2019年12月10日 (火)

コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸

2019年11月4日、コンターサークルS秋の旅2日目は、広島県呉市の、音戸の瀬戸(おんどのせと)を訪れた。

音戸の瀬戸(下注)というのは、本土と倉橋島の間にある長さ約1kmの海峡のことだ。瀬戸内東部から呉や広島の港へ向かう最短ルートに当たっており、船の往来が多い。ところが幅が約80mと狭いため潮流が速く、潮の干満に従って方向も周期的に変わる。さらに航路自体も南側で大きく湾曲しており、航行する船にとっては難所になっている。

*注 地形図では「音戸ノ瀬戸」と表記。

今回は、この特徴的な海峡を、まず高台から展望し、その後、今なお残る渡船や、瀬戸を一跨ぎしている橋を使って、立体的に体感してみたいと思っている。

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高烏台から音戸の瀬戸を遠望

曇り空に終始した前日とは一転して、この日は穏やかな秋晴れになった。降り注ぐ朝の日差しが目に眩しい。山陽本線糸崎駅始発の普通列車に乗って、現地へ向かう。列車は三原から呉線に入り、瀬戸内ののどかな海岸線をなぞっていく。車両は、真新しい227系レッドウィングの3両編成。日曜日は通学生がいないから、車内はガラガラだ。

窓に広がる海景は申し分ないのだが、山が海に迫る崖際を通過するたびに、時速25kmの速度制限がかかる。そのためか糸崎~呉間に2時間を要し、中国山地のローカル線と変わらない鈍速ダイヤだ。山陽本線の電車なら、同じ時間で広島どころか宮島口も通過してしまう。これではせっかく投入された新鋭車両も泣いていることだろう。

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(左)227系レッドウィング、呉駅にて撮影
(右)呉線、朝の車窓
 

それはさておき、広(ひろ)駅で同じレッドウィングに乗り換えて、呉駅には10時14分に着いた。改札を出て見回してみたが、案の定メンバーの姿はない。事前に出欠を確かめることはせず、当日指定の場所・時刻に来た人だけで出かけるのが、このサークルの流儀だ。昨日の参加者の反応から、単独行になるだろうと予想していたが、そのとおりだった。

駅前から、一人で鍋桟橋(なべさんばし)行きの広電バスに乗る。長崎や神戸と同様、呉の市街地は狭い平地に収まりきらず、山手に拡大してきた。呉湾の東側、休山(やすみやま)の麓もそうで、住宅地が急斜面を這い上がっている。バスが行くのは、その宮原地内を貫く片側1車線の市道だ。見通しの悪いカーブとアップダウンが連続し、車酔いしそうになる。

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音戸の瀬戸周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

警固屋(けごや)4丁目の停留所でバスを降りた。ここから歩いて、高烏台(たかがらすだい)という展望台へ行くつもりだ。高烏台へは音戸大橋のたもとから車道をたどるのが一般的な道順だが、地図に、的場五丁目の森添神社から上る小道が描かれている。復路は車道にするとして、往路はこの未知のルートに挑戦したい。

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(左)呉駅前から広電バスに乗る
(右)警固屋4丁目下車
 

実際に行ってみると、かなり急な坂道だったが、家並みが続く間は問題なく歩けた。しかし神社を過ぎたとたん、落ち葉散り敷く山道に変わり、まもなく丈の高い雑草や枯れ枝に埋もれて、道の体をなさなくなった。5年前の広島豪雨の爪痕だろうか、路面が完全に崩落し、崖っぷちを恐る恐る渡らなければならない個所さえある。

路面はコンクリート舗装で整備されていたことがわかるのだが、誰も通らなくなり、時間の経過とともにすっかり荒廃してしまったようだ。まとわりつく蜘蛛の巣を払い、藪漕ぎでひっつき虫だらけになりながら、なんとか車道までたどり着いた。

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(左)集落を縫う坂道
(右)路面崩落個所
 

しかし苦闘の甲斐あって、標高216mの高烏台からの景色は文句なしにすばらしかった。西側では音戸の瀬戸をまたぐ2本の赤いアーチ橋を点景に、倉橋島から江田島にかけての島並みが一望になる。方や東には安芸灘が広がり、海原のかなたに四国の山々が浮かんでいる。

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瀬戸をまたぐ2本のアーチ橋
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高烏台から安芸灘方面の眺望
 

音戸の瀬戸には、平清盛が開削したという伝説がある。完成を前にして日暮れてきたため、沈む夕日を金の扇で招き返して、工事を続行させたのだそうだ。高烏台には音戸の瀬戸のほうを向き、右手で扇を差す清盛の立像、いわゆる日招き像が据えられている。その足跡と杖の跡が残るという日招き岩も近くにあるのだが、道が通行止めになっていた。豪雨災害の影響かもしれない。

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(左)清盛の日招き像
(右)展望台は砲台跡にある
 

昼食休憩の後、今度は車道を降りていった。歩道はないが、車はたまにしか通らないから、安心して歩ける。途中から見晴集落の中の細道を経由した。中腹の急な斜面に張りつく集落で、海の眺めは地名どおりだ。その入口に見晴町というバス停もあった(下注)。

*注 バス停の下段にも展望公園があるが、高烏台と同方向、かつ低位置の展望になるので今回は立ち寄っていない。

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(左)見晴町バス停
(右)音戸の瀬戸公園、吉川英治文学碑
 

さらに下り、音戸の瀬戸公園の展望ポイントへ向かう。正式な「音戸の瀬戸公園」の範囲は広く、高烏台も含むようだが、目指したのは、つつじの名所として知られる、音戸大橋近くの「公園」だ。突端にある吉川英治文学碑が立つ地点から、際立つ朱色の2本の橋が左右に望める。距離が近いので、そのスケールが、家並みや瀬戸を通る船などとの比較でよくわかる。

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音戸の瀬戸公園全体図
 

ここで、改めて橋の諸元を記しておこう。左側の音戸大橋(以下、第一大橋という)は、1961(昭和36)年に供用されたアーチ橋(構造的にはランガー橋)だ。全長172m、主径間長115m、桁下高23.5m。本土と瀬戸内の島を結んだ最初の橋で、開通当時は夢のかけ橋と呼ばれ、観光名所になった。アプローチに必要な土地が狭いため、本土側は山を削り複雑な形のループで、また倉橋島側は2回転半の高架ループで、それぞれ高度を稼いでいるのが特徴だ。

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音戸大橋と高架ループ
 

これに対して、右側の第二音戸大橋は、国道487号警固屋音戸バイパスの一部として、2013(平成25)年に開通したアーチ橋(同 ニールセン・ローゼ橋)だ。瀬戸の幅が広いところに架橋されているため、全長492m、主径間長280m、桁下高39mの規模をもつ。設計4車線のところ、暫定2車線。第一大橋にはない歩道が設置されているので、自転車や徒歩でも安全に渡ることができる。

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一回り大きい第二音戸大橋
 

さて、2本の橋の下を船が通過するのどかな景色を眺めた後は、楽しみにしていた音戸の瀬戸の横断に出かけた。まずは船で対岸の倉橋島に渡ろう。橋を経由すると極端な迂回になるため、市の補助により昔ながらの渡し船が残されているのだ。公園のある高台から急な階段道を降りていくと、道路の向こうに「音戸渡船」と妻面に記した渡し場の小屋が見つかる。

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音戸渡船の本土側渡し場
 

この渡船がユニークなのは、オンデマンド運航であることだ。乗り場の立札にこう書いてある。「時刻表はありません。桟橋に出て渡船に乗ってください。一人でも運航します。渡船が向こう側にいるときは桟橋に出ていれば、すぐに迎えに来てくれます」。

距離約90m(立札では120m)、所要3分の日本一短いと言われる定期航路で、運賃は大人100円、小人50円、自転車込みで150円だ。ほかに客はおらず、小屋にも人影がないので、遠慮なく桟橋を渡っていく。すると、停船していた小型船の操舵室から船頭さんが出てきて、運賃を回収し、すぐに艫綱を解き始めた。

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渡し場前の立札
 

船はまず第二大橋のほうへ出ていく。そこで半回転し、次に第一大橋を前方左に見ながら瀬戸を横断し、再び半回転した。こうしてS字形に進んで、対岸に到達する。その間にも旅客船や漁船が通過するので、それらを避けながらの操船なのだが、手慣れたものだ。航路は2本の橋の中間にあるので、高台からの俯瞰とは異なり、橋のアーチを下から仰ぎ見る形になる。高さや広がりが強調されて、たとえてみれば空に架かる虹のイメージだ。船上ならではの体験だろう。

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待合小屋を抜けて桟橋へ
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艫綱を解いて出航
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(左)音戸大橋を仰ぎ見る
(右)対岸の桟橋に到着(下船後撮影)
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倉橋島(音戸町)側渡し場
 

船頭さんにお礼を言って、陸に上がった。護岸に沿って音戸町(現在は呉市音戸町)の集落が延びている。まずは第一大橋のたもとにある清盛塚を見に行く。海中の岩礁に築かれているので中には入れないが、南側に見学用の突堤が造られていた。若い松が潮風に耐えて勢いよく枝を伸ばしている。ここから見える、第一大橋の下に第二大橋が覗く構図もおもしろい。

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(左)音戸大橋入口には、2回転半の注意標識が
(右)清盛塚
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第一大橋の下に第二大橋が覗く
 

渡し場から家並みを縫う旧道沿いに入ると、虫籠窓をもつ豪壮な商家が3軒連なっていた。普通車がやっとの狭い道に不釣り合いな大きさなので、余計に目を引く。カフェを開いている呉服屋のほかは廃業して久しいようだが、本土との往来を渡船に頼っていた時代、この細道はどんなにか賑わったことだろう。

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(左)旧道沿いに商家が連なる
 

家並みが途切れる第二大橋の直下から、急坂の小道を上る。黒権現という小さな祠を経て、なおも行くと、第二大橋のたもとに造られた展望台に出た。日招き広場という名のとおり、ここは北から西にかけての展望が開ける。右手前にかつての海軍工廠、今は日新製鋼製鉄所の赤茶けた建物や煙突群、その後ろは呉市街だ。左の江田島との間、湾の最奥部には、山並みを背にして広島の市街地も遠望できる。

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(左)日招き広場
(右)国道をまたぐ「第三音戸大橋」
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日招き広場からの眺望
湾の最奥部に広島市街が見える
 

第一大橋がある南側も見ようと、国道を横断する歩道橋を渡った。アーチの飾りがついた歩道橋は、「第三音戸大橋」のあだ名があるそうだ。第二大橋の下り車線(倉橋島方面行き)に併設された歩道の途中からは、第一大橋の側面形を、あたかもカタログ写真のように鑑賞できる。午前中から音戸大橋をさんざん見てきたが、その締めくくりにふさわしい眺めだ。

ちなみに、第二大橋は片側2車線が未完成で、そのためか下り車線の歩道は橋の真ん中で行き止まりになっている。本土へ渡るには、上り車線(本土方面行き)の歩道に迂回しなければならず、少々面倒だ。しかし、足もとに潜り込んでいく船を見下ろしながら、潮風に吹かれての空中散歩は特別な感覚だった。

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(左)暫定2車線供用の第二音戸大橋
(右)海峡の上を空中散歩
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第二音戸大橋から音戸大橋を眺望
 

秋の陽は早や傾きかけている。警固屋中学校前まで降りたところで、呉駅に戻るべく、ちょうどやってきた鍋桟橋行きのバスに乗った(下注)。

*注 2019年10月1日からこのエリアでは、広電バスから呉市のコミュニティバス(呉市生活バス)へ路線移管が行われた。広電バスの時刻表では鍋桟橋以遠の運行本数が極端に少なく見えるが、代わりに上記の生活バスが走っており、例えば呉駅前~音戸渡船口間は、鍋桟橋乗継ぎにより1時間に1~2本程度が確保されている。
時刻表は、呉市-公共交通機関 https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/28/koutu.html にある。音戸渡船口のバス停を通るのは、広島電鉄「呉倉橋島線」および 生活バス「阿賀音戸の瀬戸線」。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図呉(平成28年5月調製)を使用したものである。

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2019年11月 7日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 II

ツェル・アム・ゼー Zell am See の名は「湖畔のツェル」を意味する。ツェル湖 Zeller See に突き出した小さな扇状地の上に、リゾートらしい小ざっぱりした市街地が広がっている。線路(下注)がその市街地と湖岸にはさまれた狭い空間を通っていて、駅の地下道を抜ければ、目の前はもう、さざ波立つ蒼い湖面だ。

*注 ÖBBザルツブルク=チロル線 Salzburg-Tiroler-Bahn。

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湖に面するツェル・アム・ゼー市街
線路は湖岸の並木の陰にある
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(左)市街の中心シュタットプラッツ Stadtplatz(都市広場)
(右)ホテルやレストランが軒を連ねるドライファルティヒカイツガッセ Dreifaltigkeitsgasse(三位一体小路)
 

駅舎の南に接する頭端式の11、12番線が、ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn の専用ホームになっている。しかし、かつて同じÖBBの支線だった時代は1番線の南端に発着しており、そのため線路は標準軌と狭軌が片側のレールを共用する3線軌条だった。本線の列車は通常2、3番線を使うので、これでも支障はなかったのだ。1987年に完成した駅の改修で、両者は完全に分離され、狭軌列車は現在のホームに発着するようになった。

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(左)ツェル・アム・ゼー駅舎
(右)11、12番線がピンツガウ地方鉄道の発着ホーム
 

ところで、先に断っておかなければならないが、2019年6月のこの日、ピンツガウ地方鉄道に乗ったのは、中間のミッタージル Mittersill 駅からだ(理由は後述)。蒸気列車で終点クリムル Krimml まで行き、復路、プッシュプル列車で起点ツェル・アム・ゼーへ戻ってきた。つまり実際は、往路の前半をパスしたのだが、本稿では起点から順に話を進めていきたい。

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ピンツガウ地方鉄道と周辺路線図
 

さて、駅を後にすると、狭軌の線路は、ÖBBの標準軌複線と並走しながら南へ進む。左手にはプロムナードの並木越しに、ツェル湖の湖面が見えている。先述のとおり駅構内では撤去されてしまった3線軌条だが、並走区間の途中からまだ存在していて、標準軌の渡り線が狭軌の線路に合流する。標準軌線は電化路線なので、上空に架線も伴っている。

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(左)ツェル湖沿いを並走する狭軌線とÖBB標準軌線
(右)3線軌条区間
   Photo at wikimedia. © Robert Kropf (CC BY-SA 4.0)
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ツェル湖と雪を戴くホーエ・タウエルンの山並み
 

3線軌条の区間は1kmもない。これはティシュラーホイズル Tischlerhäusl 貨物駅に通じていて、狭軌線でロールワーゲンに載せられてきた標準軌貨車が、機関車に牽かれて本線に出ていく(およびその逆の)ための設備だ。ちなみに貨物駅の、公道をはさんで南隣は、地方鉄道の車庫・整備工場で、ツェル・アム・ゼー方の運行拠点になっている。

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ティシュラーホイズル車庫・整備工場
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

直進する標準軌線を見送って、こちらは右へ曲がる。そしてザルツァッハ川が流れるU字谷を遡り始める。このあたりは谷幅がまだ2kmもあり、左の車窓は一面の牧草地だ。昔はツェル湖が今より南まで広がっていて、ザルツァッハ川は自由に蛇行しながらそこに注ぎ、周りは湿地だった。

1852年に、谷の東の出口にあったブルックの岩棚 Brucker Schwelle を開削して、水位を約1m下げる工事が行われた。これにより湖面は北に後退し、湿地は乾燥して、農牧が可能な土地になったのだ。それでも19世紀末はまだ、川の蛇行跡が明瞭に残っており、前回も触れたように、地方鉄道はそれを避けてくねくねと迂回しなければならなかった。

線路は終始、川の左岸(北岸)を通るので、進行方向左側(南側)の眺望がより開ける。牧草地の向こうに、雪を戴くホーエ・タウエルン Hohe Tauern の山並みが奥まで続いている。カプルーン Kaprun の谷の後方で、グローセス・ヴィースバッハホルン Großes Wiesbachhorn(標高3564m)の尖ったピークがひときわ目を引いた。

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車窓から見るカプルーン市街(河畔林の左後方)と
グローセス・ヴィースバッハホルン(中央右奥の尖峰)
 

ツェルから40分で、中間の主要駅ミッタージル Mittersill(下注)に到着だ。係員が常駐する唯一の駅で、カスタマーセンター Kundencenter と称して、乗車券、鉄道グッズの販売や案内業務を行っている。蒸気列車もここで給水のために長い停車時間をとる。

*注 慣用に従い、ミッタージルと表記するが、現地の発音はミッタシルで、「ミ」にアクセントがある。

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ミッタージル駅
(左)唯一の有人駅舎
(右)普通列車が到着
 

冒頭で記したように、今回のピンツガウ地方鉄道の旅は、実際にはここからスタートした。インスブルック近郊の宿に荷物を置いていたので、往復ツェル・アム・ゼー経由では時間がかかる、と考えたからだ。

地図で見る限り、チロル地方からは、ツィラータール Zillertal を南下、ゲルロース峠 Gerlospass を越えてクリムルに出る、というのが最短ルートだ。しかし、州境をまたぐためか、直通のバス路線はない。さらに調べたところ、ÖBB線のキッツビュール Kitzbühel とミッタージルの間にバス路線が見つかった(上図の BUS と記したルート)。東チロルのリーエンツ Lienz へ向かうポストバスで、チロル運輸連合 Verkehrsverbund Tirol (VVT) が運行している(下注)。

*注 時刻表は、チロル運輸連合 https://www.vvt.at/ 路線番号950x。

朝9時40分キッツビュール発のバスがあり、ミッタージル着は10時18分だ。これなら11時08分発の下り蒸気列車に悠々間に合う。トゥルン峠 Pass Thurn から、緑のザルツァッハ谷と雪のホーエ・タウエルンが織りなす目の覚めるようなパノラマ(前回冒頭写真)を堪能して、ミッタージルに降りてきた。

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(左)キッツビュール駅前からポストバスに乗車
(右)ミッタージル市街が眼下に
 

蒸気列車には予約が必要なのは知っていた。しかし、他の保存鉄道でも当日、駅や車内で切符が買えたので、そのつもりで駅のカウンターへ行く。スティームトレインに乗りたいと言うと、ここには座席表がないので予約できない、しばしば満席になるから、先行する10時48分発の気動車をお勧めする、との返事だ。

1日1往復なので、オンライン管理をしていないのはわかるが、これでは目的が果たせない。「もし満席なら、デッキに立つので」と食い下がると、苦笑しながら「座席は車掌に聞いてください」と切符を売ってくれた。蒸気列車は特別運賃だが、渡されたのはヴァルトフィアテルのときと同様、薄紙のレシートだ。クリムルまでの所要時間は54分(下注)、どうせデッキに張り付くから、席はなくても構わない。

*注 蒸気列車に対して普通列車は、ミッタージル~クリムル間を35分で走破する。

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ミッタージルに蒸気列車が到着
 

蒸気列車は10時38分、時刻表どおりに入線してきた。牽いているのは、旧ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄シュタインバイス線169号機(BHStB 169、下注1)だ。1913年ブダペスト製で、1982年にクラブ760(下注2)が取得した。改修を受けた後、長期リース契約により、ピンツガウで稼働している。列車は、その後に荷物車(緩急車?)、2軸客車7両という編成だが、うち1両は「Pinzga Schenke(ピンツガウの居酒屋)」と書かれた深紅のビュッフェ車だった。

*注1 後にユーゴスラビア国鉄で73形19号機(JŽ 73-019)に改番。
*注2 クラブ760は、主にタウラッハ鉄道 Taurachbahn(ムールタール鉄道 Murtalbahn 最奥部の保存鉄道)を拠点に保存鉄道活動を行っている組織。

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本日の牽引機 BHStB 169
 

さっそく消火栓のような水栓につないだ消防用のホースで、機関車に給水が始まった。ここでは30分停車するので、乗客も皆、ホームに降りて休憩している。その間に、後を追ってきた3両編成のクリムル行き気動車が到着し、すぐに出ていった。これが先刻、乗車を勧められた列車だ。

しばらくのんびりした時間が流れ、発車の準備が整ったところで、西からツェル・アム・ゼー行きの各停プッシュプル列車が入線、それを待って蒸気列車は出発した。

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ミッタージルで30分の給水停車
 

ミッタージルから上流では、線路はおおむね川岸を伝っていく。視界を遮るような高い堤防はないから、氷河由来の白濁した速い水流がよく見える。方や、右側はおおかた緑の牧草地だ。その後ろには、ホーエ・タウエルンほど険しくはないものの、2000mを超えるキッツビュール・アルプス Kitzbüheler Alpen の、やはり雪を戴く山並みが見え隠れする。

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ザルツァッハの川岸を伝う
 

ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガー Neukirchen am Großvenediger 駅で、列車交換のためにやや長く停車した。ミッタージルで追い抜いていった気動車が折り返してきたのだ。同じような風景が続くので、日常的なイベントも気分転換になる。

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ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガーで
上り列車と交換
 

ふと気がつくと、山がかなり近づいてきている。列車は最後に大きく左へカーブして、終点のクリムル駅に入っていった。低いホームに接した本線2本と側線1本をもつターミナルだ。すぐに機関車が切り離され、機回し作業が始まったが、ゆっくり見ている時間はない。というのも、駅前に、ゾンダーファールト Sonderfahrt(特別運行の意)と表示した大型バスが来ていて、列車を降りた客がぞろぞろと乗り込んでいくからだ。乗り遅れると、せっかくの名所を見損なう。

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最後の大きな左カーブを回る
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終点クリムル駅に到着
 

駅がある場所は、正確にはフォルダークリムル Vorderkrimml(前方のクリムルの意)という集落(下注)のはずれで、滝入口までまだ3kmほどある。この間は高度差が約180mと大きく、粘着式の蒸気鉄道では到達が難しかったはずだ。バスは駅前を出るとその坂道を上っていき、本来のクリムル集落をかすめてから、連邦道沿いのインフォメーションセンター前で停まった。

*注 フォルダークリムルもクリムルも、自治体としてはヴァルト・イム・ピンツガウ Wald im Pinzgau の一部。

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(左)クリムル駅舎
(右)特別運行のバス
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(左)森の道を滝へ向かう
(右)正面奥の小屋が入場券窓口
 

現地の人々に混じって、歩いて滝へ向かう。途中、窓口で4ユーロの遊歩道利用料 Wegbenützungsgebühr を支払うのだが、解説や注意事項を記したパンフレットどころか、ここでも渡されたのはレシートのみ。

滝は3段に分かれていて、下の滝(下アッヘン滝 Unterer Achenfall)だけで、高さが140mある。驚くのはその膨大な水量だ。6~7月は融雪が進むため、水量が一年で最も多いらしい。その水が岩肌を勢いよく滑り降り、最後に滝壺へジャンプしていく。大地を揺るがすような轟音が森にこだまし、風に舞う水煙が絶えずカメラのレンズを濡らす。

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下の滝を真横から望む
 

急な山道が、山腹をジグザグに上っている。それをたどると、途中にいくつか展望台があり、滝を真横から、上方からと、さまざまな角度で見ることができた。山道はその先、中の滝(落差100m)、上の滝(同 145m)へ延びているが、また蒸気列車で帰るつもりなら、許される滞在時間は70~80分だ。残念だが、せいぜい下の滝の滝口付近で引き返さなくてはならない。

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滝口の展望台から下の滝を見下ろす
背景はキッツビュール・アルプス
 

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Pinzgauer Lokalbahn", The Austrian Railway Group, 2017 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ピンツガウ地方鉄道(公式サイト) https://www.pinzgauerlokalbahn.at/
クリムル滝(アルペン協会支部による公式サイト) https://www.wasserfaelle-krimml.at/

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2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしておられた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですよ」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝
 

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4人だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎
(右)1日4往復の滝本行き路線バス
 

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着
後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口
(右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影
 

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台
滝の最下段が正面に来る
 

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む
 

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋
(右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がる
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吊橋から見た滝と背後の断崖
 

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段
(右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた
 

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望
 

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い
 

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂
(右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人
 

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道
(右)旧道が通る水根橋
 

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口
(左)切通しで隧道へ
(右)水路橋が道をまたぐ
 

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み
 

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2019年1月 8日 (火)

コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

コンターサークル2018年秋の旅の舞台は関東に移る。11月24日の集合場所は都内、中央線と武蔵野線が十字に交わる西国分寺駅だ。この駅の構造はちょっとおもしろい。後からできた武蔵野線(1973年開通)が地表付近を突っ切り、歴史的にずっと先輩の中央線(1889年開業、下注)は、それを避けるかのように掘割の底を通っている。なぜこのような配置になっているのだろうか。

*注 路線の正式名称は「中央本線」だが、本稿の記述は列車系統で使われる「中央線」に統一する。

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国分寺崖線に沿って歩く
 

それは、中央線が通過する地形に関係がある。武蔵野台地の地盤が、西隣の国立駅の手前で一段低くなっているのだ。その差は10m強。加えて東側にも、野川(のがわ)が削った谷がある。この高低差を緩和するために、中央線はここで地面を深く切り通し、線路の位置を下げて建設された。対する武蔵野線はそれをまたぎ越せればいいので、結果的に地表を通れることになる(下注)。

*注 ただし、武蔵野線の西国分寺駅以南は、地表を走っていた通称 下河原線の一部を転用したという事情も影響していよう。

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(左)西国分寺駅改札内コンコース
 武蔵野線下りホームから撮影
 中央線のホームへはさらに左右の階段を降りていく
(右)国分寺の花沢橋から西望
 中央線は切通しを抜け、
 野川の谷を築堤で横断、再び切通しへ
 

本日のテーマは、この地盤の段差によって生じた斜面、すなわち段丘崖だ。中央線が突破している崖のラインは、立川市北部で顕著になり、およそ南東方向に大田区まで30km以上続いていて、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれる。

武蔵野台地は、もともと多摩川により関東山地から運び出された砂礫が堆積してできた扇状地だ。その後、多摩川の流路が南遷する過程で側面が削られ、段丘が形成された。西国分寺駅が載る上位段丘の武蔵野面に対し、国立の市街地は一段低い立川面にある。その境目が国分寺崖線だ。ちなみに立川面と、多摩川の沖積低地との境にも段丘崖が存在し、こちらは立川崖線と呼ばれている(下図参照)。

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国分寺崖線と立川崖線の概略位置
ベースは1:200,000地勢図(2012(平成24)年要部修正図)

この日の午前10時、西国分寺駅の改札内コンコースに集合したのは、今尾さん、大出さん、中西さんと私の4人。午後に予定が入っている人が多いので、短時間で行けるところまで行くことにして、ルートを熟知している今尾さんの案内でスタートした。

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西国分寺~新小金井間の1:25,000地形図と陰影起伏図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)
 

まず、崖線に沿って流れ下る野川の源流に足を向けた。武蔵野線のガードをくぐって、府中街道を横断し、階段を降りて恋ヶ窪の谷底へ。旧道を北へ少し歩くと、恋ヶ窪用水の由来を記した案内板が立っていた。玉川上水(後に砂川用水)からこの低地を経て、崖線沿いの旧村へ引かれていた水路だ。住宅街にはさまれて右へ、その流れと小道が寄り添うように延びている。

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姿見の池に向かう恋ヶ窪用水
 

たどっていくと、まもなくこんもりとした林地が現れた。中央にカルガモが泳ぐ池があり、木橋の上から園児の一団が楽しそうにそれに見入っている。これは姿見の池といい、昭和40年代にいったん埋められたものを復元整備したものだ。水は、地下水位上昇に伴う浸水対策を兼ねて、武蔵野線のトンネルで湧く地下水を引き込んでいるという。谷戸(やと、下注)と呼ばれるこうした谷間の湿地は、宅地に向かないため、まさに日陰の存在だった。時代が変わり、それが市民の憩いの場として見直されているのだ。

*注 地域によって、谷津(やつ)、谷地(やち)などとも呼ばれる。

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姿見の池も蘇り、市民の憩いの場に
 

池から続く谷間を下流へ歩いた。黄色い電車が颯爽と走る西武国分寺線のガードをくぐり、日立中央研究所の森を限る高い塀に沿って進む。そこをねぐらにしているのか、烏が太い声で鳴き交わしている。姿見の池から来た水は研究所内の大池に注ぎ、再び流れ出て野川となる。その先を追うには築堤上を走る中央線を横断しなければならないが、「築堤を突っ切る道がないので、陸橋まで迂回します」と今尾さん。

マンション脇の坂を上って、中央線を乗り越える花沢橋を渡った。東隣の国分寺駅がもう目の前だが、この駅のホームも掘割の中にあり、複雑な地形の起伏が実感される。それから住宅街の中の階段を降り、崖をなぞる形で蛇行する道をたどった。「泉町という町名ですね」「昔はここにも湧水があったんでしょうね」。しかし、今は斜面までびっしりと宅地化され、道に面して車庫、その上に住居という構造の住宅が並んでいる。泉どころか緑も乏しい。

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(左)野川沿いの小道、斜面もびっしり住宅で埋まる
(右)野川は深い溝の中
 

国分寺街道と交差する一里塚橋の手前まで来ると、野川は自らの狭い谷を離れ、広い下位段丘面(立川面)に出る。私たちは崖線沿いに東へ進んだが、反対側、西約1kmにある武蔵国分寺跡も必見だ(下注)。後日一人で訪れたが、古代人が崖線を意識してこの地を選んだことがわかった。

*注 府中街道と武蔵野線をはさんで東側には、国分尼寺跡もある。

それは、ちょうど国府から北へ延びる官道(東山道)が崖線を越えようとする位置にある。現場の案内板によると、伽藍は崖線を背にして、その南面一帯に配置されていたようだ。崖線の下からは今も清水が湧き出し、中の島に祠を祀る真姿の池を潤していた。昔はもっと多くの湧水があったそうで、寺の財源である水田経営にとっても有利な場所だっただろう。崖線周辺は雑木林が保存されていて、都市化以前の風景を想像させてくれるのもうれしい。

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武蔵国分寺跡
奥に見える林が国分寺崖線
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国分寺・国分尼寺の伽藍と崖線の位置関係図
現地案内板を撮影
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(左)中の島に祠のある真姿の池
(右)崖線沿いに残る雑木林は都立公園として保護されている
 

話を戻そう。

国分寺街道を横断して、さらに東へ進む。崖に沿うこの一車線道は「ハケの道」と呼ばれている。崖のことを、古語で「ハケ」というからだ。しかし、鉄道駅に近いので、泉町同様、斜面もすべて家やマンションの用地にされ、段丘の上下を長い階段が結んでいる。年配の女性が手すりにつかまりながら、それを上っていく。高低差がせいぜい15mとはいえ、「毎日これで駅へ通うとしたら、どうでしょうね」。地形的にはここも「ハケ」に違いないが、植生を剥がしてコンクリート張りにしてしまってはイメージが合わない。

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(左)国分寺駅へ向かう道が急坂で崖線を上っていく
(右)住宅街にも崖線の上下を結ぶ階段が
 

もちろん、国分寺跡にあったような崖線の雑木林と、湧水地いわゆるハケの水が見られる場所もまだいくつか残されている。一つは、今回訪問しなかったが、国分寺駅近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だ。もとは岩崎家の別邸で、現在は都立公園になっている。湧水が注ぐ池が深い谷底にあり、段丘上に設けられた休憩所(紅葉亭)から見下ろすことができる。崖の落差を視覚的にも利用した劇場風の回遊式庭園で、コンパクトながら見応え十分だ。

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殿ヶ谷戸庭園
紅葉亭から崖下の次郎弁天池を俯瞰
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(左)崖を流れ落ちる滝
(右)崖を斜めに下る竹の小道
 

私たちは、その800mほど東にある新次郎池を見た。東京経済大学の敷地内で、林に囲まれた薄暗い窪地に小さな池があり、周囲の崖下5か所から湧水が流れ込んでいる。傍らの銘板によれば、かつてここにはわさび田があったといい、新次郎というのは、それを池を整備した時の東経大の学長の名だそうだ。湧水に手を浸してみる。「おっ、暖かいですね」。今日の最高気温は13度、もはや地下水のほうが暖かく感じる季節になっているのだ。

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林に囲まれた薄暗い窪地にある新次郎池
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(左)一つ一つの湧水は少量だが
(右)池の堰を落ちるときはまとまった水量に
 

さらに200mほど進み、貫井(ぬくい)神社の前まで来た。石の鳥居をくぐると、色づき始めたモミジを映す大きな池がある。その上に架かる朱塗りの橋を渡り、水神様(市杵嶋姫命)を祀る本堂の前に出た。建物を囲むように水路が造られ、清水が流れている。湧出口があちこちにあるらしく、奥から手前へと見る見る水量が増えていくのには驚いた。

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水神様を祀る貫井神社
朱塗りの橋で池を渡る
 

新次郎池も貫井神社も、同じように段丘に食い込んだ形の窪地(下図参照)だ。かつては崖を侵食するほど豊かな湧水があったことを想像させる。都市開発が進み、地表がコンクリートやアスファルトに覆われると、降った雨は雨水管に直行してしまい、地中に浸透しなくなる。減少する地下水に連動して湧き出す水量も減り、すでに枯渇したものも少なくないそうだ。

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新次郎池と貫井神社附近の1:10,000地形図
 

最後に訪れたのは、新小金井街道の脇にある滄浪(そうろう)庭園。大正時代に実業家の別荘の庭として造られたもので、現在は小金井市が管理している。同じように段丘上に入口があり、崖下の湧水を引いた池まで降りていける。池の周りには針葉樹やモミジが鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い森を作っていた。ハケと呼ぶにふさわしい空間だ。「お屋敷の庭といっても相当広いですね」「市街地が拡大する前のものでしょうからね。残っていてよかったと思いますよ」。

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滄浪庭園入口
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崖を降りて池のほとりへ
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鬱蒼と茂る森に差し込む光
 

時刻を見たら、もう12時を回っている。どこかに食べる所があるだろうと手ぶらで来たので、崖線を巡る旅をここで切り上げ、武蔵小金井駅前に出た。昼食を共にして解散する。

改札で3人を見送った後、私はハケの道をさらに下流へ歩いてみた。中央線の駅勢圏から遠ざかるにつれ、風景は郊外色を帯びてくる。国分寺界隈とは違って、住宅地の間に少なからぬ面積の緑地が点在している。地形図に示した、はけの森緑地や美術の森がそうだ。小金井第二中学校の向かいには、個人宅の表札を掲げた大きなキウイ農園(はけの森果樹園)もあった。

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(左)美術の森
(右)はけの森果樹園のキウイ畑
 

やがて道は、はるかに広大な緑地、武蔵野公園に入っていく。土曜日とあって、子どもたちの歓声が広い谷間にこだましている。園地を貫く野川の流れは潤いというにはささやかだが、人工物が少ない風景は自然と心が落ち着く。晩秋の日は短い。午後3時を過ぎるともう、地面に落ちる林の影が長くなってくる。野川公園は北門をカメラに収めただけで、帰途に就くべく、私は新小金井駅に通じる崖線の坂を上っていった。

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武蔵野公園
(左)遠くから子どもたちの歓声が聞こえる
(右)紅葉する公園の樹々
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(左)西武多摩川線の電車が野川を渡る
(右)野川公園北門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図国分寺(昭和61年編集)、2万5千分の1地形図立川(平成30年調製)、吉祥寺(平成30年調製)および20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)を使用したものである。起伏陰影図は地理院地図ウェブサイトより取得した。

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2018年10月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-曽爾高原

2018年秋の本州旅2日目の舞台は、奈良・三重県境に位置する曽爾(そに)高原とその周辺の、東海自然歩道にも含まれているトレッキングルートをたどる。曽爾高原は、すり鉢状の斜面にススキが群生して、秋になると臨時バスが運行されるほど関西の人気スポットの一つなのだが、それを取り囲むように連なる、柱状節理の断崖を剥き出しにした室生火山群の山々もまた人を引き付ける。その風景をゆっくり楽しもうと、敢えて高原へ直行せず、麓の谷間の集落から歩き始めることにした。

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ススキ揺れる曽爾高原
右下の湿原はお亀池
 

10月15日朝、雨上がりの近鉄大阪線の名張(なばり)駅前から、曽爾高原行きの路線バスに乗り込んだ。平日というのに、車内はハイキング装備の人たちで満席だ。参加者は今尾さんと私の2名。地形図話に花を咲かせながら、青蓮寺川(しょうれんじがわ)の渓谷を遡るバスに揺られた。ダム湖が尽きるあたりから、道路は見上げる高さの断崖と川とに挟まれ、大型車1台分の道幅しかない区間が断続する。30分ほど走ったところで、ようやく谷が開けてきた。

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(左)近鉄名張駅西口、レトロな木造駅舎が残る
(右)太良路バス停で下車
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名張市、曽爾村周辺の1:200,000地勢図(1988(昭和63)年修正図)
茶色の枠が下掲1:25,000詳細図の範囲
 

下車したのは、太良路(たろうじ、下注)というところ。杉の巨木が立つ神社の前、村のよろず屋の軒先に停留所の標識が立っている。走り去るバスを見送って歩き始めると、社森の陰から特異な風貌の鎧岳(よろいだけ)が姿を現した。のどかな村里の背後に急角度でそそり立ち、まるで守護神のように谷を見下している。中腹に露出した断崖の連なりは、なるほど鎧のようだ。

*注 太良路は、山一つ越えた太郎生(たろう)地区へ通じる道を意味する地名。バス停のふりがなは「たろうじ」だが、地理院地図の地名情報には「たろじ」とある。

上空は朝から雲に覆われたままだが、幸い雨の予報は出ていない。「ちぎれた雲が流れていくのも、神秘的でいいですよ」と私。橋を渡って、太良路の集落に入り、勾配のきつい沢沿いの旧道を上っていく。林がとぎれたところで振り向いたら、集落の向こうにまた鎧岳が見えた。今度は後ろに兜岳(かぶとだけ)を伴っている。

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太良路集落を見下す鎧岳(右)と兜岳
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別の角度から見た鎧岳(新嶽見橋にて別の日に撮影)
柱状節理の断崖がより顕わになる
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曽爾高原周辺の1:25,000地形図
赤線が歩いたルート
 

クルマ道と合流して少し進み、曽爾高原ファームガーデンの前を通り過ぎる。道路が勾配緩和のループを繰り返す間、徒歩道は森の中をほぼ直登している。胸突き八丁というべき、きつい上り坂だ。1:25,000地形図の倶留尊山(くろそやま)図幅によれば、太良路が標高390m、ファームガーデンが約470mに対して、ススキの原の広がるあたりはもう700mを超えている。

今尾さんが持ってきた地形図には、これから歩くルートが赤でなぞってあった。ただ、行く予定のないところまで延びているので聞けば、「古書店で買ったときから赤線が入っていたんです」。もとの持ち主は、何日もかけて山地を縦走する相当の健脚家だったようだ。

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徒歩道は車道からそれて杉林の中を直登する
 

森の中では風が止むため、じわりと汗がにじんでくる。こんな天気で湿度が高いらしい。落ち葉の積もる薄暗い杉林を登り続けて、国立曽爾青少年自然の家の前に出た。有名なススキの原はこの南側に広がっているはずだ。その全景を確かめようと、さっそく地形図で728m標高点がある高まりのほうに足を向けた。

一帯は、例えるなら半円の客席が舞台を囲む劇場のような地形だ。客席に相当する後ろの山は左右にピークがあり、左のそれは二本ボソ(標高996m)、右端は亀山(標高849m)という。間の鞍部は亀山峠と呼ばれ、太郎生へ抜ける徒歩道が通っている。一方、手前の舞台に当たる部分は凹地で、一部が湿原化して、お亀池の名がある。

この凹地には水の吐け口がなく、一見古い火口のようだ。しかし成因はそうではなく、後ろの山が大規模な崩壊を起こしたときに、その山と押し出された土砂(今立っている728m標高点から南へ延びる高まり)との間にできた窪みだ。風化によりすっかり均され、穏やかな表情を見せているので、過去にすさまじい地滑りが起きた現場とはとても思えない。

国立曽爾青少年自然の家の資料(下記参考サイト)によると、一帯は昔から麓の太良路地区の茅場だったそうだ。毎年春、地区の共同作業で山焼きが行われ、ススキが生育する環境が保たれてきた。刈り取ったススキ、すなわち茅で地区の屋根を葺いていたのだが、瓦やトタン屋根の普及で需要が減少したため、現在は専門業者が引き取り、全国の古民家の葺き替えに使われているという。

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ススキの原が広がる曽爾高原(別の日に撮影)
左端が二本ボソの稜線、中央の鞍部が亀山峠、右端のピークが亀山
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遊歩道が廻るお亀池(別の日に撮影)
 

池のそばのピクニックベンチで昼食を取った後、再び歩き出す。亀山峠までは、ススキが揺れる斜面を斜めに上る丸太階段の遊歩道だ。高度が上がるにつれ、曽爾の谷を隔てた西側の山並みも立ち上がってくる。太良路で確認できたのは鎧と兜だけだったが、今やその左奥にある国見山や住塚山(すみつかやま)、ナイフで片側を切り落としたような形の屏風岩まで一望になる。

室生火山群として括られている山々だが、どれも火山そのものではない。この地域は約1500万年前、南方で活動した火山からの噴出物で埋め尽くされた。火山灰は熱と自重によって溶融し、場所によって厚さが400mにもなる溶結凝灰岩の層を形成した。現在の山地は、これらの地層が水流の侵食を受けた後に残ったもので、ピークが1000m前後で揃っている。山地を特徴づける柱状節理の断崖は、凝灰岩の露頭なのだ。

標高約820mの峠から遠くの山並みにカメラを向けるが、あいにく雲の動きが早すぎて、峰が次々と覆い隠されてしまう。そのうち、亀山の尾根の裏からも霧が湧いてきて、ススキの原をすべり降り始めた。「風伝(ふうでん)峠みたいですね」と今尾さんが言う。風伝峠といえば熊野古道の山越えの一つで、冬場に朝霧が里へ吹き下りる風伝おろしが見られる。偶然にも私も、最近そこを歩いたばかりだ。

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(左)亀山峠へ上る長い階段道
(右)霧に包まれる亀山峠
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曽爾高原から室生火山群を望む
中央が兜岳、その右が鎧岳
 

しばらくそんな旅の四方山話をしながら視界が晴れるのを待ってみたが、かえって霧がこちらへ回ってきて、周りを白一色に塗り込めてしまった。帰りのバスの時刻も気になってきたので、時計の針が1時を指したところで諦め、山を降りることにした。

峠には県境が走っている。西側が奈良県宇陀(うだ)郡曽爾村、東側は三重県津市だが、かつては一志(いちし)郡美杉村といった。その名にたがわず、道はすぐに、すらりと伸びた杉の美林の下へ潜り込んでいく。

ジグザグの山道には、曽爾側と同じように丸太で土留めした階段が組まれているのだが、極端に急斜面のため、谷側の詰めた土がすでに抜け落ちた個所さえある。加えて先月の台風で倒れたと見え、太い木が何本も道を塞いでいる。私たちはそれを一つずつ跨ぎ越しながら、慎重に歩を進めた。谷の傾斜が少し緩むと、それこそ熊野古道のような苔むした石畳が現れた。観光用とは思われず、このルートがかつて主要な往来に供されていたことを示すものだ。

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(左)亀山峠からの下り
(右)急斜面を杉の美林が覆う
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(左)台風による倒木が道を塞ぐ
(右)石畳の山道
 

632m標高点の付近で山道は杉林を抜け出し、軽自動車が通れる幅の舗装道に合流する。そしてしばらく、池の平高原と呼ばれる緩い起伏の、棚状の土地を縦断していく。ここも地滑り地形のようだが、地形図で見る限り、曽爾高原よりはるかに大規模だ。しかし、放棄された茅場に植林が実施されたことで、景観は大きく変わってしまったらしい。同じような湿原もあるはずなのに、荒れ地か耕作放棄地としか見えないのだ。高原で出会ったのは放し飼いにされた2頭の山羊のみで、人のいる気配はなかった。

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池の平高原
(左)倶留尊山は雲がかかったまま
(右)放し飼いの山羊しかいない
 

620m標高点から先は、また急な下り坂が復活し、整地された棚田の中を太郎生(たろう、下注)の村里へ入っていく。太郎生は、堀さんが名張からバスで名松線の伊勢奥津(いせおきつ)駅へ向かう途中に立ち寄った場所だ。しかも季節は秋だった。著書『地図を歩く』(1974年)には、「とある一隅の畠からの、茶褐色の土のうねと、浅みどりの野菜の葉と、たわわに実る柿とを前景にした倶留尊の見はらしは、なかでも私の忘れ得ぬ旅の印象の一つとなった」(p.178)とある。

*注 この地名のふりがなには、「たろう」「たろお」の二通りの表記がある。

しかし残念ながら、私たちが太郎生に降りてもまだ、倶留尊山は中腹まで雲がかかったままで、堀さんを魅了した険しい峰の連なりを拝むことは叶わずじまい。棚田と小川と、その周囲に散在する農家のたたずまいを眺めることでよしとするしかなかった。

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太郎生へ降りる道から見た倶留尊山(別の日に撮影)
 

太郎生郵便局の前に停留所(南出口バス停、下注)の標識を見つけ、名張駅前へ戻るバスを拾った。往きの曽爾高原行きとは打って変わって、乗客は遠来の私たちだけだ。観光地から外れた地方路線にはありがちな話とはいえ、「駅までこのままかな」と他人事ながら気になる。結局、市街の外縁に当たる上比奈知(かみひなち)でようやく女の子が一人乗ってきて、私たちを少し安堵させたのだった。

*注 南出口バス停から100mほど南西に、中太郎生バス停もある。旧道沿いの民宿たろっと三国屋の右の路地を抜けると到達でき、このほうが距離的には近い。

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(左)山麓の上出集落を抜ける
(右)国道沿いの南出口バス停
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図倶留尊山(平成28年調製)および20万分の1地勢図伊勢(昭和63年修正)を使用したものである。

■参考サイト
国立曽爾青少年の家-曽爾のこともの http://soni.niye.go.jp/kotomono/kotomono.html

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2018年10月13日 (土)

モーゼル渓谷ツェラー・ハムの展望台

ボージュ山地を発してコブレンツ(コーブレンツ)でライン川に合流するまで、約550kmを流れ下るモーゼル川 die Mosel。その中流から下流部にかけての流路は特徴的だ。まるで行く先を忘れて迷子になったかのように、極端な曲流が連続している。

このような地形は「穿入(せんにゅう)蛇行」と呼ばれ、日本でも大井川や四万十川などに見られる。もともと平野部をゆったりと蛇行していた川が、地盤の相対的な隆起に対して水流による浸食で抵抗し、もとの流路を維持している状態だ。見方を変えれば、大昔の自由蛇行を谷の中に閉じ込めた地形の缶詰ということができるだろう。

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マリエンブルクから曲流するモーゼル川を眺望
 
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あまたある曲流の中でも最大と言えるものが、ピュンダリッヒ Pünderich とブライ Bullay の間にある。経由地ツェル Zell の名を採って、「ツェラー・ハム Zeller Hamm(下注)」または「ツェルのモーゼル湾曲 Zeller Moselschleife」と呼ばれるこの曲流は、始点から終点までの延長が14kmにも及ぶ。ところが、首根っこの、最もくびれた地点間の距離は1kmもないのだ。それで、くびれの所で谷を分けている尾根に上れば、左右に同じ川が見え、かつ流水方向は反対という、鏡像のような光景に出会える。

*注 ハム Hamm は、ラテン語の hamus(鉤、フックなどの意)に由来し、川の湾曲を意味する。

加えてここは、鉄道ファンにとっても注目すべき場所だ。コブレンツから川に沿って走ってきたDBのモーゼル線 Moselstrecke(下注)が、湾曲部をショートカットしている。くびれ尾根をトンネルで貫くとともに、その前後に上下2層の鉄橋や、長い斜面高架橋を構えている。山と川とこれら珍しい構築物が織りなす風光が好まれて、ここで撮られた写真は、昔から路線紹介の定番だ。

*注 モーゼル線のこの区間については、本ブログ「モーゼル渓谷を遡る鉄道 II」で詳述。

どのポイントでどんな構図が得られるかを含めて、今回はこの曲流の周辺を紹介しよう。

図3
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ツェラー・ハム周辺の1:50,000地形図(L5908 Cochem 1989年)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz, 2012
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撮影地周辺の1:25,000地形図(GeoBasisViewer RLPから取得)
撮影位置を①~④で示す
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

コブレンツ中央駅からモーゼル線トリーア方面のRE(レギオエクスプレス、快速列車に相当)に乗ると、車窓に映る穏やかな川面を眺めながら、44分でブライに到着する。地下通路を介して山側にあるブライ駅舎は、20世紀初期に建てられた簡素なデザインの建物だ。アーチ天井のホールの片側は旅行センター、片側はビアレストランが入居するが、降車客の姿が消えると、朝10時の構内はしんと静まりかえる。

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(左)ブライ駅舎の中央ホール
(右)大砲鉄道の案内板
 

ホールの中央にある、カノーネンバーン(大砲鉄道)Kanonenbahn と書かれた案内板が目に留まった。大砲鉄道というのは、19世紀プロイセンの時代に、有事の際の輸送ルートとして、ベルリン Berlin とロレーヌ地方のメス Metz との間に建設された路線の俗称(下注1)で、モーゼル線も実はその一部だ。ブライ駅はツェラー・ハムを巡る周遊トレール(下注2)の出発点とされていて、トレールをたどる人に地域の鉄道史を知ってもらおうと、関連地点に案内板が設置されている。

*注1 大砲鉄道については、本ブログ「ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線」に概要がある。
*注2 正式名は「大砲鉄道ブライ=ライル鉄道史文化トレール Eisenbahnhistoricher Kulturweg Kanonenbahn Bullay - Reil」。延長23km。

駅舎を出て右へ、鉄道の築堤に沿って進むと、500mほどでさっそくアルフ=ブライ二層橋 Doppelstockbrücke Alf-Bullay のたもとに出た。長さ314m、6径間(最大径間72m)の堂々たるトラス橋だ。上が鉄道、下が州道L 199号線という二層構造で、モーゼル川を渡っている。北側の橋台の脇をかつてモーゼル鉄道(下注)がくぐっていたのだが、今は道路に転用されてしまっている。

*注 モーゼル鉄道 Moselbahn または モーゼルタール鉄道 Moseltalbahn は1962年に廃止された標準軌の私鉄路線。トリーアから、鉄道のないモーゼル右岸を忠実になぞって、ブライに達していた。現 ブライ駅の正式名が Bullay (DB) と表記されるのは、南に少し離れていたモーゼル鉄道の駅(Bullay Kleinbahnhof または Bullay Süd)と区別していた名残。

二層橋の道路部分では、車道の両脇に一段高くなった歩道がある。突き刺さるトラスの太い梁がやや邪魔になるものの、スピードを上げて通る車を気にしなくていいのはありがたい。渡り終えたところで、連邦道53号線を横断する必要がある。

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アルフ=ブライ二層橋
上を鉄道(モーゼル線)、下を道路(州道L199号線)が通る
 

地図で見ると、曲流の展望地へは、右手に見える小さな葡萄畑の急斜面を上っていくのが近道なのだが、私有地らしく、トレールには認定されていない。正規ルートは、左手の車道脇から山中に入り込む登山道だ。少し上ったところで、右から来る小道に合流するが、この小道は、プリンツェンコプフトンネル Prinzenkopftunnel(長さ458m)の北側ポータルの前に通じている。寄り道すれば、二層橋を渡る列車をほぼ同じ高さで捕えることができるだろう。

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アルフ=ブライ二層橋を渡るモーゼルワイン鉄道の旅客列車
上図①の位置で撮影
 

一方、トレールはくびれ尾根の森の中を、一部ジグザグに上っていき、最終的に尾根筋のマリエンブルク Marienburg に出る。マリエンブルクには、トリーア司教区の青少年研修施設があり、そのテラスに立つと、葡萄畑の山腹に張り付くピュンダリッヒ斜面高架橋 Pündericher Hangviadukt が見渡せる。この形式ではドイツで最も長く、延長786m、内径7.2m のアーチを92個連ねた見ごたえのある構造物だ。高架橋の眺めは、尾根筋に限ればここがベストで、西へ進むにつれて視角が浅くなり、アーチ全体がきれいに見えなくなる。

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マリエンブルクから望むピュンダリッヒ斜面高架橋
上図②の位置で撮影
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(左)南向き斜面に整列する葡萄の苗木
(右)尾根伝いのトレール。遠方にプリンツェンコプフの展望塔が見える
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ピュンダリッヒ斜面高架橋を走る列車から見たマリエンブルク(右の山上の建物)
 

マリエンブルクの眺望を満喫した後は、いよいよプリンツェンコプフの展望塔 Aussichtsturm へ向かおう。尾根伝いの道は、葡萄畑越しに、対岸に広がるピュンダリッヒの町と、左に大きく曲がっていく川のパノラマが楽しめる景勝ルートだ。700m、約10分行ったところで、展望塔に通じる坂道が左に分岐している。少し上れば、鉄骨で組んだ塔の足もとに出る。

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プリンツェンコプフに建つ展望塔
 

プリンツェンコプフ Prinzenkopf(王子の山頂の意)はツェラー・ハムの付け根にある小さなピークだ。標高220m、19世紀からすでに人気の見晴らし台だった。1818年に皇太子、後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 Friedrich Wilhelm IV. がラインラント行啓の際に立ち寄り、仮設のあずまやで昼食を取った。その故事から山の名がある。

1888年に、最初の展望塔が中古の木材を使って建てられたが、1899年に石造りの堅固な塔に建て替えられた。展望階には屋根がかかり色ガラスが嵌められて、風雨や、初夏のやっかいな羽蟻から護られた快適な施設だった。しかし、第二次世界大戦末期の1945年3月に、米軍によって爆破されてしまった。その後しばらくして1983年に、地元自治体によって塔が再建された。景観に配慮して木造とされたが、それが仇となって2005年の嵐で破損したため、2009年に鉄骨組みで建て直されたのが現在の塔だ(下注)。

*注 展望塔の歴史は、現地にあった鉄道史文化トレールの案内板を参照した。

四代目となるこの展望塔は、高さが27.3m、最上階の展望デッキは基礎から18m、モーゼル川からは145mの高さがある。人気は今も続いているらしく、塔には入れ替わり立ち替わり見物客が訪れていた。最上階のデッキからは360度の展望が得られる。とりわけ東方向は、手前からまっすぐ伸びる緑濃い細い尾根の先に、マリエンベルクの修道院風の建物が見え、その両側に、葡萄畑を斜面に載せたモーゼルの深い谷が奥まで通っている。予想通り、鏡像のようなみごとな光景だ。

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プリンツェンコプフの展望塔から見たツェラー・ハムのパノラマ
正面の建物がマリエンブルク
川は右手前から中央奥の山の後ろを回って、左手前へ流れてくる
上図③の位置で撮影
 

展望塔の建つ位置は、モーゼル線のプリンツェンコプフトンネルの真上に当たる。少し期待していたのだが、意外にも鉄道の撮影に向いていないことがわかった。二層橋はちょうど木の陰になり、斜面高架橋は手前のアーチが隠れてしまうのだ。

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展望塔から下流方向を望む
川の右岸はブライの町だが、手前の木に隠れる
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展望塔から上流方向を望む
斜面高架橋の手前のアーチが見えない
 

塔を後に、アルフ=ブライ二層橋を遠望できる場所を求めて、アルフの町へ降りる道を少したどった。森が途切れたところにレストランを兼ねた農家があり、その前が、さっき二層橋を渡ったときに右手に見えていた葡萄畑の斜面だった。まだお昼時でやや逆光にはなるものの、形よくカーブするモーゼルの谷を背景に、二層橋が川面に堂々とした姿を映している。

実はここへ来る前に、順光になるマリエンブルク側で二層橋の展望地を探してみたのだが、北斜面は森に覆われているため、研修施設に入らない限り、そのような場所はなかった。施設内に望楼のような建物を見かけたので、そこならブライやアルフの町を背景に、二層橋を渡る列車の写真が撮れるのではないだろうか。

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葡萄畑の上から望むアルフ=ブライ二層橋
上図④の位置で撮影
 

モーゼルの伸びやかな風光に心行くまで浸った後で、同じ道をとぼとぼ帰るのも芸がない。このままアルフに降りて、モーゼル川を横断するフェリーで対岸のブライに戻るか、あるいは斜面に付けられたトレールを上流(南)へ歩いて、ライラーハルス Reiler Hals の鞍部からモーゼルワイン鉄道のライル Reil 駅まで、もう少しハイキングの時間を楽しみたい。

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 ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線
 モーゼル渓谷を遡る鉄道 I
 モーゼル渓谷を遡る鉄道 II

2018年9月16日 (日)

ライン渓谷ボッパルダー・ハムの展望台

ライン川クルーズは、ドイツ観光のハイライトの一つだ。世界遺産にも登録された渓谷(下注)の、両側から荒々しい岩肌が迫る速くて豊かな流れの上を、遊覧船が進んでいく。上流のリューデスハイム Rüdesheim あたりから乗船した人の多くは、ザンクト・ゴアール St. Goar か対岸のザンクト・ゴアールスハウゼン St. Goarshausen で降りてしまうが、KDラインの船便はさらに下流へ進み、ボッパルトあるいはコブレンツ(コーブレンツ)Koblenz まで行く。

*注 「ライン渓谷中流上部 Obere Mittelrheintal」の名で、ビンゲン・アム・ライン Bingen am Rhein ~コブレンツ間が登録されている。本ブログ「ドイツの旅行地図-ライン渓谷を例に」でも言及。

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ライン川の湾曲に面するボッパルトの町
 

このルート後半は、古城群やローレライなど見どころの多い前半に比べて、地味な区間と思われがちだ。しかしそこにライン渓谷で唯一、川が大きく湾曲するボッパルダー・ハム Bopparder Hamm の奇観があるのを忘れてはいけない。

ドイツ国内でライン川は、おおむね北ないし北西方向に流れているのだが、細部はそうとも限らない。ここボッパルトの町の前では西を向いており、その直後、右に180度転回して、一時的に東へ向かう。深い渓谷の中とあって、両岸を走る鉄道も道路もショートカットするすべがなく、川に従い大迂回を強いられている。

半径約1kmの半円を描く曲流の景観は、渓谷のへりの高みから眺め降ろすのがいい。ボッパルト近くの左岸の崖の上に、その条件を満たす「ゲーデオンスエック Gedeonseck」という展望台がある。

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展望台へ上るチェアリフトから右岸線を走る列車を望む
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ボッパルト周辺の1:25,000地形図
(5711 Boppard 2009年)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

その日は、船ではなく左岸線の列車で、ボッパルト中央駅 Boppard Hbf に着いた。ボッパルトは帝国都市の経歴をもつ古都(下注1)で、今はライン河畔に開けた上品なリゾート都市の一つだ。中央駅とは名ばかりの小さな駅前広場から西へ歩くこと15分、ミュールタール Mühltal の鉄道ガードをくぐると、水車の回る鄙びたレストランの隣に、展望台へ上るチェアリフトの乗り場がある。妻壁にゼッセルバーン・ボッパルト Sesselbahn Boppard(下注2)と大書してあるから、見落とすことはない。

*注1 帝国都市 Reichsstadt は中世、神聖ローマ帝国の直轄都市。ただし、ボッパルトが帝国都市の地位を得ていた時期は短く、1309年以降はトリーア選帝侯国 Kurtrier に属した。
*注2 ゼッセルバーン Sesselbahn はチェアリフトのこと。ゼッセルリフト Sessellift ともいう。

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(左)ボッパルト中央駅
(右)チェアリフトの乗り場
 

リフトは1954年に開設されたもので、長さ915m、高低差は232mある。片道20分のけっこう長い空中遊覧だ。並行して登山道も整備されているのだが、周辺の地形を理解するには、往路は空中リフトに身をゆだね、復路で歩いてゆっくり景色を楽しむのがいいだろう。

乗り場の係員に見送られて、リフトはまず葡萄畑の斜面を這い上がり、まもなくライン川とミュールタールを見下す細い尾根の上に出る。そしてそのまま、尾根伝いに北上していく。両側が鋭い角度で落ち込んでいるので、視界を遮るものはなく、すでに見晴らしは抜群だ。

右手はライン渓谷で、遠心力を感じるほど大きなカーブを描いている。さっき歩いてきたボッパルトの白い町並みがじわじわと遠ざかる。はるか下の川を行く貨物船や河岸を走る列車や自動車は、もはやミニチュアか何かのようだ。

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(左)まず葡萄畑の斜面を這い上がる
(右)その後は尾根伝いに北上(帰路写す)
 

左手は山また山だが、直下ミュールタールの山腹に、注目すべきDBのフンスリュック線 Hunsrückbahn(下注)が通っている。ボッパルトを起点とし、高原上のエンメルスハウゼン Emmelshausen まで行く路線だが、ラインの谷壁を克服するために、1:16.4(60.9‰)と粘着式では破格の急勾配が用いられている。運よく単行の気動車がその坂道を下ってくるのに遭遇した。

*注 フンスリュック線は延長14.7km。現在は交通企業レーヌス・ヴェニーロ Rhenus Veniro が、左岸線のボッパルト・ジュート(南駅)Boppard Süd まで旅客列車を運行している。

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フンスリュック線の連接気動車が60.9‰の急勾配を行く(帰路写す)
 

リフトが徐々に高度を上げていくにつれ、足元の斜面も険しさを増してくる。見る位置によってはほとんど尾根線の外側に乗り出しているかのように感じられる。残り1/3でルートがミュールタール側の斜面に移った後も、やや深い谷を渡るスリリングな区間があった。日本なら、リフトの動線に沿って落下防止用のネットが張られていそうなものだが、ここには何もない。その上、チェアはスキー場にあるような簡易構造で、足を預けているのは1本の細い鉄棒に過ぎない。それで、深く腰を掛け、動かないでいることが唯一、高所の恐怖を払いのける方法だった。

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(左)チェアリフトの終点
(右)オークの森を歩いて展望台へ
 

リフトの終点は標高302mのヒルシュコプフ Hirschkopf で、オークの深い森を背負っている。木漏れ日の林道を5分足らず歩いていくと、前方の視界が開けて、ゲーデオンスエックに出た。あいにく開放されている展望台は北の端の狭い場所で、一等地は軽食堂のテーブルが占拠している。しかし、午後3時で客がまばらだったので、飲み物なしで少しばかり景色を眺めさせてもらった。

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ゲーデオンスエックの展望台はレストランが占拠
開放された展望台は左奥にある
 

なるほど、噂通りここからはボッパルダー・ハムの大湾曲が一望になる。ライン川は右から左へゆったりと流れている。リフトからも見たように、右手にボッパルトの町、その奥の山かげから対岸のカンプ・ボルンホーフェン Kamp-Bornhofen が顔を覗かせる。一方、正面は円盤のような整った形が印象的なフィルゼン Filsen の村と畑で、その後ろにオスターシュパイ Osterspai の村も見える。左は、川沿いの急斜面に、ボッパルト自慢の良質なワインを産む葡萄畑が広がっている。

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ゲーデオンスエックから見たラインの湾曲、ボッパルダー・ハム
右はボッパルトの町、正面はフィルゼンの村、左は良質ワインを産む葡萄畑
 

ボッパルダー・ハムの「ハム Hamm」というのは、ラテン語の hamus(鉤、フックなどの意)に由来するそうだ。つまり、本来はボッパルトの湾曲地形を意味する言葉なのだが、一般にはこの一帯の葡萄畑、あるいは特産のワインのことを指すと思われている(下注)。

*注 地形図でも、斜面の葡萄畑に掛かるようにボッパルダー・ハムの注記がある。

ライン中流では、川沿いの南向き斜面は貴重な存在だ。川の流路が東西方向のところに限られるからだ。ボッパルダー・ハムは直射光とともに、スレート質の地面から反射光がたっぷり得られ、そこに川の蓄熱効果が加わる。さらに湿気をもたらす西風が西側の山地で遮られるため、温暖で乾燥した環境を好む葡萄の栽培には最適なのだという。

昔から南北交通の大動脈だったライン渓谷では、両岸に複線の鉄道が通っている。東側がライン右岸線 Rechte Rheinstrecke、西側がライン左岸線 Linke Rheinstrecke だが、大部分のICEが2002年に開通した高速新線(下注)に移った後も、ここをIC(インターシティ)や貨物列車が頻繁に往来する。少々遠目にはなるものの、この展望台は、ライン川と周辺の風景を入れてそれらの列車を撮るにもいい場所だ。

*注 ケルン=ライン/マイン高速線 Schnellfahrstrecke Köln–Rhein/Main。ケルン Köln とフランクフルト Frankfurt am Main を結ぶ高速新線。

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葡萄畑の下の左岸線を列車が行き交う
 

近くにもう1か所、展望台があるという情報が気になっていた。「フィーアゼーンブリック Vierseenblick(四つの湖の眺めの意)」と名のつく場所だ。再び林道を北へ5分ほど歩いていくと、入口に看板が立っていた。

そこも同じように軽食堂が居座っていて、開放された展望所は小さなスペースだったが、なるほど山かげに隠れて、ライン川が見かけ上、4つの断片に分かれる。上流側からカンプ・ボルンホーフェン、ボッパルト、フィルゼン、オスターシュパイと、沿岸の町や村がどれ一つ省かれることなく、公平に見えるのも絶妙といっていい。

とはいえ、今しがた湾曲の雄大な全貌を目の当たりにして感動したばかりだ。この景観は、せっかくの自然の造形を出し惜しみしているようで、案外つまらなかった、と正直に告白しておこう。

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フィーアゼーンブリックからの眺め
 

■参考サイト
ボッパルト・チェアリフト(公式サイト) http://www.sesselbahn-boppard.de

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2018年6月11日 (月)

北海の島のナロー I-概要

ヨーロッパ大陸とイギリス諸島の間に北海が横たわる。ドイツやオランダもこの海に接しているが、より大縮尺の地図を見ると、本土と北海本体の間には小さな島が鎖状に連なり、オランダ沿岸からユトランド半島にまで延びている。これらはフリジア諸島 Frisian Islands / Friesische Inseln と呼ばれ(下注)、そのうち、ドイツ領のエムス Ems 河口からヤーデ Jade、ヴェーザー Weser 河口までが、東フリジア諸島 East Frisian Islands / Ostfriesische Inseln だ。

*注 フリジア Frisia は英語由来の呼称で、ドイツ語ではフリースラント Friesland という。上で併記した原語は左が英語、右がドイツ語。

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東フリジアの地図
沖合に島が鎖状に連なる
本土との間の海がワッデン海
ドイツ官製1:500,000地形図 Nordwest を使用
© Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2018

 

なぜこのような形に島が並ぶのだろうか。その成因は主として海流の作用だ。このあたりは、最終氷期(約7万年前~1万年前まで)に海面が現在より約60m低く、砂礫やモレーンから成る平たく乾燥した土地が広がっていた。その後、氷床が融けて海面が上昇すると、海流に乗って砂が西から東へ移動していく。また、北海に注ぐ川が内陸から多量の砂泥を海に押し流し、これも海流によって運ばれた。

北海沿岸の潮汐力は大きい。満ち潮は速くて勢いがあるが、引き潮の速さはその85%にとどまるという。そのため、沖合から満ち潮に乗ってきた砂は、引き潮で戻されずにいくらかはそこに残る。高潮や強風がそれを上へと堆積させる。やがて沿岸には長さ500kmにもなる砂丘の列ができた。実は、今あるフリジアの島々は、こうした砂丘が嵐の際の高波などで寸断された姿だ(下注)。

*注 なお、ユトランド半島西岸の島々は北フリジア諸島と呼ばれ、成因が異なる。

一方、氷圧から解放されたスカンジナビア半島の隆起で、相対的に北海南部が沈下したため、海面水位は上昇し続けている。そのため、島と本土との間は完全に陸地化することなく、干潟や遠浅の海、ワッデン海 Wattenmeer(下注)として姿をとどめた。

*注 オランダ語の Waddenzee に基づきワッデン海と呼ぶが、本来、干潟(Watt)の海(Meer)という意味の普通名詞でもある。

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遠浅が続くワッデン海の眺め
シュピーカーオーク島西岸にて
 

東フリジア諸島に有人島は7つある。西から順に、ボルクム Borkum、ユースト Juist、ノルダーナイ Norderney、バルトルム Baltrum、ランゲオーク Langeoog、シュピーカーオーク Spiekeroog、そしてヴァンガーオーゲ Wangerooge だ(下注)。

*注 島名の語尾に付く oog、ooge は、現地のフリジア語で島を意味する。

一番大きいのは西端のボルクム島だが、それでも面積は31平方km、日本でいえば厳島(宮島、30平方km)にほぼ等しい。一方、バルトルムとヴァンガーオーゲは10平方kmにも満たない小島だ。人口も、最も多いノルダーナイ島で約6000人、バルトルムやシュピーカーオークは1000人を割り込む。

そのようなささやかな島々にもかかわらず、このうち5島にかつて一般旅客や貨物を運ぶ軽便鉄道が存在した。そして今日でもなお、3つの島で列車の走る姿が見られる。しかも細々と動いているどころか元気で、島にとっても不可欠の存在になっているのだ。

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賑わうボルクム軽便鉄道
(左)レーデ Reede 駅で船と接続
(右)終点は町の中心

なぜ、島の鉄道 Inselbahn が21世紀まで生き残り、それぞれに活路を見出し得たのだろうか。その理由を知るために、少し歴史を遡ろう。

かつて東フリジアの島の生業は、漁業と少しばかりの農業だった。島に別の収入をもたらす道を開いたのは、19世紀、本土からやってきた保養客だ。彼らは泳ぎに来たわけではない。当時、海辺の新鮮な空気が呼吸器疾患その他さまざまな病状の改善に有効だと考えられており、療養のために滞在したのだ。

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砂浜を埋め尽くすシュトラントコルプ(屋根付きビーチチェア)Strandkorb
ヴァンガーオーゲ島にて
 

1797年にノルダーナイ島が、プロイセン王から最初のノルトゼーバート(北海保養地)Nordseebad に認定された。本土から隔絶した島という希少性や神秘性が、上流階級の人気に拍車をかけた。しかし、それは、交通の便が悪いことと同義だった。

島へ向かう舟は、本土のジール港 Sielhafen から出航する。ジールはフリジア語で、堤防で囲まれた水門のある水路のことだ。水路は河川とつながっており、内陸の水が水路を通って海に排出されるときに、干潟に深い溝、いわゆる澪(みお)を刻む。浅海では、これが唯一安全な航路になった(下注)。

*注 グレートジール Greetsiel、ベンザージール Bensersiel、ハルレジール Harlesiel など、島へ渡る港(干拓が進んで内陸に取り残された旧港を含む)の多くが今も「ジール」のついた地名をもっている。

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ジール港の眺め
カロリーネンジール Carolinensiel にて
 

潮が満ちてくれば、舟が出せる。だが、島との往来に使われたのは、シャルペ Schaluppe と呼ばれる1本マストの小さな帆掛け舟だ。慣れない本土の客は、これでたいてい船酔いの洗礼を受けた。さらに島の側には港と言えるものはなく、正確に言えば沖合の投錨地だった。桟橋を造っても、当時の技術では嵐が来るたびに、波で簡単に壊されてしまうからだ。

それで客は潮位が下がるのを待ち、干潟を歩いて上陸した。急ぐ者には、有料の干潟馬車 Wattwagen という選択肢もあった。満ち潮でも濡れないように車高を上げた馬車で、2頭の馬が波を蹴立てて牽く。馬はひどいときには頸まで水に浸かるため、病気になることも多かった。

シャルペに代わって蒸気船が就航すると、所要時間が短縮され、船酔いも軽減された。しかし喫水が深いため、投錨地はさらに沖合に遠ざかり、干潟馬車まで小舟でつながなくてはならなかった。乗り換えのときに、不注意な客が泥の海に落ちることもしばしばあったという。

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(左)1900年代の干潟馬車、座席は高さ1.7m
カリフォルニア・オークランド博物館所蔵
Photo by Daderot at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)現代の観光用干潟馬車
ノイヴェルク島 Neuwerk にて
Photo by Simaron at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0
 

時代が下り、19世紀後半になると、いよいよ北海の島々にも鉄道敷設の構想が現れる。まず、本土との距離が最も近いノルダーナイ島で、ワッデン海を築堤で横断し、その上に本土直通の鉄道を走らせるという計画が発表された。しかし、ヒンデンブルクダム Hindenburgdamm(下注)に半世紀先立つ大胆な提案は、技術的な困難さからすぐに立ち消えとなった。

*注 ヒンデンブルクダムは、北フリジア諸島のジルト島 Sylt と本土をつなぐ長さ11kmの築堤。1927年に完成し、その上を標準軌鉄道が通る。

実現した鉄道としては、1879年にボルクム島に導入された900mm軌間の馬車鉄道が最初だ。ただしこれは船との接続ではなく、火災に遭い改築が必要となった灯台の工事現場に建設資材を輸送するものだった。1885年にはシュピーカーオーク島に旅客用の馬車鉄道が登場するが、これも港ではなく、西海岸に設けられたビーチと村の間を往復した。

港と島の中心集落との連絡機能を担う最初の鉄道は、1888年にボルクム島で開通した蒸気鉄道だ(下注)。固定の桟橋が、潮位に影響されないように防波堤の沖4kmに建設され、そこへ向けて延長された築堤の上に線路が敷かれた。蒸気船を降りた客は、桟橋に横付けされた列車に乗り換えて、町まで運ばれる。上陸までの煩わしい行程を過去のものにする画期的な方式で、この後、島への訪問客が急増するのは当然のことだった。

*注 ジルトでも同年、ムンクマルシュ Munkmarsch の旧港から主邑ヴェスターラント Westerland までメーターゲージの蒸気鉄道が開通している。ボルクムのわずか3週間後だった。

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列車が埠頭に横付けされ、乗継ぎは実にスムーズ
ボルクム・レーデ駅にて
 

ボルクムの成功を見て、1890年代は島々の間で、桟橋の整備とともに鉄道敷設が一種のブームとなった。1891年にはシュピーカーオークで馬車鉄道が、1897年にはヴァンガーオーゲでメーターゲージの蒸気鉄道が、1898年にユースト(下注)、1901年にランゲオークでもそれぞれ馬車鉄道が開業し、港で客を迎える体制が整えられている。

*注 ユーストの馬車鉄道は開通後まもなく、高波の被害を被った。それを機に線路を杭桁 Pfahljoch の上に載せ、内燃動力に切り替えたので、馬車鉄道の運行は1シーズンのみで終わった。

鉄道の近代化のスピードは、島によって事情がかなり異なる。初めから蒸気鉄道であったボルクム、ヴァンガーオーゲでは、1950年代に、徴用解除された本土の中古ディーゼル機関車や気動車により「無煙化」された。内燃式のユーストも同時期に気動車を導入している。

それに対して、馬車鉄道のランゲオークとシュピーカーオークは、歩みが遅かった。前者は1937年に内燃動力に転換したが、後者はドイツ最後の馬車鉄道と言われた時代を経て、戦後の1949年にようやく転換された。

さて、こうした旅客や生活必需物資の輸送は、島の鉄道の重要な任務だが、他にも期待された役割があった。その一つは海岸保全工事のための資材輸送だ。

北海の嵐に伴う高波はしばしば島に大きな被害をもたらし、「ブランカー・ハンス Blanker Hans(下注)」と恐れられてきた。堤防や桟橋が破壊されるだけでなく、海岸が、ときには屋敷や畑も含めて持っていかれる。風向きの関係で西岸が常にハンスの攻撃に曝されており、逆に東岸には未固結の砂州が長く延びている。島の主要集落が西側に偏っているのは、侵食作用で追い詰められた結果に他ならない。

*注 ブランカー・ハンスは、白く光るハンス(ハンスは一般的な人名)の意で、波のしぶきを見立てたもの。

そのため、防波堤の建設と拡張が19世紀半ばから継続的に行われ、工事用の軌道や側線が、鉄道の本線から分岐する形で設けられた。ボルクム、ユースト、シュピーカーオーク、ヴァンガーオーゲ、どの島もそうだ。バルトルム島にも工事軌道はあり、州の水路・航路局 Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理していた。しかし、こうした軌道は、工事が完成すれば不要となる定めだ。今も残っているのは、ヴァンガーオーゲにあるWSA保全拠点への引込み線が唯一とされる。

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(左)「堤防は島を護る。立入らないでください」の立札
(右)防波堤と交差する線路には陸閘を設置。いずれもヴァンガーオーゲ島にて
 

それに加えてもう一つの役割は、軍事貢献だった。とりわけボルクムとヴァンガーオーゲは、エムス、ヴェーザーの河口を扼する位置にあるため、二度の世界大戦で要塞地帯とされた。兵舎、弾薬庫、砲座など軍用施設には、たいてい鉄道の引込み線がつながっていた。

初期の挫折以来、鉄道に縁がないノルダーナイ島でも、軍用鉄道だけは造られた。第一次世界大戦中の1915年に何と標準軌で敷設され、第二次大戦でも使用された。だが戦後は、民生用に転換されることもなく、1947年までに姿を消した。

戦後、本土(特に西ドイツ)では1950~60年代までに、ほぼすべての軽便鉄道が自動車との競争に敗れ、廃止されてしまうが、島の鉄道はどうなったのだろうか。

分類すると、東フリジア諸島で現在、軽便鉄道が存続しているのは、ボルクム、ランゲオーク、ヴァンガーオーゲの3島だ。ユーストとシュピーカーオークのそれは1980年代前半に廃止され、残るノルダーナイとバルトルムでは、先述の通り一般用の鉄道が稼働したことは一度もない(下注)。

*注 シュピーカーオークでは廃止とほぼ同時に、馬車鉄道が保存運行で復活し、2年の中断期間があったものの、現在も続けられている。ちなみに、北フリジアのジルトの軽便鉄道も1970年に廃止された。

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東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016
 

ではなぜ、ある者は生き残り、ある者は失われたのか。まず存続したほうの要因は、いまだに需要があるというに尽きる。

ボルクムでは戦後、桟橋へ通じる軍用道路が市民に開放され、車で直接桟橋に行くことが可能になった。競合による鉄道の経営悪化を受けて、1960年に初めてバスへの転換を視野に入れた調査が行われた。しかし、町まで 7kmの距離があり、船で到着した客を一度に運ぶには相当な台数が必要となるため、バス輸送は現実的でなかった。大量輸送できる鉄道の特性を認めた結論だった。

また、ランゲオークとヴァンガーオーゲでは、島全体がカーフリー化されており(下注)、旅客輸送はもっぱら鉄道に任されている。

*注 自動車の全面禁止ではなく、スイスのツェルマット Zermat やヴェンゲン Wengen などと同様、貨物を運ぶ電動車は走っている。

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ヴァンガーオーゲの広大な塩性湿地を行く
 

一方、鉄道が廃止されたユーストとシュピーカーオークもカーフリーの島なので、原因を作ったのは車ではない。実は、中心集落に近い場所に新港が造られたため、鉄道で間をつなぐ必要がなくなったのだ。かつては、ある程度水深のある沖合でないと、桟橋を設けることができなかった。しかし、浚渫技術の進歩で、干潟の奥まで水路を掘る工事が可能になり、両島はそちらを選択した。

とはいえ、今なお東フリジアの3つの島に軽便鉄道があり、積極的に活用されているというのは貴重だ。今年(2018年)5月、実際に島を訪れる機会を得たので、次回からその活動状況や沿線風景を順にレポートしていこう。

■参考サイト
Inselbahn.de https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月 6日 (水)

コンターサークル地図の旅-淡河疏水

兵庫県東播磨地方のいなみ野(印南野)台地は、日本で最も灌漑用ため池が密集する地域だ。水田に対するため池の面積は、地区によって3割にも達するという。瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、台地は周囲を流れる河川より数十m高く、また表土が山砂利層であることから、もともと水が得にくい土地だった。

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御坂サイフォン橋
手前が1891年築の石造橋で、
奥は1953年築の鉄筋コンクリート橋
 

江戸時代の新田開発で、周辺や台地内の河川から水路が引かれたが、既存の水利権との調整で、取水できるのは秋から春に限られた。そこで、堤を築いて池を造り、水をいったんそこに引き込んでおき、必要なときに使えるようにした。ため池が多いのはそれが理由だ。しかし、農業生産が拡大するにつれ、水不足は再び顕著になっていく。

より遠い六甲山地(六甲山系および丹生(たんじょう)山系)に水源を求める案は、すでに18世紀後半から唱えられていたというが、流路が藩をまたぐため、利害調整が難しく、話は容易に進まなかった。明治に入り、最終的に兵庫県に統合されたことで、計画がようやく動き出す。

当初、取水地は山田川中流と目されていたが、調査の結果、水路予定地の地質が悪いことが判明し、一本北の川筋である淡河川(おうごがわ)に変更された。導水路は最初、川の右岸の山中を伝う。そして御坂(みさか)で志染川(しじみがわ、下注)の谷を横断した後、芥子山(けしやま)を隧道で貫き、いなみ野台地に出る。この淡河疏水(おうごそすい、下注)は1888(明治21)年1月に着工され、難工事を克服して1891(明治24)年に完成を見た。

*注 御坂で淡河川と山田川が合流して、志染川と名を変える。
*注 正式名は淡河川疏水。なお、「疏」は当用漢字外のため、地形図では淡河「疎」水と表記される。

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淡河疏水、山田川疏水の概略ルート
 

御坂で横断する谷の比高は60m以上ある。このため、横浜水道の設計者である英国人土木技師ヘンリー・S・パーマーの提案により、逆サイフォン構造が採用された(下注)。管路延長は749.32m(水平距離735.30m)で、谷底を流れる志染川は、全長56.95mのアーチ橋を架けて通過する。管路の吐口は呑口より2.45m低いだけだが、管路を満たした水は、連通管の原理で谷を隔てたこの位置まで上昇してくる。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来のサイフォンとは構造が異なるが、以下ではこの名物区間のことをサイフォンと記す。

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御坂サイフォンの見取図
現地の案内板を撮影

前置きが長くなったが、2018年5月28日のコンターサークルSの旅は、この淡河疏水の探索がテーマだ。まずはお目当てのアーチ橋、御坂サイフォン橋に行き、その後時間が許す範囲で、疏水の名物スポットを巡りたいと思っている。

JR三ノ宮駅の高架下にある神姫(しんき)バスのターミナルから、9時10分発の西脇営業所行きに乗車した。三木や小野を経由する便だが、御坂にも停まるので、現場へのアプローチとしては理想的だ。

朝の郊外方面なので、乗客は数えるほどだった。三宮を出ると、長い新神戸トンネルで六甲山系を一気に越え、箕谷(みのたに)ICから志染川沿いに下っていく。御坂バス停前に集合したのは、バスに乗ってきた今尾さん、浅倉さん、私と、自家用車で到着していた相澤夫妻の計5人だ。

サイフォンのありかは、すぐそばの山腹に黒い鉄管が横たわっているので、探すまでもない。斜面を降りた鉄管は地中に潜ってしまうが、跡を目で追うと、県道を越え、御坂神社の脇を通り、集落内の道に出る。そしてそのままサイフォン橋に接続する。橋は本来、車一台優に通れる幅があるのだが、上流側はチェーン柵を張って通行できなくしている。「明治の橋が老朽化したので、戦後(1953(昭和28)年)、下流側に新しい橋が造られ、水路もこちらを通っているそうです」と私。

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御坂サイフォン橋の路面。この下に管路が通っている
(左)北側から写す。上流側は通行不可になっている
(右)南側から写す
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御坂サイフォン周辺の地形図(等高線は10m間隔)
 

橋のたもとから右に分かれる小道をたどると、川原に降りることができる。流れに架かる沈下橋の上に立って、眼鏡橋の通称をもつ軽やかな2連アーチを眺めた。ただ、前面に来るのは鉄筋コンクリート製の昭和の橋なので、隠れている明治橋が見える位置まで、川原の草藪を漕いでいった。

明治のサイフォン橋は、アーチ部も橋台も石造りだ(冒頭写真)。表面にモルタルを吹き付けて補強した跡があるが、下部ほどその剥離が目立つのは、大水のときに受けた被害だろうか。昭和橋は、明治橋のプロポーションを踏襲している。開腹と充腹というデザイン上の違いはあるものの、並んでもあまり違和感がない。下から仰ぐと、まるでお爺さんに若者が寄り添い、支えている構図だ。

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(左)並ぶアーチを川原から見上げる。左が明治橋
(右)昭和橋の側面
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斜面に横たわるサイフォンの管路
(左)橋の南側から写す
(右)北斜面に接近
 

橋を後にサイフォンの南側まで行ってみたが、管路が再び地表に出たところで通行止めの柵がしてあった。それで逆の北側に回る。急坂の小道を上り、老人ホームの手前で折れて、疏水べりに出た。幅2~3mの水路にまだほとんど水は来ていない。この上流には石積みのポータルをもつ隧道があるはずだが、周囲の草丈が高すぎて、踏み込むのは躊躇された。

一方、下流側は水路に蓋がされ、その上が通路になっている。おりしも土地改良区の人が水路のゲートの調整に来ていたので、一言お断りしたうえで、その道を先へ進んだ。地形図では庭園路の記号で書かれている林の中の道は、枝葉が積もっているものの歩きやすい。少し行くと、急に視界が開けて、サイフォンの吞口にある枡が現れた。

そこは格好の展望台で、谷を降りていく管路とサイフォン橋を通る道、向かいの谷を上る管路が直列に並ぶさまが一望になる。下から見上げるのとは違う、スケールの大きな眺めだ。「サイフォン全体がわかる。ここはいいですね」。今日は曇りがちで日差しこそ少ないが、谷間はやや蒸し暑かった。それに比べて、山の上は心地よい風が通う。一行はしばらく風に吹かれながら、130年前の偉業を成し遂げた地元の人々の熱意に思いを馳せた。

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呑口(北側の山上)からの眺望
背景は三木総合防災公園内の施設、その後ろは芥子山
 

「さっきの神社の付近に三角点がありますね」と地形図を眺めていた今尾さんが言う。山を下りた後、神社の境内に狙いを定めて探してみた。案の定、社の奥の竹林の中に「基本測量」と記された杭があった。相澤さんが慣れた手つきで落ち葉の下を掘り返すうち、目印となる自然石とその中心に測量標の頭が現れた。「三角点にしては見通しの悪い場所ですね」「設置したときは竹林もなく、開けていたんでしょう」。

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(左)御坂神社正面
(右)三角点の探索
 

相澤さんの車に同乗させてもらい、移動を開始した。東播用水土地改良区の事務所でもらった疏水の資料と地形図を見比べながら、私がナビをする。まず車を停めたのは、練部屋(ねりべや)分水所だ。淡河疏水は、後にできた山田川疏水(下注)と合わさり、いなみ野台地の比較的高い位置にあるこの分水所に達する。そしてここで5方向に分けられる。

*注:1915(大正4)年竣工。かつては坂本で山田川から取水していたが、1991(平成3)年以降、呑吐(どんど)ダムから導水している。呑吐ダムには、さらに北部の大川瀬ダムから水が送られてくる。

最初は方形に煉瓦を積み上げたものだったそうだが、後に六角形に改修され、1959(昭和34)年に現在の直径10mある円筒分水工に置き換えられた。ここでは、送られてきた水を円筒の中心部から湧出させ、円筒外周部に分配比に応じた仕切りを造って、越流させている。分水量を可視化して公平性を担保しているわけで、賢い仕掛けだ。

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(左)練部屋分水所の円筒分水工
(右)分水工の構造図。現地の案内板を撮影
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練部屋分水所周辺の地形図
 

ここで昼食。水音を間近に聞きながら、こどもの頃のサイフォン遊びの思い出から、水車で搗いたそばが美味い理由や、水力で動くケーブルカーに乗った話まで、水にまつわる話題に花が咲いた。

東京へ帰る今尾さんをJR土山駅へ送って行った後、来た道を戻って、淡山疏水・東播用水博物館を訪ねた。淡山(たんざん)疏水とは、淡河川疏水と山田川疏水の総称だ。前庭に、サイフォンで使われた鉄管の断片が置いてあった。初代のそれは英国から輸入した軟鉄製で、後年の漏水対策として分厚いコンクリートが周囲に巻かれた状態で保存されている。今、現地で使われているのは1992年に交換された3代目だそうだ。

館内には水路のルートをランプで示す地図や、明治期の疏水施設の写真展示もある。案内人さんの、「水路管を清掃すると魚がいっぱい、ときには亀まで出てくることがあります。小さいときに入ったやつがパイプライン暮らしで育ってしまって」という話には笑った。

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博物館の前庭にあるサイフォン管の展示
 

この近くに、疏水の石造橋が残されている。掌中橋(てなかばし)といい、小川をまたぐ長さ7.6mの小さな水路橋だ。1914(大正3)年竣工と時代が下るが、堅牢そうな花崗岩のアーチと側面の煉瓦張りで、見栄えがする。すでに水路の用はなしていないが、元の場所に手を加えることなく残されており、疏水関連の貴重な遺産だ(下注)。相澤夫人に臨時のモデルをお願いして、写真を撮った。

*注 西方にある、より規模の大きな平木橋(長さ16.2m)は、道路工事に支障したため、移築保存された。

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掌中橋
欄干には橋の名とともに請負人、石工の名が刻まれる
 

水路トンネルのポータルを見ておきたかったので、相澤さんにまた車を走らせてもらった。目星をつけたのは、雌岡山(めっこさん)の西麓、古神(こがみ)地内の田んぼの中にある幹線水路の隧道だ。ところが、法面をすっかり草むらが覆っていて近づけない。やむをえず道路から遠望したのが下の写真だ。几帳面な石積のポータルの下に、煉瓦を巻いた楕円形の吐口が見える。「流量が少なくても泥などが溜まりにくいように、底を丸めてあるんでしょう」と浅倉さん。

御坂で会った土地改良区の人が、来週、再来週には田植えが始まる、と言っていたのを思い出した。もう6月だ。あの画期的なサイフォンで谷を渡って、この水路にたっぷりと水が送られてくる日も近い。

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(左)雌岡山
(右)その西麓にある隧道吐口
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、和歌山(昭和59年編集)、姫路(昭和59年編集)、徳島(昭和53年編集)、および地理院地図を使用したものである。

淡河疏水、山田川疏水の概略ルートは、農林水産省近畿農政局東播用水二期農業水利事業所 製作の「いなみ野台地を潤す水の路 ”淡河川山田川疏水”」所載の図面を参考にした。

御坂サイフォンの写真は別途、晴天時に撮影したものを使用している。

■参考サイト
いなみ野ため池ミュージアム http://www.inamino-tameike-museum.com/
 トップページ > ため池資料館 >「淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"」に詳しい資料がある。

農林水産省「御坂サイフォンを設計したパーマー」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/hyogo_02/

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