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2022年3月

2022年3月26日 (土)

コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道

多古線を歩いた翌日2021年10月17日は、あいにく本降りの雨になった。朝はまだ小雨だったので、外房線の下り列車で出かけた。集合場所は、行川(なめがわ)アイランド駅。ご承知のとおり、フラミンゴやクジャクのショーで有名な一大観光施設の最寄りだったが、それも20年以上前の話、今は小さな待合所があるのみのうら寂しい無人駅に過ぎない。

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雨の行川アイランド駅に入る下り列車
 

2両編成の電車から降りたのは、中西さんと私の二人だけだ。大粒の雨が風に乗って斜めに降ってくるが、「とりあえず『おせんころがし』まで行ってみましょう」と歩き出す。「おせんころがし」というのは、太平洋に落ち込む断崖絶壁の上を通過していく旧街道きっての難所のことだ(下注)。強欲な地主の父親の身代わりとなって、崖から投げ落とされた(別の説では自ら身を投げた)娘お仙の悲話が伝えられている。

*注 伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)の一部で、大正期に建設された大沢第一、第二トンネル経由の道路(以下、旧国道)に取って代わられた。

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おせんころがしに立つ供養塔
 

国道128号線から左にそれ、狭い谷間の通路を伝っていくと、にわかに目の前が開けた。そこは海からの高さが優に50mはある断崖の上で、お仙の供養塔が立っている。道はそこで行き止まりだった。地形図に描かれている大沢との間の破線道(徒歩道)を探そうとしたが、丈の高い草に覆われて入口さえ定かでない。

その間にも雨は降りつのり、西へ延びる険しい海岸線も白く煙ってきた。悪天候を見込んで登山用の装備を整えてきた中西さんに比べ、私はウィンドブレーカーと旅行用の折り畳み傘という軽装だ。すでに足元はずぶぬれで、冷えが伝わってくる。これから歩く距離を考え、弱気になった私は早々とギブアップを宣言、旧国道を進む中西さんを見送って、駅に戻ることにした。

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険しい海岸線が雨に煙る

とはいえ、これでは土産話にもならないので、天気が回復した翌日、単独で同じコースに再挑戦した。今回はそれをもって、コンター旅の報告に代えたいと思う。

この地へ来た目的は二つある。一つは、夷隅川(いすみがわ)源流で河川争奪によって生じた風隙を観察することだ。夷隅川は、太東崎(たいとうざき、下注)の南で太平洋に注ぐ河川だが、その流域を地図で塗り分けて見ると興味深いことがわかる(図1参照)。

*注 太東埼、太東岬(たいとうみさき)とも表記する。

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図1 夷隅川の流域
青の破線が分水界、最南端に上大沢がある
基図は1:200,000地勢図、図中の木原線は現在のいすみ鉄道
 

勝浦から西では、青の破線で示した流域の境界線、すなわち分水界が太平洋岸ぎりぎりまで迫っている。海との距離はせいぜい1~2kmだ。分水界は川の最上流部なので、それが限りなく海に近いというのは常識から外れている。

なぜこのようなことになるのか。謎を解く鍵が、分水界のいたるところで見られる風隙(ふうげき)だ。これは谷の断面が露出したもので、浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象の結果、しばしば生じる。この地域は南から北に向かって傾斜する傾動地塊で、夷隅川はそれに従い、海に注ぐまで60kmほどもゆったりと流れ下る。一方、分水界の反対側は、海に面して急傾斜だ。この河川勾配の違いが浸食力の差となって、夷隅川の流域は南から削られ続ける運命にある。

もう一度、上の流域図をご覧いただきたい。流域の南端に出っ張った部分が見つかるだろう。図2、図3がその部分の拡大だが、ここにも風隙がいくつかあり、「上大沢」集落が載るのもそうした場所だ。夷隅川の源流域に当たり、標高は約135m。にもかかわらず、海岸との水平距離はわずか300m強しかなく、流域では最も海に近づく。源流の先に太平洋が開ける。この奇跡のような地形に一度立ってみたいと、かねがね思っていた。まずはこの目的を果たすことにしよう。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
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図3 大沢周辺を2倍拡大
 

昨日と同じように、行川アイランドで電車を降りた。その足でおせんころがしを再訪する。実はここも風隙だ。夷隅川の流域ではないのだが、太平洋の荒波に削られて、同じように小さな谷の断面が断崖上に露出している。

風隙とは英語の Wind gap(ウィンド・ギャップ)の訳語で、風の通り道になる地形の隙間のことだ。確かに海からの強風が谷間めがけて吹き込んで来るが、景色は、雨の日とは一変してクリアだ。太平洋の大海原から、波打ち際にそそり立つ屏風のような断崖まですっきりと見渡せる。

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(左)おせんころがしへの小道
(右)ここも風隙地形
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おせんころがしから太平洋の眺望
 

国道まで戻り、おせんころがしの険路を避けて山側につけられた旧国道に回った。海に突き出た山脚を、1921(大正10)年開通の2本のトンネルが貫いている。東側の大沢第一トンネルは長さ80m、西側の第二トンネルは同112m、その間の狭い谷間に肩を寄せ合うようにして、下大沢の集落(下注)がある。

*注 地形図には、行政地名の「大沢」と通称地名の「上大沢」のみが記されているが、海沿いの集落は下大沢、山上の集落は上大沢と呼ばれ、その総称が大沢になる。

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大沢第一トンネル
(左)東口
(右)奥に見える第二トンネルの間に下大沢の集落がある
 

目指す風隙はこの谷の上だ。旧国道を離れ、家並みを縫う坂道を進んでいくと、八幡神社の手前から急な階段道に変わった。すれ違った地元の方に「上まで行けますか」と尋ねたら、「どてら坂ですね。登れますよ」との答え。坂に名がある(下注)ということは、よく利用されているに違いない。

*注 後述する研究報告には、急な登りで、どてらを着込んだように汗をかくことから「どてら坂」の名がついたとの説が紹介されている。

細い山道を想像していたのだが、それどころか幅1~2mの、コンクリートで舗装された階段が続く。途中に墓地があり、海を見下ろす墓碑の前に花が供えられていた。道は何度も折返しながら、高度を上げていく。振り返ると集落の屋根は下に沈み、太平洋の水平線が目の高さに上がってきた。

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(左)どてら坂はこの斜面を上る
(右)コンクリート舗装の階段道
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(左)下大沢の集落が眼下に
(右)谷壁を照葉樹林が覆う
 

山上の上大沢集落まで10分ほどだった。十数軒の家が建ち並ぶなか、道が夷隅川の源流を横切る場所まで行ってみる。源流というと森の奥の清流というイメージだが、ここでは住宅裏を通るふつうのU字溝で、水もお湿り程度に流れているだけだ。

この地域を調査した研究報告(高地伸和・関 信夫「源流の先は大海原-千葉県夷隅川源流部の特異性」『地理』52-5, 2007, pp.69-73)によれば、ふだんはこうして夷隅川へ水が流れているが、大雨で増水すると、集落の上手にある仕切り板から海側の沢へ排水されるようになっている(図3参照)。下流がU字溝で足りるのはそのためだろう。

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(左)山上の集落、上大沢
(右)夷隅川源流のU字溝
 

お目当ての風隙のきわへ移動する。この風隙は、谷の横断面ではなく側面が開析されているため、かなり広い。高台のいわば一等地とあって家が建て込んでいたが、住民の方に一言断って、通路の隅から眺めさせてもらった。照葉樹林が形作る額縁の先に、太平洋の青い水平線が一文字に延びる。沖合を一隻の船が進んでいく。これほど見晴らしのいい風隙もなかなかないと思う。

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上大沢の風隙からの眺望
 

念願を果たしたことに満足して、階段道を戻る。下大沢と上大沢という地名、その間を結ぶ整備された階段道、これは両集落に深い関係があることを示すものだ。

上記研究報告によると、漁村の下大沢と農村の上大沢は、生業面や生活面(民俗面)で一つの集落として機能しているという。具体的には、上大沢の住民も大沢漁協の漁業権をもち、漁に出る。また、海の状況を把握する山見の場所「やまんば」は上大沢にある。反対に、下大沢の住民は上大沢に耕地を有している。そして、祭りその他集落の行事は共同で行われる…。

地形の特異性が、ここでは日々の生活に上手に活かされている。以下は私の想像だが、寺や神社が下大沢に集中するところから見て、先に定住地として成立したのは下大沢だろう。そして漁のかたわら、平坦な土地のある山上(上大沢)へ行って農耕をしていた。分家などが進み、下大沢の土地が不足してくると、山上に住居を建てる人も現れた。こうして集落は見かけ上二分されたが、おそらく親戚関係もあって、人々の意識の上では一集落であり続けているのだ。

下大沢では港のようすを眺めようと、旧国道の第二トンネルではなく、線路と国道のガードをくぐって海岸まで降りた。港の端から、おせんころがしへ向かう旧街道の道筋もよく見えるが、藪化がかなり進行しているようだった。

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下大沢のガードをくぐって港へ
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大沢港
背後の断崖がおせんころがし
 

港から旧国道へ上がって、西へ向かって歩き始める。この地へ来た目的の二つ目は、この旧国道だ。山(夷隅川流域)が海に迫るため、下大沢から約1.2kmの間、道は波洗う断崖の中腹をうがって通されている。おせんころがしには及ばないものの、それでも海面から20~30mの高さがある。また、国道の新道ができているので、交通量は少なく歩きやすいと予想した。

期待は裏切られなかった。大海原の開放的な眺めはいうまでもない。もとは国道だから車が通行できる道幅で、ガードレールもある。落石注意の標識が林立するのを気にしなければ、すばらしいハイキングルートだ。

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断崖の中腹に通された旧国道
おせんころがしから遠望
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断崖の旧国道
(左)落石注意の標識が立つ
(右)入道ヶ岬が近づく
 

ところが少し行くと「この先全面通行止」の標識が立っていて、傍らにいた警備員さんが「工事をしているので、途中までしか行けませんよ」と言う。一瞬迷ったが、ここですごすごと引き返すわけにもいかない。「行けるところまで行ってみます」と挨拶して、歩き続ける。当該個所では確かに工事車両が数台停車していたが、人ひとり通るのに何の支障もなかった。むしろ通り抜ける車がない分、気兼ねなく歩くことができた。

雀島という、海中に立つ烏帽子岩に似た岩に見送られて、旧道は小湊トンネルへ入っていく。小湊に向かっては上り坂だ。無照明で100m以上の長さがあるが、直線ルートなので出口の明かりが見えている。

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シルエットの雀島と入道ヶ岬
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小湊トンネル
(左)東口
(右)西口
 

トンネルを出ると一転、薄暗い谷間になり、蔦が絡まる杉林の間を緩やかに降りる。やがて、巨大なお堂の屋根が見えてきた。小湊山誕生寺だ。小湊は日蓮上人の生誕地で、それを記念して建立されたお寺が日蓮宗大本山の一つになっている。裏門から入って祖師堂を覗くと、何かの行事の飾り付けの準備の最中だった。

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蔦が絡まる杉林を降りる
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小湊山誕生寺
(左)仁王門
(右)祖師堂
 

ちなみに、内房線の五井駅から出ている小湊鉄道は、誕生寺への参詣鉄道として計画されたことからその名がある。現在の終点、上総中野駅からかなり遠いように思うが、直線距離では約15km。夷隅川流域から海岸へ急降下する必要があるとはいえ、目標達成までもうひと頑張りだったのだ。

総門を通り抜け、小湊の漁港を眺めながら、残りの道を歩いていく。旧国道が現在の国道と出会う地点には、日蓮交差点の標識が見えた。まだ電車の時刻には早いので、小湊の町を通り越して寄浦のトンネル水族館を見に行こう。

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小湊漁港
 

旧国道に並行して1979年に造られた全長233.5mの実入(みいり)歩道トンネルが、その舞台だ。長いトンネルを楽しく通行してもらえるようにと、美大の学生たちが腕を振るい、2005年に完成した。内壁を水族館の水槽に見立てて、さまざまな海の生き物が描かれている。カラフルで動きもほどよく表現されていて、絵を追っていくうちに、いつのまにか出口まで来てしまった。

土産話をまた一つ仕入れて、安房小湊駅から上り列車の客となる。

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実入トンネル東口
左を歩道トンネルが並行
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歩道トンネルの壁に描かれた海の生き物たち
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大多喜(昭和58年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2022年3月15日 (火)

コンターサークル地図の旅-成田鉄道多古線跡

2021年10月16日、コンターサークル-s 秋の旅1日目は、成田鉄道多古(たこ)線の廃線跡を歩く。

多古線は、千葉県の成田と八日市場(ようかいちば)の間を結んでいた30.2kmの路線だ。千葉県が県営鉄道として1911(明治44)年に開業した成田~多古間がルーツになる。しかし、運営は赤字続きで、1927(昭和2)年に成田電気軌道に売却された。成田電気軌道はもと成宗電気軌道と称し、成田山新勝寺と宗吾霊堂の間の路面軌道を運行していた会社だが、多古線等を譲り受けた後、成田鉄道(下注)に改称している。

*注 JR成田線の前身である成田鉄道とは別。

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多古線の起点だったJR成田駅前
 

その後、路線は1926(大正15)年に多古からさらに東へ、総武本線の八日市場駅まで延伸された。これとは別に1914(大正3)年、三里塚で分岐して南下し、総武本線八街(やちまた)駅まで行く八街線も開業しており、最終的に、三方で国鉄線に接続する路線網が形成された。しかし1944(昭和19)年に、戦地への資材供出が求められ、惜しくも全線で運行休止、1946(昭和21)年に正式廃止となった。

最初に開業した成田~多古間は600mm軌間の軽便規格で建設されたが、八日市場延伸を機に、1928(昭和3)年に1067mmへの改軌を完了している。このとき、ショートカットや曲線緩和といったルート改良も各所で行われており、廃線跡の一部には、600mm時代の旧線と1067mm新線の2ルートが存在する。

今回歩いたのは、主として成田空港の東側に残る千代田~多古間約10kmだ。2ルートが並存する区間では、旧線のほうを選んだ。拡幅のうえ道路転用された新線に比べて、もとの用地幅のまま林道や農道に利用されており、廃線跡の雰囲気がより深く味わえると思ったからだ。

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林道になった廃線跡(旧線五辻~飯笹間)
 

参考までに、旧線と新線のルートが描かれた旧版1:200,000および1:50,000図を掲げる。図1、3、5は大正期の刊行で、多古が終点だった旧線時代のものだ。一方、図2、4、6、7は昭和初期の鉄道補入または修正版で、東西に延びる新線と南下する八街線が表されている。ただし、図2の多古線のルートは、旧線のままで修正されていないので注意が必要だ。

これに対し、1:25,000図は大正期から昭和初期に刊行された後、昭和30年前後まで新刊がなかった。前者には旧線が描かれているが、後者の刊行は鉄道廃止後で、成田~多古間の新線ルートが1:25,000に描かれることはついになかった(下注)。

*注 後述するように、多古(多古仮)~八日市場の延伸線については、「多古」図幅の昭和2年鉄道補入版にその一部が描かれている。

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図1 多古線旧線時代の1:200,000地勢図
(1914(大正3)年鉄道補入)
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図2 同 新線時代の1:200,000地勢図
(1930(昭和5)年鉄道補入)
ただし成田~多古間のルートは旧線のまま
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図3 同 旧線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図4 同 新線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図5 同 旧線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図6 同 新線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図7 同 新線時代の1:50,000地形図 多古~八日市場間
(1934(昭和9)年修正測図)

9時21分着の電車で、芝山鉄道の終点、芝山千代田駅前に降り立つ。芝山鉄道は「日本一短い鉄道」を自称するが、京成線の電車が乗り入れているので、アクセスは容易だ。しかし容易なだけに、よそ者は必ずトラップにはまる。改札を出ようとして初めて、手持ちのICカードが使えないことに気づくのだ。かくいう私たちもなんの疑いも抱かずICカードで乗ってきたので、窓口で現金精算するはめになった(下注)。

*注 ちなみに、現金精算できるのは芝山鉄道区間の運賃のみ。京成線東成田までの運賃は、後日ICカードの入場フラグの無効化処理をしてもらうときに引き去られる。

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芝山千代田駅
 

改札前に集合したのは大出さんと私の2名。この日は曇りがちだったが、その分涼しく、歩くのにはちょうどよかった。まずは、空港の二重フェンスに沿って南へ歩いていく。500mほど行くと、多古線の千代田駅があった場所だ。成田空港の敷地に埋もれてしまった廃線跡が、ここで再び地上に現れる。JA倉庫の手前の更地から東側の民地にかけてがそうだと思うが、何ら痕跡はない。

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千代田駅跡
(左)駅跡の裏手にはJA倉庫が
(右)駅前通りを南望
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
千代田~飯笹間
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

だが、そのすぐ東から始まる緩やかな下り坂の車道は、カーブの形状から見て、まぎれもなく廃線跡の転用だ。初めは掘割になっているが、まもなく右手に路面よりも低い谷が現れた。このあたりでは、台地の平坦面と開析谷の底面との標高差が約30mに及ぶ。左の谷底に設けられた釣り堀で、その深さが実感できる。

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(左)緩やかな下り坂の車道
(右)釣り堀との高低差が際立つ
 

高谷川が流れる一つ目の開析谷を、線路は盛り土で横断していた。谷のへりにある架道橋を観察するために、右の小道を降りる。コンクリート製の橋台の下部に、門の形の妙な出っ張りがあるのだ。その部分だけ骨材の質も明らかに粗い。一説によると、これは鉄道時代の橋台だそうだ。人がくぐれる程度の高さしかないが、残りは地下に埋もれたのだろうか。それより、なぜ車道工事の際に撤去してしまわなかったのか。謎は深い。

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(左)架道橋の下道へ降りる
(右)架道橋の上から見る高谷川の谷
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壁に埋め込まれた謎の橋台(?)
 

谷を渡りきると、廃線跡は再び上り坂に転じる。歩く私たちの横を、ツバメのマークのバスが追い越していった。この道路は、成田と八日市場の間を結ぶJRバス関東 多古線の通行ルートになっている。いうまでもなくこれは、成田鉄道の廃止に伴う代行バス路線だ。

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(左)多古線の代行バスが通過
(右)廃線跡は再び上り坂に
 

道路は次の台地のくびれた部分を掘割で横断していくが、そのサミット、ちょうど台地上を南北に通る道路と交差するあたりに、鉄道の新旧ルートの分岐点があった。新線は今や車道(町道0110号染井間倉線)となって、大きく右に曲がっていく。一方、旧線は左カーブで北へ向かっていた。ただし、下の写真に見える左の小道は南北道路への接続路であり、新旧分岐点はそれより北側にあったと思われる。

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新旧ルート分岐点付近にある立体交差
(左)左の道は、上の道への接続路
(右)跨道橋の上から
 

地形図には、大きな工場の西側で県道から北に分かれる「幅3.0m未満の道路」、いわゆる実線道路が描かれている。これが旧線跡への導入路だが、グーグルマップのストリートビューで見る限り、濃い藪だ。それで私たちは、オーバーパスの道路で迂回し、反対側からアプローチすることにした。

北から林の中をまっすぐ降りていく廃線跡の小道は、最近草が刈られたらしく、歩くのに支障はなかった。しかし、林を抜け、工場に近づく手前で、側溝のある新たな盛り土に埋もれて、跡が追えなくなってしまった。

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(左)林の中の旧線跡(南望)
(右)工場の手前で盛り土に埋もれる(南望)
 

引き返して、五辻(いつじ)集落に入る。旧線五辻駅跡は放置され、ぼうぼうの草藪だったが、小道の脇の「多古町」と彫られた境界標に目が止まる。跡地は町の所有なのだろうか。後で見るように、地元でも旧線の存在はあまり顧みられていない。

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(左)左の草むらが旧線五辻駅跡
(右)多古町の境界標を発見
 

廃線跡はいったん県道に合流するが、すぐに離れ、谷を緩やかに降りていく簡易舗装の一本道になった。うっそうとした森に包まれ、おそらく農作業の車しか通らないような静かな小道だ。しかし、下の谷に降りきると、圃場整備で跡が消えてしまう。

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(左)県道から離れて簡易舗装の一本道に
(右)森に包まれた廃線跡
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(左)谷に降りても直線路がしばらく続くが…
(右)やがて圃場整備で山際に付け替えられる
 

椎ノ木集落の北側ではまた県道に吸収されるものの、すぐに南下する小道になって復活した。ここから線路は、多古橋川が流れる二つ目の開析谷を下っていく。旧線の飯笹(いいざさ)駅跡は畑に紛れてしまったが、山裾の、平底より少し高い位置に廃線跡の小道が延びている。

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(左)県道に吸収された区間(北望)
(右)南下する小道で復活
 

そのうちに、新線を転用したさっきの車道が飯笹集落の陰から現れた。道路脇に多古橋川(たこばしがわ)鉄橋跡の看板が建てられているので見に行く。2005(平成17)年の、土地改良事業による川の付け替え(とそれに伴う鉄橋の消失)の略図と説明文だが、この町道の名称や、用地が1974(昭和49)年5月に旧 成田鉄道から買収されたこと(下注)なども記されていて侮れない。

*注 成田鉄道はバス事業で存続し、1956年に千葉交通となって現在に至る。

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新線跡を転用した車道
(左)成田方(赤の円は案内板の位置)
(右)多古方
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多古橋川鉄橋跡地の案内板
 

新旧のルートが再会する地点では、左から県道79号横芝下総線も合流してくる。交通量が増えるのに、歩道がない。やむなく、近くの農道に退避した。県道脇にあったはずの染井(そめい)駅跡に立ち寄ってみたが、資材置き場で痕跡らしきものはなかった。

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新旧ルートの並行区間
(左)南望
(右)北望、新線跡の車道と旧線跡の農道が接近
 
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(左)染井駅構内は資材置き場に
(右)新線跡の国道に対し、旧線は右に大回りしていた
 

染井駅の次は、いよいよ目標の多古駅だ。旧線の駅は町の東側にあり、栗山川べりまで、さらに貨物線(栗山川荷扱所線0.8km)が延びていた。しかし新線建設に伴ってこれらは廃止され、駅は、東へ延伸しやすいように町の南端に移設された。図11は昭和2年鉄道補入版(昭和3年2月28日発行)で、旧駅と新駅(たこかりは「多古仮」で、多古仮駅のこと)がともに描かれた貴重な図だ。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
飯笹~多古間
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同 旧線現役時代(1927(昭和2)年鉄道補入)
 

八日市場への延伸線は1926(大正15)年12月に開業したが、この時点では多古から西側はまだ600mm軌間の旧線で運行されていた。西側が改軌新線に切り替えられ、同時に多古仮駅が多古駅に改称されたのは1928(昭和3)年9月のことだ。

改軌工事は、大規模なルート変更を伴った。一つは成田市街の北方を通る成田~東成田間、もう一つが今歩いている五辻の手前から多古までの間だ。後者は鉄道廃止後、拡幅されてさきほどの町道、県道79号、そして一般国道296号になった。旧線もこれと絡み合うように延びていたが、染井駅以東では戦後の圃場整備によりほとんど消失している。

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(左)斜めの水路は旧線跡に沿うものか(?)
(右)奥の信号付近に新線多古駅があった(南望)
 

国道沿いのファミレスで食事休憩の後、旧線多古駅の跡をめざした。駅は現在の町役場の東方にあったはずだが、道路沿いの宅地整備が行われた際に埋もれてしまったようだ。

街路の交差点で、「まちなか歴史散策」という案内板を見つけた。県営軽便鉄道も紹介されている。「(鉄道は)成田、三里塚及び栗山川沿いの農村の中心地多古を結び、農作物輸送のために計画されたものです。陸軍鉄道連隊から軽便材料や車両類の貸与を受けて、明治44年(1909年)10月5日に三里塚~多古間13.8kmと栗山川荷扱所線0.8kmが開業しました。」しかし、機関車の馬力が小さく、成田と多古の間に約2時間もかかるのどかな鉄道だった、とある。

それはともかく、地図に示された「軽便鉄道多古駅跡」が新線の駅の位置なのはどうしたことか。旧駅のすぐそばに立つ案内板というのに、灯台下暗しとはこのことだ。

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「多古まちなか歴史散策」案内板で県営軽便鉄道に言及
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地図に示された多古駅跡は新線のもの
 

帰りは役場前から、町の補助で1時間ごとに出ている(成田)空港第2ターミナル行きのシャトルバスに乗った。10kmほど走って、運賃は300円と割安だ。旅の趣旨からいえば、多古線の後継であるJRバスに乗るべきところだが、本数が少なくて使えなかった。このシャトルバスは千代田で空港構内に入り、空港ビルのバス乗り場まで行く。あたかもリムジンのようで、海外旅行に出かけるときの高揚感を思い出してしまった。

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空港行きシャトルバス
 

京成線で京成成田へ。まだ少し時間があるので、旧 西成田駅の手前にあった橋台の遺構を訪ねようと思う。成宗電気軌道跡の、いわゆる「電車道」を北へ歩いていく。「電車道」は右手の急坂を下り、高い築堤を経て、土木遺産にも認定されている2本の煉瓦造トンネル(成宗電車第一および第二トンネル)を抜ける。さらに急カーブで谷底まで降りていき、土産物屋が立ち並ぶ参道の手前が終点だ。

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京成成田駅前のバス乗り場が成宗電気軌道の駅跡
(朝写す)
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「電車道」
(左)京成駅前から北上
(右)第一トンネル前の大築堤
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(左)新勝寺側から見た第一トンネル
(右)成田駅側から見た第二トンネル
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
成田市街周辺
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

新勝寺の境内は台地の侵食を免れた細尾根の上にある。本堂にお参りした後、裏手の急斜面を降りた。狭いバス道路の右脇に、どっしりとしたコンクリートの橋台があった。道路をまたいでいた桁橋を支えていたものだ。ここを通っていたのは新線のほうだが、さらに北側を回っていた旧線を含め、この界隈の多古線跡では唯一の遺構だろう。

橋台は個人宅の敷地に取り込まれているように見えた。その前後も少し歩いてみたが、西(成田側)は住宅が立ち並ぶ。東(多古側)は森と一体化したような宅地や畑地で、その先に開設された西成田駅の跡地は住宅の列に置き換わっていた。

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成田山新勝寺
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新線の橋台遺構
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北側は築堤で、一段高い宅地に続く
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図成田(大正10年測図)、五辻(大正10年測図)、多古(昭和2年鉄道補入)、5万分の1地形図成田(大正2年鉄道補入および昭和9年修正測図)、八日市場(昭和9年修正測図)、20万分の1地勢図佐倉(大正3年鉄道補入および昭和5年鉄道補入)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2022年3月 2日 (水)

新線試乗記-阿佐海岸鉄道DMV

2月の晴れた朝早く、JR牟岐(むぎ)線の列車で、南へ向かう。徳島へ来た目的は、昨年(2021年)12月25日に走り始めたDMVの初乗りだ。

DMVは Dual Mode Vehicle(デュアル・モード・ヴィークル)、すなわち複方式で走る車両のことで、道路上ではバス、レールの上では鉄道車両として機能する。客を乗せたままで、一般道路から線路へと乗り入れ、線路からまた道路へ出ていく。駅でバスと列車を乗り継ぐ手間と時間を省いてくれる次世代の乗り物という触れ込みだ。

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鉄輪を出して線路を走行するDMV
(動画からのキャプチャー)
 

DMVを運行している阿佐(あさ)海岸鉄道は、第三セクターの鉄道だ。四国の南東岸を南下する牟岐線を延伸する形で、1992年に海部(かいふ)~甲浦(かんのうら)間8.5kmが開業した。しかし、DMVのモードインターチェンジ(方式の切替え場所)を海部のひと駅手前の阿波海南(あわかいなん)に設置する関係で(下注)、2020年11月から、牟岐線は阿波海南が終点、そこから甲浦までの10.0kmが阿佐海岸鉄道になった。

*注 海部は高架駅で、鉄道から道路に降りるランプ(傾斜路)が大がかりになることが理由。阿波海南は地上(盛り土)駅で、モードインターチェンジの用地も確保しやすかった。

DMVの運行経路は、阿波海南文化村から、この阿波海南~甲浦間の鉄道路線を経由して、道の駅宍喰(ししくい)温泉に至る約16kmだ(下図参照)。また、土休日は1便が、室戸岬を回った先にある「海の駅とろむ」まで遠征する。

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DMV開業を知らせる幟がはためく
 

鉄道の公式サイトは、この車両を「世界初」とうたっている(下注)。せっかくユニークなシステムに初乗りするからには、三つの命題を満たしたいと思う。

1.モードチェンジの現場を観察すること
2.鉄道区間の全駅を訪問すること
3.DMV海南~宍喰線の全線を乗ること

運行ダイヤと地図をにらみながら編んだスケジュールと当日の実行内容を、以下に記そう。

*注 実際には欧米で過去に開発例があり、とりわけドイツでは「線路・道路バス Schienen-Straßen-Omnibus、略称シストラブス Schi-Stra-Bus」の名で実用化されていた。ただし、これは(ロールボックのように)バスにそのつど線路走行用の台車を穿かせるもので、台車内蔵式のDMVとは方式が異なる。

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DMV運行ルート(開業時点)

牟岐線の徳島~阿波海南間は、普通列車で2時間強というところだ。しかし、阿南から先は閑散区間で、朝ちょうどいい時間帯に着ける便がない。それで牟岐止まりの列車に乗り、残る区間は徳島バス南部の路線バスでつなぐことにした。

列車の牟岐到着が8時42分、バスは9時30分に出るので、その間は港をぶらぶらと歩いて過ごす。下調べもせずに行ったが、浜から突堤の間を通して出羽島が見える構図には目を奪われた。

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(左)JR牟岐線牟岐駅
(右)上下列車の交換
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牟岐港の突堤の間から出羽島が望める
 

駅から300mほど離れた営業所の玄関先から、海の駅東洋町行きのマイクロバスに乗り込んだ(下注)。客は私一人だ。運転手さんには、海南病院で降ります、としか言わなかったのだが、「DMVですね」と図星を突かれた。一般に浸透しているとはいえない新語が、ふつうに口の端に上るのに感心する。

*注 このバスは牟岐(=営業所前)が起点で、牟岐駅前には停留所がないので注意。

バスは国道をスムーズに走って、海南病院に9時50分に到着した。DMVの起点、阿波海南文化村はすぐ隣だ。海陽町が造った町おこしの施設で、広い敷地に博物館や多目的ホールなど複数の建物が配置されている。DMVの乗降場はその門前にあった。サーフボードの形をした停留所標識が木造の待合室の傍らに立っている(下注)。

*注 車で訪れた場合は、文化村の広い駐車場が利用できる。また、主要停留所や観光施設にはスマホで手続きできるレンタサイクルもある。なお、この路線バスで阿波海南駅に直接行く場合は、「海部高校前」バス停下車、国道を南へ200m。

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DMVの起点、阿波海南文化村停留所
標識はサーフボードの形
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阿波海南文化村
(左)複数の施設を配置
(右)船形だんじり「関船」の展示館
 

しかし、肝心のDMVはわずか8分前に出たばかりだ。本数が少ないにもかかわらず、各交通機関が独立的に運行され、相互接続があまり考慮されていないのには驚くばかりだ。とはいえ、スケジュールにはそれも織り込み済みで、次の下り便までの間に、徒歩で先回りすることにしている。阿波海南駅まで約1km、10分ほどで歩ける。ついでに、途中のコンビニで昼食を仕入れよう。

阿波海南では、JR駅のホームの横にある駅前交流館の奥に、乗降場(阿波海南駅停留所)とモードインターチェンジ(阿波海南信号所)が設置されていた。もとは牟岐線の線路がまっすぐ南へ続いていたのだが、今は切断され、左側のインターチェンジから出た線路に置き換えられている。阿波海南文化村から道路を走ってきたDMVは、この線路を伝って甲浦方面へ向かう。

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牟岐線の終点 阿波海南駅
(左)片面ホームの無人駅
(右)線路は切断、DMVは左へそれてモードインターチェンジへ
 

JR線との線路分断は、三セク転換されたローカル線にしばしば見られるものだ。しかし、ここは少し事情が異なる。マイクロバスの車体をベースとするDMV車両は軽量のため、軌道回路で列車を検知する既存の信号システムが使えない。そのため、車速信号やGPS情報を利用して車両の位置を測定するなど独自の保安装置が開発されており、従来方式の線路とは物理的に切り離す必要があったのだという。

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DMV阿波海南駅停留所
客は緑のゾーンで待つ
 

さっそくモードチェンジのようすを観察しようと、撮影スポットと書かれた位置で、10時43分に来る上り便を待った。やがて山陰から現れたのは、どう見ても小型のボンネットバスだ。それが前輪を浮かせたまま、レールの上をつーっと走ってくる。外装は明るい緑色で、ヘッドライトから窓枠にかけて黒のアクセントがつく。DMVは、塗色が異なる3台が在籍している。緑は2号車で、車両番号が DMV932。ナンバープレートもそれに合わせる凝りようだ。

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2号車(DMV932)は緑の塗装
 

本線上に立つ場内信号機(?)の前で一時停止した後、DMVはゆっくりとインターチェンジに入ってきた。足回りに注目すると、フランジのついた前後の鉄輪がレールに載っていて、その点では間違いなく鉄道車両だ。一方、ゴムタイヤはというと、前輪は宙に浮いている。後輪のダブルタイヤのうち、内側がレールに接していて、これが車両を駆動させる。鉄輪には駆動力はなく、あくまで案内と荷重分担の役割だ。

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(左)前輪
(右)後輪
 

停車するとまもなく、前の鉄輪の格納が始まった。特徴的なボンネットがそのためのスペースだ。同時に車体が下がって、浮いていたゴムタイヤが地上につく。その間に後ろの鉄輪も格納されるが、こちらはトランクルームに入るらしい。モードチェンジは15秒ほどで完了し、バスモードになったDMVは乗降場まで路面を移動する。客扱いを終えると、遮断機が上がった出入口から、駅前の国道へ出て行った。

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(左)前の鉄輪格納前、ゴムタイヤは宙に浮く
(右)格納後
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(左)バスモードになって停留所へ
(右)遮断機のある出入口から一般道へ
 

日中は12分後に後続便が設定されている。再びインターチェンジの前に張り付いて、やってきた赤の3号車を、今度は動画で撮った。

命題1を堪能したので、再び国道を南へ進む。1.4km先、歩いて15分の海部川橋梁に、次の撮影スポットがある。順光になる南詰めで待機していると、ほどなく下り便となった3号車が現れた。立派な桁橋を小さなバスがトコトコと渡っていく姿はどこか微笑ましい。

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海部川橋梁をトコトコと渡る
 

ここから5分も歩けば、海部駅だ。高架下に待合室があり、階段を上ると、JR時代の1番ホームに出た。ただし、DMVの乗り場はそこではなく、北側(阿波海南方)に新設された簡易な低床ホームだ。高床と低床のホームが直列するようすは、かつての広電宮島線を思い起こさせる。

旧2番線側の線路とホームももとのままで、用済みになった気動車ASA-101が、回送の幕をつけたまま留置されていた。前後のポイントが撤去されたため、残念だが、もうどこへも出ていくことはできない(下注)。

*注 これは保有していた2両の気動車のうちの1両。もう1両(ASA-300)は宍喰駅南方の車庫前の留置線にいる。

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海部駅
(左)高架ホームへは階段しかない
(右)開通記念碑が、阿佐海岸鉄道のもと起点の証し
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(左)DMV用の低床ホーム
(右)旧鉄道ホーム
  2番線には気動車ASA-101を留置
 

ここで下りの後続便11時31分発を待った。海部駅の北側には、周辺の土地開発で土被りが剝ぎ取られ、躯体だけ残った町内(まちうち)トンネル、通称「トマソントンネル」がある。そこから顔を出すDMVをねらってから、いよいよ初乗りを試みた。

ホームとバスとの間には隙間があるため、扉が開くと同時にステップがせり出てくる。それを踏んで乗り込むと、運転士さんから「予約されていますか」と聞かれた。もちろん定員内なら予約なしでも乗車できる。その場合は整理券を取り、降車時に運賃を支払えばよい。ふつうの乗合バスと同じ手順だ。

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町内トンネルから現れた2号車
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(左)扉が開くとステップが出る
(右)車内はマイクロバスそのもの
 

鉄道の公式サイトでは、席数が少ないという理由で予約が推奨されているが、なんのことはない。先客は一人だけで、それも後でメディアの取材記者だとわかった。予約サイトで座席指定しようとすると、2Dと3Dの優先席とともに、このときは最前列の1A、1Bも予約不可になっていたが、取材用のリザーブだったようだ。車内はマイクロバスそのもので、1列が1席+2席の並びだ。最後尾は4席分のロングシートなので、そこを占有させていただく。

走り出すと、エンジン音とともに、タンタン、タンタンという2軸車ならではの走行音が繰り返される。鉄道車両に比べて高い音で、骨に響く感もあるが、走りはスムーズだ。海部駅と宍喰駅の間は、短いトンネルが連続し、トンネルがいくつも重なって見える。左手には那佐湾という入江が延びているが、木々に遮られて見通しはあまりきかない。

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(左)海部~宍喰間は短いトンネルが連続
(右)海景は断続的
 

海部から15分。甲浦に近づくと信号で一時停止し、再発車とともに「間もなく甲浦、甲浦に停まります」という案内が流れた。次に停まったのが旧 鉄道ホームの前だったので、てっきり駅だと思い、立ち上がりかけたら、「甲浦モードインターチェンジに到着しました」と、またアナウンス。さっき阿波海南で観察したように、停留所の手前にこれがあるのだ。

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甲浦駅信号所
(左)立入禁止の旧鉄道ホーム
(右)モードインターチェンジも高架上に
 

「ただいまからバスモードに、モードチェンジを行います」「モードチェンジ、スタート」。トント、トントと軽快な海南太鼓のお囃子が聞こえ、前方の景色で車体が下降していくのがわかる。作業が終わると「フィニッシュ」と明るい声で締めが入り、DMVはすぐに動き始めた。

線路は高架上にあるため、地上に置かれた乗降場(甲浦停留所)へは急坂、急カーブのランプで一気に降りる。私はここで下車した。駅の改造に合わせて建て替えられた待合室の中では売店も開いていたが、この利用状況では売上の伸びは期待できそうにない。

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地上の甲浦駅停留所
 

乗り場は移設されたが、もとの高架ホームに通じていた階段は残されている。ホーム自体には立入れないものの、手前でモードチェンジを観察できるようにしているのだ。ここで12時02分の上りを待つ。急なスロープを上ってきたDMVは、観察場所より少し先に停車した。後輪は目の前だが、前輪は遠くて動きがよくわからない。ここでの観察は、下り便が望ましい。

それはともかく、バスから鉄道モードへの切り替えでは、鉄輪が出た後、運転士が車外を一周して、鉄輪が実際にレールに載っているかを目視点検するという作業が一つ加わることがわかった。

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(左)ランプを上がってきたDMV
(右)ガイドウェイに沿って進入する
 

続行の上り12時14分発に乗り、今度は宍喰駅へ移動した。この駅も高架上で、旧鉄道ホームの南側(甲浦方)にDMVの乗降場が造られている。乗降客はやはり私だけだ。宍喰には阿佐海岸鉄道の本社があるため、唯一の有人駅で、ホームと地上を結ぶエレベーターも備わっている。改札で整理券と運賃を渡して外へ出た。

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宍喰駅
(左)南方の車庫前に留置されたASA-300
(右)旧鉄道ホームの甲浦方に低床ホームが
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(左)高架下に設けられた駅舎
(右)改札口
 

宍喰で降りたのは、命題2(全駅訪問)を達成するとともに、DMVの終点に行きたかったからだ。最後に残った命題3の全線乗車を終点から実行して、この旅を締めくくる。

海に臨む終点停留所「道の駅宍喰温泉」へは約900m、歩いて10分強だ。地元の特産品を売る店のほか、温泉も隣接するリゾート施設だが、とりあえず昼食にしないといけない。前を通る国道を横断して、防波堤の階段を下りると、そこは太平洋の波が打ち寄せる砂浜だった。防波堤のおかげで風が遮られ、日差しのぬくもりが眠気を誘う。

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DMVの終点、道の駅宍喰温泉停留所
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防波堤の外側には波打ち寄せる砂浜が
 

時間が来たので、13時18分発の上りに乗り込んだ。ネットのシステムを試そうと、この便だけは事前予約してある。高速バスの流儀で、さっそく運転手さんに名前を確認された。モバイル乗車券の画面を提示することになっているが、ちらと目を落としただけ。もっとも予約者は私一人なので、点呼で事足りる。あと一人、予約なしで乗ってきた人がいて、かろうじて乗合バスの面目は保たれた。

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赤の3号車(DMV933)で全線を乗り通す
 

DMVは国道をいったん南へ走る。路面の状態にもよるのだろうが、ガタガタとよく揺れ、ジープにでも乗っているような体感だ。宍喰大橋を渡って水床トンネルへ入る。その出口付近が徳島と高知の県境だ。宍喰までは徳島県海陽町、甲浦は高知県東洋町になるので、阿波と土佐をつなぐ「阿佐」の名に偽りはない。

続いて甲浦大橋を渡る。右は入江の漁港、左は外海の景勝スポットなのだが、路側にネットが張られていて、視界は今一つだ。道の駅東洋町に停車。DMV開業を機に、室戸岬方面のバス(高知東部交通)は甲浦駅まで入らなくなり、ここが乗継地になった。

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(左)道路走行時はバスそのもの
(右)まもなく阿波海南駅
 

この後、DMVは内陸へ入っていき、甲浦停留所で停まる。さっき見た高架へのランプをぐいぐい上り、モードチェンジの後、北へ向かう。阿波海南で再びバスモードになって道路へ。終点の阿波海南文化村には13時53分定刻に到着した。相客も同じように乗り通したので、DMVを画角に入れて到達写真のシャッターを押して差し上げた。

帰りの牟岐線、阿波海南駅の発車は14時08分だ。実質10分強で1kmを歩かなければならないが、朝、一度通って予習してあるから、心には余裕がある。

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阿波海南文化村に到着

DMVの初乗りは、興味深い体験だった。線路も走れるクルマといえば、保線作業などに用いる軌陸車が思い浮かぶが、その機能の一般化、発展形ということになろうか。乗換えが必要という常識を覆す未来の乗り物という評価はなるほどそうだ。

知られている通り、DMVは、JR北海道がローカル線の活性化のために長らく研究開発を続けていたシステムだ。しかし、本格的な導入に至らないうちに、経営状況の悪化により計画は中止されてしまった。それを受け継ぎ、営業運転にまで漕ぎつけた決断と行動力には敬意を表する。

確かに、アトラクションとして見るなら斬新で、話題性がある。しかし、公共交通機関としてはどうだろうか。まず感じたのは、他の交通機関との連携不足だ。牟岐線の列車との連絡が十分考慮されていない。下りは最大62分待ち(牟岐線11:38着/DMV 12:40発)、上りは72分待ち(DMV 10:56着/牟岐線12:08発)がある。鉄道区間に待避線がなく、ダイヤ編成に制約があるのは理解するが、乗継ぎに1時間もかかるようでは用をなさない。

路線バスとの間もしかり。運行する徳島バス南部にとっては競合路線なのかもしれないが、接続時刻はもとより、すぐ近くなのに停留所名さえ異なるのはいかがなものか(海南病院/阿波海南文化村、海部高校前/阿波海南駅)。

もう一つは高額な運賃だ。定員22名(座席18+立席4)に乗務員1名が必要なので、運行コストが高くなるのは宿命だ。それを反映して、全線通しの運賃は800円、鉄道区間だけでも500円で、路線バスと同等かそれ以上になる。列車時代に比べればかなりの値上げで、私のような一見客でも抵抗があった。他の観光施設や交通機関と共通で使えるフリー切符などの企画で、割高感を和らげる工夫が望まれる(下注)。

*注 2022年度は、徳島から室戸岬を経て高知に至る鉄道・バスのフリー切符「四国みぎした55フリーきっぷ」の発売が発表されている。

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DMV沿線ガイドブック表紙
 

地方ではマイカー移動が定着し、路線バスの利用者すら激減している。DMVの運行を持続させるには、地域外から訪れる観光客や用務客に利用してもらうしか方法がない。待合室には周辺の観光地を紹介するパンフレットが置かれていた。停留所にはレンタサイクル基地も整備されていた。残る対策は、自治体と各公共交通機関が連携して、遠来の者でもストレスや抵抗感なく使いこなせる交通網と運賃体系を構築することではないだろうか。

■参考サイト
阿佐海岸鉄道 https://asatetu.com/

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