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2026年4月

2026年4月28日 (火)

コンターサークル地図の旅-玉川上水(羽村取水堰~鷹の台)

玉川上水は、多摩川の水を江戸市中まで送るために建設された歴史ある水路だ。全長は約43km、今回はこのうち開渠部、すなわち水路に蓋がされていない上流・中流区間約30kmを2日間かけてたどる。30kmなら1日で踏破できるのかもしれないが、サクラの見頃でもあり、無理をせず周りの風景も楽しみながら歩きたいと思っている。

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玉川上水のサクラ並木
立川・見影橋から西望
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玉川上水ルート概略図

玉川上水が完成したのは、4代将軍徳川家綱の治世の1653(承応2)年。翌年6月から通水が始められた。このころの江戸は参勤交代制度が確立して、居住人口が急速に増加していた。水の使用量もそれに比例して増え、神田上水など既存の水源では不足をきたすようになった。そこで幕府は、多摩川の豊かな水量に着目し、新たな水路を掘ってこれを引き入れようとしたのだ。

羽村(はむら)に設けられた取水口の標高は126m。それに対して江戸の入口、四谷大木戸(よつやおおきど)は34mで、その差92m。平均すると1km進んで約2m、千分率で2‰という極めて緩い勾配路だ。当時の測量技術の高さがうかがい知れるが、これを着工からわずか8か月で完成させたというから、その突貫工事ぶりも想像を超える。

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羽村取水堰
 

2026年3月28日朝9時、青梅線羽村駅の改札前に集合したのは大出、中西、私の3名。商業ビルが並ぶ東口に比べてひっそりとした西口から、片側1車線の道を多摩川に向かって下っていった。都道29号立川青梅線(奥多摩街道)を横断すると、取水堰に降りる階段があった。小橋で上水をまたいで、反対側の公園に行けるようになっている。

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(左)羽村駅から出発
(右)お寺坂で拝島段丘の崖線を降りる
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図1 玉川上水上流・中流部周辺の1:200,000地勢図
(2012(平成24)年編集)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
  羽村取水堰~拝島・日光橋間
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図3 段丘を「上っていく」水路
  図2と同じ範囲の陰影起伏図に地名等を加筆
 

橋の上で観察すると、上流側では、護岸に並行する長い第1水門から川の水が絶えず流れ込んでいる。下流側には、それを受け止める第2水門がある。都水道局のHPによると、平水時は多摩川の水をいったん全量取り込むのだそうだ。そのうえで下流の流量確保のため、第2水門の脇にある小吐水門から毎秒2立方mを川へ戻している。

また、川の本流にも第1水門と直行する形で、別の堰が見えるが、これは投渡堰(なげわたしぜき)と呼ばれる。丸太や木の枝、砂利などでできていて、川が増水すると取り払って、水門に過度の水圧がかからないようにする仕掛けだ。

取水堰へ水を集めるための誘導堤があるとはいえ、地図を見ると、堰の位置はもともと川の攻撃斜面だ。多摩川がすぐ上手で右岸(西)の山に突き当たる反動で、流路が左岸(東)に偏っている。水量が少ない時期でも、無理なく取水できそうなベストポジションだ。公園の一角には、この大事業の進行を指揮した玉川兄弟の像が立ち、今も水路を見守っている。

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羽村取水堰
(左)第1水門 (右)第2水門
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投渡堰、右は小吐水門
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(左)玉川兄弟像
(右)台座裏側の碑文
 

下流へ向けて歩き出した。しばらく水路右岸の通路にサクラ並木が続いているが、今はまだ三分咲きというところだ。500mも進まないうちに、大掛かりな第3水門の施設があった。現地を知る中西さんいわく「ここで分水されて、大半は村山貯水池へ行ってしまうんです」。あれほどたっぷりとあった水量が、水門を境にして激減し、足を浸けても立てるぐらいの深さになってしまう。

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第3水門
後ろはインクラインがあった段丘崖
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(左)第3水門の上流側
(右)下流側では水量が激減
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多摩川の原水の流れ図(公園の案内板を撮影)
 

村山貯水池(多摩湖)へ向かう地下水路の上は水道道路と呼ばれて、横田基地の横断区間を除き、街路や自転車道になっている。ここには、かつて建設資材の川砂利を運ぶ簡易軌道が敷かれていたそうだ。目の前の段丘崖をインクラインで克服していたというので、その痕跡を探そうと、寄り道することにした。

坂道を上った先に「羽村山口軽便鉄道 廃線跡」の案内板を見つけたところまではよかったが、痕跡は判然としない。まっすぐ東へ延びているはずの水道道路も、道路工事のバリケードで厳重に目隠しされ、見通すことができなかった。

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段丘崖上から第3水門を俯瞰
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羽村山口軽便鉄道廃線跡の説明板
 

上水べりに戻って、改めて右岸を彩る立派なサクラ並木をたどる。すでに多摩川の氾濫原とは高低差がつき始めていて、やがて水路は、深い掘割で一段目の河岸段丘、天ヶ瀬面に食い込んでいく。玉川兄弟が造った最初の水路は段丘崖に沿っていたのだが、多摩川の増水時に側面浸食にさらされたため、1740(元文5)年に山側へ付け替えられた区間だ。

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(左)天ヶ瀬面に載る地点
(右)雑木林の中の付け替え区間
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(左)旧堀跡の碑
(右)旧堀跡と段丘崖(いずれも4月撮影)
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玉川上水旧堀跡の説明板
 

旧 水路と現 水路の間は、福生加美上水公園という名の小高い森になっている。富士山が見えるという竹製の覗き眼鏡があったが、あいにく今日は花曇りで、遠方はかすみの向こうだ。大正天皇の陵墓に使う石材を運搬したという福生砂利軌道(下注)跡の小道が、公園を横切り、高い堤を築きながら河原へ降りていく。水路に架かる加美上水橋の親柱には、いわれを刻んだ石板がはめ込んであった。

*注 福生河岸~福生駅間1.8km、1927(昭和2)年開設、1959(昭和34)年休止。

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(左)福生砂利軌道跡に架かる加美上水橋
(右)河原に降りていく軌道跡の築堤
 

新旧水路が合わさる地点は、左へ不自然に急カーブしているのでわかる。ここからは深い掘割を抜け出し、市街地に入る。その前に、広大な敷地に美しい白壁の酒蔵が立ち並ぶ田村酒造場に寄り道した。蔵見学は予約が必要だが、前蔵に飛び込みでも入れる商品の展示コーナーがある。現物も事務所で買えると聞いたが、重い酒瓶を携えて歩くには先が長すぎた。

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田村酒造場
(左)酒造蔵 (右)展示コーナーのある前蔵
 

宮本橋からしばらく、上水に沿う道がなくなるため、クルマが行き交う奥多摩街道の側歩道を歩かなければならない。水路から離れてしまう区間も多いので、手元の地図をにらみながら最短経路をたどる。途中で右に見える中福生公園が、やや低い位置にあることに気づいた。水路は熊野橋から、拝島の旧市街(下注)が載る上位の段丘、拝島面に移るのだ。

*注 旧市街(現 拝島町1~2丁目)は、JR拝島駅から約1.5km南に位置する。

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(左)やや低い位置にある中福生公園
(右)水路沿いの道がない区間、福生橋から下流を望む
 

上水西踏切で青梅線を横断し、五丁橋で右岸に渡り返すと、水喰土(みずくらいど)公園の入口がある。上水掘削の際、試しに通水したところ、全部地中に浸み込んでしまい、ルートを変えて掘り直しを余儀なくされた、と伝えられる場所だ。放棄された掘削跡とされるものの一部が公園内に残されていた。このあたりで上水は、さらに上位の段丘、立川面に上がるので、ルート選定にあたって試行錯誤があったのかもしれない。

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(左)水喰土公園入口
(右)放棄された掘削跡
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水喰土の説明板
 

公園からは、上水の右岸に遊歩道が復活する。八高線の鉄橋下をすり抜け、国道16号の高架下を通り、拝島駅裏で旧 日光街道が通る日光橋のたもとに出る。橋は本来、1891(明治24)年に架けられた煉瓦造のアーチ橋だが、戦後、コンクリートで両側に拡幅された。今でも下から覗くと当初の煉瓦積みが見えると、案内板に記載がある。

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(左)八高線の鉄橋下をすり抜ける
(右)日光橋のアーチが見えてきた
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旧 日光街道が通る日光橋
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
  日光橋~天王橋間
 

日光橋は、上水をたどる旅の一つの区切りだ。ここから下流は玉川上水緑道という名の都立公園になり、開渠区間の終点まで水路に沿って遊歩道が確保されている。

次の平和橋に並行して、横田基地への貨物引込線が横断する。今でも航空機の燃料を輸送している現役の線路だそうで、踏切の北側には日英両言語で記された「警告 在日米軍基地 立入禁止区域」の立札があった。

サクラ並木の右岸の緑道を歩いていくと、土手下から水路へ勢いよく水が放出されているのが見えた。上水の水量を補充している拝島原水給水口だ。これも多摩川の水で、昭和用水堰から都水道局の拝島ポンプ所(下注)経由で送られてきている。灌漑用水の余り水なので、給水されるのは秋から冬の期間限定なのだそうだ。

*注 南多摩西部地区へ水道水を供給する拝島給水所に併設。

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(左)横田基地への貨物引込線
(右)踏切脇に立つ立入禁止の立札
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拝島原水給水口
 

西武拝島線の踏切を渡り、都道220号の拝島上水橋の南東側に、上水公園という散策地があった。冬枯れの木立を通して陽光が降り注ぐ静かな公園だ。その雰囲気からてっきり上水沿いに下流へ延びているものだと思ったら、すぐに行き止まりだった。その先はかつて昭和飛行機工業の工場用地で、最近までゴルフ場だったのだが閉鎖され、物流施設に転用されるらしい。

このため、拝島上水橋からの900mは、左岸街路の側歩道を延々歩くことになる。相変わらず水路との間には背の高いフェンスが続いていて、手の届くところに河畔林があるというのに、なんとも味気ない行路だ。美堀橋からようやく並木道が現れた。飛行機工場時代、試験用滑走路の延長計画で水路が暗渠化された約300mは、大きなサクラの木が咲き誇る小公園になっている。

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西武拝島線が横切る
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(左)上水公園入口
(右)左岸街路の側歩道と背の高いフェンス
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(左)暗渠化区間の小公園に咲くサクラ
(右)暗渠からの水路出口
 

松中橋のたもとにある柴崎・砂川両分水の分水口を通過。ここで右岸に、豊かな木々に囲まれた気持ちのいい散歩道が現れた。道の右側には、側溝と勘違いしそうな砂川分水の細い水路がしばらく並走する。

天王橋の北側は、五日市街道(都道7号、下注)と多摩大橋通り(都道59号)が斜めに交わる主要交差点だ。ただし、天王橋自体は多摩大橋通りの橋で、五日市街道は下流側に斜めに架かる新天王橋で渡っていく。次の稲荷橋まで約300mの間、歩道は左岸だけだ。

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松中橋以東の散歩道
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(左)柴崎取水口
(右)水路を斜め横断する五日市街道の新天王橋
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図5 同 天王橋~玉川上水駅間
 

まもなく、残堀川(ざんぼりがわ)の下を上水がサイフォン(下注)で潜る立体交差がある。「残堀川は、上水とクロスする唯一の川なんです」と中西さん。上水はこれ以降、周囲より高い地点を縫っていくので、谷を横断することがないのだ。

*注 サイフォンの呼称が通用しているが、実際はサイフォン(水を起点より高い位置で越えさせる装置)ではなく連通管の原理を応用している。

残堀川は、箱根ヶ崎の狭山池を発して、立川の南で多摩川に注ぐ中小河川だ。江戸時代は上水に合流させていたが、上水の水質悪化を防ぐため、明治期に両者が分離され、川を下に通す伏せ越しが造られた。現在は逆に上水のほうが下だが、これは残堀川の洪水対策で実施された1963年の改修工事によるものだという。

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上水(奥)が残堀川の下をくぐる(4月撮影)
 

南を走る五日市街道は、北の青梅街道などとともに、両側に短冊形地割が連なることで知られる。特徴的な地割は上水まで達し、畑地や庭木の育成地などになっていて、宅地で埋まる前の武蔵野の風情をしのぶことができる。

ここまでほぼ直線で進んできた水路だが、見影橋のたもとの源五右衛門分水を過ぎると、やおら右に回り込む。台地上の微妙な起伏を乗り越えるためだ。従来、この高低差は、北西から南東に走る立川断層に起因するとされてきた。しかし最新の調査によると、断層帯は武蔵村山市内が南限で、上水周辺を含む立川市内までは達していないらしい(下注)。

*注 文部科学省研究開発局・国立大学法人東京大学地震研究所「立川断層帯における重点的な調査観測 平成24-26年度 成果報告書」平成27年5月)。

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短冊形地割の農地に武蔵野の風情
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(左)見影橋
(右)右に回り込む水路(4月撮影)
 

右手のうっそうとした森は、立川市唯一の山(!)ともいわれる金毘羅山だ。ふもとの金毘羅橋から東では、水路の両側の樹林帯が幅広になり、そこに育った大木の木陰を小道が貫いている。千手橋までの約1kmはとりわけ自然豊かで、歩いていても心なごむ区間だった。

千手橋からは左手に、国立音楽大の施設が迫る。これを見送ると、西武拝島線の玉川上水駅前だ。水路をまたぐ南口広場(下注)の頭上を、オレンジのグラデーション帯を巻いた多摩モノレールの車両が横断していく。モノレールの「下道」である都道43号(芋窪街道)は、トンネルで地下を通っているので、駅前というのに意外にのどかだ。

*注 見かけは広場だが、地上時代の芋窪街道を渡していた橋の名、清願院橋を引き継いでいる。

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(左)正面に金毘羅山の森が
(右)河畔林を縫う小道
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(左)玉川上水駅南口
(右)駅に入る新2000系
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南口広場の上空を行く多摩モノレール車両
 

駅東側の車両基地に停まる電車を眺めながら行くと、右手の柵越しに水門が見えてくる。都水道局の小平監視所だ。羽村から約12km、はるばる流れ下ってきた水はここで、水道原水として東村山浄水場へ、一部は農業用として新堀(しんぼり)用水へ向かう。そのため1970年代以降、この先の玉川上水は、水がない空堀の状態だった。

潤いが戻ったのは、1986年に完成した清流復活事業のおかげだ。下水道の再生水が昭島市の処理施設からここへ送られてきて、放流されている。かつてここで分水されていた野火止(のびどめ)用水や、下流の千川(せんかわ)上水でも、それぞれ1984年と1989年に再生水の放流が始まった。

監視所のすぐ下流に、水ぎわまで降りられる親水デッキが設置されている。石組みの人工滝はほとんど乾いていたが、放流口の、むくむくと泉のように湧き上がる水の勢いには、自然の持つ迫力が感じられた。

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小平監視所の水門
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(左)再生水の放流口
(右)流れが復活した水路
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図6 同 玉川上水駅~鷹の台駅間
 

木立を縫う左岸の緑道はまだ続く。水路が深く掘られ、かつ木々の枝葉が上に覆いかぶさっているので、水の流れはあまり目立たない。ただ、上流部と明らかに違うのは、水路を隔てるフェンスが低くなり、開放感が増したことだ。水道用ではないので、厳重に管理する必要がないのだろう。

新堀用水というのは、北側に8か所あった分水をまとめたものだ。初めのうちは胎内堀と称して、地下を通している。そのトンネルを掘るための竪穴がいくつか残され、柵越しに覗けるようになっていた。用水は地上に出てからもしばらくの間、玉川上水と並走するが、水面は後者よりかなり浅い位置にある。

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(左)水路との間は低いフェンスに
(右)水面は深い掘割の底に
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(左)新堀用水の胎内堀竪穴
(右)説明板
 

百石橋からしばらくは文教地区で、周囲に大学や高校が点在する。左岸の緑道から最初に見えてくるのが、校舎の壁にハングル文字が躍る朝鮮大学校だが、その後ろは武蔵野美術大だ。

「上水ぞいの小径(こみち)を…というユーミンの歌がありますね」と中西さんがつぶやく。美大生の思い出を歌った「悲しいほどお天気」だ。思春期に聞いた音楽なので心に染み込んでいるが、今歩いている道がまさにその歌詞の舞台になる。彼女自身は多摩美術大の卒業だそうだが、私は中西さんに指摘されるまで、ぼんやりとムサビの出だと思っていた。

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美大生がデザインしたきつねっぱら公園のモニュメント
(左)親子狐  (右)花咲く金蘭(いずれも4月撮影)
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(左)夏の盛りの日も涼しいと歌われた「上水ぞいの小径」
(右)西武線のそばに架かる鷹の橋(いずれも4月撮影)
 

水路の両側にある創価学園の校地をつなぐ専用歩道橋、栄光橋の下をくぐるころには、歩く人も多く見かけるようになる。上水の橋でいうと、水車通りの新小川橋(側歩道の橋名は水車橋)の次が鷹の橋、1日目のゴールだ。隣を西武国分寺線がガーダー橋で横断している。

その鷹の台駅に着いたのは16時50分ごろ。羽村駅からの歩行距離は寄り道を除いて約17kmだが、途中、昼食を含め3回休憩したので、8時間の長旅になった。2日目の行程は次回に。

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西武国分寺線の橋梁、奥に鷹の台駅
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)および地理院地図(2026年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
東京都水道局 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/
むさしのの都立公園 https://musashinoparks.com/

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2026年4月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-西鉄北九州線跡、大蔵線跡

2026年3月9日のコンター旅は、北九州市内にある二つの廃線跡を訪ねる。一つは、西鉄北九州線のうち枝光線の専用軌道区間、もう一つは、現 JR鹿児島本線小倉~黒崎間の「山線」だった大蔵線だ。

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八幡・中央町交差点を折れる戸畑行き電車
(1984年9月撮影)
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図1 西鉄北九州線現役時代の1:200,000地勢図
(1985(昭和60)年編集)

7時30分、鹿児島本線の枝光(えだみつ)駅に集合したのは大出、山本、私とゲストの田村さんの4名。ここから戸畑まで歩くつもりだが、その前に、日本製鉄の専用線「くろがね線」を走る貨物列車を撮影しようと、近くの跨線橋に張り込んだ。

しかし、運行ダイヤがわからないので、ひたすら待つしかない。大出さんは集合場所へ歩いてくる途中、西向きに走る列車を目撃したそうだ。その時間に西へ行ったのなら、当分戻ってこないのではないか。山の上の学校まで長い坂道を上っていく高校生たちを見送りながら9時まで粘ったが、案の定、もくろみは空振りに終わった。

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くろがね線の新旧鉄橋を西望
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くろがね線の機関車
(左)先頭の電気機関車E8502 (右)後尾のディーゼル機関車
(いずれも大出さん提供)
 

諦めて、本題の廃線跡へ。西鉄北九州線というのは、かつて市内の主要地区をカバーしていた路面電車網だ。門司から小倉、黒崎を経て折尾に至る本線29.4kmのほかに、戸畑線5.5km、枝光線4.8km、北方(きたがた)線4.6kmと3本の支線があった。

*注 軌間は北方線のみ1067mm、他は標準軌1435mm。

このうち八幡東区の中心部、中央町(ちゅうおうまち)から北上して、戸畑線と出会う幸町(さいわいまち)までのルートが枝光線だ。戸畑線や本線の砂津以東とともに1985年10月に廃止されたが、私はその1年前、1984年9月に乗って写真も少し撮っているのでなつかしい。

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図2 1:25,000地形図にルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  枝光~戸畑間
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図3 上図と同一範囲の旧版1:25,000地形図
(1960(昭和35)年資料修正)
 

専用軌道は、現 枝光駅の1.2km南にあった山王(さんのう)停留場付近から始まる。枝光本町で一度路面に戻るものの、くろがね線の鉄橋手前で再び専用軌道になり、市街地を抜けていた。鉄橋下からしばらくの間、跡地は駐車場、民家、コンビニの敷地などに姿を変えているが、比較的たやすくその跡をたどることができる。

旧 枝光駅前を過ぎると、JRの電車線が頭上を斜めに横切るが、その直下に踏切跡の石畳があるのを田村さんが見つけた。複線のレールがあった部分だけ、敷石の間隔が開いている。すぐ先には橋台の対も残されていた。現在は階段道に使われているが、昔は小川をまたいでいたのだろうか。

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(左)くろがね線鉄橋下の軌道跡
(右)現 枝光駅直近の軌道跡
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(左)JR線高架橋下の軌道跡(道路の左側)
(右)踏切跡の石畳
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(左)階段道に残る橋台の対
(右)石垣の上が軌道跡
 

この辺りから牧山の鞍部に向けては、上り坂だ。右手から山が迫ってきて住宅の列が途切れ、左に並走する県道50号八幡戸畑線が見えるようになる。坂の途中に100mほど空地のままの跡地が残されているが、またすぐ民家の敷地に戻り、市道が載る牧山高架橋の下をくぐる。

サミットは、この150m北にある牧山南歩道橋付近だ。この歩道橋はかつて枝光線の牧山停留場に通じていたもので、私は当時、ここで途中下車して、市道の高架橋と歩道橋の上から写真を撮った。しかし今は、崖上から覆いかぶさるように住宅敷地が張り出して、風景が一変してしまっている。

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(左)牧山高架橋から軌道跡を南望
(右)42年前の同じ場所(1984年9月撮影)
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(左)牧山南歩道橋から南望
(右)左に見えるホームは牧山停留場(1984年9月撮影)
 

サミットを越えた下り坂でも宅地や街路が続くが、鹿児島本線の牧山トンネル北口付近には、道を跨いでいた橋の橋台と、JR線にかぶさるコンクリートの薄い橋桁が残っていた。

鹿児島本線のこの区間は、1966年の小倉~折尾間複々線化に際して、牧山の岬を回っていた既存線(現 貨物線)をショートカットする形で造られた新線だ。枝光線の下をくぐったすぐ先で県道をまたぐという離れ業(?)を見せていて、枝光線の橋桁の薄さはクリアランスを確保するための苦心の設計に違いない。

この交差から200m足らずの間は、線路跡の土道が延びている。その終端は築堤で、街路を跨いでいた橋台の片方が残る。反対側は宅地の列が続き、天籟寺川(てんらいじがわ)に架かる昭和橋でようやく市道との合流を果たす。あとは戸畑線と出会うまで、市道の中央を行く路面軌道だ。

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(左)JR線牧山トンネル北口
   街路脇に橋台が残存、JR線は左の壁の裏を通る
(右)JR線を跨ぐ薄い橋桁
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(左)200m続く軌道跡の土道
(右)土道の終端に橋台が残る
 

枝光線を走る電車は、幸町で戸畑線に入り、若戸渡船の渡場前にある戸畑停留場が終点だった。JR戸畑駅を通り抜けてそちらへ行ってみると、停留場跡は空地で残されていた。若戸大橋の巨大なアンカーが目の前にそびえ立ち、渡し場には今も渡船が発着しているが、電車のターミナルだったことを示すものは見当たらない。せめて空地の前に立つ観光案内板に、一言添えてあるといいのだが。

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(左)現在の若戸渡船戸畑渡場
(右)戸畑を発つ折尾行き電車、戸畑渡場は電車の後方(1984年9月撮影)
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(左)戸畑停留場跡は更地に
(右)当時の戸畑停留場(1984年9月撮影)
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若戸大橋の下の渡場風景は昔と変わらない

戸畑駅から八幡駅までJR線の電車で戻り、次は大蔵(おおくら)線跡を訪ねた。

小倉~黒崎間を最短距離で結んだこの路線は、1891(明治24)年に開通した門司(現 門司港)から博多方面に至る九州鉄道のオリジナルルートだ。しかし、長崎街道に沿って内陸を通過するため、途中の大蔵越えと呼ばれる勾配区間が運行上の難所になっていた。

1902年に、戸畑経由で海岸を迂回する新線(戸畑線)が完成すると、主要列車は通らなくなる。国有化後の1908年に大蔵線と改称のうえ、支線に格下げされたのもつかのま、1911年に並行する九州電気軌道(後の西鉄北九州線)が開業したのを機に、あえなく廃止されてしまった。

廃止から115年が経過し、その間に沿線はすっかり市街地化した。もはや当時の情景を想像するのも難しいが、線路跡をなぞる道路をたどりながら、わずかに残る痕跡を追ってみた。

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駅跡を示す大蔵公園の案内板
 

スタート地点は、八幡駅前から国際通りを南下した旧 八幡市民会館の裏手だ。東へ延びる街路が大蔵線跡に沿っている(下注)。しばらく進むと、一つ目の遺構である尾倉(おぐら)橋梁がある。橋梁といっても実態は、谷をまたぐ築堤の下の煉瓦造カルバートで、街路が通り抜けている。

*注 ちなみに西側は、区画整理によって痕跡は消失した。

アーチは幅広だが、制限高はわずか2.0mだ。もとは小川をまたぐためのもので、その上を道路にしたのかもしれない。築堤もとことん利用されていて、北側では法面に勝手擁壁を築いて民家が建ち並んでいる。一方、南側は養生された法面だが、以前は同じように民家の敷地になっていたようだ。

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尾倉橋梁
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(左)橋梁上の旧線跡をなぞる市道(西望)
(右)階段道で下の街路に降りられる
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図4 1:25,000地形図にルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
  八幡~大蔵間
 

廃線跡をなぞる市道は、製鉄記念八幡病院の構内を前にして行き止まる。頭上を横切る北九州高速5号線の東側では、山手通りのカーブに名残りをとどめるが、ここは谷地形で、線路は高度を維持するために高い築堤で渡っていたはずだ。現在の山手通りは中央町交差点に向けてむしろ下っていくので、当時の面影は消失している。

八幡東区役所の東側からは、一車線の街路が本来の高度で東へ続く。空中写真を参照すると、廃線跡はこの街路ではなく、その北側に並ぶ民家の列のようだ。

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(左)製鉄記念八幡病院前で行き止まる旧線跡市道
(右)旧線跡と山手通りの重複区間
 

かつて西鉄北九州線が通っていた片側3車線の旧電車通り(県道62号北九州小竹線)が接近してくると、大蔵公園だ。ここには、路線唯一の中間駅である大蔵駅があった。駅は、洞海湾沿いに官営八幡製鉄所が建設されることに伴い、1898年に開業した。いっとき八幡の表玄関として賑わったが、それもつかのま、1902年に戸畑線の八幡駅(下注)が開業すると、あっけなくその役割を終えた。公園の東端には説明板が立ち、足もとに「九銕(鉄)用地」と刻まれた当時の境界標が移設されている。

*注 当時の八幡駅は、現駅の約1km東の旧線上にあった。現位置に移転したのは1955年。

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大蔵駅跡の大蔵公園
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(左)公園石碑
(右)案内板の足もとに移設された「九銕用地」境界標
 

その200m先、両国橋のたもとには、二つ目の遺構、大蔵橋梁の橋脚断片を据え付けたモニュメントがある。これは、目の前の板櫃川(いたびつがわ)を渡っていた橋の煉瓦橋脚の付け根部分で、河川改修が行われる以前は、河原に顔を出していたのだという。ちなみに両国橋は、北の山際を通るもとの長崎街道に対して、電車通りの建設に伴い新たに架けられた橋だ。豊前国と筑前国の境界をまたいでいるので、その名がある。

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大蔵橋梁の橋脚断片のモニュメント
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(左)右端には石積みも残る
(右)かつて橋が架かっていた板櫃川
 

板櫃川を渡った後は、旧電車通り(県道296号大蔵到津線)の1本南を走る市道が、廃線跡をなぞっていく。地元ではこの道のことを「旧線路」と呼んでいると聞いた。センターラインのない街路だが、信号機が少ないからか、けっこう車が行き交う。

旧電車通り沿いのラーメン店で昼食休憩した後、三つ目の遺構、茶屋町橋梁へ向かった。槻田川(つきだがわ)をまたぐ煉瓦アーチの目立つ構造物で、旧線跡の市道からやや南にずれた位置に架かっている(下注)。案内板によると、一時期歩道橋として使われていたため、撤去されずに残ったそうだ。

興味深いのは側壁面で、南側がイギリス積みで滑らかに仕上げられている一方、北側は複線化での拡幅を見越して、煉瓦を交互にせり出したままにしてある。よく似た造りを、平成筑豊鉄道の赤~内田間にある内田三連橋で見たのを思い出した。

*注 旧図と照合する限り、市道と実際の旧線跡がずれるのは、石坪町のカーブ以東のようだ。

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槻田川をまたぐ茶屋町橋梁
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(左)南側壁面は滑らかな仕上げ
(右)北側は煉瓦を交互にせり出し
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図5 同 大蔵~金田跨線橋間
 

大蔵線の見どころは、以上だ。私たちはここで解散したのだが、大出さんによると、この1km東にある九州歯科大附属病院の東側に、大蔵線の築堤の一部がある。現状は、北側の法面が残るものの、南側は盛り土のうえ駐車場化され、もはや築堤とは言えなくなっていたそうだ。

次の痕跡は、国道3号を横断した小倉西高校の南側で、周囲とは異なるマンションの向きが旧線跡を示唆している。清水三丁目交差点からは北東に向かう直線の街路が旧線跡をなぞっていて、旧電車通りの金田跨線橋の下で、現 日豊本線にスムーズに合流する。そのあとは日豊本線が大蔵線跡を引き継いで、小倉に至る。当時の小倉駅は、現在の西小倉駅付近にあった(下図参照)。

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(左)病院東側に残る築堤跡
(右)反対側は盛土して駐車場化
   (いずれも大出さん提供)

参考までに、大蔵線が記載されている1:200,000帝国図と1:20,000地形図(1:25,000相当に縮小)を掲げておこう。

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図6 大蔵線現役時代の1:200,000帝国図(1912(明治45)年製版)
Blog_contour95_map7図7 大蔵線現役時代の1:20,000地形図
 (1898~1900(明治31~33)年測図、80%に縮小)
 黒崎周辺
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図8 同 大蔵周辺(図4と同一範囲)
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図9 同 茶屋町橋梁周辺(図5と同一範囲)
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図10 同 小倉周辺
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1帝国図小倉(明治45年製版)、20万分の1地勢図福岡(昭和60年編集)、2万5千分の1地形図八幡市(昭和35年資料修正)、2万分の1地形図小倉(明治31年測図)、北方、二嶋、黒崎(いずれも明治33年測図)および地理院地図(2026年3月20日取得)を使用したものである。

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