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2024年11月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-花巻電鉄花巻温泉線跡

2024年秋のコンター旅、最終日の10月7日は岩手県中部の花巻で、花巻電鉄花巻温泉線の廃線跡(下注)を訪ねた。

花巻温泉線は、ニブロク(2フィート6インチ=762mm)軌間のささやかな電車線だった。1972(昭和47)年の廃止時点では、国鉄駅裏にあった駅(以下、電鉄花巻駅)から北西へ花巻温泉まで7.4kmを走っていた。廃線跡は自転車道に転換されたので、宅地開発で消滅した一部区間を除き、今も全線を徒歩や自転車でたどることができる。

*注 ただし、廃止前年(1971年)に岩手中央バスに合併されており、すでに花巻電鉄の社名はなかった。

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花巻温泉線跡の自転車道
瀬川橋梁手前の県道跨線橋から南望
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図1 花巻温泉線周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年修正

私たちはレンタサイクルで出かける予定にしていたが、天気予報によると、朝は小雨、昼ごろから雨足が強まるらしい。さいわい花巻到着時点ではまだ空が明るかったので、意を決して駅前の店へ行き、電動アシスト自転車を3時間借りた。参加者は、大出さん、山本さんと私の3名だ。

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JR花巻駅
 

冒頭でささやかな電車線と紹介したが、歴史を振り返れば、花巻電鉄はもう一本、鉛(なまり)線という軌道線を擁して、花巻とその西郊の山あいに湧く温泉郷とを結ぶ路線網を形成していた。花巻の廃線跡の話をするには、この鉛線と、もう一つ、同じニブロク軌間の岩手軽便鉄道にも触れておく必要があるだろう。

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図2 花巻の鉄道網の変遷
 

まず鉛線だが、これは鉛温泉をはじめ豊沢川沿いに古くからある温泉群へ行く17.6kmの路線(下注)だ。道端を走るため車両の横幅が極端に狭く、馬づら電車として有名だった。登場したのは1915(大正4)年で、市街の西端、西公園から途中の松原まで開通している(上図1915年の欄参照)。

*注 ただし、この数値は中央花巻(後述する移転後のターミナル)~西鉛温泉間の距離。

1918年には東北本線を陸橋でまたいで、岩手軽便鉄道の花巻駅(以下、軽鉄花巻駅)に乗入れた。遅れて1925(大正14)年に開通した花巻温泉線も、当初は鉛線の西花巻駅を起点にしていたのだ。

一方、岩手軽便鉄道は、一足早く1913(大正2)年に花巻~土沢間12.7kmで開業している。1936(昭和11)年に国有化されて国鉄釜石線となり、1943年には1067mmに改軌されるが、軽便時代、花巻市街では今とは違う南寄りのルートを通り、国鉄花巻駅前に独自のターミナルを有していた。鉛線が乗り入れたのはこの旧駅だ。

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鉛線最終営業日の情景
材木町公園の案内板を撮影
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鳥谷ヶ崎駅跡にある岩手軽便鉄道線跡の説明板
 

そこで廃線跡探索の手始めは、その軽鉄花巻駅跡を見に行く。JR駅前ロータリーの南側、ホテルグランシェールの裏に案内板が立っている。左肩に載ったシャッポとマントは、この町で生まれた宮沢賢治のゆかりの場所を示すものだ。南西角には小さな石碑も見られ、それぞれ軽鉄駅がここにあったことと、賢治の短編童話「シグナルとシグナレス」が、東北本線と岩手軽便の信号機どうしの恋の物語であることに言及している。

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駅ロータリーの南側、花巻駅前広場が軽鉄花巻駅跡
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(左)宮沢賢治ゆかりの地を示す案内板
(右)駅跡の碑
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図3 花巻市街の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図4 同範囲の花巻温泉線現役時代
(左)1968(昭和43)年測量(右)1973(昭和48)年修正測量
 

さて、岩手軽便改め釜石線がルート変更で国鉄駅に吸収されたことで、旧 軽鉄花巻駅は鉛線専用になったかに見える。だが、すでに1938年から軽鉄花巻~西花巻間、通称 岩花線(下注)に旅客列車は走っておらず、鉛方面へは、国鉄駅裏にある電鉄花巻駅から出発するようになっていた。西花巻駅では、配線の関係でスイッチバックしていたことになる。

*注 岩花線の名は、岩手軽便鉄道と花巻電鉄を結んだことに由来する。なお、岩花線運休の動向は、『はなまき通検定「往来物」』花観堂、令和2年10月改定版による。

1945(昭和20)年8月10日の空襲で、花巻駅とその周辺は甚大な被害をこうむった。その復興過程で1948年に岩花線の運行も復活するが、ターミナルは、旧軽鉄花巻駅から300m以上後退した大堰川(おおぜきがわ)の南側に移された。中央花巻という気負った駅名にもかかわらず、実態は簡素な造りの棒線駅だった。

現在、旧 軽鉄花巻~中央花巻間の廃線跡は完全に消失していて、大堰川の上に造られた市道の高架と民家とに挟まれてぽつんと立つ1本の橋脚だけがその形見だ。また、中央花巻駅跡も住宅地の中に埋もれてしまった。

岩花線はここから東北本線を乗越すために右カーブしていくが、この区間は住宅地の中の道路として残る。乗り越した先に、花巻温泉線と接続する西花巻駅があった。駅跡は年金事務所の敷地に転用され(下注)、西隣の税務署もその一部だ。

*注 うっかり見落としたが、旧駅前通りに面した理髪店の庭に、駅跡に関する案内板が立っている。

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(左)高架下に残る岩花線の橋脚
(右)東北本線を乗越す手前の右カーブ
 

復活はしたものの、ターミナルが国鉄駅からも中心街からも離れた中途半端な立地で、利用者が少なかったのだろう。1964(昭和39)年10月の時刻表によると、岩花線の列車は1日わずか5往復、すべて花巻温泉相互間で、鉛線のほうへは走っていない。

東北本線の電化に際し、高架橋の嵩上げを迫られたことを契機に、1965年、岩花線は廃止となる。鉛線のスイッチバック運転を解消するために短絡線が造られ、西花巻駅はその線上に移転した。しかしせっかくの新駅も、使われたのはわずか4年で、1969年には鉛線の運行(花巻~西鉛温泉間)が止まり、1972年に残る花巻温泉線も後を追った。

現在、二代目西花巻駅の跡は花巻中央消防署の敷地の一部になっている。この南側から300mの間、鉛線跡が自転車道に利用されている。短距離ながら、S字カーブと、2か所で小道と立体交差する趣深いルートだ。県道103号花巻和賀線に合流したところが西公園駅(下注)の位置で、鉛線の電車はそこから終点の西鉛温泉まで道端軌道を走っていた。

*注 この西公園駅は1918年の軽鉄花巻延伸の際に移設されたもの。地形図によると、1915年開業時の初代 西公園は、県道103号を100m前後東に行った位置にあったようだ。

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西花巻~西公園間の廃線跡自転車道
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県道合流地点
1915年部分開通時は右写真の県道を少し進んだあたりに西公園の終点があった

花巻温泉線の跡もまた、消防署の北側から自転車道として始まる(下注1)。現在は県の管理で、県道501号北上花巻温泉自転車道線(下注2)の一部だ。

*注1 次の市道との交差までは道路の左側(西側)の住宅地の列が実際の廃線跡。
*注2 この県道(自転車道)は、桜の名所の北上展勝地が起点で、北上川左岸(東岸)の堤防道路を花巻まで北上した後、西公園~花巻温泉間の廃線跡をたどる延長26.2km。

市道と斜めに交差してすぐ左側には、材木町公園と呼ばれる緑地があり、旧花巻町役場の木造建物の横に、鉛線ゆかりの電車デハ3が静態保存されている。上屋がつき、側面も金網で厳重に囲われているので、保存状態は良好だ。反面、写真は撮りにくく、網目までレンズを近づけると、車両全体が入りきらない…。

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材木町公園のデハ3
 

傍らに、近代化産業遺産の案内板も立つ。花巻電鉄の沿革、路線図、裏面にもわたる豊富な古写真と、資料館顔負けの情報量だ。なかに馬づら電車の車内を写したものがあったが、ロングシートの両側に人が座ると、膝が当たるほど狭い。終点まで1時間以上、窮屈な車両に揺られ続けるのはけっこう苦行だっただろう。

電鉄花巻駅はまもなくだ。駅跡は駐輪場などになってしまったが、駅前広場の一角に、花巻電鉄「花巻駅」跡地と記された小さな案内板が立っている。

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電鉄花巻駅跡
 

電鉄花巻駅を後にすると、後川(うしろがわ)の小さな谷を横断する地点で、さきほど交差した市道の下をくぐる。その後は、JR線西側の比較的新しい住宅街を直進していく。星が丘一丁目では、宅地造成のために大きな迂回ルートが造られていた。

花巻東高校の学生寮の前を通過した自転車道は、枇杷沢川(びわさわがわ)を越える。ここに架かる桁橋は架け換えられているが、橋台に鉄道時代の旧橋台が埋め込まれているように見えた。

松林の中を進むと、まもなく花巻東高校の正門が見えてくる。言わずと知れたメジャーリーガー大谷、菊池両選手の母校なので、門標や校舎をバックに記念写真を撮る人たちが順番待ちしていた。グラウンドのバックネット裏にある手形とサインの記念パネルも同様だ。廃線跡が目的の私たちも、ここでは俄かファンにならざるを得ない。

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(左)枇杷沢川に架かる橋、旧橋台が埋まっている?
(右)日居城野運動公園の松林を行く
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(左)花巻東高校正門
(右)バックネット裏の記念パネル、両選手の手形が特に人気
 

隣接する日居城野(ひいじょうの)運動公園は、松林に包まれた広大な敷地に、野球場、陸上競技場、芝生広場、テニスコート、総合体育館と充実した施設群が並ぶ。廃線跡自転車道はその中央を堂々と貫いていくが、それというのも、もともとここは、花巻温泉と花巻電鉄が土地を提供して造られた施設だからだ。1934(昭和9)年のオープンと同時に、花巻グランドという名の駅も設置され、来場者の便が図られた。自転車道が広くなっているあたりが駅跡だという。

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(左)花巻グランド駅跡
(右)陸上競技場の横を行く廃線跡
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図5 花巻グランド~瀬川間の1:25,000地形図
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図6 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

東北自動車道と交差した後は、見通しのきく田園地帯に出る。右カーブで段丘を降りると、県道297号花巻停車場花巻温泉郷線が乗り越していく(冒頭写真参照)。瀬川を直角に渡って少し行ったところに、次の瀬川駅があった。畑を隔てて数mの位置に農業倉庫の土台と言われるものが残る。

この後は、先ほどの県道に近づいていき、鉛線と同じような道端区間になる。ただし、こちらは道路と完全に分離されていて、自転車道はあたかも側道のように見える。

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(左)瀬川を横断するために段丘を降下
(右)瀬川橋梁
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(左)瀬川駅跡、左手に農業倉庫の土台跡が
(右)県道に沿う側道区間が続く
 

北金矢(きたかなや)駅跡は、同名のバス停が目印だ。サルビアやマリーゴールドの華やかな花壇が作ってあった。黄金色の稲穂が揺れる傍らをさらに進むと、松山寺前(しょうざんじまえ)駅。立派な山門を構えた同名のお寺の近くで、ここにもバス停がある。

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(左)北金矢駅跡
(右)中間部は田園地帯
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(左)松山寺前駅跡(南望)
(右)松山寺山門
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図7 瀬川~花巻温泉間の1:25,000地形図
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図8 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

正面の山が近づき、民家が増え、少し坂がきつくなったと感じたら、もうゴールだった。自転車道は手前で終点となり、旧駅構内には南から駐在所、郵便局、そしてバスの転回場が順に並んでいる。北端に見える、一段上の道路へのコンクリート階段が唯一の痕跡らしい。正面には花巻温泉の横断看板が上がり、旅館群に通じるプロムナードが奥へ延びていて、駅が温泉の玄関口だったことがよくわかる。

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(左)終盤、坂がややきつくなる
(右)自転車道の終点(花巻方を望む)
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花巻温泉駅跡
一段上の道路への階段が残る
 

近くの台(だい)温泉や、豊沢川に沿う志戸平(しとだいら)、大沢、鉛の各温泉などは数百年の伝統を持つが、花巻温泉はそれらと違って、歴史は新しい。大正末期から昭和初期にかけて、関西の宝塚をモデルに開発された新興のリゾートだからだ。温泉も最初は台温泉から引いていた。鉄道もこの開発事業の一環で建設されたもので、宝塚に当てはめるなら、箕面有馬電気鉄道(現 阪急宝塚線)の位置づけだ。駅と温泉街が一体化して見えるのも偶然ではない。

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駅正面に花巻温泉の横断看板

自転車の返却時刻が近づいてきたので、来た道を戻った。7.4kmの距離に電車は18~20分かけていたが、自転車でも30分もあれば走りきれる。雨に襲われないうちに帰らなければ…。

昼食は、花巻屈指の人気スポット、上町のマルカンビル大食堂にて。閉店した地元デパートの最上階に残る、昭和の雰囲気を色濃く漂わせた展望レストランだ。平日というのに、一体どこから湧いてくるのかと思うほどの客で賑わっている。食事の後、デザートに名物の10段巻きソフトも試したので、もう花巻で思い残すことはない。

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(左)マルカンビル大食堂
(右)名物10段巻きソフトクリーム
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(昭和46年修正)、2万5千分の1地形図土沢(昭和48年修正測量)、花巻、花巻温泉(いずれも昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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