日本の鉄道

2022年12月10日 (土)

新線試乗記-西九州新幹線

2022年9月23日に開業した西九州新幹線に初乗りしようと、朝早い博多駅で特急「リレーかもめ」5号に乗り込んだ。新幹線区間は武雄温泉(たけおおんせん)~長崎間66.0km(営業距離は69.6km)だが、他の新幹線網から孤立しているため、そこまで在来線の特急列車でつないでいる。1980年代の東北・上越新幹線、2000年代の九州新幹線でも行われたことのあるリレー方式だ。

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大村湾岸を行く「かもめ」号
大村市松原付近
 

駅や列車の行先表示もそれに準じて、この列車の終点である武雄温泉ではなく、最終目的地の長崎と記されていた。「運用上の都合により途中で乗換となりますが、間違いなく長崎まで参ります」ということだろう。同様に、長崎発の上り新幹線も、博多などリレー号の行先に合わせた表示になっているはずだ。

リレー5号の車両は、奇しくもかつて鹿児島本線の「リレーつばめ」に使われたグレートーンの787系だった。再招集に備えて改修もされたようだが、20年以上稼働してきて、テーブルやひじ掛けなどはくたびれが目立つ。とはいえ後述するように、これはいつ終了するか見通しの立たない任務だ。しばらくは老骨に鞭打ち頑張ってもらわねばなるまい。

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(左)787系の「リレーかもめ」号
(右)行先表示は長崎
 

列車は鳥栖から長崎本線に入り、佐賀平野を進んでいく。ちょうどバルーンフェスタの会期中だったので、嘉瀬川(かせがわ)を渡る前後では、晴れた空に浮かぶ無数の熱気球を遠望できた。肥前山口から改称された江北(こうほく)駅を通過してしばらくすると、線路がすーっと高架に上がっていき、真新しいホームが車窓に現れた。

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朝の空に熱気球が浮かぶ
 

到着したのは、武雄温泉駅の10番線だ。向かい11番線のホーム柵の奥に、新幹線「かもめ」5号が扉を開けて待っている。東海道・山陽新幹線で走っているのと同形式のN700Sだそうだが、側面に描かれた大きな「かもめ」の筆文字や赤い細帯は、九州オリジナルの800系を連想させる(下注)。後で前頭部に回ったら、裾が赤く塗られ、独自性を強くアピールしていた。

*注 部分開通時代、800系の側面には「つばめ」の大きな筆文字があった。

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武雄温泉駅新幹線ホーム
右のリレー号から平面乗換え
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N700S「かもめ」
(左)裾にJR九州色をまとう
(右)側面には大きな筆文字(諫早駅で撮影)
 

確かに「かもめ」は、800系「つばめ」のスタイルを踏襲している。6両編成で、指定席車と自由席車が3両ずつ、グリーン車はついていない。「つばめ」と違うのは、在来線の特急に合わせて長崎寄りの3両が指定席になっている点だ(下注)。

*注 「つばめ」は東海道・山陽新幹線に準じて、鹿児島中央寄りの3両が自由席。

指定席は2+2列で、隣席との間に大きなひじ掛けがあり、余裕のある座り心地だ。自由席を覗いてみたら、標準的な2+3列だった。走行距離が短いので、自由席利用が多いと見込んだのだろう。

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(左)指定席は2+2列
(右)テーブルの代わりに大きなひじ掛けが
 

長崎までの所要時間は、途中諫早のみ停車の速達便で23分、各駅停車で31分だ。博多~長崎間では最速1時間20分となり、在来線時代より30分ほど短縮されたのだそうだ。高速列車だから当然だが、走るルート自体、在来線より直線的で、特に諫早まではその感が強い。

既存の鉄道ルートには変遷がある。1898(明治31)年に開通した九州鉄道長崎線(国有化により長崎本線)は西回りで、早岐(はいき)を経由していた。現在の佐世保線、大村線のルートだ。1934(昭和9)年に有明海沿岸を走る現在の長崎本線が完成したが、これも多良岳の山麓をなぞる形で東へ迂回している。

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佐賀~長崎間の鉄道ルートの変遷
 

一方、鉄道開通以前の長崎街道は、この間をできるだけ短距離で結んでいた。おおむね今の国道34号に相当するが、問題は、佐賀・長崎の県境にある標高190mの俵坂峠だ。峠の西斜面は高度差が大きく、鉄道を通すなら急勾配の長い坂道が必要になっただろう。新幹線はこの峠をトンネルで貫くことで、既存の鉄道では成しえなかった直線的なルートを実現しているのだ(下注)。

*注 なお諫早~長崎間の在来線も、旧線である長与(ながよ)経由、新線の市布(いちぬの)経由の2ルートがある。

話を武雄温泉駅に戻そう。リレー号と「かもめ」はわずか3分の接続なので、せいぜい記念写真を撮る程度の時間しかない。それで駅の詳細は、後で再訪して観察した。まずプラットホームだが、新幹線は対面式で、今乗換えた11番線から複線の線路を隔てて12番線のホームがある。新幹線全通時にはこれが下りホームになるわけだが、今のところ客扱いはしていない。

一方、在来線は10数年前から同じレベルの高架ホームが供用されていて、こちらは片面と島式の2面構成だ。北側の片面ホーム(1番線)が上り博多方面、島式の片側(2番線)が下り佐世保方面になる。島式のもう片側はリレー号が入る線路に面しているが、柵があって乗降はできない。リレー号には新幹線側のホーム、すなわち新幹線改札からしかアクセスできないようにしてあるのだ。

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武雄温泉駅配線図(2022年9月現在)
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武雄温泉駅
(左)リレー号が発着する10番線
(右)新幹線12番線は閉鎖中
 

そのため、この駅から在来線の特急列車に乗ろうとする客には、在来線と新幹線、どちらの改札を通るべきかという悩ましい問題がつきまとう。リレー号だけではない。博多~佐世保間の特急「みどり」などはふつう1・2番線に入るが、リレー役を担う便も一部ある(下注)。その場合10番線を使うので、佐世保方面へ行く客であっても、新幹線の改札から入る必要があるのだ。

*注 特急名称が「みどり(リレーかもめ)」「ハウステンボス(リレーかもめ)」になっている便。10番線を使う場合、在来線改札口の電光掲示板には、番線の欄に「新幹線→」と表示される。

在来線改札では、特急券を提示した客に係員が「この列車は新幹線改札の方から」と説明しているのを見かけた。地元の人はそのうち慣れるだろうが、一度きりの観光客にはずっとこの対応が続くことになる。

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(左)在来線ホーム、リレー号が入る側には柵が
(右)在来線改札口
 

駅は傾斜地に位置しているらしく、新幹線側から見ると、在来線コンコースは1段上だ。この間をエスカレーターとエレベーターが結んでいる。出口は、北が楼門口、南は御船山(みふねやま)口という名がつく。土地鑑のない者にはかっこ書きで添えられた北口、南口のほうがわかりやすいが、これも観光開発の一環なのだろうか。

*注 楼門も御船山も、武雄の観光名所。他の駅も同じように出口に個別地名などを用いている。

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御船山口(南口)ファサード
 

さて、「かもめ」5号は定刻に武雄温泉を出発した。進行方向右側の窓から、在来線の架線柱が遠ざかっていくのが見える。と思ううちにトンネルに入り、その後も断続的にトンネルの闇が来た。

次の嬉野温泉までは10.9kmと駅間が最も短く、所要わずか6分だ。そのうえ、到着の3分前には「まもなく嬉野温泉です。お出口は左側です」と、案内アナウンスが始まる。行きは各駅を訪ねるつもりなので、席に落ち着く間もない。

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嬉野温泉駅
(左)名産の茶畑を背に駅へ進入
(右)下りホーム
 

嬉野温泉は、既存の鉄道がなかった町(下注)にできた新駅だ。停車するのは2本に1本程度で、日中は次の列車まで2時間空いてしまう。それで本数が多い朝のうちに来ておく必要があった。

*注 歴史を遡れば、祐徳(ゆうとく)軌道と肥前電気鉄道で武雄や肥前鹿島と結ばれていた時代があるが、1931(昭和6)年という早い時期に廃止されている。

町は、武雄と並ぶ佐賀県西部の温泉地として知られている。駅が設けられたのは市街地の東のはずれだが、周辺には道の駅や基幹病院が建って、都市開発が進行中だ。しかし、この時間に改札を出てくる人はほとんどなく、構内は静まり返っている。駅前の停留所にJRの路線バスがやってきたが、乗降がないまま出ていった。

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(左)塩田川口(東口)
(右)改札口
 

次の「かもめ」を待ち、自由席の客となる。近年開業した新幹線はどこもそうだが、高い防音壁のために車窓の視界は遮られがちだ。だが嬉野温泉を出ると、防音壁の一部が透明になっている個所があり、温泉街の一角を目にすることができた。

しかしそれもつかの間、すぐにトンネルだ。県境の俵坂峠の下に掘られた俵坂トンネルで、5705mと路線第2の長さがある。続くいくつかのトンネルの間では一瞬海が見えるが、やがて平地に出て、大村湾の景色が開け始めた。

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車窓に大村湾の景色が
 

新大村駅は大村市の中心街の北方、空港通りと交差する地点に設けられた。並走する大村線にも新駅が開設され、乗換えが可能になっている。空港通りは、長崎自動車道の大村インターと大村湾に浮かぶ長崎空港を結ぶ大通りなので、これで高速道路、新幹線、空港が一つの軸に揃ったことになる。

駅の玄関が東側(山側)にだけ向いているのは、意外だった。用地の関係かもしれないが、人家の多い西側へは地下道を通る必要がある。大村線の駅は、新幹線駅舎にひさしを借りた形の無人駅で、ホーム上に券売機とICカードの簡易改札機が並んでいた。これも線路の東側なので、直接西側には行けない。

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新大村駅
(左)さざなみ口(西口)広場、駅舎手前に大村線が走る
(右)駅名標と開業ポスター
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(左)在来線は無人駅
(右)松原駅
 

ここでいったん駅の巡歴を中断し、大村線の上り列車に乗り換えて、松原駅に向かった。目的は、駅から山手を1km強上ったところにある新幹線のお立ち台だ。新大村駅を後にした上り「かもめ」が最初のトンネルに入ろうとする場所で、防音壁に遮られることなく車両の足回りまで見える(冒頭写真参照)。背景は大村湾に臨むパノラマなので、舞台装置も申し分ない。通りがかった地元の人の話では、試運転のころは見物人がずらっと並んだそうで、自販機を置いたら飲み物がよく売れたという。

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お立ち台から大村市街地と湾奥の眺め
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中央後方に小さくYC1系シーサイドライナーの姿も
 

松原駅に戻り、大村線でそのまま諫早(いさはや)へ。諫早駅の前後では、新幹線の線路が珍しく地平を走っている。そのため、新幹線から降り立っても、長いエスカレーターで出口へ「上って」いくことになる。階上の広い自由通路には、新幹線と在来線の真新しい改札口が並んでいた。以前来たときは地上駅舎だったが、ガラス張りの立派な駅ビルに建て替わり、昔の面影は全くなくなっている。

諫早は、長崎本線と大村線、島原鉄道が接続する鉄道の要衝だ。新幹線開業で在来線から特急の姿が消えたとはいえ、長崎方面へは通勤通学需要が高く、朝夕は毎時4~5本、日中でも毎時3本(いずれも長与経由を含む)の列車が走っている。島原鉄道の駅もビルの一角だが、こちらはエスカレーターを降りた地平(地上階からは少し上がる)にあった。

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諫早駅
(左)東口ファサード
(右)上りホーム、エスカレーターは階上へ上っていく
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(左)階上の自由通路
(右)「かもめ」マークのデコレーション
 

さて諫早を出ると、「かもめ」号は在来線上り線に沿って、急カーブで市街地のトンネルを抜ける。それからおもむろに速度を上げて長崎へ向かう。この区間もほとんどがトンネルだ。最後に通過する7460mの新長崎トンネルが、路線最長になる。

この中で減速が始まり、闇を抜けたときには、列車はもう徐行に移っている。トンネルの出口から駅のホーム端まで500mほどしかなく、心の準備もあらばこそ、いきなり車窓に長崎駅が現れる。

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長崎駅
(左)朝日を浴びて「かもめ」到着
(右)折返し上り列車に
 

新幹線駅は2面4線で、発着本数からすれば余裕を持たせた構内だ。西隣の一段低い位置には、在来線のホームが並行している。どちらも高架上で視点が高く、車止めの先に素通しで港の風景が見渡せるので、明るく開放的な雰囲気がある。新幹線駅の先端の柵に「日本最西端の新幹線駅」と記された銘板を見つけた(下注)。このタイトルが破られることはまずないはずだ。

*注 これまでタイトルを保持していたのは、九州新幹線の川内駅だった。

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車止めの先は港の風景が素通しで
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日本最西端の新幹線駅の銘板
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(左)新幹線改札口
(右)指定券券売機
 

ひととおり記念写真を撮った後、エスカレーターで出口へ向かった。線路がすべて高架化されたので、駅の地上部には広く平らな自由通路が設けられている。しかし、整っていたのは構内だけで、駅前はまだ工事の真っ最中だった。

駅は元の位置から150mほど西へ移転したので、電車通りである国道202号(新浦上街道)との間に広い空間が生まれた。しかし、市内電車(長崎電気軌道)や路線バスの乗り場は移っていないため、市内に出ようとすれば、仮設通路を延々と歩いていく必要がある。新幹線効果で、今まさに旅好きの人々の関心が長崎に向いているはずだが、整備事業が完成するのは3年後の2025年だそうだ。

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駅前は整備工事中
仮囲いの外側を延々歩かされる

駅前整備は到達目標があるのでまだしも、西九州新幹線の将来の見通しはまったく立っていない。知られているとおり、この路線は今を遡る50年前、1973年に計画決定された5本の整備新幹線の一部だ。その後、武雄温泉~長崎間はフル規格(標準軌の新幹線方式)で建設するものの、残る新鳥栖~武雄温泉間は線形の良好な狭軌在来線を活用して、軌間可変のいわゆるフリーゲージトレインを走らせる計画が立てられた。

しかし、新幹線と在来線の両方で十分なパフォーマンスを発揮できる車両というのは、開発のハードルが高かった。さらに、実用化されても高コストになることが問題視されて、結局、今回の導入は見送られてしまう。JR九州や長崎県は全線のフル規格化による開業を希望しているが、通過する佐賀県が、費用の負担増に見合うメリットが少ないとして、まだ複数の整備方式やルートを比較検討している段階だ。

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開業前の座席模型展示(2022年6月、長崎駅で撮影)
 

話がうまくまとまったとしても、その段階で改めてさまざまな準備作業が開始される。また、仮に在来線を生かす方式なら、1時間に片道2~3本(下注)の特急列車が行き交う特急街道を維持しながらの工事になる。それを考えると、先は長い。おそらく九州新幹線の時とは違って、「かもめ」号が西九州で孤軍奮闘する時代がかなりの期間続くことになるのだろう。

*注 従来、「かもめ」と「みどり(・ハウステンボス)」の毎時2本体制だったが、西九州新幹線開業後はそこに肥前鹿島方面の「かささぎ」が加わり、時間帯によっては3本体制になっている。

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2022年12月 3日 (土)

ライトレールの風景-叡電 鞍馬線

叡山(えいざん)電鉄、略して叡電の鞍馬(くらま)線は、叡山本線の宝ヶ池(たからがいけ)で分岐して、洛北の観光地、貴船(きぶね)や鞍馬へのアクセスを提供している8.8kmの電化路線だ。

叡山本線が開通した3年後の1928(昭和3)年から翌年にかけて、鞍馬電気鉄道により段階的に開業した。1942(昭和17)年に京福電気鉄道との合併で鞍馬線となり、1986(昭和61)年からは、分社化で設立された叡山電鉄が運行している(下注)。

*注 本稿では、過去の記述を含めて叡電鞍馬線と記す。

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もみじのトンネルを抜ける
市原~二ノ瀬間
掲載写真は2019年4月~2022年11月の間に撮影
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叡電路線図
 

建設の経緯から見れば支線なのだが、電車は叡山本線と同じようにターミナルの出町柳駅が起点だ。しかも、叡山本線が単行(1両)なのに対し、鞍馬線には主に2両固定編成が投じられる(下注)。沿線に住宅地が広がり、高校や大学もあって、通勤通学での利用者がけっこう多いからだ。

*注 市原駅での折返し便など、700系単行で運行されるものも一部ある。

ついでに言えば、市販の時刻表の索引地図では鞍馬方面が道なりで、八瀬(やせ)方面はむしろ枝分かれするかのように描かれる。つまり、本線以上に本線の風格を備えた路線、というのが鞍馬線の実態だ。

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出町柳駅の鞍馬線ホーム
 

車両群の主力を担っているのは、2両固定編成の800系と呼ばれるグループだ。1990年代前半に次々に導入されて、創業以来の古参車だったデナ21形を置き換えた。車体の塗装はクリーム地に2色のストライプとシンプルだが、ストライプのうち上部の1色は、編成によって緑、ピンク、黄緑、紫と変わる。

また、815・816号の編成は「ギャラリートレイン・こもれび」と称し、車体全体に四季の森とそこに暮らす動物たちが描かれている。ただ、絵柄が細か過ぎるからか、遠目にはにぎやかな落書きのように見えてしまうのが惜しいが。

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800系
(左)クリーム地にストライプの標準塗装車
(右)「ギャラリートレイン・こもれび」
 

800系に次いで、1997~98年に新造で投入されたのが900系「きらら」だ。2編成あり、塗装は当初、901・902号が紅色(メープルレッド)、903・904号が橙色(メープルオレンジ)だった。後に紅色編成が、青もみじをイメージした黄緑に塗り直され、現在はこの2色で走っている(下注)。

*注 車体の下部は各編成共通で、金の細帯と白塗装。

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橙と黄緑の900系「きらら」
 

沿線風景を広角で鑑賞できるように、内装は側天井や扉下部もガラス張りだ。また、座席は、鞍馬に向かって先頭車両が左側1人掛け、右側2人掛け、後部車両はその逆で、いずれも中央部の2人掛け席は伊豆急のリゾート21のように窓を向いている。伊豆の海の代わりに、比叡山や鞍馬川の谷間が眺められる。

登場から早や25年が経過したとはいえ、「きらら」はいまだに叡電の看板電車だ。森が赤や黄色に染まる季節はとりわけ人気が高く、800系より明らかに混雑している。運行時刻は公式サイトに掲載されるが、ロングシートの800系に比べて座席定員が少ないこともあり、この時期に座れたら幸運と思わなければいけない。

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「きらら」の内装
(左)広窓のパノラマ仕様
(右)中央の2人掛けは窓を向いて固定
 

電車はすべて各駅停車で、朝と夕方以降にある市原駅折返し(下注)や入出庫便を除いて、出町柳~鞍馬間の全線を往復する。日中15分ごとの運行だが、紅葉シーズンの休日は特別ダイヤで、13分間隔まで詰まる。山間部は単線のため、叡山本線のようなピストン輸送はしたくてもできない。ふだんはワンマン運転で、最前部の扉から降車するが、このときばかりは乗員も2人体制になり、すべての扉を開放して、混雑をさばいている。

*注 市原駅折返し便は、主に通勤通学需要に対応している。

出町柳から宝ヶ池までの各駅のようすについては、前回の叡山本線を参照していただくとして、今回はその分岐点から話を進めよう。

宝ヶ池駅に着く直前、鞍馬線は複線のまま、平行移動のように左へ分かれていき、3・4番線に収まる。ホームの案内や駅名標に使われている色は、各路線のシンボルカラーだ。叡山本線は山の緑、鞍馬線はモミジの赤だが、後者は鞍馬方面への電車が来る4番線にだけ見られる。

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左に平行移動して宝ヶ池駅へ
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案内表示はシンボルカラーで色分け
 

駅を出て右にそれていく叡山本線に対して、鞍馬線は北へ直進し、高野川橋梁を渡る。橋は、大原から若狭湾岸へ抜ける国道367号(若狭街道)もいっしょにまたいでいて、右の車窓から比叡山がひときわ大きく見えるビューポイントだ。ちなみにここは叡電の撮影地の一つでもあり、西側にある府道の花園橋から、比叡山を背にして、電車と鉄橋が川面に映る構図が得られる。なにぶん市街地化で電線や建物が増えて、興趣がそがれつつあるが。

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比叡山を背に高野川橋梁を渡る
 

少し行くと一つ目の駅、八幡前(はちまんまえ)がある。叡山本線で言及した三宅八幡宮へは、ここで降りるのが近い。朱色に塗られたホーム柵が、最寄り駅であることをさりげなく告げている。

この後、鞍馬線は岩倉盆地の縁に沿うようにして、西へ向きを変えていく。このような経路を取るのは、山際に位置する八幡宮や、かつての岩倉村(現 左京区岩倉)の中心部に近づけるためだろう。盆地の南部は土地が低く、高野川に出口を押さえられた岩倉川が氾濫しがちで、昔は一面、沼田だった。宅地化が進むのは、河川改修と土地区画整理が終了した1970年代以降のことだ。

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八幡前駅、700系が多客時の助っ人に
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岩倉盆地の変遷
(上)1931(昭和6)年図 鞍馬線は田園地帯のへりを行く
(下)2022年図(地理院地図) 盆地全体が市街地化
 

左カーブの先に、岩倉(いわくら)駅が見えてくる。実相院や岩倉具視(いわくらともみ)の旧宅は、旧村の中を北へ1km、また、かつて叡電経営の脅威となった地下鉄の終点、国際会館駅へは南へ約1kmだ。複線区間はまだ続いているが、長らく岩倉以遠は単線で(下注)、複線に戻されたのは1991(平成3)年、鴨東線の開業による利用者の増加で増発が必要になってからだ。

*注 開業時は市原まで複線だったが、1939~44年にかけて鞍馬線全線が単線化、1958年に岩倉まで再複線化、1991年に二軒茶屋まで再複線化。

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岩倉駅
 

次の木野(きの)駅周辺でも土地区画整理は完了し、住宅が建ち並ぶが、田畑もまだいくらか残っている。ここを通ると、すぐ南にあって乱開発の象徴と言われた一条山、通称モヒカン山が思い浮かぶ。長い間、モヒカン刈りのような無残な姿を晒していたが、斜面が緑化され、残りはすっかり住宅地に変貌している。今では電車から眺めても気づかないくらいだ。

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木野駅
 

京都精華大前(きょうとせいかだいまえ)駅は、1989年に開設された叡電で最も新しい駅だ。上下ホームの連絡通路を兼ねた、キャンパス直結の跨線橋が頭上に架かる。芸術系の大学らしい凝った形状をしているが、銘板によると名称はパラディオ橋で、イタリアの建築家アンドレア・パラーディオが残したトラス橋の原型を再現したものだそうだ。

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京都精華大前駅とパラディオ橋
 

谷が狭まってきたところで、二軒茶屋(にけんちゃや)駅に停車する。岩倉盆地の西の端だが、宅地化の波はこのあたりまで及んできている。それとともに、駅前から京都産業大の通学バスが出ているので、朝夕を中心に学生の乗降がかなりある。

複線区間はここまでだ。下り線は、駅の西側で引上げ線になって途切れている。昔の複線用地が右側に残る(下注)のを横目に見て、電車は河川争奪の痕跡である市原の分水界を乗り越えていく。初めて50‰の勾配標が現れるのもこの上り坂だ。

*注 架線柱とビームも複線用地にまたがっている。

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二軒茶屋駅を後にして単線区間へ
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(左)架線柱は複線時代の名残
(右)市原の分水界
 

市原(いちはら)は鴨川の支流、鞍馬川の谷間に開けている。駅があるのは、旧集落の山手で、棒線駅にもかかわらず、ここで折返す電車のために、出発信号機が立っている。開業時は複線区間の終端だったので、ホームのすぐ先で鞍馬川を渡る市原橋梁に、複線分の橋脚が見える。当時の渡り線は、川向うにあったらしい。

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(左)出発信号機のある市原駅
(右)市原橋梁の橋脚は複線仕様
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市原橋梁を渡る上り電車
 

ここからはいよいよ山岳路線だ。電車は、鞍馬川の深い渓谷に吸い込まれていく。次の二ノ瀬駅との間にある約400mの区間は、線路の両側にカエデの木が育ち、晩秋にはみごとなもみじのトンネルを作る。パノラマビューの「きらら」にとって、最大の見せ場だ。「きらら」に限らず、ここを通過する電車は徐行運転され、鮮やかな錦秋の景色を愛でる時間を与えてくれる。車内では運転席の後ろが、スマホやカメラを構えた人たちでいっぱいになる。

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(左)もみじのトンネルを行く
(右)運転席の後ろは人だかり
 

もみじのトンネルを抜けると、鞍馬川を渡る二ノ瀬橋梁がある。下り電車は、二ノ瀬駅の場内信号確認のため、この橋の手前で一旦停止する。橋の下に目を落とすと、道路脇で列車の通過を待ち構えていた撮り鉄たちの姿があるかもしれない。紅葉区間や鉄橋のたもとには立ち入れないため、撮影スポットは事実上ここに限定されている。

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二ノ瀬橋梁を渡る
 

二ノ瀬駅があるのは、谷間の集落を見下ろす山腹だ。単線区間で唯一、交換設備を有する駅で、上下列車が行き違う。ダイヤ通りなら、上り出町柳行が先着して、鞍馬行の到着を待っている。なかば信号場のようなものなので、降りるのはハイカーか、近くの白龍園という日本庭園の特別公開に行く客だ。

上りホームにはログハウス風の待合所が建ち、その傍らに、クワガタムシの顎を模したという2対の庭石が置いてある。行き違いを終えた電車が北山杉の森陰に消えると、再び駅に静けさが戻り、鳥のさえずりが聞こえてくる。

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二ノ瀬駅で列車交換
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二ノ瀬駅
(左)ログハウスの待合所
(右)駅に通じるのは階段の徒歩道だけ
 

線路はこの後、50‰の急勾配と急曲線で、谷の西側の山裾をくねくねと上っていく。2020年の夏から1年2か月もの長い運休の原因となった土砂崩れ区間を静かに通過する。

貴船口(きぶねぐち)は、京の奥座敷と呼ばれる貴船への下車駅だ。夏場は納涼の川床料理が名物だが、貴船神社など紅葉も美しく、シーズンにはここで車内の乗客が半減する。築堤下にあった古い木造の駅舎は2020年の全面改築で、階段が広げられ、エレベーターもついた。なお、貴船の中心部へは谷を遡ること約2km、歩けば30分近くかかる。駅前から路線バスに乗るほうがいいだろう。

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貴船口駅
(左)もみじに包まれたホーム
(右)改築された駅舎
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「渡らずの橋」を渡る
 

貴船口を出発した電車は、カーブした鉄橋を渡るが、これは、蛇行する鞍馬川を串刺しにしている「渡らずの橋」だ(下注)。その後、50‰勾配で上りつつ、叡電唯一の(本物の)トンネルを抜ける。さらに2回鉄橋を渡ったところで、山腹の坂道の前方に場内信号機が見えてくる。車内に「くらま、くらま、終点です」とアナウンスが響き、出町柳駅から31分で、電車は鞍馬駅の櫛形ホームに滑り込む。

*注 名称は第一鞍馬川橋梁と第二鞍馬川橋梁だが、実態は連続している。

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鞍馬駅、構内は1面2線
 

鞍馬駅は1面2線の構造だ。余裕のあるホーム幅を生かし、繁忙期には乗車降車の動線を分けて客をさばいている。駅舎は、重層の入母屋屋根に対の飾り破風をつけた寺社風の造りで、内部には、格子天井から和風のシャンデリアが下がる広い待合室がある。欄間に赤い天狗の面がいくつも掛かり、対面に火祭りに使う松明が吊ってあるのも、ご当地ならではだ。

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入母屋屋根の鞍馬駅舎
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待合室には当地ゆかりのオブジェも
 

鞍馬天狗の面は、駅前広場にさらに大きなモニュメントがある。先代のものは雪の重みで長い鼻が折れたため、一時は傷跡に絆創膏が貼られ、話題を呼んだ。2019年に設置された2代目は、彫りが深く、眉や口髭が強調されて、より芸術的な顔つきになった。また、天狗の奥で目立たないが、1995年に廃車となったデナ21形21号車の前頭部と車輪も保存されている。この形式では唯一残る貴重なものだ。

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(左)駅前広場の鞍馬天狗
(右)デナ21形の前頭部と車輪
 

最寄り駅から境内までかなり歩かされる神社仏閣もあるなか、鞍馬寺の場合は、駅前から石段下まで200mもない。町並みはまだ上流へ延びているものの、土産物屋が並ぶ門前町はあっけなく終わってしまう。しかし鞍馬寺の参道は、仁王門をくぐってからが長く、しかも険しい坂道だ。それで、足許の不安な参拝者のために、小さなケーブルカー、鞍馬山鋼索鉄道が運行されてきた。

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鞍馬寺、正面は仁王門
 

乗り場は仁王門のすぐ上にある。鉄道事業法に基づくものとしては日本一短く(山門~多宝塔間191m)、お寺(宗教法人鞍馬寺)が運営し、運賃ではなく寄付金(一口200円、下注)を納めた人だけが乗れる、という何重にも珍しい路線として、鉄道愛好家にはよく知られている。

*注 鞍馬寺の境内に入る際、愛山費(拝観料)300円が別途必要。

寄付金としているのは、税法上の収益事業とみなされないための措置で、券売機でチケットを買うことに変わりはない。とはいえ実際、営利目的の運行ではなく、利用者の集中を避ける意味もあるのだろう。「おすすめ」として「健康のためにも、できるだけお歩き下さい」と書かれた案内板が、乗り場の手前に立っている。

往路は乗り鉄するとしても、復路は杉木立の参道を歩いて降りながら、霊気漂う境内の雰囲気にじっくりと浸りたいものだ。

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鞍馬山鋼索鉄道
(左)杉木立を上る
(右)多宝塔駅(上部駅)と車両
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1「京都東北部」(昭和6年部分修正測図)および地理院地図(2022年12月2日取得)を使用したものである。

■参考サイト
叡山電車 https://eizandensha.co.jp/

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2022年11月25日 (金)

ライトレールの風景-叡電 叡山本線

叡山(えいざん)電鉄、略して叡電(えいでん、下注)は、京都市北東部でトラムタイプの車両を運行する標準軌の電気鉄道だ。出町柳~八瀬比叡山口間の叡山本線 5.6kmと、途中の宝ヶ池で分岐して鞍馬に至る鞍馬線 8.8kmの2路線を持つ。今回はまず、京都市内から比叡山への観光ルートになっている叡山本線を訪ねてみたい。

*注 関西ではたとえば阪急電車、京阪電車のように、電気鉄道を「~電車」と呼び習わすので、叡電も公式サイトでは「叡山電車」と名乗っている。

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初夏の風を切って走る「ひえい」
三宅八幡~八瀬比叡山口間
掲載写真は2019年4月~2022年11月の間に撮影
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叡電路線図
 

京都市内を貫く鴨川(かもがわ)に支流の高野川が合流する地点、いわゆる鴨川デルタに面して叡電のターミナル、出町柳(でまちやなぎ)駅がある。京都の通称地名は、交差する通りの名を合成したものが多い。出町柳もその流儀に倣ってか、開業に際して、対岸にある出町と此岸の柳をつなげて作られたという。

地下にある京阪電鉄鴨東(おうとう)線の出町柳駅(下注)とは連絡通路で接続され、京都中心部や大阪との間を行き来する利用者で、朝夕はとりわけ賑わう。叡電の会社自体、京阪の100%子会社だが、旅客の流動から見ても京阪の支線といっていい状況だ。

*注 鴨東線は三条~出町柳間2.3km。京阪電鉄の支線だが、列車は三条から大阪方面に直通している。

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出町柳駅西口にはバスターミナルがある
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(左)柳通に面する南正面
(右)改札口
 

だがこれは、鴨東線が開業した1989(平成元)年にようやく始まったことだ。市電が走っていた時代、最寄りの停留所とは200m近く離れていたし、市電廃止後は完全に孤立線だった。なぜこの位置に起点が置かれたのかを含めて、先に路線の歴史を見ておこう。

現在の叡電叡山本線である出町柳~八瀬間が開業したのは、1925(大正14)年のことだ(下注)。出町柳駅は、旧市街地から鴨川を渡った対岸に設けられた。当時、京都の市電網は、前年の1924年に出町を終点とする狭軌の出町線が廃止され、代わりに標準軌の河原町線と今出川線がつながって、河原町今出川の角に停留所があった(図1、2参照)。

*注 当時は京都電燈叡山電鉄、1942年から京福電気鉄道、1986年から叡山電鉄。本稿では過去の記述を含めて叡電と記す。

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出町柳駅付近の変遷 I
(上)1915(大正4)年図 京都電気鉄道出町線が出町に終点を置く(1918年から市電出町線)
(下)1928(昭和3)年図 叡電が開通、市電出町線は廃止、河原町線と今出川線がつながり、河原町今出川に電停設置
 

さらに今出川通とセットになった市電の東部延伸が計画されていたが、そのルートは河原町今出川をいったん北上し、出町桝形(でまちますがた)で右折して鴨川を渡り、旧道である柳通(やなぎどおり、下注)を拡幅して百万遍に至るというものだった。このとおり実現していれば、叡電出町柳駅は市電の行きかう大通りに面していたはずだ。

*注 拡幅計画時には東今出川通の名称が与えられていたが、計画変更に伴い、柳通に改称。

ところが後に計画は変更される。図3のとおり、今出川通と市電の延伸は、出町柳駅前を通らず河原町今出川から東へ直進する形で、1931(昭和6)年に完成した。最寄りの賀茂大橋東詰に電停が設置されたとはいえ、叡電にとっては梯子を外されたような思いだったのではないか。

叡電(京都電燈)は、鴨川沿いに南下して京阪三条に至る路線の特許も得ていた。しかし、さまざまな事情で着工には至らず、鴨東線ができるまで64年の間、中途半端な状況に甘んじなければならなかったのだ。

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出町柳駅付近の変遷 II
(上)1951(昭和26)年図 今出川通と市電が出町柳駅から離れた賀茂大橋経由で開通
(下)2003(平成15)年図 市電全廃、京阪鴨東線開通
 

さて現在の出町柳駅だが、敷地はいささか手狭だ。表の通りと改札の間が短く、ふだんはともかく、混雑する行楽シーズンなどは特にそう感じる。

構内は4面3線で、通常1番線に叡山本線、2・3番線に鞍馬線の電車が入線する。3番線は斜めに入り込んでいて、後で増設されたのだろう。駅舎の表側は改装されているが、ホームの先端で振り返ると、本屋に載る寺社風の切妻屋根が見える。ホーム屋根を支える鉄柱とともに、開業時からのものだという。

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4面3線のコンパクトな構内
駅舎には寺社風の切妻屋根が架かる
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(左)ホーム屋根の支柱は開業時のもの
(右)ホームから北望、渡り線が見える
 

叡山本線は、基本的に単行(1両)運転だ。全線複線という恵まれた施設を生かして、多客時は増発で対応している。特に紅葉が見ごろになる11月の休日はフル回転で、日中毎時7~8本の高頻度で次々に発車していく。この間に鞍馬行が毎時4~5本挟まるから、駅は休む間もない。

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紅葉シーズンの発車時刻表(2022年)
平日もこれ以外に臨時便が運行されることがある
 

ほとんどが京紫に塗られて形式の違いが目立たない嵐電とは対照的に、叡電の保有車両は個性的だ。叡山本線に使われているのは700系と呼ばれるグループだが、クリーム地に細い色帯の従来塗装は数を減らし、赤系や青系のデザインに身を包んだ改装車(下注)や、開業当時のイメージに沿うレトロ風の「ノスタルジック731」といった多彩な顔触れに変化してきている。

*注 722号が赤(朱色)、723号が青。また712号が緑で2022年12月に就役予定。

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多彩な700系
(左)赤系デザインの722号車
(右)レトロ仕様の「ノスタルジック731」
 

極めつけは、前面に付けた金色の環が強烈なオーラを放つ「ひえい」だ。2018年に登場した700系の改造車だが、楕円のモチーフを多用したテーマ性の濃い外観、グレード感のあるバケットシートの内装と、特別料金を徴収してもおかしくない仕様で、初めて乗る客の目を奪う。

このように車両ごとに趣向を凝らすことができるのは、単行運転の強みだろう。途中駅で待っていても、次はどんな電車が来るのかと、楽しみが尽きない。ちなみに「ひえい」は、鞍馬線の「きらら」とともに運行時刻表が公式サイトに掲載されているので、決め打ちで乗車(または撮影)することが可能だ。

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732号「ひえい」
(左)金色の環がオーラを放つ
(右)バケットシートが並ぶ車内
 

そうこうするうちに、ホームに発車を知らせるメロディが鳴り渡った。ドアが閉まり、八瀬比叡山口行き電車は静かに駅を離れる。渡り線を通過した後、住宅やマンションの間を進みながら、右にカーブする。次の元田中(もとたなか)までは、建設当時すでに宅地化が進行していたので、900mの駅間に踏切は9か所にも上る。

元田中駅のホームはいわゆる千鳥状の配置だ。東大路通(ひがしおおじどおり)の踏切を挟んで、下りが手前(西側)、上りが向こう側にある。かつてはこの間で路上の市電と平面交差していた(下の写真参照)。また、戦後1949(昭和24)年から1955(昭和30)年まで、宝ヶ池にあった競輪場への観客輸送で市電が叡電線への乗入れ(下注)を行っていたときには、ここに渡り線があった。

*注 臨1号系統(壬生車庫前~祇園~叡電前~山端(現 宝ヶ池)間)と、臨3号系統(京都駅前~河原町今出川~百万遍~叡電前~山端間)。叡電線内の途中駅は低床ホームがないため、無停車だった。

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元田中駅の下りホーム
道路を隔てた上りホームに電車が停車中
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東大路通を横断(下の写真と同じ方向)
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市電と平面交差していた時代
叡電前電停から北望(1978年)
Photo by Gohachiyasu1214 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

元田中を出ると、線路は左カーブで再び北を向く。行く手に比叡山が見えるとともに、約2kmある叡電最長の直線区間に入っていく。茶山(ちゃやま)へは約500mで、叡電で最も短い駅間距離だ。本来すいているはずの平日朝の下り、夕方の上り電車に若者の姿が目立つが、これは沿線に大学がいくつかあるからだ。茶山でまず京都芸術大(旧 京都造形芸術大)の学生たちが降りる。

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左カーブから比叡山が見える
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(左)約2km続く直線区間 (右)茶山駅
 

北大路通(きたおおじどおり)と琵琶湖疏水分線を横断して、一乗寺(いちじょうじ)へ。駅は、曼殊院道(まんしゅいんみち)と呼ばれる旧道に接していて、もとは東の山手にある一乗寺村(現 左京区一乗寺)への最寄り駅だった。しかし最近では、むしろ西側の東大路通に点在するラーメン店群、通称 ラーメン街道の下車駅として名を馳せているようだ。叡電も「京都一乗寺らーめん切符」という、一日乗車券とラーメン一杯をセットにした割引切符を売出して、アピールに余念がない。

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(左)一乗寺駅 (右)曼殊院道の踏切
 

次の修学院(しゅうがくいん)の駅前は、街路樹が植わる片側2車線の北山通(きたやまどおり)で、周辺はどこか小ざっぱりした雰囲気がある。ふだんは地元市民が使う駅だが、東の山裾には修学院離宮や曼殊院、南に行けば圓光寺や詩仙堂(下注)など紅葉の名所が多く、秋の休日などはリュックを背負った人もよく見かける。

*注 圓光寺や詩仙堂に直接行く場合は、一乗寺駅のほうがやや近く、道もわかりやすい。

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(左)修学院駅
(右)北山通を横断
 

叡電にとっては、ここが運行の拠点だ。駅の東に隣接して修学院車庫があり、本社も置かれている。駅は北山通建設の際に少し南へ移転しているが、車庫も経営不振の時代に北側の一角が売却され、3両分の長さがあった検車棟が2両分に短縮された。跡地にはマンションが建っている。車庫は走る電車の窓からもよく見える。電車が出払っているときは、奥で休んでいる凹形プロフィールの電動貨車1001号が目撃できるかもしれない。

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修学院車庫(車庫見学行事で撮影)
(左)電動貨車1001号 (右)検車庫
 

修学院を出てすぐ、茶山の手前から続いてきた直線路は終わり、左に緩くカーブしていく。年末の高校駅伝などでおなじみの白川通の陸橋(下注)をくぐると、鞍馬線が複線のまま左に分岐して、宝ヶ池(たからがいけ)駅に着く。

*注 東側に付随する歩道橋から宝ヶ池駅構内が見渡せるが、金網が張られ、視界が悪くなった。

駅は3面4線の構造で、終点に向かって右から1・2番線に叡山本線、3・4番線に鞍馬線の電車が停車する。分岐駅とはいうものの、構内は意外に静かだ。電車は両線とも出町柳が始発なので、ここで乗り換える客は少ないし、高野川の谷が狭まる場所で駅勢圏が小さいという事情もあるだろう。

上述した市電からの乗入れは、ここが終点だった。4番線の北側に、当時使われていたという低床ホームが残っている。また、2・3番線の島式ホームの屋根を支える支柱には、旧駅名である「やまばな(山端)」の文字が見える。

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鞍馬線が分岐する宝ヶ池駅
手前の1・2番線が叡山本線、左奥の3・4番線が鞍馬線
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(左)4番線の北側にある市電乗入れ時の低床ホーム
(右)3番線側の旧駅名標
 

支線である鞍馬線が北へ直進するのに対して、叡山本線はこの後、右にそれていく。次の三宅八幡(みやけはちまん)は、二つ目の右カーブの途中にある。駅は、名前が示すとおり三宅八幡宮の最寄り駅として設置された。朱塗りのホーム屋根や柵が下車した客を迎えているが、神社までは600mほどの距離がある。参拝するなら、鞍馬線の八幡前駅がより近い。

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朱塗りが映える三宅八幡駅
 

ところで三宅八幡宮は、昔から疳の虫封じのご利益で知られていた。今でこそひっそりした境内だが、京都で生まれた明治天皇の幼少期の病を治したとされ、参拝者が絶えなかったという。市電のルーツである京都電気鉄道も、三宅線として出町から三宅八幡への延伸を計画していたほどだ(下注)。これは惜しくも断念されたが、後にその構想を実現したのが叡電叡山本線ということになる。

*注 1903(明治36)年に軌道敷設の特許取得。高野川左岸に沿うルートが想定されていた。

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三宅八幡宮
鳥居の脇に狛犬ならぬ「狛鳩」
 

その三宅八幡を出ると、左側は高野川の河畔林に覆われていき、33.3‰の急な上り勾配も現れる。正面には比叡山がそびえるが、もはや近すぎて全貌を見渡すことはできない。高野川の鉄橋を渡ると、左カーブの先に、終点八瀬比叡山口(やせひえいざんぐち)駅が見えてくる。

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終点の大屋根が見えてきた
 

鉄骨組み、ダブルルーフの大屋根が印象的な駅舎は、開業時からあるものだ。出町柳駅より空間の余裕が感じられ、昭和初期の行楽地の賑わいを彷彿とさせる。構内は3面2線の構造だが、中央の狭いホームは使われていない。

側面にある出入口に右書きで再現されているように、駅は開業当時、単に八瀬(やせ)と名乗った。その後1960年代に、私鉄沿線には通例の駅前遊園地が造られた際、八瀬遊園駅に改称された。中高年層にはこの名が夏休みの記憶と結びついているだろう。2002年からの現駅名は遊園地の閉園に伴うもので、比叡山への観光ルートを形成するという本来の敷設目的に立ち戻った形だ。

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八瀬比叡山口駅構内
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「八瀬驛」の表札を掲げた駅玄関
 

途切れた線路の先は高野川の渓流で、木橋を渡って少し坂を上ると、叡山ケーブルのケーブル八瀬駅がある。比叡山に上っていくこのケーブルカーも、叡山本線と同じ1925年に開業した古い路線だが、叡電が分社化された後も京福電鉄の運営下に残されている。

叡山ケーブルは、山麓のケーブル八瀬駅と山上のケーブル比叡駅の高低差が561mあり、日本一なのだそうだ。しかし、山上駅はまだ実際の山頂ではなく、さらにロープウェーに乗り継がなければならない。また滋賀県側にある延暦寺の伽藍まで行こうとすれば、山頂からバスに乗るか、ケーブルの山上駅から2km以上の山道歩きが必要だ。叡山本線が誘う比叡山内は、想像以上に広くて深い。

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叡山ケーブル
(左)ケーブル八瀬駅 (右)車両(旧塗装)
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森の中に側線とトロッコが残る
 

次回は鞍馬線を訪ねる。

掲載の地図は、陸地測量部発行の1万分の1「京都近傍図」(大正4年10月10日発行)、同「京都近郊」(昭和3年測図)、地理調査所発行の1万分の1地形図京都北部および大文字山(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図京都御所(平成15年修正)を使用したものである。

■参考サイト
叡山電車 https://eizandensha.co.jp/

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2022年11月16日 (水)

ライトレールの風景-嵐電 北野線

前回の嵐山本線に続いて今回は、嵐電(らんでん)のもう一つの路線、北野線を訪ねてみたい。

北野線は、西大路通と今出川通の交差点に臨む北野白梅町(きたのはくばいちょう)と、嵐山本線に接続する帷子ノ辻(かたびらのつじ)とをつないでいる。その間に駅が8つあるので、そこそこ長いように錯覚してしまうが、全線で3.8kmだから、実際歩いても1時間かからない小路線だ。

京都市街でも山手のほうを走る北野線の沿線には、有名寺院の境内や落ち着いた風情の住宅街が広がっている。嵐山本線ほど混まないので、四季折々、車窓を彩る花や草木に目を和ませながら、ゆったりと乗車体験が楽しめるだろう。

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桜咲く御室川橋梁を渡る
掲載写真は2019年4月~2022年11月の間に撮影
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嵐電路線図
 

起点の北野白梅町駅は最近リニューアルされて、雰囲気が一変した。以前は平板なファサードと無骨な切妻屋根に覆われた薄暗い乗り場の駅だったが、2021年3月に完成した改築工事で、和風の屋根を載せたガラス張りのモダンな駅舎が建てられた。嵐山駅のきものフォレストを連想させる付け柱には、よく見ると日本画の様式で白梅が描かれている。

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改築された北野白梅町駅
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(左)白梅が描かれた付け柱
(右)待合室と案内窓口
 

ホームへは、素通しのエントランスを通って入る。四条大宮駅と同様の、3面2線の造りだった構内は、縮小されて2面1線になった。ただしホームが延長されていて、2編成を縦列収容できるようだ。1線化により捻出されたスペースには、バス乗り場が設置されている(下注)。

*注 この乗り場には、金閣寺方面へ行く京都市バスの急行102系統が、ルート変更により停車していたが、コロナ禍で早々と運行休止になり、今(2022年11月)に至るも使われていない。

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(左)2面1線になった構内
(右)ホームとバス乗り場が隣接
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かつての北野白梅町駅(2019年4月撮影)
(左)正面 (右)切妻屋根のかかる3面2線の構内
 

歴史を紐解くと、嵐電北野線が全通したのは1926(大正15)年のことだ(下注1)。当時の線路は東へあと400m延びて、北野天満宮の参道脇に起点の北野駅が置かれていた。つまり、天神さんと嵐山方面を結ぶために建設された一種の参詣鉄道だったのだ。

ちなみに、北野天満宮前には、すでに1912(明治45)年から市電堀川線(北野線ともいう、下注2)が開業しており、京都駅前との間に路面電車が走っていた。下の図1にその状況が描かれている。

*注1 当時は京都電燈、1942年から京福電気鉄道。本稿では過去の記述を含めて嵐電と記す。
*注2 開業時は京都電気鉄道。1918(大正7)年に京都市に買収されて市電の一部となった。1435mm標準軌の路線網のなかで廃止まで1067mm軌間で残されたため、車両は、ナローゲージ(狭軌)の頭文字Nから始まる車番にちなんで N電と称された。

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北野天満宮一の鳥居
 

昭和10年代に、南北に走る西大路通(にしおおじどおり)が建設された。図2に見られるとおり、その路上に市電西大路線(下注)が開業し、北野線と平面交差した。交差点付近に、乗換駅として白梅町が開業したのもこのときだ。

*注 市電西大路線は、1936(昭和11)年に交差点より北側のわら天神前~白梅町間が先行開業し、1943(昭和18)年に平面交差を含む南側の白梅町~西ノ京円町間が開業して、西大路線が全通。

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北野白梅町付近の変遷 I
図1 1928(昭和3)年図 北野天満宮の参道脇に北野駅があった
図2 1951(昭和26)年図 西大路通と今出川通が開通し、嵐電と市電が交差
 

しかし戦後、1067mmのナローゲージで残っていた市電堀川線の廃止と絡んで、今出川通(いまでがわどおり)の千本今出川以西に市電の路線が延長されることになり、重複する北野~白梅町間は1958(昭和33)年に廃止された。白梅町駅が北野白梅町に改称されるとともに、ターミナルの駅舎が造られた。図3が当時の状況だ。

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北野白梅町付近の変遷 II
図3 1961(昭和36)年図 嵐電が北野白梅町まで後退、今出川通に市電開通
  (1:10,000図は刊行されていないため、1:25,000図を拡大)
図4 2003(平成15)年図 市電全廃により嵐電だけが残る
 

その後、1970年代に市電は全廃、バス転換されたため、今では嵐電北野線だけが、ぽつんと残された形になっている(図4)。今出川通に路面軌道を復活させて、市街東部の叡山電鉄(叡電)と接続する構想もあるのだが、市の財政難と道路渋滞の懸念により、一向に進展する気配はない。

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北野線跡
(左)北野白梅町から今出川通を東望、旧線は奥へ直進していた
(右)嵐電北野駅跡は仏教系の博物館に

北野白梅町駅に話を戻すと、線路を挟む2面のホームは、帷子ノ辻に向かって左側が降車用、右側が乗車用だ。電車が到着すると、降車ホームの出口に係員が立ち、改札業務を行う。では、早朝深夜を除いて10分間隔で運行されている電車に乗って、帷子ノ辻へ向かうとしよう。

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(左)北野白梅町駅到着ホーム
  電車到着時は改札員が立つ
(右)線路の両側に狭い道路が並走
 

駅を出ると、住宅街の中をほぼ直線で西へ進んでいく。線路の北側に並行するのは、今出川通の続きの、歩道すらない2車線道だ。それも馬代通(ばだいどおり)との交差点(下注)で終わり、先はさらに狭くなる。

*注 ここに小松原駅があったが、北野~白梅町間廃止と同時に廃止された。

まもなく一つ目の駅、等持院(とうじいん)に着く。等持院というのは、北へ歩いて4~5分のところにある足利家の菩提寺で、見ごたえのある庭園で知られる。その裏手には立命館大のキャンパスが広がっているので、電車通学の学生が毎朝、住宅街の細道を上っていく。駅は2020年に等持院・立命館大学衣笠キャンパス前に改称され、いっとき日本一長い駅名になったが、まもなく富山市内にこれより長い駅名が誕生して、あっけなくタイトルを奪われた。

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等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅
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(左)一時は日本一長い駅名に
(右)等持院道と交差
 

次の龍安寺駅との間は250mしかない。北側にもう1線分の用地が確保されているので、後で見る鳴滝~常盤間と同じように、部分複線にする計画だったのだろう。一方、線路の南側は桜並木を透かして、往年の高校野球の名門、京都商業(現 京都先端科学大学付属中高)のグラウンドが見える。

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等持院~龍安寺間の桜並木、右側に複線用地
 

龍安寺(りょうあんじ)駅も住宅街の中にあり、ダイヤどおりなら北野白梅町行の上り電車と1回目の交換が行われる。駅名は、2007年まで竜安寺道(りょうあんじみち)だった。「~道」というのは、そこへ至る道筋を意味し、たとえば金閣寺道、銀閣寺道のように、目的地まで少し距離がある停留所名によく使われる。石庭で有名な龍安寺は北の山裾で、駅から山門まで歩くと10分弱かかるから、「~道」のほうが的確には違いない。

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龍安寺駅で1回目の列車交換
 

この後、線路は初めて左へ大きくカーブしていく。扇状地の膨らみに沿っているのだが、同時に、仁和寺に向かう府道をできるだけ深い角度で横断したかったようにも見える。府道はもとの周山(しゅうざん)街道(下注)で、若狭湾岸から周山を経由して京都市街に通じる主要道の一つだった。

*注 なお、福王子からこの踏切を経て妙心寺北門に至る区間は、明治期に整備された新道。

その府道の踏切をはさんで、妙心寺(みょうしんじ)駅がある。待避線をもたない、いわゆる棒線駅だが、下りホームは踏切の手前(東側)、上りホームは向こう側(西側)に設置されている。中間駅では電車の乗降口が進行方向左側に固定されているので、線路の両側にホームが必要なのだ。上りホームは次の右カーブにかかっていて、電車は再び西向きに針路を戻す。

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妙心寺駅
(左)カーブにかかる上りホーム
(右)右カーブは駅西方まで続く(東望)
 

寺の名を冠した駅の締めくくりは、御室仁和寺(おむろにんなじ)駅だ。しかし、この駅が他と一線を画すように思うのは、上りホーム側に残されている、伝統建築を模した木造駅舎のせいだろう。正面軒下の扁額に記された「御室驛(おむろえき)」というのは2007年以前の旧称だ。駅前から幅広な坂道の参道がまっすぐ延び、突き当りに二層の大きな門がそびえ立つ。仁和寺は花の名所で、遅咲きの御室桜の便りを聞くと、春の終わりを感じてしまう。

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御室仁和寺駅
御室桜の花見客が大勢降りる
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上り線側には伝統建築風の木造駅舎
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駅前の参道の突き当りに仁和寺の二王門
 

駅を発ってまもなく、線路は切通しの中でサミットに達し、後は下り坂になる。次の宇多野(うたの)は棒線駅で、上下2本のホームが千鳥状に並んでいる。今や住宅地が途切れることがなくなった北野線沿線だが、この界隈は地形も複雑で、郊外の風情が漂う。2007年以前の旧称は高雄口で、言わずと知れた紅葉の名所への下車駅を意味していた。ただし、高雄山神護寺は峠のはるか向こうで、6km以上も離れている。

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宇多野駅
(左)上下ホームを千鳥式に配置
(右)郊外の風情漂う上りホーム
 

国道162号が通る尾根を深い切り通しで抜けた後は、鳴滝駅に向かって33‰の急な下り坂が続く。御室川の谷を横断するこの築堤区間は両側が桜並木で、毎年春には桜のトンネルになる。その中を走る電車を目当てに、多くの人がやってくる。

有名な撮影スポットは、直線で坂を下った位置にある宇多野1号踏切だ(下注)。踏切脇に人が群がり、危険防止のため警備員も配置される。ただ、桜の木に遮られるので、下り電車が直前まで来ないと画角に入らない。あるいは、遮断機が上がってから、カーブに消えていく上り電車の後ろ姿を狙うことになる。

*注 花見スポットに関する記述は、2019年春の状況に基づいている。

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桜のトンネル
宇多野1号踏切からカーブに消える電車を東望
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見ごろになると人だかりが…
(左)宇多野1号踏切
(右)第二地点(御室川橋梁南東側)から西望
 

第二のスポットは御室川橋梁の南東側にある嵐電の社有地で、この時期だけ一般に開放される。ここでは上り(東)方向が比較的遠望可能だ。第三は、線路をはさんでその北側だが、こちらは下り方向に見通しがきく。この2地点は対面しているものの、線路横断はできないので、行き来するには街路を大きく迂回する必要がある。また、向かいで撮影している人が写り込んでしまうのはしかたがない。

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第三地点(御室川橋梁北東側)から西望
 

さて、桜のトンネルを抜けて左に曲がると、鳴滝(なるたき)駅がある。通常ダイヤで2回目の列車交換が行われる駅だ。鳴滝というのは北1km弱の御室川に掛かる小さな滝の名で、近くにはその名をもつ集落もあった(現 右京区鳴滝本町)。嵐電の駅は当時、集落からかなり離れた田んぼの中に設置されたが、今は住宅街に埋もれている。周囲の街路からホームへ上がる通路が複数あるが、どれも一見客にはわかりにくい。

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鳴滝駅で2回目の列車交換
 

ここと次の常盤駅の間は北野線で唯一、複線化されている。一直線に南下していく線路は、標準軌だけに堂々としていて、小私鉄とは思えないほどだ。

丸太町通(まるたまちどおり)を横断したら、常盤(ときわ)駅だ。常盤という地名は嵯峨源氏の源常(みなもとのときわ)に由来するそうで、南250mにその山荘跡を引き継ぐ源光寺がある。丸太町通は嵯峨野の幹線道路なので交通量が多く、活気の感じられる駅前だ。朝夕は、西隣にある府立高の生徒たちの乗降も多い。

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(左)鳴滝~常盤間は唯一の複線区間
(右)常盤駅
 

常盤駅からはまた単線に戻り、再び坂を下っていく。40‰の標識が立つ最大勾配区間だ。山陰本線(JR嵯峨野線)をアンダーパスし、右に曲がった先に撮影所前駅がある。2016年に開業した嵐電で最も新しい駅で、両側から線路をはさむようにホームが設置されている。

駅名が示すとおり、東映京都撮影所に近く、太秦(うずまさ)映画村の裏門である撮影所口の最寄りでもあった。しかし、コロナ禍以来、撮影所口は閉鎖されたままで、公式サイトからもアクセス案内が消えてしまった。最寄りと言えば、JRの太秦駅へも徒歩3分ほどなので、ここで乗り継いでJRで京都駅へ向かうという流動も生まれている。

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嵐電で最も新しい撮影所前駅
 

終点の帷子ノ辻駅までは300mを切っている。右カーブを曲がり終えると、駅はもう目の前だ。北野線の電車は北側の3番線か4番線に入って、嵐山本線の接続を静かに待つ。

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帷子ノ辻駅3番線に到着
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の1万分の1「京都近郊」(昭和3年測図)、地理調査所発行の1万分の1地形図京都北部(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図太秦(平成15年修正)および2万5千分の1地形図京都西北部(昭和36年修正)を使用したものである。

■参考サイト
嵐電(京福電気鉄道) https://www.keifuku.co.jp/

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2022年10月13日 (木)

ライトレールの風景-嵐電 嵐山本線 II

前回に引き続き、「まいまい京都」のガイドツアーで嵐電(らんでん)嵐山本線を旅する。

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広隆寺の楼門前を行く101号車
掲載写真は2022年5月のツアー当日のほか、2020年2月~2022年10月の間に撮影
 

車庫見学を終えた私たちは、貸切の301号車に乗車するために西院駅のホームへ移動した。しかし、嵐山へ向かうにもかかわらず、誘導されたのは四条大宮方面の上りホームだ。車庫線が上り線に接続されているからだが(下注)、私たちが乗った後、電車はいったん上り線を下り方向へ逆走した。

*注 1番線のみ、渡り線を介して下り線にもつながっている。

「逆出庫と言いまして、昔は朝方、北野線へ行く車両だけこの形でやってました。上り線で嵐山のほうへ向かうんですが、車庫の横に渡り線があります。それを使って下り線に入っていきます。」と、ガイドを務める嵐電社員Mさんがルートを解説する。

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(左)西院駅上りホームから301号車に乗車
(右)沿線ガイドつきの電車旅
 

西院を後に、電車は直進の後、左カーブして西大路三条(にしおおじさんじょう)駅にさしかかった。かつては三条口(下注)と称したが、観光客に、中心部の三条通に近いと誤解されがちだったというのが改称の理由だそうだ。ここで西大路通を横断するため、信号待ちをする。

*注 旧名は、御土居(おどい)に設けられた三条通の西の出口にちなむといわれる。

「優先をとれてないので、交通信号のルールに従います。電車信号の黄色い矢印が出たら出発ですが、この矢印、電車が通過するまでついてなくて、9秒くらいで消えてしまうんです。途中でもし消えても強引に行かないといけません。」

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西大路三条駅
(左)下りホームは専用線上に
(右)上りホームは路面上にある。古い架線柱にも注目
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黄色の矢印信号で電車は路面へ
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三条通上に延びる併用軌道
 

嵐電は、京都で併用軌道が残る唯一の路線としても知られる。西大路三条から1.2kmの間、複線の線路が三条通の上を通っている。開通当時は田園地帯の中ののどかな区間だったようだが、今は工場や住宅が周囲を埋めている。

「路面を走りますので、クルマや自転車には気を使います。最高時速は40キロですが、自転車で電車と競争する子どもが結構おるんです。」

併用軌道は、島津製作所の南側でゆるやかなS字を描いているが、その理由は、かつてこの北側に天神川が流れていたからだ(下注、下の地図も参照)。西高瀬川との間に細長く延びる側道や民地が、河道跡になる。

*注 天神川は、京都盆地を南北に流れる川の一つで、北野天満宮の横を流れ下ることからその名がある。

天神川はこの後、現在の西小路との交差点付近で南に向きを変えていたので、三条通と嵐電は、河床の上昇で天井川化したこの川を坂道で乗り越えなければならなかった。それは、氾濫対策で流路が移設された今も残っている。NHKの番組「ブラタモリ」の京都御所編でも紹介された、市街地に潜む高低差だ。

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(左)S字カーブは旧 天神川を避けた名残
  右の自転車用側道と民地が旧河道
(右)反対方向から
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西小路交差点の坂道は旧 天神川を乗り越えた跡
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天神川の流路変更
(上)1928(昭和3)年図 天神川と紙屋川の旧流路が(涸れ川として)描かれる
(中)1951(昭和26)年図 改修による流路変更後、旧流路にはまだ痕跡が残る
(下)2003(平成15)年図 旧流路は完全に消失(薄紫で旧流路を補筆)。町界や道路に名残をとどめるのみ
 

坂を降りると、路上に山ノ内(やまのうち)駅がある。ここは線路と片側1車線でぎりぎりの道幅しかなく、ホームの踏面は幅60cmと極端に狭い。ホームでの電車待ちは危険なため、客は道路脇の空地、つまり民地などで待つことになっている。「電車が到着してから横断してください」という注意看板はそのことを指す。

「各駅でバリアフリー化を進めているんですが、ここだけは無理です。お年寄りや体の不自由な方が苦労して乗ってこられるので、運転士も介助します。東側の広いところに駅を移したらどうかとも言われるんですが、勾配があってこれも難しい。」

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(左)山ノ内駅の狭小ホーム
(右)利用者への注意看板
 

葛野大路(かどのおおじ)の交差点を通過すると、三条通は右にそれていき、電車はいったん専用軌道に入る。現在の天神川をここで渡るのだが、「鉄橋の手前右手に猿田彦神社、庚申さんの森が見えます。ここは交通安全の神様で、うちの運転士はみなここのお守りを持って運転しております。」

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葛野大路交差点でいったん専用軌道に
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(左)天神川を渡る
(右)背景は猿田彦神社境内の大楠
 

天神川を渡ると、再び三条通に合流する。次の嵐電天神川(らんでんてんじんがわ)駅も併用軌道上の駅だ。しかし、山ノ内とは違い、ホームは歩道からスロープで接続され、十分な幅があり、屋根もついている。というのも、地下鉄東西線との接続駅として2008年に開業した、嵐電で2番目に新しい駅(下注)だからだ。

*注 最新の駅は北野線にある撮影所前駅、2016年開業。

「できる前は、地下鉄と連絡したら嵐電のお客さんが減ってしまうんじゃないかという心配があったんですが、乗り換えがよくなって、逆にお客様が増えました。嵐山から(地下鉄東西線沿線の)南禅寺や平安神宮方面へ観光に行くという方もよくおられます。」

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地下鉄との接続駅、太秦天神川
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開業当時の太秦天神川駅(2008年4月撮影)
 

従来四条大宮まで乗り通していた人のうち何割かはここで地下鉄に流れただろうが、均一運賃なので収入額が減るわけではない。むしろ短距離利用でもあたま数が増えるほうが、業績には貢献するだろう。この路面区間は短く、いくらも行かないうちに今度は嵐電が左にそれる。前駅から250mで蚕ノ社(かいこのやしろ)駅だ。

「右手に鳥居が見えますね。蚕ノ社というのは、この先にある木嶋(このしま)神社のことです。日本でも最古級のお社でして、夏になると足を浸ける御手洗(みたらい)祭があります。元糺(もとただす)とも言うんですが、下鴨神社にある糺(ただす)の森が、もとはここにあったそうです。三本足の鳥居でも有名です。」ガイドさんは調子を上げ、観光案内までしてくれるようになった。

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(左)木嶋神社一の鳥居
(右)蚕ノ社駅上りホーム
 

家並みの間を直線で進むと、次の太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)駅が見えてくる。「太秦といえば映画村ですね。それで通常の放送ですと、水戸黄門のメロディが流れます。暴れん坊将軍の曲だったころもあるんですが、起動ボタン押してダダダーンと鳴りますと、お客さんびっくりされたので(参加者 笑)、不評でやめたという経緯があります。」

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太秦広隆寺駅
(左)駅手前のS字カーブ
(右)下りホームは民家の玄関前
 

国宝の弥勒菩薩半跏思惟像で知られる広隆寺の楼門が右手前方に見える。寺の門前を行く電車は、嵐電のイメージ写真の定番だ(冒頭写真参照)。古都らしい優雅な走行風景に見えるが、実は交通の難所でもある。主要府道がずれて交わる変則的な交差点で、ただでさえ交通量が多いところに併用軌道が割り込む形になっているため、事故が多発する。

「嵐電のなかで最も危ないスポットですので、運転には特に気をつけています。もうすぐ右京警察署が見えてきますが、事故があるとすぐに来てくれまして、5分10分で処理して電車は行っていいよと。けっこうスムーズな連携ができております。右京署さんいつもありがとうございます。」

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人とクルマと電車が交錯する太秦交差点
 

最大の難所を過ぎれば、後は終点まで専用軌道が続く。肩の荷を下ろしたように電車の走りも軽快になる。まもなく帷子ノ辻(かたびらのつじ)、北野白梅町方面の北野線との乗換駅だ。

「北野線は3番、4番線です。今3番線に停まっているのは江ノ電号ですね。北野線は単線ですので、貸切運行できないのが残念ですが、世界遺産の御室仁和寺とか龍安寺、金閣寺にも行けますので、お時間があれば乗ってみてください。」

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帷子ノ辻駅
(左)四条大宮方から
(右)北野線の電車が待つ
 

次の駅は有栖川(ありすがわ)。「京都らしい駅名と言われてまして、何かの駅名ランキングで4位になってました。音の響きがいいんでしょうか。」

以前は嵯峨野駅と称した。所在地の旧 嵯峨野村(下注)に由来する名だが、「嵯峨野」がもっと西の、寺社の多い地区を指す観光地名として有名になるにつれ、誤って下車する観光客も多かったという。有栖川というのは、大覚寺のほうから流れてくる川の名だ。響きにそぐわず、住宅街の中を流れるありふれた小川だが、鉄橋から北山の山並みがちらと見えて、のびやかな田園地帯だったころの名残がある。

*注 葛野郡太秦村を経て1931(昭和6)年から京都市右京区。今も町名は嵯峨野〇〇町になっている。

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有栖川を渡る間、北山が見える
 

右にカーブしてその有栖川を渡り、少し行くと、車折神社(くるまざきじんじゃ)駅だ。南側に、芸能の神様で知られる車折神社があるので、ホームの柵や上屋も朱色に塗られている。

「昔ここの神様が歌い踊って悪霊を鎮めたという謂れがあって、皆さんもよくご存じの芸能人の方の玉垣がいっぱい祀られてます。玉垣1本、1万3千円か5千円くらいだったと思うので、一つ作ってみられたら、友だちに自慢できるんじゃないでしょうか」

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車折神社駅
(左)朱塗りのホーム
(右)境内から駅に直結
 

続いて、鹿王院(ろくおういん)駅。これも近くの寺の名にちなんでいる。「禅宗のお寺で、枯山水のお庭は最も古いものの一つです。実はここは観光の穴場でして、インバウンドのお客さんが多い時でもそんなに混んでなかったと聞いております。でも境内は結構よくて、紅葉もきれいですのでお薦めします。」

嵐電嵯峨(らんでんさが)駅は、JRの嵯峨嵐山、旧称 嵯峨駅の最寄りになる。そのため、嵐電も以前は嵯峨駅前と称したが、両者の間には250mほど距離がある。インバウンド客で溢れかえっていたころは、嵯峨野観光鉄道のトロッコに乗り換える人も多かったそうだ。「アジア系の方に特に人気がありましたね。欧米系の方はトロッコよりも、嵐山のモンキーパークとか竹林に行かれました。」

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(左)鹿王院駅
(右)嵐電嵯峨駅
 

嵐電嵯峨を出ると、いよいよ終点の嵐山駅だ。「駅はリニューアルして10年ほどになります。キモノフォレストと言って、友禅染の生地をLEDライトで照らしてまして、約600本あります。夜になるとかなりきれいで、インスタ映えスポットと呼ばれておりますので、ぜひ夜も楽しんでいただけたらと思います。」

電車はS字カーブをゆっくり曲がって、櫛形ホームに入線していく。西院から約20分の楽しい小旅行だった。「この電車はふだん使用していない3番線に入ります。みなさまご乗車お疲れさまでした。嵐山駅3番線到着です。」

名残惜しげな参加者の拍手とともに、貸切電車のガイドツアーは無事終了した。

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嵐山駅
キモノフォレストが電車を迎える
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(左)発着ホーム
(右)長辻通に面した正面出入口
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301号車、嵐山駅3番線に到着
 

この駅も改札はなく、ホームを直進すると売店が並ぶ駅ビルの中を通り抜けて、嵐山のメインストリート、長辻通に出る。しかし、ツアーにはおまけがあって、希望者は、本来は商業施設の利用者限定のエリアだという駅ビルの屋上テラスへ案内された。

もとレディースホテルのこの建物は3階建で、屋上といっても高さは知れている。だが、周囲に高層建築がないため、思いのほか見晴らしはよかった。西側は、天龍寺の伽藍の屋根が森に埋もれ、こんもりとした小倉山が背後を限る。北には釈迦堂の大屋根と、ひときわ高い愛宕山(あたごやま)、南は嵐山が近く、観光客で賑わう渡月橋もちらと見える。

後ろを振り返れば、青く煙る東山の麓まで京都の市街地が続いていた。足元の駅ホームからその方角へ出ていく京紫の電車を見送る眺めは、充実したツアーのフィナーレにふさわしい。

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駅ビル屋上テラス
(左)京都市街地の眺め、左遠方に比叡山
(右)観光客でにぎわう渡月橋
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テラスから見る嵐電
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の1万分の1「京都近郊」(昭和3年測図)、地理調査所発行の1万分の1地形図京都北部(昭和26年修正測量)、嵯峨(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図太秦(平成15年修正)を使用したものである。

■参考サイト
嵐電(京福電気鉄道) https://www.keifuku.co.jp/
まいまい京都 https://www.maimai-kyoto.jp/

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2022年10月11日 (火)

ライトレールの風景-嵐電 嵐山本線 I

京都周辺を巡るミニガイドツアー「まいまい京都」の募集コースに、ときどき鉄道をテーマにしたものが含まれている。今年(2022年)5月のコース案内を眺めていたら、「嵐電 運転士さんと貸切電車でGO! 西院車庫探検から嵐山まで」というタイトルに目が留まった。近在の鉄道でも、ふだん通らなければ細部は案外知らないものだ。それに運転士目線での話が聞けるならと興味が湧いて、さっそく参加を申し込んだ。

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嵐電の運行拠点、西院車庫
掲載写真は2022年5月のツアー当日のほか、2020年2月~2022年10月の間に撮影
 

嵐電(らんでん)は、京都でトラムタイプの車両を運行している標準軌の電気鉄道だ。四条大宮(しじょうおおみや)から嵐山(あらしやま)に至る嵐山本線7.2kmと、北野白梅町(きたのはくばいちょう)から、本線と接続する帷子ノ辻(かたびらのつじ)に至る北野線3.8kmの2路線をもつ。正式社名は京福電気鉄道だが、地元では昔から「嵐電」と呼ばれ親しまれていて、2007年からこれが鉄道の正式なブランド名になった。

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雅な駅名が並ぶ嵐電路線図

よく晴れた日曜日の朝、嵐電の東側のターミナルである四条大宮駅前に集合した。駅は、8階建ビルの地上部分にあり、正面に駅名とともに筆文字で嵐電のロゴが掛かる。ツアーの出発時刻は朝9時30分、それまでに駅のある場所を観察しておこう。

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嵐電四条大宮駅
 

四条大宮というのは、東西方向の四条通と南北方向の大宮通(下注1)の交差点だ。嵐電がその南西角にターミナルを構えたのは、1910(明治43)年にさかのぼる。当時は嵐山電車軌道と称した(下注2)。

*注1 実際には、北西から斜めに入ってくる後院(こういん)通との五差路。
*注2 1918年に京都電燈、1942年から京福電気鉄道。本稿では過去の記述を含めて嵐電と記す。

その2年後には、駅前の拡幅された街路上に市電が走り始め、東は繁華街の四条河原町、北は西陣織の産地である西陣地区、南は京都駅と接続された。さらに1931(昭和6)年には、新京阪線(現 阪急京都本線)のターミナルとして大宮駅が、翌年には、四条通の四条大宮以西にトロリーバス路線が開業する。こうして、四条大宮は戦前戦後を通じて、京都の西の交通拠点として機能していた。

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電車到着のときだけ改札員が立つ
 

今でこそ京都~大阪間の主たる移動手段はJRの新快速だが、転換クロスシートの117系が投入される1980年代までは、阪急が京阪とともにその役を担っていた。当時、阪急の特急列車は、大宮を出ると大阪の十三(じゅうそう)までノンストップで走り、速くて便利だったからだ。

四条大宮を通る市電は1972(昭和47)年に廃止されたが(下注)、その後も市バスとの乗換客で、四条大宮は大いに賑わった。嵐電駅の筋向い、北東角に建つ阪急の駅が、見栄えを意識した立派な造りなのもそのことを物語る。

*注 このとき廃止されたのは四条線、千本線、大宮線。ちなみに、京都市電の全廃は6年後の1978(昭和53)年。また、四条通のトロリーバスもそれに先立つ1969(昭和44)年に廃止されている。

しかし、市街地が西に拡大し、観光地や大学のある西大路通の往来が増え、西陣の織物業が勢いを減じたことなどが影響して、人の流れはしだいに隣の西院駅に移っていった。実態を反映して、阪急の特急も日中は停車しなくなっている(下注)。

*注 朝夕は「通勤特急」として、大宮と西院にも停車する。

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阪急大宮駅
(左)駅ビル (右)地下ホーム
 

そうこうするうちに、ツアーの人数確認が始まった。きょうは定員いっぱいの30名が参加している。ガイドを務めるのは、電車運転17年の経歴をもつ同社社員のMさんだ。

「このツアーは2年半ぶりです。コロナのためにずっとできなかったので、本日はたくさんお集まりいただきうれしく思っております。今日は暑くなりそうですから、適宜水分補給をお願いします。上着を着てきてしまったので、先にぼくが熱中症になりそうですが。」
冒頭から笑いを誘い、巧みに参加者を引き付ける。

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(左)ツアーの説明を聞く
(右)一般運行の電車で西院へ
 

まずは一般運行の電車に乗って、車庫のある西院に向かう。嵐電は全線均一運賃で、運賃は降車時に車内で支払う方式だ。降車が集中する四条大宮や嵐山駅、それに乗換駅の帷子ノ辻では、電車到着のたびに係員が出てきて運賃収受を行うが、常設の改札口はなく、ホームまですっきりと見通せる。

日中10分間隔で運行されている嵐山行に乗り込んだ。9時44分、定刻に発車すると、電車は両側を住宅やマンションに挟まれた専用線でスピードを上げていく。吊掛けモーターのうなりが高まる。かつて西院との間には壬生(みぶ)駅があったが、1971(昭和46)年に廃止された。以来この間は1.4kmと、嵐電では駅間距離が最も長くなっている。

「線路の南側には、新選組で有名な壬生寺、八木邸などがあります。壬生寺の和尚さんから要望を受けたことがありまして、四条大宮は遠いのでまた駅を造ってくださいと。」
しかし、北側を並行する四条通にはバスが多数走っており、駅復活の見込みはなさそうだ。

少し行くと軽い上り坂がある。かつて地平にあった山陰本線を乗り越していたときの名残だが、今は逆に山陰本線が頭上を高架で横切っている。坂を下りて直進し、急な右カーブで四条通の踏切をごろごろと渡ると、西院駅だ。

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四条通を横断
 

ホームは千鳥式で、下り線嵐山方面は通りの北側、上り線は南側に設置されている。間にある四条通の踏切は遮断機がなく、3色の交通信号でクルマを止める。それに加えて、警報音が独特だ。一般的な電子音と違い、歩道の電柱に取り付けられたベル(電鐘)が、カンカンとのどかに鳴り響く。電車が通過した後、音がすーっとフェイドアウトしていくのも、どこかもの悲しい。

「これ全国的にも貴重なので、なくすなと言われてるんですが、よく壊れるんです。ミリ単位の接触とか、ちょっとしたことで鳴らなくなるので、そのたび係の者が調整に走ります。」

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西院踏切の電鐘装置
 

西院駅も阪急線との乗換が可能だ。しかし、最近まで両者の間は200mほど離れており、交差点の横断も必要だった。乗換機能が重視されていなかったことがわかるが、阪急の地下ホームに直結する乗換口が2017年に開設されて、長年の不便が解消された。通りの南側で上りホームと向かい合っていた嵐電の下りホームが、北側に移設されたのもこのときだ。

ただ、駅名は両者微妙に違う。阪急は「さいいん」だが、嵐電は「さい」という古い読み方を残している。とはいっても、利用者はほとんど意識せず「さいいん」と言うし、ガイドさんでさえそう発音しているように聞こえた。

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西院駅
(左)上りホームの向かいに旧下りホーム
(右)現 下りホーム
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(左)「さい」のふりがながある駅名標
(右)阪急南改札口
  改札機は阪急梅田方面、スロープは嵐電上りホームへ
 

「では、車庫のほうへ参りましょう。」
一行は、本線の線路を隔てて向かいにある車庫構内へ案内された。ここで嵐電の概要や、車庫の機能、運行業務の解説を聞く。

「車庫線は1番線から6番線まであります。5番線の612号車ですが、教という看板が付いていますね。ちょうどUライトレールの方が教習に来られてまして、試験日が近いのできょうは自習中です。どうか静かに見守ってあげてください」

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下りホームから見た車庫構内
 

見ると、制服を着た教官役と教習生とおぼしき二人が、運転席や車両の周囲を、声を掛け合いながら動き回っている。

「試験の科目をご紹介しますと、まず今やっている指呼点検を10分で終えないといけません。それから故障発見が5分、非常処置が10分。この時期ですと、終わったらみな汗だくになります。」

「それから運転です。運転士に求められる能力はいろいろありまして、まず速度感覚です。メーターを見ずに、今何キロで走っているのか。1キロ2キロ単位は難しいですが、5キロ刻みではわかってもらわないと困ります。」

「それと距離感覚。踏切や停止位置まで何メートルあるかがわかる。それから速度調節能力、30キロなら30キロに落としてそのまま走れる技術です。そして制動。電車は起動するのはわりと簡単なんですが、停止位置にぴたっと衝撃なしに停めるのは難しい。うちは手動ですので、入れすぎると手前に停まってしまいますし。」

「学科教習で3か月くらい理論とか構造を習って、運転のほうはこれが全部できて、初めて動力車操縦者乙種運転免許証(下注)です。これを取得したら、岡山とか広島とか全国の路面電車が運転できますので、うちで免許だけ取って、広電行ったりせんといてや、と言ってるんです。」

*注 軌道法で定める軌道のうち併用軌道を走る動力車の操縦資格

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運転教習を参観
 

やがて教習車の隣に、ツアーで乗る車両が引き出されてきた。旧塗色の301号車で、前面に貸切の札が下がっている。嵐電の車両は開業100周年を機に、紫一色(京紫と呼ばれる)に塗り直されたが、301号はベージュと緑のツートンカラーのまま残されている。NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のロケでも、時代設定に合わせて、ヒロインが映画村に通うシーンで使われたそうだ。

次回は、このレトロ車両に乗って嵐山に向かう。

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貸切電車301号が引き出されてきた
 

■参考サイト
嵐電(京福電気鉄道) https://www.keifuku.co.jp/
まいまい京都 https://www.maimai-kyoto.jp/

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2022年4月20日 (水)

コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡

2021年11月14日の朝、バスで西市(にしいち)に着いたその足で、近くの道の駅「蛍街道西ノ市」に展示されている旧 長門(ながと)鉄道の蒸気機関車を見に行った。1915年アメリカ製、動輪3軸の小型機で、鉄道開業に際して配備された101号機関車だ(下注)。

*注 プレートが103になっているのは、後に転籍したときに改番されたもの。

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長門鉄道101号機関車
道の駅「蛍街道西ノ市」にて
 

戦後1947年に滋賀県の繊維工場に転籍し、入換機関車として使われたが、1964年に引退。その後は、宝塚ファミリーランド、続いて加悦(かや)SL広場で静態展示されていた。しかし、後者の閉館によって、ゆかりの土地への引き取りが決まり、去る9月に移送が行われた。公開はほんの1週間前に始まったばかりだ。

里帰りを果たした機関車は、道の駅の建物に囲まれた中庭に鎮座していた。しっかりした屋根が架かり、明らかに施設の中心的モニュメントという位置づけだ。SL広場では数ある機関車コレクションの中の一両に過ぎなかったので、特別に注目を浴びることもなく、雨ざらしになっていた(下写真参照)。それを思えば別格の待遇だから、さぞ本人(?)も晴れがましく思っていることだろう。

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道の駅の中心的モニュメントに
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加悦SL広場時代の101号機(左端、2020年2月撮影)
 

秋のコンター旅西日本編の2日目は、この機関車が走っていた長門鉄道の廃線跡をたどる。鉄道は山陽本線小月(おづき)駅から北上し、ここ西市(現 下関市豊田町西市)に至る18.2km、単線非電化の路線だった。1918(大正7)年に開業し、戦前戦後を通じて地域の交通を担ったが、1956(昭和31)年に廃止となり、バス転換された。

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長門鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1931(昭和6)年部分修正図)
 

朝からいきなり終点の町にやって来たのは、前泊した美祢(みね)市街との間にバス路線があるからに他ならない。小月からも鉄道代替のバスが通っているので、ここで参加者が落ち合い、起点に向かって歩くことにしている。

ちなみに、美祢駅前からブルーライン交通の豊田町西市(とよたちょうにしいち)行きに乗ったのは、大出さんと私。ローカルバスの旅は退屈することがない。この間を結ぶ国道435号にはすでに立派な新道が完成しているが、バスは律儀に旧道を経由するからだ。車窓から美祢線の旧 大嶺駅の現状が観察できたし、平原からの峠越えでは、道に出てきた野生の鹿を目撃した。「次はー、しももものき」という車内アナウンスには、思わず漢字表記(下桃ノ木)を確かめてしまった。

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(左)ブルーライン交通バス、美祢駅前にて
(右)サンデン交通バス、豊田町西市バス停にて
 

本題に戻ろう。道の駅で機関車の現況を見届けた後、サンデン交通のバス停へ引き返し、小月から来る中西さんを待った。本日も参加者はこの3名だ。

まずは、西市駅跡へ向かう。駅は町の西側に置かれていたが、さらなる延伸(下注)を意図したからか、街路の軸とは少しずれている。跡地に建つ豊田梨の選果場の平面形がやや西に傾いているのは、そのためだ。

*注 計画では、陰陽連絡鉄道として、日本海側の仙崎(現 長門市)を最終目的地にしていた。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
西市~西中山間
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同区間 現役時代
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大
(1927(昭和2)年要部修正および1936(昭和11)年修正測図)
 

選果場の壁面に「にしいち」の駅名標が立っていた。もちろん当時のものではなく、2018年の設置らしい。傍らの説明板には、駅敷地北側にある米の備蓄倉庫が当時をしのばせる、と記述されている。選果場の西隣にあった農業倉庫を指すようだが、建物はもう跡形もなかった。鉄道が来ていたことを示すものは、今や県道の向かいの公民館前庭に置かれているという、レールと動輪のモニュメント(下注)ぐらいではないか。

*注 モニュメントの設置場所のことは後日知ったので、実見はしていない。

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西市駅跡
(左)跡地に建つ選果場、赤の円内に駅名標が立つ
(右)駅名標と案内板
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案内板を拡大
 

線路跡の道を南へ歩き出す。町のはずれで拡幅された県道に吸収されてしまうが、100mほどでまた分かれて一本道になった。直線と緩い曲線を組み合わせた線路跡らしい軌跡を描いていて、通るクルマも意外に少ない。森を抜けた先の小さな集落の中に、一つ目の停留所、阿座上(あざかみ)があった。ここにも同じような駅名標が立っている。

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線路跡らしい軌跡を描く道
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阿座上停留所跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

ゴルフ練習場や古墳群の前を通過し、華山(げさん)が見下ろす田園地帯を横切ると、次は石町(いしまち)駅跡だ。同じ仕様の駅名標と案内板(下注)で、位置が特定できる。ここの案内板も「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロなレンガ造りの建物として残されている」と記すが、やはり取り壊されていた。

*注 「鉄道開通百周年 メモリアル長門ポッポ100実行委員会」によるこの解説標識は旧 豊田町域にだけ立てられたらしく、以南の駅跡では見当たらない。

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(左)本浴川(ほんえきがわ)の田園地帯を横切る(北望)
(右)下関市域の最高峰、華山(げさん)
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石町駅跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

線路はこの後、県道34号下関長門線の東側を走っていたはずだが、圃場整備と県道の拡幅により跡は消失している。まだ先は長いので、時間節約と体力温存のために、サンデン交通のバスが来るのを待った。地方バス路線の縮小が進むなか、うれしいことに小月~西市間では、まだ日中1時間に1本程度の便がある。石町から次の西中山までわずか5分乗っただけだが、これで3kmほど前へ進むことができた。

西中山バス停の1kmほど手前から、県道と木屋川(こやがわ)との間に側道が続いていることに気づいていた。川はすでに下流にある湯の原ダムの湛水域に入っていて、その護岸の役割を果たしているが、位置からして廃線跡のようにも見える。

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バスで石町から西中山へ
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(左)西中山駅跡から北望、側道は廃線跡か?
(右)側道はダム湖沿いの自転車道になる
 

西中山を過ぎると、この側道は県道と分かれ、ダム湖沿いの自転車道となって独立する。湯の原ダムは1990年の竣工だから、鉄道の現役時代は、河岸の崖をうがつ形で線路が敷かれていただろう。道なりに曲がっていくと、やがて行く手に支尾根が迫ってくる。自転車道はこれを階段道で越えていくが、鉄道は全長104mの中山トンネルで貫いていた。

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同 西中山~田部間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

トンネルの西市側のアプローチは藪化していたので、自転車道を通って小月側に回った。踏み分け道を進むと、路線唯一の鉄道トンネルが、ポータルも内壁もきれいなまま残っていた。路面はバラスト混じりの土で、ぬかるみもなく、問題なく歩ける。状態はかなり良好に見えるのに、なぜ自転車道を通さなかったのだろうか。

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中山トンネル南口
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(左)中山トンネル内部
(右)同 北口
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南口の手前に掛かる中山トンネルの案内板
 

トンネルを出た廃線跡は再び自転車道となって、富成橋の手前まで続いている。突然、「シカがいますよ」と大出さんが小声で知らせてくれた。尾根筋の上からこちらを見ている。きょう2頭目だ。カメラを向けると、気配を察したか、さっと森の奥に走り去った。

次の込堂(こみどう)停留所跡は、富成橋の南にある同名のバス停の後ろで、金網で囲われたそれらしい空き地が残っている。ここから鉄道は、旧 菊川町の平野部を横断していく。しかし、圃場整備が行われて、線路跡はほぼ完全に消えてしまっている。一軒家の敷地境界が斜めに切られているのが、ルートを推定できる数少ない手がかりだ。

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(左)廃線跡の自転車道は富成橋手前まで続く
(右)込堂停留所跡を北望
 

菊川温泉の敷地の南側で、ようやく線路跡が現れた。一部で簡易舗装されているものの、家並みの裏手をおおむね草道のまま南へ続いている。県道233号美祢菊川線とぶつかったところで、追跡を中断。近所の「道の駅きくがわ」へ移動して、昼食休憩にした。

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菊川温泉の南方、家並みの裏の草道(北望)
 

県道233号と小川を越えた南側の廃線跡も、手つかずの築堤が残る貴重な区間だ。さらに南へ進むと、中間の主要駅だった岡枝(おかえだ)駅の跡がある。広い構内は定番のJA(農協)用地に転用されていて、西市や石町では見ることが叶わなかった農業倉庫もまだ残っている。駅跡より南は、宅地や畑になっているが、その間に溝をまたぐ石積みの橋台を見つけた。

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岡枝駅跡
(左)JAの施設が建つ
(右)現役時代を偲ばせる旧「四箇村産業組合農業倉庫」
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(左)岡枝駅の南方は宅地や畑に
(右)溝をまたぐ石積みの橋台
 

岡枝駅の南方で、木屋川の支流、田部川(たべがわ)を渡る。ここには鉄道で最も長い橋梁が架かっていたが、護岸の改修が完了しており、遺構は何もない。対岸の築堤では倉庫や宅地が列をなしているが、すぐに自転車道が線路跡の位置に復帰し、田んぼの中を左にカーブしていく。

おそらく沿線で唯一プラットホームが残存するのが、田部停留所だ。切石積みの低いもので、住宅敷地の土台にされている。重要な史跡という意味を込めてか、久しぶりに案内板も立っていた。下関市教育委員会によるもので、ホームの全長は45m、高さ0.65mとある。

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(左)田部川渡河地点、対岸に見える倉庫は廃線跡に建つ
(右)自転車道が跡地に復帰
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切石積みのホームが残る田部停留所跡(北望)
 

枝を大きく広げる桜並木を過ぎると、道は上り坂に転じ、県道265号とともに切通しを抜けていく。雨でのり面が崩壊したらしく、全面通行止の看板が立っていたが、歩いて通るには問題がなかった。

県道と斜めに交差した直後に、上大野停留所があった。県道脇に三角の緑地帯が取られ、立派な桜の木の根元に、小さな駅跡碑が埋まっている。

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(左)桜並木から上り坂に
(右)上大野まで坂道は続く
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上大野停留所跡を北望
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同 田部~小月間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

水路敷設工事による迂回区間の後は、山手を縫う簡易舗装の農道になった。クルマの行きかう道から遠ざかるので静かで、気持ちよく歩ける。途中で、「6」(600mの意?)の数字が刻まれたコンクリート製の距離標を見つけた。鉄道時代の遺物だろうか。

森が覆いかぶさる緑のトンネルをくぐってなおも行くと、県道が左から近づいてきて、合流した。下大野駅のあった場所にも、同名のバス停が設置されている。小月と菊川の間は国道491号を行くのが最短ルートだが、バス便のうち4割ほどは、鉄道と同じく遠回りの大野経由で運行されているのだ。

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(左)山手を縫う簡易舗装の農道
(右)コンクリート製の距離標
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(左)用水路のサイホン
(右)緑のトンネル
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(左)下大野で県道と合流
(右)下大野駅跡のバス停
 

右へ折れ、再び谷あいに入ろうとする地点では、中国自動車道に沿って高く盛った築堤が一部残っている。この後で越える峠のために、かなり手前から高度を上げていたことがわかる。しかし、廃線跡はすぐに高速道の下に取り込まれてしまう。峠といっても標高40mほどに過ぎないが、だらだらと続く長い坂道で、歩き疲れた足にはこたえる。

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(左)峠に向けて盛られた築堤
(右)だらだら坂のサミット
 

次に線路跡が明瞭に現れるのは、峠を降りた上小月で浜田川を渡る地点だ。左にそれる県道に対してまっすぐ延びる道をぼんやり歩いていたら、大出さんが「橋台が残ってますよ」と、隣に並行する道を指差す。確かに切石積みの橋台が見える。今歩いているのは2車線道になる前の旧道で、廃線跡は、並行するこの小道のほうだった。

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(左)浜田川を渡る旧道脇の廃線跡
(右)浜田川の切石積み橋台
 

菊川町からまっすぐ南下してきた国道491号とは、ここで出会う。廃線跡はその下に埋もれてしまったものと思い込んでいたが、観察眼の鋭い大出さんが、小川を通すカルバート(暗渠)の向こうに、また橋台を見つけた。さっきと同じ切石積みだ。この前後では廃線跡と国道が絡み合うように走っており、一部分が国道の西側に残っていたのだ。

中国自動車道をくぐる手前には、川べりを走る小道と廃線跡が一体化されたにもかかわらず、低いコンクリート柵が中央分離帯のように残されている場所があった。クルマにとっては危険な障害物だが、地元の人たちは慣れているのだろう。

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(左)国道491号の西側に残る橋台
(右)中央分離帯のようなコンクリート柵を北望
   左側の道が線路跡
 

小月インターのランプをくぐると、いよいよ小月の市街地に入る。ここでも意外に廃線跡を見つけることができた。新幹線と交差する前後は拡幅済みで、そのうち片側1車線の街路になるのだろう。その先にあった長門上市(ながとかみいち)駅の跡は、すっかり宅地化されたが、中央に細道が通っている。しかし微妙に曲がっていて、かつ狭すぎるから、線路敷をなぞったものではないだろう。浜田川に接近する地点では、護岸改修の影響で不分明になってしまうが、その南側では、街中の地割に廃線跡の名残がある(下図参照)。

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小月市街地の廃線跡
(左)新幹線と交差する前後は拡幅済み
(右)長門上市駅跡は宅地化、中央に細道が通る
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地籍界に残る廃線跡(赤円内の細長い地割)
 

長門鉄道の主要貨物は沿線で生産される米や木材で、起点の小月駅には、こうした貨物を取り扱う広いヤードがあった。また、鉄道廃止後も、駅前に生まれた空地が商業施設や駐車場に再利用され、町の賑わいに貢献しただろう。しかし、そうした歴史を語る説明板一つ立てられていないのは残念なことだ。

今はどちらも下関市域だが、終点の旧 豊田町が鉄道史の保存や紹介に熱心に取り組んでいるのを間近に見た後では、いささか物足りなさを覚える。長門鉄道が外界とつながる生命線だった内陸の西市と、早くから全国幹線が通じていた小月とでは、思い入れに強弱の差があるのは仕方ないのかもしれないが。

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(左)小月駅跡は商業施設や駐車場に
(右)山陽本線小月駅
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田部(大正11年測図)、小月(大正11年測図)、5万分の1地形図西市(昭和2年要部修正)、舩木(昭和11年修正測図)、20万分の1地勢図山口(昭和6年部分修正)および地理院地図(2022年4月10日取得)を使用したものである。

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2022年3月15日 (火)

コンターサークル地図の旅-成田鉄道多古線跡

2021年10月16日、コンターサークルS秋の旅1日目は、成田鉄道多古(たこ)線の廃線跡を歩く。

多古線は、千葉県の成田と八日市場(ようかいちば)の間を結んでいた30.2kmの路線だ。千葉県が県営鉄道として1911(明治44)年に開業した成田~多古間がルーツになる。しかし、運営は赤字続きで、1927(昭和2)年に成田電気軌道に売却された。成田電気軌道はもと成宗電気軌道と称し、成田山新勝寺と宗吾霊堂の間の路面軌道を運行していた会社だが、多古線等を譲り受けた後、成田鉄道(下注)に改称している。

*注 JR成田線の前身である成田鉄道とは別。

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多古線の起点だったJR成田駅前
 

その後、路線は1926(大正15)年に多古からさらに東へ、総武本線の八日市場駅まで延伸された。これとは別に1914(大正3)年、三里塚で分岐して南下し、総武本線八街(やちまた)駅まで行く八街線も開業しており、最終的に、三方で国鉄線に接続する路線網が形成された。しかし1944(昭和19)年に、戦地への資材供出が求められ、惜しくも全線で運行休止、1946(昭和21)年に正式廃止となった。

最初に開業した成田~多古間は600mm軌間の軽便規格で建設されたが、八日市場延伸を機に、1928(昭和3)年に1067mmへの改軌を完了している。このとき、ショートカットや曲線緩和といったルート改良も各所で行われており、廃線跡の一部には、600mm時代の旧線と1067mm新線の2ルートが存在する。

今回歩いたのは、主として成田空港の東側に残る千代田~多古間約10kmだ。2ルートが並存する区間では、旧線のほうを選んだ。拡幅のうえ道路転用された新線に比べて、もとの用地幅のまま林道や農道に利用されており、廃線跡の雰囲気がより深く味わえると思ったからだ。

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林道になった廃線跡(旧線五辻~飯笹間)
 

参考までに、旧線と新線のルートが描かれた旧版1:200,000および1:50,000図を掲げる。図1、3、5は大正期の刊行で、多古が終点だった旧線時代のものだ。一方、図2、4、6、7は昭和初期の鉄道補入または修正版で、東西に延びる新線と南下する八街線が表されている。ただし、図2の多古線のルートは、旧線のままで修正されていないので注意が必要だ。

これに対し、1:25,000図は大正期から昭和初期に刊行された後、昭和30年前後まで新刊がなかった。前者には旧線が描かれているが、後者の刊行は鉄道廃止後で、成田~多古間の新線ルートが1:25,000に描かれることはついになかった(下注)。

*注 後述するように、多古(多古仮)~八日市場の延伸線については、「多古」図幅の昭和2年鉄道補入版にその一部が描かれている。

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図1 多古線旧線時代の1:200,000地勢図
(1914(大正3)年鉄道補入)
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図2 同 新線時代の1:200,000地勢図
(1930(昭和5)年鉄道補入)
ただし成田~多古間のルートは旧線のまま
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図3 同 旧線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図4 同 新線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図5 同 旧線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図6 同 新線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図7 同 新線時代の1:50,000地形図 多古~八日市場間
(1934(昭和9)年修正測図)

9時21分着の電車で、芝山鉄道の終点、芝山千代田駅前に降り立つ。芝山鉄道は「日本一短い鉄道」を自称するが、京成線の電車が乗り入れているので、アクセスは容易だ。しかし容易なだけに、よそ者は必ずトラップにはまる。改札を出ようとして初めて、手持ちのICカードが使えないことに気づくのだ。かくいう私たちもなんの疑いも抱かずICカードで乗ってきたので、窓口で現金精算するはめになった(下注)。

*注 ちなみに、現金精算できるのは芝山鉄道区間の運賃のみ。京成線東成田までの運賃は、後日ICカードの入場フラグの無効化処理をしてもらうときに引き去られる。

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芝山千代田駅
 

改札前に集合したのは大出さんと私の2名。この日は曇りがちだったが、その分涼しく、歩くのにはちょうどよかった。まずは、空港の二重フェンスに沿って南へ歩いていく。500mほど行くと、多古線の千代田駅があった場所だ。成田空港の敷地に埋もれてしまった廃線跡が、ここで再び地上に現れる。JA倉庫の手前の更地から東側の民地にかけてがそうだと思うが、何ら痕跡はない。

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千代田駅跡
(左)駅跡の裏手にはJA倉庫が
(右)駅前通りを南望
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
千代田~飯笹間
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

だが、そのすぐ東から始まる緩やかな下り坂の車道は、カーブの形状から見て、まぎれもなく廃線跡の転用だ。初めは掘割になっているが、まもなく右手に路面よりも低い谷が現れた。このあたりでは、台地の平坦面と開析谷の底面との標高差が約30mに及ぶ。左の谷底に設けられた釣り堀で、その深さが実感できる。

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(左)緩やかな下り坂の車道
(右)釣り堀との高低差が際立つ
 

高谷川が流れる一つ目の開析谷を、線路は盛り土で横断していた。谷のへりにある架道橋を観察するために、右の小道を降りる。コンクリート製の橋台の下部に、門の形の妙な出っ張りがあるのだ。その部分だけ骨材の質も明らかに粗い。一説によると、これは鉄道時代の橋台だそうだ。人がくぐれる程度の高さしかないが、残りは地下に埋もれたのだろうか。それより、なぜ車道工事の際に撤去してしまわなかったのか。謎は深い。

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(左)架道橋の下道へ降りる
(右)架道橋の上から見る高谷川の谷
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壁に埋め込まれた謎の橋台(?)
 

谷を渡りきると、廃線跡は再び上り坂に転じる。歩く私たちの横を、ツバメのマークのバスが追い越していった。この道路は、成田と八日市場の間を結ぶJRバス関東 多古線の通行ルートになっている。いうまでもなくこれは、成田鉄道の廃止に伴う代行バス路線だ。

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(左)多古線の代行バスが通過
(右)廃線跡は再び上り坂に
 

道路は次の台地のくびれた部分を掘割で横断していくが、そのサミット、ちょうど台地上を南北に通る道路と交差するあたりに、鉄道の新旧ルートの分岐点があった。新線は今や車道(町道0110号染井間倉線)となって、大きく右に曲がっていく。一方、旧線は左カーブで北へ向かっていた。ただし、下の写真に見える左の小道は南北道路への接続路であり、新旧分岐点はそれより北側にあったと思われる。

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新旧ルート分岐点付近にある立体交差
(左)左の道は、上の道への接続路
(右)跨道橋の上から
 

地形図には、大きな工場の西側で県道から北に分かれる「幅3.0m未満の道路」、いわゆる実線道路が描かれている。これが旧線跡への導入路だが、グーグルマップのストリートビューで見る限り、濃い藪だ。それで私たちは、オーバーパスの道路で迂回し、反対側からアプローチすることにした。

北から林の中をまっすぐ降りていく廃線跡の小道は、最近草が刈られたらしく、歩くのに支障はなかった。しかし、林を抜け、工場に近づく手前で、側溝のある新たな盛り土に埋もれて、跡が追えなくなってしまった。

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(左)林の中の旧線跡(南望)
(右)工場の手前で盛り土に埋もれる(南望)
 

引き返して、五辻(いつじ)集落に入る。旧線五辻駅跡は放置され、ぼうぼうの草藪だったが、小道の脇の「多古町」と彫られた境界標に目が止まる。跡地は町の所有なのだろうか。後で見るように、地元でも旧線の存在はあまり顧みられていない。

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(左)左の草むらが旧線五辻駅跡
(右)多古町の境界標を発見
 

廃線跡はいったん県道に合流するが、すぐに離れ、谷を緩やかに降りていく簡易舗装の一本道になった。うっそうとした森に包まれ、おそらく農作業の車しか通らないような静かな小道だ。しかし、下の谷に降りきると、圃場整備で跡が消えてしまう。

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(左)県道から離れて簡易舗装の一本道に
(右)森に包まれた廃線跡
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(左)谷に降りても直線路がしばらく続くが…
(右)やがて圃場整備で山際に付け替えられる
 

椎ノ木集落の北側ではまた県道に吸収されるものの、すぐに南下する小道になって復活した。ここから線路は、多古橋川が流れる二つ目の開析谷を下っていく。旧線の飯笹(いいざさ)駅跡は畑に紛れてしまったが、山裾の、平底より少し高い位置に廃線跡の小道が延びている。

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(左)県道に吸収された区間(北望)
(右)南下する小道で復活
 

そのうちに、新線を転用したさっきの車道が飯笹集落の陰から現れた。道路脇に多古橋川(たこばしがわ)鉄橋跡の看板が建てられているので見に行く。2005(平成17)年の、土地改良事業による川の付け替え(とそれに伴う鉄橋の消失)の略図と説明文だが、この町道の名称や、用地が1974(昭和49)年5月に旧 成田鉄道から買収されたこと(下注)なども記されていて侮れない。

*注 成田鉄道はバス事業で存続し、1956年に千葉交通となって現在に至る。

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新線跡を転用した車道
(左)成田方(赤の円は案内板の位置)
(右)多古方
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多古橋川鉄橋跡地の案内板
 

新旧のルートが再会する地点では、左から県道79号横芝下総線も合流してくる。交通量が増えるのに、歩道がない。やむなく、近くの農道に退避した。県道脇にあったはずの染井(そめい)駅跡に立ち寄ってみたが、資材置き場で痕跡らしきものはなかった。

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新旧ルートの並行区間
(左)南望
(右)北望、新線跡の車道と旧線跡の農道が接近
 
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(左)染井駅構内は資材置き場に
(右)新線跡の国道に対し、旧線は右に大回りしていた
 

染井駅の次は、いよいよ目標の多古駅だ。旧線の駅は町の東側にあり、栗山川べりまで、さらに貨物線(栗山川荷扱所線0.8km)が延びていた。しかし新線建設に伴ってこれらは廃止され、駅は、東へ延伸しやすいように町の南端に移設された。図11は昭和2年鉄道補入版(昭和3年2月28日発行)で、旧駅と新駅(たこかりは「多古仮」で、多古仮駅のこと)がともに描かれた貴重な図だ。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
飯笹~多古間
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同 旧線現役時代(1927(昭和2)年鉄道補入)
 

八日市場への延伸線は1926(大正15)年12月に開業したが、この時点では多古から西側はまだ600mm軌間の旧線で運行されていた。西側が改軌新線に切り替えられ、同時に多古仮駅が多古駅に改称されたのは1928(昭和3)年9月のことだ。

改軌工事は、大規模なルート変更を伴った。一つは成田市街の北方を通る成田~東成田間、もう一つが今歩いている五辻の手前から多古までの間だ。後者は鉄道廃止後、拡幅されてさきほどの町道、県道79号、そして一般国道296号になった。旧線もこれと絡み合うように延びていたが、染井駅以東では戦後の圃場整備によりほとんど消失している。

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(左)斜めの水路は旧線跡に沿うものか(?)
(右)奥の信号付近に新線多古駅があった(南望)
 

国道沿いのファミレスで食事休憩の後、旧線多古駅の跡をめざした。駅は現在の町役場の東方にあったはずだが、道路沿いの宅地整備が行われた際に埋もれてしまったようだ。

街路の交差点で、「まちなか歴史散策」という案内板を見つけた。県営軽便鉄道も紹介されている。「(鉄道は)成田、三里塚及び栗山川沿いの農村の中心地多古を結び、農作物輸送のために計画されたものです。陸軍鉄道連隊から軽便材料や車両類の貸与を受けて、明治44年(1909年)10月5日に三里塚~多古間13.8kmと栗山川荷扱所線0.8kmが開業しました。」しかし、機関車の馬力が小さく、成田と多古の間に約2時間もかかるのどかな鉄道だった、とある。

それはともかく、地図に示された「軽便鉄道多古駅跡」が新線の駅の位置なのはどうしたことか。旧駅のすぐそばに立つ案内板というのに、灯台下暗しとはこのことだ。

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「多古まちなか歴史散策」案内板で県営軽便鉄道に言及
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地図に示された多古駅跡は新線のもの
 

帰りは役場前から、町の補助で1時間ごとに出ている(成田)空港第2ターミナル行きのシャトルバスに乗った。10kmほど走って、運賃は300円と割安だ。旅の趣旨からいえば、多古線の後継であるJRバスに乗るべきところだが、本数が少なくて使えなかった。このシャトルバスは千代田で空港構内に入り、空港ビルのバス乗り場まで行く。あたかもリムジンのようで、海外旅行に出かけるときの高揚感を思い出してしまった。

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空港行きシャトルバス
 

京成線で京成成田へ。まだ少し時間があるので、旧 西成田駅の手前にあった橋台の遺構を訪ねようと思う。成宗電気軌道跡の、いわゆる「電車道」を北へ歩いていく。「電車道」は右手の急坂を下り、高い築堤を経て、土木遺産にも認定されている2本の煉瓦造トンネル(成宗電車第一および第二トンネル)を抜ける。さらに急カーブで谷底まで降りていき、土産物屋が立ち並ぶ参道の手前が終点だ。

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京成成田駅前のバス乗り場が成宗電気軌道の駅跡
(朝写す)
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「電車道」
(左)京成駅前から北上
(右)第一トンネル前の大築堤
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(左)新勝寺側から見た第一トンネル
(右)成田駅側から見た第二トンネル
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
成田市街周辺
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

新勝寺の境内は台地の侵食を免れた細尾根の上にある。本堂にお参りした後、裏手の急斜面を降りた。狭いバス道路の右脇に、どっしりとしたコンクリートの橋台があった。道路をまたいでいた桁橋を支えていたものだ。ここを通っていたのは新線のほうだが、さらに北側を回っていた旧線を含め、この界隈の多古線跡では唯一の遺構だろう。

橋台は個人宅の敷地に取り込まれているように見えた。その前後も少し歩いてみたが、西(成田側)は住宅が立ち並ぶ。東(多古側)は森と一体化したような宅地や畑地で、その先に開設された西成田駅の跡地は住宅の列に置き換わっていた。

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成田山新勝寺
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新線の橋台遺構
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北側は築堤で、一段高い宅地に続く
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図成田(大正10年測図)、五辻(大正10年測図)、多古(昭和2年鉄道補入)、5万分の1地形図成田(大正2年鉄道補入および昭和9年修正測図)、八日市場(昭和9年修正測図)、20万分の1地勢図佐倉(大正3年鉄道補入および昭和5年鉄道補入)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2022年3月 2日 (水)

新線試乗記-阿佐海岸鉄道DMV

2月の晴れた朝早く、JR牟岐(むぎ)線の列車で、南へ向かう。徳島へ来た目的は、昨年(2021年)12月25日に走り始めたDMVの初乗りだ。

DMVは Dual Mode Vehicle(デュアル・モード・ヴィークル)、すなわち複方式で走る車両のことで、道路上ではバス、レールの上では鉄道車両として機能する。客を乗せたままで、一般道路から線路へと乗り入れ、線路からまた道路へ出ていく。駅でバスと列車を乗り継ぐ手間と時間を省いてくれる次世代の乗り物という触れ込みだ。

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鉄輪を出して線路を走行するDMV
(動画からのキャプチャー)
 

DMVを運行している阿佐(あさ)海岸鉄道は、第三セクターの鉄道だ。四国の南東岸を南下する牟岐線を延伸する形で、1992年に海部(かいふ)~甲浦(かんのうら)間8.5kmが開業した。しかし、DMVのモードインターチェンジ(方式の切替え場所)を海部のひと駅手前の阿波海南(あわかいなん)に設置する関係で(下注)、2020年11月から、牟岐線は阿波海南が終点、そこから甲浦までの10.0kmが阿佐海岸鉄道になった。

*注 海部は高架駅で、鉄道から道路に降りるランプ(傾斜路)が大がかりになることが理由。阿波海南は地上(盛り土)駅で、モードインターチェンジの用地も確保しやすかった。

DMVの運行経路は、阿波海南文化村から、この阿波海南~甲浦間の鉄道路線を経由して、道の駅宍喰(ししくい)温泉に至る約16kmだ(下図参照)。また、土休日は1便が、室戸岬を回った先にある「海の駅とろむ」まで遠征する。

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DMV開業を知らせる幟がはためく
 

鉄道の公式サイトは、この車両を「世界初」とうたっている(下注)。せっかくユニークなシステムに初乗りするからには、三つの命題を満たしたいと思う。

1.モードチェンジの現場を観察すること
2.鉄道区間の全駅を訪問すること
3.DMV海南~宍喰線の全線を乗ること

運行ダイヤと地図をにらみながら編んだスケジュールと当日の実行内容を、以下に記そう。

*注 実際には欧米で過去に開発例があり、とりわけドイツでは「線路・道路バス Schienen-Straßen-Omnibus、略称シストラブス Schi-Stra-Bus」の名で実用化されていた。ただし、これは(ロールボックのように)バスにそのつど線路走行用の台車を穿かせるもので、台車内蔵式のDMVとは方式が異なる。

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DMV運行ルート(開業時点)

牟岐線の徳島~阿波海南間は、普通列車で2時間強というところだ。しかし、阿南から先は閑散区間で、朝ちょうどいい時間帯に着ける便がない。それで牟岐止まりの列車に乗り、残る区間は徳島バス南部の路線バスでつなぐことにした。

列車の牟岐到着が8時42分、バスは9時30分に出るので、その間は港をぶらぶらと歩いて過ごす。下調べもせずに行ったが、浜から突堤の間を通して出羽島が見える構図には目を奪われた。

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(左)JR牟岐線牟岐駅
(右)上下列車の交換
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牟岐港の突堤の間から出羽島が望める
 

駅から300mほど離れた営業所の玄関先から、海の駅東洋町行きのマイクロバスに乗り込んだ(下注)。客は私一人だ。運転手さんには、海南病院で降ります、としか言わなかったのだが、「DMVですね」と図星を突かれた。一般に浸透しているとはいえない新語が、ふつうに口の端に上るのに感心する。

*注 このバスは牟岐(=営業所前)が起点で、牟岐駅前には停留所がないので注意。

バスは国道をスムーズに走って、海南病院に9時50分に到着した。DMVの起点、阿波海南文化村はすぐ隣だ。海陽町が造った町おこしの施設で、広い敷地に博物館や多目的ホールなど複数の建物が配置されている。DMVの乗降場はその門前にあった。サーフボードの形をした停留所標識が木造の待合室の傍らに立っている(下注)。

*注 車で訪れた場合は、文化村の広い駐車場が利用できる。また、主要停留所や観光施設にはスマホで手続きできるレンタサイクルもある。なお、この路線バスで阿波海南駅に直接行く場合は、「海部高校前」バス停下車、国道を南へ200m。

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DMVの起点、阿波海南文化村停留所
標識はサーフボードの形
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阿波海南文化村
(左)複数の施設を配置
(右)船形だんじり「関船」の展示館
 

しかし、肝心のDMVはわずか8分前に出たばかりだ。本数が少ないにもかかわらず、各交通機関が独立的に運行され、相互接続があまり考慮されていないのには驚くばかりだ。とはいえ、スケジュールにはそれも織り込み済みで、次の下り便までの間に、徒歩で先回りすることにしている。阿波海南駅まで約1km、10分ほどで歩ける。ついでに、途中のコンビニで昼食を仕入れよう。

阿波海南では、JR駅のホームの横にある駅前交流館の奥に、乗降場(阿波海南駅停留所)とモードインターチェンジ(阿波海南信号所)が設置されていた。もとは牟岐線の線路がまっすぐ南へ続いていたのだが、今は切断され、左側のインターチェンジから出た線路に置き換えられている。阿波海南文化村から道路を走ってきたDMVは、この線路を伝って甲浦方面へ向かう。

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牟岐線の終点 阿波海南駅
(左)片面ホームの無人駅
(右)線路は切断、DMVは左へそれてモードインターチェンジへ
 

JR線との線路分断は、三セク転換されたローカル線にしばしば見られるものだ。しかし、ここは少し事情が異なる。マイクロバスの車体をベースとするDMV車両は軽量のため、軌道回路で列車を検知する既存の信号システムが使えない。そのため、車速信号やGPS情報を利用して車両の位置を測定するなど独自の保安装置が開発されており、従来方式の線路とは物理的に切り離す必要があったのだという。

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DMV阿波海南駅停留所
客は緑のゾーンで待つ
 

さっそくモードチェンジのようすを観察しようと、撮影スポットと書かれた位置で、10時43分に来る上り便を待った。やがて山陰から現れたのは、どう見ても小型のボンネットバスだ。それが前輪を浮かせたまま、レールの上をつーっと走ってくる。外装は明るい緑色で、ヘッドライトから窓枠にかけて黒のアクセントがつく。DMVは、塗色が異なる3台が在籍している。緑は2号車で、車両番号が DMV932。ナンバープレートもそれに合わせる凝りようだ。

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2号車(DMV932)は緑の塗装
 

本線上に立つ場内信号機(?)の前で一時停止した後、DMVはゆっくりとインターチェンジに入ってきた。足回りに注目すると、フランジのついた前後の鉄輪がレールに載っていて、その点では間違いなく鉄道車両だ。一方、ゴムタイヤはというと、前輪は宙に浮いている。後輪のダブルタイヤのうち、内側がレールに接していて、これが車両を駆動させる。鉄輪には駆動力はなく、あくまで案内と荷重分担の役割だ。

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(左)前輪
(右)後輪
 

停車するとまもなく、前の鉄輪の格納が始まった。特徴的なボンネットがそのためのスペースだ。同時に車体が下がって、浮いていたゴムタイヤが地上につく。その間に後ろの鉄輪も格納されるが、こちらはトランクルームに入るらしい。モードチェンジは15秒ほどで完了し、バスモードになったDMVは乗降場まで路面を移動する。客扱いを終えると、遮断機が上がった出入口から、駅前の国道へ出て行った。

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(左)前の鉄輪格納前、ゴムタイヤは宙に浮く
(右)格納後
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(左)バスモードになって停留所へ
(右)遮断機のある出入口から一般道へ
 

日中は12分後に後続便が設定されている。再びインターチェンジの前に張り付いて、やってきた赤の3号車を、今度は動画で撮った。

命題1を堪能したので、再び国道を南へ進む。1.4km先、歩いて15分の海部川橋梁に、次の撮影スポットがある。順光になる南詰めで待機していると、ほどなく下り便となった3号車が現れた。立派な桁橋を小さなバスがトコトコと渡っていく姿はどこか微笑ましい。

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海部川橋梁をトコトコと渡る
 

ここから5分も歩けば、海部駅だ。高架下に待合室があり、階段を上ると、JR時代の1番ホームに出た。ただし、DMVの乗り場はそこではなく、北側(阿波海南方)に新設された簡易な低床ホームだ。高床と低床のホームが直列するようすは、かつての広電宮島線を思い起こさせる。

旧2番線側の線路とホームももとのままで、用済みになった気動車ASA-101が、回送の幕をつけたまま留置されていた。前後のポイントが撤去されたため、残念だが、もうどこへも出ていくことはできない(下注)。

*注 これは保有していた2両の気動車のうちの1両。もう1両(ASA-300)は宍喰駅南方の車庫前の留置線にいる。

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海部駅
(左)高架ホームへは階段しかない
(右)開通記念碑が、阿佐海岸鉄道のもと起点の証し
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(左)DMV用の低床ホーム
(右)旧鉄道ホーム
  2番線には気動車ASA-101を留置
 

ここで下りの後続便11時31分発を待った。海部駅の北側には、周辺の土地開発で土被りが剝ぎ取られ、躯体だけ残った町内(まちうち)トンネル、通称「トマソントンネル」がある。そこから顔を出すDMVをねらってから、いよいよ初乗りを試みた。

ホームとバスとの間には隙間があるため、扉が開くと同時にステップがせり出てくる。それを踏んで乗り込むと、運転士さんから「予約されていますか」と聞かれた。もちろん定員内なら予約なしでも乗車できる。その場合は整理券を取り、降車時に運賃を支払えばよい。ふつうの乗合バスと同じ手順だ。

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町内トンネルから現れた2号車
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(左)扉が開くとステップが出る
(右)車内はマイクロバスそのもの
 

鉄道の公式サイトでは、席数が少ないという理由で予約が推奨されているが、なんのことはない。先客は一人だけで、それも後でメディアの取材記者だとわかった。予約サイトで座席指定しようとすると、2Dと3Dの優先席とともに、このときは最前列の1A、1Bも予約不可になっていたが、取材用のリザーブだったようだ。車内はマイクロバスそのもので、1列が1席+2席の並びだ。最後尾は4席分のロングシートなので、そこを占有させていただく。

走り出すと、エンジン音とともに、タンタン、タンタンという2軸車ならではの走行音が繰り返される。鉄道車両に比べて高い音で、骨に響く感もあるが、走りはスムーズだ。海部駅と宍喰駅の間は、短いトンネルが連続し、トンネルがいくつも重なって見える。左手には那佐湾という入江が延びているが、木々に遮られて見通しはあまりきかない。

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(左)海部~宍喰間は短いトンネルが連続
(右)海景は断続的
 

海部から15分。甲浦に近づくと信号で一時停止し、再発車とともに「間もなく甲浦、甲浦に停まります」という案内が流れた。次に停まったのが旧 鉄道ホームの前だったので、てっきり駅だと思い、立ち上がりかけたら、「甲浦モードインターチェンジに到着しました」と、またアナウンス。さっき阿波海南で観察したように、停留所の手前にこれがあるのだ。

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甲浦駅信号所
(左)立入禁止の旧鉄道ホーム
(右)モードインターチェンジも高架上に
 

「ただいまからバスモードに、モードチェンジを行います」「モードチェンジ、スタート」。トント、トントと軽快な海南太鼓のお囃子が聞こえ、前方の景色で車体が下降していくのがわかる。作業が終わると「フィニッシュ」と明るい声で締めが入り、DMVはすぐに動き始めた。

線路は高架上にあるため、地上に置かれた乗降場(甲浦停留所)へは急坂、急カーブのランプで一気に降りる。私はここで下車した。駅の改造に合わせて建て替えられた待合室の中では売店も開いていたが、この利用状況では売上の伸びは期待できそうにない。

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地上の甲浦駅停留所
 

乗り場は移設されたが、もとの高架ホームに通じていた階段は残されている。ホーム自体には立入れないものの、手前でモードチェンジを観察できるようにしているのだ。ここで12時02分の上りを待つ。急なスロープを上ってきたDMVは、観察場所より少し先に停車した。後輪は目の前だが、前輪は遠くて動きがよくわからない。ここでの観察は、下り便が望ましい。

それはともかく、バスから鉄道モードへの切り替えでは、鉄輪が出た後、運転士が車外を一周して、鉄輪が実際にレールに載っているかを目視点検するという作業が一つ加わることがわかった。

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(左)ランプを上がってきたDMV
(右)ガイドウェイに沿って進入する
 

続行の上り12時14分発に乗り、今度は宍喰駅へ移動した。この駅も高架上で、旧鉄道ホームの南側(甲浦方)にDMVの乗降場が造られている。乗降客はやはり私だけだ。宍喰には阿佐海岸鉄道の本社があるため、唯一の有人駅で、ホームと地上を結ぶエレベーターも備わっている。改札で整理券と運賃を渡して外へ出た。

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宍喰駅
(左)南方の車庫前に留置されたASA-300
(右)旧鉄道ホームの甲浦方に低床ホームが
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(左)高架下に設けられた駅舎
(右)改札口
 

宍喰で降りたのは、命題2(全駅訪問)を達成するとともに、DMVの終点に行きたかったからだ。最後に残った命題3の全線乗車を終点から実行して、この旅を締めくくる。

海に臨む終点停留所「道の駅宍喰温泉」へは約900m、歩いて10分強だ。地元の特産品を売る店のほか、温泉も隣接するリゾート施設だが、とりあえず昼食にしないといけない。前を通る国道を横断して、防波堤の階段を下りると、そこは太平洋の波が打ち寄せる砂浜だった。防波堤のおかげで風が遮られ、日差しのぬくもりが眠気を誘う。

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DMVの終点、道の駅宍喰温泉停留所
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防波堤の外側には波打ち寄せる砂浜が
 

時間が来たので、13時18分発の上りに乗り込んだ。ネットのシステムを試そうと、この便だけは事前予約してある。高速バスの流儀で、さっそく運転手さんに名前を確認された。モバイル乗車券の画面を提示することになっているが、ちらと目を落としただけ。もっとも予約者は私一人なので、点呼で事足りる。あと一人、予約なしで乗ってきた人がいて、かろうじて乗合バスの面目は保たれた。

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赤の3号車(DMV933)で全線を乗り通す
 

DMVは国道をいったん南へ走る。路面の状態にもよるのだろうが、ガタガタとよく揺れ、ジープにでも乗っているような体感だ。宍喰大橋を渡って水床トンネルへ入る。その出口付近が徳島と高知の県境だ。宍喰までは徳島県海陽町、甲浦は高知県東洋町になるので、阿波と土佐をつなぐ「阿佐」の名に偽りはない。

続いて甲浦大橋を渡る。右は入江の漁港、左は外海の景勝スポットなのだが、路側にネットが張られていて、視界は今一つだ。道の駅東洋町に停車。DMV開業を機に、室戸岬方面のバス(高知東部交通)は甲浦駅まで入らなくなり、ここが乗継地になった。

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(左)道路走行時はバスそのもの
(右)まもなく阿波海南駅
 

この後、DMVは内陸へ入っていき、甲浦停留所で停まる。さっき見た高架へのランプをぐいぐい上り、モードチェンジの後、北へ向かう。阿波海南で再びバスモードになって道路へ。終点の阿波海南文化村には13時53分定刻に到着した。相客も同じように乗り通したので、DMVを画角に入れて到達写真のシャッターを押して差し上げた。

帰りの牟岐線、阿波海南駅の発車は14時08分だ。実質10分強で1kmを歩かなければならないが、朝、一度通って予習してあるから、心には余裕がある。

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阿波海南文化村に到着

DMVの初乗りは、興味深い体験だった。線路も走れるクルマといえば、保線作業などに用いる軌陸車が思い浮かぶが、その機能の一般化、発展形ということになろうか。乗換えが必要という常識を覆す未来の乗り物という評価はなるほどそうだ。

知られている通り、DMVは、JR北海道がローカル線の活性化のために長らく研究開発を続けていたシステムだ。しかし、本格的な導入に至らないうちに、経営状況の悪化により計画は中止されてしまった。それを受け継ぎ、営業運転にまで漕ぎつけた決断と行動力には敬意を表する。

確かに、アトラクションとして見るなら斬新で、話題性がある。しかし、公共交通機関としてはどうだろうか。まず感じたのは、他の交通機関との連携不足だ。牟岐線の列車との連絡が十分考慮されていない。下りは最大62分待ち(牟岐線11:38着/DMV 12:40発)、上りは72分待ち(DMV 10:56着/牟岐線12:08発)がある。鉄道区間に待避線がなく、ダイヤ編成に制約があるのは理解するが、乗継ぎに1時間もかかるようでは用をなさない。

路線バスとの間もしかり。運行する徳島バス南部にとっては競合路線なのかもしれないが、接続時刻はもとより、すぐ近くなのに停留所名さえ異なるのはいかがなものか(海南病院/阿波海南文化村、海部高校前/阿波海南駅)。

もう一つは高額な運賃だ。定員22名(座席18+立席4)に乗務員1名が必要なので、運行コストが高くなるのは宿命だ。それを反映して、全線通しの運賃は800円、鉄道区間だけでも500円で、路線バスと同等かそれ以上になる。列車時代に比べればかなりの値上げで、私のような一見客でも抵抗があった。他の観光施設や交通機関と共通で使えるフリー切符などの企画で、割高感を和らげる工夫が望まれる(下注)。

*注 2022年度は、徳島から室戸岬を経て高知に至る鉄道・バスのフリー切符「四国みぎした55フリーきっぷ」の発売が発表されている。

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DMV沿線ガイドブック表紙
 

地方ではマイカー移動が定着し、路線バスの利用者すら激減している。DMVの運行を持続させるには、地域外から訪れる観光客や用務客に利用してもらうしか方法がない。待合室には周辺の観光地を紹介するパンフレットが置かれていた。停留所にはレンタサイクル基地も整備されていた。残る対策は、自治体と各公共交通機関が連携して、遠来の者でもストレスや抵抗感なく使いこなせる交通網と運賃体系を構築することではないだろうか。

■参考サイト
阿佐海岸鉄道 https://asatetu.com/

2021年5月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址

2020年コンターサークルS春の旅の後半は、西に移動して岐阜県中津川市周辺を歩く。1日目のテーマは、北恵那鉄道の廃線跡だ。

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恵那電最大の遺構、木曽川橋梁
 

北恵那(きたえな)鉄道、いわゆる恵那電は、当時の国鉄中津川駅の裏にあった中津町(なかつまち、下注)駅を起点に北へ、下付知(しもつけち)駅まで行く22.1kmの電化私鉄だった。木曽川をせき止める大井ダム建設で、筏流しなど川を利用した木材輸送ができなくなるため、その補償として1924(大正13)年に開業している。

*注 中津川市は市制以前、恵那郡中津町(なかつちょう)だったが、駅名は「なかつまち」と読んだ。

終点には後に森林鉄道も接続されて、いっとき好況を呈したのだが、戦後は、輸入材に押された林業の低迷によって、収支は悪化の一途をたどった。並行する国道の整備も進んだことから、1971(昭和46)年に旅客列車の運行が朝夕のみに削減、1978(昭和53)年、最終的に廃止となった。

しかし40年以上経った今もなお、沿線各所に、列車が渡った鉄橋や草生した路床が手つかずのまま残されている。廃線跡を足でたどることで、乗れずじまいだったローカル電車の残影をわずかでも見出すことができればうれしい。

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北恵那鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1975(昭和50)年修正図)

その日、新幹線と中央本線の特急しなのを乗り継いで、中津川駅へ向かった。朝の空はまだ雲に覆われていたが、午後は晴れる予報が出ている。参加者は大出さんと私の2名。駅前のバス乗り場から、付知・加子母(かしも)方面行きに乗り込んだ。

運行しているのは北恵那交通だ。かつての鉄道会社がバス転換で社名を変え、今も地域の公共交通を担っている。「まずは鉄道の終点まで行って、廃線跡を訪ねながら戻ってこようと思います」と私。もとより全線を歩き通すのは時間的に難しいので、見どころをチョイスし、その間をバスでつなぐつもりだ。自治体の支援を受けて、約1時間間隔というローカル路線にしては破格の高頻度で運行されているから、ありがたく利用させていただこう。

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(左)駅前に停まっていた恵那電色のバス
  残念ながら付知行きではなかった
(右)段丘地形を縦断するルート
 

バスは玉蔵(ぎょくぞう)橋を通る旧国道を経由し、苗木で、城山大橋から来る国道257号(裏木曽街道)に乗った。起伏の大きな段丘地形を縦断し、付知川(つけちがわ)の深い渓谷に沿っていく。やがて谷が開け、所要40分あまりで下付知の停留所に着いた。電車の時代は1時間以上かかっていたから、ずいぶん速い。

ここがかつての駅前だ。道路の左手に草に覆われた空地が広がっている。駅舎は撤去されて久しいが、よく見るとホームの残骸が埋まりきらずに残っている。その奥にもフェンスで囲われた広大な土地があり、こちらは営林署が管理する貯木場だ。盛時には谷の奥から森林鉄道で運ばれてきた木材が山と積まれていたのだろうが、今や廃墟と化している。

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(左)下付知駅跡、ホームの縁石が露出
(右)廃墟と化した貯木場
 

一方、集落の側では一軒の製材所が稼働していて、木を挽く鋭い音が聞こえてくる。「ネットに出ていたのはこれですね」と大出さんが注目したのは、戸外から小屋に引き込まれている1本のナローゲージだ。木材の運搬に使われているらしく、小さな台車も載っている。ちっぽけな装置とはいえ、線路の痕跡すら消えた駅跡を前にすると、写真の被写体にもしたくなる。

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(左)駅前で稼働中の製材所
(右)簡易軌道に載る台車
 

駅から南へ延びる線路跡をたどった。しばらくの間、2車線道路に上書きされているが、稲荷集落の裏で、草の道が復活する。稲荷橋(いなりばし)駅跡はもうすぐだ。小さな稲荷社の鳥居のそばに石積みのホーム跡があったが、線路のバラストがはがされているからか、かなり高く見える。

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(左)稲荷橋駅北方の廃線跡
(右)鳥居の後ろに稲荷橋駅のホーム跡
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下野~下付知間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

稲荷橋の停留所で、折り返してきたバスをつかまえた。車窓から山側に線路跡が断続しているのをチェックしながら、谷を下る。降りたのは、下野(しもの)のバス停だ。このあたり、国道は高い段丘上に通されているが、勾配に弱い鉄道は付知川の谷底を這っている。それで、美濃下野(みのしもの)駅へ向かう道は急な下り坂になる。

川向こうの駅跡はすっかり整地されて、跡をとどめていない。一方、南側には支流の柏原川を斜めに横断しているプレートガーダー橋があった。静まり返った山里にぽつんと残された遺構だ。朽ちた枕木も載ったままで、見る者の哀愁を誘う。

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美濃下野駅の南に残る柏原川橋梁
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(左)たもとから南望
(右)北望、朽ちた枕木が載る
 

川沿いの一本道となった廃線跡を下流へ歩いていく。左手で早瀬と淵を繰り返す付知川は、底まで透き通った清流だ。両側から急崖が迫るこの谷筋を、ローマン渓谷と呼ぶらしい。自然地名というには作り物っぽいが、官製図に堂々と記されているのだから、公式名称のはずだ。

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同 並松~下野間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

「地形図の道路記号が途中で切れているので、通り抜けられないかもしれませんね」「だめなら引き返して、対岸を迂回しましょう」。対岸に国道整備前の旧道が通っているのだが、渡る橋は1駅3.5kmの間ない。それで、少々の藪漕ぎ、ぬかるみは覚悟の上だったが、結果的には杞憂だった。

路面を覆う草もくるぶしにかかる程度で何の問題もなく、むしろ瑞々しい新緑が作るトンネルに心が洗われた。誰も通らなければすぐに藪化するはずだから、きっとハイキングか何かの催しがあって、草刈りが行われたに違いない。

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ローマン渓谷の廃線跡
(左)ところどころ枕木も埋まる
(右)新緑のトンネルが続く
 

いい頃合いの踏み分け道は、ホーム跡がある栗本(くりもと)駅の南側で、舗装された「ローマン渓谷遊歩道」に接続した。格段に歩きやすくなる反面、整い過ぎて廃線跡の情趣がそがれる。

しかしそれは、福岡ふれあい文化センターの前までの約500mであっけなく終わった。その延長上に、歩行者専用の斜張橋、福岡ローマン橋が架かっている。鉄道のレガシーとは無縁のデザインだが、妙に高い位置にある橋面だけは旧 橋梁の高さに合わせているようだ。その後、線路は谷底を離れ、段丘崖をよじ上っていく。

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ローマン渓谷遊歩道の整備区間
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(左)福岡ローマン橋
(右)段丘を上る区間は、栗本方の一部のみ残る
 

福岡の町が載る段丘は、谷底との高低差が約30mにも及ぶ。「想像していた以上にダイナミックな地形ですね」と私。残念ながら、この間の線路跡は栗本方に一部残るだけで、美濃福岡方にあった深い切通しは埋め戻されている。国道の陸橋も撤去され、前後に存在した急カーブが緩和されたようだ。

美濃福岡(みのふくおか)駅は恵那電の主要駅の一つだった。しかし、跡地は公共用地などに転用されてしまい、記憶を伝えるのは大きな石碑だけになっている。大出さんは一度来たことがあるそうだが、「その頃からでも、すいぶん印象が変わってます」。福岡には、恵那電のOBが開設した「北恵那鉄道歴史保存会館」という資料館があったのだが、これも閉鎖されてしまった。

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福岡の段丘上から見た付知川の谷の眺め
赤の矢印が廃線跡だが、画面中央から左は切り崩されて消失
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美濃福岡駅跡
(左)記念碑
(右)駅跡を東南望、画面中央の住宅の右手前に記念碑がある
 

バスの時刻にはまだ早いので、もうひと駅歩くことにした。小さな支谷を渡り、国道の東側の山手を伝っていた線路は、草生した空地などの形で断続的に残っている。20分ほど歩くと、関戸(せきど)集落まで来た。関戸駅の痕跡はないものの、目の前に深い谷を横断していた築堤が延びている。異様に幅広に見えるのは、隣に国道の築堤が付け足されたためだ。

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美濃福岡~関戸間の廃線跡
(左)画面左が廃線跡、一部で道路拡幅工事が始まっていた
(右)関戸地内で農道になった区間
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関戸駅跡から南方の築堤を望む
左の地道が廃線跡
 

築堤脇の停留所から再びバスに乗り、次は苗木(なえぎ)へ。ちなみに、その間にある並松(なみまつ)駅跡には、長らく相対式のホームが残っていたのだが、グーグルマップの空中写真で見る限り、最近、宅地造成で撤去されたようだ。

■参考サイト
Wikimedia - 撤去前の並松駅跡の写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Namimatsu_Station

旧国道上の苗木バス停から交差点を南へ入ると、まもなく苗木駅跡がある。残念なことに、ここは並松に先駆けて宅地転用が完了しており、用地の輪郭がわかるだけで、面影はとうになくなっている。

線路はさらに東進し、山之田川(やまのたがわ)駅を経て、木曽川べりまで降下していた。しかし、後半区間は藪化して、もはや踏破不能だ。そこで私たちはそれを追わずに、木曽川の谷にショートカットすることにしている。ちょうど途中に、お城ファンに人気の苗木城址があるから、その見学も兼ねて。

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(左)苗木駅跡は宅地に転用
(右)苗木城への登り坂
 
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同 中津町~並松間
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同区間の現役時代
(1973~77(昭和48~52)年測量または修正図)
 

苗木城は、木曽川に臨む比高170mの岩山の上に築かれた遠山氏の居城だ。さきほどの駅跡から南へ延びる街村がその城下町で、桝形の街路や古風な居宅が残っている。道なりに上っていくと、永壽寺というお寺の先で山がにわかに深まる。城や領地の資料を展示している苗木遠山資料館で予備知識を仕入れてから、城内へ進んだ。

急坂を上りきった足軽長屋跡から、谷の向こうに天守跡を初めて望むことができた。建物は明治初めに破却されてしまったので、今あるのは天然の岩山と、天守の下部構造を復元したという木組みの展望台だけだ。しかし、それがかえって孤高のオーラを放っているように見える。巷間に伝わる「空に浮かぶ岩の要塞」という形容も、あながち誇張とは言えない。

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空に浮かぶ岩の要塞、苗木城天守跡
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(左)天守の下部構造を再現した展望台
(右)城内屈指の巨塊、馬洗岩
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三の丸広場と大矢倉の石垣
 

岩山の麓の鞍部にある広場は三の丸で、背後に大矢倉の立派な石垣も残っていた。天守跡へは、そこからまたつづら折りの坂道を上る必要がある。その甲斐あって頂上は、期待通りの絶景ポイントだった。木曽川が流れる深い谷を隔てて中津川市街、その背景に恵那山を主峰とする山並みと、胸のすくような大パノラマが目の前に展開する。

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台地を刻み流れ下る木曽川
馬洗岩のテラスから西望
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展望台からのパノラマ
木曽川、中津川市街地、恵那山(中央奥の雲がたなびくピーク)が一望に
 

中でも私たちが狙っていたのは、東側にある恵那電の木曽川橋梁とそれに続く廃線跡の眺望だ。背後に並ぶ旧国道の玉蔵橋(下注)と比較すると、鉄橋はいかにも華奢に見える。洪水対策で1963(昭和38)年にかさ上げ改修が行われているとはいえ、全体は今から100年前の建造物だから無理もない。廃線でメンテナンスもされていないだろうに、よくぞ今日まで残ったものだ。

*注 地形図にも玉蔵橋と記されているが、親柱の銘板には玉蔵大橋とあり、こちらが正式名。

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恵那電廃線跡を遠望
 

目的を十分果たしたところで、城址を後にした。ここからは、城坂四十八曲りと呼ばれる山道を一気に降りる。地形図にも描かれている通り、森の中に果てしなく続く険しいジグザグ道だった。逆コースにしなくてよかったとつくづく思う。

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四十八曲り
どこまでも続くジグザグの山道
 

降りきった地点は、旧国道の開通以前に中津川から苗木に通じていた旧県道だ。上空を鉄道のプレートガーダー橋、上地(かみち)橋梁が横切っている。これは、谷を下ってきた線路による最後の沢渡りなのだが、33‰の急勾配でも降りきれず、このような高い橋脚が必要とされた。3本の橋脚のうち中央の1本だけ円筒形なのは、水流の抵抗を和らげるためらしい。

支谷へ分け入る山道(下注)で、森に還りつつある上手の廃線跡を見届けた。それから対岸の斜面につけられた急な踏み分け道を登って、下手の橋台際へ出た。続く草生した道を歩いていくと、すぐに森が開け、さきほど城址の展望台から見えた集落の中の舗装道になった。

*注 旧県道以前に使われていた飛騨街道で、今は四十八曲りを通らずに苗木城へ行くハイキングルート。

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上地橋梁全景
中央の橋脚だけ円筒形
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(左)上部
(右)四十八曲りの山道から俯瞰
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山の田川の谷を渡る
 

神社の参道を渡していた橋台や、二代目恵那峡口駅(下注)の痕跡を観察しながら、緩い坂を降りていく。ほどなく木曽川橋梁のたもとまで来た。旧道に面して、遊覧船の出札・待合所が残っている。初代恵那峡口駅の駅舎を転用したという建物だ。「遊覧船は、ダムの水位が下がったために廃業したらしいです」と大出さん。

*注 木曾川橋梁かさ上げ工事の完成に伴い、1963年に移転。

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(左)神社参道の陸橋跡
(右)二代目恵那峡口駅の痕跡
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木曾川橋梁に接続する築堤(画面左)と遊覧船の出札・待合所
写真は大出氏提供
 

右脇の小道を河畔の元 船着き場へ降りると、鉄橋を仰角で観察することができる(冒頭写真参照)。主径間に下路式ダブルワーレントラスを渡し、前後にプレートガーダーを連ねた鉄橋は、134mの長さがある。「山の上からは小さく見えたのに、そばまで来ると堂々としてますね」と私。待合所の脇の踏み段で築堤に上がれば、列車の前面展望のような光景もほしいままになる。

中津川駅への帰り道、玉蔵橋を歩いて渡る間にもう一度、鉄橋のある風景を楽しんだ。城山を背にして、柔らかな夕陽をはね返す水面と、幾何学的なトラス橋のシルエットが絶妙なコントラストを見せている。同じ角度でも、朝のバスから眺めた順光の風景とは別物のようだ。

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木曾川橋梁、右岸築堤からの眺め
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夕陽の川面に映る鉄橋のシルエット
画面右奥が苗木城の城山
 

駅へ戻る大出さんを見送った後、私は木曽川支流の中津川に架かる橋梁のようすを見に行った。木曽川を渡った後も、線路は支流の狭い谷を縫うように抜けていたのだ。2本ともプレートガーダー橋だが、下付知方の第二中津川橋梁は、茂る木立に阻まれて道路からうまく見通せない。一方、第一橋梁のほうは、道路橋の妙見大橋が上空を交差しているものの、河原に降りると側面がよくわかった。橋桁に蔓が無数に絡まり、かつての鉄橋も今や藤棚同然だ。

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第二中津川橋梁
視界は木立に阻まれる
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第二~第一橋梁間で中津川左岸を通る廃線跡
(赤の矢印)
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道路橋が上空を交差する第一中津川橋梁
 

列車はこの後、中津川の谷を脱し、製紙工場の横を中津町駅へと向かっていた。しかし起点駅跡は、名鉄系の駐車場と倉庫用地に転用されて、面影は全くなくなっている。せめて美濃福岡のように記念碑か案内板が立つといいのだが、回顧の機運はまだそこまで及んでいないようだ。

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(左)製紙工場裏の廃線跡(第一橋梁~中津町駅間)
(右)正面の駐車場と倉庫が中津町駅跡
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図妻籠(昭和52年測量)、中津川(昭和52年測量)、付知(昭和48年測量)、美濃福岡(昭和48年測量)、恵那(昭和48年測量)、20万分の1地勢図飯田(昭和50年修正)および地理院地図(2021年5月20日取得)を使用したものである。

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