旧道・廃道

2022年6月17日 (金)

コンターサークル地図の旅-大内宿と下野街道中山峠

コンター旅の行先に、会津の大内宿(おおうちじゅく)をリクエストしたのは私だ。茅葺屋根の集落なら白川郷や京都の美山にもあるが、通りに沿ってこれほど整然と建ち並ぶ風景は珍しい。それで、一度この目で見たいと思っていた。もとより有名な観光地につき、関東の会員からは「3回行きました」との声も聞かれたが。

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大内宿、見晴台からの眺め
 

周辺の地形図を見ると、「下野(しもつけ)街道」の注記とともに、徒歩道が北と南へ延びている。これは、日光街道の今市と城下町会津若松を結んでいた江戸時代の街道で、近年、復元整備されたものだ。「地図を見ながら足で歩く」という会の趣旨に基づいて、宿場の中を巡った後は、この道を南へたどることにしたい。中山峠を越えて会津下郷(あいづしもごう)駅まで、約12kmの行程だ。

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若松~田島間の1:200,000図に下野街道の宿場と峠の位置を加筆
「会津線」は現在の会津鉄道

2022年5月21日、会津鉄道の単行気動車を、湯野上温泉駅で降りた。駅舎は、本物の茅を葺いた古民家風の造りだ。宿場の玄関口だから、それをイメージしているに違いない。集まったのは、大出さん、中西さんと私の3名。朝はまだ薄日が差しているが、午後は曇りのち雨の予報が出ている。

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茅葺屋根の湯野上温泉駅舎
 

大内宿はここから西へ約6km入った山中で、「猿游(さるゆう)号」という名の直行バスがある。ただし運賃は、往復で1100円。片道の設定がないため、私たちのように往路だけ乗りたい者にとっては割高だ。「3人ならタクシー代を割り勘する方が安いですよ」と、大出さんがタクシー会社に電話をかけるものの、「配車に30分かかると言われました」。初戦を落とした気分で、駅前に停車していたバスに乗り込んだ。マイクロバス車両なので、中はほぼ満席だ。

走り出すと、添乗の女性が絵地図を配り、バスガイドのように流暢な口調で見どころを案内してくれる。提携食堂の割引券までもらったので、何だか観光気分が湧いてきた。その間にもバスは谷川に沿う山道をくねくねと遡っていく。約20分で、宿場の裏手にある停留所に到着した。

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猿游号で大内宿に到着
 

さっそく脇道を抜けて、街道筋に出る。土道の広い通りが宿場を南北に貫いていて、その両側に、写真で見てきたとおりの茅葺屋根が並んでいる。敷地は東西に長く、各家屋は道路から一定距離を置いて、ゆったりとした建て構えだ。多くが寄棟造りで、玄関は南に向いた長手の側にあるようだが、どこも道路に面した妻面を開放して、観光客向けの店を出している。

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大内宿の街道筋
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(左)妻面を開放した店構え
(右)色とりどりの吊るし飾り
 

「古民家を集めたどこかのテーマパークみたいですねえ」などと話しながら、緩い坂になった通りを上手へ歩いていく。まずは村を一望したいので、突き当りに建つ浅沼食堂の左手から急な石段にとりついた。上りきると子安観音堂だが、その右側の山道で先客たちが立ち止まり、カメラやスマホを構えている。

「みなさんが観光ポスターなどでご覧になる風景は、ほとんどそこで撮られています」と車中で案内していた添乗員さんの言葉どおり、ここが絶景ポイントの見晴台だった。見通しのきく高台がほかにないので、誰が撮っても同じような構図の写真になるのは物足りないが。

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(左)子安観音堂
(右)山道の途中にある見晴台
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見晴台からの眺め
 

山道から降りて、本陣跡に建てられた町並み展示館を訪ねた。もとの本陣の建物はとうに失われたので、近隣の同種の建物を参考に設計復元したものだという。それもあってか、ここは長手を通りに向けて建てられている。中に入ると、勝手と呼ばれる板間に囲炉裏が焚かれ、煙がもうもうと天井へ上っていた。さまざまな農具や生活用具の展示とともに、街道の歴史や宿場の景観保存に関する説明パネルが掲げられていて、参考になる。

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本陣跡の町並み展示館
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(左)勝手(板間)に囲炉裏
(右)農具や生活用具の展示
 

それによれば下野街道、別名 会津西街道は、17世紀初めに会津藩により江戸への最短経路として整備された。藩の参勤交代や廻米(米の輸送)に利用され、大内は宿駅の一つとして、継立(人馬の交換)や宿場経営で栄えた。しかしその後、参勤交代の経路変更や地震による不通の影響を受けて、下野街道の重要性は薄れていく。

明治に入り、阿賀川(大川)沿いに新日光街道が整備されると、人馬の往来はそちらに移り、大内は養蚕や麻栽培で生計を立てる静かな農村集落になった。旧観を残す町並みがメディアで紹介され、人々の関心を集めるようになったのは、ようやく1970年前後のことだ。1981年に大内宿は、国の重要伝統的建造物保存地区に選定された。さらに1986年の野岩鉄道開業で首都圏からの交通の便がよくなったことで、観光地としての人気が定着していった。

地区の特色である茅葺屋根は維持に手間がかかる。かつてはトタン板で覆うことも行われたというが、今は表通りの多くが茅葺きに戻されている。もっともこれらの家屋は主に土産物屋、食堂、民宿などの事業に使われており、住民の方は裏手に建てた一般的な住宅で生活しておられるようだ。

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土固めの路面、石組みの水路
 

街道歩きが控えているので、混まないうちに昼食にしよう。展示館向かいの大黒屋の座敷に上がった。遠路はるばる来たからには、名物のネギそばを試さないわけにはいかない。

そば自体は冷たいかけそばなのだが、器の上に白ネギが一本置かれている。これを箸代わりにしてそばを掬うとともに、適宜かじって薬味にする、というものだ(下注)。ただし、食べ進むと最後に短く切れたそばが器の中に残る。「さすがにこれは箸でないと掬えませんね」。むろん箸も座卓に用意されている。

*注 大黒屋の品書きではこれは「ねぎ一本そば」とされ、方や「ねぎそば」はかけそばの上に刻みねぎが載るものだった。

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大黒屋のねぎ一本そば

思い残すことがなくなったところで、宿場を後にした。バスで来た道を南へ歩いていくと、小野川の橋のたもとから、旧街道が分岐している。「歴史の道(下野街道)」と記された道標が立っているから間違いない。その先では、ひょろっとした松の生えた「大内宿南一里塚」が旅人を迎えてくれた。

しかし、斜面に開かれた棚田の間を上る道は一直線で、圃場整備で付け替えられたようだ。森に入ると、草深い踏み分け道になった。「もっと歩いている人がいると思ってましたが」。少なくとも私たちが歩いている間、すれ違ったり、追い越したりする人は見かけなかった。

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(左)旧街道の分岐点
(右)大内宿南一里塚
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
大内宿~沼山間
 

先ほどの資料館のパネルによれば、下野街道の整備事業は2000年に完成し、2002年に国の史跡に指定されている。地形図に史跡の記号(下注)が付されているのは、それが理由だ。しかし、生活道路は別にあり、たまにハイカーが通るだけなら、数年も経たないうちに草生してしまうのは避けられない。

*注 数学の「ゆえに」記号に似たこの地図記号は、「史跡・名勝・天然記念物」を表す。

道標は何種類かあった。「下野街道」と刻まれた立派な石標が主要な分岐点に立っているほか、1本足に金属板を取り付けたもの、もっと素朴な木製のものも見かけた。ところが金属板はどれも外されたり、折り曲げられたりして無残な状態をさらしている。どんな動機があったのかは知らないが、つまらないことをしたものだ。

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(左)下野街道の石標
(右)金属板の道標は無残な状態に
 

草の道は500mほどややきつい上りが続いた後、なだらかになる。そして沼山集落の手前で、無事舗装道に出た。しばらくは、この県道131号下郷会津本郷線を歩く必要がある。2車線幅の走りやすそうな道だが、車両の通行はほとんどなく静かだ。大内宿の駐車場を埋めていた観光客のマイカーは、こちらには回ってこないようだ。

集落の端で、草の道が再び右に別れていた。例によって道標は壊れているが、草道のもつ雰囲気がさきほどと同じなので迷うことはない。少し先の、草道が西へ上っていく林道と交差する地点が、一つ目の分水界だ。

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(左)草道が舗装道に合流
(右)県道沿いの沼山集落
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
沼山~中山峠間
 

地形図から読み取れるとおり、大内宿から中山峠にかけては、周囲とは違うなだらかな回廊状の地形が延びている。私はこの地形に興味があった。地質調査所の研究報告(下注)は、この低地帯に大内断層と呼ばれる南北に走る伏在断層(地表に断層面が現れないもの)を想定している。断層の活動によって東側の山地が高まり、それに遮られる形で西側の山麓に岩屑が堆積した。街道はこの緩斜面に通されているので、分水界越えも険しくはないのだ。

*注 山元孝弘「田島地域の地質」地域地質研究報告 平成11年、地質調査所

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なだらかな回廊状の地形、沼山から東望
 

一方、中西さんの関心はまた別で、「イザベラ・バード Isabella Bird が通った道を歩いてみたかったんです」。イザベラは、明治初期に日本を訪れ、詳細な紀行書を著したイギリスの旅行家だ。1878(明治11)年6月の北日本の旅では、今市から下野街道を北上し、その際「山奥のきれいな谷間にある」(下注1)大内宿で1泊している。イザベラが同じ書で言及している山形県上山(かみのやま)の石橋群を、以前コンター旅で巡ったことがある(下注2)が、下野街道もまた、彼女の長い旅の経由地だったのだ。

*注1 『イザベラ・バードの日本紀行(上)』時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.220。
*注2 「コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群」に記述。

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旧街道を埋め尽くす野の花
 

森の草道は分水界を降りる途中で、また県道に吸収されてしまった。舗装路をしばらく行くと、中山集落に出た。ここでは、巨大なケヤキの木が道端にそびえていて目を引く。傍らの案内板によれば「八幡のケヤキ(中山の大ケヤキ)」と呼ばれ、樹高36m、胸高周囲12m。単に太いだけでなく、むくむくと地中から湧き出したかのような幹の迫力と勢いは見事というほかない。樹齢は950年とあるから、「当然、イザベラ・バードも見たでしょうね」とうなずき合う。

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八幡のケヤキ
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幹の迫力と勢いに目を見張る
 

左手に瑞々しい新緑の景色を見下ろしながら進むと、集落の端にまた旧街道の分岐があった。しかし、ここにはロープが渡してある。「みなんぱら 恵みの交流館」という施設への通路に使われているのだが、コロナ感染拡大防止のため閉園中、と貼り紙がしてあった。そうでなくても旧道は途中でたどれなくなる。県道沿いにあった「トラックの森」の説明板から想像するに、造林事業地とされたことで、中を通過していた旧道は廃道になったようだ。

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中山集落を北望
 

鼠色の空から、いよいよ霧雨が落ちてきた。県道の中山峠の直前に右へ入る林道があり、そこに街道の標識が立っている。林道を少し上ると、街道のつづきが見つかった。街道の中山峠は落ち葉散り敷く森の中だが、標識も何もなく、大きなうろをもつ木の根元に供養塔が倒れているばかりだ。

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(左)県道の中山峠
(右)旧街道の峠、倒れた供養塔
 

峠の南斜面は、戸石川が流れる谷底まで約200mの高度差がある。道は思いのほか荒れていた。行く手をふさぐ倒木をまたぎ、覆いかぶさる雑木をかき分け、湧き水のぬかるみに足を取られながら、急坂を降りていく。かなり下ったところで西へ向かう林道と交差したが、「さすがにこの先は通れそうにないですね」。背丈を越える藪を前に、林道を伝い、県道に迂回せざるをえなかった。

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中山峠からの下りは荒れた道
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
中山峠~会津下郷駅間
 

この区間で、県道は勾配緩和のためにヘアピンを繰り返している。そのカーブの一つで、「高倉山の湧水、長寿の水」と書かれた水汲み場があった。屋根の下の手水鉢に架けられた管から、名水が流れ落ちている。一口掬って飲んでみたが、まろやかな味わいのおいしい水だった。

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長寿の水
 

下り坂の途中から、また旧街道に入った。草道は、S字を描く県道を串刺ししながら降下する。最後は簡易舗装の里道になり、倉谷宿の裏手を通って再び県道に合流した。倉谷宿は、ごくふつうの農村集落だった。間口が狭く奥行きが長い宿場の地割が残るものの、茅葺屋根にはトタンがかぶせてある。とはいえ、大内宿もブレークする前はこのような状況だったのかもしれない。

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(左)倉谷宿の家並み
(右)倉谷宿上方の古い道標
 

戸石川を渡ってなおも行くと、また分かれ道があった。立派な土蔵の前に大内宿近くで見たのと同じ下野街道の石碑が立っていて、旧街道は八幡峠に向けて南の山手を上っていく。しかし残念だが、私たちの街道歩きはここまでだ。帰りの列車が来る会津下郷駅をめざし、このまま県道を下っていくことにしよう。

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板倉の分岐点、旧街道は奥へ
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会津下郷駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、日光(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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2022年3月26日 (土)

コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道

多古線を歩いた翌日2021年10月17日は、あいにく本降りの雨になった。朝はまだ小雨だったので、外房線の下り列車で出かけた。集合場所は、行川(なめがわ)アイランド駅。ご承知のとおり、フラミンゴやクジャクのショーで有名な一大観光施設の最寄りだったが、それも20年以上前の話、今は小さな待合所があるのみのうら寂しい無人駅に過ぎない。

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雨の行川アイランド駅に入る下り列車
 

2両編成の電車から降りたのは、中西さんと私の二人だけだ。大粒の雨が風に乗って斜めに降ってくるが、「とりあえず『おせんころがし』まで行ってみましょう」と歩き出す。「おせんころがし」というのは、太平洋に落ち込む断崖絶壁の上を通過していく旧街道きっての難所のことだ(下注)。強欲な地主の父親の身代わりとなって、崖から投げ落とされた(別の説では自ら身を投げた)娘お仙の悲話が伝えられている。

*注 伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)の一部で、大正期に建設された大沢第一、第二トンネル経由の道路(以下、旧国道)に取って代わられた。

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おせんころがしに立つ供養塔
 

国道128号線から左にそれ、狭い谷間の通路を伝っていくと、にわかに目の前が開けた。そこは海からの高さが優に50mはある断崖の上で、お仙の供養塔が立っている。道はそこで行き止まりだった。地形図に描かれている大沢との間の破線道(徒歩道)を探そうとしたが、丈の高い草に覆われて入口さえ定かでない。

その間にも雨は降りつのり、西へ延びる険しい海岸線も白く煙ってきた。悪天候を見込んで登山用の装備を整えてきた中西さんに比べ、私はウィンドブレーカーと旅行用の折り畳み傘という軽装だ。すでに足元はずぶぬれで、冷えが伝わってくる。これから歩く距離を考え、弱気になった私は早々とギブアップを宣言、旧国道を進む中西さんを見送って、駅に戻ることにした。

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険しい海岸線が雨に煙る

とはいえ、これでは土産話にもならないので、天気が回復した翌日、単独で同じコースに再挑戦した。今回はそれをもって、コンター旅の報告に代えたいと思う。

この地へ来た目的は二つある。一つは、夷隅川(いすみがわ)源流で河川争奪によって生じた風隙を観察することだ。夷隅川は、太東崎(たいとうざき、下注)の南で太平洋に注ぐ河川だが、その流域を地図で塗り分けて見ると興味深いことがわかる(図1参照)。

*注 太東埼、太東岬(たいとうみさき)とも表記する。

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図1 夷隅川の流域
青の破線が分水界、最南端に上大沢がある
基図は1:200,000地勢図、図中の木原線は現在のいすみ鉄道
 

勝浦から西では、青の破線で示した流域の境界線、すなわち分水界が太平洋岸ぎりぎりまで迫っている。海との距離はせいぜい1~2kmだ。分水界は川の最上流部なので、それが限りなく海に近いというのは常識から外れている。

なぜこのようなことになるのか。謎を解く鍵が、分水界のいたるところで見られる風隙(ふうげき)だ。これは谷の断面が露出したもので、浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象の結果、しばしば生じる。この地域は南から北に向かって傾斜する傾動地塊で、夷隅川はそれに従い、海に注ぐまで60kmほどもゆったりと流れ下る。一方、分水界の反対側は、海に面して急傾斜だ。この河川勾配の違いが浸食力の差となって、夷隅川の流域は南から削られ続ける運命にある。

もう一度、上の流域図をご覧いただきたい。流域の南端に出っ張った部分が見つかるだろう。図2、図3がその部分の拡大だが、ここにも風隙がいくつかあり、「上大沢」集落が載るのもそうした場所だ。夷隅川の源流域に当たり、標高は約135m。にもかかわらず、海岸との水平距離はわずか300m強しかなく、流域では最も海に近づく。源流の先に太平洋が開ける。この奇跡のような地形に一度立ってみたいと、かねがね思っていた。まずはこの目的を果たすことにしよう。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
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図3 大沢周辺を2倍拡大
 

昨日と同じように、行川アイランドで電車を降りた。その足でおせんころがしを再訪する。実はここも風隙だ。夷隅川の流域ではないのだが、太平洋の荒波に削られて、同じように小さな谷の断面が断崖上に露出している。

風隙とは英語の Wind gap(ウィンド・ギャップ)の訳語で、風の通り道になる地形の隙間のことだ。確かに海からの強風が谷間めがけて吹き込んで来るが、景色は、雨の日とは一変してクリアだ。太平洋の大海原から、波打ち際にそそり立つ屏風のような断崖まですっきりと見渡せる。

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(左)おせんころがしへの小道
(右)ここも風隙地形
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おせんころがしから太平洋の眺望
 

国道まで戻り、おせんころがしの険路を避けて山側につけられた旧国道に回った。海に突き出た山脚を、1921(大正10)年開通の2本のトンネルが貫いている。東側の大沢第一トンネルは長さ80m、西側の第二トンネルは同112m、その間の狭い谷間に肩を寄せ合うようにして、下大沢の集落(下注)がある。

*注 地形図には、行政地名の「大沢」と通称地名の「上大沢」のみが記されているが、海沿いの集落は下大沢、山上の集落は上大沢と呼ばれ、その総称が大沢になる。

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大沢第一トンネル
(左)東口
(右)奥に見える第二トンネルの間に下大沢の集落がある
 

目指す風隙はこの谷の上だ。旧国道を離れ、家並みを縫う坂道を進んでいくと、八幡神社の手前から急な階段道に変わった。すれ違った地元の方に「上まで行けますか」と尋ねたら、「どてら坂ですね。登れますよ」との答え。坂に名がある(下注)ということは、よく利用されているに違いない。

*注 後述する研究報告には、急な登りで、どてらを着込んだように汗をかくことから「どてら坂」の名がついたとの説が紹介されている。

細い山道を想像していたのだが、それどころか幅1~2mの、コンクリートで舗装された階段が続く。途中に墓地があり、海を見下ろす墓碑の前に花が供えられていた。道は何度も折返しながら、高度を上げていく。振り返ると集落の屋根は下に沈み、太平洋の水平線が目の高さに上がってきた。

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(左)どてら坂はこの斜面を上る
(右)コンクリート舗装の階段道
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(左)下大沢の集落が眼下に
(右)谷壁を照葉樹林が覆う
 

山上の上大沢集落まで10分ほどだった。十数軒の家が建ち並ぶなか、道が夷隅川の源流を横切る場所まで行ってみる。源流というと森の奥の清流というイメージだが、ここでは住宅裏を通るふつうのU字溝で、水もお湿り程度に流れているだけだ。

この地域を調査した研究報告(高地伸和・関 信夫「源流の先は大海原-千葉県夷隅川源流部の特異性」『地理』52-5, 2007, pp.69-73)によれば、ふだんはこうして夷隅川へ水が流れているが、大雨で増水すると、集落の上手にある仕切り板から海側の沢へ排水されるようになっている(図3参照)。下流がU字溝で足りるのはそのためだろう。

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(左)山上の集落、上大沢
(右)夷隅川源流のU字溝
 

お目当ての風隙のきわへ移動する。この風隙は、谷の横断面ではなく側面が開析されているため、かなり広い。高台のいわば一等地とあって家が建て込んでいたが、住民の方に一言断って、通路の隅から眺めさせてもらった。照葉樹林が形作る額縁の先に、太平洋の青い水平線が一文字に延びる。沖合を一隻の船が進んでいく。これほど見晴らしのいい風隙もなかなかないと思う。

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上大沢の風隙からの眺望
 

念願を果たしたことに満足して、階段道を戻る。下大沢と上大沢という地名、その間を結ぶ整備された階段道、これは両集落に深い関係があることを示すものだ。

上記研究報告によると、漁村の下大沢と農村の上大沢は、生業面や生活面(民俗面)で一つの集落として機能しているという。具体的には、上大沢の住民も大沢漁協の漁業権をもち、漁に出る。また、海の状況を把握する山見の場所「やまんば」は上大沢にある。反対に、下大沢の住民は上大沢に耕地を有している。そして、祭りその他集落の行事は共同で行われる…。

地形の特異性が、ここでは日々の生活に上手に活かされている。以下は私の想像だが、寺や神社が下大沢に集中するところから見て、先に定住地として成立したのは下大沢だろう。そして漁のかたわら、平坦な土地のある山上(上大沢)へ行って農耕をしていた。分家などが進み、下大沢の土地が不足してくると、山上に住居を建てる人も現れた。こうして集落は見かけ上二分されたが、おそらく親戚関係もあって、人々の意識の上では一集落であり続けているのだ。

下大沢では港のようすを眺めようと、旧国道の第二トンネルではなく、線路と国道のガードをくぐって海岸まで降りた。港の端から、おせんころがしへ向かう旧街道の道筋もよく見えるが、藪化がかなり進行しているようだった。

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下大沢のガードをくぐって港へ
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大沢港
背後の断崖がおせんころがし
 

港から旧国道へ上がって、西へ向かって歩き始める。この地へ来た目的の二つ目は、この旧国道だ。山(夷隅川流域)が海に迫るため、下大沢から約1.2kmの間、道は波洗う断崖の中腹をうがって通されている。おせんころがしには及ばないものの、それでも海面から20~30mの高さがある。また、国道の新道ができているので、交通量は少なく歩きやすいと予想した。

期待は裏切られなかった。大海原の開放的な眺めはいうまでもない。もとは国道だから車が通行できる道幅で、ガードレールもある。落石注意の標識が林立するのを気にしなければ、すばらしいハイキングルートだ。

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断崖の中腹に通された旧国道
おせんころがしから遠望
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断崖の旧国道
(左)落石注意の標識が立つ
(右)入道ヶ岬が近づく
 

ところが少し行くと「この先全面通行止」の標識が立っていて、傍らにいた警備員さんが「工事をしているので、途中までしか行けませんよ」と言う。一瞬迷ったが、ここですごすごと引き返すわけにもいかない。「行けるところまで行ってみます」と挨拶して、歩き続ける。当該個所では確かに工事車両が数台停車していたが、人ひとり通るのに何の支障もなかった。むしろ通り抜ける車がない分、気兼ねなく歩くことができた。

雀島という、海中に立つ烏帽子岩に似た岩に見送られて、旧道は小湊トンネルへ入っていく。小湊に向かっては上り坂だ。無照明で100m以上の長さがあるが、直線ルートなので出口の明かりが見えている。

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シルエットの雀島と入道ヶ岬
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小湊トンネル
(左)東口
(右)西口
 

トンネルを出ると一転、薄暗い谷間になり、蔦が絡まる杉林の間を緩やかに降りる。やがて、巨大なお堂の屋根が見えてきた。小湊山誕生寺だ。小湊は日蓮上人の生誕地で、それを記念して建立されたお寺が日蓮宗大本山の一つになっている。裏門から入って祖師堂を覗くと、何かの行事の飾り付けの準備の最中だった。

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蔦が絡まる杉林を降りる
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小湊山誕生寺
(左)仁王門
(右)祖師堂
 

ちなみに、内房線の五井駅から出ている小湊鉄道は、誕生寺への参詣鉄道として計画されたことからその名がある。現在の終点、上総中野駅からかなり遠いように思うが、直線距離では約15km。夷隅川流域から海岸へ急降下する必要があるとはいえ、目標達成までもうひと頑張りだったのだ。

総門を通り抜け、小湊の漁港を眺めながら、残りの道を歩いていく。旧国道が現在の国道と出会う地点には、日蓮交差点の標識が見えた。まだ電車の時刻には早いので、小湊の町を通り越して寄浦のトンネル水族館を見に行こう。

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小湊漁港
 

旧国道に並行して1979年に造られた全長233.5mの実入(みいり)歩道トンネルが、その舞台だ。長いトンネルを楽しく通行してもらえるようにと、美大の学生たちが腕を振るい、2005年に完成した。内壁を水族館の水槽に見立てて、さまざまな海の生き物が描かれている。カラフルで動きもほどよく表現されていて、絵を追っていくうちに、いつのまにか出口まで来てしまった。

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実入トンネル東口
左を歩道トンネルが並行
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歩道トンネルの壁に描かれた海の生き物たち
 

土産話をまた一つ仕入れて、安房小湊駅から上り列車の客となる。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大多喜(昭和58年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2021年5月30日 (日)

コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠

中津川周辺の2日目は、中山道の馬籠(まごめ)~妻籠(つまご)間を歩く。標高790mの馬籠峠を越えていくこのルートは、拠点となる両宿場町の風情とあいまって、中山道で最も人気の高いものの一つだ。静かな歩き旅を楽しむなら、旅行者が少ない今がいいだろうと、企画に取り上げた。

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一石栃立場茶屋前の枝垂れ桜

中津川駅に予定の時刻に集合したのは、昨日と同じく大出さんと私の2名。駅前の乗り場で9時55分発のバスを待つ。馬籠方面も、鉄道会社から転じた北恵那交通が運行している。旅行需要が冷え込む中でも、さすがにここは20人ほど乗車した。バスは国道19号の旧道を通り抜けた後、落合宿から湯舟沢川の狭い渓谷に入り込む。中切集落まで来るとやおら反転し、馬籠に向けて最後の斜面を上っていった。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
馬籠宿~妻籠宿間
 

馬籠宿は、木曽十一宿の最後に位置する宿場町だ。高土幾山(たかときやま)南麓の尾根状になった傾斜地に立地している。路線バスは、走ってきた県道が旧街道を横切ったところで停まった。

標高570mのこの地点が宿場の下入口になる。しかし、街道の進行方向には壁のような斜面があり、枝を広げた大木が、まるで訪問者を威嚇するようにそびえている。地形的に見るとこの壁は、直交する阿寺(あてら)断層によって生じた断層崖の一部だ。旧街道はクランク状の急坂「車屋坂」でこの段差を乗り越えるのだが、同時にそれが見通しを遮る桝形にうまく利用されている。

*注 阿寺断層は下呂市萩原町付近から中津川市神坂(みさか)まで、北西~南東方向に走る全長約70kmの断層帯。

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馬籠宿下入口、車屋坂と断層崖
 

桝形の先も石畳の坂が続く。茶屋、宿屋、土産物屋などさまざまな商いの看板を出した切妻、瓦屋根の家々が両側に連なる。こうした伝統的な町並みを修復した旧 宿場町は全国各地にあるとはいえ、馬籠宿は一味違う。

最大のポイントは、傾斜地が作り出す独特の景観だ。坂は一定勾配ではなく緩急があり、かつ道幅も広すぎず狭すぎず、ゆらゆらと曲がっている。建物やそれを支える石垣が階段状に重なって見え、透視法的な奥行きに加えて、縦方向の動きを感じさせる。

それに、整然とした町屋造りが軒を連ねるのとは違い、建物の構造に一つ一つ個性があって、見る者を飽きさせない。さらに、緑の木々や色とりどりの花々が道端を飾り、山里らしい自然との一体感があるのもいい。

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階段状に重なる建物群
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庭の緑や石垣が宿場風景の一部に
 

馬籠の場合、鉄道も明治の国道(下注)も峠越えを嫌って木曽川沿いに通されたことで、往来は途絶え、一介の農村集落に還った。宿場時代の建物も明治、大正2度の火災ですべて焼失しており、今ある景観は1970年代前半に始まった観光ブームを通じて新たに形成されたものだ。純農村がベースにあることで、自由で新鮮な印象が生み出されるのではないだろうか。

*注 1892(明治25)年に開通したいわゆる賤母(しずも)新道。

観光案内所の奥に、つるし雛が美しく飾られていた。文豪島崎藤村の生誕地なので、記念館も開いている。だが歩き始めたばかりで先は長いから、寄り道は最小限にしておこう。

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(左)つるし雛の展示
(右)藤村記念館玄関
 

再び県道と交差する地点が、陣馬と呼ばれる馬籠宿の上入口だ。標高640m、気づかないうちに下入口から70mも上がってきた。高札場の上手の見晴台に立つと、さきほどバスで来た湯舟沢川の谷を隔てて、雄大な恵那山の眺めが目の前に広がる。

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陣馬上見晴台からのパノラマ
左奥のピークが恵那山、右端が馬籠宿上入口
 

一角に興味深い碑が建っていた。越県合併記念碑とある。馬籠宿のある旧 山口村は以前、長野県木曽郡に属していたのだが、2005年に、経済的に結びつきが強い岐阜県中津川市に、県を越えて編入された(下注)。自治体合併で県境が移動するのはめったにないことだ。ちなみにもとの県境、すなわち信濃と美濃の国界は、馬籠宿と落合宿の中間で中山道と交差していて、今も「是より北 木曽路」の碑が建っている。

*注 時代を遡ると馬籠地区は、湯舟沢地区とともに明治初期から御坂村を形成していた。1950年代に中津川市との合併問題が紛糾したとき、自治庁の裁定で、藤村の出身地であり反対派が多かった馬籠は長野県に残り(そのため隣の山口村に編入)、湯舟沢は1958(昭和33)年に中津川市に編入された。2005年の合併でようやく旧 御坂村全域が中津川市に入ることになった。

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越県合併記念碑
 

目的地の妻籠までは、峠を越えて8kmの道のりだ。旧街道はこの後、県道7号中津川南木曽線と絡み合いながら峠に向けて上っていく。ところどころ石畳が敷かれているが、フラットな舗装に慣れた現代人にとっては少々歩きにくい。

水車小屋(下注)を過ぎ、急勾配の梨子ノ木坂(なしのきざか)を上りきると、峠集落に入る。街道に沿って十数軒が並ぶ静かな山里だが、総じて軒先が長く取られた大柄の家構えだ。18世紀から大火に遭っていないため、古い姿をとどめているそうで、どことなくスイスのアルペン集落の雰囲気が漂う。

*注 1904(明治37)年の水害で犠牲になった一家にたむけた島崎藤村の追悼文が刻まれた「水車塚の碑」にちなむ。

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(左)石畳の旧道
(右)水車小屋
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古い姿をとどめる峠集落
 

あとはほんのひと上りだ。右手を走る県道と合流してまもなく、馬籠の見晴台から40分ほどで、標高790mの馬籠峠に到達した。先述した越県合併により、長野・岐阜県境は今、この峠を横切っている。新領地への意欲を象徴するかのように、道路脇に立つ県境標は、岐阜県のほうが長野県のものより背が高くて立派だ。

往来の減少が影響しているのか、峠の茶屋は閉まっており、周りに腰を下ろすところもなかった。峠の北側は断層谷で、ほぼ直線状に通っているのだが、木が茂って眺望がきかない。ときどき上ってくるハイカーたちも諦め顔で素通りしていく。私たちも10分ほどで滞在を切り上げて、林の中を下りにかかった。

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馬籠峠、茶屋は閉店中
 

しばらく行くと森が開けた。番所の置かれていた一石栃(いっこくとち)と呼ばれる場所で、山道の休憩所である立場茶屋(たてばじゃや)が一軒だけ残っている。時代劇に出てきそうな古風なたたずまいだが、今はそれを引き立てるように、庭の枝垂れ桜が満開だ。隣の白木改(しらきあらため)番所跡でも、ヤマザクラやハナモモが妍を競っている。

今年の春は異常に暖かく、平地では早々と散ってしまったが、標高700mのこの土地では、ちょうど見ごろだったのだ。花見ができるとは思ってもいなかったので、少し得した気分になった。

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一石栃立場茶屋
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(左)枝垂れ桜が満開
(右)白木改番所跡より
 

樹齢300年という木曽五木の一つ、サワラの大樹の前を過ぎ、さらに降りていくと、まもなく雄滝雌滝へ降りていく林道に出る。これも古来名所に数えられているので、見物に行く。男埵川(おだるがわ)本流に掛かる雄滝(おたき)は、水量が豊かで音にも迫力がこもる。一方、馬籠峠の谷に属する雌滝(めだき)は、集水域が浅い分、控えめな水量で、シャワーのように滑り落ちてくる。

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(左)雄滝(右)雌滝
 

下り谷(くだりたに)の小さな集落から、ジグザグの急な石畳を下りていく。大妻籠(おおつまご)は間の宿で、今も民宿が営まれている。立ち並ぶ旅籠造りの建物は、2階をせり出した出梁(だしばり)造りに、うだつも上がって壮観だ。

妻籠宿の入口には、蘭川(あららぎがわ)の上流から導水して、水力発電所が稼働している。木曽川水系のほとんどの発電所が中部電力ではなく関西電力の運営で、ここもその一つだ。戦後、電力事業を再編成する際に、発電所の帰属先を主消費地によって決定したためで、今も電気は関西に送られ、消費されている。

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(左)牛頭観音付近の石畳道
(右)男埵川べりのハナモモ
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大妻籠
(左)旅籠造りの民宿が並ぶ
(右)フジの花も見ごろに
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(左)橋場追分の道標は1881(明治14)年の建造
(左)アールデコ調の妻籠発電所本屋
 

妻籠宿に着いたのは午後の時間帯で、そこそこ訪問客の行きかう姿が見られた。馬籠とは対照的に、道は平坦で、再現された町屋が奥まで整然と軒を連ねている。知られるとおり、妻籠は宿場町修復保存の先駆者で、1976年に角館や白川郷、京都祇園・東山、萩とともに最初の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。しっとりと落ち着いた町の風情は今も維持されている。

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妻籠宿、寺下地区の町並み
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(左)復元された本陣
(右)脇本陣奥谷家

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同 妻籠宿~南木曽駅間
 

バスで南木曽駅へ向かう大出さんを見送って、さらに中山道を北へ歩く。水車のある坂道を上り、大岩の一つ鯉岩を通過すると、宿場は終わりだ。次の峠まで来ると、妻籠城跡の案内板が誘っていた。「北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる」。300m、徒歩10分とはいうものの、急な山道は足にこたえた。頂きの広場は木々に囲まれていたが、北と南は視界が開けて、看板どおりの眺めが得られた。

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(左)妻籠宿北口、水車のある坂道
(右)鯉岩の前を通過
 
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妻籠城址から南望
手前に妻籠宿、中央奥の鞍部が馬籠峠
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同 北望
左奥の市街地は三留野宿、右背後に木曽駒ケ岳
 

中山道は蘭(あららぎ)森林鉄道跡の林道としばらく絡み合った後、再び急坂で山を降りていく。沢を渡り、上久保(うわくぼ)一里塚の前を通過する。最後の下り坂の麓に、中央本線の旧線跡を利用したSL公園があった。中央西線で活躍したD51 351号機と腕木式信号機は1974(昭和49)年からここで雨ざらしだが、保存状態は悪くない。

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上久保一里塚(右写真)と周辺の旧道
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中央線旧線跡に造られたSL公園
 

中山道は中央本線の山側に移って、三留野宿へと続いていくが、追うのはここまでとした。南木曽でぜひ訪れたいと思っていたのは、駅の北にある桃介(ももすけ)橋だ。読書(よみかき)発電所の建設資材を運搬するために、木曽川に架けられた長さ248mの大吊橋で、橋面にナローゲージのレールや埋め跡が残されている。橋で対岸に渡った後は、近くにある山の歴史館で、庭に置かれた森林鉄道の小型ディーゼル機関車を見学して、旅を締めくくった。

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木曽川右岸から望む桃介橋
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(左)橋面のレール跡
(右)資材運搬用の橋とは思えないスケール
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山の歴史館の庭に置かれた旧林鉄ロコ
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図三留野(平成28年調製)、妻籠(平成27年調製)を使用したものである。

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2018年6月 2日 (土)

コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年のコンターサークルS 春の旅本州編の後半は、関西地方が舞台だ。5月27日は、昔の風情を残す旧 高野(こうや)街道と、サイクリングロードになっている南海高野線旧線跡を通して歩いた。駅でいうと、河内長野(かわちながの)と天見(あまみ)の間、8kmほどの距離だ。

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吉年邸の大クスノキ
 

10時30分、河内長野駅の改札前に集合したのは、今尾さんと私と、飛び入りで参加してくれた海外鉄道研究会のTさんの計3人。駅前広場の一角にある高野街道の碑のところから、今日の歩きをスタートさせた。

高野街道というのは、古来、京や大坂と真言密教の聖地高野山との往来に使われたルートの総称だ。京都方面から生駒山地の西麓を南下してくる東高野街道、堺から南東へ進む西高野街道など、道筋はいくつかあるが、それらが最終的に河内長野で一本にまとまり、紀見峠(きみとうげ)を越えていく。

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河内長野駅前の高野街道碑
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河内長野~三日市町周辺の1:25,000地形図
 

なかでも河内長野から三日市宿にかけては沿道に見どころが点在している。駅前から南に向かうと、立派な旧家、吉年(よどし)邸がある。だが屋敷より目を引くのが、庭に生える樹高20m、枝張り30mもあるという大クスノキだ。家の裏手から噴き出すように枝葉を広げ、白壁の土蔵を今にも呑み込んでしまいそうな勢いだ(冒頭写真)。

その脇で道は二手に分かれる。「右のほうが古い道なので、そっちを通ろうと思います」と案内役の私。今尾さんが持参した明治期の地形図では、三日市宿へショートカットする道がすでに描かれているので、右は旧々道ということになる。

段丘崖を降りて道が直角に曲がる所に、天野酒の醸造元、西條合資会社の風情のある建物が軒を連ねていた。道の左側(南側)が登録有形文化財の旧店舗「さかみせ」で、幕末から明治初期の建築だそうだ。修復工事が終わったばかりなので、軒に渡された銅の雨樋がまだ艶々としている。最近の景観整備事業で路面が石畳に置き換えられたこともあり、ここだけ昔にタイムスリップしたような一角だった。

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(左)銅の雨樋が光る西條合資会社の旧店舗
(右)旧西條橋を渡ると別久坂(2018年3月撮影)
 

旧西條橋で石川を渡った後は、また坂を駆け上がる。別久(びっく)坂と呼ばれるこの急坂で、道は烏帽子山の山裾にぴたりと張り付く。中世、山頂には城が築かれており、「防衛戦略上や経済的な理由から、高野街道を山裾に取り込んだものと考えられます」と案内板は語る。確かにここは上位段丘面で、宅地がなかった頃は遠くまで見通しが利いただろう。烏帽子形八幡神社の門前には休憩用のベンチがこしらえてあった。鬱蒼と茂る森の中から、鶯のさえずりが聞こえてくる。

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烏帽子形八幡神社の門前
 

上田の高札場跡で直角に曲がると、今度は松屋坂の急な下り道だ。吉年邸から直進してきた旧道と合流してすぐ、旧 三日市交番が公開されていた。木造2階の小さな建物だが、築年は古く1921(大正10)年とされる。「駅前に新しい交番ができるまで、駐在さんがここに詰めていたんです」とボランティアの案内人さん。かつてはすぐ隣に町役場もあったというから、辺りは行政の中心だったのだ。

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(左)旧 三日市交番が公開中
(右)風情を漂わせる三日市宿の家並み
 

加賀田川を渡る。私たちが注目したのは左に見える高野線鉄橋、ではなくその手前(西側)に残された煉瓦の旧橋台だ。おそらく1914(大正3)年開通時のもので、イギリス積みのどっしりとした外観が頼もしいが、観光パンフレットには何ら言及がない。「これも文化財なんで、説明板の一つぐらいほしいですね」とTさんが残念がる。「街道の風物じゃないと関心がないんでしょうか」と私。

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(左)高野線単線時代の煉瓦積み橋台
(右)現在線の脇に残る
 

それに対して宿場の歴史に関わるものは、本陣格の旅籠だった油屋跡、19世紀後半に造られ現存する八木家住宅と、どれも丁寧に解説されている。背景にショッピングセンターの無粋な建物が見え隠れするものの、蛇行する街路沿いに懐かしい瓦屋根の町屋が続いて、写真の一つも撮りたくなる界隈だ。

三日市町駅前まで来たので、少し早いが、そのショッピングセンター、フォレスト三日市の空調の効いたベンチを借りて、昼食にした。今日は気温が30度に近く、空気の重たさが梅雨の季節が近いことを知らせている。

駅を後に、直線状の旧道をなおも進む。石見川を渡る新高野橋の北のたもとに、八里石を見つけた。高さ178cmの立派な石碑で、おもてに「西是(これ)ヨリ高野山女人堂江(へ)八里」、側面に安政四(1857)丁巳年二月の日付が刻まれている。傍らの案内板によれば、これは堺から高野山まで13里ある西高野街道に沿って一里ごとに建てられた標石の一つで、すべてが今も残っているという。「日本のマイルストーンですね」と今尾さんが感心する。

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(左)八里石
(右)街道は紀見峠に向けてなおも延びる
 

史跡などの見どころはおよそこれが最後で、旧街道自体もこの先、断続的に国道に取り込まれてしまう。大阪府が作成したハイキング地図は、「車が多く、歩道がない区間もあるので、国道の脇道をのんびりと歩くこと」を勧めている。この脇道というのが、南海高野線の廃線跡を転用したサイクリングロード(歩行者自転車専用道)だ。一般道路で代用される区間はあるものの、天見川の谷に沿って約5.5kmの間延びている。

南海高野線には急勾配急曲線の連続する山岳区間があり、ズームカーと呼ばれる高性能の専用車両が活躍する舞台となっていた。今でこそ橋本~極楽橋間に短縮されているが、かつては大阪寄りの紀見峠の前後区間もそうだった。

1970年代に入ると、全国的なニュータウン開発の波が山間部まで及んでくる。それに呼応して高野線でも、河内長野~橋本間で輸送力強化を目的とした複線化が進められた(下注)。大型車両の乗り入れが可能となるよう、高架橋やトンネルの新設による線形の抜本的な改良も実施された。そしてその引き換えに、谷間を曲がりくねっていた単線の旧線は任務を解かれ、廃線跡となったのだ。

*注 複線化(多くの区間でルート変更を伴う)の時期は以下のとおり。
河内長野~三日市町 1974(昭和49)年、三日市町~千早口 1984年、千早口~天見 1983年、天見~紀見峠 1979年、紀見峠~御幸辻 1983年、御幸辻~橋本 1995年(ただし新線切替は1994年)
 旧線区間はカーブの最小半径が160mだったが、これを400m(一部240m)に緩和した。反面、ルートをショートカットするため、最大勾配は旧線25‰に対して新線は33‰とされた。

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三日市町~天見周辺の1:25,000地形図
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高野線旧線時代の地形図(1977(昭和52)年修正測量)
範囲は上図と同じ
 

美加の台(みかのだい)駅の500m手前で、線路際から左前方へサイクリングロードが分かれていく。軽自動車なら通れる道幅で、簡易舗装もされている。路側に植え込みや並木が続いているから、一般的な農道でないと知れるが、案内板などは見当たらない。立っているのは歩行者自転車専用の道路標識のみ。旧高野街道のルートマップでもせいぜい「国道の脇道」扱いだから、地元では観光資源とはみなされていないのだろう。人通りもなく、私たちが歩いている間、サイクリストのグループと一、二度すれ違っただけだった(下注)。

*注 自転車旅行者の間では、由来は定かでないが、「トトロ街道」と呼ばれているという。

小道はさっそく、木漏れ日が差し込む谷間に入っていく。少しの間、桜の並木が造られている。周りの林に負けないように育ったと見えて、かなりの丈がある。「線路のそばに咲いていたのかな」「枝ぶりから見て、整備のときに植えたんでしょうね」。廃線からすでに30年以上経つので、桜の木なら十分育つだろう。

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(左)サイクリングロードになった旧線跡が分かれていく
(右)谷間を桜並木が彩る
(いずれも2018年3月撮影)
 

右手には現在線の高架に続いて、ニュータウンの玄関口として新設された美加の台駅が見える。丘の上には大規模な住宅地が広がっているはずだが、谷間にいては実感できない。現在線のガード下をくぐった後は、さらに谷が深まった。天見川の清流を二度横切るので、もしやと橋の下を覗いてみたら、頑丈そうなガーダー(橋桁)と煉瓦の橋台が確認できた。旧線の遺構に違いない。

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美加の台駅の南側で高野線をくぐる
なお、旧線跡(加賀田信号所があった)は現在線と同一レベルで交差していたので、サイクリングロードはこの区間で旧線跡からそれて迂回している
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天見川を渡る個所に旧鉄橋の橋台と橋桁が残る
 

渓谷を抜けたところで、サイクリングロードはいったん終わり、一般道路に接続している。廃線跡は道路の隣で草むらの農道と化し、その先では民家の庭先や畑の拡張に利用されているようだ。少し進むと、現在線が美加の台トンネルから出てきた。ここから千早口駅まではルートが移設されていない、すなわち廃線跡がないので、私たちは下岩瀬集落の中を抜けていった。

線路をくぐれば、千早口(ちはやぐち)駅だ。駅前の観光案内板には珍しくサイクリングロードも描かれていたが、旧街道のように、鉄道史跡であることも書き添えてほしいところだ。「信号機でも残っているとわかりやすいんでしょうけど」とTさん。実際は、鉄道標識すら保存されておらず、さっきの民家の畑に赤く塗られた境界標らしきものがあっただけだ。

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千早口駅前の観光案内板
 

標高が上がったせいで、頬に当たる風が少し涼しく感じられるようになった。駅横から再びサイクリングロードを進む。こちらはさっきより舗装が新しいので、後で整備されたのだろう。右に左にカーブが連続し、そのつど新しい景色が開けるのが楽しい。対岸には国道が通っていて、トラックの走行音も聞こえてくるのだが、それさえ別にすれば、なかなか趣のある道だ。

谷の中で、少し幅の広い箇所を見つけた。舗装道は1線分だが、柵の隣に同じような幅の空地が並行しているのだ。横断する水路の側壁の幅から、谷側にもう1線あったことが推定できる。そのときは信号所の跡と思ったが、よく考えてみると、旧線の千早口~天見間はわずか1.9km。列車交換のための信号所は必要ない。あるいは天見川の対岸に砂利採取場があるので、積込用の貨物側線だったのだろうか…。

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(左)千早口駅南方。側壁は現役時代のオリジナル
(右)柵の隣に側線跡のような空地が並行する
 

旧線は峠に向けて高度を稼ごうとしていたらしく、谷底との高低差が徐々に広がってくる。家並みが谷底に沈んで見える。鬱蒼とした林の中、天見小学校の裏手を回っていくと、今日の目標にしていた天見駅だった。板張りの山小屋のような無人駅舎だが、中で自動改札機がしっかり通せんぼしている。

すぐ下手に温泉旅館の南天苑があり、建物が登録有形文化財になっているので、見に行った。辰野金吾事務所の設計で、堺の大浜公園に建っていた保養施設の別館を1935(昭和10)年に移築したものだという。元の場所は戦争で空襲に遭い、そこに残っていた本館は焼失してしまった。移設のおかげでこの建物だけは命拾いしたことになる。おかみさんから奨められて、庭から座敷も拝見した。

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天見温泉南天苑(2018年3月撮影)
 

「これから高野山に登ってきます」という元気な今尾さんを天見駅に見送って、Tさんと私はサイクリングロードをもう少し先まで行った。ここでも桜並木が程よいカーブを描いている。次の支谷を横断する地点に架けられているのは、安っぽい擬製のアーチ橋だったが、その下に本物の煉瓦溝渠が顔を覗かせていた。

心地よい歩き道は、しかし蟹井神社の手前の辻で途切れる。例によって、人と自転車を描いた道路標識が立っているだけで、実にそっけない終わり方だ。そこから先、廃線跡は築堤上の空き地に変わり、残存する高いガーダー橋を経て、現在線に合流していく。紀見峠の下を貫く新しいほうのトンネルが、もうすぐそこに見えている。

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(左)天見駅舎
(右)サイクリングロードはなおも上流へ
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(左)擬製のアーチ橋の左下に煉瓦溝渠
(右)サイクリングロードの終点
  廃線跡の築堤はまもなく現在線と合流する
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図富田林(昭和52年修正測量および平成19年更新)、岩湧山(昭和52年修正測量および平成22年更新)を使用したものである。

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2017年12月19日 (火)

コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月5日、札幌は最低気温が4度まで下がった。昨日は曇り空に木枯らしが吹いて、道庁の庭に散り敷いた黄葉の絨毯を舞い上がらせていたが、今朝はもはや初冬の風情だ。札幌駅8時43分発の小樽行き普通列車に乗る。車内は混んでいて、途中駅での動きも少なく、結局ほとんどの人が小樽まで乗り通した。出口へ向かう人の波を見送って、私はさらに気動車に乗り継ぐ。

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初冬の積丹海岸、泊村茂岩にて
 

集合場所の余市(よいち)駅前には、堀さん、ミドリさん、河村さん、片岡さんがすでに到着していた。列車で来た真尾さんと私を加えて総勢6人。3台の車に分乗して、国道229号線を積丹(しゃこたん)半島西岸へ向かう。精力的に実施されてきたコンターサークルS道内の旅も、今年はこれが最終回になる。神恵内(かもえない)村の大森山道と泊(とまり)村の海のモイワが、本日の目的地だ。

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余市駅
(左)改築された駅舎
(右)駅前に集合した面々
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積丹半島の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆
 

私は片岡さんの車に乗せてもらった。古平(ふるびら)からは、近道になる道道998号でトーマル峠を越える。半島を横断するこの峠道は標高が600m以上あり、周囲は早くも雪景色だ。神恵内(かもえない)で国道に復帰して海岸線を北上し、山際に道の駅が見えたところで、目指す大森トンネルに入った。2007(平成19)年に開通した新しいトンネルで、長さは2,509mある。

半島の海岸線をぐるりと回る国道229号は、夕陽のきれいな海景ルートとして人気が高い。反面、地形的には非常に厳しく、険しい断崖がどこまでも連なり、日本海の荒波に洗われている。そのため、1982(昭和57)年にトーマル峠越えのルートから指定替えされて以降も、国道はしばらく未完のままだった。最後まで残った積丹町沼前(下注)~神恵内村川白(かわしら)間が開通したのはわずか20年前、1996(平成8)年のことだ。

*注 沼前は、旧図に「のなまい」の読み仮名が振られているが、地理院地図によれば現在は「ぬままえ」と読むようだ。

大森トンネルを含む大森~珊内(さんない)間はそれ以前に道路が通じていたが、ルートには変遷がある。現ルートは3代目に当たり、その前は、南から順に旧 大森トンネル、大森大橋、とようみトンネル、ウエンチクナイトンネルとつなぐ旧道があった(下図の第2段参照)。旧道といっても、1985(昭和60)年開通の立派な二車線道だ。

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大森トンネル前後のルート変遷
 

ところが不幸なことにこの2代目は、2004(平成16)年9月に襲来した台風18号の波浪で途中の大森大橋が損壊し、通行不能になってしまう。12月に仮復旧した(上図第3段)が、最終的に、別途山側に掘ったトンネルを既存のウエンチクナイトンネルとつなげる形で、2007(平成19)年3月に現在の大森トンネルが完成して(同 第4段)、2代目ルートはあえなく廃道となった。

この新道、旧道に対して、初代の自動車道路は海際を避けて、標高約150mの高みを通っていた(同 第1段)。ルートはまず、大森集落の北のはずれで大森山の斜面をゆっくり上るところから始まる。断崖より上の山襞を4本の短いトンネルで貫いた後、キナウシ川の谷に沿って降下する。しかし、降りきる手前でキナウシ岬をトンネルで抜け、それからおもむろに海岸線に達する。それが、これから歩こうとしている大森山道だ。なお、旧版地形図には、それより古い山越えの徒歩道が描かれており、こちらを山道と呼ぶべきかもしれないが、それは別の課題として…。

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現行の地理院地図(1:25,000、2017年12月取得)に
歩いたルートを加筆
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上記と同範囲の1:25,000地形図、2005(平成17)年および2006(平成18)年更新
大森大橋が仮復旧していた時期のもの
図には、ウエンチクナイトンネルの延長によって廃止された2代目ルートの痕跡が残っている。
 

私たちは、大森トンネルを出てすぐの空き地に車を停めた。山を下ってきたキナウシ川が海に注ぐ場所だが、高い防波堤に遮られて、道路から海はまったく見えない。向いには次のキナウシトンネル(長さ1,008m)が口を開けている。

面白いことにキナウシトンネルは、先代、先々代と3代のポータルが斜面に仲良く並ぶ。大森トンネルの北口が旧 ウエンチクナイトンネルのそれをそのまま利用しているのに対して、キナウシトンネルは、ルートが変わるたびに新たに掘られたからだ。供用中の3代目(2002(平成14)年竣工、2003(平成15)年開通)に対して、その海側で完全封鎖されているのが2代目、上方の、バリケードがあるものの本体は無傷なのが初代のトンネルだ。

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3代のキナウシトンネルが並ぶ光景
現 3代目トンネルの左に封鎖された2代目、上方に初代が残る
 

時刻は12時少し前。このとき神恵内の気温は6.8度だったのだが、海辺は強い風が吹き付けていて、体感温度はもっと低い。「寒いのは苦手です」という堀さんはミドリさんの車に残り、あとの5人で旧道のようすを探りに出かけた。

現行の地理院地図には描かれていないが、2010(平成22)年3月完成の大きな砂防ダムが谷をまたいでいる(下注)。そのため、山道の新道接続部は完全に消失していた。ミドリさんがさっさとダムの脇の法面をよじ登っていったので、私たちも草をかき分けながら後を追う。幸いにもダムの上流ではもとの山道が残っていた。轍の跡以外はススキその他の丈高い草が茂っているが、冬枯れしていて歩くのに支障はなさそうだ。

*注 上図では、3か所のダムの概略位置を加筆した。

いったん車のところまで下りて、作戦会議を開く。日の短い時期で、全線踏破するには時間が足りないことから、目標を山道のトンネルの現況確認に絞ることになった。

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(左)砂防ダムで付近の山道は消失
(右)ダム側からの眺め
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(左)砂防ダム上方、海岸へ降りる道と初代キナウシトンネル方面への分岐点
(右)冬枯れの山道をたどる
 
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堀さんは、過去に二度、サークルのメンバーとここを訪れている。最初は1989年5月と8月で、『忘れられた道-北の旧道・廃道を行く』(北海道新聞社、1992年)の冒頭にそのレポートがある。新道への切り替えから4年後だが、掲載写真で見る限り、足元に雑草は生えているものの、路面はいたって明瞭だ。

二度目は12年後の2001年5月で、自費出版の『北海道の交通遺跡を歩く』(コンターサークル、2003年、p.60~)に出てくる。堀さんの記憶では、このときもまだ普通に通れたそうだ。

山道が寸断されたのは、主に砂防ダム工事が原因だろう。歩いていくと、キナウシ川を渡る最初の橋は問題がなかったが、上流にある砂防ダムの手前で道は途切れてしまい、少しの間、藪をかき分けながら、あるかなしかの踏み分け道をたどらなければならなかった。

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上流の砂防ダム。左は帰路写す
 

さらにその先、第二の橋のあるところでは川筋が移動していた。橋の下を流れていたはずのキナウシ川が、橋の手前を横切り、そのために山道がまるごと流失していたのだ。「昭和35年10月竣工」の銘板をもつ親柱が残っているとはいえ、橋はもはや何の役割も果たしていない。川にはそれなりの水量があったが、山歩きに慣れている片岡さんが、川幅が最も狭まるところを見極めて、ひょいと渡った。私たちも後に続き、足を濡らしながらもどうにか難所を通過した。

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第二の橋
(左)川筋の移動で山道が流失。奥に見えるのが山道の続き
(右)沢渡りの場所にあったハクション大魔王の壺?
 

そのあとは再び歩ける道になった。枯草と落ち葉に覆われているものの、もとの道幅がわかる程度に空いている。第三の橋は欄干こそ壊れていたが、路面は無事で、「キナウシ」と川の名を記した看板が道の脇に埋もれていた。ここで谷を折り返して、今度は左岸の斜面を上っていく。川際と沢の横断で2か所流されていたのを除けば、道は谷沿いよりはるかに原形をとどめていた。崖に張られた防護ネット、ガードレール、カーブミラー、道路標識、砂箱と、置き去りにされた現役時代の証人が次々と現れて、私たちを喜ばせる。

いくつか切通しを抜けたところで、枯れ枝越しに白くかすむ海原が俯瞰できた。ずっと上り続けてきて、標高はすでに130~140mある。

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道のない斜面を横渡り(第三の橋の直後)
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切通しは当時のまま残る
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現役時代の証人
(左)防護ネットとガードレール
(右)曇りなきカーブミラー
 

やがて、目指していたウエンチクナイ4号トンネルが視界に入ってきた。近づくと、コンクリート製のしっかりしたポータルで、内部も荒れておらず、30年以上も放置されていたとは思えない。河村さんがトンネル名称を記した看板が落ちているのを見つけて、撮影用にセットする。最も長い4号がこれだけしっかり残っているのなら、残り3本の状況も期待できそうだ。しかし、復路に必要な時間も考えて、今回は4号の南口を確かめただけで引き返した。

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ウエンチクナイ4号トンネル北口
 

戻りがてら、初代キナウシトンネルの様子を見に行った。ポータルの仕様は4号トンネルと同じなので、同時期に一連の工事で造られたものだろう。北口はオーバーハングした断崖の真下で、頼まれても長居はしたくないような場所だった。崖下に沿って草に覆われた狭い段丘のような地形が続いていたが、山道の跡なのか、それとも2代目道路の覆道の屋根なのか、判然としない。

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(左)海に臨むキナウシの断崖
(右)初代キナウシトンネル北口
 

車に戻ったのは15時に近かった。堀さんを残して2時間半も出かけていたことになる。ミドリさんが「長い間、車に閉じ込めてしまって」と謝ると、堀さんは笑って「いや、かえってその間、開放してもらったようなもんです」。

持参した軽食でとりあえず空腹を満たしてから、次の目的地、泊村の茂岩(もいわ)へと車を進めた。それは長いトンネルを出た先にある小さな浜集落で、正面の海岸に兜をかぶったような形の大きな岩山が鎮座している。弁天島と呼ばれるが、「茂岩の名はここから来ていると思います」と真尾さん。アイヌ語でモ・イワは小さい山を指し、さらにイワには神聖な山という含みがある。今は弁天様(弁財天)にすり替わってしまったが、アイヌの人々もこの孤高の岩山に神が宿ると考えたのだ。

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茂岩周辺の1:25,000地形図
2006(平成18)年更新。青円内が弁天島
 

おりしも低く垂れこめた雲の間から太陽が顔をのぞかせ、鉛色の海原を朱く照らし出した。傍らに立つ神の岩が、そのシルエットをひときわ濃くする。夕陽のきれいな積丹半島が見せてくれた最後の挨拶だ。目の前に広がる荘厳なメッセージに、私たちは寒さも忘れて、しばらくその場に立ち尽くした。

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海原を照らす夕陽と神の岩のシルエット
 

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図珊内(昭和51年修正測量、平成17年更新)、ポンネアンチシ山(昭和51年修正測量)、神恵内(昭和51年修正測量、平成18年更新)、20万分の1地勢図岩内(平成18年編集)を使用したものである。

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2017年6月 5日 (月)

コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

コンターサークルS 2017年春の旅、本日5月3日は、山形県上山(かみのやま)周辺にある古い石橋群を訪ねる。

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吉田橋のたもとにて
 

イギリスの旅行家イザベラ・バード Isabella L. Bird が、山形の印象を故国の妹に書き送っている。「この地方は見るからに繁栄していますが、その繁栄はひとつにはこの立派な幹線道路から生まれているとわたしは思います」(『イザベラ・バードの日本紀行(上)』時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.330)。彼女が当地を旅したのは明治初期、1878(明治11)年だ。ちょうどその頃、初代山形県令に任じられた三島通庸(みしまみちつね)が、当地の殖産興業を図るために交通路の整備を強力に推し進めていた。

イザベラはこうも記す。「坂巻川ではうれしいことに、わたしが唯一目にした、完璧に堅牢な近代日本の建造物に出会いました。完成直前のすばらしく立派な石橋で、これははじめて見ました」(同 p.329)。木橋に代わる石造アーチ橋もまた、三島の土木事業の成果だった。彼女が絶賛した山形南方の常盤橋(ときわばし)はその後流失してしまうが、周辺では幸いにも、同じ時代に造られた石橋がいくつか残っている。

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かみのやま温泉駅に到着
 

山形駅から奥羽本線の普通列車で14分、かみのやま温泉駅で下車した。改札前に集まったのは、堀さん、石井さん、外山さん、真尾さん、私の5人。訪ねるべき石橋は6か所あり、場所は地図上でチェックしてある。「連休に入って道が混むかもしれないので、先に国道沿いを回りましょう」と順路を確認して、2台の車に乗り込んだ。

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上山周辺の1:200,000地勢図に石橋の位置を加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

堅磐橋(かきわばし)

目標の一つ目は、上山市川口にある堅磐橋。国道13号上山バイパスに合流してまもなく、左の脇道へ折れたところで車を停めた。白い花が満開のさくらんぼ畑をかすめる農道の先に、その石橋がある。もとは羽州街道旧道を通していた橋だが、前後をバイパス建設で塞がれてしまい、かろうじてこの農道で公道につながっている状態だ。

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堅磐橋は2連アーチの眼鏡橋
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上山市川口、中山周辺の1:25,000地形図に、
堅磐橋と中山橋(後述)の位置を加筆
 

しかし橋自体は、2連アーチのいわゆる眼鏡橋(下注)で見応えがある。アーチを形成する迫石(せりいし)はもとより、壁石にも緩みがなく、現役に復帰しても十分通用しそうだ。下流側の勾欄(欄干)はコンクリートで更新されているが、上流側は切り石で、とりわけ控柱には迫力ある筆致で橋の名が彫り込まれている。

*注 二重アーチが川面に映って眼鏡橋に見えるのだが、一重アーチでも眼鏡橋と呼ばれるようだ。

傍らに上山市教育委員会が立てた案内板があった。「山形県令三島通庸の道路開さくと整備の積極的政策により、山形から米沢に通ずる国道の川口部落南端の前川に架橋された、当時としては珍しい石の橋である。石材は同橋上流山手の採石場と、同河川からも採取された凝灰岩で、明治11年1月着工、同3月竣功している。橋長14.30m、幅員6.60m、アーチの高さ約3.1m、河床部での径は約5.6m(後略)」(下注)

*注 日付と計測値は英数字に改めた。以下の石橋に関するデータも、地元の教育委員会が立てた案内板を引用している。

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堅磐橋
(左)赤湯方向を望む
(右)橋の名が陰刻された控柱
 

三島に請われて洋画家高橋由一が描いた堅磐橋の石版画が残っている(下図参照)。山中としては不相応に幅広の橋の真ん中に、ぽつんと二人の通行人。画風が違うとはいえ、アンリ・ルソー Henri Rousseau を連想させるような不思議な構図だ。イザベラ・バードが赤湯から山形へ抜けたのは竣功の年の7月で、彼女も画中の人物のように、できたばかりのこの橋を渡ったはずだ。

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高橋由一「南村山郡川口村新道ノ内大川ニ架スル堅磐橋ノ図」
山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/
 

タンポポの咲く川岸から、めいめい橋のほうへカメラを向ける。蜂が何匹か忙しそうに飛び回っているが、さくらんぼの花が目当てらしく、私たちにはまったく関心を示さない。いつのまにか石井さんと堀さんの姿が見えないと思ったら、石橋の上に車で現れた。堀さんが窓からにこやかに手を振る。シャッターチャンスを逃すまいと、皆またカメラを構え直した。

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石橋の上でフォトチャンス
 

吉田橋

想定どおり、中山の手前から国道が渋滞し始めた。「この先で車線が減るんですよ」と、このルートを通ってきた外山さんが言う。しかし、のろのろ運転に付き合ったのは少しの間で、南陽市に入るとすぐに左の旧国道へ。さらに小岩沢の集落へ通じる旧道へ折れたところに、1880年(明治13)年築の吉田橋がある。

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吉田橋
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南陽市小岩沢周辺の1:25,000地形図に
吉田橋と小巌橋の位置を加筆
 

橋は、県道238号原中川停車場線の一部で、地元の車が往き来する。130歳を超えてなお現役なのも、部材が劣化しにくい石橋ならではだ。最上流部で川幅が狭いので、単アーチで済ませているが、石の積み方は堅磐橋によく似ている。ユニークなのは、勾欄(欄干)の親柱と控柱に尖形の自然石が使われていることだ。上流側に刻まれた文字は、変体がなで「よした者(は)し」、下流側は漢字で「吉田橋」と読める。高橋由一もまったく同じように描いているから(下図参照)、オリジナルであるのは疑いない。

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吉田橋
(左)上山方向を望む
(右)橋のたもとに立つ土木学会選奨土木遺産の碑
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高橋由一「東置賜郡小岩澤村新道ノ内前川ニ架スル吉田橋ノ図」
山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/
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自然石を使った控柱の陰刻
(左)上流側「よした者(は)し」
(右)下流側「吉田橋」(橋の字は半ば埋没)
 

案内板によれば、「長さ約12.6m(7間)、高さ約8.8m(下注)、幅は約7.2m(4間)。下部はアーチ型(眼鏡型)、上部は両端に飾り石を配した欄干と、和洋折衷様式である」。吉田橋の名は、これを造った地元の石工、吉田善之助にちなむものだそうだ。発案者でも設計者でもなく、施工業者の名を遺すとは、粋な計らいではないか。

*注 上山市の橋の説明板では「アーチの」高さを示しているが、南陽市の説明板の「高さ」が何を指すかは不明。少なくともアーチはそれほど高くない。

すぐ隣を、奥羽本線(山形新幹線)の線路が通っている。平成のE3系つばさ号と明治の石橋を一つの構図に収めてから、次の目的地へ向かった。

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つばさ号と明治の石橋が一つの構図に
 

小厳橋(こいわばし)

踏切を渡って小岩沢集落の中へ入ると、三つ目の橋がある。といっても、前川に注ぐ支流(下注)をまたぐ小さな橋で、うっかり通過してしまいそうだ。1881(明治14)年完成。名称は小厳橋だが、地元では蛇橋(じゃばし)または蛇ヶ橋(じゃがばし)というらしい。アーチと勾欄でかなりの部材が後補されているため、色合いの違いが不自然に際立つ。「大水で壊れたんでしょうか」と石井さん。

*注 確かめるのを怠ったが、この支流が「小岩沢」なのかもしれない。

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小厳橋は小岩沢集落の中に
上山方向を望む
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石材の補修跡が目立つ
(左)下流側 (右)上流側
 

中山橋

来た道を、上山市中山まで戻った。私が先行車でナビをしていたのだが、迷うことなくたどり着けたのは、あるウェブサイトで、マピオンに位置情報が示してあったからだ。しかし、中山橋だけは例外で、プロットされた地点に実際に架かっていたのは、何の変哲もないコンクリート橋だった。近くで農作業をしていた人に「架け直されたんですか」と尋ねると、「石橋ならここじゃなくて、村のパーマ屋の先だ」と、親切にも略図を描いて教えてくれた。

中山の集落に入り、道が下り気味になったところで、この人の言っていた「すとう美容室」が見つかった。その先で旧道が、西の山から流れ出るカラジュク川(下注)を渡っている。低い石の勾欄と教育委員会の立て札が目印だ。上山方面から来る人には、中山郵便局の100m南を目指していただきたい(地図は堅磐橋の項参照)。

*注 川の名は現地の案内板で知った。地形図にはこの川が描かれていないので注意。

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中山橋の側面
二重の迫石が特徴
 

谷はこれまで見たものより深く、かつ広いのだが、支流のため水量は多くなさそうだ。それで、石垣で固めた築堤を両岸から谷に張り出させて、流路を単アーチでまたいだ。路面の高さを得るためか、アーチの迫石は二重に組まれ、その上に壁石が厚く積まれている。

上流側に回ると、太い松の木が石垣に根を張っていた。石積みに沿って這い降りるかと思いきや、やおら起き上がって空に枝を広げている。「盆栽みたいな松ですね」と感心する。真尾さんは、脇道の土留めに古いレールが使われているのを見つけた。一方、下流側は崖が迫っていて写真が撮りにくいのだが、「こういう時のために最新兵器を持ってきてます」と、外山さんは大きな魚眼レンズを取り出した。

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中山橋
(左)赤湯方向を望む
(右)盆栽のような松が趣を添える
 

使われている石材は、中山石と呼ばれる地元の凝灰岩だ。勾欄の親柱には変体仮名で、もう片側の控柱には漢字で、橋の名が刻まれている。堅磐橋と同じ1878(明治11)年の竣工、橋の長さ11.3m、全幅6.7m、アーチの高さ4.35m、川床部での径は5.85m。こうしてみると、羽州街道の石橋はいずれも幅7m前後で、現代の2車線道路に匹敵する広さを誇っている。明治初期の地方道としては確かに破格の存在で、イザベラ・バードが感心したのももっともだ。

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親柱・控柱の陰刻
(左)上流側「奈可やま者(は)し」
(右)下流側「中山橋」
 

新橋

1881(明治14)年に福島と米沢を結ぶ萬世大路が開通する以前、羽州街道は、福島県桑折(こおり)から七ヶ宿(しちかしゅく)経由で上山に出るルートを取っていた。その旧街道が金山峠を越えて山形盆地に降りたところに、楢下宿(ならげじゅく)がある。今では時が止まったように静かな村だが、かつては奥州13藩の参勤交代の折の宿場として賑わいを極めていた。村を通る街道は当時コの字形に曲がっていて、須川の支流である金山川を二度渡る必要があった。その橋が2本とも石造りで残っている。

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上山市楢下周辺の1:25,000地形図に
新橋と覗橋の位置を加筆
 

まず上流側にある新橋へ。楢下宿は、地形的に川の左岸(西岸)のほうが高いので、そちらから来ると、下り坂の途中で川を渡ることになる。橋面にもいくらか勾配がつけられているようだ。長さ14.7m、幅4.4m、アーチの高さ約4.4m、川床部の径約12m。道幅は中山橋などより狭く、一見、小橋の印象だ。しかし側面に回ると、広い径間で谷川を一気に跨いでいて、6つの橋の中では最もスケール感がある。

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緑に包まれた新橋
 

竣工は1880(明治13)年8月で、羽州街道が米沢回りに付け替えられる直前だ。しかし、主要道を外れることがわかっていたからか、建設費1000円余のうち、県から下りた補助金は300円のみだった。残りは地元で立替え、通行人や荷車から橋銭を徴収して回収したという。

村はひっそりとしていて、聞こえるのは金山川のせせらぎの音だけだ。古びた石橋に、欅の若葉が柔らかい影を落とし、見ごろを迎えたしだれ桜が淡い彩りを添えている。いつまでも眺めていたいと思わせる光景がそこにあった。

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新橋を渡る旧 羽州街道
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広い径間で谷川を一跨ぎ
(左)上流側 (右)下流側
 

覗橋(のぞきばし)

すぐ下手、街道が金山川を渡り直す位置に覗橋がある。名称は眼鏡橋と同じく、外観からの着想だ。前後でまっすぐに伸びる道路のせいで、こちらは開放的な風景の中に架かっている。橋の竣工は1882(明治15)年。パリのポン・ヌフのように、名前に似合わず新橋のほうが古い。橋長10.8m、全幅3.5m、アーチの高さ約3.83m、川床部の径約8.44m。

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覗橋と、上手に建つ古民家山田屋
 

壁石には、自然石に近いものが使われている。工費は全額地元負担だったというから、費用節約の結果かもしれない。立て札には、橋脚がないため村民たちは不安がってなかなか渡らなかったというエピソードが記されているが、アーチの橋は、新橋で経験済みのはずだ。それとも、覗橋の造りがやや雑に見えるのが不安だったのだろうか。

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覗橋
(左)新橋に比べると多少無骨な造り
(右)街道はこの橋を経て上山方面へ向かう
 

橋の上手で、山田屋という屋号で呼ばれる古民家が公開されている。石橋群の風情を堪能した私たちは、その軒下を借りて遅い昼食をとった。「『地図中心』(下注)にコンターサークルSの記事を書きました」と真尾さんが報告する。なんでも今号は、地図関係のサークルの特集らしい。オンライン地図で何でも済ませられる時代だが、紙地図で調べ、紙地図を手にフィールドに出る人々が各地で活動しているのは頼もしい。

*注 一般財団法人日本地図センター発行の月刊誌。言及しているのは2017年5月号(通算536号)の特集「地図に集う人達」。

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山田屋の軒下で昼食休憩
 

石橋のことに集中していたせいか、結局私たちは、楢下宿の保存建物も名物を売る店も、ほとんど見ないまま帰ってしまった。一般的な景勝地や観光施設に何ら執着がないのもコンターサークルSの旅らしい、と言えばそうなのだが。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上山(平成28年7月調製)、同 羽前中山(平成26年7月調製)、20万分の1地勢図仙台(平成元年編集)を使用したものである。

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2016年10月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

最近、映画やテレビで時代劇を見かけなくなったとはいえ、京都にはお寺や神社の境内をはじめ定番のロケ地が数多くある。コンターサークルS 2016年秋の旅の初日10月8日は、郊外のそうした場所の一つ、木津川流れ橋を訪れた。

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北東から眺めた流れ橋の全貌
 

木津川(きづがわ)というのは、宇治川や桂川と並ぶ淀川の主要な支流の一つだ。三重県伊賀地方を源流域に、京都府南部を流れ下り、大山崎で他の二つと合流する。流れ橋は地形図にもそう書かれているが、本名は「上津屋橋(こうづやばし)」という、全長356.5mの木橋だ。行政区画でいうと、京都府久御山(くみやま)町と八幡(やわた)市の境界に位置している。

おもしろいことに、上津屋という集落名は流れ橋をはさんだ木津川の両岸にある。川の流路が変わったわけでもなく、昔から両岸に村があり、交流が盛んだったようだ。渡し舟では不便という地元の強い要望を受けて、1953(昭和28)年に橋が架けられた。1959(昭和34)年には府道八幡城陽線に認定され、以来、京都府が管理している。

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木津川流橋周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

本日の集合場所は、JR奈良線の宇治駅。奈良へ行く多数の外国人客に挟まれて快速列車(みやこ路快速)でやってきた。改札で落ち合ったのは堀さん、真尾さんと私の3人。さっそく駅前からタクシーで、木津川右岸(東岸)の堤防上の車止めまで行ってもらった。

10月に入ったというのにまだ暑い。台風が次々に来襲して雨がよく降るのだが、ついでに南から温かい空気を呼び込んでいるようだ。京都のきょうの最高気温は31度、空気は重たく湿っぽい。雲間から日差しが降り注ぐと7月に逆戻りしたのかと思うほどだ。「川べりならもう少し風があると思いましたが」と思わず口にすると、「ないですね」と堀さんがつぶやく。お二人は、すでに最低気温が10度を割った北海道から来ている。

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(左)JR宇治駅に到着
(右)堤防上を歩いて橋の袂へ
 

茶畑の載る堤防上を数百m歩いたところに、流れ橋へ降りる小道があった。まずは、堤防の上から俯瞰してみる。素朴な風情の木橋だ。両岸を縁取る緑にしっくり溶け込んでいる。一直線に伸びる薄い橋桁といい、それを等間隔で支える華奢な橋脚といい、ちょっと心細げな構造物だ。戦後の架橋とはいえ、手甲脚絆に草鞋を履いた旅の者が渡っていたとしても違和感はないだろう。

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平水時の水流は右岸寄りに
 

私たちも渡ってみる。路面は板を流水方向に並べてあり、縁には転落防止を兼ねた挟み木が置かれているだけだ。高欄はないので、普通の橋とは開放感がまるで違う。平水時の水路は右岸寄りを流れている。そこでは水面から5.5mの高さがあるそうだが、路面の横幅が3.3m取られているので怖いと感じるほどではなかった。

橋の上は、結構人通りがある。地元の子供たちが自転車で通ったりもするが、休日の場合、多くは見物客だ。カップルや小グループはもとより、旗を手に持つツアーガイドに率いられた集団ともすれ違った。「今ではちょっとした観光地になっているらしいです」と私。

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(左)橋脚には大水の跡が残る
(右)橋の上は開放感全開
 

流れ橋というから勘違いしていたのだが、水をかぶっても大阪湾まで流れていってしまうわけではない。水位が橋桁まで達すると、確かに橋板は橋脚から浮き上がる。しかし、ブロック単位で橋脚にワイヤでつながれているので、筏流しのように川の流れに身を任せながら、その場所にとどまっているのだ。水が引いたら、これを手繰り寄せて、橋脚の上に載せるともとの橋に戻る。

なるほど昔の人はうまいことを考えたものだと思うが、河原に残った筏を高さのある橋脚に載せ直すのは、それほど簡単な作業ではない。昔のことはいざしらず、今は重機を投入しての大工事になる。実際、復旧費用は1回の被災につき3500万から5000万円にも上っているという。

橋は、架設以来60年の間に21回被災している。特に最近は豪雨に見舞われることが多く、2011年から4年連続で流された。復旧工事は渇水期を待って行われるので、秋に壊れて翌年春に復旧完了したと思ったら、その秋に再び被災という繰り返しだった。その都度数千万を費やすのでは、府道を預かる行政としても「ええかげんにしてくれ」となったようだ。それで2014年から専門委員会で設計の抜本的な見直しが行われた。

京都府の資料(下記参考サイト)によると、観光資源であることも踏まえて、木造で流出可能という構造は堅持するものの、流出頻度を減らすための工夫をいくつか取り入れたという。一つには、流木等が引っ掛かりにくくなるように、橋脚間を約2倍に広げた。二つに、橋脚の杭木にコンクリートパイルを使用して、耐久性を高めた。三つに、水没をできるだけ回避するために、橋面を75cm嵩上げした。誤って転落したときの人体への衝撃を考えると、これがぎりぎりの高さだそうだ。

こうして昨年、改めて復旧工事に着手し、今年(2016年)3月27日に開通式が挙行された。古そうに見えるが、実は出来立てほやほやで、以前の橋と比べても姿がかなり変わっているのだ。

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(左)地元の子から見物客まで通行人は多い
(右)橋脚の主要部はコンクリートパイルに
 

橋を渡り終えた後、左岸の堤防の上で振り返ってみた。手前に葉の緑が瑞々しい茶畑、その先の広い河原を、時代劇の一シーンを切り取ったかのように木橋が横切っている。疑似的とはいえ、なんとはなしに心が安らぐ原風景だ。しかし、下流に目を移すと、第二京阪道路の無粋な高架橋が視界を遮り、その周りにかさ高い建物も建ち始めている。迫りつつある都市化の波を、木橋が体を張って食い止めているようにも見える。

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宇治茶の畑と流れ橋
 

堤防の下の小さなあずまやで、持参した昼食を広げながら、よもやま話に花を咲かせた。後で堀さんに感想を聞いたら、「暑さには参りましたが、見たいと思っていたので満足です」とのこと。まだ昼過ぎだったが、明日から遠出なので(お二人はすでに遠出中だが)、近くの四季彩館という公共スペースでタクシーを呼んで、現場を後にした。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図宇治、淀(いずれも平成17年更新)を使用したものである。

■参考サイト
上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会(京都府建設交通部道路建設課 公式サイト)
http://www.pref.kyoto.jp/doroke/nagarebashi/

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2015年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

秋の「地図の旅」最終日9月23日は、昨日の続きで旧中山道を番場(ばんば)宿から南へ歩き、摺針峠(すりはりとうげ)を越える。

「此嶺の茶店より直下(みおろ)せば、(中略)湖水洋々たる中にゆきかふ舩(ふね)見へて、風色の美観なり」(木曽路名所図会 一坤より)。摺針峠は、中山道で江戸を発って以来、初めて琵琶湖と対面できる展望台だ。景勝の地としてつとに知られ、広重の作「木曾街道六拾九次、鳥居本」(下図参照)にも、望湖堂なる茶屋本陣の前で、帆掛け舟の浮かぶ内湖や琵琶湖の眺望を愛でる様子が描かれた。私たちもにわか旅人となって、「風色の美観」を体験してみたいと思っている。

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歌川広重「木曾街道六拾九次 鳥居本」
画像はWikimediaから取得
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kisokaido63_Toriimoto.jpg
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番場~鳥居本間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)
 

米原駅10時25分の集合時刻には、昨日も参加した堀さん、相澤さん、外山さん、私に加えて、出山さんが遠路駆けつけた。米原駅東口のタクシー乗り場に行くと、1台しか停まっていない。総勢5人なのでもう1台呼ぼうとしたら、運転手氏が「前に2人乗れますからどうぞ」。なんと前部座席にも3人掛けられるクルマだった。

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番場宿でタクシー下車
堀さん、出山さんはそのまま先回り
 

出山さんが堀さんをエスコートして車で摺針峠に先回りし、残りの3人は番場の四つ角で降ろしてもらった。きょうもいい天気で、陽射しは暑いくらいだ。中山道62番目の宿場町だった番場は、鉄道が通らなかったため、明治以降衰退してしまった。本陣や脇本陣の位置は民家の庭先に立つ小さな石碑が教えるだけで、もはや宿場の面影は残っていない。広めにとられた道幅だけが、往時の隆盛をしのばせる。

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中山道分間延絵図に描かれた番場宿
(番場宿碑のパネルの一部を撮影、原図は東京国立博物館所蔵)
 

左手に、史蹟蓮華寺(れんげじ)と彫られた石塔があった。「瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場」と、看板の宣伝文句もにぎにぎしい。タクシーの運転手さんがしきりに勧めていたのを思い出し、私たちも立ち寄ることにした。寺は左に入った道のどん詰まりにあるのだが、街道からはよく見えない。というのも、名神高速道路の高架と防音壁が寺のすぐ前を横切り、眺めを遮断しているのだ。これでは情緒も風情もあったものではない。昨日の醒井でもそう思ったが、無茶なことをしたものだ。

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(左)道幅の広い東番場
  左端に本陣跡の碑、遠方の信号が四つ角
(右)蓮華寺入口
  寺は名神の高架に遮られて見えない
 

名神をくぐると、ようやくモミジの古木にかしずかれた立派な勅使門が視界に飛び込んできた。相澤さんいわく「表塀の筋壁は格式を表していて、黄色の地に白筋5本というのは位が高いんです」。なるほど案内板の記す由緒には、聖徳太子の開基と伝え、花園天皇より菊の紋を下された、とある。横口から境内に回ると、気配を察して受付役の男性が出てきた。足もとの溝を指して、「この線から内側は有料ですので」。先を急ぐ私たちは一線を踏み越える余裕を持たなかったが、それでも何かと質問に答えてくれたこの方には感謝しなくてはいけない。

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蓮華寺勅使門
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(左)蓮華寺境内で話を聞く
(右)小川を渡ると西番場(もとの番場宿)
  道幅が狭くなる
 

街道が小川を渡っても、まだ家並みは続いている。実は今通ってきたのは、米原湊が開かれてから造られた集落、東番場で、橋より上手の西番場と呼ばれる一帯が、それ以前の古い宿場があったところだ。道幅が心持ち狭くなり、どことなく鄙びた雰囲気が漂い始める。

右手に、北野神社の額を掲げた鳥居と参道が現れた。「地形図に載っている130.0mの水準点は、たぶん境内のどこかにあるはずです」。昨日の要領で探すまでもなく、それは本殿の脇に見つかった。マンホールで隠されるどころか、標石は剥き出しで、その前に一等水準點と彫られた平たい石板まで埋めてある。「これは収穫ですね」と3人で頷き合う。本殿の反対側には、大人二抱えもあるような切株が残されていた。今はあっけらかんとした境内だが、かつては大木が陰をつくるお社だったのかもしれない。

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(左)西番場の北野神社
(右)剥き出しの水準点標石
 

家並みが途切れたところで、名神の築堤が広くもない谷の真ん中に進出してきて、中山道は隅に追いやられる。高速道路建設のために移設されたのだ。谷が深まり、田んぼが消えたところで、また水準点の標識があった。獣避けのフェンスを隔てた丈の高い草むらの中だったが、藪漕ぎには慣れている外山さんが果敢に飛び込んだ。道をつけてもらって近づくと、建設省国土地理院の樹脂製プレートが埋め込まれた現代風の標石だ。四方を自然石で固めている。「これも名神建設のときに移転させられたのじゃないかな」と相澤さん。

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(左)名神築堤下の草むらに埋もれた水準点
(右)樹脂製プレートが埋め込まれた標石
 

街道はこれから小摺針峠(こすりはりとうげ)にかかる。築堤の際をずんずん上り始め、まもなくクルマがひっきりなしに行き交う高速道路の路面レベルを越えた。名神はこの鞍部をざっくり切通したうえで覆道化している。名称も、小摺針などという風流さとは程遠い「米原トンネル」だ。中山道の付替え道路はその直上を越えていく。谷底を上る間は風もなく暑かったが、峠の上には涼やかな風が吹き通っていた。クルマの走行音が響いてさえなければ、気持ちのいいハイキングコースなのだが。

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小摺針峠
(左)峠への上り坂
(右)車が行き交う谷間を下っていく
 

坂を下り、名神が左カーブで次第に遠ざかるところに、道標の立つ三叉路がある。中山道は右に折れ、すぐにまた摺針峠の急坂にさしかかる。坂下の小集落の入口で、磨針(すりはり)一里塚跡のささやかな石碑を見つけた。用字の異なる磨針の地名には、由来譚が伝わる。或る書生がいた。京都で学問が成就せず、失意のまま帰郷しようとこの地まで来たとき、斧を磨いている老婆を見かけた。聞けば、大事な針を折ってしまったので、磨いて針にするとの答え。書生は大いに感じ入り、京に引返して苦学を続け、ついに学問を究めたというのだ(下注)。

*注 この説は、今井金吾「今昔中山道独案内」(日本交通公社出版事業局, 1976年, p.332)に、日本名勝地誌の引用として記されている。同書によれば「地元ではこの書生を弘法大師とし、この老媼を神として祀ったのが摺針明神であったという」。

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(左)磨針一里塚跡碑
(右)摺針峠の集落
 

十数軒の集落の先に、サミットがある。現在の車道は峠を掘り割って勾配を緩めているが、その左側、一段の高みへ上っていく細道が旧道だ。元の峠の位置に、神明宮の扁額を掲げた石の鳥居が立っている。お社はささやかなものに過ぎないが、小高い境内に立つと確かに琵琶湖が見える。手前に広がる水田地帯も入江内湖を干拓したものだから、往時ははるかに眺めがよかったに違いない。

ここはぜひ展望写真を撮っておきたいところだが、あいにくフジテック社の背の高いエレベータ試験塔が、否応なしに視界に入ってくる。名神と言い、この高塔と言い、どうも旧街道の景観を壊す構築物が多すぎる。何とか写り込まないようにズームで撮影したのが下の1枚だ。それから、先客の夫婦に倣って境内のベンチに腰をおろし、少し遅めの昼食をとった。

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(左)摺針明神(神明宮)の鳥居と境内
(右)摺針峠の今。右の鳥居前を通る小道が旧道
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摺針明神から琵琶湖を望む
手前の田園はかつての入江内湖
 

先行している堀・出山ペアから、相澤さんの携帯に、峠下で休んでいる旨の連絡が入った。「わかりました。今からそちらへ向かいます」。摺針峠から麓へは、高度差約80mを一気に下らなければならない。現在の車道は北西に突き出す尾根を回って勾配を緩和しているが、昔はほぼ直降していた。その跡とみられる小道が残っている。上るのは大変そうだが、私たちは降りるほうだし、急斜面には親切にも手すりが付けられている。

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地形図で見る摺針峠
(左)並木を伴う旧道が描かれる(1893(明治26)年測図)
(右)現行図に旧道のルートを加筆(2011(平成23)年更新)
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(左)摺針峠のすぐ先で旧道は左の踏分け道へ
(右)標石亡失(?)の水準点
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摺針峠下の旧道を行く
 

下山の途中でまた水準点の標識に出会ったが、肝心の標石が見当たらない。昨日からさまざまな設置スタイルを観察してきたが、本体の亡失は予想外だった。探している時間はないので、通過。旧道は尾根を折り返してきた車道には合流せず、右側の谷底へまっすぐ降りていく。麓の旧道と新道が交差する地点で、ようやくお二人の姿を発見した。車道を下ってきたと聞いて、外山さんがカメラのモニターで旧道の状況を報告する。

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堀・出山ペアとようやく合流
 

摺針峠の実見で目的を果たした一行は、米原駅に戻るべく、最寄の近江鉄道フジテック前駅に向かうが、私だけ単独行を許していただき、一つ彦根方の鳥居本(とりいもと)駅をめざした。旧道はいったん国道8号に合流し、矢倉川を渡った後、また左へ分かれる。この道が大曲りする角にあるのが、赤玉神教丸本舗を名乗る有川家の豪壮な邸宅だ。往還の旅人が争って買い求めたという健胃薬は、今も商われているらしく、大きな暖簾が風にはためいている。京都方から来れば街並みの突き当りに見え、広告効果は抜群だ。

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鳥居本宿
豪壮な構えの赤玉神教丸本舗有川家
 

わざわざ鳥居本へ足を延ばしたのは、赤い三角屋根のファサードが愛らしい鳥居本駅舎を見たかったからだ。無人化されて久しく、施設も老朽化が進むが、駅としてはいまだに現役だ。新幹線電車が高架線を高速で行き交う傍らで、古色を帯びた駅舎はひとり悠久の時を刻んでいるように見えた。

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近江鉄道鳥居本駅舎
(左)正面
(右)玄関と待合室
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鳥居本駅
(左)南望。新幹線電車が通過
(右)米原行き電車がやってきた
 

緩くカーブしたホームでしばらく待つうちに、線路を覆う雑草をかき分けるようにして、青い塗装の米原行電車がやってきた。がらがらのロングシートに腰を下ろす。次の停車はフジテック前駅、堀さんたち一行がこの電車の到着を待っているはずだ。天気に恵まれ、メンバーにも恵まれた4日間の歩き旅に、そろそろ終わりの時が近づいている。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根(明治26年測図)を使用したものである。

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2015年12月 5日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道醒井宿

コンターサークルSによる2015年秋「地図の旅」も3日目になる。9月22日は滋賀県に転じて、旧中山道の番場(ばんば)宿~醒井(さめがい)宿の間を歩く。醒井は昔訪れたことがあって、清らかな小川が街道に寄り添うように流れていたのを覚えている。あの潤いと落ち着きのある風情は今も残っているだろうか。歩きのゴールで待ち受けている光景を楽しみに、集合場所の米原駅までやってきた。

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醒井宿を貫いて流れる地蔵川
 

参加者は、堀さん、相澤さん、外山さん、私、それに飛び入り参加した相澤さんの友人Mさん。旧道を歩いている途中で木下さん親子も合流したので、最終的に大6小1、計7人のにぎやかな旅になった。番場までタクシーで行き、そこから醒井へ歩いていく予定だったが、堀さんは昨日もかなり歩いてお疲れのご様子。「醒井で町歩きしながら、みなさんの到着を待つことにします」とおっしゃるので、それならと、私たちはタクシーに頼らず、全行程を歩き通すことにした。

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(左)米原駅に到着
(右)堀さんとはいっときの別れ
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米原~醒井間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
 

整備されたばかりの駅東口を出て、国道8号線を横断すると、そこは米原(まいはら)の旧市街だ。北国街道筋だった古い町並みのなかに、地蔵を祀る立派な祠が目につく。米原が栄え始めたのは、入江内湖から大葭(おおよし)堀を開削して、1603(慶長8)年に湊が開かれてからだそうだ。美濃や尾張から来た物資はここで船に積み込まれ、琵琶湖経由で大津方面へ運ばれるようになった。1611(慶長16)年には、町の北口に深坂越えの新道(深坂道)が開通し、中山道番場宿からのルートが確立した。

*注 米原の集落名は「まいはら」で、旧町名も「まいはら」だったが、市制にあたって駅名と同じ「まいばら」の読みに変更された。

下に掲げた2万分の1地形図は1893(明治26)年測図で、鉄道が舟運に取って代わろうとする時代を描いた貴重な図だ。鉄道の開業は1889年、測図のわずか4年前に登場したばかりだから、米原停車場の周りに集落は張り付いていない。鉄道の西側に広がる湖面は、琵琶湖本体から砂州で隔てられた内湖で、か細い水路が鉄道の下をくぐって町のほうへ延びている。これが開削された大葭堀だ。櫛形の荷揚げ場をもつ米原湊には、船と煙を象った汽舩渡の記号が見つかるから、船便もまだ盛んに利用されていたのだろう。

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鉄道開通間もない頃の米原周辺
(1:20,000地形図「彦根」「醒井村」図幅
 いずれも1893(明治26)年測図)
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上図の米原集落を拡大
青の円内に「汽舩渡」の記号がある
 

私たちは米原の町を北に進む。まもなく、右中山道、左北陸道と豪快な字で刻まれた、石の道標が待ち構える三叉路にさしかかった。江戸末期の建立という道標の後ろには、弁柄格子の窓が残る旅館「かめや」が建ち、向いの軒先には昔懐かしい丸形ポストもある。「なかなか役者の揃った一角ですね」と、一同感心しながらひとしきり眺める。米原駅から歩き出したのは正解だった。

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(左)米原三叉路、旧 北陸道を望む
(右)同 深坂道を望む
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三叉路に立つ分岐点道標
 

道標の指し示しているとおり、右手は番場宿に通じる深坂道で、急な坂道が切通しになり続いている。上りきると二車線道路(県道240号樋口岩脇線)に突き当たり、左に米原高校の校舎を見ながら、今度は谷を下っていく。残念ながら趣があったのは、深坂の上までだった。後は、この単調なクルマ道の端っこを、残暑の強い陽射しを浴びながら延々と歩かなければならなかったからだ。

ようやく番場の家並みが近づいてきた。四つ角にまた石の道標がある。指差しの絵の下に「米原 汽車汽船 道」と読めるから、先述の地形図の頃に造られたものだろう。その向いにも中山道番場宿と彫られた、おにぎり形の石碑が置かれているが、これはいかにも近年の作らしい。信号のある四つ角の右が宿場の中心になるのだが、その散策は明日のお楽しみとして(下注)、私たちはここで左に折れた。

*注 番場宿以南の歩き旅については、「コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠」参照

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(左)深坂道の切通し
(右)番場四つ角の道標「米原 汽車汽船 道」
 

集落の出口で個人宅の庭先に、「大切にしましょう水準点」と標識が立っている。地形図で115.5mの数値が記されている水準点だが、測量士と日本列島を描いた特製マンホールでしっかり蓋されていた。開けて標石を確かめたいところだが、外山さんが言うには「ねじで止まっているから、無理ですね」。大切にしたいのはわかるが、管理がちと厳重すぎはしないか。

家並みが途切れた後、山際に沿う道にモミジの古木が並び、いっとき旧街道の風情が辺りに漂う。しかし、すぐに北陸自動車道の高架が現れて、のどかな旅景色を遮った。高架をくぐっていく手前に、一里塚の跡を示すモニュメントがあった。薄れかかった銘板によれば、久禮(くれ)の一里塚、江戸へ約百十七里、京三条へ約十九里。ただし、塚そのものは西100mの集会所付近にあったらしい。「距離を示すものを好きに動かしちゃだめでしょう」と私。

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(左)番場東口の水準点
(右)モミジの古木の並木道を行く
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(左)久礼一里塚碑
(右)旧街道には立派な構えの家も散見
 

三吉、樋口、河南(かわなみ)と地名は移るが、家並みはほぼ切れ目なく続いている。道幅は広めで、立派な構えの家も散見され、天下の大道だった昔をしのばせる。国道21号線の北側に出ると、家並みに開いた隙間から列車が走り去るのが見えた。米原以東の東海道線はJR東海のエリアなので、行き交う車両はみなオレンジの帯を巻いている。

畦道を鮮やかに彩る彼岸花を愛で、道路脇を静かに流れる用水路を追ううちに、青空に「恋はみずいろ」のミュージックチャイムが響き渡った。正午を知らせる合図のようだ。そろそろお昼にしましょうとは言うものの、街道筋では腰を下ろす場所もない。地形図を見ていた誰かが、「先の路地を右に入ったところに、お寺があるようです」。

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畦道を彩る彼岸花の群落
 

百寶山徳法寺と名乗るその寺は、予想に反して境内が狭かったが、本堂への上がり口をいっとき借用して、昼食を広げた。そこへ、クルマを近所に停めてきたという、木下さん親子も登場。元気なお母さんはもとより、息子のキリ君とも5月に伊豆長岡の歩き旅で会っている。彼は今、迷路にはまっているそうで、お絵かき帳に書いた自作の迷路で、私たちに果敢に挑戦してきた。

110.8mの水準点がこの附近にあるはずだと皆で探すと、何のことはない境内の片隅に、例の標識が立っている。番場東口と同じマンホール仕様で、やはり標石を拝むことはできない。ともあれ、ブロック塀に囲われて外の道からは見えないから、巡り会えたのは仏様のお導きかも。そう思い地形図を見ると確かに、水準点の記号はしばしば寺や神社のそばにある。理由は知らないが、おもしろい発見だった。

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(左)百寶山徳法寺
(右)境内の片隅にある水準点
 

おなかの虫をなだめたところで、再び中山道を歩き出す。やがて丹生川を渡る橋に出た。白い小石で埋め尽くされた河原に、透き通った水が流れている。丹生川の源流域は、霊仙山(りょうぜんざん)をはじめとする石灰岩の山々だ。濁りは石灰とともに沈殿して、上澄みがこうして流れ出るのだろう。

ただ、橋の前後の約400mは旧道を国道に整備した区間で、橋上を除いて歩道も脇道もない。通行量が多いうえ、信号が近くにないのかクルマの流れがなかなか途切れない。単に車道を横断するだけで、思いのほか時間がかかってしまった。キリ君は途中でつまずいて手を傷めたらしく、もう歩けないとぐずり始めた。やむをえずお母さんは、彼をクルマに乗せて、醒ヶ井駅へ直行することに。

*注 地名は醒井だが、JRの駅は「醒ヶ井」と表記する。

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(左)丹生川橋
(右)透き通った水の流れる河原
 

まもなく、左に分かれる旧道が現れた。養鱒場へ通じる県道(17号多賀醒井線)との交差点に、中山道醒井宿と書かれた碑が立っていた。ここからいよいよ中山道61番目の宿場町だ。まず右手に西行水という名の湧水があった。西行法師の伝説を秘めた冷たい清水が、岩の割れ目からこんこんと湧き出ている。水の中へ入らないでください、との立札を横目に、魚捕り網片手に子どもたちが走り回っていた。

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西行水
(左)岩の隙間から湧き出る
(右)子どもたちは水遊びに夢中
 

駅前から来た道と合流するところで、小さな川を石橋で渡る。私の記憶に残っていた地蔵川だ。醒井宿が他の宿場町と違うのは、街道と地蔵川が並走し、その両側に家並みが連なっていることだ。石垣を組んだ川べりに並木代わりの古木が育ち、道の上に柔らかな木陰をつくっている。川の水源は裏山からの湧水で、丹生川に劣らず透明度が高い。涼やかに流れる水面には、白梅に似た小さな花をつけたバイカモ(梅花藻)がそよぐ。それをねぐらに、清流を好むハリヨという小魚が生息していると聞いた。

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中山道が地蔵川を渡る
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澄んだ水にバイカモそよぐ地蔵川
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(左)バイカモの花
(右)小魚はいるがハリヨではなさそう
 

了徳寺の御葉附銀杏(おはつきいちょう)は、街道筋からもひときわ目立つ大木なので、寄り道した。高さ12m、樹齢150年、扇の葉面に実が生る珍種だそうで、天然記念物に指定されている。道の右手、地蔵川の小橋を渡ったところには、旧 問屋場を復元した醒井宿資料館がある。案内板の説明によると問屋場とは、「宿場を通行する大名や役人に、人足・馬を提供する事務を行っていたところ」。醒井には全部で7~10軒あったそうだ。さっきから探していたハリヨを、とうとう見つけた。小魚は、資料館の小さな水槽の中で泳いでいた。

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(左)了徳寺、左奥に御葉附銀杏の木が見える
(右)銀杏の樹陰で
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(左)問屋場を復元した資料館
(右)内部
 

最後の見どころは居醒(いさめ)の清水、地蔵川が生まれる場所だ。樹陰に覆われた小暗い池に石橋が渡してあって、その奥、下草が覆う石と石の間から、水がむくむく湧き出しているのがわかる。「これだけで水路が常時いっぱいになるというのは驚きですね」。なにしろ1日の湧水量は1万5千トンに上る。手を入れると思った通りの冷たさ。水温は年間を通じて12~15度だそうだ。居醒の謂れは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山の荒ぶる神の毒気にあたったとき、この水で高熱を癒したという故事から来ている。街道を歩き疲れて宿場に入った旅人たちも、清水でどんなにか癒されたことだろう。

とても趣のある場所というのに、あろうことか頭上に名神高速の無粋な擁壁が見える。高速道路は宿場町のすぐ裏手をかすめていて、かつて山の中腹にあった隣の加茂神社も、工事に支障するため、現在地に移転させられたのだそうだ。走行音はそれほど気にならなかったが、現代の感覚ではどう見ても無謀なルート設定だ。名神が建設された1960年代は開発事業優先で、こうした小さな自然にはあまり注意が払われなかったのだろう。大切な湧水が涸れなくてよかった。

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居醒の清水
(左)湧きだす現場
(右)水源の静かな池
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宿場の東端にある加茂神社
 

宿場の東端まで来たので、そろそろ駅へ引き返そうと思う。駅前へ通じる道筋には、ヴォーリズ建築の旧醒井郵便局が残され、観光案内所として活用されていた。開設は1915(大正4)年。列柱が支えるギリシャ神殿をモチーフにした外観で、宿場町の建物にしてはかなり大胆だ。玄関前には重要な小道具となる赤い丸形ポストも置かれているが、こちらは現役ではないらしい。

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(左)旧醒井郵便局
(右)丸形ポストがよく似合う
 

醒ヶ井駅の待合室で堀さん、木下さん親子と再び合流した。「だいぶお待たせしましたか」と聞くと、にこりとした堀さん。時間を気にしないまま歩いていたが、米原で別れてからもう3時間半が経過している。歩いた距離も約9kmまで延びた。

駅舎の隣で、醒井水の宿駅という地域振興施設が開いている。中の喫茶店の小さなテーブルに、本日の参加者全員が初めて揃った。居醒の清水を使って入れたというコーヒーで一息つく。堀さんからは「長い距離が歩けなくなってきたので」と、今回限りで歩き旅から引退する旨の宣言があり、これまで長い間旅を共にしてきたメンバーから、感謝と労いの言葉が発せられた。

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(左)JR醒ヶ井駅
(右)本日のメンバーが再び勢揃い
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根、醒井村(いずれも明治26年測図)を使用したものである。

■参考サイト
滋賀県公式サイト-近江歴史探訪マップ
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/katei/bunkazai/ohmirekishitanboumap/tanboumap4/
環境省-平成の名水百選
https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/

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2015年6月 1日 (月)

コンターサークル地図の旅-江浦湾の旧隧道群

コンターサークルS「地図の旅」本州編2日目は、伊豆箱根鉄道駿豆線の伊豆長岡駅が起点になる。テーマは、駅の西方約4km、狩野川放水路の海への出口近くにある、名も無い古隧道を訪ねること。昨日の柏峠に引き続き、隧道研究家の石井さんが案内役を務めてくれる。

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長塚から多比へ通じる里道の峠に隧道が描かれている
(1:20,000地形図「韮山」「江浦」図幅
 いずれも1894(明治27)年修正測図)
 

まずは旧版地形図で、隧道の位置を確かめておきたい。上図は放水路が影も形もなかった明治20年代の正式1:20,000地形図だ。内陸にある長塚の集落から海辺の多比(たび)へ通じる里道が、峠に隧道を伴って描かれている(青い円で囲った部分)。ここが私たちの目指すポイントなのだが、一見何でもないこの隧道には、いささか不自然な点がある。

一つは、前後の道が「荷車ヲ通セザル部」、つまり人しか通れない前近代的な道であること、二つに、標高がたかだか50~60mで、徒歩で難なく越えられる程度の峠であることだ。隧道や橋梁といった構造物を造るには高度な技術と相応の工費が必要で、おいそれと手掛けられるものではない。他に先駆けてここに隧道が存在したという事実の裏に、どんな必然性があったのだろうか。

三島駅で白地に青帯の駿豆線電車に乗換えれば、20分あまりで伊豆長岡駅だ。朝から曇り空で、午後一時雨の予報も出ていたが、それに臆することもなく、すでに多くの参加者が堀さんの周りに集っていた。石井さん、大出さん、丹羽さん、森さん、木下さん親子(息子さんは小学一年生)、それから私。まさに老若男女、合計8人。「途中道が混んでますから、すぐに出発します」と運転手さんにせかされながら、あたふたと沼津駅行きのバスに乗り込んだ。

青いトラスの千歳橋で狩野川を渡り、長岡温泉の狭い街路を、あみだ籤をなぞるように進んでいく。口野トンネルを出てすぐの交差点で、いよいよ海が見えてきた。バスはここで運転手の予言どおり渋滞に巻き込まれたものの、私たちの降りる多比の停留所は、もう次だ。

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多比バス停で下車
 

バス停に降り立った私たちは、石井さんの案内に従って、もと漁村だった小さな集落の中の道を山手へ歩き出す。すぐに分かれ道があった。右へ折れるのが口野方面への本道だが、私たちは左へ進む。家並みを縫う舗装道は次第に細くなり、いつしか狭い谷間を上る坂道へと変わっていった。それも、最後の住宅を過ぎると、早や踏分け道と化す。

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江浦湾付近の1:25,000地形図に
歩いたルートを加筆
 

枯葉が厚く積もり、しきりに足を取られるので、行軍をためらいかけていた時だ。左手の茂みの奥に、何か白いものが見えた気がした。「何かありますね」。絡み合う木の枝を掻き分けて近づくと、白く見えたのは岩の露頭に過ぎなかったが、その先に古墳の石室のような四角い空洞が口を開けていた。石の梁が渡されているのかと思ったが、そうではなく石を切り出した跡のようだ。

「たぶんこれです」と石井さん。えっ、これが隧道? 馬蹄形の坑口を想像していた一行は、にわかに信じられないようすで見つめる。内部に入ってもやはり四角い空間が続き、しかもけっこう横幅がありそうだった。地面には大小の石材が無造作に放置してある。なぜもっと合理的な形状にしなかったのだろう。

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(左)舗装道は山へ向かう
(右)ついに細い山道と化す
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(左)石室のような空洞を発見
(右)実際は大人の背丈以上の高さがある
 

石井さんがここを調査したことがあるという友人に、電話で来歴を尋ねてくれた。それによると、この一帯は良質の石材が採れることで知られており、私たちがいる山も明治の初めに開発された石切り場だった。両側から掘り進んでいくうちに坑道が接近してきたので、経営者が通路として使うことを思い立ち、県に申請して1887(明治20)年に貫通させた。坑口を入って左手に立つ古い石碑が、その史実を証言しているという。つまり、これは初めから隧道として建設されたのではなく、坑道を転用したものだったのだ。それなら冒頭の疑問にも説明がつく。

しかし1902(明治35)年頃に南回りの新道(以下、旧県道と記す)が完成したため、隧道はしだいに使われなくなった。その後、昭和に入ってから再び石を切り出す作業場となり、その結果、現状の複雑な構造ができあがったのだそうだ。

*注 このことは、この友人の方のサイトに非常に詳細かつ丁寧に記述されている。あくなき探究心に敬意を表したい。なお、上に記した年代等はこのサイトから引用させていただいた。
http://yamaiga.com/tunnel/kutino2/main.html

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(左)内部も四角い空間
(右)由来を記した石碑
 

だんだん雲行きが怪しくなってきたので、山を下りることにした。集落まで戻った後、口野へ通じる歩道トンネルの入口に腰を下ろして、昼食をとる。このトンネル(多比第二隧道)こそ、石切り場ルートの役割を奪った旧県道の一部を成すものだ。1964(昭和39)年に海側に現 国道トンネルが開通するまで使われていた。近くにお住まいの方に聞けば、国道トンネルができたとき(下注)、用済みとなったこのトンネルはいったん塞がれたものの、あとで通学路として再整備されたのだという。

*注 県道沼津土肥線の一部が国道414号線に昇格したのは1982(昭和57)年だが、それ以前に実施された道路整備を含めて、ここでは表現を「国道」に統一する。

近代的な形状のポータルを観察すると、なるほど上部に古い石積みが一段分残されている。反対側で国道トンネルと合流しているため、車の騒音が大きく反響するのが難だが、内壁には小学校の卒業制作とおぼしき壁画が何年分も描かれ、このトンネルを大切にしている地元の人たちの気持ちが伝わってきた。

にわか雨が襲ってきたのを機に腰を上げ、バス停へ急ぐ。伊豆長岡駅へ帰る人もあれば、沼津駅へ出る人もあり、本日の地図の旅はここで自由解散となった。

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(左)多比第二隧道前で昼食
(右)にわか雨に急き立てられて戻る

石切り場の隧道の役割を奪った旧県道だが、1954(昭和29)年修正測量の旧版地形図を見ると、口野東方から江浦(えのうら、現行表記は江の浦)までトンネルを5本も連ねているのが特徴的だ。上述の歩道トンネルは実見できたが、あとの4本はどうなったのか。日を改めての再訪で確かめたことを補足しておこう。

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江浦湾岸に掘られた5本の旧隧道
(1:25,000地形図「韮山」 1954(昭和29)年修正測量)
 

歩きの起点は、長塚口のバス停にした。まずは、口野の切通しを見たかったからだ。国道から左に折れ、ラブホテルと鉄工所の前を過ぎたところで、早くも「通行止、落石の恐れあり」の看板が道を塞いでいた。予想はしていたが、全面封鎖ではなかったので突破する。半ば草むらに覆われた舗装道を上っていくと、まもなく深い切通しに差し掛かった。

おそらく隧道をうがつのにも匹敵する大工事だったに違いない。湿りを帯び、一部苔むした層状の岩壁が両側にそそり立ち、通る者を無言で威圧する。ぽつんと残るカーブミラーの先に回ると、大きな岩塊が道のまん中でぐしゃりと潰れていた。見上げると、壁の上方に岩と似た大きさの窪みがぽっかり空いている。これが通行禁止措置の原因らしい。

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口野切通し
(左)口野方向
(中)長塚方向
(右)崩れた大岩が道を塞ぐ
 

切通しを抜けると道は一転下りになった。遠くに海を見遣りながら、三津(みと)方面から来る旧道と合流したところに御場隧道、長さ35mがある。旧県道の隧道群のうち最も東に位置するが、1962(昭和37)年の改築で2車線に拡幅が行われたらしく、昔の面影は残っていなかった。

隧道の北口は、「口野放水路」という名の交差点だ。狩野川からの分水がここで海に注ぐのだが、注目すべきは、放水路に架かる口野橋の上からの眺めだ。なんと8本ものトンネルが一望になる。試しにパノラマ写真を撮ってみた。画像にかなり歪みが生じてしまったが、なんとか「隧道が辻」の特異な全貌をご理解いただけるのではないだろうか。

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御場隧道
(左)東口
(右)西側はすぐ交差点
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「口野放水路」交差点の歩道橋から
放水路が左奥の湾に流れ込む
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「隧道が辻」のパノラマ
右から御場隧道、国道の口野トンネル、その脇に工事用の小トンネル(封鎖)、放水路の3本のトンネル、国道の多比第二トンネル+歩道用トンネル(ポータルは一体化)で計8本
 

橋の西側にある国道の多比第二トンネルは間口が広いが、入ってまもなく歩道用トンネルが右手に分岐する。先述のとおり、これが旧県道を構成していた長さ108mの(旧)多比第二隧道の改修後の姿だ。トンネルの途中で歩道だけ別ルートをとるというのは珍しい。

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多比第二トンネル
(左)内部で歩道用が分岐
(右)歩道用トンネル(旧 多比第二隧道)に描かれた卒業記念の壁画
 

多比の集落を通過し、多比神社をかすめて右斜めに坂道を少し上ると、3本目の(旧)多比第一隧道が現れる。長さは76m。東口はモルタルが吹き付けられ、そっけない外観だが、西口では精密な石積みのポータルと内壁の一部が往時のまま保存されている。歩道専用ではないが、めったに車も通らず、5本の隧道の中で最も風情がある一角だ。

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多比第一トンネル
(左)左が国道トンネル、右奥に旧隧道
(右)旧隧道の東口はモルタル塗り
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(旧)多比第一隧道西口は美しいポータルが残る
 

集落を通る道は、多比船越のバス停の前で国道と交差する。国道は張出し尾根を開削しているが、里道は海側で長さ30mの江ノ浦第二隧道をくぐっていた。ここも石積みのポータルが残り、通り抜けも可能だ。しかし、地山のほうは無残極まりない。国道で稜線を断ち切られた上、津波の際の避難所にすべく上部が平らにカットされたため、まるで鼠色のショートケーキだ。いくら隧道本体が無傷でも、この異様なシチュエーションはいただけない。

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無残な地山に開いた江ノ浦第二隧道
 

最後の江ノ浦隧道は、比較的遅くまで現役だった。私の手元にある1:25,000地形図(1974(昭和49)年修正測量)にも記載されている。それどころか、山側を切り通す国道が完成した後も、引き続き通行できたようだ。しかし今回訪れたら、すでに両側ともフェンスで閉鎖されていた。第二隧道ほどではないにしろ、取り残された小山にぽっかり空いた隧道というのは、存在意義を根元から否定されているようで哀れを誘う。

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江ノ浦隧道
(左)左へ入るのが旧道、白い家の奥に隧道東口がある
(右)閉鎖された西口
 

ところで、印刷版地形図では長らく、御場隧道を除く4本の隧道の存在は無視されてきた。いくら総描だといっても、国道とかぶるほど近接してもおらず、相応の道幅もあるのに、まったく描かないのは不当だ。

そう思って現行「地理院地図」を見直したら、4本中2本(多比第一と江ノ浦)の記載が復活している(下記参考サイト)。自治体作成の基本図に基づいているので、これまでとは取捨選択の基準が違うようだ。それなら、多比第二の歩道トンネルも描いてもらいたいものだ。通しで歩いてみようという人が他にも現れるかもしれないから。

■参考サイト
多比付近の1:25,000地形図(地理院地図)
http://maps.gsi.go.jp/#15/35.050200/138.903200

掲載の地図は、陸地測量部発行の正式2万分1地形図韮山(明治27年修正測図)、同 江浦(明治27年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図韮山(昭和29年修正測量)、同 韮山(平成19年更新)を使用したものである。

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