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2026年5月

2026年5月18日 (月)

コンターサークル地図の旅-神岡鉄道レールバイクと神岡軌道跡

2026年春のコンター旅、最終回の舞台は岐阜県飛騨市(下注)だ。レールマウンテンバイク「ガッタンゴー」で、神岡鉄道の廃線路を走った。

*注 正式には飛「驒」市だが、飛「騨」市の表記も許容されている。本稿では旧駅名を含め、飛騨と記す。

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「渓谷コース」第一高原川橋梁
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図1 神岡鉄道時代の1:200,000地勢図
(1988(昭和63)年編集)

特定地方交通線として廃止対象に挙げられた国鉄神岡線が第3セクターの神岡鉄道に引き継がれたのは、1984年10月のことだ。旅客輸送もさることながら、神岡鉱山の精錬で排出される硫酸の輸送手段として維持する必要があった。そのため、荷主がこれをトラック輸送に切り替えると、とたんに経営が成り立たなくなり、2006年12月に神岡鉄道の運行は終了した。

その廃線跡を町おこしに生かすべく、翌2007年から試験的に始まったのが「ガッタンゴー」だ。神岡鉄道は、JR高山本線に接続する猪谷(いのたに)から奥飛騨温泉口に至る19.9kmの路線だったが、そのうち、終点側の奥飛騨温泉口から神岡鉱山前までの2.9kmを、客がレールバイク(軌道自転車)を漕いで往復走行する。

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「まちなかコース」の発着点、奥飛騨温泉口駅
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(左)旧神岡鉄道の駅舎が残る
(右)駅舎の壁に保存された国鉄時代の駅名標
 

これが好評を博し、観光イベントとして定着したことから、2018年には、旧 漆山(うるしやま)駅を拠点とする3.3kmの渓谷区間が追加設定された。以来、奥飛騨温泉口を発着する「まちなかコース」と、漆山発着の「渓谷コース」の2本立てで募集されている。

私たちはこれを、午前と午後ではしごする計画を立てた。人気は相変わらず高く、予約がすぐ埋まるので、2月中旬にネットで手続きを済ませてある。

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ガッタンゴーのリーフレット

2026年5月11日、8時に高山駅改札前に集合したのは、大出、中西、私の3名。近くのレンタカー店でスズキ ソリオを借りて出発した。国道41号から県道75号飛騨朝霧街道、農免農道の神岡カントリーロードを経由して、「まちなかコース」の集合場所、旧 奥飛騨温泉口(国鉄時代は神岡)駅へ向かう。受付時刻より早く着いたので、先に軽便線の神岡軌道跡を見に行ったが、それについてはまた後ほど…。

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「まちなかコース」の発着デッキ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と「まちなかコース」のルート等を加筆
 

「ガッタンゴー」は、冬期を除いて週6日営業している(繁忙期は無休)。「まちなかコース」の場合、おおむね1時間ごとの出発で、平日6便、休日や夏の繁忙期は8便という頻繁運行だ。きょうは月曜なので、私たちが乗る10時発が初便になる。料金は1台4000円(下注)。

*注 これは標準的な2~3人乗りの場合。「まちなかコース」では、他に4人で漕ぐタンデム車や1人で漕ぐサイドカー付きなど数種類の車両があり、料金も異なる。

発時刻の20分前までに受付を済ませて、駅舎内の説明会場に集合した。「(途中で)降りない」「止まらない」「ぶつからない(=適度な車間距離)」の注意事項を聞いたあと、ヘルメットを着用して、乗り場へ移動する。

レールバイクは昨年、吾妻峡(下注)で乗ったのと同じ構造だった。2軸の簡易台車に電動アシストつきマウンテンバイク2台を並列固定してあり、中央に設置された補助席を加えて、都合3人が乗れる。私は補助席へ。シートベルトの装着は必須だが、両手が自由なので取材にはありがたい。

*注 吾妻峡レールバイクについては、「コンターサークル地図の旅-吾妻峡レールバイクと太子支線跡」参照。

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(左)3人乗りレールバイク
(右)スタッフが乗るスーパーカブ固定の台車
 

スーパーカブ固定の台車に乗ったスタッフが先導し、客が乗る4台がそれに続いた。私たちのは1号車で、行きは先頭を走る。駅構内を出て、新緑が映える高原川(たかはらがわ)の渓谷を右手に見ながら、ゆっくり下っていった。天気も上々で、アウトドアには格好のコンディションだ。

ホームがもとのまま残る神岡大橋駅跡を通過する。ここは3セク化の際、新規に開設された駅だった。20‰の下り勾配標の後、すぐに一つ目のトンネル、長さ352mの第二神岡トンネルに入る。内部に照明はないが、自転車のヘッドライトが自動点灯するのでほんのり明るい。

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(左)スタッフの先導でいざ出発
(右)高原川の渓谷を渡る神岡大橋が右手に
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(左)神岡大橋駅跡を通過
(右)20‰の勾配標を見て第二神岡トンネルへ
 

直線でこれを抜けると、山田川の谷を横断する長さ120mの神岡橋梁の上に出た。足もとの谷筋を旧 神岡町の中心、船津の市街地が埋めている。橋梁の下手には、市街地の最寄りだった飛騨神岡(国鉄時代は飛騨船津)駅の朽ちかけたホームが残っていた。

続いて第一神岡トンネルに突入する。長さが524mあり、渓谷コースも含めてレールバイク区間で最長だ。トンネルは中で右カーブしている。

闇を抜けて今度は左に緩く曲がると、折返し点となる旧 神岡鉱山前駅(国鉄時代は神岡口)の広いヤードが見えてきた。並走する線路をポイント(分岐点)で次々に渡っていくので、列車の運転士になった気分だ。最も右寄りの側線に乗降場があり、先回りしていたスタッフがこちらに止まれのサインを送っている。

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山田川の谷をまたぐ神岡橋梁
奥のホームは飛騨神岡駅跡
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(左)第一神岡トンネルを抜ける
(右)折返し点、旧 神岡鉱山前駅の広いヤード
 

到着した後は自由休憩の指示があり、いったん車両から離れた。その間に、スタッフが1両ずつ車両を方向転換させる。車体の中央に寝かせてある牽引棒を起こし、それを軸にして半回転させる手順で、吾妻線と同じ方式だ。

駅は川岸から一段高い場所に位置する。右手の低地には市街地が広がり、その奥の段丘上に神岡城が望める。手前に目を移すと、対岸の建物群は神岡鉱業の精錬所だ。採掘は2001年に終了したが、リサイクル事業で今も稼働しているのだそうだ。

一方、山側にある駅のホームと待合室は開放されていて、鉄道現役時代の案内板や資料が壁を埋めている。隣接する車庫にKM-100形おくひだ号が格納されているのだが、窓ガラスが朝の光を反射して写真には撮れなかった。

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レールバイクの方向転換作業
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市街地と神岡城(中央右寄り)の眺め
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神岡鉱業の精錬所施設
 

10分ほど経ったところで招集がかかった。復路では1号車が最後尾だ。第一神岡トンネルに入ると、往路にはなかった二筋のイルミネーションが進路を浮かび上がらせている。私は漕ぎ手に回ったが、電動アシストつきとはいえ、20‰の上り勾配がふだん使わない太腿にこたえた。

終点駅の手前で一旦停止。信号に従い、1台ずつデッキ上の乗降場に駆け上がる。正味の走行時間は往路12分、復路14分ほどで、折返し休憩を含めて出発から帰着まで約40分だった(下注)。

*注 公式サイトでは説明・折返し休憩込みで50~60分と案内されている。

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(左)復路は上り勾配
(右)第一神岡トンネルのイルミネーション
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奥飛騨温泉口駅に帰着

午後は「渓谷コース」を体験した。乗り場は、奥飛騨温泉口駅から北へ10.5km、高原川の深い谷の中にある旧 漆山(国鉄時代は西漆山)駅だ。案内の看板に従い、国道41号から左にそれて高原川を渡る。

神岡鉄道のターミナルだった奥飛騨温泉口とは違い、漆山駅はもともと無人の停留所だ。それで、受付窓口のある小さな事務所棟はともかく、プレハブ小屋の説明会場、移動式トイレ、農業用ビニールハウスを利用した屋根付き乗降場と、いずれも仮設仕様だ。休業する冬季にはすべて撤収してしまうらしい。

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「渓谷コース」漆山駅
(左)受付窓口 (右)ビニールハウスの乗降場
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図3 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と「渓谷コース」のルート等を加筆
 

このコースでは、平日1日4便、休日・繁忙期は6便が設定されている。私たちは13時15分発の便を予約してある。便数が少ないことを加味しても「まちなかコース」より人気があるのは確かで、乗り場に用意されたレールバイクは運行上限の13台。予約サイトを覗くと連日完売で、飛び込み参加ではとうてい乗れそうにない。ちなみに料金は1台6000円だが、「まちなか」の窓口でもらった割引券で少し安くなった。

まずは説明会場へ。「降りない」「止まらない」「ぶつからない」の三大心得はさっきも聞いたが、さらに、人里を離れた山中を走行するため、ヘルメットだけでなく腰縄をつけて自転車に固定し(逸脱防止用?)、クマ対策として、車間距離を大きく空けずに、集団で行動するよう注意を受けた。

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「渓谷コース」の安全ルール
 

私たちが乗るのは中ほどの7号車だ。往路はずっと上り坂だが、勾配は15‰と「まちなか」に比べてやや緩い。それに最近の開設で電動アシストの性能もいいのか、太腿の抵抗感はほとんどなかった。序盤は森に包まれた渓谷をひたすら遡るルートだが、やがて左にカーブして最初の大きな橋、第一高原川橋梁を渡り始める。大小の石が散らばる河原を斜めに横断する長さ246mのPC桁橋だ(冒頭写真も参照)。

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(左)旧 漆山駅を出発
(右)序盤は森の渓谷を遡る
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(左)第一高原川橋梁を渡る
(右)深い淵を見下ろしながら
 

足もとにターコイズブルーの水を湛える淵を見下ろしながら、スノーシェッドに続いて長さ430mの第一漆山トンネルへ。これを抜けると現れるのが、コース一番の見どころである第二高原川橋梁の赤いトラスだ。渡り終えた線路は、間髪を入れず次の第二漆山トンネル(長さ285m)に吸い込まれていく。

最後に、第一と同じように左カーブしたPC桁の第三高原川橋梁(112m)を渡って、二ツ屋の折返し点に到達した。「まちなみ」と同様、場内信号機(?)で一旦停止し、1台ずつデッキへのスロープを駆け上がる。往路の所要時間は22分だった。

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(左)スノーシェッドから第一漆山トンネルへ
(右)ヘッドライトが進路を照らす
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トラスの第二高原川橋梁から第二漆山トンネルへ
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第三高原川橋梁を渡るとまもなく二ツ屋の折返し点
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折返し点のデッキでしばし休憩
 

ここでも約10分間の休憩が取られる。二ツ屋は鉄道の旧駅ではないが、この先トンネルと鉄橋の連続で適当な空地がないから、折返し場所に選ばれたのだろう。

復路は漕ぎ役を交代して、私は補助席へ。スタッフの「ゴー、レッツゴー」という元気な掛け声に送られて、再び1台ずつ出発した。下り坂につき、先行車のスピードが落ちるとすぐに追いついてしまう。風に乗って快調に走ったので、わずか15分ほどでもう起点のビニールハウスが見えてきた。折返し休憩を含めて、出発から帰着までの所要時間は約50分だった(下注)。

*注 公式サイトでは説明・折返し休憩込みで60~75分と案内されている。

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スタッフの掛け声を受けて復路出発
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快調に走って漆山駅に帰着
 

なつかしい人里を眺めながら走る「まちなかコース」と、クマが出そうな深山幽谷を行く「渓谷コース」。風景は対照的だが、どちらもカーブ、坂道、トンネル、橋梁と変化があって、おもしろさは甲乙つけがたい。廃線になると人々の関心は遠のきがちだが、線路さえ剥がしてしまわなければ、何なりと活用法はあるものだ。

■参考サイト
「ガッタンゴー」 https://rail-mtb.com/

「ガッタンゴー」の空き時間を利用して、私たちは周辺に残る神岡軌道の遺構もいくつか見学した。

神岡軌道というのは、国鉄神岡線が1966年に開業する以前に、この鉱山町に通じていた610mm(2フィート)軌間の軽便線だ(下注)。1910(明治43)年から1920(大正9)年にかけて、神岡町まで順次開業している。当時まだ現在の高山本線(当時は飛越線)はなく、起点は、富山鉄道(当時は富山軽便鉄道、後の富山地方鉄道笹津線)に連絡する笹津に置かれていた。

*注 当初は762mm(2フィート6インチ)軌間だったが、全通までに610mmに改軌。

富山からの飛越線が1930(昭和5)年に猪谷まで開通すると、軌道は対岸から神通川に架橋して、翌1931年から猪谷を起点とするようになる。また、1937年から1958年までは、森林鉄道からの連絡運輸のために、さらに上流の浅井田(あさいだ)に至る延伸線もあった。町にとって軌道は外界とつながる生命線だったが、国鉄の新線建設が始まると存在理由を失い、1963年から1967年にかけて順次廃止されていった。

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奥飛騨温泉口駅の保存車両
(左)神岡鉱山の電気機関車
(右)神岡軌道とほぼ同型の立山砂防軌道ディーゼル機関車(2020年に此地に到来)
 

遺構の一つ目は神岡に着く前、飛騨朝霧街道の神原トンネルを出て間もなく右手に見えるオブジェ群だ。草原の中に短い線路が敷かれ、有蓋貨車やレールバイクが置かれている。貨車は実物のようで、神岡軌道の歴史を記したプレートが貼り付けてあった。軌道のルートからは遠く離れているが、神岡への旅の前説というべきスポットだ。

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神原峠の神岡軌道オブジェ群
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(左)軌道に載る有蓋貨車
(右)神岡軌道の歴史を記すプレート
 

冒頭でも触れたように、「まちなかコース」に参加する前に、川向うにある坂巻橋梁跡を訪ねた。高原川の支流、和佐保谷川(わさぼたにがわ)を渡る浅井田延伸線の橋だ。流路を跨いでいた橋桁は撤去済みだが、両側に続くコンクリート高架が残されている。建設からかれこれ90年が経つはずだが、今も変わらず谷間に仁王立ちしているのが印象的だ。

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谷間に仁王立ちする坂巻橋梁
 

「まちなか」と「渓谷」の空き時間は、昼食休憩を兼ねて、神岡城のある城ヶ丘公園へ移動した。この周辺では、段丘崖に沿う形で、浅井田延伸線の跡が自転車・歩行者用の小道になっている。歩いてみると、市街地が眼下に広がって、なかなかいい眺めだ。

神岡軌道敷跡の立札から南は民家が張り付き、狭いながらクルマも通行できる。崖を上ってくる旧道をまたぐガーダー橋があった。きれいに塗装されているが、おそらくオリジナルだ。この廃線跡の公道は、奥飛騨温泉口駅に通じる県道484号との交点まで続く。

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神岡軌道敷跡の立札
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神岡軌道跡の道路
(左)市街地が眼下に広がる (右)旧道をまたぐガーダー橋
 

「渓谷」を乗り終えた後は、近くにある土(ど)駅跡を見に行った。JRの津のような一音地名の駅で、ローマ字表記ではそれより短いことで知られていた。駅は谷あいの発電所の前にあったそうだが、もちろん痕跡は残っていない。そればかりか下流側へ続く廃線跡が、国道のバイパス工事で封鎖されていた。やむなく集落まで戻り、山腹の神社への急な階段を上る。神社の前には明瞭な軌道跡があり、見たかったオーバーハング気味の岩壁へたどり着くことができた。

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(左)土集落の神社脇を通る廃線跡
(右)古レールも散見
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土駅近くにあるオーバーハング気味の岩壁

以下の写真3点は、大出さんが撮影した1984年3月、3セク化を前にした国鉄神岡線のようすだ。

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国鉄神岡口駅、現「まちなかコース」折返し点
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国鉄神岡駅、現「まちなかコース」発着点
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神岡駅当時の駅舎
(今もホーム横に残るが改装されている)
 

廃止直前の2006年9月に撮影した神岡鉄道の写真も提供してもらった(4点とも大出さん撮影)。

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漆山駅北方
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飛騨神岡駅のある神岡橋梁
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神岡大橋駅
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奥飛騨温泉口駅

参考までに、国鉄神岡線が記載されている1:200,000地勢図と1:25,000地形図を掲げる。

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図4 国鉄神岡線時代の1:200,000地勢図
(1972(昭和47)年修正)
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図5 国鉄神岡線時代の1:25,000地形図
猪谷~茂住間(1972(昭和47)年測量)
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図6 同 茂住~西漆山間(1972(昭和47)年測量)
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図7 同 西漆山~二ツ屋間(1972(昭和47)年測量)
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図8 同 二ツ屋~神岡口間(1972(昭和47)年測量)
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図9 同 神岡口~神岡間(1972(昭和47)年測量)
 

神岡軌道が描かれた1:200,000地勢図と1:50,000地形図は以下のとおりだ。なお、この地域の1:25,000地形図は、上掲の1972(昭和47)年測量図が初版のため、神岡軌道はもはや描かれていない。

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図10 神岡軌道時代の1:200,000地勢図
(1955(昭和30)年編集)
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図11 神岡軌道時代の1:50,000地形図
猪谷~茂住間(1966(昭和41)年補測調査、1959(昭和34)年修正測量)
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図12 同 茂住~土間(1959(昭和34)年修正測量)
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図13 同 土~二ツ屋間(1959(昭和34)年修正測量)
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図14 同 二ツ屋~神岡町間(1959(昭和34)年修正測量)
 

1958(昭和33)年に廃止された浅井田延伸線は、1色刷の旧版図に姿をとどめている。

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図15 同 神岡町~浅井田間(1953(昭和28)年応急修正)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和30年編集)、同(昭和47年修正)、同(昭和63年編集)、5万分の1地形図白木峰(昭和41年補測調査)、東茂住(昭和34年修正)、舩津(昭和28年応急修正)、船津(昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図猪谷、東茂住、鹿間、船津(いずれも昭和47年測量)および地理院地図(2026年5月10日取得)を使用したものである。

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2026年5月 4日 (月)

コンターサークル地図の旅-玉川上水(鷹の台~高井戸)

2026年3月29日、玉川上水沿いを歩くコンター旅の2日目。昨日ゴールした西武国分寺線鷹の台駅から、中央道高井戸ICの手前にある開渠区間の終点まで行く。(1日目の行程は前回参照)

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玉川上水のヤマザクラ
小金井・平右衛門橋から西望
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玉川上水ルート概略図
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図1 玉川上水中流部周辺の1:200,000地勢図
(2012(平成24)年編集)

朝からいい天気だ。気温も昨日より明らかに高くて、もう上着は必要ない。少し早く駅に着いたので、付近を散策して集合時刻の9時に戻ると、改札前に中西さんと森さんの姿があった。まもなく大出さんも加わり、4名で出発。

上水の両岸には、小平監視所以来のうるわしい緑道がまだ続いている。とりわけ左岸(北側)は、新堀(しんぼり)用水が並走する分、緑地の幅が広い。それに、点在する公園や大学のキャンパスを覆う木々も視界に重なって、まるで深い森の中にいるように錯覚する。

都道17号所沢府中線の久右衛門橋から上水の水面を覗き込むと、墨色の肌を光らせた大きな真鯉がうようよいた。人の気配がすると餌を期待して集まってくるのだろう。流れているのは再生水(下注)だが、魚も棲める水質が保たれているということだ。

*注 1986年以来、小平監視所から下流では、昭島市の下水処理場で浄化した再生水が流されている。

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並走する新堀用水(左)と玉川上水(右)
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(左)春の陽が差し込む緑道
(右)水路の真鯉たち
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
鷹の台~茜屋橋
 

少し行くと緑道脇に、玉川上水立坑と記されたコンクリート造の小屋が建っていた。これだけでは謎の施設だが、鉄扉に「列車通過中 扉の開閉注意」とあるのがヒントだ。答はJR武蔵野線小平トンネルの立坑入口で、地図を見ると、津田塾大の東側を南北に走っているトンネルの直上にある。上水の開渠区間と交差する鉄道のなかで唯一、姿を見せない武蔵野線だが、意外な手がかりを地上に残している。

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(左)武蔵野線の立坑(4月撮影)
(右)大木の間を縫って
 

まもなく小川水衛所跡にさしかかる。堀割がそこだけ広がり、ウッドデッキの一段下に木漏れ日のさす休憩地があった。水辺近くまで降りられる場所は貴重だ。グレーの真鯉たちに混じって、白地に黒のまだら模様の錦鯉も元気に泳いでいる。

ここは江戸時代に、上水を管理する番人が詰める「水番所」が置かれたところだ。明治に入り水衛所と改称されたが、同じように水路の点検や清掃を担う事務所として、1965年の淀橋浄水場廃止で通水が停止されるまで存続した。

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小川水衛所跡(4月撮影)
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(左)水辺近くに降りられる
(右)真鯉に混じって錦鯉も
 

水衛所跡のすぐ下手には、「名勝境界」と刻まれた小さな碑が2本並んでいる(下注)。国の名勝「小金井(サクラ)」の西端を示す目印だ。上水沿いのサクラは18世紀前半、徳川吉宗の時代に、土手の崩壊防止に加え、花弁が水の毒を消すとして植樹された。以来、小金井は花の名所として知られ、奈良の吉野や茨城の桜川とともに、1924(大正13)年にいち早く名勝に指定されている。

*注 2本は新と旧を意味するようだが、いずれも東京都の文字が見えるため、戦前のものではなさそうだ。

昨日から沿道を彩るサクラを見続けてきたとはいえ、6km東にある名勝の東端、境水衛所までの間が花見の本場ということだ。当時はまだソメイヨシノが開発されておらず、各地から取り寄せたヤマザクラが植えられた。その伝統は今も守られていて、さわやかな白い花と芽吹いたばかりの若葉のハーモニーが美しい。

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(左)名勝境界碑
(右)ヤマザクラはさわやかな装い
 

右岸では、通行量の多い五日市街道(都道7号)が南から近づいてきて上水に張りつく。しかし、左岸はまだのどかな風景だ。一橋大の広い人工芝のコートで、練習に励む学生たちの姿がある。水路に架かる商大橋はうっかり「あきない…」と読んでしまいそうだが「しょうだいばし」で、前身である東京商科大学の記憶をとどめるものだ。

桜橋の隣を西武多摩湖線が横断している。ちょうど警報機が鳴りだしたので、多摩湖行きの9000系をカメラに収めることができた。やはり西武電車は黄色でないと…。踏切が上水の右岸にしかないため、線路の東では一時的に左岸の散策路が途切れる。100m先の八左衛門橋で再び左岸へ。

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西武多摩湖線が横断
 

喜平橋では五日市街道が左岸に移ってきて、行き交うクルマの数が増える。一方の右岸も2車線道のままだ。歩く道はどちらも植込みで隔てられているものの、趣きのある散策路とは言い難くなった。植わるサクラにとっても過酷な環境だ。クルマと人に両側から踏まれて土が固まり、張った根も傷む。幹の太さの割に枝ぶりが弱々しく、樹勢の衰えがあらわな木も少なくない。

実際、名勝ともてはやされたのは遠い昔の話で、戦後の小金井桜は衰退の一途をたどったようだ。排気ガスによる大気汚染や、ケヤキなど高木の成長による被圧に加えて、1970年代の通水停止に伴う土壌の乾燥も、生育に悪い影響を及ぼした。ようやく2010年代に入り、景観再生の取組みが本格化したところだという。

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(左)名勝小金井桜の碑
(右)過酷な環境に立つサクラ並木
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盛期の小金井桜(名勝小金井桜碑の説明板を撮影)
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図3 同 茜屋橋~境水衛所跡
 

東へ進むにつれ、緑道を歩く人もしだいに増えてきたが、想像していたような人出ではなかった。花見客はむしろ近くの小金井公園のほうに移っているようだ。公園最寄りの小金井橋交差点は、どの方向からもクルマが渋滞し、側歩道もまた、武蔵小金井駅方面から歩いてくる人の列がとぎれない。

公園の片隅に静態保存されているC57と旧型客車のエリアが土日だけ開放されるので、私たちも人波に混じってそちらに足を向けた。園内西側に広がる桜の園ではソメイヨシノが見ごろになり、花見や行楽の客で大いに賑わっている。確かにストレスだらけの上水べりに比べて、開放的な空間でのびのびと育つことのできた木は幸運だ。

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花見客で賑わう小金井公園
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小金井公園のC57 186号機
 

上水に戻ると、小金井橋から梶野橋まで、水路の上空を覆っていたはずの雑木や下草がきれいに刈られ、サクラの木の列だけが残されていた。景観再生のための整備の一環だろう。補植された若木も多いので、そのうち立川の見影橋で見たようなみごとな並木に育つのだろうか。

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小金井橋のたもとに保存された旧橋のアーチ
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雑木が除去された水路
 

街道沿いのファミレスで昼食休憩をとった後、再び歩き出す。境橋交差点では、左に千川上水の緑地が見える。橋の下手には境水衛所跡があり、清流復活事業で任務に復した分水門が千川へ水を分けている。ここでも水路に鯉が放たれているが、小川水衛所にもまして数が多く、見るからに生存競争が厳しそうだ。

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桜樹接種碑
左写真は「さくら折るべからず」と刻まれた表側
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(左)千川上水の緑地が左へ
(右)境橋の親柱
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(左)境水衛所跡の分水門
(右)生存競争は厳しそう
 

五日市街道は千川上水に連れ添って遠ざかり、玉川上水は穏やかな野の川の風景に戻る。細々とした緑道が、太いサクラの木の幹に遠慮しながら延びている。独歩橋という名の小橋に続いて、武蔵境通り(都道12号)が載る桜橋のたもとに国木田独歩の文学碑があった。この橋の名が登場する「武蔵野」の一節が刻まれているそうだが、彫りが浅くてよく読み取れない。

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(左)独歩橋
(右)国木田独歩文学碑
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図4 同 境水衛所跡~井の頭公園
 

左側の門は、都心に水道水を供給している境浄水場だ。整然とした並木を伴い、約700mにわたって上水の北縁を占めている。緑道の幅にも余裕があるし、何より市街地が視野に入らないので、郊外へ遠足にでも来たような気分になる。

右岸に立つ品川用水の取水口跡の案内板も見に行った。西大井まで25km流れ下っていたという分水路だ。案内板の設置者が、遠く離れた品川区と武蔵野市の教育委員会の連名というのも水路が取り持つ縁だろう。

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境浄水場正門
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(左)浄水場のフェンスと並木が続く
(右)品川用水取水口跡
 

浄水場の東端を限る新武蔵境通り(都道12号バイパス)の橋は、親柱に「いちょう橋」と刻まれている。一方、隣の側歩道の橋は「ぎんなん橋」だ。漢字で書けば同じになってしまうから、どちらもひらがな表記が正式らしい。ぎんなん橋のほうは、路面にレールが埋め込まれているのがユニークだ。これは戦時中に建設された中島飛行機の工場引込線で、戦後、武蔵野競技場線として使われた線路の跡を記念するものだ。草に覆われて明瞭ではないが、橋台はオリジナルだという。

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(左)橋面にレールが敷かれたぎんなん橋
(右)オリジナルの橋台は草に覆われる
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引込線橋台跡の案内板
 

再び現れるのどかな住宅地を左手に見ながら、狭い土の側歩道をたどる。人通りが多くなってきたことに気づくころ、右から2車線の市道が合流してきた。上水は、次の三鷹通り(都道121号)を載せる欅(けやき)橋の手前で、いったん暗渠に入る。三鷹駅北口に続く緑地にも疑似水路が切ってあるが、水はほとんど流れていない。

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(左)欅橋交差点を東望
(右)三鷹駅北口に続く緑地の疑似水路
 

水路はJR中央線と浅い角度で交わっていて、その真上に三鷹駅がある。橋上のコンコースを伝って、南口に出た。ペデストリアンデッキの上から見下ろすと、続きの緑地帯が南東方向に延びていた。

上水が開渠に戻る三鷹橋のたもとには、旧三鷹橋の石造欄干がひっそりと設置されている。横にはなぜか昔の手押しポンプもあった。「この水はのめません」と記され、排水用のグレーチングもあるので、動態保存(?)のようだが、衆人環視のもとで試すのは勇気が要る。

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三鷹駅南口東側、右奥の林が上水の続き
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旧三鷹橋の欄干と手押しポンプ
 

上水は、御殿山通りと南側の市道「風の散歩道」にはさまれ、都会の風景に溶け込みながら続く。市道の途中に、太宰治の入水地を暗示した天然石のモニュメントがある。太宰の出身地、青森県金木町の特産で、玉鹿石(ぎょっかせき)と呼ばれる石だそうだ。関連して少し駅寄りに、上水に言及した作品の一節を記すプレートが設置されていた。近くには作家 山本有三の瀟洒な自宅洋館を公開する記念館もあるし(下注)、さっと通り過ぎるには惜しい界隈だ。

*注 当日は、残念ながら施設改修のため、長期休館中だった。

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(左)玉鹿石
(右)太宰の作品に言及するプレート
 

吉祥寺通り(都道114号)の万助橋(下注)から、上水は、目の前に広がる井の頭恩賜公園の森に吸い込まれる。水路沿いから見える西園中央の芝生広場は、小金井公園と同じように、レジャーシートを広げた行楽客でいっぱいだ。私たちも木陰に腰を下ろしてしばし休憩した。

*注 表記は「万助橋」が一般的だが、橋の親柱には、由来の人名どおりに旧字体を使って「萬助橋」とあった。

ところで、今いるあたりは三鷹市と、吉祥寺のある武蔵野市の境になる。地元の人には常識だろうが、井の頭公園の西園だけでなく、吉祥寺駅にほど近い井の頭池も、実は三鷹市だ。「確かに井の頭線の駅だと、吉祥寺から東へ行くのに、井の頭公園の次が三鷹台ですもんね」と私。ここへ来る途中、案内板の地図を見て初めて気づいたが、武蔵野市と三鷹市の位置関係は東西ではなく、ざっくり北と南なのだ。

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万助橋から井の頭公園へ
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(左)西園のトラックと芝生広場
(右)公園内の上水緑道
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図5 同 井の頭公園~高井戸
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図6 図5と同じ範囲の陰影起伏図に地名等を加筆
 

公園域を出てもなお深い森のベルトは続いている。ナザレ修女会の裏庭を開放した静かな緑地を右手に見送ると、明星通りが渡る新橋だ。比較的直線で進んできた上水だが、ここで牟礼(むれ)残丘にぶつかる。これは、一帯に広がる武蔵野面より一段上の下末吉(しもすえよし)面に属する古い段丘だ。標高は60~65mで、周囲に比べて10m前後高い。

上水は、牟礼の古い集落があった残丘の南面を避けて、神田川斜面である北面の中腹に通された。こちらは神田川(とその支流)の浸食による起伏があるため、水路は一転、右に左に蛇行を繰り返すようになる。今や周囲はすっかり住宅街だが、水路沿いの道は右岸の方が高いし、雑木林の牟礼園地も傾斜地で、残丘の地形を感じ取ることができる。

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(左)公園を流れ下る上水
(右)ナザレ修女会裏の緑地
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(左)シングルアーチの宮下橋
(右)右岸に残された緑地、牟礼園地(4月撮影)
 

斜面をたどる静かな森の道は、人見街道(都道14号)の牟礼橋で終わる。斜めに渡る橋の上流側に、小さな石橋と土道が残されていた。草に埋もれた石碑によれば「どんどん橋」というらしい。

牟礼橋からは、再び平坦な武蔵野面を直線的に走る区間だが、右手から来た東八道路(都道14号バイパス)の上下線に両側からはさまれる。首都高につながる道路なので、喧騒に包まれるだろうと予想していたが、意外に歩きやすい道だった。幅広の緑地帯がそっくり残されているし、緑道もゆったりとして、隣の車道から受ける圧迫感がないのだ。それに、枝ぶりのいいサクラ並木の下で、上水の花見を締めくくることもできたし…。

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(左)牟礼橋の傍らに残るどんどん橋
(右)東八道路に挟まれる上水緑道
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幅広の緑地帯を彩るサクラ
 

この道を1.3km進んで、16時5分ごろ、浅間橋(跡)の手前にある開渠区間の終点にたどり着いた。小平監視所から延々流れてきた水は、フィルターを介して暗がりに吸い込まれていく。この後は地下を通って、高井戸の佃橋で神田川に放流されているそうだ。水路を失った跡地には、右手からやってきた中央道の高架橋が覆いかぶさり、潤いある景観は途絶えてしまう。

鷹の台駅から約15km、2日目の旅を無事終えた私たちは、最寄りの京王井の頭線富士見ヶ丘駅へ出て、そこで解散とした。

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(左)開渠区間の終点
(右)この先は中央道の高架橋が覆いかぶさる
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2026年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
東京都水道局 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/
むさしのの都立公園 https://musashinoparks.com/

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