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2023年4月

2023年4月23日 (日)

新線試乗記-相鉄・東急新横浜線

東海道新幹線の新横浜駅で降り、改札を出たら、正面の吹き抜け空間は相模鉄道、略して相鉄(そうてつ)と東急電鉄の新駅開業を祝う大きな横断幕や柱巻き広告で、あたかも満艦飾の状態だった。ここはJR東海の管理エリアのはずだが、おなじみ「そうだ京都、行こう」の広告も埋もれてしまって目につかない。

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新幹線新横浜駅正面ロビーの横断幕
 

新幹線とJR横浜線、横浜市営地下鉄ブルーラインが交わるこの駅に、2023年3月18日、もう一つ新しい路線が加わった。相鉄の羽沢横浜国大前(はざわよこはまこくだいまえ)から東急の日吉(ひよし)に至る新横浜線で、相鉄と東急が相互に直通運行する。

実質的に1本の路線だが、西側の羽沢横浜国大前~新横浜間4.2kmは相鉄が管轄する相鉄新横浜線で、東側の新横浜~日吉間5.8kmは東急管轄の東急新横浜線だ。区別のために、路線名称に社名が含まれている。

このうち相鉄新横浜線は、相鉄本線に接続する西谷(にしや)~羽沢横浜国大前間が、相鉄・JR直通線の一部として2019年11月30日に先行開業しており、今回はその延伸ということになる。

JR直通線は当時、横浜駅をターミナルにしてきた相鉄電車が初めて都心に進出するというので、ひとしきり話題になった(下注)。しかし今から思えば、それはまだ前哨戦のようなものだ。東急の路線網は渋谷、目黒にとどまらず、地下鉄線を介して新宿(三丁目)、池袋、永田町、大手町など主要地点をカバーしている。今回の接続で、都内でネイビーブルーの相鉄車両が見られるエリアは一気に拡大した。

*注 JR直通線については、本ブログ「新線試乗記-相鉄・JR直通線」参照。

一方、東急側から見ると、相鉄線からの入れ込み増だけでなく、自社沿線から新横浜への直行ルートが開かれたことにも大きな意義があるだろう。東海道新幹線で東海・関西地方へ移動するのが便利になる(下注)とともに、新横浜周辺にある横浜アリーナや日産スタジアムといった大規模集客施設のアクセス改善にも貢献するからだ。

*注 これに呼応して、新横浜始発で現行のひかり号(6:00発)より新大阪に先着する臨時のぞみ号(6:03発)が設定された。

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新横浜線新横浜駅、東急方面ホーム
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(左)目黒線に直通する相鉄21000系、海老名駅にて
(右)目黒線から来る埼玉高速鉄道2000系は新横浜まで

新幹線で新横浜に来たことは何度かある。しかしすぐに地下鉄か、裏手にある横浜線に乗り換えていたので、正面の北口ロビーに続くペデストリアンデッキに上がるのは初めてだ。案内表示に従い、突き当り右側の下りエスカレーターに乗った。高低差16mという長いエスカレーターはそのまま地下に潜っていき、降りるとすぐ左手に相鉄・東急の改札口が見えた。これはわかりやすい。

地下コンコースは地下鉄開業時からあるものの、新横浜線の改札が両側に出現して、今や地下街のように人が行き交っていた。全体が真新しいが、今日は開業から1週間以上が経過した27日、利用者にとってはすでに日常風景なのだろう。もの珍しげにあたりを見回しているのは私くらいのものだ。

改札横には、相鉄と東急の券売機が仲良く並ぶ。その上に掲げられた路線図が、2社のネットワークに新横浜駅が組み込まれたことを象徴的に示している。

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新横浜駅
(左)JR駅正面のペデストリアンデッキ
(右)長いエスカレーターを降りると新横浜線の改札階に
 

さっそく改札を入った。側壁に設置されたランダムな塗り絵のような壁面パネルは、駅周辺の地層断面図だそうだ。何ともマニアックな題材だが、地下鉄と交差するためにホーム階は地下33mとかなり深い。それで、鶴見川が運んできた泥や砂礫から成る沖積層は通り越して、その下の上総(かずさ)層群と呼ばれる基盤層に達している。

ホームは2面あり、1・2番線が相鉄方面、3・4番線が東急方面になっていた。しかし、線路は3本しかなく、中央の線路を2番線と3番線が共用する形だ。

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(左)地層断面図の壁面パネル
(右)改札からホームへはエスカレーターを折り返して降りる
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中線は2、3番線で共用
 

まずは東急新横浜線で日吉まで行ってこようと、3番線に停車中の新型電車、都営6500形に乗り込んだ。当駅始発で目黒から都営三田線に入る西高島平(にしたかしまだいら)行だ。上り方面は、相鉄線からの乗入れ列車だけでなく、こうした当駅始発便もある。それで日中の運行は、相鉄線4本に対して東急線は6本だ。東側の需要を大きく見込んでいることが見て取れる。

東急新横浜線はほとんど地下を行く。トンネルはシールド工法特有の円形断面だ。大倉山の手前まで市道環状2号線直下を、その後はおおむね東横線の下を通っているそうで、かぶりつきで見ていても、直線主体の良好な線形が続いている。中間の新綱島(しんつなしま)に停車した後、地上に出たと思ったら、目の前がもう日吉駅だった。所要7分ほど。従来の菊名乗換えに比べて、画期的な時間短縮が図られている。

駅の手前で、目黒線(3番線)と東横線(4番線)に分岐するポイントを渡った。新横浜線は目黒線の延伸だとばかり思っていたのだが、時刻表を見ると、日吉で東横線に進む電車も3本に1本程度設定されている。やはりJR直通線との対抗上、渋谷、新宿への直通ルートは確保しておきたかったようだ。

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日吉駅
駅手前に目黒線(右)と東横線(左)の分岐がある
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(左)新横浜線の発着表示はLEDに
(右)下り方面に新横浜線の紫帯が加わった
 

日吉から戻る途中、中間の新綱島駅を訪れた。並走している東横線の綱島駅とは、綱島街道をはさんで100mほどしか離れていない。しかし、それは平面図での話だ。綱島のプラットホームは高架上、新綱島のは地下35mと、垂直距離がかなりある。新線開通で目黒方面へ直行できるようになったのはメリットだが、ホームに降りるまでに少なからず時間を要する。

周辺では、地上29階建てのタワーマンションを含む大規模な再開発事業が進行中だった。それで、駅といっても仮囲いの隅に地下出入口がぽつんとあるのみだ。今年の冬には地上部にバス用のロータリーができるらしいが、今のところ、商店街やバス停が集まる綱島駅前の賑わいとは雲泥の差がある。

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新綱島駅
(左)駅南口、現在は出入口がぽつんとあるのみ
(右)綱島駅との連絡ルート案内図
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(左)地下ホームのサインボード
(右)桃の木のデザインのガラスパネル
 

ちなみに工事現場の東隣は、そこだけ時計の針を巻き戻したかのような池谷家の緑あふれる屋敷地が広がっていて、桃園ではピンクの花が満開だった。綱島ではかつて桃の栽培が盛んで、ここはそのころの面影をとどめる貴重な場所なのだそうだ。新綱島駅の地下改札を入った正面壁面にも、それにちなんだ桃の木がモチーフのガラスパネルが見られる(上写真)。

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池谷家の桃園は花盛り
 

東急3000系の海老名行に乗って、新横浜から今度は相鉄新横浜線へ。こちらも長いシールドトンネルでおおむね環状2号線の下を進み、途中、東海道新幹線と浅い角度で交差している。羽沢横浜国大までは4.2kmと、都市近郊区間としては駅間距離が長い。といっても所要時間は4分。駅の手前に短い明かり区間があり、そこでJR直通線が左右から合流してくる。

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羽沢横浜国大駅
ホームから上り方を望む
相鉄新横浜線は直進、JR直通線は側方分岐
 

羽沢横浜国大駅は、先行開業の際にも降りたことがあるが、駅のようすに目立った変化はなさそうだった。改札前にある券売機は相鉄とJRのものだけで、運賃を示す路線図にも東急の文字は出てこない。ここは相鉄とJRの共同使用駅なので当然だが、東急との直通などまるでなかったかのようなそっけなさだ。

しかし、構内の案内表示は変化なしには済まされない。まず相鉄の路線図だ(下写真参照)。今まで目立つ位置に描かれていたJR線は隅に押しやられ、東急東横線・東京メトロ副都心線・東武東上線、次いで東急目黒線、さらに目黒で接続する都営三田線、東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道と、俄然賑やかになった(下注)。ほんの数年前まで左半分の自社線のみだったことを思えば、劇的な変貌というほかないだろう。

*注 写真は上りホーム壁面のもの。下りホームの路線図では配置が逆になり、JR線が最上段に来る。

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停車駅案内図は俄然にぎやかに
(上)2019年JR直通線開業時
(下)2023年現在
 

発車案内板もしかり。1番線に海老名(えびな)とともに、いずみ野線の終点、湘南台の名が出現している。JR線直通列車は従来通り海老名発着だが、東急線直通は海老名と湘南台発着がざっと半々の割合で設定されているからだ。おおむね、海老名発着便は目黒線直通、湘南台発着便は東横線に直通する。

一方、2番線ははるかに複雑だ。行先が遠方で、かつ多岐にわたるので、終点まで行く人はともかく、途中駅で降りたいときにどの列車に乗ればいいのか、初心者は頭を抱える。武蔵小杉、渋谷、池袋へは運賃の異なる2ルートがあるし、土休日の朝には別ルートを通る川越行きと川越市行き(下注)が前後して発車するなど、もはやトリビアとして語られるほどだ。

*注 前者は相鉄・JR直通線、埼京線、川越線経由。後者は東横線、副都心線、東上線経由。

そのため、発車案内の種別欄はルートごとにシンボルカラーで色分けされていて(下写真参照)、水色は目黒線方面、緑はJR線方面、ピンクは東横線方面を示している。これとて、いつも利用している人ならピンと来るだろうが、一見客には判じ物の世界かもしれない。

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発車案内の上り種別欄はルートごとに色分け
 

再び電車に乗って、起点となっている西谷駅で降りた。新横浜線の電車は、外側ホームの1番線(下り)と4番線(上り)を使っている。先行開業の時点では日中30分に1本電車が入るだけで、のどかな雰囲気が漂っていたが、今や発着は10分間隔に縮まった。それもネイビーブルーの自社車両に加えて、赤帯の東横線車両、青(水色)帯の目黒線車両、緑帯のJR車両と、多彩な顔ぶれだ。

きょうは、新横浜駅で相鉄の一日乗車券を買ってきた。新横浜線の観察を終えた後は、久しぶりにいずみ野線を含め全線を乗り鉄し、最後に横浜へ向かおうと思っている。1番線に次は何色の電車が入ってくるだろうか。

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西谷駅下りホーム
 

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2023年4月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-筑波鉄道跡

2023年3月28日のコンター旅は、関東地方に移って筑波(つくば)鉄道跡を巡る。

筑波鉄道筑波線は、JR常磐線の土浦(つちうら)から水戸線の岩瀬(いわせ)まで、筑波山地西麓の田園地帯に延びていた非電化、延長40.1kmの私鉄路線だ。1918(大正7)年に開業し、筑波山への観光需要を支えていたが、戦後は道路交通との競合にさらされて業績が悪化し、1987(昭和62)年に全線廃止となった。

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筑波鉄道岩瀬駅のキハ762
(1987年3月、大出さん提供)
 

用地はその後、大半が自転車道に転用・整備され、現在「つくば霞ヶ浦りんりんロード」と呼ばれる広域自転車道の一部になっている。そもそも歩いていては日が暮れるので、廃線跡探索には乗り物の利用が必須だが、このエリアには充実したレンタサイクルのサービスがある。ありがたいことに3日前までに予約すれば、拠点施設での乗り捨て(片道レンタル)も可能だ。

そこで今回は、川上側の岩瀬で自転車を借り、旧線沿いに南へ下って土浦で返却するプランを立てた。ついでに、沿線に咲いている桜を楽しもう、という欲張ったたくらみも抱いている。しかし考えることはみな同じらしく、休日の自転車はすでに予約がいっぱいで、やむなく平日の催行となった。

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図1 筑波鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(左)1980(昭和55)年編集 (右)1981(昭和56)年編集

小山発の水戸線下り電車で、8時59分岩瀬駅に到着した。参加者は、大出さんとゲスト参加の田中さん、私の3名。筑波線との乗換駅だったとはいえ、常総線や真岡鉄道が入る下館に比べると、駅前はいたって閑散としている。

さっそく貸出場所の高砂旅館へ。受付を済ませると、ご当主が予約していた自転車とヘルメットを出してくださった。まだ新しそうな9段変速のクロスバイクだ。40kmものサイクリングは私にとって学生時代以来なので、気休めになればと持参したクッション性のサドルカバーを装着した。

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(左)現在の水戸線岩瀬駅
(右)駅裏の筑波鉄道駅跡は空地に
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りんりんロードを走ったレンタサイクル
 

9時15分、ご当主と奥様に見送られて、駅前を出発。まずは、駅裏にあった旧筑波鉄道のホーム跡へ向かう。ソメイヨシノが数本大きく育っているほかは駐車場と空地が広がるばかりで、鉄道の遺構らしきものは何もなかった。ここを起点に、自転車道は西へ出ていき、緩いカーブで南に方向を変える。

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(左)岩瀬駅裏の自転車道起点
(右)桜の壁画がある北関東自動車道のカルバート
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図2 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆、岩瀬~雨引間
りんりんロードは県道のため、黄色で着色されている
 

桜の壁画が描かれた北関東自動車道のカルバートをくぐり、県道41号つくば益子線を平面横断すると、左手から丸山、右手から羽田山のたおやかな稜線が近づいてきた。降り出した霧雨に煙る山肌を、ヤマザクラの薄紅色と若葉のもえぎ色が埋め尽くしている。この時期ならではの優雅なパステル画だ。

ルートは、二つの山に挟まれた分水界を通過している。その前後は10‰の拝み勾配のはずだが、自転車の性能がいいのか、坂を上る感覚はほとんどなかった。最初のトピックは、分水界の手前で進行方向右側の道端に残る「8」00mポストだ。小さいものなので、注意していないと見逃してしまう。

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(左)丸山と羽田山の稜線が近づく
(右)分水界の手前に残る「8」00mポスト
 

最初の駅、雨引(あまびき)へは岩瀬から4.7kmと、駅間が最も長い。しかし分水界を越えれば緩やかな下り坂で、漕ぎ始めでもあり、難なく到達した。旱魃時の雨乞いにその名をちなむ雨引観音が近くにあるが、霊験あらたか過ぎて、空はずっと低いままだ。駅跡の苔むした相対式ホームも、その上で見ごろを迎えた大きな桜の木も、そぼ降る雨に濡れている。一角にある自転車道の雨引休憩所でしばし足を休めた。

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雨引駅跡
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(左)相対式ホームが残存
(右)自転車道の休憩所を併設
 

東飯田(ひがしいいだ)駅跡では、北側のみごとなシダレザクラの下で、石材店の灯篭たちも世間話に花を咲かせているようだった。残された短い単式(片面)ホームには、ソメイヨシノの太い幹が立ち並ぶ。

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東飯田駅手前のシダレザクラと石灯籠
 

筑波連山第二の高峰、標高709mの加波山(かばさん)を左に眺めながら、春の野を走っていく。樺穂(かばほ)駅の相対式ホームが見えてきた。頭上は枝を大きく広げた桜並木だが、足元に作られたささやかなスイセン畑もまた気持ちを和ませる。

1km先の右側に、風化が進んでいるものの「31」の数字が読み取れるキロポストが立っていた。自転車道の公式サイトでも取り上げられているが、おそらく沿線に残る唯一のものだ。

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加波山の山腹をヤマザクラが彩る
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(左)樺穂駅跡
(右)沿線に唯一残るキロポスト「31」
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図3 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
樺穂~常陸桃山間
 

10時30分ごろ、真壁(まかべ)に到達。現役時代は2面3線を擁した主要駅の一つで、今も進行方向右側に単式ホーム、中央にゆったりとした島式ホームが残存する。その上のソメイヨシノは、通過してきた駅跡の中では最も巨木で、枝ぶりも貫禄十分だ。

大出さんは、時代の雰囲気が感じられるという駅前を見に行った。私は私で、ホーム端のサイクルスタンドに描かれたキハ461(下注)のイラストに目を留めた。雨がやや強まってきたので、休憩所のあずまやで小止みになるのを待つ。

*注 現物は国鉄時代のキハ04形に復元され、さいたま市の鉄道博物館で展示されている。

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真壁駅の貫禄あるソメイヨシノ
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キハ461が描かれたサイクルスタンド
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真鍋車庫に留置されていたキハ461、後ろはキハ541
(1987年3月、大出さん提供)
 

再び出発すると、左手の小山の奥に、雨に煙りながらも特徴的なこぶをもつ筑波山が姿を現し始めた。ルートは早や中盤にさしかかっている。

旧県道の踏切跡を横断すると、左カーブの途中に次の常陸桃山(ひたちももやま)駅跡があった。単式ホームは他とは違ってのっぺらぼうで、無粋な防草シートで隙間なく覆われている。住民から苦情でもあったのだろうか。代わりに土浦方では、自転車道に並行して、桜並木の砂利道が学校校地との境をなしていた。

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雲間から姿を見せた筑波山
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常陸桃山駅跡
(左)防草シートで覆われたホーム跡
(右)土浦方、自転車道に並行する桜並木
 

紫尾(しいお)駅跡では、相対式ホームの間を自転車道が通り抜けていく。右側のホームがやや荒れ気味なので、晩年は使われていなかったのかもしれない。ここのサクラは遅咲きの品種なのか、多くがまだつぼみの状態だった。紫尾と書いて、しいおと言うのは難読だが、付近の地名表記は「椎尾」だ。

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(左)紫尾駅跡のサクラは遅咲き?
(右)田園地帯を貫く自転車道
 

細かい雨をものともせず、田園地帯を飛ばしていった。筑波山の山塊が西に張り出しているので、ルートも西に膨らみ、桜川(さくらがわ)の河原に接近する。山脚を回って少し行くと、今度は左から県道つくば益子線が合流してきた。この先約1.8kmの間、県道が廃線跡を上書きしているため、自転車道はその側道に納まらざるを得ない。酒寄(さかより)駅跡はすぐだが、車道工事で撤去されてしまったか、痕跡はなさそうだった。

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(左)県道との合流地点(北望)
(右)酒寄駅跡と思われる地点(北望)
 

県道の右側を走っていたので、上大島(かみおおしま)駅の跡はあいにく見逃してしまった。車道が少し広がった地点の左側の民地にホームの一部が残っているらしいが…。ちなみに、上大島はつくば市(旧 筑波町)の地名だが、駅付近に市界が通っていて、駅舎は桜川市(旧 真壁町)側にあった。時刻は11時半、少し早いが休憩を兼ねて、近所の中華料理店で昼食にする。

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(左)駅跡から400m南にある上大島バス停
(右)上大島の南で廃線跡は再び自転車道に
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図4 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
上大島~筑波間
 

腰を上げたのは12時10分、さいわい雨も上がったようだ。上大島の集落を抜けると、廃線跡から県道が離れていき、再び専用の自転車道になる。道の両側にサクラやハナモモの花回廊が延々と続いていて、さっと通過してしまうのはもったいないほどだ。

自転車道の横に、巨大なハンドマイクのような見慣れない標柱が立っていた。説明板によると、測量機器の性能を点検するために国土地理院が設置した比較基線場という施設の一部だ。つくばは国土地理院のホームグラウンドだから、見慣れない測距標があっても不思議ではない。

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(左)サクラやハナモモの花回廊が続く
(右)比較基線場の巨大な標柱
 

2.7km走って、筑波(つくば)駅跡に到達。鉄道の現役時代は筑波山の玄関口だったところで、今回のルートのほぼ中間地点でもある。真壁と同じく2面3線の構造をもつが、大半が駐車場などに転用済みで、今も見られるのは島式ホームの土浦方だけだ。しかも両側に広い階段がつき、上屋も更新されるなど、かなり改造されている。

だが特筆すべきことに、他の駅でとうに失われた駅舎がここには残っている。路線バスを運行している関東鉄道が営業所として使ってきたからだ。バス乗り場の看板は「筑波駅」から「筑波山口」に書き換えられているものの、構内より駅前のほうが当時の面影をとどめているようだ。筑波山の方向に大鳥居が見通せる風景も、昔と変わらない。

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筑波駅跡
(左)標柱のある南端から北望
(右)改造甚だしい島式ホーム
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(左)旧 筑波駅舎は健在、駅の看板は「筑波山口」に
(右)駅前風景、正面に大鳥居、筑波山は雲の中
 

筑波駅を出て土浦方に、りんりん道路さくらの会による「りんりんロード桜並木発祥の地碑」が建っていた。碑文によれば、植栽を始めたのは平成10(1998)年だそうだ。25年の時を経て、沿道の木々は立派に育った。全線にわたって花見が楽しめるような廃線跡は他にないだろう。

次の常陸北条(ひたちほうじょう)へは4.4kmと、岩瀬~雨引間に次いで駅間距離が長い。ただし、戦前はこの間に常陸大貫(ひたちおおぬき)という駅が存在した。跡地には現在、バス停の待合室のような休憩所が設けられている。右手に再び県道が寄り添ってくるが、今度は合流しないまま、またいつしか離れていった。

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(左)りんりんロード桜並木発祥の地碑
(右)常陸大貫駅跡の待合室風休憩所(北望)
 

広い島式ホームが残る常陸北条(ひたちほうじょう)は、北条の町並みの南縁にある。町は、筑波山神社に向かう「つくば道」の分岐点で、鉄道が開通するまで参詣客で栄えていた。

せっかくなので、花見どころで有名な北条大池に寄り道した。駅の東1kmにある溜池を縁取る形で、約250本のサクラが植えられている。あいにくまだ曇り空だが、薄紅色の花綱になって、背後の山々とともに静かな水面に映る姿はみごとだった。

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(左)自転車道は県道505号線
(右)常陸北条駅跡
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北条大池の桜堤
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図5 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
常陸北条~常陸小田間
 

自転車道に戻って、南下を続ける。開放的な田園風景を直線で突っ切った後、自転車道は小田の町に取り込まれていく。常陸小田(ひたちおだ)駅跡は、戦国時代までに築かれた小田城の広大な曲輪の中に位置している。残された相対式ホームで出迎えてくれたのは、紅色もあでやかなシダレザクラだった。

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常陸小田駅跡
(左)シダレザクラが出迎える
(右)ホーム跡、背後の建物は小田城址の案内所
 

駅の南には内堀に囲まれた本丸跡があるが、鉄道はそれを対角線で貫いていた。廃線後、この区間は埋め戻され、歴史ひろばとして周辺と一体的に復元された。そのため自転車道は、土塁の外側を内堀に沿って迂回している。北側の旧線が通っていた位置に設けられた出入口から入って、公園化された本丸跡をしばしの間見て回った。雲間から薄日がこぼれて、まだ枯草色の園地を鮮やかに浮かび上がらせる。

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迂回する自転車道
(左)北側正面が本丸跡の出入口
(右)南側を土塁上から望む
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小田城址本丸跡
鉄道は左手前から中央奥の木立の方向へ延びていた
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内堀に沿う自転車道
 

自転車道は、本丸跡の南で再び廃線跡に復帰する。しばらく行くと、県道53号つくば千代田線の高架橋があり、内壁にキハ460形とTX電車が虹の橋を渡る壁画が描かれていた。TX(つくばエクスプレス)の開業は2005年なので、両者が同時に稼働することはなかったはずだが、もしかするとTXに追われて気動車が退場していくシーンなのだろうか。

その先では、つくば市と土浦市の境界を示す白看が立っている。周辺では両市の境界が複雑に入り組んでいるが、廃線跡を横断するのはここだけだ。

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(左)県道の橋台に描かれたキハ460形とTX電車
(右)つくば市と土浦市の境界を通過
 

田土部(たどべ)駅跡には、コンクリートで固めた単式ホームがぽつんと残っていた。この後、自転車道は桜川の沖積低地を貫いて、小気味よいほど一直線に進んでいく。桜並木も相変わらず続いているが、樹齢はまだ若く見える。

2.2km走って、常陸藤沢(ひたちふじさわ)駅。相対式ホームの上のサクラの南には、背の高いケヤキの並木があった。構内は広く、雨引などと同じように自転車道の休憩所が設置されている。土浦方に、筑波駅と同じ意匠で「藤沢駅」と刻まれた碑があるが、地元でそう呼ばれていたとしても、ここは正式名で記してほしいものだ。

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(左)田土部駅跡
(右)樹齢の若い桜並木
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常陸藤沢駅跡
(左)南端の「藤沢駅」標柱とケヤキ並木(北望)
(右)ホームにはサクラが植わる
 

東側の台地が桜川のほうに張り出す地点が坂田駅の位置だが、ホームは撤去されてしまったようだ(下注)。常磐自動車道の下をくぐると、虫掛(むしかけ)駅跡。観察した限りでは相対式ホームのうち、上り線側しか残っていない。また、その一部は、線路部分にまで掛かる藤棚が設置されていた。ルート案内図の傍らに立つ「つくばりんりんロード旧虫掛駅跡地」の標柱も、他では見られないものだ。

*注 自転車道の東側を通る県道小野土浦線沿いに、坂田駅の駅名標が移設されているという。

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(左)坂田駅跡付近(北望)
(右)虫掛駅跡のホームは上り線側のみ残存
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(左)他駅にはない虫掛駅跡の標柱
(右)藤棚が掛かるホーム
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図6 1:25,000地形図に訪問地点(赤)等を加筆
虫掛~土浦間
 

国道6号土浦バイパスと立体交差するころには、右手が工業団地になるが、桜並木はまだ続いている。市街地に入り、6号旧道(現国道125号)を横断したところで、忘れられたように残る新土浦駅の低い単式ホームを見つけた。

その土浦駅方(東側)は真鍋(まなべ)信号所跡で、関東鉄道の本社やバス車庫に転用されている。大出さんが、沿道に低い縁石が並んでいるのを目ざとく見つけた。1959年に新土浦駅が開業するまで、信号所の位置には真鍋駅があったというから、そのホーム跡かもしれない。

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(左)市街地に残る新土浦駅跡のホーム(西望)
(右)真鍋駅のホーム跡か?(西望)
 

市街地を貫く新川に臨んで、自転車道はいったん途切れる。川を渡っていた橋梁は撤去されており、橋台などの痕跡も見当たらなかった。市道の神天橋を通って対岸に移ると、自転車道は復活する。市街地を右にカーブしていき、常磐線との短い並行区間を経て、土浦ニューウェイの高架下で、筑波鉄道跡の自転車道は終了した。

返却場所であるりんりんポート土浦に、15時40分に到着。16時の返却予定だったので、なんとか間に合った。

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(左)新川の手前で途切れる自転車道(西望)
(右)常磐線との並走区間(北望)
 

走り終えて思うに、りんりんロードは、舗装が滑らかで、休憩所や交差点のバリアなど付属施設も整備された、高水準の自転車道だ。勾配が険しくないので、脚力に多少自信がなくても走れる。沿線の桜も堪能したから、もはや文句のつけようがない。

しかし、廃線跡として見たときの評価はまた別だ。遺構が、プラットホーム以外ほとんどないのはやむをえないとしても、道端の案内板で路線や駅の歴史に言及していない。それどころか、駅名すらわからないことも多かった。城跡や伝統的町並みに比べて観光要素に欠けるとはいえ、廃線跡も地域の発展に貢献した歴史遺産という点では同じだ。せっかく鉄道用地に通しているのだから、訪れる人にもっとアピールする工夫があってもいいと思う。

最後は、大出さんに提供してもらった1987年3月、廃線直前の筑波鉄道の写真だ。同じ関東鉄道系列の鹿島鉄道(鉾田線)などとともに、非電化ローカル線の鄙びた風情を色濃く持ち続けていたことがよくわかる。

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樺穂駅のキハ301
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筑波~常陸北条間
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常陸藤沢駅
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新土浦駅
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まだ残存していた旧真鍋駅舎
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土浦駅手前、常磐線との並走区間

参考までに、筑波鉄道が記載されている1:25,000地形図を、岩瀬側から順に掲げておこう。なお、一部の図の注記にある「関東鉄道筑波線」は、1979(昭和54)年に行われた分社化以前の名称だ。

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筑波鉄道(関東鉄道筑波線)現役時代の1:25,000地形図
岩瀬~雨引間(1973(昭和48)年修正測量および1977(昭和52)年修正測量)
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同 雨引~真壁間
(1977(昭和52)年修正測量)
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同 真壁~上大島間
(1977(昭和52)年修正測量および1972(昭和47)年修正測量)
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同 上大島~常陸北条間
(1972(昭和47)年修正測量)
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同 常陸北条~田土部間
(1972(昭和47)年修正測量および1981(昭和56)年修正測量)
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同 田土部~虫掛間
(1981(昭和56)年修正測量)
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同 虫掛~土浦間
(1981(昭和56)年修正測量)
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図宇都宮(昭和55年編集)、水戸(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図岩瀬(昭和48年修正測量)、真壁(昭和52年修正測量)、筑波(昭和47年修正測量)、柿岡、常陸藤沢、土浦、上郷(いずれも昭和56年修正測量)および地理院地図(2023年4月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
つくば霞ヶ浦りんりんロード https://www.ringringroad.com/

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2023年4月 5日 (水)

コンターサークル地図の旅-臼杵石仏と臼杵旧市街

朝早く延岡のホテルを出て、7時06分発の上り特急「にちりん」2号に乗った。4両編成だが、半車しかない指定席やグリーン席はもちろん、3両を占める自由席車にも空席が目立つ。それでなのか、特急ともあろうにワンマン運転(!)だ。「ご用のある方は停車中に運転士にお申し出ください」と自動アナウンスが流れるが、ほとんど停まらない列車の中では半分冗談のように聞こえる。

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臼杵石仏の代表作、古園石仏
 

宮崎・大分の県境をまたぐ日豊本線延岡~佐伯(さいき)間は、乗り鉄にとってある意味、難所だ。2018年3月のダイヤ改正以来、完走する上り普通列車はわずか2本しかない(下りはさらに厳しく、朝の1本のみ)。延岡を早朝6時10分に発つ列車を逃すと、次の列車は夜の20時台だ。

それで特急利用にせざるをえなかったのだが、優等列車なのに窓が埃まみれで、外の景色はもやがかかったようにかすんでいる。おそらくこの先何度も見ることはないだろう宗太郎(そうたろう)と重岡(しげおか)の峠駅だけ、何とか写真に収めた。

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サミットの駅、重岡を通過
 

臼杵(うすき)駅で昨日のメンバー、大出さん、山本さんと合流する。2023年3月6日、コンター旅2日目は、大分県臼杵市が舞台だ。郊外にある国宝臼杵石仏をバスで訪ねた後、市街地に戻って城下町の見どころを巡る予定にしている。

駅前に出ると、特に有名な古園石仏の原寸大レプリカが設置されていた。ここで見てしまうと気勢をそがれそうだが、周辺の環境も含めた全体像をつかみたければ、現地へ赴くに如くはない。9時07分発の大分行路線バスに乗る。市街地を通り抜け、臼杵川が流れるおだやかな谷を上流へ走って、目的地まで20分ほどだ。

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(左)臼杵駅1番線に到着
(右)駅前にある古園石仏のレプリカ
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臼杵周辺の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年修正)
 

観光地特有の雰囲気をもつ、みやげ物屋や観光案内所が並ぶ広場の一角に、バスは停まった。さっそく窓口で観覧券を買って、通路を奥へ進む。臼杵石仏というのは単体ではなく、山際の露出した崖に彫られた複数の摩崖仏のことだ。平安時代後期から鎌倉時代の作と推定されていて、北に開けた支谷に面して、全部で4か所の群がある。

地質図によれば、この臼杵川一帯には、約9万年前の阿蘇の噴火活動(Aso-4)で生じた火砕流の堆積による溶結凝灰岩の地層が分布している。この岩石は比較的柔らかく、切り出しや細工が容易だ。それで彫像にも適していたのだが、その分、風化しやすいため、現在は保護の目的で中尊寺のような立派な覆堂が架けられている。

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臼杵石仏の覆堂全景
右手前がホキ石仏第二群、奥が第一群、左が古園石仏
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杉林の緩い坂道を上る参拝路
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1:25,000地形図(2倍拡大)に歩いたルート(赤)等を加筆
臼杵石仏周辺
 

順路は支谷のへりを左回りしていた。杉林の緩い坂道を上って、まずはホキ石仏第二群(下注)へ。大小の仏像群が横一列にずらっと並ぶさまは圧巻だ。中央のひときわ大きな阿弥陀様は、丸顔に柔和な表情を浮かべていて、おのずと親しみがわく。その奥に位置するホキ石仏第一群でも、中央に座すのは同じく阿弥陀如来だが、第二群を見た後では共感まで行かない。谷を隔てて向かいには、山王山石仏が彫られている。こちらは見るからに童顔で、幼児の安らかな寝顔を連想させる。

*注 ホキは、ホケ、ハケなどと同じく古い地形語で、崖を意味する。よく知られる四国の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)もこれに漢字をあてたもの。

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ホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像
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(左)ホキ石仏第一群の如来三尊像
(右)山王山石仏
 

尾根の張り出しを回ると、深田の集落を見下ろす高みにもう一つ、お堂がある。駅前で見たあの古園石仏、大日如来像の実物がここに鎮座していた。体躯は恰幅がよく、顔もほのぼのとした横丸形で、安定感とともに気品が漂う(冒頭写真も参照)。かつては頭が落ちて、仏体の前に置かれていたそうだが、修復の際に完全な姿に戻された。

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古園石仏
 

それから、谷の平地に造られた公園を横切って、石仏の作者と伝えられる蓮城法師を祀る満月寺へ。ここには、凝灰岩を彫り出した阿吽2対の木原石仏が置かれている。ホキの石仏とは対照的に、躍動感のある世俗的な作風がおもしろい。

きょうもよく晴れて、朝から日差しのぬくもりが感じられる。帰りのバスの時刻まで、菜の花が見ごろを迎えた園内をのんびりと散策した。

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満月寺境内にある木原石仏

11時05分発のバスで市街地に戻る。中心部まで行かず平清水(ひらそうず)の停留所で降りたのは、龍源寺の三重塔を見たかったからだが、残念なことに修復工事で周りに足場が組まれていた。帰りの電車の時間が3人ともばらばらなので、ここで自由解散として、各自見たい所へ向かった。

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1:25,000地形図(2倍拡大)に歩いたルート(赤)等を加筆
臼杵市街
 

時間のある私は上手に戻り、コンビニで昼食を確保したあと、まず日豊本線上臼杵(かみうすき)駅を見に行った。静かな駅前広場に面して、年季の入った切妻、瓦屋根の木造駅舎が建っている。前に並ぶカイヅカイブキの老木たちは、まるで駅を警護する近衛兵のようだ。

駅はすでに無人だが、なつかしい障子ガラスの嵌った待合室は整然と保たれていた。カラフルな折り鶴の束が、天井から満開の藤棚のように吊り下がる。プラットホームは、正面の階段か横のスロープを上った少し高い位置にある。曲線の途中できついカントがついているため、やってきた電車は大きく傾いた状態で停車した。

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上臼杵駅、古木に護られる木造駅舎
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待合室にカラフルな折り鶴の束が吊り下がる
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電車は傾いた状態で停車する
 

列車を見送った後は少し歩いて、臼杵川の中州にある松島神社へ。境内のある小山は昔、湾奧に浮かぶ臼杵七島と呼ばれた小島の一つだったそうだ。今は市街地と地続きだが、城が築かれている丹生島(にうじま)や、右岸の大橋寺が載る森島もそうだ。神社前を横断する松島橋から上流に目をやると、手前に松島の森と陽光を跳ね返す川面、背後には大橋寺の伽藍の大屋根や蒼い山並みが重なって、しっとりとしたいい景色だった。

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松島橋からの眺め
左の大屋根は大橋寺
 

この後は、旧市街を歩く。まずは八町大路(はっちょうおおじ)の枡形にある石敢當だ。沖縄ではおなじみの、三叉路の突き当りなどに置かれた魔除けの石標だが、本土にもけっこうあるらしい。ちなみに臼杵では、「いしがんとう」ではなく「せっかんとう」と読むそうだ。

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(左)商店街の八町大路
(右)枡形に立つ石敢當
 

南下して、観光ガイドで必ず取り上げられる臼杵の名所、二王座(におうざ)の石畳道をたどる。二王座は、南から張り出す尾根筋に造られた寺町であり、武家屋敷町でもある。お寺の伽藍と白壁の家並みの間を縫うようにして、狭く曲がりくねった坂道と凝灰岩の石垣が続いている。どのアングルを切り取っても絵になるので、カメラをリュックに片付ける間がなかった。

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二王座歴史の道
(左)甚吉坂
(右)坂道に沿って寺院が建ち並ぶ
 

甚吉坂を上ると、切通しと称するサミットに達し、道はそこから下りに転じる。旧真光寺の建物を利用したお休み処を覗いたら、玄関の正面に飾られた華やかな紙製の雛人形が目を引いた。3月初めのこの時期、市内各所で「うすき雛めぐり」という催しが行われている。江戸時代の終わりに臼杵城下で、質素倹約を旨として雛人形は紙製のほか一切が禁じられた。この史実をもとに、近年立ち上げられた観光行事だそうだ。

そういえば、上臼杵駅でも折り鶴とともに、このうすき雛が飾られていた。紙製なので量産できるのが取り柄だが、一体一体、和紙の意匠を変えてあるから、見始めると結構はまってしまう。

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旧真光寺のうすき雛
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和紙の意匠は一体ずつ違う
(久家の大蔵にて撮影)
 

稲葉家の屋敷から移築されたという土蔵の2階で、市街の古写真の展示を見た後は、再び山手へ向かった。見事な石垣と石塀の景観に見入りながら坂を上りきると、二王座の丘の中でも臼杵川の谷が見下ろせる展望地に出る。近くに小さな休憩所も設けられていたが、展望の得られる場所でないのが惜しい。

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二王座の丘からの展望
 

多福寺と月桂寺が載ったお城と見まがう高石垣から引き返して、今度は、造り酒屋の酒蔵をギャラリーに改修したという「久家の大蔵」へ。長い外壁を飾っているアズレージョタイルもユニークだが、中に入ると広い空間がまたカラフルなうすき雛であふれていた。

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(左)多福寺の高石垣
(右)多福寺山門に通じる石段
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(左)アズレージョタイルが貼られた久家の大蔵
(右)内部の展示室にもうすき雛
 

大蔵を突き抜けた街角には野上弥栄子文学記念館が開いていたが、さすがに時間が押してきたので通過する。地元名産、フンドーキン醤油の工場に掲げられた巨大なロゴを川越しに眺めた後、稲葉家下屋敷へ。廃藩置県で東京へ移った旧藩主稲葉家が、里帰り用に1902(明治35)年に建てた屋敷だ。別荘とはいえ、表座敷や奥座敷はゆったりとした造りで、格式の高さもそこここに窺える。下駄をはいて屋敷の庭石伝いに、隣接する江戸期の武士の居宅、旧平井家住宅も覗いてみた。

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(左)野上弥栄子文学記念館
(右)フンドーキン醤油工場
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稲葉家下屋敷の御門
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(左)稲葉家下屋敷玄関の間
(右)旧平井家床刺の間
 

残るは臼杵城址だ。大手口は、多層の石垣の構えと最上部に大門櫓がそびえる姿が美しく、町から仰ぎ見ると存在感がある。しかし、城内は公園と市民広場になっていて、古い建物はほとんど残っていない。上述のとおり、城山は、もと丹生島と呼ばれた標高約20mの島を利用している。西側にある大手口が唯一、堀を隔てて外に通じる出入口で、北、東、南の三方はすべて海に囲まれた要害の地だった。そのことを想像しながら、城址の高みからすっかり市街地化した周囲を俯瞰するのは興味深い。

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臼杵城大手口、最上部に大門櫓
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臼杵城址から市街地の眺め
正面左に多福寺・月桂寺の高石垣、同右奥に二王座の丘
 

駆け足の旅を終えて臼杵駅に戻ってきたのは15時ごろ。臼杵石仏の見学がメインのつもりだったが、変化に富む地形にはぐくまれた市街地も思った以上に魅力的だった。各所で季節の彩りを添えていたあでやかな紙の雛人形とともに、その印象は記憶に残ることだろう。満ち足りた思いを反芻しながら、大分へ向かう15時11分発の「にちりん」に乗り込んだ。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大分(昭和52年編集)および地理院地図(2023年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
臼杵石仏 https://sekibutsu.com/
臼杵市観光協会 https://www.usuki-kanko.com/

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