日本の鉄道

2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことも考え、「三密」になりにくい外歩きの企画を再開することにした。

Blog_contour4301
花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身、下野(しもつけ)電気鉄道によって1924(大正13)年に、まず高徳(のちの新高徳)~天頂間が762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸を遂げ、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

Blog_contour43_map1
矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

Blog_contour4302
矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

Blog_contour4303
矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
Blog_contour43_map2
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
Blog_contour43_map7
矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
矢板~玉生間
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

Blog_contour4304
水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

Blog_contour4305

実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

Blog_contour4306
(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左(画面外)にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
Blog_contour43_map3
1:25,000 合会集落~玉生間
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

Blog_contour4307
(左)タクシーを降りた場所左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
Blog_contour4308
(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡を伝う林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

Blog_contour4309
(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

Blog_contour4310
(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

Blog_contour4311
林道の左に沿う深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
Blog_contour43_map10
(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

Blog_contour4312
(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

Blog_contour4313
立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りていく。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

Blog_contour4314
(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
Blog_contour4315
荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし、そのバス路線も、今は自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずますの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

Blog_contour4316
高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。しかし、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

Blog_contour4317
玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

Blog_contour4318
(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。だが、建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

Blog_contour4319
地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
Blog_contour4320
地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
Blog_contour43_map4
1:25,000 玉生~船生間
Blog_contour43_map8
矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
玉生~西船生間
*注 本文に記したとおり、図中の「ふにふしんでん(船生新田)」は駅の位置、駅名とともに誤り
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

Blog_contour4321
芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

Blog_contour4322
芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

Blog_contour4323
芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

Blog_contour4324
(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

Blog_contour4325
船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
Blog_contour43_map5
1:25,000 船生~西船生間
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

Blog_contour4325
船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
Blog_contour4326
道の駅に併設の交流館
Blog_contour4327
交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう。

Blog_contour4328
船生~西船生間は一本道の農道が続く
Blog_contour4329
(左)西船生駅跡
(右)マイクロバスで新高徳へ
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

Blog_contour43_map6
1:25,000 西船生~新高徳駅間
Blog_contour43_map9
矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
西船生~高徳間
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-三田用水跡

 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

2020年1月 4日 (土)

新線試乗記-相鉄・JR直通線

JR武蔵小杉駅の3・4番線ホームに立っていると、さまざまな色と形の列車が次々に入ってきて見飽きることがない。青とクリームのストライプを引いた横須賀線電車や、オレンジと緑の湘南新宿ラインは日常風景だが、ときには伊豆へ向かう「スーパービュー踊り子」や、成田空港行きの「成田エクスプレス」といった特急列車も停車して、人目をさらう。

Blog_sotetsujr1
武蔵小杉駅に入る相鉄12000系電車
 

ここにもう一つ新顔が現れた。相模鉄道、略して相鉄(そうてつ)の12000系だ。朝9時51分発の海老名(えびな)行きを待っていたら、ちょうどそれがやってきた。光沢を帯びた紺色(ネイビーブルー)を全身にまとい、ボンネット車のラジエーターのような異色のフロント装飾をもつ車両で、その色あいから、関西の人間には一瞬、南海電鉄の特急ラピートを連想させる。個性的な外見に対して、車内はごく普通の通勤電車、というイメージの落差もおもしろい。

2019年11月30日、相鉄線とJR線を連絡するルートが開通して、相互乗入れが開始された。相鉄線の西谷(にしや)から東海道貨物線の横浜羽沢駅構内まで長さ2.7kmの新線(下注)が建設され、これにより、相鉄の12000系とJR東日本のE233系が海老名と新宿(一部延長あり)の間を往復する。

*注 相鉄・JR直通線と呼ばれるが、正式には相鉄新横浜線の一部。

Blog_sotetsujr2
相鉄路線図にJR線(緑)が加わった
 

ずっと横浜駅をターミナルにしてきた相鉄の電車が都心に進出するという画期的な事件だ。最近では副都心線を介した東急と東武のそれのように、相互乗入れが始まると、見慣れていた鉄道風景が変わり、驚きやときには違和感を覚えるのが常だが、特にこれはふだん東京で見かけない電車だ。関西で例えれば、神戸市内で止まっている神戸電鉄がJR線に乗り入れて、大阪や京都まで直通するようなものだろうか。

Blog_sotetsujr3
相互に乗入れる相鉄12000系(左)とJR東日本E233系(右)
羽沢横浜国大駅にて
Blog_sotetsujr4
武蔵小杉駅が分岐駅に
 

発表資料によれば、このルートで上下合わせて92本が運行されるという。従来、相鉄沿線から新宿に出るには、横浜でJRか(副都心線直通の)東急に、または大和や海老名で小田急線に、どのみち一度は乗り換える必要があったから、直通列車出現のインパクトは大きいはずだ(下注)。

*注 ただし、沿線西部は引き続き、JR直通線より小田急経由のほうが、時間的にも運賃上も有利だ。

期待に胸を膨らませて乗り込んだら、客は1両につき数人しかいなかった。10両編成はこの辺では「短い」列車なのだが、それでも持て余すほどの閑散さだ。朝の通勤ラッシュが終わった時間帯、郊外方面行きに加えて、開業からまだ5日目(12月4日)で利用者が定着していないという事情もあるのだろうが。

Blog_sotetsujr5
海老名行き車内は閑散
 

次の停車駅は、新線上に開設された羽沢横浜国大(はざわよこはまこくだい)だが、なんと18分もかかる(下注)。武蔵小杉を出ると、すぐにポイントを渡って貨物線に移ってしまうからだ。鶴見機関区の側線に並んだ機関車や貨車が、車窓のそばをかすめ去る。新川崎と鶴見の両駅は、貨物線に旅客ホームがないので、あっさりと通過した。旅客列車では小田原直行の「湘南ライナー」などにしか使われていない迂回ルートだが、今後は身近になる。

*注 所要時間は、列車によって15~20分と幅がある。

Blog_sotetsujr6
(左)JR貨物の鶴見機関区が車窓をかすめる
(右)鶴見線の下で上りの12000系とすれ違い(下り列車から後方を撮影)
 

鶴見駅の後、左から接近してきた京急線と並行するが、こちらはまもなく地下に潜っていき、長いトンネル区間に突入した。再び空が見える頃には、横浜羽沢の貨物ターミナルが近い。減速してポイントを右へ渡り、貨物線をアンダークロスすると、前方に、安全柵が完備された真新しいホームが見えてきた。

羽沢横浜国大駅は、相鉄が管理するJR東日本との境界駅だ。発着ホームは掘割の中にあり、コンコースが地上に面している。開業のニュース映像では人が溢れていた駅も今日は静かで、カメラを構える物見客がぽつりぽつりといるばかりだ。

Blog_sotetsujr7
羽沢横浜国大駅ホーム
東京方を望む
 

下車して、構内を観察してみた。駅のサインボードは、ネイビーブルーの相鉄仕様で、停車駅案内には、相鉄路線網に緑でJR線が描き加えられている。新宿から先も大宮、川越まで記されているのは、朝の時間帯に、埼京線の始発駅を起終点とする列車があるからだ。稠密ダイヤで、新宿折り返しが難しいらしい。

エスカレーターでコンコースに上がる。改札前の列車案内板は、片方が各停新宿行、もう片方が特急海老名行にきれいに分かれていた。この駅を境に列車種別が変わるためだ。相鉄線内ではJRの通勤電車も特急へと、何階級もの特進を遂げるのがおもしろい。

Blog_sotetsujr8
同 コンコース
 

券売機の上方に、両社の運賃表が掲げられている。JRの運賃表は、実際の停車駅に従い、羽沢横浜国大から武蔵小杉へ線をつなげてあり、運賃は310円だ。ところが、実際の運賃は鶴見経由で計算されるので、鶴見のほうが割安で170円。鶴見線など周辺も軒並み安く、お得感がある。

駅前には市道環状2号線が通っているが、商業施設や宅地は見当たらない。バス停の時刻表にも、新横浜駅と保土ヶ谷駅を結ぶ便が1時間に1本程度あるだけだった。

Blog_sotetsujr9
同 正面玄関
 

駅の北側には、貨物ターミナルをまたぐ歩道橋が架けられている。ターミナル内の列車の動きが見物できるが、金網のせいで写真は取りづらい。駅名が示すとおり、南方に横浜国立大のキャンパスがあるので、歩道橋は通学路としても使われることになるのだろう。一帯は丘陵地のためアップダウンは避けられないが、相鉄本線の和田町駅から上る坂道ほど険しくはないし、距離も若干短そうだ。

Blog_sotetsujr10
(左)貨物ターミナルを横断する歩道橋
(右)歩道橋の金網越しに見る荷捌き施設
 

駅に戻り、改めて時刻表を眺める。列車本数は1時間当たり朝夕3~4本、日中は2本で、相鉄の他路線に比べて圧倒的に少ない。地方路線ならいざ知らず、このエリアで次の列車まで30分待ちというのは、頻発ダイヤに慣れた市民には物足りないに違いない。JR側で既存列車との調整を必要とするという事情もあろうが、それより3年後に予定されている東急直通列車のスジを空けてあるというのが本当のところだろう。

Blog_sotetsujr11
羽沢横浜国大駅の下り時刻表
 

知られているとおり、相鉄の都心直通計画は、今回のJR連絡線と、次にできる東急連絡線との2本立てになっている。後者は、羽沢横浜国大から新横浜を経て、東横線の日吉に至る新線(相鉄新横浜線および東急新横浜線)だ。現在日吉が終点になっている目黒線と相互乗入れを行うので、実質的に目黒線の延伸を意味する。

これが完成すると、新横浜で東海道新幹線と地下鉄ブルーラインに連絡し、目黒線直通の東京メトロ南北線や都営三田線で、永田町や大手町へのルートも開ける。また、日吉~田園調布間で同じホームの東横線に乗り換えれば、JR直通線によって実現した渋谷や、副都心線経由で新宿(三丁目)にも到達できてしまう。

計画では、列車本数が1時間当たり朝ラッシュ時に10~14本、その他時間帯に4~6本とされているから、JR直通よりずっと多い。羽沢横浜国大駅北側にある東急/JRの線路分岐(ポイント)を見ても、前者が直進、後者は速度制限のかかる側方分岐だ。東急方面の運行が主であることを暗に示している。

そして運賃も、より低く設定されることだろう。そもそも距離が短いし、仮に新線に加算運賃が設定されるとしても、東急としては、先行開業したJRに対抗できる水準に抑えるのが営業政策上、必然だからだ。そうなると、相鉄の長年の悲願と言われているJRへの乗入れは、数年後には早くも脇役に後退してしまうのかもしれない。

Blog_sotetsujr12
(左)羽沢横浜国大駅の東京方分岐
  直進する中央の複線が東急方面、左右の分岐がJR方面
(右)西谷トンネルを行く
 

羽沢横浜国大駅から、今度はE233系に乗って、新線の残り区間を行く。その大半を占める長さ14.5kmの西谷トンネルは、シールド工法による複線トンネルで、かぶりつきで見ていると、けっこう上り下りがある。最後の上りで外の明かりが見えてきて、地上に出るとすぐに西谷だった。

Blog_sotetsujr13
(左)トンネルの出口で相鉄本線と出会う(下り列車から後方を撮影)
(右)西谷駅に停車中のE233系は海老名行き「特急」
 

JRの電車で相鉄本線の駅に着くということは、いつのまにか横浜より西へ来たわけで、なかなか新鮮な感覚だ。めったに乗らない者でもそうだから、ふだんの利用者にとってはなおさらだろう。西谷は2面4線の駅だが、従来待避線だった外側2線が、直通線に接続された。それで、ホームの進行方向左側が新宿連絡、右側が横浜連絡と明確に分けられている。日中はまだのんびりした空気の漂う左側だが、3年後はどうなるのか今から楽しみだ。

こちらの勝手な夢想をよそに、特急の表示を掲げたE233系は、一路目的地の海老名へ向け、静かに走り去った。

■参考サイト
相鉄・JR直通線、相鉄・東急直通線 http://www.chokutsusen.jp/

★本ブログ内の関連記事
 首都圏の新線
 新線試乗記-上野東京ライン

 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II
 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

2019年12月24日 (火)

新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

飛行機で空港に到着した後、モノレールに乗って市内へ向かう。羽田や伊丹のように、沖縄の那覇空港でもこれがふつうの光景になっている。ただ、実現したのはそれほど古い話ではなく、2003年8月のことだ。その後、国内でこの種の新規開業はない(下注)ので、沖縄都市モノレール、愛称「ゆいレール」は、今なお最新のモノレールということになる。

*注 既存路線の延伸であれば、東京モノレール(2004年)、大阪モノレール彩都線(2007年)の例がある。後者については「新線試乗記-大阪モノレール彩都線」参照。

Blog_yuirail1
那覇空港駅へ向かうゆいレールの列車
 

そのゆいレールが、今年(2019年)10月1日、待望の延伸を果たした。那覇空港~首里(しゅり)間12.9kmの既存区間に、首里~てだこ浦西(うらにし)間4.1kmが加わり、その結果、長さでは多摩都市モノレールを抜いて、大阪、東京に次ぐ全国3番目の規模になった。先日(12月18日)初乗りする機会を得たので、既存区間のようすを含めて見ていこう。

那覇空港駅は、空港ターミナルの出発ロビーがある2階からデッキで直結している。ゆいレール展示館を見学して戻ってきたら、大型のスーツケースを転がしたインバウンドの旅行者が、改札前に集まっているところだった。その集団に混じって、2日乗車券を購入する(下注)。正確に言うと48時間券で、たとえば正午に買えば、翌々日の午前中までフルに使える。時間制のフリー切符は、諸外国では見かけるが、国内では珍しい。

*注 2日券は大人1400円。1日(=24時間)券もあり、こちらは800円。

Blog_yuirail2
那覇空港駅
(左)空港とはデッキで直結
(右)日本最西端の駅の碑
Blog_yuirail3
券売機上の運賃表
 

もう一つ珍しいのは、改札機がQRコードの読み取り方式になっていることだ。空港のチェックインではすでにおなじみだが、鉄道界では先駆者だろう(下注)。ただ、切符を裏返し、表面に印刷されているコードを改札機の読み取り部に当てるという動作は、慣れないと一瞬足が止まる。

*注 JR東日本が、来年(2020年)開業する高輪ゲートウェイ駅で試験的に導入するという報道があったばかり。

もとより、日常的にゆいレールを利用している人は、地元のICカード「OKICA(オキカ)」を持っている。操作に手間取っているのは、主に外から来た旅行者だ。それに、来年(2020年)春にはSuicaなど全国の交通系ICカードも使えるようになるそうだから、改札での当惑は解消に向かうのだろう。

Blog_yuirail4
駅のシーサー、改札付近に必ず1対
上列中から首里駅、那覇空港駅
下列左から浦添前田駅、市立病院前駅、壷川駅、経塚駅
 

その改札の上で睨みを利かすシーサーに見送られて、エスカレーターでホームに上がった。列車は14m級車両が2両の小編成で、スーツケース牽きの客が集中するとたちまち混雑する。車端にあるクロスシートの展望席を狙いたかったので、乗車を1本遅らせた。日中でも8分間隔で出発しているから、大した時間のロスにはならない。

Blog_yuirail5
(左)2両編成
(右)車端は展望席
 

空港駅を後にして、ゆいレールは最初、那覇市街とは反対の南へ向かう。車両基地へ引き込まれるレールが右へ分かれていく。同じ敷地内に、ゆいレール展示館もある。今回の延伸に関するものはなかったが、戦前の鉄道網など沖縄の鉄道全般にわたる資料が貴重だ。

Blog_yuirail6
那覇空港駅から南方を望む
Blog_yuirail7
ゆいレール展示館
 

自衛隊の基地を右に見ながら緩い上り坂を3分ほど走ると、日本最南端の鉄道駅である赤嶺(あかみね)に着いた。駅前南側のロータリー(交通広場)にそのことを示す碑が立っていて、高架ホームに停車中の電車をも画角に入れて記念写真が撮れる。

Blog_yuirail8
日本最南端の駅の碑がある赤嶺駅
 

この後は周囲がすっかり市街地になるため、乗客も増える一方だ。小禄(おろく)、奥武山公園(おうのやまこうえん)を経て、国場川(こくばがわ)の上空で左に急カーブすると、壷川(つぼがわ)駅。少しの間、河岸に沿って走るので、穏やかな水辺と公園の緑が織りなす潤いのある景色が目に優しい。途中下車して、川向うの公園側から、列車が涼しげに通過するようすを眺めるのもいいだろう。

Blog_yuirail9
壷川駅と国場川
 

国場川から右折して久茂地川(くもじがわ)に入り、旭橋(あさひばし)駅に着く。駅の東隣に位置するバスターミナルは、戦前、沖縄県営鉄道の那覇駅があった場所だ。軌間762mmの軽便鉄道で、「ケービン」の名で親しまれたが、沖縄戦で破壊され、戦後も再建されることはなかった。

2015年に始まったバスターミナルの再開発工事中、その駅跡から転車台の遺構が発見された。これが旭橋寄りに移設の上で、今年6月から公開されている。説明パネルとともに復元模型も置かれ、実物を知らない一般市民にもイメージできるよう工夫された展示だ。

Blog_yuirail10
久茂地川上空を行く列車
旭橋駅から撮影
 
Blog_yuirail11
県営鉄道那覇駅の遺構
(左)発掘された転車台
(右)復元模型

街なかのお堀のような久茂地川に沿いながら、ゆいレールは那覇の中心部を通り抜ける。次の県庁前は、県庁や那覇市役所、国際通りなどの最寄りで、乗降客が最も多い駅だ。その手前で、線路が川の流路に合わせてクランク状に曲がっている。前面車窓も変化があるし、駅のホームから眺めるのも楽しい。

Blog_yuirail12
県庁前駅手前のクランク
 

美栄橋(みえばし)を経て、牧志(まきし)では国際通りの上空を横断する。ゆいレールの描くルートは激しいジグザグ形で、まるであみだくじの線をたどるようだ。とりわけ牧志から安里(あさと)駅へは、直角どころか130度も転回する。国道330号、いわゆる「バイパス」の上空を行くと、次はおもろまち。米軍住宅地区の返還後に整備された新都心の玄関駅で、周囲の建物も余裕のある建て方がされ、旧市街とは受ける印象が違う。たくさん下車して、車内はかなり空いた。

古島(ふるじま)の後、直角に曲がって東へ。市民病院前駅の手前からは、首里のある高台へ向けて急勾配を上り始める。首里の町は標高が100m前後あり、戦前、那覇市内から首里に通じた路面電車は、S字ループを繰り返して高度を稼いでいた(下注)。しかし、比較的勾配に強いモノレールは、環状2号線の上空を直線的に上っていく。振り返れば、市街地の向こうに海も覗く。

*注 1911(明治44)年開通、1933(昭和8)年廃止の沖縄電気軌道。ゆいレールとはルートが異なり、古来の街道である坂下通りに沿って上っていた。

Blog_yuirail13
市民病院前から首里駅へは急勾配の連続
(左)市民病院前、橋脚の高さは約20m
(右)儀保駅からも滑り台のようなルート
 

儀保(ぎぼ)駅まで来ると、右の車窓に、去る10月31日の火災で建物の多くを失った首里城の、長く連なる石垣が望める。さらに上って左に曲がれば、これまで終点だった首里駅だ。

Blog_yuirail14
これまでの終点、首里駅
 

ここからいよいよ新規開業区間に入る。車内は今や、ロングシートに5~6人といった状況だ。首里城の北側に広がる市街地をまずは下る。石嶺(いしみね)駅を経て少し行くと、モノレールをまたぐ高い陸橋が見えてくる。ここが市境で、ゆいレールは那覇市を出て、浦添市域に入る。ちなみに陸橋は現時点では未供用で、現地に行ってみたが期待したような眺望でもなかった。

右折して着く経塚(きょうづか)駅は、駅名と合わせたわけでもないだろうが、霊園の前だ。下を走る市道は、組踊の創始者玉城朝薫の墓がある小山を前田トンネルで抜ける。一方のゆいレールは高架のまま、山を避けて右に回り込む。

Blog_yuirail15
(左)高い陸橋が市境の位置
(右)経塚駅、ゆいレールは道路トンネルの上を迂回
 

下りていく長い坂からは、浦添城址のある小高い丘が正面になる。右折すると、浦添前田(うらそえまえだ)駅だ。駅前ロータリー(交通広場)や北側の乗降階段はまだ工事中で、雑然としていた。周辺整備よりも開通を急いだのだろう。

Blog_yuirail16
浦添城址から南方を望む
画面左外に浦添前田駅がある
 

反転して少し上るものの、すぐに道路の間の掘割に潜り込んでいく。沿線唯一のトンネルを抜ければ、終点のてだこ浦西に到着だ。

「てだこ」とは、太陽の子を意味するそうだ。浦添市のサイトによれば、「琉球第二の王統として栄えた英祖王の敬称でもありました。父親は恵祖(伊祖城主)で、その妻は太陽が懐に入る夢を見て、英祖を身籠ったといわれ、その神号が「英祖のてだこ」となりました」。伝承では、その居城が浦添城だ。「てだこ」の名は市の施設や行事の名によく使われていて、駅名もその一環なのだろう。

■参考サイト
てだこ浦西付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/26.241800/127.741900

Blog_yuirail17
(左)トンネルを通過
(右)トンネルを抜けると終点
   てだこ浦西駅から撮影
Blog_yuirail18
てだこ浦西駅
駅手前に渡り線がある
Blog_yuirail19
同 改札

地図を見ると、駅周辺に団地が点在するのだが、駅前は整備工事たけなわで、商店らしきものも見当たらない。唯一営業していたのは、北側に造られた約1000台収容可能という2階建駐車場だ。見に行くと、フロアのほとんどが車で埋まっていた。

ひと気の乏しい場所に終点駅を置いた理由がここにある。那覇市内の道路は渋滞するため、車を置いてゆいレールで市内へ向かうパークアンドライドが推進されているのだ。路線を琉球大学方面へ延伸する構想もあるものの、当分は始発駅なので、着席できる確率が高い。乗換えの手間さえ厭わなければ、賢い選択だ。

Blog_yuirail20
(左)パークアンドライドを知らせるポスター
(右)駅前は整備工事たけなわ
 

また、すぐそばを沖縄自動車道が通っており、スマートICを新設する計画もある。これによって空港から直接レンタカーで北部へ向かっている観光客を、ゆいレールでここまで誘導することが考えられているそうだ。モノレール利用なら、帰りに那覇市内へ立ち寄ってもらいやすい、ということもあるだろう。

最初の開通から16年、ゆいレールは時間の読める交通機関としてすっかり定着し、さらに最近、国外からの旅行者が加わって、朝夕はとりわけ混雑が激しくなっていると聞く。80万人を超える那覇都市圏に、2両で走る鉄道路線が1本だけというのは、交通インフラとして確かに貧弱だ。路線延伸の次は、列車編成の3両化が進められるようだが、さらなる路線網拡充にも取り組んで、都市の魅力をより高めてもらいたいものだ。

■参考サイト
ゆいレール https://www.yui-rail.co.jp/

★本ブログ内の関連記事
 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II
 新線試乗記-相鉄・JR直通線

2019年11月14日 (木)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡

下津井電鉄は、国鉄宇野線の茶屋町(ちゃやまち)駅と下津井(しもつい)との間を連絡していた鉄道だ。762mm(2フィート6インチ)狭軌、いわゆるニブロク軌間の電気軽便鉄道だった。

Blog_contour4001
下津井駅跡
 

今も瀬戸内の主要漁港の一つである下津井には、かつて四国の丸亀との間に定期航路があり、こんぴらさん(金刀比羅宮)へ参る人々で大いに賑わった。しかし1910年に開設された宇高連絡船に客を奪われたため、地元の有力者によって計画されたのがこの鉄道だ。1913(大正2)年に茶屋町~味野町(後の児島)間、翌14年に下津井までの全線が開業している。

最初は蒸気鉄道だったが、戦争末期から直後にかけての石炭不足を受けて、1949(昭和24)年に直流600Vで電化された。だが道路事情が改善されると、岡山へ直通するバスに対して、茶屋町での乗換えが必要な鉄道は条件的に不利となる。利用者数が落ち込み、1972(昭和47)年、まず茶屋町~児島(こじま)間が廃止された。

Blog_contour4002
かつての下津井駅(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

このとき、末端の児島~下津井間は、並行道路の未整備を理由に存続した。以来、全国鉄道網から切り離され、孤立線のまま細々と運行されていたのだが、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通を機に今一度、観光路線への飛躍が目論まれた。

1987(昭和62)年に児島駅が移転改築され、新造車両も投入されて、再デビューが華々しく祝われた。しかし、客足は思うように伸びず、一方で新規投資による減価償却費の増加が、会社の収支を圧迫した。皮肉にも、瀬戸大橋の建設工事に伴い、周辺道路の整備が進んだことで、バス転換が可能になっていた。そのため鉄道は、再興からわずか4年足らずの1990年末をもって、あっけなく廃止されてしまったのだ。

2019年11月3日、コンターサークルS秋の旅の初日は、この下津井電鉄(下電(しもでん))の廃線跡を歩く。茶屋町から下津井まで21kmのルートは廃止後、大部分が自転車道・徒歩道となり、今でも容易にたどることができるが、今回は、最後まで運行され、景色にも優れた児島~下津井間6.3kmに焦点を絞った。ついでに沿線の鷲羽山や下津井の町にも寄り道して、瀬戸内ののびやかな風光に浸るつもりだ。

Blog_contour40_map1
児島~下津井間の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
Blog_contour40_map2
下津井電鉄現役時代の地形図(1974(昭和49)年修正測量)
初代児島駅が描かれている
 

岡山から、高松行きマリンライナー19号で児島駅へ向かう。指定の10時20分に集合したのは、相澤夫妻、浅倉さんと、相澤夫人の歩き仲間のKさん、海外鉄道研究会のTさん、それに私の計6人。あいにくの曇り空だが、日差しがない分、かえって歩くのは楽かもしれない。

「最初に、下電の駅の跡を見に行きましょう」と私が口火を切った。下電は、JR線より700mほど内陸を走っていた。というのもJR線が通る一帯はかつて遠浅の海で、戦前まで塩田が広がっていたからだ。メンバーは地元岡山の人が多いので、下手な案内人を待つまでもなく、自然と誰もが旧駅の方角へ足を向ける。

下電児島駅は二度移転している。「味野町(あじのまち)」と称した初代の駅は、小田川(おだがわ)に近い一角にあった。駅と駅前広場があった場所は現在、駐車場に転用されている。鉄道の記憶としては、北端近くにある大正橋バス停前に、駅名標のレプリカが立つのみだ。記されている「味野」という駅名は1941年に改称されたことを示すが、次の駅名が「こじま」になっているのを誰かが見咎めた。「味野と児島は同じ駅なんですがね」。再改称は1956年に行われている。

Blog_contour4004
(左)味野駅跡を示す駅名標
(右)小田川護岸に顔を出す下電の橋台
 

小田川に架かる大正橋北側の護岸で、下電の橋台が斜めに飛び出しているのを確かめてから、引き返した。茶屋町~児島間廃止後の1976年、児島駅はバスセンターの改築に合わせて少し南に移転している。私はこの二代目駅の時代(1984年)に一度だけ下電に乗ったことがあるが、今や芝生広場が広がるばかりで、鉄道の痕跡は何もない。

さらに南へ進むと、通りの向こうで、三代目の児島駅が原形をとどめていた(下注)。上述の観光開発の一環で1987年に建てられたもので、トレインシェッドというべきか、かまぼこ型の高屋根のかかった立派な建物だ。線路はもうなかったが、小ぢんまりとした頭端式のプラットホームや、構内を見下ろすウッドデッキなどがしっかり保存されている。ホームは建物の外まで続いていて、役目を終えた駅名標が所在なげに立っていた。「これもレプリカでしょうか」「字もかすれて年季が入ってるから、本物じゃないかな」。

*注 旧駅舎は、金・土・日・祝日(年末年始を除く)の8:30~17:00の間、開放されている。

Blog_contour4005
三代目児島駅正面
Blog_contour4006
トレインシェッドで覆われた内部
(左)ウッドデッキは当時のもの
(右)プラットホーム跡も残る
Blog_contour4007
(左)ホームの先に「風の道」が延びる
(右)オリジナルの駅名標
 

ここから廃線跡は、自転車・歩行者道「風の道」に姿を変えて、南へ延びていた。舗装は砂地に似せた自然色で好ましい。駅からの左カーブが終わると、直線路になった。家並みが絶えない町なかを行くので、徒歩や自転車で地元の人もときどき通る。

見た目はすっかり普段使いの風景だが、他の道と明らかに異なるのは、路側に現役当時さながら、茶色の架線柱が林立していることだ。断面が三角形のトラス鉄柱で、架線を吊るためのビーム(横梁)はもとより、ときには碍子までぶら下がっている。電化路線ならではの大道具で、ここまできれいに残されているのは見事だ。

Blog_contour4008
架線柱が残る廃線跡
 

旧街道との元踏切を越えて400mほど行くと、一つ目の中間駅、備前赤崎駅があった。石積みのホームは左右の間隔が広いから、線路が2本敷かれた交換駅だったのだろう。鳥居形の駅名標に、「びぜんあかさき(駅跡)」とかっこ書きされているのが正直で、微笑みを誘う。

その200m後で、国道430号線と交差した。ここは横断歩道がなく、迂回を余儀なくされる。ほぼ直線だった廃線跡はこの直後、左に急カーブし、次いで緩やかに右に反転していく。その途中で、阿津(あつ)駅の片面ホームを通過した。

Blog_contour4009
備前赤崎駅跡
(左)石積みのホーム
(右)「駅跡」と書かれた駅名標
Blog_contour4010
阿津駅は住宅街の中の片面ホーム
 

倉敷シティ病院の前で、舗装が自然色から黒いアスファルトに変わり、同時に25‰勾配が始まる。海岸沿いではあるものの、鷲羽山との間の鞍部を乗り越えるために、坂を上る必要があるのだ。桜並木の築堤はいい雰囲気だったが、すぐに道路と交差するレベルまで急降下していた。築堤が切り崩されてしまったようだ。そのため、瀬戸大橋線の下をくぐるまでの短区間は、線路跡らしくない急勾配になっている。

Blog_contour4011
(左)25‰勾配が始まる桜並木の築堤
(右)切り崩された築堤
 

さらに坂を上っていくと、いよいよ左手に海が見えてきた。手前にある競艇場の施設が少々目障りだが、下電名物の車窓風景がこれからしばらく続くのだ。JRの変電所の先で敷地が急に広がり、そこに琴海(きんかい)駅の島式ホームがあった。ベンチも置かれていて、家並み越しに海と島影を見晴らせる。「鷲羽山(わしゅうざん)駅まで行ってもいいんですが、12時を回ったので、ここで昼食にしましょう」と相澤さん。腰を下ろして、皆それぞれ持参した食事を広げた。

Blog_contour4012
坂を上っていくと左手に海が見えてくる
Blog_contour4013
琴海駅跡で昼食休憩
Blog_contour4014
琴海駅跡から見る海景
 

琴海駅の先もまだ25‰の坂道で、神道山(しんとうざん)からせり出した山脚を、築堤と切通しを連ねて縫っていく。大畠(おおばたけ)集落の上で右へ回り込み、瀬戸大橋線と瀬戸中央道の下のカルバートを斜めにくぐった。カーブして見通しの悪い切通しをもう一つ抜ければ、鷲羽山駅に到達だ。標高43m、「風の道」のサミットに当たり、休憩所として瀬戸大橋を望むテラスと公衆トイレが設置されている。

Blog_contour4015
築堤と切通しで山脚を縫う
Blog_contour4016
サミットの鷲羽山駅
Blog_contour4017
駅のテラスから見る下津井の家並と瀬戸大橋
 

下津井まであと2.5kmだ。「余裕で着けると思うので、その前に鷲羽山へ寄り道しませんか」と提案したら、異論はなかった。鷲羽山は南東に突き出した半島で、備讃瀬戸の海景をほしいままにする、古来知られた展望地だ。

駅から南へ遊歩道が延びていて、松林の中の急な階段を上がっていく。まもなく東屋(あずまや)展望台という最初の見晴らしスポットがあった。瀬戸中央道のトンネルの真上に位置しているので、下津井瀬戸大橋まで一直線、あたかも足下から車が飛び出すような迫力のある眺めだ。

Blog_contour4018
東屋展望台からの迫力ある眺め
 

さらにしばらく上ると、山頂に着いた。表土が剥ぎ取られ大岩が露出していて、石舞台のように見える。標高113mと大した高さでないにもかかわらず、岩の上に立てば、北の児島市街地から、島影浮かぶ内海、長い吊橋の列、そして西の下津井港まで、文句なしに360度の眺望が得られる。

Blog_contour4019
鷲羽山山頂
(左)石舞台のような頂上
(右)瀬戸大橋が間近に
Blog_contour4020
鷲羽山山頂からのパノラマ
 

今日は遠くがかすんでいたが、それでも一同満足して、もときた道を戻った。鷲羽山駅からしばらく廃線跡は、海岸沿いに続く下津井の町を避けて、山手を迂回している。500mで東下津井駅だった。1931(昭和6)年開設の鷲羽山駅に対して、東下津井は開通当時からあった駅だ(もとは下津井東と称した)。残されたホームが異様に低いので、歩道部分が嵩上げされているようだ。

Blog_contour4021
東下津井駅跡
 

城山の裏手からは最終コースで、25‰の下り勾配で谷間に突っ込んでいく。鞍部を切通しで通過しているのだが、長い年月のうちに草木が覆いかぶさり、まるでトンネルだ。切通しを抜けた後は、オメガカーブで南に向きを変え、浅い谷を降下する。Tさんが、列車が走っていた当時撮った写真を見せてくれた。「あの頃はこのカーブを見通すことができたんです。」今は谷いっぱいに住宅が立ち並んでしまい、撮影名所の面影は消失している。

Blog_contour4022
鞍部を切通しでやり過ごす
Blog_contour4023
オメガカーブを描いて降下
Blog_contour4024
現役時代のオメガカーブ(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

石積みが残る道路のアンダーパスをくぐると、もう下津井駅跡だった。老朽化が進み、駅舎や周りの建物はすべて撤去されてしまったが、カーブする相対式のプラットホームとその間に敷かれた線路が、在りし日の記憶を呼び覚ます。隣接する側線群には、「赤いクレパス号」だったモハ1001や、1988年新造の観光電車「メリーベル号」など、保存会が管理する旧車が何両も休んでいた。フェンスがあり、普段は立ち入れないが、毎月第2日曜と第4日曜に開放されているそうだ。

時刻は14時30分、終点まで無事歩き通して、ここで解散となった。Tさんと私は、狭い通りに古い民家や土蔵が並ぶ下津井の旧市街まで足を延ばし、郵便局前で下電バス「とこはい号」を捕まえて、児島駅に戻った。

*注 とこはい号は児島市街、下津井、鷲羽山第二展望台などを通る循環バス路線。反時計回りの一方通行で、1時間毎に運行。なお、下津井から児島駅に向かう場合、「児島駅南」バス停が最寄りとなる。

Blog_contour4025
ホームと線路が残る下津井駅跡
Blog_contour4026
(左)保存車両モハ1001
(右)奥に観光電車「メリーベル号」の姿も
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図下津井(昭和49年修正測量、平成30年10月調製)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪
 コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸
 コンターサークル地図の旅-三田用水跡

2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

Blog_contour3803
消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

Blog_contour38_map1
鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
Blog_contour38_map2
旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
Blog_contour38_map3
拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた
 

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

Blog_contour3802
(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

Blog_contour3804
御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

Blog_contour3805
(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
Blog_contour3806
富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

Blog_contour3807
竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

Blog_contour3808
八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

Blog_contour3809
(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
Blog_contour3810
大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

Blog_contour3811
大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

Blog_contour3812
(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
Blog_contour3813
橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

Blog_contour3814
(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

Blog_contour38_map4
初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

Blog_contour3815
初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
Blog_contour3816
初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

Blog_contour3817
上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-鬼怒川瀬替え跡と利根運河
 コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年5月 1日 (水)

紀州鉱山軌道の楽しみ方

紀伊半島の山中を、ささやかなトロッコ列車が走っている。軌間2フィート(610mm)、走行距離は約1kmに過ぎないが、1日6往復の設定がある。しかし、鉄道事業法に基づくものではないため、市販の時刻表や鉄道路線図には一切載っておらず、知る人ぞ知るという存在だ。

Blog_kishukozan1
山あいの湯ノ口温泉駅にトロッコ列車が到着
 

三重県南端に近い熊野市の内陸部(旧 南牟婁(みなみむろ)郡紀和町)、熊野川支流の、瀞峡(どろきょう)で知られる北山川の左岸に、それはある。今は観光用に運行されているが、もとは鉱山軌道だった。

この地区では古くから小規模な採鉱が行われていて、1930年代に、石原産業が本格的な鉱山を開いた。採掘場は北山川の支谷に沿って点在し、鉱石から銅などの有用鉱物を選別する選鉱場が、紀和町中心部の板屋(いたや)に置かれた。軌道はこの間を結ぶもので、鉱石と作業員・資材の輸送を担っていた。鉱山の名から「紀州鉱山専用軌道」「紀州鉱山鉄道」などと呼ばれているが、メインルートの板屋~惣房間だけでも5.5kmあり、険しい山中のため、大半がトンネルだった(下図参照)。

Blog_kishukozan_map1
紀州鉱山軌道周辺の1:25,000地形図(1976年)に
軌道関連事項と新国道のルートを加筆
 

1940~50年代、紀州鉱山(石原産業紀州事業所)は、銅の生産量で国内有数の規模を誇った。しかし、1963年の貿易自由化後は、海外産に押されて採算が悪化していき、1978年、約40年の歴史に幕を降ろした。軌道もまた、それと運命を共にした。

鉱山は地域の基幹産業だ。その撤退という大きな試練に直面して、町は、観光開発に将来を託そうとした。鉱区の中心、湯ノ口地区は地名が示すとおり、昔は温泉が湧く土地だった。鉱山開発の影響で長らく枯渇していたが、閉山1年後に行ったボーリングで地中の源泉が発見され、温泉として再興された。

ただそこは鉱山軌道がなければ秘境同然の場所で、アクセスに難がある。それで、軌道の一部を利用して、利用客を温泉の前まで送り届ける計画が練られた。起点は、国道311号線からほど近い小口谷(こぐちだに)とされた。そこには鉱山のズリ捨て場があり、再開発用の空地には事欠かなかったからだ。

1987年に小口谷~湯ノ口間でトロッコ列車の試験運行が始まり、1989年からは通年で運行されるようになった。さらにその翌年、小口谷に、瀞流荘(せいりゅうそう)という新たな宿泊施設がオープンした。設備の整ったその施設に宿泊し、トロッコで湯ノ口温泉に通うというユニークなオプションが可能になった。

Blog_kishukozan2
瀞流荘駅に停車中のトロッコ列車
 

それから早や30年が経つ。温泉施設は近年改築され、装いを新たにしたが、トロッコ列車は当時のまま健在だ。マッチ箱のような小さな2軸木造客車がトンネルの中をゴトゴトと走り、湯浴みの客を運ぶとともに、鉱山軌道ありし日の面影を今に伝えている。

昨年(2018年)夏、この軌道に乗る機会があった。前夜、瀞流荘に泊り、ゆっくり朝食をとって、9時55分発二番列車の客となった。乗り場は宿の山側にあり、地名の小口谷ではなく、「瀞流荘」駅を名乗っている(下注)。ここはかつて操車場や修理工場がある鉱山軌道の拠点だったので、谷間に広い跡地が残されている。線路の手前は駐車場に使われ、奥は特産品の加工場になっているようだ。

*注 グーグルマップでは「トロッコ電車 小川口駅」と注記されている。

Blog_kishukozan3
瀞流荘駅
(左)駅舎 (右)出札窓口
 

木造平屋の駅舎で切符を売っている。運賃は、大人片道270円、往復540円、また、湯ノ口温泉の入浴券つき往復券が860円だ。さらに、トロッコと瀞流荘・湯ノ口温泉入浴が1日フリーパスになる「熊野湯めぐり手形」もある(下注)。これは、宿泊客の場合、往復運賃と同額の540円(宿泊しない場合は1080円)で買え、実質的に入湯が無料になる。瀞流荘に泊るなら、これに勝る選択肢はない。

*注 「熊野湯めぐり手形」は、瀞流荘のフロントでも購入できる。

駅舎を出ると、線路を2本はさんだ、屋根付きの相対式ホームがあった。右も左も山の斜面で、線路はトンネルに潜っている。天井が低いかまぼこ形をした、しかし複線仕様のトンネルだ。左の板屋側のトンネル(二号隧道)の中を覗くと、鉄格子の奥に車両らしきものが見え、車庫として使われているようだ。列車が進む右側は、加工場へ行く道路と交差し、谷川を渡ってすぐ三号隧道に入る。

Blog_kishukozan4
瀞流荘駅前後のトンネル
(左)板屋側の二号隧道は車庫代わりに
(右)湯ノ口側の三号隧道入口
 

乗るべき客車は、すでにホームに据え付けられていた。江ノ電色に塗られた2軸車の5両編成だ。茶室のにじり口並みの小さな引き戸を開け、腰をかがめて入る。内部は狭いながらも四方にベンチがあり、座布団が敷いてある。窓にはガラスが嵌っているが、鉱山軌道時代は、隙間を空けて板を貼っただけの、いわゆる無双窓だったそうだ。夏場はともかく、さすがにそれでは温泉帰りの客は乗せられまい。

Blog_kishukozan5
(左)機関車が機回しされてきた
(右)客車内部
 

機回しされてきた機関車が前に付けられた。台車の上に大きな平箱を載せた車両で、箱の中を見せてもらうと、多数のバッテリーが配置されている。これは実際に鉱山軌道で使われていた蓄電池式電気機関車で、いわば貴重な動態保存機だ。

かつて鉱山軌道の本線系統は、架空線が張られ、直流600V、パンタグラフ集電の電気機関車が活躍していた。一方、坑道内では、スパークによるガス爆発を避けるため、蓄電池式が使われていた。軌道復活に当たっては、架線設備の再建を要さない後者で、客車を牽引することになった。広告媒体などで「トロッコ電車」という表現を目にするが、実態はこういうことだ。

Blog_kishukozan6
蓄電池式電気機関車
(左)後部に運転台、直接制御器がある
(右)前部の蓋を開けると蓄電池の列が
 

私たちのほかにもう1~2組の同乗者を載せて、列車はほぼ定刻に出発した。走行する全線で複線の線路が残されているものの、1編成が往復するだけなので、単線で足りる。このときは隣の線路が途中で外されて、何か工事をしているようすだった。

ルートはみごとに直線で、微かな上り坂だ。三号隧道は長さが300mある。天井に照明があり、にじみ出る地下水で、側壁が鈍く光っている。トンネルを抜けると、大嶝(おおさこ)と呼ばれた明かり区間を、少しの間走る。地形図で見ると、北山川が接近しているが、木々に隠され、車窓からは見えない。次の五号隧道は730mと長く、途中で下り坂に転じる。

Blog_kishukozan7
走行区間の大半を占めるトンネル
(左)かまぼこ形の断面、全線複線
(右)中間部の短い明かり区間
 

10分ほどで湯ノ口温泉駅に到着した。ホームは沢をまたぐ鉄橋の上にあり、線路は左に急カーブしながら、閉鎖された六号隧道へ向かっている。駅舎の代わりに、片流れ屋根のかかった待合ベンチがある。ここも鉱山軌道のジャンクションの一つで、かつては機関庫その他の施設が建ち並び、三角線をはじめ多数の側線が谷を埋めていた。その後跡地は転用され、温泉施設と滞在用のコテージやバンガローの敷地になった。

折り返し列車の発車は10時55分で、50分ほど間がある。源泉かけ流しの湯ノ口温泉で、露天風呂に浸かる時間を確保しているのだ。もっとゆっくり過ごしたいなら、1本見送って次の列車(12時35分発)にすることもできる。1日6往復は、ほどよい列車本数だろう。

Blog_kishukozan8
湯ノ口温泉駅
(南端から瀞流荘駅方を望む)
Blog_kishukozan9
(左)湯ノ口温泉
(右)軌道構内の跡地に並ぶ温泉のバンガロー
 

鉱山軌道の楽しみはこれにとどまらない。トロッコと同じ軌道上を、レールバイク(軌道自転車)でも走ることができるのだ。レールバイクは2人で漕ぐが、電動アシストなので大して力は要らない。また、後ろに2人乗りの付随車(ベンチシートと呼んでいる)をつければ、計4人まで同時に移動できる。

アクティビティの要素もあって、実のところ、狭いトロッコ客車に揺られるよりはるかに開放的で爽快だ。料金は湯ノ口1往復で2,600円、ベンチシートはプラス640円だが、試してみる価値は十分ある。ただし、1台しかないので、瀞流荘への事前予約が必須だ。また、一人だけでは乗れない。

Blog_kishukozan10
レールバイク
(左)後ろに2人乗りのベンチシートを付けることができる
(右)電動アシストのマウンテンバイク2台を固定接続
 

出発時刻は決まっていて、行きはトロッコ発車の15分前、帰りは10分前だ。ということは、もたもたしていると、後ろからトロッコが追ってくるわけで、漕ぎだす前に、「もしトンネル内で立ち往生したら、後から来る列車にライトで合図してください」と注意を受けた。もちろん、ふつうに漕げば心配は無用で、トロッコが発車する頃には終点に到着している。

Blog_kishukozan11
鉱山軌道を自転車で疾走
 

鉱山軌道の楽しみの延長として、場所を少し移動すれば、当時の珍しい車両や鉱山施設跡を目にすることも可能だ。

瀞流荘から2kmほどの板屋地区に、1995年に開館した紀和鉱山資料館がある。ここには、各種車両が静態保存されている。まず前庭にあるのが、パンタグラフ集電の電気機関車610号機が有蓋人車(客車)、鉱車(貨車)各1両を牽く形の「列車」だ。鉱車の上に索道搬器も吊ってある。隣の、簡易転車台から延びる軌道には、蓄電池式機関車230号機と軌道自転車が据え付けられている。屋根が架けられているものの、戸外のため、表面に錆が回り始めているのが痛々しい。その中で人車だけは美しく塗り直され、中に入って、例の無双窓からの景色を追体験できる。

Blog_kishukozan12
紀和鉱山資料館前庭の展示車両
(左)鉱車と有蓋人車、上空に索道搬器
(右)架空線式電気機関車610号機
Blog_kishukozan13
(左)「列車」には立派な屋根が架けられている
(右)簡易転車台に接続された蓄電池式機関車と軌道自転車
 

館内には、蓄電池式機関車229号機、同415号機、鉱車、作業員を運んだ無蓋人車などの展示がある。人形を使って当時の鉱山作業の様子が再現されており、そのセットの一部という扱いだ。そのほか、紀州鉱山の動静が記録された社内紙「石原紀州」の貴重なコレクションも閲覧に供されている。

Blog_kishukozan14
資料館内部の展示車両
(左)蓄電池式機関車と鉱車
(右)坑夫を乗せた無蓋人車
 

板屋にはかつて選鉱場があり、鉱山軌道で運ばれてきた鉱石を処理していた。案内板によれば、総面積2200坪、高さ75mで日本第二の規模、完成当時の処理量は1日1000トンで東洋一だったという(下注)。その跡は、資料館から山手へ歩いて数分のところにある。倉庫や修理工場が建っていた平地は、公共施設用地に転用されてしまったが、山の斜面を利用した選鉱場跡が、建物を撤去した状態で朽ちるがままにされている。

*注 ちなみに、選鉱場で純度を高めた精鉱は、全長14.7kmの索道で山を越え、紀勢本線阿田和駅で貨物列車に積まれた。

Blog_kishukozan15
板屋選鉱場跡の廃墟
 

敷地内は通常立入禁止で、麓からの観察になる(下注)が、斜面にそびえるコンクリートの梁と柱、這い上がるインクラインのレールや階段など、見上げる廃墟の景観は、巨大なだけにかえって寂寥感を誘う。

*注 熊野市観光公社が年1回開催しているツアーに参加すれば、立入禁止区域の選鉱場上部や坑道を探索できる。

傍らには、鉱山軌道の一号隧道が口を開けている。複線の線路も残されているが、鉄格子の扉が閉まっている。このトンネル(一号・二号隧道)の反対側の出口は、「瀞流荘」駅のある小口谷だ。

Blog_kishukozan16
(左)インクライン跡
(右)一号隧道入口、内部には鉄格子扉が
 

最後に、この地への交通手段を書いておこう。

瀞流荘に泊る場合は、JR紀勢本線の熊野市駅まで送迎バスを出してくれるので、宿泊予約の際に確認するとよい。

公共交通機関で行く場合は、熊野市駅前から、熊野市バス「熊野古道瀞流荘線」(三重交通に運行委託)に乗る。資料館および選鉱場跡は「板屋(鉱山資料館前)」下車、トロッコ乗り場は終点「瀞流荘」下車だ。所要時間は約50分、1日4往復(2019年4月現在)しかないので、発車時刻には要注意だ。下記サイトに路線図と時刻表がある。

熊野市(公式サイト) http://www.city.kumano.mie.jp/
 > 公共交通(バス・タクシー等)> 熊野市バス > 熊野古道瀞流荘線

本稿は、名取紀之「紀州鉱山専用軌道-その最後の日々」RM LIBRARY 212, ネコ・パブリッシング, 2017年、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図瀞八丁、大里、伏拝、本宮(いずれも昭和51年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
熊野市観光公社 http://kumano-kankou.com/
瀞流荘 https://www.ztv.ne.jp/irukaspa/
紀和鉱山資料館 https://kiwa.is-mine.net/

★本ブログ内の関連記事
 立山砂防軌道を行く
 黒部ルート見学会 I-黒部ダム~インクライン

2019年4月25日 (木)

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II

久慈で買った途中下車きっぷを見せて宮古駅の改札を入ると、1番線に2両編成の列車が停車していた。三陸鉄道リアス線の今回開通区間(便宜上「中リアス線」と呼ばせていただく)を行く釜石行きだ。造りに特段変わったところはないのだが、車内に入ると、どこかおろし立ての匂いがする。それもそのはず、これは開通に合わせて新たに調達された車両だ。運転台の側壁に「平成31年 三陸鉄道」と製造元の「新潟トランシス2019」のプレートがついている。

Blog_santetsu21
開通に合わせて調達された新造車両
(左)釜石駅にて
(右)今年の製造・調達を示すプレート
Blog_santetsu_map1
三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図
 

宮古発16時13分。同僚の車両が留め置かれた構内を後にして、列車は閉伊川(へいがわ)を渡った。そして、磯鶏(そけい)、新駅の八木沢・宮古短大と、一駅ずつ停まっていく。陽が傾き始めた時刻とあって、各駅で乗降客がある。断崖が続く北部の隆起海岸や、複雑な南部のリアス海岸に比べれば、宮古と釜石の間は地形がそれほど厳しくなく、人口も張り付いているのだ。

かぶりつきで見ていると、PCまくらぎが敷かれ、軌道が強化されているのがわかる。しかし、1970年代以降に造られた南北のリアス線とは違って、こちらは戦前、1935~39(昭和10~14)年の開通だ。曲線やアップダウンが多く、そのせいか速度は一向に上がらない。並行する道路を走る軽四輪にも、軽々と追い抜かれてしまう。

Blog_santetsu22
夕暮れの閉伊川橋梁(宮古~磯鶏間)を渡る
Blog_santetsu23
被災個所は軌道を強化して復旧
(左)閉伊川橋梁 (右)織笠~岩手船越間
 

津軽石(つがるいし)からは、重茂(おもえ)半島との間に開けた低地帯を南下する。太平洋が広がっているはずの東の方角に、屏風のような山並みを見るのは、ちょっと不思議な感覚だ。自衛隊のレーダー基地がある十二神山(じゅうにじんやま)は、標高が731mある。

祭の神(さいのかみ)峠をトンネルで抜けると、列車は山すそを下っていく。陸中山田は、その名のとおりJR山田線の当初の目的地だ。東日本大震災で駅は周辺の市街地もろとも大破したため、建て直された。次の織笠(おりかさ)駅も、集落の高台移転に伴って、1kmほど陸中山田寄りに移された。

印象的なのは、駅のホームや沿線で、列車に手を振る親子連れを見かけることだ。まだ開通から日も浅いので、どの幼児たちの目も輝いている。震災から8年、考えてみればこの年齢の子が物心ついた時には、すでに列車の往来は途絶えていた。彼らにとって、風を切って走る列車は初めて見る光景なのかもしれない。

Blog_santetsu24
岩手船越駅、 家族連れに見送られて
 

小さな岬の波板崎を回ると、今度は船越半島の付け根の低地(いわゆる船越地形)が見えてくる。ここでも海岸に高い防波堤が造成され、景色が一変している。三陸のおよそ浜という浜で、類似の工事が完了したか、進行中だ。

その岩手船越で下り列車と対向した。ふと目にした駅名標に、本州最東端の駅と書いてある。朝からずっと東に海を見ながら南下しているので、あまり実感が沸かないが、位置としてはそうなのだ。遥けくも来つるものかな、という感慨が一瞬脳裏をかすめた。海食崖が続く四十八坂海岸では、しばらく比高50m前後の高みを縫って走る。松林の間から垣間見える船越湾ののどかな風景に、心が安らぐ。この穏やかに見える海がときに豹変するとはとても信じられない。

Blog_santetsu25
(左)本州最東端の駅 (右)ふだんの船越湾
 

吉里吉里(きりきり)の後、同名のトンネルを経て、列車は大槌(おおつち)へ降下していった。津波で橋桁が流出した大槌川橋梁は架け直され、左の河口に巨大な防潮堰が出現している。大槌の改築された駅舎の屋根は、ひょうたん島をイメージしているのだそうだ。線路の海側は草ぼうぼうの空地が広がるが、山側は、区画整理された土地にすでに新しい住宅が建ち並んでいる。それは隣の鵜住居(うのすまい)駅の周辺でも同様だった。

Blog_santetsu26
(左)大槌川河口の巨大な防潮堰
(右)ひょうたん島形の屋根を載せる大槌駅舎
 

両石湾の深い入江を一瞥した後、列車は内陸に入っていき、中リアス線内で最長の釜石トンネル入口でサミットに達する。トンネルの闇から出ると、左へカーブし、まもなく花巻からきたJR釜石線の線路が右に寄り添う。仲良く甲子川(かっしがわ)をガーダー橋で渡れば、もう釜石駅の構内だ。

釜石駅は乗り場が5番線まであり、かつての隆盛をしのばせる。1・2番線の島式ホームは釜石線の花巻方面、3・4番線は中リアス線の宮古方面(3番線には釜石線の表示もある)、少し離れた5番線が南リアス線の盛方面だ。駅舎との間は地下道で結ばれているが、JR駅舎へ通じるルートと三鉄のそれへ通じるルートが地下で分岐しているのがおもしろい。三鉄線で着いたら三鉄の改札を出なければならないが、初めての人は戸惑うこと必至なので、分岐点に係員が立って案内している。

■参考サイト
釜石駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.273400/141.872550

Blog_santetsu27
(左)釜石駅に到着
(右)地下道で分岐してJR駅と三鉄駅へ
Blog_santetsu28
釜石駅
(左)JR駅舎 (右)三鉄駅舎
 

宮古で開通記念の企画は見届けたつもりだったが、駅近くのローソンへ行くと、レジの前に「さんてつ応援パン」なるものが置いてあった。150円。包装がトリコロールの列車デザインなので、つい手が伸びた。生地は少し甘じょっぱく、フィリングは鶯豆と、岩泉牛乳入りのホイップクリームだ。

Blog_santetsu29
車両デザインのさんてつ応援パン 

釜石で1泊し、翌日も引き続き列車で南下する。釜石から盛(さかり)まで、従来、南リアス線と呼ばれていた区間だ。7時43分発の列車は単行で、乗り込むと、旅行者らしき男性が一人だけだった。学休期間とはいえ、朝の時間帯でこの閑散ぶりは厳しい。

南リアス線のうち、国鉄時代からあったのは、盛線と呼ばれた南半分の盛~吉浜(よしはま)間で、北半分の吉浜~釜石間は1984年の三鉄発足と同時に開通したものだ。釜石駅の発着ホームが、離れ小島のような配置になっているのが、その辺の事情を物語る。

開通が遅れたのは、工事の困難さもさることながら、需要が見込めなかったことが最大の理由だろう。釜石の南側はリアス海岸の険しい地形が続き、湾奧に小さな集落が点在しているに過ぎない。1970年に国道45号線の改良工事が完成するまでは、つづら折りの難路しかなく、陸の孤島と言われていたところだ。その上、古くは南部藩と伊達藩の境界、現在は釜石市と大船渡市の境界(下注)で、交流圏も異なっている。

*注 南部と伊達の藩界は、平田(へいた)~唐丹(とうに)間の石塚峠を通る尾根筋に置かれたが、現在の市境は唐丹と吉浜の間の鍬台(くわだい)峠を通る尾根筋にある。

Blog_santetsu30
(左)離れ小島のような釜石駅「南リアス線」ホーム
(右)堂々たる高架線を行く(釜石~平田間)
 

海に突き出た尾根を長大トンネルで串刺しにしていくルートのため、列車に乗っていると、明かり区間より闇のほうが長い。海岸風景をゆっくり見たいので、眺めに定評のある吉浜で途中下車することにした。サクラの花びらをちりばめ、窓を眼に見立てたスマイル顔のラッピング駅舎(下注)が迎えてくれた。

*注 車両ラッピングとともに、ネスレ日本の復興支援プロジェクトによる。

跨線橋を渡って、山手の集落の間の小道を釜石方へ歩く。県道に合流し、なお500mほど進むと、見晴らしのいい場所が見つかった。駅から歩いて約10分のところだ。線路の後ろに広がる吉浜湾が、薄雲を透して降り注ぐ陽光をやわらかく受け止めている。釜石行きの列車が通過するのをカメラに収めて、駅に戻った。

Blog_santetsu31
吉浜駅
(左)駅舎正面にサクラ・アートのラッピング
(右)キャットウォーク(?)の跨線橋
Blog_santetsu32
吉浜湾を望むビュースポットにて
 

次の列車では、三陸駅から一人二人と乗ってきて、地域交通の一端を担っていることをうかがわせた。国道が大峠経由で盛へ短絡するのに対し、列車は海岸沿いに綾里(りょうり)へ迂回し、こまめに客を拾っていく。最後のトンネルを抜けると、大船渡(盛)市街が見えてきた。盛川の鉄橋を渡り、右カーブを終えたところで、隣に1車線のアスファルト道路が並行し始める。大船渡線BRTの走行路だ。両者はそのまま盛駅構内へ入っていった。

Blog_santetsu33
(左)大船渡線BRTの走行路と並行
(右)盛駅3番線に到着
 

9時21分、盛駅3番線に到着。3番線といっても、1・2番線は線路が剥がされ舗装路にされてしまったため、実態は棒線同様の寂しい存在だ。跨線橋も残っているが、ホームの南端から平面でJR駅舎へ渡れるので、あまり用をなしていない。他の接続駅もそうだったように、JRと三鉄の駅舎が隣り合わせに建っている。ただ、三鉄の切符は運転士が集め、BRTも車内精算なので、改札業務は行われていない。

Blog_santetsu34
(左)盛駅舎、右がJR、左が三鉄
(右)駅前にある三陸鉄道の起点碑
 

盛駅の東側には、側線が並ぶ広い構内がある。貨物専業の岩手開発鉄道が使っていて、石灰石を輸送するホッパ車が長い列をなすさまは壮観だ。構内を横断する長い跨線橋の上に立つと、黒装束の貨車の群れの中に、三鉄車両のまとうトリコロールが鮮やかに浮かび上がる。

Blog_santetsu35
ホッパ車の群れの中で際立つトリコロール
 

さて、鉄路はここで惜しくも途切れていて、気仙沼方面へ向かうにはBRTに乗り継がなければならない。BRTという言葉はまだ耳慣れないが、バス・ラピッド・トランジット Bus rapid transit、すなわちバスを使った高速輸送システムのことだ。鉄道に比べて軽量、低コストの公共輸送機関として近年採用例が出始めた。

大船渡線BRTの場合、使われている車両は普通の低床バスだが、一般道だけでなく線路敷を再整備した専用道も走り、運賃は鉄道と共通だ。専用道では制限速度50km/hで、お世辞にもラピッドとは言えないが、鉄道時代に比べて運行本数は確かに多くなった。

ところがこのダイヤ、なぜか三鉄との接続をあまり考慮していない。そのため、盛では1時間30分の待ちぼうけを食らった。旅行者はともかく、こうした乗継ぎをする地元客は稀なのだろうか。そして10時50分、クルマならとうに気仙沼に着いている時刻に、ようやく三陸海岸を南下する旅が再開できたのだった。

Blog_santetsu36
気仙沼方面のBRTが盛駅を出発
 

【追記 2019.5.10】

叡電の三鉄ラッピング車

岩手から遠く離れた京都の北郊を、いま三陸鉄道の電車が走っている。といっても叡山電鉄(叡電(えいでん))の所有車両にトリコロールのラッピングを施したもので、今年(2019年)3月31日から1年間の予定で運行されているのだ。

両者の交流は10年前から交流が始まっていて、昨年、叡電が台風の被害で長期間運休を余儀なくされたときも応援してもらったのだという。三陸鉄道と同じ記念プレートを前後につけているので、先日オリジナルを見たばかりの目にも違和感なく映る。洛北の地を行く三陸色が、リアス線沿線への関心を高めてくれたらうれしい。

Blog_santetsu37
叡電の三鉄ラッピング車
 

■参考サイト
三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
JR東日本-気仙沼線・大船渡線BRT
https://www.jreast.co.jp/railway/train/brt/

★本ブログ内の関連記事
 東北圏の新線
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I
 新線試乗記-仙石東北ライン
 新線試乗記-仙台地下鉄東西線

 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間
 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸
 新線試乗記-相鉄・JR直通線

2019年4月20日 (土)

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I

東日本大震災の未曾有の津波で線路が寸断され、長らく不通になっていた宮古(みやこ)~釜石(かまいし)間が、2019年3月24日、8年ぶりに復旧した。もとはJR山田線の一部だったが、第三セクターの三陸鉄道に移管され、復旧済みの北リアス線、南リアス線とともに「リアス線」を構成しての再出発だ。新生リアス線は盛(さかり)から久慈(くじ)まで163.0km、JR以外では最長の路線になる。

Blog_santetsu1
閉伊川(へいがわ)を渡るリアス線の気動車
 

さっそく4月初めに初乗りを試みた。せっかくの機会なので、移管区間だけでなく、三陸海岸を北から南へ乗り通したい。日程の都合で、BRTで運行されているJR気仙沼線(陸前戸倉~気仙沼間が三陸海岸に沿う)は割愛せざるを得なかったが、八戸から気仙沼まで、営業距離にして271.6kmを2日かけて旅してきた。

Blog_santetsu_map1
三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図
 

朝9時21分、八戸で「はやぶさ」1号を降りた。新幹線改札を出て、JR八戸線の発着ホームへ向かう。4月にしてはかなり冷える日で、断続的に降る雪が風に舞っている。停車しているのはE130形の2両編成、ローカル線も車両更新が進んで、ずいぶん快適になったものだ。定刻に発車すると、鈍色の空と雪景色の中、列車は時速40kmでとろとろと走っていく。

鮫(さめ)駅で、後から来る久慈行きに乗り継ぐとまもなく、ウミネコの大群が岩場を覆う蕪島(かぶしま)が見えてきた。ここからは太平洋の大海原が旅の友になり、左の車窓に砂浜と岩礁が交互に現れる。

Blog_santetsu2
(左)雪が舞う八戸駅に停車中の八戸線E130形気動車
(右)車内、各ボックスに1組は乗っている
Blog_santetsu3
(左)ウミネコの島、蕪島を車窓に見る
(右)サミットの侍浜駅では冬に逆戻り(後方を撮影)
 

陸中八木を過ぎると、線路が徐々に高さを増してきた。列車は海岸を離れ、トンネルを立て続けにくぐって、小さな谷に分け入る。周りは銀世界に戻り、サミットの侍浜(さむらいはま)駅では雪も激しくなって、あたかも雪中行軍の様相になった。坂を下って、久慈駅到着11時46分。乗客は入れ替わりがあったものの、終点まで乗り通した人も多かった。

Blog_santetsu4
久慈駅
(左)八戸線ホーム (右)JR駅舎
 

この久慈駅で、三陸鉄道(以下、三鉄)リアス線と接続する。ホームは駅舎側の1・2番線をJR、線路を隔てた3番線を三鉄が使っているが、駅舎は両者別々だ。JRから三鉄へ乗り継ごうとすると、まず構内踏切を渡ってJR駅の改札からいったん表へ出る。そして三鉄駅に回り、跨線橋を渡って3番線へ、という回りくどいルートを強いられる。お年寄りや荷物のある人には、決して優しくない迂回路だ。中間改札のように、歩く距離をもっと短縮する方法を考えるべきではないだろうか。

Blog_santetsu5
三鉄久慈駅舎
(左)正面玄関
(右)掲示物が所狭しと貼られた出札窓口
 

朝ドラ「あまちゃん」のロケ地にもなった三鉄の駅舎の中は、ポスター、色紙その他掲示物が所狭しと貼られている。公式サイトでは見つけにくいお得切符も、いろいろ売られていることがわかった。たとえば、

リアス線全線フリー乗車券」 土休日に発売、2日間有効 6,000円

1日フリー乗車券」 土休日のみ1日間有効、3区間に分けて発売。盛~釜石2,500円、釜石~宮古2,300円、宮古~久慈2,500円

片道途中下車きっぷ」 通年発売、片道切符だが途中下車ができる。価格は同区間の普通乗車券と同じ、たとえば盛~久慈間3,710円(有効2日)。ほかに盛~宮古(有効1日)、釜石~久慈(同2日)、宮古~久慈(同1日)の設定あり

ただ、これらのお得切符は自販機では扱っていない。そのため、有人窓口が閉まっている時間帯は買えないから、注意が必要だ(下注)。

*注 2019年4月現在、三陸鉄道の公式サイトには新線の情報がほとんどない。お得切符についても「最新情報」の過去項目に埋もれている。

Blog_santetsu6
久慈駅南方の三鉄車庫、リアス線が右奥に延びる
 

片道途中下車きっぷを作ってもらい、駅舎内のそば屋「リアス亭」で売っている1日20食限定の名物「うに弁当」(1,470円)も運よく入手して、乗車準備はすべて整った。ホームに出ると、白地に赤青の帯を引いた2両編成の気動車が客待ちしている。2両編成の車内は、八戸線より乗客は減って、座る人のないボックスもある。宮古~久慈間は従来の北リアス線(下注)だが、ざっと見渡したところ、大半が地元客ではなく旅行者のようだ。通学を除けば、日常の移動で列車が使われることは少なくなってしまった。

*注 三陸海岸の北部は、地形としては隆起海岸であって、リアス海岸(沈水海岸)には該当しない。

Blog_santetsu7
(左)久慈駅リアス線ホーム
(右)36-700形の車内、人のいないボックスも散見
Blog_santetsu8
リアス線開通を祝うヘッドマークとステッカー
 

12時08分発車。列車は最初山間部を走り、トンネルで小さな峠を越える。雪が降りしきる中、陸中野田で列車交換があった。野田玉川まで来ると高度がかなり上がり、松林の間から覗く海は遥か下になる。線路は荒波が洗う海岸線を避けて、段丘面を渡っていくが、深く切れ込んだ谷が随所で行く手を阻んでいる。

Blog_santetsu9
陸中野田で下り列車と列車交換
 

それを一気に跨ぎ越す橋梁の一つが、長さ302mの安家川(あっかがわ)橋梁だ。PCトラスの壮大な鉄橋は、大海原を俯瞰する北リアス線屈指のビュースポットにもなっている。車内に案内のアナウンスが流れ、列車は徐行どころか、1~2分橋の上で停車して、ゆっくり眺める時間を与えてくれた。

Blog_santetsu10
安家川橋梁を渡る(後方を撮影)
 

堀内(ほりない)駅を出ると、もう一つの絶景、長さ176mの大沢橋梁にさしかかる。夏ばっぱが大漁旗を振って春子を見送った小さな浜が、眼下に見える。ここも同じように停車してくれるから、名シーンを思い返す時間はたっぷりある。一方、山側には国道45号線のアーチ橋、堀内大橋が架かっている。その橋のたもとから鉄橋を渡る列車をねらうのが、あまちゃん以前から、三鉄の鉄道写真の定番だ。この列車も誰かのカメラの被写体になったかもしれない。

Blog_santetsu11
大沢橋梁からの太平洋の眺め
Blog_santetsu12
国道の堀内大橋を通して、春まだ浅い山里が見える
 

旧 北リアス線の見どころは、だいたいここまでだろう。国鉄久慈線時代の終点だった普代(ふだい)を出ると、まるで地下鉄かと思うようなトンネルの連続区間に突入するからだ。三鉄の長大トンネルのベスト3、すなわち北から順に、普代トンネル(4,700m)、小本トンネル(5,174m)、真崎トンネル(6,532m)がこの間に集中している。

車窓に目を向けても自分の顔しか映らないので、久慈から手を付けずにいた「うに弁当」の包みを開けた。鮮やかな色の蒸しウニが表面を埋め尽くし、ご飯が見えないのは確かに感動的だ。そのご飯もウニの煮汁で焚いたものだという。旬には少し早いからか、ウニはほぐし身のようなものだったが、それでもほおばると、口の中が濃厚な香りで満たされた。ネット情報によれば、リアス亭で作り売りしているのは、夏ばっぱのモデルになった人だそうだ。

Blog_santetsu13
三鉄名物「うに弁当」
(左)三鉄久慈駅舎の「リアス亭」で販売
(右)包みを開ければうに尽くし
 

宮古駅には13時54分に到着した。製鉄所やラグビーで知られた釜石に比べて、全国的な知名度がやや劣るとはいえ、宮古は岩手県の三陸海岸で最大の町だ。駅も中心街に隣接していて、川向うに町が離れた釜石駅より活気がある。

宮古~釜石間が移管されたが、今も宮古駅は、JR山田線盛岡方面との接続駅だ。久慈駅と同じように、JR駅舎の隣に三鉄駅舎が建っている。しかし扉が閉まり、張り紙がしてあった。読めば、移管を機に業務をJR駅舎に移したという。なるほどJR駅正面の表札をよく見ると、三鉄とJRのロゴが仲良く並ぶ。三鉄はJRの駅業務を受託したので、みどりの窓口も今までどおり開いている。

Blog_santetsu14
宮古駅
(左)JR駅舎はこの春から三鉄と共同使用
(右)もとの三鉄駅舎は閉鎖
 

JRに乗継ぐ乗客は、いったん外改札で三鉄内の精算をして、改めて駅舎内の改札からJRの乗車券で入るように誘導される(逆も同じ)。それでも、JR駅内での移動なので、久慈駅のような大回りにならない。JRと接続する他の駅もこうすればいいのに、と思う。

Blog_santetsu15
宮古駅構内
奥の車両はキットカットの応援ラッピング車
Blog_santetsu16
宮古駅構内につどう車両群
三鉄車の他に山田線を走るJR車両も
 

さて、宮古で接続列車に乗れば、暗くなるまでに気仙沼までたどり着けるのだが、今日は釜石で泊ることにしている。それで列車を1本遅らせて、駅の周りを観察することにした。開通から2週間近く経ち、お祝い気分もすっかり抜けた後かと思ったが、そうでもない。

駅には、岩手日報が無料配布した3月24日付の開業特集号がまだ残っていた。当該区間の宮古、陸中山田、大槌、釜石の4駅で配り、それぞれの表紙をつなげると続き絵になるというものだ。見開きページに、自作の応援メッセージを掲げた沿線の人たちの笑顔が溢れている。また、跨線橋でつながっている駅裏の市民交流センターでは、開通を記念して新旧の鉄道写真のパネル展示が行われていた。見入っている人はもう誰もいなかったが、行きずりの者にも、復旧の日を迎えた高揚感と熱気の余韻が伝わってくるようだ。

Blog_santetsu17
(左)市民交流センターの鉄道写真展示
(右)岩手日報の開業特集号
 

とこうするうちに、釜石行き列車の出発時刻が近づいてきた。そろそろ駅に戻らなくては。

次回は、その開通区間を旅する。

■参考サイト
宮古駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.639850/141.947300

三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
同 リアス線特設ページ https://www.sanrikutetsudou.com/rias-line/

★本ブログ内の関連記事
 東北圏の新線
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II
 新線試乗記-仙石東北ライン
 新線試乗記-仙台地下鉄東西線

 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間
 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸
 新線試乗記-相鉄・JR直通線

2019年4月14日 (日)

新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間

おおさか東線は、既存の城東貨物線を利用して、新大阪駅と関西本線(愛称 大和路(やまとじ)線)の久宝寺(きゅうほうじ)駅を結ぶ20.3kmのJR路線だ。2008年3月15日に、南側の放出(はなてん)~久宝寺間が先行開通していたが(下注)、今回、北側の新大阪~放出間が完成して、2019年3月16日に開業の日を迎えた。関西での新線開業は、2009年の阪神なんば線以来10年ぶりだ。

*注 放出~久宝寺間については「新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間」参照。

Blog_osakahigashisen11
淀川橋梁を渡るおおさか東線の普通列車
Blog_osakahigashisen12
おおさか東線(新大阪~久宝寺)は
図中央の「F」で示されたルート
 

新大阪では、地上の2番線がおおさか東線の発着に充てられた(下注1)。同じホームの反対側1番線には、関西空港から京都へ向かう特急「はるか」が入ってくる。このホームを捻出するために、長い間、発着番線の移設工事が続いていたのも昔話になってしまった(下注2)。

*注1 奈良行き直通快速は1番線を使用する。
*注2 このホームはもと特急「はるか」と北陸方面の特急「サンダーバード」が発着し、11、12番線を名乗っていた。

訪れたのは月曜日。エスカレーターを降りると、久宝寺行き普通列車、うぐいす色の201系ロングシート車が停車していた。奈良まで長征する1日4往復の直通快速のほかは、すべてこの各駅停車だ。車両は関西本線(大和路線)で見慣れているが、側窓の下半分が「おおさか東線全線開業」のシールで覆われているところがいつもと違う。それに編成中1か所だけ、若草山を背景に興福寺五重塔と鹿の群れをあしらった、ささやかなラッピングシールが貼られている。さらに、後で目撃したが、八尾市の市制70周年を兼ねた開業記念ヘッドマークをつけた編成もあった。

カメラやスマホを手にした人が入れ代わり立ち代わり車両の前に立つのは、新線らしい光景だ。一方、車内は落ち着いたもので、早や普段使いで乗っているように見える。6両編成、15分間隔の頻発運行で、ロングシートがそこそこ埋まる程度の乗客数がある。昼間でこれなら、朝夕は混むのだろう。放射状路線ほどの集中度はなくても、市街地を通る環状ルートにはやはり潜在需要があるようだ。

Blog_osakahigashisen13
(左)新大阪駅のおおさか東線ホーム
   1番線は直通快速、2番線は各駅停車
(右)ささやかな全線開業のラッピング
Blog_osakahigashisen14
沿線の八尾市提供のヘッドマークをつけた列車も
 

発車時刻が来たので、その普通列車に乗り込んだ。新大阪を出ると、右手の東海道本線(JR京都線)と並行に、まずは京都方へ進む。感覚的には上り列車だが、新大阪が起点なので、下りになるという。しかし列車番号は偶数、すなわち上りの番号を付けている。それでかどうか、駅の案内では敢えて上り下りに言及しない。

すぐに東淀川駅だが、おおさか東線にはホームがなく、あっさりと通過する。神崎川のトラス橋(上神崎川橋梁)を渡り終えたところで高架に駆け上がり、同時に右に旋回して東海道線をまたいだ。最初の停車駅、南吹田(みなみすいた)はこの急曲線の途中にある。駅の北側に広場が造成され、かつて灌漑に用いたドンゴロス風車のモニュメントも設置されて、今回開業した新駅の中で最も力が入っている。

駅を出ると、再度神崎川を渡るトラス橋だが、まだ曲線は続いていて、内側の線路脇にR280(半径280m)の標識が見える。渡り終えたところで、吹田操車場から来る線路と合流した。これが本来の城東貨物線で、今通ってきた急曲線の線路は、既得の土地に新しく建設されたものだ。

Blog_osakahigashisen15
南吹田駅
(左)新規開業駅で唯一駅前広場がある
(右)ドンゴロス風車のモニュメント
Blog_osakahigashisen16
急曲線の神崎川橋梁を渡ってくる電車
南吹田駅ホームから撮影
 

新幹線の高架をくぐり、阪急の千里線と京都線をまたぐと、JR淡路(あわじ)に停車する。駅の設備は高架下にあるが、周囲は住宅街で、駅前広場を設ける余地はない。300mほど西へ歩くと阪急の淡路駅で、こちらは今、立体化工事のまっ最中だ。完成すれば阪急が、逆にJRの上空を乗り越すようになる。

Blog_osakahigashisen17
JR淡路駅
(左)高架下に駅舎を配置
(右)ホームは比較的余裕がある
 

おおさか東線の沿線風景のハイライトは、何と言っても淀川を渡る長さ611mのトラス橋だろう。1929(昭和4)年の架橋で、小ぶりの下路ワーレントラスを18個連ねたさまは壮観だ。正式名称は淀川橋梁というのだが、左岸の地名にちなみ、地元では赤川(あかがわ)鉄橋の通称で親しまれてきた。複線仕様で造られた橋に対して、貨物線は単線だったので、空いている片側が長らく、両岸をつなぐ生活道路として利用されていたからだ。

Blog_osakahigashisen18
淀川橋梁は沿線風景のハイライト
Blog_osakahigashisen19
回送の電気機関車も渡る
 

新線の着工前に一度、実際に歩いて渡ったことがある。あくまで仮橋の扱いとあって、路面は鉄板敷き、高欄は木組みの簡易な造りで、幅はわずか1.8mと人がすれ違える程度の広さしかなかった。バイクは通行不可で、自転車も降りて渡るよう立札があるものの、距離が長いので従っている人は誰もいない。さらにジョギングコースにしている人も少なからずいるようで、生活に溶け込んだ橋の存在を感じることができた。

淡路駅で降りたついでに、久しぶりに川の堤を上ると、旅客新線を通すというのに、鉄橋は上塗りが剥がれ、赤白まだらの、まるで廃橋のような姿で使われていた。再塗装に予算が回らなかったか、まだ必要ないと判断されているのかはわからないが、新しく架けられた他のトラス橋に比べると、ちょっとみすぼらしい(下注)。

*注 赤川鉄橋の北詰にあった亀岡街道踏切は廃止され、すぐ脇にアンダーパスが造られていた。

Blog_osakahigashisen20
淀川橋梁の現在と過去
(左)複線が敷かれた橋梁
(右)赤川仮橋があった頃(2013年3月撮影)
 

淀川を渡り終えれば、次は城北公園通(しろきたこうえんどおり)だ。すぐ南で交差する街路の名を採っているのだが、公共交通としては市バスしかなかったエリアにとって、待望の鉄道駅だ(下注)。西側の小さな商店街には蕪村通りの名があった。旧 毛馬村が与謝蕪村の生誕地であることにあやかっているのだが、このあたりで昔の風情を偲ぶのは難しい。

*注 ただし、城北公園通を通る市バス(大阪シティバス34号系統)は梅田に直結し、かつ頻発しているので、鉄道より便利なのは間違いない。

Blog_osakahigashisen21
城北公園通駅
(左)自転車置き場はすぐ満杯になりそう
(右)蕪村通り商店街にも祝いの横断幕が
Blog_osakahigashisen22
高架の足回りは貨物線時代のまま
 

しばらくは直線区間だが、先頭車両のかぶりつきで見ていると微妙に曲がっていて、定規で引いたような南区間とは様子が違う。南区間はかつて、近鉄大阪線を乗り越した後、地上を走っており、旅客線化に伴い複線高架を新たに立てた。それに対して、北区間はもともと築堤上の単線で、基本的に腹付けにより複線化したので、まっすぐとはいかなかったのだろう。ちなみに大阪市都島区と旭区の境界も、この線路の東側に沿って引かれており、こちらはみごとに直線的だ。

Blog_osakahigashisen23
微妙に曲がる線路
城北公園通駅ホームから南望
 

JR野江(のえ)は、京阪の野江駅に近いが、家が建て込んで互いに見通せない。京阪とJRを乗り継ごうとする人はふつう京橋駅まで行くから、実害はないのだろう。ホームにいたら、目の前をごうごうと貨物列車が通過した。結構長いコンテナ貨物で、改めてここが貨物との共用であることに気づく。

Blog_osakahigashisen24
JR野江駅
(左)京阪駅は奥へ200m
(右)開業を知らせる幟もあちこちに
 

左から片町線(学研都市線)の複線が近づいてきた。鴫野(しぎの)~放出(はなてん)の1駅間は両線が並走する区間だ。鴫野ではホームがまだ路線別だが、その後、片町線上り線(木津方面)がおおさか東線の複線を乗り越して、左外側に移る。これで方向別配線となり、放出駅では、新大阪から四条畷方面、また久宝寺から京橋方面が同一ホームで乗り継ぎできるようになる。さらに放出の先で、片町線下り線(京橋方面)が右外側からおおさか東線をまたいで、X字交差が完成するのだ。歴史の古い片町線が新参路線を乗り越す形にしているのは、貨物列車の走行ルートに極力勾配を入れない配慮だろう。

Blog_osakahigashisen25
(左)ときに貨物列車も通過、JR野江駅にて
(右)新規区間の南端、放出駅
 

放出では3分停車する。その間に隣のホームに片町線の区間快速が到着して、乗客の移動があった。なるほど、この停車は単なる時間調整ではなく、両線の列車を接続させるための待ち時間のようだ。日中は両線とも15分間隔の運行なので、上下ともこうした乗継ぎが可能なダイヤになっている。尼崎駅の絶妙な相互接続のノウハウが、ここにも移植されているとは知らなかった。

放出から先は既存区間だが、11年ぶりに足を踏み入れて、全線通しの初回乗車を楽しんだ。新大阪を発って34分で、電車は終点の久宝寺に到着した。

Blog_osakahigashisen26
久宝寺では奈良行き列車(左側)に同一ホームで接続
 

奈良方面へは、ここで関西本線(大和路線)の列車に接続しているし、先述の直通快速も1日4往復ながら走る(下注)。それで駅貼りのポスターも、「直結!おおさか東線、新大阪に奈良に」をアピールする。とはいえ、新幹線沿線から奈良へは、京都で近鉄奈良線に乗り換えるルートがとうに確立している。西から新大阪止まりの「みずほ」などで来る人も、数少ない直通快速の時刻に合わせて行動する人はほとんどいないに違いない。

*注 直通快速はこれまで放出からJR東西線経由で尼崎へ向かっていたが、おおさか東線全通を機に新大阪へ行先が変更された。

Blog_osakahigashisen27
新大阪と奈良の直結を
アピールするポスター
 

その意味でおおさか東線は、今のところ観光客よりも通勤通学客の期待を背負ってスタートしたと言うべきだろう。新大阪を通る東海道線(JR京都線・神戸線)は、今や私鉄を凌駕して京阪神間の旅客輸送における大動脈となっている。そこに直接接続する意義は大きいし、朝夕混雑を極める大阪駅や梅田駅での乗換えを回避できるのもメリットだ。将来的には、梅田貨物駅跡地で整備中の、いわゆる「うめきた新駅」まで運行が延長される予定だというから、その傾向はさらに強まるだろう。

一方、観光客を呼び込むには、直通快速の利便性向上が鍵になる。しかし、すでに大阪環状線内から大和路快速が15分間隔、京都からのJR奈良線みやこ路快速も30分間隔で走っている。それほどの高頻度ダイヤが、おおさか東線にも適用される日が来るとは思えないのだが。

■参考サイト
淀川橋梁付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.688100/135.563200

★本ブログ内の関連記事
 新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間

 2019年開通の新線
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II
 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸
 新線試乗記-相鉄・JR直通線

2018年10月25日 (木)

コンターサークル地図の旅-豊橋鉄道田口線跡

Blog_contour3301
田口線の忘れ形見モハ14
 

廃線跡が遠からずダム湖の底に沈む、という話を聞いたのは、確か2年前、巴川の谷中分水(下注)を見に行ったときだった。鉄道が通っていた渓谷に大規模なダム建設が計画されており、ちょうどルートを横切る形で造られるため、それより上流側が水没して、二度と見られなくなってしまうというのだ。

*注 谷中分水の訪問記は「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」にある。

鉄道は豊橋鉄道田口線といい、現 JR飯田線の本長篠(ほんながしの)から三河田口(みかわたぐち)まで22.6kmを結んでいた。沿線にあった広大な御料林の木材搬出や鳳来寺への観光輸送を目的として、1929(昭和4)~1932(昭和7)年に順次開通した。

当初は田口鉄道が運営していたが、戦後、1956(昭和31)年に名鉄系列の豊橋鉄道に合併されて、上記の名称となった。しかし、木材輸送のトラックへの移行や過疎化による人口減少などの影響で、運輸実績が落ち込み、1964(昭和39)年にバス転換の方針が示される。折悪しくその翌年、台風による土砂災害で、最奥部の清崎(きよさき)~三河田口間が不通となった。さらに1968(昭和43)年に田峯(だみね)~清崎間も同様の被害に見舞われたことで、復旧の願い空しく全線廃止されたのだ。

Blog_contour33_map1
田口線現役時代の1:200,000地勢図(1969(昭和44)年修正図)
 

2018年10月14日、コンターサークル秋の本州旅の初日は、この廃線跡を追いかける。用地買収や家屋移転がほぼ終わり、ダムの事業工程がいよいよ本体にかかり始めており、今回がおそらく見納めになるだろう。

ちなみに、ルートを追うことができる地形図は、1:50,000が最大縮尺だ。1:25,000は初刊が1970(昭和45)年編集のため、タッチの差で鉄道は描かれなかった。ただし初刊図の段階では廃線跡の大半がまだ手付かずで、幅員1.5m未満の道路記号を使って明瞭に示されている。1:50,000を補完する意味で、以下では大いに利用している。

豊橋からJR飯田線の普通列車に乗った。のんびりと対向列車待ちもあって、終点の本長篠まで1時間20分かかった。電車で来た浅倉さんと私、そして改札前で待っていてくれた外山さん、この3名が本日の参加者だ。この廃線跡に詳しい外山さんが、クルマで見どころを案内してくださる。

Blog_contour3302
JR本長篠駅
右写真の、今は使われていない左(駅舎側)のホームに田口線が発着していた
 

朝方の雨で路面はまだ濡れているが、雲間から早や青空も覗き始めた。まずは鉄道の終点だった田口に向かって、車を走らせる。県道長篠東栄線から国道257号線へとつなぐ道路はまさに鉄道の通過ルートに沿っていて、クルマの外を流れる景色が、乗ることの能わなかった列車の車窓とだぶって見える。

田口の町は、周辺を流れる河川の活発な浸食によって孤立した高原の小盆地に立地する。その町並みからさらに高い丘の上にある奥三河郷土館を訪れた。ここには田口線の関連資料も保管されているので、美幸線のときのように(下注)探索の前に目を通しておきたいところだが、あいにく移転準備のために長期休館中だ。

*注 美幸線の廃線跡訪問記は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」参照。

ただ幸いなことに、前庭に展示されている田口線の旧車両モハ14は、観察が可能だった。屋根が架かっているので、保存状態もいい。窓から内部を覗くと、片側のロングシートを外して、資料の展示スペースにしてあるのがわかる。行先標は「清崎(三河田口)」と記され、廃止直前の様子を再現しているようだ(下注)。郷土館とともにこの車両も移設される予定だが、新館の建設地、つまり引越し先がほかならぬ清崎だというのは、話が出来過ぎている。

*注 晩年の3年間、不通となった清崎~三河田口間はバスで代行され、列車は清崎止まりだった。

Blog_contour3303
奥三河郷土館の前庭に静態保存されているモハ14
 

町を通り抜け、森の中のつづら折りの急坂を下る。旧 三河田口駅が設置された場所は、豊川上流の寒狭川(かんさがわ)が長い時間をかけて刻んだ深い谷底で、町との高低差は100m以上もあった。狭い川岸にダム工事用の仮設道路や転流工と呼ばれる水路トンネルが姿を現すなか、旧駅舎とホームの土台の一部が奇跡的に露出している。

その脇に、田口線の年表をはじめ、駅構内図、昭和35年ごろの町の施設配置図など、興味深い資料を掲げたにわか作りの案内板が立っていた。今年は廃線50周年に当たり、駅跡にもそのことを告げる幟が多数、風にはためいている。「今日はこの廃線跡を全線踏破するイベントをやっているはずです」と外山さんが言う。「田口を8時半出発なので、途中どこかで出会うと思いますよ」。

Blog_contour3304
(左)三河田口駅跡、下段が線路敷、中段がホーム、上段が駅舎の基礎
(右)現役時代の駅(現地案内板を撮影)
Blog_contour3305
三河田口駅構内図(現地案内板を撮影)
Blog_contour33_map2
清崎~田口間の新旧地形図
(左)田口線現役時代の1:50,000(1957(昭和32)年)を2倍拡大
(右)現在の1:25,000(2014(平成26)年)、廃線跡は幅員3.0m未満の道路記号で描かれる
 

廃線跡は、渓谷に沿う1車線の舗装道に転用され、清流の音を聞きながら歩ける絶好のハイキングコースになっている。しかし、ダムの予定地である最初のトンネル(旧 大久賀多第二隧道)の手前までは、赤のカラーコーンや注意を呼び掛ける立て看板が点々と置かれ、もはや工事現場そのものだ。トンネルは下流側にあるため、水没こそ免れるが、関連工事でやはり崩される運命にあるらしい。

Blog_contour3306
工事現場と化した廃線跡
(左)駅跡近くに工事用仮設道路が立ち上がる
(右)ダム本体の予定地では転流工を建設中
Blog_contour3307
渓谷沿いの廃線跡と旧 大久賀多第二隧道
(左)北口 (右)南口
 

道を下っていくと、次の旧 大久賀多第一隧道があった。清崎までの間にこうしたトンネルが計6本あるが、昭和初期の建設なので、ポータルは煉瓦積みではなく、飾り気のないコンクリート製だ。しかし、このトンネルは内部が素掘りのままだった。側壁に電線の碍子も残されていて、出自を彷彿とさせる。

Blog_contour3308
旧 大久賀多第一隧道
(左)内部は素掘りで、電線の碍子が残る
(右)南口、小さな滝が落ちていた
 

やがて渓谷が大きく蛇行する区間にさしかかった。線路はこれを2本のトンネル(入道島第二隧道、同 第一隧道)とその間をつなぐ1本の鉄橋(第四寒狭川橋梁)でショートカットする。橋は4径間のプレートガーダー橋だが、河原へ降りて仰ぎ見ると橋脚はかなりの高さで、大掛かりな工事であったことが実感される。「帝室林野局が工費の半額近くを負担したので、実現した鉄道なんです」と外山さん。

Blog_contour3309
旧 第四寒狭川橋梁
(左)奥の明るい部分が橋梁。橋は2本のトンネルにはさまれている
(右)寒狭川を斜めに一跨ぎ
Blog_contour3310
旧 第四寒狭川橋梁
橋脚はかなりの高さがある
 

トンネルの後は高い築堤を築きながら徐々に下降していき、田内隧道をくぐり、川を斜めに渡る。この第三寒狭川橋梁も、5径間のガーダーがそのまま残り、鉄道の雰囲気が濃厚だ。

Blog_contour3311
清崎駅手前の旧 第三寒狭川橋梁
(左)現在は箱上橋または辨天橋の名で呼ばれる
(右)プレートガーダーが鉄道の雰囲気を残す
 

所期の目的を果たしたので、橋を眺められる川原で昼食を広げた。私はいつもコンビニおにぎりなのだが、今日は珍しく、豊橋駅で壺屋の稲荷寿しを買ってきている。

Blog_contour3312
豊橋駅名物、壺屋の稲荷寿しを昼食に
 

この清崎から少しの間、廃線跡は国道257号線に「上書き」されてしまう。次に姿を見せるのは、国道の清嶺トンネルの下流側だ。鉄道としては清崎第三隧道なのだが、南口だけが残っていて、崩れてきた土砂のために、内部は水に浸かっている。蒼く澄んでいるものの、かなり深そうだ。左岸に延びる廃線跡は荒れているので、田峯側からアプローチすると、沢を渡る短い橋梁の鉄桁が残っていた。

Blog_contour3313
(左)清崎第三隧道南口は蒼い水が溜まる
(右)沢を渡っていた橋梁の鉄桁が残存
Blog_contour33_map3
田峯~清崎間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000
(中)廃止直後の1:25,000(1970(昭和45)年)、廃線跡が明瞭に描かれる
(右)現在の1:25,000、廃線跡の大半が図上から消えた
 

森林鉄道が接続していた旧 田峯駅を出た後、鉄道はまた寒狭川を渡る。4度目の渡河だがこれが最後で、もう寒狭川の谷に戻ることはない。惜しいことに鉄橋(第一寒狭川橋梁)も、それに続く路線最長の稲目隧道(1511m)も、県道として拡幅改修されたため、昔の面影は消失している。

Blog_contour3314
田口線のそれを拡幅改修した県道富栄設楽線の稲目トンネル
 

旧 滝上(たきうえ)駅付近では、例の廃線跡ウォークの参加者と思しき集団を見かけた。三河田口からすでに10kmは来ているが、本長篠までの道のりにすればまだ半ばだ。心の中でエールを送りつつ、先を急ぐ。

ここで廃線跡は国道から分かれて、しばらく海老川の右岸を南下する。旧 海老駅の南側からは1車線の舗装道になるので、寄り道した。少し走ると、山水画にでも出てきそうな切り立った断崖が行く手を遮っているのが見えてきた。鉄道の双瀬隧道がそれを果敢に貫いている。クルマから降りて、「ぜひ見てもらいたかった場所です」という外山さん推薦の絵になる景色をしばし嘆賞した。

Blog_contour3315
切り立った断崖を貫く旧 双瀬隧道
北口のポータルは斜めに切られた珍しいもの
Blog_contour33_map4
三河海老周辺の新旧地形図
 

その後、廃線跡はすんなり海老川の谷を下りきると思わせて、旧 玖老勢(くろぜ)駅からまた山越えにかかる。鳳来寺の参道に近づけるためのルート選択なのだそうだ。鳳来寺小学校の脇から踏み分け道を森の中へたどると、高い築堤が昼なお暗い谷を横切っていた。これが廃線跡で、左カーブで切通しを抜けて、路線第二の長さがあった麹坂隧道(441m)の北口に通じている。50年も経つにしては、藪に埋もれることなく、難なく歩ける明瞭さを保っているのが不思議だ。

これに対して隧道の南口は、巴川の谷中分水を巡検した帰りに立ち寄ったことがある。バリケードで封鎖されていたものの、内部は崩れずにこの北口まで今でも貫通しているらしい。

Blog_contour3316
昼なお暗い谷を横切る麹坂隧道北側の築堤
(左)旧道が築堤の下をくぐる
(右)線路敷は今も明瞭さを保つ
Blog_contour3317
(左)麹坂隧道北側の切通し
(右)麹坂隧道北口、坑内の湧水が流れ出る
Blog_contour33_map5
鳳来寺~玖老勢間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000(1960(昭和35)年)
(中)廃止直後の1:25,000(1975(昭和50)年)、万寿隧道の前後は描かれていない 
(右)現在の1:25,000(2016(平成28)年)、遊歩道となった区間を除き、図上で廃線跡を追うことはできない
 

次に案内してもらったのは、三河大草駅跡だ。鳳来寺駅から山を越えて、本長篠へ降りていく長い下り坂の途中にある。線路はこの区間で、高度を稼ぐために谷筋を離れて、山手を迂回する。それで、のどかな山田の風景を串刺しにするように、廃線跡のトンネルと高い築堤が横切っているのだ。

そのトンネルの一つ、大草隧道を南へ抜けたところ、薄暗いスギ林に包まれて、苔むした石積みのプラットホームが残っていた。辺りは背筋が寒くなるほどひと気がなく、ここで電車を待つのは勘弁願いたいところだ。ところが、崩れかけたホーム越しにトンネルが明るく透けて見えるのが幻想的だと、今やインスタ映えする景色を求めて、わざわざ写真を撮りに来る人がいるという。

Blog_contour3318
富保、大草両隧道の間で谷を渡る築堤

Blog_contour3319
三河大草駅跡
(左)南望
(右)北望、薄暗い森の中でトンネルだけが透けて見える

Blog_contour33_map6
本長篠~万寿隧道間の新旧地形図
 

最後に、県道長篠東栄線の脇に立つ石積みの高い橋脚のところで車を停めた。川と道路を一気にまたいでいた大井川橋梁の遺構だが、上空に渡されていたはずの橋桁はとうになく、橋脚だけがひとり谷間から天を仰いでいる。この後、田口線跡は再び1車線の舗装道として復活する。そして短い旧 内金隧道を経て、桜並木の間を緩くカーブしながら、ゴールの本長篠駅へ近づいていく。

Blog_contour3320
県道脇で天を仰ぐ旧 大井川橋梁の橋脚
Blog_contour3321
桜並木に続く旧 内金隧道
 

廃線跡ウォークなら7時間はかかる行路を駆け足で巡る旅だったとはいえ、谷を縫い、山をいくつも越えて、ここまで出てくる道のりの険しさ、遠さは想像以上のものがあった。鉄道廃止が取り沙汰された当時、地元では強い抵抗があったそうだ。それは歴史あるものに漠然と抱くノスタルジーを超えて、この難路を45分ほどで走破していた田口線に対する信頼度の高さという現実を示していたのではないか。路線が有していた存在意義は、今なら理解できる気がする。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田口(平成26年調製)、海老(昭和45年測量および平成25年調製)、三河大野(昭和50年修正測量および平成28年調製)、5万分の1地形図田口(昭和32年要部修正測量)、三河大野(昭和35年資料修正)および20万分の1地勢図豊橋(昭和44年修正)を使用したものである。

■参考サイト
田口線(田口鉄道)、今蘇る http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
設楽ダム工事事務所 http://www.cbr.mlit.go.jp/shitara/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車
 コンターサークル地図の旅-曽爾高原
 コンターサークル地図の旅-国分寺崖線
 コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

 コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水
 コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と周辺の交通土木遺産

より以前の記事一覧

2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

BLOG PARTS

無料ブログはココログ