日本の鉄道

2022年4月20日 (水)

コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡

2021年11月14日の朝、バスで西市(にしいち)に着いたその足で、近くの道の駅「蛍街道西ノ市」に展示されている旧 長門(ながと)鉄道の蒸気機関車を見に行った。1915年アメリカ製、動輪3軸の小型機で、鉄道開業に際して配備された101号機関車だ(下注)。

*注 プレートが103になっているのは、後に転籍したときに改番されたもの。

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長門鉄道101号機関車
道の駅「蛍街道西ノ市」にて
 

戦後1947年に滋賀県の繊維工場に転籍し、入換機関車として使われたが、1964年に引退。その後は、宝塚ファミリーランド、続いて加悦(かや)SL広場で静態展示されていた。しかし、後者の閉館によって、ゆかりの土地への引き取りが決まり、去る9月に移送が行われた。公開はほんの1週間前に始まったばかりだ。

里帰りを果たした機関車は、道の駅の建物に囲まれた中庭に鎮座していた。しっかりした屋根が架かり、明らかに施設の中心的モニュメントという位置づけだ。SL広場では数ある機関車コレクションの中の一両に過ぎなかったので、特別に注目を浴びることもなく、雨ざらしになっていた(下写真参照)。それを思えば別格の待遇だから、さぞ本人(?)も晴れがましく思っていることだろう。

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道の駅の中心的モニュメントに
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加悦SL広場時代の101号機(左端、2020年2月撮影)
 

秋のコンター旅西日本編の2日目は、この機関車が走っていた長門鉄道の跡をたどる。鉄道は山陽本線小月(おづき)駅から北上し、ここ西市(現 下関市豊田町西市)に至る18.2km、単線非電化の路線だった。1918(大正7)年に開業し、戦前戦後を通じて地域の交通を担ったが、1956(昭和31)年に廃止となり、バス転換された。

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長門鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1931(昭和6)年部分修正図)
 

朝からいきなり終点の町にやって来たのは、前泊した美祢(みね)市街との間にバス路線があるからに他ならない。小月からも鉄道代替のバスが通っているので、ここで参加者が落ち合い、起点に向かって歩くことにしている。

ちなみに、美祢駅前からブルーライン交通の豊田町西市(とよたちょうにしいち)行きに乗ったのは、大出さんと私。ローカルバスの旅は退屈することがない。この間を結ぶ国道435号にはすでに立派な新道が完成しているが、バスは律儀に旧道を経由するからだ。車窓から美祢線の旧 大嶺駅の現状が観察できたし、平原からの峠越えでは、道に出てきた野生の鹿を目撃した。「次はー、しももものき」という車内アナウンスには、思わず漢字表記(下桃ノ木)を確かめてしまった。

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(左)ブルーライン交通バス、美祢駅前にて
(右)サンデン交通バス、豊田町西市バス停にて
 

本題に戻ろう。道の駅で機関車の現況を見届けた後、サンデン交通のバス停へ引き返し、小月から来る中西さんを待った。本日も参加者はこの3名だ。

まずは、西市駅跡へ向かう。駅は町の西側に置かれていたが、さらなる延伸(下注)を意図したからか、街路の軸とは少しずれている。跡地に建つ豊田梨の選果場の平面形がやや西に傾いているのは、そのためだ。

*注 計画では、陰陽連絡鉄道として、日本海側の仙崎(現 長門市)を最終目的地にしていた。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
西市~西中山間
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同区間 現役時代
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大
(1927(昭和2)年要部修正および1936(昭和11)年修正測図)
 

選果場の壁面に「にしいち」の駅名標が立っていた。もちろん当時のものではなく、2018年の設置らしい。傍らの説明板には、駅敷地北側にある米の備蓄倉庫が当時をしのばせる、と記述されている。選果場の西隣にあった農業倉庫を指すようだが、建物はもう跡形もなかった。鉄道が来ていたことを示すものは、今や県道の向かいの公民館前庭に置かれているという、レールと動輪のモニュメント(下注)ぐらいではないか。

*注 モニュメントの設置場所のことは後日知ったので、実見はしていない。

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西市駅跡
(左)跡地に建つ選果場、赤の円内に駅名標が立つ
(右)駅名標と案内板
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案内板を拡大
 

線路跡の道を南へ歩き出す。町のはずれで拡幅された県道に吸収されてしまうが、100mほどでまた分かれて一本道になった。直線と緩い曲線を組み合わせた線路跡らしい軌跡を描いていて、通るクルマも意外に少ない。森を抜けた先の小さな集落の中に、一つ目の停留所、阿座上(あざかみ)があった。ここにも同じような駅名標が立っている。

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線路跡らしい軌跡を描く道
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阿座上停留所跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

ゴルフ練習場や古墳群の前を通過し、華山(げさん)が見下ろす田園地帯を横切ると、次は石町(いしまち)駅跡だ。同じ仕様の駅名標と案内板(下注)で、位置が特定できる。ここの案内板も「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロなレンガ造りの建物として残されている」と記すが、やはり取り壊されていた。

*注 「鉄道開通百周年 メモリアル長門ポッポ100実行委員会」によるこの解説標識は旧 豊田町域にだけ立てられたらしく、以南の駅跡では見当たらない。

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(左)本浴川(ほんえきがわ)の田園地帯を横切る(北望)
(右)下関市域の最高峰、華山(げさん)
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石町駅跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

線路はこの後、県道34号下関長門線の東側を走っていたはずだが、圃場整備と県道の拡幅により跡は消失している。まだ先は長いので、時間節約と体力温存のために、サンデン交通のバスが来るのを待った。地方バス路線の縮小が進むなか、うれしいことに小月~西市間では、まだ日中1時間に1本程度の便がある。石町から次の西中山までわずか5分乗っただけだが、これで3kmほど前へ進むことができた。

西中山バス停の1kmほど手前から、県道と木屋川(こやがわ)との間に側道が続いていることに気づいていた。川はすでに下流にある湯の原ダムの湛水域に入っていて、その護岸の役割を果たしているが、位置からして廃線跡のようにも見える。

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バスで石町から西中山へ
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(左)西中山駅跡から北望、側道は廃線跡か?
(右)側道はダム湖沿いの自転車道になる
 

西中山を過ぎると、この側道は県道と分かれ、ダム湖沿いの自転車道となって独立する。湯の原ダムは1990年の竣工だから、鉄道の現役時代は、河岸の崖をうがつ形で線路が敷かれていただろう。道なりに曲がっていくと、やがて行く手に支尾根が迫ってくる。自転車道はこれを階段道で越えていくが、鉄道は全長104mの中山トンネルで貫いていた。

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同 西中山~田部間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

トンネルの西市側のアプローチは藪化していたので、自転車道を通って小月側に回った。踏み分け道を進むと、路線唯一の鉄道トンネルが、ポータルも内壁もきれいなまま残っていた。路面はバラスト混じりの土で、ぬかるみもなく、問題なく歩ける。状態はかなり良好に見えるのに、なぜ自転車道を通さなかったのだろうか。

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中山トンネル南口
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(左)中山トンネル内部
(右)同 北口
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南口の手前に掛かる中山トンネルの案内板
 

トンネルを出た廃線跡は再び自転車道となって、富成橋の手前まで続いている。突然、「シカがいますよ」と大出さんが小声で知らせてくれた。尾根筋の上からこちらを見ている。きょう2頭目だ。カメラを向けると、気配を察したか、さっと森の奥に走り去った。

次の込堂(こみどう)停留所跡は、富成橋の南にある同名のバス停の後ろで、金網で囲われたそれらしい空き地が残っている。ここから鉄道は、旧 菊川町の平野部を横断していく。しかし、圃場整備が行われて、線路跡はほぼ完全に消えてしまっている。一軒家の敷地境界が斜めに切られているのが、ルートを推定できる数少ない手がかりだ。

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(左)廃線跡の自転車道は富成橋手前まで続く
(右)込堂停留所跡を北望
 

菊川温泉の敷地の南側で、ようやく線路跡が現れた。一部で簡易舗装されているものの、家並みの裏手をおおむね草道のまま南へ続いている。県道233号美祢菊川線とぶつかったところで、追跡を中断。近所の「道の駅きくがわ」へ移動して、昼食休憩にした。

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菊川温泉の南方、家並みの裏の草道(北望)
 

県道233号と小川を越えた南側の廃線跡も、手つかずの築堤が残る貴重な区間だ。さらに南へ進むと、中間の主要駅だった岡枝(おかえだ)駅の跡がある。広い構内は定番のJA(農協)用地に転用されていて、西市や石町では見ることが叶わなかった農業倉庫もまだ残っている。駅跡より南は、宅地や畑になっているが、その間に溝をまたぐ石積みの橋台を見つけた。

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岡枝駅跡
(左)JAの施設が建つ
(右)現役時代を偲ばせる旧「四箇村産業組合農業倉庫」
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(左)岡枝駅の南方は宅地や畑に
(右)溝をまたぐ石積みの橋台
 

岡枝駅の南方で、木屋川の支流、田部川(たべがわ)を渡る。ここには鉄道で最も長い橋梁が架かっていたが、護岸の改修が完了しており、遺構は何もない。対岸の築堤では倉庫や宅地が列をなしているが、すぐに自転車道が線路跡の位置に復帰し、田んぼの中を左にカーブしていく。

おそらく沿線で唯一プラットホームが残存するのが、田部停留所だ。切石積みの低いもので、住宅敷地の土台にされている。重要な史跡という意味を込めてか、久しぶりに案内板も立っていた。下関市教育委員会によるもので、ホームの全長は45m、高さ0.65mとある。

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(左)田部川渡河地点、対岸に見える倉庫は廃線跡に建つ
(右)自転車道が跡地に復帰
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切石積みのホームが残る田部停留所跡(北望)
 

枝を大きく広げる桜並木を過ぎると、道は上り坂に転じ、県道265号とともに切通しを抜けていく。雨でのり面が崩壊したらしく、全面通行止の看板が立っていたが、歩いて通るには問題がなかった。

県道と斜めに交差した直後に、上大野停留所があった。県道脇に三角の緑地帯が取られ、立派な桜の木の根元に、小さな駅跡碑が埋まっている。

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(左)桜並木から上り坂に
(右)上大野まで坂道は続く
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上大野停留所跡を北望
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同 田部~小月間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

水路敷設工事による迂回区間の後は、山手を縫う簡易舗装の農道になった。クルマの行きかう道から遠ざかるので静かで、気持ちよく歩ける。途中で、「6」(600mの意?)の数字が刻まれたコンクリート製の距離標を見つけた。鉄道時代の遺物だろうか。

森が覆いかぶさる緑のトンネルをくぐってなおも行くと、県道が左から近づいてきて、合流した。下大野駅のあった場所にも、同名のバス停が設置されている。小月と菊川の間は国道491号を行くのが最短ルートだが、バス便のうち4割ほどは、鉄道と同じく遠回りの大野経由で運行されているのだ。

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(左)山手を縫う簡易舗装の農道
(右)コンクリート製の距離標
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(左)用水路のサイホン
(右)緑のトンネル
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(左)下大野で県道と合流
(右)下大野駅跡のバス停
 

右へ折れ、再び谷あいに入ろうとする地点では、中国自動車道に沿って高く盛った築堤が一部残っている。この後で越える峠のために、かなり手前から高度を上げていたことがわかる。しかし、廃線跡はすぐに高速道の下に取り込まれてしまう。峠といっても標高40mほどに過ぎないが、だらだらと続く長い坂道で、歩き疲れた足にはこたえる。

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(左)峠に向けて盛られた築堤
(右)だらだら坂のサミット
 

次に線路跡が明瞭に現れるのは、峠を降りた上小月で浜田川を渡る地点だ。左にそれる県道に対してまっすぐ延びる道をぼんやり歩いていたら、大出さんが「橋台が残ってますよ」と、隣に並行する道を指差す。確かに切石積みの橋台が見える。今歩いているのは2車線道になる前の旧道で、廃線跡は、並行するこの小道のほうだった。

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(左)浜田川を渡る旧道脇の廃線跡
(右)浜田川の切石積み橋台
 

菊川町からまっすぐ南下してきた国道491号とは、ここで出会う。廃線跡はその下に埋もれてしまったものと思い込んでいたが、観察眼の鋭い大出さんが、小川を通すカルバート(暗渠)の向こうに、また橋台を見つけた。さっきと同じ切石積みだ。この前後では廃線跡と国道が絡み合うように走っており、一部分が国道の西側に残っていたのだ。

中国自動車道をくぐる手前には、川べりを走る小道と廃線跡が一体化されたにもかかわらず、低いコンクリート柵が中央分離帯のように残されている場所があった。クルマにとっては危険な障害物だが、地元の人たちは慣れているのだろう。

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(左)国道491号の西側に残る橋台
(右)中央分離帯のようなコンクリート柵を北望
   左側の道が線路跡
 

小月インターのランプをくぐると、いよいよ小月の市街地に入る。ここでも意外に廃線跡を見つけることができた。新幹線と交差する前後は拡幅済みで、そのうち片側1車線の街路になるのだろう。その先にあった長門上市(ながとかみいち)駅の跡は、すっかり宅地化されたが、中央に細道が通っている。しかし微妙に曲がっていて、かつ狭すぎるから、線路敷をなぞったものではないだろう。浜田川に接近する地点では、護岸改修の影響で不分明になってしまうが、その南側では、街中の地割に廃線跡の名残がある(下図参照)。

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小月市街地の廃線跡
(左)新幹線と交差する前後は拡幅済み
(右)長門上市駅跡は宅地化、中央に細道が通る
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地籍界に残る廃線跡(赤円内の細長い地割)
 

長門鉄道の主要貨物は沿線で生産される米や木材で、起点の小月駅には、こうした貨物を取り扱う広いヤードがあった。また、鉄道廃止後も、駅前に生まれた空地が商業施設や駐車場に再利用され、町の賑わいに貢献しただろう。しかし、そうした歴史を語る説明板一つ立てられていないのは残念なことだ。

今はどちらも下関市域だが、終点の旧 豊田町が鉄道史の保存や紹介に熱心に取り組んでいるのを間近に見た後では、いささか物足りなさを覚える。長門鉄道が外界とつながる生命線だった内陸の西市と、早くから全国幹線が通じていた小月とでは、思い入れに強弱の差があるのは仕方ないのかもしれないが。

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(左)小月駅跡は商業施設や駐車場に
(右)山陽本線小月駅
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田部(大正11年測図)、小月(大正11年測図)、5万分の1地形図西市(昭和2年要部修正)、舩木(昭和11年修正測図)、20万分の1地勢図山口(昭和6年部分修正)および地理院地図(2022年4月10日取得)を使用したものである。

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2022年3月15日 (火)

コンターサークル地図の旅-成田鉄道多古線跡

2021年10月16日、コンターサークルS秋の旅1日目は、成田鉄道多古(たこ)線跡を歩く。

多古線は、千葉県の成田と八日市場(ようかいちば)の間を結んでいた30.2kmの路線だ。千葉県が県営鉄道として1911(明治44)年に開業した成田~多古間がルーツになる。しかし、運営は赤字続きで、1927(昭和2)年に成田電気軌道に売却された。成田電気軌道はもと成宗電気軌道と称し、成田山新勝寺と宗吾霊堂の間の路面軌道を運行していた会社だが、多古線等を譲り受けた後、成田鉄道(下注)に改称している。

*注 JR成田線の前身である成田鉄道とは別。

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多古線の起点だったJR成田駅前
 

その後、路線は1926(大正15)年に多古からさらに東へ、総武本線の八日市場駅まで延伸された。これとは別に1914(大正3)年、三里塚で分岐して南下し、総武本線八街(やちまた)駅まで行く八街線も開業しており、最終的に、三方で国鉄線に接続する路線網が形成された。しかし1944(昭和19)年に、戦地への資材供出が求められ、惜しくも全線で運行休止、1946(昭和21)年に正式廃止となった。

最初に開業した成田~多古間は600mm軌間の軽便規格で建設されたが、八日市場延伸を機に、1928(昭和3)年に1067mmへの改軌を完了している。このとき、ショートカットや曲線緩和といったルート改良も各所で行われており、廃線跡の一部には、600mm時代の旧線と1067mm新線の2ルートが存在する。

今回歩いたのは、主として成田空港の東側に残る千代田~多古間約10kmだ。2ルートが並存する区間では、旧線のほうを選んだ。拡幅のうえ道路転用された新線に比べて、もとの用地幅のまま林道や農道に利用されており、廃線跡の雰囲気がより深く味わえると思ったからだ。

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林道になった廃線跡(旧線五辻~飯笹間)
 

参考までに、旧線と新線のルートが描かれた旧版1:200,000および1:50,000図を掲げる。図1、3、5は大正期の刊行で、多古が終点だった旧線時代のものだ。一方、図2、4、6、7は昭和初期の鉄道補入または修正版で、東西に延びる新線と南下する八街線が表されている。ただし、図2の多古線のルートは、旧線のままで修正されていないので注意が必要だ。

これに対し、1:25,000図は大正期から昭和初期に刊行された後、昭和30年前後まで新刊がなかった。前者には旧線が描かれているが、後者の刊行は鉄道廃止後で、成田~多古間の新線ルートが1:25,000に描かれることはついになかった(下注)。

*注 後述するように、多古(多古仮)~八日市場の延伸線については、「多古」図幅の昭和2年鉄道補入版にその一部が描かれている。

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図1 多古線旧線時代の1:200,000地勢図
(1914(大正3)年鉄道補入)
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図2 同 新線時代の1:200,000地勢図
(1930(昭和5)年鉄道補入)
ただし成田~多古間のルートは旧線のまま
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図3 同 旧線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図4 同 新線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図5 同 旧線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図6 同 新線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図7 同 新線時代の1:50,000地形図 多古~八日市場間
(1934(昭和9)年修正測図)

9時21分着の電車で、芝山鉄道の終点、芝山千代田駅前に降り立つ。芝山鉄道は「日本一短い鉄道」を自称するが、京成線の電車が乗り入れているので、アクセスは容易だ。しかし容易なだけに、よそ者は必ずトラップにはまる。改札を出ようとして初めて、手持ちのICカードが使えないことに気づくのだ。かくいう私たちもなんの疑いも抱かずICカードで乗ってきたので、窓口で現金精算するはめになった(下注)。

*注 ちなみに、現金精算できるのは芝山鉄道区間の運賃のみ。京成線東成田までの運賃は、後日ICカードの入場フラグの無効化処理をしてもらうときに引き去られる。

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芝山千代田駅
 

改札前に集合したのは大出さんと私の2名。この日は曇りがちだったが、その分涼しく、歩くのにはちょうどよかった。まずは、空港の二重フェンスに沿って南へ歩いていく。500mほど行くと、多古線の千代田駅があった場所だ。成田空港の敷地に埋もれてしまった廃線跡が、ここで再び地上に現れる。JA倉庫の手前の更地から東側の民地にかけてがそうだと思うが、何ら痕跡はない。

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千代田駅跡
(左)駅跡の裏手にはJA倉庫が
(右)駅前通りを南望
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
千代田~飯笹間
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

だが、そのすぐ東から始まる緩やかな下り坂の車道は、カーブの形状から見て、まぎれもなく廃線跡の転用だ。初めは掘割になっているが、まもなく右手に路面よりも低い谷が現れた。このあたりでは、台地の平坦面と開析谷の底面との標高差が約30mに及ぶ。左の谷底に設けられた釣り堀で、その深さが実感できる。

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(左)緩やかな下り坂の車道
(右)釣り堀との高低差が際立つ
 

高谷川が流れる一つ目の開析谷を、線路は盛り土で横断していた。谷のへりにある架道橋を観察するために、右の小道を降りる。コンクリート製の橋台の下部に、門の形の妙な出っ張りがあるのだ。その部分だけ骨材の質も明らかに粗い。一説によると、これは鉄道時代の橋台だそうだ。人がくぐれる程度の高さしかないが、残りは地下に埋もれたのだろうか。それより、なぜ車道工事の際に撤去してしまわなかったのか。謎は深い。

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(左)架道橋の下道へ降りる
(右)架道橋の上から見る高谷川の谷
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壁に埋め込まれた謎の橋台(?)
 

谷を渡りきると、廃線跡は再び上り坂に転じる。歩く私たちの横を、ツバメのマークのバスが追い越していった。この道路は、成田と八日市場の間を結ぶJRバス関東 多古線の通行ルートになっている。いうまでもなくこれは、成田鉄道の廃止に伴う代行バス路線だ。

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(左)多古線の代行バスが通過
(右)廃線跡は再び上り坂に
 

道路は次の台地のくびれた部分を掘割で横断していくが、そのサミット、ちょうど台地上を南北に通る道路と交差するあたりに、鉄道の新旧ルートの分岐点があった。新線は今や車道(町道0110号染井間倉線)となって、大きく右に曲がっていく。一方、旧線は左カーブで北へ向かっていた。ただし、下の写真に見える左の小道は南北道路への接続路であり、新旧分岐点はそれより北側にあったと思われる。

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新旧ルート分岐点付近にある立体交差
(左)左の道は、上の道への接続路
(右)跨道橋の上から
 

地形図には、大きな工場の西側で県道から北に分かれる「幅3.0m未満の道路」、いわゆる実線道路が描かれている。これが旧線跡への導入路だが、グーグルマップのストリートビューで見る限り、濃い藪だ。それで私たちは、オーバーパスの道路で迂回し、反対側からアプローチすることにした。

北から林の中をまっすぐ降りていく廃線跡の小道は、最近草が刈られたらしく、歩くのに支障はなかった。しかし、林を抜け、工場に近づく手前で、側溝のある新たな盛り土に埋もれて、跡が追えなくなってしまった。

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(左)林の中の旧線跡(南望)
(右)工場の手前で盛り土に埋もれる(南望)
 

引き返して、五辻(いつじ)集落に入る。旧線五辻駅跡は放置され、ぼうぼうの草藪だったが、小道の脇の「多古町」と彫られた境界標に目が止まる。跡地は町の所有なのだろうか。後で見るように、地元でも旧線の存在はあまり顧みられていない。

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(左)左の草むらが旧線五辻駅跡
(右)多古町の境界標を発見
 

廃線跡はいったん県道に合流するが、すぐに離れ、谷を緩やかに降りていく簡易舗装の一本道になった。うっそうとした森に包まれ、おそらく農作業の車しか通らないような静かな小道だ。しかし、下の谷に降りきると、圃場整備で跡が消えてしまう。

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(左)県道から離れて簡易舗装の一本道に
(右)森に包まれた廃線跡
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(左)谷に降りても直線路がしばらく続くが…
(右)やがて圃場整備で山際に付け替えられる
 

椎ノ木集落の北側ではまた県道に吸収されるものの、すぐに南下する小道になって復活した。ここから線路は、多古橋川が流れる二つ目の開析谷を下っていく。旧線の飯笹(いいざさ)駅跡は畑に紛れてしまったが、山裾の、平底より少し高い位置に廃線跡の小道が延びている。

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(左)県道に吸収された区間(北望)
(右)南下する小道で復活
 

そのうちに、新線を転用したさっきの車道が飯笹集落の陰から現れた。道路脇に多古橋川(たこばしがわ)鉄橋跡の看板が建てられているので見に行く。2005(平成17)年の、土地改良事業による川の付け替え(とそれに伴う鉄橋の消失)の略図と説明文だが、この町道の名称や、用地が1974(昭和49)年5月に旧 成田鉄道から買収されたこと(下注)なども記されていて侮れない。

*注 成田鉄道はバス事業で存続し、1956年に千葉交通となって現在に至る。

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新線跡を転用した車道
(左)成田方(赤の円は案内板の位置)
(右)多古方
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多古橋川鉄橋跡地の案内板
 

新旧のルートが再会する地点では、左から県道79号横芝下総線も合流してくる。交通量が増えるのに、歩道がない。やむなく、近くの農道に退避した。県道脇にあったはずの染井(そめい)駅跡に立ち寄ってみたが、資材置き場で痕跡らしきものはなかった。

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新旧ルートの並行区間
(左)南望
(右)北望、新線跡の車道と旧線跡の農道が接近
 
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(左)染井駅構内は資材置き場に
(右)新線跡の国道に対し、旧線は右に大回りしていた
 

染井駅の次は、いよいよ目標の多古駅だ。旧線の駅は町の東側にあり、栗山川べりまで、さらに貨物線(栗山川荷扱所線0.8km)が延びていた。しかし新線建設に伴ってこれらは廃止され、駅は、東へ延伸しやすいように町の南端に移設された。図11は昭和2年鉄道補入版(昭和3年2月28日発行)で、旧駅と新駅(たこかりは「多古仮」で、多古仮駅のこと)がともに描かれた貴重な図だ。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
飯笹~多古間
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同 旧線現役時代(1927(昭和2)年鉄道補入)
 

八日市場への延伸線は1926(大正15)年12月に開業したが、この時点では多古から西側はまだ600mm軌間の旧線で運行されていた。西側が改軌新線に切り替えられ、同時に多古仮駅が多古駅に改称されたのは1928(昭和3)年9月のことだ。

改軌工事は、大規模なルート変更を伴った。一つは成田市街の北方を通る成田~東成田間、もう一つが今歩いている五辻の手前から多古までの間だ。後者は鉄道廃止後、拡幅されてさきほどの町道、県道79号、そして一般国道296号になった。旧線もこれと絡み合うように延びていたが、染井駅以東では戦後の圃場整備によりほとんど消失している。

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(左)斜めの水路は旧線跡に沿うものか(?)
(右)奥の信号付近に新線多古駅があった(南望)
 

国道沿いのファミレスで食事休憩の後、旧線多古駅の跡をめざした。駅は現在の町役場の東方にあったはずだが、道路沿いの宅地整備が行われた際に埋もれてしまったようだ。

街路の交差点で、「まちなか歴史散策」という案内板を見つけた。県営軽便鉄道も紹介されている。「(鉄道は)成田、三里塚及び栗山川沿いの農村の中心地多古を結び、農作物輸送のために計画されたものです。陸軍鉄道連隊から軽便材料や車両類の貸与を受けて、明治44年(1909年)10月5日に三里塚~多古間13.8kmと栗山川荷扱所線0.8kmが開業しました。」しかし、機関車の馬力が小さく、成田と多古の間に約2時間もかかるのどかな鉄道だった、とある。

それはともかく、地図に示された「軽便鉄道多古駅跡」が新線の駅の位置なのはどうしたことか。旧駅のすぐそばに立つ案内板というのに、灯台下暗しとはこのことだ。

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「多古まちなか歴史散策」案内板で県営軽便鉄道に言及
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地図に示された多古駅跡は新線のもの
 

帰りは役場前から、町の補助で1時間ごとに出ている(成田)空港第2ターミナル行きのシャトルバスに乗った。10kmほど走って、運賃は300円と割安だ。旅の趣旨からいえば、多古線の後継であるJRバスに乗るべきところだが、本数が少なくて使えなかった。このシャトルバスは千代田で空港構内に入り、空港ビルのバス乗り場まで行く。あたかもリムジンのようで、海外旅行に出かけるときの高揚感を思い出してしまった。

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空港行きシャトルバス
 

京成線で京成成田へ。まだ少し時間があるので、旧 西成田駅の手前にあった橋台の遺構を訪ねようと思う。成宗電気軌道跡の、いわゆる「電車道」を北へ歩いていく。「電車道」は右手の急坂を下り、高い築堤を経て、土木遺産にも認定されている2本の煉瓦造トンネル(成宗電車第一および第二トンネル)を抜ける。さらに急カーブで谷底まで降りていき、土産物屋が立ち並ぶ参道の手前が終点だ。

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京成成田駅前のバス乗り場が成宗電気軌道の駅跡
(朝写す)
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「電車道」
(左)京成駅前から北上
(右)第一トンネル前の大築堤
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(左)新勝寺側から見た第一トンネル
(右)成田駅側から見た第二トンネル
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
成田市街周辺
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

新勝寺の境内は台地の侵食を免れた細尾根の上にある。本堂にお参りした後、裏手の急斜面を降りた。狭いバス道路の右脇に、どっしりとしたコンクリートの橋台があった。道路をまたいでいた桁橋を支えていたものだ。ここを通っていたのは新線のほうだが、さらに北側を回っていた旧線を含め、この界隈の多古線跡では唯一の遺構だろう。

橋台は個人宅の敷地に取り込まれているように見えた。その前後も少し歩いてみたが、西(成田側)は住宅が立ち並ぶ。東(多古側)は森と一体化したような宅地や畑地で、その先に開設された西成田駅の跡地は住宅の列に置き換わっていた。

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成田山新勝寺
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新線の橋台遺構
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北側は築堤で、一段高い宅地に続く
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図成田(大正10年測図)、五辻(大正10年測図)、多古(昭和2年鉄道補入)、5万分の1地形図成田(大正2年鉄道補入および昭和9年修正測図)、八日市場(昭和9年修正測図)、20万分の1地勢図佐倉(大正3年鉄道補入および昭和5年鉄道補入)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2022年3月 2日 (水)

新線試乗記-阿佐海岸鉄道DMV

2月の晴れた朝早く、JR牟岐(むぎ)線の列車で、南へ向かう。徳島へ来た目的は、昨年(2021年)12月25日に走り始めたDMVの初乗りだ。

DMVは Dual Mode Vehicle(デュアル・モード・ヴィークル)、すなわち複方式で走る車両のことで、道路上ではバス、レールの上では鉄道車両として機能する。客を乗せたままで、一般道路から線路へと乗り入れ、線路からまた道路へ出ていく。駅でバスと列車を乗り継ぐ手間と時間を省いてくれる次世代の乗り物という触れ込みだ。

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鉄輪を出して線路を走行するDMV
(動画からのキャプチャー)
 

DMVを運行している阿佐(あさ)海岸鉄道は、第三セクター、いわゆる三セクの鉄道だ。四国の南東岸を南下する牟岐線を延伸する形で、1992年に海部(かいふ)~甲浦(かんのうら)間8.5kmが開業した。しかし、DMVのモードインターチェンジ(方式の切替え場所)を海部のひと駅手前の阿波海南(あわかいなん)に設置する関係で(下注)、2020年11月から、牟岐線は阿波海南が終点、そこから甲浦までの10.0kmが阿佐海岸鉄道になった。

*注 海部は高架駅で、鉄道から道路に降りるランプ(傾斜路)が大がかりになることが理由。阿波海南は地上(盛り土)駅で、モードインターチェンジの用地も確保しやすかった。

DMVの運行経路は、阿波海南文化村から、この阿波海南~甲浦間の鉄道路線を経由して、道の駅宍喰(ししくい)温泉に至る約16kmだ(下図参照)。また、土休日は1便が、室戸岬を回った先にある「海の駅とろむ」まで遠征する。

せっかく「世界初」と銘打つものに初乗りするからには、三つの命題を満たしたいと思う。

1.モードチェンジの現場を観察すること
2.鉄道区間の全駅を訪問すること
3.DMV海南~宍喰線の全線を乗ること

運行ダイヤと地図をにらみながら編んだスケジュールと当日の実行内容を、以下に記そう。

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DMV開業を知らせる幟がはためく
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DMV運行ルート(開業時点)

牟岐線の徳島~阿波海南間は、普通列車で2時間強というところだ。しかし、阿南から先は閑散区間で、朝ちょうどいい時間帯に着ける便がない。それで牟岐止まりの列車に乗り、残る区間は徳島バス南部の路線バスでつなぐことにした。

列車の牟岐到着が8時42分、バスは9時30分に出るので、その間は港をぶらぶらと歩いて過ごす。下調べもせずに行ったが、浜から突堤の間を通して出羽島が見える構図には目を奪われた。

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(左)JR牟岐線牟岐駅
(右)上下列車の交換
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牟岐港の突堤の間から出羽島が望める
 

駅から300mほど離れた営業所の玄関先から、海の駅東洋町行きのマイクロバスに乗り込んだ(下注)。客は私一人だ。運転手さんには、海南病院で降ります、としか言わなかったのだが、「DMVですね」と図星を突かれた。一般に浸透しているとはいえない新語が、ふつうに口の端に上るのに感心する。

*注 このバスは牟岐(=営業所前)が起点で、牟岐駅前には停留所がないので注意。

バスは国道をスムーズに走って、海南病院に9時50分に到着した。DMVの起点、阿波海南文化村はすぐ隣だ。海陽町が造った町おこしの施設で、広い敷地に博物館や多目的ホールなど複数の建物が配置されている。DMVの乗降場はその門前にあった。サーフボードの形をした停留所標識が木造の待合室の傍らに立っている(下注)。

*注 車で訪れた場合は、文化村の広い駐車場が利用できる。また、主要停留所や観光施設にはスマホで手続きできるレンタサイクルもある。なお、この路線バスで阿波海南駅に直接行く場合は、「海部高校前」バス停下車、国道を南へ200m。

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DMVの起点、阿波海南文化村停留所
標識はサーフボードの形
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阿波海南文化村
(左)複数の施設を配置
(右)船形だんじり「関船」の展示館
 

しかし、肝心のDMVはわずか8分前に出たばかりだ。本数が少ないにもかかわらず、各交通機関が独立的に運行され、相互接続があまり考慮されていないのには驚くばかりだ。とはいえ、スケジュールにはそれも織り込み済みで、次の下り便までの間に、徒歩で先回りすることにしている。阿波海南駅まで約1km、10分ほどで歩ける。ついでに、途中のコンビニで昼食を仕入れよう。

阿波海南では、JR駅のホームの横にある駅前交流館の奥に、乗降場(阿波海南駅停留所)とモードインターチェンジ(阿波海南信号所)が設置されていた。もとは牟岐線の線路がまっすぐ南へ続いていたのだが、今は切断され、左側のインターチェンジから出た線路に置き換えられている。阿波海南文化村から道路を走ってきたDMVは、この線路を伝って甲浦方面へ向かう。

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牟岐線の終点 阿波海南駅
(左)片面ホームの無人駅
(右)線路は切断、DMVは左へそれてモードインターチェンジへ
 

JR線との線路分断は、三セク転換されたローカル線にしばしば見られるものだ。しかし、ここは少し事情が異なる。マイクロバスの車体をベースとするDMV車両は軽量のため、軌道回路で列車を検知する既存の信号システムが使えない。そのため、車速信号やGPS情報を利用して車両の位置を測定するなど独自の保安装置が開発されており、従来方式の線路とは物理的に切り離す必要があったのだという。

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DMV阿波海南駅停留所
客は緑のゾーンで待つ
 

さっそくモードチェンジのようすを観察しようと、撮影スポットと書かれた位置で、10時43分に来る上り便を待った。やがて山陰から現れたのは、どう見ても小型のボンネットバスだ。それが前輪を浮かせたまま、レールの上をつーっと走ってくる。外装は明るい緑色で、ヘッドライトから窓枠にかけて黒のアクセントがつく。DMVは、塗色が異なる3台が在籍している。緑は2号車で、車両番号が DMV932。ナンバープレートもそれに合わせる凝りようだ。

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2号車(DMV932)は緑の塗装
 

本線上に立つ場内信号機(?)の前で一時停止した後、DMVはゆっくりとインターチェンジに入ってきた。足回りに注目すると、フランジのついた前後の鉄輪がレールに載っていて、その点では間違いなく鉄道車両だ。一方、ゴムタイヤはというと、前輪は宙に浮いている。後輪のダブルタイヤのうち、内側がレールに接していて、これが車両を駆動させる。鉄輪には駆動力はなく、あくまで案内と荷重分担の役割だ。

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(左)前輪
(右)後輪
 

停車するとまもなく、前の鉄輪の格納が始まった。特徴的なボンネットがそのためのスペースだ。同時に車体が下がって、浮いていたゴムタイヤが地上につく。その間に後ろの鉄輪も格納されるが、こちらはトランクルームに入るらしい。モードチェンジは15秒ほどで完了し、バスモードになったDMVは乗降場まで路面を移動する。客扱いを終えると、遮断機が上がった出入口から、駅前の国道へ出て行った。

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(左)前の鉄輪格納前、ゴムタイヤは宙に浮く
(右)格納後
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(左)バスモードになって停留所へ
(右)遮断機のある出入口から一般道へ
 

日中は12分後に後続便が設定されている。再びインターチェンジの前に張り付いて、やってきた赤の3号車を、今度は動画で撮った。

命題1を堪能したので、再び国道を南へ進む。1.4km先、歩いて15分の海部川橋梁に、次の撮影スポットがある。順光になる南詰めで待機していると、ほどなく下り便となった3号車が現れた。立派な桁橋を小さなバスがトコトコと渡っていく姿はどこか微笑ましい。

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海部川橋梁をトコトコと渡る
 

ここから5分も歩けば、海部駅だ。高架下に待合室があり、階段を上ると、JR時代の1番ホームに出た。ただし、DMVの乗り場はそこではなく、北側(阿波海南方)に新設された簡易な低床ホームだ。高床と低床のホームが直列するようすは、かつての広電宮島線を思い起こさせる。

旧2番線側の線路とホームももとのままで、用済みになった気動車ASA-101が、回送の幕をつけたまま留置されていた。前後のポイントが撤去されたため、残念だが、もうどこへも出ていくことはできない(下注)。

*注 これは保有していた2両の気動車のうちの1両。もう1両(ASA-300)は宍喰駅南方の車庫前の留置線にいる。

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海部駅
(左)高架ホームへは階段しかない
(右)開通記念碑が、阿佐海岸鉄道のもと起点の証し
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(左)DMV用の低床ホーム
(右)旧鉄道ホーム
  2番線には気動車ASA-101を留置
 

ここで下りの後続便11時31分発を待った。海部駅の北側には、周辺の土地開発で土被りが剝ぎ取られ、躯体だけ残った町内(まちうち)トンネル、通称「トマソントンネル」がある。そこから顔を出すDMVをねらってから、いよいよ初乗りを試みた。

ホームとバスとの間には隙間があるため、扉が開くと同時にステップがせり出てくる。それを踏んで乗り込むと、運転士さんから「予約されていますか」と聞かれた。もちろん定員内なら予約なしでも乗車できる。その場合は整理券を取り、降車時に運賃を支払えばよい。ふつうの乗合バスと同じ手順だ。

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町内トンネルから現れた2号車
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(左)扉が開くとステップが出る
(右)車内はマイクロバスそのもの
 

鉄道の公式サイトでは、席数が少ないという理由で予約が推奨されているが、なんのことはない。先客は一人だけで、それも後でメディアの取材記者だとわかった。予約サイトで座席指定しようとすると、2Dと3Dの優先席とともに、このときは最前列の1A、1Bも予約不可になっていたが、取材用のリザーブだったようだ。車内はマイクロバスそのもので、1列が1席+2席の並びだ。最後尾は4席分のロングシートなので、そこを占有させていただく。

走り出すと、エンジン音とともに、タンタン、タンタンという2軸車ならではの走行音が繰り返される。鉄道車両に比べて高い音で、骨に響く感もあるが、走りはスムーズだ。海部駅と宍喰駅の間は、短いトンネルが連続し、トンネルがいくつも重なって見える。左手には那佐湾という入江が延びているが、木々に遮られて見通しはあまりきかない。

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(左)海部~宍喰間は短いトンネルが連続
(右)海景は断続的
 

海部から15分。甲浦に近づくと信号で一時停止し、再発車とともに「間もなく甲浦、甲浦に停まります」という案内が流れた。次に停まったのが旧 鉄道ホームの前だったので、てっきり駅だと思い、立ち上がりかけたら、「甲浦モードインターチェンジに到着しました」と、またアナウンス。さっき阿波海南で観察したように、停留所の手前にこれがあるのだ。

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甲浦駅信号所
(左)立入禁止の旧鉄道ホーム
(右)モードインターチェンジも高架上に
 

「ただいまからバスモードに、モードチェンジを行います」「モードチェンジ、スタート」。トント、トントと軽快な海南太鼓のお囃子が聞こえ、前方の景色で車体が下降していくのがわかる。作業が終わると「フィニッシュ」と明るい声で締めが入り、DMVはすぐに動き始めた。

線路は高架上にあるため、地上に置かれた乗降場(甲浦停留所)へは急坂、急カーブのランプで一気に降りる。私はここで下車した。駅の改造に合わせて建て替えられた待合室の中では売店も開いていたが、この利用状況では売上の伸びは期待できそうにない。

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地上の甲浦駅停留所
 

乗り場は移設されたが、もとの高架ホームに通じていた階段は残されている。ホーム自体には立入れないものの、手前でモードチェンジを観察できるようにしているのだ。ここで12時02分の上りを待つ。急なスロープを上ってきたDMVは、観察場所より少し先に停車した。後輪は目の前だが、前輪は遠くて動きがよくわからない。ここでの観察は、下り便が望ましい。

それはともかく、バスから鉄道モードへの切り替えでは、鉄輪が出た後、運転士が車外を一周して、鉄輪が実際にレールに載っているかを目視点検するという作業が一つ加わることがわかった。

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(左)ランプを上がってきたDMV
(右)ガイドウェイに沿って進入する
 

続行の上り12時14分発に乗り、今度は宍喰駅へ移動した。この駅も高架上で、旧鉄道ホームの南側(甲浦方)にDMVの乗降場が造られている。乗降客はやはり私だけだ。宍喰には阿佐海岸鉄道の本社があるため、唯一の有人駅で、ホームと地上を結ぶエレベーターも備わっている。改札で整理券と運賃を渡して外へ出た。

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宍喰駅
(左)南方の車庫前に留置されたASA-300
(右)旧鉄道ホームの甲浦方に低床ホームが
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(左)高架下に設けられた駅舎
(右)改札口
 

宍喰で降りたのは、命題2(全駅訪問)を達成するとともに、DMVの終点に行きたかったからだ。最後に残った命題3の全線乗車を終点から実行して、この旅を締めくくる。

海に臨む終点停留所「道の駅宍喰温泉」へは約900m、歩いて10分強だ。地元の特産品を売る店のほか、温泉も隣接するリゾート施設だが、とりあえず昼食にしないといけない。前を通る国道を横断して、防波堤の階段を下りると、そこは太平洋の波が打ち寄せる砂浜だった。防波堤のおかげで風が遮られ、日差しのぬくもりが眠気を誘う。

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DMVの終点、道の駅宍喰温泉停留所
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防波堤の外側には波打ち寄せる砂浜が
 

時間が来たので、13時18分発の上りに乗り込んだ。ネットのシステムを試そうと、この便だけは事前予約してある。高速バスの流儀で、さっそく運転手さんに名前を確認された。モバイル乗車券の画面を提示することになっているが、ちらと目を落としただけ。もっとも予約者は私一人なので、点呼で事足りる。あと一人、予約なしで乗ってきた人がいて、かろうじて乗合バスの面目は保たれた。

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赤の3号車(DMV933)で全線を乗り通す
 

DMVは国道をいったん南へ走る。路面の状態にもよるのだろうが、ガタガタとよく揺れ、ジープにでも乗っているような体感だ。宍喰大橋を渡って水床トンネルへ入る。その出口付近が徳島と高知の県境だ。宍喰までは徳島県海陽町、甲浦は高知県東洋町になるので、阿波と土佐をつなぐ「阿佐」の名に偽りはない。

続いて甲浦大橋を渡る。右は入江の漁港、左は外海の景勝スポットなのだが、路側にネットが張られていて、視界は今一つだ。道の駅東洋町に停車。DMV開業を機に、室戸岬方面のバス(高知東部交通)は甲浦駅まで入らなくなり、ここが乗継地になった。

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(左)道路走行時はバスそのもの
(右)まもなく阿波海南駅
 

この後、DMVは内陸へ入っていき、甲浦停留所で停まる。さっき見た高架へのランプをぐいぐい上り、モードチェンジの後、北へ向かう。阿波海南で再びバスモードになって道路へ。終点の阿波海南文化村には13時53分定刻に到着した。相客も同じように乗り通したので、DMVを画角に入れて到達写真のシャッターを押して差し上げた。

帰りの牟岐線、阿波海南駅の発車は14時08分だ。実質10分強で1kmを歩かなければならないが、朝、一度通って予習してあるから、心には余裕がある。

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阿波海南文化村に到着

DMVの初乗りは、興味深い体験だった。線路も走れるクルマといえば、保線作業などに用いる軌陸車が思い浮かぶが、その機能の一般化、発展形ということになろうか。乗換えが必要という常識を覆す未来の乗り物という評価はなるほどそうだ。

知られている通り、DMVは、JR北海道がローカル線の活性化のために長らく研究開発を続けていたシステムだ。しかし、本格的な導入に至らないうちに、経営状況の悪化により計画は中止されてしまった。それを受け継ぎ、営業運転にまで漕ぎつけた決断と行動力には敬意を表する。

確かに、アトラクションとして見るなら斬新で、話題性がある。しかし、公共交通機関としてはどうだろうか。まず感じたのは、他の交通機関との連携不足だ。牟岐線の列車との連絡が十分考慮されていない。下りは最大62分待ち(牟岐線11:38着/DMV 12:40発)、上りは72分待ち(DMV 10:56着/牟岐線12:08発)がある。鉄道区間に待避線がなく、ダイヤ編成に制約があるのは理解するが、乗継ぎに1時間もかかるようでは用をなさない。

路線バスとの間もしかり。運行する徳島バス南部にとっては競合路線なのかもしれないが、接続時刻はもとより、すぐ近くなのに停留所名さえ異なるのはいかがなものか(海南病院/阿波海南文化村、海部高校前/阿波海南駅)。

もう一つは高額な運賃だ。定員22名(座席18+立席4)に乗務員1名が必要なので、運行コストが高くなるのは宿命だ。それを反映して、全線通しの運賃は800円、鉄道区間だけでも500円で、路線バスと同等かそれ以上になる。列車時代に比べればかなりの値上げで、私のような一見客でも抵抗があった。他の観光施設や交通機関と共通で使えるフリー切符などの企画で、割高感を和らげる工夫が望まれる(下注)。

*注 2022年度は、徳島から室戸岬を経て高知に至る鉄道・バスのフリー切符「四国みぎした55フリーきっぷ」の発売が発表されている。

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DMV沿線ガイドブック表紙
 

地方ではマイカー移動が定着し、路線バスの利用者すら激減している。DMVの運行を持続させるには、地域外から訪れる観光客や用務客に利用してもらうしか方法がない。待合室には周辺の観光地を紹介するパンフレットが置かれていた。停留所にはレンタサイクル基地も整備されていた。残る対策は、自治体と各公共交通機関が連携して、遠来の者でもストレスや抵抗感なく使いこなせる交通網と運賃体系を構築することではないだろうか。

■参考サイト
阿佐海岸鉄道 https://asatetu.com/

2021年5月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址

2020年コンターサークルS春の旅の後半は、西に移動して岐阜県中津川市周辺を歩く。1日目のテーマは、北恵那鉄道の廃線跡だ。

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恵那電最大の遺構、木曽川橋梁
 

北恵那(きたえな)鉄道、いわゆる恵那電は、当時の国鉄中津川駅の裏にあった中津町(なかつまち、下注)駅を起点に北へ、下付知(しもつけち)駅まで行く22.1kmの電化私鉄だった。木曽川をせき止める大井ダム建設で、筏流しなど川を利用した木材輸送ができなくなるため、その補償として1924(大正13)年に開業している。

*注 中津川市は市制以前、恵那郡中津町(なかつちょう)だったが、駅名は「なかつまち」と読んだ。

終点には後に森林鉄道も接続されて、いっとき好況を呈したのだが、戦後は、輸入材に押された林業の低迷によって、収支は悪化の一途をたどった。並行する国道の整備も進んだことから、1971(昭和46)年に旅客列車の運行が朝夕のみに削減、1978(昭和53)年、最終的に廃止となった。

しかし40年以上経った今もなお、沿線各所に、列車が渡った鉄橋や草生した路床が手つかずのまま残されている。廃線跡を足でたどることで、乗れずじまいだったローカル電車の残影をわずかでも見出すことができればうれしい。

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北恵那鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1975(昭和50)年修正図)

その日、新幹線と中央本線の特急しなのを乗り継いで、中津川駅へ向かった。朝の空はまだ雲に覆われていたが、午後は晴れる予報が出ている。参加者は大出さんと私の2名。駅前のバス乗り場から、付知・加子母(かしも)方面行きに乗り込んだ。

運行しているのは北恵那交通だ。かつての鉄道会社がバス転換で社名を変え、今も地域の公共交通を担っている。「まずは鉄道の終点まで行って、廃線跡を訪ねながら戻ってこようと思います」と私。もとより全線を歩き通すのは時間的に難しいので、見どころをチョイスし、その間をバスでつなぐつもりだ。自治体の支援を受けて、約1時間間隔というローカル路線にしては破格の高頻度で運行されているから、ありがたく利用させていただこう。

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(左)駅前に停まっていた恵那電色のバス
  残念ながら付知行きではなかった
(右)段丘地形を縦断するルート
 

バスは玉蔵(ぎょくぞう)橋を通る旧国道を経由し、苗木で、城山大橋から来る国道257号(裏木曽街道)に乗った。起伏の大きな段丘地形を縦断し、付知川(つけちがわ)の深い渓谷に沿っていく。やがて谷が開け、所要40分あまりで下付知の停留所に着いた。電車の時代は1時間以上かかっていたから、ずいぶん速い。

ここがかつての駅前だ。道路の左手に草に覆われた空地が広がっている。駅舎は撤去されて久しいが、よく見るとホームの残骸が埋まりきらずに残っている。その奥にもフェンスで囲われた広大な土地があり、こちらは営林署が管理する貯木場だ。盛時には谷の奥から森林鉄道で運ばれてきた木材が山と積まれていたのだろうが、今や廃墟と化している。

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(左)下付知駅跡、ホームの縁石が露出
(右)廃墟と化した貯木場
 

一方、集落の側では一軒の製材所が稼働していて、木を挽く鋭い音が聞こえてくる。「ネットに出ていたのはこれですね」と大出さんが注目したのは、戸外から小屋に引き込まれている1本のナローゲージだ。木材の運搬に使われているらしく、小さな台車も載っている。ちっぽけな装置とはいえ、線路の痕跡すら消えた駅跡を前にすると、写真の被写体にもしたくなる。

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(左)駅前で稼働中の製材所
(右)簡易軌道に載る台車
 

駅から南へ延びる線路跡をたどった。しばらくの間、2車線道路に上書きされているが、稲荷集落の裏で、草の道が復活する。稲荷橋(いなりばし)駅跡はもうすぐだ。小さな稲荷社の鳥居のそばに石積みのホーム跡があったが、線路のバラストがはがされているからか、かなり高く見える。

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(左)稲荷橋駅北方の廃線跡
(右)鳥居の後ろに稲荷橋駅のホーム跡
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下野~下付知間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

稲荷橋の停留所で、折り返してきたバスをつかまえた。車窓から山側に線路跡が断続しているのをチェックしながら、谷を下る。降りたのは、下野(しもの)のバス停だ。このあたり、国道は高い段丘上に通されているが、勾配に弱い鉄道は付知川の谷底を這っている。それで、美濃下野(みのしもの)駅へ向かう道は急な下り坂になる。

川向こうの駅跡はすっかり整地されて、跡をとどめていない。一方、南側には支流の柏原川を斜めに横断しているプレートガーダー橋があった。静まり返った山里にぽつんと残された遺構だ。朽ちた枕木も載ったままで、見る者の哀愁を誘う。

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美濃下野駅の南に残る柏原川橋梁
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(左)たもとから南望
(右)北望、朽ちた枕木が載る
 

川沿いの一本道となった廃線跡を下流へ歩いていく。左手で早瀬と淵を繰り返す付知川は、底まで透き通った清流だ。両側から急崖が迫るこの谷筋を、ローマン渓谷と呼ぶらしい。自然地名というには作り物っぽいが、官製図に堂々と記されているのだから、公式名称のはずだ。

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同 並松~下野間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

「地形図の道路記号が途中で切れているので、通り抜けられないかもしれませんね」「だめなら引き返して、対岸を迂回しましょう」。対岸に国道整備前の旧道が通っているのだが、渡る橋は1駅3.5kmの間ない。それで、少々の藪漕ぎ、ぬかるみは覚悟の上だったが、結果的には杞憂だった。

路面を覆う草もくるぶしにかかる程度で何の問題もなく、むしろ瑞々しい新緑が作るトンネルに心が洗われた。誰も通らなければすぐに藪化するはずだから、きっとハイキングか何かの催しがあって、草刈りが行われたに違いない。

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ローマン渓谷の廃線跡
(左)ところどころ枕木も埋まる
(右)新緑のトンネルが続く
 

いい頃合いの踏み分け道は、ホーム跡がある栗本(くりもと)駅の南側で、舗装された「ローマン渓谷遊歩道」に接続した。格段に歩きやすくなる反面、整い過ぎて廃線跡の情趣がそがれる。

しかしそれは、福岡ふれあい文化センターの前までの約500mであっけなく終わった。その延長上に、歩行者専用の斜張橋、福岡ローマン橋が架かっている。鉄道のレガシーとは無縁のデザインだが、妙に高い位置にある橋面だけは旧 橋梁の高さに合わせているようだ。その後、線路は谷底を離れ、段丘崖をよじ上っていく。

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ローマン渓谷遊歩道の整備区間
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(左)福岡ローマン橋
(右)段丘を上る区間は、栗本方の一部のみ残る
 

福岡の町が載る段丘は、谷底との高低差が約30mにも及ぶ。「想像していた以上にダイナミックな地形ですね」と私。残念ながら、この間の線路跡は栗本方に一部残るだけで、美濃福岡方にあった深い切通しは埋め戻されている。国道の陸橋も撤去され、前後に存在した急カーブが緩和されたようだ。

美濃福岡(みのふくおか)駅は恵那電の主要駅の一つだった。しかし、跡地は公共用地などに転用されてしまい、記憶を伝えるのは大きな石碑だけになっている。大出さんは一度来たことがあるそうだが、「その頃からでも、すいぶん印象が変わってます」。福岡には、恵那電のOBが開設した「北恵那鉄道歴史保存会館」という資料館があったのだが、これも閉鎖されてしまった。

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福岡の段丘上から見た付知川の谷の眺め
赤の矢印が廃線跡だが、画面中央から左は切り崩されて消失
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美濃福岡駅跡
(左)記念碑
(右)駅跡を東南望、画面中央の住宅の右手前に記念碑がある
 

バスの時刻にはまだ早いので、もうひと駅歩くことにした。小さな支谷を渡り、国道の東側の山手を伝っていた線路は、草生した空地などの形で断続的に残っている。20分ほど歩くと、関戸(せきど)集落まで来た。関戸駅の痕跡はないものの、目の前に深い谷を横断していた築堤が延びている。異様に幅広に見えるのは、隣に国道の築堤が付け足されたためだ。

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美濃福岡~関戸間の廃線跡
(左)画面左が廃線跡、一部で道路拡幅工事が始まっていた
(右)関戸地内で農道になった区間
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関戸駅跡から南方の築堤を望む
左の地道が廃線跡
 

築堤脇の停留所から再びバスに乗り、次は苗木(なえぎ)へ。ちなみに、その間にある並松(なみまつ)駅跡には、長らく相対式のホームが残っていたのだが、グーグルマップの空中写真で見る限り、最近、宅地造成で撤去されたようだ。

■参考サイト
Wikimedia - 撤去前の並松駅跡の写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Namimatsu_Station

旧国道上の苗木バス停から交差点を南へ入ると、まもなく苗木駅跡がある。残念なことに、ここは並松に先駆けて宅地転用が完了しており、用地の輪郭がわかるだけで、面影はとうになくなっている。

線路はさらに東進し、山之田川(やまのたがわ)駅を経て、木曽川べりまで降下していた。しかし、後半区間は藪化して、もはや踏破不能だ。そこで私たちはそれを追わずに、木曽川の谷にショートカットすることにしている。ちょうど途中に、お城ファンに人気の苗木城址があるから、その見学も兼ねて。

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(左)苗木駅跡は宅地に転用
(右)苗木城への登り坂
 
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同 中津町~並松間
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同区間の現役時代
(1973~77(昭和48~52)年測量または修正図)
 

苗木城は、木曽川に臨む比高170mの岩山の上に築かれた遠山氏の居城だ。さきほどの駅跡から南へ延びる街村がその城下町で、桝形の街路や古風な居宅が残っている。道なりに上っていくと、永壽寺というお寺の先で山がにわかに深まる。城や領地の資料を展示している苗木遠山資料館で予備知識を仕入れてから、城内へ進んだ。

急坂を上りきった足軽長屋跡から、谷の向こうに天守跡を初めて望むことができた。建物は明治初めに破却されてしまったので、今あるのは天然の岩山と、天守の下部構造を復元したという木組みの展望台だけだ。しかし、それがかえって孤高のオーラを放っているように見える。巷間に伝わる「空に浮かぶ岩の要塞」という形容も、あながち誇張とは言えない。

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空に浮かぶ岩の要塞、苗木城天守跡
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(左)天守の下部構造を再現した展望台
(右)城内屈指の巨塊、馬洗岩
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三の丸広場と大矢倉の石垣
 

岩山の麓の鞍部にある広場は三の丸で、背後に大矢倉の立派な石垣も残っていた。天守跡へは、そこからまたつづら折りの坂道を上る必要がある。その甲斐あって頂上は、期待通りの絶景ポイントだった。木曽川が流れる深い谷を隔てて中津川市街、その背景に恵那山を主峰とする山並みと、胸のすくような大パノラマが目の前に展開する。

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台地を刻み流れ下る木曽川
馬洗岩のテラスから西望
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展望台からのパノラマ
木曽川、中津川市街地、恵那山(中央奥の雲がたなびくピーク)が一望に
 

中でも私たちが狙っていたのは、東側にある恵那電の木曽川橋梁とそれに続く廃線跡の眺望だ。背後に並ぶ旧国道の玉蔵橋(下注)と比較すると、鉄橋はいかにも華奢に見える。洪水対策で1963(昭和38)年にかさ上げ改修が行われているとはいえ、全体は今から100年前の建造物だから無理もない。廃線でメンテナンスもされていないだろうに、よくぞ今日まで残ったものだ。

*注 地形図にも玉蔵橋と記されているが、親柱の銘板には玉蔵大橋とあり、こちらが正式名。

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恵那電廃線跡を遠望
 

目的を十分果たしたところで、城址を後にした。ここからは、城坂四十八曲りと呼ばれる山道を一気に降りる。地形図にも描かれている通り、森の中に果てしなく続く険しいジグザグ道だった。逆コースにしなくてよかったとつくづく思う。

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四十八曲り
どこまでも続くジグザグの山道
 

降りきった地点は、旧国道の開通以前に中津川から苗木に通じていた旧県道だ。上空を鉄道のプレートガーダー橋、上地(かみち)橋梁が横切っている。これは、谷を下ってきた線路による最後の沢渡りなのだが、33‰の急勾配でも降りきれず、このような高い橋脚が必要とされた。3本の橋脚のうち中央の1本だけ円筒形なのは、水流の抵抗を和らげるためらしい。

支谷へ分け入る山道(下注)で、森に還りつつある上手の廃線跡を見届けた。それから対岸の斜面につけられた急な踏み分け道を登って、下手の橋台際へ出た。続く草生した道を歩いていくと、すぐに森が開け、さきほど城址の展望台から見えた集落の中の舗装道になった。

*注 旧県道以前に使われていた飛騨街道で、今は四十八曲りを通らずに苗木城へ行くハイキングルート。

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上地橋梁全景
中央の橋脚だけ円筒形
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(左)上部
(右)四十八曲りの山道から俯瞰
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山の田川の谷を渡る
 

神社の参道を渡していた橋台や、二代目恵那峡口駅(下注)の痕跡を観察しながら、緩い坂を降りていく。ほどなく木曽川橋梁のたもとまで来た。旧道に面して、遊覧船の出札・待合所が残っている。初代恵那峡口駅の駅舎を転用したという建物だ。「遊覧船は、ダムの水位が下がったために廃業したらしいです」と大出さん。

*注 木曾川橋梁かさ上げ工事の完成に伴い、1963年に移転。

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(左)神社参道の陸橋跡
(右)二代目恵那峡口駅の痕跡
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木曾川橋梁に接続する築堤(画面左)と遊覧船の出札・待合所
写真は大出氏提供
 

右脇の小道を河畔の元 船着き場へ降りると、鉄橋を仰角で観察することができる(冒頭写真参照)。主径間に下路式ダブルワーレントラスを渡し、前後にプレートガーダーを連ねた鉄橋は、134mの長さがある。「山の上からは小さく見えたのに、そばまで来ると堂々としてますね」と私。待合所の脇の踏み段で築堤に上がれば、列車の前面展望のような光景もほしいままになる。

中津川駅への帰り道、玉蔵橋を歩いて渡る間にもう一度、鉄橋のある風景を楽しんだ。城山を背にして、柔らかな夕陽をはね返す水面と、幾何学的なトラス橋のシルエットが絶妙なコントラストを見せている。同じ角度でも、朝のバスから眺めた順光の風景とは別物のようだ。

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木曾川橋梁、右岸築堤からの眺め
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夕陽の川面に映る鉄橋のシルエット
画面右奥が苗木城の城山
 

駅へ戻る大出さんを見送った後、私は木曽川支流の中津川に架かる橋梁のようすを見に行った。木曽川を渡った後も、線路は支流の狭い谷を縫うように抜けていたのだ。2本ともプレートガーダー橋だが、下付知方の第二中津川橋梁は、茂る木立に阻まれて道路からうまく見通せない。一方、第一橋梁のほうは、道路橋の妙見大橋が上空を交差しているものの、河原に降りると側面がよくわかった。橋桁に蔓が無数に絡まり、かつての鉄橋も今や藤棚同然だ。

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第二中津川橋梁
視界は木立に阻まれる
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第二~第一橋梁間で中津川左岸を通る廃線跡
(赤の矢印)
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道路橋が上空を交差する第一中津川橋梁
 

列車はこの後、中津川の谷を脱し、製紙工場の横を中津町駅へと向かっていた。しかし起点駅跡は、名鉄系の駐車場と倉庫用地に転用されて、面影は全くなくなっている。せめて美濃福岡のように記念碑か案内板が立つといいのだが、回顧の機運はまだそこまで及んでいないようだ。

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(左)製紙工場裏の廃線跡(第一橋梁~中津町駅間)
(右)正面の駐車場と倉庫が中津町駅跡
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図妻籠(昭和52年測量)、中津川(昭和52年測量)、付知(昭和48年測量)、美濃福岡(昭和48年測量)、恵那(昭和48年測量)、20万分の1地勢図飯田(昭和50年修正)および地理院地図(2021年5月20日取得)を使用したものである。

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 城下町岩村に鉄路の縁

2021年5月10日 (月)

ライトレールの風景-富山地方鉄道軌道線

北陸新幹線の富山駅で降り、階下の中央改札に向かうと、人々が行きかうコンコースの向こう正面にトラム(路面電車)の乗り場が見えるだろう。トラムが通過するときは、線路際のLEDバーが赤く点滅し始める。そしてブーブーという警報音に続いて、「電車が来ます。渡らないでください」というアナウンスが構内に響き渡る。駅の自由通路を線路が横切っているので、こうした注意喚起がなされるのだが、初めて見るシーンに目を見張る。

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富山駅東西自由通路の列車通過シーン
警告放送とともにLEDバーが点滅
 

2020年3月21日、富山駅でトラムの南北接続ルートが開通した。「南北」のうち北側は、「富山駅北」電停(下注)を起点にしていた富山ライトレールだ。一方、南側では市内線(富山地方鉄道富山軌道線)が、一足早く2015年3月から新幹線高架下にスイッチバック式のターミナルを構えていた。

*注 正式には「停留場」だが、本稿では「電停」と記す。

両線は、地平を走るJR在来線(下注)のために分断された形だったのだが、高架化の完成によって、レールの接続が可能になった。2006年4月に旧JR富山港線を転換した富山ライトレールが開業して14年、ようやく当初の構想が実現したことになる。また、これに先立ち、富山ライトレール株式会社は富山地方鉄道株式会社に合併され、接続された路線網全体を一体的に運営する体制が整えられた。

*注 富山駅に発着していたJR在来線のうち、旧 北陸本線は2015年3月に第三セクターの「あいの風とやま鉄道」に転換されている。

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2020年3月21日からの路線図
(富山駅電停の表示板を撮影)
 

■関連年表
2006年3月1日 JR富山港線廃止(運行は2月28日限り)
2006年4月29日 富山ライトレール(富山駅北~岩瀬浜間)開業
2009年12月23日 環状線開業
2012年3月24日 富山大橋架け替えによる線路移設と前後区間(安野屋~大学前間)の複線化
2015年3月14日 北陸新幹線開通、富山駅高架下に「富山駅」電停開設
2020年3月21日 富山駅南北接続完了

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 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 II(「富山駅」電停に言及)

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チューリップに見送られて牛島町交差点を通過
 

県都の中央駅である富山駅は、都市のターミナルはこうあるべきというお手本のような構造をしている。すなわち、新幹線と在来線は高架に上がった。これにより地平での自由往来が可能になり、フラットなコンコース(南北自由通路)が、鉄道の改札と、駅の北口と南口にあるバスターミナルやタクシー乗り場を結んでいる。

ここまでなら最近の中核駅では一般的かもしれない。加えて富山の場合は、これと交差する東西自由通路があり、ショッピングエリアと駐輪場・駐車場に通じている。さらにトラムの乗降ホームも南北自由通路に隣接しているので、鉄軌道間の乗り継ぎ(下注)や買い物、飲食を、短距離かつ傘要らずの水平移動で済ませることができるのだ(下図参照)。

*注 ただし、富山地方鉄道の電鉄富山駅へはやや距離があり、かつての「富山駅前」電停、現在の「電鉄富山駅・エスタ前」のほうがいくらか近い。

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「富山駅」電停
(左)ホームは東西自由通路をはさんで南北に分割
(右)南北自由通路にも開放
 

トラムの電停はずばり「富山駅」を名乗る。位置が、もはや駅前ではなく事実上の駅ナカなので、妥当なネーミングだろう(下注)。線路は上下1本ずつで、両側に低床ホームがある3面2線のシンプルな構成だ。ただしホームは、東西自由通路をはさんで北行き(岩瀬浜方面)と南行き(旧市内方面)に分割されており、実質6面(乗り場としては8面)で運用されている。

*注 高岡や福井でも、電停移設と同時に「~駅前」を「~駅」に改称している。

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富山駅地上階の見取り図
 

というのも、発着する本数が想像以上に多いのだ。時刻表を見ると、平日日中でさえ市内線の南富山駅前方面は1時間に12本、つまり5分間隔で出ていく。それから富山大学前方面(環状線に進むものを含む)が計10本、北行きの岩瀬浜方面も4本ある。わずかな待ち時間で次の電車が来るというのは頼もしい限りだ。

市内線はかつて駅前の通りを直進していたのだが、必ず「富山駅」に立ち寄るようにルート変更された。そのため、電停の手前で上下線の平面交差が生じている。また、道路(併用軌道)に出入りするのに信号待ちもあって、運行制御は複雑だ。鉄道からの乗り換え客が波のように押し寄せ、列車本数も増加する通勤通学時間帯はなおさら気を遣うことだろう。

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富山駅南口
電停から道路(併用軌道)に出る間の多重分岐

富山のトラムはこれまでにも利用したことはあるのだが、今回は改めて全線を乗り通してみるつもりだ。

まずは旧 富山ライトレール区間を北へ進むことにしよう。会社合併により、この区間の正式名称は富山地方鉄道富山港線になったが、乗客への案内は線名には触れず、岩瀬浜方面行きだ(下注)。いまさら昔の名前でアピールされても、閑散としていた盲腸線のイメージが蘇るだけだろう。

*注 運行系統としては4、5、6系統だが、区別が煩雑なためか表立って案内はされていない。

富山駅電停を発車するとすぐ「富山駅北」電停跡を通過するが、整備工事に伴い、すでに上屋、ホームとも跡形もなかった。大通りの左端をそろりと進むと、最初の交差点(牛島町交差点)の手前に新しい電停が誕生している。南北接続と同時に開業した「オークスカナルパークホテル富山前」だ。命名権を獲得したホテルが街路の左にそびえているが、停車するのは北行きの列車だけで、南行きは通過する。

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富山駅北口
(左)旧「富山駅北」電停は跡形もない
(右)在来線の旧施設が撤去されて印象が一変
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新設の「オークスカナルパークホテル富山前」電停
 

交差点を右折して東へ進んで二つ目、「龍谷富山高校前(永楽町)」も新設の電停だ。それと同時に、次の奥田中学校前まで新たに複線化されている。既存道路に軌道を敷いた富山駅北~奥田中学校前間1.1kmはこれまで単線で、1列車しか入れず、道路渋滞などの影響を受けてダイヤが乱れる原因になっていた。単線区間が約300m短縮されたことで余裕時間が捻出され、2駅を新設(=停車時間増)しても15分の運行間隔を維持できるようになったのだという。

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(左)新設の「龍谷富山高校前」電停
(右)同 電停から東は複線化
 

左にぐいっと曲がると、その奥田中学校前電停で、旧JR富山港線から転換された専用軌道に入る。少し停車時間をとって、列車交換した。この先は直線的な線形で、滑らかに走っていく。車内の乗客は電停ごとに漸減していくが、それでも最後まで10人ぐらいは残っていた。

終点の岩瀬浜では、開通当初、斬新な印象を受けたホームの上屋がすっかり周囲の風景になじんでいる。少しして、トラムに接続するフィーダーバスが駅前のロータリーに入ってきた。小型バスとはいえ、トラムの利用機会を周辺地域にも拡張する大事な役割を果たしている。

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富山港線東岩瀬電停
(左)旧駅舎とホーム上屋を保存
(右)低床車対応ホームを別置(写真は北行きホーム)
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岩瀬浜電停
(左)現代的デザインのホーム上屋
(右)フィーダーバスが到着
 

岩瀬浜電停の発車時刻表を見ると、全列車が富山駅を経由して、旧市内に入ることがわかる。日中毎時4本あるうち、2本は環状線に回り(下注)、他の1本は南富山駅前へ、もう1本は富山大学前へそれぞれ向かっている。

*注 環状線に回った列車は、再び富山駅を経由して、岩瀬浜に戻ってくる。

富山駅で長い連絡地下道を歩かされていたことを思えば隔世の感があるが、利用者にとってさらに大きな恩恵は、運賃体系の統合だ。従来は別会社のため、それぞれ運賃が設定されていた(両線とも均一210円、乗り継げば計420円)。それが今回、全線均一210円になった。ICカード(下注)利用の場合はさらに30円引きの180円だ。

*注 2021年5月現在、Suicaなど他地域の交通系ICカードは使えないが、富山市は今年度中に利用可能にするとしている。

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ホームではバスとの平面接続が可能
 

折返しは南富山駅前行きに乗る。終点まで約50分の長旅だ。走り出すと、電停ごとにコンスタントに客を拾っていく。直通の効果がどれほどなのか興味津々で観察していたが、富山駅で大半の乗客が入れ替わり、席についたままだったのは5人ほどだった。

富山駅を出るとトラムは左へ進路を取り、いわゆる電車通りの中央を進む。旧 富山ライトレールの所属車だったポートラムが乗り入れるようになり、市内線でも低床の連接車を見かける機会が増えた。しかし、旧型車もまだ健在だ。

最後尾でかぶりついていると、ときおり1950~60年代生まれの7000形がすれ違っていく。クリームと緑のツートンに赤帯を締めた地鉄色はもとより、旧塗色の7018号車や、水戸岡デザインでおめかしした7022号車(下注)など、老体ながら個性的なペイントで目を楽しませてくれる。

*注 軌道線100周年を記念して、水戸岡鋭治氏がデザインした改装車。レトロ電車の名称で運行している。

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市内線ですれ違った旧車
(左)旧塗色の7018号車
(右)水戸岡デザインの7022号車
 

西中野の電停あたりまで来ると、沿道に並ぶ建物の背丈がだいぶ低くなっているのに気づく。やがてトラムは道路から右にそれ、単線になった南富山駅前電停のホームに静かに滑り込んだ。

ここは、鉄道線の不二越、上滝両線に接続する地鉄の拠点駅だ。しかし、黒ずんだコンクリートの駅舎や鉄さびの浮いた施設が醸し出す雰囲気は、あたかも昭和の時代を舞台にした映画のセットのようだ。モダンな連接車から降り立つだけに、受ける印象のギャップは大きい。だが、上滝線にも、トラムの乗り入れによる第2の直通化構想がある。実現した暁には、このレトロな結節点も富山駅のように一新されるのだろう。

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南富山駅前電停と年季の入った鉄道線駅舎
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南富山駅
(左)軌道の引込線
(右)出札と待合室
 

南富山駅前からのトラムの運行系統は、富山駅止まりの1系統と、市内線のもう一方の終点である富山大学前まで行く2系統がある。その2系統を待っていると、地鉄色の7020号車がやってきた。たまには旧車もいいと思うが、出入口の高い段差にはもはや抵抗感さえ覚える。

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(左)地鉄色の7020号車が到着
(右)同 車内、後付けの冷房装置が目立つ
 

富山駅まではさっき通ったルートだ。その後、進行方向を逆にして、南下する。丸の内で右折し、安野屋電停の後、2012年3月に架け替えられた富山大橋で神通川(じんずうがわ)を渡る。沿線で唯一広々とした風景が見られる場所だ。旧橋の時代は安野屋以遠が単線だったので、西詰に設けられた鵯島(ひよどりじま)信号所で列車交換があったが、それも昔語りになった(下注)。終点の直前まで複線化され、連接車が入線可能になったことで、輸送力はかなり向上しただろう。

*注 複線化に伴い、西詰の電停(旧名:新富山、現:トヨタモビリティ富山Gスクエア五福前(五福末広町))も一新された。

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富山大橋西詰から東望
複線化され電停も一新(2015年3月撮影)
 

終点の富山大学前電停(下注)もまた、目に見えて改良されている。以前はホームに屋根がなく、道路をまたぐのに歩道橋の階段を上り下りしなくてはならなかった。今は風防のついた上屋が設置され、押しボタン付き横断歩道でたやすくアプローチできる。後は、大学構内への延伸が早く具体化されることを願うばかりだ。

*注 旧称は「大学前」。南北接続に合わせて改称された。

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富山大学前電停
(左)風防のついた上屋を設置
(右)アプローチは横断歩道化(いずれも2015年3月撮影)
 

最後は丸の内電停まで戻って、3系統の環状線に乗り継ぐ。環状線は、既存線の丸の内と中町(下注)を結んで2009年12月に開業した新線(富山都心線)を経由する系統だ。新線区間が単線のため、運行は左回りの一方通行になっている。

*注 ただし中町(西町北)電停は、開業3年後の2013年5月に新設されたもの。

環状線は、沈滞している中心街再興の先導役となることを期待されて開通した。しかし、実際の利用状況は想定どおりとは行かなかったようだ。当初、平日79本設定されていた運行本数は段階的に見直され、現在は55本だ。関連するかは別として、丸の内電停の壁張り時刻表も、初期は環状線が別表になっていたのに、今は2系統と混ぜて書かれており、わかりにくい。

ホームに入ってきたのはポートラムだった。環状線は今まで9000形セントラムの独り舞台だったのだが、南北接続により兄貴分であるポートラム(下注)も来るようになったのだ。しかし乗っていたのは3人のみで、大手モールの電停まででみな降りてしまった。

*注 9000形セントラムは、直通化を見越してポートラムと同じ仕様で製造されたもの。

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富山城前の環状線をポートラムが行く
 

新線区間を乗り通した後、中町電停からアーケード街の総曲輪(そうがわ)通りを歩いてみる。10年ぶりの訪問だが、こじゃれた店が増えたような気がする。しかし平日の日中ということもあってか、通りを端まで見渡しても人通りは多くない。環状線が置かれた現況もそれを反映しているようだ。

隣県の金沢のように市街に著名観光地を抱えていない富山では、地元市民の利用頻度が政策成否の鍵を握る。コンパクトシティ化を標榜する市は、中心部の再開発により定住者を増やそうとしていて、都市交通への積極的な関与はその条件整備の一環だ。今やこの町の交通システムは、欧米の先進都市に比肩するまでに進化した。今後これがどのように活用されていくのか、期待を込めて見守りたいと思う。

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(左)総曲輪通りのアーケード
(右)店舗のてこ入れが行われているが…
 

■参考サイト
富山地方鉄道-路面電車 https://www.chitetsu.co.jp/english/jp/trams/

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 ライトレールの風景-万葉線
 ライトレールの風景-福井鉄道福武線

2021年4月28日 (水)

コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡

長野県内でも上田周辺は、私鉄路線網の密度が特に高かった地域といっていいだろう。後掲の地図は1959(昭和34)年修正の20万分の1地勢図「長野」の一部だが、中央にある上田市街地から、四方八方に一条線の鉄道記号が延びているのが見て取れる(下注)。

*注 これに加えて、戦前には松本街道の上を青木村(図左端)まで行く青木線もあった。

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城下駅から上り列車が出発
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上田周辺の私鉄網が描かれた1:200,000地勢図
(1959(昭和34)年修正図)
 

この中に、経由地は異なるものの、終点は同じ町という2本の路線がある。国鉄信越本線(現 しなの鉄道)に沿って大屋駅から南下する上田丸子電鉄丸子線(旧 丸子鉄道)と、別所線の下之郷から峠を越えていく同 西丸子線(旧 上田温泉電軌依田窪線、下注)だ。前者は1918~25(大正7~14)年に、後者は1926(大正15)年に開通している。

*注 依田窪(よだくぼ)は、丸子をはじめ依田川(よだがわ)の流域を指す広域地名。

丸子(まるこ)は輸出用生糸の生産で栄えた町で、ちょうど明治末から昭和初期にかけて全盛期を迎えていた。競合関係になるのが明らかな路線が建設されたのも、それだけの需要が見込めたからに相違ない。両線は戦時中の陸運統制令により、1943(昭和18)年、上田丸子電鉄の名のもとに統合された(下注)。

*注 その後1969年の丸子線廃止に伴い、上田交通に改称。2005年に鉄道部門が分社化され、現在は上田電鉄を名乗る。

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下之郷駅にある西丸子線の説明板
地図は南を上にして描かれている
 

しかし戦後、道路交通が発達する過程では、地方の町に2本の鉄道はいかにも過剰だ。廃止されたのは、遅れてきた西丸子線のほうが早かった。貨物扱いがなく、旅客輸送も不振だったため、設備投資が行われず老朽化が進行していたことが一因だろう。1961(昭和36)年の豪雨で鉄橋やトンネルが被災したのを機に休止、バス代行となり、1963年に正式に廃止された。丸子線の廃止はその6年後、1969年のことだ。

2021年4月4日、コンターサークルS春の旅2日目は、不遇の存在だった上田丸子電鉄西丸子線の廃線跡をたどる。半世紀の時を経て消失した区間が多いものの、車窓の眺めが評判だった二ツ木峠西側では、奇跡的に線路敷が残り、在りし日をしのぶことができるという。

集合場所は、かつて西丸子線の起点だった上田電鉄別所線の下之郷(しものごう)駅。上田電鉄は2019年10月の台風災害で千曲川を渡る鉄橋が損壊し、つい1週間前に復旧再開されたばかりだ。

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復旧なった千曲川橋梁
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復旧を喜ぶ吊り広告
 

せっかくの機会なので、私は先に終点の別所温泉まで行き、風情のあるレトロ駅舎や静かな朝の温泉街を駆け足で巡ってから、上り電車で下之郷に戻ってきた。同じ電車に乗っていた大出さんと、交換する下り電車でやってきた中西さんの計3名が本日の参加メンバーだ。

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レトロな風情の別所温泉駅
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下之郷駅
(左)朱塗りのホーム駅舎
(右)上下列車が交換
 

下之郷駅の島式ホームにある駅舎は、最寄りの生島足島(いくしまたるしま)神社にちなんだ朱塗りで、やけに目立つ。そのホームの斜め向かいに、西丸子線の発着ホームが残っていた。上に載る建物はもともと、ホームの上屋を利用した倉庫だったそうだが、保存改修されて今は鉄道資料館だ。壁面に「上田丸子電鉄」という旧社名と、右横書きの駅名標が架かり、床に転轍てこや標識が並んでいる。しかし残念ながら、内部はふだん公開されていない。

この駅は別所線の運行拠点で、車庫や整備場が併設され、なかでも検査ピットのある側線は西丸子線の跡だ。ちょうどそこに、オリジナル色をまとい、疑似丸窓つきの1004編成が入っていた。「西丸子からの電車が入線してくるように見えますね」と、廃線跡歩きの気分が盛り上がる。

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旧西丸子線ホームと鉄道資料館
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検査ピットの電車は西丸子線を彷彿とさせる
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下之郷~二ツ木隧道間
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西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
(1937(昭和12)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

さっそく駅を後に、歩き始めた。側線の先は直接たどれないので、生島足島神社の参道から迂回する。きれいに整地された水田の中を、駅付近から延びてくる細道があった。これが線路跡で、いったん途切れた後、南へ一直線に進む農道に合流する。神社の脇には、その名も宮前(みやまえ)という停留所があったはずだが、痕跡すらない。

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(左)駅から延びてくる廃線跡
(右)廃線跡をなぞる一直線の農道
 

緩い上り坂の農道を約1km歩いて古安曽(こあそ)の集落に入ると、旧 石神(いしがみ)駅の位置に東の県道から入ってくる駅前道路が残っている。道の傍らに、古びたコンクリートの残骸を見つけたが、柱か何かの基礎だろうか?

旧版図を見ると、南下してきた線路は、集落の中で東に向きを変えている。並行していた県道上田丸子線を横断したところが、東塩田駅の跡地だ。交換設備を持つ駅だったので、それなりの幅と奥行きがあり、今は建設会社の敷地として使われている。

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(左)石神駅跡
(右)東塩田駅跡
 

その先は畑地に取り込まれてしまうが、少し東の、尾根川(おねがわ)の対岸(右岸)に、やや傾いた形で橋台が残っていた。下之郷を出て初めての本格的遺構だ。下流側は護岸工事が施工済みなだけに、ついでに解体されなかったのは幸運だった。橋台に続く廃線跡も、草むしてはいるものの、バラストが埋もれているのがわかる。畑の中なので、線路の撤去後、手が加えられずに、いわば静態保存されてきたようだ。

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(左)尾根川右岸の橋台
(右)橋台に続く草むした線路跡
 

廃線跡はいったん集落の道と合流するが、富士山(ふじやま)駅跡で2軒の宅地に取り込まれる。ここで過去の探索レポートには、民家の物置に転用された旧駅舎が必ず登場する。ところが今回訪ねると、それは影も形もなかった。隣の母屋が改築拡張されており、どうやらその尊い犠牲となったようだ。「数少ない痕跡がまた一つ消えてしまいました。重要文化財級だったんですが…」と私。

次の馬場(ばっぱ)駅までは、わずか400mだ。こちらはレポートどおり、駅の待合室だった小屋とホーム跡が残っていた。シートで塞がれ、みずぼらしい状態だが、3人とも熱心にカメラを向ける。通りがかりの人が見たら、何事かといぶかしんだことだろう。

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(左)富士山駅跡、旧駅舎は消失
(右)馬場駅跡のホームと旧待合室
 

道は右にカーブしていく。駒瀬川を渡る前後は、雑木林と丈の高い枯草に覆われた築堤が残っていた。中西さんが果敢にも偵察に向かったが、戻ってきて「何も残ってないですね」。今は冬枯れで視界がきくが、夏になれば、藪で堤は覆い尽くされてしまうだろう。

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山に向かう廃線跡の道
 

圃場整備でいったん途切れた跡地は、山際でまた農道となって現れる。二ツ木(ふたつぎ)峠にとりつくために、このあたりは結構な上り勾配がついている。振り返ると、線路跡の道が降りていく方向に、今歩いてきた田園地帯と遠くの山並み(下注)が一望できた。かつて、西丸子からの上り電車が山を抜けると塩田平(しおだだいら)のパノラマが目の前に広がり、車窓の名物になっていたという。私たちもしばし足を止め、当時の情景を想像した。

*注 この角度からは、塩田平の西から北を限る夫神岳(おかみだけ)、大沢山、子檀嶺岳(こまゆみだけ))、大林山、城山(じょうやま)などが見える。

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廃線跡から見る塩田平のパノラマ
 

しかしこの快適な散歩道は、谷が迫ると林に埋もれてしまう。やむをえず、並行する県道別所丸子線に迂回した。峠周辺は大規模な工業団地が造成され、道路も拡幅改修されており、廃線跡は完全に消失している。

下図は、二ツ木峠前後の区間を新旧の1:25,000地形図で比較したものだ。この地域の1:25,000は1972~73(昭和47~48)年図が最初のため、西丸子線の姿はすでにない。しかし、峠の手前(西側)で県道が陸橋で乗り越していた地点や周辺の原地形など、土地開発で改変される以前の状況がよくわかる。さすがに二ツ木トンネルの坑口は描かれていないが、この頃はまだ埋められずに残っていたはずだ。

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二ツ木峠周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(上)1973~78(昭和48~53)年図
(下)2014~16(平成26~28)年図
 

峠に向かう車道はそれなりに勾配があり、運ぶ足が重く感じられた。サミットまで上りきると、行く手に電車が1両置かれているのが見えてくる。かつて別所線を走ったモハ5250形、通称丸窓電車の5253号で、精密機器メーカーの長野計器が、自社工場の前に資料館として保存公開しているのだ。

架線まで再現されているので、写真に切り取れば現役さながらの雰囲気になる。日曜は開館しているはずだが、行ってみると、ステップに鎖が渡されていた。「コロナ禍で臨時休館してるんでしょうか」「これを楽しみに歩いてきたのに残念です」と私。せめて訪ねた記念にと、外観をしっかりカメラに収めた。

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現役の雰囲気を漂わせる丸窓電車資料館
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(左)チャームポイントの丸窓
(右)電車は長野計器工場の門前に
 

峠の東側の県道脇には、事績を伝える「二ツ木隧道開鑿記念碑」が建っている。裏側に回ると、碑文の末尾に東部塩田平耕地整理組合とあった。圃場整備の際、すなわち廃線跡を更地化するに当たって建てられたもののようだ。

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(左)二ツ木隧道開鑿記念碑
(右)記念碑から二ツ木峠を西望
   正面のアパートの裏付近にトンネル東口があった
 
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1:25,000 二ツ木隧道~西丸子間
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西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
下部は1929(昭和4)年図のため鉄道記号が異なる
 

旧 依田(よだ)駅の周囲では、小道や宅地の連なりが廃線跡を示唆している。ここから西丸子線は、目的地に向かって南へ直進していくのだが、途中にあった交換設備をもつ御岳堂(みたけどう)駅、棒線の上組(かみぐみ)駅、ともに正確な位置さえ判然としない。

新旧地形図の比較で明らかなように、南北に走る県道の微妙なS字カーブは鉄道のルートをなぞったものだ。ここで線路は、段丘面から約10m低い依田川の氾濫原に躍り出る。高低差をカバーするため、鉄道は高い築堤の上を通っていた。跡を利用した県道にもこれは踏襲されているが、依田川に接近したところで県道はそれていき、鉄道オリジナルの築堤が現れる。今は建設会社の土地のようで、ダンプカーの陰に川端駅の記念碑がひっそりと建っている。

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(左)線路をなぞるカーブ上組駅南側
(右)段丘崖と県道の高い築堤
 
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御岳堂周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(左)1972~78(昭和47~53)年図
(右)2014~15(平成26~27)年図
 

依田川を渡れば、いよいよ丸子の市街地だ。さすがに橋梁自体は跡形もないが、左岸では上記の築堤の先に橋台が、右岸でも川岸から少し引っ込んだ畑の中にコンクリートの橋脚が一本だけ残り、渡河していた位置を教えてくれる。

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依田川渡河地点
左に築堤と橋台が見える
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(左)左岸の築堤と橋台
(右)右岸の畑に残る橋脚
 

しかし右岸でカーブしながら続く築堤は崩されて、新しい宅地の並びに変わっていた。また、県道横断地点の南側でバス停に再利用されていた寿町(ことぶきちょう)駅の待合所も、すでに造り直されている。

その先300m足らずの間、住宅街に線路跡の小道が延びている。だが、まもなく家並の敷地に取り込まれてしまい、廃線跡歩きは事実上終了する。空中写真では、敷地の裏手のつらが揃っているのが見て取れるが、現地確認は難しく、途中にあった河原町(かわらちょう)駅の跡もよくわからない。

終点の西丸子駅は、現 丸子消防署南側の駐車場付近にあったそうだ。だが、案内板一つ建ってはおらず、すっかり忘れ去られている。町の商工業者の肝煎りで誕生したライバルの丸子線と違い、上田から進出した路線にとって、この町は最後までアウェーの地だったのかもしれない。

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(左)改築された寿町待合室
(右)駐車場になった西丸子駅跡

依田川の岸辺に出ると、桜並木がちょうど見ごろを迎えていた。小雨の予報が出ているからか、人通りもほとんどなく、のんびりと花見を楽しみながら上流へ歩く。400mほど先の公園の一角に電気機関車ED25形の1号機が置かれている。かつて丸子線で貨物列車を率いていた機関車だ。ひな壇の上に据えられ、満開の桜を背にして、堂々たるモニュメントに見えた。やはり丸子線は肩入れのされ方が違う。

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依田川沿いの桜並木
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丸子線ゆかりの電気機関車ED25形
 

しばらく休憩してから、その終点だった丸子駅へ向かった。もちろん鉄道は廃止され、バス停に置き換わっているのだが、名称が「丸子駅」なのだ。それどころか、街の通りや郵便局も「駅前」を名乗る。「鉄道がなくなってもバーンホーフシュトラーセ(Bahnhofstraße、ドイツ語で駅前通りの意)というのはよくありますね」と中西さん。町から列車の姿が消えて50年以上経つが、地元市民の記憶の中にまだ丸子線は生き続けているのだろう。

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通りや郵便局も「駅前」を名乗る
 

何本もの標識が静かに整列するバス停で、15時15分発の上田行きを待つ。千曲(ちくま)バスの運行だが、自治体の補助が出ているらしく、終点まで300円と格安だ。しかし待っていたのは私たちのみで、標識の数にも足りない。後でようやく一人増えたものの、結局乗客はそれですべてだった。

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校長先生の指示どおり、
整列して静かにバスを待つ標識たち
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上田(昭和53年修正測量および平成26年調製)、丸子(昭和47年測量および平成27年調製)、別所温泉(昭和48年測量および平成28年調製)、5万分の1地形図上田(昭和12年修正測図)、小諸(昭和4年修正測図)、坂城(昭和12年修正測図)および20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)を使用したものである。

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2020年11月15日 (日)

コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡

2020年秋コンターサークルSの旅関西編1日目は、福知山線(JR宝塚線)生瀬(なまぜ)~武田尾(たけだお)間の旧線跡(下注)を歩く。武庫川(むこがわ)の渓谷に沿ってトンネルと鉄橋が連続していた区間で、大半はハイキングルートとして開放されているが、その前後に残された廃トンネルの現状も観察したいと思っている。

*注 地元兵庫県や西宮市の公式観光サイトでは「福知山線廃線敷」の名称が使われている。

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トンネル、鉄橋、またトンネル
第二武庫川橋梁にて
 

福知山線は、東海道本線の尼崎駅と山陰本線の福知山駅を結ぶJR西日本の電化路線だ。大阪市内から直通の快速電車(下注)が走り、都市近郊線網の一部を成している。しかし、市街地が続くのは宝塚までで、その先は北摂(ほくせつ)山地を横断しなければならない。にわかに谷が深まり、列車は2本の名塩(なじお)トンネルをはじめとする長いトンネルをいくつもくぐり抜けていく。

*注 ただし、三田(さんだ)以北は実質各駅停車。

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新線は長大トンネルで渓谷を串刺しに
武田尾駅付近
 

1898(明治31)年から翌99年にかけて開通したこの区間が現在のトンネル主体の新線(下注)に切り替えられたのは、1986(昭和61)年8月だ。それまで90年近くも使われた旧線のルートは、渓谷の底を流れ下る武庫川の流路に忠実に従っていた。

*注 新線への切り替えは、生瀬駅付近から武田尾を経て、道場(どうじょう)駅付近まで。これに伴い、武田尾駅は約350m西へ移設された。

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渓谷沿いの旧線を行く特急列車
奥のトンネルは長尾山第一隧道
写真はT氏提供
 

廃線後の跡地は立入禁止となったが、生瀬と武田尾の間はとりわけみごとな渓谷美で知られており、無断で歩く人が絶えなかった。対策として入口の柵が撤去される代わりに、事故等が発生しても責任は負わない旨の看板が立てられた。

現在のようなハイキングルートとして全線が正式に開放されたのは、2016(平成28)年のことだ。それに先立ち、西宮市域では2016年5月から半年間、ルートを閉鎖して整備工事が行われた。入口に案内板やトイレが設置され、橋梁には板張りの通路が造られ、最寄り駅(下注1)ではルートを案内する「廃線敷マップ」も配布されるようになった(下注2)。

*注1 生瀬駅の駅前広場が狭く、また国道の狭い歩道を通らなければならないため、多人数での利用では西宮名塩駅からのスタートが推奨されている。
*注2 「廃線敷マップ」のPDFファイルが下記参考サイトでダウンロードできる。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
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旧線時代の1:25,000地形図
(1972(昭和47)年修正および1977(昭和52)年改測)

11月1日10時、生瀬駅に集まったのは中西、大出、木下さん親子、下津井の回にも来てくれた海外鉄道研究会のTさん、それに私の6名。朝方は少し冷えたが、暖かい日差しが降り注ぎ、歩きには申し分ない日だ。

ハイキングルートの起点は、駅から歩いて15分ほどの場所にある。しかし、旧線跡は駅の東方(宝塚方)からすでに始まっており、この駅自体、新線上に移転している。すぐ北側(川側)にあった旧駅跡をさっき上りホームから観察したのだが、空地で残されているものの、金網で周囲が覆われ、立ち入れそうになかった。

駅前の道路を西へ進み、新線をアンダーパスして、クルマが激しく行きかう国道176号線(名塩道路)に合流した。南側(山側)には、沢をまたいでいた旧線の小さな橋が顔をのぞかせている。

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生瀬駅
(左)新駅舎
(右)下り普通列車が入線
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(左)現 生瀬駅の北側にある旧駅跡
(右)沢をまたぐ旧線(手前)と新線(奥)の溝橋 *
キャプション末尾に*印があるものは2018年4月撮影。以下同じ
 

有馬温泉へ向かう街道が分かれる太多田川(おおただがわ)橋付近は目下、国道の改良工事中で、雑然としていた。旧線には、太多田川橋梁をはさんで2本のトンネル(下注)があったが、東側の城山隧道西口とその真下の太多田川橋梁東側橋台は、樹木の陰になってよくわからない。「道路工事の影響を受けていないので、残っているとは思うんですが…」と私。

*注 城山隧道(第2号隧道)は長さ63m、当田隧道(同 3号)は同 209m。

一方、西側橋台は、旧 有馬街道の脇に無傷で残っていた。それに接続していた当田隧道東口も、森の踏み分け道を上った先にあった。しかし、国道の新トンネル工事に支障するためか、坑口が完全に塞がれている。廃線跡はここから中国道の高架下まで、この改良国道によって「上書き」される予定で、西口付近は工事現場になり、すでに原形をとどめていない。

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太多田川橋梁跡
(左)左岸の橋台
(右)右岸を望むも、橋台とトンネルは樹木の陰
 

車道の脇の、人一人通れるだけの狭い歩道を進んで、木之元(このもと)集落へ。本来、国道は旧線を跨線橋で乗り越えていたのだが、今は高い盛り土に替えられ、廃線跡はその下に埋まっている。

横断歩道を渡り、川のほうへ降りていくと、国道の土留めの下から廃線敷が湧き出すように現れた。ハイキングルートの始まりだ。休日とあって、中高年のグループ、家族連れ、若いカップルとさまざまなハイカーが歩いている。「こんなに人の多い廃線跡は珍しいですね」と中西さん。

このルートのいいところは、渓谷内に並行する道路が造られていないことだ。そのため聞こえるのは、歩く人の話し声を除くと、渓流の絶え間ない水音と頭上でこだまする鳥のさえずりのみ。自動車の騒音とは無縁の、落ち着いた自然環境が保たれている。

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武庫川渓谷(右奥)に入っていく廃線敷ルートを遠望
 

すぐに一つ目の橋、名塩川橋梁を渡る。板張りの歩道が整備されているが、橋桁はオリジナルのガーダーだ。また少し行くと、二つめの橋梁。こちらは石積みの橋脚がいい味を出している。歩を進めるにつれ、枕木が埋まったままの路面、路側に立つ通信線の電柱や保線作業の見張り台、そして塗装の間から錆が浮き出た鉄柵と、鉄道時代の小道具が次々と現れ、目を楽しませてくれる。

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名塩川橋梁
(左)整備された板張りの歩道
(右)橋桁はオリジナル
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二つめの橋梁(姥ヶ懐川橋梁)と石積みの橋脚
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鉄道時代の小道具が次々と
(左)枕木とレンガの擁壁
(右)通信線の電柱
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(左)速度制限標識 *
(右)距離標 *
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(左)錆が浮き出た鉄柵
(右)保線作業の見張り台 *
 

対岸は、岩がむき出しの崖だ。河原にも大小さまざまな岩が無数に転がり、水流はその間を縫うようにして早瀬と淵を繰り返す。岩はみな白っぽい色をしている。これは流紋岩溶結凝灰岩(凝灰岩等を主体とする流紋岩)で、白亜期に火山からの噴出物が堆積し、自らの熱と重量で溶融して圧縮されたものだ。

中でも目を引く巨岩が高座岩(たかくらいわ、下注)で、差し渡し7~8間(13~14m)、高さが4~5間(7~9m)。竜宮につながっているとされ、昔は平たい上面で雨乞いの儀式が行われていたそうだ(下注)。なお、地形図では対岸の張り出し尾根に高座岩の注記が見えるが、実際は右岸の河原にある。

*注 この段は「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」p.17による。原典は有馬郡誌(1929年)。現地の案内板には「こうざいわ」とルビが振ってあったが、意味からして「たかくらいわ」が正しいと思われる。

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河原でひときわ目を引く高座岩 *
 

目の前にハイキングルート一つ目のトンネル、長さ318mの北山第一隧道が口を開けている。ポータルは美しい石積みだが、他のトンネルと異なり、これだけアーチがレンガ巻きではなくコンクリート製だ。というのもこのトンネルは、落石事故を防ぐために1922(大正11)年に追加で造られたもので、もとは川沿いをトンネルなしで通過していたのだ。ポータルの右側にある金網の先がその跡で、以前は歩いて通ることもできたらしい。

トンネルはどれも内部に照明設備がなく、ちょっとした探検気分が味わえる。しかし、漏水によるぬかるみを防ぐためか、路面にはバラストが敷かれており、場所によっては枕木も残る。足を取られやすく、ライトが必携だ。

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北山第一隧道南口
右の金網の先が旧線跡
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(左)内部はコンクリート巻き *
(右)北口、左が旧線跡
 

緩やかな左カーブを追っていくと、二つ目の北山第二隧道(第4号隧道、下注)が見えてくる。長さ413mとルート最長で、かつ出入口付近がカーブしているため、内部に外光が全く届かない。漆黒の闇の中、手持ちのライトを頼りに黙々と歩く。最後のカーブでほのかに明かりが見えてくると、思わずほっとした。ところがふと気がつくと、木下さんちのキリ君の姿が見えない。トンネルの中で迷子になったのか、と一瞬心配したが、「先のほうで待ってますよ」と誰かが言う。単に私たちの足が遅いだけだった。

*注 隧道の号数は開通当時のもののため、後に造られた北山第一隧道は数えない。

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北山第二隧道
(左)南口はコンクリート製だが…
(右)内部に延長された跡がある
  奥が初期のレンガ巻きのトンネル
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(左)北山第二隧道。北口はもとのレンガ巻き
(右)上部に沢を通す構築物 *
 

明かり区間では、武庫川の渓谷美が相変わらず冴えている。次の溝滝尾隧道の手前には、岩のはざまを水流が滝のように滑り落ちている場所がある。その名も溝滝(みぞたき)で、2段に分かれているので雄滝と雌滝と呼ばれているらしい。

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溝滝の眺め *
手前の早瀬は雄滝、雌滝は左奥
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(左)溝滝尾隧道南口
(右)トンネルの手前に枕木の山 *
 

溝滝尾隧道は長さ150mと比較的短いにもかかわらず、全線のハイライトと言っていい。渓谷を跨ぐ橋梁に接続しており、出口が近づくと、坑口のアーチの先に日差しを受けた朱いトラスの骨組みが重なって見えてくる(冒頭写真参照)。この印象的な構図には、誰しもカメラを向けずにいられない。

その第二武庫川橋梁を渡って左岸に移る。以前、ハイカーは保線用の側道を渡っていたのだが、線路があった中央部に板張りの通路が通され、より安全に通過できるようになった。通路の白木の欄干(柵)がまだ新しく、廃線跡にしてはちょっと違和感があるが…。

橋梁に続いて、長さ307mの長尾山第一隧道に入る。さすがに暗闇の行軍にも慣れてきた。路面に枕木がないのは、武庫川の増水の折に流されたからだそうだ。それを回収したのが、さっきの溝滝尾隧道の手前に積み重ねてあった枕木の山だろう。

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堂々たるトラスの第二武庫川橋梁
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(左)溝滝尾隧道北口に直結
(右)渓谷を斜めに横断 *
 

このトンネルを抜けると、川床は平たく、流れも目に見えて穏やかになる。廃線跡は、なおも緩い左カーブを描いて延びている。前方遠くの河原で、ハイカーたちが散開しているのが見える。親水広場と名付けられた休憩地で、線路脇にも小さな広場がある。ずっと歩いてきたので、足を休めたいと思うのはみな同じだ。席を譲ってくれたグループに礼を言って、私たちもここで昼食にした。元気が有り余っているキリ君は、食べ終わるやいなや、水切りをしに河原に降りていった。

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長尾山第一隧道北口を南望 *
右奥に見えるのは神戸水道の水道橋
(旧線を走る特急列車の写真はこの付近)
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親水広場で休憩
 

1時間ほど休憩した後、腰を上げる。残り2本の短いトンネルをくぐれば、まもなくハイキングルートの終点だ。僧川(そうかわ)に架けられた小さなガーダー橋を渡るが、このあたりは土地が再造成され、ひなびた渓谷の風情は一変している。2014年の洪水で被災し、土地のかさ上げや堤防の強化工事が実施されたからだ(下注)。

*注 ガーダー橋も土地造成に伴い掛け直されている。僧川の流路自体、やや東に移設された。

上流部で進められた大規模な住宅開発の影響で、洪水調節機能が失われ、近年は大雨が降るたびに渓谷の水位が急上昇するのだという。旧 武田尾駅の跡を探してみたが、かろうじて道路脇にコンクリートの低い擁壁(?)が見つかる程度で、面影はほとんどなくなってしまった。

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ハイキングルートも終わりが近づく
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ハイキングルート終点
(左)架け直された僧川橋梁
(右)土地造成で景観は一変
 

武田尾温泉に向かう温泉橋を通り過ぎ、神戸水道のクランク状の管路をくぐったところに、武庫川渓谷を横断する福知山線の鉄橋と、現在の武田尾駅がある。平地がないので、ホームが半分、鉄橋上にはみ出した形だ。あとの半分はトンネル内で、複線に対面式ホームの幅を加えた、ローカル駅とは思えない大空間が広がる。「モンテカルロ駅みたいでしょう」と、地元在住のTさんが笑う。

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神戸水道の水道橋
(左)武庫川をトラスで渡る
(右)線路跡をオーバークロス
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橋梁とトンネルにまたがる現 武田尾駅 *
 

ゆっくり歩いてきたつもりだが、まだ14時になっていない。私たちはさらに足を延ばして、次の草山隧道を見に行った。これは道路として使われているのだが、東口から数十m入ったところに通行止めの柵があり、左に開けられた出口へ迂回させられる。なぜなら、柵に「観光バス専用道」の表示板がぶら下がっているとおり、残りは川沿いの旅館「別庭あざれ」の専用道になっているのだ。

それで、川岸の迂回路を歩いて西口のある河原へ。こちらにも同じように専用道の表示板とともに、バーが1本渡してあった。「川岸の道が狭いから、バスの抜け道に利用しているのでしょうね」と私。とはいえ、封鎖されずに残っているだけでもよしとすべきか。

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道路に転用された草山隧道 *
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(左)南口 *
(右)「草山T(9)(第9号隧道の意)」のプレート *

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(左)草山隧道内部 *
  撮影時は工事用車両を通すために柵が開かれ、
  警備員が交通整理していた
(右)北口にもバーが
 

草山隧道を抜けた列車は、すぐに第三武庫川橋梁を渡り、対岸でまた次のトンネルに入っていたはずだ。しかし、両岸に残された橋台が場所を示しているだけで、橋そのものは跡形もない。対岸も森にすっかり覆われ、トンネルのありかを見分けることさえ難しかった。

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第三武庫川橋梁の橋台 *
次のトンネルはよく見えない
 

【付記】
新線に切り替えられた武田尾~道場間のうち、残り区間の新旧地形図を掲げておこう。橋梁が撤去され、道路転用もされていないため、旧線跡探索のハードルはかなり高そうだ。

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武田尾~道場間の現行1:25,000地形図
(2019(令和元)年修正)
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同 旧線時代の1:25,000地形図
(1972(昭和47)年修正)
 

本稿は、21世紀の武庫川を考える会 編「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」日本機関紙出版センター、2017年 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図武田尾(昭和47年修正および令和元年調製)、宝塚(昭和52年改測および平成29年調製)を使用したものである。

■参考サイト
にしのみや観光協会 https://nishinomiya-kanko.jp/

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2020年10月27日 (火)

コンターサークル地図の旅-石の里 大谷

朝10時、JR宇都宮駅西口のペデストリアンデッキからバスターミナルの乗り場へ降りると、すでに20人以上が列を作っていた。それも若者が多い。まさかそれほどの人気スポットとは知らなかったから、日曜なのに学校で授業か試験でもあるのか、と勘繰ったほどだ。聞くと、最近またメディアで取り上げられたらしい。私たちが行こうとしている場所は、PVその他の映像作品のロケ地としてもしばしば使われている。

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大谷資料館の地下採掘場跡
 

2020年10月4日、コンターサークルSの旅2日目は、その宇都宮市大谷町(おおやまち)を訪ねた。宇都宮駅の北西約8kmにある、建築用石材として名高い大谷石の産地だ。

大谷石とは、今から約1500万年前に火山灰や軽石などの火山噴出物が海底に堆積して凝固した角礫凝灰岩のことだ。気泡が多く含まれるため、比較的軽くて加工しやすく、建材として重宝されてきた。とりわけ大正期、関東大震災に見舞われた東京で、これを使った帝国ホテル本館(下注)が無事だったことから耐火性が評価され、復興需要で一躍その名が広まった。

*注 そのエントランス部分は、愛知県の博物館明治村で移築公開されている。

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大谷寺と大谷公園をつなぐ切通し
 

大谷石はこの地域の東西約5km、南北約10kmにわたって分布しており、露天掘りだけでなく、坑内掘りも盛んに行われてきた。現地には、こうした地下の広大な採掘場跡を公開している資料館があり、切り出した石材を運搬していた軌道跡なども残っている。きょうは一日、このユニークな石の里を巡るつもりだ。

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大谷資料館の位置
(1:200,000 平成22年修正図)
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と東武大谷線の位置(緑の破線)等を加筆

集合したのは中西、大出、森さんと私の4名。並んでいた若者たちとともに、10時05分発の大谷・立岩行きに乗り込んだ。バスは中心街を東西に貫く大通りから、大谷街道へと進んでいく。車内はほぼ満席で、ほぼ全員が大谷まで乗り通した。

資料館入口というバス停で下車。姿川が流れる谷間で、両側を屏風のように切り立つ灰色の崖に挟まれている。これも大谷石の露頭だ。バスは空っぽになるし、屋台も出ていて、すっかり著名観光地の様相だが、関東圏に住むメンバーでも、「何かきっかけがないと、ここまで足を延ばすことはないですね」という。ともかく案内標識に従って、山手へ歩いていく。

広い駐車場を通り抜け、急な坂道を上り、谷の奥まったところに、大谷資料館と付属のカフェ・売店があった。ここも昔は露天掘りされていたのだろう。周囲の岩山は直線的かつ複雑な形状に切り出されていて、眺めるだけでも面白い。鉱山の跡というよりもはやアートだ。

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(左)資料館入口バス停
  バスは宇都宮LRTのラッピング車だった
(右)大谷資料館正面(2017年撮影)
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資料館の周りのアートな岩山
 

資料館1階には、大谷石に関する資料が展示されている。メンバーがめざとく見つけたのが、石材を運搬していた手押しトロッコの復元模型。レールに載せた木枠の車台に、直方体に切り揃えられた本物の大谷石がぎっしりと積まれている。このようなトロッコで採掘場から荷捌きの駅まで移送していたのだ。ふと岐阜県岩村の酒屋で見た横丁鉄道(下注)を思い出した。

*注 酒屋の横丁鉄道については、本ブログ「城下町岩村に鉄路の縁」の末尾で記述。

トロッコ展示の上には、この一帯に張り巡らされていた石材軌道の路線図が掲げてある。実現はしなかったが、滞貨を解消するために、宇都宮駅を起点とする大谷石材鉄道という新線計画もあったという。旺盛な石材需要に乗って、この地域が栄えていたようすが想像できる。

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大谷石を運んだ手押しトロッコ
(大谷資料館の展示)
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石材軌道の路線図(大谷資料館の展示パネル)
左は開通年、中は廃線年を記載、
右は未成に終わった大谷石材鉄道を解説
 

資料はそれぞれに興味深いのだが、この施設の神髄はまだ別のところにある。右手の入口から降りていく石の階段の先に、にわかに開ける巨大な地下空間だ。それは四角い断面の筒を横倒しにした形で、奥に向かって沈み込むように傾斜している。さらに左右にも同じような筒状空間が延びている。歩き回るにつれ、全体が大谷石の地層の中に掘られたホール状の空洞で、一部を柱として残してあるのだということがわかってくる。

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石の階段を下りていくと…
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地下採掘場の巨大な空間が開ける
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(左)底部から見た入口の階段
(右)成形作業の展示
 

天井はるか高いところに開いている穴は、深さを測った跡だという。一面鑿や鶴嘴の跡が残された壁は、カメラで切り取るとまるで現代美術のようだ。坑内には七色のライトアップが施され、目を引くために野外彫刻のような造形物が配置されている。しかしそれらは味付けに過ぎず、この大空間が放つ荘厳さそのものが、訪れた者に驚きと感動を呼び起こす。

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ライトアップされた地下採掘場跡
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訪問者がカメラを向けているのは
天井に開いた深度測定用の穴
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鑿や鶴嘴の跡は現代美術のよう
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開口部から地上の光が差し込む
 

説明板によると、ここは大正時代から60年以上にわたって大谷石を採掘した跡で、間口150m、奥行き140m、深さは平均地下約30m、野球場一つ入る大きさがあるそうだ。そして、見て回れるエリアは実は全体の半分にも満たず、未公開の坑道がまだ奥の暗闇に眠っているのだという。

外の気温は22度あったが、坑内の気温計は13度とかなり涼しい。ジャケットの裾をたぐり寄せながら、この途方もない体積を掘り、搬出した時間と労力に思いを馳せた。朝のバスの混みぐあいや駐車場に櫛比する車の数も、この非凡な体験を得るためだとしたら納得がいく。

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(左)坑内気温13度
(右)坑内図
  公開部は薄灰色、
  背後に広大な非公開部(白色、立ち入り禁止と注記)がある

資料館を後にして、さっきのバス停の前にある大谷景観公園で昼食にした。芝生の中に設置された広い木製テーブルが、使ってくださいと言わんばかりに私たちを誘っている。

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大谷景観公園
中央のテーブルで昼食タイム
 

昼食後は、大谷寺の前から、平和観音が立つ大谷公園へ抜けた。ここも露天掘りの跡だが、そこに石の山から彫り出したという観音像がある。高さは約27m、尺貫法では88尺8寸8分で、足元から仰ぐとかなりの迫力だ。頭部はていねいに彫られ、裳裾も優美なフォルムを描いているが、「手はどうなってるんでしょうね」と誰かがつぶやく。あまり注目されない部分なので、ラフに仕上げてあるのだろうか。

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石の山から彫り出した大谷観音
 

資料館で見たとおり、かつて大谷石は鉄道で運び出されていたので、一帯の鉄道密度はかなり高かった。嚆矢となったのは、1897(明治30)年開業の宇都宮軌道運輸による人車軌道で、1903(明治36)年に日光線の鶴田駅に接続されている。この後、点在する産地に向けて2社が争うように路線を延ばしたが、1907(明治40)年に宇都宮石材軌道に一本化され、さらに1931(昭和6)年に、宇都宮に進出した東武鉄道によって買収された(下注)。

*注 それに伴い、鶴田駅西方の分岐点から東武宇都宮線の西川田駅に接続する新線が建設されている。

東武大谷線の路線網には、軌間610mmの「軌道線」と、同 1067mmの「軽便線」の二つのグループがあった。第二次大戦後、トラック輸送の普及により、前者は1952(昭和27)年に全廃されてしまったが、後者は1964(昭和39)年まで運行されていた。そこで採掘場跡を巡った後は、この大谷線の跡を訪ねる。

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石材軌道現役時代の1:25,000地形図
(1929(昭和4)年修正図)
 

森さんが、廃線跡の現状について解説した資料を配ってくれた。それに従って、大谷街道を宇都宮の方向へ少し戻る。この街道上にも併用軌道が敷かれていたはずだが、大谷寺西方の三叉路付近に、軌道線大谷駅跡が空地として残されているだけだ。

県道70号(宇都宮今市線)の大谷交差点からさらに東へ進むと、道路の南側に、軽便線の荒針(あらはり)駅跡である広大な敷地が見えてきた。ロードサイドの商業地区に再生され、奥はパチンコ店の駐車場に使われている。

線路はまもなく大谷街道から離れ、一路南へ向かっていた。だが、鹿沼街道との交差点までは、明保(めいほ)通りとして拡張整備されており、痕跡は消失している。それで、荒針分岐点から北上していた立岩(たていわ)支線跡に足を向けた。

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東武大谷線跡
(左)荒針分岐点から南は明保通りに転換
(右)北は小道になって続く
 

こちらは車1台通れる程度の小道のままで、まだしも鉄道の雰囲気を残している。右手から近づいてくる2車線道と接する地点に、「東武鉄道株式会社社有地」と記された杭が2本立っていた。簡易舗装された歩道に見えるので、社有地とは意外だった。処分しない理由があるのか、あるいはどこも引き取ってくれなかったのか。いずれにしても廃線跡を示す決定的証拠には違いない。

すぐに瓦作(かわらさく)駅の跡がある。片側が森に接したやや幅広の敷地に、大谷石のベンチらしきものが置かれている。その先は通学路に使われていたようで、車道との交差点に「止まれ」の標識やロードサインが見られた。しかしかなり古びていて、もう利用されていないのかもしれない。

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(左)道端に立つ東武社有地標
(右)瓦作駅跡
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(左)瓦作駅北方の、枕木を再利用した柵
(右)田んぼの中を延びる廃線跡
 

車道と分かれ、線路跡の道は田んぼの中を心細げに延びる。終点の立岩駅跡は児童公園に変貌していたが、ここでも同じ社有地標を発見した。

立岩支線は、先ほどの荒針分岐点からここまで2.1kmの短い貨物専用線だった。レールこそ取り払われてしまったが、それを除けば、ここにゴトゴトと無蓋貨車を牽いて列車がやってきてもおかしくない。そう思わせる、時が止まったような廃線跡だ。

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(左)終点立岩駅跡は児童公園に
(右)ここにも社有地標が
 

立岩には、朝乗ってきた路線バスの終点がある。帰りのバスも混むだろうから、始発から乗るにこしたことはない。運転手は「折り返しまでまだ時間があるので、乗って待っていてください」と私たちに言って、休憩に出ていった。村はずれの、ベンチもない停留所だったので、疲れた足にはありがたかった。

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帰りは立岩バス停から
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図大谷(昭和4年修正測図)、宇都宮西部(昭和4年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大谷(平成29年調製)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
Oya, Stone City https://oya-official.jp/

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2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年あまり、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことと、「三密」になりにくい外歩きであることも考慮して、企画の再開に踏み切った。

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花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身の下野(しもつけ)電気鉄道によって、1924(大正13)年にまず高徳(のちの新高徳)~天頂間が、762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸され、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

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矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
「下野電鐵」の注記がある
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

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矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

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矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
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矢板線現役時代の地形図(1929(昭和4)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

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水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

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実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

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(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左の画面外にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
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1:25,000 合会集落~玉生間
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矢板線現役時代
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

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(左)タクシーを降りた場所
  左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
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(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡をなぞる林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

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(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

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(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

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林道の左の深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
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(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年修正図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

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(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

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立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りる。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

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(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
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荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし今やそのバス路線も、自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずまずの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

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高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。とは言え、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

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玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

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(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

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地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
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地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
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1:25,000 玉生~船生間
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矢板線現役時代
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

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芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

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芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

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芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

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(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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1:25,000 船生~西船生間
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矢板線現役時代
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

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道の駅に併設の交流館
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交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう(下注)。

*注 読者の方から、矢板線の高徳~天頂間開業時には「船生新田」駅が存在しており、当時の資料から1929年10月22日の矢板延伸開業および1067mm改軌の際に廃止されたと考えられる、というご指摘をいただいた(下のコメント欄参照)。使用した1:50,000地形図は矢板延伸開業と同じ1929年の修正図だが、同時に存在しないはずの矢板延伸線と船生新田駅がともに描かれており、時間関係があいまいだ。
また、西船生駅が表示されていないのは、開設が修正年より後の1930年6月10日だからだと思われる(地形図の発行日は1932年6月30日なので追加修正は可能だっただろうが…)。

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船生~西船生間は一本道の農道が続く
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(左)西船生駅跡
(右)園バスと間違えそうな新高徳行き路線バス
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

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1:25,000 西船生~新高徳駅間
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矢板線現役時代
(1933(昭和8)鉄道補入図、右側は1929(昭和4)年修正図)
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(左)新高徳駅手前の廃線跡の道路(東望)
(右)現在の新高徳駅舎
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

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2020年1月 4日 (土)

新線試乗記-相鉄・JR直通線

JR武蔵小杉駅の3・4番線ホームに立っていると、さまざまな色と形の列車が次々に入ってきて見飽きることがない。青とクリームのストライプを引いた横須賀線電車や、オレンジと緑の湘南新宿ラインは日常風景だが、ときには伊豆へ向かう「スーパービュー踊り子」や、成田空港行きの「成田エクスプレス」といった特急列車も停車して、人目をさらう。

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武蔵小杉駅に入る相鉄12000系電車
 

ここにもう一つ新顔が現れた。相模鉄道、略して相鉄(そうてつ)の12000系だ。朝9時51分発の海老名(えびな)行きを待っていたら、ちょうどそれがやってきた。光沢を帯びた紺色(ネイビーブルー)を全身にまとい、ボンネット車のラジエーターのような異色のフロント装飾をもつ車両で、その色あいから、関西の人間には一瞬、南海電鉄の特急ラピートを連想させる。個性的な外見に対して、車内はごく普通の通勤電車、というイメージの落差もおもしろい。

2019年11月30日、相鉄線とJR線を連絡するルートが開通して、相互乗入れが開始された。相鉄線の西谷(にしや)から東海道貨物線の横浜羽沢駅構内まで長さ2.7kmの新線(下注)が建設され、これにより、相鉄の12000系とJR東日本のE233系が海老名と新宿(一部延長あり)の間を往復する。

*注 相鉄・JR直通線と呼ばれるが、正式には相鉄新横浜線の一部。

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相鉄路線図にJR線(緑)が加わった
 

ずっと横浜駅をターミナルにしてきた相鉄の電車が都心に進出するという画期的な事件だ。最近では副都心線を介した東急と東武のそれのように、相互乗入れが始まると、見慣れていた鉄道風景が変わり、驚きやときには違和感を覚えるのが常だが、特にこれはふだん東京で見かけない電車だ。関西で例えれば、神戸市内で止まっている神戸電鉄がJR線に乗り入れて、大阪や京都まで直通するようなものだろうか。

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相互に乗入れる相鉄12000系(左)とJR東日本E233系(右)
羽沢横浜国大駅にて
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武蔵小杉駅が分岐駅に
 

発表資料によれば、このルートで上下合わせて92本が運行されるという。従来、相鉄沿線から新宿に出るには、横浜でJRか(副都心線直通の)東急に、または大和や海老名で小田急線に、どのみち一度は乗り換える必要があったから、直通列車出現のインパクトは大きいはずだ(下注)。

*注 ただし、沿線西部は引き続き、JR直通線より小田急経由のほうが、時間的にも運賃上も有利だ。

期待に胸を膨らませて乗り込んだら、客は1両につき数人しかいなかった。10両編成はこの辺では「短い」列車なのだが、それでも持て余すほどの閑散さだ。朝の通勤ラッシュが終わった時間帯、郊外方面行きに加えて、開業からまだ5日目(12月4日)で利用者が定着していないという事情もあるのだろうが。

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海老名行き車内は閑散
 

次の停車駅は、新線上に開設された羽沢横浜国大(はざわよこはまこくだい)だが、なんと18分もかかる(下注)。武蔵小杉を出ると、すぐにポイントを渡って貨物線に移ってしまうからだ。鶴見機関区の側線に並んだ機関車や貨車が、車窓のそばをかすめ去る。新川崎と鶴見の両駅は、貨物線に旅客ホームがないので、あっさりと通過した。旅客列車では小田原直行の「湘南ライナー」などにしか使われていない迂回ルートだが、今後は身近になる。

*注 所要時間は、列車によって15~20分と幅がある。

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(左)JR貨物の鶴見機関区が車窓をかすめる
(右)鶴見線の下で上りの12000系とすれ違い(下り列車から後方を撮影)
 

鶴見駅の後、左から接近してきた京急線と並行するが、こちらはまもなく地下に潜っていき、長いトンネル区間に突入した。再び空が見える頃には、横浜羽沢の貨物ターミナルが近い。減速してポイントを右へ渡り、貨物線をアンダークロスすると、前方に、安全柵が完備された真新しいホームが見えてきた。

羽沢横浜国大駅は、相鉄が管理するJR東日本との境界駅だ。発着ホームは掘割の中にあり、コンコースが地上に面している。開業のニュース映像では人が溢れていた駅も今日は静かで、カメラを構える物見客がぽつりぽつりといるばかりだ。

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羽沢横浜国大駅ホーム
東京方を望む
 

下車して、構内を観察してみた。駅のサインボードは、ネイビーブルーの相鉄仕様で、停車駅案内には、相鉄路線網に緑でJR線が描き加えられている。新宿から先も大宮、川越まで記されているのは、朝の時間帯に、埼京線の始発駅を起終点とする列車があるからだ。稠密ダイヤで、新宿折り返しが難しいらしい。

エスカレーターでコンコースに上がる。改札前の列車案内板は、片方が各停新宿行、もう片方が特急海老名行にきれいに分かれていた。この駅を境に列車種別が変わるためだ。相鉄線内ではJRの通勤電車も特急へと、何階級もの特進を遂げるのがおもしろい。

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同 コンコース
 

券売機の上方に、両社の運賃表が掲げられている。JRの運賃表は、実際の停車駅に従い、羽沢横浜国大から武蔵小杉へ線をつなげてあり、運賃は310円だ。ところが、実際の運賃は鶴見経由で計算されるので、鶴見のほうが割安で170円。鶴見線など周辺も軒並み安く、お得感がある。

駅前には市道環状2号線が通っているが、商業施設や宅地は見当たらない。バス停の時刻表にも、新横浜駅と保土ヶ谷駅を結ぶ便が1時間に1本程度あるだけだった。

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同 正面玄関
 

駅の北側には、貨物ターミナルをまたぐ長い歩道橋が架けられている。ターミナル内の列車の動きが見物できるが、金網のせいで写真は取りづらい。駅名が示すとおり、南方に横浜国立大のキャンパスがあるので、歩道橋は通学路としても使われることになるのだろう。一帯は丘陵地のためアップダウンは避けられないが、相鉄本線の和田町駅から上る坂道ほど険しくはないし、距離も若干短そうだ。

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(左)貨物ターミナルを横断する歩道橋
(右)歩道橋の金網越しに見る荷捌き施設
 

駅に戻り、改めて時刻表を眺める。列車本数は1時間当たり朝夕3~4本、日中は2本で、相鉄の他路線に比べて圧倒的に少ない。地方路線ならいざ知らず、このエリアで次の列車まで30分待ちというのは、頻発ダイヤに慣れた市民には物足りないに違いない。JR側で既存列車との調整を必要とするという事情もあろうが、それより3年後に予定されている東急直通列車のスジを空けてあるというのが本当のところだろう。

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羽沢横浜国大駅の下り時刻表
 

知られているとおり、相鉄の都心直通計画は、今回のJR連絡線と、次にできる東急連絡線との2本立てになっている。後者は、羽沢横浜国大から新横浜を経て、東横線の日吉に至る新線(相鉄新横浜線および東急新横浜線)だ。現在日吉が終点になっている目黒線と相互乗入れを行うので、実質的に目黒線の延伸を意味する。

これが完成すると、新横浜で東海道新幹線と地下鉄ブルーラインに連絡し、目黒線直通の東京メトロ南北線や都営三田線で、永田町や大手町へのルートも開ける。また、日吉~田園調布間で同じホームの東横線に乗り換えれば、JR直通線によって実現した渋谷や、副都心線経由で新宿(三丁目)にも到達できてしまう。

計画では、列車本数が1時間当たり朝ラッシュ時に10~14本、その他時間帯に4~6本とされているから、JR直通よりずっと多い。羽沢横浜国大駅北側にある東急/JRの線路分岐(ポイント)を見ても、前者が直進、後者は速度制限のかかる側方分岐だ。東急方面の運行が主であることを暗に示している。

そして運賃も、より低く設定されることだろう。そもそも距離が短いし、仮に新線に加算運賃が設定されるとしても、東急としては、先行開業したJRに対抗できる水準に抑えるのが営業政策上、必然だからだ。そうなると、相鉄の長年の悲願と言われているJRへの乗入れは、数年後には早くも脇役に後退してしまうのかもしれない。

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(左)羽沢横浜国大駅の東京方分岐
  直進する中央の複線が東急方面、左右の分岐がJR方面
(右)西谷トンネルを行く
 

羽沢横浜国大駅から、今度はE233系に乗って、新線の残り区間を行く。その大半を占める長さ14.5kmの西谷トンネルは、シールド工法による複線トンネルで、かぶりつきで見ていると、けっこう上り下りがある。最後の上りで外の明かりが見えてきて、地上に出るとすぐに西谷だった。

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(左)トンネルの出口で相鉄本線と出会う(下り列車から後方を撮影)
(右)西谷駅に停車中のE233系は海老名行き「特急」
 

JRの電車で相鉄本線の駅に着くということは、いつのまにか横浜より西へ来たわけで、なかなか新鮮な感覚だ。めったに乗らない者でもそうだから、ふだんの利用者にとってはなおさらだろう。西谷は2面4線の駅だが、従来待避線だった外側2線が、直通線に接続された。それで、ホームの進行方向左側が新宿連絡、右側が横浜連絡と明確に分けられている。日中はまだのんびりした空気の漂う左側だが、3年後はどうなるのか今から楽しみだ。

こちらの勝手な夢想をよそに、特急の表示を掲げたE233系は、一路目的地の海老名へ向け、静かに走り去った。

■参考サイト
相鉄・JR直通線、相鉄・東急直通線 http://www.chokutsusen.jp/

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