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2022年4月

2022年4月20日 (水)

コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡

2021年11月14日の朝、バスで西市(にしいち)に着いたその足で、近くの道の駅「蛍街道西ノ市」に展示されている旧 長門(ながと)鉄道の蒸気機関車を見に行った。1915年アメリカ製、動輪3軸の小型機で、鉄道開業に際して配備された101号機関車だ(下注)。

*注 プレートが103になっているのは、後に転籍したときに改番されたもの。

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長門鉄道101号機関車
道の駅「蛍街道西ノ市」にて
 

戦後1947年に滋賀県の繊維工場に転籍し、入換機関車として使われたが、1964年に引退。その後は、宝塚ファミリーランド、続いて加悦(かや)SL広場で静態展示されていた。しかし、後者の閉館によって、ゆかりの土地への引き取りが決まり、去る9月に移送が行われた。公開はほんの1週間前に始まったばかりだ。

里帰りを果たした機関車は、道の駅の建物に囲まれた中庭に鎮座していた。しっかりした屋根が架かり、明らかに施設の中心的モニュメントという位置づけだ。SL広場では数ある機関車コレクションの中の一両に過ぎなかったので、特別に注目を浴びることもなく、雨ざらしになっていた(下写真参照)。それを思えば別格の待遇だから、さぞ本人(?)も晴れがましく思っていることだろう。

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道の駅の中心的モニュメントに
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加悦SL広場時代の101号機(左端、2020年2月撮影)
 

秋のコンター旅西日本編の2日目は、この機関車が走っていた長門鉄道の廃線跡をたどる。鉄道は山陽本線小月(おづき)駅から北上し、ここ西市(現 下関市豊田町西市)に至る18.2km、単線非電化の路線だった。1918(大正7)年に開業し、戦前戦後を通じて地域の交通を担ったが、1956(昭和31)年に廃止となり、バス転換された。

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長門鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1931(昭和6)年部分修正図)
 

朝からいきなり終点の町にやって来たのは、前泊した美祢(みね)市街との間にバス路線があるからに他ならない。小月からも鉄道代替のバスが通っているので、ここで参加者が落ち合い、起点に向かって歩くことにしている。

ちなみに、美祢駅前からブルーライン交通の豊田町西市(とよたちょうにしいち)行きに乗ったのは、大出さんと私。ローカルバスの旅は退屈することがない。この間を結ぶ国道435号にはすでに立派な新道が完成しているが、バスは律儀に旧道を経由するからだ。車窓から美祢線の旧 大嶺駅の現状が観察できたし、平原からの峠越えでは、道に出てきた野生の鹿を目撃した。「次はー、しももものき」という車内アナウンスには、思わず漢字表記(下桃ノ木)を確かめてしまった。

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(左)ブルーライン交通バス、美祢駅前にて
(右)サンデン交通バス、豊田町西市バス停にて
 

本題に戻ろう。道の駅で機関車の現況を見届けた後、サンデン交通のバス停へ引き返し、小月から来る中西さんを待った。本日も参加者はこの3名だ。

まずは、西市駅跡へ向かう。駅は町の西側に置かれていたが、さらなる延伸(下注)を意図したからか、街路の軸とは少しずれている。跡地に建つ豊田梨の選果場の平面形がやや西に傾いているのは、そのためだ。

*注 計画では、陰陽連絡鉄道として、日本海側の仙崎(現 長門市)を最終目的地にしていた。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
西市~西中山間
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同区間 現役時代
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大
(1927(昭和2)年要部修正および1936(昭和11)年修正測図)
 

選果場の壁面に「にしいち」の駅名標が立っていた。もちろん当時のものではなく、2018年の設置らしい。傍らの説明板には、駅敷地北側にある米の備蓄倉庫が当時をしのばせる、と記述されている。選果場の西隣にあった農業倉庫を指すようだが、建物はもう跡形もなかった。鉄道が来ていたことを示すものは、今や県道の向かいの公民館前庭に置かれているという、レールと動輪のモニュメント(下注)ぐらいではないか。

*注 モニュメントの設置場所のことは後日知ったので、実見はしていない。

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西市駅跡
(左)跡地に建つ選果場、赤の円内に駅名標が立つ
(右)駅名標と案内板
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案内板を拡大
 

線路跡の道を南へ歩き出す。町のはずれで拡幅された県道に吸収されてしまうが、100mほどでまた分かれて一本道になった。直線と緩い曲線を組み合わせた線路跡らしい軌跡を描いていて、通るクルマも意外に少ない。森を抜けた先の小さな集落の中に、一つ目の停留所、阿座上(あざかみ)があった。ここにも同じような駅名標が立っている。

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線路跡らしい軌跡を描く道
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阿座上停留所跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

ゴルフ練習場や古墳群の前を通過し、華山(げさん)が見下ろす田園地帯を横切ると、次は石町(いしまち)駅跡だ。同じ仕様の駅名標と案内板(下注)で、位置が特定できる。ここの案内板も「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロなレンガ造りの建物として残されている」と記すが、やはり取り壊されていた。

*注 「鉄道開通百周年 メモリアル長門ポッポ100実行委員会」によるこの解説標識は旧 豊田町域にだけ立てられたらしく、以南の駅跡では見当たらない。

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(左)本浴川(ほんえきがわ)の田園地帯を横切る(北望)
(右)下関市域の最高峰、華山(げさん)
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石町駅跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

線路はこの後、県道34号下関長門線の東側を走っていたはずだが、圃場整備と県道の拡幅により跡は消失している。まだ先は長いので、時間節約と体力温存のために、サンデン交通のバスが来るのを待った。地方バス路線の縮小が進むなか、うれしいことに小月~西市間では、まだ日中1時間に1本程度の便がある。石町から次の西中山までわずか5分乗っただけだが、これで3kmほど前へ進むことができた。

西中山バス停の1kmほど手前から、県道と木屋川(こやがわ)との間に側道が続いていることに気づいていた。川はすでに下流にある湯の原ダムの湛水域に入っていて、その護岸の役割を果たしているが、位置からして廃線跡のようにも見える。

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バスで石町から西中山へ
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(左)西中山駅跡から北望、側道は廃線跡か?
(右)側道はダム湖沿いの自転車道になる
 

西中山を過ぎると、この側道は県道と分かれ、ダム湖沿いの自転車道となって独立する。湯の原ダムは1990年の竣工だから、鉄道の現役時代は、河岸の崖をうがつ形で線路が敷かれていただろう。道なりに曲がっていくと、やがて行く手に支尾根が迫ってくる。自転車道はこれを階段道で越えていくが、鉄道は全長104mの中山トンネルで貫いていた。

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同 西中山~田部間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

トンネルの西市側のアプローチは藪化していたので、自転車道を通って小月側に回った。踏み分け道を進むと、路線唯一の鉄道トンネルが、ポータルも内壁もきれいなまま残っていた。路面はバラスト混じりの土で、ぬかるみもなく、問題なく歩ける。状態はかなり良好に見えるのに、なぜ自転車道を通さなかったのだろうか。

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中山トンネル南口
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(左)中山トンネル内部
(右)同 北口
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南口の手前に掛かる中山トンネルの案内板
 

トンネルを出た廃線跡は再び自転車道となって、富成橋の手前まで続いている。突然、「シカがいますよ」と大出さんが小声で知らせてくれた。尾根筋の上からこちらを見ている。きょう2頭目だ。カメラを向けると、気配を察したか、さっと森の奥に走り去った。

次の込堂(こみどう)停留所跡は、富成橋の南にある同名のバス停の後ろで、金網で囲われたそれらしい空き地が残っている。ここから鉄道は、旧 菊川町の平野部を横断していく。しかし、圃場整備が行われて、線路跡はほぼ完全に消えてしまっている。一軒家の敷地境界が斜めに切られているのが、ルートを推定できる数少ない手がかりだ。

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(左)廃線跡の自転車道は富成橋手前まで続く
(右)込堂停留所跡を北望
 

菊川温泉の敷地の南側で、ようやく線路跡が現れた。一部で簡易舗装されているものの、家並みの裏手をおおむね草道のまま南へ続いている。県道233号美祢菊川線とぶつかったところで、追跡を中断。近所の「道の駅きくがわ」へ移動して、昼食休憩にした。

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菊川温泉の南方、家並みの裏の草道(北望)
 

県道233号と小川を越えた南側の廃線跡も、手つかずの築堤が残る貴重な区間だ。さらに南へ進むと、中間の主要駅だった岡枝(おかえだ)駅の跡がある。広い構内は定番のJA(農協)用地に転用されていて、西市や石町では見ることが叶わなかった農業倉庫もまだ残っている。駅跡より南は、宅地や畑になっているが、その間に溝をまたぐ石積みの橋台を見つけた。

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岡枝駅跡
(左)JAの施設が建つ
(右)現役時代を偲ばせる旧「四箇村産業組合農業倉庫」
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(左)岡枝駅の南方は宅地や畑に
(右)溝をまたぐ石積みの橋台
 

岡枝駅の南方で、木屋川の支流、田部川(たべがわ)を渡る。ここには鉄道で最も長い橋梁が架かっていたが、護岸の改修が完了しており、遺構は何もない。対岸の築堤では倉庫や宅地が列をなしているが、すぐに自転車道が線路跡の位置に復帰し、田んぼの中を左にカーブしていく。

おそらく沿線で唯一プラットホームが残存するのが、田部停留所だ。切石積みの低いもので、住宅敷地の土台にされている。重要な史跡という意味を込めてか、久しぶりに案内板も立っていた。下関市教育委員会によるもので、ホームの全長は45m、高さ0.65mとある。

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(左)田部川渡河地点、対岸に見える倉庫は廃線跡に建つ
(右)自転車道が跡地に復帰
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切石積みのホームが残る田部停留所跡(北望)
 

枝を大きく広げる桜並木を過ぎると、道は上り坂に転じ、県道265号とともに切通しを抜けていく。雨でのり面が崩壊したらしく、全面通行止の看板が立っていたが、歩いて通るには問題がなかった。

県道と斜めに交差した直後に、上大野停留所があった。県道脇に三角の緑地帯が取られ、立派な桜の木の根元に、小さな駅跡碑が埋まっている。

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(左)桜並木から上り坂に
(右)上大野まで坂道は続く
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上大野停留所跡を北望
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同 田部~小月間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

水路敷設工事による迂回区間の後は、山手を縫う簡易舗装の農道になった。クルマの行きかう道から遠ざかるので静かで、気持ちよく歩ける。途中で、「6」(600mの意?)の数字が刻まれたコンクリート製の距離標を見つけた。鉄道時代の遺物だろうか。

森が覆いかぶさる緑のトンネルをくぐってなおも行くと、県道が左から近づいてきて、合流した。下大野駅のあった場所にも、同名のバス停が設置されている。小月と菊川の間は国道491号を行くのが最短ルートだが、バス便のうち4割ほどは、鉄道と同じく遠回りの大野経由で運行されているのだ。

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(左)山手を縫う簡易舗装の農道
(右)コンクリート製の距離標
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(左)用水路のサイホン
(右)緑のトンネル
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(左)下大野で県道と合流
(右)下大野駅跡のバス停
 

右へ折れ、再び谷あいに入ろうとする地点では、中国自動車道に沿って高く盛った築堤が一部残っている。この後で越える峠のために、かなり手前から高度を上げていたことがわかる。しかし、廃線跡はすぐに高速道の下に取り込まれてしまう。峠といっても標高40mほどに過ぎないが、だらだらと続く長い坂道で、歩き疲れた足にはこたえる。

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(左)峠に向けて盛られた築堤
(右)だらだら坂のサミット
 

次に線路跡が明瞭に現れるのは、峠を降りた上小月で浜田川を渡る地点だ。左にそれる県道に対してまっすぐ延びる道をぼんやり歩いていたら、大出さんが「橋台が残ってますよ」と、隣に並行する道を指差す。確かに切石積みの橋台が見える。今歩いているのは2車線道になる前の旧道で、廃線跡は、並行するこの小道のほうだった。

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(左)浜田川を渡る旧道脇の廃線跡
(右)浜田川の切石積み橋台
 

菊川町からまっすぐ南下してきた国道491号とは、ここで出会う。廃線跡はその下に埋もれてしまったものと思い込んでいたが、観察眼の鋭い大出さんが、小川を通すカルバート(暗渠)の向こうに、また橋台を見つけた。さっきと同じ切石積みだ。この前後では廃線跡と国道が絡み合うように走っており、一部分が国道の西側に残っていたのだ。

中国自動車道をくぐる手前には、川べりを走る小道と廃線跡が一体化されたにもかかわらず、低いコンクリート柵が中央分離帯のように残されている場所があった。クルマにとっては危険な障害物だが、地元の人たちは慣れているのだろう。

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(左)国道491号の西側に残る橋台
(右)中央分離帯のようなコンクリート柵を北望
   左側の道が線路跡
 

小月インターのランプをくぐると、いよいよ小月の市街地に入る。ここでも意外に廃線跡を見つけることができた。新幹線と交差する前後は拡幅済みで、そのうち片側1車線の街路になるのだろう。その先にあった長門上市(ながとかみいち)駅の跡は、すっかり宅地化されたが、中央に細道が通っている。しかし微妙に曲がっていて、かつ狭すぎるから、線路敷をなぞったものではないだろう。浜田川に接近する地点では、護岸改修の影響で不分明になってしまうが、その南側では、街中の地割に廃線跡の名残がある(下図参照)。

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小月市街地の廃線跡
(左)新幹線と交差する前後は拡幅済み
(右)長門上市駅跡は宅地化、中央に細道が通る
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地籍界に残る廃線跡(赤円内の細長い地割)
 

長門鉄道の主要貨物は沿線で生産される米や木材で、起点の小月駅には、こうした貨物を取り扱う広いヤードがあった。また、鉄道廃止後も、駅前に生まれた空地が商業施設や駐車場に再利用され、町の賑わいに貢献しただろう。しかし、そうした歴史を語る説明板一つ立てられていないのは残念なことだ。

今はどちらも下関市域だが、終点の旧 豊田町が鉄道史の保存や紹介に熱心に取り組んでいるのを間近に見た後では、いささか物足りなさを覚える。長門鉄道が外界とつながる生命線だった内陸の西市と、早くから全国幹線が通じていた小月とでは、思い入れに強弱の差があるのは仕方ないのかもしれないが。

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(左)小月駅跡は商業施設や駐車場に
(右)山陽本線小月駅
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田部(大正11年測図)、小月(大正11年測図)、5万分の1地形図西市(昭和2年要部修正)、舩木(昭和11年修正測図)、20万分の1地勢図山口(昭和6年部分修正)および地理院地図(2022年4月10日取得)を使用したものである。

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2022年4月 4日 (月)

コンターサークル地図の旅-秋吉台西台のウバーレ集落

地表の風貌が独特なカルスト台地は、地図好き、地形好きにとって興味の尽きない場所だ。台地は石灰岩やドロマイトなど可溶性の岩石によって形づくられ、表面に川というものがない。代わりに大小無数の窪地が口を開けていて、雨水はそこから地下に浸透してしまう。このすり鉢状の窪地がいわゆるドリーネだ。隣接するドリーネどうしがつながって、より大きな窪地に拡大したものはウバーレと呼ばれる(下注)。

*注 もっと広いものにはポリエという名称がある。

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江原ウバーレ集落
 

2021年11月13日、コンターサークル-S 秋の旅西日本編1日目は、山口県西部にある日本最大のカルスト台地、秋吉台(あきよしだい)を訪ねた。ここには、全国的にも珍しいウバーレ集落がある。ウバーレの底で集落が営まれているのだ。

秋吉台は、北東から南西方向に長さ16~18km、幅6~8kmにわたって広がるが、中央を厚東川(ことうがわ)が南北に貫いていて、その谷によって大きく東台と西台に分けられる(下図参照)。私たちがふつう思い浮かべる秋吉台は、実は東台のことだ。秋芳洞(あきよしどう)など大小の鍾乳洞や、波打つ草原の台地があり、国定公園に指定されている。

対する西台も面積は同規模だが、こちらは産業地区の側面をもつ。東部と南部で、セメントなどの材料となる石灰岩の大規模な採掘場が操業しているほか、一部は牧場として開拓されている。しかし、森も案外多く残されていて、ウバーレ集落があるのは北西部のそうしたエリアだ。

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図1 秋吉台とその周辺
基図は1:200,000地勢図
 

集落は二つあり、南のほうが入見(いりみ)、北が江原(よわら)と呼ばれる(下注)。地形図を見ると、集落が載る場所には、等高線にヒゲのような短線が施されていて、周囲より低い土地であることがわかる。ウバーレの特徴である複数の窪みも明瞭に読み取れる。

*注 このほか、入見の南方にある奥河原(おくがわら)も、南に出口をもつポケット状のウバーレに立地する。

集落はどちらも、周囲から隔絶された土地だ。凹地という地形的な特徴とあいまって、隠れ里の気配さえ漂うが、実際にはどんな場所なのだろうか。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆

朝9時過ぎ、美祢(みね)線の美祢駅前に集合したのは、中西、大出、私の3名。歩いて向かうには遠いので、タクシーで入見集落の入口まで行ってもらった。

重安付近で国道316号から右にそれ、狭い谷の一車線道(県道239号銭屋美祢線)をさかのぼる。この谷が入見まで連続しているのだが、実は地図に記された180m標高点がサミットで、そこから一転、下り坂になる。ウバーレ(のうち南側のドリーネ)の集水域に入ったわけだ。

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美祢駅に朝の下り列車が到着
 

タクシーを降り、三又になった分かれ道のうち、一番右側を下っていく。側溝を勢いよく滑る水の後を追うと、まもなく集落が現れた。多くの家が艶光りする赤茶色の瓦を載せている。タクシーの運転手さんが、「この辺はだいたい石州瓦ですよ」と言っていたのを思い出した。石州瓦は石見国、すなわち島根県が主産地で、西日本の日本海側の家屋でよく見られる。

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石州瓦を載せた入見集落の家並
 

側溝の水は集落を突っ切り、鯉の泳ぐ貯留槽を経て、日陰の平たい谷底へ続いていた。森のきわに沈殿池があり、白濁した水に泡が浮いている。生活排水も当然、ここに合流してくるのだ。コンクリートの覆いに鉄格子が嵌っていて、覗くと深い穴が見えた。ここが吸込口に違いない。

周辺は、畔道で区切られた田んぼが広がる。カルスト地形は一般に保水性が低く、稲作には不向きなのだが、凹地(ドリーネ)の底には例外的に肥えた粘土質の土が堆積し、貴重な耕作の場を提供している。

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(左)側溝を流れる水の後を追う
(右)森のきわの吸込穴
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ドリーネの底に広がる田んぼ
 

集落の小道を北へ向かう。途中、何度か住民の方に出会ったが、挨拶すると「おはようございます」とていねいに返してくれるのがうれしい。ウバーレ集落も今や隠れ里どころか、観光サイトにビュースポットとして紹介される存在だ。よそ者が歩き回るのも珍しいことではないのだろう。

入見ウバーレには、北側にもう一つドリーネがある。規模は小さいが、深さでは勝り、すり鉢状の地形がよく把握できそうだ。地図には水田の記号が見えるものの、行ってみるとすでに耕作は放棄され、草原化していた。溝の中をちょろちょろと走る水が、草むらの中に消えていく。幽ヶ穴と呼ばれる吸込口に入るはずだが、丈の高い草が茂っていて確かめようがない。

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入見集落北側のドリーネ
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(左)幽ヶ穴に向かう水流
(右)ドリーネの底の休耕田
 

入見集落の探訪を終えて、先刻の三又に戻り、もう一つのウバーレ集落、江原(よわら)をめざした。県道はくねくねと山を上り、小さな峠を越える。降りていくと道端に、集落の一部を見下ろす展望地があった。「丘の空」と呼ばれ、「ミステリーホールの謎に迫る」と興奮気味のコピーを記した案内板が立っている。

江原ウバーレは入見のそれより大きく、南北1km、東西7~800mの楕円形をしている。凹地の底まで、展望台からでも高低差が40mほどあり、まさに大鍋の内側という印象だ。そこに40戸ほどの家が建ち並ぶ。

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「丘の空」から望む江原集落の一部
道端に赤い案内板(内容は下写真参照)
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「丘の空」の案内板
 

急な坂道を小走りに下って、集落の中へ。道からそれる水路を追って、溝蓋の上を歩いていくと、金網のはまった吸込穴とおぼしき場所に行き着いた。資料(下注)によると、1989(平成元)年に新設されたもので、これにより大雨の際に浸水被害に遭うことがなくなったという。周囲の地形を見渡すと、確かにここが一番底ではない。実際、別の小さな溝が北側へ水をちょろちょろと運んでいて、その先で草むらに消えていた。そこに本来の吸込穴があるのだろう。

*注 美祢市地旅の会、堅田地区まちづくり協議会「美祢市別府のお宝さがし-ウバーレの秘密 江原地区」

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(左)溝蓋の下にもぐる水路
(右)1989年新設の吸込穴
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(左)1989年の吸込穴は奥の山際にあるが、溝の水は手前に流れてくる
(右)旧 吸込穴へ消えていく溝の水流
 

集落中央の丘の上にある水神社へ行こうと、モミジの落ち葉を踏んで急な階段を上る。小ぢんまりした境内の一部は、かつての別府小学校江原分校の跡地だ。建物も基礎もすでになく、プールだけが防火水槽に転用されて残っている。この集落では1940(昭和15)年に大火事があり、大半の家屋が焼失した。それを教訓にした備えに違いない。

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(左)水神社への石段
(右)水神社祭殿
  右に分校跡碑、左に旧プールがある
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分校跡から集落を俯瞰
 

ここで昼食休憩。それから、ウバーレ東斜面の宅地に残る「岩屋」を見に行った。カルスト台地の特徴の一つでもある石灰岩の露頭なのだが、ここでは家の塀に代用(?)されたり、庭石に見立てられて(?)いたりする。山水画を実写化したかのようで、とてもおもしろい。その手前には、鉄格子をかぶせた小さな吸込口があった。資料(下注)で言及されている「標高約170mにある吸込み穴」のようだ。

*注 ウォーキングひろめ隊、美祢市健康増進課「秋芳町別府江原 ウォーキングマップ」。

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岩屋
(左)塀の代用(?)
(右)立派な庭石にも(?)
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岩屋近くの吸込穴
左写真の物置小屋の軒下に、右写真の吸込穴がある
 

さて、この後は美祢線の於福(おふく)駅まで歩く予定だが、問題はこの石灰岩の台地をどう越えるかだ。県道は北へ抜けているので、それに従うとかなり遠回りになってしまう。一方、地形図には、ウバーレの西側の「台山」に多数の実線道路(幅員3.0m未満の道路)が描かれていて、近道に見える。

台山は、名のとおり石灰岩の台地だ。そう聞くと、東台のようなススキたなびく草原地帯が頭に浮かぶが、あれは、毎年春先に山焼きをして人為的に維持されているものだ。日本のような高温多湿の気候では、放っておくとやがて森に還る。台山も一面、自然林ないしは人工林で、空中写真では道すら見えない。

県道横の集会所で地元の方に尋ねると、「昔、車のないころはみなこの山を越えて於福駅まで歩いとった。今はもう誰も通らなくなって、道がわからなくなっとると思うよ」とのこと。進むべきか迷うところだが、近年の地形図は大縮尺の国土基本図を資料にしていて、道路情報はかなり詳細だ。藪がひどければ戻ってくればいい、と決行することにした。

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(左)台山へ登る林道
(右)獣除けネットの先はわだち道に
 

県道から分岐する林道にとりつく。台地のへりを上る区間は急勾配だったが、路面はしっかりしていた。「林道をまっすぐ行くと、山の上へ出てしまうから」とさきほど聞いたので、西へ抜けるには、どこかで左に折れなくてはいけない。ところが坂を上り切り、道が平坦になるとまもなく、左側の森を背丈以上もある獣除けのネットが覆い始めた。

地形図と照合しながら、左折点を特定する。幸いなことに、そこはネットの一部が開閉式になっていて、紐で縛ってあった。紐を解いて中へ入り、もとどおりに直しておく。その先は、深い森の中を轍の道が延びていた。降り積もった落ち葉で、踏むたびにふわふわと弾む。と右側に、小さいながらも形のいいドリーネが現れた。杉林に覆われているが、底のほうの木がより大きく育っているのは、養分が豊富な証拠だ。

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杉林のドリーネ
 

車の轍は途中で消えてしまったが、光が届かないので下草は深くなかった。しばらくするとまた左にネットが現れ、それに沿って進むうち、無事に簡易舗装の林道へ出ることができた。地形図に描かれている建物は養鶏場のようだったが廃屋で、点在しているように見える耕作地もすでに雑木林だ。しかし道筋だけは明瞭で、北へ向かっている。周りにはドリーネがいくつもあり、カルスト地形を実見できる。

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笹原のドリーネ
 

台山のへりまで来ると、道はヘアピンを繰り返しながら、比高約170mの急斜面を下降していた。山側は石灰岩剥き出しの崖で、スリットが無数に入り、今にも剥落しそうだ。汽車に乗るためにこの道を往復していたという江原の人たちの苦労に思いを馳せながら歩く。その美祢線が通る谷底平野の眺望には少し期待していたのだが、森に遮られ、ほとんど最後まで見ることができなかった。

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台山のへりを降りる
(左)石灰岩剥き出しの崖
(右)道はヘアピンの繰り返し
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谷底平野から振り返り見た台山
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図山口(昭和61年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
秋吉台ジオパーク http://mine-geo.com/

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