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2023年11月

2023年11月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡

四国のコンター旅2日目は高知に移って、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の旧跡を巡る。

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立岡二号桟道
 

魚梁瀬森林鉄道は、県東部の中芸地区で特産の杉などの木材を山から運び出していた762mm軌間の産業鉄道だ。1911(明治44)年から1942(昭和17)年にかけて奈半利川(なはりがわ)と安田川(やすだがわ)の流域に張り巡らされ、当地の林業経営を支えた。最盛期には、総延長が300kmを超え、国内屈指の広範な路線網だった。しかし、魚梁瀬ダムの建設で上流部の線路が水没することになり、1963(昭和38)年までに主要区間が廃止され、トラック輸送に置き換えられた。

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魚梁瀬丸山公園の復元列車
 

その後、水没を免れた廃線跡は道路に転用されるなどしたが、旧態のまま遺されていたトンネルや橋梁などの構造物が、2009年に「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されて現在に至る。森林鉄道の痕跡は全国にあるが、重文指定を受けているのはここだけだ(下注)。

*注 ちなみに、一般鉄道施設では「旧手宮鉄道施設」「碓氷峠鉄道施設」のほか、単体で「東京駅丸ノ内本屋」「旧揖斐川橋梁(東海道本線)」「末広橋梁(四日市港)」「第一大戸川橋梁(信楽高原鐵道)」「梅小路機関車庫」「旧大社駅本屋」「旧筑後川橋梁(昇開橋、旧佐賀線)」「門司港駅本屋」「旧綱ノ瀬橋梁及び第三五ヶ瀬川橋梁(旧高千穂線)」などが重文指定されている。

遺構は往復70kmほどの沿線に散在している。路線バスもほとんどない地域なので、今回は高知市内でレンタカーを調達する予定だ。それでもルートをくまなく見て回るのは時間的に難しく、主な見どころをピックアップするにとどまるだろう。

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図1 魚梁瀬森林鉄道沿線の1:200,000地勢図に
  重文施設の位置と路線網の概略を加筆
1978(昭和53)年編集図

2023年10月8日朝8時、小雨模様の高知駅前に集合したのは、昨日と同じ大出さんと私の2名。そもそも降水量の多い地域だが、今日の天気予報も終日傘マークで、午後ほど雨脚が強まるらしい。借りたトヨタアクアで高知東部自動車道、国道55号を東へ進む。右手に太平洋が見えてくるが、どんよりとした空のもと、白っぽくくすんだ色をしている。

1時間と少しで、安田町まで来た。安田川大橋の東詰で国道をそれ、クルマを停めた。段丘崖の下を通っていた廃線跡が小道で残っている。木材を満載して安田川の谷を下ってきた列車は、ここから田野の貯木場へ向かっていたのだ。

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(左)崖下を行く廃線跡の小道(田野方向を撮影)
(右)安田川左岸を遡る廃線跡
 

森林鉄道(以下、林鉄)で最初に建設されたのがこの路線で、1911(明治44)年に馬路(うまじ)まで開通し、のちに安田川線と呼ばれた。目的地の魚梁瀬は隣の奈半利川の上流だが、流域の山林の所有権が国と地元との間で係争中だったため、やむを得ずルートを迂回させたのだという。

県道12号が川の対岸(右岸)を走るのに対して、林鉄はこちら側(左岸)だったので、その跡と思しき道を北上した。途中からは、車一台がやっとの道幅になる。昭和の映画館の雰囲気を残すという大心劇場の前を通過し、上代(かみだい)集落を上手に進むと、山かげの道の脇に一つ目の遺構、エヤ隧道が口を開けていた。

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道路脇に残るエヤ隧道
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(左)内部はカーブしている
(右)ポータルに刻まれた I の文字
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図2 1:25,000地形図に主な見どころの位置を加筆
エヤ隧道~明神口橋
 

砂岩切石積みのポータルに、川下側から最初のトンネルを意味する I の文字が刻まれている。長さは33.2mと短く、徒歩で通り抜けが可能だ。入ってみると、アーチの天井部がレンガの長手積み、側面の垂直壁は切石で美しく仕上げられていた。車道に転用されなかったことで、改修の手が加わらず、原状が保たれているようだ。

この先、左岸に沿う廃線跡の林道は、じりじりと道幅を狭めていく。乗用車は後述する明神口橋を渡れないと聞いていたので、与床(よどこ)集落から右岸の県道に迂回した。そのため、途中にある長さ37.5mのバンダ島隧道は、対岸から眺めるにとどめた。

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バンダ島隧道を対岸から遠望
 

次の遺構は、明神口集落の上手に連続している。県道のバイパストンネルの手前で右折して旧道を行くと、川を斜めに渡っている赤いトラス橋が見えてきた。長さ43.2mの明神口(みょうじんぐち)橋だ。1912(大正元)年の建設で、最初は木橋だったが、機関車の導入に伴い、1929(昭和4)年に架け替えられたものだという。今は線路の代わりに、路面に金網が張られている。

これを渡るとすぐ下手に、長さ36.7mのオオムカエ隧道がある。東口(上流側)はコンクリートポータルに改修されているが、西口はオリジナルの切石積みで、III の刻字があった。堀淳一氏も1997年にNHKの番組ロケでここに来ている(下注)が、映像で見る限り、東口は本来素掘りのままだったようだ。

*注 1997年放送の「消えた鉄道を歩く-巨木の森の小さな鉄路」。

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明神口橋、金網が張られた路面
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オオムカエ隧道
(左)もとは素掘りだった東口
(右)原状をとどめる西口
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隧道西口のスギ林
 

次のスポットでも、釜ヶ谷(かまがや)桟道釜ヶ谷橋が連続している。島石ピクニック広場の駐車場から対岸に渡る吊り橋の上に出ると、前者の側面が遠望できた。桟道といっても木製ではなく石積みで、あたかも崖に半分埋まったアーチ橋といった趣きだ。一方、長さ12.3mの釜ヶ谷橋は県道に転用されたため、路面は拡張されている。しかし側面から覗くと、林鉄時代の橋桁と橋台を転用したことが見て取れる。

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釜ヶ谷桟道
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釜ヶ谷橋
(左)県道に転用
(右)林鉄時代の橋桁と橋台
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図3 同 釜ヶ谷桟道~馬路~河口隧道
 

長さ70.6m、平瀬(ひらせ)隧道の西口では、なんとキャンパーがクルマを付けて、テントを張っていた。雨の日だし、誰も通らないトンネルなので、こんな利用法もあるのだと感心する。通り抜けが可能なようだが、お邪魔するのも気が引けるので、反対側の、こちらも県道に面した東口に回った。ポータルの刻字はV、すなわち5番目だから、先ほどのオオムカエ隧道との間にかつてはもう1本トンネルが存在したのだろう。

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平瀬隧道
(左)臨時のキャンプサイトにされた西口
(右)県道脇の東口
 

引き続き一本道の県道を遡り、いよいよ馬路村の中心部にさしかかる。馬路大橋の手前を左折してすぐの川べりにあるのが、遺構群の中でもよく知られた長さ36.5mの五味(ごみ)隧道だ。旧道の馬路橋のたもとに北口が開いていて、線路を載せた短い桟道が続いている。道路から見下ろす構図が定番だが、勢いよく育った笹薮に視界を遮られてしまう。

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五味隧道、笹薮に視界を遮られる
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線路が復元された桟道
(左)五味隧道の真上から
(右)馬路橋から
 

ところで、「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重文指定を受けた施設は14か所あるが、意外にも、五味隧道をはじめ、後述する立岡二号桟道、法恩寺跨線橋、八幡山跨線橋という写真映えする4つの遺構は含まれていない。これらは重文本体ではなく、附(つけたり)指定になっているのだ。

附というのは、たとえば重文建造物の設計図や、来歴、用途を記した文書といった関連資料を、本体とあわせて指定するものだが、同じ類いの構造物でも附指定にすることがあるようだ。産業遺産としては一体的に考えるべきものながら、相対的な重要度の点で及ばないということか。

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五味隧道案内板
 

対岸に、観光案内所「まかいちょって家」がある。後で立ち寄って、2階にある森林鉄道の写真展示を見学した。売店では土産物のほか、林鉄関連の既刊書籍も扱っていて、ちょっとしたミュージアムショップだ。私も新刊の林鉄写真集を購入した。

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(左)まかいちょって家
(右)2階の林鉄展示
 

県道をはずれて、右岸(西岸)の町道を行く。馬路村は特産のゆずを使った商品開発で知られるが、製品加工施設の敷地はもと林鉄の運行拠点で、機関庫や修理工場を伴っていたヤードの跡だ。その北側はかつて商店街で、林鉄が路面軌道の形で貫いていた。いったん集落が途切れるが、その先は現在、村の観光拠点になっている。

右手の大きな建物は、日帰り温泉施設のうまじ温泉だ。左には1994年に開業した「馬路森林鉄道」という観光鉄道があり、支流の西谷川に沿って508mm軌間(下注)、1周300mのささやかな周回軌道が設けられている。その乗車も楽しみにしていたのだが、駅の窓口へ行くと、係員さんが申し訳なさそうに「機関車の故障で当面運休なんです」という。アメリカ・ポーター社製の旧機を2/3サイズで再現したという機関車がホームに停まっているが、「エンジントラブルの為、運休中!!」と張り紙がしてある。

*注 オリジナルは762mm(2フィート6インチ)軌間で、508mmはその2/3になる。

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馬路森林鉄道
(左)機関車は故障中
(右)谷沿いを走る軌道
 

では、隣のインクラインに乗ろう、と思って聞くと、「雨でシートが濡れて使えないので、きょうは中止にしました」。インクラインというのは、林鉄で使われていた傾斜鉄道(貨物用ケーブルカー)を再現した斜長92mの施設で、車両に積んだ水の重りで動くという珍しいものだ(下注)。山際の乗り場では、雨に濡れそぼった走行線に、オープンタイプの小型車両が所在なげに停まっていた。シートベルトを締めて乗るので、雨が吹き込む状況では運行できない。

*注 ウォーターバラスト方式といい、日本で唯一。海外の実例については「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

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馬路インクライン
(左)車両と急勾配の軌道
(右)水抜き用の管路
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インクライン軌道全景
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インクライン案内板
 

雨に降られたばかりか、お目当ての乗り物にも振られてしまったので、うまじ温泉のレストランで早めの昼食にした。ゆず果汁入りの「ごっくん馬路村」も試して元気を取り戻したところで、林鉄遺跡の探索を再開する。

馬路から魚梁瀬までの区間は、少し遅れて1915(大正4)年の開通だ。温泉のすぐ上手に、町道を通している落合橋がある。長さ37.0mで、釜ヶ谷橋と同じく、プレートガーダーと橋台が林鉄の遺物だ。

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落合橋
 

次は河口(こうぐち)隧道。県道から少し引っ込んだ位置にあり、長さは89.9m、ポータルに8番目を示す VIII の刻字がある。徒歩で入ろうとしたら、エンジン音がこだまし、中から軽トラックが飛び出してきた。内部は小さな明かりも灯っていて、椀田(わんだ)集落から中ノ川方面へ行くのに、近道として使われているようだ。カーブしたトンネルを出ると切通しで、上を旧道(?)が通過している。

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河口隧道東口
切通しを旧道がオーバークロス
 

山はさらに深まり、サミットとなる2車線の新久木(くき)トンネルが現れた。林鉄時代の久木隧道は、長さが333mと魚梁瀬林鉄では最長で、1977(昭和52)年の新トンネル完成までの間は、道路としても使われた。上記堀氏の著書『地図で歩く古代から現代まで』(JTB、2002年)によると、西口のポータルはまだ残っているようだが、この天気では探す気力が湧いてこない。

奈半利川斜面を降りていく途中に、支谷をまたぐ犬吠(いぬぼう)橋が架かっている。長さ41mの立派な上路トラス橋で、廃線後も県道の橋として使われていた。しかし、鋼材の一部が破断して通行できなくなり、現在、県道は上流側の迂回路を通っている。下流側で建設中の新しい橋が完成すれば、県道はそちらに移される予定だ。

林鉄の鉄橋は今や形が崩れ、仮設の支持台でかろうじて支えられていて、なんとも痛々しい。修復して自転車・歩行者専用にする計画だそうだが、いったん解体して組み立て直す必要があるから大工事だ。重要文化財とはいえ、そんな予算がぽんとつくのだろうか。

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痛々しい姿の犬吠橋
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図4 同 犬吠橋~魚梁瀬
 

久木ダムの少し上流にも、同じような構造の井ノ谷(いのや)橋が残っているので、県道をそれて寄り道した。道路に転用されていて、長さは54.5m。両端がカーブしているので、たもとからトラス構造を覗くことができる。

林鉄安田川線は、この先の釈迦ヶ生(しゃかがうえ)集落で奈半利川線と合流するが、魚梁瀬ダムの完成によって、上流の線路は湖底に沈んでしまった。クルマ道も行き止まりなので、引き返すしかない。

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井ノ谷橋
 

県道に戻って、くねくねと山腹を上っていくと、ダムを見下ろす展望台があった。見るからにどっしりとした大堰堤が眼下の谷を埋めている。魚梁瀬ダムは1970(昭和45)年に完成したロックフィルダムで、高さが115mで四国一、貯水量も「四国の水がめ」早明浦(さめうら)ダムに次ぐ規模だ。展望台の側壁パネルには、ダムの写真とともに林鉄の現役当時の写真も収められていた。

県道を少し上手に進んだところには別の展望台があり、貯水池(ダム湖)が奥まで見通せる。ここばかりは「雨には雨の風情あり」で、入り組んだ湖の周りの山並みに低い雲がたなびいて、一幅の絵のようだった。

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ロックフィルの魚梁瀬ダム
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ダム湖のパノラマ
正面奥に魚梁瀬大橋と、魚梁瀬(丸山台地)の一部が見える
 

林業で栄えた魚梁瀬地区は水没するのに伴い、湖畔の造成地(丸山台地)に集団移転した。旧版地形図と照合すると、旧集落の山手にあった昔の川の蛇行跡を嵩上げして造ったようだ。その一角が丸山公園と呼ばれる広い園地になっていて、762mm軌間、一周406mの周回軌道が敷かれている。

魚梁瀬大橋でダム湖を横断して、その乗り場である森の駅やなせの前にクルマを停めた。馬路での失意の記憶がよみがえり、窓口でおそるおそる「乗れますか」と聞くと、「ええ、何名さんですか」と返ってきてほっとする。一応、10時から15時30分まで15分間隔の時刻表が掲げてあるが、客が来しだい、随時運行しているようだ。

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森の駅やなせ
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スギ材製の乗車券、裏面に日付が入る
 

高床のホームに、谷村式と記された小型ディーゼル機関車が客車を従え、待機していた。谷村というのは戦前、地元高知で林鉄向けの装置を製造していた谷村鉄工所のことで、そのロッド駆動車をモデルに新造されたのがこの機関車だ。客車(連絡車)の車体にも地元産の木材が使われている。無蓋のトロッコと密閉型のボギー車の組み合わせなので、雨でも問題なく乗れるのがうれしい。

運賃は大人400円。杉板に印刷した乗車券をもらって乗車する。走り出すと最初、湖に近づき、次いで車庫前を通過して、警報機が鳴る踏切を横断した。この軌道を2周して、約7分のミニ列車旅だった。その後、大出さんが機関車の運転体験を申し込んだ。正規の運転士に横で指導してもらいながら、これも2周する。

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谷村式機関車が牽く復元列車
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(左)機関車の運転台
(右)ボギー客車
  朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の人形が同乗
 

北隅にある車庫も開いていて、自主見学が許された。野村式と書かれた茶色の機関車は、1948年野村組工作所製のL-69で、魚梁瀬林鉄のオリジナル機だ。廃線後、静態保存されていたものを1991年に動態復元したのだという(下注)。急曲線に対応する運材台車を引き連れたさまも絵になる。

*注 重量があり軌道が傷むため、「本線」を走行するのは特別行事のときだけのようだ。ちなみに先述のNHKの番組ではこれが走るシーンが出てくる。

隣にいる黄と緑と白帯の機関車は、静岡の水窪(みさくぼ)森林鉄道から来た酒井工作所製C16形、また岩手富士と書かれた箱型機は、鳥取から来た岩手富士産業製の特殊軽量機関車で、唯一の残存例だそうだ。

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車庫に保存車両を留置
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運材台車を引き連れた野村式L-69
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(左)酒井工作所製C16形
(右)岩手富士産業製特殊軽量機関車
 

林鉄ワールドを堪能して、帰路に就く。往路は安田川経由だったが、復路は奈半利川に沿って下る。旧来の安田川線には、釈迦ヶ生~久木隧道間に逆勾配、すなわち荷を積んだ列車にとって不利な上り坂が存在し、運行のボトルネックになっていた。これを解消するために計画されたのが奈半利川線で、1931(昭和6)年から1942(昭和17)年にかけて建設された。

クルマはしばらく県道12号を南下するが、安田川沿いより道幅が広めだ。ダム建設に際して、工事車両を通すために拡幅されたのだろう。林鉄由来と思われるトンネルもあるが、改修を受けているためか、重文のリストには含まれていない。

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図5 同 堀ヶ生橋~小島橋
 

そのため、奈半利川線の重文物件はすべて橋梁で占められる。最も上流の堀ヶ生橋(下注)は長さ46.9m、シングルスパンの鉄筋コンクリートアーチ橋だ。この材質で43mものスパンは国内最大級だそうで、県道に転用されていることもあって、もと鉄道橋には見えない。河原に降りて真下から仰ぐアーチはいっそう迫力があった。

*注 国指定文化財等データベースでは、堀ヶ生橋に「ほりがをばし」という異例の読みが付けられている(通常「を」は用いない)。なお、地理院地図では、堀ヶ生の地名の読みを「ほりがうえ」としている。

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長大スパンの堀ヶ生橋
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(左)堀ヶ生橋、中央部に退避場所がある
(右)橋に続く堀ヶ生隧道、側壁は石積み
 

県道12号が徳島県から来た国道493号と出会う位置に、二股(ふたまた)橋が架かっている。奈半利川と支流の小川川(おがわがわ)の合流地点だ。橋は長さ46.5mで同じくコンクリート製だが、こちらは無筋のため2スパンで、めがね橋の別称がある。釜石線や旧彦山線(現 日田彦山線BRT区間)、旧宮原線などに見られる高架橋を彷彿とさせるが、二股橋も、鋼材の使用制限が始まっていた1941(昭和16)年の建設だ。

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川の合流地点に架かる二股橋、通称めがね橋
奥に見えるのは二又発電所
 

奈半利川鉄橋なき今、長さ143.0mの小島(こじま)橋は、魚梁瀬林鉄で最大の遺構だ。2連のプラットトラスで、ゆったりと流れる奈半利川の中流部を渡っている。本体の威容もさることながら、対岸(左岸)にあるカーブしたガーダー橋と築堤の取り付け部が、廃線跡の雰囲気をよく残している。奈半利川線のうち二股以南は、後に支線となった竹屋敷線などとともに1932(昭和7)年までに完成していた。上述の2橋と違って鋼製なのはそれが理由だ。

*注 国指定文化財等データベースでは「こじまばし」だが、地理院地図では小島の地名の読みを「こしま」としている。

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2連プラットトラスの小島橋
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(左)右岸のたもとから
(右)ガーダー橋と築堤が左岸に続く
 

この後は、国道493号と北川奈半利道路で一気に奈半利を目指した(下注)。

*注 重文指定ではないため訪れなかったが、奈半利川右岸に加茂隧道(長さ28.1m)が原形のまま残っている。

右岸の田野町側には立岡(たちおか)二号桟道という印象的な遺構がある。3連プラットトラスで長さ167.49mと最長だった旧奈半利鉄橋の、西側の取り付け部に相当する構造物だ。避溢橋の役割を果たすコンクリートの高架と長い築堤が、カーブしながら川べりまで続いている。大出さんは以前来たことがあるというし、私も土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線に乗った際、見に行ったので、今回は対岸から遠望するにとどめた。

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立岡二号桟道と築堤(別の日に撮影)
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(左)カーブする桟道
(右)丸石が積まれた築堤の法面
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図6 同 安田、田野、奈半利
 

廃線跡の町道をたどって、法恩寺跨線橋(下注)へ。段丘上の三光寺へ行く参道が林鉄を跨いでいた橋で、石造アーチの構造をしている。立体交差にしたのは安全でいいことだが、参道の石段はけっこう段差があり、何度も上り下りするのは大変そうだ。

*注 法恩寺の地名の読みについて、現地の案内板には「ほうおんじ」とあるが、地理院地図では「ほおじ」としている。

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法恩寺跨線橋(別の日に撮影)
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多くの重文施設に同様の案内板がある
 

国道55号を戻り、最後に、田野の町はずれにある八幡山(はちまんやま)跨線橋を見に行った。ここでも神社に通じる参道が、林鉄の廃線跡を跨いでいる。コンクリートの桁橋なので、法恩寺のようなデザイン性には欠けるが、参道の階段が上に行くほどラッパ状にすぼまっていて、遠近感が強調されるのが面白い。

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八幡山跨線橋
(左)コンクリートの桁橋
(右)ラッパ状にすぼまる階段
 

時刻は早や17時、駆け足の旅だったとはいえ、貴重な遺構群や展示資料を実見し、再現鉄道の乗車も叶った。運行廃止から60年が経過した魚梁瀬森林鉄道だが、思ったより身近なものに感じられたのは、郷土史を飾る重要なページとして地域の人々に大切に扱われてきたからだろう。産業振興の推進力であり、交通の動脈でもあった鉄道の遺産が、これからも末永く維持されることを願いたいものだ。私も、雨にたたられた馬路の軽便鉄道とインクラインにいつか再挑戦しなければ…。

最後に、魚梁瀬森林鉄道の路線網が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図7 索引図
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図8 安田、田野、奈半利周辺
1953(昭和28)年応急修正、以下同
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図9 馬路周辺
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図10 魚梁瀬周辺
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図11 北川村北部
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図剣山、高知(いずれも昭和53年編集)、5万分の1地形図馬路、奈半利、安藝(いずれも昭和28年応急修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム https://rintetu.com/
Facebook-中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会 https://www.facebook.com/yanaserintetu

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2023年11月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-箸蔵寺から秘境駅坪尻へ

JR土讃線の普通列車が、香川と徳島の県境をなす讃岐山脈を長いトンネル(下注)で通り抜けた後、最初に停車するのが坪尻(つぼじり)駅だ。吉野川の谷に降りていく25‰の連続勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの構造になっている。

*注 猪鼻(いのはな)トンネル、長さ3845m。

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土讃線坪尻駅に接近する下り普通列車
 

駅のある場所は比高500mの昼なお暗いV字谷の底で、周りに民家などは見当たらない(下注)。それどころか、クルマ道が駅まで達しておらず、人一人通れるだけの山道のほかにたどり着く方法がない。列車にしても停車するのは上り4本、下り3本で、計画的に行動しないと、駅に長時間取り残される可能性がある。それでここは、土讃線の同じようなスイッチバックの新改(しんがい)駅などとともに、いわゆる秘境駅として鉄道ファンには有名だ。

*注 坪尻駅の標高は約212m(地理院地図による)。地図上で最も近い木屋床(こやとこ)集落との間は、水平距離こそ300~400mだが、高度差が約200mある。

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箸蔵寺護摩殿
 

2023年コンターサークル-s の旅四国編1日目は、この坪尻駅をゴールと目している。もちろん列車で往復するだけでは歩き旅にならないので、「こんぴら奥の院」と称される箸蔵寺(はしくらじ)や、坪尻駅を見下ろす展望台を経由していく次のようなプランを考えた。

10:21 阿波池田駅前から路線バスで、箸蔵山ロープウェイの登山口駅へ
11:00 ロープウェイで山上へ。箸蔵寺参拝
12:40ごろ 箸蔵寺から歩き始める
13:40ごろ 坪尻駅展望台到着。上り列車の発着(13:52)を撮影後、歩き再開
14:10ごろ 坪尻駅到着
14:54 坪尻駅から下り列車に乗り、阿波池田駅に戻る

箸蔵寺と坪尻駅との間は道なりに進んで5kmほどだが、高度差は340mとかなりある。いったいどんな道なのだろうか。まずは旅の集散場所である阿波池田駅前から話を始めよう。

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箸蔵寺~坪尻駅周辺の1:200,000地勢図
(上)1986(昭和61)年編集、(下)1995(平成7)年要部修正
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆

土讃線の全列車が停車し、徳島方面との接続駅になっている阿波池田駅は、徳島県西部における鉄道の拠点だ。乗ろうと思っている四国交通の路線バス(下注)は、その300m東にあるバスターミナルから出発する。駅前も経由するが、停留所は駅舎正面ではなく、広場の右(東)のはずれで、道路沿いの見えにくい位置にあるので要注意だ。

*注 野呂内線32および33系統。箸蔵山ロープウェイ(登山口駅前)までは往路7便、復路5便。時刻表と路線図は四国交通公式サイト(下記参考サイト)にある。

2023年10月7日、駅前に集合したのは大出さんと私の2名。連休初日だが、10時21分定刻に来たバスに乗り込んだのも私たちだけだった。駅前アーケードを抜けた後、バスはいったん西へ走る。段丘上のウエノでようやく針路を変え、川沿いの坂道を降下して、吉野川を堰き止めている池田ダムの天端道路で対岸に渡った。ローカルバスの旅は、ときに思いもよらないルートを通ることがあるから目が離せない。

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(左)阿波池田駅
(右)四国交通の路線バス
 

15分ほどで、箸蔵山ロープウェイの登山口駅前に到着した。時間に余裕があるので、乗るのを1本遅らせて、搬器の動く様子を地上から観察する。

ロープウェイの中でもこれは、並行する2本のロープに搬器がぶら下がる、いわゆるフニテルだ。箱根ロープウェイと同じ方式だが、箸蔵山は1999年の導入で日本初だという。駅の表示板によると、線路長(傾斜亘長)は947.48m、高低差は341.73m。15分間隔で運行されていて、料金は片道900円、往復1700円。

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箸蔵山ロープウェイ登山口駅
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(左)きっぷ売り場
(右)2本のロープにぶら下がるフニテル方式
 

山上行き11時00分発の客は3人きりだった。すいているのはありがたいが、立派な設備だけに採算がとれているのか心配にもなってくる。動き始めると、後方にさっそく吉野川とその谷が眼下に広がった。急斜面を滑らかに上っていき、仁王門と高灯篭の立つ尾根を通過、最後に深い谷を一跨ぎして箸蔵寺駅に着いた。所要約4分。

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吉野川の谷が眼下に
 

駅は箸蔵寺の境内に直結していて、右へ行くと本坊(方丈)の前に出る。庫裏、宿坊、納経所、書院など、寺の機能を集約した桁行きの長い建物で、玄関の軒や引き戸を飾る透かし木彫が目を引く。納経所の前を通ったら、受付の方が、重要文化財に指定されている主な伽藍の概略を説明してくれた。

右手は護摩殿で、この先の長い石段が上がれない人でもお参りできるよう、本殿の縮小版になっているという。ここでも手の込んだ木彫の意匠が軒を埋め尽くしている。

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箸蔵寺本坊
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(左)護摩殿
(右)軒に配された見事な木彫
 

奥へ進む石段には、蹴上げ部分に般若心経が一文字ずつ書かれた石札が取り付けられていた。これを唱えながら上れば、楽に上まで行けるのだろう。正面に鐘楼堂がある。受付で、自由に撞いてくださいと言われていたので、ありがたく従う。梵鐘は天井裏にあって見えず、綱だけが垂れ下がっている。撞くには少しコツがあり、綱を前後にではなく、下に引くようにしないと鳴らない。

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(左)本殿に上る石段
(右)般若心経の石札が続く
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(左)鐘楼堂
(右)薬師堂
 

心臓破りの長い石段を伝って薬師堂、それから本殿のある上段の境内へ。途中で息が上がり、気がついたら般若心経を唱えるのをすっかり忘れていた。本殿は他にもまして壮麗な建物で、立ち入れないが奥まで長く続いているのが見て取れる。絢爛たる木彫装飾についてはもはや言うまでもない。巡礼者が行き交う四国八十八ヶ所の霊場とは違い、もの静かな境内だが、見どころも多くて訪れた甲斐があった。

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重厚な趣きの本殿
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正面を飾る透かし木彫
 

ロープウェイ駅の前にある休憩所で昼食の後、次の目的地に向けて歩き始めた。休憩所の横から、寺に用務がある車が使う舗装道が出ている。杉林に覆われた山腹を緩やかに下っていくこの道を、まずはたどった。きょうは薄曇りで、ときおり日差しがこぼれる。吹く風は涼しく、歩き日和だ。

やがて森が開け、舟原(ふなばら)集落にさしかかった。すすきに埋め尽くされた棚田の間に何軒かの民家が見える。その屋根ごしに、吉野川が流れる下界の谷が俯瞰できた。正面に徳島自動車道の高架橋が架かり、土讃線佃~阿波池田間の築堤を2両編成の列車が走っていく。断片的に見える赤いトラス橋は旧国道32号の三好大橋だ。

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舟原集落と休耕棚田
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吉野川の谷を俯瞰
 

舟原から落(おち)の集落へ向かう。この間はセンターラインこそないが、小型車がすれ違える幅の舗装道がついている。しかし、クルマはほとんど通らないから、快適なハイキングルートといっていい。

坪尻駅展望台というのは、落集落の端の道路脇に、地元の自治会が設置した小さなお立ち台のことだ。大出さんが、手前に1台の観光バスが停まっているのを見つけた。何かと思えば、カメラを手にした中高年男女が約20人、かしましく騒ぎながら展望台とその周りを占拠している。よりよいアングルを狙って、馬の背になった不安定な場所に三脚を立てている人もいる。一つ間違えば崖下に転落しかねないので、通りかかった地元の人から「気い付けてくださいよ」と声をかけられる始末だ。

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猪ノ鼻峠方向を望む
手前が落、谷を隔てて木屋床の集落が見える
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(左)落集落
(右)過密状態の坪尻駅展望台
 

この状況は想定外だが、私たちもその勢いにひるんでいるわけにはいかない。最前列の人の肩越しになんとか視界を確保する。北側、約100m下の谷底にスイッチバックの構内配線と、その奥にたたずむ小さな駅が見通せた。一部で電線とかぶるものの、駅の前後を移動する列車をつぶさに観察できるいい場所だ。

13時31分、最初にやってきたのは上り特急「南風」14号、2700系の「赤いアンパンマン列車」だ。通過列車のためシャッターチャンスはほんの数秒だが、前もって重いエンジン音が響いてくるから、カメラを構える余裕があった。

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坪尻駅を上り「南風」が通過
 

しばらくすると、次の13時52分発、上り普通列車が現れ、本線からホームに接する折返し線に入った。3分近く停車した後、折返し駅を出て、今度は反対側の引上げ線に進入する。再び折り返して本線に戻り、山かげに走り去った。

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普通列車のスイッチバック運転
(左)阿波池田方から列車が接近
(中)折返し線に入線
(右)駅に停車
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(左)駅を出ていったん引上げ線へ
(中)引上げ線で折り返し
(右)本線を多度津方へ走り去る
 

スイッチバック運転の一部始終を見届けたところで、展望台を辞して坪尻駅へ向かう。旧国道に降りて少し行くと、道端に坪尻のバス停標識が立っていた。朝利用したバス路線がここまで延びているのだが、通るのは1日3往復だけだ。

バス停の少し手前に、旧国道からそれて谷を急降下している踏み分け道がある。入口がガードレールで遮断されているようにも見え、事情を知らなければ、駅に通じるとは信じられないだろう。散り敷く枯葉で滑りやすくなった山道は、途中で何度も折れ曲がりながら、谷底に達するまで続いていた。

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旧国道の坪尻バス停
「坪尻駅600m」の標識があるが、車では行けない
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(左)旧国道から駅への入口
  遮断するようなガードレールは車の誤進入防止の目的か
(右)落ち葉敷く坂道
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(左)道はますます細くなる
(右)駅手前の踏切
 

踏破に要した時間は正味13分。行く手に線路と踏切標識が見えたときには、正直ほっとした。踏切に警報機はなく、バーを手で開けて通行するようになっている。掲げてあった時刻表によると、通過列車は上下合わせて37本だ。これに加えて駅に停車する普通列車(下注)もあるので、一日を通してみればけっこうな数が行き来している。

*注 スイッチバックのため、1列車につき踏切を三度通過する。

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踏切に掲げられた通過列車の時刻表
左の印はアンパンマン列車を示す
 

構内には、片面ホームに接する折返し線と切妻の木造駅舎があり、25‰勾配で上る本線がそれに並行する。駅の先端では、2本の線路の間に早や数mの高低差がついている。反対側では、折返し線が本線に合流し、その先で引上げ線が分岐して、本線とともに山かげに消えていく。

駅舎はもちろん無人だが、待合室には記念スタンプや旅ノートが置いてあった。列車で来るにせよ、旧国道から歩いてくるにせよ、皆それなりの時間をかけているので、到達のあかしを残せる心遣いはうれしい。

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坪尻駅、上り勾配の本線が並行する
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(左)木造駅舎
(右)引き戸で入る待合室
 

こうしてしばらく静かな山峡の駅の風情に浸っていたのだが、森の奥からまたあの賑やかな話し声が聞こえてきた。私たちの後を追うようにして、団体の人たちも降りてきたようだ。ひとしきり展望台のカオスが再現されたが、観光バスの予定が押しているらしく、彼らは14時33分に通過する上り特急だけ撮ると、山道を帰っていった。

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上り特急列車の通過を団体さんと横一線で撮影
 

再び静寂が戻ったところで、14時54分発の下り普通列車が上手のトンネルから現れた。展望台で観察したとおり、引上げ線で折り返してホームに入線してくる。停車位置は駅舎より奥の、ホームの床を少しかさ上げした場所だ。2~3分停車する間に、運転士が反対側の運転台に移動する。私たちも阿波池田駅に戻るため、この列車の客となった。

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(左)下り普通列車が接近
(右)引上げ線で折返して駅へ
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ホームに入線
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岡山及丸亀(昭和61年編集)、高知(平成7年要部修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
四国交通-路線バス https://yonkoh.co.jp/routebus
箸蔵山ロープウェイ http://wwwd.pikara.ne.jp/hashikurasan/
こんぴら奥の院 箸蔵寺 http://www.hashikura.or.jp/

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2023年11月 8日 (水)

コンターサークル地図の旅-高麗巾着田

昨日とは打って変わってよく晴れた2023年9月24日、コンター旅の2日目は埼玉県に場所を移して、高麗巾着田(こまきんちゃくだ)とその周辺を歩いた。秋の空気が入って、風がことさら涼しく感じられる。

巾着田というのは、蛇行して流れる高麗川の滑走斜面(下注)に広がる田んぼのことだ。平面形は確かに巾着袋の形をしている。しかし、有名なのはその地形よりも、川沿いを埋め尽くすヒガンバナの大群落のほうだ。「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の里」として、花が見ごろとなる秋の初めには、多くの行楽客で賑わう。

*注 川の湾曲の内側に生じた緩い傾斜面のこと。ちなみに、和歌山県有田川町の通称「あらぎ島」も、小規模だが同様の景観で知られる。

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高麗巾着田のヒガンバナ群落
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図1 巾着田周辺の1:200,000地勢図
2012(平成24)年要部修正
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

朝、所沢から西武池袋線で、集合場所の高麗(こま)駅へ向かった。二つ手前の飯能(はんのう)駅で乗り継いだ西武秩父行きの電車には、リュックを背負った元気な中高年がたくさん乗り込み、その大半が高麗で下車した。私も含めて目的とするところはみな同じらしい。

天気が冴えなかった昨日の反動もあってか、駅前からしてすでに、何かのイベント会場かと疑うほどの混みようだ。今日も、参加者は大出さんと私の2名。いつもどおり歩くルートの地形図を用意してきたが、駅前から人波がぞろぞろと続いているので、あえて地図を開く必要もなかった。

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高麗駅で降りる行楽客
 

国道299号を横断し、集落の中の小道を降りていくと、ほどなく県道15号川越日高線の鹿台橋のたもとに出る。下を流れる高麗川の穏やかな川面に心を和ませながらこれを渡り、また右の小道へ。集落を抜けたところに、巾着田の案内板が立っていた。正面に見える田んぼはもう稲刈りを終え、伸び放題の稲孫(ひつじ)が風にそよいでいる。

戦後間もないころの地形図を見ると、巾着田は文字通り一面が水田だ(下図参照)。しかし、現在の案内板の地図では、花畑や牧場、さらには臨時駐車場になるグラウンドなどが幅を利かせていて、水田の面積は比べようもなく縮小している。

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(左)鹿台橋から見る高麗川
(右)稲孫が伸び放題の田んぼ
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巾着田の案内板
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図3 巾着田周辺の旧版地形図
1949(昭和24)年修正測量
 

人の流れは、河原の遊歩道へと向かっていた。木陰に早くもヒガンバナがちらほら見られる。群落のあるのはさらに先の、川筋が南に膨らんだ区域だが、見物客が押し寄せるこの時期は有料ゾーンになっている。ゲートで500円を払って、中へ進んだ。

巾着田を縁取る河畔林の緑が帯状に広がり、その足もとが真っ赤な絨毯で覆われている。田んぼのあぜ道などで見かけても、気にも止めないありふれた花だが、これだけまとまると圧巻だ(冒頭写真も参照)。記念写真を撮るために立ち止まる人も多く、遊歩道はところどころで渋滞している。

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河畔林の緑の風景に補色の赤が映える
 

途中で、川を横断している小橋が見えた。水位が上がると沈んでしまう沈下橋で、ドレミファ橋と呼ばれている。有料ゾーンで唯一川べりに出られるスポットだが、対岸に上がる道が閉鎖されているので、欄干もない狭い橋の上は、行く人戻る人が入り乱れる。

遊歩道に戻ってまた道なりに進むうち、あることに気づいた。赤の絨毯があるのはほとんど林の日陰で、日当たりのいい場所には咲いていないのだ。ヒガンバナは日陰を好む花かと早合点したが、そうではなく、日なたの株はまだ蕾の状態らしい。

ヒガンバナの花が開く9月下旬というのは、例年なら太平洋高気圧が後退し、大陸からの移動性高気圧に覆われ始める時期だ。空気が乾燥し、朝晩はめっきり涼しくなる。ところが今年は季節の歩みが遅く、残暑が長引いた。県道沿いの告知板に「三分咲き」と記されているとおり、見ごろが後ろ倒しになっているようだ。

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(左)川を横断するドレミファ橋
(右)日なたはまだ蕾で、全体でも三分咲き
 

ともあれ、予定していたメインタスクは無事完了した。ただ、巾着田の地形は直径500mほどの広さがあり、片道歩いただけではあまり実感が湧かなかったのも確かだ。そこでこの後は、近くの日和田山(ひわださん)に上ろうと思う。北西に位置する標高305mの山で、事前に入手したハイキングマップによれば、金刀比羅(ことひら)神社から高麗の里と巾着田が箱庭のように一望できるという。

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高麗川の河原から望む日和田山(左側のピーク)
 

県道の高麗本郷交差点から北に入り、日和田山登山口の道標に従って山手へ上る。奥武蔵自然歩道のルートにもなっているので、道はしっかりついているし、何よりハイカーと思しき人たちが次々と上がっていく。

最初は緩めの坂が続く一本道だ。金刀比羅神社の一の鳥居をくぐると、男坂、女坂の分岐点がある。前者は険しい直登ルート、後者は山腹を迂回する分、より歩きやすい山道だ。男坂方面には、見晴らしの丘という名の寄り道スポットがあるので、まずはそれを目指した。そこはベンチが置かれ、休憩をとるにはよかったが、木々が育って視界が狭く、残念ながら見晴らしは看板倒れだった。

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(左)一の鳥居
(右)男坂、女坂の分岐点
 

昼食だけとってさらに進むと、急な岩場を上ってきた男坂の本道と合流する。まもなく見上げる大岩の上に、華奢な二の鳥居が現れた。すでに多くのハイカーが集まってきている。ここで後ろを振り返ると180度のパノラマが開けるのだ。

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(左)二の鳥居
(右)180度のパノラマが開ける
 

正面に、河原と河畔林に取り巻かれた巾着田がある。北からの眺めなので、手前が巾着の絞った口の部分だ。あれだけいた来訪者は林の蔭で目立たないが、露天の駐車場はすっかり満車になっている。

右側に目を移すと、西武線の線路が見える。奥には秩父山地の青い山並みが連なり、背後にうっすらと浮かぶシルエットは富士山のようだ。一方、左側は関東平野で、遠くに都内の高層ビル群やスカイツリーも見える。期待以上にいい眺めだ。満足したので山頂までは行かず、神社の小さな社殿にお詣りしてから、女坂経由で山を下りた。

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二の鳥居から巾着田を望む
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秩父山地を望む
右のピークは大岳山、左に富士山のシルエットも
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都心方面を望む
 

きょうのゴールは、八高線と川越線が接続するJR高麗川駅なので、高麗川左岸の段丘沿いに東へ向かった。カワセミ街道と呼ばれる日高市道幹線2号が通っているが、歩道がなく、集落を結ぶ旧道をたどるのが安全だ。日差しが降り注いで、午後は晩夏の暑気が戻ってきた。

この周辺は、7世紀の高句麗(下注)滅亡に際し、難を避けて渡来していた人々を、716(霊亀2)年に関東各地から移住させたという土地だ。明治中期までは高麗郡と称し、渡来人ゆかりの寺社が今もある。

*注 10~14世紀に存在した高麗(こうらい)国とは別。日本に残る高麗、狛などの地名は高句麗からの渡来人に由来する。

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カワセミ街道沿いの旧道を歩く
 

20分弱歩くと、その一つ、聖天院(しょうでんいん)の前に出た。案内板によれば、高麗郡を治めた高麗王若光(じゃっこう)らの菩提寺として創建されたものだ。堂々とした二層の山門がまず目を引くが、浅草寺と同じような雷門の大提灯が下がっている。両脇の立像も風神と雷神だ。

山門の風格に引き寄せられて、拝観料を払い、入ってみた。石段で本堂前の広場に上ると、のどかな高麗川の谷が見晴らせる。丘の地形を巧みに利用した広い境内だが、伽藍は案外新しいものだった。

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聖天院の山門
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同 全景
 

続いて近くにある高麗神社へ。ここも祭神は高麗王若光で、社殿の奥には代々その神職を務めてきた高麗家の住宅も保存されている。休日とはいえ、参拝客が多いのに感心したが、巾着田行きの臨時シャトルバスの案内看板を見つけて納得した。神社の駐車場も、渋滞緩和のためのパークアンドライドに使われているのだ。高麗家住宅でも何やら音楽イベントが開かれていたから、巾着田人気は、周辺地域の観光活性化にも寄与しているようだ。

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高麗神社
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(左)同 本殿
(右)重文指定の高麗家住宅
 

神社を後にして、出世橋で高麗川の右岸へ渡る。JR駅へ直行する大出さんと別れ、私はかつて高麗川駅から出ていた太平洋セメント工場の貨物線跡へ寄り道した。

八高線と川越線にはさまれた地点から市役所通り(日高市道幹線6号)と交わるまでの700m弱が、アスファルト舗装のうえ、「ポッポ道」の名で遊歩道化されている。短距離ながら、踏切の警報機が2か所、現役さながらに立っているほか、電柱や、舗装に埋め込まれたレールなど鉄道時代の小道具が点々と残る。終点近くでは、武甲鉱業の石灰石を運ぶベルトコンベアーが地中に埋まっている直線道も交差していて、たどってみたいところだが、時間がなかった。

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ポッポ道の遺構
(左)八高線近くの踏切
(右)カーブする廃線跡と通信線電柱
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(左)高麗川中学校前の踏切
(右)舗装に埋め込まれた線路
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市役所通りに立つ案内板
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)、2万5千分の1地形図飯能(昭和24年修正測量)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
高麗巾着田 http://www.kinchakuda.com/

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