日本の鉄道

2021年5月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址

2020年コンターサークルS春の旅の後半は、西に移動して岐阜県中津川市周辺を歩く。1日目のテーマは、北恵那鉄道の廃線跡だ。

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恵那電最大の遺構、木曽川橋梁
 

北恵那(きたえな)鉄道、いわゆる恵那電は、当時の国鉄中津川駅の裏にあった中津町(なかつまち、下注)駅を起点に北へ、下付知(しもつけち)駅まで行く22.1kmの電化私鉄だった。木曽川をせき止める大井ダム建設で、筏流しなど川を利用した木材輸送ができなくなるため、その補償として1924(大正13)年に開業している。

*注 中津川市は市制以前、恵那郡中津町(なかつちょう)だったが、駅名は「なかつまち」と読んだ。

終点には後に森林鉄道も接続されて、いっとき好況を呈したのだが、戦後は、輸入材に押された林業の低迷によって、収支は悪化の一途をたどった。並行する国道の整備も進んだことから、1971(昭和46)年に旅客列車の運行が朝夕のみに削減、1978(昭和53)年、最終的に廃止となった。

しかし40年以上経った今もなお、沿線各所に、列車が渡った鉄橋や草生した路床が手つかずのまま残されている。廃線跡を足でたどることで、乗れずじまいだったローカル電車の残影をわずかでも見出すことができればうれしい。

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北恵那鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1975(昭和50)年修正図)

その日、新幹線と中央本線の特急しなのを乗り継いで、中津川駅へ向かった。朝の空はまだ雲に覆われていたが、午後は晴れる予報が出ている。参加者は大出さんと私の2名。駅前のバス乗り場から、付知・加子母(かしも)方面行きに乗り込んだ。

運行しているのは北恵那交通だ。かつての鉄道会社がバス転換で社名を変え、今も地域の公共交通を担っている。「まずは鉄道の終点まで行って、廃線跡を訪ねながら戻ってこようと思います」と私。もとより全線を歩き通すのは時間的に難しいので、見どころをチョイスし、その間をバスでつなぐつもりだ。自治体の支援を受けて、約1時間間隔というローカル路線にしては破格の高頻度で運行されているから、ありがたく利用させていただこう。

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(左)駅前に停まっていた恵那電色のバス
  残念ながら付知行きではなかった
(右)段丘地形を縦断するルート
 

バスは玉蔵(ぎょくぞう)橋を通る旧国道を経由し、苗木で、城山大橋から来る国道257号(裏木曽街道)に乗った。起伏の大きな段丘地形を縦断し、付知川(つけちがわ)の深い渓谷に沿っていく。やがて谷が開け、所要40分あまりで下付知の停留所に着いた。電車の時代は1時間以上かかっていたから、ずいぶん速い。

ここがかつての駅前だ。道路の左手に草に覆われた空地が広がっている。駅舎は撤去されて久しいが、よく見るとホームの残骸が埋まりきらずに残っている。その奥にもフェンスで囲われた広大な土地があり、こちらは営林署が管理する貯木場だ。盛時には谷の奥から森林鉄道で運ばれてきた木材が山と積まれていたのだろうが、今や廃墟と化している。

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(左)下付知駅跡、ホームの縁石が露出
(右)廃墟と化した貯木場
 

一方、集落の側では一軒の製材所が稼働していて、木を挽く鋭い音が聞こえてくる。「ネットに出ていたのはこれですね」と大出さんが注目したのは、戸外から小屋に引き込まれている1本のナローゲージだ。木材の運搬に使われているらしく、小さな台車も載っている。ちっぽけな装置とはいえ、線路の痕跡すら消えた駅跡を前にすると、写真の被写体にもしたくなる。

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(左)駅前で稼働中の製材所
(右)簡易軌道に載る台車
 

駅から南へ延びる線路跡をたどった。しばらくの間、2車線道路に上書きされているが、稲荷集落の裏で、草の道が復活する。稲荷橋(いなりばし)駅跡はもうすぐだ。小さな稲荷社の鳥居のそばに石積みのホーム跡があったが、線路のバラストがはがされているからか、かなり高く見える。

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(左)稲荷橋駅北方の廃線跡
(右)鳥居の後ろに稲荷橋駅のホーム跡
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下野~下付知間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

稲荷橋の停留所で、折り返してきたバスをつかまえた。車窓から山側に線路跡が断続しているのをチェックしながら、谷を下る。降りたのは、下野(しもの)のバス停だ。このあたり、国道は高い段丘上に通されているが、勾配に弱い鉄道は付知川の谷底を這っている。それで、美濃下野(みのしもの)駅へ向かう道は急な下り坂になる。

川向こうの駅跡はすっかり整地されて、跡をとどめていない。一方、南側には支流の柏原川を斜めに横断しているプレートガーダー橋があった。静まり返った山里にぽつんと残された遺構だ。朽ちた枕木も載ったままで、見る者の哀愁を誘う。

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美濃下野駅の南に残る柏原川橋梁
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(左)たもとから南望
(右)北望、朽ちた枕木が載る
 

川沿いの一本道となった廃線跡を下流へ歩いていく。左手で早瀬と淵を繰り返す付知川は、底まで透き通った清流だ。両側から急崖が迫るこの谷筋を、ローマン渓谷と呼ぶらしい。自然地名というには作り物っぽいが、官製図に堂々と記されているのだから、公式名称のはずだ。

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同 並松~下野間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

「地形図の道路記号が途中で切れているので、通り抜けられないかもしれませんね」「だめなら引き返して、対岸を迂回しましょう」。対岸に国道整備前の旧道が通っているのだが、渡る橋は1駅3.5kmの間ない。それで、少々の藪漕ぎ、ぬかるみは覚悟の上だったが、結果的には杞憂だった。

路面を覆う草もくるぶしにかかる程度で何の問題もなく、むしろ瑞々しい新緑が作るトンネルに心が洗われた。誰も通らなければすぐに藪化するはずだから、きっとハイキングか何かの催しがあって、草刈りが行われたに違いない。

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ローマン渓谷の廃線跡
(左)ところどころ枕木も埋まる
(右)新緑のトンネルが続く
 

いい頃合いの踏み分け道は、ホーム跡がある栗本(くりもと)駅の南側で、舗装された「ローマン渓谷遊歩道」に接続した。格段に歩きやすくなる反面、整い過ぎて廃線跡の情趣がそがれる。

しかしそれは、福岡ふれあい文化センターの前までの約500mであっけなく終わった。その延長上に、歩行者専用の斜張橋、福岡ローマン橋が架かっている。鉄道のレガシーとは無縁のデザインだが、妙に高い位置にある橋面だけは旧 橋梁の高さに合わせているようだ。その後、線路は谷底を離れ、段丘崖をよじ上っていく。

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ローマン渓谷遊歩道の整備区間
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(左)福岡ローマン橋
(右)段丘を上る区間は、栗本方の一部のみ残る
 

福岡の町が載る段丘は、谷底との高低差が約30mにも及ぶ。「想像していた以上にダイナミックな地形ですね」と私。残念ながら、この間の線路跡は栗本方に一部残るだけで、美濃福岡方にあった深い切通しは埋め戻されている。国道の陸橋も撤去され、前後に存在した急カーブが緩和されたようだ。

美濃福岡(みのふくおか)駅は恵那電の主要駅の一つだった。しかし、跡地は公共用地などに転用されてしまい、記憶を伝えるのは大きな石碑だけになっている。大出さんは一度来たことがあるそうだが、「その頃からでも、すいぶん印象が変わってます」。福岡には、恵那電のOBが開設した「北恵那鉄道歴史保存会館」という資料館があったのだが、これも閉鎖されてしまった。

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福岡の段丘上から見た付知川の谷の眺め
赤の矢印が廃線跡だが、画面中央から左は切り崩されて消失
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美濃福岡駅跡
(左)記念碑
(右)駅跡を東南望、画面中央の住宅の右手前に記念碑がある
 

バスの時刻にはまだ早いので、もうひと駅歩くことにした。小さな支谷を渡り、国道の東側の山手を伝っていた線路は、草生した空地などの形で断続的に残っている。20分ほど歩くと、関戸(せきど)集落まで来た。関戸駅の痕跡はないものの、目の前に深い谷を横断していた築堤が延びている。異様に幅広に見えるのは、隣に国道の築堤が付け足されたためだ。

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美濃福岡~関戸間の廃線跡
(左)画面左が廃線跡、一部で道路拡幅工事が始まっていた
(右)関戸地内で農道になった区間
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関戸駅跡から南方の築堤を望む
左の地道が廃線跡
 

築堤脇の停留所から再びバスに乗り、次は苗木(なえぎ)へ。ちなみに、その間にある並松(なみまつ)駅跡には、長らく相対式のホームが残っていたのだが、グーグルマップの空中写真で見る限り、最近、宅地造成で撤去されたようだ。

■参考サイト
Wikimedia - 撤去前の並松駅跡の写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Namimatsu_Station

旧国道上の苗木バス停から交差点を南へ入ると、まもなく苗木駅跡がある。残念なことに、ここは並松に先駆けて宅地転用が完了しており、用地の輪郭がわかるだけで、面影はとうになくなっている。

線路はさらに東進し、山之田川(やまのたがわ)駅を経て、木曽川べりまで降下していた。しかし、後半区間は藪化して、もはや踏破不能だ。そこで私たちはそれを追わずに、木曽川の谷にショートカットすることにしている。ちょうど途中に、お城ファンに人気の苗木城址があるから、その見学も兼ねて。

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(左)苗木駅跡は宅地に転用
(右)苗木城への登り坂
 
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同 中津町~並松間
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同区間の現役時代
(1973~77(昭和48~52)年測量または修正図)
 

苗木城は、木曽川に臨む比高170mの岩山の上に築かれた遠山氏の居城だ。さきほどの駅跡から南へ延びる街村がその城下町で、桝形の街路や古風な居宅が残っている。道なりに上っていくと、永壽寺というお寺の先で山がにわかに深まる。城や領地の資料を展示している苗木遠山資料館で予備知識を仕入れてから、城内へ進んだ。

急坂を上りきった足軽長屋跡から、谷の向こうに天守跡を初めて望むことができた。建物は明治初めに破却されてしまったので、今あるのは天然の岩山と、天守の下部構造を復元したという木組みの展望台だけだ。しかし、それがかえって孤高のオーラを放っているように見える。巷間に伝わる「空に浮かぶ岩の要塞」という形容も、あながち誇張とは言えない。

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空に浮かぶ岩の要塞、苗木城天守跡
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(左)天守の下部構造を再現した展望台
(右)城内屈指の巨塊、馬洗岩
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三の丸広場と大矢倉の石垣
 

岩山の麓の鞍部にある広場は三の丸で、背後に大矢倉の立派な石垣も残っていた。天守跡へは、そこからまたつづら折りの坂道を上る必要がある。その甲斐あって頂上は、期待通りの絶景ポイントだった。木曽川が流れる深い谷を隔てて中津川市街、その背景に恵那山を主峰とする山並みと、胸のすくような大パノラマが目の前に展開する。

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台地を刻み流れ下る木曽川
馬洗岩のテラスから西望
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展望台からのパノラマ
木曽川、中津川市街地、恵那山(中央奥の雲がたなびくピーク)が一望に
 

中でも私たちが狙っていたのは、東側にある恵那電の木曽川橋梁とそれに続く廃線跡の眺望だ。背後に並ぶ旧国道の玉蔵橋(下注)と比較すると、鉄橋はいかにも華奢に見える。洪水対策で1963(昭和38)年にかさ上げ改修が行われているとはいえ、全体は今から100年前の建造物だから無理もない。廃線でメンテナンスもされていないだろうに、よくぞ今日まで残ったものだ。

*注 地形図にも玉蔵橋と記されているが、親柱の銘板には玉蔵大橋とあり、こちらが正式名。

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恵那電廃線跡を遠望
 

目的を十分果たしたところで、城址を後にした。ここからは、城坂四十八曲りと呼ばれる山道を一気に降りる。地形図にも描かれている通り、森の中に果てしなく続く険しいジグザグ道だった。逆コースにしなくてよかったとつくづく思う。

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四十八曲り
どこまでも続くジグザグの山道
 

降りきった地点は、旧国道の開通以前に中津川から苗木に通じていた旧県道だ。上空を鉄道のプレートガーダー橋、上地(かみち)橋梁が横切っている。これは、谷を下ってきた線路による最後の沢渡りなのだが、33‰の急勾配でも降りきれず、このような高い橋脚が必要とされた。3本の橋脚のうち中央の1本だけ円筒形なのは、水流の抵抗を和らげるためらしい。

支谷へ分け入る山道(下注)で、森に還りつつある上手の廃線跡を見届けた。それから対岸の斜面につけられた急な踏み分け道を登って、下手の橋台際へ出た。続く草生した道を歩いていくと、すぐに森が開け、さきほど城址の展望台から見えた集落の中の舗装道になった。

*注 旧県道以前に使われていた飛騨街道で、今は四十八曲りを通らずに苗木城へ行くハイキングルート。

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上地橋梁全景
中央の橋脚だけ円筒形
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(左)上部
(右)四十八曲りの山道から俯瞰
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山の田川の谷を渡る
 

神社の参道を渡していた橋台や、二代目恵那峡口駅(下注)の痕跡を観察しながら、緩い坂を降りていく。ほどなく木曽川橋梁のたもとまで来た。旧道に面して、遊覧船の出札・待合所が残っている。初代恵那峡口駅の駅舎を転用したという建物だ。「遊覧船は、ダムの水位が下がったために廃業したらしいです」と大出さん。

*注 木曾川橋梁かさ上げ工事の完成に伴い、1963年に移転。

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(左)神社参道の陸橋跡
(右)二代目恵那峡口駅の痕跡
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木曾川橋梁に接続する築堤(画面左)と遊覧船の出札・待合所
写真は大出氏提供
 

右脇の小道を河畔の元 船着き場へ降りると、鉄橋を仰角で観察することができる(冒頭写真参照)。主径間に下路式ダブルワーレントラスを渡し、前後にプレートガーダーを連ねた鉄橋は、134mの長さがある。「山の上からは小さく見えたのに、そばまで来ると堂々としてますね」と私。待合所の脇の踏み段で築堤に上がれば、列車の前面展望のような光景もほしいままになる。

中津川駅への帰り道、玉蔵橋を歩いて渡る間にもう一度、鉄橋のある風景を楽しんだ。城山を背にして、柔らかな夕陽をはね返す水面と、幾何学的なトラス橋のシルエットが絶妙なコントラストを見せている。同じ角度でも、朝のバスから眺めた順光の風景とは別物のようだ。

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木曾川橋梁、右岸築堤からの眺め
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夕陽の川面に映る鉄橋のシルエット
画面右奥が苗木城の城山
 

駅へ戻る大出さんを見送った後、私は木曽川支流の中津川に架かる橋梁のようすを見に行った。木曽川を渡った後も、線路は支流の狭い谷を縫うように抜けていたのだ。2本ともプレートガーダー橋だが、下付知方の第二中津川橋梁は、茂る木立に阻まれて道路からうまく見通せない。一方、第一橋梁のほうは、道路橋の妙見大橋が上空を交差しているものの、河原に降りると側面がよくわかった。橋桁に蔓が無数に絡まり、かつての鉄橋も今や藤棚同然だ。

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第二中津川橋梁
視界は木立に阻まれる
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第二~第一橋梁間で中津川左岸を通る廃線跡
(赤の矢印)
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道路橋が上空を交差する第一中津川橋梁
 

列車はこの後、中津川の谷を脱し、製紙工場の横を中津町駅へと向かっていた。しかし起点駅跡は、名鉄系の駐車場と倉庫用地に転用されて、面影は全くなくなっている。せめて美濃福岡のように記念碑か案内板が立つといいのだが、回顧の機運はまだそこまで及んでいないようだ。

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(左)製紙工場裏の廃線跡(第一橋梁~中津町駅間)
(右)正面の駐車場と倉庫が中津町駅跡
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図妻籠(昭和52年測量)、中津川(昭和52年測量)、付知(昭和48年測量)、美濃福岡(昭和48年測量)、恵那(昭和48年測量)、20万分の1地勢図飯田(昭和50年修正)および地理院地図(2021年5月20日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
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 城下町岩村に鉄路の縁

2021年5月10日 (月)

ライトレールの風景-富山地方鉄道軌道線

北陸新幹線の富山駅で降り、階下の中央改札に向かうと、人々が行きかうコンコースの向こう正面にトラム(路面電車)の乗り場が見えるだろう。トラムが通過するときは、線路際のLEDバーが赤く点滅し始める。そしてブーブーという警報音に続いて、「電車が来ます。渡らないでください」というアナウンスが構内に響き渡る。駅の自由通路を線路が横切っているので、こうした注意喚起がなされるのだが、初めて見るシーンに目を見張る。

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富山駅東西自由通路の列車通過シーン
警告放送とともにLEDバーが点滅
 

2020年3月21日、富山駅でトラムの南北接続ルートが開通した。「南北」のうち北側は、「富山駅北」電停(下注)を起点にしていた富山ライトレールだ。一方、南側では市内線(富山地方鉄道富山軌道線)が、一足早く2015年3月から新幹線高架下にスイッチバック式のターミナルを構えていた。

*注 正式には「停留場」だが、本稿では「電停」と記す。

両線は、地平を走るJR在来線(下注)のために分断された形だったのだが、高架化の完成によって、レールの接続が可能になった。2006年4月に旧JR富山港線を転換した富山ライトレールが開業して14年、ようやく当初の構想が実現したことになる。また、これに先立ち、富山ライトレール株式会社は富山地方鉄道株式会社に合併され、接続された路線網全体を一体的に運営する体制が整えられた。

*注 富山駅に発着していたJR在来線のうち、旧 北陸本線は2015年3月に第三セクターの「あいの風とやま鉄道」に転換されている。

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2020年3月21日からの路線図
(富山駅電停の表示板を撮影)
 

■関連年表
2006年3月1日 JR富山港線廃止(運行は2月28日限り)
2006年4月29日 富山ライトレール(富山駅北~岩瀬浜間)開業
2009年12月23日 環状線開業
2012年3月24日 富山大橋架け替えによる線路移設と前後区間(安野屋~大学前間)の複線化
2015年3月14日 北陸新幹線開通、富山駅高架下に「富山駅」電停開設
2020年3月21日 富山駅南北接続完了

■本ブログの関連記事
 新線試乗記-富山ライトレール
 新線試乗記-富山地方鉄道環状線
 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 II(「富山駅」電停に言及)

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チューリップに見送られて牛島町交差点を通過
 

県都の中央駅である富山駅は、都市のターミナルはこうあるべきというお手本のような構造をしている。すなわち、新幹線と在来線は高架に上がった。これにより地平での自由往来が可能になり、フラットなコンコース(南北自由通路)が、鉄道の改札と、駅の北口と南口にあるバスターミナルやタクシー乗り場を結んでいる。

ここまでなら最近の中核駅では一般的かもしれない。加えて富山の場合は、これと交差する東西自由通路があり、ショッピングエリアと駐輪場・駐車場に通じている。さらにトラムの乗降ホームも南北自由通路に隣接しているので、鉄軌道間の乗り継ぎ(下注)や買い物、飲食を、短距離かつ傘要らずの水平移動で済ませることができるのだ(下図参照)。

*注 ただし、富山地方鉄道の電鉄富山駅へはやや距離があり、かつての「富山駅前」電停、現在の「電鉄富山駅・エスタ前」のほうがいくらか近い。

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「富山駅」電停
(左)ホームは東西自由通路をはさんで南北に分割
(右)南北自由通路にも開放
 

トラムの電停はずばり「富山駅」を名乗る。位置が、もはや駅前ではなく事実上の駅ナカなので、妥当なネーミングだろう(下注)。線路は上下1本ずつで、両側に低床ホームがある3面2線のシンプルな構成だ。ただしホームは、東西自由通路をはさんで北行き(岩瀬浜方面)と南行き(旧市内方面)に分割されており、実質6面(乗り場としては8面)で運用されている。

*注 高岡や福井でも、電停移設と同時に「~駅前」を「~駅」に改称している。

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富山駅地上階の見取り図
 

というのも、発着する本数が想像以上に多いのだ。時刻表を見ると、平日日中でさえ市内線の南富山駅前方面は1時間に12本、つまり5分間隔で出ていく。それから富山大学前方面(環状線に進むものを含む)が計10本、北行きの岩瀬浜方面も4本ある。わずかな待ち時間で次の電車が来るというのは頼もしい限りだ。

市内線はかつて駅前の通りを直進していたのだが、必ず「富山駅」に立ち寄るようにルート変更された。そのため、電停の手前で上下線の平面交差が生じている。また、道路(併用軌道)に出入りするのに信号待ちもあって、運行制御は複雑だ。鉄道からの乗り換え客が波のように押し寄せ、列車本数も増加する通勤通学時間帯はなおさら気を遣うことだろう。

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富山駅南口
電停から道路(併用軌道)に出る間の多重分岐

富山のトラムはこれまでにも利用したことはあるのだが、今回は改めて全線を乗り通してみるつもりだ。

まずは旧 富山ライトレール区間を北へ進むことにしよう。会社合併により、この区間の正式名称は富山地方鉄道富山港線になったが、乗客への案内は線名には触れず、岩瀬浜方面行きだ(下注)。いまさら昔の名前でアピールされても、閑散としていた盲腸線のイメージが蘇るだけだろう。

*注 運行系統としては4、5、6系統だが、区別が煩雑なためか表立って案内はされていない。

富山駅電停を発車するとすぐ「富山駅北」電停跡を通過するが、整備工事に伴い、すでに上屋、ホームとも跡形もなかった。大通りの左端をそろりと進むと、最初の交差点(牛島町交差点)の手前に新しい電停が誕生している。南北接続と同時に開業した「オークスカナルパークホテル富山前」だ。命名権を獲得したホテルが街路の左にそびえているが、停車するのは北行きの列車だけで、南行きは通過する。

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富山駅北口
(左)旧「富山駅北」電停は跡形もない
(右)在来線の旧施設が撤去されて印象が一変
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新設の「オークスカナルパークホテル富山前」電停
 

交差点を右折して東へ進んで二つ目、「龍谷富山高校前(永楽町)」も新設の電停だ。それと同時に、次の奥田中学校前まで新たに複線化されている。既存道路に軌道を敷いた富山駅北~奥田中学校前間1.1kmはこれまで単線で、1列車しか入れず、道路渋滞などの影響を受けてダイヤが乱れる原因になっていた。単線区間が約300m短縮されたことで余裕時間が捻出され、2駅を新設(=停車時間増)しても15分の運行間隔を維持できるようになったのだという。

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(左)新設の「龍谷富山高校前」電停
(右)同 電停から東は複線化
 

左にぐいっと曲がると、その奥田中学校前電停で、旧JR富山港線から転換された専用軌道に入る。少し停車時間をとって、列車交換した。この先は直線的な線形で、滑らかに走っていく。車内の乗客は電停ごとに漸減していくが、それでも最後まで10人ぐらいは残っていた。

終点の岩瀬浜では、開通当初、斬新な印象を受けたホームの上屋がすっかり周囲の風景になじんでいる。少しして、トラムに接続するフィーダーバスが駅前のロータリーに入ってきた。小型バスとはいえ、トラムの利用機会を周辺地域にも拡張する大事な役割を果たしている。

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富山港線東岩瀬電停
(左)旧駅舎とホーム上屋を保存
(右)低床車対応ホームを別置(写真は北行きホーム)
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岩瀬浜電停
(左)現代的デザインのホーム上屋
(右)フィーダーバスが到着
 

岩瀬浜電停の発車時刻表を見ると、全列車が富山駅を経由して、旧市内に入ることがわかる。日中毎時4本あるうち、2本は環状線に回り(下注)、他の1本は南富山駅前へ、もう1本は富山大学前へそれぞれ向かっている。

*注 環状線に回った列車は、再び富山駅を経由して、岩瀬浜に戻ってくる。

富山駅で長い連絡地下道を歩かされていたことを思えば隔世の感があるが、利用者にとってさらに大きな恩恵は、運賃体系の統合だ。従来は別会社のため、それぞれ運賃が設定されていた(両線とも均一210円、乗り継げば計420円)。それが今回、全線均一210円になった。ICカード(下注)利用の場合はさらに30円引きの180円だ。

*注 2021年5月現在、Suicaなど他地域の交通系ICカードは使えないが、富山市は今年度中に利用可能にするとしている。

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ホームではバスとの平面接続が可能
 

折返しは南富山駅前行きに乗る。終点まで約50分の長旅だ。走り出すと、電停ごとにコンスタントに客を拾っていく。直通の効果がどれほどなのか興味津々で観察していたが、富山駅で大半の乗客が入れ替わり、席についたままだったのは5人ほどだった。

富山駅を出るとトラムは左へ進路を取り、いわゆる電車通りの中央を進む。旧 富山ライトレールの所属車だったポートラムが乗り入れるようになり、市内線でも低床の連接車を見かける機会が増えた。しかし、旧型車もまだ健在だ。

最後尾でかぶりついていると、ときおり1950~60年代生まれの7000形がすれ違っていく。クリームと緑のツートンに赤帯を締めた地鉄色はもとより、旧塗色の7018号車や、水戸岡デザインでおめかしした7022号車(下注)など、老体ながら個性的なペイントで目を楽しませてくれる。

*注 軌道線100周年を記念して、水戸岡鋭治氏がデザインした改装車。レトロ電車の名称で運行している。

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市内線ですれ違った旧車
(左)旧塗色の7018号車
(右)水戸岡デザインの7022号車
 

西中野の電停あたりまで来ると、沿道に並ぶ建物の背丈がだいぶ低くなっているのに気づく。やがてトラムは道路から右にそれ、単線になった南富山駅前電停のホームに静かに滑り込んだ。

ここは、鉄道線の不二越、上滝両線に接続する地鉄の拠点駅だ。しかし、黒ずんだコンクリートの駅舎や鉄さびの浮いた施設が醸し出す雰囲気は、あたかも昭和の時代を舞台にした映画のセットのようだ。モダンな連接車から降り立つだけに、受ける印象のギャップは大きい。だが、上滝線にも、トラムの乗り入れによる第2の直通化構想がある。実現した暁には、このレトロな結節点も富山駅のように一新されるのだろう。

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南富山駅前電停と年季の入った鉄道線駅舎
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南富山駅
(左)軌道の引込線
(右)出札と待合室
 

南富山駅前からのトラムの運行系統は、富山駅止まりの1系統と、市内線のもう一方の終点である富山大学前まで行く2系統がある。その2系統を待っていると、地鉄色の7020号車がやってきた。たまには旧車もいいと思うが、出入口の高い段差にはもはや抵抗感さえ覚える。

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(左)地鉄色の7020号車が到着
(右)同 車内、後付けの冷房装置が目立つ
 

富山駅まではさっき通ったルートだ。その後、進行方向を逆にして、南下する。丸の内で右折し、安野屋電停の後、2012年3月に架け替えられた富山大橋で神通川(じんずうがわ)を渡る。沿線で唯一広々とした風景が見られる場所だ。旧橋の時代は安野屋以遠が単線だったので、西詰に設けられた鵯島(ひよどりじま)信号所で列車交換があったが、それも昔語りになった(下注)。終点の直前まで複線化され、連接車が入線可能になったことで、輸送力はかなり向上しただろう。

*注 複線化に伴い、西詰の電停(旧名:新富山、現:トヨタモビリティ富山Gスクエア五福前(五福末広町))も一新された。

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富山大橋西詰から東望
複線化され電停も一新(2015年3月撮影)
 

終点の富山大学前電停(下注)もまた、目に見えて改良されている。以前はホームに屋根がなく、道路をまたぐのに歩道橋の階段を上り下りしなくてはならなかった。今は風防のついた上屋が設置され、押しボタン付き横断歩道でたやすくアプローチできる。後は、大学構内への延伸が早く具体化されることを願うばかりだ。

*注 旧称は「大学前」。南北接続に合わせて改称された。

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富山大学前電停
(左)風防のついた上屋を設置
(右)アプローチは横断歩道化(いずれも2015年3月撮影)
 

最後は丸の内電停まで戻って、3系統の環状線に乗り継ぐ。環状線は、既存線の丸の内と中町(下注)を結んで2009年12月に開業した新線(富山都心線)を経由する系統だ。新線区間が単線のため、運行は左回りの一方通行になっている。

*注 ただし中町(西町北)電停は、開業3年後の2013年5月に新設されたもの。

環状線は、沈滞している中心街再興の先導役となることを期待されて開通した。しかし、実際の利用状況は想定どおりとは行かなかったようだ。当初、平日79本設定されていた運行本数は段階的に見直され、現在は55本だ。関連するかは別として、丸の内電停の壁張り時刻表も、初期は環状線が別表になっていたのに、今は2系統と混ぜて書かれており、わかりにくい。

ホームに入ってきたのはポートラムだった。環状線は今まで9000形セントラムの独り舞台だったのだが、南北接続により兄貴分であるポートラム(下注)も来るようになったのだ。しかし乗っていたのは3人のみで、大手モールの電停まででみな降りてしまった。

*注 9000形セントラムは、直通化を見越してポートラムと同じ仕様で製造されたもの。

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富山城前の環状線をポートラムが行く
 

新線区間を乗り通した後、中町電停からアーケード街の総曲輪(そうがわ)通りを歩いてみる。10年ぶりの訪問だが、こじゃれた店が増えたような気がする。しかし平日の日中ということもあってか、通りを端まで見渡しても人通りは多くない。環状線が置かれた現況もそれを反映しているようだ。

隣県の金沢のように市街に著名観光地を抱えていない富山では、地元市民の利用頻度が政策成否の鍵を握る。コンパクトシティ化を標榜する市は、中心部の再開発により定住者を増やそうとしていて、都市交通への積極的な関与はその条件整備の一環だ。今やこの町の交通システムは、欧米の先進都市に比肩するまでに進化した。今後これがどのように活用されていくのか、期待を込めて見守りたいと思う。

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(左)総曲輪通りのアーケード
(右)店舗のてこ入れが行われているが…
 

■参考サイト
富山地方鉄道-路面電車 https://www.chitetsu.co.jp/english/jp/trams/

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2021年4月28日 (水)

コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡

長野県内でも上田周辺は、私鉄路線網の密度が特に高かった地域といっていいだろう。後掲の地図は1959(昭和34)年修正の20万分の1地勢図「長野」の一部だが、中央にある上田市街地から、四方八方に一条線の鉄道記号が延びているのが見て取れる(下注)。

*注 これに加えて、戦前には松本街道の上を青木村(図左端)まで行く青木線もあった。

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城下駅から上り列車が出発
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上田周辺の私鉄網が描かれた1:200,000地勢図
(1959(昭和34)年修正図)
 

この中に、経由地は異なるものの、終点は同じ町という2本の路線がある。国鉄信越本線(現 しなの鉄道)に沿って大屋駅から南下する上田丸子電鉄丸子線(旧 丸子鉄道)と、別所線の下之郷から峠を越えていく同 西丸子線(旧 上田温泉電軌依田窪線、下注)だ。前者は1918~25(大正7~14)年に、後者は1926(大正15)年に開通している。

*注 依田窪(よだくぼ)は、丸子をはじめ依田川(よだがわ)の流域を指す広域地名。

丸子(まるこ)は輸出用生糸の生産で栄えた町で、ちょうど明治末から昭和初期にかけて全盛期を迎えていた。競合関係になるのが明らかな路線が建設されたのも、それだけの需要が見込めたからに相違ない。両線は戦時中の陸運統制令により、1943(昭和18)年、上田丸子電鉄の名のもとに統合された(下注)。

*注 その後1969年の丸子線廃止に伴い、上田交通に改称。2005年に鉄道部門が分社化され、現在は上田電鉄を名乗る。

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下之郷駅にある西丸子線の説明板
地図は南を上にして描かれている
 

しかし戦後、道路交通が発達する過程では、地方の町に2本の鉄道はいかにも過剰だ。廃止されたのは、遅れてきた西丸子線のほうが早かった。貨物扱いがなく、旅客輸送も不振だったため、設備投資が行われず老朽化が進行していたことが一因だろう。1961(昭和36)年の豪雨で鉄橋やトンネルが被災したのを機に休止、バス代行となり、1963年に正式に廃止された。丸子線の廃止はその6年後、1969年のことだ。

2021年4月4日、コンターサークルS春の旅2日目は、不遇の存在だった上田丸子電鉄西丸子線の廃線跡をたどる。半世紀の時を経て消失した区間が多いものの、車窓の眺めが評判だった二ツ木峠西側では、奇跡的に線路敷が残り、在りし日をしのぶことができるという。

集合場所は、かつて西丸子線の起点だった上田電鉄別所線の下之郷(しものごう)駅。上田電鉄は2019年10月の台風災害で千曲川を渡る鉄橋が損壊し、つい1週間前に復旧再開されたばかりだ。

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復旧なった千曲川橋梁
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復旧を喜ぶ吊り広告
 

せっかくの機会なので、私は先に終点の別所温泉まで行き、風情のあるレトロ駅舎や静かな朝の温泉街を駆け足で巡ってから、上り電車で下之郷に戻ってきた。同じ電車に乗っていた大出さんと、交換する下り電車でやってきた中西さんの計3名が本日の参加メンバーだ。

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レトロな風情の別所温泉駅
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下之郷駅
(左)朱塗りのホーム駅舎
(右)上下列車が交換
 

下之郷駅の島式ホームにある駅舎は、最寄りの生島足島(いくしまたるしま)神社にちなんだ朱塗りで、やけに目立つ。そのホームの斜め向かいに、西丸子線の発着ホームが残っていた。上に載る建物はもともと、ホームの上屋を利用した倉庫だったそうだが、保存改修されて今は鉄道資料館だ。壁面に「上田丸子電鉄」という旧社名と、右横書きの駅名標が架かり、床に転轍てこや標識が並んでいる。しかし残念ながら、内部はふだん公開されていない。

この駅は別所線の運行拠点で、車庫や整備場が併設され、なかでも検査ピットのある側線は西丸子線の跡だ。ちょうどそこに、オリジナル色をまとい、疑似丸窓つきの1004編成が入っていた。「西丸子からの電車が入線してくるように見えますね」と、廃線跡歩きの気分が盛り上がる。

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旧西丸子線ホームと鉄道資料館
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検査ピットの電車は西丸子線を彷彿とさせる
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下之郷~二ツ木隧道間
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西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
(1937(昭和12)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

さっそく駅を後に、歩き始めた。側線の先は直接たどれないので、生島足島神社の参道から迂回する。きれいに整地された水田の中を、駅付近から延びてくる細道があった。これが線路跡で、いったん途切れた後、南へ一直線に進む農道に合流する。神社の脇には、その名も宮前(みやまえ)という停留所があったはずだが、痕跡すらない。

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(左)駅から延びてくる廃線跡
(右)廃線跡をなぞる一直線の農道
 

緩い上り坂の農道を約1km歩いて古安曽(こあそ)の集落に入ると、旧 石神(いしがみ)駅の位置に東の県道から入ってくる駅前道路が残っている。道の傍らに、古びたコンクリートの残骸を見つけたが、柱か何かの基礎だろうか?

旧版図を見ると、南下してきた線路は、集落の中で東に向きを変えている。並行していた県道上田丸子線を横断したところが、東塩田駅の跡地だ。交換設備を持つ駅だったので、それなりの幅と奥行きがあり、今は建設会社の敷地として使われている。

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(左)石神駅跡
(右)東塩田駅跡
 

その先は畑地に取り込まれてしまうが、少し東の、尾根川(おねがわ)の対岸(右岸)に、やや傾いた形で橋台が残っていた。下之郷を出て初めての本格的遺構だ。下流側は護岸工事が施工済みなだけに、ついでに解体されなかったのは幸運だった。橋台に続く廃線跡も、草むしてはいるものの、バラストが埋もれているのがわかる。畑の中なので、線路の撤去後、手が加えられずに、いわば静態保存されてきたようだ。

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(左)尾根川右岸の橋台
(右)橋台に続く草むした線路跡
 

廃線跡はいったん集落の道と合流するが、富士山(ふじやま)駅跡で2軒の宅地に取り込まれる。ここで過去の探索レポートには、民家の物置に転用された旧駅舎が必ず登場する。ところが今回訪ねると、それは影も形もなかった。隣の母屋が改築拡張されており、どうやらその尊い犠牲となったようだ。「数少ない痕跡がまた一つ消えてしまいました。重要文化財級だったんですが…」と私。

次の馬場(ばっぱ)駅までは、わずか400mだ。こちらはレポートどおり、駅の待合室だった小屋とホーム跡が残っていた。シートで塞がれ、みずぼらしい状態だが、3人とも熱心にカメラを向ける。通りがかりの人が見たら、何事かといぶかしんだことだろう。

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(左)富士山駅跡、旧駅舎は消失
(右)馬場駅跡のホームと旧待合室
 

道は右にカーブしていく。駒瀬川を渡る前後は、雑木林と丈の高い枯草に覆われた築堤が残っていた。中西さんが果敢にも偵察に向かったが、戻ってきて「何も残ってないですね」。今は冬枯れで視界がきくが、夏になれば、藪で堤は覆い尽くされてしまうだろう。

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山に向かう廃線跡の道
 

圃場整備でいったん途切れた跡地は、山際でまた農道となって現れる。二ツ木(ふたつぎ)峠にとりつくために、このあたりは結構な上り勾配がついている。振り返ると、線路跡の道が降りていく方向に、今歩いてきた田園地帯と遠くの山並み(下注)が一望できた。かつて、西丸子からの上り電車が山を抜けると塩田平(しおだだいら)のパノラマが目の前に広がり、車窓の名物になっていたという。私たちもしばし足を止め、当時の情景を想像した。

*注 この角度からは、塩田平の西から北を限る夫神岳(おかみだけ)、大沢山、子檀嶺岳(こまゆみだけ))、大林山、城山(じょうやま)などが見える。

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廃線跡から見る塩田平のパノラマ
 

しかしこの快適な散歩道は、谷が迫ると林に埋もれてしまう。やむをえず、並行する県道別所丸子線に迂回した。峠周辺は大規模な工業団地が造成され、道路も拡幅改修されており、廃線跡は完全に消失している。

下図は、二ツ木峠前後の区間を新旧の1:25,000地形図で比較したものだ。この地域の1:25,000は1972~73(昭和47~48)年図が最初のため、西丸子線の姿はすでにない。しかし、峠の手前(西側)で県道が陸橋で乗り越していた地点や周辺の原地形など、土地開発で改変される以前の状況がよくわかる。さすがに二ツ木トンネルの坑口は描かれていないが、この頃はまだ埋められずに残っていたはずだ。

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二ツ木峠周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(上)1973~78(昭和48~53)年図
(下)2014~16(平成26~28)年図
 

峠に向かう車道はそれなりに勾配があり、運ぶ足が重く感じられた。サミットまで上りきると、行く手に電車が1両置かれているのが見えてくる。かつて別所線を走ったモハ5250形、通称丸窓電車の5253号で、精密機器メーカーの長野計器が、自社工場の前に資料館として保存公開しているのだ。

架線まで再現されているので、写真に切り取れば現役さながらの雰囲気になる。日曜は開館しているはずだが、行ってみると、ステップに鎖が渡されていた。「コロナ禍で臨時休館してるんでしょうか」「これを楽しみに歩いてきたのに残念です」と私。せめて訪ねた記念にと、外観をしっかりカメラに収めた。

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現役の雰囲気を漂わせる丸窓電車資料館
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(左)チャームポイントの丸窓
(右)電車は長野計器工場の門前に
 

峠の東側の県道脇には、事績を伝える「二ツ木隧道開鑿記念碑」が建っている。裏側に回ると、碑文の末尾に東部塩田平耕地整理組合とあった。圃場整備の際、すなわち廃線跡を更地化するに当たって建てられたもののようだ。

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(左)二ツ木隧道開鑿記念碑
(右)記念碑から二ツ木峠を西望
   正面のアパートの裏付近にトンネル東口があった
 
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1:25,000 二ツ木隧道~西丸子間
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西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
下部は1929(昭和4)年図のため鉄道記号が異なる
 

旧 依田(よだ)駅の周囲では、小道や宅地の連なりが廃線跡を示唆している。ここから西丸子線は、目的地に向かって南へ直進していくのだが、途中にあった交換設備をもつ御岳堂(みたけどう)駅、棒線の上組(かみぐみ)駅、ともに正確な位置さえ判然としない。

新旧地形図の比較で明らかなように、南北に走る県道の微妙なS字カーブは鉄道のルートをなぞったものだ。ここで線路は、段丘面から約10m低い依田川の氾濫原に躍り出る。高低差をカバーするため、鉄道は高い築堤の上を通っていた。跡を利用した県道にもこれは踏襲されているが、依田川に接近したところで県道はそれていき、鉄道オリジナルの築堤が現れる。今は建設会社の土地のようで、ダンプカーの陰に川端駅の記念碑がひっそりと建っている。

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(左)線路をなぞるカーブ上組駅南側
(右)段丘崖と県道の高い築堤
 
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御岳堂周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(左)1972~78(昭和47~53)年図
(右)2014~15(平成26~27)年図
 

依田川を渡れば、いよいよ丸子の市街地だ。さすがに橋梁自体は跡形もないが、左岸では上記の築堤の先に橋台が、右岸でも川岸から少し引っ込んだ畑の中にコンクリートの橋脚が一本だけ残り、渡河していた位置を教えてくれる。

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依田川渡河地点
左に築堤と橋台が見える
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(左)左岸の築堤と橋台
(右)右岸の畑に残る橋脚
 

しかし右岸でカーブしながら続く築堤は崩されて、新しい宅地の並びに変わっていた。また、県道横断地点の南側でバス停に再利用されていた寿町(ことぶきちょう)駅の待合所も、すでに造り直されている。

その先300m足らずの間、住宅街に線路跡の小道が延びている。だが、まもなく家並の敷地に取り込まれてしまい、廃線跡歩きは事実上終了する。空中写真では、敷地の裏手のつらが揃っているのが見て取れるが、現地確認は難しく、途中にあった河原町(かわらちょう)駅の跡もよくわからない。

終点の西丸子駅は、現 丸子消防署南側の駐車場付近にあったそうだ。だが、案内板一つ建ってはおらず、すっかり忘れ去られている。町の商工業者の肝煎りで誕生したライバルの丸子線と違い、上田から進出した路線にとって、この町は最後までアウェーの地だったのかもしれない。

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(左)改築された寿町待合室
(右)駐車場になった西丸子駅跡

依田川の岸辺に出ると、桜並木がちょうど見ごろを迎えていた。小雨の予報が出ているからか、人通りもほとんどなく、のんびりと花見を楽しみながら上流へ歩く。400mほど先の公園の一角に電気機関車ED25形の1号機が置かれている。かつて丸子線で貨物列車を率いていた機関車だ。ひな壇の上に据えられ、満開の桜を背にして、堂々たるモニュメントに見えた。やはり丸子線は肩入れのされ方が違う。

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依田川沿いの桜並木
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丸子線ゆかりの電気機関車ED25形
 

しばらく休憩してから、その終点だった丸子駅へ向かった。もちろん鉄道は廃止され、バス停に置き換わっているのだが、名称が「丸子駅」なのだ。それどころか、街の通りや郵便局も「駅前」を名乗る。「鉄道がなくなってもバーンホーフシュトラーセ(Bahnhofstraße、ドイツ語で駅前通りの意)というのはよくありますね」と中西さん。町から列車の姿が消えて50年以上経つが、地元市民の記憶の中にまだ丸子線は生き続けているのだろう。

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通りや郵便局も「駅前」を名乗る
 

何本もの標識が静かに整列するバス停で、15時15分発の上田行きを待つ。千曲(ちくま)バスの運行だが、自治体の補助が出ているらしく、終点まで300円と格安だ。しかし待っていたのは私たちのみで、標識の数にも足りない。後でようやく一人増えたものの、結局乗客はそれですべてだった。

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校長先生の指示どおり、
整列して静かにバスを待つ標識たち
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上田(昭和53年修正測量および平成26年調製)、丸子(昭和47年測量および平成27年調製)、別所温泉(昭和48年測量および平成28年調製)、5万分の1地形図上田(昭和12年修正測図)、小諸(昭和4年修正測図)、坂城(昭和12年修正測図)および20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)を使用したものである。

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2020年11月15日 (日)

コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡

2020年秋コンターサークルSの旅関西編1日目は、福知山線(JR宝塚線)生瀬(なまぜ)~武田尾(たけだお)間の旧線跡(下注)を歩く。武庫川(むこがわ)の渓谷に沿ってトンネルと鉄橋が連続していた区間で、大半はハイキングルートとして開放されているが、その前後に残された廃トンネルの現状も観察したいと思っている。

*注 地元兵庫県や西宮市の公式観光サイトでは「福知山線廃線敷」の名称が使われている。

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トンネル、鉄橋、またトンネル
第二武庫川橋梁にて
 

福知山線は、東海道本線の尼崎駅と山陰本線の福知山駅を結ぶJR西日本の電化路線だ。大阪市内から直通の快速電車(下注)が走り、都市近郊線網の一部を成している。しかし、市街地が続くのは宝塚までで、その先は北摂(ほくせつ)山地を横断しなければならない。にわかに谷が深まり、列車は2本の名塩(なじお)トンネルをはじめとする長いトンネルをいくつもくぐり抜けていく。

*注 ただし、三田(さんだ)以北は実質各駅停車。

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新線は長大トンネルで渓谷を串刺しに
武田尾駅付近
 

1898(明治31)年から翌99年にかけて開通したこの区間が現在のトンネル主体の新線(下注)に切り替えられたのは、1986(昭和61)年8月だ。それまで90年近くも使われた旧線のルートは、渓谷の底を流れ下る武庫川の流路に忠実に従っていた。

*注 新線への切り替えは、生瀬駅付近から武田尾を経て、道場(どうじょう)駅付近まで。これに伴い、武田尾駅は約350m西へ移設された。

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渓谷沿いの旧線を行く特急列車
奥のトンネルは長尾山第一隧道
写真はT氏提供
 

廃線後の跡地は立入禁止となったが、生瀬と武田尾の間はとりわけみごとな渓谷美で知られており、無断で歩く人が絶えなかった。対策として入口の柵が撤去される代わりに、事故等が発生しても責任は負わない旨の看板が立てられた。

現在のようなハイキングルートとして全線が正式に開放されたのは、2016(平成28)年のことだ。それに先立ち、西宮市域では2016年5月から半年間、ルートを閉鎖して整備工事が行われた。入口に案内板やトイレが設置され、橋梁には板張りの通路が造られ、最寄り駅(下注1)ではルートを案内する「廃線敷マップ」も配布されるようになった(下注2)。

*注1 生瀬駅の駅前広場が狭く、また国道の狭い歩道を通らなければならないため、多人数での利用では西宮名塩駅からのスタートが推奨されている。
*注2 「廃線敷マップ」のPDFファイルが下記参考サイトでダウンロードできる。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
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旧線時代の1:25,000地形図
(1972(昭和47)年修正および1977(昭和52)年改測)

11月1日10時、生瀬駅に集まったのは中西、大出、木下さん親子、下津井の回にも来てくれた海外鉄道研究会のTさん、それに私の6名。朝方は少し冷えたが、暖かい日差しが降り注ぎ、歩きには申し分ない日だ。

ハイキングルートの起点は、駅から歩いて15分ほどの場所にある。しかし、旧線跡は駅の東方(宝塚方)からすでに始まっており、この駅自体、新線上に移転している。すぐ北側(川側)にあった旧駅跡をさっき上りホームから観察したのだが、空地で残されているものの、金網で周囲が覆われ、立ち入れそうになかった。

駅前の道路を西へ進み、新線をアンダーパスして、クルマが激しく行きかう国道176号線(名塩道路)に合流した。南側(山側)には、沢をまたいでいた旧線の小さな橋が顔をのぞかせている。

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生瀬駅
(左)新駅舎
(右)下り普通列車が入線
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(左)現 生瀬駅の北側にある旧駅跡
(右)沢をまたぐ旧線(手前)と新線(奥)の溝橋 *
キャプション末尾に*印があるものは2018年4月撮影。以下同じ
 

有馬温泉へ向かう街道が分かれる太多田川(おおただがわ)橋付近は目下、国道の改良工事中で、雑然としていた。旧線には、太多田川橋梁をはさんで2本のトンネル(下注)があったが、東側の城山隧道西口とその真下の太多田川橋梁東側橋台は、樹木の陰になってよくわからない。「道路工事の影響を受けていないので、残っているとは思うんですが…」と私。

*注 城山隧道(第2号隧道)は長さ63m、当田隧道(同 3号)は同 209m。

一方、西側橋台は、旧 有馬街道の脇に無傷で残っていた。それに接続していた当田隧道東口も、森の踏み分け道を上った先にあった。しかし、国道の新トンネル工事に支障するためか、坑口が完全に塞がれている。廃線跡はここから中国道の高架下まで、この改良国道によって「上書き」される予定で、西口付近は工事現場になり、すでに原形をとどめていない。

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太多田川橋梁跡
(左)左岸の橋台
(右)右岸を望むも、橋台とトンネルは樹木の陰
 

車道の脇の、人一人通れるだけの狭い歩道を進んで、木之元(このもと)集落へ。本来、国道は旧線を跨線橋で乗り越えていたのだが、今は高い盛り土に替えられ、廃線跡はその下に埋まっている。

横断歩道を渡り、川のほうへ降りていくと、国道の土留めの下から廃線敷が湧き出すように現れた。ハイキングルートの始まりだ。休日とあって、中高年のグループ、家族連れ、若いカップルとさまざまなハイカーが歩いている。「こんなに人の多い廃線跡は珍しいですね」と中西さん。

このルートのいいところは、渓谷内に並行する道路が造られていないことだ。そのため聞こえるのは、歩く人の話し声を除くと、渓流の絶え間ない水音と頭上でこだまする鳥のさえずりのみ。自動車の騒音とは無縁の、落ち着いた自然環境が保たれている。

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武庫川渓谷(右奥)に入っていく廃線敷ルートを遠望
 

すぐに一つ目の橋、名塩川橋梁を渡る。板張りの歩道が整備されているが、橋桁はオリジナルのガーダーだ。また少し行くと、二つめの橋梁。こちらは石積みの橋脚がいい味を出している。歩を進めるにつれ、枕木が埋まったままの路面、路側に立つ通信線の電柱や保線作業の見張り台、そして塗装の間から錆が浮き出た鉄柵と、鉄道時代の小道具が次々と現れ、目を楽しませてくれる。

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名塩川橋梁
(左)整備された板張りの歩道
(右)橋桁はオリジナル
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二つめの橋梁(姥ヶ懐川橋梁)と石積みの橋脚
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鉄道時代の小道具が次々と
(左)枕木とレンガの擁壁
(右)通信線の電柱
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(左)速度制限標識 *
(右)距離標 *
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(左)錆が浮き出た鉄柵
(右)保線作業の見張り台 *
 

対岸は、岩がむき出しの崖だ。河原にも大小さまざまな岩が無数に転がり、水流はその間を縫うようにして早瀬と淵を繰り返す。岩はみな白っぽい色をしている。これは流紋岩溶結凝灰岩(凝灰岩等を主体とする流紋岩)で、白亜期に火山からの噴出物が堆積し、自らの熱と重量で溶融して圧縮されたものだ。

中でも目を引く巨岩が高座岩(たかくらいわ、下注)で、差し渡し7~8間(13~14m)、高さが4~5間(7~9m)。竜宮につながっているとされ、昔は平たい上面で雨乞いの儀式が行われていたそうだ(下注)。なお、地形図では対岸の張り出し尾根に高座岩の注記が見えるが、実際は右岸の河原にある。

*注 この段は「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」p.17による。原典は有馬郡誌(1929年)。現地の案内板には「こうざいわ」とルビが振ってあったが、意味からして「たかくらいわ」が正しいと思われる。

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河原でひときわ目を引く高座岩 *
 

目の前にハイキングルート一つ目のトンネル、長さ318mの北山第一隧道が口を開けている。ポータルは美しい石積みだが、他のトンネルと異なり、これだけアーチがレンガ巻きではなくコンクリート製だ。というのもこのトンネルは、落石事故を防ぐために1922(大正11)年に追加で造られたもので、もとは川沿いをトンネルなしで通過していたのだ。ポータルの右側にある金網の先がその跡で、以前は歩いて通ることもできたらしい。

トンネルはどれも内部に照明設備がなく、ちょっとした探検気分が味わえる。しかし、漏水によるぬかるみを防ぐためか、路面にはバラストが敷かれており、場所によっては枕木も残る。足を取られやすく、ライトが必携だ。

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北山第一隧道南口
右の金網の先が旧線跡
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(左)内部はコンクリート巻き *
(右)北口、左が旧線跡
 

緩やかな左カーブを追っていくと、二つ目の北山第二隧道(第4号隧道、下注)が見えてくる。長さ413mとルート最長で、かつ出入口付近がカーブしているため、内部に外光が全く届かない。漆黒の闇の中、手持ちのライトを頼りに黙々と歩く。最後のカーブでほのかに明かりが見えてくると、思わずほっとした。ところがふと気がつくと、木下さんちのキリ君の姿が見えない。トンネルの中で迷子になったのか、と一瞬心配したが、「先のほうで待ってますよ」と誰かが言う。単に私たちの足が遅いだけだった。

*注 隧道の号数は開通当時のもののため、後に造られた北山第一隧道は数えない。

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北山第二隧道
(左)南口はコンクリート製だが…
(右)内部に延長された跡がある
  奥が初期のレンガ巻きのトンネル
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(左)北山第二隧道。北口はもとのレンガ巻き
(右)上部に沢を通す構築物 *
 

明かり区間では、武庫川の渓谷美が相変わらず冴えている。次の溝滝尾隧道の手前には、岩のはざまを水流が滝のように滑り落ちている場所がある。その名も溝滝(みぞたき)で、2段に分かれているので雄滝と雌滝と呼ばれているらしい。

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溝滝の眺め *
手前の早瀬は雄滝、雌滝は左奥
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(左)溝滝尾隧道南口
(右)トンネルの手前に枕木の山 *
 

溝滝尾隧道は長さ150mと比較的短いにもかかわらず、全線のハイライトと言っていい。渓谷を跨ぐ橋梁に接続しており、出口が近づくと、坑口のアーチの先に日差しを受けた朱いトラスの骨組みが重なって見えてくる(冒頭写真参照)。この印象的な構図には、誰しもカメラを向けずにいられない。

その第二武庫川橋梁を渡って左岸に移る。以前、ハイカーは保線用の側道を渡っていたのだが、線路があった中央部に板張りの通路が通され、より安全に通過できるようになった。通路の白木の欄干(柵)がまだ新しく、廃線跡にしてはちょっと違和感があるが…。

橋梁に続いて、長さ307mの長尾山第一隧道に入る。さすがに暗闇の行軍にも慣れてきた。路面に枕木がないのは、武庫川の増水の折に流されたからだそうだ。それを回収したのが、さっきの溝滝尾隧道の手前に積み重ねてあった枕木の山だろう。

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堂々たるトラスの第二武庫川橋梁
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(左)溝滝尾隧道北口に直結
(右)渓谷を斜めに横断 *
 

このトンネルを抜けると、川床は平たく、流れも目に見えて穏やかになる。廃線跡は、なおも緩い左カーブを描いて延びている。前方遠くの河原で、ハイカーたちが散開しているのが見える。親水広場と名付けられた休憩地で、線路脇にも小さな広場がある。ずっと歩いてきたので、足を休めたいと思うのはみな同じだ。席を譲ってくれたグループに礼を言って、私たちもここで昼食にした。元気が有り余っているキリ君は、食べ終わるやいなや、水切りをしに河原に降りていった。

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長尾山第一隧道北口を南望 *
右奥に見えるのは神戸水道の水道橋
(旧線を走る特急列車の写真はこの付近)
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親水広場で休憩
 

1時間ほど休憩した後、腰を上げる。残り2本の短いトンネルをくぐれば、まもなくハイキングルートの終点だ。僧川(そうかわ)に架けられた小さなガーダー橋を渡るが、このあたりは土地が再造成され、ひなびた渓谷の風情は一変している。2014年の洪水で被災し、土地のかさ上げや堤防の強化工事が実施されたからだ(下注)。

*注 ガーダー橋も土地造成に伴い掛け直されている。僧川の流路自体、やや東に移設された。

上流部で進められた大規模な住宅開発の影響で、洪水調節機能が失われ、近年は大雨が降るたびに渓谷の水位が急上昇するのだという。旧 武田尾駅の跡を探してみたが、かろうじて道路脇にコンクリートの低い擁壁(?)が見つかる程度で、面影はほとんどなくなってしまった。

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ハイキングルートも終わりが近づく
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ハイキングルート終点
(左)架け直された僧川橋梁
(右)土地造成で景観は一変
 

武田尾温泉に向かう温泉橋を通り過ぎ、神戸水道のクランク状の管路をくぐったところに、武庫川渓谷を横断する福知山線の鉄橋と、現在の武田尾駅がある。平地がないので、ホームが半分、鉄橋上にはみ出した形だ。あとの半分はトンネル内で、複線に対面式ホームの幅を加えた、ローカル駅とは思えない大空間が広がる。「モンテカルロ駅みたいでしょう」と、地元在住のTさんが笑う。

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神戸水道の水道橋
(左)武庫川をトラスで渡る
(右)線路跡をオーバークロス
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橋梁とトンネルにまたがる現 武田尾駅 *
 

ゆっくり歩いてきたつもりだが、まだ14時になっていない。私たちはさらに足を延ばして、次の草山隧道を見に行った。これは道路として使われているのだが、東口から数十m入ったところに通行止めの柵があり、左に開けられた出口へ迂回させられる。なぜなら、柵に「観光バス専用道」の表示板がぶら下がっているとおり、残りは川沿いの旅館「別庭あざれ」の専用道になっているのだ。

それで、川岸の迂回路を歩いて西口のある河原へ。こちらにも同じように専用道の表示板とともに、バーが1本渡してあった。「川岸の道が狭いから、バスの抜け道に利用しているのでしょうね」と私。とはいえ、封鎖されずに残っているだけでもよしとすべきか。

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道路に転用された草山隧道 *
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(左)南口 *
(右)「草山T(9)(第9号隧道の意)」のプレート *

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(左)草山隧道内部 *
  撮影時は工事用車両を通すために柵が開かれ、
  警備員が交通整理していた
(右)北口にもバーが
 

草山隧道を抜けた列車は、すぐに第三武庫川橋梁を渡り、対岸でまた次のトンネルに入っていたはずだ。しかし、両岸に残された橋台が場所を示しているだけで、橋そのものは跡形もない。対岸も森にすっかり覆われ、トンネルのありかを見分けることさえ難しかった。

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第三武庫川橋梁の橋台 *
次のトンネルはよく見えない
 

【付記】
新線に切り替えられた武田尾~道場間のうち、残り区間の新旧地形図を掲げておこう。橋梁が撤去され、道路転用もされていないため、旧線跡探索のハードルはかなり高そうだ。

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武田尾~道場間の現行1:25,000地形図
(2019(令和元)年修正)
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同 旧線時代の1:25,000地形図
(1972(昭和47)年修正)
 

本稿は、21世紀の武庫川を考える会 編「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」日本機関紙出版センター、2017年 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図武田尾(昭和47年修正および令和元年調製)、宝塚(昭和52年改測および平成29年調製)を使用したものである。

■参考サイト
にしのみや観光協会 https://nishinomiya-kanko.jp/

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2020年10月27日 (火)

コンターサークル地図の旅-石の里 大谷

朝10時、JR宇都宮駅西口のペデストリアンデッキからバスターミナルの乗り場へ降りると、すでに20人以上が列を作っていた。それも若者が多い。まさかそれほどの人気スポットとは知らなかったから、日曜なのに学校で授業か試験でもあるのか、と勘繰ったほどだ。聞くと、最近またメディアで取り上げられたらしい。私たちが行こうとしている場所は、PVその他の映像作品のロケ地としてもしばしば使われている。

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大谷資料館の地下採掘場跡
 

2020年10月4日、コンターサークルSの旅2日目は、その宇都宮市大谷町(おおやまち)を訪ねた。宇都宮駅の北西約8kmにある、建築用石材として名高い大谷石の産地だ。

大谷石とは、今から約1500万年前に火山灰や軽石などの火山噴出物が海底に堆積して凝固した角礫凝灰岩のことだ。気泡が多く含まれるため、比較的軽くて加工しやすく、建材として重宝されてきた。とりわけ大正期、関東大震災に見舞われた東京で、これを使った帝国ホテル本館(下注)が無事だったことから耐火性が評価され、復興需要で一躍その名が広まった。

*注 そのエントランス部分は、愛知県の博物館明治村で移築公開されている。

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大谷寺と大谷公園をつなぐ切通し
 

大谷石はこの地域の東西約5km、南北約10kmにわたって分布しており、露天掘りだけでなく、坑内掘りも盛んに行われてきた。現地には、こうした地下の広大な採掘場跡を公開している資料館があり、切り出した石材を運搬していた軌道跡なども残っている。きょうは一日、このユニークな石の里を巡るつもりだ。

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大谷資料館の位置
(1:200,000 平成22年修正図)
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と東武大谷線の位置(緑の破線)等を加筆

集合したのは中西、大出、森さんと私の4名。並んでいた若者たちとともに、10時05分発の大谷・立岩行きに乗り込んだ。バスは中心街を東西に貫く大通りから、大谷街道へと進んでいく。車内はほぼ満席で、ほぼ全員が大谷まで乗り通した。

資料館入口というバス停で下車。姿川が流れる谷間で、両側を屏風のように切り立つ灰色の崖に挟まれている。これも大谷石の露頭だ。バスは空っぽになるし、屋台も出ていて、すっかり著名観光地の様相だが、関東圏に住むメンバーでも、「何かきっかけがないと、ここまで足を延ばすことはないですね」という。ともかく案内標識に従って、山手へ歩いていく。

広い駐車場を通り抜け、急な坂道を上り、谷の奥まったところに、大谷資料館と付属のカフェ・売店があった。ここも昔は露天掘りされていたのだろう。周囲の岩山は直線的かつ複雑な形状に切り出されていて、眺めるだけでも面白い。鉱山の跡というよりもはやアートだ。

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(左)資料館入口バス停
  バスは宇都宮LRTのラッピング車だった
(右)大谷資料館正面(2017年撮影)
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資料館の周りのアートな岩山
 

資料館1階には、大谷石に関する資料が展示されている。メンバーがめざとく見つけたのが、石材を運搬していた手押しトロッコの復元模型。レールに載せた木枠の車台に、直方体に切り揃えられた本物の大谷石がぎっしりと積まれている。このようなトロッコで採掘場から荷捌きの駅まで移送していたのだ。ふと岐阜県岩村の酒屋で見た横丁鉄道(下注)を思い出した。

*注 酒屋の横丁鉄道については、本ブログ「城下町岩村に鉄路の縁」の末尾で記述。

トロッコ展示の上には、この一帯に張り巡らされていた石材軌道の路線図が掲げてある。実現はしなかったが、滞貨を解消するために、宇都宮駅を起点とする大谷石材鉄道という新線計画もあったという。旺盛な石材需要に乗って、この地域が栄えていたようすが想像できる。

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大谷石を運んだ手押しトロッコ
(大谷資料館の展示)
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石材軌道の路線図(大谷資料館の展示パネル)
左は開通年、中は廃線年を記載、
右は未成に終わった大谷石材鉄道を解説
 

資料はそれぞれに興味深いのだが、この施設の神髄はまだ別のところにある。右手の入口から降りていく石の階段の先に、にわかに開ける巨大な地下空間だ。それは四角い断面の筒を横倒しにした形で、奥に向かって沈み込むように傾斜している。さらに左右にも同じような筒状空間が延びている。歩き回るにつれ、全体が大谷石の地層の中に掘られたホール状の空洞で、一部を柱として残してあるのだということがわかってくる。

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石の階段を下りていくと…
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地下採掘場の巨大な空間が開ける
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(左)底部から見た入口の階段
(右)成形作業の展示
 

天井はるか高いところに開いている穴は、深さを測った跡だという。一面鑿や鶴嘴の跡が残された壁は、カメラで切り取るとまるで現代美術のようだ。坑内には七色のライトアップが施され、目を引くために野外彫刻のような造形物が配置されている。しかしそれらは味付けに過ぎず、この大空間が放つ荘厳さそのものが、訪れた者に驚きと感動を呼び起こす。

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ライトアップされた地下採掘場跡
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訪問者がカメラを向けているのは
天井に開いた深度測定用の穴
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鑿や鶴嘴の跡は現代美術のよう
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開口部から地上の光が差し込む
 

説明板によると、ここは大正時代から60年以上にわたって大谷石を採掘した跡で、間口150m、奥行き140m、深さは平均地下約30m、野球場一つ入る大きさがあるそうだ。そして、見て回れるエリアは実は全体の半分にも満たず、未公開の坑道がまだ奥の暗闇に眠っているのだという。

外の気温は22度あったが、坑内の気温計は13度とかなり涼しい。ジャケットの裾をたぐり寄せながら、この途方もない体積を掘り、搬出した時間と労力に思いを馳せた。朝のバスの混みぐあいや駐車場に櫛比する車の数も、この非凡な体験を得るためだとしたら納得がいく。

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(左)坑内気温13度
(右)坑内図
  公開部は薄灰色、
  背後に広大な非公開部(白色、立ち入り禁止と注記)がある

資料館を後にして、さっきのバス停の前にある大谷景観公園で昼食にした。芝生の中に設置された広い木製テーブルが、使ってくださいと言わんばかりに私たちを誘っている。

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大谷景観公園
中央のテーブルで昼食タイム
 

昼食後は、大谷寺の前から、平和観音が立つ大谷公園へ抜けた。ここも露天掘りの跡だが、そこに石の山から彫り出したという観音像がある。高さは約27m、尺貫法では88尺8寸8分で、足元から仰ぐとかなりの迫力だ。頭部はていねいに彫られ、裳裾も優美なフォルムを描いているが、「手はどうなってるんでしょうね」と誰かがつぶやく。あまり注目されない部分なので、ラフに仕上げてあるのだろうか。

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石の山から彫り出した大谷観音
 

資料館で見たとおり、かつて大谷石は鉄道で運び出されていたので、一帯の鉄道密度はかなり高かった。嚆矢となったのは、1897(明治30)年開業の宇都宮軌道運輸による人車軌道で、1903(明治36)年に日光線の鶴田駅に接続されている。この後、点在する産地に向けて2社が争うように路線を延ばしたが、1907(明治40)年に宇都宮石材軌道に一本化され、さらに1931(昭和6)年に、宇都宮に進出した東武鉄道によって買収された(下注)。

*注 それに伴い、鶴田駅西方の分岐点から東武宇都宮線の西川田駅に接続する新線が建設されている。

東武大谷線の路線網には、軌間610mmの「軌道線」と、同 1067mmの「軽便線」の二つのグループがあった。第二次大戦後、トラック輸送の普及により、前者は1952(昭和27)年に全廃されてしまったが、後者は1964(昭和39)年まで運行されていた。そこで採掘場跡を巡った後は、この大谷線の跡を訪ねる。

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石材軌道現役時代の1:25,000地形図
(1929(昭和4)年修正図)
 

森さんが、廃線跡の現状について解説した資料を配ってくれた。それに従って、大谷街道を宇都宮の方向へ少し戻る。この街道上にも併用軌道が敷かれていたはずだが、大谷寺西方の三叉路付近に、軌道線大谷駅跡が空地として残されているだけだ。

県道70号(宇都宮今市線)の大谷交差点からさらに東へ進むと、道路の南側に、軽便線の荒針(あらはり)駅跡である広大な敷地が見えてきた。ロードサイドの商業地区に再生され、奥はパチンコ店の駐車場に使われている。

線路はまもなく大谷街道から離れ、一路南へ向かっていた。だが、鹿沼街道との交差点までは、明保(めいほ)通りとして拡張整備されており、痕跡は消失している。それで、荒針分岐点から北上していた立岩(たていわ)支線跡に足を向けた。

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東武大谷線跡
(左)荒針分岐点から南は明保通りに転換
(右)北は小道になって続く
 

こちらは車1台通れる程度の小道のままで、まだしも鉄道の雰囲気を残している。右手から近づいてくる2車線道と接する地点に、「東武鉄道株式会社社有地」と記された杭が2本立っていた。簡易舗装された歩道に見えるので、社有地とは意外だった。処分しない理由があるのか、あるいはどこも引き取ってくれなかったのか。いずれにしても廃線跡を示す決定的証拠には違いない。

すぐに瓦作(かわらさく)駅の跡がある。片側が森に接したやや幅広の敷地に、大谷石のベンチらしきものが置かれている。その先は通学路に使われていたようで、車道との交差点に「止まれ」の標識やロードサインが見られた。しかしかなり古びていて、もう利用されていないのかもしれない。

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(左)道端に立つ東武社有地標
(右)瓦作駅跡
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(左)瓦作駅北方の、枕木を再利用した柵
(右)田んぼの中を延びる廃線跡
 

車道と分かれ、線路跡の道は田んぼの中を心細げに延びる。終点の立岩駅跡は児童公園に変貌していたが、ここでも同じ社有地標を発見した。

立岩支線は、先ほどの荒針分岐点からここまで2.1kmの短い貨物専用線だった。レールこそ取り払われてしまったが、それを除けば、ここにゴトゴトと無蓋貨車を牽いて列車がやってきてもおかしくない。そう思わせる、時が止まったような廃線跡だ。

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(左)終点立岩駅跡は児童公園に
(右)ここにも社有地標が
 

立岩には、朝乗ってきた路線バスの終点がある。帰りのバスも混むだろうから、始発から乗るにこしたことはない。運転手は「折り返しまでまだ時間があるので、乗って待っていてください」と私たちに言って、休憩に出ていった。村はずれの、ベンチもない停留所だったので、疲れた足にはありがたかった。

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帰りは立岩バス停から
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図大谷(昭和4年修正測図)、宇都宮西部(昭和4年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大谷(平成29年調製)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
Oya, Stone City https://oya-official.jp/

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2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年あまり、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことと、「三密」になりにくい外歩きであることも考慮して、企画の再開に踏み切った。

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花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身の下野(しもつけ)電気鉄道によって、1924(大正13)年にまず高徳(のちの新高徳)~天頂間が、762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸され、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

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矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
「下野電鐵」の注記がある
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

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矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

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矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
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矢板線現役時代の地形図(1929(昭和4)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

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水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

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実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

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(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左の画面外にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
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1:25,000 合会集落~玉生間
Blog_contour43_map8
矢板線現役時代
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

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(左)タクシーを降りた場所
  左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
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(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡をなぞる林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

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(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

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(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

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林道の左の深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
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(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年修正図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

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(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

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立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りる。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

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(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
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荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし今やそのバス路線も、自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずまずの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

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高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。とは言え、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

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玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

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(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

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地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
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地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
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1:25,000 玉生~船生間
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矢板線現役時代
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

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芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

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芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

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芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

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(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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1:25,000 船生~西船生間
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矢板線現役時代
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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道の駅に併設の交流館
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交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう(下注)。

*注 読者の方から、矢板線の高徳~天頂間開業時には「船生新田」駅が存在しており、当時の資料から1929年10月22日の矢板延伸開業および1067mm改軌の際に廃止されたと考えられる、というご指摘をいただいた(下のコメント欄参照)。使用した1:50,000地形図は矢板延伸開業と同じ1929年の修正図だが、同時に存在しないはずの矢板延伸線と船生新田駅がともに描かれており、時間関係があいまいだ。
また、西船生駅が表示されていないのは、開設が修正年より後の1930年6月10日だからだと思われる(地形図の発行日は1932年6月30日なので追加修正は可能だっただろうが…)。

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船生~西船生間は一本道の農道が続く
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(左)西船生駅跡
(右)園バスと間違えそうな新高徳行き路線バス
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

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1:25,000 西船生~新高徳駅間
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矢板線現役時代
(1933(昭和8)鉄道補入図、右側は1929(昭和4)年修正図)
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

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2020年1月 4日 (土)

新線試乗記-相鉄・JR直通線

JR武蔵小杉駅の3・4番線ホームに立っていると、さまざまな色と形の列車が次々に入ってきて見飽きることがない。青とクリームのストライプを引いた横須賀線電車や、オレンジと緑の湘南新宿ラインは日常風景だが、ときには伊豆へ向かう「スーパービュー踊り子」や、成田空港行きの「成田エクスプレス」といった特急列車も停車して、人目をさらう。

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武蔵小杉駅に入る相鉄12000系電車
 

ここにもう一つ新顔が現れた。相模鉄道、略して相鉄(そうてつ)の12000系だ。朝9時51分発の海老名(えびな)行きを待っていたら、ちょうどそれがやってきた。光沢を帯びた紺色(ネイビーブルー)を全身にまとい、ボンネット車のラジエーターのような異色のフロント装飾をもつ車両で、その色あいから、関西の人間には一瞬、南海電鉄の特急ラピートを連想させる。個性的な外見に対して、車内はごく普通の通勤電車、というイメージの落差もおもしろい。

2019年11月30日、相鉄線とJR線を連絡するルートが開通して、相互乗入れが開始された。相鉄線の西谷(にしや)から東海道貨物線の横浜羽沢駅構内まで長さ2.7kmの新線(下注)が建設され、これにより、相鉄の12000系とJR東日本のE233系が海老名と新宿(一部延長あり)の間を往復する。

*注 相鉄・JR直通線と呼ばれるが、正式には相鉄新横浜線の一部。

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相鉄路線図にJR線(緑)が加わった
 

ずっと横浜駅をターミナルにしてきた相鉄の電車が都心に進出するという画期的な事件だ。最近では副都心線を介した東急と東武のそれのように、相互乗入れが始まると、見慣れていた鉄道風景が変わり、驚きやときには違和感を覚えるのが常だが、特にこれはふだん東京で見かけない電車だ。関西で例えれば、神戸市内で止まっている神戸電鉄がJR線に乗り入れて、大阪や京都まで直通するようなものだろうか。

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相互に乗入れる相鉄12000系(左)とJR東日本E233系(右)
羽沢横浜国大駅にて
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武蔵小杉駅が分岐駅に
 

発表資料によれば、このルートで上下合わせて92本が運行されるという。従来、相鉄沿線から新宿に出るには、横浜でJRか(副都心線直通の)東急に、または大和や海老名で小田急線に、どのみち一度は乗り換える必要があったから、直通列車出現のインパクトは大きいはずだ(下注)。

*注 ただし、沿線西部は引き続き、JR直通線より小田急経由のほうが、時間的にも運賃上も有利だ。

期待に胸を膨らませて乗り込んだら、客は1両につき数人しかいなかった。10両編成はこの辺では「短い」列車なのだが、それでも持て余すほどの閑散さだ。朝の通勤ラッシュが終わった時間帯、郊外方面行きに加えて、開業からまだ5日目(12月4日)で利用者が定着していないという事情もあるのだろうが。

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海老名行き車内は閑散
 

次の停車駅は、新線上に開設された羽沢横浜国大(はざわよこはまこくだい)だが、なんと18分もかかる(下注)。武蔵小杉を出ると、すぐにポイントを渡って貨物線に移ってしまうからだ。鶴見機関区の側線に並んだ機関車や貨車が、車窓のそばをかすめ去る。新川崎と鶴見の両駅は、貨物線に旅客ホームがないので、あっさりと通過した。旅客列車では小田原直行の「湘南ライナー」などにしか使われていない迂回ルートだが、今後は身近になる。

*注 所要時間は、列車によって15~20分と幅がある。

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(左)JR貨物の鶴見機関区が車窓をかすめる
(右)鶴見線の下で上りの12000系とすれ違い(下り列車から後方を撮影)
 

鶴見駅の後、左から接近してきた京急線と並行するが、こちらはまもなく地下に潜っていき、長いトンネル区間に突入した。再び空が見える頃には、横浜羽沢の貨物ターミナルが近い。減速してポイントを右へ渡り、貨物線をアンダークロスすると、前方に、安全柵が完備された真新しいホームが見えてきた。

羽沢横浜国大駅は、相鉄が管理するJR東日本との境界駅だ。発着ホームは掘割の中にあり、コンコースが地上に面している。開業のニュース映像では人が溢れていた駅も今日は静かで、カメラを構える物見客がぽつりぽつりといるばかりだ。

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羽沢横浜国大駅ホーム
東京方を望む
 

下車して、構内を観察してみた。駅のサインボードは、ネイビーブルーの相鉄仕様で、停車駅案内には、相鉄路線網に緑でJR線が描き加えられている。新宿から先も大宮、川越まで記されているのは、朝の時間帯に、埼京線の始発駅を起終点とする列車があるからだ。稠密ダイヤで、新宿折り返しが難しいらしい。

エスカレーターでコンコースに上がる。改札前の列車案内板は、片方が各停新宿行、もう片方が特急海老名行にきれいに分かれていた。この駅を境に列車種別が変わるためだ。相鉄線内ではJRの通勤電車も特急へと、何階級もの特進を遂げるのがおもしろい。

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同 コンコース
 

券売機の上方に、両社の運賃表が掲げられている。JRの運賃表は、実際の停車駅に従い、羽沢横浜国大から武蔵小杉へ線をつなげてあり、運賃は310円だ。ところが、実際の運賃は鶴見経由で計算されるので、鶴見のほうが割安で170円。鶴見線など周辺も軒並み安く、お得感がある。

駅前には市道環状2号線が通っているが、商業施設や宅地は見当たらない。バス停の時刻表にも、新横浜駅と保土ヶ谷駅を結ぶ便が1時間に1本程度あるだけだった。

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同 正面玄関
 

駅の北側には、貨物ターミナルをまたぐ歩道橋が架けられている。ターミナル内の列車の動きが見物できるが、金網のせいで写真は取りづらい。駅名が示すとおり、南方に横浜国立大のキャンパスがあるので、歩道橋は通学路としても使われることになるのだろう。一帯は丘陵地のためアップダウンは避けられないが、相鉄本線の和田町駅から上る坂道ほど険しくはないし、距離も若干短そうだ。

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(左)貨物ターミナルを横断する歩道橋
(右)歩道橋の金網越しに見る荷捌き施設
 

駅に戻り、改めて時刻表を眺める。列車本数は1時間当たり朝夕3~4本、日中は2本で、相鉄の他路線に比べて圧倒的に少ない。地方路線ならいざ知らず、このエリアで次の列車まで30分待ちというのは、頻発ダイヤに慣れた市民には物足りないに違いない。JR側で既存列車との調整を必要とするという事情もあろうが、それより3年後に予定されている東急直通列車のスジを空けてあるというのが本当のところだろう。

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羽沢横浜国大駅の下り時刻表
 

知られているとおり、相鉄の都心直通計画は、今回のJR連絡線と、次にできる東急連絡線との2本立てになっている。後者は、羽沢横浜国大から新横浜を経て、東横線の日吉に至る新線(相鉄新横浜線および東急新横浜線)だ。現在日吉が終点になっている目黒線と相互乗入れを行うので、実質的に目黒線の延伸を意味する。

これが完成すると、新横浜で東海道新幹線と地下鉄ブルーラインに連絡し、目黒線直通の東京メトロ南北線や都営三田線で、永田町や大手町へのルートも開ける。また、日吉~田園調布間で同じホームの東横線に乗り換えれば、JR直通線によって実現した渋谷や、副都心線経由で新宿(三丁目)にも到達できてしまう。

計画では、列車本数が1時間当たり朝ラッシュ時に10~14本、その他時間帯に4~6本とされているから、JR直通よりずっと多い。羽沢横浜国大駅北側にある東急/JRの線路分岐(ポイント)を見ても、前者が直進、後者は速度制限のかかる側方分岐だ。東急方面の運行が主であることを暗に示している。

そして運賃も、より低く設定されることだろう。そもそも距離が短いし、仮に新線に加算運賃が設定されるとしても、東急としては、先行開業したJRに対抗できる水準に抑えるのが営業政策上、必然だからだ。そうなると、相鉄の長年の悲願と言われているJRへの乗入れは、数年後には早くも脇役に後退してしまうのかもしれない。

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(左)羽沢横浜国大駅の東京方分岐
  直進する中央の複線が東急方面、左右の分岐がJR方面
(右)西谷トンネルを行く
 

羽沢横浜国大駅から、今度はE233系に乗って、新線の残り区間を行く。その大半を占める長さ14.5kmの西谷トンネルは、シールド工法による複線トンネルで、かぶりつきで見ていると、けっこう上り下りがある。最後の上りで外の明かりが見えてきて、地上に出るとすぐに西谷だった。

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(左)トンネルの出口で相鉄本線と出会う(下り列車から後方を撮影)
(右)西谷駅に停車中のE233系は海老名行き「特急」
 

JRの電車で相鉄本線の駅に着くということは、いつのまにか横浜より西へ来たわけで、なかなか新鮮な感覚だ。めったに乗らない者でもそうだから、ふだんの利用者にとってはなおさらだろう。西谷は2面4線の駅だが、従来待避線だった外側2線が、直通線に接続された。それで、ホームの進行方向左側が新宿連絡、右側が横浜連絡と明確に分けられている。日中はまだのんびりした空気の漂う左側だが、3年後はどうなるのか今から楽しみだ。

こちらの勝手な夢想をよそに、特急の表示を掲げたE233系は、一路目的地の海老名へ向け、静かに走り去った。

■参考サイト
相鉄・JR直通線、相鉄・東急直通線 http://www.chokutsusen.jp/

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 首都圏の新線
 新線試乗記-上野東京ライン

 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II
 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

2019年12月24日 (火)

新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

飛行機で空港に到着した後、モノレールに乗って市内へ向かう。羽田や伊丹のように、沖縄の那覇空港でもこれがふつうの光景になっている。ただ、実現したのはそれほど古い話ではなく、2003年8月のことだ。その後、国内でこの種の新規開業はない(下注)ので、沖縄都市モノレール、愛称「ゆいレール」は、今なお最新のモノレールということになる。

*注 既存路線の延伸であれば、東京モノレール(2004年)、大阪モノレール彩都線(2007年)の例がある。後者については「新線試乗記-大阪モノレール彩都線」参照。

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那覇空港駅へ向かうゆいレールの列車
 

そのゆいレールが、今年(2019年)10月1日、待望の延伸を果たした。那覇空港~首里(しゅり)間12.9kmの既存区間に、首里~てだこ浦西(うらにし)間4.1kmが加わり、その結果、長さでは多摩都市モノレールを抜いて、大阪、東京に次ぐ全国3番目の規模になった。先日(12月18日)初乗りする機会を得たので、既存区間のようすを含めて見ていこう。

那覇空港駅は、空港ターミナルの出発ロビーがある2階からデッキで直結している。ゆいレール展示館を見学して戻ってきたら、大型のスーツケースを転がしたインバウンドの旅行者が、改札前に集まっているところだった。その集団に混じって、2日乗車券を購入する(下注)。正確に言うと48時間券で、たとえば正午に買えば、翌々日の午前中までフルに使える。時間制のフリー切符は、諸外国では見かけるが、国内では珍しい。

*注 2日券は大人1400円。1日(=24時間)券もあり、こちらは800円。

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那覇空港駅
(左)空港とはデッキで直結
(右)日本最西端の駅の碑
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券売機上の運賃表
 

もう一つ珍しいのは、改札機がQRコードの読み取り方式になっていることだ。空港のチェックインではすでにおなじみだが、鉄道界では先駆者だろう(下注)。ただ、切符を裏返し、表面に印刷されているコードを改札機の読み取り部に当てるという動作は、慣れないと一瞬足が止まる。

*注 JR東日本が、来年(2020年)開業する高輪ゲートウェイ駅で試験的に導入するという報道があったばかり。

もとより、日常的にゆいレールを利用している人は、地元のICカード「OKICA(オキカ)」を持っている。操作に手間取っているのは、主に外から来た旅行者だ。それに、来年(2020年)春にはSuicaなど全国の交通系ICカードも使えるようになるそうだから、改札での当惑は解消に向かうのだろう。

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駅のシーサー、改札付近に必ず1対
上列中から首里駅、那覇空港駅
下列左から浦添前田駅、市立病院前駅、壷川駅、経塚駅
 

その改札の上で睨みを利かすシーサーに見送られて、エスカレーターでホームに上がった。列車は14m級車両が2両の小編成で、スーツケース牽きの客が集中するとたちまち混雑する。車端にあるクロスシートの展望席を狙いたかったので、乗車を1本遅らせた。日中でも8分間隔で出発しているから、大した時間のロスにはならない。

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(左)2両編成
(右)車端は展望席
 

空港駅を後にして、ゆいレールは最初、那覇市街とは反対の南へ向かう。車両基地へ引き込まれるレールが右へ分かれていく。同じ敷地内に、ゆいレール展示館もある。今回の延伸に関するものはなかったが、戦前の鉄道網など沖縄の鉄道全般にわたる資料が貴重だ。

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那覇空港駅から南方を望む
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ゆいレール展示館
 

自衛隊の基地を右に見ながら緩い上り坂を3分ほど走ると、日本最南端の鉄道駅である赤嶺(あかみね)に着いた。駅前南側のロータリー(交通広場)にそのことを示す碑が立っていて、高架ホームに停車中の電車をも画角に入れて記念写真が撮れる。

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日本最南端の駅の碑がある赤嶺駅
 

この後は周囲がすっかり市街地になるため、乗客も増える一方だ。小禄(おろく)、奥武山公園(おうのやまこうえん)を経て、国場川(こくばがわ)の上空で左に急カーブすると、壷川(つぼがわ)駅。少しの間、河岸に沿って走るので、穏やかな水辺と公園の緑が織りなす潤いのある景色が目に優しい。帰りは途中下車して、川向うの公園側から、列車が涼しげに通過するようすをゆっくり眺めた。

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壷川駅と国場川
 

右折して交通の要衝、旭橋(あさひばし)駅に着く。駅の東隣に位置するバスターミナルは、戦前、沖縄県営鉄道の那覇駅があった場所だ。軌間762mmの軽便鉄道で、「ケービン」の名で親しまれたが、沖縄戦で破壊され、戦後も再建されることはなかった。

2015年に始まったバスターミナルの再開発工事中、その駅跡から転車台の遺構が発見された。それが旭橋寄りに移設の上、今年6月から一般公開されている。説明パネルとともに復元模型も置かれ、実物を知らない市民にもイメージできるよう工夫された展示だ。

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久茂地川上空を行く列車
旭橋駅から撮影
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県営鉄道那覇駅の遺構
(左)発掘された転車台
(右)復元模型
 

街なかのお堀のような久茂地川(くもじがわ)に沿いながら、ゆいレールは那覇の中心部を走り抜ける。次の県庁前は、県庁や那覇市役所、国際通りなどの最寄りで、乗降客が最も多い駅だ。その手前で、線路は川の流路に合わせてクランク状に曲がっている。前面車窓に変化があるだけでなく、駅のホームから眺めるのも楽しい。

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県庁前駅手前のクランク
 

美栄橋(みえばし)を経て、牧志(まきし)では国際通りの上空を横断した。ゆいレールの描くルートは激しいジグザグ形で、まるであみだくじの線をたどるようだ。とりわけ牧志から安里(あさと)駅へは、直角どころか130度も転回する。

国道330号、いわゆる「バイパス」の上空を行くと、次は新都心の玄関駅、おもろまちだ。米軍住宅地区の返還後に整備された地区で、周囲の建物も敷地に余裕があり、旧市街とは受ける印象が違う。ここでたくさん下車して、車内はかなり空いた。

古島(ふるじま)の後、直角に曲がって東へ。市民病院前駅の手前からは、首里のある高台へ向けて急勾配を上っていく。首里の町の標高は100m前後ある。戦前、那覇市内から首里に向かった路面電車は、S字ループを繰り返しながら高度を稼いでいた(下注)。それに対して、勾配に強い現代のモノレールは、環状2号線の上空を直線的に進む。振り返れば、市街地の向こうに海も覗いている。

*注 1911(明治44)年開通、1933(昭和8)年廃止の沖縄電気軌道。ゆいレールとはルートが異なり、古来の街道である坂下通りに沿って上っていた。

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市民病院前から首里駅へは急勾配の連続
(左)市民病院前、橋脚の高さは約20m
(右)儀保駅からも滑り台のようなルート
 

儀保(ぎぼ)駅まで来ると、右の車窓に、去る10月31日の火災で建物の多くを失った首里城の、長く連なる石垣を谷の向こうに望むことができた。上り続けて左に曲がれば、これまで終点だった首里駅に着く。

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これまでの終点、首里駅
 

ここからいよいよ新規開業区間に入る。車内は今や、ロングシートの片側に5~6人といった状況だ。首里城の北側に広がる市街地をまずは下る。石嶺(いしみね)駅を経て少し行くと、モノレールをまたぐ高い陸橋が見えてくる。ここが市境で、ゆいレールは那覇市をあとに、浦添市域に入る。ちなみに陸橋は現時点では未供用で、後で現地に行ってみたが、期待したような眺望でもなかった。

右折して着く経塚(きょうづか)駅は、駅名と合わせたわけでもなかろうが、霊園の前にある。下を走る市道は、組踊の創始者 玉城朝薫の墓がある小山をトンネルで抜けるが、ゆいレールは高架のまま、山を避けて右に回り込んだ。

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(左)高い陸橋が市境の位置
(右)経塚駅、ゆいレールは道路トンネルの上を迂回
 

下りていく長い坂からは、浦添城址のある小高い丘が正面になる。右折したところが、浦添前田(うらそえまえだ)駅だ。駅前ロータリー(交通広場)や北側の乗降階段はまだ工事中で、雑然としている。周辺整備よりもまず開通を急いだのだろう。

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浦添城址から南方を望む
画面左外に浦添前田駅がある
 

反転して少し上るものの、すぐに道路の間の掘割に潜り込んでいく。沿線唯一のトンネルを抜ければ、終点のてだこ浦西に到着だ。

「てだこ」とは、太陽の子を意味するそうだ。浦添市のサイトによれば、「琉球第二の王統として栄えた英祖王の敬称でもありました。父親は恵祖(伊祖城主)で、その妻は太陽が懐に入る夢を見て、英祖を身籠ったといわれ、その神号が「英祖のてだこ」となりました」。伝承では、その居城が浦添城だ。「てだこ」の名は市の施設や行事の名によく使われていて、駅名もその一環のようだ。

■参考サイト
てだこ浦西付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/26.241800/127.741900

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(左)トンネルを通過
(右)トンネルを抜けると終点
   てだこ浦西駅から撮影
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てだこ浦西駅
駅手前に渡り線がある
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同 改札
 

地図を見ると、駅周辺に団地が点在するのだが、駅前は整備工事たけなわで、商店らしきものは見当たらない。唯一営業していたのは、北側に造られた約1000台収容可能という2階建の大駐車場だ。見に行くと、フロアのほとんどが車で埋まっていた。

ひと気の乏しい場所に終点駅を置いた理由がここにある。那覇市内の道路は渋滞するため、車を置いてゆいレールで市内へ向かうパークアンドライドが推進されているのだ。路線を琉球大学方面へ延伸する構想もあるものの、当分は始発駅なので、着席できる確率が高い。乗換えの手間さえ厭わなければ、賢い選択だ。

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(左)パークアンドライドを知らせるポスター
(右)駅前は整備工事たけなわ
 

また、すぐそばを沖縄自動車道が通っており、スマートICを新設する計画もある。これによって空港から直接レンタカーで北部へ向かっている観光客を、ゆいレールでここまで誘導することが考えられているそうだ。モノレール利用なら、帰りに那覇市内へ立ち寄ってもらいやすい、という思惑もあるだろう。

最初の開通から16年、ゆいレールは時間の読める交通機関としてすっかり定着した。さらに最近、国外からの旅行者が加わって、朝夕はとりわけ混雑が激しくなっていると聞く。80万人を超える那覇都市圏に、2両で走る鉄道路線が1本だけというのは、交通インフラとして確かに貧弱だ。路線延伸の次は、列車編成の3両化が進められるようだが、さらなる路線網拡充にも取り組んで、都市の魅力をより高めてもらいたいと思う。

■参考サイト
ゆいレール https://www.yui-rail.co.jp/

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2019年11月14日 (木)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡

下津井電鉄は、国鉄宇野線の茶屋町(ちゃやまち)駅と下津井(しもつい)との間を連絡していた鉄道だ。762mm(2フィート6インチ)狭軌、いわゆるニブロク軌間の電気軽便鉄道だった。

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下津井駅跡
 

今も瀬戸内の主要漁港の一つである下津井には、かつて四国の丸亀との間に定期航路があり、こんぴらさん(金刀比羅宮)へ参る人々で大いに賑わった。しかし1910年に開設された宇高連絡船に客を奪われたため、地元の有力者によって計画されたのがこの鉄道だ。1913(大正2)年に茶屋町~味野町(後の児島)間、翌14年に下津井までの全線が開業している。

最初は蒸気鉄道だったが、戦争末期から直後にかけての石炭不足を受けて、1949(昭和24)年に直流600Vで電化された。だが道路事情が改善されると、岡山へ直通するバスに対して、茶屋町での乗換えが必要な鉄道は条件的に不利となる。利用者数が落ち込み、1972(昭和47)年、まず茶屋町~児島(こじま)間が廃止された。

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かつての下津井駅(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

このとき、末端の児島~下津井間だけは、並行道路の未整備を理由に存続した。以来、全国鉄道網から切り離され、孤立線のまま細々と運行されていたのだが、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通に乗じて、今一度、観光路線への飛躍が目論まれた。

1987(昭和62)年に児島駅が移転改築され、新造車両も投入されて、再デビューが華々しく祝われた。しかし、客足は思うように伸びず、一方で新規投資による減価償却費の増加が、会社の収支を圧迫した。皮肉にも、瀬戸大橋の建設工事に伴い、周辺道路の整備が進んだことで、バスへの転換が可能になっていた。そのため鉄道は、再興からわずか4年足らずの1990年末をもって、あっけなく廃止されてしまったのだ。

2019年11月3日、コンターサークルS秋の旅の初日は、この下津井電鉄(下電(しもでん))の廃線跡を歩く。茶屋町から下津井まで21kmのルートは廃止後、大部分が自転車道・徒歩道となり、今でも容易にたどることができるが、今回は、最後まで運行され、景色にも優れた児島~下津井間6.3kmに焦点を絞った。ついでに沿線の鷲羽山や下津井の町にも寄り道して、瀬戸内ののびやかな風光に浸るつもりだ。

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児島~下津井間の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
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下津井電鉄現役時代の地形図(1974(昭和49)年修正測量)
初代児島駅が描かれている
 

岡山から、高松行きマリンライナー19号で児島駅へ向かう。指定の10時20分に集合したのは、相澤夫妻、浅倉さんと、相澤夫人の歩き仲間のKさん、海外鉄道研究会のTさん、それに私の計6人。あいにくの曇り空だが、日差しがない分、かえって歩くのは楽かもしれない。

「最初に、下電の駅の跡を見に行きましょう」と私が口火を切った。下電は、JR線より700mほど内陸を走っていた。というのもJR線が通る一帯はかつて遠浅の海で、戦前まで塩田が広がっていたからだ。メンバーは地元岡山の人が多いので、下手な案内人を待つまでもなく、自然と誰もが旧駅の方角へ足を向ける。

下電児島駅は二度移転している。「味野町(あじのまち)」と称した初代の駅は、小田川(おだがわ)に近い一角にあった。駅と駅前広場があった場所は現在、駐車場に転用されている。鉄道の記憶としては、北端近くにある大正橋バス停前に、駅名標のレプリカが立つのみだ。記されている「味野」という駅名は1941年に改称されたことを示すが、次の駅名が「こじま」になっているのを誰かが見咎めた。「味野と児島は同じ駅なんですがね」。再改称は1956年に行われている。

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(左)味野駅跡を示す駅名標
(右)小田川護岸に顔を出す下電の橋台
 

小田川に架かる大正橋北側の護岸で、下電の橋台が斜めに飛び出しているのを確かめてから、引き返した。茶屋町~児島間廃止後の1976年、児島駅はバスセンターの改築に合わせて少し南に移転している。私はこの二代目駅の時代(1984年)に一度だけ下電に乗ったことがあるが、今や芝生広場が広がるばかりで、鉄道の痕跡は何もない。

さらに南へ進むと、通りの向こうで、三代目の児島駅が原形をとどめていた(下注)。上述の観光開発の一環で1987年に建てられたもので、トレインシェッドというべきか、かまぼこ型の高屋根のかかった立派な建物だ。線路はもうなかったが、小ぢんまりとした頭端式のプラットホームや、構内を見下ろすウッドデッキなどがしっかり保存されている。ホームは建物の外まで続いていて、役目を終えた駅名標が所在なげに立っていた。「これもレプリカでしょうか」「字もかすれて年季が入ってるから、本物じゃないかな」。

*注 旧駅舎は、金・土・日・祝日(年末年始を除く)の8:30~17:00の間、開放されている。

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三代目児島駅正面
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トレインシェッドで覆われた内部
(左)ウッドデッキは当時のもの
(右)プラットホーム跡も残る
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(左)ホームの先に「風の道」が延びる
(右)オリジナルの駅名標
 

ここから廃線跡は、自転車・歩行者道「風の道」に姿を変えて、南へ延びていた。舗装は砂地に似せた自然色で好ましい。駅からの左カーブが終わると、直線路になった。家並みが絶えない町なかを行くので、徒歩や自転車で地元の人もときどき通る。

見た目はすっかり普段使いの風景だが、他の道と明らかに異なるのは、路側に現役当時さながら、茶色の架線柱が林立していることだ。断面が三角形のトラス鉄柱で、架線を吊るためのビーム(横梁)はもとより、ときには碍子までぶら下がっている。電化路線ならではの大道具で、ここまできれいに残されているのは見事だ。

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架線柱が残る廃線跡
 

旧街道との元踏切を越えて400mほど行くと、一つ目の中間駅、備前赤崎駅があった。石積みのホームは左右の間隔が広いから、線路が2本敷かれた交換駅だったのだろう。鳥居形の駅名標に、「びぜんあかさき(駅跡)」とかっこ書きされているのが正直で、微笑みを誘う。

その200m後で、国道430号線と交差した。ここは横断歩道がなく、迂回を余儀なくされる。ほぼ直線だった廃線跡はこの直後、左に急カーブし、次いで緩やかに右に反転していく。その途中で、阿津(あつ)駅の片面ホームを通過した。

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備前赤崎駅跡
(左)石積みのホーム
(右)「駅跡」と書かれた駅名標
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阿津駅は住宅街の中の片面ホーム
 

倉敷シティ病院の前で、舗装が自然色から黒いアスファルトに変わり、同時に25‰勾配が始まる。海岸沿いではあるものの、鷲羽山との間の鞍部を乗り越えるために、坂を上る必要があるのだ。桜並木の築堤はいい雰囲気だったが、すぐに道路と交差するレベルまで急降下していた。築堤が切り崩されてしまったようだ。そのため、瀬戸大橋線の下をくぐるまでの短区間は、線路跡らしくない急勾配になっている。

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(左)25‰勾配が始まる桜並木の築堤
(右)切り崩された築堤
 

さらに坂を上っていくと、いよいよ左手に海が見えてきた。手前にある競艇場の施設が少々目障りだが、下電名物の車窓風景がこれからしばらく続くのだ。JRの変電所の先で敷地が急に広がり、そこに琴海(きんかい)駅の島式ホームがあった。ベンチも置かれていて、家並み越しに海と島影を見晴らせる。「鷲羽山(わしゅうざん)駅まで行ってもいいんですが、12時を回ったので、ここで昼食にしましょう」と相澤さん。腰を下ろして、皆それぞれ持参した食事を広げた。

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坂を上っていくと左手に海が見えてくる
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琴海駅跡で昼食休憩
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琴海駅跡から見る海景
 

琴海駅の先もまだ25‰の坂道で、神道山(しんとうざん)からせり出した山脚を、築堤と切通しを連ねて縫っていく。大畠(おおばたけ)集落の上で右へ回り込み、瀬戸大橋線と瀬戸中央道の下のカルバートを斜めにくぐった。カーブして見通しの悪い切通しをもう一つ抜ければ、鷲羽山駅に到達だ。標高43m、「風の道」のサミットに当たり、休憩所として瀬戸大橋を望むテラスと公衆トイレが設置されている。

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築堤と切通しで山脚を縫う
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サミットの鷲羽山駅
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駅のテラスから見る下津井の家並と瀬戸大橋
 

下津井まであと2.5kmだ。「余裕で着けると思うので、その前に鷲羽山へ寄り道しませんか」と提案したら、異論はなかった。鷲羽山は南東に突き出した半島で、備讃瀬戸の海景をほしいままにする、古来知られた展望地だ。

駅から南へ遊歩道が延びていて、松林の中の急な階段を上がっていく。まもなく東屋(あずまや)展望台という最初の見晴らしスポットがあった。瀬戸中央道のトンネルの真上に位置しているので、下津井瀬戸大橋まで一直線、あたかも足下から車が飛び出すような迫力のある眺めだ。

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東屋展望台からの迫力ある眺め
 

さらにしばらく上ると、山頂に着いた。表土が剥ぎ取られ大岩が露出していて、石舞台のように見える。標高113mと大した高さでないにもかかわらず、岩の上に立てば、北の児島市街地から、島影浮かぶ内海、長い吊橋の列、そして西の下津井港まで、文句なしに360度の眺望が得られる。

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鷲羽山山頂
(左)石舞台のような頂上
(右)瀬戸大橋が間近に
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鷲羽山山頂からのパノラマ
 

今日は遠くがかすんでいたが、それでも一同満足して、もときた道を戻った。鷲羽山駅からしばらく廃線跡は、海岸沿いに続く下津井の町を避けて、山手を迂回している。500mで東下津井駅だった。1931(昭和6)年開設の鷲羽山駅に対して、東下津井は開通当時からあった駅だ(もとは下津井東と称した)。残されたホームが異様に低いので、歩道部分が嵩上げされているようだ。

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東下津井駅跡
 

城山の裏手からは最終コースで、25‰の下り勾配で谷間に突っ込んでいく。鞍部を切通しで通過しているのだが、長い年月のうちに草木が覆いかぶさり、まるでトンネルだ。切通しを抜けた後は、オメガカーブで南に向きを変え、浅い谷を降下する。Tさんが、列車が走っていた当時撮った写真を見せてくれた。「あの頃はこのカーブを見通すことができたんです。」今は谷いっぱいに住宅が立ち並んでしまい、撮影名所の面影は消失している。

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鞍部を切通しでやり過ごす
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オメガカーブを描いて降下
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現役時代のオメガカーブ(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

石積みが残る道路のアンダーパスをくぐると、もう下津井駅跡だった。老朽化が進み、駅舎や周りの建物はすべて撤去されてしまったが、カーブする相対式のプラットホームとその間に敷かれた線路が、在りし日の記憶を呼び覚ます。隣接する側線群には、「赤いクレパス号」だったモハ1001や、1988年新造の観光電車「メリーベル号」など、保存会が管理する旧車が何両も休んでいた。フェンスがあり、普段は立ち入れないが、毎月第2日曜と第4日曜に開放されているそうだ。

時刻は14時30分、終点まで無事歩き通して、ここで解散となった。Tさんと私は、狭い通りに古い民家や土蔵が並ぶ下津井の旧市街まで足を延ばし、郵便局前で下電バス「とこはい号」を捕まえて、児島駅に戻った。

*注 とこはい号は児島市街、下津井、鷲羽山第二展望台などを通る循環バス路線。反時計回りの一方通行で、1時間毎に運行。なお、下津井から児島駅に向かう場合、「児島駅南」バス停が最寄りとなる。

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ホームと線路が残る下津井駅跡
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(左)保存車両モハ1001
(右)奥に観光電車「メリーベル号」の姿も
 

【追記】

1984(昭和59)年10月14日に下津井電鉄を訪れたときの写真が見つかったので、参考までに挙げておきたい。当時の児島駅は、現 市民交流センター芝生広場の北東隅にあった二代目だ。また、瀬戸大橋は建設中だった。

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二代目児島駅で発車を待つ列車
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鷲羽山~東下津井間
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鷲羽山山頂から見た瀬戸大橋、建設中(左)と現在(右)
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東下津井駅
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下津井駅に入線する赤いクレパス号(モハ1001)
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下津井駅
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下津井駅正面
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図下津井(昭和49年修正測量、平成30年10月調製)を使用したものである。

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2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

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消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

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鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
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旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
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拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

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(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

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御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

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(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
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富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

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竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

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八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

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(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
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大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

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大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

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(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
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橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

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(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

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初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

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初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
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初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

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上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

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