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2024年4月

2024年4月30日 (火)

コンターサークル地図の旅-北陸本線木ノ本~敦賀間旧線(柳ヶ瀬線)跡

北陸新幹線の敦賀(つるが)延伸開業から1週間後の2024年3月23日、私たちも敦賀駅に降り立った。コンターサークル-S 春の旅の初回は、ここを拠点にして周辺の見どころを巡る。

1日目は、ルート改良に伴って支線となり、ほどなく廃線に至った北陸本線木ノ本(きのもと)~敦賀間、後の柳ヶ瀬(やながせ)線だ。昨年6月に訪れた糸魚川~直江津間などとともに大規模な移設が行われた区間で、跡地の多くは道路に改修され、日常の通行に利用されている。途中に自転車や徒歩では通過できないトンネルがあるので、探索にもクルマを使わざるをえない。

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周囲の自然に溶け込む小刀根トンネル西口
 

この日の10時30分、駅前に集合したのは、大出、山本、木下親子と私の5名。トヨタアクアのレンタカーと自家用車の2台を連ねて出発する。あいにく朝から本降りの雨で、空気も湿っぽく肌寒い。クルマでなかったら、出かけるのを躊躇しただろう。

路線の歴史はことのほか古い。もともと中山道沿いに東京と関西を結ぶ予定だった鉄道幹線から日本海沿岸への連絡ルートとして計画されたもので、1884年(明治17)年4月に長浜~金ヶ崎(後の敦賀港)間が開通している(下注1)。このとき、現在の東海道本線は新橋~横浜、関ヶ原~長浜、大津~神戸と断片的に完成していた(下注2)だけだから、このルートがどれほど重要視されていたのかがわかる。

*注1 柳ヶ瀬トンネルを除く区間は1882(明治15)年に先行開業していたが、トンネルが難工事で全通が遅れた。
*注2 各区間とも後年の改良工事により、ルートが変遷している。なお、長浜~大津間は琵琶湖上を行く蒸気船で結ばれていた。また、この1か月後(1884年5月)に関ヶ原~大垣間が延伸開業している。

中央分水嶺にうがたれた柳ヶ瀬トンネルは1.4kmの長さがあり、小断面かつ長浜側に向けて上り25‰の片勾配のため、蒸気機関車の運行にとっては難所だった。立ち往生して乗員の窒息事故も起きたことから、ルート改良は戦前すでに着手されていたが、戦争で中断。1957(昭和32)年にようやく深坂(ふかさか)トンネル経由の新線が開通(下注)して、本線列車の走路が切り替えられた。

*注 この時点では単線での運行だったが、1963年の鳩原ループ線(後述)、1966年の新深坂トンネルの完成で複線化が完了した。

方や旧線は柳ヶ瀬線と改称され、気動車列車が走るだけのローカル線に格下げとなった。存続はしたものの沿線需要が乏しく、営業成績はまったく振るわなかったという。

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柳ヶ瀬トンネル東口
右上は北陸自動車道下り線
 

1963(昭和38)年9月に完成した北陸本線新疋田(しんひきだ)~敦賀間の複線化では、上り線が新設の鳩原(はつはら)ループ線経由となり、従来の本線は下り線とされた。これにより柳ヶ瀬線の列車は、本線に合流する鳩原信号場から先で運行できなくなるため、疋田で折返し、疋田と敦賀の間はバス代行となった。しかしこれも暫定措置で、翌1964年5月には全線廃止、柳ヶ瀬トンネルの改修が終わった同年9月から、国鉄バスに全面転換されたのだ。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正

私たちは、まず旧線の起点である滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)の木ノ本駅へ向かった。敦賀から一路、国道8号を南下し、福井・滋賀県境の分水嶺を越える。琵琶湖岸をかすめた後、賤ヶ岳(しずがたけ)トンネルを抜けて木之本の市街地へ。畿内と北陸を結んだ北国(ほっこく)街道に、関ヶ原から来る北国脇往還が合流していたかつての宿場町だ。

木ノ本(下注)駅は、和風家屋の外観を持つ橋上駅舎に建て替えられている。階段を上がった2階の改札口はひっそりしていた。たまたま係員不在の時間帯だったからだが、雨のせいで通路は薄暗く、もの寂しい雰囲気が漂う。南側で「きのもと まちの駅」の表札を掲げる平屋の建物は、1936(昭和11)年築の先代駅舎だ。しかし、こちらもカーテンが引かれ、ひと気がなかった。

*注 地名の用字は「木之本」。次の中ノ郷駅も、地名は「中之郷」と書く。

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(左)現 木ノ本駅駅舎
(右)2階改札口
 

出発が遅かったこともあり、時刻は早くも12時だ。この先あまり食事ができる場所がなさそうなので、地場のスーパーマーケット、平和堂で弁当を買い、館内の休憩所で昼食にする。

その後、北国街道を引き継ぐ国道365号を北上した。下余呉(しもよご)で左側を並走する北陸本線に接近するが、すぐに線路は左へ、国道は右へと離れていく。ここが旧線の分岐点で、この先しばらく国道は、旧線跡をなぞって続く。

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(左)先代駅舎「きのもと まちの駅」
(右)まっすぐ延びる線路跡の国道、下余呉付近
 

中ノ郷(なかのごう)駅があるのは、旧余呉町(現 長浜市の一部)の中心地だ。日本遺産の案内板によると、「中ノ郷駅は柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えのためすべての列車が停車する重要駅であった。(中略)転車台や給水塔のある広い構内を有しており、本線時代には駅弁売りも出るほど活況であった」。駅跡は町役場(現 長浜市役所余呉支所)などの公共用地として使われてきたが、空地も目立つ。

一方、国道を隔てて反対側には、ホーム跡を包含した小公園がある。レプリカの白い駅名標が立っていて、裏面の記載によれば2000(平成12)年に設置されたものだ。歩き回るうちに、北側の倉庫脇の地面に寝かせてある古い駅名標も見つかった。ただし営業線時代のものではなく、古いレプリカらしい。どちらも「中之郷」「木之本」と地名の用字にしてあるのが興味深い。

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中ノ郷駅のホーム跡
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本線時代の構内図(現地の日本遺産案内板を撮影)
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(左)駅名標レプリカ
(右)地面に古いレプリカが
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図2 1:25,000地形図に旧線ルート(緑の破線)と
主な見どころの位置を加筆、中之郷付近
 

中ノ郷を発ち、浅い谷の中をまっすぐ延びる国道を上っていくと、北陸自動車道が右から寄り添ってきた。ここからしばらくの間、廃線跡が高速道路の下に吞み込まれていて、国道はその西側を並走する形になる。

柳ヶ瀬(やながせ)もまた、同名の集落の前に駅があった。しかしもはや痕跡は消え、バス停の待合所がその位置を示すのみだ。木ノ本駅や余呉駅と北国街道沿いの集落を結ぶコミュニティバスのための停留所で、かつての国鉄バスのような、敦賀との間を結ぶ路線はとうにない。

ここも北国街道の宿場町で、彦根藩の関所が置かれた重要地点だった。今は小さな集落だが、旧道沿いに本陣跡とされる風格ある門構えの民家が残っている。雨に煙ってモノトーンに近い風景の中で、門前に立つ赤い丸ポストがその存在を際立たせていた。

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柳ヶ瀬駅跡のバス待合所
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旧道沿いの本陣跡民家
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図3 同 柳ヶ瀬~刀根間
 

山がさらに深まったところで、国道から右斜め前に出ていく道が旧線跡だ。現在は、県道140号敦賀柳ヶ瀬線になっている。国道が坂を上り続けるのに対して、こちらは分岐点からすでに下り勾配で、そのまま高速道路との間で地中に潜り込んでいく。

本線時代はこのあたりに、雁ヶ谷(かりがや)信号場、柳ヶ瀬線時代の雁ヶ谷駅があったはずだが、跡は残っていない。200mほど進むと、カーブの先に柳ヶ瀬トンネルが見えてきた。銘板があるポータルはコンクリート製で、雪除けとして後補したものだ。

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柳ヶ瀬トンネル東口
ポータルは延長されている
 

手前に、土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌った碑がある。添えられた説明によると「明治17年完成当時日本最長(1,352m)で、黎明期の技術進歩に大きく貢献し、今も使用中(のもの)では2番目に古いトンネルで、現在は道路トンネルとして活躍中です」。

隣は、伊藤博文が揮毫した「萬世永頼(ばんせいえいらい、下注)」の扁額だ。もとのポータルの上部に据え付けられていたものだが、これはレプリカで、本物は長浜鉄道スクエアの前庭で保存されている。

*注 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照。

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(左)土木学会選奨土木遺産のプレートが嵌る碑
(右)東口扁額のレプリカ
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長浜鉄道スクエアにあるオリジナルの東口扁額
 

トンネルは単線幅しかないため、大型車と自転車、歩行者は通行できない。それ以外のクルマも、入口の感応式信号機に従う必要がある。しばらく観察していると、青信号の時間はごく短く、よそ見をしていたら見逃してしまいそうだ。それなりの交通量があるようで、赤信号の間に3~5台のクルマが列に並んだ。青の点灯中に間に合わなかったクルマが猛スピードで突っ込んでいくのも目撃した。もっとも内部に待避所が2か所設けられているので、慌てなくても対向車をやり過ごすことは可能なのだろうが…。

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柳ヶ瀬トンネル東口内部
延長部との境界が明瞭に
 

青信号になったのを見計らって、私たちもトンネルに進入した。内部は腰部が切石積みで、上部はコンクリートか何かで巻いてあるようだ。入口付近を除くと直線ルートだが、幅狭で圧迫感がある。敦賀に向けて下り勾配なので、自然と加速がつくし、ハンドルがふらつかないよう前方を凝視していなければならない。

福井県側にある西口は、高速道路の高架が頭上にかぶさる狭苦しい場所だった。ここにも学会選奨のプレートが嵌った碑がある。傍らの横長の石板はトンネルの由来を記した扁額で、西口ポータル上部に掲げられていたもののレプリカだ。これも本物は長浜鉄道スクエアにある。

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頭上に高架がかぶさる柳ヶ瀬トンネル西口
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オリジナルのポータルが残る
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由来を刻んだ西口扁額(長浜鉄道スクエアにあるオリジナル)
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同 書き下し文
 

線路跡はトンネル出口から2km強の間、谷の中に割り込んだ北陸自動車道に上書きされてしまった。それで、通過式スイッチバックだった刀根(とね)駅跡も、パーキングエリアの下に埋もれている。

次の訪問地は、小刀根(ことね)トンネルとその取付け部だ。かろうじて高速道路のルートから外れたこのトンネルには、下流側(西側)からのみアプローチできる。笙の川(しょうのかわ)を跨いでいくが、その橋の橋台と橋桁(ガーダー)も鉄道時代のもののようだ。

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(左)小刀根トンネルへのアプローチ
(右)笙の川を渡る橋台と橋桁は鉄道時代のもの
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図4 同 刀根~麻生口間
 

現地の日本遺産案内板にはこう記述されていた。「小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初年の規格で造られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産が始まったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀祢トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている」。

長い時を重ねて遺跡となったトンネルは、すっかり周囲の自然に溶け込んでいた(冒頭写真も参照)。構造物としてはいたって小規模だが、ポータルは笠石、帯石、付柱(ピラスター)がすべて揃った正統派だ。アーチの要石には、明治十四年の文字がくっきりと刻まれている。

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小刀根トンネル西口
(左)竣工年が刻まれた要石
(右)内部、腰部は素掘りの状態か
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東口、廃線跡の小道が少しの間続く
 

トンネルは通り抜けることができ、上流側にも廃線跡が未舗装の道路になって200m足らず残っていた。なお、小刀根トンネルの敦賀方にはもう一つ、刀根トンネルがあるが、県道として2車線に拡幅改修されてしまったため、旧線の面影は全くない。

麻生口(あそうぐち)からは、国道8号が線路跡に位置づく(下注)。曽々木(そそぎ)には同名の短いトンネルがあったが、国道への転用で開削されて消失した。

*注 部分開業当時は、この付近に麻生口駅があった。

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東口から敦賀方を望む
次の刀根トンネル(県道に転用)が見える
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県道として拡幅改修された刀根トンネル
 

最後は疋田へ。愛発(あらち)舟川の里展示室の駐車場にクルマを停めさせてもらった。舟川というのは、江戸時代後期に造られた敦賀湾から琵琶湖への輸送ルートだ。名称のとおり、荷を載せた小舟がこの川で敦賀の港から疋田まで上ってきていた。展示室にはルートを示す古い絵地図(模写)や川舟の縮小模型がある。

集落の側に出ると、旧道の中央に一本の水路が通り、水が勢いよく流れていた。これが舟川で、もとは2.7mの川幅があったそうだ。水量が足りず舟底がつかえるため、川底に丸太を敷いて滑りやすくしてあったという。

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愛発舟川の里展示室(右の平屋建物)と現在の舟川
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図5 同 麻生口~疋田間
 

一方、線路跡はというと、疋田の手前で渡っていた笙の川(しょうのかわ)まで約200mの間は国道による上書きを免れたようで、川にも橋台と橋脚の土台部分が残されている。

疋田駅跡には現在、「疋田第2会館」という名の公民館が建っている。敷地の端に、2018年に設置されたまだ新しい駅名標のレプリカがあり、裏面に駅の歴史が記されていた。この敷地の北東側の石積みは、旧ホームのものだという。疋田集落の国道に最も近い宅地の列は旧線跡を利用していて、下流に向かうと、舟川がこの線路跡をくぐる地点に煉瓦の暗渠も残っている。

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笙の川に残る橋台と橋脚の土台
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(左)疋田駅跡のレプリカ駅名標
(右)柳ヶ瀬線時代の疋田駅(日本遺産案内板を撮影)
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(左)舟川と、宅地が載る廃線跡築堤
(右)舟川の煉瓦暗渠(左写真の左奥にある)
 

疋田を出た線路跡は、再び国道8号に吸収されるが、国道が笙の川を横断する手前でまた分離して、現 北陸本線下り線の傍らにつく。そしてそのまま旧 鳩原信号場まで進んで、本線に合流していた。

柳ヶ瀬線跡の探索はこれで終わりだ。この後、私たちは敦賀~今庄間にある、北陸トンネル開通以前の旧線跡に回ったのだが、ここは昨年(2023年)春に単独で歩いて、本ブログ「旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I」「同 II」に書いている。現地の状況はそちらをご参照願うとして、エピソードを一つだけ。

杉津(すいづ)駅跡に造られた北陸自動車道の杉津パーキングエリア(PA)を訪ねたときのことだ。下り線側には敦賀湾を見下ろす展望台がある。クルマを降りてそちらに向かうと、ちょうど森から霧が湧き出し、魔法をかけたかのように下界を覆い隠していくところだった。雨の日の旅はとかく気が滅入りがちだが、ときにこういう景色に出会うことがあるから侮れない。

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杉津の里を霧が覆っていく
杉津下りPAの展望台から
 

参考までに、北陸本線旧線が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図6 北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
木ノ本~刀根間
1948(昭和23)年資料修正
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図7 同 刀根~敦賀間
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図敦賀(昭和23年資料修正)および地理院地図(2024年4月26日取得)を使用したものである。

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2024年4月25日 (木)

新線試乗記-北大阪急行、箕面萱野延伸

北陸新幹線延伸開業の翌週、2024年3月23日に、関西でも既存路線の延伸開業があった。北大阪急行電鉄南北線の千里中央(せんりちゅうおう)~箕面萱野(みのおかやの)間2.5kmだ。

新線の話題もさることながら、そもそも北大阪急行(以下、略称の北急(きたきゅう)と記す)という名称自体、関西圏以外ではなじみがないかもしれない。もとは1970年に大阪の千里丘陵で開催された万国博覧会の会場へのアクセスとして建設された路線で、博覧会終了後は、開発が進行していた千里ニュータウンの住民の足として機能してきた。

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箕面萱野駅を後にする北急9000系
 

しかし鉄道の知名度はともかく、そのポテンシャルは近隣の路線に勝るとも劣らない。というのも、線路は大阪メトロ御堂筋(みどうすじ)線につながっていて、事実上、同線の北の延長区間に当たるからだ(下注)。首都圏でいえば、メトロ南北線に直通している埼玉高速鉄道に似ている。

*注 駅ナンバーは両線通し番号で、頭にMがつく(M06~M30)。

いうまでもなく御堂筋線は、大阪の二大繁華街であるキタ(梅田周辺)とミナミ(心斎橋、難波周辺)、鉄道のジャンクションである新大阪や天王寺などを結んでいる鉄道の大動脈だ。北急の、標準軌で直流750V、第三軌条集電という規格・方式も同線のそれを踏襲したもので、乗換えなしに大阪都心まで到達できる便利さは、北急最大のアドバンテージになっている。

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大阪メトロ路線図(一部)
北急線は御堂筋線(赤色)の上部にある
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9000系ラッピング車
モミジで知られる箕面をアピールする
西中島南方駅から南望
 

冒頭に北大阪急行電鉄南北線と書いたが、北急の路線はこれ1本しかない。御堂筋線に接続する江坂(えさか)から、ニュータウンの中心である千里中央に至る5.9kmが従来の運行区間だ。大阪メトロ(当時は大阪市交通局)の新大阪~江坂間と同時に建設され、開業している(下注)。

*注 1970年2月の開業時は万国博中央口駅に至る路線だったが、終幕した9月に現 千里中央駅を終点とするルートに切り替えられた。

今回、これが北へ2.5km延伸された。線路は千里丘陵を越えて、北摂(ほくせつ)山地の手前に位置する箕面萱野駅に達した。きょうはその新規区間を含めて北急全線を、途中駅の観察を交えながら乗り通してみようと思う。

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延伸開業のポスター

新大阪で東海道線(JR京都線)から乗り継いで、地下鉄御堂筋線の広い島式ホームに上がった。地下鉄といっても、すでにここでは高架構造だ(下注)。ホームの北端にあるトレインビューの待合室から眺めると、架線やビームのないすっきりした線路が、新御堂筋(国道423号)の本線に両側を挟まれながらまっすぐ延びている。

*注 二つ手前の中津駅までが地下で、その後高架に上がり、淀川は橋梁で越えている。

延伸前まで御堂筋線の列車は、早朝深夜を除いて、新大阪か、千里中央で折り返す運用だった。しかし、今や千里中央の名は消えて、あらゆる案内表示が箕面萱野に置き換わっている。

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新大阪駅
(左)もう見られない千里中央行
(右)更新された路線図
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架線のない線路が北へ延びる
新大阪駅北待合室から北望
 

やってきたその箕面萱野行きに乗って、北へ向かった。両側の新御堂筋をクルマがひっきりなしに行き交い、その外側を中層のマンションや商業ビルがびっしりと取り囲む。東三国(ひがしみくに)に停車後、神崎川(かんざきがわ)を斜めに渡れば大阪市域を離れ、次が会社境界駅の江坂だ。

大阪メトロの管理駅はここまでで、短い停車時間に乗務員の交替が手際よく行われる。改札口はホームの両端にあり、出ると歩道橋で新御堂筋の側道(下道)をまたいで、側歩道に降りられるようになっている。

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江坂駅
(左)高架の島式ホーム
(右)歩道橋で側歩道に接続
 

下の写真は江坂駅の券売機コーナーだが、機械を大阪メトロと北急に分けているのが境界駅ならではだ。そのため、メトロ(地下鉄)の券売機の前で立ち尽くし、千里中央の切符はどうやって買うのか、と後ろに並ぶ客に尋ねている人を今でも見かける。

また、北急の運賃にも注目したい。1区わずか100円、千里中央まで6km乗っても140円だ。以前は1区80円だったと記憶するが、いずれにしろ破格値に違いない。ただし江坂を跨ぐと両社の運賃が合算(下注)されるため、相応の価格になる。これに対して、新規開業区間は60円の加算運賃が設定されて、1区160円だ。これでも他の公共交通に比べれば安い方だが。

*注 ただし短区間は、激変緩和策で合算額から20円割引。

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江坂駅の券売機コーナー
会社別に完全分離されている
 

さて、北急線に入ると新御堂筋が地上に降りていき、いったん鉄道単独の高架になる。トラス橋でまたぐ4車線道は名神高速道路で、この後30~35‰の急勾配で千里丘陵に上がっていく。緩いカーブでルートがやや西に振れているのは、東側の五里山(ごりやま)と呼ばれた尾根筋を避けたようだ。旧版地形図によればピークの標高は83.1mあり、今も一部は均されずに残っている。

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緑地公園駅に接近する上り列車
 

進むうちに新御堂筋のほうがじわじわと高くなり、次の緑地公園(りょくちこうえん)駅は掘割の中にある。ホームから空は見えるが、屋根の上は新御堂筋の本線道路だ。改札口も周囲の土地より低い位置にあるため、街路からは階段を降りて入る形になる。

唯一、西口は商業ビルの中を抜けて、幅広い緑陰の散歩道に続いている。まっすぐ進めば、駅名の由来である服部(はっとり)緑地公園にたどり着く。東の万国博記念公園と並ぶ、千里丘陵周辺に設けられた広大なオアシスだ。

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掘割の中にある緑地公園駅
ホーム屋根の上は新御堂筋
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(左)緑地公園駅西口
(右)服部緑地、東中央広場
 

緩い左カーブを曲がりきると、再び新御堂筋と並走する直線区間になる。周りはなお商業ビルが立ち並ぶが、竹藪や林も少しずつ見え始めて、丘陵の開発地らしい風景に変わってくる。

左後方に分かれていく桃山台車庫への引込線を見送ると、桃山台(ももやまだい)駅だ。すでにニュータウンの中核部にさしかかっていて、駅の周辺は、ゆったりした敷地に建つマンション群や整然と並ぶ住宅地が広がる。すぐ南に、昔の農業用ため池である春日大池の公園があるが、ここから新御堂筋と北急の線路を跨ぐ歩道橋を渡れば、桃山台車庫の横に出られる。鉄道好きには楽しい観察コースだ。

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桃山台駅、ホームに花壇も
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下り列車が桃山台駅を出発
南側歩道橋から撮影
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(左)桃山台駅から南望、車庫への引込線が右へ分岐
(右)桃山台車庫
 

桃山台を出ると、ニュータウン開発以前からある集落、上新田を迂回するため、ルートはまた左に振れる。行く手に高層ビル群やタワーマンションが見えてくるが、線路はまもなく地中に潜ってしまう。トンネルの中で右に曲がり、続いて左に反転するが、その際、右前方に万博会場へ向かっていた線路の跡がちらと見える。

路線延伸で中間駅の一つになってしまったとはいえ、千里中央、略して「せんちゅう」は今なお千里ニュータウンの公共交通の中心だ。北急と直交する形で伊丹(大阪国際)空港に至る大阪モノレールの駅があるし、ニュータウン内外に路線網を拡げる阪急バスが、駅の周りに多数の乗り場を構えている。またすぐ南に、新御堂筋と中国自動車道・中央環状線の大規模なインターチェンジがあるから、広域道路網上でも重要な地点だ。

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千里中央駅
(左)隣の駅名が左右両側に
(右)モノレール駅に通じる2階デッキ
 

北急のホームは地下2階に位置する。改札のある地下1階まで吹き抜けの構造で、ホームに停車中の電車を上から俯瞰できるのがユニークだ。きっと設計者は、御堂筋線の初期の駅に見られるヴォールト天井の広い空間をオマージュしたのだろう。上部は、せんちゅうパルと呼ばれる商業ビルで、1階はバス乗り場へ、2階はモノレールの駅へ通じている。

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2層吹き抜けの千里中央駅ホーム
 

さて、いよいよここからは開業したての新線だ。千里中央駅は新御堂筋から約150m東にあるので、線路はS字状に曲がって再びメインルートに戻る。地下を通っているため、乗客は気づくことがないが、地表の道路は北に向かって上り勾配だ。ニュータウンの外縁で、自然の尾根筋を残した千里緑地と呼ばれるグリーンベルトを通過している。

新線に一つだけある中間駅は、箕面船場阪大前(みのおせんばはんだいまえ)という。最近の新駅は、関係各方面に配慮し過ぎて名前が長くなりがちだが、これもその例に漏れない。箕面は市名、船場は地域名で、阪大前は近くにある大阪大学のキャンパスビルに由来する。

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箕面船場阪大前駅のホームと改札
 

ニュータウンの北に接するこのエリアは、過密化した大阪市内の繊維問屋街、船場から業者が多数移転して、新船場地区と言われた場所だ。直交する通りに商業ビルが林立していて、ニュータウン側とはまた別の景観を呈している。

駅のホームはもとより、改札階も地下にある。だが、南口には外光が入る吹き抜け空間が設けられ、長いエスカレーターが、コンコースと地上2階に相当するペデストリアンデッキを直結する。このデッキは、新しくできた市の文化施設や阪大のキャンパスビルに通じていて、商業地区の中でちょっと異質のこじゃれた雰囲気を漂わせている。

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南口の吹き抜け空間
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(左)南口1階
(右)2階相当のデッキは阪大のキャンパスビル(左奥)に続く
 

箕面船場阪大前を出発すると、まもなく列車は明かり区間に飛び出していく。谷底へ下っていく新御堂筋に対して、線路はやや上り勾配で高架に移る。前方に、北摂山地の山並みとその手前に広がる市街地が見渡せ、つかのま開放的な気分に浸れる。

高架の線路が横断しているのは、千里丘陵と北の山地との間で東西に横たわる回廊地形だ。古くは西国街道(山陽道)が通ったルートで、今は国道171号に引き継がれている。箕面萱野駅は、そのすぐ北側の緩斜面を区画整理した商業地の一角に造られた。頭端式のホームは見晴らしのいい高架上にあり、北口改札から段差なしでペデストリアンデッキに出られるようになっている。一方、国道に近い南口の周辺はまだ工事中で、仮囲いで覆われていた。

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箕面萱野駅の手前ですれ違うメトロ21系
地下線の出口から北望
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箕面萱野駅
(左)高架上のホーム
(右)改札から段差なしで続く

この路線の構想は1960年代まで遡るという。しかし、千里中央まで開通後、延伸区間が国の運輸政策審議会の答申に盛り込まれたのは1989年、事業が具体的に動き出したのは2010年代だ。2017年に始まった建設工事は、7年を経て完成に至った。この3月23日は、構想を推進してきた地元にとって待望の日だったことだろう。

しかし、このエリアがこれまで鉄道に恵まれていなかったのかというと、そうでもない。従来の最寄り駅は阪急箕面線の終点、箕面だが、萱野駅とは約2kmしか離れておらず、自転車で十分通える距離だ。ただ、箕面線で梅田に出るには、石橋阪大前で宝塚線に乗換える必要がある。それで、大きな運賃差(下注)が難点ではあるものの、今後はずっと座っていける可能性のある北急ルートに軍配が上がりそうだ。

*注 梅田までの運賃は、北急+御堂筋線の480円に対し、阪急は280円。ただし梅田で地下鉄に乗継ぐなら、その差はほとんどなくなる。

北大阪急行は大阪府なども出資する第三セクターだが、過半の株を保有しているのは阪急電鉄だ。新線の評判が良すぎて、既存の自社線の利用者数に大きな影響が出ても困るし、親会社としては悩ましいところだろう、と傍観者は勝手に想像している。

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江坂駅で見かけた飾り絵
 

■参考サイト
北大阪急行 https://www.kita-kyu.co.jp/

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 2024年開通の新線
 新線試乗記-北陸新幹線、敦賀延伸

2024年4月11日 (木)

新線試乗記-北陸新幹線、敦賀延伸

朝8時すぎ、京都駅0番線から北陸方面へ行く在来線特急サンダーバード5号に乗り込んだ。発車すると、車内に自動アナウンスが流れる。「停まります駅は、終点敦賀(つるが)です」。そのあと武生、鯖江、福井と耳になじんだ駅の名が続かず、次がもう列車の終点と告げられたことに改めて感慨を覚えた。

2024年3月16日、北陸新幹線が敦賀まで延伸開業して、サンダーバードとしらさぎの運行(下注)を置き換えた。長野~金沢間開業から数えて9年、線路の先端は今や福井県の南半部、嶺南(れいなん)地方に達し、名実ともに北陸を貫通する新幹線になった。

*注 「サンダーバード」は関西と北陸を、「しらさぎ」は東海と北陸を、それぞれ結んでいる在来線の特急列車。

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新規開業区間を行くE7/W7系
トレインパーク白山にて

朝日がまぶしい琵琶湖西岸を滑るように北上して、サンダーバードは滋賀と福井の県境にある長いトンネルを抜ける。谷が開けて敦賀の市街地が見え始めるころ、速度がするすると落ちた。いつもなら右の車窓に上り線(大阪方面)の築堤が続き、左からは小浜線の単線線路が寄り添ってくるのだが、今日は違った。

視点が徐々に上がり、上り線と同じレベルになる。右側は新幹線の車両基地が見え、左は在来線のヤードを斜め上から見下ろす形だ。まもなく列車は、高架を支えるコンクリートの柱の間に入り込んでいき、ほぼ定刻で敦賀駅32番線に滑り込んだ。

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(左)特急の車窓から見下ろす敦賀駅の在来線ヤード
(右)新幹線接続用の新設ホームに到着
 

高架下に広がるこの2本のホームは、新幹線開業に伴い、接続する在来線特急列車のために新設されたものだ。西側(進行方向左側)の31、32番が降車用、東側の33、34番が乗車用になっている。

列車を降り、エスカレーターで上の階に行くと、ヴォールト状の天井に覆われただだっ広いコンコースに出た。随所に配置された誘導員が、次々と上がってくる客を乗換改札のほうに案内している。なにしろ、最大12両つないでいる特急列車の乗客が一斉に動くので、列は延々とぎれない。その人波を受け入れる改札機も、コンコースの横幅いっぱいに並んで壮観だ。

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敦賀駅
(左)混雑する新幹線乗換口
(右)コンコース幅いっぱいの乗換改札
 

ところで北陸新幹線では、主要駅のみ停車の速達便が「かがやき」で、おおむね長野以西で各駅に停まっていく列車は「はくたか」と呼ばれる。それ以外に富山~敦賀間でシャトル運転される「つるぎ」がある(下注)。

*注 「つるぎ」には速達タイプと各停タイプが混在している。また、本稿の範囲外だが、東京~長野間には各停タイプの「あさま」も走っている。

直近で接続する新幹線の列車は、9時11分発のつるぎ6号 富山行だ。サンダーバードの到着が9時03分なので、時刻表記載の乗換標準時分どおり、8分で接続する。一方、富山を越えて東進するのは、9時21分発のかがやき508号 東京行だ。大阪や京都から北陸新幹線経由で東京へ行く人は稀だろうから、富山止まりのつるぎを最短接続で先行させているようだ。

人の流れに従って歩けば、焦らずとも先発に乗継ぎ可能だが、その前に開業したての駅のようすを観察しておこう。

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(左)在来線特急乗り場への誘導サイン
(右)西口の既存駅舎へ向かう長い通路
 

新幹線コンコースと市街に面した西口(まちなみ口)の駅舎との間には、新しい跨線橋が設置された。距離と高低差が大きいため、下りエスカレーター、ムービングウォーク、そしてまた下りエスカレーターと、どこかの地下鉄の通路のような長い動線だ。西口駅舎も、10年ほど前に交流施設を併設する形で改築されたが、在来線ホームへ通じる既存の地下道はほぼ手つかずで、客車列車が走っていた時代の雰囲気をまだ残している。

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(左)一足先に改築された西口
(右)在来線ホーム、奥に地下道への階段がある
 

新幹線開業に合わせて反対側に東口(やまなみ口)が新設されたと聞いたので、そちらにも行ってみた。新幹線乗換改札のすぐ横、死角になるような位置にその改札がある。エスカレーターで直接1階に降りることができるが、外へ出ても、タクシーがぽつんと停まっているだけで、がらんとしてひと気がなかった。東側はもともと在来線のヤードが広がっていて、通路も改札口もない場所だった。しかし、国道8号バイパスが近くを通っているから、クルマで来るなら利用価値がありそうだ。なお、駅の東西をつなぐ改札外の自由通路はないので要注意。

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(左)新設された東口
(右)広いが、がらんとした空間
 

さて、そろそろサンダーバードからつるぎへの乗継大移動も収まったようだ。乗換改札を入ろう。高さ21m、ビル7~8階相当という階上の新幹線ホームは2面2線で、西側が11、12番、東側が13、14番だ。既存区間で見慣れたE7/W7系が停車している。

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(左)列車案内板に東京の文字が
(右)床が木目調の新幹線ホーム
 

この後は金沢まで、新規区間を初乗りしながら、中間各駅のようすも見ていきたい。

敦賀駅をゆるゆると出ると、列車の左車窓には市街地と、その先に一筋の青い海(敦賀湾)が見える。しかしそれもつかの間、短いトンネルに続いて、長さ19,760mの新北陸トンネルに突入する。在来線で陸上最長を誇る北陸トンネル(13,870m)の、さらに1.4倍もある長大トンネルだが、ものの5~6分であっさり通過してしまった(下注)。

*注 新北陸トンネルと次の脇本トンネル(1027m)の間はシェルターで覆われているため、車窓からは一続きのように意識する。


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敦賀駅を後にして北に向かう列車
 

日野川の河原を渡り、武生トンネル(2399m)を抜けると、最初の中間駅、越前たけふだ。開業区間で唯一の新幹線単独駅で、町の東の田園地帯に造られた。在来線(下注)の武生(たけふ)駅とは直線距離で2.7kmしか離れていないが、間に腰を据える村国山の山かげになり、見通すことはできない。

*注 新幹線開業に伴い、並行在来線となる福井県区間は、第三セクター鉄道の「ハピライン福井」に転換された。

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越前たけふ駅西口
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(左)下りホーム
(右)伝統工芸品をあしらった内装が目を引く
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(左)越前和紙の造花
(右)和紙をはめこんだ待合室の壁面
 

こうした新設駅は、列車の到着時を除けば森閑としているのが常だ。ところが、駅前に出てみるとBGMが流れ、人やクルマの動きもけっこうある。というのも、隣接地に道の駅が開設されているのだ。国道8号バイパスや北陸道の武生ICが近接しているので、立地条件は確かに良好だ。新幹線を利用する地元の人も、駅までは自家用車で来るだろうから、こうしたオアシスを置くのは理にかなっている。

方や、市街地との間の公共交通は新設のシャトルバスが担っているようだ。とはいえ、たかだか5kmの走行距離で1乗車500円は高いように思う。武生へは、在来線でも福井や敦賀から20~30分で着いてしまうので、利用率を控えめに見込んでいるのだろうか。

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新幹線駅舎に隣接する道の駅
 

越前たけふを後にすると、列車は北陸自動車道を斜めに横切り、田園地帯を驀進していく。左手に、巨大な土瓶のような鯖江(さばえ)のイベント施設、サンドーム福井が目を引く。トンネルを2本抜け(下注)、再び北陸道と交差すると、速度が落ちて、市街地が広がってくる。赤白のテレビ塔が立つ足羽山(あすわやま)が、山脚を長く伸ばしている。足羽川を渡り、在来線の架線ビームが視界に入ってくれば、まもなく福井駅だ。

*注 実際は敦賀方から第2鯖江、第1鯖江、第2福井、第1福井の4本のトンネルがあるが、いずれも第2と第1の間はシェルターでつながっている。

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(左)テレビ塔が立つ足羽山
(右)足羽川を渡る
 

列車がホームに着くと、降りる人と入れ違いに、けっこうな人数が乗り込んでいく。平日とあってスーツ姿のビジネスマンが目立った。これまで米原や金沢で列車を乗り継ぐ必要があったことを思えば、東京直通のインパクトは大きいに違いない。

いうまでもなく、ここは速達列車も停車する県の代表駅だ。しかし、在来線とえちぜん鉄道の駅にはさまれた窮屈な場所にあるため、1面2線、島式ホーム1本ですべての列車をさばいている。全国的に見ても、島式1本の新幹線駅は三島駅とここしかないという(下注)。コンコースからホームに上がるエスカレーターも東京方面、敦賀方面の区別がないのが、かえって新鮮だ。

*注 ただし三島駅は、ホームに接する線路(副本線)のそれぞれ外側に通過線(本線)がある。

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福井駅
(左)駅名標と開業記念のポスター
(右)在来線乗換口、右の階段で新幹線の島式ホームへ
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北陸本線(在来線)はハピラインふくいに移管
 

前回福井に来た2018年には、えちぜん鉄道の福井駅がまだ工事中で、勝山や三国港行きの電車が現在の新幹線駅の構造を借りた仮設ホームに発着していた。線路の上部構造はすっかり更新されて当時の面影は消えているが、北側に見通せる景色はおそらく変わっていない。

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現 新幹線駅の位置に仮設されていたえちぜん鉄道福井駅
(左)駅に到着する電車
(右)駅の南方は工事中だった
(いずれも2018年6月撮影)
 

ところで、福井駅でおもしろいのは、周辺に地元ゆかりの恐竜が多数たむろしていることだ。以前から正面(西口)の駅前広場に大恐竜フクイティタンやフクイサウルスが生息しているのは知っていたが、東口でもフクイラプトルの骨格標本や子どもの恐竜を見かけた。さらに帰りの列車でぼんやり外を見ていたら、東口の階上にもいるではないか。しかし、恐竜の追っかけを始めたら、時間が足りない。次へ進もう。

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西口広場に生息するフクイティタン
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(左)東口に置かれた骨格標本
(右)子恐竜と戯れる
 

福井を出ると、左が在来線、右がえちぜん鉄道と、高架での珍しい三者並走区間を経て、単独ルートに移る。まもなく渡る九頭竜川(くずりゅうがわ)橋梁は、県道30号福井丸岡線との併用橋だ。新幹線の紹介記事によく取り上げられているので、期待していたが、防音壁に遮られて、車窓からはせいぜい走るトラックの荷台の天板程度しか見えなかった。

防音壁といえば、最近の新幹線はどこも壁が高くて車窓の楽しみはそがれがちだ。しかし今回の開通区間は、田園地帯を多く通るからか、全体として視界が開ける時間が長いように感じた。再び在来線が接近してくると、次は芦原温泉(あわらおんせん)駅に停車する。

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芦原温泉駅
 

この駅の構造は、敦賀駅パターンの亜種だ。在来線ホームへの通路(地下道ではなく跨線橋)はもとのままで、北側に新幹線駅直結の跨線橋が新設されている。ただし、改札内ではなく自由通路になっていて、以前はなかった裏側(東側)への通り抜けが可能だ。

駅名になっている芦原温泉は、西に約4km離れている。この間を結んでいた国鉄三国線(下注)は1972年に廃止され、跡地は道路に転用されてしまった。もし存続していたら、新幹線から芦原温泉や東尋坊への観光ルートとして活用できたのかもしれないが、今となっては夢物語だ。

*注 金津(現 芦原温泉)~三国港間9.8km。このうち芦原(現 あわら湯のまち)~三国港間はえちぜん鉄道の路線として存続している。

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(左)西口、自由通路の跨線橋で新幹線駅に直結
(右)南側に在来線の跨線橋も残る
 

芦原温泉のあとは福井、石川の県境を成す低山地を越える。長さ5460mの加賀トンネルをはじめ、大小のトンネルが断続している。長い闇を抜けると大聖寺(だいしょうじ)の市街地をかすめ、右にカーブして加賀温泉駅に近づく。

加賀温泉という温泉地が実在しないというのは、知られた話だ。加賀三湯と総称される山中、山代、片山津の各温泉には、かつて大聖寺と動橋(いぶりはし)から私鉄(下注)が延びていた。それらが一斉にバス転換された時代、北陸本線の特急をどちらに停車させるかを巡って、ダイヤ改正のたびに両者の間で争奪戦が繰り広げられた。

*注 大聖寺起点の北陸鉄道山中線と、動橋起点の同 山城線および片山津線。1965~71年廃止。このほか粟津(あわづ)駅から粟津温泉、那谷寺へ向かう粟津線(1962年廃止)もあった。

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加賀温泉駅
(左)副本線に接するホーム
(右)記念写真が撮れる花のベンチ
 

その調停策とされたのが、両者の中間にあった小駅、作見(さくみ)の再開発だ。2面4線の構内と駅前広場、連絡道路が整備され、1970年に駅名を加賀温泉と改称のうえ、オープンした。無名の小駅からついに今般、新幹線停車駅にまで登り詰めたとはいえ、在来線側はさほど手が加えられていない。ホームに通じる地下道は改装されたが、狭い間口はそのままだ。西側にあったはずの南北自由通路はまだ工事中で、閉鎖されていた。

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(左)在来線ホームへの地下道
(右)IRいしかわ鉄道に転換された在来線
 

表口である南口は、新幹線駅が立ち上がったことで風景が一変した。広場の東側に面したアビオシティは以前からあるショッピングモールだが、周囲に商店街がないので重宝する存在だ。1階でみやげものになる特産品も多数扱っている。

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駅正面(南口)に隣接するアビオシティ
 

さて、加賀温泉駅を出発したら、右側の車窓に注目したい。遠く南東方向に主峰の白山(はくさん)をはじめ、この時期なら雪を頂く加越山地の山並みが見渡せる。金沢までもうトンネルはないので、ところどころの防音壁を除けばこの荘厳な眺めが途切れることはない。

少し行くと手前に、内陸に残された潟湖、木場潟(きばがた)の穏やかな水面が広がってくる。在来線では家並みの隙間から断片的にしか見えないが、新幹線はすぐ近くを通り、また高架なので眺望はほしいままだ。朝は逆光だが、午後になると、水郷の背後に連なる山々が日差しに映えて、なかなかの絶景になる。

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木場潟のほとりを行く新幹線
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木場潟西岸から白山の眺め
 

小松駅では在来線も高架に載り、1階を、自由通路を兼ねた広いコンコースが貫いている。券売機に長蛇の列ができていた。開業して間もないので試乗客も多いのだろう。

表口である西口もさることながら、東口は見違えるほどきれいになった。かつて小松製作所の工場が広がっていた場所が、こまつの杜(もり)という名の体験型施設に再生されているのだ。海外の鉱山で稼働しているという超大型のパワーショベルとダンプの屋外展示がまず目を引く。後ろには会社の歴史展示館などがあり、北側は里山を復元した公園になっている。私もここのあずまやに腰を下ろして昼食にした。

なお、表口の北には以前から、ボンネット型特急車両の489形を静態保存する土居原ボンネット広場がある。こまつの杜の北端からも近いので、ついでに訪ねてみるといい。

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小松駅
(左)市街地に面する西口
(右)こまつの杜に面する東口
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(左)開業を告げる垂れ幕
(右)里山が透ける市松模様の壁面
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土居原ボンネット広場の489形
 

小松駅を後にすれば、次はもう金沢だ。列車は、手取川が造った広大な扇状地を横断していく。国道8号の橋の向こうにフィッシュランドの観覧車を眺めながら川を渡ると、左から在来線の線路が寄り添ってくる。この先はずっと在来線に沿っていくが、片や高架、片や地上なので、車窓ではあまり意識されないかもしれない。

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手取川を渡る
 

W7系の基地である白山総合車両所の建物とヤードの横を通過するのは、ほんの数秒の間だ。しかし、沿線探訪の旅をするなら、隣接地に開設されたばかりのトレインパーク白山は外せない。白山市が運営するこの施設のセールスポイントは、車両整備場の内部がいつでも観察できることと、階上に新幹線を展望するスペースを備えていることだ。

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トレインパーク白山
(左)施設全景
(右)車両整備場の見学デッキ
 

整備工場とは、施設の4階から渡り廊下でつながっている。場内に入るとガラス張りの見学デッキがあり、検査線で作業中の2編成が見えた。奥の番線にも別の2編成がいるようだが、残念ながら半透明のパネル越しだ。

5階はガラス張りの展望室になっていて、すぐ下を通る新幹線の金沢方がすっきりと見通せる(冒頭写真参照)。同じフロアの屋外デッキに出ると、今度は敦賀方が一望になる。東側は、広い田園地帯と加越山地で、晴れた日なら爽快なパノラマが楽しめるだろう。また、1階には、新幹線車両に関する部品とパネルの展示が、3階にはこども向けの遊具コーナーがある。5階の展望室以外は有料だ。

トレインパーク白山へは、在来線の加賀笠間駅から約1.1km、徒歩で15分以内だが、シャトルバスも出ている。休日は子供連れが多いので、時間制のネット予約をしておくといい。

■参考サイト
トレインパーク白山 https://train-park.com/

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見学デッキから見た車両整備風景
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展望デッキで列車を見送る
 

新幹線の車内に話を戻そう。総合車両所を見送れば、周囲は住宅や店舗に埋め尽くされるようになり、まもなく金沢到着の予告放送が流れる。速度が落ち、高いビルに囲まれた犀川(さいがわ)を渡れば、駅のホームが見えてくる。

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(左)犀川を渡る
(右)金沢駅に到着

敦賀から金沢まで「かがやき」で42~43分、サンダーバードならまだ芦原温泉あたりを走っている時間だから、確かに速い。各駅停車の「はくたか」「つるぎ」でも1時間弱で、北陸エリア内の移動は便利になった。一方で、敦賀での乗換えはやはり面倒だ。関西方面から往復する場合、往路よりも、仕事帰りで疲れている復路のほうが、その感は強い。

敦賀から新大阪への延伸ルートについては、複数の案が出るなか、小浜(おばま)・京都経由とすることが2016~17年に決定している。とはいえ、小浜と京都の間はすべて山地のため、おそらく長さ50~60kmにも及ぶ長大トンネルを通す必要がある。また、京都では、市街地の地下深くに2面4線の大きな地下駅を建設しなければならない。

素人目には、米原で東海道新幹線に乗り入れれば、建設費が格段に少なくて済むし(下注)、名古屋方面との接続もスムーズだと思う。しかし、両者の運行システムの違いが技術的に克服できたとしても、各地域の利益代表者が抱くさまざまな思惑が絡んで、そう単純には行かないらしい。

*注 敦賀~米原間の直線距離はわずか40km。県境の山地を越えた後は、琵琶湖東岸の平野部を通過するので、トンネルの延長も短くできる可能性がある。

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福井駅に入る下り列車
 

もちろん現時点で、東海道新幹線の過密ダイヤに北陸方面の列車をさらに割り込ませることは難しい。しかし、リニア中央新幹線が新大阪まで全線開業した後、現 新幹線の旅客需要はまちがいなく縮小する。リニアが素通りする京都へも、所要時間から見て、リニアで新大阪まで行き、在来線に乗換える客が多くなるのではないか。

というのも現在、東京~京都間は「のぞみ」で132分(2時間12分)だが、こうした速達型はリニアで代替されてしまうからだ。東海道新幹線の運行の中心が、途中数駅に停車する「ひかり」型になれば、所要時間は150分(2時間30分)前後まで延びるだろう。

東京~京都間をリニア経由で移動するなら、品川~新大阪間67分と両端の在来線8分+24分(下注)に、乗継ぎ時間を加えても120分程度で、時間的な優位性が高い。今、敦賀駅で経験しているように乗換えは面倒だが、観光客はともかくビジネス客にとって時は金なりだ。同じくリニアが通らない横浜でも、同様のことが起きるのではないだろうか。

*注 東京~品川間、東海道線で8分、新大阪~京都間、新快速で24分。

そうなれば、東海道新幹線にダイヤの余裕が生じ、米原から北陸新幹線の列車を乗り入れることが可能になる。既存の新幹線京都駅を有効活用できるし、東海道新幹線の採算悪化を少なからず埋め合わせることができる。さらに言えば、米原~新大阪間をJR東海からJR西日本に移管してもいいぐらいだ(並行在来線ならぬ並行新幹線?)。

とはいえ、品川~名古屋間のリニア開業でさえ、着工の遅延で2034年以降と予想されているぐらいだから、北陸新幹線の次なる延伸が実現するまでには、まだ長い時間と紆余曲折があるのだろう。そのうちに、不満噴出の敦賀での乗換えも、慣れて当たり前の光景になっていくような気がする。

■参考サイト
鉄道・運輸機構-北陸新幹線 https://www.jrtt.go.jp/project/hokuriku.html

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