旧道・廃道

2025年11月15日 (土)

コンターサークル地図の旅-京阪京津線と東海道逢坂越

2025年10月19日、秋のコンター旅3日目は、京都と滋賀県の大津を結んでいる京阪電鉄京津(けいしん)線と、その沿線の旧 東海道に点在する見どころを訪ねる。

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大津市内の路面軌道区間を行く京津線800系
(旧塗装、2020年9月撮影)

東海道本線(琵琶湖線)の山科(やましな)駅前に集合したのは、山本さんと私。まずは駅前広場の向かいにある京阪山科駅から800系電車に乗り、京津線の終点、びわ湖浜大津駅へ移動した。

京都市営地下鉄東西線から直通運転しているこのルートは、地上に出ると舞台があたかも登山鉄道、次いで路面軌道と目まぐるしく移り変わるので、「劇場路線」の異名をもっている。それで、初めて乗るならかぶりつき、すなわち最前部の窓際に立つのがおすすめだ。さらに言えば、峠のトンネルでは運転席後ろのロールカーテンが降ろされるので、影響しない右側の小窓に陣取るのがいい。

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(左)京阪山科駅
(右)びわ湖浜大津行きに乗る
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図1 京津線周辺の1:200,000地勢図
2003(平成15)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)、旧東海道線跡(緑)等を加筆
 

電車は山科の市街地を直線的に通り抜けた後、国道1号と並走しながら逢坂越(おうさかごえ)へと向かう。逢坂越は、東海道五十三次の最後の宿場である大津宿と京の間にあった2か所の峠道の一つだ。標高324.6mの逢坂山(おうさかやま)の南麓にあるので、山と同一視されて、「逢坂山を越える」という表現がよく使われる。

ちなみにもう1か所は、山科盆地と京都盆地の間にある日岡峠(ひのおかとうげ)あるいは九条山(くじょうやま、下注)で、かつて京津線はここも通っていたのだが、1997年に地下鉄に道を譲って廃止されてしまった。

*注 旧 東海道の日岡峠は山科盆地のへりを上る急坂で知られたが、後にこれを避けて北側に勾配を平均化した新道が開かれ、1912(大正元)年開通の京津電気軌道(後の京津線)もそれに沿って敷かれた。以来この峠道は、山の所有者だった九条家にちなむ九条山の名で呼ばれている。

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京津線の逢坂越
(左)大谷駅を通過 (右)逢坂山トンネル西口
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ありし日の九条山越え(1988年8月撮影)
海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

電車はサミットの大谷(おおたに)駅に達すると、短い逢坂山トンネルを抜け、半径40mの急カーブで左に旋回した。頭上に名神高速の高架橋を仰ぎながら、国道とともに急勾配を降りていく。道端から離れた後は、町裏をくねくねと進んでいくが、ここにも急カーブが続出し、摩耗と騒音を軽減するためにレールの散水装置が作動している。

上栄町(かみさかえまち)駅を発車すると、電車はいよいよ旧 国道161号(現 県道高島大津線)の路上に出る。浜大津駅前の交差点まで約600m続く路面軌道区間だ。800系は4両編成で全長が66mもあるため、事実上、日本一長い路面電車ということになる。山科から13分、駅前交差点をよく響く警笛とともにゆっくり右折して、終点のびわ湖浜大津駅に着いた。

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(左)上栄町駅、散水装置が作動中(2022年4月撮影)
(右)路面軌道区間を行く

この後は今来たルートを徒歩で戻るつもりだが、その前に、駅前交差点の歩道橋の上から、出入りする電車を俯瞰しよう。上空を横断する太い電線が目障りだが、この駅で接続する石山坂本線(下注)の電車も通るので、展望台としては理想的だ。

*注 通称 石坂(いしざか)線。この路線にも、びわ湖浜大津駅の西側に約400mの路面軌道区間がある。

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歩道橋から駅前交差点を望む
手前の複線線路は石山坂本線
 

山科方面行きを1本見送った後、電車通りを南へ歩き始めた。京津線は約20分間隔で運行されているから、歩いている間にも撮影のチャンスが来る。道路上空には、専用軌道と同じトラスで架線を支えるビームが渡されている。そこを標準軌の4両編成が通過すると、どう見ても電車のほうが主役だ。自動車は、むしろ線路敷の余地を借りて走っているように錯覚する。

見どころかどうかは別として、高札場があったことから札ノ辻(ふだのつじ)と呼ばれる京町一丁目交差点の南西角に、大津市の道路元標が立っている。道路元標は、大正時代に各市町村の中心部に設置された、道路の起点を示す標識だ。大津の場合、この角にかつて市役所があり、東から来た旧 東海道(現 京町通り)が南に針路を変えていた。

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路面軌道区間で浜大津行きを見送る
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(左)札ノ辻の大津市道路元標
(右)旧 東海道(現 京町通り)を東望(2022年4月撮影)
 

次の交差点を過ぎると、京津線は道路を離れて右手の家並みの中へ消えていく。道路の左側の小区画に、まだ新しい大津宿本陣跡の碑とともに、車石の断片が置いてある。

水路や鉄道ができるまで、大津の港で船から荷揚げされた米などの荷物は、牛が牽く荷車で京都へ運ばれていた。このため、荷車がぬかるみで難渋しないよう、人や馬が通る土道の横に、車輪を載せる二列の石畳が花崗岩の切石で整備された。車石とは、荷車の重みで削られて溝ができたその石のことだ。言うならば近世の道端軌道(下注)で、京津線もその伝統を引き継いでいるのかもしれない。同じように保存された車石がこの後、沿道の数か所で見られる。

*注 ただし「単線」なので、午前が京都行き、午後が大津行きの一方通行だったという。

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道路を離れて専用軌道へ
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(左)大津宿本陣跡を示す碑
(右)車石
 

緩い坂を300mほど上ると、東海道本線をまたぐ跨線橋を渡る。すぐ手前で右へ入る小道は、妙光寺というお寺の参道だが、寺の前を京津線が横切っているため、いわゆる参道踏切がある。S字カーブを走る電車にお寺の鐘楼を入れた構図が得られる撮影ポイントだ。

京津線も同じように東海道本線をまたいでいくが、この蝉丸跨線橋は、線路を載せるだけとは思えない煉瓦積みの重厚な造りだ(下注)。上関寺トンネルとも呼ばれるように、後ろにある逢坂山の本トンネル(新逢坂山トンネル)のポータルと見間違う。

*注 跨線橋工事が遅れたため、京津線はこの区間を徒歩連絡にして1912年8月に暫定開業している。跨線橋完成で全線開業したのは同年12月。

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妙光寺参道踏切にて(2022年4月撮影)
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蝉丸跨線橋、下は東海道本線
 

勾配が強まった旧161号をさらに300m進むと、京津線と交差する上関寺国道踏切がある。左側で線路に並行する煉瓦の壁は、旧 東海道線が旧 東海道をまたいでいた橋台だ。1880(明治13)年に開通した東海道線の京都~大津間は、今とは異なる南回りの経路で建設された。唯一のトンネルが逢坂山に掘られ、出てきた列車がすぐに渡ったのがこの橋になる(下注)。

*注 橋台の東側の廃線跡は国道1号に転用され、膳所(ぜぜ、旧 馬場)駅で現路線につながる。

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旧 東海道線橋台、もとは旧 東海道を跨いでいた
(2022年4月撮影)
 

その旧線、逢坂山隧道の東口も、少し先で右手の小道を入ったところに、鉄道記念物として保存されている。

廃止時には複線化されていたので、単線トンネルが2本、位置がややずれた形で並んでいるが、左側が1880年に完成した最初のものだ。石積みのポータルは長い歳月を経て苔むしているものの、上部の扁額には「楽成頼功」の文字がはっきり読み取れる。内部の10mほどが公開されていて、煤で黒ずんだ140年前の煉瓦壁を間近に観察できた。一方、右のトンネルは1898年に完成した上り線用だが、閉鎖されているため内部の様子は窺えない。

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旧逢坂山隧道東口、左が最初のトンネル(のち下り線用)
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(左)トンネル内部も一部公開
(右)「楽成頼功」の扁額がはまる
 

旧161号は、ここで東から来た国道1号に合流する。しばらくの間、右側の側歩道がないので、横断歩道で左側に移らなければならない。左隣を走る京津線の線路脇に61.0‰の勾配標が見つかる。ごく短い間だが、京津線の最急勾配だ(下注)。

*注 廃止された九条山越えでは、同じような道端軌道区間にこれを上回る66.7‰の勾配があった。

狭隘な谷を頭上で跨いでいる2本のアーチ橋は、名神高速道路だ。その下で京津線は国道から左にそれる。そして、行きの車内で見た急カーブを介して、道路下にある自前の逢坂山トンネルに入る。カーブの半径は40m。歩道から見下ろすと、車両どうしが120度ぐらいの急角度で折れ曲がるのに驚かされる。

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(左)61.0‰の勾配標
(右)名神高速のアーチ橋をくぐる
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半径40mを曲がる電車
 

擁壁に挟まれて右カーブする国道に沿って歩くと、いよいよサミットが見えてきた。道の右側に、逢坂山関址の碑が立っている。百人一首の蝉丸の歌「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」が頭に浮かぶが、古代の話なので、関が置かれた正確な位置は不明なのだという。

逢坂越前後の旧道はほとんど国道に上書きされたが、サミットから300m足らずの間は例外的に旧道が残っている。繁盛しているうなぎ屋の前を過ぎると、右手に歌人を祀る蝉丸神社の石段が見える。

しかし私たちの注目は、傍らの木陰に車石とともにひっそりと埋められている一等水準点だ。高さの基準となる水準点は、土地の改変が行われにくい神社や寺の境内に設置されることがよくあった。これもその一つだが、伝統的な花崗岩の柱石で、点の記にも設置時期が記されていないから、かなり古いものに違いない。

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(左)逢坂越サミット
(右)逢坂山関址碑と常夜灯
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(左)蝉丸神社に上る石段(2022年4月撮影)
(右)一等水準点の石柱
 

ここで北へ行く横道に寄り道した。先述した旧線の逢坂山隧道西口はもうないが、名神 蝉丸トンネルの上を通る道の脇に、記念碑が建っている(下注)。碑文によれば、「…トンネルの西口は名神高速道路建設に当りこの地下十八米の位置に埋没した」。ここから西側の名神高速は、伏見区との境まで約7.5kmにわたって、おおむね旧 東海道線の跡地を利用している。

*注 隧道西口にあった石額は、京都鉄道博物館で保存展示されている。

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(左)トンネル西口記念碑
(右)旧 東海道線跡を利用した名神高速道路(西望)
 

ともかく峠を越えたので、京津線大谷駅のベンチを借りて休憩した。このベンチ、見かけは普通だが、線路とホームに40‰の勾配がついているので、座面を水平にすべく、左右の足の長さを変えてある。移動されないように、座面裏に固定用のチェーンもついていた。

京津線と国道をまとめてまたぐ歩道橋で、再び左の側歩道に移る。直線路を下る途中にある月心寺は、もと走井(はしりい)餅を商う茶店があった場所だ。広重の連作浮世絵「東海道五十三次」の大津の図(下図参照)にも描かれたとおり、街道名物の一つだった。現在はクルマが行き交う国道に面していて、目印になるような山門もないので、うっかりすると見過ごしてしまう。

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(左)大谷駅
(右)左右の足の長さが違うベンチ
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(左)走井茶店跡の月心寺
(右)庭園門
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歌川広重「東海道五十三次 大津」
Image from wikimedia. License: public domain
 

名神高速の高架が再び頭上を横切れば、ようやく国道1号から離れて、静かな旧道が復活する。地形的にはすでに山科盆地だが、おもしろいことに住所は京都市ではなく、まだ滋賀県大津市だ。

旧東海道周辺では、府県境が山科盆地に大きく張り出している。地図で塗り分けてみるとよくわかるが、自然の境界である峠から約3km下った地点まで滋賀県域だ(下注)。これは、かつて大津にある三井寺(みいでら)の所領だったことに由来するという。

*注 比叡山地の分水界から西側にあるこの地区は、藤尾学区と呼ばれる。

そのため、旧道が復活して200mの位置に立つ「滋賀県大津市」の境界標識はフェイントに近い。実際にはここから髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)までの間、道路に府県境が通っていて、北側が滋賀県、南側が京都府になる。

境界標などはないが、住宅の軒先に停めてあるクルマのナンバーの地名を見れば一目瞭然だ。さらに、滋賀県警のパトカーが巡回するのを目撃したし、郵便ポストの収集局も大津中央郵便局と記されている。

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(左)「滋賀県大津市」の境界標(東望、2022年4月撮影)
(右)道路が府県境をなす区間、右が滋賀県、左が京都府(西望)
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図3 滋賀県大津市域をベージュで着色
「大津市」標識前後の200mは旧東海道が府県境
 

NHK「ブラタモリ」でも紹介された髭茶屋追分は、東海道と伏見(ふしみ)街道の分岐点だ。道標に「みきは京みち、ひたりはふしみみち」と刻まれている。伏見は淀川の支流、宇治川に面した京都の外港で、大坂(大阪)との間を川船が往来していた。それで、伏見みちは大坂への最短ルートでもあった。

旧東海道はこの後、いったん国道1号(五条バイパス)によって分断される。旧道を行くクルマは手前にある迂回路を通るのだが、歩行者はバイパスをまたぐ歩道橋で直接向こう側に渡れるようになっている。さらに西へ300m進むと、「京都市」とだけ記されたそっけない境界標が見つかった。足元を横断する水路に府県境が通っていて、ここでようやく住所が滋賀県大津市から京都府京都市山科区に変わるのだ。

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(左)髭茶屋追分、左は伏見街道(2022年4月撮影)
(右)道標の隣に府県境を示す標識も
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(左)三井寺観音道(小関越)の分岐道標
(右)「京都市」の境界標(西望)
 

天下の大道だけあって見どころを挙げればきりがないが、時刻はお昼を回って、そろそろお腹がすいてきた。沿道のコンビニで軽食を買い、山手にある琵琶湖疏水跡の公園まで行って、昼食休憩にした。旧東海道からは離れてしまったが、京津線の主要ポイントは見尽くしたことだし、このまま山科駅へ降りていって、今回の旅を終えることにしよう。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、2500分の1京都市都市計画基本図71 四ノ宮および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月 7日 (金)

コンターサークル地図の旅-北国街道小諸~海野宿

北国街道と呼ばれるルートはいくつかあるようだが、信州では、中山道の追分(軽井沢町)から、長野を通り、高田(新潟県上越市)に至る街道筋のことを指す。越後と江戸を結ぶ交易の経路であり、善光寺参りの旅人たちが往来した道だ。

2025年10月4日、秋のコンター旅2日目は、この北国街道旧道を小諸(こもろ)宿から海野(うんの)宿にかけて訪ねる。浅間連峰の裾野を行くこの区間は、宿場以外に取り立てて見どころがあるわけでもないが、クルマが行き交う国道から離れていて、旧道の風情を感じながらのんびり歩けるのではないかと思っている。

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にわか雨の海野宿
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図1 小諸~上田周辺の1:200,000地勢図
  1981(昭和56)年編集

8時30分、小諸駅前に集合したのは昨日と同じメンバーだ。朝早く来て小諸城址の懐古園を巡っていたという大出さんと、上山田温泉からクルマを駆ってきた木下さん親子に対して、早起きが苦手な私はしなの鉄道の電車でぎりぎりに到着した。

朝はいい天気だ。駅から北へ進み、1612年建造の重要文化財、小諸城大手門を通り抜ける。線路の向こうにある城址からずいぶん離れているが、かつて城郭がここまで広がっていたのだ。

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(左)小諸駅前
(右)駅舎の窓に掲げられた古い駅名標
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小諸城大手門
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小諸~滋野間
 

本町交差点は、北国街道とその跡を継いだ旧 国道18号(現 141号)が交差する場所だ。まずは東へ向かい、宿場の中心部、本町の家並みを巡った。重伝建地区のように集中してはいないが、白壁に切子格子の窓をもつ建物が残っている。視界の奥、街道が右に折れる角に、小諸城の足柄門を移築したという光覚寺の立派な山門が据わる。

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光覚寺に移築された小諸城の足柄門
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小諸宿の家並み
 

しかしまだ序盤なので、ここだけで時間を取るわけにはいかない。折り返して西へ。本町交差点と鉄道ガードの間には脇本陣、次いで本陣の建物があった。前者は宿屋として盛業中、後者は解体修理のために覆いがかかっている。東海道の宿場町のそれに比べれば、規模は小ぶりだ。

ガードをくぐると道は急な下り坂になり、神社の手前で直角に曲がる。裾野を深く切り裂いて流れる中沢川を横断するためだが、本来の旧道はさらに100mほど直進し、より低い位置で渡っていたという。

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(左)脇本陣跡の宿屋
(右)本陣建物は解体修理中
 

新町の家並みを通過し、栃木川を渡った三つ角には、布引山観世音の文字が彫られた大きな碑が立っていた。ここで左折すれば、千曲川(ちくまがわ)を渡って懸崖造りのお堂がある当地の名刹、布引観音へ行ける。次の638m標高点で出会う2車線道も、参詣客を運んだ旧 布引電気鉄道の廃線跡に由来する。

北国街道は一時的にこの車道と合流するが、200m先で左にそれる。田舎道に戻った旧道の左脇に、青木一里塚跡が現れた。ボタンザクラが植えられた小公園だが、塚自体はもうない。公園よりむしろ、向かいの邸宅の組まれた庭石が立派過ぎて目を奪われる。

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(左)布引観音への分岐点
(右)青木一里塚跡
 

周囲の田んぼはもう刈り取りを終えたようだ。はさ掛けされた稲束から立ち上る藁のにおいが懐かしい。しなの鉄道の踏切を渡り、国道18号を横断すると、道は西原の集落に入った。直線主体の道だが、地形に応じた緩いアップダウンがある。

深沢川の手前で、街道は国道18号に合流した。おとなしく側歩道をたどらざるを得ないが、300mほどの辛抱だ。ホームセンターのカインズ前で、国道は右へ離れていき、旧道が再び姿を現す。

芝生田(しぼうだ)集落の中を行くと、道を挟んで旧家が向かい合う一角が目を引いた。立派な門構えに大きな白壁土蔵、手入れされた庭木も美しい。暦は10月だが、浴びる日差しはまだじりじりと熱く、家並みの日陰を選んで歩く。

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(左)刈り田のはさ掛け
(右)西原集落
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芝生田集落、沿道の旧家
 

裾野を下る渓流の一つ、大石沢川にさしかかった。グーグルマップにピンが立つ大石沢眼鏡橋を確かめるべく、竹藪の暗がりに目を凝らす。しかしどうやら橋というより、築堤の底部にある溝橋のようだ。石積みの小さなアーチを眼鏡橋に例えたらしい。

滋野(しげの)郵便局のすぐ西で、牧家(ぼくや)一里塚跡の石碑を見つけた。傍らの碑文によれば、現在、滋野駅道の交差点に立っている力士雷電の碑はもと、塚の茶店前にあったのだそうだ。

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大石沢眼鏡橋は竹藪の陰に
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(左)牧家一里塚跡
(右)力士雷電の碑
 

同じような道が続くので、足の負担も考慮して、滋野~田中の一駅間を電車でワープする案を考えていた。ところが調べていくうちに、その間の街道沿いに人気の蕎麦屋があることを知った。足をいたわって電車に乗るか、食欲を優先して歩き続けるかの二択だが、メンバーに諮ると即決後者に…。

昼どきは混むと聞いて、歩くペースが速まるという副次的効果まであって、開店間もない11時過ぎに、難なく目的地に到着した。十割そばと更科そばという黒白の逢わせ(合わせ)盛りに天ぷら、付け出し、デザートまでつく充実の昼食をいただく。

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(左)目標設定でペース速まる
(右)街道沿いの蕎麦屋
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図3 同 滋野~田中間
 

空がしだいに曇ってきたが、元気を取り戻してさらに西を目指した。常田南(ときだみなみ)交差点から田中宿に入ると、ここまでたどってきた旧道とは様子が違う。車道2車線の両側に幅広の歩道がついた、道幅18mの目を見張るような大通りが奥へと延びている。しかも無電柱化されているので、空が広く感じられる。宿場というより、どこか北海道の町のようだ。

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田中宿を貫く大通り
 

話は飛ぶが、この田中という地名のアクセントは第1音節にある。電車の車内アナウンスで気づいたのだが、標準アクセントの田辺、田口のように「た」なかと読むのだ。

駅前交差点までの約600mが大通りで、その後は1車線道に戻った。通過する地形も、浅間連峰の裾野から一段降りて、千曲川の氾濫原に接した微高地に移る。求女川(くめがわ)の橋を渡ると、「海野宿はこちら」と矢印看板が出ていた。地図で確かめたところ、旧 信越本線の廃線跡を転用した歩道だ。曲線緩和のため、複線化を機に付け替えられたようだ。

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(左)駅前を過ぎるともとの道幅に
(右)緩くカーブした信越線跡の歩道(東望)
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図4 同 田中~大屋間
 

この歩道は500m足らずで終わる。街道に復帰して高架道の下をくぐり、鉄道の踏切を渡ると、いよいよ海野宿だ。万貫石と呼ばれる大石と宿の入口を示す碑に迎えられて、道は宿場に入っていく。

右手に、みごとな枝ぶりのケヤキのご神木に見守られた白鳥(しらとり)神社の境内があった。これまでの道中では見かけなかった観光客が、次々と鳥居をくぐって訪れている。私たちも中に混じって、本殿に拝礼した。

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(左)海野宿入口
(右)万貫石
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白鳥神社境内
 

神社の鳥居前から、重伝建地区に指定された宿場町が始まる。「表の川」と呼ばれる中央水路をはさんで両側に道があるが、北側(進行方向右側)が舗装され車も通れる広い道、南側は庭木が植わる未舗装の軒先道だ。

それらを取り囲むように、うだつの上がった民家が軒を連ねる。明治以降、養蚕が盛んになったので、小屋根を載せた造りの養蚕家屋も混じっている。まさしく時代劇に出てきそうな風景だが、しぐれがにわかに強まってきたので、傘を差しながらの通り抜けになった(冒頭写真参照)。

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「表の川」と街道、うだつの立派な民家
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庭木が植わる軒先道、半鐘と丸ポスト
 

海野宿の裏手にはしなの鉄道(もとJR信越本線)が通っているが、最寄り駅まで東西とも1.5kmほど離れている。信越線の開業時に海野駅の設置計画があったのだが、養蚕に欠かせない桑の生育に排煙が影響を及ぼすとして、反対運動が起きたという。そのため、駅は隣の田中宿に設けられ(下注)、海野の発展を相対的に遅らせる要因にもなった。しかし、結果的に宿場町の景観が保たれ、観光地として再発見されたのだから、先のことはわからないものだ。

*注 1888(明治21)年の信越線開業時、小諸駅と上田駅の間には田中駅しかなかった。大屋駅は1896年、滋野駅は1923年の開設。

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海野宿案内板
 

500mほど進むと、未修景の民家もちらほら現れる。西の枡形跡の案内板が立つ地点で、中央水路も消えて、ふつうの街道筋になった。この後小川を渡った西海野地区でも、東側と同じような中央水路が復活して、千曲川の川岸に突き当たるまで続くが、家並みの風景はもう現代に戻っている。

千曲川のほとりに出れば、ゴールに定めた大屋駅はもうすぐだ。13.5kmの歩きを終えて駅に到着したのは15時ごろ。電車を待つ間に雨も上がって、空が明るくなってきた。

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(左)西の枡形跡
(右)西海野、中央水路の周りは現代の町並み
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(左)千曲川のほとりに出る
(右)大屋駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和56年編集)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年4月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸道倶利伽羅峠

朝8時、通学の高校生たちと一緒にIRいしかわ鉄道 津幡(つばた)駅の改札を出ると、大出さんと山本さんが待っていてくれた。2025年4月14日のコンター旅は、北陸道の竹橋(たけのはし)宿から倶利伽羅(くりから)峠の旧街道を歩いて、富山県側の石動(いするぎ、下注)まで行く。参加者3名、歩行距離は約11km。雨の昨日とは一転して青空が広がり、ハイキング日和になりそうだ。

*注 宿場町は今石動(いまいするぎ)と称した。この地名は、現在も小矢部市石動地区の町名として残る。

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道の駅でにらみをきかす火牛の像
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図1 倶利伽羅峠周辺の1:200,000地勢図
1987(昭和62)年編集

駅前のバス停で、8時17分発の津幡町営バス九折(つづらおり)行きに乗り込んだ。この小型バスで竹橋へ移動する。珍しく月曜日に出かけるのは、朝のこの便が平日のみの運行だからだ。バスはIRいしかわ鉄道の線路に沿うように走り、15分ほどで目的地に到着した(下注)。

*注 バス停名は竹橋西。宿場町を見たいがためにここまで乗ったが、後述する道の駅に直接行くなら、一つ手前の「倶利伽羅塾」バス停が近い。

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(左)集合場所は津幡駅
(右)竹橋宿でバスを降りる
 

竹橋は今でこそ静かな集落だが、かつては倶利伽羅村の村役場が置かれるなど主邑の位置づけだった。集落を貫くまっすぐな道が、かつての街道筋の面影を残している。峠道に踏み出す前に、集落の西のはずれまで戻って、道の駅「倶利伽羅 源平の郷」の歴史資料館を訪ねた。

倶利伽羅峠といえば、平安時代末期に繰り広げられた源平合戦の主戦場の一つだ。平家打倒の命を受けた木曽義仲が、北陸道を進んできた平維盛(これもり)率いる平家の大軍を、夜半に奇襲をかけて打ち破る。その策は、四、五百頭の牛の角にたいまつを括りつけて突進させるというもので、寝静まっていた敵軍は驚いて大混乱に陥った。源平盛衰記が伝える有名な「火牛の計」の逸話(下注)だが、今や火牛はご当地キャラになっていて、道の駅のフロアでも来場者に向けてアピールを怠りない(冒頭写真参照)。

*注 中国の戦国時代に同じような故事があり、それにならった創作と考えられている。

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(左)道の駅の歴史資料館
(右)火牛の計を描く源平合戦図(複製、原本は竹橋・倶利伽羅神社蔵)
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倶利伽羅峠の絵図(資料館の展示パネルを撮影)
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図2 竹橋~城ヶ峰間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

宿場町の裏を流れる津幡川にはサクラ並木があり、ちょうど見ごろを迎えていた。おととい出かけたのと鉄道の能登鹿島駅、通称 能登さくら駅はまるでお祭りのような賑わいだったが、ここではほかに誰もおらず、静かな花見が楽しめる。

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津幡川沿いのサクラ並木
 

街道に復帰して先へ進むと、そのうち車道から別れて山中に入っていく。前坂と呼ばれる急な坂には階段が作ってあった。ところどころ草むし、枝や落ち葉が厚く散り敷いているが、路面は舗装されている。分岐点には道標が立っているので、迷うこともない。

上りきるとすぐに、切り通した車道に降りるものの、改めて杉林の中を上り直す。地形図を見ると、東西に長く延びる標高100~150mの尾根筋を伝っていくルートだ。一つ目のピーク、城ヶ峰は名のとおり、龍ヶ峰城という山城が築かれていた。案内板によると、城郭は公園化されているようだが、入口にバリケードが置かれて入れなかった。

また少し行くと、北麓の越中坂(えっちゅうざか)から上ってきた車道と合流する。しばらくはこの道路を歩かなくてはならない。再び坂がきつくなると倶利伽羅の集落で、道の両側にぽつんぽつんと民家がある。道は一車線に狭まり、なおも上っていく。

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(左)山中に入る北陸道
(右)前坂を上る
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倶利伽羅集落をなおも上る
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図3 城ヶ峰~矢立山間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

やがて左手に、石の鳥居と石段が現れた。それを挟んで、倶利伽羅不動寺と手向(たむけ)神社の標柱が立っている。倶利伽羅(くりから)という珍しい地名は、もと長楽寺と称したこの寺の本尊、倶利伽羅不動に由来するという。寺の公式サイトによると、倶利伽羅とはサンスクリット語クリカ kulikah の音写で「具黒(黒いもの)」を意味し、八大龍王のうちのひとりの名になった。

長楽寺は8世紀の創建と伝えられ、源頼朝や加賀藩の加護を得て、江戸時代後期まで存続していた。しかし堂宇の焼失により廃絶し、明治の神仏分離で手向神社となった。倶利伽羅不動寺として再興されたのは第二次世界大戦後と、歴史的にはまだ新しい。

石段を上って境内に入ると、正面がもとからある手向神社の本殿で、後ろに不動寺の本堂が建っている。今日はその前の広場にテントが張られ、桜まつりの準備中だった。本堂脇のテラスに立つと、西の方角のパノラマが開け、春霞を通して遠くに横たわる千里浜(ちりはま)や日本海が眺望できた。

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(左)倶利伽羅不動寺・手向神社の参道
(右)寺の本堂前でまつりの準備が進む
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本堂脇のテラスから千里浜と日本海の展望
 

この一帯は砺波山(となみやま)と呼ばれていて、その山頂がすぐ近くにある。聖地なので、煩悩を解き放つために108段の急な石段を上っていく。頂きは狭い平地で、中央に四体の石堂が並んでいた。手向神社にあるものと併せて、五社権現というそうだ。そばに276.7mの二等三角点が埋設してあったので、いそいそと写真に収めた。周囲にはサクラの林が広がっているが、標高が高いからか、まだ五分咲きぐらいだ。

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(左)108段の石段が待つ五社権現の参道
(右)山頂の四体の石堂
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(左)石堂脇の二等三角点
(右)山頂のサクラはまだ五分咲き
 

少し降りた車道沿いに木組みの展望台があり、今度は南から東にかけての眺望が得られた。備え付けの展望図を参照すると、かすかに見えている雪の山並みは、砺波平野の南を限る高清水(たかしょうず)山地のようだ。まだ少し時間が早いが、展望台下のあずまやで持参した昼食を広げた。

道路脇でまた出会った2頭の勇ましい火牛像に見送られて、砺波山の東尾根に載る道を進む。この両側にもソメイヨシノが植わり、お祭り気分を盛り上げるぼんぼりが取り付けられているが、花の見ごろはもう数日先のようだ。

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展望台から高清水山地の眺め
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(左)ここにも火牛像が
(右)砺波山のサクラ並木
 

左手の広場の端の見晴らしが良さそうなので行ってみると、なんと北陸新幹線のビュースポットだった。県境の新倶利伽羅トンネルを出て、左カーブで新高岡駅に向かう区間が見える。空気が澄んでいる日なら、白馬岳をはじめ北アルプスの山並みも見通せるらしい。

時刻表で確かめたら、ちょうど金沢行の下り列車がやってくるタイミングだ。三人、しばらく目を凝らして待つものの、防音壁に遮られたか、気がついた時には列車はもう山陰に隠れる寸前だった。写真は誰も間に合わず、証拠のない目撃談に終わってしまった。

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ビュースポットからの眺め
新幹線の高架が弧を描く
 

少し先で北陸道は、舗装道から離れて、初めのような山道に戻る。軽い上りを終えた道端に、「砺波山 標高265m」の小さな道標が埋めてあった。地形図でも263mの標高点を記したこのピークに、砺波山の注記がかぶせてある。おそらく平野から仰ぐとここが手前に見えて、より高い倶利伽羅峠(といってもわずか十数m)が後ろに重なってしまうからだろう。

この後は砂坂と呼ばれる急な下り坂だ。昔はずるずると滑る足場の悪い坂道だったのかもしれないが、今は段差の小さい階段道で、心置きなく歩ける。

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(左)砺波山の小さな道標
(右)階段道になった砂坂を降りる
 

坂を降りきると再び車道に出た。砺波山より標高は一段低いが、同じような雰囲気の尾根道だ。一里塚の標柱が立っていて、よく見ると一里塚の下に「と言われるところ」と素直な告白が付け足してあった。

再び車道と離れる地点には、「矢立」の標柱がある。矢合わせ(小競り合い)で平家軍の放った矢が立った場所だそうだ。矢立山は、東西方向に延びる尾根の最も東のピークで、205.6mの四等三角点がある。沿道には句碑が点々と置かれていて、案内板の説明を読むと、昔からこの道を多くの旅人が行き交っていたことが知れる。

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(左)矢立山の入口
(右)峠茶屋跡
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図4 矢立山~石動間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

峠茶屋の跡を通過してもしばらく杉林を抜ける尾根道が続くが、やがて道は長い下りにさしかかった。竹橋側の前坂のような尾根への取付きルートで、長坂の名がある。坂の途中で、峠の展望台から見たのと同じ高清水山地の眺めが広がった。

文字通りの長い坂を降りきると、紅色も鮮やかなシダレザクラの歓迎を受けた。駐車場とトイレが設置され、クルマで来る人もこの歴史街道に容易にアクセスできるようにしてある。ここからは人里を縫ってふつうの車道を歩いていくことになる。集落の名は石坂だが、山麓の丘の上に過ぎず、名前ほどの坂道はない。さきほどの砂坂との対比からすると、もとは長坂こそが石坂だったのかもしれない。

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(左)長坂からの眺望
(右)長坂は文字通り長い坂道
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(左)シダレザクラが咲く麓に到着
(右)石坂集落
 

間の宿場だった埴生(はにゅう)には、木曽義仲が戦勝を祈願したと伝わる護国八幡宮が鎮座する。私たちはその入口のあずまやで休憩したあと、北陸道からそれて、加越能鉄道加越線の跡へと転戦した。こちらも昨日の金名線と同じように、県が管理する自転車・歩行者道になっている。郊外地にまっすぐ延びるその道をたどっていけば、ゴールと定めた石動駅はもうすぐだ。

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(左)埴生護国八幡宮の参道
(右)埴生宿、医王院山門
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(左)加越線跡の自転車道、南望
(右)同 北望、奥に見える高架は北陸新幹線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図七尾、金沢(いずれも昭和62年編集)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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2023年10月31日 (火)

コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域

2023年コンターサークル-S 秋の旅1日目は、昨秋企画しながら台風の接近で実施できなかった宮ヶ瀬ダムとその下流域の見どころ巡りにリトライした。

9月23日土曜日の朝、小田原から、小田急の新宿行急行で集合場所の本厚木駅へ向かう。今回も雲が低く垂れこめ、今にも降りそうな空模様だ。雨具は用意してきたが、9kmほど歩くので、できれば使わずにおきたいが…。

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宮ヶ瀬ダムとインクライン

本厚木駅改札前に集合したのは、大出さんと私の2名。駅前で9時17分発の神奈中バス、野外センター経由半原(はんばら)行を待つ。沿線に大学があるらしく、若者たちが長い列を作っている。

ダムは約20km上流にあり、最寄りの停留所まで40分ほどバスに揺られる必要がある。駅を出発したときには立ち客も多かったが、さすがに終点間際の愛川大橋まで乗ったのは私たちだけだった。この天気ではハイキング客の出足も鈍いだろう。

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愛川大橋バス停
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図1 宮ヶ瀬ダム周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
 

愛川大橋は、国道412号が中津川を渡る橋だ。ここからは、川沿いの狭い一本道を歩いていく。深い谷間に入っていくと、まず石小屋ダムという副ダムが見えてくる。堤高34.5m、堤頂長87m、小ぶりの重力式ダムだ。宮ヶ瀬ダムのすぐ下流で、流量調節とともに小規模の発電をしている。欄干の上を数匹のサルが渡っていくので、その先に目をやると、対岸の岩がサル山よろしく、群れの休憩場所になっていた。

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石小屋ダム
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石小屋ダムのサルたち
 

本命の宮ヶ瀬ダムは谷の奥ですでに半身を覗かせているが、少し歩いて下路アーチの新石小屋橋まで来ると、いよいよ圧倒的な全貌があらわになる。2001年に完成したこのダムも重力式だが、堤高が156m、堤頂長が375m、総貯水量は1億9300万立方mと、はるかに巨大だ。堤高では国内第6位(下注)、総貯水量でも同20位台前半の規模だという。

*注 秩父の浦山ダム、広島・加計の温井ダムも156mで、6位タイ。なお、重力式コンクリートダムでは奥只見ダムに次いで、浦山ダムとともに第2位。

道は橋を渡って、ダム直下まで続いている。以前、名物の観光放流(下注)を見に来たときは、上天気でけっこうな人出だったが、きょうは幼稚園児の遠足集団が来ているだけで、一般客は数えるほどだ。橋の方から、蒸気機関車を模したロードトレインが入ってきた。クルマで来た人を、駐車場のあるあいかわ公園から運んでくるイタリア製の遊覧車両だが、こちらも閑散としている。

*注 4~11月の特定日に行われる人気イベント。1日2回、ダムの水が6分間放流される。

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新石小屋橋から仰ぎ見る宮ヶ瀬ダム
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観光放流を見に集まる人々(別の日に撮影)
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(左)あいかわ公園から来るロードトレイン
(右)イタリアのメーカー銘板
 

ダムのもう一つの名物は、堰堤横の斜面を上下しているインクラインだ。もともとダムの建設工事で、コンクリートなどの資材を積んだダンプトラックを基地から作業現場まで下ろすために設けられた装置だが、ダム完成後、客室を取り付けて観光用に開放された。もちろん鉄道事業法に基づく索道ではなく、ダムの付属施設という位置づけだ。

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インクラインの車両
 

ダムの頂部、いわゆる天端(てんぱ)に上る目的なら、堰堤内部にある垂直エレベーターも利用でき、しかも無料だ。しかしこれは外が見えず、おもしろくない。乗り鉄の私としては、片道300円を払ってもインクラインに乗りたいと思う。

ウェブサイト(下注)によると、この施設は、山麓駅~山頂駅間全長216m、高低差121m、傾斜角度30~35度、片道所要約4分。インクライン(incline)とは傾斜鉄道の意味だが、ケーブルで結ばれた2台の車両が釣瓶のように上下するので、実態はケーブルカーと変わりない。車両はゴムタイヤを履いていて、H鋼を横置きした形状の走路を上下している。全線複線のため、中間部の行き違い設備はない。

*注 公益財団法人宮ヶ瀬ダム周辺振興財団「ぐるり宮ヶ瀬湖」https://www.miyagase.or.jp/

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(左)ダム下の山麓駅
(右)天端に面した山頂駅
 

6~10分間隔で頻繁に運行されているから、ほとんど待つ必要はなかった(下注)。山麓駅舎の2階に上がって乗り込むと、車内に階段状の2人掛け簡易シートが並んでいる。妻面の窓隅に「東京索道株式会社、平成10年製造」の銘板があった。

*注 運行時間帯は10:00~16:45。ただし平日は12:10~13:15の間、運行が中断される。また冬季12~3月は運行時間帯が短縮される。

走行する軌道は、ダムの着岩部のすぐ横に設置されている。そのため、動き始めるとまるで堰堤の法面を引き上げられていくような感覚だ。下り車両とすれ違った後、いったん勾配が緩む踊り場を通過した。山麓駅から仰いだとき、山頂駅を出た車両がなかなか近づいてこないように見えたのは、この勾配の変化のせいだ。

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堰堤の法面に沿って上る
 

到着した山頂駅は、天端と同じレベルにある。幅広い天端道路からダム湖を眺めたが、周囲の山々に雲が降りてきていて、幽玄な雰囲気だ。一方、下流側はインクラインの動くようすが上から下まで見渡せるので、つい長居をしてしまう。ちなみに、天端の中央付近にある展望塔にも上ってみたが、ガラス越しの眺めで期待外れだった。

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天端道路から発着のようすを観察
 

向かいにある広報施設、水とエネルギー館でダム関連の展示資料を見学した後、1階奥の「レイクサイドカフェ」で、少し早い昼食にする。ダムサイトに来たからには、ダムカレーを試さなくてはいけない。メインメニューの宮ヶ瀬ダム放流カレーは、ちょっとしたアイデアものだ。ライスでカレーソースを堰き止めてあるだけでなく、ライスの底に埋めてある栓代わりのウインナーソーセージを引き抜くと、ソースの放流が始まる。そのソースもスパイスがよく効いておいしかった。

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宮ヶ瀬ダム放流カレー
野菜をカレーソース側に移してから、底にあるウインナーの栓を抜く
 

名物をいろいろと堪能したので、12時頃から再び歩き始めた。天端道路を伝って対岸へ。丘を造成したあいかわ公園の中を管理センター前へ下り、さらに階段道で段丘下まで降りた。それから県道54号を中津川の下流へ向かう。

立派なワーレントラスの日向橋(ひなたばし)を渡ると、朝乗ってきたバスの終点、半原バスターミナルの横に出る。半原の集落を通り抜け、脇道を直進した突き当りの山ぎわに、次の見どころ、横須賀水道の旧トンネルがあった。

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(左)日向橋
(右)半原バスターミナル
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(左)県道から直進する脇道
  第一トンネル前から後方を撮影
(右)煉瓦積みの第一トンネル上流側ポータル
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ここでいう横須賀水道とは、軍港として発展した横須賀の水不足を解消するために造られた軍港水道半原系統のことだ。中津川から取水して1918(大正7)年に通水、1921年に全線が完成している。約90年使われ続けたが、2007年に取水が停止され、廃止となった。台地の上を直進していくルートは多くが道路として残り、「横須賀水道みち」の名で呼ばれている。

その最上流部に当たる半原から馬渡橋(まわたりばし)までの間に、蛇行する谷をショートカットするためのトンネルが計3本掘られた。一つ目が今見ているものだ。

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(左)第一トンネル内部
(右)同 下流側ポータル
 

レンガ積みのポータルは健在だったが、フェンスで塞がれて、通り抜けはもはや不可能だ。大出さんが、県道から分かれた脇道が逆勾配になっていることを指摘する。水道は自然流下だったはずだから、県道のところはサイホンか、そうでなければ築堤になっていたはずだ。

県道を迂回して反対側に回った。この第一トンネルと次の第二トンネルの間は、カーブした築堤が残っていて、小道として使われている。暗渠の中を覗くと、さびついた管路が横断しているのが見えた。第二トンネルも上流側が同じく閉鎖され、下流側のポータルは草ぼうぼうで近づくことすらできない。

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(左)第一、第二トンネル間の築堤道
(右)暗渠の中に管路が覗く
 

県道との再合流地点に、横須賀市水道局と書かれた基準点標識が埋まっていた。水道ゆかりのもので、しっかり探せばほかにも見つかるかもしれない。第三のトンネルは、残念ながら県道の愛川トンネル(長さ146m、1993年完成)に改築されてしまった。2車線幅のため、水道時代の面影は消失している。

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(左)横須賀市水道局の基準点標識
(右)県道愛川トンネルの下流側
 

このあと水道は、プラットトラスの道路橋だった旧 馬渡橋で、中津川を横断していた。そのたもとに、橋材と送水管の断片を組み合わせたモニュメントが設置されている。真新しいもので、銘板には令和5年8月とある。ただ、仮止めテープがついたままだったので、まだ正式に除幕されていないのかもしれない。

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馬渡橋たもとの旧橋モニュメント
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モニュメントの説明板
 

橋の南側でいったん県道をはずれ、坂を上って愛川中学校のある高台へ移動した。というのも、田代の繞谷(じょうこく)丘陵を俯瞰したかったからだ。

堀淳一さんが『地図の風景 関東編 I 東京・神奈川』(そしえて、1980年)の一節で、「川のつくった半円劇場」と紹介していた地形で、地形図で「残草(ざるそう)」の文字がかかっている小山がそれだ。その北から東にかけて見られる半円状の平地は、中津川のかつての曲流跡で、後に川の流路が西側で短絡してしまったため、空谷となって残された。

高台の斜面に沿う道を歩いていくと、家並みが途切れて曲流跡が見晴らせる場所があった。『地図の風景』に掲載された写真とほぼ同じアングルで、堀さんもここから眺めたのだろう。曲流跡にもすっかり家が建て込んでいるが、背後にあるこんもりした森が繞谷丘陵の形をなぞっているのが見て取れる。

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田代の繞谷丘陵(写真中景の森)
 

坂を下りてその麓を通り、田代小学校から再び県道に出ると、「水道みち」と刻まれた碑が立っていた。横須賀までなお40~50kmの距離があるが、私たちの水道みち追跡はここが終点だ。

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田代の水道みち碑
 

最後に、中津川に架かる平山橋を訪れた。1926年に完成した長さ112.7mの3連プラットトラス橋で、登録有形文化財になっている。下流側に平山大橋が開通してからはクルマの通行が遮断され、現在は自転車・歩行者専用だ。さっき渡った日向橋も1930年の完成なので、造られた時代はさほど変わらない。しかし、がっしりした構造の日向橋とは対照的に、この橋には華奢で優美な雰囲気がある。

さて、時刻は14時になろうとしている。ダムから延々歩いてきたが、幸いにも雨に遭わずに済んだ。平山大橋のたもとにある田代バス停を、1時間に1本しかないバスが間もなく通る。これをつかまえて本厚木駅に戻ることにしよう。

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平山橋
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平山橋と中津川
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
宮ヶ瀬ダム https://www.ktr.mlit.go.jp/sagami/
神奈川県立あいかわ公園 http://www.aikawa-park.jp/

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2023年5月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル

日本列島を西南と東北に分けるフォッサマグナ(大地溝帯)、その西縁が糸魚川-静岡構造線、略して糸静線と呼ばれる断層群だ。糸静線が日本海に接する糸魚川周辺には地学上の見どころが点在していて、洞爺・有珠、雲仙とともに2009年に日本で初めて「世界ジオパーク(現 ユネスコ世界ジオパーク)」に認定されている。2023年5月20日のコンター旅は、そのいくつかをレンタカーで巡ろうと思う。

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ヒスイ峡にそびえる石灰岩の絶壁、明星山
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図1 糸魚川周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

富山から乗り継いできた普通列車で、糸魚川駅に8時45分ごろ着いた。集合時刻までまだ少し時間があるので、改札の前で会った山本さんと、駅舎1階のジオパルを見に行く。名称からするとジオパークのインフォメーションセンターのはずだが、展示内容は鉄道ものに重点が置かれていて、私たちもそれが目当てだ。

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糸魚川駅ジオパル
(左)大糸線を走ったキハ52は休憩室に
(右)大糸線をイメージした大型レイアウト
 

10時11分着の新幹線はくたかで、大出さんと中西さんが到着して、本日の参加者4名が揃った。レンタカーの営業所で、予約してあった日産ノートに乗り込む。まずは国道148号で、姫川(ひめかわ)の谷を遡ろう。

掲げたテーマとはのっけから乖離するが、最初の訪問地は大糸線の根知(ねち)駅だ。ここで10時48分に行われるキハ120形同士の列車交換シーンに立ち会う。存廃が議論されているローカル線で、列車本数が少ないので、この駅での行き違いは午前中、一度だけだ。

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キハ120形の列車交換、根知駅にて
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
根小屋周辺
 

続いて、根知川右岸(北岸)にあるフォッサマグナパークへ。道路脇の駐車場から森の中の小道を歩き始めると、すぐ山側に、「大切にしましょう 水準点」の標識が立っていた。地形図に93.2mの記載がある一等水準点だ。標石は健全そのもので、刻字が明瞭に読み取れ、四隅に保護石も従えている。近年は金属標や蓋された地下式も多い中、これは見本にしたくなるような外観だ。点の記では1986(昭和61)年の設置とされているが、標石自体はもっと古いものだろう(下注)。

*注 側面に、国土地理院の前身で1945~60(昭和20~35)年の間存在した地理調査所の名が刻まれている。

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根知川右岸の一等水準点
 

小道は大糸線のトンネルの上を越えていく。目の前が根知川を渡る鉄橋で、さっきの列車交換がなければ、ここで一枚撮りたいところだ。そう考えるのは私だけではないらしく、フェンスに親切にも列車通過時刻表が掲げてあった。今日は地学系の旅のつもりだが、核心にたどり着かないうちに、道中の誘惑が多くて困る。

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トンネルの上から望む大糸線の線路
奥が根知駅
 

道なりに5~600mほど進んだ先で、いよいよ「Fossa Magna Park」の壁文字が見えてきた。地層の露頭は、階段を降りていくと明らかになる。斜面が漏斗状に開削され、その上部に、境界と記された標柱と、その両脇に「東」「西」と大書された看板が立っている。

看板の意味するところは、糸静構造線のどちらの側かということだ。東はフォッサマグナで、プレート理論でいう北アメリカプレートに、西ははるかに古い地層でユーラシアプレートに属する。その境界は強い力が作用するため破砕帯になっていて、模式図のようなスパッと切れた断面ではない。

ちなみに、糸魚川寄りには、よく似た名のフォッサマグナミュージアムという観光施設がある。鉱物の好きな人なら一日でも居られると言われる展示館だが、今日は予定が目白押しで、訪問は難しい。

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フォッサマグナパーク
根知川の対岸に、糸静線上に建つ酒造会社の大屋根が見える
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「東」と「西」の看板の間に
構造線の位置を示す「境界」の標柱が立つ
 

フォッサマグナパークから、さらに上流へクルマを走らせた。次の行先は小滝川ヒスイ峡だ。小滝(こたき)で横道にそれて、1車線の坂道を延々と上っていく。小滝川に沿う林道入山線が最短経路だが、落石の影響で通行止めになっており、2倍以上の遠回りを強いられる。とはいえ、一帯を見下ろす展望台や、高浪(たかなみ)の池といった名所を経由するから、迂回もまた楽しからずや、だ。

道のサミット付近にあるその展望台からは、森の中にたたずむ高浪の池が眼下に望めた。後ろに控えるのは、石灰岩の切り立つ岩壁で知られる明星山(みょうじょうさん、標高1189m)だが、あいにく中腹まで雲に覆われている。視界を占有している斜面は、実は大規模な地すべりの跡で、池も、押し出された土砂の高まりの内側に、地下水が染み出してできたものだ。しかし、荒々しい地形の成因など忘れさせるほど、しっとりとしてもの静かな光景だ。

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展望台から望む高浪の池
後ろの明星山は雲の中
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図3 同 小滝川ヒスイ峡周辺
 

高浪の池までクルマで降りて、池の周囲をしばし散策した。薄霧が漂うなか、畔の木々が水面に映る姿はなかなかに幻想的で、東山魁夷の絵を思わせる。なんでもこの池には、「浪太郎」の名で呼ばれる巨大魚が棲んでいるそうな。

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森を映す高浪の池
 

池のほとりの食堂で昼食をとった後、ヘアピンが連続する山道をクルマでさらに下っていった。渓谷を見下ろす展望台まで来ると、さすがに明星山も霧のヴェールから姿を現した。川床から約450mもの高さがあるという剥き出しの岩肌が、周囲を威圧するようにそそり立っている。この景観を作り上げたのは、眼下を流れる小滝川で、南隣の清水山にかけて続く石灰岩の地層を侵食した結果だ。ロッククライミングの名所でもあるそうだが、どうすればこの絶壁を上れるのか、素人には想像もつかない。

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小滝川の渓谷をはさんで向かい合う石灰岩の山塊
左が明星山、右が清水山
 

遊歩道を歩いて上流へ向かう。まが玉池という人工池の前からは、ヒスイ峡の河原まで降りていくことができた。渓流の間に直径数mもあるような巨石が多数転がっていて、案内板によると、あの中にもヒスイの原石が含まれているらしい。漢字で翡翠と書くので緑色という印象が強いが、実際は白っぽいものが多く、緑色の部分は貴重なのだそうだ。

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小滝川ヒスイ峡
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(左)青みを帯びた渓流
(右)矢印がヒスイの原石(現地案内板を参考にして表示)
 

縄文時代から古墳時代にかけてヒスイは、装身具や勾玉に加工されて珍重された。驚くことに、それらはすべて糸魚川産だったという。ところが奈良時代以降、その文化が途絶えたことで、原産地がどこかもすっかり忘れられ、渡来品とさえ考えられていた。この峡谷でヒスイが再発見されたのは、それほど古い話ではなく、1935(昭和10)年のことだ。

もと来た道を戻り、北陸自動車道経由で今度は親不知(おやしらず)へ向かった。東隣にある子不知(こしらず)とともに、北アルプス(飛騨山脈)が日本海に直接没する景勝地として有名だ。海岸線に断崖絶壁が連なっているため、江戸時代まで、通行には波間を縫って狭い岩場を走り抜けるよりほかに方法がなかった(下注)。漢文風の珍しい地名は、親子といえども互いを気遣う余裕がないほどの難所という意味だ。

*注 南の坂田峠を越える山道もあったが、距離が長く、標高600mまで上らなければならない悪路だった。

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断崖が連続する親不知海岸
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図4 同 親不知周辺
 

その断崖の中腹に道路が開削されたのは、1883(明治16)年のことだ。越中越後を結ぶ主要街道として、その後何度か改修整備が行われたが、1966(昭和41)年に、山側に長さ734mの天険トンネルが完成したことにより、旧道となった。

方や、鉄道の開通は1912(大正元)年で、道路の直下に単線で長さ668mの親不知トンネルが通された。日本海縦貫線としての重要性から、こちらも1966年に、現在の親不知トンネル(長さ4536m)を含む複線の新線が完成して、廃線となった。

旧道と廃線トンネル(下注)は遊歩道として開放されていて、階段道を介して周遊することができる。私たちは親不知観光ホテル前の駐車場にクルマを停めて、旧道を西へ歩き始めた。張り出し尾根を回ったところに、さっそく展望台があった。そこに立つと、正面は真一文字の青い水平線、左右には険しい断崖が幾重にも折り重なって見える。

*注 旧道は「親不知コミュニティロード」の名がある。廃線トンネルは、案内板で「親不知煉瓦トンネル」と紹介されていた。

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(左)コミュニティロード展望台から望む日本海
(右)日本アルプスの父、ウォスター・ウェストンの銅像
 

旧道を少し進むと、「如砥如矢(とのごとく、やのごとし)」の文字が刻まれた岩壁の前に出た。明治の開削時に彫られたもので、砥石のように平らで、矢のように真直ぐだと、完成したての道路を称える記念碑だ(下注)。140年風雨にさらされてもなおくっきりと残り、当時の人々の喜びが伝わってくる。だが残念なことに、旧道はここで通行止めになっていて、廃線トンネルの西口へ回ることができない。

*注 左隣の岩壁にも「天下之嶮」、「波激す 足下千丈 親不知」などの刻字がある。

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岩壁に刻まれた「如砥如矢」の文字
 

一方、先ほどの駐車場から谷間の階段道を降りていくと、トンネルの東口に達する。ポータルはいたって普通で、記念の扁額などは嵌っていなかった。親不知子不知に穿たれた旧線トンネルは数本あり(下注)、その中でこれが最長というわけでもないからだろう。

*注 前後のトンネルも残っていることが肉眼で確認できるが、接近は困難。

内部も通行可能だ。直線なので出口の明かりは見えるものの、湿度が高いせいか、ぼんやりしている。枕木の撤去跡には凹凸が残り、ごつごつしたバラストも散らばっていて、足を取られやすい。それで、線路跡の海側に土盛りして歩道のようにしてある。照明の間隔が開いていて足元が暗いから、これはありがたい。

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旧 親不知鉄道トンネルの東口
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(左)西口から東望、内壁の黒ずみは蒸機の煤
(右)東口、次のトンネルが見えるが近づけない
 

東口ではまた、階段を伝って波打ち際まで降りることができる。そこは猫の額ほどの浜で、打ち上げられた大小の丸石で埋め尽くされていた。東も西も岩場に断崖が迫り、打ち寄せる波が激しく砕け散っている。確かに、ここを越えていくのは命懸けだ。

クルマに戻って、風波川東側の国道脇に設けられた親不知記念広場にも立ち寄った。ここも展望台になっているが、目を引いたのは、隅にあった一等水準点だ。金属標をコンクリートで固めてあり、経緯度や標高を刻んだ記念碑を伴っている。やはり親不知は特別の場所らしい。

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(左)波打ち際へ降りる階段
(右)丸石で埋まった浜に断崖が迫る
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親不知記念広場の一等水準点と記念碑
 

糸魚川への帰り道、青海(おうみ)にあるデンカ(旧 電気化学工業)の専用貨物線を訪れた。この工場では、青海黒姫山の石灰石を利用してカーバイドやセメント製品を生産している。かつてはその製品や原料を積んだ貨物列車が、旧 北陸本線青海駅との間を行き来していたのだが、運行は2008年をもって終了した。

先に上流へ向かうと、道路の御幸橋(みゆきばし)に並行して青海川を斜めに横断している鉄橋と、前後の線路がまだ残っていた。これは採掘地と工場を結ぶ通称「原石線」だが、レールや枕木は粉まみれで、しばらく使われていないように見える。一方、工場から青海駅へ出ていく貨物線はすでに撤去され、草ぼうぼうの廃線跡と化していた。地形図にはまだ現役のように描かれているものの、実態は遠い過去の記憶となりつつある。

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デンカ専用貨物線
(左)青海川を渡る鉄橋
(右)草生した青海駅手前の線路敷
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図5 同 青海周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図富山(昭和63年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年1月12日 (木)

コンターサークル地図の旅-亀ノ瀬トンネル、斑鳩の古寺、天理軽便鉄道跡

2022年11月6日、秋のコンターサークル-s 関西の旅2日目は、いつになく多彩な旅程になった。

午前中は、国交省の近畿地方整備局大和川河川事務所が開催している「亀の瀬地すべり見学会」に参加して、地中に眠る旧 大阪鉄道(現 JR関西本線)の亀ノ瀬トンネルを見学する。地滑りでとうに崩壊したと思われていたが、排水トンネルの建設中に偶然発見されたという奇跡の遺構だ。

午後は奈良盆地に戻り、秋たけなわの斑鳩(いかるが)の里で、法隆寺をはじめ、近傍の古寺を巡る。その後、天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡まで足を延ばしたので、結果的には分野が鉄道系に傾いたことは否めないが…。

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地中に眠る旧大阪鉄道亀ノ瀬トンネル
大阪側から奈良側最奥部を望む
掲載写真は、2022年11月のコンター旅当日のほか、2020年9月~2022年11月の間に撮影
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秋たけなわの法起寺三重塔
 
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図1 今回訪問したエリアの1:200,000地勢図
2012(平成24)年修正

朝9時07分、関西本線(以下、関西線という)の三郷(さんごう)駅前に集合したのは、昨日のメンバー(大出、木下親子、私)に浅倉さんを加えて、計5名。さっそく大和川(やまとがわ)に沿う県道の側歩道を下流に向かって歩き始めた。住宅街を通り抜け、谷が狭まる手前で、龍田古道(たつたこどう)と標識に記された山道に入る。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
三郷駅~河内堅上駅
 

龍田古道というのは、飛鳥~奈良時代に大和(現 奈良県)に置かれた都と河内(現 大阪府)を結んでいた官道のことだ。しかし、1300年も前の話なので、「地すべり地である亀の瀬を越える箇所については大和川沿いの道のほか、(北側の)三室山・雁多尾畑を抜ける道など、幾つかのルートが考えられて」(下注)いるという。

*注 奈良県歴史文化資源データベース「いかすなら」 https://www3.pref.nara.jp/ikasu-nara/ による。

奈良から大阪へ府県境を越え、森に覆われた急な坂道を上っていく。峠八幡神社の前を過ぎ、下り坂が2車線道に合流するところで、「亀の瀬地すべり資料室」のプレハブ建物が見えてきた。

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(左)峠八幡神社と地蔵堂
(右)龍田古道の細道
 

10時の開館まで少し時間がある。その間、下流に見えている関西線の第四大和川橋梁を観察した。全長233mのこの鉄橋は川と浅い角度で交差していて、中央部の橋桁が、川の上に渡されたトラスで支えられているのが珍しい。竣工は1932(昭和7)年だが、これこそ亀の瀬を通過する交通路にとって宿命の、地滑りを避けるための緊急対策だった。

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第四大和川橋梁を亀の瀬から遠望
橋桁を直交トラスが支える
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下流(大阪)側から見た橋梁
浅い角度で川と交差
 

資料室に入り、受付を済ませた後、ビデオと展示パネルで、当地の地滑りの実態と対策について学んだ。それによると…、

この一帯は生駒(いこま)山地の南端で、大和川の谷が東西に貫通している。右岸(北岸)には数百万年前、北側にあった火山の新旧2回の噴火で流れ出た溶岩が堆積していて、新旧の境目には、風化などで粘土化した地層が挟まっている。これが地下水を含んで、厄介な「滑り面」になる(下図の赤い破線)。

上に載る新溶岩の層は厚くて重く、谷に向かって傾斜している。そこに、河岸浸食や南側の断層帯の活動などが重なって、たびたび地滑りを起こしてきた。大和川の流路が南に膨らんでいるのもその影響で、明治以降に限っても、大規模な地滑りが3回発生している(下注)。

*注 1903(明治36)年、1931~33(昭和6~8)年、1967(昭和42)年に発生。

滑った土砂は河道をふさぐ。大和川は、奈良盆地に降った雨水が集まる主要河川だ。閉塞によって上流側が浸水するのはもとより、満水になった土砂ダムが決壊すれば、下流の大阪平野にも甚大な被害をもたらすことになる。

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亀の瀬の地質と地形構造
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
 

そのため、1962(昭和37)年から大規模な対策工事が進められてきた。

一つは地滑りを食い止める杭打ちだ。直径最大6.5m、最深96mもある深礎工を滑り方向に直交する形で多数配置して、いわば地中に堰を造っている(下図の「深礎工」)。二つ目に、滑りやすい表土を除去する(同「排土工」)。三つ目には、井戸と排水路を地中に張り巡らせて、地下水位を低下させる(同「集水井」「排水トンネル」)。

数十年にわたる集中的な対策が効果を発揮して、今では土塊の移動がほとんど観測されなくなっているという。

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対策工事全体配置図(同上)
 

この後、ボランティアの方の案内で、排水トンネルを実際に見学した。まずは資料室の上手にある1号トンネルへ。床の中央に設けられた浅い水路から、絶えず地下水が流れ出ている。天井に巨大な穴がぽっかり開いているのは先述の深礎工で、地滑り地帯全体で170本並んでいるものの一つだ。

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1号排水トンネル坑口
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1号トンネル内部
(左)水路には絶えず水流が
(右)巨大な深礎工
 

地上に戻り、今度は道を下って、7号トンネルに移動した。こちらは1号よりも内径が小さい。内部を進んでいくと、まもなく斜めに交差している坑道が現れた。これが、長年の封印が解かれた亀ノ瀬トンネルだった。

左手(大阪側)はすぐに行き止まりになるが、右手(奈良側)は奥が深い。手前は全体が分厚いモルタルで覆われているものの、奥は長さ39mにわたって本来の煉瓦積みがそのまま残っている。スポットライトが床から照らしているので、細部もよくわかる。

内壁は、側面が一段おきに長手積みと小口積みを繰り返すイギリス積み、天井面は長手を千鳥式に積む長手積みだ。ところどころ黒ずんでいるのは、蒸気機関車の煤煙が付着しているらしい。そして最奥部からは、地山の土砂がなまなましく噴き出している。「この先立入禁止、酸欠恐れ有」の注意書きに足がすくむ。

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7号排水トンネルと鉄道トンネルの交差地点
鉄道の奈良側(写真の手前)から大阪側(同 奥)を撮影
排水路は入口(同 左手)から奥(同 右手)に向かって下り勾配に
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(左)鉄道トンネルの奈良側最奥部から大阪側を望む
(右)奈良側最奥部は土砂が噴き出している
 

関西線奈良~JR難波(旧 湊町(みなとまち))間の前身、大阪鉄道は1892(明治25)年に全通したが、亀の瀬では当初、右岸(北岸)を通っていた。最後まで工事が長引いたのがこのトンネルで、壁面に亀裂が入るなどしたため、改築のうえでようやく完成している(下注)。

*注 着工時は亀ノ瀬トンネル(長さ413m)と芝山トンネル(同216m)の2本に分かれていたが、改築に際し一本化されたという。

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図3 関西線旧線が描かれた1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

1924(大正13)年に複線化する際、トンネルは下り線用とされ、北側に並行して上り線のトンネルが掘られた。ところが1932(昭和7)年2月に、土圧で内部が変形して、いずれも使用不能となる。やむをえずトンネルの手前に、仮駅「亀ノ瀬東口」「亀ノ瀬西口」が設けられ、この間は徒歩連絡となった。

下の地形図はその状況を記録した貴重な版だが、これを見る限り、乗客たちはあの龍田古道の上り下りを強いられたようだ。

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図4 不通区間の徒歩連絡の状況が描かれた1:50,000地形図(2倍拡大)
左岸の国道も「荷車を通せざる部」の記号になっている
(1932(昭和7)年測図)
 

7月初めから、安全な対岸へ迂回する新線の工事が始まった。これが先ほど見た第四大和川橋梁を渡っていく現行ルートだが、よほどの突貫作業を行ったのだろう。早くもこの年の12月末に、新線経由で列車の運行が再開されている。

一方、放棄された旧トンネルは、坑口が埋まってしまったため、2008年に発見されるまで80年近くも地中に眠っていた。そのとき、公開対象となっている下り線用だけでなく、上り線のトンネルも見つかったのだが、排水トンネルより高い位置にあることなどから、惜しくも埋め戻されたそうだ。

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排水・鉄道トンネルの位置関係
公開されているのは図左側の下り線トンネル、右側の上り線は埋め戻された
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
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関西本線のルートの移り変わり(同上)
 

見学ツアーは、この後、亀の瀬の名のもとになった川中の亀岩や、大和川の舟運の安全を祈願した龍王社など、付近の名所旧跡を案内してもらって、解散となった。河内堅上駅まで線路沿いの道を歩いて、関西線の上り電車に乗る。

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大和川を泳ぐ(?)亀岩
見る角度によって頭が現れる
 

■参考サイト
大和川河川事務所-亀の瀬 https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guide/landslide/

法隆寺駅で下車し、駅前から奈良交通の小型バスで法隆寺へ向かった。法隆寺参道という停留所が終点だ。以前は南大門の近くに降車場があったのだが(下注)、今は、門前まで進みながら反対車線を引き返し、わざわざ遠く離れた国道のそばで降ろされる。

*注 バス停名も法隆寺門前だった。当時の降車場は、身障者用の停車スペースに転用されている。

午後1時を回っているので、参道に並ぶ食堂で昼食にした。町おこしで竜田揚げが名物になっているらしく、その定食を注文する。唐揚げとどう違うのかよくわからないが、ふつうにおいしかったことは確かだ。

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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
 

法隆寺には何度か来ているとはいえ、エンタシスの回廊が廻らされ、中央に金堂と五重塔が並び建つ美しくも厳かな境内のたたずまいは、いつ見てもすばらしい。宝物館である大宝蔵院で百済観音像を拝み、東院伽藍の夢殿も巡って、しばしいにしえの雰囲気に浸った。

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法隆寺、西院伽藍正面
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大講堂前から境内を南望
左から金堂、中門、五重塔
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(左)大講堂
(右)東院伽藍、夢殿
 

その後は小道を北上する。10分少し歩くと、行く手に法輪寺の三重塔が見えてくる。塔は戦時中に落雷で焼失したため、1975年に再建されたが、木立や背後の森に溶け込むようにして立つ姿は、そうした経緯すら忘れさせる。

寺に寄り添う形で、三井(みい)の集落がある。奈良の旧家らしい立派な門構えの家が並ぶ中、聖徳太子が掘った三つの古井戸の一つ「赤染井(あかぞめのい)」と伝えられる三井の旧跡(下注)にも立ち寄った。

*注 説明板によれば、深さ4.24m、直径約0.9m。明治時代には埋まっていたが、1932(昭和7)年の発掘調査で構造が明らかにされた。

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法輪寺を北望、森に溶け込む三重塔
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三井
(左)集落の中にひっそりと
(右)覗くと水面が見えた
 

山手の斑鳩溜池(いかるがためいけ)の堤を通って、次は法起寺(下注)へ。法輪寺にもまして鄙びた風情だが、侮るなかれ。シンボルの三重塔は8世紀初頭の建立で、国宝指定を受けている。それで1993年、法隆寺の名だたる伽藍とともに、日本で最初の世界遺産に登録されたという経歴を持つお寺だ。

この塔も、周りの田園から仰ぐのがいい。一部の田んぼにはコスモスが植えられていて、秋は白とピンクの花の海になる(冒頭写真参照)。

*注 一般に「ほっきじ」と読まれるが、正式には「ほうきじ」。

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法起寺
鄙びた風情の南門と三重塔
 

私たちが行ったときにはもう花の盛りを過ぎていたが、ボランティアのガイドさんが「中宮寺跡が今、満開ですよ」と教えてくれた。現在、法隆寺東院伽藍の隣にある中宮寺だが、聖徳太子により尼寺として創建された当時は、東に500mほど離れた場所にあった。跡地は発掘後に公園化され、広いコスモス畑が作られている。伽藍跡には基壇と復元礎石があるだけなので、訪れる人の大半は花が目当てだ。

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中宮寺跡史跡公園
復元礎石が並ぶ塔跡

秋の日は短い。そろそろ陽が傾いてきたので、急ぎ天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡に向かった。

天理軽便鉄道というのは、関西線の法隆寺駅に隣接する新法隆寺から東へ、天理まで走っていたニブロク(762mm)軌間の路線だ。1915(大正4)年の開業だが、早くも1921(大正10)年に近鉄の前身、大阪電気軌道(大軌)に買収されている。

大軌が建設した畝傍(うねび)線(現 近鉄橿原(かしはら)線)によって、軽便鉄道は平端(ひらはた)で分断される。東側の平端~天理間は標準軌に改軌、電化されて、現在の近鉄天理線になった。方や西側の新法隆寺~平端間は、大軌法隆寺線としてニブロク軌間のまま存続したが、戦時下の1945(昭和20)年に不要不急路線として休止、そのまま1952(昭和27)年に廃止されてしまった。

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図6 法隆寺~平端間の1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
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図7 大軌法隆寺線(天理機関鉄道と注記)が描かれた旧版1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

富雄川(とみおがわ)に沿って南下し、関西線の踏切を越えると、東側に木戸池と呼ばれる溜池が現れる。軽便鉄道の線路は、こともあろうに池の真ん中を東西に横切っていた。その築堤が今も手つかずで残っている。築堤の東寄りでは水を通わせるために桁橋が架かっていたらしく、橋台も観察できる。

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木戸池を貫く天理軽便鉄道跡
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築堤の東寄りに残る煉瓦の橋台
背後を関西線が並走
 

池の東側では、廃線跡はすぐに消失してしまうが、西側は、富雄川を隔てた田園地帯に、築堤が緩やかなカーブを描いている。畑などに利用されながら関西線に並行していて、法隆寺駅東の住宅地に突き当たるまでたどることができる。途中には、小さな用水路を渡るレンガの橋台もあった。

法隆寺駅に戻ってきたのは17時過ぎ、すでに陽は西の山に沈み、夕闇が迫っている。盛りだくさんの旅の思い出をかかえて、参加者はそれぞれのルートで家路についた。

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富雄川の西に延びる廃線跡の築堤
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(左)築堤の続きは小道に
(右)用水路をまたぐ橋台
 

【付記】

旧 安堵(あんど)駅に近い安堵町歴史民俗資料館に、天理軽便鉄道に関する遺品や鉄道模型、ルート周辺の地形図、空中写真など、興味深い資料展示がある(下の写真参照)。

■参考サイト
安堵町歴史民俗資料館 http://mus.ando-rekimin.jp/

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安堵町歴史民俗資料館
正面入口
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天理軽便鉄道の資料コーナー
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(左)木戸池東に建っていたという勾配標
(右)廃線後、近鉄郡山駅のホームの柱に転用されていた米国カーネギー社製のレール断片
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安堵駅にさしかかるレールカー(1/17復元模型)
 

一方、実際の線路の痕跡は、上述のとおり木戸池より西に集中している。東側で廃線跡を追える場所は少なく、以下の3か所ぐらいだ。

・安堵町の安堵駐在所から県道裏を東に延びる路地 約100m
・岡崎川右岸(西岸)の田園地帯にある細長い地割 約60m
・大和郡山市の昭和工業団地東縁から平端駅前までの直線道路 約700m(うち平端駅寄りの150mは、道路南側の宅地列が廃線跡)

中間部は西名阪自動車道と大規模な土地開発により、跡形もなくなってしまった。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年修正)、陸地測量部発行の5万分の1地形図大阪東南部(昭和7年要部修正)、2万5千分の1地形図郡山、信貴山、大和高田(いずれも大正11年測図)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2023年1月 4日 (水)

コンターサークル地図の旅-木津川渓谷と笠置山

ここ数日、明け方の気温が10度前後まで下がり、季節の深まりを肌で感じるようになった。2022年コンターサークル-S 秋の旅の後半は関西が舞台で、11月5日は木津川(きづがわ)の渓谷を歩く。

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関西本線木津川橋梁を渡る列車(南望)
 

木津川は、桂川や宇治川とともに、大阪湾に注ぐ淀川の主要支流の一つだ。主に三重県伊賀地方(上野盆地)の水を集めて京都盆地へ流れ下るが、その途中、標高400~600mの笠置(かさぎ)山地に深い谷を刻んでいる。名古屋と大阪を結ぶJR関西本線(以下、関西線という。下注)のルートはこの谷間を利用していて、車窓から、東海道本線や新幹線では出会えない本格的な渓谷風景を眺めることができる。

*注 路線の終点は大阪駅ではなく、JR難波(なんば、旧 湊町)駅。

関西線は両端こそ大都市近郊路線で電車が頻発しているが、中間部にあるこの亀山~加茂(かも)間は単線非電化のままで、日中はキハ120系気動車が1両か2両で1時間おきに走るだけの閑散区間だ。今日は秋たけなわの木津川渓谷に加えて、のどかなローカル線の風情も楽しみたいと思う。

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図1 木津川渓谷周辺の1:200,000地勢図
(左)2003(平成15)年修正、(右)1988(昭和63)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

集合場所は大河原(おおかわら)駅だ。私は、加茂から渓谷を遡る上り列車で9時56分に到着した。10両は停まれそうな長いホームや撤去された中線の跡に幹線の片鱗が窺えるが、駅は無人で、待合室もがらんとしている。10時18分の下り列車で大出さんと木下さん親子が到着して、4名で静かな駅を後にした。

目の前に、木津川の広い河原がある。対岸との間に沈水橋の恋路橋(こいじばし)が架かっていて、どこか高知の四万十川にも似た光景だ。橋を渡り、南大河原の集落を抜けて、川沿いの舗装道に出る。

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大河原駅
(左)長いホームと中線跡が幹線の名残
(右)がらんとした待合室
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木津川を横断する恋路橋
 

杉木立の間を1kmほど進むと、道端の岩肌に小ぶりの仏様が彫られていた。傍らに立つ案内板によれば、この摩崖仏は室町時代、天文3(1534)年の銘がある十一面観音で、なるほどよく見ると、頭部に小さな顔がいくつも並んでいる。

舗装道が上り坂にさしかかる地点で、地道が斜め右へ分かれていた。東海自然歩道の標識が立っているので迷うことはない。と、まもなく川を背にしてまた石仏があった。柔和な表情の地蔵様で、文亀2(1502)年の銘をもつと案内板は告げる。

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(左)十一面観音摩崖仏
(右)柔和な表情の地蔵尊
 

今は忘れ去られたような小道だが、500年も前にここを旅人が行き交っていたことが知れる。現代の国道や鉄道は、木津川断層で生じた右岸の支谷を直進しているが、昔、東海道の関宿から奈良に通じていた大和(やまと)街道(下注)は、対岸のこのルートを通っていた。古仏はいわばその歴史の証人だ。

*注 伊賀上野から奈良の間は笠置街道ともいう。

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(左)川べりを行く旧大和街道
(右)杉木立から木津川の流れが覗く
 

しばらくはクルマの轍も見えていた路面に、やがて落ち葉や枯れ枝が積もり始めた。だが、ひどく荒れてはおらず、歩くのに支障はなかった。急なアップダウンを一つ越えると、対岸に相楽発電所の建物が見えてきた。川を横断している取水堰の先で河原に降りていく小道があったので、行ってみる。

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相楽発電所と取水堰
 

期待にたがわず、そこは上手に発電所、下手に関西線の木津川橋梁を望む絶好の場所だった。鉄橋は1897(明治30)年の竣工で、長短のトラス3スパンと、左岸側にガーダー2連という構成だ。後に重量列車に対応するため、中央部は大型の曲弦ワーレントラスに交換されたが、両側は明治のトラスの上部に鋼材を補強したユニークな形状で残された。

関西線は、ここで右岸から古道の通る左岸に移る。次の列車が来るのを待つ間、河原で昼食休憩にした。下り列車の通過を見届けた後は、鉄橋の下をくぐって下流へ移動し、地元で潜没橋と呼ばれている同じような沈下橋のたもとで、今度は上り列車を撮り鉄した(冒頭写真参照)。

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木津川橋梁を北望
 

この後、旧街道はいったん木津川から離れる。踏切で関西線を渡って、山あいの隠れ里のような飛鳥路(あすかじ)集落へと谷を上っていく。

集落が載る谷の成因は興味深い。断面がU字状であること、地質図に礫や砂の堆積が示されていること、さらに、布目川の谷との境が風隙(下注)になっていて、谷の方向も布目川の上流から滑らかにつながるように見えること。どうやらこれは布目川の旧流路のようだ。川はもともと北流していたが、ある時点から東西方向の断層(脆くて侵蝕されやすい)に沿う形で、西に流路を変えたのではないだろうか。

*注 浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象により、谷(水隙)の断面が露出したもの。

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(左)飛鳥路に向かう小道
(右)飛鳥路集落の家屋
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(左)布目橋を渡る
(右)深い淵をつくる布目川
 

風隙から坂を下り、布目橋を渡ると次の案内板が立っていた。この先、布目川の河原に多数の甌穴(ポットホール、下注)があるらしい。小道から水辺に降りて探すと、露出した花崗岩に半径数十cmの丸い穴がいくつも穿たれているのが見つかった。川はかなりの急流で、谷間に水音を響かせながら岩肌を滑り落ちていく。上流で発電用の取水が始まる前は、流量ももっと多く、甌穴が生じやすい環境だったはずだ。

*注 流水の力で礫(小石)が回転して平滑な河底に窪みを掘るもの。流れが速く、礫の供給が多い場所で見られる。

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河原で見つけた甌穴群
 

関西線の鉄橋が見えてきて、道は再び木津川の谷に出る。布目川発電所の横を通過し、人一人歩く幅しかない布目踏切を渡った。ここから約1kmの間は、木津川渓谷が最も狭まるハイライト区間だ。急傾斜の山腹に張りつくカーブだらけの線路に、落石除けの覆道が次々と現れる。遊歩道は、ときに線路の側道、ときに橋や桟道になりながら、川べりの狭い空間を縫っていく。列車が通ったら風圧をまともに受けそうなスリリングなルートが続いている。

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(左)布目川発電所
(右)一人分の幅しかない布目踏切
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(左)覆道と連続カーブの線路
(右)線路際に付けられた遊歩道
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(左)迫る列車から退避
(右)巨石の転がる渓谷
 

巨石の転がる渓谷を抜け、木津川に架かるカンチレバートラスの笠置橋のたもとに出たのは、13時30分ごろだった。広い河原を利用したオートキャンプ場がよく賑わっている。まだ陽は高いので、町中を通って笠置山(かさぎやま)の登山口に足を向けた。

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カンチレバートラスの笠置橋が見えてきた
 

笠置山は、木津川の南にそびえる標高288mの山だ。山頂には飛鳥時代、7世紀の創建と伝えられる笠置寺(かさぎでら)がある。麓との高度差は200mほどなので、軽いハイキングと高をくくっていたら、参道は心臓破りの急坂と石段だった。途中で休憩しながら、40分ほどかけて上りきる。

拝観料300円を納めて境内へ。寺は奈良時代から鎌倉時代にかけて栄え、人々の厚い信仰を受けていた。しかし鎌倉末期、後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱で焼亡し、それ以来、寺勢が衰えてしまった。古い伽藍は残っておらず、注目すべきは、花崗岩の奇岩巨岩とそこに彫られた摩崖仏だ。

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(左)笠置山登山口
(右)急坂と石段の参道を上る
 

まず、参道の頭上でオーバーハングした一対の巨岩、笠置石(かさおきいし)に度肝を抜かれる。鹿狩りに来た天武天皇が目印に笠を置いたという言い伝えがあり、笠置の地名もこれに由来するという。その隣にあるのが、高さ15mの巨岩の側面に彫られた本尊の弥勒摩崖仏だ。しかし、数度の火災の影響で図像はほぼ消失し、光背の輪郭しかわからない。一方、その先に同じような伝 虚空蔵摩崖仏があって、こちらは線画で刻まれた菩薩像が明瞭に読み取れる。もう少し距離をとって見たいが、崖際のため足場がないのが残念だ。

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笠置石(かさおきいし)
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正月堂と、光背の輪郭が残る弥勒摩崖仏(画面左の大岩)
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線画が鮮やかな伝 虚空蔵摩崖仏
 

この後は、昔の行場をなぞる探索路を行く。石段の上り下りがかなりきついが、巨石の隙間を通過する胎内くぐり、叩くと鼓のような音がする太鼓石、押すとぐらぐら動くゆるぎ石など、体験型のアトラクションでおもしろい。ゆるぎ石のテラスからは、はるか下方にさきほど歩いてきた木津川渓谷を眺めることができた。

順路の最後に通るもみじ公園では、すでにカエデの葉がいい頃合いに染まっている。笠置駅方面の展望台で一休みしてから、境内を後にした。往路の参道は急過ぎて足を痛めそうなので、距離は長くなるが勾配の緩い車道を降りる。渓谷散策の残り時間で訪ねた笠置山だったが、思いのほか見どころが多くて楽しめた。

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(左)胎内くぐり
(右)急な石段が続く
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笠置山から木津川渓谷の眺め(北東望)
 

小さな町の中を歩いて、笠置駅へ向かう。切妻平屋の駅舎はきれいに整備されていた。待合室にストリートピアノが置いてあり、駅務室の区画にはカフェが入居している。たとえ簡易委託でも、出札口に人の姿があるのはほっとする。暮れなずむホームのベンチに並び腰を下ろして、17時20分に来る下り列車を待った。

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笠置駅
(左)整備された駅舎
(右)上り列車を見送る
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、名古屋(昭和63年修正)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

2022年12月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-会津・滝沢街道

5月に会津地方の大内宿や裏磐梯を歩いた際、眺めた近辺の地図で目に留まった場所がほかにもあった。それでコンターサークル-S 秋の旅も会津でスタートする。2022年10月15日の初日に訪れたのは、会津若松と猪苗代(いなわしろ)を結んでいた滝沢(たきざわ)街道(下注)だ。沿線には戊辰戦争の史跡や湖畔の風景だけでなく、明治の洋館、水門・水路、貴重な湿原など見どころが点在している。

*注 滝沢街道と呼ばれるのは、若松から奥州街道の二本松に通じていた二本松街道(上街道)の一部。若松から沓掛峠までは白河街道を兼ねている。地形図には、中通り側からの呼び名である越後街道の注記がある。

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十六橋水門
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図1 滝沢街道周辺の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集
 

朝は薄曇りだったが、天気予報によると、昼ごろには青空が戻るらしい。集合地はJR磐越西線の猪苗代駅なので、私は前泊した会津若松から、9時30分発の郡山行の電車で向かった。猪苗代駅のホームで、下り列車でやってきた大出さんと合流する。参加者はこの2名だ。

歩く距離を節約するために、駅前で磐梯東都バスの金の橋(きんのはし)行きに乗り継いだ。ほかに2グループ乗っていたが、みな途中の野口英世記念館前で降り、湖畔の長浜まで乗ったのは私たちだけだった。目の前が猪苗代湖で、遊覧船が出る翁島港がある。白鳥の形をしたボートも浮かんで、観光地らしい風景だ。

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遊覧船が発着する長浜の翁島港
 

本日はここを起点に西へ、会津若松市内の飯盛山下まで約12kmの道のりを歩く。後で知ったのだがこのルート、堀淳一さんも2003年に訪れている。私たちとは逆向きに、後述する金堀(かねほり)を出発し、長浜に至る行程だった。「歴史廃墟を歩く旅と地図-水路・古道・産業遺跡・廃線路」(講談社+α新書、2004年)に詳細が記されているが、堀さんが20年前に見た情景は、嬉しいことに今もほとんど変わっていない。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
長浜~強清水間
 

10時30分、長浜を後にした。現在の国道49号はそのまま湖岸に沿っていくが、旧道は背後から張り出す流れ山地形をショートカットしている。国道から右にそれて坂道を上り、さらに森の中の脇道をたどって、最初の見どころ、天鏡閣へ。

1908(明治41)年に有栖川宮別邸として竣工したこの建物は、木造スレート葺2階建ての洋館で、重要文化財にも指定されている。中に入ると、一部が畳敷きのほかは板張り床の洋風仕様で、装飾的なマントルピースやシャンデリアなど、優雅な調度品が目を引く。最上階の展望室も開放されているが、周りの木々が大きく育っていて、湖を眺めることはもうできなかった。

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天鏡閣外観
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優雅な調度品が配された客間
 

この後も、舗装道になっている旧道を進む。名も知らぬ沼を横に見て鞍部を越えると、道はつづら折りで戸ノ口集落へ下っていった。地形図には、集落の中に519.9mの水準点が描かれている。これを実際に探し当てるのも旧道歩きの楽しみなので(下注)、少し寄り道した。見当をつけたのは、山裾の小さな神社だ。参道脇におなじみの標識と、蓋つきで地下に埋設された標石があった。

*注 天鏡閣のそばにもあったのだが、探すのをすっかり失念していた。

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名も知らぬ沼の畔を通過
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戸ノ口集落
(左)集落へヘアピンで降りる
(右)神社参道脇の水準点、標石のあるマンホールは雑草の陰
 

村の前には、やわらかな日差しのもと、稲刈りの終わった田んぼが広がる。銚子ノ口から引き込まれた水面を縁取る森が早や色づき始めている。まもなく日橋川(にっぱしがわ)を渡る十六橋にさしかかった。猪苗代湖の水は、この川で会津盆地へと流れ下る。注目は、橋の右手に並行している大規模な水門(冒頭写真参照)で、もともと湖の反対側で取水する安積(あさか)疏水の付属施設として、水位調節の目的で造られた。

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稲刈りの終わった村の前の田んぼ
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十六橋前の水面
正面奥の水路で猪苗代湖に通じる
 

現地の案内板によれば、1880(明治13)年に完成した初代の十六橋水門は、16連アーチの石造橋と一体になった構造で、各アーチに開閉可能な杉板の扉が設置されていた。1914(大正3)年に今見る16連、電動式の水門に改修され、その際に道路橋が分離されたという。ただ、十六橋の謂れは明治どころかもっと古く、弘法大師が架けたという伝説にまで遡るそうだ。

その後、1942(昭和17)年に小石ヶ浜水門が完成し、湖の水位調節機能はそちらに移された。十六橋水門の現在の役割は、流域の大雨などで水位が上がるときに排水する、洪水調節機能だけらしい。つまり、ほとんど隠居の身なのだが、施設は近代化産業遺産として美しく維持されていて、水面に映る整然としたたたずまいは一幅の絵のようだ。たもとの広場には、疏水の設計に携わったオランダ人技師ファン・ドールンの像も建ち、水門とその一帯を優しく見下ろしている。

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(左)十六橋に並行する水門
(右)第一門、第二門は戸ノ口堰の取水用
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(左)昔の十六橋水門(現地案内板を撮影)
(右)ファン・ドールンの銅像が広場に建つ
 

広場のあずまやで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。しばらくは林道のような砂利道が続く。国道49号と斜めに交差してなおも進むと、戸ノ口原古戦場跡の案内板が立っていた。1868年、押し寄せる新政府軍を会津藩守備隊が迎え撃った場所だ。近くに次の528.4m水準点があるはずだが、丈の高いすすきに埋もれたのか見つけられなかった。

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戸ノ口原古戦場跡にある供養塔
 

林を縫う道の途中で、赤井谷地(あかいやち)湿原の案内板を見つけた。左手の丘へ上る道をたどり、湿原が見渡せる展望地に出る。尾瀬のように横断する木道がないので、ここが唯一の見学場所になっている。

南に広がるヨシに灌木が混じる湿原は、かつての湖底が水位の低下で沼地を経て変化したものだ。約1km四方の区域が天然記念物として保護されている。案内板を読んだ大出さんが、昭和天皇が二度来ていることを指摘する。新婚時代にさっきの天鏡閣に滞在したことがあるので、きっとお気に入りの土地だったのだろう。

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赤井谷地湿原の展望
 

この丘を含めて周辺は、磐梯山の古い大噴火で生じた流れ山で埋め尽くされている。街道に沿って会津藩軍が敷いた陣地も、もこもことした地形をうまく利用したものだ。森を抜けると右手後方に、雲が切れつつあるその磐梯山が望めた。

強清水(こわしみず)には、旧道沿いに何軒かの蕎麦屋があって、どれも繁盛していた。事前の調査不足で食べる算段をしておらず、通過してしまったのは残念だ。強清水の名が示すとおり、集落の山際に有名な湧水があり、周りにはアキアカネが乱舞するそば畑が広がっている。

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強清水
(左)旧道・新道分岐、正面の消防車庫の左の細道が旧道
(右)名物の蕎麦屋が並ぶ
 
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図3 同 強清水~会津若松市内
 

標高約520mの強清水は、猪苗代湖の旧湖盆の末端に位置している。この後、街道は、沓掛(くつかけ)峠と滝沢峠の二段構えで、標高200m台の会津盆地まで一気に高度を下げる。急坂が続く旧道を改良するため、明治に入って荷馬車が通れる新道が開削された。そちらは旧国道49号で(下注)、今もクルマで走れる舗装道だが、私たちはもちろん、徒歩でしか行けない旧道をめざすつもりだ。

*注 1966年の滝沢バイパス開通で、国道の指定を解除された。現在は会津若松市道。

沓掛峠旧道の入口はすでに森に還っているため、国道294号を少し南下し、北西方向に分かれる道を入る。国道脇に案内板が立っているので間違いないのだが、100mも行かないうちにバリケードで通行止めにされていた。代替路があるかと周囲を探してみたものの、やはりここを進むしかなさそうだ。

峠道は下り一方の片坂で、楽に歩けそうに思える。ところが誰も通らないので、日なたは下草ですっかり覆われ、切通しは山から染み出す水で、ひどいぬかるみだった。

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沓掛峠旧道
(左)草むした路面
(右)道いっぱいのぬかるみ
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白河、二本松両街道の追分付近に立つ案内板
 

ヘアピンの悪路をなんとか降りていくと、涼しげな水音が聞こえてくる。見ると、斜面の上のほうから、水流が岩を滑り落ちている。案内板によれば、これは金堀(かねほり)の滝で、自然の滝ではなく、戸ノ口堰(とのくちぜき)の水を落としているのだ。

戸ノ口堰というのは、十六橋の下流で日橋川から取水され、会津盆地を潤している灌漑用水で、1693年に若松まで通じている。旧街道の前に滝を造ったのは、おそらく行き交う旅人たちに見てもらう意図があったのだろう。滝壺(というほどのものはないが)まで落ちた水は再び水路に集められ、この先でも何度か街道と交差する。

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金堀の滝
 

まもなく森が晴れて、金堀集落が見えてきた。旧道は一時的に、右から降りてきた新道と合流する。金堀は旧宿場らしく、トタンをかぶせた茅葺屋根の家が、道路に妻面を向けて並んでいる。大出さんによると、大内宿もかつてはこんな景観だったそうだ。道端で422.8m水準点を探したが、標識はあるものの、またしても標石は見つけられなかった。

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旧道沿いの金堀集落(東望)
 

次はいよいよ滝沢峠を越える。実は金堀と滝沢の間には、3本のルートが存在する。最も古いのは、1591年に開削、1634年に改修整備された滝沢峠の旧道だが、明治に入って、1882(明治15)年により低い鞍部を通る滝沢南新道、さらに1886(明治19)年に北を迂回する北新道が相次いで開通した(下図参照)。

北新道(旧国道49号)はさっきの沓掛峠新道の続きで、クルマが走れる舗装道だ。方や南新道は、最近まで地形図に記載されていたが、最新の地理院地図では上部区間が断絶している。むしろ近世の旧道のほうが明瞭で、一条道路(幅3.0m未満の道路)として跡を追える。

旧道がハイキングコースとして再評価される一方で、南新道は不運だった。荷車が通れるように勾配を緩和した分、旧道より距離が長くなり、歩きには向かない。かといってヘアピンが急過ぎて自動車時代にも対応できず、結果的に見捨てられてしまったようだ。

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図4 複数の峠越えルートが描かれた旧版地形図
(1910(明治43)年測図)
 

旧道は金堀の集落の中で再び上りになり、滝沢峠まで50~60mの高度を稼ぐ。ついでに電波塔のある山頂まで足を延ばしてみたが、周囲は森や藪で、山頂付近に描かれている三角点にはたどり着けなかった。

峠まではふつうの舗装道だったのに、下りに転じる地点でまたバリケードが渡してあった。やむなく入ってみると、草むした地道とはいえ、沓掛峠ほどには荒れていない。直線的に降下するのでかなりの急坂だが、ところどころ丸石の石畳が残り、会津藩の主要道として整備されたことを思い出させてくれる。途中、比較的新しい休憩用のあずまやが建ち、並木道のような区間もあった。趣の深いルートなので、通行禁止にしたままなのは惜しいと思う。

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滝沢峠旧道
(左)金堀方は舗装道
(右)若松方の急坂には石畳が残る
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(左)舟石付近のあずまや
(右)もとは並木道か
 

1.5km、高低差200mを40分ほどかけて下り、麓の滝沢へ出た。ここで再び戸ノ口堰が道を横切っているが、金堀の滝で見たより水量がはるかに多い。というのも、水力発電所で使い終えた水が加えられているのだ。戸ノ口堰には地形の落差を利用した発電所が3か所あり、水量の大半がこれに利用されている。発電用水路から外れた金堀の前後は、おこぼれの水が流されているに過ぎない。

堰はこの後、飯盛山の麓へ向かうので、後を追って不動川を渡る地点まで行ってみた。森の中にひっそりと石のアーチが架かっている。九州で見るものに比べれば小規模だが、天保年間、1838年の架橋というから、貴重な歴史遺産だ。この先は通行できないので、旧滝沢本陣の前から迂回する。

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滝沢峠旧道、若松側の上り口
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戸ノ口堰
(左)豊かな水量に驚く
(右)不動川を渡る戸ノ口堰橋
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旧滝沢本陣入口
 

戸ノ口堰洞穴は、飯盛山の山裾に掘られた水路トンネルだ。さざえ堂や白虎隊士の墓とともに、トンネルの出口が飯盛山界隈の観光名所になっているので、前にも来たことがある。狭い洞穴から滔々と流れ出す豊かな水流は、猪苗代湖の生気を運んでくるようで、何度見ても印象に残る光景だ。

ゴールと定めた飯盛山下バス停には、15時30分に到着した。文字通り野を越え山を越え、起伏と見どころに富んだ約5時間のハイキングだった。

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戸ノ口堰洞穴
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夕食は会津若松駅前のマルモ食堂
名物ソースかつ丼で空腹を満たした
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図廣田(明治43年測図)、若松(明治43年測図)、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年6月17日 (金)

コンターサークル地図の旅-大内宿と下野街道中山峠

コンター旅の行先に、会津の大内宿(おおうちじゅく)をリクエストしたのは私だ。茅葺屋根の集落なら白川郷や京都の美山にもあるが、通りに沿ってこれほど整然と建ち並ぶ風景は珍しい。それで、一度この目で見たいと思っていた。もとより有名な観光地につき、関東の会員からは「3回行きました」との声も聞かれたが。

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大内宿、見晴台からの眺め
 

周辺の地形図を見ると、「下野(しもつけ)街道」の注記とともに、徒歩道が北と南へ延びている。これは、日光街道の今市と城下町会津若松を結んでいた江戸時代の街道で、近年、復元整備されたものだ。「地図を見ながら足で歩く」という会の趣旨に基づいて、宿場の中を巡った後は、この道を南へたどることにしたい。中山峠を越えて会津下郷(あいづしもごう)駅まで、約12kmの行程だ。

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若松~田島間の1:200,000図に下野街道の宿場と峠の位置を加筆
「会津線」は現在の会津鉄道

2022年5月21日、会津鉄道の単行気動車を、湯野上温泉駅で降りた。駅舎は、本物の茅を葺いた古民家風の造りだ。宿場の玄関口だから、それをイメージしているに違いない。集まったのは、大出さん、中西さんと私の3名。朝はまだ薄日が差しているが、午後は曇りのち雨の予報が出ている。

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茅葺屋根の湯野上温泉駅舎
 

大内宿はここから西へ約6km入った山中で、「猿游(さるゆう)号」という名の直行バスがある。ただし運賃は、往復で1100円。片道の設定がないため、私たちのように往路だけ乗りたい者にとっては割高だ。「3人ならタクシー代を割り勘する方が安いですよ」と、大出さんがタクシー会社に電話をかけるものの、「配車に30分かかると言われました」。初戦を落とした気分で、駅前に停車していたバスに乗り込んだ。マイクロバス車両なので、中はほぼ満席だ。

走り出すと、添乗の女性が絵地図を配り、バスガイドのように流暢な口調で見どころを案内してくれる。提携食堂の割引券までもらったので、何だか観光気分が湧いてきた。その間にもバスは谷川に沿う山道をくねくねと遡っていく。約20分で、宿場の裏手にある停留所に到着した。

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猿游号で大内宿に到着
 

さっそく脇道を抜けて、街道筋に出る。土道の広い通りが宿場を南北に貫いていて、その両側に、写真で見てきたとおりの茅葺屋根が並んでいる。敷地は東西に長く、各家屋は道路から一定距離を置いて、ゆったりとした建て構えだ。多くが寄棟造りで、玄関は南に向いた長手の側にあるようだが、どこも道路に面した妻面を開放して、観光客向けの店を出している。

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大内宿の街道筋
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(左)妻面を開放した店構え
(右)色とりどりの吊るし飾り
 

「古民家を集めたどこかのテーマパークみたいですねえ」などと話しながら、緩い坂になった通りを上手へ歩いていく。まずは村を一望したいので、突き当りに建つ浅沼食堂の左手から急な石段にとりついた。上りきると子安観音堂だが、その右側の山道で先客たちが立ち止まり、カメラやスマホを構えている。

「みなさんが観光ポスターなどでご覧になる風景は、ほとんどそこで撮られています」と車中で案内していた添乗員さんの言葉どおり、ここが絶景ポイントの見晴台だった。見通しのきく高台がほかにないので、誰が撮っても同じような構図の写真になるのは物足りないが。

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(左)子安観音堂
(右)山道の途中にある見晴台
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見晴台からの眺め
 

山道から降りて、本陣跡に建てられた町並み展示館を訪ねた。もとの本陣の建物はとうに失われたので、近隣の同種の建物を参考に設計復元したものだという。それもあってか、ここは長手を通りに向けて建てられている。中に入ると、勝手と呼ばれる板間に囲炉裏が焚かれ、煙がもうもうと天井へ上っていた。さまざまな農具や生活用具の展示とともに、街道の歴史や宿場の景観保存に関する説明パネルが掲げられていて、参考になる。

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本陣跡の町並み展示館
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(左)勝手(板間)に囲炉裏
(右)農具や生活用具の展示
 

それによれば下野街道、別名 会津西街道は、17世紀初めに会津藩により江戸への最短経路として整備されたものだ。藩の参勤交代や廻米(米の輸送)に利用され、大内は宿駅の一つとして、継立(人馬の交換)や宿場経営で栄えた。しかしその後、参勤交代の経路変更や地震による不通の影響を受けて、下野街道の重要性は薄れていく。

明治に入り、阿賀川(大川)沿いに新日光街道が整備されると、人馬の往来はそちらに移り、大内は養蚕や麻栽培で生計を立てる静かな農村集落になった。旧観を残す町並みがメディアで紹介され、人々の関心を集めるようになったのは、ようやく1970年前後のことだ。1981年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、さらに1986年の野岩鉄道開業で首都圏からの交通の便がよくなったことで、観光地としての人気が定着していった。

地区の特色である茅葺屋根は維持に手間がかかる。かつてはトタン板で覆うことも行われたというが、今は表通りの多くが茅葺きに戻されている。もっともこれらの家屋は主に土産物屋、食堂、民宿などの事業に使われており、住民の方は裏手に建てた一般的な住宅で生活しておられるようだ。

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土固めの路面、石組みの水路
 

街道歩きが控えているので、混まないうちに昼食にしよう。展示館向かいの大黒屋の座敷に上がった。遠路はるばる来たからには、名物のネギそばを試さないわけにはいかない。

そば自体は冷たいかけそばなのだが、器の上に白ネギが一本置かれている。これを箸代わりにしてそばを掬うとともに、適宜かじって薬味にする、というものだ(下注)。ただし、食べ進むと最後に短く切れたそばが器の中に残る。「さすがにこれは箸でないと掬えませんね」。むろん箸も座卓に用意されている。

*注 大黒屋の品書きではこれは「ねぎ一本そば」とされ、方や「ねぎそば」はかけそばの上に刻みねぎが載るものだった。

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大黒屋のねぎ一本そば

思い残すことがなくなったところで、宿場を後にした。バスで来た道を南へ歩いていくと、小野川の橋のたもとから、旧街道が分岐している。「歴史の道(下野街道)」と記された道標が立っているから間違いない。その先では、ひょろっとした松の生えた「大内宿南一里塚」が旅人を迎えてくれた。

しかし、斜面に開かれた棚田の間を上る道は一直線で、圃場整備で付け替えられたようだ。森に入ると、草深い踏み分け道になった。「もっと歩いている人がいると思ってましたが」と中西さん。少なくとも私たちが歩いている間、すれ違ったり、追い越したりする人は見かけなかった。

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(左)旧街道の分岐点
(右)大内宿南一里塚
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
大内宿~沼山間
 

先ほどの資料館のパネルによれば、下野街道の整備事業は2000年に完成し、2002年に国の史跡に指定されている。地形図に史跡の記号(下注)が付されているのは、それが理由だ。しかし、生活道路は別にあり、たまにハイカーが通るだけなら、数年も経たないうちに草生してしまうのは避けられない。

*注 数学の「ゆえに」記号に似たこの地図記号は、「史跡・名勝・天然記念物」を表す。

道標は何種類かあった。「下野街道」と刻まれた立派な石標が主要な分岐点に立っているほか、1本足に金属板を取り付けたもの、もっと素朴な木製のものも見かけた。ところが金属板はどれも外されたり、折り曲げられたりして無残な状態をさらしている。どんな動機があったのかは知らないが、つまらないことをしたものだ。

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(左)下野街道の石標
(右)金属板の道標は無残な状態に
 

草の道は500mほどややきつい上りが続いた後、なだらかになる。そして沼山集落の手前で、無事舗装道に出た。しばらくは、この県道131号下郷会津本郷線を歩く必要がある。2車線幅の走りやすそうな道だが、車両の通行はほとんどなく静かだ。大内宿の駐車場を埋めていた観光客のマイカーは、こちらには回ってこないようだ。

集落の端で、草の道が再び右に別れていた。例によって道標は壊れているが、草道のもつ雰囲気がさきほどと同じなので迷うことはない。少し先の、草道が西へ上っていく林道と交差する地点が、一つ目の分水界だ。

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(左)草道が舗装道に合流
(右)県道沿いの沼山集落
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
沼山~中山峠間
 

地形図から読み取れるとおり、大内宿から中山峠にかけては、周囲とは違うなだらかな回廊状の地形が延びている。私はこの地形に興味があった。地質調査所の研究報告(下注)は、この低地帯に大内断層と呼ばれる南北に走る伏在断層(地表に断層面が現れないもの)を想定している。断層の活動によって東側の山地が高まり、それに遮られる形で西側の山麓に岩屑が堆積した。街道はこの緩斜面に通されているので、分水界越えも険しくはないのだ。

*注 山元孝弘「田島地域の地質」地域地質研究報告 平成11年、地質調査所

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なだらかな回廊状の地形、沼山から東望
 

一方、中西さんの関心はまた別で、「イザベラ・バード Isabella Bird が通った道を歩いてみたかったんです」。イザベラは、明治初期に日本を訪れ、詳細な紀行書を著したイギリスの旅行家だ。1878(明治11)年6月の北日本の旅では、今市から下野街道を北上し、その際「山奥のきれいな谷間にある」(下注1)大内宿で1泊している。イザベラが同じ書で言及している山形県上山(かみのやま)の石橋群を、以前コンター旅で巡ったことがある(下注2)が、下野街道もまた、彼女の長い旅の経由地だったのだ。

*注1 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.220。
*注2 「コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群」に記述。

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旧街道を埋め尽くす野の花
 

森の草道は分水界を降りる途中で、また県道に吸収されてしまった。舗装路をしばらく行くと、中山集落に出た。ここでは、巨大なケヤキの木が道端にそびえていて目を引く。傍らの案内板によれば「八幡のケヤキ(中山の大ケヤキ)」と呼ばれ、樹高36m、胸高周囲12m。単に太いだけでなく、むくむくと地中から湧き出したかのような幹の迫力と勢いは見事というほかない。樹齢は950年とあるから、「当然、イザベラ・バードも見たでしょうね」とうなずき合う。

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八幡のケヤキ
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幹の迫力と勢いに目を見張る
 

左手に瑞々しい新緑の景色を見下ろしながら進むと、集落の端にまた旧街道の分岐があった。しかし、ここにはロープが渡してある。「みなんぱら 恵みの交流館」という施設への通路に使われているのだが、コロナ感染拡大防止のため閉園中、と貼り紙がしてあった。そうでなくても旧道は途中でたどれなくなる。県道沿いにあった「トラックの森」の説明板から想像するに、造林事業地とされたことで、中を通過していた旧道は廃道になったようだ。

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中山集落を北望
 

鼠色の空から、いよいよ霧雨が落ちてきた。県道の中山峠の直前に右へ入る林道があり、そこに街道の標識が立っている。林道を少し上ると、街道のつづきが見つかった。街道の中山峠は落ち葉散り敷く森の中だが、標識も何もなく、大きなうろをもつ木の根元に供養塔が倒れているばかりだ。

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(左)県道の中山峠
(右)旧街道の峠、倒れた供養塔
 

峠の南斜面は、戸石川が流れる谷底まで約200mの高度差がある。道は思いのほか荒れていた。行く手をふさぐ倒木をまたぎ、覆いかぶさる雑木をかき分け、湧き水のぬかるみに足を取られながら、急坂を降りていく。かなり下ったところで西へ向かう林道と交差したが、「さすがにこの先は通れそうにないですね」。背丈を越える藪を前に、林道を伝い、県道に迂回せざるをえなかった。

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中山峠からの下りは荒れた道
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
中山峠~会津下郷駅間
 

この区間で、県道は勾配緩和のためにヘアピンを繰り返している。そのカーブの一つで、「高倉山の湧水、長寿の水」と書かれた水汲み場があった。屋根の下の手水鉢に架けられた管から、名水が流れ落ちている。一口掬って飲んでみたが、まろやかな味わいのおいしい水だった。

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長寿の水
 

下り坂の途中から、また旧街道に入った。草道は、S字を描く県道を串刺ししながら降下する。最後は簡易舗装の里道になり、倉谷宿の裏手を通って再び県道に合流した。倉谷宿は、ごくふつうの農村集落だった。間口が狭く奥行きが長い宿場の地割が残るものの、茅葺屋根にはトタンがかぶせてある。とはいえ、大内宿もブレークする前はこのような状況だったのかもしれない。

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(左)倉谷宿の家並み
(右)倉谷宿上方の古い道標
 

戸石川を渡ってなおも行くと、また分かれ道があった。立派な土蔵の前に大内宿近くで見たのと同じ下野街道の石碑が立っていて、旧街道は八幡峠に向けて南の山手を上っていく。しかし残念だが、私たちの街道歩きはここまでだ。帰りの列車が来る会津下郷駅をめざし、このまま県道を下っていくことにしよう。

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板倉の分岐点、旧街道は奥へ
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会津下郷駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、日光(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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2022年3月26日 (土)

コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道

多古線を歩いた翌日2021年10月17日は、あいにく本降りの雨になった。朝はまだ小雨だったので、外房線の下り列車で出かけた。集合場所は、行川(なめがわ)アイランド駅。ご承知のとおり、フラミンゴやクジャクのショーで有名な一大観光施設の最寄りだったが、それも20年以上前の話、今は小さな待合所があるのみのうら寂しい無人駅に過ぎない。

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雨の行川アイランド駅に入る下り列車
 

2両編成の電車から降りたのは、中西さんと私の二人だけだ。大粒の雨が風に乗って斜めに降ってくるが、「とりあえず『おせんころがし』まで行ってみましょう」と歩き出す。「おせんころがし」というのは、太平洋に落ち込む断崖絶壁の上を通過していく旧街道きっての難所のことだ(下注)。強欲な地主の父親の身代わりとなって、崖から投げ落とされた(別の説では自ら身を投げた)娘お仙の悲話が伝えられている。

*注 伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)の一部で、大正期に建設された大沢第一、第二トンネル経由の道路(以下、旧国道)に取って代わられた。

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おせんころがしに立つ供養塔
 

国道128号線から左にそれ、狭い谷間の通路を伝っていくと、にわかに目の前が開けた。そこは海からの高さが優に50mはある断崖の上で、お仙の供養塔が立っている。道はそこで行き止まりだった。地形図に描かれている大沢との間の破線道(徒歩道)を探そうとしたが、丈の高い草に覆われて入口さえ定かでない。

その間にも雨は降りつのり、西へ延びる険しい海岸線も白く煙ってきた。悪天候を見込んで登山用の装備を整えてきた中西さんに比べ、私はウィンドブレーカーと旅行用の折り畳み傘という軽装だ。すでに足元はずぶぬれで、冷えが伝わってくる。これから歩く距離を考え、弱気になった私は早々とギブアップを宣言、旧国道を進む中西さんを見送って、駅に戻ることにした。

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険しい海岸線が雨に煙る

とはいえ、これでは土産話にもならないので、天気が回復した翌日、単独で同じコースに再挑戦した。今回はそれをもって、コンター旅の報告に代えたいと思う。

この地へ来た目的は二つある。一つは、夷隅川(いすみがわ)源流で河川争奪によって生じた風隙を観察することだ。夷隅川は、太東崎(たいとうざき、下注)の南で太平洋に注ぐ河川だが、その流域を地図で塗り分けて見ると興味深いことがわかる(図1参照)。

*注 太東埼、太東岬(たいとうみさき)とも表記する。

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図1 夷隅川の流域
青の破線が分水界、最南端に上大沢がある
基図は1:200,000地勢図、図中の木原線は現在のいすみ鉄道
 

勝浦から西では、青の破線で示した流域の境界線、すなわち分水界が太平洋岸ぎりぎりまで迫っている。海との距離はせいぜい1~2kmだ。分水界は川の最上流部なので、それが限りなく海に近いというのは常識から外れている。

なぜこのようなことになるのか。謎を解く鍵が、分水界のいたるところで見られる風隙(ふうげき)だ。これは谷の断面が露出したもので、浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象の結果、しばしば生じる。この地域は南から北に向かって傾斜する傾動地塊で、夷隅川はそれに従い、海に注ぐまで60kmほどもゆったりと流れ下る。一方、分水界の反対側は、海に面して急傾斜だ。この河川勾配の違いが浸食力の差となって、夷隅川の流域は南から削られ続ける運命にある。

もう一度、上の流域図をご覧いただきたい。流域の南端に出っ張った部分が見つかるだろう。図2、図3がその部分の拡大だが、ここにも風隙がいくつかあり、「上大沢」集落が載るのもそうした場所だ。夷隅川の源流域に当たり、標高は約135m。にもかかわらず、海岸との水平距離はわずか300m強しかなく、流域では最も海に近づく。源流の先に太平洋が開ける。この奇跡のような地形に一度立ってみたいと、かねがね思っていた。まずはこの目的を果たすことにしよう。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
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図3 大沢周辺を2倍拡大
 

昨日と同じように、行川アイランドで電車を降りた。その足でおせんころがしを再訪する。実はここも風隙だ。夷隅川の流域ではないのだが、太平洋の荒波に削られて、同じように小さな谷の断面が断崖上に露出している。

風隙とは英語の Wind gap(ウィンド・ギャップ)の訳語で、風の通り道になる地形の隙間のことだ。確かに海からの強風が谷間めがけて吹き込んで来るが、景色は、雨の日とは一変してクリアだ。太平洋の大海原から、波打ち際にそそり立つ屏風のような断崖まですっきりと見渡せる。

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(左)おせんころがしへの小道
(右)ここも風隙地形
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おせんころがしから太平洋の眺望
 

国道まで戻り、おせんころがしの険路を避けて山側につけられた旧国道に回った。海に突き出た山脚を、1921(大正10)年開通の2本のトンネルが貫いている。東側の大沢第一トンネルは長さ80m、西側の第二トンネルは同112m、その間の狭い谷間に肩を寄せ合うようにして、下大沢の集落(下注)がある。

*注 地形図には、行政地名の「大沢」と通称地名の「上大沢」のみが記されているが、海沿いの集落は下大沢、山上の集落は上大沢と呼ばれ、その総称が大沢になる。

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大沢第一トンネル
(左)東口
(右)奥に見える第二トンネルの間に下大沢の集落がある
 

目指す風隙はこの谷の上だ。旧国道を離れ、家並みを縫う坂道を進んでいくと、八幡神社の手前から急な階段道に変わった。すれ違った地元の方に「上まで行けますか」と尋ねたら、「どてら坂ですね。登れますよ」との答え。坂に名がある(下注)ということは、よく利用されているに違いない。

*注 後述する研究報告には、急な登りで、どてらを着込んだように汗をかくことから「どてら坂」の名がついたとの説が紹介されている。

細い山道を想像していたのだが、それどころか幅1~2mの、コンクリートで舗装された階段が続く。途中に墓地があり、海を見下ろす墓碑の前に花が供えられていた。道は何度も折返しながら、高度を上げていく。振り返ると集落の屋根は下に沈み、太平洋の水平線が目の高さに上がってきた。

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(左)どてら坂はこの斜面を上る
(右)コンクリート舗装の階段道
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(左)下大沢の集落が眼下に
(右)谷壁を照葉樹林が覆う
 

山上の上大沢集落まで10分ほどだった。十数軒の家が建ち並ぶなか、道が夷隅川の源流を横切る場所まで行ってみる。源流というと森の奥の清流というイメージだが、ここでは住宅裏を通るふつうのU字溝で、水もお湿り程度に流れているだけだ。

この地域を調査した研究報告(高地伸和・関 信夫「源流の先は大海原-千葉県夷隅川源流部の特異性」『地理』52-5, 2007, pp.69-73)によれば、ふだんはこうして夷隅川へ水が流れているが、大雨で増水すると、集落の上手にある仕切り板から海側の沢へ排水されるようになっている(図3参照)。下流がU字溝で足りるのはそのためだろう。

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(左)山上の集落、上大沢
(右)夷隅川源流のU字溝
 

お目当ての風隙のきわへ移動する。この風隙は、谷の横断面ではなく側面が開析されているため、かなり広い。高台のいわば一等地とあって家が建て込んでいたが、住民の方に一言断って、通路の隅から眺めさせてもらった。照葉樹林が形作る額縁の先に、太平洋の青い水平線が一文字に延びる。沖合を一隻の船が進んでいく。これほど見晴らしのいい風隙もなかなかないと思う。

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上大沢の風隙からの眺望
 

念願を果たしたことに満足して、階段道を戻る。下大沢と上大沢という地名、その間を結ぶ整備された階段道、これは両集落に深い関係があることを示すものだ。

上記研究報告によると、漁村の下大沢と農村の上大沢は、生業面や生活面(民俗面)で一つの集落として機能しているという。具体的には、上大沢の住民も大沢漁協の漁業権をもち、漁に出る。また、海の状況を把握する山見の場所「やまんば」は上大沢にある。反対に、下大沢の住民は上大沢に耕地を有している。そして、祭りその他集落の行事は共同で行われる…。

地形の特異性が、ここでは日々の生活に上手に活かされている。以下は私の想像だが、寺や神社が下大沢に集中するところから見て、先に定住地として成立したのは下大沢だろう。そして漁のかたわら、平坦な土地のある山上(上大沢)へ行って農耕をしていた。分家などが進み、下大沢の土地が不足してくると、山上に住居を建てる人も現れた。こうして集落は見かけ上二分されたが、おそらく親戚関係もあって、人々の意識の上では一集落であり続けているのだ。

下大沢では港のようすを眺めようと、旧国道の第二トンネルではなく、線路と国道のガードをくぐって海岸まで降りた。港の端から、おせんころがしへ向かう旧街道の道筋もよく見えるが、藪化がかなり進行しているようだった。

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下大沢のガードをくぐって港へ
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大沢港
背後の断崖がおせんころがし
 

港から旧国道へ上がって、西へ向かって歩き始める。この地へ来た目的の二つ目は、この旧国道だ。山(夷隅川流域)が海に迫るため、下大沢から約1.2kmの間、道は波洗う断崖の中腹をうがって通されている。おせんころがしには及ばないものの、それでも海面から20~30mの高さがある。また、国道の新道ができているので、交通量は少なく歩きやすいと予想した。

期待は裏切られなかった。大海原の開放的な眺めはいうまでもない。もとは国道だから車が通行できる道幅で、ガードレールもある。落石注意の標識が林立するのを気にしなければ、すばらしいハイキングルートだ。

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断崖の中腹に通された旧国道
おせんころがしから遠望
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断崖の旧国道
(左)落石注意の標識が立つ
(右)入道ヶ岬が近づく
 

ところが少し行くと「この先全面通行止」の標識が立っていて、傍らにいた警備員さんが「工事をしているので、途中までしか行けませんよ」と言う。一瞬迷ったが、ここですごすごと引き返すわけにもいかない。「行けるところまで行ってみます」と挨拶して、歩き続ける。当該個所では確かに工事車両が数台停車していたが、人ひとり通るのに何の支障もなかった。むしろ通り抜ける車がない分、気兼ねなく歩くことができた。

雀島という、海中に立つ烏帽子岩に似た岩に見送られて、旧道は小湊トンネルへ入っていく。小湊に向かっては上り坂だ。無照明で100m以上の長さがあるが、直線ルートなので出口の明かりが見えている。

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シルエットの雀島と入道ヶ岬
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小湊トンネル
(左)東口
(右)西口
 

トンネルを出ると一転、薄暗い谷間になり、蔦が絡まる杉林の間を緩やかに降りる。やがて、巨大なお堂の屋根が見えてきた。小湊山誕生寺だ。小湊は日蓮上人の生誕地で、それを記念して建立されたお寺が日蓮宗大本山の一つになっている。裏門から入って祖師堂を覗くと、何かの行事の飾り付けの準備の最中だった。

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蔦が絡まる杉林を降りる
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小湊山誕生寺
(左)仁王門
(右)祖師堂
 

ちなみに、内房線の五井駅から出ている小湊鉄道は、誕生寺への参詣鉄道として計画されたことからその名がある。現在の終点、上総中野駅からかなり遠いように思うが、直線距離では約15km。夷隅川流域から海岸へ急降下する必要があるとはいえ、目標達成までもうひと頑張りだったのだ。

総門を通り抜け、小湊の漁港を眺めながら、残りの道を歩いていく。旧国道が現在の国道と出会う地点には、日蓮交差点の標識が見えた。まだ電車の時刻には早いので、小湊の町を通り越して寄浦のトンネル水族館を見に行こう。

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小湊漁港
 

旧国道に並行して1979年に造られた全長233.5mの実入(みいり)歩道トンネルが、その舞台だ。長いトンネルを楽しく通行してもらえるようにと、美大の学生たちが腕を振るい、2005年に完成した。内壁を水族館の水槽に見立てて、さまざまな海の生き物が描かれている。カラフルで動きもほどよく表現されていて、絵を追っていくうちに、いつのまにか出口まで来てしまった。

土産話をまた一つ仕入れて、安房小湊駅から上り列車の客となる。

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実入トンネル東口
左を歩道トンネルが並行
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歩道トンネルの壁に描かれた海の生き物たち
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大多喜(昭和58年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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