登山鉄道

2020年8月23日 (日)

ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

ブダペスト登山鉄道(ブダペスト・コグ鉄道)
Budapesti Fogaskerekű Vasút (Budapest Cog-wheel Railway)

ヴァーロシュマヨル Városmajor ~セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(下注)間 3.7km
軌間1435mm、直流1500V電化、シュトループ式ラック鉄道、最急勾配110‰

1874年 ヴァーロシュマヨル~シュヴァーブへジ Svábhegy 間、リッゲンバッハ式蒸気鉄道として開通
1890年 シュヴァーブへジ~セーチェニ・へジ間延伸
1929年 直流550V電化
1973年 直流1500Vに昇圧、シュトループ式に置換

*注 正式駅名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút。

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シュヴァーブへジ駅に到着する登山鉄道の電車
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 
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ハンガリーの首都ブダペストは、ドナウ川をはさんで西側のブダ Buda、オーブダ Óbuda と、東側のペスト(ぺシュト)Pest が1873年11月に合併して誕生した都市だ。その旧体制最後の年に、ブダ市と、ニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が代表を務めるスイスの国際山岳鉄道会社 Internationale Gesellschaft für Bergbahnen (BGfB) との間で、鉄道建設と運行に関する契約が結ばれた。

それはラックレールにピニオン(コグ、歯車)を噛ませて急勾配を上下する鉄道で、ヨーロッパでは、2年前の1871年5月にスイスのリギ山 Rigi で実用化されたばかりだった。敷設の目的は、ブダ市街からシュヴァーブへジ Svábhegy への新たな交通手段の確立だ。町の西に横たわるこの丘陵地は、当時、富裕層の別荘地や行楽地として人気が高まっていた。

シュヴァーブへジは、ドイツ語でシュヴァーベンベルク Schwabenberg(シュヴァーベン山)と呼ばれる。1686年のオスマントルコからブダを奪還した戦いで、神聖同盟の一員としてドイツのシュヴァーベン Schwaben 地方から遠征してきた軍隊が、ここに砲台を築いた(下注)ことに由来するという。

*注 実際に砲台が築かれたのは、山腹の、現在キシュ・シュヴァーブ・ヘジ Kis-Sváb-hegy(小シュヴァーベン山)と呼ばれている小山。

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セーチェニ・へジに向かう急坂
 

すでに1868年以来、ドナウ河畔のラーンヒード Lánchíd(鎖橋)からヤーノシュ山麓ズグリゲト Zugliget まで、ブダ路面鉄道会社 Budai Közúti Vaspálya Társaság が馬車軌道を運行していた。新しい鉄道はそのルート上の、当時エッケ・ホモ広場 Ecce homo tér と呼ばれていた現 ヴァーロシュマヨル Városmajor を起点に選んだ。列車はそこから、浅い谷に沿って斜面を2.9km上り、張り出し尾根の肩になった標高394mの地点まで行く。契約では、夏の間1日2回、旅客輸送を提供するという条件が付されていた。

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登山鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

1873年7月に認可が下り、すぐに工事が始まった。線路は単線で、中間点(現 エルデイ・イシュコラ Erdei iskola 停留所)に列車交換のための待避線が設けられた。線路の分岐部には遷車台(トラバーサー)が設置された。

ターミナル駅には、スイス風の装飾を施した2階建、ハーフティンバーの駅舎が建てられて、登山鉄道の雰囲気を醸し出した。運行車両として当初、スイスSLM社から120馬力の2軸蒸気機関車3両と、オーストリアのヘルナルス車両製造所 Hernalser Waggonfabrik からスラムドアのオープン客車10両、無蓋貨車3両が納入された(下注)。

*注 翌年、機関車1両と客車2両を増備。

「ブダペスト登山鉄道 Budapesti Fogaskerekű Vasút」は、こうして統合ブダペスト市誕生後の1874年6月24日に無事、開通式を迎えることができた。ちなみにリッゲンバッハは、ウィーン北郊のカーレンベルク Kahlenberg(下注)でも同じ方式の鉄道を手掛けており、こちらは同年3月7日の開業だ。そのため、タッチの差でブダペストは、旅客用としてヨーロッパで3番目のラック鉄道になった。

*注 リッゲンバッハとリギ鉄道については「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」、カーレンベルク鉄道は「ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要」で詳述。

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開業初期のヴァーロシュマヨル駅
正面奥が駅舎
手前に入換用のトラバーサーが見える(1880年代)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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開業初期の登山列車
ミューヴェース・ウート Művész út 付近(1900年ごろ)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

シュヴァーブへジ一帯には、低山地によく見られる適度な傾斜地が広がっている。かつては森に覆われていたが、18世紀になると開墾され、ワインの原料となるブドウの栽培が盛んになった。ところが1870年ごろからヨーロッパに蔓延した害虫フィロキセラによって、ブドウ畑は壊滅的な打撃を受ける。

耕作が放棄された土地を別荘などに転用する動きは、鉄道の開通によって拍車がかかったに違いない。居住地の拡大を受けて、鉄道をさらに上方へ延ばす計画が立てられた。そして1890年5月に、現在の終点である標高457mのセーチェニ・へジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)山上まで0.85kmが延伸開業した。

登山鉄道は、開通後長らく4月15日から10月15日のいわゆる夏のシーズンにのみ運行されていた。そのため客車も、側壁のないオープンタイプだった。しかし、定住者が増加したため、1910年から通年運行が始まった。冬の寒さに備えて客車も改造され、側面はガラス張りになり、乗降扉は端部に集約された。そり滑りやスキーなど、山でのウィンタースポーツを楽しむ人も多く利用したという。

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再現されたオープン客車
制動手が屋根上で、前方監視とともに客車のブレーキ操作を行った
Photo by Albert Lugosi at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

認可期間の満了に伴い、鉄道は1926年に市の所有となり、ブダペスト首都交通公社 Budapest Székesfővárosi Közlekedési Részvénytársaság (BSzKRt) が運行を引き継いだ。それまで路線は赤字続きで、更新費用が工面できず、設備の老朽化が進行していた。公営化を機に、市は、鉄道の抜本的な近代化に取り組んだ。その最大の方策が、蒸気から電気運転への転換だ。

電化方式は市内トラムと同じ直流550Vとされ、SLM社とブダペストのガンツ社による8編成の新車が納入された。これはローワン列車 Rowan Zug と呼ばれるもので、坂下側から電気機関車、客車(付随車)の2両セットだが、客車は自前の車軸を1本しか持たず、坂下側は機関車の車台に載りかかる形になっている。

さらに、運行間隔を短縮できるよう待避線が2か所増設され、山麓駅の末端には電車を収容する車庫と修理工場が新設される。一連の対応工事を終えた鉄道は、1929年7月に運行を再開した。

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ローワン列車
手前が電気機関車、後方が付随車の客車
Photo from www.bkv.hu
 

第二次世界大戦からしばらく、登山鉄道には不遇の時期があった。戦災で開業時の駅舎が破壊されたのに続き、戦後は、南駅 Déli pályaudvar 経由でシュヴァーブヘジ方面へ直行するバス路線(21番)が開通して、鉄道不要の議論を煽った。

市内交通の運営主体が現在のブダペスト交通公社 BKV になったのは、1968年のことだ。ブダペスト統合100周年が近づくにつれ、廃止論は終息していき、代わって存続のための再改修が検討された。

それは結局、1929年の電化に匹敵する大規模な内容になった。陳腐化したローワン列車が新しい2両連接の車両(1M1T)7編成に置き換えられる。ブラウン・ボヴェリ社 Brown, Boveri & Cie (BBC) の電気機器を積んだウィーンのジンメリング・グラーツ・パウカー Simmering-Graz-Pauker (SGP) 製の車両だ。それに伴い、電圧が直流1500Vに、ラックレールは保守の容易なシュトループ式になる。旧方式での運行は1973年3月15日が最後で、工事期間をはさんで、8月20日に新方式による運行が始まった。

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今も運行を担う1973年製の連接車両
 

それから早や50年近くが経つ。その色と形から「赤い牝牛 piros tehén」の異名を与えられた電車は、機器や内装の改修を受けながら、今なお日常運行を担う存在だ。朝5時台から夜23時台までフル運行され、平日日中は20分間隔、休日日中は12分間隔で走る。全線の所要時間は14~15分だ。登山鉄道は、2008年からブダペストの都市交通網にトラム系列の「60番」として組み込まれ、ブダの山手地区に延びる生活路線の一つになっている。

登山鉄道が出発するヴァーロシュマヨル Városmajor は、ブダの主要な交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér を2011年に改称)から西へ900mほどの場所にある。広場でトラム(路面電車)の56番、61番ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 行きか、59番セント・ヤーノシュ・コールハーズ Szent János Kórház 行きに乗って、二つ目の停留所だ。

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ブダの交通結節点セール・カールマーン広場
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(左)ヴァーロシュマヨル方面へ行くトラム
(右)その車内
 

ヴァーロシュマヨル、略してマヨル Major は、市民には都市公園の名と認識されている。トラムはそのへりに沿う濃緑の並木の下の専用軌道を走っていく。ヴァーロシュマヨル停留所で下車すると、左側に鉄格子の扉がついた門が見える。登山鉄道のターミナルは、この中だ。

門の脇に、リッゲンバッハ式のラックレールとピニオンホイールのセットが置かれていた。線路の向こうには、シュトループ式のセットもある。傍らの石碑に「登山鉄道はペスト、ブダ、オーブダ統合100年を記念して再建された。ブダペスト交通公社」と刻まれていて、1973年に行われた全面改修の記念碑のようだ。

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トラムのヴァーロシュマヨル停留所
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登山鉄道のヴァーロシュマヨル駅
(左)駅の門扉
(右)現在使われているシュトループ式の車軸とレール
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(左)1973年の鉄道再建記念碑(右奥)
(右)リッゲンバッハ式の車軸とレール
 

平屋の駅舎があるものの開いてはおらず、ましてや案内窓口や売店などはない。乗車券は市内交通と共通なので、24時間券などを持っているならそのまま使える。車庫へ通じている線路を渡ってホームへ上がり、停車中の山上方面行きに乗り込んだ。

牝牛に見えるかどうかは別として、幅広でずんぐりした形の車両は、リギ鉄道の旧型車を思い出させる。車内は、丸みを帯びた天井と扉ごとに立てられた風防が特徴的だ。座席はクロスシートで、端部はスラムドア車を彷彿とさせる5人掛け、反対側の端部は持込み自転車のためのスペースになっている。前面は塞がれて展望がきかないので、おとなしく席につこう。やがて定刻になり、電車は10数人の客を乗せて、駅を後にした。

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(左)乗降ホーム
(右)反対側の線路は車庫へ続く
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車内
(左)クロスシートが並ぶ
(右)持込み自転車用スペース、持込みには自転車券の購入が必要
 

左からの線路を合わせて、電車も左へカーブしていく。地図では一面の市街地のように描かれているが、実態は緑濃い山の手のお屋敷街だ。周りはほとんど森といってよく、点在しているはずのお屋敷を巧妙に隠している。

途中8か所の駅(停留所)がある。待避線はおよそ2駅ごとに設けられているが、平日日中のダイヤで列車が行違うのは、5駅目のアドニス・ウツァ Adonis utca での1回きりだ。帰りは山上からここまで歩いて降りたが、対面式ホームがあるだけの寂しげな駅だった。

片側に道路が沿っているものの、反対側は森に覆われた谷間で、野鳥の盛んに鳴き交わす声が聞こえる。列車交換では、山麓行きが先着して、山上行きの入線を静かに待つ。こんな駅でも下車客はあって、線路際の小道をたどり、森の中へ消えていった。

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アドニス・ウツァ駅の列車交換
山麓方面行きが先着
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少しして山上行きが入線
 

シュヴァーブへジ駅には、ローワン列車が似合いそうな田舎家風の木造駅舎と、木組みのホーム屋根が残る。開業時のものではなく、使われてもいないのだが、終点だった時代をしのばせる空気が漂う。都市機能としても、駅前に路線バスが来るし、すぐ近くにスーパーマーケットもある。中間駅になってはいるが、実質的にはターミナルなのだろう。

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シュヴァーブへジ駅
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(左)田舎家風の駅舎とホーム屋根
(右)かさ上げ前のホームを保存
 

現在の終点までは、あと二駅だ。森の谷間を這いあがる線路の坂道はそれまでよりきつそうで、最急勾配110‰は、おそらくこの区間にある。右にカーブしながら跨線橋をくぐると、終点セーチェニ・へジに到着する。

駅は2面2線の頭端ホームがあり、しっかりした駅舎も建っている。しかし、起点駅と同じようにひと気はない。左側は森の中の公園で、訪れた時は子どもたちの歓声がこだましていたが、そうでもなければ寂寥感に囚われてしまいそうだ。山上とはいえ地形的には突出していないため、木立に遮られて眺望がきかないのだ。イメージとしては住宅街の末端で、その意味ではふだん使いの生活路線にふさわしい終着駅だった。

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終点セーチェニ・へジ駅
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(左)入線する列車
(右)ひと気のないホームで折り返しを待つ
 

ところで駅の正式名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút という。ジェルメクヴァシュートというのは、子どもたちが列車運行に携わる「子供鉄道 Children's Railway」のことだ。左方向200m先にその駅があり、登山鉄道はせめてその最寄りであることをアピールしようとしているようだ。次回はこのユニークな鉄道について紹介しよう。

【鉄道名について】
ハンガリー語(マジャル語)では、ラック・アンド・ピニオン鉄道のことを、fogaskerekű vasút(フォガシュケレキュー・ヴァシュート)と呼ぶ。fogaskerekű は歯車、vasút は鉄道(vas(ヴァシュ)=鉄、út(ウート)=道)を意味し、英語名でも cog-wheel railway、コグ(歯車)鉄道だ。本稿では「ブダペスト登山鉄道」と訳しているが、原語には登山や山地を意味する言葉は含まれておらず、あくまで意訳であることをお断りしておきたい。

■参考サイト
BKV https://www.bkv.hu/

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 ブダペスト子供鉄道 I-概要
 ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内

 リギ山を巡る鉄道 I-開通以前
 リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道
 ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要
 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

2020年8月11日 (火)

リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

リッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

ボーツェン・ヴァルタープラッツ Bozen Waltherplatz/Bolzano Piazza Walther ~クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo 間 11.7km
軌間1000mm、直流750V電化、最急勾配255‰、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)
1907年開通
1966年ヴァルタープラッツ~マリーア・ヒンメルファールト間廃止

【現在の運行区間】
マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta ~クローベンシュタイン/コッラルボ間 6.6km
軌間1000mm、直流800V電化(1966年~)、最急勾配45‰

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ヴァイトアッハー Weidacher 付近を行く
現在の主力車両BDw 4/8形
 

アルプス越えの交易路が通過するブレンナー峠 Brennerpass の南側は、イタリアだ。しかし、第一次世界大戦まではオーストリア領で、チロル Tirol の一部だった。今もドイツ語では、南チロル Südtirol と称される(下注)。峠から街道を約80km下ったところに、南チロルの中心都市ボーツェン Bozen があり、愛すべき小鉄道「リッテン鉄道/レノン鉄道」がその郊外を走っている。

*注 行政上はボーツェン/ボルツァーノ自治県 Autonome Provinz Bozen/Provincia autonoma di Bolzano。

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鉄道の名は周辺の広域地名に基づいているのだが、二通りの呼び名があることについては少し注釈が必要だ。南チロルではドイツ語話者が6割強を占めており、ドイツ語とイタリア語が公用語になっている。そのため、公共表示は2言語併記が原則で、例えば既出の固有名詞を両言語(ドイツ語/イタリア語)で記すと、以下の通りだ。

南チロル(ジュートティロール)Südtirol/アルト・アディジェ Alto Adige
ボーツェン Bozen/ボルツァーノ Bolzano
リッテン Ritten/レノン Renon

他の地名も、初出の際に両言語を併記することにするが、これにより鉄道名も、ドイツ語ではリッテン鉄道(リットナー・バーン)Rittner Bahn、イタリア語ではレノン鉄道(フェッロヴィーア・デル・レノン)Ferrovia del Renon になるのだ。

ちなみに、ドイツ語のリットナー Rittner は、地名リッテン Ritten の形容詞形で、「リッテンの」という意味だ。ところが、地名自体があまり知られていないためか、そのまま読んで「リットナー鉄道」と訳している文献も見られる(下注)。

*注 スイスの「レーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn」も同様。

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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道は、標高1200m前後の高原内を行き来している延長わずか6.6kmのローカル線に過ぎない。しかもイタリアの標準軌鉄道網とは接続しない孤立路線だ。なぜこのような場所に鉄道が存在するのだろうか。

短距離にもかかわらず電化されていることからも察せられるように、かつては下界のボーツェン市街と線路がつながっており、小型電車が直通していた。旧市街の広場で乗れば、高原の村まで乗り換えなしで到達できるという、きわめて便利な路線だったのだ。

リッテン鉄道は地方鉄道として認可を得たが、実態は市街地の路面軌道(併用軌道)、山腹を上るラック鉄道、高原上の普通鉄道(専用軌道)という、異なる性格をもつ三つの区間に分けられる。後になって前二者が廃止されたため、最後者だけがぽつんと残された。これが現在の姿だ。

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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

リッテンは地理的に、ザルンタール/ヴァル・サレンティーナ Sarntal/Val Sarentina とアイザックタール/ヴァル・ディザルコ Eisacktal/Val d'Isarco という二つの谷の間に横たわる広い高原地帯だ。標高の違いから、夏場はしばしば猛暑に見舞われる盆地のボーツェンに比べて、はるかに快適な気温が保たれている。

すでに17世紀からボーツェンの名門貴族や上流階級の避暑地として好まれていたが、19世紀になると一般の観光需要も高まっていった。1880年代には鉄道の建設計画が唱えられ始め、一方で静かな環境を維持したいと考える人々によって反対運動も起きた。

20世紀に入って、計画は具体化した。山を上る手段にはラック・アンド・ピニオン方式が採用され、1906年7月に認可、着工。翌1907年8月には、早くもリッテン駅とクローベンシュタインの間で一般輸送が開始されていた。残る市内区間を含めた全線での直通運行は1908年2月末に始まった。

鉄道の起点は、ボーツェン旧市街、ヴァルター広場 Waltherplatz/Piazza Walther の南東隅にあった。電車はそこから国鉄駅前を通って北上し、山麓に設けられたリッテン駅/レノン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon の手前まで、街路上に敷かれた軌道を走った。

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リッテン鉄道のかつての起点 ヴァルター広場
(1907年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
 

リッテン駅と呼ぶのは、規模は違うがパリのリヨン駅のように、市内のターミナルに目的地の名(鉄道名とも解釈できる)を冠したものだ。駅名が示すとおりここは拠点駅で、車庫と整備工場があったほか、標準軌の国鉄ブレンナー線 Brennerbahn から引込み線が来ており、貨物の受け渡しも行っていた。

直通運行の開始から間もない1909年7月には、ボーツェンの市内電車としてボーツェン路面軌道 Straßenbahn Bozen が開業する。西郊(1系統)と南郊(2系統)から市内へ入り、ヴァルター広場からリッテン鉄道の軌道に乗り入れて、一部区間を共用した(下注)。しかし残念なことに、リッテン鉄道よりも早く1948年に廃止され、バスに転換されてしまった。

*注 1系統(シュテファニーシュトラーセ Stephaniestraße ~ブレンナーシュトラーセ Brennerstraße)は、バーンシュトラーセ(鉄道通り)Bahnstraße 電停までが共用区間。2系統(ライファース Leifers ~ボーツェン駅前)は共用区間内のバーンホーフプラッツ(駅前広場) Bahnhofplatz が終点だが、駅正面南側に単独のターミナルを持っていた。

■参考サイト
Wikimedia - 路面軌道が記載されたボーツェン市街図(1914年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geuter's_city_plan_of_Bozen-Bolzano_in_1914.JPG

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ドロミティの山を背景にタルファー橋を渡る
ボーツェン路面軌道の電車(1910年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
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旧 ラック区間が記載された1:25,000地形図
10 I SE Bolzano Nord 1963年
10 II NE Bolzano 1960年
© 2020 Istituto Geografico Militare
 

さて、リッテン駅を出発すると、いよいよラック区間が始まる。ラックレールはシュトループ Strub 式で、4.1kmの間に911mの高度差を克服した。最大勾配は255‰で、ピラトゥスやワシントン山には及ばないにしても、オーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn などと並び、世界で最も急勾配のグループに入るものだった。

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ザンクト・マグダレーナ上方を行く旧型車
背景はボーツェン駅と市街地(当時の絵葉書)
Image from styria-mobile.at
 

ラック区間では、電車は自らの駆動装置は使わず、後部すなわち坂下側に配置されたラック専用の電気機関車で押し上げてもらう。また、電車(=電動車)が動力を持たない客車(=付随車)を牽いて2両で来た場合は、まず電動車が付随車の後ろに回り、その後ろに機関車を付ける。こうして、坂下側から機関車、電動車、付随車の順になり、坂を上っていった。

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ラック区間の車両編成
坂下側(=左)から機関車、電動車、付随車
マリーア・ヒンメルファールト駅の案内板を撮影
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ラック専用の電気機関車(左)と電動車
リッテン駅構内にて(1965年)
Photo by Jean-Henri Manara at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

山裾へのとりつきでは、斜面を覆うぶどう畑の上を長さ160mの高架橋で渡る。赤ワインの銘柄で知られるザンクト・マグダレーナ/サンタ・マッダレーナ St. Magdalena/S. Maddalena の村の前には、ラック区間で唯一乗降を扱う停留所があった。

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リッテン駅上手の廃線跡現況(2019年)
(左)高架橋の橋面はぶどう畑に、アーチ下は倉庫に再活用
(右)リッテン駅出口(ラック区間始点付近)に残る橋台
 

さらに上ると、変電所を併設した信号所にさしかかる。ここはラック区間の中間地点に当たり、山上と山麓から同時に発車した列車が行違いを行った。機関車は回生ブレーキを備えているので、このダイヤにより、坂を下る機関車で発生した電力を、上りの機関車に効率良く供給することができた。

やがて車窓は森に包まれ、長さ60mのトンネルを通過する。再び視界が開けて、緑の牧草地に出れば、まもなくラック区間の終点マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta(下注)だった。この駅でラック機関車から解放された電車は、残りの、現在も運行中の区間を再び自力で走り抜けた。

*注 以前のイタリア語駅名はラッスンタ L'Assunta。いずれも聖母被昇天教会にちなむ地名。

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マリーア・ヒンメルファールト駅の現況(2019年)
(左)駅舎は1985年に開通当時の状態に復元
(右)終端の先は牧草地に
 

20世紀前半、高原上にまだまともな自動車道路はなく、鉄道が文字通り「リッテンの生命線 Lebensnerv des Ritten」だった。しかし、第二次世界大戦後は、車両や施設設備の老朽化が顕著になる。鉄道の更新に投資するより、到達時間が短縮できるロープウェーの建設を求める声が大勢を占めた。また、山麓から高原に通じる新しい自動車道路の計画も進行していた。

ロープウェーの起工式は1964年8月に行われた。その矢先の同年12月3日、恐れていた事故が起きる。ザンクト・マグダレーナの上方で、山麓に向かっていた列車が脱線し、ラック機関車とともに落下したのだ。運転士と乗客3名が死亡し、30名が負傷した。

事故区間はいったん復旧されたものの、市内線は1966年7月9日、ラック線は同年7月13日が最後の運行となった。翌14日に山麓との間を結ぶロープウェーが開業し、オーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano で鉄道に連絡する現在の方式がスタートした。ただし、これはあくまで暫定形で、自動車道路が全通した暁には、高原区間も廃止してバスに転換することになっていた。

ところが道路の完成が遅れ、その間に、観光資源として鉄道を再評価する機運が高まった。このいわば偶然のおかげで、リッテン鉄道は全廃の危機から救われたのだった。

1980年代には、施設設備の全面改修が実施された。また、車齢のより新しい中古車が導入され、名物だった古典電車の運行は今や、年数日の特定便に限定されている。

ラック区間を代替したリッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn もすでに2代目だ。初代は50名収容のキャビン(搬器)を使った交走式だったが、2009年に3Sと呼ばれる循環式に交換され、輸送能力が倍増した。これにより、リッテン鉄道も30分間隔での運行が可能になり、利用者の増加につながった。

鉄道は現在、南チロル運輸機構 Südtiroler Transportstrukturen/Strutture Trasporto Alto Adige (STA) が所有し、SAD近郊輸送会社 SAD Nahverkehr AG/SAD Trasporto locale が運行している。SADは南チロル一帯の路線バス、地方鉄道、索道の運行事業者で、リッテン鉄道もその路線網に組み込まれている。

*注 SADの名称は、旧社名 南チロル自動車サービス Südtiroler Automobildienst/ドロミティ・バスサービス Servizio Autobus Dolomiti の頭文字に基づく。

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急斜面を行くリッテン・ロープウェー
背景はボーツェン駅と市街地
 

ボーツェン市内から、鉄道の終点でリッテンの中心地区であるクローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo へは、山道を上るSADのバス路線(165系統)もある。所要時間は30分ほどで鉄道経由と大差はないが、運行は平日日中60分間隔、休日は120分間隔とかなり開いている。輸送力や利便性の点で、やはりリッテン鉄道の交通軸としての位置づけは揺るぎないものになっているようだ。

次回は、ロープウェーと鉄道を使って、そのリッテン高原に出かけることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/
Tiroler MuseumsBahnen http://www.tmb.at/
schweizer-schmalspurbahn.de - Die Rittnerbahn
http://www.alpenbahnen.net/html/rittnerbahn.html

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 リッテン鉄道 II-ルートを追って

 スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

2020年8月 3日 (月)

モンセラット登山鉄道 II-新線開通

1957年の旧 登山鉄道の廃止によって、モンセラット修道院に到達するルートは、既存のロープウェーに乗るか、つづら折りの山岳道路を車で上るかの二択になった。とはいえ、ロープウェーの輸送能力は1時間当たり350人にとどまり、方や車道も、修道院前で行き止まりとなる片側1車線の一本道だ。

案の定、山上の沿道に設けられた駐車場は満車になりがちで、出入りと空き探しの車により、しばしば渋滞した。登山鉄道を代行する路線バスもそれに否応なく巻き込まれて、運行に支障をきたすことになる。さらに、道路や駐車場は自然公園区域内にあるため、環境保護の観点からも問題視された。

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モンセラットの山腹を上るラック電車
 

カタルーニャ州政府は、公共交通機関を再建する必要性を認識していた。2本目のロープウェーやケーブルカーの新設案もあったが、それと比較してラック式鉄道は、輸送能力の高さや旧線跡が利用できるという点で有利だ。整備計画が1989年に公表され、細部を見直しのうえ、1999年10月に最終決定を見た。

そして2001年7月に着工、2年弱の工期を経て、2003年6月11日に新しいモンセラット登山鉄道はめでたく開業したのだ。実に46年ぶりの復活だった。では、21世紀生まれの新路線は、旧路線と何が同じで、何が違うのだろうか。

旧線は非電化で、小型の蒸気機関車が客車2両を押していたが、新線は電車で運行される。この点は大きく異なる。しかし、軌間1000mm、アプト式ラックという線路の仕様は同じだ。

ちなみに新線はFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)により運行され、接続するFGCの狭軌線(下注)と軌間、電圧を共通化してある。このため登山鉄道の電車をFGC線のマルトレイ・エンリャス Martorell Enllaç にある車庫・整備工場へ回送したり、FGC線の電車を登山鉄道の粘着式区間に(モニストロル・ビラ Monistrol-Vila 駅まで)乗り入れることが可能になっている。

*注 リョブレガト=アノイア線 Línia Llobregat-Anoia。

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(左)新線を走るシュタッドラー GTW 2/6形
(右)部分低床の車内
 

次に路線の起終点はどうか。起点は変更されたが、終点は同じ位置だ(下図参照)。前回紹介したように旧線は、この地域で初めて開通した広軌線の駅と修道院を結ぶのが目的だったので、起点はそこに置かれた。現在モンセラットへの主なアクセス路線となっているFGCの狭軌線は、後になってできた路線だ。

新線は広軌線とは接続せず、対FGC線でも、かつての接続駅(後に廃止)ではなく、一駅バルセロナ寄りのモニストロル・デ・モンセラット Monistrol de Montserrat(旧駅名 モニストロル・セントラル Monistrol Central)に起点を定めた。このため、当駅からモニストロル・ビラ駅までの区間はまったくの新設になった。

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旧線と新線のルート
 

その先はほぼ旧線跡をたどるが、一か所だけ、モンセラットへ上る車道と交わる地点の前後は移設された。旧線は踏切だったが、新線では立体交差させる必要があったためだ。また、終点モンセラット駅は、旧線廃止後、駅用地が契約に基づき修道院に返還されていたので、再使用に当たってホームを地下式とし、広場の直下に建設した。

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モンセラット駅地下ホームへの入線
 

開業新線の主な目的は、モンセラット訪問者の経路を分散させて、道路の混雑を緩和することだ。これを実現するには、ふだん車で旅行する人にも電車を使ってもらわなければならない。そこで、モニストロル・ビラ駅の周りに、幹線道からすぐに入れて、乗用車1000台、大型バス70台を収容できる無料の大駐車場が造成された。

修道院一帯が自動車通行禁止になったわけではないが、山上の駐車場は有料で、収容台数も限られている。麓を通る幹線道には、各駐車場の空き状況を示す電光掲示板が設置され、山上まで車で行くか、麓でパーク・アンド・ライドするかをドライバーが判断できるようにしている。

では、モンセラットに向けて列車で旅に出るとしよう。出発地は、バルセロナ市内、プラサ・エスパーニャ(スペイン広場)Plaça Espanya の地下にあるFGCの狭軌線ターミナルだ。登山鉄道の乗換駅まで、R5 または R50系統マンレザ Manresa 行きの電車で65分。朱色のアクセントカラーをまとう213系が、平日は1時間に1~2本、休日は毎時1本(朝は2本)走っている。

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(左)プラサ・エスパーニャ駅の213系
(右)券売機でモンセラット連絡切符を買う
 

乗車券は個別に買ってもいいが、狭軌線+登山鉄道のモンセラット連絡切符 combined ticket(片道または往復)が便利だ。同じように、狭軌線+ロープウェー(英語では cable car)の連絡切符、さらに山上のケーブルカー(英語では funicular)や博物館でも使えるオールインワンの切符も売られている。

いずれも券売機やホーム前の窓口で入手できるが、注意すべきは、購入後のルート変更(登山鉄道をロープウェーに、またはその逆)ができないことだ。これは、ロープウェーがFGCの運営でないためだ。登山鉄道とロープウェーは狭軌線の降車駅も違うので、よく確かめてから購入したい。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

電車は地上に出ると、リョブレガト川 el Llobregat の谷筋を遡っていく。といっても、渓谷らしくなるのは最後の10分ほどに過ぎない。左の車窓、進行方向に観光写真で見覚えのある突兀とした岩山が現れると、まもなくアエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat の急カーブしたホームに停車する。駅名が示すとおり、モンセラット修道院に上るロープウェー「アエリ・デ・モンセラット」の乗換駅だ。このほうが速く着けるので(ロープウェーの待ち行列の長さにもよるが)、降車客が多い。

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リョブレガト川の渓谷を行く
左奥にモンセラットが姿を現す
 

再び走り出し、トンネルを一つくぐると、目的のモニストロル・デ・モンセラットに到着だ。狭軌線は2面3線で、ホームは駅舎側から2、1、3番と付番されている。一方、登山鉄道の駅名はモニストロル・エンリャス(ジャンクションの意)Monistrol Enllaç で、電車は、2番ホームの駅舎寄りにある切り欠きの4番ホームに入る。

駅舎は、切妻白壁2階建ての小ぶりな建物だが、タイルの帯模様の間に「MONISTROL CENTRAL(モニストロル中央)」と旧称が残されているのが目を引く。駅名が二つあるだけでも紛らわしいのに、そのどちらでもない昔の名前が出ているわけで、土地不案内な者にはとまどいのもとだ。

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モニストロル・デ・モンセラット駅
(左)FGC線発着ホーム
(右)旧駅名が残る駅舎
 

モンセラット行きは8時台が始発だ。山から下りてきた列車が35分に入線し、40分ごろ(上下とも)到着のFGC線列車との間で乗客を交換し、48分に山へ向けて出発する。このパターンが1時間毎に繰り返される。山上までの所要時間は20分だ。

使われている車両は、スイス シュタッドラー・レール Stadler Rail 社のGTW 2/6形。部分低床の客車2両の間に短い駆動ユニット車が挟まった関節式と呼ばれるタイプで、新規開業時に5編成(AM1~5)が投入された。このときヌリア(下注)にも同形式の2編成(AM10~11)が入ったが、モンセラットの乗客増に対応するため、移籍されることになった。すでに1編成が塗色を緑に改めて、車列に加わったという。

*注 ピレネー山中を走るラック式登山鉄道。本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」参照。

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モニストロル・ビラ駅に入る登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山電車はマンレザ方向に発車する。最初の1.1kmはごく緩い勾配で、ラックは使わない(=粘着式 adhesion)。すぐにトンネルを2本くぐる。1本目のモニストロルトンネル Túnel de Monistrol は狭軌線と共用で、もともと複線仕様で造られていたものを、片側だけラック線に転用した。2本目との間の短い明かり区間で、狭軌線は右へ去っていく。

2本目のラ・フォルダダトンネル Túnel de la Fordada(164m)は新たに掘られたものだ。その直後、列車はリョブレガト川のはるか上空に躍り出る。渡っていくセンテナリ(百年)橋梁 Pont del Centenari は長さ480m、高さも37mあり、新線最大の構造物だ。橋は対岸に渡りきってからも続き、旧線跡と幹線道路を一気にまたいで、モニストロル・ビラ Monistrol Vila 駅の高架ホームに接続している。

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センテナリ橋梁とラ・フォルダダトンネル
(モニストロル・ビラ側から撮影)
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センテナリ橋梁からの眺め
モニストロルの町とモンセラットの山並み
 

モニストロル・ビラでは4分ほど停車する。ここは路線で唯一の中間駅であるとともに、拠点駅の性格も併せ持っている。というのも、パーク・アンド・ライドの利用客のために、当駅始発の列車が1時間当たり閑散期に1本、繁忙期は2本挿入されるからだ。結果、繁忙期には山上駅との間が20分間隔の運行になる。通常は中央の島式ホームで乗降をさばくが、混雑時は、進行方向左にある片側ホームが降車専用に使われる。

なお、駅前の緑地には、旧線時代の駅舎と線路の断片が残されており、駅舎は鉄道の展示館として内部公開されている。また、駅前広場には、旧線を走ったラック蒸機4号機(1892年製)が、復元客車とともに置かれている。

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モニストロル・ビラ駅前広場の4号機と復元客車
 

これ以降、車窓はずっと進行方向左側に開ける。駅構内を出るとさっそく、最急勾配156‰のラック区間の始まりだ。右カーブしながら、切通しに続くごく短いトンネルを抜け、モンセラットに上る車道を、下路トラスの鉄橋でオーバークロスする。この辺りでは左前方の山上に、モンセラットの奇岩カヴァイ・ベルナト Cavall Bernat(1111m)が天空を刺す姿を捉えることができる。

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天空を刺すカヴァイ・ベルナト(中央の細長い岩山)
 

石造アーチのギリェウメス橋梁 Pont de les Guilleumes の手前から、延長420mの複線区間が始まる。下りてくる列車とは走りながら交換する。振り返れば、今通ってきた山腹の上に、聖ベネト修道院 Monestir de Sant Benet の塔が覗くだろう。

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複線区間で走りながらの列車交換
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山上に建つ聖ベネト修道院
 

左手には、リョブレガト川が流れる谷の壮大なパノラマが展開している。朱屋根に埋め尽くされたモニストロルの町が見え、ラック線のルートも起点駅からの一部始終を追うことができる。わずか数分でずいぶん高くまで上ってきたものだ。一方、右の山側は落石除けのネットが張り巡らされ、ものものしい雰囲気がある。礫岩の地層が風雨による侵食に抵抗して、急峻な崖を成しているからだ。

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車窓からのパノラマ
右が起点駅と駅前集落、
中央がモニストロルの町、その奥にセンテナリ橋梁
 

剥き出しの岩肌をうがったアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols が、路線最長かつ最後のトンネルになる。これを抜けると、あと少しの上りだ。ロープウェーの山上駅の前を通って、列車はモンセラット駅の地下ホームに滑り込む。

駅は、線路を両側からホームが挟む2面3線の構造だ。天井が低くやや圧迫感を覚えるが、ホームは70mの長さがあり、2編成を縦列に収容できる。奥のエスカレーターまたは階段を伝って表の広場に出れば、修道院の荘厳な建物群が目の前だ。

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モンセラット駅
(左)駅上の広場から山麓方向を見る
  奥の建物はロープウェーの山上駅
(右)列車が駅に到着
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モンセラット駅の地上入口
後ろの建物はケーブルカー乗り場
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モンセラット修道院
 

写真は別途クレジットを付したものを除き、2019年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

★本ブログ内の関連記事
 モンセラット登山鉄道 I-旧線時代
 ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

2020年7月29日 (水)

モンセラット登山鉄道 I-旧線時代

モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat

【旧線】
モニストロル・ノルド Monistrol-Nord ~モンセラット・モネスティル Montserrat-Monestir 間 8.6km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
1892年開通、1957年廃止

【新線】
モニストロル・エンリャス Monistrol-Enllaç ~モンセラット Montserrat 間 5.2km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
2003年開通

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R5系統の車窓から仰ぐモンセラットの山塊と修道院
海外鉄道研究会 田村公一氏 提供
 
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モニュメンタルな岩の柱が林立し、異形の山容が目を引くモンセラット Montserrat(下注)。スペイン、カタルーニャ州の州都バルセロナの北西50kmにあるこの山は、全体が自然公園に指定されている。その一角を占めるベネディクト派の修道院は古来、人々の崇敬を集めてきたカトリックの聖地だ。

*注 カタルーニャ語の発音は「ムンサラト」に近いが、慣用に従い、モンセラットと表記する。

山の中腹、狭い谷壁に張り付くように建てられた修道院付属大聖堂 Monasterio には、モンセラットの聖母 Mare de Déu de Montserrat(下注)と呼ばれる黒い聖母子像が祀られている。山麓を走る近郊線の駅から標高700m台のその大聖堂の前まで、現代の巡礼者を連れて行くのが登山鉄道「クレマリェラ・デ・モンセラット(モンセラット登山鉄道)Cremallera de Montserrat」(下注)だ。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

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緑をまとうモンセラットの登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山鉄道は、カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が運行している。メーターゲージ(1000mm軌間)で、アプト式のラックレールを使う。同じFGCで、州内にもう一つある同種の路線、ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria(下注)と共通の仕様だが、車両の塗色はヌリアの青に対して、こちらは緑色になっている。

*注 スペイン全体でも、ラック式鉄道はこの2本しかない。ヌリア登山鉄道については、本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」で詳述。

現代風の車両や地上設備を一見すればわかるように、運行開始は2003年で、まだ20年も経っていない若い路線だ。ただし、まったくの新設ではない。1950年代に廃止された旧線跡を多くの区間で利用しており、事実上の復活と言うべきものだ。新線の紹介に入る前にまず、前身となるこの旧 モンセラット登山鉄道の歴史から繙いてみたい。話は19世紀に遡る。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

バルセロナ方面からモンセラットへ向かう本来の巡礼路は、南麓に位置するコイバト Collbató の村から続く山道だ。その伝統を一変させたのが、1859年に当時の北部鉄道会社 Ferrocarrils del Nord が開通させた鉄道だった。これは、マンレザ Manresa 経由でバルセロナとリェイダ Lleida 以遠を結んだ広軌路線(下注)で、現在、カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya のR4系統が通っている。

*注 当時は1672mm。19世紀以来、軌間はスペインで1672mm、ポルトガルで1664mmと微妙な差があったが、1955年に基準が統一され、現在の1668mm(イベリア軌間 Iberian gauge)になった。

モンセラットの最寄り駅として、北東約5kmの地点にモニストロル・ノルド Monistrol-Nord(現 カステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット Castellbell i el Vilar - Monistrol de Montserrat)が開設された。そこから山へは、つづら折りの坂道を駅馬車がつないだ(下図左上)。

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旧 ラック鉄道と関連路線の変遷
 

しかし訪問者の増加につれ、馬車の輸送力に限界が見えてくる。当時、スイスのリギ鉄道 Rigibahn 開業(1871年)をきっかけに、ヨーロッパ各地でラック式登山鉄道に対する関心が高まっていた。機運に乗じてモンセラットでも、1878年に、スイスの事情に明るい鉄道技師と地元の実業家が組んで建設計画を発表した。リギで標準化されたリッゲンバッハ式、1435mm軌間の蒸気鉄道で、広軌線の駅と修道院とを結ぶというものだった。

認可が下り、建設と運行に当たる会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarriles de Montaña a Grandes Pendientes(スペイン語表記)が設立されたが、期待に反して事業は一向に進まなかった。10年近い時間を浪費した後、仕様が見直され、1891年に改めて認可を得た。新しい計画では、同じラック蒸機ながら、新開発でより安価なアプト式を採用している。軌間もコンパクトな1000mm(メーターゲージ)だ。線形を厳しくできるので、橋梁の短縮やトンネルの回避が可能になり、建設費はかなり圧縮された。

今回は順調だった。その年の9月に工事が始まり、13か月後の1892年10月6日、モンセラット登山鉄道は開業の日を迎えた(上図右上)。所要時間は片道1時間5分で、3時間半もかかっていた馬車に比べて格段に速く、バルセロナから日帰りが可能になったのは画期的だった。物珍しさも手伝って、のこぎり山(=モンセラット)へ鋸歯(=ラック)を使って上る登山鉄道は、たちまちカタルーニャで最も人気のある乗り物になった。

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旧線が記載された1:50,000地形図
(スペイン陸軍地理局 Servicio Geográfico del Ejército 刊行)
391 Iguarada 1950年
392 Sabadell 1952年
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

次の節目は1922年10月だ。リョブレガト川 el Llobregat の谷を通って、メーターゲージ(1000mm軌間、以下、狭軌線という)の新線が開通したのだ。カタルーニャ鉄道 Ferrocarrils Catalans(下注)が建設したマルトレイ Martorell ~マンレザ間の路線で、マルトレイではバルセロナ方面に接続し、実質的にバルセロナとマンレザを結ぶ第2の鉄道になった。現在のFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)R5系統が通るルートだ。

*注 正式名 Companyia General dels Ferrocarrils Catalans (CGFC)。

新線と登山鉄道が交差する地点に乗換駅が設けられることになり、狭軌線に近づけるため、登山鉄道のルートは長さ973mにわたり移設された。

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狭軌線を行く現在の213系電車
モニストロル北方のリョブレガト川鉄橋にて
Photo by The Luis Zamora at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ここで、旧線のルートをモンセラット方向にたどってみよう。

起点駅は、初め広軌線の駅から長い階段を下りたところに置かれ、モニストロル・パルティダ(出発の意)Monistrol Partida と称していた。しかし、1905年にスイッチバックを介した737mの延長線が造られ、列車は広軌線と同じレベルで発着できるようになった。それに伴い、パルティダ駅は閉鎖された。

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広軌線のカステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット駅
右側の空地が登山鉄道の起点駅跡
(2009年撮影)
Photo by eldelinux at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そこから路線は、いったんリョブレガト川の左岸を下る。支流をまたいだところに、バウマ停留所 baixador de la Bauma があった。またしばらく下流へ進むと、狭軌線に接続する(旧)モニストロル・エンリャス(ジャンクション)Monistrol-Enllaç 駅がある。その後、リョブレガト川を長さ118m、3連上路トラスの鉄橋で横断して、山へ向かう。54‰勾配の切通しを抜けると、中間駅のモニストロル・ビラ Monistrol Vila だ。鉄道の運行拠点とされ、車庫と整備工場もここに置かれていた。

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リョブレガト川を渡る登山列車
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
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今もレンガの橋脚・橋台が残存
from street view on Google map, © 2020 Google
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モニストロル・ビラ旧駅舎は鉄道の展示館に
Photo by Enric at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

駅の出口で、いよいよラック区間が始まる。現在の新線も、ここから旧線跡を利用している。短いトンネルを抜けた先に、モンセラットに上る車道と交差する踏切がある(下注)。そこは後に、踏切番の服を着て列車を見送る「踏切小屋の犬 Gos de la Casilla」で有名になり、乗客はそれにコインを投げるのが習わしだった。

*注 復活した新線では、この区間が谷寄りに移設され、立体交差化された。

ラック区間の中間部に設けられた複線は1.3kmあり(下注)、繁忙期に3列車が続行運転しても、走行しながら列車交換が可能な長さだった。路線最長のアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols を抜け、ほどなく終点のモンセラット・モネスティル(修道院)Montserrat-Monestir 駅に到着する。構内は今と違って屋外にあり、3線が敷かれたターミナルだった。

*注 新線では複線が420mに短縮。

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終点モンセラット・モネスティル駅
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
 

1920年代には、この終点駅でホームが拡張され、最大4編成の列車の留置が可能になった。並行して電化も検討されたが、財務上の理由とともに、修道院との合意が整わず、実現しなかった。

ここまでの約30年間は、登山鉄道にとって華やかなりし時代だ。かつての馬車道が自動車道に整備されたとはいえ、まだ大多数の訪問客は鉄道を利用して山に上っていたからだ。ところが、1930年代に入ると、風向きが変わっていく。

まず、別のライバルが登場した。1930年に開業した「アエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat」、すなわちモンセラットに上るロープウェーだ。起点はリョブレガト川沿いの狭軌線のすぐそばで、狭軌線に乗換用の駅が新設された。それは、登山鉄道の接続駅より二駅バルセロナ寄りになる。しかもロープウェーはそこからわずか5分で、修道院の直下まで上りきる。輸送能力は登山鉄道に及ばないものの、時間の短縮効果は圧倒的だった。

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モンセラット・ロープウェーのゴンドラから
起点駅を見下ろす
Photo by The Bernard Gagnon at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1936~39年の内戦(スペイン市民戦争)中も登山鉄道は走ったが、一般輸送は中止され、機関車はもっぱら、戦争の負傷者をモンセラットに置かれた陸軍病院に運び込む仕事に携わった。内戦が終結しても数年間は財政難で、設備更新に対する投資が滞った。その後は修道院の祝賀行事に伴い、旅客数が回復したものの、長年の酷使により設備の劣化が進行していたのは間違いない。

1953年7月25日、予想外の惨事が起きる。山上行きの列車がラック区間で突然下降し始め、後続の列車を巻き添えにして、その数百m下を走っていた第3の列車に衝突したのだ。この事故で8名が死亡、16名が重傷、116名が軽傷を負った。蒸機も3号機と5号機が大破して、廃車処分となった。

これを境に、会社の運命は暗転した。老朽化した鉄道に対する市民の不信が高まり、モンセラットの訪問客は、ロープウェーや自動車道を上るバス、自家用車に移っていった。もと8両あった蒸機は事故で6両に減り、1956年になると、部品不足で2号機と7号機が離脱、4号機は客車1両に制限された。悪循環の中で万策尽き、1957年5月12日、旧 モンセラット登山鉄道は65年間の運行の幕を閉じた。

登山鉄道の運行会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツは、モンセラット山中に造られた2本のケーブルカーやヌリア登山鉄道の事業者でもあったため、その後も存続している。しかし、1982年にカタルーニャ州により買収され、1984年、残された鉄道の公営化の手続きが完了した。

復活した登山鉄道については、次回

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット(訪問者向け公式) https://www.montserratvisita.com/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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2020年7月 8日 (水)

ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria

リベス・エンリャス Ribes-Enllaç ~バイ・デ・ヌリア(バル・デ・ヌリア)Vall de Núria 間 12.5km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配150‰
1931年開通

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バイ・デ・ヌリア駅に到着した登山電車
 

イベリア半島の北を限るピレネー山脈の懐深く、その登山電車は上っていく。行先は、標高2800mの峰々にいだかれたカタルーニャ(カタロニア)の聖地ヌリア Núria だ。

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鉄道の名は「クレマリェラ・デ・ヌリア(ヌリア登山鉄道)Cremallera de Núria」(下注)という。スペイン北東部、カタルーニャの州都バルセロナ Barcelona から列車で2時間半ほどの、リベス・デ・フレゼル Ribes de Freser が起点だ。ヌリアには車道がいっさい通じていない。そのため、昔ながらの険しい山道を歩く人は別として、登山電車が聖地へ到達する唯一の手段になっている。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

ヌリアに建つ教会には、12~13世紀ごろの作とされる木彫りの聖母像が伝わり、人々の篤い信仰を集めてきた。加えて夏は避暑やトレッキング、冬は周囲のゲレンデでのスキーと、ヌリアへ向かう車内はそのつど賑わいを見せる。

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バイ・デ・ヌリアの風景
正面は教会棟(バシリカ)、鉄道駅はその右横に隠れている

リベス・デ・フレゼルへは、バルセロナの中央駅、バルセロナ・サンツ Barcelona-Sants から、R3系統(下注)の列車が連絡している。ロダリエス・デ・カタルーニャ(カタルーニャ近郊線)Rodalies de Catalunya の路線網に組み込まれているとはいえ、そこは近郊どころか、フランス国境にほど近い山中だ。

*注 R3系統の終点はバルセロナから約150km、フランス側のラトゥール・ド・カロル=アンヴェチ Latour de Carol-Enveigt。

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(左)サンツ地下駅の列車案内、3行目の6:22発に乗る
(右)車両はRENFE 447系
 

サンツ発、早朝6時22分の列車に乗った。オレンジのアクセントカラーをまとう連接式電車は、地下から出ると北に進路をとる。いったん山が迫ってくるが、また平原に出た。ビック Vic を通過し、2時間近く乗ったころ、いよいよ車窓は山峡の景色に変わる。リベス・デ・フレゼルの5番線、8時47分着。多くの降車客があった。

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リベス・デ・フレゼル駅に到着
 

レンガ建ての旧国鉄駅舎から広場を隔てて北側に、石造りの駅舎が見える。妻壁に「リベス・エンリャス Ribes-Enllaç(リベス・ジャンクションの意)」と切り文字で記された登山鉄道の駅だ。中に入り、さっそく窓口でヌリアまでの乗車券を買い求めた。大人往復25.50ユーロ。

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登山鉄道の起点リベス・エンリャス駅
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(左)インフォメーション兼出札窓口
(右)ヌリア往復の乗車券
 

ヌリア登山鉄道は、リベス・エンリャスからバイ・デ・ヌリア Vall de Núria(ヌリア谷の意)に至る長さ12.5km、メーターゲージ(1000mm軌間)の登山鉄道だ。起点の標高905mに対し、終点は1964mで、高度差が1059mある。そのため、フレゼル川に沿う最初の5.5kmこそ粘着式だが、残りの区間はアプト式ラックレールが敷かれ、最大150‰の急勾配で上っていく。

2019年の夏ダイヤは、平日が5~6往復、土休日とハイシーズン(7月下旬~9月上旬)が11往復だ。このほか、毎金曜日と8月中に夜間の増便がある。全線の所要時間は上下方向とも40分。

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リベス・エンリャス~ケラルブス間のルート
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

駅舎の奥に、トラス屋根を架けた乗り場がある。相対式ホーム2面2線(下注)の配置だが、2線とも列車が並列に入り、満杯の状態だ。きょうは客が多いから、朝9時10分発の一番列車は続行運転になるようだ。後続の電車に席を得て、先発する列車を窓から見送った。

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(左)屋根に覆われた発着ホーム
(右)右奥が先発、左正面は続行便
 

まもなくこちらも発車。構内を出ると、右カーブしてフレゼル川 Freser を横断する。そしてリベス・デ・フレゼルのやや鄙びた町裏を見ながら、山際をくねくねと走る。

最初の停車駅は、起点から1.2kmのリベス・ビラ Ribes-Vila だ。ビラ(下注)とは町のことで、リベス市街地の最寄り駅になる。エンリャスと同じような石造りの駅舎が、乗降客を迎える。駅前左手にはヌリア・ラック鉄道展示館 Exposicio cremallera de Núria があり、ここで活躍した各世代の車両が保存されている。また、線路をはさんで反対側には車庫も建つ。

*注 カタルーニャ語はスペイン語と同じくVとBの発音を区別しないので、音訳ではヴァ行を用いず、バ行で記す。

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フレゼル川の高架橋を渡って対岸へ
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リベス・ビラ駅
町の玄関口のため立派な造り
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ラック鉄道展示館は入場無料
(左)駅舎側の入口 (右)内部
 

列車は、町の通りを横断し、やがてフレゼ川の緑の谷間に入っていく。素掘りの短いトンネルをくぐり、小さな水力発電所の横を鉄橋で渡る。旧 リアルブ Rialb 駅は跡形もない。少し進んだところ(5.5km地点)で減速した。ラックレールにピニオンが噛み合う音が聞こえて、いよいよ急坂の始まりだ。長さ110mの大きく弧を描く高架橋が、支谷をまたいでいる。

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(左)町の通りを横断(帰路撮影、以下同)
(右)水力発電所の横の鉄橋
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(左)ラック区間の始点
(右)弧を描く高架橋
 

坂の途中に、ケラルブス Queralbs 駅がある。起点6.3kmの交換駅で、本線側2線のほかに、行き止まりの側線2本を有する。ここ始発の列車は、側線側から出発するのだ。この日は「Sport Wagen(スポーツカー)」のロゴがついた中古の客車2両が留置してあった。スイスのマッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB) から購入したもので、特別運行で使用される。

意外に乗降客が多いのは、村の玄関口であることの他にも理由がある。一つは、ヌリアとの間の登山道(ケラルブス=ヌリア旧道 Camí Vell de Queralbs a Núria、下注)を歩くハイカーが利用することだ。もう一つ、ここまでは車で到達できるので、マイカーを駅横の駐車場に停めて、列車に乗り込む人が一定数いる。

*注 鉄道がなかった時代の旧道。ケラルブスから距離7.2km、高度差780m、上り3時間15分。

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ケラルブス駅
(左)乗降が結構ある
(右)スイスMGBから来た客車が留置
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ケラルブス~バイ・デ・ヌリア間のルート
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

再び動き出すと、右の車窓にフレゼル川の谷の眺望が開けてくる。山脚を回り、沢を一つ渡った後は、谷底との高度差が200mを超える。線路脇に「ビスタ・アレグレ Vista alegre(爽快な眺望の意)」と書かれた立て札が見えるが、なるほどそのとおりだ。

しかし車窓のパノラマは、次の山脚を回り、右前の谷向うに、荒々しい露岩の山ロケ・デ・トトロモン Roque de Totlomón の姿を認めたところで突然終了する。列車は、長さ1320mあるロック・デル・ドゥイトンネル Túnel Roc del Dui の闇に吸い込まれていく。

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ビスタ・アレグレ(爽快な眺望)
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ロック・デル・ドゥイトンネルの山麓側ポータル
旧線跡(右写真)が右奥へ延びる
 

路線最長のトンネルは2008年、フォンタルバ Fontalba 駅(旅客扱いなし)との間に完成した新線だ。以前は、断崖絶壁の中腹を穿って確保したスリリングな桟道を通過しており、運行は落石の危険と常に隣り合わせだった。トンネル開通により車窓の眺望は失われたが、引き換えに安全性は確実に向上した。廃止された旧線跡は作業用道路として残されている。

9.6km地点のフォンタルバは、両側をトンネルに挟まれた狭隘な場所にある。交換設備は、新トンネルの内部まで拡張されている。フォンタルバの後、再び突入する素掘りのトンネルは(大)フォンタルバトンネル Túnel (gran) de Fontalba(下注)といい、かつてはこれが路線最長だった。

*注 以前はフォンタルバ駅の下手にあった小フォンタルバトンネル Túnel petit de Fontalba に対して、大フォンタルバトンネルと呼ばれた。

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山上側ポータルの前後は長い複線で、
フォンタルバ駅(右写真)まで続く
 

気がつくと、谷は見違えるほど浅くなっている。フレゼル川支流、ヌリア川の谷(バイ・デ・ヌリア)に入ってきたのだ。この付近は、古代の堆積岩がマグマの熱と圧力で変成した、非常に硬い片麻岩の地層で、侵食が進んでいない。そのため、フレゼル川の本谷とは数百mの高度差が生じている。

ここまで来れば、登山鉄道は必要な高度を概ね稼いだことになる。実際、終盤の約3kmは、川の流れに導かれるように谷間を上っていく。登山道として使われる旧道が並行しており、素朴なアーチの石橋が渓流をまたいでいる。帰りの車内からは、歩いて降りるハイカーの姿も見かけた。

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(左)ヌリア川の渓流
(右)浅くなったヌリア川の谷を渡る
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ヌリアトンネル
(左)山麓側 (右)山上側
 

終幕の場面展開は、なかなか劇的だ。最後のトンネルをくぐり抜けると、突然視界が開け、今まで目にしてきた荒々しい風景とはまるで違う、一面瑞々しい青草に覆われた小盆地が現れるからだ。左手はなみなみと水をたたえた湖(貯水池)で、上流側に、時計塔を正面に抱く豪壮な教会棟(バシリカ)が建っている。列車はその傍らにあるバイ・デ・ヌリア駅の石張りのホームに静かに滑り込む。

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貯水池の岸を行く列車
右端にヌリアトンネルが見える
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線路脇の遊歩道から教会を望む
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(左)バイ・デ・ヌリア駅到着
(右)駅舎

歩いて上るより方法のなかったヌリアに、車道あるいは鉄道の建設が提起されたのは、第一次世界大戦中の1917年のことだ。それに先立つ1911年に、ヌリアでは古い教会が取り壊され、現在の教会が献堂されていた。引き続き、宿舎その他巡礼のための施設の整備も進められており、訪問者が急増していたことがその背景にある。

民間会社のムンターニャ・デ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarrils de Muntanya de Grans Pendents (FMGP) が、事業を引き受けた。同社は、バルセロナ近郊のモンセラット修道院に上る別の登山鉄道(下注)の運行事業者で、ヌリアの仕様もそれに準じたものになった。すなわち軌間1000mm、アプト式のラックレールで、当初予定の蒸気運転は、後に電化に変更された。計画は認可を受け、1928年5月に建設工事が始まった。

*注 モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat。本ブログ「モンセラット登山鉄道 I-旧線時代」で詳述。

谷に橋を架け、断崖を削り、8本のトンネルを貫く難工事だったが、1930年の年末には、モンセラットから運んだ蒸気機関車で、試運転が行われている。そして1931年3月22日、鉄道は開業を迎えた。

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鉄道展示館のラック蒸機
1892年SLMヴィンタートゥール製
説明パネルによれば、フランス、エクス・レ・バン近郊のモン・ルヴァール鉄道 Chemin de fer du Mont-Revard に納入された後、1897年にスイスのゴルナーグラート鉄道建設に従事。1920年に大勾配登山鉄道(FMGP)が購入し、モンセラット鉄道の勾配に適合させるため、ボイラーの傾斜を強めたことで「ねこ背 La Geperuda」のあだ名をもらう。1930年夏にヌリア登山鉄道の工事用機関車として、当地に到来。
 

しかし当時、国内の政治状況は悪化の一途をたどっており、それは路線の運営に直接の影響を及ぼした。とりわけ内戦(スペイン市民戦争)が続いた1936~39年には、断続的に運休を余儀なくされている。また、洪水による深刻な被害に見舞われたことも何度かあった。

1960年代になると、カタルーニャに観光ブームが到来する。それにつれて路線の経営状態も改善したが、長年、費用のかかる改修を先送りしてきたつけで、施設設備の劣化は着実に進行していた。1982年にまた水害に見舞われたのをきっかけに州政府が介入し、1984年2月に鉄道は州に買収された。

以来、路線の運営はカタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が行っている。この間に、線路と架線が全面的に改修され、新型電車も導入されて、鉄道はみごとに蘇った。

こうした経緯を反映して、営業車両も3世代に分かれる。第1世代は開業時の古典編成で、1930~31年SLM及びBBC製の6軸電気機関車E1~E4と、ボギー客車の組み合わせだ。リベス・エンリャスの2番線に留置されていた機関車E1と客車21号がそれで、特別列車に運用される。E2とE3は、リベス・ビラの鉄道展示館で見られる。E4は同駅の車庫にいて、線路の保守作業に今でも出動するという。

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機関車E1と旧型客車21号
リベス・エンリャスの2番線に留置
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旧型客車のサロンカー Coche salon
右写真は内部
 

第2世代は、州有化後の1985年に、第1世代を置き換える目的で導入された連接式電車だ。SLM及びBBC製のBeh 4/8形で、A5~A8の車番をもち、日常的に運用されている。2007~08年に改修を受けているので、内装は第3世代と遜色がない。

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第二世代のBeh 4/8形電車
 

その第3世代は2003年、モンセラットで登山鉄道が復活する際に同時調達されたスイス シュタッドラー・レール Stadler Rail のGTW 2/6形だ。部分低床の客車2両の間に短い駆動ユニット車が挟まった関節式と呼ばれるタイプで、車番A10とA11がそれに当たる(下注)。

*注 GTW 2/6形はモンセラット登山鉄道の輸送力増強のために移籍が予定されており、2020年6月にまずA10がモンセラットに移された。

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第三世代のGTW 2/6形電車
内部は部分低床

ヌリアはカトリックの聖地であるだけでなく、カタルーニャ人にとって自治獲得の歴史の故地としても重要だ。鉄道開通の1931年、教会棟にあるホテルの一室でカタルーニャ自治憲章の案が起草された。それは翌年、厳しい修正を受けながらも、スペイン国会で可決成立した。自治憲章はその後も何度か制定されるが、その最初のもので、起草地の名をとって「ヌリア憲章 Estatut de Núria」と呼ばれる。

ヨーロッパでも、有名な教会の周りには門前町があり、土産物屋やレストランが軒を並べているのが通例だ。ところがヌリアでは驚くことに、教会棟と若干の建物があるばかりで、拍子抜けするほど静かだ(下注)。これほど禁欲的な場所に、なぜ登山電車の経営が成り立つほどの客が次々と訪れるのか。その答えは、地域の歴史との深いかかわりを差し置いては考えられない。

*注 教会棟にはホテルやセルフサービスのレストランなどが入っている。周辺にも若干の宿泊施設やレストランがある。

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(左)教会棟(バシリカ)正面
(右)聖母像の発見地に建てられた聖ジルの庵 Ermita de Sant Gil
 

写真はすべて、2019年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
Vall de Núria https://www.valldenuria.cat/
 トップページ > Cremallera(ラック鉄道)
カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya http://rodalies.gencat.cat/
Youtube - Cremallera de Núria(旧線時代の全区間前面展望)
https://www.youtube.com/watch?v=kaOvg5FBZ7g

★本ブログ内の関連記事
 モンセラット登山鉄道 I-旧線時代
 オーストリアの狭軌鉄道-マリアツェル鉄道 I

2019年3月 4日 (月)

ペストリングベルク鉄道 II-ルートを追って

リンツ中央駅 Linz Hbf の地下ホームを出発した市内トラムは、すぐに地表に上がり、目抜き通りのラントシュトラーセ Landstraße(ラント通り)を軽やかに走り続けた。リンツのトラムは、4本ある市内系統のすべてが中央駅で束になり、ドナウ川を渡った先のルードルフシュトラーセ Rudolfstraße で再び分離するまで、ルートを共用している。この間は系統番号を気にせずに乗れるので便利だ。

繁華街のタウベンマルクト Taubenmarkt から、その昔、旧市街の南門があった狭い街路(シュミットトーアシュトラーセ Schmidtorstraße)をゆっくり通り抜けると、街の中心ハウプトプラッツ Hauptplatz(中央広場)の広い空間に出た。50系統を名乗るペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn のトラムは、ここが始発になる。

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ハウプトプラッツにペストリングベルク鉄道のトラム(改造旧車)が到着
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リンツの市内トラムはすべてボンバルディア製シティーランナー Cityrunner
(左)第一世代 (右)第二世代
 

オーストリアで最も大きな都市広場に数えられるハウプトプラッツは、それを取り囲む建物の透明感のあるたたずまいが印象的だ。北側がドナウ河畔へ開いていることもあって、街の名を冠したモーツァルトの交響曲第35番の、気高さと明るさが融合した曲想にふさわしい。もっともあの標題はリンツ滞在中に作曲されたことにちなむだけで、音楽で直接、街の雰囲気を描写しているわけではないのだが。

中心に立つシンボリックな聖三位一体柱を背にして、トラムの停留所(以下、電停)がある。市内1~4系統は東側の相対式ホームに発着し、ペストリングベルク鉄道は西側に専用のホームと折り返し線を与えられている。

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(左)ペストリングベルク鉄道の専用ホーム
(右)山に向けて出発するトラム(夕刻撮影)
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リンツ周辺の地形図に主な鉄軌道ルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

8時30分発の便は、504号車だった。平日朝の郊外行きとあって、まばらな客を乗せてほぼ定刻に出発する。まずは、1~4系統の走る本線に入り、長さ250m、幅30mの道路併用橋、ニーベルンゲン橋 Nibelungenbrücke でドナウ川を渡った。広い通りはルードルフシュトラーセ Rudolfstraße との交差点までだ。1・2系統の軌道を右に分けた後は、道幅が狭まり、すぐに急角度で左折する。

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ドナウ川を渡る橋の上から、
朝日に輝くペストリングベルク巡礼教会が見えた
 

次はミュールクライスバーンホーフ Mühlkreisbahnhof(ミュールクライス鉄道駅の意)で、ÖBBミュールクライス線 Mühlkreisbahn のターミナル前になる。ドナウ左岸(北側)の山中に分け入るこの標準軌ローカル線は、ÖBBの珍しい孤立線で、事実上、市内トラムが中央駅との連絡機能を果たしている(下注)。なお、電停の名はこの駅の昔からの通称で、正式駅名はリンツ・ウーアファール Linz Urfahr という。

*注 以前は右岸の西部本線 Westbahn に接続する貨物線(リンツ連絡線 Linzer Verbindungsbahn または港線 Hafenbahn と呼ばれた)が存在したが、2015年12月に一部区間が廃止され、翌年、ドナウを渡っていた道路併用橋とともに撤去された結果、ミュールクライス線は完全に孤立線となった。

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ミュールクライス線の列車
機関車牽引のほか、新型気動車(ジーメンス製デジロ Desiro)も導入
 

気動車が留め置かれたミュールクライス線の構内を右手に眺めながら、ラントグートシュトラーセ Landgutstraße に到着する。ここが市内トラム(3・4系統)の終点だ。狭いホームの左側がその折返し用で、軌道は終端ループにつながっている。右側がペストリングベルク行きだ。ちなみに、反対方向、ハウプトプラッツ行きホームは前方のラントグート通りを渡った先で、少し距離がある。

いうまでもなく、この電停は2008年までペストリングベルク鉄道との乗換場所だった。市内トラムが終点にしているのもそのためだ。前方の踏切の先に、2本の小塔をもつレトロな旧駅舎(ウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr)が、ペストリングベルク鉄道博物館 Pöstlingbergbahn-Museum として、当時と変わらぬ姿で残されている。

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ラントグートシュトラーセ電停で発車を待つ(夕刻撮影)
 

少しすると踏切の警報器が鳴り出し、山を下ってきた対向トラムが建物の陰から現れた。ここはもともとミュールクライス鉄道の踏切だが、直通化に際して、ペストリングベルクのトラム横断にも連動するように改修されたのだ。

この列車と交換する形で発車した。ここから軌道は単線になる。ミュールクライス線と平面交差する直前でいったん停止する。そして、ひときわ幅広に見える標準軌線をさしたる衝撃もなしに横断し、旧駅から出てきた軌道(旧 本線)に合流した。

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(左)対向トラムが現れた
(右)標準軌のミュールクライス線と平面交差
 

同じようにペストリングベルクをめざす道路、ハーゲンシュトラーセ Hagenstraße を渡った後は、いよいよ本格的な坂道にかかる。前面展望を楽しもうとかぶりつきに立っていたが、急勾配が始まると、足が地面に強く押し付けられるように感じられた。

トラムは、緑の濃い住宅街の間を縫うようにして上っていく。乗降客のない電停は停まらないから、最近(2009年)開設のシュパーツガッセ Spazgasse は静かに通過した。どこのトラムもそうだが、途中駅で降りたいときは、ドアの取っ手についている降車ボタンを押して知らせる決まりだ。

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ハーゲンシュトラーセを横断すると坂道が始まる
写真はハウプトプラッツ行き
 

ホーエ・シュトラーセ Hohe Straße に名を変えた車道を再び横切ると、ブルックナーウニヴェルジテート Bruckneruniversität(ブルックナー大学)に停車した。登山鉄道区間に3か所ある列車交換場所の一つ目で、近くにアントーン・ブルックナー私立大学 Anton Bruckner Privatuniversität がある。リンツゆかりの作曲家の名を冠したこの大学が2015年に移転してくるまで、電停はメルクールジードルング Merkursiedlung という名だった。

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森に溶け込むようなブルックナーウニヴェルジテート電停
 

ブルックナーもさることながら、ここでは、鉄道のクラシカルな雰囲気を強調する小道具の数々に注目したい。一つはホームの待合室だ。頭上を覆う森に溶け込むようなピーコックグリーンの濃淡で塗り分けられ、切妻の板張りはユニークな放射模様を描いている。駅名標はそれと対比をなすキャロットオレンジで、スクロール装飾の凝った額縁に、フラクトゥール文字で名が記される。照明灯もまた、19世紀のガス灯を思わせるデザインだ。

同じ小道具が他の電停にも見られるが、両側のホームに存在するのはここだけで、加えて山上方面のホームには、105‰の勾配標(下注)も初めて現れる。

*注 105‰は設計図上の、いわば平均勾配で、実際は微妙な増減がある。

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電停の愛すべき小道具たち
(左)駅名標と待合室 (右)ガス灯風の照明
 

リンツ動物園 Zoo Linz 最寄りのティーアガルテン Tiergarten(動物園)電停まではわずかに180mの距離しかない。その後少しの間は、斜面に開かれた畑の中をうねるように上っていく。森や家並みに遮られることなく、山頂の巡礼教会と走行中のトラムが一つの構図に収まる撮影適地なのだが、用地が生垣に囲まれているので、車体の下半分が隠されてしまうのが残念だ。

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トラムと巡礼教会が一つの構図に収まる
(ティーアガルテン~シャブレーダー間)
 

シャブレーダー Schableder は登山区間のほぼ中間にある電停で、列車交換が可能だ。周辺は坂道が少し落ち着く踊り場のような場所なので、宅地が広がり、どことなく開放的な雰囲気がある。

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(左)開放的な雰囲気のシャブレーダー電停
(右)105‰が582m続くことを示す勾配標が建つ
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シャブレーダー電停を後に105‰(平均)の坂を上り始めるトラム
 

電停を出たところで、再び105‰の勾配標を見つけた。582m続くとあるからまさに胸突き八丁で、トラムはゆらゆらと蛇行しながら高度を稼いでいく。大きく右にカーブしていく築堤のところで、左手にドナウ川の深い渓谷が一瞬見えた。直後に通過するホーアー・ダム Hoher Damm という電停名は、高い堤という一般名詞から来ている。

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ホーアー・ダム電停付近の急坂
遠くにドナウ対岸の山が見える
 

珍しく直線ルートの切通しを抜けると、その名もアインシュニット Einschnitt(切通し)電停だ。下手に105‰の終点を示す勾配標があったが、その後も100‰などという表示が無造作に現れるから、坂が緩むという感覚はほとんどない。オーバーシャブレーダー Oberschableder が、最後の列車交換場所になる。木々の間から今度は右の車窓が少し開けて、朝もやに霞むドナウ左岸の新市街が望めた。下界との標高差はすでに200mほどになっている。

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最後の列車交換場所、オーバーシャブレーダー電停
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朝もやに煙るリンツ新市街
 

再び坂道になり、森の斜面を上っていく。ペストリングベルク・シュレッスル Pöstlingberg Schlössl は同名の山上ホテル兼レストランの最寄り電停だが、知らない間に通過していた。

トラムが大きく左にカーブすると、前方に石組みの二重アーチが見えてくる。終点のペストリングベルク駅(下注)だ。2線2面の構内は、標高が519mに達する。軌道は、1830年代に築かれた軍事要塞の第4塔を貫き、反対側で止まっている。トラムがくぐった二つのアーチは、いったん壊した周壁の位置にわざわざ造り足されたものだ。待合室やトイレも、塔内部の部屋割りを利用しているのがおもしろい。

*注 終点につき駅と記したが、施設は無人で、正式には Haltestelle(停留所)の扱い。

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このカーブを曲がれば終点が見えてくる
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要塞の塔を改造したユニークな造りのペストリングベルク駅
 

さて、山頂は鉄道開通に合わせて行楽地に開発されている。駅の出入口から左へ進むと、第5塔の天蓋を利用したリンツ市街を一望する展望台、右に進むと、1906年開業のグロッテンバーン Grottenbahn(洞窟鉄道)という子ども向けの遊覧鉄道がある(下注)。最後に山上にそびえる巡礼教会の扉を開けて、敬虔なひと時に浸ることができれば、ペストリングベルク小旅行の目的は十分に果たされる。

*注 本物の洞窟ではなく、要塞の第2塔に造られた小さな遊園地。

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 ペストリングベルク鉄道 I-概要
 グムンデンのトラム延伸 I-概要

2019年2月27日 (水)

ペストリングベルク鉄道 I-概要

ペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn

1898年開通
2009年5月 改軌およびハウプトプラッツへの延長

(2008年3月まで)
ウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr ~ペストリングベルク Pöstlingberg 間 2.9km
軌間1000mm、直流600V電化、最急勾配116‰、高度差255m

(2009年5月から)
ハウプトプラッツ Hauptplatz ~ペストリングベルク Pöstlingberg 間 4.14km
軌間900mm、直流600V電化

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かつての始発駅(右奥)の前を通過する
ペストリングベルク鉄道のトラム(改造旧車)
 
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市内を走るトラムが、登山鉄道に変身する。高台の住宅地へ上っていく程度のものなら他の都市でも見られるが、このトラムはそれとは違う。本気で山上の展望台をめざし、最大116‰というとてつもない急勾配を力強く上っていくのだ。しかも登山鉄道なら半ば常識の、ラックレールとピニオン(歯車)の助けを借りることはない。オリジナル区間が2.9kmと小規模ながら、ペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn は、他にはないプロフィールを備えた路線だ。

舞台は、オーストリア第3の都市リンツ Linz。工業都市のイメージが強いが、ドナウ川の右岸(南側)に沿って気品漂う旧市街がある。川は街の西を限る山地に渓谷を刻んだ後、この前に出てくる。河岸のテラスに立ち、川向こうに目をやると、ひときわ高いピークと、そこに2つの尖塔をもつバロック様式の教会がそびえている。ペストリングベルク巡礼教会 Wallfahrtskirche Pöstlingberg だ。鉄道は、旧市街のハウプトプラッツ Hauptplatz(中央広場)からドナウを渡り、山を上ってその教会のすぐ下まで通じている。

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ドナウ川越しに望むペストリングベルク
山頂に巡礼教会がそびえる
 

今でこそ市内トラムの路線網に組み込まれて50系統を名乗っているが、鉄道は10年ほど前(2008年)まで独立した路線だった。なぜなら、市内トラムの900mm軌間に対して、若干広いメーターゲージ(1000mm軌間)を採用したため、乗入れが不可能だったのだ。山を上るには強力な電動機を搭載する必要があり、そのスペースを台車に確保するために、敢えて軌間を別にしたのだという(下注)。

*注 世界的に見れば逆に、1000mm軌間は一般的で、トラムの900mmのほうが珍しい。この軌間は現在リンツと、ポルトガルのリスボン市電にしか残っていない。

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リンツ周辺の地形図に主な鉄軌道ルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

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ペストリングベルク巡礼教会
 

そもそも、なぜここに鉄道が造られたのだろうか。しかもラック鉄道でなく、レールと車輪の摩擦力だけで走る粘着式鉄道として。

ペストリングベルクは、18世紀前半から巡礼者が訪れる聖なる山だった。当時は一帯が深い森に覆われていて、頂上に眺望の利く場所はなかった。ところが、1809年のフランスとの戦い(オーストリア戦役)で、オーストリアに侵攻したナポレオン軍は山頂に陣地を設営し、見通しを妨げる樹木を伐り払った。さらに1830年代にはオーストリア帝国の要塞が築かれ、より広いエリアが伐採された。それらをきっかけに眺望を楽しむ人々が上るようになり、山は行楽地の性格を強めていく。

そこに商機を見出したある技師が、1891年に山頂まで蒸気動力のラック鉄道を建設する構想を発表した。ルート設計が完成し、ウィーンの建設会社リッチュル Ritschl & Co. が参画したことで、構想は実現に向かうかと思われた。ところが、リッチュル社は一方で、リンツで電力業を興す事業組合にも名を連ねていた。その設立目的は発電所を造るだけでなく、生成した電力の一部を利用して市内にトラムを走らせるというもので、ペストリングベルク線も併記されていた。

全体の採算性では、後者のほうが手堅いのは自明のことだ。また、電動車ならラックレールに頼らずに上れる。こうして技師の構想を一部借用しながらも、電気トラムの登山鉄道が建設されることになった。事業を推進するために、リンツAGリーニエン Linz AG Linien(リンツ株式会社公共交通部門、現在の運行組織)の前身であるリンツ=ウーアファール軌道・電力会社 Tramway- und Elektrizitäts-Gesellschaft Linz-Urfahr (TEG) が設立された。

山頂には1830年代の要塞施設が放置されていたが、会社はそれを買収し、望楼跡に、鉄道駅とともに展望台、ホテル・レストランなど観光施設を整備した。約10か月の工事期間を経て、ペストリングベルク鉄道は1898年5月に開業式を迎えた。

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かつての要塞を改造したペストリングベルク駅
 

後に高級住宅街となるペストリングベルク山麓も、当時はまだ開発が進んでおらず、会社は行楽客の需要しか見込んでいなかった。それで車両も、オープンタイプのいわゆる「夏電車 Sommertriebwagen」6両のみでスタートしている。しかし、初年の運行が12月まで続いたことから、オープンデッキつきの密閉型車両が2両追加で調達されて、1900年から通年運行に移行した。

クリーム色をまとう2軸の古典電車は、特徴的な機構を備えていた。一つは、トロリーポールの集電装置だ。先端部分は最初ホイールだったが、第一次世界大戦後、スライダーシュー(摺り板)に交換されている。

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(左)トロリーポールで集電していた旧車
   (1999年8月、ウーアファール登山鉄道駅で撮影)
(右)開通当初はポールの先端がホイールだった
   (鉄道博物館の展示品を撮影)
 

もう一つは制動装置で、ケーブルカーに見られるような非常ブレーキを装備していた。レール圧着ブレーキ(ドイツ語ではツァンゲンブレムゼ Zangenbremse(プライヤーブレーキの意))といい、ブレーキシューをプライヤーのようにレールの頭部側面に押し付ける仕組みだ。レールの断面もそれに適応した楔形をしていた(下の写真と図参照)。また、踏切などでは、これが通過できるようにレールの両側に溝が掘られている。

問題はレールの分岐部で、トングレールを用いる通常の分岐器が使えないため、レール片を水平移動させる特殊な分岐器(シュレップヴァイヒェ Schleppweiche、引き摺り分岐器の意)が設置された。同じ理由で、レールが交差するフログ(轍叉)の部分は回転構造になっている(ヘルツシュレップ Herzschlepp)。

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非常時に楔形レールに作用するレール圧着ブレーキ
(鉄道博物館の展示品を撮影)
右はその図解
Photo by Dralon at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
 
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特殊な分岐器シュレップヴァイヒェを設置
踏切ではレールの両側に溝が切ってあった(1999年8月、車内から撮影)
右はその図解
 

鉄道は、常識を超えるような急勾配を上っていく。1983年には、世界で最も険しい粘着式鉄道としてギネスブックに登録されたこともあるほどだ(下注1)。しかし、これを上回るリスボン市電網のデータ(下注2)が知られるようになり、現在の公式サイトは、「今もなお世界で最も険しい粘着式鉄道に数えられている」と、控えめな表現になっている。

*注1 ペストリングベルク鉄道の公式パンフレット(2015年3月版、リンツAGリーニエン発行)による。
*注2 Railserve.com の鉄道世界記録のリストによると、最急勾配はリスボン市電網の13.8%(138‰)とされている(28E系統のサンフランシスコ舗道 Calçada de São Francisco の併用軌道に存在)。
https://www.railserve.com/stats_records/highest_steepest_railroads.html

その勾配の最大値は、長い間105‰(水平距離1000m当たりの高低差が105m)と言われてきた。設計図上はそのとおりで、現地に建っている勾配標も105を超えるものはない。しかし近年の精密測量で、それが平均値に過ぎず、実際にはホーアー・ダム Hoher Damm 付近で116‰に達することが明らかになった。現在、これが公式の最急勾配とされている。

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(左)105‰の勾配標
   "388"はその勾配が続く距離(388m)を示す
(右)ホーアー・ダム付近の急勾配を降りてくるトラム
 

110年間不変のスタイルで走り続けてきたペストリングベルク鉄道が、敢えて長期に運休してまで大改造されることになったきっかけは、2005年1月24日にシャブレーダー停留所 Haltestelle Schableder 付近で発生した脱線事故だった。古いシステムの安全性が議論の焦点となり、その結果、鉄道近代化のための計画が練られた。

目的は運行の安全性を確保し、保守作業の効率性を高めることだが、同時に、リンツの新しい観光需要の発掘も期待された。旧式の運行は2008年3月24日に終了し、続く14か月の工事期間を経て、開通111周年の2009年5月29日に新たな運行が開始された。

では、従来と何がどう変わったのだろうか。最大の改良点は、軌道を市内トラムと同じ900mmに改軌して、市内中心部への直通を可能にすることだった。旧市街のハウプトプラッツ(中央広場)にある停留所が新しいターミナルとされ、ペストリングベルク鉄道のトラムはここから山頂へ直通する。

市内軌道網と接続するために、山麓の旧 起点駅であるウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr は廃止された。そして駅直前の地点から、最寄りのトラム停留所であるラントグートシュトラーセ Landgutstraße(下注1)まで、新たに軌道が延ばされた。このルートは、標準軌のÖBBミュールクライス線 Mühlkreisbahn を横断する必要があり、そこに異軌間同士の平面交差が設けられている(下注2)。また、ハウプトプラッツには、ホームを兼ねた専用の折返し線が設けられた。

*注1 市内トラム3系統(2016年から4系統も)の起終点。
*注2 実はペストリングベルク鉄道開業当初もトラムとの乗換の便を考慮して、ミュールクライス線をまたいだ南側に、山麓駅が設けられていた。しかし、ミュールクライス線との交差部に設置した特殊な可動式ポイントの操作が煩雑過ぎたため、翌年、この交差を廃止して北側にウーアファール登山鉄道駅を造ったいきさつがある。

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ÖBB ミュールクライス線との平面交差
ペストリングベルク鉄道のトラムは、左手前から右に折れて、平面交差を渡り、右奥へ進む
左奥の建物はもとの始発駅であるウーアファール登山鉄道駅
右奥の、気動車が多数見える構内は ミュールクライス線の起点、リンツ・ウーアファール Linz Urfahr 駅
 

改軌によって、車両の調達または改修も必要になった。新車としてボンバルディア社のマウンテンランナー形(下注)が発注され、2009年に501~503号車の3編成、2011年に追加の1編成(504号車)が就役した。これは100%低床の3連節車で、定員は座席33+立席55と、旧車(22+16)に比べて2.3倍の輸送力を擁する。また、旧車についても1940~50年代製のVIII、X、XI号車が、台車交換による改軌や集電装置のパンタグラフ化を含め、必要な改修を受けて再デビューした。

*注 ボンバルディアのウィーン工場(もとローナー・ヴェルケ Lohner-Werke)製。

軌間の統一で、レールや分岐器も一般的な形状になったため、これらの車両には、非常ブレーキとして電磁吸着ブレーキが設置されている。

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(左)ペストリングベルク鉄道の新車
   504号車は2011年に就役した追加編成
(右)バリアフリーに対応した100%低床の車内
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(左)土・日・祝日には、改造された旧車(写真はXI、VIII号車)も2両連結で走る
(右)デッキ付きで、寒冷期には新車より快適かもしれない
 

直通化の開始で、対の小塔と外壁のハーフティンバーが印象的なウーアファール登山鉄道駅は、本来の役割を失った。嬉しいことに建物と構内は原形のまま保存され、2008年5月にペストリングベルク鉄道博物館 Pöstlingbergbahn-Museum として再生されている。

2面2線の頭端型線路は、片方が900mmに改軌され、本線に接続された。もう片方は1000mmのままで、車庫につながっている。車庫には、改造の対象から外れた旧車のうち、開業当初から在籍する「夏電車」I号車(1898年製)と、閉鎖形のXII号車(1950年製)が動態保存されており、構内に新旧2種の軌間の車両を並列して展示することも可能になっている。博物館は、冬季を除く土・日・祝日のみ開館する。

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ペストリングベルク鉄道博物館を訪問
(左)旧 ウーアファール登山鉄道駅を転用した施設
(右)2面2線のホームも健在
   左がもとの1000mm軌間、右は改軌されて 900mmに

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駅舎と向かい合う車庫を見学させてもらう
左2線には900mm軌間の改造車(日曜につき出払っていた)、
右1線には1000mmの非改造旧車が休む

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美しく保たれた非改造旧車だが、もう山に上ることはできない
(左)開業当初からの最古参「夏電車」I号車
(右)閉鎖形XII号車
  前面のフックは自転車を吊り下げるためのもの、900mm改造車では撤去されてしまった
 

さて、ペストリングベルク鉄道の現在の運行状況はどうなっているだろうか。列車は30分間隔で運行されている。ただし、土・日・祝日の10~17時の間は、上述の改軌された旧車が2両連結で間に投入されるため、つごう15分間隔となる。そのほか、沿線のアントン・ブルックナー私立大学 Anton Bruckner Privatuniversität の開講日は朝7時30分~9時の間、ハウプトプラッツ~ブルックナー大学間の区間便が運行されている。全線の所要時間は、山上方面21分、山麓方面19分だ。

ちなみに運賃は、従来どおり他の系統とは別建てなので注意を要する。停留所にある券売機やオンラインショップで、片道券または往復券が買える。リンツ中央駅から出発する場合は、ペストリングベルク鉄道往復と市内中心ゾーン24時間乗車が可能な「エアレープニス(体験)チケット Erlebnisticket(旧名 ペストリングベルク鉄道コンビチケット Pöstlingbergbahn-Kombiticket)」を買っておくと便利だ。また、リンツ・カード Linz-Card の3日券には、ペストリングベルクを往復できる特典がある(1日券は不可)。

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リンツ市内トラム路線図の一部
太線がトラムのルート
50系統ペストリングベルク鉄道は緑で示されている
© 2019 LINZ AG
 

次回は、ハウプトプラッツから山頂まで、登山鉄道が走っていく風景を追ってみよう。

■参考サイト
ペストリングベルク鉄道(リンツAG公式サイト)
https://www.linzag.at/portal/de/privatkunden/freizeit/grottenbahnpoestlingberg/poestlingberg/#

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2019年2月17日 (日)

シュネーベルク鉄道再訪記

ウィーン滞在中、良く晴れた日を狙って、標高2076mのシュネーベルク Schneeberg へ出かけた。山はウィーンの南西65kmにあり、2000mを越えるピークとしてはアルプス山脈の東の端に位置する。麓の村からその山を上っていくシュネーベルク鉄道 Schneebergbahn というラックレールの登山鉄道に乗ることが、遠出の目的だ。

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ÖBBの気動車(左)からの客を受けて、山上へ向かう列車(右)
背景はシュネーベルク山
プフベルク駅にて
 

実は19年前に一度、この鉄道に乗ったことがある。しかし、あいにく天候に恵まれず、列車は上っていく途中で濃霧に包まれてしまった。むろん山上からの見通しはまったくきかなくて、真夏というのにめっぽう寒かったことを覚えている。それで、再訪するなら好天でなければ意味がなかった。

鉄道の沿革等については、旧稿「オーストリアのラック鉄道-シュネーベルク鉄道」を参照していただくとして、今回は旅の一部始終を記していこう。

朝のウィーン中央駅 Wien Hbf から、7時58分発のEC(ユーロシティ)エモナ Emona 号に乗り込む。リュブリャーナ行きのエモナは以前も使った列車だが、まだ健在で、前方の数両はスロベニア国鉄のコンパートメント車両が使われている。ウィーン・マイドリング Wien Meidling で大勢の客を拾った後、葡萄畑の中を滑るように走ると、次の停車駅はもうウィーナー・ノイシュタット Wiener Neustadt だ。列車を乗換えなくてはならない。

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ウィーン中央駅のエモナ号
水色帯の車両はスロベニア国鉄のもの
 

この先は、プフベルク線 Puchberger Bahn と呼ばれるÖBB(オーストリア連邦鉄道、いわゆる国鉄)のローカル線になる。2両連接の気動車が、登山鉄道の待つプフベルク・アム・シュネーベルク Puchberg am Schneeberg 駅(以下、プフベルク駅と記す)との間をつないでいる。緑の平野が尽きると、小さな峠を、軽便鉄道のような急カーブ急勾配の線路で越えていく。のどかな風景のまま、9時24分、終点に到着した。

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(左)ウィーナー・ノイシュタット駅でプフベルク線の連接気動車に乗換え
(右)車内
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シュネーベルク鉄道周辺図
 

プフベルク駅はすっかり新しくなっていた。2015年に完成した増築駅舎の1階に、スーベニアショップを兼ねたチケットカウンターが置かれ、上階は小さな鉄道ミュージアムになっている。構内を見回すと、左手に建つ旧来の木造車庫とは別に、右奥に新建材で造られた車庫兼修理工場がある。稼働中の車両はこちらに移され、木造車庫は主に使われていない機関車や客車の置き場になっているという。

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プフベルク・アム・シュネーベルク駅
(左)左が新しい増築駅舎、右の旧駅舎は管理棟に
(右)増築駅舎1階のチケットカウンターに並ぶ人の列
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プフベルク駅構内
正面奥が新しい車庫兼修理工場
 

登山鉄道の切符は、ÖBBとは別だ。昔なら出札窓口に駆け込むところだが、いまどきの乗車券はネット予約ができるから、あらかじめ購入し、印刷してある。公式サイトには、始発9時00分の次が10時30分発と書かれていたので、それに乗るつもりだ。

ところがカウンターのモニターを見ると、30分間隔の発車になっている。しかも直近の9時30分発はもとより、次発、次々発と2本先まですでに満席だ。今買おうとすれば、11時発しか空いていない。ÖBBの気動車から降りたのは30人に満たなかったので、この盛況ぶりは意外だった。国際的な観光地ではないものの、シュネーベルクは相変わらず地元の人気スポットなのだ。実際、駅の周辺にはクルマがずらりと駐車してあり、客の多くが自家用車やマイクロバスでここまで来ている。

予約した10時30分発を待つ間、近くの公園に置かれている小型蒸機を見に行った。標準軌の小型機関車(92.2220、1898年製)で、かつてプフベルク線を走り、22号機「クラウス Klaus」と呼ばれていたものだ。それから駅に戻って、2階ミュージアムを見学する。当時の写真や資料類が展示されていて、床続きのテラスにも出られる。そこから標準軌とラックレールが並ぶ駅構内や、青空に映えるシュネーベルクを眺めているうち、改札開始のアナウンスが流れた。

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(左)近くの公園に置かれていた標準軌の小型蒸機
(右)駅構内の記念碑「1895~1897年に造られたラック鉄道の製作者レオ・アルノルディを記念して」
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開通120周年を記念する駅舎2階ミュージアムの展示
 

団体客に交じってぞろぞろとホームに出ると、ラックレールに対応した連接気動車「ザラマンダー Salamander」が入ってきた。前回乗りに来た時はまだ導入されたばかりで、地域に生息するサンショウウオを模したという濃緑地に黄斑の大胆な塗装には衝撃を受けたものだ。先頭には、山上へ貨物を届けるための小さなトレーラーを伴っている。ザラマンダーの鼻先にいつもくっついて走るので、その名も「ザラマンダー・ベイビー Salamander-baby」だ。気動車が3編成揃ったことで、かつて活躍した蒸気機関車は完全に脇役に退いてしまった。5両あるうち、動けるのはもはや2両で、7~8月の日・祝日に懐古列車 Nostalgiezug として使われるだけになっている。

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(左)ホームに列車が入線
(右)貨物を運ぶザラマンダー・ベイビー
 

ザラマンダーの車内は、通路をはさんで3人掛けと2人掛けのシートが向い合せに並んでいる。予約は定員管理をしているだけで、席は決まっていない。ほとんどの区間で、進行方向左側に眺望が開けるのだが、南向きなので陽光をまともに浴びることになる。一般客は眩しさを敬遠するようで、難なく左端の席をとることができた。

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車内(帰路の撮影につき座席には余裕がある)
 

やがて汽笛が短く鳴り、シュネーベルクに向けて発車した。列車はプフベルクの村里を縫った後、ヘングスト Hengst というシュネーベルクの前山に取りつき、その山腹をおもむろに上っていく。ブナや針葉樹の森が延々と続く。時刻表にはヘングストタール Hengsttal(起点から1.160km)とヘングストヒュッテ Hengsthütte(同 4.523km)という停留所が記されているが、どちらもリクエストストップらしく、列車は停まらなかった。

それに対して、シュネーベルクの山塊を目前にしたバウムガルトナー Baumgartner(同 7.360km)では、すべての列車が停車する。蒸機ならここで給水するのだが、その必要がないザラマンダーにも5分の休憩時間が与えられる。この間に乗客は列車から降りて、休憩所で売られているブフテルン Buchteln という、パン生地にジャムなどを混ぜて焼いた菓子を買い求めるというのが、お決まりの行事だ。しかし、おやつの時間には中途半端なのか、この列車では名物を手に入れた人は少なかった。

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(左)プフベルクの盆地から山中へ
(右)バウムガルトナー停留所、正面に山上の教会が見える
(いずれも帰路撮影)
 

停留所を後にして、鞍部に築かれたホーエ・マウアー Hohe Mauer(高い石垣の意)を渡る。俄然勾配が急になり、後ろにつく動力車のエンジン音がひときわ高まる。それとともに視界が大きく開け、ヘレンタール Höllental の谷を隔てて、隣に横たわるラックス Rax 山塊も姿を現した。2本のトンネルを介したS字ループをじりじりと回り切れば、もう山上の台地だ。

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(左)終盤は隣のラックス山塊が姿を現す
(右)トンネル出口の雪囲い、線路はこの中に
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最後のカーブを回って山上の台地に出る
 

かつて山上の終点は、エリーザベト教会 Elisabethkirche の前だった。終点といっても嵩上げされたホームも屋根もなく、あるのは乗員が待機するための小屋だけだった。2009年に山の家 Berghaus の前に新しいホームが完成し、これに伴い線路は、山の家への引込み線を利用して133m延長された。

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エリーザベト教会の前を通過
 

一方、貨物の受け渡し所だけは、旧駅跡に残されている。列車はそこでいったん停車し、ザラマンダー・ベイビーから手早く荷物の積み下ろしが行われた。そして教会の前を通過し、おもむろに新駅に入っていく。11時10分着、所要40分の列車旅だった(下山する列車は38分)。ホームは、アーチ形の屋根とアクリルのパネル壁に覆われ、悪天候のときでも乗降に支障がない。出札など駅の機能は、山の家の中に設けられている。

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山上旧駅跡
(左)配線は残存するが片方は使われていない
(右)ザラマンダー・ベイビーから貨物の積み下ろし
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山上新駅
(左)車庫のような新駅、右奥は従来からある山の家
(右)新駅は全天候型ホーム
 

しばらく山上を散歩した。エリーザベト教会は修復工事中で入れないが、麓から山の目印になっているだけに、裏庭に回ると下界の眺望がみごとに開ける。波打つ山地に囲まれて明るい緑の横縞を描く牧野に、集落の屋根が点々と浮かんでいる。ひときわ密集しているのがプフベルクの村で、登山鉄道の始発駅も見える。遠方はかすんでいるものの、シュタインフェルト Steinfeld と呼ばれるウィーン盆地南部の広がりが感じられる。

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ヴァックスリーガーから東を望む
右端がプフベルクの村
 

眺望が利く東側に対して、西側はヴァックスリーガー Waxrieger というコブ山が目の前に立ちはだかり、シュネーベルクの主峰を隠してしまう。ここまで来たからにはその稜線を拝みたいので、ヴァックスリーガーへの山道を上った。駅との比高は80m、さほど時間はかからない。十字架のそびえる頂に立つと、抜けるような青空のもと、期待通りホッホシュネーベルクの大パノラマが展開した。

左のクロスターヴァッペン Klosterwappen(標高2076m)から右のカイザーシュタイン Kaiserstein(同 2061m)まで、長く続く灰白の稜線がシュネーベルクのピークだ。駅から延びる登山道は、左から山小屋ダムベックハウス Damböckhaus の前を通過し、ハイマツの群落が散らばる山腹をジグザグを描きながら上っていく。数人ずつ、稜線に載る山小屋フィッシャーヒュッテ Fischerhütte をめざして歩いていくのが見える。山頂までは3km程度で、みな比較的軽装備だ。

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ヴァックスリーガーから西を望む
正面右がシュネーベルクの主峰、クロスターヴァッペンからカイザーシュタインにかけての稜線。左手前から延びる登山道がジグザグに上っていく
左後ろの蒼い山塊はラックス山
 

帰りの列車も予約してあるのだが、あまりにいい天気なので、一つ下のバウムガルトナーまで歩いて降りようと思う。山上駅との標高差は400mほどだ。道標に1時間とあったので高を括っていたが、急坂なうえに小石の転がるザレ場が随所にあり、歩きにくい山道だった。かなり下ったところで踏切を渡り、後はホーエ・マウアーに沿って林道を降りる。

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山上から見下ろすバウムガルトナー停留所では、列車の交換中
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山上からバウムガルトナーへ降りる登山道
(左)随所にザレ場があり、足を取られる
(右)目的地がはるか右下に
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(左)ラックレールの踏切を渡る
(右)ホーエ・マウアー区間に設置された、突風による脱線転落を防ぐ護輪軌条
 

それでもバウムガルトナーでは、発車時刻まで20分ほど余裕があった。当然、名物のシュネーベルク・ブフテルン Schneeberg-Buchteln を試さなければならない。フィリングは、マーリレ Marille(アプリコットジャム)とポヴィドル Powidl(スモモのムース)の2種から選べる。マーリレとビールを注文して、テーブル席でいただく。けっこう歩いたので、ビールの炭酸がことさら喉にしみる。甘酸っぱいジャムの味を楽しみながら、ブフテルンにかかっている粉砂糖がシュネーベルクの雪を表していたことに改めて気づいた。

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バウムガルトナー停留所にて
(左)ホームに隣接するテーブル席
(右)雪を表す粉砂糖のかかった名物ブフテルン
 

そろそろ列車がやって来る頃だ。先に到着したのは、麓から上ってきたザラマンダーだった。まもなく山上からの列車が向かいの山腹に現れ、その姿がじわじわと大きくなってくる。シュネーベルクを背景に直線のホーエ・マウアーを降りてくる列車風景は、シュネーベルク鉄道の写真の定番だ。これがヴィンテージ蒸機だったら、なお絵になるのだが。

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ホーエ・マウアーを降りてくるザラマンダー
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バウムガルトナーでの列車交換
 

■参考サイト
シュネーベルク鉄道(公式サイト) http://www.schneebergbahn.at/

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2019年2月 9日 (土)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 II-現況

ウィーン中央駅の東口からヌスドルフ Nussdorf まで、市電D系統のトラムが乗り換えなしで連れていってくれる。時間は45分ほどかかるが、どのみち降りるのは終点なので、リング通り Ringstraße に建ち並ぶ豪壮な建物群を眺めながら、観光気分でのんびり乗っていればいい。

ほとんど数字に置き換えられてしまったウィーン市電の系統名のなかで、D系統は頑なに昔の英字名を残している。まるで登山鉄道へのアクセスルートとして造られた由緒を誇るかのようだ。国鉄(オーストリア連邦鉄道 ÖBB)のヌスドルフ駅前で左折し、町なかの狭い坂道を少し上ると、終点のベートーヴェンガング Beethovengang(下注)が見えてくる。トラムは終端ループを一回りしてから、停留所の前に停まる。

*注 この地名を忠実に転写すれば「ベートホーフェンガング」になるが、後述のように作曲家ベートーヴェンにちなんだ名称なので慣用読みに従う。

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終点ベートーヴェンガングに停車中のD系統トラム
 
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ヌスドルフ~グリンツィング間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
数字は各写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

このループに囲まれたレモン色の塗り壁の建物こそ、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の起点だったヌスドルフ旧駅舎だ。他の駅舎がすべて取り壊されたなか、今はなき登山鉄道を記念する建造物として、唯一完全な形で遺されている。現在は、アインケーア・ツア・ツァーンラートバーン Einkehr zur Zahnradbahn というレストラン(下注)が入居している。午前中でまだ食事には早かったが、主人らしき人に中を見たいと言うと、快く応じてくれた。

*注 店の名は、御休み処「ラック鉄道館」といった意味。

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[1] ヌスドルフ旧駅舎の正面玄関
 

ホールにはテーブルが並んでいて駅の面影はないが、壁に、ラック鉄道のルート図や機関士の肖像写真などが掲げてある。突き当りの扉の外はホームだったはずだが、テラス席が占領していた。生垣の向こうは市電のループ線で、ラック列車が来なくなった後も、トラムが代役を務めてくれているようだ(下注)。

*注 登山鉄道が稼働していた当時は、路面軌道は駅前で行き止まりになっており、終端ループはなかった。

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(左)旧駅舎のホーム側、今はレストランのテラス席に
(右)レストランの看板は当時の写真をあしらう
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(左)旧駅舎内部
(右)最終列車に乗車した機関士の肖像写真、右の壁には制帽が掛かる
 

駅舎を辞して、周囲を観察する。東側の、かつて機関庫があった場所は、集合住宅が建っている。一方、市電線路を挟んで西側には、一見あずまや風の施設がある。男子小用の公衆トイレなのだが、これは当時からあるものだそうだ。個別便器のない掛け流し(?)方式で、確かに古そうに見える。ちょうどループを回ってきたトラムがその前で停まったと思ったら、乗務員氏が降りてきて中に駆け込んだ。

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(左)当時の公衆トイレが今も現役
(右)トラムも臨時停車!
 

駅前の道から山手に向かって、インターロッキングが施された廃線跡がまっすぐ延びている。その名もツァーンラートバーンシュトラーセ Zahnradbahnstraße(ラック鉄道通りの意)なので嬉しい。機関車になったつもりで、緩い坂を上っていく。もとは複線が敷かれていたから用地幅は広いのだが、すぐにシュトラーセとは名ばかりの遊歩道になり、周りは雑草が生い茂る。

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(左)[2] ラック鉄道通りが山手へ延びる
(右)[3] 遊歩道は将来、並木道になるのだろう
 

最初に横切る車道は、エロイカガッセ Eroicagasse(英雄小路の意)だ。道の西側は、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタット Heiligenstadt 地内なので、通りの名が交響曲第3番の標題から来ていることは容易に想像がつく。ちなみに、すぐ右手を流れる小川、シュライバーバッハ Schreiberbach に沿って、市電の停留所名にもなったベートーヴェンガング Beethovengang(ベートーヴェンの小径)が延びている。交響曲第6番「田園」の曲想が練られたという名所だ。行ってみると、ナイチンゲールもカッコウも鳴いていなかったが、木の枝に茶色のリスがいて、一心に木の実をかじっていた。

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(左)[4] 小川に沿うベートーヴェンの小径
(右)[4] 小川に接する築堤の擁壁は鉄道時代のものか?
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一心に木の実をかじるリスを目撃
 

この小径とエロイカガッセとの交差点の標識を写真に撮る人は多いのだが、すぐ近くにあるラック鉄道通りとエロイカガッセの交差点標識に気づく人はいるのだろうか。ともかく、英雄の冒頭主題を口ずさみながら、廃線跡をさらに上流へ歩いていく。右手の広場に、列車を象った木製遊具が置かれていた。ベートーヴェン公園 Beethovenpark の一角なのだが、子どもたちにとっては花より団子、楽聖より汽車ポッポだろう。

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(左)[5] ベートーヴェンの小径とエロイカガッセの交差点は観光名所
  (語頭の 19. はウィーン19区を意味する)
(右)[6] ラック鉄道通りとの交差点もすぐ近くに
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[7] ベートーヴェン公園の一角にある列車形の木製遊具
 

ここで線路は、カーレンベルガー通り Kahlenbergerstraße を乗り越していた。かつての跨道橋は、煉瓦積みの橋台だけが残っている。複線を支えていたので、幅広の構造物だ。橋桁は撤去されて渡れないため、いったん築堤から降りて、通りを平面横断する。見通しが悪いから、クルマには要注意だ。

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[8] カーレンベルガー通りの跨道橋橋台
(左)北側から (右)南側から
 

すぐに廃線跡に戻るも、周りの森がますます茂ってきて、上空を覆ってしまう。100年も経てば空地が自然に還ってしまうのも当然だが、一人で歩くのはいささか心細い。と思っていたら、いくらも行かないうちに突然森が開け、住宅地の中へ飛び出した。廃線跡は、それを貫く道路として完全に再生されてしまっている。道路名も変わって、ウンタラー・シュライバーヴェーク Unterer Schreiberweg(下シュライバー道の意)だ。勾配はすでにけっこうきつく、7~8%(70~80‰、下注)あったようだ。

*注 以下の文中で示す線路勾配は、ヌスドルフ旧駅舎内に掲げられている地図に記載の数値(%表示)による。

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(左)[9] 廃線跡は森の小道に
(右)[10] 突然開けて住宅街へ
 

起点で西へ向けて出発したルートは、いくつかの曲がり角を経て、今は北西、ウィーンの森の方向に針路を変えている。勾配はさらに険しくなり、10%に達する。アキレス腱に堪える坂道を、ジョギング姿の若者が軽々と追い抜いていった。右手の家並みがとぎれると、カーレンベルクの裾野を埋め尽くした葡萄畑が見え始める。グリンツィング Grinzing のホイリゲで出されるワインの葡萄も、ここで栽培されているのだ。

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(左)[11] グリンツィング駅跡を振り返る
(右)[12] 勾配路の周囲は敷地の広い高級住宅地
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[13] カーレンベルクの裾野を埋め尽くす葡萄畑
その先に山上の送信塔やホテルが見える
 
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グリンツィング~カーレンベルク間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

田舎道と斜めに交わる位置の手前に、グリンツィング駅があったはずだが、それらしき痕跡はなかった。急坂はこのあと6%まで緩む。次のクラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl 駅との間は短く、約700mしかない。全線の中間に位置するこの駅では、山を上る機関車に水が補給された。駅舎は第二次大戦後に取り壊され、現在は市民プール(クラプフェンヴァルドルバート Krapfenwaldlbad、略してクラーヴァ Krawa)の駐車場に利用されている。

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[14] クラプフェンヴァルドル駅跡は市民プールの駐車場に
 

さて、麓から廃線跡をたどってきた人は、おそらくここで道を間違える。というのも、駐車場の上手から、車道に並行して一見線路敷のようなインターロッキングの小道が延びているからだ。しかし、ほんとうの廃線跡は、車道から右45度の方向に離れていく。地図でなら一目瞭然だが、現地ではいくつもの分かれ道が見え、しかも真のルートは茂みに埋もれかけている。道が途中で行き止まりにならず、山手へまっすぐ続いていたら選択は正しい。

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(左上)[15] 駐車場上手の分かれ道、矢印が廃線跡
(左下)[16] さらにY字路あり
(右)[17] 踏み分け道になった廃線跡
 

山にとりつく区間のため、勾配は再び10%に高まる。茂みの合間から、緑の縞模様を描く葡萄畑越しに、目指すカーレンベルクの教会やホテルの建物が見えた。右後ろには、遠くドナウ本流とノイエ・ドナウ Neue Donau の2本の帯が光り、それをはさんで高層ビルが2棟、背比べをしている(下注)。いつのまにか、かなりの高さまで上ってきたことに気づく瞬間だ。

*注 川の右がミレニアムタワー Millennium Tower 、左がドナウシティのDCタワー DC Tower。

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[17] ドナウ川とウィーン新市街の高層ビル群を望む
 

踏み分け道の緩い左カーブはいかにも線路跡で、800mほど行けば、2車線道のヘーエンシュトラーセ Höhenstraße(高地通りの意)と合流する。今上がってきた小道は可動柵で通せんぼされているが、これはクルマの進入を防ぐためのもので、徒歩であれば問題ない。実際、犬の散歩をしている人に会ったし、山岳スポーツ情報のサイト「ベルクフェックス Bergfex」にも、廃線跡歩きのルートとして描かれている(下注)。

*注 https://www.bergfex.com/
"Auf den Spuren der Zahnradbahn auf den Kahlenberg" を検索。(検索語句は「ラック鉄道跡をカーレンベルクへ上る」の意)"

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[18] ヘーエンシュトラーセとの合流地点
(左)小道側には車止めの柵がある
(右)反対側から見たところ
 

この先の廃線跡は、勾配が3~4%と緩むこともあり、残念ながら2車線道に上書きされてしまった。歩道がないし、カーブも多いので、歩くのは危険だ。「ベルクフェックス」の地図に従い、車道の山側に別途設けられた小道に退避する。

小道は、広葉樹の森を縫う気持ちのいい散策路だった。車道とほぼ並行しており、かつ多くの区間でそれより高みを通っているので、廃線跡の観察も可能だ。さっきの踏み分け道から打って変わって、気持ちに余裕が出てきたのか、ウィンナワルツ「ウィーンの森の物語」でツィターが奏でる、あの鄙びた響きのメロディーが口をつく。

2車線道が、線路跡らしい緩いカーブで東へ方向転回し始めたところで、小川を渡った。他でもない、ベートーヴェンガングのリスの木の下を流れていたシュライバーバッハの源流だ。道路下は溝渠で、側面に上塗りしたモルタルが剥がされ、鉄道時代の煉瓦積みを露出させてあった。

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(左)[19] ウィーンの森の散策路
(右)[20] 溝渠に鉄道の煉瓦積みが露出
 

ズルツヴィーゼ Sulzwiese のバス停を通過し、散策路はなおも蛇行しながら上る廃線跡の車道についていく。やがて車道の反対側に、駐車場のような細長い空地が現れる。これが最初のカーレンベルク駅跡だ。前回記したとおり、登山鉄道が1874年に開業したとき、ライバル会社が山頂を押さえていたため、ここに仮の終点を置かざるを得なかった。この会社を買収するまで、たった2年の暫定措置だった(下注)ので、痕跡は何もなさそうだ。

*注 駅廃止後も、複線から単線になる信号所としての機能は残っていた。

車道が左へそれていく一方、直進している舗装道が廃線跡だ。旧駅から先は単線だったので、車1台が通れる程度の幅しかない。ちなみにこの道は、山頂に送信施設をもつオーストリア放送協会 ORF の私道で、入口に立つ標識には「当分の間任意通行を許可します。ただし事情を問わず利用は自己責任です(下注)」と記されている。

*注 原文は以下のとおり。 "Bis auf Widerruf freiwillig gestatteter Durchgang. Die Benützung erfolgt jedoch in allen Fallen auf eigene Gefahr."

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(左)[21] 蛇行しながら上る車道が廃線跡
(右)[22] 旧駅跡の空地から、直進する廃線跡を望む
 

森の中を緩いカーブで上っていくうち、赤白に塗り分けた送信塔が見えてきた。道を直進すると、金網で閉ざされた送信施設の専用区域だ。ここが終点カーレンベルク駅の跡なのだが、立ち入ることはできない。左手に進むと、送信塔と並んで、ラック鉄道会社が客寄せのために造ったシュテファニー展望塔 Stefaniewarte が建っている。今日は平日なので、塔の周りには人影もなかった(下注)。

*注 展望塔入口のプレートによれば、開館は5月から10月の、土曜12~18時と日・祝日10~18時(ただし好天時のみ、また10月は17時まで)。

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[23] ひと気のないカーレンベルク山頂
送信塔の後ろにシュテファニー展望塔が立つ
 

小道を下ると、カーレンベルク山上広場に出る。正面に聖ヨセフ教会、右手に私立ウィーン・モジュール大学 Modul University Vienna の施設、その奥はホテルで、大学との間に展望テラスが広がる。少し遠目ではあるが、ドナウの両岸に拡がるウィーン市街地が一望になる。目を凝らすと、フンデルトヴァッサーのデザインした有名なシュピッテラウの清掃工場の煙突の奥に、旧市街のシンボル、シュテファン大聖堂の尖塔も見えた。

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[24] テラスからのウィーン市街展望
 

ところで、山上まで来たからには、テラスの手前に置かれているラック鉄道の記念物を忘れてはならない。幅広のずんぐりした車体に華奢な車輪、妻面にカーレンベルク・ラック鉄道 Zahnradbahn Kahlenberg と書かれているとおり、かつて走っていた客車のレプリカだ。スイスのリギ山によく似た形の車両があるが、カーレンベルクも、同じニクラウス・リッゲンバッハの設計だから偶然ではない。

レプリカが据え付けられた当初は、車内が鉄道写真の展示室になっていたそうだが、今や荒れ放題で、天井がつっかえ棒に支えられているのも痛々しい。ともかく、山上でラック鉄道の面影を偲べるものは、これが唯一だ。

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[25] カーレンベルク山上広場に置かれた客車のレプリカ
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山上広場をテラスと反対側へ進むと、広い駐車場と、その片隅に下界へ降りるバスの乗り場がある。大学施設があるおかげで、38A 系統のバスがわりと頻繁に出ている。途中グリンツィングで降りれば38系統のトラムで、終点ハイリゲンシュタット駅前まで乗ればUバーン(地下鉄)で、それぞれ旧市街に戻ることができる。

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2019年2月 4日 (月)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要

カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn

ヌスドルフ Nussdorf ~カーレンベルク Kahlenberg 間5.5km
軌間1435mm(標準軌)、複線(下注)・非電化
リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配100‰、高度差314m
1874年開通、1922年廃止

*注 カーレンベルク旧駅~カーレンベルク新駅間0.6km(1876年の延長区間)のみ単線

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グリンツィング駅から、ヌスドルフへ下るルートを望む
(1910年ごろ)
Photo at de.wikipedia
 
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今回は、オーストリアの首都ウィーン(下注1)の郊外に昔あった登山鉄道、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の話をしたい。それは、19世紀後半に各地に出現した同種の観光鉄道のなかでも、草分け的存在だったという点で特筆される。ヨーロッパで初めてラック式の登山列車が走り出したのは、1871年5月、スイス中部のリギ山に上るフィッツナウ・リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn(下注2)だが、その3年後、1874年3月にこの鉄道は開業している。現存するブダペスト登山鉄道(1874年6月開業)よりわずかに早く、ハプスブルクの帝都が呼び込んだ斬新なアトラクションは、好奇心旺盛な市民の耳目を引いたに違いない。

*注1 本稿ではドイツ語のWの日本語表記をヴとしているが、Wien, Wienerのみ、慣例に従いウィーン、ウィーナーとした。
*注2 リギ鉄道については本ブログ「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」以下、ブダペスト登山鉄道については「ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ」参照。

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ウィーン周辺の1:200,000地形図
(BEV 1:200,000 48/16 Wien 1982年)
茶色の枠は下図1:50,000の範囲を示す
© BEV, 2018
 

まず、鉄道があった場所を確認しておこう。上図はウィーン市周辺を描いた1:200,000地形図だ。市街の西から北にかけてウィーンの森 Wienerwald と呼ばれる山地(下注)が広がっている。それがドナウ川 Donau に落ち込むところに、肩を並べる二つのピークがある。東側がレオポルツベルク Leopoldsberg、西側がカーレンベルク Kahlenberg で、いずれもウィーン市街やドナウの流れを展望する景勝地として知られたところだ。鉄道はそのカーレンベルクの山頂へ上っていた。

*注 「ウィーンの森」という語の響きから、森林公園のようなものをつい想像してしまうが、実際は長さ45km、幅20~30kmの広がりがある山地の名称。

鉄道の起点は、南麓のヌスドルフ Nussdorf(下注)にあった。ルートはまず西へ進み、シュライバーバッハ川 Schreiberbach とネッセルバッハ川 Nesselbach の間の葡萄畑が広がる山脚にとりつく。少しずつ北へ針路を修正しながら上り続け、グリンツィング Grinzing、クラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl を経て、森の尾根筋に接近する。その後、ズルツヴィーゼ Sulzwiese 付近で180度向きを転じて、尾根伝いにカーレンベルクに至った。

*注 ヌスドルフは1999年まで Nußdorf と綴った(小文字の場合)が、新正書法に従い、現在は Nussdorf が正式表記。

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カーレンベルク鉄道と斜路リフトのルート
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ではなぜ、ここにいち早く登山鉄道が造られたのだろうか。歴史をひも解くと、きっかけは1873年に開催されたウィーン万国博覧会だ。来客向けの呼び物にするために、当時スイスで実用化されたばかりのラック鉄道に白羽の矢が立った。1872年3月に、発明者のニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が加わったコンソーシアムから帝国商務省に、事業計画が提出されている。同年8月に認可が下り、着工に向けて準備が始まった。

しかし通常の鉄道とは認可条件が異なり、政府の優遇措置、とりわけ土地収用の特権が受けられなかった。そのため、地主に売却を渋られたり、土地転がしに遭うなど買収交渉が難航した。資金不足のために、再調達さえ必要になった。結局、着工は1873年5月までずれ込み、工事を急いだものの、万博の会期中には間に合わなかった。開業できたのは1874年3月7日で、博覧会が終了して5か月後だった。

*注 ちなみにこの1873年ウィーン万博(和暦では明治6年)は、明治維新後の日本が初めて公式参加した国際博覧会で、岩倉使節団が見学に訪れている。

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旧ヌスドルフ駅前のラック鉄道記念の木彫りレリーフ
ただし実物ではなく写真パネルが嵌めてあった
 

さらに、山上には一足早く到達したライバルがいた。ドナウ河岸からレオポルツベルクの北斜面を上ってくる斜路リフト Schrägaufzug、すなわちケーブルカー(下注)で、ラック鉄道の工事がもたもたしている間に、1873年7月、オーストリア登山鉄道会社 Österreichische Bergbahngesellschaft がさっさと開通させたものだ。同社はさらにカーレンベルクの眺めのいい一等地も買い占め、万博の客を当て込んでホテルを建てた。そのため、遅れてきたラック鉄道は山頂まで入ることができず、駅をその手前600mの位置に設けなければならなかった。

*注 斜路リフトは長さ725m、勾配34%。レオポルツベルクへのケーブルカー Drahtseilbahn auf den Leopoldsberg とも呼ばれた。

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レオポルツベルクへの斜路リフト全景(1873年)
Photo at wikimedia
 

しかし成功裡に終わった万博の熱気が冷めるとホテルの客足が落ち、オーストリア登山鉄道会社は経営難に陥る。機に乗じて、カーレンベルク鉄道会社は1876年、同社を買収した。そして競合する斜路リフトを廃止し、その代わりにラック鉄道を標高484mの山頂まで延長した。これでようやく5.5km全線が完成し、ラック蒸機が推す登山列車が、上りは30分、下りは25分で山麓との間を結んだのだ。

線路は麓からカーレンベルク旧駅まで複線で敷かれていたが、延長区間は単線とされた。開通当初はまだラック鉄道用の分岐器(ポイント)が開発されておらず、遷車台(トラバーサー)を設置して車両の入換を行った。

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グリンツィング駅に停車中の列車
背景はカーレンベルク山頂(1875年)
Photo at wikimedia
 

機関車は6両在籍していた。同種の多くの鉄道のように、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)から納入された蒸機だった。一方、客車は18両が用意され、一部は革張りシートを設置した1等コンパートメントを備えていた。夏は側窓なしの形で運行され、冬はガラス窓が嵌め込まれた。機関車は客車を最大3両連れて山を上り下りした。ラック式特有の揺れと衝撃が激しく、試乗したウィーンっ子の間で、さっそく「ガックン列車 Ruckerlbahn」とあだ名がついたという。

また、鉄道は水源の乏しい山上へ水の輸送も請け負っており、そのためのタンク車2両が常備されていた。

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ヌスドルフ駅構内(1875年)
Photo at wikimedia
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カーレンベルク山上広場に置かれているラック鉄道客車のレプリカ
 

全線開通後、鉄道会社は積極的な旅客誘致策を講じた。ヌスドルフはウィーン旧市街から北へ5km離れている。そこで、この間に連絡のための路面軌道を造ることにしたのだ。1885年1月に認可を得て、ショッテンリング Schottenring(リング北辺)からヌスドルフまでの路線が開通した。当時、市街地はまだ馬車軌道だったので、ショッテンリングから市境(現 リヒテンヴェルダープラッツ Lichtenwerderplatz)までは馬が牽き、そこで客車は路面用の蒸気機関車に引き継がれて、ヌスドルフまで走破した。ちなみに、このルートは現在もウィーン市電D系統の一部として残っている。

さらに、1887年には山頂に、皇太子妃シュテファニー・フォン・ベルギエンの寄贈により、シュテファニー展望塔 Stephaniewarte が建てられた。駅のすぐ横にそびえる高さ22mの塔の上からは、ウィーン盆地はもとより、晴れた日には南東のライタ山地 Leithagebirge、南西のシュネーベルク Schneeberg も見渡せた。これは話題となり、この年、ラック鉄道は26万人を超える利用者を呼び込むことに成功する。だがその後、記録が破られることは一度もなかった。

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山頂に建つシュテファニー展望塔
 

1911年に鉄道会社は再建計画を練り、鉄道を電化するとともに、資金捻出のために沿線の住宅地開発をもくろんだ。しかし後者は、森に悪影響を与えるとして市の同意を得られず、電化工事の認可も、1914年の第一次世界大戦勃発により実現しないままになった。

戦争中も運行は続けられたが、敗戦により事態は大きく変わった。中欧に君臨した帝国が解体され、オーストリアは人口650万人の小さな内陸国になってしまったのだ。産業基盤が失われ、食糧も自足できず、深刻な不況が国を襲った。蒸機に頼る鉄道は石炭不足で運行すら難しくなった。車両整備もままならず、故障が相次いだ。

軌道資材を他の必要な鉄道に回すことになり、まず複線の片方が撤去された。そして1919年9月をもって、定期運行は休止となった。水の輸送だけは1922年4月まで維持されたが、その時点で、48年間続いたラック鉄道の命運は尽きた。線路は1925年までに撤去され、車両も老朽化していたため、すべて廃車処分された。

さて、カーレンベルクから列車の走る姿が消えて、すでに100年近くが経過している。現在、その跡はどうなっているのだろうか。

起点のヌスドルフ駅舎は鉄道施設の中で唯一現存し、レストランが入居している。また、駅とウィーン市街との連絡のために造られた路面軌道も、市電D系統の一部として健在だ。それに対して、ラック鉄道の廃線跡は、多くが車の通る道路に転換されてしまい、橋台や溝渠が断片的に残存するに過ぎない。中間駅クラプフェンヴァルドルの跡は駐車場と化し、山上駅跡は、シュテファニー展望塔がひとり空しく護り続けている。

昨年(2018年)9月にウィーンを訪れる機会があったので、廃線跡を実際に歩いてみた。次回はその状況をレポートしよう。

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旧ヌスドルフ駅舎の前にさしかかるウィーン市電D系統のトラム
 

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