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2022年6月

2022年6月24日 (金)

コンターサークル地図の旅-裏磐梯の火山地形

今から134年前の1888(明治21)年、磐梯山が水蒸気爆発を起こした。「黒煙柱は約1500mの高さまで立ち昇り、1分ほどの間に15回~20回も爆発が繰り返されました。(中略)その後も30分~40分間、小破裂は巨砲が連発するように続きました。噴煙はキノコ型に拡がり、高さ約5000mに達しました」(磐梯山噴火記念館の展示パネルより)

この噴火で、今の磐梯山の北側にあった小磐梯が崩壊し、総量約20億トンと言われる岩屑なだれが発生した。山体は大きくえぐれてカルデラをなすとともに、北と東で麓の谷が埋まり、周辺の風景を一変させた…。2022年春のコンター旅、会津での2日目は、このとき生じた湖沼や流れ山など、山体崩壊で生じた裏磐梯の特徴的な火山地形を見に行く。

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五色沼の一つ、弁天沼
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図1 磐梯山周辺の1:200,000地勢図
(左)1988(昭和53)年編集、(右)1989(平成元)年編集

5月22日、会津若松駅から朝早い磐越西線郡山行の電車に乗った。本日の参加者は大出さんと私。昨日に続いて空はどんよりとして、磐梯山も頂きは雲に隠れている。電車は次の広田駅を出ると、磐梯山の南麓に広がる高原地帯へ上っていく。

人影少ない猪苗代駅前で、裏磐梯高原駅行きの路線バスに乗り込んだ。磐梯山周辺は会津バスが撤退し、現在は磐梯東都バスが運行している。乗客は私たちを含めて5人。初夏の休日とはいえ、雨の予報が出ているから、わざわざ山へ出かける人は少ないだろう。

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(左)朝の猪苗代駅
(右)駅前から裏磐梯高原駅行きのバスに乗る
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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

裏磐梯の一帯には、湖沼を巡る遊歩道がいくつかある。まずは、観光ルートとしておなじみの五色沼自然探勝路を歩くつもりだ。東の入口から西の桧原湖畔まで長さ3.6km。バスを降りると、ビジターセンターが目の前にあったのでルートマップでもと思ったが、まだ開館前だった。

五色沼というのは、磐梯山北麓に点在する大小30余の湖沼群の総称だ。噴火の際に斜面を流れ下った岩屑が扇状に広がり、大小の丘、いわゆる流れ山を生じた。上掲の陰影付き地形図では、一帯の土地に細かい凹凸が見て取れるが、これらはすべて流れ山だ。湖沼群は、その間の窪地に雨水や地下水が溜まってできた。

「これらの沼の多くは、磐梯山の火口付近にある銅沼(あかぬま)に端を発する地下水を水源としております。硫化水素が多量に溶け込んだ水により、水質が酸性の沼もいくつかあります。また、桧原湖からの水や磐梯山の深層地下水などが混入している湖沼もあり、沼ごとに異なる多様な水質となっています」(磐梯山ジオパーク協議会による現地案内板より)。

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五色沼の案内板
 

探勝路へ歩を進めると、まず見えてくるのが、五色沼の中で最も大きな毘沙門沼(びしゃもんぬま)だ。湖面の色は青緑、ターコイズブルーというところで、今日のような天気でも十分美しいが、見る角度によって鮮やかさには微妙な違いがある。高みから見下ろした方が明るく、ブルーの色合いが引き立つようだ。

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毘沙門沼
 

レストハウス前の広場でメインルートからいったんはずれ、周遊歩道「磐鏡園プロムナード」へ足を向けた。小川の木橋を渡り、ウッドチップを敷いた小道をたどっていくと、小高い丘の上に磐梯山と吾妻連峰、2か所の展望台がある。山並みは雲の中だが、東のほうに秋元湖が遠望できた。今回はそちらには行かないので、少し得した気分だ。

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(左)磐鏡園プロムナード
(右)威嚇?それとも歓迎?
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吾妻連峰展望台から秋元湖を遠望
 

もとに戻り、毘沙門沼の北岸に沿って歩く。沼は複雑な形状をしていて、角を回るたびにその表情を変える。探勝路には少なからずアップダウンがあるが、足元の悪いところにはしっかりした木道が組まれていた。眺望が開けるポイントには、沼の名を記した標柱と出口への距離標も立っている。

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毘沙門沼に沿う五色沼自然探勝路
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ビューポイントに立つ標柱と距離標
 

毘沙門沼を見送って山中を歩いていくと、右手に小さな沼が現れた。赤沼といい、水面は明るい緑だが、岸辺に赤茶色の縁取りがついている。鉄分を多く含む水質のため、水に浸かる植物が錆色に染まるのが原因だそうだ。

みどろ沼の水の色は一言では言い表せない。光線の加減にもよるのだろうが、手前はアップルグリーン(黄味を帯びた明るい緑)、しかし奥は青みが濃くて毘沙門沼のそれに近い。小さな沼なのに、まったく色が異なるのも不思議だ。勢いよく流れる小川をさかのぼると竜沼だが、これは枝葉や下草に遮られて、水面を見渡すのは難しかった。

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赤沼
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(左)みどろ沼
(右)竜沼
 

探勝路は上り坂になる。次の弁天沼は、地形的に一段高い位置にあるのだ。五色沼で2番目に大きい沼で、そのせいか、水の色はさらに明るい。ここでは道が岸辺に沿って延びていて、長い時間、眺めを楽しむことができる。沼の南西端には、新しい展望デッキも設けられている。時刻が10時を回って、西側(桧原湖側)から入ってきた人たちとすれ違うようになった。

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弁天沼
 

るり沼の展望デッキはメインルートから少し引っ込んだところにあるので、うっかりすると見過ごしてしまう。私たちも青沼で気づいて、引き返した。ここは磐梯山のビューポイントの一つでもあるのだが、あいにく見えるのは裾の方だけだ。しかし、周りの森が静かな水面にくっきりと映り込んで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。

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(左)メインルート(写真左奥)からるり沼展望デッキへの道
(右)展望デッキ
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るり沼、背景の磐梯山は雲の中
 

コースも後半になってくると、注意力が散漫になる。実のところ、青沼と柳沼はあまり印象が残っていない。撮った写真を見返すと、青沼はその名にたがわず空色の水面が美しいし、柳沼は劇場のような奥行きが感じられる空間だ。もっとしっかり見ておけばよかった。

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青沼
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柳沼
 

2時間あまりの歩きを終えて、柳沼を見渡す裏磐梯物産館のロビーでしばし休憩。それから、国道を北へ歩いた。長峯舟付というバス停の近くから、別の遊歩道、全長6kmの桧原湖畔探勝路が延びている。これは桧原湖(ひばらこ)の東岸に沿って北上するルートで、案内板によれば「吊り橋をわたって桧原湖畔を歩くみち」。

日本一長い駅名のような落ち着かない響きだが、吊り橋がキーなのは間違いない。というのも、いかり潟という入江への水路をまたぐこの橋は、11月20日から翌年4月20日まで閉鎖され、通行できなくなってしまうのだ。迂回路はないので、全線通しで歩けるのは雪のない半年あまりに限られる。

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桧原湖畔探勝路の案内板
 

ルートはおおむね湖の南東岸に沿うが、アップダウンがそれなりにある。桧原湖をせき止めているのも流れ山なので、平坦な土地がほとんどないからだ。しかし、階段や木道は使われず、落ち葉が積もっているものの、路面は簡易舗装されている。

道は最初、西へ進む。松原キャンプ場の先では、雲が少し上がって、裏磐梯の荒々しいカルデラを中腹まで眺めることができた。この後また天気が悪くなったので、これが山の見納めだった。北に進路を変えてしばらく行くと、右手にいかり潟の入江が現れた。

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(左)松原キャンプ場のボート桟橋
(右)簡易舗装の路面
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桧原湖畔から望む裏磐梯のカルデラ
 

吊り橋の橋面は板張りで、安全のため20人以上載らないように、と警告板が立ててある。しかし、ケーブルを渡す主塔は鉄製で、頑丈そうだ。奥まった入江には、ボートが何艘か浮かんでいる。魚釣りのようだが、前に立って水面を凝視している人もいる。ハンプと呼ばれ、釣り場にもなっている陰顕岩が多いそうだから、その見張りだろうか。

渡るころから雨足が強まってきた。少し先にあずまやがあったので、雨宿りを兼ねて昼食休憩にする。

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いかり潟の吊り橋
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(左)水路をまたぐ
(右)いかり潟に浮かぶボート
 

桧原湖は面積10.7平方kmで裏磐梯最大の湖だが、水深は意外に浅く、南部ではせいぜい10~20mだ。地形図の等深線に着目すると、湖底にも、地上と同じような無数の凹凸が描かれている。湛水する前は、流れ山に覆われた地形だったことが見て取れる。湖岸のハンプももちろん、流れてきた岩屑の一部だ。

一方、地形図には湖面の標高が822mと記されていて、同514mの猪苗代湖、220m前後の若松市街地に比べて、はるかに高地にある。湖の西側は既存の山地が連なっているが、喜多方に抜ける旧道細野峠の標高は約870mで、湖面からわずか50m高いだけだ。

噴火で谷を埋めた岩屑や泥流の層は、150~200mの厚みがあるとされる。堰止湖とはいうものの、岩屑で嵩上げされた表面の、少しくぼんだところに薄く広く水がたまったのが桧原湖の実態ということになる。

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桧原湖、流れ山が島になって点在
 

小止みになったのを見計らい、再び歩き出した。ルートの後半は湖岸から少し遠ざかり、森の中を縫う道になる。キャンプ場から先は、林道といった雰囲気の地道だ。このまま進むと、裏磐梯サイトステーションという休憩施設の前に出ていくが、中瀬沼探勝路と記された木標に従い、右へ折れる。

中瀬沼の前に、レンゲ沼探勝路に寄り道しようと思った。アプローチは湿地の上を行く趣のある木道だ。花の季節が終わったミズバショウが、あちこちで大きな葉を開いている。しかし、当のレンゲ沼は一周しても湖面があまり見えなさそうなので、途中で引き返した。

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(左)レンゲ沼探勝路の木道
(右)花の終わったミズバショウ
 

方や中瀬沼のほとりには、眺めのいいことで知られる展望台がある。沼の北岸にある小高い丘、すなわち流れ山の上から、磐梯山が正面になる。むろん今日は雲の中だが、手前の中瀬沼にも、水没を免れ、新緑を湛えた流れ山がたくさん浮かんでいる。展望台から見下ろすと、まるで森が浸水しているように見えた。

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中瀬沼展望台からの眺め
 

その後は、県道2号米沢猪苗代線の側歩道を黙々と南へ戻る。歩きの締めくくりに、磐梯山噴火記念館を訪れた。ここでは明治の噴火の状況や、湖沼群の成因・特徴を詳しく紹介している。1988年の開館だそうで、展示物はさすがにくたびれかけているが、子供たちの興味も引くようなジオラマや人形を使ったわかりやすい表現に好感が持てる。

2階の一コーナーではNHKの番組「ブラタモリ」の磐梯山編を流していたので、しばらく視聴した。一行は毘沙門沼や銅沼を訪れて、火山地形や沼の水質を観察している。コンター旅のテーマにも通じる番組だから、毎週ほぼ欠かさず見ているが、現地を巡った後なのでより実感がわく。大人向けには、これ1本で十分な説得力があると思う。

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(左)磐梯山噴火記念館
(右)流れ山の露頭
 

向かいの3Dワールドは行かなかったが、裏手に流れ山の露頭がある。駐車場を造成した際に、流れ山が半分削られ、断面がひょうたん島の形に見えているのだ。落ち葉が積もってはいるが、ごろりとした石も露出していて、岩屑流の片鱗が窺えた。一帯は森に覆われてしまったため、このように露頭を観察できる場所はほかにないらしい。

春の旅はここがゴールだ。現地解散の後、私は小野川湖の水門を見学し、最寄りのバス停から、喜多方へ抜ける1日2本しかないバスに乗った。

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小野川湖の水門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、福島(平成元年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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2022年6月17日 (金)

コンターサークル地図の旅-大内宿と下野街道中山峠

コンター旅の行先に、会津の大内宿(おおうちじゅく)をリクエストしたのは私だ。茅葺屋根の集落なら白川郷や京都の美山にもあるが、通りに沿ってこれほど整然と建ち並ぶ風景は珍しい。それで、一度この目で見たいと思っていた。もとより有名な観光地につき、関東の会員からは「3回行きました」との声も聞かれたが。

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大内宿、見晴台からの眺め
 

周辺の地形図を見ると、「下野(しもつけ)街道」の注記とともに、徒歩道が北と南へ延びている。これは、日光街道の今市と城下町会津若松を結んでいた江戸時代の街道で、近年、復元整備されたものだ。「地図を見ながら足で歩く」という会の趣旨に基づいて、宿場の中を巡った後は、この道を南へたどることにしたい。中山峠を越えて会津下郷(あいづしもごう)駅まで、約12kmの行程だ。

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若松~田島間の1:200,000図に下野街道の宿場と峠の位置を加筆
「会津線」は現在の会津鉄道

2022年5月21日、会津鉄道の単行気動車を、湯野上温泉駅で降りた。駅舎は、本物の茅を葺いた古民家風の造りだ。宿場の玄関口だから、それをイメージしているに違いない。集まったのは、大出さん、中西さんと私の3名。朝はまだ薄日が差しているが、午後は曇りのち雨の予報が出ている。

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茅葺屋根の湯野上温泉駅舎
 

大内宿はここから西へ約6km入った山中で、「猿游(さるゆう)号」という名の直行バスがある。ただし運賃は、往復で1100円。片道の設定がないため、私たちのように往路だけ乗りたい者にとっては割高だ。「3人ならタクシー代を割り勘する方が安いですよ」と、大出さんがタクシー会社に電話をかけるものの、「配車に30分かかると言われました」。初戦を落とした気分で、駅前に停車していたバスに乗り込んだ。マイクロバス車両なので、中はほぼ満席だ。

走り出すと、添乗の女性が絵地図を配り、バスガイドのように流暢な口調で見どころを案内してくれる。提携食堂の割引券までもらったので、何だか観光気分が湧いてきた。その間にもバスは谷川に沿う山道をくねくねと遡っていく。約20分で、宿場の裏手にある停留所に到着した。

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猿游号で大内宿に到着
 

さっそく脇道を抜けて、街道筋に出る。土道の広い通りが宿場を南北に貫いていて、その両側に、写真で見てきたとおりの茅葺屋根が並んでいる。敷地は東西に長く、各家屋は道路から一定距離を置いて、ゆったりとした建て構えだ。多くが寄棟造りで、玄関は南に向いた長手の側にあるようだが、どこも道路に面した妻面を開放して、観光客向けの店を出している。

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大内宿の街道筋
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(左)妻面を開放した店構え
(右)色とりどりの吊るし飾り
 

「古民家を集めたどこかのテーマパークみたいですねえ」などと話しながら、緩い坂になった通りを上手へ歩いていく。まずは村を一望したいので、突き当りに建つ浅沼食堂の左手から急な石段にとりついた。上りきると子安観音堂だが、その右側の山道で先客たちが立ち止まり、カメラやスマホを構えている。

「みなさんが観光ポスターなどでご覧になる風景は、ほとんどそこで撮られています」と車中で案内していた添乗員さんの言葉どおり、ここが絶景ポイントの見晴台だった。見通しのきく高台がほかにないので、誰が撮っても同じような構図の写真になるのは物足りないが。

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(左)子安観音堂
(右)山道の途中にある見晴台
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見晴台からの眺め
 

山道から降りて、本陣跡に建てられた町並み展示館を訪ねた。もとの本陣の建物はとうに失われたので、近隣の同種の建物を参考に設計復元したものだという。それもあってか、ここは長手を通りに向けて建てられている。中に入ると、勝手と呼ばれる板間に囲炉裏が焚かれ、煙がもうもうと天井へ上っていた。さまざまな農具や生活用具の展示とともに、街道の歴史や宿場の景観保存に関する説明パネルが掲げられていて、参考になる。

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本陣跡の町並み展示館
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(左)勝手(板間)に囲炉裏
(右)農具や生活用具の展示
 

それによれば下野街道、別名 会津西街道は、17世紀初めに会津藩により江戸への最短経路として整備されたものだ。藩の参勤交代や廻米(米の輸送)に利用され、大内は宿駅の一つとして、継立(人馬の交換)や宿場経営で栄えた。しかしその後、参勤交代の経路変更や地震による不通の影響を受けて、下野街道の重要性は薄れていく。

明治に入り、阿賀川(大川)沿いに新日光街道が整備されると、人馬の往来はそちらに移り、大内は養蚕や麻栽培で生計を立てる静かな農村集落になった。旧観を残す町並みがメディアで紹介され、人々の関心を集めるようになったのは、ようやく1970年前後のことだ。1981年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、さらに1986年の野岩鉄道開業で首都圏からの交通の便がよくなったことで、観光地としての人気が定着していった。

地区の特色である茅葺屋根は維持に手間がかかる。かつてはトタン板で覆うことも行われたというが、今は表通りの多くが茅葺きに戻されている。もっともこれらの家屋は主に土産物屋、食堂、民宿などの事業に使われており、住民の方は裏手に建てた一般的な住宅で生活しておられるようだ。

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土固めの路面、石組みの水路
 

街道歩きが控えているので、混まないうちに昼食にしよう。展示館向かいの大黒屋の座敷に上がった。遠路はるばる来たからには、名物のネギそばを試さないわけにはいかない。

そば自体は冷たいかけそばなのだが、器の上に白ネギが一本置かれている。これを箸代わりにしてそばを掬うとともに、適宜かじって薬味にする、というものだ(下注)。ただし、食べ進むと最後に短く切れたそばが器の中に残る。「さすがにこれは箸でないと掬えませんね」。むろん箸も座卓に用意されている。

*注 大黒屋の品書きではこれは「ねぎ一本そば」とされ、方や「ねぎそば」はかけそばの上に刻みねぎが載るものだった。

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大黒屋のねぎ一本そば

思い残すことがなくなったところで、宿場を後にした。バスで来た道を南へ歩いていくと、小野川の橋のたもとから、旧街道が分岐している。「歴史の道(下野街道)」と記された道標が立っているから間違いない。その先では、ひょろっとした松の生えた「大内宿南一里塚」が旅人を迎えてくれた。

しかし、斜面に開かれた棚田の間を上る道は一直線で、圃場整備で付け替えられたようだ。森に入ると、草深い踏み分け道になった。「もっと歩いている人がいると思ってましたが」と中西さん。少なくとも私たちが歩いている間、すれ違ったり、追い越したりする人は見かけなかった。

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(左)旧街道の分岐点
(右)大内宿南一里塚
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
大内宿~沼山間
 

先ほどの資料館のパネルによれば、下野街道の整備事業は2000年に完成し、2002年に国の史跡に指定されている。地形図に史跡の記号(下注)が付されているのは、それが理由だ。しかし、生活道路は別にあり、たまにハイカーが通るだけなら、数年も経たないうちに草生してしまうのは避けられない。

*注 数学の「ゆえに」記号に似たこの地図記号は、「史跡・名勝・天然記念物」を表す。

道標は何種類かあった。「下野街道」と刻まれた立派な石標が主要な分岐点に立っているほか、1本足に金属板を取り付けたもの、もっと素朴な木製のものも見かけた。ところが金属板はどれも外されたり、折り曲げられたりして無残な状態をさらしている。どんな動機があったのかは知らないが、つまらないことをしたものだ。

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(左)下野街道の石標
(右)金属板の道標は無残な状態に
 

草の道は500mほどややきつい上りが続いた後、なだらかになる。そして沼山集落の手前で、無事舗装道に出た。しばらくは、この県道131号下郷会津本郷線を歩く必要がある。2車線幅の走りやすそうな道だが、車両の通行はほとんどなく静かだ。大内宿の駐車場を埋めていた観光客のマイカーは、こちらには回ってこないようだ。

集落の端で、草の道が再び右に別れていた。例によって道標は壊れているが、草道のもつ雰囲気がさきほどと同じなので迷うことはない。少し先の、草道が西へ上っていく林道と交差する地点が、一つ目の分水界だ。

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(左)草道が舗装道に合流
(右)県道沿いの沼山集落
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
沼山~中山峠間
 

地形図から読み取れるとおり、大内宿から中山峠にかけては、周囲とは違うなだらかな回廊状の地形が延びている。私はこの地形に興味があった。地質調査所の研究報告(下注)は、この低地帯に大内断層と呼ばれる南北に走る伏在断層(地表に断層面が現れないもの)を想定している。断層の活動によって東側の山地が高まり、それに遮られる形で西側の山麓に岩屑が堆積した。街道はこの緩斜面に通されているので、分水界越えも険しくはないのだ。

*注 山元孝弘「田島地域の地質」地域地質研究報告 平成11年、地質調査所

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なだらかな回廊状の地形、沼山から東望
 

一方、中西さんの関心はまた別で、「イザベラ・バード Isabella Bird が通った道を歩いてみたかったんです」。イザベラは、明治初期に日本を訪れ、詳細な紀行書を著したイギリスの旅行家だ。1878(明治11)年6月の北日本の旅では、今市から下野街道を北上し、その際「山奥のきれいな谷間にある」(下注1)大内宿で1泊している。イザベラが同じ書で言及している山形県上山(かみのやま)の石橋群を、以前コンター旅で巡ったことがある(下注2)が、下野街道もまた、彼女の長い旅の経由地だったのだ。

*注1 「イザベラ・バードの日本紀行(上)」時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.220。
*注2 「コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群」に記述。

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旧街道を埋め尽くす野の花
 

森の草道は分水界を降りる途中で、また県道に吸収されてしまった。舗装路をしばらく行くと、中山集落に出た。ここでは、巨大なケヤキの木が道端にそびえていて目を引く。傍らの案内板によれば「八幡のケヤキ(中山の大ケヤキ)」と呼ばれ、樹高36m、胸高周囲12m。単に太いだけでなく、むくむくと地中から湧き出したかのような幹の迫力と勢いは見事というほかない。樹齢は950年とあるから、「当然、イザベラ・バードも見たでしょうね」とうなずき合う。

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八幡のケヤキ
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幹の迫力と勢いに目を見張る
 

左手に瑞々しい新緑の景色を見下ろしながら進むと、集落の端にまた旧街道の分岐があった。しかし、ここにはロープが渡してある。「みなんぱら 恵みの交流館」という施設への通路に使われているのだが、コロナ感染拡大防止のため閉園中、と貼り紙がしてあった。そうでなくても旧道は途中でたどれなくなる。県道沿いにあった「トラックの森」の説明板から想像するに、造林事業地とされたことで、中を通過していた旧道は廃道になったようだ。

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中山集落を北望
 

鼠色の空から、いよいよ霧雨が落ちてきた。県道の中山峠の直前に右へ入る林道があり、そこに街道の標識が立っている。林道を少し上ると、街道のつづきが見つかった。街道の中山峠は落ち葉散り敷く森の中だが、標識も何もなく、大きなうろをもつ木の根元に供養塔が倒れているばかりだ。

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(左)県道の中山峠
(右)旧街道の峠、倒れた供養塔
 

峠の南斜面は、戸石川が流れる谷底まで約200mの高度差がある。道は思いのほか荒れていた。行く手をふさぐ倒木をまたぎ、覆いかぶさる雑木をかき分け、湧き水のぬかるみに足を取られながら、急坂を降りていく。かなり下ったところで西へ向かう林道と交差したが、「さすがにこの先は通れそうにないですね」。背丈を越える藪を前に、林道を伝い、県道に迂回せざるをえなかった。

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中山峠からの下りは荒れた道
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
中山峠~会津下郷駅間
 

この区間で、県道は勾配緩和のためにヘアピンを繰り返している。そのカーブの一つで、「高倉山の湧水、長寿の水」と書かれた水汲み場があった。屋根の下の手水鉢に架けられた管から、名水が流れ落ちている。一口掬って飲んでみたが、まろやかな味わいのおいしい水だった。

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長寿の水
 

下り坂の途中から、また旧街道に入った。草道は、S字を描く県道を串刺ししながら降下する。最後は簡易舗装の里道になり、倉谷宿の裏手を通って再び県道に合流した。倉谷宿は、ごくふつうの農村集落だった。間口が狭く奥行きが長い宿場の地割が残るものの、茅葺屋根にはトタンがかぶせてある。とはいえ、大内宿もブレークする前はこのような状況だったのかもしれない。

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(左)倉谷宿の家並み
(右)倉谷宿上方の古い道標
 

戸石川を渡ってなおも行くと、また分かれ道があった。立派な土蔵の前に大内宿近くで見たのと同じ下野街道の石碑が立っていて、旧街道は八幡峠に向けて南の山手を上っていく。しかし残念だが、私たちの街道歩きはここまでだ。帰りの列車が来る会津下郷駅をめざし、このまま県道を下っていくことにしよう。

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板倉の分岐点、旧街道は奥へ
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会津下郷駅に到着
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図新潟(昭和53年編集)、日光(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月12日取得)を使用したものである。

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2022年6月10日 (金)

コンターサークル地図の旅-熊延鉄道跡

2022年4月24日、熊本でのコンター旅2日目は、熊延(ゆうえん)鉄道の廃線跡を歩く。

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八角トンネル
 

熊延鉄道というのは、豊肥本線の南熊本(旧名 春竹)から南下し、砥用(ともち、現 下益城郡美里町)まで延びていた長さ28.6kmの非電化私鉄だ。1915(大正4)年から1932(昭和7)年にかけて段階的に延伸開通し、緑川流域の主要な交通手段として利用されていた。

「熊延」の名は、熊本と宮崎県の延岡を接続するという壮大な構想に由来する(下注)。しかし、列車が九州山地を越えることはついになかった。戦後はモータリゼーションの進展で利用者が減少し、1964(昭和39)年3月限りで惜しくも廃止されてしまった。

*注 1915(大正4)年の開業時は御船(みふね)鉄道と称したが、1927(昭和2)年に改称。

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熊延鉄道の現役時代から残る南熊本駅舎
 
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熊延鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(上)1931(昭和6)年鉄道補入(下)1959(昭和34)年編集
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同 1:50,000地形図 春竹(南熊本)~上島間
(1931(昭和6)年部分修正および1926(大正15)年修正測量)
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同 1:50,000地形図 上島~甲佐間
(1931(昭和6)年部分修正、1926(大正15)年修正測量および1942(昭和17)年修正測量)
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同 1:50,000地形図 甲佐~砥用間
(1942(昭和17)年修正測量)

私は熊本駅近くに宿をとっていたので、豊肥本線の列車で新水前寺駅まで行き、最寄りのバス停「水前寺駅通」から、8時17分発砥用・学校前行きの熊本バス(下注)に乗り込んだ。熊本バスは、熊本の南部市街地から上益城、下益城郡一帯に路線網を持っている。というのも、熊延鉄道がバス転換に際して改称した会社だからだ。呼び名は変われど、地方交通機関として今なお存続しているわけだ。

*注 バスの起点は桜町バスターミナル(旧 熊本交通センター)。砥用方面の一部の便は、熊延鉄道のルートとは離れた健軍線経由で運行されている。

今日は九州を離れる日なので、活動時間に限りがある。それで全線踏破ははなから諦め、遺構が多く存在する末端区間の甲佐(こうさ)~砥用間を、砥用側からたどろうと思っている。

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甲佐駅跡にある熊本バスの車庫
 

市電に乗り鉄していた大出さんが、健軍(けんぐん)で乗ってきた。本日も参加者はこの2名だ。バスは横引カーテンの窓、背もたれの低いシートという旧型車で、大出さんによれば、都営バスのお下がりだろうとのこと。健軍からは一路南下し、九州道御船ICの横を通って、鉄道の当初の目的地だった御船町の市街地へ。それから国道443号線の妙見坂トンネルを抜けていく。この前後の国道ルートは廃線跡を通っているが、トンネルは2車線幅に拡張されており、面影はまったくない。

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廃線跡を拡張した国道443号妙見坂トンネル
 

甲佐(こうさ)で平地は尽き、いよいよバスは山間部に入っていく。熊本市街からおよそ1時間15分揺られて、ようやく砥用の町に着いた。なお、私たちは「砥用中央」バス停で降りたが、駅跡に直接行くなら、一つ手前の「永富」バス停が近い。

砥用駅の敷地は工場などに転用され、駅舎もホームも残っていない。だが、周辺では製材所が今も稼働しているほか、運送会社の事務所跡や熊本バスの砥用車庫(といっても露天の駐車スペースと小さな詰所)があって、廃止から半世紀を経てもなお、鉄道の記憶をとどめている。

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砥用中央バス停に到着
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砥用駅跡
(左)熊本バスの車庫
(右)駅前の運送会社事務所跡
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
砥用~佐俣間
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同区間 現役時代
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大
(1942(昭和17)年修正測量)
 

さっそく甲佐に向けて歩き出した。駅を出た直後にあった築堤は崩され、整然と並ぶ2階建てのアパート群で置き換えられてしまった。しかしその続きには、起点側から見て最後の鉄橋、第6津留川橋梁が現存する。もちろん「下永富橋」(下注)という道路橋としてだが、津留川(つるがわ)に架かっていた6本の橋梁の中で、唯一ガーダー(橋桁)が現存する点で貴重だ。そしてここから、廃線跡は1車線の舗装道となり、切通しを抜け、山際の森を下っていく。

*注 下永富橋の親柱には、1981(昭和56)年3月竣功と刻まれていた。

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道路橋に転用された第6津留川橋梁
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(左)第6橋梁西側の築堤(東望)
(右)山際の森を下る廃線跡の道路
 

のっけから話はそれるが、この区間には江戸時代の石橋がいくつも残っている。私はその見学も楽しみにしてきた。その一つが大窪橋(おおくぼばし)で、近くの津留川に架かっている。

案内板によれば、1849(嘉永2)年の築造で、全長21m、高さ6.5m。谷が浅いので、アーチのスパンを確保するために、太鼓橋の形をしている。積み石の古びた肌は、170年という時間の証人だ。橋のフォルムをなぞるように、両岸のサクラの枝もアーチを作る。花の咲く頃はさぞ見栄えがすることだろう。

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津留川に架かる石橋、大窪橋
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170年の時を遡る景観
 

さて、廃線跡の1車線道はやがて右にカーブしていき、次の目磨(めとぎ)集落の中の三差路で行き止まりになる。そこが釈迦院(しゃかいん)駅の跡で、個人宅に駅名標が保存されていることで知られる。通りがかった地元の人に、そのお宅のブロック塀が、ホームの縁石に立っていることを教えてもらった。道を挟んで対角線の位置には、石灰を積み出していた貨物ホームの一部も残っている。

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釈迦院駅跡
奥に抜ける私道が線路の位置
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(左)個人宅の外壁に掛かる駅名標
(右)ホーム縁石の上に立つブロック塀
 

しかし、線路跡を直接追えるのはここまでだ。この先では津留川の下刻が始まり、かつ曲流しているため、線路は2km足らずの間に5回も川を横断しなければならなかった。これらの鉄橋(第5~第1津留川橋梁)はもう橋脚しか残っていない。

私たちは対岸に渡り、高みを行く国道218号旧道を迂回した。第5と第4橋梁のありかは、森に阻まれてわからなかったが、第3は、旧道から左に入る砥用西部農免農道の橋上から俯瞰できた。谷の中に、円筒形の橋脚が1本立っている。また、今(いま)集落の西で、谷底へ降りていく地図にない道をたどると、河原からの視点も得られた。

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津留川の河原に立つ第3橋梁の橋脚
農免農道の橋上から俯瞰
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河原から見る第3橋梁の橋脚
 

旧道はこの後、旧馬門橋(まかどばし)で津留川をまたいでいる。老朽化のため車両は通行止めだが、歩いて渡るには問題ない。橋の上から、第2橋梁の2本並んだ橋脚が見下ろせる。上手の1本は、這い上ってきた蔓草で覆われつつあった。

橋から続く線路は、切通しで国道の下をくぐっていたが、埋め戻され、縫製工場の用地に転用されてしまった。空中写真で見ると工場の建物が、線路の向きをなぞるように国道に対して45度の角度で建てられているのがわかる。

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車両通行止の旧馬門橋
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旧馬門橋から第2橋梁の2本の橋脚を見下ろす
 

さて、ここにまた石橋がある。国道の馬門橋の直下に架かっているので、草の小道を降りていった。町の公式サイトによると、この初代 馬門橋は1828(文政11)年の築造で、長さ27m、高さ9.2mだ。

昼なお暗い峡谷の底で、石橋はすっかり苔むし、通る人もない路面には落ち葉が散り敷いていた。傍らでは、支流の天神川が小さな滝となって津留川に注ぎ込んでいる。外界からなかば閉ざされて、霊気さえ漂う空間だ。

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初代馬門橋
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峡谷の底、天神川が滝となって注ぎ込む
 

廃線跡に戻ろう。この先、国道の北側に佐俣(さまた)駅があったが、今は更地で採石業者の所有地になっているようだ。ところが今日は様子が違う。原色の幟旗が林立し、大勢の人が出入りし、犬の鳴き声が響き渡っている。土佐闘犬横綱の披露会だという。ふだんは静かなはずの村が、時ならぬお祭り状態だった。

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闘犬横綱の披露会を開催中
 

佐俣からは再び旧道を歩く。右側の谷に目を凝らしてみるが、第1橋梁の遺構は森の陰になって見えない。やはり対岸に回る必要があるようだ。さらに進むと、津留川に南から釈迦院川が合流する地点に出る。興味深いことに、ここには2方向に架かる双子の石橋がある。

支流の釈迦院川を渡っている「二俣渡(ふたまたわたし、下注)」がより古く、1829(文政12)年の築造で、長さ28m、高さ8m。一方、津留川本流の橋は「二俣福良渡(ふたまたふくらわたし)」と呼ばれ、1830(文政13)年築造、長さ27m、高さ8m。後者は2016年4月の熊本地震で一部が損壊したが、それを機に全面解体修理が行われ、翌年11月に元の姿を取り戻した。

*注 以前は、二俣渡が二俣橋、二俣福良渡が第二二俣橋と呼ばれていたが、江戸期の旧称に戻された。

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双子の石橋
(左)二俣渡 (右)二俣福良渡
 

さらにすぐ南、はるか頭上で、1924(大正13)年に造られた年祢橋(としねばし)がひときわ大きなアーチを架けている。国道(完成当時は県道)橋だったが、新橋の完成で、自転車・歩行者道に転用された旧橋だ。二俣福良渡に並行する町道の新二俣橋(第三二俣橋)、国道の新年祢橋と合わせて「一目五橋」のこの場所は、橋好きには見逃せない。

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大正期のアーチ橋、年祢橋
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一目五橋の景観
(新二俣橋は左の画面外)
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二俣渡のたもとにある八角トンネル案内図
 

そこから300mほど下ったところにある駐車スペースが、熊延鉄道で最も有名な遺構の入口になる。案内板に示された地図に従って廃線跡の林道を上流へ向かうと、左カーブの先にその八角トンネルが見えてきた。

トンネルと呼ばれてはいるが、実態は、擁壁を補強するためのバットレス(控え壁)が7個連なる姿だ。各個体はつながっておらず、隙間から空が覗く。八角形の断面自体も珍しいが、カーブの途中にあるため、それが少しずつずれながら重なって、独特の視覚効果をもたらしている。巷で言われる異界への入口という形容も、あながち誇張とは言えない。

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(左)廃線跡の林道を行く
(右)八角トンネルが見えてきた
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(左)個体間には隙間がある
(右)擁壁を補強するための構造物
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反対側(砥用側)からの眺め
 

お楽しみはこれだけではなかった。トンネルをくぐり抜けてさらに400m進むと、コンクリート製の橋台が道を半分塞いでいる。その先に、谷へまっすぐ落ち込む道を塞ぐように、第1津留川橋梁の橋脚がぬっと突き出ていた。

1本は手前の斜面にあり、より高い2本(下注)が川の流路の左右に立つ。対岸にさらに続きがあるはずだが、杉林に隠されているようだ。河原から仰ぐと、円筒のシルエットは直線でなく、裾がやや膨らんでいる。それにしても巨大な胴回りだ。撤去しようにもこれでは費用が割に合わないだろう。

*注 案内板によれば、高さは約20m。

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第1津留川橋梁の下手側の橋台
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同 橋脚
(左)斜面に立つ下手の1本
(右)川の流路に立つ2本のうちの1本
 
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同 佐俣~甲佐間
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同区間 現役時代の1:50,000地形図(1942(昭和17)年修正測量)
 

駐車場まで同じ道を戻る。ここから下流の廃線跡は道路化されなかったので、藪化が進んでしまったようだ。それでしばらく国道443号の側歩道をたどる。西寒野(にしさまの)で1車線道を左に入り、しばらく行くと、小川島集落の手前で、地図に描かれたとおりの大築堤が残っていた。

道が築堤を乗り越す地点で観察したところ、上流側は背の高い藪に覆われて、とうてい入れそうにない。片や下流側は、森の中に踏み分け道が続いているようにも思えた。しかし残りの時間を勘案して、確実に通行できるこの1車線道を進むことにする。

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小川島集落上手の大築堤
(築堤の天端部を薄い白線で強調)
 

集落の北側には、さきほどの築堤から通じている橋台の遺構があった。その北側は緑川の氾濫原で、かつて鉄橋まで長い築堤が延びていた場所だ。残されていたら廃線跡名所の一つと称されたに違いないが、今は一面の田園地帯で、面影すらとどめていない。

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(左)小川島の北側に残る橋台
(右)橋台から下手(甲佐側)を望む
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緑川右岸(甲佐側)から小川島の橋台(矢印)を遠望
かつてこの間に橋梁と築堤があった
 

国道の日和瀬橋で、緑川(みどりかわ)を渡った。川の右岸(甲佐側)では、緑川から取水されている大井出川に面して築堤が残り、住宅の敷地の一部として使われている。開設から8年足らずで廃止と、短命だった南甲佐(みなみこうさ)駅もこのあたりにあったはずだ。

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(左)大井出川に面して残る築堤
(右)甲佐市街の廃線跡は国道に
 

ここから甲佐駅までは国道に上書きされてしまったので、約1kmの間、車道の横をひたすら歩き続けるしかない。甲佐駅跡は、熊本バスの車庫に再利用されている。周辺を探していた大出さんが、駅跡を示す標柱が見えないと思ったら、道路際に倒れていましたと言う。2021年11月に撮影されたグーグルマップのストリートビューでは立った状態なので、倒れたのはごく最近のことらしい。

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甲佐駅の標柱は草むら(左写真の手前)に倒れていた
写真は大出氏提供
 

ともかくこれで、砥用~甲佐間の探索という当初の目的は達した。だがもう1か所、上島(うえしま、下注)駅付近のことが気にかかっていた。平野区間で痕跡が集中している地域だからだ。それで甲佐から、熊延鉄道本来のルートである旧浜線を経由するバスに乗り、上島まで行った。

*注 地名は「うえじま」と読む。

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(左)熊本バス甲佐営業所
(右)上島バス停、人物後方の空地と住宅が駅跡
 
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同 上島~鯰間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図(1926(大正15)年測図)
 

上島駅の跡は事業用地や宅地に変わってしまったが、その北方の水路に、橋脚の基礎部分と言われる鉄筋の浮き出た2本の杭が露出している。その延長上には、水路を渡る短いビーム(橋桁)と橋台も残されている。最近、水路の改修が行われたらしくU字溝が新設されていたが、それでも橋桁が撤去されていないところを見ると、保存の意図があるのだろう。

さらに南熊本方に進むと、駐車場の間に、短い距離ながら土の路床が農道となって残る。表面がかなり風化してはいるが、距離標が立っているのには驚いた。上島駅の起点からのキロ程が 7.6kmなので 7kmポストのようだが、原位置にあるものとしては、熊延鉄道唯一かもしれない。

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(左)水路に露出する橋脚基礎
(右)水路を渡る鋼製橋桁と橋台
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(左)かろうじて残る廃線跡の路床
(右)風化が進んだ距離標
 

交通量の多い国道266号浜線バイパスの沿線で、巨大なイオンモールが近くにあり、周辺では商業地化がじわじわと進行している。この奇跡的な光景も見納めになるのだろうかと、惜別の思いを抱きながら、私たちはその場を後にした。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図宇土(大正15年測図)、御舩(大正15年測図)、5万分の1地形図熊本(昭和6年部分修正)、御舩(大正15年修正測図)、砥用(昭和17年修正測量)、20万分の1地勢図熊本(昭和6年鉄道補入)、八代(昭和34年編集)および地理院地図(2022年6月5日取得)を使用したものである。

■参考サイト
熊本県公式サイト-熊延鉄道に関する写真
https://www.pref.kumamoto.jp/site/kenou/8153.html

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2022年6月 2日 (木)

コンターサークル地図の旅-三角西港と長部田海床路

2022年のコンターサークル-s 春の旅は九州の熊本で始まった。初日の行先は宇土(うと)半島で、明治時代に築かれ、今も当時の姿をとどめる三角西港(みすみにしこう)と、有明海の遠浅の海岸に突き出した長部田海床路(ながべたかいしょうろ)を訪れる。

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三角西港の石積埠頭
 

その日、4月23日は朝から雨模様だった。しかし風はほとんどなく、春らしい静かな降り方だ。遠方からの移動を考慮して、集合時刻は午後に設定されている。私は新幹線で熊本入りし、三角線に直通する2両編成の気動車に乗り継いだ。宇土で大出さんと合流、参加者はこの2名だ。

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宇土半島の1:200,000地勢図
(1977(昭和52)年編集図)
 

列車は、半島北側の有明海沿いを滑るように走っていく。後で行く海床路が車窓から見えた。網田(おうだ)からは徐々に高度を上げ、トンネルで南側斜面に移る。終点の三角駅には13時26分に到着。駅舎は、特急「A列車で行こう」の登場に合わせてレトロモダンに改装されていた。待合ホールは天井も高く、どこかの公会堂と見まがうほどだ。

道路を隔てて向かいに、地味な造りの産交バスターミナルがある。天草さんぱーる行の小型バスで西港の停留所まで、5分もかからない。

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改装された三角駅舎
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(左)普通列車で到着
(右)天井の高い待合ホール
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(左)駅前の三角産交ターミナル
(右)小型バスが西港を経由する
 

三角西港は、1887(明治20)年に開かれた旧港だ。宇土半島の突端に位置し、天草の大矢野島との間の、三角ノ瀬戸と呼ばれる海峡に面している。お雇い外国人のオランダ人技師A・ローウェンホルスト・ムルドル A. Rouwenhorst Mulder が設計し、全長756mの石積み岸壁の内側に港湾施設や市街地が整備された。

しかし開港後しばらくすると、強風や荒波による事故の多発や、煩雑な輸出手続きなど、難点がしだいに顕在化していく。また、背後に山が迫り土地の拡張が難しいことから、1899(明治32)年に九州鉄道(現 JR三角線)が通じていた東港(際崎港)への機能移転も進んだ。

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三角西港旧景
(旧三角簡易裁判所の説明パネルを撮影)
 

こうして明治の後期以降、西港は徐々に衰退したが、港の輪郭は改築や転用で失われることなく、原形のまま残された。時は下って1980年代以降、史跡として再評価された一帯では、施設の整備や復元が行われて、今見るような姿になった。2015年には、ユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも挙げられている。

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現在の旧港の景観
保存建物群が奥に見える
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三角港周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

バスから降り立った旧港は、海峡の前に開かれた景観公園だった。まず見るべきは、天草の石工を動員して施工したという切石積みの護岸や水路、橋梁だ。大小長短の石材を使い分け、精巧に組まれた壁面は、城を護る石垣を思わせる。角に施した丸みや斜面のそり具合に、石工たちの熟練の技が見て取れる。

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重文指定の石積埠頭
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(左)一直線の中央排水路
(右)カーブが美しい後方水路
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三之橋
(左)橋桁にも意匠が
(右)橋の名を刻んだ親柱
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(左)アコウの老樹はシンボル的存在
(右)大木が影をなす岸辺
 

一帯には、旧観を保存または復元した建物も数棟建っている。「あそこへ行ってみましょう」と向かったのは、最も目立つ2層建ての洋館、浦島屋だ。案内標によれば、「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が長崎からの帰途立ち寄り、『夏の日の夢』と題する紀行文の舞台とした旅館である。明治38(1905)年に解体され大連に運ばれたが、平成4(1992)年度、設計図をもとに復元された」(西暦を付記)。

内部は無料開放されている。調度品も少なくがらんとしているが、2階のバルコニーに出ると、地上とは違う高い視点から海峡の眺めを楽しめた。ちょうど仮面舞踏会のような扮装をした女性モデルの撮影が行われていたが、光景に何の違和感もない。

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浦島屋
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(左)内部はがらんとしている
(右)バルコニーからの眺め
 

海岸寄りにある白壁の旧海運倉庫は、開港時からの建物だ。当時、埠頭に沿って並んでいた倉庫群の生き残りだそうで、今はレストランに活用されている。食事をする予定はなかったが、お店の人に断って少し見学させてもらった。内部は木骨構造で、吹き抜け天井の広い空間が店を大きく見せている。テラスは海側に開いた特等席で、晴れていたらさぞ爽快な景色だろう。

ほかにも、資料館になっている龍驤館(りゅうじょうかん)、和式家屋の旧高田回漕店、ムルドルハウスという洋館の売店などがあり、博覧会のパビリオンを巡っている気分になった。

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旧海運倉庫はレストランに
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(左)吹き抜け天井の広い内部
(右)テラスは海側に開いた特等席
 

一方、山の手は司法・行政のエリアだ。国道を横断して石段を上ると、右手に旧宇土郡役所が保存されている。本館は正面の外観がみごとだ。玄関車寄せの屋根を支える柱やドーマー(明かり窓)に見られるライトブルーのしゃれた装飾は、ここがお堅い役所だったことを忘れさせる。現在は船員の養成学校、海技学院の校舎として使われているが、本館内部は見学可能だ。

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旧宇土郡役所
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(左)車寄せの屋根を支える装飾柱
(右)本館会議室
 

左手には、旧三角簡易裁判所の木造建物群がある。こちらは昔の小学校のような伝統建築で、内部には西港についての説明パネルなども置かれている。「簡易裁判所は、英語でサマリー・コート summary court なんですねー」と、私は妙なところに感心していたのだが。

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旧三角簡易裁判所
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(左)平屋建ての本館玄関
(右)法廷
 

旧港の景観なら門司港が有名だし、木造洋館を見たければ長崎の山手地区がある。しかしここは人工的な要素に加えて、周囲の地形もおもしろい。海峡は狭く、指呼の間に連なる山はどれもおにぎり形で、海からそそり立っている。左奥には、本土と天草を結ぶ2本の国道橋(下注)が見え、風景にアクセントを添える。私がしきりに写真を撮っているので、「ここ気に入ったみたいですね」と大出さん。

*注 写真では1本の橋のように見えるが、アーチの天城橋(てんじょうきょう)の後ろにトラスの天門橋(てんもんきょう)がある。

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海峡をまたぐ2本の国道橋が見える
 

地形の把握には、高所からの展望が欠かせない。裁判所の裏手から山道をたどると展望所があると聞いていたので、小雨そぼ降る中、上ってみた。しかし、古い展望台からは、成長した樹木の陰になって公園の大半が隠れてしまう。少し下に、より新しい展望デッキがあるのだが、木部腐食のため立入禁止になっていた。

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展望台からのパノラマ
西港の主要建物は左端の木の陰に
 

■参考サイト
宇城市-三角西港 https://www.city.uki.kumamoto.jp/nishiko/

バス停に戻り、次の目的地へ移動すべく、熊本と天草の間を走る路線バス、快速「あまくさ号」を待った。「長部田海床路(ながべたかいしょうろ)」は遠浅の有明海を代表する景観の一つで、宇土半島の付け根、宇土市住吉町にある。

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(左)三角西港バス停の待合所
(右)快速「あまくさ号」
 

バスは、国道57号線で半島の北岸を走っていく。初めは山が海に迫る崖ぎわの道だが、網田のあたりから波が遠のき、磯浜が広がり始めた。「あまくさ号」は最寄りの長部田には停まらないので、住吉駅前で降りた。長部田へは1.5km、徒歩で20分ほど戻る形になる。

クルマに水をはねかけられそうな国道の狭い歩道を避けて、集落の中の道をたどった。このエリアの地形図は1:25,000の精度のままで、細かい道は描かれていない。グーグルマップを頼りに歩いたが、長部田の踏切までちゃんと小道が続いていた。

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(左)線路沿いの小道を伝って長部田へ
(右)三角線の列車を見送る
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長部田周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

海床路というのは、干満差が大きい海でノリの養殖などを行うために、岸から沖へ延ばされた作業用道路のことだ。長部田のそれは1979年に造られ、長さが約1kmある。日没後も利用されるので、街灯が設置されている。潮が満ちてくると道路は水没し、電柱と街灯の列だけが海原の上に取り残される。この幻想的な光景が評判になり、今や人気の観光スポットになっている。

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雨の長部田海床路
 

本日の満潮は12時51分、干潮は19時57分だ。訪れたのは16時前後で、海床路はもうかなり沖まで路面が露出していた。「けっこう潮が引いてますね」「行きの列車から見た景色とはだいぶ違うなあ」。このあたりの干満差は最大5mもあるといい、遠浅の地形とあいまって、潮の満ち引きの速さは想像以上だ。今は干潮に向かう時間帯で、風も弱いので、道路が水に浸る地点まで歩いていった。

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(左)電柱を這い上るフジツボ
(右)緑のノリで覆われた路面
 

土台が露わになった電柱には、2m近い高さまでフジツボがぎっしり貼りついている。潮位が高くなると、そこまで水没するということだ。沖へ行くにしたがって、濡れた路面は緑のノリで覆われ、ぬるぬるしてきた。電柱は全部で24本あるそうだが、たどり着けたのはざっとその2/3までだ。そこから先は、にび色の海の中に残りの電柱と、ブラシのような海苔の支柱が、列になって浮かんでいる。日没の時刻にはまだ早いが、あたりは薄暗く、電灯にももう明かりが灯る。

最後まで雨に降られた旅だったが、茫漠とした寂寥感が漂うこの情景も悪くなかった。住吉駅までまた同じ道を戻り、熊本行の列車に乗り込んだ。

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海に浮かぶ電柱の列
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図熊本(昭和52年編集)、八代(昭和52年編集)および地理院地図(2022年6月1日取得)を使用したものである。

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