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2022年12月

2022年12月29日 (木)

コンターサークル地図の旅-沼沢湖

2022年10月16日、会津でのコンターサークル-s 秋の旅2日目は、JR只見線の気動車に乗って沼沢湖(ぬまざわこ)を訪れた。沼沢湖というのは、会津西部に位置する広さ約3.0平方km、深さ96mのカルデラ湖だ。阿賀川(あががわ、下注)の支流、只見川(ただみがわ)の流域にあり、5400年前に噴火した沼沢火山の火口が湛水して生じた。

*注 大川ともいい、新潟県に入ると阿賀野川と呼ばれる。

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沼沢湖北岸から惣山を望む
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図1 沼沢湖周辺の1:200,000地勢図
(1988(昭和53)年編集)
 

もちろん初めて行く場所だが、名まえだけはずっと前から知っている。堀淳一さんの初期著作の一つ「地図から旅へ」(毎日新聞社、1975年)で紹介されていたからだ。当時は沼沢沼(ぬまざわぬま)と呼ばれていた。堀さんが歩いたのは12月初旬で、すでに一帯が雪に埋もれる中、若松駅前で急遽買った長靴をはいて、最寄りの早戸(はやと)駅から湖に通じる坂道を上っている。

「やがて、沼御前神社のある丘をおおう杉林のかなたから沼が姿を見せ、私は足の冷たさを忘れてそれに見入った。そこは神社の北の入江の奥だった。対岸に盛り上がる惣山(そうやま)と前山の山肌は、小降りになりながらもまだ降り続いている雪にかすんで鉛色をおび、沼の面もそれを映して浅葱鼠色にどんよりと沈んでいた。」(同書p.166、下注)

*注 「地図の風景 東北Ⅰ 福島・宮城・岩手」(そしえて、1981年)でも取り上げられている。

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地図図版のほかは一枚の写真すら載っていないにもかかわらず、読み進むうちに、人影もなく静まり返った山の湖のイメージがありありと目に浮かんだ。それを思い出し、11年ぶりに運行が再開された只見線の会津川口~只見間を乗るのとセットで訪れることにしたのだ。

只見線を終点の小出(こいで)まで通しで走る下り列車は、会津若松発6時08分を逃すと、なんと13時05分までない。それで7時41分発、途中の会津川口止まりの列車で湖を訪れてから、午後の貴重な小出行きを捕まえるというプランを作った。

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(左)会津若松駅にて
  左は会津鉄道、右が只見線の列車
(右)只見線全線再開のポスター
 

列車は、キハ110系の後ろにE120系をつないだ2両編成だった。休日の朝の下り便なので、各ボックスに1人程度しか乗っていない。その中に大出さんを見つけた。晴れ渡る空の下、列車は広々とした会津盆地をのんびり横断し、七折峠(ななおりとうげ)から只見川の渓谷に入っていく。はじめ右岸の段丘上を進んだ後、川を何度か横断するが、中でも第一只見川鉄橋が名所だ。列車も速度を落として、ダム湖の水面に映る色づき始めた山峡の景色を、車窓から堪能させてくれる。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

堀さんは早戸駅と湖の間を往復したが、私たちは湖を北岸からアプローチしようと、一つ先の会津水沼駅で下車した。片面ホームの駅はもちろん無人で、ほかに降り立つ人もなかった。列車はこの先で第四只見川鉄橋を渡っていく。遠望写真が撮れるかと国道252号の水沼橋へ急いだが間に合わず、のっけから汗だけかいてしまった。

対岸に渡って国道から分かれ、低位段丘面に載る水沼の沢西集落の中を上る。この先に、高度約130mの急斜面をヘアピンの連続で這い上がる長い坂道が待ち構えている。杉林に入った一車線の舗装道が最初の折返しにさしかかるころ、合法かどうかはともかく、軽トラックが荷台に若者を2人乗せて、後ろから追い抜いていった。

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(左)会津水沼駅に降りる
(右)国道の水沼橋
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列車のいない第四只見川橋梁
 

沼沢火山の噴火では、厚さ最大200mもの火砕流が周囲に堆積したと考えられている。その後、大半は河川によって運び去られてしまったが、今も一部が平坦面として残っている。水沼の背後の、これから上っていく大栗山と呼ばれるテラス地形もそうだ。標高は450m前後あり、只見川斜面からの浸食が進んでいるものの、まだ平坦面の連なりが断たれるまでには至っていない。

道はクルマがふつうに上れる勾配だったので、よもやま話をしながら歩いたら、いつのまにかテラスのへりまで来ていた。表面のなだらかな土地は耕されて、葉もの野菜が育つ畑と若干の田んぼになっている。向こうで話し声がすると思ったら、さっきの軽トラックに載っていた若者を含む集団が、農作業にいそしんでいた。

乾いた風が通り抜ける高原の道は、心地よいハイキングルートだった。クルマにもめったに会わず、この間に追い抜かれたのは、観光バスが一台と軽快なフットワークの女性ランナーぐらいだ。あのつづら折りを走って上ってきたのなら、かなりの強者に違いない。

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(左)急斜面を上る坂道
(右)大栗山の平坦面に作られた田んぼ
 

道は再び杉林に包まれるが、小さな赤い鳥居と「沼沢湖一周遊歩道・惣山」の標識の前を過ぎると、いよいよ沼沢湖が木の間隠れに見えてきた。地道を少し入ったところで、うろこ雲が浮かぶ空の下に青い水面の眺めが開ける。水面標高475m、足元の砂浜に手漕ぎボートが打ち上げられているのを除けば、視界に入るのは深い森陰とさざ波立つ湖水だけだ。

周囲を限る山並みでは、すでに紅葉が始まっている。右の高いピークが標高816mの惣山で、湖に落ち込む剥き出しの岩壁は、広重が描いた五十三次の箱根湖水図を思わせる(冒頭写真参照)。これが芦ノ湖なら観光客の喧騒が響いているだろうが、ここでは木の葉を揺らす風の音しか聞こえない。

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(左)鳥居と遊歩道の標識がほぼサミット
(右)地道の先に湖面が開ける
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沼沢湖西岸、左のピークが惣山
沼御前神社の岬から撮影
 
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沼沢湖南岸、正面は標高835mの前山
 

神秘的な風景に見とれていると、突然、私のスマホが鳴り出した。かけてきたのは丹羽さんで、クルマで湖岸まで来ているという。居場所を伝えて落ち合うことにした。フェアリーロードの名がある湖岸道路を、見事なアカマツの木や発電所の取水口跡を観察しながら東へ歩いていく。途中のパーキングから先は、地形図にない遊歩道がついていた。

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(左)藤ヶ崎のアカマツ
(右)沼沢沼発電所の取水口跡
 

堀さんが湖を眺めたキャンプ場のある浜まで行き、その一角に三人腰を下ろして、昼食をとる。それから、沼御前神社の岬を回っていく湖岸遊歩道に足を向けた。道幅いっぱいに大きなホウの葉が散り敷いていて、頭上のシイやカツラももう冬木の状態だ。

道なりに行けば「沼沢湖一周遊歩道」(下注1)に入るはずだと、さらに南側の浜まで進んだが、地図とは違い、舗装道は上村(かみむら)の方へ曲がっていくようだった。湖周辺の地形図は、建物の描写でも分かるとおり1:25,000の精度のままだ。現地調査も不十分で、道路網の描写がはなはだ頼りない。たとえば、この舗装道やキャンプ場近辺の遊歩道は記載がない一方、描かれている岬と神社を結ぶ階段は実際にはなかった(下注2)。諦めて、元来た道をキャンプ場まで戻る。

*注1 優雅な散歩道のように聞こえるが、実踏レポートによれば、かなりの難路らしい。
*注2 沼御前神社へは、北側と南側から山道で到達できるようだ。

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人影少ない沼沢湖畔キャンプ場
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(左)ホウの葉散り敷く湖岸遊歩道
(右)沼御前神社の岬を北望
 

それにしても休日というのに、離れた場所で数人がバーベキューを楽しんでいるぐらいで、ほとんど人の姿を見かけない。静かで美しい景色に去りがたい気持ちは強かったが、列車の都合もある。13時すぎ、クルマで戻る丹羽さんと別れて、早戸駅へ向け、急流の沼沢川に沿う県道を下っていった。

只見川に面する急斜面には、いろは坂のような何段ものつづら折りがある。それを通過し、左に折れると、狭い河岸段丘の谷壁に、一見要塞風のコンクリート擁壁が見えてきた。沼沢沼水力発電所の水路管が通っていた跡だ。水路管は段丘崖をさらに降りて、川べりにあった発電所の本体施設に続いていた。

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(左)只見川斜面を降りるつづら折り
(右)正面に発電所の水路管跡が
 

只見川を渡る早三橋(はやみばし)のたもとに、東北電力の案内板が立っている。発電所は、沼沢湖と只見川(宮下ダム湖)の200m以上にもなる高低差を利用して、1952(昭和27)年に造られた。湖から落とす水で発電機を回すだけでなく、オフピーク時に湖へ水を汲み上げて次の発電に備える揚水式の発電所だった。当時は東洋一の規模と謳われたが、下流に第二沼沢発電所が稼働したこともあり、2002(平成14)年に廃止となった。施設はすでに撤去済みで、草生した敷地が残されているばかりだ。

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川岸に残る沼沢沼水力発電所跡
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図3 沼沢沼発電所が描かれた旧版地形図
 

早三橋を渡って、国道に合流した。湯ノ平(ゆのたいら)と早戸駅の間にあった旧国道は閉鎖されており、大型車の轟音に肝を冷やしながら、長い新トンネルの側歩道を行くしか方法がない。

早戸駅では、臨時列車「只見線満喫号」の通過を目撃した。その影響で定期列車のダイヤも変更されているが、正確な発時刻が駅に掲示されていない。大出さんによると、ウェブサイトでさえ記載されている時刻がまちまちらしい。日本の鉄道とは思えないおおらかさだ。

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(左)只見線満喫号を目撃
(右)只見川(宮下ダム湖)に臨む早戸駅
 

小出行き2両編成の列車は結局、通常時刻より20分ほど遅れてやってきた。夕方までに小出に到達できる唯一の便なので、朝の会津川口行きとは打って変わって、立ち客も多数見られる。運行再開以来、奥只見を訪れる観光客が増えているのは本当らしい。沼沢湖の余韻は胸にしまって、私たちも混んだ列車の客となった。

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(左)混雑する車内、法被姿は地元のガイドさん
(右)只見駅では10分停車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、2万5千分の1地形図沼沢沼(昭和50年修正測量)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年12月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-会津・滝沢街道

5月に会津地方の大内宿や裏磐梯を歩いたが、その際眺めた近辺の地図で目に留まった場所がほかにもあった。それでコンターサークル-s 秋の旅も会津でスタートする。2022年10月15日の初日に訪れたのは、会津若松と猪苗代(いなわしろ)を結んでいた滝沢(たきざわ)街道(下注)だ。沿線には戊辰戦争の史跡や湖畔の風景だけでなく、明治の洋館、水門・水路、貴重な湿原など見どころが点在している。

*注 滝沢街道と呼ばれるのは、若松から奥州街道の二本松に通じていた二本松街道(上街道)の一部。若松から沓掛峠までは白河街道を兼ねている。地形図には、中通り側からの呼び名である越後街道の注記がある。

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十六橋水門
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図1 滝沢街道周辺の1:200,000地勢図
(左)1978(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集
 

朝は薄曇りだったが、天気予報によると、昼ごろには青空が戻るらしい。集合地はJR磐越西線の猪苗代駅なので、私は前泊した会津若松から、9時30分発の郡山行の電車で向かった。猪苗代駅のホームで、下り列車でやってきた大出さんと合流する。参加者はこの2名だ。

歩く距離を節約するために、駅前で磐梯東都バスの金の橋(きんのはし)行きに乗り継いだ。ほかに2グループ乗っていたが、みな途中の野口英世記念館前で降り、湖畔の長浜まで乗ったのは私たちだけだった。目の前が猪苗代湖で、遊覧船が出る翁島港がある。白鳥の形をしたボートも浮かんで、観光地らしい風景だ。

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遊覧船が発着する長浜の翁島港
 

本日はここを起点に西へ、会津若松市内の飯盛山下まで約12kmの道のりを歩く。後で知ったのだがこのルート、堀淳一さんも2003年に訪れている。私たちとは逆向きに、後述する金堀(かねほり)を出発し、長浜に至る行程だった。「歴史廃墟を歩く旅と地図-水路・古道・産業遺跡・廃線路」(講談社+α新書、2004年)に詳細が記されているが、堀さんが20年前に見た情景は、嬉しいことに今もほとんど変わっていない。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
長浜~強清水間
 

10時30分、長浜を後にした。現在の国道49号はそのまま湖岸に沿っていくが、旧道は背後から張り出す流れ山地形をショートカットしている。国道から右にそれて坂道を上り、さらに森の中の脇道をたどって、最初の見どころ、天鏡閣へ。

1908(明治41)年に有栖川宮別邸として竣工したこの建物は、木造スレート葺2階建ての洋館で、重要文化財にも指定されている。中に入ると、一部が畳敷きのほかは板張り床の洋風仕様で、装飾的なマントルピースやシャンデリアなど、優雅な調度品が目を引く。最上階の展望室も開放されているが、周りの木々が大きく育っていて、湖を眺めることはもうできなかった。

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天鏡閣外観
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優雅な調度品が配された客間
 

この後も、舗装道になっている旧道を進む。名も知らぬ沼を横に見て鞍部を越えると、道はつづら折りで戸ノ口集落へ下っていった。地形図には、集落の中に519.9mの水準点が描かれている。これを実際に探し当てるのも旧道歩きの楽しみなので(下注)、少し寄り道した。見当をつけたのは、山裾の小さな神社だ。参道脇におなじみの標識と、蓋つきで地下に埋設された標石があった。

*注 天鏡閣のそばにもあったのだが、探すのをすっかり失念していた。

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名も知らぬ沼の畔を通過
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戸ノ口集落
(左)集落へヘアピンで降りる
(右)神社参道脇の水準点、標石のあるマンホールは雑草の陰
 

村の前には、やわらかな日差しのもと、稲刈りの終わった田んぼが広がる。銚子ノ口から引き込まれた水面を縁取る森が早や色づき始めている。まもなく日橋川(にっぱしがわ)を渡る十六橋にさしかかった。猪苗代湖の水は、この川で会津盆地へと流れ下る。注目は、橋の右手に並行している大規模な水門(冒頭写真参照)で、もともと湖の反対側で取水する安積(あさか)疏水の付属施設として、水位調節の目的で造られた。

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稲刈りの終わった村の前の田んぼ
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十六橋前の水面
正面奥の水路で猪苗代湖に通じる
 

現地の案内板によれば、1880(明治13)年に完成した初代の十六橋水門は、16連アーチの石造橋と一体になった構造で、各アーチに開閉可能な杉板の扉が設置されていた。1914(大正3)年に今見る16連、電動式の水門に改修され、その際に道路橋が分離されたという。ただ、十六橋の謂れは明治どころかもっと古く、弘法大師が架けたという伝説にまで遡るそうだ。

その後、1942(昭和17)年に小石ヶ浜水門が完成し、湖の水位調節機能はそちらに移された。十六橋水門の現在の役割は、流域の大雨などで水位が上がるときに排水する、洪水調節機能だけらしい。つまり、ほとんど隠居の身なのだが、施設は近代化産業遺産として美しく維持されていて、水面に映る整然としたたたずまいは一幅の絵のようだ。たもとの広場には、疏水の設計に携わったオランダ人技師ファン・ドールンの像も建ち、水門とその一帯を優しく見下ろしている。

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(左)十六橋に並行する水門
(右)第一門、第二門は戸ノ口堰の取水用
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(左)昔の十六橋水門(現地案内板を撮影)
(右)ファン・ドールンの銅像が広場に建つ
 

広場のあずまやで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。しばらくは林道のような砂利道が続く。国道49号と斜めに交差してなおも進むと、戸ノ口原古戦場跡の案内板が立っていた。1868年、押し寄せる新政府軍を会津藩守備隊が迎え撃った場所だ。近くに次の528.4m水準点があるはずだが、丈の高いすすきに埋もれたのか見つけられなかった。

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戸ノ口原古戦場跡にある供養塔
 

林を縫う道の途中で、赤井谷地(あかいやち)湿原の案内板を見つけた。左手の丘へ上る道をたどり、湿原が見渡せる展望地に出る。尾瀬のように横断する木道がないので、ここが唯一の見学場所になっている。

南に広がるヨシに灌木が混じる湿原は、かつての湖底が水位の低下で沼地を経て変化したものだ。約1km四方の区域が天然記念物として保護されている。案内板を読んだ大出さんが、昭和天皇が二度来ていることを指摘する。新婚時代にさっきの天鏡閣に滞在したことがあるので、きっとお気に入りの土地だったのだろう。

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赤井谷地湿原の展望
 

この丘を含めて周辺は、磐梯山の古い大噴火で生じた流れ山で埋め尽くされている。街道に沿って会津藩軍が敷いた陣地も、もこもことした地形をうまく利用したものだ。森を抜けると右手後方に、雲が切れつつあるその磐梯山が望めた。

強清水(こわしみず)には、旧道沿いに何軒かの蕎麦屋があって、どれも繁盛していた。事前の調査不足で食べる算段をしておらず、通過してしまったのは残念だ。強清水の名が示すとおり、集落の山際に有名な湧水があり、周りにはアキアカネが乱舞するそば畑が広がっている。

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強清水
(左)旧道・新道分岐、正面の消防車庫の左の細道が旧道
(右)名物の蕎麦屋が並ぶ
 
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図3 同 強清水~会津若松市内
 

標高約520mの強清水は、猪苗代湖の旧湖盆の末端に位置している。この後、街道は、沓掛(くつかけ)峠と滝沢峠の二段構えで、標高200m台の会津盆地まで一気に高度を下げる。急坂が続く旧道を改良するため、明治に入って荷馬車が通れる新道が開削された。そちらは旧国道49号で(下注)、今もクルマで走れる舗装道だが、私たちはもちろん、徒歩でしか行けない旧道をめざすつもりだ。

*注 1966年の滝沢バイパス開通で、国道の指定を解除された。現在は会津若松市道。

沓掛峠旧道の入口はすでに森に還っているため、国道294号を少し南下し、北西方向に分かれる道を入る。国道脇に案内板が立っているので間違いないのだが、100mも行かないうちにバリケードで通行止めにされていた。代替路があるかと周囲を探してみたものの、やはりここを進むしかなさそうだ。

峠道は下り一方の片坂で、楽に歩けそうに思える。ところが誰も通らないので、日なたは下草ですっかり覆われ、切通しは山から染み出す水で、ひどいぬかるみだった。

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沓掛峠旧道
(左)草むした路面
(右)道いっぱいのぬかるみ
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白河、二本松両街道の追分付近に立つ案内板
 

ヘアピンの悪路をなんとか降りていくと、涼しげな水音が聞こえてくる。見ると、斜面の上のほうから、水流が岩を滑り落ちている。案内板によれば、これは金堀(かねほり)の滝で、自然の滝ではなく、戸ノ口堰(とのくちぜき)の水を落としているのだ。

戸ノ口堰というのは、十六橋の下流で日橋川から取水され、会津盆地を潤している灌漑用水で、1693年に若松まで通じている。旧街道の前に滝があるのは、おそらく行き交う旅人たちに見てもらう意図もあったのだろう。滝壺(というほどのものはないが)まで落ちた水は再び水路に集められ、この先でも何度か街道と交差する。

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金堀の滝
 

まもなく森が晴れて、金堀集落が見えてきた。旧道は一時的に、右から降りてきた新道と合流する。金堀は旧宿場らしく、トタンをかぶせた茅葺屋根の家が、道路に妻面を向けて並んでいる。大出さんによると、大内宿もかつてはこんな景観だったそうだ。道端で422.8m水準点を探したが、標識はあるものの、またしても標石は見つけられなかった。

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旧道沿いの金堀集落(東望)
 

次はいよいよ滝沢峠を越える。実は金堀と滝沢の間には、3本のルートが存在する。最も古いのは、1591年に開削、1634年に改修整備された滝沢峠の旧道だが、明治に入って、1882(明治15)年により低い鞍部を通る滝沢南新道、さらに1886(明治19)年に北を迂回する北新道が相次いで開通した(下図参照)。

北新道(旧国道49号)はさっきの沓掛峠新道の続きで、クルマが走れる舗装道だ。方や南新道は、最近まで地形図に記載されていたが、最新の地理院地図では上部区間が断絶している。むしろ近世の旧道のほうが明瞭で、一条道路(幅3.0m未満の道路)として跡を追える。

旧道がハイキングコースとして再評価される一方で、南新道は不運だった。荷車が通れるように勾配を緩和した分、旧道より距離が長くなり、歩きには向かない。かといってヘアピンが急過ぎて自動車時代にも対応できず、結果的に見捨てられてしまったようだ。

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図4 複数の峠越えルートが描かれた旧版地形図
(1910(明治43)年測図)
 

旧道は金堀の集落の中で再び上りになり、滝沢峠まで50~60mの高度を稼ぐ。ついでに電波塔のある山頂まで足を延ばしてみたが、周囲は森や藪で、山頂付近に描かれている三角点にはたどり着けなかった。

峠まではふつうの舗装道だったのに、下りに転じる地点でまたバリケードが渡してあった。やむなく入ってみると、草むした地道とはいえ、沓掛峠ほどには荒れていない。直線的に降下するのでかなりの急坂だが、ところどころ丸石の石畳が残り、会津藩の主要道として整備されたことを思い出させてくれる。途中、比較的新しい休憩用のあずまやが建ち、並木道のような区間もあった。趣の深いルートなので、通行禁止にしたままなのは惜しいと思う。

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滝沢峠旧道
(左)金堀方は舗装道
(右)若松方の急坂には石畳が残る
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(左)舟石付近のあずまや
(右)もとは並木道か
 

1.5km、高低差200mを40分ほどかけて下り、麓の滝沢へ出た。ここで再び戸ノ口堰が道を横切っているが、金堀の滝で見たより水量がはるかに多い。というのも、水力発電所で使い終えた水が加えられているのだ。戸ノ口堰には地形の落差を利用した発電所が3か所あり、水量の大半がこれに利用されている。発電用水路から外れた金堀の前後は、おこぼれの水が流されているに過ぎない。

堰はこの後、飯盛山の麓へ向かうので、後を追って不動川を渡る地点まで行ってみた。森の中にひっそりと石のアーチが架かっている。九州で見るものに比べれば小規模だが、天保年間、1838年の架橋というから、貴重な歴史遺産だ。この先は通行できないので、旧滝沢本陣の前から迂回する。

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滝沢峠旧道、若松側の上り口
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戸ノ口堰
(左)豊かな水量に驚く
(右)不動川を渡る戸ノ口堰橋
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旧滝沢本陣入口
 

戸ノ口堰洞穴は、飯盛山の山裾に掘られた水路トンネルだ。さざえ堂や白虎隊士の墓とともに、トンネルの出口が飯盛山界隈の観光名所になっているので、前にも来たことがある。狭い洞穴から滔々と流れ出す豊かな水流は、猪苗代湖の生気を運んでくるようで、何度見ても印象に残る光景だ。

ゴールと定めた飯盛山下バス停には、15時30分に到着した。文字通り野を越え山を越え、起伏と見どころに富んだ約5時間のハイキングだった。

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戸ノ口堰洞穴
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夕食は会津若松駅前のマルモ食堂
名物ソースかつ丼で空腹を満たした
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図廣田(明治43年測図)、若松(明治43年測図)、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年12月12日取得)を使用したものである。

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2022年12月10日 (土)

新線試乗記-西九州新幹線

2022年9月23日に開業した西九州新幹線に初乗りしようと、朝早い博多駅で特急「リレーかもめ」5号に乗り込んだ。新幹線区間は武雄温泉(たけおおんせん)~長崎間66.0km(営業距離は69.6km)だが、他の新幹線網から孤立しているため、そこまで在来線の特急列車でつないでいる。1980年代の東北・上越新幹線、2000年代の九州新幹線でも行われたことのあるリレー方式だ。

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大村湾岸を行く「かもめ」号
大村市松原付近
 

駅や列車の行先表示もそれに準じて、この列車の終点である武雄温泉ではなく、最終目的地の長崎と記されていた。「運用上の都合により途中で乗換となりますが、間違いなく長崎まで参ります」ということだろう。同様に、長崎発の上り新幹線も、博多などリレー号の行先に合わせた表示になっているはずだ。

リレー5号の車両は、奇しくもかつて鹿児島本線の「リレーつばめ」に使われたグレートーンの787系だった。再招集に備えて改修もされたようだが、20年以上稼働してきて、テーブルやひじ掛けなどはくたびれが目立つ。とはいえ後述するように、これはいつ終了するか見通しの立たない任務だ。しばらくは老骨に鞭打ち頑張ってもらわねばなるまい。

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(左)787系の「リレーかもめ」号
(右)行先表示は長崎
 

列車は鳥栖から長崎本線に入り、佐賀平野を進んでいく。ちょうどバルーンフェスタの会期中だったので、嘉瀬川(かせがわ)を渡る前後では、晴れた空に浮かぶ無数の熱気球を遠望できた。肥前山口から改称された江北(こうほく)駅を通過してしばらくすると、線路がすーっと高架に上がっていき、真新しいホームが車窓に現れた。

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朝の空に熱気球が浮かぶ
 

到着したのは、武雄温泉駅の10番線だ。向かい11番線のホーム柵の奥に、新幹線「かもめ」5号が扉を開けて待っている。東海道・山陽新幹線で走っているのと同形式のN700Sだそうだが、側面に描かれた大きな「かもめ」の筆文字や赤い細帯は、九州オリジナルの800系を連想させる(下注)。後で前頭部に回ったら、裾が赤く塗られ、独自性を強くアピールしていた。

*注 部分開通時代、800系の側面には「つばめ」の大きな筆文字があった。

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武雄温泉駅新幹線ホーム
右のリレー号から平面乗換え
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N700S「かもめ」
(左)裾にJR九州色をまとう
(右)側面には大きな筆文字(諫早駅で撮影)
 

確かに「かもめ」は、800系「つばめ」のスタイルを踏襲している。6両編成で、指定席車と自由席車が3両ずつ、グリーン車はついていない。「つばめ」と違うのは、在来線の特急に合わせて長崎寄りの3両が指定席になっている点だ(下注)。

*注 「つばめ」は東海道・山陽新幹線に準じて、鹿児島中央寄りの3両が自由席。

指定席は2+2列で、隣席との間に大きなひじ掛けがあり、余裕のある座り心地だ。自由席を覗いてみたら、標準的な2+3列だった。走行距離が短いので、自由席利用が多いと見込んだのだろう。

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(左)指定席は2+2列
(右)テーブルの代わりに大きなひじ掛けが
 

長崎までの所要時間は、途中諫早のみ停車の速達便で23分、各駅停車で31分だ。博多~長崎間では最速1時間20分となり、在来線時代より30分ほど短縮されたのだそうだ。高速列車だから当然だが、走るルート自体、在来線より直線的で、特に諫早まではその感が強い。

既存の鉄道ルートには変遷がある。1898(明治31)年に開通した九州鉄道長崎線(国有化により長崎本線)は西回りで、早岐(はいき)を経由していた。現在の佐世保線、大村線のルートだ。1934(昭和9)年に有明海沿岸を走る現在の長崎本線が完成したが、これも多良岳の山麓をなぞる形で東へ迂回している。

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佐賀~長崎間の鉄道ルートの変遷
 

一方、鉄道開通以前の長崎街道は、この間をできるだけ短距離で結んでいた。おおむね今の国道34号に相当するが、問題は、佐賀・長崎の県境にある標高190mの俵坂峠だ。峠の西斜面は高度差が大きく、鉄道を通すなら急勾配の長い坂道が必要になっただろう。新幹線はこの峠をトンネルで貫くことで、既存の鉄道では成しえなかった直線的なルートを実現しているのだ(下注)。

*注 なお諫早~長崎間の在来線も、旧線である長与(ながよ)経由、新線の市布(いちぬの)経由の2ルートがある。

話を武雄温泉駅に戻そう。リレー号と「かもめ」はわずか3分の接続なので、せいぜい記念写真を撮る程度の時間しかない。それで駅の詳細は、後で再訪して観察した。まずプラットホームだが、新幹線は対面式で、今乗換えた11番線から複線の線路を隔てて12番線のホームがある。新幹線全通時にはこれが下りホームになるわけだが、今のところ客扱いはしていない。

一方、在来線は10数年前から同じレベルの高架ホームが供用されていて、こちらは片面と島式の2面構成だ。北側の片面ホーム(1番線)が上り博多方面、島式の片側(2番線)が下り佐世保方面になる。島式のもう片側はリレー号が入る線路に面しているが、柵があって乗降はできない。リレー号には新幹線側のホーム、すなわち新幹線改札からしかアクセスできないようにしてあるのだ。

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武雄温泉駅配線図(2022年9月現在)
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武雄温泉駅
(左)リレー号が発着する10番線
(右)新幹線12番線は閉鎖中
 

そのため、この駅から在来線の特急列車に乗ろうとする客には、在来線と新幹線、どちらの改札を通るべきかという悩ましい問題がつきまとう。リレー号だけではない。博多~佐世保間の特急「みどり」などはふつう1・2番線に入るが、リレー役を担う便も一部ある(下注)。その場合10番線を使うので、佐世保方面へ行く客であっても、新幹線の改札から入る必要があるのだ。

*注 特急名称が「みどり(リレーかもめ)」「ハウステンボス(リレーかもめ)」になっている便。10番線を使う場合、在来線改札口の電光掲示板には、番線の欄に「新幹線→」と表示される。

在来線改札では、特急券を提示した客に係員が「この列車は新幹線改札の方から」と説明しているのを見かけた。地元の人はそのうち慣れるだろうが、一度きりの観光客にはずっとこの対応が続くことになる。

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(左)在来線ホーム、リレー号が入る側には柵が
(右)在来線改札口
 

駅は傾斜地に位置しているらしく、新幹線側から見ると、在来線コンコースは1段上だ。この間をエスカレーターとエレベーターが結んでいる。出口は、北が楼門口、南は御船山(みふねやま)口という名がつく(下注)。土地鑑のない者にはかっこ書きで添えられた北口、南口のほうがわかりやすいが、これも観光開発の一環なのだろうか。

*注 楼門も御船山も、武雄の観光名所。他の駅も同じように出口に個別地名などを用いている。

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御船山口(南口)ファサード
 

さて、「かもめ」5号は定刻に武雄温泉を出発した。進行方向右側の窓から、在来線の架線柱が遠ざかっていくのが見える。と思ううちにトンネルに入り、その後も断続的にトンネルの闇が来た。

次の嬉野温泉までは10.9kmと駅間が最も短く、所要わずか6分だ。そのうえ、到着の3分前には「まもなく嬉野温泉です。お出口は左側です」と、案内アナウンスが始まる。往路は各駅を訪ねるつもりなので、席に落ち着く間もない。

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嬉野温泉駅
(左)名産の茶畑を背に駅へ進入
(右)下りホーム
 

嬉野温泉は、既存の鉄道がなかった町(下注)にできた新駅だ。停車するのは2本に1本程度で、日中は次の列車まで2時間空いてしまう。それで本数が多い朝のうちに来ておく必要があった。

*注 歴史を遡れば、祐徳(ゆうとく)軌道と肥前電気鉄道で武雄や肥前鹿島と結ばれていた時代があるが、1931(昭和6)年という早い時期に廃止されている。

町は、武雄と並ぶ佐賀県西部の温泉地として知られている。駅が設けられたのは市街地の東のはずれだが、周辺には道の駅や基幹病院が建って、都市開発が進行中だ。しかし、この時間に改札を出てくる人はほとんどなく、構内は静まり返っている。駅前の停留所にJRの路線バスがやってきたが、乗降がないまま出ていった。

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(左)塩田川口(東口)
(右)改札口
 

次の「かもめ」を待ち、自由席の客となる。近年開業した新幹線はどこもそうだが、高い防音壁のために車窓の視界は遮られがちだ。だが嬉野温泉を出ると、防音壁の一部が透明になっている個所があり、温泉街の一角を目にすることができた。

しかしそれもつかの間、すぐにトンネルだ。県境の俵坂峠の下に掘られた俵坂トンネルで、5705mと路線第2の長さがある。続くいくつかのトンネルの間では一瞬海が見えるが、やがて平地に出て、大村湾の景色が開け始めた。

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車窓に大村湾の景色が
 

新大村駅は大村市の中心街の北方、空港通りと交差する地点に設けられた。並走する大村線にも新駅が開設され、乗換えが可能になっている。空港通りは、長崎自動車道の大村インターと大村湾に浮かぶ長崎空港を結ぶ大通りなので、これで高速道路、新幹線、空港が一つの軸に揃ったことになる。

駅の玄関が東側(山側)にだけ向いているのは、意外だった。用地の関係かもしれないが、人家の多い西側へは地下道を通る必要がある。大村線の駅は、新幹線駅舎にひさしを借りた形の無人駅で、ホーム上に券売機とICカードの簡易改札機が並んでいた。これも線路の東側なので、直接西側には行けない。

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新大村駅
(左)さざなみ口(西口)広場、駅舎手前に大村線が走る
(右)駅名標と開業ポスター
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(左)在来線は無人駅
(右)松原駅
 

ここでいったん駅の巡歴を中断し、大村線の上り列車に乗り換えて、松原駅に向かう。目的は、駅から山手を1km強上ったところにある新幹線のお立ち台だ。

新大村駅を後にした上り「かもめ」が最初のトンネルに入ろうとする場所で、防音壁に遮られることなく車両の足回りまで見える(冒頭写真参照)。背景は大村湾に臨むパノラマなので、舞台装置も申し分ない。通りがかった地元の人の話では、試運転のころは見物人がずらっと並んだそうで、自販機を置いたら飲み物がよく売れたという。

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お立ち台から大村市街地と湾奥の眺め
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中央後方に小さくYC1系シーサイドライナーの姿も
 

松原駅に戻り、大村線でそのまま諫早(いさはや)へ。諫早駅の前後では、新幹線の線路が珍しく地平を走っている。そのため、新幹線から降り立っても、長いエスカレーターで出口へ「上って」いくことになる。階上の広い自由通路には、新幹線と在来線の真新しい改札口が並んでいた。以前来たときは地上駅舎だったが、ガラス張りの立派な駅ビルに建て替わり、昔の面影は全くなくなっている。

諫早は、長崎本線と大村線、島原鉄道が接続する鉄道の要衝だ。新幹線開業で在来線から特急の姿が消えたとはいえ、長崎方面へは通勤通学需要が高く、朝夕は毎時4~5本、日中でも毎時3本(いずれも長与経由を含む)の列車が走っている。島原鉄道の駅もビルの一角だが、こちらはエスカレーターを降りた地平(地上階からは少し上がる)にあった。

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諫早駅
(左)東口ファサード
(右)上りホーム、エスカレーターは階上へ上っていく
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(左)階上の自由通路
(右)「かもめ」マークのデコレーション
 

さて諫早を出ると、「かもめ」号は在来線上り線に沿って、急カーブで市街地のトンネルを抜ける。それからおもむろに速度を上げて長崎へ向かう。この区間もほとんどがトンネルだ。最後に通過する7460mの新長崎トンネルが、路線最長になる。

この中で減速が始まり、闇を抜けたときには、列車はもう徐行に移っている。トンネルの出口から駅のホーム端まで500mほどしかなく、心の準備もあらばこそ、いきなり車窓に長崎駅が現れる。

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長崎駅
(左)朝日を浴びて「かもめ」到着
(右)折返し上り列車に
 

新幹線駅は2面4線で、発着本数からすれば余裕を持たせた構内だ。西隣の一段低い位置には、在来線のホームが並行している。どちらも高架上で視点が高く、車止めの先に素通しで港の風景が見渡せるので、明るく開放的な雰囲気がある。新幹線駅の先端の柵に「日本最西端の新幹線駅」と記された銘板を見つけた(下注)。このタイトルが破られることはまずないはずだ。

*注 これまでタイトルを保持していたのは、九州新幹線の川内駅だった。

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車止めの先は港の風景が素通しで
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日本最西端の新幹線駅の銘板
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(左)新幹線改札口
(右)指定券券売機
 

ひととおり記念写真を撮った後、エスカレーターで出口へ向かった。線路がすべて高架化されたので、駅の地上部には広く平らな自由通路が設けられている。しかし、整っていたのは構内だけで、駅前はまだ工事の真っ最中だった。

駅は元の位置から150mほど西へ移転したので、電車通りである国道202号(新浦上街道)との間に広い空間が生まれた。しかし、市内電車(長崎電気軌道)や路線バスの乗り場は移っていないため、市内に出ようとすれば、仮設通路を延々と歩いていく必要がある。新幹線効果で、今まさに旅好きの人々の関心が長崎に向いているはずだが、整備事業が完成するのは3年後の2025年だそうだ。

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駅前は整備工事中
仮囲いの外側を延々歩かされる

駅前整備は到達目標があるのでまだしも、西九州新幹線の将来の見通しはまったく立っていない。知られているとおり、この路線は今を遡る50年前、1973年に計画決定された5本の整備新幹線の一部だ。その後、武雄温泉~長崎間はフル規格(標準軌の新幹線方式)で建設するものの、残る新鳥栖~武雄温泉間は線形の良好な狭軌在来線を活用して、軌間可変のいわゆるフリーゲージトレインを走らせる計画が立てられた。

しかし、新幹線と在来線の両方で十分なパフォーマンスを発揮できる車両というのは、開発のハードルが高かった。さらに、実用化されても高コストになることが問題視されて、結局、今回の導入は見送られてしまう。JR九州や長崎県は全線のフル規格化による開業を希望しているが、通過する佐賀県が、費用の負担増に見合うメリットが少ないとして、まだ複数の整備方式やルートを比較検討している段階だ。

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開業前の座席模型展示(2022年6月、長崎駅で撮影)
 

話がうまくまとまったとしても、その段階で改めてさまざまな準備作業が開始される。また、仮に在来線を生かす方式なら、1時間に片道2~3本(下注)の特急列車が行き交う特急街道を維持しながらの工事になる。それを考えると、先は長い。おそらく九州新幹線の時とは違って、「かもめ」号が西九州で孤軍奮闘する時代がかなりの期間続くことになるのだろう。

*注 従来、「かもめ」と「みどり(・ハウステンボス)」の毎時2本体制だったが、西九州新幹線開業後はそこに肥前鹿島方面の「かささぎ」が加わり、時間帯によっては3本体制になっている。

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2022年12月 3日 (土)

ライトレールの風景-叡電 鞍馬線

叡山(えいざん)電鉄、略して叡電の鞍馬(くらま)線は、叡山本線の宝ヶ池(たからがいけ)で分岐して、洛北の観光地、貴船(きぶね)や鞍馬へのアクセスを提供している8.8kmの電化路線だ。

叡山本線が開通した3年後の1928(昭和3)年から翌年にかけて、鞍馬電気鉄道により段階的に開業した。1942(昭和17)年に京福電気鉄道との合併で鞍馬線となり、1986(昭和61)年からは、分社化で設立された叡山電鉄が運行している(下注)。

*注 本稿では、過去の記述を含めて叡電鞍馬線と記す。

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もみじのトンネルを抜ける
市原~二ノ瀬間
掲載写真は2019年4月~2022年11月の間に撮影
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叡電路線図
 

建設の経緯から見れば支線なのだが、電車は叡山本線と同じようにターミナルの出町柳駅が起点だ。しかも、叡山本線が単行(1両)なのに対し、鞍馬線には主に2両固定編成が投じられる(下注)。沿線に住宅地が広がり、高校や大学もあって、通勤通学での利用者がけっこう多いからだ。

*注 市原駅での折返し便など、700系単行で運行されるものも一部ある。

ついでに言えば、市販の時刻表の索引地図では鞍馬方面が道なりで、八瀬(やせ)方面はむしろ枝分かれするかのように描かれる。つまり、本線以上に本線の風格を備えた路線、というのが鞍馬線の実態だ。

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出町柳駅の鞍馬線ホーム
 

車両群の主力を担っているのは、2両固定編成の800系と呼ばれるグループだ。1990年代前半に次々に導入されて、創業以来の古参車だったデナ21形を置き換えた。車体の塗装はクリーム地に2色のストライプとシンプルだが、ストライプのうち上部の1色は、編成によって緑、ピンク、黄緑、紫と変わる。

また、815・816号の編成は「ギャラリートレイン・こもれび」と称し、車体全体に四季の森とそこに暮らす動物たちが描かれている。ただ、絵柄が細か過ぎるからか、遠目にはにぎやかな落書きのように見えてしまうのが惜しいが。

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800系
(左)クリーム地にストライプの標準塗装車
(右)「ギャラリートレイン・こもれび」
 

800系に次いで、1997~98年に新造で投入されたのが900系「きらら」だ。2編成あり、塗装は当初、901・902号が紅色(メープルレッド)、903・904号が橙色(メープルオレンジ)だった。後に紅色編成が、青もみじをイメージした黄緑に塗り直され、現在はこの2色で走っている(下注)。

*注 車体の下部は各編成共通で、金の細帯と白塗装。

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橙と黄緑の900系「きらら」
 

沿線風景を広角で鑑賞できるように、内装は側天井や扉下部もガラス張りだ。また、座席は、鞍馬に向かって先頭車両が左側1人掛け、右側2人掛け、後部車両はその逆で、いずれも中央部の2人掛け席は伊豆急のリゾート21のように窓を向いている。伊豆の海の代わりに、比叡山や鞍馬川の谷間が眺められる。

登場から早や25年が経過したとはいえ、「きらら」はいまだに叡電の看板電車だ。森が赤や黄色に染まる季節はとりわけ人気が高く、800系より明らかに混雑している。運行時刻は公式サイトに掲載されるが、ロングシートの800系に比べて座席定員が少ないこともあり、この時期に座れたら幸運と思わなければいけない。

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「きらら」の内装
(左)広窓のパノラマ仕様
(右)中央の2人掛けは窓を向いて固定
 

電車はすべて各駅停車で、朝と夕方以降にある市原駅折返し(下注)や入出庫便を除いて、出町柳~鞍馬間の全線を往復している。日中15分ごとの運行だが、紅葉シーズンの休日は特別ダイヤで、13分間隔まで詰まる。山間部は単線のため、叡山本線のようなピストン輸送はしたくてもできないのだ。ふだんはワンマン運転で、最前部の扉から降車するが、このときばかりは乗員も2人体制になり、すべての扉を開放して、混雑をさばいている。

*注 市原駅折返し便は、主に通勤通学需要に対応している。

出町柳から宝ヶ池までの各駅のようすについては、前回の叡山本線を参照していただくとして、今回はその分岐点から話を進めよう。

宝ヶ池駅に着く直前、鞍馬線は複線のまま、平行移動のように左へ分かれていき、3・4番線に収まる。ホームの案内や駅名標に使われている色は、各路線のシンボルカラーだ。叡山本線は山の緑、鞍馬線はモミジの赤だが、後者は鞍馬方面への電車が来る4番線にだけ見られる。

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左に平行移動して宝ヶ池駅へ
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案内表示はシンボルカラーで色分け
 

駅を出て右にそれていく叡山本線に対して、鞍馬線は北へ直進し、高野川橋梁を渡る。橋は、大原から若狭湾岸へ抜ける国道367号(若狭街道)もいっしょにまたいでいて、右の車窓から比叡山がひときわ大きく見えるビューポイントだ。ちなみにここは叡電の撮影地の一つでもあり、西側にある府道の花園橋から、比叡山を背にして、電車と鉄橋が川面に映る構図が得られる。なにぶん市街地化で電線や建物が増えて、興趣がそがれつつあるが。

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比叡山を背に高野川橋梁を渡る
 

少し行くと一つ目の駅、八幡前(はちまんまえ)がある。叡山本線で言及した三宅八幡宮へは、ここで降りるのが近い。朱色に塗られたホーム柵が、最寄り駅であることをさりげなく告げている。

この後、鞍馬線は岩倉盆地の縁に沿うようにして、西へ向きを変えていく。このような経路を取るのは、山際に位置する八幡宮や、かつての岩倉村(現 左京区岩倉)の中心部に近づけるためだろう。盆地の南部は土地が低く、高野川に出口を押さえられた岩倉川が氾濫しがちで、昔は一面、沼田だった。宅地化が進むのは、河川改修と土地区画整理が終了した1970年代以降のことだ。

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八幡前駅、700系が多客時の助っ人に
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岩倉盆地の変遷
(上)1931(昭和6)年図 鞍馬線は田園地帯のへりを行く
(下)2022年図(地理院地図) 盆地全体が市街地化
 

左カーブの先に、岩倉(いわくら)駅が見えてくる。実相院や岩倉具視(いわくらともみ)の旧宅は、旧村の中を北へ1km、また、かつて叡電経営の脅威となった地下鉄の終点、国際会館駅へは南へ約1kmだ。複線区間はまだ続いているが、長らく岩倉以遠は単線で(下注)、複線に戻されたのは1991(平成3)年、鴨東線の開業による利用者の増加で増発が必要になってからだ。

*注 開業時は市原まで複線だったが、1939~44年にかけて鞍馬線全線が単線化、1958年に岩倉まで再複線化、1991年に二軒茶屋まで再複線化。

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岩倉駅
 

次の木野(きの)駅周辺でも土地区画整理は完了し、住宅が建ち並ぶが、田畑もまだいくらか残っている。ここを通ると、すぐ南にあって乱開発の象徴と言われた一条山、通称モヒカン山が思い浮かぶ。長い間、モヒカン刈りのような無残な姿を晒していたが、斜面が緑化され、残りはすっかり住宅地に変貌している。今では電車から眺めても気づかないくらいだ。

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木野駅
 

京都精華大前(きょうとせいかだいまえ)駅は、1989年に開設された叡電で最も新しい駅だ。上下ホームの連絡通路を兼ねた、キャンパス直結の跨線橋が頭上に架かる。芸術系の大学らしい凝った形状をしているが、銘板によると名称はパラディオ橋で、イタリアの建築家アンドレア・パラーディオが残したトラス橋の原型を再現したものだそうだ。

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京都精華大前駅とパラディオ橋
 

谷が狭まってきたところで、二軒茶屋(にけんちゃや)駅に停車する。岩倉盆地の西の端だが、宅地化の波はこのあたりまで及んできている。それとともに、駅前から京都産業大の通学バスが出ているので、朝夕を中心に学生の乗降がかなりある。

複線区間はここまでだ。下り線は、駅の西側で引上げ線になって途切れている。昔の複線用地が右側に残る(下注)のを横目に見て、電車は河川争奪の痕跡である市原の分水界を乗り越えていく。初めて50‰の勾配標が現れるのもこの上り坂だ。

*注 架線柱とビームも複線用地にまたがっている。

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二軒茶屋駅を後にして単線区間へ
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(左)幅広の架線柱は複線時代の名残
(右)市原の分水界
 

市原(いちはら)は鴨川の支流、鞍馬川の谷間に開けている。駅があるのは、旧集落の山手で、棒線駅にもかかわらず、ここで折返す電車のために、出発信号機が立っている。開業時は複線区間の終端だったので、ホームのすぐ先で鞍馬川を渡る市原橋梁に、複線分の橋脚が見える。当時の渡り線は、川向うにあったらしい。

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(左)出発信号機のある市原駅
(右)市原橋梁の橋脚は複線仕様
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市原橋梁を渡る上り電車
 

ここからはいよいよ山岳路線だ。電車は、鞍馬川の深い渓谷に吸い込まれていく。次の二ノ瀬駅との間にある約400mの区間は、線路の両側にカエデの木が育ち、晩秋にはみごとなもみじのトンネルを作る。パノラマビューの「きらら」にとって、最大の見せ場だ。「きらら」に限らず、ここを通過する電車は徐行運転され、鮮やかな錦秋の景色を愛でる時間を与えてくれる。車内では運転席の後ろが、スマホやカメラを構えた人たちでいっぱいになる。

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(左)もみじのトンネルを行く
(右)運転席の後ろは人だかり
 

もみじのトンネルを抜けると、鞍馬川を渡る二ノ瀬橋梁がある。下り電車は、二ノ瀬駅の場内信号確認のため、この橋の手前で一旦停止する。橋の下に目を落とすと、道路脇で列車の通過を待ち構えていた撮り鉄たちの姿があるかもしれない。紅葉区間や鉄橋のたもとには立ち入れないため、撮影スポットは事実上ここに限定されている。

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二ノ瀬橋梁下の道路からの眺め
 

二ノ瀬駅があるのは、谷間の集落を見下ろす山腹だ。単線区間で唯一、交換設備を有する駅で、上下列車が行き違う。ダイヤ通りなら、上り出町柳行が先着して、鞍馬行の到着を待っている。なかば信号場のようなものなので、降りるのはハイカーか、近くの白龍園という日本庭園の特別公開に行く客だ。

上りホームにはログハウス風の待合所が建ち、その傍らに、クワガタムシの顎を模したという2対の庭石が置いてある。行き違いを終えた電車が北山杉の森陰に消えると、再び駅に静けさが戻り、鳥のさえずりが聞こえてくる。

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二ノ瀬駅で列車交換
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二ノ瀬駅
(左)ログハウスの待合所
(右)駅に通じるのは階段の徒歩道だけ
 

線路はこの後、50‰の急勾配と急曲線で、谷の西側の山裾をくねくねと上っていく。2020年の夏から1年2か月もの長い運休の原因となった土砂崩れ区間を静かに通過する。

貴船口(きぶねぐち)は、京の奥座敷と呼ばれる貴船への下車駅だ。夏場は納涼の川床料理が名物だが、貴船神社など紅葉も美しく、シーズンにはここで車内の乗客が半減する。築堤下にあった古い木造の駅舎は2020年の全面改築で、階段が広げられ、エレベーターもついた。なお、貴船の中心部へは谷を遡ること約2km、歩けば30分近くかかる。駅前から路線バスに乗るほうがいいだろう。

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貴船口駅
(左)もみじに包まれたホーム
(右)改築された駅舎
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「渡らずの橋」を渡る
 

貴船口を出発した電車は、カーブした鉄橋を渡るが、これは、蛇行する鞍馬川を串刺しにしている「渡らずの橋」だ(下注)。その後、50‰勾配で上りつつ、叡電唯一の(本物の)トンネルを抜ける。さらに2回鉄橋を渡ったところで、山腹の坂道の前方に場内信号機が見えてくる。車内に「くらま、くらま、終点です」とアナウンスが響き、出町柳駅から31分で、電車は鞍馬駅の櫛形ホームに滑り込む。

*注 名称は第一鞍馬川橋梁と第二鞍馬川橋梁だが、実態は連続している。

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鞍馬駅、構内は1面2線
 

鞍馬駅は1面2線の構造だ。余裕のあるホーム幅を生かし、繁忙期には乗車降車の動線を分けて客をさばいている。駅舎は、重層の入母屋屋根に対の飾り破風をつけた寺社風の造りで、内部には、格子天井から和風のシャンデリアが下がる広い待合室がある。欄間に赤い天狗の面がいくつも掛かり、対面に火祭りに使う松明が吊ってあるのも、ご当地ならではだ。

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入母屋屋根の鞍馬駅舎
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待合室には当地ゆかりのオブジェも
 

鞍馬天狗の面は、駅前広場にさらに大きなモニュメントがある。先代のものは雪の重みで長い鼻が折れたため、一時は傷跡に絆創膏が貼られ、話題を呼んだ。2019年に設置された2代目は、彫りが深く、眉や口髭が強調されて、より芸術的な顔つきになった。また、天狗の奥で目立たないが、1995年に廃車となったデナ21形21号車の前頭部と車輪も保存されている。この形式では唯一残る貴重なものだ。

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(左)駅前広場の鞍馬天狗
(右)デナ21形の前頭部と車輪
 

最寄り駅から境内までかなり歩かされる神社仏閣もあるなか、鞍馬寺の場合は、駅前から石段下まで200mもない。町並みはまだ上流へ延びているものの、土産物屋が並ぶ門前町はあっけなく終わってしまう。しかし鞍馬寺の参道は、仁王門をくぐってからが長く、しかも険しい坂道だ。それで、足許の不安な参拝者のために、小さなケーブルカー、鞍馬山鋼索鉄道が運行されてきた。

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鞍馬寺、正面は仁王門
 

乗り場は仁王門のすぐ上にある。鉄道事業法に基づくものとしては日本一短く(山門~多宝塔間191m)、お寺(宗教法人鞍馬寺)が運営し、運賃ではなく寄付金(一口200円、下注)を納めた人だけが乗れる、という何重にも珍しい路線として、鉄道愛好家にはよく知られている。

*注 鞍馬寺の境内に入る際、愛山費(拝観料)300円が別途必要。

寄付金としているのは、税法上の収益事業とみなされないための措置で、券売機でチケットを買うことに変わりはない。とはいえ実際、営利目的の運行ではなく、利用者の集中を避ける意味もあるのだろう。「おすすめ」として「健康のためにも、できるだけお歩き下さい」と書かれた案内板が、乗り場の手前に立っている。

往路は乗り鉄するとしても、復路は杉木立の参道を歩いて降りながら、霊気漂う境内の雰囲気にじっくりと浸りたいものだ。

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鞍馬山鋼索鉄道
(左)杉木立を上る
(右)多宝塔駅(上部駅)と車両
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1「京都東北部」(昭和6年部分修正測図)および地理院地図(2022年12月2日取得)を使用したものである。

■参考サイト
叡山電車 https://eizandensha.co.jp/

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