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2023年2月28日 (火)

ニュージーランドの鉄道史を地図で追う II

前回に続いて、ニュージーランドの鉄道網の発達と改良の痕跡をさらに訪ねてみよう。

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ウェリントン駅、1937年築(2021年)
Photo by Tom Ackroyd at flickr.com. License: CC BY-SA 4.0
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ニュージーランド鉄道路線図
 太線は旅客・貨物営業路線、細線は貨物営業路線
 破線は休止中、グレーの線は廃止済
 なお保存鉄道は図示していない
 橙色の番号は後掲する詳細図の概略位置(1~4は前回掲載)

北島本線の延伸

オークランド Auckland から南進したノース・アイランド・メイン・トランク North Island Main Trunk(以下「北島本線」)のレールは、1877年に中部の主要都市ハミルトン Hamilton の最寄り駅フランクトン Frankton、1880年にはテ・アワムトゥ Te Awamutu に達した。しかし、計画はそこでしばらく足踏み状態となる。景気後退期に入ったことと、キング・カントリーへの立ち入りについて、地元のマオリとの交渉が長引いたからだ。中央区間の着工は1885年までずれ込んだ。

地勢の面でも、ここから先は北島火山性高原 North Island Volcanic Plateau を越えていく本格的な山岳ルートになる。北島最高峰2797mのルアペフ Ruapehu をはじめ、タウポ火山群 Taupō Volcanic Zone から噴出した溶岩流や泥流が台地状に広がり、そこに深い渓谷が刻まれている。鉄道の横断には、当初から難工事が予想されていた。

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タウポ火山群の主峰ルアペフ Ruapehu(右)と
コニーデ型のナウルホエ Ngauruhoe(2008年)
Photo by MSeses at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

最初の難関が、北側の谷から高原に取り付くために必要な約130mの高低差(下注)の克服だ。線路はここでオメガループやスパイラルを駆使し、とぐろを巻くような複雑な線形で上っていく(下図参照)。幹線として勾配は19.2‰(1:52)までに抑えているが、曲線半径は151m(7チェーン半)とかなり厳しい。鉄道ファンにはよく知られたこのラウリム・スパイラル Raurimu Spiral によって、列車は一気に高原上に躍り出る。

*注 この数値は、ラウリム旧駅と、スパイラルを経て再びマカレトゥ川 Makaretu River の谷に戻る地点との高度差434フィートのメートル換算値。

上り切ったところに、峠の駅ナショナル・パーク National Park がある。名のとおりトンガリロ国立公園 Tongariro National Park の下車駅だが、周辺にある同名の集落を含めて国立公園区域の外にあるから、日本風にいうなら公園口駅だ。

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空から見たラウリム・スパイラル(2007年)
Photo by Duane Wilkins at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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図5 ラウリム・スパイラルとその前後区間
峠下のラウリム駅は廃止済
Sourced from NZTopo50 map BH34 Raurimu. Crown Copyright Reserved.
 

勇壮な火山群を左車窓に見ながらなおも行くと、開析谷をまたいでいる高い鉄橋をいくつか渡る。その一つ、マカトケ高架橋 Makatoke Viaduct とマンガヌイオテアオ高架橋 Manganuioteao Viaduct(下注)の間には、北島本線の全通記念碑が建っている。1908年11月6日、当時の首相ジョーゼフ・ウォード卿 Sir Joseph Ward が、レールを枕木に固定する最後の犬釘を打ち込んだ場所だ。その翌年に始まった急行列車の運行により、オークランド~ウェリントン間700kmは18時間で結ばれた。

*注 マオリ語由来の地名に頻出するマンガ manga は川の支流を意味する。

記念碑の前から線路はまだわずかに上っていて、マンガトゥルトゥル高架橋 Mangaturuturu Viaduct を過ぎたあたりに、北島本線の最高地点814mがある(下注2)。

*注 駅で最も標高が高いのはナショナル・パーク駅で、標高807m。廃止された駅を含めれば、最高地点の手前のポカカ Pokaka 駅が811mで最も高かった。

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線路(左奥)の傍らに立つ南部本線全通記念碑(2005年)
Photo by Avenue at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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図6 北島本線全通記念碑 Obelisk marking last spike と
 最高地点 The highest point の位置
Sourced from NZTopo50 map BH34 Raurimu. Crown Copyright Reserved.
 

線路が台地から降りるホロピト Horopito ~オハクネ Ohakune 間10kmは、1987年に曲線緩和を目的としたルート変更が行われた区間だ(下図参照)。鉄骨トレッスルだったタオヌイ高架橋 Taonui Viaduct とハプアウェヌア高架橋 Hapuawhenua Viaduct は、このときスマートなコンクリート橋に一新された。

旧橋も、土木工学遺産として保存されている。とりわけ後者は半径201m(10チェーン)でカーブしながら谷をまたぐ長さ284m、高さ45mの見事な高架橋だ。幸いにも、オハクネ馬車道路 Ohakune Coach Road と称するトレールの一部として開放されており、歩いて渡ることができる。

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トレールに転用された旧ハプアウェヌア高架橋(2010年)
Photo by Johnragla at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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図7 ホロピト~オハクネ間、旧線跡を破線で加筆
Sourced from NZTopo50 maps BJ33 Raetihi, BJ34 Mount Ruapehu. Crown Copyright Reserved.
 

北島本線の改良

北島が発展するにつれ、北島本線の輸送量も着実に増加し、主として19世紀の規格で造られた路線には運行上の支障が目につくようになった。南島の幹線では大規模な改良があまり見られないのに対して、北島では複線化とともに、短絡線の建設が何か所かで実施されている。

最も早い例の一つが、1937年に完成したウェリントン郊外のタワ・フラット短絡線 Tawa Flat deviation だ(下図参照)。もとの路線は民間会社のウェリントン=マナワトゥ鉄道 Wellington and Manawatu Railway (W&MR) が1881年に開通させたもので、内湾に面したウェリントンからタスマン海側に出るために、渓谷を曲がりくねりながら25‰(1:40)で上り、標高158m(518フィート)のサミットを越えていた。

この直下に2本の長いトンネル(第1トンネル 1238m、第2トンネル 4323m)が掘られ、直線的なバイパス路線が完成した。ルートが2.5km短縮されただけでなく、勾配緩和(最大10‰)と複線化によって線路容量は格段に改善した。

一方、旧線は単線のままだが、ウェリントンからサミットのジョンソンヴィルまでが通勤線(ジョンソンヴィル支線 Johnsonville Branch Line)として残され、山上の住宅地から都心へ出る人々の足になっている。残念ながら、ジョンソンヴィル以遠は廃止後、ハイウェー用地に転用されたため、跡をとどめていない。

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ジョンソンヴィル支線を行く通勤列車(2011年)
Photo by Simons27 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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図8 ウェリントン周辺のルート変更
Sourced from NZTopo50 map BQ31 Welington. Crown Copyright Reserved.
 

北島本線が中央山地を後にする地点には、もう1か所、大規模なルート変更がある。タイハペ Taihape の南10km、旧駅でいうとウティク Utiku ~マンガウェカ Mangaweka 間に造られたマンガウェカ短絡線 Mangaweka deviation だ(下図参照)。比較的新しく、1981年に完成した。
線路はここでランギティケイ川 Rangitikei River の本流に出会うのだが、周辺は主としてパパ岩 papa rock と呼ばれる柔らかい泥岩から成る丘陵地で、川によって激しく削られ、比高100m前後の断崖が連なっている。

そのため旧線は、崖際の浸蝕がまだ達していない部分まで上り、数本のトンネルで尾根の出っ張りをしのいだ後、マンガウェカ Mangaweka の集落の裏山をゆっくりと段丘面まで降りていた。しかし、地質的に不安定で、線形も悪いため、並行する州道とともにルートの改良が図られることになったのだ。鉄道と道路を新ルートで並走させる案も検討されたが、最終的には、道路は旧道の直線化にとどめて、鉄道だけを川の左岸に移設することになった。

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図9 マンガウェカ周辺のルート変更、旧線跡を破線で加筆
Sourced from NZTopo50 map BK35 Taihape. Crown Copyright Reserved.
 

新線には、川床からの高さが70mを越える大高架橋が3本架かっている。列車はまず左岸に移るために、北ランギティケイ高架橋 North Rangitikei viaduct(長さ181m、高さ77m)と、支谷に架かるカワタウ高架橋 Kawhatau viaduct(同181m、72m)を立て続けに渡る。そして切通しを抜けた後、一段と長く、まるで空中遊泳するような南ランギティケイ高架橋 South Rangitikei viaduct(同315m、76m)を渡って右岸に戻る。

この段階では、旧線はまだマンガウェカ集落の裏の山腹を走っており、両者が合流するのは次のマンガウェカトンネル北口の直前になる。

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南ランギティケイ高架橋(2010年)
Photo by D B W at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

リムタカ・インクライン

北島本線以外のルート変更にも注目すべきものがある。その一つは、珍しいフェル式レールを使っていたリムタカ・インクライン Rimutaka Incline だ(下図参照)。ウェリントンから北東へ延びるワイララパ線 Wairarapa Line が、ここでリムタカ山脈 Rimutaka Range を越える。旧線は1878年に開通したが、工費がかかる長大トンネルの掘削を避け、パクラタヒ川 Pakuratahi River の谷を遡るルートで建設された。

峠の西側は、蒸機の粘着力で対応可能な25‰(1:40)勾配に収まったが、東側は谷がはるかに険しいため、平均66.7‰(1:15)で一気に下降する案が採用された。この長さ4.8kmのインクライン(勾配線)(下注)に導入されたのが、イギリスの技師ジョン・バラクロー・フェル John Barraclough Fell が考案したフェル方式だ。

*注 4.8kmは3マイルをメートル換算したもので、サミット Summit ~クロスクリーク Cross Creek 駅間の距離。実際にフェル式レールが敷かれた区間はもう少し短い。

走行レールの中間に、ラックレールではなく平滑な双頭レールが横置きされ、その両側を車体の底に取り付けた水平駆動輪で挟むことで、機関車は推進力を補う。または制輪子を押し付けて制動力を得る。険しい勾配には向かないものの、レールが特殊なものではないので、 調達コストが安くて済むのが長所だった。

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(左)インクラインの曲線路を行く列車(1910年ごろ)
Photo from Godber Collection, Alexander Turnbull Library. License: Public domain
(右)フェル式レール(1880年)
Photo from Te Papa Tongarewa, Museum of New Zealand. License: Public domain
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図10 リムタカ越えのルート変更、旧線跡を破線で加筆
梯子状記号はインクライン区間(サミット~クロス・クリーク間)
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.
 

建設当時、インクラインは長大トンネルができるまでの暫定手段と考えられていたが、実際は77年間と、フェル式を推進と制動の両方に使用するものでは世界で最も長く使われた。

専用機関車の老朽化が進んだことで、ようやく1955年に、代替となる長さ8798mのリムタカトンネル Rimutaka Tunnel が完成した。それに伴い、インクラインは前後の粘着区間とともに廃止され、施設はほぼ撤去されてしまった。現在、峠のトンネルを含む廃線跡の一部は、リムタカ・レール・トレール Rimutaka Rail Trail として一般開放されている。

*注 リムタカ・インクラインについては、本ブログ「リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶」「同 II-ルートを追って」に詳述。

東海岸本線構想

東海岸本線 East Coast Main Trunk は、ハミルトン Hamilton(旧駅名フランクトン・ジャンクション Frankton Junction、後にフランクトン Frankton に改称)で北島本線から分岐して、タウランガ Tauranga を中心とする北東部のプレンティ湾 Bay of Plenty 地方へ延びる亜幹線だ。ここでも、1978年に大規模なルート切替えが実施されている。

かつてこの路線は、テ・アロハ Te Aroha、パエロア Paeroa、ワイヒ Waihi を経由する大回りルートで運行されていた。というのも最初から1本の幹線として計画されたものではなく、もとは1886年にテ・アロハまで、その後1898年にパエロアを経てテムズ Thames まで開通したテムズ線 Thames Line と呼ばれる地方支線に過ぎなかったからだ。

また、パエロア~ワイヒ間は、1905年に開通した鉱山支線だった。そのワイヒからタウランガ方面へ線路が延ばされ、プレンティ湾地方への鉄道ルートとして利用されるようになったのは、ずっと後の1927年のことだ。

実は1910~20年代、このルートはより壮大な構想の一部と見なされていた。それは、プレンティ湾地方からラウクマラ山脈 Raukumara Range を越えて北島中東部のギズボーン Gisborne に至る、北島東岸の幹線構想だった(下図参照)。

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鉄道現役時代のオヒネムリ川 Ohinemuri River 橋梁(1980年)
Photo by 17train at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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図11 オークランドとギズボーンを結ぶ東海岸本線構想
 ルートを加筆。実線は既成線、破線は未成線
Sourced from LS159 North Island Railway map. Crown Copyright Reserved.
 

ギズボーン地方は、全国路線網が届かず、長らく孤島状態に置かれていた(下注)。ギズボーンから内陸へ分け入る1917年開通の鉱山鉄道、モウトホラ支線 Moutohora Branch Line に接続すれば、未完の区間は直線で約60kmに過ぎない。

*注 ギズボーンが孤立から脱するのは、1942年に南回りでパーマストン・ノース=ギズボーン線が全通したとき。

一方、大回りしているパエロア以東についても、北島本線に直接つながるバイパス新線が予定されていた。1938年にそのポケノ Pokeno ~パエロア間47km(29マイル)が着工され、当時の1インチ図にも予定線として描かれている(下図参照)。しかし、第二次世界大戦の空白期間をはさんで、工事は遅延を重ねた。その間に長大トンネルを介した新線計画が浮上したことで完全に放棄され、結局、未成線になってしまった。

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図12 ポケノ~パエロア間のバイパス新線が建設中の記号で描かれた1インチ図
(1943年版)
Sourced from NZMS 1 map N53-54 Paeroa. Crown Copyright Reserved.
 

カイマイ山脈を貫くそのカイマイトンネル Kaimai Tunnel は、1978年に完成して東海岸本線の新しいバイパスとなった。長さは8850m(下注)あり、今なお鉄道トンネルでニュージーランド最長だ。短絡新線は、ハミルトンから29kmのモリンズヴィル Morrinsville で旧ロトルア支線 Rotorua Branch Line に入り、ワハロア Waharoa の手前で左に分かれる。この完成と引換えに、旧線のパエロア~ワイヒ~新線との再合流点の間が廃止となった。

*注 この数値は "New Zealand Railway and Tramway Atlas" Fourth Edition, Quail Map Company, 1993による。ウィキペディア英語版のカイマイトンネルの項では8879m、東海岸本線の項では8896mとしている。

旧線随一の景勝区間だったパエロアからカランガハケ渓谷 Karangahake Gorge を通ってワイキノ Waikino に至る約12kmの廃線跡は、後に自然歩道ハウラキ・レール・トレール Hauraki Rail Trail として整備された(下図参照)。途中にある長さ1006mのカランガハケトンネルを含め、自転車や徒歩でかつての車窓風景を追体験することができる。

また、それに続くワイキノ~ワイヒ間約6kmは、ゴールドフィールズ鉄道 Goldfields Railway と称する保存鉄道の運行ルートに利用されている。ワイヒ以遠は残念ながら民地に戻され、沿線に橋梁の跡(橋台、橋脚)が点々と残るのみだ。

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ゴールドフィールズ鉄道(2009年)
Photo by Ryan Taylor at flickr.com. License: CC BY-NC-ND 2.0
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図13 パエロア~ワイヒ旧線跡
パエロア~ワイキノ間はトレールに、ワイキノ~ワイヒ間は保存鉄道に転換
Sourced from NZTopo50 map BC35 Paeroa. Crown Copyright Reserved.

ニュージーランドの鉄道網の最盛期は1950年代だ。1953年には全土に100本もの路線があり、総延長は約5700kmに達していた。しかし1960年代になると、選択と集中の時代に入る。幹線系統など有望な路線には資金が投じられ、電化や大規模な線形改良など近代化が推進される一方、実績の伴わない地方路線は、無煙化も果たせないまま、次々に閉鎖されていった。

このころすでに旅客輸送の環境は厳しかったが、1983年に道路貨物輸送の距離規制、すなわち鉄道を保護するために、競合する道路上の貨物輸送を150km以内としていた制限が撤廃されると、貨物部門でも自由競争が始まった。鉄道運営には一段と効率化が求められようになり、新たな鉄道ルートが地図に描き加えられる可能性は、今やほとんどなくなっている。

本稿は、コンターサークル-s『等高線-s』No.14(2017年)に掲載した同名の記事に、写真等を追加したものである。

■参考サイト
New Zealand History http://nzhistory.govt.nz/
Kiwi Rail http://www.kiwirail.co.nz/
Institution of Professional Engineers New Zealand (IPENZ)
https://www.ipenz.nz/
Department of Conservation (DOC) http://www.doc.govt.nz/

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