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2025年11月 3日 (月)

コンターサークル地図の旅-上田交通真田傍陽線跡

上田交通真田傍陽線(下注)は1927~28(昭和2~3)年の開業で、長野県の上田市内から北東の中山間部へ通じていた計15.9kmの電化路線だ。途中の本原(もとはら)で分岐して、一方は真田(さなだ)へ、もう一方は傍陽(そえひ)へ向かう。

*注 開業時の社名は上田温泉電軌、略称 温電。その後、上田電鉄(1939年~)、上田丸子電鉄(1943年~)、1969年から上田交通。路線名も開業時の北東線から、菅平鹿沢線(1939年~)、真田傍陽線(1960年~)と変遷している。

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上田城二の丸堀の廃線跡と保存された公園前駅
(2021年4月撮影)
 

真田では菅平高原や群馬県方面へのバス連絡があり、利用者も多かった。そのため、上田~本原~真田間(以下、真田線)が本線格として直通運転され、本原~傍陽間(同 傍陽線)は支線扱いだった。戦後は、菅平行きのバスの多くが上田から直行になり、貨物輸送もトラックに移行したため、業績が悪化し、1972年に全線廃止された。

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図1 真田傍陽線現役時代の1:200,000地勢図
  1959(昭和34)年修正

2025年秋のコンター旅、初回となる10月3日はこの廃線跡をたどる。参加者は大出さん、木下さん親子、私の4名だ。真田傍陽線は、国鉄駅に接していた電鉄上田駅(下注1)から西に出て、上田城の濠の中を北上していたが、国道18号北側の上田花園駅跡までは2021年4月、西丸子線跡探索(下注2)のついでに大出さんと歩いている。

*注1 1955年の改築で独立駅の構造になるまでの名称は上田駅。
*注2 西丸子線跡については「コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡」参照。

上田駅から長野方へ4~500m進んだ地点で、廃線跡は新幹線の高架下から離れて、北へ向かう。カーブの後、祝町大通りを横切って城跡まで続く駐車場用地がそのルートをよく示している。

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新幹線高架下を離れ、城跡に向かう廃線跡
(左)祝町大通り南側(右)同 北側
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
上田~神科間
 

上田城の二の丸堀を北上する区間は、昔から有名だ。廃線跡は整備されて、ケヤキとサクラの並木に囲まれた憩いのプロムナードになっている。訪れたときはちょうどサクラの季節で、散策する人も多かった。城内に通じる二の丸橋の下には、公園前駅の単式ホームが保存されている。廃線跡をまたぐ橋のアーチには電線を支えていた碍子も残され、往時をしのばせる(冒頭写真も参照)。

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公園前駅跡と二の丸橋
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駅跡に建つ案内板
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廃線跡のケヤキ並木道、二の丸橋から北望
 

城跡公園を離れると北大手駅があったが、廃線跡は住宅や商業施設にすっかり紛れてしまう。城の外堀の役を果たしていた矢出沢川(やでさわがわ)を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

国道を横断して上田郵便局の北側に上田花園駅跡があり、ここで鉄道は針路を東に変える。駐車場に使われている砂利の空地が、大きなカーブを描きながら住宅街に消えていた。

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(左)矢出沢川に残る橋台
(右)上田花園駅跡

さて本日の探索は、次の北上田駅跡からスタートする。上田駅前から下秋和車庫行きのバスに乗り、中央北交差点の手前で降りた。駅は上田大神宮の北側にあったというので行ってみたが、民家が建ち並ぶばかりで面影は何ら残っていない。

廃線跡には、一括して自治体に譲渡され、自転車道のように元のルートがわかる形で活用されるものもあれば、切り売りされて民地になり、ほとんど跡をとどめなくなったものもある。真田傍陽線の場合は後者だ。開業当時、このあたりは旧市街の北のはずれで、まだ水田や桑畑が広がっていたが、今や全面住宅街で、元のルートは民地の地割や街路の向きから推測するしかない。

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(左)上田大神宮
(右)北上田駅跡は住宅地に
 

さらに東へ進むと、再び矢出沢川を渡る。ここも両岸に低い橋台が残っている。まもなく2面2線で列車交換ができたという川原柳(かわらやぎ)駅跡だが、三葉製作所の工場敷地に取り込まれて、輪郭もなくなってしまった。

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川原柳駅西側の矢出沢川に残る低い橋台
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川原柳駅跡
(左)駅前にあるバス停(右)駅跡は工場敷地の中に
 

ここから線路は、矢出沢川の開析谷に沿って北東へ向かう。工場に隣接する変電所の先は、農道として残っている。草刈り作業中のところ、断りを入れて通らせてもらった。国道18号バイパスと交差の前後は車道だが、すぐに草ぼうぼうの荒地に戻るため、またもや迂回を強いられる。

扇状地に上りきると、神科(かみしな)駅跡がある。道幅がそこだけ広くなり、駐車スペースに利用されている。ここで目の前に、上信越道上田菅平ICのランプウェーの擁壁が立ち塞がる。後ろでは国道144号の立派な4車線道が交差していて、歩行者には疎外感のある一帯だ。

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(左)変電所裏の廃線跡(西望)
(右)農道になった廃線跡
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(左)神科駅跡
(右)国道144号歩道橋から南望
  線路は横断歩道と後方の高架道との間を横断していた
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図3 同 神科~本原間
 

この後、線路は勾配緩和のために、扇状地を覆う方形の条里地割に逆らって大きく迂回していた。前半は圃場整備で農地に還ったが、残りはいまだに定率の曲線を描く跡を追うことができる。多くが私有地なので、公道から接近できる地点を選びながら順にたどった。

一連の迂回区間の北端にあった樋之沢(ひのさわ)駅では、珍しくコンクリートの相対式ホームが残っている。線路部分には残土が盛られているが、ホームの形状は損なわれていない。隣接する民家で放し飼いされている鶏が2羽、せわしげに歩き回っていた。

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(左)迂回区間のカーブを踏襲する街路
(右)相対式ホームが残る樋之沢駅跡
 

上信越道の下をくぐると、国道144号のバイパス新道が近づいてきて、廃線跡を呑み込んでしまう。現道との取付け部が工事中のため、バイパスはまだ開通していないが、谷の中を走っていた小道はすでに消失してしまった。

しかし、鞍部を貫く伊勢山トンネルの手前でバイパスは左に離れていき、廃線跡が掘割となって現れる。伊勢山駅がこのあたりにあったはずだ。古い跨線橋の上から、鉄扉で封鎖されたトンネルのポータルが確認できる。廃線後はキノコ栽培に利用されていたそうだが、そこへ通じる掘割が雑木や雑草で埋もれているので、近年は放置されているようだ。

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廃線跡を呑み込んだ国道バイパス(未開通)
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伊勢山トンネル
(左)掘割の奥にポータルが見える(右)封鎖された西口
 

国道を経由して山の反対側に回ると、森の斜面にトンネル東口が同じように封鎖状態で残されていた。続く川久保橋梁の橋台も、谷を降りていく農道ぎわにすっくと立つ。線路は、ここから神川(かんがわ)の広い谷を向かいの段丘上まで、上路トラスの長い橋で一気にまたいでいた。沿線で一番の撮影名所だったに違いないが、今は幻だ。

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(左)森の中に残る東口
(右)神川の谷に面する高い橋台
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神川の谷
赤の矢印が示す橋台間に鉄橋が架かっていた
 

再び国道に戻って神川を渡り、対岸に移動する。もう片方の橋台を探すと、民家の離れか何かの土台として、藪に埋もれながら残っていた。この後は舗装道で、殿城口(とのしろぐち)、下原下(しもはらした)と小さな駅が数百m間隔で設置されていたが、いずれも痕跡はない。

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(左)殿城口駅跡付近の左カーブ
(右)下原下駅跡、左裏に真田氏発祥の里碑がある
 

12時になったので、国道沿いで見かけた食堂で昼食休憩にする。この先、真田線の跡は国道144号に上書きされてしまい、追跡の甲斐がない。分岐駅だった本原も、道路脇のバス停がその概略位置を示すだけだ。それで私たちは、比較的痕跡が残る傍陽線に足を向けた。

国道から分かれた草道が、美しい弧を描きながら、段丘を降りていく。これが廃線跡だ。再び渡る神川の橋台は残っているらしいが、雑木に覆われて確認できなかった。

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(左)本原駅跡にあるバス停
(右)両線分岐点
  右の国道が真田線跡、左の小道は傍陽線跡
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傍陽線跡の草道が弧を描く
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図4 同 本原~真田・傍陽間
 

それから廃線跡は、2車線道とつかず離れず、上流へ向かう。横尾駅も痕跡はないが、地形図に描かれた近くの千古滝(せんこだき)に興味を惹かれて寄り道した。谷底への小道をたどると、河原を塞ぐ大岩の間で渓流が二手に分かれ、滝壺へ流れ落ちている(下注)。落差が小さいのが意外だったが、水量の多い時期を選べば見栄えがするのではないか。

*注 かつては左端に第3の水路があり、千古三筋の滝と呼ばれた、と案内板にあった。

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千古滝
 

曲尾(まがりお)駅跡では、道端に駅名標の体裁を模した小さな木柱が立っている。沿線ではここにしか見られないので、地元の方のお手製だろう。県道35号に出会う地点で、廃線跡は西を向く。

曲尾の集落を抜けると、洗馬川(せばがわ)にさしかかった。左岸(東岸)は護岸改修されているが、右岸では橋台が、後ろの築堤を剥がされた状態で孤高を保っている。撤去された橋脚も、基礎だけは残っているように見えた。

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(左)横尾~曲尾間で農道になった廃線跡
(右)曲尾駅跡のお手製駅名標
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洗馬川右岸に残る橋台、後ろの築堤はもうない
 

終点の傍陽駅跡には新しい住宅が建ったが、正面に大きな蒲鉾屋根の農協倉庫あるいは選果場が残り、駅前の雰囲気を漂わせているのが印象的だ。

傍陽に着いたのは13時ごろ。朝からずっと曇り空で、昼前から小雨がぱらつき始めていたが、帰りのバスを待つ間にとうとう本降りになった。さいわい待合所は小屋仕様で、中に4人掛けのベンチもあったので、雨宿りができる。地元の人はふだんクルマを使うから、バスに乗り込んだのは私たちだけだった。

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(左)傍陽駅跡は宅地に転用、奥は農協倉庫
(右)雨宿りした傍陽バス停
 

途中、四日市橋を渡って国道144号に沿う真田自治センター入口という停留所でバスを降りた。ここは真田線の北本原(きたもとはら)駅跡で、そばに今もあるという「駅前食堂」を見たかったのだ。老夫婦で切り盛りしているような大衆食堂をイメージしていたが、実際は宴会場を備えた大きな2階家だった。

自家製の駅名標があるはすだが、と周りを探すと、分解状態で裏の軒下に置いてある。壊れたのだろうか、写真を撮りたかったのに残念だ。ともかくもタスクを完了した私たちは、近くのコンビニで買ったコーヒーで疲れを癒しながら、次に来る上田行きのバスを待った。

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国道沿いにあるバス停は真田線北本原駅跡
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(左)時代の記憶をとどめる駅前食堂
(右)上田行きのバスが到着

参考までに、真田傍陽線が描かれた1:50,000地形図を掲げておこう。なお、この地域の1:25,000地形図初版は1972(昭和47)年測量だが、同線はもう描かれていない。

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図5 真田傍陽線現役時代の1:50,000地形図
(左)1962(昭和37)年修正(右)1969(昭和44)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)、5万分の1地形図坂城(昭和37年修正)、上田(昭和44年資料修正)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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