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2024年10月

2024年10月29日 (火)

コンターサークル地図の旅-小岩井農場、橋場線跡、松尾鉱業鉄道跡

2024年コンターサークル-S 秋の旅、後半は岩手県に舞台を移す。1日目は、盛岡駅前でクルマを借りて、岩手山麓を半周する形で、雄大な風景と大地に埋もれた廃線跡を巡る。

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小岩井農場上丸四号牛舎
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図1 岩手山周辺の1:200,000地勢図
1971(昭和46)年編集
 

駅の改札前に集合したのは大出さん、山本さんと私の3名。白のトヨタヤリスで御所湖(ごしょこ)のほとりを走り、湖面に臨む繋(つなぎ)温泉の駐車場にクルマを停めた。御所湖は、雫石川(しずくいしがわ)を堰き止めて1981年に完成した比較的新しい人造湖だ。広い湖面の向こうにそびえる岩手山(いわてさん)の眺望を期待して来たのだが、空はおおむね晴れているのに、山頂付近に厚い雲がまとわりついている。

それから繋大橋を渡って北岸の、七ツ森がよく見える御所野の一角に移動した。のどかな田園地帯を限るように、優しい稜線をもつ小山がポコポコと並んでいる。宮沢賢治の文学作品にちなむイーハトーブの風景地の一つだ。本来ならその間に岩手山も顔を見せるはずだが…。

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御所湖西望
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七ツ森の展望

続いて国道46号で西へ向かう。目的地は橋場(はしば)駅跡。JR田沢湖線が仙岩トンネルの完成で全通する以前の盛岡方の終点で、路線も橋場線と呼ばれていた。1922(大正11)年に開業したが、戦時中、閑散区間だった雫石(しずくいし)と橋場の間が不要不急路線とされ、線路が撤去された。戦後の田沢湖線建設の際も、ルートから外れる赤渕(あかぶち、下注)~橋場間は復活することがなかった。

*注 赤渕駅は1964(昭和39)年の再開業時に開設された駅で、戦前の橋場線時代にはなかった。

橋場駅があったのは、赤渕から1.7kmの安栖(あずまい)地区だ。廃業した商店の向かいに並ぶ民家の間の小道を入っていくと、山裾にコンクリートの階段が見えてくる。踏面が草むしているものの、躯体はそれほど劣化していない。上ると、森の中に対面式のホーム跡がくっきりと浮かび上がった。しかし、端の方では丈の高い下草に覆われて、周りと区別がつかなくなる。構内の盛岡方に転車台があったようだが、冬枯れの時期ならともかく、とてもそこまで到達できそうになかった。

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橋場駅跡
(左)ホームへの階段(右)森の中のホーム跡
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図2 橋場駅跡周辺の1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
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図3 橋場駅跡周辺の旧版1:50,000地形図(2倍拡大)
1939(昭和14)年修正測図

来た道を戻って雫石で左折し、次は小岩井農場へ。明治時代に岩手山南麓の広大な原野を拓いて造られた著名な農場だが、その一部がまきば園という有料公開の園地になっている。広々とした芝生広場の周りに乗馬体験や遊具のコーナー、レストランなどが配置され、大人から子どもまでゆったりと楽しめる場所だ。

だが残念なことに、鉄道系の楽しみはなくなってしまった。SLホテルだった蒸機D51 68号と20形客車は、今やただの置物になっている。雨ざらしのため、傷みが進んでいるようだ。D51は最近再塗装されて面目を取り戻したが、勢い余ってか、動輪まで黒のペンキで塗られていた。

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小岩井農場まきば園
(左)エントランス(右)広々とした園内
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旧SLホテルのD51 68号機
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図4 小岩井農場周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

園地の奥で走っていたトロ馬車も長期運休中だ。幌屋根のトロッコは乗り場に置かれたままで、周回軌道のレールももはや草に埋もれかけている。岩手山をバックに、草をはむ羊たちの横をトロ馬車が通り過ぎるさまはきっと絵になると思うので、復活を期待したい。

ちなみにこのトロ馬車は、昔ここにあった馬車軌道を再現したものだ。1904(明治37)年に農場本部から上丸牛舎に至る3.6kmの道沿いに敷設されたのが最初で、1921(大正10)年に国鉄橋場線の小岩井駅が開業すると、本部から南下して駅まで2.5kmが延伸された。当時のルートは旧版地形図(下図参照)にも描かれている。自動車の普及と道路整備に伴って1958(昭和33)年に廃止されるまで、半世紀にわたりトロ馬車は外界とを結ぶ重要な交通輸送手段だった。

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トロ馬車乗り場
(左)静態展示中(?)のトロッコ(右)遷車台
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牧場の中の周回軌道は草に埋もれつつある
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図5 小岩井農場の馬車軌道(薄赤で着色)が描かれた旧版地形図
図上端の「育牛部」が現在の上丸牛舎
1948(昭和23)年資料修正
 

レストランでスープカレーの昼食をとった後は、実際の農場の営みを見学できる上丸牛舎を訪ねた。門を入ったとたん、牧場独特の藁と糞の入り混じった匂いが漂ってきた。木造の大きな牛舎やレンガ張りのサイロは重要文化財の指定を受けつつも、現業で今なお使われているのだ。一号牛舎では内部も見学できる。ずらりと並んだ乳牛たちはもう慣れているのだろう。横から見学者がじろじろ眺めても、我関せずといった風で口をもぐもぐさせていた。

構内には事務所建物を利用した展示資料館もあり、本物のトロ馬車の走行写真やルート図など興味深い資料を見ることができた。最後に駐車場脇の売店で、限定販売の均質化していないビン牛乳を飲み干して、農場訪問を締めくくる。

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上丸牛舎の施設
(左)一号牛舎(右)一号、二号サイロ
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(左)小岩井農場資料館
(右)展示資料のトロ馬車写真

岩手山麓を北東へ走ると、東の方角に姫神山(ひめかみさん)が見えてくる。標高1124m、左右対称の整ったシルエットをもつ名山で、堀さんが著書『地図のたのしみ』に書いている。「頂上がキュッと尖り、両側になだらかな弧を描いて、ちょうど斜めに見たときの五重塔の軒先の曲線を思わせるその優姿をいつでも見せて、人の心をひきつける」と(同書p.232、下注)。

*注 堀淳一氏の『地図のたのしみ』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.245、2012年新装新版ではp.233にある。

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姫神山、柴沢からの眺望
 

堀さんは渋民駅で列車を降りて、線路沿いに北へ歩きながら北上川越しに山を眺めたが、私たちは、そこからさほど遠くない玉山地域重要眺望地点(柴沢)でクルマを停めた。「この優れた風景を大切にし、次世代に継承していきましょう」と書かれた盛岡市の案内板が立っている。水田地帯で、岩手山と姫神山がどちらも見通せるビューポイントだ。

ところが、無造作に張り巡らされた電柱と電線で、せっかくの景観にノイズが入る。そのうえ、東側に造られて間もなさそうな携帯の電波塔があって、姫神山にかぶってしまう。市の奨励にもかかわらず、眺望があまり重視されていないようだ。それでもう1か所目を付けていた渋民~好摩間の松川橋まで行った。ここは川面を前景にして山を望める。背後にはIGR線(旧 東北本線)の鉄橋も架かっているが、ほんの2~3分前に列車が通過したばかりで、さすがに一石二鳥とまではいかない。

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玉山地域重要眺望地点(柴沢)
(左)案内板と標柱(右)岩手山は雲の中
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姫神山、松川橋からの眺望

最後に松尾鉱業鉄道跡を訪ねた。これは、八幡平(はちまんたい)中腹で硫黄を採掘していた松尾鉱山のための支線鉄道で、国鉄花輪線の大更(おおぶけ)駅から東八幡平(旧称 屋敷台)まで12.2kmの路線だった。1934(昭和9年)に開業し、1951年からは電気運転になっている。接続する花輪線はもとより、東北本線でもまだ蒸気機関車が主役だった時代だ(下注)。八幡平へ行く登山客もよく利用した路線だったが、鉱山の閉鎖に伴い1972年に廃止となった。

*注 東北本線の盛岡~青森間の電化開業は1968年。

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大更駅
(左)新築の駅舎(右)ホーム、大館方面を望む
 

起点のJR大更駅へ。花輪線は言わずと知れた閑散線で、日中は片方向3時間に1本しか列車が来ない。ところが駅舎は、まるで近郊区間のような立派な2階建に建て替えられていて驚く。整備された駅前広場にタクシーが2、3台停まっていたから、それなりの需要があるのだろう。

クルマをときどき停めながら、終点まで廃線跡を追っていった。駅から北に出た鉱業鉄道は、約500m先で花輪線から離れていき、針路を徐々に西へ変える。草の生えた未利用地もあれば、砂利道だったり、プレハブ小屋が建っていたりと、現況はさまざまだ。しかし、用地区画は概して明瞭で、容易に跡をたどることができる。

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前半の廃線跡
(左)大更駅の北500m(右)上沖バス停前を横切る
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図6 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)等を加筆
大更駅周辺
 

現役時代、中間駅は二つあった。上沖(かみおき)バス停から廃線跡の農道を300mほど西へ行くと、一つ目の田頭(でんどう)駅跡を示す標柱が立っている。田んぼの真ん中に待合室がぽつんと残っているものと想像していたが、現実は違う。たくましく枝葉を広げた栗の木と野積みの廃タイヤにブロックされて、近づくことすら難しかった。

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(左)田頭駅跡の標柱、待合室は中央の木の陰に
(右)近づくのも困難な待合室
 

高森集落から西では、クルマでもたどれる農道になるが、鹿野(ししの)集落の手前でそれは消える。二つ目の鹿野駅は、地区の集落センター(集会所)の敷地などに転用されている。田頭駅のような標柱か説明板の一つでもあるといいが…。

集落を抜けると、2車線の舗装道が廃線跡だ。行く手に八幡平を仰ぐ一直線のルートだが、午後は雲が目立って増えてきた。東北自動車道をくぐり、県道23号大更八幡平線と交差すると、まもなく舗装道は終点となる。見過ごしてしまったが、この先に鹿野変電所が廃屋となって残っているそうだ。

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(左)鹿野駅跡に建つ集落センター
(右)八幡平に向かう廃線跡の2車線道
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図7 同 鹿野駅周辺
 

明治百年記念公園の駐車場にクルマを停めた。目の前で小水力発電用の水車が回っている。水を供給しているのは、松川上流で取水された用水路だ。松川温水路と呼ばれ、灌漑に適した水温にするために、幅広の水路に階段状に堰が切ってある。同様の施設が鳥海山麓にもあったのを思い出す(下注)。

*注 秋田県にかほ市象潟町の小滝温水路、「コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓」参照。

廃線跡はこの温水路に沿ってまっすぐ上流へ続いていて、現在は遊歩道になっている。落葉樹の林に包まれ、傍らで堰を落ちる水音を聞きながら、散策が楽しめるいい道だ。

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(左)松川温水路
(右)小水力発電用の水車
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温水路に沿う遊歩道区間
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図8 同 東八幡平駅周辺
 

一貫して西へ進んできた鉄道は、終点に近づくと北へ針路を変える。松尾鉱山資料館の駐車場が、かつて鉄道が斜めに横切っていた場所だ。線路の痕跡はない代わり、電化開業に合わせて導入された入換用電気機関車ED25 1号機が、上屋の下で静態保存されている。館内にも、鉄道に関する説明パネルや若干の資料展示があって、参考になる。この資料館、無料なのはうれしいが、鉱山のジオラマを除いて展示物を写真に撮れないのが惜しい。

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ED25 1号機
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松尾鉱山資料館
 

鉄道の終点である東八幡平駅は、索道で運ばれてきた鉱石の積替え施設が広がる一角にあった。現在は、松尾八幡平ビジターセンターという観光案内施設のほか、工場、広場、駐車場などに分割転用されている。どれも余裕たっぷりの敷地で、かつての施設がいかに大規模だったかが想像できる。

この後、私たちは、標高900m台にある松尾鉱山の採掘場付近まで、八幡平アスピーテラインを上っていった。急坂、ヘアピンの長い防雪シェルターを通り抜けると、風景はもう秋色を帯び始めている。かつて繁栄を極め、雲上の楽園とさえ称された鉱山町だが、今は廃墟と化した集合住宅群がむなしく立つばかりだ。坑道の崩落による陥没の恐れがあるとして、中心部に通じる道路は進入禁止になっていた。

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東八幡平駅跡
(左)松尾八幡平ビジターセンター
(右)広い駐車場も旧ヤードの一部
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松尾鉱山跡
(左)高層湿原の島沼
(右)廃墟になった集合住宅群
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図9 松尾鉱業鉄道が描かれた1:50,000地形図(東半)
1970(昭和45)年編集
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図10 同(西半)
(左)1973(昭和48)年編集(右)1970(昭和45)年編集
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図秋田、盛岡(いずれも昭和46年編集)、5万分の1地形図雫石(昭和14年修正測量)、小岩井農場(昭和23年資料修正)、八幡平(昭和48年編集)、沼宮内(昭和45年編集)および地理院地図(2024年10月25日取得)を使用したものである。

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2024年10月22日 (火)

コンターサークル地図の旅-串本・潮岬とその周辺

2024年9月8日、秋のコンター旅2日目は、紀伊半島南端の串本(くしもと)に移動して、潮岬(しおのみさき)を筆頭に、周辺の地学的な見どころを巡る。

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潮岬灯台
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図1 串本周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

昨日に続いてよく晴れた朝、串本へ向かう2両編成の普通電車は、ロングシートがそこそこ埋まっていた。「休日の朝でもけっこう利用者がありますね」と言うと、「青春18きっぷの有効期間最後の日曜日だからじゃないかな」と大出さん。列車で紀伊半島一周に出かける人たちだろうか。串本駅前で、クルマで先回りしていた木下さん親子と合流した。本日も参加者はこの4名だ。

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串本駅に到着
 

トヨタヤリスのレンタカーと自家用車の2台で出発した。市街地を南へ抜け、潮岬への坂道を上る。途中の馬坂園地という休憩所が、串本トンボロを西側から見渡せそうに思えたので、寄り道した。

トンボロ、または陸繋砂州(りくけいさす)というのは、沿岸流によって運ばれた砂が堆積して、本土と島を陸続きにしている砂州のことだ(下注)。串本の場合は、潮岬のある海蝕台地がこれによって本土とつながり、市街地もこの砂州の上に載っている。

*注 ちなみに日本三大トンボロと呼ばれるのは、函館、串本、上甑島(かみこしきじま)の薗。

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図2 潮岬周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

ところが、休憩所の海側は背の高い雑草ですっかり覆われてしまって、ほとんど視界がきかなかった。夏場なのでしかたがない。クルマに戻って、岬の突端にある南紀熊野ジオパークセンターまで行く。ここは、一帯の地学的な見どころをパネルや資料で紹介している施設だ。スタッフさんに5分間で解説を、と無理なお願いをして、これから訪ねるスポットについて予習した。それによれば…

海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込む際、海中で、プレートに載ってきた海底堆積物が剥がされて、いわゆる付加体が生成される。付加体の窪みの部分(海盆)には、陸上から運ばれた砂や泥が堆積した。これがこの地域の基盤層である熊野層群だ。後に、それらを突き破ってマグマが上昇し、地表や地中で冷えて固まった。潮岬や東隣の大島(下注)はこうしてできた花崗岩や安山岩(火成岩)から成っている。また、本土の熊野層群の間にも火成岩帯が分布して、奇岩や瀑布など特異な景観を提供している。

*注 同名の他の島と区別するときは、紀伊大島または串本大島と呼ぶ。

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南紀熊野ジオパークセンター
 

センターを辞して、前に広がる緑地を柵際まで歩くと、変則五角形をした本州最南端碑があった。いうまでもなくここは北緯33度26分、本州の南の端だが、陸地は「クレ崎」と呼ばれる崖下の岩礁へとまだ続いている。目を凝らすと、先端の岩棚に人が立っているのが見えた。海釣りをしているようだが、よくもそこまで、と感心する。岩伝いに歩いていくのは難しく、船で行ったとしか考えられない。

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(左)本州最南端碑
(右)最南端の岩礁、クレ崎
 

遊歩道を西へ移動する。旭之森展望所から、その岩礁の並びを側面から眺めることができた。野良ネコが二匹、ベンチの下の日陰から私たちのようすを窺っている。県道に合流した後、もう一つ展望所があり、これから行く岬の灯台が姿を見せた(冒頭写真参照)。

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(左)旭之森展望所
(右)ベンチの下の野良ネコ
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無名の展望所から見る潮岬灯台
 

潮岬灯台は高さ23m、石造の灯台だ。1870年に日本初の洋式木造灯台として完成し、8年後の1878年に現在の構造に改築されている。太い石柱の門を入ると受付があり、傍らで目の覚めるようなハイビスカスの真っ赤な花が迎えてくれた。

灯台は、敷地の中央に立っている。68段あるという内部の螺旋階段でバルコニーまで上れるのだが、最後の一層は狭くて急な鉄梯子だった。狭いバルコニーに出ると強い海風が吹きつけ、思わず帽子のひさしを押さえた。しかし、見晴らしのよさは言うまでもない。岬を覆う照葉樹林と青い海原が目の前に広がり、釣り船や貨物船が波間をゆっくりと動いている。

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潮岬灯台正門
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(左)構内のハイビスカス
(右)灯台と付属建物
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(左)灯台入口
(右)入口の銘板
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(左)バルコニーへの出口
(右)最終層を上る鉄梯子
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灯台バルコニーから南西方向のパノラマ
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(左)付属建物にある資料展示室
(右)展示室の第2等フレネルレンズ
 

クルマに戻って、紀伊大島へ向かった。潮岬台地の東端でスパイラルの取付け道路を回り、くしもと大橋を渡る。1999年に完成したこの橋のおかげで、大島は実質、本土と陸続きになり、民謡に謡われた巡航船も廃止されてしまった。

道の途中にある、口コミで人気のパン屋で昼食を仕入れて、金山展望所へ。標高117mのピークで、串本湾を見渡せるビューポイントとして目を付けていた場所だ。

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図3 串本・大島周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

消防団の人たちが作業中の駐車場にクルマを置かせてもらって、山道の階段を登っていく。地図上では徒歩8分ほどの距離なのだが、容赦ない日差しとアップダウンを繰り返す尾根道で、けっこう疲れた。展望地は3か所ばかりあったが、先端の小広場で視界が最も開ける。

右手に、巨岩が一直線に並ぶ橋杭岩(はしぐいいわ)がある。中央は串本市街地で、トンボロの上まで続き、潮岬台地に接続している。左手前には、多数の漁船がもやる大島港も見えて、想像以上の大パノラマだ。ベンチも用意されているから、ピクニックの環境として申し分ないが、今日はさすがに日陰がほしい。それで、クーラーの効いたクルマで大島港まで降り、港ネコに見つめられながら、さっきのパンを食した。

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金山展望所からのパノラマ
右から橋杭岩、串本市街地が載るトンボロ、潮岬台地、左手前に大島港
 

大島では東部にある海金剛にも行きたかったが、時間が押してきたため、やむなくカット。島を出て、内陸部へとクルマを進めた。国道371号で一山越えて、古座川(こざがわ)が流れる谷を遡る。トンネルを2本抜けると、天然記念物になっている古座川の一枚岩が見えてきた。道沿いの小さな道の駅にクルマを停めた。

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図4 古座川周辺の1:25,000地形図に見どころの位置を加筆
 

対岸に、川面から直接立ち上がるように、一かたまりの巨大な岩壁が露出している。高さは約100m、下流側にも少し背は低いが岩塊が続いていて、全長は約500mあるという(下注)。写真ではあまりスケール感が湧かないが、実際に目にすると、縦横とも圧倒的な迫力だ。河原にいる人たちが豆粒のように見える。

*注 国指定文化財等データベースで「高さ約150m、幅約300m」とあるが、少なくとも露出部は、地理院地図の標高データで高さが100~110m、図上測定で幅500m程度。

岩質は、流紋岩質の凝灰岩だそうだ。火山灰が凝固したものだから、一般的に硬質の岩石ではないが、均質でよく固結していた部分が、風化や浸食に耐えたのだろうか。それでも表面には大小のくぼみがあり、植物の進出を許している。

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古座川の一枚岩の下流側
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同 上流側、河原にいる人が豆粒に見える
 

少し上流にある天柱岩(てんちゅうがん)も見に行った。川の右岸の斜面上部で、ドーム状の巨岩が露出している。谷底からの高さが220mほどもあり、けっこうモニュメンタルな景観だ。

ここでUターンして、今度は古座川沿いの県道38号すさみ古座線を下る。流路が沿っているのは、古座川弧状岩脈と呼ばれる地層で、約1400万年前の巨大噴火により生じた熊野カルデラの痕跡の一つだ。花崗岩など比較的柔らかい岩石で構成されているため、浸食されやすく、川筋や低地になっている。下流に点在する髑髏岩(どくろいわ)、牡丹岩(ぼたんいわ)、虫喰岩(むしくいいわ)といったややグロテスクな奇岩も、こうした岩質の風化によるものだ。

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そそり立つ天柱岩
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(左)髑髏岩
(右)牡丹岩
 

古座川河口で国道42号に出た。最後は橋杭岩を訪れるつもりだが、その前に、大出さんが見つけた紀伊姫(きいひめ)駅近くの山上にある無名の展望所に立ち寄る。麓にクルマを停めて、徒歩で線路際から続く山道を歩いていった。最近整備の手が入れられたようで、手作りの案内板がまだ新しい。

細木で土留めした簡易な階段道を上った先に、少し平らに均した場所があった。振り返ると、橋杭岩が縦に並んで見えた。遠景は潮岬台地に紀伊大島、仲を取り持つ白いアーチのくしもと大橋と、役者がしっかり揃っている。さらに紀勢本線の線路が手前に回り込んでくるので、列車の姿が入れば鉄道写真にも使えそうだった。

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無名の展望所からの眺望
正面左が橋杭岩、後方にくしもと大橋
 

クルマに戻り、改めて橋杭岩へ向かう。名所の前に設けられた道の駅の駐車場は、満車に近かった。国道沿いで人目を引く景色だから、誰しもちょっと寄っていこうと考えるのだろう。

橋杭すなわち橋脚に見立てられた流紋岩の巨岩の列は、およそ南北方向に長さ約900mにわたって延びている。これも火山活動の痕跡だ。泥岩の地層の割れ目に入り込んだマグマが固結し、地上での差別侵蝕により火成岩だけが残った。いうなれば、溶けた鉄を鋳型に流し込み、後で鋳型を壊して鉄器を取り出したようなものだ。

西側は波蝕棚で、大波で砕かれ運ばれた岩がごろごろと転がっている。その間を縫って岩塔の列まで行ってみた。遠目とは違って目近にすると、背も高く相当の厚みがある。列の反対側は白波が絶えず打ち付けていて、午前中、灯台のバルコニーから眺めたような外海そのものだった。

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橋杭岩
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(左)高さと厚みのある岩塔列
(右)東側は外海
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図田辺(昭和58年編集)および地理院地図(2024年10月16日取得)を使用したものである。

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2024年10月17日 (木)

コンターサークル地図の旅-有田川あらぎ島

9月に入っても猛暑が収まる気配がない。今日もよく晴れて、当地の気温は33度まで上がった。2024年コンターサークル-S 秋の旅の前半は、紀伊半島が舞台だ。1日目の9月7日は、有田川(ありだがわ)中流の知る人ぞ知る名所「あらぎ島(蘭島)」を見に行く。

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あらぎ島全景
 

有田川は和歌山県北部、真言密教の霊場である高野山(こうやさん)を源流域として西へ流れ下り、紀伊水道に注ぐ川だ。中流部では激しい穿入蛇行(せんにゅうだこう)を繰り返している。

そうした蛇行地形の内側に生じた緩やかな斜面、いわゆる滑走斜面が段丘状になったところを水田化したのが、あらぎ島だ。これを対岸の崖の上から眺めると、みごとな袋状の棚田に見える。昨年訪れた埼玉の巾着田と同じような景観だが、あらぎ島ははるかにコンパクトで、広角でなくてもカメラのレンズに収まってくれる。

*注 埼玉の巾着田については「コンターサークル地図の旅-高麗巾着田」参照。

田んぼは刻々と装いを変えていく。刈田に白い霜が降りる冬、一面に水が張られる初夏、稲が育ち緑に埋まる盛夏と、どの季節も趣きがあるが、やはり黄金色に染まる今時分が最も見栄えがするように思う。まだ歩き旅に適した時期ではないが、今日を決行日にしたのは、9月中旬には稲刈りが終わってしまうと聞いたからだ。

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季節ごとに装いを変える
(現地案内板を撮影)
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図1 有田川周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年編集

あらぎ島へは、JR紀勢本線の藤並(ふじなみ)駅から清水(しみず)行きの路線バスで向かう。しかし、休日は本数が少ないこともあって、遠方から来ると朝の便に間に合わない。それで、藤並駅での集合時刻は13時の設定だ。

ここは以前、有田川鉄道公園に行くために来たことがある。鉄道公園は、有田鉄道の終点だった金屋口(かなやぐち)駅の構内に設けられた鉄道博物館で、2002年に廃止されたローカル私鉄の記憶を保存している。清水行きバスは、バス専業になった有田鉄道の運行なので、旧 駅前も経由地の一つだ。久しぶりに鉄道公園を訪ねてみたいが、降りてしまうと次のバスがないのが辛い。

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(左)JR藤並駅
(右)駅前から路線バスに乗り込む
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(左)旧 金屋口駅舎
(右)有田川鉄道公園
  旧 金屋口駅ホームと保存車両キハ58 003(2018年撮影)
 

藤並駅東口のバス停で大出さんと会い、13時06分発のマイクロバスに乗り込んだ。乗客は私たちを含めて5人。金屋口までは開けた土地だが、曲弦ワーレントラスの金屋大橋で有田川を渡ると、いよいよ山中に入っていく。蛇行する谷に点在する集落を追いながら、国道480号で34km、延々1時間の長旅だ。

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(左)金屋大橋(復路で撮影)
(右)二川ダム湖
 

川を堰き止める二川(ふたがわ)ダムの湖面が途切れてまもなく、バスは国道から離れ、狭い旧道に入っていった。集落の中の三田(みた)という停留所で下車すると、はるばるマイカーでやってきた木下さん親子が待っていてくれた。

田舎道というのに、ぞろぞろ歩いてくる人たちとすれ違う。主要道からの遠さをものともせず、見物客がけっこう訪れているようだ。緩い上り坂になった旧道をもう少し先へ進むと、急に右側の足もとが開け、お目当ての地形が見えてきた。柵つきの側歩道が造られ、その端に猫の額ほどの広場も設けられている。

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あらぎ島展望所
柵つきの側歩道と小広場がある
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図2 あらぎ島周辺の1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

展望所からは南望する形になる。有田川が左手奥の谷から現れ、手前に大きく膨らんで、右手奥の山陰に消えていく。この流路に囲まれて正面に、同心円状の緑のあぜ道で縁取られたあらぎ島の棚田群が広がる。一部刈取りが済んだ区画があるものの、まだ大半が、強い日差しのもとで黄金色に輝き、収穫の日を待つ状態だ。

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収穫を待つあらぎ島の棚田群
 

私たちが立っているのは、川面から40m以上高い攻撃斜面の崖の上で、有田川が長い時間をかけて造り上げた円形劇場を一目で見渡せる位置にある。別の角度からも眺められないかと、地形図やグーグルマップで探してみたが、全体が視野に入るのはここが唯一のようだ。

帰りのバスの時刻までまだ1時間以上あるので、あらぎ島本体に行ってみることにした。旧道を上流に向かう。道はいったん下りになり、宮川谷川(みやがわたにがわ)を渡って小峠(ことうげ)集落に続いている。集落の端で国道へ右折して、小峠橋を渡った。この橋と次の蘭島橋の間に、南に入る1車線道があり、そこから農道が分岐している。

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国道の小峠橋にて
 

道端に、あらぎ島とそこに水を運んでいる上湯(うわゆ)用水路の案内板が立っていた。「有田川の支流 湯子川(下注)から取水する総延長約3.2kmの水路で、現在は約13.5haの水田を用水しています。笠松佐太夫が開削した用水路の一つであり、史料から明暦元年(1655)という開発年代が特定できる」とある。水路が尾根を横切る地点で、グレーチングで覆った分水路が延びていた。

*注 ただし、地形図には湯川川(ゆかわがわ)とある。

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上湯用水路と蘭(あらぎ)島の案内板
 

農道わきに人家が1軒あるのは現地で初めて知った。河畔林の陰で、展望所からは見えないからだ。農作業に使う用具類も、眺望の邪魔にならないよう木陰に置かれていた。農道はあらぎ島の縁を巡っている。この位置から見れば、観光名所もよく実ったふつうの稲田だ。一枚当たりの面積は小さいが、特異な景観を守るために、耕作を絶やさぬ努力が続けられているのだろう。

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(左)あらぎ島の縁を巡る農道
(右)近くで見ればふつうの稲田
 

国道の蘭島橋からは、有田川の流れとともに、さっきいた展望所と周りの辻堂(つじどう)、中谷の集落が望める。地形図を見ていて気づいたが、旧道が通っているのはいわゆる風隙(ふうげき)だ。おそらく、もとは宮川谷川が流れていたのだが、有田川による側面浸食の結果、川が短絡してしまい、辻堂から西の流路が空谷となって取り残されたと推測される。すなわち、展望所が置かれた場所は、河川争奪地形における争奪の肘(ひじ)の一部ということだ。

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蘭島橋から展望所と周りの集落を望む
 

蘭島橋は、延長544mの三田トンネルに直結している。車道トンネルを歩くのはできれば避けたいが、ここは十分な幅の側歩道があり、時折やってくるクルマの走行音を別とすれば不快ではなかった。それに、じりじり焼かれるような日なたに比べ、トンネルの中は涼しくてほっとする。

トンネルを抜けてすぐ右側にある道の駅「あらぎの里」で、しばし休憩。木下さん親子と別れ、三田発電所前のバス停から15時46分発の、往路と同じマイクロバスに乗った。

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(左)道の駅「あらぎの里」
(右)三田発電所前停留所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図和歌山(平成24年要部修正)および地理院地図(2024年10月16日取得)を使用したものである。

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