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2023年4月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-筑波鉄道跡

2023年3月28日のコンター旅は、関東地方に移って筑波(つくば)鉄道跡を巡る。

筑波鉄道筑波線は、JR常磐線の土浦(つちうら)から水戸線の岩瀬(いわせ)まで、筑波山地西麓の田園地帯に延びていた非電化、延長40.1kmの私鉄路線だ。1918(大正7)年に開業し、筑波山への観光需要を支えていたが、戦後は道路交通との競合にさらされて業績が悪化し、1987(昭和62)年に全線廃止となった。

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筑波鉄道岩瀬駅のキハ762
(1987年3月、大出さん提供)
 

用地はその後、大半が自転車道に転用・整備され、現在「つくば霞ヶ浦りんりんロード」と呼ばれる広域自転車道の一部になっている。そもそも歩いていては日が暮れるので、廃線跡探索には乗り物の利用が必須だが、このエリアには充実したレンタサイクルのサービスがある。ありがたいことに3日前までに予約すれば、拠点施設での乗り捨て(片道レンタル)も可能だ。

そこで今回は、川上側の岩瀬で自転車を借り、旧線沿いに南へ下って土浦で返却するプランを立てた。ついでに、沿線に咲いている桜を楽しもう、という欲張ったたくらみも抱いている。しかし考えることはみな同じらしく、休日の自転車はすでに予約がいっぱいで、やむなく平日の催行となった。

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図1 筑波鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(左)1980(昭和55)年編集 (右)1981(昭和56)年編集

小山発の水戸線下り電車で、8時59分岩瀬駅に到着した。参加者は、大出さんとゲスト参加の田中さん、私の3名。筑波線との乗換駅だったとはいえ、常総線や真岡鉄道が入る下館に比べると、駅前はいたって閑散としている。

さっそく貸出場所の高砂旅館へ。受付を済ませると、ご当主が予約していた自転車とヘルメットを出してくださった。まだ新しそうな9段変速のクロスバイクだ。40kmものサイクリングは私にとって学生時代以来なので、気休めになればと持参したクッション性のサドルカバーを装着した。

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(左)現在の水戸線岩瀬駅
(右)駅裏の筑波鉄道駅跡は空地に
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りんりんロードを走ったレンタサイクル
 

9時15分、ご当主と奥様に見送られて、駅前を出発。まずは、駅裏にあった旧筑波鉄道のホーム跡へ向かう。ソメイヨシノが数本大きく育っているほかは駐車場と空地が広がるばかりで、鉄道の遺構らしきものは何もなかった。ここを起点に、自転車道は西へ出ていき、緩いカーブで南に方向を変える。

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(左)岩瀬駅裏の自転車道起点
(右)桜の壁画がある北関東自動車道のカルバート
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆、岩瀬~雨引間
りんりんロードは県道のため、黄色で着色されている
 

桜の壁画が描かれた北関東自動車道のカルバートをくぐり、県道41号つくば益子線を平面横断すると、左手から丸山、右手から羽田山のたおやかな稜線が近づいてきた。降り出した霧雨に煙る山肌を、ヤマザクラの薄紅色と若葉のもえぎ色が埋め尽くしている。この時期ならではの優雅なパステル画だ。

ルートは、二つの山に挟まれた分水界を通過している。その前後は10‰の拝み勾配のはずだが、自転車の性能がいいのか、坂を上る感覚はほとんどなかった。最初のトピックは、分水界の手前で進行方向右側の道端に残る「8」00mポストだ。小さいものなので、注意していないと見逃してしまう。

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(左)丸山と羽田山の稜線が近づく
(右)分水界の手前に残る「8」00mポスト
 

最初の駅、雨引(あまびき)へは岩瀬から4.7kmと、駅間が最も長い。しかし分水界を越えれば緩やかな下り坂で、漕ぎ始めでもあり、難なく到達した。旱魃時の雨乞いにその名をちなむ雨引観音が近くにあるが、霊験あらたか過ぎて、空はずっと低いままだ。駅跡の苔むした相対式ホームも、その上で見ごろを迎えた大きな桜の木も、そぼ降る雨に濡れている。一角にある自転車道の雨引休憩所でしばし足を休めた。

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雨引駅跡
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(左)相対式ホームが残存
(右)自転車道の休憩所を併設
 

東飯田(ひがしいいだ)駅跡では、北側のみごとなシダレザクラの下で、石材店の灯篭たちも世間話に花を咲かせているようだった。残された短い単式(片面)ホームには、ソメイヨシノの太い幹が立ち並ぶ。

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東飯田駅手前のシダレザクラと石灯籠
 

筑波連山第二の高峰、標高709mの加波山(かばさん)を左に眺めながら、春の野を走っていく。樺穂(かばほ)駅の相対式ホームが見えてきた。頭上は枝を大きく広げた桜並木だが、足元に作られたささやかなスイセン畑もまた気持ちを和ませる。

1km先の右側に、風化が進んでいるものの「31」の数字が読み取れるキロポストが立っていた。自転車道の公式サイトでも取り上げられているが、おそらく沿線に残る唯一のものだ。

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加波山の山腹をヤマザクラが彩る
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(左)樺穂駅跡
(右)沿線に唯一残るキロポスト「31」
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
樺穂~常陸桃山間
 

10時30分ごろ、真壁(まかべ)に到達。現役時代は2面3線を擁した主要駅の一つで、今も進行方向右側に単式ホーム、中央にゆったりとした島式ホームが残存する。その上のソメイヨシノは、通過してきた駅跡の中では最も巨木で、枝ぶりも貫禄十分だ。

大出さんは、時代の雰囲気が感じられるという駅前を見に行った。私は私で、ホーム端のサイクルスタンドに描かれたキハ461(下注)のイラストに目を留めた。雨がやや強まってきたので、休憩所のあずまやで小止みになるのを待つ。

*注 現物は国鉄時代のキハ04形に復元され、さいたま市の鉄道博物館で展示されている。

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真壁駅の貫禄あるソメイヨシノ
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キハ461が描かれたサイクルスタンド
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真鍋車庫に留置されていたキハ461、後ろはキハ541
(1987年3月、大出さん提供)
 

再び出発すると、左手の小山の奥に、雨に煙りながらも特徴的なこぶをもつ筑波山が姿を現し始めた。ルートは早や中盤にさしかかっている。

旧県道の踏切跡を横断すると、左カーブの途中に次の常陸桃山(ひたちももやま)駅跡があった。単式ホームは他とは違ってのっぺらぼうで、無粋な防草シートで隙間なく覆われている。住民から苦情でもあったのだろうか。代わりに土浦方では、自転車道に並行して、桜並木の砂利道が学校校地との境をなしていた。

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雲間から姿を見せた筑波山
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常陸桃山駅跡
(左)防草シートで覆われたホーム跡
(右)土浦方、自転車道に並行する桜並木
 

紫尾(しいお)駅跡では、相対式ホームの間を自転車道が通り抜けていく。右側のホームがやや荒れ気味なので、晩年は使われていなかったのかもしれない。ここのサクラは遅咲きの品種なのか、多くがまだつぼみの状態だった。紫尾と書いて、しいおと言うのは難読だが、付近の地名表記は「椎尾」だ。

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(左)紫尾駅跡のサクラは遅咲き?
(右)田園地帯を貫く自転車道
 

細かい雨をものともせず、田園地帯を飛ばしていった。筑波山の山塊が西に張り出しているので、ルートも西に膨らみ、桜川(さくらがわ)の河原に接近する。山脚を回って少し行くと、今度は左から県道つくば益子線が合流してきた。この先約1.8kmの間、県道が廃線跡を上書きしているため、自転車道はその側道に納まらざるを得ない。酒寄(さかより)駅跡はすぐだが、車道工事で撤去されてしまったか、痕跡はなさそうだった。

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(左)県道との合流地点(北望)
(右)酒寄駅跡と思われる地点(北望)
 

県道の右側を走っていたので、上大島(かみおおしま)駅の跡はあいにく見逃してしまった。車道が少し広がった地点の左側の民地にホームの一部が残っているらしいが…。ちなみに、上大島はつくば市(旧 筑波町)の地名だが、駅付近に市界が通っていて、駅舎は桜川市(旧 真壁町)側にあった。時刻は11時半、少し早いが休憩を兼ねて、近所の中華料理店で昼食にする。

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(左)駅跡から400m南にある上大島バス停
(右)上大島の南で廃線跡は再び自転車道に
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
上大島~筑波間
 

腰を上げたのは12時10分、さいわい雨も上がったようだ。上大島の集落を抜けると、廃線跡から県道が離れていき、再び専用の自転車道になる。道の両側にサクラやハナモモの花回廊が延々と続いていて、さっと通過してしまうのはもったいないほどだ。

自転車道の横に、巨大なハンドマイクのような見慣れない標柱が立っていた。説明板によると、測量機器の性能を点検するために国土地理院が設置した比較基線場という施設の一部だ。つくばは国土地理院のホームグラウンドだから、見慣れない測距標があっても不思議ではない。

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(左)サクラやハナモモの花回廊が続く
(右)比較基線場の巨大な標柱
 

2.7km走って、筑波(つくば)駅跡に到達。鉄道の現役時代は筑波山の玄関口だったところで、今回のルートのほぼ中間地点でもある。真壁と同じく2面3線の構造をもつが、大半が駐車場などに転用済みで、今も見られるのは島式ホームの土浦方だけだ。しかも両側に広い階段がつき、上屋も更新されるなど、かなり改造されている。

だが特筆すべきことに、他の駅でとうに失われた駅舎がここには残っている。路線バスを運行している関東鉄道が営業所として使ってきたからだ。バス乗り場の看板は「筑波駅」から「筑波山口」に書き換えられているものの、構内より駅前のほうが当時の面影をとどめているようだ。筑波山の方向に大鳥居が見通せる風景も、昔と変わらない。

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筑波駅跡
(左)標柱のある南端から北望
(右)改造甚だしい島式ホーム
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(左)旧 筑波駅舎は健在、駅の看板は「筑波山口」に
(右)駅前風景、正面に大鳥居、筑波山は雲の中
 

筑波駅を出て土浦方に、りんりん道路さくらの会による「りんりんロード桜並木発祥の地碑」が建っていた。碑文によれば、植栽を始めたのは平成10(1998)年だそうだ。25年の時を経て、沿道の木々は立派に育った。全線にわたって花見が楽しめるような廃線跡は他にないだろう。

次の常陸北条(ひたちほうじょう)へは4.4kmと、岩瀬~雨引間に次いで駅間距離が長い。ただし、戦前はこの間に常陸大貫(ひたちおおぬき)という駅が存在した。跡地には現在、バス停の待合室のような休憩所が設けられている。右手に再び県道が寄り添ってくるが、今度は合流しないまま、またいつしか離れていった。

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(左)りんりんロード桜並木発祥の地碑
(右)常陸大貫駅跡の待合室風休憩所(北望)
 

広い島式ホームが残る常陸北条(ひたちほうじょう)は、北条の町並みの南縁にある。町は、筑波山神社に向かう「つくば道」の分岐点で、鉄道が開通するまで参詣客で栄えていた。

せっかくなので、花見どころで有名な北条大池に寄り道した。駅の東1kmにある溜池を縁取る形で、約250本のサクラが植えられている。あいにくまだ曇り空だが、薄紅色の花綱になって、背後の山々とともに静かな水面に映る姿はみごとだった。

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(左)自転車道は県道505号線
(右)常陸北条駅跡
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北条大池の桜堤
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
常陸北条~常陸小田間
 

自転車道に戻って、南下を続ける。開放的な田園風景を直線で突っ切った後、自転車道は小田の町に取り込まれていく。常陸小田(ひたちおだ)駅跡は、戦国時代までに築かれた小田城の広大な曲輪の中に位置している。残された相対式ホームで出迎えてくれたのは、紅色もあでやかなシダレザクラだった。

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常陸小田駅跡
(左)シダレザクラが出迎える
(右)ホーム跡、背後の建物は小田城址の案内所
 

駅の南には内堀に囲まれた本丸跡があるが、鉄道はそれを対角線で貫いていた。廃線後、この区間は埋め戻され、歴史ひろばとして周辺と一体的に復元された。そのため自転車道は、土塁の外側を内堀に沿って迂回している。北側の旧線が通っていた位置に設けられた出入口から入って、公園化された本丸跡をしばしの間見て回った。雲間から薄日がこぼれて、まだ枯草色の園地を鮮やかに浮かび上がらせる。

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迂回する自転車道
(左)北側正面が本丸跡の出入口
(右)南側を土塁上から望む
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小田城址本丸跡
鉄道は左手前から中央奥の木立の方向へ延びていた
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内堀に沿う自転車道
 

自転車道は、本丸跡の南で再び廃線跡に復帰する。しばらく行くと、県道53号つくば千代田線の高架橋があり、内壁にキハ460形とTX電車が虹の橋を渡る壁画が描かれていた。TX(つくばエクスプレス)の開業は2005年なので、両者が同時に稼働することはなかったはずだが、もしかするとTXに追われて気動車が退場していくシーンなのだろうか。

その先では、つくば市と土浦市の境界を示す白看が立っている。周辺では両市の境界が複雑に入り組んでいるが、廃線跡を横断するのはここだけだ。

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(左)県道の橋台に描かれたキハ460形とTX電車
(右)つくば市と土浦市の境界を通過
 

田土部(たどべ)駅跡には、コンクリートで固めた単式ホームがぽつんと残っていた。この後、自転車道は桜川の沖積低地を貫いて、小気味よいほど一直線に進んでいく。桜並木も相変わらず続いているが、樹齢はまだ若く見える。

2.2km走って、常陸藤沢(ひたちふじさわ)駅。相対式ホームの上のサクラの南には、背の高いケヤキの並木があった。構内は広く、雨引などと同じように自転車道の休憩所が設置されている。土浦方に、筑波駅と同じ意匠で「藤沢駅」と刻まれた碑があるが、地元でそう呼ばれていたとしても、ここは正式名で記してほしいものだ。

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(左)田土部駅跡
(右)樹齢の若い桜並木
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常陸藤沢駅跡
(左)南端の「藤沢駅」標柱とケヤキ並木(北望)
(右)ホームにはサクラが植わる
 

東側の台地が桜川のほうに張り出す地点が坂田駅の位置だが、ホームは撤去されてしまったようだ(下注)。常磐自動車道の下をくぐると、虫掛(むしかけ)駅跡。観察した限りでは相対式ホームのうち、上り線側しか残っていない。また、その一部は、線路部分にまで掛かる藤棚が設置されていた。ルート案内図の傍らに立つ「つくばりんりんロード旧虫掛駅跡地」の標柱も、他では見られないものだ。

*注 自転車道の東側を通る県道小野土浦線沿いに、坂田駅の駅名標が移設されているという。

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(左)坂田駅跡付近(北望)
(右)虫掛駅跡のホームは上り線側のみ残存
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(左)他駅にはない虫掛駅跡の標柱
(右)藤棚が掛かるホーム
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
虫掛~土浦間
 

国道6号土浦バイパスと立体交差するころには、右手が工業団地になるが、桜並木はまだ続いている。市街地に入り、6号旧道(現国道125号)を横断したところで、忘れられたように残る新土浦駅の低い単式ホームを見つけた。

その土浦駅方(東側)は真鍋(まなべ)信号所跡で、関東鉄道の本社やバス車庫に転用されている。大出さんが、沿道に低い縁石が並んでいるのを目ざとく見つけた。1959年に新土浦駅が開業するまで、信号所の位置には真鍋駅があったというから、そのホーム跡かもしれない。

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(左)市街地に残る新土浦駅跡のホーム(西望)
(右)真鍋駅のホーム跡か?(西望)
 

市街地を貫く新川に臨んで、自転車道はいったん途切れる。川を渡っていた橋梁は撤去されており、橋台などの痕跡も見当たらなかった。市道の神天橋を通って対岸に移ると、自転車道は復活する。市街地を右にカーブしていき、常磐線との短い並行区間を経て、土浦ニューウェイの高架下で、筑波鉄道跡の自転車道は終了した。

返却場所であるりんりんポート土浦に、15時40分に到着。16時の返却予定だったので、なんとか間に合った。

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(左)新川の手前で途切れる自転車道(西望)
(右)常磐線との並走区間(北望)
 

走り終えて思うに、りんりんロードは、舗装が滑らかで、休憩所や交差点のバリアなど付属施設も整備された、高水準の自転車道だ。勾配が険しくないので、脚力に多少自信がなくても走れる。沿線の桜も堪能したから、もはや文句のつけようがない。

しかし、廃線跡として見たときの評価はまた別だ。遺構が、プラットホーム以外ほとんどないのはやむをえないとしても、道端の案内板で路線や駅の歴史に言及していない。それどころか、駅名すらわからないことも多かった。城跡や伝統的町並みに比べて観光要素に欠けるとはいえ、廃線跡も地域の発展に貢献した歴史遺産という点では同じだ。せっかく鉄道用地に通しているのだから、訪れる人にもっとアピールする工夫があってもいいと思う。

最後は、大出さんに提供してもらった1987年3月、廃線直前の筑波鉄道の写真だ。同じ関東鉄道系列の鹿島鉄道(鉾田線)などとともに、非電化ローカル線の鄙びた風情を色濃く持ち続けていたことがよくわかる。

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樺穂駅のキハ301
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筑波~常陸北条間
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常陸藤沢駅
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新土浦駅
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まだ残存していた旧真鍋駅舎
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土浦駅手前、常磐線との並走区間

参考までに、筑波鉄道が記載されている1:25,000地形図を、岩瀬側から順に掲げておこう。なお、一部の図の注記にある「関東鉄道筑波線」は、1979(昭和54)年に行われた分社化以前の名称だ。

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筑波鉄道(関東鉄道筑波線)現役時代の1:25,000地形図
岩瀬~雨引間(1973(昭和48)年修正測量および1977(昭和52)年修正測量)
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同 雨引~真壁間
(1977(昭和52)年修正測量)
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同 真壁~上大島間
(1977(昭和52)年修正測量および1972(昭和47)年修正測量)
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同 上大島~常陸北条間
(1972(昭和47)年修正測量)
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同 常陸北条~田土部間
(1972(昭和47)年修正測量および1981(昭和56)年修正測量)
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同 田土部~虫掛間
(1981(昭和56)年修正測量)
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同 虫掛~土浦間
(1981(昭和56)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宇都宮(昭和55年編集)、水戸(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図岩瀬(昭和48年修正測量)、真壁(昭和52年修正測量)、筑波(昭和47年修正測量)、柿岡、常陸藤沢、土浦、上郷(いずれも昭和56年修正測量)および地理院地図(2023年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
つくば霞ヶ浦りんりんロード https://www.ringringroad.com/

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コメント

ブログをご訪問くださりありがとうございました。

廃線跡も、宅地などに細分化してしまわず自転車や歩行者の専用道とすれば、クルマの走行路と分離された安全性の高い通行ルートになりますね。実際、そのような転用例が全国にあり、地元の方々が便利に使っておられるのを見てきました。こうした跡地の活用法にも注目したいと思います。

廃線とか廃校とか
存在していた物が無くなる事を
悲しむ者ですが、
サイクリングロードとして
存在していたという事を
伝える街は素敵だと思います。
このような探索記録を残して頂き
ありがとうございます😸

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