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2024年11月

2024年11月29日 (金)

ライネック=ヴァルツェンハウゼン登山鉄道

アッペンツェル鉄道ライネック=ヴァルツェンハウゼン登山線
AB Bergbahn Rheineck-Walzenhausen (RhW)

ライネック Rheineck~ヴァルツェンハウゼン Walzenhausen 間 1.96km
軌間1200mm、直流600V電化、リッゲンバッハ式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配253‰
1896年ケーブルカー開通、1909年連絡鉄道開通、1958年粘着式・ラック式併用鉄道に改築


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ボーデン湖を望んで走る登山鉄道の電車

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アッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen (AB) は、スイス北東部に広がる丘陵地帯アッペンツェラーラント Appenzellerland の路線網を運営している鉄道会社だ。

*注 アッペンツェラーラント(アッペンツェル地方)は1597年に分割されたアッペンツェル・インナーローデン準州 Appenzell Innerrhoden とアッペンツェル・アウサーローデン準州 Appenzell Ausserrhoden の地理的総称。

従来の営業路線は、主要都市ザンクト・ガレン St. Gallen とゴーサウ Gossau から、アッペンツェル Appenzell やアルトシュテッテン Altstätten に至るメーターゲージ路線約60kmだが、2006年に東部の小路線3社(下注1)、2021年に西部の路線1社(下注2)を吸収合併して、総距離が95kmに拡大した。

運営効率化のために一つの屋根の下に集められたとはいえ、各路線はなかなかの個性派揃いだ。2024年7月に現地を訪れる機会を得たので、これから数回にわたってそれぞれの現況をレポートしたい。まず、最も東にあるライネック=ヴァルツェンハウゼン登山鉄道 Bergbahn Rheineck-Walzenhausen (RhW) から。

*注1 ライネック=ヴァルツェンハウゼン登山鉄道 Bergbahn Rheineck-Walzenhausen、ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道 Rorschach-Heiden-Bergbahn、トローゲン鉄道 Trogenerbahn。
*注2 フラウエンフェルト=ヴィール鉄道 Frauenfeld-Wil-Bahn。

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アッペンツェル鉄道路線図(フラウエンフェルト=ヴィール線を除く)
 

鉄道は、ライネック Rheineck(下注)の町にあるSBB(スイス連邦鉄道)駅と、丘の上の保養地、標高672mのヴァルツェンハウゼン Walzenhausen を結んでいる。わずか2kmのミニ路線ながら、プロフィールは変化に富む。というのも、一部にラックレールを用いる区間があるからだ。最急勾配は253‰とされ、ピラトゥスを別とすれば、スイスに数あるラック鉄道の中で最も険しい部類に入る。

*注 ライネック Rheineck の地名は、ライン川 Der Rhein の曲がり角(エック Eck)を意味するため、語義を尊重してラインエックと書かれることもある。

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ラック区間が始まるルーダーバッハ停留所
 

さらにその経歴がユニークだ。開業は1896年だが、当時の起点はライネック駅ではなく、0.7km離れた山麓のルーダーバッハ Ruderbach で、そこからヴァルツェンハウゼンに至る長さ1.2kmのケーブルカーだった。山上駅で車両のタンクに水を注ぎ、山麓駅でタンクを空にした車両との重量差で動くウォーターバラスト方式で運行されていた。

1909年になって、ライネック駅と山麓駅とを結ぶライネック連絡鉄道 Rheinecker Verbindungsbahn が標準軌で造られる。電化されてはいたものの、電力供給が不安定なため、ガソリンエンジンのトラムも併用された。

この連絡輸送は半世紀の間続いたが、戦後は両路線とも車両の老朽化が著しく、1958年5月、ケーブルカーの車軸破損で、運行が止まってしまう。山麓駅での乗換も不便だったことから、粘着・ラック式併用の電車による直通化の工事が行われることになった。ちょうどその年の4月にローザンヌ Lausanne ~ウーシー Ouchy 間で実施された古いケーブルカーからラック鉄道への転換が参考にされただろう(下注)。

*注 ローザンヌ~ウーシー間のラック鉄道は、2008年にゴムタイヤ式のメトロM2号線に再改築されて、今はない。

ケーブルカーの軌間が1200mmだったため、連絡鉄道をこれに合わせて改軌し、車両もこの軌間で新造された。普通鉄道で1200mm軌間というのは世界的にもほとんど例がない。ラックレールが、初期の方式であるリッゲンバッハ式なのも珍しいが、これは近所にあるロールシャッハ=ハイデン登山鉄道 Rorschach-Heiden-Bergbahn(1875年開通)に倣ったからだ。改築工事が完成し、運行が再開されたのは同年12月だった。

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SBB本線と登山電車の線路が並行する
ライネック~ルーダーバッハ間
 

2024年7月のある日、ザンクト・ガレンのSBB駅から8時04分発のSバーンに乗った。列車は、ボーデン湖に面した緩い傾斜地をするすると下っていき、8時33分にライネック駅2番線に到着した。窓越しに、駅舎側に停まっているライネック=ヴァルツェンハウゼン登山鉄道の赤い電車が見える。接続時間がわずか2分なので、ちょっと慌てて地下道を渡った。

来てみて初めて知ったが、登山鉄道の発着線は実におもしろい位置にある。本線の1番ホーム上に線路が敷かれ、そのため乗降ホームは一段高くなったひな壇になっているのだ。

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発着線は1番ホームの上に(Sバーン車内から撮影)
 

これは1999年に実施された駅の改修工事の結果だ。従来3線あったSBB本線のうち、旧1番線が廃止され(下注)、そこを埋めて広い新1番ホームが造られた。そして、駅舎の南東側で途切れていた登山鉄道の線路が延長され、駅舎の前に、今ある乗降ホームが設置されたのだ。これにより、横断地下道の出入口が近くなり、本線列車との乗継ぎ距離が短縮された。

*注 旧2番線(西行)が新1番線に、旧3番線(東行)が新2番線に繰り上がった。

地下道の階段を上がると、トラムタイプの小型車BDeh 1/2が、ホームの上にちょこんと停まっている。陸(おか)に上がった河童のようでなんとなくぎこちないが、何を隠そう、登山鉄道にとって1両きりの虎の子だ。1958年のラック開業時からずっと働き続けている。代車がないので、検査や修理で不在のときはバス代行になる。

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(左)登山鉄道の唯一の車両
(右)ひな壇の乗降ホーム
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ライネックルツェンハウゼン登山鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

手早く外観写真を撮って、車内に入った。1席+2席のボックスベンチは2014年の改修で交換されたので、まだつやつやしている。山側の運転席を覗くと、引き戸付きでスペースが広い。荷物室を兼ねているようだ。

乗客は私のほかに1人だけで、すぐに発車した。後方の運転席でかぶりついて見ていたが、コンクリートを敷いたホームから出発するのは、路面電車を連想させる。少しの間、SBB本線と並行した後、右にカーブして基幹道 Hauptstrasse 7号線の踏切を渡った。すぐに車庫への引込線が右へ分かれていく。続いて、梯子状のリッゲンバッハ式ラックレールが線路の中央に現れ、ルーダーバッハ停留所をあっさり通過した。ケーブルカー時代の山麓駅だが、今はリクエストストップなので、乗降がなければ停まらない。

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(左)山側は運転室兼荷物室
(右)内装は2014年に更新済み
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(左)ホーム上から出発(後方を撮影、以下同)
(右)ルーダーバッハ停留所でラック区間に入る
 

坂道を上り始めると、車庫を兼ねている停留所の建物がみるみる下に沈んでいく。と思う間に、暗闇に突入した。長さ315mのシュッツトンネル Schutztunnel(下注1)だ。旧ライン川 Alter Rhein(下注2)の南斜面は案外起伏が大きく、闇を抜けると、今度は渓谷ホーフトーベル Hoftobel をまたぐ3本連続の鉄橋を渡っていく。

*注1 シュッツ Schutz は付近の地名。
*注2 旧ライン川は、1900年に完成したフサッハ導水路 Fußacher Durchstich によって支流となったもとのライン川(アルペンライン Alpenrhein)の川筋。

二つ目の中間停留所ホーフ Hof は、進行方向右側に扉1枚分のデッキが設置されているだけの臨時乗降場だ。まさかこれが、と思うような簡易設備のため、現地では見逃した。予約した団体専用で、一般客は降りられない。

その後は牧草地の間の盛り土区間で、高度が上るにつれ、遠方にボーデン湖の湖面が広がっていった。線路はみごとにまっすぐで、今でもケーブルカーに乗っている気分だ。さらに上ると、直線線路に続くように、旧ライン川の川筋が湖に向かって一直線に延びているのが望める。

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(左)シュッツトンネル
(右)ホーフトーベルをまたぐ鉄橋
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旧ライン川の川筋と一直線に
 

最後はまた長さ70mのトンネルに入り(下注)、空を見ることなく終点ヴァルツェンハウゼン駅の階段ホームに到着した。ノンストップだったので、所要時間は約6分だ。写真を撮る私をじっと見ていた仏頂面の運転士さんに「Very interesting」と言うと、にやっと笑い、「OK!」と返してくれた。

*注 ケーブルカールートの特性を引き継いでいるので、最急勾配253‰はこの最終区間にある。

駅舎は2016年に改築されたもので、正面はガラス張り、隣に案内所と郵便局を兼ねた売店が入居している。駅前広場を取り囲んでいるのはもとのクーアハウスだ。駅前のバス停からは、ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道の終点ハイデン Heiden へ行くポストバス(下注)が1時間ごとに出ている。ハイデンまで所要20分前後なので、後で乗りに行く予定なら、このバスでショートカットするのが断然速い。

*注 224および225系統。経由地は異なるが、どちらも往路はハイデン駅前に停車する。

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(左)ヴァルツェンハウゼン駅舎
(右)階段ホーム
 

ヴァルツェンハウゼンは、特に19世紀後半から第一次世界大戦前まで、ボーデン湖を望む高台の保養地として人気があった。鉄道もそのアクセスとして建設されたものだ。今は静かな村だが、建物や街路の雰囲気に優雅なリゾートだったころの片鱗がうかがえる。

グーグルマップで、広場から一段下がったウンタードルフ通りに展望所 Aussichtspunkt のピンが立っているのを見つけて、行ってみた。道端に、ボーデン湖三国展望台 Bodensee-Dreiländerblick と記された案内板が立ち、ベンチが3脚並ぶ。

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三国展望台からのパノラマ
 

手前の斜面には民家が点在するが、その先は180度の大パノラマが広がっていた。湖のはるかかなた、中央から左はドイツ領で、湖に突き出したリンダウ Lindau の市街地もかすかに見える。右端はオーストリア領で、山すそにブレゲンツ Bregenz の町があるはずだ。

何よりここは、足もとに登山鉄道の線路が走っている。曇り空で寒いのをがまんしつつ、電車が坂を降りていくのを待った(冒頭写真参照)。午前中の運行は1時間ごとなので、これを見送ると時間が空く。高度差はあっても大した距離ではないから、ライネックまで線路を見ながら歩いて降りるつもりだ。

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中腹のヴァインベルク城 Schloss Weinberg から東望
背景の山はオーストリア領
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古参車両が麓へ帰る

利用者の減少で費用回収が難しくなっているとして、州当局は2019年から路線の今後について議論を重ねてきた。バス転換も選択肢に入っていたが、最新の報道では、2026年を目途にシュタッドラー社が開発した遠隔操作による自動運転を導入するという。契約には新車の納入も盛り込まれた。70年近くひとりで路線を背負ってきた古参BDeh 1/2だが、退役の時は刻々と近づいている。

次回は、ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道を訪ねる。

■参考サイト
アッペンツェル鉄道 https://appenzellerbahnen.ch/

★本ブログ内の関連記事
 スイスの保存鉄道・観光鉄道リスト-北部編

 ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道
 トローゲン鉄道
 ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線
 アルトシュテッテン=ガイス線
 ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線

2024年11月23日 (土)

アルトゥスト湖観光鉄道-ピレネーの展望ツアー

プティ・トラン・ダルトゥスト(アルトゥストの小列車)Petit train d'Artouste

ラ・サジェット La Sagette~ラック・ダルトゥスト(アルトゥスト湖)Lac d'Artouste 間 9.5km
軌間500mm、非電化
1920年工事軌道として開設、1932年観光鉄道開業

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絶壁に穿たれた軌道
オルミエーラ~アルイ両待避所間(復路で撮影)

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プティ・トラン・ダルトゥスト(アルトゥストの小列車)Petit train d'Artouste として知られるアルトゥスト湖観光鉄道 Chemin de fer touristique du Lac d'Artouste(下注)は、ピレネー山脈中部のフランス側にある軽便路線だ。軌間は500mmとメーターゲージの半分で、見たところ、鉱山から鉱石を運び出しているトロッコか、遊園地の中を巡っているミニ列車を思わせる。

*注 「アルトゥスト湖観光鉄道」の名はIGN旧版地形図にあるが、現在、公式には使われていない。

しかし、鉱山や遊園地と違って、その舞台は標高2000m近い山の斜面だ。底深いU字谷を隔てて、向かいにピレネーの山並みを見晴らしながら、断崖絶壁に穿たれたスリル満点のルートを走っていく。

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オーバーハングの下を行く
アルイ~ル・リュリアン両待避所間(往路で撮影)
 

ただし、これは登山鉄道ではない。山頂をめざして登っていくのではなく、線路は等高線に沿って延びている。厳密に言うと最高地点は起点側にあり、山奥の終点のほうが少し低いくらいだ。詳細は後述するが、山麓との標高差は、連携運行されているロープウェーが前もって克服している。スイスアルプスのミューレン鉄道(下注)などと同じように、鉄道はその後を引き継ぎ、もっぱら水平距離を稼ぐ役割に徹しているのだ。

*注 詳細は本ブログ「ミューレン鉄道(ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道)」参照。

終点にあるアルトゥスト湖は、もともと谷を覆っていた氷河が残したモレーン(氷堆石)によって、上流側が湛水した氷河湖だ。1920年代にダムでかさ上げされ、それ以来、水力発電用の貯水池として利用されてきた。ダムからフランス・スペインの国境が通る分水嶺までは、わずか3km。山脈の最奥部まで手軽に到達できるこの小列車は、中部ピレネーで高い人気を誇る観光アトラクションになっている。

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アルトゥスト湖の水辺
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アルトゥスト湖観光鉄道周辺の地形図にルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

フランス南部の主要都市ポー Pau から南へ約60km、オッソー川 L'Ossau を堰き止めたファブレージュ湖 Lac de Fabrèges のほとりが、アトラクションの出発点だ。湖の西側を走る地方道から見て対岸にロープウェーの乗り場があり、これで小列車が待つラ・サジェット La Sagette まで上っていく。

時は9月下旬。雨を境に冷気が入ってきた。麓はまだそれほど寒くないが、チケット売り場に並ぶ人たちはしっかり着込んで、準備怠りない。

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ファブレージュのロープウェー山麓駅
 

購入するチケットはロープウェーと列車の通しになっていて、主に次の2種類がある。

ビエ・デクヴェルト(探検きっぷ)Billet Découverte は大人27ユーロ(2024年9月現在)。これは所要約3時間30分のコースだ。公式サイトによると内訳は、列車乗車が55分(片道)×2、終点到着後にハイシーズン1時間20分、ローシーズン1時間40分の自由時間があり(下注1)、この間にダム見学ができる。また、実際はここにロープウェー乗車の片道15分(下注2)と数分の乗換時間が加わる。行き帰りの列車時刻はチケット購入時に指定されるが、一般観光客ならこのきっぷで十分だ。

*注1 2024年の場合、ハイシーズンは7月6日~9月1日、ローシーズンは5月8日~7月5日と9月2日~10月6日。これ以外は冬季運休となる。
*注2 公称15分だが、実際は12分程度で到着する。

もう一つのビエ・エスカパード(逃避きっぷ)Billet Escapade は大人33ユーロ。こちらは一日コースで、ハイシーズンの場合、9時から16時の毎時00分に出発する列車のいずれかに乗っていき、19時15分の最終列車で戻る。ローシーズンは10時、12時、13時、14時のいずれかの出発で、平日16時45分、週末17時45分の列車で戻る。山で一日を過ごすトレッカー向けなので、復路便固定でもまず満員にはならないのだろう。もし満員になりそうなら、続行列車が手配される。

さっそく窓口へ行くと、今すぐロープウェーに乗れば11時の列車に間に合う、と発券してくれた。ロープウェーの時刻10時30分、列車11時、復路(の列車)13時45分と印字されている。横の階段を上がって乗り場へ急ぐ。6人乗りの小型キャビンに、待つこともなく乗り込むことができた。

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(左)出札口
(右)ビエ・デクヴェルト(探検きっぷ)
 

ロープウェーは循環式で、山麓ファブレージュ駅と山上ラ・サジェット駅の間を結ぶ。延長2060m、高度差は660mだ。谷を覆っていた深い霧が次第に薄まり、高度が上がるにつれて国境に連なる標高2500m級の山々が姿を現し始めた。天気は回復に向かっている。

ちなみにこの設備は、1983年に供用開始された新しいものだ。それ以前は1.5km下流のアルトゥスト発電所前に乗り場をもつ交走式ロープウェーで上っていた。これは今もまだ残っていて、水力発電事業者のSHEMが作業員や資材の運搬に使用している。旧ロープウェーの山上駅は新駅の約1km西に位置するが、軽便鉄道も本来この旧駅が起点で、新駅との間約1km(下注)は、一般客に開放されていない貨物線、一部は車庫への引込線だ。

*注 9.5kmとされる路線長は、この区間も含んでいる。

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(左)6人乗りキャビン
(右)谷を覆う霧は薄まりつつある
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山上駅からオッソー谷の展望(復路で撮影)
右奥の奇峰はピック・デュ・ミディ・ドッソー(オッソー南峰)Pic du Midi d'Ossau
 

新 山上駅でキャビンを降りると、空気がひんやり感じられる。ロープウェー駅舎の前に鉄道の乗り場があり、鮮やかな黄色と赤のツートンに塗り分けた小列車がすでにスタンバイしていた。

エンジン音も高らかな機関車は、1963年ビヤール Billard 社製のT60D形ディーゼル、7号機だ。行きは逆機(バック運転)になるので、前後とも見通せるよう、運転席が横向きにされているのが面白い。客車はオープンタイプで、6両つないでいる。車内には、縦に半回転させると向きが変えられる樹脂製の座席が6列並ぶ。朝方は雨だったのだろう。客車の片側はまだ防水カバーが掛けられたままだ。客には最後尾から順に詰めるように案内しているらしく、空いているのは先頭車だけだった。

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(左)小列車を牽くディーゼル機関車
(右)オープン客車、座席は縦回転で向きが変えられる(終点で撮影)
 

全員が席に着くと、機関車の大きなヘッドライトが灯り、スタッフに見送られながら、列車はおもむろに動き出した。

駅を出ると、いきなり長さ315mのウルス(雄熊)トンネル Tunnel de l'ours に入る。小断面で車両限界ぎりぎりのため、ポータルの前に「危険 座ったままで 身を乗り出さないで」と赤字の注意看板が掛かっている。このトンネルによって、列車はオッソー谷を離れ、東隣のスッスエウ川 Le Soussouéou が流れるU字谷の高みに顔を出す。谷底との比高は優に500mを超え、スケールの大きな山岳展望が視界を奪う。

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(左)スタッフに見送られて発車
(右)小断面のウルストンネル
 

列車はこの後、高度を保ちながら谷奥へと進んでいくが、ここで、なぜこの場所に鉄道が通されたのかを説明しておこう。もちろん最初は観光鉄道ではなく、電源開発のための工事軌道だった。

事業は、フランス南西部一帯の鉄道網を運営していたミディ鉄道会社 Compagnie des chemins de fer du Midi によって1909年ごろ着手された。貯水池としての利用が計画されたアルトゥスト湖は山脈の最奥部に位置するため、ダム建設にあたって作業員と資材の搬入方法が重要な課題となった。そこで本体工事に先だち1920年に敷設されたのが、地方道のあるオッソー谷から工事現場まで続く索道(先述の旧ロープウェーの前身)と500mm軌間の鉄道を組み合わせた運搬ルートだ。

さらにこれは、貯水池から発電所までの導水ルートを兼ねていた。線路の地下に送水管が埋められ、索道に並行して水を落とす水圧管が設置され、谷底にアルトゥスト水力発電所が造られた。軽便鉄道がほぼ等高線に沿って走っているのは、これが理由だ。水の落差を最大にするために、導水路の勾配はわずかなものになる。

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貯水池、水路、発電所のネットワークを示す案内板
 

ただし、工費抑制でウルストンネルをできるだけ短くすべく、トンネルの前後では、導水路から離れた独自ルートが取られた。そのため、トンネル西口近くにある観光列車の起点ラ・サジェット駅の標高が1934m(下注)であるのに対し、終点アルトゥスト湖駅の標高は1911m
と、起点のほうが高くなっている。トンネル東口からセウス Séous 待避所付近までは緩い下り勾配で、そこから先、鉄道は導水路の上に載る。

*注 標高値はIGN 1:25,000地形図記載のもの。ウィキペディア仏語版ではラ・サジェット駅の標高を1940mとしている。いすれにしろ、モン・ブラン軌道 Tramway du Mont-Blanc に次いで、フランス第二の高所を走る鉄道になる。

ダムは1924年に完成し、湛水した1929年から発電所の運用が開始された。ミディ鉄道の直営で観光輸送が始まったのはその3年後、1932年のことだ。当初は夏の2か月間、日曜日のみの限定運行だった。

フランスの主要路線網は1938年に国有化されてSNCFが発足するが、この軽便鉄道もその中に含まれた。1980年に地元ピレネー・アトランティック県に運営が委託されるまでの42年間は、国鉄路線だったのだ。運営受託後、県は、さきほど乗ってきた新しい循環式ロープウェーを建設して、送客体制を整えた。

現在、鉄道の所有者は、SNCFの子会社であるミディ水力発電会社 Société Hydro-Electrique du Midi (SHEM) で、SHEMが県に運営を委託し、県の公有企業である高地施設公社 Etablissement Public des Stations d'Altitude (EPSA) が、周辺のスキーリフトなどとともに観光列車を運行している。

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新駅から西を望む
右は車両基地、
軌道は左端の旧ロープウェー山上駅まで続いている
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旧ロープウェー山上駅

では現場に戻ろう。ウルストンネルを後にして、小列車は、U字谷の肩に当たる比較的緩やかな傾斜地を走っていく。時速は10km前後。運が良ければ、草地をアルプスマーモットが駆け回るようすを目撃できるだろう。

路線は単線のため、1~2kmごとに列車交換用の待避線が設けてある。ワンマン運転なので、ポイント切換えも運転士の業務だ。操縦と転轍作業で乗ったり降りたり、なかなか忙しい。待避線は全部で7か所(下注)あり、それぞれ連絡用の電話ボックスと、その横に駅(待避所)名を刻んだ小さな標柱が立っていた。

*注 駅(待避所)名は、起点側からソルビエ Sorbiers、ルルス L'ours、セウー Séous、ラ・バショート La Bachaute、オルミエーラ Ormièlas、アルイ Arrouy、ル・リュリアン Le Lurien。

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(左)退避所での列車交換(復路で撮影)
(右)待避所の駅名標と連絡電話ボックス、
  "F7" は送水管の第7点検口 7e fenêtre の意か
 

線路が3本に分かれるセウー Séous 待避所では、下方に小さなセウー池 Mare de Séous が見える。今年は異常気象で雨が少ない。麓のファブレージュ湖は湖底が露出していたし、ここもまた干上がる寸前だ。

ここから先は、地勢がやや険しくなる。ラバショット尾根 Créte de Labachotte の出っ張りを回る地点では、ほぼ垂直に見える崖の上を、徐行するでもなく通過していく。客席にはドアがついていないので、下をのぞき込むと思わず足がすくむ。

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セウー池と牧羊
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ラバショットの杣道
 

圏谷を回り、オルミエーラ峰 Pic d'Ormièlas の山腹にできたガレ場を行く。次のオルミエーラ待避所も、線路が3本ある。停車時間が長いと思ったら、進行方向の山かげからエンジン音が聞こえてきた。対向列車との交換だ。相手は同僚のD6号の牽引だが、時間帯からして帰りの客はまだ乗っておらず、回送のようだ。

少し間を置いて、今度はアメリカ・ホイットコム Whitcomb 社のライセンスで国内製造されたD11号が、同じく6両の空車を牽いて現れた。さらに、機関車と客車、台車各1両の作業用編成も…。こうして計3本の続行運転を見送った後、運転士が線路に降りてきて、うっとうしい防水カバーを屋根に上げてくれた。これで谷側の景色もすっきり見通せる。

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オルミエーラ待避所で列車交換(往路で撮影)
(左)第2列車のホイットコム機関車
(右)第3列車は資材台車を率いていた
 

7~8分のブレークを経て、列車は再び動き出した。絶景にももはや目が慣れてきたが、このあたりから、谷の奥にひときわ高いピーク、標高2974mのパラ(パラス)峰 Pic Palas が登場する。

次のアルイ Arrouy 待避所との間は、地形的に最も険しい区間だ。断崖絶壁を穿ってかろうじて通した個所もあり、列車に身を預けた者としては脱線しないことを祈るしかない(冒頭写真参照)。最後の待避所ル・リュリアン Le Lurien が近づくころ、岩山の間に目的地のダムが見えてきた。石張りの擁壁なので、周囲の景色にすっかり溶け込んでいて、意識して見ないと気づかないほどだ。

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谷奥にパラ(パラス)峰が姿を現す
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ル・リュリアン待避所
左上にアルトゥストダムが見える
 

終点駅には予定通り11時55分に到着した。窮屈な敷地に、3本の線路とスナックの入った小さな駅舎が配置されている。錆びついてはいるが三角線もあって、機関車の方向転換をやろうと思えばできるようだ。

客を降ろすと、さっそく折返しに備えて機回し作業が始まった。機関車が列車から切り離され、隣の線路を伝って起点側に回っていく。単独でちょこちょこと走る姿はなかなか可愛い。

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(左)終点に到着
(右)D7号の機回し作業
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(左)三角線の錆びついたレール
(右)転轍機
 

アルトゥスト湖は、駅から山道を、距離で600m、高度で80mほど上ったところにある。坂はそこそこきついが、ゆっくり歩いても15分ほどだ。まず主ダムの隣の小さな副ダムが見えてくる。湖水の吐き口があり、流れ出た水がその下でもう一つ小さな池を作っている。

重力式の主ダムは長さ150m、高さ25mと大きなものではなく、板張りの天端通路で対岸まで行っても、時間は知れたものだ。指定された帰りの発車まで、湖の神秘的なターコイズブルーの水辺と、日差しに映える壮大な山岳風景を楽しむ時間はたっぷりある。

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副ダム(画面右奥)と、流れ出た川を渡る小橋
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石張りのアルトゥストダム
 

ロープウェーの山麓駅ファブレージュは山中のため、クルマでのアクセスが基本となる。公共交通の場合、夏期(7~8月の平日)は以下のようにバスを乗継ぐことで、ポーからの日帰りがかろうじて可能だ(2024年現在)。最新の時刻表は、下記オッソー谷観光局 Office de Tourisme Vallée d'Ossau のサイトにある。現地滞在時間がかなり長いので、ダム往復だけでは時間を持て余しそうだが…。

往路:ポー Pau SNCF駅前 7:45→(524系統、平日のみ)→ラランス Laruns 8:45/8:50→(525系統)→ファブレージュ Fabrèges 9:35
復路:ファブレージュ 17:00→(525系統)→ラランス 17:45/18:00→(524系統)→ポー SNCF駅前 18:56

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ダムから軽便線を見下ろす
画面中央に終点駅、手前は旧工事軌道を利用した留置線
 

写真は、2023年9月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
アルトゥスト公式サイト https://artouste.fr/
オッソー谷観光局-アクセス・交通 https://www.valleedossau.com/acces-transports.html

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2024年11月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-花巻電鉄花巻温泉線跡

2024年秋のコンター旅、最終日の10月7日は岩手県中部の花巻で、花巻電鉄花巻温泉線の廃線跡(下注)を訪ねた。

花巻温泉線は、ニブロク(2フィート6インチ=762mm)軌間のささやかな電車線だった。1972(昭和47)年の廃止時点では、国鉄駅裏にあった駅(以下、電鉄花巻駅)から北西へ花巻温泉まで7.4kmを走っていた。廃線跡は自転車道に転換されたので、宅地開発で消滅した一部区間を除き、今も全線を徒歩や自転車でたどることができる。

*注 ただし、廃止前年(1971年)に岩手中央バスに合併されており、すでに花巻電鉄の社名はなかった。

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花巻温泉線跡の自転車道
瀬川橋梁手前の県道跨線橋から南望
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図1 花巻温泉線周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年修正

私たちはレンタサイクルで出かける予定にしていたが、天気予報によると、朝は小雨、昼ごろから雨足が強まるらしい。さいわい花巻到着時点ではまだ空が明るかったので、意を決して駅前の店へ行き、電動アシスト自転車を3時間借りた。参加者は、大出さん、山本さんと私の3名だ。

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JR花巻駅
 

冒頭でささやかな電車線と紹介したが、歴史を振り返れば、花巻電鉄はもう一本、鉛(なまり)線という軌道線を擁して、花巻とその西郊の山あいに湧く温泉郷とを結ぶ路線網を形成していた。花巻の廃線跡の話をするには、この鉛線と、もう一つ、同じニブロク軌間の岩手軽便鉄道にも触れておく必要があるだろう。

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図2 花巻の鉄道網の変遷
 

まず鉛線だが、これは鉛温泉をはじめ豊沢川沿いに古くからある温泉群へ行く17.6kmの路線(下注)だ。道端を走るため車両の横幅が極端に狭く、馬づら電車として有名だった。登場したのは1915(大正4)年で、市街の西端、西公園から途中の松原まで開通している(上図1915年の欄参照)。

*注 ただし、この数値は中央花巻(後述する移転後のターミナル)~西鉛温泉間の距離。

1918年には東北本線を陸橋でまたいで、岩手軽便鉄道の花巻駅(以下、軽鉄花巻駅)に乗入れた。遅れて1925(大正14)年に開通した花巻温泉線も、当初は鉛線の西花巻駅を起点にしていたのだ。

一方、岩手軽便鉄道は、一足早く1913(大正2)年に花巻~土沢間12.7kmで開業している。1936(昭和11)年に国有化されて国鉄釜石線となり、1943年には1067mmに改軌されるが、軽便時代、花巻市街では今とは違う南寄りのルートを通り、国鉄花巻駅前に独自のターミナルを有していた。鉛線が乗り入れたのはこの旧駅だ。

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鉛線最終営業日の情景
材木町公園の案内板を撮影
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鳥谷ヶ崎駅跡にある岩手軽便鉄道線跡の説明板
 

そこで廃線跡探索の手始めは、その軽鉄花巻駅跡を見に行く。JR駅前ロータリーの南側、ホテルグランシェールの裏に案内板が立っている。左肩に載ったシャッポとマントは、この町で生まれた宮沢賢治のゆかりの場所を示すものだ。南西角には小さな石碑も見られ、それぞれ軽鉄駅がここにあったことと、賢治の短編童話「シグナルとシグナレス」が、東北本線と岩手軽便の信号機どうしの恋の物語であることに言及している。

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駅ロータリーの南側、花巻駅前広場が軽鉄花巻駅跡
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(左)宮沢賢治ゆかりの地を示す案内板
(右)駅跡の碑
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図3 花巻市街の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図4 同範囲の花巻温泉線現役時代
(左)1968(昭和43)年測量(右)1973(昭和48)年修正測量
 

さて、岩手軽便改め釜石線がルート変更で国鉄駅に吸収されたことで、旧 軽鉄花巻駅は鉛線専用になったかに見える。だが、すでに1938年から軽鉄花巻~西花巻間、通称 岩花線(下注)に旅客列車は走っておらず、鉛方面へは、国鉄駅裏にある電鉄花巻駅から出発するようになっていた。西花巻駅では、配線の関係でスイッチバックしていたことになる。

*注 岩花線の名は、岩手軽便鉄道と花巻電鉄を結んだことに由来する。なお、岩花線運休の動向は、『はなまき通検定「往来物」』花観堂、令和2年10月改定版による。

1945(昭和20)年8月10日の空襲で、花巻駅とその周辺は甚大な被害をこうむった。その復興過程で1948年に岩花線の運行も復活するが、ターミナルは、旧軽鉄花巻駅から300m以上後退した大堰川(おおぜきがわ)の南側に移された。中央花巻という気負った駅名にもかかわらず、実態は簡素な造りの棒線駅だった。

現在、旧 軽鉄花巻~中央花巻間の廃線跡は完全に消失していて、大堰川の上に造られた市道の高架と民家とに挟まれてぽつんと立つ1本の橋脚だけがその形見だ。また、中央花巻駅跡も住宅地の中に埋もれてしまった。

岩花線はここから東北本線を乗越すために右カーブしていくが、この区間は住宅地の中の道路として残る。乗り越した先に、花巻温泉線と接続する西花巻駅があった。駅跡は年金事務所の敷地に転用され(下注)、西隣の税務署もその一部だ。

*注 うっかり見落としたが、旧駅前通りに面した理髪店の庭に、駅跡に関する案内板が立っている。

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(左)高架下に残る岩花線の橋脚
(右)東北本線を乗越す手前の右カーブ
 

復活はしたものの、ターミナルが国鉄駅からも中心街からも離れた中途半端な立地で、利用者が少なかったのだろう。1964(昭和39)年10月の時刻表によると、岩花線の列車は1日わずか5往復、すべて花巻温泉相互間で、鉛線のほうへは走っていない。

東北本線の電化に際し、高架橋の嵩上げを迫られたことを契機に、1965年、岩花線は廃止となる。鉛線のスイッチバック運転を解消するために短絡線が造られ、西花巻駅はその線上に移転した。しかしせっかくの新駅も、使われたのはわずか4年で、1969年には鉛線の運行(花巻~西鉛温泉間)が止まり、1972年に残る花巻温泉線も後を追った。

現在、二代目西花巻駅の跡は花巻中央消防署の敷地の一部になっている。この南側から300mの間、鉛線跡が自転車道に利用されている。短距離ながら、S字カーブと、2か所で小道と立体交差する趣深いルートだ。県道103号花巻和賀線に合流したところが西公園駅(下注)の位置で、鉛線の電車はそこから終点の西鉛温泉まで道端軌道を走っていた。

*注 この西公園駅は1918年の軽鉄花巻延伸の際に移設されたもの。地形図によると、1915年開業時の初代 西公園は、県道103号を100m前後東に行った位置にあったようだ。

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西花巻~西公園間の廃線跡自転車道
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県道合流地点
1915年部分開通時は右写真の県道を少し進んだあたりに西公園の終点があった

花巻温泉線の跡もまた、消防署の北側から自転車道として始まる(下注1)。現在は県の管理で、県道501号北上花巻温泉自転車道線(下注2)の一部だ。

*注1 次の市道との交差までは道路の左側(西側)の住宅地の列が実際の廃線跡。
*注2 この県道(自転車道)は、桜の名所の北上展勝地が起点で、北上川左岸(東岸)の堤防道路を花巻まで北上した後、西公園~花巻温泉間の廃線跡をたどる延長26.2km。

市道と斜めに交差してすぐ左側には、材木町公園と呼ばれる緑地があり、旧花巻町役場の木造建物の横に、鉛線ゆかりの電車デハ3が静態保存されている。上屋がつき、側面も金網で厳重に囲われているので、保存状態は良好だ。反面、写真は撮りにくく、網目までレンズを近づけると、車両全体が入りきらない…。

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材木町公園のデハ3
 

傍らに、近代化産業遺産の案内板も立つ。花巻電鉄の沿革、路線図、裏面にもわたる豊富な古写真と、資料館顔負けの情報量だ。なかに馬づら電車の車内を写したものがあったが、ロングシートの両側に人が座ると、膝が当たるほど狭い。終点まで1時間以上、窮屈な車両に揺られ続けるのはけっこう苦行だっただろう。

電鉄花巻駅はまもなくだ。駅跡は駐輪場などになってしまったが、駅前広場の一角に、花巻電鉄「花巻駅」跡地と記された小さな案内板が立っている。

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電鉄花巻駅跡
 

電鉄花巻駅を後にすると、後川(うしろがわ)の小さな谷を横断する地点で、さきほど交差した市道の下をくぐる。その後は、JR線西側の比較的新しい住宅街を直進していく。星が丘一丁目では、宅地造成のために大きな迂回ルートが造られていた。

花巻東高校の学生寮の前を通過した自転車道は、枇杷沢川(びわさわがわ)を越える。ここに架かる桁橋は架け換えられているが、橋台に鉄道時代の旧橋台が埋め込まれているように見えた。

松林の中を進むと、まもなく花巻東高校の正門が見えてくる。言わずと知れたメジャーリーガー大谷、菊池両選手の母校なので、門標や校舎をバックに記念写真を撮る人たちが順番待ちしていた。グラウンドのバックネット裏にある手形とサインの記念パネルも同様だ。廃線跡が目的の私たちも、ここでは俄かファンにならざるを得ない。

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(左)枇杷沢川に架かる橋、旧橋台が埋まっている?
(右)日居城野運動公園の松林を行く
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(左)花巻東高校正門
(右)バックネット裏の記念パネル、両選手の手形が特に人気
 

隣接する日居城野(ひいじょうの)運動公園は、松林に包まれた広大な敷地に、野球場、陸上競技場、芝生広場、テニスコート、総合体育館と充実した施設群が並ぶ。廃線跡自転車道はその中央を堂々と貫いていくが、それというのも、もともとここは、花巻温泉と花巻電鉄が土地を提供して造られた施設だからだ。1934(昭和9)年のオープンと同時に、花巻グランドという名の駅も設置され、来場者の便が図られた。自転車道が広くなっているあたりが駅跡だという。

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(左)花巻グランド駅跡
(右)陸上競技場の横を行く廃線跡
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図5 花巻グランド~瀬川間の1:25,000地形図
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図6 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

東北自動車道と交差した後は、見通しのきく田園地帯に出る。右カーブで段丘を降りると、県道297号花巻停車場花巻温泉郷線が乗り越していく(冒頭写真参照)。瀬川を直角に渡って少し行ったところに、次の瀬川駅があった。畑を隔てて数mの位置に農業倉庫の土台と言われるものが残る。

この後は、先ほどの県道に近づいていき、鉛線と同じような道端区間になる。ただし、こちらは道路と完全に分離されていて、自転車道はあたかも側道のように見える。

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(左)瀬川を横断するために段丘を降下
(右)瀬川橋梁
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(左)瀬川駅跡、左手に農業倉庫の土台跡が
(右)県道に沿う側道区間が続く
 

北金矢(きたかなや)駅跡は、同名のバス停が目印だ。サルビアやマリーゴールドの華やかな花壇が作ってあった。黄金色の稲穂が揺れる傍らをさらに進むと、松山寺前(しょうざんじまえ)駅。立派な山門を構えた同名のお寺の近くで、ここにもバス停がある。

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(左)北金矢駅跡
(右)中間部は田園地帯
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(左)松山寺前駅跡(南望)
(右)松山寺山門
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図7 瀬川~花巻温泉間の1:25,000地形図
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図8 同範囲の花巻温泉線現役時代、1968(昭和43)年測量
 

正面の山が近づき、民家が増え、少し坂がきつくなったと感じたら、もうゴールだった。自転車道は手前で終点となり、旧駅構内には南から駐在所、郵便局、そしてバスの転回場が順に並んでいる。北端に見える、一段上の道路へのコンクリート階段が唯一の痕跡らしい。正面には花巻温泉の横断看板が上がり、旅館群に通じるプロムナードが奥へ延びていて、駅が温泉の玄関口だったことがよくわかる。

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(左)終盤、坂がややきつくなる
(右)自転車道の終点(花巻方を望む)
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花巻温泉駅跡
一段上の道路への階段が残る
 

近くの台(だい)温泉や、豊沢川に沿う志戸平(しとだいら)、大沢、鉛の各温泉などは数百年の伝統を持つが、花巻温泉はそれらと違って、歴史は新しい。大正末期から昭和初期にかけて、関西の宝塚をモデルに開発された新興のリゾートだからだ。温泉も最初は台温泉から引いていた。鉄道もこの開発事業の一環で建設されたもので、宝塚に当てはめるなら、箕面有馬電気鉄道(現 阪急宝塚線)の位置づけだ。駅と温泉街が一体化して見えるのも偶然ではない。

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駅正面に花巻温泉の横断看板

自転車の返却時刻が近づいてきたので、来た道を戻った。7.4kmの距離に電車は18~20分かけていたが、自転車でも30分もあれば走りきれる。雨に襲われないうちに帰らなければ…。

昼食は、花巻屈指の人気スポット、上町のマルカンビル大食堂にて。閉店した地元デパートの最上階に残る、昭和の雰囲気を色濃く漂わせた展望レストランだ。平日というのに、一体どこから湧いてくるのかと思うほどの客で賑わっている。食事の後、デザートに名物の10段巻きソフトも試したので、もう花巻で思い残すことはない。

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(左)マルカンビル大食堂
(右)名物10段巻きソフトクリーム
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(昭和46年修正)、2万5千分の1地形図土沢(昭和48年修正測量)、花巻、花巻温泉(いずれも昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車

2024年11月 3日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩泉線跡とレールバイク乗車

朝8時56分、盛岡駅から上り電車で移動した。南へ二つ目の岩手飯岡(いわていいおか)駅が、本日の集合場所になっている。2024年10月6日、秋のコンター旅の後半2日目は、ここからクルマでJR岩泉線の廃線跡を見に行く予定だ。

JR山田線の茂市(もいち)を起点に、岩泉まで38.4kmを走っていたこのローカル線のことは、まだ記憶に新しい。押角(おしかど)~岩手大川間で発生した土砂崩れによる脱線事故で運行不能になったのは14年前、2010年7月31日のことだ。1日わずか3往復、極めつきの閑散路線だったため、復旧が叶うことはなく、2014年4月1日、正式に廃止となった。

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レールバイクの拠点、旧 岩手和井内駅

駅の東口広場で、自宅からマイカーを飛ばしてきた丹羽さんと落ち合う。参加者は、昨日もいっしょだった大出さん、山本さんとの計4名だ。さっそく丹羽号に乗り込み、国道106号バイパスを東へ進んだ。あえて郊外の岩手飯岡駅を発地にしたのは、東北道の盛岡南ICから続くこのバイパス道路の最寄り駅だからだ。三陸海岸の宮古方面へは、長さ4998mの新区界トンネルを含め、長大トンネルを連ねた高速道路のような立派な道路が完成していて、もはやサミットの区界(くざかい)駅前を通ることもない。

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図1 岩泉線周辺の1:200,000地勢図
1993(平成5)年編集
 

約1時間のドライブの後、茂市駅に立ち寄った。昔ながらの木造駅舎と跨線橋はすっかり撤去され(旧駅舎の写真は本稿末尾参照)、小さな待合室が新設されている。しかし、ここを通る山田線はこの夏の大雨被害により全面運休中で、再開の見通しが示されていない。ホームに出ると、出発信号機は灯っていたが、全赤だ。岩泉線のホームは駅舎方の1番線だったはずだが、そこにはもう線路すらなかった。

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茂市駅
(左)新しい待合室(右)列車の来ない山田線ホーム
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図2 茂市~岩手刈屋間の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
 

駅を後にして、刈屋川の谷を旧道で遡る。岩泉線跡がつかず離れず、左手に続いている。下野付近には、塗装の剥がれかけたガーダー橋があった。廃線敷は沿線自治体が所有しているそうで、一部の橋梁やトンネルを除き、おおむね手つかずで残されている。

岩手刈屋(いわてかりや)駅跡は線路もホームもなくなり、がらんとした空地になっていた。岩泉方にある踏切跡の脇に立つ4 1/2キロポストが唯一の遺物かもしれない。対照的に、次の中里駅は、ホームと待合室がそっくり保存されている。というのも、現在、ここと岩手和井内の一駅間2.8kmが、レールバイクの走行ルートになっているからだ。

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(左)下野に残るガーダー(鈑桁)橋
(右)岩手刈屋駅跡近くの4 1/2キロポスト
 

廃線跡の観光利用法として、線路上を自走式の簡易車両で移動するアトラクションが、各地で導入されている。私も過去のコンター旅で、北海道の美幸線跡ではエンジン付きのカートに、また、九州の高千穂鉄道跡では動力車に牽引された大型カートに乗ったことがある。

*注 詳細は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」「コンターサークル地図の旅-高千穂鉄道跡とトロッコ乗車」参照。

岩泉線のそれは、2台の自転車を並列にして2軸台車に固定したレールバイク(軌道自転車)だ。自転車のタイヤがレールに接して駆動力となる一方、台車のフランジつき車輪がレールからの逸脱を防いでいる。これに2人が乗ってそれぞれ漕ぐのだが、希望すれば、後部にもう2人分の補助シートを設置した4人乗り車両も利用できる。

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レールバイク車両
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(左)スタッフが乗るエンジンカート
(右)4人乗りレールバイクと背後の車庫
 

今年(2024年)の場合、レールバイクは4月中旬から11月の土日祝日の運行だ。10~15時の間、毎時00分発の予約制で、私たちは11時発の便を申し込んでいた。岩手和井内の旧駅前にクルマを付けると、駅舎を活用した事務所の前でスタッフの方が2名、待っていてくれた。なにぶん遠隔地とあって、この時間帯の客は私たちだけだ。

料金は1台あたり2000円。受付を済ませ、レールバイク2台に分乗した。「帰りは上り坂ですので、電動アシストつきも用意できますよ」と優しい声が掛かったが、全員やせ我慢をして、アシストなしを選択する。

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旧駅舎の事務所で受付を済ませる
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2024年版レールバイクのポスター
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図3 同 中里~岩手和井内間
 

エンジンつきのカートで先導するスタッフの後を、少し間を開けてついていった。駅を出てまもなく、下り20‰の勾配標が見えた。岩泉線の急勾配区間は峠越えをはさむ和井内~大川間だと思い込んでいたので、その外側にもけっこうな坂道があることに初めて気づく。勾配値はざっと前1/3が20‰、中間1/3で12‰と少し和らぎ、後1/3が再び20‰だ。

とはいえ往路は下り坂だから、大して漕がなくても気持ちよく走ってくれる。先導車との車間を保つために、少しブレーキ操作が必要なくらいだ。のどかな村里の風景の中、山ぎわに緩いカーブを描く線路は営業線時代と変わらない。里道と交差する踏切や、小川をまたぐ鉄橋もある。ハンドルが固定されているので、スポーツジムのエアロバイクに乗っているようなものだが、室内と違い、風を切ってレール上を滑っていくのは、なかなか爽快だ。

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先導車の後をついて走る
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(左)20‰の勾配標
(右)落ちた栗のイガで埋まる線路
 

12分ほどで中里駅に到着した。ここで車両の方向転換作業が行われる。線路上に、軸回転式の簡易な転車台が設置されている。レールバイクをスロープ伝いにそこへ載せて、手動でくるりと回せば完了だ。

覚悟はしていたが、復路の上り坂はやはりきつかった。変速ギアを最軽にしても、ふだん使っていない太腿の筋肉が悲鳴を上げる。機関車の苦労が知れるというものだ。なんとかバテる前に和井内に戻ることができたが、所要時間を確認するのをすっかり忘れてしまった。往路とは走行速度が違うので、20分ほどかかっただろうか。乗車記念にと出発時に撮ってもらった写真のプリントができあがっていた。

■参考サイト
岩泉線レールバイク https://iwaizumisen-railbike.org/

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中里駅に到着
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転車台で方向転換
 

昼食の後、次の押角駅へ向かった。家並みが途切れてまもなく国道の改良区間は終わり、幅狭のくねくね曲がる谷道になる。見通しが悪く、対向不能個所も多い難路だ。10分ほど走ったところで、押角駅への指示標識が撤去されずに残っていた。「一般国道340号和井内~押角工区」の計画図を描いた大きな看板も立っている。

駅は刈屋川の対岸に位置していた。私たちの記憶にあるのは勾配途中の棒線駅だが、1972年まではZ字形スイッチバックの構造だった。その時代の駅舎と広場は養魚場に転用されてしまったが、本線築堤とホームのあった折返し線の跡らしきものが一部残っている。一方、茂市方はすでに広い更地になっていた。先ほどの計画図のとおり、早晩、道路にされてしまうようだ。

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国道改良の案内図
計画区間の左半分は旧線跡を通る
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押角駅跡
(左)岩泉方の本線跡(右)スイッチバック時代の折返し線跡か?
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図4 同 押角トンネル周辺
 

2987mの長さがあった押角トンネルは近年、国道用に拡幅改修(下注)された。だが、ポータルの位置がややずれているため、南口には鉄道時代の断片らしきものが見える。また、手前で刈屋川を渡るコンクリートの桁橋もまだ残っている。

*注 国道340号の押角トンネルは2018年開通、長さは3094m。

うっかり通過してしまったが、北口のずれはさらに大きく、鉄道トンネルのポータルが壊されていないらしい。また国道トンネルを出て300mほど北には、道路と川を一息に跨いでいた鉄道の高架橋が、川の上空部分だけ残されている。

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押角トンネル南口
(左)手前にある橋梁遺構
(右)国道トンネルの左側に鉄道時代の擁壁とポータルの一部(?)が残る
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トンネル北口近くに残る高架橋の断片
 

この先、線路は谷の傾斜についていけなくなり、山腹をトンネルで縫いながら、大きく西側へ迂回していく。それで、次の岩手大川駅は、国道からそれて県道171号大川松草線を西へ入った伏屋(ふしや)集落の中にあった。駅跡は県道から一段高い位置だが、広場もホームもすっかり夏草に呑み込まれている。

茂市方には、カーブしながら川を渡る第一大川橋梁が残存する。草をかき分けて行ってみると、橋上の線路は取り払われているものの、6連のガーダーはきれいなままで、今にも列車が渡ってきそうだ。長さ92m、川面からの位置が高いこともあり、岩泉線で最も印象的な遺構だろう。

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カーブしながら川を渡る第一大川橋梁
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(左)駅跡から第一大川橋梁へ続く築堤
(右)橋上の線路は撤去されていた
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図5 同 岩手大川周辺
 

国道340号に戻って少し下流に進むと、道端にこの路線では珍しいコンクリートアーチの長い橋梁が架かっていた。次の第二大川橋梁も、谷間を真一文字に横断していて壮観だ。川代集落では、廃線跡がもう国道レベルまで降りてきている。残された線路は錆びついているが、朽ちた枕木を交換すればまだ使えそうだった。

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直線で渡る第二大川橋梁
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(左)道端のコンクリートアーチ橋、写真の左側にも続いている
(右)まだ使えそうな川代集落の廃線跡
 

岩泉線の歴史は意外に新しく、茂市~岩手和井内間が1942(昭和17)年に小本(おもと)線として開業したのが始まりだ。その後、戦中戦後を通じて順次延伸され、1957年に浅内(あさない)に達した。浅内駅は今も平屋の駅舎とホーム、線路が現役さながらに保存され、足りないのは列車だけという状況だ。駅舎の前に、「浅内駅(痕跡)」と題された沿革の説明板が立てられ、待合室にも当時の写真が飾ってある。

当時の計画ではここが最終目的地だったので、ターミナルにふさわしい設備が見つかる。岩泉方には折り返す蒸気機関車のための給水塔が建っているし、駅舎の向かいの建物に、貨物を扱っていた日本通運の文字と社章が残る。

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浅内駅跡
(左)ホーム側から見た駅舎(右)ホームと線路も残る
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(左)蒸機のための給水塔
(右)日本通運の文字と社章が残る民家
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駅舎前に立つ説明板
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図6 同 浅内周辺
 

浅内から先は、時代が下がって1972(昭和47)年の開通だ。小本川を何度か渡り返す橋梁も、見た目が地味なPC桁に変わる。

次の二升石(にしょういし)駅は、国道左手の築堤上に高架式のホームと線路が残っている。築堤下には、三角屋根の小さな待合室も建っていた。桜並木が寄り添う旧ホームは、今でも春には花見ができそうだ。

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二升石駅跡
(左)桜並木が沿う旧ホーム(右)三角屋根の待合室
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図7 同 二升石~岩泉間
 

終点の岩泉駅は市街地の手前で、国道の川向うに位置していた。総2階建の大きな駅舎が、延伸開通時の地元の意気込みを物語る。現在は町の観光センターになり、1階ホールに出札口や時刻表、近隣駅の駅名標なども保存されているようだ。しかし残念なことに、観光センターと名乗る割に、土日は休業だ。入口が施錠されているので、ガラス越しに見るしかない。

構内に回ると、上屋の架かった棒線ホームはあるものの、線路はすでに失われていた。小本線の旧称のとおり、もとの計画ではここからさらに東へ進んで、現 三陸鉄道の岩泉小本駅がある小本まで線路が延びるはずだった。しかし、工事は着手されず、ミッシングリンクが埋まることはついになかったのだ。

全線の探索を終えたのが15時30分。明るいうちにと国道455号早坂トンネル経由で、私たちは盛岡への帰途に就いた。

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2階建の旧岩泉駅舎
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ホームは残るが、線路は撤去済み

以下の写真は、大出さんに提供してもらった現役時代の岩泉線各駅のようすだ。撮影時期は1983年8月と2003年3月。土砂崩れで不通にならなければ、この日常風景が今も続いていたのだろうか。

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茂市駅1番線、岩泉方を望む
(以下、特記のない写真は1983年8月撮影)
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茂市駅1番線、宮古方を望む(2003年3月撮影)
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中里駅
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岩手和井内駅
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浅内駅
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岩泉駅
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岩泉駅(2003年3月撮影)

参考までに、岩泉線が記載されている1:25,000地形図を、茂市側から順に掲げておこう。なお、一部の図には旧称である「小本線」の注記がある。

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図8 岩泉線現役時代の1:25,000地形図
茂市~岩手刈屋間(1972(昭和47)年修正測量)
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図9 同 岩手刈屋~岩手和井内間(1968(昭和43)年~1976(昭和51)年測量または修正測量)
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図10 同 岩手和井内~押角間(1976(昭和51)年修正測量)
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図11 同 押角~押角トンネル間(1976(昭和51)年修正測量)
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図12 同 岩手大川~浅内間(1976(昭和51)年修正測量)
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図13 同 浅内~岩泉間(1973(昭和48)年~1976(昭和51)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図盛岡(平成5年編集)、2万5千分の1地形図岩泉、有芸、峠ノ神山(いずれも昭和48年修正測量)、茂市(昭和47年修正測量)、門、陸中大川、和井内(いずれも昭和51年修正測量)、陸中川井(昭和43年測量)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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