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2023年6月

2023年6月26日 (月)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く II

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間の北陸本線旧線跡を、前回は杉津(すいづ)までたどった。今回は残りのルートを敦賀に向かって歩く。

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杉津(すいづ)駅付近を走るD51の陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図2、3は前回掲載
 

杉津(すいづ)駅は今庄から13.5km、敦賀から12.9kmと、区間のほぼ中間に位置している。鉢伏山(はちぶせやま)の西側、標高179mの山腹で、眼下に敦賀湾と日本海を望めることから、かつては北陸本線の車窓随一の景勝地として知られていた。夏は、ここで下車して東浦海岸まで海水浴に行く客も多かったそうだ。

駅構内は2面4線の構造だったが、廃線後、北陸自動車道上り線のパーキングエリア(PA)に転用されて姿を消した。今庄から旧線跡を忠実にたどってきた県道今庄杉津線も右にそれ、国道8号に合流すべく杉津の集落へと降りていく。そのため、旧線跡を追おうとするなら、左折して北陸道の下をくぐり、山側に出る市道を行く必要がある。

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(左)県道今庄杉津線から敦賀方面への分岐
(右)「ぷらっとパーク」案内板
 

PAの脇を進んでいくと、「ぷらっとパーク」の案内板が出ていた。一般道からも利用可能なPA・SAのことで、裏口にささやかな駐車スペースも用意されている。さっそく入って、売店・食堂棟の傍らに杉津駅に関する案内板があるのを確かめた。

駐車場に面した壁面では、地元の小中学生が筆を揮ったという力作の陶板画が人目を引いていた。一つは高みから見下ろした構図で、海辺の村と湾の青い水面を背景に、蒸気列車が駅に入ろうとしている。あぜ道が交錯する山田では田植えの最中のようだ(前回冒頭写真参照)。もう一つは蒸機のD51が主役で、力強い走りっぷりを斜め正面から写実的に描いている(今回冒頭写真参照)。

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杉津駅案内板(杉津上り線PAに設置)
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PAの壁面を2点の陶板画が飾る
 

列車こそ来なくなったが、目の前の絶景は今も昔と変わらない、と書きたいところだが、意外にも駐車場と高速道の本線に前面を遮られてしまう。これでは来た甲斐がないので、下り線側に行くことにした。

この周辺では、高速道の上り線(米原方面)と下り線(新潟方面)の配置が逆転している。そのうえ西向きの急斜面に立地するので、東側を通る下り線のほうが50m以上高い場所にあるのだ。両方のPAを行き来できるのは一般道利用者にのみ与えられた特権だが、バックヤードの急な坂道を自力で上らなくてはならない。

下り線PAの売店・食堂棟の裏手には、「夕日のアトリエ」と称する展望台がある。北陸道を通行するドライバーによく知られたスポットで、そこから眺めるパノラマは折り紙付きだ。見えている海は敦賀湾口で、かなたに日本海の水平線が延びる。手前の海岸線は、かつて海水浴客で賑わった杉津の浜で、左手直下に先ほどいた上り線PA、右手には歩いてきた旧線跡の県道も見える。沈む夕陽を売りにしている展望台だが、日中の見晴らしも十分すばらしい。

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杉津下り線PAの展望台
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下り線PAからのパノラマ
海岸の集落が杉津、手前下方に杉津駅跡の上り線PA
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右手に旧線跡の県道(今庄方)が延びる
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杉津駅案内板(杉津下り線PAに設置)
 
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図4 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
杉津~葉原信号場間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

しばらく休憩した後、坂を下り、改めて敦賀のほうへ向かう。ちなみに杉津駅のすぐ南には、開業当時、河野谷(こうのだに)トンネルというごく短いトンネルがあったが、構内拡張に際して開削され、消失した。

道路は再び旧線跡に載る。北陸道上り線の杉津トンネルと並ぶようにして、曽路地谷(そろじだに)トンネルが口を開けている。401mと旧線のトンネル群では第4位につける長さだが、県道から外れたためか、内部に照明がなかった。奥へ進むにつれて足もとが闇に包まれ、手にした懐中電灯だけを頼りに歩く。おおむね直線なので(下注)、出口の明かりが小さくまたたいて見えるのがせめてもの救いだった。

*注 敦賀方の出口で左カーブしている。

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曽路地谷トンネル南口
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(左)北陸道のトンネルと並ぶ曽路地谷トンネル北口
(右)照明がなく、中央部は真っ暗闇
 

トンネルを抜けると、右手に敦賀湾の明るい眺めが戻ってきた。しかし、北陸道の上り線が海側のすぐ下を並走しているため、クルマの走行音が絶えず響いて耳障りだ。静寂に包まれていた杉津以北の道中を思えば、俗世間に連れ戻されたような気がする。

次の鮒ヶ谷(ふながや)トンネルは、長さ64mでごく短い。しかも高速道の擁壁建設の際に削られたのか、地山があらかた消失し、トマソン物件になりかかっていた。このあたりで勾配が反転し、25‰の上りが復活する。山中トンネルに向かう坂道ではまったく平気だったのに、疲れてきたのか足が重い。

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(左)敦賀湾の眺めが戻るが、右側すぐ下に北陸道が
(右)地山があらかた消失した鮒ヶ谷トンネル
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鮒ヶ谷トンネル南口
 

いつしか道は林に包まれ、そのうち葉原(はばら)トンネルのポータルが現れた。他のトンネルと同じように金文字の名称プレートがついているが、かつては当時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額がはまっていた。北口で「永世無窮(えいせいむきゅう)」、南口で「與國咸休(よこくかんきゅう)」と刻まれ、実物は長浜鉄道スクエアの前庭にある。

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葉原トンネル南口
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北口の扁額「永世無窮」
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南口の扁額「與國咸休」
いずれも長浜鉄道スクエアで撮影
 

葉原トンネルは、鉢伏山(はちぶせやま)の西尾根を貫いている。長さが979mで山中トンネルの次につけるだけでなく、縦断面でももう一つのサミットを形成していて、立派な扁額に見合う主要構築物だ。しかし今は市道なので、また真っ暗闇の大冒険を強いられるかと危惧したが、ちゃんと明かりが灯っていた。

北口付近にカーブがあり、直線部分も拝み勾配のため、内部の見通しは必ずしもよくない。それでポータル前に、待ち時間約5分と記された交互通行用の信号機が設置されている。徒歩で通過するのに10分以上を要したが、幸いにもその間に入ってくる車両は1台もなかった。

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(左)北口付近にカーブ、直線部は拝み勾配
(右)南口、右上に北陸道下り線が見える
 

トンネルの南口は、北陸道の下り線と上り線に挟まれている。この狭い場所に3本のトンネルが集中しているのだ。高速道建設の際に、潰されたり転用されたりしなかったのは僥倖というべきだろう。

旧線跡は25‰の急勾配で坂を下りていく。葉原信号場の痕跡を探しながら歩いたが、案内板すら立っておらず、右側に雑草の生えた空地が認められるだけだ。急坂の途中のため、信号場はスイッチバック式になっていた。

山中信号場でも実見したように、引上げ線の終端では本線との高度差がかなり開いていたはずだが、今庄方の掘割は埋められており、敦賀方の築堤も高速道路の用地にされたようだ。空中写真を参照すると、市道も若干西側に移設されたようで、一部で旧線跡をトレースしていない。

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(左)葉原信号場跡付近を北望
(右)同 南望
 
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図5 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
葉原信号場~新保間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

北陸道下り線の法面に沿って進むと、行く手に葉原集落が見えてきた。旧線跡は弧を描く長い築堤で、谷を横切りながら高度を下げていく。現役時代は葉原築堤、または葉原の大カーブと呼ばれ、山中越えに挑む蒸機の奮闘ぶりが見られる名所だった。

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弧を描きながら降りる葉原築堤
 

葉原で、旧線跡の市道は木の芽峠から降りてきた国道476号に吸収される。合流地点に村社の日吉神社がある。旧線はこの境内を突っ切っていたが、その後、神社の敷地に戻され、小さな鳥居が立った。

この先は、片側1車線の国道が廃線跡をほぼ踏襲している。しかし、歩道どころか車道の路肩もほとんどなく、歩きには適していない。ここは安全第一で、木の芽川の対岸を通っている旧道に回った。やがて左から北陸道下り線が接近してきて、ただでさえ狭い谷間に、国道、木の芽川、高速道路、旧道が並走し始めた。北陸道の上り線だけ別ルートなのも無理はないと思わせる過密ぶりだ。

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国道476号との合流地点
(左)旧線跡は神社の境内になり鳥居が立つ(北望)
(右)反対側では国道が旧線跡(南望)
 

その谷間に、寄り添うようにして獺河内(うそごうち)集落がある。旧線の新保(しんぼ)駅はその南にあった。新保というのは、駅から北へ4kmも離れた木の芽峠南麓にある集落の名で、国道脇に駅跡を示す大きな自然石の記念碑が立っている。土台部分に描かれた構内図は、道路や等高線が線路と同じ太さの線で描かれていて、今一つ要領を得ないが、ここも25‰勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックの駅だった。

敦賀方の折返し線上に島式ホームが設置され、今庄方にも集落の裏手を通って引上げ線が延びていた。敦賀から坂を上ってきた列車は、いったん引上げ線に入った後、バックして折返し線のホームに着いたという。狭い谷間とあって、駅の跡地は北陸道や国道にまるごと利用され、ほとんど原形をとどめていない。なお、「かつての駅の壁面が自動車道の一部に残されて」いるという案内板の言及は、北陸道の山側に見られる擁壁のことだろう。

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新保駅跡の記念碑、台座に構内配線図
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駅構内は高速道と国道に転用(南望)
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新保駅案内板
 

獺河内から少し行くと旧道が国道に合流してしまい、約1kmの間、危険な国道を歩かざるを得なかった。上流に採石場があるからか、ダンプカーが道幅いっぱいになって通る。こんな道に歩行者がいるとは予想されていないだろうから、ガードレールぎわに立ち止まってやり過ごすしかない。

旧線には、谷の屈曲を短絡する2本の短いトンネルがあった。このうち、今庄方の獺河内トンネルは、国道の新トンネルとして拡幅改修され、面影は完全に消えてしまった。先ほどの無歩道区間とは対照的に、歩道もやたらと広く取られている。

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獺河内トンネルは国道として拡幅改修
 
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図6 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
新保~敦賀間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1932(昭和7)年修正測量
 

一方、敦賀方にある樫曲(かしまがり)トンネル(長さ87m)は歩道扱いとなり(下注)、原状のまま保存されている。ガス灯風の照明設備が鉄道トンネルにふさわしいかどうかは別として、クルマを気にせずにゆっくり観察できるのはうれしい。西口には、土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレートが埋め込まれていた。2種のプレートが揃うのは、山中トンネル北口とここだけで、トンネル群のエントランスに位置付けられていることがわかる。

*注 以前は片方向の車道として使われていた。

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原状保存された樫曲トンネル(東口)
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西口内壁に埋め込まれた
土木学会選奨土木遺産と登録有形文化財のプレート
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樫曲トンネル(西口)と迂回する国道
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樫曲トンネル案内板
 

しかし、国道の迂回はトンネルの前後に限られる。すぐに国道が旧線跡に戻り、谷間に大きな曲線を描いていく。深山(みやま)信号場があったのは、ちょうど北陸道の上り線と下り線が立体交差で合流するあたりだが、国道の道幅が1車線分広くなっているのが目立つ程度だ。

国道はそれから右にカーブし、北陸トンネルから出てきた現在線の横にぴったりとつく。今庄駅の南端で始まった旧線跡をたどる旅はここで終わる。敦賀駅までは、あと2kmほどだ。

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(左)樫曲集落、背景に新幹線と北陸道上り線の高架橋
(右)深山信号場跡、国道の左側が広い
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(左)北陸トンネル南口
(右)敦賀駅正面
 

最後に、湯尾(ゆのお)トンネルについて記しておこう。「旧北陸本線トンネル群」に含まれる11本のトンネルのうち、これだけが他とは離れて、今庄~湯尾間にぽつんと存在する。というのもこのトンネルは、蛇行する日野川の谷をショートカットするために掘られたものだからだ。

長さは368mあり、入口から出口までずっとカーブし続けているのが特徴だ。ポータルは切石積み、内壁は煉瓦積みで、芦谷トンネルと同様の仕様になっている。現在は一般道として使われているが、内部が交互通行のため、待ち時間約3分の信号機に従わなければならない。

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湯尾トンネル北口
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(左)内部は終始カーブしている
(右)南口
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湯尾トンネル案内板
 

トンネルの前後の旧線跡は、北と南で対照的だ。北側は、現在線との合流地点まで道路化されている。途中の湯尾谷川を渡る橋の煉瓦橋台は、鉄道時代のものだろう。南側でも道路が川沿いにまっすぐ延びているが、これは旧線跡ではない。地形図で読み取ると、旧線はもっと山際を通っていた。しかし、民地に取り込まれたり、新線の下に埋もれたりして、ルートはほとんどわからなくなってしまったようだ。

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トンネル北側の旧線跡道路
(左)湯尾谷川の橋から南望
(右)橋には煉瓦の橋台が残る
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図7 1:25,000地形図に旧線位置(緑の破線)等を加筆
湯尾~今庄間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

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 旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I
 コンターサークル地図の旅-小滝川ヒスイ峡と旧親不知トンネル
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2023年6月23日 (金)

旧北陸本線トンネル群(敦賀~今庄間)を歩く I

長さ13,870mの北陸トンネルが開通するまで、北陸本線が杉津(すいづ)回り、山中越えなどと呼ばれた険しい山間ルートを通っていたことは、もうすっかり忘れられているかもしれない。

敦賀(つるが)~今庄(いまじょう)間のこの旧線は1896(明治29)年の開業で、長さ26.4km。旧街道が越える標高約630mの木の芽峠を避けて、敦賀湾沿いの山腹を大きく迂回していた。それでも標高265mまで上る必要があり、前後に急勾配とトンネルが連続する、蒸気機関車にとっては運行の難所だった。もとより単線でスイッチバックもあって、今なら16分で通過してしまう区間に35分から50分も要していたのだ(下注)。

*注 1961(昭和36)年10月改正ダイヤに基づく。

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杉津(すいづ)旧駅を描いた陶板画
北陸道上り線PAにて
掲載写真は2022年10月~2023年6月の間に撮影
 

1962(昭和37)年6月に北陸トンネル経由に切り替えられた後、66年間の長い務めを終えた旧線は、車が走れる道路に転換された(下注)。これはこれで敦賀と今庄の間の抜け道として重宝されていたが、1977年に北陸自動車道が通じ、さらに地道でも2004年に国道476号の木ノ芽峠トンネルが開通したことで、通行量はごく少なくなった。

*注 2023年現在、敦賀~葉原間は国道476号、葉原~杉津PA間は敦賀市道、杉津PA~今庄間は福井県道今庄杉津線のそれぞれ一部区間になっている。

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敦賀~今庄間の線路縦断面図
「今庄まちなみ情報館」の展示パネルより
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「3連トンネル」の景観
伊良谷トンネル出口から南望
 

ルート上には今も11本のトンネル(下注1)など、鉄道の現役時代を彷彿とさせる痕跡が点々と残されている。これらは歴史的価値が認められて、2014年に「旧北陸本線トンネル群」として土木学会選奨土木遺産に認定、2016年には国の登録有形文化財にも登録された(下注2)。

*注1 今庄~湯尾間の湯尾トンネルを含む。
*注2 登録有形文化財としての名称は個別で、それぞれ前に「旧北陸線」がつく(例:旧北陸線山中トンネル)。また、罠山谷(わなやまだに)暗渠と山中ロックシェッドも同時に登録されている。

以下は、その全区間を徒歩で訪ねたレポートだ。北陸本線は米原(まいばら)が起点なので、敦賀から今庄に向けて記すのが順当だが、実際に歩いた今庄側からの記述になることをお断わりしておきたい。

なお、1:25,000地形図上に、歩いたルートを赤線で、旧線の概略位置を緑の破線で、それぞれ記している。ご参考までに旧版地形図も添えたが、1:25,000図が手元にないため、1:50,000図を2倍拡大して用いた。

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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
1959(昭和34)年修正、図4以下は次回掲載

今庄駅は、山あいの静かな中間駅に過ぎない。しかしかつては、山中越えの列車に連結する補助機関車のための鉄道基地だった。本線線路を隔てて東側には機関庫や転車台など関連施設が集まっていたが、新線開通でほとんど撤去されてしまい、今は給水塔と高床式の給炭台だけがうらぶれた姿をさらしている。

一方、旅客用の駅舎は後に改築された。その中に設けられた「今庄まちなみ情報館」には精巧な再現ジオラマがあり、活気にあふれていた時代の駅構内をしのぶことができる。

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今庄駅
(左)観光案内所や情報館の入る駅舎
(右)521系の上り普通列車が入線
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(左)構内に残る給水塔と給炭台
(右)旧役場前広場に保存されたD51 481号機
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「今庄まちなみ情報館」にある旧駅構内のジオラマ
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
今庄~大桐間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

さて、今庄の町の南のはずれで、旧線跡は現在線から右に分かれていく。現在線が長さ855mの今庄トンネルに入る一方で、川沿いに延びていた旧線跡は、そっくり県道207号今庄杉津線に転用された。緩いカーブは鉄道由来のものだが、2車線幅に拡げられたため、昔の面影は見いだせない。

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今庄~南今庄間の旧線跡道路
(左)緩いカーブは鉄道由来(西望)
(右)現在線に再接近(東望)
 

その県道が、トンネルから出てきた現在線に再接近した地点に、南今庄(みなみいまじょう)駅がある。後述する大桐駅廃止の代償として開設されたが、対面式ホームにささやかな待合室が付属するだけのさびしい無人駅だ(下注)。それで、すぐそばの県道脇に木造の休憩所が建てられている。トイレもあるので、この駅を廃線跡探索のスタート/ゴール地点にするなら、身支度や電車待ちに重宝するに違いない。

*注 出入口にICカードの簡易改札機がある。

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(左)南今庄駅
(右)県道脇の休憩所
 

駅を出たあと、まっすぐ北陸トンネルに向かう現在線に対して、廃線跡の県道は緩やかに右カーブする。そして谷をまっすぐ遡りながら、下新道(しもしんどう)と上新道(かみしんどう)の集落を通過していく。案内板によれば、この地名は木の芽峠に向かう新道(の入口)という意味らしい。新道といっても830年の開削で、それ以前の北陸道は、海岸から直登して旧線と同じく山中峠を経由していたそうだ。

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(左)下新道集落を直進
(右)北陸自動車道が見えてきた
 

行く手に、現代の北陸道である北陸自動車道が見えてきた。その高架下をくぐろうとするところに、交互通行の信号機が立っていた。

というのも、昨年(2022年)8月5日に集中豪雨があり、鹿蒜川が氾濫してこの地域に大きな被害をもたらしたのだ。家屋や田畑が冠水し、県道も被災して一時期、通行止めになった。先にある2か所の橋のうち、上手のほうが流失したため、川の右岸に応急の迂回路が造られている。信号機はそのためのものだ。流された橋桁は鉄道からの転用だったので、貴重な遺構が一つ消えたことになる。

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被災した県道
(左)下手の橋梁は無事
(右)上手の橋梁は流失
 

大桐(おおぎり)駅跡はその流失現場の続きだが、幸いにも被害を免れた。一部保存された上り線ホームには桜並木が植わり、案内板とともにD51の動輪や信号機など鉄道のモニュメントが置かれている。敦賀~今庄間の旧線にあった3つの中間駅のうち、他の2つは高速道路の建設で消失してしまったから、ここは往時を追想できる貴重な場所だ。

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上りホームが残る大桐駅跡(東望)
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ホーム上に並ぶ動輪や信号機のモニュメント
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大桐駅案内板
 

大桐駅を出ると、旧線跡は右へカーブしながら、いよいよ25‰(1:40)の勾配区間にさしかかる。山中トンネルの手前まで約6km続く長い坂道だ。800mほど先には、駅の名になった大桐集落がある。家並みの間を貫く築堤の途中でまた鹿蒜川を渡るが、ここでも鉄道時代の鋼桁が再利用されていた。

ここは今庄方の最後の集落で、これを境に道幅が狭まり、センターラインも消える。新幹線工区のある谷側の高い法面がブルーシートで覆われていた。ここも豪雨の爪痕のようだ。いつしか携帯の電波が届かなくなり、山の深まりを実感する。舗装道だが、クルマにもバイクにも出会わないし、もちろん歩いているのは私だけだ。

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(左)大桐集落
(右)鹿蒜川を渡る橋に鉄道の面影
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(左)大桐の築堤を下る特急「白鳥」、大桐の案内板を撮影
(右)同じ場所の現在
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(左)法面に復旧工事の跡が残る(東望)
(右)通るクルマもない深山の直線道(西望)
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図3 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
大桐~杉津間
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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
1960(昭和35)年資料修正
 

杉林の中をなおも上っていくと、覆道の山中ロックシェッド(下注)があった。一見新しく、線路を通していたにしては狭く見えるが、登録有形文化財のプレートがはまっているから間違いない。1953(昭和28)年の建築で、長さは65m、国内最初期のプレストコンクリート製という点に価値があるらしい。

*注 ロックシェッド rock shed は落石除けの意。

ロックシェッドに続いて、山側に頑丈そうなコンクリートの擁壁がそびえている。ここはもう山中信号場の構内で、スイッチバックの折返し線がこの上に延びていたのだ。進むにつれて、築堤との高低差は徐々に縮まってくる。折返し線は長さが500m以上ありそうだが、途中で一部が崩壊し、土嚢が積まれていた。支谷から溢れた水流で押し流されたようだ。

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山中ロックシェッドにも、登録有形文化財のプレートがはまる(左写真の矢印)
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(左)折返し線を載せる擁壁(西望)
(右)本線ロックシェッドの上に折返し線のロックシェッドが(東望)
 

折返し線が合流する場所まで来た。信号場の案内板がある。それによると、今見てきた今庄方の折返し線は複線になっていて、それとは別に敦賀方にも単線の引上げ線が延びていた。本線の坂を上ってきた列車は、いったん後者に入線した後、バックして前者に入り、列車交換を行ったという。

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スイッチバックの山中信号場(東望)
右の砂利道が折返し線跡
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山中信号場案内板
 

森陰の薄暗い谷を少し進むと、山中トンネル(下注)の苔むした煉瓦ポータルが迎えてくれた。左隣には、引上げ線の有効長を延ばすために設けられた行き止まりのトンネルも見える。

*注 地形図の注記のとおり、明治時代の建設のため、本来の呼称は「~隧道(ずいどう)」だが、本稿では「~トンネル」に統一した。

山中トンネルは長さ1170mで、このトンネル群では最長だ。今いる北口が山中越えのサミットに当たり、旧 北陸本線の最高地点でもあった。ポータル上部には、かつて時の逓信大臣 黒田清隆が揮毫した扁額が据え付けられていたが、現在は、滋賀県長浜市にある長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎)の前庭に移設されている(下注1)。北口は「徳垂後裔(とくすいこうえい)」、南口は「功和于時(こうかうじ)」と刻まれていて(下注2)、建設に携わった人々の気概と自負が伝わってくる。

*注1 最近、トンネルの前にも扁額のレプリカが置かれた。
*注2 文言の意味は、下の写真の説明パネル参照

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山中トンネル北口、左隣は引上げ線のトンネル
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長浜鉄道スクエアに保存されている扁額「徳垂後裔」
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引上げ線トンネル
内部はすぐに行き止まりに
 

本線トンネルに入っていこう。内部は直線かつ22.2‰(1:45)の一方的な下り勾配で、1km以上先にある出口の明かりが小さく見える。リュックに懐中電灯を入れてきたが、天井照明があるので、取出すまでもなかった。壁から染み出した水が側溝の蓋からあふれて、あちこちに流れや水たまりを作っている。注意深く歩かないと、靴が水浸しになりそうだ。

珍しく途中で乗用車が1台入ってきたが、ロケットの発射かと思うほどの轟音がこだまして肝を冷やした。トンネル内では離合が難しいから、速度を上げているのだろう。とりあえず退避用の窪みに身を寄せてやり過ごす。写真を撮りながら歩いたので、出口まで20分以上かかったが、すれ違ったのはこの1台だけで助かった。

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山中トンネル内部
一方的な下り勾配、水浸しの路面
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(左)資材置場(?)と電線碍子
(右)後補と思われる待避所
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(左)南口から南望
(右)山中トンネル南口、かつてはここにも扁額があった
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南口の扁額「功和于時」
長浜鉄道スクエアで撮影
 

山中トンネルの後も50~100mの明かり区間を置いて、トンネルが5本連続している。海に落ち込む山襞をあたかも串刺しにするように、線路が通されているからだ。

一つ目は伊良谷(いらだに)トンネル、長さは467m。ポータル上部には、建設時のものではないが、名称を金文字で記したプレートがはまっている(下注)。内部がカーブしていて見通しが悪いので、入口に交互通行用の信号機が設置されていた。看板には待ち時間約3分とあるが、私は徒歩なので、遠慮なく入らせてもらう。

*注 伊良谷トンネルから葉原トンネルまでこの仕様になっている。

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信号機が設置された伊良谷トンネル北口
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(左)トンネル名称のプレート
(右)内部はカーブで見通しが悪い
 

カーブの終わる出口に近づくと、これから通る2本のトンネルが一直線に並んで見える。案内板によると、この印象的な景観は「3連トンネル」と呼ばれているらしい(冒頭写真参照)。

一見同じようなトンネルだが、仕上げ材には違いが見える。山中、伊良谷はポータルも内部も煉瓦で積んでいるが、次の芦谷(あしたに)トンネルは内部が煉瓦積み、ポータルは切石積みだ。その後のトンネルは、ポータルだけでなく内部の腰部まで切石積みになる。

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(左)山中トンネルの内部は煉瓦積み
(右)曲谷トンネルは腰部が切石積み
 

芦谷トンネル(長さ 223m)を出ると、三つ目の曲谷(まがりたに)トンネル(同 260m)の間で谷を横断している築堤が、大規模に流失していた。これも豪雨による被害だ。築堤の下の暗渠が土砂で埋まったか何かで、谷からの出水が築堤を乗り越えてしまったようだ。山側に設けられた仮設道路を迂回する。今庄方から来ると、この築堤で初めて敦賀湾が見えるのだが、今は不気味な裂け目のほうに目が行ってしまう。

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芦谷、曲谷トンネル間で流失した築堤
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その築堤から見える敦賀湾
 

曲谷トンネルは内部で右に、四つ目の第二観音寺トンネル(同 310m)は同じく左にカーブしている。再び敦賀湾を遠望した後、短い第一観音寺トンネル(同 82m)に入った。

この後はしばらく山腹の明かり区間で、高い築堤の上を25‰で下っていく。この下に、トンネル群とともに登録有形文化財に加えられた罠山谷(わなやまだに)暗渠(長さ46m)があるはずだが、見学路がついているのかどうかはわからない。

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曲谷トンネル北口
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第二観音寺トンネル南口
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第一観音寺トンネル南口
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(左)罠山谷暗渠のある築堤(北望)
(右)正面奥に北陸道上り線(南望)
 

さらに歩いていくと、正面に北陸自動車道の上り線が見えてきた。あちらも分水嶺の下を敦賀トンネルで抜けてきたところで、クルマがひっきりなしに行き交っている。緑地にPの標識が見えるのは、杉津(すいづ)パーキングエリアの駐車場だ。知られているとおり、ここが旧線の展望名所だった杉津駅の跡になる。

続きは次回に。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図岐阜(昭和34年修正)、5万分の1地形図今庄(昭和35年資料修正)および地理院地図(2023年6月9日取得)を使用したものである。

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2023年6月 9日 (金)

コンターサークル地図の旅-北陸本線糸魚川~直江津間旧線跡

新幹線の延伸に伴って、ほとんど第三セクター路線になってしまいそうな北陸本線だが、今ある複線電化の立派な施設設備は、主に国鉄時代の1950~60年代に整備されたものだ。

このとき、各所で曲線や勾配の多い旧線が放棄され、新設ルートへの切り替えが実施された。中でも大規模なものが、ループ線や北陸トンネルが建設された木ノ本~敦賀~今庄間と、地下駅のある頸城(くびき)トンネルで知られる糸魚川~直江津間だ。

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旧線跡の自転車道からの眺め
有間川駅西方から東望
 

後者では、旧線は背後に迫る山地や段丘を避けて、海岸を走っていた。そのため、線形の悪さや単線の制約はもとより、有数の地すべり地帯だったことから、運行の安全性にも懸念があった。そこで1969(昭和44)年10月のダイヤ改正に合わせて、抜本的な線路改良が行われた。糸魚川の2駅(当時)先の浦本から直江津の間では、線路は山地を貫くように通され、長さ11,353mの頸城トンネルを筆頭に、大小のトンネルが連続している。

一方、列車が走らなくなった旧線跡は、その大半が全長32kmに及ぶ長距離自転車道の建設に利用された。「久比岐(くびき)自転車道」と呼ばれるこのルート(下注)は、直江津の西4kmにある虫生岩戸(むしゅういわと)地内から糸魚川市の早川橋の手前に至るもので、終始日本海に沿うサイクリングルートとして人気が高い。

*注 正式名は、新潟県道542号上越糸魚川自転車道線。

2023年5月21日、糸魚川を拠点にしたコンター旅の2日目は、この自転車道をレンタサイクルでたどりながら、鉄道の痕跡を探すとともに、列車の車窓から失われてしまった海辺の風景を楽しみたいと思う。

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旧線跡の自転車道が鳥ヶ首岬へ向かう
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図1 北陸本線旧線時代の1:200,000地勢図
(左)1936(昭和11)年修正 (右)1968(昭和43)年編集

参加したのは、昨日と同じく大出、中西、山本、私の4名。9時30分に糸魚川駅日本海口(北口)の自転車店に集合して、7段変速のクロスバイクを借りた。今朝は晴れて、さわやかな西風が吹いている。いいサイクリング日和になりそうだ。

本日の行程はまず、糸魚川駅から直江津の一つ手前の谷浜(たにはま)駅まで、列車に自転車を載せて移動する。そこからペダルを漕いで、糸魚川に戻ってくるつもりだ。

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久比岐自転車道を走ったレンタサイクル
 

新潟県内の旧 北陸本線は、三セク転換で「えちごトキめき鉄道」(以下、トキ鉄)の路線になっている。ふつう、列車で自転車を運ぶには、あらかじめ分解するか折り畳んで、輪行袋と呼ばれる専用の袋に入れなくてはならない。ところが、この鉄道では「サイクルトレイン」といって、乗客の少ない日中の時間帯に限り、そのまま列車に積み込めるサービスを実施しているのだ。これが普通運賃と290円の手回り品料金で済むというのもうれしい。

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谷浜までの乗車券と手回り品切符
 

駅の窓口で、谷浜までの乗車券と手回り品切符(区間等は手書き)を発行してもらい、自転車を押して改札を入った。9時59分発の列車は単行(1両)だ(下注)。一般車両なので、自転車を置くスペースは特に確保されていない。1台ならともかく、4台だと見た目もかさばる。たまたま降りる一つ手前の駅までホームはずっと左側なので、「自転車は右の乗降扉に寄せて置いてください」と、運転士さんから適切な指示があった。

*注 直江津方面の列車でサイクルトレインとして利用できるのは、これが始発になる。

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(左)糸魚川駅に入ってきた単行気動車
(右)列車に載せた自転車(もう1台は後ろの扉に)
 

長いトンネルをいくつも抜けて、10時35分に谷浜駅に到着した。直江津方面の列車は海側の島式ホームに着くが、駅舎は山側だ。無人駅で、リフトのような気の利いた設備はないので、自転車をかついで跨線橋を渡った。

直江津まで行かず、ここをスタート地点にしたのは、谷浜以東の旧線跡が郷津(ごうつ)トンネルを含めて国道に上書きされてしまい、痕跡が残っていないからだ(下注)。また、自転車道も虫生岩戸から谷浜までは専用道ではなく、国道の海側の歩道を利用している。

*注 旧線には郷津駅があったが、新線上に移されることなく廃止された。現在線はこの間を長さ3105mの湯殿トンネルで通過している。

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谷浜駅到着
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図2 1:25,000地形図に自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
直江津~郷津間
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図3 同 谷浜~有間川間
自転車道は県道のため、黄色で着色されている
 

ひっそりとした駅前を10時50分ごろ出発した。初めは線路の山側の一般道を走り、途中で線路下のカルバートを通って自転車道に出る。ほどなく行く手に旧 長浜トンネルが見えてきた。谷浜駅の前後は旧線のまま(腹付け線増)なので、このあたりから単独の廃線跡になるはずだ。

自転車道区間にはこうしたかつての鉄道トンネルが8本あるが、どれもポータルの前に、名称、長さ、通過時間を記した標識が立てられている(下注)。それによれば、長浜トンネルは区間最長の467m、通過時間は2分だ。内部がカーブしていて出口が見えないが、照明設備は完備している。この自転車のヘッドライトも自動点灯式ではあるが、トンネルが明るければより安全に走れるというものだ。

*注 標識はトンネルの両側に立っているが、旧 長浜トンネルだけは直江津側がなかった。

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長浜トンネル
(左)長さと通過時間を記した標識が立つ(糸魚川方)
(右)内部は照明つき
 

有間川を渡る地点で、自転車道は廃線跡から横にそれる。それで、傍らに旧線のレンガ橋台が残っていた。ここに限らず、鉄道時代の橋桁はほとんど転用されなかったようで、このように自転車道の架橋位置をずらすか、またはコンクリート桁で置き換えられている。

有間川駅に寄り道した。この駅も旧線時代のままだ。防波堤に沿う国道より一段高いので、駅前に立つと海がすっきりと見晴らせる。1日3往復しかない貨物列車を待ってみたが、いっこうに現れなかった。まだ一駅しか進んでいないので、諦めて先を急ぐ。

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(左)有間川に残る橋台
(右)海を見晴らす有間川駅
 

駅のすぐ先で、「トキ鉄」の線路は長さ3,601mの名立トンネルに吸い込まれていき、自転車道が再び廃線跡に載るようになる。こちらも青木坂トンネル(長さ321m)、乳母岳トンネル(同 463m)と立て続けにトンネルを抜ける。

段丘崖の裾に沿って進んでいくと、小さな滝がいくつも掛かっていた。海側には国道が並行しているが、自転車道はそれより高い位置を行く。東の方角、海の向こうにかすむ整ったシルエットは米山(よねやま)だろうか。波穏やかな大海原と弓なりに広がる海岸線、この開放的なパノラマを遮るものは何もない。

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(左)青木坂トンネル
(右)乳母岳トンネル(いずれも糸魚川方)
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段丘崖に小さな滝が掛かる
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海の向こうに米山のシルエット
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
有間川~名立間
 

自転車道の最北地点、鳥ヶ首岬の短いトンネルを通過した。針路は南西に変わり、まもなく名立(なだち)の町に入っていく。山側にそびえる長い崖線が目を引くが、これは1751年に発生した地震に伴う地すべりの跡だ。400人以上が巻き込まれて亡くなる大災害だったことから、「名立崩れ」として後世に伝えられている。

地形図にも、並行する2列の崖記号と、その海側に崩土で埋まった緩斜面が描かれている。こうした崖と緩斜面の組み合わせは、内陸部にも多数見出せ、有史以前から一帯で地すべりがしばしば発生していたことが知れる。

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(左)鳥ヶ首岬東側の覆道、奥に見えるのは岬のトンネル(直江津方)
(右)短いトンネルで鳥ヶ首岬を回る(糸魚川方)
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名立崩れの地すべり跡
 

「トキ鉄」の現 名立駅は、海岸から800m内陸の、名立トンネルと頸城トンネルに挟まれた浅い谷間に設置されている。それに対して、旧 名立駅は海沿いの町の北端にあったが、町工場などに転用されて痕跡は残っていないようだ。

出発が遅かったから、早くもお昼だ。近くにある道の駅「うみてらす名立」まで自転車を走らせて、フードコートで海の幸の昼食をとった。旧線跡の下流側に架けられた専用橋で名立川を渡ると、自転車道は再び線路跡につく。海岸に沿って大抜(おおぬき)トンネル(同 391m)を通過し、市界を越えて上越市から糸魚川市に入った。

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(左)大抜トンネル(糸魚川方)
(右)浜徳合の徳合川に残る橋台(糸魚川方)
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市界を越える
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
名立~筒石間
 

レンガの橋台と続きの築堤が残る浜徳合(はまとくあい)を過ぎ、筒石の町裏では、崖ぎわの15mほどある高みを走る。右側の擁壁の縁に、345 1/2kmのキロポストが残っていた。距離標としては、おそらく沿線で唯一のものだろう。段丘を切り込んで海に注ぐ筒石川を、市道との併用橋で渡る。廃線跡は海側にあり、レンガの高い橋台と、築堤を支えている鎧のような擁壁が印象的だ(下注)。

*注 築堤は均されて、保育所の敷地に転用されている。

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(左)筒石の町裏にあった345 1/2キロポスト
(右)筒石川の高い橋台と築堤の擁壁(糸魚川方)
 

現在の筒石駅は頸城トンネル内の地下駅として有名だが、旧駅はもっと糸魚川方の、海を望む段丘の上にあった。しかし、跡地は住宅などに転用されてしまい、道端に国鉄OB有志が立てた小さな碑があるだけだ(下注)。久比岐自転車道のガイドマップでも駅跡の言及はないので、知らなければ見落としてしまうだろう。

*注 表面には「日本国有鉄道 北陸本線旧筒石駅跡地 記念之碑」、裏面には駅の略史と建立日(平成3(1991)年3月31日)、建立者名が刻まれている。

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筒石駅跡から筒石漁港を遠望
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(左)旧 筒石駅記念碑
(右)藤崎(とうざき)のレンガ橋台
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
筒石西方~能生間
 

百川(ももがわ)トンネル(同 161m)とその前後は、単線幅の用地をわざわざ自転車道と一般道に分けている。そのため、中央分離帯(!)が狭いトンネルの中まで続いているのがユニークだ。これはいささか極端な例としても、筒石以西では廃線跡を一般道に転用して、側道として自転車道を併設している区間が多い。道幅もそれなりに拡げられているので、細く長く延びるという廃線跡のイメージは消えてしまっている。

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中央分離帯のある百川トンネル
 

やがて、形が鶏に似ているというトットコ岩が見えてきた。その向こうは一瞬、陸に乗り上げたのかと見間違う「海の資料館 越山丸」、そして、カニ尽くしで人気の高い道の駅「マリンドリーム能生(のう)」だ。しかし、さきほど食事をしたばかりなので、ここは通過。能生漁港の町裏を小泊トンネル(同 326m)と白山トンネル(同 336m)で抜けた後、名勝の弁天岩に寄り道した。

弁天岩は、海底で噴出した溶岩丘が隆起によって海上に姿を現した小島だ。海岸から赤い欄干の橋が延びて、小さな灯台と祠の建つ島に渡れる。恋人たちの聖地という宣伝文句に惹かれたと見え、若いカップルやグループが多数来ている。

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(左)トットコ岩
(右)海の資料館 越山丸
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(左)小泊トンネル(直江津方)
(右)白山トンネル(糸魚川方)
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鯉のぼりが空を泳ぐ弁天岩
 

旧 能生駅は、糸魚川市役所能生事務所(旧 能生町役場)の場所にあった。建物前の狭い植え込みの中に、土地境界標、筒石と同じような記念碑、それに338キロポストが置かれている。残念なことに、建物入口に通じるスロープの建設に際して壁際に移設されたため、裏の碑文を読むのには苦労する。なお、現在の能生駅は頸城トンネルの西口にあり、海岸から800mほど内陸だ。

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境界標とキロポストを伴う旧 能生駅記念碑
 

木浦(このうら)から鬼舞(きぶ)にかけては旧線に高度があり、木浦川の谷を横断する築堤も高い。鬼伏(おにぶし)の手前にある尾根の張り出しでは、自転車道がいったん海岸を走る国道のレベルまで降りて、また上り返す。廃線跡は、植生に覆われながらも国道の擁壁の上に残っているようだった。

鬼伏のコンビニに寄り道して、飲み物で一息ついた。高見崎と呼ばれる山の張り出しが、海を見晴らす旧線跡の最後の区間だ。行く手に、いよいよ糸魚川の町と青海黒姫山が見えてきた。

海岸平野が始まる浦本駅のすぐ手前で、旧線は浦本トンネルから出てきた現在の線路に合流する。廃線跡探索はここまでだ。合流地点の手前には盛り土の草生した空地が残り、新旧の対照を鮮やかに示していた。

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高見崎を回る
遠景は糸魚川の町と青海黒姫山
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旧線(左の空地)と現在線の合流地点
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図7 1:25,000地形図に訪問地点(赤)と、自転車道以外の旧線位置(緑の破線)を加筆
能生~浦本間

さて、所期の目的は果たしたが、私たちにはまだ、糸魚川に自転車を返却するという仕事が残っている。廃線跡を外れた自転車道は、国道の早川橋の手前まで約3kmの間、防波堤の内側に沿って延びている。右手は漁港と日本海の砂浜、左手は漁村の裏手だ。国道とも少し距離があるので、クルマの騒音はあまり届かず、集中して走れるいいルートだった。

自転車道の終点、早川橋からは旧道や国道の側道を通り、16時20分ごろ自転車店に無事帰着した。旧北陸本線のキロ程によると、糸魚川~谷浜間は34.3kmだ。昼食休憩を含めて走破に5時間30分かかったので、表定速度は6km/hにしかならない。私たちの旅は途中停車が多すぎて、いつもこんなのんびりペースだ。

最後は北陸本線旧線時代の地形図だが、1:25,000図が手元にないので、1:50,000図を直江津側から順に掲げる。なお、図中に複線の鉄道記号が使われているが、該当区間はまだ単線だったはずだ。

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北陸本線旧線時代の1:50,000地形図
直江津~有間川間(1968(昭和43)年編集)
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同 有間川~筒石間(1968(昭和43)年編集)
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同 筒石~浦本間(1968(昭和43)年編集)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図高田(昭和43年編集)、富山(昭和11年修正)、5万分の1地形図高田西部、糸魚川(いずれも昭和43年編集)および地理院地図(2023年5月25日取得)を使用したものである。

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