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2022年6月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-裏磐梯の火山地形

今から134年前の1888(明治21)年、磐梯山が水蒸気爆発を起こした。「黒煙柱は約1500mの高さまで立ち昇り、1分ほどの間に15回~20回も爆発が繰り返されました。(中略)その後も30分~40分間、小破裂は巨砲が連発するように続きました。噴煙はキノコ型に拡がり、高さ約5000mに達しました」(磐梯山噴火記念館の展示パネルより)

この噴火で、今の磐梯山の北側にあった小磐梯が崩壊し、総量約20億トンと言われる岩屑なだれが発生した。山体は大きくえぐれてカルデラをなすとともに、北と東で麓の谷が埋まり、周辺の風景を一変させた…。2022年春のコンター旅、会津での2日目は、このとき生じた湖沼や流れ山など、山体崩壊で生じた裏磐梯の特徴的な火山地形を見に行く。

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五色沼の一つ、弁天沼
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図1 磐梯山周辺の1:200,000地勢図
(左)1988(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集

5月22日、会津若松駅から朝早い磐越西線郡山行の電車に乗った。本日の参加者は大出さんと私。昨日に続いて空はどんよりとして、磐梯山も頂きは雲に隠れている。電車は次の広田駅を出ると、磐梯山の南麓に広がる高原地帯へ上っていく。

人影少ない猪苗代駅前で、裏磐梯高原駅行きの路線バスに乗り込んだ。磐梯山周辺は会津バスが撤退し、現在は磐梯東都バスが運行している。乗客は私たちを含めて5人。初夏の休日とはいえ、雨の予報が出ているから、わざわざ山へ出かける人は少ないだろう。

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(左)朝の猪苗代駅
(右)駅前から裏磐梯高原駅行きのバスに乗る
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

裏磐梯の一帯には、湖沼を巡る遊歩道がいくつかある。まずは、観光ルートとしておなじみの五色沼自然探勝路を歩くつもりだ。東の入口から西の桧原湖畔まで長さ3.6km。バスを降りると、ビジターセンターが目の前にあったのでルートマップでもと思ったが、まだ開館前だった。

五色沼というのは、磐梯山北麓に点在する大小30余の湖沼群の総称だ。噴火の際に斜面を流れ下った岩屑が扇状に広がり、大小の丘、いわゆる流れ山を生じた。上掲の陰影付き地形図では、一帯の土地に細かい凹凸が見て取れるが、これらはすべて流れ山だ。湖沼群は、その間の窪地に雨水や地下水が溜まってできた。

「これらの沼の多くは、磐梯山の火口付近にある銅沼(あかぬま)に端を発する地下水を水源としております。硫化水素が多量に溶け込んだ水により、水質が酸性の沼もいくつかあります。また、桧原湖からの水や磐梯山の深層地下水などが混入している湖沼もあり、沼ごとに異なる多様な水質となっています」(磐梯山ジオパーク協議会による現地案内板より)。

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五色沼の案内板
 

探勝路へ歩を進めると、まず見えてくるのが、五色沼の中で最も大きな毘沙門沼(びしゃもんぬま)だ。湖面の色は青緑、ターコイズブルーというところで、今日のような天気でも十分美しいが、見る角度によって鮮やかさには微妙な違いがある。高みから見下ろした方が明るく、ブルーの色合いが引き立つようだ。

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毘沙門沼
 

レストハウス前の広場でメインルートからいったんはずれ、周遊歩道「磐鏡園プロムナード」へ足を向けた。小川の木橋を渡り、ウッドチップを敷いた小道をたどっていくと、小高い丘の上に磐梯山と吾妻連峰、2か所の展望台がある。山並みは雲の中だが、東のほうに秋元湖が遠望できた。今回はそちらには行かないので、少し得した気分だ。

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(左)磐鏡園プロムナード
(右)威嚇?それとも歓迎?
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吾妻連峰展望台から秋元湖を遠望
 

もとに戻り、毘沙門沼の北岸に沿って歩く。沼は複雑な形状をしていて、角を回るたびにその表情を変える。探勝路には少なからずアップダウンがあるが、足元の悪いところにはしっかりした木道が組まれていた。眺望が開けるポイントには、沼の名を記した標柱と出口への距離標も立っている。

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毘沙門沼に沿う五色沼自然探勝路
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ビューポイントに立つ標柱と距離標
 

毘沙門沼を見送って山中を歩いていくと、右手に小さな沼が現れた。赤沼といい、水面は明るい緑だが、岸辺に赤茶色の縁取りがついている。鉄分を多く含む水質のため、水に浸かる植物が錆色に染まるのが原因だそうだ。

みどろ沼の水の色は一言では言い表せない。光線の加減にもよるのだろうが、手前はアップルグリーン(黄味を帯びた明るい緑)、しかし奥は青みが濃くて毘沙門沼のそれに近い。小さな沼なのに、まったく色が異なるのも不思議だ。勢いよく流れる小川をさかのぼると竜沼だが、これは枝葉や下草に遮られて、水面を見渡すのは難しかった。

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赤沼
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(左)みどろ沼
(右)竜沼
 

探勝路は上り坂になる。次の弁天沼は、地形的に一段高い位置にあるのだ。五色沼で2番目に大きい沼で、そのせいか、水の色はさらに明るい。ここでは道が岸辺に沿って延びていて、長い時間、眺めを楽しむことができる。沼の南西端には、新しい展望デッキも設けられている。時刻が10時を回って、西側(桧原湖側)から入ってきた人たちとすれ違うようになった。

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弁天沼
 

るり沼の展望デッキはメインルートから少し引っ込んだところにあるので、うっかりすると見過ごしてしまう。私たちも青沼で気づいて、引き返した。ここは磐梯山のビューポイントの一つでもあるのだが、あいにく見えるのは裾の方だけだ。しかし、周りの森が静かな水面にくっきりと映り込んで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。

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(左)メインルート(写真左奥)からるり沼展望デッキへの道
(右)展望デッキ
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るり沼、背景の磐梯山は雲の中
 

コースも後半になってくると、注意力が散漫になる。実のところ、青沼と柳沼はあまり印象が残っていない。撮った写真を見返すと、青沼はその名にたがわず空色の水面が美しいし、柳沼は劇場のような奥行きが感じられる空間だ。もっとしっかり見ておけばよかった。

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青沼
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柳沼
 

2時間あまりの歩きを終えて、柳沼を見渡す裏磐梯物産館のロビーでしばし休憩。それから、国道を北へ歩いた。長峯舟付というバス停の近くから、別の遊歩道、全長6kmの桧原湖畔探勝路が延びている。これは桧原湖(ひばらこ)の東岸に沿って北上するルートで、案内板によれば「吊り橋をわたって桧原湖畔を歩くみち」。

日本一長い駅名のような落ち着かない響きだが、吊り橋がキーなのは間違いない。というのも、いかり潟という入江への水路をまたぐこの橋は、11月20日から翌年4月20日まで閉鎖され、通行できなくなってしまうのだ。迂回路はないので、全線通しで歩けるのは雪のない半年あまりに限られる。

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桧原湖畔探勝路の案内板
 

ルートはおおむね湖の南東岸に沿うが、アップダウンがそれなりにある。桧原湖をせき止めているのも流れ山なので、平坦な土地がほとんどないからだ。しかし、階段や木道は使われず、落ち葉が積もっているものの、路面は簡易舗装されている。

道は最初、西へ進む。松原キャンプ場の先では、雲が少し上がって、裏磐梯の荒々しいカルデラを中腹まで眺めることができた。この後また天気が悪くなったので、これが山の見納めだった。北に進路を変えてしばらく行くと、右手にいかり潟の入江が現れた。

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(左)松原キャンプ場のボート桟橋
(右)簡易舗装の路面
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桧原湖畔から望む裏磐梯のカルデラ
 

吊り橋の橋面は板張りで、安全のため20人以上載らないように、と警告板が立ててある。しかし、ケーブルを渡す主塔は鉄製で、頑丈そうだ。奥まった入江には、ボートが何艘か浮かんでいる。魚釣りのようだが、前に立って水面を凝視している人もいる。ハンプと呼ばれ、釣り場にもなっている陰顕岩が多いそうだから、その見張りだろうか。

渡るころから雨足が強まってきた。少し先にあずまやがあったので、雨宿りを兼ねて昼食休憩にする。

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いかり潟の吊り橋
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(左)水路をまたぐ
(右)いかり潟に浮かぶボート
 

桧原湖は面積10.7平方kmで裏磐梯最大の湖だが、水深は意外に浅く、南部ではせいぜい10~20mだ。地形図の等深線に着目すると、湖底にも、地上と同じような無数の凹凸が描かれている。湛水する前は、流れ山に覆われた地形だったことが見て取れる。湖岸のハンプももちろん、流れてきた岩屑の一部だ。

一方、地形図には湖面の標高が822mと記されていて、同514mの猪苗代湖、220m前後の若松市街地に比べて、はるかに高地にある。湖の西側は既存の山地が連なっているが、喜多方に抜ける旧道細野峠の標高は約870mで、湖面からわずか50m高いだけだ。

噴火で谷を埋めた岩屑や泥流の層は、150~200mの厚みがあるとされる。堰止湖とはいうものの、岩屑で嵩上げされた表面の、少しくぼんだところに薄く広く水がたまったのが桧原湖の実態ということになる。

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桧原湖、流れ山が島になって点在
 

小止みになったのを見計らい、再び歩き出した。ルートの後半は湖岸から少し遠ざかり、森の中を縫う道になる。キャンプ場から先は、林道といった雰囲気の地道だ。このまま進むと、裏磐梯サイトステーションという休憩施設の前に出ていくが、中瀬沼探勝路と記された木標に従い、右へ折れる。

中瀬沼の前に、レンゲ沼探勝路に寄り道しようと思った。アプローチは湿地の上を行く趣のある木道だ。花の季節が終わったミズバショウが、あちこちで大きな葉を開いている。しかし、当のレンゲ沼は一周しても湖面があまり見えなさそうなので、途中で引き返した。

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(左)レンゲ沼探勝路の木道
(右)花の終わったミズバショウ
 

方や中瀬沼のほとりには、眺めのいいことで知られる展望台がある。沼の北岸にある小高い丘、すなわち流れ山の上から、磐梯山が正面になる。むろん今日は雲の中だが、手前の中瀬沼にも、水没を免れ、新緑を湛えた流れ山がたくさん浮かんでいる。展望台から見下ろすと、まるで森が浸水しているように見えた。

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中瀬沼展望台からの眺め
 

その後は、県道2号米沢猪苗代線の側歩道を黙々と南へ戻る。歩きの締めくくりに、磐梯山噴火記念館を訪れた。ここでは明治の噴火の状況や、湖沼群の成因・特徴を詳しく紹介している。1988年の開館だそうで、展示物はさすがにくたびれかけているが、子供たちの興味も引くようなジオラマや人形を使ったわかりやすい表現に好感が持てる。

2階の一コーナーではNHKの番組「ブラタモリ」の磐梯山編を流していたので、しばらく視聴した。一行は毘沙門沼や銅沼を訪れて、火山地形や沼の水質を観察している。コンター旅のテーマにも通じる番組だから、毎週ほぼ欠かさず見ているが、現地を巡った後なのでより実感がわく。大人向けには、これ1本で十分な説得力があると思う。

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(左)磐梯山噴火記念館
(右)流れ山の露頭
 

向かいの3Dワールドは行かなかったが、裏手に流れ山の露頭がある。駐車場を造成した際に、流れ山が半分削られ、断面がひょうたん島の形に見えているのだ。落ち葉が積もってはいるが、ごろりとした石も露出していて、岩屑流の片鱗が窺えた。一帯は森に覆われてしまったため、このように露頭を観察できる場所はほかにないらしい。

春の旅はここがゴールだ。現地解散の後、私は小野川湖の水門を見学し、最寄りのバス停から、喜多方へ抜ける1日2本しかないバスに乗った。

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小野川湖の水門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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コメント

7月31日付の先ほどのメールについて(補足)の補足
ゴルカプルから24時間かかってラクソウルに着いた、と言うのは1950年のフランス・アンナプルナ登山隊が、帰路マハラジャへの表敬のために、ノータンワからゴルカプルに着いたときに、デリーへ隊荷と一部の隊員を向かわせ、隊長以下2人がカトマンズに行った時のことです。
1953年英国エベレスト登山隊はボンベイから鉄道で隊荷と共に隊員がカトマンズに向かったときの事です。これらの事が重複してメールしてしまいましたので、改めてメールさせていただきます。
①フランス隊はゴルカプルから、本文には貨物車に特別客車を連結してとありますが、貨物列車にその日の午前3時に発車しています。タライ平原を横断して24時間かかってラクソウルに着いたようです。これ以外の記述はありませんので、ゴルカプルから国境沿いの路線を走ってサガウリ経由だと思いました。この路線は1800年代後半には開通しています。それだと、24時間とタライ平原横断の記述にそぐわないのではと疑問が残りました。
⇒ゴルカプル、サガウリ経由ラクソウルの路線だと、タライ平原を横断と表現してもよいかも知れません。

②の英国隊の新たな本の「旅程図」には、フランス隊の①のような推定路線と同様な線路の記号で描かれています。ところが、この本の記述するところではラクノウを出発したことと、隊荷は別便で「狭軌」の鉄道列車に荷物を積みかえたとあるのです。ボンベイからラクノウまでは広軌だとしたら、この「狭軌」は少なくともラクソウルまでのゲージと理解できます。しかし、ラクノウからゴルカプル、ラクソウルまではメートル・ゲージとの資料("Indian Railways line history 2.North Eastern Railway") とありましたので、整合がつきません。
③英国隊はサマステプールで乗り換えたあり、そうすると「旅程図」とは合いません。ラクナウを午後2時台の列車で出て(隊荷は前日の同じ頃の列車で出発しています)、翌日の午前5時か6時にサマステプールに着いて、午前8時の列車でラクソウルには午後3時半に着いています。これだと、サマステプール発の現在の急行電車でダルバンガ経由ラクソウル行きだと5時間ほどですから、まあそんなにおかしくないなと。ラクナウからサマステプールまでの路線がわかりません。
④ラクナウからゴルカプル、チャプラ、サマステプールの路線と、ラクナウからバラナシ経由サマステプールの2つの路線が考えられます。前者だとなぜゴルカプルからサガウリ経由の列車にしなかったのか分かりません。後者だとサマステプールまでの路線が読み取れません。
以上なのですが、ご協力お願いいたします。

補足の補足です。

7月31日付の先ほどのメールについて(補足)
ゴルカプルから24時間かかってラクソウルに着いた、と言うのは1950年のフランス・アンナプルナ登山隊が、帰路マハラジャへの表敬のために、ノータンワからゴルカプルに着いたときに、デリーへ隊荷と一部の隊員を向かわせ、隊長以下2人がカトマンズに行った時のことです。
1953年英国エベレスト登山隊はボンベイから鉄道で隊荷と共に隊員がカトマンズに向かったときの事です。これらの事が重複してメールしてしまいましたので、改めてメールさせていただきます。
①フランス隊はゴルカプルから、本文には貨物車に特別客車を連結してとありますが、貨物列車にその日の午前3時に発車しています。タライ平原を横断して24時間かかってラクソウルに着いたようです。これ以外の記述はありませんので、ゴルカプルから国境沿いの路線を走ってサガウリ経由だと思いました。この路線は1800年代後半には開通しています。それだと、24時間とタライ平原横断の記述にそぐわないのではと疑問が残りました。
②の英国隊の新たな本の「旅程図」には、フランス隊の①のような推定路線と同様な線路の記号で描かれています。ところが、この本の記述するところではラクノウを出発したことと、隊荷は別便で「狭軌」の鉄道列車に荷物を積みかえたとあるのです。ボンベイからラクノウまでは広軌だとしたら、この「狭軌」は少なくともラクソウルまでのゲージと理解できます。しかし、ラクノウからゴルカプル、ラクソウルまではメートル・ゲージとの資料("Indian Railways line history 2.North Eastern Railway") とありましたので、整合がつきません。
③英国隊はサマステプールで乗り換えたあり、そうすると「旅程図」とは合いません。ラクナウを午後2時台の列車で出て(隊荷は前日の同じ頃の列車で出発しています)、翌日の午前5時か6時にサマステプールに着いて、午前8時の列車でラクソウルには午後3時半に着いています。これだと、サマステプール発の現在の急行電車でダルバンガ経由ラクソウル行きだと5時間ほどですから、まあそんなにおかしくないなと。ラクナウからサマステプールまでの路線がわかりません。
④ラクナウからゴルカプル、チャプラ、サマステプールの路線と、ラクナウからバラナシ経由サマステプールの2つの路線が考えられます。前者だとなぜゴルカプルからサガウリ経由の列車にしなかったのか分かりません。後者だとサマステプールまでの路線が読み取れません。
以上なのですが、ご協力お願いいたします。

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