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2024年5月

2024年5月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-山形交通三山線跡と左沢・楯山公園

朝、山形駅の6番線ホームに降りると、明るい青地にFRUITS LINERのロゴが入った気動車がもうスタンバイしていた。7時45分発の左沢(あてらざわ)行き下り列車だ。車内に大出、中西、山本さんの姿を見つける。「ローカル線に4両編成は豪勢ですね」と私が驚いていると、「左沢線は最大6両編成ですよ」と中西さん。特に山形と寒河江(さがえ)の間は朝夕、それだけの需要があるらしい。

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左沢を後にする4両編成の列車
楯山公園展望台から
 

2024年5月11日、コンターサークル-S 春の旅は東北に飛んで、山形交通三山(さんざん)線跡を歩き、その後、左沢を訪ねる予定にしている。参加者は上記の4名だ。

三山線は、左沢線の羽前高松(うぜんたかまつ)で分岐して間沢(まざわ)に至る11.4kmの電化路線だった。三山電気鉄道により1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて開業した。三山とは、修験道の本場である月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称、出羽三山のことだ。路線は、その参詣ルートである六十里越街道をめざす旅客と、北側の山地で稼働する鉱山からの貨物の輸送を特色としていた。

戦時統合で1943(昭和18)年に山形交通三山線となったが、戦後は資源枯渇による鉱山の閉鎖とモータリゼーションの進展による利用者の減少で、採算が悪化する。結局、1974(昭和49)年に廃止となり、バス転換された。

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桜の海味(かいしゅう)駅
写真:三山電車保存会 https://d-commons.net/nishikawa-map/moha103 License: CC BY
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
1969(昭和44)年修正

40分ほどフルーツライナーに揺られて、8時24分、羽前高松駅に到着。駅前広場は広いが、昔の駅舎は撤去され、代わりに寺社造りを模したコンパクトな待合室がぽつんと建っている。取り急ぎ、三山線が出ていた左沢方の跡地を見に行った。

大出さんは1987年に、堀さんらと三山線跡を歩いたことがあるという。当時は、路床の空地が100mほど続いた先に、小さな水路を斜めにまたぐ鋼製の橋桁がまだ残っていた。だが、今はそれもなく、風化した橋台が位置を示すだけだ。

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羽前高松駅
(左)現在の駅舎(右)左沢方で緩やかにカーブする三山線跡
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(左)風化した水路橋台を東望
(右)かつては橋桁が残っていた、西望(1987年5月、大出さん提供)
 

ところで、取り急ぎと書いたのは他でもない。間沢方面に向かうバスが8時36分にやってくるのだ。三山線を代行していた山交(やまこう)バスはすでに撤退し、西川町営のコミュニティバスが路線を引き継いでいる。休日は減便で、帰りが15時台までないので、朝の便で間沢まで乗っていき、そこから歩いて戻ってくることにしている。

慌しく現場写真を撮って、国道112号線沿いにある高松駅前角バス停に出た。「道の駅にしかわ」の行先表示をつけたマイクロバスに、「間沢までお願いします」と言って乗り込む。乗客は私たちだけで、途中のバス停で待っている人もいなかったので、最後まで専用車の状態で間沢に着いた。

間沢駅は、旧街道の交差点から少し南にそれた位置にあった。1987年の写真では、2階建ての旧駅舎がバスターミナルとして残っているが、その後、平屋に改築されてしまった。現在は前面がバス停、内部は観光事業の第三セクターやタクシーの事務所・車庫になっている。

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(左)西川町営バスで間沢へ
(右)現在の間沢バス停
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バスターミナルに転用されていた旧駅舎
(1987年5月、大出さん提供)
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
間沢~睦合間
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図3 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

建物の北東隅に立つ記念碑を見に行った。「旧三山電車間沢駅跡」と刻まれた黒御影石のスリムな碑だ。その隣の大きな観光案内図には、モハ100形電車のイラストとともに「間沢駅跡」の説明がある。いわく「かつては三山電車(昭和49年11月廃線)の終着駅で、山形交通のバスターミナルでもあり、人々や鉱物、木材を寒河江、山形方面に運んで行く交通の要所でした」。ずっと国道を走ってきたコミュニティバスも、信号で折れてわざわざここまで入ってきたから、今なお地域の玄関口としての形式を保ち続けているようだ。

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(左)間沢駅記念碑
(右)現在の間沢交差点、西望
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観光案内図に描かれたイラストと説明文
 

旧駅を後にして、羽前高松方面へ歩き出す。線路は旧街道の南側に沿っていたが、今は民家が建て込んでいる。その隙間の水路に残る橋台で、かろうじて線路の位置をうかがい知ることができた。間沢川から東はいっとき、単独の自転車道「さくらんぼサイクリングロード」に転用されていた。一部で舗装の路面や川岸の橋台などの残骸が見られるが、その先は拡幅された一般道に呑み込まれて、痕跡は消失している。

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(左)民家の隙間の水路に残る橋台
(右)間沢川に残る橋台
 

間沢川から750m進んだ地点で、一般道は右にそれていき、自転車道は本来の姿を取り戻す。そして河岸段丘をぐいと上って(下注)、西川町の行政地区である海味(かいしゅう)の町を貫いていく。桜の木が並ぶ小公園が西海味(にしかいしゅう)駅のあった場所で、自転車広場と書かれた矢印標識が立っている。道の北側に沿うコンクリートの土留めは、貨物ホーム跡のように見える。

*注 下の写真のとおりこの勾配は急過ぎるので、本来は築堤を介して緩やかに上っていたと思われる。

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(左)河岸段丘を上る旧線跡の自転車道、手前の築堤は消失
(右)旧線跡をまたぐ水路橋を西望、路面は嵩上げされている
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(左)西海味駅跡(自転車広場)
(右)広場向かいの貨物ホーム跡(?)、西望
 

段丘は北の山から出てきた海味川によって開削されているが、その谷を渡っていく築堤と鉄橋には、いにしえの面影があった。橋台はもとより、ガーダー(橋桁)も鉄道由来だ。両側にH形鋼が補強されているが、おそらく自転車道の路面を支えるための後補だろう。一方、東側の河岸段丘は切通しで進んでいくなか、途中に、上空を横断していた陸橋の橋脚だけがすっくと立っていた。

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(左)海味川を渡る旧線跡の橋梁
(右)切通しに残る陸橋の橋脚、西望
 

段丘から離れ、緩いカーブで坂を降りたところが、海味駅跡だ。海味の町からは1km近く離れているので、主に列車交換のための駅だったのだろう(冒頭古写真参照)。ここも同じく駅前が自転車広場という名の小公園になっている。

この後、自転車道は国道と合流するために旧線跡を離れる。旧線跡はコンビニや民家の敷地となって後を追えなくなり、その先は左から降りてきた国道に吸収されてしまう。

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(左)海味駅跡(自転車広場)
(右)自転車道が左にそれる地点、旧線跡は右の一般道に沿う
 

私たちはここで探索を中断し、山手にある月山の酒造資料館へ寄り道した。銀嶺月山という銘柄を製造している設楽(したら)酒造が開設した資料館だ。前の広場の一段高くなったところに、三山線の忘れ形見、モハ103が静態保存されている。開業時から稼働していたオリジナル車両だが、雨ざらしのため劣化がひどく、この間クラウドファンディングで修復資金を集めていた。訪ねた時は、集まった寄付金でちょうど外回りの修復が行われているところだった。足場が組まれ、すでにアールのかかった屋根が新しい材料で復元されている。

一方、資料館の展示は酒造りの用具類が主だが、入口の右側に三山線の写真や遺物を集めたコーナーがある。どれも古色を帯びてはいるが、今となっては貴重なものばかりだ。

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修復中のモハ103
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屋根の復元が進行中
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月山の酒造資料館
(左)正面(右)館内の三山線資料コーナー
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在りし日の三山線写真
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(左)サボと車両番号プレート
(右)改札鋏、定期乗車券、記念乗車券
 

旧線跡に戻って、それを上書きした国道112号の側歩道を行く。睦合(むつあい)駅は痕跡がなく、バス停の存在から想像するしかない。次の石田駅の手前で国道は左に離れていき、再び小道の自転車道になる。

石田駅前の民家で庭仕事をしていた女性に挨拶したら、電車が走っていたころの話をしてくれた。「遅れてきた生徒が乗れるよう発車を待ってくれたり、あるときは発車してしまって、『待ってー』と叫んだらバックしてくれました」と、聞いているだけでのどかな運行風景が目に浮かぶ。廃線跡の南側に大きな桜の木が2本あるが、「ここがもとのホームです(旧道が南側を走っているので、ホームも南側にあった)。桜は開業のときに植えられたものですから、もう100歳ですね」とのこと。まさに三山線の生き証人だ。

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(左)睦合駅跡にあるバス停
(右)石田駅跡、右を直進するのが旧線跡
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石田駅跡に残る桜の大木、西望
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
睦合~上野間
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図5 同じ範囲の旧版地形図 1970(昭和45)年測量
 

廃線跡の趣きが濃厚な区間がしばらく続く。はるか頭上を、山形自動車道の高架が横断していく。高い橋脚を林立させた巨大な現代施設に比べて、地面を這う旧線跡のつつましさはどうだろう。熊野(ゆうの)集落の先では、西川町と寒河江市の境界になっている熊野川をまたぐが、水路管の厳重な柵に阻まれ、渡ることはできない。やむなく北側の国道に迂回する。

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石田駅東方
(左)廃線跡の趣きが濃い区間
(右)頭上を横断する山形自動車道
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(左)熊野川横断地点は水路管専用で通行不可
(右)対岸の築堤は桜並木、西望
 

羽前宮内(うぜんみやうち)駅跡では、北側に建つ変電所建物が、農業倉庫として今も使われている。コンクリートの堅牢な造りなので、壊されずにきたのだろう。観察すると、妻面に電線の碍子なども残っていて、どこか岡鹿之助の絵にでも出てきそうな雰囲気がある。

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羽前宮内駅跡
(左)旧 変電所建物
(右)旧線跡を東望
 

S字カーブで旧道を横断したあとは、一面の田園地帯をまっすぐ進んでいくが、圃場整備に合わせて道も拡幅されたと見え、もはや廃線跡には見えない。見渡す限り田起こしはほぼ終わっていて、水路にもたっぷり水が届いている。後で聞くと、あと2週間もすればこの一帯で田植えが始まるそうだ。

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(左)旧道を横断するS字カーブを西望
(右)田植えの季節ももうまもなく
 

よもやま話をしながら歩いていたら、上野(うわの)駅跡をうっかり見過ごしてしまった。駅の痕跡はないものの、北側の水路を渡る橋の親柱に「上野停留場線」の銘板が嵌っているというが…。

国道を横断すると、左手に白岩(しらいわ)のまとまった家並みが現れる。白岩駅は列車交換設備があったので、跡地の幅も広くなっている。駅跡に建つ中町公民館の北西角に、間沢駅と同じスタイルで「旧三山電車白岩駅跡」の碑があった。また、公民館の東側の空地に見られるぼろぼろに風化した低い擁壁は、貨物ホームの跡だそうだ。

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白岩駅跡
(左)公民館脇に立つ記念碑
(右)風化した貨物ホーム跡
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
上野~羽前高松間
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図7 同じ範囲の旧版地形図
(左)1970(昭和45)年測量、(右)1970(昭和45)年改測
 

旧線跡の道は住宅地の中を右にカーブして、寒河江川にさしかかる。左手に小さな公園があったので、木陰のベンチで遅い昼食休憩にした。なにしろ今日は快晴、まだ5月中旬というのに盆地の気温は30度に達している。ずっと日に晒されながら10kmほども歩いてきたから、いささか疲れ気味だ。

寒河江川には自転車道の専用橋、みやま橋が架かっているが、中央部がやや高くなっていることからもわかるように、鉄道由来のものではない。両端の道路との接続を観察すると、併設されている水路管のほうが旧線跡で、みやま橋はその上流(西)側を並走しているようだ。

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寒河江川にかかるみやま橋
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(左)水路管の位置が旧線跡、西望
(右)雪解けの水を集める寒河江川
 

川を渡って間もなくの新田(しんでん)駅跡は、変電所の敷地に埋もれてしまった。その先の田園地帯に唯一、モニュメントとして残されたのが、農業用水路の高松堰を渡っていた橋台だ。「三山広場」の金文字プレートが嵌り、橋台上に軌道が渡してある。しかし、それを支えている橋桁は鉄道用にしては華奢なH字鋼で、オリジナルではなさそうだ。

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三山広場
(左)プレートが嵌る橋台
(右)直線的に移設された高松堰、橋台は元の水路位置を示す
 

傍らに案内板が立っていた。「(三山線は)三山詣での参拝客を運ぶ交通手段として大きな役割を担ってきました。さらに、寒河江川の風景、新田停留所付近より見える月山の姿、海味駅のサクラ、終点間沢周辺の紅葉や菊の美しさ等、四季折々の景色が美しい路線としても地元住民や観光客に愛されてきました」。

水路はかつてここで線路の下をくぐるためにクランク状に曲がっていたが、流路改修で直線化されたため、橋の下を流れていない。加えて残念なことに、傍らの休憩所の壁を埋めていたはずの思い出写真はすべて剥がれてなくなっていた。

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三山広場に立つ案内板
 

大規模な圃場整備が行われたため、この先は、最初に見た羽前高松駅手前の水路橋台まで、痕跡は残っていない。それで三山線跡探索はここで切り上げて、もう一つの見どころ、左沢の楯山(たてやま)公園に向かうことにした。

地元のタクシー会社に電話して、配車を依頼する。しばらくしてやってきたタクシーの運転手氏は、遠来の客と見ると、いろいろと近所の観光案内をしてくれた。

車で行ってもらったのは、左沢の町はずれで、線路のガードをくぐったところにある登山道の入口だ。公園は小高い山の上にあるので、ここから長い階段道を歩いて登る。もちろん西側から回れば車でも上れるのだが、まだ14時を過ぎたばかりで、私たちの目的からして、あまり早く着いてもしかたがない。

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楯山城跡案内図
緑のルートが麓からの登山道、「最上川ビューポイント」が展望台
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図8 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
左沢周辺
 

それでも10分ほどで、山上の展望台に出た。南の置賜(おきたま)盆地から五百川(いもがわ)峡谷と呼ばれる狭窄部を経て左沢に出てきた最上川(もがみがわ)は、楯山に突き当たって進行方向を180度変える。それを扇の要の位置から俯瞰できるのがこの場所だ。

さらに上手には3連のリブアーチ橋、旧 最上橋が川面に優美な姿を映している。遠景も左に蔵王、中央に白鷹山、右に朝日連峰と雄大なら、足もとには左沢線の線路が通っていて、終点駅を発着する列車が手に取るように見える。日本一公園という別名もむべなるかな、の絶景スポットだ。

日差しを避けて、あずまやでしばらく休憩。中西さんは、16時台の列車で戻るために先に降りたが、あとの3人はこの大パノラマに気動車の走行シーンを嵌め込むためにもう少し粘った。

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展望台からのパノラマ
最上川は右奥から左奥へ流れる
右の家並みが左沢市街、線路終点が左沢駅
正面に旧 最上橋、左奥のピークは蔵王連峰
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楯山公園展望台から遠望
水面に映る旧 最上橋(手前)と国道の最上橋
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同 左沢駅に停車中の列車
 

念願を果たしたところで同じ道を降りて、旧 最上橋を観察に行く。リブアーチの曲線美はもとより、欄干には張り出し(バルコニー)を設けるなど粋なデザインが施された道路橋で、土木学会推奨土木遺産になっている。川べりからまず仰ぎ、隣に架かる国道橋からも角度を変えて眺めた。橋の通行には10トンの重量制限が課せられている。親柱のプレートに1940(昭和15)年の架橋とあり、鋼材の使用制限があった時代だから、鉄筋が使われていないのかもしれない。

予定を完了して左沢駅へ。17時17分発のフルーツライナー山形行きに乗る。この列車もやはり堂々の4両編成で、寒河江以降ではロングシートがほぼ埋まった。

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旧最上橋
(左)3列のリブアーチが橋桁を支える
(右)優美なバルコニー
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夕陽を受けるアーチ橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図仙台(昭和44年修正)、2万5千分の1地形図寒河江(昭和45年改測)、左沢(昭和45年測量)、海味(昭和45年測量)および地理院地図(2024年5月20日取得)を使用したものである。

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2024年5月20日 (月)

コンターサークル地図の旅-篠ノ井線明科~西条間旧線跡

2024年4月7日、コンターサークル-S 春の旅3回目は、JR篠ノ井線の明科(あかしな)~西条(にしじょう)間にある旧線跡を訪ねる。西側の約5km(下注)が「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」として整備済みなのは知っているが、峠の下を抜けていた旧 第二白坂トンネルを含めて、東側は現在どのような状況なのだろうか。きょうは西条側から通しで歩いて確かめようと思っている。

*注 旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道は全長約6kmあるが、明科駅側の1.2kmは廃線跡を利用していない。

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第一白坂トンネルを出て
明科駅に向かうE127系普通列車
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図1 旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年修正、(右)1981(昭和56)年編集

朝からすっきりとした青空が広がった。1週間前の予報サイトでは曇時々雨とされていたのだが、いいほうにはずれた。「廃線跡は後回しにして、上高地にでも行きたいところですね」と大出さんと軽口をたたきながら、松本駅8時40分発の下り列車に乗り込む。犀川に沿って進む車窓から、雪を戴いた北アルプスの山並みが見えた。整った三角形でひときわ目を引く山は常念岳、右隣が横通岳だ。左奥には乗鞍の、白く輝く山塊も顔を覗かせている。

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朝の松本城山公園から望む北アルプス
 

しかし晴れやかな盆地の景観は明科(あかしな)駅までで、列車はまもなく長い闇に突入する。第一白坂(1292m)、第二白坂(1777m)、第三白坂(4261m)と間を置かずトンネルが3本続き、西条駅との距離9.0kmのうち、空が見えるのはわずか2割という屈指の山岳区間だ。

篠ノ井線はかつて、明科から潮沢川(うしおざわがわ)の谷を奥のほうまで遡り、峠をトンネルで抜けるという1902(明治35)年開業以来のルートを通っていた。25‰の勾配と半径300mの反転カーブが連続し、沿線の地層が地すべりの危険をはらむ運行の注意区間だった。

1988(昭和63)年に現在の新線が完成したことで、難路から解放されるとともに、速度向上によって通過時間も、下り(篠ノ井方面)普通列車で従来の11分から7~8分に短縮された。ただ、トンネルを含め路盤が複線幅で建設されたにもかかわらず、いまだ単線運転で、立派な施設がフル活用されないままとなっている。

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明科~西条間旧線の線路縦断面図
三五山トンネル西口の説明板をもとに補筆、キロ程は塩尻旧駅起点
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
西条駅~旧 潮沢信号場間
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図3 同じ範囲の旧版地形図
(左)1974(昭和49)年改測、(右)1977(昭和52)年修正測量
 

朝の光が眩しい西条駅で降りると、朝早くクルマで出てきたという木下さん親子が待っていてくれた。本日の参加者はこの4名だ。

踏切を渡り、線路の南側を並走する道を歩き出すと、現 第三白坂トンネルの約400m手前で、線路の向こうに使われていない架線柱が現れた。篠ノ井線は、旧線時代の1973(昭和48)年に電化されているから、柱の列は旧線跡の位置を示しているようだ。その先は高い築堤だが、法面が残っているのは北側だけだ。南側は、新線との間が新トンネル建設時の残土で埋められてしまい、今は発電用のソーラーパネルがずらりと並んでいる。

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西条駅
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(左)現在線の左側に架線柱の列(東望)
(右)旧線をまたぐ国道から旧線跡を東望
  旧線築堤と現在線の間は埋められてソーラーパネルが並ぶ
 

旧線はこの後、国道403号をカルバートでくぐり抜け(下注)、その山側にある旧道の下で一つ目のトンネル、長さ365mの小仁熊(おにくま)トンネルに入っていく。国道から眺めたところ、ポータルは鉄扉で封鎖されていた。

*注 国道403号のこの区間は廃線後の建設につき、カルバートの内寸は小さく、鉄道車両の通行が想定されていない。

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鉄扉で封鎖された小仁熊トンネル東口
 

私たちは、長野自動車道が横断している鞍部を越えて、反対側に降りていった。谷間に清冽な水音がこだましているので覗くと、別所川に掛かる滝が見える。大滝(おたき)、または不動の滝という名らしい。

近くに案内板があり、旧線についても言及されていた。「川の向こうに赤レンガを積んだところが見えますが、これは小仁熊トンネルの入口でした。しかし、別所川の水量が増えたときなど水がトンネル内に流入したため、後年コンクリートによりトンネルを延長しました」。

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道路下で水音を立てる大滝(不動の滝)
 

階段で滝壺近くまで降りていけるが、トンネルのポータルへは頼りなげな桟道しかない。それで車道をさらに下っていき、線路跡と同じ高さになったところから入った。林を縫う路床には、落ち葉が分厚く降り積もる。草木がまだ冬枯れの状態なので、見通しがきくのがありがたい。

東の西条方へ進むと、トンネル西口の鉄扉が半分開いていて、コンクリート造の内部を見渡すことができた。川の対岸に、切石と煉瓦で造られた暗渠のようなものも見られる。勾配標の文字は消えているが、縦断面図によれば西条方へ18.2‰の下り、明科方へはレベル(水平)を示していたはずだ。旧線の明科~西条間ではここがサミットだった。

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大滝のすぐ下流にある小仁熊トンネル西口
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(左)朽ちかけた勾配標
(右)切石と煉瓦で造られた暗渠
 

一方、西の明科方は、レールが残る別所川の鉄橋を経て、左へカーブしながら煉瓦造の旧 第一白坂トンネル(長さ45m、下注)へと続いている。架線柱とビームも蔦に絡まれながらも立っていて、旧信越本線碓氷峠の旧線跡を思い出させた。

*注 新線のトンネルは路線の起点である西(塩尻)方が若い番号だが、路線計画時に篠ノ井が起点とされたことから、旧線のトンネルは東方が若い番号になる。

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(左)レールが残る別所川の鉄橋
(右)側面、橋台も煉瓦造
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旧 第一白坂トンネル東口
 

短いトンネルを抜けてさらに進むと、峠の下を貫いている旧 第二白坂トンネル(長さ2094m)の東口が見えてきた。小仁熊トンネル同様、コンクリートで延長されたポータルだが、驚くことに封鎖されていない。それどころか門扉が設置された形跡もないのだ。「懐中電灯持ってますよ」と木下さんはこともなげに言うが、2km以上もあるし、ネット情報によると蝙蝠が多数生息しているらしい。明科までまだ先は長いので、入口付近だけ確かめて引き返した。

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旧 第二白坂トンネル東口
(左)コンクリートで延長されたポータル
(右)煉瓦巻きの内部
 

報道によると、地元ではこの区間についても遊歩道化の検討を進めているそうだ。現在の遊歩道はこのトンネルの西口前で行き止まりのため、自力で戻るか、クルマで迎えに来てもらう必要がある。西条まで延長できれば、行きは遊歩道、帰りは列車(またはその逆)という周遊コースが可能になる。現地調査も実施されたようで、今回歩いた東口前後の路床が比較的明瞭だったのは、その際に藪払いをしたのかもしれない。

将来の夢は膨らむばかりだが、当面私たちは現実的な方法で山を越えなければならない。廃道の趣きがある旧道を上り始めたものの、途中のトンネルが完全に埋め戻されていて、あえなく退却。地形図でまだ国道の色が塗られている矢越(やごせ)隧道経由の旧道も、同じように埋め戻されて通れないと聞いていたので、結局、現 国道を行くしか選択肢がなかった。車道の端をとぼとぼ歩くのは気が進まないが、無歩道区間は一部にとどまり、特に長い新矢越トンネル(1043m)には幅狭ながらも側歩道がついていた。

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(左)矢越峠旧道は廃道に
(右)この先のトンネルは埋め戻されていた
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新矢越トンネル
(左)狭い側歩道を行く
(右)西口、右の旧道は閉鎖
 

ちなみに現 国道は新矢越トンネルの東口がサミットで、トンネル内部は西に向かって一方的な下り勾配になっている。そのトンネルを抜け、なおも国道を下っていくと、左下の林の中にまっすぐ山腹に向かっている旧線跡が見えてきた。突き当りが旧 第二白坂トンネルの西口だが、行ってみると高窓のある鉄扉で塞がれ、渡された閂に施錠もされている。東口がフリーでも、これでは通り抜けられない。

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(左)旧 第二白坂トンネル西口が国道の下に
(右)鉄扉で閉じられたポータル
 

一方、明科方には、2009年に公開された「旧国鉄篠ノ井線廃線敷遊歩道」が延びている。入口の駐車場に地元ナンバーの車が20台以上停まっているので、近くにいた人に聞いてみると、廃線敷のウォーキングイベントを開催中とのこと。「どちらから来られました?」と聞かれたので、「西条から歩いてきました」と返すと、ひどく驚かれた。ゴールを目指して戻ってくる参加者の集団と挨拶を交わしながら、私たちも線路跡の遊歩道に足を踏み出した。

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廃線敷遊歩道の案内図
旧 第二白坂トンネル西口の案内板を撮影
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
第二白坂トンネル西口~明科駅間
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図5 同じ範囲の旧版地形図(1974(昭和49)年改測)
 

道は潮沢川の狭い谷間を、緩いカーブを繰り返しながら降りていく。がっしりしたコンクリートの架線柱が等間隔で続いている。路面は砂利を踏み固めてあり、線路由来のバラストも散らばっている。のっぺりとアスファルト舗装した自転車道ではなく、あくまで自然歩道として維持されているところに好感が持てる。

道の脇に、塩尻旧駅(下注)からの距離数値34を刻んだキロポスト(甲号距離標)があった。そればかりか、1/2表示(乙号)や100m単位(丙号)のサブポストも律儀に植えられている。どれもまだ新しそうなので復元品だろうか。方や速度制限標識は支柱がすっかりさびついていて、オリジナルのように見える。

*注 塩尻駅は1982年に現在位置に移転したが、キロ程は南東にあった旧駅を起点にしている。

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(左)遊歩道を戻ってくるイベント参加者
(右)道端に立つキロポスト
 

少し行くと、複線のような区間にさしかかった。通過式スイッチバックだった潮沢信号場跡(下注)の一部だが、谷側が一様に高くなっていて不自然だ。側線分岐点があった中心部まで行くと、説明板があった。地元住民の善光寺参りのために、通常は乗降を扱わない信号場で一度限りの特別乗降が実現した、というのどかな時代のエピソードが記されている。

*注 信号場は1961(昭和36)年9月設置。それまでは明科~西条間9.7kmが一閉塞区間だった。

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潮沢信号場跡
(左)東側にある不自然な盛り土
(右)側線が分岐していた中心部
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(左)信号場西方のカーブした擁壁
(右)主要地点に駅名標を模した案内板が立つ
 

カーブした擁壁を過ぎると、行く手に漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてきた。全長53mの短いものだが、ポータルや内部の煉瓦積みが剥がれ浮き出して、老朽化が進行している。

トンネルの先に小沢川橋梁の案内があったので、築堤を降りてみた。実際には橋梁ではなく、築堤の底で水路を通している暗渠だ。線路と流路が斜めに交差しているため、ポータルの煉瓦積みの小口面が張り出して、鋸歯のようにでこぼこしている。

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漆久保トンネル東口
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小沢川橋梁(暗渠)
(左)川べりからの観察が可能
(右)小口面が鋸歯状に出っ張る
 

谷から上ってくる道との交差箇所には、踏切警報機と遮断機が残されていた(下注)。再塗装されているようで、廃止から36年経つとは思えない存在感だ。次のモニュメントは、枕木の上に置かれた電気転轍機だが、縁のない場所に唐突に現れる。

*注 踏切警報機と遮断機のセットは、次のけやきの森自然園付近にもあった。

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(左)現役さながらの踏切警報機と遮断機
(右)電気転轍機と線路断片
 

32kmポスト付近の山手では、斜面崩壊を防止するために設けられた鉄道防備林を、けやきの森自然園と命名して保存している。遊歩道のおよそ中間部にあたり、ベンチやトイレが整っているので、私たちもここで遅めの昼食を取った。線路脇に目をやると、サクラが植えられているのに気づく。松本城内では咲き始めていたが、山中のここではまだほとんど蕾の状態だ。

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けやきの森自然園前
トイレとその先にベンチがある
 

次の左カーブでは、正面の谷の間から雪の北アルプスが顔を覗かせた。右のひときわ大きく光る山体は常念岳だ。松本周辺とは見る角度が違って、前常念岳から常念岳にかけての尾根筋がよくわかる。

31kmポストを見送ると、駅名標もどきの標識に東平(ひがしだいら)と記されている。午後は冬枯れの林を通して明るい日差しが降り注ぎ、上着が要らないほど暖かくなってきた。道はずっと下り坂だ。とりたてて意識しないまでも、25‰の勾配は足取りを軽くする。

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谷の間から見える北アルプス
右側の目立つ雪山が常念岳
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(左)枯木立の直線路、東平西方
(右)三五山トンネルへのアプローチ
 

直線から左カーブに移ると切通しで、30kmポストの後ろに長さ125mの三五山(さごやま)トンネルが口を開けていた。説明板が語る。「天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和46年頃)水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。そのため、当時の煉瓦部分を確認できるのは側面下方だけとなっている」。天井の補修と同時施工なのか、西口のポータルも煉瓦の上からモルタルをかぶせてあり、見栄えはあまりよくない。

とまれ、トンネルの前後で周りの風景は一変する。東側は犀川の谷が開けて、朝、列車の車窓から見えていた北アルプスのパノラマに再会できる。道端に山座同定図が設置されているのも気がきくサービスだ。

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三五山トンネル
(左)東口
(右)内部、モルタルの天井はシートで覆われている
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(左)西口、モルタルを吹き付けたポータル
(右)犀川の谷が開ける
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道端の山座同定図
 

カーブした築堤はまもなく高度を下げていき、潮神明宮(うしおしんめいぐう)の舗装された駐車場の前に出た。廃線敷遊歩道はここで終わりだ。この後、旧線跡は切り下げられたままで会田川(あいだがわ)に突き当たるが、そこに橋梁はない。対岸では造成地や未利用の空地となって、明科駅の構内に入っていく。

なお、遊歩道は旧線跡を離れた後も明科駅まで続いている。案内図によると、潮神明宮の前から新線が通る山側に迂回して、駅裏に至る田舎道がそれだ。最後に跨線橋で線路を横断すれば、駅舎の前に出られる。

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(左)潮神明宮が廃線敷遊歩道の終点
(右)会田川左岸に残る旧線築堤(ソーラーパネルの奥)
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明科駅
(左)改築された駅舎
(右)遊歩道のルートになっている跨線橋
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高山(昭和53年要部修正)、長野(昭和56年編集)、5万分の1地形図明科(昭和49年改測)、信濃西条(昭和52年修正測量)および地理院地図(2024年5月14日取得)を使用したものである。

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2024年5月 7日 (火)

コンターサークル地図の旅-三方五湖

「五万分一地図の『西津』は、私の地図のコレクションに、最も早く加わったものの一つである」。この一文から『地図を歩く』(河出書房新社、1974年)の「冬の三方五湖」の章が始まる。西津(にしづ)の図のちょうど中央に描かれているのが福井県南部にある三方五湖(みかたごこ)で、堀さんはその特異な風貌に惹かれたのだという。

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梅丈岳山頂から東を望む
手前から奥へ日向湖、久々子湖、美浜湾
 

「久々子(くぐし)、水月、菅、三方、日向(ひるが)の五つの水面が、あるいは狭い水路によって連なり、あるいは細く痩せた地峡によってわずかに隔てられて作る複雑な湖岸線は、岬と湾が錯綜する若狭の海岸にあってなお、ひときわ目立つ存在である。湖をめぐる村々の、久々子、日向、苧(お)、遊子、塩坂越(しゃくし)などという何とはなくゆかしげな名もまた、あらがい難く人の心を誘うのだった」。(同書p.160、下注)

*注 堀淳一氏の『地図を歩く』はその後二度復刊されていて、引用個所は1984年河出文庫版ではp.157、2012年新装新版ではp.156にある。また、『地図の風景 中部編III 富山・石川・福井』(そしえて、1981年、p.191)でも取り上げられている。

敦賀を拠点にした2024年のコンター旅2日目、3月24日は、堀さん曾遊の地であるこの三方五湖を訪ねる。初めに五湖の展望台がある梅丈岳(ばいじょうだけ)に上って「複雑な湖岸線」を高みから観察し、下山後は湖岸を歩きながら、湖ごとの風情の違いを感じてみたい。

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山頂公園に上るケーブルカーとチェアリフト
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図1 三方五湖周辺の1:200,000地勢図
1983(昭和58)年編集

雨の柳ヶ瀬だった昨日ほどではないにしろ、けさも時おり小雨が舞う空模様だ。敦賀駅前のバス乗り場に集合したのは、昨日と同じく大出、山本、私。後で美浜駅から木下親子が合流して、計5名になった。

8時40分発のゴコイチバス(下注)に乗り込む。これは、敦賀まで来た観光客を、三方五湖や熊川宿(くまがわじゅく)といった周辺の見どころへ送り込むための特設バス路線だ。旅行シーズンの週末に走っていて、今年は新幹線の延伸開業に合わせ、春まだ浅い3月16日から運行を開始している。敦賀からの直行便であり、定期バス路線がない梅丈岳の山頂を経由してくれるので、利用価値は高い。

*注 ゴコイチは五湖一周の意。琵琶湖を一周することをビワイチというので、それにあやかったものか。

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山頂公園駐車場のゴコイチバス
 

とはいっても、天気が天気なので、乗客は私たちを含めて数名のみ。バスは、市街地を抜けて国道27号バイパスを西へ進む。JR小浜線の美浜駅に立ち寄った後、久々子湖北岸を通過して、三方五湖の展望道路であるレインボーラインに入った。もとは有料道路だが、2022年から県道273号になり無料化されている。ただし、自転車や歩行者は通行できない。

道は日向湖と水月湖を隔てる尾根筋に取りつき、ぐんぐん高度を上げていく。しかし、予想どおり中腹あたりから霧が濃さを増し、山頂公園下の駐車場に着いたときには下界はもうほとんど見えなかった。梅丈岳は山頂一帯が有料区域になっていて、入場料1000円が必要だ。視界ゼロでも料金は変わらないが、木下さんが宿でもらってきてくれた割引券で800円になったのが、せめてもの慰め…。

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白くかすむ下界
山頂公園のチェアリフトから
 

駐車場から展望台のあるピークへは、ケーブルカーとチェアリフトが連れていってくれる(下注)。並走していてどちらに乗ろうと自由なので、往路はケーブルカーにした。長さ約140m、所要2分強、途中から傾斜が急になる。

*注 かつては山頂の反対側(西側)にチェアリフトがあった。設備は今も残っているが、もはや使われていない。

山頂は東西200m、南北50mほどの広さがあり、主な展望テラスが5か所設置されている。しかし今日は、手すりに掲げてある見本写真で想像するしかない。救いだったのは風が弱くて寒くないことと、客が少ないので展望足湯も混んでいなかったことだ。

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濃霧に巻かれる展望テラス
 

五里霧中の写真では参考にもならないので、別の晴れた日に撮影したものを掲げておこう。

梅丈岳は、若狭湾に突き出した常神(つねがみ)半島の根元にあるピークの名だ。山頂の標高は400.2m(下注)で、周辺5kmの範囲では最も高い。そのおかげで360度のパノラマが楽しめるが、どの方向とも水面を配した構図になるのが特色だ。

*注 山頂に三角点がないので、数値は、中江訓・小松原琢・内藤一樹「西津地域の地質」産業技術総合研究所 地質調査総合センター, 2002 p.3 に拠った。

まず北と西には、若狭湾(日本海)の海原がすっきりと広がる。東は五湖のうち日向湖(ひるがこ)と、わずかだが久々子湖(くぐしこ)が顔を覗かせ、南は三方湖(みかたこ)、菅湖(すがこ)、水月湖(すいげつこ)が一望になる。各展望テラスは、それらが最もよく見える場所に設けられている。

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晴れた日の山頂からの展望、西側
世久見(せくみ)湾に烏辺島(うべじま)が浮かぶ
中央奥は久須夜ヶ岳(くすやがだけ)
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同 北側
左は常神(つねかみ)半島の一部、正面は日本海の水平線
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同 東側
手前に日向湖と日向集落、
中景が久々子湖(逆三角形の水面が小さく覗く)と早瀬集落、
奥は美浜湾と久々子浜
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同 南側
手前に水月湖、左の入江が菅湖、中景に三方湖
 

さて、当日の話に戻ると、私たちは霧の中で1時間ほど滞在した後、チェアリフトに乗って駐車場まで戻った。次のゴコイチバスは11時05分に発車し、カーブを繰り返しながら、下界へ降りていく。山本さんはそのまま三方駅へ向かい、あとの4人は、海山(うみやま)という集落にある若狭町レイククルーズ(遊覧船)停留所で下車した。海山は、水月湖の西岸にある集落で、五湖の最奥部に位置する。後ろの尾根筋を越えればもう若狭湾という場所だ。

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海山のレイククルーズ停留所前
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低い空、モノトーンの水月湖
 

堀さんが五湖の旅の最後に訪れたのがここだった。三方駅から路線バスで着いて、梅丈岳の登山道を途中まで登っている。私たちは山から下りてきたので、逆に湖畔を歩いて小浜線の駅に戻ろうと思う。

県道から右に入る舗装道を歩き出した。民家が並ぶ中を行くが、それも水月花という温泉旅館の前までだ。北岸一帯は、梅丈岳の急斜面が湖面まで落ち込んでいて、集落がない。通じている道も農道というのがふさわしく、湖岸で栽培されている梅林の世話に行く農家の軽トラックがたまに通るくらいだ。

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湖畔の沿道に梅林が続く
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
梅丈岳と海山~苧間
 

空はまだどんよりとして、雲が低く垂れこめたままだ。光が弱く景色はモノトーンに近いのだが、たゆたう水面に映りこむ濃灰の山並みも悪くない。最初の岬の突端まで行くと、小さな展望デッキが現れた。タイミングよく湖にカヤックが何艘かやってきたので、デッキの上から挨拶を交わす。

水月湖は五湖で最大の湖だ。東の菅湖、南の三方湖とは狭い水道でつながっている(下注)。深度は34m、直接流入する河川がほとんどなく、湖底が無酸素状態で生物による撹拌もないため、夏と冬で色の異なる堆積物が年輪のようにきれいな縞模様、いわゆる年縞(ねんこう)を形成していることで知られる。

*注 ちなみに菅湖と三方湖は長尾と呼ばれる細尾根の半島で隔てられているが、堀切という人工水路でつながっている。

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湖面を行くカヤックの集団、この後何艘か続いた
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湖底のボーリングで採取された年縞(一部)
福井県年縞博物館の展示を撮影
 

道は、ひたひたと波が寄せる護岸に沿ったり、暗い植林地の中を縫ったりしながら、最も奥まった入江を通過した。次の小さな岬を回りこむと、何やら人工物が見えてきた。山向こうにある日向湖との間が最も狭まる地点に、嵯峨隧道(さがずいどう)という水路トンネルがあるのだ。

トンネルは江戸時代中期に初めて貫通したが、崩落して掘り直されるなど、たびたび改修を受けてきた。手前にある1980年完成の水門は、高潮時に海水が逆流するのを防ぐためのものだが、通常は閉鎖されていて、水は行き来しない。水路を渡る橋から姿勢を低くして覗くと、トンネルは出口の明かりが見えるほど短かった。

襲ってきた小雨をしのぎがてら、水門横のあずまやで昼食休憩にする。

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嵯峨隧道の水門
 

再び歩き出すと、やがて道は急な上り坂になり、高い位置で次の水路を渡った。下を流れているのは、久々子湖と菅湖を連絡している浦見川(うらみがわ)だ。江戸時代前期、1664年に完成した人工河川で、図上計測によれば、長さ約630m(下注)。

*注 全長324mとしているサイトもあるが、これは古文書の記述に依拠したもの(180間の換算値?)と思われる。現状は、護岸固定により南北に延長されている。

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浦見川
(左)高い位置で川を渡る歩道橋
(右)橋上から見える素掘りの岩壁
 

かつて久々子湖と菅湖は、三方断層西側の低地を経由する水路でつながっていた(気山古川などと呼ばれる。上の地図にルートを補記)。しかし、土砂の堆積で流れにくくなり、ひとたび大雨が降ると、上流3湖の水位が上昇して、湖畔の集落や田畑に浸水被害が生じていた。

この状況を決定的にしたのが、1662年に発生した寛文大地震だ。地盤の隆起で、水路が完全に干上がってしまったため、新たな排水路の開削が計画された。これが浦見川で、それまで恨坂(うらみざか)と呼ばれていた地形の鞍部を、人力で水位まで切り下げる土木工事だった。延べ22万5千人を動員し、2年がかりの大事業だったとされ、素掘りされた垂直の岩壁は、水路橋の上からもかいま見ることができる。

橋を渡って左へ。浦見川に沿う細道は、思いのほか急勾配で上下している。これがもとの地形をなぞっているとすれば、開削しようというのはあまりに大胆な企てだ。高さ20mほどの崖下を川が通っているが、ガードレールがないので、のぞき込む勇気はない。

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(左)川沿いの浦見坂
(右)遡行するボート、浦見橋にて
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浦見川の久々子湖への出口
 

この地峡を抜けると、珍しい一音地名の苧(お)集落に出る。右へ折れれば1.6kmほどで小浜線の気山駅だが、私たちは左に折れて、日向湖へ向かった。日向湖は、他の4湖とは違って独立した水域(下注)だ。おおむね楕円形で、周囲を山に囲まれているし、深度も39mと五湖最深なので、地形的にはカルデラ湖に似た雰囲気がある。

*注 人工の嵯峨隧道で水月湖と接続されているが、先述のとおり、水門は通常閉鎖されている。

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家並みで埋まる日向湖北岸
正面奥の山が切れたところに運河がある
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図3 同 苧~美浜駅間
 

ところが、湖畔の風景はまた別で、生活感が色濃く漂っている。北半分が漁師町で、漁船を陸揚げする岸壁が長く延び、その後ろに民家がびっしりと建ち並んでいるのだ。湖は、1635年開削の日向運河と呼ばれる水路で海とつながっている。漁船はここから海へ出ていき、収獲物を海側の漁港におろした後、また湖に帰ってくる。運河をまたぐ日向橋の上に立つと、船を格納する湖岸と、漁港のある海岸の位置関係がよくわかる。

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(左)船を揚げる岸壁
(右)運河と日向橋
 

ここからは笹田集落の鞍部を細い旧道で抜けて、東隣の久々子湖畔に出た。南北2.5km、東西500~700mの細長い形をした久々子湖は、砂州によって海と隔てられてできた潟湖だ。水深は最大2.3mとごく浅いため、日向湖に比べると湖面が明るく見える。また、小雨が降ってきたので、湖巡りの遊覧船が出ている美浜町レイクセンターの待合室で、雨宿りした。

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久々子湖と砂州に載る早瀬の家並み
レイクセンターから東望
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久々子湖南望、正面は矢筈山と雲谷山
 

一休みした後は、美浜駅まで最後の区間を歩く。湖と海をつないでいるのは早瀬川という、砂州を貫く長さ200mほどの水路だ。日向湖を除く4湖の水がここから海に流れ出ている。水路をまたぐ早瀬橋の橋桁には、出入りする船舶のための信号機が設置されていた。橋の東のたもとに、神社が鎮座しているのも興味深い。

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(左)船舶用信号機のある早瀬橋
(右)早瀬橋のたもとの水無月神社
 

飯切山の切通しから、久々子の集落に入った。湖の名はここに由来しているが、集落の主要部は湖畔ではなく、若狭湾に面した砂州の上にある。少し遠回りして、久々子浜の堤防の上に出てみた。オフシーズンで人影はなく、砂浜に打ち寄せられた色とりどりのごみばかりが目につく。海の向こうからも流れ着くので防ぎようがないのだろうが、海水浴のシーズンに向けて清掃作業の大変さは想像に余りある。

久々子の家並みを抜ければ、ゴールの美浜駅まであと1.5kmだ。敦賀行きの電車に間に合うよう、急ぎ足で向かった。

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(左)ごみが漂着する久々子浜
(右)美浜駅に対向列車が入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宮津、岐阜(いずれも昭和58年編集)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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