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2023年12月

2023年12月29日 (金)

ポルトガルの保存鉄道・観光鉄道リスト

イベリア半島の一角に位置するポルトガルには、隣国スペインと共通の広軌1668mm(イベリア軌間)の路線網があるが、独立して活動する保存鉄道は存在しないようだ。その代わり、この国は路面電車、通称エレークトリコ Eléctrico がおもしろい。首都リスボン Lisbon 市内とその郊外、そして北部にある第二の都市ポルト Porto でも、古風なボギー単車が今も健在だ。まずはそれから見て行こう。

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リスボンの「レモデラード」トラム
サン・ヴィセンテ通り Calçada de São Vicente にて(2023年)
Photo by Industrial Wales at flickr. License: CC BY-SA 2.0
 

「保存鉄道・観光鉄道リスト-ポルトガル」
http://map.on.coocan.jp/rail/rail_portugal.html

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「保存鉄道・観光鉄道リスト-ポルトガル」画面
 

項番7 リスボン路面軌道 Elétricos de Lisboa

カリス Carris 社(下注)が運行する軌間900mmの路面軌道は、イベリア軌間のCP(ポルトガル鉄道、旧国鉄)、標準軌のメトロ(地下鉄)とともに、リスボンの軌道系交通機関の一翼を担っている。

*注 正式名はリスボン鉄道会社 Companhia Carris de Ferro de Lisboa で、リスボンの路面軌道、ケーブルカー、市内バスを運行する市有企業。

現在の路線網は延長31kmで、6つの運行系統をもつ。中でも人気が高いのが、中心部のマルティン・モニス広場 Praça Martim Moniz から西部のカンポ・デ・オウリケ Campo de Ourique へ行く28E系統だ。ルート前半には城塞、大聖堂、テージョ川 Rio Tejo を見晴らす展望台など名所が集中する。そのため車内は満員御礼、乗り場に待ち行列ができている。

軌道自体も目が離せない。車幅すれすれの狭い街路、レールをきしませて曲がる急カーブ、のけぞりそうな急坂と、過酷な関門が次々と現れる。グラーサ Graça からアルファマ Alfama にかけて続くこうしたハイライト区間(下注)を、撮り鉄しながら徒歩でたどるのも一興だ。

*注 ただし、粘着式鉄道の最急勾配とされる138‰の坂があるのは、バイシャ Baixa 地区のサン・フランシスコ通り Calçada de São Francisco。

リスボンで現代的な連節車が見られるのは、テージョ川沿いをベレーン Belém 方面へ進む15E系統のみ。他の系統はすべて「レモデラード Remodelado(下注)」など、小回りの利く旧型ボギー単車の独擅場になっている。歴史地区の陰りを帯びた景観に走行シーンはよくなじみ、訪れる観光客を常に魅了してやまない。

*注 レモデラードは改修車の意。車体こそ古めかしいが、搭載機器は1990年代に全面更新されている。

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アルファマの街路を縫うリスボンの観光トラム(2016年)
Photo by Julian Walker at flickr. License: CC BY-NC-ND 2.0
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15E系統のジーメンス/CAF製連節車
ジェローニモス修道院 Mosteiro dos Jerónimos 前にて(2017年)
Photo by xiquinhosilva at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番6 シントラ路面軌道 Elétricos de Sintra

リスボン中心部の北西約20kmに位置するシントラ Sintra でも、市営の古典トラムがシーズン運行している。こちらはメーターゲージ(1000mm軌間)の単線で、走っているのは1904年の開業時からの在籍車両や、改軌された元リスボン車だ。リゾートエリアらしく、オープンタイプも混じる。

かつては国鉄(現 CP)シントラ駅前まで通じていた(下注)が、現在の起点は、駅から約700m離れた市街北端のエステファニア Estefânia。ルートはここから、大西洋に面したプライア・ダス・マサンス Praia das Maçãs(リンゴ海岸の意)に至る11.0kmで、大半がいわゆる道端軌道だ。路上の併用区間はほとんどない。

*注 シントラ駅~エステファニア間は1955年廃止。

シントラは、山上に建つカラフルなペーナ宮殿 Palácio da Pena などで知られた世界遺産の町だ。市街地は山地の中腹にあり、エステファニアの標高は200m。そのため走り始めてしばらくは、ヘアピンカーブを介した平均勾配37‰の下り坂が続く。降りきった後は並木道と鄙びた村里を悠然と走り抜け、終点は大西洋に臨んで陽光あふれるビーチの前だ。片道45分を要し、案外乗り応えがある。

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道端軌道を行くシントラのトラム(2010年)
Photo by Alain GAVILLET at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番2 ポルト路面軌道 Elétricos do Porto

ポルトのトラム路線は現在3系統。リスボンと同じように戦前製の古典車両が主役を演じるが、観光運行に特化されているところが異なる点だ。「ポルトトラムシティーツアー Porto Tram City Tour」という名称で一括され、乗車券も市内交通とは別建てになっている。市民の足はメトロ(LRT)や路線バスで確保され、トラムは市外から来る観光客向けという位置づけのようだ。

ルート構成を見ると、22系統がリスボンの28Eに相当する。急坂が多い旧市街 Centro Histórico の環状ルートで、町の中心の広場や賑やかな商店街を通過し、壁面のアズレージョ(装飾タイル)が映えるサント・イルデフォンソ教会 Igreja de Santo Ildefonso やクレーリゴスの塔  Torre dos Clérigos といった名所の前に停まる。

一方、ドウロ川沿いに足を延ばす1系統は、リスボンの15Eを思わせる。エンリケ航海王子の生家があるインファンテ Infante を出発し、川岸の古い町並みをかすめたりしながら、河口近くのパッセイオ・アレグレ Passeio Alegre まで行く。時間が許すなら途中下車して、旧車を保存しているトラム博物館 Museu do Carro Eléctrico にも立ち寄ってみたい。

*注 詳細は「ポルトの古典トラム I-概要」「同 II-ルートを追って」参照。

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カルモ電停で2本の系統が接続(2018年)
Photo by Bene Riobó at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番3 ドウロ線 Linha do Douro
項番4 ドウロ歴史列車 Comboio Histórico do Douro

ポルト市街の前を流れるドウロ川 Rio Douro(下注)は、遠くスペインの内陸部から約900kmを流れ下ってくるイベリア半島第3の大河だ。ポルトガル領内は水量豊かな渓谷が続き、名産ポートワインの原料となるブドウの段々畑が広がっている。

*注 スペイン語ではリオ・ドゥエロ(ドゥエロ川)Río Duero。

CPのドウロ線は、この川べりを遡る非電化、イベリア軌間の路線だ。かつては国境を越えてスペインにつながっていたが、現在の運行区間は、北部本線との分岐点エルメジンデ Ermesinde からポシーニョ Pocinho までの163km。ただし、列車はポルト市内のサン・ベント S. Bento またはカンパニャン Campanhã 駅から直通している。

国内きっての美しい車窓風景を誇る路線(下注1)なので、全線通しで走る列車は「ミラドウロ MiraDouro」(下注2)と命名され、観光仕様の客車で運行される。しかし、距離があるだけに、片道でも約3時間30分の長旅だ。

*注1 なお、行程の前半はドウロ川から離れた北の山中を走るため、川景色は見えない。
*注2 展望台の意味をもつ普通名詞ミラドウロ miradouro に、川の名を掛けている。

より手ごろなのは、路線の中間部にあるワインの集積地レーグア Régua からトゥア Tua の間で、1925年製の蒸気機関車が牽いている観光列車「ドウロ歴史列車 Comboio Histórico do Douro」だろう。こちらはシーズン運行で往復3時間。ドウロ川を行くクルーズ船と組み合わせたツアーも発売されている。

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ヴェンダ・ダス・カルダス橋梁 Ponte da Venda das Caldas
(2017年)
Photo by Nelso Silva at wikimedia. License: CC BY 2.0
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ブドウ畑を背に川べりを行くドウロ歴史列車(2019年)
Photo by Nelso Silva at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

項番5 ヴォウガ線 Linha do Vouga

イベリア軌間の幹線網を補完するメーターゲージのローカル線は、かつて国内各地で見られた。だが今や稼働しているのは、ポルト近郊のエスピーニョ Espinho から内陸のセルナーダ・ド・ヴォウガ Sernada do Vouga を経てアヴェイロ Aveiro に至るヴォウガ線 Linha do Vouga だけだ(下注)。

*注 ヴォウガ線は本来、セルナーダ・ド・ヴォウガから東の山中にあるヴィゼウ Viseu に至る路線であり、セルナーダ・ド・ヴォウガ~アヴェイロ間は支線。しかし前者(本線)の廃止により、支線には見えなくなっている。

しかしここも先行き安泰とは言えない。起伏の多い丘陵地帯を縦断していくため、蛇行谷線 Linha do Vale das Voltas のあだ名をもらうほど不利な線形だ。列車の速度は上がらず、クルマ社会の隅に埋没している。

もとの起点は北部本線のエスピーニョ駅だったが、同駅の地下化に伴い、次のエスピーニョ・ヴォウガ Espinho-Vouga 駅までの間700mが徒歩連絡になった。中間部のオリヴェイラ・デ・アゼメーイス Oliveira de Azeméis~セルナーダ・ド・ヴォウガ Sernada do Vouga 間28.9kmもすでに旅客列車は走らず、1日2便のタクシー代行だ。結果、列車に乗れるのは両端の計69.8kmに縮小されてしまった。

セルナーダ・ド・ヴォウガは小さな村の最寄り駅に過ぎないが、車両修理工場があるため、ヴォウガ線の運行にとっては重要だ。前述のタクシー代行区間でも、この工場への回送列車だけは通っている。また、駅の南側でヴォウガ川を渡っている道路併用橋にも注目したい。

一つアヴェイロ寄りのマシニャータ Macinhata 駅では、旧車庫がミュージアムセンター Núcleo Museológico として活用されている。国立鉄道博物館 Museu Nacional Ferroviário の分館という位置づけで、国内で唯一、狭軌車両を保存展示している貴重な施設だ。

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ヴォウガ線のクリスマス特別列車
セルナーダ・ド・ヴォウガ駅にて(2019年)
Photo by Nelso Silva at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

最後はケーブルカーについて。

項番1 ボン・ジェズス・ケーブルカー Elevador do Bom Jesus

北部の都市ブラガ Braga で、世界遺産に登録されたボン・ジェズス・ド・モンテ聖域 Santuário do Bom Jesus do Monte の丘に上っていくケーブルカーがある。ポルトガルで数々の工学的業績を残した技師ラウル・メニエ・デュ・ポンサール Raul Mesnier du Ponsard(下注)の記念すべき初期作品だ。

*注 フランス系ポルトガル人なので、姓はフランス語読みで記した。

長さは274m、高低差116m、勾配420‰。開業は1882年で、イベリア半島で最初のケーブルカーだった。それだけでなく、今なおウォーターバラスト(水の重り)方式の運行を維持していて、現存するものでは世界最古とされる。CPブラガ駅からは5km離れていて、2番バスで約30分。

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19世紀の装置を保存するボン・ジェズス・ケーブルカー(2013年)
Photo by Otto Domes at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

項番8 リスボンのケーブルカー Elevadores em Lisboa

ボン・ジェズスの成功によって、リスボンでも急坂の多い市内に次々とケーブルカーが設置されていった。サンフランシスコのような循環式ケーブルカー(下注)は、後にトラムに転換されてしまったが、交走式ケーブルカーは今も3本が現役で、トラムと同様、カリス社が運営する。軌間もトラムと同じ900mmで、開業当初はウォーターバランス方式だったが、蒸気運転を経て1910年代に電気式に転換されている。

*注 循環式は、路面の下を循環しているケーブルを、車両側の装置でつかむことにより走行する方式。停止するときはケーブルを離してブレーキをかける。交走式は、上部の滑車を介してケーブルでつながっている2台の車両(または1台と重り)が、つるべのように交互に上下する方式。

ビカ・ケーブルカー Elevador da Bica/Ascensor da Bica(下注)は、ミゼリコールディア Misericórdia 地区で、サン・パウロ通り Rua de São Paulo とカリャリス広場 Largo Calhariz を結んでいる。1892年の開通で、長さ283mと3路線では最も長く、高低差は45m。複線交走式だが、狭い路地に設けられた併用軌道のため、中間部以外は2本の線路が近接して、ケーブルが通る溝とともに、あたかも6線軌条のように見える。下部駅は建物の中にあるが、上部駅は街路上で屋根もない。

*注 原語の Elevador(エレヴァドール)、Ascensor(アセンソール)は、日本でいうケーブルカー(斜行昇降)にもエレベーター(垂直昇降)にも用いられる。

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中間地点ですれ違う車両(2010年)
Photo by Pedro J Pacheco at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

グローリア・ケーブルカー Elevador da Glória/Ascensor da Glória は、バイシャ Baixa 地区のレスタウラドーレス広場 Praça dos Restauradores と、展望台のあるサン・ペドロ・デ・アルカンタラ庭園 Jardim de São Pedro de Alcântara を結ぶ。旧中央駅であるCPロッシオ Rossio 駅周辺の人通りが多いエリアを行き来するので、混雑度は3線で最も高い。

1885年の開通で、路線の長さは265m、高低差44m。こちらも複線交走式、街路上の併用軌道だが、下半部では2本の線路がガントレット(単複線)化されている。客室は全床フラットのため、出入口は地面とのギャップが小さい上部側にしかないのが特徴だ。

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サン・ペドロ・デ・アルカンタラ通りに面した乗り場(2016年)
Photo by swissbert at wikimedia. License: CC0 1.0
 

ラヴラ・ケーブルカー Elevador da Lavra/Ascensor da Lavra は、カマラ・ペスターナ通り Rua Câmara Pestana とアヌンシアーダ広場 Largo da Anunciada を結んでいる。長さ188m、高低差42mで、他の2本に比べると目立たないが、交走式としてはリスボンで最初の1884年に開業している。車両はグローリア・ケーブルカーと同じ全床フラット型だ。複線交走式で、下半部がガントレット式の併用軌道という点も共通だが、上部駅にはささやかながら屋根の架かったホームがあり、乗り場の体裁が整っている。

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ベンチシートのある車内(2015年)
Photo by Aidexxx at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

このほか、メニエ・デュ・ポンサールの設計で1902年に供用を開始したサンタ・ジュスタのリフト Elevador de Santa Justa も、その特異で装飾的な外観から観光スポットとして名高い。原語では同じ "Elevador" だが、下の写真のとおり、垂直に上るエレベーターだ。これらはみな2002年以来、国の登録文化財になっているが、ケーブルカーの車両にはトラムのような車庫がなく、現場に置かれたままなので、しばしば落書き(グラフィティ)の被害に見舞われるのが悲しい。

なお現在、4番目となるケーブルカーの建設が、グラーサ Graça 地区の、ラガレス通り Rua dos Lagares~グラーサ広場 Largo da Graça 間で行われている。長さは約80mで、カリス社の運営となる予定だ。

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サンタ・ジュスタのリフト(2020年)
Photo by Ray Swi-hymn at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

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 スペインの保存鉄道・観光鉄道リスト
 フランスの保存鉄道・観光鉄道リスト-北部編
 フランスの保存鉄道・観光鉄道リスト-南部編

2023年12月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

侵食力の差によって、ある川が隣接する川の流れに介入し、そこから上の流域をまるごと奪い取ってしまう。分水界の移動を引き起こすこうした河川争奪地形の読み解きは、あたかもオセロゲームを観るような興味を呼び起こす。

2023年コンター旅の最終日に訪ねたのは、そのような地形の変化が実際に生じた場所だ。中国山地、山口・島根の県境付近にあり、当事者である川の名から「宇佐川・高津川の河川争奪」、あるいは地名から「宇佐郷(うさごう)の河川争奪」などと呼ばれている。

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河川争奪で生じた向峠(こうたお)の風隙(北東望)
 

後述するように、ここでは日本海に流れる高津川(たかつがわ)の流域に、瀬戸内海に注ぐ錦川の支流、宇佐川(うさがわ)が進出して次々と陣地を奪っていった。そのたびに奪った方の水量が増して侵食力が高まるため、奪われた川床との高低差は今や100m以上にもなる。

さらに、上流を失った旧 高津川の空谷を切り裂くようにして、支流のV字谷が横断しているのも珍しい。成立過程の複雑さと規模の大きさにおいて、ここは国内最大級の類例と言っても過言ではない。

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図1 宇佐川周辺の1:200,000地勢図
(左)1986(昭和61)年編集(右)1987(昭和62)年編集
 

中国地方では上根峠(かみねとうげ、下注)と並んで有名な典型地形だが、山中につき公共交通機関で行くのは難しいと思い込んでいた。ところがグーグルマップを見ていて、付近を通過する中国自動車道のパーキングエリア(PA)に、広島~益田(ますだ)間を走る高速バスの停留所があることに気づいた。

*注 上根峠については「コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪」参照。

他方、宇佐川の谷底には、本数は少ないものの岩国市のコミュニティバスが運行されていて、以前、岩日北線(未成線)の「とことこトレイン」に乗った帰りに実際に乗車している。

そこで、この二者を徒歩でつなごうというのが、今回の企画だ。歩く距離は約10km。ルート上には壮大な河川争奪跡だけでなく、繞谷(じょうこく)丘陵、水源池、さらには未成線跡とコンター流の見どころがてんこ盛りで、どんな景色が見られるのか期待に胸が躍る。

10月28日朝8時05分、広島駅新幹線口の高速バス乗り場に集合したのは、大出さんと私の2名。石見(いわみ)交通が運行する清流ライン「高津川号」益田行きは、駅前を発車すると、広島バスセンターでさらに客を拾った。それから長大な西風(せいふう)トンネルを抜け、広島道から中国道へと進む。

バスは太田川流域の山間部における交通機関の役割も果たしているようで、加計(かけ)、筒賀、吉和とSA・PAごとにこまめに停車していく。冠山トンネルを抜けて山口県に入った後の深谷(ふかたに)PAもその一つだ。

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(左)益田行高速バス、広島駅新幹線口にて
(右)深谷PAに到着
 

9時50分に到着。私たちは下車するが、バスもここで10分間休憩する。リュック姿で降りる客は珍しいのだろうか。運転手さんに「どこかへお出かけですか」と聞かれたので、慌てて「河川争奪の地形を見に来ました」と答えたものの、伝わったかどうかは自信がない。

このあたりは向峠(こうたお)という地名(下注)で、北側の山裾にその集落があり、前面に水田が広がっている。標高は390m前後。穏やかな山里に見えるが、東は宇佐川、西ではその名も深谷川(ふかたにがわ)の深い谷で切り取られているため、周囲から隔絶された天空の村だ(冒頭写真も参照)。

*注 行政的には、岩国市錦町宇佐郷の一部。

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山裾に広がる向峠の集落
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
深谷PA~水源公園
 

せっかく河川争奪地形を訪れるのだから、まずはそれが発生した地点、いわゆる争奪の肘(ひじ)を観察したいところだ。高津川と宇佐川の場合、それは向峠東(こうたおひがし)を横切る中国道の東側に、差し渡し1kmにわたって露出している。

しかし空中写真で見る限り、崖縁は森で覆われ、谷底を俯瞰するのは難しそうだ。何より歩く距離が2km追加になると、帰りのバスの時刻が迫ってくる。それで今回は、高速バスの車窓からざっと眺めることしかできなかった。

PAを出て北側に回ると、道の下に細い水路が走っていた。周りの谷が深く水が乏しいため、ここの水田を潤す水は、深谷川を4~5km遡った金山谷にある取水堰から用水路で引かれている。それがここに排水されているようだ。

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PAの北側を走る細い水路
(左)東(上流)方向(右)西方向
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集落から前面の水田を望む
中景の森の後ろに深谷川のV字谷がある
 

暖かい朝の日ざしが降り注ぐ中、集落を貫く県道16号六日市錦線を歩いた。道はいったん深谷川の上流方向に進むが、やがて左に回り込み、深谷大橋で谷を跨いでいく。橋の長さは99.5mだが、高さが約80mもあり、谷底をのぞき込むと思わず足がすくんだ。欄干に重ねるように高いネットが張られているのは、飛び降りを防ぐためらしい。橋のたもとには、いのちの電話の看板もあった。

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(左)深谷大橋
(右)案内板に河川争奪の説明が
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橋上から深谷川を見下ろす
 

深谷川は県境になっていて、橋を渡り終えれば島根県吉賀町(よしかちょう)だ。まもなく平地にとりつき、初見(はつみ)の集落に入る。左手遠方に、さっき通った向峠の家の屋根が、深谷の木立越しに望める。V字谷が形成される前は平面で地続きだったことがわかる。

道端に、年季の入ったバス停標識が立っていた。「六日市交通 上初見」(下注)とあるが、その下にうっすらと「国鉄バス 新田(しんた)」の文字が読み取れる。かつて国道187号経由で岩国と津和野・益田を結ぶ岩益線というバス路線があったから、その支線のようだ。

*注 吉賀町が六日市交通に委託しているコミュニティバス。

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深谷川は県境
(左)大橋東詰(右)西詰
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(左)上初見バス停標識には「国鉄バス 新田」の文字がうっすらと
(右)左手には深谷川の森が続く
 

しばらくのどかな村里を歩いていくうちに、左から中国道が近づいてきた。それをくぐった先にある水源公園のあずまやで、昼食休憩にする。手入れされていないうらぶれた園地だが、現在、高津川の水源とされているのが、ここにある大蛇ヶ池だ(下注)。湧水の池は大蛇が棲むには窮屈そうだったが、ほとりに生えている一本杉が樹高20m、根回り5mの巨木で、複雑な枝ぶりが神秘のオーラを放っている。

*注 地形図にあるとおり、池の上手にある星坂集落からも小川が流れており、池は水源の一つに過ぎない。

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高津川の水源、大蛇ヶ池
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風格のある一本杉、根元に大蛇ヶ池
 

公園を見下ろしている水源会館(郷土資料館)の前庭で、「河川争奪の復元図」を描いた説明板を見つけた。太古の高津川(以下、古高津川)がはるかに上流から流れてきていたことを明解に説明している。旧流路を示す砂礫の層があることも記されているが、欲を言えば、争奪を促した要因についても触れてほしいところだ。

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水源公園にある河川争奪の復元図
 

下記研究論文(下注)によると、それにはこの地域で北東~南西方向に走っている複数の断層が関係している。断層の継続的な活動によって、山地の北西側が隆起した。これにより、古高津川の中流部が持ち上げられるとともに、上流部では河川勾配が緩くなり、砂礫が堆積して河床が上昇した。

*注 山内一彦・白石健一郎「中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪」立命館地理学第22号, 2010, pp.39-5

このことはまた、断層の反対側(南東側)にある宇佐川~錦川流域との高度差がより開くことを意味する。さらに、一帯の地層は風化した花崗岩であり、後に宇佐川の谷となるラインには、断層に伴う破砕帯が走っていた。

こうした要因に促された河川争奪は、時代的にもエリア的にも復元図の絵解きよりはるかに広範囲に及ぶものだったようだ。その鍵となるのは同 公園の上手、星坂集落の南に見られる風隙だ。これも争奪の肘の一つだが、なぜか南に開いている。これはもとの川(被争奪河川)が、現在の宇佐川とは反対に南から北に向けて流れていたことを示唆する。

争奪過程の全体像は、以下の通り。なお下図は、同論文の添付図(p.53 第11図)をもとに描いたものだ。

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宇佐川の河川争奪過程 1~3
矢印は流路の方向を表す
 

かつて現 宇佐川の流域のほとんどは、古高津川の上流域だった。そして今とは逆方向に、深川南方から須川や星坂を通り、現 水源公園付近で古高津川に合流する川(以下、古南宇佐川)があった【上図1】。

8~4万年前に、錦川支流(=現 宇佐川)が南から浸食して、まずこの古南宇佐川の上流を奪った【上図2】。

新たな水流を得て侵食力を高めた宇佐川は、断層破砕帯に沿って谷頭浸食を進めていく。そして古南宇佐川の全流域を手中に収め、星坂南方に達した。星坂に風隙が生じたのは、この時点だ【上図3】。

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宇佐川の河川争奪過程 4~6
 

一方、現在、東から宇佐川に注いでいる道立野川(みちだちのがわ)、後川(うしろがわ)、相波川(あいなみがわ)などの支流は、かつて宇佐郷で一本の川(以下、古宇佐郷川)となり、現 深谷川が流下しているルートを逆流して古高津川に合流していた。4万5千~3万5千年前ごろ、宇佐川は宇佐郷でこれを奪った【上図4】。

約3万年前、宇佐川は向峠東方に達し、ついに古高津川本流を奪う【上図5】。

これにより古高津川は向峠で水流を失い(無能河川)、深谷川が運んできた砂礫が堆積して扇状地を形成した。1万~3千年前、古高津川の谷が大雨で湛水した際、深谷川から古宇佐郷川の旧流路を通って宇佐川へ溢流が発生した。これが繰り返され、深谷川から宇佐川への流れが定着した。

両者には相当な落差がある。初期は滝で宇佐川の谷に落ちていただろうが、下刻作用により次第にV字谷が発達していく【上図6】。こうして現在の水系が完成した。

午後は、水源公園から星坂を経由して宇佐川の谷へ降りるが、その前に、近くにある繞谷丘陵を見に行った。東西150m×南北120m、高さ30mほどの小山だが、コンパクトなだけにかえって谷をめぐらした形状がよくわかる。地質図によると、山体は東側の山と同じタイプの花崗岩なので、地形的にそちらから切り離されたものだろう。

山上に祀られている妙見神社まで、鳥居の立つ南麓から急な石段がついていた。蜘蛛の巣を払いながらなんとか上りきったが、終盤の参道が地すべりで崩壊していて、残念ながら社にはたどり着けなかった。

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妙見神社の繞谷丘陵
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図3 同 水源公園~上須川
 

星坂の集落へ通じている道は、県道120号須川吉賀線だ。しかし普通車がやっとの狭い道幅で、舗装されてはいるものの、雰囲気は林道に近い。左の谷間は水田だったのだろうが、もはや背の高い雑草が生い茂っている。

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(左)林道のような県道120号
(右)星坂の集落を抜ける
 

集落を抜けると道はいっとき上り坂になり、まもなく島根・山口県境の峠に達した。大蛇ヶ池のほとりで見た「従是西(これよりにし)津和野領」の境界石は、もともとここに立っていたものだ。

この星坂峠を境に、風景は一変する。それまで山に囲まれた穏やかな平地だったのが、突然宇佐川の深い谷間を見下ろす山腹に躍り出るのだ。谷底との高度差は180mにもなる。先述の通りこの風隙は争奪の肘で、勢いを得た川の途方もない浸食力に圧倒される。

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(左)星坂峠への上り坂
(右)峠から再び山口県に
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もと星坂峠にあった境界石
現在は大蛇ヶ池のほとりに立つ
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景色は一変、宇佐川の深い谷間に
 

急斜面を覆う木々の間から、下の谷を走る国道434号がちらちら覗いている。県道はくねくね曲がりながら約2.5kmかけてそこまで降りていくのだが、下り坂なので、二人でよもやま話をしているうちに、早や国道が近づいてきた。

国道に出て宇佐川を渡ると、上須川(かみすがわ)の集落がある。立派なコンクリートの高架橋が集落のある谷間を斜めに横切っているのが見える。未成線、岩日北(がんにちきた)線の第4宇佐川橋梁だ。

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谷壁を降りていくか細い県道
(左)星坂峠を振り返る(右)下流方向
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上須川集落
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谷を横切る第4宇佐川橋梁
 

岩日というのは、山陽本線の岩国と山口線の日原(にちはら)のことで、岩日線はこの間を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたものだ。このうち、錦町(にしきちょう)までの南部区間が旧 国鉄岩日線(下注)で、1960~63年に開業し、その後、第三セクターの錦川鉄道になっている。一方、北部区間は岩日北線と呼ばれ、島根県吉賀町の六日市(むいかいち)まで建設が進められていた。路盤はほぼ完成していたが、国鉄再建法の施行により工事は凍結され、惜しくも未成線となってしまった。

*注 旧国鉄岩日線は、正式には岩徳線川西~錦町間32.7kmだが、列車は岩国から直通していた。錦川鉄道の列車も同じ運行形態をとっている。

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現在の錦町駅
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未成線跡を走る「とことこトレイン」
雙津峡温泉駅にて(別の日に撮影)
 

錦町駅と雙津峡(そうづきょう)温泉の間では、2002年からこの路盤を活用して遊覧車両「とことこトレイン」が運行されているが、区間外のこのあたりは遊休施設の状態だ。集落の南で敷地に上ってみると、とことこトレインの走行路と同じように、路盤はきちんと舗装されていた。

高根口駅予定地から宇佐川を跨ぐ第4橋梁までは歩いていけたが、対岸で濃い藪に行く手を遮られてしまう。岩日北線はここから長さ4679mの六日市トンネルで針路を西に変え、高津川流域の六日市に出ていくはすだった。空中写真を見る限り、向こう側の出口でも立派な未成線跡が1kmほど残されているようだ(下注)。

*注 六日市駅予定地は、むいかいち温泉ゆ・ら・らの敷地に転用されている。

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(左)上須川の岩日北線跡
(右)国道を越える第4宇佐川橋梁
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(左)橋梁から上須川方向を振り返る
(右)対岸は濃い藪で六日市トンネルは見えず
 

上須川バス停で、13時58分発の路線バスを待つ。時刻通りにやってきたのはマイクロバスで、他に客はいないから、タクシーのようなものだ。とことこトレインに乗るために途中の停留所で降りた大出さんを見送って、私はそのまま錦町駅まで乗り通した。

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(左)錦町駅へ行くコミュニティバス
(右)上須川バス停の待合所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、山口(昭和61年編集)および地理院地図(2023年12月1日取得)を使用したものである。

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