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2025年4月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸道倶利伽羅峠

朝8時、通学の高校生たちと一緒にIRいしかわ鉄道 津幡(つばた)駅の改札を出ると、大出さんと山本さんが待っていてくれた。2025年4月14日のコンター旅は、北陸道の竹橋(たけのはし)宿から倶利伽羅(くりから)峠の旧街道を歩いて、富山県側の石動(いするぎ、下注)まで行く。参加者3名、歩行距離は約11km。雨の昨日とは一転して青空が広がり、ハイキング日和になりそうだ。

*注 宿場町は今石動(いまいするぎ)と称した。この地名は、現在も小矢部市石動地区の町名として残る。

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道の駅でにらみをきかす火牛の像
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図1 倶利伽羅峠周辺の1:200,000地勢図
1987(昭和62)年編集

駅前のバス停で、8時17分発の津幡町営バス九折(つづらおり)行きに乗り込んだ。この小型バスで竹橋へ移動する。珍しく月曜日に出かけるのは、朝のこの便が平日のみの運行だからだ。バスはIRいしかわ鉄道の線路に沿うように走り、15分ほどで目的地に到着した(下注)。

*注 バス停名は竹橋西。宿場町を見たいがためにここまで乗ったが、後述する道の駅に直接行くなら、一つ手前の「倶利伽羅塾」バス停が近い。

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(左)集合場所は津幡駅
(右)竹橋宿でバスを降りる
 

竹橋は今でこそ静かな集落だが、かつては倶利伽羅村の村役場が置かれるなど主邑の位置づけだった。集落を貫くまっすぐな道が、かつての街道筋の面影を残している。峠道に踏み出す前に、集落の西のはずれまで戻って、道の駅「倶利伽羅 源平の郷」の歴史資料館を訪ねた。

倶利伽羅峠といえば、平安時代末期に繰り広げられた源平合戦の主戦場の一つだ。平家打倒の命を受けた木曽義仲が、北陸道を進んできた平維盛(これもり)率いる平家の大軍を、夜半に奇襲をかけて打ち破る。その策は、四、五百頭の牛の角にたいまつを括りつけて突進させるというもので、寝静まっていた敵軍は驚いて大混乱に陥った。源平盛衰記が伝える有名な「火牛の計」の逸話(下注)だが、今や火牛はご当地キャラになっていて、道の駅のフロアでも来場者に向けてアピールを怠りない(冒頭写真参照)。

*注 中国の戦国時代に同じような故事があり、それにならった創作と考えられている。

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(左)道の駅の歴史資料館
(右)火牛の計を描く源平合戦図(複製、原本は竹橋・倶利伽羅神社蔵)
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倶利伽羅峠の絵図(資料館の展示パネルを撮影)
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図2 竹橋~城ヶ峰間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

宿場町の裏を流れる津幡川にはサクラ並木があり、ちょうど見ごろを迎えていた。おととい出かけたのと鉄道の能登鹿島駅、通称 能登さくら駅はまるでお祭りのような賑わいだったが、ここではほかに誰もおらず、静かな花見が楽しめる。

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津幡川沿いのサクラ並木
 

街道に復帰して先へ進むと、そのうち車道から別れて山中に入っていく。前坂と呼ばれる急な坂には階段が作ってあった。ところどころ草むし、枝や落ち葉が厚く散り敷いているが、路面は舗装されている。分岐点には道標が立っているので、迷うこともない。

上りきるとすぐに、切り通した車道に降りるものの、改めて杉林の中を上り直す。地形図を見ると、東西に長く延びる標高100~150mの尾根筋を伝っていくルートだ。一つ目のピーク、城ヶ峰は名のとおり、龍ヶ峰城という山城が築かれていた。案内板によると、城郭は公園化されているようだが、入口にバリケードが置かれて入れなかった。

また少し行くと、北麓の越中坂(えっちゅうざか)から上ってきた車道と合流する。しばらくはこの道路を歩かなくてはならない。再び坂がきつくなると倶利伽羅の集落で、道の両側にぽつんぽつんと民家がある。道は一車線に狭まり、なおも上っていく。

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(左)山中に入る北陸道
(右)前坂を上る
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倶利伽羅集落をなおも上る
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図3 城ヶ峰~矢立山間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

やがて左手に、石の鳥居と石段が現れた。それを挟んで、倶利伽羅不動寺と手向(たむけ)神社の標柱が立っている。倶利伽羅(くりから)という珍しい地名は、もと長楽寺と称したこの寺の本尊、倶利伽羅不動に由来するという。寺の公式サイトによると、倶利伽羅とはサンスクリット語クリカ kulikah の音写で「具黒(黒いもの)」を意味し、八大龍王のうちのひとりの名になった。

長楽寺は8世紀の創建と伝えられ、源頼朝や加賀藩の加護を得て、江戸時代後期まで存続していた。しかし堂宇の焼失により廃絶し、明治の神仏分離で手向神社となった。倶利伽羅不動寺として再興されたのは第二次世界大戦後と、歴史的にはまだ新しい。

石段を上って境内に入ると、正面がもとからある手向神社の本殿で、後ろに不動寺の本堂が建っている。今日はその前の広場にテントが張られ、桜まつりの準備中だった。本堂脇のテラスに立つと、西の方角のパノラマが開け、春霞を通して遠くに横たわる千里浜(ちりはま)や日本海が眺望できた。

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(左)倶利伽羅不動寺・手向神社の参道
(右)寺の本堂前でまつりの準備が進む
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本堂脇のテラスから千里浜と日本海の展望
 

この一帯は砺波山(となみやま)と呼ばれていて、その山頂がすぐ近くにある。聖地なので、煩悩を解き放つために108段の急な石段を上っていく。頂きは狭い平地で、中央に四体の石堂が並んでいた。手向神社にあるものと併せて、五社権現というそうだ。そばに276.7mの二等三角点が埋設してあったので、いそいそと写真に収めた。周囲にはサクラの林が広がっているが、標高が高いからか、まだ五分咲きぐらいだ。

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(左)108段の石段が待つ五社権現の参道
(右)山頂の四体の石堂
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(左)石堂脇の二等三角点
(右)山頂のサクラはまだ五分咲き
 

少し降りた車道沿いに木組みの展望台があり、今度は南から東にかけての眺望が得られた。備え付けの展望図を参照すると、かすかに見えている雪の山並みは、砺波平野の南を限る高清水(たかしょうず)山地のようだ。まだ少し時間が早いが、展望台下のあずまやで持参した昼食を広げた。

道路脇でまた出会った2頭の勇ましい火牛像に見送られて、砺波山の東尾根に載る道を進む。この両側にもソメイヨシノが植わり、お祭り気分を盛り上げるぼんぼりが取り付けられているが、花の見ごろはもう数日先のようだ。

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展望台から高清水山地の眺め
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(左)ここにも火牛像が
(右)砺波山のサクラ並木
 

左手の広場の端の見晴らしが良さそうなので行ってみると、なんと北陸新幹線のビュースポットだった。県境の新倶利伽羅トンネルを出て、左カーブで新高岡駅に向かう区間が見える。空気が澄んでいる日なら、白馬岳をはじめ北アルプスの山並みも見通せるらしい。

時刻表で確かめたら、ちょうど金沢行の下り列車がやってくるタイミングだ。三人、しばらく目を凝らして待つものの、防音壁に遮られたか、気がついた時には列車はもう山陰に隠れる寸前だった。写真は誰も間に合わず、証拠のない目撃談に終わってしまった。

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ビュースポットからの眺め
新幹線の高架が弧を描く
 

少し先で北陸道は、舗装道から離れて、初めのような山道に戻る。軽い上りを終えた道端に、「砺波山 標高265m」の小さな道標が埋めてあった。地形図でも263mの標高点を記したこのピークに、砺波山の注記がかぶせてある。おそらく平野から仰ぐとここが手前に見えて、より高い倶利伽羅峠(といってもわずか十数m)が後ろに重なってしまうからだろう。

この後は砂坂と呼ばれる急な下り坂だ。昔はずるずると滑る足場の悪い坂道だったのかもしれないが、今は段差の小さい階段道で、心置きなく歩ける。

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(左)砺波山の小さな道標
(右)階段道になった砂坂を降りる
 

坂を降りきると再び車道に出た。砺波山より標高は一段低いが、同じような雰囲気の尾根道だ。一里塚の標柱が立っていて、よく見ると一里塚の下に「と言われるところ」と素直な告白が付け足してあった。

再び車道と離れる地点には、「矢立」の標柱がある。矢合わせ(小競り合い)で平家軍の放った矢が立った場所だそうだ。矢立山は、東西方向に延びる尾根の最も東のピークで、205.6mの四等三角点がある。沿道には句碑が点々と置かれていて、案内板の説明を読むと、昔からこの道を多くの旅人が行き交っていたことが知れる。

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(左)矢立山の入口
(右)峠茶屋跡
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図4 矢立山~石動間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

峠茶屋の跡を通過してもしばらく杉林を抜ける尾根道が続くが、やがて道は長い下りにさしかかった。竹橋側の前坂のような尾根への取付きルートで、長坂の名がある。坂の途中で、峠の展望台から見たのと同じ高清水山地の眺めが広がった。

文字通りの長い坂を降りきると、紅色も鮮やかなシダレザクラの歓迎を受けた。駐車場とトイレが設置され、クルマで来る人もこの歴史街道に容易にアクセスできるようにしてある。ここからは人里を縫ってふつうの車道を歩いていくことになる。集落の名は石坂だが、山麓の丘の上に過ぎず、名前ほどの坂道はない。さきほどの砂坂との対比からすると、もとは長坂こそが石坂だったのかもしれない。

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(左)長坂からの眺望
(右)長坂は文字通り長い坂道
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(左)シダレザクラが咲く麓に到着
(右)石坂集落
 

間の宿場だった埴生(はにゅう)には、木曽義仲が戦勝を祈願したと伝わる護国八幡宮が鎮座する。私たちはその入口のあずまやで休憩したあと、北陸道からそれて、加越能鉄道加越線の跡へと転戦した。こちらも昨日の金名線と同じように、県が管理する自転車・歩行者道になっている。郊外地にまっすぐ延びるその道をたどっていけば、ゴールと定めた石動駅はもうすぐだ。

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(左)埴生護国八幡宮の参道
(右)埴生宿、医王院山門
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(左)加越線跡の自転車道、南望
(右)同 北望、奥に見える高架は北陸新幹線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図七尾、金沢(いずれも昭和62年編集)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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