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2025年5月 6日 (火)

オーストリアの狭軌鉄道-ブレゲンツァーヴァルト鉄道

ブレゲンツァーヴァルト鉄道(ヴェルダーベーンレ)
Bregenzerwaldbahn (Wälderbähnle)

ブレゲンツ Bregenz ~ベーツァウ Bezau 間35.3km
軌間760mm、非電化
1902年開通、1983年一般運行休止(1985年正式廃止)、1987年保存運行開業

【現在の運行区間】
保存鉄道:ベーツァウ~シュヴァルツェンベルク Schwarzenberg 間 5.0km

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ベーツァウ駅の蒸気列車
 

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オーストリア西部、フォアアールベルク州のブレゲンツ Bregenz(下注)は、ドイツやスイスとの国境をなすボーデン湖畔の文化観光都市だ。ÖBB(オーストリア連邦鉄道)ブレゲンツ駅の裏手に、湖に面した緑豊かな公園があるが、その一角に小型の蒸気機関車がぽつんと据え付けられている。

*注 日本語ではブレゲンツと書かれるが、第一音節は長母音なので、忠実に音写するなら「ブレーゲンツ」になる。

498.03(旧Uh 03)の車番をもつこの車両は、Uh形と呼ばれる軌間760mm、いわゆるボスニア軌間のタンク機関車だ。他の同僚機への部品供給の役目を終えて、児童公園になっているこの区画に移されてきた。黒の塗装はあせて剥げ落ち、あちこち落書きだらけだが、遊具として子どもたちの相手をしながら余生を送っているのだ。

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湖畔の公園に据え付けられたUh形ナロー蒸機

ナローの機関車がここにある理由は他でもない。1983年までブレゲンツ駅構内に、その軌間の列車が実際に入ってきていたからだ。路線はブレゲンツァーヴァルト鉄道 Bregenzerwaldbahn といい、ブレゲンツの町から、その後背地ブレゲンツァーヴァルト Bregenzerwald(ブレゲンツの森の意)の山間部に分け入る延長35.3kmのÖBB線だった。

オーストリア各地に造られた760mm軌間の軽便鉄道のなかで最西端に位置し、地元ではヴェルダーバーン Wälderbahn(森の鉄道)またはヴェルダーベーンレ Wälderbähnle(ベーンレは軽便(狭軌)鉄道を意味する方言)と呼ばれ親しまれていた。

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ブレゲンツ旧駅(西望)
ブレンゲンツァーヴァルト鉄道の列車が停車中(1964年)
Photo by Dr. E. Scherer at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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現在のブレゲンツ駅構内(東望)
駅舎、線路とも移設され、昔の面影は消失している
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ブレンゲンツァーヴァルト鉄道と周辺路線図
破線は廃止済を表す
 

路線の開業は1902年にさかのぼる。私鉄の運営だったが、運行業務は初めから国鉄に委託されていた(1932年に国有化)。ブレゲンツ駅から、貨物積替え施設のあったフォアクロスター Vorkloster 駅構内まで1.6kmの間は、国鉄の標準軌貨車が入れるように4線軌条になっていた(下注)。

*注 当時のブレゲンツ駅は現駅の東300mにあった。現在地に移転したのは1989年。また、4線軌条は1955年の電化の際に、3線軌条に改築されている。

旅客列車は当初、混合列車を含め1日3往復設定された。鉄道の開通で、山地へのアクセスが格段に改善され、ハイカーや登山客という新たな需要を生み出した。貨物輸送では、沿線で伐採された木材とその加工品、牛乳などの農産品が消費地に向けて運び出された。他に目ぼしい輸送手段のなかった時代、狭軌鉄道は地域経済を支える重要な存在だったが、1950年代に入ると道路の改良とモータリゼーションの進展により、トラックやバスに顧客を奪われていく。

とりわけ鉄道にとって泣きどころだったのは、全線の約半分がブレゲンツァー・アッハ川 Bregenzer Ach(下注)の狭隘な谷底を走っていたことだ。古くからの街道は、何かと障害の多い峡谷を避けてアルバーシュヴェンデ Alberschwende の広々とした鞍部を越えていくのだが、麓との標高差が約300mあり、蒸気鉄道のルートには適していなかった。

*注 他地域の同名の川と区別するため、「ブレゲンツァー(ブレゲンツの、の意)」をつけるのが正式だが、地元では単にアッハ川 Die Ach と呼ぶ。

鉄道は、建設中からすでに不安定な地質や川の増水に悩まされていたが、開業後もその状況は変わらず、たびたび運行が阻害された。

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ブレゲンツァー・アッハ川の峡谷を行く(1979年)
Photo byHelmut Klapper, Vorarlberger Landesbibliothek at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

後に廃止となるきっかけも、そうした自然災害に起因していた。1980年4月に、峡谷区間の支流を横断する鉄橋の橋台が増水で侵食され、全線で運休となった。これは2か月を要して復旧したものの、同年7月の豪雨で今度は崖崩れが発生し、再度運休を余儀なくされる。線路を押しつぶした巨岩の撤去に手間取るうちに、さらなる崩落が起きたため、ついにÖBBは、峡谷を通過するケネルバッハ Kennelbach~エック Egg 間の復旧中止を決断した。

その後の地質調査で、上流のエック~ベーツァウ Bezau 間でも斜面崩壊の可能性が指摘され、10月に運休措置が取られる。残るは根元のブレゲンツ~ケネルバッハ間4.7kmしかなく、存在意義を失った鉄道は3年後の1983年に全面休止となった(正式廃止は1985年1月)。

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一般運行時代のベーツァウ駅(1971年)
Photo by Dr. E. Scherer at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

これに対して、地元では観光鉄道としての復活を計画した。ÖBB時代でも、気動車による一般列車と併せて、蒸気機関車が牽引する観光列車が全線で走っていたので、運行に必要な施設設備は整っていた。終点のベーツァウに運営組織が設立され、崩落などの危険がない最奥部のシュヴァルツェンベルク Schwarzenberg(下注)~ベーツァウ間で1987年9月から運行が開始された。

*注 当時は駅の手前にある連邦道(2002年から州道)の踏切が撤去済みだったため、その前で折り返していた。

1989年には次の駅ベルスブーフ Bersbuch まで延長されたが、道路用地への転用が決まり、この措置は2004年のシーズン限りで終了した。以来、保存運行はベーツァウ駅を出発してシュヴァルツェンベルク駅で折り返す5.0kmの区間で行われている(下注)。週末だけでなく、平日にも運行日が設定されていて、鉄道はこの地域で人気ある観光スポットの地位を確立している。

*注 そのため保存鉄道は、起点がベーツァウ、終点がシュヴァルツェンベルクとされており、この点は一般運行時代とは逆になる。

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アッハ川の谷を行く蒸気列車
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保存鉄道区間の地形図、ルートを薄赤で示す
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

昨年(2024年)スイスのザンクト・ガレン St. Gallen に滞在中、この鉄道を訪問する機会があった。フォアアールベルク州 Vorarlberg は、オーストリアの首都ウィーンから見ると西の最果てだが、スイスからはごく近い。ザンクト・ガレンからブレゲンツまで列車でわずか30分だ。

しかし、保存鉄道の拠点ベーツァウへは、駅前からラントブス・ブレゲンツァーヴァルト Landbus Bregenzerwald の路線バス830系統でさらに1時間かかる。ハイウェー経由で少し早く着く840系統もあるのだが、あいにく土日は走っていない(下注)。

*注 路線バスの時刻表は、フォアアールベルク運輸連合 Verkehrsverbund Vorarlberg の運営サイト VMOBIL https://www.vmobil.at/ 参照。

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(左)ブレゲンツ駅で下車
(右)路線バスでベーツァウへ
 

9時20分、バスターミナルで賑やかな中高年男女の団体さんと一緒に、そのベーツァウ行きに乗り込んだ。ふつう、路線バスの運賃は乗車するときに支払うのだが、珍しくこのバスには女性の車掌(というより検札員?)が乗っていて、車内で運賃を収受している。2+2の座席配置にもかかわらず、団体さんで車内はほぼ満席になった。途中の停留所からも乗ってくるが、みな立ちん坊を強いられている。

バスはÖBBのシュヴァルツバッハ Schwarzbach 駅前に寄り道した後、谷間を上り、州道200号線に合流した。列車のルートにならなかったアルバーシュヴェンデの鞍部を軽々と越えて、ブレゲンツァーヴァルトの核心部に入っていく。けさはいい天気で、斜面を覆う森と草地の牧歌的な風景に心が和む。

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バスの車窓に牧歌的風景が広がる
 

途中、エック Egg の手前では、川べりに旧線で一番長かったエック高架橋 Egger Viadukt(長さ110m)が見えた。廃線跡の一部は自転車・歩行者道に転換されていて、この高架橋の上も通れるはずだ。エックから先では、旧線が州道に寄り添う区間もある。アンデルスブーフ Andelsbuch では道端に旧駅舎が残っているのだが、うっかり写真を取り損ねた。

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(左)川の対岸にエック高架橋
(右)アンデルスブーフ旧駅舎(2007年)
Photo by böhringer friedrich at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
 

ベーツァウの町中を通過して、バスバーンホーフ Busbahnhof(バス駅、バスターミナルの意)には10時19分に到着した。保存鉄道の駅はこの奥にある。

さっそく駅舎に入り、出札口に行くと、予約は?と聞かれた。していないと答えると、あちらへ、と部屋の隅を指さす。そこには座席表を手にした女性が座っていて、遠来の飛び込み客に空席をあてがってくれた。往復14.60ユーロ。

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(左)ベーツァウ駅舎
(右)予約者のための出札口
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(左)大人往復乗車券
(中)座席指定券表面
(右)同 裏面、107号車8番席
 

ホームに出ると、列車はもうスタンバイして、客がぞろぞろと乗り込んでいるところだった。機関車はUh形の102号機(下注)。動輪3軸、従輪1軸の小型タンク機関車だ。1931年フローリッツドルフ機関車工場 Floridsdorfer Lokfabrik 製で、オーストリアで造られた最後のナロー蒸機だという。この鉄道の開業100周年を記念して動態に復帰させるに当たり、ブレゲンツの公園にいたあの同僚機も部品を提供したそうだ。

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(左)本日の牽引機Uh 102
(右)車体側面のプレート
 

駅舎の隣にある車庫の中を覗くと、別の蒸気機関車、U 25「ベーツァウ Bezau」が休んでいた。現在、Uh 102と交替で保存列車を牽いている1902年製の古典機だ(ÖBBの車番は298.25)。

このU形はオーストリア帝国時代の代表的な狭軌機関車だったが、第一次世界大戦で多くが徴用され、ボスニアの戦場に送られてそのままになった。そのため、戦後の機関車不足を解消するために、改良形として製造されたのがUh形だ。hは過熱式 Heißdampf を意味する。

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(左)車庫で休むU 25(ÖBB 298.25)
(右)列車の前に立つU 25(2018年)
Photo by Uoaei1 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

さて、ホーム上の列車に戻ると、Uh 102の後ろに、有蓋貨車1両とオープンデッキつきの古典客車が7両続いている。その中で側面に「ヴェルダーシェンケ Wälderschenke(森の居酒屋の意)」と書かれているのはビュッフェ車だ。山中の孤立路線にもかかわらず、けっこうな盛況ぶりで、最前部の1両を除けばすでに満席に近い。後で知ったが、まるまる空いているその1両は、復路で乗ってくる団体用だった。

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本日の列車構成
Uh 102の後ろに貨車1両、客車7両(ビュッフェ車含む)
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(左)まるまる空いていた101号車
(右)その車内
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(左)盛況のビュッフェ車
(右)有蓋貨車はパントリー代わり
 

10時45分、鋭い汽笛とともにベーツァウを発車した。行きはおおむね下り坂で、蒸機も逆機(バック運転)で走る。村の主産業である木材工場の間をすり抜け、下路トラスでブレゲンツァー・アッハ川を渡り、山のふもとの緑の谷間を淡々と下っていく。小屋が一つあるだけのロイテ Reute 駅は通過した。

森の中から川べりに飛び出し、流れを追いながら少し走ると、右手に上路ダブルワーレントラスのシュポーレンエック橋梁 Sporeneggbrücke が見えてきた。右に急カーブを切り、この橋で同じ川を再び渡る。それから高低差のついた谷間を回り込む。

速度が落ち、州道200号線の踏切をごろごろと横断すると、終点のシュヴァルツェンベルクだった。保存された駅舎の前に11時05分に到着。すぐに機関車が切り離され、機回しの作業が始まる。

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(左)ブレゲンツァー・アッハ川を渡る
(右)小屋一つあるだけのロイテ駅を通過
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(左)シュポーレンエック橋梁で再び川を横断
(右)州道の踏切を横断すれば終点
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(左)美しく保たれたシュヴァルツェンベルク駅舎
(右)機回し作業中のUh 102
 

折返しまで20分停車するので、駅舎に隣接する小屋に入ってみると、写真や模型のちょっとした展示室になっていた。一般運行時代の走行写真や時刻表など、興味深い資料が壁一面に貼られている。今となっては過去の記憶だが、当時と同じように蒸気列車に揺られてきたので、どこか実感に近いものを覚える。

11時25分、列車は時刻どおりにシュヴァルツェンベルク駅を後にした。結局、往復ともほとんどデッキに出ずっぱりだったが、競合することなく、心行くまで外の風に吹かれることができた。

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(左)駅舎に隣接する展示室
(右)この鉄道のミニチュアもあった
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正面を向いた蒸機が復路便を牽く
 

ベーツァウ駅に戻ってきたのは11時45分。構内はかつて駅前の通りまで広がっていたが、スーパーマーケットに土地を提供するために縮小された。その影響で機回し用の引上げ線の尺が足りなくなり、代わりに遷車台が設置されている。その操作が観察できるものと期待していたのだが、どうやらこれは後で行うらしい。

今日のダイヤは3往復で、次の発車は2時間後の13時45分だ。車内の客が出終わると、スタッフは駅舎前のテーブルを囲んで昼食を広げ始めた。乗客たちもいつのまにか町へ散っていき、駅は何もなかったかのように静かになった。

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ベーツァウ帰着
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(左)機回し用の遷車台
(右)撤去されてきたキロポストが墓石のように並ぶ

最後に、ブレゲンツァーヴァルト鉄道の廃線跡の現状について触れておこう。

ベーツァウ側から行くと、先述の道路転用区間を除き、中間の拠点駅だったエックを経て峡谷区間のロータッハ川 Rotach 合流点までは、自転車・歩行者道になっている。しかし、ロータッハ川を渡る下路ガーダーの橋梁は、橋台が沈下して通行止めとなった。

峡谷の後半部(下流部)はアッハタールヴェーク Achtalweg と呼ばれる踏み分け道がついているものの、崖崩れや洗掘で通過困難な個所があり、「自己責任で auf eigene Gefahr」アクセスしなければならない。峡谷を抜け出したケネルバッハからは、宅地転用された一部区間以外、車道または自転車・歩行者道だ。

■参考サイト
Die Bregenzerwaldbahn - früher - heute(ブレゲンツァーヴァルト鉄道 昔と今)
https://www.bregenzerwaldbahn-frueher-heute.at/
峡谷区間、アッハタールヴェークの現状写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Achtalweg

路線バスでブレゲンツに戻る途中、そのようすを見ようと旧リーデン Rieden 駅近くのバス停で下車した。ブレゲンツ近郊のこのエリアは、広い敷地に集合住宅や戸建てが並び、その中を自転車道が貫いている。4つ星のホテル・シュヴェルツァー Hotel Schwärzler 南側の駐車場が、リーデン駅跡だ。小さな駅舎(待合室)が倉庫に転用されていた。

ブレゲンツの方向に歩いていくと、道は定率のカーブで草地を縫って延びる。自転車がよく通り、地元の人が便利に使っていることがわかる。直線路の向こう、木立の奥に目当てのトンネルが見えてきた。長さ212mで路線最長だったリーデントンネル Riedentunnel だ。峡谷でもないのに長いトンネルがあるのは、ここで台地の出っ張りを横断しているからだ。

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(左)廃線跡自転車道
(右)リーデン駅舎は倉庫に(2024年)
Photo by w:de:User:Firobuz at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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(左)リーデントンネル東口
(右)「1994年再開」のプレートがはまる
 

がっしりした石積みのポータルはオリジナルのようだが、笠石の中央には「Wiederöffnung 1994(1994年再開)」の扁額がはまっていた。自転車道のための改修年次を示すものだろうか。内部は直線の下り坂で、照明が天井を覆うカバー(漏水除け?)に反射して、十分に明るい。

出口の先に続いていた廃線跡の大築堤は完全に撤去され、集合住宅の敷地に転用されてしまった。そのため、自転車道はトンネルを出ると、ヘアピンカーブを切って崖下へ急降下する。中間駅としてはあと一つ、車両基地だったフォアクロスター Vorkloster があるが、跡地は再開発され、何も残っていないようだ。にわかに灰色の雲がわいてきたことだし、探索はここで切り上げて駅へ急ぐことにした。

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(左)トンネル内部
(右)西口の自転車道はヘアピンで急降下
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ブレンゲンツ近郊の地形図、薄赤のルートが廃線跡
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

■参考サイト
Wälderbähnle(公式サイト) https://waelderbaehnle.at/

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