コンターサークル地図の旅-可部線(あき亀山~三段峡)跡
空気はまだ冷たいものの、よく晴れて日差しがまぶしく、春を予感させる日和になった。2026年コンターサークル-S 春の旅の第1弾は、未成となった広浜(こうひん)鉄道の跡を2日間かけて巡る。
![]() 旧線の雰囲気が保存された旧 安野駅 |
広浜鉄道というのは、広島市から島根県浜田市に至る陰陽連絡の鉄道計画のことだ。古くは1892(明治25)年の旧 鉄道敷設法に、山陰及山陽連絡線の一つとして名が挙がり、1922(大正11)年の改正法でも別表の第94号に、「広島県広島附近ヨリ加計ヲ経テ島根県浜田附近ニ至ル鉄道」と記されている。
このうち広島側では、1909~11年に開業していた横川~可部(かべ)間の軽便線(下注)が1936年に国に買収されて、国鉄可部線になった。路線はその後、太田川の谷沿いに順次延伸され、1954年には加計(かけ)まで、1969年には三段峡まで開通している。
*注 運行事業者は当初、大日本軌道だったが、広島電気(現 中国電力)が買収したあと分社化して、その名も「広浜鉄道」と称していた。
しかし、可部以遠は山間部で、国鉄時代から「赤字83線」に挙げられており、民営化後の2003年に廃止されてしまった。その後2017年に、可部から新駅のあき亀山に至る1.6kmが再開され(下注)、廃止されたJR路線が復活したのは初と話題になったのは記憶に新しい。
*注 可部~あき亀山間については、「新線試乗記-可部線あき亀山延伸」でレポートしている。
![]() 図1 可部線現役時代の1:200,000地勢図 (1987(昭和62)年編集) |
◆
一部復活したとはいえ、廃止済みの区間はなお44.6km、駅数も20に上り、一日でひととおり見て回るにはクルマが必須だ。2月21日朝9時45分、広島駅新幹線口に集合したのは、大出、山本、私の3名。近くのレンタカー店で日産ノートを借り、大出さんの運転で出発した。
まずは国道54号を可部まで走り、あき亀山駅の山手にある旧 河戸(こうど)駅の遺構保存地へ向かう。民家の裏庭のような場所に、トタン屋根が架かった待合室がベンチ付きでそっくり移設されている。隣にオリジナルの駅名標も立ち、そこだけ切り取れば旧線時代そのものだ。河戸駅は、現在の河戸帆待川(こうどほまちがわ)とあき亀山間に位置する棒線駅だったが、もはや現地に痕跡は見当たらない。
![]() (左)移設保存された旧 河戸駅駅名標と待合室 (右)亀山南地区の踏切跡に残る距離標(16kmポストか) |
![]() 図2 可部付近の現行1:25,000地形図(2026年3月現在) 旧線位置を緑の破線で加筆 |
![]() 図3 可部線現役時代の1:25,000地形図 可部~安芸亀山間(1977~78(昭和52~53)年修正測量) |
川べりの斜面に張り付く狭い県道267号で、太田川を遡る。川の蛇行部を短絡していた茶臼山トンネルの西口は、フェンスで封鎖されているものの、原状を保っていた。今井田(いまいだ)が廃線区間の最初の駅だが、草むした中に片面ホームと待合室が手つかずで残り、廃線独特の風情を感じさせる。河戸駅も、新線工事が始まる前はこうした状態だったはずだ。
今井田地内では、廃線跡を転用した県道のバイパスが一部完成していた。目下、工事中の個所もあり、旧観が消失するのは時間の問題だ。
![]() (左)茶臼山トンネル西口 (右)今井田へ向かう廃線跡 |
![]() ホームと待合室が残る今井田駅跡 |
![]() (左)道路転用工事中の廃線跡(今井田~安芸亀山間) (右)フリーマーケットの会場になる旧 安芸亀山駅跡 |
次はもとの安芸亀山(あきかめやま)駅だが、新線に駅名を譲ったばかりか、敷地も県道の路肩に提供されてしまい、路傍に立つ「旧安芸亀山駅」と書かれた黄色ののぼり旗だけが目印だ。広い路肩は、毎月1回フリーマーケットの会場になるらしい。
毛木(けぎ)駅周辺は、谷を高い位置でまたいでいる広島自動車道から俯瞰できるので見覚えがある。駅跡にはコンクリート造りの片面ホームが残り、その前後に、厚いバラストを敷いた線路跡の空地が長く続いていた。
![]() 毛木駅跡 |
![]() 広島自動車道から見る毛木駅西方の廃線跡 (中央の土道、2018年3月撮影) |
![]() 図4 同 安芸亀山~小河内間(1978(昭和53)年修正測量) |
安芸飯室(あきいむろ)では、国道脇に趣きのある木造駅舎が保存されている。空き家で置いているのではなく、駅務室はカフェとして、待合室は直売所として、立派に活用中だ。地元で採れた野菜や持ち寄り(?)の雑貨が所狭しと並べられ、客と店番の会話も飛び交って、なんだか楽しそうだ。駅舎を抜けると、島式ホームと断片ながら線路も残され、移設された信号機に灯が入っている。現役時代の日常風景を凝縮したような不思議な空間だった。
![]() 保存された安芸飯室駅舎 |
![]() (左)時刻表が残る待合室は直売所に (右)ホームや線路もそのまま |
布(ぬの)駅は、かつての相対式ホームが残置されている。とはいえ、片方は雑草がはびこり荒れ放題、もう一方は廃材置き場だ。可部方では新設の道路が迫っていて、早々に駅跡も道路に転換されそうな気配だった。
対照的に、小河内(おがうち)駅跡はどこに線路があったのか戸惑うくらいの、がらんとした空地が広がる。きれいに草が刈られているので、地元できちんと管理されているのだろう。残された島式ホームから少し離れた盛り土の上に、主のように一本桜が枝を広げていた。駅舎が建っていた場所だと思われるが、手がかりになるものは消失している。
![]() (左)布駅跡 (右)小河内駅跡 |
ここまで旧 可部線は太田川の左岸(北岸)にずっと張り付いて進んできた。しかし、川の蛇行が顕著な中流域では、右岸と左岸を行ったり来たりするようになり、鉄橋とトンネルが連続する。川を渡るプレートガーダーの鉄橋は、どれもレールが剥がされた以外、旧観を保っていて、側面から眺める限り、いつ列車が通ってもおかしくない。写真に収めるために追崎(おっさき)橋で右岸に移り、崖ぎわを行く対向不能の細道を慎重にたどった。
![]() 第一太田川橋梁 |
![]() 第二太田川橋梁 |
![]() 図5 同 小河内~水内間(1978(昭和53)年修正測量) |
第二太田川橋梁を渡った先にある安野(やすの)駅跡は、「安野花の駅公園」として整備されている。先述の安芸飯室と並んで、旧線の雰囲気がよく保存されているスポットだ。駅舎は一見、無粋なコンクリート造だが、待合室の窓際にしつらえられた木製ベンチや整形の改札柵が昭和の時代感を漂わせている。
その改札口を通して、昔のままの片面ホームと、残された線路に載るキハ58形気動車が見える。広島色と呼ばれた黄色と白のツートンにグレーのラインを添えた外装がいかにも懐かしい。構内には椿、紅梅や桜など花の木が多数植えられ、その間を縫うように線路が200mほど延びる。キハもできるならもう一度走りたいと思っているだろう。
![]() 公園化された安野駅 |
![]() (左)駅舎玄関 (右)時代感を漂わせる木製ベンチ |
![]() (左)現役さながらのキハ58形 (右)花の木の間を縫う線路 |
第三、第四の太田川橋梁を渡ると、次は水内(みのち)駅だ。ここはもとの駅前広場が公園になり、正面に片面ホームと両屋根の架かったベンチが、モニュメントのように残されていた。背後の山裾にある村の社の景観との対比がおもしろい。駅から三段峡方の廃線跡は舗装され、集落の裏道に転用済みだ。
![]() (左)第三太田川橋梁 (右)第四太田川橋梁 |
![]() 水内駅跡は屋根付きベンチがモニュメントに |
坪野(つぼの)駅跡は、同じように道路化された廃線跡の途中にある。だが、ホームなどはすべて撤去されてしまったので、部分的に広がった路肩でそれとわかるだけだ。
ここでの注目点は、廃線跡道路の西端、旧道に合流する地点に据えられた「国鉄2万キロ記念碑」だ(下注)。碑文によれば「国鉄の線路延長が2万キロに達した地点であることを記念して、昭和29年(1954)3月、可部線新線開業の日に国鉄下関工事事務所の手で建てられた」。ささやかな石碑なので、意図して探さなければ見逃がしてしまう。
*注 廃線跡の道路転用にあたって移設され、向きも変わっている。
![]() 手がかりのない坪野駅跡 |
![]() 国鉄2万キロ記念碑 |
![]() (左)碑文 (右)裏面はレール断面と「20000」のレリーフ |
![]() 図6 同 水内~津浪間(1978(昭和53)年修正測量) |
この後、線路は第五太田川橋梁で対岸(右岸)に移る。崖ぎわをR160を含む急カーブで通過する線形のきわめて悪い区間だ。田之尻(たのしり、下注)は、可部~加計間で唯一、その右岸に設置されていた。川を見下ろす駅跡では、今井田駅のようにホームと待合室が残されている。清掃用具のロッカーがあり、ホームも路盤もきれいに除草されているので、地元で保全活動が続いているようだ。
*注 開業当時、所在地が旧 山県郡筒賀村だったため、加計~三段峡間開業直前まで筒賀(つつが)駅を名乗っていた。
その北側で支流を渡っていた橋桁は撤去されたが、山の出っ張りを抜ける短いトンネルは、バリケードで封鎖されているものの旧観を維持していた。
![]() 第五太田川橋梁 |
![]() 坪野~田之尻間の難所を通過 |
![]() (左)田之尻駅跡 (右)駅北方で、鉄道と道路のトンネルが並ぶ |
中国自動車道と交差する第六太田川橋梁で再び左岸に戻れば、津浪(つなみ)駅跡だ。跡地には、道の駅のような商業施設「ぷらっとホームつなみ」が建っている。アユの塩焼きや地元産品を売る傍らで軽食堂が開いていたので、ここでカレーライスの遅い昼食を取った。地形ファンとしては東側にある大きな繞谷(じょうこく)丘陵にも心を惹かれるが、今回は見に行く時間がない。
香草(かぐさ)駅跡は、舗装された空地のへりに寄せて、オリジナルの駅名標と踏切名標を並べてある。駅の前後の廃線跡は、バラストを敷いた農道として使われているようだった。
![]() 中国自動車道と交差する第六太田川橋梁 |
![]() (左)津浪駅跡は道の駅風に (右)津浪~香草間の杣道 |
![]() (左)香草駅跡に残る駅名標 (右)香草駅北方の廃線跡 |
![]() 図7 同 津浪~殿賀間(1978(昭和53)年修正測量) |
ようやく、廃止区間のなかでも主要駅だった加計(かけ)まで来た。廃線前の列車本数は加計を境に、下流区間が8往復、上流区間が5往復と差があった。運行の拠点とあって、構内には、島式ホームをはさむ本線2線のほかに、側線や車庫も配置されていた。
かつての駅前広場と構内はだだっ広い駐車場に姿を変え、中央に、水内駅で見たようなトタンの両屋根が架かったホームの断片がぽつんと残されている。右手には、「かけはし」という名の観光案内施設がある。室内の一角に可部線ありし日の写真コーナーが設けてあるのはいいが、拠点駅なら、資料や遺品を集めた展示室の一つは望みたいところだ。
![]() 加計駅跡に残されたホーム断片 後ろは観光案内施設「かけはし」 |
![]() 「かけはし」内部の可部線写真コーナーと加計市街の模型 |
広場の西に、側線と車庫が残されているというので見に行った。波板壁を張った車庫は1両収容できるだけの小さなもので、冬枯れの蔦で屋根の上までびっしり覆われている。裏に回ると、急行の種別幕を出したキハ28形が顔だけ外に出して休んでいた。だが、このうらぶれたようすでは、しばらく放置状態のようだ。廃止から20年以上が経過して、保存に熱意を傾ける人も減っているのだろうか。
ところで、ここは三方から川が集まる地形のため、駅の前後に2本の鉄橋が架かっていた。このうち東側の丁川(よろがわ)橋梁は今も歩道橋として利用されている。一方、西側で長さが285mあった滝山川(たきやまがわ)橋梁は、惜しくも昨年(2025年)撤去されてしまったそうだ。
![]() (左)車庫で休むキハ28形 (右)車庫へ延びる側線 |
![]() 図8 加計付近の現行1:25,000地形図(2026年3月現在) |
戦前に着工され、一部は開業もしていた可部~加計間(下注)に対して、加計から先は戦後の着工になる「新線」区間だ。緩いカーブで築堤が高くそびえ、トンネルは長く、橋梁の多くがPC桁になっている。
*注 可部~安芸飯室間は1936(昭和11)年の開業。安芸飯室~布間は1946年、布~加計間は1954年の開業だが、開戦で工事が中断した時点で路盤はほとんど完成していたという。
「新線」最初の駅、木坂(きさか)も見上げるような築堤の上で、国道から長い階段を上らないとホームにたどり着けない。路盤にレールがないだけでホームと待合室が残され、見た目は整った廃線跡の景色なのだが。
![]() 木坂駅 (左)築堤に上る階段(右)路盤も旧観を残す |
殿賀(とのが)駅の300m手前に、地元の人が建てた「鉄路可部線(殿賀)変遷記」と題する記念碑があるので見に行った。碑文には、廃線後、跡地のうち掘割り部分は埋めて巡回遊歩道にし、もと殿賀駅付近は公園とする工事が2011(平成23)年に完成した、との旨が刻まれている。
碑が立つ位置の前後は道路化されているが、鉄道にしては大きなアップダウンがあり、碑文のとおり周囲の地形に合うように埋め戻しや築堤の剥ぎ取りが行われたようだ。一方、殿賀駅跡では、ホームと待合室に加えて線路もそのまま残されている。ただ、公園というには殺風景で、遺構の保存地あるいはモニュメントというのがより正確だ。
![]() 鉄路可部線(殿賀)変遷記 |
![]() 線路も残る殿賀駅跡 |
![]() 図9 可部線現役時代の1:25,000地形図 殿賀~土居間 |
上殿(かみとの)駅の前後は路盤がおおむね残るが、ホームが撤去されたため駅の位置はわからなくなってしまった。旧道から神社の横を通って駅前に至る道路から推測するしかない。
この後、旧 可部線はいったん太田川から離れて、支流筒賀川(つつががわ)の谷に寄り道していた。筒賀駅は、駅前広場とホームに上る階段が昔のままだ。しかし、ここもホームはもうなく、前後の廃線跡も道路化されてしまった。この道路は右にカーブしながらトンネルへと消えていくが、途中からクルマは入れなくなる。
![]() (左)上殿駅跡 (右)上殿~筒賀間、太田川を渡る轟橋梁 |
![]() (左)筒賀駅の駅前広場とホームに上がる階段 (右)筒賀駅西方、筒賀トンネルに向かう廃線跡 |
線路は、全線最長1018mの筒賀トンネルを抜けて、再び太田川の谷に戻っていた。長々と続く築堤の上に、土居(どい)駅のホームと、鉄骨フレームがむき出しの待合室が原形をとどめている。しかし、珍しく入口に立入禁止の柵が講じてあり、ホームに上がることはできなかった。
戸河内(とごうち)駅跡は、安芸太田町(旧 戸河内町)の行政の中心地で、かつて本郷と称した戸河内の町裏にある。町裏と言っても国道191号が前を通っているので、今では正面かもしれない。跡地は広い駐車場に変わり、奥に駅名標を取り付けた説明板が残るだけだ。一方、駐車場横には、鉄道なき後のアクセス手段となった路線バスの立派な待合所が建てられている。
![]() (左)土居駅跡 (右)ホームは立入禁止 |
![]() (左)戸河内駅跡 (右)路線バスの待合所 |
![]() 図10 同 土居~三段峡間(1978(昭和53)年修正測量) |
放置された鉄道橋や築堤がまっすぐ貫いていくのを見ながら、谷間の国道を進む。終点 三段峡駅跡に到着したのは16時15分。ここもほとんどが駐車場を含む空地で、三段峡交流館と称するがらんとした休憩所と公衆トイレがあるだけだ。
裏手の一角に、車止めを施した線路終端が記念碑として残してあった。浜田方面へのさらなる延伸を待つ間の、暫定的なものだったはずだ、と思うとむなしさが胸をよぎる。駅前からものの100mも歩けば、土産物屋に囲まれた三段峡の入口だ。しかし、立て看板によると3月まではオフシーズンだそうで、早くも陽が陰り始めた山峡は寒々として、歩く人の姿はなかった。
![]() (左)三段峡駅跡の線路終端 (右)傍らに立つ案内板 |
![]() ひっそりとした三段峡入口 |
◆
最後に、大出さんに提供してもらった1999年1月の加計駅と三段峡駅の写真を掲げておこう。
![]() 加計駅ホームのキハ40形(以下は1999年1月撮影) |
![]() 三段峡方面は乗換え |
![]() 三段峡駅に到着 |
![]() 三段峡駅前 静態展示のC11 189が見える(現在はイオンモール広島府中の敷地に移設) |
島根県側の痕跡については、次回に。
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、2万5千分の1地形図可部(昭和52年修正測量)、飯室、坪野、加計、戸河内、三段峡(いずれも昭和53年修正測量)および地理院地図(2026年3月10日取得)を使用したものである。
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