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2025年4月

2025年4月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸道倶利伽羅峠

朝8時、通学の高校生たちと一緒にIRいしかわ鉄道 津幡(つばた)駅の改札を出ると、大出さんと山本さんが待っていてくれた。2025年4月14日のコンター旅は、北陸道の竹橋(たけのはし)宿から倶利伽羅(くりから)峠の旧街道を歩いて、富山県側の石動(いするぎ、下注)まで行く。参加者3名、歩行距離は約11km。雨の昨日とは一転して青空が広がり、ハイキング日和になりそうだ。

*注 宿場町は今石動(いまいするぎ)と称した。この地名は、現在も小矢部市石動地区の町名として残る。

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道の駅でにらみをきかす火牛の像
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図1 倶利伽羅峠周辺の1:200,000地勢図
1987(昭和62)年編集

駅前のバス停で、8時17分発の津幡町営バス九折(つづらおり)行きに乗り込んだ。この小型バスで竹橋へ移動する。珍しく月曜日に出かけるのは、朝のこの便が平日のみの運行だからだ。バスはIRいしかわ鉄道の線路に沿うように走り、15分ほどで目的地に到着した(下注)。

*注 バス停名は竹橋西。宿場町を見たいがためにここまで乗ったが、後述する道の駅に直接行くなら、一つ手前の「倶利伽羅塾」バス停が近い。

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(左)集合場所は津幡駅
(右)竹橋宿でバスを降りる
 

竹橋は今でこそ静かな集落だが、かつては倶利伽羅村の村役場が置かれるなど主邑の位置づけだった。集落を貫くまっすぐな道が、かつての街道筋の面影を残している。峠道に踏み出す前に、集落の西のはずれまで戻って、道の駅「倶利伽羅 源平の郷」の歴史資料館を訪ねた。

倶利伽羅峠といえば、平安時代末期に繰り広げられた源平合戦の主戦場の一つだ。平家打倒の命を受けた木曽義仲が、北陸道を進んできた平維盛(これもり)率いる平家の大軍を、夜半に奇襲をかけて打ち破る。その策は、四、五百頭の牛の角にたいまつを括りつけて突進させるというもので、寝静まっていた敵軍は驚いて大混乱に陥った。源平盛衰記が伝える有名な「火牛の計」の逸話(下注)だが、今や火牛はご当地キャラになっていて、道の駅のフロアでも来場者に向けてアピールを怠りない(冒頭写真参照)。

*注 中国の戦国時代に同じような故事があり、それにならった創作と考えられている。

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(左)道の駅の歴史資料館
(右)火牛の計を描く源平合戦図(複製、原本は竹橋・倶利伽羅神社蔵)
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倶利伽羅峠の絵図(資料館の展示パネルを撮影)
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図2 竹橋~城ヶ峰間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

宿場町の裏を流れる津幡川にはサクラ並木があり、ちょうど見ごろを迎えていた。おととい出かけたのと鉄道の能登鹿島駅、通称 能登さくら駅はまるでお祭りのような賑わいだったが、ここではほかに誰もおらず、静かな花見が楽しめる。

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津幡川沿いのサクラ並木
 

街道に復帰して先へ進むと、そのうち車道から別れて山中に入っていく。前坂と呼ばれる急な坂には階段が作ってあった。ところどころ草むし、枝や落ち葉が厚く散り敷いているが、路面は舗装されている。分岐点には道標が立っているので、迷うこともない。

上りきるとすぐに、切り通した車道に降りるものの、改めて杉林の中を上り直す。地形図を見ると、東西に長く延びる標高100~150mの尾根筋を伝っていくルートだ。一つ目のピーク、城ヶ峰は名のとおり、龍ヶ峰城という山城が築かれていた。案内板によると、城郭は公園化されているようだが、入口にバリケードが置かれて入れなかった。

また少し行くと、北麓の越中坂(えっちゅうざか)から上ってきた車道と合流する。しばらくはこの道路を歩かなくてはならない。再び坂がきつくなると倶利伽羅の集落で、道の両側にぽつんぽつんと民家がある。道は一車線に狭まり、なおも上っていく。

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(左)山中に入る北陸道
(右)前坂を上る
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倶利伽羅集落をなおも上る
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図3 城ヶ峰~矢立山間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

やがて左手に、石の鳥居と石段が現れた。それを挟んで、倶利伽羅不動寺と手向(たむけ)神社の標柱が立っている。倶利伽羅(くりから)という珍しい地名は、もと長楽寺と称したこの寺の本尊、倶利伽羅不動に由来するという。寺の公式サイトによると、倶利伽羅とはサンスクリット語クリカ kulikah の音写で「具黒(黒いもの)」を意味し、八大龍王のうちのひとりの名になった。

長楽寺は8世紀の創建と伝えられ、源頼朝や加賀藩の加護を得て、江戸時代後期まで存続していた。しかし堂宇の焼失により廃絶し、明治の神仏分離で手向神社となった。倶利伽羅不動寺として再興されたのは第二次世界大戦後と、歴史的にはまだ新しい。

石段を上って境内に入ると、正面がもとからある手向神社の本殿で、後ろに不動寺の本堂が建っている。今日はその前の広場にテントが張られ、桜まつりの準備中だった。本堂脇のテラスに立つと、西の方角のパノラマが開け、春霞を通して遠くに横たわる千里浜(ちりはま)や日本海が眺望できた。

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(左)倶利伽羅不動寺・手向神社の参道
(右)寺の本堂前でまつりの準備が進む
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本堂脇のテラスから千里浜と日本海の展望
 

この一帯は砺波山(となみやま)と呼ばれていて、その山頂がすぐ近くにある。聖地なので、煩悩を解き放つために108段の急な石段を上っていく。頂きは狭い平地で、中央に四体の石堂が並んでいた。手向神社にあるものと併せて、五社権現というそうだ。そばに276.7mの二等三角点が埋設してあったので、いそいそと写真に収めた。周囲にはサクラの林が広がっているが、標高が高いからか、まだ五分咲きぐらいだ。

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(左)108段の石段が待つ五社権現の参道
(右)山頂の四体の石堂
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(左)石堂脇の二等三角点
(右)山頂のサクラはまだ五分咲き
 

少し降りた車道沿いに木組みの展望台があり、今度は南から東にかけての眺望が得られた。備え付けの展望図を参照すると、かすかに見えている雪の山並みは、砺波平野の南を限る高清水(たかしょうず)山地のようだ。まだ少し時間が早いが、展望台下のあずまやで持参した昼食を広げた。

道路脇でまた出会った2頭の勇ましい火牛像に見送られて、砺波山の東尾根に載る道を進む。この両側にもソメイヨシノが植わり、お祭り気分を盛り上げるぼんぼりが取り付けられているが、花の見ごろはもう数日先のようだ。

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展望台から高清水山地の眺め
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(左)ここにも火牛像が
(右)砺波山のサクラ並木
 

左手の広場の端の見晴らしが良さそうなので行ってみると、なんと北陸新幹線のビュースポットだった。県境の新倶利伽羅トンネルを出て、左カーブで新高岡駅に向かう区間が見える。空気が澄んでいる日なら、白馬岳をはじめ北アルプスの山並みも見通せるらしい。

時刻表で確かめたら、ちょうど金沢行の下り列車がやってくるタイミングだ。三人、しばらく目を凝らして待つものの、防音壁に遮られたか、気がついた時には列車はもう山陰に隠れる寸前だった。写真は誰も間に合わず、証拠のない目撃談に終わってしまった。

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ビュースポットからの眺め
新幹線の高架が弧を描く
 

少し先で北陸道は、舗装道から離れて、初めのような山道に戻る。軽い上りを終えた道端に、「砺波山 標高265m」の小さな道標が埋めてあった。地形図でも263mの標高点を記したこのピークに、砺波山の注記がかぶせてある。おそらく平野から仰ぐとここが手前に見えて、より高い倶利伽羅峠(といってもわずか十数m)が後ろに重なってしまうからだろう。

この後は砂坂と呼ばれる急な下り坂だ。昔はずるずると滑る足場の悪い坂道だったのかもしれないが、今は段差の小さい階段道で、心置きなく歩ける。

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(左)砺波山の小さな道標
(右)階段道になった砂坂を降りる
 

坂を降りきると再び車道に出た。砺波山より標高は一段低いが、同じような雰囲気の尾根道だ。一里塚の標柱が立っていて、よく見ると一里塚の下に「と言われるところ」と素直な告白が付け足してあった。

再び車道と離れる地点には、「矢立」の標柱がある。矢合わせ(小競り合い)で平家軍の放った矢が立った場所だそうだ。矢立山は、東西方向に延びる尾根の最も東のピークで、205.6mの四等三角点がある。沿道には句碑が点々と置かれていて、案内板の説明を読むと、昔からこの道を多くの旅人が行き交っていたことが知れる。

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(左)矢立山の入口
(右)峠茶屋跡
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図4 矢立山~石動間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

峠茶屋の跡を通過してもしばらく杉林を抜ける尾根道が続くが、やがて道は長い下りにさしかかった。竹橋側の前坂のような尾根への取付きルートで、長坂の名がある。坂の途中で、峠の展望台から見たのと同じ高清水山地の眺めが広がった。

文字通りの長い坂を降りきると、紅色も鮮やかなシダレザクラの歓迎を受けた。駐車場とトイレが設置され、クルマで来る人もこの歴史街道に容易にアクセスできるようにしてある。ここからは人里を縫ってふつうの車道を歩いていくことになる。集落の名は石坂だが、山麓の丘の上に過ぎず、名前ほどの坂道はない。さきほどの砂坂との対比からすると、もとは長坂こそが石坂だったのかもしれない。

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(左)長坂からの眺望
(右)長坂は文字通り長い坂道
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(左)シダレザクラが咲く麓に到着
(右)石坂集落
 

間の宿場だった埴生(はにゅう)には、木曽義仲が戦勝を祈願したと伝わる護国八幡宮が鎮座する。私たちはその入口のあずまやで休憩したあと、北陸道からそれて、加越能鉄道加越線の跡へと転戦した。こちらも昨日の金名線と同じように、県が管理する自転車・歩行者道になっている。郊外地にまっすぐ延びるその道をたどっていけば、ゴールと定めた石動駅はもうすぐだ。

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(左)埴生護国八幡宮の参道
(右)埴生宿、医王院山門
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(左)加越線跡の自転車道、南望
(右)同 北望、奥に見える高架は北陸新幹線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図七尾、金沢(いずれも昭和62年編集)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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2025年4月25日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸鉄道金名線跡

加賀平野に残る私鉄線は、今や北陸鉄道石川線と同 浅野川線の2本だけだが、1960~70年代まではさらに多くの路線があった。現在、石川線の終点になっている鶴来(つるぎ)駅にも当時、能美(のみ)線と金名(きんめい)線という2本の支線の列車が発着していた。

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鶴来駅正面
 

金名線は加賀一の宮~白山下間16.8km、もと金名鉄道と称した地方鉄道だ。その名は、金沢と名古屋を結ぶという気宇壮大な構想に由来する。発起人は地元鶴来の実業家で、1926(大正15)年から翌1927(昭和2)年にかけて鶴来~白山下間を開通させている。鶴来では、金沢電気軌道線(現 石川線)に接続した。

会社は白山下から両白山地を越えていく延伸線の免許も申請していたが、当局から却下され、実現することはなかった。また、鶴来~加賀一の宮(当時は神社前と称した)間は、開通間もない1929年、資金不足の穴埋めに金沢電気軌道に譲渡され、石川線に編入されている。1943年の陸運統制令により、石川県下のほとんどの私鉄が統合されたとき、金名鉄道も北陸鉄道金名線になった。

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図1 石川線・金名線周辺の1:200,000地勢図
1968(昭和43)年修正
 

沿線に町らしい町がないにもかかわらず、しぶとく存続していた金名線が危機にさらされたのは1983年10月のことだ。路線には2本の大きな橋梁があるが、大雨の後、大日川を渡る鉄橋の通行が危険になり、区間運休を強いられた。これは半年後に復旧したものの、その年(1984年)の12月に今度は手取川橋梁の橋台が不安定化していることがわかり、列車は全面運休となった。そしてこれがとどめとなって、1987年、ついに廃止の手続きが取られたのだ。

廃止後、跡地は県が管理する自転車道「手取キャニオンロード」に転換された。それで、40年近く経った今でも忠実にルートを追うことができる。2025年4月13日のコンター旅は、2009年11月に廃止された石川線鶴来~加賀一の宮間を含め、手取川に沿って走っていたこのローカル線の跡を下流から順にたどる。

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金名線跡を転用した手取キャニオンロード

その日は終日、雨の予報だった。鶴来で自転車を借りて、終点まで往復するつもりだったが、この調子ではずぶ濡れになりそうだ。それで急遽予定を変更し、金沢駅西口でレンタカーを調達して、集合場所の鶴来駅に向かった。乗り慣れたトヨタ車と違い、今回の車種はスズキスイフト。運転する大出さんもちょっと勝手が違うようだ。

9時少し前に鶴来駅前に到着した。まもなく木下さん親子がマイカーで現れて、参加者は4名になった。

鶴来駅舎は、この地方によく見られる釉薬瓦葺き、下見板張りの建物だが、車寄せのついた玄関が擬洋風で、どことなく金沢の有名な尾山神社山門を連想させる(冒頭写真参照)。内部もレトロな雰囲気が漂っていて、改札の鴨居の上に掛かるデジタルの発着案内が場違いな感じだ。壁際のショーケースに、古い鉄道用品が無造作に陳列してあるし、待合室には懐かしい改札柵が残されていた。

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鶴来駅
(左)改札口の上にデジタルの発着案内
(右)隣室に残る改札柵
 

ホームは2線を挟む対面式だ。ただし、向かいのホームは本来、島式で、能美線があったころは3番線も使われていたらしい。しばらく観察しているうちに、野町方からもと京王車が1番線に到着し、2番線で発車を待っていたもと東急車と並んだ。9時02分定刻にこれが出ていくと、ほぼ同時に京王車も動き出し、白山下方に残された引上げ線の急カーブに消えた。再び現れたのは2番線で、9時38分の発車までホームで待機となる。

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(左)元京王の下り電車が入線、左隣は除雪車仕様のED201
(右)入れ違いに2番線から元東急車が発車
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図2 鶴来~広瀬間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

クルマを置いて、引上げ線の終端を見に行った。車止めは、ホーム端から約250m先、県道45号金沢鶴来線の旧 踏切の手前にある。しかし線路はまだ続いていて、直接吊りの架線もそのままだ。

石川線の北側にも空地があるが、これは能美線跡で、旧 踏切の西側に本鶴来(ほんつるぎ)駅の棒線ホームがあったはずだ。能美線の線路は撤去済みだが、七ヶ(しちか)用水を渡る下路式ガーダーだけはしっかり残っていた。そのすぐ上流で石川線の上路式ガーダーも斜めに水路をまたいでいて、この一角だけは鉄道が生きていた頃の情景を彷彿とさせる。

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(左)踏切手前に引上げ線の車止めがある(鶴来方を望む)
(右)草道の線路はまだ先へ続く
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七ヶ用水を渡る石川線跡
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(左)能美線本鶴来駅跡
(右)能美線の下路式ガーダー
 

公立つるぎ病院の横でも、撤去を免れた一部の線路が草に埋もれていた。その南側の駐車場には、中鶴来(なかつるぎ)駅の棒線ホームがぽつんと残る。それに対して、市道の南側では線路と架線、信号機まで元のままで、つい最近廃止されたのかと錯覚するほどだ。七ヶ用水に並行するこの貴重な風景は約500mの間続くが、やがて右手から接近してきた国道157号の接続道路に呑み込まれてしまう。

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(左)公立つるぎ病院横に眠る線路
(右)駐車場の中に取り残された中鶴来駅のホーム
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市道南側、現役時代そのままの区間
 

舟岡山の森の近くでは、もと吊橋で現 ポニートラスの歩道橋、和佐谷(わさだに)橋が手取川を渡っているのが見える。そのたもとが、廃線跡を活用した手取キャニオンロードの起点だ。左の川沿いは古宮公園で、満開のサクラがそぼ降る雨に濡れている。右奥には、金名線の起点だった加賀一の宮駅がある。

駅は現役時代、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、下注)の最寄りとして、とりわけ初詣客で賑わった。それで駅舎は、小ぶりながらも社殿を模した入母屋造りで、保存され、国の登録有形文化財になっている。中に入ると、当時の時刻表や運賃表、路線の写真展示が周りの壁を埋めていた。事務室側から待合室を眺める景色も新鮮だ。

*注 東側の河岸段丘面に鎮座する白山比咩神社だが、もとは古宮公園の位置にあったとされる。

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保存された加賀一の宮駅舎
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(左)待合室は展示室に
(右)事務室側から見た待合室
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(左)手取キャニオンロードの起点
(右)加賀一の宮駅舎裏を通過
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白山比咩神社
(左)緩い坂の表参道(右)荘厳な本殿
 

キャニオンロードはこの後、白山発電所の横を通過し、手取川右岸に沿って一路南下する。廃線跡が開発されてしまった南白山町の住宅地を迂回するのを除けば、直線主体のルートだ。

大きく右にカーブし、旧道を横断すると、手取中島(てどりなかじま)駅跡がある。といっても道幅が広く取られているので、そうと知れるだけだ。約17kmの金名線には、起終点を含めて14もの駅があった。だが残念なことに、自転車道整備の際に撤去されたのか、ホームなどの遺構はことごとく消失している。

続いて手取川を渡る。鉄道廃止を決定づけたいわくつきの場所だ。現在は、金名橋という長さ70m、ワーレントラス構造のレトロな橋梁が架かっているが、これは鉄道のオリジナルではなく、金沢市内で犀川(さいがわ)を渡っていた御影大橋の部材を転用したものだ。トラスの上横構に、自転車の車輪や蒸気機関車を象ったオブジェが取り付けられているのが目を引く。

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(左)手取中島駅跡
(右)手取川に架かる金名橋
 

左岸に移ってまもなく、広瀬(ひろせ)駅跡にさしかかる。手取川橋梁が完成するまでの間、暫定的に上部区間の終点とされた駅で、名残のバス停がその位置を示している。この後、長い直線区間に瀬木野(せぎの)、服部(はっとり)、加賀河合(かがかわい)と駅が続くが、どれも同様の状況だろうと、隣接する車道から目視するにとどめた。

やがて右手に山が迫ってくると、大日川(だいにちがわ)駅跡がある。ここでは、鳥居形の復元駅名標が迎えてくれた。隣に路線の歴史などを記した説明板も立っている。背後で威容を見せているのは、陶石を採掘している鉱山施設で、昔はここから貨車で積出していたのだろう。

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(左)広瀬駅跡の前にあるバス停
(右)レンガ造の福岡第一発電所が対岸に見える
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大日川駅跡
(左)背後に覆いかぶさる鉱山施設
(右)復元駅名標が立つ
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図3 広瀬~手取温泉間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

駅を出ると線路は左にカーブして、大日川を渡っていく。ここから3km弱の間、廃線跡は片側1車線の車道に上書きされていて、自転車道はその側道になって進む。サクラの並木に縁取られた直線道路で、遠くに雪山も望める。下野(しもの)と手取温泉(てどりおんせん)の2駅がこの間にあり、後者の位置には、大日川と同じ仕様の復元駅名標が立っていた。

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(左)道路橋として架け直された大日川橋梁
(右)手取温泉駅跡の復元標識
 

次の釜清水(かましみず)駅跡の前後には、自転車道に転換されなかった区間が草道のままで残る(下注)。鳥越中学校の前から釜清水の交差点の西側までの300m弱だ。釜清水駅は1面2線の配置で、側線もあったので、跡地もそれなりの横幅を持つ。ちなみに釜清水という地名は、村の中にある弘法池(こうぼういけ)から来ている。甌穴(ポットホール)から地下水が湧き出しているという珍しいもので、弘法大師が錫杖で突くと水が湧いたという言い伝えがあるそうだ。

*注 廃線跡は小松へ通じる国道360号を横断していたため、自転車道化にあたってその区間を避けたものと思われる。

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(左)草道で残る廃線跡
(右)釜清水駅跡(いずれも鶴来方を望む)
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湧水のある甌穴、弘法池
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図4 手取温泉~下吉谷間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

旧駅前の蕎麦屋で昼食の後、近くの黄門橋に寄り道した。手取渓谷の深い淵を見下ろし、白山主峰、大汝峰の雄々しい姿を仰ぎ、さらに上流へと進む。次の下吉谷(しもよしたに)駅跡までは2.9kmあり、駅間距離としては最長だった。当然、間に集落はなく、自転車道は渓谷の左岸を覆う河岸林に沿って淡々と延びている。

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黄門橋から見下ろす手取渓谷(上流側)
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谷の奥に顔を覗かせる白山大汝峰
 

下吉谷駅の600m上流には、綿ヶ滝(わたがたき)という名所がある。支流の駿馬川(しゅんまがわ)が手取渓谷に落ちる落差32mの豪快な滝だ。段丘上の、少し離れた展望台からも遠望できるが、約120段の急な階段を伝って谷底まで降りると、落下する水のすさまじい迫力をより体感できる。上流の用水路のような穏やかな流れとの対比も見ものだ。

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展望台から望む綿ヶ滝
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(左)谷底に降りる急な階段
(右)滝が間近に
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図5 下吉谷~白山下間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

ルート終盤では、段丘の縦勾配がやや強まる。西佐良(にしさら)、三ツ屋野(みつやの)と集落ごとに置かれた小駅の跡を経て、自転車道は路線の終点、白山下駅の構内に入っていく。現在は、白山下サイクリングパークと称する休憩地で、もとの駅舎に代わって「サイクルステーション白山下」のプレートが掛かる新しい木造建物が建っている。

建物の半分を占める休憩室には入れるが、資料やパネルが展示してある事務室側には鍵がかかっていた。まだシーズンオフなのだろうか。駅前には民家が散在するものの、商店などは見当たらず、人もクルマも通らない。手取キャニオンロードの終点はここではなく、3km上流にある道の駅瀬女(せな)だ。確かにここで終わられても、飲み物一つ手に入らない。

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白山下駅跡
(左)駅舎跡に建つサイクルステーション
(右)復元駅名標
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線路跡にキャニオンロードが続く
 

そのうち、エンジン音が近づいてきたと思ったら、瀬女行きの路線バスだった。鶴来駅方面から金名線のルートに沿って1日7便(河原山線、うち1便は学休期間運休)が今も運行されているのだ。鶴来駅から瀬女へは、手取川対岸の国道157号経由でもバスが走っている(白山線)。それほど需要がありそうにも見えないが、やはり鉄道が通っていた名残だろうか。しかし、停留所に誰もいないと見るや、バスは速度を落とすことなく通過してしまった。

下の写真は、休止直前1984年11月の白山下駅だ。すでに廃止の意向が示されていた小松線(小松~鵜川遊泉寺間、1986年6月廃止)に乗るついでに訪れたのだが、まさかこちらのほうが早く終了するとは思いもしなかった。当時のメモには「駅前の駄菓子屋で乗継ぎのバスの切符を売っていたが、駅舎は無人で、乗務員の休憩所の役しか果たしていない」と書いている。

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ありし日の白山下駅舎
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白山下で折返しを待つ電車
(いずれも1984年11月撮影)
 

鶴来~加賀一の宮間は、廃止を控えた2009年2月に最後の乗車を果たした。金沢市内では見られなかった雪がまだ消え残っているのが印象的だった。

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鶴来~中鶴来間を行く
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加賀一の宮駅に到着
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発車を待つ野町行上り電車
(いずれも2009年2月撮影)

参考までに、金名線が記載されている1:25,000地形図を、鶴来側から順に掲げる。

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図6 金名線現役時代の1:25,000地形図
鶴来~広瀬間(1973(昭和48)年修正測量)
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図7 同 広瀬~手取温泉間(1973(昭和48)年修正測量)
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図8 同 手取温泉~下吉谷間(1973(昭和48)年修正測量)
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図9 同 下吉谷~白山下間(1973(昭和48)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図金沢(昭和43年修正)、2万5千分の1地形図鶴来、粟生、口直海、別宮、市原、尾小屋(いずれも昭和48年修正測量)および地理院地図(2025年4月20日取得)を使用したものである。

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2025年4月 9日 (水)

コンターサークル地図の旅-宮原線跡

宮原(みやのはる)線は、久大本線の恵良(えら)駅で分岐して、肥後小国(ひごおぐに)駅まで26.6kmを結んでいた国鉄路線だ。線名の宮原というのは、終点のある熊本県小国町(おぐにまち)の中心地区の名から来ている。

根元の恵良~宝泉寺(ほうせんじ)間が部分開業したのは1937(昭和12)年。戦時中、不要不急路線としてレールが供出されたものの、戦後は復旧し、1954(昭和29)年に県境を越える宝泉寺~肥後小国間が完成して、全通した。

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肥後小国駅を出発する宮原線列車
(1983年3月、大出さん提供)
 

しかし、沿線は山間部で、輸送密度がわずか165人/日(1981年)と全く振るわなかった。そのため、国鉄再建法で第一次特定地方交通線に挙げられ、1984(昭和59)年にいち早く廃止されてしまった。ルートは鉄道敷設法に定める隈府(わいふ、熊本県菊池(きくち)市))から森(大分県玖珠町(くすまち))に至る鉄道に相当するが、菊池方面への延伸工事は一部着手されただけに終わった。

2025年3月16日のコンター旅は、この国鉄宮原線跡をレンタカーでたどる。参加者は昨日に引き続き、大出、山本、私の3名だ。阿蘇駅前で白のトヨタヤリスを調達し、肥後小国から恵良に向けて主なポイントを見て回ったのだが、ここでは下り列車の目線で恵良から順にレポートしていこう。

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図1 宮原線周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

恵良駅は、普通列車しか停まらない久大本線、愛称 ゆふ高原線の小駅だ。宮原線の列車はすべて一つ先の豊後森(ぶんごもり)駅が起終点かつ基地だったので、分岐点とはいっても実質は中間駅と変わらなかった。

当時の駅舎は2014年に火災で焼失したため、建て直されている。虫籠窓になまこ壁、軒下に杉玉を吊るしてあるから、造り酒屋をイメージしたのだろう。内部にはその酒造業で財を成し、地元に尽くした実業家の資料室があった。

現在、構内は2面2線だが、駅舎の対面は島式ホームで、外側(3番線)に宮原線の列車が発着していた。線路は外され草むしているが、ホームは原形をとどめている。後述するとおり他の駅は少なからず改変を受けているので、運行当時の情景が残されているという点で貴重だ。

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(左)造り酒屋風の恵良駅舎
(右)島式ホームの左側が宮原線用の旧3番線
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図2 恵良~町田間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

宮原線はここを出て約1.4kmの間、田んぼの中を久大本線と並走する。それから、右に緩くカーブして、国道210号と玖珠川を一気に横断していた。この橋桁と橋脚は撤去済みだが、両岸のコンクリート橋台とそれに続く築堤は手つかずで残存している。想像をたくましくすれば、ガーダー橋に響く列車の走行音が聞こえてきそうだ。

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玖珠川橋梁の橋台が残る
左岸の橋台から右岸を望む
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(左)左岸の玖珠川橋梁橋台
(右)それに続く築堤(北望)
 

玖珠川右岸を少したどった後、線路は、支流町田川の谷に入り、しばらくその左岸を遡っていく。しかし、宝泉寺の上手まで国道387号の新道にそっくり転用されたため、トンネルや橋梁も新しくなり、鉄道の痕跡は消えてしまった。

ただし、駅があった場所には記念碑的な遺物が見られる。まず町田駅は、築堤上のホームに上るコンクリートの階段があり、国道に面しているホーム跡に、色褪せたオリジナルの駅名標が立っている。

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町田駅跡
(左)ホーム跡に残る駅名標(右)ホームに上る階段
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現役時代の町田駅
(1983年3月、大出さん提供)
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図3 町田~宝泉寺間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

宝泉寺駅では、駅前広場の傍らに建つ2階建の民芸風建物が目を引く。内部の展示資料に拠れば、宮原線の転換交付金を活用して1986(昭和61)年に完成したもので、もとは1階が宝泉寺交通センター、2階が宮原線の資料や遺品を展示する鉄道資料館になっていた。

現在は1階でベーカリーカフェが営業しているが、2階の資料館は残っていて、見学が可能だ。また屋外でも、復元駅名標が立つ(下注)ほか、腕木式信号機や転轍装置類が一隅に集められて、現役時代をしのばせる。地下道からホームに通じる階段も上れるが、町田とは違って、ホーム跡は小公園に変えられ、植込みで満たされていた。

*注 本物の駅名標は鉄道資料館の中に保存されている。

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宝泉寺駅跡
(左)駅跡に建つもと交通センターの建物
(右)屋外のモニュメント
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2階の鉄道資料館
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(左)オリジナルの駅名標
(右)琺瑯引きの駅名板も懐かしい
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展示資料の一部
 

宝泉寺を出ると、線路は左にカーブを切り、国道や町田川の谷と別れて南へ向かう。次の麻生釣(あそづる)駅までは7.5km。標高差が約170mあるため、25‰の急勾配が続いていた。

このうち、初めの1.1kmは県道680号田野宝泉寺停車場線の新道に上書きされてしまった。串野で県道から離れた後は、線路の面影をとどめた1車線の舗装道に変わる。現行地形図には断片的にしか描かれていないが、「ここのえ万葉の杜」という別荘地への通路に利用されているのだ。これは、上手にある菅原地区の手前まで続いていて、クルマで通り抜けることができた。

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(左)串野トンネル西口、信号機がある
(右)内部
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図4 宝泉寺~麻生釣間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

この間に、尾根脚を貫く4本のトンネルがある。一つ目で長さ288mと最も長い串野トンネルは、手前に二灯式の交通信号機が設置されていた。県道に抜ける区間なので、通行量が多いのだろう。それに対して、二つ目の第一銅尻トンネルから先はあまり利用されていないようで、雑草が路面に進出し、林道の趣きになる。

菅原地区では、廃線跡の一部にサクラや低木が植樹されて、グリーンベルトのようだった。その後は未利用地で、草が生い茂る。グーグルマップの空中写真では農道や林道のように見える個所もあるが、クルマではたどれないので、追跡を諦めた。

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(左)落葉敷く第二銅尻トンネル西口
(右)菅原地区の廃線跡グリーンベルト
 

菅原から麻生釣(あそづる)までの3km弱は、東西方向の断層谷に沿って上っていく。現行地形図には廃線跡らしき一条線記号、すなわち幅員3.0m未満の道路が描かれている。それで麻生釣側からアプローチしてみたが、未舗装のでこぼこ道が1kmほど続くものの、その先は深い草むらに没していた。

私は1984年1月に一度だけ宮原線を訪れたことがある。当時、全線通して走る列車は1日わずか3本(下注)、キハ40系気動車が1両で往復していた。豊後森から乗った客はほとんど宝泉寺で下車してしまい、車内はがらがらになった。時刻表では、下り列車の宝泉寺~麻生釣の所要時間が20分と読める。しかし実際にはそれほどかからず、麻生釣で時間調整と称して4分停車した。それで、木立の中にたたずむ無人駅の写真を撮りに、ホームに降りた記憶がある。

*注 このほか土曜運転が1本、豊後森~宝泉寺の区間便が2本(1本は休日運休)あった。

思い出の麻生釣駅跡も、長い歳月を経て荒地に還ってしまい、今は場所さえ定かでない。グーグルマップのスポット写真によると、植林地の中に見覚えのある駅の階段がまだ明瞭な形で残っているようだが。

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(左)荒地に還った麻生釣駅跡
(右)未舗装道の先は深い草むらに
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現役時代の麻生釣駅(1984年1月)
 

麻生釣駅の後は、サミットにうがたれた麻生釣トンネルを抜け(下注)、下り坂にさしかかる。県境付近では並走する国道387号に一部呑み込まれてしまったようだが、谷の急な勾配についていけないため、徐々に国道との高度差が開いていく。

*注 麻生釣トンネル南口は、国道の東側の掘割の底に残る。

麻生釣~肥後小国間は、アーチの高架橋とトンネルが連続することで知られていた。このエリアは小国富士とも呼ばれる涌蓋山(わいたざん)の西麓に当たり、地勢は東から西へ傾斜している。川もそれに従うため、谷が東西方向に走っている。ところが鉄道は北から南へ進むので、直交する谷と尾根をそうした構築物で横断していく必要があるのだ。

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図5 麻生釣~北里間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

7本の高架橋が登録有形文化財になっている。着工は第二次世界大戦直前で、鋼材の使用が制限されていたため、鉄筋を入れずに無筋ないし竹筋で代用して造られたとされる。

一つ目の広平(ひろだいら)橋梁は、長さ80m、アーチ9連で谷を跨ぐ大きな高架橋だ。見てみたいがクルマでは直接行けず、廃線跡を400mほど歩かなければならない。今回は時間に限りがあるため、やむなく割愛した。

谷奥を迂回してきた廃線跡は、戸井口集落の南で旧道をまたぐが、この橋台は道の両脇に残っていた。そのすぐ西にあった、菅迫へ行く軽車道の跨線橋は、埋め戻されて存在しない。

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(左)戸井口集落の南に残る橋台
(右)登録有形文化財のプレート(北里橋梁で撮影)
 

その後は西へ張り出し、菅迫(すげさこ)の尾根をトンネルで横断していく。二つ目の菅迫橋梁(下注)は長さ136m、高さ23m、アーチ11連と、最大規模になる。しかし、深い森の中に埋もれていて、近づくことができるのかどうかは不明だ。

*注 文化庁の文化遺産オンラインサイトでは、「すげのさこ」の読みがなが振られている。

私たちは旧道をクルマで進んだので、見たのは三つ目の堀田(ほりた)橋梁からだ。長さ46mの小ぶりな構造物で、谷を跨ぐ4連のコンクリートアーチが残っているが、旧道を跨いでいたガーダー(鈑桁)はもうない。以前は杉林に接していたらしく、アーチの側壁は一面に花粉が付着して、オレンジ色に染まっていた。

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堀田橋梁、北面は花粉でオレンジに
 

汐井川(しおいがわ)橋梁と堂山(どうやま)橋梁は近接していて、塩井川(下注)の集落の後ろにダブルで眺められる。神社の横の山道を少し上ると、この二つをつなぐ廃線跡に出ることができた。橋はどちらも長さ36m、3連アーチで、橋脚の高さも同じくらいとまるで双子のようだ。側面に安全柵が追加されているので、かつては遊歩道がここまで延びていたのだろうか。しかし、汐井川橋梁のほうはフェンスで塞がれ、通れなくなっていた。

*注 橋梁名の表記は「汐井川」だが、地名は「塩井川」と書く。

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汐井川橋梁(左)と堂山橋梁
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(左)高い築堤を伴う汐井川橋梁
(右)両橋梁を結ぶ廃線跡
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堂山橋梁
(左)高い橋脚で谷川を跨ぐ(右)側面には安全柵が
 

山中を抜けて、廃線跡は北里(きたざと)の桑鶴(くわづる)地区に出てくる。南側に高い築堤が続き、その上はサクラ並木の草道になっている。ただし、堂山橋梁からここまでの間に2本のトンネルを抜けなければならず、通して歩けるかどうかはわからない。

いったん国道に上書きされた廃線跡は、北里駅跡付近で国道から離れて復活する。北里駅は無人の棒線駅だったが、ホームとそれに通じる地下道が残っている。ホームには新たに上屋つきのベンチが設置され、駅名標も復元されていた。

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北里駅跡
(左)ホーム跡に建つ新設のベンチと駅名標(右)ホームに上る地下道入口
 

最終区間の北里~肥後小国間4.1kmは、大半が旧国鉄宮原線遊歩道として整備されている。私たちは道の駅小国にクルマを置いて、往路タクシー、復路は徒歩でこの間を往復した。

北里駅跡を出るとすぐ、北里橋梁がある。これも登録有形文化財で、長さ60m、5個のアーチを連ねて小さな谷を渡っている。北里はその名が示すように、細菌学者 北里柴三郎(下注)の生まれ故郷だ。遊歩道の築堤からその記念館が見下せる。新1000円札の肖像に採用されたことで、地元ではたいそう盛り上がっているようだ。

*注 地名とは異なり、北里柴三郎の姓は「きたさと」で、「さ」を濁らない。本来は地名と同じ読み方だったのだが、ドイツ留学の際、現地でキタザトと読めるように Kitasato と綴ったことに由来するという。

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(左)北里橋梁
(右)北里柴三郎記念館を望む
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図6 北里~肥後小国間の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

遊歩道は、記念館へ行く新設道路でいったん断たれるが、すぐに復活して森の中へ入っていく。未舗装で落ち葉が散り敷いているものの、雨の後でもぬかるみがほとんどなく、歩きやすい道だ。左へ大きくカーブしていくと、県道の跨線橋の向こうに、北里トンネルのポータルが姿を現した。長さは298m、内部もカーブしているので、出口は見えず真っ暗だ。そのため照明設備がついていて、入口側壁にON/OFFスイッチがあった。

トンネルを出て、県道を高架でまたぐとまもなく、切通しの壁沿いにキロポストを発見した。苔むし、彫った数字も消えかけているが、かろうじて24の数字が読み取れる。

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(左)遊歩道区間
(右)跨線橋の向こうに北里トンネルが覗く
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(左)ポータル側壁に照明スイッチ
(右)明かりのついたトンネル内部
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(左)切通しに残る24キロポスト
(右)数字がかすかに読み取れる
 

右に左にカーブを繰り返すうちに、遊歩道は高架橋の上に出た。樅木川(もみのきがわ)の谷をまたぐ幸野川(こうのがわ)橋梁だ。長さは116m、高さもかなりある。小道を伝って下に降りると、堂々とした6連のアーチ群に圧倒された。橋脚の付け根の部分、いわゆるスパンドレル(下注)に、アーチ状の小さな開口部を設けているのもなかなかおしゃれだ。

*注 正確には、(アーチの)曲線と(上路の)直線との間の三角形になった部分を指す。

向かいの山で左カーブを回っていくと、また苔で覆われた標柱が切通しの壁に寄りかかっていた。文字は読み取れないが、25キロポストかもしれない。

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スパンドレルに開口部をもつ幸野川橋梁
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(左)中央部の径間は20mと広い
(右)上路を通過する遊歩道
 

しだいに山が深まり、最後の宮原トンネルが現れる。長さ240m、北口付近がカーブしているため、これも出口は見えない。同じように照明設備に期待したが、スイッチを何度押しても反応がなかった。懐中電灯は用意してこなかったので、スマホのライト機能でしのぐ。

トンネルを抜ければ、後は一直線の下り坂だ。しかし、国道212号旧道と交差(鉄道時代はオーバークロス)する手前で、遊歩道は終わる。その先、線路が通っていた高い築堤は跡形もなくなり、左手から合流してくる国道387号の用地に転用された。

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(左)宮原トンネル北口
(右)遊歩道終点、この先の築堤は崩されて国道に
 

道の駅小国は、終点肥後小国駅の跡地に造られた施設だ。屋外に腕木式信号機や転轍装置、線路などのモニュメントが置かれ、駅名標も復元されている。円形のユニークな本館には、オリジナルの駅名標が保存されているほか、2階には年表や写真の展示もあって、ここに列車が来ていた時代を思い起こさせる。

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(左)ユニークな形状の道の駅本館
(右)内部に保存された駅名標
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(左)屋外の線路モニュメント
(右)腕木式信号機や転轍装置も
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ありし日の肥後小国駅
(1983年3月、大出さん提供)

冒頭で触れたように、宮原線には菊池方面への延伸構想があり、その一部として、駅から約1km間の路盤は完成していた。私たちは最後にこの未成線跡を歩いた。

国道の続きの車道は200mほど行くと終わり、後は、国道212号と交差するまで遊歩道になっている。その先、志賀瀬川(しがせがわ)の橋梁とトンネルを含む路盤が残っていた。トンネル内部はぬかるんでいるが、中央の溝蓋(用水路か?)の上を歩いて、西口に抜けることができる。

しかし、たどれるのはそこまでだった。杉林の上空の隙間は、用地がまだ少し続くことを示唆するが、目の前に立ちはだかる藪の深さが、探求心を一気に萎えさせた。

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未成線跡
(左)遊歩道区間(右)志賀瀬川を渡る橋梁
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志賀瀬川を渡る橋梁を国道橋から望む
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(左)トンネルは通過可能
(右)藪に阻まれるトンネル西口

参考までに、宮原線が記載されている1:25,000地形図を、恵良側から順に掲げる。

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図7 宮原線現役時代の1:25,000地形図
恵良~町田間(1974(昭和49)年改測または測量)
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図8 同 町田~宝泉寺間(1974(昭和49)年測量)
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図9 同 宝泉寺~麻生釣間(1974~75(昭和49~50)年測量)
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図10 同 麻生釣~北里間(1974~75(昭和49~50)年測量)
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図11 同 北里~肥後小国間(1975(昭和50)年測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分(昭和52年編集)、2万5千分の1地形図豊後森(昭和49年改測)、豊後中村(昭和49年修正)、湯坪(昭和50年測量)、杖立(昭和49年測量)、宮原(昭和50年測量)および地理院地図(2025年4月5日取得)を使用したものである。

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2025年4月 1日 (火)

コンターサークル地図の旅-豊後竹田とその周辺

2025年コンターサークル-Sの旅、3月は中九州が舞台だ。1日目は、阿蘇外輪山の東麓にある豊後竹田(ぶんごたけた)周辺に焦点を絞った。行政区分では大分県竹田市と同 豊後大野市になる。

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岩戸の景観を走り抜ける九州横断特急
 

このエリアには、阿蘇山の火砕流に覆われた緩斜面が広く分布している。これらは主に約13万年前の阿蘇3(Aso-3)、約9万年前の阿蘇4(Aso-4)と呼ばれる2回の大規模な火山活動で形成されたものだ。噴出物は自らの熱で溶けるとともに、重みで圧縮されて溶結凝灰岩(下注)の層ができた。

*注 当地では灰石(はいいし、はいし)と呼ばれる。

斜面の上流部ではその上に火山灰が積もり、なだらかな台地として残されているが、中流部では河川によって激しく浸食され、岩肌が山腹や川床に露出している。これらが断崖や滝といった特色ある自然景観をはぐくむ一方、人はその石材を、難攻不落の城や谷を渡る橋などに巧みに利用してきた。今日は、そうした見どころのいくつかをレンタカーで巡ることにしている。

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難攻不落の山城、岡城跡
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図1 竹田周辺の1:200,000地勢図
1977(昭和52)年編集

3月15日は、あいにく朝から本降りの雨になった。小やみになる時間帯もあったものの、終日降り続いた。大分駅から、黄色のキハ125形を2両連ねたJR豊肥本線の上り普通列車に乗り込むと、ボックス席に大出さんの姿があった。列車は途中の三重町(みえまち)駅で乗換えになる。ホームで山本さんと合流して、参加者3名が揃った。

朝の豊肥本線は大分行きの対向列車が多く、ネットダイヤといっていいくらいだ。沿線はようやく梅が見ごろを迎えている。この冬は寒い日が多かったので、開花が1か月近く遅れたという。豊後竹田駅に10時31分到着。駅舎は武家屋敷風に改築されていて、正面の堂々とした千鳥破風となまこの腰壁が印象的だ。

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豊後竹田駅
(左)駅舎は武家屋敷風(右)当駅止まりのキハ125形
 

シルバーのトヨタヴィッツを借りて、まずは中九州道を東へ進む。2年前に行った延岡~高千穂間もそうだったが、ここも立派な自動車専用道が通じていて、クルマがあれば移動には苦労しない。犬飼ICで地道に降りて南下し、最初の目的地、虹澗橋(こうかんきょう)を目指した。

大野川支流、三重川の渓谷に架かるこの橋は、江戸後期の1824年に完成したシングルスパンのアーチ橋だ。溶結凝灰岩の切石で組まれ、長さは31.0m、径間25.1m、幅員6.1m。臼杵(うすき)の町とその藩領だった三重郷(三重町周辺)を結ぶ街道を通す、当時としては最大規模の石橋で、国の重要文化財に指定されている。

今はたもとにポールが立ててあるが、比較的最近まで一般道だったと見え、路面にセンターラインが残る。付け根の部分は嵩上げされていて、もとは路面がもっと反っていたようだ。眺める限りアーチを構成する輪石に狂いも隙もなく、200年前の匠の技を完璧に伝えている。

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渓谷にアーチを架ける虹澗橋
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(左)路面にセンターラインが残る
(右)由来を記す碑文「虹澗橋記」
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図2 虹澗橋周辺の1:25,000地形図に加筆
 

三重町のコンビニで昼食を仕入れて、次に向かったのは沈堕(ちんだ)の滝。大野川とその支流、平井川にかかる大小二つの滝で、水墨画の巨匠、雪舟も描いたという伝説の名瀑だ。本流の雄滝は幅100m、高さ20m、支流の雌滝は幅10m、高さ18m(下注)。大きな落差は、柱状節理の入った岩盤が水流で崩れて生じた。

*注 数値は、おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会のリーフレットに拠る。下述する原尻の滝も同じ。

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工事で水涸れした沈堕の滝
上流の水は右手の吐口から川に戻されている
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支流平井川の雌滝は健在
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図3 岩戸~沈堕の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

降りしきる雨を押して近くまで行ってみたが、残念なことに雄滝のほうは水涸れしていた。上流側にある取水堰の工事のため、5月末まで落水を停止していると掲示がある。滝の落差を利用して1909年に完成した水力発電所(下注)の廃墟も残っていて、クロード・ロランの古典画のような情景が見られるかとひそかに期待していたのだが。

*注 沈堕発電所。大分~別府間の路面軌道(後の大分交通別大線)を運営していた豊後電気鉄道が建設した。

歴史的には、発電所建設以来、今と同様の状態が長く続いていた。導水路に水を回すようになったことと、堰の基盤を保護する目的で、本流の水量を絞ったからだ。滝の水流が復活したのは1996年だが、滝面が崩れないようコンクリートで固定しているのが遠目にも見て取れ、もはや自然の滝とは言えなくなっている。

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手前に水力発電所の遺構が
 

もと来た道を戻って、大野川に支流の奥岳川(おくだけがわ)が合流する地点へ。右岸に火砕流由来の切り立ったグレーの断崖が続き(下注)、付近の集落名から、岩戸(いわど)の景観と呼ばれるスポットだ。断崖には豊肥本線の百枝(ももえだ)トンネルがうがたれ、そのまま奥岳川を渡る高い鉄橋に接続している。

*注 下部は阿蘇3、上部は阿蘇4の火砕流による。

言わずと知れた撮影名所で、河原に訪問者のクルマを停める場所まで指定してあった。ちょうど雨が小やみになったので、各自思い思いの場所に陣取り、トンネルに吸い込まれる下り普通列車の赤いキハ200系と、逆に飛び出してくる上り九州横断特急をカメラに収める(冒頭写真参照)。

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岩戸の景観、トンネルに吸い込まれる下り普通列車
 

最重要イベント(?)を終えた後は、原尻(はらじり)の滝へと駒を進めた。大野川の支流、緒方川(おがたがわ)に掛かるこの滝は、幅120m、高さ20m。沈堕の滝と同様の成因で、ともに「豊後のナイアガラ」と称される大規模なものだ。

手前にある道の駅にクルマを停めて歩いて行く。周囲は谷底平野で、田園が広がり、中央を緒方川がゆったりと流れている。それが広い川幅のままで、いきなり滝壺に落ちていくから、ナイアガラに例えられるのももっともだ。滝の上流側には沈下橋が渡され、下流側の深い谷では吊橋が揺れる。その間を周遊路がつないでいて、壮大な弧を描く滝をさまざまな角度から鑑賞できるのがいい。

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豊後のナイアガラ、原尻の滝
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(左)上流側の沈下橋
(右)下流側の吊橋
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図4 原尻の滝~蝙蝠の滝周辺の1:25,000地形図に加筆
 

近くにもう一つ、大野川に掛かる蝙蝠(こうもり)の滝がある。これも溶結凝灰岩の柱状節理の間から、噴き出すように水が落ちているが、そばまで近づくことはできない。それで、普通車がぎりぎりの狭い山道を伝って、400mほど離れた山上にある展望所へ。滝の高さは約10mで、大きく四つの筋に分かれている。本流なので豊かな水量があり、遠目にも勢いと迫力が伝わってきた。

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蝙蝠の滝を展望所から遠望
 

竹田市街を経由して、次は竹田湧水群へ。周辺では、阿蘇の豊かな伏流水があちこちで湧き出している。その一つで、水量が最大という河宇田(かうだ)湧水を訪ねた。駐車場の前に上屋つきの水汲み場があり、10個ほどの口から水が流れ落ちている。水栓はなく流しっ放し、無料で汲み放題だ。ひと口含むと、柔らかなのど越しが快い。

山手には、エノハ(下注)の養魚池が所せましと並んでいる。水流をたどって湧出場所まで行ってみたが、底が苔や藻に覆われたせいぜい数m幅の、意外に小さな池だった。同心円の波紋も立たない静かな水面にもかかわらず、出口から驚くほどの水が流れ出ていく。

*注 エノハは魚名として各地で使われているが、九州ではヤマメやアマゴを指すという。

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河宇田湧水
(左)水汲み場(右)豊かな水量で流れ下る
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(左)エノハの養魚池
(右)静かな湧出場所
 

石橋ではもう1か所、竹田西郊の山王橋(さんのうばし)を見に行った。大野川支流の稲葉川に架かる3連のアーチ橋だ。全長56m。こうした石橋は昭和初期まで造り続けられていて、これは1912(明治45)年に完成した。江戸期の重厚な石橋に比べ、深いアーチや段状になった橋脚基礎が軽やかで美しい。

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山王橋全景
 

最後に訪れたのは竹田随一の観光スポット、岡城(おかじょう)跡だ。市街地の東、大野川と支流稲葉川の二つの谷に挟まれながら、かろうじて浸食を免れた細長い火砕流台地の平坦面に築かれている。周囲の谷壁は比高100mと高く険しく、そのうえ堅固な石垣で護られていて、見るからに難攻不落の山城だ。

駐車場にクルマを停め、入場料を納めて城内へ向かった。雨模様とあってほとんど誰も歩いていない。崖の上にそびえ立つ凝灰岩の高石垣を仰ぎながら、大手門へ通じる坂道をたどる。上りきると、城郭は思った以上に広かった。左手の西の丸周辺が特にそうで、天空の広場という印象だ。ここからは竹田市街と周りの丘陵地が一望になる。晴れていれば、阿蘇の外輪山やくじゅう連山のパノラマが展開するのだろうが、きょうは近景さえ霧にかすみがちだ。

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岡城跡
(左)大手門への上り坂(右)坂下方向、苔むす高石垣
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(左)西の丸への小道
(右)西の丸周辺は天空の広場
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霧に煙る西の丸からのパノラマ
左手前は物見櫓跡
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図5 竹田市街周辺の1:25,000地形図に加筆
 

大手門前まで戻って今度は東に進むと、一段高い中心部の石垣が見えてきた。その手前、敷地が最もくびれたところが西中仕切、いわば最終ゲートで、通路が鍵形に曲がっている。三の丸のひときわ高い石垣を眺めた後、石段を上がればいよいよ本丸だ。しかし、城の建物は明治維新でことごとく取り壊されていて、あるのは何本かの大きなクスノキとその下の小さな神社だけだった。

城郭はまだ東へ続き、東ゲートである東中仕切、歴代藩主が眠る御廟所を経て、東口の下原門(しもばるもん)に至る。東西の全長は1km近くもあり、見応え十分だった。城内にはサクラの木も多数植わっていて、花の季節にはさぞ映えることだろう。

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城郭中心部、右のひときわ高い曲輪が本丸
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(左)城内のサクラ並木
(右)雨に煙る三の丸の高石垣
 

ところで、二の丸の一角に作曲家、滝廉太郎の像がある。彼は少年時代に、父親の任地だったこの町で過ごしたことがあり、城跡で遊んだ記憶から唱歌「荒城の月」の曲想を得たのだそうだ。竹田ではこれがもはやイメージソングになっていて、駅では列車到着の際に流れていたし、岡城でも霧の中からかすかに聞こえてきた。

何かと思えば、正体は谷底を通る国道で、制限速度で走るとタイヤの摩擦音が音楽に聞こえるメロディーロードになっているのだ。これを騒音と思うか風流と感じるかはともかく、諸行無常のむなしさを託した短調の旋律(下注)は、この後もしばらく耳に残って離れなかった。

*注 「荒城の月」には、滝の原曲とは別に、山田耕作がそれに手を入れた版があり、調(キー)やテンポ、一部のメロディーが異なる。一般に知られるのは後者だが、竹田では前者が流れる。

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滝廉太郎像
 

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