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2021年5月

2021年5月30日 (日)

コンターサークル地図の旅-中山道馬籠峠

中津川周辺の2日目は、中山道の馬籠(まごめ)~妻籠(つまご)間を歩く。標高790mの馬籠峠を越えていくこのルートは、拠点となる両宿場町の風情とあいまって、中山道で最も人気の高いものの一つだ。静かな歩き旅を楽しむなら、コロナ禍で旅行者が少ない今がいいだろうと、企画に取り上げた。

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一石栃立場茶屋前の枝垂れ桜

中津川駅に予定の時刻に集合したのは、昨日と同じく大出さんと私の2名。駅前の乗り場で9時55分発のバスを待つ。馬籠方面も、鉄道会社から転じた北恵那交通が運行している。旅行需要が冷え込む中でも、さすがにここは20人ほど乗車した。バスは国道19号の旧道を通り抜けた後、落合宿から湯舟沢川の狭い渓谷に入り込む。中切集落まで来るとやおら反転し、馬籠に向けて最後の斜面を上っていった。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
馬籠宿~妻籠宿間
 

馬籠宿は、木曽十一宿の最後に位置する宿場町だ。高土幾山(たかときやま)南麓の尾根状になった傾斜地に立地している。路線バスは、走ってきた県道が旧街道を横切ったところで停まった。

標高570mのこの地点が宿場の下入口になる。しかし、街道の進行方向には壁のような斜面があり、枝を広げた大木が、まるで訪問者を威嚇するようにそびえている。地形的に見るとこの壁は、直交する阿寺(あてら)断層によって生じた断層崖の一部だ。旧街道はクランク状の急坂「車屋坂」でこの段差を乗り越えるのだが、同時にそれが見通しを遮る桝形にうまく利用されている。

*注 阿寺断層は下呂市萩原町付近から中津川市神坂(みさか)まで北西~南東方向に走る全長約70kmの断層帯。

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馬籠宿下入口、車屋坂と断層崖
 

桝形の先も石畳の坂が続く。茶屋、宿屋、土産物屋などさまざまな商いの看板を出した切妻、瓦屋根の家々が両側に連なる。こうした伝統的な町並みを修復した旧 宿場町は全国各地にあるとはいえ、馬籠宿は一味違う。

最大のポイントは、傾斜地が作り出す独特の景観だ。坂は一定勾配ではなく緩急があり、かつ道幅も広すぎず狭すぎず、ゆらゆらと曲がっている。建物やそれを支える石垣が階段状に重なって見え、透視法的な奥行きに加えて、縦方向の動きを感じさせる。

それに、整然とした町屋造りが軒を連ねるのとは違い、建物の構造に一つ一つ個性があって、見る者を飽きさせない。さらに、緑の木々や色とりどりの花々が道端を飾り、山里らしい自然との一体感があるのもいい。

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階段状に重なる建物群
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庭の緑や石垣が宿場風景の一部に
 

馬籠の場合、鉄道も明治の国道(下注)も峠越えを嫌って木曽川沿いに通されたことで、往来は途絶え、一介の農村集落に還った。宿場時代の建物も明治、大正2度の火災ですべて焼失しており、今ある景観は1970年代前半に始まった観光ブームを通じて新たに形成されたものだ。純農村がベースにあることで、自由で新鮮な印象が生み出されるのではないだろうか。

*注 1892(明治25)年に開通したいわゆる賤母(しずも)新道。

観光案内所の奥に、つるし雛が美しく飾られていた。文豪島崎藤村の生誕地なので、記念館も開いている。だが歩き始めたばかりで先は長いから、寄り道は最小限にしておこう。

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(左)つるし雛の展示
(右)藤村記念館玄関
 

再び県道と交差する地点が、陣馬と呼ばれる馬籠宿の上入口だ。標高640m、気づかないうちに下入口から70mも上がってきた。高札場の上手の見晴台に立つと、さきほどバスで来た湯舟沢川の谷を隔てて、雄大な恵那山の眺めが目の前に広がる。

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陣馬上見晴台からのパノラマ
左奥のピークが恵那山、右端が馬籠宿上入口
 

一角に興味深い碑が建っていた。越県合併記念碑とある。馬籠宿のある旧 山口村は以前、長野県木曽郡に属していたのだが、2005年に、経済的に結びつきが強い岐阜県中津川市に、県を越えて編入された(下注)。自治体合併で県境が移動するのはめったにないことだ。ちなみにもとの県境、すなわち信濃と美濃の国界は、馬籠宿と落合宿の中間で中山道と交差していて、今も「是より北 木曽路」の碑が建っている。

*注 時代を遡ると馬籠地区は、湯舟沢地区とともに明治初期から御坂村を形成していた。1950年代に中津川市との合併問題が紛糾したとき、自治庁の裁定で、藤村の出身地であり反対派が多かった馬籠は長野県に残り(そのため隣の山口村に編入)、湯舟沢は1958(昭和33)年に中津川市に編入された。2005年の合併でようやく旧 御坂村全域が中津川市に入ることになった。

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越県合併記念碑
 

目的地の妻籠までは、峠を越えて8kmの道のりだ。旧街道はこの後、県道7号中津川南木曽線と絡み合いながら峠に向けて上っていく。ところどころ石畳が敷かれているが、フラットな舗装に慣れた現代人にとっては少々歩きにくい。

水車小屋(下注)を過ぎ、急勾配の梨子ノ木坂(なしのきざか)を上りきると、峠集落に入る。街道に沿って十数軒が並ぶ静かな山里だが、総じて軒先が長く取られた大柄の家構えだ。18世紀から大火に遭っていないため、古い姿をとどめているそうで、どことなくスイスのアルペン集落の雰囲気が漂う。

*注 1904(明治37)年の水害で犠牲になった一家にたむけた島崎藤村の追悼文が刻まれた「水車塚の碑」にちなむ。

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(左)石畳の旧道
(右)水車小屋
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古い姿をとどめる峠集落
 

あとはほんのひと上りだ。右手を走る県道と合流してまもなく、馬籠の見晴台から40分ほどで、標高790mの馬籠峠に到達した。先述した越県合併により、長野・岐阜県境は今、この峠を通っている。新領地への意欲を象徴するかのように、道路脇に立つ県境標は、岐阜県のほうが長野県のものより背が高くて立派だ。

往来の減少が影響しているのか、峠の茶屋は閉まっており、周りに腰を下ろすところもなかった。峠の北側は断層谷で、ほぼ直線状に通っているのだが、木が茂って眺望がきかない。ときどき上ってくるハイカーたちも諦め顔で素通りしていく。私たちも10分ほどで滞在を切り上げて、林の中を下りにかかった。

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馬籠峠、茶屋は閉店中
 

しばらく行くと森が開けた。番所の置かれていた一石栃(いっこくとち)と呼ばれる場所で、山道の休憩所である立場茶屋(たてばじゃや)が一軒だけ残っている。時代劇に出てきそうな古風なたたずまいだが、今はそれを引き立てるように、庭の枝垂れ桜が満開だ。隣の白木改(しらきあらため)番所跡でも、ヤマザクラやハナモモが妍を競っている。

今年の春は異常に暖かく、平地では早々と散ってしまったが、標高700mのこの土地では、ちょうど見ごろだったのだ。花見ができるとは思ってもいなかったので、少し得した気分になった。

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一石栃立場茶屋
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(左)枝垂れ桜が満開
(右)白木改番所跡より
 

樹齢300年という木曽五木の一つ、サワラの大樹の前を過ぎ、さらに降りていくと、まもなく雄滝雌滝へ降りていく林道に出る。これも古来名所に数えられているので、見物に行く。男埵川(おだるがわ)本流に掛かる雄滝(おたき)は、水量が豊かで音にも迫力がこもる。一方、馬籠峠の谷に属する雌滝(めだき)は、集水域が浅い分、控えめな水量で、シャワーのように滑り落ちてくる。

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(左)雄滝(右)雌滝
 

下り谷(くだりたに)の小さな集落から、ジグザグの急な石畳を下りていく。大妻籠(おおつまご)は間の宿で、今も民宿が営まれている。立ち並ぶ旅籠造りの建物は、2階をせり出した出梁(だしばり)造りに、うだつも上がって壮観だ。

妻籠宿の入口には、蘭川(あららぎがわ)の上流から導水して、水力発電所が稼働している。木曽川水系のほとんどの発電所が中部電力ではなく関西電力の運営で、ここもその一つだ。戦後、電力事業を再編成する際に、発電所の帰属先を主消費地によって決定したためで、今も電気は関西に送られ、消費されている。

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(左)牛頭観音付近の石畳道
(右)男埵川べりのハナモモ
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大妻籠
(左)旅籠造りの民宿が並ぶ
(右)フジの花も見ごろに
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(左)橋場追分の道標は1881(明治14)年の建造
(左)アールデコ調の妻籠発電所本屋
 

妻籠宿に着いたのは午後の時間帯で、そこそこ訪問客の行きかう姿が見られた。馬籠とは対照的に、道は平坦で、再現された町屋が奥まで整然と軒を連ねている。知られるとおり、妻籠は宿場町修復保存の先駆者で、1976年に角館や白川郷、京都祇園・東山、萩とともに最初の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。しっとりと落ち着いた町の風情は今も維持されている。

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妻籠宿、寺下地区の町並み
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(左)復元された本陣
(右)脇本陣奥谷家

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同 妻籠宿~南木曽駅間
 

バスで南木曽駅へ向かう大出さんを見送って、さらに中山道を北へ歩く。水車のある坂道を上り、大岩の一つ鯉岩を通過すると、宿場は終わりだ。次の峠まで来ると、妻籠城跡の案内板が誘っていた。「北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる」。300m、徒歩10分とはいうものの、急な山道は足にこたえた。頂きの広場は木々に囲まれていたが、北と南は視界が開けて、看板どおりの眺めが得られた。

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(左)妻籠宿北口、水車のある坂道
(右)鯉岩の前を通過
 
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妻籠城址から南望
手前に妻籠宿、中央奥の鞍部が馬籠峠
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同 北望
左奥の市街地は三留野宿、右背後に木曽駒ケ岳
 

中山道は蘭(あららぎ)森林鉄道跡の林道としばらく絡み合った後、再び急坂で山を降りていく。沢を渡り、上久保(うわくぼ)一里塚の前を通過する。最後の下り坂の麓に、中央本線の旧線跡を利用したSL公園があった。中央西線で活躍したD51 351号機と腕木式信号機は1974(昭和49)年からここで雨ざらしだが、保存状態は悪くない。

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上久保一里塚(右写真)と周辺の旧道
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中央線旧線跡に造られたSL公園
 

中山道は中央本線の山側に移って、三留野宿へと続いていくが、追うのはここまでとした。南木曽でぜひ訪れたいと思っていたのは、駅の北にある桃介(ももすけ)橋だ。読書(よみかき)発電所の建設資材を運搬するために、木曽川に架けられた長さ248mの大吊橋で、橋面にナローゲージのレールや埋め跡が残されている。橋で対岸に渡った後は、近くにある山の歴史館で、庭に置かれた森林鉄道の小型ディーゼル機関車を見学して、旅を締めくくった。

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木曽川右岸から望む桃介橋
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(左)橋面のレール跡
(右)資材運搬用の橋とは思えないスケール
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山の歴史館の庭に置かれた旧林鉄ロコ
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図三留野(平成28年調製)、妻籠(平成27年調製)を使用したものである。

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2021年5月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-北恵那鉄道跡と苗木城址

2020年コンターサークルS春の旅の後半は、西に移動して岐阜県中津川市周辺を歩く。1日目のテーマは、北恵那鉄道の廃線跡だ。

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恵那電最大の遺構、木曽川橋梁
 

北恵那(きたえな)鉄道、いわゆる恵那電は、当時の国鉄中津川駅の裏にあった中津町(なかつまち、下注)駅を起点に北へ、下付知(しもつけち)駅まで行く22.1kmの電化私鉄だった。木曽川をせき止める大井ダム建設で、筏流しなど川を利用した木材輸送ができなくなるため、その補償として1924(大正13)年に開業している。

*注 中津川市は市制以前、恵那郡中津町(なかつちょう)だったが、駅名は「なかつまち」と読んだ。

終点には後に森林鉄道も接続されて、いっとき好況を呈したのだが、戦後は、輸入材に押された林業の低迷によって、収支は悪化の一途をたどった。並行する国道の整備も進んだことから、1971(昭和46)年に旅客列車の運行が朝夕のみに削減、1978(昭和53)年、最終的に廃止となった。

しかし40年以上経った今もなお、沿線各所に、列車が渡った鉄橋や草生した路床が手つかずのまま残されている。廃線跡を足でたどることで、乗れずじまいだったローカル電車の残影をわずかでも見出すことができればうれしい。

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北恵那鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1975(昭和50)年修正図)

その日、新幹線と中央本線の特急しなのを乗り継いで、中津川駅へ向かった。朝の空はまだ雲に覆われていたが、午後は晴れる予報が出ている。参加者は大出さんと私の2名。駅前のバス乗り場から、付知・加子母(かしも)方面行きに乗り込んだ。

運行しているのは北恵那交通だ。かつての鉄道会社がバス転換で社名を変え、今も地域の公共交通を担っている。「まずは鉄道の終点まで行って、廃線跡を訪ねながら戻ってこようと思います」と私。もとより全線を歩き通すのは時間的に難しいので、見どころをチョイスし、その間をバスでつなぐつもりだ。自治体の支援を受けて、約1時間間隔というローカル路線にしては破格の高頻度で運行されているから、ありがたく利用させていただこう。

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(左)駅前に停まっていた恵那電色のバス
  残念ながら付知行きではなかった
(右)段丘地形を縦断するルート
 

バスは玉蔵(ぎょくぞう)橋を通る旧国道を経由し、苗木で、城山大橋から来る国道257号(裏木曽街道)に乗った。起伏の大きな段丘地形を縦断し、付知川(つけちがわ)の深い渓谷に沿っていく。やがて谷が開け、所要40分あまりで下付知の停留所に着いた。電車の時代は1時間以上かかっていたから、ずいぶん速い。

ここがかつての駅前だ。道路の左手に草に覆われた空地が広がっている。駅舎は撤去されて久しいが、よく見るとホームの残骸が埋まりきらずに残っている。その奥にもフェンスで囲われた広大な土地があり、こちらは営林署が管理する貯木場だ。盛時には谷の奥から森林鉄道で運ばれてきた木材が山と積まれていたのだろうが、今や廃墟と化している。

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(左)下付知駅跡、ホームの縁石が露出
(右)廃墟と化した貯木場
 

一方、集落の側では一軒の製材所が稼働していて、木を挽く鋭い音が聞こえてくる。「ネットに出ていたのはこれですね」と大出さんが注目したのは、戸外から小屋に引き込まれている1本のナローゲージだ。木材の運搬に使われているらしく、小さな台車も載っている。ちっぽけな装置とはいえ、線路の痕跡すら消えた駅跡を前にすると、写真の被写体にもしたくなる。

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(左)駅前で稼働中の製材所
(右)簡易軌道に載る台車
 

駅から南へ延びる線路跡をたどった。しばらくの間、2車線道路に上書きされているが、稲荷集落の裏で、草の道が復活する。稲荷橋(いなりばし)駅跡はもうすぐだ。小さな稲荷社の鳥居のそばに石積みのホーム跡があったが、線路のバラストがはがされているからか、かなり高く見える。

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(左)稲荷橋駅北方の廃線跡
(右)鳥居の後ろに稲荷橋駅のホーム跡
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下野~下付知間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

稲荷橋の停留所で、折り返してきたバスをつかまえた。車窓から山側に線路跡が断続しているのをチェックしながら、谷を下る。降りたのは、下野(しもの)のバス停だ。このあたり、国道は高い段丘上に通されているが、勾配に弱い鉄道は付知川の谷底を這っている。それで、美濃下野(みのしもの)駅へ向かう道は急な下り坂になる。

川向こうの駅跡はすっかり整地されて、跡をとどめていない。一方、南側には支流の柏原川を斜めに横断しているプレートガーダー橋があった。静まり返った山里にぽつんと残された遺構だ。朽ちた枕木も載ったままで、見る者の哀愁を誘う。

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美濃下野駅の南に残る柏原川橋梁
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(左)たもとから南望
(右)北望、朽ちた枕木が載る
 

川沿いの一本道となった廃線跡を下流へ歩いていく。左手で早瀬と淵を繰り返す付知川は、底まで透き通った清流だ。両側から急崖が迫るこの谷筋を、ローマン渓谷と呼ぶらしい。自然地名というには作り物っぽいが、官製図に堂々と記されているのだから、公式名称のはずだ。

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同 並松~下野間
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同区間の現役時代(1973(昭和48)年測量図)
 

「地形図の道路記号が途中で切れているので、通り抜けられないかもしれませんね」「だめなら引き返して、対岸を迂回しましょう」。対岸に国道整備前の旧道が通っているのだが、渡る橋は1駅3.5kmの間ない。それで、少々の藪漕ぎ、ぬかるみは覚悟の上だったが、結果的には杞憂だった。

路面を覆う草もくるぶしにかかる程度で何の問題もなく、むしろ瑞々しい新緑が作るトンネルに心が洗われた。誰も通らなければすぐに藪化するはずだから、きっとハイキングか何かの催しがあって、草刈りが行われたに違いない。

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ローマン渓谷の廃線跡
(左)ところどころ枕木も埋まる
(右)新緑のトンネルが続く
 

いい頃合いの踏み分け道は、ホーム跡がある栗本(くりもと)駅の南側で、舗装された「ローマン渓谷遊歩道」に接続した。格段に歩きやすくなる反面、整い過ぎて廃線跡の情趣がそがれる。

しかしそれは、福岡ふれあい文化センターの前までの約500mであっけなく終わった。その延長上に、歩行者専用の斜張橋、福岡ローマン橋が架かっている。鉄道のレガシーとは無縁のデザインだが、妙に高い位置にある橋面だけは旧 橋梁の高さに合わせているようだ。その後、線路は谷底を離れ、段丘崖をよじ上っていく。

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ローマン渓谷遊歩道の整備区間
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(左)福岡ローマン橋
(右)段丘を上る区間は、栗本方の一部のみ残る
 

福岡の町が載る段丘は、谷底との高低差が約30mにも及ぶ。「想像していた以上にダイナミックな地形ですね」と私。残念ながら、この間の線路跡は栗本方に一部残るだけで、美濃福岡方にあった深い切通しは埋め戻されている。国道の陸橋も撤去され、前後に存在した急カーブが緩和されたようだ。

美濃福岡(みのふくおか)駅は恵那電の主要駅の一つだった。しかし、跡地は公共用地などに転用されてしまい、記憶を伝えるのは大きな石碑だけになっている。大出さんは一度来たことがあるそうだが、「その頃からでも、すいぶん印象が変わってます」。福岡には、恵那電のOBが開設した「北恵那鉄道歴史保存会館」という資料館があったのだが、これも閉鎖されてしまった。

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福岡の段丘上から見た付知川の谷の眺め
赤の矢印が廃線跡だが、画面中央から左は切り崩されて消失
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美濃福岡駅跡
(左)記念碑
(右)駅跡を東南望、画面中央の住宅の右手前に記念碑がある
 

バスの時刻にはまだ早いので、もうひと駅歩くことにした。小さな支谷を渡り、国道の東側の山手を伝っていた線路は、草生した空地などの形で断続的に残っている。20分ほど歩くと、関戸(せきど)集落まで来た。関戸駅の痕跡はないものの、目の前に深い谷を横断していた築堤が延びている。異様に幅広に見えるのは、隣に国道の築堤が付け足されたためだ。

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美濃福岡~関戸間の廃線跡
(左)画面左が廃線跡、一部で道路拡幅工事が始まっていた
(右)関戸地内で農道になった区間
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関戸駅跡から南方の築堤を望む
左の地道が廃線跡
 

築堤脇の停留所から再びバスに乗り、次は苗木(なえぎ)へ。ちなみに、その間にある並松(なみまつ)駅跡には、長らく相対式のホームが残っていたのだが、グーグルマップの空中写真で見る限り、最近、宅地造成で撤去されたようだ。

■参考サイト
Wikimedia - 撤去前の並松駅跡の写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Namimatsu_Station

旧国道上の苗木バス停から交差点を南へ入ると、まもなく苗木駅跡がある。残念なことに、ここは並松に先駆けて宅地転用が完了しており、用地の輪郭がわかるだけで、面影はとうになくなっている。

線路はさらに東進し、山之田川(やまのたがわ)駅を経て、木曽川べりまで降下していた。しかし、後半区間は藪化して、もはや踏破不能だ。そこで私たちはそれを追わずに、木曽川の谷にショートカットすることにしている。ちょうど途中に、お城ファンに人気の苗木城址があるから、その見学も兼ねて。

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(左)苗木駅跡は宅地に転用
(右)苗木城への登り坂
 
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同 中津町~並松間
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同区間の現役時代
(1973~77(昭和48~52)年測量または修正図)
 

苗木城は、木曽川に臨む比高170mの岩山の上に築かれた遠山氏の居城だ。さきほどの駅跡から南へ延びる街村がその城下町で、桝形の街路や古風な居宅が残っている。道なりに上っていくと、永壽寺というお寺の先で山がにわかに深まる。城や領地の資料を展示している苗木遠山資料館で予備知識を仕入れてから、城内へ進んだ。

急坂を上りきった足軽長屋跡から、谷の向こうに天守跡を初めて望むことができた。建物は明治初めに破却されてしまったので、今あるのは天然の岩山と、天守の下部構造を復元したという木組みの展望台だけだ。しかし、それがかえって孤高のオーラを放っているように見える。巷間に伝わる「空に浮かぶ岩の要塞」という形容も、あながち誇張とは言えない。

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空に浮かぶ岩の要塞、苗木城天守跡
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(左)天守の下部構造を再現した展望台
(右)城内屈指の巨塊、馬洗岩
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三の丸広場と大矢倉の石垣
 

岩山の麓の鞍部にある広場は三の丸で、背後に大矢倉の立派な石垣も残っていた。天守跡へは、そこからまたつづら折りの坂道を上る必要がある。その甲斐あって頂上は、期待通りの絶景ポイントだった。木曽川が流れる深い谷を隔てて中津川市街、その背景に恵那山を主峰とする山並みと、胸のすくような大パノラマが目の前に展開する。

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台地を刻み流れ下る木曽川
馬洗岩のテラスから西望
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展望台からのパノラマ
木曽川、中津川市街地、恵那山(中央奥の雲がたなびくピーク)が一望に
 

中でも私たちが狙っていたのは、東側にある恵那電の木曽川橋梁とそれに続く廃線跡の眺望だ。背後に並ぶ旧国道の玉蔵橋(下注)と比較すると、鉄橋はいかにも華奢に見える。洪水対策で1963(昭和38)年にかさ上げ改修が行われているとはいえ、全体は今から100年前の建造物だから無理もない。廃線でメンテナンスもされていないだろうに、よくぞ今日まで残ったものだ。

*注 地形図にも玉蔵橋と記されているが、親柱の銘板には玉蔵大橋とあり、こちらが正式名。

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恵那電廃線跡を遠望
 

目的を十分果たしたところで、城址を後にした。ここからは、城坂四十八曲りと呼ばれる山道を一気に降りる。地形図にも描かれている通り、森の中に果てしなく続く険しいジグザグ道だった。逆コースにしなくてよかったとつくづく思う。

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四十八曲り
どこまでも続くジグザグの山道
 

降りきった地点は、旧国道の開通以前に中津川から苗木に通じていた旧県道だ。上空を鉄道のプレートガーダー橋、上地(かみち)橋梁が横切っている。これは、谷を下ってきた線路による最後の沢渡りなのだが、33‰の急勾配でも降りきれず、このような高い橋脚が必要とされた。3本の橋脚のうち中央の1本だけ円筒形なのは、水流の抵抗を和らげるためらしい。

支谷へ分け入る山道(下注)で、森に還りつつある上手の廃線跡を見届けた。それから対岸の斜面につけられた急な踏み分け道を登って、下手の橋台際へ出た。続く草生した道を歩いていくと、すぐに森が開け、さきほど城址の展望台から見えた集落の中の舗装道になった。

*注 旧県道以前に使われていた飛騨街道で、今は四十八曲りを通らずに苗木城へ行くハイキングルート。

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上地橋梁全景
中央の橋脚だけ円筒形
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(左)上部
(右)四十八曲りの山道から俯瞰
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山の田川の谷を渡る
 

神社の参道を渡していた橋台や、二代目恵那峡口駅(下注)の痕跡を観察しながら、緩い坂を降りていく。ほどなく木曽川橋梁のたもとまで来た。旧道に面して、遊覧船の出札・待合所が残っている。初代恵那峡口駅の駅舎を転用したという建物だ。「遊覧船は、ダムの水位が下がったために廃業したらしいです」と大出さん。

*注 木曾川橋梁かさ上げ工事の完成に伴い、1963年に移転。

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(左)神社参道の陸橋跡
(右)二代目恵那峡口駅の痕跡
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木曾川橋梁に接続する築堤(画面左)と遊覧船の出札・待合所
写真は大出氏提供
 

右脇の小道を河畔の元 船着き場へ降りると、鉄橋を仰角で観察することができる(冒頭写真参照)。主径間に下路式ダブルワーレントラスを渡し、前後にプレートガーダーを連ねた鉄橋は、134mの長さがある。「山の上からは小さく見えたのに、そばまで来ると堂々としてますね」と私。待合所の脇の踏み段で築堤に上がれば、列車の前面展望のような光景もほしいままになる。

中津川駅への帰り道、玉蔵橋を歩いて渡る間にもう一度、鉄橋のある風景を楽しんだ。城山を背にして、柔らかな夕陽をはね返す水面と、幾何学的なトラス橋のシルエットが絶妙なコントラストを見せている。同じ角度でも、朝のバスから眺めた順光の風景とは別物のようだ。

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木曾川橋梁、右岸築堤からの眺め
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夕陽の川面に映る鉄橋のシルエット
画面右奥が苗木城の城山
 

駅へ戻る大出さんを見送った後、私は木曽川支流の中津川に架かる橋梁のようすを見に行った。木曽川を渡った後も、線路は支流の狭い谷を縫うように抜けていたのだ。2本ともプレートガーダー橋だが、下付知方の第二中津川橋梁は、茂る木立に阻まれて道路からうまく見通せない。一方、第一橋梁のほうは、道路橋の妙見大橋が上空を交差しているものの、河原に降りると側面がよくわかった。橋桁に蔓が無数に絡まり、かつての鉄橋も今や藤棚同然だ。

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第二中津川橋梁
視界は木立に阻まれる
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第二~第一橋梁間で中津川左岸を通る廃線跡
(赤の矢印)
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道路橋が上空を交差する第一中津川橋梁
 

列車はこの後、中津川の谷を脱し、製紙工場の横を中津町駅へと向かっていた。しかし起点駅跡は、名鉄系の駐車場と倉庫用地に転用されて、面影は全くなくなっている。せめて美濃福岡のように記念碑か案内板が立つといいのだが、回顧の機運はまだそこまで及んでいないようだ。

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(左)製紙工場裏の廃線跡(第一橋梁~中津町駅間)
(右)正面の駐車場と倉庫が中津町駅跡
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図妻籠(昭和52年測量)、中津川(昭和52年測量)、付知(昭和48年測量)、美濃福岡(昭和48年測量)、恵那(昭和48年測量)、20万分の1地勢図飯田(昭和50年修正)および地理院地図(2021年5月20日取得)を使用したものである。

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 城下町岩村に鉄路の縁

2021年5月10日 (月)

ライトレールの風景-富山地方鉄道軌道線

北陸新幹線の富山駅で降り、階下の中央改札に向かうと、人々が行きかうコンコースの向こう正面にトラム(路面電車)の乗り場が見えるだろう。トラムが通過するときは、線路際のLEDバーが赤く点滅し始める。そしてブーブーという警報音に続いて、「電車が来ます。渡らないでください」というアナウンスが構内に響き渡る。駅の自由通路を線路が横切っているので、こうした注意喚起がなされるのだが、初めて見るシーンに目を見張る。

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富山駅東西自由通路の列車通過シーン
警告放送とともにLEDバーが点滅
 

2020年3月21日、富山駅でトラムの南北接続ルートが開通した。「南北」のうち北側は、「富山駅北」電停(下注)を起点にしていた富山ライトレールだ。一方、南側では市内線(富山地方鉄道富山軌道線)が、一足早く2015年3月から新幹線高架下にスイッチバック式のターミナルを構えていた。

*注 正式には「停留場」だが、本稿では「電停」と記す。

両線は、地平を走るJR在来線(下注)のために分断された形だったのだが、高架化の完成によって、レールの接続が可能になった。2006年4月に旧JR富山港線を転換した富山ライトレールが開業して14年、ようやく当初の構想が実現したことになる。また、これに先立ち、富山ライトレール株式会社は富山地方鉄道株式会社に合併され、接続された路線網全体を一体的に運営する体制が整えられた。

*注 富山駅に発着していたJR在来線のうち、旧 北陸本線は2015年3月に第三セクターの「あいの風とやま鉄道」に転換されている。

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2020年3月21日からの路線図
(富山駅電停の表示板を撮影)
 

■関連年表
2006年3月1日 JR富山港線廃止(運行は2月28日限り)
2006年4月29日 富山ライトレール(富山駅北~岩瀬浜間)開業
2009年12月23日 環状線開業
2012年3月24日 富山大橋架け替えによる線路移設と前後区間(安野屋~大学前間)の複線化
2015年3月14日 北陸新幹線開通、富山駅高架下に「富山駅」電停開設
2020年3月21日 富山駅南北接続完了

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チューリップに見送られて牛島町交差点を通過
 

県都の中央駅である富山駅は、都市のターミナルはこうあるべきというお手本のような構造をしている。すなわち、新幹線と在来線は高架に上がった。これにより地平での自由往来が可能になり、フラットなコンコース(南北自由通路)が、鉄道の改札と、駅の北口と南口にあるバスターミナルやタクシー乗り場を結んでいる。

ここまでなら最近の中核駅では一般的かもしれない。加えて富山の場合は、これと交差する東西自由通路があり、ショッピングエリアと駐輪場・駐車場に通じている。さらにトラムの乗降ホームも南北自由通路に隣接しているので、鉄軌道間の乗り継ぎ(下注)や買い物、飲食を、短距離かつ傘要らずの水平移動で済ませることができるのだ(下図参照)。

*注 ただし、富山地方鉄道の電鉄富山駅へはやや距離があり、かつての「富山駅前」電停、現在の「電鉄富山駅・エスタ前」のほうがいくらか近い。

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「富山駅」電停
(左)ホームは東西自由通路をはさんで南北に分割
(右)南北自由通路にも開放
 

トラムの電停はずばり「富山駅」を名乗る。位置が、もはや駅前ではなく事実上の駅ナカなので、妥当なネーミングだろう(下注)。線路は上下1本ずつで、両側に低床ホームがある3面2線のシンプルな構成だ。ただしホームは、東西自由通路をはさんで北行き(岩瀬浜方面)と南行き(旧市内方面)に分割されており、実質6面(乗り場としては8面)で運用されている。

*注 高岡や福井でも、電停移設と同時に「~駅前」を「~駅」に改称している。

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富山駅地上階の見取り図
 

というのも、発着する本数が想像以上に多いのだ。時刻表を見ると、平日日中でさえ市内線の南富山駅前方面は1時間に12本、つまり5分間隔で出ていく。それから富山大学前方面(環状線に進むものを含む)が計10本、北行きの岩瀬浜方面も4本ある。わずかな待ち時間で次の電車が来るというのは頼もしい限りだ。

市内線はかつて駅前の通りを直進していたのだが、必ず「富山駅」に立ち寄るようにルート変更された。そのため、電停の手前で上下線の平面交差が生じている。また、道路(併用軌道)に出入りするのに信号待ちもあって、運行制御は複雑だ。鉄道からの乗り換え客が波のように押し寄せ、列車本数も増加する通勤通学時間帯はなおさら気を遣うことだろう。

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富山駅南口
電停から道路(併用軌道)に出る間の多重分岐

富山のトラムはこれまでにも利用したことはあるのだが、今回は改めて全線を乗り通してみるつもりだ。

まずは旧 富山ライトレール区間を北へ進むことにしよう。会社合併により、この区間の正式名称は富山地方鉄道富山港線になったが、乗客への案内は線名には触れず、岩瀬浜方面行きだ(下注)。いまさら昔の名前でアピールされても、閑散としていた盲腸線のイメージが蘇るだけだろう。

*注 運行系統としては4、5、6系統だが、区別が煩雑なためか表立って案内はされていない。

富山駅電停を発車するとすぐ「富山駅北」電停跡を通過するが、整備工事に伴い、すでに上屋、ホームとも跡形もなかった。大通りの左端をそろりと進むと、最初の交差点(牛島町交差点)の手前に新しい電停が誕生している。南北接続と同時に開業した「オークスカナルパークホテル富山前」だ。命名権を獲得したホテルが街路の左にそびえているが、停車するのは北行きの列車だけで、南行きは通過する。

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富山駅北口
(左)旧「富山駅北」電停は跡形もない
(右)在来線の旧施設が撤去されて印象が一変
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新設の「オークスカナルパークホテル富山前」電停
 

交差点を右折して東へ進んで二つ目、「龍谷富山高校前(永楽町)」も新設の電停だ。それと同時に、次の奥田中学校前まで新たに複線化されている。既存道路に軌道を敷いた富山駅北~奥田中学校前間1.1kmはこれまで単線で、1列車しか入れず、道路渋滞などの影響を受けてダイヤが乱れる原因になっていた。単線区間が約300m短縮されたことで余裕時間が捻出され、2駅を新設(=停車時間増)しても15分の運行間隔を維持できるようになったのだという。

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(左)新設の「龍谷富山高校前」電停
(右)同 電停から東は複線化
 

左にぐいっと曲がると、その奥田中学校前電停で、旧JR富山港線から転換された専用軌道に入る。少し停車時間をとって、列車交換した。この先は直線的な線形で、滑らかに走っていく。車内の乗客は電停ごとに漸減していくが、それでも最後まで10人ぐらいは残っていた。

終点の岩瀬浜では、開通当初、斬新な印象を受けたホームの上屋がすっかり周囲の風景になじんでいる。少しして、トラムに接続するフィーダーバスが駅前のロータリーに入ってきた。小型バスとはいえ、トラムの利用機会を周辺地域にも拡張する大事な役割を果たしている。

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富山港線東岩瀬電停
(左)旧駅舎とホーム上屋を保存
(右)低床車対応ホームを別置(写真は北行きホーム)
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岩瀬浜電停
(左)現代的デザインのホーム上屋
(右)フィーダーバスが到着
 

岩瀬浜電停の発車時刻表を見ると、全列車が富山駅を経由して、旧市内に入ることがわかる。日中毎時4本あるうち、2本は環状線に回り(下注)、他の1本は南富山駅前へ、もう1本は富山大学前へそれぞれ向かっている。

*注 環状線に回った列車は、再び富山駅を経由して、岩瀬浜に戻ってくる。

富山駅で長い連絡地下道を歩かされていたことを思えば隔世の感があるが、利用者にとってさらに大きな恩恵は、運賃体系の統合だ。従来は別会社のため、それぞれ運賃が設定されていた(両線とも均一210円、乗り継げば計420円)。それが今回、全線均一210円になった。ICカード(下注)利用の場合はさらに30円引きの180円だ。

*注 2021年5月現在、Suicaなど他地域の交通系ICカードは使えないが、富山市は今年度中に利用可能にするとしている。

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ホームではバスとの平面接続が可能
 

折返しは南富山駅前行きに乗る。終点まで約50分の長旅だ。走り出すと、電停ごとにコンスタントに客を拾っていく。直通の効果がどれほどなのか興味津々で観察していたが、富山駅で大半の乗客が入れ替わり、席についたままだったのは5人ほどだった。

富山駅を出るとトラムは左へ進路を取り、いわゆる電車通りの中央を進む。旧 富山ライトレールの所属車だったポートラムが乗り入れるようになり、市内線でも低床の連接車を見かける機会が増えた。しかし、旧型車もまだ健在だ。

最後尾でかぶりついていると、ときおり1950~60年代生まれの7000形がすれ違っていく。クリームと緑のツートンに赤帯を締めた地鉄色はもとより、旧塗色の7018号車や、水戸岡デザインでおめかしした7022号車(下注)など、老体ながら個性的なペイントで目を楽しませてくれる。

*注 軌道線100周年を記念して、水戸岡鋭治氏がデザインした改装車。レトロ電車の名称で運行している。

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市内線ですれ違った旧車
(左)旧塗色の7018号車
(右)水戸岡デザインの7022号車
 

西中野の電停あたりまで来ると、沿道に並ぶ建物の背丈がだいぶ低くなっているのに気づく。やがてトラムは道路から右にそれ、単線になった南富山駅前電停のホームに静かに滑り込んだ。

ここは、鉄道線の不二越、上滝両線に接続する地鉄の拠点駅だ。しかし、黒ずんだコンクリートの駅舎や鉄さびの浮いた施設が醸し出す雰囲気は、あたかも昭和の時代を舞台にした映画のセットのようだ。モダンな連接車から降り立つだけに、受ける印象のギャップは大きい。だが、上滝線にも、トラムの乗り入れによる第2の直通化構想がある。実現した暁には、このレトロな結節点も富山駅のように一新されるのだろう。

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南富山駅前電停と年季の入った鉄道線駅舎
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南富山駅
(左)軌道の引込線
(右)出札と待合室
 

南富山駅前からのトラムの運行系統は、富山駅止まりの1系統と、市内線のもう一方の終点である富山大学前まで行く2系統がある。その2系統を待っていると、地鉄色の7020号車がやってきた。たまには旧車もいいと思うが、出入口の高い段差にはもはや抵抗感さえ覚える。

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(左)地鉄色の7020号車が到着
(右)同 車内、後付けの冷房装置が目立つ
 

富山駅まではさっき通ったルートだ。その後、進行方向を逆にして、南下する。丸の内で右折し、安野屋電停の後、2012年3月に架け替えられた富山大橋で神通川(じんずうがわ)を渡る。沿線で唯一広々とした風景が見られる場所だ。旧橋の時代は安野屋以遠が単線だったので、西詰に設けられた鵯島(ひよどりじま)信号所で列車交換があったが、それも昔語りになった(下注)。終点の直前まで複線化され、連接車が入線可能になったことで、輸送力はかなり向上しただろう。

*注 複線化に伴い、西詰の電停(旧名:新富山、現:トヨタモビリティ富山Gスクエア五福前(五福末広町))も一新された。

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富山大橋西詰から東望
複線化され電停も一新(2015年3月撮影)
 

終点の富山大学前電停(下注)もまた、目に見えて改良されている。以前はホームに屋根がなく、道路をまたぐのに歩道橋の階段を上り下りしなくてはならなかった。今は風防のついた上屋が設置され、押しボタン付き横断歩道でたやすくアプローチできる。後は、大学構内への延伸が早く具体化されることを願うばかりだ。

*注 旧称は「大学前」。南北接続に合わせて改称された。

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富山大学前電停
(左)風防のついた上屋を設置
(右)アプローチは横断歩道化(いずれも2015年3月撮影)
 

最後は丸の内電停まで戻って、3系統の環状線に乗り継ぐ。環状線は、既存線の丸の内と中町(下注)を結んで2009年12月に開業した新線(富山都心線)を経由する系統だ。新線区間が単線のため、運行は左回りの一方通行になっている。

*注 ただし中町(西町北)電停は、開業3年後の2013年5月に新設されたもの。

環状線は、沈滞している中心街再興の先導役となることを期待されて開通した。しかし、実際の利用状況は想定どおりとは行かなかったようだ。当初、平日79本設定されていた運行本数は段階的に見直され、現在は55本だ。関連するかは別として、丸の内電停の壁張り時刻表も、初期は環状線が別表になっていたのに、今は2系統と混ぜて書かれており、わかりにくい。

ホームに入ってきたのはポートラムだった。環状線は今まで9000形セントラムの独り舞台だったのだが、南北接続により兄貴分であるポートラム(下注)も来るようになったのだ。しかし乗っていたのは3人のみで、大手モールの電停まででみな降りてしまった。

*注 9000形セントラムは、直通化を見越してポートラムと同じ仕様で製造されたもの。

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富山城前の環状線をポートラムが行く
 

新線区間を乗り通した後、中町電停からアーケード街の総曲輪(そうがわ)通りを歩いてみる。10年ぶりの訪問だが、こじゃれた店が増えたような気がする。しかし平日の日中ということもあってか、通りを端まで見渡しても人通りは多くない。環状線が置かれた現況もそれを反映しているようだ。

隣県の金沢のように市街に著名観光地を抱えていない富山では、地元市民の利用頻度が政策成否の鍵を握る。コンパクトシティ化を標榜する市は、中心部の再開発により定住者を増やそうとしていて、都市交通への積極的な関与はその条件整備の一環だ。今やこの町の交通システムは、欧米の先進都市に比肩するまでに進化した。今後これがどのように活用されていくのか、期待を込めて見守りたいと思う。

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(左)総曲輪通りのアーケード
(右)店舗のてこ入れが行われているが…
 

■参考サイト
富山地方鉄道-路面電車 https://www.chitetsu.co.jp/english/jp/trams/

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