河川・運河

2024年10月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-小岩井農場、橋場線跡、松尾鉱業鉄道跡

2024年コンターサークル-S 秋の旅、後半は岩手県に舞台を移す。1日目は、盛岡駅前でクルマを借りて、岩手山麓を半周する形で、雄大な風景と大地に埋もれた廃線跡を巡る。

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小岩井農場上丸四号牛舎
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図1 岩手山周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年編集
 

駅の改札前に集合したのは大出さん、山本さんと私の3名。白のトヨタヤリスで御所湖(ごしょこ)のほとりを走り、湖面に臨む繋(つなぎ)温泉の駐車場にクルマを停めた。御所湖は、雫石川(しずくいしがわ)を堰き止めて1981年に完成した比較的新しい人造湖だ。広い湖面の向こうにそびえる岩手山(いわてさん)の眺望を期待して来たのだが、空はおおむね晴れているのに、山頂付近に厚い雲がまとわりついている。

それから繋大橋を渡って北岸の、七ツ森がよく見える御所野の一角に移動した。のどかな田園地帯を限るように、優しい稜線をもつ小山がポコポコと並んでいる。宮沢賢治の文学作品にちなむイーハトーブの風景地の一つだ。本来ならその間に岩手山も顔を見せるはずだが…。

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御所湖西望
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七ツ森の展望

続いて国道46号で西へ向かう。目的地は橋場(はしば)駅跡。JR田沢湖線が仙岩トンネルの完成で全通する以前の盛岡方の終点で、路線も橋場線と呼ばれていた。1922(大正11)年に開業したが、戦時中、閑散区間だった雫石(しずくいし)と橋場の間が不要不急路線とされ、線路が撤去された。戦後の田沢湖線建設の際も、ルートから外れる赤渕(あかぶち、下注)~橋場間は復活することがなかった。

*注 赤渕駅は1964(昭和39)年の再開業時に開設された駅で、戦前の橋場線時代にはなかった。

橋場駅があったのは、赤渕から1.7kmの安栖(あずまい)地区だ。廃業した商店の向かいに並ぶ民家の間の小道を入っていくと、山裾にコンクリートの階段が見えてくる。踏面が草むしているものの、躯体はそれほど劣化していない。上ると、森の中に対面式のホーム跡がくっきりと浮かび上がった。しかし、端の方では丈の高い下草に覆われて、周りと区別がつかなくなる。構内の盛岡方に転車台があったようだが、冬枯れの時期ならともかく、とてもそこまで到達できそうになかった。

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橋場駅跡
(左)ホームへの階段(右)森の中のホーム跡
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図2 橋場駅跡周辺の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図3 橋場駅跡周辺の旧版1:50,000地形図(2倍拡大)
1939(昭和14)年修正測図

来た道を戻って雫石で左折し、次は小岩井農場へ。明治時代に岩手山南麓の広大な原野を拓いて造られた著名な農場だが、その一部がまきば園という有料公開の園地になっている。広々とした芝生広場の周りに乗馬体験や遊具のコーナー、レストランなどが配置され、大人から子どもまでゆったりと楽しめる場所だ。

だが残念なことに、鉄道系の楽しみはなくなってしまった。SLホテルだった蒸機D51 68号と20形客車は、今やただの置物になっている。雨ざらしのため、傷みが進んでいるようだ。D51は最近再塗装されて面目を取り戻したが、勢い余ってか、動輪まで黒のペンキで塗られていた。

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小岩井農場まきば園
(左)エントランス(右)広々とした園内
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旧SLホテルのD51 68号機
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図4 小岩井農場周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

園地の奥で走っていたトロ馬車も長期運休中だ。幌屋根のトロッコは乗り場に置かれたままで、周回軌道のレールももはや草に埋もれかけている。岩手山をバックに、草をはむ羊たちの横をトロ馬車が通り過ぎるさまはきっと絵になると思うので、復活を期待したい。

ちなみにこのトロ馬車は、昔ここにあった馬車軌道を再現したものだ。1904(明治37)年に農場本部から上丸牛舎に至る3.6kmの道沿いに敷設されたのが最初で、1921(大正10)年に国鉄橋場線の小岩井駅が開業すると、本部から南下して駅まで2.5kmが延伸された。当時のルートは旧版地形図(下図参照)にも描かれている。自動車の普及と道路整備に伴って1958(昭和33)年に廃止されるまで、半世紀にわたりトロ馬車は外界とを結ぶ重要な交通輸送手段だった。

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トロ馬車乗り場
(左)静態展示中(?)のトロッコ(右)遷車台
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牧場の中の周回軌道は草に埋もれつつある
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図5 小岩井農場の馬車軌道(薄赤で着色)が描かれた旧版地形図
図上端の「育牛部」が現在の上丸牛舎
1948(昭和23)年資料修正
 

レストランでスープカレーの昼食をとった後は、実際の農場の営みを見学できる上丸牛舎を訪ねた。門を入ったとたん、牧場独特の藁と糞の入り混じった匂いが漂ってきた。木造の大きな牛舎やレンガ張りのサイロは重要文化財の指定を受けつつも、現業で今なお使われているのだ。一号牛舎では内部も見学できる。ずらりと並んだ乳牛たちはもう慣れているのだろう。横から見学者がじろじろ眺めても、我関せずといった風で口をもぐもぐさせていた。

構内には事務所建物を利用した展示資料館もあり、本物のトロ馬車の走行写真やルート図など興味深い資料を見ることができた。最後に駐車場脇の売店で、限定販売の均質化していないビン牛乳を飲み干して、農場訪問を締めくくる。

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上丸牛舎の施設
(左)一号牛舎(右)一号、二号サイロ
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(左)小岩井農場資料館
(右)展示資料のトロ馬車写真

岩手山麓を北東へ走ると、東の方角に姫神山(ひめかみさん)が見えてくる。標高1124m、左右対称の整ったシルエットをもつ名山で、堀さんが著書『地図のたのしみ』に書いている。「頂上がキュッと尖り、両側になだらかな弧を描いて、ちょうど斜めに見たときの五重塔の軒先の曲線を思わせるその優姿をいつでも見せて、人の心をひきつける」と(同書p.232、下注)。

*注 堀淳一氏の『地図のたのしみ』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.245、2012年新装新版ではp.233にある。

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姫神山、柴沢からの眺望
 

堀さんは渋民駅で列車を降りて、線路沿いに北へ歩きながら北上川越しに山を眺めたが、私たちは、そこからさほど遠くない玉山地域重要眺望地点(柴沢)でクルマを停めた。「この優れた風景を大切にし、次世代に継承していきましょう」と書かれた盛岡市の案内板が立っている。水田地帯で、岩手山と姫神山がどちらも見通せるビューポイントだ。

ところが、無造作に張り巡らされた電柱と電線で、せっかくの景観にノイズが入る。そのうえ、東側に造られて間もなさそうな携帯の電波塔があって、姫神山にかぶってしまう。市の奨励にもかかわらず、眺望があまり重視されていないようだ。それでもう1か所目を付けていた渋民~好摩間の松川橋まで行った。ここは川面を前景にして山を望める。背後にはIGR線(旧 東北本線)の鉄橋も架かっているが、ほんの2~3分前に列車が通過したばかりで、さすがに一石二鳥とまではいかない。

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玉山地域重要眺望地点(柴沢)
(左)案内板と標柱(右)岩手山は雲の中
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姫神山、松川橋からの眺望

最後に松尾鉱業鉄道跡を訪ねた。これは、八幡平(はちまんたい)中腹で硫黄を採掘していた松尾鉱山のための支線鉄道で、国鉄花輪線の大更(おおぶけ)駅から東八幡平(旧称 屋敷台)まで12.2kmの路線だった。1934(昭和9年)に開業し、1951年からは電気運転になっている。接続する花輪線はもとより、東北本線でもまだ蒸気機関車が主役だった時代だ(下注)。八幡平へ行く登山客もよく利用した路線だったが、鉱山の閉鎖に伴い1972年に廃止となった。

*注 東北本線の盛岡~青森間の電化開業は1968年。

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大更駅
(左)新築の駅舎(右)ホーム、大館方面を望む
 

起点のJR大更駅へ。花輪線は言わずと知れた閑散線で、日中は片方向3時間に1本しか列車が来ない。ところが駅舎は、まるで近郊区間のような立派な2階建に建て替えられていて驚く。整備された駅前広場にタクシーが2、3台停まっていたから、それなりの需要があるのだろう。

クルマをときどき停めながら、終点まで廃線跡を追っていった。駅から北に出た鉱業鉄道は、約500m先で花輪線から離れていき、針路を徐々に西へ変える。草の生えた未利用地もあれば、砂利道だったり、プレハブ小屋が建っていたりと、現況はさまざまだ。しかし、用地区画は概して明瞭で、容易に跡をたどることができる。

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前半の廃線跡
(左)大更駅の北500m(右)上沖バス停前を横切る
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図6 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
大更駅周辺
 

現役時代、中間駅は二つあった。上沖(かみおき)バス停から廃線跡の農道を300mほど西へ行くと、一つ目の田頭(でんどう)駅跡を示す標柱が立っている。田んぼの真ん中に待合室がぽつんと残っているものと想像していたが、現実は違う。たくましく枝葉を広げた栗の木と野積みの廃タイヤにブロックされて、近づくことすら難しかった。

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(左)田頭駅跡の標柱、待合室は中央の木の陰に
(右)近づくのも困難な待合室
 

高森集落から西では、クルマでもたどれる農道になるが、鹿野(ししの)集落の手前でそれは消える。二つ目の鹿野駅は、地区の集落センター(集会所)の敷地などに転用されている。田頭駅のような標柱か説明板の一つでもあるといいが…。

集落を抜けると、2車線の舗装道が廃線跡だ。行く手に八幡平を仰ぐ一直線のルートだが、午後は雲が目立って増えてきた。東北自動車道をくぐり、県道23号大更八幡平線と交差すると、まもなく舗装道は終点となる。見過ごしてしまったが、この先に鹿野変電所が廃屋となって残っているそうだ。

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(左)鹿野駅跡に建つ集落センター
(右)八幡平に向かう廃線跡の2車線道
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図7 同 鹿野駅周辺
 

明治百年記念公園の駐車場にクルマを停めた。目の前で小水力発電用の水車が回っている。水を供給しているのは、松川上流で取水された用水路だ。松川温水路と呼ばれ、灌漑に適した水温にするために、幅広の水路に階段状に堰が切ってある。同様の施設が鳥海山麓にもあったのを思い出す(下注)。

*注 秋田県にかほ市象潟町の小滝温水路、「コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓」参照。

廃線跡はこの温水路に沿ってまっすぐ上流へ続いていて、現在は遊歩道になっている。落葉樹の林に包まれ、傍らで堰を落ちる水音を聞きながら、散策が楽しめるいい道だ。

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(左)松川温水路
(右)小水力発電用の水車
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温水路に沿う遊歩道区間
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図8 同 東八幡平駅周辺
 

一貫して西へ進んできた鉄道は、終点に近づくと北へ針路を変える。松尾鉱山資料館の駐車場が、かつて鉄道が斜めに横切っていた場所だ。線路の痕跡はない代わり、電化開業に合わせて導入された入換用電気機関車ED25 1号機が、上屋の下で静態保存されている。館内にも、鉄道に関する説明パネルや若干の資料展示があって、参考になる。この資料館、無料なのはうれしいが、鉱山のジオラマを除いて展示物を写真に撮れないのが惜しい。

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ED25 1号機
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松尾鉱山資料館
 

鉄道の終点である東八幡平駅は、索道で運ばれてきた鉱石の積替え施設が広がる一角にあった。現在は、松尾八幡平ビジターセンターという観光案内施設のほか、工場、広場、駐車場などに分割転用されている。どれも余裕たっぷりの敷地で、かつての施設がいかに大規模だったかが想像できる。

この後、私たちは、標高900m台にある松尾鉱山の採掘場付近まで、八幡平アスピーテラインを上っていった。急坂、ヘアピンの長い防雪シェルターを通り抜けると、風景はもう秋色を帯び始めている。かつて繁栄を極め、雲上の楽園とさえ称された鉱山町だが、今は廃墟と化した集合住宅群がむなしく立つばかりだ。坑道の崩落による陥没の恐れがあるとして、中心部に通じる道路は進入禁止になっていた。

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東八幡平駅跡
(左)松尾八幡平ビジターセンター
(右)広い駐車場も旧ヤードの一部
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松尾鉱山跡
(左)高層湿原の島沼
(右)廃墟になった集合住宅群
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図9 松尾鉱業鉄道が描かれた1:50,000地形図(東半)
1970(昭和45)年編集
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図10 同(西半)
(左)1973(昭和48)年編集(右)1970(昭和45)年編集
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図秋田、盛岡(いずれも昭和46年編集)、5万分の1地形図雫石(昭和14年修正測量)、小岩井農場(昭和23年資料修正)、八幡平(昭和48年編集)、沼宮内(昭和45年編集)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年6月 2日 (日)

コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

2024年5月12日、春のコンター旅の最終日は、朝から高速バスに乗り、山形から鶴岡に移動した。参加者は大出、山本、私の3名。バスが通る山形自動車道は、月山(がっさん)南麓の五十里越街道をなぞる山越えルートだ。峠をはさむ区間では高速道路が未開通のため、国道112号いわゆる月山道路を走るが、こちらも画期的に改良されていて長いトンネルと高い橋梁が連続する。

9時すぎに鶴岡のバスターミナル、エスモールに到着。レンタカーを扱っているスタンドまで出向いて、トヨタアクアを借りた。きょうはこのクルマで、鳥海山麓の名勝象潟(きさかた)と、山岳展望台や水にまつわる名所を巡る予定だ。

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庄内平野、遊佐鳥海IC付近から望む鳥海山
東鳥海(右)、西鳥海(左)の二つのピークをもつ
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図1 鳥海山周辺の1:200,000地勢図
1992(平成4)年修正

いつものように大出さんの運転で、酒田ICから日本海東北自動車道(日東道)を北上する。暫定二車線に見合う程度の通行量なので、一定速度で気分よく走れる。遊佐(ゆざ)からは国道7号で山形・秋田の県境を越えて、象潟までおよそ60km、1時間ほどで到達できた。

国道沿いにある道の駅象潟にクルマを停めて、真っ先に6階の展望室へ上がる。ここは、東に鳥海山と象潟「九十九島、八十八潟」(下注)、西には日本海の水平線と、360度の眺望でつとに知られるスポットだ。しかし、残念なことにガラスがけっこう埃で汚れていて、視界良好とは言いがたい。

*注 象潟の景観を称賛する古来の言い回し。なお、小島の実数は103あまりとされる。

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道の駅象潟の展望室から東望
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
象潟
 

象潟を含むこの一帯の地形は、紀元前466年の冬(下注)に起きた鳥海山の噴火による山体崩壊で生じたものだ。北流している白雪川に沿って大量の岩屑なだれが日本海まで流れ込み、にかほ市中心部の平沢から金浦(このうら)にかけて海岸線を大きく後退(=陸地を前進)させた。

*注 この正確な年代は、岩なだれで地中に保存された埋れ木の年輪年代測定により求められたもの。

その一部は西側の海岸にも広がり、今の象潟周辺におびただしい土砂の小山、いわゆる流れ山を積もらせた。後に砂州が発達してこの水域を取り囲んだので、流れ山は風波による浸食から護られるとともに、潟湖(せきこ)に浮かぶ小島となった。

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象潟の水面に映る鳥海山
 

展望室の壁面に、象潟郷土資料館が所蔵する江戸期の屏風絵「象潟図」の写真が掲げてある。松尾芭蕉が「おくのほそ道」の長旅で訪れた1689(元禄2)年には、このようにまだ水で満たされていて、「東の松島、西の象潟」(下注)と並び称される、みちのく指折りの景勝地だったのだ。

*注 両者、多島海の景観は似ているが、地形の成因は異なる。松島は火山性のものではなく、地盤の隆起・沈降と海水の浸食により形成されたとされる。

しかしこうした浅い湖は、河川からの土砂の流入や、繁茂する植物に由来する有機物の堆積で、しだいに陸化していく宿命だ。象潟もすでにその過程にあったが、1804 (文化元)年に発生した巨大地震で地盤が2mあまりも隆起したことで、一気に干上がってしまった。

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「象潟図」の一部
道の駅象潟のパネルを撮影、原本は象潟郷土資料館蔵
 

現在、もとの湖面はほぼ水田化されている。今は田植えの季節だが、作り手が不足しているのか、葦が生え放題の休耕田も少なくない。芭蕉の頃と変わらないのは、後ろにそびえる鳥海山ぐらいではないだろうか。しかも展望台からの眺めでは、手前を国道が横切り、住宅やロードサイド店舗も並んでいる(下注)。よほど想像を膨らませない限り、古人が書に遺した感動を追体験することは難しい。

*注 上掲写真のとおり、ドラッグストアの看板は景観への配慮で、赤ではなく地味な茶色になっている。

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一面の葦に覆われる象潟の休耕田
 

道の駅のレストランで早めの昼食を取った後、徒歩で蚶満寺(かんまんじ)を訪ねた。芭蕉も参拝したことで知られる象潟の古刹だ。羽越本線の踏切を渡り、松林の小道を進んでいくと、古びた山門が迎えてくれた。阿吽の仁王像に会釈をして、続きの石畳を行く。拝観受付の横に座っていた方が言うに、「今は来る人が少ないので、受付は閉めてるんです。庭に行かれるなら、寺で拝観料を納めてください」。

せっかく来たのでお庭を拝見する。ツツジやハナモモが花をつける傍らに、宝暦13年(1763年)の銘があるという芭蕉の句碑が立つ。「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」、おくのほそ道に記された有名な句だ。裏手には舟をつないだという石柱も残っていた。寺の建つ場所ももとは流れ山の一つで、庭を一歩出ると水辺が広がっていたのだ。

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(左)羽越本線の踏切を渡って蚶満寺へ
(右)山門前の蓮池
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蚶満寺
(左)山門(右)本堂
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(左)宝暦13年の芭蕉句碑
(右)境内のツツジが満開
 

寺を辞して、山門前の蓮池のほとりを巡る。旅装束の芭蕉像のそばにも、同じ句を刻んだ碑が立っている。例えに借り出された中国春秋時代の伝説の美女、西施の像がそれと向かい合う。

それから、景観保全されている区域の西縁に沿って、遊歩道を北へ歩いた。九十九島にはそれぞれ太い幹、見事な枝ぶりの松が育っていて、土台を何倍もの大きさに見せている。ところどころ水が張られた田んぼには、鳥海山や松林が逆さに映り、潟湖が一面に広がっていた昔はさぞかしと思わせた。

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(左)蓮池近くの芭蕉像と句碑
(右)水田越しに山門が見える
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流れ山の一つ、駒留島
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鳥海山の頂きに雲がまとわる
 

クルマに戻って、今度は内陸に向かう。きょうは西から低気圧が近づいていて、時間が遅くなるほど雲が増えてくると予想した。実際、鳥海山の頂きに雲がまとわりつき始めたので、先に山岳展望台へ回ることにした。

国道から左に折れて、鳥海グリーンラインを進む。北麓を東西に横断するこの道路は、白雪川を渡ると、ヘアピンカーブで仁賀保高原と呼ばれる台地へ上っていく。仁賀保高原は、西側を南北に走る衝上断層群によって生じた、南北約13km、東西約2kmの細長い高まりだ。鳥海山に向き合うとともに、北麓を広く見渡すことのできる天然の展望地になっている。

坂の途中で、早くもパノラマライン展望台という、クルマが数台停まれる小さなパーキングが用意されていた。高度はすでに320mほどあり、日本海の見晴らしが良好だが、目的地はまだ先だ。

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(左)パノラマライン展望台
(右)日本海に浮かぶのは飛島
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図3 1:25,000地形図に訪れた場所(赤)等を加筆
仁賀保高原
 

サミットまで上り詰めたところで、尾根道に入った。巨大な発電用風車が建ち並ぶ足もとをしばらく南へ走ると、突き当りに仁賀保高原南展望台(標高約450m)がある。クルマを降りて、4年前(2020年)に造られたばかりの新しい展望デッキに立った。

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仁賀保高原南展望台
 

左手に、残雪を戴く鳥海山が圧倒的な存在感で鎮座している。標高は2236m、東北地方第2の高山だ(下注)。出羽富士の別称のとおり、円錐形に成長していく成層火山に分類されるが、こちらから見える北西側斜面は、先述した2500年前の山体崩壊により大きくえぐれている。いわゆる馬蹄形カルデラだ。

*注 第1位は尾瀬のシンボル、燧ヶ岳(2356m)。ちなみに山形・秋田県境は鳥海山で北側に膨らんでいて、山頂周辺は、山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)に属している。

山体から右手前に向かって一段へこんで見える広い函状の谷が、岩屑なだれが駆け降りた跡を示している。今は全体が森林に覆われているが、そのスケールを一瞥するだけで、どれほどすさまじい崩壊が起きたのかがわかる。岩屑なだれはその勢いで東側、すなわち現在の冬師(とうし)湿原のほうにも流れ山を飛び散らせた。この展望台は、その暴風波に直面した船の舳先(へさき)のような場所に位置しているのだ(下の説明板写真参照)。

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鳥海北麓に広がる函状谷は岩屑なだれの跡
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展望台の説明板
図の中央やや下が展望台の位置
 

さて、もう1か所行ってみたかったのが、北へ5kmの丘の上にある「ひばり荘」だ。標高は約530mで、仁賀保高原ではおそらく最も高い場所になる。

ここは公営の休憩施設らしいのだが、2階の展望室に上るまでもなく、駐車場のへりから遮るもののないパノラマが得られた。周辺には大小の溜池が点在していて、その一つ、長谷地(ながやち)溜池の水面がアングルに収まる。南展望台で見たような壮大な山岳風景とはまた趣きが異なり、絵葉書のようなコンパクトな構図にもできるのがおもしろい。ひばり荘はバイクのツーリングの休憩地になっているようで、私たちが滞在する間にも何台か上がってきた。

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ひばり荘展望台からの眺め
手前の水面は長谷地溜池
 

鳥海の女神はいたずら好きなのか、後になるほど雲が増えてくるという私の予想ははずれた。高原を降りる頃になって、山頂に掛かっていた雲が取れてきたのだ。

次は、山麓の水にまつわる名所をいくつか巡りたい。一つは、上郷(かみごう)温水路群と呼ばれる独特の水路施設だ。鳥海山の斜面を流れ下る雪解け水は流速が早く、水温が低いままで、稲の生育には適していない。そこで、階段状の幅広い水路に通すことで、水温を上げる仕組み(下注)が考案された。1927(昭和2)年以降、計5本、長さ6.28kmが造られ、多くは今も使われている。

*注 流速が下がるので陽光に接する時間が長くなり、段差(落差工)を落ちる際に水に空気が溶け込むことも水温上昇につながるという。

このうち、土木学会選奨土木遺産やジオパークの標識がある小滝温水路の一角に行ってみた。緩く傾斜した田園地帯を貫いて、無数の段差のある水路が山手から降りてきている。水量はたっぷりで、段差を落ちる水の躍るようなきらめきが、初夏の到来を感じさせた。

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上郷温水路群の一つ、小滝温水路
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緩傾斜の田園地帯を流れ下る水路
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小滝周辺
 

続いては、奈曽の白滝(なそのしらたき、下注)へ。鳥海山から流れ下ってきた奈曽川(なそがわ)が溶岩台地を抜け出す場所に掛かる落差26m、幅11mの大滝だ。修験道に関わるという金峰(きんぽう)神社の境内から階段だらけの遊歩道が延びていて、観瀑台と呼ばれる展望デッキや滝壺近くの川べりまで行くことができる。

*注 地形図の注記は「奈曽の白瀑谷」だが、白瀑谷の読みは、現地の案内板でも「はくばくこく」「しらたきだに」の二通りがあった。

雪解けの季節とあってこちらも水量が多く、迫力のこもった水音がほの暗い谷間にこだましていた。遊歩道を先へ進むと、ねがい橋という吊り橋で谷を跨いで、対岸に渡る周遊ルートになっている。しかし、木々の青葉に隠されて、橋上からは滝がほとんど見えなかった。

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金峰神社
(左)参道(右)本殿
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奈曽の白滝
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(左)ねがい橋
(右)橋上からの奈曽川渓谷、滝はほとんど見えない
 

最後に訪れたのは、元滝(もとたき)伏流水という湧水地だ。奈曽の白滝から南へ1.5km、駐車場にクルマを置いて、さらに水路に沿う山道を上流へ10分ほど歩いた山中にある。ここでは、溶岩層の下を浸透してきた地下水が、幅約30mにわたって谷壁(末端崖)から滔々と湧き出している。しぶきに濡れた岩はすっかり苔むしていて、木の間に漂う冷気が神秘感をいっそう高めていた。なお、地形図には、名称の由来である「元滝」という滝も描かれているが、現在は崖崩れのため、立ち入れないらしい。

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(左)水路に沿う遊歩道
(右)元滝川の渓流
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溶岩の下から湧き出る元滝伏流水

予定を終えて、もと来た道を鶴岡へ戻る。今回の企画はもともと象潟の景観が主目的だったのだが、それにとどまらず、名峰鳥海山がはぐくんできた大自然の奥深さを実感する一日になった。興味をそそる周辺のスポットは他にもあるが、またの機会に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図酒田、新庄(いずれも平成4年編集)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-三方五湖

「五万分一地図の『西津』は、私の地図のコレクションに、最も早く加わったものの一つである」。この一文から『地図を歩く』(河出書房新社、1974年)の「冬の三方五湖」の章が始まる。西津(にしづ)の図のちょうど中央に描かれているのが福井県南部にある三方五湖(みかたごこ)で、堀さんはその特異な風貌に惹かれたのだという。

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梅丈岳山頂から東を望む
手前から奥へ日向湖、久々子湖、美浜湾
 

「久々子(くぐし)、水月、菅、三方、日向(ひるが)の五つの水面が、あるいは狭い水路によって連なり、あるいは細く痩せた地峡によってわずかに隔てられて作る複雑な湖岸線は、岬と湾が錯綜する若狭の海岸にあってなお、ひときわ目立つ存在である。湖をめぐる村々の、久々子、日向、苧(お)、遊子、塩坂越(しゃくし)などという何とはなくゆかしげな名もまた、あらがい難く人の心を誘うのだった」。(同書p.160、下注)

*注 堀淳一氏の『地図を歩く』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.157、2012年新装新版ではp.156にある。また、『地図の風景 中部編III 富山・石川・福井』(そしえて、1981年、p.191)でも取り上げられている。

敦賀を拠点にした2024年のコンター旅2日目、3月24日は、堀さん曾遊の地であるこの三方五湖を訪ねる。初めに五湖の展望台がある梅丈岳(ばいじょうだけ)に上って「複雑な湖岸線」を高みから観察し、下山後は湖岸を歩きながら、湖ごとの風情の違いを感じてみたい。

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山頂公園に上るケーブルカーとチェアリフト
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図1 三方五湖周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

雨の柳ヶ瀬だった昨日ほどではないにしろ、けさも時おり小雨が舞う空模様だ。敦賀駅前のバス乗り場に集合したのは、昨日と同じく大出、山本、私。後で美浜駅から木下親子が合流して、計5名になった。

8時40分発のゴコイチバス(下注)に乗り込む。これは、敦賀まで来た観光客を、三方五湖や熊川宿(くまがわじゅく)といった周辺の見どころへ送り込むための特設バス路線だ。旅行シーズンの週末に走っていて、今年は新幹線の延伸開業に合わせ、春まだ浅い3月16日から運行を開始している。敦賀からの直行便であり、定期バス路線がない梅丈岳の山頂を経由してくれるので、利用価値は高い。

*注 ゴコイチは五湖一周の意。琵琶湖を一周することをビワイチというので、それにあやかったものか。

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山頂公園駐車場のゴコイチバス
 

とはいっても、天気が天気なので、乗客は私たちを含めて数名のみ。バスは、市街地を抜けて国道27号バイパスを西へ進む。JR小浜線の美浜駅に立ち寄った後、久々子湖北岸を通過して、三方五湖の展望道路であるレインボーラインに入った。もとは有料道路だが、2022年から県道273号になり無料化されている。ただし、自転車や歩行者は通行できない。

道は日向湖と水月湖を隔てる尾根筋に取りつき、ぐんぐん高度を上げていく。しかし、予想どおり中腹あたりから霧が濃さを増し、山頂公園下の駐車場に着いたときには下界はもうほとんど見えなかった。梅丈岳は山頂一帯が有料区域になっていて、入場料1000円が必要だ。視界ゼロでも料金は変わらないが、木下さんが宿でもらってきてくれた割引券で800円になったのが、せめてもの慰め…。

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白くかすむ下界
山頂公園のチェアリフトから
 

駐車場から展望台のあるピークへは、ケーブルカーとチェアリフトが連れていってくれる(下注)。並走していてどちらに乗ろうと自由なので、往路はケーブルカーにした。長さ約140m、所要2分強、途中から傾斜が急になる。

*注 かつては山頂の反対側(西側)にチェアリフトがあった。設備は今も残っているが、もはや使われていない。

山頂は東西200m、南北50mほどの広さがあり、主な展望テラスが5か所設置されている。しかし今日は、手すりに掲げてある見本写真で想像するしかない。救いだったのは風が弱くて寒くないことと、客が少ないので展望足湯も混んでいなかったことだ。

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濃霧に巻かれる展望テラス
 

五里霧中の写真では参考にもならないので、別の晴れた日に撮影したものを掲げておこう。

梅丈岳は、若狭湾に突き出した常神(つねがみ)半島の根元にあるピークの名だ。山頂の標高は400.2m(下注)で、周辺5kmの範囲では最も高い。そのおかげで360度のパノラマが楽しめるが、どの方向とも水面を配した構図になるのが特色だ。

*注 山頂に三角点がないので、数値は、中江訓・小松原琢・内藤一樹「西津地域の地質」産業技術総合研究所 地質調査総合センター, 2002 p.3 に拠った。

まず北と西には、若狭湾(日本海)の海原がすっきりと広がる。東は五湖のうち日向湖(ひるがこ)と、わずかだが久々子湖(くぐしこ)が顔を覗かせ、南は三方湖(みかたこ)、菅湖(すがこ)、水月湖(すいげつこ)が一望になる。各展望テラスは、それらが最もよく見える場所に設けられている。

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晴れた日の山頂からの展望、西側
世久見(せくみ)湾に烏辺島(うべじま)が浮かぶ
中央奥は久須夜ヶ岳(くすやがだけ)
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同 北側
左は常神(つねかみ)半島の一部、正面は日本海の水平線
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同 東側
手前に日向湖と日向集落、
中景が久々子湖(逆三角形の水面が小さく覗く)と早瀬集落、
奥は美浜湾と久々子浜
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同 南側
手前に水月湖、左の入江が菅湖、中景に三方湖
 

さて、当日の話に戻ると、私たちは霧の中で1時間ほど滞在した後、チェアリフトに乗って駐車場まで戻った。次のゴコイチバスは11時05分に発車し、カーブを繰り返しながら、下界へ降りていく。山本さんはそのまま三方駅へ向かい、あとの4人は、海山(うみやま)という集落にある若狭町レイククルーズ(遊覧船)停留所で下車した。海山は、水月湖の西岸にある集落で、五湖の最奥部に位置する。後ろの尾根筋を越えればもう若狭湾という場所だ。

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海山のレイククルーズ停留所前
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低い空、モノトーンの水月湖
 

堀さんが五湖の旅の最後に訪れたのがここだった。三方駅から路線バスで着いて、梅丈岳の登山道を途中まで登っている。私たちは山から下りてきたので、逆に湖畔を歩いて小浜線の駅に戻ろうと思う。

県道から右に入る舗装道を歩き出した。民家が並ぶ中を行くが、それも水月花という温泉旅館の前までだ。北岸一帯は、梅丈岳の急斜面が湖面まで落ち込んでいて、集落がない。通じている道も農道というのがふさわしく、湖岸で栽培されている梅林の世話に行く農家の軽トラックがたまに通るくらいだ。

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湖畔の沿道に梅林が続く
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
梅丈岳と海山~苧間
 

空はまだどんよりとして、雲が低く垂れこめたままだ。光が弱く景色はモノトーンに近いのだが、たゆたう水面に映りこむ濃灰の山並みも悪くない。最初の岬の突端まで行くと、小さな展望デッキが現れた。タイミングよく湖にカヤックが何艘かやってきたので、デッキの上から挨拶を交わす。

水月湖は五湖で最大の湖だ。東の菅湖、南の三方湖とは狭い水道でつながっている(下注)。深度は34m、直接流入する河川がほとんどなく、湖底が無酸素状態で生物による撹拌もないため、夏と冬で色の異なる堆積物が年輪のようにきれいな縞模様、いわゆる年縞(ねんこう)を形成していることで知られる。

*注 ちなみに菅湖と三方湖は長尾と呼ばれる細尾根の半島で隔てられているが、堀切という人工水路でつながっている。

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湖面を行くカヤックの集団、この後何艘か続いた
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湖底のボーリングで採取された年縞(一部)
福井県年縞博物館の展示を撮影
 

道は、ひたひたと波が寄せる護岸に沿ったり、暗い植林地の中を縫ったりしながら、最も奥まった入江を通過した。次の小さな岬を回りこむと、何やら人工物が見えてきた。山向こうにある日向湖との間が最も狭まる地点に、嵯峨隧道(さがずいどう)という水路トンネルがあるのだ。

トンネルは江戸時代中期に初めて貫通したが、崩落して掘り直されるなど、たびたび改修を受けてきた。手前にある1980年完成の水門は、高潮時に海水が逆流するのを防ぐためのものだが、通常は閉鎖されていて、水は行き来しない。水路を渡る橋から姿勢を低くして覗くと、トンネルは出口の明かりが見えるほど短かった。

襲ってきた小雨をしのぎがてら、水門横のあずまやで昼食休憩にする。

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嵯峨隧道の水門
 

再び歩き出すと、やがて道は急な上り坂になり、高い位置で次の水路を渡った。下を流れているのは、久々子湖と菅湖を連絡している浦見川(うらみがわ)だ。江戸時代前期、1664年に完成した人工河川で、図上計測によれば、長さ約630m(下注)。

*注 全長324mとしているサイトもあるが、これは古文書の記述に依拠したもの(180間の換算値?)と思われる。現状は、護岸固定により南北に延長されている。

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浦見川
(左)高い位置で川を渡る歩道橋
(右)橋上から見える素掘りの岩壁
 

かつて久々子湖と菅湖は、三方断層西側の低地を経由する水路でつながっていた(気山古川などと呼ばれる。上の地図にルートを補記)。しかし、土砂の堆積で流れにくくなり、ひとたび大雨が降ると、上流3湖の水位が上昇して、湖畔の集落や田畑に浸水被害が生じていた。

この状況を決定的にしたのが、1662年に発生した寛文大地震だ。地盤の隆起で、水路が完全に干上がってしまったため、新たな排水路の開削が計画された。これが浦見川で、それまで恨坂(うらみざか)と呼ばれていた地形の鞍部を、人力で水位まで切り下げる土木工事だった。延べ22万5千人を動員し、2年がかりの大事業だったとされ、素掘りされた垂直の岩壁は、水路橋の上からもかいま見ることができる。

橋を渡って左へ。浦見川に沿う細道は、思いのほか急勾配で上下している。これがもとの地形をなぞっているとすれば、開削しようというのはあまりに大胆な企てだ。高さ20mほどの崖下を川が通っているが、ガードレールがないので、のぞき込む勇気はない。

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(左)川沿いの浦見坂
(右)遡行するボート、浦見橋にて
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浦見川の久々子湖への出口
 

この地峡を抜けると、珍しい一音地名の苧(お)集落に出る。右へ折れれば1.6kmほどで小浜線の気山駅だが、私たちは左に折れて、日向湖へ向かった。日向湖は、他の4湖とは違って独立した水域(下注)だ。おおむね楕円形で、周囲を山に囲まれているし、深度も39mと五湖最深なので、地形的にはカルデラ湖に似た雰囲気がある。

*注 人工の嵯峨隧道で水月湖と接続されているが、先述のとおり、水門は通常閉鎖されている。

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家並みで埋まる日向湖北岸
正面奥の山が切れたところに運河がある
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図3 同 苧~美浜駅間
 

ところが、湖畔の風景はまた別で、生活感が色濃く漂っている。北半分が漁師町で、漁船を陸揚げする岸壁が長く延び、その後ろに民家がびっしりと建ち並んでいるのだ。湖は、1635年開削の日向運河と呼ばれる水路で海とつながっている。漁船はここから海へ出ていき、収獲物を海側の漁港におろした後、また湖に帰ってくる。運河をまたぐ日向橋の上に立つと、船を格納する湖岸と、漁港のある海岸の位置関係がよくわかる。

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(左)船を揚げる岸壁
(右)運河と日向橋
 

ここからは笹田集落の鞍部を細い旧道で抜けて、東隣の久々子湖畔に出た。南北2.5km、東西500~700mの細長い形をした久々子湖は、砂州によって海と隔てられてできた潟湖だ。水深は最大2.3mとごく浅いため、日向湖に比べると湖面が明るく見える。また、小雨が降ってきたので、湖巡りの遊覧船が出ている美浜町レイクセンターの待合室で、雨宿りした。

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久々子湖と砂州に載る早瀬の家並み
レイクセンターから東望
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久々子湖南望、正面は矢筈山と雲谷山
 

一休みした後は、美浜駅まで最後の区間を歩く。湖と海をつないでいるのは早瀬川という、砂州を貫く長さ200mほどの水路だ。日向湖を除く4湖の水がここから海に流れ出ている。水路をまたぐ早瀬橋の橋桁には、出入りする船舶のための信号機が設置されていた。橋の東のたもとに、神社が鎮座しているのも興味深い。

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(左)船舶用信号機のある早瀬橋
(右)早瀬橋のたもとの水無月神社
 

飯切山の切通しから、久々子の集落に入った。湖の名はここに由来しているが、集落の主要部は湖畔ではなく、若狭湾に面した砂州の上にある。少し遠回りして、久々子浜の堤防の上に出てみた。オフシーズンで人影はなく、砂浜に打ち寄せられた色とりどりのごみばかりが目につく。海の向こうからも流れ着くので防ぎようがないのだろうが、海水浴のシーズンに向けて清掃作業の大変さは想像に余りある。

久々子の家並みを抜ければ、ゴールの美浜駅まであと1.5kmだ。敦賀行きの電車に間に合うよう、急ぎ足で向かった。

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(左)ごみが漂着する久々子浜
(右)美浜駅に対向列車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宮津、岐阜(いずれも昭和58年編集)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2023年10月31日 (火)

コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域

2023年コンターサークル-S 秋の旅1日目は、昨秋企画しながら台風の接近で実施できなかった宮ヶ瀬ダムとその下流域の見どころ巡りにリトライした。

9月23日土曜日の朝、小田原から、小田急の新宿行急行で集合場所の本厚木駅へ向かう。今回も雲が低く垂れこめ、今にも降りそうな空模様だ。雨具は用意してきたが、9kmほど歩くので、できれば使わずにおきたいが…。

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宮ヶ瀬ダムとインクライン

本厚木駅改札前に集合したのは、大出さんと私の2名。駅前で9時17分発の神奈中バス、野外センター経由半原(はんばら)行を待つ。沿線に大学があるらしく、若者たちが長い列を作っている。

ダムは約20km上流にあり、最寄りの停留所まで40分ほどバスに揺られる必要がある。駅を出発したときには立ち客も多かったが、さすがに終点間際の愛川大橋まで乗ったのは私たちだけだった。この天気ではハイキング客の出足も鈍いだろう。

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愛川大橋バス停
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図1 宮ヶ瀬ダム周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
 

愛川大橋は、国道412号が中津川を渡る橋だ。ここからは、川沿いの狭い一本道を歩いていく。深い谷間に入っていくと、まず石小屋ダムという副ダムが見えてくる。堤高34.5m、堤頂長87m、小ぶりの重力式ダムだ。宮ヶ瀬ダムのすぐ下流で、流量調節とともに小規模の発電をしている。欄干の上を数匹のサルが渡っていくので、その先に目をやると、対岸の岩がサル山よろしく、群れの休憩場所になっていた。

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石小屋ダム
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石小屋ダムのサルたち
 

本命の宮ヶ瀬ダムは谷の奥ですでに半身を覗かせているが、少し歩いて下路アーチの新石小屋橋まで来ると、いよいよ圧倒的な全貌があらわになる。2001年に完成したこのダムも重力式だが、堤高が156m、堤頂長が375m、総貯水量は1億9300万立方mと、はるかに巨大だ。堤高では国内第6位(下注)、総貯水量でも同20位台前半の規模だという。

*注 秩父の浦山ダム、広島・加計の温井ダムも156mで、6位タイ。なお、重力式コンクリートダムでは奥只見ダムに次いで、浦山ダムとともに第2位。

道は橋を渡って、ダム直下まで続いている。以前、名物の観光放流(下注)を見に来たときは、上天気でけっこうな人出だったが、きょうは幼稚園児の遠足集団が来ているだけで、一般客は数えるほどだ。橋の方から、蒸気機関車を模したロードトレインが入ってきた。クルマで来た人を、駐車場のあるあいかわ公園から運んでくるイタリア製の遊覧車両だが、こちらも閑散としている。

*注 4~11月の特定日に行われる人気イベント。1日2回、ダムの水が6分間放流される。

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新石小屋橋から仰ぎ見る宮ヶ瀬ダム
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観光放流を見に集まる人々(別の日に撮影)
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(左)あいかわ公園から来るロードトレイン
(右)イタリアのメーカー銘板
 

ダムのもう一つの名物は、堰堤横の斜面を上下しているインクラインだ。もともとダムの建設工事で、コンクリートなどの資材を積んだダンプトラックを基地から作業現場まで下ろすために設けられた装置だが、ダム完成後、客室を取り付けて観光用に開放された。もちろん鉄道事業法に基づく索道ではなく、ダムの付属施設という位置づけだ。

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インクラインの車両
 

ダムの頂部、いわゆる天端(てんぱ)に上る目的なら、堰堤内部にある垂直エレベーターも利用でき、しかも無料だ。しかしこれは外が見えず、おもしろくない。乗り鉄の私としては、片道300円を払ってもインクラインに乗りたいと思う。

ウェブサイト(下注)によると、この施設は、山麓駅~山頂駅間全長216m、高低差121m、傾斜角度30~35度、片道所要約4分。インクライン(incline)とは傾斜鉄道の意味だが、ケーブルで結ばれた2台の車両が釣瓶のように上下するので、実態はケーブルカーと変わりない。車両はゴムタイヤを履いていて、H鋼を横置きした形状の走路を上下している。全線複線のため、中間部の行き違い設備はない。

*注 公益財団法人宮ヶ瀬ダム周辺振興財団「ぐるり宮ヶ瀬湖」https://www.miyagase.or.jp/

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(左)ダム下の山麓駅
(右)天端に面した山頂駅
 

6~10分間隔で頻繁に運行されているから、ほとんど待つ必要はなかった(下注)。山麓駅舎の2階に上がって乗り込むと、車内に階段状の2人掛け簡易シートが並んでいる。妻面の窓隅に「東京索道株式会社、平成10年製造」の銘板があった。

*注 運行時間帯は10:00~16:45。ただし平日は12:10~13:15の間、運行が中断される。また冬季12~3月は運行時間帯が短縮される。

走行する軌道は、ダムの着岩部のすぐ横に設置されている。そのため、動き始めるとまるで堰堤の法面を引き上げられていくような感覚だ。下り車両とすれ違った後、いったん勾配が緩む踊り場を通過した。山麓駅から仰いだとき、山頂駅を出た車両がなかなか近づいてこないように見えたのは、この勾配の変化のせいだ。

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堰堤の法面に沿って上る
 

到着した山頂駅は、天端と同じレベルにある。幅広い天端道路からダム湖を眺めたが、周囲の山々に雲が降りてきていて、幽玄な雰囲気だ。一方、下流側はインクラインの動くようすが上から下まで見渡せるので、つい長居をしてしまう。ちなみに、天端の中央付近にある展望塔にも上ってみたが、ガラス越しの眺めで期待外れだった。

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天端道路から発着のようすを観察
 

向かいにある広報施設、水とエネルギー館でダム関連の展示資料を見学した後、1階奥の「レイクサイドカフェ」で、少し早い昼食にする。ダムサイトに来たからには、ダムカレーを試さなくてはいけない。メインメニューの宮ヶ瀬ダム放流カレーは、ちょっとしたアイデアものだ。ライスでカレーソースを堰き止めてあるだけでなく、ライスの底に埋めてある栓代わりのウインナーソーセージを引き抜くと、ソースの放流が始まる。そのソースもスパイスがよく効いておいしかった。

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宮ヶ瀬ダム放流カレー
野菜をカレーソース側に移してから、底にあるウインナーの栓を抜く
 

名物をいろいろと堪能したので、12時頃から再び歩き始めた。天端道路を伝って対岸へ。丘を造成したあいかわ公園の中を管理センター前へ下り、さらに階段道で段丘下まで降りた。それから県道54号を中津川の下流へ向かう。

立派なワーレントラスの日向橋(ひなたばし)を渡ると、朝乗ってきたバスの終点、半原バスターミナルの横に出る。半原の集落を通り抜け、脇道を直進した突き当りの山ぎわに、次の見どころ、横須賀水道の旧トンネルがあった。

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(左)日向橋
(右)半原バスターミナル
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(左)県道から直進する脇道
  第一トンネル前から後方を撮影
(右)煉瓦積みの第一トンネル上流側ポータル
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ここでいう横須賀水道とは、軍港として発展した横須賀の水不足を解消するために造られた軍港水道半原系統のことだ。中津川から取水して1918(大正7)年に通水、1921年に全線が完成している。約90年使われ続けたが、2007年に取水が停止され、廃止となった。台地の上を直進していくルートは多くが道路として残り、「横須賀水道みち」の名で呼ばれている。

その最上流部に当たる半原から馬渡橋(まわたりばし)までの間に、蛇行する谷をショートカットするためのトンネルが計3本掘られた。一つ目が今見ているものだ。

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(左)第一トンネル内部
(右)同 下流側ポータル
 

レンガ積みのポータルは健在だったが、フェンスで塞がれて、通り抜けはもはや不可能だ。大出さんが、県道から分かれた脇道が逆勾配になっていることを指摘する。水道は自然流下だったはずだから、県道のところはサイホンか、そうでなければ築堤になっていたはずだ。

県道を迂回して反対側に回った。この第一トンネルと次の第二トンネルの間は、カーブした築堤が残っていて、小道として使われている。暗渠の中を覗くと、さびついた管路が横断しているのが見えた。第二トンネルも上流側が同じく閉鎖され、下流側のポータルは草ぼうぼうで近づくことすらできない。

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(左)第一、第二トンネル間の築堤道
(右)暗渠の中に管路が覗く
 

県道との再合流地点に、横須賀市水道局と書かれた基準点標識が埋まっていた。水道ゆかりのもので、しっかり探せばほかにも見つかるかもしれない。第三のトンネルは、残念ながら県道の愛川トンネル(長さ146m、1993年完成)に改築されてしまった。2車線幅のため、水道時代の面影は消失している。

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(左)横須賀市水道局の基準点標識
(右)県道愛川トンネルの下流側
 

このあと水道は、プラットトラスの道路橋だった旧 馬渡橋で、中津川を横断していた。そのたもとに、橋材と送水管の断片を組み合わせたモニュメントが設置されている。真新しいもので、銘板には令和5年8月とある。ただ、仮止めテープがついたままだったので、まだ正式に除幕されていないのかもしれない。

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馬渡橋たもとの旧橋モニュメント
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モニュメントの説明板
 

橋の南側でいったん県道をはずれ、坂を上って愛川中学校のある高台へ移動した。というのも、田代の繞谷(じょうこく)丘陵を俯瞰したかったからだ。

堀淳一さんが『地図の風景 関東編 I 東京・神奈川』(そしえて、1980年)の一節で、「川のつくった半円劇場」と紹介していた地形で、地形図で「残草(ざるそう)」の文字がかかっている小山がそれだ。その北から東にかけて見られる半円状の平地は、中津川のかつての曲流跡で、後に川の流路が西側で短絡してしまったため、空谷となって残された。

高台の斜面に沿う道を歩いていくと、家並みが途切れて曲流跡が見晴らせる場所があった。『地図の風景』に掲載された写真とほぼ同じアングルで、堀さんもここから眺めたのだろう。曲流跡にもすっかり家が建て込んでいるが、背後にあるこんもりした森が繞谷丘陵の形をなぞっているのが見て取れる。

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田代の繞谷丘陵(写真中景の森)
 

坂を下りてその麓を通り、田代小学校から再び県道に出ると、「水道みち」と刻まれた碑が立っていた。横須賀までなお40~50kmの距離があるが、私たちの水道みち追跡はここが終点だ。

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田代の水道みち碑
 

最後に、中津川に架かる平山橋を訪れた。1926年に完成した長さ112.7mの3連プラットトラス橋で、登録有形文化財になっている。下流側に平山大橋が開通してからはクルマの通行が遮断され、現在は自転車・歩行者専用だ。さっき渡った日向橋も1930年の完成なので、造られた時代はさほど変わらない。しかし、がっしりした構造の日向橋とは対照的に、この橋には華奢で優美な雰囲気がある。

さて、時刻は14時になろうとしている。ダムから延々歩いてきたが、幸いにも雨に遭わずに済んだ。平山大橋のたもとにある田代バス停を、1時間に1本しかないバスが間もなく通る。これをつかまえて本厚木駅に戻ることにしよう。

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平山橋
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平山橋と中津川
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
宮ヶ瀬ダム https://www.ktr.mlit.go.jp/sagami/
神奈川県立あいかわ公園 http://www.aikawa-park.jp/

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2023年1月12日 (木)

コンターサークル地図の旅-亀ノ瀬トンネル、斑鳩の古寺、天理軽便鉄道跡

2022年11月6日、秋のコンターサークル-s 関西の旅2日目は、いつになく多彩な旅程になった。

午前中は、国交省の近畿地方整備局大和川河川事務所が開催している「亀の瀬地すべり見学会」に参加して、地中に眠る旧 大阪鉄道(現 JR関西本線)の亀ノ瀬トンネルを見学する。地滑りでとうに崩壊したと思われていたが、排水トンネルの建設中に偶然発見されたという奇跡の遺構だ。

午後は奈良盆地に戻り、秋たけなわの斑鳩(いかるが)の里で、法隆寺をはじめ、近傍の古寺を巡る。その後、天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡まで足を延ばしたので、結果的には分野が鉄道系に傾いたことは否めないが…。

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地中に眠る旧大阪鉄道亀ノ瀬トンネル
大阪側から奈良側最奥部を望む
掲載写真は、2022年11月のコンター旅当日のほか、2020年9月~2022年11月の間に撮影
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秋たけなわの法起寺三重塔
 
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図1 今回訪問したエリアの1:200,000地勢図
2012(平成24)年修正

朝9時07分、関西本線(以下、関西線という)の三郷(さんごう)駅前に集合したのは、昨日のメンバー(大出、木下親子、私)に浅倉さんを加えて、計5名。さっそく大和川(やまとがわ)に沿う県道の側歩道を下流に向かって歩き始めた。住宅街を通り抜け、谷が狭まる手前で、龍田古道(たつたこどう)と標識に記された山道に入る。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
三郷駅~河内堅上駅
 

龍田古道というのは、飛鳥~奈良時代に大和(現 奈良県)に置かれた都と河内(現 大阪府)を結んでいた官道のことだ。しかし、1300年も前の話なので、「地すべり地である亀の瀬を越える箇所については大和川沿いの道のほか、(北側の)三室山・雁多尾畑を抜ける道など、幾つかのルートが考えられて」(下注)いるという。

*注 奈良県歴史文化資源データベース「いかすなら」 https://www3.pref.nara.jp/ikasu-nara/ による。

奈良から大阪へ府県境を越え、森に覆われた急な坂道を上っていく。峠八幡神社の前を過ぎ、下り坂が2車線道に合流するところで、「亀の瀬地すべり資料室」のプレハブ建物が見えてきた。

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(左)峠八幡神社と地蔵堂
(右)龍田古道の細道
 

10時の開館まで少し時間がある。その間、下流に見えている関西線の第四大和川橋梁を観察した。全長233mのこの鉄橋は川と浅い角度で交差していて、中央部の橋桁が、川の上に渡されたトラスで支えられているのが珍しい。竣工は1932(昭和7)年だが、これこそ亀の瀬を通過する交通路にとって宿命の、地滑りを避けるための緊急対策だった。

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第四大和川橋梁を亀の瀬から遠望
橋桁を直交トラスが支える
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下流(大阪)側から見た橋梁
浅い角度で川と交差
 

資料室に入り、受付を済ませた後、ビデオと展示パネルで、当地の地滑りの実態と対策について学んだ。それによると…、

この一帯は生駒(いこま)山地の南端で、大和川の谷が東西に貫通している。右岸(北岸)には数百万年前、北側にあった火山の新旧2回の噴火で流れ出た溶岩が堆積していて、新旧の境目には、風化などで粘土化した地層が挟まっている。これが地下水を含んで、厄介な「滑り面」になる(下図の赤い破線)。

上に載る新溶岩の層は厚くて重く、谷に向かって傾斜している。そこに、河岸浸食や南側の断層帯の活動などが重なって、たびたび地滑りを起こしてきた。大和川の流路が南に膨らんでいるのもその影響で、明治以降に限っても、大規模な地滑りが3回発生している(下注)。

*注 1903(明治36)年、1931~33(昭和6~8)年、1967(昭和42)年に発生。

滑った土砂は河道をふさぐ。大和川は、奈良盆地に降った雨水が集まる主要河川だ。閉塞によって上流側が浸水するのはもとより、満水になった土砂ダムが決壊すれば、下流の大阪平野にも甚大な被害をもたらすことになる。

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亀の瀬の地質と地形構造
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
 

そのため、1962(昭和37)年から大規模な対策工事が進められてきた。

一つは地滑りを食い止める杭打ちだ。直径最大6.5m、最深96mもある深礎工を滑り方向に直交する形で多数配置して、いわば地中に堰を造っている(下図の「深礎工」)。二つ目に、滑りやすい表土を除去する(同「排土工」)。三つ目には、井戸と排水路を地中に張り巡らせて、地下水位を低下させる(同「集水井」「排水トンネル」)。

数十年にわたる集中的な対策が効果を発揮して、今では土塊の移動がほとんど観測されなくなっているという。

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対策工事全体配置図(同上)
 

この後、ボランティアの方の案内で、排水トンネルを実際に見学した。まずは資料室の上手にある1号トンネルへ。床の中央に設けられた浅い水路から、絶えず地下水が流れ出ている。天井に巨大な穴がぽっかり開いているのは先述の深礎工で、地滑り地帯全体で170本並んでいるものの一つだ。

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1号排水トンネル坑口
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1号トンネル内部
(左)水路には絶えず水流が
(右)巨大な深礎工
 

地上に戻り、今度は道を下って、7号トンネルに移動した。こちらは1号よりも内径が小さい。内部を進んでいくと、まもなく斜めに交差している坑道が現れた。これが、長年の封印が解かれた亀ノ瀬トンネルだった。

左手(大阪側)はすぐに行き止まりになるが、右手(奈良側)は奥が深い。手前は全体が分厚いモルタルで覆われているものの、奥は長さ39mにわたって本来の煉瓦積みがそのまま残っている。スポットライトが床から照らしているので、細部もよくわかる。

内壁は、側面が一段おきに長手積みと小口積みを繰り返すイギリス積み、天井面は長手を千鳥式に積む長手積みだ。ところどころ黒ずんでいるのは、蒸気機関車の煤煙が付着しているらしい。そして最奥部からは、地山の土砂がなまなましく噴き出している。「この先立入禁止、酸欠恐れ有」の注意書きに足がすくむ。

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7号排水トンネルと鉄道トンネルの交差地点
鉄道の奈良側(写真の手前)から大阪側(同 奥)を撮影
排水路は入口(同 左手)から奥(同 右手)に向かって下り勾配に
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(左)鉄道トンネルの奈良側最奥部から大阪側を望む
(右)奈良側最奥部は土砂が噴き出している
 

関西線奈良~JR難波(旧 湊町(みなとまち))間の前身、大阪鉄道は1892(明治25)年に全通したが、亀の瀬では当初、右岸(北岸)を通っていた。最後まで工事が長引いたのがこのトンネルで、壁面に亀裂が入るなどしたため、改築のうえでようやく完成している(下注)。

*注 着工時は亀ノ瀬トンネル(長さ413m)と芝山トンネル(同216m)の2本に分かれていたが、改築に際し一本化されたという。

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図3 関西線旧線が描かれた1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

1924(大正13)年に複線化する際、トンネルは下り線用とされ、北側に並行して上り線のトンネルが掘られた。ところが1932(昭和7)年2月に、土圧で内部が変形して、いずれも使用不能となる。やむをえずトンネルの手前に、仮駅「亀ノ瀬東口」「亀ノ瀬西口」が設けられ、この間は徒歩連絡となった。

下の地形図はその状況を記録した貴重な版だが、これを見る限り、乗客たちはあの龍田古道の上り下りを強いられたようだ。

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図4 不通区間の徒歩連絡の状況が描かれた1:50,000地形図(2倍拡大)
左岸の国道も「荷車を通せざる部」の記号になっている
(1932(昭和7)年測図)
 

7月初めから、安全な対岸へ迂回する新線の工事が始まった。これが先ほど見た第四大和川橋梁を渡っていく現行ルートだが、よほどの突貫作業を行ったのだろう。早くもこの年の12月末に、新線経由で列車の運行が再開されている。

一方、放棄された旧トンネルは、坑口が埋まってしまったため、2008年に発見されるまで80年近くも地中に眠っていた。そのとき、公開対象となっている下り線用だけでなく、上り線のトンネルも見つかったのだが、排水トンネルより高い位置にあることなどから、惜しくも埋め戻されたそうだ。

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排水・鉄道トンネルの位置関係
公開されているのは図左側の下り線トンネル、右側の上り線は埋め戻された
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
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関西本線のルートの移り変わり(同上)
 

見学ツアーは、この後、亀の瀬の名のもとになった川中の亀岩や、大和川の舟運の安全を祈願した龍王社など、付近の名所旧跡を案内してもらって、解散となった。河内堅上駅まで線路沿いの道を歩いて、関西線の上り電車に乗る。

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大和川を泳ぐ(?)亀岩
見る角度によって頭が現れる
 

■参考サイト
大和川河川事務所-亀の瀬 https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guide/landslide/

法隆寺駅で下車し、駅前から奈良交通の小型バスで法隆寺へ向かった。法隆寺参道という停留所が終点だ。以前は南大門の近くに降車場があったのだが(下注)、今は、門前まで進みながら反対車線を引き返し、わざわざ遠く離れた国道のそばで降ろされる。

*注 バス停名も法隆寺門前だった。当時の降車場は、身障者用の停車スペースに転用されている。

午後1時を回っているので、参道に並ぶ食堂で昼食にした。町おこしで竜田揚げが名物になっているらしく、その定食を注文する。唐揚げとどう違うのかよくわからないが、ふつうにおいしかったことは確かだ。

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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
 

法隆寺には何度か来ているとはいえ、エンタシスの回廊が廻らされ、中央に金堂と五重塔が並び建つ美しくも厳かな境内のたたずまいは、いつ見てもすばらしい。宝物館である大宝蔵院で百済観音像を拝み、東院伽藍の夢殿も巡って、しばしいにしえの雰囲気に浸った。

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法隆寺、西院伽藍正面
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大講堂前から境内を南望
左から金堂、中門、五重塔
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(左)大講堂
(右)東院伽藍、夢殿
 

その後は小道を北上する。10分少し歩くと、行く手に法輪寺の三重塔が見えてくる。塔は戦時中に落雷で焼失したため、1975年に再建されたが、木立や背後の森に溶け込むようにして立つ姿は、そうした経緯すら忘れさせる。

寺に寄り添う形で、三井(みい)の集落がある。奈良の旧家らしい立派な門構えの家が並ぶ中、聖徳太子が掘った三つの古井戸の一つ「赤染井(あかぞめのい)」と伝えられる三井の旧跡(下注)にも立ち寄った。

*注 説明板によれば、深さ4.24m、直径約0.9m。明治時代には埋まっていたが、1932(昭和7)年の発掘調査で構造が明らかにされた。

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法輪寺を北望、森に溶け込む三重塔
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三井
(左)集落の中にひっそりと
(右)覗くと水面が見えた
 

山手の斑鳩溜池(いかるがためいけ)の堤を通って、次は法起寺(下注)へ。法輪寺にもまして鄙びた風情だが、侮るなかれ。シンボルの三重塔は8世紀初頭の建立で、国宝指定を受けている。それで1993年、法隆寺の名だたる伽藍とともに、日本で最初の世界遺産に登録されたという経歴を持つお寺だ。

この塔も、周りの田園から仰ぐのがいい。一部の田んぼにはコスモスが植えられていて、秋は白とピンクの花の海になる(冒頭写真参照)。

*注 一般に「ほっきじ」と読まれるが、正式には「ほうきじ」。

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法起寺
鄙びた風情の南門と三重塔
 

私たちが行ったときにはもう花の盛りを過ぎていたが、ボランティアのガイドさんが「中宮寺跡が今、満開ですよ」と教えてくれた。現在、法隆寺東院伽藍の隣にある中宮寺だが、聖徳太子により尼寺として創建された当時は、東に500mほど離れた場所にあった。跡地は発掘後に公園化され、広いコスモス畑が作られている。伽藍跡には基壇と復元礎石があるだけなので、訪れる人の大半は花が目当てだ。

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中宮寺跡史跡公園
復元礎石が並ぶ塔跡

秋の日は短い。そろそろ陽が傾いてきたので、急ぎ天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡に向かった。

天理軽便鉄道というのは、関西線の法隆寺駅に隣接する新法隆寺から東へ、天理まで走っていたニブロク(762mm)軌間の路線だ。1915(大正4)年の開業だが、早くも1921(大正10)年に近鉄の前身、大阪電気軌道(大軌)に買収されている。

大軌が建設した畝傍(うねび)線(現 近鉄橿原(かしはら)線)によって、軽便鉄道は平端(ひらはた)で分断される。東側の平端~天理間は標準軌に改軌、電化されて、現在の近鉄天理線になった。方や西側の新法隆寺~平端間は、大軌法隆寺線としてニブロク軌間のまま存続したが、戦時下の1945(昭和20)年に不要不急路線として休止、そのまま1952(昭和27)年に廃止されてしまった。

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図6 法隆寺~平端間の1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
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図7 大軌法隆寺線(天理機関鉄道と注記)が描かれた旧版1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

富雄川(とみおがわ)に沿って南下し、関西線の踏切を越えると、東側に木戸池と呼ばれる溜池が現れる。軽便鉄道の線路は、こともあろうに池の真ん中を東西に横切っていた。その築堤が今も手つかずで残っている。築堤の東寄りでは水を通わせるために桁橋が架かっていたらしく、橋台も観察できる。

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木戸池を貫く天理軽便鉄道跡
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築堤の東寄りに残る煉瓦の橋台
背後を関西線が並走
 

池の東側では、廃線跡はすぐに消失してしまうが、西側は、富雄川を隔てた田園地帯に、築堤が緩やかなカーブを描いている。畑などに利用されながら関西線に並行していて、法隆寺駅東の住宅地に突き当たるまでたどることができる。途中には、小さな用水路を渡るレンガの橋台もあった。

法隆寺駅に戻ってきたのは17時過ぎ、すでに陽は西の山に沈み、夕闇が迫っている。盛りだくさんの旅の思い出をかかえて、参加者はそれぞれのルートで家路についた。

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富雄川の西に延びる廃線跡の築堤
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(左)築堤の続きは小道に
(右)用水路をまたぐ橋台
 

【付記】

旧 安堵(あんど)駅に近い安堵町歴史民俗資料館に、天理軽便鉄道に関する遺品や鉄道模型、ルート周辺の地形図、空中写真など、興味深い資料展示がある(下の写真参照)。

■参考サイト
安堵町歴史民俗資料館 http://mus.ando-rekimin.jp/

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安堵町歴史民俗資料館
正面入口
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天理軽便鉄道の資料コーナー
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(左)木戸池東に建っていたという勾配標
(右)廃線後、近鉄郡山駅のホームの柱に転用されていた米国カーネギー社製のレール断片
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安堵駅にさしかかるレールカー(1/17復元模型)
 

一方、実際の線路の痕跡は、上述のとおり木戸池より西に集中している。東側で廃線跡を追える場所は少なく、以下の3か所ぐらいだ。

・安堵町の安堵駐在所から県道裏を東に延びる路地 約100m
・岡崎川右岸(西岸)の田園地帯にある細長い地割 約60m
・大和郡山市の昭和工業団地東縁から平端駅前までの直線道路 約700m(うち平端駅寄りの150mは、道路南側の宅地列が廃線跡)

中間部は西名阪自動車道と大規模な土地開発により、跡形もなくなってしまった。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年修正)、陸地測量部発行の5万分の1地形図大阪東南部(昭和7年要部修正)、2万5千分の1地形図郡山、信貴山、大和高田(いずれも大正11年測図)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年12月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-会津・滝沢街道

5月に会津地方の大内宿や裏磐梯を歩いた際、眺めた近辺の地図で目に留まった場所がほかにもあった。それでコンターサークル-S 秋の旅も会津でスタートする。2022年10月15日の初日に訪れたのは、会津若松と猪苗代(いなわしろ)を結んでいた滝沢(たきざわ)街道(下注)だ。沿線には戊辰戦争の史跡や湖畔の風景だけでなく、明治の洋館、水門・水路、貴重な湿原など見どころが点在している。

*注 滝沢街道と呼ばれるのは、若松から奥州街道の二本松に通じていた二本松街道(上街道)の一部。若松から沓掛峠までは白河街道を兼ねている。地形図には、中通り側からの呼び名である越後街道の注記がある。

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十六橋水門
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図1 滝沢街道周辺の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集
 

朝は薄曇りだったが、天気予報によると、昼ごろには青空が戻るらしい。集合地はJR磐越西線の猪苗代駅なので、私は前泊した会津若松から、9時30分発の郡山行の電車で向かった。猪苗代駅のホームで、下り列車でやってきた大出さんと合流する。参加者はこの2名だ。

歩く距離を節約するために、駅前で磐梯東都バスの金の橋(きんのはし)行きに乗り継いだ。ほかに2グループ乗っていたが、みな途中の野口英世記念館前で降り、湖畔の長浜まで乗ったのは私たちだけだった。目の前が猪苗代湖で、遊覧船が出る翁島港がある。白鳥の形をしたボートも浮かんで、観光地らしい風景だ。

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遊覧船が発着する長浜の翁島港
 

本日はここを起点に西へ、会津若松市内の飯盛山下まで約12kmの道のりを歩く。後で知ったのだがこのルート、堀淳一さんも2003年に訪れている。私たちとは逆向きに、後述する金堀(かねほり)を出発し、長浜に至る行程だった。「歴史廃墟を歩く旅と地図-水路・古道・産業遺跡・廃線路」(講談社+α新書、2004年)に詳細が記されているが、堀さんが20年前に見た情景は、嬉しいことに今もほとんど変わっていない。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
長浜~強清水間
 

10時30分、長浜を後にした。現在の国道49号はそのまま湖岸に沿っていくが、旧道は背後から張り出す流れ山地形をショートカットしている。国道から右にそれて坂道を上り、さらに森の中の脇道をたどって、最初の見どころ、天鏡閣へ。

1908(明治41)年に有栖川宮別邸として竣工したこの建物は、木造スレート葺2階建ての洋館で、重要文化財にも指定されている。中に入ると、一部が畳敷きのほかは板張り床の洋風仕様で、装飾的なマントルピースやシャンデリアなど、優雅な調度品が目を引く。最上階の展望室も開放されているが、周りの木々が大きく育っていて、湖を眺めることはもうできなかった。

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天鏡閣外観
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優雅な調度品が配された客間
 

この後も、舗装道になっている旧道を進む。名も知らぬ沼を横に見て鞍部を越えると、道はつづら折りで戸ノ口集落へ下っていった。地形図には、集落の中に519.9mの水準点が描かれている。これを実際に探し当てるのも旧道歩きの楽しみなので(下注)、少し寄り道した。見当をつけたのは、山裾の小さな神社だ。参道脇におなじみの標識と、蓋つきで地下に埋設された標石があった。

*注 天鏡閣のそばにもあったのだが、探すのをすっかり失念していた。

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名も知らぬ沼の畔を通過
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戸ノ口集落
(左)集落へヘアピンで降りる
(右)神社参道脇の水準点、標石のあるマンホールは雑草の陰
 

村の前には、やわらかな日差しのもと、稲刈りの終わった田んぼが広がる。銚子ノ口から引き込まれた水面を縁取る森が早や色づき始めている。まもなく日橋川(にっぱしがわ)を渡る十六橋にさしかかった。猪苗代湖の水は、この川で会津盆地へと流れ下る。注目は、橋の右手に並行している大規模な水門(冒頭写真参照)で、もともと湖の反対側で取水する安積(あさか)疏水の付属施設として、水位調節の目的で造られた。

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稲刈りの終わった村の前の田んぼ
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十六橋前の水面
正面奥の水路で猪苗代湖に通じる
 

現地の案内板によれば、1880(明治13)年に完成した初代の十六橋水門は、16連アーチの石造橋と一体になった構造で、各アーチに開閉可能な杉板の扉が設置されていた。1914(大正3)年に今見る16連、電動式の水門に改修され、その際に道路橋が分離されたという。ただ、十六橋の謂れは明治どころかもっと古く、弘法大師が架けたという伝説にまで遡るそうだ。

その後、1942(昭和17)年に小石ヶ浜水門が完成し、湖の水位調節機能はそちらに移された。十六橋水門の現在の役割は、流域の大雨などで水位が上がるときに排水する、洪水調節機能だけらしい。つまり、ほとんど隠居の身なのだが、施設は近代化産業遺産として美しく維持されていて、水面に映る整然としたたたずまいは一幅の絵のようだ。たもとの広場には、疏水の設計に携わったオランダ人技師ファン・ドールンの像も建ち、水門とその一帯を優しく見下ろしている。

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(左)十六橋に並行する水門
(右)第一門、第二門は戸ノ口堰の取水用
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(左)昔の十六橋水門(現地案内板を撮影)
(右)ファン・ドールンの銅像が広場に建つ
 

広場のあずまやで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。しばらくは林道のような砂利道が続く。国道49号と斜めに交差してなおも進むと、戸ノ口原古戦場跡の案内板が立っていた。1868年、押し寄せる新政府軍を会津藩守備隊が迎え撃った場所だ。近くに次の528.4m水準点があるはずだが、丈の高いすすきに埋もれたのか見つけられなかった。

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戸ノ口原古戦場跡にある供養塔
 

林を縫う道の途中で、赤井谷地(あかいやち)湿原の案内板を見つけた。左手の丘へ上る道をたどり、湿原が見渡せる展望地に出る。尾瀬のように横断する木道がないので、ここが唯一の見学場所になっている。

南に広がるヨシに灌木が混じる湿原は、かつての湖底が水位の低下で沼地を経て変化したものだ。約1km四方の区域が天然記念物として保護されている。案内板を読んだ大出さんが、昭和天皇が二度来ていることを指摘する。新婚時代にさっきの天鏡閣に滞在したことがあるので、きっとお気に入りの土地だったのだろう。

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赤井谷地湿原の展望
 

この丘を含めて周辺は、磐梯山の古い大噴火で生じた流れ山で埋め尽くされている。街道に沿って会津藩軍が敷いた陣地も、もこもことした地形をうまく利用したものだ。森を抜けると右手後方に、雲が切れつつあるその磐梯山が望めた。

強清水(こわしみず)には、旧道沿いに何軒かの蕎麦屋があって、どれも繁盛していた。事前の調査不足で食べる算段をしておらず、通過してしまったのは残念だ。強清水の名が示すとおり、集落の山際に有名な湧水があり、周りにはアキアカネが乱舞するそば畑が広がっている。

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強清水
(左)旧道・新道分岐、正面の消防車庫の左の細道が旧道
(右)名物の蕎麦屋が並ぶ
 
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図3 同 強清水~会津若松市内
 

標高約520mの強清水は、猪苗代湖の旧湖盆の末端に位置している。この後、街道は、沓掛(くつかけ)峠と滝沢峠の二段構えで、標高200m台の会津盆地まで一気に高度を下げる。急坂が続く旧道を改良するため、明治に入って荷馬車が通れる新道が開削された。そちらは旧国道49号で(下注)、今もクルマで走れる舗装道だが、私たちはもちろん、徒歩でしか行けない旧道をめざすつもりだ。

*注 1966年の滝沢バイパス開通で、国道の指定を解除された。現在は会津若松市道。

沓掛峠旧道の入口はすでに森に還っているため、国道294号を少し南下し、北西方向に分かれる道を入る。国道脇に案内板が立っているので間違いないのだが、100mも行かないうちにバリケードで通行止めにされていた。代替路があるかと周囲を探してみたものの、やはりここを進むしかなさそうだ。

峠道は下り一方の片坂で、楽に歩けそうに思える。ところが誰も通らないので、日なたは下草ですっかり覆われ、切通しは山から染み出す水で、ひどいぬかるみだった。

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沓掛峠旧道
(左)草むした路面
(右)道いっぱいのぬかるみ
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白河、二本松両街道の追分付近に立つ案内板
 

ヘアピンの悪路をなんとか降りていくと、涼しげな水音が聞こえてくる。見ると、斜面の上のほうから、水流が岩を滑り落ちている。案内板によれば、これは金堀(かねほり)の滝で、自然の滝ではなく、戸ノ口堰(とのくちぜき)の水を落としているのだ。

戸ノ口堰というのは、十六橋の下流で日橋川から取水され、会津盆地を潤している灌漑用水で、1693年に若松まで通じている。旧街道の前に滝を造ったのは、おそらく行き交う旅人たちに見てもらう意図があったのだろう。滝壺(というほどのものはないが)まで落ちた水は再び水路に集められ、この先でも何度か街道と交差する。

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金堀の滝
 

まもなく森が晴れて、金堀集落が見えてきた。旧道は一時的に、右から降りてきた新道と合流する。金堀は旧宿場らしく、トタンをかぶせた茅葺屋根の家が、道路に妻面を向けて並んでいる。大出さんによると、大内宿もかつてはこんな景観だったそうだ。道端で422.8m水準点を探したが、標識はあるものの、またしても標石は見つけられなかった。

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旧道沿いの金堀集落(東望)
 

次はいよいよ滝沢峠を越える。実は金堀と滝沢の間には、3本のルートが存在する。最も古いのは、1591年に開削、1634年に改修整備された滝沢峠の旧道だが、明治に入って、1882(明治15)年により低い鞍部を通る滝沢南新道、さらに1886(明治19)年に北を迂回する北新道が相次いで開通した(下図参照)。

北新道(旧国道49号)はさっきの沓掛峠新道の続きで、クルマが走れる舗装道だ。方や南新道は、最近まで地形図に記載されていたが、最新の地理院地図では上部区間が断絶している。むしろ近世の旧道のほうが明瞭で、一条道路(幅3.0m未満の道路)として跡を追える。

旧道がハイキングコースとして再評価される一方で、南新道は不運だった。荷車が通れるように勾配を緩和した分、旧道より距離が長くなり、歩きには向かない。かといってヘアピンが急過ぎて自動車時代にも対応できず、結果的に見捨てられてしまったようだ。

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図4 複数の峠越えルートが描かれた旧版地形図
(1910(明治43)年測図)
 

旧道は金堀の集落の中で再び上りになり、滝沢峠まで50~60mの高度を稼ぐ。ついでに電波塔のある山頂まで足を延ばしてみたが、周囲は森や藪で、山頂付近に描かれている三角点にはたどり着けなかった。

峠まではふつうの舗装道だったのに、下りに転じる地点でまたバリケードが渡してあった。やむなく入ってみると、草むした地道とはいえ、沓掛峠ほどには荒れていない。直線的に降下するのでかなりの急坂だが、ところどころ丸石の石畳が残り、会津藩の主要道として整備されたことを思い出させてくれる。途中、比較的新しい休憩用のあずまやが建ち、並木道のような区間もあった。趣の深いルートなので、通行禁止にしたままなのは惜しいと思う。

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滝沢峠旧道
(左)金堀方は舗装道
(右)若松方の急坂には石畳が残る
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(左)舟石付近のあずまや
(右)もとは並木道か
 

1.5km、高低差200mを40分ほどかけて下り、麓の滝沢へ出た。ここで再び戸ノ口堰が道を横切っているが、金堀の滝で見たより水量がはるかに多い。というのも、水力発電所で使い終えた水が加えられているのだ。戸ノ口堰には地形の落差を利用した発電所が3か所あり、水量の大半がこれに利用されている。発電用水路から外れた金堀の前後は、おこぼれの水が流されているに過ぎない。

堰はこの後、飯盛山の麓へ向かうので、後を追って不動川を渡る地点まで行ってみた。森の中にひっそりと石のアーチが架かっている。九州で見るものに比べれば小規模だが、天保年間、1838年の架橋というから、貴重な歴史遺産だ。この先は通行できないので、旧滝沢本陣の前から迂回する。

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滝沢峠旧道、若松側の上り口
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戸ノ口堰
(左)豊かな水量に驚く
(右)不動川を渡る戸ノ口堰橋
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旧滝沢本陣入口
 

戸ノ口堰洞穴は、飯盛山の山裾に掘られた水路トンネルだ。さざえ堂や白虎隊士の墓とともに、トンネルの出口が飯盛山界隈の観光名所になっているので、前にも来たことがある。狭い洞穴から滔々と流れ出す豊かな水流は、猪苗代湖の生気を運んでくるようで、何度見ても印象に残る光景だ。

ゴールと定めた飯盛山下バス停には、15時30分に到着した。文字通り野を越え山を越え、起伏と見どころに富んだ約5時間のハイキングだった。

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戸ノ口堰洞穴
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夕食は会津若松駅前のマルモ食堂
名物ソースかつ丼で空腹を満たした
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図廣田(明治43年測図)、若松(明治43年測図)、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2020年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線

琵琶湖疏水(びわこそすい、下注)は、滋賀県の大津で取水された琵琶湖の水を京都の市街地に運ぶ水路だ。2本が並行しており、そのうち第一疏水は1890(明治23)年に完成している。琵琶湖と大阪を結ぶ水運に利用されるとともに、落差を利用した水力発電で、京都の産業や交通の近代化を推進する原動力となった。

*注 「疎」水と書かれることもあるが、これは当用漢字表にない「疏」を代用字で書き換えたもの。

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南禅寺水路閣
掲載写真は特記したものを除き、2020年11月のコンター旅当日のほか、2020年4月~12月の間に撮影
 

年々増大する需要を賄うために、1912(明治45)年に第二疏水が全線トンネル仕様で造られた。水運はやがて鉄道や道路に取って代わられるのだが、上水道の水源は今なお多くを依存しており、京都の町にとって琵琶湖疏水は必要不可欠のインフラであり続けている。

東海道本線の電車が大津~京都間で2本の長いトンネルをくぐり抜けるように、疏水もまた、間を隔てる二つの山を貫いた後、東山山腹の蹴上(けあげ)に顔を出す。ここで市内に分配されるのだが、本線は、複数の経路(下注)を通って山麓の南禅寺船溜(ふなだまり)に集まる。そして岡崎公園の縁をなぞった後、鴨川の左岸(東岸)を伏見へ向かって流れ下る。

*注 蹴上水力発電所の導水管、インクライン沿いの放水路(一部暗渠)、扇ダム放水路など。

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蹴上船溜、インクラインの起点
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琵琶湖疏水および分線の位置図
(琵琶湖疏水記念館の展示パネルを撮影)
 

第一疏水の一部を成すこのルートに対して、蹴上から北に分岐する水路もある。第一疏水と同時に完成した疏水分線だ。京都盆地は北が高く、南が低い。分線はそれに逆行するように北流した後、徐々に西へ向きを変え、最後は堀川の源流である小川(下注)に注いでいた。

*注 現在は「おがわ」と読ませているが、かつては「こかわ」と読んだ。

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桜の名所「哲学の道」
 

明治のころ、一帯はまだ田園で、分線建設は農地の灌漑や、伸銅、精米、紡績など産業利用を主な目的としていた。昭和に入ると沿線に松ヶ崎浄水場が造られ、水道水への活用が始まった。しかしその後、市街地化による農地の消滅や、交差する河川の改修などの影響を受けて、本来の機能は失われてしまう。

現在、この疏水分線はどのような姿で残されているのだろうか。コンターサークル-S の旅関西編2日目は、それを歩いて確かめようと思う。蹴上から鴨川との交差地点まで、水路伝いに約9kmのコースだ。

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1:25,000地形図と陰影起伏図に
歩いたルート(赤)と水路跡の位置(青の破線)等を加筆
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5m間隔の等高線が記載された図に疏水分線を加筆
ルートが等高線に沿っていることがわかる
(基図は1:25,000土地条件図 京都、1975(昭和50)年調査・編集)

2020年11月3日、朝10時の集合時刻までの間、私は近くの琵琶湖疏水記念館に立ち寄って、最近リニューアルされた展示物をチェックした。構想時の地図図面など貴重な資料のほか、鉄道ファンには大正4年ごろの岡崎周辺を再現したレイアウトが必見だ。船を上下させるインクライン(斜行鉄道)とともに、京電蹴上線や京津電気鉄道(後の京阪電鉄大津線)の旧線ルートも手に取るようにわかる。

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(左)琵琶湖疏水記念館
(右)内部展示
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岡崎周辺を再現したレイアウト
中央左の直線路がインクライン、
右側を並行する複線の線路は京電(後の市電)蹴上線、
左奥の山から降りてくる複線は京津電気軌道(後の京阪電鉄大津線)
 

資料館で森さんと落ち合って、集合場所の地下鉄東西線蹴上駅に向かう。本日の参加者はメンバーの今尾、大出、森さん、私、そして初参加の小森さんの5名。疏水関連の研究をしている小森さんには、案内役としていろいろ教えてもらおうと思っている。

最初に、インクラインの途中にある粟田口隧道、俗称「ねじりまんぽ」に寄り道した。築堤の横腹に開けられたまんぽ(トンネル)で、やや斜めに横断するため、内部の煉瓦巻きがねじれているのが名の由来だ。ポータルは付け柱を立てた立派な造りで、頂部には、当時の京都府知事が揮毫した陶製の扁額まで嵌っている。通しているのは南禅寺境内に向かう小道に過ぎないのだが、天下の大道、東海道に面していたから、設計者も特に力を込めたのだろう。

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ねじりまんぽ西口
上をインクラインが走る
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内壁の煉瓦がねじるように巻かれている
 

それからインクラインを上って、蹴上船溜へ。船を乗せた車台が復元されている。すぐ上流に架かる橋から、第一疏水が出てくる第三トンネルのポータル(洞門)が見渡せる。トンネル手前右側の立派な洋館は旧 御所水道ポンプ室で、ちょうど大津から下ってきた疏水船が前の護岸に到着したところだった。

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インクラインの坂道を上って蹴上船溜へ
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蹴上船溜
(左)復元台車、左後ろはケーブルの滑車
(右)第三トンネル洞門
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旧 御所水道ポンプ室、手前に疏水船が待機
 

船溜の周辺は小さな公園になっている。市街を見下ろして立つ銅像は、疏水を設計し工事も指揮した田邉朔郎(たなべさくろう)だ。設計図は工部大学校の卒業論文として作成され、卒業後すぐに京都府から主任技師に任じられたというから驚く。「はたちそこそこでいきなり大工事を任された超エリートです」と小森さんが解説する。

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公園に建つ田邉朔郎像
 

疏水の分配方法は様々だ。船溜の北隣にあるのは放水路に水を落とす洗堰で、その形状からついたあだ名が「京都のナイアガラ」。大きな水音が絶えず辺りにこだましている。

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洗堰「京都のナイアガラ」
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洗堰を落ちた水は中央に集まる
 

続いては錆止めを塗った鉄のやぐら。関西電力蹴上発電所の取水口で、谷側に目をやると極太の導水管が2本、急斜面を這い降りている。付随するベルトコンベアのようなものは、取水口に溜まった落ち葉やごみを排出する装置だそうだ。

さらに北側でも枡状の小水路が分岐しているが、聞くと、こうした水路で庭園などに分配しているのだという。明治から昭和初期にかけて、岡崎一帯では政財界の大物たちが競うように別荘を構えた。それらの庭園を潤す水も、疏水から供給されているのだ。「それから、ゾウさんやカバさんも飲んでます。疏水のおかげで、京都市動物園は自然水には困りません」。

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(左)蹴上発電所取水口
(右)ごみの排出装置
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(左)発電所への導水管
(右)庭園等に分水する小水路
 

この10月に利用が再開されたばかりの、南禅寺に通じる疏水側道を行く。山際の狭い通路で、石川五右衛門が「絶景かな」の名せりふを放った三門が木の間越しに見える。突き当りが南禅寺水路閣で、長さ93m、豪壮な煉瓦のアーチが疏水を載せて境内を横切っている。界隈を歩く観光客が必ず立ち寄る人気のスポットだ。

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疏水分線
(左)南禅寺裏の水路に側道が沿う
(右)水路閣の上部水路に続く
 

小道を下って、その足元に出た。今でこそ古色を帯びて周囲の景観に溶け込んでいるが、できた当時は、古い町並みに高速道路を割り込ませるような違和感に満ちた眺めだったに違いない。明治新政府は仏教寺院を改革に抵抗する旧来勢力とみなし、廃仏毀釈や上地令で弱体化を図った。大寺といえども、府の方針を拒否できるような政治力はなかっただろうと思う。

とはいえ、橋を架けることの必然性にはいささか疑問が残る。地形図で見る限り、横断しているのは奥行きのない谷だ。背後をトンネルないし開削工法で通すことができそうだし、そうしたとしても距離はさほど延びない。実際、寺の方丈や北隣の永観堂の裏では、トンネルで通過している。敢えて橋にしたのは、地質、水源あるいは予算の問題、はたまた近代化を象徴する構造物が必要だったのか…。

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南禅寺水路閣
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(左)寺の境内を横断
(右)支柱が整列する構図は人気の撮影スポット
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洋風と和風が共存する空間
 

水路閣の続きにある第五トンネルの洞門を見てから、境内を引き返す。トンネル区間では、疏水に並行する道がないのだ。迂回路となる鹿ヶ谷通(ししがたにどおり)の途中で、東山高校の校地を横切って勢いよく流下する水路があった。「これも疏水から落ちてきてます」。斜面の上の取水口は扇ダムと呼ばれるが、残念ながら立入禁止になっている。

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扇ダム放水路
(左)斜面を駆け降りる水路
(右)庭園街の境界を貫く
 

次に水路が現れるのは、熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社の参道と交差する若王子橋だ。そこから銀閣寺橋まで、緩やかに蛇行する水路に沿って、緑濃い小道が約1.5kmの間続く。西田幾多郎(にしだきたろう)ら京大の哲学者が好んで散策したという「哲学の道」だ。水路を縁取るのは桜並木で、花の季節はことさら美しい。この春は新型コロナの第1波でひっそりとしていたが、最近は客足がいくらか戻ってきているようだ。

小森さんが「遊歩道に市電の敷石が使われてますよ」とメンバーの好奇心をくすぐる。「ついでにレールも敷いてほしかったなあ」と私。しばらくの間、京都市電が廃止されたころの思い出話で盛り上がった。

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若王子橋
(左)若王子神社への参道
(右)哲学の道が始まる
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(左)西田幾多郎の歌碑
(右)大豊橋では水路も立体交差
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苔むした桜の並木が続く
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桜満開のころ
 

銀閣寺橋までやってきた。銀閣寺(慈照寺)への参道はぞろぞろと人が行きかっていて、さすが有名観光地だ。大文字山(だいもんじやま)の山麓を北上してきた疏水は、この橋の前後で西に向きを変える。そして白川(しらかわ)が造った扇状地を横断していく。両者が交差する地点では、疏水がサイフォン(下注)で白川の下をくぐっている。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来の意味のサイフォンではなく、連通管の原理で川の下を横断するもの。以下も同じ。

白川の名は、上流の山から運ばれ川底にたまった花崗岩の砂礫、いわゆる「まさ(真砂土)」が白っぽい色をしていることに由来すると言われる。白河上皇のおくり名や「白河夜船」の故事にも引かれた歴史ある川だが、市街地を貫くこのあたりでは、今やコンクリートの擁壁に囲まれた味気ない排水路でしかない。

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銀閣寺橋
左は銀閣寺(慈照寺)への参道
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白川との交差
(左)殺風景な白川の水路
(右)直交する疏水は白川(手前)の下をくぐる
 

白川通を横断したところで12時になった。食事処を求めて、今出川通に面したタイ料理店「カトーコバーン食堂」へ。生ビールで喉も潤してから、再び歩き出す。

疏水は再び北へ旋回し、志賀越道(しがごえみち)を横切っていく。この道は山中越(やまなかごえ)、白川街道ともいい、京都七口の一つ、荒神口(こうじんぐち)と琵琶湖西岸を結んでいた古い交易路だ。「ここで水路の所管が、市の上下水道局から建設局に変わります」と小森さん。「正式な疏水分線はここが終点で、後は都市河川の扱いなんです」。

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志賀越道との交差
(左)交差手前の堰
(右)交差の前後で水路に段差がある
  クスノキの後ろの塔は浄水場送水管の点検口
 

この先に松ヶ崎浄水場があるが、そこに入る原水は蹴上から別ルートで送られており(下注)、目の前の開渠の水は利用されていないのだそうだ。しかし流路の水量はまだたっぷりあって、疏水としての面目は保たれている。水面をのぞき込んでいた森さんが「けっこう大きい魚がいますよ」と教えてくれた。

*注 正確には、南禅寺トンネルでまず若王子取水池へ。ここでごみや砂を除去した後、導水管で浄水場まで送られる。後述のとおり、疏水の流路は現在、高野川で断たれている。

小森さんいわく「京大農学部のキャンパスに広い農園があるんですが、そこにもこの水が引き込まれてます」。疏水は、沿線の田園を潤す灌漑用水の役割も果たしていた。すっかり市街地化した今では、農学部のそれが唯一の名残なのかもしれない。

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北白川、疏水沿いの散歩道
 

「河川」に名目を変えた後も、疏水分線は変わることなく木陰の散歩道を伴って流れる。右側には北白川の閑静な住宅街が続いている。左は京大農学部のグラウンドだが、疏水道からは見下ろす形になる。この高低差は、花折(はなおれ)断層の活動により生じたものだ(下注)。いわゆる断層崖で、それを斜めに横切るために、疏水のルートはここで緩いS字を描いている。

*注 花折断層は、滋賀県高島市の水坂(みさか)峠付近から朽木(くつき)谷、高野川の谷を通り、京都市左京区の吉田山に至る北北東~南南西方向の断層。花折峠より南は、東側が乗り掛かる逆断層になっている。

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花折断層
(左)グラウンドは疏水道から見下ろす位置に
(右)御蔭通への下り坂で断層崖を通過
 

御蔭通(みかげどおり)を横断すると再び直線で、右側の樹木が生い茂る敷地に、登録有形文化財の駒井家住宅が建っている。明治末から昭和にかけて数々の洋館を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品の一つだが、私もまだ入ったことがない。

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(左)駒井邸
(右)穏やかな光注ぐ水路
 

北大路通(きたおおじどおり)に出ると、叡山電鉄(叡電)の線路が間近だ。短い鉄橋が疏水に架かっている。ちょうど警報器が鳴り始めたので、一同慌てて線路際に走り寄る。駅と駅の中間とあって、電車はかなりのスピードで通過した。「速すぎましたね」「間に合わなかった…」などとぼやいていると、小森さんが「撮り鉄さんが群がる絵が撮れました」とほやほやの特ダネを見せてくれた。

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叡山線疏水橋梁、右はその銘板
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撮り鉄、被写体になる
(小森さん提供)
 

住宅街の中の直線路をなおも進んでいけば、やがて鴨川の支流、高野川にぶつかる。もともと疏水はこの川を伏樋(ふせひ)で通していたのだが、治水工事で河道の拡張・掘削が行われた際に撤去されてしまった。それ以来、疏水の水は対岸に届かず、ここで高野川に放流されているそうだ。

道路橋もないので、少し下手に架かる北大路通の高野橋まで迂回した。対岸に渡ると、疏水道に面して松ヶ崎浄水場の門がある。傍らに建つ現代建築風の塔が目を引くが、濾過池にたまった砂などを洗い流すために水を貯めておく洗浄水槽だ。「ウルトラ警備隊の基地みたいですねえ」と森さんが感心したように言う。

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高野川北望、左奥の山は比叡山
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(左)松ヶ崎浄水場、左の塔は洗浄水槽
(右)浄水場前の水路はわずかな水量しかない
 

この先は、水路が緩やかに左カーブしながら、下鴨の住宅街を貫いている。両岸に植えられた桜や楓の木がその上に枝を伸ばし、青草の堤に濃淡の影を落とす。のどかな田園風景の名残が感じられる場所だ。「観光地じゃないので、サクラの時期でもしずかです。夏の初めにはゲンジボタルも舞いますよ」。しかし、上流が断ち切られているため、水量はわずかしかない。これでも干上がらないように、浄水場からおこぼれが落とされているそうだ。

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下鴨の疏水分線
 

北から流れてくる泉川とは平面で交差している。泉川は、高野川で取水され、街中を通って糺の森(ただすのもり、下鴨神社境内)に入る小さな川だが、交差地点を観察すると、川幅の4割ほどが疏水の下流側に導かれている。一方、疏水は泉川と完全に混じり合い、平水時はほぼ全量が泉川の下流側へ向かう。つまり疏水分線は、ここで琵琶湖水系から高野川水系に入れ替わってしまうのだ。

西へ進むうちに、何か所かで旧 農業用水の水が加わり、水量が徐々に増えていくのがわかる。だが残念ながら、開渠区間は下鴨本通(しもがもほんどおり)の手前で終わりとなる。水は暗渠に潜り込んでいき(下注)、後は、水路跡をなぞる緑道が続いているばかりだ。

*注 暗渠の水は全量が鴨川に放流されていたが、付記で述べるように、近年の整備事業で、一部が堀川に導水されるようになった。

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(左)泉川との交差
  手前→奥が疏水分線、右→左が泉川の水路
  泉川の約4割が疏水側に誘導されている
(右)開渠区間の終点
 

かつての電車通りである北大路通を斜めに横断する。少し進めばもう主要河川の鴨川(賀茂川とも書く、下注)だ。かつての疏水分線はここも伏樋で横断し、対岸に続いていた。しかし右岸(西)側は戦後暗渠化されて、紫明通(しめいどおり)の一部となり、地上に痕跡をとどめない。それで分線をたどってきた私たちの歩きもここが終点だ。

*注 河川法上は鴨川の本流だが、地元では、高野川との合流点より上流を「賀茂川」と表記する。

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(左)疏水跡の緑地帯、後方は比叡山
  鴨川堤から東望
(右)鴨川を隔てて疏水跡(紫明通)の並木が見える
 

建設から120年、長い歳月の間に疏水分線は託された役割を果たし終えた。水流は細り、寸断され、もはや厳密には1本の水路と言えなくなっている。しかし、その存在価値まで摩滅したわけではないようだ。沿線に立地する寺社や庭園や閑静な住宅街に今もさまざまな形で潤いをもたらし、趣のある散策路として市民や観光客に愛され続けているからだ。

川の堤に上ると、広々とした河原に薄日が差し、心地よい風が吹き抜けていた。「お疲れさまでした」「ガイドしてもらったおかげで、疏水のことがよくわかりましたよ」。ねぎらいの言葉を交わしながら、私たちは北大路橋を渡り、地下鉄の駅に向かった。

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出雲路橋から鴨川(賀茂川)を北望
奥に架かる橋は北大路橋
 

【付記】

疏水分線の残り区間(鴨川~小川頭)の状況についても記しておこう。

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1:10,000地形図で見る鴨川右岸の疏水分線
(上)1951(昭和26)年修正測量図
  疏水の南側に疎開空地が残る
(下)2003(平成15)年修正図
  跡地は紫明通に
 

この区間は旧市街の外縁に当たり、かつては田園地帯だったが、1923(大正12)年の市電烏丸線開通に伴い、市街地化が進行した。第二次大戦末期、防火帯を設けるべく疏水南側で建物疎開が実施され、戦後、その空地が紫明通として整備された。紫明通が京都の大通りとしては珍しく蛇行ルートで、かつ広い中央分離帯を有するのは、これが理由だ。分離帯の一部は街路樹の苗圃として利用された時期があり、その名残で大木が多く育っている。

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紫明通、左は中央分離帯の林
疏水は通りの右寄りを走っていた
 

紫明通の北縁を通っていた疏水は1956(昭和31)年に暗渠化され、下水道に転用されてしまったが、最近まで、鴨川堤から西80mの紫明通北側では、植え込みに半ば埋まる形で水門跡が残っていた(2014年2月に撤去)。また、烏丸紫明交差点の西300mの紫明通北側歩道脇(京都教育大学付属中学校南側)には、「疏」の字を刻んだ境界標が今も数本残されている。

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紫明通にあった水門跡
(2012年4月撮影、小森さん提供)
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紫明通に残る境界標
 

分線終点の小川頭は、現在の堀川紫明交差点(バス停名は堀川鞍馬口)付近だが、疏水跡はおろか合流先の小川自体もすでに地上から消失してしまった。

なお現在、紫明通の中央分離帯(せせらぎ公園)に小さな水路が通っているが、これは疏水跡ではなく、堀川水辺環境整備事業により2009(平成21)年3月に完成した新しい水路だ。しかし水源は鴨川左岸の疏水分線で、鴨川の下をサイフォンで通し、右岸側で地表面までポンプアップしている。

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小川頭、現在の堀川紫明交差点
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堀川水辺整備事業
(左)疏水分線からポンプアップした人工滝
(右)中央分離帯に造られた小水路
 

掲載の地図は、地理院地図および国土地理院発行の2万5千分の1土地条件図京都(昭和50年調査・編集)、地理調査所発行の1万分の1地形図上賀茂(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図京都御所(平成15年修正)を使用したものである。

■参考サイト
琵琶湖疏水記念館 https://biwakososui-museum.city.kyoto.lg.jp/

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2019年12月16日 (月)

コンターサークル地図の旅-三田用水跡

東京はその日一日、雨模様だった。ひどくはないものの、上着のフードだけでは濡れ鼠になるような降り方だ。加えて時おり強い風が街路を吹き抜けて、広げた傘を大きくゆさぶった。

2019年11月23日、コンターサークル-S 秋の旅の3回目は、京王線の笹塚(ささづか)駅改札前に集合する。参加したのは、今尾、中西、大出、木下さん親子、木下さんの友人のKさん、そして私の大6、小1、計7名。こんな日でも厭わず集まるのは、雨なら雨のおもむきがある(下注)というサークルの創始者、堀淳一さんの考え方、いわば「堀イズム」がメンバーに浸透している証しだろう。

*注 「私の「地図歩き」は全天候型の旅で、雨が降っても風が吹いても濃霧がかかっていても、かまわずに歩きます(中略)。雨なら雨の、風なら風の、霧なら霧の、晴れた日には味わえないそれぞれの味わい--晴れた日よりもむしろ深い、陰翳に富んだおもむき--があるからです。」(堀淳一「消えた街道・鉄道を歩く地図の旅」講談社+α新書、2003年、p.21)

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(左)雨をついて笹塚駅に入る京王線の電車
(右)笹塚駅10時集合
 

本日のテーマは、江戸の六上水、すなわち6本の上水道の一つであった三田(みた)用水だ。下北沢村(現在の世田谷区北沢五丁目)で玉川上水から分水され、およそ南東方向に三田方面まで延びていたので、その名がある。

1664(寛文4)年に飲用水を取るために開かれたが、1722(享保7)年にいったん廃止、2年後に灌漑用水として再開されている。明治に入ると、火薬やビール製造など工業用水としても利用され始め、次第にその比重が増していった。しかし、都市化の進行で農地が縮小し、工場も上水道に切り替えたことから、1974(昭和49)年に取水が中止され、300年の幕を閉じた。

用水が通っていたのは武蔵野台地の末端、目黒川の谷と渋谷川(および支流の宇田川)の谷を隔てる台地(淀橋台南部)の上だ。分水口から南下した水路は、駒場東大の北側を通り、山手通り、旧山手通り、防衛省用地を経て、目黒駅前に至る。ここで東へ転じて、目黒通りから桜田通りのほうへ進み、後は暗渠となって、旧道(二本榎通り)の下を三田へ流れ下っていた。

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1:25,000地形図と陰影起伏図に歩いたルート(赤)と水路の位置(青の破線)等を加筆
笹塚~代官山間
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代官山~高輪台間
図中の水路の位置は、旧版1万分1地形図中野、世田谷、三田、品川の各図幅を参照した
 

機能停止の後、跡地は宅地や道路に転用されてしまったので、もはや水路の形では残っていない。しかし、ルートに沿って街路をたどれば、住宅や空地が線状に並んでいる個所がある。用水の記念碑や、かろうじて撤去を免れた道端の遺構も見つかる。そうした痕跡を訪ね歩くうちに、なみなみと水を運んでいた水路のさまが見えるような気がするから不思議だ。

私たちは、用水が桜田通りと出会う都営浅草線高輪台駅をゴールに見据えて、笹塚駅を出発した。今尾さんの案内で進む。玉川上水に沿って南へ200m、笹塚橋のすぐ下手に、三田用水の分水口があった。もちろん水路の分岐は現存せず、上水の西側の用地が三角形に膨らんでいるので、それとわかるだけだ。

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三田用水分水口
(左)右奥の三角形の敷地がその跡
(右)分水口から上流を望む
 

「ここからしばらく玉川上水と並走していたんですが、宅地に取り込まれてしまってます」と今尾さん。早くも目標喪失だが、玉川上水の緑道をそのまま歩いて、都道420号(中野通り)と井の頭通りが交わる大山交差点に出た。

そこから南は道路の拡幅工事中で、とぎれとぎれの歩道を伝っていかねばならない。進行方向右側に細長い宅地の列が沿っているから、おそらくこれが用水跡なのだろう。小田急の地下化された東北沢駅を左に見て、少し行くと三角橋交差点だ。川のない台地上にも橋のつく地名があるのは、用水が通っていたからに他ならない。

航研通りに入り、しばらく東へ進む。東大生産技術研究所のいかめしい門の前から200mほどで、用水跡は一つ北の小道に引っ込む。そして再び大通りと合流するところに、二ツ橋と記されたバス停標識が立っていた。これも橋の名だ。東大教養学部(駒場地区キャンパス)の裏手で、地震が来たら危なそうな高いブロック塀が続いている。

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(左)三角橋交差点(別の日に撮影)
(右)二ツ橋バス停
 

ほどなく山手通りの広い空間に出た。道路の中央に、巨大な塔が3本突っ立っているのが目につく。首都高速の山手トンネルの換気塔だ。歩道と東大の敷地との間に細長い敷地が延びていて、商業ビルや駐車場に使われている。これも用水跡だなと思って歩いていくうち、歩道より一段高いコンクリートの構造物が露出しているのに気づいた。用水跡歩きのウェブサイトで見た覚えがある。「これって痕跡ですよね」。取っ手付きの点検蓋もあるが、周辺に謂れを記したものとてなく、果たしていつまで残るだろうか。

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山手通り
(左)歩道脇に露出する構造物
(右)点検蓋や分水口も残る
 

間もなく、用水跡はビル裏の路地に入ってしまう。そちらに回ると、同じような帯状の敷地に、建物が窮屈そうに整列していた。山手通りのそれといい、土地がもつ記憶は容易に消えるものではない。京王井の頭線をまたいでまもなく、曲がってきた山手通りにぶつかる。ところが、渡れる横断歩道がなく、松濤二丁目の交差点までかなり迂回を強いられた。

神泉町から代官山にかけては台地の開析が進んでおり、用水跡は稜線、すなわち馬の背のような場所を通っている。そのため、交差する道は左右どちらも下り坂だ。とりわけ西の目黒川の谷壁は急斜面で、坂道は険しく、階段道さえ見られる。また、稜線は、河川と並んでしばしば行政界として用いられるので、用水跡が渋谷区と世田谷区、目黒区との境界に沿っているのも偶然ではない。

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(左)帯状の敷地に建つ建物の列
(右)目黒川の谷に降りていく階段道
 

「ルートから少しそれますが、記念碑がありますよ」と誘われたので、そちらに向かう。山手通りに面したマンションの植え込みの中に、細身の石碑が立っていた。傍らの説明板によれば、渋谷道玄坂から調布へ向かう古道「滝坂道」が用水を渡る場所に、かつて石橋が架かっていた。碑も本来そこにあったもので、近隣十三か村の住民が堅牢な石橋に感謝して建立したものと推測されるという。

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青葉台四丁目の石橋供養塔碑
 

そのうちに正午を回ったので、神泉町交差点の中華料理店に入った。テーブルではいつもの鉄道話で盛り上がる。初参加のKさんが、「みなさん鉄道にお詳しいんですね」と驚く。「地図のサークルなんですが、なぜか鉄道ファンが多いんです」と私が言うと、「地図と鉄道はいろいろと関係してますからね」と今尾さんがフォローしてくれた。

食事後は、再び用水跡の細い裏通りを歩いていく。裏通りといっても場所が場所だから、両側には目を見張るような豪邸の長い塀が続いている。まもなく西郷山公園の緑が見えてきた。西郷隆盛の弟従道(つぐみち)の別邸だったところだ。晴れていれば目黒川の谷を一望できるのだが、今日は雨に煙っている。だが、このしっとりした情景も悪くない。

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西郷山公園、紅葉の広場も雨に煙る
 

西郷橋からは旧山手通りに出た。ご存じの蔦屋書店をはじめ、おしゃれな店が軒を連ねる地区で、お上りさんの私は目を丸くしながら歩くのみだ。考えてみれば、この代官山といい、これから行く白金台といい、三田用水はセレブなエリアを貫いている。工業用水の比率が高まると、汚染を嫌って、水路は昭和の初めにほとんど暗渠化されてしまった(下注)が、そうでなければ、玉川上水のような木陰の散歩道に転換できていたかもしれないと思う。

*注 昭和10年代の1万分1地形図では、恵比寿のビール工場より上流で開渠のまま残されているのは、鎗ヶ崎交差点~火薬製造所間のみ。

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旧山手通り
(左)西郷橋を渡る
(右)用水があればこの歩道も水辺の散歩道になったかも
 

残念なことに、用水の追跡は、駒沢通りと交わる鎗ヶ崎(やりがさき)交差点で中断される。この先は水路に沿う道がなく、さらに防衛装備庁艦艇装備研究所の用地に入っていくためだ。「跡をたどれないので迂回します」と今尾さん。

私も、歩く区間の地理院地図を印刷してきているのだが、インクジェットのため、雨でにじんで、もはや細部が消えつつある。その点、今尾さんはスマホで、何と東京時層地図のアプリを仕込んでいた。にじむ心配がないどころか、旧版地形図を時代ごとに比較できるから、遺跡探索には強力なツールだ。

途中、研究所内の長大水槽を覆う建屋をフェンス外から眺めることで、この区間の探索に代えて、新茶屋坂に出た。道路が、長さ約10mのトンネルで用水の下を抜けていたという場所だ。しかし、道路の拡幅に伴い、トンネルは2003年に撤去され、今は南側の歩道脇に、銘板と記念碑だけが残されている。

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隧道があった新茶屋坂通りの掘割
右端に記念碑がある(別の日に撮影)
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茶屋坂隧道記念碑、右はその拡大
 

新茶屋坂の南側から、再び用水跡の小道が始まった。目黒三田通りとは薄い角度で交差するが、その交差点前にある日の丸自動車教習所の前を通り過ぎようとしたとき、大出さんが次の記念碑を目ざとく見つけた。丸石が2個埋められ、後ろにずばり「三田用水跡」と題した説明板がある。それによれば、この石は用水の木樋を支えていた礎石だそうだ。

「ビール工場の原料水にも用いられたと書いてありますよ」。今はガーデンプレイスになっているサッポロビール(旧 日本麦酒)恵比寿工場のことだ。「それだけ用水の水質が良かったということですね」と感心する。

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日の丸自動車教習所前の記念碑
 

山手貨物線で3か所しかない踏切の一つという長者丸踏切や、切通しに優雅なアーチを架ける白金参道橋で、マニアックな関心を満たした後、目黒駅前の陸橋で山手線を渡った。用水跡は目黒通りの南を走っているのだが、それに沿う道が寸断されているため、私たちは目黒通りを直進した。

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長者丸踏切
(左)山手線と貨物線の交差地点
(右)目黒駅方に白金参道橋のアーチが見える
 

白金台三丁目には、遺構がいくつかある。一つ目は今里橋の跡だ。白金台幼稚園の手前で小道が用水を渡っていた場所で、橋の欄干が片側だけ、道端に半ば埋もれた形で残っている。側面に回ると、水道管もいっしょに水路をまたいでいた。なるほどこれがあるために、欄干は撤去されずに済んだのだ。

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今里橋の欄干
(左)後ろの建物は用水跡に建つ
(右)用水をまたいでいた水道管
 

そこから南へ向かうと、公園沿いの小道で水路跡が歩道代わりとされ、小橋の跡もしっかり残っている。おもしろいのはその先で、鞍部を横断するため、用水は築堤上に通されていた。マンション建設で築堤は取り崩されたものの、付け根部分の水路断面が保存されているのだ。傍らに「三田用水路跡」の案内板も立っている。流路の末端に近いので、断面は側溝ほどのサイズしかないが、水路の現物が見られるのはここが唯一だろう。そしてこれより下流に、もはや遺構はないらしい。

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白金台三丁目に保存された水路断面
 

私たちは今里地蔵のお堂を経て、地下鉄の高輪台駅まで最後の区間を歩き通した。笹塚駅からここまでおよそ8.5km、いつしか雨も小止みになっている。

小学生のキリ君もまた、雨合羽姿でこの長い距離をついてきた。持っているゲーム機には歩数計の機能が搭載されているらしく、「さっき1万歩だったから、次はもう2万歩になるよ」と大人たちに盛んにアピールしながら。

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キリくん、沿道の手押しポンプに挑戦
 

掲載の地図は、地理院地図を使用したものである。

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2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル-S 春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしていた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですね」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年5月 9日 (木)

コンターサークル地図の旅-鬼怒川瀬替え跡と利根運河

取手(とりで)駅から、関東鉄道常総線のディーゼルカーに乗って北上した。列車は最高時速80kmで疾走する。全線非電化にもかかわらず、途中の水海道(みつかいどう)までは堂々たる複線で、まっすぐ延びる線路の上に、遮るもののない大空が広がっている。都市近郊路線としては他に得難い風景だ。

2019年5月2日、コンターサークル-S 春の旅1日目は、常総線の小絹(こきぬ)駅が集合場所だった。小さな駅舎の改札前に集ったのは、中西さん、丹羽さんと私の3人。初めに、鬼怒川(きぬがわ)の瀬替え、すなわち流路付け替えの跡を見に行く。

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寺畑北方の小貝川分流跡
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常総線小絹駅
(左)ユニークな妻面をもつ駅舎
(右)乗ってきた列車を見送る
 

鬼怒川は、日光国立公園の一帯を水源とする主要河川だ。栃木県と茨城県西部を貫流し、守谷(もりや)の西で利根川に合流している。しかしこれは、江戸幕府による利根川東遷事業で瀬替えされた結果で、以前はつくばみらい市(旧 谷和原(やわら)村)寺畑で、小貝川(こかいがわ)と合流していた(下図参照)。そこから下流では、今の小貝川が鬼怒川の河道だったのだ。

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鬼怒川旧河道(瀬替え跡)と利根運河周辺の河川の位置関係
基図に1:200,000地勢図(2010~12年)を使用
 

17世紀、新田開発と水運の改良を目的として、鬼怒川を常陸川(ひたちがわ、下注)に短絡させる新たな流路の開削が計画された。両者の間には比高10mほどの猿島(さしま)台地が横たわっている。約8kmの新流路の東半は台地に入り込む支谷の一つを利用し、サミットの板戸井(いたとい、現 守谷市)で台地を深く切り通した。1629(寛永6)年に工事は完成し、翌年、旧流路が締切られて、鬼怒川は小貝川と完全に分離された。

*注 1654年の赤堀川通水の成功と、その後の拡幅により最終的に利根川本流となる。

この瀬替えによって、鬼怒川と小貝川の間には約1kmの廃河道が残されることになった。その現状を確かめようというのが今回の目的だ。

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鬼怒川旧河道周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちは、かつて鬼怒川が小貝川と合流していた伊奈橋をめざした。地形図を手に、駅から最短経路となる里道をたどる。空は曇りがちながら、暑くも寒くもなく、歩くには申し分ない日だ。このあたりは台地と谷地(低地)が入り組んでいて、道も少なからず上り下りがある。20分ほどで小貝川の堤に出た。

橋の南側が、かつての合流地点になる。堤防に面して水門があり、「四ヶ字(しかあざ)排水樋管」と記した立札が付いていた。堤の内側に目を移すと、水門に通じる水路が見え、住宅地の中の四角い池につながっている。これらはみな河道の名残と考えていいのではないか。水路のそばに矩形の石碑が立っているが、碑文は残念ながら摩滅寸前で、「治水?生」(3文字目は不明)という題字以外、判読できなかった。

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(左)小貝川と伊奈橋
(右)四ヶ字排水樋管
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(左)住宅地の四角い池を東望
(右)水路のそばの石碑
 

中西さんが地形図を指差しながら、「この蛇行水路が気になります」という。寺畑の北方にある、常総市とつくばみらい市の境界に沿った水路のことだ。南側に、連続する崖の記号を伴っている。「鬼怒川と小貝川をつないでいた水路でしょうか」「流水方向が手がかりになるかもしれない」と、寄り道することにした。

代掻きを済ませた田んぼの間の、ぬかるむ農道を歩いていくと、地図のとおり、攻撃斜面に相当する高さ2~3mの崖の連なりが現れた。崖下は、一部が湿田になっているほか、一面芦原に覆われて、残念ながら水流はまったく見えなかった。「蛇行のカーブがきついところを見ると、本流ではなく、小貝川の分流かもしれませんね」と丹羽さん。おそらく、下妻から水海道にかけて多く見つかる乱流跡の一つなのだろう。

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小貝川分流を縁取る農道にて
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小貝川分流に沿う低い崖の連なり
 

鬼怒川の河道跡に戻る。先ほどの四角い池から西側は盛り土されて、西ノ台の住宅街の一部になり、緩やかにカーブする道路だけが、流路の中心線を保存している。約300m西で住宅街が途切れた後は畑地となり、それが常総線の低い築堤まで続く。

国道294号線の両側では、河道跡のほとんどが埋め立てられ、ロードサイド店の駐車場になっていた。間に残された水路がさきほどの中心線の延長上にあるようだが、今や水たまり同然で、顧みる人もない。とはいえ、これが400年前の川の痕跡だとすれば、よくぞ残ったという感慨も湧いてくる。

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(左)河道跡をなぞる街路のカーブ
(右)駐車場に挟まれた水たまりのような水路
 

その西には、旧道が載る高さ4~5mの築堤が延びている。河道跡と直交する形状から見て、鬼怒川を瀬替えしたときの締切堤防に違いない。鬼怒川は河川敷の一段低いところを流れているはずだと、河畔林まで分け入ってみた。しかし、藪が鬱蒼と生い茂って、見通しがほとんど利かない。カメラに一脚を取り付けても、藪の背のほうがはるかに勝る。隙間からかろうじて水面を透かし見ただけで、現場を引き揚げざるを得なかった。

河川敷の畑の木陰で、昼食休憩にする。ちょうどそこに、畑の持ち主の方が農具を持って現れた。聞けば、この河川敷は私有地で、昔は毎年水に浸かっていた。今でも数年に一度は、冠水するのだという。広い堤外地は、遊水地の役割を果たしているのだろう。同時に、洪水は新しい土を置いていくから、作物の育ちはいいはずだ。

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(左)旧道が載る締切堤防
(右)藪から透かし見る鬼怒川の川面
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木陰のある河川敷の畑、背景は締切堤防

午後は、利根川の対岸に導水口がある利根運河(とねうんが)へ移動する。丹羽さんが早引けついでにと、車で送ってくれた。

利根運河は、利根川と江戸川を接続している約8kmの運河で、1890(明治23)年に開通した。その目的は、海の難所である犬吠埼沖を避けるために、東北地方と江戸(東京)を結ぶ東廻り航路で利用されていた内陸水運ルートの改良だ。銚子から関宿(せきやど)まで利根川を遡上した後、江戸川を下るのが従来ルートだが、距離が長く、一部に浅瀬もあって、輸送効率が悪かった。そこで、これをショートカットする運河の掘削が計画された。

オランダ人の土木技師ムルデルの監督のもと、民間会社が建設し、通行料を取って運営した。しかし、栄えた時期は短く、近隣で相次いで開通した鉄道(下注)に貨客を奪われ、内陸航路はじりじりと衰退していく。そして1941(昭和16)年、台風に伴う増水で堰や堤が壊れて経営が行き詰まり、施設は国有化された。交通路の役目を終えた運河は、一時、首都圏の水需要を賄う導水路に活用されたものの、その機能もすでになく、今は産業遺産として保存されている。

*注 1896年に日本鉄道土浦線(後の常磐線)田端~土浦間が開通、1897年には総武鉄道(同 総武本線)が錦糸町から銚子まで通じた。

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利根運河周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちが着いたのは、利根川の取水口から1km西にある運河水門だ。空を覆っていた雲はすっかり消え去り、初夏の眩しい日差しが降り注いでいる。朝から着ていたジャケットも、もう必要ない。帰る丹羽さんにお礼を言って、運河の北岸を江戸川のほうへ歩き始めた。

高堤防の上に、細い道が緩いカーブを描きながら、延々と続いている。あずまやの前で、春日部から自転車で来たという人に声を掛けられた。ここまで20数kmあるが、車道を走らなくて済むので、よくサイクリングするのだという。「運河駅まで歩くの? まあ5kmだね」とよくご存じだ。

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利根運河
(左)運河水門 (右)細々とした水量
 

運河は戦後、利根川の洪水を江戸川へ逃がす分派機能を託され(下注)、それに伴い、堤防の拡幅と嵩上げが行われた。このため、運河の幅は80~90m(天端間)、堤高は約5mと、見た目にもかなりのスケール感がある。ところが底の水路は細々としたもので、葦の茂みの間に水質が悪化しない程度の量が流されているに過ぎない。下流では周辺からの流入があり、さすがに水かさが増すが、それでも子どもの膝まで届かない深さだ。汽船が通っていたとは信じられないが、もちろん昔はもっと水位が高かった。利根運河碑の説明板によれば、開通当時は河底幅が18mしかない代わり、平均水深は1.6mあったそうだ。

歩き始めのうちは、堤の下が田んぼの広がる谷津(やつ)、すなわち谷間の低地だったのだが、進むにつれて地盤が上がり、いつのまにか堤よりもまだ上に斜面が続いている。鬼怒川の新河道と同じように、運河は、下総(しもうさ)台地を深く掘り割って造られたからだ。しかし、人工水路でありながら、水辺には低木も茂り、その部分だけフレームに切り取れば自然河川と変わらない。

*注 正式名称は「派川利根川」だったが、地形図では常に利根運河と注記されている。

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堤防上から見た風景
(左)三ヶ尾の谷津
(右)周囲からの流入で少しずつ水かさは増す
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自然河川のように低木が茂る
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堤の上は東京理科大キャンパス
野田線の鉄橋が見えてきた(アーチのあるのは歩道橋)
 

5kmの距離は長そうに思えたが、二人で鉄道のよもやま話をしながら歩いたら、もう運河を渡る東武野田線(アーバンパークライン)の鉄橋が近い。流山街道の西側は親水公園に開放されていて、子どもたちが水遊びをしていた。運河の上空には、色とりどりの鯉のぼりが五月の風を受けて泳いでいる。たなびく姿が水面に映って、その数以上に賑やかに見えるのがおもしろい。

時代の要請に次々と応じたあげく、実用的役割を失ってしまった運河だが、今はこうして、人々が憩うやすらぎの水辺として余生を送っている。水路の生涯もさまざまだ。背景の鉄橋を電車が通過するのを記念写真に収めて、ささやかな水路巡りの旅を終えた。

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運河の上空で鯉のぼりが泳ぐ
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水面に映る鯉のぼり、背景は野田線の電車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図守谷(平成17年更新)および20万分の1地勢図千葉(平成22年修正)、東京(平成24年要部修正)、水戸(平成22年修正)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

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