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2025年4月 9日 (水)

コンターサークル地図の旅-宮原線跡

宮原(みやのはる)線は、久大本線の恵良(えら)駅で分岐して、肥後小国(ひごおぐに)駅まで26.6kmを結んでいた国鉄路線だ。線名の宮原というのは、終点のある熊本県小国町(おぐにまち)の中心地区の名から来ている。

根元の恵良~宝泉寺(ほうせんじ)間が部分開業したのは1937(昭和12)年。戦時中、不要不急路線としてレールが供出されたものの、戦後は復旧し、1954(昭和29)年に県境を越える宝泉寺~肥後小国間が完成して、全通した。

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肥後小国駅を出発する宮原線列車
(1983年3月、大出さん提供)
 

しかし、沿線は山間部で、輸送密度がわずか165人/日(1981年)と全く振るわなかった。そのため、国鉄再建法で第一次特定地方交通線に挙げられ、1984(昭和59)年にいち早く廃止されてしまった。ルートは鉄道敷設法に定める隈府(わいふ、熊本県菊池(きくち)市))から森(大分県玖珠町(くすまち))に至る鉄道に相当するが、菊池方面への延伸工事は一部着手されただけに終わった。

2025年3月16日のコンター旅は、この国鉄宮原線跡をレンタカーでたどる。参加者は昨日に引き続き、大出、山本、私の3名だ。阿蘇駅前で白のトヨタヤリスを調達し、肥後小国から恵良に向けて主なポイントを見て回ったのだが、ここでは下り列車の目線で恵良から順にレポートしていこう。

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図1 宮原線周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

恵良駅は、普通列車しか停まらない久大本線、愛称 ゆふ高原線の小駅だ。宮原線の列車はすべて一つ先の豊後森(ぶんごもり)駅が起終点かつ基地だったので、分岐点とはいっても実質は中間駅と変わらなかった。

当時の駅舎は2014年に火災で焼失したため、建て直されている。虫籠窓になまこ壁、軒下に杉玉を吊るしてあるから、造り酒屋をイメージしたのだろう。内部にはその酒造業で財を成し、地元に尽くした実業家の資料室があった。

現在、構内は2面2線だが、駅舎の対面は島式ホームで、外側(3番線)に宮原線の列車が発着していた。線路は外され草むしているが、ホームは原形をとどめている。後述するとおり他の駅は少なからず改変を受けているので、運行当時の情景が残されているという点で貴重だ。

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(左)造り酒屋風の恵良駅舎
(右)島式ホームの左側が宮原線用の旧3番線
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図2 恵良~町田間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

宮原線はここを出て約1.4kmの間、田んぼの中を久大本線と並走する。それから、右に緩くカーブして、国道210号と玖珠川を一気に横断していた。この橋桁と橋脚は撤去済みだが、両岸のコンクリート橋台とそれに続く築堤は手つかずで残存している。想像をたくましくすれば、ガーダー橋に響く列車の走行音が聞こえてきそうだ。

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玖珠川橋梁の橋台が残る
左岸の橋台から右岸を望む
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(左)左岸の玖珠川橋梁橋台
(右)それに続く築堤(北望)
 

玖珠川右岸を少したどった後、線路は、支流町田川の谷に入り、しばらくその左岸を遡っていく。しかし、宝泉寺の上手まで国道387号の新道にそっくり転用されたため、トンネルや橋梁も新しくなり、鉄道の痕跡は消えてしまった。

ただし、駅があった場所には記念碑的な遺物が見られる。まず町田駅は、築堤上のホームに上るコンクリートの階段があり、国道に面しているホーム跡に、色褪せたオリジナルの駅名標が立っている。

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町田駅跡
(左)ホーム跡に残る駅名標(右)ホームに上る階段
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現役時代の町田駅
(1983年3月、大出さん提供)
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図3 町田~宝泉寺間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

宝泉寺駅では、駅前広場の傍らに建つ2階建の民芸風建物が目を引く。内部の展示資料に拠れば、宮原線の転換交付金を活用して1986(昭和61)年に完成したもので、もとは1階が宝泉寺交通センター、2階が宮原線の資料や遺品を展示する鉄道資料館になっていた。

現在は1階でベーカリーカフェが営業しているが、2階の資料館は残っていて、見学が可能だ。また屋外でも、復元駅名標が立つ(下注)ほか、腕木式信号機や転轍装置類が一隅に集められて、現役時代をしのばせる。地下道からホームに通じる階段も上れるが、町田とは違って、ホーム跡は小公園に変えられ、植込みで満たされていた。

*注 本物の駅名標は鉄道資料館の中に保存されている。

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宝泉寺駅跡
(左)駅跡に建つもと交通センターの建物
(右)屋外のモニュメント
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2階の鉄道資料館
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(左)オリジナルの駅名標
(右)琺瑯引きの駅名板も懐かしい
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展示資料の一部
 

宝泉寺を出ると、線路は左にカーブを切り、国道や町田川の谷と別れて南へ向かう。次の麻生釣(あそづる)駅までは7.5km。標高差が約170mあるため、25‰の急勾配が続いていた。

このうち、初めの1.1kmは県道680号田野宝泉寺停車場線の新道に上書きされてしまった。串野で県道から離れた後は、線路の面影をとどめた1車線の舗装道に変わる。現行地形図には断片的にしか描かれていないが、「ここのえ万葉の杜」という別荘地への通路に利用されているのだ。これは、上手にある菅原地区の手前まで続いていて、クルマで通り抜けることができた。

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(左)串野トンネル西口、信号機がある
(右)内部
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図4 宝泉寺~麻生釣間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

この間に、尾根脚を貫く4本のトンネルがある。一つ目で長さ288mと最も長い串野トンネルは、手前に二灯式の交通信号機が設置されていた。県道に抜ける区間なので、通行量が多いのだろう。それに対して、二つ目の第一銅尻トンネルから先はあまり利用されていないようで、雑草が路面に進出し、林道の趣きになる。

菅原地区では、廃線跡の一部にサクラや低木が植樹されて、グリーンベルトのようだった。その後は未利用地で、草が生い茂る。グーグルマップの空中写真では農道や林道のように見える個所もあるが、クルマではたどれないので、追跡を諦めた。

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(左)落葉敷く第二銅尻トンネル西口
(右)菅原地区の廃線跡グリーンベルト
 

菅原から麻生釣(あそづる)までの3km弱は、東西方向の断層谷に沿って上っていく。現行地形図には廃線跡らしき一条線記号、すなわち幅員3.0m未満の道路が描かれている。それで麻生釣側からアプローチしてみたが、未舗装のでこぼこ道が1kmほど続くものの、その先は深い草むらに没していた。

私は1984年1月に一度だけ宮原線を訪れたことがある。当時、全線通して走る列車は1日わずか3本(下注)、キハ40系気動車が1両で往復していた。豊後森から乗った客はほとんど宝泉寺で下車してしまい、車内はがらがらになった。時刻表では、下り列車の宝泉寺~麻生釣の所要時間が20分と読める。しかし実際にはそれほどかからず、麻生釣で時間調整と称して4分停車した。それで、木立の中にたたずむ無人駅の写真を撮りに、ホームに降りた記憶がある。

*注 このほか土曜運転が1本、豊後森~宝泉寺の区間便が2本(1本は休日運休)あった。

思い出の麻生釣駅跡も、長い歳月を経て荒地に還ってしまい、今は場所さえ定かでない。グーグルマップのスポット写真によると、植林地の中に見覚えのある駅の階段がまだ明瞭な形で残っているようだが。

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(左)荒地に還った麻生釣駅跡
(右)未舗装道の先は深い草むらに
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現役時代の麻生釣駅(1984年1月)
 

麻生釣駅の後は、サミットにうがたれた麻生釣トンネルを抜け(下注)、下り坂にさしかかる。県境付近では並走する国道387号に一部呑み込まれてしまったようだが、谷の急な勾配についていけないため、徐々に国道との高度差が開いていく。

*注 麻生釣トンネル南口は、国道の東側の掘割の底に残る。

麻生釣~肥後小国間は、アーチの高架橋とトンネルが連続することで知られていた。このエリアは小国富士とも呼ばれる涌蓋山(わいたざん)の西麓に当たり、地勢は東から西へ傾斜している。川もそれに従うため、谷が東西方向に走っている。ところが鉄道は北から南へ進むので、直交する谷と尾根をそうした構築物で横断していく必要があるのだ。

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図5 麻生釣~北里間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

7本の高架橋が登録有形文化財になっている。着工は第二次世界大戦直前で、鋼材の使用が制限されていたため、鉄筋を入れずに無筋ないし竹筋で代用して造られたとされる。

一つ目の広平(ひろだいら)橋梁は、長さ80m、アーチ9連で谷を跨ぐ大きな高架橋だ。見てみたいがクルマでは直接行けず、廃線跡を400mほど歩かなければならない。今回は時間に限りがあるため、やむなく割愛した。

谷奥を迂回してきた廃線跡は、戸井口集落の南で旧道をまたぐが、この橋台は道の両脇に残っていた。そのすぐ西にあった、菅迫へ行く軽車道の跨線橋は、埋め戻されて存在しない。

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(左)戸井口集落の南に残る橋台
(右)登録有形文化財のプレート(北里橋梁で撮影)
 

その後は西へ張り出し、菅迫(すげさこ)の尾根をトンネルで横断していく。二つ目の菅迫橋梁(下注)は長さ136m、高さ23m、アーチ11連と、最大規模になる。しかし、深い森の中に埋もれていて、近づくことができるのかどうかは不明だ。

*注 文化庁の文化遺産オンラインサイトでは、「すげのさこ」の読みがなが振られている。

私たちは旧道をクルマで進んだので、見たのは三つ目の堀田(ほりた)橋梁からだ。長さ46mの小ぶりな構造物で、谷を跨ぐ4連のコンクリートアーチが残っているが、旧道を跨いでいたガーダー(鈑桁)はもうない。以前は杉林に接していたらしく、アーチの側壁は一面に花粉が付着して、オレンジ色に染まっていた。

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堀田橋梁、北面は花粉でオレンジに
 

汐井川(しおいがわ)橋梁と堂山(どうやま)橋梁は近接していて、塩井川(下注)の集落の後ろにダブルで眺められる。神社の横の山道を少し上ると、この二つをつなぐ廃線跡に出ることができた。橋はどちらも長さ36m、3連アーチで、橋脚の高さも同じくらいとまるで双子のようだ。側面に安全柵が追加されているので、かつては遊歩道がここまで延びていたのだろうか。しかし、汐井川橋梁のほうはフェンスで塞がれ、通れなくなっていた。

*注 橋梁名の表記は「汐井川」だが、地名は「塩井川」と書く。

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汐井川橋梁(左)と堂山橋梁
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(左)高い築堤を伴う汐井川橋梁
(右)両橋梁を結ぶ廃線跡
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堂山橋梁
(左)高い橋脚で谷川を跨ぐ(右)側面には安全柵が
 

山中を抜けて、廃線跡は北里(きたざと)の桑鶴(くわづる)地区に出てくる。南側に高い築堤が続き、その上はサクラ並木の草道になっている。ただし、堂山橋梁からここまでの間に2本のトンネルを抜けなければならず、通して歩けるかどうかはわからない。

いったん国道に上書きされた廃線跡は、北里駅跡付近で国道から離れて復活する。北里駅は無人の棒線駅だったが、ホームとそれに通じる地下道が残っている。ホームには新たに上屋つきのベンチが設置され、駅名標も復元されていた。

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北里駅跡
(左)ホーム跡に建つ新設のベンチと駅名標(右)ホームに上る地下道入口
 

最終区間の北里~肥後小国間4.1kmは、大半が旧国鉄宮原線遊歩道として整備されている。私たちは道の駅小国にクルマを置いて、往路タクシー、復路は徒歩でこの間を往復した。

北里駅跡を出るとすぐ、北里橋梁がある。これも登録有形文化財で、長さ60m、5個のアーチを連ねて小さな谷を渡っている。北里はその名が示すように、細菌学者 北里柴三郎(下注)の生まれ故郷だ。遊歩道の築堤からその記念館が見下せる。新1000円札の肖像に採用されたことで、地元ではたいそう盛り上がっているようだ。

*注 地名とは異なり、北里柴三郎の姓は「きたさと」で、「さ」を濁らない。本来は地名と同じ読み方だったのだが、ドイツ留学の際、現地でキタザトと読めるように Kitasato と綴ったことに由来するという。

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(左)北里橋梁
(右)北里柴三郎記念館を望む
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図6 北里~肥後小国間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

遊歩道は、記念館へ行く新設道路でいったん断たれるが、すぐに復活して森の中へ入っていく。未舗装で落ち葉が散り敷いているものの、雨の後でもぬかるみがほとんどなく、歩きやすい道だ。左へ大きくカーブしていくと、県道の跨線橋の向こうに、北里トンネルのポータルが姿を現した。長さは298m、内部もカーブしているので、出口は見えず真っ暗だ。そのため照明設備がついていて、入口側壁にON/OFFスイッチがあった。

トンネルを出て、県道を高架でまたぐとまもなく、切通しの壁沿いにキロポストを発見した。苔むし、彫った数字も消えかけているが、かろうじて24の数字が読み取れる。

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(左)遊歩道区間
(右)跨線橋の向こうに北里トンネルが覗く
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(左)ポータル側壁に照明スイッチ
(右)明かりのついたトンネル内部
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(左)切通しに残る24キロポスト
(右)数字がかすかに読み取れる
 

右に左にカーブを繰り返すうちに、遊歩道は高架橋の上に出た。樅木川(もみのきがわ)の谷をまたぐ幸野川(こうのがわ)橋梁だ。長さは116m、高さもかなりある。小道を伝って下に降りると、堂々とした6連のアーチ群に圧倒された。橋脚の付け根の部分、いわゆるスパンドレル(下注)に、アーチ状の小さな開口部を設けているのもなかなかおしゃれだ。

*注 正確には、(アーチの)曲線と(上路の)直線との間の三角形になった部分を指す。

向かいの山で左カーブを回っていくと、また苔で覆われた標柱が切通しの壁に寄りかかっていた。文字は読み取れないが、25キロポストかもしれない。

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スパンドレルに開口部をもつ幸野川橋梁
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(左)中央部の径間は20mと広い
(右)上路を通過する遊歩道
 

しだいに山が深まり、最後の宮原トンネルが現れる。長さ240m、北口付近がカーブしているため、これも出口は見えない。同じように照明設備に期待したが、スイッチを何度押しても反応がなかった。懐中電灯は用意してこなかったので、スマホのライト機能でしのぐ。

トンネルを抜ければ、後は一直線の下り坂だ。しかし、国道212号旧道と交差(鉄道時代はオーバークロス)する手前で、遊歩道は終わる。その先、線路が通っていた高い築堤は跡形もなくなり、左手から合流してくる国道387号の用地に転用された。

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(左)宮原トンネル北口
(右)遊歩道終点、この先の築堤は崩されて国道に
 

道の駅小国は、終点肥後小国駅の跡地に造られた施設だ。屋外に腕木式信号機や転轍装置、線路などのモニュメントが置かれ、駅名標も復元されている。円形のユニークな本館には、オリジナルの駅名標が保存されているほか、2階には年表や写真の展示もあって、ここに列車が来ていた時代を思い起こさせる。

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(左)ユニークな形状の道の駅本館
(右)内部に保存された駅名標
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(左)屋外の線路モニュメント
(右)腕木式信号機や転轍装置も
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ありし日の肥後小国駅
(1983年3月、大出さん提供)

冒頭で触れたように、宮原線には菊池方面への延伸構想があり、その一部として、駅から約1km間の路盤は完成していた。私たちは最後にこの未成線跡を歩いた。

国道の続きの車道は200mほど行くと終わり、後は、国道212号と交差するまで遊歩道になっている。その先、志賀瀬川(しがせがわ)の橋梁とトンネルを含む路盤が残っていた。トンネル内部はぬかるんでいるが、中央の溝蓋(用水路か?)の上を歩いて、西口に抜けることができる。

しかし、たどれるのはそこまでだった。杉林の上空の隙間は、用地がまだ少し続くことを示唆するが、目の前に立ちはだかる藪の深さが、探求心を一気に萎えさせた。

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未成線跡
(左)遊歩道区間(右)志賀瀬川を渡る橋梁
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志賀瀬川を渡る橋梁を国道橋から望む
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(左)トンネルは通過可能
(右)藪に阻まれるトンネル西口

参考までに、宮原線が記載されている1:25,000地形図を、恵良側から順に掲げる。

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図7 宮原線現役時代の1:25,000地形図
恵良~町田間(1974(昭和49)年改測または測量)
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図8 同 町田~宝泉寺間(1974(昭和49)年測量)
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図9 同 宝泉寺~麻生釣間(1974~75(昭和49~50)年測量)
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図10 同 麻生釣~北里間(1974~75(昭和49~50)年測量)
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図11 同 北里~肥後小国間(1975(昭和50)年測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分(昭和52年編集)、2万5千分の1地形図豊後森(昭和49年改測)、豊後中村(昭和49年修正)、湯坪(昭和50年測量)、杖立(昭和49年測量)、宮原(昭和50年測量)および地理院地図(2025年4月5日取得)を使用したものである。

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