アッヘンゼー鉄道の危機と今後
オーストリアのラック登山鉄道の一つ、アッヘンゼー鉄道 Achenseebahn は1889年に開通し、130年もの長きにわたり蒸気運転を守り続けてきた。
この間、帝国解体に伴う恐慌、ナチスドイツの経済制裁による観光不況、第二次大戦末期の戦火、戦後の道路交通との競合、そして最近では2008年の機関庫焼失と、小さなローカル線は幾度も存廃の危機に直面した。しかしその都度不死鳥のようによみがえり、今やチロル Tirol の貴重な文化財、重要な観光資源として、存在価値は誰もが認めるところだ(下注)。
*注 アッヘンゼー鉄道の概要については「オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 I」「オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 II」で詳述している。
ところが、その古典鉄道が昨年(2020年)以来、運行を休止している。鉄道の公式サイトには「当分の間、アッヘンゼー鉄道、イェンバッハ~マウラッハ・ゼーシュピッツ間に旅客列車は走りません」という断り書きが記されている。いったい何が起きたのだろうか。
![]() 長期運休を知らせる公式サイトの記事(2021年4月12日現在) |
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運休の直接の原因は、鉄道を運行していたアッヘンゼー鉄道株式会社 Achenseebahn AG の倒産だ。州政府によるインフラ整備支援のための補助金「民営鉄道中期投資プログラム Mittelfristiges Investitionsprogramm für Privatbahnen (MIP)」の交付が2015年から凍結されたため、とうとう運営資金が枯渇した。2020年3月25日にインスブルック地裁で破産手続が開始されている。
凍結の根拠は、アッヘンゼー鉄道が(公共交通機関ではなく)純粋な観光施設であると、連邦当局が評価したことにあるという(下注)。連邦鉄道 ÖBB の公式時刻表で311(旧 31a)の時刻表番号が与えられていたように、アッヘンゼー鉄道はもともと近距離公共交通機関 öffentlicher Personennahverkehr、いわゆる ÖPNV の扱いを受けていた。しかし、評価替えを反映してか、最近は公式路線図からも抹消されている。
*注 補助金は民営鉄道法に基づくもので、財源の50%までを連邦が拠出している。
現行投資プログラムは2019年に期限を迎え、2020年から次のサイクルに入る。そのため、ÖPNV への復帰が認められない限り、今後も交付対象にならず、資金不足が一段と深刻化するのは明らかだった。
もとより、この鉄道の乗客は観光目的が大半だ。というのも、起点イェンバッハ Jenbach からアッヘン湖 Achensee 方面へは、バスが1時間間隔で走っている。主邑マウラッハ Maurach までの所要時間は、鉄道の33~35分に対して、バスは24分だ。運賃差も大きいため、鉄道は日常利用には向いていない。純粋な観光鉄道という指摘は一面で正しい。
しかし、それは今に始まったことではなく、戦後、並行道路が整備され、バス路線が開業した後、ずっとこの状態だ。にもかかわらず、アッヘンゼー鉄道は ÖPNV だったので、1980年代から上記制度による支援を受けてきた。
![]() 外の渡り板を伝って検札に回る車掌 (2012年8月撮影) |
では、なぜ急に評価が変更されたのか。真相は判然としないが、2013年に表面化した鉄道会社の運営上の混乱が影響しているという見方がある。
この年の10月初め、鉄道会社の社長が、監査役会 Aufsichtsrat の決議により予告なしに解雇された。主な理由は、運営管理のミスにより会社に150万ユーロを超える損害を与えたというものだったが、元社長は受け入れず、決着は法廷に持ち込まれることになった。翌年9月には、決議を主導した監査役会会長を信任できないとして、監査役4名が辞任を表明する事態も起きた。
長年、鉄道に奉職し、蒸気運転の維持に努めてきた元社長に対して、監査役会会長は近代化による一般旅客輸送路線への転換論者で、内紛の根底にはその意見対立があったようだ。事態が表沙汰になったことで、連邦当局も慣例を見直し、利用実態に即して判断することを迫られたのではないか。
確かに、このままでは所要時間や運賃水準の点でバスに劣り、一般利用の回復は永遠に見込めない。袋小路を脱するために、新たに任命された会社執行部は、輸送効率を向上させる構想を具体化していった。驚くことに、それは路線の電化を前提としたものだった。
2018年6月11日から翌日にかけて、スイスのアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen でラック区間解消により不要となったBDeh 4/4形電車2両が、イェンバッハに運ばれてきた。秋には同形車3両と、ペアになるABt形制御車5両が続いた。
しかし財政の悪化で電化工事のめどがまったく立たないため、これらは構内および仮設線に留め置かれた。電化が実現しない場合、代わりにハイブリッド駆動への換装が想定されていたというが、そもそもこの電車でアッペンツェルよりはるかに険しい勾配(下注)を問題なく走れるという確証はどこにもなく、実用化の道のりは遠かっただろう。
*注 最大勾配は、アッペンツェル鉄道ザンクト・ガレン~リートヒュスリ間の100‰に対して、アッヘンゼー鉄道は160‰。アッペンツェル鉄道の当該区間については「ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線」参照。
同年11月29日の朝、留置していた車両の外壁がスプレーでひどく汚されているのが見つかった。被害額はユーロ6桁レベル(千万円単位)とも言われたが、会社にはそれをカバーする資金がない。筆者が翌年6月にイェンバッハ駅を通りかかったときも、電車は構内の目立つ場所で無残な姿を晒していた。鉄道が陥っている苦境を象徴する光景だった。
それでも2019年のシーズン中、アッヘンゼー鉄道の運行は何とか続けられた。しかし、冬ごもりの後、次のシーズンを無事に迎えることはできなかったのだ。
![]() 汚されたアッペンツェルの連節車 イェンバッハ駅にて(2019年6月撮影) |
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補助金を凍結したとはいえ、チロル州政府は鉄道を見捨ててしまったわけではない。ただ、州域で最初となる世界遺産への推薦を、かねて連邦政府に働きかけていたことから、真正性を損なうような電化案を進める現体制に対しては、積極的な支持を示してこなかったように思われる。
破産宣告を受けて、州議会は休止中に発生するランニングコストの支援予算を承認した。そして副知事のもとで関係先と協議を重ね、早くも2020年12月に、アッヘンゼー鉄道の再開に向けての基本案を閣議決定している。
それによれば、州が60%、ツィラータール交通事業株式会社 Zillertaler Verkehrsbetriebe AG (ZVB) が20%、沿線各自治体が残り20%を出資して、受け皿となる新会社が設立される。ツィラータール交通事業というのは、同じイェンバッハが拠点のツィラータール鉄道 Zillertalbahn(下注)や沿線の路線バスを運行している事業者だ。同社が経営に参画することで、スタッフ、保守作業、資材購入など運営の効率化やマーケティングの共同実施といった相乗効果が期待されている。
*注 ツィラータール鉄道の概要については「オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道」参照。
投資プログラムの申請期限に間に合わなかったため、インフラ整備に必要な資金については、州が独自に保証する。これを充当することで、線路設備にも改良が加えられる。公式サイトによれば、イェンバッハ駅とエーベン駅の配線を一部変更するとともに、フィシュル Fischl 付近のラック区間に列車交換設備を新設し、マウラッハ駅でも交換設備も復活させる。これにより運行を60分間隔にして、終点でアッヘン湖の連絡船に必ず接続できるようにするという。
物議をかもした電化案は撤回され、蒸気運転が継続されることになった。ただし、4両在籍する蒸気機関車のうち、まず2両を油焚きに転換する。油焚きの場合、石炭をくべる機関助士の乗務が不要になるなど、運行コストの圧縮に効果がある。一方、石炭焚きで残すのは1両のみとされているので、後の1両もやがては油焚きになるのだろう。
その陰で、はるばるアッペンツェルからやって来た電車は将来への展望を失った。一度も走らせてもらえないまま、制御車2両を残して、2021年2月にあえなく廃車解体されてしまった。
![]() ゼーシュピッツ駅を出発する蒸気列車 (2012年8月撮影) |
2021年3月2日は、新会社「アッヘンゼー鉄道施設管理・運行有限会社 Achenseebahn Infrastruktur- und Betriebs-GmbH」の設立総会の開催日だった。州副知事ヨーゼフ・ガイスラー LHStv Josef Geisler は定款に署名した後、次のように挨拶した。
「関係するすべてのパートナーによる無数の転轍操作 Weichenstellungen(選択、決定の含意)を経て、アッヘンゼー鉄道の存続に今や青信号が灯りました。明確な施設管理と運行のコンセプトに基づき、文化財としても保護された鉄道が、2022年夏のシーズンに運行を再開するでしょう。時刻表 Fahrplan(行程表の含意)が整ったのです」。
夏のシーズンは5月に始まる。行程と目標は明確になったが、開業以来の規模となる模様替えがこれから1年余りでどこまで整うのか、アッヘンゼー鉄道の今後が注目される。
【追記 2022.4.10】
公式サイトで、2022年4月30日からの運行再開が発表された。時刻表によると、ピーク前後の期間は週末を中心に3往復、ピーク期(6月25日~9月18日、火曜を除く毎日)は5往復が設定されている。
■参考サイト
アッヘンゼー鉄道(公式サイト) http://www.achenseebahn.at/
チロル州政府(公式サイト) https://www.tirol.gv.at/
オーストリア放送協会(ORF)チロル支局 https://tirol.orf.at/
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