コンターサークル地図の旅-吾妻峡レールバイクと太子支線跡
JR上越線の渋川駅から西へ分岐する吾妻(あがつま)線の歴史は意外に新しい。もとは第二次世界大戦中に、草津鉱山(群馬鉄山)で採れる鉄鉱石を搬出するために計画された産業路線だ。
![]() 太子駅跡のホッパー棟と無蓋貨車 |
戦争末期の1945(昭和20)年1月に渋川~長野原(現 長野原草津口)間42.4kmが国鉄長野原線として、長野原~太子(おおし)間5.7kmが日本鋼管鉱業の貨物専用線として、それぞれ開通した。旅客営業を始めたのは渋川~長野原間が翌1946年で、長野原~太子間、通称 太子支線は1952年の国鉄移管を経て1954年からになる。
しかし、太子駅周辺は農山村で、旅客需要はもともと小さい。それで長野原線の普通列車10往復のうち、半数は長野原止まりだった。そのため、1965年の鉱山閉鎖で頼みの貨物輸送がなくなると、存在意義をなかば失ってしまい、1970年に旅客列車も休止となる。翌1971年、長野原から大前(おおまえ)に至る路線延伸、それに伴う吾妻線への改称と前後して、太子支線に廃止の措置が取られた。
![]() 図1 吾妻線周辺の1:200,000地勢図 1966(昭和41)年修正 |
もう一つ、吾妻線に大きな変化をもたらしたのが、吾妻川をせき止める八ッ場(やんば)ダムの建設だ。現地の反対運動で計画は長期にわたり遅滞していたが、2015年に着工され、2020年に完成した。これにより吾妻線も一部区間で水没するため、岩島~長野原草津口間でルート移設が必要となる。工事はダム建設に先行して実施され、2014年10月1日に、旧線より0.3km短い11.5kmの新線に切り換えられたのだ。
ダムの下流で水没を免れた旧線では2020年から、吾妻に掛けて「アガッタン」と称するレールバイク(軌道自転車)の運行が始まった。沿線には八ッ場ダムとともに、鉄道用では日本一短いといわれた樽沢トンネルや、紅葉の名所で知られる吾妻渓谷がある。アガッタンは当地の新しい観光アトラクションとして人気を得ている。
![]() レールバイクで行く旧線の樽沢トンネル |
今回は、吾妻線の廃線跡巡りをテーマに、このレールバイクに試乗した後、長野原草津口に移動して、太子支線跡を歩いて訪ねる予定だ。
◆
2025年5月11日日曜日、初夏の日差しは強いものの、風はまだ涼しく、行楽には絶好の日和になった。
上越線の車内で大出さん、森さんと合流し、参加者3名が揃った。電車は渋川から吾妻線に入り、吾妻川が造った谷を延々と遡る。下車した岩島(いわしま)駅は、小さな待合室があるだけの無人駅だった。レールバイクの受付場所へは、国道145号の旧道を歩いて2.5km、約30分かかる。
進んでいくと、やがてやぐらのような橋脚に支えられた巨大なコンクリート橋が見えてきた。吾妻線の新線を右岸に渡す第二吾妻川橋梁だ。渓谷をたどる旧線と違って、新ルートは、この橋を渡るとすぐ、長さ4489mの八ッ場トンネルに入ってしまう。その後も長いトンネルが連続するので、車窓の楽しみはほとんど失われてしまった。
![]() (左)吾妻線岩島駅 (右)新線の第二吾妻川橋梁が頭上をまたぐ |
![]() 図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆 岩島駅~八ッ場ダム間 |
ふれあい大橋のたもとにある受付場所、吾妻峡周辺地域振興センターに着いたのは集合時刻ぎりぎりの9時10分。すでに多くの人が事務所前の広場に集まっていた。さっそく受付で料金を払って、注意事項を書いたチラシを受け取った。色とりどりのヘルメットをおのおの装着して、案内の列に並ぶ。
車両は、3人乗り(1台3000円)と4人乗り(同 3500円)の2種類がある。だが、どちらも実際に漕ぐのは2人だけで、両者の違いは補助席の数だ。運行回数は今年(2025年)の場合、上り5便、下り5便の計10便あり、各便とも最大7台が走る。私たちも第1便の3人乗りをネットで予約してあるが、今日はすでに全便完売のようだ。
この「渓谷コース」は長さが2.4kmあり、所要時間は、上りとなる往路が30分、復路は25分とされている。以前は下流へ向かう「田園コース」1.6km(下注)もあったようだが、終始平地を行くのであまり人気が出なかったのか、現在は運行されていない。
*注 実距離は0.8kmだが、片道と往復が選択できる「渓谷コース」とは異なり、終点の転回場で折り返して起点に戻るまでが1コースなので、1.6kmになる。
![]() (左)地域振興センターで受付 (右)スタッフの先導で乗り場へ移動 |
時間になると、先導のスタッフが、少し離れた乗り場の「雁ヶ沢(がんがさわ)駅」まで案内してくれる。雁ヶ沢川の渓流を渡り、築堤の階段道を上る。仮設屋根の下、コンクリート床の軌道上に、これから乗るレールバイクが用意されていた。
2軸台車に自転車2台を並列固定した、岩泉線のそれ(下注)と同形の簡易車両で、自転車は電動アシストタイプだ。漕ぐのは二人に任せて、年長の私は補助席で取材に徹する。全員スタンバイし終えると、追突防止のために車両間隔を20m空けて、順に出発していった。
*注 岩泉線のレールバイクについては「コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車」参照。
![]() (左)3人乗りレールバイク (右)同行スタッフの車両はスーパーカブ! |
![]() (左)スタンバイ完了 (右)一定間隔を空けてスタート |
まず見えてくる灰色の建物は、松谷(まつや)水力発電所だ。送電線の下をくぐり、松上(まつうえ)集落の赤屋根を横に見ながら進む。しだいに谷が狭まり、ルートの最大勾配16‰の勾配標を見送ると、長さ104mの松谷トンネルを抜ける。続いて目の前に現れるのが、長さ7.2mで日本最短の鉄道トンネルとうたわれた樽沢トンネルだ。と言っても実体は短すぎて、道路をくぐるカルバートと変わらない。
それに対して三つ目の、ルート最後となる道陸神(どうろくじん)トンネルは432.4mとけっこう長い。内部でカーブしているので本来は真っ暗なはずだが、青白いイルミネーションを線路に敷いて、進行方向を明示していた。
![]() (左)松谷水力発電所の横を通過 (右)軌道は緩い上り坂 |
![]() (左)松谷トンネルに突入 (右)樽沢トンネルは長さ7.2m |
![]() (左)道陸神トンネル東口 (右)青白いイルミネーションで進路を誘導 |
この闇を抜けると左カーブの向こうに、谷を塞ぐ巨大なダム壁と、その下に、終点である「吾妻峡八ッ場(あがつまきょうやんば)駅」のテントが見えてくる。到着予定は9時55分だが、順調に進んだので5分ほど早着した。
客が降りた後、復路に備えて、スタッフがレールバイクの方向転換作業をする。車体の中央に寝かせてある牽引棒のようなものを垂直に立てると、車体が少し浮き、この棒を軸にして手動で車体を回転させることができるのだ。バルーンループを自走で回る美幸線や、簡易転車台に載せて回す岩泉線とも違うユニークな方法でおもしろい。
■参考サイト
吾妻峡レールバイク「アガッタン」 https://agattan.com/
![]() ゴールのテントと、背後にそびえ立つ八ッ場ダム |
![]() (左)レールバイクの方向転換 (右)駅名標 |
せっかくここまで来たので、吾妻渓谷も探勝しておこう。国道145号旧道を800mほど下り、新緑うるわしい遊歩道へ足を向けた。谷のこのあたりは八丁暗がりと呼ばれ、地形としては最も険しい。谷が深く切り裂かれて2~3m幅まで狭まる地点は、鹿が飛んで渡ると言われ、鹿飛の名がある。遊歩道の橋から下を覗くと、谷底の深さと水量の迫力に思わず足がすくんだ。
この後は対岸の小道を上流へ進む。アップダウンがけっこう激しく、遊歩道よりむしろ登山道と言った方が正確だ。紅葉谷橋で再び渓谷をまたいで、旧国道に戻った。
![]() (左)鹿飛橋から見下す渓流 (右)小蓬莱と呼ばれる断崖 |
![]() 図3 同 八ッ場ダム周辺 |
八ッ場ダムは、堤高116m、堤長291mの規模を誇る大きなダムだ。堰堤内部のエレベーターが一般開放されているので、ダム下から天端まで一気に移動することができる。峡谷の急流は緑がかったターコイズブルーに見えたが、ダム湖は目の覚めるようなコバルトブルーで、降り注ぐ陽光をきらきらとはね返している。雪解け水で満水状態でもあり、眺めは文句なしに素晴らしい。
![]() 八ッ場ダム 右下が天端へ上るエレベーターの入口 |
![]() コバルトブルーに染まるダム湖 |
やんば資料館に立ち寄った後、昼食場所として目を付けていたうどん専門店へ。大出さん曰く、群馬はうどんがおいしいそうで、ここでも、こしのあるうどんと天ぷらが食べられる。
ダムは完成からまだ5年しか経っていないので、湖面に枯れ木が残っている。八ッ場大橋を渡って川原湯温泉(かわらゆおんせん)駅まで歩いていく途中、美瑛の「青い池」を思わせる風景に遭遇した。若いダム湖ならではの佳景だ。
13時過ぎ、この日前半のゴールとなる川原湯温泉駅に到着。ここには線路付け替え後、一度電車で見に来たことがあるが、移転した温泉集落から離れていることもあって、駅前の閑散としたようすは変わっていない。
![]() (左)八ッ場大橋を渡って駅へ向かう (右)八ッ場の「青い池」 |
![]() 湛水前の吾妻渓谷、不動大橋から東望(2015年2月撮影) 右端が現 川原湯温泉駅、中央に八ッ場大橋、 左端で旧線がトンネルから顔を出す |
◆
後半は太子(おおし)支線跡を探索する。13時13分発の電車に乗り、次の駅、長野原草津口駅で降りた。まず太子駅跡まで町のコミュニティバスで行き、歩いてここに戻ってくるつもりだったが、バスは1日4往復、次の便は50分後だ。待機時間が惜しいので、手早くタクシーで向かうことにした。
![]() 長野原草津口駅 |
白砂川(しらすながわ)の谷間にある太子駅跡は、遺跡公園風に整備されていた。復元された平屋の駅舎が受付棟で、内部に写真や遺物などが展示されている。入場料200円を払って公園域に入ると、1面2線のホーム跡があり、全国各地から取得したという貨車が10両以上留置されていた。なんでもここは全国一の無蓋車公園だそうな。
山側には、索道で輸送されてきた鉄鉱石を貨車に積み込むホッパー棟の遺跡が広がっている。林立するコンクリートの柱が風化して、遠景の無蓋貨車をアクセントに、廃墟特有の雰囲気を醸し出す。メディアでよく紹介される写真は、これを上流側から透視した構図だ。私たちがいる間にも訪問者が3組あり、ちょっとした観光地になっているようだった。
![]() (左)太子駅復元駅舎 (右)内部は資料展示室に |
![]() ありし日の太子駅 太子駅展示資料を撮影 |
![]() 残されたホームとホッパー棟 |
![]() 図4 同 太子駅跡~下沢集落間 |
太子駅を後にして、廃線跡の舗装道を南へ歩いていった。山側を国道292号が並走しているので、クルマがほとんど通らない田舎道だ。途中、対岸の段丘上に立地する赤岩集落に寄り道した。一見どこにでもあるような山間集落だが、切妻屋根に換気用の小屋根を載せる養蚕家屋が多く残され、重伝建地区に指定されている。
![]() (左)赤岩集落の湯本家住宅 (右)小屋根を載せる養蚕家屋(貝瀬集落で撮影) |
廃線跡はこの後も一本道で、山が川べりまでせり出している場所では、2本の短いトンネル(第二愛宕、第一愛宕トンネル)で抜けていく。中沢集落でいったん国道292号に呑み込まれるが、国道が川を渡るために左へそれた後は、また田舎道に還って下沢集落のへりを伝う。
しかし、のどかな散策路は、次のトンネル(名称不明)の前で突然断ち切られる。内部が土砂で閉塞していて通行できないのだ。向こう側に抜ける道がないかと、少し山に分け入ってみたが、倒木で行く手を塞がれた。片側は川に落ち込む斜面なので、かなり気合を入れない限り、通過は難しそうだ。
やむを得ず国道まで戻って対岸に渡り、そのまま長野原地内まで延々と歩いた。川の蛇行部をトンネルでショートカットしていた太子線に比べて、国道経由は遠回りになるし、第一、車道の端をとぼとぼ歩くのは気疲れがする。
![]() (左)廃線跡の一本道 (右)第二愛宕トンネル北口 |
![]() (左)連続する第二および第一愛宕トンネル (右)南口に残るプレート |
![]() 下沢集落を通る廃線跡 |
![]() (左)下沢南方のトンネル北口 (右)土砂で閉塞した坑内 |
![]() 図5 同 下沢集落~長野原草津口駅間 |
貝瀬(かいぜ)集落の南で新道の嶋木(しまぎ)橋を渡って、再び右岸へ。橋のたもとを横断している小道が廃線跡なので、上流側で口を開けているトンネル(名称不明)の前まで行ってみた。通行止めらしく、細いチェーンが渡してある。
一方、小道を下流側へ追うと、やがて廃線跡は道から外れて、白砂川を渡っていく。フェンスで塞がれているため、右岸からは確認しにくいが、左岸に回ると径間の広いガーダーで川をまたいでいるのが見える。続く築堤は崩されてしまったが、コンクリートの擁壁の一部が墓地の境界に残っていた。
16時20分ごろ、長野原草津口駅に帰着。盛りだくさんの歩き旅だった。終点の大前まで往復してから帰るという大出さんと別れて、森さんと私は16時39分発の高崎行き上り電車に乗った。
![]() (左)嶋木橋北方のトンネル南口 (右)切石積みの側壁 |
![]() (左)白砂川をまたぐガーダー橋 (右)左岸に残る築堤の擁壁跡 |
![]() 冬枯れ期のガーダー橋 (2015年2月、吾妻線列車から撮影) |
◆
参考までに、吾妻線旧線が記載されている1:25,000地形図を、岩島側から順に掲げる。
![]() 図6 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図 岩島駅~吾妻渓谷間(1972(昭和47)年測量) |
![]() 図7 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図 吾妻渓谷~川原湯駅間(1972(昭和47)年測量) |
![]() 図8 吾妻線旧線時代の1:25,000地形図 川原湯駅~長野原駅間(1972(昭和47)年測量) |
太子支線は1:25,000地形図の刊行以前に廃止されたので、代わりに1:50,000地形図を掲げておこう。
![]() 図9 太子支線現役時代の1:50,000地形図(1966(昭和41)年測量) |
掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和41年修正)、5万分の1地形図草津(昭和41年資料修正)、2万5千分の1地形図群馬原町、長野原(いずれも昭和47年測量)および地理院地図(2025年10月20日取得)を使用したものである。
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