« コンターサークル地図の旅-今福線跡 | トップページ | コンターサークル地図の旅-玉川上水(羽村取水堰~鷹の台) »

2026年4月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-西鉄北九州線跡、大蔵線跡

2026年3月9日のコンター旅は、北九州市内にある二つの廃線跡を訪ねる。一つは、西鉄北九州線のうち枝光線の専用軌道区間、もう一つは、現 JR鹿児島本線小倉~黒崎間の「山線」だった大蔵線だ。

Blog_contour9501
八幡・中央町交差点を折れる戸畑行き電車
(1984年9月撮影)
Blog_contour95_map1
図1 西鉄北九州線現役時代の1:200,000地勢図
(1985(昭和60)年編集)

7時30分、鹿児島本線の枝光(えだみつ)駅に集合したのは大出、山本、私とゲストの田村さんの4名。ここから戸畑まで歩くつもりだが、その前に、日本製鉄の専用線「くろがね線」を走る貨物列車を撮影しようと、近くの跨線橋に張り込んだ。

しかし、運行ダイヤがわからないので、ひたすら待つしかない。大出さんは集合場所へ歩いてくる途中、西向きに走る列車を目撃したそうだ。その時間に西へ行ったのなら、当分戻ってこないのではないか。山の上の学校まで長い坂道を上っていく高校生たちを見送りながら9時まで粘ったが、案の定、もくろみは空振りに終わった。

Blog_contour9502
くろがね線の新旧鉄橋を西望
Blog_contour9503
くろがね線の機関車
(左)先頭の電気機関車E8502 (右)後尾のディーゼル機関車
(いずれも大出さん提供)
 

諦めて、本題の廃線跡へ。西鉄北九州線というのは、かつて市内の主要地区をカバーしていた路面電車網だ。門司から小倉、黒崎を経て折尾に至る本線29.4kmのほかに、戸畑線5.5km、枝光線4.8km、北方(きたがた)線4.6kmと3本の支線があった。

*注 軌間は北方線のみ1067mm、他は標準軌1435mm。

このうち八幡東区の中心部、中央町(ちゅうおうまち)から北上して、戸畑線と出会う幸町(さいわいまち)までのルートが枝光線だ。戸畑線や本線の砂津以東とともに1985年10月に廃止されたが、私はその1年前、1984年9月に乗って写真も少し撮っているのでなつかしい。

Blog_contour95_map2
図2 1:25,000地形図にルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  枝光~戸畑間
Blog_contour95_map3
図3 上図と同一範囲の旧版1:25,000地形図
(1960(昭和35)年資料修正)
 

専用軌道は、現 枝光駅の1.2km南にあった山王(さんのう)停留場付近から始まる。枝光本町で一度路面に戻るものの、くろがね線の鉄橋手前で再び専用軌道になり、市街地を抜けていた。鉄橋下からしばらくの間、跡地は駐車場、民家、コンビニの敷地などに姿を変えているが、比較的たやすくその跡をたどることができる。

旧 枝光駅前を過ぎると、JRの電車線が頭上を斜めに横切るが、その直下に踏切跡の石畳があるのを田村さんが見つけた。複線のレールがあった部分だけ、敷石の間隔が開いている。すぐ先には橋台の対も残されていた。現在は階段道に使われているが、昔は小川をまたいでいたのだろうか。

Blog_contour9504
(左)くろがね線鉄橋下の軌道跡
(右)現 枝光駅直近の軌道跡
Blog_contour9505
(左)JR線高架橋下の軌道跡(道路の左側)
(右)踏切跡の石畳
Blog_contour9506
(左)階段道に残る橋台の対
(右)石垣の上が軌道跡
 

この辺りから牧山の鞍部に向けては、上り坂だ。右手から山が迫ってきて住宅の列が途切れ、左に並走する県道50号八幡戸畑線が見えるようになる。坂の途中に100mほど空地のままの跡地が残されているが、またすぐ民家の敷地に戻り、市道が載る牧山高架橋の下をくぐる。

サミットは、この150m北にある牧山南歩道橋付近だ。この歩道橋はかつて枝光線の牧山停留場に通じていたもので、私は当時、ここで途中下車して、市道の高架橋と歩道橋の上から写真を撮った。しかし今は、崖上から覆いかぶさるように住宅敷地が張り出して、風景が一変してしまっている。

Blog_contour9507
(左)牧山高架橋から軌道跡を南望
(右)42年前の同じ場所(1984年9月撮影)
Blog_contour9508
(左)牧山南歩道橋から南望
(右)左に見えるホームは牧山停留場(1984年9月撮影)
 

サミットを越えた下り坂でも宅地や街路が続くが、鹿児島本線の牧山トンネル北口付近には、道を跨いでいた橋の橋台と、JR線にかぶさるコンクリートの薄い橋桁が残っていた。

鹿児島本線のこの区間は、1966年の小倉~折尾間複々線化に際して、牧山の岬を回っていた既存線(現 貨物線)をショートカットする形で造られた新線だ。枝光線の下をくぐったすぐ先で県道をまたぐという離れ業(?)を見せていて、枝光線の橋桁の薄さはクリアランスを確保するための苦心の設計に違いない。

この交差から200m足らずの間は、線路跡の土道が延びている。その終端は築堤で、街路を跨いでいた橋台の片方が残る。反対側は宅地の列が続き、天籟寺川(てんらいじがわ)に架かる昭和橋でようやく市道との合流を果たす。あとは戸畑線と出会うまで、市道の中央を行く路面軌道だ。

Blog_contour9509
(左)JR線牧山トンネル北口
   街路脇に橋台が残存、JR線は左の壁の裏を通る
(右)JR線を跨ぐ薄い橋桁
Blog_contour9510
(左)200m続く軌道跡の土道
(右)土道の終端に橋台が残る
 

枝光線を走る電車は、幸町で戸畑線に入り、若戸渡船の渡場前にある戸畑停留場が終点だった。JR戸畑駅を通り抜けてそちらへ行ってみると、停留場跡は空地で残されていた。若戸大橋の巨大なアンカーが目の前にそびえ立ち、渡し場には今も渡船が発着しているが、電車のターミナルだったことを示すものは見当たらない。せめて空地の前に立つ観光案内板に、一言添えてあるといいのだが。

Blog_contour9511
(左)現在の若戸渡船戸畑渡場
(右)戸畑を発つ折尾行き電車、戸畑渡場は電車の後方(1984年9月撮影)
Blog_contour9512
(左)戸畑停留場跡は更地に
(右)当時の戸畑停留場(1984年9月撮影)
Blog_contour9513
若戸大橋の下の渡場風景は昔と変わらない

戸畑駅から八幡駅までJR線の電車で戻り、次は大蔵(おおくら)線跡を訪ねた。

小倉~黒崎間を最短距離で結んだこの路線は、1891(明治24)年に開通した門司(現 門司港)から博多方面に至る九州鉄道のオリジナルルートだ。しかし、長崎街道に沿って内陸を通過するため、途中の大蔵越えと呼ばれる勾配区間が運行上の難所になっていた。

1902年に、戸畑経由で海岸を迂回する新線(戸畑線)が完成すると、主要列車は通らなくなる。国有化後の1908年に大蔵線と改称のうえ、支線に格下げされたのもつかのま、1911年に並行する九州電気軌道(後の西鉄北九州線)が開業したのを機に、あえなく廃止されてしまった。

廃止から115年が経過し、その間に沿線はすっかり市街地化した。もはや当時の情景を想像するのも難しいが、線路跡をなぞる道路をたどりながら、わずかに残る痕跡を追ってみた。

Blog_contour9514
駅跡を示す大蔵公園の案内板
 

スタート地点は、八幡駅前から国際通りを南下した旧 八幡市民会館の裏手だ。東へ延びる街路が大蔵線跡に沿っている(下注)。しばらく進むと、一つ目の遺構である尾倉(おぐら)橋梁がある。橋梁といっても実態は、谷をまたぐ築堤の下の煉瓦造カルバートで、街路が通り抜けている。

*注 ちなみに西側は、区画整理によって痕跡は消失した。

アーチは幅広だが、制限高はわずか2.0mだ。もとは小川をまたぐためのもので、その上を道路にしたのかもしれない。築堤もとことん利用されていて、北側では法面に勝手擁壁を築いて民家が建ち並んでいる。一方、南側は養生された法面だが、以前は同じように民家の敷地になっていたようだ。

Blog_contour9515
尾倉橋梁
Blog_contour9516
(左)橋梁上の旧線跡をなぞる市道(西望)
(右)階段道で下の街路に降りられる
Blog_contour95_map4
図4 1:25,000地形図にルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  八幡~大蔵間
 

廃線跡をなぞる市道は、製鉄記念八幡病院の構内を前にして行き止まる。頭上を横切る北九州高速5号線の東側では、山手通りのカーブに名残りをとどめるが、ここは谷地形で、線路は高度を維持するために高い築堤で渡っていたはずだ。現在の山手通りは中央町交差点に向けてむしろ下っていくので、当時の面影は消失している。

八幡東区役所の東側からは、一車線の街路が本来の高度で東へ続く。空中写真を参照すると、廃線跡はこの街路ではなく、その北側に並ぶ民家の列のようだ。

Blog_contour9517
(左)製鉄記念八幡病院前で行き止まる旧線跡市道
(右)旧線跡と山手通りの重複区間
 

かつて西鉄北九州線が通っていた片側3車線の旧電車通り(県道62号北九州小竹線)が接近してくると、大蔵公園だ。ここには、路線唯一の中間駅である大蔵駅があった。駅は、洞海湾沿いに官営八幡製鉄所が建設されることに伴い、1898年に開業した。いっとき八幡の表玄関として賑わったが、それもつかのま、1902年に戸畑線の八幡駅(下注)が開業すると、あっけなくその役割を終えた。公園の東端には説明板が立ち、足もとに「九銕(鉄)用地」と刻まれた当時の境界標が移設されている。

*注 当時の八幡駅は、現駅の約1km東の旧線上にあった。現位置に移転したのは1955年。

Blog_contour9518
大蔵駅跡の大蔵公園
Blog_contour9519
(左)公園石碑
(右)案内板の足もとに移設された「九銕用地」境界標
 

その200m先、両国橋のたもとには、二つ目の遺構、大蔵橋梁の橋脚断片を据え付けたモニュメントがある。これは、目の前の板櫃川(いたびつがわ)を渡っていた橋の煉瓦橋脚の付け根部分で、河川改修が行われる以前は、河原に顔を出していたのだという。ちなみに両国橋は、北の山際を通るもとの長崎街道に対して、電車通りの建設に伴い新たに架けられた橋だ。豊前国と筑前国の境界をまたいでいるので、その名がある。

Blog_contour9520
大蔵橋梁の橋脚断片のモニュメント
Blog_contour9521
(左)右端には石積みも残る
(右)かつて橋が架かっていた板櫃川
 

板櫃川を渡った後は、旧電車通り(県道296号大蔵到津線)の1本南を走る市道が、廃線跡をなぞっていく。地元ではこの道のことを「旧線路」と呼んでいると聞いた。センターラインのない街路だが、信号機が少ないからか、けっこう車が行き交う。

旧電車通り沿いのラーメン店で昼食休憩した後、三つ目の遺構、茶屋町橋梁へ向かった。槻田川(つきだがわ)をまたぐ煉瓦アーチの目立つ構造物で、旧線跡の市道からやや南にずれた位置に架かっている(下注)。案内板によると、一時期歩道橋として使われていたため、撤去されずに残ったそうだ。

興味深いのは側壁面で、南側がイギリス積みで滑らかに仕上げられている一方、北側は複線化での拡幅を見越して、煉瓦を交互にせり出したままにしてある。よく似た造りを、平成筑豊鉄道の赤~内田間にある内田三連橋で見たのを思い出した。

*注 旧図と照合する限り、市道と実際の旧線跡がずれるのは、石坪町のカーブ以東のようだ。

Blog_contour9522
槻田川をまたぐ茶屋町橋梁
Blog_contour9523
(左)南側壁面は滑らかな仕上げ
(右)北側は煉瓦を交互にせり出し
Blog_contour95_map5
図5 同 大蔵~金田跨線橋間
 

大蔵線の見どころは、以上だ。私たちはここで解散したのだが、大出さんによると、この1km東にある九州歯科大附属病院の東側に、大蔵線の築堤の一部がある。現状は、北側の法面が残るものの、南側は盛り土のうえ駐車場化され、もはや築堤とは言えなくなっていたそうだ。

次の痕跡は、国道3号を横断した小倉西高校の南側で、周囲とは異なるマンションの向きが旧線跡を示唆している。清水三丁目交差点からは北東に向かう直線の街路が旧線跡をなぞっていて、旧電車通りの金田跨線橋の下で、現 日豊本線にスムーズに合流する。そのあとは日豊本線が大蔵線跡を引き継いで、小倉に至る。当時の小倉駅は、現在の西小倉駅付近にあった(下図参照)。

Blog_contour9524
(左)病院東側に残る築堤跡
(右)反対側は盛土して駐車場化
   (いずれも大出さん提供)

参考までに、大蔵線が記載されている1:200,000帝国図と1:20,000地形図(1:25,000相当に縮小)を掲げておこう。

Blog_contour95_map6
図6 大蔵線現役時代の1:200,000帝国図(1912(明治45)年製版)
Blog_contour95_map7図7 大蔵線現役時代の1:20,000地形図
 (1898~1900(明治31~33)年測図、80%に縮小)
 黒崎周辺
Blog_contour95_map8
図8 同 大蔵周辺(図4と同一範囲)
Blog_contour95_map9
図9 同 茶屋町橋梁周辺(図5と同一範囲)
Blog_contour95_map10
図10 同 小倉周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1帝国図小倉(明治45年製版)、20万分の1地勢図福岡(昭和60年編集)、2万5千分の1地形図八幡市(昭和35年資料修正)、2万分の1地形図小倉(明治31年測図)、北方、二嶋、黒崎(いずれも明治33年測図)および地理院地図(2026年3月20日取得)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-可部線(あき亀山~三段峡)跡
 コンターサークル地図の旅-今福線跡
 コンターサークル地図の旅-玉川上水(羽村取水堰~鷹の台)
 コンターサークル地図の旅-玉川上水(鷹の台~高井戸)
 コンターサークル地図の旅-神岡鉄道レールバイクと神岡軌道跡

« コンターサークル地図の旅-今福線跡 | トップページ | コンターサークル地図の旅-玉川上水(羽村取水堰~鷹の台) »

日本の鉄道」カテゴリの記事

廃線跡」カテゴリの記事

コンターサークル-S」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« コンターサークル地図の旅-今福線跡 | トップページ | コンターサークル地図の旅-玉川上水(羽村取水堰~鷹の台) »

2026年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

ACCESS COUNTER

無料ブログはココログ