典型地形

2021年11月 7日 (日)

ザクセンの狭軌鉄道-ムスカウ森林鉄道

ムスカウ森林鉄道 Waldeisenbahn Muskau

ヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ Weißwasser-Teichstraße ~バート・ムスカウ Bad Muskau
同上 ~クロムラウ Kromlau
同上 ~シュヴェーラー・ベルク Schwerer Berg
計 約20km、軌間600mm、非電化
1895年運行開始、1978年休止、1992年保存運行開業

軌間(線路幅)が600mmというのは、狭軌鉄道のなかでも最も狭い部類に入る(下注)。この軌間の鉄道はドイツでフェルトバーン Feldbahn(Feld は英語の field に相当)と呼ばれ、19世紀後半に鉱工業や林業など産業用の簡易軌道として広まった。フランスで開発され、組み立て式で設置が容易なことから世界的に普及したドコーヴィル軌道も同じ軌間だ。

*注 これより狭い軌間も営業路線として存在するが、ナローゲージ(狭軌)ではなくミニマムゲージ(最小軌)に分類されている。

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ムスカウ森林鉄道の蒸気列車
バート・ムスカウ駅にて(2013年)
Photo by J.-H. Janßen at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 
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ザクセン州北東端に位置するバート・ムスカウ Bad Muskau 周辺でも、1895年、大地主だったヘルマン・フォン・アルニム伯爵 Graf Hermann von Arnim が、周辺の森林と鉱物資源を開発するために、これを導入している。彼は、森林を切り開き、褐炭や珪砂の採掘を行い、それらを原料にして製材所、製紙工場、レンガ工場、ガラス工場を操業させており、簡易軌道は原料や完成品の運搬に欠かせないものだった。

ムスカウ森林鉄道 Waldeisenbahn Muskau は、この産業路線が廃止された後、愛好家や地元自治体によって再建された約20kmのルートで運行されている観光鉄道だ。600mm軌間の路線は、ドイツのいくつかの都市で公園鉄道 Parkeisenbahn(下注)として生き残っているが、長いものでも10kmに満たず、規模ではとうていこれに及ばない。

*注 いずれも旧東ドイツのエリアのベルリン Berlin、コトブス Cottbus、プラウエン Plauen、ケムニッツ Chemnitz、ゲルリッツ Görlitz などに見られる。

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(左)仕業前の調整
(右)客車と連結

伯爵が始めた軽便鉄道は、その後どのように展開していったのだろうか。

初めのうち、貨車を牽いていたのは馬だった。1年後にミュンヘンのクラウス Krauss 社から小型の蒸気機関車が届き、運行に供された。工場経営は順調で、わずか数年後には線路も85km以上に拡張されていたという。こうして最盛期には11両の蒸機が稼働する、多忙な路線網になった。しかし、第二次世界大戦の敗戦と連合軍占領により、産業会社は解体される。車両や軌道も、その多くが戦時賠償としてソ連に送られた。

戦後、ザクセンは東ドイツに属し、森林鉄道も1951年からドイツ国営鉄道 DR の管理下に置かれる。東ドイツ政府は、国内産業を再興するために、自給可能なエネルギー資源である褐炭の増産を図った。ムスカウ周辺でも鉱区が大きく拡張されて終夜操業となり、森林鉄道の車両群はフル稼働した。

この状況は1969年まで続いたが、この年、地区最大の鉱山が閉鎖されたことをきっかけに、輸送需要は急速にしぼんでいく。そして1978年3月、ついに森林鉄道は運行を停止した。不要となった機関車はドイツだけでなくヨーロッパ各地に売却され、蒸機99 3317だけが現地で記念碑の台座に据え付けられた。

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ヴァイスヴァッサーで静態展示されていた
蒸機99 3317(1977~90年)
Photo by anonym's grandma at wikimedia. License: Public domain
 

ただしこのとき、長さ約12kmのいわゆる粘土鉄道 Tonbahn だけはまだ使われていた。これは1966年に、東方ミュールローゼ Mühlrose の採掘場からヴァイスヴァッサー Weißwasser のレンガ工場まで、原料の粘土を運ぶために造られた路線だった。

森林鉄道の保存活動は、この残存路線を使って始まった。最初の特別運行が1984年に実行された。当初はレンガ工場の一角を借りて拠点にしていたが、1988年にのちの起点となるヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ駅が建設される。

1989年の国家解体に伴い、レンガ工場も閉鎖されてしまうが、地元自治体の主導で鉄道への支援は続けられた。旧東独地域に適用された雇用創出プログラムを利用して、路線の再建と車両の復元に必要な予算が確保できたことも幸運だった。

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ヴァイスヴァッサー周辺の地形図に
狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ルートは旧線の路盤を利用しながらも、DB駅に近いヴァイスヴァッサーと地元の観光地を結ぶ目的で新たに計画されている。最初に開通したのは、19世紀の領主が造った景観公園の前まで行くクロムラウ Kromlau 線で、1992年のことだ。小型ディーゼル機関車による運行だったが、鉄道復活を聞いて、愛好家だけでなく、観光客も多数訪れるようになった。

1995年には、蒸機99 3317を動態復活させて、保養地バート・ムスカウに至る2本目の路線が開通する。かつて町の南に駅があった標準軌の旧DR線(下注)は1977年に旅客営業を廃止しており、客を乗せた列車が現れるのは久しぶりだった。

*注 もとは1872年開業の、ヴァイスヴァッサーからトゥプリツェ Tuplice(ドイツ名:トイプリッツ Teuplitz)を経てルブスコ Lubsko(同 ゾンマーフェルト Sommerfeld)に至る路線。第二次大戦後、ナイセ川の国境設定により、運行はバート・ムスカウ止まりになった。2001年に貨物営業も廃止。

2010年には、第3の路線としてミュールローゼの粘土鉄道線を引き継いだ。しかし、露天掘り鉱山の区域拡張でルート変更が必要になり、2017年4月に、シュヴェーラー・ベルク Schwerer Berg に至る3.5kmの新ルートで運行が再開された。

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粘土鉄道線の再開の日(2017年)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

ムスカウ森林鉄道の列車が出発するのは、ヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ Weißwasser-Teichstraße 駅だ。DB(下注)のヴァイスヴァッサー駅前から、歩道に描かれた蒸機のイラストを頼りに北へ通りを歩いていくと、10分ほどで着く。林に囲まれた広く明るいホームをもつ、軽便線としては立派なターミナルだ。ホームの横で軽食堂も開いている。数本並んだ側線には貨車が多数連なっているが、これも保存車両の一部だ。

*注 現在、列車運行は合弁企業の東ドイツ鉄道 Ostdeutsche Eisenbahn (ODEG) が行っている。ヴァイスヴァッサーは、OE65系統(コトブス Cottbus ~ゲルリッツ Görlitz ~ツィッタウ Zittau)の途中駅。

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ヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ駅
 

もともとここには、ヴァイスヴァッサー駅の構内から続く標準軌の貨物専用線があり、北側にあった工場施設へ引き込まれていた。また、それに並行して、もと森林鉄道で、後に粘土鉄道に転用された狭軌線も南西のレンガ工場から出てきて、北へ延びていた。今見るような狭軌鉄道駅は、標準軌の線路が撤去された後に改めて整備されたものだ。レンガ工場の跡地も、森林鉄道の車庫 兼 整備基地として再利用されている。

標準軌線が引き込まれていた北側の工場施設(下注)はしばらく廃墟状態だったが、2001年に博物館駅「アンラーゲ・ミッテ Anlage Mitte(中央施設の意)」として再生された。現在は、車両や各種資料を展示した森林鉄道の博物館と、地域のインフォメーションセンターになっていて、蒸気運行の日に公開される。

*注 東ドイツ時代の地形図では、ガラス工場と製紙(ボール紙製造)工場の注記がある。

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博物館駅「アンラーゲ・ミッテ」
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博物館の展示
(左)所狭しと並ぶ車両群
(右)5号機関車の姿も
 

ここで、森林鉄道の運行状況を押さえておこう。

運行日は4月~10月上旬の週末だが、7月最終週から9月第1週は夏の繁忙期として、週末のほか、火曜、木曜、金曜にも運行される。列車を牽くのは基本的に小型ディーゼル機関車で、2021年のダイヤでは1日3往復設定されている(博物館駅は無停車)。蒸気機関車は、原則毎月第1週の週末に登場する。それを目当てに客も集まるので、1日6往復と頻繁運転だ。

公式サイトで5両挙げられている動態保存機のうち、最古参は1912年ボルジッヒ Borsig 社製の4軸機関車「ディアーナ Diana」、車両番号99 3312だ。1977年に引退した後、ヴァイスヴァッサーで静態展示されていたが、1997~98年にマイニンゲンで改修を受けて現役に復帰している。

一方、99 3315と99 3317の2両は、いわゆる「旅団機関車 Brigadelokomotive」だ。第一次世界大戦中、戦地に敷かれる軍用簡易軌道 Heeresfeldbahn のために大量製造された形式車で、戦後は世界各地の民間鉄道に引き継がれた。よく似たダイヤモンド形の煙突をもち、車両番号もディアーナの続きだが、出自はまったく異なる。

客車にはオープンタイプ(側壁なし)とクローズドタイプがあり、いずれも貨車を改造したものだ。

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鉄道のオリジナル蒸機99 3312
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(左)旅団機関車 99 3315
(右)同 99 3317(2017年)
Photo by Kevin Prince at wikimedia. License: CC BY 2.0
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改造客車はオープン型とクローズド型がある
 

運行ルートは上述のとおり3本に分かれている。東へ行くバート・ムスカウ線は、所要時間が片道30~35分、西へ進むクロムラウ線は20分だ。残るシュヴェーラー・ベルク線は西から南へ回り込む最も長いルートだが、日を限定した特別運行の位置づけで、蒸機による往復3時間のツアーとして実施される。

3つのルートはそれぞれ沿線に見どころがあり、終点の周辺には観光地も有している。順に見ていこう。

バート・ムスカウ線

列車は、博物館駅を出た直後、クロムラウ線を左に分けて、自らは直進する。森の中を少し走った後は、連邦道B 156号(ムスカウ通り Muskauer Straße)の横に出て、2km近く並行する。列車は最高時速でも25kmなので、隣を疾走する車には抜かれっぱなしだ。

やがて線路は、左カーブで道路からそれる。林と畑が交錯する間を行くと、列車交換用の側線をもつクラウシュヴィッツ Klauschwitz 停留所に停車する。すぐ先が、連邦道B 115号の踏切だ。森林鉄道の踏切は、標識があるだけの、日本でいう第四種踏切がほとんどだが、ここはさすがに遮断機が設置されている。ただし、手動式だ。車掌が客車から降りて、操作盤を開け、遮断棒を下ろす。

踏切通過の儀式が終わると、列車は巡航速度に戻る。また森の中に潜り込むが、それも長くは続かず、草野原の中の終点バート・ムスカウに到着する。すぐに機回しが行われて、列車は15分後の復路出発を待つ。

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バート・ムスカウ線
(左)博物館駅に戻ってきた列車
(右)クラウシュヴィッツ停留所で、車掌が踏切閉鎖に向かう
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バート・ムスカウ駅
 

バート・ムスカウには、市街地の東に隣接して、2004年に世界遺産に登録されたムスカウ公園 Muskauer Park(正式名はピュックラー侯爵公園 Fürst-Pückler-Park)がある。ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵 Hermann Fürst von Pückler-Muskau が1815年から30年かけて作り上げた中欧最大のイギリス式庭園で、総面積は8.3平方キロと広大だ。

ラウジッツァー・ナイセ川 Lausitzer Neiße の広い氾濫原を利用し、森と水辺と人工物が古典主義の風景画のように配置されていて、その中心に、薔薇色の壁が印象的なネオルネッサンス様式のムスカウ宮殿 Schloss Muskau(新宮殿 Neues Schloss)がある。

第二次世界大戦後、ナイセ川に新たな国境線が引かれた結果、公園はドイツとポーランドに分割された。そのため、世界文化遺産の登録範囲も両国にまたがっているが、川に架かる二重橋 Doppelbrücke を通って自由に往来できる。

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公園の中心、ムスカウ新宮殿(2014年)
Photo by Kora27 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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(左)新宮殿西面(2016年)
Photo by Heigeheige at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)新宮殿正面
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(左)ナイセ川の中州に渡された二重橋(2011年)
Photo by Schläsinger at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)今は国境の橋を兼ねる
 

森林鉄道の駅からこのムスカウ宮殿までは、市街地を経由して1.3km、歩いても15~20分というところだ。また、市街地とDBヴァイスヴァッサー駅の間には路線バス(下注)も走っているので、帰りはそれでDB駅まで戻ることも可能だ。

*注 オーバーラウジッツ地域バス Regionalbus Oberlausitz 250系統。公園の最寄りバス停はバート・ムスカウ・キルヒプラッツ(教会広場)Bad Muskau Kirchplatz。土日は本数が少なくなるので注意。

なお、森林鉄道の駅の東を流れるナイセ川には、上述した旧 標準軌線の魚腹アーチを連ねた鉄橋が残り、自転車道・遊歩道に利用されている。最近、青の塗料が塗られて「青い奇跡 Das Blaue Wunder」の名が付けられた。

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(左)旧 標準軌線の魚腹アーチ橋
(右)自転車道に転用され「青い奇跡」に(2018年)
Photo by Wdwdbot at wikimedia. License: Public domain
 

クロムラウ線

クロムラウ行きの列車は、博物館駅の後、バート・ムスカウ線を見送って、左へ急カーブする。しばらく森の中を西へ進み、今度は右の急カーブで、シュヴェーラー・ベルク線と別れる。

ときおり森が開けて小さな湖が車窓をかすめるが、実はこれも注目点だ。地形的に、森林鉄道の沿線を含む約20km四方の地域は、北に開いた馬蹄形をした圧縮モレーン(氷堆石)から形成されている。ムスカウの褶曲アーチ Muskauer Faltenbogen(英語ではムスカウ・アーチ Muskau Arch)と呼ばれ、巨大な氷塊により圧縮されて褶曲したモレーンだ。

褶曲地層の高い部分は、後に氷河が前進したときに削られ、それにより露出した褐炭層が、酸化による体積の減少で溝状の湿地に変化した。こうしてできた湿地帯を舞台に、近代になって人間が鉱物資源を採掘し、森林鉄道で運び出した。その跡に水が溜まって、湖と化す。

空から見ると、一面の森の間に、東西方向に連なる細長い湖の列が数本並んでいるのがわかる。列は地層の褶曲による「しわ」を示すものだが、湖自体は自然の造形ではなく、人間の活動の痕跡なのだ。

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空から見たムスカウ褶曲アーチ
採掘跡の湖が列を成す(2019年)
Photo by PaulT (Gunther Tschuch) at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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クロムラウ線
(左)小さな湖がときおり現れる
(右)クロムラウ駅の終端
 

終点のクロムラウ駅は、シャクナゲ公園 Rhododendronpark と呼ばれる景観公園の南のへりに造られたため、孤立したような場所にある。乗ってきた列車は5分後にさっさと折り返してしまうが、ここは列車を1本遅らせて公園散策に出かけたい。というのは、この先にラーコツ橋 Rakotzbrücke という必見の名所があるからだ。

ムスカウ公園のピュックラー侯爵と同時代人である大地主のフリードリッヒ・ヘルマン・レチュケ Friedrich Hermann Rötschke は、購入した地所の半分を公園として、さまざまな樹木を植え、一風変わった造形物を設置した。その一つが玄武岩と礫で造られた太鼓橋だ。細長い湖をまたいでいて、径間35mの半円が波静かな水面に映ると、完全な円に見える。その不思議な姿から、「悪魔の橋(魔橋)Teufelsbrücke」の別名がある。

クロムラウ駅からラーコツ橋までは、公園の遊歩道を通って約1.2km、15分ほどだ。

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魔橋ラーコツ橋(2013年)
Photo by Michael aus Halle at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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シャクナゲ咲く湖のほとりに魔橋の展望地が(2017年)
Photo by Kora27 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

シュヴェーラー・ベルク線

旧 粘土鉄道のこの路線は、クロムラウ線の途中にある分岐から始まる。ルートの見どころの一つ目は、旧 標準軌線(下注)のガード下をくぐる箇所だ。地下水位が高く、掘り下げた線路がしばしば冠水するため、列車は水の上を走る形になる。二つ目は、その先にあるスイッチバックで、機回し(方向転換するための機関車の付け替え)が行われる。このスイッチバックは急勾配対策ではなく、既存の路線網に追加接続する過程で生じたものだ。

*注 ヴァイスヴァッサー=フォルスト線 Bahnstrecke Weißwasser–Forst。1996年廃止。

ルートの後半は2017年に開業したばかりの新線区間で、森を抜け、広大な露天掘り鉱山のへりに沿って走っていく。終点のシュヴェーラー・ベルクでは、1時間の休憩がある。少し歩いて展望台に上れば、地の果てまで続くような露天掘りの現場を眺め渡すことができる。

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(左)露天掘り鉱山のへりを走る(2017年)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)シュヴェーラー・ベルクの展望台(2009年)
Photo by Frank Vincentz at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

次回は、レースニッツグルント鉄道を訪れる。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2014年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
ムスカウ森林鉄道 https://www.waldeisenbahn.de/

★本ブログ内の関連記事
 ザクセンの狭軌鉄道-ツィッタウ狭軌鉄道
 ザクセンの狭軌鉄道-レースニッツグルント鉄道

2020年10月27日 (火)

コンターサークル地図の旅-石の里 大谷

朝10時、JR宇都宮駅西口のペデストリアンデッキからバスターミナルの乗り場へ降りると、すでに20人以上が列を作っていた。それも若者が多い。まさかそれほどの人気スポットとは知らなかったから、日曜なのに学校で授業か試験でもあるのか、と勘繰ったほどだ。聞くと、最近またメディアで取り上げられたらしい。私たちが行こうとしている場所は、PVその他の映像作品のロケ地としてもしばしば使われている。

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大谷資料館の地下採掘場跡
 

2020年10月4日、コンターサークルSの旅2日目は、その宇都宮市大谷町(おおやまち)を訪ねた。宇都宮駅の北西約8kmにある、建築用石材として名高い大谷石の産地だ。

大谷石とは、今から約1500万年前に火山灰や軽石などの火山噴出物が海底に堆積して凝固した角礫凝灰岩のことだ。気泡が多く含まれるため、比較的軽くて加工しやすく、建材として重宝されてきた。とりわけ大正期、関東大震災に見舞われた東京で、これを使った帝国ホテル本館(下注)が無事だったことから耐火性が評価され、復興需要で一躍その名が広まった。

*注 そのエントランス部分は、愛知県の博物館明治村で移築公開されている。

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大谷寺と大谷公園をつなぐ切通し
 

大谷石はこの地域の東西約5km、南北約10kmにわたって分布しており、露天掘りだけでなく、坑内掘りも盛んに行われてきた。現地には、こうした地下の広大な採掘場跡を公開している資料館があり、切り出した石材を運搬していた軌道跡なども残っている。きょうは一日、このユニークな石の里を巡るつもりだ。

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大谷資料館の位置
(1:200,000 平成22年修正図)
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と東武大谷線の位置(緑の破線)等を加筆

集合したのは中西、大出、森さんと私の4名。並んでいた若者たちとともに、10時05分発の大谷・立岩行きに乗り込んだ。バスは中心街を東西に貫く大通りから、大谷街道へと進んでいく。車内はほぼ満席で、ほぼ全員が大谷まで乗り通した。

資料館入口というバス停で下車。姿川が流れる谷間で、両側を屏風のように切り立つ灰色の崖に挟まれている。これも大谷石の露頭だ。バスは空っぽになるし、屋台も出ていて、すっかり著名観光地の様相だが、関東圏に住むメンバーでも、「何かきっかけがないと、ここまで足を延ばすことはないですね」という。ともかく案内標識に従って、山手へ歩いていく。

広い駐車場を通り抜け、急な坂道を上り、谷の奥まったところに、大谷資料館と付属のカフェ・売店があった。ここも昔は露天掘りされていたのだろう。周囲の岩山は直線的かつ複雑な形状に切り出されていて、眺めるだけでも面白い。鉱山の跡というよりもはやアートだ。

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(左)資料館入口バス停
  バスは宇都宮LRTのラッピング車だった
(右)大谷資料館正面(2017年撮影)
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資料館の周りのアートな岩山
 

資料館1階には、大谷石に関する資料が展示されている。メンバーがめざとく見つけたのが、石材を運搬していた手押しトロッコの復元模型。レールに載せた木枠の車台に、直方体に切り揃えられた本物の大谷石がぎっしりと積まれている。このようなトロッコで採掘場から荷捌きの駅まで移送していたのだ。ふと岐阜県岩村の酒屋で見た横丁鉄道(下注)を思い出した。

*注 酒屋の横丁鉄道については、本ブログ「城下町岩村に鉄路の縁」の末尾で記述。

トロッコ展示の上には、この一帯に張り巡らされていた石材軌道の路線図が掲げてある。実現はしなかったが、滞貨を解消するために、宇都宮駅を起点とする大谷石材鉄道という新線計画もあったという。旺盛な石材需要に乗って、この地域が栄えていたようすが想像できる。

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大谷石を運んだ手押しトロッコ
(大谷資料館の展示)
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石材軌道の路線図(大谷資料館の展示パネル)
左は開通年、中は廃線年を記載、
右は未成に終わった大谷石材鉄道を解説
 

資料はそれぞれに興味深いのだが、この施設の神髄はまだ別のところにある。右手の入口から降りていく石の階段の先に、にわかに開ける巨大な地下空間だ。それは四角い断面の筒を横倒しにした形で、奥に向かって沈み込むように傾斜している。さらに左右にも同じような筒状空間が延びている。歩き回るにつれ、全体が大谷石の地層の中に掘られたホール状の空洞で、一部を柱として残してあるのだということがわかってくる。

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石の階段を下りていくと…
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地下採掘場の巨大な空間が開ける
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(左)底部から見た入口の階段
(右)成形作業の展示
 

天井はるか高いところに開いている穴は、深さを測った跡だという。一面鑿や鶴嘴の跡が残された壁は、カメラで切り取るとまるで現代美術のようだ。坑内には七色のライトアップが施され、目を引くために野外彫刻のような造形物が配置されている。しかしそれらは味付けに過ぎず、この大空間が放つ荘厳さそのものが、訪れた者に驚きと感動を呼び起こす。

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ライトアップされた地下採掘場跡
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訪問者がカメラを向けているのは
天井に開いた深度測定用の穴
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鑿や鶴嘴の跡は現代美術のよう
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開口部から地上の光が差し込む
 

説明板によると、ここは大正時代から60年以上にわたって大谷石を採掘した跡で、間口150m、奥行き140m、深さは平均地下約30m、野球場一つ入る大きさがあるそうだ。そして、見て回れるエリアは実は全体の半分にも満たず、未公開の坑道がまだ奥の暗闇に眠っているのだという。

外の気温は22度あったが、坑内の気温計は13度とかなり涼しい。ジャケットの裾をたぐり寄せながら、この途方もない体積を掘り、搬出した時間と労力に思いを馳せた。朝のバスの混みぐあいや駐車場に櫛比する車の数も、この非凡な体験を得るためだとしたら納得がいく。

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(左)坑内気温13度
(右)坑内図
  公開部は薄灰色、
  背後に広大な非公開部(白色、立ち入り禁止と注記)がある

資料館を後にして、さっきのバス停の前にある大谷景観公園で昼食にした。芝生の中に設置された広い木製テーブルが、使ってくださいと言わんばかりに私たちを誘っている。

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大谷景観公園
中央のテーブルで昼食タイム
 

昼食後は、大谷寺の前から、平和観音が立つ大谷公園へ抜けた。ここも露天掘りの跡だが、そこに石の山から彫り出したという観音像がある。高さは約27m、尺貫法では88尺8寸8分で、足元から仰ぐとかなりの迫力だ。頭部はていねいに彫られ、裳裾も優美なフォルムを描いているが、「手はどうなってるんでしょうね」と誰かがつぶやく。あまり注目されない部分なので、ラフに仕上げてあるのだろうか。

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石の山から彫り出した大谷観音
 

資料館で見たとおり、かつて大谷石は鉄道で運び出されていたので、一帯の鉄道密度はかなり高かった。嚆矢となったのは、1897(明治30)年開業の宇都宮軌道運輸による人車軌道で、1903(明治36)年に日光線の鶴田駅に接続されている。この後、点在する産地に向けて2社が争うように路線を延ばしたが、1907(明治40)年に宇都宮石材軌道に一本化され、さらに1931(昭和6)年に、宇都宮に進出した東武鉄道によって買収された(下注)。

*注 それに伴い、鶴田駅西方の分岐点から東武宇都宮線の西川田駅に接続する新線が建設されている。

東武大谷線の路線網には、軌間610mmの「軌道線」と、同 1067mmの「軽便線」の二つのグループがあった。第二次大戦後、トラック輸送の普及により、前者は1952(昭和27)年に全廃されてしまったが、後者は1964(昭和39)年まで運行されていた。そこで採掘場跡を巡った後は、この大谷線の跡を訪ねる。

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石材軌道現役時代の1:25,000地形図
(1929(昭和4)年修正図)
 

森さんが、廃線跡の現状について解説した資料を配ってくれた。それに従って、大谷街道を宇都宮の方向へ少し戻る。この街道上にも併用軌道が敷かれていたはずだが、大谷寺西方の三叉路付近に、軌道線大谷駅跡が空地として残されているだけだ。

県道70号(宇都宮今市線)の大谷交差点からさらに東へ進むと、道路の南側に、軽便線の荒針(あらはり)駅跡である広大な敷地が見えてきた。ロードサイドの商業地区に再生され、奥はパチンコ店の駐車場に使われている。

線路はまもなく大谷街道から離れ、一路南へ向かっていた。だが、鹿沼街道との交差点までは、明保(めいほ)通りとして拡張整備されており、痕跡は消失している。それで、荒針分岐点から北上していた立岩(たていわ)支線跡に足を向けた。

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東武大谷線跡
(左)荒針分岐点から南は明保通りに転換
(右)北は小道になって続く
 

こちらは車1台通れる程度の小道のままで、まだしも鉄道の雰囲気を残している。右手から近づいてくる2車線道と接する地点に、「東武鉄道株式会社社有地」と記された杭が2本立っていた。簡易舗装された歩道に見えるので、社有地とは意外だった。処分しない理由があるのか、あるいはどこも引き取ってくれなかったのか。いずれにしても廃線跡を示す決定的証拠には違いない。

すぐに瓦作(かわらさく)駅の跡がある。片側が森に接したやや幅広の敷地に、大谷石のベンチらしきものが置かれている。その先は通学路に使われていたようで、車道との交差点に「止まれ」の標識やロードサインが見られた。しかしかなり古びていて、もう利用されていないのかもしれない。

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(左)道端に立つ東武社有地標
(右)瓦作駅跡
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(左)瓦作駅北方の、枕木を再利用した柵
(右)田んぼの中を延びる廃線跡
 

車道と分かれ、線路跡の道は田んぼの中を心細げに延びる。終点の立岩駅跡は児童公園に変貌していたが、ここでも同じ社有地標を発見した。

立岩支線は、先ほどの荒針分岐点からここまで2.1kmの短い貨物専用線だった。レールこそ取り払われてしまったが、それを除けば、ここにゴトゴトと無蓋貨車を牽いて列車がやってきてもおかしくない。そう思わせる、時が止まったような廃線跡だ。

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(左)終点立岩駅跡は児童公園に
(右)ここにも社有地標が
 

立岩には、朝乗ってきた路線バスの終点がある。帰りのバスも混むだろうから、始発から乗るにこしたことはない。運転手は「折り返しまでまだ時間があるので、乗って待っていてください」と私たちに言って、休憩に出ていった。村はずれの、ベンチもない停留所だったので、疲れた足にはありがたかった。

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帰りは立岩バス停から
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図大谷(昭和4年修正測図)、宇都宮西部(昭和4年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大谷(平成29年調製)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
Oya, Stone City https://oya-official.jp/

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2020年9月18日 (金)

レッチュベルクトンネルの謎のカーブ

スイスアルプスを南北に貫く鉄道軸の一つが、首都ベルンから南下するベルン=レッチュベルク=シンプロン鉄道 Bern-Lötschberg-Simplon-Bahn(以下 BLS と略す、下注)だ。これは、ベルンアルプス(ベルナーアルペン)Berner Alpen を長大なトンネルで貫いてローヌ谷のブリーク Brig に至るルートで、ブリークからは、シンプロントンネルを介してイタリアに通じている。

*注 本来のBLS線は、トゥーン Thun ~ブリーク間と、シュピーツ Spiez ~インターラーケン・オスト Interlaken-Ost 間だが、1997年に周辺の小鉄道3社を統合し、路線網が拡張された。

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レッチュベルクトンネル南口(2012年)
Photo by Adrian Michael at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

BLS線にとって要の位置を占めるのが、レッチュベルクトンネル Lötschbergtunnel だ。1906年に着工され、6年の工期を経て、1912年に竣工した(開業は1913年)。14.6kmの長さがあり、当時、シンプロン Simplon の第1および第2、ゴットハルト(ゴッタルド)Gotthard/Gottardo に次いで4番目に長いアルプス横断鉄道トンネルだった。

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レッチュベルクトンネルと周辺の鉄道路線
赤線が BLSの旧 本線区間
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カンダーシュテーク駅
Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

トンネルの北口はカンダー谷のカンダーシュテーク Kandersteg に、南口はレッチェン谷のゴッペンシュタイン Goppenstein に置かれている。大規模な山岳トンネルのルートは直線が望ましい。距離が最短になるだけでなく、当時の技術では導坑掘進の際に生じがちな測量誤差を、最小限に抑えることができるからだ。

ところが地形図を見ると、トンネルの平面線形は直線どころか、途中で妙なカーブを描いている。試しに北口と南口に定規を当ててみると、両端の区間は同一直線上にあることがわかる。そこで、本来トンネル全体が直線で計画されていたにもかかわらず、何らかの理由で中間部を曲げざるを得なかったという推測が成り立つ。

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1:100,000地形図に描かれたレッチュベルクトンネル
41 Col du Pillon 1992年
42 Oberwallis 1993年
© 2020 swisstopo
 

と、ここまで来れば、鉄道に詳しい方なら、上越新幹線の高崎~上毛高原間にある中山トンネルを想起されることだろう。建設中に大量の出水に見舞われ、ルート変更を余儀なくされた事例だ。現場に半径1500mのカーブが設けられたため、通過する列車に今も速度制限が課せられている。

掘削技術が進歩した1970~80年代でもそれほどの難工事があったのだから、さらに70年も前のレッチュベルクでの苦難は推して知るべしだ。いったい何が起こったのだろうか。スイス土木工学学会の刊行書籍「スイスにおけるアルプス開鑿史」(下注1)のレッチュベルクトンネルの章に、その顛末を記した技師ロートプレッツ Rothpletz 博士の手記(下注2、原文はドイツ語)が抜粋引用されている。それによると…

*注1 "Historische Alpendurchstiche in der Schweiz" Gesellschaft für Ingenieurbaukunst, 1996.
*注2 F. Rothpletz "Erinnerung an die schwersten Tage meines Lebens und deren Folgen(わが人生で最も困難な日々の記憶とその結末)" 1944.

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「スイスにおけるアルプス開鑿史」表紙
 

「1908年7月23日、… 底設導坑の胸壁は、坑門からの測定で2.675 kmに達していた。…

(夜)1時ごろ、私は坑門の外約200mにある家にいた。疲れていたのですぐに深い眠りについたが、3時頃、技師の一人に起こされた。『トンネルで何かあったようです』彼はそう言うと、先に出ていった。

坑門に着くと、しんと静まり返っていた。管理事務所では、全員が出払っていて、何が起きたのかほんとうに誰も知らないという答えだった。入坑簿を確かめたところ、掘削現場のほぼ全員が戻ってきていないことがわかった。彼らはまだ坑道内に残されていたのである。私は何が起きたのかを調べるために、すぐに現場監督とともに人けのない坑道に入った。坑門から1200mで、円錐形の岩屑に遭遇した。坑門から約1500mの地点で、坑道が岩屑で満たされ、その堆積から水が流れ出していることが明らかになった。

私はすぐに悟った。先進坑で崩壊が起きたこと、そしておそらくガステルン谷の堆積物がその中に流入したことを。全員の消息が不明だった! (後日)ガステルン谷で行われた調査で、(河原に)直径約80m、深さ3mの漏斗状の陥没が発見された。すなわち、最後に仕掛けた発破で岩の壁が破られ、… 坑道にガステルン谷の堆積物が流入したのだ。… 地質調査で推定されていた、坑道の上にはまだ厚さ100mの石灰岩の層が横たわっているというのは、誤りであった。

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ガステルン谷の陥没現場
Photo from E-Pics Bildarchiv online. License: CC BY-SA 4.0
 

捜索中、円錐形の岩屑の端からさほど遠くないところで作業員の一人が死亡しているのが見つかった。24名の同僚の代わりにカンダーシュテークの墓地に埋葬されたのは、彼だけだった。

自然岩盤がどれほどの深さで、トンネルが横断する可能性のある岩屑の堆積がどれほどの長さになるかを確かめるために、ガステルン谷で探査の手筈が整えられた。… その結果、ガステルン谷は想定以上に深く侵食されたうえ、再び埋め尽くされていたことが判明した。それはトンネルの横断予定地点よりはるかに深く、トンネルの上にあったのは厚さ100mの岩盤ではなく、カンダー川の水が浸透した172mもの堆積物、モレーン、押し出された岩屑であった。

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オリジナルルートの縦断面図
専門委員会報告書 Rapport de la Commission des Experts、1909年 より
 

ガステルン谷の堆積物に長さ350mの坑道を通す方法と、この作業を実行するのに必要な時間と費用を決定するために、大規模な調査が必要になった。

圧縮空気方式で横断するのは、おそらく10気圧以上の水圧を計算する必要があるため、現実的ではないように思われた。それに3気圧以上になると、人力での作業が可能性の限界にほぼ達してしまう。

凍結方式と同様に、セメント固結方式の成功も疑わしかった。水流があると、セメントは高価な冷却材と同じく運び去られてしまうからである。… また、二つの方法とも十分に固結されなければ、172mの堆積物が新たに流入する危険があり、事故再発の可能性があることも懸念された。

まもなくパリから現れた(建設コンソーシアムの)7人の企業家たちは2日目に、ガステルン谷の事故現場を迂回することに疑問を呈した。… それに対して私は、これほど危険を伴う工事を作業員に行わせるわけにはいかないと言った。というのも、トンネルの完成というゴールに導いてくれる、より安全な方法が他にあるに違いないし、それを私たちは、危険個所の迂回によって確保できると思っていたからである。最終的に、トンネルを迂回させ、今より800m長くするという決定がなされた。この迂回ルートは、特段の事故や困難に遭うこともなく、無事竣工した。

災害で生じた財政的な影響を、鉄道会社と建設コンソーシアムのどちらが負うべきかを巡っては訴訟になったが、後者が全面的に敗訴した。災害は不可抗力によるものではなかったため、契約書の文面により後者の責任とされたのである」。

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現ルートと新ルート周辺の地質図
専門委員会報告書、1909年より

博士が記しているように、トンネルは本来、ガステルン谷(地形図の表記はガステレタール Gasteretal)の基盤を形成している固い石灰岩の層を通過する計画だった。ところが、谷の岩盤が想定以上に深く削られており、上流から運ばれてきた砂礫や泥がその上にうず高く堆積していた。事故は、先進坑がその未固結の層に達したことから起きた。地圧のかかった堆積物が地下水もろとも一気に流入し、坑内を埋め尽くしてしまったのだ。

事故後、埋没した導坑への進入が何度か試みられたが、そのつど岩屑の崩落により阻まれた。24名の作業員の捜索は断念せざるを得なかった。掘削を継続するために、砂礫層の凍結、またはセメントによる固結工法も検討された。しかし、ガステルン谷は、融雪期以外は地表に水流がない涸れ谷で、大量の伏流水が地下に浸透しており、その量と速度から判断して、地盤の安定化は困難だった。

直線ルートの維持が不可能となったことから、改めて詳細な地質調査が行われ、谷を横断する位置を約2.5km上流に移す迂回ルートが計画された。そして、既存の導坑のうち迂回の起点から先の約1.5kmが放棄され、レンガで永遠に封鎖された。

その年(1908年)の12月、連邦議会で計画変更が承認され、建設工事は翌年2月15日にようやく再開される。この結果、当初長さ13,805mになるはずだったレッチュベルクトンネルは、807m延長されて14,612mとなるとともに、地図上にも異様に曲がったルートが描かれることになった。

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1911年5月14日貫通式の来賓用特別列車
ゴッペンシュタインにて
Photo from www.bls.ch

こうして苦難の末に完成したレッチュベルクトンネルとBLS線は、1世紀近くもの間、ドイツ、スイス、イタリアを結ぶ国際幹線の一部として重要な役割を果たし続けてきた。

1926年にはトンネルを挟む区間で、無蓋貨車に自動車を載せて運ぶカートレイン Autoverlad のプロトタイプが開始され、1960年には定期運行化されるようになった。また、トンネルは最初から複線で建設されていたが、1992年にはアプローチ区間を含めた全線が複線化されて、輸送力の強化が実現している。

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(左)初期の自動車輸送
 Photo from www.bls.ch
(右)ブリーク駅を通過するイゼッレ Iselle ~カンダーシュテーク間のカートレイン
 Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし2007年に、長さ34,577mのレッチュベルク基底トンネル Lötschberg-Basistunnel とそれに接続するバイパス新線が開業したことで、レッチュベルクトンネル経由の旧線はメインルートの地位から降ろされた。同じく基底トンネルが開通したゴットハルト旧ルートと同様、現在は、1時間に1本のRE(レギオエクスプレス、快速に相当)が通るだけのローカル線となって、余生を送っている。

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レッチュベルク基底トンネル北口
旧線がその上を交差する
Photo from www.bls.ch
 

■参考サイト
BLS https://www.bls.ch/
AlpenTunnel.de http://www.alpentunnel.de/

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 フルカ基底トンネルとベドレットの窓
 スイスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 スイスの鉄道時刻表

2020年7月29日 (水)

モンセラット登山鉄道 I-旧線時代

モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat

【旧線】
モニストロル・ノルド Monistrol-Nord ~モンセラット・モネスティル Montserrat-Monestir 間 8.6km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
1892年開通、1957年廃止

【新線】
モニストロル・エンリャス Monistrol-Enllaç ~モンセラット Montserrat 間 5.2km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
2003年開通

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R5系統の車窓から仰ぐモンセラットの山塊と修道院
海外鉄道研究会 田村公一氏 提供

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モニュメンタルな岩の柱が林立し、異形の山容が目を引くモンセラット Montserrat(下注)。スペイン、カタルーニャ州の州都バルセロナの北西50kmにあるこの山は、全体が自然公園に指定されている。その一角を占めるベネディクト派の修道院は古来、人々の崇敬を集めてきたカトリックの聖地だ。

*注 カタルーニャ語の発音は「ムンサラト」に近いが、慣用に従い、モンセラットと表記する。

山の中腹、狭い谷壁に張り付くように建てられた修道院付属大聖堂 Monasterio には、モンセラットの聖母 Mare de Déu de Montserrat(下注)と呼ばれる黒い聖母子像が祀られている。山麓を走る近郊線の駅から標高700m台のその大聖堂の前まで、現代の巡礼者を連れて行くのが登山鉄道「クレマリェラ・デ・モンセラット(モンセラット登山鉄道)Cremallera de Montserrat」(下注)だ。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

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緑をまとうモンセラットの登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山鉄道は、カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が運行している。メーターゲージ(1000mm軌間)で、アプト式のラックレールを使う。同じFGCで、州内にもう一つある同種の路線、ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria(下注)と共通の仕様だが、車両の塗色はヌリアの青に対して、こちらは緑色になっている。

*注 スペイン全体でも、ラック式鉄道はこの2本しかない。ヌリア登山鉄道については、本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」で詳述。

現代風の車両や地上設備を一見すればわかるように、運行開始は2003年で、まだ20年も経っていない若い路線だ。ただし、まったくの新設ではない。1950年代に廃止された旧線跡を多くの区間で利用しており、事実上の復活と言うべきものだ。新線の紹介に入る前にまず、前身となるこの旧 モンセラット登山鉄道の歴史から繙いてみたい。話は19世紀に遡る。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

バルセロナ方面からモンセラットへ向かう本来の巡礼路は、南麓に位置するコイバト Collbató の村から続く山道だ。その伝統を一変させたのが、1859年に当時の北部鉄道会社 Ferrocarrils del Nord が開通させた鉄道だった。これは、マンレザ Manresa 経由でバルセロナとリェイダ Lleida 以遠を結んだ広軌路線(下注)で、現在、カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya のR4系統が通っている。

*注 当時は1672mm。19世紀以来、軌間はスペインで1672mm、ポルトガルで1664mmと微妙な差があったが、1955年に基準が統一され、現在の1668mm(イベリア軌間 Iberian gauge)になった。

モンセラットの最寄り駅として、北東約5kmの地点にモニストロル・ノルド Monistrol-Nord(現 カステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット Castellbell i el Vilar - Monistrol de Montserrat)が開設された。そこから山へは、つづら折りの坂道を駅馬車がつないだ(下図左上)。

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旧 ラック鉄道と関連路線の変遷
 

しかし訪問者の増加につれ、馬車の輸送力に限界が見えてくる。当時、スイスのリギ鉄道 Rigibahn 開業(1871年)をきっかけに、ヨーロッパ各地でラック式登山鉄道に対する関心が高まっていた。機運に乗じてモンセラットでも、1878年に、スイスの事情に明るい鉄道技師と地元の実業家が組んで建設計画を発表した。リギで標準化されたリッゲンバッハ式、1435mm軌間の蒸気鉄道で、広軌線の駅と修道院とを結ぶというものだった。

認可が下り、建設と運行に当たる会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarriles de Montaña a Grandes Pendientes(スペイン語表記)が設立されたが、期待に反して事業は一向に進まなかった。10年近い時間を浪費した後、仕様が見直され、1891年に改めて認可を得た。新しい計画では、同じラック蒸機ながら、新開発でより安価なアプト式を採用している。軌間もコンパクトな1000mm(メーターゲージ)だ。線形を厳しくできるので、橋梁の短縮やトンネルの回避が可能になり、建設費はかなり圧縮された。

今回は順調だった。その年の9月に工事が始まり、13か月後の1892年10月6日、モンセラット登山鉄道は開業の日を迎えた(上図右上)。所要時間は片道1時間5分で、3時間半もかかっていた馬車に比べて格段に速く、バルセロナから日帰りが可能になったのは画期的だった。物珍しさも手伝って、のこぎり山(=モンセラット)へ鋸歯(=ラック)を使って上る登山鉄道は、たちまちカタルーニャで最も人気のある乗り物になった。

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旧線が記載された1:50,000地形図
(スペイン陸軍地理局 Servicio Geográfico del Ejército 刊行)
391 Iguarada 1950年
392 Sabadell 1952年
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

次の節目は1922年10月だ。リョブレガト川 el Llobregat の谷を通って、メーターゲージ(1000mm軌間、以下、狭軌線という)の新線が開通したのだ。カタルーニャ鉄道 Ferrocarrils Catalans(下注)が建設したマルトレイ Martorell ~マンレザ間の路線で、マルトレイではバルセロナ方面に接続し、実質的にバルセロナとマンレザを結ぶ第2の鉄道になった。現在のFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)R5系統が通るルートだ。

*注 正式名 Companyia General dels Ferrocarrils Catalans (CGFC)。

新線と登山鉄道が交差する地点に乗換駅が設けられることになり、狭軌線に近づけるため、登山鉄道のルートは長さ973mにわたり移設された。

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狭軌線を行く現在の213系電車
モニストロル北方のリョブレガト川鉄橋にて
Photo by The Luis Zamora at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ここで、旧線のルートをモンセラット方向にたどってみよう。

起点駅は、初め広軌線の駅から長い階段を下りたところに置かれ、モニストロル・パルティダ(出発の意)Monistrol Partida と称していた。しかし、1905年にスイッチバックを介した737mの延長線が造られ、列車は広軌線と同じレベルで発着できるようになった。それに伴い、パルティダ駅は閉鎖された。

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広軌線のカステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット駅
右側の空地が登山鉄道の起点駅跡
(2009年撮影)
Photo by eldelinux at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そこから路線は、いったんリョブレガト川の左岸を下る。支流をまたいだところに、バウマ停留所 baixador de la Bauma があった。またしばらく下流へ進むと、狭軌線に接続する(旧)モニストロル・エンリャス(ジャンクション)Monistrol-Enllaç 駅がある。その後、リョブレガト川を長さ118m、3連上路トラスの鉄橋で横断して、山へ向かう。54‰勾配の切通しを抜けると、中間駅のモニストロル・ビラ Monistrol Vila だ。鉄道の運行拠点とされ、車庫と整備工場もここに置かれていた。

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リョブレガト川を渡る登山列車
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
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今もレンガの橋脚・橋台が残存
from street view on Google map, © 2020 Google
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モニストロル・ビラ旧駅舎は鉄道の展示館に
Photo by Enric at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

駅の出口で、いよいよラック区間が始まる。現在の新線も、ここから旧線跡を利用している。短いトンネルを抜けた先に、モンセラットに上る車道と交差する踏切がある(下注)。そこは後に、踏切番の服を着て列車を見送る「踏切小屋の犬 Gos de la Casilla」で有名になり、乗客はそれにコインを投げるのが習わしだった。

*注 復活した新線では、この区間が谷寄りに移設され、立体交差化された。

ラック区間の中間部に設けられた複線は1.3kmあり(下注)、繁忙期に3列車が続行運転しても、走行しながら列車交換が可能な長さだった。路線最長のアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols を抜け、ほどなく終点のモンセラット・モネスティル(修道院)Montserrat-Monestir 駅に到着する。構内は今と違って屋外にあり、3線が敷かれたターミナルだった。

*注 新線では複線が420mに短縮。

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終点モンセラット・モネスティル駅
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
 

1920年代には、この終点駅でホームが拡張され、最大4編成の列車の留置が可能になった。並行して電化も検討されたが、財務上の理由とともに、修道院との合意が整わず、実現しなかった。

ここまでの約30年間は、登山鉄道にとって華やかなりし時代だ。かつての馬車道が自動車道に整備されたとはいえ、まだ大多数の訪問客は鉄道を利用して山に上っていたからだ。ところが、1930年代に入ると、風向きが変わっていく。

まず、別のライバルが登場した。1930年に開業した「アエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat」、すなわちモンセラットに上るロープウェーだ。起点はリョブレガト川沿いの狭軌線のすぐそばで、狭軌線に乗換用の駅が新設された。それは、登山鉄道の接続駅より二駅バルセロナ寄りになる。しかもロープウェーはそこからわずか5分で、修道院の直下まで上りきる。輸送能力は登山鉄道に及ばないものの、時間の短縮効果は圧倒的だった。

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モンセラット・ロープウェーのゴンドラから
起点駅を見下ろす
Photo by The Bernard Gagnon at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1936~39年の内戦(スペイン市民戦争)中も登山鉄道は走ったが、一般輸送は中止され、機関車はもっぱら、戦争の負傷者をモンセラットに置かれた陸軍病院に運び込む仕事に携わった。内戦が終結しても数年間は財政難で、設備更新に対する投資が滞った。その後は修道院の祝賀行事に伴い、旅客数が回復したものの、長年の酷使により設備の劣化が進行していたのは間違いない。

1953年7月25日、予想外の惨事が起きる。山上行きの列車がラック区間で突然下降し始め、後続の列車を巻き添えにして、その数百m下を走っていた第3の列車に衝突したのだ。この事故で8名が死亡、16名が重傷、116名が軽傷を負った。蒸機も3号機と5号機が大破して、廃車処分となった。

これを境に、会社の運命は暗転した。老朽化した鉄道に対する市民の不信が高まり、モンセラットの訪問客は、ロープウェーや自動車道を上るバス、自家用車に移っていった。もと8両あった蒸機は事故で6両に減り、1956年になると、部品不足で2号機と7号機が離脱、4号機は客車1両に制限された。悪循環の中で万策尽き、1957年5月12日、旧 モンセラット登山鉄道は65年間の運行の幕を閉じた。

登山鉄道の運行会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツは、モンセラット山中に造られた2本のケーブルカーやヌリア登山鉄道の事業者でもあったため、その後も存続している。しかし、1982年にカタルーニャ州により買収され、1984年、残された鉄道の公営化の手続きが完了した。

復活した登山鉄道については、次回

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット(訪問者向け公式) https://www.montserratvisita.com/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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2019年12月10日 (火)

コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸

2019年11月4日、コンターサークルS秋の旅2日目は、広島県呉市の、音戸の瀬戸(おんどのせと)を訪れた。

音戸の瀬戸(下注)というのは、本土と倉橋島の間にある長さ約1kmの海峡のことだ。ここは瀬戸内東部から呉や広島の港へ向かう最短ルートに当たっており、船の往来が多い。ところが幅が約80mと狭いため潮流が速く、潮の干満に従って方向も周期的に変わる。さらに航路自体も南側で大きく湾曲しており、航行する船にとっては難所になっている。

*注 地形図では「音戸ノ瀬戸」と表記。

今回は、この特徴的な海峡を、まず高台から展望し、その後、今なお残る渡船や、瀬戸を一跨ぎしている橋を使って、立体的に体感してみたいと思っている。

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高烏台から音戸の瀬戸を遠望

曇り空に終始した前日とは一転して、この日は穏やかな秋晴れになった。降り注ぐ朝の日差しが目に眩しい。山陽本線糸崎駅始発の普通列車に乗って、現地へ向かう。列車は三原から呉線に入り、瀬戸内ののどかな海岸線をなぞっていく。車両は、真新しい227系レッドウィングの3両編成。日曜日は通学生がいないから、車内はガラガラだ。

窓に広がる海景は申し分ないのだが、山が海に迫る崖際を通過するたびに、時速25kmの速度制限がかかる。そのためか糸崎~呉間に2時間を要し、中国山地のローカル線と変わらない鈍速ダイヤだ。山陽本線の電車なら、同じ時間で広島どころか宮島口も通過してしまう。これではせっかく投入された新鋭車両も泣いていることだろう。

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(左)227系レッドウィング、呉駅にて撮影
(右)呉線、朝の車窓
 

それはさておき、広(ひろ)駅で同じレッドウィングに乗り換えて、呉駅には10時14分に着いた。改札を出て見回してみたが、案の定メンバーの姿はない。事前に出欠を確かめることはせず、当日指定の場所・時刻に来た人だけで出かけるのが、このサークルの流儀だ。昨日の参加者の反応から、単独行になるだろうと予想していたが、そのとおりだった。

駅前から、一人で鍋桟橋(なべさんばし)行きの広電バスに乗る。長崎や神戸と同様、呉の市街地は狭い平地に収まりきらず、山手に拡大してきた。呉湾の東側、休山(やすみやま)の麓もそうで、住宅地が急斜面を這い上がっている。バスが行くのは、その宮原地内を貫く片側1車線の市道だ。見通しの悪いカーブとアップダウンが連続し、車酔いしそうになる。

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音戸の瀬戸周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

警固屋(けごや)4丁目の停留所でバスを降りた。ここから歩いて、高烏台(たかがらすだい)という展望台へ行くつもりだ。高烏台へは音戸大橋のたもとから車道をたどるのが一般的な道順だが、地図に、的場五丁目の森添神社から上る小道が描かれている。復路は車道にするとして、往路はこの未知のルートに挑戦したい。

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(左)呉駅前から広電バスに乗る
(右)警固屋4丁目下車
 

実際に行ってみると、かなり急な坂道だったが、家並みが続く間は問題なく歩けた。しかし神社を過ぎたとたん、落ち葉散り敷く山道に変わり、まもなく丈の高い雑草や枯れ枝に埋もれて、道の体をなさなくなった。5年前の広島豪雨の爪痕だろうか、路面が完全に崩落し、崖っぷちを恐る恐る渡らなければならない個所さえある。

路面はコンクリート舗装で整備されていたことがわかるのだが、誰も通らなくなり、時間の経過とともにすっかり荒廃してしまったようだ。まとわりつく蜘蛛の巣を払い、藪漕ぎでひっつき虫だらけになりながら、なんとか車道までたどり着いた。

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(左)集落を縫う坂道
(右)路面崩落個所
 

しかし苦闘の甲斐あって、標高216mの高烏台からの景色は文句なしにすばらしかった。西側では音戸の瀬戸をまたぐ2本の赤いアーチ橋を点景に、倉橋島から江田島にかけての島並みが一望になる。方や東には安芸灘が広がり、海原のかなたに四国の山々が浮かんでいる。

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瀬戸をまたぐ2本のアーチ橋
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高烏台から安芸灘方面の眺望
 

音戸の瀬戸には、平清盛が開削したという伝説がある。完成を前にして日暮れてきたため、沈む夕日を金の扇で招き返して、工事を続行させたのだそうだ。高烏台には音戸の瀬戸のほうを向き、右手で扇を差す清盛の立像、いわゆる日招き像が据えられている。その足跡と杖の跡が残るという日招き岩も近くにあるのだが、道が通行止めになっていた。豪雨災害の影響かもしれない。

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(左)清盛の日招き像
(右)展望台は砲台跡にある
 

昼食休憩の後、今度は車道を降りていった。歩道はないが、車はたまにしか通らないから、安心して歩ける。途中から見晴集落の中の細道を経由した。中腹の急な斜面に張りつく集落で、海の眺めは地名どおりだ。その入口に見晴町というバス停もあった(下注)。

*注 バス停の下段にも展望公園があるが、高烏台と同方向、かつ低位置の展望になるので今回は立ち寄っていない。

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(左)見晴町バス停
(右)音戸の瀬戸公園、吉川英治文学碑
 

さらに下り、音戸の瀬戸公園の展望ポイントへ向かう。正式な「音戸の瀬戸公園」の範囲は広く、高烏台も含むようだが、目指したのは、つつじの名所として知られる、音戸大橋近くの「公園」だ。突端にある吉川英治文学碑が立つ地点から、際立つ朱色の2本の橋が左右に望める。距離が近いので、そのスケールが、家並みや瀬戸を通る船などとの比較でよくわかる。

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音戸の瀬戸公園全体図
 

ここで、改めて橋の諸元を記しておこう。左側の音戸大橋(以下、第一大橋という)は、1961(昭和36)年に供用されたアーチ橋(構造的にはランガー橋)だ。全長172m、主径間長115m、桁下高23.5m。本土と瀬戸内の島を結んだ最初の橋で、開通当時は夢のかけ橋と呼ばれ、観光名所になった。アプローチに必要な土地が狭いため、本土側は山を削り複雑な形のループで、また倉橋島側は2回転半の高架ループで、それぞれ高度を稼いでいるのが特徴だ。

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音戸大橋と高架ループ
 

これに対して、右側の第二音戸大橋は、国道487号警固屋音戸バイパスの一部として、2013(平成25)年に開通したアーチ橋(同 ニールセン・ローゼ橋)だ。瀬戸の幅が広いところに架橋されているため、全長492m、主径間長280m、桁下高39mの規模をもつ。設計4車線のところ、暫定2車線。第一大橋にはない歩道が設置されているので、自転車や徒歩でも安全に渡ることができる。

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一回り大きい第二音戸大橋
 

さて、2本の橋の下を船が通過するのどかな景色を眺めた後は、楽しみにしていた音戸の瀬戸の横断に出かけた。まずは船で対岸の倉橋島に渡ろう。橋を経由すると極端な迂回になるため、市の補助により昔ながらの渡し船が残されているのだ。公園のある高台から急な階段道を降りていくと、道路の向こうに「音戸渡船」と妻面に記した渡し場の小屋が見つかる。

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音戸渡船の本土側渡し場
 

この渡船がユニークなのは、オンデマンド運航であることだ。乗り場の立札にこう書いてある。「時刻表はありません。桟橋に出て渡船に乗ってください。一人でも運航します。渡船が向こう側にいるときは桟橋に出ていれば、すぐに迎えに来てくれます」。

距離約90m(立札では120m)、所要3分の日本一短いと言われる定期航路で、運賃は大人100円、小人50円、自転車込みで150円だ。ほかに客はおらず、小屋にも人影がないので、遠慮なく桟橋を渡っていく。すると、停船していた小型船の操舵室から船頭さんが出てきて、運賃を回収し、すぐに艫綱を解き始めた。

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渡し場前の立札
 

船はまず第二大橋のほうへ出ていく。そこで半回転し、次に第一大橋を前方左に見ながら瀬戸を横断し、再び半回転した。こうしてS字形に進んで、対岸に到達する。その間にも旅客船や漁船が通過するので、それらを避けながらの操船なのだが、手慣れたものだ。航路は2本の橋の中間にあるので、高台からの俯瞰とは異なり、橋のアーチを下から仰ぎ見る形になる。高さや広がりが強調されて、たとえてみれば空に架かる虹のイメージだ。船上ならではの体験だろう。

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待合小屋を抜けて桟橋へ
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艫綱を解いて出航
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(左)音戸大橋を仰ぎ見る
(右)対岸の桟橋に到着(下船後撮影)
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倉橋島(音戸町)側渡し場
 

船頭さんにお礼を言って、陸に上がった。護岸に沿って音戸町(現在は呉市音戸町)の集落が延びている。まずは第一大橋のたもとにある清盛塚を見に行く。海中の岩礁に築かれているので中には入れないが、南側に見学用の突堤が造られていた。若い松が潮風に耐えて勢いよく枝を伸ばしている。ここから見える、第一大橋の下に第二大橋が覗く構図もおもしろい。

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(左)音戸大橋入口には、2回転半の注意標識が
(右)清盛塚
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第一大橋の下に第二大橋が覗く
 

渡し場から家並みを縫う旧道沿いに入ると、虫籠窓をもつ豪壮な商家が3軒連なっていた。普通車がやっとの狭い道に不釣り合いな大きさなので、余計に目を引く。カフェを開いている呉服屋のほかは廃業して久しいようだが、本土との往来を渡船に頼っていた時代、この細道はどんなにか賑わったことだろう。

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(左)旧道沿いに商家が連なる
 

家並みが途切れる第二大橋の直下から、急坂の小道を上る。黒権現という小さな祠を経て、なおも行くと、第二大橋のたもとに造られた展望台に出た。日招き広場という名のとおり、ここは北から西にかけての展望が開ける。右手前にかつての海軍工廠、今は日新製鋼製鉄所の赤茶けた建物や煙突群、その後ろは呉市街だ。左の江田島との間、湾の最奥部には、山並みを背にして広島の市街地も遠望できる。

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(左)日招き広場
(右)国道をまたぐ「第三音戸大橋」
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日招き広場からの眺望
湾の最奥部に広島市街が見える
 

第一大橋がある南側も見ようと、国道を横断する歩道橋を渡った。アーチの飾りがついた歩道橋は、「第三音戸大橋」のあだ名があるそうだ。第二大橋の下り車線(倉橋島方面行き)に併設された歩道の途中からは、第一大橋の側面形を、あたかもカタログ写真のように鑑賞できる。午前中から音戸大橋をさんざん見てきたが、その締めくくりにふさわしい眺めだ。

ちなみに、第二大橋は片側2車線が未完成で、そのためか下り車線の歩道は橋の真ん中で行き止まりになっている。本土へ渡るには、上り車線(本土方面行き)の歩道に迂回しなければならず、少々面倒だ。しかし、足もとに潜り込んでいく船を見下ろしながら、潮風に吹かれての空中散歩は特別な感覚だった。

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(左)暫定2車線供用の第二音戸大橋
(右)海峡の上を空中散歩
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第二音戸大橋から音戸大橋を眺望
 

秋の陽は早や傾きかけている。小道を降りたところにある警固屋中学校前が、本日のゴールだ。心地よい疲労感に包まれて呉駅に戻るべく、ちょうどやってきた鍋桟橋行きのバスに乗り込んだ(下注)。

*注 2019年10月1日からこのエリアでは、広電バスから呉市のコミュニティバス(呉市生活バス)へ路線移管が行われた。広電バスの時刻表では鍋桟橋以遠の運行本数が極端に少なく見えるが、代わりに上記の生活バスが走っており、例えば呉駅前~音戸渡船口間は、鍋桟橋乗継ぎにより1時間に1~2本程度が確保されている。
時刻表は、呉市-公共交通機関 https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/28/koutu.html にある。音戸渡船口のバス停を通るのは、広島電鉄「呉倉橋島線」および 生活バス「阿賀音戸の瀬戸線」。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図呉(平成28年5月調製)を使用したものである。

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2019年11月 7日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 II

ツェル・アム・ゼー Zell am See の名は「湖畔のツェル」を意味する。ツェル湖 Zeller See に突き出した小さな扇状地の上に、リゾートらしい小ざっぱりした市街地が広がっている。線路(下注)がその市街地と湖岸にはさまれた狭い空間を通っていて、駅の地下道を抜ければ、目の前はもう、さざ波立つ蒼い湖面だ。

*注 ÖBBザルツブルク=チロル線 Salzburg-Tiroler-Bahn。

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湖に面するツェル・アム・ゼー市街
線路は湖岸の並木の陰にある
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(左)市街の中心シュタットプラッツ Stadtplatz(都市広場)
(右)ホテルやレストランが軒を連ねるドライファルティヒカイツガッセ Dreifaltigkeitsgasse(三位一体小路)
 

駅舎の南に接する頭端式の11、12番線が、ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn の専用ホームになっている。しかし、かつて同じÖBBの支線だった時代は1番線の南端に発着しており、そのため線路は標準軌と狭軌が片側のレールを共用する3線軌条だった。本線の列車は通常2、3番線を使うので、これでも支障はなかったのだ。1987年に完成した駅の改修で、両者は完全に分離され、狭軌列車は現在のホームに発着するようになった。

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(左)ツェル・アム・ゼー駅舎
(右)11、12番線がピンツガウ地方鉄道の発着ホーム
 

ところで、先に断っておかなければならないが、2019年6月のこの日、ピンツガウ地方鉄道に乗ったのは、中間のミッタージル Mittersill 駅からだ(理由は後述)。蒸気列車で終点クリムル Krimml まで行き、復路、プッシュプル列車で起点ツェル・アム・ゼーへ戻ってきた。つまり実際は、往路の前半をパスしたのだが、本稿では起点から順に話を進めていきたい。

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ピンツガウ地方鉄道と周辺路線図
 

さて、駅を後にすると、狭軌の線路は、ÖBBの標準軌複線と並走しながら南へ進む。左手にはプロムナードの並木越しに、ツェル湖の湖面が見えている。先述のとおり駅構内では撤去されてしまった3線軌条だが、並走区間の途中からまだ存在していて、標準軌の渡り線が狭軌の線路に合流する。標準軌線は電化路線なので、上空に架線も伴っている。

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(左)ツェル湖沿いを並走する狭軌線とÖBB標準軌線
(右)3線軌条区間
   Photo at wikimedia. © Robert Kropf (CC BY-SA 4.0)
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ツェル湖と雪を戴くホーエ・タウエルンの山並み
 

3線軌条の区間は1kmもない。これはティシュラーホイズル Tischlerhäusl 貨物駅に通じていて、狭軌線でロールワーゲンに載せられてきた標準軌貨車が、機関車に牽かれて本線に出ていく(およびその逆の)ための設備だ。ちなみに貨物駅の、公道をはさんで南隣は、地方鉄道の車庫・整備工場で、ツェル・アム・ゼー方の運行拠点になっている。

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ティシュラーホイズル車庫・整備工場
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

直進する標準軌線を見送って、こちらは右へ曲がる。そしてザルツァッハ川が流れるU字谷を遡り始める。このあたりは谷幅がまだ2kmもあり、左の車窓は一面の牧草地だ。昔はツェル湖が今より南まで広がっていて、ザルツァッハ川は自由に蛇行しながらそこに注ぎ、周りは湿地だった。

1852年に、谷の東の出口にあったブルックの岩棚 Brucker Schwelle を開削して、水位を約1m下げる工事が行われた。これにより湖面は北に後退し、湿地は乾燥して、農牧が可能な土地になったのだ。それでも19世紀末はまだ、川の蛇行跡が明瞭に残っており、前回も触れたように、地方鉄道はそれを避けてくねくねと迂回しなければならなかった。

線路は終始、川の左岸(北岸)を通るので、進行方向左側(南側)の眺望がより開ける。牧草地の向こうに、雪を戴くホーエ・タウエルン Hohe Tauern の山並みが奥まで続いている。カプルーン Kaprun の谷の後方で、グローセス・ヴィースバッハホルン Großes Wiesbachhorn(標高3564m)の尖ったピークがひときわ目を引いた。

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車窓から見るカプルーン市街(河畔林の左後方)と
グローセス・ヴィースバッハホルン(中央右奥の尖峰)
 

ツェルから40分で、中間の主要駅ミッタージル Mittersill(下注)に到着だ。係員が常駐する唯一の駅で、カスタマーセンター Kundencenter と称して、乗車券、鉄道グッズの販売や案内業務を行っている。蒸気列車もここで給水のために長い停車時間をとる。

*注 慣用に従い、ミッタージルと表記するが、現地の発音はミッタシルで、「ミ」にアクセントがある。

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ミッタージル駅
(左)唯一の有人駅舎
(右)普通列車が到着
 

冒頭で記したように、今回のピンツガウ地方鉄道の旅は、実際にはここからスタートした。インスブルック近郊の宿に荷物を置いていたので、往復ツェル・アム・ゼー経由では時間がかかる、と考えたからだ。

地図で見る限り、チロル地方からは、ツィラータール Zillertal を南下、ゲルロース峠 Gerlospass を越えてクリムルに出る、というのが最短ルートだ。しかし、州境をまたぐためか、直通のバス路線はない。さらに調べたところ、ÖBB線のキッツビュール Kitzbühel とミッタージルの間にバス路線が見つかった(上図の BUS と記したルート)。東チロルのリーエンツ Lienz へ向かうポストバスで、チロル運輸連合 Verkehrsverbund Tirol (VVT) が運行している(下注)。

*注 時刻表は、チロル運輸連合 https://www.vvt.at/ 路線番号950x。

朝9時40分キッツビュール発のバスがあり、ミッタージル着は10時18分だ。これなら11時08分発の下り蒸気列車に悠々間に合う。トゥルン峠 Pass Thurn から、緑のザルツァッハ谷と雪のホーエ・タウエルンが織りなす目の覚めるようなパノラマ(前回冒頭写真)を堪能して、ミッタージルに降りてきた。

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(左)キッツビュール駅前からポストバスに乗車
(右)ミッタージル市街が眼下に
 

蒸気列車には予約が必要なのは知っていた。しかし、他の保存鉄道でも当日、駅や車内で切符が買えたので、そのつもりで駅のカウンターへ行く。スティームトレインに乗りたいと言うと、ここには座席表がないので予約できない、しばしば満席になるから、先行する10時48分発の気動車をお勧めする、との返事だ。

1日1往復なので、オンライン管理をしていないのはわかるが、これでは目的が果たせない。「もし満席なら、デッキに立つので」と食い下がると、苦笑しながら「座席は車掌に聞いてください」と切符を売ってくれた。蒸気列車は特別運賃だが、渡されたのはヴァルトフィアテルのときと同様、薄紙のレシートだ。クリムルまでの所要時間は54分(下注)、どうせデッキに張り付くから、席はなくても構わない。

*注 蒸気列車に対して普通列車は、ミッタージル~クリムル間を35分で走破する。

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ミッタージルに蒸気列車が到着
 

蒸気列車は10時38分、時刻表どおりに入線してきた。牽いているのは、旧ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄シュタインバイス線169号機(BHStB 169、下注1)だ。1913年ブダペスト製で、1982年にクラブ760(下注2)が取得した。改修を受けた後、長期リース契約により、ピンツガウで稼働している。列車は、その後に荷物車(緩急車?)、2軸客車7両という編成だが、うち1両は「Pinzga Schenke(ピンツガウの居酒屋)」と書かれた深紅のビュッフェ車だった。

*注1 後にユーゴスラビア国鉄で73形19号機(JŽ 73-019)に改番。
*注2 クラブ760は、主にタウラッハ鉄道 Taurachbahn(ムールタール鉄道 Murtalbahn 最奥部の保存鉄道)を拠点に保存鉄道活動を行っている組織。

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本日の牽引機 BHStB 169
 

さっそく消火栓のような水栓につないだ消防用のホースで、機関車に給水が始まった。ここでは30分停車するので、乗客も皆、ホームに降りて休憩している。その間に、後を追ってきた3両編成のクリムル行き気動車が到着し、すぐに出ていった。これが先刻、乗車を勧められた列車だ。

しばらくのんびりした時間が流れ、発車の準備が整ったところで、西からツェル・アム・ゼー行きの各停プッシュプル列車が入線、それを待って蒸気列車は出発した。

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ミッタージルで30分の給水停車
 

ミッタージルから上流では、線路はおおむね川岸を伝っていく。視界を遮るような高い堤防はないから、氷河由来の白濁した速い水流がよく見える。方や、右側はおおかた緑の牧草地だ。その後ろには、ホーエ・タウエルンほど険しくはないものの、2000mを超えるキッツビュール・アルプス Kitzbüheler Alpen の、やはり雪を戴く山並みが見え隠れする。

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ザルツァッハの川岸を伝う
 

ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガー Neukirchen am Großvenediger 駅で、列車交換のためにやや長く停車した。ミッタージルで追い抜いていった気動車が折り返してきたのだ。同じような風景が続くので、日常的なイベントも気分転換になる。

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ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガーで
上り列車と交換
 

ふと気がつくと、山がかなり近づいてきている。列車は最後に大きく左へカーブして、終点のクリムル駅に入っていった。低いホームに接した本線2本と側線1本をもつターミナルだ。すぐに機関車が切り離され、機回し作業が始まったが、ゆっくり見ている時間はない。というのも、駅前に、ゾンダーファールト Sonderfahrt(特別運行の意)と表示した大型バスが来ていて、列車を降りた客がぞろぞろと乗り込んでいくからだ。乗り遅れると、せっかくの名所を見損なう。

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最後の大きな左カーブを回る
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終点クリムル駅に到着
 

駅がある場所は、正確にはフォルダークリムル Vorderkrimml(前方のクリムルの意)という集落(下注)のはずれで、滝入口までまだ3kmほどある。この間は高度差が約180mと大きく、粘着式の蒸気鉄道では到達が難しかったはずだ。バスは駅前を出るとその坂道を上っていき、本来のクリムル集落をかすめてから、連邦道沿いのインフォメーションセンター前で停まった。

*注 フォルダークリムルもクリムルも、自治体としてはヴァルト・イム・ピンツガウ Wald im Pinzgau の一部。

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(左)クリムル駅舎
(右)特別運行のバス
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(左)森の道を滝へ向かう
(右)正面奥の小屋が入場券窓口
 

現地の人々に混じって、歩いて滝へ向かう。途中、窓口で4ユーロの遊歩道利用料 Wegbenützungsgebühr を支払うのだが、解説や注意事項を記したパンフレットどころか、ここでも渡されたのはレシートのみ。

滝は3段に分かれていて、下の滝(下アッヘン滝 Unterer Achenfall)だけで、高さが140mある。驚くのはその膨大な水量だ。6~7月は融雪が進むため、水量が一年で最も多いらしい。その水が岩肌を勢いよく滑り降り、最後に滝壺へジャンプしていく。大地を揺るがすような轟音が森にこだまし、風に舞う水煙が絶えずカメラのレンズを濡らす。

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下の滝を真横から望む
 

急な山道が、山腹をジグザグに上っている。それをたどると、途中にいくつか展望台があり、滝を真横から、上方からと、さまざまな角度で見ることができた。山道はその先、中の滝(落差100m)、上の滝(同 145m)へ延びているが、また蒸気列車で帰るつもりなら、許される滞在時間は70~80分だ。残念だが、せいぜい下の滝の滝口付近で引き返さなくてはならない。

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滝口の展望台から下の滝を見下ろす
背景はキッツビュール・アルプス
 

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Pinzgauer Lokalbahn", The Austrian Railway Group, 2017 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ピンツガウ地方鉄道(公式サイト) https://www.pinzgauerlokalbahn.at/
クリムル滝(アルペン協会支部による公式サイト) https://www.wasserfaelle-krimml.at/

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2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしていた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですね」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝
 

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4人だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎
(右)1日4往復の滝本行き路線バス
 

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着
後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口
(右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影
 

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台
滝の最下段が正面に来る
 

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む
 

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋
(右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がる
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吊橋から見た滝と背後の断崖
 

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段
(右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた
 

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望
 

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い
 

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂
(右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人
 

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道
(右)旧道が通る水根橋
 

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口
(左)切通しで隧道へ
(右)水路橋が道をまたぐ
 

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み
 

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2019年1月 8日 (火)

コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

コンターサークル2018年秋の旅の舞台は関東に移る。11月24日の集合場所は都内、中央線と武蔵野線が十字に交わる西国分寺駅だ。この駅の構造はちょっとおもしろい。後からできた武蔵野線(1973年開通)が地表付近を突っ切り、歴史的にずっと先輩の中央線(1889年開業、下注)は、それを避けるかのように掘割の底を通っている。なぜこのような配置になっているのだろうか。

*注 路線の正式名称は「中央本線」だが、本稿の記述は列車系統で使われる「中央線」に統一する。

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国分寺崖線に沿って歩く
 

それは、中央線が通過する地形に関係がある。武蔵野台地の地盤が、西隣の国立駅の手前で一段低くなっているのだ。その差は10m強。加えて東側にも、野川(のがわ)が削った谷がある。この高低差を緩和するために、中央線はここで地面を深く切り通し、線路の位置を下げて建設された。対する武蔵野線はそれをまたぎ越せればいいので、結果的に地表を通れることになる(下注)。

*注 ただし、武蔵野線の西国分寺駅以南は、地表を走っていた通称 下河原線の一部を転用したという事情も影響していよう。

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(左)西国分寺駅改札内コンコース
 武蔵野線下りホームから撮影
 中央線のホームへはさらに左右の階段を降りていく
(右)国分寺の花沢橋から西望
 中央線は切通しを抜け、野川の谷を築堤で横断、再び切通しへ
 

本日のテーマは、この地盤の段差によって生じた斜面、すなわち段丘崖だ。中央線が突破している崖のラインは、立川市北部で顕著になり、およそ南東方向に大田区まで30km以上続いていて、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれる。

武蔵野台地は、もともと多摩川により関東山地から運び出された砂礫が堆積してできた扇状地だ。その後、多摩川の流路が南遷する過程で側面が削られ、段丘が形成された。西国分寺駅が載る上位段丘の武蔵野面に対し、国立の市街地は一段低い立川面にある。その境目が国分寺崖線だ。ちなみに立川面と、多摩川の沖積低地との境にも段丘崖が存在し、こちらは立川崖線と呼ばれている(下図参照)。

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国分寺崖線と立川崖線の概略位置
ベースは1:200,000地勢図(2012(平成24)年要部修正図)

この日の午前10時、西国分寺駅の改札内コンコースに集合したのは、今尾さん、大出さん、中西さんと私の4人。午後に予定が入っている人が多いので、短時間で行けるところまで行くことにして、ルートを熟知している今尾さんの案内でスタートした。

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西国分寺~新小金井間の1:25,000地形図と陰影起伏図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)
 

まず、崖線に沿って流れ下る野川の源流に足を向けた。武蔵野線のガードをくぐって、府中街道を横断し、階段を降りて恋ヶ窪の谷底へ。旧道を北へ少し歩くと、恋ヶ窪用水の由来を記した案内板が立っていた。玉川上水(後に砂川用水)からこの低地を経て、崖線沿いの旧村へ引かれていた水路だ。住宅街にはさまれて右へ、その流れと小道が寄り添うように延びている。

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姿見の池に向かう恋ヶ窪用水
 

たどっていくと、まもなくこんもりとした林地が現れた。中央にカルガモが泳ぐ池があり、木橋の上から園児の一団が楽しそうにそれに見入っている。これは姿見の池といい、昭和40年代にいったん埋められたものを復元整備したものだ。水は、地下水位上昇に伴う浸水対策を兼ねて、武蔵野線のトンネルで湧く地下水を引き込んでいるという。谷戸(やと、下注)と呼ばれるこうした谷間の湿地は、宅地に向かないため、まさに日陰の存在だった。時代が変わり、それが市民の憩いの場として見直されているのだ。

*注 地域によって、谷津(やつ)、谷地(やち)などとも呼ばれる。

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姿見の池も蘇り、市民の憩いの場に
 

池から続く谷間を下流へ歩いた。黄色い電車が颯爽と走る西武国分寺線のガードをくぐり、日立中央研究所の森を限る高い塀に沿って進む。そこをねぐらにしているのか、烏が太い声で鳴き交わしている。姿見の池から来た水は研究所内の大池に注ぎ、再び流れ出て野川となる。その先を追うには築堤上を走る中央線を横断しなければならないが、「築堤を突っ切る道がないので、陸橋まで迂回します」と今尾さん。

マンション脇の坂を上って、中央線を乗り越える花沢橋を渡った。東隣の国分寺駅がもう目の前だが、この駅のホームも掘割の中にあり、複雑な地形の起伏が実感される。それから住宅街の中の階段を降り、崖をなぞる形で蛇行する道をたどった。「泉町という町名ですね」「昔はここにも湧水があったんでしょうね」。しかし、今は斜面までびっしりと宅地化され、道に面して車庫、その上に住居という構造の住宅が並んでいる。泉どころか緑も乏しい。

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(左)野川沿いの小道、斜面もびっしり住宅で埋まる
(右)野川は深い溝の中
 

国分寺街道と交差する一里塚橋の手前まで来ると、野川は自らの狭い谷を離れ、広い下位段丘面(立川面)に出る。私たちは崖線沿いに東へ進んだが、反対側、西約1kmにある武蔵国分寺跡も必見だ(下注)。後日一人で訪れたが、古代人が崖線を意識してこの地を選んだことがよくわかった。

*注 府中街道と武蔵野線をはさんで東側には、国分尼寺跡もある。

それは、ちょうど国府から北へ延びる官道(東山道)が崖線を越えようとする位置にある。現場の案内板によると、伽藍は崖線を背にして、その南面一帯に配置されていたようだ。崖線の下からは今も清水が湧き出し、中の島に祠を祀る真姿の池を潤していた。昔はもっと多くの湧水があったそうで、寺の財源である水田経営にとっても有利な場所だっただろう。崖線周辺は雑木林が保存されていて、都市化以前の風景を想像させてくれるのもうれしい。

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武蔵国分寺跡
奥に見える林が国分寺崖線
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国分寺・国分尼寺の伽藍と崖線の位置関係図
現地案内板を撮影
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(左)中の島に祠のある真姿の池
(右)崖線沿いに残る雑木林は都立公園として保護されている
 

話を戻そう。

国分寺街道を横断して、さらに東へ進む。崖に沿うこの一車線道は「ハケの道」と呼ばれている。崖のことを、古語で「ハケ」というのだ。しかし、鉄道駅に近いので、泉町同様、斜面もすべて家やマンションの用地にされ、段丘の上下を長い階段が結んでいる。年配の女性が手すりにつかまりながら、それを上っていく。高低差がせいぜい15mとはいえ、「毎日これで駅へ通うとしたら、どうでしょうね」。地形的にはここも「ハケ」に違いないが、植生を剥がしてコンクリート張りにしてしまってはイメージが合わない。

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(左)国分寺駅へ向かう道が急坂で崖線を上っていく
(右)住宅街にも崖線の上下を結ぶ階段が
 

もちろん、国分寺跡にあったような崖線の雑木林と、湧水地いわゆるハケの水が見られる場所もまだいくつか残されている。一つは、今回訪問しなかったが、国分寺駅近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だ。もとは岩崎家の別邸で、現在は都立公園になっている。湧水が注ぐ池が深い谷底にあり、段丘上に設けられた休憩所(紅葉亭)から見下ろすことができる。崖の落差を視覚的にも利用した劇場風の回遊式庭園で、コンパクトながら見応え十分だ。

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殿ヶ谷戸庭園
紅葉亭から崖下の次郎弁天池を俯瞰
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(左)崖を流れ落ちる滝
(右)崖を斜めに下る竹の小道
 

私たちは、その800mほど東にある新次郎池を見た。東京経済大学の敷地内で、林に囲まれた薄暗い窪地に小さな池があり、周囲の崖下5か所から湧水が流れ込んでいる。傍らの銘板によれば、かつてここにはわさび田があったといい、新次郎というのは、それを池を整備した時の東経大の学長の名だそうだ。湧水に手を浸してみる。「おっ、暖かいですね」。今日の最高気温は13度、もはや地下水のほうが暖かく感じる季節になっているのだ。

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林に囲まれた薄暗い窪地にある新次郎池
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(左)一つ一つの湧水は少量だが
(右)池の堰を落ちるときはまとまった水量に
 

さらに200mほど進み、貫井(ぬくい)神社の前まで来た。石の鳥居をくぐると、色づき始めたモミジを映す大きな池がある。その上に架かる朱塗りの橋を渡り、水神様(市杵嶋姫命)を祀る本堂の前に出た。建物を囲むように水路が造られ、清水が流れている。湧出口があちこちにあるらしく、奥から手前へと見る見る水量が増えていくのには驚いた。

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水神様を祀る貫井神社
朱塗りの橋で池を渡る
 

新次郎池も貫井神社も、同じように段丘に食い込んだ形の窪地(下図参照)だ。かつては崖を侵食するほど豊かな湧水があったことを想像させる。都市開発が進み、地表がコンクリートやアスファルトに覆われると、降った雨は雨水管に直行してしまい、地中に浸透しなくなる。減少する地下水に連動して湧き出す水量も減り、すでに枯渇したものも少なくないそうだ。

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新次郎池と貫井神社附近の1:10,000地形図
 

最後に訪れたのは、新小金井街道の脇にある滄浪(そうろう)庭園。大正時代に実業家の別荘の庭として造られたもので、現在は小金井市が管理している。同じように段丘上に入口があり、崖下の湧水を引いた池まで降りていける。池の周りには針葉樹やモミジが鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い森を作っていた。ハケと呼ぶにふさわしい空間だ。「お屋敷の庭といっても相当広いですね」「市街地が拡大する前のものでしょうからね。残っていてよかったと思いますよ」。

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滄浪庭園入口
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崖を降りて池のほとりへ
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鬱蒼と茂る森に差し込む光
 

時刻を見たら、もう12時を回っている。どこかに食べる所があるだろうと手ぶらで来たので、崖線を巡る旅をここで切り上げ、武蔵小金井駅前に出た。昼食を共にして解散する。

改札で3人を見送った後、私はハケの道をさらに下流へ歩いてみた。中央線の駅勢圏から遠ざかるにつれ、風景は郊外色を帯びてくる。国分寺界隈とは違って、住宅地の間に少なからぬ面積の緑地が点在している。地形図に示した、はけの森緑地や美術の森がそうだ。小金井第二中学校の向かいには、個人宅の表札を掲げた大きなキウイ農園(はけの森果樹園)もあった。

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(左)美術の森
(右)はけの森果樹園のキウイ畑
 

やがて道は、はるかに広大な緑地、武蔵野公園に入っていく。土曜日とあって、子どもたちの歓声が広い谷間にこだましている。園地を貫く野川の流れは潤いというにはささやかだが、人工物が少ない風景は自然と心が落ち着く。晩秋の日は短い。午後3時を過ぎるともう、地面に落ちる林の影が長くなってくる。野川公園は北門をカメラに収めただけで、帰途に就くべく、私は新小金井駅に通じる崖線の坂を上っていった。

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武蔵野公園
(左)遠くから子どもたちの歓声が聞こえる
(右)紅葉する公園の樹々
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(左)西武多摩川線の電車が野川を渡る
(右)野川公園北門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図国分寺(昭和61年編集)、2万5千分の1地形図立川(平成30年調製)、吉祥寺(平成30年調製)および20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)を使用したものである。起伏陰影図は地理院地図ウェブサイトより取得した。

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2018年10月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-曽爾高原

2018年秋の本州旅2日目は、奈良・三重県境に位置する曽爾(そに)高原とその周辺の、東海自然歩道にも含まれているトレッキングルートをたどる。曽爾高原は、すり鉢状の斜面にススキが群生して、秋になると臨時バスが運行されるほど関西の人気スポットの一つなのだが、それを取り囲むように連なる、柱状節理の断崖を剥き出しにした室生火山群の山々もまた人を引き付ける。その風景をゆっくり楽しもうと、敢えて高原へ直行せず、麓の谷間の集落から歩き始めることにした。

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ススキ揺れる曽爾高原
右下の湿原はお亀池
 

10月15日朝、雨上がりの近鉄大阪線の名張(なばり)駅前から、曽爾高原行きの路線バスに乗り込んだ。平日というのに、車内はハイキング装備の人たちで満席だ。参加者は今尾さんと私の2名。地形図話に花を咲かせながら、青蓮寺川(しょうれんじがわ)の渓谷を遡るバスに揺られた。ダム湖が尽きるあたりから、道路は見上げる高さの断崖と川とに挟まれ、大型車1台分の道幅しかない区間が断続する。30分ほど走ったところで、ようやく谷が開けてきた。

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(左)近鉄名張駅西口、レトロな木造駅舎が残る
(右)太良路バス停で下車
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名張市、曽爾村周辺の1:200,000地勢図(1988(昭和63)年修正図)
茶色の枠が下掲1:25,000詳細図の範囲
 

下車したのは、太良路(たろうじ、下注)というところ。杉の巨木が立つ神社の前、村のよろず屋の軒先に停留所の標識が立っている。走り去るバスを見送って歩き始めると、社森の陰から特異な風貌の鎧岳(よろいだけ)が姿を現した。のどかな村里の背後に急角度でそそり立ち、まるで守護神のように谷を見下している。中腹に露出した断崖の連なりは、なるほど鎧のようだ。

*注 太良路は、山一つ越えた太郎生(たろう)地区へ通じる道を意味する地名。バス停のふりがなは「たろうじ」だが、地理院地図の地名情報には「たろじ」とある。

上空は朝から雲に覆われたままだが、幸い雨の予報は出ていない。「ちぎれた雲が流れていくのも、神秘的でいいですよ」と私。橋を渡って、太良路の集落に入り、勾配のきつい沢沿いの旧道を上っていく。林がとぎれたところで振り向いたら、集落の向こうにまた鎧岳が見えた。今度は後ろに兜岳(かぶとだけ)を伴っている。

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太良路集落を見下す鎧岳(右)と兜岳
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別の角度から見た鎧岳(新嶽見橋にて別の日に撮影)
柱状節理の断崖がより顕わになる
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曽爾高原周辺の1:25,000地形図
赤線が歩いたルート
 

クルマ道と合流して少し進み、曽爾高原ファームガーデンの前を通り過ぎる。道路が勾配緩和のループを繰り返す間、徒歩道は森の中をほぼ直登している。胸突き八丁というべき、きつい上り坂だ。1:25,000地形図の倶留尊山(くろそやま)図幅によれば、太良路が標高390m、ファームガーデンが約470mに対して、ススキの原の広がるあたりはもう700mを超えている。

今尾さんが持ってきた地形図には、これから歩くルートが赤でなぞってあった。ただ、行く予定のないところまで延びているので聞けば、「古書店で買ったときから赤線が入っていたんです」。もとの持ち主は、何日もかけて山地を縦走する相当の健脚家だったようだ。

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徒歩道は車道からそれて杉林の中を直登する
 

森の中では風が止むため、じわりと汗がにじんでくる。こんな天気で湿度が高いらしい。落ち葉の積もる薄暗い杉林を登り続けて、国立曽爾青少年自然の家の前に出た。有名なススキの原はこの南側に広がっているはずだ。その全景を確かめようと、さっそく地形図で728m標高点がある高まりのほうに足を向けた。

一帯は、例えるなら半円の客席が舞台を囲む劇場のような地形だ。客席に相当する後ろの山は左右にピークがあり、左のそれは二本ボソ(標高996m)、右端は亀山(標高849m)という。間の鞍部は亀山峠と呼ばれ、太郎生へ抜ける徒歩道が通っている。一方、手前の舞台に当たる部分は凹地で、一部が湿原化して、お亀池の名がある。

この凹地には水の吐け口がなく、一見古い火口のようだ。しかし成因はそうではなく、後ろの山が大規模な崩壊を起こしたときに、その山と押し出された土砂(今立っている728m標高点から南へ延びる高まり)との間にできた窪みだ。風化によりすっかり均され、穏やかな表情を見せているので、過去にすさまじい地滑りが起きた現場とはとても思えない。

国立曽爾青少年自然の家の資料(下記参考サイト)によると、一帯は昔から麓の太良路地区の茅場だったそうだ。毎年春、地区の共同作業で山焼きが行われ、ススキが生育する環境が保たれてきた。刈り取ったススキ、すなわち茅で地区の屋根を葺いていたのだが、瓦やトタン屋根の普及で需要が減少したため、現在は専門業者が引き取り、全国の古民家の葺き替えに使われているという。

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ススキの原が広がる曽爾高原(別の日に撮影)
左端が二本ボソの稜線、中央の鞍部が亀山峠、右端のピークが亀山
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遊歩道が廻るお亀池(別の日に撮影)
 

池のそばのピクニックベンチで昼食を取った後、再び歩き出す。亀山峠までは、ススキが揺れる斜面を斜めに上る丸太階段の遊歩道だ。高度が上がるにつれ、曽爾の谷を隔てた西側の山並みも立ち上がってくる。太良路で確認できたのは鎧と兜だけだったが、今やその左奥にある国見山や住塚山(すみつかやま)、ナイフで片側を切り落としたような形の屏風岩まで一望になる。

室生火山群として括られている山々だが、どれも火山そのものではない。この地域は約1500万年前、南方で活動した火山からの噴出物で埋め尽くされた。火山灰は熱と自重によって溶融し、場所によって厚さが400mにもなる溶結凝灰岩の層を形成した。現在の山地は、これらの地層が水流の侵食を受けた後に残ったもので、ピークが1000m前後で揃っている。山地を特徴づける柱状節理の断崖は、凝灰岩の露頭なのだ。

標高約820mの峠から遠くの山並みにカメラを向けるが、あいにく雲の動きが早すぎて、峰が次々と覆い隠されてしまう。そのうち、亀山の尾根の裏からも霧が湧いてきて、ススキの原をすべり降り始めた。「風伝(ふうでん)峠みたいですね」と今尾さんが言う。風伝峠といえば熊野古道の山越えの一つで、冬場に朝霧が里へ吹き下りる風伝おろしが見られる。偶然にも私も、最近そこを歩いたばかりだ。

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(左)亀山峠へ上る長い階段道
(右)霧に包まれる亀山峠
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曽爾高原から室生火山群を望む
中央が兜岳、その右が鎧岳
 

しばらくそんな旅の四方山話をしながら視界が晴れるのを待ってみたが、かえって霧がこちらへ回ってきて、周りを白一色に塗り込めてしまった。帰りのバスの時刻も気になってきたので、時計の針が1時を指したところで諦め、山を降りることにした。

峠には県境が走っている。西側が奈良県宇陀(うだ)郡曽爾村、東側は三重県津市だが、かつては一志(いちし)郡美杉村といった。その名にたがわず、道はすぐに、すらりと伸びた杉の美林の下へ潜り込んでいく。

ジグザグの山道には、曽爾側と同じように丸太で土留めした階段が組まれているのだが、極端に急斜面のため、谷側の詰めた土がすでに抜け落ちた個所さえある。加えて先月の台風で倒れたと見え、太い木が何本も道を塞いでいる。私たちはそれを一つずつ跨ぎ越しながら、慎重に歩を進めた。谷の傾斜が少し緩むと、それこそ熊野古道のような苔むした石畳が現れた。観光用とは思われず、このルートがかつて主要な往来に供されていたことを示すものだ。

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(左)亀山峠からの下り
(右)急斜面を杉の美林が覆う
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(左)台風による倒木が道を塞ぐ
(右)石畳の山道
 

632m標高点の付近で山道は杉林を抜け出し、軽自動車が通れる幅の舗装道に合流する。そしてしばらく、池の平高原と呼ばれる緩い起伏の、棚状の土地を縦断していく。ここも地滑り地形のようだが、地形図で見る限り、曽爾高原よりはるかに大規模だ。しかし、放棄された茅場に植林が実施されたことで、景観は大きく変わってしまったらしい。同じような湿原もあるはずなのに、荒れ地か耕作放棄地としか見えないのだ。高原で出会ったのは放し飼いにされた2頭の山羊のみで、人のいる気配はなかった。

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池の平高原
(左)倶留尊山は雲がかかったまま
(右)放し飼いの山羊しかいない
 

620m標高点から先は、また急な下り坂が復活し、整地された棚田の中を太郎生(たろう、下注)の村里へ入っていく。太郎生は、堀さんが名張からバスで名松線の伊勢奥津(いせおきつ)駅へ向かう途中に立ち寄った場所だ。しかも季節は秋だった。著書『地図を歩く』(1974年)には、「とある一隅の畠からの、茶褐色の土のうねと、浅みどりの野菜の葉と、たわわに実る柿とを前景にした倶留尊の見はらしは、なかでも私の忘れ得ぬ旅の印象の一つとなった」(p.178)とある。

*注 この地名のふりがなには、「たろう」「たろお」の二通りの表記がある。

しかし残念ながら、私たちが太郎生に降りてもまだ、倶留尊山は中腹まで雲がかかったままで、堀さんを魅了した険しい峰の連なりを拝むことは叶わずじまい。棚田と小川と、その周囲に散在する農家のたたずまいを眺めることでよしとするしかなかった。

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太郎生へ降りる道から見た倶留尊山(別の日に撮影)
 

太郎生郵便局の前に停留所(南出口バス停、下注)の標識を見つけ、名張駅前へ戻るバスを拾った。往きの曽爾高原行きとは打って変わって、乗客は遠来の私たちだけだ。観光地から外れた地方路線にはありがちな話とはいえ、「駅までこのままかな」と他人事ながら気になる。結局、市街の外縁に当たる上比奈知(かみひなち)でようやく女の子が一人乗ってきて、私たちを少し安堵させたのだった。

*注 南出口バス停から100mほど南西に、中太郎生バス停もある。旧道沿いの民宿たろっと三国屋の右の路地を抜けると到達でき、このほうが距離的には近い。

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(左)山麓の上出集落を抜ける
(右)国道沿いの南出口バス停
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図倶留尊山(平成28年調製)および20万分の1地勢図伊勢(昭和63年修正)を使用したものである。

■参考サイト
国立曽爾青少年の家-曽爾のこともの http://soni.niye.go.jp/kotomono/kotomono.html

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