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2024年6月

2024年6月16日 (日)

鶴見線探訪記 II

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旭運河を渡る鶴見線205系
 

海芝浦支線

大川支線を往復した後、海芝浦(うみしばうら)行の待ち時間を利用して国道駅と鶴見駅を見に行った(全体の行程は本稿末尾に記載)のだが、それは後述するとして、先に海芝浦支線の話に進もう。

この支線の接続駅は、安善駅の一つ鶴見寄りの浅野だ。駅名は、臨港鉄道を設立した浅野財閥の浅野総一郎にちなんでいる。支線の分岐点は駅の東側(鶴見側)にあるので、鶴見発、海芝浦行きの下り列車は、駅到着前に右にそれ、急曲線上に設置された支線上の3番線に停車する。ここはまだ複線なので、向かい側に上りの4番線がある。

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(左)海芝浦支線が複線で右へ分岐
(右)浅野駅も上下別ホーム(復路で撮影)
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海芝浦支線周辺
 

浅野9時37分発。車内は早くもがらがらだった。長い直線路に入ると、左手にちらちらと海が見えてくる。海といっても運河だが、工場や操車場のような潤いの乏しい景色を通り抜けてきた後なので、印象は新鮮だ。

新芝浦駅に停車した後、渡り線があって単線になった。右隣の線路は工場への引込線だが、もはや草むらと化し、レールはほとんど見えなくなっている。埋め立て地の角で再び90度向きを変えると、もう目の前が終点の海芝浦駅だった。

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(左)新芝浦駅の後、単線に
(右)工場用地と海に挟まれた終点、海芝浦駅
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片面ホームは京浜運河に臨む
 

片面ホームに降り立てば、柵の後ろはさざ波揺れる京浜運河の水面だ。対岸は扇島で、向こうのほうに首都高速湾岸線の斜張橋、鶴見つばさ橋、さらに横浜ベイブリッジの高い主塔も望める。人工物ばかりとはいえ、海を隔てて見るとそれなりにいい眺めだ。

海芝浦駅の特色は、電車だけでなく、乗客にとっても行き止まりであることだろう。鉄道用地を含めて東芝の社有地で、駅舎のように見える建物は東芝関連会社の通用門だ。同社の従業員や事前に入構許可を得た人でなければ、駅の外に出ることはできない。

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ホームから南西望
横浜ベイブリッジの主塔も見える
 

ここまで来る人ならそれは先刻承知の上だと思うが、せめてゆっくり海を眺められるようにと、駅の続きにある短冊形の社有地に、海芝公園という休憩地が設けられている。狭いながらも庭木が植わり、ベンチも置かれて、親切な案内板が目の前の風景を説明してくれる。

都会のオアシスとして有名なスポットなので、この列車でもほかに2組、訪問客があった。9時41分に到着して、折り返しは9時56分発。わずか15分の慌ただしい滞在だったが、多少なりとも心のデトックスになった気がする。ちなみにこの支線も日中は列車が少なく、次は1時間20分後だ。

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駅の続きにある海芝公園
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公園の案内板
 

鶴見線本線

残るは本線だが、大川支線からの戻りで乗った鶴見~浅野間も含めて、起点から順に記すとしよう。

鶴見駅の鶴見線乗り場は、京浜東北線の階上コンコースから続く高架上にある。開設は1934(昭和9)年。鉄骨の大屋根に覆われた頭端式、2面2線の広いホームが、臨港鉄道時代の面影を伝えている。

コンコースとの間に中間改札があったはずだが、きれいさっぱりなくなっていた。なんとこの(2022年)2月末で廃止されたのだそうだ。鶴見線内の駅はすべて無人だが、そういえば乗車券の自販機も見当たらなかった(下注)。今や大多数がICカード利用なので、設置コストが見合わなくなったということか。

*注 ICカードを持たない客のために、乗車駅証明書発行機が各駅に設置されている。

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大屋根に覆われた鶴見駅の鶴見線高架ホーム
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(左)中間改札は撤去されていた
(右)朝の頻発時以外は手前の3番線を使用
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鶴見~国道駅周辺
 

朝の頻発時以外、列車の発着はコンコースに近い3番線が使われる。出発すると、直線路の先に黒ずんだ島式ホームの跡が見えてきた。鶴見総持寺の最寄りに設置されたかつての本山(ほんざん)駅だが、戦時中に廃止されたまま復活しなかった。

続いて背の高いトラス橋で、地上を走る線路の束を豪快に跨いでいく。なにしろここは運行系統でいうと、横須賀線・湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線(上野東京ライン)、東海道貨物線(相鉄・JR直通線)、さらに京急本線も並走するという名うての密集区間だ。線路の数でも10本に上る。鶴見線はこれらをひと息に乗り越して、海側に位置を移す。

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上下線の間に旧 本山駅のホームが残る
 

高架は続き、左に急カーブしながら最初の駅、国道(こくどう)に着く。珍しい駅名は、西側を横切っている京浜国道(第一京浜、下注)に由来している。地方私鉄らしい明快さだが、単に「国道」だと普通名詞だから、英語なら定冠詞をつけるところかもしれない。

*注 現在は国道15号だが、1952年以前の旧 道路法では国道1号。

名前もさることながら、駅の構造物も興味をそそる。一つは、ホーム屋根を支えている梁だ。架線ビームを兼ねさせるためか、浅いアーチで線路の上をまたいでいて、古い商店街のアーケードのようだ。

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国道駅、線路をまたぐアーチの梁
 

さらに興味深いのが地上部で、ホームから階段を降りきると、高架下に長さ約70mの薄暗い道が延びている。京浜国道と、一筋東を並行する旧東海道とをつないでいる通路だが、すすけたコンクリートアーチの列、鈍く光る天井灯、ベニヤ板が無造作に張られた側壁に、太い筆文字が踊る商店の看板と、あたかも時が止まったかのような稀有な空間だ。見た目はちょっと怖いが、海芝浦駅と並ぶ鶴見線の名所なので、一列車遅らせてでも行ってみる価値がある。

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高架下の通路に駅入口がある
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(左)時が止まったような通路
(右)旧東海道側の通路入口
 

国道駅の先で鶴見川を渡った後は、しばらく住宅地が車窓をよぎる。鶴見小野はその間にある駅だ。左に曲がると、旧 弁天橋電車区の留置側線群が左手に見え、いよいよ工業地帯に入っていく。島式ホームの弁天橋駅は、降車客が多かった。その次が、先ほど降りた浅野駅になる。

この前後は直線ルートで、ボートが繋がれた旭運河をはさんで、短い間隔で駅が連なっている。小ぢんまりした島式ホームに構内踏切で渡るのも小私鉄らしくていい。

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(左)浅野駅に隣接する旭運河
(右)安善駅の構内踏切から
 

安善を過ぎ、武蔵白石からは一転、左カーブで内陸へ入っていく。臨港鉄道開業当時、すでに川崎駅からの貨物線(現 東海道貨物線の一部区間)が存在していたので、それに接続するためのようだ。

右側から鶴見線を乗り越していく高架は、東海道貨物線の川崎貨物駅に至るルートだが、とうに廃墟化している(下注)。こうした連絡線路といい、沿線の広大なヤードといい、鉄道貨物輸送が盛んだったころに造られた施設が、なかば遺構になって静かに時を刻んでいるのも、この路線の典型的風景だ。

*注 このルートの武蔵白石寄りに、低位置で道路を横断している線路を引き上げるための昇開橋設備が残っている。

浜川崎駅を出ると、上り線と下り線が合わさり、あとは単線になって進んでいく。JR貨物の浜川崎駅になっているヤードの右端を通過して、右に大きくカーブする。南渡田(みなみわたりだ)運河を渡り終えたところに、片面ホームの昭和駅がある。再び右へ曲がり、がらんとしたヤードの、今度は左端を直進していくと、まもなく終点の扇町駅だ。

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(左)がらんとしたヤードの横を行く鶴見線(左の線路)
(右)直進するとまもなく終点
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扇町駅周辺
 

ホームには1両分の片流れ屋根が架かっている。だが、列車は、先頭車両の扉2枚がようやくその下に入る位置で停止した。車止めまで少し距離があるが、線路に生えた草丈が高すぎてこれ以上は進めないといった風だ。降りたのは私を含め5人だけ。そのうち2人は折返し組だった。突き当りに、平屋ブロック張りの簡易な駅舎が建っているが、もちろん無人で、窓口の形跡すらない。

扇町では、どの列車も折返し時間がわずかだ。この列車も10時47分に着いて、早くも10時50分に出ていってしまう。しかも次は、海芝浦と同じく1時間20分後だから、私も列車で帰るのははなから諦めている。

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扇町駅に到着
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(左)草むらに前進を阻まれる列車
(右)駅舎正面
 

調べてみて初めて知ったが、川崎市の南部一帯には、鶴見臨港鉄道のバス部門をルーツとする川崎鶴見臨港バスの路線網がある。鶴見線沿線と川崎駅との間には、日中でも10~15分間隔という高頻度でバスが走っているのだ。鉄道を補完するフィーダー輸送どころか、バスのほうが市民の主要な足で、鉄道は朝夕の大量輸送だけを引き受けているというのが実態らしい。

扇町も例外ではなく、川22系統のバス路線が延びてきている。JRには悪いが、10分待てば来るのだから利用しない手はない。扇町駅の最寄り停留所が「ENEOS株式会社川崎事業所前」のところ、終点の「三井埠頭」(これも会社名)まで少し歩いて、川崎駅行きのバスを捕まえた(下注)。

*注 三井埠頭~川崎駅間は所要24分。なお、川崎市バスの川13系統の終点も「扇町」だが、工場を挟み、駅とはかなり離れている(上図参照)。

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臨港バスの三井埠頭バス停
 

始発の時点では、乗客は私一人だ。しかし、別のバス停で乗ってきたビジネスマンの二人連れが、「すいてるけど、すぐに満員になるからね」と話しているのが聞こえてきた。その言葉どおり、町中に入るとバス停に着くたびにどんどん客が乗り込んでくる。平日の日中というのに、川崎駅に近づくころには座席はもちろん、通路も人でいっぱいになっていた。鉄道の周りに見えていたものとはまったく違う光景だった。

 

【参考】鶴見線全線乗車の行程(2022年9月、平日ダイヤ)

川崎 7:44発→尻手7:47着/7:53発→浜川崎8:00着/8:16発→安善8:20着/8:36発→大川8:40着/8:51発→国道9:02着→(徒歩、旧東海道経由)→鶴見9:30発→海芝浦9:41着/9:56発→浅野10:00着→(徒歩、旭運河で撮り鉄)→武蔵白石10:41発→扇町10:47着→(徒歩)→三井埠頭11:02発→(バス)→川崎駅11:26着

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鶴見線と周辺の路線網
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.19(2023年)に掲載した同名の記事に、写真を追加したものである。
掲載の地図は、地理院地図(2023年1月25日取得)を使用したものである。

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 鶴見線探訪記 I

2024年6月13日 (木)

鶴見線探訪記 I

2022年9月の終わり、東京へ出かけたついでに、久しぶりに鶴見線に乗りに行った。最後の乗車が1984年なので、かれこれ40年ぶりの再訪になる。

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鶴見駅に入る鶴見線205系電車
 

鶴見線は、東海道本線(下注)の鶴見駅を起点とする全長9.7kmのJR線だ。浜川崎(はまかわさき)を経て扇町(おうぎまち)に至る本線7.0kmと、途中で海側へ分岐する海芝浦支線1.7km、大川支線1.0kmから成っている。

*注 所属路線は東海道本線だが、実際には京浜東北線の電車しか停車しない。

時刻表の路線図だけ眺めれば、ベイサイドラインとでも呼びたいところだが、実際の線路は終始、工場群を縫っていて、見栄えのする観光スポットもなければ、ショッピング街もない。主たる役割は、湾岸に広がる京浜工業地帯のこうした工場群への通勤客輸送で、一般客にはなじみの薄い路線だ。

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鶴見線と周辺の路線網
 

路線は1926(大正15)年に、私鉄の鶴見臨港鉄道として開業している。当時造成中だった鶴見・川崎の湾岸工業地帯に路線網を広げ、川崎からの貨物支線や南武鉄道(後の南武線)との接続で貨物輸送を実施する傍ら、鶴見で京浜線(後の京浜東北線)と連絡して旅客輸送も行った。1943(昭和18)年に国有化されてからは国鉄鶴見線として運行され、JR東日本に引き継がれている。

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80周年記念の壁面パネル
鶴見駅4番ホームで撮影
 

役割が特化されているだけに、利用者が集中する平日の朝夕は列車本数が多い。対照的に平日の日中や休日は、都会のローカル線と称されるとおり、閑散としたものだ。末端区間では列車の走らない時間帯が長いので、乗りつぶしには事前の「行動計画」策定を必要とする。

全線を乗るだけなら半日もかからないが、分岐駅と終点駅では駅や周辺を写真に撮るので、10分程度の時間を見ておきたい。しかし、これは言うほど簡単ではない。終点に到着すると、5分前後で折返してしまう列車が多いからだ。

1本見送って次の列車で戻ればいいのだろうが、その列車がなかなか来てくれない。最難関は大川支線で、日中、列車の運行がまったくなくなる。朝の最終便が大川8時40分着、8時51分発、これを逃すと次は17時台だ。そのため、計画はいやおうなしに、大川駅を軸にして組み立てることになる。

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運河に面した支線終点、海芝浦駅

南武線浜川崎支線

早起きが苦手なので、川崎駅近くに前泊していた。浜川崎支線経由で鶴見線にアプローチするため、朝、川崎7時44分発の南武線電車で尻手(しって)駅まで行く。

浜川崎支線というのは南武線の一部で、尻手から浜川崎に至る4.1kmのミニ路線だ。私などは、かつて福知山線からちょろんと出ていた通称 尼崎港線を連想してしまうが、浮世離れしていた同線 (下注)ほどではないにしろ、日中の運行は40分間隔と、都市域にしては頻度が高くない。それで、本数が多い朝のうちに乗っておきたかった。

*注 尼崎港線は現在の福知山線のルーツだが、晩年は旅客列車が1日2往復で、1981年に旅客輸送廃止、1984年には路線廃止になった。

尻手駅の3番線で待っているうち、南から第二京浜をまたぐ橋梁を渡って、2両編成の205系が入ってきた。側面の窓下に、波の上を舞う五線譜とともに「NAMBU LINE」の文字が入っているが、もちろんこの支線専用の編成だ。

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南武線尻手駅
(左)浜川崎方から列車が到着
(右)側面に五線譜のラッピング
 

尻手7時53分発。通勤通学の時間帯とあって、さすがに立ち客も見られる。かぶりつきで前方を観察していると、列車は東海道線の上をしずしずと渡って、京急線と交差する八丁畷(はっちょうなわて)へ。その後、右手から急カーブで近づいてきた東海道貨物線が、川崎新町の前後で合流する。車内は、駅に着くたびにすいていき、渡り線で右にそれて、木造屋根が架かる浜川崎駅のホームに到着したときには、もう1両に数えるほどの人しか乗っていなかった。

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南武線浜川崎駅に到着
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浜川崎駅周辺
北側が南武線(浜川崎支線)、南側が鶴見線の駅
 

浜川崎は鶴見線との接続駅だが、よく知られているように駅舎は別々だ。乗換えには駅前道路の横断を必要とする。両駅の出入口にあるICカードの簡易改札機の前に、乗継の場合は「出場」にタッチしないでください、と掲示が出ている。出場してしまうと、運賃が打ち切り計算されるからだ。

鶴見線のほうの駅は島式ホームなので、入口はそのまま跨線橋の階段につながっている。階上通路の突き当りに簡易改札機が設置してあった。ホームへはここから降りるしかないから、バリアフリーの実現は難しい。そのため、駅を東側のヤードに移して、南武線・鶴見線の合同駅にする計画があるそうだ。

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(左)木組みのホーム屋根
(右)駅入口
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道路を隔てて向かいにある鶴見線浜川崎駅
(左)入口に改札はなく、跨線橋に直結
(右)跨線橋通路の突き当りに簡易改札機
  右折すると階段でホームへ、左奥はJFEスチール社の専用通路
 

大川支線

ともかく鶴見線までたどり着いたので、さっそく目下の最重要課題である大川支線に駒を進めたい。

鶴見線開業150年のヘッドマークをつけた8時16分発の上り鶴見行に乗り、安善(あんぜん)駅で下車した。鶴見臨港鉄道の設立を支援した安田財閥の創始者、安田善次郎の名を冠したという駅名だ。大川支線は本来、一つ東の武蔵白石が分岐駅だが、20m車導入の障害になっていた急曲線上のホームが1996年に撤去され、以来ここが実質的な分岐駅になっている(下注)。

*注 運賃計算上は、今も武蔵白石が分岐点とのこと。

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安善駅
(左)駅舎
(右)駅名標が分岐駅を示す
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武蔵白石駅
(左)改築された駅舎
(右)中央は貨物線、右に曲がる大川支線のホームは廃止済み
 

8時台は鶴見線も列車が多い。島式ホームで待っていた16分の間に見送った列車は、上り2本に下り2本。それに降りてくる人の服装も、会社員風ばかりではなかった。確かにこの駅の周辺には住宅街や職業訓練校があるから、通学やお出かけにも利用されているのだろう。

大川行は8時36分発だ。クモハ12(下注)は遠い昔の話になり、鶴見線内共通の205系3両編成で運行されている。行先表示が大川になっているだけで、さっき見送った列車と何ら変わらないのは少し寂しい。車内はロングシートがだいたい埋まっていて、手堅い需要に支えられていることを実感した。ただ、朝寝坊してしまうと、あとの列車がないのが辛いが。

*注 大川支線で1996年まで運用されていた昭和初期に遡る旧型電車。車体長が17mと短く、武蔵白石駅の急曲線ホームに対応できる貴重な車両だった。

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安善駅に大川行列車が入線
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大川支線周辺
 

駅を出ると、列車はすぐに本線の上り線に移る。武蔵白石の手前で隣の貨物線と交差し、そのまま急な右カーブに入っていく。工場群の中を道路と並行しながら、小さな運河を一つ渡ると、まもなく大川駅だった。

折り返しの発車まで11分の余裕がある。それでだろうか。駅に到着しても、すぐに腰を上げない人が少なからずいるのには驚いた。2~3分は動くそぶりも見せなかったので、私のような冷やかし客なのだろうかと怪しんだほどだ。

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列車前面展望
(左)武蔵白石駅の手前で大川支線に進入
(右)運河を渡るとまもなく終点(復路で後方を撮影)
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朝の最終便が大川駅に到着
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大川駅
(左)物置小屋然とした駅舎
(右)妻面には小屋が接続されていた跡が
 

ホームは片面で、1両分だけ屋根が架かっている。駅舎は物置小屋のようで、おおかた剝がれた白いペンキがみすぼらしい。壁に発車時刻表が貼ってあった。昼間はみごとに空白だ。土曜休日はさらに減って、朝2本と夕方1本のみになる。

そこで気の利いたことに、最寄りバス停「日清製粉前」までの案内図も掲げてある。後で調べたら、川崎駅との間に日中でも毎時1本のバスが走っているようだ。代替手段がちゃんと用意されていると思えば、安心して寝坊できるだろう。

周辺の観察を終えて車内に戻ると、一人だけ先客がいた。この人と私の二人だけを乗せて、列車はもと来た道を引き返した。

続きは次回に。

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(左)駅掲出の時刻表、列車は朝夕のみ
(右)最寄りバス停の案内図
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(左)折返しを待つ205系
(右)折返し便の閑散とした車内
 

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.19(2023年)に掲載した同名の記事に、写真を追加したものである。
掲載の地図は、地理院地図(2023年1月25日取得)を使用したものである。

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 鶴見線探訪記 II

2024年6月 2日 (日)

コンターサークル地図の旅-象潟と鳥海山麓

2024年5月12日、春のコンター旅の最終日は、朝から高速バスに乗り、山形から鶴岡に移動した。参加者は大出、山本、私の3名。バスが通る山形自動車道は、月山(がっさん)南麓の五十里越街道をなぞる山越えルートだ。峠をはさむ区間では高速道路が未開通のため、国道112号いわゆる月山道路を走るが、こちらも画期的に改良されていて長いトンネルと高い橋梁が連続する。

9時すぎに鶴岡のバスターミナル、エスモールに到着。レンタカーを扱っているスタンドまで出向いて、トヨタアクアを借りた。きょうはこのクルマで、鳥海山麓の名勝象潟(きさかた)と、山岳展望台や水にまつわる名所を巡る予定だ。

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庄内平野、遊佐鳥海IC付近から望む鳥海山
東鳥海(右)、西鳥海(左)の二つのピークをもつ
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図1 鳥海山周辺の1:200,000地勢図
1992(平成4)年修正

いつものように大出さんの運転で、酒田ICから日本海東北自動車道(日東道)を北上する。暫定二車線に見合う程度の通行量なので、一定速度で気分よく走れる。遊佐(ゆざ)からは国道7号で山形・秋田の県境を越えて、象潟までおよそ60km、1時間ほどで到達できた。

国道沿いにある道の駅象潟にクルマを停めて、真っ先に6階の展望室へ上がる。ここは、東に鳥海山と象潟「九十九島、八十八潟」(下注)、西には日本海の水平線と、360度の眺望でつとに知られるスポットだ。しかし、残念なことにガラスがけっこう埃で汚れていて、視界良好とは言いがたい。

*注 象潟の景観を称賛する古来の言い回し。なお、小島の実数は103あまりとされる。

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道の駅象潟の展望室から東望
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
象潟
 

象潟を含むこの一帯の地形は、紀元前466年の冬(下注)に起きた鳥海山の噴火による山体崩壊で生じたものだ。北流している白雪川に沿って大量の岩屑なだれが日本海まで流れ込み、にかほ市中心部の平沢から金浦(このうら)にかけて海岸線を大きく後退(=陸地を前進)させた。

*注 この正確な年代は、岩なだれで地中に保存された埋れ木の年輪年代測定により求められたもの。

その一部は西側の海岸にも広がり、今の象潟周辺におびただしい土砂の小山、いわゆる流れ山を積もらせた。後に砂州が発達してこの水域を取り囲んだので、流れ山は風波による浸食から護られるとともに、潟湖(せきこ)に浮かぶ小島となった。

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象潟の水面に映る鳥海山
 

展望室の壁面に、象潟郷土資料館が所蔵する江戸期の屏風絵「象潟図」の写真が掲げてある。松尾芭蕉が「おくのほそ道」の長旅で訪れた1689(元禄2)年には、このようにまだ水で満たされていて、「東の松島、西の象潟」(下注)と並び称される、みちのく指折りの景勝地だったのだ。

*注 両者、多島海の景観は似ているが、地形の成因は異なる。松島は火山性のものではなく、地盤の隆起・沈降と海水の浸食により形成されたとされる。

しかしこうした浅い湖は、河川からの土砂の流入や、繁茂する植物に由来する有機物の堆積で、しだいに陸化していく宿命だ。象潟もすでにその過程にあったが、1804 (文化元)年に発生した巨大地震で地盤が2mあまりも隆起したことで、一気に干上がってしまった。

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「象潟図」の一部
道の駅象潟のパネルを撮影、原本は象潟郷土資料館蔵
 

現在、もとの湖面はほぼ水田化されている。今は田植えの季節だが、作り手が不足しているのか、葦が生え放題の休耕田も少なくない。芭蕉の頃と変わらないのは、後ろにそびえる鳥海山ぐらいではないだろうか。しかも展望台からの眺めでは、手前を国道が横切り、住宅やロードサイド店舗も並んでいる(下注)。よほど想像を膨らませない限り、古人が書に遺した感動を追体験することは難しい。

*注 上掲写真のとおり、ドラッグストアの看板は景観への配慮で、赤ではなく地味な茶色になっている。

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一面の葦に覆われる象潟の休耕田
 

道の駅のレストランで早めの昼食を取った後、徒歩で蚶満寺(かんまんじ)を訪ねた。芭蕉も参拝したことで知られる象潟の古刹だ。羽越本線の踏切を渡り、松林の小道を進んでいくと、古びた山門が迎えてくれた。阿吽の仁王像に会釈をして、続きの石畳を行く。拝観受付の横に座っていた方が言うに、「今は来る人が少ないので、受付は閉めてるんです。庭に行かれるなら、寺で拝観料を納めてください」。

せっかく来たのでお庭を拝見する。ツツジやハナモモが花をつける傍らに、宝暦13年(1763年)の銘があるという芭蕉の句碑が立つ。「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」、おくのほそ道に記された有名な句だ。裏手には舟をつないだという石柱も残っていた。寺の建つ場所ももとは流れ山の一つで、庭を一歩出ると水辺が広がっていたのだ。

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(左)羽越本線の踏切を渡って蚶満寺へ
(右)山門前の蓮池
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蚶満寺
(左)山門(右)本堂
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(左)宝暦13年の芭蕉句碑
(右)境内のツツジが満開
 

寺を辞して、山門前の蓮池のほとりを巡る。旅装束の芭蕉像のそばにも、同じ句を刻んだ碑が立っている。例えに借り出された中国春秋時代の伝説の美女、西施の像がそれと向かい合う。

それから、景観保全されている区域の西縁に沿って、遊歩道を北へ歩いた。九十九島にはそれぞれ太い幹、見事な枝ぶりの松が育っていて、土台を何倍もの大きさに見せている。ところどころ水が張られた田んぼには、鳥海山や松林が逆さに映り、潟湖が一面に広がっていた昔はさぞかしと思わせた。

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(左)蓮池近くの芭蕉像と句碑
(右)水田越しに山門が見える
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流れ山の一つ、駒留島
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鳥海山の頂きに雲がまとわる
 

クルマに戻って、今度は内陸に向かう。きょうは西から低気圧が近づいていて、時間が遅くなるほど雲が増えてくると予想した。実際、鳥海山の頂きに雲がまとわりつき始めたので、先に山岳展望台へ回ることにした。

国道から左に折れて、鳥海グリーンラインを進む。北麓を東西に横断するこの道路は、白雪川を渡ると、ヘアピンカーブで仁賀保高原と呼ばれる台地へ上っていく。仁賀保高原は、西側を南北に走る衝上断層群によって生じた、南北約13km、東西約2kmの細長い高まりだ。鳥海山に向き合うとともに、北麓を広く見渡すことのできる天然の展望地になっている。

坂の途中で、早くもパノラマライン展望台という、クルマが数台停まれる小さなパーキングが用意されていた。高度はすでに320mほどあり、日本海の見晴らしが良好だが、目的地はまだ先だ。

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(左)パノラマライン展望台
(右)日本海に浮かぶのは飛島
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図3 1:25,000地形図に訪れた場所(赤)等を加筆
仁賀保高原
 

サミットまで上り詰めたところで、尾根道に入った。巨大な発電用風車が建ち並ぶ足もとをしばらく南へ走ると、突き当りに仁賀保高原南展望台(標高約450m)がある。クルマを降りて、4年前(2020年)に造られたばかりの新しい展望デッキに立った。

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仁賀保高原南展望台
 

左手に、残雪を戴く鳥海山が圧倒的な存在感で鎮座している。標高は2236m、東北地方第2の高山だ(下注)。出羽富士の別称のとおり、円錐形に成長していく成層火山に分類されるが、こちらから見える北西側斜面は、先述した2500年前の山体崩壊により大きくえぐれている。いわゆる馬蹄形カルデラだ。

*注 第1位は尾瀬のシンボル、燧ヶ岳(2356m)。ちなみに山形・秋田県境は鳥海山で北側に膨らんでいて、山頂周辺は、山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)に属している。

山体から右手前に向かって一段へこんで見える広い函状の谷が、岩屑なだれが駆け降りた跡を示している。今は全体が森林に覆われているが、そのスケールを一瞥するだけで、どれほどすさまじい崩壊が起きたのかがわかる。岩屑なだれはその勢いで東側、すなわち現在の冬師(とうし)湿原のほうにも流れ山を飛び散らせた。この展望台は、その暴風波に直面した船の舳先(へさき)のような場所に位置しているのだ(下の説明板写真参照)。

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鳥海北麓に広がる函状谷は岩屑なだれの跡
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展望台の説明板
図の中央やや下が展望台の位置
 

さて、もう1か所行ってみたかったのが、北へ5kmの丘の上にある「ひばり荘」だ。標高は約530mで、仁賀保高原ではおそらく最も高い場所になる。

ここは公営の休憩施設らしいのだが、2階の展望室に上るまでもなく、駐車場のへりから遮るもののないパノラマが得られた。周辺には大小の溜池が点在していて、その一つ、長谷地(ながやち)溜池の水面がアングルに収まる。南展望台で見たような壮大な山岳風景とはまた趣きが異なり、絵葉書のようなコンパクトな構図にもできるのがおもしろい。ひばり荘はバイクのツーリングの休憩地になっているようで、私たちが滞在する間にも何台か上がってきた。

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ひばり荘展望台からの眺め
手前の水面は長谷地溜池
 

鳥海の女神はいたずら好きなのか、後になるほど雲が増えてくるという私の予想ははずれた。高原を降りる頃になって、山頂に掛かっていた雲が取れてきたのだ。

次は、山麓の水にまつわる名所をいくつか巡りたい。一つは、上郷(かみごう)温水路群と呼ばれる独特の水路施設だ。鳥海山の斜面を流れ下る雪解け水は流速が早く、水温が低いままで、稲の生育には適していない。そこで、階段状の幅広い水路に通すことで、水温を上げる仕組み(下注)が考案された。1927(昭和2)年以降、計5本、長さ6.28kmが造られ、多くは今も使われている。

*注 流速が下がるので陽光に接する時間が長くなり、段差(落差工)を落ちる際に水に空気が溶け込むことも水温上昇につながるという。

このうち、土木学会選奨土木遺産やジオパークの標識がある小滝温水路の一角に行ってみた。緩く傾斜した田園地帯を貫いて、無数の段差のある水路が山手から降りてきている。水量はたっぷりで、段差を落ちる水の躍るようなきらめきが、初夏の到来を感じさせた。

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上郷温水路群の一つ、小滝温水路
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緩傾斜の田園地帯を流れ下る水路
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
小滝周辺
 

続いては、奈曽の白滝(なそのしらたき、下注)へ。鳥海山から流れ下ってきた奈曽川(なそがわ)が溶岩台地を抜け出す場所に掛かる落差26m、幅11mの大滝だ。修験道に関わるという金峰(きんぽう)神社の境内から階段だらけの遊歩道が延びていて、観瀑台と呼ばれる展望デッキや滝壺近くの川べりまで行くことができる。

*注 地形図の注記は「奈曽の白瀑谷」だが、白瀑谷の読みは、現地の案内板でも「はくばくこく」「しらたきだに」の二通りがあった。

雪解けの季節とあってこちらも水量が多く、迫力のこもった水音がほの暗い谷間にこだましていた。遊歩道を先へ進むと、ねがい橋という吊り橋で谷を跨いで、対岸に渡る周遊ルートになっている。しかし、木々の青葉に隠されて、橋上からは滝がほとんど見えなかった。

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金峰神社
(左)参道(右)本殿
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奈曽の白滝
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(左)ねがい橋
(右)橋上からの奈曽川渓谷、滝はほとんど見えない
 

最後に訪れたのは、元滝(もとたき)伏流水という湧水地だ。奈曽の白滝から南へ1.5km、駐車場にクルマを置いて、さらに水路に沿う山道を上流へ10分ほど歩いた山中にある。ここでは、溶岩層の下を浸透してきた地下水が、幅約30mにわたって谷壁(末端崖)から滔々と湧き出している。しぶきに濡れた岩はすっかり苔むしていて、木の間に漂う冷気が神秘感をいっそう高めていた。なお、地形図には、名称の由来である「元滝」という滝も描かれているが、現在は崖崩れのため、立ち入れないらしい。

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(左)水路に沿う遊歩道
(右)元滝川の渓流
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溶岩の下から湧き出る元滝伏流水

予定を終えて、もと来た道を鶴岡へ戻る。今回の企画はもともと象潟の景観が主目的だったのだが、それにとどまらず、名峰鳥海山がはぐくんできた大自然の奥深さを実感する一日になった。興味をそそる周辺のスポットは他にもあるが、またの機会に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図酒田、新庄(いずれも平成4年編集)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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