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2026年1月

2026年1月30日 (金)

ドイツ・ベルギー・オランダ三国国境会合点

フェン鉄道の探索を終えてアーヘン市内に戻った午後は、念願だったもう一つの見どころへ向かった。それは南西5kmのファールス山(ファールゼルベルク Vaalserberg)という小高い山の上にあるドイツ・ベルギー・オランダの国境会合点、三国の国境が一点に集まる場所だ。ドイツ語で Dreiländereck(ドライレンダーエック)、オランダ語で Drielandenpunt(ドリーランデンプント)と呼ばれる。

■参考サイト
三国国境会合点付近のGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/GxcE4YnaKebEaPRs7

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三国国境会合点の国境標
 
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山頂の標高は322.4m(下注)でも、麓からの高さ、いわゆるプロミネンスは100m程度に過ぎない。それで、歩いて登る道は多数あるのだが、山上まで連れていってくれる公共交通機関は、オランダ側のファールス Vaals の町から出ている路線バスだけだ。きょうは日差しが強いので、できるだけ楽に行きたい。

*注 ベルギーでは基準面が異なるため、324.73mと定義されている。

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アーヘン、ファールス山周辺の地形図にバス停等を加筆
赤の破線で囲んだ区域は、後述する中立モレネの「領土」
Basemap from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

そこで、まずはファールスへ移動する必要がある。アーヘンの中心街エリーゼンブルンネン Elisenbrunnen のバス停でDB(ドイツ鉄道)アプリに尋ねると、直近の便は、アリーヴァ Arriva が運行している350系統マーストリヒト Maastricht 行きの急行バス、と回答が来た。しかし、オランダの事業者のためか、現地の停留所の発着案内にはいっこうに表示されない。ふと不安がよぎったが、案ずるまでもなくバスは定刻に現れた。

16分ほどで、国境を越えたファールスのバスステーションに到着。そこで同じアリーヴァの149系統グルペン Gulpen 行きを待つ。オランダ最南部を走るローカルバスだが、これがファールス山を経由する。

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山上のバス停
 

ところで、山上への公共アクセスがなぜオランダ側にだけあるのだろうか。その理由はまもなくわかった。

くねくねと山道を上って到着した山上停留所(下注)の周りは、森に囲まれた駐車場があり、その奥に生垣造りのラビリンス(迷路)やビストロ、子どもの遊具広場など、行楽地らしい空間が広がっていたからだ。実はファールス山は、オランダのヨーロッパ本土における「最高峰」なのだ。そのため、オランダ人なら一度は来る観光スポットになっている。

*注 バス停の名称はファールス・ドリーランデンプント Vaals Drielandenpunt。

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山上のレジャー施設、左が生垣ラビリンス(2004年)
Photo by Horst J. Meuter at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 
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ファールス山周辺の拡大図
Image from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ビストロエリアから50mほど先に進むと、石畳の上に、多角錐の石柱2本と鉛筆の先のような国章つきのモニュメントが立っていた。これらは1926年まで三国国境会合点に立っていた古い国境標だという。手前の石標には「オランダ最高地点、標高322.5m」と刻まれている(下注)。周囲は平坦な広場で、起伏は全く感じられないが、一応ファールス山の山頂のようだ。

*注 原文は「Hoogste punt van Nederland 322.5 mtr boven A.P.(A.P. はAmsterdams Peil、アムステルダム標準水位)」。

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オランダ最高地点にある旧 国境標
 

しかし、正式な三国国境会合点はここではなく、さらに40m進んだ地点にある。こちらの石柱は先端が八角錐の1本のみで、D(ドイツ)、B(ベルギー)、NL(オランダ)の略号が刻まれている。DとBの間にある数字 1032 は、ヴェルサイユ条約で画定されたドイツ・ベルギー国境の標番だ(下注)。DとNLの間にも 193 の標番プレートがあった。とはいえ、円形の敷地の周りに置かれたベンチでは人々が思い思いの格好でくつろいでいて、三国の国旗が後ろに飾られていなければ単なる休憩場所かと思うほどだ。

*注 ヴェルサイユ条約は1919年に調印された第一次世界大戦の講和条約。標番は、ドイツ・ベルギー・ルクセンブルクの国境会合点が1で、ファールス山の国境会合点1032が最後となる。

よく見ると、円形敷地には金属素材で国境線らしきものが引いてある。ドイツ領は広場から見ると後ろの森の側だが一番広く、中心角で180度を占める。広場の手前側にあるオランダ領は意外に狭くて50度程度、奥のベルギー領が残り130度だ。

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三国国境会合点、国境を挟んでベンチが並ぶ
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(左)BとDの間に1032の標番
(右)DとNLの間に標番193のプレート(2010年)
Photo by Romaine at wikimedia. License: CC0 1.0
 

さらに注目すべきは、円の外側で、オランダおよびベルギー領の部分に敷かれているピンコロ石の石畳だ。ドイツ・ベルギー国境に接する部分が扇形に区切られている。傍らに立つ案内板によると、これはかつて存在した共同主権地域、中立モレネ Neutral Moresnet の最北端を示すものだという(下注)。

*注 Moresnet はかつてモレネー [moʁəˈneː] と発音した(本稿の音写はこれに従う)が、現在はモレスネットまたはモーレスネット [ˈmɔʁəsnɛt] と読まれる。なお、中立モレネの東側境界線と現 ドイツ・ベルギー国境とは一致しないはずなので、この区切り線は正位置からずれているという主張もある。下記サイトを参照。
https://www.grenspalen.nl/archief/Moresnet/Moresnet-bordermarkers.html

中立モレネは面積3.44平方kmで、1816年に誕生し、1919年まで約1世紀の間、存在した(図上位置は、冒頭の地図参照)。事の起こりは、ナポレオン戦争の戦後処理のために関係国が招集されたウィーン会議だ。ネーデルラント連合王国(オランダ)とプロイセンの間で、この地域の領有権が大きな争点になった。というのも、ここには亜鉛鉱を産出するヨーロッパ有数の鉱山があったからだ。

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中立モレネの領域を示す石畳の区切り
 

半年かけた協議の結果、地域を3分割し、西部をオランダ領、東部をプロイセン(1871年からドイツ帝国)領、中央部の三角地帯を両国の共同統治とすることで、1816年6月に妥協が成立した。ちなみにこのとき両国と、三角地帯すなわち中立モレネの境界が集まった地点が、現在の三国国境会合点になる。

1830年にオランダからベルギーが分離独立すると、共同統治権はベルギーに引き継がれた。これ以降、会合点にはベルギーを加えて4か国の国境が会することになった。鉱脈が枯渇して1884年に鉱山が閉鎖された後も、タックスヘイブンの利点が評価されて中立モレネは存続した。しかし、第一次世界大戦のドイツ降伏で、ベルギーに全面帰属して消滅することになり、会合点も3か国のそれに戻ったのだ。

それから100年以上が経つが、今でも中立モレネの境界標の多くがまだ現地に残されている。ベルギー側のアクセス道路の脇にあるのもその一つだ。これは西側の国境線を示す30個の石標のうち最も山頂寄りのもので、ローマ数字の XXX(30)が刻まれている。東側の国境線にも同じく30個が付されたが、山を少し降りたところにその一つ、XXXII(32)番の標石を見いだすことができた。

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中立モレネの境界標
(左)アクセス道路の脇にある標番 XXX(30)
(右)森の中にある標番 XXXII(32)
 

話をファールス山上に戻すと、オランダ側と同じように、ベルギー側にもビストロの建物とパラソル付きのテラス席がある。それより目を引くのは後ろにそびえ立つボードゥアン塔 Tour Boudouin だ。第5代ベルギー国王の名を冠したこの高塔は、1994年に完成した高さ50mの有料展望塔で、エレベーターまたは階段を使って上ることができる。

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ベルギー側のボードゥアン塔、最上階は展望台
 

塔の上からは、予想どおり遮るもののない360度の展望が楽しめた。東がドイツで、アーヘン市街の家並みの上に、大聖堂の大屋根と尖塔が浮かび上がる。南はベルギーで、かつての中立モレネとその周辺地区だ。ドイツからアントウェルペン Antwerpen の港に通じる貨物幹線のモンツェンルート Montzenroute が、足もとのトンネルからまっすぐ延びている。目を凝らすとベルギー最長のモーレスネット高架橋も確認できた。

北西方向はオランダだが、手前の森の間に生垣ラビリンスが俯瞰できるものの、遠方は丘陵地が波打つばかりで、これといって目立つものがない。オランダ側では2011年に、ウィルヘルミーナ塔 Wilhelmina-Turm という別の展望施設が開業した。台地のへりに立っているのでこのほうが眺めがいいのだが、ボードゥアン塔から1kmほど離れていて、今回は割愛せざるを得ない。

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ボードゥアン塔からの眺望
ドイツ方向、右中ほどにアーヘン大聖堂の2本の尖塔と大屋根
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同 ベルギー方向
右手一帯が旧中立モレネ、足もとにモンツェンルートが延びる
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同 ベルギー方向、遠方にモーレスネット鉄橋
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同 オランダ方向は、手前に山上のレジャー施設
森のかなたにウィルヘルミーナ塔の先端がのぞく
 

ファールス山上の探索を終えた後は、自分の足で直接ドイツ側へ降りた。こちらは他の2国のような山上の平坦地が含まれておらず、斜面に広がるうっそうとした森の中にトレールが続いている。麓のバス停まで2km弱、農地の先に集落が見えてくるまで、誰一人出会うことがなかった。

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(左)独蘭国境沿いの森のトレール
(右)ドイツ側の集落が見えてきた
 

★本ブログ内の関連記事
 フェン鉄道を歩く

2026年1月25日 (日)

フェン鉄道を歩く

昨年(2025年)6月、ドイツのアーヘン Aachen に宿を取って、風格ある市街とその周辺を訪ねる機会があった。その際、ぜひ行ってみたいと思っていたのがフェン鉄道 Vennbahn の跡だ。

フェン鉄道というのは、アーヘンの南に広がるホーエス・フェン(フェン高地)Hohes Venn を越えてルクセンブルク方面へ延びていた鉄道路線だ。プロイセン国鉄が建設したが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦に伴い、ベルギー国鉄に移管された。しかし、過疎地帯につき貨客ともに需要が乏しく、おおむね1980年代には全線で列車が走らなくなってしまった。1990年代に観光列車による活性化が試みられたが、これも10年ほどで終了し、線路はその後大半の区間で撤去されて、自転車道に姿を変えている。

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フェン鉄道跡の自転車道
 
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フェン鉄道の特異な点は、ドイツ領内を通過している区間を含めて、敷地がベルギー領だったことだ。これは大戦の戦後処理によるものだが、この結果、鉄道用地にブロックされる形でドイツの国土に数か所の飛び地が生じた。後に帰属変更された区域も若干あるとはいえ、鉄道がなくなった今でも、多くが飛び地のままで残されている(下図参照、詳細は「フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I」「同 II」に記述している)。

国境が絡んだ廃線跡はたいへん興味深いが、本線だけでも100kmを越える長さがあり、短期旅行者の身で全貌を追うわけにはいかない。気温の高い季節でもあり、今回は鉄道沿いに運行されている路線バスを乗り降りしながら、ほんの一部を徒歩でたどるにとどめたことをご了解願いたい。

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フェン鉄道のルート北半(赤の実線・破線)
すでに大部分が休止または廃止済
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飛び地付近の拡大図
図中の1~5がドイツ領の飛び地

まず目指したのは、フェン鉄道の経由地の一つで、アーヘンの南30kmにあるモンシャウ Monschau という田舎町だ。フェン高地を水源とするルーア川 Rur が刻む深い谷間に、灰色のスレート屋根がひしめく美しい市街地がある。第二次世界大戦ではいち早く米軍に占領されたため、ドイツの他都市のように戦禍をこうむることなく、近世からの景観が保たれた。今ではアイフェル地方の真珠 Perle der Eifel と呼ばれて、けっこう人気の観光地になっている。

あいにくアーヘン中央駅 Aachen Hbf から直接モンシャウへ向かうバスはない。DB(ドイツ鉄道)アプリの指示によれば、SB63系統ジンメラート Simmerath 行きに乗り、途中のレートヘン(レーチェン)郵便局前 Roetgen Post(下注)で SB66系統モンシャウ行きに乗り換えよとのこと。後でよく調べたら、両系統ともアーヘン中心部のバスターミナル Bushof から出ているのだが、途中の経路が異なるため、SB66は中央駅を通らないのだ。

*注 ウィキペディア独語版によると、Roetgen の発音は [ʁøːtçən] で、音写するとレートヘン、レートヒェンあるいはレーチェンになる。なお、現地のバスの車内アナウンスでは、ロイチンのように聞こえた。

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アーヘン中央駅
 

バスは郊外に出ると、森の中の2車線道を軽快に飛ばしていく。フェン高地を横切る連邦道258号に合流した後は、けっこうな上り坂になった。アーヘンの高度は200m前後だが、レートヘンでは400mを越え、サミットは550mほどになる。フェン鉄道の軌跡が大きく蛇行しているのも、距離を引き延ばすことでこの高度差を克服しようとしたからだ。

レートヘンで乗換えたバスは、森を抜け、のどかな集落や牧草地をしばらく走り、最後に細かいカーブを切りながら谷を降りていった。アーヘンからちょうど1時間、終点モンシャウ・アルトシュタット(旧市街)Monschau Altstadt のバス停は、旧市街の北口の前だ。

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(左)路線バスでモンシャウへ
(右)終点モンシャウ・アルトシュタットに到着
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1:20000地形図に歩いたルート等(赤)を加筆
+記号の列が国境線、カラーのエリアがベルギー領
モンシャウ付近
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
© 2026 Institut Géographique National - Bruxelles

 

バスを降りてもなお下り坂で、緩く曲がる石畳道の両側に、石壁やハーフティンバーの家屋が軒を連ねている。歩を進めるとその奥に、高台から町を見下ろしている城塞や、玉ねぎ形のドームを載せた教会の尖塔がちらちらと覗く。地図を頼りに小高い展望台に寄り道して、狭い谷の底から斜面にかけて広がる町のパノラマを堪能した。

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(左)石畳道の奥にモンシャウ城が覗く
(右)福音派教会の尖塔も目印に
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展望台からの城と旧市街のパノラマ
 

モンシャウは歴史的にはフランス語圏で、1918年までフランス語名のモンジョワ Montjoie と呼ばれていた。今のドイツ語名に改称されたのは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、大戦終結の講和条約でベルギー編入の対象にされることを危惧したためだとされる。確かにグレー基調のシックな都市景観は、ベルギーのフランス語圏、ワロン地域 Région wallonne のどこかにあってもおかしくない。

鮮やかな花々に彩られたマルクト広場から、ルーア川に面して建つローテス・ハウス Rotes Haus と福音派教会の前を通り、路地の石段を、丘の上のモンシャウ城址 Burg Monschau まで直登した。しかし800年の歴史をもつという城郭は案外狭く、しかもイベント用のやぐらが組んであるのがいささか興ざめだった。

■参考サイト
モンシャウ旧市街のGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/LHk34NxfqGUEBa8K9

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ルーア川沿いに続くマルクト周辺の町並み
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18世紀の貴族の館ローテス・ハウス(正面左)と
福音派教会に渡る鉄橋
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モンシャウ城址
(左)円塔 (右)イベント用のやぐらが組まれた城内
 

街巡りの後は、いよいよ本題のフェン鉄道跡を見に行く。かつてのモンシャウ駅は、町からはずれた高原の上に設置されていた。

小道をさらにたどって高原の上位面へ。のどかな住宅地の中を北へ15分ほど歩いたところで、旧駅の入口が見えてきた。駅はベルギー領だったので、ここで国境線をまたぐはずだが、目印になるようなものは見当たらない。ベルギー側と思われる個人宅の前の砂利道を奥へ進むと、森を切り開いたような空間に一条の舗装道が延びていた。北側(アーヘン方)に、バスの待合所のような休憩施設も見える。

傍らに立つ案内板には、独蘭仏英の4か国語でこう記されていた。「フェン高地のユニークな景観を抜けてアーヘンからトロワヴィエルジュ Troisvierges に至る旧フェン鉄道は長さ125kmで、ヨーロッパ最長の自転車道の一つです。勾配はわずか平均2%で、どんなサイクリストにとっても最も魅力的なコースの一つになっています。」

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モンシャウ駅跡の自転車道
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(左)モンシャウ駅の表札がある休憩所
(右)自転車道案内板
 

現在、旧フェン鉄道はドイツ、ベルギー、ルクセンブルクの3か国にまたがる国際自転車道として開放されている。同時に、ベルギー・ワロン地域の廃線跡自転車道ネットワーク「RAVeL(Réseau autonome de voies lentes、公設低速道路網の意)」の一部でもあって、沿道の距離標識にはその道路番号 L48(下注)が添えてある。きょうはこれを4.2km北のコンツェン駅跡まで歩くつもりだ。

*注 L48はアーヘン~ザンクト・フィート Sankt Vith 間。

朝から快晴で日差しは強いが、高原は風がよく通り、案外涼しい。モンシャウ前後のルートは目立った勾配もないから、サイクリングには最適だろう。さっそく北へ向かって歩き出すと、自転車を駆るペアやグループとたびたび行き違った。

ベルギーの官製地形図には、沿道に小さな赤丸の記号と Gr で始まる英数字が点々と打たれている(下図参照)。Gr はオランダ語で境界標を意味する Grenspalen の略で、国境標の位置と番号を示すものだ。しかし、実際の標石は路傍に生い茂る草むらに埋もれてしまったのか、一向に目に入らない。

フェン鉄道のこの区間は1934年まで複線だったし、用地には駅や築堤・切通しの法面なども含むので、ある程度の横幅があるはずだ。とはいえ、異国の地で丈の高い草をかき分けて探し回るのは、さすがにためらわれる。そのうち一つぐらい見つかるだろうと放念して、先へ進んだ。

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(左)一般道との交差点
(右)残された鉄道信号機
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サイクリストと行き違う
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同 コンツェン付近
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
© 2026 Institut Géographique National - Bruxelles

 

しばらくすると左手に農地が広がり、ぽつんぽつんと農家も見えてくる。ここまでは左右ともドイツ領で、ベルギー領の自転車道はその海に浮かぶ紐のような通路だった。しかし、46.0kmの距離標の手前で進行方向左側がベルギー領に変わる。つまりこの先は、線路用地の右端が両国の国境になるのだ(下注)。もちろん周りの風景には何の変化もないので、あくまで脳内認識に過ぎないのだが。

*注 上掲の地形図では北へ約350mの間、左側を並走する道路がドイツ領として描かれているが、これはすでにベルギーに帰属替えされている。

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ベルギー領に変わる地点(国境の概略位置を加筆)
 

右手の森の蔭にコンツェン Konzen の集落の一部が現れた。コンツェン駅が間近だが、その前に注目すべきポイントがある。それはリュックシュラーク Rückschlag と呼ばれる最小のドイツ領飛び地だ。

これは1軒の住宅敷地で、線路の左側にもかかわらず旧モンジョワ郡に属していたためドイツ領で残された(下注)。東西150m×南北110mの少しひしゃげた矩形で、面積は0.016平方km、東京ドームの約1/3だ。個人宅としては十分広いが、国土として見ればいかにも小さい。

*注 三方の隣接地は旧オイペン郡だったので、鉄道用地とともにベルギーに割譲された。

自転車道からそれて確かめに行くと、それは屋敷森に包まれた農家だった。周りは耕作地のようだが、隣のベルギー領の手入れされた牧草地とは違って、夏草がぼうぼうと茂っている。だが、うれしいことに敷地の南東角に、国境を示す石標が見つかった。地形図によれば Gr 756 で、日なたの南面にベルギーを表す B の文字が読み取れる。

気をよくして敷地の北東角にも行ってみると、小さな溝の脇にまた B の文字が刻まれた石標があった。こちらは白いペンキで759と、標番つきだ。

■参考サイト
リュックシュラークのGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/jYWfRJ7NCsuLpkMM7

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最小の飛び地リュックシュラーク(国境の概略位置を加筆)
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リュックシュラークの国境標
(左)南東角のGr 756 (右)北東角のGr 759
 

まもなく右手から、朝バスで通った連邦道258号が接近してくる。コンツェン駅跡には、モンシャウにあったのと同様の休憩所が置かれ、地図を載せた案内板が立っていた。さらに400mほど北の旧構内北端では、プラットホーム状の土留めがしてあり、復元駅名標や信号機がオブジェのように立ち並んで、駅の記憶を伝えていた。

自転車道は、ここで連邦道と交差してランマースドルフ Lammersdorf の方へ迂回していくが、追い続けるには時間が足りない。探索を中断し、コンツェン駅 Konzen Bahnhof の名を残す近くの停留所からアーヘン行きのバスに乗った。

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コンツェン駅跡
(左)休憩所 (右)構内北端に集められたオブジェ群
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復元された駅名標
写真では見えないが、後ろの草むらに線路(移設されたもの)が埋まる
 

もう1か所訪ねたい区間がある。鉄道はランマースドルフを経由した後、アーヘンに向けておおむね1:60(16.6‰)の下り勾配で高原の北斜面を降りていく。その坂道を実感してみたかったのだ。往路と同じレートヘン・ポストの停留所でバスを降りた。少し手前で自転車道が連邦道を横切っているので、そこから再び自転車道に足を踏み入れる。

地図では、廃線跡が南西側に膨らみながら、集落のへりをかすめていると読める。しかし、実際には両側に木が生い茂って、自転車道を行く限り、モンシャウあたりの野の道と大して変わらなかった。明らかに違うのは道につけられた勾配で、自ずと歩く足取りが軽くなる。

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レートヘン・ポスト停留所で途中下車
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同 レートヘン付近
ベルギー官製1:20,000 43 3-4 Petergensfeld-Lammersdorf 2000年版
© 2026 Institut Géographique National - Bruxelles

 
 

木々に遮られて気づくのが遅れたが、いつのまにか周囲より高い築堤の上にいた。ヴェーザー川 Weser の浅い谷に張り出した区間で、街路とは立体交差している。

ミューレン通り Mühlenstraße の踏切跡では、左側にきょう3個目の境界標 Gr 884 を見つけた。刻まれたB、D(ドイツ Deutschland の頭字)と884の英数字が白ペンキで強調されている。ここと連邦道踏切跡との間約100mは、鉄道跡とベルギー「本土」とがつながっているため、ドイツの飛び地が二分される。

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(左)レートヘンの自転車道
(右)築堤下の街路と立体交差
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道路脇の目立つ場所にあった国境標 Gr 884
 

再び連邦道を横断すれば、レートヘンの駅跡だ。連邦道のすぐ脇にカフェが開いていて、サイクリストのグループが休憩中だった。その奥の駐車場のあたりが駅舎のあった場所で、コンツェンと同じように信号機や復元駅名標が並んでいる。少し離れてデザインの違う駅名標もあったが、実はこちらが廃止前からホームに立っていた本物だ。

そのレートヘン駅を後にすると、フェン鉄道は再びドイツの中の紐状の通路となり、地形の起伏をなぞりながら大きく東に迂回していく。そして、ベルギーのオイペン Eupen 方面との分岐駅だったラーレン Raeren 駅に着くまで、高原斜面の深い森をひたすら縫う孤独の旅に出るのだ。

■参考サイト
レートヘン駅跡付近のGoogle地図 https://maps.app.goo.gl/uz4yGyy6SvmgfS5K8

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連邦道から見たレートヘン駅跡
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レートヘンの駅名標
(左)復元された旧デザイン
(右)新しいデザインだがもとからホームにあったもの
 

■参考サイト
フェン鉄道跡自転車道 https://www.vennbahn.eu/

★本ブログ内の関連記事
 ベルギー・ルクセンブルクの保存鉄道・観光鉄道リスト

 フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I
 フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II
 ドイツ・ベルギー・オランダ三国国境会合点

2026年1月15日 (木)

ラ・リューヌ登山鉄道-ピレネー西端の展望台へ

プティ・トラン・ド・ラ・リューヌ(ラ・リューヌの小列車)Petit Train de la Rhune

コル・ド・サンティニャス(サンティニャス峠)Col de Saint-Ignace ~ソメ・ド・ラ・リューヌ(リューヌ山頂)Sommet de La Rhune 間 4.25km
軌間1000mm、三相交流3000V 50Hz電化、シュトループ式ラック鉄道、最大勾配250‰
1924年開通

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ラ・リューヌ山頂の登山列車

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フランスとスペインの国境をなすピレネー山脈、その最西端に位置する山がラ・リューヌ(リューヌ山)La Rhune だ。標高900m(下注1)とさほど高くはないが、大西洋岸から10kmしか離れていないため、晴れた日の山頂からは、両国にまたがるバスク海岸 Côte Basque の、遮るもののない眺望が得られる。ラ・リューヌ登山鉄道 Petit Train de la Rhune(下注2)は、その山頂へ観光客を連れていく。

*注1 下図では905mと記されているが、IGN地形図では900m。
*注2 「登山鉄道」はあくまで意訳で、原語は「ラ・リューヌの小列車」を意味する。

これはフランスに5本あるラック鉄道の一つ(下注)で、シュトループ式ラックレールを用いて、最大勾配250‰の坂道に挑む路線だ。珍しいのは、起点が山麓ではなく、標高169mのサンティニャス峠 Col de Saint-Ignace の上にあることだ。それには路線の成り立ちが関係している。

*注 他の4本は、シャモニーのモンタンヴェール鉄道 Chemin de fer du Montenvers、モン・ブラン軌道 Tramway du Mont-Blanc、クレルモン・フェラン近郊のパノラミック・デ・ドーム Panoramique des Dômes、リヨンのメトロC線の一部区間。

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リューヌ山遠望
手前はアンダイエのアバディア城 Château d'Abbadia(2020年)
Photo by PierreD at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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ラ・リューヌ登山鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

峠には、かつて海岸のサン・ジャン・ド・リュズ Saint-Jean-de-Luz からアスカン Ascain を経て内陸のサール Sare に至るメーターゲージ、粘着式の電気鉄道が通っていた。ミディ(南部)県鉄道 Voies Ferrées Départementales du Midi(下注)が地域に張り巡らせた路線網の一部で、登山鉄道はそれに接続するいわば支線だった。

*注 ミディ県鉄道は、国有化以前の大手私鉄、ミディ鉄道(南部鉄道)Chemins de fer du Midi の子会社で、バス・ピレネー県 Département des Basses-Pyrénées(現 ピレネー=アトランティック県 Pyrénées-Atlantiques)西部にメーターゲージの路線網を有していた。名称は県鉄道だが、県営ではない。

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サン・ジャン・ド・リュズ=サール線のサンティニャス峠駅
右端に現 登山鉄道駅舎と接続線路が写る
現地の説明パネルを撮影
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サンティニャス峠駅の絵葉書
登山鉄道の線路が左奥へ延びる
手前の線路はサン・ジャン・ド・リュズ=サール線
現駅舎はまだ建っていない
Photo from wikimedia. License: public domain
 

見晴らしのいいラ・リューヌ山頂へ鉄道を延ばすという構想は1908年に発表されている。1912年に着工されたものの、第一次世界大戦の勃発で中断を余儀なくされ、12年の歳月をかけて1924年にようやく開通した。その年の4月25日に2.65km地点のレ・トロワ・フォンテーヌ Les Trois Fontaines まで暫定運行が始まり、6月30日に開業列車が念願の山頂到達を果たした。

先述のサン・ジャン・ド・リュズ=サール線が開通したのも同じ時期だ。この路線やそれにつながる周辺の鉄道網を通じて、登山鉄道は、沿岸のリゾートに集まる多くの客を惹きつけることができた。

だが、1920年代はモータリゼーションが浸透していく時代でもあった。道路交通の攻勢を受けて県鉄道の利用者は漸減し、経営は苦境に陥る。政府の支援が得られなかったため、1930年代に入ると路線網の縮小が始まり、サン・ジャン・ド・リュズ=サール線も1937年7月1日付けであえなく廃止となった。

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山頂近くを続行する登山列車
 

逆風のなか、登山鉄道だけが生き残ったのは、山上に通じる一般道がなかったからだ。孤立路線になっても、客はみなバスや自家用車でやってくる。起点の駅前には、大型車も停められる広い駐車場が用意された。

しかし、1970年代に鉄道は、もう一度岐路に立たされたことがある。山を上る道路の整備計画が持ち上がり、その建設の是非を問う住民投票が実施されたのだ。道路ができれば鉄道にとって大きな打撃となるところだったが、結果は、否定の票が多数を占めた。

現在、登山鉄道を所有するのは地元のピレネー=アトランティック県だ。運行業務は2012年から、県が設立した高地リゾート公社 Établissement public des stations d’altitude (EPSA) に委託されている。同社は、ピレネー山地にある公有リゾート施設の運営全般を請け負っていて、以前紹介したアルトゥースト湖観光鉄道 Petit train d'Artouste(下注)の運行事業者でもある。

*注 詳細は「アルトゥースト湖観光鉄道-ピレネーの展望ツアー」参照。

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山頂駅で出発を待つ

鉄道では、開業時に就役した車両が今なお稼働している。列車の坂下側につくラック機関車 He 2/2 は、本場スイスのSLM/BBC製だ。在籍する6両のうち、3両がラ・リューヌに納入されたオリジナル機になる。1914年に製造が完了していたのに、上述のとおり開業が遅れたため、営業運転に就くまでに10年待たされたという不運の機関車だ。

残りの3両は、1912年からピレネー中部にあったリュション=シュペルバニェール鉄道 Chemin de fer de Luchon à Superbagnères(下注)で走っていた。この路線もミディ鉄道の子会社の運営で、設備仕様がラ・リューヌと共通だったことから、1966年の路線廃止後、こちらに引き取られた。

*注 麓のリュション Luchon からシュペルバニェール高原 Plateau de Superbagnères へ上っていた長さ5.65kmのラック鉄道。ラ・リューヌより早い1912年の開業だが、1960年に並行して道路が開通したため、1966年に廃止された。現在はこの区間にゴンドラリフトがある。

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(左)ラック機関車He 2/2
(右)運転室(いずれも2023年撮影)
 

2軸の小型機関車は、ニスで艶出しした栗の羽目板で覆われ、いかにも古風な外観を呈している。だが、それよりも目を引くのが、屋根に載るユニークな形状の三相交流用集電器だろう。2本の架線に対応する2本の集電子が前後に並んで、どこかトナカイの角を思わせる。

三相交流は、単相に比べて安定した電流が得られるため、商用電力では一般的だ。鉄道界でも19世紀末から導入された(下注)が、装置をより簡素化できる単相交流や直流に取って代わられ、もはやほとんど残っていない。

*注 三相交流は、位相を120度ずつずらした3組の電圧を用いる方式。鉄道に用いられた最初の例は、1899年に開業したスイスのブルクドルフ=トゥーン鉄道 Burgdorf-Thun-Bahn(現 BLS路線網の一部)だが、1932~33年に単相交流に転換された。

今なお三相交流で動いているのは、ラ・リューヌのほかに、スイスのユングフラウ鉄道 Jungfraubahn とゴルナーグラート鉄道 Gornergratbahn、ブラジル・リオデジャネイロのコルコヴァード鉄道 Trem do Corcovado の3路線しかない。いずれもラック方式の登山鉄道(下注)で、世界的に見ても貴重な存在といえる。

*注 登山鉄道にのみ残っている理由については、ウィキペディア「三相交流による鉄道電化」の項に解説がある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/三相交流による鉄道電化

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(左)三相交流用集電器
(右)駅前広場に置かれた駆動部のオブジェ
 

機関車の坂上側につく2両のオープン客車も、同じ栗の羽目板が張られたオールドタイマーだ。車内は6室のコンパートメントに分かれていて、それぞれ5人掛けのベンチシートが向い合う。窓枠に留めてある紅白縞の派手なカーテンは、厚手で防水仕様になっている。海からの湿った北西風がしばしば山に雲を呼び、雨をもたらすからだ。

乗員は1列車につき二人。山上行きでは、そのうち一人が先頭客車のデッキに乗って前方を確認し、緊急ブレーキを扱う。

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(左)オープン客車
(右)ベンチシートが並ぶ車内

訪れたのは6月、登山鉄道は9時30分から15時30分まで40分間隔、1日8往復のダイヤだった。朝日のさすサンティニャス峠の駅前はまだ人影も少なかったが、駅の案内板に表示されている一番列車の残り席数は23席だ。列車定員は120人だから、多くの人はネット経由で事前に席を押さえているのだろう。

出札口で買った乗車券の二次元コードをかざして、改札機を通過した。構内は1面1線のシンプルな構成だ。古い写真には道路側にもう1線写っているが、とうに撤去されてしまったようだ。サン・ジャン・ド・リュズから来る路線バスが通過するころには、駐車場からも人が続々と集まってきて、狭いホームはいっぱいになった。

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朝日のさすサンティニャス峠駅前
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(左)残り席数の案内板
(右)コンパートメントの案内図
 

発車7分前に、森の蔭から機関車を先頭にして、一番列車が姿を見せた。ホームに到着すると、スタッフが客車の腰高扉をバタバタと開けていく。客は、1から12までそれぞれ指定された番号のコンパートメントに向かう。今朝は天気がいいので、見た限りでは満席のようだ。

警笛が鳴って、列車は駅を定刻に発車した。のっけから結構な坂道だが、まもなく勾配が和らぎ、右に引込線を分けた。線路の奥に見える建物は、孤立路線になるときに建設された3線収容の車庫 兼 整備工場だ。すぐにまた急勾配になり、車庫が右手下方に遠のいていく。列車はそこからしばらく、前山の浅く急な谷間を上り続けた。

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一番列車が現れる
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(左)狭いホームは人でいっぱい
(右)続々と指定の席に乗り込む
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(左)車庫への分岐
(右)車庫の同僚機を見送る(いずれも2023年撮影)
 

10分ほどすると尾根の上に達したようで、約1kmの間、階段の踊り場のような平坦区間に入る。左手にラ・リューヌ山の東の尾根筋、奥にはサール盆地 Bassin de Sare やピレネーの山並みが広がる。その晴れやかな風景を望みながら、列車は前山の南斜面をほぼ水平に横切っていく。露岩の出っ張りを切通しと急カーブで抜けると、進行方向にラ・リューヌ山の本体が現れた。山頂に建つ赤白の電波塔や、そこへ向かって斜面を上っていく鉄道のルートがはっきり見える。

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前山の露岩の切通し
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左車窓にサール盆地とピレネーの山並み
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ラ・リューヌ山頂へ上っていく線路
 

平坦区間の中ほどに、クロワズモン Croisement 信号所がある。起終点駅がいずれも棒線のため、到着した列車は次の列車のために線路を空けなければならない。それで40分サイクルの場合、山上行き一番と山麓行き最終を除いて、必ずこの信号所で行き違うダイヤになっている。実際、帰りはここで山上行き2本とまとめて対向した。各回とも1本の列車で客をさばききれないときは、第2編成が続行運転されるのだ。

穏やかな平坦区間は、前山とラ・リューヌ山に挟まれたレ・トロワ・フォンテーヌ(三つの泉)Les Trois Fontaines と呼ばれる鞍部までだ。ここはまた、1924年4月25日の暫定開通時の終点でもある。1987年まで同名の停留所が残り、列車交換も行われていたが、今では線路わきにぼんやりと空地が広がるだけだ。

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帰りはクロワズモン信号所で列車交換があった
 

ここからはいよいよ、ラ・リューヌ山本体を上る胸突き八丁にさしかかる。直登するには急過ぎるため、線路はいったん左に振って距離を引き延ばしてから、おもむろに右に折れて山頂を目指している。標高700m付近で松林が消えると、車窓右手には遮るもののない大パノラマが開けた。

手前の山腹には、今さっき通った平坦区間が一条の擦痕のように延びている。前山の向こうは、山脈と海の間を埋める緑の丘陵地で、その奥は大西洋(下注)の大海原だ。進行方向に目を移すと、あれほど小さく見えた山頂の電波塔が、もう見上げる高さにそびえている。まもなく列車は標高886m、白壁の駅舎の前の狭い終点ホームに滑り込んでいった。

*注 フランス南西岸とスペイン北岸に囲まれる海域で、フランス語でガスコーニュ湾 Golfe de Gascogne、英語ではビスケー湾 Bay of Biscay と呼ばれる。

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山頂からのパノラマ
前山と山腹の信号所
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同 サン・ジャン・ド・リュズ市街と丘陵地
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同 アンダイエ方面、湾の対岸の半島はスペイン領
 

列車を降り、駅から続く階段を何十段か上れば、もうサミットの展望台だ。2年前に一度来たときは濃霧で視界がきかなかったが、きょうは快晴、サン・ジャン・ド・リュズの湾入からアンダイエ Hendaye の対岸の半島まで、沿岸地帯の風景が手に取るように見える。

山頂には、鉄道駅と電波塔のほかに休憩施設が2棟建っているが、壁に記された文字はスペイン語だ。地図によると、展望台と休憩施設の間にフランスとスペインの国境線が通っている。しかし、それを示すはずの標石はどこにも見つからない。この広く澄んだ空の下では、土地の細かい線引きなど瑣末なことなのかもしれない。

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山頂駅に到着
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展望台
電波塔はフランス側、休憩施設はスペイン側

登山鉄道は冬季を除いて毎日運行していて、片道の所要時間は35分だ。ローシーズンは1日5往復とのどかなものだが、7~8月のハイシーズンには40分間隔のピストン運行になり、1日に14~15往復が走る。注意すべきは、乗車券が往復セットで販売されていることだ。列車と座席が指定され、山頂での自由滞在1時間20分を含め、全体で2時間30分のツアーとなる。

なお、サンティニャス峠の起点駅へは路線バスで行ける。SNCFサン・ジャン・ド・リュズ駅前のバスターミナルから、45系統サール Sare 行きで21分だ。月~土曜は1時間ごと、日曜祝日も7往復と、旅程を組むのに支障のない頻度で運行されている。時刻表は下記の公共交通案内サイトを参照されたい。

写真は特記したものを除き、2023年7月と2025年6月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
ラ・リューヌ登山鉄道 https://www.rhune.com/
チクタク(公共交通案内)https://www.txiktxak.fr/

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2026年1月 5日 (月)

ポリ鉄道(ポリバーン)-学問の丘のミニ路線

ポリ鉄道 Polybahn

鋼索鉄道(単線交走式)
セントラル Central~ポリテラッセ Polyterrasse 間 0.176km(斜長)
軌間1000mm、最大勾配230‰、高度差41m
1889年開通

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ビルの2階から飛び出すポリ鉄道の車両

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チューリッヒ中央駅 Zürich HB の駅前から東へ歩き、リンマート川 Limmat を渡ったところにある広場が、セントラル Central だ。北側に建つ格式あるホテル・セントラル Hotel Central(下注)にちなんで命名された。1950年までレオンハルト広場 Leonhardsplatz と呼ばれていたように、名目は広場だが、実態は市電の一大ジャンクションだ。文字どおり四方から集まり散っていく線路とそのホームで、平面の多くが埋め尽くされている。

*注 1883年創業。現在の正式名称はセントラル・プラザホテル Central Plaza Hotel。central は英語またはフランス語の綴り(ドイツ語は zentral(ツェントラール))なので、ここでは英語読みとした。

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セントラルに集まる市内トラム
右端の建物がホテル・セントラル
 

市内トラムの系統6本(3、4、6、7、10、15系統)に加えて、トロリーバス路線2本(31、46系統)もここで乗換えができるが、もう一つ、忘れてならないのがポリ鉄道(ポリバーン)Polybahn だ。

これはケーブルでつながれた2台の車両が行き来する交走式ケーブルカーで、セントラルと、チューリッヒ工科大学 ETH Zürich 本館近くのポリテラッセ Polyterrasse(テラッセ Terasse はテラスの意)の間を結んでいる。全長わずか176mのミニ路線ながら、最大230‰の勾配で高度差41mを克服する(下注)。

*注 諸元は公式サイトの記述に拠る。

チューリッヒ工科大学は、相対性理論を唱えたアルベルト・アインシュタイン Albert Einstein も若かりし頃に学んだスイスの名門国立大学だ。旧市街を見下ろす高台にそのメインキャンパスがある。鉄道名の「ポリ poly」というのも、大学の旧名である国立技術専門学校 Eidgenössische polytechnische Schule(下注)の愛称に由来している。

*注 英訳では Federal polytechnic school。

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テラスの斜面を上るポリ鉄道の車両
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ポリテラッセとチューリッヒ工科大学本館(2022年)
Photo by Leonhard Lenz at wikimedia. License: CC0 1.0
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チューリッヒ市街東部の1:25000地形図
左端のZürich HBが中央駅、その右にポリ鉄道
© 2025 swisstopo
 

開業以来、学生・教員ら大学関係者が多く利用し、「ポリ」への通学路線として親しまれてきたが、もとはそのためだけに計画された鉄道ではない。

大学の裏手には、標高676mのチューリッヒベルク Zürichberg に続く西向きの傾斜地が広がっている。ドルダー鉄道(下注)と同様、そこで観光開発が目論まれていて、ケーブルカーはそのための交通手段だった。全体は2区間に分かれ、下部区間は、セントラルから現在のポリテラッセに至る交走式、それに続く上部区間は、標高600m台にある旧シュレスリ・レストラン Restaurants Schlössli 下まで循環式ケーブルカーを建設する計画だった。

*注 ドルダー鉄道については「ドルダー鉄道-チューリッヒ市内のラック電車」参照。

前者は、新たに設立された運営会社チューリッヒベルク鉄道 Zürichbergbahn が1888年に着工、翌89年1月に開業した。これが現在のポリ鉄道になる。しかし後者は、ツェントラーレ・チューリッヒベルク鉄道 Zentrale Zürichbergbahn (ZZB) が別途申請した路面軌道計画(下注)と競合するとして、建設認可を得られなかった。

*注 この路面軌道は1895年に開業したが、1905年に市に買収されて市電路線網の一部になった。現 5系統の東半区間に相当する。

時代からして、初期のポリ鉄道はウォーターバラスト(水の重り)方式で動いていたが、わずか8年後の1897年に電気式に転換されている。軌間は955mm、軌道は上下線が中央のレールを共有する3本レール、非常ブレーキ用のラックレールはリッゲンバッハ式ではなく、2枚歯のアプト式だった。

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(左)3本レール時代のポリ鉄道
  セントラル駅のパネルを撮影
(右)ブレーキ用のアプト式ラックレールを備えた旧軌道の断片
 

第二次世界大戦後は赤字に転落したため、運営会社は1970年代初めに、次の認可更新を行わないことを表明した。支援組織が運行継続を求めて活動を始めたが、それでも休止は不可避と思われていた。ところが、期限が迫った1976年、当時のスイス銀行 Schweizerische Bankgesellschaft (SBG) がにわかに救済に動き出す。銀行の出資で新会社 SBGポリ鉄道 SBG-Polybahn AG が設立され、鉄道の運営を引き継いだ。

1996年には老朽化した設備が全面改修されて全自動運転になり、車両も木製車体から鋼製に更新された。軌間が1000mm(メーターゲージ)、2本レールの単線交走式に変更されたのもこのときだ。

親会社の社名変更に伴い、現在はUBSポリ鉄道が正式名称になっている。実際の運行業務はチューリッヒ市交通局 Verkehrsbetriebe Zürich (VBZ) によって行われ、24系統として市内の公共交通網の一部を構成している。運賃は市内ゾーンの範囲内で、スイストラベルパスも通用する。

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山上へ向け鉄橋を上る

セントラルの市電ホームに立って周辺を見回しても、ポリ鉄道の乗り場はなかなか目につかない。というのも、ドルダー鉄道と同様、出入口がビルの一角にあり、乗り場自体もビルの中に組み込まれているからだ。広場の南側に建つ商業ビルの地上階、スターバックスの隣に POLYBAHN と記された赤い看板が上がっている。

中に入ると、目の前に階段状のホームがあった。2面1線の構造で、坂上に向かって右が乗車用、左が降車用になっている。5分ごとの頻繁運転なので、待つ間もなく赤い車両がホームに入ってきた。車内はコンパートメント3室と、坂上側にオープンデッキ、坂下側にクローズドデッキがある。コンパートメントにはベンチシートが向かい合うが、所要時間が1分40秒と、あっという間なので、デッキで済ませる人が多い。

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スターバックスの右隣にある駅入口
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(左)入るとすぐに階段状のホームが
(右)車両の坂上側はオープンデッキ
 

乗員はおらず、扉の開閉も完全自動だ。時間になると、ポンというチャイムとともに扉が閉まり、すぐに動き出した。ビルを出ると、主要街路のザイラーグラーベン Seilergraben(下注)をまたぐ鉄橋を渡っていく。この鉄橋はチューリッヒ市街地の名物の一つで、通りで待っていると、ビルの2階から赤い車両が斜めに飛び出すユニークな光景に出会える。タイミングが合えば、その下を走る3系統のトラムと一緒に画角に収めることも可能だ。

*注 ザイラーグラーベンは、ザイラー濠の意。道路になる前は旧市街を囲む市壁の外濠だった。ザイラーというのは綱(ザイル)職人の工房があったことに由来する。

鉄橋上の軌道がやや左に寄っているのは、3本レールのうちの右側を外した名残だろう。ただし軌間が拡張されたので、中央レールは中心位置にない。

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(左)発車してビルの外へ
(右)軌道が左に寄るのは3本レール時代の名残
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ビルの2階に吸い込まれる下り車両
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ザイラーグラーベンの上空を行く
 

鉄橋を渡り終えないうちに、早くも中間ループが始まった。左にカーブしながら進んでいき、対向車両とゆっくりすれ違う。そのループが収束する先にはもう軌道の終端が見えていて、車両は音もなく上部駅ポリテラッセのホームに滑り込んだ。

下部駅とは対照的に、駅舎は木造、切妻屋根の建物だ。窓ガラスの素朴な装飾やハーフティンバーの外壁が、アルプスの山小屋を思わせる。内壁にはしご状のものが立て掛けてあるのでよく見たら、3本レール時代の軌道の断片だった。中央にブレーキ用のアプト式ラックレールも付属している。

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(左)ザイラーグラーベンにトラムの姿も
(右)下り車両と行き違い
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(左)ループを抜けるとすぐにポリテラッセ駅
(右)到着、降車は坂上に向かって左扉から
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(左)山小屋風のポリテラッセ駅舎
(右)窓から柔らかな光が差し込む
 

セントラルから大学へは、トラム6系統か10系統でも行けるとはいえ、坂道だけを回避したいのならポリ鉄道が最適だ。まさにエスカレーター代わりで、年間170万人の利用者があるというのも頷ける。駅舎を出て右に行くと、駅名になったポリテラッセ(大学本館前のテラス)がある。比高40mの高みから中心部の町並みを見渡して、駅に戻ることにしよう。

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ポリテラッセからの市街地の眺め(2019年)
Photo by Ank Kumar at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

■参考サイト
ポリ鉄道 https://www.polybahn.ch/

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