コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址
2021年コンターサークル-S 春の旅の後半は、西に移動して岐阜県中津川市周辺を歩く。4月24日、1日目のテーマは、北恵那鉄道の廃線跡だ。
恵那電最大の遺構、木曽川橋梁 |
北恵那(きたえな)鉄道、いわゆる恵那電は、当時の国鉄中津川駅の裏にあった中津町(なかつまち、下注)駅を起点に北へ、下付知(しもつけち)駅まで行く22.1kmの電化私鉄だった。木曽川をせき止める大井ダム建設で、筏流しなど川を利用した木材輸送ができなくなるため、その補償として1924(大正13)年に開業している。
*注 中津川市は市制以前、恵那郡中津町(なかつちょう)だったが、駅名は「なかつまち」と読んだ。
終点には後に森林鉄道も接続されて、いっとき好況を呈したのだが、戦後は、輸入材に押された林業の低迷によって、収支は悪化の一途をたどった。並行する国道の整備も進んだことから、1971(昭和46)年に旅客列車の運行が朝夕のみに削減、1978(昭和53)年、最終的に廃止となった。
しかし40年以上経った今もなお、沿線各所に、列車が渡った鉄橋や草生した路床が手つかずのまま残されている。廃線跡を足でたどることで、乗れずじまいだったローカル電車の残影をわずかでも見出すことができればうれしい。
北恵那鉄道現役時代の1:200,000地勢図 (1975(昭和50)年修正図) |
◆
その日、新幹線と中央本線の特急しなのを乗り継いで、中津川駅へ向かった。朝の空はまだ雲に覆われていたが、午後は晴れる予報が出ている。参加者は大出さんと私の2名。駅前のバス乗り場から、付知・加子母(かしも)方面行きに乗り込んだ。
運行しているのは北恵那交通だ。かつての鉄道会社がバス転換で社名を変え、今も地域の公共交通を担っている。「まずは鉄道の終点まで行って、廃線跡を訪ねながら戻ってこようと思います」と私。もとより全線を歩き通すのは時間的に難しいので、見どころをチョイスし、その間をバスでつなぐつもりだ。自治体の支援を受けて、約1時間間隔というローカル路線にしては破格の高頻度で運行されているから、ありがたく利用させていただこう。
(左)駅前に停まっていた恵那電色のバス 残念ながら付知行きではなかった (右)段丘地形を縦断するルート |
バスは玉蔵(ぎょくぞう)橋を通る旧国道を経由し、苗木で、城山大橋から来る国道257号(裏木曽街道)に乗った。起伏の大きな段丘地形を縦断し、付知川(つけちがわ)の深い渓谷に沿っていく。やがて谷が開け、所要40分あまりで下付知の停留所に着いた。電車の時代は1時間以上かかっていたから、ずいぶん速い。
ここがかつての駅前だ。道路の左手に草に覆われた空地が広がっている。駅舎は撤去されて久しいが、よく見るとホームの残骸が埋まりきらずに残っている。その奥にもフェンスで囲われた広大な土地があり、こちらは営林署が管理する貯木場だ。盛時には谷の奥から森林鉄道で運ばれてきた木材が山と積まれていたのだろうが、今や廃墟と化している。
(左)下付知駅跡、ホームの縁石が露出 (右)廃墟と化した貯木場 |
一方、集落の側では一軒の製材所が稼働していて、木を挽く鋭い音が聞こえてくる。「ネットに出ていたのはこれですね」と大出さんが注目したのは、戸外から小屋に引き込まれている1本のナローゲージだ。木材の運搬に使われているらしく、小さな台車も載っている。ちっぽけな装置とはいえ、線路の痕跡すら消えた駅跡を前にすると、写真の被写体にもしたくなる。
(左)駅前で稼働中の製材所 (右)簡易軌道に載る台車 |
駅から南へ延びる線路跡をたどった。しばらくの間、2車線道路に上書きされているが、稲荷集落の裏で、草の道が復活する。稲荷橋(いなりばし)駅跡はもうすぐだ。小さな稲荷社の鳥居のそばに石積みのホーム跡があったが、線路のバラストがはがされているからか、かなり高く見える。
(左)稲荷橋駅北方の廃線跡 (右)鳥居の後ろに稲荷橋駅のホーム跡 |
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆 下野~下付知間 |
同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図) |
稲荷橋の停留所で、折り返してきたバスをつかまえた。車窓から山側に線路跡が断続しているのをチェックしながら、谷を下る。降りたのは、下野(しもの)のバス停だ。このあたり、国道は高い段丘上に通されているが、勾配に弱い鉄道は付知川の谷底を這っている。それで、美濃下野(みのしもの)駅へ向かう道は急な下り坂になる。
川向こうの駅跡はすっかり整地されて、跡をとどめていない。一方、南側には支流の柏原川を斜めに横断しているプレートガーダー橋があった。静まり返った山里にぽつんと残された遺構だ。朽ちた枕木も載ったままで、見る者の哀愁を誘う。
美濃下野駅の南に残る柏原川橋梁 |
(左)たもとから南望 (右)北望、朽ちた枕木が載る |
川沿いの一本道となった廃線跡を下流へ歩いていく。左手で早瀬と淵を繰り返す付知川は、底まで透き通った清流だ。両側から急崖が迫るこの谷筋を、ローマン渓谷と呼ぶらしい。自然地名というには作り物っぽいが、官製図に堂々と記されているのだから、公式名称のはずだ。
同 並松~下野間 |
同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図) |
「地形図の道路記号が途中で切れているので、通り抜けられないかもしれませんね」「だめなら引き返して、対岸を迂回しましょう」。対岸に国道整備前の旧道が通っているのだが、渡る橋は1駅3.5kmの間ない。それで、少々の藪漕ぎ、ぬかるみは覚悟の上だったが、結果的には杞憂だった。
路面を覆う草もくるぶしにかかる程度で何の問題もなく、むしろ瑞々しい新緑が作るトンネルに心が洗われた。誰も通らなければすぐに藪化するはずだから、きっとハイキングか何かの催しがあって、草刈りが行われたに違いない。
ローマン渓谷の廃線跡 (左)ところどころ枕木も埋まる (右)新緑のトンネルが続く |
いい頃合いの踏み分け道は、ホーム跡がある栗本(くりもと)駅の南側で、舗装された「ローマン渓谷遊歩道」に接続した。格段に歩きやすくなる反面、整い過ぎて廃線跡の情趣がそがれる。
しかしそれは、福岡ふれあい文化センターの前までの約500mであっけなく終わった。その延長上に、歩行者専用の斜張橋、福岡ローマン橋が架かっている。鉄道のレガシーとは無縁のデザインだが、妙に高い位置にある橋面だけは旧 橋梁の高さに合わせているようだ。その後、線路は谷底を離れ、段丘崖をよじ上っていく。
ローマン渓谷遊歩道の整備区間 |
(左)福岡ローマン橋 (右)段丘を上る区間は、栗本方の一部のみ残る |
福岡の町が載る段丘は、谷底との高低差が約30mにも及ぶ。「想像していた以上にダイナミックな地形ですね」と私。残念ながら、この間の線路跡は栗本方に一部残るだけで、美濃福岡方にあった深い切通しは埋め戻されている。国道の陸橋も撤去され、前後に存在した急カーブが緩和されたようだ。
美濃福岡(みのふくおか)駅は恵那電の主要駅の一つだった。しかし、跡地は公共用地などに転用されてしまい、記憶を伝えるのは大きな石碑だけになっている。大出さんは一度来たことがあるそうだが、「その頃からでも、すいぶん印象が変わってます」。福岡には、恵那電のOBが開設した「北恵那鉄道歴史保存会館」という資料館があったのだが、これも閉鎖されてしまった。
福岡の段丘上から見た付知川の谷の眺め 赤の矢印が廃線跡だが、画面中央から左は切り崩されて消失 |
美濃福岡駅跡 (左)記念碑 (右)駅跡を東南望、画面中央の住宅の右手前に記念碑がある |
バスの時刻にはまだ早いので、もうひと駅歩くことにした。小さな支谷を渡り、国道の東側の山手を伝っていた線路は、草生した空地などの形で断続的に残っている。20分ほど歩くと、関戸(せきど)集落まで来た。関戸駅の痕跡はないものの、目の前に深い谷を横断していた築堤が延びている。異様に幅広に見えるのは、隣に国道の築堤が付け足されたためだ。
美濃福岡~関戸間の廃線跡 (左)画面左が廃線跡、一部で道路拡幅工事が始まっていた (右)関戸地内で農道になった区間 |
関戸駅跡から南方の築堤を望む 左の地道が廃線跡 |
築堤脇の停留所から再びバスに乗り、次は苗木(なえぎ)へ。ちなみに、その間にある並松(なみまつ)駅跡には、長らく相対式のホームが残っていたのだが、グーグルマップの空中写真で見る限り、最近、宅地造成で撤去されたようだ。
■参考サイト
Wikimedia - 撤去前の並松駅跡の写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Namimatsu_Station
旧国道上の苗木バス停から交差点を南へ入ると、まもなく苗木駅跡がある。残念なことに、ここは並松に先駆けて宅地転用が完了しており、用地の輪郭がわかるだけで、面影はとうになくなっている。
線路はさらに東進し、山之田川(やまのたがわ)駅を経て、木曽川べりまで降下していた。しかし、後半区間は藪化して、もはや踏破不能だ。そこで私たちはそれを追わずに、木曽川の谷にショートカットすることにしている。ちょうど途中に、お城ファンに人気の苗木城址があるから、その見学も兼ねて。
(左)苗木駅跡は宅地に転用 (右)苗木城への登り坂 |
同 中津町~並松間 |
同区間の現役時代 (1973~77(昭和48~52)年測量または修正図) |
苗木城は、木曽川に臨む比高170mの岩山の上に築かれた遠山氏の居城だ。さきほどの駅跡から南へ延びる街村がその城下町で、桝形の街路や古風な居宅が残っている。道なりに上っていくと、永壽寺というお寺の先で山がにわかに深まる。城や領地の資料を展示している苗木遠山資料館で予備知識を仕入れてから、城内へ進んだ。
急坂を上りきった足軽長屋跡から、谷の向こうに天守跡を初めて望むことができた。建物は明治初めに破却されてしまったので、今あるのは天然の岩山と、天守の下部構造を復元したという木組みの展望台だけだ。しかし、それがかえって孤高のオーラを放っているように見える。巷間に伝わる「空に浮かぶ岩の要塞」という形容も、あながち誇張とは言えない。
空に浮かぶ岩の要塞、苗木城天守跡 |
(左)天守の下部構造を再現した展望台 (右)城内屈指の巨塊、馬洗岩 |
三の丸広場と大矢倉の石垣 |
岩山の麓の鞍部にある広場は三の丸で、背後に大矢倉の立派な石垣も残っていた。天守跡へは、そこからまたつづら折りの坂道を上る必要がある。その甲斐あって頂上は、期待通りの絶景ポイントだった。木曽川が流れる深い谷を隔てて中津川市街、その背景に恵那山を主峰とする山並みと、胸のすくような大パノラマが目の前に展開する。
台地を刻み流れ下る木曽川 馬洗岩のテラスから西望 |
展望台からのパノラマ 木曽川、中津川市街地、恵那山(中央奥の雲がたなびくピーク)が一望に |
中でも私たちが狙っていたのは、東側にある恵那電の木曽川橋梁とそれに続く廃線跡の眺望だ。背後に並ぶ旧国道の玉蔵橋(下注)と比較すると、鉄橋はいかにも華奢に見える。洪水対策で1963(昭和38)年にかさ上げ改修が行われているとはいえ、全体は今から100年前の建造物だから無理もない。廃線でメンテナンスもされていないだろうに、よくぞ今日まで残ったものだ。
*注 地形図にも玉蔵橋と記されているが、親柱の銘板には玉蔵大橋とあり、こちらが正式名。
恵那電廃線跡を遠望 |
目的を十分果たしたところで、城址を後にした。ここからは、城坂四十八曲りと呼ばれる山道を一気に降りる。地形図にも描かれている通り、森の中に果てしなく続く険しいジグザグ道だった。逆コースにしなくてよかったとつくづく思う。
四十八曲り どこまでも続くジグザグの山道 |
降りきった地点は、旧国道の開通以前に中津川から苗木に通じていた旧県道だ。上空を鉄道のプレートガーダー橋、上地(かみち)橋梁が横切っている。これは、谷を下ってきた線路による最後の沢渡りなのだが、33‰の急勾配でも降りきれず、このような高い橋脚が必要とされた。3本の橋脚のうち中央の1本だけ円筒形なのは、水流の抵抗を和らげるためらしい。
支谷へ分け入る山道(下注)で、森に還りつつある上手の廃線跡を見届けた。それから対岸の斜面につけられた急な踏み分け道を登って、下手の橋台際へ出た。続く草生した道を歩いていくと、すぐに森が開け、さきほど城址の展望台から見えた集落の中の舗装道になった。
*注 旧県道以前に使われていた飛騨街道で、今は四十八曲りを通らずに苗木城へ行くハイキングルート。
上地橋梁全景 中央の橋脚だけ円筒形 |
(左)上部 (右)四十八曲りの山道から俯瞰 |
山の田川の谷を渡る |
神社の参道を渡していた橋台や、二代目恵那峡口駅(下注)の痕跡を観察しながら、緩い坂を降りていく。ほどなく木曽川橋梁のたもとまで来た。旧道に面して、遊覧船の出札・待合所が残っている。初代恵那峡口駅の駅舎を転用したという建物だ。「遊覧船は、ダムの水位が下がったために廃業したらしいです」と大出さん。
*注 木曾川橋梁かさ上げ工事の完成に伴い、1963年に移転。
(左)神社参道の陸橋跡 (右)二代目恵那峡口駅の痕跡 |
木曾川橋梁に接続する築堤(画面左)と遊覧船の出札・待合所 写真は大出氏提供 |
右脇の小道を河畔の元 船着き場へ降りると、鉄橋を仰角で観察することができる(冒頭写真参照)。主径間に下路式ダブルワーレントラスを渡し、前後にプレートガーダーを連ねた鉄橋は、134mの長さがある。「山の上からは小さく見えたのに、そばまで来ると堂々としてますね」と私。待合所の脇の踏み段で築堤に上がれば、列車の前面展望のような光景もほしいままになる。
中津川駅への帰り道、玉蔵橋を歩いて渡る間にもう一度、鉄橋のある風景を楽しんだ。城山を背にして、柔らかな夕陽をはね返す水面と、幾何学的なトラス橋のシルエットが絶妙なコントラストを見せている。同じ角度でも、朝のバスから眺めた順光の風景とは別物のようだ。
木曾川橋梁、右岸築堤からの眺め |
夕陽の川面に映る鉄橋のシルエット 画面右奥が苗木城の城山 |
駅へ戻る大出さんを見送った後、私は木曽川支流の中津川に架かる橋梁のようすを見に行った。木曽川を渡った後も、線路は支流の狭い谷を縫うように抜けていたのだ。2本ともプレートガーダー橋だが、下付知方の第二中津川橋梁は、茂る木立に阻まれて道路からうまく見通せない。一方、第一橋梁のほうは、道路橋の妙見大橋が上空を交差しているものの、河原に降りると側面がよくわかった。橋桁に蔓が無数に絡まり、かつての鉄橋も今や藤棚同然だ。
第二中津川橋梁 視界は木立に阻まれる |
第二~第一橋梁間で中津川左岸を通る廃線跡 (赤の矢印) |
道路橋が上空を交差する第一中津川橋梁 |
列車はこの後、中津川の谷を脱し、製紙工場の横を中津町駅へと向かっていた。しかし起点駅跡は、名鉄系の駐車場と倉庫用地に転用されて、面影は全くなくなっている。せめて美濃福岡のように記念碑か案内板が立つといいのだが、回顧の機運はまだそこまで及んでいないようだ。
(左)製紙工場裏の廃線跡(第一橋梁~中津町駅間) (右)正面の駐車場と倉庫が中津町駅跡 |
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図妻籠(昭和52年測量)、中津川(昭和52年測量)、付知(昭和48年測量)、美濃福岡(昭和48年測量)、恵那(昭和48年測量)、20万分の1地勢図飯田(昭和50年修正)および地理院地図(2021年5月20日取得)を使用したものである。
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