典型地形

2023年12月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

侵食力の差によって、ある川が隣接する川の流れに介入し、そこから上の流域をまるごと奪い取ってしまう。分水界の移動を引き起こすこうした河川争奪地形の読み解きは、オセロゲームを観るような興味を呼び起こす。

2023年コンター旅の最終日に訪ねたのは、そのような地形の変化が実際に生じた場所だ。中国山地、山口・島根の県境付近にあり、当事者である川の名から「宇佐川・高津川の河川争奪」、あるいは地名から「宇佐郷(うさごう)の河川争奪」などと呼ばれている。

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河川争奪で生じた向峠(こうたお)の風隙(北東望)
 

後述するように、ここでは日本海に流れる高津川(たかつがわ)の流域に、瀬戸内海に注ぐ錦川の支流、宇佐川(うさがわ)が進出して次々と陣地を奪っていった。そのたびに奪った方の水量が増して侵食力が高まるため、奪われた川床との高低差は今や100m以上にもなる。

さらに、上流を失った旧 高津川の空谷を切り裂くようにして、支流のV字谷が横断しているのも珍しい。成立過程の複雑さと規模の大きさにおいて、ここは国内最大級の類例と言っても過言ではない。

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図1 宇佐川周辺の1:200,000地勢図
(左)1986(昭和61)年編集(右)1987(昭和62)年編集
 

中国地方では上根峠(かみねとうげ、下注)と並んで有名な典型地形だが、山中につき公共交通機関で行くのは難しいと思い込んでいた。ところがグーグルマップを見ていて、付近を通過する中国自動車道のパーキングエリア(PA)に、広島~益田(ますだ)間を走る高速バスの停留所があることに気づいた。

他方、宇佐川の谷底には、本数は少ないものの岩国市のコミュニティバスが運行されていて、以前、岩日北線(未成線)の「とことこトレイン」に乗った帰りに実際に乗車している。

*注 上根峠については「コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪」参照。

そこで、この二者を徒歩でつなごうというのが、今回の企画だ。歩く距離は約10km。ルート上には壮大な河川争奪跡だけでなく、繞谷(じょうこく)丘陵、水源池、さらには未成線跡とコンター流の見どころがてんこ盛りで、どんな景色が見られるのか期待に胸が躍る。

10月28日朝8時05分、広島駅新幹線口の高速バス乗り場に集合したのは、大出さんと私の2名。石見(いわみ)交通が運行する清流ライン「高津川号」益田行きは、駅前を発車すると、広島バスセンターでさらに客を拾った。それから長大な西風(せいふう)トンネルを抜け、広島道から中国道へと進む。

バスは太田川流域の山間部における交通機関の役割も果たしているようで、加計(かけ)、筒賀、吉和とSA・PAごとにこまめに停車していく。冠山トンネルを抜けて山口県に入った後の深谷(ふかたに)PAもその一つだ。

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(左)益田行高速バス、広島駅新幹線口にて
(右)深谷PAに到着
 

9時50分に到着。私たちは下車するが、バスもここで10分間休憩する。リュック姿で降りる客は珍しいのだろうか。運転手さんに「どこかへお出かけですか」と聞かれたので、慌てて「河川争奪の地形を見に来ました」と答えたものの、伝わったかどうかは自信がない。

このあたりは向峠(こうたお)という地名(下注)で、北側の山裾にその集落があり、前面に水田が広がっている。標高は390m前後。穏やかな山里に見えるが、東は宇佐川、西ではその名も深谷川(ふかたにがわ)の深い谷で切り取られているため、周囲から隔絶された天空の村だ(冒頭写真も参照)。

*注 行政的には、岩国市錦町宇佐郷の一部。

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山裾に広がる向峠の集落
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図2 1:25,000地形図にに歩いたルート(赤)等を加筆
深谷PA~水源公園
 

せっかく河川争奪地形を訪れるのだから、まずはそれが発生した地点、いわゆる争奪の肘(ひじ)を観察したいところだ。高津川と宇佐川の場合、それは向峠東(こうたおひがし)を横切る中国道の東側に、差し渡し1kmにわたって露出している。

しかし空中写真で見る限り、崖縁は森で覆われ、谷底を俯瞰するのは難しそうだ。何より歩く距離が2km追加になると、帰りのバスの時刻が迫ってくる。それで今回は、高速バスの車窓からざっと眺めることしかできなかった。

PAを出て北側に回ると、道の下に細い水路が走っていた。周りの谷が深く水が乏しいため、ここの水田を潤す水は、深谷川を4~5km遡った金山谷にある取水堰から用水路で引かれている。それがここに排水されているようだ。

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PAの北側を走る細い水路
(左)東(上流)方向(右)西方向
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集落から前面の水田を望む
中景の森の後ろに深谷川のV字谷がある
 

暖かい朝の日ざしが降り注ぐ中、集落を貫く県道16号六日市錦線を歩いた。道はいったん深谷川の上流方向に進むが、やがて左に回り込み、深谷大橋で谷を跨いでいく。橋の長さは99.5mだが、高さが約80mもあり、谷底をのぞき込むと思わず足がすくんだ。欄干に重ねるように高いネットが張られているのは、飛び降りを防ぐためらしい。橋のたもとには、いのちの電話の看板もあった。

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(左)深谷大橋
(右)案内板に河川争奪の説明が
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橋上から深谷川を見下ろす
 

深谷川は県境になっていて、橋を渡り終えれば島根県吉賀町(よしかちょう)だ。まもなく平地にとりつき、初見(はつみ)の集落に入る。左手遠方に、さっき通った向峠の家の屋根が、深谷の木立越しに望める。V字谷が形成される前は平面で地続きだったことがわかる。

道端に、年季の入ったバス停標識が立っていた。「六日市交通 上初見」(下注)とあるが、その下にうっすらと「国鉄バス 新田(しんた)」の文字が読み取れる。かつて国道187号経由で岩国と津和野・益田を結ぶ岩益線というバス路線があったから、その支線のようだ。

*注 吉賀町が六日市交通に委託しているコミュニティバス。

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深谷川は県境
(左)大橋東詰(右)西詰
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(左)上初見バス停標識には「国鉄バス 新田」の文字がうっすらと
(右)左手には深谷川の森が続く
 

しばらくのどかな村里を歩いていくうちに、左から中国道が近づいてきた。それをくぐった先にある水源公園のあずまやで、昼食休憩にする。手入れされていないうらぶれた園地だが、現在、高津川の水源とされているのが、ここにある大蛇ヶ池だ(下注)。湧水の池は大蛇が棲むには窮屈そうだったが、ほとりに生えている一本杉が樹高20m、根回り5mの巨木で、複雑な枝ぶりが神秘のオーラを放っている。

*注 地形図にあるとおり、池の上手にある星坂集落からも小川が流れており、池は水源の一つに過ぎない。

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高津川の水源、大蛇ヶ池
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風格のある一本杉、根元に大蛇ヶ池
 

公園を見下ろしている水源会館(郷土資料館)の前庭で、「河川争奪の復元図」を描いた説明板を見つけた。太古の高津川(以下、古高津川)がはるかに上流から流れてきていたことを明解に説明している。旧流路を示す砂礫の層があることも記されているが、欲を言えば、争奪を促した要因についても触れてほしいところだ。

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水源公園にある河川争奪の復元図
 

下記研究論文によると、それにはこの地域で北東~南西方向に走っている複数の断層が関係している。断層の継続的な活動によって、山地の北西側が隆起した。これにより、古高津川の中流部が持ち上げられるとともに、上流部では河川勾配が緩くなり、砂礫が堆積して河床が上昇した。

このことはまた、断層の反対側(南東側)にある宇佐川~錦川流域との高度差がより開くことを意味する。さらに、一帯の地層は風化した花崗岩であり、後に宇佐川の谷となるラインには、断層に伴う破砕帯が走っていた。

*注 山内一彦・白石健一郎「中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪」立命館地理学第22号, 2010, pp.39-5

こうした要因に促された河川争奪は、時代的にもエリア的にも復元図の絵解きよりはるかに広範囲に及ぶものだったようだ。その鍵となるのは同 公園の上手、星坂集落の南に見られる風隙だ。これも争奪の肘の一つだが、なぜか南に開いている。これはもとの川(被争奪河川)が、現在の宇佐川とは反対に南から北に向けて流れていたことを示唆する。

争奪過程の全体像は、以下の通り。なお下図は、同論文の添付図(p.53 第11図)をもとに描いたものだ。

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宇佐川の河川争奪過程 1~3
矢印は流路の方向を表す
 

かつて現 宇佐川の流域のほとんどは、古高津川の上流域だった。そして今とは逆方向に、深川南方から須川や星坂を通り、現 水源公園付近で古高津川に合流する川(以下、古南宇佐川)があった【上図1】。

8~4万年前に、錦川支流(=現 宇佐川)が南から浸食して、まずこの古南宇佐川の上流を奪った【上図2】。

新たな水流を得て侵食力を高めた宇佐川は、断層破砕帯に沿って谷頭浸食を進めていく。そして古南宇佐川の全流域を手中に収め、星坂南方に達した。星坂に風隙が生じたのは、この時点だ【上図3】。

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宇佐川の河川争奪過程 4~6
 

一方、現在、東から宇佐川に注いでいる道立野川(みちだちのがわ)、後川(うしろがわ)、相波川(あいなみがわ)などの支流は、かつて宇佐郷で一本の川(以下、古宇佐郷川)となり、現 深谷川が流下しているルートを逆流して古高津川に合流していた。4万5千~3万5千年前ごろ、宇佐川は宇佐郷でこれを奪った【上図4】。

約3万年前、宇佐川は向峠東方に達し、ついに古高津川本流を奪う【上図5】。

これにより古高津川は向峠で水流を失い(無能河川)、深谷川が運んできた砂礫が堆積して扇状地を形成した。1万~3千年前、古高津川の谷が大雨で湛水した際、深谷川から古宇佐郷川の旧流路を通って宇佐川へ溢流が発生した。これが繰り返され、深谷川から宇佐川への流れが定着した。

両者には相当な落差がある。初期は滝で宇佐川の谷に落ちていただろうが、下刻作用により次第にV字谷が発達していく【上図6】。こうして現在の水系が完成した。

午後は、水源公園から星坂を経由して宇佐川の谷へ降りるが、その前に、近くにある繞谷丘陵を見に行った。東西150m×南北120m、高さ30mほどの小山だが、コンパクトなだけにかえって谷をめぐらした形状がよくわかる。地質図によると、山体は東側の山と同じタイプの花崗岩なので、地形的にそちらから切り離されたものだろう。

山上に祀られている妙見神社まで、鳥居の立つ南麓から急な石段がついていた。蜘蛛の巣を払いながらなんとか上りきったが、終盤の参道が地すべりで崩壊していて、残念ながら社にはたどり着けなかった。

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妙見神社の繞谷丘陵
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図3 同 水源公園~上須川
 

星坂の集落へ通じている道は、県道120号須川吉賀線だ。しかし普通車がやっとの狭い道幅で、舗装されてはいるものの、雰囲気は林道に近い。左の谷間は水田だったのだろうが、もはや背の高い雑草が生い茂っている。

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(左)林道のような県道120号
(右)星坂の集落を抜ける
 

集落を抜けると道はいっとき上り坂になり、まもなく島根・山口県境の峠に達した。大蛇ヶ池のほとりで見た「従是西(これよりにし)津和野領」の境界石は、もともとここに立っていたものだ。

この星坂峠を境に、風景は一変する。それまで山に囲まれた穏やかな平地だったのが、突然宇佐川の深い谷間を見下ろす山腹に躍り出るのだ。谷底との高度差は180mにもなる。先述の通りこの風隙は争奪の肘で、勢いを得た川の途方もない浸食力に圧倒される。

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(左)星坂峠への上り坂
(右)峠から再び山口県に
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もと星坂峠にあった境界石
現在は大蛇ヶ池のほとりに立つ
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景色は一変、宇佐川の深い谷間に
 

急斜面を覆う木々の間から、下の谷を走る国道434号がちらちら覗いている。県道はくねくね曲がりながら約2.5kmかけてそこまで降りていくのだが、下り坂なので、二人でよもやま話をしているうちに、早や国道が近づいてきた。

国道に出て宇佐川を渡ると、上須川(かみすがわ)の集落がある。立派なコンクリートの高架橋が集落のある谷間を斜めに横切っているのが見える。未成線、岩日北(がんにちきた)線の第4宇佐川橋梁だ。

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谷壁を降りていくか細い県道
(左)星坂峠を振り返る(右)下流方向
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上須川集落
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谷を横切る第4宇佐川橋梁
 

岩日というのは、山陽本線の岩国と山口線の日原(にちはら)のことで、岩日線はこの間を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたものだ。このうち、錦町(にしきちょう)までの南部区間が旧 国鉄岩日線(下注)で、1960~63年に開業し、その後、第三セクターの錦川鉄道になっている。一方、北部区間は岩日北線と呼ばれ、島根県吉賀町の六日市(むいかいち)まで建設が進められていた。路盤はほぼ完成していたが、国鉄再建法の施行により工事は凍結され、惜しくも未成線となってしまった。

*注 旧国鉄岩日線は、正式には岩徳線川西~錦町間32.7kmだが、列車は岩国から直通していた。錦川鉄道の列車も同じ運行形態をとっている。

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現在の錦町駅
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未成線跡を走る「とことこトレイン」
雙津峡温泉駅にて(別の日に撮影)
 

錦町駅と雙津峡(そうづきょう)温泉の間では、2002年からこの路盤を活用して遊覧車両「とことこトレイン」が運行されているが、区間外のこのあたりは遊休施設の状態だ。集落の南で敷地に上ってみると、とことこトレインの走行路と同じように、路盤はきちんと舗装されていた。

高根口駅予定地から宇佐川を跨ぐ第4橋梁までは歩いていけたが、対岸で濃い藪に行く手を遮られてしまう。岩日北線はここから長さ4679mの六日市トンネルで針路を西に変え、高津川流域の六日市に出ていくはすだった。空中写真を見る限り、向こう側の出口でも立派な未成線跡が1kmほど残されているようだ(下注)。

*注 六日市駅予定地は、むいかいち温泉ゆ・ら・らの敷地に転用されている。

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(左)上須川の岩日北線跡
(右)国道を越える第4宇佐川橋梁
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(左)橋梁から上須川方向を振り返る
(右)対岸は濃い藪で六日市トンネルは見えず
 

上須川バス停で、13時58分発の路線バスを待つ。時刻通りにやってきたのはマイクロバスで、他に客はいないから、タクシーのようなものだ。とことこトレインに乗るために途中の停留所で降りた大出さんを見送って、私はそのまま錦町駅まで乗り通した。

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(左)錦町駅へ行くコミュニティバス
(右)上須川バス停の待合所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、山口(昭和61年編集)および地理院地図(2023年12月1日取得)を使用したものである。

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2023年11月 8日 (水)

コンターサークル地図の旅-高麗巾着田

昨日とは打って変わってよく晴れた2023年9月24日、コンター旅の2日目は埼玉県に場所を移して、高麗巾着田(こまきんちゃくだ)とその周辺を歩いた。秋の空気が入って、風がことさら涼しく感じられる。

巾着田というのは、蛇行して流れる高麗川の滑走斜面(下注)に広がる田んぼのことだ。平面形は確かに巾着袋の形をしている。しかし、有名なのはその地形よりも、川沿いを埋め尽くすヒガンバナの大群落のほうだ。「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の里」として、花が見ごろとなる秋の初めには、多くの行楽客で賑わう。

*注 川の湾曲の内側に生じた緩い傾斜面のこと。ちなみに、和歌山県有田川町の通称「あらぎ島」も、小規模だが同様の景観で知られる。

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高麗巾着田のヒガンバナ群落
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図1 巾着田周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

朝、所沢から西武池袋線で、集合場所の高麗(こま)駅へ向かった。二つ手前の飯能(はんのう)駅で乗り継いだ西武秩父行きの電車には、リュックを背負った元気な中高年がたくさん乗り込み、その大半が高麗で下車した。私も含めて目的とするところはみな同じらしい。

天気が冴えなかった昨日の反動もあってか、駅前からしてすでに、何かのイベント会場かと疑うほどの混みようだ。今日も、参加者は大出さんと私の2名。いつもどおり歩くルートの地形図を用意してきたが、駅前から人波がぞろぞろと続いているので、あえて地図を開く必要もなかった。

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高麗駅で降りる行楽客
 

国道299号を横断し、集落の中の小道を降りていくと、ほどなく県道15号川越日高線の鹿台橋のたもとに出る。下を流れる高麗川の穏やかな川面に心を和ませながらこれを渡り、また右の小道へ。集落を抜けたところに、巾着田の案内板が立っていた。正面に見える田んぼはもう稲刈りを終え、伸び放題の稲孫(ひつじ)が風にそよいでいる。

戦後間もないころの地形図を見ると、巾着田は文字通り一面が水田だ(下図参照)。しかし、現在の案内板の地図では、花畑や牧場、さらには臨時駐車場になるグラウンドなどが幅を利かせていて、水田の面積は比べようもなく縮小している。

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(左)鹿台橋から見る高麗川
(右)稲孫が伸び放題の田んぼ
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巾着田の案内板
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図3 巾着田周辺の旧版地形図
1949(昭和24)年修正測量
 

人の流れは、河原の遊歩道へと向かっていた。木陰に早くもヒガンバナがちらほら見られる。群落のあるのはさらに先の、川筋が南に膨らんだ区域だが、見物客が押し寄せるこの時期は有料ゾーンになっている。ゲートで500円を払って、中へ進んだ。

巾着田を縁取る河畔林の緑が帯状に広がり、その足もとが真っ赤な絨毯で覆われている。田んぼのあぜ道などで見かけても、気にも止めないありふれた花だが、これだけまとまると圧巻だ(冒頭写真も参照)。記念写真を撮るために立ち止まる人も多く、遊歩道はところどころで渋滞している。

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河畔林の緑の風景に補色の赤が映える
 

途中で、川を横断している小橋が見えた。水位が上がると沈んでしまう沈下橋で、ドレミファ橋と呼ばれている。有料ゾーンで唯一川べりに出られるスポットだが、対岸に上がる道が閉鎖されているので、欄干もない狭い橋の上は、行く人戻る人が入り乱れる。

遊歩道に戻ってまた道なりに進むうち、あることに気づいた。赤の絨毯があるのはほとんど林の日陰で、日当たりのいい場所には咲いていないのだ。ヒガンバナは日陰を好む花かと早合点したが、そうではなく、日なたの株はまだ蕾の状態らしい。

ヒガンバナの花が開く9月下旬というのは、例年なら太平洋高気圧が後退し、大陸からの移動性高気圧に覆われ始める時期だ。空気が乾燥し、朝晩はめっきり涼しくなる。ところが今年は季節の歩みが遅く、残暑が長引いた。県道沿いの告知板に「三分咲き」と記されているとおり、見ごろが後ろ倒しになっているようだ。

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(左)川を横断するドレミファ橋
(右)日なたはまだ蕾で、全体でも三分咲き
 

ともあれ、予定していたメインタスクは無事完了した。ただ、巾着田の地形は直径500mほどの広さがあり、片道歩いただけではあまり実感が湧かなかったのも確かだ。そこでこの後は、近くの日和田山(ひわださん)に上ろうと思う。北西に位置する標高305mの山で、事前に入手したハイキングマップによれば、金刀比羅(ことひら)神社から高麗の里と巾着田が箱庭のように一望できるという。

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高麗川の河原から望む日和田山(左側のピーク)
 

県道の高麗本郷交差点から北に入り、日和田山登山口の道標に従って山手へ上る。奥武蔵自然歩道のルートにもなっているので、道はしっかりついているし、何よりハイカーと思しき人たちが次々と上がっていく。

最初は緩めの坂が続く一本道だ。金刀比羅神社の一の鳥居をくぐると、男坂、女坂の分岐点がある。前者は険しい直登ルート、後者は山腹を迂回する分、より歩きやすい山道だ。男坂方面には、見晴らしの丘という名の寄り道スポットがあるので、まずはそれを目指した。そこはベンチが置かれ、休憩をとるにはよかったが、木々が育って視界が狭く、残念ながら見晴らしは看板倒れだった。

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(左)一の鳥居
(右)男坂、女坂の分岐点
 

昼食だけとってさらに進むと、急な岩場を上ってきた男坂の本道と合流する。まもなく見上げる大岩の上に、華奢な二の鳥居が現れた。すでに多くのハイカーが集まってきている。ここで後ろを振り返ると180度のパノラマが開けるのだ。

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(左)二の鳥居
(右)180度のパノラマが開ける
 

正面に、河原と河畔林に取り巻かれた巾着田がある。北からの眺めなので、手前が巾着の絞った口の部分だ。あれだけいた来訪者は林の蔭で目立たないが、露天の駐車場はすっかり満車になっている。

右側に目を移すと、西武線の線路が見える。奥には秩父山地の青い山並みが連なり、背後にうっすらと浮かぶシルエットは富士山のようだ。一方、左側は関東平野で、遠くに都内の高層ビル群やスカイツリーも見える。期待以上にいい眺めだ。満足したので山頂までは行かず、神社の小さな社殿にお詣りしてから、女坂経由で山を下りた。

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二の鳥居から巾着田を望む
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秩父山地を望む
右のピークは大岳山、左に富士山のシルエットも
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都心方面を望む
 

きょうのゴールは、八高線と川越線が接続するJR高麗川駅なので、高麗川左岸の段丘沿いに東へ向かった。カワセミ街道と呼ばれる日高市道幹線2号が通っているが、歩道がなく、集落を結ぶ旧道をたどるのが安全だ。日差しが降り注いで、午後は晩夏の暑気が戻ってきた。

この周辺は、7世紀の高句麗(下注)滅亡に際し、難を避けて渡来していた人々を、716(霊亀2)年に関東各地から移住させたという土地だ。明治中期までは高麗郡と称し、渡来人ゆかりの寺社が今もある。

*注 10~14世紀に存在した高麗(こうらい)国とは別。日本に残る高麗、狛などの地名は高句麗からの渡来人に由来する。

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カワセミ街道沿いの旧道を歩く
 

20分弱歩くと、その一つ、聖天院(しょうでんいん)の前に出た。案内板によれば、高麗郡を治めた高麗王若光(じゃっこう)らの菩提寺として創建されたものだ。堂々とした二層の山門がまず目を引くが、浅草寺と同じような雷門の大提灯が下がっている。両脇の立像も風神と雷神だ。

山門の風格に引き寄せられて、拝観料を払い、入ってみた。石段で本堂前の広場に上ると、のどかな高麗川の谷が見晴らせる。丘の地形を巧みに利用した広い境内だが、伽藍は案外新しいものだった。

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聖天院の山門
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同 全景
 

続いて近くにある高麗神社へ。ここも祭神は高麗王若光で、社殿の奥には代々その神職を務めてきた高麗家の住宅も保存されている。休日とはいえ、参拝客が多いのに感心したが、巾着田行きの臨時シャトルバスの案内看板を見つけて納得した。神社の駐車場も、渋滞緩和のためのパークアンドライドに使われているのだ。高麗家住宅でも何やら音楽イベントが開かれていたから、巾着田人気は、周辺地域の観光活性化にも寄与しているようだ。

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高麗神社
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(左)同 本殿
(右)重文指定の高麗家住宅
 

神社を後にして、出世橋で高麗川の右岸へ渡る。JR駅へ直行する大出さんと別れ、私はかつて高麗川駅から出ていた太平洋セメント工場の貨物線跡へ寄り道した。

八高線と川越線にはさまれた地点から市役所通り(日高市道幹線6号)と交わるまでの700m弱が、アスファルト舗装のうえ、「ポッポ道」の名で遊歩道化されている。短距離ながら、踏切の警報機が2か所、現役さながらに立っているほか、電柱や、舗装に埋め込まれたレールなど鉄道時代の小道具が点々と残る。終点近くでは、武甲鉱業の石灰石を運ぶベルトコンベアーが地中に埋まっている直線道も交差していて、たどってみたいところだが、時間がなかった。

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ポッポ道の遺構
(左)八高線近くの踏切
(右)カーブする廃線跡と通信線電柱
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(左)高麗川中学校前の踏切
(右)舗装に埋め込まれた線路
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市役所通りに立つ案内板
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)、2万5千分の1地形図飯能(昭和24年修正測量)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高麗巾着田 http://www.kinchakuda.com/

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2023年10月31日 (火)

コンターサークル地図の旅-宮ヶ瀬ダムとその下流域

2023年コンターサークル-s 秋の旅1日目は、昨秋企画しながら台風の接近で実施できなかった宮ヶ瀬ダムとその下流域の見どころ巡りにリトライした。

9月23日土曜日の朝、小田原から、小田急の新宿行急行で集合場所の本厚木駅へ向かう。今回も雲が低く垂れこめ、今にも降りそうな空模様だ。雨具は用意してきたが、9kmほど歩くので、できれば使わずにおきたいが…。

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宮ヶ瀬ダムとインクライン

本厚木駅改札前に集合したのは、大出さんと私の2名。駅前で9時17分発の神奈中バス、野外センター経由半原(はんばら)行を待つ。沿線に大学があるらしく、若者たちが長い列を作っている。

ダムは約20km上流にあり、最寄りの停留所まで40分ほどバスに揺られる必要がある。駅を出発したときには立ち客も多かったが、さすがに終点間際の愛川大橋まで乗ったのは私たちだけだった。この天気ではハイキング客の出足も鈍いだろう。

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愛川大橋バス停
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図1 宮ヶ瀬ダム周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
 

愛川大橋は、国道412号が中津川を渡る橋だ。ここからは、川沿いの狭い一本道を歩いていく。深い谷間に入っていくと、まず石小屋ダムという副ダムが見えてくる。堤高34.5m、堤頂長87m、小ぶりの重力式ダムだ。宮ヶ瀬ダムのすぐ下流で、流量調節とともに小規模の発電をしている。欄干の上を数匹のサルが渡っていくので、その先に目をやると、対岸の岩がサル山よろしく、群れの休憩場所になっていた。

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石小屋ダム
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石小屋ダムのサルたち
 

本命の宮ヶ瀬ダムは谷の奥ですでに半身を覗かせているが、少し歩いて下路アーチの新石小屋橋まで来ると、いよいよ圧倒的な全貌があらわになる。2001年に完成したこのダムも重力式だが、堤高が156m、堤頂長が375m、総貯水量は1億9300万立方mと、はるかに巨大だ。堤高では国内第6位(下注)、総貯水量でも同20位台前半の規模だという。

*注 秩父の浦山ダム、広島・加計の温井ダムも156mで、6位タイ。なお、重力式コンクリートダムでは奥只見ダムに次いで、浦山ダムとともに第2位。

道は橋を渡って、ダム直下まで続いている。以前、名物の観光放流(下注)を見に来たときは、上天気でけっこうな人出だったが、きょうは幼稚園児の遠足集団が来ているだけで、一般客は数えるほどだ。橋の方から、蒸気機関車を模したロードトレインが入ってきた。クルマで来た人を、駐車場のあるあいかわ公園から運んでくるイタリア製の遊覧車両だが、こちらも閑散としている。

*注 4~11月の特定日に行われる人気イベント。1日2回、ダムの水が6分間放流される。

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新石小屋橋から仰ぎ見る宮ヶ瀬ダム
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観光放流を見に集まる人々(別の日に撮影)
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(左)あいかわ公園から来るロードトレイン
(右)イタリアのメーカー銘板
 

ダムのもう一つの名物は、堰堤横の斜面を上下しているインクラインだ。もともとダムの建設工事で、コンクリートなどの資材を積んだダンプトラックを基地から作業現場まで下ろすために設けられた装置だが、ダム完成後、客室を取り付けて観光用に開放された。もちろん鉄道事業法に基づく索道ではなく、ダムの付属施設という位置づけだ。

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インクラインの車両
 

ダムの頂部、いわゆる天端(てんぱ)に上る目的なら、堰堤内部にある垂直エレベーターも利用でき、しかも無料だ。しかしこれは外が見えず、おもしろくない。乗り鉄の私としては、片道300円を払ってもインクラインに乗りたいと思う。

ウェブサイト(下注)によると、この施設は、山麓駅~山頂駅間全長216m、高低差121m、傾斜角度30~35度、片道所要約4分。インクライン(incline)とは傾斜鉄道の意味だが、ケーブルで結ばれた2台の車両が釣瓶のように上下するので、実態はケーブルカーと変わりない。車両はゴムタイヤを履いていて、H鋼を横置きした形状の走路を上下している。全線複線のため、中間部の行き違い設備はない。

*注 公益財団法人宮ヶ瀬ダム周辺振興財団「ぐるり宮ヶ瀬湖」https://www.miyagase.or.jp/

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(左)ダム下の山麓駅
(右)天端に面した山頂駅
 

6~10分間隔で頻繁に運行されているから、ほとんど待つ必要はなかった(下注)。山麓駅舎の2階に上がって乗り込むと、車内に階段状の2人掛け簡易シートが並んでいる。妻面の窓隅に「東京索道株式会社、平成10年製造」の銘板があった。

*注 運行時間帯は10:00~16:45。ただし平日は12:10~13:15の間、運行が中断される。また冬季12~3月は運行時間帯が短縮される。

走行する軌道は、ダムの着岩部のすぐ横に設置されている。そのため、動き始めるとまるで堰堤の法面を引き上げられていくような感覚だ。下り車両とすれ違った後、いったん勾配が緩む踊り場を通過した。山麓駅から仰いだとき、山頂駅を出た車両がなかなか近づいてこないように見えたのは、この勾配の変化のせいだ。

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堰堤の法面に沿って上る
 

到着した山頂駅は、天端と同じレベルにある。幅広い天端道路からダム湖を眺めたが、周囲の山々に雲が降りてきていて、幽玄な雰囲気だ。一方、下流側はインクラインの動くようすが上から下まで見渡せるので、つい長居をしてしまう。ちなみに、天端の中央付近にある展望塔にも上ってみたが、ガラス越しの眺めで期待外れだった。

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天端道路から発着のようすを観察
 

向かいにある広報施設、水とエネルギー館でダム関連の展示資料を見学した後、1階奥の「レイクサイドカフェ」で、少し早い昼食にする。ダムサイトに来たからには、ダムカレーを試さなくてはいけない。メインメニューの宮ヶ瀬ダム放流カレーは、ちょっとしたアイデアものだ。ライスでカレーソースを堰き止めてあるだけでなく、ライスの底に埋めてある栓代わりのウインナーソーセージを引き抜くと、ソースの放流が始まる。そのソースもスパイスがよく効いておいしかった。

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宮ヶ瀬ダム放流カレー
野菜をカレーソース側に移してから、底にあるウインナーの栓を抜く
 

名物をいろいろと堪能したので、12時頃から再び歩き始めた。天端道路を伝って対岸へ。丘を造成したあいかわ公園の中を管理センター前へ下り、さらに階段道で段丘下まで降りた。それから県道54号を中津川の下流へ向かう。

立派なワーレントラスの日向橋(ひなたばし)を渡ると、朝乗ってきたバスの終点、半原バスターミナルの横に出る。半原の集落を通り抜け、脇道を直進した突き当りの山ぎわに、次の見どころ、横須賀水道の旧トンネルがあった。

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(左)日向橋
(右)半原バスターミナル
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(左)県道から直進する脇道
  第一トンネル前から後方を撮影
(右)煉瓦積みの第一トンネル上流側ポータル
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ここでいう横須賀水道とは、軍港として発展した横須賀の水不足を解消するために造られた軍港水道半原系統のことだ。中津川から取水して1918(大正7)年に通水、1921年に全線が完成している。約90年使われ続けたが、2007年に取水が停止され、廃止となった。台地の上を直進していくルートは多くが道路として残り、「横須賀水道みち」の名で呼ばれている。

その最上流部に当たる半原から馬渡橋(まわたりばし)までの間に、蛇行する谷をショートカットするためのトンネルが計3本掘られた。一つ目が今見ているものだ。

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(左)第一トンネル内部
(右)同 下流側ポータル
 

レンガ積みのポータルは健在だったが、フェンスで塞がれて、通り抜けはもはや不可能だ。大出さんが、県道から分かれた脇道が逆勾配になっていることを指摘する。水道は自然流下だったはずだから、県道のところはサイホンか、そうでなければ築堤になっていたはずだ。

県道を迂回して反対側に回った。この第一トンネルと次の第二トンネルの間は、カーブした築堤が残っていて、小道として使われている。暗渠の中を覗くと、さびついた管路が横断しているのが見えた。第二トンネルも上流側が同じく閉鎖され、下流側のポータルは草ぼうぼうで近づくことすらできない。

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(左)第一、第二トンネル間の築堤道
(右)暗渠の中に管路が覗く
 

県道との再合流地点に、横須賀市水道局と書かれた基準点標識が埋まっていた。水道ゆかりのもので、しっかり探せばほかにも見つかるかもしれない。第三のトンネルは、残念ながら県道の愛川トンネル(長さ146m、1993年完成)に改築されてしまった。2車線幅のため、水道時代の面影は消失している。

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(左)横須賀市水道局の基準点標識
(右)県道愛川トンネルの下流側
 

このあと水道は、プラットトラスの道路橋だった旧 馬渡橋で、中津川を横断していた。そのたもとに、橋材と送水管の断片を組み合わせたモニュメントが設置されている。真新しいもので、銘板には令和5年8月とある。ただ、仮止めテープがついたままだったので、まだ正式に除幕されていないのかもしれない。

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馬渡橋たもとの旧橋モニュメント
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モニュメントの説明板
 

橋の南側でいったん県道をはずれ、坂を上って愛川中学校のある高台へ移動した。というのも、田代の繞谷(じょうこく)丘陵を俯瞰したかったからだ。

堀淳一さんが『地図の風景 関東編 I 東京・神奈川』(そしえて、1980年)の一節で、「川のつくった半円劇場」と紹介していた地形で、地形図で「残草(ざるそう)」の文字がかかっている小山がそれだ。その北から東にかけて見られる半円状の平地は、中津川のかつての曲流跡で、後に川の流路が西側で短絡してしまったため、空谷となって残された。

高台の斜面に沿う道を歩いていくと、家並みが途切れて曲流跡が見晴らせる場所があった。『地図の風景』に掲載された写真とほぼ同じアングルで、堀さんもここから眺めたのだろう。曲流跡にもすっかり家が建て込んでいるが、背後にあるこんもりした森が繞谷丘陵の形をなぞっているのが見て取れる。

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田代の繞谷丘陵(写真中景の森)
 

坂を下りてその麓を通り、田代小学校から再び県道に出ると、「水道みち」と刻まれた碑が立っていた。横須賀までなお40~50kmの距離があるが、私たちの水道みち追跡はここが終点だ。

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田代の水道みち碑
 

最後に、中津川に架かる平山橋を訪れた。1926年に完成した長さ112.7mの3連プラットトラス橋で、登録有形文化財になっている。下流側に平山大橋が開通してからはクルマの通行が遮断され、現在は自転車・歩行者専用だ。さっき渡った日向橋も1930年の完成なので、造られた時代はさほど変わらない。しかし、がっしりした構造の日向橋とは対照的に、この橋には華奢で優美な雰囲気がある。

さて、時刻は14時になろうとしている。ダムから延々歩いてきたが、幸いにも雨に遭わずに済んだ。平山大橋のたもとにある田代バス停を、1時間に1本しかないバスが間もなく通る。これをつかまえて本厚木駅に戻ることにしよう。

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平山橋
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平山橋と中津川
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
宮ヶ瀬ダム https://www.ktr.mlit.go.jp/sagami/
神奈川県立あいかわ公園 http://www.aikawa-park.jp/

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2023年6月 9日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

新幹線の延伸に伴って、ほとんど第三セクター路線になってしまいそうな北陸本線だが、今ある複線電化の立派な施設設備は、主に国鉄時代の1950~60年代に整備されたものだ。

このとき、各所で曲線や勾配の多い旧線が放棄され、新設ルートへの切り替えが実施された。中でも大規模なものが、ループ線や北陸トンネルが建設された木ノ本~敦賀~今庄間と、地下駅のある頸城(くびき)トンネルで知られる糸魚川~直江津間だ。

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旧線跡の自転車道からの眺め
有間川駅西方から東望
 

後者では、旧線は背後に迫る山地や段丘を避けて、海岸を走っていた。そのため、線形の悪さや単線の制約はもとより、有数の地すべり地帯だったことから、運行の安全性にも懸念があった。そこで1969(昭和44)年10月のダイヤ改正に合わせて、抜本的な線路改良が行われた。糸魚川の2駅(当時)先の浦本から直江津の間では、線路は山地を貫くように通され、長さ11,353mの頸城トンネルを筆頭に、大小のトンネルが連続している。

一方、列車が走らなくなった旧線跡は、その大半が全長32kmに及ぶ長距離自転車道の建設に利用された。「久比岐(くびき)自転車道」と呼ばれるこのルート(下注)は、直江津の西4kmにある虫生岩戸(むしゅういわと)地内から糸魚川市の早川橋の手前に至るもので、終始日本海に沿うサイクリングルートとして人気が高い。

*注 正式名は、新潟県道542号上越糸魚川自転車道線。

2023年5月21日、糸魚川を拠点にしたコンター旅の2日目は、この自転車道をレンタサイクルでたどりながら、鉄道の痕跡を探すとともに、列車の車窓から失われてしまった海辺の風景を楽しみたいと思う。

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旧線跡の自転車道が鳥ヶ首岬へ向かう
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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1936(昭和11)年修正 (右)1968(昭和43)年編集

参加したのは、昨日と同じく大出、中西、山本、私の4名。9時30分に糸魚川駅日本海口(北口)の自転車店に集合して、7段変速のクロスバイクを借りた。今朝は晴れて、さわやかな西風が吹いている。いいサイクリング日和になりそうだ。

本日の行程はまず、糸魚川駅から直江津の一つ手前の谷浜(たにはま)駅まで、列車に自転車を載せて移動する。そこからペダルを漕いで、糸魚川に戻ってくるつもりだ。

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久比岐自転車道を走ったレンタサイクル
 

新潟県内の旧 北陸本線は、三セク転換で「えちごトキめき鉄道」(以下、トキ鉄)の路線になっている。ふつう、列車で自転車を運ぶには、あらかじめ分解するか折り畳んで、輪行袋と呼ばれる専用の袋に入れなくてはならない。ところが、この鉄道では「サイクルトレイン」といって、乗客の少ない日中の時間帯に限り、そのまま列車に積み込めるサービスを実施しているのだ。これが普通運賃と290円の手回り品料金で済むというのもうれしい。

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谷浜までの乗車券と手回り品切符
 

駅の窓口で、谷浜までの乗車券と手回り品切符(区間等は手書き)を発行してもらい、自転車を押して改札を入った。9時59分発の列車は単行(1両)だ(下注)。一般車両なので、自転車を置くスペースは特に確保されていない。1台ならともかく、4台だと見た目もかさばる。たまたま降りる一つ手前の駅までホームはずっと左側なので、「自転車は右の乗降扉に寄せて置いてください」と、運転士さんから適切な指示があった。

*注 直江津方面の列車でサイクルトレインとして利用できるのは、これが始発になる。

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(左)糸魚川駅に入ってきた単行気動車
(右)列車に載せた自転車(もう1台は後ろの扉に)
 

長いトンネルをいくつも抜けて、10時35分に谷浜駅に到着した。直江津方面の列車は海側の島式ホームに着くが、駅舎は山側だ。無人駅で、リフトのような気の利いた設備はないので、自転車をかついで跨線橋を渡った。

直江津まで行かず、ここをスタート地点にしたのは、谷浜以東の旧線跡が郷津(ごうつ)トンネルを含めて国道に上書きされてしまい、痕跡が残っていないからだ(下注)。また、自転車道も虫生岩戸から谷浜までは専用道ではなく、国道の海側の歩道を利用している。

*注 旧線には郷津駅があったが、新線上に移されることなく廃止された。現在線はこの間を長さ3105mの湯殿トンネルで通過している。

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谷浜駅到着
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図2 1:25,000地形図に自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
直江津~郷津間
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図3 同 谷浜~有間川間
自転車道は県道のため、黄色で着色されている
 

ひっそりとした駅前を10時50分ごろ出発した。初めは線路の山側の一般道を走り、途中で線路下のカルバートを通って自転車道に出る。ほどなく行く手に旧 長浜トンネルが見えてきた。谷浜駅の前後は旧線のまま(腹付け線増)なので、このあたりから単独の廃線跡になるはずだ。

自転車道区間にはこうしたかつての鉄道トンネルが8本あるが、どれもポータルの前に、名称、長さ、通過時間を記した標識が立てられている(下注)。それによれば、長浜トンネルは区間最長の467m、通過時間は2分だ。内部がカーブしていて出口が見えないが、照明設備は完備している。この自転車のヘッドライトも自動点灯式ではあるが、トンネルが明るければより安全に走れるというものだ。

*注 標識はトンネルの両側に立っているが、旧 長浜トンネルだけは直江津側がなかった。

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長浜トンネル
(左)長さと通過時間を記した標識が立つ(糸魚川方)
(右)内部は照明つき
 

有間川を渡る地点で、自転車道は廃線跡から横にそれる。それで、傍らに旧線のレンガ橋台が残っていた。ここに限らず、鉄道時代の橋桁はほとんど転用されなかったようで、このように自転車道の架橋位置をずらすか、またはコンクリート桁で置き換えられている。

有間川駅に寄り道した。この駅も旧線時代のままだ。防波堤に沿う国道より一段高いので、駅前に立つと海がすっきりと見晴らせる。1日3往復しかない貨物列車を待ってみたが、いっこうに現れなかった。まだ一駅しか進んでいないので、諦めて先を急ぐ。

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(左)有間川に残る橋台
(右)海を見晴らす有間川駅
 

駅のすぐ先で、「トキ鉄」の線路は長さ3,601mの名立トンネルに吸い込まれていき、自転車道が再び廃線跡に載るようになる。こちらも青木坂トンネル(長さ321m)、乳母岳トンネル(同 463m)と立て続けにトンネルを抜ける。

段丘崖の裾に沿って進んでいくと、小さな滝がいくつも掛かっていた。海側には国道が並行しているが、自転車道はそれより高い位置を行く。東の方角、海の向こうにかすむ整ったシルエットは米山(よねやま)だろうか。波穏やかな大海原と弓なりに広がる海岸線、この開放的なパノラマを遮るものは何もない。

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(左)青木坂トンネル
(右)乳母岳トンネル(いずれも糸魚川方)
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段丘崖に小さな滝が掛かる
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海の向こうに米山のシルエット
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
有間川~名立間
 

自転車道の最北地点、鳥ヶ首岬の短いトンネルを通過した。針路は南西に変わり、まもなく名立(なだち)の町に入っていく。山側にそびえる長い崖線が目を引くが、これは1751年に発生した地震に伴う地すべりの跡だ。400人以上が巻き込まれて亡くなる大災害だったことから、「名立崩れ」として後世に伝えられている。

地形図にも、並行する2列の崖記号と、その海側に崩土で埋まった緩斜面が描かれている。こうした崖と緩斜面の組み合わせは、内陸部にも多数見出せ、有史以前から一帯で地すべりがしばしば発生していたことが知れる。

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(左)鳥ヶ首岬東側の覆道、奥に見えるのは岬のトンネル(直江津方)
(右)短いトンネルで鳥ヶ首岬を回る(糸魚川方)
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名立崩れの地すべり跡
 

「トキ鉄」の現 名立駅は、海岸から800m内陸の、名立トンネルと頸城トンネルに挟まれた浅い谷間に設置されている。それに対して、旧 名立駅は海沿いの町の北端にあったが、町工場などに転用されて痕跡は残っていないようだ。

出発が遅かったから、早くもお昼だ。近くにある道の駅「うみてらす名立」まで自転車を走らせて、フードコートで海の幸の昼食をとった。旧線跡の下流側に架けられた専用橋で名立川を渡ると、自転車道は再び線路跡につく。海岸に沿って大抜(おおぬき)トンネル(同 391m)を通過し、市界を越えて上越市から糸魚川市に入った。

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(左)大抜トンネル(糸魚川方)
(右)浜徳合の徳合川に残る橋台(糸魚川方)
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市界を越える
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
名立~筒石間
 

レンガの橋台と続きの築堤が残る浜徳合(はまとくあい)を過ぎ、筒石の町裏では、崖ぎわの15mほどある高みを走る。右側の擁壁の縁に、345 1/2kmのキロポストが残っていた。距離標としては、おそらく沿線で唯一のものだろう。段丘を切り込んで海に注ぐ筒石川を、市道との併用橋で渡る。廃線跡は海側にあり、レンガの高い橋台と、築堤を支えている鎧のような擁壁が印象的だ(下注)。

*注 築堤は均されて、保育所の敷地に転用されている。

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(左)筒石の町裏にあった345 1/2キロポスト
(右)筒石川の高い橋台と築堤の擁壁(糸魚川方)
 

現在の筒石駅は頸城トンネル内の地下駅として有名だが、旧駅はもっと糸魚川方の、海を望む段丘の上にあった。しかし、跡地は住宅などに転用されてしまい、道端に国鉄OB有志が立てた小さな碑があるだけだ(下注)。久比岐自転車道のガイドマップでも駅跡の言及はないので、知らなければ見落としてしまうだろう。

*注 表面には「日本国有鉄道 北陸本線旧筒石駅跡地 記念之碑」、裏面には駅の略史と建立日(平成3(1991)年3月31日)、建立者名が刻まれている。

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筒石駅跡から筒石漁港を遠望
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(左)旧 筒石駅記念碑
(右)藤崎(とうざき)のレンガ橋台
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
筒石西方~能生間
 

百川(ももがわ)トンネル(同 161m)とその前後は、単線幅の用地をわざわざ自転車道と一般道に分けている。そのため、中央分離帯(!)が狭いトンネルの中まで続いているのがユニークだ。これはいささか極端な例としても、筒石以西では廃線跡を一般道に転用して、側道として自転車道を併設している区間が多い。道幅もそれなりに拡げられているので、細く長く延びるという廃線跡のイメージは消えてしまっている。

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中央分離帯のある百川トンネル
 

やがて、形が鶏に似ているというトットコ岩が見えてきた。その向こうは一瞬、陸に乗り上げたのかと見間違う「海の資料館 越山丸」、そして、カニ尽くしで人気の高い道の駅「マリンドリーム能生(のう)」だ。しかし、さきほど食事をしたばかりなので、ここは通過。能生漁港の町裏を小泊トンネル(同 326m)と白山トンネル(同 336m)で抜けた後、名勝の弁天岩に寄り道した。

弁天岩は、海底で噴出した溶岩丘が隆起によって海上に姿を現した小島だ。海岸から赤い欄干の橋が延びて、小さな灯台と祠の建つ島に渡れる。恋人たちの聖地という宣伝文句に惹かれたと見え、若いカップルやグループが多数来ている。

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(左)トットコ岩
(右)海の資料館 越山丸
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(左)小泊トンネル(直江津方)
(右)白山トンネル(糸魚川方)
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鯉のぼりが空を泳ぐ弁天岩
 

旧 能生駅は、糸魚川市役所能生事務所(旧 能生町役場)の場所にあった。建物前の狭い植え込みの中に、土地境界標、筒石と同じような記念碑、それに338キロポストが置かれている。残念なことに、建物入口に通じるスロープの建設に際して壁際に移設されたため、裏の碑文を読むのには苦労する。なお、現在の能生駅は頸城トンネルの西口にあり、海岸から800mほど内陸だ。

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境界標とキロポストを伴う旧 能生駅記念碑
 

木浦(このうら)から鬼舞(きぶ)にかけては旧線に高度があり、木浦川の谷を横断する築堤も高い。鬼伏(おにぶし)の手前にある尾根の張り出しでは、自転車道がいったん海岸を走る国道のレベルまで降りて、また上り返す。廃線跡は、植生に覆われながらも国道の擁壁の上に残っているようだった。

鬼伏のコンビニに寄り道して、飲み物で一息ついた。高見崎と呼ばれる山の張り出しが、海を見晴らす旧線跡の最後の区間だ。行く手に、いよいよ糸魚川の町と青海黒姫山が見えてきた。

海岸平野が始まる浦本駅のすぐ手前で、旧線は浦本トンネルから出てきた現在の線路に合流する。廃線跡探索はここまでだ。合流地点の手前には盛り土の草生した空地が残り、新旧の対照を鮮やかに示していた。

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高見崎を回る
遠景は糸魚川の町と青海黒姫山
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旧線(左の空地)と現在線の合流地点
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図7 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
能生~浦本間

さて、所期の目的は果たしたが、私たちにはまだ、糸魚川に自転車を返却するという仕事が残っている。廃線跡を外れた自転車道は、国道の早川橋の手前まで約3kmの間、防波堤の内側に沿って延びている。右手は漁港と日本海の砂浜、左手は漁村の裏手だ。国道とも少し距離があるので、クルマの騒音はあまり届かず、集中して走れるいいルートだった。

自転車道の終点、早川橋からは旧道や国道の側道を通り、16時20分ごろ自転車店に無事帰着した。旧北陸本線のキロ程によると、糸魚川~谷浜間は34.3kmだ。昼食休憩を含めて走破に5時間30分かかったので、表定速度は6km/hにしかならない。私たちの旅は途中停車が多すぎて、いつもこんなのんびりペースだ。

最後は北陸本線旧線時代の地形図だが、1:25,000図が手元にないので、1:50,000図を直江津側から順に掲げる。なお、図中に複線の鉄道記号が使われているが、該当区間はまだ単線だったはずだ。

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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
直江津~有間川間(1968(昭和43)年編集)
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同 有間川~筒石間(1968(昭和43)年編集)
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同 筒石~浦本間(1968(昭和43)年編集)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高田(昭和43年編集)、富山(昭和11年修正)、5万分の1地形図高田西部、糸魚川(いずれも昭和43年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 I

2023年5月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル

日本列島を西南と東北に分けるフォッサマグナ(大地溝帯)、その西縁が糸魚川-静岡構造線、略して糸静線と呼ばれる断層群だ。糸静線が日本海に接する糸魚川周辺には地学上の見どころが点在していて、洞爺・有珠、雲仙とともに2009年に日本で初めて「世界ジオパーク(現 ユネスコ世界ジオパーク)」に認定されている。2023年5月20日のコンター旅は、そのいくつかをレンタカーで巡ろうと思う。

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ヒスイ峡にそびえる石灰岩の絶壁、明星山
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図1 糸魚川周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

富山から乗り継いできた普通列車で、糸魚川駅に8時45分ごろ着いた。集合時刻までまだ少し時間があるので、改札の前で会った山本さんと、駅舎1階のジオパルを見に行く。名称からするとジオパークのインフォメーションセンターのはずだが、展示内容は鉄道ものに重点が置かれていて、私たちもそれが目当てだ。

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糸魚川駅ジオパル
(左)大糸線を走ったキハ52は休憩室に
(右)大糸線をイメージした大型レイアウト
 

10時11分着の新幹線はくたかで、大出さんと中西さんが到着して、本日の参加者4名が揃った。レンタカーの営業所で、予約してあった日産ノートに乗り込む。まずは国道148号で、姫川(ひめかわ)の谷を遡ろう。

掲げたテーマとはのっけから乖離するが、最初の訪問地は大糸線の根知(ねち)駅だ。ここで10時48分に行われるキハ120形同士の列車交換シーンに立ち会う。存廃が議論されているローカル線で、列車本数が少ないので、この駅での行き違いは午前中、一度だけだ。

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キハ120形の列車交換、根知駅にて
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
根小屋周辺
 

続いて、根知川右岸(北岸)にあるフォッサマグナパークへ。道路脇の駐車場から森の中の小道を歩き始めると、すぐ山側に、「大切にしましょう 水準点」の標識が立っていた。地形図に93.2mの記載がある一等水準点だ。標石は健全そのもので、刻字が明瞭に読み取れ、四隅に保護石も従えている。近年は金属標や蓋された地下式も多い中、これは見本にしたくなるような外観だ。点の記では1986(昭和61)年の設置とされているが、標石自体はもっと古いものだろう(下注)。

*注 側面に、国土地理院の前身で1945~60(昭和20~35)年の間存在した地理調査所の名が刻まれている。

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根知川右岸の一等水準点
 

小道は大糸線のトンネルの上を越えていく。目の前が根知川を渡る鉄橋で、さっきの列車交換がなければ、ここで一枚撮りたいところだ。そう考えるのは私だけではないらしく、フェンスに親切にも列車通過時刻表が掲げてあった。今日は地学系の旅のつもりだが、核心にたどり着かないうちに、道中の誘惑が多くて困る。

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トンネルの上から望む大糸線の線路
奥が根知駅
 

道なりに5~600mほど進んだ先で、いよいよ「Fossa Magna Park」の壁文字が見えてきた。地層の露頭は、階段を降りていくと明らかになる。斜面が漏斗状に開削され、その上部に、境界と記された標柱と、その両脇に「東」「西」と大書された看板が立っている。

看板の意味するところは、糸静構造線のどちらの側かということだ。東はフォッサマグナで、プレート理論でいう北アメリカプレートに、西ははるかに古い地層でユーラシアプレートに属する。その境界は強い力が作用するため破砕帯になっていて、模式図のようなスパッと切れた断面ではない。

ちなみに、糸魚川寄りには、よく似た名のフォッサマグナミュージアムという観光施設がある。鉱物の好きな人なら一日でも居られると言われる展示館だが、今日は予定が目白押しで、訪問は難しい。

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フォッサマグナパーク
根知川の対岸に、糸静線上に建つ酒造会社の大屋根が見える
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「東」と「西」の看板の間に
構造線の位置を示す「境界」の標柱が立つ
 

フォッサマグナパークから、さらに上流へクルマを走らせた。次の行先は小滝川ヒスイ峡だ。小滝(こたき)で横道にそれて、1車線の坂道を延々と上っていく。小滝川に沿う林道入山線が最短経路だが、落石の影響で通行止めになっており、2倍以上の遠回りを強いられる。とはいえ、一帯を見下ろす展望台や、高浪(たかなみ)の池といった名所を経由するから、迂回もまた楽しからずや、だ。

道のサミット付近にあるその展望台からは、森の中にたたずむ高浪の池が眼下に望めた。後ろに控えるのは、石灰岩の切り立つ岩壁で知られる明星山(みょうじょうさん、標高1189m)だが、あいにく中腹まで雲に覆われている。視界を占有している斜面は、実は大規模な地すべりの跡で、池も、押し出された土砂の高まりの内側に、地下水が染み出してできたものだ。しかし、荒々しい地形の成因など忘れさせるほど、しっとりとしてもの静かな光景だ。

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展望台から望む高浪の池
後ろの明星山は雲の中
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図3 同 小滝川ヒスイ峡周辺
 

高浪の池までクルマで降りて、池の周囲をしばし散策した。薄霧が漂うなか、畔の木々が水面に映る姿はなかなかに幻想的で、東山魁夷の絵を思わせる。なんでもこの池には、「浪太郎」の名で呼ばれる巨大魚が棲んでいるそうな。

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森を映す高浪の池
 

池のほとりの食堂で昼食をとった後、ヘアピンが連続する山道をクルマでさらに下っていった。渓谷を見下ろす展望台まで来ると、さすがに明星山も霧のヴェールから姿を現した。川床から約450mもの高さがあるという剥き出しの岩肌が、威圧するようにそそり立っている。この景観を作り上げたのは、眼下を流れる小滝川で、南隣の清水山にかけて続く石灰岩の地層を侵食した結果だ。ロッククライミングの名所でもあるそうだが、どうすればこの絶壁を上れるのか、素人には想像もつかない。

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小滝川の渓谷をはさんで向かい合う石灰岩の山塊
左が明星山、右が清水山
 

遊歩道を歩いて上流へ向かう。まが玉池という人工池の前からは、ヒスイ峡の河原まで降りていくことができた。渓流の間に直径数mもあるような巨石が多数転がっていて、案内板によると、あの中にもヒスイの原石が含まれているらしい。漢字で翡翠と書くので緑色という印象が強いが、実際は白っぽいものが多く、緑色の部分は貴重なのだそうだ。

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小滝川ヒスイ峡
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(左)青みを帯びた渓流
(右)矢印がヒスイの原石(現地案内板を参考にして表示)
 

縄文時代から古墳時代にかけてヒスイは、装身具や勾玉に加工されて珍重された。驚くことに、それらはすべて糸魚川産だったという。ところが奈良時代以降、その文化が途絶えたことで、原産地がどこかもすっかり忘れられ、渡来品とさえ考えられていた。この峡谷でヒスイが再発見されたのは、それほど古い話ではなく、1935(昭和10)年のことだ。

もと来た道を戻り、北陸自動車道経由で今度は親不知(おやしらず)へ向かった。東隣にある子不知(こしらず)とともに、北アルプス(飛騨山脈)が日本海に直接没する景勝地として有名だ。海岸線に断崖絶壁が連なっているため、江戸時代まで、通行には波間を縫って狭い岩場を走り抜けるよりほかに方法がなかった(下注)。漢文風の珍しい地名は、親子といえども互いを気遣う余裕がないほどの難所という意味だ。

*注 南の坂田峠を越える山道もあったが、距離が長く、標高600mまで上らなければならない悪路だった。

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断崖が連続する親不知海岸
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図4 同 親不知周辺
 

その断崖の中腹に道路が開削されたのは、1883(明治16)年のことだ。越中越後を結ぶ主要街道として、その後何度か改修整備が行われたが、1966(昭和41)年に、山側に長さ734mの天険トンネルが完成したことにより、旧道となった。

方や、鉄道の開通は1912(大正元)年で、道路の直下に単線で長さ668mの親不知トンネルが通された。日本海縦貫線としての重要性から、こちらも1966年に、現在の親不知トンネル(長さ4536m)を含む複線の新線が完成して、廃線となった。

旧道と廃線トンネル(下注)は遊歩道として開放されていて、階段道を介して周遊することができる。私たちは親不知観光ホテル前の駐車場にクルマを停めて、旧道を西へ歩き始めた。張り出し尾根を回ったところに、さっそく展望台があった。そこに立つと、正面は真一文字の青い水平線、左右には険しい断崖が幾重にも折り重なって見える。

*注 旧道は「親不知コミュニティロード」の名がある。廃線トンネルは、案内板で「親不知煉瓦トンネル」と紹介されていた。

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(左)コミュニティロード展望台から望む日本海
(右)日本アルプスの父、ウォスター・ウェストンの銅像
 

旧道を少し進むと、「如砥如矢(とのごとく、やのごとし)」の文字が刻まれた岩壁の前に出た。明治の開削時に彫られたもので、砥石のように平らで、矢のように真直ぐだと、完成したての道路を称える記念碑だ(下注)。140年風雨にさらされてもなおくっきりと残り、当時の人々の喜びが伝わってくる。だが残念なことに、旧道はここで通行止めになっていて、廃線トンネルの西口へ回ることができない。

*注 左隣の岩壁にも「天下之嶮」、「波激す 足下千丈 親不知」などの刻字がある。

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岩壁に刻まれた「如砥如矢」の文字
 

一方、先ほどの駐車場から谷間の階段道を降りていくと、トンネルの東口に達する。ポータルはいたって普通で、記念の扁額などは嵌っていなかった。親不知子不知に穿たれた旧線トンネルは数本あり(下注)、その中でこれが最長というわけでもないからだろう。

*注 前後のトンネルも残っていることが肉眼で確認できるが、接近は困難。

内部も通行可能だ。直線なので出口の明かりは見えるものの、湿度が高いせいか、ぼんやりしている。枕木の撤去跡には凹凸が残り、ごつごつしたバラストも散らばっていて、足を取られやすい。それで、線路跡の海側に土盛りして歩道のようにしてある。照明の間隔が開いていて足元が暗いから、これはありがたい。

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旧 親不知鉄道トンネルの東口
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(左)西口から東望、内壁の黒ずみは蒸機の煤
(右)東口、次のトンネルが見えるが近づけない
 

東口ではまた、階段を伝って波打ち際まで降りることができる。そこは猫の額ほどの浜で、打ち上げられた大小の丸石で埋め尽くされていた。東も西も岩場に断崖が迫り、打ち寄せる波が激しく砕け散っている。確かに、ここを越えていくのは命懸けだ。

クルマに戻って、風波川東側の国道脇に設けられた親不知記念広場にも立ち寄った。ここも展望台になっているが、目を引いたのは、隅にあった一等水準点だ。金属標をコンクリートで固めてあり、経緯度や標高を刻んだ記念碑を伴っている。やはり親不知は特別の場所らしい。

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(左)波打ち際へ降りる階段
(右)丸石で埋まった浜に断崖が迫る
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親不知記念広場の一等水準点と記念碑
 

糸魚川への帰り道、青海(おうみ)にあるデンカ(旧 電気化学工業)の専用貨物線を訪れた。この工場では、青海黒姫山の石灰石を利用してカーバイドやセメント製品を生産している。かつてはその製品や原料を積んだ貨物列車が、旧 北陸本線青海駅との間を行き来していたのだが、運行は2008年をもって終了した。

先に上流へ向かうと、道路の御幸橋(みゆきばし)に並行して青海川を斜めに横断している鉄橋と、前後の線路がまだ残っていた。これは採掘地と工場を結ぶ通称「原石線」だが、レールや枕木は粉まみれで、しばらく使われていないように見える。一方、工場から青海駅へ出ていく貨物線はすでに撤去され、草ぼうぼうの廃線跡と化していた。地形図にはまだ現役のように描かれているものの、実態は遠い過去の記憶となりつつある。

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デンカ専用貨物線
(左)青海川を渡る鉄橋
(右)草生した青海駅手前の線路敷
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図5 同 青海周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図富山(昭和63年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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2023年4月 5日 (水)

コンターサークル地図の旅-臼杵石仏と臼杵旧市街

朝早く延岡のホテルを出て、7時06分発の上り特急「にちりん」2号に乗った。4両編成だが、半車しかない指定席やグリーン席はもちろん、3両を占める自由席車にも空席が目立つ。それでなのか、特急ともあろうにワンマン運転(!)だ。「ご用のある方は停車中に運転士にお申し出ください」と自動アナウンスが流れるが、ほとんど停まらない列車の中では半分冗談のように聞こえる。

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臼杵石仏の代表作、古園石仏
 

宮崎・大分の県境をまたぐ日豊本線延岡~佐伯(さいき)間は、乗り鉄にとってある意味、難所だ。2018年3月のダイヤ改正以来、完走する上り普通列車はわずか2本しかない(下りはさらに厳しく、朝の1本のみ)。延岡を早朝6時10分に発つ列車を逃すと、次の列車は夜の20時台だ。

それで特急利用にせざるをえなかったのだが、優等列車なのに窓が埃まみれで、外の景色はもやがかかったようにかすんでいる。おそらくこの先何度も見ることはないだろう宗太郎(そうたろう)と重岡(しげおか)の峠駅だけ、何とか写真に収めた。

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サミットの駅、重岡を通過
 

臼杵(うすき)駅で昨日のメンバー、大出さん、山本さんと合流する。2023年3月6日、コンター旅2日目は、大分県臼杵市が舞台だ。郊外にある国宝臼杵石仏をバスで訪ねた後、市街地に戻って城下町の見どころを巡る予定にしている。

駅前に出ると、特に有名な古園石仏の原寸大レプリカが設置されていた。ここで見てしまうと気勢をそがれそうだが、周辺の環境も含めた全体像をつかみたければ、現地へ赴くに如くはない。9時07分発の大分行路線バスに乗る。市街地を通り抜け、臼杵川が流れるおだやかな谷を上流へ走って、目的地まで20分ほどだ。

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(左)臼杵駅1番線に到着
(右)駅前にある古園石仏のレプリカ
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臼杵周辺の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年修正)
 

観光地特有の雰囲気をもつ、みやげ物屋や観光案内所が並ぶ広場の一角に、バスは停まった。さっそく窓口で観覧券を買って、通路を奥へ進む。臼杵石仏というのは単体ではなく、山際の露出した崖に彫られた複数の摩崖仏のことだ。平安時代後期から鎌倉時代の作と推定されていて、北に開けた支谷に面して、全部で4か所の群がある。

地質図によれば、この臼杵川一帯には、約9万年前の阿蘇の噴火活動(Aso-4)で生じた火砕流の堆積による溶結凝灰岩の地層が分布している。この岩石は比較的柔らかく、切り出しや細工が容易だ。それで彫像にも適していたのだが、その分、風化しやすいため、現在は保護の目的で中尊寺のような立派な覆堂が架けられている。

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臼杵石仏の覆堂全景
右手前がホキ石仏第二群、奥が第一群、左が古園石仏
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杉林の緩い坂道を上る参拝路
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1:25,000地形図(2倍拡大)に歩いたルート(赤)等を加筆
臼杵石仏周辺
 

順路は支谷のへりを左回りしていた。杉林の緩い坂道を上って、まずはホキ石仏第二群(下注)へ。大小の仏像群が横一列にずらっと並ぶさまは圧巻だ。中央のひときわ大きな阿弥陀様は、丸顔に柔和な表情を浮かべていて、おのずと親しみがわく。その奥に位置するホキ石仏第一群でも、中央に座すのは同じく阿弥陀如来だが、第二群を見た後では共感まで行かない。谷を隔てて向かいには、山王山石仏が彫られている。こちらは見るからに童顔で、幼児の安らかな寝顔を連想させる。

*注 ホキは、ホケ、ハケなどと同じく古い地形語で、崖を意味する。よく知られる四国の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)もこれに漢字をあてたもの。

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ホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像
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(左)ホキ石仏第一群の如来三尊像
(右)山王山石仏
 

尾根の張り出しを回ると、深田の集落を見下ろす高みにもう一つ、お堂がある。駅前で見たあの古園石仏、大日如来像の実物がここに鎮座していた。体躯は恰幅がよく、顔もほのぼのとした横丸形で、安定感とともに気品が漂う(冒頭写真も参照)。かつては頭が落ちて、仏体の前に置かれていたそうだが、修復の際に完全な姿に戻された。

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古園石仏
 

それから、谷の平地に造られた公園を横切って、石仏の作者と伝えられる蓮城法師を祀る満月寺へ。ここには、凝灰岩を彫り出した阿吽2対の木原石仏が置かれている。ホキの石仏とは対照的に、躍動感のある世俗的な作風がおもしろい。

きょうもよく晴れて、朝から日差しのぬくもりが感じられる。帰りのバスの時刻まで、菜の花が見ごろを迎えた園内をのんびりと散策した。

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満月寺境内にある木原石仏

11時05分発のバスで市街地に戻る。中心部まで行かず平清水(ひらそうず)の停留所で降りたのは、龍源寺の三重塔を見たかったからだが、残念なことに修復工事で周りに足場が組まれていた。帰りの電車の時間が3人ともばらばらなので、ここで自由解散として、各自見たい所へ向かった。

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1:25,000地形図(2倍拡大)に歩いたルート(赤)等を加筆
臼杵市街
 

時間のある私は上手に戻り、コンビニで昼食を確保したあと、まず日豊本線上臼杵(かみうすき)駅を見に行った。静かな駅前広場に面して、年季の入った切妻、瓦屋根の木造駅舎が建っている。前に並ぶカイヅカイブキの老木たちは、まるで駅を警護する近衛兵のようだ。

駅はすでに無人だが、なつかしい障子ガラスの嵌った待合室は整然と保たれていた。カラフルな折り鶴の束が、天井から満開の藤棚のように吊り下がる。プラットホームは、正面の階段か横のスロープを上った少し高い位置にある。曲線の途中できついカントがついているため、やってきた電車は大きく傾いた状態で停車した。

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上臼杵駅、古木に護られる木造駅舎
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待合室にカラフルな折り鶴の束が吊り下がる
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電車は傾いた状態で停車する
 

列車を見送った後は少し歩いて、臼杵川の中州にある松島神社へ。境内のある小山は昔、湾奧に浮かぶ臼杵七島と呼ばれた小島の一つだったそうだ。今は市街地と地続きだが、城が築かれている丹生島(にうじま)や、右岸の大橋寺が載る森島もそうだ。神社前を横断する松島橋から上流に目をやると、手前に松島の森と陽光を跳ね返す川面、背後には大橋寺の伽藍の大屋根や蒼い山並みが重なって、しっとりとしたいい景色だった。

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松島橋からの眺め
左の大屋根は大橋寺
 

この後は、旧市街を歩く。まずは八町大路(はっちょうおおじ)の枡形にある石敢當だ。沖縄ではおなじみの、三叉路の突き当りなどに置かれた魔除けの石標だが、本土にもけっこうあるらしい。ちなみに臼杵では、「いしがんとう」ではなく「せっかんとう」と読むそうだ。

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(左)商店街の八町大路
(右)枡形に立つ石敢當
 

南下して、観光ガイドで必ず取り上げられる臼杵の名所、二王座(におうざ)の石畳道をたどる。二王座は、南から張り出す尾根筋に造られた寺町であり、武家屋敷町でもある。お寺の伽藍と白壁の家並みの間を縫うようにして、狭く曲がりくねった坂道と凝灰岩の石垣が続いている。どのアングルを切り取っても絵になるので、カメラをリュックに片付ける間がなかった。

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二王座歴史の道
(左)甚吉坂
(右)坂道に沿って寺院が建ち並ぶ
 

甚吉坂を上ると、切通しと称するサミットに達し、道はそこから下りに転じる。旧真光寺の建物を利用したお休み処を覗いたら、玄関の正面に飾られた華やかな紙製の雛人形が目を引いた。3月初めのこの時期、市内各所で「うすき雛めぐり」という催しが行われている。江戸時代の終わりに臼杵城下で、質素倹約を旨として雛人形は紙製のほか一切が禁じられた。この史実をもとに、近年立ち上げられた観光行事だそうだ。

そういえば、上臼杵駅でも折り鶴とともに、このうすき雛が飾られていた。紙製なので量産できるのが取り柄だが、一体一体、和紙の意匠を変えてあるから、見始めると結構はまってしまう。

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旧真光寺のうすき雛
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和紙の意匠は一体ずつ違う
(久家の大蔵にて撮影)
 

稲葉家の屋敷から移築されたという土蔵の2階で、市街の古写真の展示を見た後は、再び山手へ向かった。見事な石垣と石塀の景観に見入りながら坂を上りきると、二王座の丘の中でも臼杵川の谷が見下ろせる展望地に出る。近くに小さな休憩所も設けられていたが、展望の得られる場所でないのが惜しい。

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二王座の丘からの展望
 

多福寺と月桂寺が載ったお城と見まがう高石垣から引き返して、今度は、造り酒屋の酒蔵をギャラリーに改修したという「久家の大蔵」へ。長い外壁を飾っているアズレージョタイルもユニークだが、中に入ると広い空間がまたカラフルなうすき雛であふれていた。

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(左)多福寺の高石垣
(右)多福寺山門に通じる石段
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(左)アズレージョタイルが貼られた久家の大蔵
(右)内部の展示室にもうすき雛
 

大蔵を突き抜けた街角には野上弥栄子文学記念館が開いていたが、さすがに時間が押してきたので通過する。地元名産、フンドーキン醤油の工場に掲げられた巨大なロゴを川越しに眺めた後、稲葉家下屋敷へ。廃藩置県で東京へ移った旧藩主稲葉家が、里帰り用に1902(明治35)年に建てた屋敷だ。別荘とはいえ、表座敷や奥座敷はゆったりとした造りで、格式の高さもそこここに窺える。下駄をはいて屋敷の庭石伝いに、隣接する江戸期の武士の居宅、旧平井家住宅も覗いてみた。

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(左)野上弥栄子文学記念館
(右)フンドーキン醤油工場
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稲葉家下屋敷の御門
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(左)稲葉家下屋敷玄関の間
(右)旧平井家床刺の間
 

残るは臼杵城址だ。大手口は、多層の石垣の構えと最上部に大門櫓がそびえる姿が美しく、町から仰ぎ見ると存在感がある。しかし、城内は公園と市民広場になっていて、古い建物はほとんど残っていない。上述のとおり、城山は、もと丹生島と呼ばれた標高約20mの島を利用している。西側にある大手口が唯一、堀を隔てて外に通じる出入口で、北、東、南の三方はすべて海に囲まれた要害の地だった。そのことを想像しながら、城址の高みからすっかり市街地化した周囲を俯瞰するのは興味深い。

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臼杵城大手口、最上部に大門櫓
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臼杵城址から市街地の眺め
正面左に多福寺・月桂寺の高石垣、同右奥に二王座の丘
 

駆け足の旅を終えて臼杵駅に戻ってきたのは15時ごろ。臼杵石仏の見学がメインのつもりだったが、変化に富む地形にはぐくまれた市街地も思った以上に魅力的だった。各所で季節の彩りを添えていたあでやかな紙の雛人形とともに、その印象は記憶に残ることだろう。満ち足りた思いを反芻しながら、大分へ向かう15時11分発の「にちりん」に乗り込んだ。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分(昭和52年編集)および地理院地図(2023年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
臼杵石仏 https://sekibutsu.com/
臼杵市観光協会 https://www.usuki-kanko.com/

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2023年1月12日 (木)

コンターサークル地図の旅-亀ノ瀬トンネル、斑鳩の古寺、天理軽便鉄道跡

2022年11月6日、秋のコンターサークル-s 関西の旅2日目は、いつになく多彩な旅程になった。

午前中は、国交省の近畿地方整備局大和川河川事務所が開催している「亀の瀬地すべり見学会」に参加して、地中に眠る旧 大阪鉄道(現 JR関西本線)の亀ノ瀬トンネルを見学する。地滑りでとうに崩壊したと思われていたが、排水トンネルの建設中に偶然発見されたという奇跡の遺構だ。

午後は奈良盆地に戻り、秋たけなわの斑鳩(いかるが)の里で、法隆寺をはじめ、近傍の古寺を巡る。その後、天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡まで足を延ばしたので、結果的には分野が鉄道系に傾いたことは否めないが…。

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地中に眠る旧大阪鉄道亀ノ瀬トンネル
大阪側から奈良側最奥部を望む
掲載写真は、2022年11月のコンター旅当日のほか、2020年9月~2022年11月の間に撮影
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秋たけなわの法起寺三重塔
 
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図1 今回訪問したエリアの1:200,000地勢図
2012(平成24)年修正

朝9時07分、関西本線(以下、関西線という)の三郷(さんごう)駅前に集合したのは、昨日のメンバー(大出、木下親子、私)に浅倉さんを加えて、計5名。さっそく大和川(やまとがわ)に沿う県道の側歩道を下流に向かって歩き始めた。住宅街を通り抜け、谷が狭まる手前で、龍田古道(たつたこどう)と標識に記された山道に入る。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
三郷駅~河内堅上駅
 

龍田古道というのは、飛鳥~奈良時代に大和(現 奈良県)に置かれた都と河内(現 大阪府)を結んでいた官道のことだ。しかし、1300年も前の話なので、「地すべり地である亀の瀬を越える箇所については大和川沿いの道のほか、(北側の)三室山・雁多尾畑を抜ける道など、幾つかのルートが考えられて」(下注)いるという。

*注 奈良県歴史文化資源データベース「いかすなら」 https://www3.pref.nara.jp/ikasu-nara/ による。

奈良から大阪へ府県境を越え、森に覆われた急な坂道を上っていく。峠八幡神社の前を過ぎ、下り坂が2車線道に合流するところで、「亀の瀬地すべり資料室」のプレハブ建物が見えてきた。

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(左)峠八幡神社と地蔵堂
(右)龍田古道の細道
 

10時の開館まで少し時間がある。その間、下流に見えている関西線の第四大和川橋梁を観察した。全長233mのこの鉄橋は川と浅い角度で交差していて、中央部の橋桁が、川の上に渡されたトラスで支えられているのが珍しい。竣工は1932(昭和7)年だが、これこそ亀の瀬を通過する交通路にとって宿命の、地滑りを避けるための緊急対策だった。

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第四大和川橋梁を亀の瀬から遠望
橋桁を直交トラスが支える
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下流(大阪)側から見た橋梁
浅い角度で川と交差
 

資料室に入り、受付を済ませた後、ビデオと展示パネルで、当地の地滑りの実態と対策について学んだ。それによると…、

この一帯は生駒(いこま)山地の南端で、大和川の谷が東西に貫通している。右岸(北岸)には数百万年前、北側にあった火山の新旧2回の噴火で流れ出た溶岩が堆積していて、新旧の境目には、風化などで粘土化した地層が挟まっている。これが地下水を含んで、厄介な「滑り面」になる(下図の赤い破線)。

上に載る新溶岩の層は厚くて重く、谷に向かって傾斜している。そこに、河岸浸食や南側の断層帯の活動などが重なって、たびたび地滑りを起こしてきた。大和川の流路が南に膨らんでいるのもその影響で、明治以降に限っても、大規模な地滑りが3回発生している(下注)。

*注 1903(明治36)年、1931~33(昭和6~8)年、1967(昭和42)年に発生。

滑った土砂は河道をふさぐ。大和川は、奈良盆地に降った雨水が集まる主要河川だ。閉塞によって上流側が浸水するのはもとより、満水になった土砂ダムが決壊すれば、下流の大阪平野にも甚大な被害をもたらすことになる。

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亀の瀬の地質と地形構造
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
 

そのため、1962(昭和37)年から大規模な対策工事が進められてきた。

一つは地滑りを食い止める杭打ちだ。直径最大6.5m、最深96mもある深礎工を滑り方向に直交する形で多数配置して、いわば地中に堰を造っている(下図の「深礎工」)。二つ目に、滑りやすい表土を除去する(同「排土工」)。三つ目には、井戸と排水路を地中に張り巡らせて、地下水位を低下させる(同「集水井」「排水トンネル」)。

数十年にわたる集中的な対策が効果を発揮して、今では土塊の移動がほとんど観測されなくなっているという。

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対策工事全体配置図(同上)
 

この後、ボランティアの方の案内で、排水トンネルを実際に見学した。まずは資料室の上手にある1号トンネルへ。床の中央に設けられた浅い水路から、絶えず地下水が流れ出ている。天井に巨大な穴がぽっかり開いているのは先述の深礎工で、地滑り地帯全体で170本並んでいるものの一つだ。

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1号排水トンネル坑口
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1号トンネル内部
(左)水路には絶えず水流が
(右)巨大な深礎工
 

地上に戻り、今度は道を下って、7号トンネルに移動した。こちらは1号よりも内径が小さい。内部を進んでいくと、まもなく斜めに交差している坑道が現れた。これが、長年の封印が解かれた亀ノ瀬トンネルだった。

左手(大阪側)はすぐに行き止まりになるが、右手(奈良側)は奥が深い。手前は全体が分厚いモルタルで覆われているものの、奥は長さ39mにわたって本来の煉瓦積みがそのまま残っている。スポットライトが床から照らしているので、細部もよくわかる。

内壁は、側面が一段おきに長手積みと小口積みを繰り返すイギリス積み、天井面は長手を千鳥式に積む長手積みだ。ところどころ黒ずんでいるのは、蒸気機関車の煤煙が付着しているらしい。そして最奥部からは、地山の土砂がなまなましく噴き出している。「この先立入禁止、酸欠恐れ有」の注意書きに足がすくむ。

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7号排水トンネルと鉄道トンネルの交差地点
鉄道の奈良側(写真の手前)から大阪側(同 奥)を撮影
排水路は入口(同 左手)から奥(同 右手)に向かって下り勾配に
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(左)鉄道トンネルの奈良側最奥部から大阪側を望む
(右)奈良側最奥部は土砂が噴き出している
 

関西線奈良~JR難波(旧 湊町(みなとまち))間の前身、大阪鉄道は1892(明治25)年に全通したが、亀の瀬では当初、右岸(北岸)を通っていた。最後まで工事が長引いたのがこのトンネルで、壁面に亀裂が入るなどしたため、改築のうえでようやく完成している(下注)。

*注 着工時は亀ノ瀬トンネル(長さ413m)と芝山トンネル(同216m)の2本に分かれていたが、改築に際し一本化されたという。

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図3 関西線旧線が描かれた1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

1924(大正13)年に複線化する際、トンネルは下り線用とされ、北側に並行して上り線のトンネルが掘られた。ところが1932(昭和7)年2月に、土圧で内部が変形して、いずれも使用不能となる。やむをえずトンネルの手前に、仮駅「亀ノ瀬東口」「亀ノ瀬西口」が設けられ、この間は徒歩連絡となった。

下の地形図はその状況を記録した貴重な版だが、これを見る限り、乗客たちはあの龍田古道の上り下りを強いられたようだ。

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図4 不通区間の徒歩連絡の状況が描かれた1:50,000地形図(2倍拡大)
左岸の国道も「荷車を通せざる部」の記号になっている
(1932(昭和7)年測図)
 

7月初めから、安全な対岸へ迂回する新線の工事が始まった。これが先ほど見た第四大和川橋梁を渡っていく現行ルートだが、よほどの突貫作業を行ったのだろう。早くもこの年の12月末に、新線経由で列車の運行が再開されている。

一方、放棄された旧トンネルは、坑口が埋まってしまったため、2008年に発見されるまで80年近くも地中に眠っていた。そのとき、公開対象となっている下り線用だけでなく、上り線のトンネルも見つかったのだが、排水トンネルより高い位置にあることなどから、惜しくも埋め戻されたそうだ。

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排水・鉄道トンネルの位置関係
公開されているのは図左側の下り線トンネル、右側の上り線は埋め戻された
(亀の瀬地すべり資料室のパネルより)
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関西本線のルートの移り変わり(同上)
 

見学ツアーは、この後、亀の瀬の名のもとになった川中の亀岩や、大和川の舟運の安全を祈願した龍王社など、付近の名所旧跡を案内してもらって、解散となった。河内堅上駅まで線路沿いの道を歩いて、関西線の上り電車に乗る。

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大和川を泳ぐ(?)亀岩
見る角度によって頭が現れる
 

■参考サイト
大和川河川事務所-亀の瀬 https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guide/landslide/

法隆寺駅で下車し、駅前から奈良交通の小型バスで法隆寺へ向かった。法隆寺参道という停留所が終点だ。以前は南大門の近くに降車場があったのだが(下注)、今は、門前まで進みながら反対車線を引き返し、わざわざ遠く離れた国道のそばで降ろされる。

*注 バス停名も法隆寺門前だった。当時の降車場は、身障者用の停車スペースに転用されている。

午後1時を回っているので、参道に並ぶ食堂で昼食にした。町おこしで竜田揚げが名物になっているらしく、その定食を注文する。唐揚げとどう違うのかよくわからないが、ふつうにおいしかったことは確かだ。

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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
 

法隆寺には何度か来ているとはいえ、エンタシスの回廊が廻らされ、中央に金堂と五重塔が並び建つ美しくも厳かな境内のたたずまいは、いつ見てもすばらしい。宝物館である大宝蔵院で百済観音像を拝み、東院伽藍の夢殿も巡って、しばしいにしえの雰囲気に浸った。

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法隆寺、西院伽藍正面
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大講堂前から境内を南望
左から金堂、中門、五重塔
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(左)大講堂
(右)東院伽藍、夢殿
 

その後は小道を北上する。10分少し歩くと、行く手に法輪寺の三重塔が見えてくる。塔は戦時中に落雷で焼失したため、1975年に再建されたが、木立や背後の森に溶け込むようにして立つ姿は、そうした経緯すら忘れさせる。

寺に寄り添う形で、三井(みい)の集落がある。奈良の旧家らしい立派な門構えの家が並ぶ中、聖徳太子が掘った三つの古井戸の一つ「赤染井(あかぞめのい)」と伝えられる三井の旧跡(下注)にも立ち寄った。

*注 説明板によれば、深さ4.24m、直径約0.9m。明治時代には埋まっていたが、1932(昭和7)年の発掘調査で構造が明らかにされた。

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法輪寺を北望、森に溶け込む三重塔
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三井
(左)集落の中にひっそりと
(右)覗くと水面が見えた
 

山手の斑鳩溜池(いかるがためいけ)の堤を通って、次は法起寺(下注)へ。法輪寺にもまして鄙びた風情だが、侮るなかれ。シンボルの三重塔は8世紀初頭の建立で、国宝指定を受けている。それで1993年、法隆寺の名だたる伽藍とともに、日本で最初の世界遺産に登録されたという経歴を持つお寺だ。

この塔も、周りの田園から仰ぐのがいい。一部の田んぼにはコスモスが植えられていて、秋は白とピンクの花の海になる(冒頭写真参照)。

*注 一般に「ほっきじ」と読まれるが、正式には「ほうきじ」。

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法起寺
鄙びた風情の南門と三重塔
 

私たちが行ったときにはもう花の盛りを過ぎていたが、ボランティアのガイドさんが「中宮寺跡が今、満開ですよ」と教えてくれた。現在、法隆寺東院伽藍の隣にある中宮寺だが、聖徳太子により尼寺として創建された当時は、東に500mほど離れた場所にあった。跡地は発掘後に公園化され、広いコスモス畑が作られている。伽藍跡には基壇と復元礎石があるだけなので、訪れる人の大半は花が目当てだ。

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中宮寺跡史跡公園
復元礎石が並ぶ塔跡

秋の日は短い。そろそろ陽が傾いてきたので、急ぎ天理軽便鉄道(大軌法隆寺線)の廃線跡に向かった。

天理軽便鉄道というのは、関西線の法隆寺駅に隣接する新法隆寺から東へ、天理まで走っていたニブロク(762mm)軌間の路線だ。1915(大正4)年の開業だが、早くも1921(大正10)年に近鉄の前身、大阪電気軌道(大軌)に買収されている。

大軌が建設した畝傍(うねび)線(現 近鉄橿原(かしはら)線)によって、軽便鉄道は平端(ひらはた)で分断される。東側の平端~天理間は標準軌に改軌、電化されて、現在の近鉄天理線になった。方や西側の新法隆寺~平端間は、大軌法隆寺線としてニブロク軌間のまま存続したが、戦時下の1945(昭和20)年に不要不急路線として休止、そのまま1952(昭和27)年に廃止されてしまった。

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図6 法隆寺~平端間の1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
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図7 大軌法隆寺線(天理機関鉄道と注記)が描かれた旧版1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

富雄川(とみおがわ)に沿って南下し、関西線の踏切を越えると、東側に木戸池と呼ばれる溜池が現れる。軽便鉄道の線路は、こともあろうに池の真ん中を東西に横切っていた。その築堤が今も手つかずで残っている。築堤の東寄りでは水を通わせるために桁橋が架かっていたらしく、橋台も観察できる。

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木戸池を貫く天理軽便鉄道跡
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築堤の東寄りに残る煉瓦の橋台
背後を関西線が並走
 

池の東側では、廃線跡はすぐに消失してしまうが、西側は、富雄川を隔てた田園地帯に、築堤が緩やかなカーブを描いている。畑などに利用されながら関西線に並行していて、法隆寺駅東の住宅地に突き当たるまでたどることができる。途中には、小さな用水路を渡るレンガの橋台もあった。

法隆寺駅に戻ってきたのは17時過ぎ、すでに陽は西の山に沈み、夕闇が迫っている。盛りだくさんの旅の思い出をかかえて、参加者はそれぞれのルートで家路についた。

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富雄川の西に延びる廃線跡の築堤
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(左)築堤の続きは小道に
(右)用水路をまたぐ橋台
 

【付記】

旧 安堵(あんど)駅に近い安堵町歴史民俗資料館に、天理軽便鉄道に関する遺品や鉄道模型、ルート周辺の地形図、空中写真など、興味深い資料展示がある(下の写真参照)。

■参考サイト
安堵町歴史民俗資料館 http://mus.ando-rekimin.jp/

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安堵町歴史民俗資料館
正面入口
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天理軽便鉄道の資料コーナー
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(左)木戸池東に建っていたという勾配標
(右)廃線後、近鉄郡山駅のホームの柱に転用されていた米国カーネギー社製のレール断片
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安堵駅にさしかかるレールカー(1/17復元模型)
 

一方、実際の線路の痕跡は、上述のとおり木戸池より西に集中している。東側で廃線跡を追える場所は少なく、以下の3か所ぐらいだ。

・安堵町の安堵駐在所から県道裏を東に延びる路地 約100m
・岡崎川右岸(西岸)の田園地帯にある細長い地割 約60m
・大和郡山市の昭和工業団地東縁から平端駅前までの直線道路 約700m(うち平端駅寄りの150mは、道路南側の宅地列が廃線跡)

中間部は西名阪自動車道と大規模な土地開発により、跡形もなくなってしまった。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年修正)、陸地測量部発行の5万分の1地形図大阪東南部(昭和7年要部修正)、2万5千分の1地形図郡山、信貴山、大和高田(いずれも大正11年測図)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2023年1月 4日 (水)

コンターサークル地図の旅-木津川渓谷と笠置山

ここ数日、明け方の気温が10度前後まで下がり、季節の深まりを肌で感じるようになった。2022年コンターサークル-s 秋の旅の後半は関西が舞台で、11月5日は木津川(きづがわ)の渓谷を歩く。

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関西本線木津川橋梁を渡る列車(南望)
 

木津川は、桂川や宇治川とともに、大阪湾に注ぐ淀川の主要支流の一つだ。主に三重県伊賀地方(上野盆地)の水を集めて京都盆地へ流れ下るが、その途中、標高400~600mの笠置(かさぎ)山地に深い谷を刻んでいる。名古屋と大阪を結ぶJR関西本線(以下、関西線という。下注)のルートはこの谷間を利用していて、車窓から、東海道本線や新幹線では出会えない本格的な渓谷風景を眺めることができる。

*注 路線の終点は大阪駅ではなく、JR難波(なんば、旧 湊町)駅。

関西線は両端こそ大都市近郊路線で電車が頻発しているが、中間部にあるこの亀山~加茂(かも)間は単線非電化のままで、日中はキハ120系気動車が1両か2両で1時間おきに走るだけの閑散区間だ。今日は秋たけなわの木津川渓谷に加えて、のどかなローカル線の風情も楽しみたいと思う。

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図1 木津川渓谷周辺の1:200,000地勢図
(左)2003(平成15)年修正、(右)1988(昭和63)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

集合場所は大河原(おおかわら)駅だ。私は、加茂から渓谷を遡る上り列車で9時56分に到着した。10両は停まれそうな長いホームや撤去された中線の跡に幹線の片鱗が窺えるが、駅は無人で、待合室もがらんとしている。10時18分の下り列車で大出さんと木下さん親子が到着して、4名で静かな駅を後にした。

目の前に、木津川の広い河原がある。対岸との間に沈水橋の恋路橋(こいじばし)が架かっていて、どこか高知の四万十川にも似た光景だ。橋を渡り、南大河原の集落を抜けて、川沿いの舗装道に出る。

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大河原駅
(左)長いホームと中線跡が幹線の名残
(右)がらんとした待合室
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木津川を横断する恋路橋
 

杉木立の間を1kmほど進むと、道端の岩肌に小ぶりの仏様が彫られていた。傍らに立つ案内板によれば、この摩崖仏は室町時代、天文3(1534)年の銘がある十一面観音で、なるほどよく見ると、頭部に小さな顔がいくつも並んでいる。

舗装道が上り坂にさしかかる地点で、地道が斜め右へ分かれていた。東海自然歩道の標識が立っているので迷うことはない。と、まもなく川を背にしてまた石仏があった。柔和な表情の地蔵様で、文亀2(1502)年の銘をもつと案内板は告げる。

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(左)十一面観音摩崖仏
(右)柔和な表情の地蔵尊
 

今は忘れ去られたような小道だが、500年も前にここを旅人が行き交っていたことが知れる。現代の国道や鉄道は、木津川断層で生じた右岸の支谷を直進しているが、昔、東海道の関宿から奈良に通じていた大和(やまと)街道(下注)は、対岸のこのルートを通っていた。古仏はいわばその歴史の証人だ。

*注 伊賀上野から奈良の間は笠置街道ともいう。

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(左)川べりを行く旧大和街道
(右)杉木立から木津川の流れが覗く
 

しばらくはクルマの轍も見えていた路面に、やがて落ち葉や枯れ枝が積もり始めた。だが、ひどく荒れてはおらず、歩くのに支障はなかった。急なアップダウンを一つ越えると、対岸に相楽発電所の建物が見えてきた。川を横断している取水堰の先で河原に降りていく小道があったので、行ってみる。

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相楽発電所と取水堰
 

期待にたがわず、そこは上手に発電所、下手に関西線の木津川橋梁を望む絶好の場所だった。鉄橋は1897(明治30)年の竣工で、長短のトラス3スパンと、左岸側にガーダー2連という構成だ。後に重量列車に対応するため、中央部は大型の曲弦ワーレントラスに交換されたが、両側は明治のトラスの上部に鋼材を補強したユニークな形状で残された。

関西線は、ここで右岸から古道の通る左岸に移る。次の列車が来るのを待つ間、河原で昼食休憩にした。下り列車の通過を見届けた後は、鉄橋の下をくぐって下流へ移動し、地元で潜没橋と呼ばれている同じような沈下橋のたもとで、今度は上り列車を撮り鉄した(冒頭写真参照)。

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木津川橋梁を北望
 

この後、旧街道はいったん木津川から離れる。踏切で関西線を渡って、山あいの隠れ里のような飛鳥路(あすかじ)集落へと谷を上っていく。

集落が載る谷の成因は興味深い。断面がU字状であること、地質図に礫や砂の堆積が示されていること、さらに、布目川の谷との境が風隙(下注)になっていて、谷の方向も布目川の上流から滑らかにつながるように見えること。どうやらこれは布目川の旧流路のようだ。川はもともと北流していたが、ある時点から東西方向の断層(脆くて侵蝕されやすい)に沿う形で、西に流路を変えたのではないだろうか。

*注 浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象により、谷(水隙)の断面が露出したもの。

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(左)飛鳥路に向かう小道
(右)飛鳥路集落の家屋
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(左)布目橋を渡る
(右)深い淵をつくる布目川
 

風隙から坂を下り、布目橋を渡ると次の案内板が立っていた。この先、布目川の河原に多数の甌穴(ポットホール、下注)があるらしい。小道から水辺に降りて探すと、露出した花崗岩に半径数十cmの丸い穴がいくつも穿たれているのが見つかった。川はかなりの急流で、谷間に水音を響かせながら岩肌を滑り落ちていく。上流で発電用の取水が始まる前は、流量ももっと多く、甌穴が生じやすい環境だったはずだ。

*注 流水の力で礫(小石)が回転して平滑な河底に窪みを掘るもの。流れが速く、礫の供給が多い場所で見られる。

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河原で見つけた甌穴群
 

関西線の鉄橋が見えてきて、道は再び木津川の谷に出る。布目川発電所の横を通過し、人一人歩く幅しかない布目踏切を渡った。ここから約1kmの間は、木津川渓谷が最も狭まるハイライト区間だ。急傾斜の山腹に張りつくカーブだらけの線路に、落石除けの覆道が次々と現れる。遊歩道は、ときに線路の側道、ときに橋や桟道になりながら、川べりの狭い空間を縫っていく。列車が通ったら風圧をまともに受けそうなスリリングなルートが続いている。

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(左)布目川発電所
(右)一人分の幅しかない布目踏切
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(左)覆道と連続カーブの線路
(右)線路際に付けられた遊歩道
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(左)迫る列車から退避
(右)巨石の転がる渓谷
 

巨石の転がる渓谷を抜け、木津川に架かるカンチレバートラスの笠置橋のたもとに出たのは、13時30分ごろだった。広い河原を利用したオートキャンプ場がよく賑わっている。まだ陽は高いので、町中を通って笠置山(かさぎやま)の登山口に足を向けた。

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カンチレバートラスの笠置橋が見えてきた
 

笠置山は、木津川の南にそびえる標高288mの山だ。山頂には飛鳥時代、7世紀の創建と伝えられる笠置寺(かさぎでら)がある。麓との高度差は200mほどなので、軽いハイキングと高をくくっていたら、参道は心臓破りの急坂と石段だった。途中で休憩しながら、40分ほどかけて上りきる。

拝観料300円を納めて境内へ。寺は奈良時代から鎌倉時代にかけて栄え、人々の厚い信仰を受けていた。しかし鎌倉末期、後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱で焼亡し、それ以来、寺勢が衰えてしまった。古い伽藍は残っておらず、注目すべきは、花崗岩の奇岩巨岩とそこに彫られた摩崖仏だ。

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(左)笠置山登山口
(右)急坂と石段の参道を上る
 

まず、参道の頭上でオーバーハングした一対の巨岩、笠置石(かさおきいし)に度肝を抜かれる。鹿狩りに来た天武天皇が目印に笠を置いたという言い伝えがあり、笠置の地名もこれに由来するという。その隣にあるのが、高さ15mの巨岩の側面に彫られた本尊の弥勒摩崖仏だ。しかし、数度の火災の影響で図像はほぼ消失し、光背の輪郭しかわからない。一方、その先に同じような伝 虚空蔵摩崖仏があって、こちらは線画で刻まれた菩薩像が明瞭に読み取れる。もう少し距離をとって見たいが、崖際のため足場がないのが残念だ。

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笠置石(かさおきいし)
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正月堂と、光背の輪郭が残る弥勒摩崖仏(画面左の大岩)
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線画が鮮やかな伝 虚空蔵摩崖仏
 

この後は、昔の行場をなぞる探索路を行く。石段の上り下りがかなりきついが、巨石の隙間を通過する胎内くぐり、叩くと鼓のような音がする太鼓石、押すとぐらぐら動くゆるぎ石など、体験型のアトラクションでおもしろい。ゆるぎ石のテラスからは、はるか下方にさきほど歩いてきた木津川渓谷を眺めることができた。

順路の最後に通るもみじ公園では、すでにカエデの葉がいい頃合いに染まっている。笠置駅方面の展望台で一休みしてから、境内を後にした。往路の参道は急過ぎて足を痛めそうなので、距離は長くなるが勾配の緩い車道を降りる。渓谷散策の残り時間で訪ねた笠置山だったが、思いのほか見どころが多くて楽しめた。

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(左)胎内くぐり
(右)急な石段が続く
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笠置山から木津川渓谷の眺め(北東望)
 

小さな町の中を歩いて、笠置駅へ向かう。切妻平屋の駅舎はきれいに整備されていた。待合室にストリートピアノが置いてあり、駅務室の区画にはカフェが入居している。たとえ簡易委託でも、出札口に人の姿があるのはほっとする。暮れなずむホームのベンチに並び腰を下ろして、17時20分に来る下り列車を待った。

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笠置駅
(左)整備された駅舎
(右)上り列車を見送る
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、名古屋(昭和63年修正)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

2022年12月29日 (木)

コンターサークル地図の旅-沼沢湖

2022年10月16日、会津でのコンターサークル-s 秋の旅2日目は、JR只見線の気動車に乗って沼沢湖(ぬまざわこ)を訪れた。沼沢湖というのは、会津西部に位置する広さ約3.0平方km、深さ96mのカルデラ湖だ。阿賀川(あががわ、下注)の支流、只見川(ただみがわ)の流域にあり、5400年前に噴火した沼沢火山の火口が湛水して生じた。

*注 大川ともいい、新潟県に入ると阿賀野川と呼ばれる。

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沼沢湖北岸から惣山を望む
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図1 沼沢湖周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和53)年編集)
 

もちろん初めて行く場所だが、名まえだけはずっと前から知っている。堀淳一さんの初期著作の一つ『地図から旅へ』(毎日新聞社、1975年)で紹介されていたからだ。当時は沼沢沼(ぬまざわぬま)と呼ばれていた。堀さんが歩いたのは12月初旬で、すでに一帯が雪に埋もれる中、若松駅前で急遽買った長靴をはいて、最寄りの早戸(はやと)駅から湖に通じる坂道を上っている。

「やがて、沼御前神社のある丘をおおう杉林のかなたから沼が姿を見せ、私は足の冷たさを忘れてそれに見入った。そこは神社の北の入江の奥だった。対岸に盛り上がる惣山(そうやま)と前山の山肌は、小降りになりながらもまだ降り続いている雪にかすんで鉛色をおび、沼の面もそれを映して浅葱鼠色にどんよりと沈んでいた。」(同書p.166、下注)

*注 「地図の風景 東北Ⅰ 福島・宮城・岩手」(そしえて、1981年)でも取り上げられている。

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地図図版のほかは一枚の写真すら載っていないにもかかわらず、読み進むうちに、人影もなく静まり返った山の湖のイメージがありありと目に浮かんだ。それを思い出し、11年ぶりに運行が再開された只見線の会津川口~只見間を乗るのとセットで訪れることにしたのだ。

只見線を終点の小出(こいで)まで通しで走る下り列車は、会津若松発6時08分を逃すと、なんと13時05分までない。それで7時41分発、途中の会津川口止まりの列車で湖を訪れてから、午後の貴重な小出行きを捕まえるというプランを作った。

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(左)会津若松駅にて
  左は会津鉄道、右が只見線の列車
(右)只見線全線再開のポスター
 

列車は、キハ110系の後ろにE120系をつないだ2両編成だった。休日の朝の下り便なので、各ボックスに1人程度しか乗っていない。その中に大出さんを見つけた。晴れ渡る空の下、列車は広々とした会津盆地をのんびり横断し、七折峠(ななおりとうげ)から只見川の渓谷に入っていく。はじめ右岸の段丘上を進んだ後、川を何度か横断するが、中でも第一只見川鉄橋が名所だ。列車も速度を落として、ダム湖の水面に映る色づき始めた山峡の景色を、車窓から堪能させてくれる。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

堀さんは早戸駅と湖の間を往復したが、私たちは湖を北岸からアプローチしようと、一つ先の会津水沼駅で下車した。片面ホームの駅はもちろん無人で、ほかに降り立つ人もなかった。列車はこの先で第四只見川鉄橋を渡っていく。遠望写真が撮れるかと国道252号の水沼橋へ急いだが間に合わず、のっけから汗だけかいてしまった。

対岸に渡って国道から分かれ、低位段丘面に載る水沼の沢西集落の中を上る。この先に、高度約130mの急斜面をヘアピンの連続で這い上がる長い坂道が待ち構えている。杉林に入った一車線の舗装道が最初の折返しにさしかかるころ、合法かどうかはともかく、軽トラックが荷台に若者を2人乗せて、後ろから追い抜いていった。

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(左)会津水沼駅に降りる
(右)国道の水沼橋
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列車のいない第四只見川橋梁
 

沼沢火山の噴火では、厚さ最大200mもの火砕流が周囲に堆積したと考えられている。その後、大半は河川によって運び去られてしまったが、今も一部が平坦面として残っている。水沼の背後の、これから上っていく大栗山と呼ばれるテラス地形もそうだ。標高は450m前後あり、只見川斜面からの浸食が進んでいるものの、まだ平坦面の連なりが断たれるまでには至っていない。

道はクルマがふつうに上れる勾配だったので、よもやま話をしながら歩いたら、いつのまにかテラスのへりまで来ていた。表面のなだらかな土地は耕されて、葉もの野菜が育つ畑と若干の田んぼになっている。向こうで話し声がすると思ったら、さっきの軽トラックに載っていた若者を含む集団が、農作業にいそしんでいた。

乾いた風が通り抜ける高原の道は、心地よいハイキングルートだった。クルマにもめったに会わず、この間に追い抜かれたのは、観光バスが一台と軽快なフットワークの女性ランナーぐらいだ。あのつづら折りを走って上ってきたのなら、かなりの強者に違いない。

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(左)急斜面を上る坂道
(右)大栗山の平坦面に作られた田んぼ
 

道は再び杉林に包まれるが、小さな赤い鳥居と「沼沢湖一周遊歩道・惣山」の標識の前を過ぎると、いよいよ沼沢湖が木の間隠れに見えてきた。地道を少し入ったところで、うろこ雲が浮かぶ空の下に青い水面の眺めが開ける。水面標高475m、足元の砂浜に手漕ぎボートが打ち上げられているのを除けば、視界に入るのは深い森陰とさざ波立つ湖水だけだ。

周囲を限る山並みでは、すでに紅葉が始まっている。右の高いピークが標高816mの惣山で、湖に落ち込む剥き出しの岩壁は、広重が描いた五十三次の箱根湖水図を思わせる(冒頭写真参照)。これが芦ノ湖なら観光客の喧騒が響いているだろうが、ここでは木の葉を揺らす風の音しか聞こえない。

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(左)鳥居と遊歩道の標識がほぼサミット
(右)地道の先に湖面が開ける
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沼沢湖西岸、左のピークが惣山
沼御前神社の岬から撮影
 
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沼沢湖南岸、正面は標高835mの前山
 

神秘的な風景に見とれていると、突然、私のスマホが鳴り出した。かけてきたのは丹羽さんで、クルマで湖岸まで来ているという。居場所を伝えて落ち合うことにした。フェアリーロードの名がある湖岸道路を、見事なアカマツの木や発電所の取水口跡を観察しながら東へ歩いていく。途中のパーキングから先は、地形図にない遊歩道がついていた。

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(左)藤ヶ崎のアカマツ
(右)沼沢沼発電所の取水口跡
 

堀さんが湖を眺めたキャンプ場のある浜まで行き、その一角に三人腰を下ろして、昼食をとる。それから、沼御前神社の岬を回っていく湖岸遊歩道に足を向けた。道幅いっぱいに大きなホウの葉が散り敷いていて、頭上のシイやカツラももう冬木の状態だ。

道なりに行けば「沼沢湖一周遊歩道」(下注1)に入るはずだと、さらに南側の浜まで進んだが、地図とは違い、舗装道は上村(かみむら)の方へ曲がっていくようだった。湖周辺の地形図は、建物の描写でも分かるとおり1:25,000の精度のままだ。現地調査も不十分で、道路網の描写がはなはだ頼りない。たとえば、この舗装道やキャンプ場近辺の遊歩道は記載がない一方、描かれている岬と神社を結ぶ階段は実際にはなかった(下注2)。諦めて、元来た道をキャンプ場まで戻る。

*注1 優雅な散歩道のように聞こえるが、実踏レポートによれば、かなりの難路らしい。
*注2 沼御前神社へは、北側と南側から山道で到達できるようだ。

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人影少ない沼沢湖畔キャンプ場
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(左)ホウの葉散り敷く湖岸遊歩道
(右)沼御前神社の岬を北望
 

それにしても休日というのに、離れた場所で数人がバーベキューを楽しんでいるぐらいで、ほとんど人の姿を見かけない。静かで美しい景色に去りがたい気持ちは強かったが、列車の都合もある。13時すぎ、クルマで戻る丹羽さんと別れて、早戸駅へ向け、急流の沼沢川に沿う県道を下っていった。

只見川に面する急斜面には、いろは坂のような何段ものつづら折りがある。それを通過し、左に折れると、狭い河岸段丘の谷壁に、一見要塞風のコンクリート擁壁が見えてきた。沼沢沼水力発電所の水路管が通っていた跡だ。水路管は段丘崖をさらに降りて、川べりにあった発電所の本体施設に続いていた。

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(左)只見川斜面を降りるつづら折り
(右)正面に発電所の水路管跡が
 

只見川を渡る早三橋(はやみばし)のたもとに、東北電力の案内板が立っている。発電所は、沼沢湖と只見川(宮下ダム湖)の200m以上にもなる高低差を利用して、1952(昭和27)年に造られた。湖から落とす水で発電機を回すだけでなく、オフピーク時に湖へ水を汲み上げて次の発電に備える揚水式の発電所だった。当時は東洋一の規模と謳われたが、下流に第二沼沢発電所が稼働したこともあり、2002(平成14)年に廃止となった。施設はすでに撤去済みで、草生した敷地が残されているばかりだ。

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川岸に残る沼沢沼水力発電所跡
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図3 沼沢沼発電所が描かれた旧版地形図
 

早三橋を渡って、国道に合流した。湯ノ平(ゆのたいら)と早戸駅の間にあった旧国道は閉鎖されており、大型車の轟音に肝を冷やしながら、長い新トンネルの側歩道を行くしか方法がない。

早戸駅では、臨時列車「只見線満喫号」の通過を目撃した。その影響で定期列車のダイヤも変更されているが、正確な発時刻が駅に掲示されていない。大出さんによると、ウェブサイトでさえ記載されている時刻がまちまちらしい。日本の鉄道とは思えないおおらかさだ。

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(左)只見線満喫号を目撃
(右)只見川(宮下ダム湖)に臨む早戸駅
 

小出行き2両編成の列車は結局、通常時刻より20分ほど遅れてやってきた。夕方までに小出に到達できる唯一の便なので、朝の会津川口行きとは打って変わって、立ち客も多数見られる。運行再開以来、奥只見を訪れる観光客が増えているのは本当らしい。沼沢湖の余韻は胸にしまって、私たちも混んだ列車の客となった。

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(左)混雑する車内、法被姿は地元のガイドさん
(右)只見駅では10分停車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、2万5千分の1地形図沼沢沼(昭和50年修正測量)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年6月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-裏磐梯の火山地形

今から134年前の1888(明治21)年、磐梯山が水蒸気爆発を起こした。「黒煙柱は約1500mの高さまで立ち昇り、1分ほどの間に15回~20回も爆発が繰り返されました。(中略)その後も30分~40分間、小破裂は巨砲が連発するように続きました。噴煙はキノコ型に拡がり、高さ約5000mに達しました」(磐梯山噴火記念館の展示パネルより)

この噴火で、今の磐梯山の北側にあった小磐梯が崩壊し、総量約20億トンと言われる岩屑なだれが発生した。山体は大きくえぐれてカルデラをなすとともに、北と東で麓の谷が埋まり、周辺の風景を一変させた…。2022年春のコンター旅、会津での2日目は、このとき生じた湖沼や流れ山など、山体崩壊で生じた裏磐梯の特徴的な火山地形を見に行く。

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五色沼の一つ、弁天沼
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図1 磐梯山周辺の1:200,000地勢図
(左)1988(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集

5月22日、会津若松駅から朝早い磐越西線郡山行の電車に乗った。本日の参加者は大出さんと私。昨日に続いて空はどんよりとして、磐梯山も頂きは雲に隠れている。電車は次の広田駅を出ると、磐梯山の南麓に広がる高原地帯へ上っていく。

人影少ない猪苗代駅前で、裏磐梯高原駅行きの路線バスに乗り込んだ。磐梯山周辺は会津バスが撤退し、現在は磐梯東都バスが運行している。乗客は私たちを含めて5人。初夏の休日とはいえ、雨の予報が出ているから、わざわざ山へ出かける人は少ないだろう。

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(左)朝の猪苗代駅
(右)駅前から裏磐梯高原駅行きのバスに乗る
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

裏磐梯の一帯には、湖沼を巡る遊歩道がいくつかある。まずは、観光ルートとしておなじみの五色沼自然探勝路を歩くつもりだ。東の入口から西の桧原湖畔まで長さ3.6km。バスを降りると、ビジターセンターが目の前にあったのでルートマップでもと思ったが、まだ開館前だった。

五色沼というのは、磐梯山北麓に点在する大小30余の湖沼群の総称だ。噴火の際に斜面を流れ下った岩屑が扇状に広がり、大小の丘、いわゆる流れ山を生じた。上掲の陰影付き地形図では、一帯の土地に細かい凹凸が見て取れるが、これらはすべて流れ山だ。湖沼群は、その間の窪地に雨水や地下水が溜まってできた。

「これらの沼の多くは、磐梯山の火口付近にある銅沼(あかぬま)に端を発する地下水を水源としております。硫化水素が多量に溶け込んだ水により、水質が酸性の沼もいくつかあります。また、桧原湖からの水や磐梯山の深層地下水などが混入している湖沼もあり、沼ごとに異なる多様な水質となっています」(磐梯山ジオパーク協議会による現地案内板より)。

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五色沼の案内板
 

探勝路へ歩を進めると、まず見えてくるのが、五色沼の中で最も大きな毘沙門沼(びしゃもんぬま)だ。湖面の色は青緑、ターコイズブルーというところで、今日のような天気でも十分美しいが、見る角度によって鮮やかさには微妙な違いがある。高みから見下ろした方が明るく、ブルーの色合いが引き立つようだ。

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毘沙門沼
 

レストハウス前の広場でメインルートからいったんはずれ、周遊歩道「磐鏡園プロムナード」へ足を向けた。小川の木橋を渡り、ウッドチップを敷いた小道をたどっていくと、小高い丘の上に磐梯山と吾妻連峰、2か所の展望台がある。山並みは雲の中だが、東のほうに秋元湖が遠望できた。今回はそちらには行かないので、少し得した気分だ。

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(左)磐鏡園プロムナード
(右)威嚇?それとも歓迎?
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吾妻連峰展望台から秋元湖を遠望
 

もとに戻り、毘沙門沼の北岸に沿って歩く。沼は複雑な形状をしていて、角を回るたびにその表情を変える。探勝路には少なからずアップダウンがあるが、足元の悪いところにはしっかりした木道が組まれていた。眺望が開けるポイントには、沼の名を記した標柱と出口への距離標も立っている。

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毘沙門沼に沿う五色沼自然探勝路
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ビューポイントに立つ標柱と距離標
 

毘沙門沼を見送って山中を歩いていくと、右手に小さな沼が現れた。赤沼といい、水面は明るい緑だが、岸辺に赤茶色の縁取りがついている。鉄分を多く含む水質のため、水に浸かる植物が錆色に染まるのが原因だそうだ。

みどろ沼の水の色は一言では言い表せない。光線の加減にもよるのだろうが、手前はアップルグリーン(黄味を帯びた明るい緑)、しかし奥は青みが濃くて毘沙門沼のそれに近い。小さな沼なのに、まったく色が異なるのも不思議だ。勢いよく流れる小川をさかのぼると竜沼だが、これは枝葉や下草に遮られて、水面を見渡すのは難しかった。

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赤沼
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(左)みどろ沼
(右)竜沼
 

探勝路は上り坂になる。次の弁天沼は、地形的に一段高い位置にあるのだ。五色沼で2番目に大きい沼で、そのせいか、水の色はさらに明るい。ここでは道が岸辺に沿って延びていて、長い時間、眺めを楽しむことができる。沼の南西端には、新しい展望デッキも設けられている。時刻が10時を回って、西側(桧原湖側)から入ってきた人たちとすれ違うようになった。

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弁天沼
 

るり沼の展望デッキはメインルートから少し引っ込んだところにあるので、うっかりすると見過ごしてしまう。私たちも青沼で気づいて、引き返した。ここは磐梯山のビューポイントの一つでもあるのだが、あいにく見えるのは裾の方だけだ。しかし、周りの森が静かな水面にくっきりと映り込んで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。

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(左)メインルート(写真左奥)からるり沼展望デッキへの道
(右)展望デッキ
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るり沼、背景の磐梯山は雲の中
 

コースも後半になってくると、注意力が散漫になる。実のところ、青沼と柳沼はあまり印象が残っていない。撮った写真を見返すと、青沼はその名にたがわず空色の水面が美しいし、柳沼は劇場のような奥行きが感じられる空間だ。もっとしっかり見ておけばよかった。

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青沼
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柳沼
 

2時間あまりの歩きを終えて、柳沼を見渡す裏磐梯物産館のロビーでしばし休憩。それから、国道を北へ歩いた。長峯舟付というバス停の近くから、別の遊歩道、全長6kmの桧原湖畔探勝路が延びている。これは桧原湖(ひばらこ)の東岸に沿って北上するルートで、案内板によれば「吊り橋をわたって桧原湖畔を歩くみち」。

日本一長い駅名のような落ち着かない響きだが、吊り橋がキーなのは間違いない。というのも、いかり潟という入江への水路をまたぐこの橋は、11月20日から翌年4月20日まで閉鎖され、通行できなくなってしまうのだ。迂回路はないので、全線通しで歩けるのは雪のない半年あまりに限られる。

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桧原湖畔探勝路の案内板
 

ルートはおおむね湖の南東岸に沿うが、アップダウンがそれなりにある。桧原湖をせき止めているのも流れ山なので、平坦な土地がほとんどないからだ。しかし、階段や木道は使われず、落ち葉が積もっているものの、路面は簡易舗装されている。

道は最初、西へ進む。松原キャンプ場の先では、雲が少し上がって、裏磐梯の荒々しいカルデラを中腹まで眺めることができた。この後また天気が悪くなったので、これが山の見納めだった。北に進路を変えてしばらく行くと、右手にいかり潟の入江が現れた。

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(左)松原キャンプ場のボート桟橋
(右)簡易舗装の路面
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桧原湖畔から望む裏磐梯のカルデラ
 

吊り橋の橋面は板張りで、安全のため20人以上載らないように、と警告板が立ててある。しかし、ケーブルを渡す主塔は鉄製で、頑丈そうだ。奥まった入江には、ボートが何艘か浮かんでいる。魚釣りのようだが、前に立って水面を凝視している人もいる。ハンプと呼ばれ、釣り場にもなっている陰顕岩が多いそうだから、その見張りだろうか。

渡るころから雨足が強まってきた。少し先にあずまやがあったので、雨宿りを兼ねて昼食休憩にする。

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いかり潟の吊り橋
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(左)水路をまたぐ
(右)いかり潟に浮かぶボート
 

桧原湖は面積10.7平方kmで裏磐梯最大の湖だが、水深は意外に浅く、南部ではせいぜい10~20mだ。地形図の等深線に着目すると、湖底にも、地上と同じような無数の凹凸が描かれている。湛水する前は、流れ山に覆われた地形だったことが見て取れる。湖岸のハンプももちろん、流れてきた岩屑の一部だ。

一方、地形図には湖面の標高が822mと記されていて、同514mの猪苗代湖、220m前後の若松市街地に比べて、はるかに高地にある。湖の西側は既存の山地が連なっているが、喜多方に抜ける旧道細野峠の標高は約870mで、湖面からわずか50m高いだけだ。

噴火で谷を埋めた岩屑や泥流の層は、150~200mの厚みがあるとされる。堰止湖とはいうものの、岩屑で嵩上げされた表面の、少しくぼんだところに薄く広く水がたまったのが桧原湖の実態ということになる。

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桧原湖、流れ山が島になって点在
 

小止みになったのを見計らい、再び歩き出した。ルートの後半は湖岸から少し遠ざかり、森の中を縫う道になる。キャンプ場から先は、林道といった雰囲気の地道だ。このまま進むと、裏磐梯サイトステーションという休憩施設の前に出ていくが、中瀬沼探勝路と記された木標に従い、右へ折れる。

中瀬沼の前に、レンゲ沼探勝路に寄り道しようと思った。アプローチは湿地の上を行く趣のある木道だ。花の季節が終わったミズバショウが、あちこちで大きな葉を開いている。しかし、当のレンゲ沼は一周しても湖面があまり見えなさそうなので、途中で引き返した。

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(左)レンゲ沼探勝路の木道
(右)花の終わったミズバショウ
 

方や中瀬沼のほとりには、眺めのいいことで知られる展望台がある。沼の北岸にある小高い丘、すなわち流れ山の上から、磐梯山が正面になる。むろん今日は雲の中だが、手前の中瀬沼にも、水没を免れ、新緑を湛えた流れ山がたくさん浮かんでいる。展望台から見下ろすと、まるで森が浸水しているように見えた。

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中瀬沼展望台からの眺め
 

その後は、県道2号米沢猪苗代線の側歩道を黙々と南へ戻る。歩きの締めくくりに、磐梯山噴火記念館を訪れた。ここでは明治の噴火の状況や、湖沼群の成因・特徴を詳しく紹介している。1988年の開館だそうで、展示物はさすがにくたびれかけているが、子供たちの興味も引くようなジオラマや人形を使ったわかりやすい表現に好感が持てる。

2階の一コーナーではNHKの番組「ブラタモリ」の磐梯山編を流していたので、しばらく視聴した。一行は毘沙門沼や銅沼を訪れて、火山地形や沼の水質を観察している。コンター旅のテーマにも通じる番組だから、毎週ほぼ欠かさず見ているが、現地を巡った後なのでより実感がわく。大人向けには、これ1本で十分な説得力があると思う。

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(左)磐梯山噴火記念館
(右)流れ山の露頭
 

向かいの3Dワールドは行かなかったが、裏手に流れ山の露頭がある。駐車場を造成した際に、流れ山が半分削られ、断面がひょうたん島の形に見えているのだ。落ち葉が積もってはいるが、ごろりとした石も露出していて、岩屑流の片鱗が窺えた。一帯は森に覆われてしまったため、このように露頭を観察できる場所はほかにないらしい。

春の旅はここがゴールだ。現地解散の後、私は小野川湖の水門を見学し、最寄りのバス停から、喜多方へ抜ける1日2本しかないバスに乗った。

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小野川湖の水門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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