典型地形

2022年6月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-裏磐梯の火山地形

今から134年前の1888(明治21)年、磐梯山が水蒸気爆発を起こした。「黒煙柱は約1500mの高さまで立ち昇り、1分ほどの間に15回~20回も爆発が繰り返されました。(中略)その後も30分~40分間、小破裂は巨砲が連発するように続きました。噴煙はキノコ型に拡がり、高さ約5000mに達しました」(磐梯山噴火記念館の展示パネルより)

この噴火で、今の磐梯山の北側にあった小磐梯が崩壊し、総量約20億トンと言われる岩屑なだれが発生した。山体は大きくえぐれてカルデラをなすとともに、北と東で麓の谷が埋まり、周辺の風景を一変させた…。2022年春のコンター旅、会津での2日目は、このとき生じた湖沼や流れ山など、山体崩壊で生じた裏磐梯の特徴的な火山地形を見に行く。

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五色沼の一つ、弁天沼
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図1 磐梯山周辺の1:200,000地勢図
(左)1988(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集

5月22日、会津若松駅から朝早い磐越西線郡山行の電車に乗った。本日の参加者は大出さんと私。昨日に続いて空はどんよりとして、磐梯山も頂きは雲に隠れている。電車は次の広田駅を出ると、磐梯山の南麓に広がる高原地帯へ上っていく。

人影少ない猪苗代駅前で、裏磐梯高原駅行きの路線バスに乗り込んだ。磐梯山周辺は会津バスが撤退し、現在は磐梯東都バスが運行している。乗客は私たちを含めて5人。初夏の休日とはいえ、雨の予報が出ているから、わざわざ山へ出かける人は少ないだろう。

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(左)朝の猪苗代駅
(右)駅前から裏磐梯高原駅行きのバスに乗る
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

裏磐梯の一帯には、湖沼を巡る遊歩道がいくつかある。まずは、観光ルートとしておなじみの五色沼自然探勝路を歩くつもりだ。東の入口から西の桧原湖畔まで長さ3.6km。バスを降りると、ビジターセンターが目の前にあったのでルートマップでもと思ったが、まだ開館前だった。

五色沼というのは、磐梯山北麓に点在する大小30余の湖沼群の総称だ。噴火の際に斜面を流れ下った岩屑が扇状に広がり、大小の丘、いわゆる流れ山を生じた。上掲の陰影付き地形図では、一帯の土地に細かい凹凸が見て取れるが、これらはすべて流れ山だ。湖沼群は、その間の窪地に雨水や地下水が溜まってできた。

「これらの沼の多くは、磐梯山の火口付近にある銅沼(あかぬま)に端を発する地下水を水源としております。硫化水素が多量に溶け込んだ水により、水質が酸性の沼もいくつかあります。また、桧原湖からの水や磐梯山の深層地下水などが混入している湖沼もあり、沼ごとに異なる多様な水質となっています」(磐梯山ジオパーク協議会による現地案内板より)。

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五色沼の案内板
 

探勝路へ歩を進めると、まず見えてくるのが、五色沼の中で最も大きな毘沙門沼(びしゃもんぬま)だ。湖面の色は青緑、ターコイズブルーというところで、今日のような天気でも十分美しいが、見る角度によって鮮やかさには微妙な違いがある。高みから見下ろした方が明るく、ブルーの色合いが引き立つようだ。

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毘沙門沼
 

レストハウス前の広場でメインルートからいったんはずれ、周遊歩道「磐鏡園プロムナード」へ足を向けた。小川の木橋を渡り、ウッドチップを敷いた小道をたどっていくと、小高い丘の上に磐梯山と吾妻連峰、2か所の展望台がある。山並みは雲の中だが、東のほうに秋元湖が遠望できた。今回はそちらには行かないので、少し得した気分だ。

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(左)磐鏡園プロムナード
(右)威嚇?それとも歓迎?
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吾妻連峰展望台から秋元湖を遠望
 

もとに戻り、毘沙門沼の北岸に沿って歩く。沼は複雑な形状をしていて、角を回るたびにその表情を変える。探勝路には少なからずアップダウンがあるが、足元の悪いところにはしっかりした木道が組まれていた。眺望が開けるポイントには、沼の名を記した標柱と出口への距離標も立っている。

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毘沙門沼に沿う五色沼自然探勝路
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ビューポイントに立つ標柱と距離標
 

毘沙門沼を見送って山中を歩いていくと、右手に小さな沼が現れた。赤沼といい、水面は明るい緑だが、岸辺に赤茶色の縁取りがついている。鉄分を多く含む水質のため、水に浸かる植物が錆色に染まるのが原因だそうだ。

みどろ沼の水の色は一言では言い表せない。光線の加減にもよるのだろうが、手前はアップルグリーン(黄味を帯びた明るい緑)、しかし奥は青みが濃くて毘沙門沼のそれに近い。小さな沼なのに、まったく色が異なるのも不思議だ。勢いよく流れる小川をさかのぼると竜沼だが、これは枝葉や下草に遮られて、水面を見渡すのは難しかった。

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赤沼
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(左)みどろ沼
(右)竜沼
 

探勝路は上り坂になる。次の弁天沼は、地形的に一段高い位置にあるのだ。五色沼で2番目に大きい沼で、そのせいか、水の色はさらに明るい。ここでは道が岸辺に沿って延びていて、長い時間、眺めを楽しむことができる。沼の南西端には、新しい展望デッキも設けられている。時刻が10時を回って、西側(桧原湖側)から入ってきた人たちとすれ違うようになった。

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弁天沼
 

るり沼の展望デッキはメインルートから少し引っ込んだところにあるので、うっかりすると見過ごしてしまう。私たちも青沼で気づいて、引き返した。ここは磐梯山のビューポイントの一つでもあるのだが、あいにく見えるのは裾の方だけだ。しかし、周りの森が静かな水面にくっきりと映り込んで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。

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(左)メインルート(写真左奥)からるり沼展望デッキへの道
(右)展望デッキ
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るり沼、背景の磐梯山は雲の中
 

コースも後半になると、注意力が散漫になる。実のところ、青沼と柳沼はあまり印象が残っていない。撮った写真を見返すと、青沼はその名にたがわず空色の水面が美しいし、柳沼は劇場のような奥行きが感じられる空間だ。もっとしっかり見ておけばよかった。

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青沼
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柳沼
 

2時間あまりの歩きを終えて、柳沼を見渡す裏磐梯物産館のロビーでしばし休憩。それから、国道を北へ歩いた。長峯舟付というバス停の近くから、別の遊歩道、全長6kmの桧原湖畔探勝路が延びている。これは桧原湖(ひばらこ)の東岸に沿って北上するルートで、案内板によれば「吊り橋をわたって桧原湖畔を歩くみち」。

日本一長い駅名のような落ち着かない響きだが、吊り橋がキーなのは間違いない。というのも、いかり潟という入江への水路をまたぐこの橋は、11月20日から翌年4月20日まで閉鎖され、通行できなくなってしまうのだ。迂回路はないので、全線通しで歩けるのは雪のない半年あまりに限られる。

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桧原湖畔探勝路の案内板
 

ルートはおおむね湖の南東岸に沿うが、アップダウンがそれなりにある。桧原湖をせき止めているのも流れ山なので、平坦な土地がほとんどないからだ。しかし、階段や木道は使われず、落ち葉が積もっているものの、路面は簡易舗装されている。

道は最初、西へ進む。松原キャンプ場の先では、雲が少し上がって、裏磐梯の荒々しいカルデラを中腹まで眺めることができた。この後また天気が悪くなったので、これが山の見納めだった。北に進路を変えてしばらく行くと、右手にいかり潟の入江が現れた。

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(左)松原キャンプ場のボート桟橋
(右)簡易舗装の路面
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桧原湖畔から望む裏磐梯のカルデラ
 

吊り橋の橋面は板張りで、安全のため20人以上載らないように、と警告板が立ててある。しかし、ケーブルを渡す主塔は鉄製で、頑丈そうだ。奥まった入江にボートが何艘か浮かんでいる。魚釣りのようだが、前に立って水面を凝視している人もいる。ハンプと呼ばれ、釣り場にもなっている陰顕岩が多いそうだから、その見張りだろうか。

渡るころから雨足が強まってきた。少し先にあずまやがあったので、雨宿りを兼ねて昼食休憩にする。

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いかり潟の吊り橋
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(左)水路をまたぐ
(右)いかり潟に浮かぶボート
 

桧原湖は面積10.7平方kmで裏磐梯最大の湖だが、水深は意外に浅く、南部ではせいぜい10~20mだ。地形図の等深線に着目すると、湖底にも、地上と同じような無数の凹凸が描かれている。湛水する前は、流れ山に覆われた地形だったことが見て取れる。湖岸のハンプももちろん、流れてきた岩屑の一部だ。

一方、地形図には湖面の標高が822mと記されていて、同514mの猪苗代湖、220m前後の若松市街地に比べて、はるかに高地にある。湖の西側は既存の山地が連なっているが、喜多方に抜ける旧道細野峠の標高は約870mで、湖面からわずか50m高いだけだ。

噴火で谷を埋めた岩屑や泥流の層は、150~200mの厚みがあるとされる。堰止湖とはいうものの、岩屑で嵩上げされた表面の、少しくぼんだところに薄く広く水がたまったのが桧原湖の実態ということになる。

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桧原湖、流れ山が島になって点在
 

小止みになったのを見計らい、再び歩き出した。ルートの後半は湖岸から少し遠ざかり、森の中を縫う道になる。キャンプ場から先は、林道といった雰囲気の地道だ。このまま進むと、裏磐梯サイトステーションという休憩施設の前に出ていくが、中瀬沼探勝路と記された木標に従い、右へ折れる。

中瀬沼の前に、レンゲ沼探勝路に寄り道しようと思った。アプローチは湿地の上を行く趣のある木道だ。花の季節が終わったミズバショウが、あちこちで大きな葉を開いている。しかし、当のレンゲ沼は一周しても湖面があまり見えなさそうなので、途中で引き返した。

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(左)レンゲ沼探勝路の木道
(右)花の終わったミズバショウ
 

方や中瀬沼のほとりには、眺めのいいことで知られる展望台がある。沼の北岸にある小高い丘、すなわち流れ山の上から、磐梯山が正面になる。むろん今日は雲の中だが、手前の中瀬沼にも、水没を免れ、新緑を湛えた流れ山がたくさん浮かんでいる。展望台から見下ろすと、まるで森が浸水しているように見えた。

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中瀬沼展望台からの眺め
 

その後は、県道2号米沢猪苗代線の側歩道を黙々と南へ戻る。歩きの締めくくりに、磐梯山噴火記念館を訪れた。ここでは明治の噴火の状況や、湖沼群の成因・特徴を詳しく紹介している。1988年の開館だそうで、展示物はくたびれかけているが、子供たちの興味も引くようなジオラマや人形を使ったわかりやすい表現に好感が持てる。

2階の一コーナーではNHKの番組「ブラタモリ」の磐梯山編を流していたので、しばらく視聴した。一行は毘沙門沼や銅沼を訪れて、火山地形や沼の水質を観察している。コンター旅のテーマにも通じる番組だから、毎週ほぼ欠かさず見ているが、現地を巡った後なのでより実感がわく。大人向けには、これ1本で十分な説得力があると思う。

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(左)磐梯山噴火記念館
(右)流れ山の露頭
 

向かいの3Dワールドは行かなかったが、裏手に流れ山の露頭がある。駐車場を造成した際に、流れ山が半分削られ、断面がひょうたん島の形に見えているのだ。落ち葉が積もってはいるが、ごろりとした石も露出していて、岩屑流の片鱗が窺えた。一帯は森に覆われてしまったため、このように露頭を観察できる場所はほかにないらしい。

春の旅はここがゴールだ。現地解散の後、私は小野川湖の水門を見学し、最寄りのバス停から、喜多方へ抜ける1日2本しかないバスに乗った。

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小野川湖の水門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-大内宿と下野街道中山峠

2022年6月17日 (金)

コンターサークル地図の旅-大内宿と下野街道中山峠

コンター旅の行先に、会津の大内宿(おおうちじゅく)をリクエストしたのは私だ。茅葺屋根の集落なら白川郷や京都の美山にもあるが、通りに沿ってこれほど整然と建ち並ぶ風景は珍しい。それで、一度この目で見たいと思っていた。もとより有名な観光地につき、関東の会員からは「3回行きました」との声も聞かれたが。

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大内宿、見晴台からの眺め
 

周辺の地形図を見ると、「下野(しもつけ)街道」の注記とともに、徒歩道が北と南へ延びている。これは、日光街道の今市と城下町会津若松を結んでいた江戸時代の街道で、近年、復元整備されたものだ。「地図を見ながら足で歩く」という会の趣旨に基づいて、宿場の中を巡った後は、この道を南へたどることにしたい。中山峠を越えて会津下郷(あいづしもごう)駅まで、約12kmの行程だ。

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若松~田島間の1:200,000図に下野街道の宿場と峠の位置を加筆
「会津線」は現在の会津鉄道

2022年5月21日、会津鉄道の単行気動車を、湯野上温泉駅で降りた。駅舎は、本物の茅を葺いた古民家風の造りだ。宿場の玄関口だから、それをイメージしているに違いない。集まったのは、大出さん、中西さんと私の3名。朝はまだ薄日が差しているが、午後は曇りのち雨の予報が出ている。

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茅葺屋根の湯野上温泉駅舎
 

大内宿はここから西へ約6km入った山中で、「猿游(さるゆう)号」という名の直行バスがある。ただし運賃は、往復で1100円。片道の設定がないため、私たちのように往路だけ乗りたい者にとっては割高だ。「3人ならタクシー代を割り勘する方が安いですよ」と、大出さんがタクシー会社に電話をかけるものの、「配車に30分かかると言われました」。初戦を落とした気分で、駅前に停車していたバスに乗り込んだ。マイクロバス車両なので、中はほぼ満席だ。

走り出すと、添乗の女性が絵地図を配り、バスガイドのように流暢な口調で見どころを案内してくれる。提携食堂の割引券までもらったので、何だか観光気分が湧いてきた。その間にもバスは谷川に沿う山道をくねくねと遡っていく。約20分で、宿場の裏手にある停留所に到着した。

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猿游号で大内宿に到着
 

さっそく脇道を抜けて、街道筋に出る。土道の広い通りが宿場を南北に貫いていて、その両側に、写真で見てきたとおりの茅葺屋根が並んでいる。敷地は東西に長く、各家屋は道路から一定距離を置いて、ゆったりとした建て構えだ。多くが寄棟造りで、玄関は南に向いた長手の側にあるようだが、どこも道路に面した妻面を開放して、観光客向けの店を出している。

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大内宿の街道筋
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(左)妻面を開放した店構え
(右)色とりどりの吊るし飾り
 

「古民家を集めたどこかのテーマパークみたいですねえ」などと話しながら、緩い坂になった通りを上手へ歩いていく。まずは村を一望したいので、突き当りに建つ浅沼食堂の左手から急な石段にとりついた。上りきると子安観音堂だが、その右側の山道で先客たちが立ち止まり、カメラやスマホを構えている。

「みなさんが観光ポスターなどでご覧になる風景は、ほとんどそこで撮られています」と車中で案内していた添乗員さんの言葉どおり、ここが絶景ポイントの見晴台だった。見通しのきく高台がほかにないので、誰が撮っても同じような構図の写真になるのは物足りないが。

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(左)子安観音堂
(右)山道の途中にある見晴台
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見晴台からの眺め
 

山道から降りて、本陣跡に建てられた町並み展示館を訪ねた。もとの本陣の建物はとうに失われたので、近隣の同種の建物を参考に設計復元したものだという。それもあってか、ここは長手を通りに向けて建てられている。中に入ると、勝手と呼ばれる板間に囲炉裏が焚かれ、煙がもうもうと天井へ上っていた。さまざまな農具や生活用具の展示とともに、街道の歴史や宿場の景観保存に関する説明パネルが掲げられていて、参考になる。

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本陣跡の町並み展示館
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(左)勝手(板間)に囲炉裏
(右)農具や生活用具の展示
 

それによれば下野街道、別名 会津西街道は、17世紀初めに会津藩により江戸への最短経路として整備された。藩の参勤交代や廻米(米の輸送)に利用され、大内は宿駅の一つとして、継立(人馬の交換)や宿場経営で栄えた。しかしその後、参勤交代の経路変更や地震による不通の影響を受けて、下野街道の重要性は薄れていく。

明治に入り、阿賀川(大川)沿いに新日光街道が整備されると、人馬の往来はそちらに移り、大内は養蚕や麻栽培で生計を立てる静かな農村集落になった。旧観を残す町並みがメディアで紹介され、人々の関心を集めるようになったのは、ようやく1970年前後のことだ。1981年に大内宿は、国の重要伝統的建造物保存地区に選定された。さらに1986年の野岩鉄道開業で首都圏からの交通の便がよくなったことで、観光地としての人気が定着していった。

地区の特色である茅葺屋根は維持に手間がかかる。かつてはトタン板で覆うことも行われたというが、今は表通りの多くが茅葺きに戻されている。もっともこれらの家屋は主に土産物屋、食堂、民宿などの事業に使われており、住民の方は裏手に建てた一般的な住宅で生活しておられるようだ。

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土固めの路面、石組みの水路
 

街道歩きが控えているので、混まないうちに昼食にしよう。展示館向かいの大黒屋の座敷に上がった。遠路はるばる来たからには、名物のネギそばを試さないわけにはいかない。

そば自体は冷たいかけそばなのだが、器の上に白ネギが一本置かれている。これを箸代わりにしてそばを掬うとともに、適宜かじって薬味にする、というものだ(下注)。ただし、食べ進むと最後に短く切れたそばが器の中に残る。「さすがにこれは箸でないと掬えませんね」。むろん箸も座卓に用意されている。

*注 大黒屋の品書きではこれは「ねぎ一本そば」とされ、方や「ねぎそば」はかけそばの上に刻みねぎが載るものだった。

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大黒屋のねぎ一本そば

思い残すことがなくなったところで、宿場を後にした。バスで来た道を南へ歩いていくと、小野川の橋のたもとから、旧街道が分岐している。「歴史の道(下野街道)」と記された道標が立っているから間違いない。その先では、ひょろっとした松の生えた「大内宿南一里塚」が旅人を迎えてくれた。

しかし、斜面に開かれた棚田の間を上る道は一直線で、圃場整備で付け替えられたようだ。森に入ると、草深い踏み分け道になった。「もっと歩いている人がいると思ってましたが」。少なくとも私たちが歩いている間、すれ違ったり、追い越したりする人は見かけなかった。

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(左)旧街道の分岐点
(右)大内宿南一里塚
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
大内宿~沼山間
 

先ほどの資料館のパネルによれば、下野街道の整備事業は2000年に完成し、2002年に国の史跡に指定されている。地形図に史跡の記号(下注)が付されているのは、それが理由だ。しかし、生活道路は別にあり、たまにハイカーが通るだけなら、数年も経たないうちに草生してしまうのは避けられない。

*注 数学の「ゆえに」記号に似たこの地図記号は、「史跡・名勝・天然記念物」を表す。

道標は何種類かあった。「下野街道」と刻まれた立派な石標が主要な分岐点に立っているほか、1本足に金属板を取り付けたもの、もっと素朴な木製のものも見かけた。ところが金属板はどれも外されたり、折り曲げられたりして無残な状態をさらしている。どんな動機があったのかは知らないが、つまらないことをしたものだ。

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(左)下野街道の石標
(右)金属板の道標は無残な状態に
 

草の道は500mほどややきつい上りが続いた後、なだらかになる。そして沼山集落の手前で、無事舗装道に出た。しばらくは、この県道131号下郷会津本郷線を歩く必要がある。2車線幅の走りやすそうな道だが、車両の通行はほとんどなく静かだ。大内宿の駐車場を埋めていた観光客のマイカーは、こちらには回ってこないようだ。

集落の端で、草の道が再び右に別れていた。例によって道標は壊れているが、草道のもつ雰囲気がさきほどと同じなので迷うことはない。少し先の、草道が西へ上っていく林道と交差する地点が、一つ目の分水界だ。

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(左)草道が舗装道に合流
(右)県道沿いの沼山集落
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
沼山~中山峠間
 

地形図から読み取れるとおり、大内宿から中山峠にかけては、周囲とは違うなだらかな回廊状の地形が延びている。私はこの地形に興味があった。地質調査所の研究報告(下注)は、この低地帯に大内断層と呼ばれる南北に走る伏在断層(地表に断層面が現れないもの)を想定している。断層の活動によって東側の山地が高まり、それに遮られる形で西側の山麓に岩屑が堆積した。街道はこの緩斜面に通されているので、分水界越えも険しくはないのだ。

*注 山元孝弘「田島地域の地質」地域地質研究報告 平成11年、地質調査所

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なだらかな回廊状の地形、沼山から東望
 

一方、中西さんの関心はまた別で、「イザベラ・バード Isabella Bird が通った道を歩いてみたかったんです」。イザベラは、明治初期に日本を訪れ、詳細な紀行書を著したイギリスの旅行家だ。1878(明治11)年6月の北日本の旅では、今市から下野街道を北上し、その際「山奥のきれいな谷間にある」(下注1)大内宿で1泊している。イザベラが同じ書で言及している山形県上山(かみのやま)の石橋群を、以前コンター旅で巡ったことがある(下注2)が、下野街道もまた、彼女の長い旅の経由地だったのだ。

*注1 『イザベラ・バードの日本紀行(上)』時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.220。
*注2 「コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群」に記述。

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旧街道を埋め尽くす野の花
 

森の草道は分水界を降りる途中で、また県道に吸収されてしまった。舗装路をしばらく行くと、中山集落に出た。ここでは、巨大なケヤキの木が道端にそびえていて目を引く。傍らの案内板によれば「八幡のケヤキ(中山の大ケヤキ)」と呼ばれ、樹高36m、胸高周囲12m。単に太いだけでなく、むくむくと地中から湧き出したかのような幹の迫力と勢いは見事というほかない。樹齢は950年とあるから、「当然、イザベラ・バードも見たでしょうね」とうなずき合う。

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八幡のケヤキ
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幹の迫力と勢いに目を見張る
 

左手に瑞々しい新緑の景色を見下ろしながら進むと、集落の端にまた旧街道の分岐があった。しかし、ここにはロープが渡してある。「みなんぱら 恵みの交流館」という施設への通路に使われているのだが、コロナ感染拡大防止のため閉園中、と貼り紙がしてあった。そうでなくても旧道は途中でたどれなくなる。県道沿いにあった「トラックの森」の説明板から想像するに、造林事業地とされたことで、中を通過していた旧道は廃道になったようだ。

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中山集落を北望
 

鼠色の空から、いよいよ霧雨が落ちてきた。県道の中山峠の直前に右へ入る林道があり、そこに街道の標識が立っている。林道を少し上ると、街道のつづきが見つかった。街道の中山峠は落ち葉散り敷く森の中だが、標識も何もなく、大きなうろをもつ木の根元に供養塔が倒れているばかりだ。

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(左)県道の中山峠
(右)旧街道の峠、倒れた供養塔
 

峠の南斜面は、戸石川が流れる谷底まで約200mの高度差がある。道は思いのほか荒れていた。行く手をふさぐ倒木をまたぎ、覆いかぶさる雑木をかき分け、湧き水のぬかるみに足を取られながら、急坂を降りていく。かなり下ったところで西へ向かう林道と交差したが、「さすがにこの先は通れそうにないですね」。背丈を越える藪を前に、林道を伝い、県道に迂回せざるをえなかった。

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中山峠からの下りは荒れた道
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
中山峠~会津下郷駅間
 

この区間で、県道は勾配緩和のためにヘアピンを繰り返している。そのカーブの一つで、「高倉山の湧水、長寿の水」と書かれた水汲み場があった。屋根の下の手水鉢に架けられた管から、名水が流れ落ちている。一口掬って飲んでみたが、まろやかな味わいのおいしい水だった。

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長寿の水
 

下り坂の途中から、また旧街道に入った。草道は、S字を描く県道を串刺ししながら降下する。最後は簡易舗装の里道になり、倉谷宿の裏手を通って再び県道に合流した。倉谷宿は、ごくふつうの農村集落だった。間口が狭く奥行きが長い宿場の地割が残るものの、茅葺屋根にはトタンがかぶせてある。とはいえ、大内宿もブレークする前はこのような状況だったのかもしれない。

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(左)倉谷宿の家並み
(右)倉谷宿上方の古い道標
 

戸石川を渡ってなおも行くと、また分かれ道があった。立派な土蔵の前に大内宿近くで見たのと同じ下野街道の石碑が立っていて、旧街道は八幡峠に向けて南の山手を上っていく。しかし残念だが、私たちの街道歩きはここまでだ。帰りの列車が来る会津下郷駅をめざし、このまま県道を下っていくことにしよう。

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板倉の分岐点、旧街道は奥へ
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会津下郷駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、日光(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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2022年6月 2日 (木)

コンターサークル地図の旅-三角西港と長部田海床路

2022年のコンターサークルS春の旅は九州の熊本で始まった。初日の行先は宇土(うと)半島で、明治時代に築かれ、今も当時の姿をとどめる三角西港(みすみにしこう)と、有明海の遠浅の海岸に突き出した長部田海床路(ながべたかいしょうろ)を訪れる。

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三角西港の石積埠頭
 

その日、4月23日は朝から雨模様だった。しかし風はほとんどなく、春らしい静かな降り方だ。遠方からの移動を考慮して、集合時刻は午後に設定されている。私は新幹線で熊本入りし、三角線に直通する2両編成の気動車に乗り継いだ。宇土で大出さんと合流、参加者はこの2名だ。

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宇土半島の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年編集図)
 

列車は、半島北側の有明海沿いを滑るように走っていく。後で行く海床路が車窓から見えた。網田(おうだ)からは徐々に高度を上げ、トンネルで南側斜面に移る。終点の三角駅には13時26分に到着。駅舎は、特急「A列車で行こう」の登場に合わせてレトロモダンに改装されていた。待合ホールは天井も高く、どこかの公会堂と見まがうほどだ。

道路を隔てて向かいに、地味な造りの産交バスターミナルがある。天草さんぱーる行の小型バスで西港の停留所まで、5分もかからない。

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改装された三角駅舎
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(左)普通列車で到着
(右)天井の高い待合ホール
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(左)駅前の三角産交ターミナル
(右)小型バスが西港を経由する
 

三角西港は、1887(明治20)年に開かれた旧港だ。宇土半島の突端に位置し、天草の大矢野島との間の、三角ノ瀬戸と呼ばれる海峡に面している。お雇い外国人のオランダ人技師A・ローウェンホルスト・ムルドル A. Rouwenhorst Mulder が設計し、全長756mの石積み岸壁の内側に港湾施設や市街地が整備された。

しかし開港後しばらくすると、強風や荒波による事故の多発や、煩雑な輸出手続きなど、難点がしだいに顕在化していく。また、背後に山が迫り土地の拡張が難しいことから、1899(明治32)年に九州鉄道(現 JR三角線)が通じていた東港(際崎港)への機能移転も進んだ。

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三角西港旧景
(旧三角簡易裁判所の説明パネルを撮影)
 

こうして明治の後期以降、西港は徐々に衰退したが、港の輪郭は改築や転用で失われることなく、原形のまま残された。時は下って1980年代以降、史跡として再評価された一帯では、施設の整備や復元が行われて、今見るような姿になった。2015年には、ユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも挙げられている。

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現在の旧港の景観
保存建物群が奥に見える
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三角港周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

バスから降り立った旧港は、海峡の前に開かれた景観公園だった。まず見るべきは、天草の石工を動員して施工したという切石積みの護岸や水路、橋梁だ。大小長短の石材を使い分け、精巧に組まれた壁面は、城を護る石垣を思わせる。角に施した丸みや斜面のそり具合に、石工たちの熟練の技が見て取れる。

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重文指定の石積埠頭
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(左)一直線の中央排水路
(右)カーブが美しい後方水路
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三之橋
(左)橋桁にも意匠が
(右)橋の名を刻んだ親柱
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(左)アコウの老樹はシンボル的存在
(右)大木が影をなす岸辺
 

一帯には、旧観を保存または復元した建物も数棟建っている。「あそこへ行ってみましょう」と向かったのは、最も目立つ2層建ての洋館、浦島屋だ。案内標によれば、「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が長崎からの帰途立ち寄り、「夏の日の夢」と題する紀行文の舞台として旅館である。明治38(1905)年に解体され大連に運ばれたが、平成4(1992)年度、設計図をもとに復元された」(西暦を付記)。

内部は無料開放されている。調度品も少なくがらんとしているが、2階のバルコニーに出ると、地上とは違う高い視点から海峡の眺めを楽しめた。ちょうど仮面舞踏会のような扮装をした女性モデルの撮影が行われていたが、光景に何の違和感もない。

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浦島屋
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(左)内部はがらんとしている
(右)バルコニーからの眺め
 

海岸寄りにある白壁の旧海運倉庫は、開港時からの建物だ。当時、埠頭に沿って並んでいた倉庫群の生き残りだそうで、今はレストランに活用されている。食事をする予定はなかったが、お店の人に断って少し見学させてもらった。内部は木骨構造で、吹き抜け天井の広い空間が店を大きく見せている。テラスは海側に開いた特等席で、晴れていたらさぞ爽快な景色だろう。

ほかにも、資料館になっている龍驤館(りゅうじょうかん)、和式家屋の旧高田回漕店、ムルドルハウスという洋館の売店などがあり、博覧会のパビリオンを巡っている気分になった。

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旧海運倉庫はレストランに
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(左)吹き抜け天井の広い内部
(右)テラスは海側に開いた特等席
 

一方、山の手は司法・行政のエリアだ。国道を横断して石段を上ると、右手に旧宇土郡役所が保存されている。本館は正面の外観がみごとだ。玄関車寄せの屋根を支える柱やドーマー(明かり窓)に見られるライトブルーのしゃれた装飾は、ここがお堅い役所だったことを忘れさせる。現在は船員の養成学校、海技学院の校舎として使われているが、本館内部は見学可能だ。

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旧宇土郡役所
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(左)車寄せの屋根を支える装飾柱
(右)本館会議室
 

左手には、旧三角簡易裁判所の木造建物群がある。こちらは昔の小学校のような伝統建築で、内部には西港についての説明パネルなども置かれている。「簡易裁判所は、英語でサマリー・コート summary court なんですねー」と、私は妙なところに感心していたのだが。

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旧三角簡易裁判所
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(左)平屋建ての本館玄関
(右)法廷
 

旧港の景観なら門司港が有名だし、木造洋館を見たければ長崎の山手地区がある。しかしここは人工的な要素に加えて、周囲の地形もおもしろい。海峡は狭く、指呼の間に連なる山はどれもおにぎり形で、海からそそり立っている。左奥には、本土と天草を結ぶ2本の国道橋(下注)が見え、風景にアクセントを添える。私がしきりに写真を撮っているので、「ここ気に入ったみたいですね」と大出さん。

*注 写真では1本の橋のように見えるが、アーチの天城橋(てんじょうきょう)の後ろにトラスの天門橋(てんもんきょう)がある。

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海峡をまたぐ2本の国道橋が見える
 

地形の把握には、高所からの展望が欠かせない。裁判所の裏手から山道をたどると展望所があると聞いていたので、小雨そぼ降る中、上ってみた。しかし、古い展望台からは、成長した樹木の陰になって公園の大半が隠れてしまう。少し下に、より新しい展望デッキがあるのだが、木部腐食のため立入禁止になっていた。

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展望台からのパノラマ
西港の主要建物は左端の木の陰に
 

■参考サイト
宇城市-三角西港 https://www.city.uki.kumamoto.jp/nishiko/

バス停に戻り、次の目的地へ移動すべく、熊本と天草の間を走る路線バス、快速「あまくさ号」を待った。「長部田海床路(ながべたかいしょうろ)」は遠浅の有明海を代表する景観の一つで、宇土半島の付け根、宇土市住吉町にある。

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(左)三角西港バス停の待合所
(右)快速「あまくさ号」
 

バスは、国道57号線で半島の北岸を走っていく。初めは山が海に迫る崖ぎわの道だが、網田のあたりから波が遠のき、磯浜が広がり始めた。「あまくさ号」は最寄りの長部田には停まらないので、住吉駅前で降りた。長部田へは1.5km、徒歩で20分ほど戻る形になる。

クルマに水をはねかけられそうな国道の狭い歩道を避けて、集落の中の道をたどった。このエリアの地形図は1:25,000の精度のままで、細かい道は描かれていない。グーグルマップを頼りに歩いたが、長部田の踏切までちゃんと小道が続いていた。

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(左)線路沿いの小道を伝って長部田へ
(右)三角線の列車を見送る
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長部田周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

海床路というのは、干満差が大きい海でノリの養殖などを行うために、岸から沖へ延ばされた作業用道路のことだ。長部田のそれは1979年に造られ、長さが約1kmある。日没後も利用されるので、街灯が設置されている。潮が満ちてくると道路は水没し、電柱と街灯の列だけが海原の上に取り残される。この幻想的な光景が評判になり、今や人気の観光スポットになっている。

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雨の長部田海床路
 

本日の満潮は12時51分、干潮は19時57分だ。訪れたのは16時前後で、海床路はもうかなり沖まで路面が露出していた。「けっこう潮が引いてますね」「行きの列車から見た景色とはだいぶ違うなあ」。このあたりの干満差は最大5mもあるといい、遠浅の地形とあいまって、潮の満ち引きの速さは想像以上だ。今は干潮に向かう時間帯で、風も弱いので、道路が水に浸る地点まで歩いていった。

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(左)電柱を這い上るフジツボ
(右)緑のノリで覆われた路面
 

土台が露わになった電柱には、2m近い高さまでフジツボがぎっしり貼りついている。潮位が高くなると、そこまで水没するということだ。沖へ行くにしたがって、濡れた路面は緑のノリで覆われ、ぬるぬるしてきた。電柱は全部で24本あるそうだが、たどり着けたのはざっとその2/3までだ。そこから先は、にび色の海の中に残りの電柱と、ブラシのような海苔の支柱が、列になって浮かんでいる。日没の時刻にはまだ早いが、あたりは薄暗く、電灯にももう明かりが灯る。

最後まで雨に降られた旅だったが、茫漠とした寂寥感が漂うこの情景も悪くなかった。住吉駅までまた同じ道を戻り、熊本行の列車に乗り込んだ。

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海に浮かぶ電柱の列
 

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2022年4月 4日 (月)

コンターサークル地図の旅-秋吉台西台のウバーレ集落

地表の風貌が独特なカルスト台地は、地図好き、地形好きにとって興味の尽きない場所だ。台地は石灰岩やドロマイトなど可溶性の岩石によって形づくられ、表面に川というものがない。代わりに大小無数の窪地が口を開けていて、雨水はそこから地下に浸透してしまう。このすり鉢状の窪地がいわゆるドリーネだ。隣接するドリーネどうしがつながって、より大きな窪地に拡大したものはウバーレと呼ばれる(下注)。

*注 もっと広いものにはポリエという名称がある。

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江原ウバーレ集落
 

2021年11月13日、秋のコンター旅西日本編1日目は、山口県西部にある日本最大のカルスト台地、秋吉台(あきよしだい)を訪ねた。ここには、全国的にも珍しいウバーレ集落がある。ウバーレの底で集落が営まれているのだ。

秋吉台は、北東から南西方向に長さ16~18km、幅6~8kmにわたって広がるが、中央を厚東川(ことうがわ)が南北に貫いていて、その谷によって大きく東台と西台に分けられる(下図参照)。私たちがふつう思い浮かべる秋吉台は、実は東台のことだ。秋芳洞(あきよしどう)など大小の鍾乳洞や、波打つ草原の台地があり、国定公園に指定されている。

対する西台も面積は同規模だが、こちらは産業地区の側面をもつ。東部と南部で、セメントなどの材料となる石灰岩の大規模な採掘場が操業しているほか、一部は牧場として開拓されている。しかし、森も案外多く残されていて、ウバーレ集落があるのは北西部のそうしたエリアだ。

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秋吉台とその周辺
基図は1:200,000地勢図
 

集落は二つあり、南のほうが入見(いりみ)、北が江原(よわら)と呼ばれる(下注)。地形図を見ると、集落が載る場所には、等高線にヒゲのような短線が施されていて、周囲より低い土地であることがわかる。ウバーレの特徴である複数の窪みも明瞭に読み取れる。

*注 このほか、入見の南方にある奥河原(おくがわら)も、南に出口をもつポケット状のウバーレに立地する。

集落はどちらも、周囲から隔絶された土地だ。凹地という地形的な特徴とあいまって、隠れ里の気配さえ漂うが、実際にはどんな場所なのだろうか。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆

朝9時過ぎ、美祢(みね)線の美祢駅前に集合したのは、中西、大出、私の3名。歩いて向かうには遠いので、タクシーで入見集落の入口まで行ってもらった。

重安付近で国道316号から右にそれ、狭い谷の一車線道(県道239号銭屋美祢線)をさかのぼる。この谷が入見まで連続しているのだが、実は地図に記された180m標高点がサミットで、そこから一転、下り坂になる。ウバーレ(のうち南側のドリーネ)の集水域に入ったわけだ。

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美祢駅に朝の下り列車が到着
 

タクシーを降り、三又になった分かれ道のうち、一番右側を下っていく。側溝を勢いよく滑る水の後を追うと、まもなく集落が現れた。多くの家が艶光りする赤茶色の瓦を載せている。タクシーの運転手さんが、「この辺はだいたい石州瓦ですよ」と言っていたのを思い出した。石州瓦は石見国、すなわち島根県が主産地で、西日本の日本海側の家屋でよく見られる。

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石州瓦を載せた入見集落の家並
 

側溝の水は集落を突っ切り、鯉の泳ぐ貯留槽を経て、日陰の平たい谷底へ続いていた。森のきわに沈殿池があり、白濁した水に泡が浮いている。生活排水も当然、ここに合流してくるのだ。コンクリートの覆いに鉄格子が嵌っていて、覗くと深い穴が見えた。ここが吸込口に違いない。

周辺は、畔道で区切られた田んぼが広がる。カルスト地形は一般に保水性が低く、稲作には不向きなのだが、凹地(ドリーネ)の底には例外的に肥えた粘土質の土が堆積し、貴重な耕作の場を提供している。

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(左)側溝を流れる水の後を追う
(右)森のきわの吸込穴
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ドリーネの底に広がる田んぼ
 

集落の小道を北へ向かう。途中、何度か住民の方に出会ったが、挨拶すると「おはようございます」とていねいに返してくれるのがうれしい。ウバーレ集落も今や隠れ里どころか、観光サイトにビュースポットとして紹介される存在だ。よそ者が歩き回るのも珍しいことではないのだろう。

入見ウバーレには、北側にもう一つドリーネがある。規模は小さいが、深さでは勝り、すり鉢状の地形がよく把握できそうだ。地図には水田の記号が見えるものの、行ってみるとすでに耕作は放棄され、草原化していた。溝の中をちょろちょろと走る水が、草むらの中に消えていく。幽ヶ穴と呼ばれる吸込口に入るはずだが、丈の高い草が茂っていて確かめようがない。

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入見集落北側のドリーネ
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(左)幽ヶ穴に向かう水流
(右)ドリーネの底の休耕田
 

入見集落の探訪を終えて、先刻の三又に戻り、もう一つのウバーレ集落、江原(よわら)をめざした。県道はくねくねと山を上り、小さな峠を越える。降りていくと道端に、集落の一部を見下ろす展望地があった。「丘の空」と呼ばれ、「ミステリーホールの謎に迫る」と興奮気味のコピーを記した案内板が立っている。

江原ウバーレは入見のそれより大きく、南北1km、東西7~800mの楕円形をしている。凹地の底まで、展望台からでも高低差が40mほどあり、まさに大鍋の内側という印象だ。そこに40戸ほどの家が建ち並ぶ。

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「丘の空」から望む江原集落の一部
道端に赤い案内板(内容は下写真参照)
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「丘の空」の案内板
 

急な坂道を小走りに下って、集落の中へ。道からそれる水路を追って、溝蓋の上を歩いていくと、金網のはまった吸込穴とおぼしき場所に行き着いた。資料(下注)によると、1989(平成元)年に新設されたもので、これにより大雨の際に浸水被害に遭うことがなくなったという。周囲の地形を見渡すと、確かにここが一番底ではない。実際、別の小さな溝が北側へ水をちょろちょろと運んでいて、その先で草むらに消えていた。そこに本来の吸込穴があるのだろう。

*注 美祢市地旅の会、堅田地区まちづくり協議会「美祢市別府のお宝さがし-ウバーレの秘密 江原地区」

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(左)溝蓋の下にもぐる水路
(右)1989年新設の吸込穴
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(左)1989年の吸込穴は奥の山際にあるが、溝の水は手前に流れてくる
(右)旧 吸込穴へ消えていく溝の水流
 

集落中央の丘の上にある水神社へ行こうと、モミジの落ち葉を踏んで急な階段を上る。小ぢんまりした境内の一部は、かつての別府小学校江原分校の跡地だ。建物も基礎もすでになく、プールだけが防火水槽に転用されて残っている。この集落では1940(昭和15)年に大火事があり、大半の家屋が焼失した。それを教訓にした備えに違いない。

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(左)水神社への石段
(右)水神社祭殿
  右に分校跡碑、左に旧プールがある
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分校跡から集落を俯瞰
 

ここで昼食休憩。それから、ウバーレ東斜面の宅地に残る「岩屋」を見に行った。カルスト台地の特徴の一つでもある石灰岩の露頭なのだが、ここでは家の塀に代用(?)されたり、庭石に見立てられて(?)いたりする。山水画を実写化したかのようで、とてもおもしろい。その手前には、鉄格子をかぶせた小さな吸込口があった。資料(下注)で言及されている「標高約170mにある吸込み穴」のようだ。

*注 ウォーキングひろめ隊、美祢市健康増進課「秋芳町別府江原 ウォーキングマップ」。

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岩屋
(左)塀の代用(?)
(右)立派な庭石にも(?)
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岩屋近くの吸込穴
左写真の物置小屋の軒下に、右写真の吸込穴がある
 

さて、この後は美祢線の於福(おふく)駅まで歩く予定だが、問題はこの石灰岩の台地をどう越えるかだ。県道は北へ抜けているので、それに従うとかなり遠回りになってしまう。一方、地形図には、ウバーレの西側の「台山」に多数の実線道路(幅員3.0m未満の道路)が描かれていて、近道に見える。

台山は、名のとおり石灰岩の台地だ。そう聞くと、東台のようなススキたなびく草原地帯が頭に浮かぶが、あれは、毎年春先に山焼きをして人為的に維持されているものだ。日本のような高温多湿の気候では、放っておくとやがて森に還る。台山も一面、自然林ないしは人工林で、空中写真では道すら見えない。

県道横の集会所で地元の方に尋ねると、「昔、車のないころはみなこの山を越えて於福駅まで歩いとった。今はもう誰も通らなくなって、道がわからなくなっとると思うよ」とのこと。進むべきか迷うところだが、近年の地形図は大縮尺の国土基本図を資料にしていて、道路情報はかなり詳細だ。藪がひどければ戻ってくればいい、と決行することにした。

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(左)台山へ登る林道
(右)獣除けネットの先はわだち道に
 

県道から分岐する林道にとりつく。台地のへりを上る区間は急勾配だったが、路面はしっかりしていた。「林道をまっすぐ行くと、山の上へ出てしまうから」とさきほど聞いたので、西へ抜けるには、どこかで左に折れなくてはいけない。ところが坂を上り切り、道が平坦になるとまもなく、左側の森を背丈以上もある獣除けのネットが覆い始めた。

地形図と照合しながら、左折点を特定する。幸いなことに、そこはネットの一部が開閉式になっていて、紐で縛ってあった。紐を解いて中へ入り、もとどおりに直しておく。その先は、深い森の中を轍の道が延びていた。降り積もった落ち葉で、踏むたびにふわふわと弾む。と右側に、小さいながらも形のいいドリーネが現れた。杉林に覆われているが、底のほうの木がより大きく育っているのは、養分が豊富な証拠だ。

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杉林のドリーネ
 

車の轍は途中で消えてしまったが、光が届かないので下草は深くなかった。しばらくするとまた左にネットが現れ、それに沿って進むうち、無事に簡易舗装の林道へ出ることができた。地形図に描かれている建物は養鶏場のようだったが廃屋で、点在しているように見える耕作地もすでに雑木林だ。しかし道筋だけは明瞭で、北へ向かっている。周りにはドリーネがいくつもあり、カルスト地形を実見できる。

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笹原のドリーネ
 

台山のへりまで来ると、道はヘアピンを繰り返しながら、比高約170mの急斜面を下降していた。山側は石灰岩剥き出しの崖で、スリットが無数に入り、今にも剥落しそうだ。汽車に乗るためにこの道を往復していたという江原の人たちの苦労に思いを馳せながら歩く。その美祢線が通る谷底平野の眺望には少し期待していたのだが、森に遮られ、ほとんど最後まで見ることができなかった。

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台山のへりを降りる
(左)石灰岩剥き出しの崖
(右)道はヘアピンの繰り返し
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谷底平野から振り返り見た台山
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図山口(昭和61年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
秋吉台ジオパーク http://mine-geo.com/

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2022年3月26日 (土)

コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道

多古線を歩いた翌日2021年10月17日は、あいにく本降りの雨になった。朝はまだ小雨だったので、外房線の下り列車で出かけた。集合場所は、行川(なめがわ)アイランド駅。ご承知のとおり、フラミンゴやクジャクのショーで有名な一大観光施設の最寄りだったが、それも20年以上前の話、今は小さな待合所があるのみのうら寂しい無人駅に過ぎない。

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雨の行川アイランド駅に入る下り列車
 

2両編成の電車から降りたのは、中西さんと私の二人だけだ。大粒の雨が風に乗って斜めに降ってくるが、「とりあえず『おせんころがし』まで行ってみましょう」と歩き出す。「おせんころがし」というのは、太平洋に落ち込む断崖絶壁の上を通過していく旧街道きっての難所のことだ(下注)。強欲な地主の父親の身代わりとなって、崖から投げ落とされた(別の説では自ら身を投げた)娘お仙の悲話が伝えられている。

*注 伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)の一部で、大正期に建設された大沢第一、第二トンネル経由の道路(以下、旧国道)に取って代わられた。

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おせんころがしに立つ供養塔
 

国道128号線から左にそれ、狭い谷間の通路を伝っていくと、にわかに目の前が開けた。そこは海からの高さが優に50mはある断崖の上で、お仙の供養塔が立っている。道はそこで行き止まりだった。地形図に描かれている大沢との間の破線道(徒歩道)を探そうとしたが、丈の高い草に覆われて入口さえ定かでない。

その間にも雨は降りつのり、西へ延びる険しい海岸線も白く煙ってきた。悪天候を見込んで登山用の装備を整えてきた中西さんに比べ、私はウィンドブレーカーと旅行用の折り畳み傘という軽装だ。すでに足元はずぶぬれで、冷えが伝わってくる。これから歩く距離を考え、弱気になった私は早々とギブアップを宣言、旧国道を進む中西さんを見送って、駅に戻ることにした。

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険しい海岸線が雨に煙る

とはいえ、これでは土産話にもならないので、天気が回復した翌日、単独で同じコースに再挑戦した。今回はそれをもって、コンター旅の報告に代えたいと思う。

この地へ来た目的は二つある。一つは、夷隅川(いすみがわ)源流で河川争奪によって生じた風隙を観察することだ。夷隅川は、太東崎(たいとうざき、下注)の南で太平洋に注ぐ河川だが、その流域を地図で塗り分けて見ると興味深いことがわかる(図1参照)。

*注 太東埼、太東岬(たいとうみさき)とも表記する。

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図1 夷隅川の流域
青の破線が分水界、最南端に上大沢がある
基図は1:200,000地勢図、図中の木原線は現在のいすみ鉄道
 

勝浦から西では、青の破線で示した流域の境界線、すなわち分水界が太平洋岸ぎりぎりまで迫っている。海との距離はせいぜい1~2kmだ。分水界は川の最上流部なので、それが限りなく海に近いというのは常識から外れている。

なぜこのようなことになるのか。謎を解く鍵が、分水界のいたるところで見られる風隙(ふうげき)だ。これは谷の断面が露出したもので、浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象の結果、しばしば生じる。この地域は南から北に向かって傾斜する傾動地塊で、夷隅川はそれに従い、海に注ぐまで60kmほどもゆったりと流れ下る。一方、分水界の反対側は、海に面して急傾斜だ。この河川勾配の違いが浸食力の差となって、夷隅川の流域は南から削られ続ける運命にある。

もう一度、上の流域図をご覧いただきたい。流域の南端に出っ張った部分が見つかるだろう。図2、図3がその部分の拡大だが、ここにも風隙がいくつかあり、「上大沢」集落が載るのもそうした場所だ。夷隅川の源流域に当たり、標高は約135m。にもかかわらず、海岸との水平距離はわずか300m強しかなく、流域では最も海に近づく。源流の先に太平洋が開ける。この奇跡のような地形に一度立ってみたいと、かねがね思っていた。まずはこの目的を果たすことにしよう。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
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図3 大沢周辺を2倍拡大
 

昨日と同じように、行川アイランドで電車を降りた。その足でおせんころがしを再訪する。実はここも風隙だ。夷隅川の流域ではないのだが、太平洋の荒波に削られて、同じように小さな谷の断面が断崖上に露出している。

風隙とは英語の Wind gap(ウィンド・ギャップ)の訳語で、風の通り道になる地形の隙間のことだ。確かに海からの強風が谷間めがけて吹き込んで来るが、景色は、雨の日とは一変してクリアだ。太平洋の大海原から、波打ち際にそそり立つ屏風のような断崖まですっきりと見渡せる。

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(左)おせんころがしへの小道
(右)ここも風隙地形
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おせんころがしから太平洋の眺望
 

国道まで戻り、おせんころがしの険路を避けて山側につけられた旧国道に回った。海に突き出た山脚を、1921(大正10)年開通の2本のトンネルが貫いている。東側の大沢第一トンネルは長さ80m、西側の第二トンネルは同112m、その間の狭い谷間に肩を寄せ合うようにして、下大沢の集落(下注)がある。

*注 地形図には、行政地名の「大沢」と通称地名の「上大沢」のみが記されているが、海沿いの集落は下大沢、山上の集落は上大沢と呼ばれ、その総称が大沢になる。

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大沢第一トンネル
(左)東口
(右)奥に見える第二トンネルの間に下大沢の集落がある
 

目指す風隙はこの谷の上だ。旧国道を離れ、家並みを縫う坂道を進んでいくと、八幡神社の手前から急な階段道に変わった。すれ違った地元の方に「上まで行けますか」と尋ねたら、「どてら坂ですね。登れますよ」との答え。坂に名がある(下注)ということは、よく利用されているに違いない。

*注 後述する研究報告には、急な登りで、どてらを着込んだように汗をかくことから「どてら坂」の名がついたとの説が紹介されている。

細い山道を想像していたのだが、それどころか幅1~2mの、コンクリートで舗装された階段が続く。途中に墓地があり、海を見下ろす墓碑の前に花が供えられていた。道は何度も折返しながら、高度を上げていく。振り返ると集落の屋根は下に沈み、太平洋の水平線が目の高さに上がってきた。

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(左)どてら坂はこの斜面を上る
(右)コンクリート舗装の階段道
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(左)下大沢の集落が眼下に
(右)谷壁を照葉樹林が覆う
 

山上の上大沢集落まで10分ほどだった。十数軒の家が建ち並ぶなか、道が夷隅川の源流を横切る場所まで行ってみる。源流というと森の奥の清流というイメージだが、ここでは住宅裏を通るふつうのU字溝で、水もお湿り程度に流れているだけだ。

この地域を調査した研究報告(高地伸和・関 信夫「源流の先は大海原-千葉県夷隅川源流部の特異性」『地理』52-5, 2007, pp.69-73)によれば、ふだんはこうして夷隅川へ水が流れているが、大雨で増水すると、集落の上手にある仕切り板から海側の沢へ排水されるようになっている(図3参照)。下流がU字溝で足りるのはそのためだろう。

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(左)山上の集落、上大沢
(右)夷隅川源流のU字溝
 

お目当ての風隙のきわへ移動する。この風隙は、谷の横断面ではなく側面が開析されているため、かなり広い。高台のいわば一等地とあって家が建て込んでいたが、住民の方に一言断って、通路の隅から眺めさせてもらった。照葉樹林が形作る額縁の先に、太平洋の青い水平線が一文字に延びる。沖合を一隻の船が進んでいく。これほど見晴らしのいい風隙もなかなかないと思う。

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上大沢の風隙からの眺望
 

念願を果たしたことに満足して、階段道を戻る。下大沢と上大沢という地名、その間を結ぶ整備された階段道、これは両集落に深い関係があることを示すものだ。

上記研究報告によると、漁村の下大沢と農村の上大沢は、生業面や生活面(民俗面)で一つの集落として機能しているという。具体的には、上大沢の住民も大沢漁協の漁業権をもち、漁に出る。また、海の状況を把握する山見の場所「やまんば」は上大沢にある。反対に、下大沢の住民は上大沢に耕地を有している。そして、祭りその他集落の行事は共同で行われる…。

地形の特異性が、ここでは日々の生活に上手に活かされている。以下は私の想像だが、寺や神社が下大沢に集中するところから見て、先に定住地として成立したのは下大沢だろう。そして漁のかたわら、平坦な土地のある山上(上大沢)へ行って農耕をしていた。分家などが進み、下大沢の土地が不足してくると、山上に住居を建てる人も現れた。こうして集落は見かけ上二分されたが、おそらく親戚関係もあって、人々の意識の上では一集落であり続けているのだ。

下大沢では港のようすを眺めようと、旧国道の第二トンネルではなく、線路と国道のガードをくぐって海岸まで降りた。港の端から、おせんころがしへ向かう旧街道の道筋もよく見えるが、藪化がかなり進行しているようだった。

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下大沢のガードをくぐって港へ
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大沢港
背後の断崖がおせんころがし
 

港から旧国道へ上がって、西へ向かって歩き始める。この地へ来た目的の二つ目は、この旧国道だ。山(夷隅川流域)が海に迫るため、下大沢から約1.2kmの間、道は波洗う断崖の中腹をうがって通されている。おせんころがしには及ばないものの、それでも海面から20~30mの高さがある。また、国道の新道ができているので、交通量は少なく歩きやすいと予想した。

期待は裏切られなかった。大海原の開放的な眺めはいうまでもない。もとは国道だから車が通行できる道幅で、ガードレールもある。落石注意の標識が林立するのを気にしなければ、すばらしいハイキングルートだ。

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断崖の中腹に通された旧国道
おせんころがしから遠望
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断崖の旧国道
(左)落石注意の標識が立つ
(右)入道ヶ岬が近づく
 

ところが少し行くと「この先全面通行止」の標識が立っていて、傍らにいた警備員さんが「工事をしているので、途中までしか行けませんよ」と言う。一瞬迷ったが、ここですごすごと引き返すわけにもいかない。「行けるところまで行ってみます」と挨拶して、歩き続ける。当該個所では確かに工事車両が数台停車していたが、人ひとり通るのに何の支障もなかった。むしろ通り抜ける車がない分、気兼ねなく歩くことができた。

雀島という、海中に立つ烏帽子岩に似た岩に見送られて、旧道は小湊トンネルへ入っていく。小湊に向かっては上り坂だ。無照明で100m以上の長さがあるが、直線ルートなので出口の明かりが見えている。

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シルエットの雀島と入道ヶ岬
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小湊トンネル
(左)東口
(右)西口
 

トンネルを出ると一転、薄暗い谷間になり、蔦が絡まる杉林の間を緩やかに降りる。やがて、巨大なお堂の屋根が見えてきた。小湊山誕生寺だ。小湊は日蓮上人の生誕地で、それを記念して建立されたお寺が日蓮宗大本山の一つになっている。裏門から入って祖師堂を覗くと、何かの行事の飾り付けの準備の最中だった。

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蔦が絡まる杉林を降りる
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小湊山誕生寺
(左)仁王門
(右)祖師堂
 

ちなみに、内房線の五井駅から出ている小湊鉄道は、誕生寺への参詣鉄道として計画されたことからその名がある。現在の終点、上総中野駅からかなり遠いように思うが、直線距離では約15km。夷隅川流域から海岸へ急降下する必要があるとはいえ、目標達成までもうひと頑張りだったのだ。

総門を通り抜け、小湊の漁港を眺めながら、残りの道を歩いていく。旧国道が現在の国道と出会う地点には、日蓮交差点の標識が見えた。まだ電車の時刻には早いので、小湊の町を通り越して寄浦のトンネル水族館を見に行こう。

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小湊漁港
 

旧国道に並行して1979年に造られた全長233.5mの実入(みいり)歩道トンネルが、その舞台だ。長いトンネルを楽しく通行してもらえるようにと、美大の学生たちが腕を振るい、2005年に完成した。内壁を水族館の水槽に見立てて、さまざまな海の生き物が描かれている。カラフルで動きもほどよく表現されていて、絵を追っていくうちに、いつのまにか出口まで来てしまった。

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実入トンネル東口
左を歩道トンネルが並行
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歩道トンネルの壁に描かれた海の生き物たち
 

土産話をまた一つ仕入れて、安房小湊駅から上り列車の客となる。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大多喜(昭和58年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2021年11月 7日 (日)

ザクセンの狭軌鉄道-ムスカウ森林鉄道

ムスカウ森林鉄道 Waldeisenbahn Muskau

ヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ Weißwasser-Teichstraße ~バート・ムスカウ Bad Muskau
同上 ~クロムラウ Kromlau
同上 ~シュヴェーラー・ベルク Schwerer Berg
計 約20km、軌間600mm、非電化
1895年運行開始、1978年休止、1992年保存運行開業

軌間(線路幅)が600mmというのは、狭軌鉄道のなかでも最も狭い部類に入る(下注)。この軌間の鉄道はドイツでフェルトバーン Feldbahn(Feld は英語の field に相当)と呼ばれ、19世紀後半に鉱工業や林業など産業用の簡易軌道として広まった。フランスで開発され、組み立て式で設置が容易なことから世界的に普及したドコーヴィル軌道も同じ軌間だ。

*注 これより狭い軌間も営業路線として存在するが、ナローゲージ(狭軌)ではなくミニマムゲージ(最小軌)に分類されている。

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ムスカウ森林鉄道の蒸気列車
バート・ムスカウ駅にて(2013年)
Photo by J.-H. Janßen at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 
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ザクセン州北東端に位置するバート・ムスカウ Bad Muskau 周辺でも、1895年、大地主だったヘルマン・フォン・アルニム伯爵 Graf Hermann von Arnim が、周辺の森林と鉱物資源を開発するために、これを導入している。彼は、森林を切り開き、褐炭や珪砂の採掘を行い、それらを原料にして製材所、製紙工場、レンガ工場、ガラス工場を操業させており、簡易軌道は原料や完成品の運搬に欠かせないものだった。

ムスカウ森林鉄道 Waldeisenbahn Muskau は、この産業路線が廃止された後、愛好家や地元自治体によって再建された約20kmのルートで運行されている観光鉄道だ。600mm軌間の路線は、ドイツのいくつかの都市で公園鉄道 Parkeisenbahn(下注)として生き残っているが、長いものでも10kmに満たず、規模ではとうていこれに及ばない。

*注 いずれも旧東ドイツのエリアのベルリン Berlin、コトブス Cottbus、プラウエン Plauen、ケムニッツ Chemnitz、ゲルリッツ Görlitz などに見られる。

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(左)仕業前の調整
(右)客車と連結

伯爵が始めた軽便鉄道は、その後どのように展開していったのだろうか。

初めのうち、貨車を牽いていたのは馬だった。1年後にミュンヘンのクラウス Krauss 社から小型の蒸気機関車が届き、運行に供された。工場経営は順調で、わずか数年後には線路も85km以上に拡張されていたという。こうして最盛期には11両の蒸機が稼働する、多忙な路線網になった。しかし、第二次世界大戦の敗戦と連合軍占領により、産業会社は解体される。車両や軌道も、その多くが戦時賠償としてソ連に送られた。

戦後、ザクセンは東ドイツに属し、森林鉄道も1951年からドイツ国営鉄道 DR の管理下に置かれる。東ドイツ政府は、国内産業を再興するために、自給可能なエネルギー資源である褐炭の増産を図った。ムスカウ周辺でも鉱区が大きく拡張されて終夜操業となり、森林鉄道の車両群はフル稼働した。

この状況は1969年まで続いたが、この年、地区最大の鉱山が閉鎖されたことをきっかけに、輸送需要は急速にしぼんでいく。そして1978年3月、ついに森林鉄道は運行を停止した。不要となった機関車はドイツだけでなくヨーロッパ各地に売却され、蒸機99 3317だけが現地で記念物として保存用の台座に据え付けられた。

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ヴァイスヴァッサーで静態保存されていた
蒸機99 3317(1977~90年の間に撮影)
Photo by anonym's grandma at wikimedia. License: Public domain
 

ただしこのとき、長さ約12kmのいわゆる粘土鉄道 Tonbahn だけはまだ使われていた。これは1966年に、東方ミュールローゼ Mühlrose の採掘場からヴァイスヴァッサー Weißwasser のレンガ工場まで、原料の粘土を運ぶために造られた路線だった。

森林鉄道の保存活動は、この残存路線を使って始まった。最初の特別運行が1984年に実行された。当初はレンガ工場の一角を借りて拠点にしていたが、1988年にのちの起点となるヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ駅が建設される。

1989~90年の国家解体に伴い、レンガ工場も閉鎖されてしまうが、地元自治体の主導で鉄道への支援は続けられた。旧東独地域に適用された雇用創出プログラムを利用して、路線の再建と車両の復元に必要な予算が確保できたことも幸運だった。

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ヴァイスヴァッサー周辺の地形図に
狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ルートは旧線の路盤を利用しながらも、DB駅に近いヴァイスヴァッサーと地元の観光地を結ぶ目的で新たに計画されている。最初に開通したのは、19世紀の領主が造った景観公園の前まで行くクロムラウ Kromlau 線で、1992年のことだ。小型ディーゼル機関車による運行だったが、鉄道復活を聞いて、愛好家だけでなく、観光客も多数訪れるようになった。

1995年には、蒸機99 3317を動態復活させて、保養地バート・ムスカウに至る2本目の路線が開通する。かつて町の南に駅があった標準軌の旧DR線(下注)は1977年に旅客営業を廃止しており、客を乗せた列車が現れるのは久しぶりだった。

*注 もとは1872年開業の、ヴァイスヴァッサーからトゥプリツェ Tuplice(ドイツ名:トイプリッツ Teuplitz)を経てルブスコ Lubsko(同 ゾンマーフェルト Sommerfeld)に至る路線。第二次大戦後、ナイセ川の国境設定により、運行はバート・ムスカウ止まりになった。2001年に貨物営業も廃止。

2010年には、第3の路線としてミュールローゼの粘土鉄道線を引き継いだ。しかし、露天掘り鉱山の区域拡張でルート変更が必要になり、2017年4月に、シュヴェーラー・ベルク Schwerer Berg に至る3.5kmの新ルートで運行が再開された。

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粘土鉄道線の再開の日(2017年)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

ムスカウ森林鉄道の列車が出発するのは、ヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ Weißwasser-Teichstraße 駅だ。DB(下注)のヴァイスヴァッサー駅前から、歩道に描かれた蒸機のイラストを頼りに北へ通りを歩いていくと、10分ほどで着く。林に囲まれた広く明るいホームをもつ、軽便線としては立派なターミナルだ。ホームの横で軽食堂も開いている。数本並んだ側線には貨車が多数連なっているが、これも保存車両の一部だ。

*注 現在、列車運行は合弁企業の東ドイツ鉄道 Ostdeutsche Eisenbahn (ODEG) が行っている。ヴァイスヴァッサーは、OE65系統(コトブス Cottbus ~ゲルリッツ Görlitz ~ツィッタウ Zittau)の途中駅。

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ヴァイスヴァッサー・タイヒシュトラーセ駅
 

もともとここには、ヴァイスヴァッサー駅の構内から続く標準軌の貨物専用線があり、北側にあった工場施設へ引き込まれていた。また、それに並行して、もと森林鉄道で、後に粘土鉄道に転用された狭軌線も南西のレンガ工場から出てきて、北へ延びていた。今見るような狭軌鉄道駅は、標準軌の線路が撤去された後に改めて整備されたものだ。レンガ工場の跡地も、森林鉄道の車庫 兼 整備基地として再利用されている。

標準軌線が引き込まれていた北側の工場施設(下注)はしばらく廃墟状態だったが、2001年に博物館駅「アンラーゲ・ミッテ Anlage Mitte(中央施設の意)」として再生された。現在は、車両や各種資料を展示した森林鉄道の博物館と、地域のインフォメーションセンターになっていて、蒸気運行の日に公開される。

*注 東ドイツ時代の地形図では、ガラス工場と製紙(ボール紙製造)工場の注記がある。

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博物館駅「アンラーゲ・ミッテ」
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博物館の展示
(左)所狭しと並ぶ車両群
(右)5号機関車の姿も
 

ここで、森林鉄道の運行状況を押さえておこう。

運行日は4月~10月上旬の週末だが、7月最終週から9月第1週は夏の繁忙期として、週末のほか、火曜、木曜、金曜にも運行される。列車を牽くのは基本的に小型ディーゼル機関車で、2021年のダイヤでは1日3往復設定されている(博物館駅は無停車)。蒸気機関車は、原則毎月第1週の週末に登場する。それを目当てに客も集まるので、1日6往復と頻繁運転だ。

公式サイトで5両挙げられている動態保存機のうち、最古参は1912年ボルジッヒ Borsig 社製の4軸機関車「ディアーナ Diana」、車両番号99 3312だ。1977年に引退した後、ヴァイスヴァッサーで静態展示されていたが、1997~98年にマイニンゲンで改修を受けて現役に復帰している。

一方、99 3315と99 3317の2両は、いわゆる「旅団機関車 Brigadelokomotive」だ。第一次世界大戦中、戦地に敷かれる軍用簡易軌道 Heeresfeldbahn のために大量製造された形式車で、戦後は世界各地の民間鉄道に引き継がれた。よく似たダイヤモンド形の煙突をもち、車両番号もディアーナの続きだが、出自はまったく異なる。

客車にはオープンタイプ(側壁なし)とクローズドタイプがあり、いずれも貨車を改造したものだ。

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鉄道のオリジナル蒸機99 3312
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(左)旅団機関車 99 3315
(右)同 99 3317(2017年)
Photo by Kevin Prince at wikimedia. License: CC BY 2.0
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改造客車はオープン型とクローズド型がある
 

運行ルートは上述のとおり3本に分かれている。東へ行くバート・ムスカウ線は、所要時間が片道30~35分、西へ進むクロムラウ線は20分だ。残るシュヴェーラー・ベルク線は西から南へ回り込む最も長いルートだが、日を限定した特別運行の位置づけで、蒸機による往復3時間のツアーとして実施される。

3つのルートはそれぞれ沿線に見どころがあり、終点の周辺には観光地も有している。順に見ていこう。

バート・ムスカウ線

列車は、博物館駅を出た直後、クロムラウ線を左に分けて、自らは直進する。森の中を少し走った後は、連邦道B 156号(ムスカウ通り Muskauer Straße)の横に出て、2km近く並行する。列車は最高時速でも25kmなので、隣を疾走する車には抜かれっぱなしだ。

やがて線路は、左カーブで道路からそれる。林と畑が交錯する間を行くと、列車交換用の側線をもつクラウシュヴィッツ Klauschwitz 停留所に停車する。すぐ先が、連邦道B 115号の踏切だ。森林鉄道の踏切は、標識があるだけの、日本でいう第四種踏切がほとんどだが、ここはさすがに遮断機が設置されている。ただし、手動式だ。車掌が客車から降りて、操作盤を開け、遮断棒を下ろす。

踏切通過の儀式が終わると、列車は巡航速度に戻る。また森の中に潜り込むが、それも長くは続かず、草野原の中の終点バート・ムスカウに到着する。すぐに機回しが行われて、列車は15分後の復路出発を待つ。

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バート・ムスカウ線
(左)博物館駅に戻ってきた列車
(右)クラウシュヴィッツ停留所で、車掌が踏切閉鎖に向かう
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バート・ムスカウ駅
 

バート・ムスカウには、市街地の東に隣接して、2004年に世界遺産に登録されたムスカウ公園 Muskauer Park(正式名はピュックラー侯爵公園 Fürst-Pückler-Park)がある。ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵 Hermann Fürst von Pückler-Muskau が1815年から30年かけて作り上げた中欧最大のイギリス式庭園で、総面積は8.3平方キロと広大だ。

ラウジッツァー・ナイセ川 Lausitzer Neiße の広い氾濫原を利用し、森と水辺と人工物が古典主義の風景画のように配置されていて、その中心に、薔薇色の壁が印象的なネオルネッサンス様式のムスカウ宮殿 Schloss Muskau(新宮殿 Neues Schloss)がある。

第二次世界大戦後、ナイセ川に新たな国境線が引かれた結果、公園はドイツとポーランドに分割された。そのため、世界文化遺産の登録範囲も両国にまたがっているが、川に架かる二重橋 Doppelbrücke を通って自由に往来できる。

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公園の中心、ムスカウ新宮殿(2014年)
Photo by Kora27 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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(左)新宮殿西面(2016年)
Photo by Heigeheige at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)新宮殿正面
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(左)ナイセ川の中州に渡された二重橋(2011年)
Photo by Schläsinger at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)今は国境の橋を兼ねる
 

森林鉄道の駅からこのムスカウ宮殿までは、市街地を経由して1.3km、歩いても15~20分というところだ。また、市街地とDBヴァイスヴァッサー駅の間には路線バス(下注)も走っているので、帰りはそれでDB駅まで戻ることも可能だ。

*注 オーバーラウジッツ地域バス Regionalbus Oberlausitz 250系統。公園の最寄りバス停はバート・ムスカウ・キルヒプラッツ(教会広場)Bad Muskau Kirchplatz。土日は本数が少なくなるので注意。

なお、森林鉄道の駅の東を流れるナイセ川には、上述した旧 標準軌線の魚腹アーチを連ねた鉄橋が残り、自転車道・遊歩道に利用されている。最近、青の塗料が塗られて「青い奇跡 Das Blaue Wunder」の名が付けられた。

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(左)旧 標準軌線の魚腹アーチ橋
(右)自転車道に転用され「青い奇跡」に(2018年)
Photo by Wdwdbot at wikimedia. License: Public domain
 

クロムラウ線

クロムラウ行きの列車は、博物館駅の後、バート・ムスカウ線を見送って、左へ急カーブする。しばらく森の中を西へ進み、今度は右の急カーブで、シュヴェーラー・ベルク線と別れる。

ときおり森が開けて小さな湖が車窓をかすめるが、実はこれも注目点だ。地形的に、森林鉄道の沿線を含む約20km四方の地域は、北に開いた馬蹄形をした圧縮モレーン(氷堆石)から形成されている。ムスカウの褶曲アーチ Muskauer Faltenbogen(英語ではムスカウ・アーチ Muskau Arch)と呼ばれ、巨大な氷塊により圧縮されて褶曲したモレーンだ。

褶曲地層の高い部分は、後に氷河が前進したときに削られ、それにより露出した褐炭層が、酸化による体積の減少で溝状の湿地に変化した。こうしてできた湿地帯を舞台に、近代になって人間が鉱物資源を採掘し、森林鉄道で運び出した。その跡に水が溜まって、湖と化す。

空から見ると、一面の森の間に、東西方向に連なる細長い湖の列が数本並んでいるのがわかる。列は地層の褶曲による「しわ」を示すものだが、湖自体は自然の造形ではなく、人間の活動の痕跡なのだ。

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空から見たムスカウ褶曲アーチ
採掘跡の湖が列を成す(2019年)
Photo by PaulT (Gunther Tschuch) at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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クロムラウ線
(左)小さな湖がときおり現れる
(右)クロムラウ駅の終端
 

終点のクロムラウ駅は、シャクナゲ公園 Rhododendronpark と呼ばれる景観公園の南のへりに造られたため、孤立したような場所にある。乗ってきた列車は5分後にさっさと折り返してしまうが、ここは列車を1本遅らせて公園散策に出かけたい。というのは、この先にラーコツ橋 Rakotzbrücke という必見の名所があるからだ。

ムスカウ公園のピュックラー侯爵と同時代人である大地主のフリードリッヒ・ヘルマン・レチュケ Friedrich Hermann Rötschke は、購入した地所の半分を公園として、さまざまな樹木を植え、一風変わった造形物を設置した。その一つが玄武岩と礫で造られた太鼓橋だ。細長い湖をまたいでいて、径間35mの半円が波静かな水面に映ると、完全な円に見える。その不思議な姿から、「悪魔の橋(魔橋)Teufelsbrücke」の別名がある。

クロムラウ駅からラーコツ橋までは、公園の遊歩道を通って約1.2km、15分ほどだ。

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魔橋ラーコツ橋(2013年)
Photo by Michael aus Halle at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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シャクナゲ咲く湖のほとりに魔橋の展望地が(2017年)
Photo by Kora27 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

シュヴェーラー・ベルク線

旧 粘土鉄道のこの路線は、クロムラウ線の途中にある分岐から始まる。ルートの見どころの一つ目は、旧 標準軌線(下注)のガード下をくぐる箇所だ。地下水位が高く、掘り下げた線路がしばしば冠水するため、列車は水の上を走る形になる。二つ目は、その先にあるスイッチバックで、機回し(方向転換するための機関車の付け替え)が行われる。このスイッチバックは急勾配対策ではなく、既存の路線網に追加接続する過程で生じたものだ。

*注 ヴァイスヴァッサー=フォルスト線 Bahnstrecke Weißwasser–Forst。1996年廃止。

ルートの後半は2017年に開業したばかりの新線区間で、森を抜け、広大な露天掘り鉱山のへりに沿って走っていく。終点のシュヴェーラー・ベルクでは、1時間の休憩がある。少し歩いて展望台に上れば、地の果てまで続くような露天掘りの現場を眺め渡すことができるだろう。

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(左)露天掘り鉱山のへりを走る(2017年)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)シュヴェーラー・ベルクの展望台(2009年)
Photo by Frank Vincentz at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

次回は、レースニッツグルント鉄道を訪ねる。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2014年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
ムスカウ森林鉄道 https://www.waldeisenbahn.de/

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2020年10月27日 (火)

コンターサークル地図の旅-石の里 大谷

朝10時、JR宇都宮駅西口のペデストリアンデッキからバスターミナルの乗り場へ降りると、すでに20人以上が列を作っていた。それも若者が多い。まさかそれほどの人気スポットとは知らなかったから、日曜なのに学校で授業か試験でもあるのか、と勘繰ったほどだ。聞くと、最近またメディアで取り上げられたらしい。私たちが行こうとしている場所は、PVその他の映像作品のロケ地としてもしばしば使われている。

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大谷資料館の地下採掘場跡
 

2020年10月4日、コンターサークルSの旅2日目は、その宇都宮市大谷町(おおやまち)を訪ねた。宇都宮駅の北西約8kmにある、建築用石材として名高い大谷石の産地だ。

大谷石とは、今から約1500万年前に火山灰や軽石などの火山噴出物が海底に堆積して凝固した角礫凝灰岩のことだ。気泡が多く含まれるため、比較的軽くて加工しやすく、建材として重宝されてきた。とりわけ大正期、関東大震災に見舞われた東京で、これを使った帝国ホテル本館(下注)が無事だったことから耐火性が評価され、復興需要で一躍その名が広まった。

*注 そのエントランス部分は、愛知県の博物館明治村で移築公開されている。

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大谷寺と大谷公園をつなぐ切通し
 

大谷石はこの地域の東西約5km、南北約10kmにわたって分布しており、露天掘りだけでなく、坑内掘りも盛んに行われてきた。現地には、こうした地下の広大な採掘場跡を公開している資料館があり、切り出した石材を運搬していた軌道跡なども残っている。きょうは一日、このユニークな石の里を巡るつもりだ。

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大谷資料館の位置
(1:200,000 平成22年修正図)
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と東武大谷線の位置(緑の破線)等を加筆

集合したのは中西、大出、森さんと私の4名。並んでいた若者たちとともに、10時05分発の大谷・立岩行きに乗り込んだ。バスは中心街を東西に貫く大通りから、大谷街道へと進んでいく。車内はほぼ満席で、ほぼ全員が大谷まで乗り通した。

資料館入口というバス停で下車。姿川が流れる谷間で、両側を屏風のように切り立つ灰色の崖に挟まれている。これも大谷石の露頭だ。バスは空っぽになるし、屋台も出ていて、すっかり著名観光地の様相だが、関東圏に住むメンバーでも、「何かきっかけがないと、ここまで足を延ばすことはないですね」という。ともかく案内標識に従って、山手へ歩いていく。

広い駐車場を通り抜け、急な坂道を上り、谷の奥まったところに、大谷資料館と付属のカフェ・売店があった。ここも昔は露天掘りされていたのだろう。周囲の岩山は直線的かつ複雑な形状に切り出されていて、眺めるだけでも面白い。鉱山の跡というよりもはやアートだ。

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(左)資料館入口バス停
  バスは宇都宮LRTのラッピング車だった
(右)大谷資料館正面(2017年撮影)
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資料館の周りのアートな岩山
 

資料館1階には、大谷石に関する資料が展示されている。メンバーがめざとく見つけたのが、石材を運搬していた手押しトロッコの復元模型。レールに載せた木枠の車台に、直方体に切り揃えられた本物の大谷石がぎっしりと積まれている。このようなトロッコで採掘場から荷捌きの駅まで移送していたのだ。ふと岐阜県岩村の酒屋で見た横丁鉄道(下注)を思い出した。

*注 酒屋の横丁鉄道については、本ブログ「城下町岩村に鉄路の縁」の末尾で記述。

トロッコ展示の上には、この一帯に張り巡らされていた石材軌道の路線図が掲げてある。実現はしなかったが、滞貨を解消するために、宇都宮駅を起点とする大谷石材鉄道という新線計画もあったという。旺盛な石材需要に乗って、この地域が栄えていたようすが想像できる。

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大谷石を運んだ手押しトロッコ
(大谷資料館の展示)
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石材軌道の路線図(大谷資料館の展示パネル)
左は開通年、中は廃線年を記載、
右は未成に終わった大谷石材鉄道を解説
 

資料はそれぞれに興味深いのだが、この施設の神髄はまだ別のところにある。右手の入口から降りていく石の階段の先に、にわかに開ける巨大な地下空間だ。それは四角い断面の筒を横倒しにした形で、奥に向かって沈み込むように傾斜している。さらに左右にも同じような筒状空間が延びている。歩き回るにつれ、全体が大谷石の地層の中に掘られたホール状の空洞で、一部を柱として残してあるのだということがわかってくる。

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石の階段を下りていくと…
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地下採掘場の巨大な空間が開ける
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(左)底部から見た入口の階段
(右)成形作業の展示
 

天井はるか高いところに開いている穴は、深さを測った跡だという。一面鑿や鶴嘴の跡が残された壁は、カメラで切り取るとまるで現代美術のようだ。坑内には七色のライトアップが施され、目を引くために野外彫刻のような造形物が配置されている。しかしそれらは味付けに過ぎず、この大空間が放つ荘厳さそのものが、訪れた者に驚きと感動を呼び起こす。

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ライトアップされた地下採掘場跡
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訪問者がカメラを向けているのは
天井に開いた深度測定用の穴
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鑿や鶴嘴の跡は現代美術のよう
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開口部から地上の光が差し込む
 

説明板によると、ここは大正時代から60年以上にわたって大谷石を採掘した跡で、間口150m、奥行き140m、深さは平均地下約30m、野球場一つ入る大きさがあるそうだ。そして、見て回れるエリアは実は全体の半分にも満たず、未公開の坑道がまだ奥の暗闇に眠っているのだという。

外の気温は22度あったが、坑内の気温計は13度とかなり涼しい。ジャケットの裾をたぐり寄せながら、この途方もない体積を掘り、搬出した時間と労力に思いを馳せた。朝のバスの混みぐあいや駐車場に櫛比する車の数も、この非凡な体験を得るためだとしたら納得がいく。

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(左)坑内気温13度
(右)坑内図
  公開部は薄灰色、
  背後に広大な非公開部(白色、立ち入り禁止と注記)がある

資料館を後にして、さっきのバス停の前にある大谷景観公園で昼食にした。芝生の中に設置された広い木製テーブルが、使ってくださいと言わんばかりに私たちを誘っている。

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大谷景観公園
中央のテーブルで昼食タイム
 

昼食後は、大谷寺の前から、平和観音が立つ大谷公園へ抜けた。ここも露天掘りの跡だが、そこに石の山から彫り出したという観音像がある。高さは約27m、尺貫法では88尺8寸8分で、足元から仰ぐとかなりの迫力だ。頭部はていねいに彫られ、裳裾も優美なフォルムを描いているが、「手はどうなってるんでしょうね」と誰かがつぶやく。あまり注目されない部分なので、ラフに仕上げてあるのだろうか。

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石の山から彫り出した大谷観音
 

資料館で見たとおり、かつて大谷石は鉄道で運び出されていたので、一帯の鉄道密度はかなり高かった。嚆矢となったのは、1897(明治30)年開業の宇都宮軌道運輸による人車軌道で、1903(明治36)年に日光線の鶴田駅に接続されている。この後、点在する産地に向けて2社が争うように路線を延ばしたが、1907(明治40)年に宇都宮石材軌道に一本化され、さらに1931(昭和6)年に、宇都宮に進出した東武鉄道によって買収された(下注)。

*注 それに伴い、鶴田駅西方の分岐点から東武宇都宮線の西川田駅に接続する新線が建設されている。

東武大谷線の路線網には、軌間610mmの「軌道線」と、同 1067mmの「軽便線」の二つのグループがあった。第二次大戦後、トラック輸送の普及により、前者は1952(昭和27)年に全廃されてしまったが、後者は1964(昭和39)年まで運行されていた。そこで採掘場跡を巡った後は、この大谷線の跡を訪ねる。

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石材軌道現役時代の1:25,000地形図
(1929(昭和4)年修正図)
 

森さんが、廃線跡の現状について解説した資料を配ってくれた。それに従って、大谷街道を宇都宮の方向へ少し戻る。この街道上にも併用軌道が敷かれていたはずだが、大谷寺西方の三叉路付近に、軌道線大谷駅跡が空地として残されているだけだ。

県道70号(宇都宮今市線)の大谷交差点からさらに東へ進むと、道路の南側に、軽便線の荒針(あらはり)駅跡である広大な敷地が見えてきた。ロードサイドの商業地区に再生され、奥はパチンコ店の駐車場に使われている。

線路はまもなく大谷街道から離れ、一路南へ向かっていた。だが、鹿沼街道との交差点までは、明保(めいほ)通りとして拡張整備されており、痕跡は消失している。それで、荒針分岐点から北上していた立岩(たていわ)支線跡に足を向けた。

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東武大谷線跡
(左)荒針分岐点から南は明保通りに転換
(右)北は小道になって続く
 

こちらは車1台通れる程度の小道のままで、まだしも鉄道の雰囲気を残している。右手から近づいてくる2車線道と接する地点に、「東武鉄道株式会社社有地」と記された杭が2本立っていた。簡易舗装された歩道に見えるので、社有地とは意外だった。処分しない理由があるのか、あるいはどこも引き取ってくれなかったのか。いずれにしても廃線跡を示す決定的証拠には違いない。

すぐに瓦作(かわらさく)駅の跡がある。片側が森に接したやや幅広の敷地に、大谷石のベンチらしきものが置かれている。その先は通学路に使われていたようで、車道との交差点に「止まれ」の標識やロードサインが見られた。しかしかなり古びていて、もう利用されていないのかもしれない。

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(左)道端に立つ東武社有地標
(右)瓦作駅跡
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(左)瓦作駅北方の、枕木を再利用した柵
(右)田んぼの中を延びる廃線跡
 

車道と分かれ、線路跡の道は田んぼの中を心細げに延びる。終点の立岩駅跡は児童公園に変貌していたが、ここでも同じ社有地標を発見した。

立岩支線は、先ほどの荒針分岐点からここまで2.1kmの短い貨物専用線だった。レールこそ取り払われてしまったが、それを除けば、ここにゴトゴトと無蓋貨車を牽いて列車がやってきてもおかしくない。そう思わせる、時が止まったような廃線跡だ。

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(左)終点立岩駅跡は児童公園に
(右)ここにも社有地標が
 

立岩には、朝乗ってきた路線バスの終点がある。帰りのバスも混むだろうから、始発から乗るにこしたことはない。運転手は「折り返しまでまだ時間があるので、乗って待っていてください」と私たちに言って、休憩に出ていった。村はずれの、ベンチもない停留所だったので、疲れた足にはありがたかった。

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帰りは立岩バス停から
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図大谷(昭和4年修正測図)、宇都宮西部(昭和4年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大谷(平成29年調製)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
Oya, Stone City https://oya-official.jp/

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2020年9月18日 (金)

レッチュベルクトンネルの謎のカーブ

スイスアルプスを南北に貫く鉄道軸の一つが、首都ベルンから南下するベルン=レッチュベルク=シンプロン鉄道 Bern-Lötschberg-Simplon-Bahn(以下 BLS と略す、下注)だ。これは、ベルンアルプス(ベルナーアルペン)Berner Alpen を長大なトンネルで貫いてローヌ谷のブリーク Brig に至るルートで、ブリークからは、シンプロントンネルを介してイタリアに通じている。

*注 本来のBLS線は、トゥーン Thun ~ブリーク間と、シュピーツ Spiez ~インターラーケン・オスト Interlaken-Ost 間だが、1997年に周辺の小鉄道3社を統合し、路線網が拡張された。

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レッチュベルクトンネル南口(2012年)
Photo by Adrian Michael at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

BLS線にとって要の位置を占めるのが、レッチュベルクトンネル Lötschbergtunnel だ。1906年に着工され、6年の工期を経て、1912年に竣工した(開業は1913年)。14.6kmの長さがあり、当時、シンプロン Simplon の第1および第2、ゴットハルト(ゴッタルド)Gotthard/Gottardo に次いで4番目に長いアルプス横断鉄道トンネルだった。

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レッチュベルクトンネルと周辺の鉄道路線
赤線が BLSの旧 本線区間
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カンダーシュテーク駅
Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

トンネルの北口はカンダー谷のカンダーシュテーク Kandersteg に、南口はレッチェン谷のゴッペンシュタイン Goppenstein に置かれている。大規模な山岳トンネルのルートは直線が望ましい。距離が最短になるだけでなく、当時の技術では導坑掘進の際に生じがちな測量誤差を、最小限に抑えることができるからだ。

ところが地形図を見ると、トンネルの平面線形は直線どころか、途中で妙なカーブを描いている。試しに北口と南口に定規を当ててみると、両端の区間は同一直線上にあることがわかる。そこで、本来トンネル全体が直線で計画されていたにもかかわらず、何らかの理由で中間部を曲げざるを得なかったという推測が成り立つ。

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1:100,000地形図に描かれたレッチュベルクトンネル
41 Col du Pillon 1992年
42 Oberwallis 1993年
© 2020 swisstopo
 

と、ここまで来れば、鉄道に詳しい方なら、上越新幹線の高崎~上毛高原間にある中山トンネルを想起されることだろう。建設中に大量の出水に見舞われ、ルート変更を余儀なくされた事例だ。現場に半径1500mのカーブが設けられたため、通過する列車に今も速度制限が課せられている。

掘削技術が進歩した1970~80年代でもそれほどの難工事があったのだから、さらに70年も前のレッチュベルクでの苦難は推して知るべしだ。いったい何が起こったのだろうか。スイス土木工学学会の刊行書籍「スイスにおけるアルプス開鑿史」(下注1)のレッチュベルクトンネルの章に、その顛末を記した技師ロートプレッツ Rothpletz 博士の手記(下注2、原文はドイツ語)が抜粋引用されている。それによると…

*注1 "Historische Alpendurchstiche in der Schweiz" Gesellschaft für Ingenieurbaukunst, 1996.
*注2 F. Rothpletz "Erinnerung an die schwersten Tage meines Lebens und deren Folgen(わが人生で最も困難な日々の記憶とその結末)" 1944.

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「スイスにおけるアルプス開鑿史」表紙
 

「1908年7月23日、… 底設導坑の胸壁は、坑門からの測定で2.675 kmに達していた。…

(夜)1時ごろ、私は坑門の外約200mにある家にいた。疲れていたのですぐに深い眠りについたが、3時頃、技師の一人に起こされた。『トンネルで何かあったようです』彼はそう言うと、先に出ていった。

坑門に着くと、しんと静まり返っていた。管理事務所では、全員が出払っていて、何が起きたのかほんとうに誰も知らないという答えだった。入坑簿を確かめたところ、掘削現場のほぼ全員が戻ってきていないことがわかった。彼らはまだ坑道内に残されていたのである。私は何が起きたのかを調べるために、すぐに現場監督とともに人けのない坑道に入った。坑門から1200mで、円錐形の岩屑に遭遇した。坑門から約1500mの地点で、坑道が岩屑で満たされ、その堆積から水が流れ出していることが明らかになった。

私はすぐに悟った。先進坑で崩壊が起きたこと、そしておそらくガステルン谷の堆積物がその中に流入したことを。全員の消息が不明だった! (後日)ガステルン谷で行われた調査で、(河原に)直径約80m、深さ3mの漏斗状の陥没が発見された。すなわち、最後に仕掛けた発破で岩の壁が破られ、… 坑道にガステルン谷の堆積物が流入したのだ。… 地質調査で推定されていた、坑道の上にはまだ厚さ100mの石灰岩の層が横たわっているというのは、誤りだった。

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ガステルン谷の陥没現場
Photo from E-Pics Bildarchiv online. License: CC BY-SA 4.0
 

捜索中、円錐形の岩屑の端からさほど遠くないところで作業員の一人が死亡しているのが見つかった。24名の同僚の代わりにカンダーシュテークの墓地に埋葬されたのは、彼だけだった。

自然岩盤がどれほどの深さで、トンネルが横断する可能性のある岩屑の堆積がどれほどの長さになるかを確かめるために、ガステルン谷で探査の手筈が整えられた。… その結果、ガステルン谷は想定以上に深く侵食されたうえ、再び埋め尽くされていたことが判明した。それはトンネルの横断予定地点よりはるかに深く、トンネルの上にあったのは厚さ100mの岩盤ではなく、カンダー川の水が浸透した172mもの堆積物、モレーン、押し出された岩屑だった。

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オリジナルルートの縦断面図
専門委員会報告書 Rapport de la Commission des Experts、1909年 より
 

ガステルン谷の堆積物に長さ350mの坑道を通す方法と、この作業を実行するのに必要な時間と費用を決定するために、大規模な調査が必要になった。

圧縮空気方式で横断するのは、おそらく10気圧以上の水圧を計算する必要があるため、現実的ではないように思われた。それに3気圧以上になると、人力での作業が可能性の限界にほぼ達してしまう。

凍結方式と同様に、セメント固結方式の成功も疑わしかった。水流があると、セメントは高価な冷却材と同じく運び去られてしまうからである。… また、二つの方法とも十分に固結されなければ、172mの堆積物が新たに流入する危険があり、事故再発の可能性があることも懸念された。

まもなくパリから現れた(建設コンソーシアムの)7人の企業家たちは2日目に、ガステルン谷の事故現場を迂回することに疑問を呈した。… それに対して私は、これほど危険を伴う工事を作業員に行わせるわけにはいかないと言った。というのも、トンネルの完成というゴールに導いてくれる、より安全な方法が他にあるに違いないし、それを私たちは、危険個所の迂回によって確保できると思っていたからである。最終的に、トンネルを迂回させ、今より800m長くするという決定がなされた。この迂回ルートは、特段の事故や困難に遭うこともなく、無事竣工した。

災害で生じた財政的な影響を、鉄道会社と建設コンソーシアムのどちらが負うべきかを巡っては訴訟になったが、後者が全面的に敗訴した。災害は不可抗力によるものではなかったため、契約書の文面により後者の責任とされたのである」。

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現ルートと新ルート周辺の地質図
専門委員会報告書、1909年より

博士が記しているように、トンネルは本来、ガステルン谷(地形図の表記はガステレタール Gasteretal)の基盤を形成している固い石灰岩の層を通過する計画だった。ところが、谷の岩盤が想定以上に深く削られており、上流から運ばれてきた砂礫や泥がその上にうず高く堆積していた。事故は、先進坑がその未固結の層に達したことから起きた。地圧のかかった堆積物が地下水もろとも一気に流入し、坑内を埋め尽くしてしまったのだ。

事故後、埋没した導坑への進入が何度か試みられたが、そのつど岩屑の崩落により阻まれた。24名の作業員の捜索は断念せざるを得なかった。掘削を継続するために、砂礫層の凍結、またはセメントによる固結工法も検討された。しかし、ガステルン谷は、融雪期以外は地表に水流がない涸れ谷で、大量の伏流水が地下に浸透しており、その量と速度から判断して、地盤の安定化は困難だった。

直線ルートの維持が不可能となったことから、改めて詳細な地質調査が行われ、谷を横断する位置を約2.5km上流に移す迂回ルートが計画された。そして、既存の導坑のうち迂回の起点から先の約1.5kmが放棄され、レンガで永遠に封鎖された。

その年(1908年)の12月、連邦議会で計画変更が承認され、建設工事は翌年2月15日にようやく再開される。この結果、当初長さ13,805mになるはずだったレッチュベルクトンネルは、807m延長されて14,612mとなるとともに、地図上にも異様に曲がったルートが描かれることになった。

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1911年5月14日貫通式の来賓用特別列車
ゴッペンシュタインにて
Photo from www.bls.ch

こうして苦難の末に完成したレッチュベルクトンネルとBLS線は、1世紀近くもの間、ドイツ、スイス、イタリアを結ぶ国際幹線の一部として重要な役割を果たし続けてきた。

1926年にはトンネルを挟む区間で、無蓋貨車に自動車を載せて運ぶカートレイン Autoverlad のプロトタイプが開始され、1960年には定期運行化されるようになった。また、トンネルは最初から複線で建設されていたが、1992年にはアプローチ区間を含めた全線が複線化されて、輸送力の強化が実現している。

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(左)初期の自動車輸送
 Photo from www.bls.ch
(右)ブリーク駅を通過するイゼッレ Iselle ~カンダーシュテーク間のカートレイン
 Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし2007年に、長さ34,577mのレッチュベルク基底トンネル Lötschberg-Basistunnel とそれに接続するバイパス新線が開業したことで、レッチュベルクトンネル経由の旧線はメインルートの地位から降ろされた。同じく基底トンネルが開通したゴットハルト旧ルートと同様、現在は、1時間に1本のRE(レギオエクスプレス、快速に相当)が通るだけのローカル線となって、余生を送っている。

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レッチュベルク基底トンネル北口
旧線がその上を交差する
Photo from www.bls.ch
 

■参考サイト
BLS https://www.bls.ch/
AlpenTunnel.de http://www.alpentunnel.de/

★本ブログ内の関連記事
 フルカ基底トンネルとベドレットの窓
 スイスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 スイスの鉄道時刻表

2020年7月29日 (水)

モンセラット登山鉄道 I-旧線時代

モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat

【旧線】
モニストロル・ノルド Monistrol-Nord ~モンセラット・モネスティル Montserrat-Monestir 間 8.6km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
1892年開通、1957年廃止

【新線】
モニストロル・エンリャス Monistrol-Enllaç ~モンセラット Montserrat 間 5.2km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
2003年開通

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R5系統の車窓から仰ぐモンセラットの山塊と修道院
海外鉄道研究会 田村公一氏 提供

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モニュメンタルな岩の柱が林立し、異形の山容が目を引くモンセラット Montserrat(下注)。スペイン、カタルーニャ州の州都バルセロナの北西50kmにあるこの山は、全体が自然公園に指定されている。その一角を占めるベネディクト派の修道院は古来、人々の崇敬を集めてきたカトリックの聖地だ。

*注 カタルーニャ語の発音は「ムンサラト」に近いが、慣用に従い、モンセラットと表記する。

山の中腹、狭い谷壁に張り付くように建てられた修道院付属大聖堂 Monasterio には、モンセラットの聖母 Mare de Déu de Montserrat(下注)と呼ばれる黒い聖母子像が祀られている。山麓を走る近郊線の駅から標高700m台のその大聖堂の前まで、現代の巡礼者を連れて行くのが登山鉄道「クレマリェラ・デ・モンセラット(モンセラット登山鉄道)Cremallera de Montserrat」(下注)だ。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

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緑をまとうモンセラットの登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山鉄道は、カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が運行している。メーターゲージ(1000mm軌間)で、アプト式のラックレールを使う。同じFGCで、州内にもう一つある同種の路線、ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria(下注)と共通の仕様だが、車両の塗色はヌリアの青に対して、こちらは緑色になっている。

*注 スペイン全体でも、ラック式鉄道はこの2本しかない。ヌリア登山鉄道については、本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」で詳述。

現代風の車両や地上設備を一見すればわかるように、運行開始は2003年で、まだ20年も経っていない若い路線だ。ただし、まったくの新設ではない。1950年代に廃止された旧線跡を多くの区間で利用しており、事実上の復活と言うべきものだ。新線の紹介に入る前にまず、前身となるこの旧 モンセラット登山鉄道の歴史から繙いてみたい。話は19世紀に遡る。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

バルセロナ方面からモンセラットへ向かう本来の巡礼路は、南麓に位置するコイバト Collbató の村から続く山道だ。その伝統を一変させたのが、1859年に当時の北部鉄道会社 Ferrocarrils del Nord が開通させた鉄道だった。これは、マンレザ Manresa 経由でバルセロナとリェイダ Lleida 以遠を結んだ広軌路線(下注)で、現在、カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya のR4系統が通っている。

*注 当時は1672mm。19世紀以来、軌間はスペインで1672mm、ポルトガルで1664mmと微妙な差があったが、1955年に基準が統一され、現在の1668mm(イベリア軌間 Iberian gauge)になった。

モンセラットの最寄り駅として、北東約5kmの地点にモニストロル・ノルド Monistrol-Nord(現 カステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット Castellbell i el Vilar - Monistrol de Montserrat)が開設された。そこから山へは、つづら折りの坂道を駅馬車がつないだ(下図左上)。

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旧 ラック鉄道と関連路線の変遷
 

しかし訪問者の増加につれ、馬車の輸送力に限界が見えてくる。当時、スイスのリギ鉄道 Rigibahn 開業(1871年)をきっかけに、ヨーロッパ各地でラック式登山鉄道に対する関心が高まっていた。機運に乗じてモンセラットでも、1878年に、スイスの事情に明るい鉄道技師と地元の実業家が組んで建設計画を発表した。リギで標準化されたリッゲンバッハ式、1435mm軌間の蒸気鉄道で、広軌線の駅と修道院とを結ぶというものだった。

認可が下り、建設と運行に当たる会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarriles de Montaña a Grandes Pendientes(スペイン語表記)が設立されたが、期待に反して事業は一向に進まなかった。10年近い時間を浪費した後、仕様が見直され、1891年に改めて認可を得た。新しい計画では、同じラック蒸機ながら、新開発でより安価なアプト式を採用している。軌間もコンパクトな1000mm(メーターゲージ)だ。線形を厳しくできるので、橋梁の短縮やトンネルの回避が可能になり、建設費はかなり圧縮された。

今回は順調だった。その年の9月に工事が始まり、13か月後の1892年10月6日、モンセラット登山鉄道は開業の日を迎えた(上図右上)。所要時間は片道1時間5分で、3時間半もかかっていた馬車に比べて格段に速く、バルセロナから日帰りが可能になったのは画期的だった。物珍しさも手伝って、のこぎり山(=モンセラット)へ鋸歯(=ラック)を使って上る登山鉄道は、たちまちカタルーニャで最も人気のある乗り物になった。

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旧線が記載された1:50,000地形図
(スペイン陸軍地理局 Servicio Geográfico del Ejército 刊行)
391 Iguarada 1950年
392 Sabadell 1952年
 

次の節目は1922年10月だ。リョブレガト川 el Llobregat の谷を通って、メーターゲージ(1000mm軌間、以下、狭軌線という)の新線が開通したのだ。カタルーニャ鉄道 Ferrocarrils Catalans(下注)が建設したマルトレイ Martorell ~マンレザ間の路線で、マルトレイではバルセロナ方面に接続し、実質的にバルセロナとマンレザを結ぶ第2の鉄道になった。現在のFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)R5系統が通るルートだ。

*注 正式名 Companyia General dels Ferrocarrils Catalans (CGFC)。

新線と登山鉄道が交差する地点に乗換駅が設けられることになり、狭軌線に近づけるため、登山鉄道のルートは長さ973mにわたり移設された。

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狭軌線を行く現在の213系電車
モニストロル北方のリョブレガト川鉄橋にて
Photo by The Luis Zamora at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ここで、旧線のルートをモンセラット方向にたどってみよう。

起点駅は、初め広軌線の駅から長い階段を下りたところに置かれ、モニストロル・パルティダ(出発の意)Monistrol Partida と称していた。しかし、1905年にスイッチバックを介した737mの延長線が造られ、列車は広軌線と同じレベルで発着できるようになった。それに伴い、パルティダ駅は閉鎖された。

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広軌線のカステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット駅
右側の空地が登山鉄道の起点駅跡
(2009年撮影)
Photo by eldelinux at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そこから路線は、いったんリョブレガト川の左岸を下る。支流をまたいだところに、バウマ停留所 baixador de la Bauma があった。またしばらく下流へ進むと、狭軌線に接続する(旧)モニストロル・エンリャス(ジャンクション)Monistrol-Enllaç 駅がある。その後、リョブレガト川を長さ118m、3連上路トラスの鉄橋で横断して、山へ向かう。54‰勾配の切通しを抜けると、中間駅のモニストロル・ビラ Monistrol Vila だ。鉄道の運行拠点とされ、車庫と整備工場もここに置かれていた。

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リョブレガト川を渡る登山列車
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
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今もレンガの橋脚・橋台が残存
from street view on Google map, © 2020 Google
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モニストロル・ビラ旧駅舎は鉄道の展示館に
Photo by Enric at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

駅の出口で、いよいよラック区間が始まる。現在の新線も、ここから旧線跡を利用している。短いトンネルを抜けた先に、モンセラットに上る車道と交差する踏切がある(下注)。そこは後に、踏切番の服を着て列車を見送る「踏切小屋の犬 Gos de la Casilla」で有名になり、乗客はそれにコインを投げるのが習わしだった。

*注 復活した新線では、この区間が谷寄りに移設され、立体交差化された。

ラック区間の中間部に設けられた複線は1.3kmあり(下注)、繁忙期に3列車が続行運転しても、走行しながら列車交換が可能な長さだった。路線最長のアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols を抜け、ほどなく終点のモンセラット・モネスティル(修道院)Montserrat-Monestir 駅に到着する。構内は今と違って屋外にあり、3線が敷かれたターミナルだった。

*注 新線では複線が420mに短縮。

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終点モンセラット・モネスティル駅
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
 

1920年代には、この終点駅でホームが拡張され、最大4編成の列車の留置が可能になった。並行して電化も検討されたが、財務上の理由とともに、修道院との合意が整わず、実現しなかった。

ここまでの約30年間は、登山鉄道にとって華やかなりし時代だ。かつての馬車道が自動車道に整備されたとはいえ、まだ大多数の訪問客は鉄道を利用して山に上っていたからだ。ところが、1930年代に入ると、風向きが変わっていく。

まず、別のライバルが登場した。1930年に開業した「アエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat」、すなわちモンセラットに上るロープウェーだ。起点はリョブレガト川沿いの狭軌線のすぐそばで、狭軌線に乗換用の駅が新設された。それは、登山鉄道の接続駅より二駅バルセロナ寄りになる。しかもロープウェーはそこからわずか5分で、修道院の直下まで上りきる。輸送能力は登山鉄道に及ばないものの、時間の短縮効果は圧倒的だった。

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モンセラット・ロープウェーのゴンドラから
起点駅を見下ろす
Photo by The Bernard Gagnon at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1936~39年の内戦(スペイン市民戦争)中も登山鉄道は走ったが、一般輸送は中止され、機関車はもっぱら、戦争の負傷者をモンセラットに置かれた陸軍病院に運び込む仕事に携わった。内戦が終結しても数年間は財政難で、設備更新に対する投資が滞った。その後は修道院の祝賀行事に伴い、旅客数が回復したものの、長年の酷使により設備の劣化が進行していたのは間違いない。

1953年7月25日、予想外の惨事が起きる。山上行きの列車がラック区間で突然下降し始め、後続の列車を巻き添えにして、その数百m下を走っていた第3の列車に衝突したのだ。この事故で8名が死亡、16名が重傷、116名が軽傷を負った。蒸機も3号機と5号機が大破して、廃車処分となった。

これを境に、会社の運命は暗転した。老朽化した鉄道に対する市民の不信が高まり、モンセラットの訪問客は、ロープウェーや自動車道を上るバス、自家用車に移っていった。もと8両あった蒸機は事故で6両に減り、1956年になると、部品不足で2号機と7号機が離脱、4号機は客車1両に制限された。悪循環の中で万策尽き、1957年5月12日、旧 モンセラット登山鉄道は65年間の運行の幕を閉じた。

登山鉄道の運行会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツは、モンセラット山中に造られた2本のケーブルカーやヌリア登山鉄道の事業者でもあったため、その後も存続している。しかし、1982年にカタルーニャ州により買収され、1984年、残された鉄道の公営化の手続きが完了した。

復活した登山鉄道については、次回

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット(訪問者向け公式) https://www.montserratvisita.com/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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2019年12月10日 (火)

コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸

2019年11月4日、コンターサークルS秋の旅2日目は、広島県呉市の、音戸の瀬戸(おんどのせと)を訪れた。

音戸の瀬戸(下注)というのは、本土と倉橋島の間にある長さ約1kmの海峡のことだ。ここは瀬戸内東部から呉や広島の港へ向かう最短ルートに当たっており、船の往来が多い。ところが幅が約80mと狭いため潮流が速く、潮の干満に従って方向も周期的に変わる。さらに航路自体も南側で大きく湾曲しており、航行する船にとっては難所になっている。

*注 地形図では「音戸ノ瀬戸」と表記。

今回は、この特徴的な海峡を、まず高台から展望し、その後、今なお残る渡船や、瀬戸を一跨ぎしている橋を使って、立体的に体感してみたいと思っている。

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高烏台から音戸の瀬戸を遠望

曇り空に終始した前日とは一転して、この日は穏やかな秋晴れになった。降り注ぐ朝の日差しが目に眩しい。山陽本線糸崎駅始発の普通列車に乗って、現地へ向かう。列車は三原から呉線に入り、瀬戸内ののどかな海岸線をなぞっていく。車両は、真新しい227系レッドウィングの3両編成。日曜日は通学生がいないから、車内はガラガラだ。

窓に広がる海景は申し分ないのだが、山が海に迫る崖際を通過するたびに、時速25kmの速度制限がかかる。そのためか糸崎~呉間に2時間を要し、中国山地のローカル線と変わらない鈍速ダイヤだ。山陽本線の電車なら、同じ時間で広島どころか宮島口も通過してしまう。これではせっかく投入された新鋭車両も泣いていることだろう。

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(左)227系レッドウィング、呉駅にて撮影
(右)呉線、朝の車窓
 

それはさておき、広(ひろ)駅で同じレッドウィングに乗り換えて、呉駅には10時14分に着いた。改札を出て見回してみたが、案の定メンバーの姿はない。事前に出欠を確かめることはせず、当日指定の場所・時刻に来た人だけで出かけるのが、このサークルの流儀だ。昨日の参加者の反応から、単独行になるだろうと予想していたが、そのとおりだった。

駅前から、一人で鍋桟橋(なべさんばし)行きの広電バスに乗る。長崎や神戸と同様、呉の市街地は狭い平地に収まりきらず、山手に拡大してきた。呉湾の東側、休山(やすみやま)の麓もそうで、住宅地が急斜面を這い上がっている。バスが行くのは、その宮原地内を貫く片側1車線の市道だ。見通しの悪いカーブとアップダウンが連続し、車酔いしそうになる。

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音戸の瀬戸周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

警固屋(けごや)4丁目の停留所でバスを降りた。ここから歩いて、高烏台(たかがらすだい)という展望台へ行くつもりだ。高烏台へは音戸大橋のたもとから車道をたどるのが一般的な道順だが、地図に、的場五丁目の森添神社から上る小道が描かれている。復路は車道にするとして、往路はこの未知のルートに挑戦したい。

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(左)呉駅前から広電バスに乗る
(右)警固屋4丁目下車
 

実際に行ってみると、かなり急な坂道だったが、家並みが続く間は問題なく歩けた。しかし神社を過ぎたとたん、落ち葉散り敷く山道に変わり、まもなく丈の高い雑草や枯れ枝に埋もれて、道の体をなさなくなった。5年前の広島豪雨の爪痕だろうか、路面が完全に崩落し、崖っぷちを恐る恐る渡らなければならない個所さえある。

路面はコンクリート舗装で整備されていたことがわかるのだが、誰も通らなくなり、時間の経過とともにすっかり荒廃してしまったようだ。まとわりつく蜘蛛の巣を払い、藪漕ぎでひっつき虫だらけになりながら、なんとか車道までたどり着いた。

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(左)集落を縫う坂道
(右)路面崩落個所
 

しかし苦闘の甲斐あって、標高216mの高烏台からの景色は文句なしにすばらしかった。西側では音戸の瀬戸をまたぐ2本の赤いアーチ橋を点景に、倉橋島から江田島にかけての島並みが一望になる。方や東には安芸灘が広がり、海原のかなたに四国の山々が浮かんでいる。

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瀬戸をまたぐ2本のアーチ橋
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高烏台から安芸灘方面の眺望
 

音戸の瀬戸には、平清盛が開削したという伝説がある。完成を前にして日暮れてきたため、沈む夕日を金の扇で招き返して、工事を続行させたのだそうだ。高烏台には音戸の瀬戸のほうを向き、右手で扇を差す清盛の立像、いわゆる日招き像が据えられている。その足跡と杖の跡が残るという日招き岩も近くにあるのだが、道が通行止めになっていた。豪雨災害の影響かもしれない。

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(左)清盛の日招き像
(右)展望台は砲台跡にある
 

昼食休憩の後、今度は車道を降りていった。歩道はないが、車はたまにしか通らないから、安心して歩ける。途中から見晴集落の中の細道を経由した。中腹の急な斜面に張りつく集落で、海の眺めは地名どおりだ。その入口に見晴町というバス停もあった(下注)。

*注 バス停の下段にも展望公園があるが、高烏台と同方向、かつ低位置の展望になるので今回は立ち寄っていない。

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(左)見晴町バス停
(右)音戸の瀬戸公園、吉川英治文学碑
 

さらに下り、音戸の瀬戸公園の展望ポイントへ向かう。正式な「音戸の瀬戸公園」の範囲は広く、高烏台も含むようだが、目指したのは、つつじの名所として知られる、音戸大橋近くの「公園」だ。突端にある吉川英治文学碑が立つ地点から、際立つ朱色の2本の橋が左右に望める。距離が近いので、そのスケールが、家並みや瀬戸を通る船などとの比較でよくわかる。

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音戸の瀬戸公園全体図
 

ここで、改めて橋の諸元を記しておこう。左側の音戸大橋(以下、第一大橋という)は、1961(昭和36)年に供用されたアーチ橋(構造的にはランガー橋)だ。全長172m、主径間長115m、桁下高23.5m。本土と瀬戸内の島を結んだ最初の橋で、開通当時は夢のかけ橋と呼ばれ、観光名所になった。アプローチに必要な土地が狭いため、本土側は山を削り複雑な形のループで、また倉橋島側は2回転半の高架ループで、それぞれ高度を稼いでいるのが特徴だ。

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音戸大橋と高架ループ
 

これに対して、右側の第二音戸大橋は、国道487号警固屋音戸バイパスの一部として、2013(平成25)年に開通したアーチ橋(同 ニールセン・ローゼ橋)だ。瀬戸の幅が広いところに架橋されているため、全長492m、主径間長280m、桁下高39mの規模をもつ。設計4車線のところ、暫定2車線。第一大橋にはない歩道が設置されているので、自転車や徒歩でも安全に渡ることができる。

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一回り大きい第二音戸大橋
 

さて、2本の橋の下を船が通過するのどかな景色を眺めた後は、楽しみにしていた音戸の瀬戸の横断に出かけた。まずは船で対岸の倉橋島に渡ろう。橋を経由すると極端な迂回になるため、市の補助により昔ながらの渡し船が残されているのだ。公園のある高台から急な階段道を降りていくと、道路の向こうに「音戸渡船」と妻面に記した渡し場の小屋が見つかる。

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音戸渡船の本土側渡し場
 

この渡船がユニークなのは、オンデマンド運航であることだ。乗り場の立札にこう書いてある。「時刻表はありません。桟橋に出て渡船に乗ってください。一人でも運航します。渡船が向こう側にいるときは桟橋に出ていれば、すぐに迎えに来てくれます」。

距離約90m(立札では120m)、所要3分の日本一短いと言われる定期航路で、運賃は大人100円、小人50円、自転車込みで150円だ。ほかに客はおらず、小屋にも人影がないので、遠慮なく桟橋を渡っていく。すると、停船していた小型船の操舵室から船頭さんが出てきて、運賃を回収し、すぐに艫綱を解き始めた。

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渡し場前の立札
 

船はまず第二大橋のほうへ出ていく。そこで半回転し、次に第一大橋を前方左に見ながら瀬戸を横断し、再び半回転した。こうしてS字形に進んで、対岸に到達する。その間にも旅客船や漁船が通過するので、それらを避けながらの操船なのだが、手慣れたものだ。航路は2本の橋の中間にあるので、高台からの俯瞰とは異なり、橋のアーチを下から仰ぎ見る形になる。高さや広がりが強調されて、たとえてみれば空に架かる虹のイメージだ。船上ならではの体験だろう。

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待合小屋を抜けて桟橋へ
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艫綱を解いて出航
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(左)音戸大橋を仰ぎ見る
(右)対岸の桟橋に到着(下船後撮影)
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倉橋島(音戸町)側渡し場
 

船頭さんにお礼を言って、陸に上がった。護岸に沿って音戸町(現在は呉市音戸町)の集落が延びている。まずは第一大橋のたもとにある清盛塚を見に行く。海中の岩礁に築かれているので中には入れないが、南側に見学用の突堤が造られていた。若い松が潮風に耐えて勢いよく枝を伸ばしている。ここから見える、第一大橋の下に第二大橋が覗く構図もおもしろい。

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(左)音戸大橋入口には、2回転半の注意標識が
(右)清盛塚
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第一大橋の下に第二大橋が覗く
 

渡し場から家並みを縫う旧道沿いに入ると、虫籠窓をもつ豪壮な商家が3軒連なっていた。普通車がやっとの狭い道に不釣り合いな大きさなので、余計に目を引く。カフェを開いている呉服屋のほかは廃業して久しいようだが、本土との往来を渡船に頼っていた時代、この細道はどんなにか賑わったことだろう。

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(左)旧道沿いに商家が連なる
 

家並みが途切れる第二大橋の直下から、急坂の小道を上る。黒権現という小さな祠を経て、なおも行くと、第二大橋のたもとに造られた展望台に出た。日招き広場という名のとおり、ここは北から西にかけての展望が開ける。右手前にかつての海軍工廠、今は日新製鋼製鉄所の赤茶けた建物や煙突群、その後ろは呉市街だ。左の江田島との間、湾の最奥部には、山並みを背にして広島の市街地も遠望できる。

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(左)日招き広場
(右)国道をまたぐ「第三音戸大橋」
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日招き広場からの眺望
湾の最奥部に広島市街が見える
 

第一大橋がある南側も見ようと、国道を横断する歩道橋を渡った。アーチの飾りがついた歩道橋は、「第三音戸大橋」のあだ名があるそうだ。第二大橋の下り車線(倉橋島方面行き)に併設された歩道の途中からは、第一大橋の側面形を、あたかもカタログ写真のように鑑賞できる。午前中から音戸大橋をさんざん見てきたが、その締めくくりにふさわしい眺めだ。

ちなみに、第二大橋は片側2車線が未完成で、そのためか下り車線の歩道は橋の真ん中で行き止まりになっている。本土へ渡るには、上り車線(本土方面行き)の歩道に迂回しなければならず、少々面倒だ。しかし、足もとに潜り込んでいく船を見下ろしながら、潮風に吹かれての空中散歩は特別な感覚だった。

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(左)暫定2車線供用の第二音戸大橋
(右)海峡の上を空中散歩
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第二音戸大橋から音戸大橋を眺望
 

秋の陽は早や傾きかけている。小道を降りたところにある警固屋中学校前が、本日のゴールだ。心地よい疲労感に包まれて呉駅に戻るべく、ちょうどやってきた鍋桟橋行きのバスに乗り込んだ(下注)。

*注 2019年10月1日からこのエリアでは、広電バスから呉市のコミュニティバス(呉市生活バス)へ路線移管が行われた。広電バスの時刻表では鍋桟橋以遠の運行本数が極端に少なく見えるが、代わりに上記の生活バスが走っており、例えば呉駅前~音戸渡船口間は、鍋桟橋乗継ぎにより1時間に1~2本程度が確保されている。
時刻表は、呉市-公共交通機関 https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/28/koutu.html にある。音戸渡船口のバス停を通るのは、広島電鉄「呉倉橋島線」および 生活バス「阿賀音戸の瀬戸線」。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図呉(平成28年5月調製)を使用したものである。

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