103
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屋根の復元が進行中
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月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
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在りし日の三山線写真
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(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

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(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
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石田駅跡に残る桜の大木、西望
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
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図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

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石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
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(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

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羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

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(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

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白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
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図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

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寒河江川にかかるみやま橋
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(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

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三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

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三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

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楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
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図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

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展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
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楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
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同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

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旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
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夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-S 春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

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第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

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朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

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明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
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図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

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西条駅
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(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

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鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

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道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

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大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
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(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

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(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
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旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

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旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

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(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
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新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

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(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

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廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
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図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

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(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

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潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
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(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

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漆久保トンネル東口
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小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

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(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

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けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

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谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
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(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

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三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
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(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
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道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すれば、駅舎の前に出られる。

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(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
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明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

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2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-S 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や徒歩では通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

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周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げとなった。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

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柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、まず旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられている。階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だ。しかし、こちらもカーテンが引かれ、ひと気がなかった。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

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(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

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(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

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中ノ郷駅のホーム跡
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本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
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(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
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図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

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柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
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旧道沿いの本陣跡民家
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図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

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柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

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(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
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長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

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柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

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頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
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オリジナルのポータルが残る
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由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
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同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

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(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
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図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

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小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
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東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

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東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
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県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

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愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
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図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

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笙の川に残る橋台と橋脚の土台
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(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
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(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年(2023年)春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

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杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
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図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2024年4月25日 (木)

新線試乗記-北大阪急行、箕面萱野延伸

北陸新幹線延伸開業の翌週、2024年3月23日に、関西でも既存路線の延伸開業があった。北大阪急行電鉄南北線の千里中央(せんりちゅうおう)~箕面萱野(みのおかやの)間2.5kmだ。

新線の話題もさることながら、そもそも北大阪急行(以下、略称の北急(きたきゅう)と記す)という名称自体、関西圏以外ではなじみがないかもしれない。もとは1970年に大阪の千里丘陵で開催された万国博覧会の会場へのアクセスとして建設された路線で、博覧会終了後は、開発が進行していた千里ニュータウンの住民の足として機能してきた。

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箕面萱野駅を後にする北急9000系
 

しかし鉄道の知名度はともかく、そのポテンシャルは近隣の路線に勝るとも劣らない。というのも、線路は大阪メトロ御堂筋(みどうすじ)線につながっていて、事実上、同線の北の延長区間に当たるからだ(下注)。首都圏でいえば、メトロ南北線に直通している埼玉高速鉄道に似ている。

*注 駅ナンバーは両線通し番号で、頭にMがつく(M06~M30)。

いうまでもなく御堂筋線は、大阪の二大繁華街であるキタ(梅田周辺)とミナミ(心斎橋、難波周辺)、鉄道のジャンクションである新大阪や天王寺などを結んでいる鉄道の大動脈だ。北急の、標準軌で直流750V、第三軌条集電という規格・方式も同線のそれを踏襲したもので、乗換えなしに大阪都心まで到達できる便利さは、北急最大のアドバンテージになっている。

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大阪メトロ路線図(一部)
北急線は御堂筋線(赤色)の上部にある
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9000系ラッピング車
モミジで知られる箕面をアピールする
西中島南方駅から南望
 

冒頭に北大阪急行電鉄南北線と書いたが、北急の路線はこれ1本しかない。御堂筋線に接続する江坂(えさか)から、ニュータウンの中心である千里中央に至る5.9kmが従来の運行区間だ。大阪メトロ(当時は大阪市交通局)の新大阪~江坂間と同時に建設され、開業している(下注)。

*注 1970年2月の開業時は万国博中央口駅に至る路線だったが、終幕した9月に現 千里中央駅を終点とするルートに切り替えられた。

今回、これが北へ2.5km延伸された。線路は千里丘陵を越えて、北摂(ほくせつ)山地の手前に位置する箕面萱野駅に達した。きょうはその新規区間を含めて北急全線を、途中駅の観察を交えながら乗り通してみようと思う。

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延伸開業のポスター

新大阪で東海道線(JR京都線)から乗り継いで、地下鉄御堂筋線の広い島式ホームに上がった。地下鉄といっても、すでにここでは高架構造だ(下注)。ホームの北端にあるトレインビューの待合室から眺めると、架線やビームのないすっきりした線路が、新御堂筋(国道423号)の本線に両側を挟まれながらまっすぐ延びている。

*注 二つ手前の中津駅までが地下で、その後高架に上がり、淀川は橋梁で越えている。

延伸前まで御堂筋線の列車は、早朝深夜を除いて、新大阪か、千里中央で折り返す運用だった。しかし、今や千里中央の名は消えて、あらゆる案内表示が箕面萱野に置き換わっている。

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新大阪駅
(左)もう見られない千里中央行
(右)更新された路線図
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架線のない線路が北へ延びる
新大阪駅北待合室から北望
 

やってきたその箕面萱野行きに乗って、北へ向かった。両側の新御堂筋をクルマがひっきりなしに行き交い、その外側を中層のマンションや商業ビルがびっしりと取り囲む。東三国(ひがしみくに)に停車後、神崎川(かんざきがわ)を斜めに渡れば大阪市域を離れ、次が会社境界駅の江坂だ。

大阪メトロの管理駅はここまでで、短い停車時間に乗務員の交替が手際よく行われる。改札口はホームの両端にあり、出ると歩道橋で新御堂筋の側道(下道)をまたいで、側歩道に降りられるようになっている。

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江坂駅
(左)高架の島式ホーム
(右)歩道橋で側歩道に接続
 

下の写真は江坂駅の券売機コーナーだが、機械を大阪メトロと北急に分けているのが境界駅ならではだ。そのため、メトロ(地下鉄)の券売機の前で立ち尽くし、千里中央の切符はどうやって買うのか、と後ろに並ぶ客に尋ねている人を今でも見かける。

また、北急の運賃にも注目したい。1区わずか100円、千里中央まで6km乗っても140円だ。以前は1区80円だったと記憶するが、いずれにしろ破格値に違いない。ただし江坂を跨ぐと両社の運賃が合算(下注)されるため、相応の価格になる。これに対して、新規開業区間は60円の加算運賃が設定されて、1区160円だ。これでも他の公共交通に比べれば安い方だが。

*注 ただし短区間は、激変緩和策で合算額から20円割引。

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江坂駅の券売機コーナー
会社別に完全分離されている
 

さて、北急線に入ると新御堂筋が地上に降りていき、いったん鉄道単独の高架になる。トラス橋でまたぐ4車線道は名神高速道路で、この後30~35‰の急勾配で千里丘陵に上がっていく。緩いカーブでルートがやや西に振れているのは、東側の五里山(ごりやま)と呼ばれた尾根筋を避けたようだ。旧版地形図によればピークの標高は83.1mあり、今も一部は均されずに残っている。

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緑地公園駅に接近する上り列車
 

進むうちに新御堂筋のほうがじわじわと高くなり、次の緑地公園(りょくちこうえん)駅は掘割の中にある。ホームから空は見えるが、屋根の上は新御堂筋の本線道路だ。改札口も周囲の土地より低い位置にあるため、街路からは階段を降りて入る形になる。

唯一、西口は商業ビルの中を抜けて、幅広い緑陰の散歩道に続いている。まっすぐ進めば、駅名の由来である服部(はっとり)緑地公園にたどり着く。東の万国博記念公園と並ぶ、千里丘陵周辺に設けられた広大なオアシスだ。

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掘割の中にある緑地公園駅
ホーム屋根の上は新御堂筋
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(左)緑地公園駅西口
(右)服部緑地、東中央広場
 

緩い左カーブを曲がりきると、再び新御堂筋と並走する直線区間になる。周りはなお商業ビルが立ち並ぶが、竹藪や林も少しずつ見え始めて、丘陵の開発地らしい風景に変わってくる。

左後方に分かれていく桃山台車庫への引込線を見送ると、桃山台(ももやまだい)駅だ。すでにニュータウンの中核部にさしかかっていて、駅の周辺は、ゆったりした敷地に建つマンション群や整然と並ぶ住宅地が広がる。すぐ南に、昔の農業用ため池である春日大池の公園があるが、ここから新御堂筋と北急の線路を跨ぐ歩道橋を渡れば、桃山台車庫の横に出られる。鉄道好きには楽しい観察コースだ。

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桃山台駅、ホームに花壇も
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下り列車が桃山台駅を出発
南側歩道橋から撮影
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(左)桃山台駅から南望、車庫への引込線が右へ分岐
(右)桃山台車庫
 

桃山台を出ると、ニュータウン開発以前からある集落、上新田を迂回するため、ルートはまた左に振れる。行く手に高層ビル群やタワーマンションが見えてくるが、線路はまもなく地中に潜ってしまう。トンネルの中で右に曲がり、続いて左に反転するが、その際、右前方に万博会場へ向かっていた線路の跡がちらと見える。

路線延伸で中間駅の一つになってしまったとはいえ、千里中央、略して「せんちゅう」は今なお千里ニュータウンの公共交通の中心だ。北急と直交する形で伊丹(大阪国際)空港に至る大阪モノレールの駅があるし、ニュータウン内外に路線網を拡げる阪急バスが、駅の周りに多数の乗り場を構えている。またすぐ南に、新御堂筋と中国自動車道・中央環状線の大規模なインターチェンジがあるから、広域道路網上でも重要な地点だ。

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千里中央駅
(左)隣の駅名が左右両側に
(右)モノレール駅に通じる2階デッキ
 

北急のホームは地下2階に位置する。改札のある地下1階まで吹き抜けの構造で、ホームに停車中の電車を上から俯瞰できるのがユニークだ。きっと設計者は、御堂筋線の初期の駅に見られるヴォールト天井の広い空間をオマージュしたのだろう。上部は、せんちゅうパルと呼ばれる商業ビルで、1階はバス乗り場へ、2階はモノレールの駅へ通じている。

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2層吹き抜けの千里中央駅ホーム
 

さて、いよいよここからは開業したての新線だ。千里中央駅は新御堂筋から約150m東にあるので、線路はS字状に曲がって再びメインルートに戻る。地下を通っているため、乗客は気づくことがないが、地表の道路は北に向かって上り勾配だ。ニュータウンの外縁で、自然の尾根筋を残した千里緑地と呼ばれるグリーンベルトを通過している。

新線に一つだけある中間駅は、箕面船場阪大前(みのおせんばはんだいまえ)という。最近の新駅は、関係各方面に配慮し過ぎて名前が長くなりがちだが、これもその例に漏れない。箕面は市名、船場は地域名で、阪大前は近くにある大阪大学のキャンパスビルに由来する。

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箕面船場阪大前駅のホームと改札
 

ニュータウンの北に接するこのエリアは、過密化した大阪市内の繊維問屋街、船場から業者が多数移転して、新船場地区と言われた場所だ。直交する通りに商業ビルが林立していて、ニュータウン側とはまた別の景観を呈している。

駅のホームはもとより、改札階も地下にある。だが、南口には外光が入る吹き抜け空間が設けられ、長いエスカレーターが、コンコースと地上2階に相当するペデストリアンデッキを直結する。このデッキは、新しくできた市の文化施設や阪大のキャンパスビルに通じていて、商業地区の中でちょっと異質のこじゃれた雰囲気を漂わせている。

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南口の吹き抜け空間
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(左)南口1階
(右)2階相当のデッキは阪大のキャンパスビル(左奥)に続く
 

箕面船場阪大前を出発すると、まもなく列車は明かり区間に飛び出していく。谷底へ下っていく新御堂筋に対して、線路はやや上り勾配で高架に移る。前方に、北摂山地の山並みとその手前に広がる市街地が見渡せ、つかのま開放的な気分に浸れる。

高架の線路が横断しているのは、千里丘陵と北の山地との間で東西に横たわる回廊地形だ。古くは西国街道(山陽道)が通ったルートで、今は国道171号に引き継がれている。箕面萱野駅は、そのすぐ北側の緩斜面を区画整理した商業地の一角に造られた。頭端式のホームは見晴らしのいい高架上にあり、北口改札から段差なしでペデストリアンデッキに出られるようになっている。一方、国道に近い南口の周辺はまだ工事中で、仮囲いで覆われていた。

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箕面萱野駅の手前ですれ違うメトロ21系
地下線の出口から北望
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箕面萱野駅
(左)高架上のホーム
(右)改札から段差なしで続く

この路線の構想は1960年代まで遡るという。しかし、千里中央まで開通後、延伸区間が国の運輸政策審議会の答申に盛り込まれたのは1989年、事業が具体的に動き出したのは2010年代だ。2017年に始まった建設工事は、7年を経て完成に至った。この3月23日は、構想を推進してきた地元にとって待望の日だったことだろう。

しかし、このエリアがこれまで鉄道に恵まれていなかったのかというと、そうでもない。従来の最寄り駅は阪急箕面線の終点、箕面だが、萱野駅とは約2kmしか離れておらず、自転車で十分通える距離だ。ただ、箕面線で梅田に出るには、石橋阪大前で宝塚線に乗換える必要がある。それで、大きな運賃差(下注)が難点ではあるものの、今後はずっと座っていける可能性のある北急ルートに軍配が上がりそうだ。

*注 梅田までの運賃は、北急+御堂筋線の480円に対し、阪急は280円。ただし梅田で地下鉄に乗継ぐなら、その差はほとんどなくなる。

北大阪急行は大阪府なども出資する第三セクターだが、過半の株を保有しているのは阪急電鉄だ。新線の評判が良すぎて、既存の自社線の利用者数に大きな影響が出ても困るし、親会社としては悩ましいところだろう、と傍観者は勝手に想像している。

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江坂駅で見かけた飾り絵
 

■参考サイト
北大阪急行 https://www.kita-kyu.co.jp/

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