日本の鉄道

2023年9月 7日 (木)

新線試乗記-宇都宮ライトレール

JR宇都宮駅で日光線から烏山線に乗り継ぐ間に、東口へ通じるペデストリアンデッキを渡って、動き出したばかりの新線のようすを偵察に行った。右手に乗り場へ降りる階段があるのだが、「反対側の階段をご利用ください」とスタッフが声を枯らしている。迂回ルートをとるよう促しているのだ。

手すり越しに下を覗いてみると、広くもないホームが、乗る人降りる人でごった返していた。なるほど、これでは一方通行もやむをえまい。きょうは8月28日月曜日、走り始めて3日目で初めての平日だが、開業フィーバーはまだ続いているらしい。私は明日全線を乗るつもりだが、朝早めの行動が必須と覚悟した。

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開業3日目の宇都宮駅東口停留場
 

2023年8月26日、栃木県宇都宮市にLRTの新線(下注)が開業した。既存路線の転用や延伸ではなく、いちからの建設という点で巷の話題をさらっている。諸元を記しておくと、軌間1067mm、直流750V電化、全線複線、ルートは宇都宮駅東口から芳賀・高根沢工業団地(はが・たかねざわこうぎょうだんち)に至る14.6kmだ。この間に、起終点を含めて19か所の停留場がある。

*注 LRTはライトレール・トランジット Light Rail Transit の略で、こうした軽量鉄道システムの概念。一方、使われる車両のことはLRV(ライトレール・ヴィークル Light Rail Vehicle)というが、前者と混同してLRTと呼ばれることも多い。

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路線図
 

標題では宇都宮ライトレールとしたが、鉄道の名称については混乱気味だ。運行業務を担っているのは、確かに「宇都宮ライトレール株式会社」だ。一方、路線の正式名称は、鉄道が通る自治体の名を冠して、「宇都宮芳賀ライトレール線」とされている。

ところが広報サイトなどでは、地名の配置を逆にした「芳賀・宇都宮LRT」が使われ、さらに現地の案内板や停留場の標識には、雷が多い土地柄(雷都)にちなんだ愛称「ライトライン Lightline」も見られる。

鉄道はいわゆる上下分離方式で、施設設備や車両といったインフラを、沿線自治体の宇都宮市と芳賀町(はがまち)が保有している。車両基地を含めルートの大半は宇都宮市域にあるが、芳賀を先頭に持ってきたのは、両者の間で、三条燕ICと燕三条駅の事例のような何らかの妥協があったのだろうか。ともかく本稿では呼称選択の判断を保留して、単にLRTと呼ばせていただく。

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垂れ幕はためく東口ペデストリアンデッキ

翌日、東口を訪れたのは朝7時。数年前までだだっ広い駐車場が占めていたこの一角は再開発されて、風景が一変している。JR線をまたぐ既存のペデストリアンデッキが延長され、正面に真新しい商業施設や交流拠点施設が出現した。LRTのターミナルは、デッキの直下で南北方向に設置されているが、隣にゆったりとした階段広場があり、そこから発着シーンをつぶさに観察できる。

ホームに降りると、次の7時10分発が停車中だった。車内は、通勤客らしき人たちで座席がすべて埋まり、ちらほら立ち客も見える。これが日常だとすれば、アウトバウンド(駅前から郊外へ)の交通需要は手堅そうだ。実際、LRTが向かう鬼怒川(きぬがわ)左岸には大規模な工業団地が広がっていて、円滑な通勤輸送が路線の使命の一つになっている。

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初乗り客で混雑する乗り場
(開業3日目の14時ごろ撮影)
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ホームの案内板
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東口階段広場
停留場(中央奥)を発車した列車
 

車両は、福井鉄道のF1000形 FUKURAM(フクラム)をベースに開発されたという3車体連接の低床車で、HU300形を名乗る。車両長29.5m、定員160名というスペックは、日本のトラム(路面電車)では最大級だ。黄色と黒のシンボリックなツートン塗装で、その配色と丸みを帯びた顔立ちがスズメバチを思わせないでもない。車内には2人掛けのボックスシートが両側に配置されていて、1編成で50席ある。後で体験した座り心地は良好だったが、向かいとの間が狭いので足の置き場が少し窮屈に感じた。

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3車体連接のHU300形
 

改札のない鉄道なので、乗り方・降り方について周知のチラシが配られていた。特筆すべきは全扉乗降方式の採用だ。交通系ICカードをリーダーにタッチすることで、最寄りの扉から乗るだけでなく、降りることもできる。広島電鉄でもすでに実施済みの方式だが、車内が混雑しても乗降がスムーズで、遅延回避に効果がある。もとより現金払いの場合は、乗車時に整理券を取り、降車時に先頭の扉まで移動して運賃箱に整理券と運賃を投入するという従来方式だ。

カードリーダーは扉の枠柱に直列配置されていて、上が降車用(黄色)、下が乗車用(緑色)なのだが、慣れないと間違いやすい。特に乗り込むとき、目の高さにある黄色のほうにうっかり手が行ってしまうのを私も経験した。

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(左)車内も黄色がアクセントに
(右)縦に並ぶカードリーダー
 

さっそく全線を乗り通してみた。帰りは何度か途中下車して、沿線の撮影地などに足を延ばしたので、それも交えてレポートする。

出発するとすぐ、電車は左に90度曲がって東に向かう。ライトキューブのデッキをくぐって、大通りである鬼怒通りの中央に飛び出す。もと片側3車線あったこの道路は、中央分離帯が撤去され、片側2車線とセンターポールが立つ複線の線路という配置(センターリザベーション軌道)に変えられた。余ったスペースは、交差点前の右折車線や停留場に充てられている。

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(左)7時10分発下り電車もすでに立ち客が
(右)ライトキューブのデッキをくぐる
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階段広場と鬼怒通りをつなぐ通路(西望)
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鬼怒通りを東へ進む(東望)
 

市街地の中を東宿郷(ひがししゅくごう)、駅東公園前(えきひがしこうえんまえ、下注)と小刻みに停車した後、国道4号宇都宮バイパスとの立体交差、通称 峰立体にさしかかる。この乗り越しは既設の道路高架橋をそのまま利用していて、車道は片側1車線だ。

*注 ちなみに駅東公園には、電気機関車EF57形が静態保存されている。

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(左)鬼怒通りは片側2車線と軌道に改築
(右)国道4号を乗り越す峰立体
いずれも復路、後方を撮影
 

続いて峰(みね)、陽東3丁目(ようとうさんちょうめ)と停まり、5つ目が宇都宮大学陽東キャンパス(うつのみやだいがくようとうきゃんぱす)だ。仮称の時点ではベルモール前だったのに、正式名はやたらと長い名になり、ベルモール前は副駅名に格下げされた。

ベルモールというのは、交差点の南側にある、イトーヨーカドーなどが入ったショッピングモールのことだ。この中に、LRTのPRコーナーが設置されているので、帰りに立ち寄った。展示の中心は、ルートの情景を要約したレイアウトだ。たった今往復してきたばかりだったので、どの停留場を表現しているのか、説明を読まなくてもすぐに判別できた。来場記念とのことで、オリジナルステッカーを2種いただく。

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ベルモールにあるPRコーナーは黄色尽くし
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ルートをデフォルメしたレイアウト、手前が宇都宮駅東口
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(左)峰立体を模した個所
(右)同 ゆいの杜周辺、奥に鬼怒川の橋が見える
 

この停留場を出ると、まもなく市街地の東端に達する。鬼怒通りが鬼怒川西部台地の崖線を降りるところで、逆にこちらは専用軌道となって高架を上っていく。そして急なS字カーブを切りながら、西行車線をまたぎ、田園地帯へ降下する。このような専用軌道が、鬼怒川をはさむ区間を中心に約5.1km(全線の35%)ある。

地上に降りてすぐの平石(ひらいし)は、LRTの運行拠点だ。ホームの両側に線路がある2面4線の構造で、予定されている快速運転が始まれば、ここで追い抜きが行われることになる。南側には車両基地があって、朝晩ここを始発/終着とする便があるし、日中も運転士の交替シーンが見られた。

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(左)市街地東端で鬼怒通りを乗り越す
(右)平石に降りていく高架
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平石停留場は2面4線
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(左)上下電車がすれ違う
(右)車両基地から出てきた回送車
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平石車両基地
 

新4号バイパス(石橋宇都宮バイパス)の下をくぐると、平石中央小学校前(ひらいしちゅうおうしょうがっこうまえ)、そしてこの後が、最も眺めのいいハイライト区間だ。高架に上がり、そのまま鬼怒川の広い河原を、長さ643m、高さ15mの優美なコンクリート橋で横断していく。左奥に西部の山並みが連なり、見下ろす水面が陽光にきらめいている。停留場の間隔は1.9kmと最長で、40km/hという軌道法の制限速度でとろとろ走るのはもったいないほどだ。

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鬼怒川を渡る(北西望)
 

橋を渡り終えると、田んぼの真ん中に飛山城跡(とびやまじょうあと)停留場がある。飛山城というのは、13世紀末に築かれたという平山城だ。地形的には、宝積寺(ほうしゃくじ)台地が高さ約30mの崖線で鬼怒川の河原に臨む場所にあり、いかにも要害の地というシチュエーションだ。

停留場から北に約800mとやや離れているが、鬼怒川橋梁の展望が期待できそうなので、行ってみることにした。ちなみに橋は城跡の南西に位置するため、順光になるのは朝のうちだけだ。

城跡の正式な入口は東側だが、遠回りになるので、南西側のからめ手からアプローチする。とっかかりは茫々の草道ながら、山に入ってからは明瞭な小道で、難なく城内に入れた。地形図にマークした地点が、橋梁の展望地だ。通りかかった地元の方によると、試運転に合わせて、伸び放題だった夏草を刈ったのだという。左右両方から現れ、橋の上ですれ違う2本の電車を、ここでありがたく撮らせていただいた。

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(左)鬼怒川橋梁からの下り坂(西望)
(右)田んぼに囲まれた飛山城跡停留場
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鬼怒川橋梁の上ですれ違う電車
飛山城跡から遠望
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鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆
 

LRTの軌道はこの後、アップダウンを繰り返す。国道408号を乗り越すために上り、開析谷へ降り、最後に比高約15mの崖を駆け上がって、台地の高位面に到達する。清陵高校前(せいりょうこうこうまえ)停留場は、仮称の時点では作新学院北だった。高校の隣に作新学院大学のキャンパスがあるので、秋学期が始まれば、学生たちも乗客に加わるのだろう。

ここでは300m西にある道路の跨線橋に足を向けた。そこから、山なりになったLRTの高架橋が見える。軌道が手前でカーブしているので、思った通り小気味よい構図が得られた。

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清陵高校近くの跨線橋からの眺め
 

台地面は清原工業団地として整備され、並木の大きく育った道路網が縦横に広がっている。ゆとりのある敷地で脇道の出入りが少ないので、軌道は道路の中央ではなく片側に寄せられ(サイドリザベーション軌道)、いわば道端軌道の形で進んでいく。

清原地区市民センター前(きよはらちくしみんせんたーまえ)はトランジットセンター(公共交通結節点)とされ、路線バスの乗り場が隣接していた。LRT開通を機に東部地区のバス路線は再編され、こうしたハブでLRTと接続し、支線的な機能を担うように改められている。

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(左)清原地区市民センター前はバス乗り場が隣接
(右)往年の国鉄バス塗装車に遭遇
 

この後、90度曲がって北に向くが、こちらも並木の続く広い通りだ。グリーンスタジアム前の上下ホームは千鳥式の配置で、それぞれ1面2線の構造をしている。ここで折り返す便も一部あるので、上下線の間に渡り線が設置してあった。

ちなみに、次の停留場との中間地点に歩道橋があり、その上から線路の俯瞰が可能だ。ただし北側で高架の道路を建設中で、絵柄としてはやや雑然としたものになる。

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(左)並木の続く通り(南望)
(右)グリーンスタジアム前の島式ホームと上下線間の渡り線
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ゆいの杜へ続く高架線、歩道橋から北望
 

開析谷を斜めに横断した後、LRTは野高谷町(のごやまち)交差点を高架でショートカットし、再び東へ曲がって、県道64号芳賀バイパスの中央に位置づいた。この道路は鬼怒通りの延長なので、本来の道筋に戻ってきたようなものだ。

一帯は、ゆいの杜(もり)と呼ばれる比較的新しい住宅街だ。それで約500mの間隔を置いて、ゆいの杜西、ゆいの杜中央、ゆいの杜東と、停留場が3か所連続している。道の両側にロードサイド店の見慣れたロゴ看板が林立するが、整然とした工業地区をしばらく通ってきたので、生活感あふれる風景に懐かしささえ覚える。

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(左)ゆいの杜西で県道64号に再会
(右)電車用の黄矢印がついた道路信号機
 

次の芳賀台(はがだい)との間の、起点から12.1km付近で、宇都宮市と芳賀町の境界を越える。芳賀町域の沿線は再び工業地区だ。大きな集落はない(下注)ので、もっぱら通勤輸送区間ということになる。

*注 芳賀町の中心集落は祖母井(うばがい)だが、LRTの沿線ではない。

また北へ針路を変えるが、その手前にある停留場の名は、芳賀町工業団地管理センター前(はがまちこうぎょうだんちかんりせんたーまえ)という。長い駅名ランキングに名が上がりそうだが、それよりも終点の駅名とどこか似ていて紛らわしい。仮称は交差点名に合わせた管理センター前だったが、いっそのこと古風な命名法で、祖母井口(うばがいぐち)でもよかったのではないか。

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(左)芳賀町工業団地管理センター前
(右)多数のモニターに囲まれた運転台
 

北上する道路、かしの森公園通りには、途中で深い開析谷を横断するダウンアップがある。軌道もそれに付き合わざるを得ないので、路線最大の約60‰という勾配が生じている。

車内から観察したところ、北東側からのアングルがベストのようだ。かしの森公園前(かしのもりこうえんまえ)から近いので、降りて見に行った。乗車中はあまり実感がなかったが、地上で眺めると、ジェットコースターのような景観だ。函館市電の青柳町(あおやぎちょう)から谷地頭(やちがしら)へ降りる坂道(下注)を連想させる。センターポールに視界が遮られないのは上り電車なので、テールランプを見送る形になるのはやむを得ない。

*注 函館市電の同区間の最急勾配は58.3‰で、宇都宮ライトレールとほぼ同じ。

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かしの森公園通りのジェットコースター坂
(北東側から南望)
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約60‰の勾配を上る
 

宇都宮駅から48分で、終点の芳賀・高根沢工業団地に到着した。路面軌道のまま1面2線の駅があり、ホームは歩道橋につながっている(下注)。車内の客は途中の停留場で徐々に減ってきてはいたものの、終点でも20人以上が降りた。早い時間帯ゆえ見物客ではありえず、さっそくLRT通勤に切り替えた人たちだろう。

*注 押しボタン式の横断歩道で、側歩道に渡ることもできる。

というのもここは本田技研の北門前で、周りは事業所と従業員用駐車場以外、ほとんど何もない場所だからだ。その意味で駅名も、工業団地というより、仮称のときの本田技研北門のほうがしっくりくる。

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路上に設けられた芳賀・高根沢工業団地停留場
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電車は数分の停車ののち折り返す
 

宇都宮駅東口からここまで、道路の最短経路で約13km、机上計算だとクルマで20~25分だ。しかし実際は、主要交差点や鬼怒川の橋などで渋滞が多発するため、思うようには走れないらしい。それに対してLRTは南へ寄り道することもあって、時間は2倍かかるが、到達時間が読める点にメリットがある。

全便各停、所要48分の現行ダイヤは暫定版だ。運行状況が落ち着けば各停44分、快速37~38分と、文字どおり緩急をつけた運行体制になるという。時間のハンディキャップはいくらか挽回できそうだ。

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夕刻、宇都宮駅東口に戻ってきた電車
 

開業直後とあって、今日もお昼近くにはどの電車も満員になり、大幅な遅れが発生していた。もちろん大半が初乗り客で、運賃の現金払いが意外に多く、降車に手間取るのが遅延の原因らしい。とはいえ、この路線は主として通勤通学用で、新規の客がこれだけ集まってくれる機会は今後そう何度もあるまい。一人でも多くの人がLRTシステムの出来栄えを目にし、乗り心地を体験してくれれば、いい宣伝になると考えるべきだ。

ライトレールの建設にあたっては市民の間で賛否両論があり、費用面だけでなく、車道の削減や直行バス路線の廃止など、利便性の後退に関する懸念も根強かったようだ。しかし、1車線を電車用に振り向けるのは、バス専用レーンを設けて一般車両を進入させないようにするのと変わらない。さらに電車なら、バス2台分の定員を1名の乗務員で運べるので効率がいいし、クルマの走行路と分離することで運行の安全性や定時性も高まる。

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ターミナルにはまだ電車を待つ客の列が
 

LRTは、都市域の新たな交通軸として評価され、ここ30~40年の間に世界中で急速に建設が進められてきた。クルマ社会の典型と思われている北米大陸でさえ、その数は約50都市にも上っている(下記参考サイト参照)。ところがわが国ではそうしたトレンドが浸透せず、この間に新規開業されたのは、2006年の富山ライトレール(現 富山地方鉄道富山港線)の1路線のみだ。これとてルートの大半が旧JR線の再利用で、新設された区間は1.1kmに過ぎず、かつ単線だ(下注)。

*注 このうち東側0.4kmは、その後2018年に複線化されている。

それだけに、宇都宮ライトレールが全線新設で開業した意義は大きい。市街地では併用軌道だが、郊外に出ると線形のいい専用軌道になるというルート構成も模範的だ。

複線の軌道をスマートで収容力のある低床車が疾走するさまは、年配の市民が路面電車に抱いている時代遅れのイメージを覆すのに十分なインパクトをもつ。場所が、情報発信力のある首都圏の一角であることも重要だ。この開業がLRTの認知度向上に寄与し、取組みに倣う意欲的な都市が次々に現れることを期待しないわけにはいかない。

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掲載の地図は、地理院地図(2023年9月1日取得)を使用したものである。

■参考サイト
宇都宮ライトレール(運営会社サイト)https://www.miyarail.co.jp/
芳賀・宇都宮LRT(公式広報サイト)https://u-movenext.net/
Wikipedia - List of tram and light rail transit systems
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_tram_and_light_rail_transit_systems

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2023年6月26日 (月)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く II

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間の北陸本線旧線跡を、前回は杉津(すいづ)までたどった。今回は残りのルートを敦賀に向かって歩く。

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杉津(すいづ)駅付近を走るD51の陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図2、3は前回掲載
 

杉津(すいづ)駅は今庄から13.5km、敦賀から12.9kmと、区間のほぼ中間に位置している。鉢伏山(はちぶせやま)の西側、標高179mの山腹で、眼下に敦賀湾と日本海を望めることから、かつては北陸本線の車窓随一の景勝地として知られていた。夏は、ここで下車して東浦海岸まで海水浴に行く客も多かったそうだ。

駅構内は2面4線の構造だったが、廃線後、北陸自動車道上り線のパーキングエリア(PA)に転用されて姿を消した。今庄から旧線跡を忠実にたどってきた県道今庄杉津線も右にそれ、国道8号に合流すべく杉津の集落へと降りていく。そのため、旧線跡を追おうとするなら、左折して北陸道の下をくぐり、山側に出る市道を行く必要がある。

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(左)県道今庄杉津線から敦賀方面への分岐
(右)「ぷらっとパーク」案内板
 

PAの脇を進んでいくと、「ぷらっとパーク」の案内板が出ていた。一般道からも利用可能なPA・SAのことで、裏口にささやかな駐車スペースも用意されている。さっそく入って、売店・食堂棟の傍らに杉津駅に関する案内板があるのを確かめた。

駐車場に面した壁面では、地元の小中学生が筆を揮ったという力作の陶板画が人目を引いていた。一つは高みから見下ろした構図で、海辺の村と湾の青い水面を背景に、蒸気列車が駅に入ろうとしている。あぜ道が交錯する山田では田植えの最中のようだ(前回冒頭写真参照)。もう一つは蒸機のD51が主役で、力強い走りっぷりを斜め正面から写実的に描いている(今回冒頭写真参照)。

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杉津駅案内板(杉津上り線PAに設置)
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PAの壁面を2点の陶板画が飾る
 

列車こそ来なくなったが、目の前の絶景は今も昔と変わらない、と書きたいところだが、意外にも駐車場と高速道の本線に前面を遮られてしまう。これでは来た甲斐がないので、下り線側に行くことにした。

この周辺では、高速道の上り線(米原方面)と下り線(新潟方面)の配置が逆転している。そのうえ西向きの急斜面に立地するので、東側を通る下り線のほうが50m以上高い場所にあるのだ。両方のPAを行き来できるのは一般道利用者にのみ与えられた特権だが、バックヤードの急な坂道を自力で上らなくてはならない。

下り線PAの売店・食堂棟の裏手には、「夕日のアトリエ」と称する展望台がある。北陸道を通行するドライバーによく知られたスポットで、そこから眺めるパノラマは折り紙付きだ。見えている海は敦賀湾口で、かなたに日本海の水平線が延びる。手前の海岸線は、かつて海水浴客で賑わった杉津の浜で、左手直下に先ほどいた上り線PA、右手には歩いてきた旧線跡の県道も見える。沈む夕陽を売りにしている展望台だが、日中の見晴らしも十分すばらしい。

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杉津下り線PAの展望台
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下り線PAからのパノラマ
海岸の集落が杉津、手前下方に杉津駅跡の上り線PA
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右手に旧線跡の県道(今庄方)が延びる
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杉津駅案内板(杉津下り線PAに設置)
 
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
杉津~葉原信号場間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

しばらく休憩した後、坂を下り、改めて敦賀のほうへ向かう。ちなみに杉津駅のすぐ南には、開業当時、河野谷(こうのだに)トンネルというごく短いトンネルがあったが、構内拡張に際して開削され、消失した。

道路は再び旧線跡に載る。北陸道上り線の杉津トンネルと並ぶようにして、曽路地谷(そろじだに)トンネルが口を開けている。401mと旧線のトンネル群では第4位につける長さだが、県道から外れたためか、内部に照明がなかった。奥へ進むにつれて足もとが闇に包まれ、手にした懐中電灯だけを頼りに歩く。おおむね直線なので(下注)、出口の明かりが小さくまたたいて見えるのがせめてもの救いだった。

*注 敦賀方の出口で左カーブしている。

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曽路地谷トンネル南口
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(左)北陸道のトンネルと並ぶ曽路地谷トンネル北口
(右)照明がなく、中央部は真っ暗闇
 

トンネルを抜けると、右手に敦賀湾の明るい眺めが戻ってきた。しかし、北陸道の上り線が海側のすぐ下を並走しているため、クルマの走行音が絶えず響いて耳障りだ。静寂に包まれていた杉津以北の道中を思えば、俗世間に連れ戻されたような気がする。

次の鮒ヶ谷(ふながや)トンネルは、長さ64mでごく短い。しかも高速道の擁壁建設の際に削られたのか、地山があらかた消失し、トマソン物件になりかかっていた。このあたりで勾配が反転し、25‰の上りが復活する。山中トンネルに向かう坂道ではまったく平気だったのに、疲れてきたのか足が重い。

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(左)敦賀湾の眺めが戻るが、右側すぐ下に北陸道が
(右)地山があらかた消失した鮒ヶ谷トンネル
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鮒ヶ谷トンネル南口
 

いつしか道は林に包まれ、そのうち葉原(はばら)トンネルのポータルが現れた。他のトンネルと同じように金文字の名称プレートがついているが、かつては当時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額がはまっていた。北口で「永世無窮(えいせいむきゅう)」、南口で「與國咸休(よこくかんきゅう)」と刻まれ、実物は長浜鉄道スクエアの前庭にある。

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葉原トンネル南口
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北口の扁額「永世無窮」
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南口の扁額「與國咸休」
いずれも長浜鉄道スクエアで撮影
 

葉原トンネルは、鉢伏山(はちぶせやま)の西尾根を貫いている。長さが979mで山中トンネルの次につけるだけでなく、縦断面でももう一つのサミットを形成していて、立派な扁額に見合う主要構築物だ。しかし今は市道なので、また真っ暗闇の大冒険を強いられるかと危惧したが、ちゃんと明かりが灯っていた。

北口付近にカーブがあり、直線部分も拝み勾配のため、内部の見通しは必ずしもよくない。それでポータル前に、待ち時間約5分と記された交互通行用の信号機が設置されている。徒歩で通過するのに10分以上を要したが、幸いにもその間に入ってくる車両は1台もなかった。

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(左)北口付近にカーブ、直線部は拝み勾配
(右)南口、右上に北陸道下り線が見える
 

トンネルの南口は、北陸道の下り線と上り線に挟まれている。この狭い場所に3本のトンネルが集中しているのだ。高速道建設の際に、潰されたり転用されたりしなかったのは僥倖というべきだろう。

旧線跡は25‰の急勾配で坂を下りていく。葉原信号場の痕跡を探しながら歩いたが、案内板すら立っておらず、右側に雑草の生えた空地が認められるだけだ。急坂の途中のため、信号場はスイッチバック式になっていた。

山中信号場でも実見したように、引上げ線の終端では本線との高度差がかなり開いていたはずだが、今庄方の掘割は埋められており、敦賀方の築堤も高速道路の用地にされたようだ。空中写真を参照すると、市道も若干西側に移設されたようで、一部で旧線跡をトレースしていない。

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(左)葉原信号場跡付近を北望
(右)同 南望
 
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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
葉原信号場~新保間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

北陸道下り線の法面に沿って進むと、行く手に葉原集落が見えてきた。旧線跡は弧を描く長い築堤で、谷を横切りながら高度を下げていく。現役時代は葉原築堤、または葉原の大カーブと呼ばれ、山中越えに挑む蒸機の奮闘ぶりが見られる名所だった。

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弧を描きながら降りる葉原築堤
 

葉原で、旧線跡の市道は木の芽峠から降りてきた国道476号に吸収される。合流地点に村社の日吉神社がある。旧線はこの境内を突っ切っていたが、その後、神社の敷地に戻され、小さな鳥居が立った。

この先は、片側1車線の国道が廃線跡をほぼ踏襲している。しかし、歩道どころか車道の路肩もほとんどなく、歩きには適していない。ここは安全第一で、木の芽川の対岸を通っている旧道に回った。やがて左から北陸道下り線が接近してきて、ただでさえ狭い谷間に、国道、木の芽川、高速道路、旧道が並走し始めた。北陸道の上り線だけ別ルートなのも無理はないと思わせる過密ぶりだ。

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国道476号との合流地点
(左)旧線跡は神社の境内になり鳥居が立つ(北望)
(右)反対側では国道が旧線跡(南望)
 

その谷間に、寄り添うようにして獺河内(うそごうち)集落がある。旧線の新保(しんぼ)駅はその南にあった。新保というのは、駅から北へ4kmも離れた木の芽峠南麓にある集落の名で、国道脇に駅跡を示す大きな自然石の記念碑が立っている。土台部分に描かれた構内図は、道路や等高線が線路と同じ太さの線で描かれていて、今一つ要領を得ないが、ここも25‰勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの駅だった。

敦賀方の折返し線上に島式ホームが設置され、今庄方にも集落の裏手を通って引上げ線が延びていた。敦賀から坂を上ってきた列車は、いったん引上げ線に入った後、バックして折返し線のホームに着いたという。狭い谷間とあって、駅の跡地は北陸道や国道にまるごと利用され、ほとんど原形をとどめていない。なお、「かつての駅の壁面が自動車道の一部に残されて」いるという案内板の言及は、北陸道の山側に見られる擁壁のことだろう。

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新保駅跡の記念碑、台座に構内配線図
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駅構内は高速道と国道に転用(南望)
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新保駅案内板
 

獺河内から少し行くと旧道が国道に合流してしまい、約1kmの間、危険な国道を歩かざるを得なかった。上流に採石場があるからか、ダンプカーが道幅いっぱいになって通る。こんな道に歩行者がいるとは予想されていないだろうから、ガードレールぎわに立ち止まってやり過ごすしかない。

旧線には、谷の屈曲を短絡する2本の短いトンネルがあった。このうち、今庄方の獺河内トンネルは、国道の新トンネルとして拡幅改修され、面影は完全に消えてしまった。先ほどの無歩道区間とは対照的に、歩道もやたらと広く取られている。

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獺河内トンネルは国道として拡幅改修
 
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
新保~敦賀間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

一方、敦賀方にある樫曲(かしまがり)トンネル(長さ87m)は歩道扱いとなり(下注)、原状のまま保存されている。ガス灯風の照明設備が鉄道トンネルにふさわしいかどうかは別として、クルマを気にせずにゆっくり観察できるのはうれしい。西口には、土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレートが埋め込まれていた。2種のプレートが揃うのは、山中トンネル北口とここだけで、トンネル群のエントランスに位置付けられていることがわかる。

*注 以前は片方向の車道として使われていた。

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原状保存された樫曲トンネル(東口)
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西口内壁に埋め込まれた
土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレート
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樫曲トンネル(西口)と迂回する国道
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樫曲トンネル案内板
 

しかし、国道の迂回はトンネルの前後に限られる。すぐに国道が旧線跡に戻り、谷間に大きな曲線を描いていく。深山(みやま)信号場があったのは、ちょうど北陸道の上り線と下り線が立体交差で合流するあたりだが、国道の道幅が1車線分広くなっているのが目立つ程度だ。

国道はそれから右にカーブし、北陸トンネルから出てきた現在線の横にぴったりとつく。今庄駅の南端で始まった旧線跡をたどる旅はここで終わる。敦賀駅までは、あと2kmほどだ。

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(左)樫曲集落、背景に新幹線と北陸道上り線の高架橋
(右)深山信号場跡、国道の左側が広い
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(左)北陸トンネル南口
(右)敦賀駅正面
 

最後に、湯尾(ゆのお)トンネルについて記しておこう。「旧北陸本線トンネル群」に含まれる11本のトンネルのうち、これだけが他とは離れて、今庄~湯尾間にぽつんと存在する。というのもこのトンネルは、蛇行する日野川の谷をショートカットするために掘られたものだからだ。

長さは368mあり、入口から出口までずっとカーブし続けているのが特徴だ。ポータルは切石積み、内壁は煉瓦積みで、芦谷トンネルと同様の仕様になっている。現在は一般道として使われているが、内部が交互通行のため、待ち時間約3分の信号機に従わなければならない。

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湯尾トンネル北口
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(左)内部は終始カーブしている
(右)南口
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湯尾トンネル案内板
 

トンネルの前後の旧線跡は、北と南で対照的だ。北側は、現在線との合流地点まで道路化されている。途中の湯尾谷川を渡る橋の煉瓦橋台は、鉄道時代のものだろう。南側でも道路が川沿いにまっすぐ延びているが、これは旧線跡ではない。地形図で読み取ると、旧線はもっと山際を通っていた。しかし、民地に取り込まれたり、新線の下に埋もれたりして、ルートはほとんどわからなくなってしまったようだ。

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トンネル北側の旧線跡道路
(左)湯尾谷川の橋から南望
(右)橋には煉瓦の橋台が残る
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図7 1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
湯尾~今庄間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

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2023年6月23日 (金)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I

長さ13,870mの北陸トンネルが開通するまで、北陸本線が杉津(すいづ)回り、山中越えなどと呼ばれた険しい山間ルートを通っていたことは、もうすっかり忘れられているかもしれない。

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間のこの旧線は26.4kmあり、1896(明治29)年に開業している。列車は、旧街道が越える標高約630mの木の芽峠を避けて、敦賀湾沿いの山腹を大きく迂回していた。それでも標高265mまで上る必要があり、前後に急勾配とトンネルが連続する、蒸気機関車にとっては運行の難所だった。もとより単線でスイッチバックもあって、今なら16分で通過してしまう区間に35分から50分も要していたのだ(下注)。

*注 1961(昭和36)年10月改正ダイヤに基づく。

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杉津(すいづ)旧駅を描いた陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
 

1962(昭和37)年6月に北陸トンネル経由に切り替えられた後、66年間の長い務めを終えた旧線は、車が走れる道路に転換された(下注)。これはこれで敦賀と今庄の間の抜け道として重宝されていたが、1977年に北陸自動車道が通じ、さらに地道でも2004年に国道476号の木ノ芽峠トンネルが開通したことで、通行量はごく少なくなった。

*注 2023年現在、敦賀~葉原間は国道476号、葉原~杉津PA間は敦賀市道、杉津PA~今庄間は福井県道今庄杉津線のそれぞれ一部区間になっている。

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敦賀~今庄間の線路縦断面図
「今庄まちなみ情報館」の展示パネルより
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「3連トンネル」の景観
伊良谷トンネル出口から南望
 

ルート上には今も11本のトンネル(下注1)など、鉄道の現役時代を彷彿とさせる痕跡が点々と残されている。これらは歴史的価値が認められて、2014年に「旧北陸本線トンネル群」として土木学会選奨土木遺産に認定、2016年には国の登録有形文化財にも登録された(下注2)。

*注1 今庄~湯尾間の湯尾トンネルを含む。
*注2 登録有形文化財としての名称は個別で、それぞれ前に「旧北陸線」がつく(例:旧北陸線山中トンネル)。また、罠山谷(わなやまだに)暗渠と山中ロックシェッドも同時に登録されている。

以下は、その全区間を徒歩で訪ねたレポートだ。北陸本線は米原(まいばら)が起点なので、敦賀から今庄に向けて記すのが順当だが、実際に歩いた今庄側からの記述になることをお断わりしておきたい。

なお、1:25,000地形図上に、歩いたルートを赤線で、旧線の概略位置を緑の破線で、それぞれ記している。ご参考までに旧版地形図も添えたが、1:25,000図が手元にないため、1:50,000図を2倍拡大して用いた。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図4以下は次回掲載

今庄駅は、山あいの静かな中間駅に過ぎない。しかしかつては、山中越えの列車に連結する補助機関車のための鉄道基地だった。本線線路を隔てて東側には機関庫や転車台など関連施設が集まっていたが、新線開通でほとんど撤去されてしまい、今は給水塔と高床式の給炭台だけがうらぶれた姿をさらしている。

一方、旅客用の駅舎は後に改築された。その中に設けられた「今庄まちなみ情報館」には精巧な再現ジオラマがあり、活気にあふれていた時代の駅構内をしのぶことができる。

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今庄駅
(左)観光案内所や情報館の入る駅舎
(右)521系の上り普通列車が入線
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(左)構内に残る給水塔と給炭台
(右)旧役場前広場に保存されたD51 481号機
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「今庄まちなみ情報館」にある旧駅構内のジオラマ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
今庄~大桐間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

さて、今庄の町の南のはずれで、旧線跡は現在線から右に分かれていく。現在線が長さ855mの今庄トンネルに入る一方で、川沿いに延びていた旧線跡は、そっくり県道207号今庄杉津線に転用された。緩いカーブは鉄道由来のものだが、2車線幅に拡げられたため、昔の面影は見いだせない。

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今庄~南今庄間の旧線跡道路
(左)緩いカーブは鉄道由来(西望)
(右)現在線に再接近(東望)
 

その県道が、トンネルから出てきた現在線に再接近した地点に、南今庄(みなみいまじょう)駅がある。後述する大桐駅廃止の代償として開設されたが、対面式ホームにささやかな待合室が付属するだけのさびしい無人駅だ(下注)。それで、すぐそばの県道脇に木造の休憩所が建てられている。トイレもあるので、この駅を廃線跡探索のスタート/ゴール地点にするなら、身支度や電車待ちに重宝するに違いない。

*注 出入口にICカードの簡易改札機がある。

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(左)南今庄駅
(右)県道脇の休憩所
 

駅を出たあと、まっすぐ北陸トンネルに向かう現在線に対して、廃線跡の県道は緩やかに右カーブする。そして谷をまっすぐ遡りながら、下新道(しもしんどう)と上新道(かみしんどう)の集落を通過していく。案内板によれば、この地名は木の芽峠に向かう新道(の入口)という意味らしい。新道といっても830年の開削で、それ以前の北陸道は、海岸から直登して旧線と同じく山中峠を経由していたそうだ。

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(左)下新道集落を直進
(右)北陸自動車道が見えてきた
 

行く手に、現代の北陸道である北陸自動車道が見えてきた。その高架下をくぐろうとするところに、交互通行の信号機が立っていた。

というのも、昨年(2022年)8月5日に集中豪雨があり、鹿蒜川が氾濫してこの地域に大きな被害をもたらしたのだ。家屋や田畑が冠水し、県道も被災して一時期、通行止めになった。先にある2か所の橋のうち、上手のほうが流失したため、川の右岸に応急の迂回路が造られている。信号機はそのためのものだ。流された橋桁は鉄道からの転用だったので、貴重な遺構が一つ消えたことになる。

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被災した県道
(左)下手の橋梁は無事
(右)上手の橋梁は流失
 

大桐(おおぎり)駅跡はその流失現場の続きだが、幸いにも被害を免れた。一部保存された上り線ホームには桜並木が植わり、案内板とともにD51の動輪や信号機など鉄道のモニュメントが置かれている。敦賀~今庄間の旧線にあった3つの中間駅のうち、他の2つは高速道路の建設で消失してしまったから、ここは往時を追想できる貴重な場所だ。

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上りホームが残る大桐駅跡(東望)
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ホーム上に並ぶ動輪や信号機のモニュメント
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大桐駅案内板
 

大桐駅を出ると、旧線跡は右へカーブしながら、いよいよ25‰(1:40)の勾配区間にさしかかる。山中トンネルの手前まで約6km続く長い坂道だ。800mほど先には、駅の名になった大桐集落がある。家並みの間を貫く築堤の途中でまた鹿蒜川を渡るが、ここでも鉄道時代の鋼桁が再利用されていた。

ここは今庄方の最後の集落で、これを境に道幅が狭まり、センターラインも消える。新幹線工区のある谷側の高い法面がブルーシートで覆われていた。ここも豪雨の爪痕のようだ。いつしか携帯の電波が届かなくなり、山の深まりを実感する。舗装道だが、クルマにもバイクにも出会わないし、もちろん歩いているのは私だけだ。

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(左)大桐集落
(右)鹿蒜川を渡る橋に鉄道の面影
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(左)大桐の築堤を下る特急「白鳥」、大桐の案内板を撮影
(右)同じ場所の現在
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(左)法面に復旧工事の跡が残る(東望)
(右)通るクルマもない深山の直線道(西望)
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図3 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
大桐~杉津間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

杉林の中をなおも上っていくと、覆道の山中ロックシェッド(下注)があった。一見新しく、線路を通していたにしては狭く見えるが、登録有形文化財のプレートがはまっているから間違いない。1953(昭和28)年の建築で、長さは65m、国内最初期のプレストコンクリート製という点に価値があるらしい。

*注 ロックシェッド rock shed は落石除けの意。

ロックシェッドに続いて、山側に頑丈そうなコンクリートの擁壁がそびえている。ここはもう山中信号場の構内で、スイッチバックの折返し線がこの上に延びていたのだ。進むにつれて、築堤との高低差は徐々に縮まってくる。折返し線は長さが500m以上ありそうだが、途中で一部が崩壊し、土嚢が積まれていた。支谷から溢れた水流で押し流されたようだ。

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山中ロックシェッドにも、登録有形文化財のプレートがはまる(左写真の矢印)
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(左)折返し線を載せる擁壁(西望)
(右)本線ロックシェッドの上に折返し線のロックシェッドが(東望)
 

折返し線が合流する場所まで来た。信号場の案内板がある。それによると、今見てきた今庄方の折返し線は複線になっていて、それとは別に敦賀方にも単線の引上げ線が延びていた。本線の坂を上ってきた列車は、いったん後者に入線した後、バックして前者に入り、列車交換を行ったという。

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スイッチバックの山中信号場(東望)
右の砂利道が折返し線跡
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山中信号場案内板
 

森陰の薄暗い谷を少し進むと、山中トンネル(下注)の苔むした煉瓦ポータルが迎えてくれた。左隣には、引上げ線の有効長を延ばすために設けられた行き止まりのトンネルも見える。

*注 地形図の注記のとおり、明治時代の建設のため、本来の呼称は「~隧道(ずいどう)」だが、本稿では「~トンネル」に統一した。

山中トンネルは長さ1170mで、このトンネル群では最長だ。今いる北口が山中越えのサミットに当たり、旧 北陸本線の最高地点でもあった。ポータル上部には、かつて時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額が据え付けられていたが、現在は、滋賀県長浜市にある長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎)の前庭に移設されている(下注1)。北口は「徳垂後裔(とくすいこうえい)」、南口は「功和于時(こうかうじ)」と刻まれていて(下注2)、建設に携わった人々の気概と自負が伝わってくる。

*注1 最近、トンネルの前にも扁額のレプリカが置かれた。
*注2 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照

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山中トンネル北口、左隣は引上げ線のトンネル
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長浜鉄道スクエアに保存されている扁額「徳垂後裔」
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引上げ線トンネル
内部はすぐに行き止まりに
 

本線トンネルに入っていこう。内部は直線かつ22.2‰(1:45)の一方的な下り勾配で、1km以上先にある出口の明かりが小さく見える。リュックに懐中電灯を入れてきたが、天井照明があるので、取出すまでもなかった。壁から染み出した水が側溝の蓋からあふれて、あちこちに流れや水たまりを作っている。注意深く歩かないと、靴が水浸しになりそうだ。

珍しく途中で乗用車が1台入ってきたが、ロケットの発射かと思うほどの轟音がこだまして肝を冷やした。トンネル内では離合が難しいから、速度を上げているのだろう。とりあえず退避用の窪みに身を寄せてやり過ごす。写真を撮りながら歩いたので、出口まで20分以上かかったが、すれ違ったのはこの1台だけで助かった。

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山中トンネル内部
一方的な下り勾配、水浸しの路面
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(左)資材置場(?)と電線碍子
(右)後補と思われる待避所
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(左)南口から南望
(右)山中トンネル南口、かつてはここにも扁額があった
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南口の扁額「功和于時」
長浜鉄道スクエアで撮影
 

山中トンネルの後も50~100mの明かり区間を置いて、トンネルが5本連続している。海に落ち込む山襞をあたかも串刺しにするように、線路が通されているからだ。

一つ目は伊良谷(いらだに)トンネル、長さは467m。ポータル上部には、建設時のものではないが、名称を金文字で記したプレートがはまっている(下注)。内部がカーブしていて見通しが悪いので、入口に交互通行用の信号機が設置されていた。看板には待ち時間約3分とあるが、私は徒歩なので、遠慮なく入らせてもらう。

*注 伊良谷トンネルから葉原トンネルまでこの仕様になっている。

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信号機が設置された伊良谷トンネル北口
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(左)トンネル名称のプレート
(右)内部はカーブで見通しが悪い
 

カーブの終わる出口に近づくと、これから通る2本のトンネルが一直線に並んで見える。案内板によると、この印象的な景観は「3連トンネル」と呼ばれているらしい(冒頭写真参照)。

一見同じようなトンネルだが、仕上げ材には違いが見える。山中、伊良谷はポータルも内部も煉瓦で積んでいるが、次の芦谷(あしたに)トンネルは内部が煉瓦積み、ポータルは切石積みだ。その後のトンネルは、ポータルだけでなく内部の腰部まで切石積みになる。

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(左)山中トンネルの内部は煉瓦積み
(右)曲谷トンネルは腰部が切石積み
 

芦谷トンネル(長さ 223m)を出ると、三つ目の曲谷(まがりたに)トンネル(同 260m)の間で谷を横断している築堤が、大規模に流失していた。これも豪雨による被害だ。築堤の下の暗渠が土砂で埋まったか何かで、谷からの出水が築堤を乗り越えてしまったようだ。山側に設けられた仮設道路を迂回する。今庄方から来ると、この築堤で初めて敦賀湾が見えるのだが、今は不気味な裂け目のほうに目が行ってしまう。

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芦谷、曲谷トンネル間で流失した築堤
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その築堤から見える敦賀湾
 

曲谷トンネルは内部で右に、四つ目の第二観音寺トンネル(同 310m)は同じく左にカーブしている。再び敦賀湾を遠望した後、短い第一観音寺トンネル(同 82m)に入った。

この後はしばらく山腹の明かり区間で、高い築堤の上を25‰で下っていく。この下に、トンネル群とともに登録有形文化財に加えられた罠山谷(わなやまだに)暗渠(長さ46m)があるはずだが、見学路がついているのかどうかはわからない。

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曲谷トンネル北口
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第二観音寺トンネル南口
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第一観音寺トンネル南口
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(左)罠山谷暗渠のある築堤(北望)
(右)正面奥に北陸道上り線(南望)
 

さらに歩いていくと、正面に北陸自動車道の上り線が見えてきた。あちらも分水嶺の下を敦賀トンネルで抜けてきたところで、クルマがひっきりなしに行き交っている。緑地にPの標識が見えるのは、杉津(すいづ)パーキングエリアの駐車場だ。知られているとおり、ここが旧線の展望名所だった杉津駅の跡になる。

続きは次回に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図今庄(昭和35年資料修正)および地理院地図(2023年6月9日取得)を使用したものである。

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 旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く II
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 コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

2023年5月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル

日本列島を西南と東北に分けるフォッサマグナ(大地溝帯)、その西縁が糸魚川-静岡構造線、略して糸静線と呼ばれる断層群だ。糸静線が日本海に接する糸魚川周辺には地学上の見どころが点在していて、洞爺・有珠、雲仙とともに2009年に日本で初めて「世界ジオパーク(現 ユネスコ世界ジオパーク)」に認定されている。2023年5月20日のコンター旅は、そのいくつかをレンタカーで巡ろうと思う。

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ヒスイ峡にそびえる石灰岩の絶壁、明星山
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図1 糸魚川周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

富山から乗り継いできた普通列車で、糸魚川駅に8時45分ごろ着いた。集合時刻までまだ少し時間があるので、改札の前で会った山本さんと、駅舎1階のジオパルを見に行く。名称からするとジオパークのインフォメーションセンターのはずだが、展示内容は鉄道ものに重点が置かれていて、私たちもそれが目当てだ。

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糸魚川駅ジオパル
(左)大糸線を走ったキハ52は休憩室に
(右)大糸線をイメージした大型レイアウト
 

10時11分着の新幹線はくたかで、大出さんと中西さんが到着して、本日の参加者4名が揃った。レンタカーの営業所で、予約してあった日産ノートに乗り込む。まずは国道148号で、姫川(ひめかわ)の谷を遡ろう。

掲げたテーマとはのっけから乖離するが、最初の訪問地は大糸線の根知(ねち)駅だ。ここで10時48分に行われるキハ120形同士の列車交換シーンに立ち会う。存廃が議論されているローカル線で、列車本数が少ないので、この駅での行き違いは午前中、一度だけだ。

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キハ120形の列車交換、根知駅にて
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
根小屋周辺
 

続いて、根知川右岸(北岸)にあるフォッサマグナパークへ。道路脇の駐車場から森の中の小道を歩き始めると、すぐ山側に、「大切にしましょう 水準点」の標識が立っていた。地形図に93.2mの記載がある一等水準点だ。標石は健全そのもので、刻字が明瞭に読み取れ、四隅に保護石も従えている。近年は金属標や蓋された地下式も多い中、これは見本にしたくなるような外観だ。点の記では1986(昭和61)年の設置とされているが、標石自体はもっと古いものだろう(下注)。

*注 側面に、国土地理院の前身で1945~60(昭和20~35)年の間存在した地理調査所の名が刻まれている。

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根知川右岸の一等水準点
 

小道は大糸線のトンネルの上を越えていく。目の前が根知川を渡る鉄橋で、さっきの列車交換がなければ、ここで一枚撮りたいところだ。そう考えるのは私だけではないらしく、フェンスに親切にも列車通過時刻表が掲げてあった。今日は地学系の旅のつもりだが、核心にたどり着かないうちに、道中の誘惑が多くて困る。

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トンネルの上から望む大糸線の線路
奥が根知駅
 

道なりに5~600mほど進んだ先で、いよいよ「Fossa Magna Park」の壁文字が見えてきた。地層の露頭は、階段を降りていくと明らかになる。斜面が漏斗状に開削され、その上部に、境界と記された標柱と、その両脇に「東」「西」と大書された看板が立っている。

看板の意味するところは、糸静構造線のどちらの側かということだ。東はフォッサマグナで、プレート理論でいう北アメリカプレートに、西ははるかに古い地層でユーラシアプレートに属する。その境界は強い力が作用するため破砕帯になっていて、模式図のようなスパッと切れた断面ではない。

ちなみに、糸魚川寄りには、よく似た名のフォッサマグナミュージアムという観光施設がある。鉱物の好きな人なら一日でも居られると言われる展示館だが、今日は予定が目白押しで、訪問は難しい。

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フォッサマグナパーク
根知川の対岸に、糸静線上に建つ酒造会社の大屋根が見える
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「東」と「西」の看板の間に
構造線の位置を示す「境界」の標柱が立つ
 

フォッサマグナパークから、さらに上流へクルマを走らせた。次の行先は小滝川ヒスイ峡だ。小滝(こたき)で横道にそれて、1車線の坂道を延々と上っていく。小滝川に沿う林道入山線が最短経路だが、落石の影響で通行止めになっており、2倍以上の遠回りを強いられる。とはいえ、一帯を見下ろす展望台や、高浪(たかなみ)の池といった名所を経由するから、迂回もまた楽しからずや、だ。

道のサミット付近にあるその展望台からは、森の中にたたずむ高浪の池が眼下に望めた。後ろに控えるのは、石灰岩の切り立つ岩壁で知られる明星山(みょうじょうさん、標高1189m)だが、あいにく中腹まで雲に覆われている。視界を占有している斜面は、実は大規模な地すべりの跡で、池も、押し出された土砂の高まりの内側に、地下水が染み出してできたものだ。しかし、荒々しい地形の成因など忘れさせるほど、しっとりとしてもの静かな光景だ。

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展望台から望む高浪の池
後ろの明星山は雲の中
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図3 同 小滝川ヒスイ峡周辺
 

高浪の池までクルマで降りて、池の周囲をしばし散策した。薄霧が漂うなか、畔の木々が水面に映る姿はなかなかに幻想的で、東山魁夷の絵を思わせる。なんでもこの池には、「浪太郎」の名で呼ばれる巨大魚が棲んでいるそうな。

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森を映す高浪の池
 

池のほとりの食堂で昼食をとった後、ヘアピンが連続する山道をクルマでさらに下っていった。渓谷を見下ろす展望台まで来ると、さすがに明星山も霧のヴェールから姿を現した。川床から約450mもの高さがあるという剥き出しの岩肌が、威圧するようにそそり立っている。この景観を作り上げたのは、眼下を流れる小滝川で、南隣の清水山にかけて続く石灰岩の地層を侵食した結果だ。ロッククライミングの名所でもあるそうだが、どうすればこの絶壁を上れるのか、素人には想像もつかない。

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小滝川の渓谷をはさんで向かい合う石灰岩の山塊
左が明星山、右が清水山
 

遊歩道を歩いて上流へ向かう。まが玉池という人工池の前からは、ヒスイ峡の河原まで降りていくことができた。渓流の間に直径数mもあるような巨石が多数転がっていて、案内板によると、あの中にもヒスイの原石が含まれているらしい。漢字で翡翠と書くので緑色という印象が強いが、実際は白っぽいものが多く、緑色の部分は貴重なのだそうだ。

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小滝川ヒスイ峡
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(左)青みを帯びた渓流
(右)矢印がヒスイの原石(現地案内板を参考にして表示)
 

縄文時代から古墳時代にかけてヒスイは、装身具や勾玉に加工されて珍重された。驚くことに、それらはすべて糸魚川産だったという。ところが奈良時代以降、その文化が途絶えたことで、原産地がどこかもすっかり忘れられ、渡来品とさえ考えられていた。この峡谷でヒスイが再発見されたのは、それほど古い話ではなく、1935(昭和10)年のことだ。

もと来た道を戻り、北陸自動車道経由で今度は親不知(おやしらず)へ向かった。東隣にある子不知(こしらず)とともに、北アルプス(飛騨山脈)が日本海に直接没する景勝地として有名だ。海岸線に断崖絶壁が連なっているため、江戸時代まで、通行には波間を縫って狭い岩場を走り抜けるよりほかに方法がなかった(下注)。漢文風の珍しい地名は、親子といえども互いを気遣う余裕がないほどの難所という意味だ。

*注 南の坂田峠を越える山道もあったが、距離が長く、標高600mまで上らなければならない悪路だった。

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断崖が連続する親不知海岸
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図4 同 親不知周辺
 

その断崖の中腹に道路が開削されたのは、1883(明治16)年のことだ。越中越後を結ぶ主要街道として、その後何度か改修整備が行われたが、1966(昭和41)年に、山側に長さ734mの天険トンネルが完成したことにより、旧道となった。

方や、鉄道の開通は1912(大正元)年で、道路の直下に単線で長さ668mの親不知トンネルが通された。日本海縦貫線としての重要性から、こちらも1966年に、現在の親不知トンネル(長さ4536m)を含む複線の新線が完成して、廃線となった。

旧道と廃線トンネル(下注)は遊歩道として開放されていて、階段道を介して周遊することができる。私たちは親不知観光ホテル前の駐車場にクルマを停めて、旧道を西へ歩き始めた。張り出し尾根を回ったところに、さっそく展望台があった。そこに立つと、正面は真一文字の青い水平線、左右には険しい断崖が幾重にも折り重なって見える。

*注 旧道は「親不知コミュニティロード」の名がある。廃線トンネルは、案内板で「親不知煉瓦トンネル」と紹介されていた。

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(左)コミュニティロード展望台から望む日本海
(右)日本アルプスの父、ウォスター・ウェストンの銅像
 

旧道を少し進むと、「如砥如矢(とのごとく、やのごとし)」の文字が刻まれた岩壁の前に出た。明治の開削時に彫られたもので、砥石のように平らで、矢のように真直ぐだと、完成したての道路を称える記念碑だ(下注)。140年風雨にさらされてもなおくっきりと残り、当時の人々の喜びが伝わってくる。だが残念なことに、旧道はここで通行止めになっていて、廃線トンネルの西口へ回ることができない。

*注 左隣の岩壁にも「天下之嶮」、「波激す 足下千丈 親不知」などの刻字がある。

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岩壁に刻まれた「如砥如矢」の文字
 

一方、先ほどの駐車場から谷間の階段道を降りていくと、トンネルの東口に達する。ポータルはいたって普通で、記念の扁額などは嵌っていなかった。親不知子不知に穿たれた旧線トンネルは数本あり(下注)、その中でこれが最長というわけでもないからだろう。

*注 前後のトンネルも残っていることが肉眼で確認できるが、接近は困難。

内部も通行可能だ。直線なので出口の明かりは見えるものの、湿度が高いせいか、ぼんやりしている。枕木の撤去跡には凹凸が残り、ごつごつしたバラストも散らばっていて、足を取られやすい。それで、線路跡の海側に土盛りして歩道のようにしてある。照明の間隔が開いていて足元が暗いから、これはありがたい。

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旧 親不知鉄道トンネルの東口
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(左)西口から東望、内壁の黒ずみは蒸機の煤
(右)東口、次のトンネルが見えるが近づけない
 

東口ではまた、階段を伝って波打ち際まで降りることができる。そこは猫の額ほどの浜で、打ち上げられた大小の丸石で埋め尽くされていた。東も西も岩場に断崖が迫り、打ち寄せる波が激しく砕け散っている。確かに、ここを越えていくのは命懸けだ。

クルマに戻って、風波川東側の国道脇に設けられた親不知記念広場にも立ち寄った。ここも展望台になっているが、目を引いたのは、隅にあった一等水準点だ。金属標をコンクリートで固めてあり、経緯度や標高を刻んだ記念碑を伴っている。やはり親不知は特別の場所らしい。

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(左)波打ち際へ降りる階段
(右)丸石で埋まった浜に断崖が迫る
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親不知記念広場の一等水準点と記念碑
 

糸魚川への帰り道、青海(おうみ)にあるデンカ(旧 電気化学工業)の専用貨物線を訪れた。この工場では、青海黒姫山の石灰石を利用してカーバイドやセメント製品を生産している。かつてはその製品や原料を積んだ貨物列車が、旧 北陸本線青海駅との間を行き来していたのだが、運行は2008年をもって終了した。

先に上流へ向かうと、道路の御幸橋(みゆきばし)に並行して青海川を斜めに横断している鉄橋と、前後の線路がまだ残っていた。これは採掘地と工場を結ぶ通称「原石線」だが、レールや枕木は粉まみれで、しばらく使われていないように見える。一方、工場から青海駅へ出ていく貨物線はすでに撤去され、草ぼうぼうの廃線跡と化していた。地形図にはまだ現役のように描かれているものの、実態は遠い過去の記憶となりつつある。

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デンカ専用貨物線
(左)青海川を渡る鉄橋
(右)草生した青海駅手前の線路敷
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図5 同 青海周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図富山(昭和63年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年5月15日 (月)

新線試乗記-福岡地下鉄七隈線、博多延伸

福岡市営地下鉄七隈(ななくま)線が、2023年3月27日に念願の博多駅延伸を果たした。トンネル工事で発生した道路陥没事故の影響で、計画より2年遅れての始動となった。

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七隈線を走る3000系電車
 

七隈線は、それまで鉄道空白地帯だった福岡市西南部の公共交通事情を抜本的に改善するために建設された路線だ。室見川(むろみがわ)左岸の橋本駅から市街中心部の天神南(てんじんみなみ)駅に至る12.0kmが、2005年に開業している。天神南では、地下街を介して主要路線の空港線天神駅との間で乗継ぎができたが、改札を出て約600m、7~8分の歩きを要していた。

今回開業したのは天神南~博多間のわずか1.6km(下注)に過ぎない。しかし、博多駅では空港線と改札内でつながり、約150m、3分で互いのホームへ移動できるようになった。また、JRの在来線や新幹線への乗継ぎも便利になり、従来の天神経由に比べて10分以上時間が短縮されるそうだ。

*注 営業キロ1.6km、建設キロ1.4km。全線は13.6kmになった。

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福岡市営地下鉄路線図
オレンジが空港線、青が箱崎線、緑が七隈線

新駅のようすを見たくて、延伸開業から1か月後の4月27日に、私も乗りに出かけた。路線の正式な起点は南西端にある橋本駅だが、旅行者の視点で、新設された博多駅から追っていこう。

空港線の駅がJR駅の地下で直交しているのに対して、七隈線のそれは駅の西口である博多口の広場の下だ。駅を出て左にある既存の地下街入口から、エスカレーターをいくつか乗り継いで地下深くに潜っていく。改札があるのは地下4階で、ホームはもう1層下、地下26mの深さだという。

空港線との乗換ルートもあとで歩いてみたが、七隈線の改札階からクランク状になった広い通路を進み、エスカレーターで上がると、そこがもう空港線のホームだった。途中に動く歩道が設置されていることもあって、思ったより短い距離に感じた。

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七隈線~空港線間の連絡通路
 

駅構内のあちこちに、延伸開業を告げるデジタルサイネージやポスターがまだ見られる。「博多まで一本、博多から一本」というキャッチコピーが示すとおり、七隈線各駅と博多駅の間は、直通化で画期的に近くなった。JR線から乗り継いで七隈線沿線の高校や大学に通う学生生徒にとっても朗報で、下宿を引き払って自宅通学に切り替える動きも報じられている。

一方、博多駅が空港線との接続駅になったことで、従来の天神南・天神間の改札外乗継ぎによる運賃通算制度は廃止された。そのため、「一本」で行けない地下鉄利用者にとってはかえって不利になるケースが出てきた。

たとえば、橋本方面から七隈線で来て空港線の天神以西へ行く場合、博多駅経由は遠回りだ。運賃は高くなるし、徒歩連絡は軽減されるものの所要時間も若干延びるようだ。また、箱崎線方面へは、中洲川端で再度乗換が必要になる。そこで激変緩和措置として、2024年3月まで、ICカード「はやかけん」のポイントでの一部還元や、天神経由特別定期券の発売が実施されている。

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七隈線博多駅
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延伸開業を告げるポスター
 

ホームに降りると、橋本行の電車が停車中だった。七隈線は、都営大江戸線などと同じく、鉄輪式リニアモーターカーで運行されるミニ地下鉄だ。車両は、開業時から走る窓周りが緑の3000系に加えて、延伸を機に水色の3000A系が増備された。

車両寸法は車長16.5m、幅2490mm、高さ3145mmで、片側3扉。JR筑肥線と直通する空港線の20m車(幅2860mm、高さ4135mm、片側4扉)に比べると、車内はいかにも狭く感じる(下写真参照、下注)。しかも空港線の6両編成に対して、七隈線は4両だ。まだ早朝なのですいているが、通勤通学時間帯の混雑は相当なものらしい。

*注 軌間は逆に七隈線が1435mmで、空港線はJR在来線と同じ1067mm。

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橋本車両基地に並ぶ3000系(手前)と3000A系
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(左)七隈線3000系車内
(右)空港線1000系車内
 

電車に乗り込み、次の櫛田神社前(くしだじんじゃまえ)駅へ移動する。博多旧市街の一角に位置していて、延伸区間では唯一の中間駅だ。すぐ西で博多川と那珂川の下を横断するため、ホームは地下25mと博多駅に匹敵する深さがある。改札階へは長いエスカレーターで上っていかなくてはならない。

駅名のとおり、ここは博多の夏の一大行事、祇園山笠が奉納される櫛田神社の最寄り駅だ。それでコンコースのあちこちに、神社と祭事にちなむ壁面装飾が施されている。ずらりと並んだ博多人形や博多織など伝統工芸品のディスプレーも見ごたえがあった。

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櫛田神社前駅
コンコースの伝統工芸品展示
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(左)高さのあったかつての祇園山笠を描いた線画
(右)パネル柵にも旧市街を描いた切り絵が
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築地塀に嵌るパネル画
 

ひととおり鑑賞してから、地上に上がった。祇園町西交差点を渡って、南門から櫛田神社の境内に入ると、早朝から一人二人とお参りに来ている。出勤前だろうか、スーツ姿の人も見かけた。

駅はまた、市内有数の商業施設、キャナルシティ博多にも直結している。これまで博多駅から歩くと10分程度かかったから、至近に出現した駅は便利な存在に違いない。日中、橋本からの折返しで乗った電車でも、多くの人がここで降りた。

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櫛田神社
(左)中神門から見た拝殿・本殿
(右)境内にある飾り山の常設展示
 

再び電車に乗れば、次はもう天神南だ。空港線なら天神は3駅目で、博多から5分かかる。対する七隈線はこの間をショートカットしているので、2駅目、所要3分と有利だ。到着したホームで駅名標を撮ろうとしたら、製作費を節約したのか、上り方の行先「櫛田神社前」は既存のパネルにシールを貼って済ませてあった。文字がバックライトを通さないため、暗くて目を凝らさないと読めないのが寂しい。

改札を出ると、突き当りが天神地下街の南端になる。延伸開業は、朝な夕な空港線との乗継ぎのためにここを行き交っていた人の流れに、少なからず影響を及ぼしただろう。それだけではない。天神にある西鉄の電車とバスのターミナルは、1990年代に1ブロック南に移転した結果、空港線より七隈線のほうが近くなっている。JRと西鉄との乗継経路も七隈線にシフトしていくのかもしれない。

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天神南駅
(左)シール貼りした行先
(右)天神地下街からのアプローチ
 

新線試乗はこれで完了だが、この後いくつかの駅に途中下車しながら、既存区間を最後まで乗り通した。降りた一つ目は、渡辺通(わたなべどおり)駅だ。福岡の地下鉄駅はそれぞれユニークなデザインのシンボルマークを持っていて、駅名標などに描かれている。たとえば、博多駅は博多織の模様、櫛田神社駅は境内にある銀杏(ぎなん)の葉と祇園山笠の舁縄(かきなわ)、天神南は「通りゃんせ」をして遊ぶ子ども、といった調子だ。

鉄道とは縁のない図柄が大多数を占める中、唯一、渡辺通駅だけはポール集電、ダブルルーフの路面電車があしらわれている。駅名になっている大通りに、かつて西鉄福岡市内線が通っていたことにちなみ(下注)、渡辺というのも、前身の博多電気軌道設立に尽力した呉服商の名なのだそうだ。大通りに出ても軌道の痕跡は残っておらず、歴史を思い起こさせてくれるのは、駅に掲げられたこのマークだけだ。

*注 渡辺通りを通っていた循環線は、貝塚線とともに福岡市内線で最後まで残っていたが、1979年に廃止された。

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渡辺通駅
(左)シンボルマークは路面電車
(右)渡辺通りに面した地上出入口
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パネル画も路面電車がテーマ
 

二つ目は桜坂(さくらざか)駅。往年のヒット曲とは関係がないのだが、南へ歩いて7~8分のところに周囲を一望できる高台があるというので、行ってみた。

標高約60mの小さな広場に建つ南公園西展望台だ。最上階から北を望むと、中心街の高層建物に寸断されながらも博多湾の水面が広がり、能古島(のこのしま)や志賀島(しかのしま)が見渡せる。南は南で、背振(せふり)山地の、幾重にも重なる青い稜線が美しい。地下鉄の旅は車窓を眺める楽しみがないから、いい気晴らしになった。

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南公園西展望台から北望
左の山が能古島、正面に見える志賀島から右へ、海の中道が続く
 

七隈線はここから六本松(ろっぽんまつ)を経て、城南学園通りを南下し、福大前(ふくだいまえ)を過ぎると再び西に針路を戻す。福岡高速環状線の下をしばらく進み、室見川を渡ったところが路線の起点、橋本駅だ。

駅から出て、地上に広がる七隈線の車両基地を金網越しに眺めた後、川べりの園地でしばらく休憩した。対岸こそすっかり住宅街だが、上流を望むと緑の山並みが意外に近い。風景にはどことなく、まだ高速道路も地下鉄もなく、のどかな田園地帯だったころの名残がある。

駅に戻った際、出入口の窓に「博多まで28分」の太文字が躍っているのに気がついた。途中の各駅でも同様のものが掲げられて、時短効果をアピールしている。今回の延伸で、七隈線は一段と利用価値を高めることになった。それに伴い、ピーク時の混雑度も厳しさを増しそうだ。

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橋本駅
(左)ホーム
(右)出入口、「博多まで28分」の文字が目を引く
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外環室見橋から室見川上流を望む
 

路線には、博多駅からさらに福岡空港国際線ターミナルまで延伸する構想があると聞く。地下鉄空港線の終点は国内線ターミナルであって、滑走路の反対側にある国際線のほうに鉄道は達していないからだ。関係者の期待は大きいのかもしれないが、果たしてこの狭く混んだ車内に、国際線利用客の大型スーツケースが多数持ち込まれる日がいつか来るのだろうか。

■参考サイト
福岡市地下鉄 https://subway.city.fukuoka.lg.jp/

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 新線試乗記-西九州新幹線
 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

 2023年開通の新線
 新線試乗記-相鉄・東急新横浜線
 新線試乗記-宇都宮ライトレール

2023年4月23日 (日)

新線試乗記-相鉄・東急新横浜線

東海道新幹線の新横浜駅で降り、改札を出たら、正面の吹き抜け空間は相模鉄道、略して相鉄(そうてつ)と東急電鉄の新駅開業を祝う大きな横断幕や柱巻き広告で、あたかも満艦飾の状態だった。ここはJR東海の管理エリアのはずだが、おなじみ「そうだ京都、行こう」の広告も埋もれてしまって目につかない。

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新幹線新横浜駅正面ロビーの横断幕
 

新幹線とJR横浜線、横浜市営地下鉄ブルーラインが交わるこの駅に、2023年3月18日、もう一つ新しい路線が加わった。相鉄の羽沢横浜国大前(はざわよこはまこくだいまえ)から東急の日吉(ひよし)に至る新横浜線で、相鉄と東急が相互に直通運行する。

実質的に1本の路線だが、西側の羽沢横浜国大前~新横浜間4.2kmは相鉄が管轄する相鉄新横浜線で、東側の新横浜~日吉間5.8kmは東急管轄の東急新横浜線だ。区別のために、路線名称に社名が含まれている。

このうち相鉄新横浜線は、相鉄本線に接続する西谷(にしや)~羽沢横浜国大前間が、相鉄・JR直通線の一部として2019年11月30日に先行開業しており、今回はその延伸ということになる。

JR直通線は当時、横浜駅をターミナルにしてきた相鉄電車が初めて都心に進出するというので、ひとしきり話題になった(下注)。しかし今から思えば、それはまだ前哨戦のようなものだ。東急の路線網は渋谷、目黒にとどまらず、地下鉄線を介して新宿(三丁目)、池袋、永田町、大手町など主要地点をカバーしている。今回の接続で、都内でネイビーブルーの相鉄車両が見られるエリアは一気に拡大した。

*注 JR直通線については、本ブログ「新線試乗記-相鉄・JR直通線」参照。

一方、東急側から見ると、相鉄線からの入れ込み増だけでなく、自社沿線から新横浜への直行ルートが開かれたことにも大きな意義があるだろう。東海道新幹線で東海・関西地方へ移動するのが便利になる(下注)とともに、新横浜周辺にある横浜アリーナや日産スタジアムといった大規模集客施設のアクセス改善にも貢献するからだ。

*注 これに呼応して、新横浜始発で現行のひかり号(6:00発)より新大阪に先着する臨時のぞみ号(6:03発)が設定された。

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新横浜線新横浜駅、東急方面ホーム
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(左)目黒線に直通する相鉄21000系、海老名駅にて
(右)目黒線から来る埼玉高速鉄道2000系は新横浜まで

新幹線で新横浜に来たことは何度かある。しかしすぐに地下鉄か、裏手にある横浜線に乗り換えていたので、正面の北口ロビーに続くペデストリアンデッキに上がるのは初めてだ。案内表示に従い、突き当り右側の下りエスカレーターに乗った。高低差16mという長いエスカレーターはそのまま地下に潜っていき、降りるとすぐ左手に相鉄・東急の改札口が見えた。これはわかりやすい。

地下コンコースは地下鉄開業時からあるものの、新横浜線の改札が両側に出現して、今や地下街のように人が行き交っていた。全体が真新しいが、今日は開業から1週間以上が経過した27日、利用者にとってはすでに日常風景なのだろう。もの珍しげにあたりを見回しているのは私くらいのものだ。

改札横には、相鉄と東急の券売機が仲良く並ぶ。その上に掲げられた路線図が、2社のネットワークに新横浜駅が組み込まれたことを象徴的に示している。

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新横浜駅
(左)JR駅正面のペデストリアンデッキ
(右)長いエスカレーターを降りると新横浜線の改札階に
 

さっそく改札を入った。側壁に設置されたランダムな塗り絵のような壁面パネルは、駅周辺の地層断面図だそうだ。何ともマニアックな題材だが、地下鉄と交差するためにホーム階は地下33mとかなり深い。それで、鶴見川が運んできた泥や砂礫から成る沖積層は通り越して、その下の上総(かずさ)層群と呼ばれる基盤層に達している。

ホームは2面あり、1・2番線が相鉄方面、3・4番線が東急方面になっていた。しかし、線路は3本しかなく、中央の線路を2番線と3番線が共用する形だ。

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(左)地層断面図の壁面パネル
(右)改札からホームへはエスカレーターを折り返して降りる
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中線は2、3番線で共用
 

まずは東急新横浜線で日吉まで行ってこようと、3番線に停車中の新型電車、都営6500形に乗り込んだ。当駅始発で目黒から都営三田線に入る西高島平(にしたかしまだいら)行だ。上り方面は、相鉄線からの乗入れ列車だけでなく、こうした当駅始発便もある。それで日中の運行は、相鉄線4本に対して東急線は6本だ。東側の需要を大きく見込んでいることが見て取れる。

東急新横浜線はほとんど地下を行く。トンネルはシールド工法特有の円形断面だ。大倉山の手前まで市道環状2号線直下を、その後はおおむね東横線の下を通っているそうで、かぶりつきで見ていても、直線主体の良好な線形が続いている。中間の新綱島(しんつなしま)に停車した後、地上に出たと思ったら、目の前がもう日吉駅だった。所要7分ほど。従来の菊名乗換えに比べて、画期的な時間短縮が図られている。

駅の手前で、目黒線(3番線)と東横線(4番線)に分岐するポイントを渡った。新横浜線は目黒線の延伸だとばかり思っていたのだが、時刻表を見ると、日吉で東横線に進む電車も3本に1本程度設定されている。やはりJR直通線との対抗上、渋谷、新宿への直通ルートは確保しておきたかったようだ。

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日吉駅
駅手前に目黒線(右)と東横線(左)の分岐がある
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(左)新横浜線の発着表示はLEDに
(右)下り方面に新横浜線の紫帯が加わった
 

日吉から戻る途中、中間の新綱島駅を訪れた。並走している東横線の綱島駅とは、綱島街道をはさんで100mほどしか離れていない。しかし、それは平面図での話だ。綱島のプラットホームは高架上、新綱島のは地下35mと、垂直距離がかなりある。新線開通で目黒方面へ直行できるようになったのはメリットだが、ホームに降りるまでに少なからず時間を要する。

周辺では、地上29階建てのタワーマンションを含む大規模な再開発事業が進行中だった。それで、駅といっても仮囲いの隅に地下出入口がぽつんとあるのみだ。今年の冬には地上部にバス用のロータリーができるらしいが、今のところ、商店街やバス停が集まる綱島駅前の賑わいとは雲泥の差がある。

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新綱島駅
(左)駅南口、現在は出入口がぽつんとあるのみ
(右)綱島駅との連絡ルート案内図
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(左)地下ホームのサインボード
(右)桃の木のデザインのガラスパネル
 

ちなみに工事現場の東隣は、そこだけ時計の針を巻き戻したかのような池谷家の緑あふれる屋敷地が広がっていて、桃園ではピンクの花が満開だった。綱島ではかつて桃の栽培が盛んで、ここはそのころの面影をとどめる貴重な場所なのだそうだ。新綱島駅の地下改札を入った正面壁面にも、それにちなんだ桃の木がモチーフのガラスパネルが見られる(上写真)。

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池谷家の桃園は花盛り
 

東急3000系の海老名行に乗って、新横浜から今度は相鉄新横浜線へ。こちらも長いシールドトンネルでおおむね環状2号線の下を進み、途中、東海道新幹線と浅い角度で交差している。羽沢横浜国大までは4.2kmと、都市近郊区間としては駅間距離が長い。といっても所要時間は4分。駅の手前に短い明かり区間があり、そこでJR直通線が左右から合流してくる。

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羽沢横浜国大駅
ホームから上り方を望む
相鉄新横浜線は直進、JR直通線は側方分岐
 

羽沢横浜国大駅は、先行開業の際にも降りたことがあるが、駅のようすに目立った変化はなさそうだった。改札前にある券売機は相鉄とJRのものだけで、運賃を示す路線図にも東急の文字は出てこない。ここは相鉄とJRの共同使用駅なので当然だが、東急との直通などまるでなかったかのようなそっけなさだ。

しかし、構内の案内表示は変化なしには済まされない。まず相鉄の路線図だ(下写真参照)。今まで目立つ位置に描かれていたJR線は隅に押しやられ、東急東横線・東京メトロ副都心線・東武東上線、次いで東急目黒線、さらに目黒で接続する都営三田線、東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道と、俄然賑やかになった(下注)。ほんの数年前まで左半分の自社線のみだったことを思えば、劇的な変貌というほかないだろう。

*注 写真は上りホーム壁面のもの。下りホームの路線図では配置が逆になり、JR線が最上段に来る。

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停車駅案内図は俄然にぎやかに
(上)2019年JR直通線開業時
(下)2023年現在
 

発車案内板もしかり。1番線に海老名(えびな)とともに、いずみ野線の終点、湘南台の名が出現している。JR線直通列車は従来通り海老名発着だが、東急線直通は海老名と湘南台発着がざっと半々の割合で設定されているからだ。おおむね、海老名発着便は目黒線直通、湘南台発着便は東横線に直通する。

一方、2番線ははるかに複雑だ。行先が遠方で、かつ多岐にわたるので、終点まで行く人はともかく、途中駅で降りたいときにどの列車に乗ればいいのか、初心者は頭を抱える。武蔵小杉、渋谷、池袋へは運賃の異なる2ルートがあるし、土休日の朝には別ルートを通る川越行きと川越市行き(下注)が前後して発車するなど、もはやトリビアとして語られるほどだ。

*注 前者は相鉄・JR直通線、埼京線、川越線経由。後者は東横線、副都心線、東上線経由。

そのため、発車案内の種別欄はルートごとにシンボルカラーで色分けされていて(下写真参照)、水色は目黒線方面、緑はJR線方面、ピンクは東横線方面を示している。これとて、いつも利用している人ならピンと来るだろうが、一見客には判じ物の世界かもしれない。

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発車案内の上り種別欄はルートごとに色分け
 

再び電車に乗って、起点となっている西谷駅で降りた。新横浜線の電車は、外側ホームの1番線(下り)と4番線(上り)を使っている。先行開業の時点では日中30分に1本電車が入るだけで、のどかな雰囲気が漂っていたが、今や発着は10分間隔に縮まった。それもネイビーブルーの自社車両に加えて、赤帯の東横線車両、青(水色)帯の目黒線車両、緑帯のJR車両と、多彩な顔ぶれだ。

きょうは、新横浜駅で相鉄の一日乗車券を買ってきた。新横浜線の観察を終えた後は、久しぶりにいずみ野線を含め全線を乗り鉄し、最後に横浜へ向かおうと思っている。1番線に次は何色の電車が入ってくるだろうか。

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西谷駅下りホーム
 

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2023年3月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-高千穂鉄道跡とトロッコ乗車

2023年コンターサークル-s 春の旅は、いつもとは趣向を変えて、レンタカーやレンタサイクルも活用しながら比較的広範囲を回る。1日目となる3月5日の行先は、宮崎県北部にある高千穂(たかちほ)鉄道高千穂線の廃線跡だ。

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高千穂橋梁を渡る観光列車
 

高千穂鉄道は、1989(平成元)年にJR九州の高千穂線を転換した第三セクターの鉄道だった。日豊本線の延岡駅から神話のふるさと高千穂駅まで延長50.0km、ルートは五ヶ瀬川(ごかせがわ)の渓谷に沿って上流へ延びていた。

このうち延岡~日之影温泉(旧称 日ノ影)間は戦前の1939(昭和14)年までに開通しており、川岸の切り立つ谷壁に張り付くようにして進む。急カーブが頻出するため、列車の速度も一向に上がらなかった。対照的に、1972年に延伸された末端の日之影温泉~高千穂間は、長大トンネルの連続で、線形はいたって良好だ。トンネルを抜けると、峡谷のはるか上空を、日本で最も高い鉄道橋、高千穂橋梁で横断するという一大ハイライトもあった。

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国鉄高千穂線時代の高千穂駅
(1983年3月撮影、大出さん提供)
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国鉄高千穂線時代の高千穂橋梁
(1983年3月撮影、大出さん提供)
 

鉄道はこの風光明媚な車窓が好評で、旅行列車「トロッコ神楽号」が運行されて、地域の重要な観光資源になっていた。その日常風景を突然暗転させたのは、2005年9月に襲来した台風だった。大水で五ヶ瀬川に架かる複数の鉄橋が流出するなど、施設に大きな被害を受け、鉄道は全面運休を余儀なくされた。そして復旧費用を調達する見通しが立たないまま、最終的に2008年末に全線廃止の措置が取られたのだ。

その後、高千穂駅を拠点に一部区間が鉄道公園化された。新たに設立された高千穂あまてらす鉄道(当初は神話高千穂トロッコ鉄道)が、2010年からここで観光列車を走らせている。標題では「トロッコ乗車」としたが、現在の車両はグランド・スーパーカートが正式名だ。あくまで公園遊具の扱いながら、なかなかの人気らしく、1日あたり10便、繁忙期には12便もの設定がある。

事前予約はできない(下注)ので、私たちの旅程も座席の確保が優先だ。延岡からクルマで高千穂に直行してこれに乗車し、その後、廃線跡をたどりながら延岡に戻ろうと思っている。

*注 当日、駅窓口で、空席のある後続便を指定することは可能。

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供用中のグランド・スーパーカート
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図1 国鉄高千穂線時代の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年修正)

朝10時、延岡駅に集合したのは大出さんと初参加の山本さん、それに私の3名。赤いマツダ・デミオのレンタカーで市内を後に、国道218号を西へ向かう。一部供用済みの九州中央自動車道(通行無料)を含め、深い谷間を何度もまたぐ立派な道路が、高千穂の町まで続いている。かつてディーゼルカーが1時間20分かけていた距離を、クルマはその半分の40~45分で走破してしまう。残念だが、これではローカル鉄道の存在意義はないに等しい。

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(左)高千穂駅舎
(右)出札窓口、掲示の時刻表は営業運転時代のもの
 

高千穂駅には11時前に到着した。ちょうど先行列車が発車するところだったので、線路をまたぐ道路橋の上から見送る。それから駅の窓口へ行き、次の11時40分発の乗車券(1500円)を購入した。休日とあって、その間にも次々と客が入ってくる。

乗り込むまでにしばらく時間があるが、構内を自由に見学できるから退屈することはなかった。高森方にある2線収容の車庫は鉄道博物館のようなもので、かつて営業運転で使用されていた2両の気動車(TR-101、TR-202)が残されている。私はその前に置いてある保線用のカートに目を止めた。

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高千穂駅構内
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(左)車庫のTR-202
(右)見覚えのある保線用カートも…
 

これには見覚えがあった。2011年に家族旅行で訪れたときに乗ったものだったからだ。今の盛況ぶりからは想像しがたいが、当時は保存鉄道開業からまだ間もなく、注目度も高くなかったように記憶する。高千穂峡のボートを楽しんだ後、立ち寄った道の駅で偶然、運行案内を見かけなければ、存在を知らないまま町を後にしていただろう。駅へ行くと、夏休みの土曜日というのに、客は私たちだけだった。

車両は当時からスーパーカートと呼ばれていたが、実態は、汎用小型エンジンを搭載した台車の前に、リヤカーの荷台のような付随車をつけただけの軽量編成(!)だ。走り始めると、車輪の振動がお尻にじかに伝わるワイルドな乗り心地で、トンネルの中ではエンジンの轟音が反響して話し声はまったく聞こえない。大鉄橋はまだ通行できず、手前の天岩戸(あまのいわと)駅で休憩して折り返す、片道2.2km、往復30分のコースだった。

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2011年に見た案内掲示
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天岩戸駅に到着、中央は運転士さん
(2011年7月撮影)
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機回しはなく、復路は台車が前に
(2011年7月撮影)
 

現在運行中のグランド・スーパーカートは全長25mある。空港で見かけるようなトーイングトラクターを改造したという動力車に続いて、30人乗りロングシートのオープン客車が2両、最後尾に復路用の動力車というプッシュプル編成だ。名称の豪華な響きに釣り合うかどうかはともかく、10数年前に比べればずいぶん進化している。実際、乗り心地も悪くなく、エンジンの音も特に気にならない。

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グランド・スーパーカートで高千穂駅を出発
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と観光列車の走行ルート等を加筆
  高千穂駅周辺
 

列車は定刻に発車し、片道約2.5kmのルート(下注)を時速15km以内でゆっくり走っていった。往路は25‰の下り坂だ。2本の短いトンネルでは、動くイルミネーションが天井に投影されて、乗客の目を引いた。天岩戸駅は通過し、大鉄橋のたもとでいったん停止。風速計で安全を確認したのち、おもむろに橋上に出ていく。「携帯電話や貴重品などは仮に落とされても取りに行けませんので、ご了承ください」とアナウンスがある。

*注 2.5kmは図上実測値。公式サイトに記載されている「距離5.1km」は往復の長さだろう。

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(左)トンネルが迫る(帰路写す)
(右)天井には動くイルミネーション
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(左)天岩戸駅を通過
(右)風速確認の後、橋上へ
 

高千穂鉄橋は、岩戸川の峡谷をまたぐ長さ354m、高さ105mの壮大な上路ワーレントラス橋だ。足もとには、起こしたばかりの田んぼが載るテラス(緩斜面)が見え、その先に底の見えない千尋の谷が口を開けている。線路の両側に並行する保線用通路が緩衝帯になっているとはいえ、スマホをかざす指先におのずと力が入る。

中央部まで来ると、列車は5分ほど停まり、またとない絶景を鑑賞する時間を乗客に提供してくれた。停車中は座席から立ち上がることが許される。運転士が手に持つシャボン玉発生器から、虹の水玉が勢いよく空中に飛び出していく。きょうはよく晴れて暖かく、絶好の行楽日和だ。再び動き出すと、列車は橋を渡り終え、大平山(おおひらやま)トンネルの閉鎖されたポータルの手前ですぐに折り返した。

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高千穂橋梁の上から北望
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(左)シャボン玉が放たれる
(右)大平山トンネルの手前で折り返し
 

高千穂駅に戻った後は、クルマで高森方向へ3km地点にある「トンネルの駅」と隣接する「夢見路公園」に寄り道した。かつて高千穂線はさらに西へ進み、分水嶺を越えて熊本県側の高森線(現 南阿蘇鉄道)と接続することをめざしていた。だが、1980年の国鉄再建法成立により工事は凍結され、この区間はそのまま未成線となった。

トンネルの駅、夢見路公園はその一部を利用した施設で、前者は神楽酒造という酒造会社が運営している。ひときわ目を引くのが、国道から見上げる高さの高架橋上に鎮座する8620形蒸気機関車48647号だ。お召列車を牽いた経歴をもつそうで、日の丸の小旗を脇に差している。もちろん静態保存だが、今にも走り出しそうな雰囲気が頼もしい。「駅」の入口には、ブルーに再塗装された高千穂鉄道の観光用気動車TR-300形(TR-301、TR-302)もいた。

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未成線の高架橋に載る蒸機48647号
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ハチロクと向かい合うTR-300形
 

ハチロクが載る高架橋の高森方では、公園化された築堤に続いて、閉鎖された第一坂の下トンネルのポータルが見える。一方、高千穂方は整地されて駐車場や売店になっているが、山際に開けられた葛原(かずはら)トンネルが、酒造会社により焼酎の貯蔵庫に利用されている。内部も見学可能で、坑内にはスピリッツのかぐわしい香りが充満していた。

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葛原トンネルは焼酎の貯蔵庫に
 

昼食は、あらかじめ目をつけていた雲海橋のたもとのレストランにて。橋の上の歩道は、さきほど列車で渡った高千穂橋梁が遠望できる絶景スポットだ。13時発の列車が来るのを待ち、鉄橋をゆっくり往復するのを最後まで見届けた(冒頭写真も参照)。

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(左)国道218号の雲海橋
(右)雲海橋から高千穂橋梁を遠望

この後は延岡まで、主な旧駅の痕跡を訪ねる。雲海橋の東のたもとで右に折れて、国道218号を東へ。一つ目は、スーパーカートが折り返したあの大平山トンネルを抜けた先にある深角(ふかすみ)駅だ。

国道を離れ、急坂の狭い林道を降りていくと、やがて駅跡に突き当った。見ると、プラットホームの駅名標、単線の線路、山小屋風の待合室と、すべてが現役当時のままだ。待合室には、平成16年3月13日改正の注記をもつ時刻表・運賃表さえ掲げられている(下注)。峡谷の崖の上の、周囲に人家もないさびれた秘境駅を想像していたから、意外だった。

*注 平成16年=2004年は運休の前年。駅の発車時刻表はここに限らず、待合室や駅舎が残る駅跡の多くに掲げられていた。

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現役当時のままの深角駅
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当時の列車時刻表
 

大平山トンネルのほうへ歩くと、手前にある短いトンネル(深角トンネル)の中に木造の手押しトロッコが留め置かれていた。これも2011年の訪問時に高千穂駅で見たものだ。構内には桜の木が植わっていて、満開になる季節には地元有志の手で試乗会が開かれているらしい。

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(左)トンネルに留置された手押しトロッコ
(右)2011年夏は高千穂駅にあった
 

次の影待(かげまち)駅は本物の秘境駅で、アプローチは山道しかなく、駅跡も藪化しているようなので、迷うことなくパスした。日之影川の谷を渡る青雲橋の手前で国道から離れ、谷底へ向かう道を降りていく。目の前をオレンジ色のガーダー橋、日之影川橋梁が横断している。振り返ると、青雲橋の空にかかる虹のような優美なアーチが重なって壮観だ。

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日之影川橋梁の後ろに青雲橋のアーチが重なる
 

日ノ影線時代の終点だった日之影温泉(ひのかげおんせん)駅(下注)は、町の中心部から少し下流に位置する。もとの構内は整理済みで、TR-100形気動車2両(TR-104 せいうん号とTR-105 かりぼし号)が列車ホテルに改造されて、仲良く並んでいる。温泉施設を兼ねていた駅舎は日之影温泉として今も営業中で、土産物売り場の横には、うれしいことに高千穂線に関する鉄道資料室があった。

*注 国鉄時代は日ノ影駅と称していた。三セク移管後の1995年に改称。

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日之影温泉駅
(左)列車ホテルになったTR-100形
(右)温泉施設を兼ねた旧駅舎
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駅舎内にある鉄道資料室
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  日之影温泉駅周辺
 

日之影温泉を出た鉄道は、まもなく五ヶ瀬川を斜めに横断して、対岸に渡っていた。この第四五ヶ瀬川橋梁は台風で被災しなかったが、後に撤去されて、橋台しか残っていない。その先、河道の屈曲に従ってクランク状に通過する個所では、連続アーチの高架橋(第一及び第二小崎橋梁)が対岸の道路から望見できる。

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連続アーチの小崎橋梁
 

吾味(ごみ)から日向八戸(ひゅうがやと)、槇峰(まきみね)までの3駅間は、廃線跡がハイキングルート「森林セラピー TR鉄道跡地散策コース」として整備されている(下注)。高千穂線跡で唯一、ふつうに歩ける区間なので、吾味駅前にクルマを置いて訪ねてみることにした。全長約4kmあり、往復すると2時間近くかかるから、1.4km地点の日向八戸駅で折り返すショートコースにする。

*注 現地の看板は吾味駅~槇峰駅間になっていたが、2023年現在の公式サイトでは吾味駅~八戸観音滝とされている。

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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  吾味~槙峰間
 

出発点の吾味駅は、線路跡が舗装道になっているものの、ホーム上の三角屋根をつけた待合室が在りし日を偲ばせる(下注)。それに続くのが、コース最大の遺構で、重要文化財にも指定された第三五ヶ瀬川橋梁だ。長さは268m、中央部が上路ワーレントラス、両端の橋脚にはコンクリート製の方杖(ほうづえ)を使用したユニークな構造で、平面形は半径200mの急曲線を描いている。下流にある星山ダムの湛水域に含まれるため、川岸までたっぷりと蒼い水が満ちているのも趣を添える。

*注 下流側にあるよく似たデザインの建物は、ハイキングコースのために新設された休憩所。

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吾味駅跡
壁面は改装されているものの待合室も健在
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第三五ヶ瀬川橋梁はハイキングコースに
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橋梁側面
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現地の案内板
 

橋梁を渡りきると、短いトンネルを介して日向八戸駅の手前までレールが残されていた。線路の片側に土を盛ってあるので、歩くのに支障はない。日向八戸駅も同じく、線路跡は舗装道になっているが、ホームや駅名標とともに、駅舎を兼ねていた立派な公民館が健在で、廃線跡にはとても見えない。

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(左)レールも残る吾味~日向八戸間
(右)トンネルの反対側(西望)
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(左)日向八戸駅の手前レールは途切れる
(右)廃線跡とは思えない日向八戸駅
 

クルマに戻り、ハイキングコースの残り区間にある八戸観音滝の高架橋と樺木トンネル(長さ247m、下注)のポータルを見て、槙峰駅跡へ。ここもレールが剥がされ草地になっているものの、切妻屋根の駅舎とホームはしっかり残っている。

*注 樺木トンネルはカーブしているうえ、照明がないので、通行には懐中電灯が必須。

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(左)八戸観音滝入口の高架橋
(右)樺木トンネル西口
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槙峰駅舎とホーム
 

それ以上に注目すべきは、駅の下手で支流の綱の瀬川(つなのせがわ)を渡っているコンクリートアーチの綱ノ瀬橋梁だ。川岸に張り出した長い高架区間を前後に従えているため、全長418m、43連アーチという、旧日ノ影線区間では最大規模の構造物になっている。背後の谷には国道槙峰大橋ののびやかな大アーチが架かっていて、新旧共鳴する絶景に思わず息をのむ。

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綱ノ瀬橋梁と槙峰大橋
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綱ノ瀬橋梁の下流部
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現地の案内板
 

廃線跡の見どころはおおむねここまでだ。すでに陽が傾きつつあり、後はよりテンポよく進めていきたい。列車を再び対岸に渡していた第二五ヶ瀬川橋梁は台風で損壊し、残骸もすでに撤去済だ。次の亀ヶ崎(かめがさき)駅はクルマでは容易に近づけないので、さっそくパスした。

早日渡(はやひと)駅も対岸だが、道路橋を渡れば駅前までクルマがつけられる。駅跡は桜の名所になっているが、旅客用ホームはすでに撤去され、貨物用と思われる古い石積みホームが残るばかりだ(下注)。構内に建つプレハブは公民館だそうだが、内部に駅名標と駅の発車時刻表が掲げてあるのが、窓ガラス越しに見えた。

*注 撤去計画(高千穂線鉄道施設整理事業)は高千穂鉄道の施設が対象のため、同 鉄道が使用していなかった国鉄時代の遺物は撤去を免れたもよう。

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早日渡駅跡
(左)公民館の中に駅名標が
(右)残るは旧貨物ホームのみ
 

上崎(かみざき)駅も対岸にあるが、同じように橋を渡ってのアプローチが可能だ。菜の花咲く廃線跡と、簡素なホームと待合室に、ローカル線ののどかな面影を求めることができる。

川水流(かわずる)駅の手前で、鉄道はまた川を渡ってこちら側に移っていた。第一五ヶ瀬川橋梁は水害に遭い、前後の築堤を残して撤去された。川水流駅跡もすでに更地化されてしまったようだ。

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上崎駅跡
(左)ローカル線の面影を残す
(右)駅の下流側、線路跡の農道が続く
 

トンネルを抜けた谷あいにあった曽木(そき)駅は、集落の中に木造の駅舎が残るものの、線路跡は畑などに還っている。

吐合(はきあい)駅は、曽木川が五ヶ瀬川に合流する地点の山手に設けられたが、すでに民地に戻されたようだ。駅へ上る細道は金網で封鎖され、近づくことができなかった。

日向岡元(ひゅうがおかもと)駅と細見(ほそみ)駅跡は、ともに道路に転用されてしまっており、クルマの窓から見るにとどめる。

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(左)駅舎のみ残る曽木駅跡
(右)吐合駅跡は民地に(金網越しに撮影)
 

この後、鉄道跡は国道とともに五ヶ瀬川の谷から離れる。行縢(むかばき)駅跡は、早日渡同様、撤去を免れた旧貨物ホームに桜の木が大きく育っていた。単式だった旅客ホームや線路はすでになく、緑の草地が広がるばかりだ。

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(左)行縢駅跡も古いホームのみ残存
(右)東九州自動車道と交差する廃線跡(行縢~西延岡間)
 

最後の西延岡(にしのべおか)駅跡にたどり着いたときには、もう18時を回っていた。今日の宮崎の日没時刻は18時15分だが、すでに陽は西の山かげに隠れ、あたりに夕闇が忍び寄る。

ここはもう延岡の郊外だが、うれしいことに駅は現役時代の姿を保っていた。駅舎はもともとなかったのだが、ホームには色褪せながらも駅名標が立ち、PCまくらぎを敷いた線路もまだ使えそうだ。駅前に建っている風格ある切石積みの倉庫も、鉄道貨物の関連施設に見える。駅が無傷なのは地元の要望によるものらしいが、そのおかげで、高千穂からたどってきた廃線跡の旅の、申し分ない終着地になった。

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現役時代の姿を保つ西延岡駅跡
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(左)西延岡駅前の石造倉庫
(右)倉庫は国鉄時代から存在(1983年3月撮影、大出さん提供)

西延岡と延岡の間で、高千穂線は市街地を避けるように北に迂回していた。この間には3本の短いトンネルもあった。今朝、集合時刻までに一部を徒歩で見に行ったので、本稿の続きに報告しておきたい。

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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  西延岡~延岡間
 

西延岡駅から東1km強の区間は、一部を除いて路盤が明瞭だ。レールが撤去された区間でもバラストは残っている。しかし、古川町地内では大規模な土地造成が進行中で、西延岡から数えて最初のトンネル(赤尾トンネル)は、地山ごと消失して平地になっていた。

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古川町地内
(左)バラストが残る廃線跡(西望)
(右)踏切の先のトンネルは地山ごと消失(東望)
 

延岡西環状線と交差した先にある第二のトンネル(山田トンネル)の前後はすでに藪化していて、近づけない。

旭中学校裏から第三のトンネルの間は路盤のバラストが残るが、住宅地に面しているので、そのうち舗装道に変わってしまいそうだ。第三のトンネルは無傷だが、入口にはフェンスが講じてある。

これを抜けると線路跡は、延岡駅へ向けて南へ大きくカーブしていく。駅の手前まで続いていた築堤は、今やトンネル東側と旭小学校裏に一部残るだけだ。あとは旧国道10号に架かっていたガーダー橋を含めてすっかり撤去されてしまい、駐車場などに姿を変えている。

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旭中学校裏に残る築堤と擁壁
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第三のトンネルは残存するものの通行不可
左写真は西側から、右写真は東側から撮影

最後に、国鉄高千穂線が記載されている1:25,000地形図を、高千穂側から順に掲げておこう。

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高千穂線現役時代の 1:50,000地形図
高千穂~大平山トンネル間(1974(昭和49)年修正測量)
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同 大平山トンネル~日ノ影間
(1974(昭和49)年修正測量および1978(昭和53)年改測)
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同 日ノ影~槙峰間
(1978(昭和53)年改測)
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同 槙峰~上崎間
(1978(昭和53)年改測)
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同 上崎~日向岡元間
(1978(昭和53)年改測)
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同 日向岡元~行縢間
(1978(昭和53)年改測)
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同 行縢~延岡間
(1978(昭和53)年改測)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分、延岡(いずれも昭和52年編集)、2万5千分の1地形図大菅、三田井(いずれも昭和49年修正測量)、同 延岡北部、延岡、行縢山、川水流、日之影、宇納間、諸塚山(いずれも昭和53年改測)および地理院地図(2023年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高千穂あまてらす鉄道 https://amaterasu-railway.jp/

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2022年12月10日 (土)

新線試乗記-西九州新幹線

2022年9月23日に開業した西九州新幹線に初乗りしようと、朝早い博多駅で特急「リレーかもめ」5号に乗り込んだ。新幹線区間は武雄温泉(たけおおんせん)~長崎間66.0km(営業距離は69.6km)だが、他の新幹線網から孤立しているため、そこまで在来線の特急列車でつないでいる。1980年代の東北・上越新幹線、2000年代の九州新幹線でも行われたことのあるリレー方式だ。

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大村湾岸を行く「かもめ」号
大村市松原付近
 

駅や列車の行先表示もそれに準じて、この列車の終点である武雄温泉ではなく、最終目的地の長崎と記されていた。「運用上の都合により途中で乗換となりますが、間違いなく長崎まで参ります」ということだろう。同様に、長崎発の上り新幹線も、博多などリレー号の行先に合わせた表示になっているはずだ。

リレー5号の車両は、奇しくもかつて鹿児島本線の「リレーつばめ」に使われたグレートーンの787系だった。再招集に備えて改修もされたようだが、20年以上稼働してきて、テーブルやひじ掛けなどはくたびれが目立つ。とはいえ後述するように、これはいつ終了するか見通しの立たない任務だ。しばらくは老骨に鞭打ち頑張ってもらわねばなるまい。

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(左)787系の「リレーかもめ」号
(右)行先表示は長崎
 

列車は鳥栖から長崎本線に入り、佐賀平野を進んでいく。ちょうどバルーンフェスタの会期中だったので、嘉瀬川(かせがわ)を渡る前後では、晴れた空に浮かぶ無数の熱気球を遠望できた。肥前山口から改称された江北(こうほく)駅を通過してしばらくすると、線路がすーっと高架に上がっていき、真新しいホームが車窓に現れた。

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朝の空に熱気球が浮かぶ
 

到着したのは、武雄温泉駅の10番線だ。向かい11番線のホーム柵の奥に、新幹線「かもめ」5号が扉を開けて待っている。東海道・山陽新幹線で走っているのと同形式のN700Sだそうだが、側面に描かれた大きな「かもめ」の筆文字や赤い細帯は、九州オリジナルの800系を連想させる(下注)。後で前頭部に回ったら、裾が赤く塗られ、独自性を強くアピールしていた。

*注 部分開通時代、800系の側面には「つばめ」の大きな筆文字があった。

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武雄温泉駅新幹線ホーム
右のリレー号から平面乗換え
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N700S「かもめ」
(左)裾にJR九州色をまとう
(右)側面には大きな筆文字(諫早駅で撮影)
 

確かに「かもめ」は、800系「つばめ」のスタイルを踏襲している。6両編成で、指定席車と自由席車が3両ずつ、グリーン車はついていない。「つばめ」と違うのは、在来線の特急に合わせて長崎寄りの3両が指定席になっている点だ(下注)。

*注 「つばめ」は東海道・山陽新幹線に準じて、鹿児島中央寄りの3両が自由席。

指定席は2+2列で、隣席との間に大きなひじ掛けがあり、余裕のある座り心地だ。自由席を覗いてみたら、標準的な2+3列だった。走行距離が短いので、自由席利用が多いと見込んだのだろう。

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(左)指定席は2+2列
(右)テーブルの代わりに大きなひじ掛けが
 

長崎までの所要時間は、途中諫早のみ停車の速達便で23分、各駅停車で31分だ。博多~長崎間では最速1時間20分となり、在来線時代より30分ほど短縮されたのだそうだ。高速列車だから当然だが、走るルート自体、在来線より直線的で、特に諫早まではその感が強い。

既存の鉄道ルートには変遷がある。1898(明治31)年に開通した九州鉄道長崎線(国有化により長崎本線)は西回りで、早岐(はいき)を経由していた。現在の佐世保線、大村線のルートだ。1934(昭和9)年に有明海沿岸を走る現在の長崎本線が完成したが、これも多良岳の山麓をなぞる形で東へ迂回している。

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佐賀~長崎間の鉄道ルートの変遷
 

一方、鉄道開通以前の長崎街道は、この間をできるだけ短距離で結んでいた。おおむね今の国道34号に相当するが、問題は、佐賀・長崎の県境にある標高190mの俵坂峠だ。峠の西斜面は高度差が大きく、鉄道を通すなら急勾配の長い坂道が必要になっただろう。新幹線はこの峠をトンネルで貫くことで、既存の鉄道では成しえなかった直線的なルートを実現しているのだ(下注)。

*注 なお諫早~長崎間の在来線も、旧線である長与(ながよ)経由、新線の市布(いちぬの)経由の2ルートがある。

話を武雄温泉駅に戻そう。リレー号と「かもめ」はわずか3分の接続なので、せいぜい記念写真を撮る程度の時間しかない。それで駅の詳細は、後で再訪して観察した。まずプラットホームだが、新幹線は対面式で、今乗換えた11番線から複線の線路を隔てて12番線のホームがある。新幹線全通時にはこれが下りホームになるわけだが、今のところ客扱いはしていない。

一方、在来線は10数年前から同じレベルの高架ホームが供用されていて、こちらは片面と島式の2面構成だ。北側の片面ホーム(1番線)が上り博多方面、島式の片側(2番線)が下り佐世保方面になる。島式のもう片側はリレー号が入る線路に面しているが、柵があって乗降はできない。リレー号には新幹線側のホーム、すなわち新幹線改札からしかアクセスできないようにしてあるのだ。

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武雄温泉駅配線図(2022年9月現在)
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武雄温泉駅
(左)リレー号が発着する10番線
(右)新幹線12番線は閉鎖中
 

そのため、この駅から在来線の特急列車に乗ろうとする客には、在来線と新幹線、どちらの改札を通るべきかという悩ましい問題がつきまとう。リレー号だけではない。博多~佐世保間の特急「みどり」などはふつう1・2番線に入るが、リレー役を担う便も一部ある(下注)。その場合10番線を使うので、佐世保方面へ行く客であっても、新幹線の改札から入る必要があるのだ。

*注 特急名称が「みどり(リレーかもめ)」「ハウステンボス(リレーかもめ)」になっている便。10番線を使う場合、在来線改札口の電光掲示板には、番線の欄に「新幹線→」と表示される。

在来線改札では、特急券を提示した客に係員が「この列車は新幹線改札の方から」と説明しているのを見かけた。地元の人はそのうち慣れるだろうが、一度きりの観光客にはずっとこの対応が続くことになる。

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(左)在来線ホーム、リレー号が入る側には柵が
(右)在来線改札口
 

駅は傾斜地に位置しているらしく、新幹線側から見ると、在来線コンコースは1段上だ。この間をエスカレーターとエレベーターが結んでいる。出口は、北が楼門口、南は御船山(みふねやま)口という名がつく(下注)。土地鑑のない者にはかっこ書きで添えられた北口、南口のほうがわかりやすいが、これも観光開発の一環なのだろうか。

*注 楼門も御船山も、武雄の観光名所。他の駅も同じように出口に個別地名などを用いている。

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御船山口(南口)ファサード
 

さて、「かもめ」5号は定刻に武雄温泉を出発した。進行方向右側の窓から、在来線の架線柱が遠ざかっていくのが見える。と思ううちにトンネルに入り、その後も断続的にトンネルの闇が来た。

次の嬉野温泉までは10.9kmと駅間が最も短く、所要わずか6分だ。そのうえ、到着の3分前には「まもなく嬉野温泉です。お出口は左側です」と、案内アナウンスが始まる。往路は各駅を訪ねるつもりなので、席に落ち着く間もない。

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嬉野温泉駅
(左)名産の茶畑を背に駅へ進入
(右)下りホーム
 

嬉野温泉は、既存の鉄道がなかった町(下注)にできた新駅だ。停車するのは2本に1本程度で、日中は次の列車まで2時間空いてしまう。それで本数が多い朝のうちに来ておく必要があった。

*注 歴史を遡れば、祐徳(ゆうとく)軌道と肥前電気鉄道で武雄や肥前鹿島と結ばれていた時代があるが、1931(昭和6)年という早い時期に廃止されている。

町は、武雄と並ぶ佐賀県西部の温泉地として知られている。駅が設けられたのは市街地の東のはずれだが、周辺には道の駅や基幹病院が建って、都市開発が進行中だ。しかし、この時間に改札を出てくる人はほとんどなく、構内は静まり返っている。駅前の停留所にJRの路線バスがやってきたが、乗降がないまま出ていった。

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(左)塩田川口(東口)
(右)改札口
 

次の「かもめ」を待ち、自由席の客となる。近年開業した新幹線はどこもそうだが、高い防音壁のために車窓の視界は遮られがちだ。だが嬉野温泉を出ると、防音壁の一部が透明になっている個所があり、温泉街の一角を目にすることができた。

しかしそれもつかの間、すぐにトンネルだ。県境の俵坂峠の下に掘られた俵坂トンネルで、5705mと路線第2の長さがある。続くいくつかのトンネルの間では一瞬海が見えるが、やがて平地に出て、大村湾の景色が開け始めた。

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車窓に大村湾の景色が
 

新大村駅は大村市の中心街の北方、空港通りと交差する地点に設けられた。並走する大村線にも新駅が開設され、乗換えが可能になっている。空港通りは、長崎自動車道の大村インターと大村湾に浮かぶ長崎空港を結ぶ大通りなので、これで高速道路、新幹線、空港が一つの軸に揃ったことになる。

駅の玄関が東側(山側)にだけ向いているのは、意外だった。用地の関係かもしれないが、人家の多い西側へは地下道を通る必要がある。大村線の駅は、新幹線駅舎にひさしを借りた形の無人駅で、ホーム上に券売機とICカードの簡易改札機が並んでいた。これも線路の東側なので、直接西側には行けない。

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新大村駅
(左)さざなみ口(西口)広場、駅舎手前に大村線が走る
(右)駅名標と開業ポスター
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(左)在来線は無人駅
(右)松原駅
 

ここでいったん駅の巡歴を中断し、大村線の上り列車に乗り換えて、松原駅に向かう。目的は、駅から山手を1km強上ったところにある新幹線のお立ち台だ。

新大村駅を後にした上り「かもめ」が最初のトンネルに入ろうとする場所で、防音壁に遮られることなく車両の足回りまで見える(冒頭写真参照)。背景は大村湾に臨むパノラマなので、舞台装置も申し分ない。通りがかった地元の人の話では、試運転のころは見物人がずらっと並んだそうで、自販機を置いたら飲み物がよく売れたという。

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お立ち台から大村市街地と湾奥の眺め
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中央後方に小さくYC1系シーサイドライナーの姿も
 

松原駅に戻り、大村線でそのまま諫早(いさはや)へ。諫早駅の前後では、新幹線の線路が珍しく地平を走っている。そのため、新幹線から降り立っても、長いエスカレーターで出口へ「上って」いくことになる。階上の広い自由通路には、新幹線と在来線の真新しい改札口が並んでいた。以前来たときは地上駅舎だったが、ガラス張りの立派な駅ビルに建て替わり、昔の面影は全くなくなっている。

諫早は、長崎本線と大村線、島原鉄道が接続する鉄道の要衝だ。新幹線開業で在来線から特急の姿が消えたとはいえ、長崎方面へは通勤通学需要が高く、朝夕は毎時4~5本、日中でも毎時3本(いずれも長与経由を含む)の列車が走っている。島原鉄道の駅もビルの一角だが、こちらはエスカレーターを降りた地平(地上階からは少し上がる)にあった。

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諫早駅
(左)東口ファサード
(右)上りホーム、エスカレーターは階上へ上っていく
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(左)階上の自由通路
(右)「かもめ」マークのデコレーション
 

さて諫早を出ると、「かもめ」号は在来線上り線に沿って、急カーブで市街地のトンネルを抜ける。それからおもむろに速度を上げて長崎へ向かう。この区間もほとんどがトンネルだ。最後に通過する7460mの新長崎トンネルが、路線最長になる。

この中で減速が始まり、闇を抜けたときには、列車はもう徐行に移っている。トンネルの出口から駅のホーム端まで500mほどしかなく、心の準備もあらばこそ、いきなり車窓に長崎駅が現れる。

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長崎駅
(左)朝日を浴びて「かもめ」到着
(右)折返し上り列車に
 

新幹線駅は2面4線で、発着本数からすれば余裕を持たせた構内だ。西隣の一段低い位置には、在来線のホームが並行している。どちらも高架上で視点が高く、車止めの先に素通しで港の風景が見渡せるので、明るく開放的な雰囲気がある。新幹線駅の先端の柵に「日本最西端の新幹線駅」と記された銘板を見つけた(下注)。このタイトルが破られることはまずないはずだ。

*注 これまでタイトルを保持していたのは、九州新幹線の川内駅だった。

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車止めの先は港の風景が素通しで
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日本最西端の新幹線駅の銘板
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(左)新幹線改札口
(右)指定券券売機
 

ひととおり記念写真を撮った後、エスカレーターで出口へ向かった。線路がすべて高架化されたので、駅の地上部には広く平らな自由通路が設けられている。しかし、整っていたのは構内だけで、駅前はまだ工事の真っ最中だった。

駅は元の位置から150mほど西へ移転したので、電車通りである国道202号(新浦上街道)との間に広い空間が生まれた。しかし、市内電車(長崎電気軌道)や路線バスの乗り場は移っていないため、市内に出ようとすれば、仮設通路を延々と歩いていく必要がある。新幹線効果で、今まさに旅好きの人々の関心が長崎に向いているはずだが、整備事業が完成するのは3年後の2025年だそうだ。

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駅前は整備工事中
仮囲いの外側を延々歩かされる

駅前整備は到達目標があるのでまだしも、西九州新幹線の将来の見通しはまったく立っていない。知られているとおり、この路線は今を遡る50年前、1973年に計画決定された5本の整備新幹線の一部だ。その後、武雄温泉~長崎間はフル規格(標準軌の新幹線方式)で建設するものの、残る新鳥栖~武雄温泉間は線形の良好な狭軌在来線を活用して、軌間可変のいわゆるフリーゲージトレインを走らせる計画が立てられた。

しかし、新幹線と在来線の両方で十分なパフォーマンスを発揮できる車両というのは、開発のハードルが高かった。さらに、実用化されても高コストになることが問題視されて、結局、今回の導入は見送られてしまう。JR九州や長崎県は全線のフル規格化による開業を希望しているが、通過する佐賀県が、費用の負担増に見合うメリットが少ないとして、まだ複数の整備方式やルートを比較検討している段階だ。

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開業前の座席模型展示(2022年6月、長崎駅で撮影)
 

話がうまくまとまったとしても、その段階で改めてさまざまな準備作業が開始される。また、仮に在来線を生かす方式なら、1時間に片道2~3本(下注)の特急列車が行き交う特急街道を維持しながらの工事になる。それを考えると、先は長い。おそらく九州新幹線の時とは違って、「かもめ」号が西九州で孤軍奮闘する時代がかなりの期間続くことになるのだろう。

*注 従来、「かもめ」と「みどり(・ハウステンボス)」の毎時2本体制だったが、西九州新幹線開業後はそこに肥前鹿島方面の「かささぎ」が加わり、時間帯によっては3本体制になっている。

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2022年12月 3日 (土)

ライトレールの風景-叡電 鞍馬線

叡山(えいざん)電鉄、略して叡電の鞍馬(くらま)線は、叡山本線の宝ヶ池(たからがいけ)で分岐して、洛北の観光地、貴船(きぶね)や鞍馬へのアクセスを提供している8.8kmの電化路線だ。

叡山本線が開通した3年後の1928(昭和3)年から翌年にかけて、鞍馬電気鉄道により段階的に開業した。1942(昭和17)年に京福電気鉄道との合併で鞍馬線となり、1986(昭和61)年からは、分社化で設立された叡山電鉄が運行している(下注)。

*注 本稿では、過去の記述を含めて叡電鞍馬線と記す。

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もみじのトンネルを抜ける
市原~二ノ瀬間
掲載写真は2019年4月~2022年11月の間に撮影
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叡電路線図
 

建設の経緯から見れば支線なのだが、電車は叡山本線と同じようにターミナルの出町柳駅が起点だ。しかも、叡山本線が単行(1両)なのに対し、鞍馬線には主に2両固定編成が投じられる(下注)。沿線に住宅地が広がり、高校や大学もあって、通勤通学での利用者がけっこう多いからだ。

*注 市原駅での折返し便など、700系単行で運行されるものも一部ある。

ついでに言えば、市販の時刻表の索引地図では鞍馬方面が道なりで、八瀬(やせ)方面はむしろ枝分かれするかのように描かれる。つまり、本線以上に本線の風格を備えた路線、というのが鞍馬線の実態だ。

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出町柳駅の鞍馬線ホーム
 

車両群の主力を担っているのは、2両固定編成の800系と呼ばれるグループだ。1990年代前半に次々に導入されて、創業以来の古参車だったデナ21形を置き換えた。車体の塗装はクリーム地に2色のストライプとシンプルだが、ストライプのうち上部の1色は、編成によって緑、ピンク、黄緑、紫と変わる。

また、815・816号の編成は「ギャラリートレイン・こもれび」と称し、車体全体に四季の森とそこに暮らす動物たちが描かれている。ただ、絵柄が細か過ぎるからか、遠目にはにぎやかな落書きのように見えてしまうのが惜しいが。

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800系
(左)クリーム地にストライプの標準塗装車
(右)「ギャラリートレイン・こもれび」
 

800系に次いで、1997~98年に新造で投入されたのが900系「きらら」だ。2編成あり、塗装は当初、901・902号が紅色(メープルレッド)、903・904号が橙色(メープルオレンジ)だった。後に紅色編成が、青もみじをイメージした黄緑に塗り直され、現在はこの2色で走っている(下注)。

*注 車体の下部は各編成共通で、金の細帯と白塗装。

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橙と黄緑の900系「きらら」
 

沿線風景を広角で鑑賞できるように、内装は側天井や扉下部もガラス張りだ。また、座席は、鞍馬に向かって先頭車両が左側1人掛け、右側2人掛け、後部車両はその逆で、いずれも中央部の2人掛け席は伊豆急のリゾート21のように窓を向いている。伊豆の海の代わりに、比叡山や鞍馬川の谷間が眺められる。

登場から早や25年が経過したとはいえ、「きらら」はいまだに叡電の看板電車だ。森が赤や黄色に染まる季節はとりわけ人気が高く、800系より明らかに混雑している。運行時刻は公式サイトに掲載されるが、ロングシートの800系に比べて座席定員が少ないこともあり、この時期に座れたら幸運と思わなければいけない。

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「きらら」の内装
(左)広窓のパノラマ仕様
(右)中央の2人掛けは窓を向いて固定
 

電車はすべて各駅停車で、朝と夕方以降にある市原駅折返し(下注)や入出庫便を除いて、出町柳~鞍馬間の全線を往復している。日中15分ごとの運行だが、紅葉シーズンの休日は特別ダイヤで、13分間隔まで詰まる。山間部は単線のため、叡山本線のようなピストン輸送はしたくてもできないのだ。ふだんはワンマン運転で、最前部の扉から降車するが、このときばかりは乗員も2人体制になり、すべての扉を開放して、混雑をさばいている。

*注 市原駅折返し便は、主に通勤通学需要に対応している。

出町柳から宝ヶ池までの各駅のようすについては、前回の叡山本線を参照していただくとして、今回はその分岐点から話を進めよう。

宝ヶ池駅に着く直前、鞍馬線は複線のまま、平行移動のように左へ分かれていき、3・4番線に収まる。ホームの案内や駅名標に使われている色は、各路線のシンボルカラーだ。叡山本線は山の緑、鞍馬線はモミジの赤だが、後者は鞍馬方面への電車が来る4番線にだけ見られる。

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左に平行移動して宝ヶ池駅へ
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案内表示はシンボルカラーで色分け
 

駅を出て右にそれていく叡山本線に対して、鞍馬線は北へ直進し、高野川橋梁を渡る。橋は、大原から若狭湾岸へ抜ける国道367号(若狭街道)もいっしょにまたいでいて、右の車窓から比叡山がひときわ大きく見えるビューポイントだ。ちなみにここは叡電の撮影地の一つでもあり、西側にある府道の花園橋から、比叡山を背にして、電車と鉄橋が川面に映る構図が得られる。なにぶん市街地化で電線や建物が増えて、興趣がそがれつつあるが。

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比叡山を背に高野川橋梁を渡る
 

少し行くと一つ目の駅、八幡前(はちまんまえ)がある。叡山本線で言及した三宅八幡宮へは、ここで降りるのが近い。朱色に塗られたホーム柵が、最寄り駅であることをさりげなく告げている。

この後、鞍馬線は岩倉盆地の縁に沿うようにして、西へ向きを変えていく。このような経路を取るのは、山際に位置する八幡宮や、かつての岩倉村(現 左京区岩倉)の中心部に近づけるためだろう。盆地の南部は土地が低く、高野川に出口を押さえられた岩倉川が氾濫しがちで、昔は一面、沼田だった。宅地化が進むのは、河川改修と土地区画整理が終了した1970年代以降のことだ。

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八幡前駅、700系が多客時の助っ人に
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岩倉盆地の変遷
(上)1931(昭和6)年図 鞍馬線は田園地帯のへりを行く
(下)2022年図(地理院地図) 盆地全体が市街地化
 

左カーブの先に、岩倉(いわくら)駅が見えてくる。実相院や岩倉具視(いわくらともみ)の旧宅は、旧村の中を北へ1km、また、かつて叡電経営の脅威となった地下鉄の終点、国際会館駅へは南へ約1kmだ。複線区間はまだ続いているが、長らく岩倉以遠は単線で(下注)、複線に戻されたのは1991(平成3)年、鴨東線の開業による利用者の増加で増発が必要になってからだ。

*注 開業時は市原まで複線だったが、1939~44年にかけて鞍馬線全線が単線化、1958年に岩倉まで再複線化、1991年に二軒茶屋まで再複線化。

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岩倉駅
 

次の木野(きの)駅周辺でも土地区画整理は完了し、住宅が建ち並ぶが、田畑もまだいくらか残っている。ここを通ると、すぐ南にあって乱開発の象徴と言われた一条山、通称モヒカン山が思い浮かぶ。長い間、モヒカン刈りのような無残な姿を晒していたが、斜面が緑化され、残りはすっかり住宅地に変貌している。今では電車から眺めても気づかないくらいだ。

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木野駅
 

京都精華大前(きょうとせいかだいまえ)駅は、1989年に開設された叡電で最も新しい駅だ。上下ホームの連絡通路を兼ねた、キャンパス直結の跨線橋が頭上に架かる。芸術系の大学らしい凝った形状をしているが、銘板によると名称はパラディオ橋で、イタリアの建築家アンドレア・パラーディオが残したトラス橋の原型を再現したものだそうだ。

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京都精華大前駅とパラディオ橋
 

谷が狭まってきたところで、二軒茶屋(にけんちゃや)駅に停車する。岩倉盆地の西の端だが、宅地化の波はこのあたりまで及んできている。それとともに、駅前から京都産業大の通学バスが出ているので、朝夕を中心に学生の乗降がかなりある。

複線区間はここまでだ。下り線は、駅の西側で引上げ線になって途切れている。昔の複線用地が右側に残る(下注)のを横目に見て、電車は河川争奪の痕跡である市原の分水界を乗り越えていく。初めて50‰の勾配標が現れるのもこの上り坂だ。

*注 架線柱とビームも複線用地にまたがっている。

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二軒茶屋駅を後にして単線区間へ
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(左)幅広の架線柱は複線時代の名残
(右)市原の分水界
 

市原(いちはら)は鴨川の支流、鞍馬川の谷間に開けている。駅があるのは、旧集落の山手で、棒線駅にもかかわらず、ここで折返す電車のために、出発信号機が立っている。開業時は複線区間の終端だったので、ホームのすぐ先で鞍馬川を渡る市原橋梁に、複線分の橋脚が見える。当時の渡り線は、川向うにあったらしい。

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(左)出発信号機のある市原駅
(右)市原橋梁の橋脚は複線仕様
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市原橋梁を渡る上り電車
 

ここからはいよいよ山岳路線だ。電車は、鞍馬川の深い渓谷に吸い込まれていく。次の二ノ瀬駅との間にある約400mの区間は、線路の両側にカエデの木が育ち、晩秋にはみごとなもみじのトンネルを作る。パノラマビューの「きらら」にとって、最大の見せ場だ。「きらら」に限らず、ここを通過する電車は徐行運転され、鮮やかな錦秋の景色を愛でる時間を与えてくれる。車内では運転席の後ろが、スマホやカメラを構えた人たちでいっぱいになる。

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(左)もみじのトンネルを行く
(右)運転席の後ろは人だかり
 

もみじのトンネルを抜けると、鞍馬川を渡る二ノ瀬橋梁がある。下り電車は、二ノ瀬駅の場内信号確認のため、この橋の手前で一旦停止する。橋の下に目を落とすと、道路脇で列車の通過を待ち構えていた撮り鉄たちの姿があるかもしれない。紅葉区間や鉄橋のたもとには立ち入れないため、撮影スポットは事実上ここに限定されている。

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二ノ瀬橋梁下の道路からの眺め
 

二ノ瀬駅があるのは、谷間の集落を見下ろす山腹だ。単線区間で唯一、交換設備を有する駅で、上下列車が行き違う。ダイヤ通りなら、上り出町柳行が先着して、鞍馬行の到着を待っている。なかば信号場のようなものなので、降りるのはハイカーか、近くの白龍園という日本庭園の特別公開に行く客だ。

上りホームにはログハウス風の待合所が建ち、その傍らに、クワガタムシの顎を模したという2対の庭石が置いてある。行き違いを終えた電車が北山杉の森陰に消えると、再び駅に静けさが戻り、鳥のさえずりが聞こえてくる。

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二ノ瀬駅で列車交換
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二ノ瀬駅
(左)ログハウスの待合所
(右)駅に通じるのは階段の徒歩道だけ
 

線路はこの後、50‰の急勾配と急曲線で、谷の西側の山裾をくねくねと上っていく。2020年の夏から1年2か月もの長い運休の原因となった土砂崩れ区間を静かに通過する。

貴船口(きぶねぐち)は、京の奥座敷と呼ばれる貴船への下車駅だ。夏場は納涼の川床料理が名物だが、貴船神社など紅葉も美しく、シーズンにはここで車内の乗客が半減する。築堤下にあった古い木造の駅舎は2020年の全面改築で、階段が広げられ、エレベーターもついた。なお、貴船の中心部へは谷を遡ること約2km、歩けば30分近くかかる。駅前から路線バスに乗るほうがいいだろう。

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貴船口駅
(左)もみじに包まれたホーム
(右)改築された駅舎
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「渡らずの橋」を渡る
 

貴船口を出発した電車は、カーブした鉄橋を渡るが、これは、蛇行する鞍馬川を串刺しにしている「渡らずの橋」だ(下注)。その後、50‰勾配で上りつつ、叡電唯一の(本物の)トンネルを抜ける。さらに2回鉄橋を渡ったところで、山腹の坂道の前方に場内信号機が見えてくる。車内に「くらま、くらま、終点です」とアナウンスが響き、出町柳駅から31分で、電車は鞍馬駅の櫛形ホームに滑り込む。

*注 名称は第一鞍馬川橋梁と第二鞍馬川橋梁だが、実態は連続している。

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鞍馬駅、構内は1面2線
 

鞍馬駅は1面2線の構造だ。余裕のあるホーム幅を生かし、繁忙期には乗車降車の動線を分けて客をさばいている。駅舎は、重層の入母屋屋根に対の飾り破風をつけた寺社風の造りで、内部には、格子天井から和風のシャンデリアが下がる広い待合室がある。欄間に赤い天狗の面がいくつも掛かり、対面に火祭りに使う松明が吊ってあるのも、ご当地ならではだ。

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入母屋屋根の鞍馬駅舎
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待合室には当地ゆかりのオブジェも
 

鞍馬天狗の面は、駅前広場にさらに大きなモニュメントがある。先代のものは雪の重みで長い鼻が折れたため、一時は傷跡に絆創膏が貼られ、話題を呼んだ。2019年に設置された2代目は、彫りが深く、眉や口髭が強調されて、より芸術的な顔つきになった。また、天狗の奥で目立たないが、1995年に廃車となったデナ21形21号車の前頭部と車輪も保存されている。この形式では唯一残る貴重なものだ。

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(左)駅前広場の鞍馬天狗
(右)デナ21形の前頭部と車輪
 

最寄り駅から境内までかなり歩かされる神社仏閣もあるなか、鞍馬寺の場合は、駅前から石段下まで200mもない。町並みはまだ上流へ延びているものの、土産物屋が並ぶ門前町はあっけなく終わってしまう。しかし鞍馬寺の参道は、仁王門をくぐってからが長く、しかも険しい坂道だ。それで、足許の不安な参拝者のために、小さなケーブルカー、鞍馬山鋼索鉄道が運行されてきた。

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鞍馬寺、正面は仁王門
 

乗り場は仁王門のすぐ上にある。鉄道事業法に基づくものとしては日本一短く(山門~多宝塔間191m)、お寺(宗教法人鞍馬寺)が運営し、運賃ではなく寄付金(一口200円、下注)を納めた人だけが乗れる、という何重にも珍しい路線として、鉄道愛好家にはよく知られている。

*注 鞍馬寺の境内に入る際、愛山費(拝観料)300円が別途必要。

寄付金としているのは、税法上の収益事業とみなされないための措置で、券売機でチケットを買うことに変わりはない。とはいえ実際、営利目的の運行ではなく、利用者の集中を避ける意味もあるのだろう。「おすすめ」として「健康のためにも、できるだけお歩き下さい」と書かれた案内板が、乗り場の手前に立っている。

往路は乗り鉄するとしても、復路は杉木立の参道を歩いて降りながら、霊気漂う境内の雰囲気にじっくりと浸りたいものだ。

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鞍馬山鋼索鉄道
(左)杉木立を上る
(右)多宝塔駅(上部駅)と車両
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1「京都東北部」(昭和6年部分修正測図)および地理院地図(2022年12月2日取得)を使用したものである。

■参考サイト
叡山電車 https://eizandensha.co.jp/

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2022年11月25日 (金)

ライトレールの風景-叡電 叡山本線

叡山(えいざん)電鉄、略して叡電(えいでん、下注)は、京都市北東部でトラムタイプの車両を運行する標準軌の電気鉄道だ。出町柳~八瀬比叡山口間の叡山本線 5.6kmと、途中の宝ヶ池で分岐して鞍馬に至る鞍馬線 8.8kmの2路線を持つ。今回はまず、京都市内から比叡山への観光ルートになっている叡山本線を訪ねてみたい。

*注 関西ではたとえば阪急電車、京阪電車のように、電気鉄道を「~電車」と呼び習わすので、叡電も公式サイトでは「叡山電車」と名乗っている。

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初夏の風を切って走る「ひえい」
三宅八幡~八瀬比叡山口間
掲載写真は2019年4月~2022年11月の間に撮影
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叡電路線図
 

京都市内を貫く鴨川(かもがわ)に支流の高野川が合流する地点、いわゆる鴨川デルタに面して叡電のターミナル、出町柳(でまちやなぎ)駅がある。京都の通称地名は、交差する通りの名を合成したものが多い。出町柳もその流儀に倣ってか、開業に際して、対岸にある出町と此岸の柳をつなげて作られたという。

地下にある京阪電鉄鴨東(おうとう)線の出町柳駅(下注)とは連絡通路で接続され、京都中心部や大阪との間を行き来する利用者で、朝夕はとりわけ賑わう。叡電の会社自体、京阪の100%子会社だが、旅客の流動から見ても京阪の支線といっていい状況だ。

*注 鴨東線は三条~出町柳間2.3km。京阪電鉄の支線だが、列車は三条から大阪方面に直通している。

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出町柳駅西口にはバスターミナルがある
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(左)柳通に面する南正面
(右)改札口
 

だがこれは、鴨東線が開業した1989(平成元)年にようやく始まったことだ。市電が走っていた時代、最寄りの停留所とは200m近く離れていたし、市電廃止後は完全に孤立線だった。なぜこの位置に起点が置かれたのかを含めて、先に路線の歴史を見ておこう。

現在の叡電叡山本線である出町柳~八瀬間が開業したのは、1925(大正14)年のことだ(下注)。出町柳駅は、旧市街地から鴨川を渡った対岸に設けられた。当時、京都の市電網は、前年の1924年に出町を終点とする狭軌の出町線が廃止され、代わりに標準軌の河原町線と今出川線がつながって、河原町今出川の角に停留所があった(図1、2参照)。

*注 当時は京都電燈叡山電鉄、1942年から京福電気鉄道、1986年から叡山電鉄。本稿では過去の記述を含めて叡電と記す。

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出町柳駅付近の変遷 I
(上)1915(大正4)年図 京都電気鉄道出町線が出町に終点を置く(1918年から市電出町線)
(下)1928(昭和3)年図 叡電が開通、市電出町線は廃止、河原町線と今出川線がつながり、河原町今出川に電停設置
 

さらに今出川通とセットになった市電の東部延伸が計画されていたが、そのルートは河原町今出川をいったん北上し、出町桝形(でまちますがた)で右折して鴨川を渡り、旧道である柳通(やなぎどおり、下注)を拡幅して百万遍に至るというものだった。このとおり実現していれば、叡電出町柳駅は市電の行きかう大通りに面していたはずだ。

*注 拡幅計画時には東今出川通の名称が与えられていたが、計画変更に伴い、柳通に改称。

ところが後に計画は変更される。図3のとおり、今出川通と市電の延伸は、出町柳駅前を通らず河原町今出川から東へ直進する形で、1931(昭和6)年に完成した。最寄りの賀茂大橋東詰に電停が設置されたとはいえ、叡電にとっては梯子を外されたような思いだったのではないか。

叡電(京都電燈)は、鴨川沿いに南下して京阪三条に至る路線の特許も得ていた。しかし、さまざまな事情で着工には至らず、鴨東線ができるまで64年の間、中途半端な状況に甘んじなければならなかったのだ。

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出町柳駅付近の変遷 II
(上)1951(昭和26)年図 今出川通と市電が出町柳駅から離れた賀茂大橋経由で開通
(下)2003(平成15)年図 市電全廃、京阪鴨東線開通
 

さて現在の出町柳駅だが、敷地はいささか手狭だ。表の通りと改札の間が短く、ふだんはともかく、混雑する行楽シーズンなどは特にそう感じる。

構内は4面3線で、通常1番線に叡山本線、2・3番線に鞍馬線の電車が入線する。3番線は斜めに入り込んでいて、後で増設されたのだろう。駅舎の表側は改装されているが、ホームの先端で振り返ると、本屋に載る寺社風の切妻屋根が見える。ホーム屋根を支える鉄柱とともに、開業時からのものだという。

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4面3線のコンパクトな構内
駅舎には寺社風の切妻屋根が架かる
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(左)ホーム屋根の支柱は開業時のもの
(右)ホームから北望、渡り線が見える
 

叡山本線は、基本的に単行(1両)運転だ。全線複線という恵まれた施設を生かして、多客時は増発で対応している。特に紅葉が見ごろになる11月の休日はフル回転で、日中毎時7~8本の高頻度で次々に発車していく。この間に鞍馬行が毎時4~5本挟まるから、駅は休む間もない。

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紅葉シーズンの発車時刻表(2022年)
平日もこれ以外に臨時便が運行されることがある
 

ほとんどが京紫に塗られて形式の違いが目立たない嵐電とは対照的に、叡電の保有車両は個性的だ。叡山本線に使われているのは700系と呼ばれるグループだが、クリーム地に細い色帯の従来塗装は数を減らし、赤系や青系のデザインに身を包んだ改装車(下注)や、開業当時のイメージに沿うレトロ風の「ノスタルジック731」といった多彩な顔触れに変化してきている。

*注 722号が赤(朱色)、723号が青。また712号が緑で2022年12月に就役予定。

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多彩な700系
(左)赤系デザインの722号車
(右)レトロ仕様の「ノスタルジック731」
 

極めつけは、前面に付けた金色の環が強烈なオーラを放つ「ひえい」だ。2018年に登場した700系の改造車だが、楕円のモチーフを多用したテーマ性の濃い外観、グレード感のあるバケットシートの内装と、特別料金を徴収してもおかしくない仕様で、初めて乗る客の目を奪う。

このように車両ごとに趣向を凝らすことができるのは、単行運転の強みだろう。途中駅で待っていても、次はどんな電車が来るのかと、楽しみが尽きない。ちなみに「ひえい」は、鞍馬線の「きらら」とともに運行時刻表が公式サイトに掲載されているので、決め打ちで乗車(または撮影)することが可能だ。

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732号「ひえい」
(左)金色の環がオーラを放つ
(右)バケットシートが並ぶ車内
 

そうこうするうちに、ホームに発車を知らせるメロディが鳴り渡った。ドアが閉まり、八瀬比叡山口行き電車は静かに駅を離れる。渡り線を通過した後、住宅やマンションの間を進みながら、右にカーブする。次の元田中(もとたなか)までは、建設当時すでに宅地化が進行していたので、900mの駅間に踏切は9か所にも上る。

元田中駅のホームはいわゆる千鳥状の配置だ。東大路通(ひがしおおじどおり)の踏切を挟んで、下りが手前(西側)、上りが向こう側にある。かつてはこの間で路上の市電と平面交差していた(下の写真参照)。また、戦後1949(昭和24)年から1955(昭和30)年まで、宝ヶ池にあった競輪場への観客輸送で市電が叡電線への乗入れ(下注)を行っていたときには、ここに渡り線があった。

*注 臨1号系統(壬生車庫前~祇園~叡電前~山端(現 宝ヶ池)間)と、臨3号系統(京都駅前~河原町今出川~百万遍~叡電前~山端間)。叡電線内の途中駅は低床ホームがないため、無停車だった。

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元田中駅の下りホーム
道路を隔てた上りホームに電車が停車中
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東大路通を横断(下の写真と同じ方向)
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市電と平面交差していた時代
叡電前電停から北望(1978年)
Photo by Gohachiyasu1214 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

元田中を出ると、線路は左カーブで再び北を向く。行く手に比叡山が見えるとともに、約2kmある叡電最長の直線区間に入っていく。茶山(ちゃやま)へは約500mで、叡電で最も短い駅間距離だ。本来すいているはずの平日朝の下り、夕方の上り電車に若者の姿が目立つが、これは沿線に大学がいくつかあるからだ。茶山でまず京都芸術大(旧 京都造形芸術大)の学生たちが降りる。

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左カーブから比叡山が見える
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(左)約2km続く直線区間 (右)茶山駅
 

北大路通(きたおおじどおり)と琵琶湖疏水分線を横断して、一乗寺(いちじょうじ)へ。駅は、曼殊院道(まんしゅいんみち)と呼ばれる旧道に接していて、もとは東の山手にある一乗寺村(現 左京区一乗寺)への最寄り駅だった。しかし最近では、むしろ西側の東大路通に点在するラーメン店群、通称 ラーメン街道の下車駅として名を馳せているようだ。叡電も「京都一乗寺らーめん切符」という、一日乗車券とラーメン一杯をセットにした割引切符を売出して、アピールに余念がない。

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(左)一乗寺駅 (右)曼殊院道の踏切
 

次の修学院(しゅうがくいん)の駅前は、街路樹が植わる片側2車線の北山通(きたやまどおり)で、周辺はどこか小ざっぱりした雰囲気がある。ふだんは地元市民が使う駅だが、東の山裾には修学院離宮や曼殊院、南に行けば圓光寺や詩仙堂(下注)など紅葉の名所が多く、秋の休日などはリュックを背負った人もよく見かける。

*注 圓光寺や詩仙堂に直接行く場合は、一乗寺駅のほうがやや近く、道もわかりやすい。

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(左)修学院駅
(右)北山通を横断
 

叡電にとっては、ここが運行の拠点だ。駅の東に隣接して修学院車庫があり、本社も置かれている。駅は北山通建設の際に少し南へ移転しているが、車庫も経営不振の時代に北側の一角が売却され、3両分の長さがあった検車棟が2両分に短縮された。跡地にはマンションが建っている。車庫は走る電車の窓からもよく見える。電車が出払っているときは、奥で休んでいる凹形プロフィールの電動貨車1001号が目撃できるかもしれない。

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修学院車庫(車庫見学行事で撮影)
(左)電動貨車1001号 (右)検車庫
 

修学院を出てすぐ、茶山の手前から続いてきた直線路は終わり、左に緩くカーブしていく。年末の高校駅伝などでおなじみの白川通の陸橋(下注)をくぐると、鞍馬線が複線のまま左に分岐して、宝ヶ池(たからがいけ)駅に着く。

*注 東側に付随する歩道橋から宝ヶ池駅構内が見渡せるが、金網が張られ、視界が悪くなった。

駅は3面4線の構造で、終点に向かって右から1・2番線に叡山本線、3・4番線に鞍馬線の電車が停車する。分岐駅とはいうものの、構内は意外に静かだ。電車は両線とも出町柳が始発なので、ここで乗り換える客は少ないし、高野川の谷が狭まる場所で駅勢圏が小さいという事情もあるだろう。

上述した市電からの乗入れは、ここが終点だった。4番線の北側に、当時使われていたという低床ホームが残っている。また、2・3番線の島式ホームの屋根を支える支柱には、旧駅名である「やまばな(山端)」の文字が見える。

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鞍馬線が分岐する宝ヶ池駅
手前の1・2番線が叡山本線、左奥の3・4番線が鞍馬線
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(左)4番線の北側にある市電乗入れ時の低床ホーム
(右)3番線側の旧駅名標
 

支線である鞍馬線が北へ直進するのに対して、叡山本線はこの後、右にそれていく。次の三宅八幡(みやけはちまん)は、二つ目の右カーブの途中にある。駅は、名前が示すとおり三宅八幡宮の最寄り駅として設置された。朱塗りのホーム屋根や柵が下車した客を迎えているが、神社までは600mほどの距離がある。参拝するなら、鞍馬線の八幡前駅がより近い。

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朱塗りが映える三宅八幡駅
 

ところで三宅八幡宮は、昔から疳の虫封じのご利益で知られていた。今でこそひっそりした境内だが、京都で生まれた明治天皇の幼少期の病を治したとされ、参拝者が絶えなかったという。市電のルーツである京都電気鉄道も、三宅線として出町から三宅八幡への延伸を計画していたほどだ(下注)。これは惜しくも断念されたが、後にその構想を実現したのが叡電叡山本線ということになる。

*注 1903(明治36)年に軌道敷設の特許取得。高野川左岸に沿うルートが想定されていた。

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三宅八幡宮
鳥居の脇に狛犬ならぬ「狛鳩」
 

その三宅八幡を出ると、左側は高野川の河畔林に覆われていき、33.3‰の急な上り勾配も現れる。正面には比叡山がそびえるが、もはや近すぎて全貌を見渡すことはできない。高野川の鉄橋を渡ると、左カーブの先に、終点八瀬比叡山口(やせひえいざんぐち)駅が見えてくる。

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終点の大屋根が見えてきた
 

鉄骨組み、ダブルルーフの大屋根が印象的な駅舎は、開業時からあるものだ。出町柳駅より空間の余裕が感じられ、昭和初期の行楽地の賑わいを彷彿とさせる。構内は3面2線の構造だが、中央の狭いホームは使われていない。

側面にある出入口に右書きで再現されているように、駅は開業当時、単に八瀬(やせ)と名乗った。その後1960年代に、私鉄沿線には通例の駅前遊園地が造られた際、八瀬遊園駅に改称された。中高年層にはこの名が夏休みの記憶と結びついているだろう。2002年からの現駅名は遊園地の閉園に伴うもので、比叡山への観光ルートを形成するという本来の敷設目的に立ち戻った形だ。

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八瀬比叡山口駅構内
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「八瀬驛」の表札を掲げた駅玄関
 

途切れた線路の先は高野川の渓流で、木橋を渡って少し坂を上ると、叡山ケーブルのケーブル八瀬駅がある。比叡山に上っていくこのケーブルカーも、叡山本線と同じ1925年に開業した古い路線だが、叡電が分社化された後も京福電鉄の運営下に残されている。

叡山ケーブルは、山麓のケーブル八瀬駅と山上のケーブル比叡駅の高低差が561mあり、日本一なのだそうだ。しかし、山上駅はまだ実際の山頂ではなく、さらにロープウェーに乗り継がなければならない。また滋賀県側にある延暦寺の伽藍まで行こうとすれば、山頂からバスに乗るか、ケーブルの山上駅から2km以上の山道歩きが必要だ。叡山本線が誘う比叡山内は、想像以上に広くて深い。

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叡山ケーブル
(左)ケーブル八瀬駅 (右)車両(旧塗装)
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森の中に側線とトロッコが残る
 

次回は鞍馬線を訪ねる。

掲載の地図は、陸地測量部発行の1万分の1「京都近傍図」(大正4年10月10日発行)、同「京都近郊」(昭和3年測図)、地理調査所発行の1万分の1地形図京都北部および大文字山(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図京都御所(平成15年修正)を使用したものである。

■参考サイト
叡山電車 https://eizandensha.co.jp/

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