典型地形

2026年1月30日 (金)

ドイツ・ベルギー・オランダ三国国境会合点

フェン鉄道の探索を終えてアーヘン市内に戻った午後は、念願だったもう一つの見どころへ向かった。それは南西5kmのファールス山(ファールゼルベルク Vaalserberg)という小高い山の上にあるドイツ・ベルギー・オランダの国境会合点、三国の国境が一点に集まる場所だ。ドイツ語で Dreiländereck(ドライレンダーエック)、オランダ語で Drielandenpunt(ドリーランデンプント)と呼ばれる。

■参考サイト
三国国境会合点付近のGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/GxcE4YnaKebEaPRs7

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三国国境会合点の国境標
 
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山頂の標高は322.4m(下注)でも、麓からの高さ、いわゆるプロミネンスは100m程度に過ぎない。それで、歩いて登る道は多数あるのだが、山上まで連れていってくれる公共交通機関は、オランダ側のファールス Vaals の町から出ている路線バスだけだ。きょうは日差しが強いので、できるだけ楽に行きたい。

*注 ベルギーでは基準面が異なるため、324.73mと定義されている。

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アーヘン、ファールス山周辺の地形図にバス停等を加筆
赤の破線で囲んだ区域は、後述する中立モレネの「領土」
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

そこで、まずはファールスへ移動する必要がある。アーヘンの中心街エリーゼンブルンネン Elisenbrunnen のバス停でDB(ドイツ鉄道)アプリに尋ねると、直近の便は、アリーヴァ Arriva が運行している350系統マーストリヒト Maastricht 行きの急行バス、と回答が来た。しかし、オランダの事業者のためか、現地の停留所の発着案内にはいっこうに表示されない。ふと不安がよぎったが、案ずるまでもなくバスは定刻に現れた。

16分ほどで、国境を越えたファールスのバスステーションに到着。そこで同じアリーヴァの149系統グルペン Gulpen 行きを待つ。オランダ最南部を走るローカルバスだが、これがファールス山を経由する。

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山上のバス停
 

ところで、山上への公共アクセスがなぜオランダ側にだけあるのだろうか。その理由はまもなくわかった。

くねくねと山道を上って到着した山上停留所(下注)の周りは、森に囲まれた駐車場があり、その奥に生垣造りのラビリンス(迷路)やビストロ、子どもの遊具広場など、行楽地らしい空間が広がっていたからだ。実はファールス山は、オランダのヨーロッパ本土における「最高峰」なのだ。そのため、オランダ人なら一度は来る観光スポットになっている。

*注 バス停の名称はファールス・ドリーランデンプント Vaals Drielandenpunt。

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山上のレジャー施設、左が生垣ラビリンス(2004年)
Photo by Horst J. Meuter at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 
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ファールス山周辺の拡大図
Image from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ビストロエリアから50mほど先に進むと、石畳の上に、多角錐の石柱2本と鉛筆の先のような国章つきのモニュメントが立っていた。これらは1926年まで三国国境会合点に立っていた古い国境標だという。手前の石標には「オランダ最高地点、標高322.5m」と刻まれている(下注)。周囲は平坦な広場で、起伏は全く感じられないが、一応ファールス山の山頂のようだ。

*注 原文は「Hoogste punt van Nederland 322.5 mtr boven A.P.(A.P. はAmsterdams Peil、アムステルダム標準水位)」。

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オランダ最高地点にある旧 国境標
 

しかし、正式な三国国境会合点はここではなく、さらに40m進んだ地点にある。こちらの石柱は先端が八角錐の1本のみで、D(ドイツ)、B(ベルギー)、NL(オランダ)の略号が刻まれている。DとBの間にある数字 1032 は、ヴェルサイユ条約で画定されたドイツ・ベルギー国境の標番だ(下注)。DとNLの間にも 193 の標番プレートがあった。とはいえ、円形の敷地の周りに置かれたベンチでは人々が思い思いの格好でくつろいでいて、三国の国旗が後ろに飾られていなければ単なる休憩場所かと思うほどだ。

*注 ヴェルサイユ条約は1919年に調印された第一次世界大戦の講和条約。標番は、ドイツ・ベルギー・ルクセンブルクの国境会合点が1で、ファールス山の国境会合点1032が最後となる。

よく見ると、円形敷地には金属素材で国境線らしきものが引いてある。ドイツ領は広場から見ると後ろの森の側だが一番広く、中心角で180度を占める。広場の手前側にあるオランダ領は意外に狭くて50度程度、奥のベルギー領が残り130度だ。

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三国国境会合点、国境を挟んでベンチが並ぶ
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(左)BとDの間に1032の標番
(右)DとNLの間に標番193のプレート(2010年)
Photo by Romaine at wikimedia. License: CC0 1.0
 

さらに注目すべきは、円の外側で、オランダおよびベルギー領の部分に敷かれているピンコロ石の石畳だ。ドイツ・ベルギー国境に接する部分が扇形に区切られている。傍らに立つ案内板によると、これはかつて存在した共同主権地域、中立モレネ Neutral Moresnet の最北端を示すものだという(下注)。

*注 Moresnet はかつてモレネー [moʁəˈneː] と発音した(本稿の音写はこれに従う)が、現在はモレスネットまたはモーレスネット [ˈmɔʁəsnɛt] と読まれる。なお、中立モレネの東側境界線と現 ドイツ・ベルギー国境とは一致しないはずなので、この区切り線は正位置からずれているという主張もある。下記サイトを参照。
https://www.grenspalen.nl/archief/Moresnet/Moresnet-bordermarkers.html

中立モレネは面積3.44平方kmで、1816年に誕生し、1919年まで約1世紀の間、存在した(図上位置は、冒頭の地図参照)。事の起こりは、ナポレオン戦争の戦後処理のために関係国が招集されたウィーン会議だ。ネーデルラント連合王国(オランダ)とプロイセンの間で、この地域の領有権が大きな争点になった。というのも、ここには亜鉛鉱を産出するヨーロッパ有数の鉱山があったからだ。

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中立モレネの領域を示す石畳の区切り
 

半年かけた協議の結果、地域を3分割し、西部をオランダ領、東部をプロイセン(1871年からドイツ帝国)領、中央部の三角地帯を両国の共同統治とすることで、1816年6月に妥協が成立した。ちなみにこのとき両国と、三角地帯すなわち中立モレネの境界が集まった地点が、現在の三国国境会合点になる。

1830年にオランダからベルギーが分離独立すると、共同統治権はベルギーに引き継がれた。これ以降、会合点にはベルギーを加えて4か国の国境が会することになった。鉱脈が枯渇して1884年に鉱山が閉鎖された後も、タックスヘイブンの利点が評価されて中立モレネは存続した。しかし、第一次世界大戦のドイツ降伏で、ベルギーに全面帰属して消滅することになり、会合点も3か国のそれに戻ったのだ。

それから100年以上が経つが、今でも中立モレネの境界標の多くがまだ現地に残されている。ベルギー側のアクセス道路の脇にあるのもその一つだ。これは西側の国境線を示す30個の石標のうち最も山頂寄りのもので、ローマ数字の XXX(30)が刻まれている。東側の国境線にも同じく30個が付されたが、山を少し降りたところにその一つ、XXXII(32)番の標石を見いだすことができた。

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中立モレネの境界標
(左)アクセス道路の脇にある標番 XXX(30)
(右)森の中にある標番 XXXII(32)
 

話をファールス山上に戻すと、オランダ側と同じように、ベルギー側にもビストロの建物とパラソル付きのテラス席がある。それより目を引くのは後ろにそびえ立つボードゥアン塔 Tour Boudouin だ。第5代ベルギー国王の名を冠したこの高塔は、1994年に完成した高さ50mの有料展望塔で、エレベーターまたは階段を使って上ることができる。

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ベルギー側のボードゥアン塔、最上階は展望台
 

塔の上からは、予想どおり遮るもののない360度の展望が楽しめた。東がドイツで、アーヘン市街の家並みの上に、大聖堂の大屋根と尖塔が浮かび上がる。南はベルギーで、かつての中立モレネとその周辺地区だ。ドイツからアントウェルペン Antwerpen の港に通じる貨物幹線のモンツェンルート Montzenroute が、足もとのトンネルからまっすぐ延びている。目を凝らすとベルギー最長のモーレスネット高架橋も確認できた。

北西方向はオランダだが、手前の森の間に生垣ラビリンスが俯瞰できるものの、遠方は丘陵地が波打つばかりで、これといって目立つものがない。オランダ側では2011年に、ウィルヘルミーナ塔 Wilhelmina-Turm という別の展望施設が開業した。台地のへりに立っているのでこのほうが眺めがいいのだが、ボードゥアン塔から1kmほど離れていて、今回は割愛せざるを得ない。

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ボードゥアン塔からの眺望
ドイツ方向、右中ほどにアーヘン大聖堂の2本の尖塔と大屋根
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同 ベルギー方向
右手一帯が旧中立モレネ、足もとにモンツェンルートが延びる
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同 ベルギー方向、遠方にモーレスネット鉄橋
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同 オランダ方向は、手前に山上のレジャー施設
森のかなたにウィルヘルミーナ塔の先端がのぞく
 

ファールス山上の探索を終えた後は、自分の足で直接ドイツ側へ降りた。こちらは他の2国のような山上の平坦地が含まれておらず、斜面に広がるうっそうとした森の中にトレールが続いている。麓のバス停まで2km弱、農地の先に集落が見えてくるまで、誰一人出会うことがなかった。

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(左)独蘭国境沿いの森のトレール
(右)ドイツ側の集落が見えてきた
 

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 フェン鉄道を歩く

2025年12月 9日 (火)

ライヘンバッハ滝鉄道-ケーブルカーで行く名探偵の聖地

ライヘンバッハ滝鉄道 Reichenbachfall-Bahn (RfB)

鋼索鉄道(単線交走式)
ヴィリンゲン Willingen~ライヘンバッハファル(ライヘンバッハ滝)Reichenbachfall 間 714m
高度差244m、軌間1000mm、最急勾配579‰、平均勾配369‰
1899年開通

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ライヘンバッハ滝へ向かうケーブルカー

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「一週間のあいだ、ローヌの渓谷をさかのぼって愉快にさまよい歩き、それからロイクで横にそれて、まだ雪のふかいゲミ峠をこえ、インターラーケンを経てマイリンゲンへやってきた。」
(「最後の事件」阿部知二訳 創元推理文庫『回想のシャーロック・ホームズ』)

ベルナー・オーバーラントのアーレ川 Aare を遡った谷間にあるマイリンゲン Meiringen の町は、シャーロキアンにとって聖地の一つだ。1891年5月3日、犯罪のナポレオン、モリアーティ教授の魔の手を避ける大陸旅行でホームズと相棒のワトスンが訪れて、町の「英国館 Englisher Hof」に投宿した。翌4日、宿の主人の勧めで、鉱泉が湧くローゼンラウイ Rosenlaui へ向かう途中、立ち寄ったライヘンバッハの滝 Reichenbachfall で事件が起きる。

瀕死の病人の診察を懇願する手紙を受け取ったワトスンは、ホームズと別れて町に戻るが、それは偽の知らせだった。悪い予感に襲われた彼は、急いで滝に取って返す。しかしそこにホームズの姿はなく、愛用の登山杖と、深い滝壺の前で誰か二人が争った跡があるだけだ。そして彼は、ホームズが遺した置手紙を目にする…。

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(左)「最後の事件」が収録された短編集
  『シャーロック・ホームズの回想 The Memoirs of Sherlock Holmes』表紙
(右)「最後の事件」ストランド・マガジン掲載時の
  シドニー・パジェット Sidney Paget による挿絵
Photos from wikimedia. License: public domain
 

これがよく知られた「最後の事件 The Final Problem」のクライマックスだ。ストランド・マガジン The Strand Magazine 1893年12月号に発表された。作者アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle は、2年半にわたったホームズ譚の連載を打ち切りたくてこの結末にしたそうだが、名探偵を死なせたという読者の猛烈な抗議に屈して、後に執筆を再開する。

ホームズが宿敵と闘ったとされる現場は町の約2km南にあり、U字谷の切り立った側壁をライヘンバッハ川が落下している。全体は7つの落差から成り、高さは約300mに及ぶが、そのうち最上部にあるのがライヘンバッハ滝だ。高さ120m、ベルナーアルプス Berner Alpen の氷河を水源にしているため、豊かな水量を誇る。

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ライヘンバッハ滝
 

当時、話題の小説の舞台になったことで一躍その名が知れ渡り、今でいう聖地巡礼ブームが巻き起こった。そこで見物客の需要を当て込んで1899年に、観瀑台に上がるライヘンバッハ滝鉄道 Reichenbachfall-Bahn (RfB) が開業する。単線交走式のケーブルカーで、長さ714m、高度差244m、片道7分でその高台まで乗客を運んだ。

しかし、期待したほどの集客は叶わず、運行会社が二度も倒産し、数年にわたる運休期間もあった。第一次世界大戦後、地域の水力発電会社が直接運営に乗り出したことで、ようやく状況が安定化して現在に至る(下注)。1998年以降、劣化が進行した車両や施設の更新が行われ、それに合わせて開業当時のイメージが復元されている。

*注:現在はオーバーハスリ電力会社 Kraftwerke Oberhasli AG (KWO) の観光部門「グリムゼルヴェルト Grimselwelt」の一事業として運営されている。

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ライヘンバッハ川をまたぐケーブルカーのアーチ橋
© 2025 www.sherlockholmes.ch
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ライヘンバッハ滝鉄道周辺の1:25000地形図
© 2025 swisstopo

ブリューニック線 Brünigbahn でマイリンゲンまで行った機会に、このケーブルカーでライヘンバッハ滝を訪ねてみようと思った。山麓駅までは道なりに1.4km、路線バスが1時間ごとに走っているが、歩いても20分かからない。

ちなみに1912年、山麓駅前を経由するマイリンゲン=ライヘンバッハ=アーレ峡谷路面軌道 Trambahn Meiringen–Reichenbach–Aareschlucht (MRA) が開通している。マイリンゲン駅から滝と峡谷という近郊の二大名所に通じる観光客向けのトラムだったが、1956年に廃止されてしまった。

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かつて路面軌道があったマイリンゲンの駅前通り
 

せっかく聖地に来たので、まずは駅のすぐ近くにあるシャーロック・ホームズ博物館 Sherlock Holmes Museum を見ていこう。入館料とケーブルカー往復の割引セット券を売っているから好都合だ。

駅前通りに向いた敷地で、トレードマークの鹿撃ち帽をかぶり、パイプを咥えたホームズの銅像が人目を引いている。奥に控える小塔のついた建物は、もとアングリカンチャーチ(英国教会)だ。1階に礼拝堂が復元され、映画の名シーンを含むホームズ譚の概要や、教会の由来を説明するパネルが置いてある。地下階は、名探偵にまつわるさまざまなアイテムを展示する博物館だ。ロンドンのベーカー街221Bにあったとされる彼の書斎が、ヴィクトリア朝をしのばせる多数の小道具とともに事細かに再現されていて、しばらく見とれてしまった。

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名探偵の銅像とシャーロック・ホームズ博物館
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(左)博物館はもと英国教会の建物
(右)入館とケーブルカー往復のセット券
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(左)解説パネルが置かれた礼拝堂
(右)シンプルな意匠の側窓
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地下階につくられたホームズの書斎
 

博物館を辞した後は、むかし軌道が通っていた市街の通りを歩いていった。インナートキルヘン線(下注)の踏切とアーレ川に架かる橋を渡ると、ヴィリンゲン Willingen 村に入る。ケーブルカーの駅は、右手の山裾にあるささやかな平屋の建物だ。

*注 ツェントラール鉄道マイリンゲン=インナートキルヘン線 Meiringen-Innertkirchen-Bahn。ケーブルカー山麓駅へはアルプバッハ Alpbach 駅が最寄りで、徒歩7分。同線については「マイリンゲン=インナートキルヘン鉄道でアーレ峡谷へ」参照。

運行は15分間隔と、案外頻度が高い。ベンチに腰を下ろしている数人の先客の中に混じって待つうち、上方から茜色のケーブルカーがゆっくりと降りてきた。降車客と入れ換えに、切符に鋏を入れてもらってホームに出る。

ケーブルカーの車体は2000年代に実施された全面改修の折、古写真を参考に開業当時の仕様に戻された。オープンタイプのコンパートメントが階段状に三つ並んでいる。座席は向かい合せの4人掛け木製ベンチで、窓枠に巻かれた白いカーテンがさりげなく優雅だ。両端のデッキには、係員が使う操作盤とハンドブレーキがある。

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(左)ケーブルカー山麓駅
(右)その傍らにあるホームズ記念碑
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山上行きケーブルカーが到着
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(左)旧観に復元された車両
(右)車内は三つのコンパートメントに分割
 

時間になり駅を出ると、すぐに人家は遠ざかり、森と牧草地の間をするすると上っていく。二つ目の跨線橋をくぐり、左へカーブしてまもなく、退避側線が現れた。客の姿がない1号車と行き違った頃から、激しい水音が頭上から聞こえてきた。

その正体は、滝壺から流れ落ちてきたライヘンバッハ川で、ケーブルカーはアーチ橋でこれを斜めに渡っていく。橋の上では、岩場に小さな落差を連ねながら白く泡立つ川筋が見下ろせた。いくらかの量が上手で発電用に取水されているはずだが、その残りだとしてもけっこうな勢いだ。

後半は、眼下にアーレ川が流れるマイリンゲンの谷の風景が開けてくる。線路勾配はいよいよ険しさを増し、山上駅の手前で579‰の最大値に達する。

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山麓駅を後にする
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ライヘンバッハ川をまたぐアーチ橋
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山上駅に接近する車両、右の谷川は滝の下流
 

駅に到着して駅舎を出ると、そこはまさに大滝が目の前だった。見上げる高さのごつごつした巨大な岩盤に、豪快な滝が掛かっている。最初、水はその凹みに沿って太い束で滑り落ち始めるが、中ほどでその支えがなくなると、シャワーのように広がりながら自由落下していく。駅前から延びる観瀑用の見学路にも、風に吹き上げられた水煙が舞い、しばらくいたらずぶ濡れになってしまいそうだ。

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山上駅に到着
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ライヘンバッハ滝の観瀑台
 

実は、モリアーティとの決闘場所はここではなく、谷を挟んで反対側にある。対岸の岩壁に見える星印がそれだ(下の写真参照、下注)。当時ケーブルカーはまだなかったし、その日ワトスンと向かう予定だったローゼンラウイへの山道も、対岸を通っていたからだ。

*注 もちろん登場人物も事件もフィクションだが、原著の記述をもとに現場を特定してある。

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決闘場所を示す星印が見える(赤の矢印)
 

しかし現実問題として、山上駅前から向こうの現場へ行くには、いったん滝口まで上って大回りする必要がある。残念だが帰りの電車の時刻を考えると、往復する時間が足りない。

とりあえず森の中を上る階段道を進んだ。数分歩くと、滝口のすぐ上の、川を跨いでいる小さな橋の前に出た。背後の岩の狭間からとてつもない水量が押し出されてきて、足もとを走り抜け、空中に忽然と消えていく。奈落の底から響いてくる地を揺るがすような轟音とあいまって、その先を想像すると足がすくんだ。

決闘地も崖っぷちなので、きっと同じようにスリリングな場所に違いない。だが、ここで引き返したとしても後悔することはないだろう。そう納得させるほど、自然の威力みなぎる空間だった。

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(左)滝口へ向かう小道
(右)滝口で川を跨ぐ小橋
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小橋から見るライヘンバッハ川
(左)上流側 (右)滝の落下口
 
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ツェントラール鉄道と周辺路線図
 

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2025年11月19日 (水)

コンターサークル地図の旅-京戸川扇状地と大日影トンネル遊歩道

2025年秋のコンター旅、最終日の舞台は山梨県の甲府盆地だ。西麓にある典型地形、京戸川(きょうどがわ)扇状地と、中央本線の旧線跡を活用した大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道を、徒歩で訪ねる。

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大日影トンネル西口
遊歩道になった旧線と現行線を行くE353系電車

バスタ新宿8時35分発の甲府行き高速バスに乗り、中央道笹子トンネルを抜けて最初のパーキングエリア(PA)、釈迦堂のバス停で下車した。本日の参加者は大出さんと私。地図に見られるとおり、このPAは京戸川扇状地の扇央部に位置している。

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(左)高速バスで中央道を西へ
(右)京戸川扇状地から東望
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図1 京戸川扇状地と大日影トンネル周辺の1:200,000地勢図
1980(昭和55)年編集
 

細かな雨が降るなか、まず訪ねたのは山手に建てられた釈迦堂遺跡博物館だ。中央道建設の際に出土した遺物を保管展示している施設で、下りPAから階段を上がってすぐのところにある。2階の常設展示室に入ると、みごとな流線形の縄文土器やおびただしい数の土偶片が、展示ケースの中でスポットライトを浴びていた。

もらったリーフレットによれば、重要文化財の指定を受けた所蔵品が5599点もあるそうだ。どうしてこの場所に集落が、と疑問もわくが、縄文時代は狩猟や採集で生活していたので、平地より山に近い場所にあったのだ。乾燥地で高木が育ちにくく、見通しがきくのがよかったのかもしれない。

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(左)釈迦堂遺跡博物館
(右)おびただしい出土品が並ぶ常設展示室
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(左)縄文中期の水煙文土器
(右)すずちゃんの名がある土偶
 

博物館を出た後は、ブドウ棚やモモの畑が広がる斜面の小道を上っていった。京戸川扇状地は、御坂(みさか)山地の一角、達沢山(たつざわやま)を源流とする京戸川がつくった地形だ。地理の教科書で典型地形として紹介されてきたので、なじみがある。

扇状地は、河川によって山から運ばれてきた土砂が、平地に扇の形に堆積した地形だ。ここに限らず山麓にはよく見られるものだが、あえて京戸川が選ばれる理由は、いくつかあるだろう。

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ブドウやモモの畑が広がる京戸川扇状地
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
  釈迦堂PA~勝沼堰堤間
 

一つは、扇の差し渡しが2.5km程度とコンパクトなことだ。1:50,000地形図では5cmで表せるから、挿図で使うのに好都合だ。さらに勾配が10%前後と急なため、等高線が比較的密で読み取りやすいし、果樹園に利用されているから、水はけがいいという土地の特性もつかめる。緩曲線で横断していく中央道ですら、扇状地の輪郭を強調する仕掛けに見えなくもない。

扇央部の2車線道まで上ると、視点が高くなり、はるか麓まで果樹園が広がる様子がよくわかった。桃の花が咲く季節には、あたかも桃源郷のようになるらしい。甲府盆地の眺めもいいはずだが、あいにく雨模様で遠方はかすんでしまっている。

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色づくブドウ畑、甲府盆地は小雨に煙る
 

それから畑の中の2車線道を東へ向かった。しばらく行くと道は下りになり、中央道をまたいでなおも降りていく。県道白井甲州線から、近道になる国道20号(勝沼バイパス)の側道を伝い、田舎道の太郎橋で日川(ひかわ/にっかわ)を渡った。

山手を仰ぐと、大善寺の立派な楼門がある。鎌倉時代後期、1306年の竣工という国宝の薬師堂を拝もうと、ほんのり色づき始めたモミジを眺めながら、長い石段を上った。高台にある境内の正面にどっしり据わるお堂がそれだ。檜皮葺の大屋根が雨に濡れて、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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大善寺
(左)楼門 (右)長い石段を上る
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国宝の薬師堂
 

続いて、近くにある勝沼堰堤へ足を向けた。1917(大正6)年に完成した砂防ダムで、日川の蛇行部を積石で閉じ、流路を直線化したものだ。水は岩盤を均して造られた越流部から落下していく。水量が少ないのか、写真で見るのと違って流れが左側に偏っているが、響き渡る音は祇園の滝という別名に恥じない迫力だ。周囲に歩道や階段が整備されているので、さまざまな方向から観察することができた。

公園のあずまやで、山を彩る紅葉をめでながら昼食休憩をとる。いっとき雨脚が強まったので、雨宿りもできて助かった。

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堰堤の越流部「祇園の滝」
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勝沼堰堤全景
左が蛇行部を閉じた堰堤、右の木の後ろに越流部がある

午後は国道20号からそれて、日川の支流、深沢川の谷を遡る車道をまた上る。しばらく行くと分かれ道があり、まもなく目的地が見えてきた。そこは中央本線の深沢トンネルと大日影トンネルに挟まれた谷間で、線路がつかの間、地上に顔を出していた区間だ。

2本のトンネルを含む初鹿野(はじかの、現 甲斐大和)~塩山(えんざん)間は、1903(明治36)年に開業した(下注)。長い間、単線で運用されていて、複線化されたのは実に65年後の1968年のことだ。このとき新トンネルが上り線とされ、明治のトンネルは下り線になった。

*注 この間にある勝沼(現 勝沼ぶどう郷)駅は、遅れて1913(大正2)年の開業。

その後1997年に、新深沢第二、新大日影第二の両トンネルを含む新しい下り線が建設されたことで、明治のトンネルは運用廃止となった。

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深沢川の谷間を横断する旧線跡
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図3 同 勝沼堰堤~勝沼ぶどう郷駅間
 

地元自治体に譲渡された廃線跡のうち、東側の深沢トンネルは、特産品であるワインの貯蔵施設「勝沼トンネルワインカーヴ」に転用された。案内板によると、年間を通じて内部の気温は12~13度、湿度は45~65%に保たれていて、ワインの熟成には最適な条件なのだそうだ。

入口は常時鉄扉で閉鎖されているが、日中の時間帯なら一般客も扉を開けて入ることができる。今日は外も肌寒いからそれほど気温差を感じないが、夏なら格段に涼しいだろう。立入禁止のロープを張った位置まで進むと、ワインが眠る棚が奥までずらりと並んでいた。

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勝沼トンネルワインカーヴ
(左)閉鎖された入口 (右)ワイン棚が並ぶ内部
 

一方、西側の大日影トンネルは、2007年に「大日影トンネル遊歩道」として公開された。トンネルの全長は1367.80m、この長さで歩行者専用というのは、全国でも最長級に違いない。その後、躯体の老朽化に伴い、改修工事による二度の中断があり、昨年(2024年)3月にようやく通行が再開されたばかりだ。

遊歩道はワインカーヴの管理事務所前から始まり、深沢川をトラスの鉄橋で渡った後、大日影トンネルの中へと続いている。内部は一直線で、甲府方へ25‰の下り勾配だ。内壁は煉瓦のイギリス積みで、補強のためか、一部で腰部に切石を使った個所があった。

線路は、現役当時のまま残されている。まくらぎがPC製なのは少し意外だったが、特急も通る幹線で、廃止されたのが比較的最近だから、ありうることだ。歩きやすいように、線路の両サイドにコンクリートの通路が設けられている。

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大日影トンネル遊歩道東口
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トンネル内部、天井のネットは漏水対策
 

内部には、距離標や勾配標も保存されていた。側壁の退避所に路線やトンネルに関する説明板が設置され、大きな待避所にはオブジェのようにベンチも用意されているから、何度も足が止まる。

奥に見えている出口の明かりはそれほど遠く感じないのだが、実際にはなかなか近づいてこない。保線作業用に設置されたという、出口までの距離を記した表示板に励まされながら歩いていく。距離からすると、普通の歩速でも通り抜けるのに16~17分はかかる。入口の柵には、平均歩行時間30分と書いてあった。

大出さんはこれまでに二度訪れたことがあるそうだが、東出口へ来たのは初めてとのこと。こんな天気でもあるし、傘の要らないトンネル探索は案外いい選択だったかもしれない。

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(左)起点から110kmの距離標
(右)25‰の勾配標、左側の羽根は欠損
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(左)待避所に置かれたオブジェのようなベンチ
(右)中間点の表示板
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トンネル西口
明かり部のレールは深沢トンネルからの移設
 

西口で、新線トンネルを飛び出してくる電車とともに新旧線の対比を撮ってから(冒頭写真参照)、勝沼ぶどう郷(かつぬまぶどうきょう)駅のほうへ向かった。この駅のホームが現在のような勾配途中の本線上に移ったのは、1968年の複線化のときだ。単線時代は、本線から分かれた水平の引上げ線に沿ってホームがある通過式スイッチバックの駅だった。その跡は現駅舎の南北で公園として整備され、花見の名所になっている。

南側の園地では、サクラの木の下にEF64の静態保存機が鎮座している。1966年製で、単線時代の中央本線で貨物列車を牽引していた電気機関車だ。一方、北側では旧ホームの一部が残され、小ぶりながら駅名標も復元されていた。すぐ隣りの現行ホームが急な坂(25‰)になっているのが、両者を見比べるとよくわかる。

帰りは、そのホームから15時18分発高尾行きの電車に乗り込んだ。雨に降られた一日だったが、けっこう見どころが多くて楽しめた。

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静態保存のEF64 18号機
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(左)サクラが植わる公園に残された勝沼駅旧ホーム
(右)旧ホームに立つ復元駅名標
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勝沼ぶどう郷駅
(左)ぶどう棚のある駅舎正面
(右)勾配ホームに高尾行き電車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図甲府(昭和55年編集)および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月 3日 (月)

コンターサークル地図の旅-上田交通真田傍陽線跡

上田交通真田傍陽線(下注)は1927~28(昭和2~3)年の開業で、長野県の上田市内から北東の中山間部へ通じていた計15.9kmの電化路線だ。途中の本原(もとはら)で分岐して、一方は真田(さなだ)へ、もう一方は傍陽(そえひ)へ向かう。

*注 開業時の社名は上田温泉電軌、略称 温電。その後、上田電鉄(1939年~)、上田丸子電鉄(1943年~)、1969年から上田交通。路線名も開業時の北東線から、菅平鹿沢線(1939年~)、真田傍陽線(1960年~)と変遷している。

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上田城二の丸堀の廃線跡と保存された公園前駅
(2021年4月撮影)
 

真田では菅平高原や群馬県方面へのバス連絡があり、利用者も多かった。そのため、上田~本原~真田間(以下、真田線)が本線格として直通運転され、本原~傍陽間(同 傍陽線)は支線扱いだった。戦後は、菅平行きのバスの多くが上田から直行になり、貨物輸送もトラックに移行したため、業績が悪化し、1972年に全線廃止された。

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図1 真田傍陽線現役時代の1:200,000地勢図
  1959(昭和34)年修正

2025年秋のコンター旅、初回となる10月3日はこの廃線跡をたどる。参加者は大出さん、木下さん親子、私の4名だ。真田傍陽線は、国鉄駅に接していた電鉄上田駅(下注1)から西に出て、上田城の濠の中を北上していたが、国道18号北側の上田花園駅跡までは2021年4月、西丸子線跡探索(下注2)のついでに大出さんと歩いている。

*注1 1955年の改築で独立駅の構造になるまでの名称は上田駅。
*注2 西丸子線跡については「コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡」参照。

上田駅から長野方へ4~500m進んだ地点で、廃線跡は新幹線の高架下から離れて、北へ向かう。カーブの後、祝町大通りを横切って城跡まで続く駐車場用地がそのルートをよく示している。

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新幹線高架下を離れ、城跡に向かう廃線跡
(左)祝町大通り南側(右)同 北側
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
上田~神科間
 

上田城の二の丸堀を北上する区間は、昔から有名だ。廃線跡は整備されて、ケヤキとサクラの並木に囲まれた憩いのプロムナードになっている。訪れたときはちょうどサクラの季節で、散策する人も多かった。城内に通じる二の丸橋の下には、公園前駅の単式ホームが保存されている。廃線跡をまたぐ橋のアーチには電線を支えていた碍子も残され、往時をしのばせる(冒頭写真も参照)。

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公園前駅跡と二の丸橋
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駅跡に建つ案内板
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廃線跡のケヤキ並木道、二の丸橋から北望
 

城跡公園を離れると北大手駅があったが、廃線跡は住宅や商業施設にすっかり紛れてしまう。城の外堀の役を果たしていた矢出沢川(やでさわがわ)を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

国道を横断して上田郵便局の北側に上田花園駅跡があり、ここで鉄道は針路を東に変える。駐車場に使われている砂利の空地が、大きなカーブを描きながら住宅街に消えていた。

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(左)矢出沢川に残る橋台
(右)上田花園駅跡

さて本日の探索は、次の北上田駅跡からスタートする。上田駅前から下秋和車庫行きのバスに乗り、中央北交差点の手前で降りた。駅は上田大神宮の北側にあったというので行ってみたが、民家が建ち並ぶばかりで面影は何ら残っていない。

廃線跡には、一括して自治体に譲渡され、自転車道のように元のルートがわかる形で活用されるものもあれば、切り売りされて民地になり、ほとんど跡をとどめなくなったものもある。真田傍陽線の場合は後者だ。開業当時、このあたりは旧市街の北のはずれで、まだ水田や桑畑が広がっていたが、今や全面住宅街で、元のルートは民地の地割や街路の向きから推測するしかない。

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(左)上田大神宮
(右)北上田駅跡は住宅地に
 

さらに東へ進むと、再び矢出沢川を渡る。ここも両岸に低い橋台が残っている。まもなく2面2線で列車交換ができたという川原柳(かわらやぎ)駅跡だが、三葉製作所の工場敷地に取り込まれて、輪郭もなくなってしまった。

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川原柳駅西側の矢出沢川に残る低い橋台
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川原柳駅跡
(左)駅前にあるバス停(右)駅跡は工場敷地の中に
 

ここから線路は、矢出沢川の開析谷に沿って北東へ向かう。工場に隣接する変電所の先は、農道として残っている。草刈り作業中のところ、断りを入れて通らせてもらった。国道18号バイパスと交差の前後は車道だが、すぐに草ぼうぼうの荒地に戻るため、またもや迂回を強いられる。

扇状地に上りきると、神科(かみしな)駅跡がある。道幅がそこだけ広くなり、駐車スペースに利用されている。ここで目の前に、上信越道上田菅平ICのランプウェーの擁壁が立ち塞がる。後ろでは国道144号の立派な4車線道が交差していて、歩行者には疎外感のある一帯だ。

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(左)変電所裏の廃線跡(西望)
(右)農道になった廃線跡
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(左)神科駅跡
(右)国道144号歩道橋から南望
  線路は横断歩道と後方の高架道との間を横断していた
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図3 同 神科~本原間
 

この後、線路は勾配緩和のために、扇状地を覆う方形の条里地割に逆らって大きく迂回していた。前半は圃場整備で農地に還ったが、残りはいまだに定率の曲線を描く跡を追うことができる。多くが私有地なので、公道から接近できる地点を選びながら順にたどった。

一連の迂回区間の北端にあった樋之沢(ひのさわ)駅では、珍しくコンクリートの相対式ホームが残っている。線路部分には残土が盛られているが、ホームの形状は損なわれていない。隣接する民家で放し飼いされている鶏が2羽、せわしげに歩き回っていた。

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(左)迂回区間のカーブを踏襲する街路
(右)相対式ホームが残る樋之沢駅跡
 

上信越道の下をくぐると、国道144号のバイパス新道が近づいてきて、廃線跡を呑み込んでしまう。現道との取付け部が工事中のため、バイパスはまだ開通していないが、谷の中を走っていた小道はすでに消失してしまった。

しかし、鞍部を貫く伊勢山トンネルの手前でバイパスは左に離れていき、廃線跡が掘割となって現れる。伊勢山駅がこのあたりにあったはずだ。古い跨線橋の上から、鉄扉で封鎖されたトンネルのポータルが確認できる。廃線後はキノコ栽培に利用されていたそうだが、そこへ通じる掘割が雑木や雑草で埋もれているので、近年は放置されているようだ。

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廃線跡を呑み込んだ国道バイパス(未開通)
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伊勢山トンネル
(左)掘割の奥にポータルが見える(右)封鎖された西口
 

国道を経由して山の反対側に回ると、森の斜面にトンネル東口が同じように封鎖状態で残されていた。続く川久保橋梁の橋台も、谷を降りていく農道ぎわにすっくと立つ。線路は、ここから神川(かんがわ)の広い谷を向かいの段丘上まで、上路トラスの長い橋で一気にまたいでいた。沿線で一番の撮影名所だったに違いないが、今は幻だ。

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(左)森の中に残る東口
(右)神川の谷に面する高い橋台
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神川の谷
赤の矢印が示す橋台間に鉄橋が架かっていた
 

再び国道に戻って神川を渡り、対岸に移動する。もう片方の橋台を探すと、民家の離れか何かの土台として、藪に埋もれながら残っていた。この後は舗装道で、殿城口(とのしろぐち)、下原下(しもはらした)と小さな駅が数百m間隔で設置されていたが、いずれも痕跡はない。

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(左)殿城口駅跡付近の左カーブ
(右)下原下駅跡、左裏に真田氏発祥の里碑がある
 

12時になったので、国道沿いで見かけた食堂で昼食休憩にする。この先、真田線の跡は国道144号に上書きされてしまい、追跡の甲斐がない。分岐駅だった本原も、道路脇のバス停がその概略位置を示すだけだ。それで私たちは、比較的痕跡が残る傍陽線に足を向けた。

国道から分かれた草道が、美しい弧を描きながら、段丘を降りていく。これが廃線跡だ。再び渡る神川の橋台は残っているらしいが、雑木に覆われて確認できなかった。

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(左)本原駅跡にあるバス停
(右)両線分岐点
  右の国道が真田線跡、左の小道は傍陽線跡
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傍陽線跡の草道が弧を描く
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図4 同 本原~真田・傍陽間
 

それから廃線跡は、2車線道とつかず離れず、上流へ向かう。横尾駅も痕跡はないが、地形図に描かれた近くの千古滝(せんこだき)に興味を惹かれて寄り道した。谷底への小道をたどると、河原を塞ぐ大岩の間で渓流が二手に分かれ、滝壺へ流れ落ちている(下注)。落差が小さいのが意外だったが、水量の多い時期を選べば見栄えがするのではないか。

*注 かつては左端に第3の水路があり、千古三筋の滝と呼ばれた、と案内板にあった。

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千古滝
 

曲尾(まがりお)駅跡では、道端に駅名標の体裁を模した小さな木柱が立っている。沿線ではここにしか見られないので、地元の方のお手製だろう。県道35号に出会う地点で、廃線跡は西を向く。

曲尾の集落を抜けると、洗馬川(せばがわ)にさしかかった。左岸(東岸)は護岸改修されているが、右岸では橋台が、後ろの築堤を剥がされた状態で孤高を保っている。撤去された橋脚も、基礎だけは残っているように見えた。

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(左)横尾~曲尾間で農道になった廃線跡
(右)曲尾駅跡のお手製駅名標
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洗馬川右岸に残る橋台、後ろの築堤はもうない
 

終点の傍陽駅跡には新しい住宅が建ったが、正面に大きな蒲鉾屋根の農協倉庫あるいは選果場が残り、駅前の雰囲気を漂わせているのが印象的だ。

傍陽に着いたのは13時ごろ。朝からずっと曇り空で、昼前から小雨がぱらつき始めていたが、帰りのバスを待つ間にとうとう本降りになった。さいわい待合所は小屋仕様で、中に4人掛けのベンチもあったので、雨宿りができる。地元の人はふだんクルマを使うから、バスに乗り込んだのは私たちだけだった。

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(左)傍陽駅跡は宅地に転用、奥は農協倉庫
(右)雨宿りした傍陽バス停
 

途中、四日市橋を渡って国道144号に沿う真田自治センター入口という停留所でバスを降りた。ここは真田線の北本原(きたもとはら)駅跡で、そばに今もあるという「駅前食堂」を見たかったのだ。老夫婦で切り盛りしているような大衆食堂をイメージしていたが、実際は宴会場を備えた大きな2階家だった。

自家製の駅名標があるはすだが、と周りを探すと、分解状態で裏の軒下に置いてある。壊れたのだろうか、写真を撮りたかったのに残念だ。ともかくもタスクを完了した私たちは、近くのコンビニで買ったコーヒーで疲れを癒しながら、次に来る上田行きのバスを待った。

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国道沿いにあるバス停は真田線北本原駅跡
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(左)時代の記憶をとどめる駅前食堂
(右)上田行きのバスが到着

参考までに、真田傍陽線が描かれた1:50,000地形図を掲げておこう。なお、この地域の1:25,000地形図初版は1972(昭和47)年測量だが、同線はもう描かれていない。

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図5 真田傍陽線現役時代の1:50,000地形図
(左)1962(昭和37)年修正(右)1969(昭和44)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)、5万分の1地形図坂城(昭和37年修正)、上田(昭和44年資料修正)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年4月 1日 (火)

コンターサークル地図の旅-豊後竹田とその周辺

2025年コンターサークル-Sの旅、3月は中九州が舞台だ。1日目は、阿蘇外輪山の東麓にある豊後竹田(ぶんごたけた)周辺に焦点を絞った。行政区分では大分県竹田市と同 豊後大野市になる。

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岩戸の景観を走り抜ける九州横断特急
 

このエリアには、阿蘇山の火砕流に覆われた緩斜面が広く分布している。これらは主に約13万年前の阿蘇3(Aso-3)、約9万年前の阿蘇4(Aso-4)と呼ばれる2回の大規模な火山活動で形成されたものだ。噴出物は自らの熱で溶けるとともに、重みで圧縮されて溶結凝灰岩(下注)の層ができた。

*注 当地では灰石(はいいし、はいし)と呼ばれる。

斜面の上流部ではその上に火山灰が積もり、なだらかな台地として残されているが、中流部では河川によって激しく浸食され、岩肌が山腹や川床に露出している。これらが断崖や滝といった特色ある自然景観をはぐくむ一方、人はその石材を、難攻不落の城や谷を渡る橋などに巧みに利用してきた。今日は、そうした見どころのいくつかをレンタカーで巡ることにしている。

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難攻不落の山城、岡城跡
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図1 竹田周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

3月15日は、あいにく朝から本降りの雨になった。小やみになる時間帯もあったものの、終日降り続いた。大分駅から、黄色のキハ125形を2両連ねたJR豊肥本線の上り普通列車に乗り込むと、ボックス席に大出さんの姿があった。列車は途中の三重町(みえまち)駅で乗換えになる。ホームで山本さんと合流して、参加者3名が揃った。

朝の豊肥本線は大分行きの対向列車が多く、ネットダイヤといっていいくらいだ。沿線はようやく梅が見ごろを迎えている。この冬は寒い日が多かったので、開花が1か月近く遅れたという。豊後竹田駅に10時31分到着。駅舎は武家屋敷風に改築されていて、正面の堂々とした千鳥破風となまこの腰壁が印象的だ。

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豊後竹田駅
(左)駅舎は武家屋敷風(右)当駅止まりのキハ125形
 

シルバーのトヨタヴィッツを借りて、まずは中九州道を東へ進む。2年前に行った延岡~高千穂間もそうだったが、ここも立派な自動車専用道が通じていて、クルマがあれば移動には苦労しない。犬飼ICで地道に降りて南下し、最初の目的地、虹澗橋(こうかんきょう)を目指した。

大野川支流、三重川の渓谷に架かるこの橋は、江戸後期の1824年に完成したシングルスパンのアーチ橋だ。溶結凝灰岩の切石で組まれ、長さは31.0m、径間25.1m、幅員6.1m。臼杵(うすき)の町とその藩領だった三重郷(三重町周辺)を結ぶ街道を通す、当時としては最大規模の石橋で、国の重要文化財に指定されている。

今はたもとにポールが立ててあるが、比較的最近まで一般道だったと見え、路面にセンターラインが残る。付け根の部分は嵩上げされていて、もとは路面がもっと反っていたようだ。眺める限りアーチを構成する輪石に狂いも隙もなく、200年前の匠の技を完璧に伝えている。

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渓谷にアーチを架ける虹澗橋
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(左)路面にセンターラインが残る
(右)由来を記す碑文「虹澗橋記」
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図2 虹澗橋周辺の1:25,000地形図に加筆
 

三重町のコンビニで昼食を仕入れて、次に向かったのは沈堕(ちんだ)の滝。大野川とその支流、平井川にかかる大小二つの滝で、水墨画の巨匠、雪舟も描いたという伝説の名瀑だ。本流の雄滝は幅100m、高さ20m、支流の雌滝は幅10m、高さ18m(下注)。大きな落差は、柱状節理の入った岩盤が水流で崩れて生じた。

*注 数値は、おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会のリーフレットに拠る。下述する原尻の滝も同じ。

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工事で水涸れした沈堕の滝
上流の水は右手の吐口から川に戻されている
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支流平井川の雌滝は健在
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図3 岩戸~沈堕の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

降りしきる雨を押して近くまで行ってみたが、残念なことに雄滝のほうは水涸れしていた。上流側にある取水堰の工事のため、5月末まで落水を停止していると掲示がある。滝の落差を利用して1909年に完成した水力発電所(下注)の廃墟も残っていて、クロード・ロランの古典画のような情景が見られるかとひそかに期待していたのだが。

*注 沈堕発電所。大分~別府間の路面軌道(後の大分交通別大線)を運営していた豊後電気鉄道が建設した。

歴史的には、発電所建設以来、今と同様の状態が長く続いていた。導水路に水を回すようになったことと、堰の基盤を保護する目的で、本流の水量を絞ったからだ。滝の水流が復活したのは1996年だが、滝面が崩れないようコンクリートで固定しているのが遠目にも見て取れ、もはや自然の滝とは言えなくなっている。

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手前に水力発電所の遺構が
 

もと来た道を戻って、大野川に支流の奥岳川(おくだけがわ)が合流する地点へ。右岸に火砕流由来の切り立ったグレーの断崖が続き(下注)、付近の集落名から、岩戸(いわど)の景観と呼ばれるスポットだ。断崖には豊肥本線の百枝(ももえだ)トンネルがうがたれ、そのまま奥岳川を渡る高い鉄橋に接続している。

*注 下部は阿蘇3、上部は阿蘇4の火砕流による。

言わずと知れた撮影名所で、河原に訪問者のクルマを停める場所まで指定してあった。ちょうど雨が小やみになったので、各自思い思いの場所に陣取り、トンネルに吸い込まれる下り普通列車の赤いキハ200系と、逆に飛び出してくる上り九州横断特急をカメラに収める(冒頭写真参照)。

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岩戸の景観、トンネルに吸い込まれる下り普通列車
 

最重要イベント(?)を終えた後は、原尻(はらじり)の滝へと駒を進めた。大野川の支流、緒方川(おがたがわ)に掛かるこの滝は、幅120m、高さ20m。沈堕の滝と同様の成因で、ともに「豊後のナイアガラ」と称される大規模なものだ。

手前にある道の駅にクルマを停めて歩いて行く。周囲は谷底平野で、田園が広がり、中央を緒方川がゆったりと流れている。それが広い川幅のままで、いきなり滝壺に落ちていくから、ナイアガラに例えられるのももっともだ。滝の上流側には沈下橋が渡され、下流側の深い谷では吊橋が揺れる。その間を周遊路がつないでいて、壮大な弧を描く滝をさまざまな角度から鑑賞できるのがいい。

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豊後のナイアガラ、原尻の滝
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(左)上流側の沈下橋
(右)下流側の吊橋
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図4 原尻の滝~蝙蝠の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

近くにもう一つ、大野川に掛かる蝙蝠(こうもり)の滝がある。これも溶結凝灰岩の柱状節理の間から、噴き出すように水が落ちているが、そばまで近づくことはできない。それで、普通車がぎりぎりの狭い山道を伝って、400mほど離れた山上にある展望所へ。滝の高さは約10mで、大きく四つの筋に分かれている。本流なので豊かな水量があり、遠目にも勢いと迫力が伝わってきた。

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蝙蝠の滝を展望所から遠望
 

竹田市街を経由して、次は竹田湧水群へ。周辺では、阿蘇の豊かな伏流水があちこちで湧き出している。その一つで、水量が最大という河宇田(かうだ)湧水を訪ねた。駐車場の前に上屋つきの水汲み場があり、10個ほどの口から水が流れ落ちている。水栓はなく流しっ放し、無料で汲み放題だ。ひと口含むと、柔らかなのど越しが快い。

山手には、エノハ(下注)の養魚池が所せましと並んでいる。水流をたどって湧出場所まで行ってみたが、底が苔や藻に覆われたせいぜい数m幅の、意外に小さな池だった。同心円の波紋も立たない静かな水面にもかかわらず、出口から驚くほどの水が流れ出ていく。

*注 エノハは魚名として各地で使われているが、九州ではヤマメやアマゴを指すという。

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河宇田湧水
(左)水汲み場(右)豊かな水量で流れ下る
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(左)エノハの養魚池
(右)静かな湧出場所
 

石橋ではもう1か所、竹田西郊の山王橋(さんのうばし)を見に行った。大野川支流の稲葉川に架かる3連のアーチ橋だ。全長56m。こうした石橋は昭和初期まで造り続けられていて、これは1912(明治45)年に完成した。江戸期の重厚な石橋に比べ、深いアーチや段状になった橋脚基礎が軽やかで美しい。

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山王橋全景
 

最後に訪れたのは竹田随一の観光スポット、岡城(おかじょう)跡だ。市街地の東、大野川と支流稲葉川の二つの谷に挟まれながら、かろうじて浸食を免れた細長い火砕流台地の平坦面に築かれている。周囲の谷壁は比高100mと高く険しく、そのうえ堅固な石垣で護られていて、見るからに難攻不落の山城だ。

駐車場にクルマを停め、入場料を納めて城内へ向かった。雨模様とあってほとんど誰も歩いていない。崖の上にそびえ立つ凝灰岩の高石垣を仰ぎながら、大手門へ通じる坂道をたどる。上りきると、城郭は思った以上に広かった。左手の西の丸周辺が特にそうで、天空の広場という印象だ。ここからは竹田市街と周りの丘陵地が一望になる。晴れていれば、阿蘇の外輪山やくじゅう連山のパノラマが展開するのだろうが、きょうは近景さえ霧にかすみがちだ。

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岡城跡
(左)大手門への上り坂(右)坂下方向、苔むす高石垣
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(左)西の丸への小道
(右)西の丸周辺は天空の広場
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霧に煙る西の丸からのパノラマ
左手前は物見櫓跡
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図5 竹田市街周辺の1:25,000地形図に加筆
 

大手門前まで戻って今度は東に進むと、一段高い中心部の石垣が見えてきた。その手前、敷地が最もくびれたところが西中仕切、いわば最終ゲートで、通路が鍵形に曲がっている。三の丸のひときわ高い石垣を眺めた後、石段を上がればいよいよ本丸だ。しかし、城の建物は明治維新でことごとく取り壊されていて、あるのは何本かの大きなクスノキとその下の小さな神社だけだった。

城郭はまだ東へ続き、東ゲートである東中仕切、歴代藩主が眠る御廟所を経て、東口の下原門(しもばるもん)に至る。東西の全長は1km近くもあり、見応え十分だった。城内にはサクラの木も多数植わっていて、花の季節にはさぞ映えることだろう。

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城郭中心部、右のひときわ高い曲輪が本丸
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(左)城内のサクラ並木
(右)雨に煙る三の丸の高石垣
 

ところで、二の丸の一角に作曲家、滝廉太郎の像がある。彼は少年時代に、父親の任地だったこの町で過ごしたことがあり、城跡で遊んだ記憶から唱歌「荒城の月」の曲想を得たのだそうだ。竹田ではこれがもはやイメージソングになっていて、駅では列車到着の際に流れていたし、岡城でも霧の中からかすかに聞こえてきた。

何かと思えば、正体は谷底を通る国道で、制限速度で走るとタイヤの摩擦音が音楽に聞こえるメロディーロードになっているのだ。これを騒音と思うか風流と感じるかはともかく、諸行無常のむなしさを託した短調の旋律(下注)は、この後もしばらく耳に残って離れなかった。

*注 「荒城の月」には、滝の原曲とは別に、山田耕作がそれに手を入れた版があり、調(キー)やテンポ、一部のメロディーが異なる。一般に知られるのは後者だが、竹田では前者が流れる。

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滝廉太郎像
 

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2024年10月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-小岩井農場、橋場線跡、松尾鉱業鉄道跡

2024年コンターサークル-S 秋の旅、後半は岩手県に舞台を移す。初日の10月5日は、盛岡駅前でクルマを借りて、岩手山麓を半周する形で、雄大な風景と大地に埋もれた廃線跡を巡る。

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小岩井農場上丸四号牛舎
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図1 岩手山周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年編集
 

駅の改札前に集合したのは大出さん、山本さんと私の3名。白のトヨタヤリスで御所湖(ごしょこ)のほとりを走り、湖面に臨む繋(つなぎ)温泉の駐車場にクルマを停めた。御所湖は、雫石川(しずくいしがわ)を堰き止めて1981年に完成した比較的新しい人造湖だ。広い湖面の向こうにそびえる岩手山(いわてさん)の眺望を期待して来たのだが、空はおおむね晴れているのに、山頂付近に厚い雲がまとわりついている。

それから繋大橋を渡って北岸の、七ツ森がよく見える御所野の一角に移動した。のどかな田園地帯を限るように、優しい稜線をもつ小山がポコポコと並んでいる。宮沢賢治の文学作品にちなむイーハトーブの風景地の一つだ。本来ならその間に岩手山も顔を見せるはずだが…。

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御所湖西望
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七ツ森の展望

続いて国道46号で西へ向かう。目的地は橋場(はしば)駅跡。JR田沢湖線が仙岩トンネルの完成で全通する以前の盛岡方の終点で、路線も橋場線と呼ばれていた。1922(大正11)年に開業したが、戦時中、閑散区間だった雫石(しずくいし)と橋場の間が不要不急路線とされ、線路が撤去された。戦後の田沢湖線建設の際も、ルートから外れる赤渕(あかぶち、下注)~橋場間は復活することがなかった。

*注 赤渕駅は1964(昭和39)年の再開業時に開設された駅で、戦前の橋場線時代にはなかった。

橋場駅があったのは、赤渕から1.7kmの安栖(あずまい)地区だ。廃業した商店の向かいに並ぶ民家の間の小道を入っていくと、山裾にコンクリートの階段が見えてくる。踏面が草むしているものの、躯体はそれほど劣化していない。上ると、森の中に対面式のホーム跡がくっきりと浮かび上がった。しかし、端の方では丈の高い下草に覆われて、周りと区別がつかなくなる。構内の盛岡方に転車台があったようだが、冬枯れの時期ならともかく、とてもそこまで到達できそうになかった。

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橋場駅跡
(左)ホームへの階段(右)森の中のホーム跡
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図2 橋場駅跡周辺の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図3 橋場駅跡周辺の旧版1:50,000地形図(2倍拡大)
1939(昭和14)年修正測図

来た道を戻って雫石で左折し、次は小岩井農場へ。明治時代に岩手山南麓の広大な原野を拓いて造られた著名な農場だが、その一部がまきば園という有料公開の園地になっている。広々とした芝生広場の周りに乗馬体験や遊具のコーナー、レストランなどが配置され、大人から子どもまでゆったりと楽しめる場所だ。

だが残念なことに、鉄道系の楽しみはなくなってしまった。SLホテルだった蒸機D51 68号と20形客車は、今やただの置物になっている。雨ざらしのため、傷みが進んでいるようだ。D51は最近再塗装されて面目を取り戻したが、勢い余ってか、動輪まで黒のペンキで塗られていた。

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小岩井農場まきば園
(左)エントランス(右)広々とした園内
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旧SLホテルのD51 68号機
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図4 小岩井農場周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

園地の奥で走っていたトロ馬車も長期運休中だ。幌屋根のトロッコは乗り場に置かれたままで、周回軌道のレールももはや草に埋もれかけている。岩手山をバックに、草をはむ羊たちの横をトロ馬車が通り過ぎるさまはきっと絵になると思うので、復活を期待したい。

ちなみにこのトロ馬車は、昔ここにあった馬車軌道を再現したものだ。1904(明治37)年に農場本部から上丸牛舎に至る3.6kmの道沿いに敷設されたのが最初で、1921(大正10)年に国鉄橋場線の小岩井駅が開業すると、本部から南下して駅まで2.5kmが延伸された。当時のルートは旧版地形図(下図参照)にも描かれている。自動車の普及と道路整備に伴って1958(昭和33)年に廃止されるまで、半世紀にわたりトロ馬車は外界とを結ぶ重要な交通輸送手段だった。

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トロ馬車乗り場
(左)静態展示中(?)のトロッコ(右)遷車台
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牧場の中の周回軌道は草に埋もれつつある
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図5 小岩井農場の馬車軌道(薄赤で着色)が描かれた旧版地形図
図上端の「育牛部」が現在の上丸牛舎
1948(昭和23)年資料修正
 

レストランでスープカレーの昼食をとった後は、実際の農場の営みを見学できる上丸牛舎を訪ねた。門を入ったとたん、牧場独特の藁と糞の入り混じった匂いが漂ってきた。木造の大きな牛舎やレンガ張りのサイロは重要文化財の指定を受けつつも、現業で今なお使われているのだ。一号牛舎では内部も見学できる。ずらりと並んだ乳牛たちはもう慣れているのだろう。横から見学者がじろじろ眺めても、我関せずといった風で口をもぐもぐさせていた。

構内には事務所建物を利用した展示資料館もあり、本物のトロ馬車の走行写真やルート図など興味深い資料を見ることができた。最後に駐車場脇の売店で、限定販売の均質化していないビン牛乳を飲み干して、農場訪問を締めくくる。

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上丸牛舎の施設
(左)一号牛舎(右)一号、二号サイロ
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(左)小岩井農場資料館
(右)展示資料のトロ馬車写真

岩手山麓を北東へ走ると、東の方角に姫神山(ひめかみさん)が見えてくる。標高1124m、左右対称の整ったシルエットをもつ名山で、堀さんが著書『地図のたのしみ』に書いている。「頂上がキュッと尖り、両側になだらかな弧を描いて、ちょうど斜めに見たときの五重塔の軒先の曲線を思わせるその優姿をいつでも見せて、人の心をひきつける」と(同書p.232、下注)。

*注 堀淳一氏の『地図のたのしみ』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.245、2012年新装新版ではp.233にある。

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姫神山、柴沢からの眺望
 

堀さんは渋民駅で列車を降りて、線路沿いに北へ歩きながら北上川越しに山を眺めたが、私たちは、そこからさほど遠くない玉山地域重要眺望地点(柴沢)でクルマを停めた。「この優れた風景を大切にし、次世代に継承していきましょう」と書かれた盛岡市の案内板が立っている。水田地帯で、岩手山と姫神山がどちらも見通せるビューポイントだ。

ところが、無造作に張り巡らされた電柱と電線で、せっかくの景観にノイズが入る。そのうえ、東側に造られて間もなさそうな携帯の電波塔があって、姫神山にかぶってしまう。市の奨励にもかかわらず、眺望があまり重視されていないようだ。それでもう1か所目を付けていた渋民~好摩間の松川橋まで行った。ここは川面を前景にして山を望める。背後にはIGR線(旧 東北本線)の鉄橋も架かっているが、ほんの2~3分前に列車が通過したばかりで、さすがに一石二鳥とまではいかない。

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玉山地域重要眺望地点(柴沢)
(左)案内板と標柱(右)岩手山は雲の中
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姫神山、松川橋からの眺望

最後に松尾鉱業鉄道跡を訪ねた。これは、八幡平(はちまんたい)中腹で硫黄を採掘していた松尾鉱山のための支線鉄道で、国鉄花輪線の大更(おおぶけ)駅から東八幡平(旧称 屋敷台)まで12.2kmの路線だった。1934(昭和9年)に開業し、1951年からは電気運転になっている。接続する花輪線はもとより、東北本線でもまだ蒸気機関車が主役だった時代だ(下注)。八幡平へ行く登山客もよく利用した路線だったが、鉱山の閉鎖に伴い1972年に廃止となった。

*注 東北本線の盛岡~青森間の電化開業は1968年。

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大更駅
(左)新築の駅舎(右)ホーム、大館方面を望む
 

起点のJR大更駅へ。花輪線は言わずと知れた閑散線で、日中は片方向3時間に1本しか列車が来ない。ところが駅舎は、まるで近郊区間のような立派な2階建に建て替えられていて驚く。整備された駅前広場にタクシーが2、3台停まっていたから、それなりの需要があるのだろう。

クルマをときどき停めながら、終点まで廃線跡を追っていった。駅から北に出た鉱業鉄道は、約500m先で花輪線から離れていき、針路を徐々に西へ変える。草の生えた未利用地もあれば、砂利道だったり、プレハブ小屋が建っていたりと、現況はさまざまだ。しかし、用地区画は概して明瞭で、容易に跡をたどることができる。

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前半の廃線跡
(左)大更駅の北500m(右)上沖バス停前を横切る
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図6 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
大更駅周辺
 

現役時代、中間駅は二つあった。上沖(かみおき)バス停から廃線跡の農道を300mほど西へ行くと、一つ目の田頭(でんどう)駅跡を示す標柱が立っている。田んぼの真ん中に待合室がぽつんと残っているものと想像していたが、現実は違う。たくましく枝葉を広げた栗の木と野積みの廃タイヤにブロックされて、近づくことすら難しかった。

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(左)田頭駅跡の標柱、待合室は中央の木の陰に
(右)近づくのも困難な待合室
 

高森集落から西では、クルマでもたどれる農道になるが、鹿野(ししの)集落の手前でそれは消える。二つ目の鹿野駅は、地区の集落センター(集会所)の敷地などに転用されている。田頭駅のような標柱か説明板の一つでもあるといいが…。

集落を抜けると、2車線の舗装道が廃線跡だ。行く手に八幡平を仰ぐ一直線のルートだが、午後は雲が目立って増えてきた。東北自動車道をくぐり、県道23号大更八幡平線と交差すると、まもなく舗装道は終点となる。見過ごしてしまったが、この先に鹿野変電所が廃屋となって残っているそうだ。

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(左)鹿野駅跡に建つ集落センター
(右)八幡平に向かう廃線跡の2車線道
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図7 同 鹿野駅周辺
 

明治百年記念公園の駐車場にクルマを停めた。目の前で小水力発電用の水車が回っている。水を供給しているのは、松川上流で取水された用水路だ。松川温水路と呼ばれ、灌漑に適した水温にするために、幅広の水路に階段状に堰が切ってある。同様の施設が鳥海山麓にもあったのを思い出す(下注)。

*注 秋田県にかほ市象潟町の小滝温水路、「コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓」参照。

廃線跡はこの温水路に沿ってまっすぐ上流へ続いていて、現在は遊歩道になっている。落葉樹の林に包まれ、傍らで堰を落ちる水音を聞きながら、散策が楽しめるいい道だ。

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(左)松川温水路
(右)小水力発電用の水車
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温水路に沿う遊歩道区間
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図8 同 東八幡平駅周辺
 

一貫して西へ進んできた鉄道は、終点に近づくと北へ針路を変える。松尾鉱山資料館の駐車場が、かつて鉄道が斜めに横切っていた場所だ。線路の痕跡はない代わり、電化開業に合わせて導入された入換用電気機関車ED25 1号機が、上屋の下で静態保存されている。館内にも、鉄道に関する説明パネルや若干の資料展示があって、参考になる。この資料館、無料なのはうれしいが、鉱山のジオラマを除いて展示物を写真に撮れないのが惜しい。

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ED25 1号機
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松尾鉱山資料館
 

鉄道の終点である東八幡平駅は、索道で運ばれてきた鉱石の積替え施設が広がる一角にあった。現在は、松尾八幡平ビジターセンターという観光案内施設のほか、工場、広場、駐車場などに分割転用されている。どれも余裕たっぷりの敷地で、かつての施設がいかに大規模だったかが想像できる。

この後、私たちは、標高900m台にある松尾鉱山の採掘場付近まで、八幡平アスピーテラインを上っていった。急坂、ヘアピンの長い防雪シェルターを通り抜けると、風景はもう秋色を帯び始めている。かつて繁栄を極め、雲上の楽園とさえ称された鉱山町だが、今は廃墟と化した集合住宅群がむなしく立つばかりだ。坑道の崩落による陥没の恐れがあるとして、中心部に通じる道路は進入禁止になっていた。

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東八幡平駅跡
(左)松尾八幡平ビジターセンター
(右)広い駐車場も旧ヤードの一部
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松尾鉱山跡
(左)高層湿原の島沼
(右)廃墟になった集合住宅群
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図9 松尾鉱業鉄道が描かれた1:50,000地形図(東半)
1970(昭和45)年編集
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図10 同(西半)
(左)1973(昭和48)年編集(右)1970(昭和45)年編集
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図秋田、盛岡(いずれも昭和46年編集)、5万分の1地形図雫石(昭和14年修正測量)、小岩井農場(昭和23年資料修正)、八幡平(昭和48年編集)、沼宮内(昭和45年編集)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年10月22日 (火)

コンターサークル地図の旅-串本・潮岬とその周辺

2024年9月8日、秋のコンター旅2日目は、紀伊半島南端の串本(くしもと)に移動して、潮岬(しおのみさき)を筆頭に、周辺の地学的な見どころを巡る。

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潮岬灯台
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図1 串本周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

昨日に続いてよく晴れた朝、串本へ向かう2両編成の普通電車は、ロングシートがそこそこ埋まっていた。「休日の朝でもけっこう利用者がありますね」と言うと、「青春18きっぷの有効期間最後の日曜日だからじゃないかな」と大出さん。列車で紀伊半島一周に出かける人たちだろうか。串本駅前で、クルマで先回りしていた木下さん親子と合流した。本日も参加者はこの4名だ。

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串本駅に到着
 

トヨタヤリスのレンタカーと自家用車の2台で出発した。市街地を南へ抜け、潮岬への坂道を上る。途中の馬坂園地という休憩所が、串本トンボロを西側から見渡せそうに思えたので、寄り道した。

トンボロ、または陸繋砂州(りくけいさす)というのは、沿岸流によって運ばれた砂が堆積して、本土と島を陸続きにしている砂州のことだ(下注)。串本の場合は、潮岬のある海蝕台地がこれによって本土とつながり、市街地もこの砂州の上に載っている。

*注 ちなみに日本三大トンボロと呼ばれるのは、函館、串本、上甑島(かみこしきじま)の薗。

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図2 潮岬周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ところが、休憩所の海側は背の高い雑草ですっかり覆われてしまって、ほとんど視界がきかなかった。夏場なのでしかたがない。クルマに戻って、岬の突端にある南紀熊野ジオパークセンターまで行く。ここは、一帯の地学的な見どころをパネルや資料で紹介している施設だ。スタッフさんに5分間で解説を、と無理なお願いをして、これから訪ねるスポットについて予習した。それによれば…

海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込む際、海中で、プレートに載ってきた海底堆積物が剥がされて、いわゆる付加体が生成される。付加体の窪みの部分(海盆)には、陸上から運ばれた砂や泥が堆積した。これがこの地域の基盤層である熊野層群だ。後に、それらを突き破ってマグマが上昇し、地表や地中で冷えて固まった。潮岬や東隣の大島(下注)はこうしてできた花崗岩や安山岩(火成岩)から成る。一方、本土の熊野層群の間にも火成岩帯が分布していて、こうしたエリアには奇岩や瀑布など特異な景観が多数見られる。

*注 同名の他の島と区別するときは、紀伊大島または串本大島と呼ぶ。

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南紀熊野ジオパークセンター
 

センターを辞して、前に広がる緑地を柵際まで歩くと、変則五角形をした本州最南端碑があった。いうまでもなくここは北緯33度26分、本州の南の端だが、陸地は「クレ崎」と呼ばれる崖下の岩礁へとまだ続いている。目を凝らすと、先端の岩棚に人が立っているのが見えた。海釣りをしているようだが、よくもそこまで、と感心する。岩伝いに歩いていくのは難しく、船で行ったとしか考えられない。

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(左)本州最南端碑
(右)最南端の岩礁、クレ崎
 

遊歩道を西へ移動する。旭之森展望所から、その岩礁の並びを側面から眺めることができた。野良ネコが二匹、ベンチの下の日陰から私たちのようすを窺っている。県道に合流した後、もう一つ展望所があり、これから行く岬の灯台が姿を見せた(冒頭写真参照)。

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(左)旭之森展望所
(右)ベンチの下の野良ネコ
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無名の展望所から見る潮岬灯台
 

潮岬灯台は高さ23m、石造の灯台だ。1870年に日本初の洋式木造灯台として完成し、8年後の1878年に現在の構造に改築されている。太い石柱の門を入ると受付があり、傍らで目の覚めるようなハイビスカスの真っ赤な花が迎えてくれた。

灯台は、敷地の中央に立っている。68段あるという内部の螺旋階段でバルコニーまで上れるのだが、最後の一層は狭くて急な鉄梯子だった。狭いバルコニーに出ると強い海風が吹きつけ、思わず帽子のひさしを押さえた。しかし、見晴らしのよさは言うまでもない。岬を覆う照葉樹林と青い海原が目の前に広がり、釣り船や貨物船が波間をゆっくりと動いている。

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潮岬灯台正門
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(左)構内のハイビスカス
(右)灯台と付属建物
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(左)灯台入口
(右)入口の銘板
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(左)バルコニーへの出口
(右)最終層を上る鉄梯子
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灯台バルコニーから南西方向のパノラマ
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(左)付属建物にある資料展示室
(右)展示室の第2等フレネルレンズ
 

クルマに戻って、紀伊大島へ向かった。潮岬台地の東端でスパイラルの取付け道路を回り、くしもと大橋を渡る。1999年に完成したこの橋のおかげで、大島は実質、本土と陸続きになり、民謡に謡われた巡航船も廃止されてしまった。

道の途中にある、口コミで人気のパン屋で昼食を仕入れて、金山展望所へ。標高117mのピークで、串本湾を見渡せるビューポイントとして目を付けていた場所だ。

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図3 串本・大島周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

消防団の人たちが作業中の駐車場にクルマを置かせてもらって、山道の階段を登っていく。地図上では徒歩8分ほどの距離なのだが、容赦ない日差しとアップダウンを繰り返す尾根道で、けっこう疲れた。展望地は3か所ばかりあったが、先端の小広場で視界が最も開ける。

右手に、巨岩が一直線に並ぶ橋杭岩(はしぐいいわ)がある。中央は串本市街地で、トンボロの上まで続き、潮岬台地に接続している。左手前には、多数の漁船がもやる大島港も見えて、想像以上の大パノラマだ。ベンチも用意されているから、ピクニックの環境として申し分ないが、今日はさすがに日陰がほしい。それで、クーラーの効いたクルマで大島港まで降り、港ネコに見つめられながら、さっきのパンを食した。

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金山展望所からのパノラマ
右から橋杭岩、串本市街地が載るトンボロ、潮岬台地、左手前に大島港
 

大島では東部にある海金剛にも行きたかったが、時間が押してきたため、やむなくカット。島を出て、内陸部へとクルマを進めた。国道371号で一山越えて、古座川(こざがわ)が流れる谷を遡る。トンネルを2本抜けると、天然記念物になっている古座川の一枚岩が見えてきた。道沿いの小さな道の駅にクルマを停めた。

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図4 古座川周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

対岸に、川面から直接立ち上がるように、一かたまりの巨大な岩壁が露出している。高さは約100m、下流側にも少し背は低いが岩塊が続いていて、全長は約500mあるという(下注)。写真ではあまりスケール感が湧かないが、実際に目にすると、縦横とも圧倒的な迫力だ。河原にいる人たちが豆粒のように見える。

*注 国指定文化財等データベースで「高さ約150m、幅約300m」とあるが、少なくとも露出部は、地理院地図の標高データで高さが100~110m、図上測定で幅500m程度。

岩質は、流紋岩質の凝灰岩だそうだ。火山灰が凝固したものだから、一般的に硬質の岩石ではないが、均質でよく固結していた部分が、風化や浸食に耐えたのだろうか。それでも表面には大小のくぼみがあり、植物の進出を許している。

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古座川の一枚岩の下流側
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同 上流側、河原にいる人が豆粒に見える
 

少し上流にある天柱岩(てんちゅうがん)も見に行った。川の右岸の斜面上部で、ドーム状の巨岩が露出している。谷底からの高さが220mほどもあり、けっこうモニュメンタルな景観だ。

ここでUターンして、今度は古座川沿いの県道38号すさみ古座線を下る。流路が沿っているのは、古座川弧状岩脈と呼ばれる地層で、約1400万年前の巨大噴火により生じた熊野カルデラの痕跡の一つだ。花崗岩など比較的柔らかい岩石で構成されているため、浸食されやすく、川筋や低地になっている。下流に点在する髑髏岩(どくろいわ)、牡丹岩(ぼたんいわ)、虫喰岩(むしくいいわ)といったややグロテスクな奇岩も、こうした岩質の風化によるものだ。

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そそり立つ天柱岩
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(左)髑髏岩
(右)牡丹岩
 

古座川河口で国道42号に出た。最後は橋杭岩を訪れるつもりだが、その前に、大出さんが見つけた紀伊姫(きいひめ)駅近くの山上にある無名の展望所に立ち寄る。麓にクルマを停めて、徒歩で線路際から続く山道を歩いていった。最近整備の手が入れられたようで、手作りの案内板がまだ新しい。

細木で土留めした簡易な階段道を上った先に、少し平らに均した場所があった。振り返ると、橋杭岩が縦に並んで見えた。遠景は潮岬台地に紀伊大島、仲を取り持つ白いアーチのくしもと大橋と、役者がしっかり揃っている。さらに紀勢本線の線路が手前に回り込んでくるので、列車の姿が入れば鉄道写真にも使えそうだった。

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無名の展望所からの眺望
正面左が橋杭岩、後方にくしもと大橋
 

クルマに戻り、改めて橋杭岩へ向かう。名所の前に設けられた道の駅の駐車場は、満車に近かった。国道沿いで人目を引く景色だから、誰しもちょっと寄っていこうと考えるのだろう。

橋杭すなわち橋脚に見立てられた流紋岩の巨岩の列は、およそ南北方向に長さ約900mにわたって延びている。これも火山活動の痕跡だ。泥岩の地層の割れ目に入り込んだマグマが固結し、地上での差別侵蝕により火成岩だけが残った。いうなれば、溶けた鉄を鋳型に流し込み、後で鋳型を壊して鉄器を取り出したようなものだ。

西側は波蝕棚で、大波で砕かれ運ばれた岩がごろごろと転がっている。その間を縫って岩塔の列まで行ってみた。遠目とは違って目近にすると、背も高く相当の厚みがある。列の反対側は白波が絶えず打ち付けていて、午前中、灯台のバルコニーから眺めたような外海そのものだった。

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橋杭岩
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(左)高さと厚みのある岩塔列
(右)東側は外海
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図田辺(昭和58年編集)および地理院地図(2024年10月16日取得)を使用したものである。

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2024年10月17日 (木)

コンターサークル地図の旅-有田川あらぎ島

9月に入っても猛暑が収まる気配がない。今日もよく晴れて、当地の気温は33度まで上がった。2024年コンターサークル-S 秋の旅の前半は、紀伊半島が舞台だ。1日目の9月7日は、有田川(ありだがわ)中流の知る人ぞ知る名所「あらぎ島(蘭島)」を見に行く。

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あらぎ島全景
 

有田川は和歌山県北部、真言密教の霊場である高野山(こうやさん)を源流域として西へ流れ下り、紀伊水道に注ぐ川だ。中流部では激しい穿入蛇行(せんにゅうだこう)を繰り返している。

そうした蛇行地形の内側に生じた緩やかな斜面、いわゆる滑走斜面が段丘状になったところを水田化したのが、あらぎ島だ。これを対岸の崖の上から眺めると、みごとな袋状の棚田に見える。昨年訪れた埼玉の巾着田と同じような景観だが、あらぎ島ははるかにコンパクトで、広角でなくてもカメラのレンズに収まってくれる。

*注 埼玉の巾着田については「コンターサークル地図の旅-高麗巾着田」参照。

田んぼは刻々と装いを変えていく。刈田に白い霜が降りる冬、一面に水が張られる初夏、稲が育ち緑に埋まる盛夏と、どの季節も趣きがあるが、やはり黄金色に染まる今時分が最も見栄えがするように思う。まだ歩き旅に適した時期ではないが、今日を決行日にしたのは、9月中旬には稲刈りが終わってしまうと聞いたからだ。

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季節ごとに装いを変える
(現地案内板を撮影)
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図1 有田川周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年編集

あらぎ島へは、JR紀勢本線の藤並(ふじなみ)駅から清水(しみず)行きの路線バスで向かう。しかし、休日は本数が少ないこともあって、遠方から来ると朝の便に間に合わない。それで、藤並駅での集合時刻は13時の設定だ。

ここは以前、有田川鉄道公園に行くために来たことがある。鉄道公園は、有田鉄道の終点だった金屋口(かなやぐち)駅の構内に設けられた鉄道博物館で、2002年に廃止されたローカル私鉄の記憶を保存している。清水行きバスは、バス専業になった有田鉄道の運行なので、旧 駅前も経由地の一つだ。久しぶりに鉄道公園を訪ねてみたいが、降りてしまうと次のバスがないのが辛い。

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(左)JR藤並駅
(右)駅前から路線バスに乗り込む
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(左)旧 金屋口駅舎
(右)有田川鉄道公園
  旧 金屋口駅ホームと保存車両キハ58 003(2018年撮影)
 

藤並駅東口のバス停で大出さんと会い、13時06分発のマイクロバスに乗り込んだ。乗客は私たちを含めて5人。金屋口までは開けた土地だが、曲弦ワーレントラスの金屋大橋で有田川を渡ると、いよいよ山中に入っていく。蛇行する谷に点在する集落を追いながら、国道480号で34km、延々1時間の長旅だ。

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(左)金屋大橋(復路で撮影)
(右)二川ダム湖
 

川を堰き止める二川(ふたがわ)ダムの湖面が途切れてまもなく、バスは国道から離れ、狭い旧道に入っていった。集落の中の三田(みた)という停留所で下車すると、はるばるマイカーでやってきた木下さん親子が待っていてくれた。

田舎道というのに、ぞろぞろ歩いてくる人たちとすれ違う。主要道からの遠さをものともせず、見物客がけっこう訪れているようだ。緩い上り坂になった旧道をもう少し先へ進むと、急に右側の足もとが開け、お目当ての地形が見えてきた。柵つきの側歩道が造られ、その端に猫の額ほどの広場も設けられている。

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あらぎ島展望所
柵つきの側歩道と小広場がある
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図2 あらぎ島周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

展望所からは南望する形になる。有田川が左手奥の谷から現れ、手前に大きく膨らんで、右手奥の山陰に消えていく。この流路に囲まれて正面に、同心円状の緑のあぜ道で縁取られたあらぎ島の棚田群が広がる。一部刈取りが済んだ区画があるものの、まだ大半が、強い日差しのもとで黄金色に輝き、収穫の日を待つ状態だ。

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収穫を待つあらぎ島の棚田群
 

私たちが立っているのは、川面から40m以上高い攻撃斜面の崖の上で、有田川が長い時間をかけて造り上げた円形劇場を一目で見渡せる位置にある。別の角度からも眺められないかと、地形図やグーグルマップで探してみたが、全体が視野に入るのはここが唯一のようだ。

帰りのバスの時刻までまだ1時間以上あるので、あらぎ島本体に行ってみることにした。旧道を上流に向かう。道はいったん下りになり、宮川谷川(みやがわたにがわ)を渡って小峠(ことうげ)集落に続いている。集落の端で国道へ右折して、小峠橋を渡った。この橋と次の蘭島橋の間に、南に入る1車線道があり、そこから農道が分岐している。

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国道の小峠橋にて
 

道端に、あらぎ島とそこに水を運んでいる上湯(うわゆ)用水路の案内板が立っていた。「有田川の支流 湯子川(下注)から取水する総延長約3.2kmの水路で、現在は約13.5haの水田を用水しています。笠松佐太夫が開削した用水路の一つであり、史料から明暦元年(1655)という開発年代が特定できる」とある。水路が尾根を横切る地点で、グレーチングで覆った分水路が延びていた。

*注 ただし、地形図には湯川川(ゆかわがわ)とある。

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上湯用水路と蘭(あらぎ)島の案内板
 

農道わきに人家が1軒あるのは現地で初めて知った。河畔林の陰で、展望所からは見えないからだ。農作業に使う用具類も、眺望の邪魔にならないよう木陰に置かれていた。農道はあらぎ島の縁を巡っている。この位置から見れば、観光名所もよく実ったふつうの稲田だ。一枚当たりの面積は小さいが、特異な景観を守るために、耕作を絶やさぬ努力が続けられているのだろう。

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(左)あらぎ島の縁を巡る農道
(右)近くで見ればふつうの稲田
 

国道の蘭島橋からは、有田川の流れとともに、さっきいた展望所と周りの辻堂(つじどう)、中谷の集落が望める。地形図を見ていて気づいたが、旧道が通っているのはいわゆる風隙(ふうげき)だ。おそらく、もとは宮川谷川が流れていたのだが、有田川による側面浸食の結果、川が短絡してしまい、辻堂から西の流路が空谷となって取り残されたと推測される。すなわち、展望所が置かれた場所は、河川争奪地形における争奪の肘(ひじ)の一部ということだ。

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蘭島橋から展望所と周りの集落を望む
 

蘭島橋は、延長544mの三田トンネルに直結している。車道トンネルを歩くのはできれば避けたいが、ここは十分な幅の側歩道があり、時折やってくるクルマの走行音を別とすれば不快ではなかった。それに、じりじり焼かれるような日なたに比べ、トンネルの中は涼しくてほっとする。

トンネルを抜けてすぐ右側にある道の駅「あらぎの里」で、しばし休憩。木下さん親子と別れ、三田発電所前のバス停から15時46分発の、往路と同じマイクロバスに乗った。

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(左)道の駅「あらぎの里」
(右)三田発電所前停留所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年要部修正)および地理院地図(2024年10月16日取得)を使用したものである。

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2024年7月13日 (土)

祖谷渓の特殊軌道 II-祖谷温泉ケーブルカー ほか

前回に引き続き、祖谷渓(いやだに)にある特殊軌道を訪ねる。

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図1 祖谷渓周辺の1:200,000地勢図
 橙色の枠は詳細図の範囲、図2は前回掲載
(右)1978(昭和53)年編集、(左上)1986(昭和61)年編集、(左下)1995(平成7)年要部修正

 

てんとう虫のモノライダー

レジャー向きということなら、より小規模なモノレールが、西祖谷の中心、一宇(いちう)の対岸にある「祖谷ふれあい公園」で稼働している。祖谷渓の入口に位置しているので、アクセスも比較的容易だ。

名づけて「てんとう虫のモノライダー」。低年齢層に的を絞った外観だが、奥祖谷のカブトムシで見慣れたのでもはや気にもならない。線路構造は奥祖谷と違い、平滑レールを欠いた簡易版で、みかん山の運搬用モノレールに近い。車体も小ぶりだ。一応、前後2人乗りというものの、またがり席で奥行きもなく、子どもと大人1人ずつがせいぜいだろう。全長430m、乗車時間は約8分。

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「てんとう虫」乗り場
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カップルなら狭さは問題なし
 

ルートは周回型で、山腹をひとしきり上った後、高台の公園で半回転し、反対側の谷斜面を降りていく。端的に言って遊園地の遊具だが、後半では祖谷渓一帯の眺望がきくし、下り急斜面にヘアピンカーブで乗り出すなど、ささやかながら見どころやスリルもあり、悪くなかった。

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(左)前半は山腹を上る
(右)後半はヘアピンカーブで急降下
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「てんとう虫」から見る祖谷渓、遠景は一宇の集落

祖谷温泉ケーブルカー

祖谷渓にはケーブルカーもある。谷筋に点在する温泉宿で、館外の露天風呂へ客を運んでいるのだ。

大歩危から行くと、祖谷大橋を渡った一宇(いちう)で左折する。集落を抜けた後、V字谷の中腹をくねくねと伝う危うい一本道をたどる。これは、祖谷トンネル開通以前(下注)の祖谷渓を貫くメインルートなのだが、5kmほど先の、いくつ目かの張り出し尾根を回るところに、目指す「ホテル祖谷温泉」が建っている。

*注 祖谷トンネルを含む大歩危~一宇間は、1974年に祖谷渓有料道路として開通したが、1998年に無料化され、現在は県道。

そこは前後数kmにわたって人家の途絶えた場所で、まさにポツンと秘境の一軒宿だ。そのうえ、名物の露天風呂ははるか崖下の祖谷川の河原で湧いているため、旅館の建物から谷底まで、転げ落ちるような急斜面を降りていかなければならず、その間を小型のケーブルカーが結んでいる。

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ホテル祖谷温泉
 

谷底の温泉へ行くケーブルカーといえば、箱根の対星館にあったものが有名だが、老朽化で2009年に嘉穂製作所のスロープカーに転換された後、旅館自体も休業してしまった。同種のものは王子の飛鳥山をはじめ全国各地で導入されているから、もはや珍しいものではない。対する祖谷渓のこれは1984年の開業で、今なおケーブルで車両を上下させている。現在のシステムは2004年に更新された3代目だという。

現地の案内板によれば、車両の諸元は全長9.15m、幅1.60m、高さ2.14mで、乗車定員は17名だ。線路は、上下駅間の距離が250m、標高差170m、レールの勾配はなんと約42度(900‰、下注)もある。鉄道事業法によるケーブルカーの最急勾配は、よく知られた高尾山の31度18分(608‰)だから、それをはるかに上回る。

*注 後述するように一定勾配のため、斜辺と高さの値が正確なら、計算上は42.84度、927.44‰になる。

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本館と谷底の露天風呂を結ぶケーブルカー
 

旅館内施設ではあるものの、宿泊客だけでなく日帰り客も利用できるというので、モノレールの帰りに立ち寄った。フロントで1700円の日帰り入浴料を払って、通路を奥へ進む。乗り場のドアを開けると屋根は架かっているものの屋外で、V字の谷が見晴らせる。下を覗くと、ちょうどナローゲージに似た馬面のキャビンが上ってくるところだった。

ケーブルカーのルートは直線で、勾配も一定、あたかもエレベーターを斜めに立てかけたようだ。線路が降下していく先に、祖谷川の白濁した流れもかいま見える。

降りる客と入れ替えに、キャビンに乗り込んだ。車内は通路左右に1人席が配置され、長手方向は、勾配に合わせて思い切り急な階段になっている。乗員はおらず、セルフサービスの運行方式だ。最後に乗り込む人が乗り場のドアを閉め、車両のドアも閉める。そして進行方向の窓下にある「上り」「下り」のボタンを押せば、動き出す。所要時間は片道約5分だ。

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(左)急階段の車内
(右)前面車窓は額縁に嵌った絵画のよう
 

下降し始めはちょっと怖い。かぶりつきから見る景色が文字どおり千尋の谷底で、傾斜の感覚は42度どころか、それをはるかに超えているからだ。しかし動きはゆっくりで、加速もしないからすぐに慣れる。行路が半ばを過ぎると、木々の間から河原の眺望が開けてきた。直下のデッキで休憩している先客たちの姿もだんだん大きくなる。涼しげな川の水音が耳に届いてきて、間もなく下の駅に到着した。

鉄道趣味はここまでにして、後は温泉巡りの喜びに浸りたい。河原に面した露天風呂は天然かけ流しのアルカリ泉で、ぬるめの湯なのでゆっくりつかれた。その後は川べりに設けられたテラスに出て、幽谷を抜けていく風に吹かれる。日帰りで慌ただしく訪ねたことを正直後悔した。

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谷底から仰ぐ急傾斜路
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露天風呂に隣接する祖谷川べりのテラス
 

再びケーブルカーで本館に戻ったときに、フロントの人と言葉を交わした。「いいお風呂でした。もとの目的はケーブルカーに乗ることだったんですが」と告白すると、相手も笑いながら「そうでしたか。では、かずら橋のホテルも行かれましたか? あちらは逆に山を上っています」。

下調べが粗くて見落としていたのだが、その「新祖谷温泉ホテルかずら橋」でも、同じように本館と露天風呂の間をケーブルカーが行き来しているらしい。ネットで検索すると、切妻屋根の下に障子、羽目板壁が施されたとてもユニークなキャビンだ。和室が坂を上り下りする珍景と評されている。

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ホテルかずら橋の和風ケーブルカー
Photo by ブルーノ・プラス at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

これは行っておかないと、とは思うが、この日もう1軒はしごするのは時間的に難しかった。残念だが、次来るときの楽しみにとっておこう。また日帰り入浴では勿体ないし… 自らにそう言い聞かせて、くつろぎの一軒宿を後にした。

というわけで、秘境祖谷渓の知られざる特殊鉄道を巡る旅は、私の中でまだ終わっていない。

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図3 祖谷温泉~かずら橋周辺の1:25,000地形図
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.17(2021年)に掲載した記事「祖谷渓の「鉄道」巡り」に加筆し、写真と地図を追加したものである。
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図徳島(昭和53年編集)、剣山(昭和53年編集)、岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2024年6月15日取得)を使用したものである。

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2024年7月10日 (水)

祖谷渓の特殊軌道 I-奥祖谷観光周遊モノレール

ここで取り上げる奥祖谷観光周遊モノレールは、2022年4月以来、休業が続いている。乗りごたえのあるユニークな乗り物だったので、たいへん残念だ。早期の復活を祈りつつ、2018年10月に訪れたときのようすを振り返りたい。

比高1000mにも達する険しいV字の谷、崖際を心細げにたどる一本道、見上げるほどの高みに点々と張りつく集落…。徳島県西部に位置する祖谷渓(いやだに)は、広域合併で住所が三好(みよし)市になった(下注)というものの、今なお秘境と呼ぶにふさわしいエリアだ。

*注 祖谷渓のかつての行政単位は、三好郡西祖谷山村(にしいややまそん)および東祖谷山村(ひがしいややまそん)。2006年に、池田町ほか3町と合併して三好市となる。

周辺で鉄道路線と言えるのは、山一つ隔てた吉野川本流に沿って走るJR土讃線が唯一だ。ところが、モノレールやケーブルカーといった特殊鉄道なら祖谷渓の中にも複数存在し、一般客を乗せているという。いったいどんな路線なのか、2回に分けてレポートする。

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秘境祖谷渓
(掲載の写真はすべて2018年10月撮影)
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図1 祖谷渓周辺の1:200,000地勢図
 橙色の枠は詳細図の範囲、図3は次回掲載
(右)1978(昭和53)年編集、(左上)1986(昭和61)年編集、(左下)1995(平成7)年要部修正

 

奥祖谷観光周遊モノレール

阿波池田からレンタカーで国道32号線を南下した。大歩危(おおぼけ)で左折して、ヘアピンカーブの県道を上り詰め、長さ967mの祖谷トンネルを抜ければ、そこはもう山深き祖谷渓だ。整備された2車線道路はかずら橋の入口で終わり、その先は対向不能の狭隘区間が断続的に現れる難路になる。大歩危から延々1時間以上も走った後、菅生(すげおい)地区で脇道に折れ、向かいの山腹をさらに上っていく。こうしてようやく今日の宿「いやしの温泉郷」に着いた。

ちなみに公共交通機関で行く場合は、阿波池田または大歩危駅前から久保行きのバス(四国交通祖谷線)に乗る。終点で三好市営バスに乗り換えて、菅生で下車、そこから徒歩で25~30分というところだ。

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祖谷渓の玄関口、大歩危駅
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祖谷渓の一大名所、かずら橋
 

はるばるここまでやってきたのは、奥祖谷観光周遊モノレールが目的だ。2006年に開業したこのモノレールは、鉄道事業法や軌道法には拠らない純粋な観光施設だが、公園やテーマパークではなく、ふつうの山林の中を巡るという点がユニークで、かねがね乗ってみたいと思っていた。

乗り場は、宿のすぐ裏手にある。泊まった翌朝、早めにチェックアウトを済ませて、そちらへ向かった。運行開始は8時30分(下注)だが、今は連休中で宿泊客も多い。当日の予定運行数が完売したら、時間内でも受付を中止するという、案内パンフの不穏な警告文が気になっていたのだ。

*注 2018年の運行時間は4~9月が8:30~17:00、10~11月が8:30~16:30だった。なお水曜は運休、また12~3月は全面運休。

8時前に係の人たちが出勤してきて、乗り場のシャッターが開いた。予想に反してその時刻にいた客は、わがグループのほかに家族連れが1組だけ。遅れて何組かやってきたが、皆ゆっくり朝食を楽しんでいたらしい。車両は2人乗りだが、4分間隔で出発するから、この人数なら1時間程度でさばけるだろう。

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観光モノレール駅舎
 

出札窓口で大人2000円の乗車券を買い求めた。悪天候に備えて雨具やカイロも売っている。駅舎は車庫を兼ねていて、走行線に並行する数列の留置線に、車両が数珠つなぎに停めてあった。走行線へはトラバーサー(遷車台)で移動させるのだそうだ。

まず朝の試運転機が、無人で1台出発していった。次が私たち3名で、始発機と2番機に分乗する。車両は1人席が直列に2個並んでいる。前面にカブトムシの目と角がついた遊園地仕様なのが、ちょっと気恥しい。

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乗車券窓口
雨具や使い捨てカイロも売っていた
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(左)車両は遊園地仕様
(右)留置線と本線に移動させるためのトラバーサー
 

出発に先立って、備え付けのトランシーバーの使い方について講習を受けた。人里離れた森の奥では携帯電話が通じないので、これが唯一の連絡手段になる。続けていくつかの注意事項を聞いた。

「シートベルトは常に締めておいてください。急な下り坂では転落する恐れがあるので、足を踏ん張り、前面のバーをしっかり握ってください。

運行状況により、自動で走行と停止を繰り返すことがあります。もし前方に停車中の車両を発見したら、停止ボタンを押してください。立ち往生した時は連絡をもらえば係員が向かいますが、山道を歩いていくので時間がかかります。最大3時間は待ってもらいますので、乗車前に必ずトイレに行っておいてください…。」

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乗り場
 

使われているシステムは、モノレール工業という会社(下注)が開発した産業用モノレールだ。みかん山などで見かける運搬装置(単軌条運搬機)を機能強化したものに他ならない。駆動方式は、主レールに取り付けられた下向きの歯棹に、車体側の歯車を噛み合わせる、いわゆるラック式だ。そのため急勾配に強く、性能上45度の登坂が可能だという。さらに右側に並行する平滑レールで車両を安定させ、左側の給電レールからはモーターの動力を得ている。

*注 モノレール工業株式会社(愛媛県東温市)は2010年7月に破産し、現存しない。

走るルートは延長4.6kmの周回線で、一周するのに65分かかる。しかも、観光周遊というのどかな名称にもかかわらず、実態は登山鉄道で、起点と最高地点との標高差が590mもある。上昇100mにつき気温は0.6度下がるので、3.5度の気温差が生じている計算だ。その間ずっと乗りっぱなしだから、トイレに関する指示も当然のことだろう。

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(左)車体を安定させるための補助輪
(右)駆動輪は上と下からレールを挟む
 

8時43分、出発の時間になった。係の人に見送られて駅舎を出ると、ループを回って杉の植林地に入っていく。

下り線が左側に揃い、複線になってまもなく、交差する林道を乗り越えるために最初の急坂が待ち受けていた。のけぞるような勾配をぐいぐい上るので、早くもラック式の威力を実感する。可動式の座席が、水平を保とうとして前傾するのもおもしろい。距離を所要時間で割った表定速度は毎分70m、時速にすると4.2kmだ。歩速並みのゆっくりしたペースだが、走りは着実で頼もしい。

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(左)交差する林道を急坂で乗り越える
(右)朝一番の試運転機が戻ってきた
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図2 奥祖谷観光モノレール周辺の1:25,000地形図
 

周囲はいつしか人工林から自然林に変わった。コナラ、イヌシデ、コシアブラなどと、樹種を教える名札がそこここに立ててある。ゆっくり観察する時間はないが、自然教室に来た気分だ。発車から約10分後、朝一番に出た試運転機とすれ違った。無事戻ってきたということは、この先の走行に障害がない証しだ。50mごとの標高値を記した札が、いつしか1000mを越えている。

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(左)沿線に樹種の名札
(右)50mごとの標高値を記した札も
 

往路の中盤では、小さな沢が右手に沿う。清水が勢いよく流れ落ち、水音が静寂の林にこだまする。何かの小屋を通り過ぎたところで、下り線が木々の間に消えていった。ここから頂上にかけて、大きなループ、すなわち環状線になっているのだ。

同じ線路でも単線になったとたん、心細さが募ってくるのは不思議だ。運行間隔からして280m四方には誰もいないはずだし、事実、先行している始発機も、最後まで姿を見かけることはなかった。それに乗っていた友人は、途中で鹿が走り去るのを目撃したそうだ。

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沢沿いに上る複線区間
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杉林の中で上下線が分かれる
 

地滑り跡にできたと思われる小さな沼地を通過。どこまで登るのだろう、とやや不安になった頃に、進行方向の視界が開けてきた。稜線に載り、少し上ったところが標高1380mの最高地点(下注)だ。地形的には、四国の屋根の一部をなす三嶺(さんれい)の、中腹に生じた肩の部分にあたる。時計を見ると9時15分、およそ30分かけて登りきったことになる。晴れた日にはこのあたりで東に剣山(つるぎさん)を望めると聞いたが、今日は霧が漂い、視界がきかなかった。

*注 モノレールのパンフレットに従い、1380mとしたが、地形図では、その付近に1385mの標高点が打たれている。

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(左)地滑り跡の沼地を通過
(右)最高地点付近は霧が漂う
 

復路は、下り一方かと思うとそうでもない。地形図の等高線でも読み取れるが、湿原のある小さな谷を巻いていく区間がある。勾配が落ち着き、少しほっとする数分間だ。しかしすぐに鵯(ひよどり)越えの逆落としのような急坂が復活し、上り線と合流する。

同じところをさっき上ってきたはずだが、下りのほうが傾斜感がはるかに強い。乗り場での注意を思い出して、手すりを握り、足を踏ん張った。ピニオンがラックレールとしっかり噛み合っているので、下りでもジェットコースターのような加速はしないから安心だ。

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復路で湿原のある谷を巻く
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(左)下りの急坂
(右)上りより傾斜感が強調される
 

この間に後発機と何度かすれ違う。手を降り返したりするうちに、孤独感はいつのまにか薄れていた。再び林道をまたいで右に曲がると、ゴールの駅舎が見えてくる。9時46分に無事帰着。

秘境奥祖谷の山中を行くこのモノレール、65分の乗車時間は子供連れには長すぎるという意見も目にする。確かに、長時間座席に固定される割には、気晴らしになる眺望も少ないから、レジャー向きとは言えないかもしれない。しかし、林野の植生や山岳地形に興味のある人なら、退屈している暇はないだろう。いわんや、学校で社会科の地図帳に架空の鉄道を落書きしていたような線路好きの私にとっては…。

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ゴールの駅舎が見えてきた
 

次回は、より小規模なモノレールと、温泉宿のケーブルカーを訪ねる。

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.17(2021年)に掲載した記事「祖谷渓の「鉄道」巡り」に加筆し、写真と地図を追加したものである。
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図徳島(昭和53年編集)、剣山(昭和53年編集)、岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2024年6月15日取得)を使用したものである。

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