河川・運河

2026年5月 4日 (月)

コンターサークル地図の旅-玉川上水(鷹の台~高井戸)

2026年3月29日、玉川上水沿いを歩くコンター旅の2日目。昨日ゴールした西武国分寺線鷹の台駅から、中央道高井戸ICの手前にある開渠区間の終点まで行く。(1日目の行程は前回参照)

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玉川上水のヤマザクラ
小金井・平右衛門橋から西望
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玉川上水ルート概略図
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図1 玉川上水中流部周辺の1:200,000地勢図
(2012(平成24)年編集)

朝からいい天気だ。気温も昨日より明らかに高くて、もう上着は必要ない。少し早く駅に着いたので、付近を散策して集合時刻の9時に戻ると、改札前に中西さんと森さんの姿があった。まもなく大出さんも加わり、4名で出発。

上水の両岸には、小平監視所以来のうるわしい緑道がまだ続いている。とりわけ左岸(北側)は、新堀(しんぼり)用水が並走する分、緑地の幅が広い。それに、点在する公園や大学のキャンパスを覆う木々も視界に重なって、まるで深い森の中にいるように錯覚する。

都道17号所沢府中線の久右衛門橋から上水の水面を覗き込むと、墨色の肌を光らせた大きな真鯉がうようよいた。人の気配がすると餌を期待して集まってくるのだろう。流れているのは再生水(下注)だが、魚も棲める水質が保たれているということだ。

*注 1986年以来、小平監視所から下流では、昭島市の下水処理場で浄化した再生水が流されている。

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並走する新堀用水(左)と玉川上水(右)
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(左)春の陽が差し込む緑道
(右)水路の真鯉たち
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
鷹の台~茜屋橋
 

少し行くと緑道脇に、玉川上水立坑と記されたコンクリート造の小屋が建っていた。これだけでは謎の施設だが、鉄扉に「列車通過中 扉の開閉注意」とあるのがヒントだ。答はJR武蔵野線小平トンネルの立坑入口で、地図を見ると、津田塾大の東側を南北に走っているトンネルの直上にある。上水の開渠区間と交差する鉄道のなかで唯一、姿を見せない武蔵野線だが、意外な手がかりを地上に残している。

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(左)武蔵野線の立坑(4月撮影)
(右)大木の間を縫って
 

まもなく小川水衛所跡にさしかかる。堀割がそこだけ広がり、ウッドデッキの一段下に木漏れ日のさす休憩地があった。水辺近くまで降りられる場所は貴重だ。グレーの真鯉たちに混じって、白地に黒のまだら模様の錦鯉も元気に泳いでいる。

ここは江戸時代に、上水を管理する番人が詰める「水番所」が置かれたところだ。明治に入り水衛所と改称されたが、同じように水路の点検や清掃を担う事務所として、1965年の淀橋浄水場廃止で通水が停止されるまで存続した。

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小川水衛所跡(4月撮影)
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(左)水辺近くに降りられる
(右)真鯉に混じって錦鯉も
 

水衛所跡のすぐ下手には、「名勝境界」と刻まれた小さな碑が2本並んでいる(下注)。国の名勝「小金井(サクラ)」の西端を示す目印だ。上水沿いのサクラは18世紀前半、徳川吉宗の時代に、土手の崩壊防止に加え、花弁が水の毒を消すとして植樹された。以来、小金井は花の名所として知られ、奈良の吉野や茨城の桜川とともに、1924(大正13)年にいち早く名勝に指定されている。

*注 2本は新と旧を意味するようだが、いずれも東京都の文字が見えるため、戦前のものではなさそうだ。

昨日から沿道を彩るサクラを見続けてきたとはいえ、6km東にある名勝の東端、境水衛所までの間が花見の本場ということだ。当時はまだソメイヨシノが開発されておらず、各地から取り寄せたヤマザクラが植えられた。その伝統は今も守られていて、さわやかな白い花と芽吹いたばかりの若葉のハーモニーが美しい。

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(左)名勝境界碑
(右)ヤマザクラはさわやかな装い
 

右岸では、通行量の多い五日市街道(都道7号)が南から近づいてきて上水に張りつく。しかし、左岸はまだのどかな風景だ。一橋大の広い人工芝のコートで、練習に励む学生たちの姿がある。水路に架かる商大橋はうっかり「あきない…」と読んでしまいそうだが「しょうだいばし」で、前身である東京商科大学の記憶をとどめるものだ。

桜橋の隣を西武多摩湖線が横断している。ちょうど警報機が鳴りだしたので、多摩湖行きの9000系をカメラに収めることができた。やはり西武電車は黄色でないと…。踏切が上水の右岸にしかないため、線路の東では一時的に左岸の散策路が途切れる。100m先の八左衛門橋で再び左岸へ。

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西武多摩湖線が横断
 

喜平橋では五日市街道が左岸に移ってきて、行き交うクルマの数が増える。一方の右岸も2車線道のままだ。歩く道はどちらも植込みで隔てられているものの、趣きのある散策路とは言い難くなった。植わるサクラにとっても過酷な環境だ。クルマと人に両側から踏まれて土が固まり、張った根も傷む。幹の太さの割に枝ぶりが弱々しく、樹勢の衰えがあらわな木も少なくない。

実際、名勝ともてはやされたのは遠い昔の話で、戦後の小金井桜は衰退の一途をたどったようだ。排気ガスによる大気汚染や、ケヤキなど高木の成長による被圧に加えて、1970年代の通水停止に伴う土壌の乾燥も、生育に悪い影響を及ぼした。ようやく2010年代に入り、景観再生の取組みが本格化したところだという。

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(左)名勝小金井桜の碑
(右)過酷な環境に立つサクラ並木
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盛期の小金井桜(名勝小金井桜碑の説明板を撮影)
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図3 同 茜屋橋~境水衛所跡
 

東へ進むにつれ、緑道を歩く人もしだいに増えてきたが、想像していたような人出ではなかった。花見客はむしろ近くの小金井公園のほうに移っているようだ。公園最寄りの小金井橋交差点は、どの方向からもクルマが渋滞し、側歩道もまた、武蔵小金井駅方面から歩いてくる人の列がとぎれない。

公園の片隅に静態保存されているC57と旧型客車のエリアが土日だけ開放されるので、私たちも人波に混じってそちらに足を向けた。園内西側に広がる桜の園ではソメイヨシノが見ごろになり、花見や行楽の客で大いに賑わっている。確かにストレスだらけの上水べりに比べて、開放的な空間でのびのびと育つことのできた木は幸運だ。

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花見客で賑わう小金井公園
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小金井公園のC57 186号機
 

上水に戻ると、小金井橋から梶野橋まで、水路の上空を覆っていたはずの雑木や下草がきれいに刈られ、サクラの木の列だけが残されていた。景観再生のための整備の一環だろう。補植された若木も多いので、そのうち立川の見影橋で見たようなみごとな並木に育つのだろうか。

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小金井橋のたもとに保存された旧橋のアーチ
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雑木が除去された水路
 

街道沿いのファミレスで昼食休憩をとった後、再び歩き出す。境橋交差点では、左に千川上水の緑地が見える。橋の下手には境水衛所跡があり、清流復活事業で任務に復した分水門が千川へ水を分けている。ここでも水路に鯉が放たれているが、小川水衛所にもまして数が多く、見るからに生存競争が厳しそうだ。

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桜樹接種碑
左写真は「さくら折るべからず」と刻まれた表側
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(左)千川上水の緑地が左へ
(右)境橋の親柱
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(左)境水衛所跡の分水門
(右)生存競争は厳しそう
 

五日市街道は千川上水に連れ添って遠ざかり、玉川上水は穏やかな野の川の風景に戻る。細々とした緑道が、太いサクラの木の幹に遠慮しながら延びている。独歩橋という名の小橋に続いて、武蔵境通り(都道12号)が載る桜橋のたもとに国木田独歩の文学碑があった。この橋の名が登場する「武蔵野」の一節が刻まれているそうだが、彫りが浅くてよく読み取れない。

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(左)独歩橋
(右)国木田独歩文学碑
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図4 同 境水衛所跡~井の頭公園
 

左側の門は、都心に水道水を供給している境浄水場だ。整然とした並木を伴い、約700mにわたって上水の北縁を占めている。緑道の幅にも余裕があるし、何より市街地が視野に入らないので、郊外へ遠足にでも来たような気分になる。

右岸に立つ品川用水の取水口跡の案内板も見に行った。西大井まで25km流れ下っていたという分水路だ。案内板の設置者が、遠く離れた品川区と武蔵野市の教育委員会の連名というのも水路が取り持つ縁だろう。

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境浄水場正門
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(左)浄水場のフェンスと並木が続く
(右)品川用水取水口跡
 

浄水場の東端を限る新武蔵境通り(都道12号バイパス)の橋は、親柱に「いちょう橋」と刻まれている。一方、隣の側歩道の橋は「ぎんなん橋」だ。漢字で書けば同じになってしまうから、どちらもひらがな表記が正式らしい。ぎんなん橋のほうは、路面にレールが埋め込まれているのがユニークだ。これは戦時中に建設された中島飛行機の工場引込線で、戦後、武蔵野競技場線として使われた線路の跡を記念するものだ。草に覆われて明瞭ではないが、橋台はオリジナルだという。

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(左)橋面にレールが敷かれたぎんなん橋
(右)オリジナルの橋台は草に覆われる
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引込線橋台跡の案内板
 

再び現れるのどかな住宅地を左手に見ながら、狭い土の側歩道をたどる。人通りが多くなってきたことに気づくころ、右から2車線の市道が合流してきた。上水は、次の三鷹通り(都道121号)を載せる欅(けやき)橋の手前で、いったん暗渠に入る。三鷹駅北口に続く緑地にも疑似水路が切ってあるが、水はほとんど流れていない。

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(左)欅橋交差点を東望
(右)三鷹駅北口に続く緑地の疑似水路
 

水路はJR中央線と浅い角度で交わっていて、その真上に三鷹駅がある。橋上のコンコースを伝って、南口に出た。ペデストリアンデッキの上から見下ろすと、続きの緑地帯が南東方向に延びていた。

上水が開渠に戻る三鷹橋のたもとには、旧三鷹橋の石造欄干がひっそりと設置されている。横にはなぜか昔の手押しポンプもあった。「この水はのめません」と記され、排水用のグレーチングもあるので、動態保存(?)のようだが、衆人環視のもとで試すのは勇気が要る。

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三鷹駅南口東側、右奥の林が上水の続き
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旧三鷹橋の欄干と手押しポンプ
 

上水は、御殿山通りと南側の市道「風の散歩道」にはさまれ、都会の風景に溶け込みながら続く。市道の途中に、太宰治の入水地を暗示した天然石のモニュメントがある。太宰の出身地、青森県金木町の特産で、玉鹿石(ぎょっかせき)と呼ばれる石だそうだ。関連して少し駅寄りに、上水に言及した作品の一節を記すプレートが設置されていた。近くには作家 山本有三の瀟洒な自宅洋館を公開する記念館もあるし(下注)、さっと通り過ぎるには惜しい界隈だ。

*注 当日は、残念ながら施設改修のため、長期休館中だった。

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(左)玉鹿石
(右)太宰の作品に言及するプレート
 

吉祥寺通り(都道114号)の万助橋(下注)から、上水は、目の前に広がる井の頭恩賜公園の森に吸い込まれる。水路沿いから見える西園中央の芝生広場は、小金井公園と同じように、レジャーシートを広げた行楽客でいっぱいだ。私たちも木陰に腰を下ろしてしばし休憩した。

*注 表記は「万助橋」が一般的だが、橋の親柱には、由来の人名どおりに旧字体を使って「萬助橋」とあった。

ところで、今いるあたりは三鷹市と、吉祥寺のある武蔵野市の境になる。地元の人には常識だろうが、井の頭公園の西園だけでなく、吉祥寺駅にほど近い井の頭池も、実は三鷹市だ。「確かに井の頭線の駅だと、吉祥寺から東へ行くのに、井の頭公園の次が三鷹台ですもんね」と私。ここへ来る途中、案内板の地図を見て初めて気づいたが、武蔵野市と三鷹市の位置関係は東西ではなく、ざっくり北と南なのだ。

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万助橋から井の頭公園へ
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(左)西園のトラックと芝生広場
(右)公園内の上水緑道
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図5 同 井の頭公園~高井戸
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図6 図5と同じ範囲の陰影起伏図に地名等を加筆
 

公園域を出てもなお深い森のベルトは続いている。ナザレ修女会の裏庭を開放した静かな緑地を右手に見送ると、明星通りが渡る新橋だ。比較的直線で進んできた上水だが、ここで牟礼(むれ)残丘にぶつかる。これは、一帯に広がる武蔵野面より一段上の下末吉(しもすえよし)面に属する古い段丘だ。標高は60~65mで、周囲に比べて10m前後高い。

上水は、牟礼の古い集落があった残丘の南面を避けて、神田川斜面である北面の中腹に通された。こちらは神田川(とその支流)の浸食による起伏があるため、水路は一転、右に左に蛇行を繰り返すようになる。今や周囲はすっかり住宅街だが、水路沿いの道は右岸の方が高いし、雑木林の牟礼園地も傾斜地で、残丘の地形を感じ取ることができる。

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(左)公園を流れ下る上水
(右)ナザレ修女会裏の緑地
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(左)シングルアーチの宮下橋
(右)右岸に残された緑地、牟礼園地(4月撮影)
 

斜面をたどる静かな森の道は、人見街道(都道14号)の牟礼橋で終わる。斜めに渡る橋の上流側に、小さな石橋と土道が残されていた。草に埋もれた石碑によれば「どんどん橋」というらしい。

牟礼橋からは、再び平坦な武蔵野面を直線的に走る区間だが、右手から来た東八道路(都道14号バイパス)の上下線に両側からはさまれる。首都高につながる道路なので、喧騒に包まれるだろうと予想していたが、意外に歩きやすい道だった。幅広の緑地帯がそっくり残されているし、緑道もゆったりとして、隣の車道から受ける圧迫感がないのだ。それに、枝ぶりのいいサクラ並木の下で、上水の花見を締めくくることもできたし…。

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(左)牟礼橋の傍らに残るどんどん橋
(右)東八道路に挟まれる上水緑道
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幅広の緑地帯を彩るサクラ
 

この道を1.3km進んで、16時5分ごろ、浅間橋(跡)の手前にある開渠区間の終点にたどり着いた。小平監視所から延々流れてきた水は、フィルターを介して暗がりに吸い込まれていく。この後は地下を通って、高井戸の佃橋で神田川に放流されているそうだ。水路を失った跡地には、右手からやってきた中央道の高架橋が覆いかぶさり、潤いある景観は途絶えてしまう。

鷹の台駅から約15km、2日目の旅を無事終えた私たちは、最寄りの京王井の頭線富士見ヶ丘駅へ出て、そこで解散とした。

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(左)開渠区間の終点
(右)この先は中央道の高架橋が覆いかぶさる
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2026年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
東京都水道局 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/
むさしのの都立公園 https://musashinoparks.com/

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2026年4月28日 (火)

コンターサークル地図の旅-玉川上水(羽村取水堰~鷹の台)

玉川上水は、多摩川の水を江戸市中まで送るために建設された歴史ある水路だ。全長は約43km、今回はこのうち開渠部、すなわち水路に蓋がされていない上流・中流区間約30kmを2日間かけてたどる。30kmなら1日で踏破できるのかもしれないが、サクラの見頃でもあり、無理をせず周りの風景も楽しみながら歩きたいと思っている。

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玉川上水のサクラ並木
立川・見影橋から西望
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玉川上水ルート概略図

玉川上水が完成したのは、4代将軍徳川家綱の治世の1653(承応2)年。翌年6月から通水が始められた。このころの江戸は参勤交代制度が確立して、居住人口が急速に増加していた。水の使用量もそれに比例して増え、神田上水など既存の水源では不足をきたすようになった。そこで幕府は、多摩川の豊かな水量に着目し、新たな水路を掘ってこれを引き入れようとしたのだ。

羽村(はむら)に設けられた取水口の標高は126m。それに対して江戸の入口、四谷大木戸(よつやおおきど)は34mで、その差92m。平均すると1km進んで約2m、千分率で2‰という極めて緩い勾配路だ。当時の測量技術の高さがうかがい知れるが、これを着工からわずか8か月で完成させたというから、その突貫工事ぶりも想像を超える。

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羽村取水堰
 

2026年3月28日朝9時、青梅線羽村駅の改札前に集合したのは大出、中西、私の3名。商業ビルが並ぶ東口に比べてひっそりとした西口から、片側1車線の道を多摩川に向かって下っていった。都道29号立川青梅線(奥多摩街道)を横断すると、取水堰に降りる階段があった。小橋で上水をまたいで、反対側の公園に行けるようになっている。

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(左)羽村駅から出発
(右)お寺坂で拝島段丘の崖線を降りる
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図1 玉川上水上流・中流部周辺の1:200,000地勢図
(2012(平成24)年編集)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
  羽村取水堰~拝島・日光橋間
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図3 段丘を「上っていく」水路
  図2と同じ範囲の陰影起伏図に地名等を加筆
 

橋の上で観察すると、上流側では、護岸に並行する長い第1水門から川の水が絶えず流れ込んでいる。下流側には、それを受け止める第2水門がある。都水道局のHPによると、平水時は多摩川の水をいったん全量取り込むのだそうだ。そのうえで下流の流量確保のため、第2水門の脇にある小吐水門から毎秒2立方mを川へ戻している。

また、川の本流にも第1水門と直行する形で、別の堰が見えるが、これは投渡堰(なげわたしぜき)と呼ばれる。丸太や木の枝、砂利などでできていて、川が増水すると取り払って、水門に過度の水圧がかからないようにする仕掛けだ。

取水堰へ水を集めるための誘導堤があるとはいえ、地図を見ると、堰の位置はもともと川の攻撃斜面だ。多摩川がすぐ上手で右岸(西)の山に突き当たる反動で、流路が左岸(東)に偏っている。水量が少ない時期でも、無理なく取水できそうなベストポジションだ。公園の一角には、この大事業の進行を指揮した玉川兄弟の像が立ち、今も水路を見守っている。

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羽村取水堰
(左)第1水門 (右)第2水門
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投渡堰、右は小吐水門
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(左)玉川兄弟像
(右)台座裏側の碑文
 

下流へ向けて歩き出した。しばらく水路右岸の通路にサクラ並木が続いているが、今はまだ三分咲きというところだ。500mも進まないうちに、大掛かりな第3水門の施設があった。現地を知る中西さんいわく「ここで分水されて、大半は村山貯水池へ行ってしまうんです」。あれほどたっぷりとあった水量が、水門を境にして激減し、足を浸けても立てるぐらいの深さになってしまう。

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第3水門
後ろはインクラインがあった段丘崖
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(左)第3水門の上流側
(右)下流側では水量が激減
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多摩川の原水の流れ図(公園の案内板を撮影)
 

村山貯水池(多摩湖)へ向かう地下水路の上は水道道路と呼ばれて、横田基地の横断区間を除き、街路や自転車道になっている。ここには、かつて建設資材の川砂利を運ぶ簡易軌道が敷かれていたそうだ。目の前の段丘崖をインクラインで克服していたというので、その痕跡を探そうと、寄り道することにした。

坂道を上った先に「羽村山口軽便鉄道 廃線跡」の案内板を見つけたところまではよかったが、痕跡は判然としない。まっすぐ東へ延びているはずの水道道路も、道路工事のバリケードで厳重に目隠しされ、見通すことができなかった。

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段丘崖上から第3水門を俯瞰
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羽村山口軽便鉄道廃線跡の説明板
 

上水べりに戻って、改めて右岸を彩る立派なサクラ並木をたどる。すでに多摩川の氾濫原とは高低差がつき始めていて、やがて水路は、深い掘割で一段目の河岸段丘、天ヶ瀬面に食い込んでいく。玉川兄弟が造った最初の水路は段丘崖に沿っていたのだが、多摩川の増水時に側面浸食にさらされたため、1740(元文5)年に山側へ付け替えられた区間だ。

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(左)天ヶ瀬面に載る地点
(右)雑木林の中の付け替え区間
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(左)旧堀跡の碑
(右)旧堀跡と段丘崖(いずれも4月撮影)
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玉川上水旧堀跡の説明板
 

旧 水路と現 水路の間は、福生加美上水公園という名の小高い森になっている。富士山が見えるという竹製の覗き眼鏡があったが、あいにく今日は花曇りで、遠方はかすみの向こうだ。大正天皇の陵墓に使う石材を運搬したという福生砂利軌道(下注)跡の小道が、公園を横切り、高い堤を築きながら河原へ降りていく。水路に架かる加美上水橋の親柱には、いわれを刻んだ石板がはめ込んであった。

*注 福生河岸~福生駅間1.8km、1927(昭和2)年開設、1959(昭和34)年休止。

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(左)福生砂利軌道跡に架かる加美上水橋
(右)河原に降りていく軌道跡の築堤
 

新旧水路が合わさる地点は、左へ不自然に急カーブしているのでわかる。ここからは深い掘割を抜け出し、市街地に入る。その前に、広大な敷地に美しい白壁の酒蔵が立ち並ぶ田村酒造場に寄り道した。蔵見学は予約が必要だが、前蔵に飛び込みでも入れる商品の展示コーナーがある。現物も事務所で買えると聞いたが、重い酒瓶を携えて歩くには先が長すぎた。

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田村酒造場
(左)酒造蔵 (右)展示コーナーのある前蔵
 

宮本橋からしばらく、上水に沿う道がなくなるため、クルマが行き交う奥多摩街道の側歩道を歩かなければならない。水路から離れてしまう区間も多いので、手元の地図をにらみながら最短経路をたどる。途中で右に見える中福生公園が、やや低い位置にあることに気づいた。水路は熊野橋から、拝島の旧市街(下注)が載る上位の段丘、拝島面に移るのだ。

*注 旧市街(現 拝島町1~2丁目)は、JR拝島駅から約1.5km南に位置する。

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(左)やや低い位置にある中福生公園
(右)水路沿いの道がない区間、福生橋から下流を望む
 

上水西踏切で青梅線を横断し、五丁橋で右岸に渡り返すと、水喰土(みずくらいど)公園の入口がある。上水掘削の際、試しに通水したところ、全部地中に浸み込んでしまい、ルートを変えて掘り直しを余儀なくされた、と伝えられる場所だ。放棄された掘削跡とされるものの一部が公園内に残されていた。このあたりで上水は、さらに上位の段丘、立川面に上がるので、ルート選定にあたって試行錯誤があったのかもしれない。

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(左)水喰土公園入口
(右)放棄された掘削跡
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水喰土の説明板
 

公園からは、上水の右岸に遊歩道が復活する。八高線の鉄橋下をすり抜け、国道16号の高架下を通り、拝島駅裏で旧 日光街道が通る日光橋のたもとに出る。橋は本来、1891(明治24)年に架けられた煉瓦造のアーチ橋だが、戦後、コンクリートで両側に拡幅された。今でも下から覗くと当初の煉瓦積みが見えると、案内板に記載がある。

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(左)八高線の鉄橋下をすり抜ける
(右)日光橋のアーチが見えてきた
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旧 日光街道が通る日光橋
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
  日光橋~天王橋間
 

日光橋は、上水をたどる旅の一つの区切りだ。ここから下流は玉川上水緑道という名の都立公園になり、開渠区間の終点まで水路に沿って遊歩道が確保されている。

次の平和橋に並行して、横田基地への貨物引込線が横断する。今でも航空機の燃料を輸送している現役の線路だそうで、踏切の北側には日英両言語で記された「警告 在日米軍基地 立入禁止区域」の立札があった。

サクラ並木の右岸の緑道を歩いていくと、土手下から水路へ勢いよく水が放出されているのが見えた。上水の水量を補充している拝島原水給水口だ。これも多摩川の水で、昭和用水堰から都水道局の拝島ポンプ所(下注)経由で送られてきている。灌漑用水の余り水なので、給水されるのは秋から冬の期間限定なのだそうだ。

*注 南多摩西部地区へ水道水を供給する拝島給水所に併設。

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(左)横田基地への貨物引込線
(右)踏切脇に立つ立入禁止の立札
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拝島原水給水口
 

西武拝島線の踏切を渡り、都道220号の拝島上水橋の南東側に、上水公園という散策地があった。冬枯れの木立を通して陽光が降り注ぐ静かな公園だ。その雰囲気からてっきり上水沿いに下流へ延びているものだと思ったら、すぐに行き止まりだった。その先はかつて昭和飛行機工業の工場用地で、最近までゴルフ場だったのだが閉鎖され、物流施設に転用されるらしい。

このため、拝島上水橋からの900mは、左岸街路の側歩道を延々歩くことになる。相変わらず水路との間には背の高いフェンスが続いていて、手の届くところに河畔林があるというのに、なんとも味気ない行路だ。美堀橋からようやく並木道が現れた。飛行機工場時代、試験用滑走路の延長計画で水路が暗渠化された約300mは、大きなサクラの木が咲き誇る小公園になっている。

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西武拝島線が横切る
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(左)上水公園入口
(右)左岸街路の側歩道と背の高いフェンス
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(左)暗渠化区間の小公園に咲くサクラ
(右)暗渠からの水路出口
 

松中橋のたもとにある柴崎・砂川両分水の分水口を通過。ここで右岸に、豊かな木々に囲まれた気持ちのいい散歩道が現れた。道の右側には、側溝と勘違いしそうな砂川分水の細い水路がしばらく並走する。

天王橋の北側は、五日市街道(都道7号、下注)と多摩大橋通り(都道59号)が斜めに交わる主要交差点だ。ただし、天王橋自体は多摩大橋通りの橋で、五日市街道は下流側に斜めに架かる新天王橋で渡っていく。次の稲荷橋まで約300mの間、歩道は左岸だけだ。

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松中橋以東の散歩道
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(左)柴崎取水口
(右)水路を斜め横断する五日市街道の新天王橋
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図5 同 天王橋~玉川上水駅間
 

まもなく、残堀川(ざんぼりがわ)の下を上水がサイフォン(下注)で潜る立体交差がある。「残堀川は、上水とクロスする唯一の川なんです」と中西さん。上水はこれ以降、周囲より高い地点を縫っていくので、谷を横断することがないのだ。

*注 サイフォンの呼称が通用しているが、実際はサイフォン(水を起点より高い位置で越えさせる装置)ではなく連通管の原理を応用している。

残堀川は、箱根ヶ崎の狭山池を発して、立川の南で多摩川に注ぐ中小河川だ。江戸時代は上水に合流させていたが、上水の水質悪化を防ぐため、明治期に両者が分離され、川を下に通す伏せ越しが造られた。現在は逆に上水のほうが下だが、これは残堀川の洪水対策で実施された1963年の改修工事によるものだという。

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上水(奥)が残堀川の下をくぐる(4月撮影)
 

南を走る五日市街道は、北の青梅街道などとともに、両側に短冊形地割が連なることで知られる。特徴的な地割は上水まで達し、畑地や庭木の育成地などになっていて、宅地で埋まる前の武蔵野の風情をしのぶことができる。

ここまでほぼ直線で進んできた水路だが、見影橋のたもとの源五右衛門分水を過ぎると、やおら右に回り込む。台地上の微妙な起伏を乗り越えるためだ。従来、この高低差は、北西から南東に走る立川断層に起因するとされてきた。しかし最新の調査によると、断層帯は武蔵村山市内が南限で、上水周辺を含む立川市内までは達していないらしい(下注)。

*注 文部科学省研究開発局・国立大学法人東京大学地震研究所「立川断層帯における重点的な調査観測 平成24-26年度 成果報告書」平成27年5月)。

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短冊形地割の農地に武蔵野の風情
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(左)見影橋
(右)右に回り込む水路(4月撮影)
 

右手のうっそうとした森は、立川市唯一の山(!)ともいわれる金毘羅山だ。ふもとの金毘羅橋から東では、水路の両側の樹林帯が幅広になり、そこに育った大木の木陰を小道が貫いている。千手橋までの約1kmはとりわけ自然豊かで、歩いていても心なごむ区間だった。

千手橋からは左手に、国立音楽大の施設が迫る。これを見送ると、西武拝島線の玉川上水駅前だ。水路をまたぐ南口広場(下注)の頭上を、オレンジのグラデーション帯を巻いた多摩モノレールの車両が横断していく。モノレールの「下道」である都道43号(芋窪街道)は、トンネルで地下を通っているので、駅前というのに意外にのどかだ。

*注 見かけは広場だが、地上時代の芋窪街道を渡していた橋の名、清願院橋を引き継いでいる。

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(左)正面に金毘羅山の森が
(右)河畔林を縫う小道
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(左)玉川上水駅南口
(右)駅に入る新2000系
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南口広場の上空を行く多摩モノレール車両
 

駅東側の車両基地に停まる電車を眺めながら行くと、右手の柵越しに水門が見えてくる。都水道局の小平監視所だ。羽村から約12km、はるばる流れ下ってきた水はここで、水道原水として東村山浄水場へ、一部は農業用として新堀(しんぼり)用水へ向かう。そのため1970年代以降、この先の玉川上水は、水がない空堀の状態だった。

潤いが戻ったのは、1986年に完成した清流復活事業のおかげだ。下水道の再生水が昭島市の処理施設からここへ送られてきて、放流されている。かつてここで分水されていた野火止(のびどめ)用水や、下流の千川(せんかわ)上水でも、それぞれ1984年と1989年に再生水の放流が始まった。

監視所のすぐ下流に、水ぎわまで降りられる親水デッキが設置されている。石組みの人工滝はほとんど乾いていたが、放流口の、むくむくと泉のように湧き上がる水の勢いには、自然の持つ迫力が感じられた。

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小平監視所の水門
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(左)再生水の放流口
(右)流れが復活した水路
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図6 同 玉川上水駅~鷹の台駅間
 

木立を縫う左岸の緑道はまだ続く。水路が深く掘られ、かつ木々の枝葉が上に覆いかぶさっているので、水の流れはあまり目立たない。ただ、上流部と明らかに違うのは、水路を隔てるフェンスが低くなり、開放感が増したことだ。水道用ではないので、厳重に管理する必要がないのだろう。

新堀用水というのは、北側に8か所あった分水をまとめたものだ。初めのうちは胎内堀と称して、地下を通している。そのトンネルを掘るための竪穴がいくつか残され、柵越しに覗けるようになっていた。用水は地上に出てからもしばらくの間、玉川上水と並走するが、水面は後者よりかなり浅い位置にある。

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(左)水路との間は低いフェンスに
(右)水面は深い掘割の底に
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(左)新堀用水の胎内堀竪穴
(右)説明板
 

百石橋からしばらくは文教地区で、周囲に大学や高校が点在する。左岸の緑道から最初に見えてくるのが、校舎の壁にハングル文字が躍る朝鮮大学校だが、その後ろは武蔵野美術大だ。

「上水ぞいの小径(こみち)を…というユーミンの歌がありますね」と中西さんがつぶやく。美大生の思い出を歌った「悲しいほどお天気」だ。思春期に聞いた音楽なので心に染み込んでいるが、今歩いている道がまさにその歌詞の舞台になる。彼女自身は多摩美術大の卒業だそうだが、私は中西さんに指摘されるまで、ぼんやりとムサビの出だと思っていた。

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美大生がデザインしたきつねっぱら公園のモニュメント
(左)親子狐  (右)花咲く金蘭(いずれも4月撮影)
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(左)夏の盛りの日も涼しいと歌われた「上水ぞいの小径」
(右)西武線のそばに架かる鷹の橋(いずれも4月撮影)
 

水路の両側にある創価学園の校地をつなぐ専用歩道橋、栄光橋の下をくぐるころには、歩く人も多く見かけるようになる。上水の橋でいうと、水車通りの新小川橋(側歩道の橋名は水車橋)の次が鷹の橋、1日目のゴールだ。隣を西武国分寺線がガーダー橋で横断している。

その鷹の台駅に着いたのは16時50分ごろ。羽村駅からの歩行距離は寄り道を除いて約17kmだが、途中、昼食を含め3回休憩したので、8時間の長旅になった。2日目の行程は次回に。

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西武国分寺線の橋梁、奥に鷹の台駅
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2026年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
東京都水道局 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/
むさしのの都立公園 https://musashinoparks.com/

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2026年2月26日 (木)

ヴッパータールの懸垂式モノレール II

前回に引き続き、ヴッパータール・モノレール Wuppertaler Schwebebahn のルートを見ていくことにしよう。今回は全体の8割を占める「水上線 Wasserstrecke」、ヴッパー川 Die Wupper の上空を走る区間だ。

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ヴッパー川の上空を行くモノレール車両
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ヴッパータール空中鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA

それにしてもなぜ道路の上を利用せず、川の上空が選ばれたのだろうか。それは、ヴッパータールが王家の城下町のように包括的な都市計画を持たず、狭い谷間に自然発生的に成長した町だったことが第一の理由だ。道は狭く曲がりくねったままで、混雑もひどく、中心部では路面軌道をこれ以上拡張させる余地がなかった。最後に残されていた連続空間がヴッパー川で、高架を走るモノレールの提案とうまく結びついたのだ。

ヴッパー川は長さ117km、ヴッパータール市内を通り、ケルン Köln の北でライン川 Der Rhein に注いでいる。いうまでもなく地域の主たる水源で、初期は水車の動力や繊維業の洗浄用に、後には工場の冷却水などに使われ、地域の産業を支えてきた。

しかし、下水道の整備が遅れたため、1970年代までは工場からの廃水が流れ込んで汚濁と悪臭がひどく、ドイツでも有数の汚れた川と言われていたという。モノレールの走行空間となってからも、決して今のような好ましい写真素材ではなかったに違いない。

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ヴッパー渓谷下流部
橋梁は、ドイツ一の高さがあるDB線のミュングステン鉄橋 Müngstener Brücke
 

その後、水質改善のためのさまざまな施策が功を奏して、きれいな川が戻り、水辺の生き物も復活し始めた。河川環境への市民の関心を高めるための取組みは今も行われていて、偶然見つけたのが、川中にいる石像のビーバーだ。調べてみると、これは「ビーバーのボビー Bobby Biber」といい、人々の視線を川へ引き寄せるために2020年に設置された野外彫刻だそうだ。

頭上を行き交うモノレールに気を取られて見逃してしまったが、他にも同じような石像で、サケと子象とカバの計3体(下注)がヴッパー川を住みかにしているらしい。

*注 名は「ラッキー・ラクス(幸運のサケ)Lucky Lachs」「象のタフィー Elefant Tuffi」「カバのニーナ Flusspferd Nina」。なお、タフィーは、1950年7月にサーカスの宣伝目的でモノレールに乗せられたものの、音と振動に驚いて側壁を突き破り、川に落ちた(が、軽傷で済んだ)子象タフィーの逸話にちなむもの。

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ビーバーのボビー
右の写真で赤い矢印の場所にいる
 

それはさておき、「水上線」区間の最初の駅は、ツォー/シュタディオーン Zoo/Stadion という。緑豊かなヴッパータール動物園と、地元サッカーチームのホームになっている多目的スタジアムの下車駅だ。そして駅のすぐ先に、ルートの見どころの一つ、モノレールとDB(ドイツ鉄道)線との立体交差が控えている。

DBのデュッセルドルフ=エルバーフェルト線 Bahnstrecke Düsseldorf–Elberfeld は、1841年という早い時期からここを横断している。ヴッパー川に架かるゾンボルン鉄道橋 Sonnborner Eisenbahnbrücke のアーチに十分なクリアランスがあったので、モノレールの設計者は、上をまたぎ越さず、下を通すことにして、支柱の建設費用を節約した。もっとも当時の鉄道橋は6連の石造アーチだったのだが(下の写真参照)、1914年にDB線が複々線化されるに際して、今見られるとおり、河床に橋脚を立てないシングルスパンの橋に架け換えられた。

ちなみにこのDB線は、さっき乗ってきたRE列車やSバーンが通るルートで、ヴッパー川の谷斜面に沿って東西に延びている。モノレールにとっては完全な並行路線なのだが、市内と都市間という路線の性格の違い、駅の数や立地条件などからおのずと棲み分けができているようだ。

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ゾンボルン鉄道橋のアーチをくぐる
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3種の鉄軌道が交差していた旧6連アーチ橋
(1912年以前の絵葉書)
Image from wikimedia. License: public domain
 

DB線との立体交差を通過すると、モノレールは流路に逆らうことなく、くねくねと曲がる軌道を走っていく。ヴェステンデ Westende までの2駅間では、両岸に製薬・化学分野の国際企業、バイエル Bayer の工場敷地が続いている。すでに本社は他所に移転したが、ヴッパータールは同社創業の地だ。

ローベルト・ダウム・プラッツ Robert-Daum-Platz 駅からオーリヒスミューレ/シュタットハレ(市民会館)Ohligsmühle/Stadthalle 駅にかけては、河畔の緑がとりわけ美しい。水上線では珍しく直線コースでもあり、川面に映る軌道と支柱の影が、まさにドラゴンの胴体と脚を思わせる。

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(左)川面に映る軌道の影
(右)ブンデスアレー横断地点の巨大なアーチ(いずれも車内から後方を撮影)
 

ブンデスアレー(連邦道)Bundesallee をまたいですぐのオーリヒスミューレは、開業時にアレクサンダーブリュッケ(アレクサンダー橋)Alexanderbrücke の名で設置された駅だ。第二次世界大戦で焼失した後、長らく駅はなく、1982年にようやく再建された。そのため、正面がダイヤモンド形のモダンな外観が特徴だ。

ほぼ40年間、駅なしで済んだのは、並行する道路を走っていた路面電車で代替できると考えられたからだ。ヴッパータール周辺の路面軌道の歴史は、モノレールより30年早く、1873年に始まっている。初期は馬が牽いていたが、1896年から電気運転に切り替えられた。

当時は産業都市として隆盛を極めていたため、混雑が甚だしかった。そこにモノレール開業の余地があったのだが、路面軌道網も郊外に拡大して、最盛期には総延長が175kmに達している。しかし、第二次大戦後は撤退が進み、1987年に最後の路面電車が街路から姿を消した。今はトロリーバスやディーゼルバスがその代役を担っている。

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オーリヒスミューレ/シュタットハレ駅
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路面軌道が交差していた中央駅前(1912年の絵葉書)
Image from wikimedia. License: public domain
 

次はヴッパータール・ハウプトバーンホーフ Wuppertal Hauptbahnhof、中央駅(下注)だ。旧エルバーフェルト市 Stadt Elberfeld の中心部で、南側の広場の先にはDBの同名駅とバスターミナルがあり、北側は買い物客で賑わうアルテ・フライハイト Alte Freiheit の目抜き通りが延びている。それで全線で最も乗降客が多い。

*注 駅名はもと、地名に由来するデッパースベルク Döppersberg だったが、1992年に改称。

他の駅とは違って、ホームは切妻屋根の大きな駅ビルの中に収容されている。軌道は引き続き川の上空を走っているから、ビルは流路上に築かれた人工地盤に載っているのだろう。建物正面にある乗り場への階段口が西行と東行、別々なので、うっかり反対方向のホームに上がってしまいそうになる。

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現在のヴッパータール中央駅前
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買い物客で賑わう目抜き通りアルテ・フライハイト
 

再びブンデスアレー(連邦道)と交差した後は、クルーゼ Kluse 駅に停車する。ここは、ホームをすっぽりと覆うガラス張りの大屋根が印象的だ。第二次世界大戦で破壊されたが、中央駅に近く、路面軌道の電停もあったため、オーリヒスミューレと同じく、駅は休止のままとされた。再開されたのは1999年とまだ新しい。

駅の東方には、クルーゼカーブ Klusebogen と呼ばれる急カーブがあり、車両は遠心力で車体を傾けながら通過していく。ヴッパーフェルト Wupperfeld 駅の東側とともに、川がDB線(下注)のきわまで大回りしているので、互いの列車から相手がよく見える。

*注 デュッセルドルフ=エルバーフェルト線の続きとなるエルバーフェルト=ドルトムント線 Bahnstrecke Elberfeld–Dortmund。

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ガラス張りの大屋根に覆われたクルーゼ駅
 

ラントゲリヒト(地方裁判所)Landgericht とフェルクリンガー・シュトラーセ(フェルクリング通り)Völklinger Straße の両駅舎は、2011~12年に改修されたものだ。階段室や屋根周りに施された縞模様の洒脱な意匠が人目を引くが、これもユーゲントシュティール(青春様式) Jugendstil をなぞるデザインだという。

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縞模様が人目を引くフェルクリンガー・シュトラーセ駅
 

次のローアー・ブリュッケ Loher Brücke 駅との間では、ヴッパー川にミューレン橋 Mühlenbrücke と呼ばれる歩行者用の小橋が架かっている。橋桁を支持している中央のトラス構造が不釣り合いに大がかりだが、説明板によると、これはモノレールのもとの軌道桁だ。取替えられた旧桁の一部を、保存を兼ねて小橋の梁に転用したのだそうだ。

ちなみに、ローアー・ブリュッケ駅西側は、河畔に公園があるため、画角に建物を入れずに写真が撮れる場所の一つだ。ヴッパータールは先駆的な工業都市でありながら、谷の斜面や背後の丘陵には多くの緑地帯が広がり、「緑の大都市 Großstadt im Grünen」と称される一面も持っている。

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軌道桁を転用したミューレン橋
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豊かな河畔林を背に車両が行き違う
 

エルバーフェルトと並ぶヴッパータール市のもう一つの中心街が、バルメン Barmen だ。旧市場を意味するアルター・マルクト Alter Markt 駅は、その西口にある。モノレールは、駅の手前で連邦道7号と主要道が直交する大交差点を斜めに横断する。そのため、長さ120mの軌道桁を両端から高さ38mの2対の塔で吊り下げる大掛かりな構造物が必要になった。これもまた隠れた見どころかもしれない。

バルメン市街地の東口には、ヴェルター・ブリュッケ(ヴェルター橋)Werther Brücke 駅がある。この駅舎の意匠もユーゲントシュティールで、戦前から美しいと評判だった旧駅舎を、改修で忠実に再現したものだ。駅名を記した正面のプラークや階段室の複雑な構造は、それだけで見栄えがするが、同時に、駅の東側でヴッパー川に架かる鉄製アーチのヴェルター橋が、レトロな情景に花を添えている。

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アルター・マルクト駅前の軌道は吊橋構造
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ユーゲントシュティールのヴェルター・ブリュッケ駅
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駅前の古風なヴェルター橋
 

ヴッパーフェルト Wupperfeld の、先述したDB線まぎわの急カーブを通過すると、ホームストレッチの先に、いよいよ終点オーバーバルメン・バーンホーフ Oberbarmen Bahnhof の大きな駅舎が姿を現す。起点のフォーヴィンケルを出てから30分、けっこう乗りごたえのある空中旅行だった。

到着ホームのある2階部は末広がりの形をしている。客の降車を確認した車両は、もう1本別の道路をまたいでから奥の車庫へ入っていく。フォーヴィンケルと違ってホームからは見通せないが、中に方向転換用のループが隠れているのだ。

駅の南側、目の前にDB線のヴッパータール・オーバーバルメン駅がある。モノレールの駅名のバーンホーフというのはDB駅を指していて、両線の乗継ぎはここが最も便利だ。

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DB線まぎわの急カーブ
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終点オーバーバルメン・バーンホーフ
(左)末広がりの形をしたホーム階
(右)車庫内のループを回る車両

オイゲン・ランゲンとその協力者は、ヴッパータールのモノレールを、他都市に売り込むためのモデル路線と位置付けていた。試運転中にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を招くなど市民の関心喚起にも努めた結果、開業後は大きな評判を呼び、すぐに市内の交通網で欠くべからざる存在になった。

しかし残念ながら、この路線が、期待されていたような国内外への普及と拡大に寄与することはついになかった。ベルリンでの建設計画が、皇帝自身による「上ではなく下を通せ Drunter durch, nicht drüber (hin)weg!」の一言で覆ったという話が伝えられているように、他の都市は、市街地の景観や日照を阻害しがちな高架鉄道よりも、既存の路面軌道や地下鉄の延伸による交通網の充実を目指した。

結局、オイゲン・ランゲンの懸垂式モノレールは、ヴッパータールが唯一の実用例で(下注)、市街地の特性に合致した機能性と、19世紀末のモダニズムを伝えるファッション性、そしてここにしかないという希少性ゆえに、街のシンボルとなるにとどまったのだ。

*注 同じ1901年に開業したドレスデン空中鉄道 Schwebebahn Dresden もオイゲン・ランゲンの懸垂式だが、車両に動力を持たず、ケーブルカー方式で動くところが異なる。

■参考サイト
ヴッパータール空中鉄道 https://schwebebahn.de/

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 ヴッパータールの懸垂式モノレール I

2026年2月19日 (木)

ヴッパータールの懸垂式モノレール I

ヴッパータール空中鉄道 Wuppertaler Schwebebahn

フォーヴィンケル・シュヴェーベバーン(空中鉄道)Vohwinkel Schwebebahn~オーバーバルメン・バーンホーフ(駅)Oberbarmen Bahnhof 間 13.3km
直流750V電化、懸垂式モノレール、最大勾配40‰
1901~1903年開業

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フォーヴィンケルの街路を行くモノレール車両

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ドイツ西部、ルール地方 Ruhrgebiet の南隣に位置するヴッパータール Wuppertal は、わが国で例えるなら北九州市のような都市だ。

もちろん内陸部なので海も港もないが、ヴッパー川 Die Wupper 沿いで工業が盛んだったエルバーフェルト Elberfeld とバルメン Barmen を中心に、周辺のロンスドルフ Ronsdorf、クローネンベルク Cronenberg、フォーヴィンケル Vohwinkel、計5つの自治体が1929年に合併して誕生した。ヴッパー川の谷(タール Tal)を意味する市名も、北九州と同じように、公募で採用された新しい名称だ。

偶然なことにヴッパータールにも都市モノレールが走っているが、小倉のそれとは異なり、高架のレールから車体がぶら下がる懸垂式だ。しかも1901~03年の開通(下注)と、現存する公共交通モノレールでは世界最古で、ヴッパータール市の成立よりもずっと前になる。むしろモノレールで結ばれていたことが広域合併を後押ししたともいえ、北九州ならかつて走っていた西鉄の路面電車のような存在だ。

*注 中央部のクルーゼ Kluse ~ツォー/シュタディオン Zoo/Stadion 間が1901年3月1日、西側のツォー~フォーヴィンケル間が同年5月24日、東側のクルーゼ~オーバーバルメン Oberbarmen 間は少し遅れて1903年6月27日の開業。

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ヴッパータール空中鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
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水面に映る「鋼鉄のドラゴン」
 

世界的に見てもこの方式のモノレールは珍しい。しかもルートの8割はヴッパー川の上空を通り、両岸の基礎から斜めに差し掛けられたトラスの鉄柱が、背骨のような軌道を支えている。そのさまは「鋼鉄のドラゴン Stahlharte Drache」とも形容され、早くからヴッパータールの象徴であり、市街地のランドマークとみなされてきた。

今回はこのユニークなモノレール、ドイツ語で「宙に浮かぶ鉄道(下注)」を意味するシュヴェーベバーン Schwebebahn を訪ねてみたい。

*注 Schwebe は英語の float に当たる。日本語版ウィキペディアの当該項目では、原語のニュアンスを汲んで「空中鉄道」と訳されている。

モノレール線は全線13.3kmで、1995年に延伸された千葉都市モノレールに抜かれるまで、懸垂式では世界最長を誇っていた。ルートは東西方向に延びていて、起点は西側終端のフォーヴィンケル・シュヴェーベバーン Vohwinkel Schwebebahn に置かれている。わざわざシュヴェーベバーンと名乗るのは、DB(ドイツ鉄道)のヴッパータール・フォーヴィンケル駅と区別するためで、両者の間は500mほどの距離がある。

デュッセルドルフ中央駅 Düsseldorf Hbf からRE(レギオナルエクスプレス、快速列車に相当)に乗れば、17~18分でDBフォーヴィンケル駅に着く。南口から街路を歩き出すと、次の交差点の上空にモノレールのトラスの桁が覗いているから、道に迷うことはない。

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(左)DBヴッパータール・フォーヴィンケル駅
(右)カイザー通りの交差点を渡る
 

その交差点を西に取れば、軌道桁が街路からそれて、巨大な高架のやぐらに吸い込まれていくのが見える。それがフォーヴィンケル・シュヴェーベバーン駅だ。駅下にあるオーバーバルメン方面と記された階段を上がると、高架に載る板張りの乗車ホームに出る。地下鉄駅と違ってガラス張りの側壁から外光が差し込むので、すみずみまで明るい。西側には車庫が隣接していて、多数の車両が休んでいる。

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モノレールの起点
フォーヴィンケル・シュヴェーベバーン駅
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多くの車両が休むフォーヴィンケル車庫
 

まもなく左奥のループを回ってきた車両が、ホームの端にぬっと顔を出した。台車と軌条の構造上、車両は一方向にしか走れないので、方向転換はこうしたループ線を介さなければならない。かつては一部の中間駅(下注)にも同じ設備が残っていたが、現在は両端駅のみにある。

*注 ツォー/シュタディオーン Zoo/Stadion とクルーゼ Kluse。部分開通に際して造られた。

ホームのへりはスパッと切り落とされておらず、床が車両の下まで潜り込んで、乗降口との間に段差が生じている。床も板張りで、どこか遊園地の乗り物のような非日常感が漂うのがおもしろい。

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ループを回って乗車ホームの端に顔を出す
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(左)車両下に潜り込む板張りのホーム床(クルーゼ駅にて)
(右)乗降口との間に段差が
 

現行車両は、2016年に就役した15世代 Generation 15(下注)と呼ばれる3車体連節車だ。ライトブルーの地色をまとい、窓回りを黒で引き締めている。車幅が2200mmと狭いので、車内は片側に寄せて2人掛けの簡易シートが並び、車端だけレール方向の向い合わせシートだ。運転室がない最後尾は全面窓で眺めがよく、乗り鉄にとっては特等席だが、途中駅から乗るとたいてい先客で塞がっている。

*注 15番目の車両形式ではなく、2015年に最初の車両が納入されたことに由来するという。なお、正式名称は GTW 14 で、GTW は連節電動車 Gelenktriebwagen の意。

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3車体連接車「15世代」
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(左)車内は2人掛けシートが並ぶ
(右)最後尾は特等席
Photo by Ra Boe at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 DE
 

懸垂式モノレールと言っても、湘南や千葉のモノレールが採用しているフランスのサフェージュ式とは走行系の構造が異なる。サフェージュ式では、ゴムタイヤの車輪がH鋼の案内軌条を転がるが、ケルンの技師カール・オイゲン・ランゲン Carl Eugen Langen が開発したヴッパータールのそれは、両側にフランジのついた鉄車輪がレールの上を転がる古典的な方式だ。

車輪は2軸のボギー台車に取りつけられていて、15世代の場合、これが1編成に4基ついている。走行中はレールの継ぎ目を通るジョイント音が聞こえてくるので、モノレールでありながら鉄道車両に乗っているような不思議な感覚に陥る。

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(左)走行系はボギー台車4基
(右)フランジつき車輪がレールに載る
 

運行本数は非常に多い。日中は平日3~5分間隔、休日でも6~8分間隔と、大都市の地下鉄並みの高頻度だ。オーバーバルメン行きが扉を開けて発車を待っている間に、向かいの降車ホームにもう次の列車が入線してくる。列車単位の輸送力不足を頻発運転で補っているのだが、結果として待たずに乗れることが大きなアピールポイントになっているに違いない。

ではその宙に浮かぶ列車に乗って、オーバーバルメンへと向かうことにしよう。

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フォーヴィンケル駅発車ホーム
 

フォーヴィンケルを出てしばらくは街路の上空を行く。この区間は「陸上線 Landstrecke」と呼ばれ、2.7kmにわたって続く。町を東西に貫く2車線路のカイザー(皇帝)通り Kaiserstraße に覆いかぶさるように、軌道桁が架かっている。それを支える鉄製支柱は、裾の絞りや角の大きな湾曲に特徴があり、当時流行していたユーゲントシュティール(青春様式)Jugendstil の影響が見て取れる。

陸上線には昔、カーテンレール線 Gardinenstangenstrecke という別称があった。乗客に家の中を覗かれては困ると、沿線住民が運行会社に室内のカーテンを取り付ける費用を負担させたという逸話がその由来だ。

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フォーヴィンケル、カイザー通りの「陸上線」
 

軌道はヴッパー川に向けて下り坂になっている。フォーヴィンケル駅が全線で最も高く、レール上面の標高は180.0m。そこから27~40‰の急勾配で標高136.1mの川端まで降下していき、その後は反転して川をゆっくり遡る。終点オーバーバルメンの標高は161.1mだ。

カイザー通りはフォーヴィンケルの中心街で、商店や商業施設が連なり、人通りも多い。しかし、2駅目のハンマーシュタイン Hammerstein 駅からはオイゲン・ランゲン通り Eugen-Langen Straße と名前が変わり、見た目も閑散としてくる。というのも、この先300mで道が行き止まりになっているからだ。

1974年に完成したアウトバーンA46が、ここで谷を南北に横断している。モノレールの走行に支障しないよう地上付近を通したので、代わりに街路が分断を余儀なくされた。車内から見ていると、街中の風景が突然、直交する高速道路に切り替わり、直後にまた同じような市街地に戻るので驚く。アウトバーンの東側はゾンボルン Sonnborn 地区で、軌道下の街路もゾンボルン通りSonnborner Straße と名を変える。

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(左)ブルッフ Bruch 駅
(右)アウトバーンA46をまたぐ(いずれも後方を撮影)
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(左)静かなゾンボルン通り
(右)街路から大きくカーブして川の上へ(いずれも後方を撮影)
 

「陸上線」はゾンボルンの福音教会の前までだ。ここで軌道は左に大きくカーブしながら、連邦道228号をまたぎ、水面に空を映すヴッパー川の上に出ていく。終点までの残り10.6kmは、流路を忠実にたどることから、通称「水上線 Wasserstrecke」だ。川を跨ぐ「鋼鉄のドラゴン」に抱きかかえられるようにして、モノレール車両はさらに東へ向かう。

続きは次回に。

■参考サイト
ヴッパータール空中鉄道 https://schwebebahn.de/

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 ヴッパータールの懸垂式モノレール II

2025年12月 9日 (火)

ライヘンバッハ滝鉄道-ケーブルカーで行く名探偵の聖地

ライヘンバッハ滝鉄道 Reichenbachfall-Bahn (RfB)

鋼索鉄道(単線交走式)
ヴィリンゲン Willingen~ライヘンバッハファル(ライヘンバッハ滝)Reichenbachfall 間 714m
高度差244m、軌間1000mm、最急勾配579‰、平均勾配369‰
1899年開通

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ライヘンバッハ滝へ向かうケーブルカー

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「一週間のあいだ、ローヌの渓谷をさかのぼって愉快にさまよい歩き、それからロイクで横にそれて、まだ雪のふかいゲミ峠をこえ、インターラーケンを経てマイリンゲンへやってきた。」
(「最後の事件」阿部知二訳 創元推理文庫『回想のシャーロック・ホームズ』)

ベルナー・オーバーラントのアーレ川 Aare を遡った谷間にあるマイリンゲン Meiringen の町は、シャーロキアンにとって聖地の一つだ。1891年5月3日、犯罪のナポレオン、モリアーティ教授の魔の手を避ける大陸旅行でホームズと相棒のワトスンが訪れて、町の「英国館 Englisher Hof」に投宿した。翌4日、宿の主人の勧めで、鉱泉が湧くローゼンラウイ Rosenlaui へ向かう途中、立ち寄ったライヘンバッハの滝 Reichenbachfall で事件が起きる。

瀕死の病人の診察を懇願する手紙を受け取ったワトスンは、ホームズと別れて町に戻るが、それは偽の知らせだった。悪い予感に襲われた彼は、急いで滝に取って返す。しかしそこにホームズの姿はなく、愛用の登山杖と、深い滝壺の前で誰か二人が争った跡があるだけだ。そして彼は、ホームズが遺した置手紙を目にする…。

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(左)「最後の事件」が収録された短編集
  『シャーロック・ホームズの回想 The Memoirs of Sherlock Holmes』表紙
(右)「最後の事件」ストランド・マガジン掲載時の
  シドニー・パジェット Sidney Paget による挿絵
Photos from wikimedia. License: public domain
 

これがよく知られた「最後の事件 The Final Problem」のクライマックスだ。ストランド・マガジン The Strand Magazine 1893年12月号に発表された。作者アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle は、2年半にわたったホームズ譚の連載を打ち切りたくてこの結末にしたそうだが、名探偵を死なせたという読者の猛烈な抗議に屈して、後に執筆を再開する。

ホームズが宿敵と闘ったとされる現場は町の約2km南にあり、U字谷の切り立った側壁をライヘンバッハ川が落下している。全体は7つの落差から成り、高さは約300mに及ぶが、そのうち最上部にあるのがライヘンバッハ滝だ。高さ120m、ベルナーアルプス Berner Alpen の氷河を水源にしているため、豊かな水量を誇る。

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ライヘンバッハ滝
 

当時、話題の小説の舞台になったことで一躍その名が知れ渡り、今でいう聖地巡礼ブームが巻き起こった。そこで見物客の需要を当て込んで1899年に、観瀑台に上がるライヘンバッハ滝鉄道 Reichenbachfall-Bahn (RfB) が開業する。単線交走式のケーブルカーで、長さ714m、高度差244m、片道7分でその高台まで乗客を運んだ。

しかし、期待したほどの集客は叶わず、運行会社が二度も倒産し、数年にわたる運休期間もあった。第一次世界大戦後、地域の水力発電会社が直接運営に乗り出したことで、ようやく状況が安定化して現在に至る(下注)。1998年以降、劣化が進行した車両や施設の更新が行われ、それに合わせて開業当時のイメージが復元されている。

*注:現在はオーバーハスリ電力会社 Kraftwerke Oberhasli AG (KWO) の観光部門「グリムゼルヴェルト Grimselwelt」の一事業として運営されている。

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ライヘンバッハ川をまたぐケーブルカーのアーチ橋
© 2025 www.sherlockholmes.ch
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ライヘンバッハ滝鉄道周辺の1:25000地形図
© 2025 swisstopo

ブリューニック線 Brünigbahn でマイリンゲンまで行った機会に、このケーブルカーでライヘンバッハ滝を訪ねてみようと思った。山麓駅までは道なりに1.4km、路線バスが1時間ごとに走っているが、歩いても20分かからない。

ちなみに1912年、山麓駅前を経由するマイリンゲン=ライヘンバッハ=アーレ峡谷路面軌道 Trambahn Meiringen–Reichenbach–Aareschlucht (MRA) が開通している。マイリンゲン駅から滝と峡谷という近郊の二大名所に通じる観光客向けのトラムだったが、1956年に廃止されてしまった。

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かつて路面軌道があったマイリンゲンの駅前通り
 

せっかく聖地に来たので、まずは駅のすぐ近くにあるシャーロック・ホームズ博物館 Sherlock Holmes Museum を見ていこう。入館料とケーブルカー往復の割引セット券を売っているから好都合だ。

駅前通りに向いた敷地で、トレードマークの鹿撃ち帽をかぶり、パイプを咥えたホームズの銅像が人目を引いている。奥に控える小塔のついた建物は、もとアングリカンチャーチ(英国教会)だ。1階に礼拝堂が復元され、映画の名シーンを含むホームズ譚の概要や、教会の由来を説明するパネルが置いてある。地下階は、名探偵にまつわるさまざまなアイテムを展示する博物館だ。ロンドンのベーカー街221Bにあったとされる彼の書斎が、ヴィクトリア朝をしのばせる多数の小道具とともに事細かに再現されていて、しばらく見とれてしまった。

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名探偵の銅像とシャーロック・ホームズ博物館
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(左)博物館はもと英国教会の建物
(右)入館とケーブルカー往復のセット券
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(左)解説パネルが置かれた礼拝堂
(右)シンプルな意匠の側窓
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地下階につくられたホームズの書斎
 

博物館を辞した後は、むかし軌道が通っていた市街の通りを歩いていった。インナートキルヘン線(下注)の踏切とアーレ川に架かる橋を渡ると、ヴィリンゲン Willingen 村に入る。ケーブルカーの駅は、右手の山裾にあるささやかな平屋の建物だ。

*注 ツェントラール鉄道マイリンゲン=インナートキルヘン線 Meiringen-Innertkirchen-Bahn。ケーブルカー山麓駅へはアルプバッハ Alpbach 駅が最寄りで、徒歩7分。同線については「マイリンゲン=インナートキルヘン鉄道でアーレ峡谷へ」参照。

運行は15分間隔と、案外頻度が高い。ベンチに腰を下ろしている数人の先客の中に混じって待つうち、上方から茜色のケーブルカーがゆっくりと降りてきた。降車客と入れ換えに、切符に鋏を入れてもらってホームに出る。

ケーブルカーの車体は2000年代に実施された全面改修の折、古写真を参考に開業当時の仕様に戻された。オープンタイプのコンパートメントが階段状に三つ並んでいる。座席は向かい合せの4人掛け木製ベンチで、窓枠に巻かれた白いカーテンがさりげなく優雅だ。両端のデッキには、係員が使う操作盤とハンドブレーキがある。

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(左)ケーブルカー山麓駅
(右)その傍らにあるホームズ記念碑
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山上行きケーブルカーが到着
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(左)旧観に復元された車両
(右)車内は三つのコンパートメントに分割
 

時間になり駅を出ると、すぐに人家は遠ざかり、森と牧草地の間をするすると上っていく。二つ目の跨線橋をくぐり、左へカーブしてまもなく、退避側線が現れた。客の姿がない1号車と行き違った頃から、激しい水音が頭上から聞こえてきた。

その正体は、滝壺から流れ落ちてきたライヘンバッハ川で、ケーブルカーはアーチ橋でこれを斜めに渡っていく。橋の上では、岩場に小さな落差を連ねながら白く泡立つ川筋が見下ろせた。いくらかの量が上手で発電用に取水されているはずだが、その残りだとしてもけっこうな勢いだ。

後半は、眼下にアーレ川が流れるマイリンゲンの谷の風景が開けてくる。線路勾配はいよいよ険しさを増し、山上駅の手前で579‰の最大値に達する。

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山麓駅を後にする
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ライヘンバッハ川をまたぐアーチ橋
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山上駅に接近する車両、右の谷川は滝の下流
 

駅に到着して駅舎を出ると、そこはまさに大滝が目の前だった。見上げる高さのごつごつした巨大な岩盤に、豪快な滝が掛かっている。最初、水はその凹みに沿って太い束で滑り落ち始めるが、中ほどでその支えがなくなると、シャワーのように広がりながら自由落下していく。駅前から延びる観瀑用の見学路にも、風に吹き上げられた水煙が舞い、しばらくいたらずぶ濡れになってしまいそうだ。

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山上駅に到着
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ライヘンバッハ滝の観瀑台
 

実は、モリアーティとの決闘場所はここではなく、谷を挟んで反対側にある。対岸の岩壁に見える星印がそれだ(下の写真参照、下注)。当時ケーブルカーはまだなかったし、その日ワトスンと向かう予定だったローゼンラウイへの山道も、対岸を通っていたからだ。

*注 もちろん登場人物も事件もフィクションだが、原著の記述をもとに現場を特定してある。

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決闘場所を示す星印が見える(赤の矢印)
 

しかし現実問題として、山上駅前から向こうの現場へ行くには、いったん滝口まで上って大回りする必要がある。残念だが帰りの電車の時刻を考えると、往復する時間が足りない。

とりあえず森の中を上る階段道を進んだ。数分歩くと、滝口のすぐ上の、川を跨いでいる小さな橋の前に出た。背後の岩の狭間からとてつもない水量が押し出されてきて、足もとを走り抜け、空中に忽然と消えていく。奈落の底から響いてくる地を揺るがすような轟音とあいまって、その先を想像すると足がすくんだ。

決闘地も崖っぷちなので、きっと同じようにスリリングな場所に違いない。だが、ここで引き返したとしても後悔することはないだろう。そう納得させるほど、自然の威力みなぎる空間だった。

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(左)滝口へ向かう小道
(右)滝口で川を跨ぐ小橋
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小橋から見るライヘンバッハ川
(左)上流側 (右)滝の落下口
 
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ツェントラール鉄道と周辺路線図
 

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2025年11月 3日 (月)

コンターサークル地図の旅-上田交通真田傍陽線跡

上田交通真田傍陽線(下注)は1927~28(昭和2~3)年の開業で、長野県の上田市内から北東の中山間部へ通じていた計15.9kmの電化路線だ。途中の本原(もとはら)で分岐して、一方は真田(さなだ)へ、もう一方は傍陽(そえひ)へ向かう。

*注 開業時の社名は上田温泉電軌、略称 温電。その後、上田電鉄(1939年~)、上田丸子電鉄(1943年~)、1969年から上田交通。路線名も開業時の北東線から、菅平鹿沢線(1939年~)、真田傍陽線(1960年~)と変遷している。

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上田城二の丸堀の廃線跡と保存された公園前駅
(2021年4月撮影)
 

真田では菅平高原や群馬県方面へのバス連絡があり、利用者も多かった。そのため、上田~本原~真田間(以下、真田線)が本線格として直通運転され、本原~傍陽間(同 傍陽線)は支線扱いだった。戦後は、菅平行きのバスの多くが上田から直行になり、貨物輸送もトラックに移行したため、業績が悪化し、1972年に全線廃止された。

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図1 真田傍陽線現役時代の1:200,000地勢図
  1959(昭和34)年修正

2025年秋のコンター旅、初回となる10月3日はこの廃線跡をたどる。参加者は大出さん、木下さん親子、私の4名だ。真田傍陽線は、国鉄駅に接していた電鉄上田駅(下注1)から西に出て、上田城の濠の中を北上していたが、国道18号北側の上田花園駅跡までは2021年4月、西丸子線跡探索(下注2)のついでに大出さんと歩いている。

*注1 1955年の改築で独立駅の構造になるまでの名称は上田駅。
*注2 西丸子線跡については「コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡」参照。

上田駅から長野方へ4~500m進んだ地点で、廃線跡は新幹線の高架下から離れて、北へ向かう。カーブの後、祝町大通りを横切って城跡まで続く駐車場用地がそのルートをよく示している。

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新幹線高架下を離れ、城跡に向かう廃線跡
(左)祝町大通り南側(右)同 北側
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
上田~神科間
 

上田城の二の丸堀を北上する区間は、昔から有名だ。廃線跡は整備されて、ケヤキとサクラの並木に囲まれた憩いのプロムナードになっている。訪れたときはちょうどサクラの季節で、散策する人も多かった。城内に通じる二の丸橋の下には、公園前駅の単式ホームが保存されている。廃線跡をまたぐ橋のアーチには電線を支えていた碍子も残され、往時をしのばせる(冒頭写真も参照)。

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公園前駅跡と二の丸橋
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駅跡に建つ案内板
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廃線跡のケヤキ並木道、二の丸橋から北望
 

城跡公園を離れると北大手駅があったが、廃線跡は住宅や商業施設にすっかり紛れてしまう。城の外堀の役を果たしていた矢出沢川(やでさわがわ)を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

国道を横断して上田郵便局の北側に上田花園駅跡があり、ここで鉄道は針路を東に変える。駐車場に使われている砂利の空地が、大きなカーブを描きながら住宅街に消えていた。

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(左)矢出沢川に残る橋台
(右)上田花園駅跡

さて本日の探索は、次の北上田駅跡からスタートする。上田駅前から下秋和車庫行きのバスに乗り、中央北交差点の手前で降りた。駅は上田大神宮の北側にあったというので行ってみたが、民家が建ち並ぶばかりで面影は何ら残っていない。

廃線跡には、一括して自治体に譲渡され、自転車道のように元のルートがわかる形で活用されるものもあれば、切り売りされて民地になり、ほとんど跡をとどめなくなったものもある。真田傍陽線の場合は後者だ。開業当時、このあたりは旧市街の北のはずれで、まだ水田や桑畑が広がっていたが、今や全面住宅街で、元のルートは民地の地割や街路の向きから推測するしかない。

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(左)上田大神宮
(右)北上田駅跡は住宅地に
 

さらに東へ進むと、再び矢出沢川を渡る。ここも両岸に低い橋台が残っている。まもなく2面2線で列車交換ができたという川原柳(かわらやぎ)駅跡だが、三葉製作所の工場敷地に取り込まれて、輪郭もなくなってしまった。

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川原柳駅西側の矢出沢川に残る低い橋台
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川原柳駅跡
(左)駅前にあるバス停(右)駅跡は工場敷地の中に
 

ここから線路は、矢出沢川の開析谷に沿って北東へ向かう。工場に隣接する変電所の先は、農道として残っている。草刈り作業中のところ、断りを入れて通らせてもらった。国道18号バイパスと交差の前後は車道だが、すぐに草ぼうぼうの荒地に戻るため、またもや迂回を強いられる。

扇状地に上りきると、神科(かみしな)駅跡がある。道幅がそこだけ広くなり、駐車スペースに利用されている。ここで目の前に、上信越道上田菅平ICのランプウェーの擁壁が立ち塞がる。後ろでは国道144号の立派な4車線道が交差していて、歩行者には疎外感のある一帯だ。

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(左)変電所裏の廃線跡(西望)
(右)農道になった廃線跡
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(左)神科駅跡
(右)国道144号歩道橋から南望
  線路は横断歩道と後方の高架道との間を横断していた
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図3 同 神科~本原間
 

この後、線路は勾配緩和のために、扇状地を覆う方形の条里地割に逆らって大きく迂回していた。前半は圃場整備で農地に還ったが、残りはいまだに定率の曲線を描く跡を追うことができる。多くが私有地なので、公道から接近できる地点を選びながら順にたどった。

一連の迂回区間の北端にあった樋之沢(ひのさわ)駅では、珍しくコンクリートの相対式ホームが残っている。線路部分には残土が盛られているが、ホームの形状は損なわれていない。隣接する民家で放し飼いされている鶏が2羽、せわしげに歩き回っていた。

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(左)迂回区間のカーブを踏襲する街路
(右)相対式ホームが残る樋之沢駅跡
 

上信越道の下をくぐると、国道144号のバイパス新道が近づいてきて、廃線跡を呑み込んでしまう。現道との取付け部が工事中のため、バイパスはまだ開通していないが、谷の中を走っていた小道はすでに消失してしまった。

しかし、鞍部を貫く伊勢山トンネルの手前でバイパスは左に離れていき、廃線跡が掘割となって現れる。伊勢山駅がこのあたりにあったはずだ。古い跨線橋の上から、鉄扉で封鎖されたトンネルのポータルが確認できる。廃線後はキノコ栽培に利用されていたそうだが、そこへ通じる掘割が雑木や雑草で埋もれているので、近年は放置されているようだ。

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廃線跡を呑み込んだ国道バイパス(未開通)
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伊勢山トンネル
(左)掘割の奥にポータルが見える(右)封鎖された西口
 

国道を経由して山の反対側に回ると、森の斜面にトンネル東口が同じように封鎖状態で残されていた。続く川久保橋梁の橋台も、谷を降りていく農道ぎわにすっくと立つ。線路は、ここから神川(かんがわ)の広い谷を向かいの段丘上まで、上路トラスの長い橋で一気にまたいでいた。沿線で一番の撮影名所だったに違いないが、今は幻だ。

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(左)森の中に残る東口
(右)神川の谷に面する高い橋台
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神川の谷
赤の矢印が示す橋台間に鉄橋が架かっていた
 

再び国道に戻って神川を渡り、対岸に移動する。もう片方の橋台を探すと、民家の離れか何かの土台として、藪に埋もれながら残っていた。この後は舗装道で、殿城口(とのしろぐち)、下原下(しもはらした)と小さな駅が数百m間隔で設置されていたが、いずれも痕跡はない。

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(左)殿城口駅跡付近の左カーブ
(右)下原下駅跡、左裏に真田氏発祥の里碑がある
 

12時になったので、国道沿いで見かけた食堂で昼食休憩にする。この先、真田線の跡は国道144号に上書きされてしまい、追跡の甲斐がない。分岐駅だった本原も、道路脇のバス停がその概略位置を示すだけだ。それで私たちは、比較的痕跡が残る傍陽線に足を向けた。

国道から分かれた草道が、美しい弧を描きながら、段丘を降りていく。これが廃線跡だ。再び渡る神川の橋台は残っているらしいが、雑木に覆われて確認できなかった。

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(左)本原駅跡にあるバス停
(右)両線分岐点
  右の国道が真田線跡、左の小道は傍陽線跡
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傍陽線跡の草道が弧を描く
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図4 同 本原~真田・傍陽間
 

それから廃線跡は、2車線道とつかず離れず、上流へ向かう。横尾駅も痕跡はないが、地形図に描かれた近くの千古滝(せんこだき)に興味を惹かれて寄り道した。谷底への小道をたどると、河原を塞ぐ大岩の間で渓流が二手に分かれ、滝壺へ流れ落ちている(下注)。落差が小さいのが意外だったが、水量の多い時期を選べば見栄えがするのではないか。

*注 かつては左端に第3の水路があり、千古三筋の滝と呼ばれた、と案内板にあった。

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千古滝
 

曲尾(まがりお)駅跡では、道端に駅名標の体裁を模した小さな木柱が立っている。沿線ではここにしか見られないので、地元の方のお手製だろう。県道35号に出会う地点で、廃線跡は西を向く。

曲尾の集落を抜けると、洗馬川(せばがわ)にさしかかった。左岸(東岸)は護岸改修されているが、右岸では橋台が、後ろの築堤を剥がされた状態で孤高を保っている。撤去された橋脚も、基礎だけは残っているように見えた。

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(左)横尾~曲尾間で農道になった廃線跡
(右)曲尾駅跡のお手製駅名標
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洗馬川右岸に残る橋台、後ろの築堤はもうない
 

終点の傍陽駅跡には新しい住宅が建ったが、正面に大きな蒲鉾屋根の農協倉庫あるいは選果場が残り、駅前の雰囲気を漂わせているのが印象的だ。

傍陽に着いたのは13時ごろ。朝からずっと曇り空で、昼前から小雨がぱらつき始めていたが、帰りのバスを待つ間にとうとう本降りになった。さいわい待合所は小屋仕様で、中に4人掛けのベンチもあったので、雨宿りができる。地元の人はふだんクルマを使うから、バスに乗り込んだのは私たちだけだった。

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(左)傍陽駅跡は宅地に転用、奥は農協倉庫
(右)雨宿りした傍陽バス停
 

途中、四日市橋を渡って国道144号に沿う真田自治センター入口という停留所でバスを降りた。ここは真田線の北本原(きたもとはら)駅跡で、そばに今もあるという「駅前食堂」を見たかったのだ。老夫婦で切り盛りしているような大衆食堂をイメージしていたが、実際は宴会場を備えた大きな2階家だった。

自家製の駅名標があるはすだが、と周りを探すと、分解状態で裏の軒下に置いてある。壊れたのだろうか、写真を撮りたかったのに残念だ。ともかくもタスクを完了した私たちは、近くのコンビニで買ったコーヒーで疲れを癒しながら、次に来る上田行きのバスを待った。

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国道沿いにあるバス停は真田線北本原駅跡
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(左)時代の記憶をとどめる駅前食堂
(右)上田行きのバスが到着

参考までに、真田傍陽線が描かれた1:50,000地形図を掲げておこう。なお、この地域の1:25,000地形図初版は1972(昭和47)年測量だが、同線はもう描かれていない。

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図5 真田傍陽線現役時代の1:50,000地形図
(左)1962(昭和37)年修正(右)1969(昭和44)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)、5万分の1地形図坂城(昭和37年修正)、上田(昭和44年資料修正)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年4月25日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸鉄道金名線跡

加賀平野に残る私鉄線は、今や北陸鉄道石川線と同 浅野川線の2本だけだが、1960~70年代まではさらに多くの路線があった。現在、石川線の終点になっている鶴来(つるぎ)駅にも当時、能美(のみ)線と金名(きんめい)線という2本の支線の列車が発着していた。

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鶴来駅正面
 

金名線は加賀一の宮~白山下間16.8km、もと金名鉄道と称した地方鉄道だ。その名は、金沢と名古屋を結ぶという気宇壮大な構想に由来する。発起人は地元鶴来の実業家で、1926(大正15)年から翌1927(昭和2)年にかけて鶴来~白山下間を開通させている。鶴来では、金沢電気軌道線(現 石川線)に接続した。

会社は白山下から両白山地を越えていく延伸線の免許も申請していたが、当局から却下され、実現することはなかった。また、鶴来~加賀一の宮(当時は神社前と称した)間は、開通間もない1929年、資金不足の穴埋めに金沢電気軌道に譲渡され、石川線に編入されている。1943年の陸運統制令により、石川県下のほとんどの私鉄が統合されたとき、金名鉄道も北陸鉄道金名線になった。

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図1 石川線・金名線周辺の1:200,000地勢図
1968(昭和43)年修正
 

沿線に町らしい町がないにもかかわらず、しぶとく存続していた金名線が危機にさらされたのは1983年10月のことだ。路線には2本の大きな橋梁があるが、大雨の後、大日川を渡る鉄橋の通行が危険になり、区間運休を強いられた。これは半年後に復旧したものの、その年(1984年)の12月に今度は手取川橋梁の橋台が不安定化していることがわかり、列車は全面運休となった。そしてこれがとどめとなって、1987年、ついに廃止の手続きが取られたのだ。

廃止後、跡地は県が管理する自転車道「手取キャニオンロード」に転換された。それで、40年近く経った今でも忠実にルートを追うことができる。2025年4月13日のコンター旅は、2009年11月に廃止された石川線鶴来~加賀一の宮間を含め、手取川に沿って走っていたこのローカル線の跡を下流から順にたどる。

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金名線跡を転用した手取キャニオンロード

その日は終日、雨の予報だった。鶴来で自転車を借りて、終点まで往復するつもりだったが、この調子ではずぶ濡れになりそうだ。それで急遽予定を変更し、金沢駅西口でレンタカーを調達して、集合場所の鶴来駅に向かった。乗り慣れたトヨタ車と違い、今回の車種はスズキスイフト。運転する大出さんもちょっと勝手が違うようだ。

9時少し前に鶴来駅前に到着した。まもなく木下さん親子がマイカーで現れて、参加者は4名になった。

鶴来駅舎は、この地方によく見られる釉薬瓦葺き、下見板張りの建物だが、車寄せのついた玄関が擬洋風で、どことなく金沢の有名な尾山神社山門を連想させる(冒頭写真参照)。内部もレトロな雰囲気が漂っていて、改札の鴨居の上に掛かるデジタルの発着案内が場違いな感じだ。壁際のショーケースに、古い鉄道用品が無造作に陳列してあるし、待合室には懐かしい改札柵が残されていた。

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鶴来駅
(左)改札口の上にデジタルの発着案内
(右)隣室に残る改札柵
 

ホームは2線を挟む対面式だ。ただし、向かいのホームは本来、島式で、能美線があったころは3番線も使われていたらしい。しばらく観察しているうちに、野町方からもと京王車が1番線に到着し、2番線で発車を待っていたもと東急車と並んだ。9時02分定刻にこれが出ていくと、ほぼ同時に京王車も動き出し、白山下方に残された引上げ線の急カーブに消えた。再び現れたのは2番線で、9時38分の発車までホームで待機となる。

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(左)元京王の下り電車が入線、左隣は除雪車仕様のED201
(右)入れ違いに2番線から元東急車が発車
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図2 鶴来~広瀬間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

クルマを置いて、引上げ線の終端を見に行った。車止めは、ホーム端から約250m先、県道45号金沢鶴来線の旧 踏切の手前にある。しかし線路はまだ続いていて、直接吊りの架線もそのままだ。

石川線の北側にも空地があるが、これは能美線跡で、旧 踏切の西側に本鶴来(ほんつるぎ)駅の棒線ホームがあったはずだ。能美線の線路は撤去済みだが、七ヶ(しちか)用水を渡る下路式ガーダーだけはしっかり残っていた。そのすぐ上流で石川線の上路式ガーダーも斜めに水路をまたいでいて、この一角だけは鉄道が生きていた頃の情景を彷彿とさせる。

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(左)踏切手前に引上げ線の車止めがある(鶴来方を望む)
(右)草道の線路はまだ先へ続く
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七ヶ用水を渡る石川線跡
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(左)能美線本鶴来駅跡
(右)能美線の下路式ガーダー
 

公立つるぎ病院の横でも、撤去を免れた一部の線路が草に埋もれていた。その南側の駐車場には、中鶴来(なかつるぎ)駅の棒線ホームがぽつんと残る。それに対して、市道の南側では線路と架線、信号機まで元のままで、つい最近廃止されたのかと錯覚するほどだ。七ヶ用水に並行するこの貴重な風景は約500mの間続くが、やがて右手から接近してきた国道157号の接続道路に呑み込まれてしまう。

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(左)公立つるぎ病院横に眠る線路
(右)駐車場の中に取り残された中鶴来駅のホーム
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市道南側、現役時代そのままの区間
 

舟岡山の森の近くでは、もと吊橋で現 ポニートラスの歩道橋、和佐谷(わさだに)橋が手取川を渡っているのが見える。そのたもとが、廃線跡を活用した手取キャニオンロードの起点だ。左の川沿いは古宮公園で、満開のサクラがそぼ降る雨に濡れている。右奥には、金名線の起点だった加賀一の宮駅がある。

駅は現役時代、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、下注)の最寄りとして、とりわけ初詣客で賑わった。それで駅舎は、小ぶりながらも社殿を模した入母屋造りで、保存され、国の登録有形文化財になっている。中に入ると、当時の時刻表や運賃表、路線の写真展示が周りの壁を埋めていた。事務室側から待合室を眺める景色も新鮮だ。

*注 東側の河岸段丘面に鎮座する白山比咩神社だが、もとは古宮公園の位置にあったとされる。

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保存された加賀一の宮駅舎
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(左)待合室は展示室に
(右)事務室側から見た待合室
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(左)手取キャニオンロードの起点
(右)加賀一の宮駅舎裏を通過
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白山比咩神社
(左)緩い坂の表参道(右)荘厳な本殿
 

キャニオンロードはこの後、白山発電所の横を通過し、手取川右岸に沿って一路南下する。廃線跡が開発されてしまった南白山町の住宅地を迂回するのを除けば、直線主体のルートだ。

大きく右にカーブし、旧道を横断すると、手取中島(てどりなかじま)駅跡がある。といっても道幅が広く取られているので、そうと知れるだけだ。約17kmの金名線には、起終点を含めて14もの駅があった。だが残念なことに、自転車道整備の際に撤去されたのか、ホームなどの遺構はことごとく消失している。

続いて手取川を渡る。鉄道廃止を決定づけたいわくつきの場所だ。現在は、金名橋という長さ70m、ワーレントラス構造のレトロな橋梁が架かっているが、これは鉄道のオリジナルではなく、金沢市内で犀川(さいがわ)を渡っていた御影大橋の部材を転用したものだ。トラスの上横構に、自転車の車輪や蒸気機関車を象ったオブジェが取り付けられているのが目を引く。

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(左)手取中島駅跡
(右)手取川に架かる金名橋
 

左岸に移ってまもなく、広瀬(ひろせ)駅跡にさしかかる。手取川橋梁が完成するまでの間、暫定的に上部区間の終点とされた駅で、名残のバス停がその位置を示している。この後、長い直線区間に瀬木野(せぎの)、服部(はっとり)、加賀河合(かがかわい)と駅が続くが、どれも同様の状況だろうと、隣接する車道から目視するにとどめた。

やがて右手に山が迫ってくると、大日川(だいにちがわ)駅跡がある。ここでは、鳥居形の復元駅名標が迎えてくれた。隣に路線の歴史などを記した説明板も立っている。背後で威容を見せているのは、陶石を採掘している鉱山施設で、昔はここから貨車で積出していたのだろう。

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(左)広瀬駅跡の前にあるバス停
(右)レンガ造の福岡第一発電所が対岸に見える
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大日川駅跡
(左)背後に覆いかぶさる鉱山施設
(右)復元駅名標が立つ
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図3 広瀬~手取温泉間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

駅を出ると線路は左にカーブして、大日川を渡っていく。ここから3km弱の間、廃線跡は片側1車線の車道に上書きされていて、自転車道はその側道になって進む。サクラの並木に縁取られた直線道路で、遠くに雪山も望める。下野(しもの)と手取温泉(てどりおんせん)の2駅がこの間にあり、後者の位置には、大日川と同じ仕様の復元駅名標が立っていた。

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(左)道路橋として架け直された大日川橋梁
(右)手取温泉駅跡の復元標識
 

次の釜清水(かましみず)駅跡の前後には、自転車道に転換されなかった区間が草道のままで残る(下注)。鳥越中学校の前から釜清水の交差点の西側までの300m弱だ。釜清水駅は1面2線の配置で、側線もあったので、跡地もそれなりの横幅を持つ。ちなみに釜清水という地名は、村の中にある弘法池(こうぼういけ)から来ている。甌穴(ポットホール)から地下水が湧き出しているという珍しいもので、弘法大師が錫杖で突くと水が湧いたという言い伝えがあるそうだ。

*注 廃線跡は小松へ通じる国道360号を横断していたため、自転車道化にあたってその区間を避けたものと思われる。

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(左)草道で残る廃線跡
(右)釜清水駅跡(いずれも鶴来方を望む)
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湧水のある甌穴、弘法池
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図4 手取温泉~下吉谷間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

旧駅前の蕎麦屋で昼食の後、近くの黄門橋に寄り道した。手取渓谷の深い淵を見下ろし、白山主峰、大汝峰の雄々しい姿を仰ぎ、さらに上流へと進む。次の下吉谷(しもよしたに)駅跡までは2.9kmあり、駅間距離としては最長だった。当然、間に集落はなく、自転車道は渓谷の左岸を覆う河岸林に沿って淡々と延びている。

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黄門橋から見下ろす手取渓谷(上流側)
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谷の奥に顔を覗かせる白山大汝峰
 

下吉谷駅の600m上流には、綿ヶ滝(わたがたき)という名所がある。支流の駿馬川(しゅんまがわ)が手取渓谷に落ちる落差32mの豪快な滝だ。段丘上の、少し離れた展望台からも遠望できるが、約120段の急な階段を伝って谷底まで降りると、落下する水のすさまじい迫力をより体感できる。上流の用水路のような穏やかな流れとの対比も見ものだ。

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展望台から望む綿ヶ滝
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(左)谷底に降りる急な階段
(右)滝が間近に
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図5 下吉谷~白山下間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

ルート終盤では、段丘の縦勾配がやや強まる。西佐良(にしさら)、三ツ屋野(みつやの)と集落ごとに置かれた小駅の跡を経て、自転車道は路線の終点、白山下駅の構内に入っていく。現在は、白山下サイクリングパークと称する休憩地で、もとの駅舎に代わって「サイクルステーション白山下」のプレートが掛かる新しい木造建物が建っている。

建物の半分を占める休憩室には入れるが、資料やパネルが展示してある事務室側には鍵がかかっていた。まだシーズンオフなのだろうか。駅前には民家が散在するものの、商店などは見当たらず、人もクルマも通らない。手取キャニオンロードの終点はここではなく、3km上流にある道の駅瀬女(せな)だ。確かにここで終わられても、飲み物一つ手に入らない。

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白山下駅跡
(左)駅舎跡に建つサイクルステーション
(右)復元駅名標
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線路跡にキャニオンロードが続く
 

そのうち、エンジン音が近づいてきたと思ったら、瀬女行きの路線バスだった。鶴来駅方面から金名線のルートに沿って1日7便(河原山線、うち1便は学休期間運休)が今も運行されているのだ。鶴来駅から瀬女へは、手取川対岸の国道157号経由でもバスが走っている(白山線)。それほど需要がありそうにも見えないが、やはり鉄道が通っていた名残だろうか。しかし、停留所に誰もいないと見るや、バスは速度を落とすことなく通過してしまった。

下の写真は、休止直前1984年11月の白山下駅だ。すでに廃止の意向が示されていた小松線(小松~鵜川遊泉寺間、1986年6月廃止)に乗るついでに訪れたのだが、まさかこちらのほうが早く終了するとは思いもしなかった。当時のメモには「駅前の駄菓子屋で乗継ぎのバスの切符を売っていたが、駅舎は無人で、乗務員の休憩所の役しか果たしていない」と書いている。

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ありし日の白山下駅舎
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白山下で折返しを待つ電車
(いずれも1984年11月撮影)
 

鶴来~加賀一の宮間は、廃止を控えた2009年2月に最後の乗車を果たした。金沢市内では見られなかった雪がまだ消え残っているのが印象的だった。

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鶴来~中鶴来間を行く
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加賀一の宮駅に到着
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発車を待つ野町行上り電車
(いずれも2009年2月撮影)

参考までに、金名線が記載されている1:25,000地形図を、鶴来側から順に掲げる。

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図6 金名線現役時代の1:25,000地形図
鶴来~広瀬間(1973(昭和48)年修正測量)
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図7 同 広瀬~手取温泉間(1973(昭和48)年修正測量)
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図8 同 手取温泉~下吉谷間(1973(昭和48)年修正測量)
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図9 同 下吉谷~白山下間(1973(昭和48)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図金沢(昭和43年修正)、2万5千分の1地形図鶴来、粟生、口直海、別宮、市原、尾小屋(いずれも昭和48年修正測量)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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2025年4月 1日 (火)

コンターサークル地図の旅-豊後竹田とその周辺

2025年コンターサークル-Sの旅、3月は中九州が舞台だ。1日目は、阿蘇外輪山の東麓にある豊後竹田(ぶんごたけた)周辺に焦点を絞った。行政区分では大分県竹田市と同 豊後大野市になる。

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岩戸の景観を走り抜ける九州横断特急
 

このエリアには、阿蘇山の火砕流に覆われた緩斜面が広く分布している。これらは主に約13万年前の阿蘇3(Aso-3)、約9万年前の阿蘇4(Aso-4)と呼ばれる2回の大規模な火山活動で形成されたものだ。噴出物は自らの熱で溶けるとともに、重みで圧縮されて溶結凝灰岩(下注)の層ができた。

*注 当地では灰石(はいいし、はいし)と呼ばれる。

斜面の上流部ではその上に火山灰が積もり、なだらかな台地として残されているが、中流部では河川によって激しく浸食され、岩肌が山腹や川床に露出している。これらが断崖や滝といった特色ある自然景観をはぐくむ一方、人はその石材を、難攻不落の城や谷を渡る橋などに巧みに利用してきた。今日は、そうした見どころのいくつかをレンタカーで巡ることにしている。

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難攻不落の山城、岡城跡
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図1 竹田周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

3月15日は、あいにく朝から本降りの雨になった。小やみになる時間帯もあったものの、終日降り続いた。大分駅から、黄色のキハ125形を2両連ねたJR豊肥本線の上り普通列車に乗り込むと、ボックス席に大出さんの姿があった。列車は途中の三重町(みえまち)駅で乗換えになる。ホームで山本さんと合流して、参加者3名が揃った。

朝の豊肥本線は大分行きの対向列車が多く、ネットダイヤといっていいくらいだ。沿線はようやく梅が見ごろを迎えている。この冬は寒い日が多かったので、開花が1か月近く遅れたという。豊後竹田駅に10時31分到着。駅舎は武家屋敷風に改築されていて、正面の堂々とした千鳥破風となまこの腰壁が印象的だ。

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豊後竹田駅
(左)駅舎は武家屋敷風(右)当駅止まりのキハ125形
 

シルバーのトヨタヴィッツを借りて、まずは中九州道を東へ進む。2年前に行った延岡~高千穂間もそうだったが、ここも立派な自動車専用道が通じていて、クルマがあれば移動には苦労しない。犬飼ICで地道に降りて南下し、最初の目的地、虹澗橋(こうかんきょう)を目指した。

大野川支流、三重川の渓谷に架かるこの橋は、江戸後期の1824年に完成したシングルスパンのアーチ橋だ。溶結凝灰岩の切石で組まれ、長さは31.0m、径間25.1m、幅員6.1m。臼杵(うすき)の町とその藩領だった三重郷(三重町周辺)を結ぶ街道を通す、当時としては最大規模の石橋で、国の重要文化財に指定されている。

今はたもとにポールが立ててあるが、比較的最近まで一般道だったと見え、路面にセンターラインが残る。付け根の部分は嵩上げされていて、もとは路面がもっと反っていたようだ。眺める限りアーチを構成する輪石に狂いも隙もなく、200年前の匠の技を完璧に伝えている。

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渓谷にアーチを架ける虹澗橋
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(左)路面にセンターラインが残る
(右)由来を記す碑文「虹澗橋記」
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図2 虹澗橋周辺の1:25,000地形図に加筆
 

三重町のコンビニで昼食を仕入れて、次に向かったのは沈堕(ちんだ)の滝。大野川とその支流、平井川にかかる大小二つの滝で、水墨画の巨匠、雪舟も描いたという伝説の名瀑だ。本流の雄滝は幅100m、高さ20m、支流の雌滝は幅10m、高さ18m(下注)。大きな落差は、柱状節理の入った岩盤が水流で崩れて生じた。

*注 数値は、おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会のリーフレットに拠る。下述する原尻の滝も同じ。

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工事で水涸れした沈堕の滝
上流の水は右手の吐口から川に戻されている
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支流平井川の雌滝は健在
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図3 岩戸~沈堕の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

降りしきる雨を押して近くまで行ってみたが、残念なことに雄滝のほうは水涸れしていた。上流側にある取水堰の工事のため、5月末まで落水を停止していると掲示がある。滝の落差を利用して1909年に完成した水力発電所(下注)の廃墟も残っていて、クロード・ロランの古典画のような情景が見られるかとひそかに期待していたのだが。

*注 沈堕発電所。大分~別府間の路面軌道(後の大分交通別大線)を運営していた豊後電気鉄道が建設した。

歴史的には、発電所建設以来、今と同様の状態が長く続いていた。導水路に水を回すようになったことと、堰の基盤を保護する目的で、本流の水量を絞ったからだ。滝の水流が復活したのは1996年だが、滝面が崩れないようコンクリートで固定しているのが遠目にも見て取れ、もはや自然の滝とは言えなくなっている。

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手前に水力発電所の遺構が
 

もと来た道を戻って、大野川に支流の奥岳川(おくだけがわ)が合流する地点へ。右岸に火砕流由来の切り立ったグレーの断崖が続き(下注)、付近の集落名から、岩戸(いわど)の景観と呼ばれるスポットだ。断崖には豊肥本線の百枝(ももえだ)トンネルがうがたれ、そのまま奥岳川を渡る高い鉄橋に接続している。

*注 下部は阿蘇3、上部は阿蘇4の火砕流による。

言わずと知れた撮影名所で、河原に訪問者のクルマを停める場所まで指定してあった。ちょうど雨が小やみになったので、各自思い思いの場所に陣取り、トンネルに吸い込まれる下り普通列車の赤いキハ200系と、逆に飛び出してくる上り九州横断特急をカメラに収める(冒頭写真参照)。

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岩戸の景観、トンネルに吸い込まれる下り普通列車
 

最重要イベント(?)を終えた後は、原尻(はらじり)の滝へと駒を進めた。大野川の支流、緒方川(おがたがわ)に掛かるこの滝は、幅120m、高さ20m。沈堕の滝と同様の成因で、ともに「豊後のナイアガラ」と称される大規模なものだ。

手前にある道の駅にクルマを停めて歩いて行く。周囲は谷底平野で、田園が広がり、中央を緒方川がゆったりと流れている。それが広い川幅のままで、いきなり滝壺に落ちていくから、ナイアガラに例えられるのももっともだ。滝の上流側には沈下橋が渡され、下流側の深い谷では吊橋が揺れる。その間を周遊路がつないでいて、壮大な弧を描く滝をさまざまな角度から鑑賞できるのがいい。

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豊後のナイアガラ、原尻の滝
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(左)上流側の沈下橋
(右)下流側の吊橋
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図4 原尻の滝~蝙蝠の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

近くにもう一つ、大野川に掛かる蝙蝠(こうもり)の滝がある。これも溶結凝灰岩の柱状節理の間から、噴き出すように水が落ちているが、そばまで近づくことはできない。それで、普通車がぎりぎりの狭い山道を伝って、400mほど離れた山上にある展望所へ。滝の高さは約10mで、大きく四つの筋に分かれている。本流なので豊かな水量があり、遠目にも勢いと迫力が伝わってきた。

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蝙蝠の滝を展望所から遠望
 

竹田市街を経由して、次は竹田湧水群へ。周辺では、阿蘇の豊かな伏流水があちこちで湧き出している。その一つで、水量が最大という河宇田(かうだ)湧水を訪ねた。駐車場の前に上屋つきの水汲み場があり、10個ほどの口から水が流れ落ちている。水栓はなく流しっ放し、無料で汲み放題だ。ひと口含むと、柔らかなのど越しが快い。

山手には、エノハ(下注)の養魚池が所せましと並んでいる。水流をたどって湧出場所まで行ってみたが、底が苔や藻に覆われたせいぜい数m幅の、意外に小さな池だった。同心円の波紋も立たない静かな水面にもかかわらず、出口から驚くほどの水が流れ出ていく。

*注 エノハは魚名として各地で使われているが、九州ではヤマメやアマゴを指すという。

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河宇田湧水
(左)水汲み場(右)豊かな水量で流れ下る
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(左)エノハの養魚池
(右)静かな湧出場所
 

石橋ではもう1か所、竹田西郊の山王橋(さんのうばし)を見に行った。大野川支流の稲葉川に架かる3連のアーチ橋だ。全長56m。こうした石橋は昭和初期まで造り続けられていて、これは1912(明治45)年に完成した。江戸期の重厚な石橋に比べ、深いアーチや段状になった橋脚基礎が軽やかで美しい。

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山王橋全景
 

最後に訪れたのは竹田随一の観光スポット、岡城(おかじょう)跡だ。市街地の東、大野川と支流稲葉川の二つの谷に挟まれながら、かろうじて浸食を免れた細長い火砕流台地の平坦面に築かれている。周囲の谷壁は比高100mと高く険しく、そのうえ堅固な石垣で護られていて、見るからに難攻不落の山城だ。

駐車場にクルマを停め、入場料を納めて城内へ向かった。雨模様とあってほとんど誰も歩いていない。崖の上にそびえ立つ凝灰岩の高石垣を仰ぎながら、大手門へ通じる坂道をたどる。上りきると、城郭は思った以上に広かった。左手の西の丸周辺が特にそうで、天空の広場という印象だ。ここからは竹田市街と周りの丘陵地が一望になる。晴れていれば、阿蘇の外輪山やくじゅう連山のパノラマが展開するのだろうが、きょうは近景さえ霧にかすみがちだ。

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岡城跡
(左)大手門への上り坂(右)坂下方向、苔むす高石垣
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(左)西の丸への小道
(右)西の丸周辺は天空の広場
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霧に煙る西の丸からのパノラマ
左手前は物見櫓跡
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図5 竹田市街周辺の1:25,000地形図に加筆
 

大手門前まで戻って今度は東に進むと、一段高い中心部の石垣が見えてきた。その手前、敷地が最もくびれたところが西中仕切、いわば最終ゲートで、通路が鍵形に曲がっている。三の丸のひときわ高い石垣を眺めた後、石段を上がればいよいよ本丸だ。しかし、城の建物は明治維新でことごとく取り壊されていて、あるのは何本かの大きなクスノキとその下の小さな神社だけだった。

城郭はまだ東へ続き、東ゲートである東中仕切、歴代藩主が眠る御廟所を経て、東口の下原門(しもばるもん)に至る。東西の全長は1km近くもあり、見応え十分だった。城内にはサクラの木も多数植わっていて、花の季節にはさぞ映えることだろう。

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城郭中心部、右のひときわ高い曲輪が本丸
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(左)城内のサクラ並木
(右)雨に煙る三の丸の高石垣
 

ところで、二の丸の一角に作曲家、滝廉太郎の像がある。彼は少年時代に、父親の任地だったこの町で過ごしたことがあり、城跡で遊んだ記憶から唱歌「荒城の月」の曲想を得たのだそうだ。竹田ではこれがもはやイメージソングになっていて、駅では列車到着の際に流れていたし、岡城でも霧の中からかすかに聞こえてきた。

何かと思えば、正体は谷底を通る国道で、制限速度で走るとタイヤの摩擦音が音楽に聞こえるメロディーロードになっているのだ。これを騒音と思うか風流と感じるかはともかく、諸行無常のむなしさを託した短調の旋律(下注)は、この後もしばらく耳に残って離れなかった。

*注 「荒城の月」には、滝の原曲とは別に、山田耕作がそれに手を入れた版があり、調(キー)やテンポ、一部のメロディーが異なる。一般に知られるのは後者だが、竹田では前者が流れる。

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滝廉太郎像
 

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2024年10月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-小岩井農場、橋場線跡、松尾鉱業鉄道跡

2024年コンターサークル-S 秋の旅、後半は岩手県に舞台を移す。初日の10月5日は、盛岡駅前でクルマを借りて、岩手山麓を半周する形で、雄大な風景と大地に埋もれた廃線跡を巡る。

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小岩井農場上丸四号牛舎
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図1 岩手山周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年編集
 

駅の改札前に集合したのは大出さん、山本さんと私の3名。白のトヨタヤリスで御所湖(ごしょこ)のほとりを走り、湖面に臨む繋(つなぎ)温泉の駐車場にクルマを停めた。御所湖は、雫石川(しずくいしがわ)を堰き止めて1981年に完成した比較的新しい人造湖だ。広い湖面の向こうにそびえる岩手山(いわてさん)の眺望を期待して来たのだが、空はおおむね晴れているのに、山頂付近に厚い雲がまとわりついている。

それから繋大橋を渡って北岸の、七ツ森がよく見える御所野の一角に移動した。のどかな田園地帯を限るように、優しい稜線をもつ小山がポコポコと並んでいる。宮沢賢治の文学作品にちなむイーハトーブの風景地の一つだ。本来ならその間に岩手山も顔を見せるはずだが…。

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御所湖西望
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七ツ森の展望

続いて国道46号で西へ向かう。目的地は橋場(はしば)駅跡。JR田沢湖線が仙岩トンネルの完成で全通する以前の盛岡方の終点で、路線も橋場線と呼ばれていた。1922(大正11)年に開業したが、戦時中、閑散区間だった雫石(しずくいし)と橋場の間が不要不急路線とされ、線路が撤去された。戦後の田沢湖線建設の際も、ルートから外れる赤渕(あかぶち、下注)~橋場間は復活することがなかった。

*注 赤渕駅は1964(昭和39)年の再開業時に開設された駅で、戦前の橋場線時代にはなかった。

橋場駅があったのは、赤渕から1.7kmの安栖(あずまい)地区だ。廃業した商店の向かいに並ぶ民家の間の小道を入っていくと、山裾にコンクリートの階段が見えてくる。踏面が草むしているものの、躯体はそれほど劣化していない。上ると、森の中に対面式のホーム跡がくっきりと浮かび上がった。しかし、端の方では丈の高い下草に覆われて、周りと区別がつかなくなる。構内の盛岡方に転車台があったようだが、冬枯れの時期ならともかく、とてもそこまで到達できそうになかった。

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橋場駅跡
(左)ホームへの階段(右)森の中のホーム跡
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図2 橋場駅跡周辺の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図3 橋場駅跡周辺の旧版1:50,000地形図(2倍拡大)
1939(昭和14)年修正測図

来た道を戻って雫石で左折し、次は小岩井農場へ。明治時代に岩手山南麓の広大な原野を拓いて造られた著名な農場だが、その一部がまきば園という有料公開の園地になっている。広々とした芝生広場の周りに乗馬体験や遊具のコーナー、レストランなどが配置され、大人から子どもまでゆったりと楽しめる場所だ。

だが残念なことに、鉄道系の楽しみはなくなってしまった。SLホテルだった蒸機D51 68号と20形客車は、今やただの置物になっている。雨ざらしのため、傷みが進んでいるようだ。D51は最近再塗装されて面目を取り戻したが、勢い余ってか、動輪まで黒のペンキで塗られていた。

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小岩井農場まきば園
(左)エントランス(右)広々とした園内
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旧SLホテルのD51 68号機
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図4 小岩井農場周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

園地の奥で走っていたトロ馬車も長期運休中だ。幌屋根のトロッコは乗り場に置かれたままで、周回軌道のレールももはや草に埋もれかけている。岩手山をバックに、草をはむ羊たちの横をトロ馬車が通り過ぎるさまはきっと絵になると思うので、復活を期待したい。

ちなみにこのトロ馬車は、昔ここにあった馬車軌道を再現したものだ。1904(明治37)年に農場本部から上丸牛舎に至る3.6kmの道沿いに敷設されたのが最初で、1921(大正10)年に国鉄橋場線の小岩井駅が開業すると、本部から南下して駅まで2.5kmが延伸された。当時のルートは旧版地形図(下図参照)にも描かれている。自動車の普及と道路整備に伴って1958(昭和33)年に廃止されるまで、半世紀にわたりトロ馬車は外界とを結ぶ重要な交通輸送手段だった。

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トロ馬車乗り場
(左)静態展示中(?)のトロッコ(右)遷車台
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牧場の中の周回軌道は草に埋もれつつある
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図5 小岩井農場の馬車軌道(薄赤で着色)が描かれた旧版地形図
図上端の「育牛部」が現在の上丸牛舎
1948(昭和23)年資料修正
 

レストランでスープカレーの昼食をとった後は、実際の農場の営みを見学できる上丸牛舎を訪ねた。門を入ったとたん、牧場独特の藁と糞の入り混じった匂いが漂ってきた。木造の大きな牛舎やレンガ張りのサイロは重要文化財の指定を受けつつも、現業で今なお使われているのだ。一号牛舎では内部も見学できる。ずらりと並んだ乳牛たちはもう慣れているのだろう。横から見学者がじろじろ眺めても、我関せずといった風で口をもぐもぐさせていた。

構内には事務所建物を利用した展示資料館もあり、本物のトロ馬車の走行写真やルート図など興味深い資料を見ることができた。最後に駐車場脇の売店で、限定販売の均質化していないビン牛乳を飲み干して、農場訪問を締めくくる。

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上丸牛舎の施設
(左)一号牛舎(右)一号、二号サイロ
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(左)小岩井農場資料館
(右)展示資料のトロ馬車写真

岩手山麓を北東へ走ると、東の方角に姫神山(ひめかみさん)が見えてくる。標高1124m、左右対称の整ったシルエットをもつ名山で、堀さんが著書『地図のたのしみ』に書いている。「頂上がキュッと尖り、両側になだらかな弧を描いて、ちょうど斜めに見たときの五重塔の軒先の曲線を思わせるその優姿をいつでも見せて、人の心をひきつける」と(同書p.232、下注)。

*注 堀淳一氏の『地図のたのしみ』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.245、2012年新装新版ではp.233にある。

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姫神山、柴沢からの眺望
 

堀さんは渋民駅で列車を降りて、線路沿いに北へ歩きながら北上川越しに山を眺めたが、私たちは、そこからさほど遠くない玉山地域重要眺望地点(柴沢)でクルマを停めた。「この優れた風景を大切にし、次世代に継承していきましょう」と書かれた盛岡市の案内板が立っている。水田地帯で、岩手山と姫神山がどちらも見通せるビューポイントだ。

ところが、無造作に張り巡らされた電柱と電線で、せっかくの景観にノイズが入る。そのうえ、東側に造られて間もなさそうな携帯の電波塔があって、姫神山にかぶってしまう。市の奨励にもかかわらず、眺望があまり重視されていないようだ。それでもう1か所目を付けていた渋民~好摩間の松川橋まで行った。ここは川面を前景にして山を望める。背後にはIGR線(旧 東北本線)の鉄橋も架かっているが、ほんの2~3分前に列車が通過したばかりで、さすがに一石二鳥とまではいかない。

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玉山地域重要眺望地点(柴沢)
(左)案内板と標柱(右)岩手山は雲の中
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姫神山、松川橋からの眺望

最後に松尾鉱業鉄道跡を訪ねた。これは、八幡平(はちまんたい)中腹で硫黄を採掘していた松尾鉱山のための支線鉄道で、国鉄花輪線の大更(おおぶけ)駅から東八幡平(旧称 屋敷台)まで12.2kmの路線だった。1934(昭和9年)に開業し、1951年からは電気運転になっている。接続する花輪線はもとより、東北本線でもまだ蒸気機関車が主役だった時代だ(下注)。八幡平へ行く登山客もよく利用した路線だったが、鉱山の閉鎖に伴い1972年に廃止となった。

*注 東北本線の盛岡~青森間の電化開業は1968年。

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大更駅
(左)新築の駅舎(右)ホーム、大館方面を望む
 

起点のJR大更駅へ。花輪線は言わずと知れた閑散線で、日中は片方向3時間に1本しか列車が来ない。ところが駅舎は、まるで近郊区間のような立派な2階建に建て替えられていて驚く。整備された駅前広場にタクシーが2、3台停まっていたから、それなりの需要があるのだろう。

クルマをときどき停めながら、終点まで廃線跡を追っていった。駅から北に出た鉱業鉄道は、約500m先で花輪線から離れていき、針路を徐々に西へ変える。草の生えた未利用地もあれば、砂利道だったり、プレハブ小屋が建っていたりと、現況はさまざまだ。しかし、用地区画は概して明瞭で、容易に跡をたどることができる。

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前半の廃線跡
(左)大更駅の北500m(右)上沖バス停前を横切る
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図6 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
大更駅周辺
 

現役時代、中間駅は二つあった。上沖(かみおき)バス停から廃線跡の農道を300mほど西へ行くと、一つ目の田頭(でんどう)駅跡を示す標柱が立っている。田んぼの真ん中に待合室がぽつんと残っているものと想像していたが、現実は違う。たくましく枝葉を広げた栗の木と野積みの廃タイヤにブロックされて、近づくことすら難しかった。

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(左)田頭駅跡の標柱、待合室は中央の木の陰に
(右)近づくのも困難な待合室
 

高森集落から西では、クルマでもたどれる農道になるが、鹿野(ししの)集落の手前でそれは消える。二つ目の鹿野駅は、地区の集落センター(集会所)の敷地などに転用されている。田頭駅のような標柱か説明板の一つでもあるといいが…。

集落を抜けると、2車線の舗装道が廃線跡だ。行く手に八幡平を仰ぐ一直線のルートだが、午後は雲が目立って増えてきた。東北自動車道をくぐり、県道23号大更八幡平線と交差すると、まもなく舗装道は終点となる。見過ごしてしまったが、この先に鹿野変電所が廃屋となって残っているそうだ。

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(左)鹿野駅跡に建つ集落センター
(右)八幡平に向かう廃線跡の2車線道
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図7 同 鹿野駅周辺
 

明治百年記念公園の駐車場にクルマを停めた。目の前で小水力発電用の水車が回っている。水を供給しているのは、松川上流で取水された用水路だ。松川温水路と呼ばれ、灌漑に適した水温にするために、幅広の水路に階段状に堰が切ってある。同様の施設が鳥海山麓にもあったのを思い出す(下注)。

*注 秋田県にかほ市象潟町の小滝温水路、「コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓」参照。

廃線跡はこの温水路に沿ってまっすぐ上流へ続いていて、現在は遊歩道になっている。落葉樹の林に包まれ、傍らで堰を落ちる水音を聞きながら、散策が楽しめるいい道だ。

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(左)松川温水路
(右)小水力発電用の水車
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温水路に沿う遊歩道区間
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図8 同 東八幡平駅周辺
 

一貫して西へ進んできた鉄道は、終点に近づくと北へ針路を変える。松尾鉱山資料館の駐車場が、かつて鉄道が斜めに横切っていた場所だ。線路の痕跡はない代わり、電化開業に合わせて導入された入換用電気機関車ED25 1号機が、上屋の下で静態保存されている。館内にも、鉄道に関する説明パネルや若干の資料展示があって、参考になる。この資料館、無料なのはうれしいが、鉱山のジオラマを除いて展示物を写真に撮れないのが惜しい。

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ED25 1号機
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松尾鉱山資料館
 

鉄道の終点である東八幡平駅は、索道で運ばれてきた鉱石の積替え施設が広がる一角にあった。現在は、松尾八幡平ビジターセンターという観光案内施設のほか、工場、広場、駐車場などに分割転用されている。どれも余裕たっぷりの敷地で、かつての施設がいかに大規模だったかが想像できる。

この後、私たちは、標高900m台にある松尾鉱山の採掘場付近まで、八幡平アスピーテラインを上っていった。急坂、ヘアピンの長い防雪シェルターを通り抜けると、風景はもう秋色を帯び始めている。かつて繁栄を極め、雲上の楽園とさえ称された鉱山町だが、今は廃墟と化した集合住宅群がむなしく立つばかりだ。坑道の崩落による陥没の恐れがあるとして、中心部に通じる道路は進入禁止になっていた。

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東八幡平駅跡
(左)松尾八幡平ビジターセンター
(右)広い駐車場も旧ヤードの一部
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松尾鉱山跡
(左)高層湿原の島沼
(右)廃墟になった集合住宅群
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図9 松尾鉱業鉄道が描かれた1:50,000地形図(東半)
1970(昭和45)年編集
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図10 同(西半)
(左)1973(昭和48)年編集(右)1970(昭和45)年編集
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図秋田、盛岡(いずれも昭和46年編集)、5万分の1地形図雫石(昭和14年修正測量)、小岩井農場(昭和23年資料修正)、八幡平(昭和48年編集)、沼宮内(昭和45年編集)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年6月 2日 (日)

コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

2024年5月12日、春のコンター旅の最終日は、朝から高速バスに乗り、山形から鶴岡に移動した。参加者は大出、山本、私の3名。バスが通る山形自動車道は、月山(がっさん)南麓の五十里越街道をなぞる山越えルートだ。峠をはさむ区間では高速道路が未開通のため、国道112号いわゆる月山道路を走るが、こちらも画期的に改良されていて長いトンネルと高い橋梁が連続する。

9時すぎに鶴岡のバスターミナル、エスモールに到着。レンタカーを扱っているスタンドまで出向いて、トヨタアクアを借りた。きょうはこのクルマで、鳥海山麓の名勝象潟(きさかた)と、山岳展望台や水にまつわる名所を巡る予定だ。

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庄内平野、遊佐鳥海IC付近から望む鳥海山
東鳥海(右)、西鳥海(左)の二つのピークをもつ
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図1 鳥海山周辺の1:200,000地勢図
1992(平成4)年修正

いつものように大出さんの運転で、酒田ICから日本海東北自動車道(日東道)を北上する。暫定二車線に見合う程度の通行量なので、一定速度で気分よく走れる。遊佐(ゆざ)からは国道7号で山形・秋田の県境を越えて、象潟までおよそ60km、1時間ほどで到達できた。

国道沿いにある道の駅象潟にクルマを停めて、真っ先に6階の展望室へ上がる。ここは、東に鳥海山と象潟「九十九島、八十八潟」(下注)、西には日本海の水平線と、360度の眺望でつとに知られるスポットだ。しかし、残念なことにガラスがけっこう埃で汚れていて、視界良好とは言いがたい。

*注 象潟の景観を称賛する古来の言い回し。なお、小島の実数は103あまりとされる。

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道の駅象潟の展望室から東望
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
象潟
 

象潟を含むこの一帯の地形は、紀元前466年の冬(下注)に起きた鳥海山の噴火による山体崩壊で生じたものだ。北流している白雪川に沿って大量の岩屑なだれが日本海まで流れ込み、にかほ市中心部の平沢から金浦(このうら)にかけて海岸線を大きく後退(=陸地を前進)させた。

*注 この正確な年代は、岩なだれで地中に保存された埋れ木の年輪年代測定により求められたもの。

その一部は西側の海岸にも広がり、今の象潟周辺におびただしい土砂の小山、いわゆる流れ山を積もらせた。後に砂州が発達してこの水域を取り囲んだので、流れ山は風波による浸食から護られるとともに、潟湖(せきこ)に浮かぶ小島となった。

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象潟の水面に映る鳥海山
 

展望室の壁面に、象潟郷土資料館が所蔵する江戸期の屏風絵「象潟図」の写真が掲げてある。松尾芭蕉が「おくのほそ道」の長旅で訪れた1689(元禄2)年には、このようにまだ水で満たされていて、「東の松島、西の象潟」(下注)と並び称される、みちのく指折りの景勝地だったのだ。

*注 両者、多島海の景観は似ているが、地形の成因は異なる。松島は火山性のものではなく、地盤の隆起・沈降と海水の浸食により形成されたとされる。

しかしこうした浅い湖は、河川からの土砂の流入や、繁茂する植物に由来する有機物の堆積で、しだいに陸化していく宿命だ。象潟もすでにその過程にあったが、1804 (文化元)年に発生した巨大地震で地盤が2mあまりも隆起したことで、一気に干上がってしまった。

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「象潟図」の一部
道の駅象潟のパネルを撮影、原本は象潟郷土資料館蔵
 

現在、もとの湖面はほぼ水田化されている。今は田植えの季節だが、作り手が不足しているのか、葦が生え放題の休耕田も少なくない。芭蕉の頃と変わらないのは、後ろにそびえる鳥海山ぐらいではないだろうか。しかも展望台からの眺めでは、手前を国道が横切り、住宅やロードサイド店舗も並んでいる(下注)。よほど想像を膨らませない限り、古人が書に遺した感動を追体験することは難しい。

*注 上掲写真のとおり、ドラッグストアの看板は景観への配慮で、赤ではなく地味な茶色になっている。

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一面の葦に覆われる象潟の休耕田
 

道の駅のレストランで早めの昼食を取った後、徒歩で蚶満寺(かんまんじ)を訪ねた。芭蕉も参拝したことで知られる象潟の古刹だ。羽越本線の踏切を渡り、松林の小道を進んでいくと、古びた山門が迎えてくれた。阿吽の仁王像に会釈をして、続きの石畳を行く。拝観受付の横に座っていた方が言うに、「今は来る人が少ないので、受付は閉めてるんです。庭に行かれるなら、寺で拝観料を納めてください」。

せっかく来たのでお庭を拝見する。ツツジやハナモモが花をつける傍らに、宝暦13年(1763年)の銘があるという芭蕉の句碑が立つ。「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」、おくのほそ道に記された有名な句だ。裏手には舟をつないだという石柱も残っていた。寺の建つ場所ももとは流れ山の一つで、庭を一歩出ると水辺が広がっていたのだ。

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(左)羽越本線の踏切を渡って蚶満寺へ
(右)山門前の蓮池
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蚶満寺
(左)山門(右)本堂
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(左)宝暦13年の芭蕉句碑
(右)境内のツツジが満開
 

寺を辞して、山門前の蓮池のほとりを巡る。旅装束の芭蕉像のそばにも、同じ句を刻んだ碑が立っている。例えに借り出された中国春秋時代の伝説の美女、西施の像がそれと向かい合う。

それから、景観保全されている区域の西縁に沿って、遊歩道を北へ歩いた。九十九島にはそれぞれ太い幹、見事な枝ぶりの松が育っていて、土台を何倍もの大きさに見せている。ところどころ水が張られた田んぼには、鳥海山や松林が逆さに映り、潟湖が一面に広がっていた昔はさぞかしと思わせた。

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(左)蓮池近くの芭蕉像と句碑
(右)水田越しに山門が見える
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流れ山の一つ、駒留島
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鳥海山の頂きに雲がまとわる
 

クルマに戻って、今度は内陸に向かう。きょうは西から低気圧が近づいていて、時間が遅くなるほど雲が増えてくると予想した。実際、鳥海山の頂きに雲がまとわりつき始めたので、先に山岳展望台へ回ることにした。

国道から左に折れて、鳥海グリーンラインを進む。北麓を東西に横断するこの道路は、白雪川を渡ると、ヘアピンカーブで仁賀保高原と呼ばれる台地へ上っていく。仁賀保高原は、西側を南北に走る衝上断層群によって生じた、南北約13km、東西約2kmの細長い高まりだ。鳥海山に向き合うとともに、北麓を広く見渡すことのできる天然の展望地になっている。

坂の途中で、早くもパノラマライン展望台という、クルマが数台停まれる小さなパーキングが用意されていた。高度はすでに320mほどあり、日本海の見晴らしが良好だが、目的地はまだ先だ。

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(左)パノラマライン展望台
(右)日本海に浮かぶのは飛島
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図3 1:25,000地形図に訪れた場所(赤)等を加筆
仁賀保高原
 

サミットまで上り詰めたところで、尾根道に入った。巨大な発電用風車が建ち並ぶ足もとをしばらく南へ走ると、突き当りに仁賀保高原南展望台(標高約450m)がある。クルマを降りて、4年前(2020年)に造られたばかりの新しい展望デッキに立った。

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仁賀保高原南展望台
 

左手に、残雪を戴く鳥海山が圧倒的な存在感で鎮座している。標高は2236m、東北地方第2の高山だ(下注)。出羽富士の別称のとおり、円錐形に成長していく成層火山に分類されるが、こちらから見える北西側斜面は、先述した2500年前の山体崩壊により大きくえぐれている。いわゆる馬蹄形カルデラだ。

*注 第1位は尾瀬のシンボル、燧ヶ岳(2356m)。ちなみに山形・秋田県境は鳥海山で北側に膨らんでいて、山頂周辺は、山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)に属している。

山体から右手前に向かって一段へこんで見える広い函状の谷が、岩屑なだれが駆け降りた跡を示している。今は全体が森林に覆われているが、そのスケールを一瞥するだけで、どれほどすさまじい崩壊が起きたのかがわかる。岩屑なだれはその勢いで東側、すなわち現在の冬師(とうし)湿原のほうにも流れ山を飛び散らせた。この展望台は、その暴風波に直面した船の舳先(へさき)のような場所に位置しているのだ(下の説明板写真参照)。

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鳥海北麓に広がる函状谷は岩屑なだれの跡
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展望台の説明板
図の中央やや下が展望台の位置
 

さて、もう1か所行ってみたかったのが、北へ5kmの丘の上にある「ひばり荘」だ。標高は約530mで、仁賀保高原ではおそらく最も高い場所になる。

ここは公営の休憩施設らしいのだが、2階の展望室に上るまでもなく、駐車場のへりから遮るもののないパノラマが得られた。周辺には大小の溜池が点在していて、その一つ、長谷地(ながやち)溜池の水面がアングルに収まる。南展望台で見たような壮大な山岳風景とはまた趣きが異なり、絵葉書のようなコンパクトな構図にもできるのがおもしろい。ひばり荘はバイクのツーリングの休憩地になっているようで、私たちが滞在する間にも何台か上がってきた。

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ひばり荘展望台からの眺め
手前の水面は長谷地溜池
 

鳥海の女神はいたずら好きなのか、後になるほど雲が増えてくるという私の予想ははずれた。高原を降りる頃になって、山頂に掛かっていた雲が取れてきたのだ。

次は、山麓の水にまつわる名所をいくつか巡りたい。一つは、上郷(かみごう)温水路群と呼ばれる独特の水路施設だ。鳥海山の斜面を流れ下る雪解け水は流速が早く、水温が低いままで、稲の生育には適していない。そこで、階段状の幅広い水路に通すことで、水温を上げる仕組み(下注)が考案された。1927(昭和2)年以降、計5本、長さ6.28kmが造られ、多くは今も使われている。

*注 流速が下がるので陽光に接する時間が長くなり、段差(落差工)を落ちる際に水に空気が溶け込むことも水温上昇につながるという。

このうち、土木学会選奨土木遺産やジオパークの標識がある小滝温水路の一角に行ってみた。緩く傾斜した田園地帯を貫いて、無数の段差のある水路が山手から降りてきている。水量はたっぷりで、段差を落ちる水の躍るようなきらめきが、初夏の到来を感じさせた。

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上郷温水路群の一つ、小滝温水路
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緩傾斜の田園地帯を流れ下る水路
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小滝周辺
 

続いては、奈曽の白滝(なそのしらたき、下注)へ。鳥海山から流れ下ってきた奈曽川(なそがわ)が溶岩台地を抜け出す場所に掛かる落差26m、幅11mの大滝だ。修験道に関わるという金峰(きんぽう)神社の境内から階段だらけの遊歩道が延びていて、観瀑台と呼ばれる展望デッキや滝壺近くの川べりまで行くことができる。

*注 地形図の注記は「奈曽の白瀑谷」だが、白瀑谷の読みは、現地の案内板でも「はくばくこく」「しらたきだに」の二通りがあった。

雪解けの季節とあってこちらも水量が多く、迫力のこもった水音がほの暗い谷間にこだましていた。遊歩道を先へ進むと、ねがい橋という吊り橋で谷を跨いで、対岸に渡る周遊ルートになっている。しかし、木々の青葉に隠されて、橋上からは滝がほとんど見えなかった。

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金峰神社
(左)参道(右)本殿
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奈曽の白滝
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(左)ねがい橋
(右)橋上からの奈曽川渓谷、滝はほとんど見えない
 

最後に訪れたのは、元滝(もとたき)伏流水という湧水地だ。奈曽の白滝から南へ1.5km、駐車場にクルマを置いて、さらに水路に沿う山道を上流へ10分ほど歩いた山中にある。ここでは、溶岩層の下を浸透してきた地下水が、幅約30mにわたって谷壁(末端崖)から滔々と湧き出している。しぶきに濡れた岩はすっかり苔むしていて、木の間に漂う冷気が神秘感をいっそう高めていた。なお、地形図には、名称の由来である「元滝」という滝も描かれているが、現在は崖崩れのため、立ち入れないらしい。

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(左)水路に沿う遊歩道
(右)元滝川の渓流
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溶岩の下から湧き出る元滝伏流水

予定を終えて、もと来た道を鶴岡へ戻る。今回の企画はもともと象潟の景観が主目的だったのだが、それにとどまらず、名峰鳥海山がはぐくんできた大自然の奥深さを実感する一日になった。興味をそそる周辺のスポットは他にもあるが、またの機会に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図酒田、新庄(いずれも平成4年編集)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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