日本の鉄道

2024年7月10日 (水)

祖谷渓の特殊軌道 I-奥祖谷観光周遊モノレール

ここで取り上げる奥祖谷観光周遊モノレールは、2022年4月以来、休業が続いている。乗りごたえのあるユニークな乗り物だったので、たいへん残念だ。早期の復活を祈りつつ、2018年10月に訪れたときのようすを振り返りたい。

比高1000mにも達する険しいV字の谷、崖際を心細げにたどる一本道、見上げるほどの高みに点々と張りつく集落…。徳島県西部に位置する祖谷渓(いやだに)は、広域合併で住所が三好(みよし)市になった(下注)というものの、今なお秘境と呼ぶにふさわしいエリアだ。

*注 祖谷渓のかつての行政単位は、三好郡西祖谷山村(にしいややまそん)および東祖谷山村(ひがしいややまそん)。2006年に、池田町ほか3町と合併して三好市となる。

周辺で鉄道路線と言えるのは、山一つ隔てた吉野川本流に沿って走るJR土讃線が唯一だ。ところが、モノレールやケーブルカーといった特殊鉄道なら祖谷渓の中にも複数存在し、一般客を乗せているという。いったいどんな路線なのか、2回に分けてレポートする。

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秘境祖谷渓
(掲載の写真はすべて2018年10月撮影)
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図1 祖谷渓周辺の1:200,000地勢図
 橙色の枠は詳細図の範囲、図3は次回掲載
(右)1978(昭和53)年編集、(左上)1986(昭和61)年編集、(左下)1995(平成7)年要部修正

 

奥祖谷観光周遊モノレール

阿波池田からレンタカーで国道32号線を南下する。大歩危(おおぼけ)で左折して、ヘアピンカーブの県道を上り詰め、長さ967mの祖谷トンネルを抜ければ、そこはもう山深き祖谷渓だ。整備された2車線道路はかずら橋の入口で終わり、その先は対向不能の狭隘区間が断続的に現れる難路になる。大歩危から延々1時間以上も走った後、菅生(すげおい)地区で脇道に折れ、向かいの山腹をさらに上っていく。こうしてようやく今日の宿「いやしの温泉郷」に着いた。

ちなみに公共交通機関で行く場合は、阿波池田または大歩危駅前から久保行きのバス(四国交通祖谷線)に乗る。終点で三好市営バスに乗り換えて、菅生で下車、そこから徒歩で25~30分というところだ。

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祖谷渓の玄関口、大歩危駅
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祖谷渓の一大名所、かずら橋
 

ここまで来た目的である奥祖谷観光周遊モノレールの乗り場は、宿のすぐ裏手にある。泊まった翌朝、早めにチェックアウトを済ませて、そちらへ向かった。運行開始は8時30分(下注)だが、今は連休中で宿泊客も多い。当日の予定運行数が完売したら、時間内でも受付を中止するという、案内パンフの不穏な警告文が気になっていたのだ。

*注 2018年の運行時間は4~9月が8:30~17:00、10~11月が8:30~16:30だった。なお水曜は運休、また12~3月は全面運休。

8時前に係の人たちが出勤してきて、乗り場のシャッターが開いた。予想に反してその時刻にいた客は、わがグループのほかに家族連れが1組だけ。遅れて何組かやってきたが、皆ゆっくり朝食を楽しんでいたらしい。車両は2人乗りだが、4分間隔で出発するから、この人数なら1時間程度でさばけるだろう。

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観光モノレール駅舎
 

出札窓口で大人2000円の乗車券を買い求めた。悪天候に備えて雨具やカイロも売っている。駅舎は車庫を兼ねていて、走行線に並行する数列の留置線に、車両が数珠つなぎに停めてあった。走行線へはトラバーサー(遷車台)で移動させるのだそうだ。

まず朝の試運転機が、無人で1台出発していった。次が私たち3名で、始発機と2番機に分乗する。車両は1人席が直列に2個並んでいる。前面にカブトムシの目と角がついた遊園地仕様なのが、ちょっと気恥しい。

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乗車券窓口
雨具や使い捨てカイロも売っていた
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(左)車両は遊園地仕様
(右)留置線と本線に移動させるためのトラバーサー
 

出発に先立って、備え付けのトランシーバーの使い方について講習を受けた。人里離れた森の奥では携帯電話が通じないので、これが唯一の連絡手段になる。続けていくつかの注意事項を聞いた。

「シートベルトは常に締めておいてください。急な下り坂では転落する恐れがあるので、足を踏ん張り、前面のバーをしっかり握ってください。

運行状況により、自動で走行と停止を繰り返すことがあります。もし前方に停車中の車両を発見したら、停止ボタンを押してください。立ち往生した時は連絡をもらえば係員が向かいますが、山道を歩いていくので時間がかかります。最大3時間は待ってもらいますので、乗車前に必ずトイレに行っておいてください…。」

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乗り場
 

使われているシステムは、モノレール工業という会社(下注)が開発した産業用モノレールだ。みかん山などで見かける運搬装置(単軌条運搬機)を機能強化したものに他ならない。駆動方式は、主レールに取り付けられた下向きの歯棹に、車体側の歯車を噛み合わせる、いわゆるラック式だ。そのため急勾配に強く、性能上45度の登坂が可能だという。さらに右側に並行する平滑レールで車両を安定させ、左側の給電レールからはモーターの動力を得ている。

*注 モノレール工業株式会社(愛媛県東温市)は2010年7月に破産し、現存しない。

走るルートは延長4.6kmの周回線で、一周するのに65分かかる。しかも、観光周遊というのどかな名称にもかかわらず、実態は登山鉄道で、起点と最高地点との標高差が590mもある。上昇100mにつき気温は0.6度下がるので、3.5度の気温差が生じている計算だ。その間ずっと乗りっぱなしだから、トイレに関する指示も当然のことだろう。

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(左)車体を安定させるための補助輪
(右)駆動輪は上と下からレールを挟む
 

8時43分、出発の時間になった。係の人に見送られて駅舎を出ると、ループを回って杉の植林地に入っていく。

下り線が左側に揃い、複線になってまもなく、交差する林道を乗り越えるために最初の急坂が待ち受けていた。のけぞるような勾配をぐいぐい上るので、早くもラック式の威力を実感する。可動式の座席が、水平を保とうとして前傾するのもおもしろい。距離を所要時間で割った表定速度は毎分70m、時速にすると4.2kmだ。歩速並みのゆっくりしたペースだが、走りは着実で頼もしい。

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(左)交差する林道を急坂で乗り越える
(右)朝一番の試運転機が戻ってきた
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図2 奥祖谷観光モノレール周辺の1:25,000地形図
 

周囲はいつしか人工林から自然林に変わった。コナラ、イヌシデ、コシアブラなどと、樹種を教える名札がそこここに立ててある。ゆっくり観察する時間はないが、自然教室に来た気分だ。発車から約10分後、朝一番に出た試運転機とすれ違った。無事戻ってきたということは、この先の走行に障害がない証しだ。50mごとの標高値を記した札が、いつしか1000mを越えている。

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(左)沿線に樹種の名札
(右)50mごとの標高値を記した札も
 

往路の中盤では、小さな沢が右手に沿う。清水が勢いよく流れ落ち、水音が静寂の林にこだまする。何かの小屋を通り過ぎたところで、下り線が木々の間に消えていった。ここから頂上にかけて、大きなループ、すなわち環状線になっているのだ。

同じ線路でも単線になったとたん、心細さが募ってくるのは不思議だ。運行間隔からして280m四方には誰もいないはずだし、事実、先行している始発機も、最後まで姿を見かけることはなかった。それに乗っていた友人は、途中で鹿が走り去るのを目撃したそうだ。

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沢沿いに上る複線区間
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杉林の中で上下線が分かれる
 

地滑り跡にできたと思われる小さな沼地を通過。どこまで登るのだろう、とやや不安になった頃に、進行方向の視界が開けてきた。稜線に載り、少し上ったところが標高1380mの最高地点(下注)だ。地形的には、四国の屋根の一部をなす三嶺(さんれい)の、中腹に生じた肩の部分にあたる。時計を見ると9時15分、およそ30分かけて登りきったことになる。晴れた日にはこのあたりで東に剣山(つるぎさん)を望めると聞いたが、今日は霧が漂い、視界がきかなかった。

*注 モノレールのパンフレットに従い、1380mとしたが、地形図では、その付近に1385mの標高点が打たれている。

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(左)地滑り跡の沼地を通過
(右)最高地点付近は霧が漂う
 

復路は、下り一方かと思うとそうでもない。地形図の等高線でも読み取れるが、湿原のある小さな谷を巻いていく区間がある。勾配が落ち着き、少しほっとする数分間だ。しかしすぐに鵯(ひよどり)越えの逆落としのような急坂が復活し、上り線と合流する。

同じところをさっき上ってきたはずだが、下りのほうが傾斜感がはるかに強い。乗り場での注意を思い出して、手すりを握り、足を踏ん張った。ピニオンがラックレールとしっかり噛み合っているので、下りでもジェットコースターのような加速はしないから安心だ。

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復路で湿原のある谷を巻く
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(左)下りの急坂
(右)上りより傾斜感が強調される
 

この間に後発機と何度かすれ違う。手を降り返したりするうちに、孤独感はいつのまにか薄れていた。再び林道をまたいで右に曲がると、ゴールの駅舎が見えてくる。9時46分に無事帰着。

秘境奥祖谷の山中を行くこのモノレール、65分の乗車時間は子供連れには長すぎるという意見も目にする。確かに、長時間座席に固定される割には、気晴らしになる眺望も少ないから、レジャー向きとは言えないかもしれない。しかし、林野の植生や山岳地形に興味のある人なら、退屈している暇はないだろう。いわんや、学校で社会科の地図帳に架空の鉄道を落書きしていたような線路好きの私にとっては…。

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ゴールの駅舎が見えてきた
 

次回は、より小規模なモノレールと、温泉宿のケーブルカーを訪ねる。

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.17(2021年)に掲載した記事「祖谷渓の「鉄道」巡り」に加筆し、写真と地図を追加したものである。
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図徳島(昭和53年編集)、剣山(昭和53年編集)、岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2024年6月15日取得)を使用したものである。

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2024年6月16日 (日)

鶴見線探訪記 II

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旭運河を渡る鶴見線205系
 

海芝浦支線

大川支線を往復した後、海芝浦(うみしばうら)行の待ち時間を利用して国道駅と鶴見駅を見に行った(全体の行程は本稿末尾に記載)のだが、それは後述するとして、先に海芝浦支線の話に進もう。

この支線の接続駅は、安善駅の一つ鶴見寄りの浅野だ。駅名は、臨港鉄道を設立した浅野財閥の浅野総一郎にちなんでいる。支線の分岐点は駅の東側(鶴見側)にあるので、鶴見発、海芝浦行きの下り列車は、駅到着前に右にそれ、急曲線上に設置された支線上の3番線に停車する。ここはまだ複線なので、向かい側に上りの4番線がある。

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(左)海芝浦支線が複線で右へ分岐
(右)浅野駅も上下別ホーム(復路で撮影)
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海芝浦支線周辺
 

浅野9時37分発。車内は早くもがらがらだった。長い直線路に入ると、左手にちらちらと海が見えてくる。海といっても運河だが、工場や操車場のような潤いの乏しい景色を通り抜けてきた後なので、印象は新鮮だ。

新芝浦駅に停車した後、渡り線があって単線になった。右隣の線路は工場への引込線だが、もはや草むらと化し、レールはほとんど見えなくなっている。埋め立て地の角で再び90度向きを変えると、もう目の前が終点の海芝浦駅だった。

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(左)新芝浦駅の後、単線に
(右)工場用地と海に挟まれた終点、海芝浦駅
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片面ホームは京浜運河に臨む
 

片面ホームに降り立てば、柵の後ろはさざ波揺れる京浜運河の水面だ。対岸は扇島で、向こうのほうに首都高速湾岸線の斜張橋、鶴見つばさ橋、さらに横浜ベイブリッジの高い主塔も望める。人工物ばかりとはいえ、海を隔てて見るとそれなりにいい眺めだ。

海芝浦駅の特色は、電車とともに、乗客にとっても行き止まりであることだろう。鉄道用地を含めて東芝の社有地で、駅舎のように見える建物は東芝関連会社の通用門だ。同社の従業員や事前に入構許可を得た人でなければ、駅の外に出ることはできない。

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ホームから南西望
横浜ベイブリッジの主塔も見える
 

ここまで来る人ならそれは先刻承知の上だと思うが、せめてゆっくり海を眺められるようにと、駅の続きにある短冊形の社有地に、海芝公園という休憩地が設けられている。狭いながらも庭木が植わり、ベンチも置かれて、親切な案内板が目の前の風景を説明してくれる。

都会のオアシスとして有名なスポットなので、この列車でもほかに2組、訪問客があった。9時41分に到着して、折り返しは9時56分発。わずか15分の慌ただしい滞在だったが、多少なりとも心のデトックスになった気がする。ちなみにこの支線も日中は列車が少なく、次は1時間20分後だ。

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駅の続きにある海芝公園
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公園の案内板
 

鶴見線本線

残るは本線だが、大川支線からの戻りで乗った鶴見~浅野間も含めて、起点から順に記すとしよう。

鶴見駅の鶴見線乗り場は、京浜東北線の階上コンコースから続く高架上にある。開設は1934(昭和9)年。鉄骨の大屋根に覆われた頭端式、2面2線の広いホームが、臨港鉄道時代の面影を伝えている。

コンコースとの間に中間改札があったはずだが、きれいさっぱりなくなっていた。なんとこの(2022年)2月末で廃止されたのだそうだ。鶴見線内の駅はすべて無人だが、そういえば乗車券の自販機も見当たらなかった(下注)。今や大多数がICカード利用なので、設置コストが見合わなくなったということか。

*注 ICカードを持たない客のために、乗車駅証明書発行機が各駅に設置されている。

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大屋根に覆われた鶴見駅の鶴見線高架ホーム
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(左)中間改札は撤去されていた
(右)朝の頻発時以外は手前の3番線を使用
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鶴見~国道駅周辺
 

朝の頻発時以外、列車の発着はコンコースに近い3番線が使われる。出発すると、直線路の先に黒ずんだ島式ホームの跡が見えてきた。鶴見総持寺の最寄りに設置されたかつての本山(ほんざん)駅だが、戦時中に廃止されたまま復活しなかった。

続いて背の高いトラス橋で、地上を走る線路の束を豪快に跨いでいく。なにしろここは運行系統でいうと、横須賀線・湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線(上野東京ライン)、東海道貨物線(相鉄・JR直通線)、さらに京急本線も並走するという名うての密集区間だ。線路の数でも10本に上る。鶴見線はこれらをひと息に乗り越して、海側に位置を移す。

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上下線の間に旧 本山駅のホームが残る
 

高架は続き、左に急カーブしながら最初の駅、国道(こくどう)に着く。珍しい駅名は、西側を横切っている京浜国道(第一京浜、下注)に由来している。地方私鉄らしい明快さだが、単に「国道」だと普通名詞だから、英語なら定冠詞をつけるところかもしれない。

*注 現在は国道15号だが、1952年以前の旧 道路法では国道1号。

名前もさることながら、駅の構造物も興味をそそる。一つは、ホーム屋根を支えている梁だ。架線ビームを兼ねさせるためか、浅いアーチで線路の上をまたいでいて、古い商店街のアーケードのようだ。

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国道駅、線路をまたぐアーチの梁
 

さらに興味深いのが地上部で、ホームから階段を降りきると、高架下に長さ約70mの薄暗い道が延びている。京浜国道と、一筋東を並行する旧東海道とをつないでいる通路だが、すすけたコンクリートアーチの列、鈍く光る天井灯、ベニヤ板が無造作に張られた側壁に、太い筆文字が踊る商店の看板と、あたかも時が止まったかのような稀有な空間だ。見た目はちょっと怖いが、海芝浦駅と並ぶ鶴見線の名所なので、一列車遅らせてでも行ってみる価値がある。

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高架下の通路に駅入口がある
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(左)時が止まったような通路
(右)旧東海道側の通路入口
 

国道駅の先で鶴見川を渡った後は、しばらく住宅地が車窓をよぎる。鶴見小野はその間にある駅だ。左に曲がると、旧 弁天橋電車区の留置側線群が左手に見え、いよいよ工業地帯に入っていく。島式ホームの弁天橋駅は、降車客が多かった。その次が、先ほど降りた浅野駅になる。

この前後は直線ルートで、ボートが繋がれた旭運河をはさんで、短い間隔で駅が連なっている。小ぢんまりした島式ホームに構内踏切で渡るのも小私鉄らしくていい。

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(左)浅野駅に隣接する旭運河
(右)安善駅の構内踏切から
 

安善を過ぎ、武蔵白石からは一転、左カーブで内陸へ入っていく。臨港鉄道開業当時、すでに川崎駅からの貨物線(現 東海道貨物線の一部区間)が存在していたので、それに接続するためのようだ。

右側から鶴見線を乗り越していく高架は、東海道貨物線の川崎貨物駅に至るルートだが、とうに廃墟化している(下注)。こうした連絡線路といい、沿線の広大なヤードといい、鉄道貨物輸送が盛んだったころに造られた施設が、なかば遺構になって静かに時を刻んでいるのも、この路線の典型的風景だ。

*注 このルートの武蔵白石寄りに、低位置で道路を横断している線路を引き上げるための昇開橋設備が残っている。

浜川崎駅を出ると、上り線と下り線が合わさり、あとは単線になって進んでいく。JR貨物の浜川崎駅になっているヤードの右端を通過して、右に大きくカーブする。南渡田(みなみわたりだ)運河を渡り終えたところに、片面ホームの昭和駅がある。再び右へ曲がり、がらんとしたヤードの、今度は左端を直進していくと、まもなく終点の扇町駅だ。

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(左)がらんとしたヤードの横を行く鶴見線(左の線路)
(右)直進するとまもなく終点
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扇町駅周辺
 

ホームには1両分の片流れ屋根が架かっている。だが、列車は、先頭車両の扉2枚がようやくその下に入る位置で停止した。車止めまで少し距離があるが、線路に生えた草丈が高すぎてこれ以上は進めないといった風だ。降りたのは私を含め5人だけ。そのうち2人は折返し組だった。突き当りに、平屋ブロック張りの簡易な駅舎が建っているが、もちろん無人で、窓口の形跡すらない。

扇町では、どの列車も折返し時間がわずかだ。この列車も10時47分に着いて、早くも10時50分に出ていってしまう。しかも次は、海芝浦と同じく1時間20分後だから、私も列車で帰るのははなから諦めている。

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扇町駅に到着
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(左)草むらに前進を阻まれる列車
(右)駅舎正面
 

調べてみて初めて知ったが、川崎市の南部一帯には、鶴見臨港鉄道のバス部門をルーツとする川崎鶴見臨港バスの路線網がある。鶴見線沿線と川崎駅との間には、日中でも10~15分間隔という高頻度でバスが走っているのだ。鉄道を補完するフィーダー輸送どころか、バスのほうが市民の主要な足で、鉄道は朝夕の大量輸送だけを引き受けているというのが実態らしい。

扇町も例外ではなく、川22系統のバス路線が延びてきている。JRには悪いが、10分待てば来るのだから利用しない手はない。扇町駅の最寄り停留所が「ENEOS株式会社川崎事業所前」のところ、終点の「三井埠頭」(これも会社名)まで少し歩いて、川崎駅行きのバスを捕まえた(下注)。

*注 三井埠頭~川崎駅間は所要24分。なお、川崎市バスの川13系統の終点も「扇町」だが、工場を挟み、駅とはかなり離れている(上図参照)。

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臨港バスの三井埠頭バス停
 

始発の時点では、乗客は私一人だ。しかし、別のバス停で乗ってきたビジネスマンの二人連れが、「すいてるけど、すぐに満員になるからね」と話しているのが聞こえてきた。その言葉どおり、町中に入るとバス停に着くたびにどんどん客が乗り込んでくる。平日の日中というのに、川崎駅に近づくころには座席はもちろん、通路も人でいっぱいになっていた。鉄道の周りに見えていたものとはまったく違う光景だった。

 

【参考】鶴見線全線乗車の行程(2022年9月、平日ダイヤ)

川崎 7:44発→尻手 7:47着/7:53発→浜川崎 8:00着/8:16発→安善8:20着/8:36発→大川8:40着/8:51発→国道9:02着→(徒歩、旧東海道経由)→鶴見9:30発→海芝浦9:41着/9:56発→浅野10:00着→(徒歩、旭運河で撮り鉄)→武蔵白石10:41発→扇町10:47着→(徒歩)→三井埠頭11:02発→(バス)→川崎駅11:26着

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鶴見線と周辺の路線網
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.19(2023年)に掲載した同名の記事に、写真を追加したものである。
掲載の地図は、地理院地図(2023年1月25日取得)を使用したものである。

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 鶴見線探訪記 I

2024年6月13日 (木)

鶴見線探訪記 I

2022年9月の終わり、東京へ出かけたついでに、久しぶりに鶴見線に乗りに行った。最後の乗車が1984年なので、かれこれ40年ぶりの再訪になる。

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鶴見駅に入る鶴見線205系電車
 

鶴見線は、東海道本線(下注)の鶴見駅を起点とする全長9.7kmのJR線だ。浜川崎(はまかわさき)を経て扇町(おうぎまち)に至る本線7.0kmと、途中で海側へ分岐する海芝浦支線1.7km、大川支線1.0kmから成っている。

*注 所属路線は東海道本線だが、実際には京浜東北線の電車しか停車しない。

時刻表の路線図だけ眺めれば、ベイサイドラインとでも呼びたいところだが、実際の線路は終始、工場群を縫っていて、見栄えのする観光スポットもなければ、ショッピング街もない。主たる役割は、湾岸に広がる京浜工業地帯のこうした工場群への通勤客輸送で、一般客にはなじみの薄い路線だ。

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鶴見線と周辺の路線網
 

路線は1926(大正15)年に、私鉄の鶴見臨港鉄道として開業している。当時造成中だった鶴見・川崎の湾岸工業地帯に路線網を広げ、川崎からの貨物支線や南武鉄道(後の南武線)との接続で貨物輸送を実施する傍ら、鶴見で京浜線(後の京浜東北線)と連絡して旅客輸送も行った。1943(昭和18)年に国有化されてからは国鉄鶴見線として運行され、JR東日本に引き継がれている。

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80周年記念の壁面パネル
鶴見駅4番ホームで撮影
 

役割が特化されているだけに、利用者が集中する平日の朝夕は列車本数が多い。対照的に平日の日中や休日は、都会のローカル線と称されるとおり、閑散としたものだ。末端区間では列車の走らない時間帯が長いので、乗りつぶしには事前の「行動計画」策定を必要とする。

全線を乗るだけなら半日もかからないが、分岐駅と終点駅では駅や周辺を写真に撮るので、10分程度の時間を見ておきたい。しかし、これは言うほど簡単ではない。終点に到着すると、5分前後で折返してしまう列車が多いからだ。

1本見送って次の列車で戻ればいいのだろうが、その列車がなかなか来てくれない。最難関は大川支線で、日中、列車の運行がまったくなくなる。朝の最終便が大川8時40分着、8時51分発、これを逃すと次は17時台だ。そのため、計画はいやおうなしに、大川駅を軸にして組み立てることになる。

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運河に面した支線終点、海芝浦駅

南武線浜川崎支線

早起きが苦手なので、川崎駅近くに前泊していた。浜川崎支線経由で鶴見線にアプローチするため、朝、川崎7時44分発の南武線電車で尻手(しって)駅まで行く。

浜川崎支線というのは南武線の一部で、尻手から浜川崎に至る4.1kmのミニ路線だ。私などは、かつて福知山線からちょろんと出ていた通称 尼崎港線を連想してしまうが、浮世離れしていた同線 (下注)ほどではないにしろ、日中の運行は40分間隔と、都市域にしては頻度が高くない。それで、本数が多い朝のうちに乗っておきたかった。

*注 尼崎港線は現在の福知山線のルーツだが、晩年は旅客列車が1日2往復で、1981年に旅客輸送廃止、1984年には路線廃止になった。

尻手駅の3番線で待っているうち、南から第二京浜をまたぐ橋梁を渡って、2両編成の205系が入ってきた。側面の窓下に、波の上を舞う五線譜とともに「NAMBU LINE」の文字が入っているが、もちろんこの支線専用の編成だ。

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南武線尻手駅
(左)浜川崎方から列車が到着
(右)側面に五線譜のラッピング
 

尻手7時53分発。通勤通学の時間帯とあって、さすがに立ち客も見られる。かぶりつきで前方を観察していると、列車は東海道線の上をしずしずと渡って、京急線と交差する八丁畷(はっちょうなわて)へ。その後、右手から急カーブで近づいてきた東海道貨物線が、川崎新町の前後で合流する。車内は、駅に着くたびにすいていき、渡り線で右にそれて、木造屋根が架かる浜川崎駅のホームに到着したときには、もう1両に数えるほどの人しか乗っていなかった。

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南武線浜川崎駅に到着
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浜川崎駅周辺
北側が南武線(浜川崎支線)、南側が鶴見線の駅
 

浜川崎は鶴見線との接続駅だが、よく知られているように駅舎は別々だ。乗換えには駅前道路の横断を必要とする。両駅の出入口にあるICカードの簡易改札機の前に、乗継の場合は「出場」にタッチしないでください、と掲示が出ている。出場してしまうと、運賃が打ち切り計算されるからだ。

鶴見線のほうの駅は島式ホームなので、入口はそのまま跨線橋の階段につながっている。階上通路の突き当りに簡易改札機が設置してあった。ホームへはここから降りるしかないから、バリアフリーの実現は難しい。そのため、駅を東側のヤードに移して、南武線・鶴見線の合同駅にする計画があるそうだ。

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(左)木組みのホーム屋根
(右)駅入口
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道路を隔てて向かいにある鶴見線浜川崎駅
(左)入口に改札はなく、跨線橋に直結
(右)跨線橋通路の突き当りに簡易改札機
  右折すると階段でホームへ、左奥はJFEスチール社の専用通路
 

大川支線

ともかく鶴見線までたどり着いたので、さっそく目下の最重要課題である大川支線に駒を進めたい。

鶴見線開業150年のヘッドマークをつけた8時16分発の上り鶴見行に乗り、安善(あんぜん)駅で下車した。鶴見臨港鉄道の設立を支援した安田財閥の創始者、安田善次郎の名を冠したという駅名だ。大川支線は本来、一つ東の武蔵白石が分岐駅だが、20m車導入の障害になっていた急曲線上のホームが1996年に撤去され、以来ここが実質的な分岐駅になっている(下注)。

*注 運賃計算上は、今も武蔵白石が分岐点とのこと。

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安善駅
(左)駅舎
(右)駅名標が分岐駅を示す
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武蔵白石駅
(左)改築された駅舎
(右)中央は貨物線、右に曲がる大川支線のホームは廃止済み
 

8時台は鶴見線も列車が多い。島式ホームで待っていた16分の間に見送った列車は、上り2本に下り2本。それに降りてくる人の服装も、会社員風ばかりではなかった。確かにこの駅の周辺には住宅街や職業訓練校があるから、通学やお出かけにも利用されているのだろう。

大川行は8時36分発だ。クモハ12(下注)は遠い昔の話になり、鶴見線内共通の205系3両編成で運行されている。行先表示が大川になっているだけで、さっき見送った列車と何ら変わらないのは少し寂しい。車内はロングシートがだいたい埋まっていて、手堅い需要に支えられていることを実感した。ただ、朝寝坊してしまうと、あとの列車がないのが辛いが。

*注 大川支線で1996年まで運用されていた昭和初期に遡る旧型電車。車体長が17mと短く、武蔵白石駅の急曲線ホームに対応できる貴重な車両だった。

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安善駅に大川行列車が入線
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大川支線周辺
 

駅を出ると、列車はすぐに本線の上り線に移る。武蔵白石の手前で隣の貨物線と交差し、そのまま急な右カーブに入っていく。工場群の中を道路と並行しながら、小さな運河を一つ渡ると、まもなく大川駅だった。

折り返しの発車まで11分の余裕がある。それでだろうか。駅に到着しても、すぐに腰を上げない人が少なからずいるのには驚いた。2~3分は動くそぶりも見せなかったので、私のような冷やかし客なのだろうかと怪しんだほどだ。

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列車前面展望
(左)武蔵白石駅の手前で大川支線に進入
(右)運河を渡るとまもなく終点(復路で後方を撮影)
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朝の最終便が大川駅に到着
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大川駅
(左)物置小屋然とした駅舎
(右)妻面には小屋が接続されていた跡が
 

ホームは片面で、1両分だけ屋根が架かっている。駅舎は物置小屋のようで、おおかた剝がれた白いペンキがみすぼらしい。壁に発車時刻表が貼ってあった。昼間はみごとに空白だ。土曜休日はさらに減って、朝2本と夕方1本のみになる。

そこで気の利いたことに、最寄りバス停「日清製粉前」までの案内図も掲げてある。後で調べたら、川崎駅との間に日中でも毎時1本のバスが走っているようだ。代替手段がちゃんと用意されていると思えば、安心して寝坊できるだろう。

周辺の観察を終えて車内に戻ると、一人だけ先客がいた。この人と私の二人だけを乗せて、列車はもと来た道を引き返した。

続きは次回に。

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(左)駅掲出の時刻表、列車は朝夕のみ
(右)最寄りバス停の案内図
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(左)折返しを待つ205系
(右)折返し便の閑散とした車内
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.19(2023年)に掲載した同名の記事に、写真を追加したものである。
掲載の地図は、地理院地図(2023年1月25日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 鶴見線探訪記 II

2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

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左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-s春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

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桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

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羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
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(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

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(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
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バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
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図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

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(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
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観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

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(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

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(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
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(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

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(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

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(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

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修復中のモハ103
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屋根の復元が進行中
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月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
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在りし日の三山線写真
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(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

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(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
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石田駅跡に残る桜の大木、西望
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
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図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

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石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
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(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

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羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

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(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

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白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
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図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

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寒河江川にかかるみやま橋
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(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

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三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

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三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

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楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
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図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

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展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
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楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
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同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

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旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
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夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-s春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

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第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

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朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

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明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
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図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

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西条駅
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(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

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鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

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道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

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大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
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(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

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(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
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旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

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旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

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(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
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新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

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(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

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廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
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図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

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(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

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潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
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(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

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漆久保トンネル東口
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小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

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(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

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けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

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谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
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(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

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三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
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(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
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道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すると、駅舎の前に出る。

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(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
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明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

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2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-s 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や徒歩では通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

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周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げされた。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

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柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ入った。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられているが、階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだろうが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だが、カーテンが引かれ、閉まっていた。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

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(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

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(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

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中ノ郷駅のホーム跡
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本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
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(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
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図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

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柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
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旧道沿いの本陣跡民家
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図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

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柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

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(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
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長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

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柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

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頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
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オリジナルのポータルが残る
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由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
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同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

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(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
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図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

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小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
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東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

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東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
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県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

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愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
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図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

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笙の川に残る橋台と橋脚の土台
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(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
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(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年(2023年)春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

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杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
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図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2024年4月25日 (木)

新線試乗記-北大阪急行、箕面萱野延伸

北陸新幹線延伸開業の翌週、2024年3月23日に、関西でも既存路線の延伸開業があった。北大阪急行電鉄南北線の千里中央(せんりちゅうおう)~箕面萱野(みのおかやの)間2.5kmだ。

新線の話題もさることながら、そもそも北大阪急行(以下、略称の北急(きたきゅう)と記す)という名称自体、関西圏以外ではなじみがないかもしれない。もとは1970年に大阪の千里丘陵で開催された万国博覧会の会場へのアクセスとして建設された路線で、博覧会終了後は、開発が進行していた千里ニュータウンの住民の足として機能してきた。

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箕面萱野駅を後にする北急9000系
 

しかし鉄道の知名度はともかく、そのポテンシャルは近隣の路線に勝るとも劣らない。というのも、線路は大阪メトロ御堂筋(みどうすじ)線につながっていて、事実上、同線の北の延長区間に当たるからだ(下注)。首都圏でいえば、メトロ南北線に直通している埼玉高速鉄道に似ている。

*注 駅ナンバーは両線通し番号で、頭にMがつく(M06~M30)。

いうまでもなく御堂筋線は、大阪の二大繁華街であるキタ(梅田周辺)とミナミ(心斎橋、難波周辺)、鉄道のジャンクションである新大阪や天王寺などを結んでいる鉄道の大動脈だ。北急の、標準軌で直流750V、第三軌条集電という規格・方式も同線のそれを踏襲したもので、乗換えなしに大阪都心まで到達できる便利さは、北急最大のアドバンテージになっている。

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大阪メトロ路線図(一部)
北急線は御堂筋線(赤色)の上部にある
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9000系ラッピング車
モミジで知られる箕面をアピールする
西中島南方駅から南望
 

冒頭に北大阪急行電鉄南北線と書いたが、北急の路線はこれ1本しかない。御堂筋線に接続する江坂(えさか)から、ニュータウンの中心である千里中央に至る5.9kmが従来の運行区間だ。大阪メトロ(当時は大阪市交通局)の新大阪~江坂間と同時に建設され、開業している(下注)。

*注 1970年2月の開業時は万国博中央口駅に至る路線だったが、終幕した9月に現 千里中央駅を終点とするルートに切り替えられた。

今回、これが北へ2.5km延伸された。線路は千里丘陵を越えて、北摂(ほくせつ)山地の手前に位置する箕面萱野駅に達した。きょうはその新規区間を含めて北急全線を、途中駅の観察を交えながら乗り通してみようと思う。

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延伸開業のポスター

新大阪で東海道線(JR京都線)から乗り継いで、地下鉄御堂筋線の広い島式ホームに上がった。地下鉄といっても、すでにここでは高架構造だ(下注)。ホームの北端にあるトレインビューの待合室から眺めると、架線やビームのないすっきりした線路が、新御堂筋(国道423号)の本線に両側を挟まれながらまっすぐ延びている。

*注 二つ手前の中津駅までが地下で、その後高架に上がり、淀川は橋梁で越えている。

延伸前まで御堂筋線の列車は、早朝深夜を除いて、新大阪か、千里中央で折り返す運用だった。しかし、今や千里中央の名は消えて、あらゆる案内表示が箕面萱野に置き換わっている。

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新大阪駅
(左)もう見られない千里中央行
(右)更新された路線図
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架線のない線路が北へ延びる
新大阪駅北待合室から北望
 

やってきたその箕面萱野行きに乗って、北へ向かった。両側の新御堂筋をクルマがひっきりなしに行き交い、その外側を中層のマンションや商業ビルがびっしりと取り囲む。東三国(ひがしみくに)に停車後、神崎川(かんざきがわ)を斜めに渡れば大阪市域を離れ、次が会社境界駅の江坂だ。

大阪メトロの管理駅はここまでで、短い停車時間に乗務員の交替が手際よく行われる。改札口はホームの両端にあり、出ると歩道橋で新御堂筋の側道(下道)をまたいで、側歩道に降りられるようになっている。

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江坂駅
(左)高架の島式ホーム
(右)歩道橋で側歩道に接続
 

下の写真は江坂駅の券売機コーナーだが、機械を大阪メトロと北急に分けているのが境界駅ならではだ。そのため、メトロ(地下鉄)の券売機の前で立ち尽くし、千里中央の切符はどうやって買うのか、と後ろに並ぶ客に尋ねている人を今でも見かける。

また、北急の運賃にも注目したい。1区わずか100円、千里中央まで6km乗っても140円だ。以前は1区80円だったと記憶するが、いずれにしろ破格値に違いない。ただし江坂を跨ぐと両社の運賃が合算(下注)されるため、相応の価格になる。これに対して、新規開業区間は60円の加算運賃が設定されて、1区160円だ。これでも他の公共交通に比べれば安い方だが。

*注 ただし短区間は、激変緩和策で合算額から20円割引。

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江坂駅の券売機コーナー
会社別に完全分離されている
 

さて、北急線に入ると新御堂筋が地上に降りていき、いったん鉄道単独の高架になる。トラス橋でまたぐ4車線道は名神高速道路で、この後30~35‰の急勾配で千里丘陵に上がっていく。緩いカーブでルートがやや西に振れているのは、東側の五里山(ごりやま)と呼ばれた尾根筋を避けたようだ。旧版地形図によればピークの標高は83.1mあり、今も一部は均されずに残っている。

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緑地公園駅に接近する上り列車
 

進むうちに新御堂筋のほうがじわじわと高くなり、次の緑地公園(りょくちこうえん)駅は掘割の中にある。ホームから空は見えるが、屋根の上は新御堂筋の本線道路だ。改札口も周囲の土地より低い位置にあるため、街路からは階段を降りて入る形になる。

唯一、西口は商業ビルの中を抜けて、幅広い緑陰の散歩道に続いている。まっすぐ進めば、駅名の由来である服部(はっとり)緑地公園にたどり着く。東の万国博記念公園と並ぶ、千里丘陵周辺に設けられた広大なオアシスだ。

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掘割の中にある緑地公園駅
ホーム屋根の上は新御堂筋
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(左)緑地公園駅西口
(右)服部緑地、東中央広場
 

緩い左カーブを曲がりきると、再び新御堂筋と並走する直線区間になる。周りはなお商業ビルが立ち並ぶが、竹藪や林も少しずつ見え始めて、丘陵の開発地らしい風景に変わってくる。

左後方に分かれていく桃山台車庫への引込線を見送ると、桃山台(ももやまだい)駅だ。すでにニュータウンの中核部にさしかかっていて、駅の周辺は、ゆったりした敷地に建つマンション群や整然と並ぶ住宅地が広がる。すぐ南に、昔の農業用ため池である春日大池の公園があるが、ここから新御堂筋と北急の線路を跨ぐ歩道橋を渡れば、桃山台車庫の横に出られる。鉄道好きには楽しい観察コースだ。

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桃山台駅、ホームに花壇も
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下り列車が桃山台駅を出発
南側歩道橋から撮影
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(左)桃山台駅から南望、車庫への引込線が右へ分岐
(右)桃山台車庫
 

桃山台を出ると、ニュータウン開発以前からある集落、上新田を迂回するため、ルートはまた左に振れる。行く手に高層ビル群やタワーマンションが見えてくるが、線路はまもなく地中に潜ってしまう。トンネルの中で右に曲がり、続いて左に反転するが、その際、右前方に万博会場へ向かっていた線路の跡がちらと見える。

路線延伸で中間駅の一つになってしまったとはいえ、千里中央、略して「せんちゅう」は今なお千里ニュータウンの公共交通の中心だ。北急と直交する形で伊丹(大阪国際)空港に至る大阪モノレールの駅があるし、ニュータウン内外に路線網を拡げる阪急バスが、駅の周りに多数の乗り場を構えている。またすぐ南に、新御堂筋と中国自動車道・中央環状線の大規模なインターチェンジがあるから、広域道路網上でも重要な地点だ。

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千里中央駅
(左)隣の駅名が左右両側に
(右)モノレール駅に通じる2階デッキ
 

北急のホームは地下2階に位置する。改札のある地下1階まで吹き抜けの構造で、ホームに停車中の電車を上から俯瞰できるのがユニークだ。きっと設計者は、御堂筋線の初期の駅に見られるヴォールト天井の広い空間をオマージュしたのだろう。上部は、せんちゅうパルと呼ばれる商業ビルで、1階はバス乗り場へ、2階はモノレールの駅へ通じている。

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2層吹き抜けの千里中央駅ホーム
 

さて、いよいよここからは開業したての新線だ。千里中央駅は新御堂筋から約150m東にあるので、線路はS字状に曲がって再びメインルートに戻る。地下を通っているため、乗客は気づくことがないが、地表の道路は北に向かって上り勾配だ。ニュータウンの外縁で、自然の尾根筋を残した千里緑地と呼ばれるグリーンベルトを通過している。

新線に一つだけある中間駅は、箕面船場阪大前(みのおせんばはんだいまえ)という。最近の新駅は、関係各方面に配慮し過ぎて名前が長くなりがちだが、これもその例に漏れない。箕面は市名、船場は地域名で、阪大前は近くにある大阪大学のキャンパスビルに由来する。

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箕面船場阪大前駅のホームと改札
 

ニュータウンの北に接するこのエリアは、過密化した大阪市内の繊維問屋街、船場から業者が多数移転して、新船場地区と言われた場所だ。直交する通りに商業ビルが林立していて、ニュータウン側とはまた別の景観を呈している。

駅のホームはもとより、改札階も地下にある。だが、南口には外光が入る吹き抜け空間が設けられ、長いエスカレーターが、コンコースと地上2階に相当するペデストリアンデッキを直結する。このデッキは、新しくできた市の文化施設や阪大のキャンパスビルに通じていて、商業地区の中でちょっと異質のこじゃれた雰囲気を漂わせている。

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南口の吹き抜け空間
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(左)南口1階
(右)2階相当のデッキは阪大のキャンパスビル(左奥)に続く
 

箕面船場阪大前を出発すると、まもなく列車は明かり区間に飛び出していく。谷底へ下っていく新御堂筋に対して、線路はやや上り勾配で高架に移る。前方に、北摂山地の山並みとその手前に広がる市街地が見渡せ、つかのま開放的な気分に浸れる。

高架の線路が横断しているのは、千里丘陵と北の山地との間で東西に横たわる回廊地形だ。古くは西国街道(山陽道)が通ったルートで、今は国道171号に引き継がれている。箕面萱野駅は、そのすぐ北側の緩斜面を区画整理した商業地の一角に造られた。頭端式のホームは見晴らしのいい高架上にあり、北口改札から段差なしでペデストリアンデッキに出られるようになっている。一方、国道に近い南口の周辺はまだ工事中で、仮囲いで覆われていた。

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箕面萱野駅の手前ですれ違うメトロ21系
地下線の出口から北望
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箕面萱野駅
(左)高架上のホーム
(右)改札から段差なしで続く

この路線の構想は1960年代まで遡るという。しかし、千里中央まで開通後、延伸区間が国の運輸政策審議会の答申に盛り込まれたのは1989年、事業が具体的に動き出したのは2010年代だ。2017年に始まった建設工事は、7年を経て完成に至った。この3月23日は、構想を推進してきた地元にとって待望の日だったことだろう。

しかし、このエリアがこれまで鉄道に恵まれていなかったのかというと、そうでもない。従来の最寄り駅は阪急箕面線の終点、箕面だが、萱野駅とは約2kmしか離れておらず、自転車で十分通える距離だ。ただ、箕面線で梅田に出るには、石橋阪大前で宝塚線に乗換える必要がある。それで、大きな運賃差(下注)が難点ではあるものの、今後はずっと座っていける可能性のある北急ルートに軍配が上がりそうだ。

*注 梅田までの運賃は、北急+御堂筋線の480円に対し、阪急は280円。ただし梅田で地下鉄に乗継ぐなら、その差はほとんどなくなる。

北大阪急行は大阪府なども出資する第三セクターだが、過半の株を保有しているのは阪急電鉄だ。新線の評判が良すぎて、既存の自社線の利用者数に大きな影響が出ても困るし、親会社としては悩ましいところだろう、と傍観者は勝手に想像している。

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江坂駅で見かけた飾り絵
 

■参考サイト
北大阪急行 https://www.kita-kyu.co.jp/

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 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間

 2024年開通の新線
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2024年4月11日 (木)

新線試乗記-北陸新幹線、敦賀延伸

朝8時すぎ、京都駅0番線から北陸方面へ行く在来線特急サンダーバード5号に乗り込んだ。発車すると、車内に自動アナウンスが流れる。「停まります駅は、終点敦賀(つるが)です」。そのあと武生、鯖江、福井と耳になじんだ駅の名が続かず、次がもう列車の終点と告げられたことに改めて感慨を覚えた。

2024年3月16日、北陸新幹線が敦賀まで延伸開業して、サンダーバードとしらさぎの運行(下注)を置き換えた。長野~金沢間開業から数えて9年、線路の先端は今や福井県の南半部、嶺南(れいなん)地方に達し、名実ともに北陸を貫通する新幹線になった。

*注 「サンダーバード」は関西と北陸を、「しらさぎ」は東海と北陸を、それぞれ結んでいる在来線の特急列車。

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新規開業区間を行くE7/W7系
トレインパーク白山にて

朝日がまぶしい琵琶湖西岸を滑るように北上して、サンダーバードは滋賀と福井の県境にある長いトンネルを抜ける。谷が開けて敦賀の市街地が見え始めるころ、速度がするすると落ちた。いつもなら右の車窓に上り線(大阪方面)の築堤が続き、左からは小浜線の単線線路が寄り添ってくるのだが、今日は違った。

視点が徐々に上がり、上り線と同じレベルになる。右側は新幹線の車両基地が見え、左は在来線のヤードを斜め上から見下ろす形だ。まもなく列車は、高架を支えるコンクリートの柱の間に入り込んでいき、ほぼ定刻で敦賀駅32番線に滑り込んだ。

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(左)特急の車窓から見下ろす敦賀駅の在来線ヤード
(右)新幹線接続用の新設ホームに到着
 

高架下に広がるこの2本のホームは、新幹線開業に伴い、接続する在来線特急列車のために新設されたものだ。西側(進行方向左側)の31、32番が降車用、東側の33、34番が乗車用になっている。

列車を降り、エスカレーターで上の階に行くと、ヴォールト状の天井に覆われただだっ広いコンコースに出た。随所に配置された誘導員が、次々と上がってくる客を乗換改札のほうに案内している。なにしろ、最大12両つないでいる特急列車の乗客が一斉に動くので、列は延々とぎれない。その人波を受け入れる改札機も、コンコースの横幅いっぱいに並んで壮観だ。

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敦賀駅
(左)混雑する新幹線乗換口
(右)コンコース幅いっぱいの乗換改札
 

ところで北陸新幹線では、主要駅のみ停車の速達便が「かがやき」で、おおむね長野以西で各駅に停まっていく列車は「はくたか」と呼ばれる。それ以外に富山~敦賀間でシャトル運転される「つるぎ」がある(下注)。

*注 「つるぎ」には速達タイプと各停タイプが混在している。また、本稿の範囲外だが、東京~長野間には各停タイプの「あさま」も走っている。

直近で接続する新幹線の列車は、9時11分発のつるぎ6号 富山行だ。サンダーバードの到着が9時03分なので、時刻表記載の乗換標準時分どおり、8分で接続する。一方、富山を越えて東進するのは、9時21分発のかがやき508号 東京行だ。大阪や京都から北陸新幹線経由で東京へ行く人は稀だろうから、富山止まりのつるぎを最短接続で先行させているようだ。

人の流れに従って歩けば、焦らずとも先発に乗継ぎ可能だが、その前に開業したての駅のようすを観察しておこう。

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(左)在来線特急乗り場への誘導サイン
(右)西口の既存駅舎へ向かう長い通路
 

新幹線コンコースと市街に面した西口(まちなみ口)の駅舎との間には、新しい跨線橋が設置された。距離と高低差が大きいため、下りエスカレーター、ムービングウォーク、そしてまた下りエスカレーターと、どこかの地下鉄の通路のような長い動線だ。西口駅舎も、10年ほど前に交流施設を併設する形で改築されたが、在来線ホームへ通じる既存の地下道はほぼ手つかずで、客車列車が走っていた時代の雰囲気をまだ残している。

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(左)一足先に改築された西口
(右)在来線ホーム、奥に地下道への階段がある
 

新幹線開業に合わせて反対側に東口(やまなみ口)が新設されたと聞いたので、そちらにも行ってみた。新幹線乗換改札のすぐ横、死角になるような位置にその改札がある。エスカレーターで直接1階に降りることができるが、外へ出ても、タクシーがぽつんと停まっているだけで、がらんとしてひと気がなかった。東側はもともと在来線のヤードが広がっていて、通路も改札口もない場所だった。しかし、国道8号バイパスが近くを通っているから、クルマで来るなら利用価値がありそうだ。なお、駅の東西をつなぐ改札外の自由通路はないので要注意。

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(左)新設された東口
(右)広いが、がらんとした空間
 

さて、そろそろサンダーバードからつるぎへの乗継大移動も収まったようだ。乗換改札を入ろう。高さ21m、ビル7~8階相当という階上の新幹線ホームは2面2線で、西側が11、12番、東側が13、14番だ。既存区間で見慣れたE7/W7系が停車している。

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(左)列車案内板に東京の文字が
(右)床が木目調の新幹線ホーム
 

この後は金沢まで、新規区間を初乗りしながら、中間各駅のようすも見ていきたい。

敦賀駅をゆるゆると出ると、列車の左車窓には市街地と、その先に一筋の青い海(敦賀湾)が見える。しかしそれもつかの間、短いトンネルに続いて、長さ19,760mの新北陸トンネルに突入する。在来線で陸上最長を誇る北陸トンネル(13,870m)の、さらに1.4倍もある長大トンネルだが、ものの5~6分であっさり通過してしまった(下注)。

*注 新北陸トンネルと次の脇本トンネル(1027m)の間はシェルターで覆われているため、車窓からは一続きのように意識する。


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敦賀駅を後にして北に向かう列車
 

日野川の河原を渡り、武生トンネル(2399m)を抜けると、最初の中間駅、越前たけふだ。開業区間で唯一の新幹線単独駅で、町の東の田園地帯に造られた。在来線(下注)の武生(たけふ)駅とは直線距離で2.7kmしか離れていないが、間に腰を据える村国山の山かげになり、見通すことはできない。

*注 新幹線開業に伴い、並行在来線となる福井県区間は、第三セクター鉄道の「ハピライン福井」に転換された。

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越前たけふ駅西口
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(左)下りホーム
(右)伝統工芸品をあしらった内装が目を引く
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(左)越前和紙の造花
(右)和紙をはめこんだ待合室の壁面
 

こうした新設駅は、列車の到着時を除けば森閑としているのが常だ。ところが、駅前に出てみるとBGMが流れ、人やクルマの動きもけっこうある。というのも、隣接地に道の駅が開設されているのだ。国道8号バイパスや北陸道の武生ICが近接しているので、立地条件は確かに良好だ。新幹線を利用する地元の人も、駅までは自家用車で来るだろうから、こうしたオアシスを置くのは理にかなっている。

方や、市街地との間の公共交通は新設のシャトルバスが担っているようだ。とはいえ、たかだか5kmの走行距離で1乗車500円は高いように思う。武生へは、在来線でも福井や敦賀から20~30分で着いてしまうので、利用率を控えめに見込んでいるのだろうか。

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新幹線駅舎に隣接する道の駅
 

越前たけふを後にすると、列車は北陸自動車道を斜めに横切り、田園地帯を驀進していく。左手に、巨大な土瓶のような鯖江(さばえ)のイベント施設、サンドーム福井が目を引く。トンネルを2本抜け(下注)、再び北陸道と交差すると、速度が落ちて、市街地が広がってくる。赤白のテレビ塔が立つ足羽山(あすわやま)が、山脚を長く伸ばしている。足羽川を渡り、在来線の架線ビームが視界に入ってくれば、まもなく福井駅だ。

*注 実際は敦賀方から第2鯖江、第1鯖江、第2福井、第1福井の4本のトンネルがあるが、いずれも第2と第1の間はシェルターでつながっている。

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(左)テレビ塔が立つ足羽山
(右)足羽川を渡る
 

列車がホームに着くと、降りる人と入れ違いに、けっこうな人数が乗り込んでいく。平日とあってスーツ姿のビジネスマンが目立った。これまで米原や金沢で列車を乗り継ぐ必要があったことを思えば、東京直通のインパクトは大きいに違いない。

いうまでもなく、ここは速達列車も停車する県の代表駅だ。しかし、在来線とえちぜん鉄道の駅にはさまれた窮屈な場所にあるため、1面2線、島式ホーム1本ですべての列車をさばいている。全国的に見ても、島式1本の新幹線駅は三島駅とここしかないという(下注)。コンコースからホームに上がるエスカレーターも東京方面、敦賀方面の区別がないのが、かえって新鮮だ。

*注 ただし三島駅は、ホームに接する線路(副本線)のそれぞれ外側に通過線(本線)がある。

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福井駅
(左)駅名標と開業記念のポスター
(右)在来線乗換口、右の階段で新幹線の島式ホームへ
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北陸本線(在来線)はハピラインふくいに移管
 

前回福井に来た2018年には、えちぜん鉄道の福井駅がまだ工事中で、勝山や三国港行きの電車が現在の新幹線駅の構造を借りた仮設ホームに発着していた。線路の上部構造はすっかり更新されて当時の面影は消えているが、北側に見通せる景色はおそらく変わっていない。

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現 新幹線駅の位置に仮設されていたえちぜん鉄道福井駅
(左)駅に到着する電車
(右)駅の南方は工事中だった
(いずれも2018年6月撮影)
 

ところで、福井駅でおもしろいのは、周辺に地元ゆかりの恐竜が多数たむろしていることだ。以前から正面(西口)の駅前広場に大恐竜フクイティタンやフクイサウルスが生息しているのは知っていたが、東口でもフクイラプトルの骨格標本や子どもの恐竜を見かけた。さらに帰りの列車でぼんやり外を見ていたら、東口の階上にもいるではないか。しかし、恐竜の追っかけを始めたら、時間が足りない。次へ進もう。

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西口広場に生息するフクイティタン
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(左)東口に置かれた骨格標本
(右)子恐竜と戯れる
 

福井を出ると、左が在来線、右がえちぜん鉄道と、高架での珍しい三者並走区間を経て、単独ルートに移る。まもなく渡る九頭竜川(くずりゅうがわ)橋梁は、県道30号福井丸岡線との併用橋だ。新幹線の紹介記事によく取り上げられているので、期待していたが、防音壁に遮られて、車窓からはせいぜい走るトラックの荷台の天板程度しか見えなかった。

防音壁といえば、最近の新幹線はどこも壁が高くて車窓の楽しみはそがれがちだ。しかし今回の開通区間は、田園地帯を多く通るからか、全体として視界が開ける時間が長いように感じた。再び在来線が接近してくると、次は芦原温泉(あわらおんせん)駅に停車する。

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芦原温泉駅
 

この駅の構造は、敦賀駅パターンの亜種だ。在来線ホームへの通路(地下道ではなく跨線橋)はもとのままで、北側に新幹線駅直結の跨線橋が新設されている。ただし、改札内ではなく自由通路になっていて、以前はなかった裏側(東側)への通り抜けが可能だ。

駅名になっている芦原温泉は、西に約4km離れている。この間を結んでいた国鉄三国線(下注)は1972年に廃止され、跡地は道路に転用されてしまった。もし存続していたら、新幹線から芦原温泉や東尋坊への観光ルートとして活用できたのかもしれないが、今となっては夢物語だ。

*注 金津(現 芦原温泉)~三国港間9.8km。このうち芦原(現 あわら湯のまち)~三国港間はえちぜん鉄道の路線として存続している。

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(左)西口、自由通路の跨線橋で新幹線駅に直結
(右)南側に在来線の跨線橋も残る
 

芦原温泉のあとは福井、石川の県境を成す低山地を越える。長さ5460mの加賀トンネルをはじめ、大小のトンネルが断続している。長い闇を抜けると大聖寺(だいしょうじ)の市街地をかすめ、右にカーブして加賀温泉駅に近づく。

加賀温泉という温泉地が実在しないというのは、知られた話だ。加賀三湯と総称される山中、山代、片山津の各温泉には、かつて大聖寺と動橋(いぶりはし)から私鉄(下注)が延びていた。それらが一斉にバス転換された時代、北陸本線の特急をどちらに停車させるかを巡って、ダイヤ改正のたびに両者の間で争奪戦が繰り広げられた。

*注 大聖寺起点の北陸鉄道山中線と、動橋起点の同 山城線および片山津線。1965~71年廃止。このほか粟津(あわづ)駅から粟津温泉、那谷寺へ向かう粟津線(1962年廃止)もあった。

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加賀温泉駅
(左)副本線に接するホーム
(右)記念写真が撮れる花のベンチ
 

その調停策とされたのが、両者の中間にあった小駅、作見(さくみ)の再開発だ。2面4線の構内と駅前広場、連絡道路が整備され、1970年に駅名を加賀温泉と改称のうえ、オープンした。無名の小駅からついに今般、新幹線停車駅にまで登り詰めたとはいえ、在来線側はさほど手が加えられていない。ホームに通じる地下道は改装されたが、狭い間口はそのままだ。西側にあったはずの南北自由通路はまだ工事中で、閉鎖されていた。

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(左)在来線ホームへの地下道
(右)IRいしかわ鉄道に転換された在来線
 

表口である南口は、新幹線駅が立ち上がったことで風景が一変した。広場の東側に面したアビオシティは以前からあるショッピングモールだが、周囲に商店街がないので重宝する存在だ。1階でみやげものになる特産品も多数扱っている。

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駅正面(南口)に隣接するアビオシティ
 

さて、加賀温泉駅を出発したら、右側の車窓に注目したい。遠く南東方向に主峰の白山(はくさん)をはじめ、この時期なら雪を頂く加越山地の山並みが見渡せる。金沢までもうトンネルはないので、ところどころの防音壁を除けばこの荘厳な眺めが途切れることはない。

少し行くと手前に、内陸に残された潟湖、木場潟(きばがた)の穏やかな水面が広がってくる。在来線では家並みの隙間から断片的にしか見えないが、新幹線はすぐ近くを通り、また高架なので眺望はほしいままだ。朝は逆光だが、午後になると、水郷の背後に連なる山々が日差しに映えて、なかなかの絶景になる。

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木場潟のほとりを行く新幹線
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木場潟西岸から白山の眺め
 

小松駅では在来線も高架に載り、1階を、自由通路を兼ねた広いコンコースが貫いている。券売機に長蛇の列ができていた。開業して間もないので試乗客も多いのだろう。

表口である西口もさることながら、東口は見違えるほどきれいになった。かつて小松製作所の工場が広がっていた場所が、こまつの杜(もり)という名の体験型施設に再生されているのだ。海外の鉱山で稼働しているという超大型のパワーショベルとダンプの屋外展示がまず目を引く。後ろには会社の歴史展示館などがあり、北側は里山を復元した公園になっている。私もここのあずまやに腰を下ろして昼食にした。

なお、表口の北には以前から、ボンネット型特急車両の489形を静態保存する土居原ボンネット広場がある。こまつの杜の北端からも近いので、ついでに訪ねてみるといい。

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小松駅
(左)市街地に面する西口
(右)こまつの杜に面する東口
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(左)開業を告げる垂れ幕
(右)里山が透ける市松模様の壁面
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土居原ボンネット広場の489形
 

小松駅を後にすれば、次はもう金沢だ。列車は、手取川が造った広大な扇状地を横断していく。国道8号の橋の向こうにフィッシュランドの観覧車を眺めながら川を渡ると、左から在来線の線路が寄り添ってくる。この先はずっと在来線に沿っていくが、片や高架、片や地上なので、車窓ではあまり意識されないかもしれない。

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手取川を渡る
 

W7系の基地である白山総合車両所の建物とヤードの横を通過するのは、ほんの数秒の間だ。しかし、沿線探訪の旅をするなら、隣接地に開設されたばかりのトレインパーク白山は外せない。白山市が運営するこの施設のセールスポイントは、車両整備場の内部がいつでも観察できることと、階上に新幹線を展望するスペースを備えていることだ。

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トレインパーク白山
(左)施設全景
(右)車両整備場の見学デッキ
 

整備工場とは、施設の4階から渡り廊下でつながっている。場内に入るとガラス張りの見学デッキがあり、検査線で作業中の2編成が見えた。奥の番線にも別の2編成がいるようだが、残念ながら半透明のパネル越しだ。

5階はガラス張りの展望室になっていて、すぐ下を通る新幹線の金沢方がすっきりと見通せる(冒頭写真参照)。同じフロアの屋外デッキに出ると、今度は敦賀方が一望になる。東側は、広い田園地帯と加越山地で、晴れた日なら爽快なパノラマが楽しめるだろう。また、1階には、新幹線車両に関する部品とパネルの展示が、3階にはこども向けの遊具コーナーがある。5階の展望室以外は有料だ。

トレインパーク白山へは、在来線の加賀笠間駅から約1.1km、徒歩で15分以内だが、シャトルバスも出ている。休日は子供連れが多いので、時間制のネット予約をしておくといい。

■参考サイト
トレインパーク白山 https://train-park.com/

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見学デッキから見た車両整備風景
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展望デッキで列車を見送る
 

新幹線の車内に話を戻そう。総合車両所を見送れば、周囲は住宅や店舗に埋め尽くされるようになり、まもなく金沢到着の予告放送が流れる。速度が落ち、高いビルに囲まれた犀川(さいがわ)を渡れば、駅のホームが見えてくる。

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(左)犀川を渡る
(右)金沢駅に到着

敦賀から金沢まで「かがやき」で42~43分、サンダーバードならまだ芦原温泉あたりを走っている時間だから、確かに速い。各駅停車の「はくたか」「つるぎ」でも1時間弱で、北陸エリア内の移動は便利になった。一方で、敦賀での乗換えはやはり面倒だ。関西方面から往復する場合、往路よりも、仕事帰りで疲れている復路のほうが、その感は強い。

敦賀から新大阪への延伸ルートについては、複数の案が出るなか、小浜(おばま)・京都経由とすることが2016~17年に決定している。とはいえ、小浜と京都の間はすべて山地のため、おそらく長さ50~60kmにも及ぶ長大トンネルを通す必要がある。また、京都では、市街地の地下深くに2面4線の大きな地下駅を建設しなければならない。

素人目には、米原で東海道新幹線に乗り入れれば、建設費が格段に少なくて済むし(下注)、名古屋方面との接続もスムーズだと思う。しかし、両者の運行システムの違いが技術的に克服できたとしても、各地域の利益代表者が抱くさまざまな思惑が絡んで、そう単純には行かないらしい。

*注 敦賀~米原間の直線距離はわずか40km。県境の山地を越えた後は、琵琶湖東岸の平野部を通過するので、トンネルの延長も短くできる可能性がある。

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福井駅に入る下り列車
 

もちろん現時点で、東海道新幹線の過密ダイヤに北陸方面の列車をさらに割り込ませることは難しい。しかし、リニア中央新幹線が新大阪まで全線開業した後、現 新幹線の旅客需要はまちがいなく縮小する。リニアが素通りする京都へも、所要時間から見て、リニアで新大阪まで行き、在来線に乗換える客が多くなるのではないか。

というのも現在、東京~京都間は「のぞみ」で132分(2時間12分)だが、こうした速達型はリニアで代替されてしまうからだ。東海道新幹線の運行の中心が、途中数駅に停車する「ひかり」型になれば、所要時間は150分(2時間30分)前後まで延びるだろう。

東京~京都間をリニア経由で移動するなら、品川~新大阪間67分と両端の在来線8分+24分(下注)に、乗継ぎ時間を加えても120分程度で、時間的な優位性が高い。今、敦賀駅で経験しているように乗換えは面倒だが、観光客はともかくビジネス客にとって時は金なりだ。同じくリニアが通らない横浜でも、同様のことが起きるのではないだろうか。

*注 東京~品川間、東海道線で8分、新大阪~京都間、新快速で24分。

そうなれば、東海道新幹線にダイヤの余裕が生じ、米原から北陸新幹線の列車を乗り入れることが可能になる。既存の新幹線京都駅を有効活用できるし、東海道新幹線の採算悪化を少なからず埋め合わせることができる。さらに言えば、米原~新大阪間をJR東海からJR西日本に移管してもいいぐらいだ(並行在来線ならぬ並行新幹線?)。

とはいえ、品川~名古屋間のリニア開業でさえ、着工の遅延で2034年以降と予想されているぐらいだから、北陸新幹線の次なる延伸が実現するまでには、まだ長い時間と紆余曲折があるのだろう。そのうちに、不満噴出の敦賀での乗換えも、慣れて当たり前の光景になっていくような気がする。

■参考サイト
鉄道・運輸機構-北陸新幹線 https://www.jrtt.go.jp/project/hokuriku.html

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2023年11月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡

四国のコンター旅2日目は高知に移って、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の旧跡を巡る。

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立岡二号桟道
 

魚梁瀬森林鉄道は、県東部の中芸地区で特産の杉などの木材を山から運び出していた762mm軌間の産業鉄道だ。1911(明治44)年から1942(昭和17)年にかけて奈半利川(なはりがわ)と安田川(やすだがわ)の流域に張り巡らされ、当地の林業経営を支えた。最盛期には、総延長が300kmを超え、国内屈指の広範な路線網だった。しかし、魚梁瀬ダムの建設で上流部の線路が水没することになり、1963(昭和38)年までに主要区間が廃止され、トラック輸送に置き換えられた。

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魚梁瀬丸山公園の復元列車
 

その後、水没を免れた廃線跡は道路に転用されるなどしたが、旧態のまま遺されていたトンネルや橋梁などの構造物が、2009年に「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されて現在に至る。森林鉄道の痕跡は全国にあるが、重文指定を受けているのはここだけだ(下注)。

*注 ちなみに、一般鉄道施設では「旧手宮鉄道施設」「碓氷峠鉄道施設」のほか、単体で「東京駅丸ノ内本屋」「旧揖斐川橋梁(東海道本線)」「末広橋梁(四日市港)」「第一大戸川橋梁(信楽高原鐵道)」「梅小路機関車庫」「旧大社駅本屋」「旧筑後川橋梁(昇開橋、旧佐賀線)」「門司港駅本屋」「旧綱ノ瀬橋梁及び第三五ヶ瀬川橋梁(旧高千穂線)」などが重文指定されている。

遺構は往復70kmほどの沿線に散在している。路線バスもほとんどない地域なので、今回は高知市内でレンタカーを調達する予定だ。それでもルートをくまなく見て回るのは時間的に難しく、主な見どころをピックアップするにとどまるだろう。

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図1 魚梁瀬森林鉄道沿線の1:200,000地勢図に
  重文施設の位置と路線網の概略を加筆
1978(昭和53)年編集図

2023年10月8日朝8時、小雨模様の高知駅前に集合したのは、昨日と同じ大出さんと私の2名。そもそも降水量の多い地域だが、今日の天気予報も終日傘マークで、午後ほど雨脚が強まるらしい。借りたトヨタアクアで高知東部自動車道、国道55号を東へ進む。右手に太平洋が見えてくるが、どんよりとした空のもと、白っぽくくすんだ色をしている。

1時間と少しで、安田町まで来た。安田川大橋の東詰で国道をそれ、クルマを停めた。段丘崖の下を通っていた廃線跡が小道で残っている。木材を満載して安田川の谷を下ってきた列車は、ここから田野の貯木場へ向かっていたのだ。

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(左)崖下を行く廃線跡の小道(田野方向を撮影)
(右)安田川左岸を遡る廃線跡
 

森林鉄道(以下、林鉄)で最初に建設されたのがこの路線で、1911(明治44)年に馬路(うまじ)まで開通し、のちに安田川線と呼ばれた。目的地の魚梁瀬は隣の奈半利川の上流だが、流域の山林の所有権が国と地元との間で係争中だったため、やむを得ずルートを迂回させたのだという。

県道12号が川の対岸(右岸)を走るのに対して、林鉄はこちら側(左岸)だったので、その跡と思しき道を北上した。途中からは、車一台がやっとの道幅になる。昭和の映画館の雰囲気を残すという大心劇場の前を通過し、上代(かみだい)集落を上手に進むと、山かげの道の脇に一つ目の遺構、エヤ隧道が口を開けていた。

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道路脇に残るエヤ隧道
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(左)内部はカーブしている
(右)ポータルに刻まれた I の文字
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図2 1:25,000地形図に主な見どころの位置を加筆
エヤ隧道~明神口橋
 

砂岩切石積みのポータルに、川下側から最初のトンネルを意味する I の文字が刻まれている。長さは33.2mと短く、徒歩で通り抜けが可能だ。入ってみると、アーチの天井部がレンガの長手積み、側面の垂直壁は切石で美しく仕上げられていた。車道に転用されなかったことで、改修の手が加わらず、原状が保たれているようだ。

この先、左岸に沿う廃線跡の林道は、じりじりと道幅を狭めていく。乗用車は後述する明神口橋を渡れないと聞いていたので、与床(よどこ)集落から右岸の県道に迂回した。そのため、途中にある長さ37.5mのバンダ島隧道は、対岸から眺めるにとどめた。

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バンダ島隧道を対岸から遠望
 

次の遺構は、明神口集落の上手に連続している。県道のバイパストンネルの手前で右折して旧道を行くと、川を斜めに渡っている赤いトラス橋が見えてきた。長さ43.2mの明神口(みょうじんぐち)橋だ。1912(大正元)年の建設で、最初は木橋だったが、機関車の導入に伴い、1929(昭和4)年に架け替えられたものだという。今は線路の代わりに、路面に金網が張られている。

これを渡るとすぐ下手に、長さ36.7mのオオムカエ隧道がある。東口(上流側)はコンクリートポータルに改修されているが、西口はオリジナルの切石積みで、III の刻字があった。堀淳一氏も1997年にNHKの番組ロケでここに来ている(下注)が、映像で見る限り、東口は本来素掘りのままだったようだ。

*注 1997年放送の「消えた鉄道を歩く-巨木の森の小さな鉄路」。

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明神口橋、金網が張られた路面
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オオムカエ隧道
(左)もとは素掘りだった東口
(右)原状をとどめる西口
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隧道西口のスギ林
 

次のスポットでも、釜ヶ谷(かまがや)桟道釜ヶ谷橋が連続している。島石ピクニック広場の駐車場から対岸に渡る吊り橋の上に出ると、前者の側面が遠望できた。桟道といっても木製ではなく石積みで、あたかも崖に半分埋まったアーチ橋といった趣きだ。一方、長さ12.3mの釜ヶ谷橋は県道に転用されたため、路面は拡張されている。しかし側面から覗くと、林鉄時代の橋桁と橋台を転用したことが見て取れる。

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釜ヶ谷桟道
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釜ヶ谷橋
(左)県道に転用
(右)林鉄時代の橋桁と橋台
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図3 同 釜ヶ谷桟道~馬路~河口隧道
 

長さ70.6m、平瀬(ひらせ)隧道の西口では、なんとキャンパーがクルマを付けて、テントを張っていた。雨の日だし、誰も通らないトンネルなので、こんな利用法もあるのだと感心する。通り抜けが可能なようだが、お邪魔するのも気が引けるので、反対側の、こちらも県道に面した東口に回った。ポータルの刻字はV、すなわち5番目だから、先ほどのオオムカエ隧道との間にかつてはもう1本トンネルが存在したのだろう。

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平瀬隧道
(左)臨時のキャンプサイトにされた西口
(右)県道脇の東口
 

引き続き一本道の県道を遡り、いよいよ馬路村の中心部にさしかかる。馬路大橋の手前を左折してすぐの川べりにあるのが、遺構群の中でもよく知られた長さ36.5mの五味(ごみ)隧道だ。旧道の馬路橋のたもとに北口が開いていて、線路を載せた短い桟道が続いている。道路から見下ろす構図が定番だが、勢いよく育った笹薮に視界を遮られてしまう。

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五味隧道、笹薮に視界を遮られる
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線路が復元された桟道
(左)五味隧道の真上から
(右)馬路橋から
 

ところで、「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重文指定を受けた施設は14か所あるが、意外にも、五味隧道をはじめ、後述する立岡二号桟道、法恩寺跨線橋、八幡山跨線橋という写真映えする4つの遺構は含まれていない。これらは重文本体ではなく、附(つけたり)指定になっているのだ。

附というのは、たとえば重文建造物の設計図や、来歴、用途を記した文書といった関連資料を、本体とあわせて指定するものだが、同じ類いの構造物でも附指定にすることがあるようだ。産業遺産としては一体的に考えるべきものながら、相対的な重要度の点で及ばないということか。

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五味隧道案内板
 

対岸に、観光案内所「まかいちょって家」がある。後で立ち寄って、2階にある森林鉄道の写真展示を見学した。売店では土産物のほか、林鉄関連の既刊書籍も扱っていて、ちょっとしたミュージアムショップだ。私も新刊の林鉄写真集を購入した。

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(左)まかいちょって家
(右)2階の林鉄展示
 

県道をはずれて、右岸(西岸)の町道を行く。馬路村は特産のゆずを使った商品開発で知られるが、製品加工施設の敷地はもと林鉄の運行拠点で、機関庫や修理工場を伴っていたヤードの跡だ。その北側はかつて商店街で、林鉄が路面軌道の形で貫いていた。いったん集落が途切れるが、その先は現在、村の観光拠点になっている。

右手の大きな建物は、日帰り温泉施設のうまじ温泉だ。左には1994年に開業した「馬路森林鉄道」という観光鉄道があり、支流の西谷川に沿って508mm軌間(下注)、1周300mのささやかな周回軌道が設けられている。その乗車も楽しみにしていたのだが、駅の窓口へ行くと、係員さんが申し訳なさそうに「機関車の故障で当面運休なんです」という。アメリカ・ポーター社製の旧機を2/3サイズで再現したという機関車がホームに停まっているが、「エンジントラブルの為、運休中!!」と張り紙がしてある。

*注 オリジナルは762mm(2フィート6インチ)軌間で、508mmはその2/3になる。

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馬路森林鉄道
(左)機関車は故障中
(右)谷沿いを走る軌道
 

では、隣のインクラインに乗ろう、と思って聞くと、「雨でシートが濡れて使えないので、きょうは中止にしました」。インクラインというのは、林鉄で使われていた傾斜鉄道(貨物用ケーブルカー)を再現した斜長92mの施設で、車両に積んだ水の重りで動くという珍しいものだ(下注)。山際の乗り場では、雨に濡れそぼった走行線に、オープンタイプの小型車両が所在なげに停まっていた。シートベルトを締めて乗るので、雨が吹き込む状況では運行できない。

*注 ウォーターバラスト方式といい、日本で唯一。海外の実例については「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

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馬路インクライン
(左)車両と急勾配の軌道
(右)水抜き用の管路
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インクライン軌道全景
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インクライン案内板
 

雨に降られたばかりか、お目当ての乗り物にも振られてしまったので、うまじ温泉のレストランで早めの昼食にした。ゆず果汁入りの「ごっくん馬路村」も試して元気を取り戻したところで、林鉄遺跡の探索を再開する。

馬路から魚梁瀬までの区間は、少し遅れて1915(大正4)年の開通だ。温泉のすぐ上手に、町道を通している落合橋がある。長さ37.0mで、釜ヶ谷橋と同じく、プレートガーダーと橋台が林鉄の遺物だ。

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落合橋
 

次は河口(こうぐち)隧道。県道から少し引っ込んだ位置にあり、長さは89.9m、ポータルに8番目を示す VIII の刻字がある。徒歩で入ろうとしたら、エンジン音がこだまし、中から軽トラックが飛び出してきた。内部は小さな明かりも灯っていて、椀田(わんだ)集落から中ノ川方面へ行くのに、近道として使われているようだ。カーブしたトンネルを出ると切通しで、上を旧道(?)が通過している。

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河口隧道東口
切通しを旧道がオーバークロス
 

山はさらに深まり、サミットとなる2車線の新久木(くき)トンネルが現れた。林鉄時代の久木隧道は、長さが333mと魚梁瀬林鉄では最長で、1977(昭和52)年の新トンネル完成までの間は、道路としても使われた。上記堀氏の著書『地図で歩く古代から現代まで』(JTB、2002年)によると、西口のポータルはまだ残っているようだが、この天気では探す気力が湧いてこない。

奈半利川斜面を降りていく途中に、支谷をまたぐ犬吠(いぬぼう)橋が架かっている。長さ41mの立派な上路トラス橋で、廃線後も県道の橋として使われていた。しかし、鋼材の一部が破断して通行できなくなり、現在、県道は上流側の迂回路を通っている。下流側で建設中の新しい橋が完成すれば、県道はそちらに移される予定だ。

林鉄の鉄橋は今や形が崩れ、仮設の支持台でかろうじて支えられていて、なんとも痛々しい。修復して自転車・歩行者専用にする計画だそうだが、いったん解体して組み立て直す必要があるから大工事だ。重要文化財とはいえ、そんな予算がぽんとつくのだろうか。

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痛々しい姿の犬吠橋
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図4 同 犬吠橋~魚梁瀬
 

久木ダムの少し上流にも、同じような構造の井ノ谷(いのや)橋が残っているので、県道をそれて寄り道した。道路に転用されていて、長さは54.5m。両端がカーブしているので、たもとからトラス構造を覗くことができる。

林鉄安田川線は、この先の釈迦ヶ生(しゃかがうえ)集落で奈半利川線と合流するが、魚梁瀬ダムの完成によって、上流の線路は湖底に沈んでしまった。クルマ道も行き止まりなので、引き返すしかない。

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井ノ谷橋
 

県道に戻って、くねくねと山腹を上っていくと、ダムを見下ろす展望台があった。見るからにどっしりとした大堰堤が眼下の谷を埋めている。魚梁瀬ダムは1970(昭和45)年に完成したロックフィルダムで、高さが115mで四国一、貯水量も「四国の水がめ」早明浦(さめうら)ダムに次ぐ規模だ。展望台の側壁パネルには、ダムの写真とともに林鉄の現役当時の写真も収められていた。

県道を少し上手に進んだところには別の展望台があり、貯水池(ダム湖)が奥まで見通せる。ここばかりは「雨には雨の風情あり」で、入り組んだ湖の周りの山並みに低い雲がたなびいて、一幅の絵のようだった。

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ロックフィルの魚梁瀬ダム
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ダム湖のパノラマ
正面奥に魚梁瀬大橋と、魚梁瀬(丸山台地)の一部が見える
 

林業で栄えた魚梁瀬地区は水没するのに伴い、湖畔の造成地(丸山台地)に集団移転した。旧版地形図と照合すると、旧集落の山手にあった昔の川の蛇行跡を嵩上げして造ったようだ。その一角が丸山公園と呼ばれる広い園地になっていて、762mm軌間、一周406mの周回軌道が敷かれている。

魚梁瀬大橋でダム湖を横断して、その乗り場である森の駅やなせの前にクルマを停めた。馬路での失意の記憶がよみがえり、窓口でおそるおそる「乗れますか」と聞くと、「ええ、何名さんですか」と返ってきてほっとする。一応、10時から15時30分まで15分間隔の時刻表が掲げてあるが、客が来しだい、随時運行しているようだ。

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森の駅やなせ
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スギ材製の乗車券、裏面に日付が入る
 

高床のホームに、谷村式と記された小型ディーゼル機関車が客車を従え、待機していた。谷村というのは戦前、地元高知で林鉄向けの装置を製造していた谷村鉄工所のことで、そのロッド駆動車をモデルに新造されたのがこの機関車だ。客車(連絡車)の車体にも地元産の木材が使われている。無蓋のトロッコと密閉型のボギー車の組み合わせなので、雨でも問題なく乗れるのがうれしい。

運賃は大人400円。杉板に印刷した乗車券をもらって乗車する。走り出すと最初、湖に近づき、次いで車庫前を通過して、警報機が鳴る踏切を横断した。この軌道を2周して、約7分のミニ列車旅だった。その後、大出さんが機関車の運転体験を申し込んだ。正規の運転士に横で指導してもらいながら、これも2周する。

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谷村式機関車が牽く復元列車
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(左)機関車の運転台
(右)ボギー客車
  朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の人形が同乗
 

北隅にある車庫も開いていて、自主見学が許された。野村式と書かれた茶色の機関車は、1948年野村組工作所製のL-69で、魚梁瀬林鉄のオリジナル機だ。廃線後、静態保存されていたものを1991年に動態復元したのだという(下注)。急曲線に対応する運材台車を引き連れたさまも絵になる。

*注 重量があり軌道が傷むため、「本線」を走行するのは特別行事のときだけのようだ。ちなみに先述のNHKの番組ではこれが走るシーンが出てくる。

隣にいる黄と緑と白帯の機関車は、静岡の水窪(みさくぼ)森林鉄道から来た酒井工作所製C16形、また岩手富士と書かれた箱型機は、鳥取から来た岩手富士産業製の特殊軽量機関車で、唯一の残存例だそうだ。

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車庫に保存車両を留置
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運材台車を引き連れた野村式L-69
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(左)酒井工作所製C16形
(右)岩手富士産業製特殊軽量機関車
 

林鉄ワールドを堪能して、帰路に就く。往路は安田川経由だったが、復路は奈半利川に沿って下る。旧来の安田川線には、釈迦ヶ生~久木隧道間に逆勾配、すなわち荷を積んだ列車にとって不利な上り坂が存在し、運行のボトルネックになっていた。これを解消するために計画されたのが奈半利川線で、1931(昭和6)年から1942(昭和17)年にかけて建設された。

クルマはしばらく県道12号を南下するが、安田川沿いより道幅が広めだ。ダム建設に際して、工事車両を通すために拡幅されたのだろう。林鉄由来と思われるトンネルもあるが、改修を受けているためか、重文のリストには含まれていない。

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図5 同 堀ヶ生橋~小島橋
 

そのため、奈半利川線の重文物件はすべて橋梁で占められる。最も上流の堀ヶ生橋(下注)は長さ46.9m、シングルスパンの鉄筋コンクリートアーチ橋だ。この材質で43mものスパンは国内最大級だそうで、県道に転用されていることもあって、もと鉄道橋には見えない。河原に降りて真下から仰ぐアーチはいっそう迫力があった。

*注 国指定文化財等データベースでは、堀ヶ生橋に「ほりがをばし」という異例の読みが付けられている(通常「を」は用いない)。なお、地理院地図では、堀ヶ生の地名の読みを「ほりがうえ」としている。

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長大スパンの堀ヶ生橋
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(左)堀ヶ生橋、中央部に退避場所がある
(右)橋に続く堀ヶ生隧道、側壁は石積み
 

県道12号が徳島県から来た国道493号と出会う位置に、二股(ふたまた)橋が架かっている。奈半利川と支流の小川川(おがわがわ)の合流地点だ。橋は長さ46.5mで同じくコンクリート製だが、こちらは無筋のため2スパンで、めがね橋の別称がある。釜石線や旧彦山線(現 日田彦山線BRT区間)、旧宮原線などに見られる高架橋を彷彿とさせるが、二股橋も、鋼材の使用制限が始まっていた1941(昭和16)年の建設だ。

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川の合流地点に架かる二股橋、通称めがね橋
奥に見えるのは二又発電所
 

奈半利川鉄橋なき今、長さ143.0mの小島(こじま)橋は、魚梁瀬林鉄で最大の遺構だ。2連のプラットトラスで、ゆったりと流れる奈半利川の中流部を渡っている。本体の威容もさることながら、対岸(左岸)にあるカーブしたガーダー橋と築堤の取り付け部が、廃線跡の雰囲気をよく残している。奈半利川線のうち二股以南は、後に支線となった竹屋敷線などとともに1932(昭和7)年までに完成していた。上述の2橋と違って鋼製なのはそれが理由だ。

*注 国指定文化財等データベースでは「こじまばし」だが、地理院地図では小島の地名の読みを「こしま」としている。

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2連プラットトラスの小島橋
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(左)右岸のたもとから
(右)ガーダー橋と築堤が左岸に続く
 

この後は、国道493号と北川奈半利道路で一気に奈半利を目指した(下注)。

*注 重文指定ではないため訪れなかったが、奈半利川右岸に加茂隧道(長さ28.1m)が原形のまま残っている。

右岸の田野町側には立岡(たちおか)二号桟道という印象的な遺構がある。3連プラットトラスで長さ167.49mと最長だった旧奈半利鉄橋の、西側の取り付け部に相当する構造物だ。避溢橋の役割を果たすコンクリートの高架と長い築堤が、カーブしながら川べりまで続いている。大出さんは以前来たことがあるというし、私も土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線に乗った際、見に行ったので、今回は対岸から遠望するにとどめた。

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立岡二号桟道と築堤(別の日に撮影)
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(左)カーブする桟道
(右)丸石が積まれた築堤の法面
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図6 同 安田、田野、奈半利
 

廃線跡の町道をたどって、法恩寺跨線橋(下注)へ。段丘上の三光寺へ行く参道が林鉄を跨いでいた橋で、石造アーチの構造をしている。立体交差にしたのは安全でいいことだが、参道の石段はけっこう段差があり、何度も上り下りするのは大変そうだ。

*注 法恩寺の地名の読みについて、現地の案内板には「ほうおんじ」とあるが、地理院地図では「ほおじ」としている。

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法恩寺跨線橋(別の日に撮影)
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多くの重文施設に同様の案内板がある
 

国道55号を戻り、最後に、田野の町はずれにある八幡山(はちまんやま)跨線橋を見に行った。ここでも神社に通じる参道が、林鉄の廃線跡を跨いでいる。コンクリートの桁橋なので、法恩寺のようなデザイン性には欠けるが、参道の階段が上に行くほどラッパ状にすぼまっていて、遠近感が強調されるのが面白い。

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八幡山跨線橋
(左)コンクリートの桁橋
(右)ラッパ状にすぼまる階段
 

時刻は早や17時、駆け足の旅だったとはいえ、貴重な遺構群や展示資料を実見し、再現鉄道の乗車も叶った。運行廃止から60年が経過した魚梁瀬森林鉄道だが、思ったより身近なものに感じられたのは、郷土史を飾る重要なページとして地域の人々に大切に扱われてきたからだろう。産業振興の推進力であり、交通の動脈でもあった鉄道の遺産が、これからも末永く維持されることを願いたいものだ。私も、雨にたたられた馬路の軽便鉄道とインクラインにいつか再挑戦しなければ…。

最後に、魚梁瀬森林鉄道の路線網が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図7 索引図
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図8 安田、田野、奈半利周辺
1953(昭和28)年応急修正、以下同
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図9 馬路周辺
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図10 魚梁瀬周辺
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図11 北川村北部
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図剣山、高知(いずれも昭和53年編集)、5万分の1地形図馬路、奈半利、安藝(いずれも昭和28年応急修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム https://rintetu.com/
Facebook-中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会 https://www.facebook.com/yanaserintetu

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2023年11月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ

JR土讃線の普通列車が、香川と徳島の県境をなす讃岐山脈を長いトンネル(下注)で通り抜けた後、最初に停車するのが坪尻(つぼじり)駅だ。吉野川の谷に降りていく25‰の連続勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの構造になっている。

*注 猪鼻(いのはな)トンネル、長さ3845m。

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土讃線坪尻駅に接近する下り普通列車
 

駅のある場所は比高500mの昼なお暗いV字谷の底で、周りに民家などは見当たらない(下注)。それどころか、クルマ道が駅まで達しておらず、人一人通れるだけの山道のほかにたどり着く方法がない。列車にしても停車するのは上り4本、下り3本で、計画的に行動しないと、駅に長時間取り残される可能性がある。それでここは、土讃線の同じようなスイッチバックの新改(しんがい)駅などとともに、いわゆる秘境駅として鉄道ファンには有名だ。

*注 坪尻駅の標高は約212m(地理院地図による)。地図上で最も近い木屋床(こやとこ)集落との間は、水平距離こそ300~400mだが、高度差が約200mある。

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箸蔵寺護摩殿
 

2023年コンターサークル-s の旅四国編1日目は、この坪尻駅をゴールと目している。もちろん列車で往復するだけでは歩き旅にならないので、「こんぴら奥の院」と称される箸蔵寺(はしくらじ)や、坪尻駅を見下ろす展望台を経由していく次のようなプランを考えた。

10:21 阿波池田駅前から路線バスで、箸蔵山ロープウェイの登山口駅へ
11:00 ロープウェイで山上へ。箸蔵寺参拝
12:40ごろ 箸蔵寺から歩き始める
13:40ごろ 坪尻駅展望台到着。上り列車の発着(13:52)を撮影後、歩き再開
14:10ごろ 坪尻駅到着
14:54 坪尻駅から下り列車に乗り、阿波池田駅に戻る

箸蔵寺と坪尻駅との間は道なりに進んで5kmほどだが、高度差は340mとかなりある。いったいどんな道なのだろうか。まずは旅の集散場所である阿波池田駅前から話を始めよう。

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箸蔵寺~坪尻駅周辺の1:200,000地勢図
(上)1986(昭和61)年編集、(下)1995(平成7)年要部修正
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆

土讃線の全列車が停車し、徳島方面との接続駅になっている阿波池田駅は、徳島県西部における鉄道の拠点だ。乗ろうと思っている四国交通の路線バス(下注)は、その300m東にあるバスターミナルから出発する。駅前も経由するが、停留所は駅舎正面ではなく、広場の右(東)のはずれで、道路沿いの見えにくい位置にあるので要注意だ。

*注 野呂内線32および33系統。箸蔵山ロープウェイ(登山口駅前)までは往路7便、復路5便。時刻表と路線図は四国交通公式サイト(下記参考サイト)にある。

2023年10月7日、駅前に集合したのは大出さんと私の2名。連休初日だが、10時21分定刻に来たバスに乗り込んだのも私たちだけだった。駅前アーケードを抜けた後、バスはいったん西へ走る。段丘上のウエノでようやく針路を変え、川沿いの坂道を降下して、吉野川を堰き止めている池田ダムの天端道路で対岸に渡った。ローカルバスの旅は、ときに思いもよらないルートを通ることがあるから目が離せない。

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(左)阿波池田駅
(右)四国交通の路線バス
 

15分ほどで、箸蔵山ロープウェイの登山口駅前に到着した。時間に余裕があるので、乗るのを1本遅らせて、搬器の動く様子を地上から観察する。

ロープウェイの中でもこれは、並行する2本のロープに搬器がぶら下がる、いわゆるフニテルだ。箱根ロープウェイと同じ方式だが、箸蔵山は1999年の導入で日本初だという。駅の表示板によると、線路長(傾斜亘長)は947.48m、高低差は341.73m。15分間隔で運行されていて、料金は片道900円、往復1700円。

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箸蔵山ロープウェイ登山口駅
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(左)きっぷ売り場
(右)2本のロープにぶら下がるフニテル方式
 

山上行き11時00分発の客は3人きりだった。すいているのはありがたいが、立派な設備だけに採算がとれているのか心配にもなってくる。動き始めると、後方にさっそく吉野川とその谷が眼下に広がった。急斜面を滑らかに上っていき、仁王門と高灯篭の立つ尾根を通過、最後に深い谷を一跨ぎして箸蔵寺駅に着いた。所要約4分。

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吉野川の谷が眼下に
 

駅は箸蔵寺の境内に直結していて、右へ行くと本坊(方丈)の前に出る。庫裏、宿坊、納経所、書院など、寺の機能を集約した桁行きの長い建物で、玄関の軒や引き戸を飾る透かし木彫が目を引く。納経所の前を通ったら、受付の方が、重要文化財に指定されている主な伽藍の概略を説明してくれた。

右手は護摩殿で、この先の長い石段が上がれない人でもお参りできるよう、本殿の縮小版になっているという。ここでも手の込んだ木彫の意匠が軒を埋め尽くしている。

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箸蔵寺本坊
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(左)護摩殿
(右)軒に配された見事な木彫
 

奥へ進む石段には、蹴上げ部分に般若心経が一文字ずつ書かれた石札が取り付けられていた。これを唱えながら上れば、楽に上まで行けるのだろう。正面に鐘楼堂がある。受付で、自由に撞いてくださいと言われていたので、ありがたく従う。梵鐘は天井裏にあって見えず、綱だけが垂れ下がっている。撞くには少しコツがあり、綱を前後にではなく、下に引くようにしないと鳴らない。

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(左)本殿に上る石段
(右)般若心経の石札が続く
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(左)鐘楼堂
(右)薬師堂
 

心臓破りの長い石段を伝って薬師堂、それから本殿のある上段の境内へ。途中で息が上がり、気がついたら般若心経を唱えるのをすっかり忘れていた。本殿は他にもまして壮麗な建物で、立ち入れないが奥まで長く続いているのが見て取れる。絢爛たる木彫装飾についてはもはや言うまでもない。巡礼者が行き交う四国八十八ヶ所の霊場とは違い、もの静かな境内だが、見どころも多くて訪れた甲斐があった。

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重厚な趣きの本殿
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正面を飾る透かし木彫
 

ロープウェイ駅の前にある休憩所で昼食の後、次の目的地に向けて歩き始めた。休憩所の横から、寺に用務がある車が使う舗装道が出ている。杉林に覆われた山腹を緩やかに下っていくこの道を、まずはたどった。きょうは薄曇りで、ときおり日差しがこぼれる。吹く風は涼しく、歩き日和だ。

やがて森が開け、舟原(ふなばら)集落にさしかかった。すすきに埋め尽くされた棚田の間に何軒かの民家が見える。その屋根ごしに、吉野川が流れる下界の谷が俯瞰できた。正面に徳島自動車道の高架橋が架かり、土讃線佃~阿波池田間の築堤を2両編成の列車が走っていく。断片的に見える赤いトラス橋は旧国道32号の三好大橋だ。

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舟原集落と休耕棚田
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吉野川の谷を俯瞰
 

舟原から落(おち)の集落へ向かう。この間はセンターラインこそないが、小型車がすれ違える幅の舗装道がついている。しかし、クルマはほとんど通らないから、快適なハイキングルートといっていい。

坪尻駅展望台というのは、落集落の端の道路脇に、地元の自治会が設置した小さなお立ち台のことだ。大出さんが、手前に1台の観光バスが停まっているのを見つけた。何かと思えば、カメラを手にした中高年男女が約20人、かしましく騒ぎながら展望台とその周りを占拠している。よりよいアングルを狙って、馬の背になった不安定な場所に三脚を立てている人もいる。一つ間違えば崖下に転落しかねないので、通りかかった地元の人から「気い付けてくださいよ」と声をかけられる始末だ。

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猪ノ鼻峠方向を望む
手前が落、谷を隔てて木屋床の集落が見える
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(左)落集落
(右)過密状態の坪尻駅展望台
 

この状況は想定外だが、私たちもその勢いにひるんでいるわけにはいかない。最前列の人の肩越しになんとか視界を確保する。北側、約100m下の谷底にスイッチバックの構内配線と、その奥にたたずむ小さな駅が見通せた。一部で電線とかぶるものの、駅の前後を移動する列車をつぶさに観察できるいい場所だ。

13時31分、最初にやってきたのは上り特急「南風」14号、2700系の「赤いアンパンマン列車」だ。通過列車のためシャッターチャンスはほんの数秒だが、前もって重いエンジン音が響いてくるから、カメラを構える余裕があった。

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坪尻駅を上り「南風」が通過
 

しばらくすると、次の13時52分発、上り普通列車が現れ、本線からホームに接する折返し線に入った。3分近く停車した後、折返し駅を出て、今度は反対側の引上げ線に進入する。再び折り返して本線に戻り、山かげに走り去った。

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普通列車のスイッチバック運転
(左)阿波池田方から列車が接近
(中)折返し線に入線
(右)駅に停車
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(左)駅を出ていったん引上げ線へ
(中)引上げ線で折り返し
(右)本線を多度津方へ走り去る
 

スイッチバック運転の一部始終を見届けたところで、展望台を辞して坪尻駅へ向かう。旧国道に降りて少し行くと、道端に坪尻のバス停標識が立っていた。朝利用したバス路線がここまで延びているのだが、通るのは1日3往復だけだ。

バス停の少し手前に、旧国道からそれて谷を急降下している踏み分け道がある。入口がガードレールで遮断されているようにも見え、事情を知らなければ、駅に通じるとは信じられないだろう。散り敷く枯葉で滑りやすくなった山道は、途中で何度も折れ曲がりながら、谷底に達するまで続いていた。

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旧国道の坪尻バス停
「坪尻駅600m」の標識があるが、車では行けない
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(左)旧国道から駅への入口
  遮断するようなガードレールは車の誤進入防止の目的か
(右)落ち葉敷く坂道
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(左)道はますます細くなる
(右)駅手前の踏切
 

踏破に要した時間は正味13分。行く手に線路と踏切標識が見えたときには、正直ほっとした。踏切に警報機はなく、バーを手で開けて通行するようになっている。掲げてあった時刻表によると、通過列車は上下合わせて37本だ。これに加えて駅に停車する普通列車(下注)もあるので、一日を通してみればけっこうな数が行き来している。

*注 スイッチバックのため、1列車につき踏切を三度通過する。

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踏切に掲げられた通過列車の時刻表
左の印はアンパンマン列車を示す
 

構内には、片面ホームに接する折返し線と切妻の木造駅舎があり、25‰勾配で上る本線がそれに並行する。駅の先端では、2本の線路の間に早や数mの高低差がついている。反対側では、折返し線が本線に合流し、その先で引上げ線が分岐して、本線とともに山かげに消えていく。

駅舎はもちろん無人だが、待合室には記念スタンプや旅ノートが置いてあった。列車で来るにせよ、旧国道から歩いてくるにせよ、皆それなりの時間をかけているので、到達のあかしを残せる心遣いはうれしい。

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坪尻駅、上り勾配の本線が並行する
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(左)木造駅舎
(右)引き戸で入る待合室
 

こうしてしばらく静かな山峡の駅の風情に浸っていたのだが、森の奥からまたあの賑やかな話し声が聞こえてきた。私たちの後を追うようにして、団体の人たちも降りてきたようだ。ひとしきり展望台のカオスが再現されたが、観光バスの予定が押しているらしく、彼らは14時33分に通過する上り特急だけ撮ると、山道を帰っていった。

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上り特急列車の通過を団体さんと横一線で撮影
 

再び静寂が戻ったところで、14時54分発の下り普通列車が上手のトンネルから現れた。展望台で観察したとおり、引上げ線で折り返してホームに入線してくる。停車位置は駅舎より奥の、ホームの床を少しかさ上げした場所だ。2~3分停車する間に、運転士が反対側の運転台に移動する。私たちも阿波池田駅に戻るため、この列車の客となった。

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(左)下り普通列車が接近
(右)引上げ線で折返して駅へ
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ホームに入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
四国交通-路線バス https://yonkoh.co.jp/routebus
箸蔵山ロープウェイ http://wwwd.pikara.ne.jp/hashikurasan/
こんぴら奥の院 箸蔵寺 http://www.hashikura.or.jp/

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