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2022年6月 2日 (木)

コンターサークル地図の旅-三角西港と長部田海床路

2022年のコンターサークル-s 春の旅は九州の熊本で始まった。初日の行先は宇土(うと)半島で、明治時代に築かれ、今も当時の姿をとどめる三角西港(みすみにしこう)と、有明海の遠浅の海岸に突き出した長部田海床路(ながべたかいしょうろ)を訪れる。

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三角西港の石積埠頭
 

その日、4月23日は朝から雨模様だった。しかし風はほとんどなく、春らしい静かな降り方だ。遠方からの移動を考慮して、集合時刻は午後に設定されている。私は新幹線で熊本入りし、三角線に直通する2両編成の気動車に乗り継いだ。宇土で大出さんと合流、参加者はこの2名だ。

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宇土半島の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年編集図)
 

列車は、半島北側の有明海沿いを滑るように走っていく。後で行く海床路が車窓から見えた。網田(おうだ)からは徐々に高度を上げ、トンネルで南側斜面に移る。終点の三角駅には13時26分に到着。駅舎は、特急「A列車で行こう」の登場に合わせてレトロモダンに改装されていた。待合ホールは天井も高く、どこかの公会堂と見まがうほどだ。

道路を隔てて向かいに、地味な造りの産交バスターミナルがある。天草さんぱーる行の小型バスで西港の停留所まで、5分もかからない。

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改装された三角駅舎
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(左)普通列車で到着
(右)天井の高い待合ホール
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(左)駅前の三角産交ターミナル
(右)小型バスが西港を経由する
 

三角西港は、1887(明治20)年に開かれた旧港だ。宇土半島の突端に位置し、天草の大矢野島との間の、三角ノ瀬戸と呼ばれる海峡に面している。お雇い外国人のオランダ人技師A・ローウェンホルスト・ムルドル A. Rouwenhorst Mulder が設計し、全長756mの石積み岸壁の内側に港湾施設や市街地が整備された。

しかし開港後しばらくすると、強風や荒波による事故の多発や、煩雑な輸出手続きなど、難点がしだいに顕在化していく。また、背後に山が迫り土地の拡張が難しいことから、1899(明治32)年に九州鉄道(現 JR三角線)が通じていた東港(際崎港)への機能移転も進んだ。

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三角西港旧景
(旧三角簡易裁判所の説明パネルを撮影)
 

こうして明治の後期以降、西港は徐々に衰退したが、港の輪郭は改築や転用で失われることなく、原形のまま残された。時は下って1980年代以降、史跡として再評価された一帯では、施設の整備や復元が行われて、今見るような姿になった。2015年には、ユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも挙げられている。

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現在の旧港の景観
保存建物群が奥に見える
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三角港周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

バスから降り立った旧港は、海峡の前に開かれた景観公園だった。まず見るべきは、天草の石工を動員して施工したという切石積みの護岸や水路、橋梁だ。大小長短の石材を使い分け、精巧に組まれた壁面は、城を護る石垣を思わせる。角に施した丸みや斜面のそり具合に、石工たちの熟練の技が見て取れる。

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重文指定の石積埠頭
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(左)一直線の中央排水路
(右)カーブが美しい後方水路
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三之橋
(左)橋桁にも意匠が
(右)橋の名を刻んだ親柱
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(左)アコウの老樹はシンボル的存在
(右)大木が影をなす岸辺
 

一帯には、旧観を保存または復元した建物も数棟建っている。「あそこへ行ってみましょう」と向かったのは、最も目立つ2層建ての洋館、浦島屋だ。案内標によれば、「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が長崎からの帰途立ち寄り、『夏の日の夢』と題する紀行文の舞台とした旅館である。明治38(1905)年に解体され大連に運ばれたが、平成4(1992)年度、設計図をもとに復元された」(西暦を付記)。

内部は無料開放されている。調度品も少なくがらんとしているが、2階のバルコニーに出ると、地上とは違う高い視点から海峡の眺めを楽しめた。ちょうど仮面舞踏会のような扮装をした女性モデルの撮影が行われていたが、光景に何の違和感もない。

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浦島屋
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(左)内部はがらんとしている
(右)バルコニーからの眺め
 

海岸寄りにある白壁の旧海運倉庫は、開港時からの建物だ。当時、埠頭に沿って並んでいた倉庫群の生き残りだそうで、今はレストランに活用されている。食事をする予定はなかったが、お店の人に断って少し見学させてもらった。内部は木骨構造で、吹き抜け天井の広い空間が店を大きく見せている。テラスは海側に開いた特等席で、晴れていたらさぞ爽快な景色だろう。

ほかにも、資料館になっている龍驤館(りゅうじょうかん)、和式家屋の旧高田回漕店、ムルドルハウスという洋館の売店などがあり、博覧会のパビリオンを巡っている気分になった。

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旧海運倉庫はレストランに
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(左)吹き抜け天井の広い内部
(右)テラスは海側に開いた特等席
 

一方、山の手は司法・行政のエリアだ。国道を横断して石段を上ると、右手に旧宇土郡役所が保存されている。本館は正面の外観がみごとだ。玄関車寄せの屋根を支える柱やドーマー(明かり窓)に見られるライトブルーのしゃれた装飾は、ここがお堅い役所だったことを忘れさせる。現在は船員の養成学校、海技学院の校舎として使われているが、本館内部は見学可能だ。

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旧宇土郡役所
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(左)車寄せの屋根を支える装飾柱
(右)本館会議室
 

左手には、旧三角簡易裁判所の木造建物群がある。こちらは昔の小学校のような伝統建築で、内部には西港についての説明パネルなども置かれている。「簡易裁判所は、英語でサマリー・コート summary court なんですねー」と、私は妙なところに感心していたのだが。

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旧三角簡易裁判所
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(左)平屋建ての本館玄関
(右)法廷
 

旧港の景観なら門司港が有名だし、木造洋館を見たければ長崎の山手地区がある。しかしここは人工的な要素に加えて、周囲の地形もおもしろい。海峡は狭く、指呼の間に連なる山はどれもおにぎり形で、海からそそり立っている。左奥には、本土と天草を結ぶ2本の国道橋(下注)が見え、風景にアクセントを添える。私がしきりに写真を撮っているので、「ここ気に入ったみたいですね」と大出さん。

*注 写真では1本の橋のように見えるが、アーチの天城橋(てんじょうきょう)の後ろにトラスの天門橋(てんもんきょう)がある。

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海峡をまたぐ2本の国道橋が見える
 

地形の把握には、高所からの展望が欠かせない。裁判所の裏手から山道をたどると展望所があると聞いていたので、小雨そぼ降る中、上ってみた。しかし、古い展望台からは、成長した樹木の陰になって公園の大半が隠れてしまう。少し下に、より新しい展望デッキがあるのだが、木部腐食のため立入禁止になっていた。

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展望台からのパノラマ
西港の主要建物は左端の木の陰に
 

■参考サイト
宇城市-三角西港 https://www.city.uki.kumamoto.jp/nishiko/

バス停に戻り、次の目的地へ移動すべく、熊本と天草の間を走る路線バス、快速「あまくさ号」を待った。「長部田海床路(ながべたかいしょうろ)」は遠浅の有明海を代表する景観の一つで、宇土半島の付け根、宇土市住吉町にある。

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(左)三角西港バス停の待合所
(右)快速「あまくさ号」
 

バスは、国道57号線で半島の北岸を走っていく。初めは山が海に迫る崖ぎわの道だが、網田のあたりから波が遠のき、磯浜が広がり始めた。「あまくさ号」は最寄りの長部田には停まらないので、住吉駅前で降りた。長部田へは1.5km、徒歩で20分ほど戻る形になる。

クルマに水をはねかけられそうな国道の狭い歩道を避けて、集落の中の道をたどった。このエリアの地形図は1:25,000の精度のままで、細かい道は描かれていない。グーグルマップを頼りに歩いたが、長部田の踏切までちゃんと小道が続いていた。

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(左)線路沿いの小道を伝って長部田へ
(右)三角線の列車を見送る
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長部田周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

海床路というのは、干満差が大きい海でノリの養殖などを行うために、岸から沖へ延ばされた作業用道路のことだ。長部田のそれは1979年に造られ、長さが約1kmある。日没後も利用されるので、街灯が設置されている。潮が満ちてくると道路は水没し、電柱と街灯の列だけが海原の上に取り残される。この幻想的な光景が評判になり、今や人気の観光スポットになっている。

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雨の長部田海床路
 

本日の満潮は12時51分、干潮は19時57分だ。訪れたのは16時前後で、海床路はもうかなり沖まで路面が露出していた。「けっこう潮が引いてますね」「行きの列車から見た景色とはだいぶ違うなあ」。このあたりの干満差は最大5mもあるといい、遠浅の地形とあいまって、潮の満ち引きの速さは想像以上だ。今は干潮に向かう時間帯で、風も弱いので、道路が水に浸る地点まで歩いていった。

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(左)電柱を這い上るフジツボ
(右)緑のノリで覆われた路面
 

土台が露わになった電柱には、2m近い高さまでフジツボがぎっしり貼りついている。潮位が高くなると、そこまで水没するということだ。沖へ行くにしたがって、濡れた路面は緑のノリで覆われ、ぬるぬるしてきた。電柱は全部で24本あるそうだが、たどり着けたのはざっとその2/3までだ。そこから先は、にび色の海の中に残りの電柱と、ブラシのような海苔の支柱が、列になって浮かんでいる。日没の時刻にはまだ早いが、あたりは薄暗く、電灯にももう明かりが灯る。

最後まで雨に降られた旅だったが、茫漠とした寂寥感が漂うこの情景も悪くなかった。住吉駅までまた同じ道を戻り、熊本行の列車に乗り込んだ。

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海に浮かぶ電柱の列
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図熊本(昭和52年編集)、八代(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月1日取得)を使用したものである。

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