軽便鉄道

2020年9月 6日 (日)

ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内

Blog_budapest_child21
ヴィラーグヴェルジ駅での列車交換
 

登山鉄道(下注)の終点から左のほうへ3~4分も歩くと、いささか無骨な石張りの建物が現れる。壁に箱文字で、GYERMEKVASÚT(ジェルメクヴァシュート、子供鉄道)とハンガリー語で大書してあるものの、他に駅であることを示す手がかりは皆無だ。一人のときは一抹の不安を覚えるが、くたびれたガラス扉から覗けば、出札窓口があるのが見えるだろう。

*注 登山鉄道については「ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ」参照。

子供鉄道の起点駅セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)は、標高465mの高みにある。ただし、地形的にはほぼ平坦で、山上らしさはあまり感じられない。駅前は公園なのだが、レストランとイベント施設が1棟ずつあるだけで、他に商店も住宅もないもの寂しい場所だ。

Blog_budapest_child22
セーチェニ・ヘジ駅舎
(左)正面 (右)ホーム側
 

駅舎に入ると、二つの出札口のうち一つが開いていた。子供鉄道では市内交通のチケットが一切使えないから、ここで切符を買っておかなければならない。運賃は全区間同額で、乗車券には1回券、2回券(2回乗車可、但し当日限り有効)、家族向けの1日券などの種類がある。

2020年8月現在の価格は、1回券が800フォリント(1フォリント0.35円として280円)、2回券が1400フォリント(同490円)、家族1日券が4000フォリント(同1400円)だ。支払い方法はフォリントの現金のみで、クレジットカードなどは扱っていない。現金の収受と集計もまた子どもたちの仕事であり、社会教育の一環だからだ。

ホール壁面には、おそらく卒団記念に撮ったのだろう子供鉄道員の集合写真が、年代順にずらりと掲げてある。写真はグループ単位で、まだあどけなさを残す十数人のメンバーの後ろに、中等学校生(高校生)か大学生とおぼしき3人のリーダーたちも写っている。

Blog_budapest_child23
駅ホール、がらんとした空間に出札口が二つ
 

駅舎を抜けると青空の下に、ブロックで線路と区切っただけの砂利敷ホームが広がっていた。一応2面2線の格好だが、どちらに降りようと問題なさそうだ。駅舎との間には腰丈の鉄柵があり、列車が到着したときだけ扉が開放される。ホームの端には背の高い腕木信号機が2本立っていて、信号扱所に詰めた子供鉄道員の転轍操作に連動している。

Blog_budapest_child24
2本並んだ腕木信号機
 

そのうち駅務室から赤い制帽を被った少女たちが出てきたと思ったら、ヒューヴェシュヴェルジの方向から列車が現れた。Mk45形ディーゼル機関車を先頭に客車3両の編成で、中央の1両は側壁のないオープン客車だ。

右手をかざす少女鉄道員の敬礼に迎えられ、列車は駅舎から遠い側のホームに入線した。停車するや、青帽、青ネクタイの車掌とおぼしき少年(下注)が真っ先に降りてきて、鉄柵の扉を開ける。子犬を連れた乗客の集団がそれに続く。

*注 そのときは車掌だと思ったのだが、正確には彼は検札係だった。子供鉄道員の仕事については前回「ブダペスト子供鉄道 I-概要」で触れている。

Blog_budapest_child25
列車の到着
 

まもなく、折返し運転に備えて機関車を逆側に付け替える機回し作業が始まった。もちろんこれは大人の仕事だ。反射チョッキを着た車掌が添乗し、機関車を誘導する。手前の線路を通り、腕木信号機のさらに先まで行き、客車の前に戻ってきた。連結作業も車掌が行う。

ホームでは、次の乗客たちが客車に乗り込んでいく。今日はよく晴れて、まだ6月中旬というのに気温は34度に達している。こんな日は風通しのいいオープン車両の人気が高い。

赤帽の少女が勢いよく笛を吹き、柄の先に円のついた標識を前に差し出した。列車に乗り組んだ少年鉄道員たちが、腕を外に伸ばして異常なしを告げる。それを確認した少女は標識を運転士に向け直し、上げ下げした。これが発車の合図らしく、列車はゆっくりと動き出した。

Blog_budapest_child26
(左)機回し作業
(右)出発の合図
Blog_budapest_child27
オープン客車
ヒューヴェシュヴェルジにて
 
Blog_budapest_child_map3
子供鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

構内を出てしばらくは直線路だ。ベンチシートで風に吹かれていると、さっそく車掌(検札係)の少年が一人で検札に回ってきた。揺れる車内で切符を受け取り、鋏を入れて返してくれる。切符を所持していない乗客に対しては運賃回収に伴う現金の授受があるし、乗客の中には何やら質問をする人がいて、それにも的確な返事をしなければならない。まさに接客の最前線で、しっかりした子供でないと務まらないだろうなと思う。

最初の停車はノルマファ Normafa mh. だ。駅名の後についている「mh.」は megállóhely(メガーローヘイ、停留所)の略で、棒線かつ無人の簡易な乗降場をいう。ノルマファは山上の公園で、冬はスキーが楽しめる市民の憩いの場所だが、麓から直行のバス路線があるので、子供鉄道の乗降はほとんどない。

このあと、線路は左へカーブしていく。車窓が森に閉ざされたところで、チレベールツ Csillebérc 駅に着く。社会主義時代、ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市の意)と称していた駅だ。隣接地にある休暇・青少年センター Szabadidõ- és Ifjúsági Központ が、当時のピオネールキャンプで、駅舎もそれを意識してか、屋根に時計塔を載せ、妻面にはピオネールの活動が浮き彫りされている。列車は左の線路に入り、ハンガリーでは珍しく左側通行であることに気づいた。

Blog_budapest_child28
(左)ノルマファ停留所
(右)チレベールツ駅
Blog_budapest_child29
(左)屋根に時計塔、妻面にピオネールの絵
(右)「ピオネールは木を植える」?
 

線路はここから一方的な下り坂になる。花の谷を意味するヴィラーグヴェルジ Virágvölgy は、最初に開通した区間(1948年)の終点だ。ここで、列車交換があった。子供鉄道の駅(アーロマーシュ állomás)には必ず待避線が設けられ、列車交換が可能だ。そして大人の駅長(?)と、何人かの子ども駅員の姿がある。

例の円形標識を持っているのが、赤帽をかぶった年長者で列車を受取り、送り出す役(記録主任)、その横には見習いだろうか、青帽の年少者がついている。さらに構内終端には、転轍てこを操作する別の少年がいる。

Blog_budapest_child30
ヴィラーグヴェルジ駅で列車交換
(帰路写す)
 

ヴィラーグヴェルジを出て少し行くと、張り出し尾根を横断する急カーブにさしかかる。下り勾配の途中で、列車はレールをきしませながら、ゆっくりと回っていく。

次のヤーノシュ・ヘジ János-hegy(ヤーノシュ山の意)は、深い森に埋もれた小さな駅だ。セーチェニ・ヘジ方に鉄道員詰所の建物はあるが、旅客施設としては、線路際に並ぶ数脚のベンチがすべてだ。駅名が示すようにヤーノシュ山頂への最寄り駅で、ハイキング客が利用する。

Blog_budapest_child31
(左)ヤーノシュ・ヘジ駅、奥に詰所がある
(右)駅からの登山道
 

標高527mのヤーノシュ山は、ブダペスト市域で最も高い地点になる。山頂には、王国時代の1911年に建てられた石造のエルジェーベト展望台 Erzsébet-kilátó(下注)がそびえていて、上層のテラスからは、ドナウ川とともに、ブダペスト市街地の王宮の丘や国会議事堂が遠望できる。

*注 展望台の名は、1882年にこの地を訪れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 Franz Joseph I の妻エリーザベト Elisabeth にちなむ。

後で山頂まで歩いてみたのだが、さほど険しくもなく、森の中を行く気持ちのいい山道だった。所要時間は、駅(標高408m)からチェアリフト Libegő の山上駅前(同 約480m)までが15~20分、そこから山頂まで階段道で5~6分というところだ。帰路は、子供鉄道に戻らなくても、チェアリフトで山麓のズグリゲト Zugliget へ降り、路線バス(下注)に乗継ぐ短絡ルートがある。

*注 バスは291番西駅 Nyugati pályaudvar 行き。セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér 方面へは、途中のブダジェンジェ Budagyöngye でトラムに乗り換え。

Blog_budapest_child32
山頂に建つエルジェーベト展望台
Blog_budapest_child33
展望台からブダペスト中心部を遠望
左にドナウ川に面した国会議事堂
中央~右に王宮の丘が続く
Blog_budapest_child34
山上からズグリゲトへ降りるチェアリフト
(左)山上駅
(右)市街を俯瞰しながら降りる
 

話を鉄道に戻そう。ヤーノシュ・ヘジ駅から下っていくと、ヴァダシュパルク停留所 Vadaspark mh. を通過する。2004年に開設され、2017年までは夏季と週末に停車していたが、現在は事前申請があった場合にのみ停車するリクエストストップだ。

この後、ブダケシ通りをオーバークロスして、線路は山の東側斜面に移る。セープユハースネー Szépjuhászné は、第2区間の終点だったところだ。駅舎はそれらしく規模の大きな造りで、軽食のテイクアウトがある。

セープユハースネーを出ると、線路は大ハールシュ山 Nagy-Hárs-hegy、小ハールシュ山 Kis-Hárs-hegy の山腹を大きく迂回していくが、その間に、ブダペスト市街が見える貴重な場所を通過する。子供鉄道の沿線で、展望が開けるのはほぼここだけだ。時間にすれば何十秒という短さなので、右側の車窓に注目していたい。

Blog_budapest_child35
(左)行路は森林鉄道さながら
(右)セープユハースネー駅(帰路写す)
Blog_budapest_child36
車窓からブダペスト市街の展望
 

ハールシュとはセイヨウシナノキ、ドイツ語でリンデンバウム Lindenbaum(菩提樹)のことだ。山の名を戴くハールシュ・ヘジ Hárs-hegy が、最後の中間駅となる。地図を見ると、この後、高度を下げるための極端な折り返しがある。右側にこれから通る線路が俯瞰できそうに思うが、実際は森に隠され、いっさい見ることができなかった。列車は、長さ198m、路線唯一のトンネルで、進む方向を180度変える。

道路をまたぐ高架橋を渡ると、まもなく終点のヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy(下注)だ。ここでも子ども駅員たちが列車を迎えてくれる。

*注 ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy(冷えた谷、涼しい谷の意)という地名は、ドイツ語のキューレンタール Kühlental に由来し、おそらく日陰になる谷地形(したがって耕地には不適)を表している。

Blog_budapest_child37
(左)ハールシュ・ヘジ駅
(右)路線唯一のトンネルへ(帰路写す)
Blog_budapest_child38
ヒューヴェシュヴェルジ駅で発車を待つ列車
 

ヒューヴェシュヴェルジ駅は、起点セーチェニ・ヘジと比較すると、施設配置がかなり異なる。平面構造は1面2線で、2本の線路が島式ホームをはさむ形だが、そのホーム上に信号扱所があるのだ。駅は山裾の緩斜面に位置しており、線路の片側は盛り土になっている。それで他の駅のように、線路の側面に信号扱所を設置できないのが理由だろう。

さらにその続きに出札窓口、トイレ、そして子供鉄道博物館 Gyermekvasút Múzeum と、旅客関係の機能がホーム上に集約されている。かつての駅舎は、一段低い駅前広場に面して残っているが、もはや単なる通路でしかなく、建物の3/4は「キシュヴァシュート Kisvasút(軽便鉄道)」という名のピザレストランの営業エリアだ。

Blog_budapest_child39
(左)元の駅舎にはピザレストランが入居
(右)駅舎内は通路化され、奥にホームへ上がる階段がある
 

子供鉄道博物館というのは、ピオネール時代からの写真や備品などさまざまな資料を保存展示する資料館だ。何分ハンガリー語なので内容を読み取ることは難しいが、乗車券を手作りしていた古い印刷機や、閉塞器、転轍てこ、それに子供鉄道員の制服などの実物も置かれている。鉄道のOB、OGたちには懐かしいものばかりだろう。博物館は週末と5~8月の毎日開館している。入場料100フォリント。

Blog_budapest_child40
子供鉄道博物館
(左)入口 (右)内部
Blog_budapest_child41
(左)手前は乗車券印刷機
(右)鉄道運行の資料も
 

路線建設の順序から言えば終点に違いないのだが、子供鉄道の運行拠点はこのヒューヴェシュヴェルジだ。なぜなら、ホームの数百m先に車両基地が置かれ、整備はそこで行われる。また、駅前広場の北側に鉄道の本部施設があり、子どもたちはそこで最初のコースを学ぶ。さらに、市街地からトラム1本でアクセスできるため、鉄道の利用者もこの駅が最も多い。それは、駅でレストランが営業しているという事実からもわかるとおりだ。

さて、駅前広場を左に取ると、とんがり屋根を連ねた階段があり、トラム(路面電車)のターミナルに降りられる。ヒューヴェシュヴェルジは市街地から上ってくるトラム路線の終点で、郊外バスとの乗継地になっている。同じような古風なスタイルの木造駅舎や休憩所が残り、おとぎの国に迷い込んだような雰囲気だ。

トラムは数系統来ているが、どれに乗ってもブダの交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér)と南駅 Déli pályaudvar を経由する。

Blog_budapest_child42
ヒューヴェシュヴェルジのトラムターミナル
(左)子供鉄道駅へ上がる屋根付き階段
(右)古風な待合所
Blog_budapest_child43
バスとトラムを平面で乗継ぎ
 

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

★本ブログ内の関連記事
 ブダペスト子供鉄道 I-概要
 ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

2020年8月31日 (月)

ブダペスト子供鉄道 I-概要

ブダペスト子供鉄道 Budapesti Gyermekvasút (Budapest Children's Railway)
(正式名:ハンガリー国有鉄道セーチェニ・ヘジ子供鉄道 MÁV Zrt. Széchenyi-hegyi Gyermekvasút)

セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy ~ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 間 11.2km
軌間760mm、非電化
1948~1950年開通

Blog_budapest_child1
到着する列車を迎える子供鉄道員
セーチェニ・ヘジ駅にて
 

「世界最長の子供鉄道線」。ヒューヴェシュヴェルジ駅のホームにある駅舎の壁に、2015年にギネス世界記録に認定されたことを示すプレートが掲げてある。いわく、「最長の子供鉄道線は、ハンガリー、ブダペストのヒューヴェシュヴェルジ駅とセーチェニ・ヘジ駅の間を走っている長さ11.7018km(7.27マイル)の狭軌子供鉄道である。鉄道は、最初の3.2km(2マイル)区間が1948年7月31日に開通して以来、運行を続けてきた。」

*注 11.7018kmは車両基地終端までの路線長で、営業区間は11.2km。

Blog_budapest_child2
ギネス世界記録認定のプレート
 

子供鉄道と聞くと、遊園地で子どもたちを楽しませている遊具のミニ列車を想像してしまう。確かに狭軌線で公園などに敷かれていることが多いため、どちらも見た目は似ている。しかし、ここでいう子供鉄道は、ソ連を中心とした旧社会主義諸国で社会教育組織として運営されていた鉄道のことだ。ピオネール(少年団)活動の一翼を担っており、ピオネール鉄道とも呼ばれていた(下注)。

*注 ロシア語のピオネール пионе́р は英語の Pioneer に相当する。ソ連圏の子供鉄道については、ウィキペディア日本語版「子供鉄道」が詳しい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/子供鉄道

社会主義政権の終焉後、こうした小鉄道は廃止されたり、遊園地の乗り物に転換されたりしたが、子どもを構成員とする組織体により運行されている鉄道路線も、いまだに存在する。その中でおそらく最大のものが、ブダペスト西郊の山中を走るこの子供鉄道だ。

ここでは、線路が公園内を周回するのではなく、公共路線(登山鉄道とトラム)の2つの終点を連絡する形で延びている。使用されている車両も一般の狭軌鉄道と何ら変わらない。ところが駅や車内では、大人に代わって制服制帽姿の子どもたちの、きびきびと鉄道員の作業をこなす姿がある。微笑ましくも、物見遊山気分で乗った者としては襟を正したくなる光景だ。

Blog_budapest_child3
発車準備完了

Blog_budapest_child_map1

 

この種の鉄道は、旧 ソ連で1932年または1933年に登場したという。第二次世界大戦後、東欧諸国でも、それに倣ったものが各地に設立されていった。鉄道としてはいずれも狭軌で、普通鉄道網とは切り離され、環状線であることが多い。ブダペストでは、1947年に建設計画がスタートしている。当時、政治体制はまだ議員内閣制だったが、第一党となった共産党の主導で政策が遂行されていた(下注)。

*注 ハンガリーは1946年に王政廃止、議院内閣制に移行。1949年に一党独裁の社会主義体制が始まる。

ソ連の軽便軌間は750mmが標準だが、ブダペストでは760mmのいわゆるボスニア軌間とされた。これは旧 ハプスブルク帝国の領内で普及した軌間で、ハンガリーでも当時はまだ地方の軽便線や森林鉄道に多数残っており、車両の融通が可能だった。

建設地についてはいくつかの案があった。帝国時代の離宮がある東郊のゲデレー Gödöllő や、ドナウの中州マルギット島 Margit-sziget なども候補に挙がる中で、最終的に西郊のブダ山地 Buda-hegység が選ばれた。既存の登山鉄道でアクセスできることと、沿線にピオネールのキャンプ地を設ける計画があったからだ。

Blog_budapest_child_map2
子供鉄道(緑)と隣接する路線の位置関係
 

建設工事は1948年4月に、セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy のゴルフ場跡地で始まった。資材や車両が登山鉄道で運び上げられ、専門の建設業者とともに、市民や学生もボランティアで作業に加わった。また、ハンガリー国鉄 MÁV の鉄道員が、運行に備えて技術指導に当たった。

こうして同年7月には早くも最初の3km区間が完成している。終点は現在のヴィラーグヴェルジ Virágvölgy 駅だが、当初はエレーレ Előre と命名された。これは「前進」を意味し、ピオネールたちが交わす挨拶言葉だった。

駅名どおりに線路の前進は続き、1949年6月にセープユハースネー Szépjuhászné(当初の名はシャーグヴァーリリゲト Ságváriliget)までの第2区間、そして1950年8月20日にヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy までの最終区間が完成して、全通の記念式典が盛大に催された。

Blog_budapest_child4
ヒューベシュヴェルジ駅での全線開通(引渡し)式
(1950年)
Photo by FORTEPAN / UVATERV at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

初期に使用された車両の一つが、ミシュコルツ Miskolc 近郊のリラフュレド森林鉄道 Lillafüredi Állami Erdei Vasút (LÁEV) から運ばれてきたアバモト ABamot と呼ばれる1929年製の気動車連接車両2編成(1号、2号)だ。後にリラフュレドに戻され、1号は廃車になったが、残る2号は1991年に改修を受けて子供鉄道に復帰し、今もノスタルジック・トレイン(懐古列車)として登場する。

1949年の第2区間開通に際しては、蒸気機関車も狭軌用の490形が3両導入された。森林地帯を走るため、2両は火の粉を出さない油焚きに改修されていたが、しばしば技術的な不具合が発生し、運用はごく短期間で終了した。

残る1両、1942年製の490.039は、長い静態保存を経て全面改修を受け、2007年6月から特別列車として復活している。もとバラトンフェニヴェシュ軽便線 Balatonfenyvesi Gazdasági Vasút の490.056(下写真右)も2000年から子供鉄道に在籍しているが、現在は運用から外れている。

Blog_budapest_child5
(左)連接式気動車アバモト(2014年)
Photo by Petranyigergo88 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)490形蒸気機関車(2008年) 
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この鉄道の線路条件は、案外過酷だ。起終点間の標高差が235mあり、平均勾配25~30‰、最大勾配は32‰にもなる(下注)。そのため不調をきたす動力車も少なくなかったが、1973年にルーマニア製のディーゼル機関車Mk45形6両(2001~2006号)が導入されて、ようやく運用体制が安定した。この機関車群は2010年代に改修を受けて、今も主力車両として稼働している。

*注 起点から3.0kmのヴィラーグヴェルジまではほぼ平坦で、勾配は後の区間(8.1km)に集中している。

Blog_budapest_child6
現在の主力機関車 Mk45形
 

鉄道で働くのは、10歳(4年生)から14歳(8年生、下注)の子どもたちだ。学業優秀かつ健康な子どもだけが応募できたが、それでも入団は狭き門で、例えば1970年代には採用数の10倍の応募者があったという。

*注 ハンガリーの一般的な教育制度では、初等教育8年、中等教育4年。

彼らは交通や沿線地域や会計の知識を学び、実技指導を受け、試験に合格して現場に出る。年齢の違う子どもや大人たちに混じって鉄道員の業務を実践し、その中で責任感やコミュニケーション能力や日々起きるさまざまな課題を解決する力を身につける。こうして精神的にも成長を遂げ、卒団後はエリートへの階段を上っていった。

Blog_budapest_child7
セーチェニ・ヘジ駅のホールに残る
ピオネール活動のモザイク画
 

しかし、40年間続いたハンガリーの社会主義体制は、1989年に終焉を迎える。これにより、ピオネール活動の実践の場であった鉄道は存立基盤を失った。所管はピオネール協会 Úttörőszövetség から、運行を担っていた国鉄 MÁV に移されることになり、それに伴い、「ピオネール鉄道 Úttörővasút(ウーテレーヴァシュート)」の呼称も、「子供鉄道 Gyermekvasút(ジェルメクヴァシュート)」に変更された。

鉄道名だけにとどまらない。子どもたちが首に巻いていたピオネールの象徴の赤いタイは青色に代わり、機関車の正面に掲げられていた赤い星は撤去された。駅名も、ピオネールに関連するものは改められた(下注)。さらに抜本的な改革として、民営化や商業路線化も検討されたが、これは実現しなかった。

*注 エレーレ Előre(前進)→ヴィラーグヴェルジ Virágvölgy(花の谷)、
 ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市)→チレベールツ Csillebérc(地名)、
 シャーグヴァーリリゲト Ságváriliget(戦前の共産主義活動家エンドレ・シャーグヴァーリ Endre Ságvári を記念する公園)→セープユハースネー Szépjuhászné(美しき羊飼い、近傍の旧 修道院の名)

設立背景はともかく、子供鉄道の教育的意義は市民に広く共有されており、廃止という選択肢はなかった。とはいえ、MÁVは今や一鉄道会社であり、こうした社会教育活動に資金を投じ続けることは難しい。そこで活動の財政的安定を図るために、1995年にMÁVとブダペスト市により、子供鉄道員財団 Gyermekvasutasokért Alapítvány が設立された。

その後数年間は、MÁVが鉄道を所有・運行し、財団が社会教育活動の部分を運営するという分担体制がとられた。しかし2002年からはMÁVの一元体制に戻り、財団の役割は資金面の支援に特化されている。ブダペスト子供鉄道は、正式名を「(国鉄)セーチェニ・ヘジ子供鉄道 Széchenyi-hegyi Gyermekvasút」というが、これは子供鉄道を運営するMÁVの部門名でもある。

思想的な拠りどころをなくした今、子どもたちはどのようにしてここに集められ、どんな活動をしているのだろうか。

子供鉄道のサイトには、団員の応募資格や業務内容についての詳しい案内が記されている(下注)。それによると、500人近くの子どもたちが加入し、15のグループに分かれて活動している。グループのメンバーは常に同じスケジュールで行動し、共通の任務を引き受け、さまざまな余暇プログラムにも一緒に参加する。

*注 現行サイトでは鉄道の歴史や履修課程などの詳細が省かれているため、以下は旧サイトの記述に拠った。

グループを率いるのは、子供鉄道のOB、OGである中等学校生(高校生)や大学生の指導員たちだ。さらに現場では、大人の鉄道従業員が子どもたちの仕事を監督している。彼らもまたOB、OGであることが多く、活動のよき理解者、支援者になっていることだろう。

団員の応募資格があるのは4年生から6年生までで、評定平均が4.0以上なければならない。応募書類には、保護者とともに、通学している学校の校長と担任の同意書、さらにかかりつけの医師による検査結果を添付する必要がある。

Blog_budapest_child8
セーチェニ・ヘジ駅の壁面には
子供鉄道員コース Gyermekvasutas Tanfolyam の記念写真が並ぶ
 

コースは2月と10月の第1土曜から始まる。まず彼らは、鉄道業務に関する基礎知識を学ぶ。運行と安全にかかわるもののほか、乗客に案内する沿線の知識、運賃出納のために商業的な知識も必要だ。授業は、金曜午後と土曜午前に理論、土曜の午後に実技がある。そして4か月のコースの最後に試験を受ける。

現場では、リーダーシップ訓練を受けた年長者がトレーナーとなって新入団員を指導する。業務は細分化されていて、駅では、
・ポイント(転轍機)を扱う信号係 váltókezelő
・出札で乗車券を売り日計を行う出納係 pénztáros
・ホームの案内放送を担う放送係 Hangosbemondó など。
列車内では、
・検札、乗車券の発行、乗客への案内を行う検札係 Jegyvizsgáló、
・最後尾の車両でハンドブレーキを扱い、後進時の安全走行を監視する制動係 zárfékező 
などがある。

さらに上級職として、駅で列車の受け取りと送り出しを行い、運行日誌を管理する助役相当の記録主任 Naplózó forgalmi szolgálattevő(赤い帽子が目印)、その上に業務を統括する駅長相当の運行主任 Rendelkező forgalmi szolgálattevő が置かれている(下注)。

*注 日本語の職名は意訳であり、正確さを欠く可能性がある。

Blog_budapest_child9
子供鉄道員の仕事ぶり
(左)接客の最前線、検札係は各車両に一人
(右)列車を送り出す記録主任
 

もちろん大人の鉄道職員もいる。駅長、助役(乗車券検査役 vezető jegyvizsgálók)、それから列車の車掌、機関士、機関助士(蒸機の場合)などで、彼らはMÁVの運行規則に則り、路線の安全運行を担っている。

子どもたちには鉄道の実務だけでなく、遠足、運動会、そして2週間のヒューヴェシュヴェルジ・キャンプなどさまざまな行事が用意されており、その中で学年を超えた相互交流を深めていく。

8年生が終わると同時に、子供鉄道の活動も修了となる。8月の卒団式当日、彼らはいつものように制服を着て、すべての着任場所を回る。送別行事を共にし、最後に、世話になった鉄道職員や指導員たちに別れを告げる。

Blog_budapest_child10
ヒューヴェシュヴェルジ駅の通路に描かれた壁画

同種の鉄道は夏だけ運行するものが多い中、ブダペスト子供鉄道は9月~4月の月曜を除き、年間を通して運行されており、活動規模の大きさがわかる。ダイヤは季節や平日/休日によって変わるが、日中おおむね1時間に1~2本の設定だ。許容速度が20km/hとスローペースのため、全線を乗り通すには40~45分程度かかる。

起点のセーチェニ・ヘジ駅へは、登山鉄道(コグ鉄道)の駅から歩いて数分、終点のヒューヴェシュヴェルジ駅も、トラム(路面電車)のターミナルが至近距離にある。そのため、登山鉄道→子供鉄道→トラム、またはその逆の三角コースで、ブダ山地の半日遠足を楽しむ旅行者も多い。子供鉄道は、子どもたちの社会教育の場であるとともに、こうした形でブダペストの観光振興にも貢献している。

次回は、その子どもたちが運行する列車に乗って、ルートをたどってみよう。

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

★本ブログ内の関連記事
 ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内
 ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ
 オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 I

2020年8月17日 (月)

リッテン鉄道 II-ルートを追って

FS(旧国鉄)ボルツァーノ/ボーツェン Bolzano/Bozen 駅前(下注)から右手へ、線路に沿って歩き始めた。前にリュックを背負ったグループがいたので、ついていく。まだ真新しいバスターミナルを通り抜け、10分もしないうちに、ぶどう畑に覆われた山を背にして、銅色のターバンを巻いたような建物が見えてきた。リッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn/Funivia del Renon の乗り場に違いない。

*注 FSの駅名表記はイタリア語/ドイツ語の順だが、自治県レベルの表記は基本的にドイツ語/イタリア語の順のため、以下ではそれに従う。

Blog_ritten21
ロープウェー駅(左奥)に向かう道は
かつてリッテン鉄道が走っていたルート
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 

今歩いてきた道路は、かつてリッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon の市内区間が通っていたルートだ。古い市街図によれば、現在のバスターミナル北端までが路面軌道(併用軌道)で、後は道路を離れ、専用軌道としてリッテン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon へ延びていた。その駅跡に今、ロープウェーの山麓駅が建っている。

Blog_ritten22
ロープウェー山麓駅
 

1階の窓口で乗車券を買った。鉄道の終点クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo まで通しの切符で、片道9ユーロ(下注)。乗車前にヴァリデート(有効化)するように言われたので、通路の刻印機に挿入する。乗り場は上階だ。

*注 リッテン鉄道のみの場合、片道3.50ユーロ。

Blog_ritten23
南チロル運輸連合のチケット
(左)表面は共通
(右)裏面に区間や日付を印字
 

ロープウェーは全長4560m、高度差950mの大規模な路線だ。高原上のオーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano まで所要12分。1966年に、リッテン鉄道ラック区間の廃止と引き換えに交走式で開業したが、2007年9月に運行をいったん中止し、更新工事が行われた。そして2009年5月に、3S循環式で運行が再開された。

交走式というのは、支索にキャビン(搬器)を2台ぶら下げ、これらを曳索でつなげて釣瓶のように行き来させる古典的な方式だ。運行間隔は、片道の走行と乗降にかかる時間に依存するため、リッテンのような距離のある路線では、待ち時間が長くなってしまう。

対する 3S というのは、3本のザイル Seil(支索2本、曳索1本)を意味している。支索を2本にすることで安定性を高め、キャビンの大型化を可能にした方式だ。かつ自動循環式といって、キャビンを一定間隔で多数循環させる。台数は需要に応じて増減できるので、運行間隔の調整が可能だ。リッテンの場合、1台の定員35名(座席24、立席11)で、同時に10台まで稼働できるという。

Blog_ritten24
(左)3S循環式のキャビン
(右)左右2本が支索、中央1本が曳索
 

ホームではそのキャビンがちょうど乗車扱い中だったので、待つこともなかった。ドアが閉まり、発車すると、街並みを横断してすぐに上りにかかる。ぶどう畑が広がる南斜面をぐんぐん上昇していくさまは、エレベーターの感覚に近い。

後方の窓からは、線路が敷き詰められたFS駅の構内と、その右側にボーツェンの市街地が一望できる。やがて進行方向右側遠くに、奇怪な風貌で知られるドロミティの岩峰群が現れた。展望の良さはさすがで、山腹を這い上るラック鉄道ではこうはいかなかっただろう。

Blog_ritten25
ぶどう畑の斜面を上昇
遠方にドロミティの岩峰も見える
 

ロープウェーは、前半だけで標高1000m付近まで一気に上りきる。後は、支尾根を飛び石にしながら、谷をまたいでいく形だ。進行方向左手に主尾根が延びており、マリーア・ヒンメルファールト駅とそれに続く線路が見える。それに気を取られている間に、山上駅に到着した。

Blog_ritten26
リッテン鉄道の末端区間に並行
 
Blog_ritten_map2
リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

リッテン鉄道のオーバーボーツェン駅はロープウェーの駅舎に隣接しており、乗継ぎはいたって便利だ。クリーム色のクラシックな駅舎が建っているが、旅客用には使われていない。片面ホームに接して屋根のかかった待合所があり、乗客はそこで待つようになっている。

オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間は所要16~18分で、朝晩を除き30分間隔のパターンダイヤが組まれている。ホームには、11時40分発の電車が停車中だ。前面がカーマインレッド、側面がグレー主体のスタイリッシュな塗装をまとう連接車BDe 4/8形で、新造のように艶光りしている。しかし実際は1975~77年製で、スイス、ザンクト・ガレン St. Gallen のトローゲン鉄道 Trogenerbahn(下注)で走っていた中古車だ。

*注 ザンクト・ガレン~トローゲン Trogen 間の電気鉄道。2006年にアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen に合併、現在は同鉄道の一路線。

Blog_ritten27
オーバーボーツェン駅に停車中の連接車BDe 4/8形
 

2009年にまず2編成が購入され、古巣のときと同じ車番をつけて2010年(24号)と2011年(21号)にそれぞれ就役した。その後3編成目として23号、4編成目として22号が投入され、今やこれら「トローゲナー Trogener」たちが、日常運行を担う主力車両群だ。

駅のクローベンシュタイン方には、2014年に改築された3線収容の車庫がある。ホームから遠望した限りでは、上記連接車23号、開業以来の古参4軸電車2号、それに旧 エスリンゲン=ネリンゲン=デンケンドルフ路面軌道 Straßenbahn Esslingen–Nellingen–Denkendorf の1957年製TW12号電車(下注)が並んでいた。

*注 1978年に廃止されたドイツ、シュトゥットガルト Stuttgart 南東郊の都市間路面軌道。TW12号車は1982年に中古で購入、1992年から定期運行。現在は予備車で、特別運行に登場する。

Blog_ritten28
(左)オーバーボーツェン駅の車庫に旧型車の姿が
(右)4軸電車2号
 

このほか、ラック電気機関車L2号(下注1)、2軸電車11号と12号、廃止されたノンスベルク鉄道 Nonsbergbahn から移籍した1910年製電車「アリオート Alioth」(下注2)など、鉄道の歴史を物語る古典車両も保存されているという。

*注1 インスブルックのチロル保存鉄道 Tiroler Museumsbahnen に同僚のL4号が動態保存されている。
*注2 ボーツェン南西にあったデルムーロ=フォンド=メンデル(メンドーラ)地方鉄道 Lokalbahn Dermulo-Fondo-Mendel。最急80‰の勾配路線だったが、1934年廃止。電車は、スイスのアリオート電力会社 Elektrizitätsgesellschaft Alioth の機器を積んでいたことからその名がある。

Blog_ritten29
(左)チロル保存鉄道のラック電気機関車L4号(2007年)
(右)定期運行していた頃の旧エスリンゲン電車TW12号(2006年)
Photos by DerAdmiral at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
Blog_ritten2
ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1列2+1席のやや手狭な車内に、後で着いたロープウェー客が次々と乗り込んできて、発車までにはほぼ満席になった。扉が閉まり、短いベルの音とともに出発。車庫の横をすり抜けると、右の車窓には、早くも青々とした斜面の牧草地が広がり、谷を隔てて遠くの山々まで見通しがきく。半分降ろした窓からは、心地よい高原の風が入ってくる。

Blog_ritten30
(左)車内はほぼ満席に
(右)路線図と、製造元 FFA Altenrhein(アルテンライン車両製造所)の銘板
 

車道の踏切に続いて、一つ目の停留所を通過した。この区間には時刻表に掲載された旧来の3駅とは別に、新設の停留所が4か所ある。いずれもリクエストストップで、乗降客がないと停車しないから、感覚的には路線バスだ。今通過したのはリンツバッハ Linzbach だが、新設停留所はドイツ語名のみを名乗っている。

次のリンナー Rinner 停留所(これも新設)の後、小さな沢を渡るために林に入る。再び開放的な斜面に出て、左に大きく回っていくと、ヴォルフスグルーベン/コスタロヴァーラ Wolfsgruben/Costalovara だ。ここは駅なので必ず停車するが、待合小屋がぽつんと置かれているだけで、見た目は停留所と何ら変わらない。

この後は地形的な鞍部を越えるため、周りは次第に林に包まれていく。行く手に、同じカーマインレッドの電車が停車しているのが見えてきた。標高1251mで、全線のサミットとなるリヒテンシュテルン/ステラ Lichtenstern/Stella 駅だ。オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間の中間点でもあり、30分間隔ダイヤの場合、両側から同時に発車した列車がここで行違う。運転士も車両を交換し、それぞれ発駅に戻っていくのがおもしろい。

Blog_ritten31
(左)リヒテンシュテルンで列車交換
(右)運転士も入れ替わる
Blog_ritten32
再び車窓が開けてドロミティアルプスが一望に
 

次のラッパースビヒル/コッレ・レノン Rappersbichl/Colle Renon 停留所を過ぎると、左側の車窓が再び開けてくる。エーベンホーフ Ebenhof とヴァイトアッハー Weidacher の両停留所は、気づかないうちに通過したようだ。カーブが和らぎ、右手前方に町が見えてきた。大きなスポーツ施設があり、工事用の大型クレーンも動いていて、オーバーボーツェンより活気が感じられる。緩く右に曲がり、跨線橋をくぐったところが、終点のクローベンシュタインだった。

Blog_ritten33
(左)クローベンシュタイン到着
(右)折り返しの客が乗り込む
 

ここは高原の中心集落で、リッテン自治体の役場所在地でもある。駅舎は優しいサーモンピンクの色壁で、オーバーボーツェンに比べて大きな建物だ。入口で、ジャコメッティの作風を思わせるユーモラスなヤギの彫像が客を迎えている。しかし、旅客機能としては券売機と刻印機が置いてあるだけで、窓口は見当たらない。電車はこの駅で、折り返しの時刻まで12分停車する。

Blog_ritten34
(左)駅入口でヤギの彫像が出迎え
(右)駅舎(左奥)とアールヌーボー様式のあずまや(?)
Blog_ritten35
クローベンシュタイン駅に次の電車が到着
 

戻りは、13時10分発に乗った。駅前にある中等学校から子どもたちがぞろぞろと出てきて、電車に乗り込んでいく。ちょうど下校時間に遭遇したようだ。車内は、通路も荷物室もいっぱいになったが、彼らは慣れていると見え、おしゃべりしたり、教科書やノートに目を落としたり、思い思いに過ごしている。イタリア語らしい言葉で話しながらも、開けている教科書はドイツ語だ。電車は途中の停留所にもこまめに停車し、少しずつ子どもたちを降ろしていった。

Blog_ritten36
(左)運転台
(右)学校帰りの子どもたちで満員
 

この便にしたのは、オーバーボーツェンからさらに一駅先のマリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta まで足を延ばすからだ。この1.1kmは昔、ラック線を機関車で押し上げてもらった電車が再び自力で走り始める最初の区間だった。しかしロープウェーがオーバーボーツェンで接続するようになったことで、メインルートから外れて支線化してしまった。

列車は1日6往復のみ。時刻表も別建てだが、クローベンシュタイン方面と通しで運行されている。利用するのは、駅付近にある小集落の関係者か、鉄道ファンぐらいのものだから、いまだに動いているのが奇跡のようなローカル線だ。

Blog_ritten40
オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間の
時刻表(2019年)
ab は発時刻、an は着時刻
 

子どもたちの乗降で、少し遅れていたせいもあるだろう。オーバーボーツェンに到着すると、運転士は降車客を見届け、すぐに扉を閉めて発車の合図をした。あれだけ混雑していた車内に、もう4~5人しか残っていない。走り始めると、結構な下り坂だ。確かに、高原区間の最急勾配45‰はこの区間にある。しかも急曲線が多いので、電車は慎重に降りていく。左手は牧草地の斜面が広がり、相変わらず見晴らしはいい。

時刻表では4分から、便によっては6分もかかっているが、実際の乗車時間は2分そこそこだ。最後のカーブを曲がりきるとほぼ直線で、2線が敷かれたマリーア・ヒンメルファールトの駅に滑り込んだ。

Blog_ritten37
オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間は
下り勾配と急カーブが連続
Blog_ritten38
(左)最後の急カーブ
(右)マリーア・ヒンメルファールト駅が見えてきた
Blog_ritten39
マリーア・ヒンメルファールト駅
待合小屋は開業時のそれを復元
 

扉が開き、降車客と入れ替えにホームで待っていた3人が乗り込む。そしてほとんど休む間もなく、電車はオーバーボーツェンへ引き返していった。

主役が去ってしまうと、駅は静けさに包まれた。片面ホームに、開業時の造りを復元した待合小屋、それに木造の車庫があるだけの簡素な構内だ。ここで毎日、機関車の連解結や、電動車の機回しが行われていたとは信じがたい。その線路の終端に行ってみたが、ラック線が延びていたはずの場所には木々が生い茂り、その先は牧草地に溶け込んでしまっていた。

13時34分発を見送ったので、次は18時台まで電車が来ない。牧草地の向こうを行き交っている山麓行きのロープウェーに乗るために、のどかな村の中を抜けて、オーバーボーツェンまで歩いて戻ることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/

★本ブログ内の関連記事
 リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

2020年8月11日 (火)

リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

リッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

ボーツェン・ヴァルタープラッツ Bozen Waltherplatz/Bolzano Piazza Walther ~クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo 間 11.7km
軌間1000mm、直流750V電化、最急勾配255‰、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)
1907年開通
1966年ヴァルタープラッツ~マリーア・ヒンメルファールト間廃止

【現在の運行区間】
マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta ~クローベンシュタイン/コッラルボ間 6.6km
軌間1000mm、直流800V電化(1966年~)、最急勾配45‰

Blog_ritten1
ヴァイトアッハー Weidacher 付近を行く
現在の主力車両BDw 4/8形
 

アルプス越えの交易路が通過するブレンナー峠 Brennerpass の南側は、イタリアだ。しかし、第一次世界大戦まではオーストリア領で、チロル Tirol の一部だった。今もドイツ語では、南チロル Südtirol と称される(下注)。峠から街道を約80km下ったところに、南チロルの中心都市ボーツェン Bozen があり、愛すべき小鉄道「リッテン鉄道/レノン鉄道」がその郊外を走っている。

*注 行政上はボーツェン/ボルツァーノ自治県 Autonome Provinz Bozen/Provincia autonoma di Bolzano。

Blog_ritten_map1

鉄道の名は周辺の広域地名に基づいているのだが、二通りの呼び名があることについては少し注釈が必要だ。南チロルではドイツ語話者が6割強を占めており、ドイツ語とイタリア語が公用語になっている。そのため、公共表示は2言語併記が原則で、例えば既出の固有名詞を両言語(ドイツ語/イタリア語)で記すと、以下の通りだ。

南チロル(ジュートティロール)Südtirol/アルト・アディジェ Alto Adige
ボーツェン Bozen/ボルツァーノ Bolzano
リッテン Ritten/レノン Renon

他の地名も、初出の際に両言語を併記することにするが、これにより鉄道名も、ドイツ語ではリッテン鉄道(リットナー・バーン)Rittner Bahn、イタリア語ではレノン鉄道(フェッロヴィーア・デル・レノン)Ferrovia del Renon になるのだ。

ちなみに、ドイツ語のリットナー Rittner は、地名リッテン Ritten の形容詞形で、「リッテンの」という意味だ。ところが、地名自体があまり知られていないためか、そのまま読んで「リットナー鉄道」と訳している文献も見られる(下注)。

*注 スイスの「レーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn」も同様。

Blog_ritten_map2
リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道は、標高1200m前後の高原内を行き来している延長わずか6.6kmのローカル線に過ぎない。しかもイタリアの標準軌鉄道網とは接続しない孤立路線だ。なぜこのような場所に鉄道が存在するのだろうか。

短距離にもかかわらず電化されていることからも察せられるように、かつては下界のボーツェン市街と線路がつながっており、小型電車が直通していた。旧市街の広場で乗れば、高原の村まで乗り換えなしで到達できるという、きわめて便利な路線だったのだ。

リッテン鉄道は地方鉄道として認可を得たが、実態は市街地の路面軌道(併用軌道)、山腹を上るラック鉄道、高原上の普通鉄道(専用軌道)という、異なる性格をもつ三つの区間に分けられる。後になって前二者が廃止されたため、最後者だけがぽつんと残された。これが現在の姿だ。

Blog_ritten2
ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

リッテンは地理的に、ザルンタール/ヴァル・サレンティーナ Sarntal/Val Sarentina とアイザックタール/ヴァル・ディザルコ Eisacktal/Val d'Isarco という二つの谷の間に横たわる広い高原地帯だ。標高の違いから、夏場はしばしば猛暑に見舞われる盆地のボーツェンに比べて、はるかに快適な気温が保たれている。

すでに17世紀からボーツェンの名門貴族や上流階級の避暑地として好まれていたが、19世紀になると一般の観光需要も高まっていった。1880年代には鉄道の建設計画が唱えられ始め、一方で静かな環境を維持したいと考える人々によって反対運動も起きた。

20世紀に入って、計画は具体化した。山を上る手段にはラック・アンド・ピニオン方式が採用され、1906年7月に認可、着工。翌1907年8月には、早くもリッテン駅とクローベンシュタインの間で一般輸送が開始されていた。残る市内区間を含めた全線での直通運行は1908年2月末に始まった。

鉄道の起点は、ボーツェン旧市街、ヴァルター広場 Waltherplatz/Piazza Walther の南東隅にあった。電車はそこから国鉄駅前を通って北上し、山麓に設けられたリッテン駅/レノン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon の手前まで、街路上に敷かれた軌道を走った。

Blog_ritten3
リッテン鉄道のかつての起点 ヴァルター広場
(1907年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
 

リッテン駅と呼ぶのは、規模は違うがパリのリヨン駅のように、市内のターミナルに目的地の名(鉄道名とも解釈できる)を冠したものだ。駅名が示すとおりここは拠点駅で、車庫と整備工場があったほか、標準軌の国鉄ブレンナー線 Brennerbahn から引込み線が来ており、貨物の受け渡しも行っていた。

直通運行の開始から間もない1909年7月には、ボーツェンの市内電車としてボーツェン路面軌道 Straßenbahn Bozen が開業する。西郊(1系統)と南郊(2系統)から市内へ入り、ヴァルター広場からリッテン鉄道の軌道に乗り入れて、一部区間を共用した(下注)。しかし残念なことに、リッテン鉄道よりも早く1948年に廃止され、バスに転換されてしまった。

*注 1系統(シュテファニーシュトラーセ Stephaniestraße ~ブレンナーシュトラーセ Brennerstraße)は、バーンシュトラーセ(鉄道通り)Bahnstraße 電停までが共用区間。2系統(ライファース Leifers ~ボーツェン駅前)は共用区間内のバーンホーフプラッツ(駅前広場) Bahnhofplatz が終点だが、駅正面南側に単独のターミナルを持っていた。

■参考サイト
Wikimedia - 路面軌道が記載されたボーツェン市街図(1914年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geuter's_city_plan_of_Bozen-Bolzano_in_1914.JPG

Blog_ritten4
ドロミティの山を背景にタルファー橋を渡る
ボーツェン路面軌道の電車(1910年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
Blog_ritten_map3
旧 ラック区間が記載された1:25,000地形図
10 I SE Bolzano Nord 1963年
10 II NE Bolzano 1960年
© 2020 Istituto Geografico Militare
 

さて、リッテン駅を出発すると、いよいよラック区間が始まる。ラックレールはシュトループ Strub 式で、4.1kmの間に911mの高度差を克服した。最大勾配は255‰で、ピラトゥスやワシントン山には及ばないにしても、オーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn などと並び、世界で最も急勾配のグループに入るものだった。

Blog_ritten5
ザンクト・マグダレーナ上方を行く旧型車
背景はボーツェン駅と市街地(当時の絵葉書)
Image from styria-mobile.at
 

ラック区間では、電車は自らの駆動装置は使わず、後部すなわち坂下側に配置されたラック専用の電気機関車で押し上げてもらう。また、電車(=電動車)が動力を持たない客車(=付随車)を牽いて2両で来た場合は、まず電動車が付随車の後ろに回り、その後ろに機関車を付ける。こうして、坂下側から機関車、電動車、付随車の順になり、坂を上っていった。

Blog_ritten6
ラック区間の車両編成
坂下側(=左)から機関車、電動車、付随車
マリーア・ヒンメルファールト駅の案内板を撮影
Blog_ritten7
ラック専用の電気機関車(左)と電動車
リッテン駅構内にて(1965年)
Photo by Jean-Henri Manara at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

山裾へのとりつきでは、斜面を覆うぶどう畑の上を長さ160mの高架橋で渡る。赤ワインの銘柄で知られるザンクト・マグダレーナ/サンタ・マッダレーナ St. Magdalena/S. Maddalena の村の前には、ラック区間で唯一乗降を扱う停留所があった。

Blog_ritten8
リッテン駅上手の廃線跡現況(2019年)
(左)高架橋の橋面はぶどう畑に、アーチ下は倉庫に再活用
(右)リッテン駅出口(ラック区間始点付近)に残る橋台
 

さらに上ると、変電所を併設した信号所にさしかかる。ここはラック区間の中間地点に当たり、山上と山麓から同時に発車した列車が行違いを行った。機関車は回生ブレーキを備えているので、このダイヤにより、坂を下る機関車で発生した電力を、上りの機関車に効率良く供給することができた。

やがて車窓は森に包まれ、長さ60mのトンネルを通過する。再び視界が開けて、緑の牧草地に出れば、まもなくラック区間の終点マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta(下注)だった。この駅でラック機関車から解放された電車は、残りの、現在も運行中の区間を再び自力で走り抜けた。

*注 以前のイタリア語駅名はラッスンタ L'Assunta。いずれも聖母被昇天教会にちなむ地名。

Blog_ritten9
マリーア・ヒンメルファールト駅の現況(2019年)
(左)駅舎は1985年に開通当時の状態に復元
(右)終端の先は牧草地に
 

20世紀前半、高原上にまだまともな自動車道路はなく、鉄道が文字通り「リッテンの生命線 Lebensnerv des Ritten」だった。しかし、第二次世界大戦後は、車両や施設設備の老朽化が顕著になる。鉄道の更新に投資するより、到達時間が短縮できるロープウェーの建設を求める声が大勢を占めた。また、山麓から高原に通じる新しい自動車道路の計画も進行していた。

ロープウェーの起工式は1964年8月に行われた。その矢先の同年12月3日、恐れていた事故が起きる。ザンクト・マグダレーナの上方で、山麓に向かっていた列車が脱線し、ラック機関車とともに落下したのだ。運転士と乗客3名が死亡し、30名が負傷した。

事故区間はいったん復旧されたものの、市内線は1966年7月9日、ラック線は同年7月13日が最後の運行となった。翌14日に山麓との間を結ぶロープウェーが開業し、オーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano で鉄道に連絡する現在の方式がスタートした。ただし、これはあくまで暫定形で、自動車道路が全通した暁には、高原区間も廃止してバスに転換することになっていた。

ところが道路の完成が遅れ、その間に、観光資源として鉄道を再評価する機運が高まった。このいわば偶然のおかげで、リッテン鉄道は全廃の危機から救われたのだった。

1980年代には、施設設備の全面改修が実施された。また、車齢のより新しい中古車が導入され、名物だった古典電車の運行は今や、年数日の特定便に限定されている。

ラック区間を代替したリッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn もすでに2代目だ。初代は50名収容のキャビン(搬器)を使った交走式だったが、2009年に3Sと呼ばれる循環式に交換され、輸送能力が倍増した。これにより、リッテン鉄道も30分間隔での運行が可能になり、利用者の増加につながった。

鉄道は現在、南チロル運輸機構 Südtiroler Transportstrukturen/Strutture Trasporto Alto Adige (STA) が所有し、SAD近郊輸送会社 SAD Nahverkehr AG/SAD Trasporto locale が運行している。SADは南チロル一帯の路線バス、地方鉄道、索道の運行事業者で、リッテン鉄道もその路線網に組み込まれている。

*注 SADの名称は、旧社名 南チロル自動車サービス Südtiroler Automobildienst/ドロミティ・バスサービス Servizio Autobus Dolomiti の頭文字に基づく。

Blog_ritten10
急斜面を行くリッテン・ロープウェー
背景はボーツェン駅と市街地
 

ボーツェン市内から、鉄道の終点でリッテンの中心地区であるクローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo へは、山道を上るSADのバス路線(165系統)もある。所要時間は30分ほどで鉄道経由と大差はないが、運行は平日日中60分間隔、休日は120分間隔とかなり開いている。輸送力や利便性の点で、やはりリッテン鉄道の交通軸としての位置づけは揺るぎないものになっているようだ。

次回は、ロープウェーと鉄道を使って、そのリッテン高原に出かけることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/
Tiroler MuseumsBahnen http://www.tmb.at/
schweizer-schmalspurbahn.de - Die Rittnerbahn
http://www.alpenbahnen.net/html/rittnerbahn.html

★本ブログ内の関連記事
 リッテン鉄道 II-ルートを追って

 スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

2020年7月20日 (月)

ポルトの古典トラム II-ルートを追って

前回概要を記したポルトのトラム(路面電車)について、車窓風景や沿線の見どころを追っていこう。

Blog_porto21
カイス・ダス・ペドラス Cais das Pedras の
旧道を行く1系統トラム
(写真はすべて2009年7月撮影)
Blog_porto_map2
青・赤・緑のラインがトラム、なお18・22系統の電停名は下図参照
灰色はポルト・メトロ(LRT)
旗竿記号はCP(ポルトガル鉄道)
"Funicular" はギンダイス・ケーブルカー
Blog_porto_map3
市街地を拡大
© OpenStreetMap contributors

1系統 パッセイオ・アレグレ Passeio Alegre ~インファンテ Infante

起点は河口側のパッセイオ・アレグレとされているが、観光客の視点に従って、中心街に近いインファンテから話を進める。

インファンテという地名は、15世紀に西アフリカを「発見」し、大航海時代の幕を開いたエンリケ航海王子 Infante Dom Henrique にちなむものだ。電停の近所、リベイラ Ribeira 地区に生家とされる「王子の家 Casa do Infante」がある。ポルト大聖堂 Sé do Porto の丘を仰ぐこの辺りはポルトの旧市街で、石畳の街路を多くの人が行き来している。

Blog_porto22
(左)丘の上に大聖堂付属司教館が見える
(右)リベイラ、ドウロ河岸のプロムナード
 

電停の北側はゴシック建築の聖フランシスコ教会 Igreja de São Francisco、南側は道路を隔ててドウロ川の川岸が迫る。この川は箱型の谷の中を流れていて、すぐ上手にドン・ルイス1世橋 Ponte de Dom Luís I が架かっている。ギュスターヴ・エッフェルの弟子が設計した長さ395m、高さ85mの壮大な2層アーチ橋だ。見上げる高さの上部デッキを、ポルト・メトロ Metro do Porto の黄帯の電車が渡っていく(下注)のを眺めるのも楽しい。

*注 2003年まで上層も通常の道路だったが、2005年のメトロD線開通により、上層はLRVと歩行者の専用路になっている。

Blog_porto23
ドン・ルイス1世橋を渡るポルト・メトロ
Blog_porto24
対岸セラ・ド・ピラール Serra do Pilar から見た
ドン・ルイス1世橋と旧市街リベイラ
 

さて、インファンテ電停の引上げ線の端にもレモンイエローのトラムがいるが、これは臨時の案内所、兼切符売り場だ。パッセイオ・アレグレ方から接近してきた1系統トラムがその手前に停車して、乗客を降ろした。それから運転士が外に出てきて、トロリーポールを反対側へ回す。

Blog_porto25
1系統の起点インファンテ
(左)トラム車両が案内所兼切符売り場に
(右)運行用トラムが到着
 

時刻になると停留所の位置まで移動し、新しい客を迎えた。ワンマン運転につき、運賃収受も運転士が行う。名物の川景色は、往路でもっぱら左車窓に展開するのだが、座席は両側ともけっこう埋まった。

Blog_porto26
(左)レトロ感あふれるダブルルーフの車内
(右)出発
 

出発すると、一路西へ向かう。軌道は本来複線で、車道上に敷設(=併用軌道)されていたが、観光鉄道化に際し、単線で山側に寄せられ、歩道と一体化された。これで車の通行が円滑になるとともに、電車も渋滞に巻き込まれることがなくなった。軌道と歩道をセットにするのは一見大胆な発想だが、トランジットモールの変形と思えば違和感はない。

並行する道路の左側に大きな建物が見える。現在は博物館と会議場に改装されているが、ここはかつてドウロ川からの荷上場に使われ、税関と貨物駅(下注)があった。川べりの駐車場が貨物駅のヤード跡で、本線のカンパニャン Campanhã 駅から貨物線が来ていたのだ(1888年開通)。木陰のアルファンデガ Alfândega(税関の意)電停では、逆方向のトラムと交換する。

*注 地図に Antigo Terminal Ferroviário da Alfândega(旧アルファンデガ鉄道ターミナル)と注記がある。

Blog_porto27
(左)軌道は歩道と一体化
  左は貨物駅跡、奥の建物は旧税関
(右)木陰のアルファンデガ電停
 

次のモンシーケ Monchique とカイス・ダス・ペドラス Cais das Pedras の電停間には、川岸を走っていた昔の風景を彷彿とさせる区間がある。車道を川の上に張り出させ、それによって軌道を旧道や護岸とともに残しているのだ。元の複線が単線化されてはいるものの、トラムの走る姿は、道の絶妙な曲がり具合とあいまって、絵になる光景だ。

Blog_porto28
カイス・ダス・ペドラス旧道区間
(左)単線化されたものの昔の風情を残す
(右)反対側から撮影
 

そこを過ぎると、右手から18系統の複線が合流して、トラム博物館前の電停に着く。以前はマッサレーロス Massarelos と称し、位置ももう少し手前(インファンテ寄り)だったが、博物館の正面に移設された。

トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico は、STCP(ポルト公共輸送公社 Sociedade de Transportes Colectivos do Porto)が運営している鉄道博物館だ。かつてこの鉄道に電気を供給していた火力発電所跡の建物を利用して、1992年に開設された。館内には、馬車鉄道から電気鉄道、トロリーバスに至る多彩な歴史的車両が展示され、19~20世紀のポルトの公共交通史が概観できる。

■参考サイト
トラム博物館 https://www.museudocarroelectrico.pt/

Blog_porto29
トラム博物館
(左)正面
(右)内部に保存(一部復元)車両を展示
 

博物館前を出発すると、前方にドウロ川をまたぐ巨大アーチの道路橋、アラービダ橋が見えてくる。橋の真下のポンテ・ダ・アラービダ(アラービダ橋の意)Ponte da Arrábida 電停で、また逆方向のトラムと交換した。

オウロ Ouro あたりまで来ると、対岸がみるみる遠のいて、河口の川幅の広がりを実感する。フルヴィアル Fluvial からカンタレイラ Cantareira 電停にかけては、川岸との間が散策可能な公園にされ、野鳥の観察場所も作られている。

Blog_porto30
(左)アーチ橋の真下にあるポンテ・ダ・アラービダ電停
(右)カンタレイラ電停付近
 

小さな灯台施設のある岬を回りきったところが、終点のパッセイオ・アレグレ Passeio Alegreだ。ここはもう河口の町フォス Foz の一部で、緑濃い公園の中を7~8分も歩けば、大西洋の波が洗う広い砂浜に出られる。

本来の路線は、フォスから海岸線を北上して、カステロ・ド・ケイジョ Castelo do Queijo、ポルトの外港マトジーニョス Mattosinhos まで達していた。しかし、今では路上の軌道はすっかり撤去され、500番の路線バスが代走している(下注)。

*注 終点パッセイオ・アレグレ~マトジーニョス間、および起点のインファンテ~サン・ベント駅前間の延長計画があるものの、具体的な実現の見通しは立っていない。

Blog_porto31
終点パッセイオ・アレグレ
ポールを回して折り返しの準備
Blog_porto32
(左)電停案内板、当時は30分間隔の運行だった
(右)終点から先、街路に残されていた複線の軌道
  現在は撤去済
 

前回にも記したが、パッセイオ・アレグレからの帰路で、トラムが混雑している、あるいは乗車時間を節約したいという場合、この500番バスに乗ると、ポルトの中心部、サン・ベント駅 Estação de São Bento やリベルダーデ広場 Praça da Liberdade まで直通で戻れる。

18系統 マッサレーロス Massarelos(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)~カルモ Carmo

18系統は、1系統のトラム博物館電停が起点だ。そこからカルモまで、ルートは観光客に人気の1系統と22系統を橋渡しする形に設定されている。ポルトの主要市街地が展開するのは、起伏の多い台地上だ。起終点間の標高差は約80mあり、トラムの行く手にはきつい上り坂が待ち構えている。

Blog_porto33
(左)マッサレーロス(現 トラム博物館)電停の18系統トラム
(右)左折して上り坂の併用区間に入る
 

出発すると、すぐに左折して1系統の軌道と別れる。そして複線のまま、道路上の併用区間に進入すし、その状態がエントレ・キンタス Entre Quintas 電停前まで続く。察するにこの区間は道幅が狭く、両側に建物も迫っており、1系統のように歩道側に寄せて単線化することができなかったようだ。言い換えれば、一般運行していた頃の姿が残された貴重な区間ということになる。

エントレ・キンタスでようやく軌道は単線になり、右側の歩道に移る。プラタナスのうるわしい木陰道で、右車窓にドウロ川が望める。距離は短いものの、写真映えのする区間だ。次のパラーシオ Palácio 電停には交換用の待避線があり、ついでに線路の位置は道路の左側に変わる。

Blog_porto34
(左)プラタナスの木陰道
(右)パラーシオ電停で道路の反対側に移る
  (後方を撮影)
Blog_porto35
右車窓からドウロ川が望める
 

飾り気のないレスタウラソン(復興)通り Rua da Restauração をさらに上ると、ヴィリアート Viriato 電停。上り勾配はここで収まる。線路の分岐が見えるが、行きは直進して、そのままコルドアリア庭園 Jardim da Cordoaria に入る。そして左折し、ポルト大学本部棟の横に設けられたカルモ電停に至る。

Blog_porto36
カルモに到着
 

一方、帰りは北回りの軌道を通る。カルモ教会前から聖アントニオ総合病院 Hospital Geral de Santo António の敷地を迂回し、先述の分岐でヴィリアート電停に戻っていく。

22系統 カルモ Carmo ~バターリャ Batalha(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)循環

カルモ電停は、中心市街地の西の入口で、ポルト大学本部棟に接する広場に置かれている。軌道が2本並び、あたかも複線のように見える。片方(西側)には南から18系統のトラムが到着し、もう一方には北から22系統バターリャ行きが入線してくる。

Blog_porto37
カルモ電停
(左)透かし文字の行先表示板を交換
(右)両系統のトラムが連絡
 

22系統は2007年9月に観光路線としての運行を開始している。中心市街の軌道は1970年代後半に撤去されたので、30年ぶりの復活だった。ルートはバイシャ・ド・ポルト Baixa do Porto(ポルト中心街)を循環しており、どの電停から乗っても同じ場所に戻ってこられる。一周にかかる時間は標準30分だ。

カルモを南向きに発車すると、すぐに左折して、コルドアリア庭園の中を通過する。そしてクレーリゴスの塔 Torre dos Clérigos を正面に見ながら、通りを斜めに横断する。市街地で最も高い展望台として知られるこの鐘塔は、クレーリゴス教会の付属施設だ。

Blog_porto38
クレーリゴスの塔の裾を狭いアスンサン通りへ
 

トラムはクレーリゴス電停を通過し、教会横の狭い小路、アスンサン通り Rua da assunção をすり抜ける。再び大通りのクレーリゴス通り Rua dos Clérigos に顔を出し、急な坂を下り続ける。周りは商店街で、そぞろ歩く人も多いから、運転には気を遣うことだろう。

Blog_porto39
(左)坂の上のクレーリゴス教会(後方から撮影)
(右)クレーリゴス通りを下りきる
 

坂の下の、リベルダーデ広場 Praça da Liberdade 電停で停車。左手がその広場で、ドン・ペドロ4世の騎馬像と、その後方に白亜の市庁舎が見える。なお、CP(ポルトガル鉄道)とポルト・メトロのサン・ベント駅 Estação de São Bento へ行く場合は、ここが最寄り電停になる。

Blog_porto40
リベルダーデ広場を北望
奥に見えるのが市庁舎
Blog_porto41
CP サン・ベント駅正面
Blog_porto42
アズレージョの壁画に囲まれたサン・ベント駅のホール
 

地形的に見れば、市庁舎~リベルダーデ広場~モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ通り Rua de Mouzinho da Silveira のラインに深い谷筋が走っている。22系統のルートは行きも帰りもそれを横断する形だ。そのため、サン・ベント駅横で、今度は急な上り坂が始まる。1月31日通り Rua 31 de Janeiro と呼ばれるこの街路は直線かつ一定勾配で、坂上の突き当りに、ファサードを飾る美しいアズレージョ(装飾タイル)で知られる聖イルデフォンソ教会 Igreja de Santo Ildefonso が建つ。

Blog_porto43
1月31日通りの急坂を上る
Blog_porto44
(左)聖イルデフォンソ教会の角を右折
(右)聖イルデフォンソ教会のファサード
 

その教会前で右折すると、北回りの軌道と合流する。もう一度左に曲がったところが、バターリャ広場 Praça da Batalha だ。従来、電停名もバターリャ広場だったが、STCPの最新資料ではバターリャ Batalha に改称され、そのため終点バターリャが、バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais になっている。ちなみに、広場の南側に、カンパニャン駅方面へ分岐していた軌道を利用した三角線がある。運行中のトラムはすべて両運転台車なので、通常使われることはないのだろうが。

Blog_porto45
バターリャ(旧 バターリャ広場)電停のT系統
 

広場から南下すると、まもなく終点バターリャ・ギンダイスだ。軌道はここが行き止まりで、トラムはポール回しをして、元来た道を引き返す。2本敷かれた軌道の間にある地下階段を降りていくと、川岸へ降りるギンダイス・ケーブルカー Funicular dos Guindais の乗り場に通じる。

Blog_porto46
バターリャ・ギンダイス電停
(左)トラムの右がケーブルカーへの地下道入口
(右)折り返し出発を待つ
Blog_porto47
ギンダイス・ケーブルカー
 

さて、カルモへの復路は、先述の聖イルデフォンソ教会前までは同じだが、そこで往路の軌道と別れて北へ直進する。ポルトきってのショッピング街、聖カタリーナ通り Rua de Santa Catarina では、舗道のモザイク模様にも注目したい。軌道が狭い車道上に敷設されているため、トラムはしばしば渋滞に巻き込まれる。サンタ・カタリーナ Santa Catarina 電停通過後、次の角で左折し、長い下り坂に入る。

Blog_porto48
買い物客で賑わう聖カタリーナ通り
 

降りきったあたりに、ドン・ジョアン1世広場 Praça D. João I の電停がある。その後すぐ、リベルダーデ広場の北に延びる広場、アリアードス Aliados を横断する。往路で遠望した市庁舎が近くに見える。広場の地下には、メトロD線のアリアードス駅があり、乗り換えが可能だ。先述の通り、ルートは谷を横切っているので、後は上り坂だ。セウタ通り Rua de Ceuta とそれに続く街路を道なりに進んでいくと、見覚えのあるカルモの教会が見えてくる。

Blog_porto49
アリアードスからセウタ通りを上る
Blog_porto50
(左)ギレールメ・ゴーメス・フェルナンデス(広場)電停
   Guilherme Gomes Fernandes
(右)カルモ教会前に戻ってきた
 

写真はすべて、2009年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
STCP https://www.stcp.pt/
Porto-north-portugal.com https://porto-north-portugal.com/
The Trams of Porto(愛好家サイト)http://tram-porto.ernstkers.nl/

★本ブログ内の関連記事
 ポルトの古典トラム I-概要

2020年7月15日 (水)

ポルトの古典トラム I-概要

1系統 パッセイオ・アレグレ Passeio Alegre ~インファンテ Infante
18系統 マッサレーロス Massarelos(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)~カルモ Carmo
22系統 カルモ Carmo ~バターリャ Batalha(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)循環

全長8.9km、軌間1435mm、直流600V電化
1872年馬車軌道として開通
1895年から電化

Blog_porto1
1月31日通り Rua 31 de Janeiro の急坂を上る古典トラム
(写真はすべて2009年7月撮影)
 
Blog_porto_map1

ポルトガル北部の中心都市、ポルト Porto の市街地を、ノスタルジックな風貌のトラム(路面電車)が走っている。トラムはポルトガル語でカーロ・エレークトリコ carro eléctrico、つまり電気馬車という。もはや日常的な市内交通の担い手ではなくなったが、この世界遺産都市を訪ねてくる旅行者のために、観光アトラクションとして運行され続けている。

ポルトのトラムは約150年の歴史がある。1872年にポルト馬車鉄道会社 Companhia Carril Americano do Porto が、市内のインファンテ Infante およびカルモ Carmo と大西洋岸のフォス Foz の間で開業した馬車鉄道が最初だ。翌年、路線は海岸をさらに北上して、マトジーニョス Matosinhos まで延長された。

アメリカから輸入されたシステムだったので、馬車鉄道(正確にはレール上の馬車車両)のことを「カーロ・アメリカーノ carro americano(アメリカの馬車の意)」と呼んだが、実際に牽いていたのはラバだった。雄のロバと雌馬の交雑種であるラバは、馬より忍耐強く丈夫で長寿命とされ、好んで使役されていたのだ。

Blog_porto2
馬車鉄道8号車
トラム博物館の展示を撮影、以下同じ
 

それに遅れること2年、ポルト路面鉄道会社 Companhia Carris de Ferro do Porto という別の会社が、1874年にカルモからボアヴィスタ Boavista 経由でフォスに至る馬車鉄道線を開業した。さらに1878年からは郊外で路面蒸気機関車による運行も始めている。こうして波に乗った同社は、1893年にポルト馬車鉄道を買収し、ポルト周辺の路面軌道網を一元化した。

ポルトの市街地は急な坂道が多く、1両を牽くのにラバが6頭も必要だった。そこで会社は、勾配に強い電車の導入を計画する。ドウロ川沿いのアラービダ Arrábida に設けた火力発電所から供給された電力を使って、1895年にまずカルモ~アラービダ間が電化された。これはスペインを含むイベリア半島で初めての電気鉄道となった。

Blog_porto3
(左)22号電車は馬車鉄道の車体を用いた改造車両
(左)オープンタイプの100号電車
 

電化区間はその後も徐々に延伸され、1904年には牽き手のラバたちを、1914年には蒸気機関車をそれぞれ完全に駆逐している。電力の増強が必要になり、1915年に少しポルト寄りのマッサレーロス Massarelos に、新しい火力発電所が造られた。現在、トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico に利用されている建物だ(下注1)。また、主要な車庫と整備工場は、1874年の開業当初からボアヴィスタに置かれていた(下注2)。

*注1 1957年の発電所廃止後は車庫に転用され、1992年5月に博物館が開館。
*注2 車庫は1999年に解体され、跡地は音楽ホール「カーザ・ダ・ムージカ Casa da Música(音楽の家の意)」に転用。

Blog_porto4
(左)火力発電所跡地はトラム博物館と車庫に
(右)ボアヴィスタの車庫跡地は音楽ホールに転用
 

トラム路線網は、第二次世界大戦後の1946年にポルト市が買収(公有化)した。運営に当たるために、ポルト公共輸送局 Serviço de Transportes Colectivos do Porto (STCP) が設立された。1950年が路線網のピークで、38路線(系統)150kmの線路に、電車193両、付随車24両が稼働していたという。空圧式の自動ドアを備えたモダンな500形が試作されたのもこのころだ(1951年製)。しかしこれは1両きりで、量産されることはなかった。

STCPはすでに1948年からコストの安い路線バスの導入を始めており、1959年にはトラムの段階的廃止と、トロリーバスへの転換に舵を切っている(下注)。1967年にはトラムから路線バスへの切り替えも始まった。

*注 トロリーバスは市街地から北東、東および南の郊外へ向かう路線に導入されたが、1997年に全廃され、バスに転換。

Blog_porto5
(左)自動ドアを備えた500形
(右)トラム路線を代替したトロリーバス
 

こうして1960~70年代は運行の撤退が続き、1984年にトラムはわずか3路線(1、18、19系統)まで縮小されていた。奇しくもこれらは初期に開通した路線だった。その後しばらく運行が続けられたが、1990年代に入ると、古くなったトラムを一般輸送から解放して、観光資源に特化させる計画が議論されるようになる。

再び路線の整理が加速された。最後に残された18系統(当時はカルモ~フォス~カステロ・ド・ケイジョ Castelo do Queijo ~ボアヴィスタ間)も1996年に運行時間帯が短縮され、本数も削減されてしまった。

それから数年間は、観光化に向けての改修工事が行われたため、区間運休が相次いだ。運行形態が今の形に固まったのは、1系統が2002年(下注)、18系統が2005年だ。そして2007年9月に市内中心部を循環する22系統が30年ぶりに復活して、観光トラムの路線網が完成した。

*注 路線バスの1系統(現 500系統)と区別するため、しばらくの間1E系統と呼ばれていた。

なおこの間1994年に、運営主体のSTCPは有限責任会社 sociedade anónima に改組されている。略称のSTCPは変わらないものの、正式名称はポルト公共輸送公社 Sociedade de Transportes Colectivos do Porto になった。

現在のトラム路線図は、下図の通りだ。

Blog_porto_map2
青・赤・緑のラインがトラム、なお18・22系統の電停名は下図参照
灰色はポルト・メトロ(LRT)
旗竿記号はCP(ポルトガル鉄道)
"Funicular" はギンダイス・ケーブルカー
Blog_porto_map3
市街地を拡大
© OpenStreetMap contributors
 

路線にはそれぞれ特色がある。

1系統 Linha 1 は、ドウロ川 Rio Douro の川べりを終始走る路線だ。運行区間は、河口のフォス地区にあるパッセイオ・アレグレ Passeio Alegre から、旧市街の入口に当たるインファンテまで。朝9時から20分間隔で、夜20時台(冬季は19時台)まで運行される。所要時間は23分。車窓から川景色をたっぷり楽しめるので、観光客に人気があり、乗車率も高い。

ちなみに500番の路線バスが同じルートを並走しており、こちらは10分間隔、同区間(イグレージャ・ダ・フォス Igreja da Foz ~リベイラ Ribeira が該当)を14分で走破してしまう。トラムが混雑しているときは、片道をバスにするのも一つの方法だ。

Blog_porto6
1系統は終始ドウロ川右岸に沿う
 

18系統は、1系統マッサレーロス(現 トラム博物館 Museu do Carro Eléctrico)電停が起点で、坂を上って、ポルト大学本部前のカルモに至る。カルモ付近はループ線(環状)になっていて、行きと帰りでルートが異なる。運行は30分間隔で、所要時間12~13分。沿線に取り立てて有名な観光スポットがないため、車内は比較的すいている。

Blog_porto7
18系統はカルモで22系統と接続
左の建物はポルト大学本部
 

22系統は、そのカルモからポルトの中心市街地を貫いて、バターリャ(現 バターリャ・ギンダイス Batalha Guindais)まで行く。戻りは北側の街路を通るので、全体として反時計回りの循環ルートになっている。居ながらにして市街地見物ができ、バターリャでは川岸へ降りるギンダイス・ケーブルカー Guindais Funicular の乗り場にも直結しているので、利用価値のある路線だ。

所要時間は1周30分とされているが、狭い街路を行くため、交通渋滞や路上駐車の影響で遅れることもままある。運行間隔も30分と開いているので、観光目的ならともかく、実用的な手段とは言いがたい。ちなみに、カルモとバターリャの間は約1km、アップダウンはきついが、歩いても15分程度だ。

Blog_porto8
アスンサン通り Rua da Assunção へ入る22系統
左はクレーリゴスの塔 Torre dos Clérigos
 

これらとは別に、かつてはT系統「ポルト・トラム・シティ・ツアー Porto Tram City Tour」も運行されていた。系統名のTが turista(観光)を意味するとおり、上記3つの路線を直通する周遊観光路線だった。ルートは、1系統のインファンテを起点に、マッサレーロスでスイッチバックして18系統の線路に入る。カルモでは渡り線を経由して22系統の線路に移り、バターリャまで行く。復路は北回りでカルモ、マッサレーロスとたどってインファンテに戻るというものだった。しかし、通しの利用者は少なく、運営コストの削減を理由に廃止されてしまった。

Blog_porto9
T系統
カルモ教会 Igreja do Carmo 前で暫時休憩
Blog_porto10
(左)T系統に使われていた222号車
(右)車内

トラムの運賃は2020年7月現在、1回券が3.50ユーロ、2回券(ただし当日限り有効)は6ユーロだ。車内で運転士から購入する。これとは別に、乗車回数に制限のない2日券(大人10ユーロ)もあり、これは車内のほか、トラム博物館やホテルなどでも扱っている。

注意すべきは、乗車券がトラム専用だということだ。ポルトでは、路線バスやポルト・メトロ(下注)などの公共交通機関でICカード「アンダンテ Andante」が普及しているが、シーズン券(定期券)を除いてトラムには有効でない。このことからも、トラムが市民のふだん使いを想定していないことがわかる。

*注 ポルト・メトロ Metro do Porto は、ポルト市内と近郊を結ぶLRTの名称。

では、トラムが走るルートを具体的に追ってみよう。続きは次回に。

写真はすべて、2009年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
STCP https://www.stcp.pt/
The Trams of Porto(愛好家サイト)http://tram-porto.ernstkers.nl/

★本ブログ内の関連記事
 ポルトの古典トラム II-ルートを追って
 マン島の鉄道を訪ねて-マンクス電気鉄道

2019年11月14日 (木)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡

下津井電鉄は、国鉄宇野線の茶屋町(ちゃやまち)駅と下津井(しもつい)との間を連絡していた鉄道だ。762mm(2フィート6インチ)狭軌、いわゆるニブロク軌間の電気軽便鉄道だった。

Blog_contour4001
下津井駅跡
 

今も瀬戸内の主要漁港の一つである下津井には、かつて四国の丸亀との間に定期航路があり、こんぴらさん(金刀比羅宮)へ参る人々で大いに賑わった。しかし1910年に開設された宇高連絡船に客を奪われたため、地元の有力者によって計画されたのがこの鉄道だ。1913(大正2)年に茶屋町~味野町(後の児島)間、翌14年に下津井までの全線が開業している。

最初は蒸気鉄道だったが、戦争末期から直後にかけての石炭不足を受けて、1949(昭和24)年に直流600Vで電化された。だが道路事情が改善されると、岡山へ直通するバスに対して、茶屋町での乗換えが必要な鉄道は条件的に不利となる。利用者数が落ち込み、1972(昭和47)年、まず茶屋町~児島(こじま)間が廃止された。

Blog_contour4002
かつての下津井駅(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

このとき、末端の児島~下津井間は、並行道路の未整備を理由に存続した。以来、全国鉄道網から切り離され、孤立線のまま細々と運行されていたのだが、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通を機に今一度、観光路線への飛躍が目論まれた。

1987(昭和62)年に児島駅が移転改築され、新造車両も投入されて、再デビューが華々しく祝われた。しかし、客足は思うように伸びず、一方で新規投資による減価償却費の増加が、会社の収支を圧迫した。皮肉にも、瀬戸大橋の建設工事に伴い、周辺道路の整備が進んだことで、バス転換が可能になっていた。そのため鉄道は、再興からわずか4年足らずの1990年末をもって、あっけなく廃止されてしまったのだ。

2019年11月3日、コンターサークルS秋の旅の初日は、この下津井電鉄(下電(しもでん))の廃線跡を歩く。茶屋町から下津井まで21kmのルートは廃止後、大部分が自転車道・徒歩道となり、今でも容易にたどることができるが、今回は、最後まで運行され、景色にも優れた児島~下津井間6.3kmに焦点を絞った。ついでに沿線の鷲羽山や下津井の町にも寄り道して、瀬戸内ののびやかな風光に浸るつもりだ。

Blog_contour40_map1
児島~下津井間の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
Blog_contour40_map2
下津井電鉄現役時代の地形図(1974(昭和49)年修正測量)
初代児島駅が描かれている
 

岡山から、高松行きマリンライナー19号で児島駅へ向かう。指定の10時20分に集合したのは、相澤夫妻、浅倉さんと、相澤夫人の歩き仲間のKさん、海外鉄道研究会のTさん、それに私の計6人。あいにくの曇り空だが、日差しがない分、かえって歩くのは楽かもしれない。

「最初に、下電の駅の跡を見に行きましょう」と私が口火を切った。下電は、JR線より700mほど内陸を走っていた。というのもJR線が通る一帯はかつて遠浅の海で、戦前まで塩田が広がっていたからだ。メンバーは地元岡山の人が多いので、下手な案内人を待つまでもなく、自然と誰もが旧駅の方角へ足を向ける。

下電児島駅は二度移転している。「味野町(あじのまち)」と称した初代の駅は、小田川(おだがわ)に近い一角にあった。駅と駅前広場があった場所は現在、駐車場に転用されている。鉄道の記憶としては、北端近くにある大正橋バス停前に、駅名標のレプリカが立つのみだ。記されている「味野」という駅名は1941年に改称されたことを示すが、次の駅名が「こじま」になっているのを誰かが見咎めた。「味野と児島は同じ駅なんですがね」。再改称は1956年に行われている。

Blog_contour4004
(左)味野駅跡を示す駅名標
(右)小田川護岸に顔を出す下電の橋台
 

小田川に架かる大正橋北側の護岸で、下電の橋台が斜めに飛び出しているのを確かめてから、引き返した。茶屋町~児島間廃止後の1976年、児島駅はバスセンターの改築に合わせて少し南に移転している。私はこの二代目駅の時代(1984年)に一度だけ下電に乗ったことがあるが、今や芝生広場が広がるばかりで、鉄道の痕跡は何もない。

さらに南へ進むと、通りの向こうで、三代目の児島駅が原形をとどめていた(下注)。上述の観光開発の一環で1987年に建てられたもので、トレインシェッドというべきか、かまぼこ型の高屋根のかかった立派な建物だ。線路はもうなかったが、小ぢんまりとした頭端式のプラットホームや、構内を見下ろすウッドデッキなどがしっかり保存されている。ホームは建物の外まで続いていて、役目を終えた駅名標が所在なげに立っていた。「これもレプリカでしょうか」「字もかすれて年季が入ってるから、本物じゃないかな」。

*注 旧駅舎は、金・土・日・祝日(年末年始を除く)の8:30~17:00の間、開放されている。

Blog_contour4005
三代目児島駅正面
Blog_contour4006
トレインシェッドで覆われた内部
(左)ウッドデッキは当時のもの
(右)プラットホーム跡も残る
Blog_contour4007
(左)ホームの先に「風の道」が延びる
(右)オリジナルの駅名標
 

ここから廃線跡は、自転車・歩行者道「風の道」に姿を変えて、南へ延びていた。舗装は砂地に似せた自然色で好ましい。駅からの左カーブが終わると、直線路になった。家並みが絶えない町なかを行くので、徒歩や自転車で地元の人もときどき通る。

見た目はすっかり普段使いの風景だが、他の道と明らかに異なるのは、路側に現役当時さながら、茶色の架線柱が林立していることだ。断面が三角形のトラス鉄柱で、架線を吊るためのビーム(横梁)はもとより、ときには碍子までぶら下がっている。電化路線ならではの大道具で、ここまできれいに残されているのは見事だ。

Blog_contour4008
架線柱が残る廃線跡
 

旧街道との元踏切を越えて400mほど行くと、一つ目の中間駅、備前赤崎駅があった。石積みのホームは左右の間隔が広いから、線路が2本敷かれた交換駅だったのだろう。鳥居形の駅名標に、「びぜんあかさき(駅跡)」とかっこ書きされているのが正直で、微笑みを誘う。

その200m後で、国道430号線と交差した。ここは横断歩道がなく、迂回を余儀なくされる。ほぼ直線だった廃線跡はこの直後、左に急カーブし、次いで緩やかに右に反転していく。その途中で、阿津(あつ)駅の片面ホームを通過した。

Blog_contour4009
備前赤崎駅跡
(左)石積みのホーム
(右)「駅跡」と書かれた駅名標
Blog_contour4010
阿津駅は住宅街の中の片面ホーム
 

倉敷シティ病院の前で、舗装が自然色から黒いアスファルトに変わり、同時に25‰勾配が始まる。海岸沿いではあるものの、鷲羽山との間の鞍部を乗り越えるために、坂を上る必要があるのだ。桜並木の築堤はいい雰囲気だったが、すぐに道路と交差するレベルまで急降下していた。築堤が切り崩されてしまったようだ。そのため、瀬戸大橋線の下をくぐるまでの短区間は、線路跡らしくない急勾配になっている。

Blog_contour4011
(左)25‰勾配が始まる桜並木の築堤
(右)切り崩された築堤
 

さらに坂を上っていくと、いよいよ左手に海が見えてきた。手前にある競艇場の施設が少々目障りだが、下電名物の車窓風景がこれからしばらく続くのだ。JRの変電所の先で敷地が急に広がり、そこに琴海(きんかい)駅の島式ホームがあった。ベンチも置かれていて、家並み越しに海と島影を見晴らせる。「鷲羽山(わしゅうざん)駅まで行ってもいいんですが、12時を回ったので、ここで昼食にしましょう」と相澤さん。腰を下ろして、皆それぞれ持参した食事を広げた。

Blog_contour4012
坂を上っていくと左手に海が見えてくる
Blog_contour4013
琴海駅跡で昼食休憩
Blog_contour4014
琴海駅跡から見る海景
 

琴海駅の先もまだ25‰の坂道で、神道山(しんとうざん)からせり出した山脚を、築堤と切通しを連ねて縫っていく。大畠(おおばたけ)集落の上で右へ回り込み、瀬戸大橋線と瀬戸中央道の下のカルバートを斜めにくぐった。カーブして見通しの悪い切通しをもう一つ抜ければ、鷲羽山駅に到達だ。標高43m、「風の道」のサミットに当たり、休憩所として瀬戸大橋を望むテラスと公衆トイレが設置されている。

Blog_contour4015
築堤と切通しで山脚を縫う
Blog_contour4016
サミットの鷲羽山駅
Blog_contour4017
駅のテラスから見る下津井の家並と瀬戸大橋
 

下津井まであと2.5kmだ。「余裕で着けると思うので、その前に鷲羽山へ寄り道しませんか」と提案したら、異論はなかった。鷲羽山は南東に突き出した半島で、備讃瀬戸の海景をほしいままにする、古来知られた展望地だ。

駅から南へ遊歩道が延びていて、松林の中の急な階段を上がっていく。まもなく東屋(あずまや)展望台という最初の見晴らしスポットがあった。瀬戸中央道のトンネルの真上に位置しているので、下津井瀬戸大橋まで一直線、あたかも足下から車が飛び出すような迫力のある眺めだ。

Blog_contour4018
東屋展望台からの迫力ある眺め
 

さらにしばらく上ると、山頂に着いた。表土が剥ぎ取られ大岩が露出していて、石舞台のように見える。標高113mと大した高さでないにもかかわらず、岩の上に立てば、北の児島市街地から、島影浮かぶ内海、長い吊橋の列、そして西の下津井港まで、文句なしに360度の眺望が得られる。

Blog_contour4019
鷲羽山山頂
(左)石舞台のような頂上
(右)瀬戸大橋が間近に
Blog_contour4020
鷲羽山山頂からのパノラマ
 

今日は遠くがかすんでいたが、それでも一同満足して、もときた道を戻った。鷲羽山駅からしばらく廃線跡は、海岸沿いに続く下津井の町を避けて、山手を迂回している。500mで東下津井駅だった。1931(昭和6)年開設の鷲羽山駅に対して、東下津井は開通当時からあった駅だ(もとは下津井東と称した)。残されたホームが異様に低いので、歩道部分が嵩上げされているようだ。

Blog_contour4021
東下津井駅跡
 

城山の裏手からは最終コースで、25‰の下り勾配で谷間に突っ込んでいく。鞍部を切通しで通過しているのだが、長い年月のうちに草木が覆いかぶさり、まるでトンネルだ。切通しを抜けた後は、オメガカーブで南に向きを変え、浅い谷を降下する。Tさんが、列車が走っていた当時撮った写真を見せてくれた。「あの頃はこのカーブを見通すことができたんです。」今は谷いっぱいに住宅が立ち並んでしまい、撮影名所の面影は消失している。

Blog_contour4022
鞍部を切通しでやり過ごす
Blog_contour4023
オメガカーブを描いて降下
Blog_contour4024
現役時代のオメガカーブ(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

石積みが残る道路のアンダーパスをくぐると、もう下津井駅跡だった。老朽化が進み、駅舎や周りの建物はすべて撤去されてしまったが、カーブする相対式のプラットホームとその間に敷かれた線路が、在りし日の記憶を呼び覚ます。隣接する側線群には、「赤いクレパス号」だったモハ1001や、1988年新造の観光電車「メリーベル号」など、保存会が管理する旧車が何両も休んでいた。フェンスがあり、普段は立ち入れないが、毎月第2日曜と第4日曜に開放されているそうだ。

時刻は14時30分、終点まで無事歩き通して、ここで解散となった。Tさんと私は、狭い通りに古い民家や土蔵が並ぶ下津井の旧市街まで足を延ばし、郵便局前で下電バス「とこはい号」を捕まえて、児島駅に戻った。

*注 とこはい号は児島市街、下津井、鷲羽山第二展望台などを通る循環バス路線。反時計回りの一方通行で、1時間毎に運行。なお、下津井から児島駅に向かう場合、「児島駅南」バス停が最寄りとなる。

Blog_contour4025
ホームと線路が残る下津井駅跡
Blog_contour4026
(左)保存車両モハ1001
(右)奥に観光電車「メリーベル号」の姿も
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図下津井(昭和49年修正測量、平成30年10月調製)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪
 コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸
 コンターサークル地図の旅-三田用水跡

2019年11月 7日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 II

ツェル・アム・ゼー Zell am See の名は「湖畔のツェル」を意味する。ツェル湖 Zeller See に突き出した小さな扇状地の上に、リゾートらしい小ざっぱりした市街地が広がっている。線路(下注)がその市街地と湖岸にはさまれた狭い空間を通っていて、駅の地下道を抜ければ、目の前はもう、さざ波立つ蒼い湖面だ。

*注 ÖBBザルツブルク=チロル線 Salzburg-Tiroler-Bahn。

Blog_pinzgau21
湖に面するツェル・アム・ゼー市街
線路は湖岸の並木の陰にある
Blog_pinzgau22
(左)市街の中心シュタットプラッツ Stadtplatz(都市広場)
(右)ホテルやレストランが軒を連ねるドライファルティヒカイツガッセ Dreifaltigkeitsgasse(三位一体小路)
 

駅舎の南に接する頭端式の11、12番線が、ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn の専用ホームになっている。しかし、かつて同じÖBBの支線だった時代は1番線の南端に発着しており、そのため線路は標準軌と狭軌が片側のレールを共用する3線軌条だった。本線の列車は通常2、3番線を使うので、これでも支障はなかったのだ。1987年に完成した駅の改修で、両者は完全に分離され、狭軌列車は現在のホームに発着するようになった。

Blog_pinzgau23
(左)ツェル・アム・ゼー駅舎
(右)11、12番線がピンツガウ地方鉄道の発着ホーム
 

ところで、先に断っておかなければならないが、2019年6月のこの日、ピンツガウ地方鉄道に乗ったのは、中間のミッタージル Mittersill 駅からだ(理由は後述)。蒸気列車で終点クリムル Krimml まで行き、復路、プッシュプル列車で起点ツェル・アム・ゼーへ戻ってきた。つまり実際は、往路の前半をパスしたのだが、本稿では起点から順に話を進めていきたい。

Blog_pinzgau_map2
ピンツガウ地方鉄道と周辺路線図
 

さて、駅を後にすると、狭軌の線路は、ÖBBの標準軌複線と並走しながら南へ進む。左手にはプロムナードの並木越しに、ツェル湖の湖面が見えている。先述のとおり駅構内では撤去されてしまった3線軌条だが、並走区間の途中からまだ存在していて、標準軌の渡り線が狭軌の線路に合流する。標準軌線は電化路線なので、上空に架線も伴っている。

Blog_pinzgau24
(左)ツェル湖沿いを並走する狭軌線とÖBB標準軌線
(右)3線軌条区間
   Photo at wikimedia. © Robert Kropf (CC BY-SA 4.0)
Blog_pinzgau25
ツェル湖と雪を戴くホーエ・タウエルンの山並み
 

3線軌条の区間は1kmもない。これはティシュラーホイズル Tischlerhäusl 貨物駅に通じていて、狭軌線でロールワーゲンに載せられてきた標準軌貨車が、機関車に牽かれて本線に出ていく(およびその逆の)ための設備だ。ちなみに貨物駅の、公道をはさんで南隣は、地方鉄道の車庫・整備工場で、ツェル・アム・ゼー方の運行拠点になっている。

Blog_pinzgau26
ティシュラーホイズル車庫・整備工場
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

直進する標準軌線を見送って、こちらは右へ曲がる。そしてザルツァッハ川が流れるU字谷を遡り始める。このあたりは谷幅がまだ2kmもあり、左の車窓は一面の牧草地だ。昔はツェル湖が今より南まで広がっていて、ザルツァッハ川は自由に蛇行しながらそこに注ぎ、周りは湿地だった。

1852年に、谷の東の出口にあったブルックの岩棚 Brucker Schwelle を開削して、水位を約1m下げる工事が行われた。これにより湖面は北に後退し、湿地は乾燥して、農牧が可能な土地になったのだ。それでも19世紀末はまだ、川の蛇行跡が明瞭に残っており、前回も触れたように、地方鉄道はそれを避けてくねくねと迂回しなければならなかった。

線路は終始、川の左岸(北岸)を通るので、進行方向左側(南側)の眺望がより開ける。牧草地の向こうに、雪を戴くホーエ・タウエルン Hohe Tauern の山並みが奥まで続いている。カプルーン Kaprun の谷の後方で、グローセス・ヴィースバッハホルン Großes Wiesbachhorn(標高3564m)の尖ったピークがひときわ目を引いた。

Blog_pinzgau27
車窓から見るカプルーン市街(河畔林の左後方)と
グローセス・ヴィースバッハホルン(中央右奥の尖峰)
 

ツェルから40分で、中間の主要駅ミッタージル Mittersill(下注)に到着だ。係員が常駐する唯一の駅で、カスタマーセンター Kundencenter と称して、乗車券、鉄道グッズの販売や案内業務を行っている。蒸気列車もここで給水のために長い停車時間をとる。

*注 慣用に従い、ミッタージルと表記するが、現地の発音はミッタシルで、「ミ」にアクセントがある。

Blog_pinzgau28
ミッタージル駅
(左)唯一の有人駅舎
(右)普通列車が到着
 

冒頭で記したように、今回のピンツガウ地方鉄道の旅は、実際にはここからスタートした。インスブルック近郊の宿に荷物を置いていたので、往復ツェル・アム・ゼー経由では時間がかかる、と考えたからだ。

地図で見る限り、チロル地方からは、ツィラータール Zillertal を南下、ゲルロース峠 Gerlospass を越えてクリムルに出る、というのが最短ルートだ。しかし、州境をまたぐためか、直通のバス路線はない。さらに調べたところ、ÖBB線のキッツビュール Kitzbühel とミッタージルの間にバス路線が見つかった(上図の BUS と記したルート)。東チロルのリーエンツ Lienz へ向かうポストバスで、チロル運輸連合 Verkehrsverbund Tirol (VVT) が運行している(下注)。

*注 時刻表は、チロル運輸連合 https://www.vvt.at/ 路線番号950x。

朝9時40分キッツビュール発のバスがあり、ミッタージル着は10時18分だ。これなら11時08分発の下り蒸気列車に悠々間に合う。トゥルン峠 Pass Thurn から、緑のザルツァッハ谷と雪のホーエ・タウエルンが織りなす目の覚めるようなパノラマ(前回冒頭写真)を堪能して、ミッタージルに降りてきた。

Blog_pinzgau29
(左)キッツビュール駅前からポストバスに乗車
(右)ミッタージル市街が眼下に
 

蒸気列車には予約が必要なのは知っていた。しかし、他の保存鉄道でも当日、駅や車内で切符が買えたので、そのつもりで駅のカウンターへ行く。スティームトレインに乗りたいと言うと、ここには座席表がないので予約できない、しばしば満席になるから、先行する10時48分発の気動車をお勧めする、との返事だ。

1日1往復なので、オンライン管理をしていないのはわかるが、これでは目的が果たせない。「もし満席なら、デッキに立つので」と食い下がると、苦笑しながら「座席は車掌に聞いてください」と切符を売ってくれた。蒸気列車は特別運賃だが、渡されたのはヴァルトフィアテルのときと同様、薄紙のレシートだ。クリムルまでの所要時間は54分(下注)、どうせデッキに張り付くから、席はなくても構わない。

*注 蒸気列車に対して普通列車は、ミッタージル~クリムル間を35分で走破する。

Blog_pinzgau30
ミッタージルに蒸気列車が到着
 

蒸気列車は10時38分、時刻表どおりに入線してきた。牽いているのは、旧ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄シュタインバイス線169号機(BHStB 169、下注1)だ。1913年ブダペスト製で、1982年にクラブ760(下注2)が取得した。改修を受けた後、長期リース契約により、ピンツガウで稼働している。列車は、その後に荷物車(緩急車?)、2軸客車7両という編成だが、うち1両は「Pinzga Schenke(ピンツガウの居酒屋)」と書かれた深紅のビュッフェ車だった。

*注1 後にユーゴスラビア国鉄で73形19号機(JŽ 73-019)に改番。
*注2 クラブ760は、主にタウラッハ鉄道 Taurachbahn(ムールタール鉄道 Murtalbahn 最奥部の保存鉄道)を拠点に保存鉄道活動を行っている組織。

Blog_pinzgau31
本日の牽引機 BHStB 169
 

さっそく消火栓のような水栓につないだ消防用のホースで、機関車に給水が始まった。ここでは30分停車するので、乗客も皆、ホームに降りて休憩している。その間に、後を追ってきた3両編成のクリムル行き気動車が到着し、すぐに出ていった。これが先刻、乗車を勧められた列車だ。

しばらくのんびりした時間が流れ、発車の準備が整ったところで、西からツェル・アム・ゼー行きの各停プッシュプル列車が入線、それを待って蒸気列車は出発した。

Blog_pinzgau32
ミッタージルで30分の給水停車
 

ミッタージルから上流では、線路はおおむね川岸を伝っていく。視界を遮るような高い堤防はないから、氷河由来の白濁した速い水流がよく見える。方や、右側はおおかた緑の牧草地だ。その後ろには、ホーエ・タウエルンほど険しくはないものの、2000mを超えるキッツビュール・アルプス Kitzbüheler Alpen の、やはり雪を戴く山並みが見え隠れする。

Blog_pinzgau33
ザルツァッハの川岸を伝う
 

ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガー Neukirchen am Großvenediger 駅で、列車交換のためにやや長く停車した。ミッタージルで追い抜いていった気動車が折り返してきたのだ。同じような風景が続くので、日常的なイベントも気分転換になる。

Blog_pinzgau34
ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガーで
上り列車と交換
 

ふと気がつくと、山がかなり近づいてきている。列車は最後に大きく左へカーブして、終点のクリムル駅に入っていった。低いホームに接した本線2本と側線1本をもつターミナルだ。すぐに機関車が切り離され、機回し作業が始まったが、ゆっくり見ている時間はない。というのも、駅前に、ゾンダーファールト Sonderfahrt(特別運行の意)と表示した大型バスが来ていて、列車を降りた客がぞろぞろと乗り込んでいくからだ。乗り遅れると、せっかくの名所を見損なう。

Blog_pinzgau35
最後の大きな左カーブを回る
Blog_pinzgau36
終点クリムル駅に到着
 

駅がある場所は、正確にはフォルダークリムル Vorderkrimml(前方のクリムルの意)という集落(下注)のはずれで、滝入口までまだ3kmほどある。この間は高度差が約180mと大きく、粘着式の蒸気鉄道では到達が難しかったはずだ。バスは駅前を出るとその坂道を上っていき、本来のクリムル集落をかすめてから、連邦道沿いのインフォメーションセンター前で停まった。

*注 フォルダークリムルもクリムルも、自治体としてはヴァルト・イム・ピンツガウ Wald im Pinzgau の一部。

Blog_pinzgau37
(左)クリムル駅舎
(右)特別運行のバス
Blog_pinzgau38
(左)森の道を滝へ向かう
(右)正面奥の小屋が入場券窓口
 

現地の人々に混じって、歩いて滝へ向かう。途中、窓口で4ユーロの遊歩道利用料 Wegbenützungsgebühr を支払うのだが、解説や注意事項を記したパンフレットどころか、ここでも渡されたのはレシートのみ。

滝は3段に分かれていて、下の滝(下アッヘン滝 Unterer Achenfall)だけで、高さが140mある。驚くのはその膨大な水量だ。6~7月は融雪が進むため、水量が一年で最も多いらしい。その水が岩肌を勢いよく滑り降り、最後に滝壺へジャンプしていく。大地を揺るがすような轟音が森にこだまし、風に舞う水煙が絶えずカメラのレンズを濡らす。

Blog_pinzgau39
下の滝を真横から望む
 

急な山道が、山腹をジグザグに上っている。それをたどると、途中にいくつか展望台があり、滝を真横から、上方からと、さまざまな角度で見ることができた。山道はその先、中の滝(落差100m)、上の滝(同 145m)へ延びているが、また蒸気列車で帰るつもりなら、許される滞在時間は70~80分だ。残念だが、せいぜい下の滝の滝口付近で引き返さなくてはならない。

Blog_pinzgau40
滝口の展望台から下の滝を見下ろす
背景はキッツビュール・アルプス
 

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Pinzgauer Lokalbahn", The Austrian Railway Group, 2017 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ピンツガウ地方鉄道(公式サイト) https://www.pinzgauerlokalbahn.at/
クリムル滝(アルペン協会支部による公式サイト) https://www.wasserfaelle-krimml.at/

★本ブログ内の関連記事
 オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 I
 オーストリアの狭軌鉄道-ムールタール鉄道
 オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道
 ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史

2019年10月31日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 I

ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn

ツェル・アム・ゼー Zell am See ~クリムル Krimml 52.6km
軌間760mm、非電化
1898年開通

Blog_pinzgau1
トゥルン峠から望むザルツァッハタール
谷底をピンツガウ地方鉄道が走る
 

ザルツブルク Salzburg の南西に、ピンツガウ Pinzgau と呼ばれる地方がある。北には荒々しい石灰岩の山塊シュタイネルネス・メーア Steinernes Meer、中央は片岩アルプス Schieferalpen の2000m級の山並み、南縁には標高3000mを優に越えるタウエルン Tauern の雪山が群れをなす、アルプスの真っ只中だ。

Blog_pinzgau_map1

その山また山の間を、東西に長くザルツァッハ川 Salzach の流れる谷が延びている。北側のザールフェルデン盆地 Saalfeldener Becken などとともに、この平底の谷間は人々に暮らしの場所を提供してきた。地域の足として19世紀末に造られたのが、760mm狭軌のピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn だ。

Blog_pinzgau_map2
ピンツガウ地方鉄道と周辺路線図
 

歴史を紐解けば、ピンツガウの中心都市ツェル・アム・ゼー Zell am See には、すでに1875年から標準軌のザルツブルク=チロル鉄道 Salzburg-Tiroler-Bahn が通じていた。地方鉄道は、そのツェル・アム・ゼー駅を起点に、谷を遡り、最奥部のクリムル Krimml に至る路線で、2年の工期を経て1898年1月に開業している。

当時、クリムルからさらに、観光地のクリムル滝へ行く電気鉄道や、西方のゲルロース峠 Gerlospass を越えてチロルのツィラータール Zillertal に連絡する路線も構想されていた。しかし、どちらも建設資金のめどが立たず、実現しなかった。

開通に先立ち、リンツのクラウス Klauss 社から蒸気機関車4両が納入された。ツェル・アム・ゼー Zell am See の頭文字をとって、それはZ形(下注)と呼ばれるようになる。当時、沿線はまだ貧しい地域で、列車は初め、1日2往復しか設定されず、その1本は貨車を併結した混合列車だったという。

*注 Z形はすべて解体されてしまったが、テルル鉄道 Thörlerbahn に納入された同系統の機関車 StLB 6号機がタウラッハ鉄道 Taurachbahn(ムールタール鉄道 Murtalbahn 最奥部の保存鉄道)で動態保存されている。

その後、開通効果で観光開発が進み、木材や農産物の輸送もしだいに増加する。標準軌貨車への積替え作業を省くために、1926年にロールワーゲン方式(下注)が導入されたが、Z形では出力不足のため、1928年以降、新しいUh形(後のÖBB 498形)に置き換えられた。

*注 ロールワーゲン Rollwagen は、狭軌台車に標準軌貨車を載せて走る方式(逆の場合もある)。なお、これは英語読みで、標準ドイツ語ではロルヴァーグンが近い。

Blog_pinzgau2
ツェル・アム・ゼー地方鉄道駅の線路終端(11、12番線)
 

一方1936年からは、ディーゼル機関車も導入された。とりわけ戦後、道路事情の改良と自動車の普及で鉄道の利用が減退すると、経費削減策として積極的に使われるようになる。蒸機は1962年に定期運行を退き、1966年には路線から完全に姿を消した。

1980年代に断行された赤字路線の整理では生き残ったピンツガウ地方鉄道だが、1998年に貨物輸送が中止され、2000年にはÖBBが全面廃止に言及し始めた。ヴァルトフィアテル鉄道やマリアツェル鉄道などと同様、連邦と州の関与が求められ、結果的にザルツブルク州がÖBBに運行を委託する形で存続が決まった。

その後2008年に、地方鉄道の所有権は州へ完全に移された。以来、運行は長年ザルツブルクの市内バス・郊外鉄道を運営してきたザルツブルク公社 Salzburg AG(下注)が担い、インフラと車両も同社の所有となっている。

*注 ザルツブルク州およびザルツブルク市が過半を出資している公営企業。

なお、ÖBB時代に廃止された貨物輸送は、モーダルシフトの機運から2008年に復活し、沿線の工場や製材所が工業製品や木材の運搬に使うようになった。ツェル・アム・ゼーの1.5km南にあるティシュラーホイズル Tischlerhäusl 貨物駅には、異軌間の貨車をロールワーゲンに載せるための側線とランプ(斜路)がある。

Blog_pinzgau3
ザルツァッハ川に沿って
 

ところで、ピンツガウ地方鉄道のルートを地形に照らして見ると、前半ではザルツァッハ川の氾濫原のきわに、後半では川岸に、それぞれ沿うように通されていることがわかる。山裾の緩斜面や扇状地など高燥な土地は、傾斜していたり、すでに集落があったりしたからだが、このことは後に、鉄道が繰り返し洪水に悩まされる主因となった。

開通5年目の1903年9月に、早くも最初の洪水に襲われ、ブラムベルク Bramberg 付近の線路の流出で、運休を余儀なくされている。近年では、1987年8月に100年来の高水位により被災し、全線が再開されるまでに10か月を要した。

さらに2005年7月にも記録的な増水により、各所で線路が破壊された。一時はピーゼンドルフ Piesendorf から先、全線の8割が運行できなくなっていた。10月中にミッタージル Mittersill まで再開されたものの、以遠区間は、河川の防災改修とのかかわりで復旧が遅れた。結局、終点のクリムルまで列車が到達できるようになったのは2010年で、実に5年もの間、バスによる代行輸送が続いたのだ。

復旧工事では、速度制限のある線路の改築や路盤の強化も併せて実行された。ルート変更は3か所で行われている。一つ目は、フュルト・カプルーン Fürth-Kaprun(起点から6.7km)の直前で、旧ルートは川の蛇行跡を大きく迂回していたため、35km/hの速度制限がかけられていた。1997年に曲線を緩和した新線がオープンし、これにより距離が240m短縮され、通過速度も最高70km/hに引き上げられた(下図参照)。

Blog_pinzgau_map3
地形図にみるフュルト・カプルーン駅周辺のルート変遷
(上)建設前の図、支流が北へ蛇行(19世紀)
   image at mapire.eu
(中)従来ルート(1981年)
   © BEV, 2019
(下)1997年の改良ルート(赤の破線は従来の位置)
   © BEV, bergfex at 2008, 2015
 

二つ目は、ウッテンドルフ・マンリッツブリュッケ Uttendorf-Manlitzbrücke(起点から22.0km)で、北側の支谷から突き出す小扇状地を急カーブで乗り越えていた個所だ。ここは2011年に改修され、それと併せて新線上に新たに上記の停留所が開設された。

三つ目はノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガー Neukirchen am Großvenediger(起点から44.9km)の前後で、旧ルートは町寄りを通っていたが、2005年水害からの復旧に際して、町の外縁に移され、住宅地内の踏切も解消された。この区間は2010年9月の全線再開に合わせてオープンしている(下図参照)。

Blog_pinzgau_map4
ノイキルヘン駅周辺のルート変遷
(上)従来ルート(1986年)
   © BEV, 2019
(下)2010年の改良ルート(赤の破線は従来の位置)
   Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

現在、旅客列車の主力になっているのは、760mm狭軌の標準的な気動車である5090形だ。1986~91年製の計6両が、VTs 12~17の車番をつけて走る。それとともに、グマインダー Gmeinder 社製のディーゼル機関車Vs 81~83が、部分低床の付随車と制御車を連ねたプッシュプル列車 Wendezug で運用されている。いずれも塗装は、ザルツブルク公社のコーポレートカラーであるルビーレッドとホワイトの統一仕様だ。

Blog_pinzgau4
気動車5090形
Blog_pinzgau5
プッシュプル列車の編成
(左)ディーゼル機関車Vs 82
(右)自転車を載せる荷物車
Blog_pinzgau6
(左)最後尾は制御車 VSs 102
(右)部分低床の車内
 

ピンツガウ地方鉄道の旅客輸送における役割は、主として二つある。

一つは近郊のコミューター輸送だ。今では信じられないことだが、1980年代、この路線の旅客列車は1日わずか5往復しかなかった。クリムルからの上り列車はなんと15時30分発が最終だったのだ。

しかし、1989年にツェル・アム・ゼー市内交通 Stadtverkehr Zell am See の路線網に組み込まれたことで、ツェル・アム・ゼー~ブルックベルク・ゴルフプラッツ Bruckberg Golfplatz(起点から3.8km)間が、平日30分間隔に増便された。バスでも12分で到着できる場所とはいえ、鉄道はこれを8分に短縮した。

その後、市内交通区間は2008年にフュルト・カプルーンまで延長され、現在は、日中午後の時間帯でニーデルンジル Niedernsill(起点から15.3km)まで30分毎だ。以遠区間でも1時間の等間隔ダイヤが組まれており、クリムルまで平日15~16往復ある(別に、市内交通区間便が12往復)。山向こうのツィラータール鉄道(下注)と並んで、最も利用されている760mm狭軌の一つと言えるだろう。

*注 ツィラータール鉄道については「オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道」で詳述。

これに伴い、ツェル・アム・ゼー市内では停留所が3か所増設されて、バス並みの区間距離になった。もとよりミッタージルのような拠点駅を含めて、すべての中間駅・停留所がリクエストストップなので、乗降客がないときは通過してしまう。

Blog_pinzgau7
ブルックベルク・ゴルフプラッツ駅での列車交換
(2008年撮影)
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

もう一つの役割は、観光輸送だ。日本では必ずしも知名度が高いとは言えないが、ツェル・アム・ゼーは、南隣のカプルーン Kaprun とともに、オーストリアでも最も重要な国際ウィンターリゾートの一つだ。また、国内最高峰のグロースグロックナー Großglockner(標高3,798m)を擁するホーエ・タウエルン国立公園 Nationalpark Hohe Tauern 観光の足場でもある。

鉄道はこの観光都市からクリムルに向かう。そこには、国内最大の落差をもつクリムル滝 Krimmler Wasserfälle があり、終点が設定された理由も、この名所への誘客に尽きる。

ザルツブルク公社は、路線のさらなる魅力向上を図って、他の狭軌鉄道と同じように夏のシーズンに蒸気列車 Sommerdampfzug を運行している(下注)。現在の牽引機は、もとマリアツェル鉄道のために開発されたMh形の3号機と、ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄(後にユーゴスラビア国鉄となる)で使われていた73形機関車だ。

*注 冬のシーズンには、ディーゼル機関車による特別運行がある。

Blog_pinzgau8
蒸気機関車73形(JŽ 73-019)
 

2019年の場合、運行は5月20日から9月24日の間の水曜と木曜に各1往復で、ツェル・アム・ゼーを9時18分に出発し、クリムルには12時02分に到着するダイヤだ。折り返しは13時55分発で、ツェル・アム・ゼーに16時36分に戻ってくる。

全区間を乗れば1日がかりだが、それだけかける意味はある。クリムル駅前に、時刻表に載っていない臨時バスが待機していて(下注)、滝の入口まで運んでくれるのだ。帰りもこのバスに乗れば、蒸機の発車に間に合う。やはりクリムルを訪れることは、滝を見に行くことと半ば同義になっているようだ。

*注 蒸気列車の客専用のバスで、運賃は特別列車の料金に含まれている。なお、クリムル滝へは路線バスもあり、平日日中は定期列車に接続している。時刻表は、ザルツブルク交通局 https://salzburg-verkehr.at/ 路線番号670。

Blog_pinzgau9
水煙上がるクリムル滝
(下アッヘン滝 Unterer-Achenfall)
 

では次回、蒸機列車の旅を含めて、ピンツガウ地方鉄道のルートを具体的に追っていこう。

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Pinzgauer Lokalbahn", The Austrian Railway Group, 2017 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ピンツガウ地方鉄道(公式サイト) https://www.pinzgauerlokalbahn.at/
Club 399 (Freunde der Pinzgaubahn) http://club-399.at/

★本ブログ内の関連記事
 オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 II

 オーストリアの狭軌鉄道-ムールタール鉄道
 オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道
 ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史

2019年10月24日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ムールタール鉄道

ムールタール鉄道 Murtalbahn

ウンツマルクト Unzmarkt ~マウテルンドルフ Mauterndorf 間 76.1km
軌間760mm、非電化
1894年開通
1973年 タムスヴェーク~マウテルンドルフ間旅客輸送廃止、1980年 同 貨物輸送廃止
1988年 保存鉄道(タウラッハ鉄道)開業

【現在の運行区間】
一般輸送:
ウンツマルクト Unzmarkt ~タムスヴェーク Tamsweg 間 64.3km

保存鉄道:タウラッハ鉄道 Taurachbahn
ザンクト・アンドレ=アンドルヴィルト St. Andrä-Andlwirt ~マウテルンドルフ Mauterndorf 間 9.4km

Blog_murtal0
ムール川の早瀬
ムーラウにて
 

ムール川 Mur は、ホーエ・タウエルン Hohe Tauern と呼ばれるアルプスの一角を源とするドナウ川支流の一つだ。まず東へ流れた後、ブルック・アン・デア・ムール Bruck an der Mur で南に向きを変え、グラーツ Graz 市街を貫く。オーストリアを出た後はスロベニアに入り、さらにクロアチアとハンガリーの国境線を経て、ドナウ川に注いでいる。

この450kmに及ぶ長旅の最初の部分、東西に延びるオーベレス・ムールタール Oberes Murtal(ムール谷上流部の意)の谷間が、今回のテーマ、ムールタール鉄道 Murtalbahn(下注)の舞台になる。

*注 本稿では慣用に従い「ムール川」「ムールタール鉄道」と表記するが、「ムーア」「ムーアタール」のほうが標準ドイツ語の発音に近い。

起点は、ÖBB(オーストリア連邦鉄道)南部本線 Südbahn の小駅ウンツマルクト Unzmarkt だ。路線はそこからムールの谷をひたすら遡り、最後は、アルプスの高峰に囲まれ、標高1000mを越えるルンガウ Lungau の盆地に達する。現在、路線長は64.3kmあり、オーストリアの760mm軌間ではマリアツェル鉄道に次いで長い。全線走破には95分を要する。

*注 マリアツェル鉄道については「オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 I」で詳述。

Blog_murtal1
鉄道の起点ウンツマルクト駅
Blog_murtal2
ÖBB線ホームから
ムールタール鉄道のホーム(21番線)を望む
 

ムールタール鉄道は、今から125年前の1894年10月に開業した。当時、ムール川の谷には、1868年から標準軌の皇太子ルードルフ鉄道 Kronprinz Rudolf-Bahn(下注)が通じていたが、途中で南にそれてケルンテン Kärnten に向かうため、上流域には恩恵が及んでいなかった。そこで、地方鉄道の新設が計画されたのだ。

*注 この区間は現在、ÖBB南部本線 Südbahn(ウィーン Wien ~クラーゲンフルト Klagenfurt ~タルヴィジオ Tarvisio)に含まれている。

オーストリアの地方鉄道には、後に国有化されて、戦後はÖBB線となったものが多い。ところがムールタール鉄道は、開業以来一度も国鉄の路線網に属したことがない。最初は、同名の鉄道会社(下注)が運営しており、1921年から、州政府が設立したシュタイアーマルク州営鉄道 Steiermärkische Landesbahnen (STLB) に引き継がれた。

*注 正式名は、株式会社ムールタール鉄道ウンツマルクト=マウテルンドルフ Aktiengesellschaft Murtalbahn Unzmarkt–Mauterndorf。運行を州に委ねてからも会社は存続しており、1942年に解散。

Blog_murtal_map1

それから1世紀近く経営体制は変わっていないが、昨年(2018年)いわゆる上下分離政策により、州営鉄道は列車運行、インフラ、貨物輸送の各事業会社に分割された(下注)。それで、公式サイトや資料などでは現在、ムールタール鉄道の運行事業者として、3社の共通ブランドである「シュタイアーマルク鉄道 Steiermarkbahn (StB)」の名称が用いられている。

*注 列車運行はシュタイアーマルク鉄道・バス有限会社 Steiermarkbahn and Bus GmbH、インフラは、前社名を引き継いだシュタイアーマルク州営鉄道 Steiermärkische Landesbahnen が担う。貨物輸送は、シュタイアーマルク鉄道輸送・ロジスティック Steiermarkbahn Transport und Logistik が行い、専用貨物列車の運行で域外進出を図っている。

Blog_murtal_map2
ムールタール鉄道と周辺路線図
 

列車ダイヤは平日6~7往復で、およそ2時間ごとに列車が走る。土日は減便されて3~4往復しかないが、列車時刻表には載らない路線バスがあり(下注)、それと併せて約2時間の運行間隔が保たれている。

*注 シュタイアーマルク鉄道(バス)http://www.stlb.at/bus/ 路線番号890

また、ムールタール鉄道では、無煙化により定期運行から引退した蒸気機関車の保存にも努めてきた。特別列車「ダンプフブンメルツーク Dampfbummelzug(蒸気鈍行列車の意)」は、1968年から50年以上も続く人気企画だ。現在は主として6~9月の火曜と木曜に、ムーラウ~タムスヴェーク間を往復している。ムーラウ駅にある機関庫には、鉄道のオリジナル機であるU形(下注)や、グラーツ郊外シュタインツ鉄道 Stainzerbahn の機関車「シュタインツ2号」などが動態保存され、出番を待っている。

*注 U形の形式名は、ウンツマルクト Unzmarkt の頭文字から取られている。

Blog_murtal3
蒸機U11が牽く特別列車が気動車と交換
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

鉄道の起点ウンツマルクトは、乗換のためだけに設けられたような駅だ。ÖBB線は、普通列車だけでなくウィーン~フィラッハ間の特急列車(レールジェット Railjet)も停車するものの、旅客用の駅舎どころか、駅前広場すらない。

このような場所を起点にしたのには、もちろん理由がある。ÖBB線は、この先で峠越えのためにムール川の対岸に渡って山を上り始めるからだ。ムールタール鉄道の計画では、沿線からの木材輸送が収入源として重視されていたので、標準軌線との間に積替えヤードの設置が必要だった。そのための平地は、坂に取りつく手前のウンツマルクトにしかなかったのだ。

標準軌の線路に接する1番線の反対側が、ムールタール鉄道の乗り場(21番線)だ。その日、乗ってきたÖBBの列車が遅れていたため、接続時間はないに等しかったが、タムスヴェーク行きの列車はちゃんと待っていてくれた(下注)。女性車掌がホームに立ち、乗継ぎ客を誘導している。

*注 時刻表にも「レオーベン Leoben 方面からの普通列車の客は可能な限り待つ」と記されている。

Blog_murtal4
ウンツマルクト駅でÖBB線の接続を待つ
 

一般輸送に用いられるのは、電気式ディーゼルカーだ。動力車は、ÖBB 5090形の前身である1980~81年製のVT31~34と、後で追加された1998年製VT35の計5両、制御車はVS41~44の4両が在籍している。この便はVT32とVS42の2両編成だった。開通120周年記念の塗装は、基調の赤に、州旗の色である緑と白のストライプを加えたもので、補色の関係からけっこう目立つ。

車両には貫通扉がなく、走行中は車両間を行き来できない。ローカル線なのにワンマン運転でないのは、それが理由なのかもしれない。しかし、車掌はウンツマルクトで検札した後、ずっと前の車両にいて、後ろには顔を見せなかった。駅に乗車券は売っておらず、車内で車掌から買うことになっているから、地元の利用者は前乗りを心得ているのだろう。

Blog_murtal5
気動車VT32
(左)120周年の3色塗装 (右)内部
 

さて、ウンツマルクトを出発した列車は、最初ÖBB線と並走するが、まもなく、ムール川に架かるÖBB線の鉄橋の下をくぐって、独自の旅を開始する。といっても、対岸の山裾でじわじわと高度を上げていくÖBB線は、約10km先のトイフェンバッハ Teufenbach まで遠望可能だ。残念なことにディーゼルカーの窓が汚れていて、写真が撮れる状況ではなかったが。

そのトイフェンバッハ駅に着く手前で、狭軌線もムール川を渡って右岸(南岸)に移る。ムールタール鉄道の中間駅・停留所は合計32か所もあるのだが、拠点駅のムーラウを除いてすべてリクエストストップのため、停まらないほうが多い。保存鉄道(下注)の車庫があるフローヤッハ Frojach でさえ、観察する間もなく通過した。

*注 後述する「タウラッハ鉄道」の保存車両が格納されている。

Blog_murtal6
(左)ニーダーヴェルツ Niederwölz 駅を通過
(右)ムール川を渡る
(いずれもウンツマルクト方向を撮影)
 

沿線は、1kmほどの幅をもつ谷底平野だ。開けているので集落が点在し、警報機のない小さな踏切も多い。音が裏返ったラッパのような、ピーパーという汽笛をしょっちゅう鳴らしながら、列車はカーブの多い線路を走っていく。PC枕木を敷いた区間も多く、公共交通としてインフラに十分投資されているのがわかる。

Blog_murtal7
ムールタールの谷底平野
遠景はゼータール・アルプス Seetaler Alpen
 

ウンツマルクトから36分で、ムーラウ Murau に到着した。ここは鉄道の拠点駅で、側線が何本も並び、車庫と整備工場、運行管理本部の建物もある。上下列車の交換も基本的にここで行われるので、ムールタール鉄道の中で最も賑やかな駅といえるだろう。駅舎の中では、直営の旅行代理店と中華料理店が営業していた。「シュタイアーマルク鉄道」は路線バスも併営しており、列車に接続して、駅横のターミナルから周辺の町や村へバスが出ていく。

Blog_murtal8
ムーラウ駅
(左)比較的大きな駅舎
(右)ここで列車交換が行われる
Blog_murtal9
(左)駅横のバスターミナル
(右)運行管理本部の建物
 

ムーラウは町としても沿線最大で、ムール川をまたぐアーチの石橋を渡ると、城山の麓を通る街道に沿って趣のある旧市街が延びている。鉄道を単純に往復するだけではつまらないので、復路ではここで途中下車して、しばらく町巡りを楽しんだ。

Blog_murtal10
旧市街はムール川の対岸
 

ムーラウ駅で多くの客が降りてしまったので、特に後ろの車両は空気を運ぶ状況になった。長さ102mながら路線最長のムーラウトンネル Murauer Tunnel を抜けると、風景は郊外のそれに戻る。谷底の平地は目に見えて狭くなり、周囲の山は高さを増してくる。プレドリッツ・トゥラッハ Predlitz-Turrach で、ムール川を渡り返した。まだ谷は奥へ続いているが、州境がここを通っていて、列車はシュタイアーマルク州からザルツブルク州に入る。

Blog_murtal11
(左)ムーラウトンネルを抜ける
(右)ラーミングシュタイントンネル
(いずれもウンツマルクト方向を撮影)
Blog_murtal12
谷は次第に深まる
ザンクト・ゲオルゲン・オプ・ムーラウ St. Georgen ob Murau 付近
 

岩場が目立つようになると、ラーミングシュタイン Ramingstein でまた小さなトンネルをくぐった。マドリング Madling を通過したところで、川は北へ向きを変え、にわかに急流の様相を見せ始める。呼応して線路の勾配も険しくなり、右に左にカーブも連続する。しかし、それもいっときのことだ。谷が再び開けてきて、すっかりおとなしくなったムール川を最後に渡る。ムーラウから57分、列車は終点タムスヴェーク Tamsweg 駅の構内に滑り込んだ。

Blog_murtal13
(左)マドリング上手の急流
(右)ムール川の最後の鉄橋
(いずれもウンツマルクト方向を撮影)
Blog_murtal14
終点タムスヴェーク駅
Blog_murtal15
(左)小ぢんまりした駅舎
(右)路線バスから上り列車に乗り継ぐ人たち
 

かつて路線は、さらに12km先のマウテルンドルフ Mauterndorf まで延びていた。しかし、利用状況の悪化により、1973年にまず旅客輸送がバスに置き換えられ(下注)、1981年には貨物輸送も廃止されてしまった。ここルンガウ Lungau はザルツブルク州域であり、運行主体のシュタイアーマルク州としては、域外で赤字運行を続けるわけにはいかなかったのだろう。

*注 ポストバス Postbus の路線だが、現在はザルツブルク州交通局 Salzburg Verkehr が運行している。

このうちザンクト・アンドレ=アンドルヴィルト St. Andrä-Andlwirt ~マウテルンドルフ間 9.4kmでは、保存団体「クラブ760」により、夏のシーズンに蒸気列車の保存運行が実施されている。運行拠点はマウテルンドルフ駅に置かれ、ムール川の支流タウラッハ川 Taurach に沿って走ることから、路線名は「タウラッハ鉄道 Taurachbahn」だ。1988年から始まったこの事業は、山里の観光資源としてすっかり定着している。

Blog_murtal16
シーズンオフのマウテルンドルフ駅
 

ムールタール鉄道は大都市から離れているので、アクセスには時間がかかる。ÖBB南部本線で起点のウンツマルクト側から入るのが順当な経路だが、逆に終点タムスヴェークへ、ÖBBエンスタール線 Ennstalbahn のラートシュタット Radstadt 駅からマウテルンドルフを経由して(一部便は乗換)、バスで到達することも可能だ(下注)。本数は少ないが、ザルツブルクからの直行バスも運行されている。

*注 ザルツブルク交通局 https://salzburg-verkehr.at/ 路線番号280、700、直行バス:270

次回は、ピンツガウ地方鉄道を訪ねる。

本稿は、"Die Murtalbahn - Die Geschichte von 110 Jahren Schmalspurbahn" Steiermärkische Landesbahnen, 2004 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
StB - ムールタール鉄道  http://www.stlb.at/bahn/strecken/ut/
クラブ760 - タウラッハ鉄道  http://www.club760.at/html/taurachbahn.htm

★本ブログ内の関連記事
 オーストリアの狭軌鉄道-イプスタール鉄道 I
 オーストリアの狭軌鉄道-シュタイアタール鉄道
 ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史
 オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 I
 オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道

より以前の記事一覧

2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

BLOG PARTS

無料ブログはココログ