ラトビア最後の狭軌鉄道
グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis/Gulbene–Aluksune Railway
グルベネ Gulbene ~アルークスネ Alūksne 間 33km
軌間750mm、非電化
1903年開通(ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka 間 212km の一部として)
![]() バーニーティスの蒸気列車 グルベネ駅にて |
1520mmの広軌、いわゆるロシアンゲージが支配するラトビアで、唯一750mmのナローゲージを残しているのが、グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis だ。定期運行している狭軌鉄道は、バルト三国でもここしかない。原語の「バーニーティス bānītis」はドイツ語の Bahn(鉄道)にラトビア語の縮小辞をつけたもので、広軌用に比べてめっぽう小柄な車両や施設に対する土地の人々の親近感がよく表れている。
場所はラトビア北東部、森の中に湖が点在する道のりを、毎日2往復(下注)の列車がのんびりと走っている。鉄道の公式サイトは英語版も充実しているので、それを参考に、波乱に満ちた鉄道の歴史をたどってみよう。
*注 以前は毎日3往復あったが、2010年2月から減便。
◆
地元の有力者が興した会社によって鉄道が公式開業したのは、ロシア帝国領時代の1903年だ。当時の路線は、ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka(現エストニアのヴァルガ Valga)駅間 212kmで、今とは比べものにならない長大な路線だった(下図)。
![]() バーニーティスの旧路線網 |
ストゥクマニは、ダウガヴァ川 Daugava 沿いにある現在のプリャヴィニャス Pļaviņas で、リーガへ通じる幹線との接続駅だ。列車はそこから北東方向にマドナ Madona、ヴェツグルベネ Vecgulbene(1928年に旧名グルベネに改称。Vec は英語の old )、アルークスネ Alūksne まで進んだ後、北西に向きを変えてアペ Ape、ヴァルカへ至る。
ヴァルカにはリーガと現ロシアのプスコフ Pskov を結ぶ広軌線が通っていたが、それとは別に開通済みの狭軌線に接続して、現エストニア領パルヌ Pärnu の港への短絡路を確保した。鉄道が内陸輸送の主役であった時代、積み替えせず港まで物資を直送できるのは大きな利点だった。木材をはじめ、とうもろこしや酒その他の農産物が、このルートを通って運ばれた。
しかし、帝国末期の世情は不安定で、会社はまもなく、血の日曜日事件に始まるロシア第一革命の渦に巻き込まれる。農村の騒乱に呼応して、鉄道員たちも活動の先鋒に立った。施設が破壊され、会社は蒙った損失を回復できないまま、第一次世界大戦直前、ついに破産してしまう。
1916年、ロシア軍は、ヴェツグルベネでこの線と交差する広軌新線(イエリチ Ieriķi ~アブレネ Abrene)を建設するのに合わせて、ストゥクマニ~ヴェツグルベネ間を広軌に変換した。このため、狭軌区間は北半分に短縮された。
![]() 上空から見たグルベネ駅 駅舎寄りに狭軌線がある(2018年) Photo by Edgars Šulcs at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0 |
1918年にバルト三国は相次いでロシアからの独立を宣言するが、これが狭軌線の運命をまたも翻弄することになる。アルークスネの先で、ラトビアとエストニアの国境線が鉄路を二度も横切ることになったからだ。
両国間の協議で、エストニア側に越境した区間の運行管理をラトビアに委ねることが決まり、戦争で荒廃した鉄道は1921年にようやく全線再開に漕ぎつける。ラトビア国内の輸送は順調に推移したものの、パルヌ港が他国領となったため物流の方向が変わり、アペから西側の利用は極端に少なくなった。
第二次世界大戦、特にその終盤はドイツ占領軍の撤退とソ連軍の空襲で、鉄道の施設は甚大な被害を受けた。しかし、重点的な復旧作業の結果、1945年12月には運行を開始している。1960年代にはヴァルガ Valga 駅に引き込むルートが設けられが、同時にこの頃から、自動車交通の発達が鉄道の顧客を徐々に奪い始めた。1970年、長らく閑散区間だったヴァルガ~アペ間が休止、1973年にはアペ~アルークスネ間も運行を取りやめた。
![]() グルベネ駅で広軌と狭軌の特別列車が接続 Photo by Jānis Vilniņš at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
こうして、アルークスネ~グルベネ間だけが残ったが、その理由は、アルークスネに駐留していたソ連軍に物資を供給するためだったといわれる。しかしここにも存続の危機が迫っていた。1987年に、老朽化した車両の整備不良がたたり、運行が止まってしまったのだ。すでに鉄道は工学遺産に指定されていたため、知識人らの熱心な支援活動が当時の共産党中央委員会を動かした。客車が新調され、続いて2両のディーセル機関車が新たに導入された。
ソ連から再独立した後も、貨物輸送の廃止、旅客列車の削減と、鉄道の規模縮小は進行したが、1998年の国鉄から地方政府への売却、2001年の運営会社設立によって命脈を保ち、2003年には100周年を祝うことができた。地元では観光資源としての期待も膨らんでいるようだ。
![]() アルークスネ駅構内(2011年) Photo by ScAvenger (Jānis Vilniņš) at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
◆
バーニーティスの起点があるグルベネ Gulbene の町は、狭軌線の単なる中間駅が広軌線開通により鉄道の結節点となったことで、にわかに活気づいた。町の北端に、1926年当時の壮麗な駅舎が今も建っている。
下掲の地形図を見ると、北東隅から狭軌線(日本で言う私鉄記号)が延びてきて、グルベネ駅に入っていく。実際は駅構内でラトビア国鉄の広軌線(太い実線、下注)と平面交差し、駅舎寄りにホームがある。つまり、接続駅の一般的な線路配置とは反対に、駅舎側から支線、本線の順に並んでいるのだ。
*注 グルベネからロシア国境に向かう路線だったが2001年に廃止された。
![]() グルベネ駅舎正面 |
![]() グルベネで発車を待つ蒸気列車 |
![]() グルベネ駅北東構内にある広軌・狭軌の平面交差 |
![]() バーニーティス周辺 グルベネ~パパルデ間 旧ソ連製1:100,000 O-35-102(1981年), O-35-103(1990年) |
しかも、グルベネ駅の線路配置図(下図)でわかるように、狭軌線は広軌線を隔てて駅舎とは反対側にも延びている。実はこれが広軌線開通以前の狭軌線のルートだ。1940年の扇形機関庫(図では Roundhouse の注記)建設で迂回させられているが、もとは一直線で、南西に向かう広軌線(下注)につながっていた。ちなみに扇形庫の南西では、煉瓦で造られた狭軌時代のグルベネ(ヴェツグルベネ Vecgulbene)駅舎が個人宅に転用されて、今も残っている(Old station building の注記)。
*注 プラヴィニャス=グルベネ線 līnija Pļaviņas—Gulbene。先述のとおり1916年に改軌されるまでは、バーニーティスと同じく狭軌線の一部区間だった。
![]() グルベネ駅構内配線図 from OpenRailwayMap |
扇形庫はその前にある転車台とともに、戦争で破壊された後、1945~51年に拡張改築されたものだ。9線収容で、一部は狭軌線車両も収容できるように4線軌条化されている。見た目は廃屋に近いが、まだまだ車庫として現役だ。バーニーティスの運営会社が管理し、車両の整備も行っていて、年間行事の際には一般公開される。
![]() (左)4線軌条の転車台 (右)現役の扇形機関庫 |
狭軌という希少性から観光鉄道の側面をもつバーニーティスだが、公共交通機関でもあり、そのために平日休日を問わず運行されている。ただし、ダイヤは午後に2往復のみの閑散ダイヤで、グルベネを13時と18時(土曜は18時30分)に出発して終点アルークスネで折り返す。
列車の前に立つのは通常、ディーゼル機関車だが、特定の土曜日には、13時発の第1便を蒸気機関車が牽引する。列車は片道32.8kmを80~85分、蒸機の場合は110~115分かけて走る(下注)。途中8駅あるうち4駅は、乗降客があるときのみ停車するリクエストストップだ。
*注 途中のパパルデ Paparde 駅で給水停車がある。
![]() (左)蒸機ГР (GR) 形319号 (右)テンダーに薪が山積み |
2025年現在、運用中の蒸機は1951年旧東ドイツ、カール・マルクス機関車工場 Lokomotivbau Karl Marx Babelsberg (LKM) 製、動輪4軸のГР (GR) 形319号で、「フェルディナンツ Ferdinands」と命名されている。森林鉄道でも運用されるため、燃料に薪を用いることが可能な機関車で、実際にバーニーティスでも薪を焚いて走っている。
なにぶん沿線は過疎地につき、団体客などの予約がなければ、客車はたいてい1両きりだ。モケットシート24席の旧ソ連製車両が用いられることが多く、増結するときはベンチシート40席のポーランド製車両が動員される。乗車券は車掌が手売りしている。自由席だが、複数両つないでいるときは、乗車車両を指示されるかもしれない。
![]() (左)旧ソ連製客車 (右)車内はモケットシート、この日は団体予約専用だった |
![]() (左)ポーランド製客車 (右)車内はベンチシート |
![]() 往復乗車券 (左)表面、Vilciena Nr.は列車番号(右)裏面 |
汽笛一声、走り出すと車窓には、針葉樹林と牧草地や湿原が織りなすパッチワークの風景がどこまでも続く。か細い軌道上を静かにたどる時速25kmの孤独な旅だ。走路の心もとなさとは対照的に、駅舎や待合室は近年、整備が進んだ。スターメリエネ Stāmeriene では煉瓦造の平屋駅舎が、待避線をもつ次のカルニエナ Kalniena では木造の平屋駅舎が、瑞々しさを取り戻している。
パパルデ Paparde にも静かな森の間に木造駅舎が残るが、蒸機は、少し離れた煉瓦の給水塔の前でしばらく停車して水の補給を受けた。
倉庫や民家がばらばらと窓に映るようになると、まもなく終点アルークスネ Alūksne だ。構内は、余裕のある敷地に3本の線路が並んでいる。煉瓦造の駅舎はカフェに転用され、その北側に建つ倉庫は展示室に改装された。第1便の列車は折返しの出発まで、機回し作業を含めて約1時間の休憩を取る。
アルークスネの町は駅の北側で、湖(アルークスネ湖 Alūksnes ezers)との間に広がっている。マーリエンブルク Marienburg というドイツ語名は、中世、ドイツ騎士団が通商路を護るため、湖に浮かぶ小島に聖母の名を冠した城を築いたことに由来する。
一方のラトビア語のアルークスネも森の泉を意味するそうで、名まえを聞くだけでも旅情を誘われる。しかし、湖畔までは町を抜けておよそ2km、列車の休憩時間がもう少し長ければいいのだが。
![]() アルークスネ駅での機回し作業 |
![]() アルークスネ湖、右奥に新城 Jaunā pils が覗く(2013年) Photo by Ivo Kruusamägi at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0 |
写真は別途クレジットを付したものを除き、2025年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会の戸城英勝氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。
(2008年7月24日付「ラトビア最後の狭軌鉄道」を全面改稿)
■参考サイト
バーニーティス http://www.banitis.lv/
アルークスネ付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=57.4156,27.0464&z=14
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