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2022年6月17日 (金)

コンターサークル地図の旅-大内宿と下野街道中山峠

コンター旅の行先に、会津の大内宿(おおうちじゅく)をリクエストしたのは私だ。茅葺屋根の集落なら白川郷や京都の美山にもあるが、通りに沿ってこれほど整然と建ち並ぶ風景は珍しい。それで、一度この目で見たいと思っていた。もとより有名な観光地につき、関東の会員からは「3回行きました」との声も聞かれたが。

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大内宿、見晴台からの眺め
 

周辺の地形図を見ると、「下野(しもつけ)街道」の注記とともに、徒歩道が北と南へ延びている。これは、日光街道の今市と城下町会津若松を結んでいた江戸時代の街道で、近年、復元整備されたものだ。「地図を見ながら足で歩く」という会の趣旨に基づいて、宿場の中を巡った後は、この道を南へたどることにしたい。中山峠を越えて会津下郷(あいづしもごう)駅まで、約12kmの行程だ。

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若松~田島間の1:200,000図に下野街道の宿場と峠の位置を加筆
「会津線」は現在の会津鉄道

2022年5月21日、会津鉄道の単行気動車を、湯野上温泉駅で降りた。駅舎は、本物の茅を葺いた古民家風の造りだ。宿場の玄関口だから、それをイメージしているに違いない。集まったのは、大出さん、中西さんと私の3名。朝はまだ薄日が差しているが、午後は曇りのち雨の予報が出ている。

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茅葺屋根の湯野上温泉駅舎
 

大内宿はここから西へ約6km入った山中で、「猿游(さるゆう)号」という名の直行バスがある。ただし運賃は、往復で1100円。片道の設定がないため、私たちのように往路だけ乗りたい者にとっては割高だ。「3人ならタクシー代を割り勘する方が安いですよ」と、大出さんがタクシー会社に電話をかけるものの、「配車に30分かかると言われました」。初戦を落とした気分で、駅前に停車していたバスに乗り込んだ。マイクロバス車両なので、中はほぼ満席だ。

走り出すと、添乗の女性が絵地図を配り、バスガイドのように流暢な口調で見どころを案内してくれる。提携食堂の割引券までもらったので、何だか観光気分が湧いてきた。その間にもバスは谷川に沿う山道をくねくねと遡っていく。約20分で、宿場の裏手にある停留所に到着した。

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猿游号で大内宿に到着
 

さっそく脇道を抜けて、街道筋に出る。土道の広い通りが宿場を南北に貫いていて、その両側に、写真で見てきたとおりの茅葺屋根が並んでいる。敷地は東西に長く、各家屋は道路から一定距離を置いて、ゆったりとした建て構えだ。多くが寄棟造りで、玄関は南に向いた長手の側にあるようだが、どこも道路に面した妻面を開放して、観光客向けの店を出している。

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大内宿の街道筋
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(左)妻面を開放した店構え
(右)色とりどりの吊るし飾り
 

「古民家を集めたどこかのテーマパークみたいですねえ」などと話しながら、緩い坂になった通りを上手へ歩いていく。まずは村を一望したいので、突き当りに建つ浅沼食堂の左手から急な石段にとりついた。上りきると子安観音堂だが、その右側の山道で先客たちが立ち止まり、カメラやスマホを構えている。

「みなさんが観光ポスターなどでご覧になる風景は、ほとんどそこで撮られています」と車中で案内していた添乗員さんの言葉どおり、ここが絶景ポイントの見晴台だった。見通しのきく高台がほかにないので、誰が撮っても同じような構図の写真になるのは物足りないが。

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(左)子安観音堂
(右)山道の途中にある見晴台
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見晴台からの眺め
 

山道から降りて、本陣跡に建てられた町並み展示館を訪ねた。もとの本陣の建物はとうに失われたので、近隣の同種の建物を参考に設計復元したものだという。それもあってか、ここは長手を通りに向けて建てられている。中に入ると、勝手と呼ばれる板間に囲炉裏が焚かれ、煙がもうもうと天井へ上っていた。さまざまな農具や生活用具の展示とともに、街道の歴史や宿場の景観保存に関する説明パネルが掲げられていて、参考になる。

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本陣跡の町並み展示館
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(左)勝手(板間)に囲炉裏
(右)農具や生活用具の展示
 

それによれば下野街道、別名 会津西街道は、17世紀初めに会津藩により江戸への最短経路として整備されたものだ。藩の参勤交代や廻米(米の輸送)に利用され、大内は宿駅の一つとして、継立(人馬の交換)や宿場経営で栄えた。しかしその後、参勤交代の経路変更や地震による不通の影響を受けて、下野街道の重要性は薄れていく。

明治に入り、阿賀川(大川)沿いに新日光街道が整備されると、人馬の往来はそちらに移り、大内は養蚕や麻栽培で生計を立てる静かな農村集落になった。旧観を残す町並みがメディアで紹介され、人々の関心を集めるようになったのは、ようやく1970年前後のことだ。1981年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、さらに1986年の野岩鉄道開業で首都圏からの交通の便がよくなったことで、観光地としての人気が定着していった。

地区の特色である茅葺屋根は維持に手間がかかる。かつてはトタン板で覆うことも行われたというが、今は表通りの多くが茅葺きに戻されている。もっともこれらの家屋は主に土産物屋、食堂、民宿などの事業に使われており、住民の方は裏手に建てた一般的な住宅で生活しておられるようだ。

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土固めの路面、石組みの水路
 

街道歩きが控えているので、混まないうちに昼食にしよう。展示館向かいの大黒屋の座敷に上がった。遠路はるばる来たからには、名物のネギそばを試さないわけにはいかない。

そば自体は冷たいかけそばなのだが、器の上に白ネギが一本置かれている。これを箸代わりにしてそばを掬うとともに、適宜かじって薬味にする、というものだ(下注)。ただし、食べ進むと最後に短く切れたそばが器の中に残る。「さすがにこれは箸でないと掬えませんね」。むろん箸も座卓に用意されている。

*注 大黒屋の品書きではこれは「ねぎ一本そば」とされ、方や「ねぎそば」はかけそばの上に刻みねぎが載るものだった。

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大黒屋のねぎ一本そば

思い残すことがなくなったところで、宿場を後にした。バスで来た道を南へ歩いていくと、小野川の橋のたもとから、旧街道が分岐している。「歴史の道(下野街道)」と記された道標が立っているから間違いない。その先では、ひょろっとした松の生えた「大内宿南一里塚」が旅人を迎えてくれた。

しかし、斜面に開かれた棚田の間を上る道は一直線で、圃場整備で付け替えられたようだ。森に入ると、草深い踏み分け道になった。「もっと歩いている人がいると思ってましたが」と中西さん。少なくとも私たちが歩いている間、すれ違ったり、追い越したりする人は見かけなかった。

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(左)旧街道の分岐点
(右)大内宿南一里塚
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
大内宿~沼山間
 

先ほどの資料館のパネルによれば、下野街道の整備事業は2000年に完成し、2002年に国の史跡に指定されている。地形図に史跡の記号(下注)が付されているのは、それが理由だ。しかし、生活道路は別にあり、たまにハイカーが通るだけなら、数年も経たないうちに草生してしまうのは避けられない。

*注 数学の「ゆえに」記号に似たこの地図記号は、「史跡・名勝・天然記念物」を表す。

道標は何種類かあった。「下野街道」と刻まれた立派な石標が主要な分岐点に立っているほか、1本足に金属板を取り付けたもの、もっと素朴な木製のものも見かけた。ところが金属板はどれも外されたり、折り曲げられたりして無残な状態をさらしている。どんな動機があったのかは知らないが、つまらないことをしたものだ。

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(左)下野街道の石標
(右)金属板の道標は無残な状態に
 

草の道は500mほどややきつい上りが続いた後、なだらかになる。そして沼山集落の手前で、無事舗装道に出た。しばらくは、この県道131号下郷会津本郷線を歩く必要がある。2車線幅の走りやすそうな道だが、車両の通行はほとんどなく静かだ。大内宿の駐車場を埋めていた観光客のマイカーは、こちらには回ってこないようだ。

集落の端で、草の道が再び右に別れていた。例によって道標は壊れているが、草道のもつ雰囲気がさきほどと同じなので迷うことはない。少し先の、草道が西へ上っていく林道と交差する地点が、一つ目の分水界だ。

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(左)草道が舗装道に合流
(右)県道沿いの沼山集落
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
沼山~中山峠間
 

地形図から読み取れるとおり、大内宿から中山峠にかけては、周囲とは違うなだらかな回廊状の地形が延びている。私はこの地形に興味があった。地質調査所の研究報告(下注)は、この低地帯に大内断層と呼ばれる南北に走る伏在断層(地表に断層面が現れないもの)を想定している。断層の活動によって東側の山地が高まり、それに遮られる形で西側の山麓に岩屑が堆積した。街道はこの緩斜面に通されているので、分水界越えも険しくはないのだ。

*注 山元孝弘「田島地域の地質」地域地質研究報告 平成11年、地質調査所

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なだらかな回廊状の地形、沼山から東望
 

一方、中西さんの関心はまた別で、「イザベラ・バード Isabella Bird が通った道を歩いてみたかったんです」。イザベラは、明治初期に日本を訪れ、詳細な紀行書を著したイギリスの旅行家だ。1878(明治11)年6月の北日本の旅では、今市から下野街道を北上し、その際「山奥のきれいな谷間にある」(下注1)大内宿で1泊している。イザベラが同じ書で言及している山形県上山(かみのやま)の石橋群を、以前コンター旅で巡ったことがある(下注2)が、下野街道もまた、彼女の長い旅の経由地だったのだ。

*注1 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.220。
*注2 「コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群」に記述。

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旧街道を埋め尽くす野の花
 

森の草道は分水界を降りる途中で、また県道に吸収されてしまった。舗装路をしばらく行くと、中山集落に出た。ここでは、巨大なケヤキの木が道端にそびえていて目を引く。傍らの案内板によれば「八幡のケヤキ(中山の大ケヤキ)」と呼ばれ、樹高36m、胸高周囲12m。単に太いだけでなく、むくむくと地中から湧き出したかのような幹の迫力と勢いは見事というほかない。樹齢は950年とあるから、「当然、イザベラ・バードも見たでしょうね」とうなずき合う。

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八幡のケヤキ
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幹の迫力と勢いに目を見張る
 

左手に瑞々しい新緑の景色を見下ろしながら進むと、集落の端にまた旧街道の分岐があった。しかし、ここにはロープが渡してある。「みなんぱら 恵みの交流館」という施設への通路に使われているのだが、コロナ感染拡大防止のため閉園中、と貼り紙がしてあった。そうでなくても旧道は途中でたどれなくなる。県道沿いにあった「トラックの森」の説明板から想像するに、造林事業地とされたことで、中を通過していた旧道は廃道になったようだ。

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中山集落を北望
 

鼠色の空から、いよいよ霧雨が落ちてきた。県道の中山峠の直前に右へ入る林道があり、そこに街道の標識が立っている。林道を少し上ると、街道のつづきが見つかった。街道の中山峠は落ち葉散り敷く森の中だが、標識も何もなく、大きなうろをもつ木の根元に供養塔が倒れているばかりだ。

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(左)県道の中山峠
(右)旧街道の峠、倒れた供養塔
 

峠の南斜面は、戸石川が流れる谷底まで約200mの高度差がある。道は思いのほか荒れていた。行く手をふさぐ倒木をまたぎ、覆いかぶさる雑木をかき分け、湧き水のぬかるみに足を取られながら、急坂を降りていく。かなり下ったところで西へ向かう林道と交差したが、「さすがにこの先は通れそうにないですね」。背丈を越える藪を前に、林道を伝い、県道に迂回せざるをえなかった。

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中山峠からの下りは荒れた道
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
中山峠~会津下郷駅間
 

この区間で、県道は勾配緩和のためにヘアピンを繰り返している。そのカーブの一つで、「高倉山の湧水、長寿の水」と書かれた水汲み場があった。屋根の下の手水鉢に架けられた管から、名水が流れ落ちている。一口掬って飲んでみたが、まろやかな味わいのおいしい水だった。

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長寿の水
 

下り坂の途中から、また旧街道に入った。草道は、S字を描く県道を串刺ししながら降下する。最後は簡易舗装の里道になり、倉谷宿の裏手を通って再び県道に合流した。倉谷宿は、ごくふつうの農村集落だった。間口が狭く奥行きが長い宿場の地割が残るものの、茅葺屋根にはトタンがかぶせてある。とはいえ、大内宿もブレークする前はこのような状況だったのかもしれない。

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(左)倉谷宿の家並み
(右)倉谷宿上方の古い道標
 

戸石川を渡ってなおも行くと、また分かれ道があった。立派な土蔵の前に大内宿近くで見たのと同じ下野街道の石碑が立っていて、旧街道は八幡峠に向けて南の山手を上っていく。しかし残念だが、私たちの街道歩きはここまでだ。帰りの列車が来る会津下郷駅をめざし、このまま県道を下っていくことにしよう。

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板倉の分岐点、旧街道は奥へ
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会津下郷駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、日光(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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