コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠
2021年4月25日、中津川周辺の2日目は、中山道の馬籠(まごめ)~妻籠(つまご)間を歩く。標高790mの馬籠峠を越えていくこのルートは、拠点となる両宿場町の風情とあいまって、中山道で最も人気の高いものの一つだ。静かな歩き旅を楽しむなら、旅行者が少ない今がいいだろうと、企画に取り上げた。
一石栃立場茶屋前の枝垂れ桜 |
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中津川駅に予定の時刻に集合したのは、昨日と同じく大出さんと私の2名。駅前の乗り場で9時55分発のバスを待つ。馬籠方面も、鉄道会社から転じた北恵那交通が運行している。旅行需要が冷え込む中でも、さすがにここは20人ほど乗車した。バスは国道19号の旧道を通り抜けた後、落合宿から湯舟沢川の狭い渓谷に入り込む。中切集落まで来るとやおら反転し、馬籠に向けて最後の斜面を上っていった。
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆 馬籠宿~妻籠宿間 |
馬籠宿は、木曽十一宿の最後に位置する宿場町だ。高土幾山(たかときやま)南麓の尾根状になった傾斜地に立地している。路線バスは、走ってきた県道が旧街道を横切ったところで停まった。
標高570mのこの地点が宿場の下入口になる。しかし、街道の進行方向には壁のような斜面があり、枝を広げた大木が、まるで訪問者を威嚇するようにそびえている。地形的に見るとこの壁は、直交する阿寺(あてら)断層によって生じた断層崖の一部だ。旧街道はクランク状の急坂「車屋坂」でこの段差を乗り越えるのだが、同時にそれが見通しを遮る桝形にうまく利用されている。
*注 阿寺断層は下呂市萩原町付近から中津川市神坂(みさか)まで、北西~南東方向に走る全長約70kmの断層帯。
馬籠宿下入口、車屋坂と断層崖 |
桝形の先も石畳の坂が続く。茶屋、宿屋、土産物屋などさまざまな商いの看板を出した切妻、瓦屋根の家々が両側に連なる。こうした伝統的な町並みを修復した旧 宿場町は全国各地にあるとはいえ、馬籠宿は一味違う。
最大のポイントは、傾斜地が作り出す独特の景観だ。坂は一定勾配ではなく緩急があり、かつ道幅も広すぎず狭すぎず、ゆらゆらと曲がっている。建物やそれを支える石垣が階段状に重なって見え、透視法的な奥行きに加えて、縦方向の動きを感じさせる。
それに、整然とした町屋造りが軒を連ねるのとは違い、建物の構造に一つ一つ個性があって、見る者を飽きさせない。さらに、緑の木々や色とりどりの花々が道端を飾り、山里らしい自然との一体感があるのもいい。
階段状に重なる建物群 |
庭の緑や石垣が宿場風景の一部に |
馬籠の場合、鉄道も明治の国道(下注)も峠越えを嫌って木曽川沿いに通されたことで、往来は途絶え、一介の農村集落に還った。宿場時代の建物も明治、大正2度の火災ですべて焼失しており、今ある景観は1970年代前半に始まった観光ブームを通じて新たに形成されたものだ。純農村がベースにあることで、自由で新鮮な印象が生み出されるのではないだろうか。
*注 1892(明治25)年に開通したいわゆる賤母(しずも)新道。
観光案内所の奥に、つるし雛が美しく飾られていた。文豪島崎藤村の生誕地なので、記念館も開いている。だが歩き始めたばかりで先は長いから、寄り道は最小限にしておこう。
(左)つるし雛の展示 (右)藤村記念館玄関 |
再び県道と交差する地点が、陣馬と呼ばれる馬籠宿の上入口だ。標高640m、気づかないうちに下入口から70mも上がってきた。高札場の上手の見晴台に立つと、さきほどバスで来た湯舟沢川の谷を隔てて、雄大な恵那山の眺めが目の前に広がる。
陣馬上見晴台からのパノラマ 左奥のピークが恵那山、右端が馬籠宿上入口 |
一角に興味深い碑が建っていた。越県合併記念碑とある。馬籠宿のある旧 山口村は以前、長野県木曽郡に属していたのだが、2005年に、経済的に結びつきが強い岐阜県中津川市に、県を越えて編入された(下注)。自治体合併で県境が移動するのはめったにないことだ。ちなみにもとの県境、すなわち信濃と美濃の国界は、馬籠宿と落合宿の中間で中山道と交差していて、今も「是より北 木曽路」の碑が建っている。
*注 時代を遡ると馬籠地区は、湯舟沢地区とともに明治初期から御坂村を形成していた。1950年代に中津川市との合併問題が紛糾したとき、自治庁の裁定で、藤村の出身地であり反対派が多かった馬籠は長野県に残り(そのため隣の山口村に編入)、湯舟沢は1958(昭和33)年に中津川市に編入された。2005年の合併でようやく旧 御坂村全域が中津川市に入ることになった。
越県合併記念碑 |
目的地の妻籠までは、峠を越えて8kmの道のりだ。旧街道はこの後、県道7号中津川南木曽線と絡み合いながら峠に向けて上っていく。ところどころ石畳が敷かれているが、フラットな舗装に慣れた現代人にとっては少々歩きにくい。
水車小屋(下注)を過ぎ、急勾配の梨子ノ木坂(なしのきざか)を上りきると、峠集落に入る。街道に沿って十数軒が並ぶ静かな山里だが、総じて軒先が長く取られた大柄の家構えだ。18世紀から大火に遭っていないため、古い姿をとどめているそうで、どことなくスイスのアルペン集落の雰囲気が漂う。
*注 1904(明治37)年の水害で犠牲になった一家にたむけた島崎藤村の追悼文が刻まれた「水車塚の碑」にちなむ。
(左)石畳の旧道 (右)水車小屋 |
古い姿をとどめる峠集落 |
あとはほんのひと上りだ。右手を走る県道と合流してまもなく、馬籠の見晴台から40分ほどで、標高790mの馬籠峠に到達した。先述した越県合併により、長野・岐阜県境は今、この峠を横切っている。新領地への意欲を象徴するかのように、道路脇に立つ県境標は、岐阜県のほうが長野県のものより背が高くて立派だ。
往来の減少が影響しているのか、峠の茶屋は閉まっており、周りに腰を下ろすところもなかった。峠の北側は断層谷で、ほぼ直線状に通っているのだが、木が茂って眺望がきかない。ときどき上ってくるハイカーたちも諦め顔で素通りしていく。私たちも10分ほどで滞在を切り上げて、林の中を下りにかかった。
馬籠峠、茶屋は閉店中 |
しばらく行くと森が開けた。番所の置かれていた一石栃(いっこくとち)と呼ばれる場所で、山道の休憩所である立場茶屋(たてばじゃや)が一軒だけ残っている。時代劇に出てきそうな古風なたたずまいだが、今はそれを引き立てるように、庭の枝垂れ桜が満開だ。隣の白木改(しらきあらため)番所跡でも、ヤマザクラやハナモモが妍を競っている。
今年の春は異常に暖かく、平地では早々と散ってしまったが、標高700mのこの土地では、ちょうど見ごろだったのだ。花見ができるとは思ってもいなかったので、少し得した気分になった。
一石栃立場茶屋 |
(左)枝垂れ桜が満開 (右)白木改番所跡より |
樹齢300年という木曽五木の一つ、サワラの大樹の前を過ぎ、さらに降りていくと、まもなく雄滝雌滝へ降りていく林道に出る。これも古来名所に数えられているので、見物に行く。男埵川(おだるがわ)本流に掛かる雄滝(おたき)は、水量が豊かで音にも迫力がこもる。一方、馬籠峠の谷に属する雌滝(めだき)は、集水域が浅い分、控えめな水量で、シャワーのように滑り落ちてくる。
(左)雄滝(右)雌滝 |
下り谷(くだりたに)の小さな集落から、ジグザグの急な石畳を下りていく。大妻籠(おおつまご)は間の宿で、今も民宿が営まれている。立ち並ぶ旅籠造りの建物は、2階をせり出した出梁(だしばり)造りに、うだつも上がって壮観だ。
妻籠宿の入口には、蘭川(あららぎがわ)の上流から導水して、水力発電所が稼働している。木曽川水系のほとんどの発電所が中部電力ではなく関西電力の運営で、ここもその一つだ。戦後、電力事業を再編成する際に、発電所の帰属先を主消費地によって決定したためで、今も電気は関西に送られ、消費されている。
(左)牛頭観音付近の石畳道 (右)男埵川べりのハナモモ |
大妻籠 (左)旅籠造りの民宿が並ぶ (右)フジの花も見ごろに |
(左)橋場追分の道標は1881(明治14)年の建造 (左)アールデコ調の妻籠発電所本屋 |
妻籠宿に着いたのは午後の時間帯で、そこそこ訪問客の行きかう姿が見られた。馬籠とは対照的に、道は平坦で、再現された町屋が奥まで整然と軒を連ねている。知られるとおり、妻籠は宿場町修復保存の先駆者で、1976年に角館や白川郷、京都祇園・東山、萩とともに最初の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。しっとりと落ち着いた町の風情は今も維持されている。
妻籠宿、寺下地区の町並み |
(左)復元された本陣 (右)脇本陣奥谷家 |
◆
同 妻籠宿~南木曽駅間 |
バスで南木曽駅へ向かう大出さんを見送って、さらに中山道を北へ歩く。水車のある坂道を上り、大岩の一つ鯉岩を通過すると、宿場は終わりだ。次の峠まで来ると、妻籠城跡の案内板が誘っていた。「北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる」。300m、徒歩10分とはいうものの、急な山道は足にこたえた。頂きの広場は木々に囲まれていたが、北と南は視界が開けて、看板どおりの眺めが得られた。
(左)妻籠宿北口、水車のある坂道 (右)鯉岩の前を通過 |
妻籠城址から南望 手前に妻籠宿、中央奥の鞍部が馬籠峠 |
同 北望 左奥の市街地は三留野宿、右背後に木曽駒ケ岳 |
中山道は蘭(あららぎ)森林鉄道跡の林道としばらく絡み合った後、再び急坂で山を降りていく。沢を渡り、上久保(うわくぼ)一里塚の前を通過する。最後の下り坂の麓に、中央本線の旧線跡を利用したSL公園があった。中央西線で活躍したD51 351号機と腕木式信号機は1974(昭和49)年からここで雨ざらしだが、保存状態は悪くない。
上久保一里塚(右写真)と周辺の旧道 |
中央線旧線跡に造られたSL公園 |
中山道は中央本線の山側に移って、三留野宿へと続いていくが、追うのはここまでとした。南木曽でぜひ訪れたいと思っていたのは、駅の北にある桃介(ももすけ)橋だ。読書(よみかき)発電所の建設資材を運搬するために、木曽川に架けられた長さ248mの大吊橋で、橋面にナローゲージのレールや埋め跡が残されている。橋で対岸に渡った後は、近くにある山の歴史館で、庭に置かれた森林鉄道の小型ディーゼル機関車を見学して、旅を締めくくった。
木曽川右岸から望む桃介橋 |
(左)橋面のレール跡 (右)資材運搬用の橋とは思えないスケール |
山の歴史館の庭に置かれた旧林鉄ロコ |
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図三留野(平成28年調製)、妻籠(平成27年調製)を使用したものである。
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