コンターサークル地図の旅-豊後竹田とその周辺
2025年コンターサークル-Sの旅、3月は中九州が舞台だ。1日目は、阿蘇外輪山の東麓にある豊後竹田(ぶんごたけた)周辺に焦点を絞った。行政区分では大分県竹田市と同 豊後大野市になる。
![]() 岩戸の景観を走り抜ける九州横断特急 |
このエリアには、阿蘇山の火砕流に覆われた緩斜面が広く分布している。これらは主に約13万年前の阿蘇3(Aso-3)、約9万年前の阿蘇4(Aso-4)と呼ばれる2回の大規模な火山活動で形成されたものだ。噴出物は自らの熱で溶けるとともに、重みで圧縮されて溶結凝灰岩(下注)の層ができた。
*注 当地では灰石(はいいし、はいし)と呼ばれる。
斜面の上流部ではその上に火山灰が積もり、なだらかな台地として残されているが、中流部では河川によって激しく浸食され、岩肌が山腹や川床に露出している。これらが断崖や滝といった特色ある自然景観をはぐくむ一方、人はその石材を、難攻不落の城や谷を渡る橋などに巧みに利用してきた。今日は、そうした見どころのいくつかをレンタカーで巡ることにしている。
![]() 難攻不落の山城、岡城跡 |
![]() 図1 竹田周辺の1:200,000地勢図 1977(昭和52)年編集 |
◆
3月15日は、あいにく朝から本降りの雨になった。小やみになる時間帯もあったものの、終日降り続いた。大分駅から、黄色のキハ125形を2両連ねたJR豊肥本線の上り普通列車に乗り込むと、ボックス席に大出さんの姿があった。列車は途中の三重町(みえまち)駅で乗換えになる。ホームで山本さんと合流して、参加者3名が揃った。
朝の豊肥本線は大分行きの対向列車が多く、ネットダイヤといっていいくらいだ。沿線はようやく梅が見ごろを迎えている。この冬は寒い日が多かったので、開花が1か月近く遅れたという。豊後竹田駅に10時31分到着。駅舎は武家屋敷風に改築されていて、正面の堂々とした千鳥破風となまこの腰壁が印象的だ。
![]() 豊後竹田駅 (左)駅舎は武家屋敷風(右)当駅止まりのキハ125形 |
シルバーのトヨタヴィッツを借りて、まずは中九州道を東へ進む。2年前に行った延岡~高千穂間もそうだったが、ここも立派な自動車専用道が通じていて、クルマがあれば移動には苦労しない。犬飼ICで地道に降りて南下し、最初の目的地、虹澗橋(こうかんきょう)を目指した。
大野川支流、三重川の渓谷に架かるこの橋は、江戸後期の1824年に完成したシングルスパンのアーチ橋だ。溶結凝灰岩の切石で組まれ、長さは31.0m、径間25.1m、幅員6.1m。臼杵(うすき)の町とその藩領だった三重郷(三重町周辺)を結ぶ街道を通す、当時としては最大規模の石橋で、国の重要文化財に指定されている。
今はたもとにポールが立ててあるが、比較的最近まで一般道だったと見え、路面にセンターラインが残る。付け根の部分は嵩上げされていて、もとは路面がもっと反っていたようだ。眺める限りアーチを構成する輪石に狂いも隙もなく、200年前の匠の技を完璧に伝えている。
![]() 渓谷にアーチを架ける虹澗橋 |
![]() (左)路面にセンターラインが残る (右)由来を記す碑文「虹澗橋記」 |
![]() 図2 虹澗橋周辺の1:25,000地形図に加筆 |
三重町のコンビニで昼食を仕入れて、次に向かったのは沈堕(ちんだ)の滝。大野川とその支流、平井川にかかる大小二つの滝で、水墨画の巨匠、雪舟も描いたという伝説の名瀑だ。本流の雄滝は幅100m、高さ20m、支流の雌滝は幅10m、高さ18m(下注)。大きな落差は、柱状節理の入った岩盤が水流で崩れて生じた。
*注 数値は、おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会のリーフレットに拠る。下述する原尻の滝も同じ。
![]() 工事で水涸れした沈堕の滝 上流の水は右手の吐口から川に戻されている |
![]() 支流平井川の雌滝は健在 |
![]() 図3 岩戸~沈堕の滝周辺の1:25,000地形図に加筆 |
降りしきる雨を押して近くまで行ってみたが、残念なことに雄滝のほうは水涸れしていた。上流側にある取水堰の工事のため、5月末まで落水を停止していると掲示がある。滝の落差を利用して1909年に完成した水力発電所(下注)の廃墟も残っていて、クロード・ロランの古典画のような情景が見られるかとひそかに期待していたのだが。
*注 沈堕発電所。大分~別府間の路面軌道(後の大分交通別大線)を運営していた豊後電気鉄道が建設した。
歴史的には、発電所建設以来、今と同様の状態が長く続いていた。導水路に水を回すようになったことと、堰の基盤を保護する目的で、本流の水量を絞ったからだ。滝の水流が復活したのは1996年だが、滝面が崩れないようコンクリートで固定しているのが遠目にも見て取れ、もはや自然の滝とは言えなくなっている。
![]() 手前に水力発電所の遺構が |
もと来た道を戻って、大野川に支流の奥岳川(おくだけがわ)が合流する地点へ。右岸に火砕流由来の切り立ったグレーの断崖が続き(下注)、付近の集落名から、岩戸(いわど)の景観と呼ばれるスポットだ。断崖には豊肥本線の百枝(ももえだ)トンネルがうがたれ、そのまま奥岳川を渡る高い鉄橋に接続している。
*注 下部は阿蘇3、上部は阿蘇4の火砕流による。
言わずと知れた撮影名所で、河原に訪問者のクルマを停める場所まで指定してあった。ちょうど雨が小やみになったので、各自思い思いの場所に陣取り、トンネルに吸い込まれる下り普通列車の赤いキハ200系と、逆に飛び出してくる上り九州横断特急をカメラに収める(冒頭写真参照)。
![]() 岩戸の景観、トンネルに吸い込まれる下り普通列車 |
最重要イベント(?)を終えた後は、原尻(はらじり)の滝へと駒を進めた。大野川の支流、緒方川(おがたがわ)に掛かるこの滝は、幅120m、高さ20m。沈堕の滝と同様の成因で、ともに「豊後のナイアガラ」と称される大規模なものだ。
手前にある道の駅にクルマを停めて歩いて行く。周囲は谷底平野で、田園が広がり、中央を緒方川がゆったりと流れている。それが広い川幅のままで、いきなり滝壺に落ちていくから、ナイアガラに例えられるのももっともだ。滝の上流側には沈下橋が渡され、下流側の深い谷では吊橋が揺れる。その間を周遊路がつないでいて、壮大な弧を描く滝をさまざまな角度から鑑賞できるのがいい。
![]() 豊後のナイアガラ、原尻の滝 |
![]() (左)上流側の沈下橋 (右)下流側の吊橋 |
![]() 図4 原尻の滝~蝙蝠の滝周辺の1:25,000地形図に加筆 |
近くにもう一つ、大野川に掛かる蝙蝠(こうもり)の滝がある。これも溶結凝灰岩の柱状節理の間から、噴き出すように水が落ちているが、そばまで近づくことはできない。それで、普通車がぎりぎりの狭い山道を伝って、400mほど離れた山上にある展望所へ。滝の高さは約10mで、大きく四つの筋に分かれている。本流なので豊かな水量があり、遠目にも勢いと迫力が伝わってきた。
![]() 蝙蝠の滝を展望所から遠望 |
竹田市街を経由して、次は竹田湧水群へ。周辺では、阿蘇の豊かな伏流水があちこちで湧き出している。その一つで、水量が最大という河宇田(かうだ)湧水を訪ねた。駐車場の前に上屋つきの水汲み場があり、10個ほどの口から水が流れ落ちている。水栓はなく流しっ放し、無料で汲み放題だ。ひと口含むと、柔らかなのど越しが快い。
山手には、エノハ(下注)の養魚池が所せましと並んでいる。水流をたどって湧出場所まで行ってみたが、底が苔や藻に覆われたせいぜい数m幅の、意外に小さな池だった。同心円の波紋も立たない静かな水面にもかかわらず、出口から驚くほどの水が流れ出ていく。
*注 エノハは魚名として各地で使われているが、九州ではヤマメやアマゴを指すという。
![]() 河宇田湧水 (左)水汲み場(右)豊かな水量で流れ下る |
![]() (左)エノハの養魚池 (右)静かな湧出場所 |
石橋ではもう1か所、竹田西郊の山王橋(さんのうばし)を見に行った。大野川支流の稲葉川に架かる3連のアーチ橋だ。全長56m。こうした石橋は昭和初期まで造り続けられていて、これは1912(明治45)年に完成した。江戸期の重厚な石橋に比べ、深いアーチや段状になった橋脚基礎が軽やかで美しい。
![]() 山王橋全景 |
最後に訪れたのは竹田随一の観光スポット、岡城(おかじょう)跡だ。市街地の東、大野川と支流稲葉川の二つの谷に挟まれながら、かろうじて浸食を免れた細長い火砕流台地の平坦面に築かれている。周囲の谷壁は比高100mと高く険しく、そのうえ堅固な石垣で護られていて、見るからに難攻不落の山城だ。
駐車場にクルマを停め、入場料を納めて城内へ向かった。雨模様とあってほとんど誰も歩いていない。崖の上にそびえ立つ凝灰岩の高石垣を仰ぎながら、大手門へ通じる坂道をたどる。上りきると、城郭は思った以上に広かった。左手の西の丸周辺が特にそうで、天空の広場という印象だ。ここからは竹田市街と周りの丘陵地が一望になる。晴れていれば、阿蘇の外輪山やくじゅう連山のパノラマが展開するのだろうが、きょうは近景さえ霧にかすみがちだ。
![]() 岡城跡 (左)大手門への上り坂(右)坂下方向、苔むす高石垣 |
![]() (左)西の丸への小道 (右)西の丸周辺は天空の広場 |
![]() 霧に煙る西の丸からのパノラマ 左手前は物見櫓跡 |
![]() 図5 竹田市街周辺の1:25,000地形図に加筆 |
大手門前まで戻って今度は東に進むと、一段高い中心部の石垣が見えてきた。その手前、敷地が最もくびれたところが西中仕切、いわば最終ゲートで、通路が鍵形に曲がっている。三の丸のひときわ高い石垣を眺めた後、石段を上がればいよいよ本丸だ。しかし、城の建物は明治維新でことごとく取り壊されていて、あるのは何本かの大きなクスノキとその下の小さな神社だけだった。
城郭はまだ東へ続き、東ゲートである東中仕切、歴代藩主が眠る御廟所を経て、東口の下原門(しもばるもん)に至る。東西の全長は1km近くもあり、見応え十分だった。城内にはサクラの木も多数植わっていて、花の季節にはさぞ映えることだろう。
![]() 城郭中心部、右のひときわ高い曲輪が本丸 |
![]() (左)城内のサクラ並木 (右)雨に煙る三の丸の高石垣 |
ところで、二の丸の一角に作曲家、滝廉太郎の像がある。彼は少年時代に、父親の任地だったこの町で過ごしたことがあり、城跡で遊んだ記憶から唱歌「荒城の月」の曲想を得たのだそうだ。竹田ではこれがもはやイメージソングになっていて、駅では列車到着の際に流れていたし、岡城でも霧の中からかすかに聞こえてきた。
何かと思えば、正体は谷底を通る国道で、制限速度で走るとタイヤの摩擦音が音楽に聞こえるメロディーロードになっているのだ。これを騒音と思うか風流と感じるかはともかく、諸行無常のむなしさを託した短調の旋律(下注)は、この後もしばらく耳に残って離れなかった。
*注 「荒城の月」には、滝の原曲とは別に、山田耕作がそれに手を入れた版があり、調(キー)やテンポ、一部のメロディーが異なる。一般に知られるのは後者だが、竹田では前者が流れる。
![]() 滝廉太郎像 |
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