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2025年11月

2025年11月30日 (日)

ルツェルン=シュタンス=エンゲルベルク線

ツェントラール鉄道ルツェルン=シュタンス=エンゲルベルク線
ZB Luzern-Stans-Engelberg-Bahn (LSE)

ヘルギスヴィール Hergiswil~エンゲルベルク Engelberg 間24.78km
軌間1000mm、交流15kV 16.7Hz電化、リッゲンバッハ式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配105‰
1898年 シュタンスシュタート Stansstad~エンゲルベルク間開業
1964年 ヘルギスヴィール~シュタンスシュタート間開業

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エンゲルベルク駅で発車を待つ急行列車

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エンゲルベルク Engelberg は、スイス中央部、ウルナーアルプス Urner Alpen の山懐ろにいだかれたリゾート都市だ。南に横たわる主峰ティトリス山 Titlis(標高3238m)周辺での登山やウィンタースポーツの基地として、季節を問わず多くの人が訪れる。

ドイツ語で天使の山を意味するエンゲルベルクは、もと町の東にそびえるハーネン山 Hahnen(標高2607m)のことだった。その頂きから聞こえる天使の声を受けて設立されたと伝えられるベネディクト会エンゲルベルク修道院 Benediktinerabtei Kloster Engelberg の名を通じ、やがて門前町を指す地名として広まった。

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エンゲルベルク修道院とハーネン山(右奥)(2021年)
Photo by W. Bulach at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1898年、この町に向けてメーターゲージの鉄道が開業した。現在のルツェルン=シュタンス=エンゲルベルク線 Luzern-Stans-Engelberg-Bahn (LSE) だ。麓と町のある盆地との間の大きな高低差を克服するため、先行するリギ鉄道 Rigibahn やブリューニック線 Brünigbahn と同じリッゲンバッハ式のラックレールを坂道に敷いていた。

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ツェントラール鉄道と周辺路線図
 

鉄道は当初、シュタンスシュタート=エンゲルベルク鉄道 Stansstad-Engelberg-Bahn (StEB) と称した。起点はフィーアヴァルトシュテッテン湖 Vierwaldstättersee に面するシュタンスシュタート Stansstad の港の前で、ルツェルンから湖を渡ってくる蒸気船に連絡して、乗継ぎ客を迎えた。

港にはこれとは別に1893年から、シュタンスシュタート=シュタンス路面軌道 Strassenbahn Stansstad–Stans が運行していたが、新しい鉄道に客を奪われて、早くも1903年に廃止されてしまう。シュタンス Stans というのは、港から3km南東にある町で、ニトヴァルデン Nidwalden 準州(下注)の州都だ。シュタンスシュタート=エンゲルベルク鉄道は、この歴史都市への新しい交通手段をも提供した。

*注 ニトヴァルデンは、隣のオプヴァルデン Obwalden とともにスイス原初三州の一つウンターヴァルデン Unterwalden を構成する。

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シュタンス市街の眺め
 

この鉄道がリギ鉄道やブリューニック線と一線を画すのは、これらがまだ蒸気運転だった時代に、最初から電気鉄道として建設されたという点だ。当時の技術水準に従って、電化方式は750V 32Hzの三相交流が採用されたが、同じ1898年にゴルナーグラート鉄道 Gornergratbahn やユングフラウ鉄道 Jungfraubahn の地上区間といった耳目をひく登山鉄道が同様の方式で新規開業していて、時代の先端を行く企てだったことが窺える。

反面、国内鉄道網との接続がないことは後々の弱点となった。シュタンスシュタートから先へは、船か路線バスに乗換える必要があり、利用者は不便を強いられた。最寄りのブリューニック線ヘルギスヴィール Hergiswil までは直線距離でわずか2km強だが、間にアルプナッハ湖 Alpnachersee に通じる水路と、ピラトゥス山から東に延びるロッパー尾根 Ropper という地形上の障壁が立ち塞がっている。

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ロッパー尾根(中景)と二湖をつなぐ水路
手前はシュタンスシュタート市街、遠景はピラトゥス山
鉄道は水路を跨ぐ橋の中央を走っている(2020年)
Photo by Marco Ghinolfi at wikimedia. License: CC0 1.0
 

水路に橋を架け、尾根に長いトンネルをうがつ新線で、ブリューニック線に合流するという長年の悲願が実現したのは、ようやく1964年12月のことだ。同時に、電化方式がブリューニック線の交流15kV 16.7Hzに転換され、線路施設も同線に準じる水準に改修された。こうして列車が同線を通ってルツェルンまで直通するようになったことから、社名もルツェルン=シュタンス=エンゲルベルク鉄道 Luzern-Stans-Engelberg-Bahn(以下 LSEと略す)に改称された。

2005年には、地方交通再編の一環でブリューニック線がスイス連邦鉄道SBBから移管され、LSEは、2本の路線を運行するツェントラール(中央)鉄道 Zentralbahn (ZB) として再スタートを切っている。

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ラック旧線時代の主力電車 BDeh 4/4
エンゲルベルク駅にて(1991年)
Photo by Falk2 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

LSE線の運行ダイヤは、インターレギオ Interregio (IR) とSバーンの2本立てだ。

前者はルツェルン=エンゲルベルク急行 Luzern-Engelberg Express と称し、ルツェルン発着で全線を完走する。1時間間隔の運行で、ルツェルンを出ると14.6km先のシュタンスまでノンストップ、あとは各駅停車だ(下注)。ラック対応の電気機関車 HGe 4/4 II(HGe101)形が牽く客車列車だが、プッシュプル運転のため、最後尾は運転台のある制御客車になっている。

*注 繁忙期の臨時列車には、シュタンスシュタートに停車する代わり、シュタンス~エンゲルベルク間がノンストップになる便もある。

SバーンはS4系統を名乗り、30分間隔の運行だ。各駅停車でシュタンス行きと、さらに足を延ばすヴォルフェンシーセン Wolfenschiessen 行きが交互に出る。また、朝夕に増発されるS44系統は、ルツェルン~ヘルギスヴィール間の小駅を通過する区間快速だ。車両は、シュタッドラー・レール社製の3車体連接車、ABe130形シュパーツ SPATZで、ブリューニック線と共通運用されている。

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ルツェルン=エンゲルベルク急行
(左)先頭は電気機関車HGe 4/4 II
(右)最後尾はシュパーツ似の制御客車
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Sバーンで運用されるABe130形シュパーツ

始発駅ルツェルンから分岐駅ヘルギスヴィールに至るブリューニック線との共用区間は、同線の項(下注)で記したので、ここではその先、LSE線の単独区間について見ていこう。

*注 「ブリューニック線(ルツェルン~インターラーケン・オスト)」参照。

ヘルギスヴィール駅南端で、複線のように見える二つのトンネルのうち、左側がLSE線のロッパー第2トンネル Lopper II tunnel だ。長さは1743mあり、内部で大きく左にカーブした後、ロッパー尾根を西から東へ貫いていく。闇を抜けるとフィーアヴァルトシュテッテン湖とアルプナッハ湖の間の水路があり、アッハーエック橋梁 Achereggbrücke でこれを渡る(下注)。

*注 アッハーエック Acheregg は、この水路に面したロッパー尾根の先端(岬)の地名。

長さ200mのこの橋は、左を並走する州道と一体の構造になっている。一方、右側にある4車線道は、ゴットハルト峠を越えてイタリアへ向かうアウトバーンA2、通称ゴットハルトルート Gotthardroute だ。スイスを南北に縦断する幹線道路なので、通行量が格段に多い。このように両側を道路に挟まれているため、景勝地にもかかわらず、列車からの眺めが単独橋ほどクリアでないのが惜しいところだ。

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(左)ヘルギスヴィール駅
(右)アッハーエック橋梁を渡る
 

橋を渡り終えると、左にLSE線の車両基地が見え、続いてシュタンスシュタート駅に停車する。ここでSバーン同士の列車交換がある。駅はヘルギスヴィール延伸の際、線路とともにここへ移設された。港の前にあった旧駅は、駅舎だけが今も残っている(下の写真参照)が、そこに至る線路敷は宅地や耕地に転用されてまったく跡をとどめない。

秀峰シュタンザーホルン Stanserhorn を右前方に仰ぎながら、A2道の上を斜めに跨ぎ越す。やがて周りは牧草地から市街地に変わり、中間の主要駅シュタンスに着く。主要駅といっても2面2線のごくふつうの構内で、この駅止まりのSバーンは、折り返しの発車までしばらく2番線で待機となる。

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(左)シュタンスシュタート車両基地をかすめる
(右)シュタンス駅
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港の前に残るシュタンスシュタート旧駅舎(2006年)
Photo by Gestumblindi at wikimedia. License: public domain
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シュタンスシュタート周辺の1:50000地形図
(左)1958年、起点はシュタンスシュタート港の前
(右)2024年、ヘルギスヴィール延伸後
© 2025 swisstopo
 

前身の路面軌道が連絡していたというシュタンザーホルン鉄道 Stanserhorn-Bahn (SthB) の駅へ行ってみた。標高1898mの山頂を目指すケーブルカーで、山麓駅へは歩いて3~4分、民族衣装のような美しいデザインの木造駅舎が迎えてくれる。

かつてこの鉄道は山頂までケーブルカーを3本乗り継いでいく方式だった。しかし山頂駅が火災で全焼したのを契機に、1975年に上部の2本が、近代的な1本のロープウェーに置換えられた。麓側の1本だけが、今もノスタルジックな木造車体のケーブルカーで運行されている。

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シュタンザーホルン鉄道
(左)山麓駅舎(右)第1区間のノスタルジックな車両
 

本題に戻ると、シュタンスの先は谷が狭まり、行く手に万年雪を戴く岩山が見え隠れするようになる。次のダレンヴィール Dallenwil では、急行どうしが列車交換する。ヴォルフェンシーセン Wolfenschiessen が山麓最後の町で、1時間に1本あるSバーンもここが終点だ。

州道とともに谷をさらに南下して、棒線駅でリクエストストップのグラーフェンオルト Grafenort を通過。そこから1.6km進んだ地点で、列車は速度を落とし、エンゲルベルクトンネル Engelberg-Tunnel に吸い込まれていく。長さ4043mの長大トンネルで、内部の大半にリッゲンバッハ式のラックレールが敷かれ(下注)、105‰の勾配で396mの標高差を上っている。通常ダイヤでは列車交換はないが、待避線も内部に2か所ある。

*注 ラック区間の延長は3797m。

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(左)深まる谷、ハペレンドルフ Chappelendorf の教会
(右)新トンネル上部出口から見える旧線跡
 

トンネルは2010年12月の供用開始で、まだ新しいものだ。2001年に着工されたものの難工事で、完成までに9年の歳月を費やした。しかしこれによって、ルツェルン~エンゲルベルク間の所要時間は14分も短縮されて47分になり(下注)、連結両数が厳しく制限されていた旧線に比べて輸送能力も倍増した。

*注 現在、日中のIRの所要時間は、エンゲルベルク行きが43分、ルツェルン行きは47分。

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ラック区間周辺の1:50000地形図
(上)1998年、旧線時代 (下)2024年、新トンネル開通後
© 2025 swisstopo
 

旧線時代のラック区間はより短く、その分坂道は険しかった。現トンネル入口からさらに2kmほど谷を遡ったオーバーマット発電所 Kraftwerk Obermatt の前に、起点となるオーバーマット駅があり、そこから最大246‰の急勾配で一気に高度を稼いでいた。ラック区間の終点は1.6km先の、地形図に Ghärst(ゲルスト)の注記がある地点だ。

三相交流の時代に、補機として使われたラック専用機関車HGe 2/2が、スイス交通博物館に保存されている。最盛期にはこの区間に同型機が4両配置されていたという。電車は、上り坂では機関車に後ろから押され、下り坂では前置された機関車をストッパーにして降りていた。時速はわずか5kmだった。

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(左)三相交流用のパンタグラフを載せるラック機関車HGe 2/2
(右)製造所銘板
  スイス交通博物館 Verkehrshaus der Schweiz 蔵
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(左)ラック区間で電車を押すHGe 2/2
(右)オーバーマット駅のラック起点
上記車両の説明板を撮影
 

1964年の交流電化後はBDeh 4/4(BDeh140)形電車が導入されたが、これとてラック区間では2~3両しか連結できず、速度も14.5km/hに抑えられていた。繁忙期に走る長い編成の車両は、麓の駅で許容の両数に分割して、山上へ送られた。

勾配を緩和したトンネル新線の完成で、ブリューニック線で急行を率いていたHGe 4/4 II機関車が運用できるようになり、今は機関車を含め最大8両(最後尾は制御客車)でこの坂道を上り下りしている。

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旧線オーバーマット駅での列車交換(2007年)
Photo by Reinhard Kraasch at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0 DE
 

10分ほどでエンゲルベルクトンネルを抜けると、標高はもう1000mに近い。水力発電用の貯水池オイゲニ湖 Eugenisee の小さな水面を右に見ながら、列車は市街地に入る。

エンゲルベルク駅は2面3線の頭端駅だ。3階建ての駅舎はありきたりの近代建築だが、2015年の改修でホームの上屋が延長され、編成全体をカバーできるようになった。乗客を降ろした後、急行はここに9分滞在するだけで、慌しくルツェルンに向けて折り返していく。

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エンゲルベルク駅
(左)長い上屋のついたホーム (右)駅舎正面
 

(2006年6月29日付「スイス・エンゲルベルク線(LSE)のバイパストンネル」を全面改稿)

■参考サイト
ツェントラール鉄道 https://www.zentralbahn.ch/

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2025年11月25日 (火)

ブリューニック線(ルツェルン~インターラーケン・オスト)

ツェントラール鉄道ブリューニック線 ZB Brünigbahn

ルツェルン Luzern~マイリンゲン Meiringen~インターラーケン・オスト Interlaken Ost 間73.92km
軌間1000mm、交流15kV 16.7Hz電化
リッゲンバッハ式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配128‰
1888~1916年開通、1941~1942年電化

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ルンゲルン湖畔を行くブリューニック線電車

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スイスを訪れる観光客に人気の鉄道ルートの一つに、ゴールデンパスライン GoldenPassLine がある。モントルー Montreux、インターラーケン Interlaken、ルツェルン Luzern という、スイス中央部の観光拠点都市を結ぶ東西198kmの列車サービスだ。乗り通すと5時間以上かかる(下注)が、沿線には、谷氷河の忘れ形見である大小の湖が点在し、車窓の眺めは折り紙付きだ。

*注 直通列車はなく、インターラーケン・オストで乗換が必要。

ルートは複数の鉄道路線から成り立っているが、このうち、東側のインターラーケン・オスト(東駅)Interlaken Ost~ルツェルン間73.9kmは、越える峠の名を取ってブリューニック線 Brünigbahn(下注)と呼ばれる。長い間、スイス連邦鉄道(国鉄、以下SBB)で唯一のメーターゲージ路線だったが、2005年に、新設のツェントラール(中央)鉄道 Zentralbahn(略称ZB)に移管された。

*注 Brünigの "ig" の音写は、スイス標準ドイツ語の発音に従い、イッヒ[iç] ではなくイック[ik] とした。

風景への定評はもとより、ラックレールを使う急坂区間や列車の進行方向が変わるスイッチバック駅があって、鉄道として見てもおもしろい。今回は、このユニークな路線を訪ねてみよう。

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ツェントラール鉄道と周辺路線図

ブリューニック線の歴史は、アルプナッハシュタート Alpnachstad とブリエンツ Brienz の間44.6kmが、ジュラ=ベルン=ルツェルン鉄道 Jura-Bern-Luzern-Bahn の手で1888年6月に開業したときに始まる。同 鉄道にとって初めてのメーターゲージ路線だった。

起点がアルプナッハ湖 Alpnachersee、終点がブリエンツ湖 Brienzersee と、どちらも湖畔にあったのは偶然ではなく、駅前の港で湖を渡る蒸気船に連絡するためだ。東海道本線(もとは中山道幹線)の琵琶湖に沿う区間がそうであったように、初期の鉄道は航路との間で輸送機関の役割を相互に補完していたのだ。

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ルツェルン駅前の旧駅記念ファサード
 

船でつないだ残り区間のうち、東側のルツェルン~アルプナッハシュタート間13.0kmはこのときすでに工事中で、翌1889年に開通した。方や、西側のブリエンツ~インターラーケン間は長らく未完で、インターラーケン・オストまで延伸されて他線と接続されたのは、ずっと遅れて1916年のことだ。

ブリューニック線は、すでに1890年から大手私鉄のジュラ・シンプロン鉄道 Jura-Simplon-Bahn (JS) の広範な路線網に組み込まれていたが、1903年の国有化でSBBの運営下に入る。以来、標準軌にして運用を他線と共通化する計画が立てられるものの、実現することはなかった。1941~42年に実施された電化事業で、標準軌幹線と同じ交流15kV 16.7Hzが採用されたのがその名残と言えるかもしれない。

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非電化時代を支えたラック蒸機HG 3/3形
スイス交通博物館 Verkehrshaus der Schweiz 蔵
 

1964年には、山岳リゾートのエンゲルベルク Engelberg に通じるルツェルン=シュタンス=エンゲルベルク鉄道 Luzern-Stans-Engelberg-Bahn(以下 LSE、下注1)の列車の乗入れが始まる。これもメーターゲージだが、それまでフィーアヴァルトシュテッテン湖 Vierwaldstättersee(下注2)の港があるシュタンスシュタート Stansstad を起点にする孤立路線だった。これをブリューニック線のヘルギスヴィール Hergiswil 駅まで延伸したことで、同線を介して列車がルツェルンまで直通できるようになった。

*注1 鉄道の詳細は「ルツェルン=シュタンス=エンゲルベルク線」参照。
*注2 原語は四つの森林州の湖を意味するが、英語では Lake Lucerne、日本語でもルツェルン湖と呼ばれることが多い。

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LSE線が分岐するヘルギスヴィール駅
 

LSEによる片乗入れは半世紀続いたが、2005年1月1日に組織的に解消する。冒頭にも記したように、ブリューニック線がSBBから分離され、LSE 改めツェントラール鉄道に移管されたからだ(下注)。メーターゲージで、一部にラック区間という共通の特色を持つ2路線がツェントラール鉄道1社にまとめられたことで、より効率的な運営が可能になった。

*注 SBBが所有していたブリューニック線の車両や施設をツェントラール鉄道の株式と交換したことにより、SBBは同社の筆頭株主(出資比率66%)になっている。

なお、2021年からは、マイリンゲン Meiringen で接続するマイリンゲン=インナートキルヘン鉄道 Meiringen-Innertkirchen-Bahn も同社に加わり、地域の路線網の一体化がさらに進んでいる。

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開業125周年記念パネル
インターラーケン・オスト駅で2013年撮影

ブリューニック線の運行ダイヤをルツェルン方で見ると、ギースヴィール Giswil までの近郊区間各駅に停まっていくSバーンS5系統(下注1)と、インターラーケン・オストまで全線を完走するルツェルン=インターラーケン急行 Luzern-Interlaken Express(列車番号の頭にPE、下注2)の2本立てになっている。

*注1 朝夕に走るザクセルン Sachseln 止まりの増発便は S55系統と称する。
*注2 PE は Panorama Express に由来する。

Sバーンは30分間隔、急行は1時間間隔で発車する。また、ヘルギスヴィールまではLSE線方面のS4系統も同じ線路を通るので、この間の各駅では都合15分ごとにSバーンの乗車機会がある。

インターラーケン方でも、マイリンゲン~インターラーケン・オスト間に、レギオナル Regional(普通列車)が60分間隔で運行されていて、急行との2本立てだ。急行列車は、主要駅間の速達便であるとともに、こうした近郊列車が走らないギースヴィール~マイリンゲン間、すなわち峠越え区間の各駅にサービスを提供している。

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ルツェルン駅発車案内
ツェントラール鉄道の列車は12~15番に
 

現在、ブリューニック線の主力車両は、シュタッドラー・レール社製の連接電車だ。普通列車の大半が、フィンク FINK と呼ばれる ABeh160形3車体連接車と、同じような3両編成でシュパーツ SPATZ と呼ばれる ABe130形で運行されている。

前者は2012年に走り始めたラック対応の新型車で、天井の左右にパノラマウィンドーと称する切り欠き窓がついている。後者は一世代前の車両だが、ラック非対応のため、峠越えはできない。また、パノラマウィンドーの中間車両に乗降扉がないのも特徴で、居住性はいいが、乗降に時間がかかるのが難点だ。

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(左)ABeh160形フィンク(2025年)
Photo by Moliva at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)ABe130形シュパーツ(2018年)
Photo by Andrewrabbott at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

他方、急行列車には、アドラー ADLER(下注)と呼ばれる ABeh150形が主に使われる。これはフィンク仕様の3車体連接車2本の中間にビストロカーを挟んだもので、計7車体、全長は126mになる。多客期には、これにフィンクを増結した10車体の長大編成で走ることが多い。

*注 車両の愛称は、性能の形容語の頭字と鳥の名(ドイツ語でフィンクは花鶏(あとり)、シュパーツは雀、アドラーは鷲)を掛けたもの。

それに対して、かつて峠越えの急行列車を牽引していたラック対応の電気機関車を見かける機会は少なくなった。現在は、主にLSE線のインターレギオ(IR、快速列車)のプッシュプル運転に携わるほか、一部はインターラーケン方のレギオナルにも使われているようだ。

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ABeh150形アドラー(2014年)
Photo by Heitersberg at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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ラック対応機関車HGe 4/4 II(HGe101)形が牽く普通列車
マイリンゲンにて

では、ルツェルンからインターラーケンに向けて、急行列車でブリューニック線のルートを追っていこう。

起点のSBBルツェルン駅は、計16線を擁する頭端式の大きな駅だ。正面から見て左側の2本のホーム、12番線から15番線にツェントラール鉄道の列車が発着する。1時間当たりSバーン4本と急行系2本、計6本がそれぞれ折返し運転するので、列車が常時1~2本はホームにいる印象だ。たまにいなくなっても、すぐに次の列車が入ってくる。

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ルツェルン駅のツェントラール鉄道線ホーム
 

列車は標準軌線と並んで駅を出るが、あちらはすぐに右へ離れていく。管制センターや車庫の建物を横目に見ながら、まもなく長さ1325mのアルメントトンネル Allmendtunnel に入る。2012年に完成した地下の新ルートだ。以前は北西側の地上を通っていたが、スポーツ施設や見本市会場のあるアルメント Allmend 地区の直下に移設され、最寄りの地下駅ルツェルン・アルメント/メッセ Luzern Allmend/Messe も新設された。旧線跡は自転車・歩行者道になっている。

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アルメント/メッセ周辺の1:50000地形図
(左)2007年 地上を通っていた時代
(右)2024年 地下に移設して複線化
© 2025 swisstopo
 

再び地上に上がってからも、複線で市街地の中を進んでいく(下注)。ホルフ Horw 駅を過ぎると、左手にフィーアヴァルトシュテッテン湖の水面が顔を見せるが、またすぐにトンネルで視界が閉ざされる。複線区間は、そのトンネルを出たヘルギスヴィール・マット Hergiswil Matt までだ。次のヘルギスヴィールとの間は1.4kmに過ぎないが、列車密度が変わらないのに単線で、運行上のネックとされる。地下を通して複線化する計画があるようだが…。

*注 アルメントトンネル手前からホルフ駅手前までは、標準軌の貨物列車を通すために、複線の片側が3線軌条になっている。またホルフ駅南方には標準軌貨物線がメーターゲージの本線を斜め横断する個所がある。

ヘルギスヴィールでは、エンゲルベルク方面のLSE線が分岐している。駅構内の南端で二つ並んだトンネルポータルの、右がブリューニック線、左がLSE線だ。トンネルは、ピラトゥス山 Pilatus から湖に大きく突き出したロッパー尾根 Lopper を貫いている。

闇を抜けたとたん、左車窓いっぱいに青い湖面が広がった。フィーアヴァルトシュテッテン湖と水路でつながっているアルプナッハ湖だ。まもなく横置きの珍しいロッハー式ラックで知られるピラトゥス鉄道 Pitlatusbahn との乗換駅、アルプナッハシュタートを通過する。

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(左)ヘルギスヴィール駅
(右)構内南端に2本のトンネルが見える
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ザルネン湖の水面
 

最初の停車駅ザルネン Sarnen を出ると、今度は右手に、ザルネン湖 Sarnersee のおだやかな水面が続く。次のザクセルン Sachseln で対向の急行と列車交換があった。

湖を後にしてギースヴィールに停車。ここはSバーンS5系統の終点で、峠越えを控えた麓の駅でもある。拠点駅らしく構内には3面5線と、外側に機回し用側線の計6線が並んでいる。構内の端から、さっそく最初のラック区間が始まる。ラックは梯子状のリッゲンバッハ式で、延長2.4km。102‰の勾配で約210mの高度を稼ぐ。

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(左)Sバーンの終点ギースヴィール駅
(右)構内終端から始まるラック区間
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ラック区間からギースヴィールの眺め
 

カイザーシュトゥール Kaiserstuhl 駅の手前で粘着式に戻ると、右車窓にルンゲルン湖 Lungerersee が見えてくる。沿線で最も上流にあるこの湖は標高687m、ターコイズブルーの湖面と周りの集落や牧草地、山並みが織りなす美しい景色で有名だ。ルンゲルン駅から第2のラック区間(延長1.7km、最急勾配105‰)に入り、列車が高みに上っていくと、絶景度がさらに増す。

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ルンゲルン湖畔は沿線きっての撮影地
 

短いトンネルの後の粘着区間にあるヘッペリ Chäppeli 信号場で、また急行列車と行き違った。すぐに第3の、かつ上り坂では最後のラック区間(延長1.2km、最急勾配110‰)が現れ、これを上りきるとブリューニック峠だ。峠の駅ブリューニック・ハスリベルク Brünig-Hasliberg に停車。標高は1002mあり、ルツェルンから560m以上上ってきたことになる。

駅を出てすぐの道路下で、第4の、今度は下り坂のラック区間が始まる。標高595mのマイリンゲンまで、高度にして400m以上を一気に降りていく。ラックの延長は3.9km、勾配も一番険しい128‰になる。右手にはアーレ川の深いU字谷が横たわっているはずだが、針葉樹の森に阻まれて、視界がほとんど開けないまま、牧草地の谷底まで降りきってしまう。

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峠の駅ブリューニック・ハスリベルク
 

マイリンゲンは、列車の進行方向が変わるスイッチバック駅だ。それで両方向とも6分の停車時間が確保されている。この駅で接続するマイリンゲン=インナートキルヘン線(下注)の列車が、隣のホームの前方に見えるかもしれない。同じメーターゲージで線路はつながっているが、電化方式が異なるため、車両運用は完全に分離されている。

*注 マイリンゲン=インナートキルヘン線の詳細については、「マイリンゲン=インナートキルヘン鉄道でアーレ峡谷へ」参照。

再び発車すると、流路改修で直線化されたアーレ川に沿って、軽快なスピードで走っていく。途中のブリエンツヴィーラー Brienzwiler 駅を含む長い待避線で、急行列車と3度目で最後の行き違いをした。

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(左)マイリンゲン駅正面
(右)ブリューニック線は頭端式ホーム
 

左手に大きな湖が見えてきたら、まもなくブリエンツ駅だ。開業から28年間、終点だった駅で、すぐそばの船着き場からブリエンツ湖を渡ってインターラーケンまで蒸気船が連絡していた。船着き場には今でもクルーズ船が発着していて、対岸にある名瀑ギースバッハ Giessbach や、桟橋の絶景で知られるイゼルトヴァルト Iseltwald にも寄港するので人気が高い。

連邦道を渡った山手の駅では、ブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz-Rothorn-Bahn(BRB、下注)の登山列車が待っている。電化率ほぼ100%と言われるスイスの鉄道網で、蒸気運転を保存している貴重な鉄道の一つだ。アルプスの展望台である標高2350mのブリエンツァー・ロートホルン Brienzer Rothorn を目指す観光客が、ホームからぞろぞろとそちらに向かうのが見える。

*注 ブリエンツ・ロートホルン鉄道の詳細については、「ブリエンツ・ロートホルン鉄道 I-歴史」「同 II-ルートを追って」参照。

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湖に面したブリエンツ駅ホーム(以下は2013年撮影)
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(左)ブリエンツ駅舎
(右)駅前の船着き場
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ブリエンツ周辺の地形図
(上)1:50000、1912年、ブリエンツ終点時代
(下)1:25000、2024年
© 2025 swisstopo
 

駅の東側にはブリエンツの町が広がっているため、ブリューニック線はその地下を長さ895mのブリエンツドルフ(村)トンネル Brienzdorftunnel で抜けていく。湖は東西の長さが14kmほどあり、列車はその北岸を忠実にたどる。それでインターラーケンまでの約20分間、アルプスの山並みと広がる湖面が左車窓の友になる。ルンゲルン付近と並ぶ列車の好撮影地だ。

最後に、湖から流れ出るアーレ川をトラスの鉄橋で渡ると、終点駅のヤードが見えてくる。ベーニゲン Bönigen の整備工場へ行く引込線(下注)をまたいで、列車はインターラーケン・オスト駅の4番線に到着する。

*注 トゥーン湖とブリエンツ湖の間で1874年に全通したベーデリ鉄道 Bödelibahn の名残。

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車窓から見るブリエンツ湖
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(左)インターラーケン・オスト駅舎
(右)マイリンゲン行普通列車が停車中
 

■参考サイト
ツェントラール鉄道 https://www.zentralbahn.ch/

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 ブリエンツ・ロートホルン鉄道 I-歴史
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2025年11月19日 (水)

コンターサークル地図の旅-京戸川扇状地と大日影トンネル遊歩道

2025年秋のコンター旅、最終日の舞台は山梨県の甲府盆地だ。西麓にある典型地形、京戸川(きょうどがわ)扇状地と、中央本線の旧線跡を活用した大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道を、徒歩で訪ねる。

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大日影トンネル西口
遊歩道になった旧線と現行線を行くE353系電車

バスタ新宿8時35分発の甲府行き高速バスに乗り、中央道笹子トンネルを抜けて最初のパーキングエリア(PA)、釈迦堂のバス停で下車した。本日の参加者は大出さんと私。地図に見られるとおり、このPAは京戸川扇状地の扇央部に位置している。

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(左)高速バスで中央道を西へ
(右)京戸川扇状地から東望
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図1 京戸川扇状地と大日影トンネル周辺の1:200,000地勢図
1980(昭和55)年編集
 

細かな雨が降るなか、まず訪ねたのは山手に建てられた釈迦堂遺跡博物館だ。中央道建設の際に出土した遺物を保管展示している施設で、下りPAから階段を上がってすぐのところにある。2階の常設展示室に入ると、みごとな流線形の縄文土器やおびただしい数の土偶片が、展示ケースの中でスポットライトを浴びていた。

もらったリーフレットによれば、重要文化財の指定を受けた所蔵品が5599点もあるそうだ。どうしてこの場所に集落が、と疑問もわくが、縄文時代は狩猟や採集で生活していたので、平地より山に近い場所にあったのだ。乾燥地で高木が育ちにくく、見通しがきくのがよかったのかもしれない。

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(左)釈迦堂遺跡博物館
(右)おびただしい出土品が並ぶ常設展示室
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(左)縄文中期の水煙文土器
(右)すずちゃんの名がある土偶
 

博物館を出た後は、ブドウ棚やモモの畑が広がる斜面の小道を上っていった。京戸川扇状地は、御坂(みさか)山地の一角、達沢山(たつざわやま)を源流とする京戸川がつくった地形だ。地理の教科書で典型地形として紹介されてきたので、なじみがある。

扇状地は、河川によって山から運ばれてきた土砂が、平地に扇の形に堆積した地形だ。ここに限らず山麓にはよく見られるものだが、あえて京戸川が選ばれる理由は、いくつかあるだろう。

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ブドウやモモの畑が広がる京戸川扇状地
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
  釈迦堂PA~勝沼堰堤間
 

一つは、扇の差し渡しが2.5km程度とコンパクトなことだ。1:50,000地形図では5cmで表せるから、挿図で使うのに好都合だ。さらに勾配が10%前後と急なため、等高線が比較的密で読み取りやすいし、果樹園に利用されているから、水はけがいいという土地の特性もつかめる。緩曲線で横断していく中央道ですら、扇状地の輪郭を強調する仕掛けに見えなくもない。

扇央部の2車線道まで上ると、視点が高くなり、はるか麓まで果樹園が広がる様子がよくわかった。桃の花が咲く季節には、あたかも桃源郷のようになるらしい。甲府盆地の眺めもいいはずだが、あいにく雨模様で遠方はかすんでしまっている。

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色づくブドウ畑、甲府盆地は小雨に煙る
 

それから畑の中の2車線道を東へ向かった。しばらく行くと道は下りになり、中央道をまたいでなおも降りていく。県道白井甲州線から、近道になる国道20号(勝沼バイパス)の側道を伝い、田舎道の太郎橋で日川(ひかわ/にっかわ)を渡った。

山手を仰ぐと、大善寺の立派な楼門がある。鎌倉時代後期、1306年の竣工という国宝の薬師堂を拝もうと、ほんのり色づき始めたモミジを眺めながら、長い石段を上った。高台にある境内の正面にどっしり据わるお堂がそれだ。檜皮葺の大屋根が雨に濡れて、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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大善寺
(左)楼門 (右)長い石段を上る
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国宝の薬師堂
 

続いて、近くにある勝沼堰堤へ足を向けた。1917(大正6)年に完成した砂防ダムで、日川の蛇行部を積石で閉じ、流路を直線化したものだ。水は岩盤を均して造られた越流部から落下していく。水量が少ないのか、写真で見るのと違って流れが左側に偏っているが、響き渡る音は祇園の滝という別名に恥じない迫力だ。周囲に歩道や階段が整備されているので、さまざまな方向から観察することができた。

公園のあずまやで、山を彩る紅葉をめでながら昼食休憩をとる。いっとき雨脚が強まったので、雨宿りもできて助かった。

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堰堤の越流部「祇園の滝」
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勝沼堰堤全景
左が蛇行部を閉じた堰堤、右の木の後ろに越流部がある

午後は国道20号からそれて、日川の支流、深沢川の谷を遡る車道をまた上る。しばらく行くと分かれ道があり、まもなく目的地が見えてきた。そこは中央本線の深沢トンネルと大日影トンネルに挟まれた谷間で、線路がつかの間、地上に顔を出していた区間だ。

2本のトンネルを含む初鹿野(はじかの、現 甲斐大和)~塩山(えんざん)間は、1903(明治36)年に開業した(下注)。長い間、単線で運用されていて、複線化されたのは実に65年後の1968年のことだ。このとき新トンネルが上り線とされ、明治のトンネルは下り線になった。

*注 この間にある勝沼(現 勝沼ぶどう郷)駅は、遅れて1913(大正2)年の開業。

その後1997年に、新深沢第二、新大日影第二の両トンネルを含む新しい下り線が建設されたことで、明治のトンネルは運用廃止となった。

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深沢川の谷間を横断する旧線跡
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図3 同 勝沼堰堤~勝沼ぶどう郷駅間
 

地元自治体に譲渡された廃線跡のうち、東側の深沢トンネルは、特産品であるワインの貯蔵施設「勝沼トンネルワインカーヴ」に転用された。案内板によると、年間を通じて内部の気温は12~13度、湿度は45~65%に保たれていて、ワインの熟成には最適な条件なのだそうだ。

入口は常時鉄扉で閉鎖されているが、日中の時間帯なら一般客も扉を開けて入ることができる。今日は外も肌寒いからそれほど気温差を感じないが、夏なら格段に涼しいだろう。立入禁止のロープを張った位置まで進むと、ワインが眠る棚が奥までずらりと並んでいた。

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勝沼トンネルワインカーヴ
(左)閉鎖された入口 (右)ワイン棚が並ぶ内部
 

一方、西側の大日影トンネルは、2007年に「大日影トンネル遊歩道」として公開された。トンネルの全長は1367.80m、この長さで歩行者専用というのは、全国でも最長級に違いない。その後、躯体の老朽化に伴い、改修工事による二度の中断があり、昨年(2024年)3月にようやく通行が再開されたばかりだ。

遊歩道はワインカーヴの管理事務所前から始まり、深沢川をトラスの鉄橋で渡った後、大日影トンネルの中へと続いている。内部は一直線で、甲府方へ25‰の下り勾配だ。内壁は煉瓦のイギリス積みで、補強のためか、一部で腰部に切石を使った個所があった。

線路は、現役当時のまま残されている。まくらぎがPC製なのは少し意外だったが、特急も通る幹線で、廃止されたのが比較的最近だから、ありうることだ。歩きやすいように、線路の両サイドにコンクリートの通路が設けられている。

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大日影トンネル遊歩道東口
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トンネル内部、天井のネットは漏水対策
 

内部には、距離標や勾配標も保存されていた。側壁の退避所に路線やトンネルに関する説明板が設置され、大きな待避所にはオブジェのようにベンチも用意されているから、何度も足が止まる。

奥に見えている出口の明かりはそれほど遠く感じないのだが、実際にはなかなか近づいてこない。保線作業用に設置されたという、出口までの距離を記した表示板に励まされながら歩いていく。距離からすると、普通の歩速でも通り抜けるのに16~17分はかかる。入口の柵には、平均歩行時間30分と書いてあった。

大出さんはこれまでに二度訪れたことがあるそうだが、東出口へ来たのは初めてとのこと。こんな天気でもあるし、傘の要らないトンネル探索は案外いい選択だったかもしれない。

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(左)起点から110kmの距離標
(右)25‰の勾配標、左側の羽根は欠損
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(左)待避所に置かれたオブジェのようなベンチ
(右)中間点の表示板
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トンネル西口
明かり部のレールは深沢トンネルからの移設
 

西口で、新線トンネルを飛び出してくる電車とともに新旧線の対比を撮ってから(冒頭写真参照)、勝沼ぶどう郷(かつぬまぶどうきょう)駅のほうへ向かった。この駅のホームが現在のような勾配途中の本線上に移ったのは、1968年の複線化のときだ。単線時代は、本線から分かれた水平の引上げ線に沿ってホームがある通過式スイッチバックの駅だった。その跡は現駅舎の南北で公園として整備され、花見の名所になっている。

南側の園地では、サクラの木の下にEF64の静態保存機が鎮座している。1966年製で、単線時代の中央本線で貨物列車を牽引していた電気機関車だ。一方、北側では旧ホームの一部が残され、小ぶりながら駅名標も復元されていた。すぐ隣りの現行ホームが急な坂(25‰)になっているのが、両者を見比べるとよくわかる。

帰りは、そのホームから15時18分発高尾行きの電車に乗り込んだ。雨に降られた一日だったが、けっこう見どころが多くて楽しめた。

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静態保存のEF64 18号機
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(左)サクラが植わる公園に残された勝沼駅旧ホーム
(右)旧ホームに立つ復元駅名標
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勝沼ぶどう郷駅
(左)ぶどう棚のある駅舎正面
(右)勾配ホームに高尾行き電車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図甲府(昭和55年編集)および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月15日 (土)

コンターサークル地図の旅-京阪京津線と東海道逢坂越

2025年10月19日、秋のコンター旅3日目は、京都と滋賀県の大津を結んでいる京阪電鉄京津(けいしん)線と、その沿線の旧 東海道に点在する見どころを訪ねる。

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大津市内の路面軌道区間を行く京津線800系
(旧塗装、2020年9月撮影)

東海道本線(琵琶湖線)の山科(やましな)駅前に集合したのは、山本さんと私。まずは駅前広場の向かいにある京阪山科駅から800系電車に乗り、京津線の終点、びわ湖浜大津駅へ移動した。

京都市営地下鉄東西線から直通運転しているこのルートは、地上に出ると舞台があたかも登山鉄道、次いで路面軌道と目まぐるしく移り変わるので、「劇場路線」の異名をもっている。それで、初めて乗るならかぶりつき、すなわち最前部の窓際に立つのがおすすめだ。さらに言えば、峠のトンネルでは運転席後ろのロールカーテンが降ろされるので、影響しない右側の小窓に陣取るのがいい。

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(左)京阪山科駅
(右)びわ湖浜大津行きに乗る
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図1 京津線周辺の1:200,000地勢図
2003(平成15)年修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)、旧東海道線跡(緑)等を加筆
 

電車は山科の市街地を直線的に通り抜けた後、国道1号と並走しながら逢坂越(おうさかごえ)へと向かう。逢坂越は、東海道五十三次の最後の宿場である大津宿と京の間にあった2か所の峠道の一つだ。標高324.6mの逢坂山(おうさかやま)の南麓にあるので、山と同一視されて、「逢坂山を越える」という表現がよく使われる。

ちなみにもう1か所は、山科盆地と京都盆地の間にある日岡峠(ひのおかとうげ)あるいは九条山(くじょうやま、下注)で、かつて京津線はここも通っていたのだが、1997年に地下鉄に道を譲って廃止されてしまった。

*注 旧 東海道の日岡峠は山科盆地のへりを上る急坂で知られたが、後にこれを避けて北側に勾配を平均化した新道が開かれ、1912(大正元)年開通の京津電気軌道(後の京津線)もそれに沿って敷かれた。以来この峠道は、山の所有者だった九条家にちなむ九条山の名で呼ばれている。

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京津線の逢坂越
(左)大谷駅を通過 (右)逢坂山トンネル西口
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ありし日の九条山越え(1988年8月撮影)
海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

電車はサミットの大谷(おおたに)駅に達すると、短い逢坂山トンネルを抜け、半径40mの急カーブで左に旋回した。頭上に名神高速の高架橋を仰ぎながら、国道とともに急勾配を降りていく。道端から離れた後は、町裏をくねくねと進んでいくが、ここにも急カーブが続出し、摩耗と騒音を軽減するためにレールの散水装置が作動している。

上栄町(かみさかえまち)駅を発車すると、電車はいよいよ旧 国道161号(現 県道高島大津線)の路上に出る。浜大津駅前の交差点まで約600m続く路面軌道区間だ。800系は4両編成で全長が66mもあるため、事実上、日本一長い路面電車ということになる。山科から13分、駅前交差点をよく響く警笛とともにゆっくり右折して、終点のびわ湖浜大津駅に着いた。

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(左)上栄町駅、散水装置が作動中(2022年4月撮影)
(右)路面軌道区間を行く

この後は今来たルートを徒歩で戻るつもりだが、その前に、駅前交差点の歩道橋の上から、出入りする電車を俯瞰しよう。上空を横断する太い電線が目障りだが、この駅で接続する石山坂本線(下注)の電車も通るので、展望台としては理想的だ。

*注 通称 石坂(いしざか)線。この路線にも、びわ湖浜大津駅の西側に約400mの路面軌道区間がある。

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歩道橋から駅前交差点を望む
手前の複線線路は石山坂本線
 

山科方面行きを1本見送った後、電車通りを南へ歩き始めた。京津線は約20分間隔で運行されているから、歩いている間にも撮影のチャンスが来る。道路上空には、専用軌道と同じトラスで架線を支えるビームが渡されている。そこを標準軌の4両編成が通過すると、どう見ても電車のほうが主役だ。自動車は、むしろ線路敷の余地を借りて走っているように錯覚する。

見どころかどうかは別として、高札場があったことから札ノ辻(ふだのつじ)と呼ばれる京町一丁目交差点の南西角に、大津市の道路元標が立っている。道路元標は、大正時代に各市町村の中心部に設置された、道路の起点を示す標識だ。大津の場合、この角にかつて市役所があり、東から来た旧 東海道(現 京町通り)が南に針路を変えていた。

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路面軌道区間で浜大津行きを見送る
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(左)札ノ辻の大津市道路元標
(右)旧 東海道(現 京町通り)を東望(2022年4月撮影)
 

次の交差点を過ぎると、京津線は道路を離れて右手の家並みの中へ消えていく。道路の左側の小区画に、まだ新しい大津宿本陣跡の碑とともに、車石の断片が置いてある。

水路や鉄道ができるまで、大津の港で船から荷揚げされた米などの荷物は、牛が牽く荷車で京都へ運ばれていた。このため、荷車がぬかるみで難渋しないよう、人や馬が通る土道の横に、車輪を載せる二列の石畳が花崗岩の切石で整備された。車石とは、荷車の重みで削られて溝ができたその石のことだ。言うならば近世の道端軌道(下注)で、京津線もその伝統を引き継いでいるのかもしれない。同じように保存された車石がこの後、沿道の数か所で見られる。

*注 ただし「単線」なので、午前が京都行き、午後が大津行きの一方通行だったという。

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道路を離れて専用軌道へ
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(左)大津宿本陣跡を示す碑
(右)車石
 

緩い坂を300mほど上ると、東海道本線をまたぐ跨線橋を渡る。すぐ手前で右へ入る小道は、妙光寺というお寺の参道だが、寺の前を京津線が横切っているため、いわゆる参道踏切がある。S字カーブを走る電車にお寺の鐘楼を入れた構図が得られる撮影ポイントだ。

京津線も同じように東海道本線をまたいでいくが、この蝉丸跨線橋は、線路を載せるだけとは思えない煉瓦積みの重厚な造りだ(下注)。上関寺トンネルとも呼ばれるように、後ろにある逢坂山の本トンネル(新逢坂山トンネル)のポータルと見間違う。

*注 跨線橋工事が遅れたため、京津線はこの区間を徒歩連絡にして1912年8月に暫定開業している。跨線橋完成で全線開業したのは同年12月。

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妙光寺参道踏切にて(2022年4月撮影)
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蝉丸跨線橋、下は東海道本線
 

勾配が強まった旧161号をさらに300m進むと、京津線と交差する上関寺国道踏切がある。左側で線路に並行する煉瓦の壁は、旧 東海道線が旧 東海道をまたいでいた橋台だ。1880(明治13)年に開通した東海道線の京都~大津間は、今とは異なる南回りの経路で建設された。唯一のトンネルが逢坂山に掘られ、出てきた列車がすぐに渡ったのがこの橋になる(下注)。

*注 橋台の東側の廃線跡は国道1号に転用され、膳所(ぜぜ、旧 馬場)駅で現路線につながる。

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旧 東海道線橋台、もとは旧 東海道を跨いでいた
(2022年4月撮影)
 

その旧線、逢坂山隧道の東口も、少し先で右手の小道を入ったところに、鉄道記念物として保存されている。

廃止時には複線化されていたので、単線トンネルが2本、位置がややずれた形で並んでいるが、左側が1880年に完成した最初のものだ。石積みのポータルは長い歳月を経て苔むしているものの、上部の扁額には「楽成頼功」の文字がはっきり読み取れる。内部の10mほどが公開されていて、煤で黒ずんだ140年前の煉瓦壁を間近に観察できた。一方、右のトンネルは1898年に完成した上り線用だが、閉鎖されているため内部の様子は窺えない。

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旧逢坂山隧道東口、左が最初のトンネル(のち下り線用)
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(左)トンネル内部も一部公開
(右)「楽成頼功」の扁額がはまる
 

旧161号は、ここで東から来た国道1号に合流する。しばらくの間、右側の側歩道がないので、横断歩道で左側に移らなければならない。左隣を走る京津線の線路脇に61.0‰の勾配標が見つかる。ごく短い間だが、京津線の最急勾配だ(下注)。

*注 廃止された九条山越えでは、同じような道端軌道区間にこれを上回る66.7‰の勾配があった。

狭隘な谷を頭上で跨いでいる2本のアーチ橋は、名神高速道路だ。その下で京津線は国道から左にそれる。そして、行きの車内で見た急カーブを介して、道路下にある自前の逢坂山トンネルに入る。カーブの半径は40m。歩道から見下ろすと、車両どうしが120度ぐらいの急角度で折れ曲がるのに驚かされる。

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(左)61.0‰の勾配標
(右)名神高速のアーチ橋をくぐる
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半径40mを曲がる電車
 

擁壁に挟まれて右カーブする国道に沿って歩くと、いよいよサミットが見えてきた。道の右側に、逢坂山関址の碑が立っている。百人一首の蝉丸の歌「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」が頭に浮かぶが、古代の話なので、関が置かれた正確な位置は不明なのだという。

逢坂越前後の旧道はほとんど国道に上書きされたが、サミットから300m足らずの間は例外的に旧道が残っている。繁盛しているうなぎ屋の前を過ぎると、右手に歌人を祀る蝉丸神社の石段が見える。

しかし私たちの注目は、傍らの木陰に車石とともにひっそりと埋められている一等水準点だ。高さの基準となる水準点は、土地の改変が行われにくい神社や寺の境内に設置されることがよくあった。これもその一つだが、伝統的な花崗岩の柱石で、点の記にも設置時期が記されていないから、かなり古いものに違いない。

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(左)逢坂越サミット
(右)逢坂山関址碑と常夜灯
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(左)蝉丸神社に上る石段(2022年4月撮影)
(右)一等水準点の石柱
 

ここで北へ行く横道に寄り道した。先述した旧線の逢坂山隧道西口はもうないが、名神 蝉丸トンネルの上を通る道の脇に、記念碑が建っている(下注)。碑文によれば、「…トンネルの西口は名神高速道路建設に当りこの地下十八米の位置に埋没した」。ここから西側の名神高速は、伏見区との境まで約7.5kmにわたって、おおむね旧 東海道線の跡地を利用している。

*注 隧道西口にあった石額は、京都鉄道博物館で保存展示されている。

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(左)トンネル西口記念碑
(右)旧 東海道線跡を利用した名神高速道路(西望)
 

ともかく峠を越えたので、京津線大谷駅のベンチを借りて休憩した。このベンチ、見かけは普通だが、線路とホームに40‰の勾配がついているので、座面を水平にすべく、左右の足の長さを変えてある。移動されないように、座面裏に固定用のチェーンもついていた。

京津線と国道をまとめてまたぐ歩道橋で、再び左の側歩道に移る。直線路を下る途中にある月心寺は、もと走井(はしりい)餅を商う茶店があった場所だ。広重の連作浮世絵「東海道五十三次」の大津の図(下図参照)にも描かれたとおり、街道名物の一つだった。現在はクルマが行き交う国道に面していて、目印になるような山門もないので、うっかりすると見過ごしてしまう。

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(左)大谷駅
(右)左右の足の長さが違うベンチ
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(左)走井茶店跡の月心寺
(右)庭園門
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歌川広重「東海道五十三次 大津」
Image from wikimedia. License: public domain
 

名神高速の高架が再び頭上を横切れば、ようやく国道1号から離れて、静かな旧道が復活する。地形的にはすでに山科盆地だが、おもしろいことに住所は京都市ではなく、まだ滋賀県大津市だ。

旧東海道周辺では、府県境が山科盆地に大きく張り出している。地図で塗り分けてみるとよくわかるが、自然の境界である峠から約3km下った地点まで滋賀県域だ(下注)。これは、かつて大津にある三井寺(みいでら)の所領だったことに由来するという。

*注 比叡山地の分水界から西側にあるこの地区は、藤尾学区と呼ばれる。

そのため、旧道が復活して200mの位置に立つ「滋賀県大津市」の境界標識はフェイントに近い。実際にはここから髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)までの間、道路に府県境が通っていて、北側が滋賀県、南側が京都府になる。

境界標などはないが、住宅の軒先に停めてあるクルマのナンバーの地名を見れば一目瞭然だ。さらに、滋賀県警のパトカーが巡回するのを目撃したし、郵便ポストの収集局も大津中央郵便局と記されている。

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(左)「滋賀県大津市」の境界標(東望、2022年4月撮影)
(右)道路が府県境をなす区間、右が滋賀県、左が京都府(西望)
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図3 滋賀県大津市域をベージュで着色
「大津市」標識前後の200mは旧東海道が府県境
 

NHK「ブラタモリ」でも紹介された髭茶屋追分は、東海道と伏見(ふしみ)街道の分岐点だ。道標に「みきは京みち、ひたりはふしみみち」と刻まれている。伏見は淀川の支流、宇治川に面した京都の外港で、大坂(大阪)との間を川船が往来していた。それで、伏見みちは大坂への最短ルートでもあった。

旧東海道はこの後、いったん国道1号(五条バイパス)によって分断される。旧道を行くクルマは手前にある迂回路を通るのだが、歩行者はバイパスをまたぐ歩道橋で直接向こう側に渡れるようになっている。さらに西へ300m進むと、「京都市」とだけ記されたそっけない境界標が見つかった。足元を横断する水路に府県境が通っていて、ここでようやく住所が滋賀県大津市から京都府京都市山科区に変わるのだ。

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(左)髭茶屋追分、左は伏見街道(2022年4月撮影)
(右)道標の隣に府県境を示す標識も
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(左)三井寺観音道(小関越)の分岐道標
(右)「京都市」の境界標(西望)
 

天下の大道だけあって見どころを挙げればきりがないが、時刻はお昼を回って、そろそろお腹がすいてきた。沿道のコンビニで軽食を買い、山手にある琵琶湖疏水跡の公園まで行って、昼食休憩にした。旧東海道からは離れてしまったが、京津線の主要ポイントは見尽くしたことだし、このまま山科駅へ降りていって、今回の旅を終えることにしよう。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、2500分の1京都市都市計画基本図71 四ノ宮および地理院地図(2025年11月10日取得)を使用したものである。

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2025年11月 7日 (金)

コンターサークル地図の旅-北国街道小諸~海野宿

北国街道と呼ばれるルートはいくつかあるようだが、信州では、中山道の追分(軽井沢町)から、長野を通り、高田(新潟県上越市)に至る街道筋のことを指す。越後と江戸を結ぶ交易の経路であり、善光寺参りの旅人たちが往来した道だ。

2025年10月4日、秋のコンター旅2日目は、この北国街道旧道を小諸(こもろ)宿から海野(うんの)宿にかけて訪ねる。浅間連峰の裾野を行くこの区間は、宿場以外に取り立てて見どころがあるわけでもないが、クルマが行き交う国道から離れていて、旧道の風情を感じながらのんびり歩けるのではないかと思っている。

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にわか雨の海野宿
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図1 小諸~上田周辺の1:200,000地勢図
  1981(昭和56)年編集

8時30分、小諸駅前に集合したのは昨日と同じメンバーだ。朝早く来て小諸城址の懐古園を巡っていたという大出さんと、上山田温泉からクルマを駆ってきた木下さん親子に対して、早起きが苦手な私はしなの鉄道の電車でぎりぎりに到着した。

朝はいい天気だ。駅から北へ進み、1612年建造の重要文化財、小諸城大手門を通り抜ける。線路の向こうにある城址からずいぶん離れているが、かつて城郭がここまで広がっていたのだ。

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(左)小諸駅前
(右)駅舎の窓に掲げられた古い駅名標
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小諸城大手門
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小諸~滋野間
 

本町交差点は、北国街道とその跡を継いだ旧 国道18号(現 141号)が交差する場所だ。まずは東へ向かい、宿場の中心部、本町の家並みを巡った。重伝建地区のように集中してはいないが、白壁に切子格子の窓をもつ建物が残っている。視界の奥、街道が右に折れる角に、小諸城の足柄門を移築したという光覚寺の立派な山門が据わる。

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光覚寺に移築された小諸城の足柄門
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小諸宿の家並み
 

しかしまだ序盤なので、ここだけで時間を取るわけにはいかない。折り返して西へ。本町交差点と鉄道ガードの間には脇本陣、次いで本陣の建物があった。前者は宿屋として盛業中、後者は解体修理のために覆いがかかっている。東海道の宿場町のそれに比べれば、規模は小ぶりだ。

ガードをくぐると道は急な下り坂になり、神社の手前で直角に曲がる。裾野を深く切り裂いて流れる中沢川を横断するためだが、本来の旧道はさらに100mほど直進し、より低い位置で渡っていたという。

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(左)脇本陣跡の宿屋
(右)本陣建物は解体修理中
 

新町の家並みを通過し、栃木川を渡った三つ角には、布引山観世音の文字が彫られた大きな碑が立っていた。ここで左折すれば、千曲川(ちくまがわ)を渡って懸崖造りのお堂がある当地の名刹、布引観音へ行ける。次の638m標高点で出会う2車線道も、参詣客を運んだ旧 布引電気鉄道の廃線跡に由来する。

北国街道は一時的にこの車道と合流するが、200m先で左にそれる。田舎道に戻った旧道の左脇に、青木一里塚跡が現れた。ボタンザクラが植えられた小公園だが、塚自体はもうない。公園よりむしろ、向かいの邸宅の組まれた庭石が立派過ぎて目を奪われる。

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(左)布引観音への分岐点
(右)青木一里塚跡
 

周囲の田んぼはもう刈り取りを終えたようだ。はさ掛けされた稲束から立ち上る藁のにおいが懐かしい。しなの鉄道の踏切を渡り、国道18号を横断すると、道は西原の集落に入った。直線主体の道だが、地形に応じた緩いアップダウンがある。

深沢川の手前で、街道は国道18号に合流した。おとなしく側歩道をたどらざるを得ないが、300mほどの辛抱だ。ホームセンターのカインズ前で、国道は右へ離れていき、旧道が再び姿を現す。

芝生田(しぼうだ)集落の中を行くと、道を挟んで旧家が向かい合う一角が目を引いた。立派な門構えに大きな白壁土蔵、手入れされた庭木も美しい。暦は10月だが、浴びる日差しはまだじりじりと熱く、家並みの日陰を選んで歩く。

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(左)刈り田のはさ掛け
(右)西原集落
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芝生田集落、沿道の旧家
 

裾野を下る渓流の一つ、大石沢川にさしかかった。グーグルマップにピンが立つ大石沢眼鏡橋を確かめるべく、竹藪の暗がりに目を凝らす。しかしどうやら橋というより、築堤の底部にある溝橋のようだ。石積みの小さなアーチを眼鏡橋に例えたらしい。

滋野(しげの)郵便局のすぐ西で、牧家(ぼくや)一里塚跡の石碑を見つけた。傍らの碑文によれば、現在、滋野駅道の交差点に立っている力士雷電の碑はもと、塚の茶店前にあったのだそうだ。

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大石沢眼鏡橋は竹藪の陰に
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(左)牧家一里塚跡
(右)力士雷電の碑
 

同じような道が続くので、足の負担も考慮して、滋野~田中の一駅間を電車でワープする案を考えていた。ところが調べていくうちに、その間の街道沿いに人気の蕎麦屋があることを知った。足をいたわって電車に乗るか、食欲を優先して歩き続けるかの二択だが、メンバーに諮ると即決後者に…。

昼どきは混むと聞いて、歩くペースが速まるという副次的効果まであって、開店間もない11時過ぎに、難なく目的地に到着した。十割そばと更科そばという黒白の逢わせ(合わせ)盛りに天ぷら、付け出し、デザートまでつく充実の昼食をいただく。

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(左)目標設定でペース速まる
(右)街道沿いの蕎麦屋
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図3 同 滋野~田中間
 

空がしだいに曇ってきたが、元気を取り戻してさらに西を目指した。常田南(ときだみなみ)交差点から田中宿に入ると、ここまでたどってきた旧道とは様子が違う。車道2車線の両側に幅広の歩道がついた、道幅18mの目を見張るような大通りが奥へと延びている。しかも無電柱化されているので、空が広く感じられる。宿場というより、どこか北海道の町のようだ。

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田中宿を貫く大通り
 

話は飛ぶが、この田中という地名のアクセントは第1音節にある。電車の車内アナウンスで気づいたのだが、標準アクセントの田辺、田口のように「た」なかと読むのだ。

駅前交差点までの約600mが大通りで、その後は1車線道に戻った。通過する地形も、浅間連峰の裾野から一段降りて、千曲川の氾濫原に接した微高地に移る。求女川(くめがわ)の橋を渡ると、「海野宿はこちら」と矢印看板が出ていた。地図で確かめたところ、旧 信越本線の廃線跡を転用した歩道だ。曲線緩和のため、複線化を機に付け替えられたようだ。

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(左)駅前を過ぎるともとの道幅に
(右)緩くカーブした信越線跡の歩道(東望)
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図4 同 田中~大屋間
 

この歩道は500m足らずで終わる。街道に復帰して高架道の下をくぐり、鉄道の踏切を渡ると、いよいよ海野宿だ。万貫石と呼ばれる大石と宿の入口を示す碑に迎えられて、道は宿場に入っていく。

右手に、みごとな枝ぶりのケヤキのご神木に見守られた白鳥(しらとり)神社の境内があった。これまでの道中では見かけなかった観光客が、次々と鳥居をくぐって訪れている。私たちも中に混じって、本殿に拝礼した。

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(左)海野宿入口
(右)万貫石
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白鳥神社境内
 

神社の鳥居前から、重伝建地区に指定された宿場町が始まる。「表の川」と呼ばれる中央水路をはさんで両側に道があるが、北側(進行方向右側)が舗装され車も通れる広い道、南側は庭木が植わる未舗装の軒先道だ。

それらを取り囲むように、うだつの上がった民家が軒を連ねる。明治以降、養蚕が盛んになったので、小屋根を載せた造りの養蚕家屋も混じっている。まさしく時代劇に出てきそうな風景だが、しぐれがにわかに強まってきたので、傘を差しながらの通り抜けになった(冒頭写真参照)。

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「表の川」と街道、うだつの立派な民家
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庭木が植わる軒先道、半鐘と丸ポスト
 

海野宿の裏手にはしなの鉄道(もとJR信越本線)が通っているが、最寄り駅まで東西とも1.5kmほど離れている。信越線の開業時に海野駅の設置計画があったのだが、養蚕に欠かせない桑の生育に排煙が影響を及ぼすとして、反対運動が起きたという。そのため、駅は隣の田中宿に設けられ(下注)、海野の発展を相対的に遅らせる要因にもなった。しかし、結果的に宿場町の景観が保たれ、観光地として再発見されたのだから、先のことはわからないものだ。

*注 1888(明治21)年の信越線開業時、小諸駅と上田駅の間には田中駅しかなかった。大屋駅は1896年、滋野駅は1923年の開設。

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海野宿案内板
 

500mほど進むと、未修景の民家もちらほら現れる。西の枡形跡の案内板が立つ地点で、中央水路も消えて、ふつうの街道筋になった。この後小川を渡った西海野地区でも、東側と同じような中央水路が復活して、千曲川の川岸に突き当たるまで続くが、家並みの風景はもう現代に戻っている。

千曲川のほとりに出れば、ゴールに定めた大屋駅はもうすぐだ。13.5kmの歩きを終えて駅に到着したのは15時ごろ。電車を待つ間に雨も上がって、空が明るくなってきた。

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(左)西の枡形跡
(右)西海野、中央水路の周りは現代の町並み
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(左)千曲川のほとりに出る
(右)大屋駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和56年編集)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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2025年11月 3日 (月)

コンターサークル地図の旅-上田交通真田傍陽線跡

上田交通真田傍陽線(下注)は1927~28(昭和2~3)年の開業で、長野県の上田市内から北東の中山間部へ通じていた計15.9kmの電化路線だ。途中の本原(もとはら)で分岐して、一方は真田(さなだ)へ、もう一方は傍陽(そえひ)へ向かう。

*注 開業時の社名は上田温泉電軌、略称 温電。その後、上田電鉄(1939年~)、上田丸子電鉄(1943年~)、1969年から上田交通。路線名も開業時の北東線から、菅平鹿沢線(1939年~)、真田傍陽線(1960年~)と変遷している。

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上田城二の丸堀の廃線跡と保存された公園前駅
(2021年4月撮影)
 

真田では菅平高原や群馬県方面へのバス連絡があり、利用者も多かった。そのため、上田~本原~真田間(以下、真田線)が本線格として直通運転され、本原~傍陽間(同 傍陽線)は支線扱いだった。戦後は、菅平行きのバスの多くが上田から直行になり、貨物輸送もトラックに移行したため、業績が悪化し、1972年に全線廃止された。

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図1 真田傍陽線現役時代の1:200,000地勢図
  1959(昭和34)年修正

2025年秋のコンター旅、初回となる10月3日はこの廃線跡をたどる。参加者は大出さん、木下さん親子、私の4名だ。真田傍陽線は、国鉄駅に接していた電鉄上田駅(下注1)から西に出て、上田城の濠の中を北上していたが、国道18号北側の上田花園駅跡までは2021年4月、西丸子線跡探索(下注2)のついでに大出さんと歩いている。

*注1 1955年の改築で独立駅の構造になるまでの名称は上田駅。
*注2 西丸子線跡については「コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡」参照。

上田駅から長野方へ4~500m進んだ地点で、廃線跡は新幹線の高架下から離れて、北へ向かう。カーブの後、祝町大通りを横切って城跡まで続く駐車場用地がそのルートをよく示している。

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新幹線高架下を離れ、城跡に向かう廃線跡
(左)祝町大通り南側(右)同 北側
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
上田~神科間
 

上田城の二の丸堀を北上する区間は、昔から有名だ。廃線跡は整備されて、ケヤキとサクラの並木に囲まれた憩いのプロムナードになっている。訪れたときはちょうどサクラの季節で、散策する人も多かった。城内に通じる二の丸橋の下には、公園前駅の単式ホームが保存されている。廃線跡をまたぐ橋のアーチには電線を支えていた碍子も残され、往時をしのばせる(冒頭写真も参照)。

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公園前駅跡と二の丸橋
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駅跡に建つ案内板
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廃線跡のケヤキ並木道、二の丸橋から北望
 

城跡公園を離れると北大手駅があったが、廃線跡は住宅や商業施設にすっかり紛れてしまう。城の外堀の役を果たしていた矢出沢川(やでさわがわ)を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

国道を横断して上田郵便局の北側に上田花園駅跡があり、ここで鉄道は針路を東に変える。駐車場に使われている砂利の空地が、大きなカーブを描きながら住宅街に消えていた。

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(左)矢出沢川に残る橋台
(右)上田花園駅跡

さて本日の探索は、次の北上田駅跡からスタートする。上田駅前から下秋和車庫行きのバスに乗り、中央北交差点の手前で降りた。駅は上田大神宮の北側にあったというので行ってみたが、民家が建ち並ぶばかりで面影は何ら残っていない。

廃線跡には、一括して自治体に譲渡され、自転車道のように元のルートがわかる形で活用されるものもあれば、切り売りされて民地になり、ほとんど跡をとどめなくなったものもある。真田傍陽線の場合は後者だ。開業当時、このあたりは旧市街の北のはずれで、まだ水田や桑畑が広がっていたが、今や全面住宅街で、元のルートは民地の地割や街路の向きから推測するしかない。

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(左)上田大神宮
(右)北上田駅跡は住宅地に
 

さらに東へ進むと、再び矢出沢川を渡る。ここも両岸に低い橋台が残っている。まもなく2面2線で列車交換ができたという川原柳(かわらやぎ)駅跡だが、三葉製作所の工場敷地に取り込まれて、輪郭もなくなってしまった。

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川原柳駅西側の矢出沢川に残る低い橋台
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川原柳駅跡
(左)駅前にあるバス停(右)駅跡は工場敷地の中に
 

ここから線路は、矢出沢川の開析谷に沿って北東へ向かう。工場に隣接する変電所の先は、農道として残っている。草刈り作業中のところ、断りを入れて通らせてもらった。国道18号バイパスと交差の前後は車道だが、すぐに草ぼうぼうの荒地に戻るため、またもや迂回を強いられる。

扇状地に上りきると、神科(かみしな)駅跡がある。道幅がそこだけ広くなり、駐車スペースに利用されている。ここで目の前に、上信越道上田菅平ICのランプウェーの擁壁が立ち塞がる。後ろでは国道144号の立派な4車線道が交差していて、歩行者には疎外感のある一帯だ。

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(左)変電所裏の廃線跡(西望)
(右)農道になった廃線跡
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(左)神科駅跡
(右)国道144号歩道橋から南望
  線路は横断歩道と後方の高架道との間を横断していた
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図3 同 神科~本原間
 

この後、線路は勾配緩和のために、扇状地を覆う方形の条里地割に逆らって大きく迂回していた。前半は圃場整備で農地に還ったが、残りはいまだに定率の曲線を描く跡を追うことができる。多くが私有地なので、公道から接近できる地点を選びながら順にたどった。

一連の迂回区間の北端にあった樋之沢(ひのさわ)駅では、珍しくコンクリートの相対式ホームが残っている。線路部分には残土が盛られているが、ホームの形状は損なわれていない。隣接する民家で放し飼いされている鶏が2羽、せわしげに歩き回っていた。

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(左)迂回区間のカーブを踏襲する街路
(右)相対式ホームが残る樋之沢駅跡
 

上信越道の下をくぐると、国道144号のバイパス新道が近づいてきて、廃線跡を呑み込んでしまう。現道との取付け部が工事中のため、バイパスはまだ開通していないが、谷の中を走っていた小道はすでに消失してしまった。

しかし、鞍部を貫く伊勢山トンネルの手前でバイパスは左に離れていき、廃線跡が掘割となって現れる。伊勢山駅がこのあたりにあったはずだ。古い跨線橋の上から、鉄扉で封鎖されたトンネルのポータルが確認できる。廃線後はキノコ栽培に利用されていたそうだが、そこへ通じる掘割が雑木や雑草で埋もれているので、近年は放置されているようだ。

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廃線跡を呑み込んだ国道バイパス(未開通)
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伊勢山トンネル
(左)掘割の奥にポータルが見える(右)封鎖された西口
 

国道を経由して山の反対側に回ると、森の斜面にトンネル東口が同じように封鎖状態で残されていた。続く川久保橋梁の橋台も、谷を降りていく農道ぎわにすっくと立つ。線路は、ここから神川(かんがわ)の広い谷を向かいの段丘上まで、上路トラスの長い橋で一気にまたいでいた。沿線で一番の撮影名所だったに違いないが、今は幻だ。

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(左)森の中に残る東口
(右)神川の谷に面する高い橋台
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神川の谷
赤の矢印が示す橋台間に鉄橋が架かっていた
 

再び国道に戻って神川を渡り、対岸に移動する。もう片方の橋台を探すと、民家の離れか何かの土台として、藪に埋もれながら残っていた。この後は舗装道で、殿城口(とのしろぐち)、下原下(しもはらした)と小さな駅が数百m間隔で設置されていたが、いずれも痕跡はない。

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(左)殿城口駅跡付近の左カーブ
(右)下原下駅跡、左裏に真田氏発祥の里碑がある
 

12時になったので、国道沿いで見かけた食堂で昼食休憩にする。この先、真田線の跡は国道144号に上書きされてしまい、追跡の甲斐がない。分岐駅だった本原も、道路脇のバス停がその概略位置を示すだけだ。それで私たちは、比較的痕跡が残る傍陽線に足を向けた。

国道から分かれた草道が、美しい弧を描きながら、段丘を降りていく。これが廃線跡だ。再び渡る神川の橋台は残っているらしいが、雑木に覆われて確認できなかった。

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(左)本原駅跡にあるバス停
(右)両線分岐点
  右の国道が真田線跡、左の小道は傍陽線跡
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傍陽線跡の草道が弧を描く
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図4 同 本原~真田・傍陽間
 

それから廃線跡は、2車線道とつかず離れず、上流へ向かう。横尾駅も痕跡はないが、地形図に描かれた近くの千古滝(せんこだき)に興味を惹かれて寄り道した。谷底への小道をたどると、河原を塞ぐ大岩の間で渓流が二手に分かれ、滝壺へ流れ落ちている(下注)。落差が小さいのが意外だったが、水量の多い時期を選べば見栄えがするのではないか。

*注 かつては左端に第3の水路があり、千古三筋の滝と呼ばれた、と案内板にあった。

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千古滝
 

曲尾(まがりお)駅跡では、道端に駅名標の体裁を模した小さな木柱が立っている。沿線ではここにしか見られないので、地元の方のお手製だろう。県道35号に出会う地点で、廃線跡は西を向く。

曲尾の集落を抜けると、洗馬川(せばがわ)にさしかかった。左岸(東岸)は護岸改修されているが、右岸では橋台が、後ろの築堤を剥がされた状態で孤高を保っている。撤去された橋脚も、基礎だけは残っているように見えた。

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(左)横尾~曲尾間で農道になった廃線跡
(右)曲尾駅跡のお手製駅名標
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洗馬川右岸に残る橋台、後ろの築堤はもうない
 

終点の傍陽駅跡には新しい住宅が建ったが、正面に大きな蒲鉾屋根の農協倉庫あるいは選果場が残り、駅前の雰囲気を漂わせているのが印象的だ。

傍陽に着いたのは13時ごろ。朝からずっと曇り空で、昼前から小雨がぱらつき始めていたが、帰りのバスを待つ間にとうとう本降りになった。さいわい待合所は小屋仕様で、中に4人掛けのベンチもあったので、雨宿りができる。地元の人はふだんクルマを使うから、バスに乗り込んだのは私たちだけだった。

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(左)傍陽駅跡は宅地に転用、奥は農協倉庫
(右)雨宿りした傍陽バス停
 

途中、四日市橋を渡って国道144号に沿う真田自治センター入口という停留所でバスを降りた。ここは真田線の北本原(きたもとはら)駅跡で、そばに今もあるという「駅前食堂」を見たかったのだ。老夫婦で切り盛りしているような大衆食堂をイメージしていたが、実際は宴会場を備えた大きな2階家だった。

自家製の駅名標があるはすだが、と周りを探すと、分解状態で裏の軒下に置いてある。壊れたのだろうか、写真を撮りたかったのに残念だ。ともかくもタスクを完了した私たちは、近くのコンビニで買ったコーヒーで疲れを癒しながら、次に来る上田行きのバスを待った。

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国道沿いにあるバス停は真田線北本原駅跡
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(左)時代の記憶をとどめる駅前食堂
(右)上田行きのバスが到着

参考までに、真田傍陽線が描かれた1:50,000地形図を掲げておこう。なお、この地域の1:25,000地形図初版は1972(昭和47)年測量だが、同線はもう描かれていない。

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図5 真田傍陽線現役時代の1:50,000地形図
(左)1962(昭和37)年修正(右)1969(昭和44)年資料修正
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)、5万分の1地形図坂城(昭和37年修正)、上田(昭和44年資料修正)および地理院地図(2025年11月1日取得)を使用したものである。

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