河川・運河

2023年1月12日 (木)

コンターサークル地図の旅-亀ノ瀬トンネル、斑鳩の古寺、天理軽便鉄道跡

2022年11月6日、秋のコンターサークル-s 関西の旅2日目は、いつになく多彩な旅程になった。

午前中は、国交省の近畿地方整備局大和川河川事務所が開催している「亀の瀬地すべり見学会」に参加して、地中に眠る旧 大阪鉄道(現 JR関西本線)の亀ノ瀬トンネルを見学する。地滑りでとうに崩壊したと思われていたが、排水トンネルの建設中に偶然発見されたという奇跡の遺構だ。

午後は奈良盆地に戻り、秋たけなわの斑鳩(いかるが)の里で、法隆寺をはじめ、近傍の古寺を巡る。その後、天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡まで足を延ばしたので、結果的には分野が鉄道系に傾いたことは否めないが…。

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地中に眠る旧大阪鉄道亀ノ瀬トンネル
大阪側から奈良側最奥部を望む
掲載写真は、2022年11月のコンター旅当日のほか、2020年9月~2022年11月の間に撮影
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秋たけなわの法起寺三重塔
 
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図1 今回訪問したエリアの1:200,000地勢図
2012(平成24)年修正

朝9時07分、関西本線(以下、関西線という)の三郷(さんごう)駅前に集合したのは、昨日のメンバー(大出、木下親子、私)に浅倉さんを加えて、計5名。さっそく大和川(やまとがわ)に沿う県道の側歩道を下流に向かって歩き始めた。住宅街を通り抜け、谷が狭まる手前で、龍田古道(たつたこどう)と標識に記された山道に入る。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
三郷駅~河内堅上駅
 

龍田古道というのは、飛鳥~奈良時代に大和(現 奈良県)に置かれた都と河内(現 大阪府)を結んでいた官道のことだ。しかし、1300年も前の話なので、「地すべり地である亀の瀬を越える箇所については大和川沿いの道のほか、(北側の)三室山・雁多尾畑を抜ける道など、幾つかのルートが考えられて」(下注)いるという。

*注 奈良県歴史文化資源データベース「いかすなら」 https://www3.pref.nara.jp/ikasu-nara/ による。

奈良から大阪へ府県境を越え、森に覆われた急な坂道を上っていく。峠八幡神社の前を過ぎ、下り坂が2車線道に合流するところで、「亀の瀬地すべり資料室」のプレハブ建物が見えてきた。

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(左)峠八幡神社と地蔵堂
(右)龍田古道の細道
 

10時の開館まで少し時間がある。その間、下流に見えている関西線の第四大和川橋梁を観察した。全長233mのこの鉄橋は川と浅い角度で交差していて、中央部の橋桁が、川の上に渡されたトラスで支えられているのが珍しい。竣工は1932(昭和7)年だが、これこそ亀の瀬を通過する交通路にとって宿命の、地滑りを避けるための緊急対策だった。

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第四大和川橋梁を亀の瀬から遠望
橋桁を直交トラスが支える
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下流(大阪)側から見た橋梁
浅い角度で川と交差
 

資料室に入り、受付を済ませた後、ビデオと展示パネルで、当地の地滑りの実態と対策について学んだ。それによると…、

この一帯は生駒(いこま)山地の南端で、大和川の谷が東西に貫通している。右岸(北岸)には数百万年前、北側にあった火山の新旧2回の噴火で流れ出た溶岩が堆積していて、新旧の境目には、風化などで粘土化した地層が挟まっている。これが地下水を含んで、厄介な「滑り面」になる(下図の赤い破線)。

上に載る新溶岩の層は厚くて重く、谷に向かって傾斜している。そこに、河岸浸食や南側の断層帯の活動などが重なって、たびたび地滑りを起こしてきた。大和川の流路が南に膨らんでいるのもその影響で、明治以降に限っても、大規模な地滑りが3回発生している(下注)。

*注 1903(明治36)年、1931~33(昭和6~8)年、1967(昭和42)年に発生。

滑った土砂は河道をふさぐ。大和川は、奈良盆地に降った雨水が集まる主要河川だ。閉塞によって上流側が浸水するのはもとより、満水になった土砂ダムが決壊すれば、下流の大阪平野にも甚大な被害をもたらすことになる。

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亀の瀬の地質と地形構造
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
 

そのため、1962(昭和37)年から大規模な対策工事が進められてきた。

一つは地滑りを食い止める杭打ちだ。直径最大6.5m、最深96mもある深礎工を滑り方向に直交する形で多数配置して、いわば地中に堰を造っている(下図の「深礎工」)。二つ目に、滑りやすい表土を除去する(同「排土工」)。三つ目には、井戸と排水路を地中に張り巡らせて、地下水位を低下させる(同「集水井」「排水トンネル」)。

数十年にわたる集中的な対策が効果を発揮して、今では土塊の移動がほとんど観測されなくなっているという。

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対策工事全体配置図(同上)
 

この後、ボランティアの方の案内で、排水トンネルを実際に見学した。まずは資料室の上手にある1号トンネルへ。床の中央に設けられた浅い水路から、絶えず地下水が流れ出ている。天井に巨大な穴がぽっかり開いているのは先述の深礎工で、地滑り地帯全体で170本並んでいるものの一つだ。

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1号排水トンネル坑口
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1号トンネル内部
(左)水路には絶えず水流が
(右)巨大な深礎工
 

地上に戻り、今度は道を下って、7号トンネルに移動した。こちらは1号よりも内径が小さい。内部を進んでいくと、まもなく斜めに交差している坑道が現れた。これが、長年の封印が解かれた亀ノ瀬トンネルだった。

左手(大阪側)はすぐに行き止まりになるが、右手(奈良側)は奥が深い。手前は全体が分厚いモルタルで覆われているものの、奥は長さ39mにわたって本来の煉瓦積みがそのまま残っている。スポットライトが床から照らしているので、細部もよくわかる。

内壁は、側面が一段おきに長手積みと小口積みを繰り返すイギリス積み、天井面は長手を千鳥式に積む長手積みだ。ところどころ黒ずんでいるのは、蒸気機関車の煤煙が付着しているらしい。そして最奥部からは、地山の土砂がなまなましく噴き出している。「この先立入禁止、酸欠恐れ有」の注意書きに足がすくむ。

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7号排水トンネルと鉄道トンネルの交差地点
鉄道の奈良側(写真の手前)から大阪側(同 奥)を撮影
排水路は入口(同 左手)から奥(同 右手)に向かって下り勾配に
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(左)鉄道トンネルの奈良側最奥部から大阪側を望む
(右)奈良側最奥部は土砂が噴き出している
 

関西線奈良~JR難波(旧 湊町(みなとまち))間の前身、大阪鉄道は1892(明治25)年に全通したが、亀の瀬では当初、右岸(北岸)を通っていた。最後まで工事が長引いたのがこのトンネルで、壁面に亀裂が入るなどしたため、改築のうえでようやく完成している(下注)。

*注 着工時は亀ノ瀬トンネル(長さ413m)と芝山トンネル(同216m)の2本に分かれていたが、改築に際し一本化されたという。

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図3 関西線旧線が描かれた1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

1924(大正13)年に複線化する際、トンネルは下り線用とされ、北側に並行して上り線のトンネルが掘られた。ところが1932(昭和7)年2月に、土圧で内部が変形して、いずれも使用不能となる。やむをえずトンネルの手前に、仮駅「亀ノ瀬東口」「亀ノ瀬西口」が設けられ、この間は徒歩連絡となった。

下の地形図はその状況を記録した貴重な版だが、これを見る限り、乗客たちはあの龍田古道の上り下りを強いられたようだ。

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図4 不通区間の徒歩連絡の状況が描かれた1:50,000地形図(2倍拡大)
左岸の国道も「荷車を通せざる部」の記号になっている
(1932(昭和7)年測図)
 

7月初めから、安全な対岸へ迂回する新線の工事が始まった。これが先ほど見た第四大和川橋梁を渡っていく現行ルートだが、よほどの突貫作業を行ったのだろう。早くもこの年の12月末に、新線経由で列車の運行が再開されている。

一方、放棄された旧トンネルは、坑口が埋まってしまったため、2008年に発見されるまで80年近くも地中に眠っていた。そのとき、公開対象となっている下り線用だけでなく、上り線のトンネルも見つかったのだが、排水トンネルより高い位置にあることなどから、惜しくも埋め戻されたそうだ。

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排水・鉄道トンネルの位置関係
公開されているのは図左側の下り線トンネル、右側の上り線は埋め戻された
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
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関西本線のルートの移り変わり(同上)
 

見学ツアーは、この後、亀の瀬の名のもとになった川中の亀岩や、大和川の舟運の安全を祈願した龍王社など、付近の名所旧跡を案内してもらって、解散となった。河内堅上駅まで線路沿いの道を歩いて、関西線の上り電車に乗る。

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大和川を泳ぐ(?)亀岩
見る角度によって頭が現れる
 

■参考サイト
大和川河川事務所-亀の瀬 https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guide/landslide/

法隆寺駅で下車し、駅前から奈良交通の小型バスで法隆寺へ向かった。法隆寺参道という停留所が終点だ。以前は南大門の近くに降車場があったのだが(下注)、今は、門前まで進みながら反対車線を引き返し、わざわざ遠く離れた国道のそばで降ろされる。

*注 バス停名も法隆寺門前だった。当時の降車場は、身障者用の停車スペースに転用されている。

午後1時を回っているので、参道に並ぶ食堂で昼食にした。町おこしで竜田揚げが名物になっているらしく、その定食を注文する。唐揚げとどう違うのかよくわからないが、ふつうにおいしかったことは確かだ。

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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
 

法隆寺には何度か来ているとはいえ、エンタシスの回廊が廻らされ、中央に金堂と五重塔が並び建つ美しくも厳かな境内のたたずまいは、いつ見てもすばらしい。宝物館である大宝蔵院で百済観音像を拝み、東院伽藍の夢殿も巡って、しばしいにしえの雰囲気に浸った。

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法隆寺、西院伽藍正面
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大講堂前から境内を南望
左から金堂、中門、五重塔
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(左)大講堂
(右)東院伽藍、夢殿
 

その後は小道を北上する。10分少し歩くと、行く手に法輪寺の三重塔が見えてくる。塔は戦時中に落雷で焼失したため、1975年に再建されたが、木立や背後の森に溶け込むようにして立つ姿は、そうした経緯すら忘れさせる。

寺に寄り添う形で、三井(みい)の集落がある。奈良の旧家らしい立派な門構えの家が並ぶ中、聖徳太子が掘った三つの古井戸の一つ「赤染井(あかぞめのい)」と伝えられる三井の旧跡(下注)にも立ち寄った。

*注 説明板によれば、深さ4.24m、直径約0.9m。明治時代には埋まっていたが、1932(昭和7)年の発掘調査で構造が明らかにされた。

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法輪寺を北望、森に溶け込む三重塔
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三井
(左)集落の中にひっそりと
(右)覗くと水面が見えた
 

山手の斑鳩溜池(いかるがためいけ)の堤を通って、次は法起寺(下注)へ。法輪寺にもまして鄙びた風情だが、侮るなかれ。シンボルの三重塔は8世紀初頭の建立で、国宝指定を受けている。それで1993年、法隆寺の名だたる伽藍とともに、日本で最初の世界遺産に登録されたという経歴を持つお寺だ。

この塔も、周りの田園から仰ぐのがいい。一部の田んぼにはコスモスが植えられていて、秋は白とピンクの花の海になる(冒頭写真参照)。

*注 一般に「ほっきじ」と読まれるが、正式には「ほうきじ」。

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法起寺
鄙びた風情の南門と三重塔
 

私たちが行ったときにはもう花の盛りを過ぎていたが、ボランティアのガイドさんが「中宮寺跡が今、満開ですよ」と教えてくれた。現在、法隆寺東院伽藍の隣にある中宮寺だが、聖徳太子により尼寺として創建された当時は、東に500mほど離れた場所にあった。跡地は発掘後に公園化され、広いコスモス畑が作られている。伽藍跡には基壇と復元礎石があるだけなので、訪れる人の大半は花が目当てだ。

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中宮寺跡史跡公園
復元礎石が並ぶ塔跡

秋の日は短い。そろそろ陽が傾いてきたので、急ぎ天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡に向かった。

天理軽便鉄道というのは、関西線の法隆寺駅に隣接する新法隆寺から東へ、天理まで走っていたニブロク(762mm)軌間の路線だ。1915(大正4)年の開業だが、早くも1921(大正10)年に近鉄の前身、大阪電気軌道(大軌)に買収されている。

大軌が建設した畝傍(うねび)線(現 近鉄橿原(かしはら)線)によって、軽便鉄道は平端(ひらはた)で分断される。東側の平端~天理間は標準軌に改軌、電化されて、現在の近鉄天理線になった。方や西側の新法隆寺~平端間は、大軌法隆寺線としてニブロク軌間のまま存続したが、戦時下の1945(昭和20)年に不要不急路線として休止、そのまま1952(昭和27)年に廃止されてしまった。

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図6 法隆寺~平端間の1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
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図7 大軌法隆寺線(天理機関鉄道と注記)が描かれた旧版1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

富雄川(とみおがわ)に沿って南下し、関西線の踏切を越えると、東側に木戸池と呼ばれる溜池が現れる。軽便鉄道の線路は、こともあろうに池の真ん中を東西に横切っていた。その築堤が今も手つかずで残っている。築堤の東寄りでは水を通わせるために桁橋が架かっていたらしく、橋台も観察できる。

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木戸池を貫く天理軽便鉄道跡
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築堤の東寄りに残る煉瓦の橋台
背後を関西線が並走
 

池の東側では、廃線跡はすぐに消失してしまうが、西側は、富雄川を隔てた田園地帯に、築堤が緩やかなカーブを描いている。畑などに利用されながら関西線に並行していて、法隆寺駅東の住宅地に突き当たるまでたどることができる。途中には、小さな用水路を渡るレンガの橋台もあった。

法隆寺駅に戻ってきたのは17時過ぎ、すでに陽は西の山に沈み、夕闇が迫っている。盛りだくさんの旅の思い出をかかえて、参加者はそれぞれのルートで家路についた。

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富雄川の西に延びる廃線跡の築堤
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(左)築堤の続きは小道に
(右)用水路をまたぐ橋台
 

【付記】

旧 安堵(あんど)駅に近い安堵町歴史民俗資料館に、天理軽便鉄道に関する遺品や鉄道模型、ルート周辺の地形図、空中写真など、興味深い資料展示がある(下の写真参照)。

■参考サイト
安堵町歴史民俗資料館 http://mus.ando-rekimin.jp/

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安堵町歴史民俗資料館
正面入口
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天理軽便鉄道の資料コーナー
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(左)木戸池東に建っていたという勾配標
(右)廃線後、近鉄郡山駅のホームの柱に転用されていた米国カーネギー社製のレール断片
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安堵駅にさしかかるレールカー(1/17復元模型)
 

一方、実際の線路の痕跡は、上述のとおり木戸池より西に集中している。東側で廃線跡を追える場所は少なく、以下の3か所ぐらいだ。

・安堵町の安堵駐在所から県道裏を東に延びる路地 約100m
・岡崎川右岸(西岸)の田園地帯にある細長い地割 約60m
・大和郡山市の昭和工業団地東縁から平端駅前までの直線道路 約700m(うち平端駅寄りの150mは、道路南側の宅地列が廃線跡)

中間部は西名阪自動車道と大規模な土地開発により、跡形もなくなってしまった。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年修正)、陸地測量部発行の5万分の1地形図大阪東南部(昭和7年要部修正)、2万5千分の1地形図郡山、信貴山、大和高田(いずれも大正11年測図)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年12月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-会津・滝沢街道

5月に会津地方の大内宿や裏磐梯を歩いたが、その際眺めた近辺の地図で目に留まった場所がほかにもあった。それでコンターサークル-s 秋の旅も会津でスタートする。2022年10月15日の初日に訪れたのは、会津若松と猪苗代(いなわしろ)を結んでいた滝沢(たきざわ)街道(下注)だ。沿線には戊辰戦争の史跡や湖畔の風景だけでなく、明治の洋館、水門・水路、貴重な湿原など見どころが点在している。

*注 滝沢街道と呼ばれるのは、若松から奥州街道の二本松に通じていた二本松街道(上街道)の一部。若松から沓掛峠までは白河街道を兼ねている。地形図には、中通り側からの呼び名である越後街道の注記がある。

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十六橋水門
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図1 滝沢街道周辺の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集
 

朝は薄曇りだったが、天気予報によると、昼ごろには青空が戻るらしい。集合地はJR磐越西線の猪苗代駅なので、私は前泊した会津若松から、9時30分発の郡山行の電車で向かった。猪苗代駅のホームで、下り列車でやってきた大出さんと合流する。参加者はこの2名だ。

歩く距離を節約するために、駅前で磐梯東都バスの金の橋(きんのはし)行きに乗り継いだ。ほかに2グループ乗っていたが、みな途中の野口英世記念館前で降り、湖畔の長浜まで乗ったのは私たちだけだった。目の前が猪苗代湖で、遊覧船が出る翁島港がある。白鳥の形をしたボートも浮かんで、観光地らしい風景だ。

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遊覧船が発着する長浜の翁島港
 

本日はここを起点に西へ、会津若松市内の飯盛山下まで約12kmの道のりを歩く。後で知ったのだがこのルート、堀淳一さんも2003年に訪れている。私たちとは逆向きに、後述する金堀(かねほり)を出発し、長浜に至る行程だった。「歴史廃墟を歩く旅と地図-水路・古道・産業遺跡・廃線路」(講談社+α新書、2004年)に詳細が記されているが、堀さんが20年前に見た情景は、嬉しいことに今もほとんど変わっていない。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
長浜~強清水間
 

10時30分、長浜を後にした。現在の国道49号はそのまま湖岸に沿っていくが、旧道は背後から張り出す流れ山地形をショートカットしている。国道から右にそれて坂道を上り、さらに森の中の脇道をたどって、最初の見どころ、天鏡閣へ。

1908(明治41)年に有栖川宮別邸として竣工したこの建物は、木造スレート葺2階建ての洋館で、重要文化財にも指定されている。中に入ると、一部が畳敷きのほかは板張り床の洋風仕様で、装飾的なマントルピースやシャンデリアなど、優雅な調度品が目を引く。最上階の展望室も開放されているが、周りの木々が大きく育っていて、湖を眺めることはもうできなかった。

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天鏡閣外観
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優雅な調度品が配された客間
 

この後も、舗装道になっている旧道を進む。名も知らぬ沼を横に見て鞍部を越えると、道はつづら折りで戸ノ口集落へ下っていった。地形図には、集落の中に519.9mの水準点が描かれている。これを実際に探し当てるのも旧道歩きの楽しみなので(下注)、少し寄り道した。見当をつけたのは、山裾の小さな神社だ。参道脇におなじみの標識と、蓋つきで地下に埋設された標石があった。

*注 天鏡閣のそばにもあったのだが、探すのをすっかり失念していた。

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名も知らぬ沼の畔を通過
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戸ノ口集落
(左)集落へヘアピンで降りる
(右)神社参道脇の水準点、標石のあるマンホールは雑草の陰
 

村の前には、やわらかな日差しのもと、稲刈りの終わった田んぼが広がる。銚子ノ口から引き込まれた水面を縁取る森が早や色づき始めている。まもなく日橋川(にっぱしがわ)を渡る十六橋にさしかかった。猪苗代湖の水は、この川で会津盆地へと流れ下る。注目は、橋の右手に並行している大規模な水門(冒頭写真参照)で、もともと湖の反対側で取水する安積(あさか)疏水の付属施設として、水位調節の目的で造られた。

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稲刈りの終わった村の前の田んぼ
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十六橋前の水面
正面奥の水路で猪苗代湖に通じる
 

現地の案内板によれば、1880(明治13)年に完成した初代の十六橋水門は、16連アーチの石造橋と一体になった構造で、各アーチに開閉可能な杉板の扉が設置されていた。1914(大正3)年に今見る16連、電動式の水門に改修され、その際に道路橋が分離されたという。ただ、十六橋の謂れは明治どころかもっと古く、弘法大師が架けたという伝説にまで遡るそうだ。

その後、1942(昭和17)年に小石ヶ浜水門が完成し、湖の水位調節機能はそちらに移された。十六橋水門の現在の役割は、流域の大雨などで水位が上がるときに排水する、洪水調節機能だけらしい。つまり、ほとんど隠居の身なのだが、施設は近代化産業遺産として美しく維持されていて、水面に映る整然としたたたずまいは一幅の絵のようだ。たもとの広場には、疏水の設計に携わったオランダ人技師ファン・ドールンの像も建ち、水門とその一帯を優しく見下ろしている。

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(左)十六橋に並行する水門
(右)第一門、第二門は戸ノ口堰の取水用
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(左)昔の十六橋水門(現地案内板を撮影)
(右)ファン・ドールンの銅像が広場に建つ
 

広場のあずまやで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。しばらくは林道のような砂利道が続く。国道49号と斜めに交差してなおも進むと、戸ノ口原古戦場跡の案内板が立っていた。1868年、押し寄せる新政府軍を会津藩守備隊が迎え撃った場所だ。近くに次の528.4m水準点があるはずだが、丈の高いすすきに埋もれたのか見つけられなかった。

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戸ノ口原古戦場跡にある供養塔
 

林を縫う道の途中で、赤井谷地(あかいやち)湿原の案内板を見つけた。左手の丘へ上る道をたどり、湿原が見渡せる展望地に出る。尾瀬のように横断する木道がないので、ここが唯一の見学場所になっている。

南に広がるヨシに灌木が混じる湿原は、かつての湖底が水位の低下で沼地を経て変化したものだ。約1km四方の区域が天然記念物として保護されている。案内板を読んだ大出さんが、昭和天皇が二度来ていることを指摘する。新婚時代にさっきの天鏡閣に滞在したことがあるので、きっとお気に入りの土地だったのだろう。

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赤井谷地湿原の展望
 

この丘を含めて周辺は、磐梯山の古い大噴火で生じた流れ山で埋め尽くされている。街道に沿って会津藩軍が敷いた陣地も、もこもことした地形をうまく利用したものだ。森を抜けると右手後方に、雲が切れつつあるその磐梯山が望めた。

強清水(こわしみず)には、旧道沿いに何軒かの蕎麦屋があって、どれも繁盛していた。事前の調査不足で食べる算段をしておらず、通過してしまったのは残念だ。強清水の名が示すとおり、集落の山際に有名な湧水があり、周りにはアキアカネが乱舞するそば畑が広がっている。

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強清水
(左)旧道・新道分岐、正面の消防車庫の左の細道が旧道
(右)名物の蕎麦屋が並ぶ
 
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図3 同 強清水~会津若松市内
 

標高約520mの強清水は、猪苗代湖の旧湖盆の末端に位置している。この後、街道は、沓掛(くつかけ)峠と滝沢峠の二段構えで、標高200m台の会津盆地まで一気に高度を下げる。急坂が続く旧道を改良するため、明治に入って荷馬車が通れる新道が開削された。そちらは旧国道49号で(下注)、今もクルマで走れる舗装道だが、私たちはもちろん、徒歩でしか行けない旧道をめざすつもりだ。

*注 1966年の滝沢バイパス開通で、国道の指定を解除された。現在は会津若松市道。

沓掛峠旧道の入口はすでに森に還っているため、国道294号を少し南下し、北西方向に分かれる道を入る。国道脇に案内板が立っているので間違いないのだが、100mも行かないうちにバリケードで通行止めにされていた。代替路があるかと周囲を探してみたものの、やはりここを進むしかなさそうだ。

峠道は下り一方の片坂で、楽に歩けそうに思える。ところが誰も通らないので、日なたは下草ですっかり覆われ、切通しは山から染み出す水で、ひどいぬかるみだった。

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沓掛峠旧道
(左)草むした路面
(右)道いっぱいのぬかるみ
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白河、二本松両街道の追分付近に立つ案内板
 

ヘアピンの悪路をなんとか降りていくと、涼しげな水音が聞こえてくる。見ると、斜面の上のほうから、水流が岩を滑り落ちている。案内板によれば、これは金堀(かねほり)の滝で、自然の滝ではなく、戸ノ口堰(とのくちぜき)の水を落としているのだ。

戸ノ口堰というのは、十六橋の下流で日橋川から取水され、会津盆地を潤している灌漑用水で、1693年に若松まで通じている。旧街道の前に滝があるのは、おそらく行き交う旅人たちに見てもらう意図もあったのだろう。滝壺(というほどのものはないが)まで落ちた水は再び水路に集められ、この先でも何度か街道と交差する。

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金堀の滝
 

まもなく森が晴れて、金堀集落が見えてきた。旧道は一時的に、右から降りてきた新道と合流する。金堀は旧宿場らしく、トタンをかぶせた茅葺屋根の家が、道路に妻面を向けて並んでいる。大出さんによると、大内宿もかつてはこんな景観だったそうだ。道端で422.8m水準点を探したが、標識はあるものの、またしても標石は見つけられなかった。

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旧道沿いの金堀集落(東望)
 

次はいよいよ滝沢峠を越える。実は金堀と滝沢の間には、3本のルートが存在する。最も古いのは、1591年に開削、1634年に改修整備された滝沢峠の旧道だが、明治に入って、1882(明治15)年により低い鞍部を通る滝沢南新道、さらに1886(明治19)年に北を迂回する北新道が相次いで開通した(下図参照)。

北新道(旧国道49号)はさっきの沓掛峠新道の続きで、クルマが走れる舗装道だ。方や南新道は、最近まで地形図に記載されていたが、最新の地理院地図では上部区間が断絶している。むしろ近世の旧道のほうが明瞭で、一条道路(幅3.0m未満の道路)として跡を追える。

旧道がハイキングコースとして再評価される一方で、南新道は不運だった。荷車が通れるように勾配を緩和した分、旧道より距離が長くなり、歩きには向かない。かといってヘアピンが急過ぎて自動車時代にも対応できず、結果的に見捨てられてしまったようだ。

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図4 複数の峠越えルートが描かれた旧版地形図
(1910(明治43)年測図)
 

旧道は金堀の集落の中で再び上りになり、滝沢峠まで50~60mの高度を稼ぐ。ついでに電波塔のある山頂まで足を延ばしてみたが、周囲は森や藪で、山頂付近に描かれている三角点にはたどり着けなかった。

峠まではふつうの舗装道だったのに、下りに転じる地点でまたバリケードが渡してあった。やむなく入ってみると、草むした地道とはいえ、沓掛峠ほどには荒れていない。直線的に降下するのでかなりの急坂だが、ところどころ丸石の石畳が残り、会津藩の主要道として整備されたことを思い出させてくれる。途中、比較的新しい休憩用のあずまやが建ち、並木道のような区間もあった。趣の深いルートなので、通行禁止にしたままなのは惜しいと思う。

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滝沢峠旧道
(左)金堀方は舗装道
(右)若松方の急坂には石畳が残る
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(左)舟石付近のあずまや
(右)もとは並木道か
 

1.5km、高低差200mを40分ほどかけて下り、麓の滝沢へ出た。ここで再び戸ノ口堰が道を横切っているが、金堀の滝で見たより水量がはるかに多い。というのも、水力発電所で使い終えた水が加えられているのだ。戸ノ口堰には地形の落差を利用した発電所が3か所あり、水量の大半がこれに利用されている。発電用水路から外れた金堀の前後は、おこぼれの水が流されているに過ぎない。

堰はこの後、飯盛山の麓へ向かうので、後を追って不動川を渡る地点まで行ってみた。森の中にひっそりと石のアーチが架かっている。九州で見るものに比べれば小規模だが、天保年間、1838年の架橋というから、貴重な歴史遺産だ。この先は通行できないので、旧滝沢本陣の前から迂回する。

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滝沢峠旧道、若松側の上り口
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戸ノ口堰
(左)豊かな水量に驚く
(右)不動川を渡る戸ノ口堰橋
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旧滝沢本陣入口
 

戸ノ口堰洞穴は、飯盛山の山裾に掘られた水路トンネルだ。さざえ堂や白虎隊士の墓とともに、トンネルの出口が飯盛山界隈の観光名所になっているので、前にも来たことがある。狭い洞穴から滔々と流れ出す豊かな水流は、猪苗代湖の生気を運んでくるようで、何度見ても印象に残る光景だ。

ゴールと定めた飯盛山下バス停には、15時30分に到着した。文字通り野を越え山を越え、起伏と見どころに富んだ約5時間のハイキングだった。

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戸ノ口堰洞穴
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夕食は会津若松駅前のマルモ食堂
名物ソースかつ丼で空腹を満たした
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図廣田(明治43年測図)、若松(明治43年測図)、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2020年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線

琵琶湖疏水(びわこそすい、下注)は、滋賀県の大津で取水された琵琶湖の水を京都の市街地に運ぶ水路だ。2本が並行しており、そのうち第一疏水は1890(明治23)年に完成している。琵琶湖と大阪を結ぶ水運に利用されるとともに、落差を利用した水力発電で、京都の産業や交通の近代化を推進する原動力となった。

*注 「疎」水と書かれることもあるが、これは当用漢字表にない「疏」を代用字で書き換えたもの。

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南禅寺水路閣
掲載写真は特記したものを除き、2020年11月のコンター旅当日のほか、2020年4月~12月の間に撮影
 

年々増大する需要を賄うために、1912(明治45)年に第二疏水が全線トンネル仕様で造られた。水運はやがて鉄道や道路に取って代わられるのだが、上水道の水源は今なお多くを依存しており、京都の町にとって琵琶湖疏水は必要不可欠のインフラであり続けている。

東海道本線の電車が大津~京都間で2本の長いトンネルをくぐり抜けるように、疏水もまた、間を隔てる二つの山を貫いた後、東山山腹の蹴上(けあげ)に顔を出す。ここで市内に分配されるのだが、本線は、複数の経路(下注)を通って山麓の南禅寺船溜(ふなだまり)に集まる。そして岡崎公園の縁をなぞった後、鴨川の左岸(東岸)を伏見へ向かって流れ下る。

*注 蹴上水力発電所の導水管、インクライン沿いの放水路(一部暗渠)、扇ダム放水路など。

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蹴上船溜、インクラインの起点
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琵琶湖疏水および分線の位置図
(琵琶湖疏水記念館の展示パネルを撮影)
 

第一疏水の一部を成すこのルートに対して、蹴上から北に分岐する水路もある。第一疏水と同時に完成した疏水分線だ。京都盆地は北が高く、南が低い。分線はそれに逆行するように北流した後、徐々に西へ向きを変え、最後は堀川の源流である小川(下注)に注いでいた。

*注 現在は「おがわ」と読ませているが、かつては「こかわ」と読んだ。

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桜の名所「哲学の道」
 

明治のころ、一帯はまだ田園で、分線建設は農地の灌漑や、伸銅、精米、紡績など産業利用を主な目的としていた。昭和に入ると沿線に松ヶ崎浄水場が造られ、水道水への活用が始まった。しかしその後、市街地化による農地の消滅や、交差する河川の改修などの影響を受けて、本来の機能は失われてしまう。

現在、この疏水分線はどのような姿で残されているのだろうか。コンターサークル-s の旅関西編2日目は、それを歩いて確かめようと思う。蹴上から鴨川との交差地点まで、水路伝いに約9kmのコースだ。

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1:25,000地形図と陰影起伏図に
歩いたルート(赤)と水路跡の位置(青の破線)等を加筆
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5m間隔の等高線が記載された図に疏水分線を加筆
ルートが等高線に沿っていることがわかる
(基図は1:25,000土地条件図 京都、1975(昭和50)年調査・編集)

2020年11月3日、朝10時の集合時刻までの間、私は近くの琵琶湖疏水記念館に立ち寄って、最近リニューアルされた展示物をチェックした。構想時の地図図面など貴重な資料のほか、鉄道ファンには大正4年ごろの岡崎周辺を再現したレイアウトが必見だ。船を上下させるインクライン(斜行鉄道)とともに、京電蹴上線や京津電気鉄道(後の京阪電鉄大津線)の旧線ルートも手に取るようにわかる。

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(左)琵琶湖疏水記念館
(右)内部展示
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岡崎周辺を再現したレイアウト
中央左の直線路がインクライン、
右側を並行する複線の線路は京電(後の市電)蹴上線、
左奥の山から降りてくる複線は京津電気軌道(後の京阪電鉄大津線)
 

資料館で森さんと落ち合って、集合場所の地下鉄東西線蹴上駅に向かう。本日の参加者はメンバーの今尾、大出、森さん、私、そして初参加の小森さんの5名。疏水関連の研究をしている小森さんには、案内役としていろいろ教えてもらおうと思っている。

最初に、インクラインの途中にある粟田口隧道、俗称「ねじりまんぽ」に寄り道した。築堤の横腹に開けられたまんぽ(トンネル)で、やや斜めに横断するため、内部の煉瓦巻きがねじれているのが名の由来だ。ポータルは付け柱を立てた立派な造りで、頂部には、当時の京都府知事が揮毫した陶製の扁額まで嵌っている。通しているのは南禅寺境内に向かう小道に過ぎないのだが、天下の大道、東海道に面していたから、設計者も特に力を込めたのだろう。

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ねじりまんぽ西口
上をインクラインが走る
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内壁の煉瓦がねじるように巻かれている
 

それからインクラインを上って、蹴上船溜へ。船を乗せた車台が復元されている。すぐ上流に架かる橋から、第一疏水が出てくる第三トンネルのポータル(洞門)が見渡せる。トンネル手前右側の立派な洋館は旧 御所水道ポンプ室で、ちょうど大津から下ってきた疏水船が前の護岸に到着したところだった。

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インクラインの坂道を上って蹴上船溜へ
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蹴上船溜
(左)復元台車、左後ろはケーブルの滑車
(右)第三トンネル洞門
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旧 御所水道ポンプ室、手前に疏水船が待機
 

船溜の周辺は小さな公園になっている。市街を見下ろして立つ銅像は、疏水を設計し工事も指揮した田邉朔郎(たなべさくろう)だ。設計図は工部大学校の卒業論文として作成され、卒業後すぐに京都府から主任技師に任じられたというから驚く。「はたちそこそこでいきなり大工事を任された超エリートです」と小森さんが解説する。

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公園に建つ田邉朔郎像
 

疏水の分配方法は様々だ。船溜の北隣にあるのは放水路に水を落とす洗堰で、その形状からついたあだ名が「京都のナイアガラ」。大きな水音が絶えず辺りにこだましている。

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洗堰「京都のナイアガラ」
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洗堰を落ちた水は中央に集まる
 

続いては錆止めを塗った鉄のやぐら。関西電力蹴上発電所の取水口で、谷側に目をやると極太の導水管が2本、急斜面を這い降りている。付随するベルトコンベアのようなものは、取水口に溜まった落ち葉やごみを排出する装置だそうだ。

さらに北側でも枡状の小水路が分岐しているが、聞くと、こうした水路で庭園などに分配しているのだという。明治から昭和初期にかけて、岡崎一帯では政財界の大物たちが競うように別荘を構えた。それらの庭園を潤す水も、疏水から供給されているのだ。「それから、ゾウさんやカバさんも飲んでます。疏水のおかげで、京都市動物園は自然水には困りません」。

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(左)蹴上発電所取水口
(右)ごみの排出装置
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(左)発電所への導水管
(右)庭園等に分水する小水路
 

この10月に利用が再開されたばかりの、南禅寺に通じる疏水側道を行く。山際の狭い通路で、石川五右衛門が「絶景かな」の名せりふを放った三門が木の間越しに見える。突き当りが南禅寺水路閣で、長さ93m、豪壮な煉瓦のアーチが疏水を載せて境内を横切っている。界隈を歩く観光客が必ず立ち寄る人気のスポットだ。

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疏水分線
(左)南禅寺裏の水路に側道が沿う
(右)水路閣の上部水路に続く
 

小道を下って、その足元に出た。今でこそ古色を帯びて周囲の景観に溶け込んでいるが、できた当時は、古い町並みに高速道路を割り込ませるような違和感に満ちた眺めだったに違いない。明治新政府は仏教寺院を改革に抵抗する旧来勢力とみなし、廃仏毀釈や上地令で弱体化を図った。大寺といえども、府の方針を拒否できるような政治力はなかっただろうと思う。

とはいえ、橋を架けることの必然性にはいささか疑問が残る。地形図で見る限り、横断しているのは奥行きのない谷だ。背後をトンネルないし開削工法で通すことができそうだし、そうしたとしても距離はさほど延びない。実際、寺の方丈や北隣の永観堂の裏では、トンネルで通過している。敢えて橋にしたのは、地質、水源あるいは予算の問題、はたまた近代化を象徴する構造物が必要だったのか…。

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南禅寺水路閣
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(左)寺の境内を横断
(右)支柱が整列する構図は人気の撮影スポット
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洋風と和風が共存する空間
 

水路閣の続きにある第五トンネルの洞門を見てから、境内を引き返す。トンネル区間では、疏水に並行する道がないのだ。迂回路となる鹿ヶ谷通(ししがたにどおり)の途中で、東山高校の校地を横切って勢いよく流下する水路があった。「これも疏水から落ちてきてます」。斜面の上の取水口は扇ダムと呼ばれるが、残念ながら立入禁止になっている。

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扇ダム放水路
(左)斜面を駆け降りる水路
(右)庭園街の境界を貫く
 

次に水路が現れるのは、熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社の参道と交差する若王子橋だ。そこから銀閣寺橋まで、緩やかに蛇行する水路に沿って、緑濃い小道が約1.5kmの間続く。西田幾多郎(にしだきたろう)ら京大の哲学者が好んで散策したという「哲学の道」だ。水路を縁取るのは桜並木で、花の季節はことさら美しい。この春は新型コロナの第1波でひっそりとしていたが、最近は客足がいくらか戻ってきているようだ。

小森さんが「遊歩道に市電の敷石が使われてますよ」とメンバーの好奇心をくすぐる。「ついでにレールも敷いてほしかったなあ」と私。しばらくの間、京都市電が廃止されたころの思い出話で盛り上がった。

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若王子橋
(左)若王子神社への参道
(右)哲学の道が始まる ***
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(左)西田幾多郎の歌碑
(右)大豊橋では水路も立体交差
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苔むした桜の並木が続く
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桜満開のころ
 

銀閣寺橋までやってきた。銀閣寺(慈照寺)への参道はぞろぞろと人が行きかっていて、さすが有名観光地だ。大文字山(だいもんじやま)の山麓を北上してきた疏水は、この橋の前後で西に向きを変える。そして白川(しらかわ)が造った扇状地を横断していく。両者が交差する地点では、疏水がサイフォン(下注)で白川の下をくぐっている。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来の意味のサイフォンではなく、連通管の原理で川の下を横断するもの。以下も同じ。

白川の名は、上流の山から運ばれ川底にたまった花崗岩の砂礫、いわゆる「まさ(真砂土)」が白っぽい色をしていることに由来すると言われる。白河上皇のおくり名や「白河夜船」の故事にも引かれた歴史ある川だが、市街地を貫くこのあたりでは、今やコンクリートの擁壁に囲まれた味気ない排水路でしかない。

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銀閣寺橋
左は銀閣寺(慈照寺)への参道
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白川との交差
(左)殺風景な白川の水路
(右)直交する疏水は白川(手前)の下をくぐる
 

白川通を横断したところで12時になった。食事処を求めて、今出川通に面したタイ料理店「カトーコバーン食堂」へ。生ビールで喉も潤してから、再び歩き出す。

疏水は再び北へ旋回し、志賀越道(しがごえみち)を横切っていく。この道は山中越(やまなかごえ)、白川街道ともいい、京都七口の一つ、荒神口(こうじんぐち)と琵琶湖西岸を結んでいた古い交易路だ。「ここで水路の所管が、市の上下水道局から建設局に変わります」と小森さん。「正式な疏水分線はここが終点で、後は都市河川の扱いなんです」。

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志賀越道との交差
(左)交差手前の堰
(右)交差の前後で水路に段差がある
  クスノキの後ろの塔は浄水場送水管の点検口
 

この先に松ヶ崎浄水場があるが、そこに入る原水は蹴上から別ルートで送られており(下注)、目の前の開渠の水は利用されていないのだそうだ。しかし流路の水量はまだたっぷりあって、疏水としての面目は保たれている。水面をのぞき込んでいた森さんが「けっこう大きい魚がいますよ」と教えてくれた。

*注 正確には、南禅寺トンネルでまず若王子取水池へ。ここでごみや砂を除去した後、導水管で浄水場まで送られる。後述のとおり、疏水の流路は現在、高野川で断たれている。

小森さんいわく「京大農学部のキャンパスに広い農園があるんですが、そこにもこの水が引き込まれてます」。疏水は、沿線の田園を潤す灌漑用水の役割も果たしていた。すっかり市街地化した今では、農学部のそれが唯一の名残なのかもしれない。

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北白川、疏水沿いの散歩道
 

「河川」に名目を変えた後も、疏水分線は変わることなく木陰の散歩道を伴って流れる。右側には北白川の閑静な住宅街が続いている。左は京大農学部のグラウンドだが、疏水道からは見下ろす形になる。この高低差は、花折(はなおれ)断層の活動により生じたものだ(下注)。いわゆる断層崖で、それをしのぐために、疏水のルートはここで緩いS字を描いている。

*注 花折断層は、滋賀県高島市の水坂(みさか)峠付近から朽木(くつき)谷、高野川の谷を通り、京都市左京区の吉田山に至る北北東~南南西方向の断層。花折峠より南は、東側が乗り掛かる逆断層になっている。

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花折断層
(左)グラウンドは疏水道から見下ろす位置に
(右)御蔭通への下り坂で断層崖を通過
 

御蔭通(みかげどおり)を横断すると再び直線で、右側の樹木が生い茂る敷地に、登録有形文化財の駒井家住宅が建っている。明治末から昭和にかけて数々の洋館を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品の一つだが、私もまだ入ったことがない。

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(左)駒井邸
(右)穏やかな光注ぐ水路
 

北大路通(きたおおじどおり)に出ると、叡山電鉄(叡電)の線路が間近だ。短い鉄橋が疏水に架かっている。ちょうど警報器が鳴り始めたので、一同慌てて線路際に走り寄る。駅と駅の中間とあって、電車はかなりのスピードで通過した。「速すぎましたね」「間に合わなかった…」などとぼやいていると、小森さんが「撮り鉄さんが群がる絵が撮れました」とほやほやの特ダネを見せてくれた。

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叡山線疏水橋梁、右はその銘板
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撮り鉄、被写体になる
(小森さん提供)
 

住宅街の中の直線路をなおも進んでいけば、やがて鴨川の支流、高野川にぶつかる。もともと疏水はこの川を伏樋(ふせひ)で通していたのだが、治水工事で河道の拡張・掘削が行われた際に撤去されてしまった。それ以来、疏水の水は対岸に届かず、ここで高野川に放流されているそうだ。

道路橋もないので、少し下手に架かる北大路通の高野橋まで迂回した。対岸に渡ると、疏水道に面して松ヶ崎浄水場の門がある。傍らに建つ現代建築風の塔が目を引くが、濾過池にたまった砂などを洗い流すために水を貯めておく洗浄水槽だ。「ウルトラ警備隊の基地みたいですねえ」と森さんが感心したように言う。

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高野川北望、左奥の山は比叡山
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(左)松ヶ崎浄水場、左の塔は洗浄水槽
(右)浄水場前の水路はわずかな水量しかない
 

この先は、水路が緩やかに左カーブしながら、下鴨の住宅街を貫いている。両岸に植えられた桜や楓の木がその上に枝を伸ばし、青草の堤に濃淡の影を落とす。のどかな田園風景の名残が感じられる場所だ。「観光地じゃないので、サクラの時期でもしずかです。夏の初めにはゲンジボタルも舞いますよ」。しかし、上流が断ち切られているため、水量はわずかしかない。これでも干上がらないように、浄水場からおこぼれが落とされているそうだ。

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下鴨の疏水分線
 

北から流れてくる泉川とは平面で交差している。泉川は、高野川で取水され、街中を通って糺の森(ただすのもり、下鴨神社境内)に入る小さな川だが、交差地点を観察すると、川幅の4割ほどが疏水の下流側に導かれている。一方、疏水は泉川と完全に混じり合い、平水時はほぼ全量が泉川の下流側へ向かう。つまり疏水分線は、ここで琵琶湖水系から高野川水系に入れ替わってしまうのだ。

西へ進むうちに、何か所かで旧 農業用水の水が加わり、水量が徐々に増えていくのがわかる。だが残念ながら、開渠区間は下鴨本通(しもがもほんどおり)の手前で終わりとなる。水は暗渠に潜り込んでいき(下注)、後は、水路跡をなぞる緑道が続いているばかりだ。

*注 暗渠の水は全量が鴨川に放流されていたが、付記で述べるように、近年の整備事業で、一部が堀川に導水されるようになった。

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(左)泉川との交差
  手前→奥が疏水分線、右→左が泉川の水路
  泉川の約4割が疏水側に誘導されている
(右)開渠区間の終点
 

かつての電車通りである北大路通を斜めに横断する。少し進めばもう主要河川の鴨川(賀茂川とも書く、下注)だ。かつての疏水分線はここも伏樋で横断し、対岸に続いていた。しかし右岸(西)側は戦後暗渠化されて、紫明通(しめいどおり)の一部となり、地上に痕跡をとどめない。それで分線をたどってきた私たちの歩きもここが終点だ。

*注 河川法上は鴨川の本流だが、地元では、高野川との合流点より上流を「賀茂川」と表記する。

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(左)疏水跡の緑地帯、後方は比叡山
  鴨川堤から東望
(右)鴨川を隔てて疏水跡(紫明通)の並木が見える
 

建設から120年、長い歳月の間に疏水分線は託された役割を果たし終えた。水流は細り、寸断され、もはや厳密には1本の水路と言えなくなっている。しかし、その存在価値まで摩滅したわけではないようだ。沿線に立地する寺社や庭園や閑静な住宅街に今もさまざまな形で潤いをもたらし、趣のある散策路として市民や観光客に愛され続けているからだ。

川の堤に上ると、広々とした河原に薄日が差し、心地よい風が吹き抜けていた。「お疲れさまでした」「ガイドしてもらったおかげで、疏水のことがよくわかりましたよ」。ねぎらいの言葉を交わしながら、私たちは北大路橋を渡り、地下鉄の駅に向かった。

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出雲路橋から鴨川(賀茂川)を北望
奥に架かる橋は北大路橋
 

【付記】

疏水分線の残り区間(鴨川~小川頭)の状況についても記しておこう。

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1:10,000地形図で見る鴨川右岸の疏水分線
(上)1951(昭和26)年修正測量図
  疏水の南側に疎開空地が残る
(下)2003(平成15)年修正図
  跡地は紫明通に
 

この区間は旧市街の外縁に当たり、かつては田園地帯だったが、1923(大正12)年の市電烏丸線開通に伴い、市街地化が進行した。第二次大戦末期、防火帯を設けるべく疏水南側で建物疎開が実施され、戦後、その空地が紫明通として整備された。紫明通が京都の大通りとしては珍しく蛇行ルートで、かつ広い中央分離帯を有するのは、これが理由だ。分離帯の一部は街路樹の苗圃として利用された時期があり、その名残で大木が多く育っている。

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紫明通、左は中央分離帯の林
疏水は通りの右寄りを走っていた
 

紫明通の北縁を通っていた疏水は1956(昭和31)年に暗渠化され、下水道に転用されてしまったが、最近まで、鴨川堤から西80mの紫明通北側では、植え込みに半ば埋まる形で水門跡が残っていた(2014年2月に撤去)。また、烏丸紫明交差点の西300mの紫明通北側歩道脇(京都教育大学付属中学校南側)には、「疏」の字を刻んだ境界標が今も数本残されている。

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紫明通にあった水門跡
(2012年4月撮影、小森さん提供)
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紫明通に残る境界標
 

分線終点の小川頭は、現在の堀川紫明交差点(バス停名は堀川鞍馬口)付近だが、疏水跡はおろか合流先の小川自体もすでに地上から消失してしまった。

なお現在、紫明通の中央分離帯(せせらぎ公園)に小さな水路が通っているが、これは疏水跡ではなく、堀川水辺環境整備事業により2009(平成21)年3月に完成した新しい水路だ。しかし水源は鴨川左岸の疏水分線で、鴨川の下をサイフォンで通し、右岸側で地表面までポンプアップしている。

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小川頭、現在の堀川紫明交差点
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堀川水辺整備事業
(左)疏水分線からポンプアップした人工滝
(右)中央分離帯に造られた小水路
 

掲載の地図は、地理院地図および国土地理院発行の2万5千分の1土地条件図京都(昭和50年調査・編集)、地理調査所発行の1万分の1地形図上賀茂(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図京都御所(平成15年修正)を使用したものである。

■参考サイト
琵琶湖疏水記念館 https://biwakososui-museum.city.kyoto.lg.jp/

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2019年12月16日 (月)

コンターサークル地図の旅-三田用水跡

東京はその日一日、雨模様だった。ひどくはないものの、上着のフードだけでは濡れ鼠になるような降り方だ。加えて時おり強い風が街路を吹き抜けて、広げた傘を大きくゆさぶった。

2019年11月23日、コンターサークル-s 秋の旅の3回目は、京王線の笹塚(ささづか)駅改札前に集合する。参加したのは、今尾、中西、大出、木下さん親子、木下さんの友人のKさん、そして私の大6、小1、計7名。こんな日でも厭わず集まるのは、雨なら雨のおもむきがある(下注)というサークルの創始者、堀淳一さんの考え方、いわば「堀イズム」がメンバーに浸透している証しだろう。

*注 「私の「地図歩き」は全天候型の旅で、雨が降っても風が吹いても濃霧がかかっていても、かまわずに歩きます(中略)。雨なら雨の、風なら風の、霧なら霧の、晴れた日には味わえないそれぞれの味わい--晴れた日よりもむしろ深い、陰翳に富んだおもむき--があるからです。」(堀淳一「消えた街道・鉄道を歩く地図の旅」講談社+α新書、2003年、p.21)

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(左)雨をついて笹塚駅に入る京王線の電車
(右)笹塚駅10時集合
 

本日のテーマは、江戸の六上水、すなわち6本の上水道の一つであった三田(みた)用水だ。下北沢村(現在の世田谷区北沢五丁目)で玉川上水から分水され、およそ南東方向に三田方面まで延びていたので、その名がある。

1664(寛文4)年に飲用水を取るために開かれたが、1722(享保7)年にいったん廃止、2年後に灌漑用水として再開されている。明治に入ると、火薬やビール製造など工業用水としても利用され始め、次第にその比重が増していった。しかし、都市化の進行で農地が縮小し、工場も上水道に切り替えたことから、1974(昭和49)年に取水が中止され、300年の幕を閉じた。

用水が通っていたのは武蔵野台地の末端、目黒川の谷と渋谷川(および支流の宇田川)の谷を隔てる台地(淀橋台南部)の上だ。分水口から南下した水路は、駒場東大の北側を通り、山手通り、旧山手通り、防衛省用地を経て、目黒駅前に至る。ここで東へ転じて、目黒通りから桜田通りのほうへ進み、後は暗渠となって、旧道(二本榎通り)の下を三田へ流れ下っていた。

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1:25,000地形図と陰影起伏図に歩いたルート(赤)と水路の位置(青の破線)等を加筆
笹塚~代官山間
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代官山~高輪台間
図中の水路の位置は、旧版1万分1地形図中野、世田谷、三田、品川の各図幅を参照した
 

機能停止の後、跡地は宅地や道路に転用されてしまったので、もはや水路の形では残っていない。しかし、ルートに沿って街路をたどれば、住宅や空地が線状に並んでいる個所がある。用水の記念碑や、かろうじて撤去を免れた道端の遺構も見つかる。そうした痕跡を訪ね歩くうちに、なみなみと水を運んでいた水路のさまが見えるような気がするから不思議だ。

私たちは、用水が桜田通りと出会う都営浅草線高輪台駅をゴールに見据えて、笹塚駅を出発した。今尾さんの案内で進む。玉川上水に沿って南へ200m、笹塚橋のすぐ下手に、三田用水の分水口があった。もちろん水路の分岐は現存せず、上水の西側の用地が三角形に膨らんでいるので、それとわかるだけだ。

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三田用水分水口
(左)右奥の三角形の敷地がその跡
(右)分水口から上流を望む
 

「ここからしばらく玉川上水と並走していたんですが、宅地に取り込まれてしまってます」と今尾さん。早くも目標喪失だが、玉川上水の緑道をそのまま歩いて、都道420号(中野通り)と井の頭通りが交わる大山交差点に出た。

そこから南は道路の拡幅工事中で、とぎれとぎれの歩道を伝っていかねばならない。進行方向右側に細長い宅地の列が沿っているから、おそらくこれが用水跡なのだろう。小田急の地下化された東北沢駅を左に見て、少し行くと三角橋交差点だ。川のない台地上にも橋のつく地名があるのは、用水が通っていたからに他ならない。

航研通りに入り、しばらく東へ進む。東大生産技術研究所のいかめしい門の前から200mほどで、用水跡は一つ北の小道に引っ込む。そして再び大通りと合流するところに、二ツ橋と記されたバス停標識が立っていた。これも橋の名だ。東大教養学部(駒場地区キャンパス)の裏手で、地震が来たら危なそうな高いブロック塀が続いている。

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(左)三角橋交差点(別の日に撮影)
(右)二ツ橋バス停
 

ほどなく山手通りの広い空間に出た。道路の中央に、巨大な塔が3本突っ立っているのが目につく。首都高速の山手トンネルの換気塔だ。歩道と東大の敷地との間に細長い敷地が延びていて、商業ビルや駐車場に使われている。これも用水跡だなと思って歩いていくうち、歩道より一段高いコンクリートの構造物が露出しているのに気づいた。用水跡歩きのウェブサイトで見た覚えがある。「これって痕跡ですよね」。取っ手付きの点検蓋もあるが、周辺に謂れを記したものとてなく、果たしていつまで残るだろうか。

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山手通り
(左)歩道脇に露出する構造物
(右)点検蓋や分水口も残る
 

間もなく、用水跡はビル裏の路地に入ってしまう。そちらに回ると、同じような帯状の敷地に、建物が窮屈そうに整列していた。山手通りのそれといい、土地がもつ記憶は容易に消えるものではない。京王井の頭線をまたいでまもなく、曲がってきた山手通りにぶつかる。ところが、渡れる横断歩道がなく、松濤二丁目の交差点までかなり迂回を強いられた。

神泉町から代官山にかけては台地の開析が進んでおり、用水跡は稜線、すなわち馬の背のような場所を通っている。そのため、交差する道は左右どちらも下り坂だ。とりわけ西の目黒川の谷壁は急斜面で、坂道は険しく、階段道さえ見られる。また、稜線は、河川と並んでしばしば行政界として用いられるので、用水跡が渋谷区と世田谷区、目黒区との境界に沿っているのも偶然ではない。

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(左)帯状の敷地に建つ建物の列
(右)目黒川の谷に降りていく階段道
 

「ルートから少しそれますが、記念碑がありますよ」と誘われたので、そちらに向かう。山手通りに面したマンションの植え込みの中に、細身の石碑が立っていた。傍らの説明板によれば、渋谷道玄坂から調布へ向かう古道「滝坂道」が用水を渡る場所に、かつて石橋が架かっていた。碑も本来そこにあったもので、近隣十三か村の住民が堅牢な石橋に感謝して建立したものと推測されるという。

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青葉台四丁目の石橋供養塔碑
 

そのうちに正午を回ったので、神泉町交差点の中華料理店に入った。テーブルではいつもの鉄道話で盛り上がる。初参加のKさんが、「みなさん鉄道にお詳しいんですね」と驚く。「地図のサークルなんですが、なぜか鉄道ファンが多いんです」と私が言うと、「地図と鉄道はいろいろと関係してますからね」と今尾さんがフォローしてくれた。

食事後は、再び用水跡の細い裏通りを歩いていく。裏通りといっても場所が場所だから、両側には目を見張るような豪邸の長い塀が続いている。まもなく西郷山公園の緑が見えてきた。西郷隆盛の弟従道(つぐみち)の別邸だったところだ。晴れていれば目黒川の谷を一望できるのだが、今日は雨に煙っている。だが、このしっとりした情景も悪くない。

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西郷山公園、紅葉の広場も雨に煙る
 

西郷橋からは旧山手通りに出た。ご存じの蔦屋書店をはじめ、おしゃれな店が軒を連ねる地区で、お上りさんの私は目を丸くしながら歩くのみだ。考えてみれば、この代官山といい、これから行く白金台といい、三田用水はセレブなエリアを貫いている。工業用水の比率が高まると、汚染を嫌って、水路は昭和の初めにほとんど暗渠化されてしまった(下注)が、そうでなければ、玉川上水のような木陰の散歩道に転換できていたかもしれないと思う。

*注 昭和10年代の1万分1地形図では、恵比寿のビール工場より上流で開渠のまま残されているのは、鎗ヶ崎交差点~火薬製造所間のみ。

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旧山手通り
(左)西郷橋を渡る
(右)用水があればこの歩道も水辺の散歩道になったかも
 

残念なことに、用水の追跡は、駒沢通りと交わる鎗ヶ崎(やりがさき)交差点で中断される。この先は水路に沿う道がなく、さらに防衛装備庁艦艇装備研究所の用地に入っていくためだ。「跡をたどれないので迂回します」と今尾さん。

私も、歩く区間の地理院地図を印刷してきているのだが、インクジェットのため、雨でにじんで、もはや細部が消えつつある。その点、今尾さんはスマホで、何と東京時層地図のアプリを仕込んでいた。にじむ心配がないどころか、旧版地形図を時代ごとに比較できるから、遺跡探索には強力なツールだ。

途中、研究所内の長大水槽を覆う建屋をフェンス外から眺めることで、この区間の探索に代えて、新茶屋坂に出た。道路が、長さ約10mのトンネルで用水の下を抜けていたという場所だ。しかし、道路の拡幅に伴い、トンネルは2003年に撤去され、今は南側の歩道脇に、銘板と記念碑だけが残されている。

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隧道があった新茶屋坂通りの掘割
右端に記念碑がある(別の日に撮影)
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茶屋坂隧道記念碑、右はその拡大
 

新茶屋坂の南側から、再び用水跡の小道が始まった。目黒三田通りとは薄い角度で交差するが、その交差点前にある日の丸自動車教習所の前を通り過ぎようとしたとき、大出さんが次の記念碑を目ざとく見つけた。丸石が2個埋められ、後ろにずばり「三田用水跡」と題した説明板がある。それによれば、この石は用水の木樋を支えていた礎石だそうだ。

「ビール工場の原料水にも用いられたと書いてありますよ」。今はガーデンプレイスになっているサッポロビール(旧 日本麦酒)恵比寿工場のことだ。「それだけ用水の水質が良かったということですね」と感心する。

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日の丸自動車教習所前の記念碑
 

山手貨物線で3か所しかない踏切の一つという長者丸踏切や、切通しに優雅なアーチを架ける白金参道橋で、マニアックな関心を満たした後、目黒駅前の陸橋で山手線を渡った。用水跡は目黒通りの南を走っているのだが、それに沿う道が寸断されているため、私たちは目黒通りを直進した。

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長者丸踏切
(左)山手線と貨物線の交差地点
(右)目黒駅方に白金参道橋のアーチが見える
 

白金台三丁目には、遺構がいくつかある。一つ目は今里橋の跡だ。白金台幼稚園の手前で小道が用水を渡っていた場所で、橋の欄干が片側だけ、道端に半ば埋もれた形で残っている。側面に回ると、水道管もいっしょに水路をまたいでいた。なるほどこれがあるために、欄干は撤去されずに済んだのだ。

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今里橋の欄干
(左)後ろの建物は用水跡に建つ
(右)用水をまたいでいた水道管
 

そこから南へ向かうと、公園沿いの小道で水路跡が歩道代わりとされ、小橋の跡もしっかり残っている。おもしろいのはその先で、鞍部を横断するため、用水は築堤上に通されていた。マンション建設で築堤は取り崩されたものの、付け根部分の水路断面が保存されているのだ。傍らに「三田用水路跡」の案内板も立っている。流路の末端に近いので、断面は側溝ほどのサイズしかないが、水路の現物が見られるのはここが唯一だろう。そしてこれより下流に、もはや遺構はないらしい。

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白金台三丁目に保存された水路断面
 

私たちは今里地蔵のお堂を経て、地下鉄の高輪台駅まで最後の区間を歩き通した。笹塚駅からここまでおよそ8.5km、いつしか雨も小止みになっている。

小学生のキリ君もまた、雨合羽姿でこの長い距離をついてきた。持っているゲーム機には歩数計の機能が搭載されているらしく、「さっき1万歩だったから、次はもう2万歩になるよ」と大人たちに盛んにアピールしながら。

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キリくん、沿道の手押しポンプに挑戦
 

掲載の地図は、地理院地図を使用したものである。

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2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル-s 春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしていた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですね」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年5月 9日 (木)

コンターサークル地図の旅-鬼怒川瀬替え跡と利根運河

取手(とりで)駅から、関東鉄道常総線のディーゼルカーに乗って北上した。列車は最高時速80kmで疾走する。全線非電化にもかかわらず、途中の水海道(みつかいどう)までは堂々たる複線で、まっすぐ延びる線路の上に、遮るもののない大空が広がっている。都市近郊路線としては他に得難い風景だ。

2019年5月2日、コンターサークル-s 春の旅1日目は、常総線の小絹(こきぬ)駅が集合場所だった。小さな駅舎の改札前に集ったのは、中西さん、丹羽さんと私の3人。初めに、鬼怒川(きぬがわ)の瀬替え、すなわち流路付け替えの跡を見に行く。

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寺畑北方の小貝川分流跡
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常総線小絹駅
(左)ユニークな妻面をもつ駅舎
(右)乗ってきた列車を見送る
 

鬼怒川は、日光国立公園の一帯を水源とする主要河川だ。栃木県と茨城県西部を貫流し、守谷(もりや)の西で利根川に合流している。しかしこれは、江戸幕府による利根川東遷事業で瀬替えされた結果で、以前はつくばみらい市(旧 谷和原(やわら)村)寺畑で、小貝川(こかいがわ)と合流していた(下図参照)。そこから下流では、今の小貝川が鬼怒川の河道だったのだ。

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鬼怒川旧河道(瀬替え跡)と利根運河周辺の河川の位置関係
基図に1:200,000地勢図(2010~12年)を使用
 

17世紀、新田開発と水運の改良を目的として、鬼怒川を常陸川(ひたちがわ、下注)に短絡させる新たな流路の開削が計画された。両者の間には比高10mほどの猿島(さしま)台地が横たわっている。約8kmの新流路の東半は台地に入り込む支谷の一つを利用し、サミットの板戸井(いたとい、現 守谷市)で台地を深く切り通した。1629(寛永6)年に工事は完成し、翌年、旧流路が締切られて、鬼怒川は小貝川と完全に分離された。

*注 1654年の赤堀川通水の成功と、その後の拡幅により最終的に利根川本流となる。

この瀬替えによって、鬼怒川と小貝川の間には約1kmの廃河道が残されることになった。その現状を確かめようというのが今回の目的だ。

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鬼怒川旧河道周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちは、かつて鬼怒川が小貝川と合流していた伊奈橋をめざした。地形図を手に、駅から最短経路となる里道をたどる。空は曇りがちながら、暑くも寒くもなく、歩くには申し分ない日だ。このあたりは台地と谷地(低地)が入り組んでいて、道も少なからず上り下りがある。20分ほどで小貝川の堤に出た。

橋の南側が、かつての合流地点になる。堤防に面して水門があり、「四ヶ字(しかあざ)排水樋管」と記した立札が付いていた。堤の内側に目を移すと、水門に通じる水路が見え、住宅地の中の四角い池につながっている。これらはみな河道の名残と考えていいのではないか。水路のそばに矩形の石碑が立っているが、碑文は残念ながら摩滅寸前で、「治水?生」(3文字目は不明)という題字以外、判読できなかった。

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(左)小貝川と伊奈橋
(右)四ヶ字排水樋管
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(左)住宅地の四角い池を東望
(右)水路のそばの石碑
 

中西さんが地形図を指差しながら、「この蛇行水路が気になります」という。寺畑の北方にある、常総市とつくばみらい市の境界に沿った水路のことだ。南側に、連続する崖の記号を伴っている。「鬼怒川と小貝川をつないでいた水路でしょうか」「流水方向が手がかりになるかもしれない」と、寄り道することにした。

代掻きを済ませた田んぼの間の、ぬかるむ農道を歩いていくと、地図のとおり、攻撃斜面に相当する高さ2~3mの崖の連なりが現れた。崖下は、一部が湿田になっているほか、一面芦原に覆われて、残念ながら水流はまったく見えなかった。「蛇行のカーブがきついところを見ると、本流ではなく、小貝川の分流かもしれませんね」と丹羽さん。おそらく、下妻から水海道にかけて多く見つかる乱流跡の一つなのだろう。

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小貝川分流を縁取る農道にて
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小貝川分流に沿う低い崖の連なり
 

鬼怒川の河道跡に戻る。先ほどの四角い池から西側は盛り土されて、西ノ台の住宅街の一部になり、緩やかにカーブする道路だけが、流路の中心線を保存している。約300m西で住宅街が途切れた後は畑地となり、それが常総線の低い築堤まで続く。

国道294号線の両側では、河道跡のほとんどが埋め立てられ、ロードサイド店の駐車場になっていた。間に残された水路がさきほどの中心線の延長上にあるようだが、今や水たまり同然で、顧みる人もない。とはいえ、これが400年前の川の痕跡だとすれば、よくぞ残ったという感慨も湧いてくる。

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(左)河道跡をなぞる街路のカーブ
(右)駐車場に挟まれた水たまりのような水路
 

その西には、旧道が載る高さ4~5mの築堤が延びている。河道跡と直交する形状から見て、鬼怒川を瀬替えしたときの締切堤防に違いない。鬼怒川は河川敷の一段低いところを流れているはずだと、河畔林まで分け入ってみた。しかし、藪が鬱蒼と生い茂って、見通しがほとんど利かない。カメラに一脚を取り付けても、藪の背のほうがはるかに勝る。隙間からかろうじて水面を透かし見ただけで、現場を引き揚げざるを得なかった。

河川敷の畑の木陰で、昼食休憩にする。ちょうどそこに、畑の持ち主の方が農具を持って現れた。聞けば、この河川敷は私有地で、昔は毎年水に浸かっていた。今でも数年に一度は、冠水するのだという。広い堤外地は、遊水地の役割を果たしているのだろう。同時に、洪水は新しい土を置いていくから、作物の育ちはいいはずだ。

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(左)旧道が載る締切堤防
(右)藪から透かし見る鬼怒川の川面
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木陰のある河川敷の畑、背景は締切堤防

午後は、利根川の対岸に導水口がある利根運河(とねうんが)へ移動する。丹羽さんが早引けついでにと、車で送ってくれた。

利根運河は、利根川と江戸川を接続している約8kmの運河で、1890(明治23)年に開通した。その目的は、海の難所である犬吠埼沖を避けるために、東北地方と江戸(東京)を結ぶ東廻り航路で利用されていた内陸水運ルートの改良だ。銚子から関宿(せきやど)まで利根川を遡上した後、江戸川を下るのが従来ルートだが、距離が長く、一部に浅瀬もあって、輸送効率が悪かった。そこで、これをショートカットする運河の掘削が計画された。

オランダ人の土木技師ムルデルの監督のもと、民間会社が建設し、通行料を取って運営した。しかし、栄えた時期は短く、近隣で相次いで開通した鉄道(下注)に貨客を奪われ、内陸航路はじりじりと衰退していく。そして1941(昭和16)年、台風に伴う増水で堰や堤が壊れて経営が行き詰まり、施設は国有化された。交通路の役目を終えた運河は、一時、首都圏の水需要を賄う導水路に活用されたものの、その機能もすでになく、今は産業遺産として保存されている。

*注 1896年に日本鉄道土浦線(後の常磐線)田端~土浦間が開通、1897年には総武鉄道(同 総武本線)が錦糸町から銚子まで通じた。

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利根運河周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちが着いたのは、利根川の取水口から1km西にある運河水門だ。空を覆っていた雲はすっかり消え去り、初夏の眩しい日差しが降り注いでいる。朝から着ていたジャケットも、もう必要ない。帰る丹羽さんにお礼を言って、運河の北岸を江戸川のほうへ歩き始めた。

高堤防の上に、細い道が緩いカーブを描きながら、延々と続いている。あずまやの前で、春日部から自転車で来たという人に声を掛けられた。ここまで20数kmあるが、車道を走らなくて済むので、よくサイクリングするのだという。「運河駅まで歩くの? まあ5kmだね」とよくご存じだ。

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利根運河
(左)運河水門 (右)細々とした水量
 

運河は戦後、利根川の洪水を江戸川へ逃がす分派機能を託され(下注)、それに伴い、堤防の拡幅と嵩上げが行われた。このため、運河の幅は80~90m(天端間)、堤高は約5mと、見た目にもかなりのスケール感がある。ところが底の水路は細々としたもので、葦の茂みの間に水質が悪化しない程度の量が流されているに過ぎない。下流では周辺からの流入があり、さすがに水かさが増すが、それでも子どもの膝まで届かない深さだ。汽船が通っていたとは信じられないが、もちろん昔はもっと水位が高かった。利根運河碑の説明板によれば、開通当時は河底幅が18mしかない代わり、平均水深は1.6mあったそうだ。

歩き始めのうちは、堤の下が田んぼの広がる谷津(やつ)、すなわち谷間の低地だったのだが、進むにつれて地盤が上がり、いつのまにか堤よりもまだ上に斜面が続いている。鬼怒川の新河道と同じように、運河は、下総(しもうさ)台地を深く掘り割って造られたからだ。しかし、人工水路でありながら、水辺には低木も茂り、その部分だけフレームに切り取れば自然河川と変わらない。

*注 正式名称は「派川利根川」だったが、地形図では常に利根運河と注記されている。

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堤防上から見た風景
(左)三ヶ尾の谷津
(右)周囲からの流入で少しずつ水かさは増す
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自然河川のように低木が茂る
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堤の上は東京理科大キャンパス
野田線の鉄橋が見えてきた(アーチのあるのは歩道橋)
 

5kmの距離は長そうに思えたが、二人で鉄道のよもやま話をしながら歩いたら、もう運河を渡る東武野田線(アーバンパークライン)の鉄橋が近い。流山街道の西側は親水公園に開放されていて、子どもたちが水遊びをしていた。運河の上空には、色とりどりの鯉のぼりが五月の風を受けて泳いでいる。たなびく姿が水面に映って、その数以上に賑やかに見えるのがおもしろい。

時代の要請に次々と応じたあげく、実用的役割を失ってしまった運河だが、今はこうして、人々が憩うやすらぎの水辺として余生を送っている。水路の生涯もさまざまだ。背景の鉄橋を電車が通過するのを記念写真に収めて、ささやかな水路巡りの旅を終えた。

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運河の上空で鯉のぼりが泳ぐ
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水面に映る鯉のぼり、背景は野田線の電車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図守谷(平成17年更新)および20万分の1地勢図千葉(平成22年修正)、東京(平成24年要部修正)、水戸(平成22年修正)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

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2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝
 

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4人だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎
(右)1日4往復の滝本行き路線バス
 

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着
後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口
(右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影
 

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台
滝の最下段が正面に来る
 

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む
 

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋
(右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がる
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吊橋から見た滝と背後の断崖
 

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段
(右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた
 

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望
 

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い
 

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂
(右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人
 

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道
(右)旧道が通る水根橋
 

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口
(左)切通しで隧道へ
(右)水路橋が道をまたぐ
 

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み
 

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2018年10月13日 (土)

モーゼル川の大蛇行-ツェラー・ハム

ボージュ山地を発してコブレンツ(コーブレンツ)でライン川に合流するまで、約550kmを流れ下るモーゼル川 die Mosel。その中流から下流部にかけての流路は特徴的だ。まるで行く先を忘れて迷子になったかのように、極端な曲流が連続している。

このような地形は「穿入(せんにゅう)蛇行」と呼ばれ、日本でも大井川や四万十川などに見られる。もともと平野部をゆったりと蛇行していた川が、地盤の相対的な隆起に対して水流による浸食で抵抗し、もとの流路を維持している状態だ。見方を変えれば、大昔の自由蛇行を谷の中に閉じ込めた地形の缶詰ということができるだろう。

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マリエンブルクから曲流するモーゼル川を眺望
 
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あまたある曲流の中でも最大と言えるものが、ピュンダリッヒ Pünderich とブライ Bullay の間にある。経由地ツェル Zell の名を採って、「ツェラー・ハム Zeller Hamm(下注)」または「ツェルのモーゼル湾曲 Zeller Moselschleife」と呼ばれるこの蛇行は、始点から終点までの延長が14kmにも及ぶ。ところが、首根っこの、最もくびれた地点間の距離は1kmもないのだ。それで、くびれの所で谷を分けている尾根に上れば、左右に同じ川が見え、かつ流水方向は反対という、鏡像のような光景に出会える。

*注 ハム Hamm は、ラテン語の hamus(鉤、フックなどの意)に由来し、川の湾曲を意味する。

加えてここは、鉄道ファンにとっても注目すべき場所だ。コブレンツから川に沿って走ってきたDBのモーゼル線 Moselstrecke(下注)が、湾曲部をショートカットしている。くびれ尾根をトンネルで貫くとともに、その前後に上下2層の鉄橋や、長い斜面高架橋を構えている。山と川とこれら珍しい構築物が織りなす風光が好まれて、ここで撮られた写真は、昔から路線紹介の定番だ。

*注 モーゼル線のこの区間については、本ブログ「モーゼル渓谷を遡る鉄道 II」で詳述。

どのポイントでどんな構図が得られるかを含めて、今回はこの蛇行の周辺を紹介しよう。

図3
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ツェラー・ハム周辺の1:50,000地形図(L5908 Cochem 1989年)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz, 2012
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撮影地周辺の1:25,000地形図(GeoBasisViewer RLPから取得)
撮影位置を①~④で示す
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

コブレンツ中央駅からモーゼル線トリーア方面のRE(レギオエクスプレス、快速列車に相当)に乗ると、車窓に映る穏やかな川面を眺めながら、44分でブライに到着する。地下通路を介して山側にあるブライ駅舎は、20世紀初期に建てられた簡素なデザインの建物だ。アーチ天井のホールの片側は旅行センター、片側はビアレストランが入居するが、降車客の姿が消えると、朝10時の構内はしんと静まりかえる。

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(左)ブライ駅舎の中央ホール
(右)大砲鉄道の案内板
 

ホールの中央にある、カノーネンバーン(大砲鉄道)Kanonenbahn と書かれた案内板が目に留まった。大砲鉄道というのは、19世紀プロイセンの時代に、有事の際の輸送ルートとして、ベルリン Berlin とロレーヌ地方のメス Metz との間に建設された路線の俗称(下注1)で、モーゼル線も実はその一部だ。ブライ駅はツェラー・ハムを巡る周遊トレール(下注2)の出発点とされていて、トレールをたどる人に地域の鉄道史を知ってもらおうと、関連地点に案内板が設置されている。

*注1 大砲鉄道については、本ブログ「ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線」に概要がある。
*注2 正式名は「大砲鉄道ブライ=ライル鉄道史文化トレール Eisenbahnhistoricher Kulturweg Kanonenbahn Bullay - Reil」。延長23km。

駅舎を出て右へ、鉄道の築堤に沿って進むと、500mほどでさっそくアルフ=ブライ二層橋 Doppelstockbrücke Alf-Bullay のたもとに出た。長さ314m、6径間(最大径間72m)の堂々たるトラス橋だ。上が鉄道、下が州道L 199号線という二層構造で、モーゼル川を渡っている。北側の橋台の脇をかつてモーゼル鉄道(下注)がくぐっていたのだが、今は道路に転用されてしまっている。

*注 モーゼル鉄道 Moselbahn または モーゼルタール鉄道 Moseltalbahn は1962年に廃止された標準軌の私鉄路線。トリーアから、鉄道のないモーゼル右岸を忠実になぞって、ブライに達していた。現 ブライ駅の正式名が Bullay (DB) と表記されるのは、南に少し離れていたモーゼル鉄道の駅(Bullay Kleinbahnhof または Bullay Süd)と区別していた名残。

二層橋の道路部分では、車道の両脇に一段高くなった歩道がある。突き刺さるトラスの太い梁がやや邪魔になるものの、スピードを上げて通る車を気にしなくていいのはありがたい。渡り終えたところで、連邦道53号線を横断する必要がある。

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アルフ=ブライ二層橋
上を鉄道(モーゼル線)、下を道路(州道L199号線)が通る
 

地図で見ると、曲流の展望地へは、右手に見える小さな葡萄畑の急斜面を上っていくのが近道なのだが、私有地らしく、トレールには認定されていない。正規ルートは、左手の車道脇から山中に入り込む登山道だ。少し上ったところで、右から来る小道に合流するが、この小道は、プリンツェンコプフトンネル Prinzenkopftunnel(長さ458m)の北側ポータルの前に通じている。寄り道すれば、二層橋を渡る列車をほぼ同じ高さで捕えることができるだろう。

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アルフ=ブライ二層橋を渡るモーゼルワイン鉄道の旅客列車
上図①の位置で撮影
 

一方、トレールはくびれ尾根の森の中を、一部ジグザグに上っていき、最終的に尾根筋のマリエンブルク Marienburg に出る。マリエンブルクには、トリーア司教区の青少年研修施設があり、そのテラスに立つと、葡萄畑の山腹に張り付くピュンダリッヒ斜面高架橋 Pündericher Hangviadukt が見渡せる。この形式ではドイツで最も長く、延長786m、内径7.2m のアーチを92個連ねた見ごたえのある構造物だ。高架橋の眺めは、尾根筋に限ればここがベストで、西へ進むにつれて視角が浅くなり、アーチ全体がきれいに見えなくなる。

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マリエンブルクから望むピュンダリッヒ斜面高架橋
上図②の位置で撮影
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(左)南向き斜面に整列する葡萄の苗木
(右)尾根伝いのトレール
 遠方にプリンツェンコプフの展望塔が見える
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ピュンダリッヒ斜面高架橋を走る列車から見たマリエンブルク
(右の山上の建物)
 

マリエンブルクの眺望を満喫した後は、いよいよプリンツェンコプフの展望塔 Aussichtsturm へ向かおう。尾根伝いの道は、葡萄畑越しに、対岸に広がるピュンダリッヒの町と、左に大きく曲がっていく川のパノラマが楽しめる景勝ルートだ。700m、約10分行ったところで、展望塔に通じる坂道が左に分岐している。少し上れば、鉄骨で組んだ塔の足もとに出る。

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プリンツェンコプフに建つ展望塔
 

プリンツェンコプフ Prinzenkopf(王子の山頂の意)はツェラー・ハムの付け根にある小さなピークだ。標高220m、19世紀からすでに人気の見晴らし台だった。1818年に皇太子、後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 Friedrich Wilhelm IV. がラインラント行啓の際に立ち寄り、仮設のあずまやで昼食を取った。その故事から山の名がある。

1888年に、最初の展望塔が中古の木材を使って建てられたが、1899年に石造りの堅固な塔に建て替えられた。展望階には屋根がかかり色ガラスが嵌められて、風雨や、初夏のやっかいな羽蟻から護られた快適な施設だった。しかし、第二次世界大戦末期の1945年3月に、米軍によって爆破されてしまった。その後しばらくして1983年に、地元自治体によって塔が再建された。景観に配慮して木造とされたが、それが仇となって2005年の嵐で破損したため、2009年に鉄骨組みで建て直されたのが現在の塔だ(下注)。

*注 展望塔の歴史は、現地にあった鉄道史文化トレールの案内板を参照した。

四代目となるこの展望塔は、高さが27.3m、最上階の展望デッキは基礎から18m、モーゼル川からは145mの高さがある。人気は今も続いているらしく、塔には入れ替わり立ち替わり見物客が訪れていた。最上階のデッキからは360度の展望が得られる。とりわけ東方向は、手前からまっすぐ伸びる緑濃い細い尾根の先に、マリエンベルクの修道院風の建物が見え、その両側に、葡萄畑を斜面に載せたモーゼルの深い谷が奥まで通っている。予想通り、鏡像のようなみごとな光景だ。

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プリンツェンコプフから見たツェラー・ハムの鏡像パノラマ
正面の建物がマリエンブルク
川は右手前から中央奥の山の後ろを回り、左手前へ流れてくる
上図③の位置で撮影
 

展望塔の建つ位置は、モーゼル線のプリンツェンコプフトンネルの真上に当たる。少し期待していたのだが、意外にも鉄道の撮影に向いていないことがわかった。二層橋はちょうど木の陰になり、斜面高架橋は手前のアーチが隠れてしまうのだ。

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展望塔から下流方向を望む
川の右岸はブライの町だが、手前の木に隠れる
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展望塔から上流方向を望む
斜面高架橋の手前のアーチが見えない
 

塔を後に、アルフ=ブライ二層橋を遠望できる場所を求めて、アルフの町へ降りる道を少したどった。森が途切れたところにレストランを兼ねた農家があり、その前が、さっき二層橋を渡ったときに右手に見えていた葡萄畑の斜面だった。まだお昼時でやや逆光にはなるものの、形よくカーブするモーゼルの谷を背景に、二層橋が川面に堂々とした姿を映している。

実はここへ来る前に、順光になるマリエンブルク側で二層橋の展望地を探してみたのだが、北斜面は森に覆われているため、研修施設に入らない限り、そのような場所はなかった。施設内に望楼のような建物を見かけたので、そこならブライやアルフの町を背景に、二層橋を渡る列車の写真が撮れるのではないだろうか。

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葡萄畑の上から望むアルフ=ブライ二層橋
上図④の位置で撮影
 

モーゼルの伸びやかな風光に心行くまで浸った後で、同じ道をとぼとぼ帰るのも芸がない。このままアルフに降りて、モーゼル川を横断するフェリーで対岸のブライに戻るか、あるいは斜面に付けられたトレールを上流(南)へ歩いて、ライラーハルス Reiler Hals の鞍部からモーゼルワイン鉄道のライル Reil 駅まで、もう少しハイキングの時間を楽しみたい。

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2018年9月16日 (日)

ライン川の大蛇行-ボッパルダー・ハム

ライン川クルーズは、ドイツ観光のハイライトの一つだ。世界遺産にも登録された渓谷(下注)の、両側から荒々しい岩肌が迫る速くて豊かな流れの上を、遊覧船が進んでいく。

*注 「ライン渓谷中流上部 Obere Mittelrheintal」の名で、ビンゲン・アム・ライン Bingen am Rhein ~コブレンツ間が登録されている。本ブログ「ドイツの旅行地図-ライン渓谷を例に」でも言及。

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ライン川の湾曲に面するボッパルトの町
 
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上流のリューデスハイム Rüdesheim あたりから乗船した人の多くは、ザンクト・ゴアール St. Goar か対岸のザンクト・ゴアールスハウゼン St. Goarshausen で降りてしまう。しかし、KDラインの船便はさらに下流へ進み、ボッパルトあるいはコブレンツ(コーブレンツ)Koblenz まで行く。

このルート後半は、古城群やローレライなど見どころの多い前半に比べて、地味な区間と思われがちだ。だがそこにライン渓谷で唯一、川が大きく蛇行するボッパルダー・ハム Bopparder Hamm の奇観があるのを忘れてはいけない。

ドイツ国内でライン川は、おおむね北ないし北西方向に流れているのだが、細部はそうとも限らない。ここボッパルトの町の前では西を向いており、その直後、右に180度転回して、一時的に東へ向かう。深い渓谷の中とあって、両岸を走る鉄道も道路もショートカットするすべがなく、川に従い大迂回を強いられている。

半径約1kmの半円を描く曲流の景観は、渓谷のへりの高みから眺め降ろすのがいい。ボッパルト近くの左岸の崖の上に、その条件を満たす「ゲーデオンスエック Gedeonseck」という展望台がある。

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展望台へ上るチェアリフトから右岸線を走る列車を望む
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ボッパルト周辺の1:25,000地形図
(5711 Boppard 2009年)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

その日は、船ではなく左岸線の列車で、ボッパルト中央駅 Boppard Hbf に着いた。ボッパルトは帝国都市の経歴をもつ古都(下注1)で、今はライン河畔に開けた上品なリゾート都市の一つだ。中央駅とは名ばかりの小さな駅前広場から西へ歩くこと15分、ミュールタール Mühltal の鉄道ガードをくぐると、水車の回る鄙びたレストランの隣に、展望台へ上るチェアリフトの乗り場がある。妻壁にゼッセルバーン・ボッパルト Sesselbahn Boppard(下注2)と大書してあるから、見落とすことはない。

*注1 帝国都市 Reichsstadt は中世、神聖ローマ帝国の直轄都市。ただし、ボッパルトが帝国都市の地位を得ていた時期は短く、1309年以降はトリーア選帝侯国 Kurtrier に属した。
*注2 ゼッセルバーン Sesselbahn はチェアリフトのこと。ゼッセルリフト Sessellift ともいう。

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(左)ボッパルト中央駅
(右)チェアリフトの乗り場
 

リフトは1954年に開設されたもので、長さ915m、高低差は232mある。片道20分のけっこう長い空中遊覧だ。並行して登山道も整備されているのだが、周辺の地形を理解するには、往路は空中リフトに身をゆだね、復路で歩いてゆっくり景色を楽しむのがいいだろう。

乗り場の係員に見送られて、リフトはまず葡萄畑の斜面を這い上がり、まもなくライン川とミュールタールを見下す細い尾根の上に出る。そしてそのまま、尾根伝いに北上していく。両側が鋭い角度で落ち込んでいるので、視界を遮るものはなく、すでに見晴らしは抜群だ。

右手はライン渓谷で、遠心力を感じるほど大きなカーブを描いている。さっき歩いてきたボッパルトの白い町並みがじわじわと遠ざかる。はるか下の川を行く貨物船や河岸を走る列車や自動車は、もはやミニチュアか何かのようだ。

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(左)まず葡萄畑の斜面を這い上がる
(右)その後は尾根伝いに北上(帰路写す)
 

左手は山また山だが、直下ミュールタールの山腹に、注目すべきDBのフンスリュック線 Hunsrückbahn(下注)が通っている。ボッパルトを起点とし、高原上のエンメルスハウゼン Emmelshausen まで行く路線だが、ラインの谷壁を克服するために、1:16.4(60.9‰)と粘着式では破格の急勾配が用いられている。運よく単行の気動車がその坂道を下ってくるのに遭遇した。

*注 フンスリュック線は延長14.7km。現在は交通企業レーヌス・ヴェニーロ Rhenus Veniro が、左岸線のボッパルト・ジュート(南駅)Boppard Süd まで旅客列車を運行している。

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フンスリュック線の連接気動車が60.9‰の急勾配を行く(帰路写す)
 

リフトが徐々に高度を上げていくにつれ、足元の斜面も険しさを増してくる。見る位置によってはほとんど尾根線の外側に乗り出しているかのように感じられる。残り1/3でルートがミュールタール側の斜面に移った後も、やや深い谷を渡るスリリングな区間があった。日本なら、リフトの動線に沿って落下防止用のネットが張られていそうなものだが、ここには何もない。その上、チェアはスキー場にあるような簡易構造で、足を預けているのは1本の細い鉄棒に過ぎない。それで、深く腰を掛け、動かないでいることが唯一、高所の恐怖を払いのける方法だった。

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(左)チェアリフトの終点
(右)オークの森を歩いて展望台へ
 

リフトの終点は標高302mのヒルシュコプフ Hirschkopf で、オークの深い森を背負っている。木漏れ日の林道を5分足らず歩いていくと、前方の視界が開けて、ゲーデオンスエックに出た。あいにく開放されている展望台は北の端の狭い場所で、一等地は軽食堂のテーブルが占拠している。しかし、午後3時で客がまばらだったので、飲み物なしで少しばかり景色を眺めさせてもらった。

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ゲーデオンスエックの展望台はレストランが占拠
開放された展望台は左奥にある
 

なるほど、噂通りここからはボッパルダー・ハムの大蛇行が一望になる。ライン川は右から左へゆったりと流れている。リフトからも見たように、右手にボッパルトの町、その奥の山かげから対岸のカンプ・ボルンホーフェン Kamp-Bornhofen が顔を覗かせる。一方、正面は円盤のような整った形が印象的なフィルゼン Filsen の村と畑で、その後ろにオスターシュパイ Osterspai の村も見える。左は、川沿いの急斜面に、ボッパルト自慢の良質なワインを産む葡萄畑が広がっている。

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ゲーデオンスエックから見たラインの大蛇行、ボッパルダー・ハム
右はボッパルトの町、正面はフィルゼンの村、左は良質ワインを産む葡萄畑
 

ボッパルダー・ハムの「ハム Hamm」というのは、ラテン語の hamus(鉤、フックなどの意)に由来するそうだ。つまり、本来はボッパルトの湾曲地形を意味する言葉なのだが、一般にはこの一帯の葡萄畑、あるいは特産のワインのことを指すと思われている(下注)。

*注 地形図でも、斜面の葡萄畑に掛かるようにボッパルダー・ハムの注記がある。

ライン中流では、川沿いの南向き斜面は貴重な存在だ。川の流路が東西方向のところに限られるからだ。ボッパルダー・ハムは直射光とともに、スレート質の地面から反射光がたっぷり得られ、そこに川の蓄熱効果が加わる。さらに湿気をもたらす西風が西側の山地で遮られるため、温暖で乾燥した環境を好む葡萄の栽培には最適なのだという。

昔から南北交通の大動脈だったライン渓谷では、両岸に複線の鉄道が通っている。東側がライン右岸線 Rechte Rheinstrecke、西側がライン左岸線 Linke Rheinstrecke だが、大部分のICEが2002年に開通した高速新線(下注)に移った後も、ここをIC(インターシティ)や貨物列車が頻繁に往来する。少々遠目にはなるものの、この展望台は、ライン川と周辺の風景を入れてそれらの列車を撮るにもいい場所だ。

*注 ケルン=ライン/マイン高速線 Schnellfahrstrecke Köln–Rhein/Main。ケルン Köln とフランクフルト Frankfurt am Main を結ぶ高速新線。

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葡萄畑の下の左岸線を列車が行き交う
 

ところで、近くにもう1か所、展望台があるという情報が気になっていた。「フィーアゼーンブリック Vierseenblick(四つの湖の眺めの意)」と名のつく場所だ。再び林道を北へ5分ほど歩いていくと、入口に看板が立っていた。

そこも同じように軽食堂が居座っていて、開放された展望所は小さなスペースだったが、なるほど山かげに隠れて、ライン川が見かけ上、4つの断片に分かれる。上流側からカンプ・ボルンホーフェン、ボッパルト、フィルゼン、オスターシュパイと、沿岸の町や村がどれ一つ省かれることなく、公平に見えるのも絶妙といっていい。

とはいえ、今しがた蛇行の雄大な全貌を目の当たりにして感動したばかりだ。この景観は、せっかくの自然の造形を出し惜しみしているようで、案外つまらなかった、と正直に告白しておこう。

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フィーアゼーンブリックからの眺め
 

■参考サイト
ボッパルト・チェアリフト(公式サイト) http://www.sesselbahn-boppard.de

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2018年6月 6日 (水)

コンターサークル地図の旅-淡河疏水

兵庫県東播磨地方のいなみ野(印南野)台地は、日本で最も灌漑用ため池が密集する地域だ。水田に対するため池の面積は、地区によって3割にも達するという。瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、台地は周囲を流れる河川より数十m高く、また表土が山砂利層であることから、もともと水が得にくい土地だった。

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御坂サイフォン橋
手前が1891年築の石造橋、奥は1953年築の鉄筋コンクリート橋
 

江戸時代の新田開発で、周辺や台地内の河川から水路が引かれたが、既存の水利権との調整で、取水できるのは秋から春に限られた。そこで、堤を築いて池を造り、水をいったんそこに引き込んでおき、必要なときに使えるようにした。ため池が多いのはそれが理由だ。しかし、農業生産が拡大するにつれ、水不足は再び顕著になっていく。

より遠い六甲山地(六甲山系および丹生(たんじょう)山系)に水源を求める案は、すでに18世紀後半から唱えられていたというが、流路が藩をまたぐため、利害調整が難しく、話は容易に進まなかった。明治に入り、最終的に兵庫県に統合されたことで、計画がようやく動き出す。

当初、取水地は山田川中流と目されていたが、調査の結果、水路予定地の地質が悪いことが判明し、一本北の川筋である淡河川(おうごがわ)に変更された。導水路は最初、川の右岸の山中を伝う。そして御坂(みさか)で志染川(しじみがわ、下注)の谷を横断した後、芥子山(けしやま)を隧道で貫き、いなみ野台地に出る。この淡河疏水(おうごそすい、下注)は1888(明治21)年1月に着工され、難工事を克服して1891(明治24)年に完成を見た。

*注 御坂で淡河川と山田川が合流して、志染川と名を変える。
*注 正式名は淡河川疏水。なお、「疏」は当用漢字外のため、地形図では淡河「疎」水と表記される。

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淡河疏水、山田川疏水の概略ルート
 

御坂で横断する谷の比高は60m以上ある。このため、横浜水道の設計者である英国人土木技師ヘンリー・S・パーマーの提案により、サイフォン構造が採用された(下注)。管路延長は749.32m(水平距離735.30m)で、谷底を流れる志染川は、全長56.95mのアーチ橋を架けて通過する。管路の吐口は呑口より2.45m低いだけだが、管路を満たした水は、連通管の原理で谷を隔てたこの位置まで上昇してくる。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来のサイフォンとは構造が異なるが、以下ではこの名物区間のことをサイフォンと記す。

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御坂サイフォンの見取図
現地の案内板を撮影

前置きが長くなったが、2018年5月28日のコンターサークル-s の旅は、この淡河疏水の探索がテーマだ。まずはお目当てのアーチ橋、御坂サイフォン橋に行き、その後時間が許す範囲で、疏水の名物スポットを巡りたいと思っている。

JR三ノ宮駅の高架下にある神姫(しんき)バスのターミナルから、9時10分発の西脇営業所行きに乗車した。三木や小野を経由する便だが、御坂にも停まるので、現場へのアプローチとしては理想的だ。

朝の郊外方面なので、乗客は数えるほどだった。三宮を出ると、長い新神戸トンネルで六甲山系を一気に越え、箕谷(みのたに)ICから志染川沿いに下っていく。御坂バス停前に集合したのは、バスに乗ってきた今尾さん、浅倉さん、私と、自家用車で到着していた相澤夫妻の計5人だ。

サイフォンのありかは、すぐそばの山腹に黒い鉄管が横たわっているので、探すまでもない。斜面を降りた鉄管は地中に潜ってしまうが、跡を目で追うと、県道を越え、御坂神社の脇を通り、集落内の道に出る。そしてそのままサイフォン橋に接続する。橋は本来、車一台優に通れる幅があるのだが、上流側はチェーン柵を張って通行できなくしている。「明治の橋が老朽化したので、戦後(1953(昭和28)年)、下流側に新しい橋が造られ、水路もこちらを通っているそうです」と私。

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御坂サイフォン橋の路面。この下に管路が通っている
(左)北側から写す。上流側は通行不可になっている
(右)南側から写す
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御坂サイフォン周辺の地形図(等高線は10m間隔)
 

橋のたもとから右に分かれる小道をたどると、川原に降りることができる。流れに架かる沈下橋の上に立って、眼鏡橋の通称をもつ軽やかな2連アーチを眺めた。ただ、前面に来るのは鉄筋コンクリート製の昭和の橋なので、隠れている明治橋が見える位置まで、川原の草藪を漕いでいった。

明治のサイフォン橋は、アーチ部も橋台も石造りだ(冒頭写真)。表面にモルタルを吹き付けて補強した跡があるが、下部ほどその剥離が目立つのは、大水のときに受けた被害だろうか。昭和橋は、明治橋のプロポーションを踏襲している。開腹と充腹というデザイン上の違いはあるものの、並んでもあまり違和感がない。下から仰ぐと、まるでお爺さんに若者が寄り添い、支えている構図だ。

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(左)並ぶアーチを川原から見上げる。左が明治橋
(右)昭和橋の側面
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斜面に横たわるサイフォンの管路
(左)橋の南側から写す
(右)北斜面に接近
 

橋を後にサイフォンの南側まで行ってみたが、管路が再び地表に出たところで通行止めの柵がしてあった。それで逆の北側に回る。急坂の小道を上り、老人ホームの手前で折れて、疏水べりに出た。幅2~3mの水路にまだほとんど水は来ていない。この上流には石積みのポータルをもつ隧道があるはずだが、周囲の草丈が高すぎて、踏み込むのは躊躇された。

一方、下流側は水路に蓋がされ、その上が通路になっている。おりしも土地改良区の人が水路のゲートの調整に来ていたので、一言断ったうえで、その道を先へ進んだ。地形図では庭園路の記号で書かれている林の中の道は、枝葉が積もっているものの歩きやすい。少し行くと、急に視界が開けて、サイフォンの吞口にある枡が現れた。

そこは格好の展望台で、谷を降りていく管路とサイフォン橋を通る道、向かいの谷を上る管路が直列に並ぶさまが一望になる。下から見上げるのとは違う、スケールの大きな眺めだ。「サイフォン全体がわかる。ここはいいですね」。今日は曇りがちで日差しこそ少ないが、谷間はやや蒸し暑かった。それに比べて、山の上は心地よい風が通う。一行はしばらく風に吹かれながら、130年前の偉業を成し遂げた地元の人々の熱意に思いを馳せた。

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呑口(北側の山上)からの眺望
背景は三木総合防災公園内の施設、その後ろは芥子山
 

「さっきの神社の付近に三角点がありますね」と地形図を眺めていた今尾さんが言う。山を下りた後、神社の境内に狙いを定めて探してみた。案の定、社の奥の竹林の中に「基本測量」と記された杭があった。相澤さんが慣れた手つきで落ち葉の下を掘り返すうち、目印となる自然石とその中心に測量標の頭が現れた。三角点にしては見通しの悪い場所だが、設置したときは竹林もなく、開けていたのだろう。

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(左)御坂神社正面
(右)三角点の探索
 

相澤さんの車に同乗させてもらい、移動を開始した。東播用水土地改良区の事務所でもらった疏水の資料と地形図を見比べながら、私がナビをする。まず車を停めたのは、練部屋(ねりべや)分水所だ。淡河疏水は、後にできた山田川疏水(下注)と合わさり、いなみ野台地の比較的高い位置にあるこの分水所に達する。そしてここで5方向に分けられる。

*注:1915(大正4)年竣工。かつては坂本で山田川から取水していたが、1991(平成3)年以降、呑吐(どんど)ダムから導水している。呑吐ダムには、さらに北部の大川瀬ダムから水が送られてくる。

最初は方形に煉瓦を積み上げたものだったそうだが、後に六角形に改修され、1959(昭和34)年に現在の直径10mある円筒分水工に置き換えられた。ここでは、送られてきた水を円筒の中心部から湧出させ、円筒外周部に分配比に応じた仕切りを造って、越流させている。分水量を可視化して公平性を担保しているわけで、賢い仕掛けだ。

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練部屋分水所の円筒分水工
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分水工の構造図
現地の案内板を撮影
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練部屋分水所周辺の地形図
 

ここで昼食。水音を間近に聞きながら、こどもの頃のサイフォン遊びの思い出から、水車で搗いたそばが美味い理由や、水力で動くケーブルカーに乗った話まで、水にまつわる話題に花が咲いた。

東京へ帰る今尾さんをJR土山駅へ送って行った後、来た道を戻って、淡山疏水・東播用水博物館を訪ねた。淡山(たんざん)疏水とは、淡河川疏水と山田川疏水の総称だ。前庭に、サイフォンで使われた鉄管の断片が置いてあった。初代のそれは英国から輸入した軟鉄製で、後年の漏水対策として分厚いコンクリートが周囲に巻かれた状態で保存されている。今、現地で使われているのは1992年に交換された3代目だそうだ。

館内には水路のルートをランプで示す地図や、明治期の疏水施設の写真展示もある。案内人さんの、「水路管を清掃すると魚がいっぱい、ときには亀まで出てくることがあります。小さいときに入ったやつがパイプライン暮らしで育ってしまって」という話には笑った。

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博物館の前庭にあるサイフォン管の展示
 

この近くに、疏水の石造橋が残っている。掌中橋(てなかばし)という、小川をまたぐ長さ7.6mの小さな水路橋だ。1914(大正3)年竣工と時代は下るが、堅牢そうな花崗岩のアーチと側面の煉瓦張りで、見栄えがする。欄干の親柱には、橋の名とともに請負人、石工の名が刻まれていた。西方にある、規模のより大きな平木橋(長さ16.2m)は道路工事に支障するため移築されたが、これは元の場所に架かっているという意味でも貴重だ(下注)。

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掌中橋
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橋の名と請負人、石工の名を刻む
 

水路トンネルのポータルを見ておきたかったので、相澤さんにまた車を走らせてもらった。目星をつけたのは、雌岡山(めっこさん)の西麓、古神(こがみ)地内の田んぼの中にある幹線水路の隧道だ。ところが、法面をすっかり草むらが覆っていて近づけない。やむをえず道路から遠望したのが下の写真だ。几帳面な石積のポータルの下に、煉瓦を巻いた楕円形の吐口が見える。「流量が少なくても泥などが溜まりにくいように、底を丸めてあるんでしょう」と浅倉さん。

御坂で会った土地改良区の人が、来週、再来週には田植えが始まる、と言っていたのを思い出した。もう6月だ。あの画期的なサイフォンで谷を渡って、この水路にたっぷりと水が送られてくる日も近い。

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(左)雌岡山
(右)その西麓にある隧道吐口
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、和歌山(昭和59年編集)、姫路(昭和59年編集)、徳島(昭和53年編集)、および地理院地図を使用したものである。

淡河疏水、山田川疏水の概略ルートは、農林水産省近畿農政局東播用水二期農業水利事業所 製作の「いなみ野台地を潤す水の路 ”淡河川山田川疏水”」所載の図面を参考にした。

御坂サイフォンの写真は別途、晴天時に撮影したものを使用している。

■参考サイト
いなみ野ため池ミュージアム http://www.inamino-tameike-museum.com/
 トップページ > ため池資料館 >「淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"」に詳しい資料がある。

農林水産省「御坂サイフォンを設計したパーマー」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/hyogo_02/

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